黒夜行

>>2012年04月

検証 財務省の近現代史 政治との闘い150年を読む(倉山満)

内容に入ろうと思います。
本書は、内容紹介をし始めると実に長くなると思うので、先に読後の感想を書いておきましょう。
メチャクチャ面白かった!
たぶん面白いだろうなぁ、って感じで読み始めたんですけど、読み始める前に思った以上に面白い作品で、これは素晴らしいと思いました。
本書をひと言で説明しようとすればこうなります。

『財務省(旧大蔵省)から見た、明治維新以来の日本の歴史』

これはつまり、こういうことです。

『お金から読む日本の歴史』

本書は、予算権限を持つ大蔵省の動向・大蔵省を操る政治家の動き・実際のお金の流れと言った観点から日本の近現代史を見た場合、「常識的な歴史観」がどんな感じで覆るか、ということを様々な場面で示す作品です。
そして、本書の最終的な目的地はこうです。

『何故財務省は、増税をしようとしているのか』

本書には、元々大蔵省の伝統には、増税というものはなかった、と書かれています。大蔵省は、増税という「悪手」を使うことなく、エリート揃いの智慧と、政治家ともやりあえるほどの度胸などによって、日本の経済を守ってきた存在でした。本書の「おわりに」でも、こんな風に書かれています。

『明治以来、大蔵省ほど、絶大な力を持ちながらも注目されてこなかった組織はないでしょう。しかし現在、財務省は日本の歴史上、最も注目されていると言っても過言ではありません。その注目のされ方は、長期デフレ不況。大震災の最中に増税を強行しようとしている「悪の権化」としてです。
しかし、繰り返しますが、これは財務省だけでなく、国民にとって不幸なことだと思います。大蔵省は明治以来、日本の近代化を支え、間違った時流に抗し、敗戦から高度成長の繁栄へと導いてきた組織です。大蔵官僚こそ、常に黒子として日本に尽くしてきたのです。その様子の一端は、本書で述べた通りです。この歴史を抜きにして、いま行われつつある目の前の現象だけを取り上げても、本質は決して見えてこないでしょう。また、そうであっては未来への解決策も見つからないでしょう。』

本書を読むと、何故今財務省が「増税」を「したくないのにしなければならいのか」が分かります。その二つの理由を端的に書くと、

『政治の再現のない財政拡大圧力を抑制する自信がないこと』
『日銀の独立により金融政策の自由を奪われたこと』

です。
前者については、主に田中角栄や竹下登らによる暗黒時代の記憶があります。大蔵省は、様々な歴史の変転を経て、ある時から最強の官庁として、時には政治家さえも抑えこむほどの権限を持つことになります。しかし、様々なことがあり、田中角栄や竹下登と言った政治家に翻弄される中で、大蔵省や財務省は、政治家の暴走を止めるだけの力を持てなくなってしまいました。本書では、その流れが示されます。
そして後者については、元々大蔵省の一機関でしかなかった日銀が、新しく制定された日銀法によってほぼ独立常態となり、財務省が管理し切れなくなってしまった、という現実があります。この日銀の話は後半のほんの少ししか出てきませんが、現在の長期デフレ不況の大きな原因の一つが、日銀の暴走、そしてその暴走を結果的に保証することになっている日銀の独立にあると書かれています。
これだけでも充分に興味のある内容ではないかと思います。今、デフレがどうだのと言った様々な本が出版されているけれども、大蔵省や財務省の歴史や背景などを読み解くことで現在のデフレを説明するような本というのはなかなかないのではないかと思います。著者自身も、本書を執筆する過程であれこれ調べている中で、自分自身でも知らなかったことが山ほど出てきて、そうであれば一般の国民はまず知るはずがないと思ったと書いています。確かにそうだろうなぁと思います。
でも、本書の面白さは、現在の「増税」という悪手を説明してくれるというだけではありません。
というかそれは、あくまでも本書の目標の一つであって、本書の大きな目標というのは、『大蔵省の歴史から日本の歴史を読み解く』というものです。
これがまあ面白い。僕は、ホントにホントに歴史に関する知識がなくて、歴史ってものを基本的に嫌悪しているんだけど、本書は、大蔵省がその発足時から記録し続けている『正史』である「財政史」や「大蔵省史」などの公にされている公式の記録を丹念に読み解き(「おわりに」の中で、現存する当事者に取材をして執筆するべきだとは分かっているけど、それは私の手に余る、とか枯れていて、つまり本書は基本的に、先に挙げたような大蔵省が残し続けている記録を元にして描かれています)、そこの記述をなるべくそのまま受け入れることで、「常識とされている歴史観」を結果的に覆すことになっている、という点が実に面白いです。もちろん、歴史に関する知識のない僕には、本書で否定されている「常識とされている歴史観」が本当に「常識」なのか判断は出来ないのですけども。とはいえ、お金の流れを元に歴史を読み解くという視点は相当に面白く、なるほど「予算権限」を握るということはこういうことなのか、と実感させられました。
というわけで、以上が長々とした前置きで(笑)、これから内容をざっくりと紹介したいのですけど、まず全体の流れをざっくり説明したその後で、本書の中で僕が凄く面白いと思った部分について触れようと思います。

明治維新というのは要するに、藩毎にお金を集めて使うんじゃ効率が悪いから、国でまとめて集めてそれを諸外国と対抗するのに使おう、というものでした。つまり、お金を集めて、そしてそれを使う部署がいる。というわけで大蔵省が設立されます。内務省というものも設立され、地方自治に関する雑務はその内務省が引き受けることになったので、大蔵省は超優秀な人材だけを集められるようになります。当初大蔵省の官僚は、自分たちは非政治的な存在であると思っていたようです。
当初は、お金を集める「主税局」が主流だったのが、予算を承認する衆議院を押さえた大蔵省は、そこから、税金を使う「主計局」が主流となり、ここで強権を振るったのが、城山三郎の「男子の本懐」の主人公であった井上準之助です。後で書きますが、本書は「男子の本懐」を『世紀の悪書』とします(物語の面白さは認めていますが)。
予算権限を握った大蔵省は最強です。軍部でさえも、陸海軍が共に、相手に予算を取られたくないという思惑から、大蔵省には頭が上がりません。二・二六事件で高橋是清を失った大蔵省は痛手を負いますが、しかしその最強は揺るぎません。
しかしこの時代、世間一般には無名だが、大蔵省としては最も許しがたい人物が蔵相につきます。それが、馬場鍈一です。この馬場が、初めて大蔵省に「増税の遺伝子」を植え付けます。それまで、どれほど苦境に立たされようが、井上準之助も高橋是清も増税だけは口にしなかったものを、馬場を止めることが出来なかった大蔵省は敗北を喫します。結果的にこの馬場の暴走が、歴史学では「軍部の独走」と評される様々な出来事の布石となり、現在に至るまで禍根を残すことになります。
敗戦後の大蔵省は、日本を弱体化させようとする占領軍と闘いますが、その内次第に、内側から日本を弱体化させようという勢力の存在に気づきます。アカ、いわゆるソ連のスパイたちです。大蔵省は彼らとも闘い続けます。
池田勇人がグランドデザインを成功させますが、その後田中角栄が台頭し始め、衆議院を掌握し族議員たちに予算をバラマキまくる田中角栄を大蔵省は抑えることができなくなっていきます。
その後、大蔵省と当時の蔵相だった竹下登が組んで、10年の準備期間を経て田中角栄を打倒しますが、しかし今度は竹下登が田中角栄以上に暗躍し、大蔵省は連戦敗北というような様相を呈していくことになります。
そうした中で、大蔵省は若干の権限を奪われ、名前を財務省に解明させられ、かつては下部機関であった日銀が独立し、と様々な敗北を喫する中で、政治家の介入も抑え切れないし、独立した日銀にも介入できないのだから、もう「増税」以外打つ手がない、というところまで追い込まれてしまうことになりました。経済原則から判断して当然である「お札を刷る」という施策を日銀が一向にしないが故に続いてしまっている長期デフレ不況。財務省は、あらゆる権限を奪われ、連戦敗北という状況の中、国を維持するために仕方なく「増税」を主張している。
というような内容です。
僕の理解が間違っている部分も多々あるかもしれませんが、大雑把に言うとこんな感じの内容です。
僕は歴史の授業が本当に嫌いだったので、授業をほとんど聞かずに内職をしてました。だから、歴史をどんな風に教わったのか覚えていないんですけど、本書のように、『お金の流れやそれに伴う権限』なんかを中心に歴史を語るなんて授業はまずなかっただろうと思います。本書では、『お金』という観点から見た場合、満州事変も盧溝橋事件も小泉首相の大勝利も財務省による「増税」の主張も、全部ちょっと違った風に見えませんか?という視点を提示してくれる作品で、実に面白い。特に、昭和史では「軍部は最強だった」と語られることが多いらしいんですけど、本書を読む限り、陸軍も海軍も結局予算権限を持つ大蔵省には頭が上がらないし、上がらないどころか軍部が大蔵省の官僚に露骨に接待をしたりなんていう描写もあって、これは面白いなと思いました。田中角栄が闇将軍などと言われていたけど、実は竹下登の方がもっと暗躍していたなんて話とか、敗戦後大蔵省は、外務省並に英語が出来るエリート揃いだから、占領軍に対してないことないこと吹きかけて大蔵省という組織維持に走ったなど、面白い話が満載です。後半の方になってくると、人間関係やら利害関係やらが複雑になって、なかなか追うのが難しくなっていっちゃうんですけど、前半は構図や人間関係もシンプルで、凄く面白いなと思いました。
本書で最大に面白いなと思ったのが、先にチラッと挙げた、城山三郎の「男子の本懐」について。
僕は「男子の本懐」を読んでないので、本書に書かれていた内容からざっくり説明すると、高橋是清と意見を異にしていた井上準之助という立場の弱い政治家が、「金解禁」という秘策をどうにか実行するため、強大な抵抗勢力に立向いついにこれを成し遂げるまでを描いた作品、だそうです。
著者は、「男子の本懐」の物語は素晴らしく面白いと書きながらも(「書かれている話が嘘だとわかっていても感動してしまう」と書いています)、大きな三つの誤りがあるために、この作品は「世紀の悪書」だと断言します。
それは確かに、本書で描かれていることを読むと納得できる話で、逆に、どうしてこんな井上準之助の話が、「男子の本懐」のような感動話になったのだろうか、という方が不思議だなという感じがします。三つの誤りについてはここでは書かないので、是非読んでみてください。
他にも触れたい話は山ほどあるんだけど、一つ一つ書いてるとなんか全部紹介する感じになっちゃいそうで、止めておきます。後は、いくつか気になったものを引用しながらあれこれ書いて終わろうと思います。

まず、高橋是清について。本書を読んで僕は、高橋是清という人物にメチャクチャ興味が湧きました。高橋是清という人は、経済的な危難を乗り切る天才だったようです。ある時、大蔵大臣の失言から始まった恐慌を、高橋是清はお札をすることで収束させようとします。この時、「間に合いません」と言い訳する大蔵省や日銀に対して、高橋是清はこう言い切ったそうです。

『だったら裏面は白紙でよい!』

凄いですよね。なかなかこんなこと言えないんじゃないかと思います。裏面が白紙のお札とかって、まだどこかに残ってたりするのかなぁ。凄いレアそうな気がします。

次は、池田勇人。池田勇人についても結構関心があるんだけど、池田勇人についてはこの文章が素晴らしい。

『池田のグランドデザインは、こうして見事に実現しました。有能な人材の英知を結集し、責任者が勇気を持って決断すれば、理想は実現できるという実例です。
平成のエコノミストは「もはや経済成長はできない」などと、あきらめ気分の物言いをしますが、成長は天から降って湧いてくるものではないのです。人間の努力で生み出すものなのです。』

次は、国債についての話。日本の借金がとんでもない金額で、みたいな話がありますが、こんな一文があります。

『大蔵官僚は経済学研修という講座を必ず受講するのですが、もし「日本は国債発行という借金で破産する」などと言う大蔵官僚がいたとしたら、その人はこれまで一体何を学んできたのかという話になります。』

これは、最終的に国債を強制的に日銀に引き受けさせればいい、という話のようで、どうして日銀が引き受ければ全部オッケーになるのか、僕にはよくわかんないんですけど、とにかく赤字国債で国が破産することはない、らしいですよ。

最後に日銀とデフレ不況について。

『デフレ不況の最も単純にして最大の処方箋は「お札を刷ること」です。それは、経済理論では基礎中の基礎dえあり、歴史的事実としても有効性は証明されています。しかし、歴代日銀総裁は頑としてお札を刷ることだけは拒否します。』

詳しいことはわかりませんけど、お札を刷ればデフレは解消されるらしいですよ。お札、刷って欲しいものですねぇ。

というわけで、メチャクチャ面白い新書でした。予想以上の面白さだったなぁ。僕は、経済と歴史と政治についてはホントに無知と言っていいレベルで、基本的な知識さえまったく持ちあわせていません。だから、特に後半、なかなかついていくのが大変だったんだけど、でも全体としては非常に読みやすく、知識のまるでない僕にも楽しめる作品でした。世の中には、デフレがどうの日本の借金がどうのという本が山ほどありますが、本書で描かれていることの真偽はともかく(僕には判断できませんよ、という意味ですが)、大蔵省の歴史から日本の歴史を読み解くことで、何故現在のような状況に陥ってしまったのか、という流れが分かる本書は、実に素晴らしいテキストではないかなという感じがします。是非是非読んでみてください。

倉山満「検証 財務省の近現代史 政治との闘い150年を読む」



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あんぽん 孫正義伝(佐野眞一)

内容に入ろうと思います。
本書は、ソフトバンクの社長であり、東日本大震災で個人で100億円の義捐金を出して話題になり、常にその動向が色んな意味で注目される孫正義の評伝です。
とはいえ、そこらの孫正義伝とは中身が違う。
僕は別に他の孫正義伝を読んでいるわけではないのだけど、本書では孫正義自身が著者に、「本当によく調べていますね」と何度も感心する程、佐野眞一はとんでもない深みにまで潜り込んで孫正義の背景を追う。孫正義自身も知らなかった数多くの事実を引きずり出し、孫正義に懐かしさを感じさせる事柄を引っ張り、そうやって孫正義という人物を一段も二段も深い階層から描く評伝です。
もしあなたが、孫正義について「だけ」知りたいということであれば、別の本をオススメします。本書は、孫正義について「だけ」の本ではない。
本書は、孫正義を含む三代にわたる「孫家」の物語であり、戦後の日本で苦汁をなめさせられた在日朝鮮人の物語であり、炭鉱や暴力や差別などを背景にした戦後の日本の物語でもある。
本書の構成は、なかなか巧い。読み始めは、孫正義自身とその父三憲、そして三憲の母である李元照の話が多い。
九州の炭鉱町にあった朝鮮部落で生まれた孫正義の生活環境は、なかなかにとんでもない。養豚と密造酒で生計を立てていた一家は、糞尿にまみれ、雨が降れば膝下まで浸水する家屋の中で、孫正義は必死に勉強をしたという。豚のエサである残飯を回収するための祖母が引く荷車に、孫正義もよく乗ったという。朝鮮人への差別ももちろんあり、彼らは「安本」という日本名を名乗り、朝鮮人であることを隠して生きていた。
孫正義はそういう環境の中で生まれた。まずこの、孫正義が生まれ育った環境の描写だけでも、度肝を抜かれる。
一家は養豚と密造酒で金を貯め、三憲の商才もあって、金貸しやパチンコなどの事業も始める。だから、ある時期から孫正義は、一転して裕福な環境の中で育つことになる。しかしとはいえ、差別は以前としてあり、また一家の大黒柱である三憲が吐血して窮地に陥るなど、孫正義を取り巻く環境は落ち着かない。
そんな中で、三憲からある種の帝王学を学びながら育った孫正義は、子供の頃から恐るべき才気を発揮する。高校生の時に、担任の先生にオーナーになってもらって塾の経営をしようと考えた辺りなんか、もう発想がむちゃくちゃである。孫正義はとにかく、子供の頃からバイタリティと行動力に溢れ、しかも面倒見もよく常にリーダー的な立ち位置にいたという。
そこからアメリカに留学、とある発明をきっかけに資金と最大の支援者を得、そこから駆け上がっていくさまが描かれていく。
中盤では、ソフトバンクの歴史の中の汚点と、東日本大震災から端を発する孫正義の脱原発に関する話がメインとなる。
ソフトバンクの歴史の汚点とは、かつて孫正義が瀕死の病に冒された時に社長として迎え入れた大森という二回りほども歳の離れた男に対する処遇である。またここでは、ソフトバンク設立当初の孫正義の奮闘や、稲盛和夫らとの関わりなど、ソフトバンク最初期の記憶を持つ人物への取材が多くなされる。
脱原発に関しては、孫正義へのインタビューを中心に、孫正義へ向けられる批判や再生エネルギーへの可能性など、東日本大震災前は原発に対して賛成でも反対でもなかったという孫正義が現在進行形でが取り組んでいる事柄について触れられている。
そして、その脱原発に絡めて、孫正義の母方の一族についての精力的な取材の顛末が描かれる。
冒頭からしばらくはずっと、孫正義の父方(つまり三憲)の一族についてしか触れられていなかった。これには理由がある。母方の一族への取材が困難だったからだ。
孫正義の母方の祖父・国本太郎は、三井山野炭鉱で働いていた。その国本は既に故人となっており、国本と一緒に暮らしていたという女性も没していた。ここから、母方の一族への取材の突破口がなかなか見つからなかった。
しかし、書店で手に入れたとある写真集がその突破口となる。こうして佐野眞一は、孫正義も知らない、もちろん他の孫正義伝がかすってもいない、孫正義の母方の一族についての取材を進めていく。
その核は、三井山野炭鉱で起こった、戦後炭鉱での二番目に規模の大きい事故である。その事故で息子を亡くした国本の描写を中心に、戦後朝鮮人に炭鉱での仕事をさせていた日本の暗部に斬り込んでいく。そして、やや牽強付会だろうと思いつつも、かつてエネルギーの中心だった炭鉱と、孫正義の脱原発を結びつける内容になっている。
本作は、週刊誌で連載されていたものをまとめたものなので、その時点での取材進み具合によって各章の内容が決まる。だから、章毎にまとまった構成になっているのではなく、取材の時系列に沿って様々な事柄を詰め込んでいくので、全体を見通した内容紹介をしにくいのだけど、こういう感じで、孫正義という人物を中心として、孫正義の生い立ちはもちろんのこと、孫家三代に渡る背景を丁寧に引きずり出していくことで、稀代の実業家・孫正義という人物を炙り出していく作品です。
うん、これはメチャクチャ面白かった!個人的にちょっと難癖をつけたい部分もあるのだけど、内容は滅法面白いし、惹きこまれる。これは、孫正義という個人に格別興味がなかったとしても、グイグイ読まされてしまう作品だろう。かく言う僕も、孫正義という個人にそこまで強く関心があるわけではない。携帯はソフトバンクのものを使っているのだけど、ソフトバンクの携帯ってあんまり好きじゃないし、ソフトバンクという会社もそこまで強く好きなわけでもない。ツイッターでのやり取りから即断・即決する姿は素晴らしいと思うし、東日本大震災以降の大車輪のような活動も素晴らしいと思うのだけど、これまで僕は孫正義という個人にそこまで強い関心を持ってこなかった。
それでも、本書はとんでもなく面白かった。まるで小説のよう、なんて表現をするとなにか違和感があるのだけど、作り物なのではないかと思ってしまうぐらいの圧倒的な環境・状況・生き方には圧倒されっぱなしだった。本書を読んで、孫正義という個人に関心を持った、と言っても言い過ぎではない。それぐらい、孫正義というパーソナリティは、孫正義自身も意識していないかもしれないとてつもない背景を背負っている。
本当に、凄くないエピソードがまったくないという感じの内容なので、どの辺を切り取って感想を書いたらいいか悩むのだけど、印象的だった文章を抜き出したりしながら、いくつか内容に触れてみようと思います。

『いや、おじさんたちはそう言うけど、孫という本名を捨ててまで金を稼いでどうするんだ、と言いました。それがたとえ10倍難しい道であっても、俺はプライドの法を、人間としてのプライドを優先したいと、言いました』

孫正義が起業した際、「安本」という日本名ではなく「孫」という本名で通したことについて、親族から猛反対されたことについての話。
孫正義と在日という話は、本書に通底するテーマだ。本人は日本で生まれ日本で育ち、現在では帰化もして戸籍上でも日本人になっている。生まれ育った日本のことを愛し、このままでは日本はマズイという危機感から、日本人としてこの国をどうにかしようと奮闘しているのだけど、しかしその行動は、在日の癖に、というような意味のない批判にさらされ続けている。
孫正義は子供の頃、教師になりたかったという。しかし、国籍の問題から難しいと知り諦めた。東大に行ける学力があったけど、東大を出ても国籍の関係で官僚になれないと知って諦め、孫正義は高校の時にアメリカの高校に編入する。
結果的にそれが、孫正義がIT会社を起業するきっかけを生み出すのだけど、まあ孫正義なら、日本にいてもどういう形でかできっと起業していただろうし、成功していただろう。
孫正義は、日本に住む在日朝鮮人の人たちのためにも、本名で会社をつくることが大事なのだと思っていたそうだ。自分が本名を隠して起業して、成功してから実は…と名乗り出たところで信頼されない。それが厳しい道だと分かっていたけれども、孫正義は信念を通す。
名前については、帰化する際の話もべらぼうに面白い。孫正義は法務局に帰化申請を出すが、常にはねのけられていた。なぜか。日本には「孫」という名字がない、前例のないことは出来ない、という理由だった。そこで孫正義は一計を案じ、この問題を解決した。自分の信念を貫き通すために出来る限りのことをやる、というのがやっぱり凄い。


『―孫さんに対する世間の風当たりが強いのも、そんな社会風土が背景になっている。
「だと思いますね。いわゆる新興企業は成金であり、いかがわしい、悪いことをして伸びてきたに違いないと。それはもう日本人の中に信仰のようにあるんじゃないですか」』

本書で佐野眞一は繰り返し、自身の中にあるという「孫正義という男に対する違和感」について言及する。それは、孫正義が在日だからでも、一通信事業者なのに国策についてあれこれやっているからでもない、という。佐野眞一が本書に関する取材を続けている原動力みたいなものも、その違和感の正体を突き詰めるためだ、というようなことが書かれていた。
佐野眞一の孫正義に対する違和感の正体については、まあ本書を読んでもらうとして、実際孫正義に対する風当たりはなんか強い気がする。
孫正義にさほど関心がなかった僕でさえも、そういう感覚がある。なんか凄いことをしている気がする人なのに、なんでこんなバッシングされるんだろうこの人、という印象が。
本書を読んで、僕が孫正義という個人に強く関心を持った。様々な評価があるだろうけど、これだけ実行力があり、現実に行動をしているというだけで、評価に値すると思う。しかもその行動というのは、誰しもが踏み入ることが出来ないような、ある意味で荒野のような場所での行動だったりするのだ。その一例を次で挙げようと思う。


『僕は福島に行く前日、西日本を中心に十七の県知事に直接電話でかけあって、合計三十万人分の被災者の受け入れ枠をとっていたんです。佐賀県だけで三万人。避難民が二十数万人というから、じゃあ三十万人分、屋根付き、畳付き、風呂付きで、無償で受け入れます。食事もy病院も学校も、全部受け入れ準備をしますと。そのうえで福島に乗り込んだ。僕はただ理想論を言ってるんじゃない。』

これはちょとと感動した。僕は福島に関係する本をいくつか読んでいて、放射線量を測ったり、現地の状況を外部に伝えたりと、様々な貢献をしている人の話を知っている。しかしこの孫正義の話も、とんでもなく素晴らしくないか?本来であれば、震災直後に政府が主導となってやっているべきことだろう。それを、一通信事業者の社長である孫正義が自分の裁量で行動し、確約を取り付けてしまう。こういう、口だけではない男の行動力というのはもっと評価されるべきだと僕は思います。

再生自然エネルギーの研究のために、福島にへの100億円の義捐金とは別に、個人資金から10億円だして研究に充てると発表した孫正義は、「脱原発とか言ってるのはどうせ金儲けや人気取りのためだろう」というような批判がなされたという。
しかしそれに関しても、こんな文章がある。

『「(略)このとき、電気がないと通信はつながらないんだということを、改めて理解しました。腹の底からね」
これが、孫が脱原発事業に乗り出すそもそものきっかけとなった。孫の脱原発宣言は、一部で言われたように、人気ととりのためのパフォーマンスではなかったのである』

こういう部分が、なかなか見えてこない。僕が知ろうとしていないだけかもしれないけど、先ほどの県知事に直接談判した話なんかも、積極的に知ろうとしていない人のところに届くぐらいもっと広まってもいい話なんではないか、という気がします。でも、こういう部分はなかなか表に出ない。あげく、どうでもいいところを指摘されて揚げ足を取られたりする。孫正義がどんなモチベーションに裏打ちされて、日本と日本人にとって良い(と孫正義が信じる)こと莫大なバイタリティを持って進められるのは、それが本書からなかなか見えてこない部分が若干残念ではあるんだけど、本当に素晴らしいと思いました。

わかりやすく説明できる部分がどうしても孫正義に関係する部分に多くなってしまうのだけど、もちろん本書で描かれる、孫正義以外の孫家三代の物語もべらぼうに面白い。何よりも凄いなと思うのは、在日朝鮮人の人たちの熱さと証言の噛みあわなさ。親族でさえも商売の邪魔をし、親族間で憎しみ合いがそこかしこで発生するような環境で孫正義は育った。自分の意見を曲げないというか、曲げないどころか膨らませたりして、肥大していく。だから、個々の証言がかみ合わなくなる。矛盾するいくつもの証言を、佐野眞一なりに選別して、恐らくこれが真実だろうというものを引きずり出していく。その過程で、在日朝鮮人の方々のこれまでの苦労や、そうでなければ生きてこれなかったという背景がにじみ出てくる感じがあって、そういう点も面白い。
ただ、本書について一点だけ難癖をつけたいのは、著者である佐野眞一が作中に出すぎていて、僕としてはもっと、客観的な視点での作品を読みたかったな、という感じがします。もちろん、佐野眞一視点が作中に組み込まれることで、作品が面白くなっているなと感じられる部分もある。だから、一概に悪いとも言えない。けども、孫正義とその一族の話を読んでいるはずなのに、佐野眞一自身の意見を読むことになる部分が実に多くて、ちょっと辟易してしまう部分があった。佐野眞一の著作を読んだのはこれが初めてで、他の作品がどうなのかわからないから、大体佐野眞一の著作というのはこういう感じなのかもしれないけど、個人的にはそこが若干気になりました。
とはいえ、「孫正義伝」としては滅法面白いです。べらぼうに惹きこまれるし、今孫正義という個人にさほど興味がない人でもグイグイ読まされてしまうと思います。僕は本書を読んで、それまでと比べて格段に孫正義という個人への興味が増しました。是非読んでみてください。

佐野眞一「あんぽん 孫正義伝」



父と暮らせば(井上ひさし)

内容に入ろうと思います。
本書は、井上ひさしが舞台でやった演劇の書籍化です。会話と若干の説明文で進行する、いわゆる戯曲です。
広島における原爆投下(ピカ)から三年経ったある日のこと、ごく普通の家の中で舞台は進行する。登場人物は、ピカで奇跡的に生き残った美津江と、ピカで命を落としたその父竹造(の幽霊)です。
雷が鳴り響くその日、恐怖に駆られながら家にたどり着いた美津江はすぐさま押入れまで行くと、そこに死んだはずの父がいた。なんで雷なんか怖くなったんだろう、という美津江に対して竹造は、ピカのせいだろうと言って、他にも近所の人の話を引き合いに出す。父の感じは、自然だ。
図書館に勤める美津江は、原爆に関係する資料を収集し、図書館にまでそれを探しにやってきた木下という青年のことが気になっている。
が、美津江はそんなそぶりはおくびにも出さない。
美津江のそんな気持ちを知っている竹造は、美津江と木下青年との仲をどうにかしようと、応援団長を買って出る。しかし美津江は、自身でも好いているはずの木下青年との関係を、自らの手で踏み潰そうとしている。
何故か。
美津江は一体、何に悩んでいるのか…。
というような話が展開されます。
これは良かったです。巻末のあとがきや解説を読んで、なるほどそういうことなのかと思った部分もあるような、実に浅い読み方しか出来ない男ですけど、いい話だなと思いました。
僕は、原爆に関係する話をほとんど知らないし、本もほとんど読んで来ませんでした。唯一原爆絡みで読んだことがあるのは、こうの史代「夕凪の街 桜の国」というコミックです。他のことについてはほとんど知りません。
ちょっと自分の中できっかけがあって、しばらく原爆に関する本をちょろちょろと読もうと思っています。その第一弾です。
原爆が酷いものだというのは、僕はイメージでしか知らない。広島と長崎でどんなことが起こり、どんな事実があり、どんな状況であったのかというようなことを恥ずかしながら全然知らないので、「とんでもないことが起こって、とんでもない事態だったんだろうなぁ」という、漠然とした印象しか持っていない。
いかんな、と思うのだけど、それについてはこれから読む本で知識と想像を補おうと思います。
本書の舞台は、ピカから三年後。美津江の家の外のことは、若干竹造が話す世間話から察せられるぐらいで、後は木下青年の話がチラホラ。基本的には、美津江と竹造の生活しか見えない。美津江は運良くピカを生きのびることが出来、残念ながら父は亡くなった。そして木下青年は原爆資料を収集している。原爆に関して本書から具体的に分かる事実はこれぐらいなものだ。そういう意味で、原爆に関して知識を得るような作品ではない(当然だけど)。
本書では、原爆というものが『人間の内側』に残した大きな大きな爪痕が描かれる。
原爆はもちろん、モノやヒトを破壊した。街が失われ、川は干上がり、人々は溶け、あるいは重大な後遺症を負った。
しかし、原爆がもたらしたものは、そうした『目に見える』影響だけではない。
そこまでは、頭で考えていても分かる。しかしそれ以上のことは、なかなか想像だけでは辿りつくことは難しい。
本書ではそれを、戯曲の形で炙り出している。
美津江は、木下に惹かれながら、しかし恋をしてはいけないと自分を戒める。それはなかなかに頑なで、竹造がいくら何を言っても、どうにも美津江は首を振るばかり。
何故か。
本書は、それを解き明かすミステリ、というような構成ではないので、別に書いちゃってもいいんだろうけど、まあある程度は興を削ぐことになるだろうからそれは直接的には書かないことにしようかな。
とにかく美津江は、自分の気持ちに封をして、木下青年と寄り添いたいと願っているのに、そうできないでいる。竹造はそんな美津江のことを不憫に思い、どうにかこうにか美津江の心を開かせようと奮闘する。
美津江の気持ちを「わかる」という勇気は僕にはなくて、やっぱりそれは、今も原爆の被害を引きずる人を含め、経験した人にしかなかなかわからないだろう。でも、それじゃあダメだ。被害に遭わなかった僕たちは、もっと知ろうとしなければいけないだろう。そして被害に遭われた方は、竹造も言っているように、何らかの形でそれを伝えようとしてほしいと思う。
どうしても3.11の話をしたくなる。
福島の現実についても僕は特に何か知っている立場ではない。すべてが想像に過ぎない。広島や長崎と福島では、違う点もきっと多いのだろう。
それでも、広島・長崎の経験はこれからの福島に役立つはずだし、何よりも広島でも長崎でも福島でもない僕たちが、そこで何が起こったのか、誰がどんな風に感じたのかを、積極的にしろうとしないにせよ、それらに対するチャンネルは常に開放しておかなくてはいけないな、と思っています。
その場にいなかった人間にとっては想像を絶する世界だっただろう現実。その土地で生きていくためには、あらゆるものを飲み込んで、同時にあらゆるものと向きあわなくてはいけない。ピカから3年たった美津江にとっても、それは同じだった。美津江にとっては、辛い3年間だった。生きている自分をどう肯定するか。その葛藤と共に生き続けてきた。そのことが、決して長くはない物語の中の、決して饒舌というわけではないだろう美津江の言葉の背景から伝わってくる。それがこの作品自体の奥行きとなって、読むものを惹きつけるのではないかと思います。
短い話だし、内容にあんまり踏み込むのもちょっと良くないかなとも思うので、あとがきと解説の話をします。
井上ひさし自身によるあとがきも、なかなかいい。
特に何が良かったかというと、『演劇であることの理由』と『劇場の機知』の話。
ほとんどの劇作家は、『その物語は舞台でしか生み出せないものだろうか』と自問するようです。詩や小説などでも同じ物語を表現できるのではないか、とかんが得るのだそうです。そして、そこを考え詰めて、どうやって『演劇であることの意味』を与えるのか。それが劇作家の務めだみたいなことが書いてあって、おぉ、かっこいいなぁなんて思いました。まあ演劇人的には当たり前のことなのかもしれませんけどね。
もう一つの『劇場の機知』は、前者の『演劇であることの理由』と関係してくる。
そうやって、演劇でしか出来ないことを追求して行くと、結局『劇場の機知』があるかどうか、に関わってくる。劇場そのものが元から持っている機知をうまく台本と融合させることで、言葉を超えた『劇場の機知』を介在したコミュニケーションを取ることが出来る。だから『劇場の機知』のある作品は、海外で演じられても内容を失わない。そんな内容でした。この話については、自分自身の実感と結びつくわけではないのだけど、でも確かに言っていることは最もだよなぁ、という感じがしました。
そして、あとがきと解説両方で書かれているのが、父・竹造は美津江の分裂した心の片割れだ、という話。実際父親が幽霊となって出てきているのではなく、竹下青年と付き合いたいと思っている思念こそが竹造の形をして出て来た、という感じで、そうい説明をされると、なるほど!という感じが強くしました。
原爆について基本的な知識に欠ける僕でも、本書は良い作品だと感じられました。是非読んでみてください。

井上ひさし「父と暮らせば」



星に願いを、月に祈りを(中村航)

内容に入ろうと思います。
小学生の大介は、児童館のキャンプに来ている。ちょっと前まで付き合っていた麻里から、ホタルを見たいと言われて、一つ下の学年のアキオと三人で、夜中に抜け出してホタルを探しに行く。結局見つけられず帰ろうと思った彼らは、道に迷ってしまう。
星空放送局というラジオの音声が、彼らの冒険に断続的に挿入される。
中学生になったアキオは、野球部に入った。キャンプで一緒にホタルを見に行った大ちゃんが先輩にいる、というのが大きかった。ナックルボールを投げようと孤高の練習を続ける稲葉に誘われてなんとなく入った野球部で、アキオは少しずつ、自分の内側にある『願い』みたいなものを自覚するようになる。
合唱部の里崎さんのことが好きだな、と思う。でも、好き、というところから、どうやって先に行けばいいのかわからない。
掌の元に、ミニーという中学生ぐらいの少女がやってくる。何故やってくるのか、分からない。けれども、一緒に御飯を食べたりしていると、なんとなく、自然な感じだ。ミニーは、家出少女だという。しかし、ちゃんと家には帰って行く。
掌は、もうずっと、夜空を見ることが出来ないでいる。
というような話です。
本書は、第一章から第三章までがメインの話で、上記の内容紹介はその三つをざっくり説明したもの。そしてそれとは別に、「挿話」と「第四章」という短い話が収録されている。
僕的には、第一章と第二章は、うーんという感じで、正直に言うと面白くなかった。決して悪くはないけど、第一章と第二章には、少なくとも僕を強く惹きつけるものはなかったです。
でも、第三章は凄く良かった。物語の立ち上がりから結構謎めいていて、ミニーという少女の存在が実にいい。どう考えてもありえないだろみたいな展開で物語が進むんだけど、なんとなくその『ありえなさ』加減が、村上春樹の小説みたいな感じがして(別に作品として似てるとかそういうことではないけど)、僕は結構面白いなと思いました。
理由もなく突然始まった関係性が、何を担保にするわけでもなく、何を保証するわけでもなく緩やかに続いていて、でもそれは決して永遠ではない。儚さを初めから内側に潜ませている関係性はなんだか寂しい気もするし、でも流れ星のように綺麗でもあったりする。第一章・第二章のように、はっきりとした枠組みがきっちりとある中で描かれる物語とは違って、ふんわりとした、何で囲まれているのかわからないような世界の中で進行していく関係性は、いいなぁと思いました。
そして第四章。この第四章で、第一章・第二章からの繋がりで考えたらちょっと意味不明だった第三章の背景がはっきりとして、なるほどそういうことか、という感じがする。確かにそういう意味で、第一章・第二章の存在は必要なのだけど、とはいえ僕の中では本書は、第三章・第四章が素晴らしいと思っています。普通小説って大抵の場合、初めがつまらなかったら最後までつまらないものなんだけど、本書は後半でかなり盛り返してくるという、僕が経験した範囲の中では結構珍しいタイプの作品かな、という感じがします。
第三章・第四章という終盤が良かったので、読後感は結構いいです。ただ個人的には、第一章・第二章は、さほどどうという話ではないような気がします。作品全体としての評価はなかなか難しいところで、もう少し前半部分から魅力的な作品だったら良かったのにな、という感じはしました。この著者の作品はあんまり読んだことがないんだけど、なんとなく恋愛小説がメインというイメージがあります。でも本書は、確かに恋愛というのは重要なモチーフだけど、恋愛小説という感じではないかな、という気がします。恋愛小説はちょっとなぁ、みたいな人でも読める作品だと思います。

中村航「星に願いを、月に祈りを」



ドキュメンタリー;リアルワールドへ踏み込む方法(村山匡一郎編)

内容に入ろうと思います。
本書は、様々なドキュメンタリー作家や演出家、学芸員などによる共著で、全体をもの凄くざっくりと括ってしまうと、『ドキュメンタリーを撮りたいと思っている人への指南書』という感じの作品です。とはいえ、ドキュメンタリーを撮ろうと思っていない人でも、読み物としてなかなか面白い形に仕上がってるんじゃないかな、という感じはします。
本書は、非常に大雑把に分けて三つの構成によって成り立っている。
一つ目は、「ドキュメンタリーを撮るにはどうするか?」という、技術的・思想的・経験的アドバイス集。「対象への愛はあるか」「ロングショットの使い方」「省略の美しさもある」など、実際にドキュメンタリーを撮りたい人向けの基本的なアドバイスみたいなものが書かれている。
この部分を読むことで、ドキュメンタリーを撮ろうと思っていない人にとっては、「なるほど、ドキュメンタリーとはそういうものなのか」という理解に繋がる。技術的な話についてはちょっとピンと来なかった部分もあるのだけど、こういう発想で、こういうスタンスで映像が撮られ編集されていくのだなという、普段なかなか知ることのないドキュメンタリー制作の裏側みたいなものをざっくりと知ることが出来る。
二つ目は、「代表的ドキュメンタリー作家のスタイル」。20人のドキュメンタリー古今東西のドキュメンタリー作家について、見開き2ページで、どんな映画をどんなスタンスで撮ったのか、というような描写がされる。基本的にドキュメンタリーを観たことがない僕には、具体的な映画名がバンバン出てきてそれについて解説されるのは、あまり興味が持てない部分もあったのだけど、ただ読みながら、これは観てみたいなぁ、と思うようなドキュメンタリーが出てくるのも事実。ドキュメンタリーを基本的に観たことがない僕としては、なるほどこれほどまでにドキュメンタリー作家にも多様性があるのだなという、まあ普通に考えれば当然のことを実感できてよかった。
三つ目は、「ドキュメンタリーに関するQ&A」。こちらは、ドキュメンタリーに関する素朴な疑問から、失敗してしまった時のリカバリーの方法など、色んな質問について複数の人が回答するという形式になっている。
そしてもう一つ。本書には、ドキュメンタリー作家である森達也と土屋豊の対談が収録されている。
というような構成の作品です。
僕は、何度か書いてるけどドキュメンタリーはほとんど観たことがないのだけど、本の方ではノンフィクションをかなり読んでいるので、ドキュメンタリーをノンフィクションと類縁性のあるものと捉えて読んだ。手法によってはドキュメンタリーの方は、その場その場の一瞬の映像にこそ意味があって、取材した内容を後から文字にするノンフィクションとは色々と趣の違う部分もあるのだけど、とはいえ、ドキュメンタリーにせよノンフィクションにせよ、現代のエアポケットのような見捨てられた・忘れられた「現実」や、あまりにも様々な主義が入り交じっていて公平な視点を維持するのは難しい「現実」など、扱いの難しい「現実」に真摯に向き合い、格闘し、そうやって作品を作り上げていく人々の姿が伝わってくるところはよかったと思う。
先程も書いたけど、やはりあまりにもドキュメンタリーを観てなさすぎて、具体的な映画名と共に語られる話にはなかなかついていくことが出来なかったのだけど、文字で読ませるノンフィクションばかりに触れてきた僕としては、映像で見せるドキュメンタリーに対する興味は以前より強くなった。とはいえ、実際に見るかどうかはまた別で、映像を見る習慣がまるでない僕には、借りたり買ったりして映像作品を鑑賞することへのハードルの高さがあるのだけど、機会があれば観てみたいなぁと思う。個人的には、成田空港建設への反対運動とか水俣病などの「大きな話」よりも、もっと個人的で「小さな話」の方が興味があるかもしれない。どんなドキュメンタリーの主人公にもそりゃあそれなりに何らかの背景があるだろうけど(なかなかそれなしにドキュメンタリーを撮ることは難しいだろうと思う)、でもその背景があまり前面に出ない形で、撮影側と撮影される側との「個人と個人の格闘」みたいなものが巧く引き出されている作品はちょっと面白そうだなぁ、と思いました。
本書には、僕の好きな森達也の話もチラホラ出てくるんだけど、やっぱり森達也はいいですね。ドキュメンタリー作家のなった経緯から、どういうスタンスえ撮影をしているのかまで、なんか凄く共感できるポイントが多いな、と思います。対談の中で土屋豊が、「森さんがクローズアップされるような世の中は駄目」と言っていて、つまりそれは、「普通」にやってるはずの森達也を「凄い」と思ってしまう人々への危惧だったり、森達也のような人がいっぱい出てきて欲しいというような希望だったりするのだけど、なるほどそれは分かるな、という感じがしました。
対談の中で出て来た森達也の話で、これは好きだなという部分を抜き出してみます。ある人との会話で森達也は、「ドキュメンタリーを駄目にしたのはズームだ」という話を聞き、その話に続けての言葉です。

『いろんなものが便利になって進化していく一方、それによってどんどん消えて行くものもある。そのことに意識的になった方がいいと思います。「欠損」って大事なんだな、なんでも かんでも足りていればいいってもんじゃないな、という気がすごくする。』

これはドキュメンタリーに関わらず、あらゆることについてそうだな、といつも思っています。便利さを自らの手で捨て去る勇気はないのだけど、便利さに『冒されて』しまっている世の中に対する危惧はあるっていう、まあ都合のいい主張だけど(笑)、でもやっぱり、『不便さ』っていうのは、新しいものを生み出すための重要な環境だよなと思ったりします(その「不便さ」を解消するための発明、という意味ではなく)。
ある程度ドキュメンタリーに関心があったり、撮りたいと思っていたり、実際にドキュメンタリーを見る機会がある人向けかなという感じはしますけど、読み物としてもそれなりには面白い作品だと思います。時間さえあれば僕も、本書で取り上げられているような、あるいはそうじゃなくてもいいんだけど、ドキュメンタリーを観てみたいなという感じがしました。読んでみてください。

村山匡一郎編「ドキュメンタリー;リアルワールドへ踏み込む方法」



蝶々の纏足/風葬の教室(山田詠美)

内容に入ろうと思います。
本書は、三編の短編が収録された短篇集です。

「蝶々の纏足」
私が5歳の時隣に引っ越してきたえり子と仲良くなってから、私はえり子から逃れられなくなった。えり子は美しく、そして自分を見せることに長けていた。えり子は、私を引き立て役にすることに決めたようだった。えり子は私のことを、親友だという。そしてえり子は言葉通り、そういう風に振舞っている。しかしそれは、私を傍においておくことで、自分が引き立つことを知っているからだ。事実えり子は、私が少しでも彼女の前に行こうとすると、優しくたしなめた。そうやって私はずっと、えり子の後ろにいる存在だった。
今私は、麦生の体に惹かれ、麦生の体を自分のものにしたいと思っている。肌を触れ合わせ、彼の肉体を眺め、そうして私は少しずつ、えり子の支配から逃れることが出来るようになった。

「風葬の教室」
転校ばかりしていた私は、また新しい学校に移った。田舎の子供たちは全然子供で、私はどう扱ったらいいのかわからなかった。私にとってどうでもいいことで、みんな騒ぐし盛り上がる。
体育の吉沢先生のことが好きな恵美子は、クラスの空気を司る人物で、その恵美子が私を除け者にし始めた。理由は簡単だ。吉沢先生が、私のことを好きだからだ。それは分かりやすすぎるほどあからさまであり、私は、別に好きでもない吉沢という教師のせいで、クラスで酷い目に遭うようになった。
その中で、アッコだけは私の理想だった。他の子供たちとは全然違った。やり取りをする機会はほとんどないけど、私はアッコの存在があるからこそ、どうにかこのクラスでもやっていける。

「こぎつねこん」
5歳の時に引っ越した社宅に血の跡があった。それから私は、本当に恐ろしいものが存在するという感覚に、時々さいなまれるようになった。叫びだしたいほどの恐怖は、何故か母親が歌ってくれた子守唄の旋律に乗ってやってくる。

というような話です。
最近僕は、「フレネミー」という言葉を覚えました。これは、「フレンド」と「エネミー」を掛けあわせた言葉のようで、「親友のフリをした敵」というような意味のようです。
まさに本書では、女同士(年齢的には「女の子」と言いたいところなんだけど、でもやっぱり「女」の方が合うかな)の関係性を、「フレネミー」的な観点から描く、という感じの作品でした。
一番好きな話は、「風葬の教室」です。小学5年生である主人公は、自分と他の子供たちとの差をなんとなく意識しながら、同時に、その『違い』がほんの些細な理由で押し広げられていく。この話では、恵美子というのがフレネミー的な存在だ。恵美子は、転校したばかりの私に話しかけ、私を輪の内側に連れて行ってくれた存在でもある。しかし、吉沢先生の件をきっかけに、恵美子は手のひらを返したように態度を変え、私のことを追い詰めていくことになる。
その過程がなかなか巧く描けていると思う。小学生ながら、まさに「女」である私、そんな私に対抗心を抱いてクラスを動かそうとする恵美子。二人の関係の変化みたいなものは強く興味をそそるし、アッコというクラスメートの存在もいい。私が唯一クラスの中で認め、周囲に迎合せずに自分を貫き通すことが出来るアッコに私が何をどう感じるのか。そういうことをひっくるめて、かなり良い作品だと思いました。蚊に刺される、という話をきっかけに、色んな価値観が反転していく過程も見事だと思いました。
「蝶々の纏足」は、私にとってのフレネミーであるえり子との関係性の話は、とても面白かった。二人はどんな風に出会い、それまでずっとどんな関係性の中にあったのか、えり子にとって私と関わることの意味とはどういうものなのか、ということが私の口から推測として語られ、その支配から逃れようと奮闘する私の姿は実にいいと思う。
ただ、麦生との話が僕の中ではまるで面白くなくて、そっちは全然ダメでした。麦生を好きになり、その体を手に入れることで、えり子が知らなかったことを知ることが出来る、えり子の一歩先を行くことが出来る、という意味合いを持つ関係性で、でも殊更に肉体同士の絡み合いみたいな描写に終始してしまう部分があって、麦生との話にはちょっと興味が持てなかったのだよなぁ。
「蝶々の纏足」のえり子にしても、「風葬の教室」の恵美子にしても、「親友なのに敵」というフレネミーという存在として登場し主人公と関わっていく、そういう部分は凄く面白かったです。女性同士の人間関係の中にはどうも必然的に組み込まれてしまいそうなこの「フレネミー」という存在は、実に厄介だし、でもこの「フレネミー」の存在が誰かを成長させることもあるのだろうなぁ、と思われました。
「こぎつねこん」は、ちょっとなんとも分からない作品だったかな。
ちょっと時間がなくてあっさりとした感想になってしまったけど、女性同士の関係性の中に宿命的に閉じ込められてしまう「フレネミー」という存在を軸に、まだ「女」になりきれていないはずの、しかし「女」と称したくなるような少女たちの姿を描く作品は、やっぱり女性には強く共感できる部分があるのではないかなと思います。特に「風葬の教室」は、なかなかに惹きこまれる話でした。読んでみてください。

山田詠美「蝶々の纏足/風葬の教室」



君たちはどう生きるか(吉野源三郎)





内容に入ろうと思います。
本書の主人公は、15歳の「コペル君」だ。コペル君、というのは当然あだ名で、本名を本田潤一という。何故コペル君という名前になったのかについては、作中で詳しい説明があるのでそっちを読んでもらうのがいいでしょう。
コペル君は、比較的裕福な家に育ち、特に不自由を感じることなく育ったのだけど、ちょっと前に父親を亡くし、今は母とお手伝いさんらの四人暮らし。そしてそんなコペル君にとって、父親的な存在であるのが叔父さんだ。本書は、この叔父さんがコペル君を見守り、ささやかに導き、その結果として、コペル君がどのように成長していくのか、それを追う物語です。
コペル君には、小学校時代からの友人である水谷くんというと、中学で仲良くなった北見君という、特に親しい友人がいました。北見君と仲良くなったのは、「油揚事件」とコペル君が呼んでいる印象的な出来事があったからで、それをきっかけにして浦川君とも仲良くなりました。
物語は、彼ら四人を中心とした学校や学校外での様々な出来事の中で、それぞれの個性がはっきりとあらわれる出来事や、皆で連帯しなくてはと思わせる出来事が起こり、そしてその度毎にコペル君は『新しい何か』を深く考え、そういう経験がコペル君を人間として大きくしていきます。
コペル君は聡明であるし、そしてかつ真っ直ぐでもある。周りの意見に流されることなく自分の頭で考えることができるし、誰かのためになることを率先して行うことが出来る。また、誰かの素晴らしい行いを手放しで賞賛することが出来る。そういう、中学生らしからぬ大人びた子どもなのだけど、でもやっぱり、あらゆることについてそういられるわけではない。コペル君でも、自分がしてしまった行動について思い悩み、心をかき乱され、思考が散り散りになってしまうこともある。そうやって、少しずつ大人になっていく。
そして、そんなコペル君を丁寧に見守る叔父さんの姿がある。叔父さんは、しばらくの間コペル君には見せないのだけど、コペル君に何かある度に、コペル君に向けた言葉をノートに綴っている。それが、実に素晴らしいのだ。叔父さんは、子どもだからと言って、思考の手を緩めることはしない。中学生には難しいかもしれない話でも、コペル君の理解力を信頼して、そのノートに綴っていく。それは、子どもがごく普通に生きている限りにおいてはなかなか思いつくことのない視点であって、そしてそれは、この作品が生み出されて70年後の僕らにとっても、鮮度を保ったまま届く。
コペル君の周囲の、非常に小さな世界を中心に巻き起こる小さな出来事をベースに、叔父さんの類まれなる視点が、それらを豊かな教訓へと変えていく。まさに、「コペル君はこんな風に素晴らしく生きている。では、君たちはどう生きるか?」と問いかけられているような作品で、背筋が伸びる。
これは素晴らしい作品だったなぁ!とある出版社の営業さんに勧められて、どんな本なのかもよく知らないままで読み始めたんだけど、凄く良かった。この本そのものが『父親』のようであり、『本物の教師』のようでもあると思いました。もの凄く大きなてのひらに包まれているような、世界にそっと受け止められているような、そういう暖かい安心感がにじみ出てくるような作品で、凄くよかったです。
今の僕はこの作品を、中高生なんかに読んで欲しいなぁ、なんて思ったりするんですけど、でも視点を入れ替えてみて、もし自分が中高生だった頃にこの作品を読んだらどう感じたかなぁ、なんて考えてみると、「けっ!」みたいな感じに思ったかもしれないなぁ、なんて思ったりもします。中高生の頃ってとかく、本書で描かれているような『真っ直ぐさ』みたいなものを、直視出来なかったりするお年ごろですからね。「はいはい、なんか素敵なこと仰ってますね!」なんて感想を抱いて終わっちゃったかもなぁ、なんて想像をしてみたりします。本書はまさに、子ども時代に読むと新しい視点が開けてくるだろう作品だと思うんだけど、この本の良さに感動出来るのは、自分が大人だからかもしれないな、なんて思ったりしました。
というのも、本書で描かれている事柄の大事さみたいなものって、大人になるにつれて、自分の経験として少しずつではあるけど認識できていくんだと思うんですね。残念ながら、生まれた環境や育ってきた環境などによって、それを自身の経験として認識できない人も出てくるわけで、大人になる過程でそういう分断みたいなものはある。だから子どもにこの本を読んでもらって、自分で経験できない可能性がある子どもにも、本書で描かれているような事柄について知ってほしい、なんて思ってしまうのだけど、でもやっぱり子どもにとっては、本書で描かれているような事柄の大事さって、まだなかなか自分の経験としては手に入れられていないもので、だからこそ実感するのって難しいかもって思うんですね。コペル君は、その歳にして、自分の経験として様々なことを体験するし、そしてそれを叔父さんという素晴らしい教師がさらに深めてくれるのだけど、なかなかそういう環境にいられる人は多くない。特に子どもは、自分が経験できていない事柄について思いも巡らせることってなかなか難しいだろうから、そういう意味で、ただ本書をポンと渡して読ませたところで、子どもにはなかなか届きにくいかもしれないなぁ、なんて考えてしまいました。
そんなことを考えたきっかけはちゃんとあって、バイト先のスタッフで、この作品を中学時代に読まされた(校長の推薦図書ということで、全校生徒が読まなければいけなかったらしい)って人がいるんだけど、特にどうという感想も持たなかったみたいな話を聞いたからでした。まあ確かに、道徳とか倫理とか、そういう『真っ直ぐとしたこと』や『きちんとしたこと』に漠然と嫌悪感を抱きがちな年頃の子どもにとっては、きっとムズムズするような作品なんだろうなぁ、という感じもします。しかも、読まされて読んだところで、なかなか頭に染みこんでくる作品でもないのかもしれないなぁ、と。
本書を読んで、この作品を是非とも子どもに読んで欲しいなと思うのだけど、でもやっぱりこれは、子ども自らが自分の意思で読みたいと思って、その内容を受け入れる態勢で読まないと、なかなか吸収はされないのだろうな、という気がします。そういう風に子どもが本書を手にとって読んでくれるような環境をどんな風にしたら作れるのか、なかなか難しいような気がするけど、普段本を読んでて、これは子どもに読んで欲しい!と思える作品にはそう出会えないんで、ウダウダとかいてみました。
さて先に、本書がどんな経緯で出版されたのか、という話を書いてみます。一応、本書の内容と関わる部分でもあるので。
本書は、山本有三が1935年から刊行をスタートした『日本少国民文庫 全16巻』(新潮社)の最終巻として、1937年7月に発売されました。
その当時は、満州事変から中日事変へと移り、日中戦争が始まった頃でした。そんな中で山本有三は、次世代を担う少年少女たちを時勢の影響から守りたいと考え、この『日本少国民文庫』の刊行を計画したのでした。
その計画を山本有三は、本書の著者である吉野源三郎に相談し、数多くの打ち合わせを重ねました。その中で、最終巻の「君たちはどう生きるか」では倫理を扱うことに決まり、最後を飾る一冊は山本有三が筆を取る形でいたのだけど、ちょうど山本有三が重い目の病気に罹り、それで吉野源三郎が山本有三の代わりに「君たちはどう生きるか」を書くことになった、というのです。
僕は吉野源三郎って人が何をした人なのかさっぱり知らないのだけど(本書にも、どうも著者略歴みたいなものが書かれてないんだよなぁ)、恐らく小説家ではないのだろうと思います。本書でも、「文学についてはまったく素人でした」と書いています。
だからでしょうか。僕は、いわゆる古典と言われるような、昔の作家が書いた作品というのが本当に苦手で、読むのに凄く苦労するのですけど、本書は1937年に書かれたとは思えないほど(まあ、幾度かの改訂はあったとのことですけど)平易で読みやすい文章で書かれていて、僕でもスイスイ読めました。古典作品に苦手意識のある人にも読んで欲しい作品です。
僕は本書は、『子ども向けの内田樹だ』と思いました。ここでの『子ども向け』というのは、『子どものサイズにピッタリ適切なサイズである』という意味で、大人が内田樹の作品を読んで新しい視点を知らされたり、知的興奮を得たりするのと同じようなことを、本書は子ども向けにやっている、とそんな風に感じました。
僕はそこまで内田樹の熱心な読者というわけではないのだけど、内田樹の作品を読むと、難しい事柄をすっきりとまとめてシンプルに表現したり、あるいは無関係だと思っていた概念を結びつけたり、あるいはそれまで意識したこともなかった新しい視点を提示されたりと、ごく普通に生きて大人になってきた人間はなかなか考えてこなかっただろう事柄をズバッと示されるので、僕個人は内田樹の作品を読むと凄く啓蒙されたような気になります。本書は、先程書いたような感じで適切な形で子どもの手に渡りさえすれば、読んだ子どもはものすごく啓蒙されるのではないか、という感じがします。大人の僕でさえ、なるほど!と思わされるような事柄が実にシンプルに説明されていて、素晴らしいと思います。
そしてその啓蒙は、コペル君の悩みや思考からも得られるのだけど、やはりなんと言っても、叔父さんがノートに書く文章から強く得られます。
いくつか叔父さんのノートの中から、僕が感心した文章を抜き出したいと思います。

『もしも君が、学校でこう教えられ、世間でもそれが立派なこととして通っているからといって、ただそれだけで、いわれたとおりに行動し、教えられたとおりに生きていゆこうとするならば、―コペル君、いいか、―それじゃあ、君はいつまでたっても一人前の人間になれないんだ』

『世間には、他人の眼に立派に見えるように、見えるようにと振舞っている人が、ずいぶんある。そういう人は、自分がひとの眼にどう映るかということを一番気にするようになって、本当の自分、ありのままの自分がどんなものかということを、つい、お留守にしてしまうものだ、僕は、君にそんな人になってもらいたくないと思う。』

『だからねえ、コペル君。あたりまえのことというのが曲者なんだよ。わかりきったことのように考え、それで通っていることを、どこまでも追っかけて考えてゆくと、もうわかりきったことだなんて、言っていられないようなことにぶつかるんだね』

『僕たちも、人間であるからには、たとえ貧しくともそのために自分をつまらない人間と考えたりしないように、―また、たとえ豊かな暮らしをしたからといって、それで自分を何か偉いもののように考えたりしないように、いつでも、自分の人間としての値打にしっかりと目をつけて生きてゆかなければいけない。貧しいことに引け目を感じるようなうちは、まだまだ人間としてダメなんだ。』

『同じように、心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことから生じて、そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。そして僕たちは、その苦痛のおかげで、人間が本来どういうものであるべきかということを、しっかりと心に捕えることができる。』

他にもまだまだ素晴らしい言葉は一杯あるんだけど、あんまり引用しすぎるのもよろしくないかもだからこれぐらいで。
どうだろう。決して難しい言葉は使っていないし、中学生であるコペル君でも理解できる範囲のことだろう。でも、それを自分自身の内側の思考として自ら捕えたことがあるかと聞かれれば、Yesと答えられる大人はそう多くはないのではないだろうか。世の中を凄くシンプルに捉えて、でもそのシンプルさは決して『当たり前のもの』ではない。そういう、僕たちが普段する思考の狭間にあるようなものを叔父さんはうまく引っ張りあげてきて、コペル君でもわかるような言葉に変換してくれる。
子どもの頃、大人が口にする言葉って、すげぇうそ臭いよなぁ、って思ってて、そういう大人になりたくないよなぁ、って思ってた。教師の言葉も親の言葉も、「あなたのため」と言いながら、結局のところ「自分のため」でしかない言葉に塗れていたよなぁ、と当時から思っていた(もちろん、この教師は凄いな、って人にも出会っているけれども)。本書の叔父さんのような、嘘もごまかしもないような、本当に相手のためを思って言ってくれる大人がいたら素敵だったのになぁ、なんて思ってしまいました。
なんか、具体的な内容にはほとんど触れないで感想を書き終わることになりそうだけど、この作品は本当に素晴らしいと思いました。個人的には、子どもに是非とも読んで欲しい作品なんだけど、前述した通り、本書を読んで子どもが書かれていることを素直に吸収することは、なかなか難しかったりするのかもしれません。だから本書は、親や教師が読むといいのかもしれません。子どもに伝えたいことがあるのだけど、どんな風にそれを伝えたら響くのかわからない、という大人は結構いるのではないかと思います。本書の叔父さんの視点や眼差しは、その手助けになるのではないかなと感じました。是非是非読んでみてください!

吉野源三郎「君たちはどう生きるか」



感性の限界 不合理性・不自由性・不条理性(高橋昌一郎)

内容に入ろうと思います。
本書は、「理性の限界」「知性の限界」に続く、高橋昌一郎の<限界>シリーズ第三弾です。
まずこの<限界>シリーズがどんな感じの作品なのかについて書きましょう。
本書は、架空のシンポジウムが開かれ、そこに様々な専門家や一般人が交じり合って様々な学問分野についてあーだこーだ議論をする、という形態を取っています。本書には、「ロマン主義者」「哲学史家」「科学主義者」「軍事評論家」「美術評論家」「急進的フェミニスト」など、ありとあらゆる分野の専門家が登場し、それぞれが自らの立ち位置から様々な主張をします。その一方で、「会社員」「運動選手」「大学生A」など、専門家ではない一般人も多数登場し、ごく普通の目線から思ったこと・感じたことを発言していく。そしてそれらを「司会者」が交通整理し、今すべき議論に焦点を絞って議論を進めていく、という感じの作品です。こう書いても、なかなかイメージしにくいだろうから、本屋でパラパラってページをめくってみてください。色んな人が会話をしながら議論が展開していってるんだなぁ、というのがわかると思います。
これまでの限界シリーズでは、「理性の限界」では主に科学や数学など理系的な学問について、「知性の限界」では主に哲学的な分野について議論が展開されたのですが、本書ではメインとなるテーマは、「愛」と「自由」と「死」。特定の学問分野について特化することはなく、むしろ明確な学問領域を設定しにくい事柄(これを本書では、「感性の問題」という形で扱っているんだと思う)について議論される内容で、そういう意味でこれまでのシリーズ以上に様々な分野に議論が波及していく展開になります。
どんな内容なのかについては後で触れるとして、「おわりに」で著者が書いていた文章をまず引用します。

『それまでの「限界シリーズ」と同じように、本書の最大の目標は、なによりも読者に知的刺激を味わっていただくことにある。』

僕もまさに、このシリーズの素晴らしさはそこにあると感じています。扱われている内容ももちろん面白いし刺激的なんだけど、それ以上に、専門家と一般人が議論を展開していくというスタイルで様々な学問分野を切り取っていくというスタイルは実に斬新で、しかも効果的だと思う。まあ、このスタイルは、高橋昌一郎が訳を担当した、レイモンド・スマリヤンの「哲学ファンタジー」という作品で登場していて、恐らく高橋昌一郎オリジナルのアイデアではないんだろうけど、まあそんなことはどうでもいい。正直僕は、「哲学ファンタジー」の中でされていた議論よりも、高橋昌一郎が<限界>シリーズの中で展開させる議論の方が、より洗練されていると感じるんですね。立場も考え方もまるで違う様々な専門家の立ち位置をそれぞれきちっと把握して発言させ、同時に全体としてきちんとした方向性のある議論になるように全体を調整するというのは、もの凄く才能を必要とすることだなとおもいます。そしてその高橋昌一郎が生み出す議論は、単一の学問領域について触れられている本、あるいは複数の学問領域に触れられていたとしてもそれぞれが有機的に結びついていない本を読むより、遥かに知的好奇心に満ちあふれている。本書で扱われている内容それぞれには、読者の興味・関心によって好き嫌いは出てくるだろうと思う。でも、これほどまでに自然に一つの学問領域から別の学問領域へと有機的に興味を移行出来、また様々な立場の意見を同時に知りつつ、自分自身も議論に参加した気になれるような作品というのは他に思いつかないし、その議論のスタイルが生み出す知的興奮こそが本シリーズ最大の魅力だと僕は思います。
というわけで、内容に触れる感じで行きましょう。
本書の冒頭は、「会社員」の結婚披露宴会場から始まる。そこに出席した、過去二度のシンポジウムに参加した様々な専門家たちは、「結婚」や「愛」について、花嫁のお色直しの間に議論を始めてしまう。結婚披露宴の場でそんな話をするのもなんだから、じゃあ別に機会を設けましょう、って言って<限界>シリーズ三度目のシンポジウムが開かれる運びとなる。

第一章は「行為の限界」
この章は、他の章と比べても、様々な学問領域へと次々と移行していくところが凄い。スタート地点は、「知覚」からであるが、そこから「行動経済学」→「動物行動学」→「情報科学」→「認知科学」と、「行動」や「認識」などをテーマに議論が展開されていく。
人間や動物が「行為」を行う際、どんなものに強く影響を与えられるのか、何故矛盾するような行動を取ってしまうのかなどについて、興味深い具体例が提示される。特に「行動経済学」(人間は必ずしも合理的な判断によって経済活動を行なっているわけではない、という前提に立った経済学)や「二重過程理論」(人間が行動する際の二つの別系統の行動システム)などの学問領域で知られている実例には、非常に面白いものがたくさんあった。具体的には後で書くけど。

第二章は「意志の限界」
ここでは、「人間に自由意志は存在するのか?」というのを大きなテーマとして、「ミルグラムのアイヒマン実験」などを実例とした「服従」のシステムと、「ドーキンスの利己的遺伝子」などをメインにした「遺伝子」による支配について主に語られていきます。
「服従」のシステムについては、ナチスのホロコーストの最高責任者であったアイヒマンが、何故あれほどまでに残虐なことが出来たのかを解明しようと行った、ミルグラムによる有名な実験を引き合いに出し、また人間がどれだけ環境や権威などに弱く、いとも簡単に服従してしまうのか、という点を明らかにすることで、自由意志のぎ論が展開される。
また「利己的遺伝子」については、「生命の基本は個体(肉体)である」という常識的な発想を超えて、「生命は遺伝子の乗り物で、種全体としての遺伝子が最大限利益を教授出来るように生命の行動は規定されている」というドーキンスによる知見から、そんな遺伝子に支配された乗り物である人間に自由意志が存在するのか否かが議論される。

第三章は「存在の限界」
ここでは、「死」がテーマになる。遺伝子的な意味の死、あるいは「ミーム」というものを考えた時の死など、色んな観点から、「肉体の消滅」というだけではない「死」というものについて議論する。
そしてその後、「不条理」というものが、カミュの作品を引き合いに出しながら議論される。カミュは、「死へ向かう一方で生きなければならない人間」自体が「不条理」な存在であると言い、カミュが主張した、不条理に対処するための「形而上学的反抗」について触れられる。
その後、テロリストやカルト集団が何故死に身を投じてしまうのかという話になった後で、「意識」に関する衝撃的な実験結果を提示しつつ、「「意識」を持つ「私」こそが「存在」であるのに、その「意識」がそもそも「脳」による幻想であるならば、「私」の「死」とは一体どういう意味だろう?」というような展開になって行きます。

大体の流れとしてはこんな感じです。いかに、特定の学問領域に収まらないで議論が展開されていくのか、という点が少しでも伝わるといいなぁ、と思います。
さてここからは、個別に面白かった話題についてあーだこーだ書いてみます。

まず、本書で僕が一番好きな「アンカリング」の話から。
これは、「行動経済学」の分野において発見されたもので、「アンカー」というのは「錨」という意味。例えば、「5000円」という値札をつけるより、「1万円だったところ5000円に値引き」と書く方が、「1万円」という数字が「アンカー」となって、「5000円」と数字が安く思える、というようなものです。
「アンカリング効果」を発見したカーネマンとトヴェルスキーは、このアンカリング効果が、ランダムな数値に対しても生じることを発見して、「アンカリング効果」を含む「プロスペクト理論」でノーベル経済学賞を受賞しました。
彼らが行った実験は「国連実験」と呼ばれました。
二人は大学の教室に、1から100までの数字があるルーレットを持ち込み、学生の前で回します。そして、数字が出たら(実験結果をわかりやすくするために、このルーレットは10か65のどちらかで止まるよう細工されていたけど、学生はルーレットの数字をランダムだと認識していた)、「10という数字が出ました。さて、国連にアフリカ諸国が占める割合は、10%よりも高いか低いか、どちらでしょう?」と質問する。この結果、ルーレットで10が出たグループは占める割合を平均25%だと推定し、ルーレットで65が出たグループは占める割合を平均45%と推定した。これは明らかに、まったくなんの関係もないルーレットの結果に引きずられて答えが変わったと見ることが出来ます。
そしてこのアンカリング効果の最も衝撃的な例は、アメリカでも悪評の高い裁判だとして有名な「マクドナルド訴訟」で、これはもの凄く面白かった。
マクドナルドでコーヒーを買った老婦人が、自分の不注意からコーヒーをこぼして重度の火傷を負ったのだけど、それに対しこの老婦人は、マクドナルドのコーヒーが熱すぎたからだとして裁判を起こす。結果この裁判で老婦人は286万ドルというとんでもない損害賠償を勝ちとるのですが、その背景に、アンカリング効果を絶妙に使った弁護士の存在がありました。
弁護士は、賠償金額をどう算出するかという議論の際、「マクドナルドの全店のコーヒーの売上高を基準にしてはどうか」と主張します。これによって裁判員には、「マクドナルドのコーヒーで火傷を負ったのだから、全店のコーヒーの売上の一日か二日分ぐらいは、懲罰的な意味であげてもいいのではないか?」という刷り込みがなされ、結果とんでもない賠償金額になった、というわけです。
このアンカリング効果、様々な実験によって裏付けられているようで、僕たちも、うっかりしていると、何らかの「アンカー」の存在に引きずられて、自分の行動が決定されているのかもしれません。

そして次に、「フレーミング効果」。これも具体例が非常に面白い。

『二つのボウルがあって、「ボウルA」には白玉9個と赤玉1個、「ボウルB」には白玉92個と赤玉8個が入っているのが見えていて、各々の個数も被験者にハッキリと告げられているとしましょう。被験者はボウルに手を入れて、かき混ぜてから一つの玉を取り、それが赤玉だったら景品を獲得するというゲームです。さて、あなただったら、どちらのボウルから玉を取りますか?』

これは不思議なもので、確率で考えたらどう考えても「ボウルA」から取るべきだと分かっているのに、なんとなく「ボウルB」から取りたくなってしまいますよね。実際の実験結果でも同じような傾向が見られたんだそうです。

またこんな事例もある。

『あなたは主要国の厚生大臣で、ある感染症の病気に対策を講じようとしているとします。この病気には、すでに600人が感染していて、このまま放っておけば死亡することが推定されています。この感染症に対して、二つの対策が提案されます。
「対策A」を採用すれば、200人が助かります。「対策B」を採用すれば、600人が助かる確率が1/3、一人も助からない確率が2/3です。
さて、あなたが大臣だったら、どちらの対策を採用しますか?』

まずこの問いについて考えてみてください。
そして次にこれ、

『あなたは主要国の厚生大臣で、ある感染症の病気に対策を講じようとしているとします。この病気には、すでに600人が感染していて、このまま放っておけば死亡することが推定されています。この感染症に対して、二つの対策が提案されます。
「対策C」を採用すれば、400人が死亡します。「対策D」を採用すれば、一人も死亡しない確率が1/3、600人が死亡する確率が2/3です。
さて、あなたが大臣だったら、どちらの対策を採用しますか?』

さてどうでしょうか?大体の人は、初めの問いで「対策A」を、後の問いでは「対策D」を選ぶのではないでしょうか?
しかし、問いをよく読むと分かりますけど、この二つの問いはまったく同じことを別の表現で書いているにすぎません。だから、「対策A」と「対策C」を、あるいは「対策B」と「対策D」を選ばなければ一貫性がありません。でも、なんとなく、「対策A」と「対策D」を選びたくなってしまいますよねぇ。

また、法定心理学会に所属する心理学者と精神科医479名を対象にしたとある実験の話も載っているのだけど、それはより不思議だし、専門家でさえフレーミング効果に騙されてしまうという恐ろしさを感じました。

『人間には「得をするフレームではリスクを避け、損をするフレームではリスクを冒そうとする」傾向があるとする』

本書の様々な場面で取り上げられる「二重過程理論」の話も凄く面白い。直感的(無意識的)な処理システムを「自律的システム」と、論理的な(意識的な)系統的な処理システムを「分析的システム」と呼び、それらがお互いに様々な形で拮抗するからこそ、矛盾した行動を取ったり、意志に反する行動を取ってしまう、という話は実に面白いと思いました。
またこの二つのシステムについて、「自律的システム」は遺伝子の利益を優先し、「分析的システム」は個体の利益を優先していると解釈することで、「利己的遺伝子」との話とも結びついて、なるほど、という感じがしました。僕たちが意識的に制御出来るのは、意識によってコントロール出来る「分析的システム」だけであって、これは個体の利益に利する。それはそうで、僕たちが意識して行なっている行動のほとんどは、遺伝子を残そうと思ってやっていることではない。その一方で、無意識によって支配されている「自律的システム」は、種としての遺伝子全体の利益を優先するように行動する(行動させる)システムであって、その個体の利益と遺伝子の利益が、多くの場合相反しているように思えるという点が、人間が矛盾した行動を取ってしまう理由なのだ、という話は、凄く納得出来ました。
「利己的遺伝子」に関係して、苦味物質を好んで摂取するのは地球上でヒトだけである、という話から、スタノヴィッチという人物の発言としてこんな言葉が載っている。

『私たちはロボット―複製子の繁殖に利するように設計された乗り物―かもしれないが、自分たちが、複製子の利益とは異なる利益を持つということを発見した唯一のロボットでもある。』

最後は、「意識」の話。ここでも、なかなかに衝撃的な事例が取り上げられている。
それまでの運動生理学の常識では、「ヒトが指を動かせる」のは、まずヒトが「指を動かす」ことを「意識」して、その指令が「脳」の「随意運動野」に伝わり、そこで「運動準備電位」が上昇して、電気信号が運動神経を通じて指の筋肉に届くからだ、というのが常識でした。
しかしとある実験によって、それが覆されてしまったのです。
その実験によれば、「人が指を動かせる」のは、ヒトが「指を動かす」ことを「意識」するよりも350ミリ秒から500ミリ秒前に、すでに指を動かすための司令が「無意識」的に発せられている、というのです。
つまり僕たちは、「指を動かしたい」と「意識」して指を動かしているのではなく、「無意識」が「指を動かす」と指示を出した後で、「指を動かしたい」と「意識」しているというわけで、これはなかなかに衝撃的な実験ですよね。

巻末の「おわりに」で、原子力に関するシンポジウムで司会をした、というような話を著者がするのだけど、そこにこんな文章がある。

『「充分に進化した科学技術は、魔法と見分けがつかない」というアーサー・クラークの有名な言葉がある。それに付け加えたいのは、現代の科学者は「科学」を行なっているが、一般大衆は「科学」ではなく「魔法」を期待しているということである。』

そういう感覚は、なかなか捨て去ることは難しいだろうと思います。特に、「科学」というものに特別関心がなかったり、触れる機会がなかったりした場合、それはより顕著になるでしょう。それに対処するためにも、本シリーズはうってつけだと思います。本シリーズでは、様々な学問領域の『限界』について触れられる。それぞれにどんな『限界』が存在しているのかを知ることは、物事を深く理解する手助けにもなる。
個人的な感覚では、やっぱり一番好きなのはシリーズ第一作目の「理性の限界」ですけど(物理とか数学の話がメインだったからだろうなぁ)、シリーズ通してやっぱり、知的興奮に満たされる作品だと思います。シリーズを読まずにいきなり本書からでももちろん大丈夫だけど、本書の中には「理性の限界」「知性の限界」に言及する箇所がいくつか出てくるので、読んでいるとより面白いかもしれません。是非読んでみてください!

高橋昌一郎「感性の限界 不合理性・不自由性・不条理性」



マツリカマジョルカ(相沢沙呼)

内容に入ろうと思います。
本書は、とある高校に通う、クラスに溶け込めず、友達もいなく、冴えない学園生活をやりすごしている高校一年生の柴山祐希が、学校近くにある廃墟に住む、柴山と同じ高校の制服を来ている謎めいた女子高生のマツリカさんと出会うことで始まる四つの物語。マツリカさんは常に廃墟から高校を望遠鏡で観察しているクールな女子高生で、柴山のことを「柴犬」と呼んでパシリ扱いしている。柴山はといえば、マツリカさんが放つ無防備な色気にやられて、そもそも自分の意見を主張するようなタイプでもないわけで、パシリ的な扱いに甘んじている。とはいえ柴山としては、学校で誰とも話すことなく過ごす日々の中で、マツリカさんと過ごす日々は、倒錯的な甘さに満ちていて、柴山の日常を充実させてくれてもいる。
とはいえ、マツリカさんが繰り出す要求は、本当に奇っ怪なものばかりで…。

「原始人ランナウェイ」
同じ高校の卒業生である実習生がやってきている期間、柴山は廃墟から落ちそうになっている女子高生を見かけ、慌てて助けに行く。それが、柴山とマツリカさんの出会いだった。マツリカさんは謎めいた言動で柴山を翻弄するが、その最たるものが「原始人探し」だ。マツリカさんは今、高校内に現れるという原始人を探しているらしく、柴山にもその手伝いをするように強要するのだが…。

「幽鬼的テレスコープ」
ほとんどのクラスメートの名前と顔が一致しない柴山にとって、小西さんとはそれなりに話せる。写真が大好きな小西さんと話していると突然、高校の裏側にある小さい山を舞台に行われる肝試しに誘われた。なんでもドタキャンをした男が一人いるらしい。くじ引きで偶然小西さんと一緒のペアになった柴山は、様々な仕掛けが施された道を進みながらゴールすると、幽霊が出たらしいという噂が広まっていることに気づき…。

「いたずらディスガイズ」
柴山にとって文化祭というのはほとんど関わりあいのないイベントなのだけど、今回は違った。まずマツリカさんからミッションが授けられてしまった。それが、ゴキブリ男の捜索。何でも最近高校に出没するというのだ。マツリカの指示に従い、自分のクラス(メイド喫茶をやっている)でゴキブリ男の出現を待つつもりでいると、小西さんらから別の頼みが舞い込む。それが、隣のD組でやるつもりだった「不思議の国のアリス」の演劇のアリスの衣装がなくなったから探して欲しい、というものだった。勇気を振り絞って色んな人に話を聞く柴山だが…。

「さよならメランコリア」
この話は、内容を書かないでおこうかな。『卒業』というのが一つのテーマになった話。

著者略歴を見ると、同い年なんですよねぇ。若い作家だからということを考えると、なかなか好く出来ているかな、という感じがします。作品として、凄くいい、という感じではないんだけど、これからに期待できるという意味で楽しみだし、同世代だという意味で自分と感覚も結構合う部分があるから、なかなか面白く読めました。
本書は、いわゆる<日常の謎>系のミステリで、学園モノだってことを考えると、米澤穂信の<古典部>シリーズなんかに結構近いイメージをしてくれればいいんじゃないかな、と思います。主人公の設定や色んな状況設定は大分違うんだけど、ミステリのスケールとか雰囲気みたいなものが、結構近いかなっていう感じがします。柴山とマツリカさんの小競り合い(?)を受け入れられるかどうか、みたいな部分はあるんだけど、基本的には米澤穂信の学園モノのミステリが好きなら、結構合うんじゃないかな、と思います。
ミステリ的な部分は、可もなく不可もなくという感じで、特別ここが凄いという部分もないし、ここはちょっとなあという部分もない感じで、安定しているという感じでしょうか。本書は、周辺の状況が凄く楽しい小説だから、ミステリの部分だけ抜き出したらちょっと弱いかもしれないんだけど、「原始人探し」から突飛な真相を引き出す感じとか、アリスの衣装消失事件における背景とか、ミステリのネタそのものよりも、その出来事の背景的な部分にスポットが当たるように作られている感じで、それが凄くいいなという感じがしました。周囲の状況への共感力みたいなものがありすぎて、だからこそ逆に周囲に溶け込めない柴山と、他者への共感力なんか微塵もないんじゃないかと思わせるマツリカさんがお互いに補完し合うことで、誰も気付けなかったり、気づいたとしてもそのままスルーされてしまいがちな出来事に光を当てていくという感じがいいな、と思いました。
そして本書で一番面白いなと思うのは、やはり柴山とマツリカさんの関係。
マツリカさんは柴山を下僕のように感じていて、男として見ていないのはもちろん、人間としても見ていない可能性さえある。マツリカさんは、自分の身体とか命とかにあまりに無頓着で、だから日常の中で、かなり無防備な、あられもない姿をさらすことが度々あるんだけど、柴山としてはそこに目が釘付けになってしまう。見えそうで見えないスカートの中とか、屈んだりしゃがんだりする度に見え隠れする谷間とか、そういうものに翻弄されて、「まあ、いいもの見ちゃったし、ちょっとは言うこと聞かないと罰が当たるかも」なんていう発想も若干あって、マツリカさんの妄言に付き合っている。
とはいえ、柴山がマツリカさんの妄言に付き合う最大の理由は、柴山にとってマツリカさんと一緒にいることが心地いいからだ。
柴山にとって学校というのは、苦痛とまではいかないけど苦手な場所で、そこには自分の居場所はないと感じている。でも、マツリカさんの住んでいる廃墟では、マツリカさんと普通に話すことができるし、一緒にいることで緊張することもない。柴山にとって、それはかけがえのない時間であって、その切実さみたいなものが作中から結構こぼれ落ちるみたいにして描かれている。この柴山とマツリカさんの、一風変わった関係性が、本書を単なる学園小説に留めていない感じがします。
それと、マツリカさんとの関係の話とも関わるけど、柴山のウダウダした思考っていうのも結構楽しい。僕自身は柴山とかなり似ている部分があって、凄く共感できる。柴山は、自分の周囲の色んな出来事に共感力みたいなものを持っていて、だからこそ周囲と溶け込むことが出来ないでいる。僕自身もそうなのだけど、あれこれ余計なことをウダウダ考えてしまって、自分のその思考が自分の行動を抑制する檻のような役割を果たしてしまう。周囲との関係の中で『特別な何か』があったとかそういうわけではないのだけど、自分がウダウダと色んなことを考えてしまうが故に、それがブレーキになってしまう。マツリカさんと関わっていく中で、徐々に柴山は変化していくんだけど、それは本当に『柴山個人』の変化であって問題であって、周囲との間に何か決定的な出来事があって何かが変化したということではない。マツリカさんと関わる中で、自分が自ら生み出している檻の存在に気づき、その檻から自分の意志で出ていく勇気を獲得することが出来るようになる。そういう過程が凄く僕自身は共感できるな、という感じがしました。
なかなか変わったタイプの学園ミステリで、柴山とマツリカさんとの絡みをどう受け止めるかによって読み方や好みが変わるだろうと思うけど、なかなか面白い新人が出てきたなという感じがします。僕は結構、マツリカさんみたいな無防備な人(身体的な意味だけではなくて、考え方なんかも)は、結構好きだったりします。読んでみてください。

相沢沙呼「マツリカマジョルカ」



動員の革命 ソーシャルメディアは何を変えたのか(津田大介)

内容に入ろうと思います。
本書は、ネットジャーナリズム界で有名な津田大介が語る、現在のソーシャルネットワークやその周辺の事柄について、『動員』をキーワードに書いた作品です。
まず、本書の大雑把な構成を説明します。
まず、津田大介氏による文章の展開としては、まず現在ソーシャルメディアの周辺で一体何が起きているのかを、アラブなどの革命の背景などを説明することで紹介し、そこから『動員の革命』というキーワードを引き出します。その後、ソーシャルメディアを使ってどんなことが出来る可能性が今後あるのか、その際にどんな点に注意しなくてはいけないのか、というような、ソーシャルメディアを使う上での実際上のテクニックやアドバイスについて書かれる。さらに、東日本大震災を引き合いに出し、東日本大震災においてソーシャルメディアがどんな風に役立ったのか、今後どんな風に役立てることが出来そうなのか、という著者自身による展望が描かれます。そして最後に、クラウドファンディングという、現在ソーシャルネットワーク上で起こりつつある、『動員』の先にある新たな革命について紹介しつつ、その可能性について語る、という感じです。
そして本書では、津田大介氏による文章の合間に、三人の人物との対談+もう一つ別の対談が収録されています。
一人目は、モーリー・ロバートソン。日本語で受験した初のアメリカ人東大生で、現在ジャーナリスト・作家・ミュージシャン。既存のメディアに囚われない形でのジャーナリズムやアーティスト活動を展開している。
二人目は、宇川直宏。グラフィックデザイナー・映像作家・文筆家、現代美術家と様々な顔を持つ全方位的アーティスト。「DOMMUNE」という、ライブストリーミングスタジオ兼チャンネルを開設し、国内外で高い評価を得ているという。
三人目は、家入一真。「paperboy&co.」を創業し、個人向けレンタルサーバー「ロリポップ」などを提供し、2008年に当時史上最年少でナスダックに上場。現在は、クラウドファンディングの一つである「CAMPFIRE」を立ち上げ、個人間の支援を仲介する仕事に関心を持っている。
そして巻末に、中沢新一×いとうせいこう×津田大介という、三者の対談が収録されている。
というような構成です。
僕としては、ソーシャルネットワークに関係する本ということで、佐藤尚之「明日のコミュニケーション」と比較しないではいられないので、まずその比較をします。「明日のコミュニケーション」はもう大分昔に読んだので、結構印象論で話をすることになりますけど、ご容赦ください。
電通からフリーになった佐藤尚之氏による「明日のコミュニケーション」では、『共感』をテーマにソーシャルネットワークを切り取った。元電通ということで、今も広告全般に関心がある人で、ソーシャルネットワークを『共感』というキーワードで切り取り、それが広告の世界にどんな影響を与え、広告がどんな風に変わっていくのか、ということが描かれている作品です。
広告、というけれども、結局広告というのは『人をどう動かすか』です。そういう意味で、『動員』をキーワードにソーシャルネットワークを描く本書と近いものはある。「明日のコミュニケーション」では、『共感』をキーワードに、いかに『動員』されてしまうのかが描かれているのに対して、本書では、『動員』をキーワードに、その背景にある『共感』をいかにネット上だけのものにしないか、という観点からソーシャルネットワークが切り取られる、という違いでしょうか。
ただこの二作品には、もっと根本的な違いがある。それは、誰を対象にしているか、という点だ。
「明日のコミュニケーション」は、基本的には『ソーシャルネットワークにどっぷり使っていない人』向けに描かれている。ソーシャルネットワークがどんなもので、どんな空気感の中で存在するもので、どんな感覚で使われているものなのか、そういう肌感覚とでもいうべきものがない人に向けて、ソーシャルネットワークというのはこういうものなんですよ、と提示する、そういう構成になっていると僕は感じました。
一方で本書は、明らかに、『その肌感覚を持っている人』向けに描かれている、と感じました。ある程度、ソーシャルネットワークの本質を知っている(つまり、『動員』や『共感』を引き起こすものだという理解がある)人向けに書かれていて、だから本書の欠点を挙げるとすれば、これからソーシャルネットワークに関わっていこうという人、あるいは、既にソーシャルネットワークに関わってはいるのだけど、イマイチまだその威力を肌感覚では理解できていない人には、本書で描かれていることの理解が若干遠くなってしまうかもしれないな、という感覚が僕の中にはあります。別に作品として良い悪いではなく、想定している対象が違うというだけの話なので、作品の質の問題ではないんですけど、本書のその、『肌感覚を理解している人向けである』という部分をあまり考慮しないで読むと、なかなか本書の良さを掴むことは出来ないかもしれない、と思いました。
なので、ソーシャルネットワークの肌感覚をある程度分かっていると思える方は本書をそのまま読んでもらっていいんですけど、そうじゃない人はまず「明日のコミュニケーション」を読むのがいいかな、って気がします。
本書では、僕が知らなかった色んなこと(アラブ等の国で起こった革命でソーシャルメディアがどんな風に使われたのかという背景や、ソーシャルメディアが政治や表現等多くの世界でどんな影響を与えているのかなど)がかなり具体的な形で載っているので、純粋に『知る』という意味で凄く面白かったです。津田大介氏自身が、ソーシャルネットワーク周辺の様々な事柄に、自分から積極的に飛び込み、関わり、時には先導したりしていて、その経験を元に書いているので、非常に具体的だし、実際的だなと感じました。モーリー・ロバートソンとの対談では世界各国の革命を、宇川直宏との対談では表現の世界をそれぞれ知ることが出来、また『僕ならソーシャルメディアをこう使う』の項では、ソーシャルネットワークの使い方だけではなく、自身の経験からNPOの立ち上げなどについての具体的なアドバイスなども書かれていて、ソーシャルネットワークをどう使うのかという観点から実際的に読むことが出来るなという感じがしました。
本書で僕が特に面白いなと感じた点が三つあります。
一つ目は、『動員』というキーワード。
二つ目は、既存のメディアとソーシャルメディアの関係。
そして三つ目は、クラウドファンディングについてです。
特にクラウドファンディングについての話は、非常に興味深いです。
まず、『動員』というキーワードから。
本書では『動員』に関して、こんな風に描かれます。

『わたしたちを取り巻く情報環境は、ここ数年のソーシャルメディアの台頭によって大きく変わりました。その本質は、「誰でも情報を発信できるようになった」という、陳腐なメディア論で言われがちなことではなく、「ソーシャルメディアがリアル(現実の空間・場所)を『拡張』したことで、かつてない勢いで人を『動員』できるようになった」というところにあるのです』

『その意味では、ソーシャルメディアというのは、実は人が行動する際に、モチベーションを与えてくれるもの―言い換えると背中を推してくれるメディアとして機能しているのです。
(中略)
ソーシャルメディア革命とは、「動員」の革命なのです。』

こういう形で著者は、ソーシャルメディアと『動員』の関わりを説くのだけど、その中で特に興味深い話があって、これは凄く面白いと感じました。
それは、デレク・シヴァーズという人がとある講演で言ったという内容の引用です。
デレクは、群衆の中で一人の男が裸踊りを始め、次第に周囲の人間も裸踊りをし始め、最後にはその場にいる全員が裸踊りをする、という動画を見せ、こう言います。

『(この動画の)最大の教訓はリーダーシップが過大評価されているということです。たしかにあの裸の男が最初でした。彼には功績があります。でも一人のバカをリーダーに変えたのは、最初のフォロワーだったのです。全員がリーダーになるべきだとよく言いますが、それは効果的ではありません。本当に運動を起こそうと思うならついて行く勇気を持ち、ほかの人たちにもその方法を示すことです。すごいことをしている孤独なバカを見つけたら立ち上がって最初に参加する最初の人間になる勇気を持ってください』

これはなるほど、と感じました。確かに、一番初めにそれをした人間も素晴らしいけど、それに勇気を持ってついていった人間も素晴らしい。そして『動員』というキーワードをベースにして著者は、ソーシャルネットワークは『最初のフォロワー』を生み出しやすいツールだ、と主張します。これは、本当に感心しました。確かに、その通りだなと思います。

二つ目は、既存のメディアとソーシャルメディアとの関係。
本書には、ウィキリークスの創始者であるジュリアン・アサンジの言葉として、こんな文章が載っています。

『不確かな情報の検証はプロの仕事。ソーシャルメディアはニュースへの多様な視点を提供するもの。そして拡声器であり、情報源である』

著者はこれを受けて、自身の言葉でこんな風に書きます。

『今後の情報は、速報はソーシャルメディアで、一次検証をプロが担当してマスメディアで報道を行う。そこから先はソーシャルメディアが再びいろんな視点を与え、埋もれるニュースを拾い上げ、重要度に応じてニュースを伝播させていく』

これも、なるほどなぁ、と思わされました。一次検証はプロにしか出来ないという点を認め、ソーシャルメディアと共存していく視点が素晴らしいなと思いました。

そして最後に、クラウドファンディングについて。本書を読んで、これは今後もっと広がっていくだろうな、と感じさせられました。
クラウドファンディングというのは、援助を受けたい人がウェブ上で企画を提示、賛同してくれる人がいればその企画にお金を払う、そしてそれが成功すれば何らかのリターンがある、というようなモデルです(あくまで一例で、クラウドファンディングのやり方には色んなタイプがありますが、本書で主に扱われているのがこのタイプ)。
僕がちょっと前に、中公新書の「マイクロファイナンス」という作品を読みました。マイクロファイナンスというのは、少額のお金を融資し貸し倒れ率を低く抑えるという、バングラデシュの銀行が始めノーベル平和賞を受賞し有名になったモデルですが、そのマイクロファイナンスに非常に近いモデルが、既に今の日本でもサービスとして存在しているということに驚かされました。
本書で津田大介氏の対談相手として登場する一人である家入一真氏は、クラウドファンディングを行う「CAMPFIRE」を運営している。CAMPFIRE内では、東日本大震災に関わる支援の企画もあれば、「中古で売られているファミコンソフトの裏に名前が書かれているものを本人へ返す」というようなお笑い企画もあって玉石混交ですが、それらに『共感』する人がお金を出し、金銭以外の何らかのリターンを得ることで双方が満足するというモデルを作り上げていて、これがもっと広まっていけばもっと面白いことになる、と思いました。これは、アイデア次第でどんなことでもできるし、そして、本書でも描かれているように、これまでウェブ上での『共感』は、そもそも数字として現れることもなかったし、ましてお金になることなんてありえなかったけど、それが実現出来るようになった。それは確かに、『動員』の先を行く、もっと可能性を秘めた革命になりうるな、という感じがしました。
というわけで、冒頭で書いたように、ある程度ソーシャルネットワークに関する肌感覚を理解している人向けという感じがするけども、内容的にはなかなか刺激的で面白いです。特にクラウドファンディングに関する話は、非常に面白く読みました。是非読んでみてください。

津田大介「動員の革命 ソーシャルメディアは何を変えたのか」



功利主義者の読書術(佐藤優)

内容に入ろうと思います。
本書は、佐藤優による、「功利主義的に本を読み解いた結果としての書評」をまとめた作品です。
冒頭で著者は、こんなことを書く。

『読書には、大きな罠がある。特に、読書家といわれる人がその罠に陥りやすい。読書はいわば「他人の頭で考えること」である。したがって、たくさんの本を読むうちに、自分の頭で考えなくなってしまう危険性がある。
娯楽のための読書ならばそれでもいい。それについては、楽しい本を自己流に読めばいいので、特に読書術など必要とされない。したがって、本書が想定する読者は、娯楽を目的とする人々ではない。』

その上で著者は、様々な本を「功利主義的に読む」ことにこだわる。本書では、『役に立つ(あるいは立つとされている本)』はあまり紹介されない。そうではなくて、『役に立つとは思われていない本』から『いかに役に立つ知識を得るか』という観点から本を読む姿勢について書かれている。後でどんな本がどういう知識を得られる本として紹介されているのか挙げるが、聖書や古典作品から芸能人の告白本まで様々である。

『役に立つとか、功利主義というと、何か軽薄な感じがするが、そうではない。われわれ近代以降の人間は、目に見えるものだけを現実と考える傾向が強い。しかし、目に見えるものの背後に、目にみえない現実があると私は信じている。思いやり、誠意、愛などは、「これだ」といって目に見える形で示すことはできないが、確実に存在する現実だ。愛国心、神に対する信仰などもこのような目に見えない減じるなのだと思う。
プラグマティズム(実用主義)や功利主義の背後には目に見えない真理がある。読書を通じてその真理をつかむことができる人が、目に見えるこの世界で、知識を生かして成功することができるのである。この真理を神と言い換えてもいい。功利主義者の読書術とは、神が人間に何を呼びかけているかを知るための技法なのである。』

と、こんな風に書かれているので、僕はてっきり本書は、『どうやったら功利主義的な観点で本を読むことが出来るのか、その技術的指南の本』だと思っていたのだけど、そうではなかった。本書は、実際に著者が読んだ様々な本を通じて、功利主義者である著者自身がどんな知識をそこから読み取ったのか、を主眼にした書評集である。
本書の巻末で著者は、何故マニュアル本や実用書を挙げなかったという説明で、こんなことを書く。

『一見、役に立たないように見える本の方が、危機的状況においては役に立つからだ』

本書で紹介されている本と、著者による書評の話は、なかなか難しいものが多くて、同じ本を時間を掛けて功利主義的に読書をしたとしても、僕が同じような知識を汲み取ることが出来るかはちょっと怪しいものだけれども、「目に見えるもの」を扱って「すぐに役立つ知識」を提供するマニュアル本や実用書ではなく、「目に見えないもの」を扱って「すぐには役立たない知識」を提供する本にこそ、実際上の知恵は眠っているのだ、という意見は、なるほど確かにそうかもしれない、という風に思えました。
また、本書の解説を書いている酒井順子氏は、こんなことを書いている。

『だからこそ佐藤さんは、本の読み方を通じて、「世界には無限の視座が存在していることを想像せよ」と、我々に示唆します』

著者はそれぞれの本の紹介をする際に、自分がどんな視座にあるのかを明確にする。「沖縄にルーツを持つという視座」「神学部で学んだクリスチャンという視座」「元外交官という視座」「国策捜査でパクられて、512日間独房に閉じ込められたという視座」。こういう視座を縦横無尽に行き来し、それぞれの視座に立って本を読み解いていく姿勢は、確かに読者に、「世界には無限の視座が存在している」ということを想像させるなと思いました。僕にとって本書の内容は、色んな意味で難しかったけど、個々の書評についてではなく、本書の全体を通じて、著者の思想や姿勢がじわじわと伝わってくる感覚があって、それは素敵だと思いました。
さて、本書のまえがきの文章を丸々引用する形で、本書でどんな本が扱われているのか紹介しましょう。

『本書においても、資本主義の本質とは何か、という質問に答えるために、
マルクス(向坂逸郎訳)「資本論」第一巻
宇野弘蔵「資本論に学ぶ」
の読み解きを行った。これによって、マルクス経済学の遺産を、日本の資本主義耐性を強化うするために用いたいと私は考えている。』

『新自由主義に対して強い忌避反応を示すのはこのときの原体験が大きいからだ(略)
このような問題意識から、「世直し」の罠に嵌らないために、以下の書籍の読み解きをした。
高橋和巳「邪宗門」
坂口弘「歌集 常しへの道」
山本直樹「レッド」』

『経済学とは別の分野で、意外な漫画、小説が資本主義の本質、すなわち新自由主義の内在的論理を見事にとらえている。その中で、特に優れていると私が考える以下に二冊を取り上げた。
伊藤潤二「うずまき」
綿矢りさ「夢を与える」』

『特に2008年9月の米国投資銀行兼証券会社のリーマン・ブラザーズ破綻以降、経済不安が高まっている。大不況時代を生き抜く智慧をつけるために以下の四冊を取り上げた。
宇野弘蔵「恐慌論」
副島隆彦「恐慌前夜 アメリカと心中する日本経済」
フリードリッヒ・リスト(小林昇訳)「経済学の国民的体系」
小林多喜二「蟹工船」』

『日本の閉塞状況を打破する視点をもつために、
多川俊映「はじめての唯識」
ユンゲル・ハーバーマス(細谷貞雄/山田正行訳)「公共性の構造転換 市民社会の一カテゴリーについての探求」
吉本隆明「共同幻想論」
「新約聖書 新共同訳」
の四冊をあげた。』

『日本の今後を考える場合、国境地帯にあたる沖縄と北海道に対しては特別の配慮が必要になる。「沖縄問題」の本質を知るための参考書として、
高良倉吉「琉球王国」
池上永一「テンペスト」
をあげた。』

『北海道の少し無効には、ロシアがある。私は現役外交官として、ロシアという国と17年間、真剣に付き合った。日本国家と日本国民が生き残るために、ロシアについて知ることが不可欠だ。再び超大国化を目論むロシアの行方を知るために、
小室直樹「ソビエト定刻の最期 ”予定調和”の恐るべき真実」
アレクサンドル・ソルジェニーツィン(木村浩訳)「イワン・デニーソヴィッチの一日」
ユルゲン・ハーバーマス(高野昌行訳)「他社の受容 多文化社会の政治理論に関する研究」
の三冊を読み解いた。』

『さて、人性において、諍いはつきものだ。そのときに、論戦に勝つテクニックを身につけておくと役に立つ。以下の三冊を読み解いた。
カレル・チャペック(栗栖継訳)「山椒魚戦争」
石原真理子「ふぞろいな秘密」
酒井順子「負け犬の遠吠え」』

『さらに、交渉術の達人になるために、
東郷和彦「北方領土交渉秘録 失われた五度の機会」
フョードル・ドストエフスキー(亀山郁夫訳)「カラマーゾフの兄弟」
大城立裕「カクテルパーティー」
の三冊を取り上げた。』

『人間の本章を見抜くテクニックを身につける本として、
レイモンド・チャンドラー(清水俊二訳)「長いお別れ」
レイモンド・チャンドラー(村上春樹訳)「ロング・グッドバイ」
池田晶子/陸田真志「死と生きる 獄中哲学対話」
の三冊を読み解いた。』

『最後に、実践的恋愛術を伝授してくれる本として、
五味川純平「孤独の賭け」
高橋和巳「我が心は石にあらず」
をあげておく。』

さて、本書の中で、僕がとてもとてもとても面白いと思った話が、資本主義についてだったので、以下それについて本書でどんな風に書かれているのか、複数の著作にまたがる書評から色々引用しつつ書いてみようと思います。僕が、今の日本の経済に対して、ずっと違和感を抱き続けてきた事柄について書かれていて、僕にとっては楽しかった。
まず著者は「まえがき」で、『新自由主義に対して強い忌避反応を示すのはこのときの原体験が大きいからだ』と書いている。本書では大雑把に言って、新自由主義がどうマズイのか、が描かれている。
まず、今の日本を覆う新自由主義とは何か引用しよう。

『個体(個人、企業)が基本単位で、個体が市場における競争で自己の利益の最大化を図って行動することが、結果としてすべての人々と社会にとってよいのだという新自由主義(市場原理主義)という思想が今日の危機を生み出したのだ。』

またこんな風にも描かれる。

『「カネで買えないものはない」というのは、新自由主義においては真理なのである。』

著者は本書の中で、この「新自由主義」を「純粋な資本主義」と呼ぶ。何故「純粋な」という形容をつけるのか。その答えは、マルクスの「資本論」の中にある。
「資本論」からは、資本主義の内在的論理を読み解くことが出来る。「内在的論理」という言葉の説明は特になかったけど、普通に文字通り捉えれば、「そのものの構造の中に不可避に存在する帰結」という感じだろう。「資本論」を読むことで、資本主義の内在的論理、つまり資本主義の限界について知ることが出来る、と著者は言う。
何故今の日本で新自由主義が広まっているかという原因を著者は、今の官僚たちが学生時代に「資本論」に触れなかったからだ、と考える。

『ひと昔まえまで、日本の完了は、東京大学や京都大学で、大学の単位取得の関係でマルクス経済学を学んだ者が多い。完了志望の学生だから、社会主義に対する共感はもちろんないが、資本主義の限界についてマルクス経済学がどう考えているかという論理は理解する。ここで染みついた論理(あるいは論理の残滓)が重要だ。資本主義に限界があることをわかっている完了は、無理をしない。また、経済が人間の理性によって制御可能であるという工学的発想もとらない。』

また本書では、日本には世界でも珍しいタイプのマルクス経済学者がいると書く。それが宇野弘蔵だ。宇野弘蔵は「恐慌論」の中で、資本主義の中では、恐慌というものは必ず起こる、と説く。資本主義は、定期的に恐慌を繰り返し、自己増殖する本性を持っているというのだ。だからこそ、『市場が理想的分配をする』や『国家が市場を統制できる』という発想は、資本主義の内在的論理を踏まえないただの願望なのだ、という。
本書で書かれている資本主義についての話を僕なりに解釈するとこういう感じなのだけど、これはなるほどと思いました。凄く面白い。僕は、厳密に何がどうという明確な主張は出来ないのだけど、今の新自由主義社会には肌感覚として気持ち悪いものを感じている。それは昔からずっとそうで、だから僕はサラリーマンになるという選択を完全に放棄したんだと思う。本書で、資本主義には限界がある、それは「資本論」の中で内在的論理として理解することが出来る、と書かれているのを読んで、難しくて僕には読めないだろうけど、「資本論」にちょっと興味を持った。
本書で著者は、日本で広まった新自由主義が何を引き起こしたのかについて、二つ挙げている。

『第一は、格差が拡大して、深刻な貧困問題が生じたことだ。(略)
新自由主義的改革の結果生じた第二の問題は、日本人の同胞意識が希薄になったことだ。』

この二つは、著者の訴えたいことと正確に同じかどうかは自信はないけど、凄くよくわかる。貧困問題については、資本主義の限界と共に論じられているかどうかについては知らないけど、まあ議論はされているのだろう。でも、新自由主義によって、日本人の同胞意識が希薄になったことについては、確かにその通りだと理解できるけど、この文脈の中でそれを捉えている人はそう多くないような気がする。同胞意識の希薄化は、世代論でまとめられたり、豊かさの裏返しであるというような考え方もあるだろうけど、なるほど新自由主義の台頭によるものだと考えるとなるほどという感じもしてくる。本書には様々な話が出てくるのだけど、僕自身はこの、資本主義の限界と新自由主義の話が一番面白かった。
個人的に読みたいなと思った本は、山本直樹「レッド」、カレル・チャペック「山椒魚戦争」、東郷和彦「北方領土交渉秘録」の三冊かな。特に「山椒魚戦争」は、なんかすげぇ変な話で、とても気になる。
個人的には、相当な教養に裏打ちされたかなり中身の濃い内容だと思うので、凄く難しさを感じたのだけど、それは僕の教養のなさが原因なので本自体の問題ではないでしょう。「功利主義的に読書をする」というのは、なんとなく味気ないような気もしてしまうけど、そういう訓練を意識してみるのもいいかもしれない、と思えました。マニュアル本や実用書ばかり読んでしまうなぁ、という方は是非読んでみるといいかもしれません。

佐藤優「功利主義者の読書術」



ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図(NHK ETV特集取材班)

内容に入ろうと思います。
本書は、NHKで5月15日に放送された「ネットワークでつくる放射能汚染地図」という番組の取材班による、福島原発事故の取材を描いたノンフィクションです。
このETVの特集について僕は、「プロメテウスの罠」という作品で知りました。
勝手な判断で被災地で放射能を測ってはいけない、という通達を出す所属していた研究所を即座に辞め、独自の判断で震災後すぐに被災地に入り各地の放射能を測定した、木村真三という研究者がいる。そしてNHKには、かつてチェルノブイリなど複数の放射能に関係する取材を手がけ、しかしそれによって左遷され番組制作の現場から離されてしまった七沢という男がいる。二人は、震災直後から被災地入りし、何が出来るのかわからない中で福島県で取材を続ける中で、専門家による詳細な放射能汚染地図が必要であると判断。政府が「ただちに影響はない」と繰り返す中で、高濃度の放射能に汚染された土地に残された人たちの姿を追いつつ、一方で、日本における放射能測定の第一人者と共に、福島県の放射能汚染地図を作成していく過程を描くノンフィクションだ。
章毎に筆者が変わり、各章でどんな話が描かれるのかもざっと書きたいのだけど、それ以上に書きたいことがあるので、どんな内容なのかについてはざっと書くだけに止めようと思う。
まず本書で扱われるのは、大まかに分けて二種類ある。一つは、被災地における放射能汚染の実態とその計測。そしてもう一つは、その中で避難あるいは生活をする人々への取材である。
放射能汚染の実態については、後で詳しく触れるつもりだけど、普通の人が想像・想定する状況を遥かに超えている。僕は原発関係の本を読むと、震災直後の自分自身の、情報に対する判断の甘さを思い知らされることになる。震災直後僕は、政府が繰り返す「ただちに影響はありません」をそのまま信じていたわけではないけど、でもそこまで酷いということはないのだろう、というある種楽観した感覚を持っていた。しかし、それはまったく違う。後でも触れるけど、本書では、あのチェルノブイリの事故と比較される表現が、もの凄く多い。
そして、避難者や生活者の描写は、やはり身につまされるものがある。もう既に僕は、日常の中で原発被災者のことを意識する機会が減ってしまっている。それは、認めざるを得ない。言い訳をするつもりもない。やはり僕にとっては、他人事なのだろう。でも、それではいけないと思う。だから僕は、こうして時々本を読む。知りたいと思う。
そして、本書が「プロメテウスの罠」と大きく違う点は、作中で「取材する側の声・感情・想い」が多々綴られることだ。「プロメテウスの罠」では、現地で生きる人たちの姿に焦点を当て、取材者自身の姿というのは、文中からはそこまで強く立ち上らなかったように思う。あくまでも、現地で生きる人々の姿を活写したい、という方針だったのだろう。本書では、取材する側の不安や葛藤、正直な気持ちなどが、様々な場面で散りばめられている。そこが大きな違いだと感じた。どちらがいいというわけではない。本書と「プロメテウスの罠」を比べれば、どちらがより衝撃を受けたかと聞かれれば「プロメテウスの罠」の方だと答える。ただ、取材する側の心情というものがリアルに刻まれている本作は、震災直後「大本営発表」に終始しがちに思えたマスコミの中で、これだけ気骨のあるマスコミがいたのだなと思え、それが凄くよかったと思う。
本書の構成をざっくりと書くと、冒頭から中盤に掛けては、放射能汚染の実態の把握と、ETV特集で番組にするための様々な苦労が描かれる。特に後者については、被災地に入ったETV取材班は、当初NHKの逆賊みたいな扱いであった。NHKはしばらくの間、福島第一原発から30キロ圏内への取材を禁止していたし、「ネットワークでつくる放射能汚染汚染地図」の企画を出した時も、上層部から潰され掛かった。放送にこぎつけることが出来たのは、取材者たちの執念と、そして様々な幸運によってだった。そうした、最終的に「ネットワークでつくる放射能汚染汚染地図」という特集番組として結実した取材の、その舞台裏も描かれる。
そして、中盤から後半に掛けては、避難者・生活者の現実にスポットを当て、彼らの様々な不安・憤り・怒り・諦め、そうしたものを丁寧に掬いあげていく。
本書で一貫しているのは、放射能の測定についても、避難者・生活者の様子についても、とにかく現場に行ってみなくてはわからない、というスタンスだ。そこを一切曲げることなく、徹底しているからこそ、力強さに満ちた作品になっているのだろうと思う。

まず、本書のタイトルにもなっている「ホットスポット」についての説明を作中から引用しようと思う。

『ホットスポットとは局部的に高濃度の放射能に汚染された場所をあらわす言葉で、チェルノブイリ原発事故のあと一般に使われるようになった。同じ双葉町の中でわずか1,2キロメートル移動しただけで空間線量率が毎時300マイクロシーベルトから40マイクロシーベルトに変わるということは、汚染は同心円状に広がったのではなく、斑状になって分布している可能性を感じさせた。』

本書の巻頭に、実際に彼らが作り上げた放射能汚染地図が掲載されているのだけど、局所的に放射能の汚染が強い地域があることがわかる。ちょっと離れただけで空間線量率が変わる場所というのは多く、そしてそれは、決して距離に比例しない。この、放射能拡散の特徴が、今も福島県に住む人々を苦しめている。同心円状に補償や避難指示の区分がされてしまったが故に、様々な不幸が起こっている。
そして何よりも酷いことは、政府はこの「放射能は同心円状に広がらない」という事実を知っていた、という点だ。誰がどこまで知っていたのか、そんなことはわからないけど、少なくとも知りうる立場にあった、ということは断言できる。
国は、何千億円だか何兆円だかのお金を掛けて、放射性物質がどのように拡散するかをシミュレーション出来る「SPEERI」というシステムを作り、そして実際にそれは震災直後稼働していた。しかし、そこで得られたデータが、福島県に住む人々に届けられることはなかった。今更取り返しもつかないが、即座にSPEEDIのデータを公開していれば、もっと事態は違っただろう、と思う。福島県に住む人々の憤りは当然だ。
本書では、福島県の放射能汚染がチェルノブイリと比較される文章が非常に多い。いくつか抜き出してみる。

『木村さんは「ここはすでに、チェルノブイリで最も線量が高いレッドフォーレスト」の現在の値を超えています。』

『福島での調査は、ベースキャンプとなる宿のある三春待ちを皮切りに、常葉町、都路町、大熊町と進んできました。そこで遭遇したのが、第一原発から4キロメートルほどの地点にある双葉町山田地区です。僕の持ってきた線量計で測れる最大値毎時300マイクロシーベルトをオーバーする線量を記録した地点です。チェルノブイリに通算で15回通い、東海村JOC臨界事故の調査にも携わってきた僕にとっても、この線量ははじめて体験する未体験ゾーンだったのです。』

『原発から半径20キロメートル圏から30キロメートル圏にかけて広がる浪江町津島地区のホットエリアは、その汚染濃度においてチェルノブイリに匹敵するレベルであることは間違いなかった。』

『チェルノブイリで採取してきたサンプルでも、ここまで汚染が強いものはなかった』

僕は正直、福島第一原発の事故が、そこまで酷いものだとは思っていませんでした。政府が繰り返す「大本営発表」を、信じてはいないつもりで、意識の深いところでは信じていたのかもしれません。想像も出来ないようなとんでもない事態を前に、思考停止していたということかもしれません。とにかく僕は、こうやって原発に関する本を読むことで、福島第一原発の事故が、チェルノブイリに匹敵するとんでもない事態であった、ということをようやく認識することが出来るようになったわけです。
それなのに、国は画一的な避難指示しか出さず、除染を進めるための行動も起こさず、結局のところ自治体が個々の判断でそれぞれをやるしかない。国や東京電力が何をどんな風に考え、感じ、行動しているのか僕にはさっぱりわからないけど、どれだけ時間とお金が掛かっても、福島県に住む人々への対応や補償は、死ぬ気でやらなければならないと僕は思います。
目に見えない放射能の不安にさらされながらも、それでもそこに生き続けなければならない人たちの姿は、本当に辛い。馬がもうすぐ子供を産むから離れられないと行って避難しない牧場主、ペットがいたり重い障害を持っているために避難所に行けず、近くで10人ぐらいで一緒に非難していた人々、4万羽いた鶏のうち3万羽が餓死し、しかもその死体を処分できないまま放置するしかない養鶏家。彼らの事情は個々に深刻で決して一括りには出来ないし、放射能は不安だけど大丈夫なレベルならここに住みたい、危険なら非難したいけどその判断も出来ない、というような葛藤の中でもがき苦しんでいる人たちがたくさんいる。
印象に残ったエピソードはいくつもあるのだけど、印象に残った言葉を二つほど引用してみる。

まず、先の牧場主の息子で、牧場を継ぐことを決めていた慎吾さん。しかし、赤ちゃんを連れてそこに戻る決断は下せず、牧場を継ぐことを断念した。彼は今、東京電力の下請けの会社で働いている。
『いっぱい、いますよ。俺みたいな人。しょうがないですよね。家族養っていかなきゃいけない。そういう人いっぱいいますよ』

もう一つ。悩んだ末に、給食のプリントに「地産地消」と書いて保護者からやり玉にあげられている栄養士。彼女は、震災後の子供たちの様子を見て、こんな風に感じている。
『取材の最後に、長嶺さんは、子どもの意識で変わったこともある、と教えてくれた。給食センターに戻される食べ残しの量が格段に減った、という。震災後、報道などで被災者が食べ物で苦労している様子を見知って、食べ物を大切にしようという気持ちが芽生えているのではないか。子どもたちは、子どもたちなりに、震災に向き合おうとしているのではないか。』

本書では、原発の研究者へ向けた、痛烈な文章もいくつかある。

『原子力発電に賛成するにせよ、反対するにせよ、事故直後に汚染地帯へ直接出向いた科学者はほとんどいなかった』

本書では、気骨の、という表現をつけたくなるような、原発に関わる研究者が何人も出てくる。彼らは、自分の人生を賭して、原発と関わっている。その多くは原発反対派だけど、でもそんな立場はどうでもいい。現実に、被災地の汚染の実態を把握するために動き、また今も被災地で暮らす人々のために直接役に立つ知識を伝道していく専門家の存在は、素晴らしいと感じた。
また、とある原発研究者は、いわゆる「原子力ムラ」と呼ばれる御用学者や、そこまでいかなくても原発に真摯な形で携わっているわけではない科学者に、こんな苦言を呈する。

『この国で起きていることは、国や行政だけが悪いのではなく、研究者が政府の言いなりになることを条件に論文として発表することで、自己の地位や名誉を研究業績という形で評価されるシステムに甘んじていることが問題なんです。研究者である前に人としてあるべき姿を見誤ってきたシステムを金科玉条とする習わしが招いた人災なんです。あまりにも愚かな行為です。多くの研究者がその過ちにすら気づいていないか、気づいていても、その呪縛を自己の意志で断ち切ることができないでいるのが問題なんです』

そして、僕が本書を読んで強く思ったことは、そんな今だからこそ、新たな原発の研究者が出てきて欲しい、彼らが育つ環境がきちんと存在して欲しい、ということです。ある時僕は、今原発の研究者になろうという若手がもの凄く減っている、という記事を見た。当然だろうと思う。こんなことになってしまった原発に、自ら望んで手を染めようと思う前途ある若者はそう多くはないだろう。でも、廃炉にするにしても専門家は必要だし、福島県は今後も長い時間専門家や研究者の手を必要とする土地になってしまった。「原子力ムラ」というのが、どれほどの環境なのか、僕には想像も出来ないけども、原子力ムラに取り込まれない、きちんとした形で原発と向きあう若者がでてきてくれたらいいな、と思う。
僕は、やはり時々でも、こうして原発絡みの本を読もうと思う。
僕たちは、どんどん忘れていく生き物だ。僕も、先程も書いたけど、既にやはり福島県に住む人々の生活について、日常で意識する機会がほとんどない。でも、やっぱりそれではいけない。日本は、広島と長崎に原爆を落とされた土地だ。放射能に関する危険性や理解は、もっと広まっていいはずの国だ。しかし、残念ながらそうはなっていない。僕たちは、たかだか60年前の悲惨な出来事について、既にその当時のことを受け継いでいない。それはもう、遠い歴史の話になってしまっている。
僕は、自分の中で福島第一原発の事故が「歴史」になってしまう前に、多くのことを知りたいと思う。知っておかなければならないと思う。
それは、自分のためでもあるし、そして未来の日本のためでもあると思う。僕たちは、一人一人は何が出来るわけでもないかもしれない。でも、将来のいつかのために、『過去こんなことがあったのだ』と主張できるくらいに、僕たちはこの現実を覚えていなくてはいけないと思う。国が何をし、そして何をしなかったのかについて、はっきりと記憶しておかなくてはならないのだと思う。だからこそ僕はきっと、これからも原発に関する本を時々読むだろう。
是非読んでください。僕たちが覚えているために。また何かあった時に、国に「No」をつきつけられるように。正しい世の中になるように。

NHK ETV特集取材班「ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図」



はれのち、ブーケ(瀧羽麻子)

内容に入ろうと思います。
本書は、理香子と裕人の二人の結婚式を舞台に、大学時代同じゼミで仲の良かった6人の、結婚観や人生なんかを描いた作品です。
理香子と裕人は、大学入学直後から知り合い、お互い好意を抱いていたのだけど、なかなかタイミングが合わず、偶然を装って裕人と同じゼミを選んだ理香子から告白したのだった。
卒業後も、理香子と裕人の付き合いは続いた。理香子はずっと裕人と結婚したいと思っていたし、裕人にもちゃんと伝えていたのだけど、優柔不断な裕人は結論を先送りするばかりで、モヤモヤした気分を抱えることになった。フードコーディネーターとして独り立ちしていた理香子は、花嫁ばかりを集めた料理教室を担当していた時に、自分の苛立ちを強く実感させられることになった。実家が老舗旅館である裕人身の振り方を巡って、人生最大の大げんかをしたこともある。
そんな理香子も、出会ってから10年以上、ようやく裕人と結婚式を挙げられることになった。もちろん式には、ゼミ時代の友人を呼んでいる。周りの結婚ラッシュにも特に動じることなく、特に結婚願望が強いわけでもないのに、何故か理香子の結婚に動揺する鈴子。映画監督になる夢を追い東京に出てきて、結婚なんてまったく考えられない亮。自己主張が弱く、かなり年上の彼に結婚を申し込まれているのだけど、どうしたらいいのかわからないでいる奈緒、大学教授になることを目指していたのに、恋人の妊娠をきっかけにそれを諦め結婚した章太郎…。
30歳になり、大学時代には想像しなかったかもしれない自分の人生に戸惑を感じたり、自分の歩んできた道に不安を感じる彼らの揺れ動く感情を丁寧に切り取った作品です。
これはなかなか良い作品でした。まだそこまで名前の知られていない新人の作品ですけど、なかなか期待できる作家ではないかなと思います。
まずいいなと思ったのが文章。綺麗な石を丁寧に並べていったような文章は、素直にすっと入ってくる。特徴があるわけではないけど、この作家の書く気負っていない文章は、まっすぐで瑞々しいなと思いました。大学時代からの仲良し6人組の関係だけど、でも何もないわけじゃない。感情の行き違いとか、考え方の違いとか、そういうものはもちろんある。そういう、仲がいいんだけど決してそれだけじゃない、という部分を、文章できっちりと切り取れていると思う。僕も、大学時代から仲の良いメンバーというのがいたりして、そこの中での関係性とダブらせて読んだ。そうたぶん、仲がよくて楽しく喋ってても、それなりに色々あったりするんだろうなぁ、と思ったりして面白かった。
作品の構成としては、6人ぞれぞれが視点人物となって、理香子と裕人の結婚式でのやり取りをベースとして、自身の人生や結婚観などについて考えてしまう、という形になっている。6人の個性が結構きっちりと描かれていて、読めばきっと、6人の内の誰かに近いなぁ、なんて感じるんじゃないかと思った。
僕は、鈴子と裕人に凄く近いんですね。鈴子と裕人から、いくつか要素を抜き出して再構成したら僕になるんじゃないかっていう気がしました。
鈴子は、独身貴族というわけでもないんだけど、結婚したいというような強い願望はない。僕もまったく結婚願望がない人間なんだけど、でもこの点は男と女では同列で語れないだろうからあまり取り上げないことにします。
鈴子は仲間から、「わかりにくい人見知り」と呼ばれるんだけど、僕もまさにそうだよなぁ、と思うんですね。知らない人がいる状況ではむしろそつなく如才なく愛想よく振舞えてしまうのだけど、でも実はたくさんの人といるより一人の方がいい、と考えてしまう。凄くわかるなぁ、という感じがします。僕も、うまくいかない時もあるけど、でもどちらかというと初対面の人とはそれなりにうまくやれると思う。でも実際は、この状況はなれないよなぁやっぱり、と思っているのだ。僕も周りの人に、自分は人見知りだというとえーっという反応をされることがあるんだけど、僕もそういう「わかりにくい人見知り」なんだろうなと思います。
あと、鈴子は披露宴の受付をやるんだけど、そこで困ったのが、「久しぶり」と声を掛けられても相手の顔と名前が一致しない、ということ。これも凄く分かる。作中では詳しく触れてないけど、鈴子もきっと、あんまり他人に興味がないんだろうと思う。だから、よく会う人でも無い限り、すぐ忘れてしまうのだろうなと。これも、あーまったく同じですよ、とか思いました。
あと鈴子が、自分ひとりの生活を「楽しんでる」と答える場面も、そうだよなぁ、と思ったりします。これも、男と女では同列ではなかなか扱えないだろうけど、でも僕も、誰かと一緒に生活するより、ひとりの生活の方が気楽でいい、と思ってしまうんですね。鈴子は、結婚したいと思ってるんだけど出来ない、と悩むのではなく、この年になっても結婚したいと思えないなんて私変かな?という風に悩むわけだけど、そういう発想も何だか近いものを感じました(別に僕は悩んでないけど)。
裕人の方にもかなり親近感を覚えました。例えば外食した時のメニュー選び。裕人は優柔不断で決めるのが遅いんだけど、裕人としては相手に気を遣ってるわけじゃないんだけど、相手がそれじゃ許してくれない。だから考えるんだけど、でも決まらない、という状況なのだ。これも僕は本当によく理解できる。だから誰かとご飯を食べに行った時、僕が「何でもいいよ」と言ったら適当に注文してくれる人というのは本当にありがたい。
また、裕人がある重要な決断を迫られている時、友人に、「いっそ誰かが決めてくれたらって思うよ」と呟くシーンがあるのだけど、これも本当によくわかる。僕も、選択肢がないのは嫌だけど、選択肢があるのも困るよなぁ、と感じてしまう人間で、裕人が陥っているような重要な決断の場合、なかなか自分で決められないだろうなと思う。何らかの事情があって強制的にどっちかに決めないといけないとか、誰かに無理矢理決めさせられたみたいな方がいいんじゃないかと思ってしまうのだ。それは結局、『自分で決めたんじゃないんだ、こうするしかなかったんだ』という言い訳をしたいだけなんだと思うんだけど、わかるなぁ、という感じがしました。
あと、裕人が風邪でダウンした時、見舞いにきてくれた理香子に、『しんどいしんどいって理香子に言ったところでどうしようもないだろ』という場面があるんだけど、それも凄くよく分かる。裕人はそんなキャラじゃないから、風邪でダウンしていたからの失言ということなんだと思うんだけど、そうだよなぁ、と。僕も、口に出しては絶対に言わないだろうけど、しんどいしんどいって言えば風邪が治るっていうならともかく、そうじゃないなら言っても仕方ないよなぁ、と思ってしまうだろうと思います。もちろん、それを女性が哀しむというのも理解できなくもないんだけど、でもそれは頭の中だけの理解で、納得出来るかというとまた違うよなぁ、という感じがします。
そんなわけで、鈴子と裕人には凄く親近感を覚えたんだけど、逆に章太郎のパートは分からなかったなぁ。章太郎は既に結婚していて一児の父で、色々あったけど自分の選びとったこういう人生に愛着を感じている、というような内容なんだけど、結婚や子供にまるで興味のない僕には、章太郎の実感はあまり深いところまで届かないんですね。
奈緒についてもそういう部分があります。奈緒は年上の彼との結婚をためらっているのだけど、そのためらっている理由がイマイチよくわからない。これは女性ならではの感覚なのかもしれないし、男にはあんまり理解出来ないのかもだけど、奈緒の実感も僕にはちょっと遠かったなぁ、という感じがしました。
そんなわけで、6人それぞれがかなり違った性格なわけなんだけど、読めば自分に近いなぁ、という登場人物が結構見つけられるんじゃないかな、と思います。割とどの登場人物も、輪郭がきっちりと描かれているので、性格や考え方なんかが合えば共感しやすいんじゃないかなと思います。
あと、これは僕が勝手に期待して外れてしまった、というだけの話なんだけど、ラストは絶対朝6時の観覧車のシーンで終わると思ってたんだよなぁ。その描写が出てきた時、ラストは絶対これだろうな、と勝手に思ったのだけど、読み進めていくウチに、もうすぐ終わりだけどどうやら最後は章太郎の話で終わりそうだな、と思って確かめたらやっぱりそうで、ちょっと残念でした。まあ、6人それぞれが視点人物になって計6章という構成はピッタリはまってると思うのでいいんだけど、やっぱりエピローグみたいな感じでもいいから、最後は観覧車のシーンだったらよかったなぁ、とちょっとだけ思ってしまいました。
まあそんなわけで、なかなか面白い作品だったなと思います。若い作家にしては文章がかなり巧いと思うし、丁寧なキャラクター描写に好感が持てます。物語自体は地味ですけど、文章や描写の仕方なんかが、その地味さをかなり補っているなという感じがします。本作ももちろん良いんですけど、これからどうなっていくのか期待したい作家だなと思います。是非読んでみてください。

瀧羽麻子「はれのち、ブーケ」



左京区七夕通東入ル(瀧羽麻子)

内容に入ろうと思います。
舞台は、タイトルからも想像できるように、京都。
京都の大学の文学部に通う花は、ファッションに強く興味を持ち、他にも興味の関心があちこちに移ろう、まあどこにでもいる大学生。学部によってキャンパスが分かれている大学は、文学部と理学部では相当にかけ離れているのだけど、近くの女子大に通うアリサが、理学部に通う男子と付き合っていて理学部に入り浸っているので、花も大分毛色の違う理学部のキャンパスにはそれなりに馴染みがあった。
それは、ブルーベリーがもたらしてくれた奇跡だった。
なんていうと大袈裟だけど、ブルーベリーのお陰でその日、気合を入れた服を着ることになったのだし、だからアリサにあの合コンに声を掛けてもらえたのだった。
そこで、たっくんに出会った。
たっくんは、同じ大学の数学科、つまり理学部に所属していた。明らかに合コンにはヤル気がなさそうで、でもどうしてなのか花はたっくんに惹かれてしまっていた。
でも、たっくんとの距離感は、なかなかに難しい。
たっくんと同じ寮に住んでいる、ヤマネとアンドウとも仲良くなって、四人で飲んだり花火をしたりするようになった。でも、たっくんとの距離は、簡単には縮まらない。数学にのめり込んでしまうみたいだし、やっぱり人とちょっと感覚が違うみたいだし。
でも、花は諦めない。それまでの恋とは、全然違うような気がするのだ。たっくんとの出会いは、本物な気がする。花は、たっくん以外の日常とももちろんそれまでのようにちゃんと付き合いながらも、気長にたっくんとの関係を詰めていこうと決める。
花はもう四回生。就職も決まり、しばらくしたら京都を離れてしまう。そんな、最後の大学生活を描く作品です。
なかなか面白い作品でした。帯には、「「ダ・カーポ最高の本2010」女子読み恋愛小説第1位」って書いてあって、まあ本書は普通は恋愛小説として読まれるんだろうけど、やっぱり僕としては、理系の人たちの日常、みたいなものが気になってしまいました。
とはいえ、本書では、別に難しい数学の話とか、ついていけない研究の様子なんかが描かれるわけじゃありません。ただ、日常の中にいても、やっぱり理系の学生と文系の学生では、やっぱり色々と違う。その色々と違う部分が、僕は気になったし、楽しいなぁと思いました。
解説で、著者のインタビューをしたことがあるというライターの方が、「理系男子は周りにたくさんいた(著者自身は文系だけど)」というようなコメントを載せています。僕は理系でしたけど、教養課程で大学を中退してるんで、正直、理系らしい感じみたいなのってあんまり実感がないんですよね。大学時代に入ってたサークルにも、理系の人間ってそこまで多くなかったし、僕は逆に、大学時代理系の学部にいたのに、理系っぽい人が周りにあんまりいない環境だったなぁ、という気もします。だから、余計に気になるのかもしれません。
やっぱり一番気になるのは、たっくんこと龍彦です。<数学に取り憑かれている>と表現されるくらい、龍彦は数学の才能がある。それゆえ、という表現は色んな何かを含んでいてアレかもだけど、龍彦はなかなか常人とは違う感性で、常人とは違う時間の中に生きている。
作中で花も言っているけど、一つのことに打ち込める人ってのは、凄く羨ましい。花は、あちこちに興味が分散してしまって、一つのことになかなか集中できない。僕は、基本的にほとんどのことに興味がなくて、こうやって本を読んで感想を書いてるけど、あくまでもこれは僕の中で「暇つぶし」っていう位置づけだったりします。すごくのめり込んでいる、という自覚はないんですね。僕や、やっぱり数学とか好きなんで、龍彦のように、数学に集中しすぎて周りが見えない、なんていうの、ちょっと憧れたりします。将棋とかでもいんですけどねぇ。でも、まあ外から見てる分には羨ましく思えるんだろうけど、実際そうなったら、なかなか大変なんだろうなぁ。
ヤマネにしてもアンドウにしても、やっぱりどっちも理系で、遺伝子だったり爆弾だったりと専攻は色々だけど、やっぱりそうやって一つのものに向かって突き進んでいくっていうのは羨ましかったりする。
でも、龍彦もヤマネもアンドウも、花を羨ましいと言う。お互いにないものねだりをしているだけかもしれないけど、気持ちはわからなくもない。
ある場面で龍彦は、花にこんなことを言う。20代も前半で、一つのことが決まっちゃってるのなんて、例外じゃない?それってある意味で、将来の選択肢を狭めてるってことだし。花のように、色んなことに関心を持てるのは、羨ましい。
確かに、そういう気持ちも僕の中にあって、だから僕は両者の気持ちがわかる(笑)。あまりにも色んなことに興味がなさすぎる僕としては、もう少し色んなことに興味を持てるようになりたいんだけど、なかなか難しいんだよなぁ。
本書は確かに恋愛小説なんだけど、若者のそういう、青臭い悩み、みたいなものもたくさん出てきていい。花とか龍彦とかだけじゃなくて、例えば花の親友のアリサも悩んでいるし、花の友人の剛くんも悩んでいる。学生の時って、将来のことを考えたり、今自分が寄って立っているところについて考えたり、自分がこれまで歩んできた道について考えたりと、無駄に何もしなくていい時間がふんだんにあるから、ダラダラと意味のない問い(というのは、大人になって後から振り返ってみるとそう思える、という意味だけど。学生時代には、まさにその問いは、深刻ですよねぇ)を考え続けられてしまう、っていう不幸に見舞われますよね。僕も、まあそうだったなぁ、とか思いながら読んでました。
京都っていう雰囲気も、学生小説にはなんか凄く合うし(これは、森見登美彦が好きだからそう感じるのかなぁ)、京都にそんなに詳しくないけど、なんとなく作品全体から「京都っぽさ」みたいなものが伝わってきて、やっぱ京都っていいなぁ、と思います。
もちろん花の恋愛の話がメインになってくるんだけど、決してそれだけではなくて、京都という街に生きる学生たちのウダウダした青春物語という感じの作品です。読んでみてください。

瀧羽麻子「左京区七夕通東入ル」



株式会社という病(平川克美)

内容に入ろうと思います。
経済やビジネスに関する本、というのは山ほど出版されている。それは、『こんな風にすればお金がたくさん手に入る』というものから、『昔の経済学者が考えた理論』まで、とにかく様々だ。
しかし本書は、なかなか変わった経済書である。それは、『株式会社』という存在そのものについて考える、というものだ。
会社をどう運営するかや、会社の中でどんな風に働くのか、という本は様々出ていることだろう。しかしそうではなくて本書では、『株式会社』というのはそもそもどんな存在であるのかということを突き詰めようとする。これは、本書でも書かれているけれども、ビジネスの現場では決して役に立たない知識である。しかし、多くの人は、毎日会社に行き、そこで働き、時には会社が命令する理不尽な要求にも応える。あるいは、昨今頻発しているように思える企業不祥事や、グローバリゼーションの台頭による会社の変化。
それらは、何故どうしてどのようにして起こるのか。
著者は、それを追い求めようとする。そしてその根底には、『株式会社』というものが、発生したそもそもから宿命的に抱えていたある『病』が存在する、と指摘する。
本書は、その『病根』についての作品である。
読みながら僕は、本書のPOPのフレーズを考えたのだけど、それが本書をかなり的確に表しているのではないかと思うので書いてみようと思います。

『全サラリーマン必読!

会社はなくてはならない。
でも会社は、生まれた時から病んでいる。
あなたはそんな『会社』の中で、どう振る舞うべきか。』

先に、本書の中で貫かれている一つの考え方について書こう。
それは、善悪で物事を判断しない、という点だ。
著者は本書で繰り返し、それが良いことなのか悪いことなのかは問題ではない、と書く。例えば著者は本書の中で、『株式会社はそもそも病を抱えている』と書く。しかし、だからと言って『株式会社はなくなるべきだ』と主張しているわけではない。著者は、『株式会社が病を抱えていることを認めた上で、ではどうするべきか』と問う。
これは、本書で扱われるどんな話でも同じだ。著者が個人的に違和感を覚える、という話は出てくる。ただそれについても、それを『悪い』と判断するわけではない。また、著者が認めることがあったとしても、それを『良い』と判断するでもない。僕は、著者のこのスタンスが凄く好きである。善悪の二元論、それは昨今のグローバリゼーションによって日本でさらに加速していっているような気がするのだけど、そういう単純な議論を著者はしない。著者は、物事の本質を明らかにしようとしているだけで、その善悪を判断しようとしているのではない。そういう考え方によって本書が貫かれているという点が、まず僕がいいなと思う点である。
そしてもう一点。本書では、僕が社会の中で働きながらずっと抱いてきた違和感を説明してくれている、という点で、僕にとって凄くいい本である。僕は、未だにアルバイトで働いているのだけど、大学時代、絶対に自分はサラリーマンにはなれないと思って、それだけが原因ではないけど、大学を辞めた。実を言えば僕は、中学生の頃から、自分はサラリーマンには絶対になれない、と感じていた。中学生の頃の理由と大学時代の頃の理由は違うのだけど、その違う点も本書は説明してくれているのだ。未だに僕は、社会の中で働く中で、どうしても拭うことができない違和感に日々囚われてしまう。もちろん他の多くの人も、それを感じているかもしれないし、感じていてでも無理矢理無視しているという人もいるのだろう。でもなんとなく、それを感じていない人もたくさんいるような気がして、そのことにも僕はモヤモヤさせられてしまう。
本書のテーマをまず引用しよう。本書の中には、これがテーマである、という文章がいくつか出てくるのだけど、まあこれがいいかなと思って選んだのがこれだ。

『本書のテーマは、ビジネス(つまりはお金儲け)という人間の活動の中に潜む思考停止であり、株式会社というものがそもそも思考停止を前提としたシステムであることを再認識しようというものだ。』

さらにこんな風にも書かれている。

『問題は、株式会社とはどうあるべきかというところにあるのではなく、株式会社というものが本来的に持っている限界についての認識を共有することである。』

そして、先程も少し触れた、著者の考え方が、こんな文章として出てくる。

『株式会社というものが、お金儲けのシステムとして考案されたとき、すでにそれは思考停止を前提としたシステムだった。
しかし、誤解していただきたくないのは、そのこと自体を糾弾したくて本書を書いたわけではないし、株式会社悪者論を展開したいわけではない。
株式会社がお金儲けだけに腐心する病的なシステムだからといって、それは別に悪いことでもないし、もちろんいいことでもない。
株式会社に道徳を求めたり、株式会社が社会貢献を標榜したりするのは勝手だが、本来的にそのような観念を受け入れるようなシステムではないのである。』

さて、ここから本書についての概略を書きたいものなのだけど、それはなかなか難しい。それは、本書は全体で一つのテーマについて論じているのだけれども、あくまで各章のテーマ的な繋がりは緩くて、章毎に結構別々の内容が扱われているから、という理由もある。のだけれども、それ以上に、やはり僕の理解度が、本書を人に説明できるほどではない、というのが大きいだろうか。
というわけで、僕がわりかし理解できた部分だけざっと書こうと思います。
まず著者は、『株式会社』というものの病根は、『所有と経営の分離』にあると言う。まさに『所有と経営の分離』こそが『株式会社』という仕組みを生み出したわけで、著者はつまり、『株式会社』というのは、それが発生したまさにその瞬間から病んでいるのだ、ということなわけです。
何故それが病根なのか。

『経営と資本の分離は、企業の社会性、秩序、職業倫理よりも、できるだけ早く、できるだけ大きな利潤を求めることを優先させるようになった。』

まさにそうなのだろうな、と思う。そしてこれこそが、僕が会社というものについて、そして会社で働くということについてどうしても拭えない違和感を覚えてしまう部分である。
そして本書では、この『病根』こそが、昨今の企業不祥事の根底にあると主張する。多くの論調では、ライブドアや不二家の不祥事は、経営者の倫理や社会の管理体制の問題に帰着されている。しかし著者は、それは違うだろう、と言う。もちろん、原因を追求することは大事である。しかし、そもそもの『株式会社』が抱える『病根』について自覚的でないままにそういう議論をしても意味がないのではないか、と。
本書では、ライブドアや不二家などの具体例を引き合いに出して、その不祥事が何故起こり、その不祥事に人々がどう反応し、そしてどのように処理されようとしているのかについて触れ、その中で著者は、『株式会社』というものが持つ『病根』こそがすべての根底だ、という持論を展開する。

『昨今の雪印乳業、不二家、三菱自動車といった会社が、信用を失った理由は、ブランドイメージが落ちたからではないだろう。それ以前に、経営者たちが会社を育てて行くという「親の情熱」を失って、短期の利益確保といったような等価交換のスキームに陥り、それを肌で感じた「現場」のモチベーションが落ち込み、現場の人間もまたその会社で働くことの誇りを失い、会社の方針と争うよりは、波風を立てずに時間を稼ぐといった諦めに近い精神になっていたのではないだろうか。そして、これもまたもうひとつの共同体の姿であるともいえるだろう。共同体はそれがもつ呪縛力によって拡大し、同時にその呪縛によって腐敗してゆくものだからである。』

また著者は、昨今流行りのCSRやコンプライアンスなどについても、『株式会社』というものが持つ『病根』と絡めて、こんな主張をする。

『しかし、CSRといい、コンプライアンスといい、それが会社の課題となるには、会社が利益を出しているということが前提である。損失を出してまで、社会的責任を全うしようなどという会社は、そもそも会社設立の目的に反した自己矛盾なのである。CSRといいコンプライアンスといい、それがないよりはあったほうがいいに決まっているが、企業が持つ本質的な病を解決することにはならない。』

『株式会社』の持つ『病根』は、そこで働く個人の価値観にも大きな影響を与える。まず著者はこう主張する。

『どこまでいっても会社の目的とは、利益を最大化するということになる。本質的には会社にはそれ以外の目的は存在していない。そして、その目的は私たち自身の目的でもある。ただし重要なことは、会社にとっては、それは唯一の目的であるが、人間にとってはいくつかある目的のうちのただひとつでしかないということである。』

しかし、『株式会社』が生来的に持つ『病根』は、人間を変質させる。

『この会社の価値観が瀰漫するとき、ひとはその価値観の中でしか考えられなくなる。個人にとっても唯一の課題は利益の最大化であるというように。本当はそれは、会社というものが作った便宜的な価値観であって、個々の人生にわたる価値観のうちの、部分的なものであるはずである』

それなのに僕たちは、

『私たちはそのことに大いなる違和感を感じることがあったとしても、まあ、しかし会社とはそういったものだと、同意を与えている』

のである。それは何故なのか。それを、僕の理解度ではひと言で表現できないけれども、本書はそれも明らかにしようとしている。
本書ではそれ以外にも、アダム・スミスの経済論の話や、かつての日本の企業文化の話、あるいは技術革新がもたらした変化など、様々な事柄が扱われている。後半は、僕にとって結構難しい話になってついていくのが難しかったのだけど、『株式会社』が内在する『病根』の起源や、『株式会社』というものがどんな風に変化していったのか、また企業不祥事が起こってしまう素地がそもそも『株式会社』というものの中にあるという話など、普段まったく考えることのないような話がたくさん出てきて、もの凄く面白かったです。
僕は、本を売る仕事をしているのだけど、常に拭えない違和感を持ち続けている。それは、ひと言で言えば、『売れればなんでもいいのか』ということである。
僕は、同業の人にそういう話を聞く機会が時々あるのだけど、やはり皆『とにかく売れるなら何でもいい。まずは売らないと何も始まらない』というようなことを言う。確かに、それは理解できる。売らなければ、どうにもならない。
でも僕には、ずっとこれが違和感としてつきまとうことになる。それは、結局のところ、『売るためには何をしてもいい』ということであって、それは違うだろ、とどうしても思ってしまうのだ。
じゃあどういう状況がいいのか、と聞かれると困る。僕はただ自分の中の違和感を捨てられないだけであって、どうしたいのか、どうあるべきなのか、という意見は、まだまとまっていない。
でも、『とにかく売れればいい』という感覚は、僕はちょっと違うと思いたいという気持ちが強くある。
しかし本書は、それは『株式会社』である以上もう仕方がないんだ、と説く。良い悪いではない。『株式会社』というものの性質がもうそうなっているんだから、仕方ないではないか、と。これは僕にとっては目からウロコという感じがしました。
僕は、やっぱりなんだかんだいっても、会社というのは人が動かしている、と思っていたんです。ロボットを人が操縦している、というイメージですね。だからこそ、会社の中で働く人の意識が少しずつでも変われば、会社というものも変わるのだ、と思っていました。
でも、本書はそうではない、と主張している。会社というのは、そういう人が操縦できるようなロボットではない、と。じゃあどういうイメージなのかと聞かれると困るけど、だからこそ、人が変わったところで、『株式会社』というものの性質がそうさせているのだから、それは仕方のないことなのだ、という。
色々書きたいことがあるのだけど、ちょっと僕の方に時間がなさすぎる。あまりにもまとまりのなさすぎる感想だと思うけど、最後に、本書の文章で、これは凄くいいなぁ、と思ったものがあるので、それを抜き出して終わろうとおもいます。

『思想が思想たりうる条件とは何か。それは、どのような問題にも明確に応えうるような処方を持っていることにあるのではなく、この世の中に生起する様々な問題を、特殊な人間によって、特殊な状況のもとで引き起こされたものだといった対蹠的、診断的な処理をしないということであると私は思っている。対蹠的、診断的な処方は、個別遂行的な課題には何らかの効用があるだろうが、習慣を超え、言葉を超え、思考の枠組みそのものを超えて、人性に爪跡を残すことはできない。それは問題を発見したり、解決したりしたのではなく、ただ整理したに過ぎないからだ。思想が思想たりうるためには、いかに特殊な事象に見絵用が、そこから人間全体の問題につながる普遍性を取り出せるかどうかということであり、そこにこそ思考というものの全重量がかかっている。』

『株式会社』そのものという、なかなか普段考えないし、本のテーマとしても扱われることがないものについて、善悪を判断するのではなく、本質を見つめなおして認識を共有しようという著者の姿勢が凄く好きだし、語られている内容もとても示唆に富むスリリングなもので、凄く面白かったです。是非読んでみて下さい。

平川克美「株式会社という病」



北里大学獣医学部 犬部!(片野ゆか)





内容に入ろうと思います。
本書は、青森県の十和田にキャンパスを持つ北里大学獣医学部にある、「犬部」というサークル(ただし現在は名称が変わり、「北里しっぽの会」となっている)についてのノンフィクションです。
「犬部」は一体何をしているサークルなのか。それは、捨てられたり迷子になっている様々な動物たちを保護し、元の飼い主を見つけたり、譲渡先を探したりするサークルです。いわば、動物愛護を学生がやっている、ということです。
「犬部」は、現在では地元で絶大なる知名度を持つ。犬部専用の電話があり、そこにはひっきりなしに色んな電話が掛かってくる。色んな形で保護されるペットを、部員が自分たちのアパートで飼い、健康を取り戻させたりしつけをちゃんとし、また一方で譲渡会などを積極的に行うことで、引き取り先を見つける。そうした活動が評価されているのだけれども、実はその歴史はまだ浅い。
犬部は、太田快作という、一人の超絶的な人間によって、2004年に創設された。
犬部を創設する前の太田は、学内ではある種の名の通った人間だった。どちらかと言えば、悪い意味で。
獣医学部に入った太田は、研究のために動物を殺さなくてはならないことを知りショックを受けた。しかし、太田は様々に調べてみると、欧米では動物の命を奪わずに研究を行う、動物実験代替法という手法が採用されている大学が多いことを知り、太田は大学と掛け合った。その結果太田は、在学中一切の動物実験を拒否し、それにかわる実習やリポート提出などによって単位を習得した北里大学獣医学部唯一の学生となった。
それには、理解ある教授の存在が大きかったのだけど、とはいえ、そういう和を乱すような学生は、多くの教授から疎まれるようになった。
一方で太田は、<出会ってしまう人間>だった。しかも、十和田に来てから急に。
<出会ってしまう人間>というのは、捨てられたり衰弱しているペットなどに、何故か道端でよく出会ってしまう人のことだ。十和田にはペット可のアパートが元々多いようで、それでペット自体を見かけることは多いのかもしれないけど、でもそれは他の学生も条件は同じだ。何故か太田は、そういう辛い環境にいる動物たちに巡りあうことが多かった。
太田は、犬部を創設する前から、自宅にそういうペットを連れてきて飼い、その引き取り先を探すということを、まったくの個人でやり始めた。同時に飼っているペットは常に十数匹に及び、部屋の状態がとんでもないことになっていくに連れて太田は、土足で生活するようになった。太田はアパートを出る時、家賃26000円の部屋に、修繕費を47万円請求されたという、とんでもないエピソードも書かれている。太田は、獣医学部生という、ただでさえ普通の学生より忙しい学生生活の中で、さらに自分の時間を削りに削って、ほとんどすべてをなげうって動物愛護に打ち込んできたのだった。
太田が「犬部」を創設しようと思ったのは、自分の手に負えなくなったから、ではない。太田は、引き取って世話をした動物が元の飼い主の元に戻る、あるいは新しい譲渡先で幸せに暮らす、この喜びを他の人にも経験して欲しい、と思って「犬部」を創設することに決めたのだった。
2004年の「犬部」創設以来、「犬部」は基本的に『超越した個人』によって支えられる、ごく小さな団体だった。
その一人は、もちろん創設者の太田だ。その後、太田の後を継いで代表になる池田や大山という二人も、太田に負けず劣らずの『超越した個人』だ。彼らのような、とにかく何が何でも目の前の動物を救う、そのためには自分の生活などいくらでも犠牲にしてやる、というハンパではない強い想いが、「犬部」を継続させ、また徐々に認知されるようになっていった。
なにせ「犬部」は、相当に大変なサークルだ。
創設当初は、人数が少ない中医療費や餌代を確保するために、一人頭月7000円、なんていう会費の時代もあった。ある時から「犬部」専用の携帯電話が出来、授業中以外は電源を切らないでおくと、ひっきりなしに相談の電話が掛かってくる。この「犬部」専用携帯電話の初代担当者は、池田だ。池田は、相談者からの電話に実に丁寧に対応し、通常で一人あたり30分、長いと一時間を超えるようなことを日々やり続けているのだ。
また、アパートで飼うペットも次々増える。常時十数匹というとんでもない数を飼う太田は別にしても、常に持ち込まれてくる動物をどうにか振り分けると、常に数匹の動物が部屋にいることになる。中には、重い病気に掛かっていたり、人間に恐怖心を抱いて打ち解けてくれない者もいる。そういう、実に手のかかる動物たちに全身で向き合い、面倒な手間を惜しまなかったり、人間が怖い存在ではないと根気よく教えこんだりということを続ける。
そうして、これなら誰かに譲渡しても大丈夫だ、というところまで育ててから、引き取り先の募集を掛けたりするのだ。
言葉を喋るわけではない動物を相手に、必死でコミュニケーションを取ろうとする。そういう苦労もあるし、もちろん実際上の苦労(トイレがちゃんと出来なくて部屋が汚れるなど)も様々にあるのだけど、「犬部」の大変さはそれだけではない。「犬部」最大の大変さは、社会と関わっている、という点だろう。
本書に、少林寺拳法のサークルと兼部する部員の話が少し出てくる。彼は「犬部」の部員に、少林寺拳法のサークルは厳しいね、と言われたことがある。礼儀とか体育会系の感じとか、そういうところを指しての言葉だったのだが、彼は、「犬部」の方がより厳しい、と感じていた。その理由が、社会と関わっているという点だ。
学生だから、という言い訳がなかなか利かない。彼らの活動は、既にサークルのレベルを遥かに越えて、地元で認知され必要とされている活動なのだ。ペットをあっけなく捨てる大人たちの存在に憤り、安楽死についてその是非を議論し、動物愛護に理解を示してもらえない人にそれでも言葉を送り続けたりと、自分たちが社会の中で重要な接点になっているという点が、非常に責任が重いと言える。
だからこそ、事件も起こる。具体的には書かないけど、それはある意味では、三代目代表である大山が入部当初に危惧していた、「犬部」という組織に対する不安感が逆の意味で的中した、と言えるのかもしれない。当初は、太田という『超絶的な個性』がとんでもない馬力を発揮して引っ張り続けていった「犬部」も、広く知られるようになり、また組織としても大きくなっていくと、やはり色々問題が起こるものだ。
本書はそういう、「犬部」の創設にまつわる話や、その後どんな人間が現れ「犬部」を牽引して行ったのか、あるいは「犬部」が組織としてどう変化し地域の中でどんな風に知られるようになっていったのかという、「犬部」そのものの話が描かれる一方で、「犬部」が実際に引き取ってきた動物たちの中から、印象的な動物のエピソードが色々と描かれる。
「犬部」唯一の『犬部員』として、実質上犬部」のナンバー2と言われた「ハナコ」の話を初め、飼うには色々と大変なこともあるのだけど譲渡会では常に大人気となる「犬部」のアイドル犬「ホワイト」、当初「コマッタちゃん」と呼ばれていたビーグル犬の「アズキ」、「犬部」が主導して作った絵本のモデルになった「コロ」など、「犬部」の歴史の中でも強い印象を残してきた動物たちとのエピソードがふんだんに描かれている。どの動物も一筋縄ではいかない部分があって、特に「ホワイト」の話は色々と考えさせられるものがある。僕はペットをほとんど飼ったことがないのだけど、当然といえば当然、動物を飼うというのは、ただ単純に「可愛い!!」というだけではない。「犬部」が引き取る動物たちは、病気や障害、あるいは人間不信など、色んな傷ついた動物たちがいる。彼らとどんな風に向き合い、そしてどんな風に別れていくのか。ペットをほとんど飼ったことのない僕にも、なるほどこれはなかなかいいかもな、と思える話が多いんで、ペットを飼ったことがあるとか今も飼っているという人にはたまらないかもしれません。ところどころ写真が載っていて(でも、それぞれの章の終わりに写真が載ってるんで、先に写真を見てイメージを固めてから読みたいという人は、新しい章を読み始める前にまず章の終わりに写真がないかどうか見てみるといいと思います)、動物がそこまで好きってわけでもない僕にも、なるほど結構可愛いかも、と思わせるものが多かったりします。そういう、動物たちとのふれあいの記録として読むのでも、また楽しく読めるだろうと思います。
いやホント、なかなか素晴らしい作品だなと思います。すいすいサクサクと、たぶん中学生とかでも全然普通に読めちゃうと思うんだけど、動物って可愛いなぁ、というだけでなく、凄く深いことを考えさせてくれる作品だとおもいます。
まず何よりも、「犬部」の学生たちは本当に素晴らしいと思います。十和田という土地は、北里大学のキャンパスぐらいしかなく、周りに遊ぶところはあまりない、みたいな風に書かれていて、だから遊ぶのに忙しい都会の若者よりは時間が作れるのかもしれません。とはいえ、彼らは獣医学部という、やっぱり普通の学生よりは遥かに大変な環境にいるわけで、学生生活と両立して動物愛護を行なっているというのは、本当に凄いと思いました。
しかもそれが、地域に根づき認知されている。今では、「犬部」が開く譲渡会や、「犬部」も参加する動物のイベントなんかは大盛況のようで、初めは大学非公認だったサークルも、今では公認サークルになっています。迷子の犬を見つけたとか、衰弱している猫がいるというような連絡はよく入ってくるようになり、ちょっとでも多くの動物を救うという素晴らしい役割を担っています。
とはいえ、決して楽しいことばかりではない。「犬部」の活動は、無理解な大人、という存在を前に、絶望したり無力感に襲われることもあるのです。
特に彼らを悩ませるのは、「犬部」が創設されたことで、あまりにも簡単にペットを「犬部」に持ち込む飼い主が多い、ということ。
巻末で著者は、最近はペットと一生付き合うことという認識が広まってきたらしく、ペットを捨てる件数も減っている、みたいなデータを書いているけど、でもそれもまだまだでしょう。お金が掛かるから、部屋が汚れるから、そういう理由でペットを捨てる人がとても多い。「犬部」専用携帯電話を持った池田の電話も、とりあえずもう少し飼ってみて欲しいという説得に費やされることが多いという。
また、困ったら「犬部」がどうにかしてくれるから、という気軽さに憤ることも多い。とはいえ、彼らが救わなければ、ペットたちは保健所で処分というより辛い環境に生かされるわけで、だから仕方ないと「犬部」の部員は無理矢理納得をしている。
また本書で面白いのは、「犬部」のとある部員自身が、動物愛護そのものに対する疑問を持っていること。ある部員が、「結果的に寿命が短くなっても、外を自由に動きまわって一生を終えるのと、寿命な長くなるけど基本的に室内で飼われる動物に、どっちが幸せかを決めることは出来ないのではないか?」という疑問を持つものがいたりして、「犬部」の中でも決して動物愛護に関する考え方は一致しているわけではない。
それでも、目の前に傷ついている動物がいれば救う。その覚悟と努力は素晴らしいと思いました。
この作品を読むと、動物愛護に限らず、とりあえずやってみればいい、というような前向きな考え方も教えてくれる。
若い人の中には、何かやりたいんだけど何をしたらいいんだかわからない、なんていう気持ちを抱えている人は結構いるんじゃないかなとおもいます。何かやるなら、やっぱりちょっと大きなことがしたい、という気持ちもきっとあったりするでしょう。
でも、それとは別に、大きな部分に強い影響を与えることは難しいかもしれないけど、自分の身近な目の前の出来事に対して全力になってみる、という形もあるよな、と教えてくれます。
実際に「犬部」の面々は、目の前の動物を救う、というその信念で動いている。初めその活動は、十和田周辺にしか広がらなかっただろう。でも、自分たちで絵本を作り、本書のようなノンフィクションのような形になり、結果的にはその活動は広く知られるようになった。初めは小さくたっていい。今自分のいる範囲で出来ることにとりあえず全力を傾けてみたらいいんじゃないか。そんな風にも思わせてくれる作品です。
巻末の、馳星周の解説もなかなか素敵です。なんでこの本の解説が馳星周!?と思ったけど、自身も愛犬家のようで、しかもかなり重い病気に掛かった直後だそう。そんな中で、飼い犬とどう接するのか、という覚悟みたいなものが伝わってきて、凄くいいなと思いました。
最後に。本書では捨てられたペットを預かる、というような話がやっぱり多いのだけど、実は迷子のペットというのも多い。そしてそれは、迷子札をつけることで、見つかる確率が格段に増すのに、迷子札はまだあんまり認知されていない、とのことでした。ペットを飼うかた、迷子札を必ずつけてあげるようにしましょう。震災によってペットと生き別れになった人も多いようで、マイクロチップを内蔵の迷子札なんてのが結構強力みたいです。
この作品、漫画にしたらいいのになぁ、と読んでいる間思っていたんだけど、帯の裏をみたら漫画になってるみたいです。「少年サンデー」と「Eleganceイブ」の二誌で連載中とのこと。ペットの可愛さと、ペットを飼うことの大変さ、そして何よりも動物愛護の重要さと壮絶さが伝わる、素晴らしい作品だと思います。是非読んでみてください。

片野ゆか「北里大学獣医学部 犬部!」



トライアウト(藤岡陽子)

内容に入ろうと思います。
新聞社に勤める可南子は、校閲部から運動部へと異動になった。
かつて世間を騒がせたあの出来事があってから、可南子は社内でちょっと浮いた存在だった。可南子の存在を持て余しているのかもしれない。可南子としては、どんな部署であろうと文句を言わずにやり抜く覚悟だったが、定時で上がれず休みも不規則になりがちな運動部での仕事に、ちょっと不安もある。
仙台の実家に預けっぱなしの一人息子・考太との時間のやりくりが、難しくなる。
シングルマザーとして子供を産んだ可南子は、あの出来事があって、周囲の誰にも父親の名を閉ざした。誰にも言わなかった。誰にも言わなかったことが正しかったか、それはわからない。でも、こうするしかなかった。
運動部に異動になった可南子の初めての取材は、仙台で行われたトライアウトだ。球団を解雇され行き場を失った選手たちの最後のチャンス、それがトライアウトだ。取材のついでに実家に寄った可南子は、未だ両親、特に父親とのわだかまりを捨てきれないまま、微妙な距離感を保っている。
トライアウトの取材で可南子の視線を奪ったのは、深澤という一人のピッチャーだ。可南子は、どうして自分が彼に目がいってしまうのか、色々考えたり調べたりしてようやく思い至った。
入社一年目。その時も運動部に所属していた可南子は、高校野球の取材をしていた。その年の高校野球の優勝投手が深澤だった。
可南子は、仙台にいる息子、突然倒れた父、可南子を振り回す深澤など、運動部への異動を機に様々な事態に見舞われる。そうしてその中で、自身の人生について、これまで以上に深く考えることになる…。
というような話です。
これは素敵な作品でした。派手さはないし、むしろ地味だと思うんだけど、じんわりと染みこんでくるような、そんな小説だと思います。
先に書いておくと、この作品は野球小説ではありません。重要なモチーフとして野球は色んな場面で出てくるけど、あくまでそれは背景の一つ。本書は、母と子の物語です。
やっぱり本書で、一番いいなぁと思ってしまうのは、可南子の息子・考太ですね。
具体的な考太の境遇とか状況は書かないけど、やっぱりなかなか苦労している。それを、母親である可南子には見せないように、という気遣いにも、また苦労が滲み出る。考太は、嘘のない真っ直ぐな少年に育っているけど、でもやっぱりまだ小学生。自分の気持ちだけではどうにもならないことがたくさんある。母親が常に側にいない、父親はそもそもいない、という環境の中で、考太はなかなか自分の思い通りの境遇を掴みとることが出来ないでいる。
でもそんな状況でも、考太は強い。
帯に、考太が言ったこんな言葉が書かれている。

『辛いときはその場でぐっと踏ん張るんだ。そうしたら、必ずチャンスはくる。チャンスがこない人は辛いときに逃げる人なんだ』

もちろん、大人の受け売りではある。考太が自分一人でそんな風に考えたわけじゃない。とはいえ考太はまだ小学2年生だ。大人に何を言われたところで、自分にとって辛い境遇をそんな言葉ですんなり受け入れられる年齢じゃない。そういう中で考太は、自分の意志ではどうにもならない状況に対して、静かに踏ん張る、そういう決意を固めている。その強さ、そしてある種のしなやかさみたいなものが、僕にはとても眩しく感じられたし、羨ましいな、と思う。僕自身は、そういう素直な子供では全然なかったし、いつだってひねくれたことばっかり考えながら、悲観的な方向にしか物事を考えられないでいたから、考太のことはちょっと羨ましい。考太がどんな風に成長してくのか、それは凄く楽しみだな、という感じがします。
深澤も、凄く印象的な存在です。彼は、高校野球の勝利投手となり、かなり期待されてプロ野球に入った。けど、色んなことがあって(具体的には書かないけど)、可南子に会った時には、トライアウトを受け、明日をも知れぬ立ち位置に立っていた。
プロ野球選手になるような人間は、子供の頃からずっと一番だったような、そんな人間が多い。深澤自身も、そうだった。当時は、誰よりも先頭を入っていた。少なくとも、自分ではそう思っていた。でも、今ではびりっけつだ。
でも、深澤は諦めない。深澤には、自分は野球をやっていくんだ、というその部分での恐ろしいまでの強さがある。
自分の才能を信じているとか、野球以外出来ないんだからしがみつきたいとか、そういう考えじゃない。深澤には、ただ純粋に、自分がプロ野球選手として可能な限りプレイをする、ということしか意識にない。その強さ。
もちろん、諦めが悪いだけ、という風にも見えると思う。でも、本当にそれだけなのか。
僕は、深澤のこんな言葉が、凄く印象に残った。

『まあ、簡単に言えばそういうことだな。人生を大きく動かすには、自分自身の中の暗闇を動かすしかないってことだな』

ここの部分だけ抜き出すと、なんか後ろぐらい想念が云々、みたいな表現に見えてしまうけど、そうではなくて、自分の意識が届かない領域にいかに働き掛けるか、それで物事が動くことだってある、という話で、これまで全力で突き進み続けた深澤らしい言葉だな、と思いました。
可南子は本作中、ずっと迷い続けている。
可南子の目の前には、次から次へと色んな出来事が現れる。それらは、いいことだったり悪いことだったりするけれども、共通していることがあるとすれば、それまで可南子がずっと先送りにし続けて、色んな偶然によって問題として現れ出なかった様々な事柄が、突然一気に襲いかかってきた、ということは出来るのではないか、と思います。
そう、可南子は、色んな意味で、過去からの負債を抱えていた。それまでは、金利はお情けでなしにしてもらっていた。でもある時から、もう無理だからそろそろ利子払ってねと言われるようになった。その負債の存在をずっと意識から閉めだしていた可南子は、突然(というのは、まあ無責任な表現ではあるけど)、その負債の存在と、かつ同時に課されるようになった利子の存在にあたふたしている。本書での可南子はずっと、そういう感じなんですね。
それは確かに、可南子の生き方の問題で、可南子は割と誰に対しても言い訳が出来ない感じではある。とはいえ、もちろん道場の余地はあって、それは最後まで読むとはっきりと明らかになる。
可南子は、決して器用な女性ではなかった。
容姿は良かったのだから、こういう言い方をするとある意味で差別的な発言になるのだろうけど、もっと楽な生き方をすることは出来たはずだ。でも可南子には、もうそれができなくなってしまった。昔から、要領がよかった方ではない。大抵何でも出来たけれども、頑張り過ぎてしまって、『巧く』生きていくことが出来なかった。
可南子の生き様を反転するかのような存在が、可南子の妹・柚奈だ。柚奈は、可南子と同じくらいなんでも出来るのだけど、それを隠して要領よく生きていた。本書では、柚奈の生き方がそこかしこで描かれることで、可南子の生き方と対比させられている。
負債と利子が突然のように降り掛かってきた可南子にとっては、運動部に異動になってからの日々は怒涛だった。その中で、可南子の生き方を肯定してくれる人、ただ寄り添ってくれる人、力を与えてくれる人など、様々な人たちと出会う。また、家族の色んな変化に直面することで、家族との関わり方も変わっていく。自分の生き方を曲げられずにいた窮屈な一人の女性は、徐々にではあるが変化していく。その過程が、実にいい。
そんな可南子と深澤の生き様を、凄く象徴するような会話があって、それをちょっと抜き出してみます。

『「いつになったら…終わりになるんですか」
「終わり?」
「野球を終わりにするんですか。もしくは終わりにしないつもり?」
「そりゃいつかは終わるさ。終わらないことなんてこの世にひとつもないんだから。むしろ終えるために人は生きてるんじゃないの」
「なんで終わりがあるんだろう?」
「終わりがなかったら全力出せないだろ」』

可南子にとっては、淡々とした日常を生きること、それこそがまさに重要なことだった。そういう風に思い込んでいた、ということもある。それに、子供がいるのに「淡々とした」というのは、まさにその子供を実家に預け、月に一回ぐらいしか会わない生活をしていたからだろう。可南子にとっては、子供が出来たその瞬間から、いやもう少し正確に言うと、可南子が否応なしに巻き込まれたあの出来事が起こってから、可南子にとって、どこへも向かわない『終わりのない人生』といかに向き合うかが一つの大きなテーマだった。
しかし深澤は違った。深澤は、自分が追い求めているものの正体を冷静に見つめつつ、終わらせるために全力で前に進んでいる。いずれやってくる『はっきりとした終わり』をどんな風に迎えるか。深澤の人生にとっては、まさにそれが重大な問題だった。
二人の生き様は、まるで交差しない。しかし、二人は出会い、少しずつ関わりあうことで、お互いの生き様が少しずつ交差していくようになる。可南子に出会うことで、深澤がどのぐらい変わったのか、それははっきりと分かるほど描かれているわけではないと思う。しかし、少なくとも可南子は、深澤と出会うことではっきりと変わった。
人には色んな人生がある。何を大事にするのか、どこに軸足を置くのか。それはすべて、様々な選択の積み重ねだ。今の自分の境遇を嘆くことは、わかりやすいし簡単だ。しかしそれは、今そして未来の選択には影響をしない。可南子も深澤も、今のそして未来の選択をし続けた。そしてそれは、息子の考太にも受け継がれている。自分の決断が、自分の人生を変えていく。そういう力強さがいい。
本書ではもう一人、プロ野球の世界で名将と呼ばれる木下監督というのが登場する。これも、具体的なことは書かないけど、この木下監督の生き方に強く賛同し、それに自分の身を投じることがやっぱり僕には絶対出来ないな、と思ってしまうことが、僕自身の良さでもあり弱点でもあるな、と感じさせられました。この木下監督のあり方は、今の自分の仕事に関することにも通じるような気がして、凄く考えさせられました。
野球に打ち込む男と、子供や家族を放り出して仕事に打ち込む女性の生き様を通じて、人の深いところにまで届く何かをたたえた作品だな、という感じがしました。是非読んでみてください。

藤岡陽子「トライアウト」



約束の森(沢木冬吾)

内容に入ろうと思います。
元警視庁公安部所属の刑事で、様々な理由があって刑事を辞めその日暮らしをしている奥野侑也は、かつての上司である太田経由で侑也に接触してきた緒方という、同じく公安部所属の刑事から、ちょっとした仕事を依頼されることになる。
それは表向き、「モーターモウテル・光芒」と言う名のホテルの従業員として働く、というものだった。
そのホテルは、警察関係者が秘密裏に使う場所のようで、緒方が何を目論んでいるのかさっぱりわからなかったが、とりあえず侑也はその土地で暮らせばいい、ということのようで、太田からの紹介だということもあって受けることにした。
しかしまさか、見知らぬ他人と共同生活だとは思わなかった。
住居としてあてがわれたのは、サイロというちょっと変わった建物だった。侑也一人で住むものだと思っていたら、そこに若い男女も一緒に住むのだという。
葉山ふみと、坂本隼人だ。
緒方の説明によれば、この三人で家族として振舞え、とのことだった。ふみはともかくとして、隼人はなかなか厄介そうな男で、やはりというべきか、初めの内三人は、ぎくしゃくとしたまま過ごすことになった。
緒方は、『N』と呼ばれる組織を追っているという。それを聞いて侑也は、この作戦のきな臭さを嗅ぎとる。
何故なら、かつて公安部にいた侑也にとって、『N』とは実在しない組織の通称であったからだ。その『N』が、実在すると緒方は思っているのだろうか?
ともかく、三人の生活は始まった。いや、三人と一匹だ。
侑也はホテルのオーナーから、ずっとほったらかしにされていたドーベルマンを譲り受けていた。血統書もあった、かなり有能なドーベルマンのようなのだが、長年適当に放置され、また虐待されたような痕も残る実に痛々しい佇まいであった。かつて警察犬を調教の手伝いをしていた侑也は、マクナイトという名のそのドーベルマンを引取り飼うことにしたが、当然というべきか、人間への不信感が強く、なかなか懐こうとしない。
侑也もふみも隼人も、それぞれ与えられた役割を着実にこなしていきながら、日々が過ぎていった。その過程で、行き場のない身寄りである三人の生い立ちや、それぞれが持つ能力や欠点などが少しずつ分かっていく。
状況は、相変わらず動かない。次第に彼らは、本物の家族のようになっていくが…。
というような話です。
これはなかなか面白い作品でした。この作家の作品は昔一作読んだことがあったんだけど、あんまり好きになれない感じだったのだけど、なんか評判の高かったこの作品は、確かに評判通りなかなか良い作品だと思いました。
先に、僕が思う欠点をいくつか挙げようと思います。
まずは、伏線というかネタの配置の仕方がちょっと下手かな、と。別にこの作品はミステリじゃないんで、そういう部分が下手出も別にどうってことはないんだけど、明らかに不自然とか、あぁきっとこれはあとでこういう展開になるんだろうなぁ、というのが結構バレバレ(普段読んでてそういうことにまるで気付かない僕でさえも)なのが、ちょっと残念だったかな、と。
あと、本書は最後の最後でなかなかアクション的な感じの展開になっていくんだけど、そこが若干都合が良すぎるなぁ、という点。確かに盛り上げるためには、危機一髪!というような展開が素敵だけど、でもそれはうまくやらないとただ都合がいいだけの展開になってしまう。本書は、若干そういう部分があって、だって、あれだけの状況普通はくぐり抜けられませんって。そこの説得力みたいなものが、もうちょっと欲しかったかな、という感じがしました。
あとは、タイトルかなぁ。「約束の森」って、正直読み終わった今でもちょっとピンとこない感じだし、読む前でも、これから読もうという気にさせるほどの何かがあるわけでもない。この作品だったら、もう少し適切なタイトルがあったはずじゃないかな、という感じがします。本を売る立場になって、タイトルの重要さみたいなものを常に実感するんですけど、そういう点で本書はちょっと損しているかな、という気がしました。
僕が感じた欠点は以上。
本書はまず、突然一緒に暮らすことになり、初めはぎくしゃくしたままだった侑也・ふみ・隼人の三人の関係性が、どういうことをきっかけに、どういう状況の変化が訪れ、どんな風に移ろっていくのか、そこが非常に読みどころだと思います。
この作品を読んでもらおう、という気になって欲しいから、これぐらいは明かしちゃっていいだろうけど、本書は最終的にハッピーエンドで終わります。
もちろんそうであるためには、侑也・ふみ・隼人の関係性は、物語が始まった当初から相当変わってなくてはいけません。本書では、その関係性の変化に、相当のページ数を費やすことになります。その三人にドーベルマンのマクナイトも加えれば、その三人+一匹の交流の話が作中の8割ぐらいを占めるんじゃないかな、っていうぐらい、彼らの関わりを追う描写がメインです。
侑也は、かつてある事件で妻を失い(結局死体は見つからなかった)、また事情があって警察を辞め、生きる気力が強くあるわけでもないまま孤独に過ごしてきた。
ふみは、離婚した母親に引き取られるも放置され、介護が必要になった叔母の世話を押し付けられ、叔母の死と共にふみの境遇が発覚することになるが、なんと戸籍が存在しなかったという、相当に苦労して生きてきた、23歳。
隼人は、陸上自衛隊にいたが事故で片腕をなくし、またふみと同じくなかなか強烈な生い立ちを潜りぬけ、自らの能力を活かせる「任務」を追い求めてここにやってきた19歳。
そしてマクナイトは、人間にかなり酷く扱われ、侑也が引き取った時は酷い人間不信に陥っていた、しかしその実素晴らしく優秀なドーベルマン。
彼らは、それまでの人生で、相当に傷つき、そしてまた孤独の中で生きてきた。決して自分のせいではない、暴力的なきっかけによって無理矢理その境遇へと押し込められた彼らは、ある意味で人生を半ば諦めていた。
共同生活が始まった当初は、彼らの、そもそも人間に対する不信感から、要らぬ誤解や無用な心配などに苦労させられることになる。どうしていいのかわからない、という彼らの戸惑いが、彼ら自身の生活を乱し、お互い向きあうことは出来なかった。
しかしその関係性は、少しずつ変化していく。マクナイトは、人間への不信感から初めの内は懐かなかったが、次第に元の優秀なドーベルマンの姿へと戻っていく。が、それはマクナイトだけではない。侑也・ふみ・隼人の三人も同じく、人間への不信感から打ち破ることが出来なかった自分の殻を、少しずつ破っていくことになる。
そしてそれは、マクナイトの存在が象徴的だと僕は思う。侑也とマクナイトの関係性が変わっていったことが、他の人間関係の変化を予感させるものだし、また直接的にも、マクナイトが存在したことで関係性の変化が加速する出来事が起こったりもする。本書でマクナイトは実に素晴らしい役割を担うのだけど、その一端は間違いなく、侑也・ふみ・隼人の三人を『家族』にまとめあげた功績だろうと思う。
個人的には、特に隼人が変化していく過程がいいな、と僕は思いました。ふみは、女性らしい柔軟さがやっぱりあるし、侑也はマクナイトとの交流で自分の壁を破る素地が出来ている。でも隼人は、まだ未成年だという若さもあるし、性格的にもなかなか自分から引くことが出来ない男だ。そんな彼が、様々な経験を経て変わっていく姿は、なかなか素晴らしいと思います。
また本書のもう一つの良さは、彼らが置かれている状況の面白さだと思う。
侑也たちの日常の描写を読んでいると、なんとなくごく一般的な家族小説だと錯覚してしまいそうになるけど、本書ではあくまでも彼ら三人は、とある作戦に従事している、ということになっている。彼らが積極的に何かするわけではなく、彼らがその土地で生活をする、というのが作戦にとって重要なわけだけど、いずれにしても彼らの生活は、彼らを覆うとあるミッションの一要素でしかないわけだ。
その、彼らを取り巻く環境そのものが、なかなか面白いのだ。
それは、『N』という存在の不確かさが非常に大きく関わっているという感じがしました。
緒方が追っている『N』というのは、侑也の認識では存在しない組織だ。公安に配属になると出世しやすいと言われる。その一つの理由として、『N』という架空の組織をでっちあげ、その『N』について捜査をしている風に見せかけることで昇進試験にせいを出す、という噂が公安内ではあるのだ。侑也にしてみれば、『N』とはそういう扱いの組織であり、だから緒方が『N』を追っていると聞いて驚く。
緒方としては、もちろん目論見がある。とはいえ、その緒方にしても、すべて自らの自由でこの作戦を動かせているわけではない。そこには様々な思惑が絡みあい、侑也からしてみれば支離滅裂としか思えない謎めいた作戦展開になっている。
その『N』という組織の不確かさが、侑也たちを取り巻く環境をとても魅力的なものにしている。誰の言っていることが正しいのか。そうひとりごちたくなるくらい、様々な人間から様々な話が出てくる。侑也はそれらをすべて保留とし、どれかの意見に与しないよう努力する。そうでもしなければ、ただでさえ侑也自身は実在を疑っている『N』の存在や、またくっついて話題に出る他の組織のことなど、なかなか信用できるものではない。
これは、本書の後半でアクション的な展開になってからも、状況を一層混乱させる原因として働く。誰の思惑でどういう行動が起こされ、今一体何が起きているのか、そういうことすべてが非常に不確かで、何を頼り何を疑えばいいのかまったくわからない状況の中で、急スピードで事態が展開していく。そのスピード感もなかなかのもので、凄く面白い設定を作り上げたなと思いました。
まったくの赤の他人が少しずつ様々な経験を経ることで、血のつながりを超えた『家族』になっていく過程が凄く良い作品だと思います。この作品はなんとなく男臭い(銃をドンパチしたり、裏の世界の人たちがわらわらしたり)作品のように見えちゃう気がするけど、全然そこまででもなくて、最後の方の怒涛のアクション的展開を除けば、傷ついた彼らが徐々にお互いを信頼していく過程を描いていく心温まる作品です。是非読んでみてください。

沢木冬吾「約束の森」



銭の戦争 第一巻 魔王誕生(波多野聖)





内容に入ろうと思います。
本書をどんな風に紹介するのか、もんのすごく難しいのだけど、さわりの部分と、最後どんなところに話が着地するのか、そして主人公は一体誰なのか、という部分について断片的に触れることで内容紹介に変えようと思います。
物語は、日露戦争を戦う上で必要となる戦費を諸外国から集める、日本銀行副総裁・高橋是清の活躍から始まる。
当時日本は小国で、しかもロシアに宣戦布告しつつも、大国ロシア相手に勝てるはずがない、と思われていた。そんな中で、戦費を諸外国からかき集めるために国債を売るというのは恐ろしい難事業だった。しかし、高橋是清はそれを成し遂げる。高橋是清の功績は大だが、しかしその背景には、時代の幸運もあった。
あるユダヤ人の富豪が動いたのだ。
ジェイコブ・シフと名乗るそのユダヤ人は、ロシアに対してある不満を抱えており、ロシアに対して宣戦布告をした日本を支援することに決める。ロシアの皇帝・ニコライ二世が抱える特殊な事情を明かしつつ、日本・ロシア・ユダヤ人の三者の思惑が錯綜していく。
本書は、井深享介という一人の若者の物語だ。日露戦争の話からどのように井深享介の話になるのか、そして井深享介とは何者なのか、という話は割愛することにしよう。
本書は最後どこにたどり着くかと言えば、明治40年前後の日本に置ける株の大相場の描写までである。そこで何が起こるのかも、書かないでおこう。井深享介という一人の青年が、どんな生い立ちの中で何を学び、どんな高みにまでたどり着くのか、そしてさらにそこからどこを目指そうとするのか。そういう物語です。
いやー、ホントに面白かった!正直、まったく期待してなかったんです。全然期待してなかった。経済を扱った小説は得意ではないし、本書ではその次代を彩った(だろう)様々な人物が実名で登場するのだけど、歴史に疎い僕はそれらの人がどんな人で何をしたのか全然知らない。そういう状況で読み始めたのだけど、まあこれが滅法面白い!ちょっとびっくりしました。
読み始めた時は、ちょっと無理かなと思ったんです。だって、ロシアの皇帝・ニコライ二世の話とか出てくるし、日露戦争の戦費を諸外国からかき集めてくるって話は全然知らなかったんで面白かったんだけど、でもこの物語がどこに向かっていくのかがまるで想像できなくて、ちょっとこれは厳しいかなと思いながら読み始めたのでした。
でも、どんどん面白くなる。
本書の面白さのメインは、やっぱり経済的な話です。でも、初めはそういう描写が少ない。最終的に、株の相場の話までたどり着く物語なんだけど、読み始めからしばらくの間は、もちろん少しは経済っぽい話も出てくるんだけど、でもそういう描写はかなり抑えられている。後でも触れるけど、初めの内は、登場人物とか舞台設定とかをかなりきちんと描写するために結構心血を注いでいる感じで、経済小説はちょっとなぁ、とか思うような人でもかなりとっつきやすい作りにはなっているかもしれません。
しかし何にせよ、後半怒涛のように展開されていく株の相場の話は面白い!僕はホントに経済の話って全然分かんなくて、「売り注文」とか「買い注文」なんて話も、ちゃんと考えればわかるんだけど、物語を読んでいる過程でするっと理解できるほど理解してるわけじゃない。特に、「売り注文」ってのが難しい。だって、手元にその株を持ってなくても売れちゃうんですよ!?(「空売り」というらしい)。いや、ちょっと時間を掛けて頭を使えば、なるほどそういうことかってまあわからなくはないんですけど、それでも僕にはやっぱり、経済とか株の話は難しい。
それでも、かなり読ませるんですよね。別に難しい話を避けてるわけじゃない、と思う。結構経済的に踏み込んだ描写ってのも出てくる。確かにそういう描写をちゃんと理解できているわけではないんだけど、でもそれでも面白い。株の相場というものがいかにして人間を狂わせていくか、その魔物的な魅力が凄くよく表現されていて、惹きこまれました。
ストーリーで言えば、株的な話でなくても面白い部分がある。具体的には書かないけど、ロシアのちょっとした秘密組織みたいなのが絡んでくるなかなか壮大な展開があって、これもよく出来てるなぁって思いました。そういう謀略小説的な作品って、そこまで読んでるわけではないんで、他の作品と比較出来るわけではないんですけど、展開とか細部の描写とか設定とか凄く巧く出来ていて、これまた惹きこまれました。登場人物が実在するからと言って、ここの部分の話が事実ってことはないんだろうけど(ってか、歴史の知識がほぼゼロな僕には、描写されているうちどこまでは事実でどこまでが創作なのかさっぱりわからないんだけど)、実際にこういうことが起こっててもおかしくないよなぁ、なんて思わせてくれるだけのリアリティがあったと思いました。
本書の凄い点は、そういう経済的な部分とかストーリーの面白さだけではないんです。本書でなされる、明治時代の様々な描写が、あの目の前で見てきたんですか?この光景、と聞きたくなるくらい描きこまれているのだ。
たとえばこんな感じ。

『茶会がはじまった。案内があり、席に入ると、床には唐銅の大水盤に、河骨が涼しげに活けてある。
亭主・井深雄庵の丁寧な挨拶に続いて、懐石が出された。旬の物や名残の物が巧妙に按配された膳の数々、焼物で出された夏鴨と魚肉のツクネの旨さには、皆声を上げた。
食後、中立となり、暫くした後に案内があり、再び席に入った。
床には、狩野元信の雨中山水の軸がかかっていて、滅多に褒めることの無い井上が、その字句に感服の声を漏らした。
そして、濃茶手舞となり、亭主が茶筅洗いにかかった時だった。
庭を隔てた向こうから、琴・三味線の合奏が起こった。耳をすませると、上方舞の茶音頭だ。雄庵は、大胆にも茶席では前代未聞の音曲付きの御立舞を行ったのだ。
合奏は、末客が呑み終わるまで続いた。』

これは、茶の湯の際の描写なのだけど、本書は全編こんな感じで、吉原の描写だったり、当時の町並みの描写だったり、どの場面をとってみても、その当時のその光景を間近で見てきたとしか思えないような臨場感溢れる描写をするんですね。これがちょっと凄いなと感じました。
まあ、意味不明な単語もいっぱい出てくるし、だからその描写から映像がズバッと浮かぶわけでもないんだけど、でも読む人が読めばきっと伝わるんだろうと思うし、あらゆる場面でそれだけ作りこまれた細密な描写が出来るというのは、著者が相当調べたか、元から相当な知識があったかだろうけど、どちらにしても凄いなと思ったのでした。
また本書では、さっき引用したような茶の話や、また吉原の話など、経済的な話とは関係のない、当時の「粋」の話が結構いろんなところで描かれていく。しかもこれは、決して舞台装置として必要なだけではないのだ。特に茶の方は、ストーリー展開でも非常に重要な役割を担っている。これがまた巧いと思いました。舞台装置としてこれだけの描写が出来るってだけでも充分凄いと思うんだけど、さらにそれを物語と無関係なままにはしないという点が、作品全体の質を高めているなと感じました。
個人的に、ここはもうちょっとこうした方が良くなるんじゃないか、なんていう不遜なことを考えていたりする部分もあったりはするんですけど、でも今のままでも充分過ぎるほど面白い作品で、ちょっとこれ、話がこれからどんな風に展開していくのか、気になって仕方ありません。正直なところ本書は、井深享介という男のプロローグ的な位置づけでしょう。恐らく次巻以降、井深享介の本領がはっきされるという形になるんじゃないかな、と思います。もちろん本書の、井深享介のプロローグ的な物語も実に面白いんですけど、続きがどうなるんだろうなぁ、という興味を結構強く掻き立てられる作品だと思います。
経済の小説かぁ、しかも舞台は現代じゃないのね、あんまり知らない作家だけど主人公が実在の人物って大丈夫かな…とか、まあ色々不安にさせる作品ではあると思います。ただ、経済とか歴史が苦手な人(まさに僕がそうです)でも充分楽しめる作品だと思います。これからどんな風に話が展開していくのか楽しみでしかたありません。是非読んでみて下さい。

波多野聖「銭の戦争 第一巻 魔王誕生」



エクソシストとの対話(島村菜津)

内容に入ろうと思います。
本書は、映画などで有名になった「エクソシスト」について、現地で精力的に取材をしたその成果をまとめたノンフィクションです。
「エクソシスト」というのは色んな人がいて、神父だったり普通の人がただ名乗っていたりと様々なんだけど、本書では、ヴァチカンから公認されている「公式エクソシスト」という人たちについてスポットを当てています。
本書でメインで描かれるのは、著者の取材当時既に死去していた、当時最高と言われていたエクソシストであるカンディド神父。このカンディド神父の話を主軸としつつ、現存するエクソシスト・精神科医・エクソシストを受けた人など様々な人に取材をし、実際にエクソシストの現場にも居合わせ、そうやって実際にその世界にかなり浸ることで、色々新しい視点が見えてきます。
エクソシストというのは、悪魔祓いをする人、というようなイメージです。聖書にもエクソシストの記述はあり、現在行われているエクソシストも、何百年も前から形式としては変化のない、かなり伝統的な儀式なのだそうです。
とはいえこのエクソシストの存在は、なかなか難しかったりする。
ヴァチカンにとってエクソシストというのは、なかなかに頭の痛い存在だ。その理由を簡潔に表現した箇所があるので抜き出してみます。

『ミリンゴ神父に限らず、増えるエクソシストたちは、教会にとってかなり煙たい存在だといえるわ。なぜなら彼らが、初期キリスト時代のように司祭が誰しも神の力を介在することによって癒しや悪魔祓いを行うことができることを強調し始めれば、ヴァチカンという権威機構は、自動的に揺らぐ。面倒くさい階級組織も、その意味を失ってしまうからよ』

とはいえヴァチカンとしても、聖書にも書かれ、相当に長い期間伝統として脈々と続いてきた儀式を否定するわけにもいかない。エクソシストの任命も、誰がどのようにときっちりと決められており、エクソシストの存在をなしにすることはやはり出来ない。ヴァチカンには、そういうジレンマがある(とはいえ、ヴァチカン側からの記述はあんまりないのだけど)。
そんな状況の中で、しかもこの現代のような科学が浸透している世の中において、なぜ「悪魔祓い」というような非科学的な事柄がある程度受け入られているのか。
それは現代では、エクソシストというのは、ある意味でセラピストとして機能しているからです。
そこに、先程名前を出したカンディド神父が大いに関わっている。
「ローマ典礼儀式書」という本には、悪魔祓いに関する作法も書かれている。1600年代に作られたその儀式書は、カンディド神父がエクソシストになったまさにその年、大幅な改訂が加えられている。
その最たるものが、何もかもを悪魔のせいにはしない、というスタンスである。
カンディド神父は、自身の元にやってくる人の9割以上は、何らかの精神的な病である、と指摘している。本当に悪魔に憑かれているのは1割もいない、と。だからこそカンディド神父は、精神医学の分野の専門家ともかなり交流を持ち、やがてそのあり方がエクソシストに広まっていったという。実際にイタリアでは、医者や精神科医が匙を投げた症例の最後の紹介先としてエクソシストが普通の選択肢として存在するのだそうです。
「悪魔」とはそもそも何なのか、「悪魔祓い」は本当に有効なのか、悪魔祓いの最中の奇跡的な出来事とはどんなものがあるのかなど、様々な方面から「エクソシスト」というものを切り取っていく作品です。
エクソシストという、まったく知らない世界の話を知ることが出来る、という点でなかなか興味深い本だったんだけど、個人的にはなかなか難しいなぁと思う部分も多い本だった。
なんというか、印象として本書は、ある程度聖書とかキリスト教について知っている、というのが多少前提になっているのかなぁ、という気がしてしまいました。
もちろん、聖書とかキリスト教のことはまあ有名なんだろうし、ある程度の知識はあるはず、という前提で本を書くのはまるで間違っていないのかもしれないけど、そういう知識がまるでない僕には、ちょっとついていくのにしんどい箇所もありました。
特に聖書の内容について詳細に書かれている部分は結構厳しかったかなぁ。聖書の中でエクソシストとか悪魔はこんな風に扱われたり描かれたりしている、というような話の時に聖書の話になるんだけど、なかなか辛かったです。他にも、トリノの街がサタニズムの儀式が頻繁に行われている、みたいな話も、歴史的な部分の話が結構出てきて、しんどいなぁ、と思ったりしました。
一方で、エクソシストが現代ではセラピストとして重宝されている、という、本書で割とメインになるだろう主張に関わる話はなかなか面白く読みました。この科学が広まった時代に、と思うけど、悪魔祓いをやっている側もされている側も、積極的に悪魔や悪魔祓いの存在を受け入れているわけではない。エクソシストたちは9割以上は精神的な病だと断じるし、最終的に悪魔祓いを受けることになった人の中には、あちこち病院に行ってどうにもならなくて医者に勧められたから仕方なく行くんですという、悪魔祓いなんかまるで信じていない人なんてのも結構いる。イタリアにしても当然、国民全員が悪魔祓いを信じているというわけもなく、迷信だと断じている人も多いわけです。
そういう、お互いに積極的に信じているわけではないのに、なかなか不可解な現象が起きたりする。それが、電灯がついたり消えたりする、なんてレベルならいいけど、末期的なガンが消滅したとか、思い肝臓病が治ったみたいな、そういう信じがたい話も多々あって、でもまあそれを実際証言している人もいるわけだから(一人など、難病の子を持つ医者の親の話が出てて、その医者さえ、子供の難病が治った、なんて主張してるんですね)、一概に否定も出来ないんだろうけど、理系の人間としては、どういう理屈でそんなことになるんか知りたいもんだなぁ、という感じがしてしまいました。とはいえ、エクソシストに見てもらうことで、確実に救われる人がいる、というのは間違いない事実であって、その辺りの話は興味深いなと思いました。日本の狐憑きや呪いなんかと比較したりする部分もあって、日本でも当然市民レベルでは祟りだとか呪いだとかそういうのを信じている人はいるだろうけど、でも精神科に行ってどうしても駄目だったら霊能師のところへ、なんてことはなかなかない。そういうことが普通に行われているのがイタリアという国で、なかなか興味深いと思いました。
あんまり僕の個人的興味と重ならなかったみたいで、読んでいてそこまで面白いと思えた作品ではありませんでした。悪い作品ではないと思うんで、聖書とかキリスト教とかにある程度興味があったりする人が読んだりすると、面白く読めるんじゃないかな、という感じがします。

島村菜津「エクソシストとの対話」



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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)