黒夜行

>>2012年07月

プラチナタウン(楡周平)

内容に入ろうと思います。
四井商事で相場を張る部門の部長職にいる山崎鉄郎。相場部門というのは、数ある事業部の中でも過酷で、24時間世界中のどこかのマーケットが開いているのだから、深夜だろうが関係ない。そんな激務に耐え、四井商事の本社に残れている山崎は、紛れも無い勝ち組だ。今でも仕事をバリバリこなし、最前線で勝負をしている。
四井商事は、人材重視の会社で、「そら、おもろい、やってみなはれ」という社風が根強い。商社に務める者、いかに自分の事業を立ち上げるかが勝負みたいなところがあり、会社全体としても面白い人材が揃った、大きな組織な割に柔軟な会社でもある。
しかし、やはりサラリーマンはサラリーマンである。サラリーマンには、避けがたい宿命みたいなものもある。
山崎は、宮城県の緑原町出身だ。中学時代の同級生から電話があり、是非話を聞いて欲しいという。東京で邂逅したクマケンはなんと、山崎に町長になってほしいという。
事情はこうだ。市町村合併の流れの中で、周辺の市町村に合併の機運が高まったが、緑原町だけはその合併から外されそうだという。
何故か。それは、緑原町が抱える借金がケタ違いに多いからだ。150億円からの借金があるらしく、このまま行けば町は財政破綻、財政再建団体となり、町民の生活はズタズタにされてしまうだろう。
火中の栗を拾う。まさにそんな表現がピッタリの話に、四井商事で高給取りである山崎が動かされるはずもない。
しかしそこに、山崎が予想もしなかった出来事が起こり、なんと山崎は、順調だったはずのサラリーマン人生が一転、出世街道を踏み外してしまうことになる。
四井商事の子会社で社長になるか、あるいは緑原町の町長になるか。前門の虎後門の狼という状況の中、山崎はついに選択肢を失い、緑原町の町長に就任した。
しかし、緑原町の財政は、思った以上に酷い。
道路の整備や箱物などの公共事業をやりまくったが、利用者はほとんどなし。それでいて職員だけは貼り付けないといけないから赤字は垂れ流し。市役所職員の数も多いが、生活のことを考えると給料のカットやリストラも忍びない。財政状況があまりにも厳しすぎて、新規の事業を行うための資金はどこをどうやっても出てこないし、町の財政のことなど一切理解していない議会の連中に話を通さなければならない面倒さも恐ろしい限りだ。
しかし山崎は、一発逆転の秘策を思いつく。大量の老人を集め、終の棲家と介護施設を提供できれば、介護士らも増えて人口も増えるし、町は活性化する。
古巣の四井商事と組んで、全国でも初となる老人介護施設建設に乗り出す山崎は…。
というような話です。
これは面白かったなぁ。本書で描かれていることがそのまんま現実に移植出来るわけではないだろうけど、地方の過疎化した町がどう生き残るかというアイデアは物凄くたくさん含まれているという風に感じました。
本書のメインは、全国でも類を見ない規模の老人介護施設を作るというアイデア。具体的なことは是非本書を読んでほしいけど、なるほどこれはなかなか面白いと思いました。
僕は、老後のことなんかさっぱり考えちゃいないチャランポランな男だけど、団塊の世代がこれから高齢者になるという時代にあって、老後の生活というのはやはり物凄く重要なことになってくるだろうと思います。借金まみれの国には、すべての高齢者の面倒を見る余裕はない。そういう状況下で、本書のように、民間がビジネスとして採算が取れ、かつ入居者にとっても素晴らしい施設というのは、今後検討されてもいいんだろうなぁ、という感じがします。
このアイデアの肝は、元気な内から入居でき病気になっても介護施設に移れる点、様々な理由による入居費用が圧倒的に安い点、持ち家を様々な形で『処分』することでお金の心配なく入居できる点、と言った具合です。これらのアイデアは、すべてを満たすことは難しいかもしれないけど、一つ一つは実現可能なんじゃないかな、という感じがしました。
特に、持ち家を色んな形で『処分』することで資金を得るというのは、凄く面白いなと思いました。『リバースモーゲージ』なんていう家の処分の仕方があるみたいだけど、これなんか凄く面白いと思います。色んなことを考える人がいるもんだよなぁ、と。
緑原町は、箱物や道路整備なんかで多額の借金を抱えたわけだけど、この老人介護施設計画に当っては、逆にそれがいい方向に作用した、という面もあります。つまり、新たに整備しなくてはならないものが何もなかった、ということなんですね。そもそも緑原町には、整備済の3万坪の用地が野ざらしにされていたわけで、これを町が無償で提供することで格安の入居費用が実現できた。そういう色んな事情があるから、本書のアイデアそのまんまを現実に移植するわけにはいかないのだけど、それはまあ小説だから作品を盛り上げないといけない。どん底から最大限の成功にまで引き上げるためにそういう要素を入れ込む必要があったというわけで、本書ほどの大成功を狙いさえしなければ、実現できちゃったりするんじゃないかなぁと勝手に思ったりしました。
しかし、老後の生活なんて想像もしたことないんだけど、ホント金掛かるんだなぁ。だって、貯蓄もそれなりにあって、退職金もほどほどにもらえて、持ち家がある、年金ももらえる、っていう人だって、もしかしたらそれだけでは快適な老後を送るのに十分ではないかもしれない、というレベルで本書では描かれています。もちろん、『快適さ』というのは人それぞれ違うだろうし、何を望むかによって必要な資金はまるで変わってくるものなんだろうけど、しっかしなぁ。僕みたいに、特に努力もしないで適当にフリーターやってるような人間は、まあ自業自得だから仕方ないとしても、今の世の中って、ちゃんとした職に就きたくてもつけない人が凄くたくさんいるわけで、そういう人なんか、老後を迎える時点で、貯蓄もない、退職金も禄にもらえない(というか、そもそもいつまで働けるかわからない)、持ち家なんて当然ない、年金も払ってないかもだからもらえない、という状況なわけで、もうそれだけで詰んでるって感じしますよねぇ。
まあこれから団塊の世代が老後に突入していく中で、様々なモデルが生まれ、淘汰されていくことでしょう。その中で、これまでの社会の中ではなかった『老後』というものが提案されるかもしれないし、それがお金があまりない層でも享受できるようなものになれば、裾野は広がっていくのかもだけど、どうでしょうね。
僕なんか、長生きすることにまったく興味がなくて、だから『老後』というものをまったく想定しないで生きているんだけど(無責任ですよねぇ)、ちゃんとした『老後』を過ごしたい、死ぬ時はいい環境で死にたいという人には、老後の生活って重要でしょうから、これからずっと日本に生きていくというのであれば、老後のことは本当に早いうちから考えておかないといけないんだろうなと思います。
本書でもう一つ読みどころだなと思うのは、『地方の町で生きる』ということです。これは、本書のもう一つのテーマとしてあって、作品全体としては明るくスピーディな感じで進むんだけど、この部分はやっぱり若干重くならざるを得ない。
町議会の古狸として、カマタケという男が出てくるんだけど、この男が言ったこんな話が、地方の現状を要約するかもしれない。

『んだら訊きすが、貧すい地域で暮らす人間は、そごさ住んでるっつだげで、快適な生活を享受する権利がねぇっつのすか。確かに東京のような大都市に住んでれば、黙っていでも民間企業がスポーツジムを建でだり、映画館を建でだり、あるいは遊園地も作ってくれっぺさ。一流の芸人の公演だって毎日どごがで開かれる。すかすね、こんな田舎では、行政機関が先さ立って施設を建設し、文化的生活基盤を作らねえごとには、何もねえ、ただ古ぼけた家があるだけの寂すい町になってすまうだげでねえすか。そすたな町さ若い人が居着くと思うすか。快適な生活、文化的匂いのする環境さ惹かれで若い人は町を出て行き、残るは老人ばかりになってすまうんでねえすか。』

このカマタケという男、町議会に救って利権を貪っている男で、この発言も、孫娘を地元の建設会社に嫁がせたカマタケが、自ら利権を貪るために公共事業を山ほどやってきたその言い訳みたいな感じで繰り出される言葉なわけで、カマタケの発言として捉える場合いくらか差っ引かないといけないけど、しかしこれは、地方の過疎化した町の本音でもあるのだろうな、という感じがしました。
本書では、様々な立場の人間が、それぞれの立場から、『地方の町で生きる』ということについて語る。例えば、山崎に町長になるように打診したクマケンは、ドラスティックに物事を進めようとする山崎に対し、地方の町には地方の町の論理があるのだと言って、色んな場面で山崎に反駁しようとする。山崎は、その論理こそがこの町の財政破綻を招いたのだと反論するが、クマケンの意見もわからないでもない。また、ビジネスとして利益の出ない事業には絶対に乗り出さない四井商事の、山崎の計画を視察に来た川野辺や、川野辺の上司でこの計画にGoサインを出す児玉も、それぞれ、ビジネス上の観点から、この地で老後を暮らすことについて持論を語る。
『地方の町で生きる』というのは、特に都会の人間にとって、様々にイメージを覆されることだろうと思う。都会の常識は当然通用しないし、その地その地に根付いた生き方が強くある。何を求めるかによって、『地方の町で生きる』ことへの価値観も様々に存在することだろう。
本書では、『地方の町で生きる』ことをことさらに賛美することもないし、『地方の町』を擁護することもない。あくまでもそれは、ビジネスとしての割りきりがあり、そしてその割りきりに納得出来ない地元民の感情があり、そういうすべてをひっくるめて作品としたて上げている。本書を読むと、『地方の町で生きる』ことへのイメージが少しでも変わるだろう。良い方向に変わるか、悪い方向に変わるかば、何を望むかという価値観によって様々だろうけど、案外悪くない、と思える人も多くいるんじゃないかなと思います。
本書のようなアイデアって、もう既に実現してたりするのかなぁ。SF小説で描かれた世界が後々実現する、なんてのは結構あったりするだろうけど、本書で描かれるようなビジネスモデルが小説で先に提示され、それが現実の世界で実現する、なんてことがあっても面白いな、と思いました。あと、阿川大樹という作家の「D列車で行こう」という作品を連想しました。
さて、本書はストーリー的になかなか面白かったんだけど、個人的にはもう少し描いて欲しかったなぁ、という部分もなくもないです。
例えば、四井商事の役員婦人という夢が消え、緑原町に引っ越さなくてはならなくなった妻との話はほとんど描かれない。都会から田舎に移り住んでもらう、という施設を作る話をしているのに、その先導になったと言えなくもない山崎の妻の話があんまり出てこないのはちょっともったいないかもと思いました。あと、採算の取れない施設を閉鎖しようとしていた山崎に四井商事の人間が、老人介護施設が完成する三年後まで稼働していて欲しい、一旦閉めた施設はどんどん悪くなる、みたいなことを言うんだけど、でも町にはそれを継続させるだけの予算を捻出するのは厳しかったはず。でも、一気に3年経っちゃって、結局その3年はどんな風に乗り切ったんだろうなぁ、なんて思ったりもしました。
途中から、その老人介護施設建設に絡む話ばっかりなってしまったのが個人的には残念だったかなと思うけど、でもこれ以上描くと作品の分量的にも厚くなるし、まあ妥当な形だったのかもな、という感じもします。
「財政破綻しかけた町の再生」と「団塊の世代の高齢化」という二つの大問題を同時に解決する奇策を中心に、『地方の町で生きる』ことを描き出す作品です。実際に実現可能なアイデアがかなりあるような気がするし、物語としても面白く読ませてくれる作品です。是非読んでみて下さい。

楡周平「プラチナタウン」



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果てなき渇望 ボディビルに憑かれた人々(増田昌文)





内容に入ろうと思います。
本書は副題にある通り、「ボディビルに憑かれた人々」を取材し、その考え方や生き様を追ったノンフィクションです。
冒頭の話は、非常に興味深い。
日本ボディビル連盟を立ち上げた玉利齊は、「体の細さと胸板の薄さに驚いた」と表現した、とある有名な作家にボディビルを教えることになった。新しもの好きでしかも超がつくほどの多忙なその作家に、ボディビルを続けていけるのか疑問はあったが、学生時代「アオジロ」とあだ名されていたというその作家は、ボディビルを始めてほどなくボクシングや剣道にも手を染めるようになったという。
その作家の名は、三島由紀夫。
本書では、三章に分けて、ボディビルダーたちを描き出す。
第一章は「コンテスト」。この章では、矢野義弘と呼ばれる、国内でもトップクラスのボディビルダーの話を中心に、ボディビルダーたちのトレーニング法、コンテストでの審査基準、これまでの日本人選手の活躍、何故ボディビルにはまるのか、日本におけるボディビルの立ち位置など、ボディビルに関する基本的な状況を説明しつつ、矢野義弘という驚異的なボディビルダーの輪郭を描像していく。
第二章は「女子ビルダー」。章題通り、女子ビルダーの現状について描かれる。
男のボディビルダーも、社会的に様々な葛藤と闘いながらボディビルを続けているが、女性はまた違った角度から葛藤を強いられる。
そのキーワードが「女性らしさ」である。
筋肉で覆われた体を目指しながら、同時に女性には「女性らしさ」が求められる。しかしコンテスト直前には、

『基準は生理ですよ。生理があるうちは、まだ甘い。生理が止まったということは、私の身体から女性に必要なし坊がなくなったということなの。言い換えれば、私は女でなくなることでコンテストを戦う身体を手に入れるわけ』

と語るボディビルダーがいる。そんな中で、一体「女性らしさ」とは何なのか。この章では、高橋明美、西本朱希と言った素晴らしい戦歴を持つ女子ビルダーを中心に、女子ビルダーを取り巻く状況が描かれる。
そして第三章は「禁止薬物」。他の様々なスポーツでもそうだろうが、ボディビルも、ドーピングの誘惑と戦い続けなくてはならない競技だ。
ボディビルの場合、アナボリック・ステロイドと呼ばれるステロイド剤が、悪魔のクスリである。
本書では、匿名ながら、アナボリック・ステロイドを使って国内大会で優勝したこともあるというとあるボディビルダーの話が中心となる。彼の主張は、「美しい肉体を作り上げるのに、アナボリック・ステロイドは欠かせない。アメリカなどでは、ボディビルダーへのドーピング検査はほとんど行われていないのだから、使わなければ絶対に勝てない」というものだ。
日本のボディビルダーに対するドーピング検査は、恐らく世界一厳しい。しかもステロイド剤には、かなりの副作用がある。使っていることが発覚すれば、以後ボディビルの業界から締め出されるのは必定で、さらに、ステロイド剤の使用を止めればすぐに身体は元通りになるが、副作用はそのまま残る、というのも、使用を躊躇させる点だ。
ボディビル業界におけるアナボリック・ステロイド使用に関する判断は、色んな価値観が存在する。何が正解かはわからない。
最後に、マスターズ大会に参加する金澤と登坂の二人が描かれる。
というような感じです。
さて、これはなかなか評価の難しい作品だなぁ、と思いました。
あとがきで著者は、単行本刊行後、「ボディビルダーでしか理解できない」という読後の感想を多くもらった、と書いている。
確かにその気持ちは、わからなくもない。
例えば僕は、ボディビルとマラソンを比較してみたい。
共に、協力してトレーニングもできるけど、基本的に一人で黙々とトレーニングが出来、誰かと比較されることでコンテストやレースが成り立つけれども、なんとなく「自分との闘い」という面が強いイメージがあるという点で、他のスポーツよりは比較しやすいかなと思ったりしました。
マラソンであれば、自身がマラソンをやらなくても、走りたい気持ち、タイムを追い求めたい気持ちは、どことなく理解できるのではないかなという感じがします。「走る」というのは、子どもの頃からみんなやっていることで違和感はないし、「タイムを競う」というのも競技スポーツの基本的なものだったりするので理解しやすいという感じがします。
一方ボディビルはどうでしょう。僕らは何故、彼らの気持ちを理解することが出来ないのか。
まず僕らには、「筋肉を増強させたい」という欲求を抱いたことが人生の中でないのです。そういう機会に恵まれることは、少ないだろうと思う。本書でも触れられているけれども、日本人はボディビルダーを「ムキムキ」と表現し、これは「そうはなりたくない」という気持ちを込めた表現だったりする。少なくとも日本においては、「筋肉を増強させたい」という欲求はなかなか理解を得にくい。
しかも彼らが追い求めるものがはっきりと理解できなかったりする。マラソンであれば「タイム」に相当するものが、ボディビルではちょっと見えにくい。ボディビルはフィギュアスケートのように、芸術点的な審査がなされる。そこには、「美しいと思えるものに点数を与える」という動機が必要だけど、僕らには「ボディビルダーの肉体を美しいと感じる審美眼」がない。だからこそ、ボディビルダーが「美しさ」を目指して努力していることが、僕たちにはちょっと奇異に思えてしまうのだ。
本書には、こんな描写もある。

『日本にプロ・ボディビルの制度はない。国内のボディビル大会で優勝してもトロフィーがもらえるだけで基本的に賞金は出ない。それにもかかわらず、国内にもステロイド使用者がいるという事実は何を語っているのだろう。』

こういう事実も、僕らにはなかなか理解し難いものに思えてしまう。ステロイド剤は、使い方さえ適切であれば、飛躍的に筋肉を増強できるという。しかし、副作用も激しいし、使用がバレれば国内のコンテストへの出場はほぼ不可能になる。それでも彼らは、そんなリスクを冒してステロイド剤に手を出す。
それは、こういう表現は非常に失礼だし適切でもないのだろうけど、僕にはある種の依存症のようなものに思えてしまう。
パチンコ依存症の人が、借金をしてまでパチンコにはまってしまう。彼らには、当たればリターンがでかい、というイメージがあるのかもしれないけど、しかし一方で、自分がもう取り戻せないほどつぎ込んでしまっているという事実もきっと認識できているだろう。それでも彼らは、身が破滅することが分かっていて、借金をしてでもパチンコにとり憑かれてしまう。
本書を読んで、ボディビルに憑かれた人々は、そういう依存症みたいなものに近いような気がする、と思えて仕方がありませんでした。
健康のためにボディビルをやる、というのであれば、それはいいと思う。しかし、本書で描かれるボディビルダーたちは、ステロイド剤を使用していなくても一年のほとんどは体調が不良だったり、生理が止まったり、過酷なダイエットをしたりして、頑強な見た目とは裏腹にとても脆い。それほどまでに自分を追い詰めなくては理想の筋肉を手に入れることは出来ないのだけど、果たしてどうしてそこまでのめり込んでしまうのか。
これはもう、その世界に足を踏み入れた人間でなくてはきっと理解できないのだろう、と僕は思えてしまった。
僕は、自分は弱いけど、将棋が好きだ。生まれ変わったら、数学者か棋士になりたい、と思うほどに将棋が好きだ。
これまでも何冊か、将棋のノンフィクションを読んだことがある。そこで描かれる人たちは、常軌を逸した情熱を持って将棋に取り組み、幼い頃からありとあらゆるものを捨て去って将棋に打ち込んでいる。その努力が実らず散った人達の人生は、なかなかに辛いものがある。
勝負の世界とは、そういうものなのかもしれない、と思いもする。
しかしやはり、将棋とボディビルでは印象がまるで違う。それは結局のところ、「日本人の感覚にそぐうかどうか」ということなんだろうと思う。将棋は、ルールがわからなくても、なんとなく日本人にそぐう。駒の動かし方がわからなくたって、盤に向かっている彼らが何を考えているのかさっぱりわからなくたって、羽生さんはやっぱりヒーローだし、将棋を扱った小説やノンフィクションは結構ある。
一方でボディビルは、何故かと問われても答えようがないけど、どうしても日本人の感覚にはそぐわないのだと思う。
そして僕は、その点こそ、本書で鋭く切り込んでくれたらよかったのにな、と読みながら思ったりした。
あとがきで著者は、ボディビルというテーマは散々編集者に足蹴にされたし、「ボディビルダーでしか理解できない」という感想にも納得がいかない。書かれなければならないテーマというのは存在するのだ、みたいなことを書いているのだけど、『なぜ日本人の感覚にボディビルはそぐわないのか』というテーマは、やはり追求して欲しいなぁ、という感じがします。それを併せて追求していくことで、ノンフィクションとしてより完成度の高いものに仕上がるような気がしました。
というわけで、非常に評価の難しい作品だと感じました。何故なのかは説明できないけど、どうしてか「日本人の感覚にそぐわない」ボディビルというものにのめり込んでしまった人たちの人生が深く描かれていきます。こういう人達もいるんだな、と思うことはできますけど、彼らがなぜボディビルにのめり込んでしまうのか、その辺りのことはやっぱりよく理解は出来ませんでした。ボディビルを取り巻く環境全般を知りたいという人にはいいかもしれません。

増田昌文「果てなき渇望 ボディビルに憑かれた人々」



1999年のゲーム・キッズ(渡辺浩弐)

内容に入ろうと思います。
本書は、かつて出版されていた同名小説を再編集して出し直した作品のようです。
僕は、星海社文庫版が出るまで本書の存在を知りませんでしたが、本書はなかなか伝説的な作品なんだそうです。
元々本書に収録されている作品は、1990年代に「週刊ファミ通」で毎週連載されていたものなんだそうです。
そこで扱われている題材は、様々な未来的技術だ。
ずっと以前から、様々な形で未来予測というものは存在するものだけど、本書の中で著者が提示している未来予測は、ストーリー的にはありえそうにないことでも、技術的には、既に僕らが生きている世界で実現しているものも結構あるような、そういうものが多いです。技術革新のスピードが早まって、数年先の技術さえ見通すのが難しいんじゃないかなと思える現代社会において、20年前にこんなことを考えていた人がいたんだなぁと思うとなかなか面白いです。
本書は、101編のショートショートが収録された作品です。1話が5ページぐらい(もう少し長い話もちょっとだけある)。それぞれの作品で、未来的技術をモチーフにした話が描かれます。
僕はある年、ほぼ毎日ショートショートを書き続けるという頭のおかしい一年を過ごしたことがあって、だからショートショートを書くのって大変なんだよなぁってなんとなくわかる。僕が書いていたのは、最後うまく落とすことが出来ないようなものばっかりだったんだけど、本書では、面白さに差はそれぞれあるにしても(そしてその何を面白いと感じるかは人それぞれだろうけど)、物語の最後はきちんと落とせているなぁという感じがしました。さすがです。これを毎週書くとか、結構大変だっただろうなぁ。アイデアを考え続けないといけないですからね。
本書は、実に未来的な様々な技術が描かれるんだけど、やっぱり1990年代に書かれたんだなぁ、と思わせてくれる記述もところどろこある。一番面白かったのは、未来的ゲームのデータを別の機体に移すのに『フロッピー』が使われている、という点。まだDVDとかもなかった時代なんだろうなぁ。
というわけで、個人的にこれはなかなか面白かったな、という話をざっくり抜き出してみます。アイデアが面白かったものと、ショートショートとして面白かったものでわけてみます。

まずは、アイデアが面白かった方から。

「チャンネル戦争」 1万を超えるテレビ多チャンネル時代。膨大なチャンネルがある中で、特殊な事情によって視聴率を稼ぐ番組とは?

「遺産」 祖父は死んだが、その死んだ祖父が未だに働いて、私達の生活を支えてくれている。

「視線」 『アイトラ』と呼ばれる、人の視線に反応してあらゆる機械が作動する世界の話。人間が元々持っていた『他人の視線に敏感に反応する』という機能が『アイトラ』によって失われるとどうなるか。

「絵の中の僕」 『バーチャル・ミュージアム』という、自宅にいながら美術館にいけるサービス。絵の中に入って体感できる3D的な絵の中に、自分の故郷に似た絵があった。


技術的には、「遺産」の話は余裕で実現可能だろうなと思います(技術的ではない様々な問題はあるけど)。「チャンネル戦争」のオチも、実際に起こりえそうだなぁ。「絵の中の僕」は物語のネタ的にも秀逸でした。


次にショートショートとして面白いもの。

「ゴーグルライフ」 「ゴーグラー」と呼ばれる、自分の見たものすべてを記録しネット上にも上げることが出来るゴーグル。若いハッカーの間で、ネットワークに侵入して他人の視覚を覗き見するのが流行っている。

「トロイの木馬」 妻の浮気を知った男は、医者である旧友から、絶対に露見するはずがない、完全犯罪が可能な、超小型体内手術用ロボットを改造したものを渡されるが。

「クスリ」 話したこともない女子から、大事な話があると呼び出される。「ブレイン・ダイナマイト」という、記憶力を向上させるクスリを飲んでいると、ちょっと困ったことが起こるんだと言われ…。

「プラチナ・チケット」 アイカメと呼ばれる、額に貼る小さなカメラを通じて、選手目線でスポーツ観戦を楽しめるようになった男。一度生で試合を見に行こうと思いついたが…。

「ぶよぶよしたもの」 学校に行かず引きこもり、ゲームばかりしている男は、ある日肘に謎の物体が出来ていることに気づき、分離して育てることにした。

「黒くぬりつぶせ」 『グラスバイザー』という、掛けると映像処理によって現実を改変することが出来る眼鏡をつけたまま男は帰宅し、妻とあれこれとやりあう。

「長生きの秘訣」 ある読者からの投稿。代々優秀な医者で、かつ短命の家系である我が家。アホでもいいから体だけは健康のままで、と言われた男は、自分の家系の秘密を知ってしまったかもしれない。

「ピーターパン・シンドローム」 天才であり変人でもある博士は、小さな赤ん坊を連れてきていた。博士は、自説である「ネオテニーが進化の鍵だ」という話をし始めるが…。

「シンデレラ」 王子様が、その靴に合う女性を探している。どうにも見つからないが、ある家のお手伝いさんだという女性に履かせてみると、これがピッタリ。

「三つ数えろ」 警備用ロボットによって堅牢なセキュリティであるはずの我社の機密が、どうもライバル会社に流れている。調査を始めると…。

「ザ・自殺ショー!」 自殺する権利が認められた日本で、合法的に自殺が認められるためのテレビ番組が作られた。そこに参加することになった一人の少年。

「オンリーユー」 顧客のあらゆる情報を分析することで、その顧客が今最も求めているものを案内してくれる「特定個人向け広告」のサービスに加入した男。

「ハゥ・トゥ・不老不死」 一代で巨億の富を築き上げた老人は、がんに冒された臓器を植物状態の人間の臓器とそっくり入れ替えたいと主張し、国と裁判で争うことになるが…。


この中で特に秀逸だなと思うのは、「ハゥ・トゥ・不老不死」でしょうか。これは見事だったなぁ。「三つ数えろ」はラストが秀逸。「ぶよぶよしたもの」は、なんか好きです。

あと、わざわざこれだけ別で取り上げる必要もないんだろうけど、原発とか放射能を扱った話もある。


「楽園」 どこか遠くの国で起こった原発事故が、地球を壊滅に追いやった。その前に建造された巨大ドームの中に、選ばれた人類だけが生き残っている。ガラスの向こうには、恐ろしい姿をした生命の姿。

「進化した男」 「奇病」と呼ばれる、ウイルス性の病気が蔓延、深刻化している中、一人のウイルス専門家が、感染者の発病を防ぐ方法を発見したと言って閣下の元を訪れた。

「生中継」 大震災によって原発に致命的なダメージがあったのではないか、という疑惑に、テレビの生放送で専門家が答えていく。リアルタイムでの原発内部の映像を流すが…。


「生中継」は、ホントに起こってもおかしくないかもなぁ、と思ったり。こんなことがバレたら、とんでもないことになりますけどね。


最後に。本に絡んだ話も二つほどあったんでそれも。


「究極の小説」 デジタルパブリッシングが隆盛を極め、オールドメディアが廃れた時代にあって、百万回読んでも飽きない究極の小説が提示される。

「私小説」 今や小説は、出版社のサイトにリアルタイムでアップされる。一秒ごとが締め切りみたいなものだ。早くかけと担当編集者にせっつかれ、目の前の現実を口述筆記する作家。


「究極の小説」は、オチにちょっと笑ってしまいました。


未来的技術の話もあり、未来に起こるかもしれない状況の描写もあり、既に現実になっているものもありという感じで、なかなか面白く読めるんじゃないかなと思います。1編が短いんで、ちょっとずつ読んでもいいかもですね。本書は1990年代から未来を見た作品ですけど、2010年代から未来を見る作品、っていうのもちょっと興味ありますね。


渡辺浩弐「1999年のゲーム・キッズ」








夏が僕を抱く(豊島ミホ)

内容に入ろうと思います。
本書は、「異性の幼馴染」をモチーフにした、6編の短編が収録された短篇集です。

「変身少女」
中学生になった菊南は、入学からひと月にして、不良になることに決めた。何故って、幼馴染の毬男が不良だからだ。
それまでもずっと仲良しだった毬男だけど、小学校時代のとある瞬間に、菊南にとってかけがえのない存在に変わった。しかし、中学に入ったくらいのことで、毬男は不良たちの中心みたいな感じになっちゃって、大人しいグループにいる菊南は毬男に全然話しかけられない。
だったら、不良になるしかない。髪もスカートの長さも全部変えて、不良になるんだ。

「らくだとモノレール」
いるかには、一緒に遅刻をしてくれる幼馴染がいる。同じ団地に住む「らくだ」だ。らくだの方がイッコ上で、途中から学校が同じだというわけでもないんだけど、どちらも朝同じように遅刻して、夕方同じように授業を抜けてこの団地に帰ってくる。らくだがいるから、つまらない学校にも行けるし、何もないこの団地まで戻ってこれるような気がする。
調子が悪くていつものように早引けしたいるかは、部屋で寝ていると、隣のらくだの部屋だろうところから、ミシミシっていうベッドが軋む音を聞いてしまう。

「あさなぎ」
小学生の頃、庭の近くの藪の影で、お姉ちゃんがキスしてるのを見つけてしまった。相手は、お姉ちゃんと同じ小学六年生の石川研吾くん。
園子はその石川研吾くんとお見合いをする。お互いに変態写真を撮り合った中である大道さんとの関係を終わらせてまで。面倒くさくなく生きていたい園子には、そこまでのめり込むわけではない相手との結婚というのは、一つの理想だった。
IT会社の社長と結婚し玉の輿に乗ったお姉ちゃんが、本当に鬱陶しい。

「遠回りもまだ途中」
高校までずっとずっと一緒に過ごしてきた岬の部屋に、有里は時々顔を出す。いくら有里が彼氏の話をしたって、岬が来て欲しがってることはわかるつもりだ。
浪人生になった岬とは、昔ほどは合わなくなった。
今は、同じサークル内の将チンと付き合っている。カッコイイ将チンのことが、好きで好きで仕方ない。もうすぐクリスマス。どうやって過ごすんだろう。

「夏が僕を抱く」
ハネがミーちゃんと再開したのは、どしゃ降りの雨の日の、渋谷のレコ屋の前でだった。
ミーちゃんは、父の実家である青森でよく遊んでいた女の子で、関係としては従姉に当たる。女の子とは思えない体型と行動力で、いつも全力で遊んでいたのだけど、そのミーちゃんがずぶ濡れで目の前にいる。ってか、よくわかったなぁ。
バンドやってる、と言いながら全然活動をしていない、フラフラ生きているだけのハネと、寂しさのぶつけどころがわからないままフラフラしていたミーちゃんは、当然のようにセックスをして、肌を重ねていく。

「ストロベリー・ホープ」
クリーニング屋のおばさんに護が帰ってきたことを知らされた十和子は、何でもない風に護の家に言って、どうして大学を辞めて専門学校に行ったのか、東京で何があって結局戻ってきたのか、そういうことは全然聞けないままで、また来ると約束した。
農協でのイチゴの選別の仕事。休憩中に交わされる様々な噂話。もちろん、護の噂もさっそくされていた。でも、今一番の話題は、山内さんの話。キツイ姑に嫁が耐えかねて離婚が決まった山内さん。十和子はその山内さんと、少しの間だけ付き合って、そしてすぐ逃げた。

というような話です。
それなりに面白かった、という感じです。決して悪くはないんだけど、他の豊島ミホ作品と比べて、ガツンとは来なかったかなぁ、という印象。
「異性の幼馴染」という設定が、なかなか絶妙だなぁ、と思いました。豊島ミホは、ちょっとした人同士の距離感みたいなのを描くのが抜群に巧い作家だなという印象なのだけど、本書は、「ずっと昔から知っていて、ずっと一緒に育って来たのに、次第に『近くに住んでるから』というだけの理由だけでは一緒にいられなくなって、でもどうしよう」みたいな、あるいは「ずっと一緒にいたから一緒にいることが心地いいし落ち着くけど、でもこの感情って恋かな?恋じゃないのかな?」みたいな、お互いの距離感の掴み合いみたいな部分が本当に巧くて、さすがだなという感じがしました。
僕も、「異性の幼馴染」はいなかった。というか、「幼馴染」って言われてパッと浮かぶ顔が男女合わせて特にいないんだよなぁ。よく一緒に遊んでた先輩とかいるけど、あれって「幼馴染」だったんだろうか。
本書の著者である豊島ミホも、解説を書いている綿矢りさも、「異性の幼馴染」がいたことはない、と書いている。豊島ミホはあとがきで、「だから「異性の幼馴染」への夢を存分に書くことができた」と書いているし、綿矢りさは解説で、「「異性の幼馴染」が欲しくなったけど、今からじゃ手に入らないから貴重な存在なんだよね」みたいなことを書いている。
「幼馴染」について、解説で綿矢りさが書いているある箇所が物凄くストンと腑に落ちた。

『でも上京して、また故郷へ戻って、子どもの頃とほとんど同じ場所に住んで初めて分かることがある。一人では昔に戻れない。でもだれか一緒に時を経てきた人と手をつなげば、今現在の自分たちを忘れずに、かつ相手にもまだ残っている昔の面影を見て、子どものころにタイムスリップできる。』

これはなんというか、本書の作品全体に通じる部分だなぁ、と思ったし、「幼馴染」という存在に対する的確な表現だなという感じがしました。

「一人では昔に戻れない」

主人公ったいはそれぞれ、幼馴染に対して色んな感情を抱いている。それは、「恋心」とか「同志」とか、そういうわかりやすい言葉で表現できるほど輪郭がスパっとしてない。恋かもしれないし、同志なだけかもしれないし、でもそうではない別の何かかもしれない。大人になるにつれて、「異性」と一緒にいることに何かしらの理由が必要になってくる。そういう中で、「幼馴染」という存在に対して改めて考えさせる場面が多い。
それは、恋愛が絡んでくるとなおそうなる。
冒頭の「変身少女」を除けば、どの主人公も、別にはっきりと「幼馴染」を好きだと認識しているわけではない。というか、どうなのかよくわからない曖昧なところにその感情をとりあえず放置している感じ。それで彼らは、「幼馴染」ではない別の誰かと恋愛をしたりする。
その過程で、「幼馴染」の存在がブワッと濃くなっていったりする。
恋愛ではない形でずっと一緒に過ごしてきた「異性の幼馴染」に対して、初めて恋愛を経験することで、自分自身に、「幼馴染」への感情をはっきりさせるよう迫るのではないかと思う。自分は今この人と付き合っている。複数の人を好きでいるわけにはいかない。じゃあ、「異性の幼馴染」へのこの感情は、一体なに?という具合だ。
そうやって彼らは、少しずつ、昔のままではいられない関係へと進んでいくことになる。それは、望んだ道であるかもしれないし、思いも書けなかった道であるかもしれないし、望みつつ叶わないと諦めていた道であるかもしれない。
そうやって、ちょっとずつ変わっていく関係性がなんかいい。
「幼馴染」と恋愛が絡んだ状況になるのって、凄くリスキーだなぁって思う。だって、失敗すればそれまでの「素晴らしい関係性」が終わってしまうかもしれない。だから、誰もがすんなりとは踏み出せないし、このままじゃ終わっちゃう、というタイミングで踏み出す人もいる。普通の恋愛以上に細やかな感情のやり取りが生まれやすい「幼馴染」との恋愛的な状況は、そういう話が好きな人にはなかなかグッと来るんじゃないかなと思う。
個人的に一番好きな話は、「遠回りもまだ途中」かな。将チンにゾッコンだった有里が、色んな経験を経て少しずつ感情が揺さぶられて、その矛先が「幼馴染」の岬に向かっていく過程が凄くいい。岬は、浪人生だしデブだしオタクだし汚らしいんだけど、そんな岬に対して有里は、凄くいいところ、昔からいいと思っていたところを再確認していく。
この作品を読むと、「幼馴染」って、特に「異性の幼馴染」っていいなー、って思うけど、でも自分にもしそんな存在がいたとしたらどうだろうなぁ、と考えて、うまく行かないような気もするなぁ、って思ったりする。離れるまでは全然大丈夫だろうけど、一旦離れちゃったらどんな風に関係性を取り戻したらいいのか、凄く悩みそうだなぁ。でもやっぱり、なんか「異性の幼馴染」って、羨ましいなぁ。
恋愛なんだけど恋愛しすぎてない感じで、フクザツで淡いやり取りの中にほのかな何かを見つけ出せるような、そんな小説です。ベタな恋愛小説はあんまり好きじゃないんだけどなぁ、みたいな人には面白いかもしれません。

豊島ミホ「夏が僕を抱く」



PK(伊坂幸太郎)

内容に入ろうと思います。
本書は、相互に若干の繋がりを持たせた3編の短編が収録された作品です。

「PK」
ワールドカップの予選で、決勝点となるPKを決めた選手について、未だに尽きることのない噂がある。新人大臣の頃に人助けをしたことがある大臣が、苦境に立たされている。「お父さんには、次郎君という友達がいたんだ」という話をして子育てをする父親。編集者ではない謎の人物から、作品の修正を「お願い」される心配性の作家。

「超人」
浮気をしたために別居状態となり、友人であり作家でもある三島の家に来ている田中は、ちょうどやってきた警備会社の営業マンの話を一緒に聞くことになった。
彼には特殊な能力があるという。
始まりは、サッカーの試合結果を教えてくれるメールマガジンからのメールだった。当初はごく普通のメールだったのだが、ある時そのメールに、見知らぬ人物の名前、見知らぬ住所などが書かれるようになった。
意味がわからなかったが、次第にそれが何の「情報」なのかわかってくる。
営業マンはその「情報」を元に、あることをしている。「予知能力があるのです」というその営業マンの言葉を、三島も田中も、どう捉えたらいいのかわからない。

「密使」
ある日突然、自分に特殊な能力が備わっていることに気づいた男は、しかしその能力のあまりの些細さに、有効利用を諦めていた。ほんの少しだけ、人よりも時間を多く過ごせる、というだけだ。何がどう出来るわけでもない。
ある男は、謎めいた研究所に呼ばれた。そこで彼は、パラレルワールドについての説明を受ける。時間蟻や量子論の話が入り交じる、どこに着地するのかよくわからない話だ。どうもその研究所では、未来を変えるための様々な計算をしているようではあるが。

というような話です。
やっぱり伊坂幸太郎は良い話書くなぁ。こういう、色んな要素がするするっと収まるべきところに収まっていくような作品は、やっぱり好きですね。
僕は本書の3編のうち、「密使」だけは「NOVA」というアンソロジーで読んでいました。単発で読んだ時ももちろん十分面白かったんですけど(しかし、「NOVA」を読んだのはそこまで大昔というわけでもないのに、やっぱり内容をすっかり忘れていて、初読であるかのように楽しめたのでした)、こうやって3編揃って読むとまた面白さが違いますね。
書籍化に辺り若干手を加え、三編の繋がりを強化した、みたいなことがあとがきで書かれていました。
読んでいると、なるほどなるほど、この話があれと繋がるんですね、まさかなるほどこれがああだったのか、みたいな遊び心みたいなのが結構随所にあって面白いです。
3編とも、「個人という小さな単位では太刀打ちの出来ない、しかし表立ってその存在を感知することが出来ない強大な組織」というものを背景に置いていて、こういうのは「ゴールデンスランバー」とか「モダンタイムス」とかでもそうでしたけど、なんとなく最近の伊坂幸太郎の十八番だなって感じがします。もしかしたら人によっては、「その強大な組織」が表に出てこない、作中で説明されないことにあまり納得しにくい読者もいたりするのかもしれません。そういう意見を耳にしたことがあるような気もするし、まあそういう感想があってもいいかなとは思います。でも、僕はいいなぁ、と思いますね。僕らが生きている世界も、やっぱそうだよなぁ、って思ったりするんです。
僕たちは、自分たちの周りという凄く狭い世界の中で生きている限り、僕らを取り巻く「大きなモノ」の存在を意識せずに済む。なんとなく世間の流れも、そういう狭い中で生きていく感じを礼賛するような雰囲気を感じる。「大きなモノのことなんか考えなくてもいいじゃん」「自分の狭い世界が楽しければそれでいいじゃん」という感じである。かつて学生運動が盛んだった時代があるようだが、僕にはそれを思い描くことすらできない。彼らはきっと、自分たちを取り巻く「大きなモノ」の存在を自分から積極的に意識し、しかもそれに対抗していったのだろう。現代人には、その気力はない。そうならないように洗脳めいた感じにされている、という側面もあるかもしれないのだけど。
僕も、「自分の狭い世界が楽しければそれでいいじゃん」と思っている、軟弱なダメ人間です。が、時々やっぱり、自分の生きている世界とはかけ離れたところにあるのだろう「境界線」に思いを馳せてしまう。僕は正直、その「境界線」に近づくつもりはない。自分がその「境界線」に対して何らかの影響を与えられるわけでもないし、その「境界線」の存在を周囲の人間に意識させようとしても、その距離感からなかなかうまくいかないだろう。であれば、無視するしかない。そう自分に言い聞かせている。
でも、完全にうまく行くわけではない。
僕たちは、自分たちの周りという凄く狭い範囲の中で動き回っている限り、その「境界線」を意識することはまずない。だから、自分たちが「囚われている」という感覚にもなかなかならない。しかし僕達は、やはり「境界線」によって「囚われている」と思う。僕は、それに息苦しさを覚えてしまうことがある。日常生活の中で、何か不都合だったり不満があるわけではない。でも、もしもの何かがあった時に、その「境界線」が僕の邪魔をするのではないか、と思うと落ち着かない。考えすぎだということはわかっているのだけど、そういう感情を除いたとしても、ただ単純に、自分たちが「囚われている」という事実に苛立つこともある。
伊坂幸太郎の作品は、僕がそんな風にして意識している「境界線」の存在を、より具体的にしてくれているような感じがあります。伊坂幸太郎の作品に出てくる「大きなモノ」だって、その存在感は非常に曖昧です。でも、僕はその存在を、日常生活の中で感じることがない。日常世界の中で感じられないものを、リアルに感じ取ることは難しい。それを伊坂幸太郎は、物語を通して僕に実感させてくれるような感じがある。そういう部分が、僕的には凄くいいなという感じがしました。
「PK」に出てくる「大きなモノ」の存在感は、結構強いなぁという感じがします。この作品の中では、謎めいた組織による理不尽な要求が描かれるのだけど、でも僕らは日常生活の中で、本書のような規模ではないにせよ、自分とはっきり関わる組織が与える理不尽な要求を乗り越えて生きている。ここで描かれているのは、僕たちの日常の相似形なんだろうなぁという感じが結構しました。
「超人」では、「大きなモノ」の存在はより曖昧で、これもなんか、「責任の所在が曖昧なままとんでもないことをしてしまう人間」みたいな印象を抱きました。作中で、チャップリン作の映画のセリフに、「ひとりひとりはいい人たちだけど、集団になると頭のない怪物だ」というような引用が出てきて、まさにこれだなという感じがします。人間って、結構酷いことが出来る。それが集団であればあるほど、より酷いことができてしまう。そういう中で、個人がどれだけ自分を保っていられるだろうか。なんとなく、そんなことを感じてしまった。
「密使」の話は、理系の僕としてはなかなか興味深い感じがしました。もっともらしい話をでっちあげてまともそうな話を生み出す能力って凄いなぁ、と思います。物語の構成も見事で、しかもこの作品の場合、「大きなモノ」の存在がそこまで謎めいていない。それは、目的がはっきりしているからで、だからそこまでの不気味さもない。そういう意味でも、他の2作より受け入れやすいかなぁという感じはします。
あと、伊坂幸太郎のエッセイ「仙台ぐらし」を読んでいたから、「PK」の中で出てくる作家のベースは伊坂幸太郎なんだろうなぁ、なんて思って楽しく読みました。奥さんもホントにこんな感じの人なんかなぁ。
震災後に発売された「群像」で発表された作品だったこともあって、雑誌で読んだという人もいることでしょう(この雑誌掲載に関する誤解を、伊坂幸太郎はあとがきで書いています)。でも、3編まとめて読むと、また違った感じに読めるのではないかなという感じがします。やっぱり伊坂幸太郎は面白いです。是非読んでみて下さい。

伊坂幸太郎「PK」



昭和十七年の夏 幻の甲子園 戦時下の球児たち(早坂隆)

内容に入ろうと思います。
本書は、戦時中たった一度だけ開催された「幻の甲子園」について、開催されたいきさつや全試合内容の詳述などが描かれたノンフィクションです。
「全国中等学校優勝野球大会」いわゆる「甲子園」は、大阪朝日新聞主催の大会として今日まで続いている。朝日新聞の記録上では、「昭和十六~二十年 戦争で中止」となっている。
しかし、昭和十七年、一度だけ「甲子園」が開かれている。しかしそれは、普通の「甲子園」ではなく、あくまでも戦時下における「幻の甲子園」であった。
主催は文部省(と大日本学徒体育振興会)であり、大会名も「第一回全国中等学校体育大会野球大会」とされ、「ベンチとの選手の交代は不可」「打者はボールを避けてはいけない」などの、普通の「甲子園」にはないルールが設定された。また選手たちは「選手」ではなく「選士」と呼ばれた。戦時下にあって、戦意高揚を促すような、そんな目的で行われたものだった。
それでも球児たちにとっては、この昭和十七年の「幻の甲子園」開催は、本当に喜ぶべきものだった。
前年の昭和十六年、大阪朝日新聞社が交渉に交渉を重ねた末、結局「甲子園」は中止と決まった。戦時下にあって、敵国のスポーツをやるものではない、という風潮が次第に蔓延する中、それでも「甲子園」を目指して辛い練習を重ねてきた球児たちにとっては、辛い現実であった。
昭和十七年に行われた「幻の甲子園」は、「甲子園」の正史には記録として残っていない。この「幻の甲子園」においても様々な記録が生まれたが、それは「甲子園」の正史としては残されていないのだ。昭和十七年のこの大会が「幻」と呼ばれる所以である。
しかし選手たちにとっては、幻でも何でもなかった。どんな思惑で開かれようが、ルールが変わろうが、野球が出来るという喜びに満たされていた。
本書のメインは、参加16校によって行われた全15試合の詳述である。現在も残るスコアボードや、80歳を超える戦争を生き残った当時の選手たちへの取材を通じて、当時の熱戦を再現している。試合の話だけではなく、「球場の昼時に満員になってたカレーを食べたかった」「試合終了と共にふくラッパを吹く学生が、9回裏2アウトになると準備を始めると、観客席から「縁起でもない」と野次が飛ぶ」と言ったようなちょっとした小咄的な話も随所に入れながら、それぞれの試合が詳細に描かれていく。選手たちのその後(戦争で亡くなったり、プロ選手になったりなど)などもかなりふんだんに描かれ、昔を知る野球ファンには非常に面白いのではないかと思う。
「幻の甲子園」でも、様々なドラマが引き起こされる。
試合直前になって監督が戦争に招集され、監督不在のまま戦ったチーム。開催直前に突如設けられた「年齢制限」という特別ルールに引っかかって出られなくなってしまった各チームのエースたち、強引な日程の組み方によって生まれたドラマ、怪物のような投手、審判の判断。
台湾から参加したチームは、日本まで行くのにアメリカに船をやられるかもしれないから、全員親の同意書を取り付けなくてはならなかった。
戦時下という条件の中、普通の「甲子園」ではありえない形で涙が流される場面があり、その環境の中でも全力でプレーし続ける選手たちの輝きが光る。
公式には5年間のブランクがある夏の甲子園。その期間に、たった一度だけ「幻の甲子園」が開催されていた。その記録。
本書は、野球に詳しければ詳しいほど楽しく読める本なんだろうなぁ、という感じがします。
僕としては、本書の冒頭にちょろっと書かれている「何故戦時下に、主催者を変えて甲子園が行われたのか」という状況の解説の部分は面白かったのだけど、試合の詳述そのものは正直そこまで面白くないかな。これは僕が、そもそも野球にそこまで関心がないからだと思うんだけど。本書では、戦後の職業野球界の基礎を作ったような、その当時の名選手(たぶん)の名前がバンバン出てくるんだけど、それも僕にはやっぱり聞き覚えがない。ってか、全然知らない人ばっかだった。最後の最後にチラッと「板東英二」の名前が出てきて、おぉ知ってる知ってる、という感じでした。そういう意味でも、野球を知っていれば知っているほど楽しめるのだろうなぁ、という感じがしました。
試合内容の詳述以外の部分は、結構楽しめたりしました。先ほど書いた、「9回裏2アウトでラッパの準備」みたいなやつとか、そのチームがどんな監督に率いられ、どんな選手がいて、どんな練習をしてきたのか、みたいな話ですね。こういう話が。試合内容の詳述の合間合間にうまく挟み込まれるので、試合内容の詳述にはちょっと関心が持てない僕みたいな人間でも、とりあえず最後まで読めちゃうんだろうな、という感じがしました。
しかし、試合内容の詳述は、面白いかどうかということより、凄いなという感じが先行しました。だって、今から70年ぐらい前の話ですよ。スコアブックがいくら残ってたって、あそこまで試合内容をリアルに再現できるものなんだろうか、と感心しました。もちろん、当時の選手たちへの取材で補った部分も多いのだろうけど、かつての選手たちもホント、よくもまあ覚えてるなぁ、という感じで、そこは凄いなと思いました。
とにかく本書は、野球に詳しい人が読んだら凄く楽しめる作品だと思いました。「幻の甲子園」の存在そのものを知らない人も多いだろうし(もちろん僕も知らなかった)、そうでなくても70年近くも前の球児たちの試合をここまでリアルに再現できている点、そして戦後の職業野球界を背負って立った名選手たちのプロ以前を知れるという意味で、凄く興味深い作品なんじゃないかなという感じがします。もちろん、「野球」というものを通じて当時の「戦争」の雰囲気を感じ取る、なんて読み方も出来るでしょうか。野球好きの方は、是非読んでみて下さい。

早坂隆「昭和十七年 幻の甲子園 戦時下の球児たち」



ブラックアウト(マルク・エルスベルク)

内容に入ろうと思います。
本書は、ドイツでかなり評価されている海外ミステリだそうです。
作品のスケールは、SFとかファンタジー的な要素を除いた、可能な限り現実的な話をベースにした小説の中では、これまで読んだ中でも最大級かもしれません。
ヨーロッパで、突如とんでもない規模の停電が発生する。
イタリアと北欧から広がった停電は、次第にヨーロッパ中に広がっていき、ヨーロッパ全土を大混乱に陥れる。
しかし、原因はまったくわからない。電力会社や送電会社、あるいはテロを取り締まる機関などが全力で原因を究明しようと躍起になるが、なんの手がかりも掴めない。その内に、被害はどんどんと拡大していき、生活のライフラインがズタズタになるだけではなく、電力の8割を原発に依存しているフランス国内では、停電により原発に深刻な影響が出始めている。
そんな中、一人の元ハッカーが、大停電の原因究明に繋がるかもしれない重大な情報に気づく。しかし、警察や電力会社の人間に何を言っても、一個人の意見はまったく聞き入れられない。彼の隣人の娘が政府機関に勤めており、その伝手を利用してどうにかこの重大な発見を伝えようと、旅行先まではるばる車を飛ばすことになったが…。
というような話です。というか、スケールがでかすぎて内容紹介とか無理です。
個人的な感想としては、面白いか面白くないかと聞かれれば面白かったけど、何より一番はしんどかったです。
というのも、固有名詞を与えられた登場人物が多すぎるんです。少なく見積もっても、固有名詞を与えられた登場人物は70~80人ぐらいいます。
確かにその中で、なるほどこの人達がメインなのだなというのは徐々にわかってくるんですけど、初めの内はさっぱり分からない。場面展開の早い作品で、数ページで違う場面に変わってしまう(しかも、ヨーロッパ全土をあちこち行き来するような場面転換)ので、冒頭からしばらくの間は、固有名詞の洪水という感じがしました。ただでさえ外国人の名前を覚えるのはしんどいのに、とにかくこの洪水は、読み始めのメチャクチャ大きなハードルでした。
あとは、登場人物があまりにも多すぎて、しかも場面転換が多すぎて、個別の人物に感情移入しながら読むのがなかなか困難な作品だと思います。最終的に自分の中では(かなり終わりに近づいてきてからですけど)、マンツァーノという元ハッカーの話をメインで読もうと決めたんですけど、とにかく出てくる人物が多すぎて、ストーリーを追うことしかできなくなってくるんですね。
確かに、ヨーロッパ全土を舞台にしたスケールのデカイ話なのだから、これだけ登場人物が膨れ上がるのは仕方ないことなのかもしれません。でももう少し、ストーリーにあまり関わらない人間には固有名詞を与えないようにして、読者が読みながら追っていくべき人物が伝わるような感じがよかったな、と思いました。
スケールのデカさは、かなりのものです。それはこんな風にも表現できます。
本書の中では、原発がかなり危機的状況に陥ります。普通の小説では、それ単体で物語の核になるような出来事でしょう。でも本書では、原発の話は散発的に出てくるだけです。あくまでも、同時並行で起こっているとんでもない出来事の内の一つ、という扱いです。確かに、本書で描かれているような規模の出来事が起これば、そうなるでしょう。それぐらい、凄い規模の話です。
しかもそれが、結構現実に起こりうるんだな、と思わせるところは、なかなか凄いなと思いました。発電や送電(ヨーロッパでは、発電と送電は別の会社が行なっている)に関する詳しい描写があったりして、そういうのを読むと、なるほど確かにこんな感じで攻められたら電気っていうシステムはダメになっちゃうのかもな、と思わせるだけのリアリティがありました。特に、どうやってこれだけの規模の停電を引き起こしたのかという根本の謎が最後の方で解き明かされるんだけど、そのやり口は見事だなと思いました。
本書では、人間の生活において、『電気』というものがどれほど重大なものなのかというのが伝わってきます。3.11の時に輪番停電なんかがあって、電気の大切さみたいなものを実感した人は多いと思うんですけど、本書では一週間以上に渡って(しかも冬!)停電が続くという状況が描かれます。実際には、その停電をどうにか解決しようとする人たちの方がメインで描かれるんで、一般の市民がどんな状況に置かれているのかという描写が少ないんだけど、まあそれでも、とんでもない状況が展開されていることはわかります。普段何気なく使ってる『電気』だし、これがなくなるなんてなかなか想像したくないけど、自分の生活がどれほど『電気』に依存しているのかということに気づけると思います。
とはいえ、『電気』だけじゃないんですよね。つまり、僕達の今の生活は、様々な『前提となる存在』によって維持されていて、その内の一つが『電気』にすぎないんです。小説としての面白さ的に、『電気』っていうインフラを破壊するインパクトを選んだっていうことなんだと思うんだけど、『電気』だけじゃなくて、僕達の日常になってる色んな『前提となる存在』について、もう少し目を向けるといいのかもなぁ、なんてことは考えたりしました。それは例えば、『法律』だったり、『人々の善意』だったり、『お金』だったり、『貧困に耐える人々』だったりするわけで、そういう、なかなか普段その存在を重大なものとして受け止められない様々なものの存在を意識出来るようになるかもしれません。まあ、別にそんな高尚な作品ではなくて、エンタメですけどね。
個人的な意見としては、これだけ長い作品なんだから、犯人側の描写と追う側の描写が半々とかでもよかったんじゃないかなぁ、とか思ったりしました。最後の最後では犯人側の描写も結構多くなってきますけど、初めの9割ぐらいの間に、犯人側の描写って、多くても5ページぐらいしかないと思うんですよね。リアリティをとことん追究するために、追う側(+停電を復旧させようとする側)の描写にほとんどのページを割いたんだろうけど、物語としての面白さを追究するなら、犯人側の描写がもっともっとあった方がよかったんじゃないかなぁ、という気がしました。いずれにしても、ミステリみたいに、「誰が犯人なのか?」という部分は、そこまで重要ではないんだし。
スケールが大きすぎて、個別に色々書くのが難しいですけど、個人的にはやっぱり、元ハッカーのマンツァーノの物語が一番面白かったです。もう少し全体をすっきりさせて、犯人側・追う側・マンツァーノの三本の軸で展開させるのもよかったかもしれません。
スケールの大きさは相当なもので、これだけのスケールの小説ってなかなかないと思うけど、そのスケールの大きさに見合うだけの登場人物の多さで、名前や人物関係を把握するまでは相当大変でした。リアリティに相当こだわったのだろう、本当に起こりうるかもしれないと思わせる物語でした。僕たちが普段生きている中で背景になっている様々な『前提となる存在』について考えさせられました。

マルク・エルスベルク「ブラックアウト」







夏のバスプール(畑野智美)

内容に入ろうと思います。
涼太。高校一年生。トマトをぶつけられて遅刻。
トマトの汁が飛んだ制服で教室に入ると、悲鳴が上がる。血だと思われたみたいだ。
トマトを投げつけてきた女は、同じ高校の同じ学年のはずなのに、見たことがなかった。誰かのかちょっと調査。
青野とは、いつもつるんでる。ずっと幼馴染だった望月と最近付き合い始めて、なんかそれはフクザツだけど。青野の実家は書店をやってて、何度も行ったことがあって、書店のバイトの櫻井君とも仲がいい。
腐女子の姉が作ってくれた弁当をいつも食べる。母は韓流ドラマにはまってて、父親はアメリカで物理の研究をしてる。
体育クラスの西澤は、小学校の時に入ってたリトルリーグでは二軍と三軍を行き来してたくせに、今では一年なのにエースみたいな扱われ方をしてる。西澤とはあんまり関わりたくないんだけど、向こうが何故か話しかけてくる。
司書の松ちゃんのことは、凄く好きで、自分の中では殿堂入りみたいな感じだ。中学一年の頃から図書委員をしてるから、結構目をかけてもらってると思う。なんというか、松ちゃんに男が近づくとそわそわする。
有村先生には、よく呼ばれる。中学の頃からだ。でも、中学の頃は、今ほど厳しくなかった気がする。一学期中に、クラスメイトの富君が不登校になっちゃったことが関係あるんだろう。九九が出来ないことを、数学教師の有村先生にいつも心配されている。
トマト女は、久野さんというらしい。可愛い女の子だ。しかも、面白い。色々噂があるみたいだけど、なんというか、いい感じだ。
というような話です。
これ、っていうズバッとした物語があるわけではない小説なんで、登場人物をざっくり紹介する感じにしてみました。
なかなか面白い小説でした。なんか、弾んでる感じがいいな、と思います。
高校生とかを描いた小説って、なんか人間関係が色々だったり、家庭環境が色々だったり、学校が色々だったりで、なんとなく弾み感が足りないような小説って多いような気がする。本書も、別に人間関係も家庭環境も学校も色々なんだけど、でも弾み感がある。基本的に明るい感じの雰囲気の小説だけど、それだけが弾み感なんじゃないと思うんだよなぁ。文章自体が弾んでるみたいな感じがあって、それはなんか凄くよかったと思う。うまく説明できないけど、文章に特徴がある作家なんだろうなぁ。文章自体にユニークさがあると、ストーリー自体が凝ったものじゃなくてもオリジナリティが出るから、いいなと思う。
物語の基本は、涼太と久野さんの話だ。一応これがメイン。トマト女でしかなかった女に、久野さんという名前が与えられ、話すようになる。次第に涼太の中で、久野さんの存在感が増してくる感じになる。
というだけでは、なんかただの恋愛っぽい小説だけど、そうじゃなくてまあ色んなことが起こる。青野にも望月にも松ちゃんにも富君にも西澤にも、色んなことが起こる。そういう色んなことの中で、涼太の感覚が色々にシャッフルされていく。
高校生って、やっぱ難しいよなぁ、って思う。もちろん、大人だって色々難しいけど、高校生ってやっぱ難しい。
経験したことがないことにたくさん直面するのに、子供みたいに知らないではいられないような感じがある。知らないのに、知った感じで乗り越えないといけないことがたくさんある。そうやって、少しずつ大人になっていくもんなんだろうけど、でもやっぱり大変だよ。恋愛も人間関係も仲直りも励ましも、全部「知った感じ」で乗り越えないといけない。どうしてかそういう感じになっちゃってる高校生の姿を、巧く捉えてるなぁ、って感じがする。
涼太がある場面で、こんな風に思う。

『自分の性格に不安を覚えるようになっていた。僕は人を傷つけることしかできない酷い人間なんだと感じていた。』

このシーンは凄く好きだ。涼太は基本的に、誰からも好かれるし、別け隔てなく誰とでも関われる人間だ。少なくとも、涼太自身の認識ではそうだ。
でも、周りで色々起こる中で、自分の立ち位置が、これまでしてきたことが、「好かれて」いたのか、「別け隔てなかった」のか、不安になっていく。こういうのは、わかるなぁって感じがする。そしてそれが、全然湿っぽく描かれないところが、この作品の凄いとこだなと思う。
個人的には、今ひとつ何か足りなかったかな、という気がしなくもない。キャラクターは魅力的だし、核心となるようなストーリーが中心にないままでストーリーを展開させられる力も凄い。湿っぽくなりがちな場面でも、弾むような文章で描き出せるのは才能だなぁと思う。でも、あとちょっと何かあればなぁ、という感じがしてしまう。それがなんなのか僕にはうまく指摘できないけど、もう少しでもっと凄い作品になりそうな予感をさせる作品だなぁ、という感じがしてしまいました。
なかなか面白いと思います。なんというか、凄くポテンシャルを感じる作家です。これからもっともっと素敵な作品を生み出してくれそうな予感を漂わせる作家だなという感じがします。この作品も、面白いと思います。弾む感がやっぱりいいなぁと思いました。読んでみて下さい。

畑野智美「夏のバスプール」



海賊とよばれた男(百田尚樹)





震えた。

まさかこんな男が、日本にいたとは。

国岡鐵造は、終戦時還暦だった。
異端の石油会社「国岡商店」の社長、いや、店主だった。
それまでも様々な苦難を乗り越えて「国岡商店」を率いてきた田岡だったが、この戦争で資産のすべてを失い、また、戦前・戦時中と国内の石油販売に統制をかけていた石統の方針に逆らっていた国岡は、しばらく石油をまったく扱えない状況だった。石統に頭を下げに言っても、状況は変わらなかった。
国岡は、一千名にものぼる社員の首を、一切切らないと決断した。
幹部たちは、社員の首を切らねばこの難局を乗り越えられないと主張したが、国岡には、それだけは受け入れられなかった。
社員は、家族だ。出勤簿も定年退職もない国岡商店は、店主である国岡が社員全員を信頼するところにそのすべてがあった。
だからこそ、社員の首を切ることはできない。
とはいえ国岡にも、何か手があったわけではない。国岡は、昔から収集し続けてきた骨董品などを売る決断をし、最終的に会社が立ち行かなくなれば、その時は乞食をしよう、と決めていた。それは、国岡商店を立ち上げる時に、何の見返りも求めずに大金を提供してくれた日田重太郎に言われた言葉で、国岡にとっては当然のことだった。
国岡商店は、石油に関わらずどんな仕事でも見つけてきてはやった。しかし、経営は思わしくなかった。軍人だった男が持ち込んできたラジオ修理などを手がけていたが、うまくいかない。
ある時、GHQの嫌がらせで、国内に残っているタンクの底をすべて浚えという要請が石統にあった。それをやれば、アメリカが石油を回してくれるというのだ。しかし、石統に加盟している石油会社は、誰も手を挙げなかった。タンクの底を攫うのは、戦時中石油が欲しくて欲しくてたまらなかった旧海軍でさえやらなかった、キツイ仕事だ。
しかし国岡は、自身は石統の加盟会社ではないにも関わらず、その仕事を引き受けることにした。これをやればアメリカが石油をくれるというなら、それが国岡商店に回らずとも、日本のためになる。
国岡は常に、自分の会社のことよりも、日本の将来のことを考える男だった。
戦後の日本の石油業界は、「メジャー」と呼ばれるアメリカ資本の大石油会社に蹂躙されていた。「メジャー」は、とんでもない条件を突きつけて日本の石油会社を傘下に入れ、日本市場を自らの手の内に入れようとあらゆる画策をしていた。GHQもその方針に賛同し、また石統や政府も、そんなGHQの方針にただ流されるだけだった。
国岡だけが、それではマズイと考えていた。このまま、民族会社が日本からなくなり、「メジャー」に支配されるようになれば、日本の復興は覚束ない。国岡は、日本の将来を見据え、それが13対1という非情な闘いであることを承知した上で、「メジャー」に対抗する決意をする。
それほど前に日本の将来を考えている国岡だが、国岡には敵が多かった。
それは多分に、ライバルたちによるやっかみがほとんどだった。
ライバルたちは、国岡商店の恐ろしさを様々な場面で思い知らされている。それは、「メジャー」も同じだ。石油業界は、日本の未来のことなど考えず、ただ目障りな国岡商店を潰すためだけに、ありとあらゆる画策を仕掛けてきた。
しかし同時に、国岡には良き理解者も多かった。というか、国岡という男と一瞬関わるだけで、みな魔法のように国岡の虜になってしまうのだ。
国岡商店の社員も、みなそうだった。どれほど辛い状況であっても、国岡のためにと思えばこそ頑張れるのだった。
国岡商店は、世界をアッと言わせる、とんでもないことをやってのけた。イギリス資本の石油会社を国内から追い出し、経済的に孤立を深めたイランのアバダン製油所に、自社のタンカーで石油を取りに行ったのだ…。
というような話です。
いやはや、これはちょっと凄すぎる!読んでてここまで興奮させられる作品は、本当に久しぶりだった。
先に書いておこう。本書は、「ノンフィクションノベル」と呼ばれている。国岡には、実在のモデルがいるのだ。それは、出光興産の創業者である。
本書で描かれていることのどこまでが事実で、どこまでの人が実名なのか、僕にはよくわからない(少なくとも「国岡鐵造」は本名ではない)。とはいえ、恐らく描かれていることのほとんどが事実なのだろう。
こんなに凄い日本人のことを、どうしてこれまで知らなかったんだろうと不思議な気がしてくる。本書を読むとわかるけど、「セブン・シスターズ(七人の魔女)」と呼ばれる、かつて石油業界を牛耳っていた7つの石油会社の有り様は、本当に酷いと思うし、あまりにも強大すぎる。なのに、ほとんどの期間精油設備を持てなかった、ただの一石油販売会社が、「メジャー」相手に奮闘し、そして着実に勝利を収めていくのだ。これは痛快だ。
国岡の凄さは、敵に回した時の恐ろしさばかりではない。というかそれは、あくまでも副次的なものだ。国岡の一番の凄さは、「その時何が最も大事であるか」という判断力だ。
さっきも書いたけど、終戦直後すべての資産を失った国岡商店は、しかし社員の首を切らないことに決めた。これは、「我社の最大の財産は人だ」と判断していたからだ。
またこんなシーンもある。イランから石油を持ってくることに関して、様々な困難があったのだけど、そのすべてが報われた瞬間がある。その場面で、幹部たちは喜ぶのだが、国岡は頷くだけだ。嬉しくないのかと聞かれて国岡は、「社員が契約を成立させた時に、この勝負に負けはないと思った。そして日章丸が無電を打ってきた時に、勝った、と思った(大雑把な引用です)」と言う。彼がどれほど社員を信頼し、社員の信頼を評価しているのかがよく理解できるエピソードだと思う。
とにかく国岡は、人を大事にする。国岡は、ダメな社員がいても可能な限り教育を与え、すばらしい人材がいれば全権を与える。タンクの底を浚ったり、あるいはイギリス海軍に追われるだろう日章丸に乗せたりと、かなり辛いこともさせるが、しかしそれは、社員を家族と思い、どんなことがあっても自分が面倒を見ると決意を固めているからだ。
そんな国岡の気持ちは、一瞬で伝染してしまうようだ。国岡自身から何か電波のようなものでも出ているのではないかと思うほどだ。みな、国岡が言うならばという気持ちになってしまう。それは、初めて会った人間にも伝わってしまう。何せ、終戦直後のGHQさえ、国岡に惚れ込んだのだ。それほどの凄みを国岡は持っている。
製油所建設に関する話は、印象的だ。
「メジャー」と対抗するには、自社で製油所を持たねばならないと奮起した国岡は、製油所の建設に取り掛かるが、そこでとんでもないことを言い出す。絶対に、これよりも工期を短くすることは出来ないと専門家が断言するその半分以下の工期で仕上げろというのだ。担当の東雲は、あらゆる手を尽くして計画を練るが、ある程度までは短く出来るが、国岡の言う工期では絶対に無理だ。東雲はそれを隠したままで作業を続けることにした。
この顛末は是非読んでほしいけど、最後東雲が、何故その工期にこだわったのか、と国岡に問うた時の国岡の答えが素晴らしかった。
国岡自身も凄いが、国岡の周りにいる人間も凄い。国岡の雰囲気に酔わされるという部分もあるだろうけど、素晴らしい信念を持つ人間の周りには素晴らしい人材が集まるということなのかもしれない。
本書を読むと、初めの50ページで、すべての人間に惚れるだろう。

『鐵造さんも一緒にやってくださるのでしょう。だったら、平気です』

『「国岡商店のことよりも国家のことを第一に考えよ」』

『「国岡商店は、お前が軍隊に行っている間、ずっとうちに給金を送り続けてくれたんだ。辞めるなら、その四年分の恩返しをしてから辞めろ!」』

かっこ良すぎる。国岡だけではなく、国岡の周りにいる人間みなが、信念を持っている。本当にかっこいい。国岡自身、教育的なこともしてきたのだろうけど、でも実際は、国岡の存在そのものが教科書だったのだろう。これだけの男たちを育て、率い、さらにそれだけの男たちが思いつかないような決断を次々と繰り出す国岡の凄さに、改めて感じ入る。
また、女房も実にいい。
本書では、女性はそこまで多く描かれないのだけど、時折描かれる女房の描写は本当に好きだ。国岡の女房も、日田の女房も素晴らしかったけど、僕が結構好きなのは、日章丸の船長である新田の女房だ。新田が航海中に思う、「満壽子に百回でも土下座をしよう。ああ、満壽子の怒る顔が見たい」っていう表現も、凄く好きだ。
本書で描かれる女房はみな、「日本の女」という感じがする。かっこいい。こういうのって凄いなぁ、と思ったりした。かっこいいんだよなぁ。
本書では、国岡商店の創業時から国岡が死去するまでが描かれ、その中で様々なエピソードが積み重ねられていくのだけど、やはりタイトルと考えあわせて、作品のメインとなるのは、イランのアバダン製油所絡みの話だろう。この部分は、やはり圧巻だ。
それまで「メジャー」に対抗し、奇策で相手を翻弄してきた国岡商店だったが、次第に「メジャー」の包囲網が厳しくなってきた。そんな折持ち込まれたのが、イランのアバダン製油所の話だった。
元々国岡は、アバダン製油所から石油を取る気はなかった。何故なら、イランがイギリスの石油会社を乗っ取ったのは、明らかに間違いであり、イランから石油を買えば、それは盗品故買に当たる、と考えていたからだ。
しかし、次第に状況がはっきりしてきた。
イランは、長年イギリスから搾取され続けてきた。イギリスは世界に向けて、アバダン製油所を正式に保有しているという発信をしてきたが、実情はどうもそうではないらしい。国岡は様々な状況を付きあわせ、世界の他の石油会社がイランに行くのをためらっているタイミングでイラン行きを決めた。
しかし、これは本当に難事業であった。
そもそも、イギリスやアメリカに秘密裏に行動しなければならない。イランと揉めているイギリスや、イランの石油利権を虎視眈々と狙っている「メジャー」に国岡商店の動きを察知されたらおしまいだ。しかし、秘密裏にイランに入国することも、外貨を準備することも、その他さまざまな準備を進めることも、とてつもない困難であった。この事業は、どこかに綻びがあって失敗すれば、間違いなく国岡商店を倒産させるものだった。しかし国岡商店の面々は、それをやり切った。
アバダン製油所に絡む話では、本当に困難な状況が次々と現れる。そんなあるワンシーンで、東雲はこんな述懐をする。

『東雲は今、国岡鐵造という一代の傑物の、生涯でもっとも美しい決断の瞬間を見た、と思った。』

しかし、アバダン製油所絡みの話が、サンフランシスコ講和条約が締結されて、日本が正式に独立を果たしてからたった1年しか経ってない頃の話だというのが、なんだか信じられない思いだ。
国岡は常に、国のことを考えていた。社員のことは、もちろん第一に考えていた。しかし、短期的な利益を追うことには、関心を持たなかった。常に先を読み、日本の将来を見据え、その中で自らがどう振る舞うのが最適であるのか。常にそれを考えていた。

『そして残るもう一つの理由は、国家のため、日本人のために尽くしたいという思いだった。戦争で灰燼に帰したこのにほんを、今一度、立ち直らせる、そして自信を失った日本人の心に、もう一度輝く火を灯すのだ。そのためなら、この老骨が砕け散ろうともかまわない。』

東雲は45年の国岡商店人生を回顧して、こんな風に思う。

『自分は四十五年も仕えてきたにもかかわらず、一度も言われたことがない言葉がある。それは、「儲けよ」という言葉だった―。』

国岡は、創業五十年の式典で、この五十年を振り返って、こんな言葉を伝える。

『五十年は長い時間であるが、私自身は自分の五十年で一言で言いあらわせる。すなわち、誘惑に迷わず、妥協を排し、人間尊重の信念を貫きとおした五十年であった、と』

まさにこれは、国岡の人生を端的に言い表しているだろう。敗戦後、すべてを失い、まさにゼロから始めなければならなかった日本に、これほどの人物がいた。国岡がいなければ、日本の石油業界は今とはまるで違った状態になっていたことだろう。それほどのことを、国岡はやった。凄い。本当に凄いとしか言いようがない。
翻って、今どうだろう。これほどのスケールの人物が、いるだろうか。目の前の利益に汲々とするしかない。与えられた状況に言い訳をするしかない。決して人のことを言えるような人間ではないが、なんというか、今の日本が悲しくなってしまう。
国岡というもの凄い人物の一代記を、百田尚樹はこうして物語にし、僕たちに提示してくれた。正直僕は、この作品がなければ、これだけ凄い日本人のことを知らないままだっただろう。本当に素晴らしい作品を書いてくれたと思う。
しかし僕は同時に、こんな風にも思ってしまう。信念を持ちながら、様々な事情で果たせず、名を残すことが出来なかった人の話も知りたい。僕は、信念を持ち、突き進めば、すべてが報われるというのが、常に成り立つとは思えない。本書のように、信念が実った男の話も、もちろん素晴らしいし、震わされる。でも、信念を持ちながら果たせなかった人物の話も、また知りたい。いや、もしかしたら、そういう物語も、どこかには存在しているのかもしれないけれども。
最後に。タンカーの竣工記念パーティの場で、国岡と東雲は21世紀に想いを馳せる。二人共、21世紀を生きて迎えられない。どんな国になっているでしょうか、と問う東雲に、国岡はこう答える。

『日本人が誇りと自信を持っているかぎり、今以上に素晴らしい国になっておる』

21世紀に生きる僕たちはこの言葉を、正面から受け止めることが出来るだろうか。

これから読む人の興をなるべく削がないようにと、できるだけ内容に具体的に触れないように感想を書いたつもりなんで、僕が本書を読んで得た感動をあまりうまく伝えられていないかもしれません。でも、これは本当に凄い。国岡がいう「日本人」に、自分が当てはまっているだろうかと、きっと考えてしまうはずだ。国岡が望んだ「未来」を、僕たちは作れているだろうか、と考えてしまうはずだ。凄い男がいたものだ。これほどに感動に震える作品は、そう多くない。是非とも読んでみてほしい。あなたの中の「日本人」が、きっと目を覚ますことでしょう。

百田尚樹「海賊とよばれた男」







物質のすべては光 現代物理学が明かす、力と質量の起源(フランク・ウィルスチェック)

内容に入ろうと思います。
本書は、若干21歳の時に発表した「強い相互作用の理論における漸近的自由性の発見」によりノーベル賞を受賞した、現代物理学の著名な教授による、ユーモアを交えながら最先端の現代物理学を提示する作品です。
さて、内容に触れたいところなんでありますが、それがなかなか難しくてですね…。
正直に言って、内容の2/3ぐらいは、ほとんど理解できませんでした。なんとなくそれでもどうにかついていけたかなという部分は初めの1/3ぐらいで、残りの2/3は、なんとなく文章を追っているという感じで、ぜんぜん理解できませんでした。
というわけで、本書で描かれている内容を噛み砕いて説明することはできませんです。
一応、章題だけでも書いておきましょうか。

第一部「質量の起源」
第二部「重力の弱さ」
第三部「美は真なるか?」

「質量の起源」なんて書くと、「おっ、最近発見されたとかいうヒッグス粒子のことが書かれてるわけかい?」なんて思うかもしれないけど、これがさにあらず。ヒッグス粒子については後で触れるつもりだけど、本書にはヒッグス粒子の話はほとんど出てきません。どうも、ヒッグス粒子が発見されただけでは、すべての物質の質量の起源はわからないみたいですね。
というわけで、内容と関係あるようでないようで、というようなことをあれこれ書いてみましょうか。
本書は、内容的には相当高度で、結構物理系の本を読んでいる僕でも全然理解できない作品でした。本書とかなりテーマ的に似た作品で、難易度をそこまで落とさずになるべく分かりやすく描いている作品に、リサ・ランドールの「ワープする宇宙」という作品があるので、僕としてはそっちがオススメです。
本書の場合は、大学で物理を専攻している人とかだと、メチャクチャ面白いんだろうな、という感じがします。僕は本書を読んでて全然内容は理解できなかったんだけど、書かれていることの面白さ・ワクワクさみたいなものは凄く伝わってきます。なんか、外国人が集まって話してて凄く楽しそうなんだけど、何を言っているのか言語が違うから聞き取れない、みたいなもどかしさを感じます。たぶん、相当高度な物理の話についていける人ならば、本書はメチャクチャ面白いでしょう。だって、なんというか、色んな概念がひっくり返ったり(学校でも習う「質量保存の法則」が実は成り立っていないのだ!とか)、そういう方向からそれを見ますかとか、その二つを繋げちゃいますかみたいな、刺激的な話がたくさん出てくる。質量の起源にしたって、ヒッグス粒子のことを持ち出さずに展開しているし(本書では、質量を持たないクォークやグルーオンが、物質の質量を生み出している、という説明をする)、重力の弱さに関する話も、聞き覚えのないような展開がいっぱいあって、理解できたら楽しいだろうなぁ、という感じがしてしまいました。自分の理解力のなさが残念すぎます。
本書を読んでいると、現代物理ってホントに凄いところまで来ちゃってるんだなぁ、という感じがします。
数学と物理の一番わかり易い違いって、数学は「現実に存在しないもの」を相手にしているのに対して、物理は「現実に存在するもの」を相手にしている、という点だと思います。物理は基本的に、物事を観察し、その観察の結果から何か理論を導く。そういう営みだったと思います。もちろん今でも、そういう方向の物理学というのもあるでしょう。
でも、量子論に端を発する一連の理論は、もはや「現実に存在するもの」を扱っているとはいえないな、という感じがしてきます。量子論などでは、「存在することは確実らしいけどそれ単独では取り出せないもの」とか、「存在しているのだけど存在している場所を確定できないもの」とか、「存在しているとは思えないのだけど、計算の過程では必要だし、なんだか存在しているように見えてしまうもの」とか、「理論的には存在しないとおかしいのだけどまだ見つかっていないもの」というような、「存在しているもの」と言い切ることが出来ない実に様々なものが対象になっている。もちろん、肉眼では見えないし、顕微鏡でも見えないものを相手にしている。人間の努力では永遠に観察することが出来ないものさえ含まれる理論や予測もきっとあるだろう。
物理学の基本は、「答えは自然に」というもので、だから最終的には、実験によってそれが正しいことが確認されなければ理論にはならない。しかし、現実的には、どのようにして実験すればいいのかわからないような、実験による証明が本当に可能なのかと思えるような理論もたくさんある。
そこを切り開くのが、ヒッグス粒子を発見したことでまたニュースで取り上げられているLHCという実験装置だ。
本書は、LHCが稼働する前に出版されている作品だ。本書の中でも、そして先程名前を挙げた「ワープする宇宙」の中でも、LHCによって、これまで現実の世界では実験のしようがなかった様々なことを検証することが出来るようになり、その成果を期待している、というようなことが書かれている。LHCは、まだ稼働し始めてから数年しか経っていない。実に面白い時代に生きているな、という感じがする。ヒッグス粒子の発見も含め、恐らくこれからLHCによる検証で、様々なことが明らかになっていくことだろう。なんか、凄いことが証明される時代に生きている感じがして、凄く楽しみである。
本書では量子論について、こんな文章がある。

『量子論が現実を説明するのに成功したということは、「あることが『真』なら、その逆は『偽』である」という排中律に基づいた古典的な論理が乗り越えられ、ある意味、その座を奪われたことを意味する。だがこれは、想像力に満ちた建設を可能にする、創造的破壊である』

実際量子論の話を色々と知ると、互いに矛盾しあうような二つの事実が共に正しかったりすることがある。僕らの世界の常識では、どちらか一方の正しさしか成立しないはずなのに、それが両方共成立してしまうのだ。知れば知るほど、面白い世界だなと思う。
また、物理学はどんどん、哲学的にもなって言っている。本書は基本的に、著者の立場で書かれている作品なので、著者の立場以外に立ち位置の話はあまり出てこない。しかし、量子論には、方程式や観察結果は同一なのに、それをどう『解釈』するかによって、様々な立場が存在する。「科学哲学」というジャンルがあって、以前量子論の様々な立場について解説する科学哲学の本を読んだことがあるのだけど、凄く面白かった。
古典物理学(量子論や相対性理論が登場する以前の物理学をこう呼ぶことが多い)では、誰かが発見した理論や方程式を解釈する方法は、それほど多くはなかった。というか、ほとんどの場合、一つだったことだろう。これからさらに研究が進めば、どの解釈が正しいのかがはっきりしてくるのかもしれない。でも、はっきりしないまま、様々な解釈が残されたままになるかもしれない。
本書には、『理論』についてこんな文章がある。

『理論は、それにどんな変更を加えても元より悪くなって初めて、完全なものと言えるようになる。』

なるほど、これはシンプルで素敵な表現だなぁ、と思いました。
『方程式を解釈する』というのが、理系に馴染みのない人には、恐らくあまり理解できないだろう。だって、学校でならった方程式って、「x+3x=24」とかなわけで、こういうのはもう解釈も何もなく、答えは1個しかないし、解釈のしようもない。
でも、物理学が難しくなればなるほど、『方程式を解釈する』ことが必要になる。一番有名な例は、アインシュタインの「E=mc2」だろう。これは、「エネルギー」と「光速の2乗に質量を掛けたもの」が等価であることを示す式だけど、この方程式を解釈しないままだとそれでおしまい。でもこの方程式を解釈すると、例えば原爆を生み出すもとになった発想が生まれる。つまり、「ほんの僅かな質量でも、莫大なエネルギーを生み出すことができる」というものだ。
方程式については、こんな文章がある。

『これらの数学的な式は、独立した存在であり、それ自体の知性を持っていると感じずにはおれない。これらの式のほうが、われわれよりも知恵深いのだ、発見者よりもなお知恵深いのだ、という気持ちから逃れることができない。これらの式に元々込められたものよりもはるかに多くを、われわれはこれらの式から取り出しているように思えてならない(ドイツの物理学者、ハインリッヒ・ヘルツの言葉)』

『方程式を解くのが大学院生の仕事なら、方程式を理解するのが教授の仕事である』

さて最後に、本書でヒッグス粒子について触れられている部分について、ちょっと引用をしてみよう。なかなか面白いのだ。

『そして、「質量の源」とか、あるいは、「神の粒子」とまで呼ばれている、ヒッグス粒子というものがある。補遺Bのなかで、わたしは、ヒッグス粒子を中心とした一連のすばらしいアイデアの概要を説明している。手短に言えば、ヒッグス場(ヒッグス粒子よりも基本的だ)は、普遍的な宇宙超電導体というわたしたちのヴィジョンを見事に具現化し、対称性の自発的破れという巧みで美しい概念を体現するものだ。これらのアイデアは、深く、風変わりで、素晴らしく、そして真実である可能性がかなり高い。だが、これらのアイデアは、神の起源は言うに及ばず、質量の起源を説明してはくれない。ヒッグス場は、ある特定の種類の質量が存在するという事実を、弱い相互作用はどのように働くのかについての詳細と両立させてはくれるものの、質量の起源を説明したり、あるいは、さまざまな質量がどのような値になっているのかを説明したりするところからはまだまだ程遠い。そして、わたしたちも見てきたように、普通の物質の質量の大部分は、ヒッグス粒子とはまったく何も関係のない起源を持っているのである。』

これが、著者の意見なのか、あるいは物理学者全体の合意なのかはちょっとよくわからないのだけど、この部分だけ読むと、ヒッグス粒子の発見というのは、一つの通過点(しかし重大な通過点ではあるのだけど)にすぎないわけで、質量に関する議論に終止符を打つものではないのだなぁ、という感じがします。具体的には、何を言っているのかよくわからないんですけど。
本書では、僕らが知っているいわゆる『普通の物質』は、宇宙全体のたった5%ほどしかなくて、残りの95%は、今のところ正体がさっぱりわかっていない(注:本書刊行時点では、ということ)「ダーク・エネルギー」と「ダーク・マター」というものなんだよ、という話もちらっと出てきて、やっぱこの二つの話も面白そうだよなぁ、と思ったりしたのでした。
難易度的にはたぶん、相当高いと思います(僕が突然アホになったんじゃなければ)。かなり高度な物理的概念についていける人じゃないと、ちょっとついていけないだろうな、と思います。でも、ついていける人にとっては、恐らくメチャクチャ面白い作品でしょう。本書を「面白い」と感じられる人が羨ましいです。

フランク・ウィルスチェック「物質のすべては光 現代物理学が明かす、力と質量の起源」



森の家(千早茜)

内容に入ろうと思います。
本書は、「水の音」「パレード」「あお」の三編からなる連作短編集です。が、各編の内容紹介をするのではなくて、主要な登場人物三人の人物紹介にしようと思います。千早茜の小説って、なかなか内容紹介って難しいんだよなぁ。

舞台は、そこだけ木々に囲まれた古い洋館。そこに、佐藤さん、みりちゃん、まりもくんの三人が住んでいる。
この三人は、家族のようで、家族ではない。
佐藤さんは建築士で、まりもくんの母親が住んでいたこの洋館でまりもくんと二人で暮らしていた。まりもくんは、佐藤さんの子供かもしれないし、子供ではないかもしれない。まりもくんは佐藤さんのことを「聡平さん」と呼ぶ。
二人は、あまりお互いに干渉し合わないように生きてきた。佐藤さんは誰に対しても飄々と、まりもくんは誰に対してもそこそこに期待のままで。二人は一緒に暮らしていたけれど、お互いのことをあまりよくは知らない。何か共有していたものがあるわけでもない。たぶん人に話せば、変わっていると思われるのだろう。だからまりもくんは、家族の話を誰かに聞かれるのが苦手だった。まりもくんにとっては、大した問題ではないし、ずっとそうやって生きてきた。
みりちゃんは、佐藤さんの恋人だ。誰にも執着せず、付き合う相手がコロコロと変わっていた佐藤さんが、初めて家に連れてきた。みりちゃんはその内、うちに住むようになった。
みりちゃんは変わった女性だった。もう30歳を超えているのに、感情を自由に表に出した。それでいて、投げやりだったり、無関心だったりした。
三人での生活は、外側から見たら歪だっただろうけど、三人の中ではしかるべき形に収まっていた。干渉し合わない三人は、ひとりとひとりとひとりで、やっぱりひとりだった。それでも、三人で一緒の形に、慣れきってしまっていたのだろう。
ある日、佐藤さんが家に帰ってこなくなった。まりもくんは、その日のことを予期していた。みりちゃんは、狂乱した。
というような話です。
これは凄かったなあ。俺のための物語だった。ここに描かれた三人は、僕の分身だった。なんで俺のこと、こんなに知ってるんだろう、という感じがした。ホントにびっくりさせてくれる、千早茜は。「からまる」もそうだったけど、千早茜の小説には、僕の断片があちこちに散りばめられている。
本書を読んでいる間、思い出したことがある。
僕は子供の頃からずっと、どんな場面でどんな感情を表せばいいのか、よくわからなかった。だから僕は、みんなの反応を見ながら研究した。
自分の内側から湧き上がる感情、というものがほとんどなかったと思う。僕はたぶん、ほとんど何も感じない子供だったと思う。怒りも喜びも悲しみも辛さも、なんというかよくわからないままだった。
だから誰かと話していても、色んな場面に直面しても、それぞれの場面でどんな感情を表すのが適切なのか、よくわからないままだった。
僕は、周りの反応を見ながら、少しずつ学んでいったんだと思う。なるほど、こういう場面では笑えばいいのか。こういう場面では怒らないといけないのか。こういう場面では、励まさないといけないんだな、と。ある程度まではそれでうまくやれるようにはなっていったと思うんだけど、でもやっぱり難しかった。だから結局僕は、笑うタイミングがわからなかったからいつも大体笑ってたし、怒ったり悲しんだりするタイミングなのかよくわからなくてヘラヘラしてたりした。そんな風にしか出来なかった。
僕にとってそれが『普通』で、そういうものだと思ってた。
たぶん、本当はそうじゃないんだろう。
周りの人を見ていると、なんというか、心の底から沸き上がってくる、頭の中で考えたりするまでもなく浮かび上がってくるような、そういう感情があるんだろうなぁ、ということに気づくようになっていった。
僕には、正直、そういうものはない。
普通の人はきっと、生まれた瞬間から様々なソフトがインストールされていて、必要な場面で必要なソフトが機能するようにプログラムされているんだろうと思う。
でも僕はたぶん、生まれた時にはほとんど何もソフトが入ってなかったんだと思う。だから、自分で研究して、そうかこういうソフトを持ってないといけないんだなと思ってダウンロードして、それをどんな場面で使うのが適切なのかというのを色々実験していった。
僕には、なんかそんな風にしてここまで生きてきたみたいに思う。
だから未だに、自分の感情というのを捉えるのが、とても難しい。たぶん、そんなものはないのだ。でも、「感情がない」というのは、色んな意味で不都合だったりする。
だから僕は、それぞれの場で、今はこういう感情だといいんだろうなぁ、なんて思いながら、未だに人と関わっている。そんなことをしているから、僕はたぶん、誰といるかでキャラクターが大きく変わるんだろうな、という気がする。それは、意識してそんな風に変えているわけではなくて、その場その場の流れに合わせているだけだ。だから、コロコロと変わる僕こそが、本当の自分なんだろうな、という感じがする。
僕は、こんな風に生きている人間なんて、ほとんどいないだろうと思ってた。でも、こうやって作家が小説にするってことは、もしかしたらいるんだろうか。小説で描かれるほど普遍的な存在として、僕みたいな欠陥を抱えた人間って、結構いたりするんだろうか?
第一章はみりちゃん視点だったのだけど、ここを読んでいる時僕は、なんだか説教されているみたいに感じた。それは、友人からみりちゃんに向けられた言葉だったり、みりちゃんが自分で自分につきつける言葉だったりするんだけど、そういう言葉が全部僕に刺さる。痛い。うわぁー、止めてくれ!ってホントに思った。でも、読むのを止められない。こうやって、自分の酷さを、醜さを、くだらなさを再確認して、そうやってなんとなく安心したりしているのかもしれないな僕は。
三人は、見た感じや性格は全然違う感じなんだけど、でも三人は物凄く似ている。似た欠損を抱えている、と言ったらいいか。足りないものが似ている。持っているものはさほど似ていないのに、普通の人が持っているのに彼ら三人が持っていないもの。それが凄く似ている。


彼らは、他人との関わり方がうまくない。


『「あんたはすぐ逃げるから。ちょっとでも相手が距離をつめようとすると、いいかげん落ち着きなよね。」』

『私は、その近さが疎ましい。皮膚の裏がざわめき、身がすくむ。別々の人間が分かちがたくくっついているのが怖い。ただただ近いのが当たり前だという、その距離が、甘ったるい空気が。』

『少し笑う。だから、怖いんじゃない。私はいらないの。そんなに確かで、強いもの。』

『笑う顔を見るとほっとする。自分はうまくやれているんだな、と思う。』

『僕は赤ん坊を見て可愛いと感じたことがない。むしろ、怖いとさえ思う。大人の一挙一動で形成されていく未熟な存在。あんなものがうっかりできてしまったら、どうしたらいいか混乱するだろう。』

『ひとつだけ確かなのは、僕はみりさんじゃなきゃあんな風に感情をぶつけたりはしなかった。その後に起こることを想像しないで行動したのも、本当に久しぶりのことだった。』

『簡単だ。血が繋がっていようといまいと、人との関係を着ることなんて簡単なものだ。簡単ではないと人は思いたいから、そう言うだけだ。当たり前と思っていたことなんて、別れてしまえば幻想だったと知る。』


彼らは、生き方が未熟だ。


『でも、今ならわかる。人はささいなことに縛られてしまう。失っても痛くないものなど何ひとつない。こんなマスターとの意味のない会話でも。それぞれが自分のためだけに自由に生きるなんて不可能だ、そして、何も持たずにいることが自由でもなかった。私は自分の気持ちから逃げていただけだったのかもしれない。』

『失いたくないものをどうやって留めておけばいいかわからなかった。だから、私は自由を気取り、まりも君は物わかりのいい顔をして、そして、佐藤さんは約束を利用して逃げた。』

『「あんたの母さんは随分この男を好いていたけど、あなしに言わせればこの男は空っぽさ憂鬱になるってことがないんだからね。憂鬱になる間になんでもぽいと捨ててしまうんだ。煙草を止めるのもあんたのためじゃない。自分のすることを人にあれこれ言われるのが面倒だからだよ。執着ってもんがない、ぜんぶ気まぐれさ。そういう人間なんだ。あんたのこともぽいと捨ててしまうかもしれない。それでも、いいのかい」』

『最初から期待というものがなければ、人はある程度は求めずに生きられるものなのだ。人を打ち砕くのは現実そのものではなく、現実と期待との落差なのだと思う。』


彼らは、『普通』と名付けられた幻想に苦しめられる。


『家族を持つ友人たちと別れた後はいつも普通とはなんだろうと考えてしまう。それを疑ったことのない人の無意識の暴力は、脱力感と自己嫌悪がまぜこぜになった苦い痛みをもたらす。』

『「でも、普通ってなんだろうね。みんな嘘ついてるだけじゃないのかな。大切な家族とか、愛する恋人とか、守らなきゃいけないものがあるとかきれいな理由をつけて、社会的な枠で囲って逃げられないようにして、本当の気持ちを見ないふとをしているだけじゃないのかな。」』

『今まで家族をつくることなど想像したこともなかった。けれど、涼を含む世間一般の人間は、家族というものを疑いもなく築いていくものなのだろう。』


全部、全部、全部激しく共感できてしまう。凄い。本当に凄いと思った。僕が生きている中で感じている色んな違和感を、全部この作品の中に詰め込んでくれているような感じがした。
そう、僕が長い間ずっとずっと付き合い続け、でも未だにどう言語化したらいいのか(つまりそれは、僕以外の他者に伝えるための言語化、ということなのだけど)全然わからず、自分が抱えているものの深さとか黒さを誰にも共感してもらえるような形で表現することができないでいた色んな違和感が、この作品の中で色んな形を成している。
特に僕は、『普通』というものに、結構苦しめられてきたと思う。なんか、周りの人達が、『普通』に何も疑問を感じないことが、僕には腹立たしかった。僕には、それっておかしいだろう、と思える『普通』が、世の中にはたくさんある。でも、多くの人は、それに疑問を抱かないようだ。不思議で不思議で仕方がない。なんというか、『普通』という幻想を了解しなければ、社会の成員として認められないのだろうか、なんて思いたくなるようなこともある。僕は、『普通』が存在しているのは、誰かにとって都合がいいからだと思う。みんなが出来るだけ同じ行動をしてくれる方が、国や企業や個々の家族や、そういうものが楽になるから『普通』ってものが存在してるんだと思っている。それはあまりにもナチュラルに根付いているから、その作為になかなか気付けなかったりする。なんか僕は、それが嫌で、『普通』が気持ち悪かったりするんだよなぁ。
彼ら三人は、『普通』をそのまま受け入れない。みんなが『普通』だと思うことに、僕がそう感じるのと同じような違和感を抱いてくれる。
なんというか、凄く嬉しい。なんか、他にもいたんだ、と思った。今まで自分と似たような人に、出会ったことはなかったと思う。佐藤さんも、みりちゃんも、まりもくんも、そして僕も、みな同類だ。なんか、凄く嬉しい。今すぐにこの作品の中に入っていって、彼らと話してみたい。できれば、一緒に関わりながら生きてみたい。ひとりとひとりとひとりとひとりで、やっぱりひとりな四人で一緒にいてみたい。なんかそんな風に思えてしまった。
小説を読んでて、そうそうまさに僕ってこういう感じの人間なんだよなぁ!という作品に出会うことはあるのだけど、この作品はその中でも、ずば抜けて僕のことをわかっている作品だなと思う。なんか凄く傲慢な表現だけど、本当にそんな気がした。僕以外の人がこの作品を読んだら、どんな風に感じるんだろう。それを、すごく知りたい。「へぇ、こんな人もいるんだねぇ」みたいな感じなのか。それとも、「そうそう、私もこうなの」なのか。あるいは別の何かなのか。凄く知りたい。この三人に共感できる人がたくさんいるなら、なんか僕は、凄く嬉しいんだ。

千早茜「森の家」



濡れた太陽 高校演劇の話(前田司郎)

内容に入ろうと思います。
本書は、劇作家であり演出家であり俳優であり小説家でもある著者による、自らの高校時代の話をベースにした自伝的小説、だそうです。
相原太陽は、中学卒業と同時に東京から転校してきた。見た目が良いわけでもなく、なんとなく屈折してたりする部分もあって、だからすぐ打ち解けられるような感じじゃない。中学の時に仲のよかった人たちでしばらくの間はまとまるから、そういう意味でも太陽にはあんまり居場所がない。
出席番号順の席順で太陽の隣にいるのが青木鈴で、鈴は演劇部に入ろうかどうしようか悩んでいる。なんとなく、演劇部っていう響きに臆するものがあったり、部員が3人しかいなかったりと入りづらさがあるんだけど、でもなんとなく演劇ってやってみたいような気がしている。でも、どうしよう。
太陽と同じクラスの渡井敦は、太陽とは真逆でカッコよくで、クラスの中心的な人物。
しかし、この渡井がレクリエーション係に決まったことが、太陽の運命を変えることになる。
渡井には兄がいて、絶対にレクリエーション係にだけはなるなと言われていたらしい。レクリエーション係の仕事の一つとして、春の合宿で、クラスの代表として何か出し物をしなくてはいけない、というのだ。
渡井は、真剣に悩んだ。ダサいことはしたくない。でも、みんなまだそこまで中が良くない中で、一体何が出来る?
ひょんなことから渡井と太陽は話をするようになっていて、それで渡井は太陽に相談するみたいな感じになった。
太陽は、密かに小説を書いていた。なんというか、自分には才能があるという根拠のない自信があった。何か出来るのではないか、という予感があった。
そこにたまたま、同じクラスで金縁メガネを掛けている、お笑いに自信をもっている安藤康文が通りかかった。
なんとなく、渡井・太陽・安藤、そしてもう一人のレクリエーション係である海老名春子の四人でコントをやることになった。
お笑いに自信を持っている安藤の案は、テレビの芸人がやっている焼き直しで、太陽にはどうにも面白いとは思えない。太陽は、場の空気を巧みに操縦することで、自らが面白いと思うコントを作り上げていくことになった。
そして、それは大成功だった。そしてその出し物の中で太陽は、隣のクラスに和田マリという面白い逸材がいることも知った。
渡井はバスケ部に、安藤はお笑い研究会に所属していたが、太陽は何も部活に入っていなかった。しかしその出し物の後で太陽は、やはり演劇部がいいんじゃないか、と思った。
演劇部を乗っ取れないだろうか。
太陽は、自分の面白さに自信がある。どうにかして演劇部を乗っ取って、自分がすべて仕切る形にしたら、凄く面白いものが出来上がるんじゃないか、と思う。だから、渡井と安藤と春子に、演劇部に入ろうと誘ってみた。みな、あの出し物の成功体験があって、なんだかんだ太陽に乗せられる形になった。
演劇部は、三年生の島妙子が仕切っていた。仕切っていたというか、三年生は一人しかいないし、二年生は二人。新入部員は、青木鈴と、もう一人所属すると同時に即幽霊部員となった但馬嗣敏の二人だけ。演劇部はかつて、妙子一人しかいなかったというような時期もあり、妙子と、二年生である市井美理と後藤田夕子の三人の静かなコミュニティの中で平和な時間が過ぎていくことをなんとなくみんな望んでいるような感じだった。でも、それじゃあ次に繋がっていかな。妙子としても、何がベストなのかを判断するのはなかなか難しかった。
そこに、太陽らが一気に入ってきた。これで地区大会にも参加できるかもしれない。
やはり、戯曲は妙子が作ることになった。三年生だし、演劇部をずっと一人で支えてきたからだ。
でも、太陽には、妙子が作る戯曲は、どうも面白いと思えない。演劇部の乗っ取り作戦は緩やかに収束していたかに思われたが、太陽は動く…。
というような話です。
これはなかなか面白かったです。主要な登場人物が16人(本の折り返しの部分に著者による人物紹介が載っている人数)いるんだけど、それぞれの個性がかなりきっちりと描き出されているし、誰が誰なのか混乱することもない。演劇をベースにした物語だけど、決して演劇だけの話というわけでもなく、しかもその演劇に関しても、普通の演劇(なんとなく『演劇』と言われた時にイメージしそうな演劇)とは違って、結構変わった演劇の形が描かれているような感じがあって、面白いなと思いました。
以下、作中の登場人物の「相原太陽」と、著者の「前田司郎」を混同させたまま文章を書く、ということを先に宣言しておきます。というのも、本書で、相原太陽が演劇部のために書いた「犬は去ぬ」という戯曲が出てくるんだけど、巻末に、『本書内の「犬は去ぬ」は、著者が高校1年生の時に実際に書いた戯曲です』と書かれているからです。つまり、「相原太陽」=「前田司郎」ということですね。
まずその相原太陽がとてもいい。自分に何が出来るのか、まだよく分かっていない高校1年生。それまで小説をずっと書いてきたけど、最後まで書ききったものはなく、すべて途中で止めてしまっている。自分には才能があるという根拠のない自信が常にあるのだけど、でもだからと言って何かを作ったりやったりしたことはない。それが、合宿での出し物をきっかけにして演劇に突き進んでいくんだけど、この太陽のキャラが凄くいいんだよなぁ。
太陽は結局、「犬は去ぬ」の演出を一年なのに手がけることになったのだけど、その時の人の動かし方なんかが面白い。演出している時に限らず、太陽の「人の動かし方」みたいなものが、よく考えられてるなぁ、という感じ。他にも、様々な場面で「内面」が描かれるのだけど、それがいちいち面白い。
ここでちょっと脱線して、本書のちょっと変わった構成について触れよう。
本書は、なんというか、小説らしい小説ではない。
本書は、三人称の形態で、文章ごとに視点がどんどん入れ替わっていく感じなんだけど、でも同時に内面描写もバンバン出てくる。というか、「心の動き」みたいなものが描写される。しかし、同じ文章内で、いわゆる「神の視点」的な立ち位置にたった文章もある。とにかく、その場面場面で、その場面を描くのに最も相応しい描写をハイブリッドで取り混ぜている、という感じがします。
また、会話の処理が斬新です。
本書では、カギカッコの前に、そのセリフを誰が喋っているのかわかるように、登場人物の名前が振られています。脚本みたいな感じです。この処理は、小説という形式を愛している人にはあんまり受け入れがたかったりするのかもしれないけど、僕は、少なくとも本書では非常に有効だと感じました。
というのも、主要な登場人物が16人もいるからです。この16人を、小説的なテクニックだけで、誰がどの会話をしているのかはっきりさせるというのは、相当に難しいし、もし出来ても読者に結構な負担を強いるのではないかと思いました。カギカッコの前に人物名を書いてしまえば、「誰が喋ってるのかわかるようにするために」という意味での不自然さも消えるし、この処理は面白いと思いました。
ちょっと前に、森博嗣の「EXPERIMENTAL EXPERIENCE」を読んだんだけど、その中にも似たようなことが書かれていました。つまり、複数人の会話を小説的な技法で処理しようとすると、どうしても会話が不自然になってしまう、と。確かにその通りで、そういう意味で、小説という形式の自然さを犠牲にしてでも、会話の自然さを取った、ということなのかもしれません。
本書の中で太陽は、「演劇っぽくなさ」みたいなものを追求していきます。演劇っぽい、わざとらしい感じを、太陽は好みません。それと同じようにして著者は、「小説っぽくない」ことへの恐れがなかったんだろうな、という感じがします。小説という形式を愛している人には本書がどう受け止められるかわかりませんが、僕は面白いと感じました。
さて、話をどこまで戻せばよかったかな。
太陽は、なんというか色んなことをウダウダと考えているんだけど、その「思考」とか「内心」が、面白かったり共感できたりする。細かなことを気にしたり、強かな計算高さを見せたりと、太陽はなかなかの策士である。見た目は凡庸な感じなのだけど、実はなかなかの「爪」を隠し持っている鷹なのだ。そういう部分が、読んでいく中で少しずつ明らかになっていく、というところも凄くいい。
また、他のキャラクターについても同様で、様々な「内心」がモロ出しにされるんで、もし太陽に共感できなくても、本書の誰かには共感できるのではないかと思う。それぞれに個性の強い人間たちが、それぞれの個性を時にはぶつけあい、時には逃げ出し、時には関心しあいながら、演劇という一つの柱の周りを皆で取り囲んでいく。元々3人しかいなかった演劇部に、様々な方向から集まった面々が結局総勢で11人。その中で、どうしても演劇をやりたかった人間は、結局のところ妙子と太陽ぐらいしかいないだろう。あとは、流れで演劇部に入ったようなもの。そんな面々が、大変な稽古をし、日常のゴタゴタを乗り越え、よくわからない太陽の演出を理解しようとし、不穏な空気をやり過ごしたりしながら、少しずつ一つにまとまっていく過程が凄くいいなと思う。みんなの個性が強すぎて、なんとなく普通の青春小説っぽくないのもいい。
個別に全員については触れられないけど、やっぱり個人的に気になるのは、太陽を除けば妙子だなぁ。妙子は、演劇部に一人しかいなかった頃から頑張ってきた三年生で、最後の年、自分の思惑が様々に崩れていくことになる。それに対する妙子の考えや行動が実にいい。大人だ、と思う。太陽は、様々な人間との出会い(渡井に誘われて合宿で出し物をしたこと、安藤や野尻やマリといった逸材と出会えたこと、など)によって力を発揮できたといえるだろうけど、その最大の功労者は、やっぱり妙子かなぁ、という感じがしました。
本書では、演劇論っぽい感じの話も結構出てきて、これもなかなかに面白い。
演劇に関わった経験は、人生で二度ある。一度目は、大学時代に入ってたサークルで。演劇サークルというわけではなかったのだけど、ある時期結構大規模な演劇に関わることがあった。その中で僕は、小道具を作るところにいたから、役者に関することはまったくわからないのだけど。
二度目は、バイト先に昔演劇をやっている学生の女の子がいて、その子の公演を何度か見に行ったことがあること。ちゃんと演劇を見た経験は、結局あの頃しかなかったなぁ。
そんな感じで、演劇との関わりは薄いんで、何が書けるわけでもないんだけど、でも本書で著者が語る演劇論みたいなのは、なんかわかる気がする。
要するに、「演劇ってこういうものだよね?みたいな演劇って、面白くなくない?」みたいなこと(だと思う)。なかなか面白いことが書かれていて、妙子と太陽が『喜怒哀楽の練習』についてやりあった時のことなんかなかなか。
『喜怒哀楽の練習』というのは、喜怒哀楽それぞれの感情を大げさに表現するという練習なんだけど、太陽初め後から演劇部に入った面々はこの練習がちょっと嫌だなと思っている。妙子は、人数が少なくて公演が打てなかったために、仕方なくこういう練習をずっとやってきたという自負があるから、よくわからないけど他でも取り入れられている練習なんだからこれは意味があるんだ、と主張する。「喜怒哀楽の練習をしないと、舞台上で喜怒哀楽を表現できないから」と。
しかし太陽はそれに対して、「練習しないと表現できないってことは、普段からそんな風に喜怒哀楽を表現してないってことじゃないですか?」と反論する。
面白い。
演劇というのは、観客側が「演劇という虚構」という前提を受け入れることで成り立っている、というような印象がある。「演劇とはこういうものなんだ」という前提があって、まずその形式を受け入れ、その中でどう演劇を楽しむか、というような視点というのは、ままあると思う。
しかし太陽は、それは現実感に欠けるし、それに面白くない、と考えている。大きな声じゃなくてボソボソしゃべってもいいから、なんか現実っぽい感じの方が面白いんじゃないか、と感じている。そういう、「演劇ってこういうものだよね?」みたいな前提に対する違和感やモヤモヤみたいなものについて、悩んだり議論したりする過程も結構描かれていて、それも読みどころの一つかなと思う。それって、やっぱり小説も同じよなぁ、なんて思う。「小説ってこうだよね?」みたいな前提をどこまで知っているかで、小説の読み方も変わってくる。みたいなことを、森博嗣「EXPERIMENTAL EXPERIENCE」を読んで思ったりしたんだった。
小説の形式に囚われすぎることなく、場面場面において最適な描写をハイブリッドにすることで、小説っぽくない小説に仕上がっていて、面白いと思います。別に小説っぽくないから読みにくいとかいうこともなくて、というかむしろ読みやすいかもしれません。会話文の頭に人物名が書かれていて、誰が喋ってるかわかるという処理は、普通の小説ではありえないけど、僕は作品によってはアリだなと思ったりしました。個性的な面々による、ちょっと変わった学園青春小説という感じで、演劇に詳しくなくても楽しめると思います。是非読んでみて下さい。

前田司郎「濡れた太陽 高校演劇の話」






EXPERIMENTAL EXPERIENCE 実験的経験(森博嗣)

内容に入ろうと思います。
と思うのですけど、やっぱり内容には入らないことにしようと思います。
なんというか、楽しい作品です。
本書を読んで僕は、なんだか森博嗣に感謝したい気分になりました。それはどういうことかというと、よくもまあ出版という不合理な世界で活動を続けてくれたものだな、ということです。
恐らく森博嗣にとって、出版業界というのは、まったく理解不能な業界だったことでしょう。
恐らく、時間当たりの効率が凄くいいとか、結構労なくお金を稼ぐことが出来る、というような理由で『出版』というものと関わり続けてくれたのだろうけど、いやはやホントありがとう、という感じになりました。
ありとあらゆることに共通することだけど、どんな物事にも『前提』は存在する。『納豆を食べる』であれば、『臭いのは当たり前』という前提が存在するはずだし、『死ぬのが怖い』であれば、『長生きしたと思うのは当然』という前提が存在するはずだ。
そういう前提に、森博嗣は敏感だ。
森博嗣は、明文化されていない、なんとなくそういうことになっている事柄について、納得出来ないような思いを抱いていることだろう。もちろん、納得しなければいけない理由はない。森博嗣は、自らの考えでは掴み切れない『出版』というそのものについて、諦めたり距離をおいたりすることもできたはずだ。これほど、不合理な世界もないと、呆れ返ってほったらかしにすることもできたはずだ。
でも、森博嗣は、何らかの理由によって作品を発表し続けてくれたし、今でも書き続けてくれている。なんというか、それに対して凄く感謝したくなる作品だ。
本書は、説明不能だけど、森博嗣の価値観が全開に放出されている作品だ、という印象がある。
が、もう少し説明が必要だろう。『森博嗣』とは誰なのか、について。
ここで言及している『森博嗣』は、現実の、どこかで庭園鉄道を作り、作品を発表し、時々バナーナさんとかウミノチーカさんと会ったりしている実在の『森博嗣』ではない。そうではなくて、これまで小説やエッセイなどを通じて森博嗣が構築してきた、あるいは読者の側が勝手に構築してきた『森博嗣像』のことを、『森博嗣』と表現している。
実際の森博嗣としては、本書で言及している様々な事柄については、特に言及する必要を感じることもないほど自明なことだろうし、特別言葉に置き換えて発表するものではない、と考えていることだろう。しかし、そのようにして放出された様々なものは、これまでの作品を通じて形成されてきた(あるいは形成されたきたと想像できる)『森博嗣像』をくっきりとさせるみたいな印象があった。小説ではなかなか明言されないし、エッセイに書くほどでもないと森博嗣が判断した様々なことがらが、親父ギャグやトリッキーなショートショートなどに載せられて描かれていく。現実の森博嗣が、本書で描かれているような主張をしたいわけではないだろう。きっと森博嗣としては、自明のことであるし、言葉を介して伝えなければならないのであれば、言葉を介しても恐らく通じないだろう、なんて風に思っているのではないかなぁ、と想像する。それでも森博嗣が本書のような作品を物したのは、小説と虚構、エッセイと創作、現実と非現実と取り混ぜることで、形成され続けてきた『森博嗣像』をうまく利用して補完することが出来ると考えたからではないか。
と書いているけど、自分でも何を言っているのかよくわかってなかったりする(笑)。
本書はどんな作品かというと、やっぱり説明不能で、ただ敢えて努力して説明しようとすれば、

『小説というものに必然的に付随する様々な前提に挑戦してぶち壊していく』

という感じではないかと思いました。
僕がまっさきに連想したのは、東野圭吾の「名探偵の掟」です。
「名探偵の掟」は、ミステリの「お約束」をパロって描くミステリです。ミステリ作品って、密室の場合はこんな感じになるよね、ダイイングメッセージの場合はどうしてもこんな風になるよね、というようなお約束を覆したり馬鹿にしたりしながら、メタ的な感じでミステリを料理していく作品なんだけど(まあ、全然イメージできないでしょうけどねぇ)、本書も凄い近いイメージを感じる。
本書の場合、『ミステリのお約束』ではなくて、『小説、あるいは小説読みのお約束』という感じだ。小説というのはこういう前提に支配されていて、だからそれを崩してみる。あるいは、小説読みというのはこういう前提と共に本を読んでいるから、それを少し逸らしてみる。そういう意味で、とても「EXPERIMENTAL」な作品だという感じがします。
本書の中には色んな言及があるんだけど、「素人書評家」について書いている部分は、個人的にはとても耳が痛い。森博嗣はそもそも、「作品を読解する」とか、「意味を求めて読書をする」とか、そういう価値観について違和感を持っていたりするわけで、恐らく作品は個人で楽しめばいいじゃん、というスタンスなんだろうなぁ、という気がする。だから、こうして僕みたいに、作品についてあーだこーだ言っている人間については、別に嫌いでもないだろうけど、無価値というか、時には若干マイナスみたいな捉え方なんだろうなぁ、という感じがします。まあ、言っていることはわからなくもないし、だから耳が痛かったりするんですけどね。
『小説』についても、様々な『前提』をあぶり出す。本書を読むと、僕達小説読みは、様々な「了解事」の元に小説を読んでいるのだな、ということが凄く伝わってきます。「小説」を読むには、ある一定以上の「お約束」を把握する必要があって、それを普段小説読みはなかなか意識しないでいる。ナチュラルに小説を読む人間にとっては当たり前すぎる様々な『前提』が崩される物語が物凄くたくさん収められていて、なんというかザワザワする。そして本書を読むと、なるほど『小説が読めない人』というのは、こういう様々な前提を知らない人なのだろうな、という感じがする。知っている人たちで固まってワーワーやってるから、どんどん狭い世界になってしまうのかなぁ、という感じがしたりします。でも個人的には、そういう『前提』とか『お約束』がきちんと整った作品というものに魅力を感じてしまう部分もあるわけで、これはなかなか難しい問題だし、森博嗣が作中で提示しようとする様々ま問いは、決して簡単なものではないな、という感じがしました。
僕は、割と森博嗣の考え方や価値観に賛同できる部分が多かったりして、だから凄く森博嗣が好きだなと思う。森博嗣は、世間に流されて自分の意見を発したりしない。合理的でシンプルで、説明されればなるほど確かにそうかもしれない、という明快さを持つ意見を様々に繰り出す。
その最も顕著な例は、原発の話ではないだろうか。具体的にどんな言及をしているのかは書かないけど、森博嗣の原発に関するスタンス(あくまでも、『森博嗣像』が語る原発に関するスタンス、だけど)は、なんか凄く理解できてしまう。一般的な意見とはまったく違うし、森博嗣の意見に全力で反対する人もたくさんいるだろう。でも、なるほど確かにそういう見方をすれば、そういう風に捉えることも出来るのだろうなぁ、という感じがあって、やはり森博嗣の考え方は好きだなと思う。
小説の技法的な部分での様々なツッコミは、読んでいてなかなか面白い。僕達が普段そこまで強く意識しないで読んでいる『小説』というものを、一つひとつ『前提』というくびきを外すことで、新しい世界観を現出させているように感じる。そしてそれは、僕達がいかに『前提』というくびきに捉えられているのかということを、あらためて感じさせるものにもなる。
現実では絶対にしないけど誰が喋っているか明確にしなければいけないからという理由で行われる不自然な会話とか、神の視点や地の文に関する驚愕の展開、探偵小説で語られる『論理』がいかに論理的でないかという話など、確かにそう言われてみればそうだなぁ、という感じのする話が盛り沢山で、個人的には凄く面白かったと思う。
構成としては、作家であるモーリィが、編集者であるクーリッキの訪問を受けやり取りしつつ、クーリッキの潜在的な欲求をことごとく無視し続けトリッキーな作品を書き続けるという作品で、なんというか説明のしようがないのだけど、そういう感じ。
森博嗣の、なんとなく漂ってくる諦め、みたいなものも読みどころではないかな、という感じがします。基本的に他者に対する期待をしていない森博嗣の、主張してはみるけどきっと届かないんじゃないかなぁ、というような諦めみたいなものが結構如実に現れているような感じがして、個人的には面白かった。まあそうだよなぁ。森博嗣ほど合理的な人間であれば、世間の人々の不合理な判断は全然理解できないだろうなぁ、という感じがします。
結局内容にはほとんど触れませんでしたけど、ホント内容紹介とか無理です。ここまで実験的で意味不明な作品は、なかなか読む機会がなかったりしますね。でも、個人的には凄く面白かったです。爆笑しながら読んだし、感心しながら読みました。凄く変な小説で、小説なのかもなんとも言えなくて、人によっては放り投げたくなるかもしれないけど、僕は読んでほしいなぁと思います。ホントに。

森博嗣「EXPERIMENTAL EXPERIENCE 実験的経験」



プロメテウスの罠2 検証!福島原発事故の真実(朝日新聞特別報道部)

内容に入ろうと思います。
本書は、2011年10月から朝日新聞紙上で連載が始まった「プロメテウスの罠」、若干の加筆修正を加えて単行本化した作品です。第一弾は今年の3月に発売され(第一弾の感想はこちら)、第一シリーズから第六シリーズまでが収録されている。第二弾である本書では、第七シリーズから第十二シリーズまでが収録されている。連載期間としては、2012年2月7日から2012年6月8日まで。
あとがきに、こんな文章がある。

『いや、考えてみるとわれわれは忘れるほどのことを知っているのだろうか。知っていてこそ忘れることができる。ひょっとしたら、いまに至っても知らないことのほうが多いのではないだろうか。
論評は要らない。何があったか、事実を調べよう。』

まさにその通りだと思う。知らなければ、忘れることも出来ない。僕たちは、テレビの報道を通じて、Youtubeなどの映像を通じて、色んな人の噂話を通じて、なんとなく「あの時」のことを知った気になっている。知った気になって、なんとなく自分の中で消化して、なんとなく忘れ始めている人も多いだろうと思う。
僕も、その一人だ。
僕の日常の中から、原発事故・大震災の痕跡を感じ取ることは、なかなか難しい。もちろん、探せば色々とあるのだろう。近くに東北から避難してきた人が住んでいるかもしれない。東北にいた家族や友人を亡くした人が住んでいるかもしれない。脱原発に向けて活動している人もいるかもしれない。でも、僕の視界には入ってこない。
会話の中にも、原発事故や大震災のことが入り込むことはなくなってきた。電気代の値上げとか、夏の節電とか、間接的な話題はまだまだ身近だと思う。けど、原発事故そのもの、大震災そのものは、もう日常で意識することは難しいものになってしまっていると思う。
だから、この連載は、とても意義のあるものなのだと思う。そして僕は、連載でではないけど、こうして本にまとまったものを読む。
毎日少しでも、原発事故・大震災そのものについて意識させてくれる連載がずっと新聞に載っているというのは、とても大事なことだと思う。朝日新聞以外の新聞にそういう連載があるのかどうか、僕は知らない。でも、新聞を読まない僕にも、書籍化によってこうして届く形になっているのは、やはり大事だなと思う。
本書でも、様々な事柄が取り上げられている。恐らく、知らなかった話ばかりだろうし、様々な活動をしている個人にも存分にスポットライトが当てられている。特に原発の話は、大きな大きな話になりがちだ。国策と係る巨大な話なので、小さな部分に目が行きにくい。小さな個人にもきちんとスポットライトを当ててくれるのは、いいなと思う。
内容をざっと紹介していこう。

第七章「原子力村に住む」
ここでは主に、二人の個人が取り上げられる。
福島県川内村の山中に少人数で作り上げた獏原人村という集落がある。そこに現在たった一人で住む風見正博さん。
福島第一原発でかつて炉心の運転・設計業務に携わっていたものの、原発が孕む様々な「欺瞞」に嫌気が差し退職した木村俊雄さん。
木村は、風見と出会ったことで、電気に依存する暮らしへの疑問を高め、現在は高知県でなるべく電気に頼らない生活を構築している。月の電気代は約700円。
木村は知り合いに請われ、デモの後の集会で講演をした。聞いている方が驚くほどの「ぶっちゃけ」っぷりだった。
木村は福島第一原発にいるころ、津波がきたら一発で終わりだ、と理解していた。そう上司に進言すると、こんな風に返ってくる。

『そうなんだよ、木村君。でも安全審査で津波まで想定するのはタブー視されてるんだ』

また木村は、後の副社長となる武藤から、ある特命を与えられた。それが、ウインターロックと全制御棒引き抜きの両立だった。
安全のために、インターロックが掛かった状態だと制御棒は1本しか抜けないようになっている。しかしそれでは、保守点検の際に時間が掛かり過ぎる。そこで、インターロックが掛かっていても制御棒をすべて抜けるようなシステムづくりを任されたのだ。これについての、保安院とのやり取りは、なかなか奇妙だ。

第八章「英国での検問」
日本は、使用済み核燃料の再処理にこだわっている。しかし、実用化の目処はたっていない。再処理が前提だから、使用済み核燃料は保管しておかなくてはいけない。それらの処理は、イギリスで行われている。
日本の原発で使った核燃料を再処理する契約は、1977年に結ばれた。取材班は、その処理を請け負う会社について調べる。金額の不透明さ、そして処理に掛かる様々な巨大なお金。本当に原発は「安い」のか。

『使用済み核燃料、それを再処理するという建前があるから保管している。しかし再処理がフィクションであることは明らかです』

この章では電気料金に関する内容もある。
山梨県のスーパーの店長の怒り。節電のために、様々な経費を費やして協力してきたのに、突然電気代を17%も上げると一方的に通告してきた。マンションにも同様の通知が届き、管理費の値上げなどに頭を抱える管理組合も多くある。現在、電気は東電から買う、しかし変圧を別の会社に任せる、というやり方ができるそうだ。それで電気代が4割ほども減る、という。
山梨県のスーパー業界は一致団結して東京電力の独占に噛み付いた。しかしかつて、たった一人で電力独占と戦った男がいた。元通産相出身で、日本ボランタリーチェーン協会の会長だった林信太郎だ。電気の自由化は、何か変えただろうか?

第九章「ロスの灯り」
青森県の六ケ所村には、日本原燃の核燃料再処理工場がある。なぜこれは、六ケ所村に作られることになったのか。それには、今から50年ほど前、酪農視察の団員としてロサンゼルスを訪れその灯りに魅せられてしまった、後の青森知事・北村正哉の存在がある。
彼は下北半島を、青森のロサンゼルスにしたかった。
北村はロサンゼルスを見た直後から奔走する。青森に巨大な開発を誘致し、住民の暮らしをよくするためだ。彼は、むつ小川原開発計画を立ち上げ、邁進していく。整備さえすれば、素晴らしい条件なのだから、石油化学コンビナートが必ずできる、という信念の元だった。
しかし結局、2500ヘクタールもの土地は、どの企業も誘致できないまま空き地となった。そこに、使用済み核燃料の再処理工場を作りたかった原発側が入り込んだ形となった。この開発のために、住民は様々な争いに巻き込まれることになる。
六ケ所村には、六ケ所村から反核燃を主張する菊川慶子がいる。彼女は、極貧時代に子供時代を過ごし、開発による狂乱も目にし、他の土地に移住するはずだった予定を変えてまで六ケ所村に戻ってきて、そこに反核燃のコミュニティを作った。菊川慶子のセンスによって、ともすれば悲壮感さえ漂う反核燃運動を、明るくて賑やかで楽しいものにしていった。

第十章「長安寺の遺骨」

福島県浪江町南津島に、江戸時代から続く長安寺はある。現在境内には、埋葬できない遺骨がずらりと並んでいる。
津波で亡くなった人だけではない。避難先で亡くなった人もいる。自殺した人もいる。原発に関係する死かどうかという線引が、どこかで行われてしまう。
避難区域に自宅やお墓がある人は、変えることが出来ない。遠くへ避難した人もいる。帰りたいと願う人もいる。現地に留まる人もいる。沖縄まで逃げ夫と別々に暮らすい人もいる。様々な選択があり、様々な人生がある。一つ言えることは、「放射能」がなければ、こんなことにはならなかった、ということだ。そこが、悔しい。

第十一章「遅れた警報」

気象庁では、地震から3分位内に津波警報を出すという自主目標があった。当初発表されたのは、「岩手3メートル 宮城6メートル 福島3メートル…」というもの。
水圧計は無視された。
津波の予測には様々な数値が使われるが、東日本大震災の津波警報の際には、水圧計のデータは無視された。
水圧計の数値から予測された津波の大きさは30メートル。
最初の津波警報で、3メートルなら大丈夫だと思った人は、積極的な避難をしなかった。気象庁が巨大な津波が来ると警告した際には既に、沿岸部は津波に襲われていた。警報は、間に合わなかった。
自身も津波から逃げながら、同時に逃げ遅れた人たちを救出し続けた人たちがいた。浪江町請戸の消防団の面々。「誰かいるのかーっ」と必死に叫ぶ。声が聞こえたら向かう。声が聞こえたのに、原発が爆発するかもしれないと、自らの避難を優先しなければならないこともあった。原発さえなければ助けられた命。それは、津波だけではない。避難区域とされた土地で、餓死した人が多くいた。助けたくとも、助けに入ることができない。やりきれない。

第十二章「脱原発の攻防」

「総合資源エネルギー調査会」の基本問題委員会の議論が続いている。当初、原発推進派と反原発派が半々になるように委員構成が考えられていたにも関わらず、「放射能をつけちゃうぞ」という報道で辞任に追い込まれた鉢呂氏がいなくなってから、脱原発派は少数派となってしまった。2030年までの原発依存度をゼロにするか、20%にするか、それとも…。双方に様々な意見があるが、やはり大きいのは「原子力ムラ」の存在。反原発派は、原子力ムラの強さを感じつつ、現実的な着地点を模索すべく、出来ることをやろうと努力している。
本当に原発は必要なのだろうか。僕達も、一緒に考えて行かなくてはならない問題だ。

電気料金など僕達の日常の延長線上にあるような話もあれば、福島や福島から避難した人たちの生の声もある。また、イギリスでの再処理など、まったく日常感からは遠い、しかし着実に電気料金に積み重ねられている知られざる背景などについても描かれる。
本書は、善し悪しの判断を読者に委ねているところがいい。どのみち、覚悟を決めなければどちらかに振りきれない問題ばかりだ。自分の人生をかけるだけの気概がなければ、どちらの立ち位置にいるのか明確にすることは難しい。
でも、その立ち位置を少しでも模索するために、きちんとした情報が必要だ。本書は、出来る限り事実にこだわり、「実際にあったこと」「実際にあっただろうと高い確度で信頼出来ること」「話者が実際にあったことだと信じていること」などを載せる。やはりそれでも、正確ではない情報だってあるだろう。でも、原発事故・大震災からこれだけ時間が経った今、被災者の生の声をきちんとした形で知ることができる環境も少ないのではないかと思う。それだけでも、この連載には十分に価値がある。
知らないことだらけだ。それを恥じる必要はない。本書を読むと、知ろうとしていない自分を恥じるような気持ちにはなる。改めて書くけど、既に僕の日常の中には、原発事故・大震災の面影はない。意識しなければ、原発事故・大震災について考える機会もなくなってしまった。だから僕は、こうして本を読む。知ろうとしない自分は、恥ずかしいから。

朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠2 検証!福島原発事故の真実」



祈祷師の娘(中脇初枝)

内容に入ろうと思います
わたしは、祈祷師の家に暮らしている。「おとうさん」と「おかあさん」とは、血が繋がっていない。「おとうさん」と「おかあさん」は実の姉妹だし、和花ちゃんは「おかあさん」の子だ。春永の実の父親は、わたしが生まれた頃に亡くなり、実の母親はある時出奔した。
うちで祈祷師なのは、「おかあさん」だ。うちは「なんみょうさん」と呼ばれたりしていて、信者もいるし、昔から慕ってくれる人もいるけど、逆に悪い噂をしたり、胡散臭く見ている人もいる。
わたしは毎朝水を浴びている。「行」というのだそうだ。「おかあさん」が病気でちょっと水浴びの行が出来ないから、代わりにやっている。そういうつもりだ。
うちによく運び込まれてくるひかるちゃん。実の母親との唯一の思い出である金魚。学校で仲良くしている周囲から人気を浴びたい女の子、隣の席に座ってるうちに関心があるらしい男の子。血の繋がらないわたしは、自分に能力がないことは知っていて、だから、なんかふわふわした日常の中で、自分の身の置きどころに迷っている。
というような話です。
なかなか面白い作品でした。中学1年生の春永の、不満があるわけではないけど満足できているわけでもなく、未来に不安があるわけではないけど希望があるわけでもなく、ちょっと変わった一家の中で暮らしているけども特別それがどうというわけでもなく。そういう、自分の生き方や将来の決断などが立ち現れてこない、目の前の日常の変化だけを追い続けていられる少女の、なんとなく落ち着かない日常を描いている作品、という感じでしょうか。あんまりうまく説明できてない気がするけど。
春永の立ち位置は、なかなかいい。誰とも血が繋がっていない家族の中で、別段何を思うわけでもなくすんなりそこにすっぽりとはまっている。他の家族はみんな、ちょっとした力を持っていて、それを「祈祷」っていう形で発現させるんだけど、春永は自分にはその力がないことを知っている。学校では、自分が漫画の主人公のようじゃなきゃ満足できない女の子といつも一緒にいさせられて、春永自身はそれに強く何を感じるでもないのだけど、周囲から同情される。
なんというか、春永という人間には、強く光るものとか、動じない何かみたいなものがない。中学1年生だし当然だろうと思うんだけど、でもなんとなくの印象として、物語の主人公になるような人物には、その『何か』があるような気がする。ここまでその『何か』を持たない主人公というのも、珍しいような気がする。
春永の日常や人生は、ほとんどが周囲の人間の動きで決まっていく。春永自身が何かを考えたり決断したりする状況は、そうは訪れない。周りにはちょっとした能力を持つ人間がいて未来を見ることができたり、「サワリ」に憑かれてそれを全力で祓っている「おかあさん」など、個性的な人物が周りにいすぎて、春永が個性を発揮するような隙がなかったりもする。
そういう主人公が真ん中にいる小説というのは、なんか中心が定まらない不安定さみたいなものがあって、読んでいて奇妙な感覚に陥るような気がする。そしてその不安定さや揺れ動く感じは次第に、『春永自身は何者でもない』という点に収束していくように思う。
周りの人間には、様々な転機がやってくる。和花ちゃんにも、ひかるちゃんにも、あるいはかつては「おかあさん」にもそれがやってきた。でも春永には、そんな機会は訪れない。水浴びをしても、コックリさんをしても、ダメ。春永は、春永には永遠に到達できない場所にいる人達に囲まれて日常を過ごしている。
たぶんそんな環境から一度抜け出てみたくなったのだろう。春永は少しずつ『外』を意識するようになる。それは、学校の外だったり、友達の外だったり、家族の外だったり。今まで自分がいたところを、もうひと回り外周から眺めてみる。なんかそんなことをやろうとしてもがいているような感じがする。
本書で一番好きなのは、やっぱりひかるちゃんだな。なんというか、凄く切ない。
ひかるちゃんは、恐ろしく能力の高い子で、「おかあさん」は自分より上かもって言う。色んな「サワリ」を引き連れてしまうので、よく大変な状態になって運ばれて、祈祷で回復させる。
そんな宿命を背負ったひかるちゃんの悲哀みたいなものが、なんか凄く突き刺さる。ひかるちゃんと春永のやり取りや関係性も凄く好きで、やがてそれは春永にとって、自分の立ち位置の一つとして自信を持つことができるものになっていく。
持つものの悲哀もあれば、持たざるものの悲哀もある。「持つもの」に囲まれた「持たざるもの」である春永の葛藤が、様々な人々と関わることで浮き彫りになっていく。
これから春永はどんな風に生きていくんだろう、「持つもの」たちとの生活はどんな風に変化していくんだろう。なんとなくそんなことが気になってくる作品だなという感じがしました。一人の少女のささやかだけど深刻な葛藤を描いた作品です。是非読んでみて下さい。

中脇初枝「祈祷師の娘」



高度成長 日本を変えた六〇〇〇日(吉川洋)

内容に入ろうと思います。
本書は、日本を代表する経済学者である著者(解説より)による、日本の未曾有の変化を生み出した『高度経済成長』のついて、様々な写真やデータなどを駆使して、『高度経済成長』とは一体なんだったのかについて、様々な角度から描く作品です。
先に僕の感想を書いておくと、本書はなかなか僕には難しかったです。あまり軽く読める読み物ではなくて、どちらかというと論文に近いようなイメージで捉えてもらえたらいいんじゃないかなという感じがします。『高度経済成長』についてなんかちょっと知りたいかも、みたいな感じの人が読むとちょっと大変かもですけど、『高度経済成長』についてガッツリ知りたい(これから論文を書く学生とか、これからの日本の政策を生み出そうとしてる人とか)みたいな人には凄く役立つだろうし面白い作品なんじゃないかな、という感じがしました。
僕の力では、本書の面白さをうまく引き出すような感想はちょっと書けないと思うんで、大分ざっくりとした感じの感想になると思いますけど、ちょっと色々と書いてみます。
まずは、各章のタイトルと、僕のざっくりしたまとめみたいなものを書いてみようとおもいます。

第一章「今や昔 高度経済直前の日本」
敗戦後の日本がどんな状況だったのかを、都市と農村で分けて概観する。

第二章「テレビがきた!」
「三種の神器」を初め、高度経済成長によって庶民の生活にどのような変化があったかを概観する。

第三章「技術革新と企業経営」
高度経済成長の背景にあった企業の動きや国の方針などを分析する。

第四章「民族大移動」
高度経済成長を結果的に下支えすることになった、農村から都市部への人口流入について分析する。

第五章「高度成長のメカニズム」
なぜ高度経済成長が起こったか、そしてなぜそれが終焉したのかについて、独自の考えも交えて主張する。

第六章「右と左」
その当時起こった政治的なデモや労働運動などについて時代背景と共に語る。

第七章「成長の光と影」
高度経済成長とは、本当に「豊かさ」をもたらしたのかについて語る。

というような感じです。大体これでざっくりとした内容は説明できちゃう感じだな。
あとは、様々なデータや独自の分析、また幼稚園から大学生までをまさに高度経済成長期の中で過ごしたという著者自身の実感などを交えながら、『高度経済成長』というものについて、その輪郭を捉えようとする。
個人的には、第二章が面白かった。つまり、「三種の神器」など便利な家電が家庭に入ってきたり、それまでの食生活が変化したりと、庶民の生活が年々劇的な変化を遂げていく様子を、データや様々な記録からの引用で描きだすのだけど、やはり高度経済成長が庶民に与えたインパクトというのは凄まじかったようだ。様々な描写があるのだけど、一番好きなのは、重兼芳子が初めて洗濯機を使った時の感動を書いた「洗濯機は神サマだった」という文章からの引用文だ。

『一生のうちで最も忘れられない感動は、電気洗濯機を使ったときだった。
(中略)
こんなぜいたくをしてお天道さんの罰が当たらないかと、わが身をつねって飛び上がった。』

今の時代の人が、これに近いような感覚を味わうことってあるだろうか。よほど嬉しかったんだろうなぁ、
しかし、洗濯機については対照的に、こんな描写もある。こちらは、天野正子「「モノと女」の戦後史」からの引用で、農村での話だ。

『「わたしら若いときに苦労したんだから、今の嫁だって苦労するのはあたりまえ」とする旧い世代(姑)を説得できなければ、洗濯機は買えない。(中略)「主婦の読書時間を生み出す洗濯機」という電気メーカーのキャッチフレーズは、雲の上の話にすぎなかったのである。』

これもまた面白い話。本書でも、都市と農村での『高度経済成長』の関わり方の違いは色々と描かれるのだけど、これも今ではなかなか考えられない感じかな。現在でも、都市と農村の差異というのはきっと色々あるんだろうけど、ここまで大きなものはないだろうと思う。
人口が流入した背景とか、高度経済成長期の企業の論理とか、高度経済成長によって引き起こされた問題とか、そういう色んな分析もなかなか面白かったんだけど、やっぱり結構難しいものもあって、経済とか歴史とかが得意じゃない僕には、もう少し難易度の低い作品の方がいいかな、という感じがしました。
軽く読めるタッチの作品ではないけど、ガッツリその時代のことを知りたいぜっていうような人には凄く参考になるし楽しめる作品なんじゃないかな、という感じがしました。写真が結構面白くて、終戦後の渋谷駅周辺の写真とか、力道山の試合を観るために街頭テレビの前に集まった集団の写真とか、なかなか面白かったです。



サムシングブルー(飛鳥井千砂)

内容に入ろうと思います。
27歳の梨香は、2年間付き合って、結婚も考えていた智久と別れてしまった。何か特別な理由があったわけではない。なんとなく一緒にいることに理由が必要になってきて、ちょっとした諍いも増えてきて、それでなんとなく別れる感じになった。
やっぱり、辛い。これまでだって、色んな人と付き合ってきて別れを経験してきたくせに、やっぱり辛い。
智久と別れた翌日、梨香の元に衝撃的なものが届く。
結婚式の招待状だ。
別れた翌日に結婚式の招待状、というシチュエーションだけでしんどい。でも、理由はそれだけじゃなかった。
結婚するのは、高校時代の元彼の謙治と、高校時代の親友の沙希ちゃんだったのだ。
二人が付き合ってるなんて、全然知らなかった。
高校時代の友人で今でも付き合いのある昇君を含めた四人は、高校3年の一年間、ほとんどずっと一緒にいた。だから、昇君が知らなかったはずがない。言い難かったんだろうけど、やっぱりいきなり知らされるのは、キツイ。
結婚式には、体育祭の実行委員のメンバーが呼ばれているらしい。
突然職場にやってきた、高校時代沙希ちゃんと付き合ってた、ちょっと空気の読めない野島君からそんな話を聞いた。そして、体育祭の実行委員で、何かプレゼントを贈ろうという話になっている、ということも。
正直、あんまり気が進まない。けど、嫌だなんていうわけにもいかない。梨香は不安定な状態のまま、久々に再会する高校時代の同級生たちと、色々話を進めていくことになる。
自分の感情で精一杯になりながら、揺れ動く気持ちを抑えて二人を祝おうとする梨香。高校時代の同級生の色んな一面を改めて知ったり、ある深い悲しみにくれていた弟の奥さんと話をしたりする中で、少しずつ梨香は、自分の輪郭を取り戻すきっかけを掴んでいく…。
というような話です。
飛鳥井さんの作品は、とても小さな世界をとても大事に描いている印象がある。飛鳥井作品で描かれるのは、僕達の身近にある、凄く狭かったり、凄く小さかったり、そういう手の届く範囲の世界だ。そういう小さな世界に生きる人達を丁寧に描く眼差しが、いいなと思う。自分の人生には、特別きらびやかなこともないし、特別かっこいいこともないけど、でもしっかりと今日を踏みしめてるし、明日という未来を見据えている。一人ひとりの振れ幅は小さなものかもしれないけど、それらがうまく共鳴して少しずつ大きな鳴動に生まれ変わっていくその過程を、静かに映し出そうとしている感じが、なんかいいなという感じがする。
本書は、後半になるに連れてよくなっていく感じがします。初めの内はなかなか個性が出にくい登場人物たち。とんがっていたり、突出してたりするわけではない、僕達の身近にいるようなごく普通の人達を主軸に据えると、やはり冒頭からしばらくはそこまで個々の人たちへの思い入れを持ちにくい。でも、ずっと読んでいくと、じわりじわりと彼ら彼女らのことが内側に染み込んでくるような感じがする。さっきも書いたけど、振れ幅は大きくない。劇的な何かがあるわけではない。でもそれが、昨日と今日と明日の差がぼんやりしているような僕達の人生そのものようで、なんだか愛おしくもなる。そうやって、ほんの些細な変化にも目を凝らしてくれる人がいるんだ、なんて思えたりすると、特に輝いているわけでもない自分の人生を、もっと好きになれたりするかもしれない。
本書は、全般的には大人になった彼らの物語なのだけど、中盤は回想シーンが結構長くあり、そこは学校を舞台にした青春小説という感じ。梨香が謙治とどんな風に出会って付き合うようになっていったのか、後々謙治と沙希ちゃんの結婚式で集まることになる体育祭の実行委員の面々がどのように関わっていったのか。大人になった彼らの人間関係は、色んな打算や不純さも抱えることになるけど、高校時代の彼らはやっぱりまっすぐで純粋。一つの作品の中でのその辺りのギャップも、なかなか面白いかもしれない。
大人になった彼らの細やかな人間関係を描くのは、やっぱりうまいなと思う。30歳を目前とした彼らは、色んな背景を抱えている。8人8様の人生模様が、結婚式の準備の過程で少しずつこぼれ落ちていって、それが梨香を困らせたり、逆に安心させたりもする。
僕も、本書で描かれる主人公たちと同じぐらいの年代だ。僕の周りを考えてみても、やっぱり色んな人生の選択がある。すべてが順調、という人間ももしかしたらいるのかもしれないけど、やっぱりそういう人間は多くはないはずだ。でも、それってなかなか見えてこない部分でもある。昔のように、自分の周りで起こったことを何でも話すほど頻繁に会うわけでもないし、会ってもなんかそういう話は気恥ずかしかったりするものだ。
だからみんな、段々不安にもなってくるんだろうなと思う。「ちゃんとした生き方」とか「成功者の人生」とか、別にそんなのないはずなんだけど、自分の人生が正しかったのかどうか気になるし、自分の決断が間違ってないか不安にもなる。本書のような作品を読むと、そうどんな人生だって自分で選び取ればそれでいいのかも、なんて前向きな風に思えたりするかもしれない。
『サムシングブルー』というのは、欧米の結婚式の慣習である「サムシングフォー」の一つだそう。「なにか古いもの」「なにか新しいもの」「なにか借りてきたもの」「なにか青いもの」の4つを身に着けて式に出るといい、というおまじないだ。「サムシングブルー」というのは、彼ら8人にとって意味のある思い出だった。ラスト、全員が喫茶店に集まるシーンも楽しい。やっぱり、なんだかんだ昔の仲間っていいよね、なんて感じがしました。
とても小さくて僕達にもその手触りをきちんと感じられる世界の中での細やかな人間関係を丁寧に掬いとっている作品だと思います。是非読んでみて下さい。

飛鳥井千砂「サムシングブルー」



学生時代にやらなくてもいい20のこと(朝井リョウ)





内容に入ろうと思います。
本書は、早稲田大学在学中に「桐島、部活やめるってよ」で作家デビューし、「もういちど生まれる」で直木賞候補にもなった、今をトキメク新人作家の、主に学生時代のエピソードをあれこれ書いたエッセイになります。タイトルだけみると、なんとなくビジネス書っぽい感じに見えるかもですけど、れっきとしたエッセイ集です。
しかしまあ色んなことをしている。
自転車で500キロ先の京都まで行ってみたり、100キロを超える大学の徒歩イベントに参加したり、学祭のために謎のダイエットドキュメンタリーを撮影したり、眼科医と謎の攻防をしたり、マックで出会った謎のおじさんと緊迫感のあるやり取りをしたり、友達とピンク映画を見に行ったらとんでもないことが起こったり、就活というワンダーランドで奮闘したりと、とにかくアホなこと満載の学生生活を送っていたようである。
朝井リョウ自身は、自らのスペックをなかなか低めに見積もっていて、馬面で田舎者、機械オンチで心配性などなど、自己評価がなかなか低めな感じである。早稲田大学在学で、在学中に作家になり、ダンス部に所属してるなんて、リア充の塊!みたいな印象もあるんだけど、本書を読むとどうもそういうわけでもないようだなぁ、という感じがしてくる。デビュー作の「桐島~」の著者近影と著者略歴を見た僕は、なんたるリア充!と思っていたのだけど、本書を読む限りそういう感じでもないようなので、過去に遡ってお詫びしたい気持ちでいっぱいである。
そんな、現在は社会人一年目としてバリバリ働くサラリーマン作家になった著者による、爆笑エッセイ集です。
これは面白かったなぁ!エッセイが面白い作家っていうのは本当に稀だと僕は思っていて、三浦しをんがずば抜けてダントツだとして、乙一や森見登美彦なんかの名前が思い浮かぶけど、他になかなかいない。小説が抜群に面白くてもエッセイはさほど…、というような作家が結構多い印象であるのだけど、朝井リョウは小説もエッセイもまあべらぼうに面白い、なんとも才能に満ち溢れた男であることよのぉ、このリア充!という感じである。
しかし、面白いエッセイというのは、なかなか内容紹介をしにくいものである。ネタバレするわけにもいかないし、僕がざっくりエピソードを要約したところで、別に面白いわけじゃない。だからさっきみたいに、ざっくりとしたポイントだけを箇条書きにする、みたいな感じでざっと内容を書いてみたんだけど、具体的な内容に踏み込もうとするとそれぐらいが限界かなぁと思ってしまうなぁ。
とはいえ、ちったぁなんか書いてみよう。
結構僕は、朝井リョウの感覚が随所で理解できてしまう男である。いくつか挙げてみよう。
まず、朝井リョウはなかなかの心配性である。旅行先に、絶対に旅行先では使わないだろうというものを、もしかしたら使うかもしれない、と言ってバッグに忍ばせてしまうような、そんな人間だ。僕もそうで、『もしかしたら』という想定を色々と思いついてしまうので、それに対処しておかなくては不安だ、という感じになってしまうのだよなぁ。どう考えても起こる確率が低そうなことについても何らかの対処を施してしまいたくなるような、とても効率の悪い人間で、まあこの心配性の部分は直らんだろうなぁと思いつつ、変わったらいいなぁ、と思ったりもしている。
また朝井リョウは、恐るべき機械オンチである。現在ではどうか知らないけど、少なくとも本書で描かれているとある瞬間までは、恐ろしいほどの機械オンチであった。スマホに替える話は、なかなか斬新すぎて爆笑である。ンなことありえるんだなぁ。同じく機械オンチである僕としては、機械を扱えないと生きていけない現代社会にあって、同士みたいな感覚である。僕がどれだけ機械オンチかと言うと、最近僕が発した迷言をいくつか挙げれば事足りるだろう。『スキャナ付きのプリンターってコピーもできるんですね』 『(アドレス交換の際の)赤外線通信って、圏外でもできるの?』 もちろん、共に失笑を食らったのは当然のことである。
あるいは、就職のひと月前に、「いやだいやだいやだ」と言って社会人になることから逃避したがる、なんてのもすごく共感できてしまう。僕の場合、就活をする前からその状態に陥り、結局就活というものをしないまま、社会人からドロップアウトしていたりするんで、同列に扱うんじゃねぇ!と怒鳴られそうだが、なんというかとても気持ちがわかってしまうなぁ、という感じがする。僕も、今自分が、まあアルバイトだけど、ちゃんと働いているという事実が凄いなと思うことはあったりする。
とりあえずここからは、あまり内容に踏み込みすぎないようにして、印象的だった話をぼんやりと書いてみようと思います。

カラーモデルの話は、斬新すぎて笑ったなぁ。街を歩いている時にカラーモデルに誘われてやってみたっていう話なんだけど、担当してくれた美容師さんのキャラがマジハンパねぇ。

島への旅の話もすごくよかった。壮大な無駄の末にたどり着いたある島で、彼らはその土地の祭りに参加する。そこで朝井リョウが感じる郷愁というか喪失感みたいな描写がなんかすごく好きだ。その祭りに参加することで、自分が失ってきたものがちょっと輪郭を持った、というような経験を、実に瑞々しく描き出しているように思う。

北海道への旅も、学生っぽいっていうか、アホだなぁっていうか、勢いだけで生きている時代ってのは凄まじいものがあるな、という感じがしました。こういうバカバカしさは、すげぇ好きです。

ピンク映画の話も、おいおい、という感じで面白かった。なんていうか、世の中にはホント、恐ろしい世界があるんだなぁ。

就活を間近に控えた大学二年生の時に書いた就活エッセイを自ら添削する、というのもすごく面白かった。恐らく編集者は、その文章を作中のごく普通の一編として入れようとしたのではないか。でも、著者的には、その文章はなかなか耐え難かった。だから、添削という形で載せることにしたのかなぁ、なんて邪推をしてみました。文章とツッコミのバランスが素敵です。

既に僕は、小中高大学という学生時代の記憶をズルズルと失い続けている最中であって(元々記憶力が悪すぎて、大学二年の頃には、もう既に高校時代の半分ぐらいのことは忘却の彼方という感じ)、なんというか自分がどんな風に過ごしてきたのか、まるで思い出せなかったりする。でも、断片的に思い出せる部分を拾い集めてみても、やっぱり学生時代はアホだったな、と思う。今アホじゃないのかというと、またそんなこともないのだけど、学生時代というのは、いくらでもアホになれるほどの莫大な時間と、いくらでもアホが許容される『学生』という名の鎧があったために、いくらでもアホでいられたのだ。大学時代に戻りたいかと聞かれたら、全力で『戻りたくない!』と即答する僕だけど、でもあれだけアホなことをやれていた時代って、やっぱり貴重だったよなぁと、本書を読んで感じたりしました。やっぱ、羨ましい部分もたくさんありますよね。リア充!って叫びたくなるような人生にはそこまで興味を惹かれないけど、朝井リョウみたいな、後々話をして爆笑を取れそうなエピソードって、ちょっと羨ましいなぁ、なんて感じがしてしまいました。
とにかくアホアホで、小説を読んでの著者のイメージとのギャップも甚だしいわけですけど、とにかく笑えるエッセイです。小説も面白くてエッセイも面白いという作家がそこまで多くないこの時代にあって、また一人僕の中で、エッセイが面白いと思える作家に出会えたな、という感じがしました。是非読んでみてください。
そういえば、僕の地元がボロクソに書かれてたのも面白かったです(笑)。

朝井リョウ「学生時代にやらなくてもいい20のこと」



女神のタクト(塩田武士)

内容に入ろうと思います。
矢吹明菜は、傷心のまま、西へ西へと旅を続けていた。
明菜は、「職」と「男」を同時に失った30女だ。なんとなくやけっぱちな気持ちのまま、舞子の浜辺へとやってきた。
そこで出会ったのが、白石だ。
和服姿でiPod nanoを操作するその姿が気になり、なんとなく話しかけてみたところ、これがなかなか気の合う老人だった。二人は他愛のない、それでいて初対面とは思えない掛け合いを演じた後、白石は明菜に謎の任務を託した。
京都にいる一人の男を、神戸のとあるオーケストラに連れて行け、というよくわからない話だった。
明菜は、恫喝と暴力を駆使して、内股の気弱な30男を神戸まで連れていくことに成功した。その内股男のことを、明菜は知っていた。
一宮拓斗。
日本人指揮者として颯爽と表舞台に登場し、一躍にして人気を博したが、ある時突然音楽の世界から去り隠遁していたのだった。指揮台に登るのが怖いという、かつての栄光の面影のまるでない拓斗は、明菜の恫喝と暴力に屈するように、明菜に連れてこられたオーケストラで音楽監督に収まることになった。
予想外だったのは、明菜もまたその楽団で働くことになってしまった、ということだ。パンチパーマの怪しげなやくざみたいな別府という男は明菜のことを嫌がっているようだったが、拓斗が明菜も一緒でなければ無理だと言い募ったのだ。
金のない楽団員が住む楽団の寮みたいなボロ屋に住むことになった明菜は、問題だらけの楽団に最高の演奏会を開かせようと、文字通り東奔西走する。様々なウルトラCを組み合わせて、無茶苦茶な状況を無理矢理まとめあげていく明菜だったが、トラブル頻発。これでもかという状況の中、しかし明菜を始め、拓斗や楽団員も諦めずにその無謀な挑戦に立ち向かっていく…。
というような話です。
これはなかなか面白い作品でした。
この著者のデビュー作である「盤上のアルファ」もそうでしたけど、この作家はとにかく、キャラクターを生み出して操っていくのが無茶苦茶にうまい。本書は、個人的には、ストーリーそのものに特別目新しさがある作品ではないと思うのだけど、魅力的なキャラクターが跳梁跋扈していくので、その楽しさに釣られてページをめくらされてしまう、という印象がありました。
まず、やっぱり明菜はなかなか凄い。行動力の塊みたいなその存在は、それまで楽団にはなかった「エンジン」みたいな存在だ。明菜は、こうと決めたことは迷わず突き進む。後から、あれってホントは正しかったのかな、なんてちょっと後悔めいたことをすることもあるけども、行動を起こす瞬間に迷いはない。その行動力が、不可能かと思われた演奏会を実現にこぎつけることになる。明菜の行動力は、本当に羨ましいなと思う。
また、貧乏楽団を引っ張っていく別府の存在も見逃せない。この別府、なかなかしたたかな男で、目的さえ達成できるならどんな嘘やごまかしやおべっかも厭わないという、敵にすると厄介だけど味方でいてくれるとこれほど助かる人間もいない、というような男だ。別府のとんでもない発想や行動力、また決断が、明菜には手の届かない範囲で物事を前進させる原動力となっていく。パンチパーマで喋ってることも胡散臭いという、怪しさ満点の男なのだけど、どうしても憎めない愛嬌がある、不思議な男です。
拓斗もとてもいい。はじめは、内股で弱々しい36歳のおっさん、という感じでしかないのだけど、やはり世界を股にかけて活躍した男だけのことはある。音楽と向き合う時の集中力や真剣さに、明菜は圧倒されることになる。ある場面で拓斗が下したとんでもない決断。誰もが無謀だと思ったその決断を、しかし全員で後押ししようと一丸となったのは、そうせざるを得ない状況があったことも確かだけど、拓斗の人を惹きつけるキャラクターも間違いなく大きかっただろうと思う。
他にも、何故か場面場面で登場する「大将」とか、楽団のオタクである辻とか、変わった楽団員たちであるとか、別府の昔の仲間であるとか、そういう個性の強い面々が、お互いを潰し合うことなく個々に個性をきちんと主張できている作品で、全体のバランスも含めてキャラクターの造形や動かし方みたいなものがすごくうまいなという感じがしました。とりあえずこのキャラクターの造形力があれば、これからどんな作品を書いても、読者を楽しませるという点で不満足に陥ることはないだろうな、という感じがしました。
ストーリーは、まあ王道という感じでしょうか。特別目新しい何かがあるというわけではありません。いろいろあって傷心な女が、ひょんなことから関わった貧乏楽団でどうにか最高の演奏会を開けるようにしようと奮闘する、という話で、無謀なスタート地点から大逆転のように素晴らしい着地点までたどり着くというような話です。
でもさっきも書いたように、とにかくキャラクターが見事なので、ストーリーの平凡さはそこまで気になりません。しかも、ストーリー自体は平凡であっても、細部の描写が非常に細やかなので、本当にその場にいるような気分になれたりする。指揮者や奏者だけでなく、裏方の人間の考えていること、目指していることなんかも描かれるし、音楽の世界のことをまるで知らないような僕のような人間にも、なんとなくその世界のことがわかったきになれるようなちょっとしたトリビア的な話も結構いろんなところに散らされている感じがします。ストーリーや展開で読ませる作品ももちろん大好きですけど、本書のような、キャラクターの魅力でグイグイ読ませる作品というのもやっぱり面白いなと思いました。
キャラクターの個々の背景や、表向きこうだけど実は…みたいな描写が、そこまで長くない作品の中で結構扱われているというのも面白さの一つだと思います。明菜や拓斗のなかなかハードな話だけではなく、楽団員や辻が白石とどのように出会ったのかなんて話も面白かったし、別府って実はそんな人間だったんだ!みたいな感じの面白さみたいなものもふんだんにあって、読みどころがたくさんあるんじゃないかなと思いました。
勢いでがぁーっと進んでいくノリとテンポのいい作品ですけど、緩急のバランスはなかなかよくて、しんみりさせたり静寂を背景にしたりするシーンもきちんと描き分けられている。明菜の行動力や別府の胡散臭さ、あるいは拓斗の真剣さに押されてグイグイ読まされる一方で、苦しい状況の中無理でも奮闘して現状をどうにか変えていくという不屈の精神みたいなものが描かれていて、若者の話じゃないけど、こういう作品もやっぱり青春小説だよなぁ、という感じがしました。ストーリーは正直平凡だと思うし、そこまで展開にワクワクさせられるような作品ではありませんが、キャラクターの魅力は抜群で、これだけ面白いキャラクターを次々と描き出せる作家というのも結構珍しいのかなという感じもしました。スピーディな面白い作品だと思います。是非読んでみて下さい。

塩田武士「女神のタクト」



スエズ運河を消せ(デヴィッド・フィッシャー)

内容に入ろうと思います。
本書は、一人の偉大なマジシャンが、マジックの知識・技術を駆使して敵軍を翻弄するイリュージョンを戦場で行った、その記録です。
ジャスパー・マスケリンは、代々マジシャンを輩出する一家に育った。特に祖父のジョン・ネヴィル・、マスケリンが有名で、彼は『現代マジックの父』と呼ばれるほどの存在だった。
そんなマスケリン家の10代目であるジャスパーは、イギリスで好評を博す人気のステージマジシャンだった。
しかしジャスパーは、満足できない日々を送っていた。このままステージマジシャンとしてい続けても、一家の中で特別な功績を残せるわけでもない。
そんなジャスパーを駆り立てたのが、戦争だった。
ジャスパーには、マジックやイリュージョンの知識や技術が、必ず戦場で活かせるという確信があった。しかし、ジャスパーは38歳で、軍人になるには年を取りすぎていた。だからジャスパーは、軍の入隊センターに日参するも、なかなか自分の言い分を理解してもらえず、軍にも入ることが出来ないでいた。
ようやく入隊できたものの、ジャスパーはすぐに戦場に行けたわけではなかった。カモフラージュ部隊が作られ、そこで訓練や講義などに明け暮れるも、なかなか戦場へという命令が来ない。彼らは一計を案じ、少佐相手に自分たちのカモフラージュを見抜けるかどうか実験することで、自らの力を証明した。
そうしてついにジャスパーは、戦場に行くことが出来ることになった。行き先は、エジプトだ。
当時エジプトの砂漠では、「砂漠のキツネ」と恐れられたドイツ軍のロンメル司令官が、イギリス軍を苦しめていた。ジャスパーはそこで、軍隊のあちこちではみ出している、しかし一芸に秀でた仲間をあちこちから集めた。動物の擬態が専門の大学教授、材料さえあれば何でも作ってしまう大工、色を知りぬいた画家など、戦場にいても大して役には立たないが、ジャスパーの目指すイリュージョン作りには欠かせない人員をかき集めてきた。
そうしてジャスパーのカモフラージュ部隊は誕生したが、しかし仕事がなかった。彼らは、自らに何が出来るのか示すことが出来ないでいたし、上官も彼らに何が出来るのかさっぱりわからなかったのだ。
そんなジャスパーの元にやってきた最初の任務は、なんと魔道士との闘いだった…。
というような話です。
いやー、これはもうハンパなく面白かった!!面白いだろうなとは思ってたけど、まさかこんなに面白いとは思ってなかったんで、ホントにびっくりした。
本書では、ジャスパーが様々なイリュージョンを生み出すのだけど、その一つ一つの詳細を書いてしまうとちょっと興ざめだろうなと思うので、その詳細には触れない。ホントは言いたくて言いたくて仕方ないけど(こいつら、マジこんなとんでもないことやったんだよ!と、全然関係ない俺が自慢したくなる 笑)、それは自重しよう。でも、ふんわりとでも伝えたいので、各章の章題だけ列挙してみようと思う。

「入隊志願」
「最初の任務」
「カモフラージュ部隊、結成」
「戦車をトラックに見せかけるわざ」
「アレクサンドリア港を移動せよ」
「ゴミの山から軍隊を作り出せ」
「スエズ運河を消せ」
「エジプト宮殿でのスパイ活動」
「命がけのイリュージョン」
「第二十四”ボール紙”旅団」
「折りたためる潜水艦」
「戦艦建造プロジェクト」
「失意と絶望の日々」
「砂漠での失敗」
「刻々と変わる戦況のなかで」
「史上最大の偽装工作」
「司令官からのメッセージ」
「ニセの戦車で奇襲をかけろ」

さてどうだろう。なかなか興味の引く章題ではないだろうか。読むと、さらに驚かされる。どう考えても不可能だろうと思われるミッションを、彼らカモフラージュ部隊は次々と成功させてしまうのだ!
本書は戦争を背景にした作品で、実際に戦闘の場面や、あるいは歴史的事実がどうなっていたのかというような描写も出てくるのだけど、でも全然戦争の本を読んでいる感じがしない。それは、彼らカモフラージュ部隊が、自らの任務を実に楽しげにこなしているからだ。
そもそも彼らは、前線にいるわけではない。かなり安全な場所で、カモフラージュに必要なアイデアを練り、体を動かして様々なものを作り、そしてテストした。それは、そこだけ切り取れば、戦争とはかけ離れたもののように感じられるかもしれない。
実際、彼らもそう感じていた。
彼らは、自分たちが不可能を可能にするとんでもないイリュージョンを次々に成功させていったことを誇りに思っていたし、自分たちの功績の大きさも理解していた。しかしそれと同時に、結局砂漠でちまちまと罠を張っているだけの部隊で、自分たちは砲弾も銃弾も轟音も、ほとんど経験することなく戦争に参加しているということに対する罪悪感や怒りや不安みたいなものも持ち合わせている。特に、ジャスパーが顕著だった。
ジャスパーは、自分の家系が偉人を輩出していることを常に意識していた。自分も、これまでの先祖たちに負けないだけの功績を残したい。そんな風な野心もあった。しかし、結局自分がやっていることは、大したことではないんじゃないか。実際銃を構えて戦いに挑むのと比べたら何ほどのこともないのではないか。そんな謎めいた罪悪感に駆られもする。
本書は、確かにどのようにしてイリュージョンを生み出して言ったのかという話でもあるのだけど、ジャスパーを始めとするカモフラージュ部隊の面々の悲哀や生き様みたいなものも描かれていく。イリュージョンのアイデアや実際の戦闘での活躍も実にワクワクさせられるのだけど、彼らカモフラージュ部隊の人間模様も、また面白い。
実際、こう言ってはなんだけど、本書はドラマのような展開を見せる。失礼を承知で書けば、あまりにも出来すぎているんじゃないかと思うくらい、様々なことがおこり、様々な状況に見舞われる。
その度に、ジャスパーを始めとするカモフラージュ部隊は、それぞれの試練に立たされることになった。特に、ジャスパーは。ジャスパーは、慢心していた過去の自分に嫌気が差し、休む暇もないくらい予定や仕事を詰め込みまくっても、忍び寄る後悔や恐怖にさいなまれるようになる。ジャスパーは実際、戦争の歴史に新たな歴史を刻み込んだ人間だ。それまで行われていた『カモフラージュ』とはまるで次元の違うアイデア・戦略を生み出し続けたジャスパーは、戦争の常識を変えたと言ってもいいだろう。しかし、ジャスパー自身は、あらゆる感情と戦うことになる。
ジャスパーだけではなく、お調子者のマイケルや、寡黙で仲間を作ろうとしないフィリップなど、砂漠での戦闘(しかも前線ではない)という特異な状況の中で、様々な変化を見せていくことになる。ジャスパーが生み出すイリュージョンも素晴らしい。でも、ただそれだけの本というわけでもない。本書は、戦争に新たな歴史を刻み込んだカモフラージュ部隊の面々の苦闘の記録なのだ。
ジャスパーの類まれなアイデアから生まれ、様々な人の手によって現実になっていく様々なイリュージョンの裏側と、それが実際に戦闘でどんな風に使われどんな効果を与えたのかという部分と、カモフラージュ部隊という前例のない特殊な舞台に所属することになった凸凹な面々の人間模様という二つの軸が見事に絡み付いて、とんでもなく面白い作品に仕上がっているという感じがしました。
しかし思うのだけど、ドイツ軍のロンメルは強すぎないかい?<砂漠のキツネ>なんて異名を持つぐらいだから相当な指揮官なんだろうけど、ジャスパーらが全力投球で作り上げたイリュージョンを次々仕掛けても、ドイツ軍はなかなか倒れないのだ。逆に言えば、ロンメルがあっさり倒れなかったからこそ、ジャスパー率いるカモフラージュ部隊は活躍できた、という言い方も出来るだろう。何にしても、指揮官の違いによってこうも戦闘というのは変化するのだなと痛感させられました。
本当は、ジャスパーらがどんなイリュージョンを見せたのか、そして彼らカモフラージュ部隊をどんな状況が襲ったのかなんかを、かなり詳細に書いてしまいたいのだけど、やっぱりそれは興ざめになるだろうから止めておきます。そうなると、なかなかたら嬉しいなと思います。久々に、ここまでド級の面白さのノンフィクションを読んだなという感じがします。とにかく、すっげー面白いです!是非是非読んでみてください!戦争について、歴史について全然知識がない人(僕のことです)でも全然楽しめる作品です。すっげー面白いですよ!

デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ」



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1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)