黒夜行

>>2012年03月

絶望の国の幸福な若者たち(古市憲寿)

内容に入ろうと思います。
本書は、東京大学の大学院に在籍中の学生であり、友人と会社を経営する経営者であり、かつ若手社会学者として今最も注目されている著者による、「若者論」です。
とはいえ、いわゆる「若者論」のような、今の若者ってこうだよね、昔と違ってこんな風だよね、というようなことだけが書かれている作品ではありません。本書は、「若者」というのが日本の歴史上いつ生まれ、これまでに様々に主張された「若者論」を分析し類型化し、「日本」という国がどのように成り立ちかつそれがどのように崩壊しつつあるのか示すというような、「若者」を扱うことで「日本」という国や社会、あるいは歴史について考察している、そんな作品になっています。
そもそも著者は、本書の中で「若者」を定義しない。ざっくりとこういう感じの対象だと考えているけれども、みたいな表記はちらほら出てくるけど、明確に「若者」を定義することはない。その理由は、最後の方で明らかになる。つまり、今の日本は「一億総若者化時代」であるためにどの世代にも「若者」は存在するし、また20代前後の人たちを「若者」という世代で一括りにしようにも、今の時代「若者」の幅が廣すぎて一枚岩では捉えられないのだ、というようなことが書かれる。そういう意味で本書は、単純な「若者論」ではない。
章毎にざっくりと内容を追っていこうと思います。
第一章は「「若者」の誕生と終焉」。この章では、「若者」という立ち位置がどのような歴史的経緯で生み出され、またその「若者」に対してどのような「若者論」が提示されてきたのかを追っていくことになる。
かつて日本では、世代で人を区別することが出来るなどと想像も出来なかった時代があった。なにせ、「農民」と「武士」は世代が同じだろうとその生き方はまるで違ったからだ。そういう意味で、世代によって人間を一括りにして語るというのは、実は歴史が浅いことだ。
本書では、戦争によって人々がある種の平等状態に置かれたことがきっかけで、「若者論」を含む「世代論」が可能になった、と書かれている。
これまでの「若者論」の類型化は非常に面白い。何故なら、今(2012年現在)で言われている様々な若者に対する言説は、もう何度も繰り返されている「若者論」の中に散見されるからだ。時代によって若者が変わらないのだ、という見方も当然できる。でも本書では、「自分が年をとって世の中についていけなくなっただけなのに、それを世代が移り変わったせいだと思ってしまう」ことが、「若者論」がいつの時代も存在し、かつ同じような内容が繰り返されていく主因ではないか、と指摘していて面白い。
第二章は「ムラムラする若者たち」。この「ムラムラ」には、「ムラムラする」という「ムラムラ」と、「村々」という意味の「ムラムラ」という二つの意味が組み合わさっている。
様々な統計によると、若者にとって、社会保障や雇用などで様々な世代間格差の存在するこの日本において、若者の幸福度は実に高いらしい。それを様々なデータを見ることで確認していくとともに、同時に、現在若者に対して言われている様々な言説についても、データで確認しようとする。
それら様々なデータから、今の若者は、「社会に対して何かしたい」と感じているのに「実際に行動に移すことは少なく」、とにかく「仲間がいれば楽しい」と思っている、ということになる。
これを著者は「ムラムラする若者」と呼ぶ。何かしたいと思っている「ムラムラ」と、仲間という小さな世界の中で満足する「村々」が組み合わさっているという。
第三章は「崩壊する「日本」?」。この章では、人類がここ数百年の間に発明したものの中で最大の仕掛けの一つに「ナショナリズム」を挙げ、「国家」という仕掛けが衰退していく過程と、ワールドカップの熱狂に見る若者のナショナリズム(めいたもの)を追っていく。
第四章は「「日本」のために立ち上がる若者たち」。この章では、デモやボランティアなど、実際に若者が、自分の身の回りのこと(「村々」のこと)ではなく、社会全体のために行動している(「ムラムラ」の衝動に動かされて)事例を取り上げながら、「ムラムラする」若者たちの姿を、実際にデモなどの現場で色んな若者に話を聞くことで描き出そうとする。彼らは「ムラムラ」して行動に起こすが、結局その行動の場が「居心地の好い居場所」になってしまい、それによって承認の欲求が満たされてしまうために、当初の目的が「冷却」されてしまう、という、結局「村々」してしまう若者の姿を描く。
第五章は「東日本大震災と「想定内」の若者たち」。この章では、東日本大震災によって立ち上がった多くの若者の声を拾いつつ、震災が「日本」という国に、そして「若者」に与えた影響について考察する。
第六章は「絶望の国の幸福な若者たち」。最終章であるこの章では、結局若者が何故今幸福なのかを、それまでの話を総括するような形で考察する。社会全体が若者にとって辛い環境であるにも関わらず若者が幸福なのは、世代間格差やなんやかんやの問題は、結局「今」の問題ではないからだ。彼らにとって「今」の問題は、自分の身の周りの小さな世界から「承認」されるかどうかである。そして今の世の中は、かつてに比べて、様々な形で「承認」の場が増えた。ツイッターなどのSNSやニコニコ動画など、小さな世界の中で「承認」が得られる環境は多い。そういう「村々」している中でなら、格差のことなど問題にならないし、そういう小さな世界の中で、ナンバーワンを目指すわけではない生き方を選択している若者は、なんだかんだいって幸せだよね、という感じです。
そして巻末に、俳優の佐藤健との対談が収録されています。龍馬伝に出ていた頃のインタビューで、「生まれるなら幕末ではなくて絶対に現代がいい」という主張をしていたのを著者が見かけて興味を持ち、この対談が実現したとか。この対談を読んで僕は、佐藤健にかなり好感を持ちました。
というような感じの内容です。
僕はこの著者が結構好きなのだけど、本書もやっぱり面白かったです。
僕はこの著者のスタンスが結構好きなんだと思うんですね。例えば著者は、まえがきでこういうことを書いちゃう。

『研究者ぶって色々とこ難しそうな話をすることのあるかも知れないが、そういう風に書いてある箇所こそ疑って読んでいただきたいと思いう。僕を含めて、研究者というのは議論に自信が持てない箇所こそ、曖昧に何回に書いたりするものだから。』

またこんなことも。

『さらに補章として、俳優の佐藤健さんとの対談を収録した。佐藤さんのネームバリューを考えると、実はこの補章こそが、この本の本章であると言っても過言ではない。』

皮肉っぽいとか、謙遜が過ぎるとか、まあ色んな感想を持つ人はきっといるんだろうけど、僕はこういうのは「正直だなぁ」って思うし、好きです。作中でも、本当にそう思ってたとしても僕だったらちょっと書けないなぁ、というようなことをサラっと書いてたりとかして、そういう素直なところが好きなんだろうなぁ、という感じがします。人を馬鹿にしたような表現もするし、人によっては不謹慎だと捉えられかねないような文章もあったりするんで、好き嫌いはそれなりに分かれるだろうけど、僕自身はこういう、オープンな感じというか、無理してないというか、そういうスタンスは結構好きだったりします。
本書は、「若者」という軸を用意している、という共通項があるだけで、各章で結構論点が色々出てくるんで、なかなか感想を書きづらいなぁ、という感じもするんだけど、やっぱり本作中で一番面白いのは、現実の若者に関する描写と、それらに対する著者の分析でしょう。
本書では、フィールドワークと称して、ワールドカップ時の渋谷やデモ行進の現場など、著者が色んなところに出向いて、そこにいる色んなタイプの若者に話を聞いている。本書に出てくる様々な若者に肉声を読んでいるだけで、あぁこの人達をひとまとめにした「若者論」なんてまず無理だろうな、という感じにさせてくれる程、色んな若者が登場します。
もちろん、著者にしたって、自分の書く本の内容に合う若者の話を優先的に登場させているでしょう。それは仕方ないことです。作中の記述にまったく合わない若者を、多様性を示したいというだけの理由で登場させるのはなかなか厳しい。だから本書に出てくる若者も、ある種のバイアスが掛かっているわけなんだけど、まあだとすればもっと多様な若者がいると想像できるわけで、ますます「若者論」は難しい。
ただ、多様性があるとはいえ、やはり傾向はある。本書ではそれを主に、データから読み取る。データと言っても様々だ。国が発表しているちゃんとしたデータもあれば、浜崎あゆみや西野カナの曲に出てくる歌詞の話もある。新聞記事中で「若者」という言葉が使われている頻度をグラフにしたものもある。とにかく、色んなところからデータを持ってきて、著者は色んなことを読み解こうとする。その過程で、著者の推測も交えつつ、大人が盛んに「若者は可哀想」と喧伝してくれるこの世の中で、何故当の若者が幸せを感じているのか、を追っていく。
実際本書で描かれていることは、僕も分からなくもない。僕は、特別何かに「ムラムラ」している自覚はないし、小さな世界で「村々」することは実は不得意だったりするのだけど、でも、今のこの日本で「幸せか?」と聞かれれば、「まあ幸せかな」と答えるだろう。本書でも話に出てくるけど、「不安はあるか?」と聞かれれば「不安はある」と答えるだろう。幸せだけど不安がある。今の若者に共通する心情だろう。
「ムラムラ」や「村々」について、僕個人の実感としてはそこまで強く共感は出来ないのだけど、でも周囲の人や、あるいは世間一般の若者へのイメージ(という一枚岩は存在しない、と本書で指摘されているので、「僕の頭の中にある現代の若者像」とでも言い換えようか)から、「ムラムラ」や「村々」が妥当な分析なんだろうなぁ、と思うことはある。
やっぱり僕も、「何かあった時の団結力(ムラムラ)」は、今の若者って凄いなぁって思うし(僕は、自分の意識的には、それを遠くから眺めているつもりなんだろうけど、でも実際は自分もそれに取り込まれているんだろうな、きっと)、政治とか経済とかには興味がないけど、友達との約束を破ると嫌われちゃうかも、みたいな、小さな世界の中での承認を重視して生きていく感じも伝わってくる。
大事なのは、その「ムラムラ」や「村々」だとどうして幸せなのか、ということだ。その辺についても書かれていて、僕の解釈が間違っていなければこうだ。
つまり、自分の周囲の小さな世界以外の出来事は、自分にはとても遠い。ものすごいお金持ちが上の世代にいても、それは「自分とは関係のない世界」の出来事だ。テレビの向こうの世界のようなもので、自分の周りの小さな世界とは地続きではない。そういう世界は、憧れはするけど、嫉妬の対象にはならない。自分の周囲の小さな世界だけ見ていれば、そこに格差はないし、そもそも仲間がいるから楽しい。だから若者は幸せだ、ということになる。
その話に関係して凄く面白かったのが、中国の話だ。中国は、農村と都市では戸籍がまったく別なようで、農村部出身の人は都市には住めない。彼らは都市に出稼ぎにやってきて、低賃金で働かされている。では、そんな彼らの幸福度はというと、これが異常に高い。まさに日本の若者と同じような状況なのだ。
若者の行動として、本書ではデモやボランティアの話が描かれるのだけど、それを見る著者の「冷めた目線」が、僕自身は結構好きだ。別に、非難しているわけではない。悪いと思っているわけでもない。けど、デモやボランティアに身を投じる若者たちへの「共感できなさ」みたいなものが凄く透けて見える感じがして、結構好き。たぶん著者は、そういう「熱い」感じが好きじゃないんだろう。少なくとも、対外的なポーズとしてそう振舞っている。僕自身もそうだから、なんとなくわかるような気もする。
こういうように、本書の「若者論」としての面白さは、それを語る著者自身も「若者」である、という点も大きい。「若者」というものを「若者論」として捉えようと外側から見ようとする一方で、自身がまだその「若者」という枠の中にいることに自覚的でもある。本書では、かつて書かれた様々な若者論について触れられているが、その多くはやはり、上の世代が若者世代に何か言う、という形での若者論だった。若者が若者論をこうして本の形で語るというのは、もちろんあったかもしれないけど、珍しいのではないかなと思う。
江戸時代までは「日本人」はいなかった、とか、「ナショナリズム」は近代の大発明の一つなど、普段「日本」という国に生きていると、あまりに馴染んでいるが故に違和感に気づきにくい考え方について本書では気づかせてくれたりするので面白い。特に、「日本」という国を近代化するために「日本人」というものを発明し、様々なラッキーによって「経済成長が続けば」という条件付きで保たれていた「日本」という国家が、経済成長が止まったが故に国家として緩やかに崩壊しつつあるのでは、という話は、普段考えることがない話だったので面白かった。
本書を「若者論」として提示してしまうと興味が持てない人も出てくるかもしれないけど、「若者」と軸を中心に「日本」を考える本、と書くとちょっとは興味を持ってもらえたりするかな。この絶望的な国に生きる若者が何故幸福なのか、という点を主題としつつ、縦横無尽に様々な論点を考察していく本書は、なかなか読み応えがあると思います。巻末の佐藤健との対談では、借り物ではない自分の言葉で語る佐藤健にかなり好感を持ちました。是非読んでみてください。

古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち」



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環境リスク学 不安の海の羅針盤(中西準子)

内容に入ろうと思います。
本書は、2004年に横浜国立大学を退官するまで現役のリスク学研究者であり続け、様々な問題に対して常に<少数派>の立場で(そう望んだわけではなく、その当時のその状況で正しい主張をしようとすると、どうしても少数派になってしまった、というだけなのだけど)、リスクやベネフィットの問題を論じ、また米国で盛んであったリスク学という学問を日本に定着させた(著者略歴が見つけられなかったので、本分を読んだ印象から自分でそう判断しました。少なくとも、行政がリスク学というものを取り入れるきっかけになったのは、この著者の功績のようです)、リスク学というものと一生闘い続けた研究者による、自身の研究の来歴やその成果などについて書かれた作品です。
先にまず、本書の大体の構成を書きましょう。その後、内容をざっとなぞる形で、著者がリスク学というものとどのように付き合ってきたのかという話を書こうと思います。
第一部は、講義内容と聞き取りで、第二部は雑誌やWEBで書いてきた文章の再録です。
第一部の第一章は、著者が退官するにあたり横浜国立大学で行われた最終講義が元になっています。ここでは、ファクト(事実)にこだわり続けた著者が、何故リスク学という未来予測を前提とした学問に行くことになったのか、そしてリスク学が日本で認知されていくまでの長い長い闘いや、その過程で著者がおこなってきた研究内容などについて触れられます。
第二章は、同僚の研究者による聞き取りで、リスク学というものについて、広い視野から、特にこれからの研究者、そして僕ら一般の国民に対してメッセージが伝わる内容になっています。
第三章から第五章までは、その時々で話題になった様々なリスク(環境ホルモンやBSEなど)について、そのリスクがきちんと見定まる前に、リスク学の見地から主張している内容がほとんどです。
著者は第三章から第五章までの文章について、あとがきでこんな風に書いています。

『リスク評価というものは、その時点で言うことが大事です。後になれば、誰でもわかるのです。結果が出ない時に、どのくらい予測できるか、それでリスク評価の価値は決まるのです。まだ、わからない時点で、リスク予測をし、皆の誤解を指摘し、社会に訴える、それこそが価値となります。だからとても怖いことでもあります。ここにあるいくつかの文章を読んで、いつ、どういう予測ができたか、それは後になってどのくらい正しく、どのくらい間違っていたか、つまりリスク評価の”評価”をしていただきたいと思います。その上で、リスク評価をらしんばんとして使っていけるのか、それとも駄目なのかを判断していただきたいと思います。まさに、私の行うリスク評価を遡上に載せる意味で、ここに掲載しました。』

この文章を読んだだけでも、この著者が非常に真摯な態度で研究している、ということが伝わってくるだろうと思います。
では、ざっと内容に触れようと思います。ここではあんまり章別にどうとかという分け方はしないで、思いついたまま色々書いていきます。
まずやはり、リスクとは何か、という話、というか、リスク学は一体どんな学問なのかを書かなくてはいけないでしょうか。
リスクというものについての僕自身の考え方は、後でふんだんに書きたいところですけど、とりあえずそれは脇におきます。
本書では「リスク」というのがきちんと定義されていましたけど、それはまあいいとして(難しいし、僕もちゃんと理解できてないんで)、リスク学というのは結局のところ、

「あるものを『安全』か『危険』かの二分法で判断するのではなく、これぐらいの危険性があって、でもこれぐらいの有用性があって、というものを定量的に評価し、その上で、じゃあこれぐらいのリスクなら仕方ないからやろう、このリスクをこれだけ削減するのにこれだけの費用が掛かって効率的ではないから止めよう、というような判断材料となる指標をきちんと作り上げる」

というのが大目標だと思います。
著者はこんな風に書きます。

『環境問題も、かつての公害のように誰の目にも見える被害は少なくなりました。今、私たちが心配していることの多くは、目には見えないが何か悪い影響があるかもしれない、ひとつ一つは何もないように見えるが、それらがいくつも重なると何かが起きるかもしれない、または、一つは何もないように見えるが将来何か異変が起きるかもしれないというようなことです。これがリスクです。目に見えないだけに、明日にも地球が破滅するかのように吹聴されることがある一方で、重大なリスクが放置されていることもしばしばあります。そして、リスク不安だけが大きくなっています。』

本書は福島の原発事故前に発売されている作品ですが、まさに今放射能のリスクがこれに該当するでしょう。それがどれぐらい危険で、どのように危険なのかというのが目に見えないし、時間が経たないと判断できない。そういうリスクが今世の中には増えている、と言います。

そしてこうも書きます。

『もちろん評価には、恣意が入る。絶対的な正しさはないし、証明も必ずしもできない。なぜなら、一つの未来予測だからである。
しかし、リスク評価の手法を示すことで、どういう方法で評価したかがわかる。そのプロセスや仮定は誰でもみることができる。
(中略)このようなことが可能になるのは、共通なルールでリスク評価をするからである。もちろん物質固有、活動固有のデータや情報は入る、しかし、どのように入るかについては、共通のルールが働く。』

リスク学というのは、仮定や予測を前提に、こうなるだろうという未来予測をするものです。もちろん、あやふやな部分もあれば、不正確な部分もある。しかし、もしリスク学を活用しなければ、なんのデータもないままで、為政者がその時の気分で決断を下すことが出来てしまう。リスク学を活用し、様々なリスクを共通のルールで解釈することで、それがたとえ未来予測であっても、目に見えないリスクが多い世の中には有用であるはずだ、と著者は言うし僕もそう思います。
著者は、中国の大連で生まれ、南満州鉄道で働いていた父は検挙され死刑判決を受ける。その後釈放されると父は政治活動に飛び込み、日本共産党の再建に全力投球をする。しかし、後に「50年問題」と呼ばれる渦中で日本共産党を除名になる。
こういう経緯があり著者は、幼いことからファクト(事実)に対する強いこだわりを持つようになったのではないか、と考えています。思想では議論の勝ち負けを決めることは出来ないから、出来るだけファクトにこだわろうと。
初めて読んだ本がマルクスの「賃労働と資本」だったという著者は、理系学部に進むことを決めた時周囲から驚かれたそうです。そうやって紆余曲折あってリスク学と出会い、ファクトにこだわり続けながら現実のあらゆる問題と関わっていく過程で、ファクトが主因ではないリスク学の分野へ進んでいき、そこで欧米とは違う泥臭いリスク学を打ちたて(これは、リスク評価によって決断を下す、という文化が今もってない日本には必要な選択だった、と著者は書きます)、日本にリスク学を根付かせるための闘争を続けていくことになります。
著者が初めて関わったのは、東京都浮間下水処理場の問題でした。この下水処理場は、それまでの仕組みとは違う新しい下水処理場として注目を集めていたのですが、著者は、処理場側の主張にどこかあやふやなものを読み取って調査に乗り出しました。その結果、すぐにそれまで言われていたこととは違ったデータが検出され、やがてこの下水処理場は閉鎖されることになります。
著者はこの出来事によって政治的に面倒な立ち位置に置かれ、以後昇進や研究費の獲得などに酷く苦労することになります。その後も、政府や自治体の目論見とは違った研究結果を突きつける著者の研究には嫌がらせめいたものが続き、著者の研究室にやってくる学生の就職が取り消されたり(でも学生も、それがわかっていて著者の研究室にやってきていた)、研究費がもらえないから自分の給料や自著の売上なんかをどんどん研究につぎ込んでいったりと、相当に苦労されたようです。
その後、様々な人達の後押しがあって少しずつ著者の功績が認められるようになり、紫綬褒章も頂いたそうです。
具体的なリスク学の話を書くと、本書で一番面白いのはやはりダイオキシンの話でしょうか。
ダイオキシンは、僕が子供の頃に凄く騒がれたな、という印象が今もあります。確かあの頃はまだ、小学校とか中学校には焼却炉みたいなものがあって、用務員のおじさんとかがそこでゴミを燃やしていたりしてたはずなんだけど、でもたぶんダイオキシンの話がきっかけでそういうのも駄目になっちゃったんだったはずです。
でも著者は、ダイオキシンがゴミ処理場の排気が主原因だという点を否定する研究を出します。
というかそもそも、「ダイオキシンの主原因がゴミ処理場の排気だ」という主張には、その当時なんら根拠はなかったそうです。それがどうしてそういう主張がなされたのかわからないけど、本書の中では、ダイオキシン問題の一大キャンペーンのお陰で、政府はRDF(ごみ固形燃料)発電所という、「より安全だ」と言われている(しかし死亡事故が起きたりしている)発電所の普及の施策が成功した、というような話が書かれています。別に本書でその繋がりが断定して書かれているわけではないけど、なんか勘ぐってしまいますね。
脱線はこのぐらいにして、じゃあ著者らは、現存するダイオキシンは何に由来しているのかというのを、世界中で著者らの研究室でしかやっていないだろう、恐ろしく泥臭い方法で調べました。すると、60年代から70年代に盛んに使用されたCNPやPCPと言った農薬がその主原因だということを突き止めました。
ダイオキシンというのは、残留性がある。つまり、現在世の中に残っている、人体にも影響を与えるダイオキシンの発生元は、数十年前に使用された農薬で、それが未だに僕らに影響を与えているわけです。こういうことが、リスク学の研究からきちんと理解できる(まあ、これ自体は、リスク学とは直接は関係ないと思うけど)。
また、体内にどういう経路でダイオキシンが入ってくるかということを調べたこともあったようで、この結果も面白い。ゴミ処理場周辺の人は実はそこまで高くなくて、体内のダイオキシン濃度の高い人というのは、魚をたくさん食べる人だったとのことです。つまりこれも先ほどの農薬が原因で、農薬が使われた土が海に行き、それが魚の体内に入り人間まで届く。この経路が、最も影響が大きい、という結果が出たんだそうです。
著者はリスクについて、発生源を知ること、ベネフィットと比較すること、新しいリスクを発見することが大事だと、少なくとも僕が本書から読み取った限りだとそうなります。
発生源に関して面白い話は、人体に影響のある化学物質に関する調査です。これは表が載っているんですけど、ヒ素やメチル水銀やダイオキシンと比べて、もう比べ物にならないほど(何千倍何万倍の単位で)喫煙のリスクが高い、という結果が出たそうです(ただこれはもちろん、ヒ素やメチル水銀が危険ではない、という話ではなく、ごく普通に生活をしている中で受ける影響、という意味です。例えば日常的にメチル水銀を摂取するような環境にいれば、もちろんそのリスクは喫煙を上回るでしょう)。発生源の話とはちょっと違うかもだけど、面白かったです。
新しいリスクの発見については、本書で強く印象に残った話はないのだけど、著者は作中で、「新しいリスクを発見できないならリスク学は止めろ!」というようなことを書いていました。
ベネフィットとの比較の話は、本当に大事ですね。本書では、リスク学の結構難しい学術的な部分にまで若干踏み入れていて、その辺は僕には全然理解できないんだけど、ともかく本書では、リスクがどのくらいで、そのリスクをこのぐらい下げるためにはこれぐらいの費用が必要で、またベネフィットはこのぐらいある、というような話が、色んな対象について議論されます。
この視点は本当に大事だと思う。原発事故の際、放射能に関する不安(本書では、リスクとリスク不安の二つを区別しているのだけど、ここで言う放射のに関する不安は、リスク不安)が様々に噴出した。その結果、「少しでも危ないものは禁止だ」という議論が出る。
これは放射能に関わらず、過去様々な場面で繰り返してきた。リスクという概念がきちんと国民の間に浸透しているアメリカとは違って、日本は、白か黒かの二者択一でしか物事を判断できない、そういう文化の中にいます。僕らは本当は、そのリスクがどのくらいで、受けるベネフィットがどのくらいで、そのリスクをこれぐらい下げるためにこれぐらいの費用が必要で、というようなものについてきちんと理解した上で、その上で「やっぱり全部廃止しましょう」という結論はいいと思うし、「これぐらいなら許容しましょう」という決断ももちろんいい。怖いのは、白か黒かの二分法での判断でしか物事を考えられないために、結果的に費用がかさむ、それだけならまだしも、実は相当なベネフィットを失っている、ということにもなりかねません。
著者は、リスク学の良さだけを前面に押し出しているわけではありません。リスク学というのは政治的に、あるいはマスコミ的に利用されることもあるし、わかりやすい概念は曲解されるたり、そこまでいかなくても重大な誤解を生むことがある、と認識しています。そういう、日本という社会との兼ね合いの中で、それでもリスク学というものをどう有用に組み込んでいくのか、ということをずっと続けてきた著者のあり方は素晴らしいなと感じました。
本書は、内容的に結構難しい部分も含むので、簡単に「手にとって欲しい」とは言い難い作品ではあります。とはいえ、ここで示されている考え方はまさに、放射能という目に見えないリスクと常に直面せざるをえない日本人にとって、非常に有益な視野をもたらしてくれると思います。白か黒かの二分法で物事を見ない、という意識を少しずつ持つようになれる社会になればいいな、と思います。

中西準子「環境リスク学 不安の海の羅針盤」



少女不十分(西尾維新)

内容に入ろうと思います。
主人公の<僕>は、50作を超える作品を出版し、20歳から10年間作家としてい続け、他に何が出来るわけでもないけど小説を書くことに関してはやり続けてきたという自負はあるという、そういう小説家です。この<僕>に西尾維新を重ねあわせて読むととても面白いのだけど(本書は<小説>ではなく<事実>だとされているし)、まあもちろんここで書かれていることが、西尾維新が実際に経験したことなわきゃないでしょうね。
本書は、作家になった10年になった<僕>が、何故20代を仕事漬けになるほど小説書きまくったのか、そのトラウマについての物語です。そう、作家になった<僕>には、小説を書いて書いて書きまくらなければならない、そういう衝動にどうしても駆られてしまう、大学時代の苦い記憶があったのでした。
それは、ある交通事故を目撃したことに端を発する。元々交通事故を目撃することが多く、自身も交通事故に遭うことが少なくない<僕>はその日、トラックに跳ね飛ばされてバラバラになった小学生の女の子の姿を目にすることになる。
しかし、この少女が、<僕>のトラウマなのではない。
<僕>に衝撃を与えたのは、轢かれた少女と一緒にいた女の子のことだった。
後々この少女は、Uと名乗る。そう、<僕>はこの少女と接触することになるのだ。
その時Uは、跳ね飛ばされた少女を前にして、まず<自身がプレイしていたゲームをきちんとセーブし>、それから<涙を流してバラバラになった少女の元に駆け寄った>のだった。その姿に、<僕>は衝撃を受けた。なんなんだ、この少女は、と。
しかし、それだけなら、トラウマになるわけがない。
後日Uは、<僕>に接触を図った。
小刀を携えて…。

というような話です。
面白い話だったなぁ。でも、この<面白さ>には、ちょっと説明が必要なのだ。
ごく普通の読者が、この小説を読んで、面白いと感じられるかどうかは、ちょっと疑問だ。
本書は、西尾維新の小説として、なかなか異色だと思う。「小説ではなく事実だ」という体で語られている、という点もいつもと違うけれども、ストーリー展開の異様な遅さとか、恐ろしいほどの登場人物の少なさなど、それまで読んできた西尾維新の小説とは、大分趣を異にする。まずそういう点で、既存の西尾維新ファンにどれだけ受け入れられるだろうか、という疑問がある。まあ、いつもの西尾維新節は相変わらず健在だし、よくもまあこれほど展開が変化しない状況の中で物語を成立させられるものだな、と感心もさせられるのだけど。
また一方で、これまで西尾維新の作品を読んだことのない人が本書を読んで、面白い点を見いだせるかどうか、というのも疑問だ。
本書のような西尾維新語りを楽しんでもらえるならいいけども、そうでなければ本書は、恐ろしく展開の遅い、かつ状況設定が荒唐無稽な小説、というだけの評価になってしまうだろう。それは、ある程度仕方ないと思う。<僕>は、まあ西尾維新の小説ではお馴染みだけど、頭の中でウダウダと思考を展開させることでウダウダするし、そのせいでストーリーはまるで進まない。<僕>が結局どうなるのかを書かないつもりだから具体的には言えないけど、本作はかなり動きの少ない物語で(状況的にそうならざるを得ない)、必然的に<僕>の思考をウダウダ垂れ流すだけの小説になってしまっているのだけど、それが多くの人に受け入れられるかというと、ちょっと疑問だ。
何よりも僕は、もしも本書が西尾維新の作品ではなく、例えば新人のデビュー作であったり、デビュー作でないにせよ、名前の知らない作家の作品だったら、酷評していたかもしれない。個人的には、ストーリー展開な状況設定で楽しませる、というようなタイプの作品ではないと思うし、小説の形として、強く評価できる作品ではない。
では何故、僕は本書を面白いと感じるのか。
それは、<僕>があまりにも僕と似た思考回路を持っているからだ。
これはちょっとびっくりした。
本書が、西尾維新が実際に経験した出来事でないことはまあ間違いないだろうけど、でも、<僕>と西尾維新の正確が結構近いのではないか、という想像ぐらいはしてもいいだろう。そして、そうだと仮定した上での話だけど、僕みたいな面倒くさい厄介な奴が他にもいるんだな、と思えたことが凄く嬉しかったし、そういう観点からだとこの作品は滅法面白い。
本書で<僕>は、まあ色んな状況で色んな思考を展開していくんだけど、そのほとんどに共感できた。そういう人は、恐らく読者の中にも多くはないはずだ。僕自身も、一部これはちょっと違うなと思うものがあったし、最終的な結論には同意するけど理由が僕とは違うな、と感じるものもあったのだけど、でもやはり、<僕>の思考のほとんどに共感することが出来た。
普通は出来ないと思う。
例えば、という例をいくつか抜き出してみよう。

『人の痛みを理解できない、元々、感覚が一部死んでいる人間だからだ。』

『年々、僕の心配性は増すばかりで、実際、三十路に達する今現在では、出版社に原稿を送るために閉じた封筒を、最低三度は開けて、原稿に毀れがないかどうか確認するくらいだ。』

『これは、そうではない人間には理解しがたい思考原理かもしれないが、逆に、普段からそうやって用心に用心を重ねているからこそ、いざこんな風に鍵がポケットになかったりすると、焦るというよりはむしろ納得してしまったりする。kろえだけ用心して駄目だったんだから仕方ないやというさっぱりとした気持ち、そんなことが起こるのだから、普段から用心していた自分はやっぱり正しかったのだという晴れがましい気持ちで、むしろ嬉しかったりするのだから、いよいよ屈折している』

『感情が一部死滅しているという僕の性格は、実は生活する上では便利なものだったりもする。たとえば試験勉強では重宝するのだ、どれほど心が悲鳴を上げようと、どんなにきりきりと音を立てようと、理性で押し切ることができるのだから。』

『そう言えば今日は平日であって、つまり僕は大学の講義をすべて欠席することになってしまったのだ…ルーチンを重んじる僕にとって、これは結構なストレスになる。』

まだまだ挙げようと思えばいくらでも挙げられるんだけど、ここで挙げた5つだけでも、かなり普通の人的には意味不明なのではないかと思う。僕は、もう、凄くよくわかる。本書を読んでて、ありとあらゆる場面で、これ自分が書いてる文章なんじゃないだろうか、と思うような箇所ばっかりだった。そうそう、俺もそうなんだよなぁ、と思うような描写ばっかりで、とにかくびっくりした。作家というのはもちろん、想像力で嘘がつける職業なのだろうけど、でも、これほどまでにズバリ僕みたいな人間のことを描けるということは、<僕>はかなり西尾維新その人に近いのではないか、と想像することは無理ではないはずだ。
それが僕にとって、本書が凄く面白かった理由だ。
僕は、本書で描かれる<僕>のような、なかなかに厄介な、屈折した性格を引きずりながら、それなりに苦労をして(と自分では思っているつもりだけど、どうだろう)ここまで生きてきた。自分的にもの凄く深刻で辛い事柄であっても、それが言葉を介して誰にも伝わらないことなんてよくあることだし、自分の価値観や判断が世間とズレることなんてしょっちゅうだった。別に<普通>になりたいと思ったことはなかったけど、こういう面倒くさい性格を引きずって生きていくのはしんどいなぁ、とそればかり考えて生きてきたような気がする。
そういうことをわかってもらえているような気がして、凄く嬉しい。別に、僕のことを分かってくれているわけでもないんだろうけど、この世界に同類がいると思えることが、凄く嬉しい。
また僕は、Uという少女にも共感できてしまう。
Uは小学四年生で、そして色んなルールに縛られて生きている。
僕もそうだ。端から見れば、そんな自分ルールなくしちゃえばもっと楽になるんじゃない?というようなところに、無駄にこだわったり、こだわるつもりがなくても止められなかったりというようなことの積み重ねでここまで来ているのだけど、でもやっぱりそれは捨てられない。なかなか自分ルールを捨てることは困難なのだ。だから、Uの気持ちが分かってしまう。恐らく多くの人には、Uの行動の意味や重要さを理解できないだろう。でも、僕はUと同類である自信がある。僕も、自分が決めた、誰に守るように言われているわけではないルールに縛られて生きている。それはしんどいけど、自分の意志ではもはや抜け出せないのだ。
だから僕は、<僕>にもUにも共感が出来るので、本書をとても楽しく読んだ。しかし普通の、ごく一般的な人にはきっと、<僕>やUの気持ちはあんまりわからないだろうと思う。だからこそ、僕のような人間以外の人が読んでも楽しいと思えるかどうかはわからない、と書いたのだ。
そんなわけで、僕には凄く面白い作品だった。でもそれは、ちょっと変わった存在である<僕>やUに激しく共感できてしまうからであって、そうではない人には、本書の楽しさがどんな風に伝わるのか、ちょっと僕には想像がつかないです。そんな感じのことを念頭に置きつつ読んでもらえたらいいかなと思います。

西尾維新「少女不十分」



ヒトリシズカ(誉田哲也)





内容に入ろうと思います。
本書は、6編の短編が収録された連作短編集です。
なのですが、本書は「どのように連作短編集なのか」という点については、本書における大きな読みどころの一つなので、このブログの感想では、その点を出来る限り伏せた形で書こうと思います。

「闇一重」
警視庁小金井警察署新小金井交番に務める、かつて刑事課にいた巡査部長・木崎は、普段事件も起こらないのんきな管内で緩やかに日常業務をこなしていた。がある時管内で銃器発砲事案が発生、捜査本部が置かれることになった。捜査経験のある木崎もそれに加わることになった。
死亡したのは、大和会系奥山組傘下の暴力団、猪俣組の小池基文。捜査を続けるとこの小池、女子高生らに売春をさせていたことがわかってくる。次第に容疑者が浮かび…

「蛍蜘蛛」
警視庁西新井署生活安全課防犯係に所属する山岸は、諸事情により本庁との捜査本部が立ち上がらなかった殺人事件について、とりあえず人出が欲しいからと応援に駆り出されたのだった。とはいえ、捜査の経験などない素人。何が出来るというほどでもない。
しかし、捜査会議に出席していた山岸は、被害者の顔写真を目にして、最近気に入ってよく行っていたコンビニを思い出した。そこで働く飯村ユミという女の子が凄く可愛いのだけど、かつてその飯村ユミに相談を受けた時…

「腐屍蝶」
元警察官で、現在は探偵事務所を開いている青木は、警察時代大いにお世話になった上司である伊東から、娘を探して欲しいと依頼される。伊東の方に何か事情があるようで、情報は出し渋られたが、しかしまあそれは仕方ない。他でもない伊東の頼みを聞かないわけにはいかない。
伊東の娘が死体で見つかったと連絡があったのは、しばらくしてからだった…

「罪時雨」
八王子署生活安全課の課長である伊東は、署に一番近い床屋に常に通っていた。そこで働く女主人の姪っ子だという深雪という女性が、一緒に暮らしている男から暴力を振るわれているから相談に乗ってもらえないかと請われ話を聞くことに。ひと通りの対策を伝え、細やかに連絡を取り合い、時折顔を出しに行く。その事件が起こったのは、そんな矢先のことだった…。

「死舞盃」
麻布署の刑事課に所属する矢部は、大和系暴力団、奥山組の傘下団体である天州会麻布の代表である南原義男宅で銃撃戦が起こり、多数の死傷者が出た事件を追うことに。暴力団同士の抗争だろうと思われたが、調べを進めていく内にどうも、整合性の取れない情報が集まってくる。どうも現場に、謎の女が一人いたようだ…。

「独静加」
警視庁刑事部二課特捜六係に所属する藤岡は、運動会の校庭である女を確保するために部下数人と作戦を展開し、無事容疑者を確保することができた。戸籍を買い取り、別人として生活をしていた疑いのある女だが、取り調べには一切応じない。
そんな中、既に警察職を退職しているOBらから、藤岡は十数年前に起こったとんでもないいくつかの事件のあらましを聞かされる…。

というような話です。
これはなかなかよく出来た作品だったなと思います。読み始めは、作品同士の繋がりのない短編なのかな?と思ったんですけど、なかなかスリリングな感じで作品同士が繋がっていきます。その、本書の肝となる部分を伏せたままだと、なかなか感想で書けることが少なくてちょっと苦労しますけども。
とりあえずその肝となる部分について、もう少しぼかして書いてみようと思います。
本書はとにかく、作品の構成がなかなか巧い。まったく別々の事件同士を、ある点で繋いでいくことができる、という話なんですけど、その点の配置というか潜り込ませ方というか、そういうのがなかなか絶妙です。なるほど、今回はそういう部分で絡んでくるのか!というような感じですね。その「点」に関する設定が実に広がりがもたせられるように設定されているので、こういううまい展開にすることが出来るんだろうな、と思います。
と書いてはみたものの、やっぱりその肝心な部分を伏せたままだと何も書けないので、やっぱりそれはもう諦めます。
本書は、まあジャンル的には警察小説だと思うんですけど、なかなか面白いのが、いわゆる「刑事」が活躍する作品ではない、という点です。もちろんすべての短編がそうだというわけではないんだけど、大抵が刑事が主人公というわけではありません。交番のお巡りさんとか、生活安全課の署員とか、元警察官とか、そういう立ち位置の人から見た事件捜査、という観点が面白いですね。
何が面白いかというと、普通警察小説って、刑事がガツガツしてるんです。俺がネタをものにしてやるぜい!!みたいな熱さが、まあ激しかったり穏やかだったりと色々あるんだけど、往々にしてそういうタイプの人が主人公なんですね。っていうか、そうでもないと、特に長編の警察小説はなかなか成立しないと思う。
でも本作では、例えば交番勤務のお巡りさんなんかは、特別刑事捜査にヤル気があるわけでもないんですね。ま、やれるとこまでやりますか、的な力の抜け方が、僕がこれまで読んできて警察小説にはあんまりないタイプだと思うんで、そういう部分はなかなか面白いなと思いました。
そういうわけで、警察小説ではあるんだけど、普通の警察小説ほど「熱血!」という感じでもないし、色んなタイプの「警察に関わる人」が主人公になって話が展開されていくんで、警察小説がちょっと…という人にも、なかなか面白く読めるんじゃないかなと思います。
ただ、一点、これは著者への期待の高さだと思って欲しいんだけど、やっぱり誉田哲也の作品には、もっと魅力的な女性が出てきて欲しいなぁ、と思います。
「ストロベリーナイト」のシリーズも「ジウ」のシリーズも「武士道」シリーズも、どれもみな主人公が女性で、しかも女性の描写がなかなか魅力的です。本書は、普通の男が主人公の、そういう意味ではまあよくあるタイプの警察小説なんだけど、そうなるとなかなか女性が出てこないんで、そういう点で若干の不満はあるかな、という感じはします。
本作の肝心要の部分についてはちょっと触れられないので、感想で書けることがちょっと少ないんだけど、なかなか面白く読める作品だと思いました。警察小説があんまり、という人でも楽しめる作品なんじゃないかなと思います。

誉田哲也「ヒトリシズカ」



二流小説家(デイヴィッド・ゴードン)

内容に入ろうと思います。
ニューヨークに住むしがない小説家であるハリー・ブロックは、ポルノ雑誌への雑文書きから、SFやミステリー小説まで、とにかく文章を書く仕事であれば、いくつもの名前を使い分けて小銭を稼いできた。しかし、どれも生活していくにはカツカツで、恋人には捨てられ、生活のためにやっている女子高生相手の家庭教師の場でも、教え子に頭が上がらない冴えない男だ。
そんなハリーの元に、ある日とんでもない手紙が届く。12年前に4人の女を恐ろしいやり方で惨殺し、再三に渡る再審請求も通らないままほぼ死刑が確定している連続殺人鬼、ダリアン・クレイからだった。ダリアンは、ハリーが雑文を書いていたポルノ雑誌のファンだったと告げ、とある条件と引換に自分の告白本を出さないか、と持ちかけるのだ。余裕のある生活をしているわけではないハリーにとっては、一攫千金の大チャンスだった。しかし、ダリアンが提示してきたその条件というのが、胸くそ悪いものだった。しかしハリーはその依頼を受ける。しかし…。
というような話です。
去年、海外ミステリ作品の中でも、特に話題になり高い評価を受けた作品の一つです。
個人的な感想を言うと、確かに面白かったし、外国人作家の作品にしては凄く読みやすかったのだけど、僕自身が期待していた方向の物語とはちょっと違ったので、そこが残念だったかな、という感じがしました。
本書は、それまでいくつもの名前で本を出してきたハリーが<初めて実名で出版する>という体裁の作品です。作中の中では、この作品は<ダリアンという連続殺人鬼とのあれこれを綴ったノンフィクションノベル>という立ち位置の作品になります。そして作品の合間に、これまでハリーが様々な変名で書いていきた小説の一部分が抜き出されて挿入される、という形式になっています。
僕は、この挿入された物語が、ストーリー展開に大きな影響を与えるもんだ、という期待を持って読んでたんです。つまり、どういう形でかはわからないにせよ、ハリーが別名で書いていたヴァンパイア小説やSF小説のストーリーが、連続殺人鬼であるダリアンを追いかける物語と奇妙な交錯をしていく、というような展開を期待していたんですね。そうじゃないと、ハリーがこれまで書いてきた小説の一部分を作中で引用する、という形態に意味を持たせることは難しいんじゃないかなぁ、と思ったんです、
僕は未だに、ハリーがこれまで書いてきた小説の一部分を作中で引用する、というのが、作中でどんな効果をもたらしていたのかよくわかっていないんですけど、そういうわけで、僕の期待とはちょっと違った展開で、そこが残念ではありました。
でも、外国人作家の作品があまり得意でない僕にも、凄く読みやすい作品でした。普段僕が苦手だなと思う外国人作家の作品と本書がどう違うのか、それを指摘することは出来ないんですけど、一人称の語り口が読みやすかったのかもしれないし、訳が巧かったのかもしれないし、他に理由があるかもしれませんけど、とにかく他の外国人作家の作品に比べて凄く読みやすくて、僕でも抵抗なく読み進められました。
ストーリーの展開もなかなか巧みで、読ませるなと思ったんですけど、個人的な感想としては、最後の最後の展開が、そのちょっと前に明らかになることよりも格下な感じがして、なんかもったいない気がしました。ストーリー展開上確かにそうならざるを得ないんだろうけど、最後の最後がもう少し力強い展開だったら、もう少し違うような気もしました。
読んでて確かに面白いは面白いんだけど、どうも感想を書こうとするとあんまり書くことが思い浮かばない感じだなぁ。自分が期待していた方向とはちょっと違ったこともあって、若干消化不良な感はあるけど、僕みたいに外国人作家の作品が不得意だという人には、凄く読みやすい作品だという点で強くオススメできます。ミステリ的には、まあ世間的に評価が高いからミステリ的な部分でも評価されてるんだろうけど、僕自身はこの作品のミステリ的な部分は、そこまで評価できるわけではありません。なかなか微妙な感想ですけど、確かに面白いは面白いんで、気になる方は読んでみてください。

デイヴィッド・ゴードン「二流小説家」





ラーメンと愛国(速水健朗)

内容に入ろうと思います。
本書は、内容的にかなり多岐にわたっているので、ひと言でまとめようとするとどうしても大雑把になってしまうけど、「ラーメンとは日本人にとってなんなのか?」という問いを軸として、戦前から現在に至るまでのラーメンの存在の変遷や、ラーメンという存在が国民性に与えた影響などについて深く探っていく作品です。
内容紹介が難しいなぁ。
各章の章題と、ざっとした内容を書くことで内容紹介に代えたいと思います。

第一章「ラーメンとアメリカの小麦戦略」
この章では主に、「ラーメンが日本に根づいた背景には、戦後の闇市でのラーメンの屋台と、アメリカによる小麦戦略があった」という内容になります。戦前は「都市下層民」の夜食でしかなかったラーメンは、戦後、栄養=カロリーであった時代に、栄養食としてもてはやされた。一方でアメリカは、諸事情により国内で余り過ぎた小麦をどうにか処理すべく、日本をその標的とする。給食がパン食からスタートしたことを皮切りに、それまでの米食から、日本人の主食に小麦が入り込んでいく過程を描く。

第二章「T型フォードとチキンラーメン」
この章では、「太平洋戦争に見る日本とアメリカのものづくり思想の差と安藤百福の挑戦」という感じでしょうか。日本のものづくりは「職人」が表に出やすいのに対して、アメリカでは大量生産を前提とした仕組みが早くから取られた。それが戦争の勝敗を決し、日米のものづくりの思想の差異にもなっている。そんな中で、「工業製品としてのラーメン」を最初から目論んでチキンラーメンを作り上げた安藤百福の挑戦も描く。

第三章「ラーメンと日本のノスタルジー」
この章では、「ラーメンがその時代とどう結びついていたのかとラーメンが国民食になっていく過程」という感じでしょうか。著者は昭和33年を境にして、一つ時代が区切られるという。その境目にラーメンは存在し、ドラマや漫画でも「貧しさの象徴」としてラーメンが頻繁に登場することを示す。その一方で、団塊の世代の受験期と深夜ラジオとラーメンの相性、あさま山荘事件の中継などを契機に、ラーメンの裾野がどんどんと広がっていく過程を描く。

第四章「国土開発とご当地ラーメン」
この章では、「田中角栄の作り上げた政治形態との関わりから見るご当地ラーメンの登場」という感じでしょうか。田中角栄は、中央と地方の関係を、また政治とお金の関係を大きく変えた人物であり、その田中角栄の盛衰の過程で地方の力が弱まることで、何か特色あるものを出さねばということで、ある種の必然としてご当地ラーメンが登場していった過程を描く。ご当地ラーメンはそういう背景を持つので、地方の独自色を反映して生まれていったものではない、という論考が面白い。

第五章「ラーメンとナショナリズム」
この章では、「メディアとラーメンの関わりと信仰としてのラーメン店」という感じでしょうか。ニュースでラーメンの特集が頻繁になされたり、バラエティ番組の企画でのラーメンの扱われ方などを通じて、ラーメンが国民的なブームになっていく過程を描きつつ、ラーメンが表層的なナショナリズムと結びついて、ある種信仰に近いような存在になっていく過程を描いていく。

というような話です。
なかなか評価の難しい作品ではあるのだけど、純粋に読んでて面白い作品でした。
評価が難しいなぁと思う点は、個人的には二点あります。
一点目は、タイトル。本書に相応しいタイトルが何かというのは、ちょっと僕自身は思いつかないんですけど、「ラーメンと愛国」ってタイトルは、ちょっと内容に合っていないような印象を受けました。というのも、確かに本書はラーメンの話がメインの軸として存在はしているのだけど、ラーメンとは直接結びつけにくい様々なトピックがかなり集結していて、そういう点で、なんとなくこのタイトルにはモヤモヤするものがあります。内容自体に文句があるとはそういうわけではないんだけど、なんかもっと相応しいタイトルがあるような気がするんだよなぁ。
もう一つは、本書で描かれている内容が、どの辺りまで信憑性があるのかな、という点。本書では、「札幌ラーメンと博多ラーメンは元々別々の食べ物だったけど…」とか、「田中角栄の政治が、間接的とは言えご当地ラーメンの登場の背景になっている」みたいな、確かに話としてはメチャクチャ面白いんだけど、実際のところ眉に唾をつけて読まなきゃいけないような気もしなくはないなぁという話も結構あったりしました。もちろん読めば、これは著者の仮説であって、そうだと断言しているわけではないって分かるんだけど、なんとなくそういう我田引水的な部分が結構多いような気がして(まあ、文献だのと言った証拠的なものを提示するのも難しい話ではあるんでしょうけど)、そこがなんとなくうーんと思ってしまったりしました。
とはいえ、やっぱり読ませる内容だし、面白いと思いました。ラーメンを主軸にしようとするあまり、ちょっとそれは持論に引っ張りすぎじゃあるまいか、というような論調を時々感じたりするんですけど、単純に読んでいる分にはやっぱり楽しい。特にさっきちょっと書いた、「札幌ラーメンと博多ラーメンは実は別々の食べ物だった」的な話は、もしホントにそうだとしたら面白いなぁと思わされました。著者曰く、札幌と博多にはそれぞれ、中国から別々にラーメン的な料理が入り込んで、それぞれの土地で発展していく。しかし、テレビが出来、チキンラーメンの存在により「ラーメン」という呼称が国民の間に定着したことで、元々別々の料理だった札幌ラーメン(的なもの)と博多ラーメン(的なもの)が共に「ラーメン」と呼ばれるようになったのではないか、という話が出てきて、ホントだったら面白いですよね?
ご当地ラーメンが登場してきた背景なんかも面白いかったなぁ。特に、「ご当地ラーメンは、地元の特色が反映されたものではなく、その地域のある店が出していたちょっと変わったラーメンが広まっていったのだ」的な話は、へぇーという感じでした。また、横浜ラーメン博物館の話も出てくるんだけど、そこがご当地ラーメンの「偽史」を収集することで、それぞれのラーメンの歴史が固着されていく、そうやってラーメンブームというのが出来上がっていった、なんて話も面白いです。
そんな感じの個別の話も面白いんだけど、でもやっぱり本書は、ラーメンというものを主軸として、戦前から現在までの日本及び日本人の変化、みたいなものをどうにか抽出しようとしていて、その試みが凄く面白いなと思いました。たかだか100年ぐらいの歴史しかないラーメンが、どういう過程で国民書にまでなり、僕らがラーメンの本場だと思っている中国人が「本場のラーメン」を求めて日本に観光にやってくるまでになったのか、という経緯は、ラーメンという特集な主軸を通すことで、凄く面白くなります。ラーメンとナショナリズムがどのようにして結びついていったのか(本書ではそれを「作務衣系」と呼んでいるのだけど)、また<ラーメンポエム>(店の壁面とかに書かれている、気合の入った文章)なんかがどのようにして生まれたのかなど、近視眼的な視点でしかラーメンというものを見ることがない(まあそれが当然ですけど)僕らには、なかなか面白い視点を提示してくれる作品だなという感じがしました。
また、最終章だけになってしまうけど、これからのビジネスを考える上で、ラーメン業界というのは凄く面白いんだなと感じました。外食産業で、ラーメン業界だけが唯一、平均価格が上がっているんだそうです。しかも、他の多くの外食産業が、低価格競争にさらされ、体力のある巨大資本しか生き残れなかったのに対し、ラーメン業界は個人商店が8割を超えること、またのれん分けなどの伝統的な日本の技の伝承が未だに活かされていること、また参考にはなりにくいけど「ラーメン二郎」というラーメン屋の特殊性など、こと最終章に限って言えば、ビジネス的な視点からも読むことが出来るな、と感じました。
書かれている内容の信憑性についてはちょっと留保をつけたいけれども、読み物としては抜群に面白いし、ラーメンという、日本や日本人を考える上でなかなか主軸にしないだろうものを敢えて真ん中に持ってくることで、普段持つことがない新しい視点で世の中を見ることが出来るので、面白いと思います。是非読んでみてください。

速水健朗「ラーメンと愛国」



きみは誤解している(佐藤正午)

内容に入ろうと思います。
本書は『競輪』をモチーフにした6編の短篇集です。と書くと、ギャンブルの話かぁ、競輪には興味ないしなぁ、という方がいるでしょうけど、後で書くつもりですけど、競輪自体に興味がなくても全然大丈夫です。

「きみは誤解している」
僕は、婚約者のマリに、競輪を止めるようにたしなめられる。いつもだ。僕はいつもこう答える。競輪は趣味でしかないし、ギャンブラーになろうとなんて思っていない。しかし、マリはそれを信じない。僕は何度も、「きみは誤解している」と言わなくてはならない。
実際僕は、ギャンブラーと言えるほど競輪にのめり込んでいるわけではない。
すべてのきっかけは、父の容体が急変したことにあった、と思う。マリの両親に顔合わせをする予定は先延ばしになった。
ある時僕は、父が競輪雑誌に挟み込んでいた車券を見つけた。父がハズレ券を挟んでおくわけがない。そう直感した僕は、その車券を持って競輪場に行く。

「遠くへ」
しがない作家をやっている私は、競輪場でその女性と親しくなった。彼女は川野と名乗り、彼女は、自身がどのように競輪にはまっていったのかを私に語った。30歳に手が届こうという年齢の時、付き合っていた男の影響で始めた競輪は、彼女の人生を大きく変えた。
彼女の人生を大きく変えた人物がいる。競輪場で出会ったその老人とのやり取りが、彼女を、本物のギャンブラーにしたのだ。

「この退屈な人生」
自分は、成り行きで自衛隊に入って4年間続け、それから除隊し、かなり貯まった貯金を元に、特に仕事をするわけでもなく過ごしていた。間隔は様々ながら、二ヶ月ほど何も手をつけられずただ食べるしかない、という時期が必ずやってきて、それが終わると自分は体重が6キロ落ちている。
自分は、競輪の稼ぎで生活をしている。どうも自分には才能があるようで、ほとんど負けることがない。
中村章太郎と出会ったのは、図書館でだった。自分は覚えていなかったけど中学時代の同級生で、章太郎と会う時は常に自分がお金を出していた。

「女房はくれてやる」
暖簾分けしてくれた寿司屋の大将の口癖は「ギャンブルは人生を狂わす」だったから、おれは隠れてこそこそと競輪をやっていた。もちろん女房にもだ。
ある日女房の兄が亡くなったという知らせを、おれが電話で受けてしまった。それを女房に伝える際に言ってしまった余計なひと言が、すべてのきっかけだったかもしれない。
女房の葬儀の日、おれはちょっと抜けだして車券を買った。で、女房にバレた。

「うんと言ってくれ」
わたしは、鷹彦さんに言われた「ギャンブル感覚の優れた人間がいる。君はそのまれな一人だ」という言葉を、その言葉だけは信じようと決めている。
小学生の時に車券を買って当てた。競輪場に通いつめるようになったのは高校生の頃からだ。子供の頃から、賭け事的なことには滅法強かったけど、それは競輪場でも遺憾なく発揮された。
鷹彦さんと出会ったのも、競輪場でだ。大成功(おおなり いさお)という、元々姉の旦那だった競輪選手のことを高く買っている鷹彦さんと競輪の話をして、わたしは鷹彦さんに会えるのを待ち遠しく思うようになった。

「人間の屑」
彼は銀行員で、そして競輪を趣味にしている。
かつて付き合っていた、そして今は兄と付き合っている森岡みのりから連絡があった。兄が、支払わなければ会社が立ち行かなくなるお金を持って、競輪場に行ってしまった、と。ため息をつきながら、恐らく兄が行っているだろう競輪場に彼も行くつもりであったから、兄と話をすることにした。
兄は、相当に若い女を連れて、悪びれることもなく彼に話しかけてきた。「いくら残ってる?」という彼の問いかけに、勝負が終わるまで最終的にいくら残ってるかなんて質問には意味がない、と返した兄は、人間の屑だ。

というような話です。
これは面白かったです。僕は、そこまでたくさん読んでるわけではないんですけど、基本的に佐藤正午の作品は得意ではありません。むしろ、うーん、と思うような作品が多くて、あまり相性の良くない作家なんですね。
でもこの作品は面白かったなぁ。凄く読ませる。僕は、競馬も競輪も、とにかくギャンブルと名のつくものは全然やったことがない。パチンコに一回だけ行ってみて3000円すぐに負けて出て来た経験があるぐらいで、麻雀も出来ないからそういう賭け的なものとは一切無縁です。だから、ギャンブルにはまる人間の内面が分かるとか、共感できるとか、そういうわけでは全然ないんだけど、ギャンブルというものの抗いがたさや、その中で生きる人たちの内側で渦巻くものなんかがすごく質感のある描写で描かれていて、凄くいいなと思いました。
本書は、確かに競輪の小説だし、ギャンブルの小説なんだけど、「競輪小説」とか「ギャンブル小説」とか呼ぶのは、どうもなんか違うな、という感じがしています。それは、本書の解説の一つ(本書には、解説が二つと、付録っていうのが巻末にあります)でも書かれているんだけど、それとはちょっと理由が違うかな。
僕は、本書を読んだ印象で書くけど、ギャンブルというのは、「予想できない未来を引き寄せる装置」なんだろうと思うんです。
普通の人って、特に大人になっちゃえば、明日とか一年後とか五年後の自分って、結構想像できちゃったりしますよね。もちろん、人生何が起こるか分からないから、想像通りに人生が進むかは、また別の話です。だけど、きっとこうなんだろうなぁ、という想像が出来てしまう生活、というものの中に、普通の人はいると思うんですね。きっと明日は今日と大差はないし、一年後も大きくは変わらないだろうし、五年後は立場とか環境が変わってるかもしれないけど、でもそれもきっと想定の範囲内。実現するかどうかはまた別として、恐らくこういうことが実現するんだろうなぁという予想を立てることが容易な人生の中を生きている。
でも、ギャンブラーはそうではない。少なくとも、競輪場の中だけでは、明日や一年後だけではなく、今日の自分の姿さえも予想が出来ない。
もちろん、ギャンブル以外だってこういう装置は色々ある。何か新しい発明をしたり、学問分野で新たな発見をすれば、世界的に有名になれるかもしれない。小説を書いたり音楽を作ったりして発表すれば、目の前の世界が大きく変わるかもしれない。世界中を放浪すれば、明日どころか今日の運命さえ予想できない環境に身を置くことは出来るかもしれない。
でもそれらはなかなか、ごく一般的な『日常』とは相性が悪い。発明も研究も創作も、やはりある程度の才能や恵まれた環境が必要だし、放浪も今の日常を続けながらなんてことは出来ない。そういう点で、ハードルが高い。
しかしギャンブルは、お金さえあれば、予想も出来ないような未来を手に入れられる可能性がある。
もちろん、「お金さえあれば」という部分のハードルは高い。高いけど、でも少なくともそれは才能や環境が必要とされるものでもない。借金を積み重ねたりすれば、『日常』との相性はどんどん悪くなるけど、でもそれは大分ハマってしまってもう抜け出せなくなってしまってからの話だ。ちょっとした興味で、ちょっとした金額で、予想もつかないような未来の可能性を手にできるという点で、ギャンブルは『日常』と相性がいい。
本書は、その「予想できない未来を引き寄せる装置」である競輪というモチーフを使って、人間の業を描き出している。競輪という、普通の人にはなかなか馴染みのない世界を描き出しているという点では、確かに競輪小説なんだと思うんだけど、解説でも書かれているように本書では、競輪というものを内側からではなく(つまり選手の側からではなく)外側から(つまりギャンブラーに側から)描いている。「もしかしたら」という可能性を提示してくれる「予想できない未来を引き寄せる装置」である競輪に、取り込まれたり向き合ったり距離を置いたりする人間を描くことで、人間の弱さやどうしようもなさを描くところが、凄く深さを感じさせる作品です。
本書を読んで、やっぱり僕にはギャンブルにはまる人間の気持ちは分からないなと感じたんですけど、でも、ギャンブルは大金を失う可能性がある、という点が様々なベクトルに影響を及ぼすだけで、「◯◯にはまる」という点では他と大きな差はないんだろうという気がします。マンガにはまる人、アニメにハマる人、映画にハマる人、アイドルにはまる人…。彼らとギャンブルを大きく隔てるものは、失うかもしれないお金の額です。だから、ギャンブラーのことなんて、という風に思わないで読んでみると、案外自分の周りにも、そして自分の中にも、本書で描かれるような業や弱さみたいなものが隠れているのではないかな、という感じがしました。
話として結構好きなのは、表題作である「きみは誤解している」かな。これは、タイトルと内容の合いっぷりが素敵だと思う。「きみは誤解している」と言い続ける男が一体どうなっていくのか、という点が非常に読ませる。ギャンブルというものの底なし感が凄く描かれているという感じがしました。
「うんと言ってくれ」も好きかなぁ。主人公が女子高生で、競輪というものとのギャップがまずいいし、描かれているものも、他の作品と比べて凄く純粋なものがあって、結構好きです。
逆に、別につまらないとかそういうことではないんだけど、これは一体何の話だったんだろうと思ったのが「この退屈な人生」です。これは、なんか凄く不思議な小説でした。
この作品は、佐藤正午のかなり初期の作品(だと思う。単行本が発売されたのが2000年らしい)で、だから今の白石一文の作風が好きだという人に本書がどう読まれるのかは、ちょっと分かりません。僕自身は、今の白石一文の作風とあまり相性が好くなかったりするので、その辺の判断はちょっと分かりません。ただ僕にとっては、本書はかなり面白い作品でした。是非読んでみてください。

佐藤正午「きみは誤解している」


暇と退屈の倫理学(國分功一郎)

内容に入ろうと思います。
本書は、「なぜ人は退屈するのか?」「なぜ人は暇だと苦しむのか?」という、誰しもが日常的に感じているだろうことをとりあげ、それについて思考・分析する内容です。
内容についてはあとで詳しく触れますけど、これはもう超絶的に面白かった!もう最近面白い本ばっかり読んで感想を書いてるんで、こういう表現に胡散臭さを感じる方もいるかもしれないけど、いや、ホント、べらっぼうに面白かった!
「暇」と「退屈」の話だけで、まさかこれほど面白い作品に仕上がるなんて、全然予想も出来なかった。本書の著者は哲学が専門の大学の准教授だし、確かに作中でルソーだのハイデッガーだのと言った哲学者の話も出てくるんで、なんか難しそうな内容に思えるかもしれないけど、これが本当に全然そんなことないのだ。僕は確かに好きで哲学の本を時々読むから哲学的な知識は若干あるけど、でも本書で描かれていることは一切まったく知らなかった。それでも、全然難しく感じさせずに読ませる。僕は、国語の授業が嫌いで、特に教科書に載ってる評論的な文章とか、ちんぷんかんぷんだなぁとか思いながら読んでたような、難しい文章になると途端に読めなくなっちゃう人間なんだけど、本書はホントに易しく描かれていると思いました。頑張れば高校生でも読めるんじゃないかなぁ。
本書は、「暇とは何か?」「なぜ人は退屈するのか?」というような哲学的な疑問からスタートしながら、哲学のみならずありとあらゆるジャンルにまたがった考察がなされる。「退屈の起源」として人類史の話が出てくるところとか、ハイデッガーの退屈論と共にとある生物学者が提唱した「環世界」という概念が持ち出されるなど、本当にジャンルミックスな感じなのだけど、その中でも圧巻だったのが、「暇と退屈」と「経済」との関わりの話だ。他の章の話は、生きていく上で悩みを抱えている人にはなんらかの示唆を与えるものかもしれないけど、基本的には知的好奇心を満たす目的で読む感じだと思う。でも、この経済との関わりの話は、この恐るべき消費社会を生きる僕らが捉えておかなくてはならない重要な視点を提示してくれているように思う。本当にこの、経済との関わりの話には感心させられた。確かにその通りだなぁ、と。
さて、多分に引用を駆使しつつ、僕に出来る範囲で(あと僕の時間の許す範囲で)本書の内容紹介に入ろうと思います。

序章で「「好きなこと」とは何か?」と題して、著者は本書で提示したい問題をクリアにする。それをざっと説明しよう。
現代の消費社会は、需要が供給に先立って存在するのではなく、供給が需要に先立って存在する。つまり、企業が売りたいと思うものが先にあり、それを消費者に欲しいと思わせるのだ。そういう形で、資本主義は僕らを豊かにした。
労働の環境も変わった。かつて労働者は余暇などなかった。しかし次第に労働者は余暇を得ることが出来るようになってきた。
しかし僕らは既に、「何が楽しいのか分からない」。広告によって、何が楽しいのかを教えてもらえなければ、僕らは自分たちが何を好きなのかわからないのだ。
資本主義はそこにつけこみ、消費者の「暇」を搾取している。
なぜ「暇」は搾取されるのか?それは人が退屈することを嫌うからだ。
では何故人は暇の中で退屈してしまうのか?そもそも退屈とはなんだろうか?
これが本書のスタートとなる問い掛けです。
序章では、明日もし社会主義革命が起こってしまったらどうしよう、と考えていたモリスという人物のことが取り上げられる。モリスは、社会主義になることで人々は暇になる。その膨大な退屈をどうやり過ごせばいいのか、と革命の前から考えていたのだ。
モリスの解答を発展させて、本書ではこう書かれている。

『人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない』

暇な時間の中で自分の生活を芸術的に飾ることが出来る社会、それこそが「ゆたかな社会」だとモリスは考えた。

第一章は「暇と退屈の原理論」。ここでは、パスカル・ニーチェ・ラッセル・スヴェンセンという四人のそれぞれの退屈論に触れている。
パスカルの退屈論の始点は、

『人間の幸福などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。』

そしてパスカルはこう主張する。

『おろかなる人間は、退屈にたえられないから気晴らしをもとめているにすぎないというのに、自分が追い求めるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる』

ニーチェはこう主張した。

『苦しむことはもちろん苦しい。しかし、自分を行為に駆り立ててくれる同期がないこと、それはもっと苦しいのだ。何をしてよいのか分からないというこの退屈の苦しみ。それから遁れるためであれば、外から与えられる深谷苦しみなどものの数ではない。自分が行動へと移るための理由を与えてもらうためならば、人は喜んで苦しむ。』

ラッセルはこうだ。

『退屈とは何か?ラッセルの答えはこうだ。退屈とは、事件が起こることを望む気持ちがくじかれたものである。』

となれば、こうなる。

『ならば、事件はただ今日を昨日から区別してくれるおのであればいい。すると、その事件の内容はどうでもよいことになる。不幸な事件でもよい。悲惨な事件でもよい。』

『退屈する人は「どこかに楽しいことがないかな」としばしば靴にする。だが、彼は実は楽しいことなどもとめていない。彼がもとめているのは自分を興奮させてくれる事件である。』

スヴェンセンの立場は明確だ。

『退屈が人々の悩み事になったのはロマン主義のせいだ。』

『ロマン主義者は一般に「人生の充実」をもとめる。しかし、それが何を指しているのかはだれにも分からない。だから退屈してしまう』

こんな調子で引用してたら最後まで終わらないから、引用はもうちょっと減らそう。

第二章は「暇と退屈の系譜学」。ここで著者は、「退屈の起源」がどこにあるのかを探る。
この話は実に興味深い。結論だけ書けば、「遊動生活から定住生活になったことがきっかけで、人は退屈を覚えるようになった」となる。ここでは、西田正槻という人が提唱した「定住革命」という話がとりあげられ、それと絡めて退屈の話が展開されていく。メチャクチャ面白い。

第三章は「暇と退屈の経済史」。僕がさっき圧巻だと言った経済との関わりの話は、次の第四章で出てくるからこの章ではない。ここでは有閑階級のや労働者と言った観点から経済史を眺めることで、「暇」を持つことが権威であった時代が存在したことや労働者の扱われ方の変遷、そして消費者の変化。それらが「退屈」とどう関わっていくのか、ということを見ていく。

第四章は「暇と退屈の疎外論」。この章では後半で、「疎外と本来性」について、これまで哲学的にどんな議論がなされ、それがどのように的外れであるのかを指摘していて、その部分もハチャメチャに面白いのだけど、何よりもそれ以上に、初めの方で展開される「浪費と消費の違い」の話が圧巻だ。
いくつか引用しよう。

『浪費は満足をもたらし。理由は簡単だ。物を受け取ること、吸収することには限界があるからである。身体的な限界を越えて食べることはできないし、一度にたくさんの服を着ることもできない。つまり、浪費はどこかで限界に達する。そしてストップする。』

『しかし人類はつい最近になって、まったく新しいことを始めた。
それが消費である。
浪費はどこかでストップするのだった。物の受け取りには限界があるから。しかし消費はそうではない。消費は止まらない。消費には限界がない。消費はけっして満足をもたらさない。
なぜか?
消費の対象が物ではないからである。
人は消費するとき、物を受け取ったり、物を吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。ボードリヤールは、消費とは「観念的な行為」であると言っている。消費されるためには、物は記号にならなければならない。記号にならなければ、物は消費されることができない。』

『現代の消費社会を特徴づけるのは物の過剰ではなく希少性である。消費社会では、物がありすぎるのではなくて、物がなさすぎるのだ。
なぜかと言えば、商品が消費者の必要によってではなく、生産者の事情で供給されるからである。生産者が売りたいと思う物しか、市場に出まわらないのである。消費社会とは物があふれる社会ではなく、物が足りない社会だ。
そして消費社会は、そのわずかな物を記号に仕立て上げ、消費者は消費し続けるように仕向ける。消費社会は私達を浪費ではなくて消費へと駆り立てる。消費社会としては浪費されては困るのだ。なぜなら浪費は満足をもたらしてしまうからだ。消費社会は、私たちが浪費家ではなくて消費者になって、絶えざる観念の消費のゲームを続けることをもとめるのである。消費社会とは、人が浪費するのを妨げる社会である。』

『消費は贅沢などもたらさない。消費する際には人は物を受け取らないのだから、消費はむしろ贅沢を遠ざけている。消費を徹底して推し進めようとする消費社会は、私たちから浪費と贅沢を奪っている。
しかも単にそれらを奪っているだけではない。いくら消費を続けても満足はもたらされないが、消費には限界がないあkら、それは永遠と繰り返される。永遠と繰り返されるのに、満足がもたらされないから、消費は次第に過激に、過剰になっていく。しかも過剰になればなるほど、満足の欠如が強く感じられるようになる。
これこそが、20世紀に登場した消費社会を特徴づける状態にほかならない。』

『消費社会を批判するためのスローガンを考えるとすれば、それは「贅沢をさせろ」になるだろう。』

この話は感動的に面白かった。
そしてその後で、「疎外と本来性」の議論から、「本来性」へと向かわせるから「疎外」を扱うのは止めよう、という哲学の風潮を切り裂いて、ルソーとマルクスの主張したことを丁寧に読み解くことで、「本来性なき疎外」について思考する。

第五章は「暇と退屈の哲学」。ここでは、退屈論の最高峰と著者が呼ぶ、ハイデッガーの「形而上学の根本諸概念」という難解な作品を、著者が噛み砕いて説明することで、ハイデッガーが主張した退屈論を追っていく。
その中でハイデッガーは、第一形式、第二形式、第三形式という三つの退屈の種類について、具体例を混ぜながら丁寧に思考していく。このハイデッガーの退屈論は、それまでに紹介されたどの哲学者の退屈論よりも詳細に紹介されたから、という理由もあるかもしれないけど、どの退屈論よりも面白かった。もの凄くあやふやなスタート地点から、そこまでかっちりとした議論をすることが出来るのだな、という感動がある。著者は、ハイデッガーの結論に納得がいかないとしつつ、ハイデッガーの主張をうまく援用することで、本書独自の視点を提示する。

第六章は「暇と退屈の人間学」。ここでもハイデッガーの主張が検討される。ハイデッガーは退屈について述べた後、動物の退屈についても主張したという。つまり、動物は退屈するのかどうか、という問いだ。これについてハイデッガーは、ユクスキュルという理論生物学者が提唱した「環世界」という概念を批判しつつ、退屈を論じる過程で人間と動物を区別するものについて主張する。
しかし著者は、ハイデッガーの論証はおかしいとして、同じく「環世界」の考え方を援用しつつ、ハイデッガーの議論とは違う結論を導き出す。

第七章は「暇と退屈の倫理学」。ここでは、これまで追ってきた議論を、主にハイデッガーの主張を柱にしつつ、人間が退屈するというのはどういうことなのか、というまとめに入る。本章の主張を端的に表現していると思われる一文を引用しよう。

『習慣を作らねば生きていけないが、そのなかでは必ず退屈する。だから、その退屈をなんとなくごまかせるような気晴らしを行う。人間は本性的に、退屈と気晴らしが独特の仕方で絡み合った生を生きることを強いられているのだとすら言いたくなる。』

そして結論・あとがきと続いて本書は終わる。
ちょっと僕の方の時間がなくて駆け足になったけど、本当にこの作品は、知的好奇心を満たす作品、という点ではここ最近読んだ中では比較になるものがちょっと思いつかないぐらい面白かったです。「暇」と「退屈」というたったこれだけのテーマから、哲学だけではなく様々な分野の知識を取り込みながら、人間とは何か?生きていくとはどういうことか?というような問いかけを迫る作品で、それでいて全然難しくない。クスリと笑わせる部分があるわけでもないのに、読んでいると、自分の内側の知的好奇心がドンドンと満たされて膨らんでいくことが分かる。もうとにかくハチャメチャに面白い作品を読んだ。是非是非是非とも読んでみて下さい。

國分功一郎「暇と退屈の倫理学」



書店ガール(碧野圭)

内容に入ろうと思います。
本書は、ペガサス書店吉祥寺店(実在しない)という新刊書店を舞台にした、女性のお仕事小説です。
物語は、なかなか波乱万丈なところから始まる。
副店長である西岡理子は、同じ店の若くて美人な社員・北村亜紀の結婚式に出席している。店の女性で参加したのは、理子だけだ。亜紀は昔から、同じ店の契約社員で、女子スタッフから人気のあった三田孝彦と付き合っていた。それだけでも店内の女性スタッフのやっかみがあったのに、さらにその上亜紀は、あっさりと付き合う相手を乗り換え、サイン会で漫画家と一緒に店にやってきた編集者と結婚した。その不満が、未だ女性スタッフの中から消えない。独身の理子は理子で、若くて美人な亜紀に対して反発心があるのだが、ちょっとした事情があって結婚式に出ることにした。付き合っていた相手と別れたばかりの理子にとっては、なかなか辛い場だ。
ほんの些細な行き違いが大事になって、結婚式の場で理子と亜紀はやりあってしまう。それまでも決して上手く行っているわけではなかったが、それをきっかけにして二人の関係は決裂してしまう。
とはいえ、お互い同じ店で働く者同士だ。仕事には影響を与えたくない。と思っていても、周りがそうはさせてくれない。二人の思惑とは違い、理子と亜紀の仲違いはどんどんと大きな影響力を持ち、仕事上でも様々な支障をきたすことになる。
そもそも理子と亜紀では、性格も考え方も違う。書店員としてのあり方の理想が違うので、売り場でも様々に対立してしまう。その対立が、個人的なわだかまりと相まって、余計状況を悪化させてしまう。
母を亡くし、退職した父と二人暮しの理子は、父親の面倒を見る負担について、頭を悩ませることが増えた。一方新婚の亜紀は、新雑誌創刊のために超絶的な忙しさの中にいる夫と、ちょっとした考え方の違いから口論めいた感じになってしまうことが増えた。
お互いがそれぞれの悩みを抱える中、ペガサス書店吉祥寺店をとんでもない事態が襲う。きっかけは、理子がペガサス書店で初めての女性店長に就任することが決まったことだった…。
というような話です。
いやはや、やっぱり面白かったなぁ。「やっぱり」というのは、実は僕は本書の親本である「ブックストア・ウォーズ」という作品も読んでいて、文庫化に当たって再度読んでいる、ということなのです。
さて、本書の良さをどう伝えようか。
というのも、僕自身が書店員であるという事実が、何らかのバイアスとして先入観を与えちゃうよなぁ、という危惧があるのです(余談ですが、僕は本を売るということについて、「それを手に取る人がどんな先入観を抱くか」という部分を一番に考えてしまいます。そのタイトルや装丁から、あるいは僕の展開の仕方からどんな先入観を抱くか)。
まずは、当たり障りのないところから攻めて行きましょうか。
本書は、お仕事小説として素晴らしく面白い。もちろん、僕が書店員だからという部分はあるでしょうけど、それは後でまた書きます。
本書では、「ザ・女の闘い」というようなものが結構メインで描かれる。そもそもまず、理子と亜紀という、お互いになかなか我が強く、お互いに引かない性格の二人の直接的なバトルというのも凄く面白い。この直接のバトルは、仕事に関わる部分と、相手への個人的な嫌悪感が、ストーリー上非常に巧く入り混じった形で展開されていく。仕事において理子が亜紀を注意しなくてはいけない。あるいは、亜紀が副店長である理子に何か提案するが、どれもはね除けられる。でも亜紀はそれらを、自分への個人的なやっかみから来るものだと受け取る。そういう些細なことが積み重なって行って、二人の関係性がどんどん悪くなっていく。理子も亜紀も、仕事に対する姿勢は真摯だ。お客さんに喜んでもらいたい、楽しんでもらいたい、そして売上を上げたいという思いは同じ。しかし、基本的な考え方の違いから、二人はなかなか折り合うことが出来ない。そういう描写が本当に巧い。
こういうことって、別に女性同士のバトルに限らなくても、結構あったりしますよね?やっかみや足の引っ張り合いがあったり(あるいは、それがあるという被害妄想を抱いたり)、個人的な感情から合理的ではない判断や行動をしてしまったりする。そういう、働いていればどうしたって直面してしまいがちな、真剣な人間同士がぶつかり合う過程が、書店や出版業界の状況を非常に巧く描きながら展開されていくのが凄くいい。
それだけでなく、理子と亜紀のバトルが代理戦争のように発展していく過程もまた見事だ。どういう形の代理戦争なのか、というのはネタを明かさないことにするけど、店舗内や本部などの様々な思惑が実に複雑に絡みあって、理子と亜紀の個人的な諍いが、店全体の問題に擦り変わっていく。読者は、理子の側・亜紀の側両方の言い分や考え方を知ることが出来る。だから、二人が争っていることそのものに、凄くもどかしい思いにさせられることになる。仕事をしている中で、本書で描かれるような状況に陥ることってあるだろうし、今はなくても、そういう状況に陥りかねない職場というのはきっと多いと思う。本書では女性同士のバトルだけど、亜紀の夫であるマンガ編集者がある場面でちょっと口にするように、こと仕事に関して言えば、男の嫉妬もなかなかに恐るべきものがある。自分の周りの具体的な状況を思い浮かべながら読んじゃう人もいるんじゃないかなと思います。
また本書は、女性が社会の中で働くこと、という一回り大きなテーマも存在する。40歳の理子は、20歳から5年間バイト、その後社員を15年やって店長になった。仕事一筋というわけでもなく、恋もしている。ただ、望んだ通りの人生だったかというと、もちろんそんなことはない。今も、いつ要介護状態になるかわからない父親との二人暮らしだ。初の女性店長ということで、色んな形でのやっかみもあるし、くだらない嫉妬もある。その上、衝撃的な事実を知らされた理子は頑張っていかなくてはいけない。これから結婚することもあるだろうが、老いた父を抱え、ずっと仕事をして生きていくという決意を知る中で、女性が社会の中で仕事をしていくことの難しさが浮き彫りにされる。
一方亜紀は、実はコネで書店に入った。結婚を機に仕事を辞めると周りからは思われていたけど、亜紀にはそんなつもりはない。以前から、書店員として働きたいという思いは強くあった。しかし、理子との様々なやり取りや夫との議論の中で、亜紀は徐々に、『書店で働くということ』『女性が働くということ』の輪郭をはっきりと認識していくことになる。そしてその上で、亜紀は自分が書店員としてやれるだけやってやりたいと思うのだ。理子と比べて、女性が社会で働くことへの葛藤のようなものは強くはないのだけど、コネ入社という苦労知らずのところから始まって、様々な過程を経て『働く』ということを見つめ直していく過程が面白いと思う。
そして、やはりこれに触れないわけにはいかないけど、書店の描写が面白い。これは実際、書店員ではないお客さんにどこまで面白いと感じられるのかは、ちょっとわからない。書店員的には、そうそう!とか、あぁあるある!というようなネタがあっちこっちに転がってるのだけど、やはりそれは内輪的な面白さかもしれないよなぁ、と思わなくもない。
とはいえ本書には、実在するマンガや小説のタイトルがバンバン出てきたり、実在する集まりや実際にあった出来事などをかなりふんだんに取り込んで、かなり現実的な書店の状況というのを描き出していると思う。単行本の「ブックストア・ウォーズ」刊行時には業界の中には存在しなかった話も盛り込まれているので、かなり加筆されているのだろうと思う(僕は記憶力が貧弱なので、実際どの程度加筆されているのかはわからないのだけど)。
著者は、本書の取材のため、というわけではなく、全国のあらゆる書店を回ってその記録をブログで書いている。もちろん、自著の営業も兼ねているわけだけども、書店というものに関心が強いのだろう。実はうちの店にも来てもらったことがあるのだが、かなり鋭く色んな質問をされて驚いた。そういう著者だからこそ、100店舗以上の書店回りの経験を通じて得た感触や価値観なんかを、加筆修正の際にかなり有効に使えたのではないかと思う。他の書店員が読んだらどうかわからないけど、少なくとも僕は、細かなところの描写まで含め、書店や書店を取り巻く環境をかなり正確に描写していると思うし、その細部へのこだわりが、本書のストーリーを引き立てる役割を担っていると感じました。
さて、後で書くと言っていたことを書くことにしましょう。
おさらいすると、僕が危惧していることの一つは、「どうせ書店員が本屋の話を読んだから面白く感じられたんでしょう?」と思われることだ。そうではないのだ、ということを伝えたいと思うわけです。
本書を読むと、書店員がどんな風に考えて仕事をしているのかが分かる。
これは、本書の魅力のトップに挙げてもいいと個人的には思うのだけど、ここで話をするためにとっておいたのだ。
書店はどこに行っても同じだ、という先入観を持っていたりしないだろうか?その先入観は、決して間違っているわけではない。やはり書店にもそれぞれ良し悪しがあって、すべての書店がその店独自の考え方を持っているわけではないし、持っていてもそれが売り場を通じて伝わってくるわけではないだろうと思う。
しかし世の中には、その店独自の考え方を持ち、それを売り場で表現している店がある。また、店の方針に限らず、世の中あまたいる書店員の多くはそれぞれ、自分なりの書店哲学みたいなものを持っていて、どうすればお客さんに楽しんでもらえるか、喜んでもらえるかを考えている。
しかし、書店の売り場を見ているだけで、それを全部読み取ることはまず不可能だろうと思う。
実際、書店員が何をどう考えて売場作りをしているのかなんて、別に知らなくたっていいという意見はあるだろう。僕もそう思う。別に、そんなこと知らなくたって本は買える。
でも例えば、純粋な好奇心としてそういうことを知りたくなることってないだろうか?例えば、アップル社がマッキントッシュというコンピュータをどんな思想で作り上げたのか、知りたくなることはないだろうか?その思想を知らなくたってマッキントッシュは使える。でも、それを知った上で使えば、またちょっと違った視点を得られるかもしれない。
本書もまさにそうだ。本書を読んでから書店に行くと、いつもとは違った視点で書店を見ることが出来るかもしれない。
書店員は、結構みんな各々の考え方を持っている。もちろんそれは、会社の方針に合わせなくてはいけないから、すべて自由に出すわけにはいかない。でも、すべての書店員が同じ理想を抱えて仕事をしているわけではない。
例えば、理子と亜紀は、お客さんを満足させたいという気持ちは同じなのだけど、それを実現するための発想は相当に異なる。そこが凄く面白い。僕も、様々な形で、書店員や出版社の人の色んな意見を耳にする。賛同できるものもあれば、賛同できないものもある。それほど、書店員の売り場に関する哲学というのはなかなか幅広いし、決して統一されているわけでもない。
普段本屋に本を買いに来てくれる方で、書店員がどうやって売場作りをしているのか想像を巡らせる人はそうはいないだろう。全然それでいい。本書は、書店員が売場作りについて自分なりの哲学を持っていること、そしてそれは個人によって全然違うことを、物語の展開の中にさりげなく含ませてくれている。書店員として僕はそれが嬉しいし、書店員が何をどう考えているのかに、売り場を見る以外で知る機会というのはなかなかないだろうから、純粋な知的好奇心を満たすという意味で、書店員ではない方にも楽しんでもらえるのではないかな、と思いました。
本書の解説で北上次郎は、後半の展開について、もしかしたら批判的な意見を抱く人がいるかもしれない、と書いている。確かに、その可能性はないではない。そううまく行くことはないだろうよ、と。
しかし北上次郎はこの点について、こう書いている。

『しかしこれは確信犯だろう。こういう細かな努力が実ることを信じなかったら私たちが働く意欲もなくなってしまう。努力は実る、と信じることは、客を信じるということだ。必ず見ている人はいる。その互いの理解と信頼で商売は成り立っている。結果はたまたまだ。』

これは、確かにそう思う。実際後半で描かれる事柄は、なかなか現実的ではないだろう。やること、に対してではなく、やった結果としてその数字が出るということがなかなか現実的ではないよな、と思えてしまう。でも、それでもいいじゃないか、と北上次郎は思わせてくれる。
最後に。本書の中で僕が最も好きで、この文章をそのままPOPのフレーズにしようかと考えているものがあるので、それを抜き出して終わろうと思います。

『ただの印刷物がちゃんと本や雑誌になるのは、人に関心を持たれたり、読まれたりするからじゃないかと思うんだよ。俺達がこうして一冊一冊触って、書棚に置けるようにしてはじめて雑誌は雑誌になる、そんな気がするんだ。だから俺達がやってるのは、雑誌としての命を吹き込んでいるんじゃないか、ってね。そう思うと、なんだかこういう作業にも意味がある気がしないか』

女性のバトルを通じて、書店業界というなかなか特集な環境を実に見事に切り取り、さらに、女性が社会の中で働くということについて考えさせる作品だと思います。ストーリー展開が非常に面白いので、一気読みさせられてしまうのではないかと思います。是非読んでみて下さい。

碧野圭「書店ガール」



少女は卒業しない(朝井リョウ)





内容に入ろうと思います。
本書は、廃校が決まり、卒業式の翌日に校舎が取り壊されることが決まっているとある地方の県立高校。その卒業式の一日を、七人の少女の視点で描いた作品です。

「エンドロールが始まる」
「作田さん、返却期限、また過ぎてますね」
毎週金曜日、私はそんな風に言われて、先生と話をした。静かにしていなくてはいけない図書室で、少しだけ顔を近づけて。
先生に個人的に借りた本。卒業式の朝、私は先生にいつもより早く学校に来て欲しいとお願いした。私にとって卒業式の日は、この本の返却期限だった。
あの日から伸ばし続けてきた髪は、まだちょっと短い。

「屋上は青」
「孝子は真面目だからな」
卒業式の日。授業をサボることも、宿題を忘れることもない優等生の私は、幽霊が出るという噂のある東棟の屋上にいた。尚輝から、久しぶりに連絡が来たからだ。
子どもの頃からずっと一緒だった尚輝。でも私はずっと、尚輝がいつか遠くへ行っちゃうってわかっていた。尚輝と私とは、全然違った。私が臆して出来ないようなことを、尚輝はいとも平気そうにやってのけた。
一年前、高校を辞めちゃった時も。
尚輝は、なんだかずっと変わらなかった。着ているTシャツが、空みたいに青い。

「在校生代表」
「岡田、今回下がってたぞー」
テストの順位を貼り出すのが担任のザビエルだったせいで、私はいつもそんな風に言われた。
卒業式で私は、とてもとても長い送辞を読んでいる。
卒業式の後の恒例の卒業ライブ。一年生の時に初めて行ったそのライブで私は、照明をやっている人に目を奪われてしまった。
その人は、部活の先輩を除いて上級生で唯一、私が名前だけは知っている人だった。
私は、成績を貼り出すザビエルにお願いをして、それから生徒会に入った。

「寺田の足の甲はキャベツ」
「ゴトーぶちょー(のおっぱい)大好き!」
卒アルに後輩からそんな風に書かれる私は、男バスの寺田と付き合っている。
男バスなんかには、初めは全然興味がなかった。ある日寺田が女バスの爆笑の渦に包まれている時、たぶんあの時、寺田の足の甲がキャベツみたいに見えたからかもしれない。
昨日倉橋にメールで頼んでおいてよかった。
私は今日、ちゃんと言わなきゃいけない。

「四拍子をもう一度」
「神田さん、落ち着いて」
卒業ライブの控え室で、私を始めみんながパニックになっていた。
ライブのトリで、校内で絶大なる人気を誇るビジュアル系バンド・ヘブンズドアのメンバーの化粧道具と衣装一式がすべてなくなってしまったのだ。
どうしよう。ヘブンズドアのボーカルの「刹那四世」こと森崎は、この三年間と同じように意味不明なことをつぶやきながら、この事態に動揺しているようには見えない。
どうしよう。このままだと、私がずっと隠したかったことが、みんなにばれちゃう。

「ふたりの背景」
「あすかちゃん。僕ね、ふしぎなんだ」
夏休み明けの学園祭で、東棟の壁に絵を描いていた正道くん。正しい言葉だけを発しようと口数が少なくなってしまうけど、その綺麗な感情が私には心地いい。
カナダから転校してきた私は、すぐにクラスに馴染めなくなった。
正道くんたちと一緒にいることで自分がどう見られているのかももちろん知っているけど、でもどうでもいい。
私はこれから、アメリカに行く。

「夜明けの中心」
「もし今日誰かに会うなら、まなみだろうなって思ってた」
卒業式が終わったその日の深夜、私は今日取り壊されることが決まっている校舎に忍び込んだ。幽霊が出るという噂があるけど、今の私にはその噂は全然怖くない。むしろ、羨ましい。
教室に入ると、そこに香川がいた。駿と同じく剣道部で、部長だった。香川とは、しばらくちゃんと喋っていなかった。深夜の校舎という環境が、お互い口を開かせる。
明日この校舎がなくなっちゃうなんて、信じられない。

というような話です。
やっぱり朝井リョウは凄い。これまで朝井リョウの作品を結構読んできたので、もうその凄さには驚かなくなった。イチローが◯年連続で200本安打とか聞いても、「すげぇなぁ」って思うけどそれ以上に「やっぱり」って思うのと似てる。僕の中で朝井リョウはそれぐらい、安定して高いところにい続けている作家だ。
ホントに凄いなと思う。
本書は、デビュー作の「桐島、部活辞めるってよ」以来の、全編高校生が主人公の作品です。そして「桐島~」との最大の違いは、主人公が全員女子ということ。
僕は男なんで、もちろん女子的な感覚がきちんと分かるわけじゃない。じゃないけどやっぱり、朝井リョウの女性の描写は凄いなと思う。ああ、女子だなぁっていう感じが凄くする。男とは全然違う感覚で生きているように見える女子の、その「全然違う」感じが、少なくとも男にはよく伝わってくる。女性がこの作品を読んでどう感じるかは分からないけど、でも女性にしても、この作品の主人公たちのどこかに自分の何かが溶け込んでいるように感じられるのではないかと思う。
女子を描いているかどうかに限らず、やっぱり相変わらず朝井リョウの人物描写は素晴らしい。
これまでも「桐島、部活辞めるってよ」「星やどりの声」「もういちど生まれる」の感想の中で、朝井リョウの人物の描き方・切り取り方の凄さみたいなものを自分なりの言葉で書いてきたつもりだけど、同じ事を書いても仕方がないのでまた違うことを頑張って書いてみようと思う。
朝井リョウは、五感をフルに使った『世界の捉え方』が絶妙だ。
昆虫は、眼を持っているけど、人間とはまったく違った見え方をしている、と言われる。目が捉える光の種類が違う(赤外線とか紫外線とか、そういうものを捉えているんだったかな?)から、僕らが目で見ている光景と、昆虫が眼で見ている光景は恐らく全然違ったものだろうと言われている。
朝井リョウは世界を、僕らとは違った『眼』で見ているのかな、という気がする。
それは『眼』だけではない。『耳』も『鼻』も『皮膚』も『舌』も、全部僕らとは違った形でこの世界を捉えているんじゃないかという気がする。
そしてその『世界の捉え方』を、登場人物たちの個性に落としこむことが本当に巧い。その場面でどんな音を捉えるか、どんな光景を捉えるか、どんな皮膚感覚を捉えるか、その選択。それらの絶妙な組み合わせが、登場人物たちの個性をこれでもかと際立たせる。
読んでいる方からすると、夢から覚めた直後みたいな感じかもしれない。本書で描かれる五感は、読者にもその残滓が伝わってくる。直接見たわけでも聞いたわけでも触れたわけでもない『感覚の名残り』みたいなものが、読んでいる間僕らにもうっすらと伝わってくる。鋭敏な世界の捉え方をするが故に、描写された五感を自分の感覚として捉え直すのではなくて、登場人物たちが感じたものそのものの残滓が文字を通じて僕らに伝わってくるような感じがする。
それはまさに、夢から覚めた直後みたいなものかもしれない。夢の中では、直接見たり聞いたり触ったりしているわけではないのに、夢から覚めた直後は、それらの感覚の残滓が体中に漂っているような感じがする。朝井リョウが描く五感は、そういう感覚を読者に届ける。なかなかそんな描写の出来る作家はいないと思う。
高校生は、揺れる。まだ何者でもなく、何者でなくてもいいという最後の余裕がある中で、何者にもなれる偉大なる可能性を持ちつつ、でも彼らはそれを素直に捉えることが出来ない。
何故なら彼らにとっては、『今』という時間があまりにも絶大すぎる。
この絶大な『今』から視線を逸らして、ずっと先にあるはずの未来を見るなんて、出来ない。『今』だけに固定されていたら何者にもなれないとわかっていても、それでもその圧倒的な『今』から取り残されるわけにはいかなくて、『今』という時間の中で全力疾走してしまう。
だからと言って、『今』を確かに掴めるわけでもない。というか、『今』を確かに掴めているわけではない人達が描かれている。
少女たちを主人公にした物語は、全体的に恋愛的な話でまとめられている。あくまで「恋愛的」と書いたのは、この作品には、「恋愛小説」と表現することでこぼれ落ちてしまうものがあまりにも多いからだ。誰かを好きになって、付き合って、楽しいことがあって、なんていうわかりやすい話ではない。これって恋愛なのかな?という話もあれば、恋愛だったものの欠片を眺める話もある。べとっと塗りつけられてしまう油絵具のような感じではなくって、もっと薄くって淡くって、それってほとんど水じゃね?みたいな感じの薄められ方をした水彩絵具みたいな感じの恋愛が、なんか凄くグッとくる。高校時代に特別いい想い出があるわけでもなく、特別高校時代に戻りたいと思ったことがない僕に、なんか高校時代に戻れたりしたらいいかも、なんて思わせてくれた。すげぇよ。
そう、同じく高校生を主人公にした「桐島~」との大きな違いのもう一つは、本作はストーリー性が強いということ。
僕は朝井リョウの、目の前の一瞬一瞬の感覚を切り取って繋げていったような、ストーリー性で担保されているわけではない小説も相当好きなんだけど(「桐島、部活辞めるってよ」とか「もういちど生まれる」)、そういう描写を駆使しつ、ストーリー性で全体を貫く作品も好きだ(本作とか「星やどりの声」)。本作は、七人の少女の「恋愛的」なストーリーが、もの凄く読ませる。状況が分からないまま読み進めていって最後になるほどそういうことか、となるような展開の話も多くて、単純に技量的にもどんどんうまくなっているという感じがする。
朝井リョウの作品で巧いなぁと思う点は他にもあって、例えば、作中で描かれるモチーフを無駄にしないということ。というか、意味もなくただ雰囲気的に描かれるモチーフがない、ということ。本書でも、それぞれの話の中に出てくる、その話の中では特に意味を持たないモチーフが、別の話の中できちんと意味を持つようになる。そうやって、「明日校舎が取り壊される高校」という舞台以外にも短編それぞれを有機的に結びつけていて、素敵だなと思う。
そう、この、「明日校舎が取り壊される高校」という舞台設定も絶妙だ。これがどっしりと背景にあるからこそ、登場人物たちはわかりやすい感情を前面に押し出す必要がない。そういったものを全部「明日取り壊される校舎」という舞台設定がが担ってくれている、という部分が本当に大きいと思う。「明日校舎が取り壊される高校」という舞台設定が、非常に強く(しかし背景として邪魔にならない形で)作品全体のトーンを主張し続けてくれるので、そこで描かれる人物はそのトーンを自ら出さないでも感情を表現できる(少なくとも読者に向かっては)。そういうところも好きだ。
読んでいてホントに、大袈裟ではなく自分の動きが止まることがある。僕は、ご飯を食べながら本を読むみたいな、何かをしながら本を読むというのが普通なんだけど、例えば読んでいる間ご飯を食べる手が止まっていたりする。ハッと気づいてまたご飯を食べ始めるのだけど、そんな風に作品に読者を惹きつけてしまう力がある。これだけの引力を持った作家というのは、本当に凄いと思う。
よく小説を読んだ感想に、「この作品の世界にずっと浸っていたいと思わされた」というようなものがある。僕は正直、そういうタイプの表現に、なんとなく違和感を覚えてしまうんだけど(うまく説明できないんだけど、なんか頭で考えたような文章だよなぁと思ってしまう)、朝井リョウの作品に対しては、僕もそういう表現を使ってもいいかもしれないと思えてくる。ただ、「浸っていたい」というのはちょっと違うかな。「そことずっと繋がっていたい」という感じかな。
僕は意識的に、今回の感想では、「切ない」とか「悲しい」みたな単語を使わないで文章を書いた(はず)。朝井リョウの作品も、そういうところがある。登場人物たちは、「切ない」とか「悲しい」みたいな雰囲気を、自分から発することはそうない。なのに、作品全体としては、もの凄く「切ない」し「悲しい」。凄いよ、ホント。
個別に、それぞれの短編の話をざっとしよう。
一番好きなのは「在校生代表」かな。送辞だけ(ではないけど)で物語を完結させ、しかも送辞でそんなこと言っちゃうのかよ!みたいなことを自然に描写しているところが凄く好き。
「寺田の足の甲はキャベツ」も凄く好き。これは本当に泣きそうになった。
「四拍子をもう一度」は、ストーリーの展開という意味では一番絶妙かな。神田の想いとストーリーの展開が絶妙で、巧いなと思った。ストーリー展開で言えば「エンドロールが始まる」も素敵。
「屋上は青」は、主人公の女の子に凄く共感できてしまう話で好き。
「ふたりの背景」は、正道くんのキャラがよかったなぁ。
「夜明けの中心」は、はっきりした切なさが、この作品の中では結構異質で印象に残った。
朝井リョウは、本当に凄い作家です。是非とも読んでみて下さい!

朝井リョウ「少女は卒業しない」



21世紀の薩長同盟を結べ(倉本圭造)

内容に入ろうと思います。
本書は、京大からマッキンゼーに就職するも、「グローバリズム的思考」と「日本社会の現実」との矛盾に大きな違和感を抱き退職、日本で「カルト宗教団体」や「肉体労働」や「ホストクラブ」など、とにかく様々な職業現場に潜入し肌感覚としてそれを捉え、船井総研を経て独立。現在は、個人相手の人生戦略コンサルティングなるものを起業し、企業ではなく個人相手に、ビジネスに限らず相手が望んでいる願望の実現の手助けをしている著者による初の著作です。

内容の紹介は後でうんざりするほどしますけど、この本メチャクチャ面白かった!!

僕はホント、結構好きで新書を読むんですけど、これまで読んできた中でもトップクラスの面白さでした。新書なのに400ページもあるというなかなかの分量の作品で、しかも、タイトルからはなんの本なのかさっぱり分からない(読めば、作品にぴったり合ったタイトルだということはわかるんですけど)。なのでこの本、本当にうまく売ってあげないとちょっと埋もれちゃいそうな気がするなぁ、という感じがするから、どうにか売らないと!と思っています。
僕は、本書を読んでいる途中でPOPのフレーズが思いついたので、早速POP職人につくってもらったんですけど、こんな文章にしました。

『とうとう現れた!!
本書はまさに、『日本人のためのビジネス書』だ!

どのビジネス書を読んでもしっくりこない人。
どのビジネス書を読んだらいいかわからない人。
とにかく読んでみてください!
日本人だからこそ出来るビジネスの形が、ここにある!』

あくまでも、売りやすくするために「ビジネス書」という形で推すことに決めたんですけど、作品としては思想とか日本論とかいう感じになりそうです。でも、思想とか日本論とかでは手にとってもらえないだろうからなぁ。とはいえ、まさに本書は「日本人のためのビジネス書」だと思います。だから別に嘘をついているわけではない。ビジネスというものを通じて日本の特殊性を知り、その特殊性をどう現実に生かしていくのか、ということがかなり具体的に語られると同時に、今僕らが感じている閉塞感とかやるせなさみたいなものの源泉を指摘してくれもする作品で、本当に読んでて深々と納得させられる場面に溢れていました。
世の中にはビジネス書がこれでもかというくらい溢れています。僕はあんまり読んだことはないんですけど、でもまあ大体は、欧米的な考え方、つまり、とりあえずやってみるべ!失敗したっていいんだから突き進め!効率だ効率!成果をあげるためには何したっていいんだよ!理屈でゴリゴリ押し通せ!聞かないやつがいたら切り捨てろ!みたいなことが、もう少しオブラートに包んだ表現で書かれているんだろうなぁ、というイメージがあります。
でも、なかなかそういうのって、日本人には合わないですよね。
今世の中に出回っているビジネス書って、本書で言うなら『長州藩・ユダヤ人側の人間』(何言ってるのかわからないでしょうけど後で説明します)が、自分たちがこうやって成功できたんだからおまえらだってこうすりゃいいじゃん!という感じで押し付けてくるやり方なわけです。
でも、日本人の特殊性というのは、本書で言う『薩摩藩・ドイツ人側の人間』の性質が、かなり色濃く染み渡っているという点です。そこを理解しないまま、グローバリズムに迎合したやり方だけを押し付けてもうまくいかない。
さて本書はタイトルの通り、「21世紀の薩長同盟を結ぼう」というところに持っていくための作品です。じゃあ、誰が長州藩の人間で、誰が薩摩藩の人間なのか。
本書では、長州藩と薩摩藩はこんな風に描かれています。

「理論先行で個人主義者の集まりである長州藩」と「親分の意向で集団が一つの生き物のように動く(いわゆる”和をもって貴しとなす国=日本”のイメージ)薩摩藩」

さて、これを現代に置き換えると、欧米的なグローバリズム的な発想でガンガン行こうよ!という人達が長州藩、そういうグローバリズム的な発想に、うーん確かにそうなのかもしれないけど、でもなんか違和感がなぁ、うーむ、とか言っている人が薩摩藩。そして本書は、日本人の特筆すべき点として、この薩摩藩的性質を持つ人間がある程度多数を占めるという状況の中で、どちらか一方だけがのさばるのではなく、両者がお互いのいい点をうまく突き合わせながら「同盟を結ぶ」ことで、日本はそして日本に住む個人は復活するのだ、という話を展開していくわけです。
こういう点で本書は、日本人のためのビジネス書であり、経済思想書でもあり、日本論でもあるわです。
とにかくべらぼうに面白い作品で、これから引用を大量にしながら内容紹介をするつもりですけど、本当に是非とも読んで欲しい。僕は本書で描かれる薩摩藩的人間で、そういう人間の持つ能力・性質・鬱屈などについてかなり的確に説明をしてくれていて、凄く納得させられました。もちろん本書は、薩摩藩的な人たちにも読んで欲しいのです。何故なら、両者が同盟を結ぶためには、今の日本では「ダメ人間」の烙印を押されることが多い薩摩藩的人間のことを長州藩的人間が理解してくれなければ前に進めないからです(とはいえ、これは逆もまた同じで、本書では、薩摩藩的人間は最終的に、長州藩的人間を立てる形でやっていかないとうまくいかない、だから長州藩的人間に腹が立っても出来るだけ許容してやってくれ、というような話が出ます)。
また、ビジネス書という風に書きましたけど、本書で描かれることは、ビジネスに限らず「日本におけるどんな集団・組織」にも当てはまると思います。それこそ、学校のPTAなんかにも、本書で論じられているのと同じような議論をすることができるでしょうし、本書ではほんの少しですけど婚活の話も出てきます。あくまで著者がコンサルタント出身なのでビジネス方面の具体例が多くなっているというだけであって、ビジネスに関わらない人にももの凄くためになる作品だと思います。
さてそんなわけで内容紹介にいきましょうか。

まず、「本書の読み方」という部分の文章を一部抜書きします。

『しかし、本書は「初心者向けの経済の解説本」というよりは「真面目な提言をする本」であるため、どうしても限界はあります。その場合、本書の一部がよくわからなくても、「まあ8割わかればいいや」くらいの気持ちで読み流していただければと思います。
本書の目的のためには、どうしても難しい話をしなくてはいけないこともありますが、「結果として何をしていくべきなのか」については、「読者のあなたの明日」に関わってくる内容ですので、大枠の流れをつかむだけでも、本書を読んだ価値はあるはずだと私は考えています。』

さて、第一章は「大変革は「抑圧された個人の内面」から生まれる」です。
著者はまず森のたとえを使いながら、著者が理想と考える経済の形を提示します。

『そして、巨木だけが偉いとか微生物はダメだとか、そういう差別は自然界には一切なく、それぞれが生態系全体のなかでかけがえのない役割を果たして共に生きているというのが「社会の理想状態」であるという考え方は、多くの読者のみなさんにも納得していただけるビジョンなのではないでしょうか。
社会全体が短視眼的に単純過ぎる部分に特化すると、言ってみれば「生態系が単純化」してしまい、「イキイキと生きられる人間の種類」が非常に限定されるようになり、その人間の本来の性質からすると無理に無理を重ねて生きねばならなくなるような人が増え、社会に怨念が渦巻いて、良からぬ状況が現出してしまいます。』

『つまり、「本当の自然の厳しい生存競争」は「多種多様な生命の豊かさ」を内包したものである、と言えます。』

ここで著者は、現在の日本の「グローバリズム的な人」『だけ』が必要とされもてはやされる状況を憂えます。

『ある意味、グローバリズムの時代というのは、「時代に乗り遅れたダメ人間(扱いされている人たち)の怨念」がどこまでも蓄積されていく社会というようにまとめても良いでしょう。』

そういう世の中にあってどうするべきか。

『もしもその「ダメ人間扱いされやすいタイプの本性」をうまく経済に活用できる方策が生まれればどうでしょうか?そうすれば、20世紀に人類を二つに分断した果てしのない罵り合いを越えて、新しい経済活動パターンを生み出すことができるでしょう。』

『そこで、「もっと頑張れ」ではなくて、「現在ダメ人間扱いされてしまっている人々の本来的な価値」をどうやったら「経済付加価値に転換できるか」を真剣に考えれば、今はフテ腐れてしまっている人たちにも生きる希望が生まれますし、「”ダメ人間を切り捨てている国の経済”よりももっと根本的に新しい価値を生み出せる”タフな経済”」が実現するでしょう』

では、グローバリズム社会で「ダメ人間」扱いされるタイプというのはどういう人か。それが「大器晩成型」と「確実安定型」です。「大器晩成型」は、初めは大したことはしないけど、キャリアを重ねることで次第にとんでもないことをする人。「確実安定型」は責任感と安定性は抜群というタイプ。この二つを、日陰でも育つ樹である「陰樹」にたとえます。

『この二つのタイプというのは、適切な土壌が与えられてしっかり根を張って成長すれば、かけがえのない優秀さを経済に対して還元してくれるタイプであるにもかかわらず、昨今のようにリクルート社&外資コンサル型人材だけが優秀さの基準という圧力がかかりすぎると、行き場を失って「ダメ人間化」してしまうんですね。』

さてこの章は、「大変革は「抑圧された個人の内面」から生まれる」という話でした。司馬遼太郎は「世に棲む日日」の中で、革命・大変革が起こるときには「三つの役割」が必要だと言ったそう。それが、「思想家」「革命家」「実務家」。革命の下地となる思想を生み出す「思想家」になれるのは陰樹的存在であり、

『日本において「思想」を生み出すには、やはりある程度、個人の人生を賭けた爆発力を利用するしかないということです』

そして著者は、同時代の色んな考え方を吸収し思想を生み出していく日本人独特の知的作用のことを「PQ」と呼びます。

『PQとは、「デジタルな知性」だけでも「アナログなココロ」だけでも割り切れないような問題に対して、「三つのP」の力を動員してジックリ考え、最終的に「オリジナルで一貫した行動の旗印」を作り上げる、全人的な知的能力である。』

『「個人的な違和感」をしっかりと捉え、理解してくれない周りの人間に対して面従腹背しながら熟成させ、最終的に「みんなの行動を巻き込める旗印」にまで高めていく力…それがPQです』

本書ではこの、日本人がかなり特異的に持っているこのPQの力を伸ばすことで、グローバリズムの台頭によって日本だけでなく世界中が喘いでいるこの現状を、日本人だからこそ解決できるのだ、ということを示すところに最終的な到達点があります。

先程「日本人のためのビジネス書」だと書いたけど、グローバリズムを推し進めるアメリカについて、著者はこんな風に評します。

『「部屋の中か外か」「男か女か」「イエスかノーか」とかいうのは、非常に概念的にパッキリ分かれている世界で、そういう「デジタルな考え」をぐるぐる回す世界にかけては、アメリカ人に勝てる国はおそらくありません。彼らはインディアンを虐殺した土地の上に「頭で考えた概念」だけでゼロから国を立ち上げた、まさにサイボーグのような人たちだからです。』

『これらはすべて「アメリカという国の成り立ち」と「日本という国の成り立ち」の根本的な差異を無視した、「単純なアメリカの追従」の結果として引き起こされている問題だと言えます。』

だから、今アメリカ発のグローバリズムは、日本のみならず世界中で台頭しているけど、それが日本に合わないのはある種当然なわけです。もちろん著者は、日本にもグローバリズム的な思考をする人はガンガン出てきてくれないと困ると書いているけども、本書はそうではなく、グローバリズム的な思考ってなんかなぁと思ってしまう、日本人に結構特有の、味方によっては「欠点」でしかない部分を、いやそこって日本人の利点っしょ、そこもっと突き詰めて考えていったら他の国には絶対真似できないことが出来まっせ、ということを言っているのです。

『グローバリズムが良くない側面を持ったまま世界中を席巻しているということは、アメリカ人だろうとフランス人だろうと中国人だろうと、誰だって知っているわけです。
しかし、20世紀の壮大なる人体実験の結果として、大量の会社と血みどろの政治弾圧と地域紛争の終わりなき連鎖反応を生み出したあげくに共産主義の夢が破れた今、「資本主義市場」なしに人類社会を運営するなんて、人口数万人の漁村のなかだけですら絶・対・無・理!(いわんや全世界においてをや)なことも人類は知ってしまいました。
その「どちらにも進めない矛盾点」にブレイクスルーを起こせるのは、言語と文化的背景によって独立性が高く、かつ金額的にある程度大きな市場規模を持る我々だけです。』

さて、第二章は「あなたにもできる「PQ的大道楽」」です。
PQ的大道楽というのは、「そんなのビジネスとして成立するはずがない」「そんなのんびりしたスパンでビジネスなんてやってられない」というような、現在のグローバリズム的思考からは絶対に立ち上がってこない、しかし突き詰めて突き詰めて考えればメチャクチャ儲かるビジネス(やビジネスでないこと)の総称、という感じでしょうか。このPQ的大道楽は、陰樹的人間にぴったりです。そしてこのPQ的大道楽がいくつも沸き上がってくることが、社会にとって必要だと著者は言います。

『今日明日すぐに結論が出るようなものではない種類のことだとしても、それでも本人の個人的関心として大事だと思うことであるならば、”個人の大道楽”として温めていくプロセスを確保することです。』

例えばグーグルの社員は「20%ルール」という、就業時間の20%は本来の業務とは関係のない興味関心に従った研究をすることが「義務付けられている」そうです。また本書には、Mさんという仮名で、しかも守秘義務があるからという理由で具体的なことは書けないものの、ある企業に務める陰樹的タイプの特に目立つわけでもない普通のおじさんが立ち上げたビジネスを例にとって、PQ的大道楽について話がなされます。

さて以下では、第二章で描かれる「PQ的大道楽と陰樹的タイプの人との相性」「PQ的大道楽に大切なこと」「PQ的大道楽の良さ」について、それぞれ引用しようと思います。

「PQ的大道楽と陰樹タイプとの相性」

『自分の人生の核の部分にあるような「なんとなくの思い」が大事なんですね』

『その人にしかできない個人テーマを開拓していくプロセスが無数に起きることがいちばん大事なはずです。』

『「実現が難しいがやることの意義が大きいこと」こそ、陰樹的転換にふさわしい事業だと言えます。』

「PQ的大道楽に大切なこと」

『そしてそのために、個人の大道楽にのめり込むことは「個人のワガママ」ではなく、”みんな”のために必須不可欠な最大限の”善なること”なんだ』という共通了解を生み出していくことです。』

『そのPQ的大道楽のプロセスのなかには「勉強すること」も多く含まれているわけですが、一つ一つの新しい知識が、その人地震の世界観・ビジネスの持っていき方とちゃんと有機的につながって身についていくのでなければ、意味がありません』

『むしろ、そのスキルと有機的に接続された個人的な吟味の積み重ねという「パーソナルなもの」をdそれだけ資本主義の最前線に載せていけるかがこれからの時代の勝負のしどころだし、』

『これからの時代は、「他人に使われるためのオベンキョウ」ではない、「自分自身の深いところから出るものを実現するためのオベンキョウ」が大事なんですね。』

『「意義が大きい」ということと「儲かりそう」との間の違いは、「課金の仕方・ビジネス化の仕方がとりあえずわからなくてもOK」ということです。』

『神様になったつもりで人間社会を上から見下ろしたときに、「その新しい仕事をしている人がたくさんいる」未来の状況が「みんなのためになっているかどうか」といった視点で考えてみるのがいいでしょう』

『逆に言うと、今メディアが変に煽り立てているように、学生時代から「自分のやりたいこと」とかをやたらと明確にする必要はなく、とりあえず流れ的に参加したところで具体的な技術なりビジネス力を手に入れておけば、何か大きな夢を抱いたときにそれと結びつけて「曖昧な夢物語じゃない本当に具体的な革命」を起こすことが可能なんだよ、という話でもあります。』

『むしろ、「こういう存在でありたい」「こういう店にしたい」「こういう事業が今の世の中に必要だろ!?」という、主役となっている人の「思いの強さ」自体が優位性なんですよ。「真実から出た誠」の行動は、決して滅びはしない。』

『彼の言葉ですが、「あんまりマスコミ的によく聞く話ではなくても、自分は今の時代に本来的に必要な真っ当なことをしている」という感覚を共有できる仲間がいれば楽…だそうです。「社会から抑圧された異端者の挑戦」みたいな感じではなく、「自分は天地自然にとってあたりまえの普通なことをやっているんだから、いずれうまくいくのが当然の摂理」というような感覚を共有できる仲間がいると楽だということですね。』

「PQ的大道楽の良さ」

『2020年に全世界の脚光を浴びているビジネスは、今すでに世界のどこかの誰かの頭のなかで、「そんなの無意味だって」という周囲の意見と「いや、それでもやっぱ大事でしょう」という本人の直感との押し合いへし合いのプロセスを経ているわけです。そういうものを次々と生み出してこそ、すでに通過が強くなってしまった国ならではの産業は立ち上がるんですよ。そして、欧米的世界観が一面的に支配している世界の領域に比べて、それに対する違和感を濃密に感じる文化のなかに生きている「非欧米の先進国代表」である我々には、そういう転換を起こしていくための材料が、本質的には恵まれすぎているほど眠っているはずなのです。』

『そして、10年間、いろんな他人を愚痴的に非難しながら自分のなかには何も蓄積せずにただただ言われたことを言われたとおりにこなした人生と、日々の実務はこなしつつも、いつかは自分だけの何かを手に入れてやろうと思って虎視眈々と生きてきた人生では、そもそもの主観的満足度で言っても大きく違うでしょうし、もし成果につながっていけば、みんなにとっての価値もぜんぜんちがいます。』

『なぜ儲かるかといえば、実現が難しいが意義が大きいことをジックリ考えて実現までこぎつければ、その苦労したプロセス自体が参入障壁(他の人がその商売に入って来にくくする壁)になるからです。』

『私個人にしてもそうなのですが、ネットの普及にとって「今までのビジネスが変化するのではなく「そんなものが仕事になるとは思いもしなかった」ようなことが「実際に仕事になる」という可能性はすごく広がってるんですね。』

『今の時代「俺はお前とちがってこーんなに成果を上げたぜ」とお互いアピールし合うのに忙しくて、結局ギスギスした雰囲気は「集団の中野いちばん優しい人」に押し付けて知らんぷり、その「優しい人」がそれで心を病んだりすると、「けっ、なんだよ、俺はこんなにタフな状況の中で耐えて頑張ってるのに!甘えんじゃねえよ!」ということになります。
誰かが「潤滑油になる役割」を意識的かつ一貫してやってくれれば、実はこれほど大きな貢献はないと言ってもいいくらいなものです。』

『そして、そうやってみんなが自分の本当にパーソナルな思いを「有償の経済行為として実現していく」ことによって、世の中はもっと「多様性と豊かさ」を持ったものに変貌していくんですよ。』

二章の引用の最後に。本書では、ニートだったという著者の弟の例が載っていて、彼が自立していくまでの長い付き合いの過程が一部描かれているんだけど、そこで「納得こそすべての優先する」という、僕にも似た部分がある考え方が出てきて、なるほどなぁと思ったでした。

『オレは「納得」したいだけだ!「納得」は全てに優先するぜッ!でないとオレは「前」へ進めねぇッ!「どこへ」も!「未来」への道も!探すことは出来ねぇッ!』

さて、第三章は「「異質な者同士」の結合から新しい価値観が生まれる」です。

著者は、今の日本に「断絶」として存在する「異質な者」に目を向けます。

『特に今の日本にとって本当に必要な「高い値付けができるほどの重み」を生み出すブレイクスルーは、むしろ「国内における異質」に目を向けることから生まれるんですよ。』

そしてその異質というのが、「国際派日本人」と「国内派日本人」です。これはそれぞれ、これまで出て来た用語を使うと、「国際派日本人=陽樹・長州藩」、「国内派日本人=陰樹・薩摩藩」ということになります。

ここでは、国際派日本人と国際派日本人の双方がどんな主張をしているのかということを見ていくことになります。著者は、この二者に「同盟を結ばせたい」と考えているわけで、両者の意見を知ることは大切です。今両者は大いなる断絶の中にいる。お互いがお互いを嫌な存在だと捉え、両者に会話は成立しません。著者は、それぞれの言い分を分析しつつ、お互いのどの部分に歩み寄りの余地があるのかを示していきます。

『そのため、「概念的に明確なロジックを持って改革しようとするプレイヤー」は、「ほぼ必ず日本人の本能に対して抑圧的」であり、口を開いたら「グローバルな成功事例ではもっと身軽に動いているのに、日本人の組織は出遅れている」と「短所是正的に尻を叩く」言説しか生み出しません。
逆に、それに反発する「国内派」には、「口達者な日本人たち」と同じレベルで本当の事情をロジカルに説明できる人間がいないため、言われるがまま嫌々「改革」には参加してみるものの、「でもやっぱり違うんだよなあ…」という言葉にならない不満だけを募らせていて、「自分たちの長所を真剣に活かすための一貫した戦略」にぜんぜん力を集中できていないという現状にあります。』

さて、そんな中でどうするべきなのか。

『そのためには、本当の意味で「国内派の本当の事情」を理解でき、それを基点として、自分たちの本当の長所を一貫して活かせる戦略を「知的一貫性」を維持したまま考えつくすことができる、「日本人の集団を動かすための専門技術」に長けた「日本特有の自前の知的エリート」を分厚く養成していくことが必要になります。
そして、その要請に応える存在が「PQ人」なのです。』

「ワグナーズ・ギャップ」というものが出てきます。これは著者がそう呼んでいるという話ですけど、現実を生きる僕たちの感覚と、現実を動かしている概念との齟齬みたいなものへの違和感、という感じでしょうか。その「ワグナーズ・ギャップ」は、日本だけでなく人類にとって普遍的な問題なのだそう。

『まずは、このワグナー図ギャップを超える連携(薩長同盟的連携)というのは、それぐらい「人類史レベルで難しいことなんだ」と知ることが第一歩なのだと思います。』

そしてそれをどうやったら乗り越えられるのか。

『それはどうしたら解決できるのか?それは我々ひとりひとりが考えるしかありません。
「ワグナーズ・ギャップ」というものがあり、それが今の日本のあらゆる閉塞感の根本原因になっていて、長州藩・ユダヤ人的日本人と薩摩藩・ドイツ人的日本人同士の罵り合いを超えた連携を模索しないと何も解決しないんだ、それは実際、人類史の普遍的な問題だから、現在それができていなくても仕方がないが、それを乗り越えられたら日本はすごい国になれるんだ…という「認識の共有」がまつ大事なんだと思います。』

「解決のためのプロセスとして」

『単純化してまとめると、日本では結局、あらゆることが「おまえはどっちの味方やねん?」「おまえはどこの所属の人間やねん?」ということに帰着してしまうのですが、そこであえて、「どっちの味方でもあるかい!俺は”真実”の味方じゃあ!」とタンカを切るような方向にみんなで迎えたらゴールだということです。』

『日本人の集団の中である程度以上に「個人主義的である」ということは、常に「集団の圧力」にさらされ続けて生きているということであり、言ってみれば「智に働けば角が立つけど、情に棹させば流されてしまうんで、意地を通してみたら本当に窮屈ですよね、という夏目漱石の苦悩」を日本人のなかの「長州藩。ユダヤ人的人間」は明治維新以降、常に受け続けて生きているわけですよ。
(中略)
彼らの心のなかの汚れちまった悲しみを「太っ腹な親分力」で抱きとめてやることは、薩摩藩側の日本人がやるべきこと…だと考えてやってほしい。いや、そこからしか日本の復活はありえない。』

『薩摩藩・ドイツ人側の人間は、長州藩・ユダヤ人側の人間が「現状ばかばかしいことしか言わなくても、それは彼らは主張し続けないと生きていけない構造にあるからで、だからこそ太っ腹に包み込んで協力しあわなくてはならない」と思うことが必要ですし、長州藩・ユダヤ人側の人間は、「この不器用だが愚直な薩摩藩・ドイツ人たちが本当に輝ける場所を見つけてプロデュースしてやるのが俺の使命だ」というふうになっていくしかありません。』

さて、第四章は「「無駄な人間」なんていない」ですが、ちょっと僕には難しかったので省略。

さて、今は章毎にに引用してみましたけど、本書には、日本にはこんな凄いところがあるんだよ、的な文章もたくさんあって、それもガーッと引用してみようと思います。

『日本人は、普段は世界一煮え切らないくせに、いざ本当の危機状態に陥ったときには「昨日までの自分たちってなんだったんだろうね」というような大改革を起こして立ち直ってきた民族です。』

『日本の会社というのは「日経新聞に記事が載り始めたような現象」についてみんなでいっせいにキャッチアップする力は非常に高いと感じられます。』

『学問的領域でも、企業の技術開発でも、基本的に日本が特異な可能性を発揮するときというのは、欧米人がそのクリアーな論理でデジタルに追い詰めた行き止まりにおいて、その「論理の行き止まり」と「現実の手触り感」との間何度も往復しながらブレイクスルー(新しい発明・発見・展開)を起こす…パターンがほとんどです。』

『この「アナログな現実」と「デジタルな論理」の間を「何度も粘り強く往復する知性」こそが、「日本人のスイートスポット」なのです。』

『「日本人のみんな」は、アメリカ人のように概念レベルのことをみんなでイジクリ回すのは心底苦手です。しかし、「日本人のみんな」が理解できるレベルにまで高まった「具体的なカタチになった思想」には、激的に反応してくれます。』

『アニメやゲームがオリジナリティを次々と発揮していっているのも「同質性の高いコミュニティが”異質”を排除することによって、逆に圧倒的高密度な情緒のやりとりが可能になる」ことで生まれている現象です。』

『結局、日本人は「長い時間かけて、自分自身の本当に深いテーマとしてそれを探求してきたという価値」で勝負するしかありません。そして、そういうのをネチネチネチネチ陰湿にやるのが、”本来的には”(今はどうも沈黙させられている作用ですが)日本人はおそらく誰よりも得意なはずです。』

『日本人は「概念」と「現実」との間の「距離」に敏感で、そこを「密度感」を持って処理できるところが日本人の強みなわけですよね。』

『「理屈」自体の実在性に懐疑的で、常に「自分の中の感覚」が先にあり、何か言葉にするときにはいつでも「いま自分が感じている眼の前の”現実”を、とりあえず仮に無理矢理に世の中的な理屈に”翻訳”して言うとしたら?」という「翻訳作業」をやる回路があるという、この「二重性」こそが、日本人の集団の本当の底力なんですよね。』

『日本人が本当に世界的にユニークなことを生み出しているときには、常にこういう「言葉の向こう側のリアル」に対する深い直感の結び付きのなかで、「ありあるそのものとデジタルな理屈との間を何度も往復しながら試行錯誤をするプロセス」があり、そこにこそ「理屈の側からゴリゴリ押し出していくだけになりがち」なアメリカ人には生み出せない可能性があるわけです。』

『昔はもっと気骨ある「自分は自分、他人は他人」みたいな風土が日本にもあったように思われますが、昨今の「空気の同質化圧力」の強化は、日本人全員を冒険から遠ざからせる短所を持ちつつも、「こっちが日本の本来の行方」という方針がコンセンサス(共通了解)を得られたら、一気にみなが動き始める可能性があります。』

『なぜなら日本人は「与えられた目標が心底どうでもいいくだらないものであったとしても、目の前にそれがあればそれを真剣にやらずにはいられない病気」が持病だからです。』

『個々の企業の文化をジェイ準歌詞、「強い個人」の出現を寄ってたかって叩き潰し、みんなで足を引っ張り合い、お互いに空気を読ませる閉塞感を味わわせ…ということ20年に何か意味があったとすれば、それは「いざ意味があって明確なテーマ」が共有できたならば、それに対して「みんなで突っつきまわすことができる能力」を得たということだと言っていいでしょう。
これは、この20年間それなりにまともな運営ができてきた他の国にはない、我々日本人が毎年3万人もの自殺者と下がり続ける出生率と積み上がる政府債務と引き換えに「決死の思いで手に入れた武器」なのです。』

さて本書には、小売店で働いている人間にはちょっと気になる話もいくつか出てくる。

『しかし、すでに「それがないと死ぬというような致命的な必要性」などほとんど満たされている現代においては、「そのニーズを満たしていること」そのものよりも、「そのニーズに気づいてくれるほどに、この人は自分のことをわかってくれている!」という「”自分より上の人”との、形にあらわされた心理的つながり」の方が満足度は高いのです。
そこでは、「買い手」から見て「憧れの売り手」は「憧れの存在のまま」であってほしいというニーズがある、つまり「自分よりなんらかの意味で”上”な存在であり続けてほしい」わけなので、売り手側が自信なさそうに卑屈になってペコペコして、「どうか一つお許し下さい」的になっては興ざめです。』

『どんな切り口でもいいので、「俺が上、お前が下だ!」という構図が作れるような立場を自分で発見すれば、そしてそれをちゃんと「お客さんに喜んでもらえるように」という気持ちで研鑽していって商売にできれば、基本的に「商売」というものは必ず成立するようになっているんですね…と、ここまでは結構みんな、深層心理的にはよくわかっていることだと思います。
しかし、みんながこういう儲け方ができないのはなぜか?それは、この「自分にとって”下”だと思っているもの」に対して「真剣に相対する」ということが、結構死因理的に難しいからなんですね。』

『そして、今後世代が下がれば下がるほど、卑屈な店には、「とにかく一銭でも安ければいい」「何か気に食わないことがあったら絶対クレームを言ってやる」という客ばかりが集まって、客筋が荒れるので、ある程度、現代社会において金回りが良いようなタイプからどんどん敬遠されていきます。』

『もしあなたが小売店をやっておられたり、あるいはチェーン店を後方支援する本部的な役割の人だったり、あるいは小売業の現場的コンサルタントの方だとしたら、できれば「自然な敬意」というものがある売り場の文化を、今後形作っていただけたら、と思います。
今の小売は客に対して卑屈すぎるので、客側としても、もともとそんな気がなくても「売り手が本能的に求めているように振舞って」ヒドイことをしたりします。
それに無理して対応するから、店員の自尊心もどんどん踏みにじられて売り場全体が卑屈になっていく。そうするとさらに客筋が荒れて、利益率的にもどんどん厳しい売り場になっていく。
そこで、適切な「NO」を言う、あるいは「言う必要がそもそもないような雰囲気」がいかに作れるかが、今後の小売業の(あるいは、働く場所の空気として考えれば、あらゆる”日本の職場”の)成功の鍵になってくるはずです。』

最後に。阪神大震災で被災したという著者の、東日本大震災に対する言葉から引用。

『しかし無茶なことを言うようですが、「本当の復興」とは、「あの震災があってよかったね」と言えるような感覚が起きるほどまでに、この「震災」を味わいつくすことではないか、と私は思っています。』

ホント、素晴らしい作品です!ぜひとも読んでみて下さい。

倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ」



なのはな(萩尾望都)

内容に入ろうと思います。
本書は、福島原発事故に対して、著者が抑えることの出来なかったザワザワしたものを漫画にした作品です。

「なのはな」
震災でばあちゃんを失った、福島に生きる小学六年生のナホ。ばあちゃんがいないという現実を認めることが出来ないまま日々を過ごす。
夢に、ばあちゃんが出てくる。見たことのない女の人と一緒に。

「プルート夫人」
美しさと余りある力を兼ね備えた女性・プルート夫人。人類は彼女の美しさに惑わされ、魅了されるが、今は彼女の存在を裁かなくてはいけない。
プルトニウムそのものであり、危険と隣り合わせでもあるプルート夫人の存在を。

「雨の夜―ウラノス伯爵―」
雨の降る夜。ウラノス伯爵という、かっこよくてどんな豪勢なものでも与えてくれる素敵な人物がやってくる。館の人々は彼にすぐに魅了されるが、アンはウラノス伯爵に警戒心を抱き続ける。
ウランの恐ろしさを知っているアンは、ウラノス伯爵を許容できない。

「サロメ20☓☓」
踊り子として最高の賞賛を浴びているサロメ。サロメが踊る場に、長いこと恋焦がれているヨカナーンが来てくれる。最高の踊りを見せようと張り切るサロメ。
しかしサロメは、謎の男たちに連れ去られて、幽閉される。10万年、ここに幽閉されるのだと…。

「なのはな―幻想『銀河鉄道の夜』」
ナホは、『銀河鉄道の夜』を読んだ。お兄ちゃんやお母さんに聞くと、そこに出てくる線路や駅は実在するらしい。
いつしかナホは、お兄ちゃんと一緒に電車の中にいた。そこで、ばあちゃんと再開する。

この本を読みながら僕は、作品の内容自体よりも、著者自身に思考が向かってしまった。
簡単に描けた作品ではもちろんないだろう。
何か描きたい、という気持ちになることはわかる。わかると思う。でも、それを発表することはまた別の話だ。結構勇気が要ったことだろうと思う。版元としても、結構悩んだかもしれない。そういう、作品の裏側であっただろう葛藤やなんかに自分の思考が向いてしまった。
本書は大きく分けて二種類にわけられる。
一つは「なのはな」の話。冒頭と最後の話だ。ばあちゃんを震災で亡くした小学六年生の女の子の物語。こちらは、もちろん色々深く考えさせる作品なのだけど、穏やかな話(と言ってはきっと語弊があるのだろうけど)だ。福島に住む多くの人々の一部を描き出したという作品で、自分に起こったことを未だに消化し切ることができない(もちろん、ずっと出来ないかもしれない)人たちの苦悩が描かれる。
もう一つは、帯に「放射性物質と人間との関係をシニカルに描いたSF三部作」と書かれている話だ。間の三つがこれ。こちらは、なかなかザワザワさせられる作品だと思う。
プルトニウムとウランを擬人化して描かれる作品は、人間の欲望と放射性物質との関係が、美しさや貢ぎ物という比喩とともに描かれていく。この描き方には、ザワザワさせられた。そして、描くのに勇気が要ったのではないかと想像したのも、こっちの三部作の方だ。
本作では、ウランやプルトニウムを、一方的に絶対的な悪にはしていない。
少し前に、山本弘「詩羽のいる街」という作品を読んだ。この作品は、別に原爆とかそういうこととは関係ないエンタメ作品なんだけど、その中のある一部で、原爆についての描写がある。そこで、詩羽はこんな感じのことを言う。
『原爆は悪くない。原爆を作り使った人間が悪い』
この箇所を読んで、なるほど確かにそうだ、と思いました。
本書でも、プルトニウムやウランはそういう扱われ方をしているように思う。
プルトニウムやウランそのものが悪いわけではない。それらは、ただ存在しているだけのものだし(プルトニウムは確か人類が人工的に生み出した元素だった気がするけど)、良いも悪いもない。しかし、それを使う人間の方がダメだった。プルトニウムやウランがもたらす良い部分だけを見て、褒めそやした。悪い部分が出てくると、一方的にプルトニウムやウランを悪に仕立て上げた。そういう、人間の愚かさや矮小さみたいなものが、放射性物質を擬人化することですごく良く描き出されているように思う。
描くのにかなり勇気が要った作品だろうと思う。描かずにはいられなかったのかもしれない、という部分も感じる。本書のメッセージをどう受け取るかは、きっと読み手次第なのだろう。僕たちはきっと、もっと多くのことを『自覚』しなくてはならないのだろうと思わされた。

萩尾望都「なのはな」




萩尾望都「なのはな」

プロメテウスの罠 明かされなかった福島原発事故の真実(朝日新聞特別報道部)

内容に入ろうと思います。
本書は、朝日新聞紙上で2011年10月から連載がスタートし、現在も連載が続いている「プロメテウスの罠」をまとめ加筆修正し単行本にしたものです。
これは、国民全員が読むべき本ではないかと思った。
まず、僕が本書を読もうと思ったきっかけを書こうと思います。僕は、朝日新聞に限らず、まったく新聞を読んでいません。なので、このプロメテウスの罠という連載についてもまったく知りませんでした。少なくとも、僕が見聞きしている範囲では、その評判も聞いたことがありませんでした(これはたぶん、僕のアンテナの感度の悪さが原因でしょうけど)。
つい先日、石井光太が主催したノンフィクション講座というものに行って来ました。そこでパネラーの一人として登場したのが、元朝日新聞記者の松本仁一氏です。その講座の中で、このプロメテウスの罠の連載の話が出ました。
この連載では、後で詳しく書きますが、とにかく事実にこだわり、主観は省き、どんどんと奥深くまで斬り込んでいく、恐らく普通新聞には出来ないだろうと思われるような内容になっています。そのため、自分が弾除けとして呼ばれた、というような表現を松本氏はしていました。朝日新聞を退職した元記者を弾除けとして必要とするぐらい、かなり危険な連載だと言えます。
その講座では、書籍化の話は出なかったのですが、それからしばらくして新刊として入荷したのを見つけたのですぐ買いました。
巻末に、特別報道部長の依光氏が、連載開始にあたって決めたいくつかの試みが書かれている。全部で五つ。

①連載テレビ小説方式。毎日読んでもらえるように書き方を工夫した。
②事実にこだわる。徹底的に事実を書き、主観は省く。
③分かりやすく書く。凝った表現は要らない。
④目線を下に置く。為政者の視点ではなく、ふつうの国民の視点で書く。
⑤官の理屈に染まらない。「◯◯省が言った」という表現は止め、「◯◯省の◯◯が◯◯と言った」と表現する。

僕は新聞を読んでいない人間なので、正直なところこれがどれぐらい凄いのかよくわかりません。が、恐らく新聞記事としてはかなり異例なのではないかと思います。僕は、朝日新聞がどういう立ち位置の新聞で、どういう評価がなされているのか知りません。噂では、あまりいい評判を聞かない新聞だなという印象はあります。ただ、このプロメテウスの罠という連載が続けられている、というその一点のみで、朝日新聞という新聞を評価してもいいかもしれない。そんな風に思わされました。
現在まで連載が続いているので、本書は全体の途中です。本書には、六つのシリーズが収録されています。それぞれの内容をざっと書きます。

第一章「防護服の男」
浪江町の津島地区。東京電力福島第一原子力発電所から約30キロ北西の山間の町。そこに住む、菅野みずえさんという59歳の女性周辺の出来事を描き出すことで、震災当時の福島県民の避難の様子を描く。
津島地区には、震災の避難者が多数押し寄せてきた。当時20キロ圏内に避難指示が出されていた。30キロ離れた津島地区は、大丈夫のはずだった。
しかしみずえは、白い防護服を着て何か機械で測定している男と遭遇する。そしてその男に、「頼む!逃げてくれ!」と言われる。
当時の津島地区の線量はとんでもない値を示していた。しかし、その情報は住民に伏された。
国は、130億円という予算を投じて、SPEEDIという、放射性物質がどう拡散するのかをかなり正確に予測する装着を持っていた。しかし、様々な行き違いから、そのデータは避難計画にまったく活かされなかった。そもそも政治家や完了は、SPEEDIの存在を知らなかった…。

第二章「研究者の辞表」
労働安全衛生総合研究所に所属する木村真三は、放射線衛生学の専門家。木村は震災後すぐに現地で放射線の測定をしたいと研究所に申し出たものの、研究所からそれを断られる。そこで木村は研究所に辞表を出し、NHKのディレクターと共に自費も使いながら現地入りし、独自で放射線を測ることにした。
木村の辞表は、重い。木村はなかなか苦労した人間で、40歳になって初めて正社員になった。研究者が職を得ることの大変さもよく知っている。しかし、東海村の臨界事故のことが忘れられなかった。あの時も、所属していた放射線医学総合研究所に止められた。ここで行かなければ、死ぬまで後悔する。

第三章「観測中止令」
気象庁気象研究所の研究者・青山道夫は、研究所から届いたメールに驚愕する。なんと、1957年から観測を続け、今まで一度も途切れたことがなく、国際的にも非常に高く評価されている大気と海洋の環境放射能の観測などを、すべて中止せよとのことだった。耳を疑った。原発事故が起こったこのタイミングで、放射能の観測中止命令が来るとは…。
青山は、予算が下りなくなったため雇えなくなった専門職の人間を解雇するが、分析は後回しにしてもデータだけは取り続けるように指示する。様々な協力のお陰で、どうにか途切れさせることなく観測を続けることができた。
論文の発表を止められるなど、他にも様々な影響が出る。

第四章「無主物の責任」
福島第一原発から約45キロ離れた二本松市にある「サンフィールド二本松ゴルフ倶楽部」が、東京電力に対し裁判を起こす。訴えは、ゴルフコースの除染についてだ。再開させようにも除染しなければ不可能だ。しかしそのための金はない。仕方なくの訴えだった。
東電は、とんでもない主張をした。

「原発から飛び散った放射性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない」

結局サンフィールド二本松ゴルフ倶楽部は裁判で負けた。

第五章「学長の逮捕」
ベラルーシ共和国第二の都市・ゴメリ・1999年夏、その町で事件が起きた。ゴメリ医科大学の学長、ユーリー・バンダジェフスキーが突然逮捕されたのだ。学生から賄賂を受け取ったという内容だったが、バンダジェフスキー氏はゴメリ大学を創設したエリート医師だ。
バンダジェフスキーはチェルノブイリ事故後、死亡した人を解剖して臓器ごとにセシウム137の量を調べた。その結果、大人と子ども、男性と女性とで、また臓器ごとに量が違うことを突き止めた。このバンダジェフスキー氏の論文には色々と難点もあるようだけど、解剖して確かめた結果だけに信頼出来ると他の専門家も言う。

第四章と第五章では、内部被曝の問題に斬り込んでいく。

第六章「官邸の5日間」
地震発生から5日間。官邸・保安院・その他様々な人達がどう動き何をしていたのか。菅や枝野らの当時のメモなどや様々な人間の証言を再構築し、その5日間を再現する。

本書を読んでいる間、僕はずっと悔しかった。
悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。
悔しすぎる。
自分でも抑えきれないような、この衝動的な悔しさは、読み終わるまで、いや読み終わってからも、ずっと残り続けている。
悔しい。本当に悔しい。
何に悔しさを覚えているのか。それは、たぶん色んなものが絡まり合っていてもうよくわからなくなっている。
先に書いておく。
僕は、新聞もテレビもほとんどみない。震災直後はテレビに釘付けになったけど、しばらくしてまた見なくなった。ネットでニュースを拾い読みしはするけど、エンタメ系の話題や科学系の話題にどうも自分の興味が向いてしまうので、政治や経済などの難しめな記事は見出しが目に入るぐらい。普段から積極的に何かにアプローチをして、情報を集めたり集めた情報を元に考えたりするような人間ではない。
だから、これから僕が書くことに、的外れだったり単純に間違っていたりするようなことも書くかもしれない。それについていちいち断りを入れるのは面倒なので先に書いておく。
また、何かを非難するようなことを書くかもしれない。でも僕は、自分が普段情報に対して積極的ではないという事実をちゃんと踏まえているつもりだ。僕は、知ろうと思えば知れる範囲のことさえ、自分から知ろうとしなかった。その点は、きちんと自覚している。自覚しているからと言って非難していいわけではないだろう。でも、どれだけ筋違いでも、どれだけ説得力がなくても、こうやって非難の声を上げてみることが大事なのかもしれない、と思って非難めいたことを書くかもしれない。
僕は、テレビや新聞などのマスコミは機能不全を起こしていて、速く正確に的確な情報を伝える、という点においてはもうまるで期待できない、という印象がある。プロメテウスの罠という連載は素晴らしいと思う。でも、これは例外中の例外だろう。
だから本書を読む中で、マスコミがいかに機能しなかったか、ということが分かっても、特別驚きはしなかった。いや、本書では結構、マスコミが機能した実例が取り上げられている。辞表を出して現地に向かった木村に同行したNHKのディレクターが作り上げたある番組なんかもその一例だろう。そういう意味ではこの連載は、同業であるマスコミへの批判という点では若干薄いのかもしれない(報道部にそんな意図はないかもしれないけど)。
ただ僕は、震災の当日テレビを見ていた。たぶん翌日も翌々日も見ていたと思う。新聞は読まなかったけど、でもやっぱり今から振り返ってみると、正しい情報は何も伝わって来なかったな、と感じる。
木村と福島まで乗り込んだNHKのディレクターは、こんな風に言ったらしい。

『大森は戦時中の「勝った」「勝った」という大本営発表が、今の政府の「大丈夫」「大丈夫」と重なってしようがなかった。大本営発表があったとき、それを疑わないと意味はない。』

この記述を読んで、そうか、震災時マスコミを通じてやってきた情報は大本営発表だったのか、と思った。確かに冷静に考えてみれば、そして本書を読んでみれば、それは歴然だ。震災直後の様々な情報は、ほぼすべて大本営発表であった。
テレビを見ていた僕は、たぶん、その発表を強くは疑っていなかったと思う。政府が繰り返す「大丈夫」「大丈夫」はうそ臭かったけど、でもそこまでホントにヤバイ状況になってるわけでもないんだろうな、なんて思っていた。
でも、違う。本書を読めば分かる。ありとあらゆるフェーズで、ヤバイどころではない状況が多発していた。僕たちは、当時の状況がこうだったことをリアルタイムで知ることはなかった。しかも今であっても、情報を積極的に得ようとしなければ、こういうことは知らないままだろう。
悔しい。
それも、悔しい。自分が知らなかったことも悔しいし、知ろうとしなかったことも悔しいし、何よりも、嘘をついたってどうにかなると国に思われていることが悔しい。確かに、今福島に住む人、あるいは福島から避難し全国各地で暮らしている人を除けば、「どうにかなって」しまった。何故だろう。
辞表を出して辞めた木村さんの話で、僕は泣きそうになってしまった。他にも本書には、様々な個人の強い思いと果敢な行動力が描かれていく。どれも、知らないままだった。人生を、あるいは人によっては命をなげうってまで、この状況に自分なりに対処しようと懸命になっていた。自分に出来ることがあるはずだという強い使命感を抑えきれなくなった人たちが、限界まで必死になりながら目の前の恐るべき現実と闘っていた。
しかしその頃、保安院や、あるいはいわゆる「原子力ムラ」と呼ばれている人たちは、逃げていた。
第六章の「官邸の5日間」は圧巻だ。第六章を読むためだけに本書を買ってもいいくらいだ。
僕は震災当時のテレビを見ていて、あるいはその後の報道をなんとなく見聞きしていて、菅総理はあんまり大したことが出来なかったんだろうなぁ、枝野さんはなんか結構頑張ってた気がするけど、と思っていた。
そんなイメージは粉砕された。
実態はこうだ。菅は状況をどうにかしようとし続けた。しかし、まず情報が入ってこない。専門家から提案がない。保安院のメンバーがいない。原発の図面がない。それでも菅は前に進もうとした。東工大出身の菅は、個人的な繋がりから科学者や技術者を無理やりかき集め、状況に対処しようとした。保安院や原子力ムラの専門家たちは、まるで役に立たなかった。
悔しい。
あの時福島で、また日本のどこかで、人生や命をなげうってまで状況に対処しようとした個人がたくさんいた。本書はそういう個人の奮闘の集積でもある。しかしその一方で、原発と深く関わってきて、どうにか対処しなくてはいけない保安院や専門家がまるで無能だった。彼らには、当事者意識がなかった。自分たちが事態をどうにかしなくてはならないという気持ちがまるでなかった。
悔しい。
どうしてこんなことになるのか。本当にやりきれない。
僕は、特にノンフィクションを読む時、気になった文章に線を引き、そのページをドッグイヤーする。本書でもそうした。恐らく、ドッグイヤーしなかったページの方が少ないと思う。それぐらい、初めて知った事実・心を揺さぶられるエピソード・怒りに震える話にまみれていた。
恥ずかしい。
読んでいてそうも思った。東日本大震災で、日本人の良さが世界に喧伝される面もあった。暴動が起きない、落ち着いている、他人に優しさを発揮するなどなど。そういう面はもちろんあっただろうし、誇っていい。しかし、本書を読んで僕は、日本人でいることが恥ずかしくなった。
恥ずかしい。
その気持ちは、自分の当事者意識のなさにも向けられている。震災当時はもちろん、高い関心を持っていた。計画停電や水の買い占めなど、日常生活に直接的に支障をきたすような状況もあった。しかし今は、少なくとも日常レベルで問題を感じることはない。もちろん意識の中に、福島や東北の人々が置かれている辛い状況への視線はある。ただ、もうほとんど忘れてしまったと指摘されても反論出来ないくらいには、僕は、僕らは、日常を取り戻してしまった。
それも、恥ずかしい。
日常を平穏に生きていくことに罪悪感を覚えることはない。でも、「自分にも何か出来ることがあるかもしれない」という気持ちがどんどんと意識されなくなっていく自分が恥ずかしい。その恥ずかしさと同時に、本書で描かれる保安院や専門家たちと「同じ日本人である」という風に見られてしまうことも、恥ずかしい。でも自分がその時その立場でその場にいたら何が出来ただろう、とも思う。誰かを責めることが難しい。何故なら僕は、その時その場にはいなかったし、いてその人以上の何かが出来ただろうかと思うからだ。とはいえ、本書で描かれる保安院と専門家はひどすぎる。
僕たちは、こんな日本に生きているのだ。忘れてはいけない。地震は災害だった。しかし、原発事故は人災だ。僕はこの「人災」に込めた意味は、現場の作業員がどうとかそういう話ではない。地震大国に大量の原発が作られ、その安全性について疑うことのなかったほとんどの国民が作り出した「人災」という意味だ。
僕は、この点でも、自分が悔しいし恥ずかしい。
あれだけの出来事があったのに、日本で原発廃止という雰囲気が感じられないのは、冷静になって考えてみると不思議だ。いや、不思議に思うことは何度もあったはずだ。でも僕はその時に、立ち止まらなかった。
僕自身も、原発の未来に対して、正直何も考えていなかった。なければない方がいい、ぐらいのことしか考えていなかっただろうと思う。所詮他人事だと感じていたのだろう。他人事なわけがないのに、なんだかそういう風に思ってしまった。
僕みたいな人間がきっとたくさんいたのだろう。今も日本では、一部の人は原発反対に向けて勇気ある行動を起こしているけれども、大多数の人は、原発をどうするか、という未来について考えることもなく日々を過ごしているだろう。僕自身もそうだったから、そういう人のことを責めることは出来ない。

でも、僕は決めた。今日から僕は、原発に反対します。

たぶん書こうと思えばいくらでも文章が書けると思う。僕が線を引いた文章すべてをここに引用したいくらいだし、それぞれの場面でどう感じたのかも、文章に残しておきたいような気がする。でも、たぶんきりがない。だから、これぐらいにしておこうと思う。
時間を忘れて読みふけった。こんなに前のめりになって本を読んだのは久しぶりかもしれない。怖かった。恥ずかしかった。感動した。でも一番はやっぱり、悔しかった。

朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 明かされなかった福島原発事故の真実」

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女子校育ち(辛酸なめ子)

内容に入ろうと思います。
本書は、自身も女子校出身である著者による、女子校に関するあれこれを見聞きしたり取材したりしたものをまとめた作品です。
冒頭で著者はこんな風に書いています。

『ある時、「女子校出身者は生きづらそう」と知人に指摘されて、ハッとしたことがあります。思い返せば、共学出身の女性のゆおうに、自然体で女を武器にできないというか、女を出すことに抵抗を感じてしまうふしが。中高の六年間という多感な時期に、ほとんど異性と接する機会がなく、女子力を磨いてこなかった影響はかなり後を引いてしまうようです。女子のみの気の置けない環境で批判精神を発達させてきたので、可愛げのない女になってしまいました。ふつうに率直な感想を述べているだけでも「キツい」とか言われてしまいます。もっと女らしく、かわいいものにエモーショナルに反応したり、自然な女性フェロモンを出せれば、ラクに生きていけたかもしれません。でも、そんなデメリットを差し引いても、女子校で過ごした六年間は私にとってはかけがえのないものでした。』

もちろん、すべての女子校出身者がこの意見に賛同するかどうかはわかりませんが、本書を読んでみる限り、なるほど女子校というのがそういう場所であるならばそういう感じになってもおかしくないのかもな、という感じはしました。
僕自身は、女子校というものに特別これというイメージを持っていません。男の目が周りにないから、凄くだらしない感じになりそうだなーとか、男性教師はちょっと羨ましいけど大変そうだなー、みたいなイメージしか持っていませんでした。小説でも、女子校が舞台のものってあんまりないような気がします(百合的な小説を除き)。それは、本書を読んでなんとなくわかった気がします。女子校というのは、百合的な部分を除けば、なるほどなかなか物語の立ち上がりにくい環境なのだな、と思いました。女子校出身者が卒業して大学に行ったり社会に出たりという風になれば、それまでの価値観とのギャップから物語の生まれる余地はあるんだろうなという感じがしますけど、まさに女子校を舞台にした作品というのは、物語が生まれにくいのだろうと思いました。
本書は、とにかく辛酸なめ子が色んな人に話を聞いたり、あるいは自身で文化祭に行って見聞きしたりという作品です。統計的なデータはありません。基本的に辛酸なめ子の主観で女子校というものが分析されていきます。作中に、

『女性の種類は、思春期を過ごした学校で決まるような気がします。』

って表現があって、なるほど確かに、本書に描かれているような環境であるならば、共学か女子校かで、また女子校であってもどんなタイプの学校を選ぶのかによって、それから先の人生が大きく変わるような気がします。あくまでも辛酸なめ子の主観を通じた女子校の分析であることをきちんと頭に入れつつ読むのであれば、これから女子校に行こうかどうしようか迷っている首都圏周辺の中学生なんかが読んだら、結構参考になるんじゃないかなと思います。まあもちろん、親世代が子どもに行かせたい高校を選ぶ際にも、役立つかもしれませんけどね。
とはいえあくまでも本書で描かれているのは、『古き良き時代の女子校』です。というか、かつての女子校が古き良き時代だったかはさておいて、とにかく最近のデータはほとんどありません。ちょっとだけ、現役の女子校の生徒を読んで話を聞いている部分があるけど、他は基本的には、女子校の卒業生や先生、あるいは何らかの形で女子校の生徒と関わりのあった男性、と言った人たちです。本書では、様々な学校別に、それぞれの特色が結構面白く描かれているんですけど、でもそれらはあくまでも、現在ではない結構前の情報であるということを頭に入れて読むといいかと思います。
本書は、読んでてなかなか面白かったんだけど、個人的な感想を言うと、「これで820円はちと高いかな」という感じがしました。というのも本書は、「~な気がします」「~のようです。」「~かもしれません」みたいな表現が結構基本で、推定とか憶測とかがメインです。確かに、そういう部分が面白いし、断定しない形で辛酸なめ子の考察が各所に散りばめられていてクスリと笑わされる場面がたくさんあるんだけど、でもやっぱり値段的には500円ぐらいであって欲しいなぁ、という印象の作品でした。もう少し内容的にどうしたらよかったのか、という意見は特になくて、この内容のまま500円ぐらいで売ってくれると、内容と価格が結構釣り合うような気がするんだけどなぁ、という印象です。
本書には、実際に色んな人から話を聞いたのだろう、様々に面白いエピソードがあって楽しいです。こういう作品の場合(というか、こういうエピソードがよく載ってそうな雑誌の特集の場合、かな)、耳目を引くために(ちょっと表現が大袈裟ですけど、他の表現が思いつかなかった)大袈裟なエピソードが満載されるようなイメージがあるんですけど、本書には、もちろんそういうエピソードもあるけど、でもごくありきたりの、でも女子校という雰囲気をほどよく反映するようなエピソードも結構散りばめられていていい感じです。
僕はこれまで、女子校と共学で、まあ多少性格的なことに影響はあるかもしれないけど、全体をひっくるめてみればそこまで大差なかろうと思ってたんですけど、本書を読むと、なるほど女子校の中で育っていくということにこれほどのメリットとデメリットがあり、それが共学の女子とどれぐらい違うのかというのがなんとなくわかった気がします。女子校出身者が本書を読んだら(特にまさに今女子校に通う現役生が読んだら)どう感じるのかわかりませんけど、少なくともこういう時代があった、そしてこういう風に考えている人が決して少なくはないのだ、という記録として読んでみると、読み物としてなかなか面白く読めると思います。
本書には色んな女子校の話が出てきますけど、個人的に一番興味深かったのは、超進学校として有名らしい桜蔭学園。ここの文化祭の描写が出てくるんだけど、これがもうホント凄い!物理・化学・生物なんかの展示がかなり白熱しているのは当然のこと、数学のとある教室では、何故かペーパーテストが行われていて、桜蔭を受験するのだろう中学生たちが必死になって問題を解いていたとか。他にも桜蔭学園の生徒の話は、勉強ばっかりしてきた者ならではの「あはれさ」みたいなものがあって、学生時代勉強ばっかりしていた僕としてはなかなか共感できる感じでした。
あと、東京純心女子もちょっと興味アリです。ここは、掃除のハードさにかけては日本一と言ってもいいんじゃないかというレベルらしく、シスターから「あなたはこの便器を舐められるのか?」と聞かれたりするそう…。なんとなく女子校~お嬢様というイメージ(これは辛酸なめ子自身も、世間がそういうイメージを持っていると感じることは多いそうです)にはそぐわなくて、いいなと思いました。
他にも、いじめの話、制服の話、恋愛の話、金持ちの話、軽犯罪の話、男性教師の話などなど、女子校に通っていた人たちによる様々な話がすくい上げられていて、なるほどこういう世界なのかと興味深かったです。話題が色々ありすぎて感想には書きにくいですけど、色んな方向から女子校というものを見ています。
本書で気になった文章をいくつか抜き出して終わろうと思います。

『女子校出身者の男性への過剰な警戒心の根本は、いじめの対象であった男という生き物からいつか復讐されるのではないか、という恐怖もあるように思います。』

『以前共学出身の女性が「男性にモテたいというのが仕事の原動力」と言うのを聞いて、ギャップを感じたことがあります。女子校出身者の場合は、男受けよりも、女子にモテたい、嫌われたくない、という意識で言動に注意を払います』

『共学校の場合は、男子がいて男性的な麺を担っているので、女子は男子のサブ的な位置となり、自分の中の男性性を抑えて女性性を育むことになります。よって、共学の方が、女女した女子が多くなるような気がします。』

さらっと読むには楽しい読み物だと思います。身近に女子校出身者が多い、という男性にも是非。

辛酸なめ子「女子校育ち」



分析哲学講義(青山拓央)

内容に入ろうと思います。
本書は、まさにそのものずばり、タイトルの通りの作品で、『分析哲学』の入門書です。
本書の構成は、まず初めの方で、『分析哲学とは何か?』という説明がされ、その後分析哲学を実際に駆使した議論が多数展開されていくという形になっています。
本書は実に面白い内容なのだけど、非常に難しい部分も多くて、僕自身は半分ぐらいしかきちんと読むことが出来ていません。しかも、読めた部分に関しても、人に説明できるほどきちんと理解できている部分ではないので、ここの感想で書けることというのは結構少ないと思います。この感想では基本的に、冒頭でなされる『分析哲学とは何か?』という部分に焦点を当てようと思います。
というわけで、『分析哲学とは何か?』という話をしようと思うんですが、先程も書いたように、僕は本書の内容を人にきちんと説明できるレベルでは理解できていないので、これから僕が書く文章は本書の意図をうまく掬い取れていないものになるかもしれないし、単純に間違った記述をするかもしれません。一応その辺りのことを考慮して読んでもらえると助かります。
分析哲学というのは、哲学というジャンルにおける一分野です。そのはずです。しかし分析哲学というのは、その手法としての強力さから、現代哲学を一変させてしまったと言われているようです。

『英語圏の哲学の現状を見て、もはや分析哲学が哲学そのものになった、と表現する人もいるくらいです。この表現はちょっと極端ですが、言わんとする精神は明らかでしょう。』

分析哲学というのは、『言語の働きの解明を通じてさまざまな問題に答えるもの』と大雑把に説明することが出来ます。もう少しきちんとした説明だとこうです。

『言語を基礎的で自律的なものとみなし、言語の機構(メカニズム)を何か別の機構のもとで説明するよりも、逆に、言語の機構の解明によって他の機構を説明していくこと』

この逆転の発想は、分析哲学史の中で「言語論的転回」と呼ばれるんだそうです。
さて、上記の説明でもきっとよくわからないでしょう。僕も、分析哲学がどういうものなのかについては、冒頭での話を読んでも全然イメージ出来ませんでした。ただ、ウィトゲンシュタインの言語ゲームも分析哲学の一つの話だと書けば、ちょっとはイメージ出来る人はいるかもしれません。
分析哲学を、それまでの哲学のあり方と比較して説明するとこうなります。
それまでの哲学のあり方というのは基本的に、「私」が「世界」を開く、という発想です。

『バークリー、カント、ヘーゲルといった哲学者に見られる観念論の手法においては―各人の違いを無視するなら―、「私」の私秘的な(私だけが捉えるプライベートな)経験こそが世界認識の基礎となります。(中略)あくまでも世界を開くのは「私」であり、言語はその「私」の道具として使用されるにすぎません。』

「私」というものの体験や価値観や思想、そうしたものが哲学の際の基盤であって、言語はそれらを思考するための道具に過ぎない、ということですね。
しかし分析哲学はまったく逆です。分析哲学の場合、言語というものをつぶさに分析することで世界の成り立ちを説明しようとします。


『言語によって世界が開かれるからこそ、言語の仕組みを見ることで世界の仕組みがわかる。』

これは、具体例がないとなかなかイメージ出来ないでしょう。
例えば、本書で分析哲学的話の初めに出てくるのは、「意味はどこにあるのか」という問いです。
例えば「東京タワー」という固有名詞は、一体何を指しているのか。これは、分析哲学の発想を理解していないと、質問としてそもそも認識することが難しいかもしれませんが、本書を読み進めていくと、その意味は少しずつ分かっていきます。この、「東京タワー」という固有名詞は何を指すのか、という問いに対しても様々な立場があります。「東京タワー」という固有名詞は現実にある東京タワーそのものを指すのだという立場、各人の内側に立ち上がるイメージを指すのだという立場、他にもあったかな?それぞれについて、言語的な分析を加えつつ、その解釈ではどういう風に問題が発生するのか、それらはどんな解釈によって解消されうるかという話を通じて、分析哲学というジャンルにおける様々な立場を本書では解説しようとします。
しかしホント、本書の内容を説明するのは難しいなぁ。特に『分析哲学とは何か?』という説明がまず難しい。
分析哲学というのは、フレーゲとラッセルという二人の哲学者が祖とされているようです。この二人の、言語そのものを分析するという着想が、分析哲学という新たな分野を開拓していきます。それから、様々な立場のを生み、またラッセルやウィトゲンシュタインなどの哲学者らによる様々な貢献により、分析哲学は発展し洗練され、今に至っています。
本書の著者曰く、分析哲学について日本語で読むことが出来る入門書というのは、どうも見当たらないそうです。入門書を書くことが困難なほど、既に分析哲学というのはものすごい広がりを見せているからというのもその大きな理由と言えそうです。本書も相当に手強い作品ではありますが(少なくとも僕にとって。でも、久々にこれほど知的好奇心を満たされる作品に出会ったなとも思うのだけど)、確かに細かな議論を無視して全体を語ろうとしてくれたり、個々の分析哲学の議論と共に歴史的な流れも俯瞰してくれたりと、入門書としての役割は十分なのではないかと思います。
というわけでとりあえず、『分析哲学とは何か?』という話を、多々本分を引用しつつあれこれ書いてみたんだけど、それなりには伝わってくれたかなぁ。何度も繰り返すけど、本書は凄く面白いです。僕は本書の半分弱はちょっと理解するのを放棄してしまったけど(やっぱり、かなり難しいことは難しいです)、自分なりに『理解できた』と思えた部分(何故『』に入れたのかは後述)は凄く面白かったです。僕は、哲学の本は好きで時々読むんですけど、やっぱり哲学というのはかなりハードルの高さがある。けど、今回本書で『分析哲学』という名称を知ったことで、僕はやっぱりこういう『分析哲学的な哲学の話』って好きだな、と思いました。もちろん僕は、それまでの『「私」が「世界」を開く』というタイプの哲学については、全然詳しくありません。カントとかヘーゲルとか全然知らないし、そういう人たちの哲学も読んだら読んだで面白そうではあるけど、でも分析哲学というジャンルの持つ論理性や客観性の高さが、『哲学』という言葉からイメージされる(少なくとも僕には)属人性や主観性みたいなものとは大きく違っているような印象があって、そこが好きなのかもしれない、と思いました。ずっと読みたいと思っててでも結局未だに何の本も読めていないウィトゲンシュタインもこの分析哲学の一つの話だと知って、余計にウィトゲンシュタインについての本を読んでみたくなりました。
さて、先ほどの『理解する』とカッコで書いた理由について書きます。
僕にとって『理解する』というのは、『誰かに説明できること』と同義です。で、誰かにどの程度説明できるのかというのが、自身のその対象に対する理解度だという認識です。
先程もちょっと書いたけど、僕は物理や数学の本の話であれば、それなりに理解して人に説明できます。理解出来ない部分がそれなりにあっても、ある程度全体の枠組みみたいなものについての知識はあるので、理解して自分なりに咀嚼して、人に説明できるレベルにまで落としこむことは結構出来ます。
でも、哲学というジャンルは、まだ僕の中でそこまで辿りつけていない分野です。時々哲学に関わる本を読みますけど、読んでて面白いと思うことは頻繁にあるのだけど、でもそれを誰かに説明できるレベルでは理解できていない。でも読んでいる間の「わかった」という気分を表現するにはやっぱり『理解する』という単語を使うしかないんで、カッコに入れてみました。
本書は、分析哲学というのが、実際にどういう議論の中でどんな風に強力な道具として機能するのかという実践の話がメインで、個人的にはそっちの話も色々書きたいのだけど、いかんせん僕の理解度が浅い。
ただやっぱり、結構初めの方でなされる、言葉の意味や文章の論理についての話は凄く面白かったです。ホントに、僕の理解力が浅くて具体的なことは何も説明できないのがもどかしいですが、普段僕らが何気なく、しかし確信を持って使っている言語が、詳細に分析してみるとここまで多様な解釈が可能なのか、と感心させられました。「確信を持っている」というのは、僕らが使っている言葉が相手に間違いなく届いている(例えば「東京タワー」という単語を発する時、その意味は間違いなく相手に届いている)と確信できる、という意味ですが、それがどれだけ凄いことなのか、どれだけ不確定な要素の積み重ねで成り立っているのかということが少しずつ分解されていくのが凄く面白かったです。
で、僕は途中から、ホントに難しくなって全然ついていけなくなったんjですけど、ラッセルという人の「名指しと必然性」という本から切り開かれていた可能世界意味論の話は、なるほど哲学の世界でもこういう発想が出てくるのか、と思いました。可能世界意味論というのは、僕らが生きているこの現実も一つの「可能世界」と捉え、僕らには決して知覚出来ない「可能世界」が並行して存在している、という仮定に沿った立場です。この「可能世界」という考え方を導入することで、分析哲学はまた新たな段階に突入したようですが、その辺りのことは僕には説明できないんで是非本書を読んで下さい。
何でこの話に反応したかと言えば、この可能世界意味論は、物理の量子論というジャンルにおける「多世界解釈」に近いものを感じるからです。「多世界解釈」というのは、起こりうる可能性が成立している世界が同時に並行している、とする考え方です。今僕がいる現実は「僕が存在している世界」だけど、「僕が存在していない世界」も「僕が大統領になっている世界」も「僕がホームレスになっている世界」もすべて同時に並行して存在している、というような、量子論における解釈の一つです。
僕はこの多世界解釈が好きで、結構色んな物事に当てはめて使ってしまうんだけど、なるほど哲学の議論においても多世界解釈に似たような発想が出てきているのだなと初めて知りました。可能世界意味論についても、結構難しかったりするので、なかなかすんなりとは理解できなかったんですけども。
いつかきちんと読み返して理解したいなと思える作品です。哲学自体は好きで本もたまに読んでいますけど、分析哲学という名称は本書で初めて知ったし、その発想は僕の好みにかなり合う感じがします。かなり難しいですけど、理解できたらいいなぁと思わされる作品でした。是非読んでみて下さい。あとこの著者の「タイムトラベルの哲学」って本が、ずっと昔から気になってるんだよなぁ。

青山拓央「分析哲学講義」



東京震災記(田山花袋)

内容に入ろうと思います。
本書は、私小説家として有名な田山花袋が、大正12年9月1日に起こった関東大震災で被災した際の、自身が見たこと、聞いたことを書き記したノンフィクションです。
田山花袋は被災時、当時の東京の郊外に住んでおり、そこにいた。田山花袋自身は、家の屋根瓦がちょっと崩れた程度の被害で、家族も無事であった。
解説の石井光太によると、田山花袋には日露戦争の際に記者として従軍するルポライター的な側面もあったという。そういう田山花袋は、被災した直後すぐに徒歩で行ける範囲までの被災地を自らの目で見る。
そこは、一面の焼野原だった。

『焼野原になってしまっては、何処も彼処もすべて同じであった。賑かな通りも何もなかった。大きなデパアトメントストアも何もなかった。唯、ところどころに、燒残った鉄筋の残骸が不気味に立っているだけで、その向うは、東京湾の蒼波にまでずっとひろく続いているのであった。』

田山花袋は、自分が見たものを記憶し、記す。東京中が火事で燃え、死体がそこらに転がり、人々は混乱し、電車はぎゅうぎゅう詰めで、食べるものはない。知り合いの消息は掴めず、知り合いから方々の話を聞き、余震の続く中不安を抱えながら過ごす。
田山花袋は、自分が見聞きできたものを、できる限り記す。
本書には、悲壮感みたいなものが本当にない。もちろん、被災直後の東京に悲壮感がなかったはずがないだろう。そこらじゅうで阿鼻叫喚であったろうし、東京中が様々な悲しみに包まれていたはずだ。
しかし、田山花袋はそういう描写をほとんどしない。もちろん、客観的な描写する。泣いている人がいる、血を流している人がいる、うずくまっている人がいる。しかし、田山花袋が知り合いと交わす会話の中に、悲壮感を見出すことが出来ない。
もしかしたら現代人よりもその当時の人の方が、災厄や喪失と言ったものへのある種の『諦め』みたいなものが強くあったのかもしれない。僕らは普段、自分が何か不幸になるなどと思って生活はしていない。もちろん僕らの人生にだって、突然交通事故に遭うこともあるし、子供を死産することだってある。しかし何故か僕らは、そういうことはあまり自分には起こらないだろう、という楽観がある。あるはずだ。僕らはそういう平和な世の中に生きている。
関東大震災当時の東京が、どんな街だったのか知らない。しかしやはり、今よりは貧しかっただろうし、今よりは安全ではなかっただろう。そういう中で人々は、『まあ仕方無い』というような諦めみたいなものを常に抱えつつ生きていたのかもしれない。
とはいえ、関東大震災はちょっとスケールの違いすぎる災厄だ。当時の人たちが僕の仮定通りに現代人よりも悲しみに強かったとしても、関東大震災という災厄の前には瓦解するしかなかろうと思う。
だから、田山花袋が描く作品の中で悲壮感が現れ出ないことに、きっと意味はあるはずだ。
本書で田山花袋は、未来の東京に期待し思いを馳せる文章を幾つも書いている。

『しかし見ように由っては、こうも言えるかも知れないね。今までは、東京と行っても、江戸趣味や江戸気分がまだ雑然としてその間に残っていて、完全に「東京」というものになることが出来なかったが、今度は、今度こそは、初めて新しい、純乎とした「東京」を打建てることが出来るわけかも知れないね…?』

『しかし、東京という帝都の構造の上から言えば、今度の震災は結局いろいろな方面から好い結果を齎しているに相違なかった。銀座と日比谷、銀座と丸の内の接続もそのため立派に出来上って行くに相違なかった。私はこんどこそ東京の中心が都会らしい本当の賑やかさを持って来なければならないと思った。』

『これからの東京―新たに復興される東京には、もはや江戸の何物も残っていないのであった。東京は全く東京ばかりになった。これから始めて本当の東京気分とか、東京のカラアとか、東京の流行とか、東京の食物とか言うことが言われて来るように私は思った。』

こういう話も僕には、初め違和感であった。これを実際に書いているのは震災直後ではなく数ヶ月後であるとはいえ、まだ瓦礫の山の東京の中にいて、そこに未来の東京へのこれほどまでの期待を持つことが出来るものだろうかな、と。
だから僕は思う。悲壮感を描かなかったことも、東京への未来への期待が大きく描かれるのも、きっと同じ位相なのだろうな、と。この作品は、これを読んだ当時の人へのエールのようなもので、徹底してそういう視点で描かれているのだろうな、ということだ。
それは、この大震災を前にした人間の無力さみたいなもののいくつかの描写を読んでも、なんとなくそう思う。

『だから、自然というものは、どうしても深く考えて見なければならないものである。自然を考えずに、人間のことばかりを考えると―理想にばかり向って進んでいると、こういう災禍に接した時に、天を恨んだり神を呪ったりしなければならなくなる。』

『しかし、これも為方ない。皆なそうして亡びて行くんだ。どんなものでも、どんなに栄えたものでも、またどんなに強いものでも、どんなに大きなものでも、皆なそうして亡びて行くんだ。これが人間と自然との運命だ。自分だッているかはそうなってしまうんだ。この大きな自然だッてそうだ』

『つまり、こういうことになるんだ。自身で倒れた家屋は、倒れるべくなっていたものが主として倒れたのと同じように、人間の事実や審理や現象も、矢張、しっかりしていなかったもの、ぐずぐずしていたようなもの、そうでなくっても壊れるようになっていたものが壊れたり倒れたりしたので、別にそう対して驚くこともないにはなかったんだね。矢張、自然の一つのあらわれとしか見られないようなものだね?』

もちろん田山花袋が実際に見聞きしたり、あるいは自分が発した言葉であったりするだろうが、僕にはこれらは、読者へのエールに思えた。僕は大きな震災を経験したことはないが、震災直後人々の中には、こんな災厄にさらされるのは何か自分が悪かったのだろうか、という思いに駆られる人もいるだろう。そうでなくても、どうして自分がこんな目に、と思う人はたくさんいるだろう。そういう人たちに田山花袋は、エールを送っているのだと僕は感じました。あなたが悪いわけではない。自然はそうなっているからそうなのであって、仕方ないんだよ、と。
田山花袋は、安静の地震のことを想起しながらこんなことを書く。

『私は安静の地震の時をくり返した。その時にも矢張この川のために遮られて、無数の焼死者を出したのではないか。今日と少しも違わない阿鼻叫喚の状態を呈したのではないか。否、そのために、その霊を慰めるために此処にこの回向院が出来たのではないか。この仏像が出来たのではないか。どうしてこう人間は忘れっぽいのだろう。どうして人間はじき大胆になるのだろう?その時のことを考えて、火除地などをもっと十分に整理して置けば、決して今度のようなことはなかった筈であったのに…。否、現に私が覚えてからも、まだあちこちに、そのための火除地が残されて置かれてあったのに…。それなのに、いつ誰がそれを元のような人家にしてしまったのか。遁れる路もないような市街地にしてしまったのか。私はこんなことを思いながら、長い間じっとそこに立尽くしていた。』

これは、今の僕らにも向けられた言葉だ。そう、僕らは忘れるし、どんどん大胆になる。大丈夫だろう、と思うようになる。記憶は薄れる。それは、ある程度仕方無いことなのかもしれない。でも、やはり、後悔してからでは遅い。
本書を読んでいて気になったのは、「わくわくする」という表現だ。これは、現代と同じ意味で捉えてはいけないんだろうなぁ、きっと。例えばこんな文章。

「四日はあたりが物騒で、そわそわして、とても家を開けることなどは出来なかった。私達も唯わくわくと暮した。」

とある外国人の話も興味深い。ある時外国人がこんなことを言ってたという。

『日本人、えらいですな!こういう災厄に逢っても、びくともしない。決して慌てない。それに親切だ!これは私達の国ではとても見られないことです。』

こういう話は、東日本大震災の際にも盛んに耳にした。日本人としてのアイデンティティはさほど持っていないように思っているのだけど、こういう時に、日本人でよかった、と思う。

最後に。震災の話とは関係ないのだけど、書店員的にちょっと興味を惹かれた一文があったので抜き出す。

『否、この間には、私が十一の年―明治十四年の春に、田舎から丁稚奉公に出て来た有隣堂という農業専門の本屋があって、』

有隣堂は農業専門の本屋だったのかぁ、と思いました。
もうすぐ一年。確かにそのきっかけがなかったら手に取らなかったかもしれません。忘れない努力をしよう。

田山花袋「東京震災記」



震える牛(相場英雄)





内容に入ろうと思います。
体調を崩し、所轄署から本庁へと異動になり、捜査一課継続捜査班という、迷宮入り濃厚の目立たない未解決事件を担当する部署に配属された田川は、上司である宮田から厄介な案件を任される。事件自体は、複雑ではない。しかし、中野で起こったその殺人事件を担当したのが、同じく未解決事件を担当する部署であるが、捜査一課継続捜査班よりも大事件を担当する特命捜査対策室(コールドケース)の現理事長である矢島だった。不良外国人による強盗殺人という見立てで捜査を開始し成果が上がらなかった案件で、だから特命には持っていけない。
事件は二年前、「倉田や」という全国チェーンの居酒屋で起きた。全身黒ずくめで目出し帽を被った男が、「マニーマニー」と言いながら売上金を強奪し、店員に斬りつけ、また店内にいた二人の客、獣医師の赤間と産廃処理業者の西野の二人が殺された事件だ。捜査を開始した田川はすぐに、当時の初動捜査が杜撰だったことを見抜き、いくつかの証言から、強盗殺人ではなく計画殺人だったのではないかという疑いを強めていく。
一方、全国に巨大SCを展開する大企業・オックスマート。切れ者だが傲慢な会長と、ボンボンとして育ってきた御曹司を影から支え、汚れ仕事を一手に引き受けてきた滝沢は、日々振りかかる火の粉をやり過ごしつつ、様々な案件を進めていく。
中でも一番頭の痛い問題は、元大手新聞社に在籍し、現在はインターネットメディアで、新聞には書けない様々な企業の裏側を抉り出す記事で好評を博している鶴田という女性記者だ。大抵のマスコミや、その他様々なところに金をばらまいているが、独立系のネットメディアの記者である鶴田だけは、どうにも抑えが利かない。鶴田は、オックスマートにとって致命的になりかねない情報を追っていて、滝沢もその対処に苦心することになる。
田川は、ほんの少しずつであるが、着実に捜査を進展させていく。その過程で、とんでもないネタがポロポロこぼれ落ちてくる。一方、オックスマートが抱える問題も深い。成長し続けなくてはならないという状況の中で、ギリギリの危ない線を渡りつつ、どうにかしのいできた。様々な批判がある。巨大SCは地方の町を破壊するという話は、捜査であちこちの地方を訪れる田川にとっても強く実感されることだ。
田川が追う事件が、鶴田が追う線と重なり合い…。
というような話です。
なるほど、これはなかなか凄い作品だなと思います。僕が感じた『凄さ』は、小説的な部分に対してはそこまで強くはありません。ただ、本書からにじみ出る問提起については、相当に凄さを感じました。
まず小説的な部分から色々書きましょう。これは結構個人的な好みの問題なんだけど、僕は本書のような、刑事が少しずつ細い線を辿って着実に事件を解決していく、みたいなミステリがそこまで得意ではありません。本を読み始めた頃は、結構ミステリばっかり読んでいて、その頃はそういうタイプの作品も全然普通に読んでたんですけど、色んな本を読む中で、こういうタイプの作品は徐々に読まなくなっていきました。これはただの好き嫌いの話なんだけど、少しずつ着実に物語が展開していくことに面白さを感じる人がいるんだろうなと思うけど、僕はそういう点にちょっと退屈さを感じてしまう傾向が最近はあります。
とはいえ、本書は結構面白く読めました。それはきっと、本書の設定が、「迷宮入りしそうな未解決事件を扱う刑事」というものだったからかな、という感じがします。
普通の警察小説ってやっぱり、リアルタイムで起こった事件をリアルタイムで追っていく作品が多いと思うんですね。なかなかこういう、未解決事件を扱う刑事の話ってのは出てこないものです。その設定によって、作品としてどういう部分が違ってくるのかみたいなことは、ちょっと僕には分からないんだけど、そういう普段読まないような設定の物語だったからこそ、結構面白く読めたのかもしれません。後は、田川の話と並行で、滝沢とか鶴田の話が展開されていくという構成もよかったんだろうな。もし本書が、田川という刑事が事件を捜査していくだけの作品だったら、ちょっとダメだったかもしれません。
二年前に起こった事件を調べるという設定は、実際の捜査では絶対に必要だけど小説に書くとつまらなかったり冗長になったりする部分を割愛出来る、というのも大きいのかもしれません。リアルタイムの捜査だと、大量の人員がそれぞれ役割を与えられて人海戦術が行われる。そういう中で、上の立場にいるわけではない一刑事が自分の思惑だけで動くのは難しい。でも、本書のような設定だったら、田口は自分の判断で動けるし、二年も経っているから、リアルタイムの捜査なら出来ても今は出来ないというようなことも多々ある。そういう余計な部分がそぎ落とされている警察小説だから面白く読めたのかもしれません。
田川という刑事にも凄く好感が持てます。とにかくメモを取りまくり、どんな些細な情報もないがしろにせず、被害者と同調して心を痛める刑事は、警察組織の中では凄く異端児で窮屈な場所に追いやられているだろうけど(でも田川は実力があるから大丈夫だけど)、こういうきちんとした刑事がきちんとした仕事が出来る世の中だといいなと、ラストシーンを読んで思ったりしました。
さて、問題提起の話に入ります。
本書が明確に問題提起している大きな話は、「巨大SCが地方を破壊する」と「食品の安全」です。
巨大SCが地方を破壊するについては、僕は今地方と呼ばれるところに住んでいるわけではないから、実感はできません。でも、こんなことがありました。
ちょっと前に、祖父の七回忌で実家に戻ったことがありました。その中で、イオンの話になりました。
僕が生まれた町(市町村合併でもうなくなっちゃったけど)には大きなショッピングセンターはないんだけど、その隣の市には駅前に、パピィという映画館とかも入っているようなちょっとしたショッピングセンターと、あとイトーヨーカドーがありました。でも、3.11の震災をきっかけに、どちらの建物も耐震強度に問題があることが発覚したとかで、僕が実家に帰った時には既に取り壊されてしまっていたようです。だから今は、近隣に三つイオンがあるけど、全部車でしか行けない場所にある、みたいな話をしていました。
なるほど、実家周辺でもすでにそういう状況になっているのだな、という感じがしました。高校はその隣の市にあったのだけど、高校時代はまだ商店街として地元の店とかがそれなりにちゃんとあったところが、シャッターの閉まっている店があったり、全国チェーンの店に変わっていたりなんていう光景もみたことがあります。実際にそうなった町に住んでいるわけではないから、住んでみたらどうなのか、という実感は僕にはないです。でもやっぱり、視覚的な情報として町が破壊されているなという感じはするし、別にそれまでの商店街とか町並みに強く思い入れがあるわけでもないんだけど、なんだかなぁという気持ちにはなります。
本書では、僕らの現実の社会でも問題になっている(あるいはなりかけている)、巨大SCが地方に進出して町を破壊し、採算が取れなくなれば撤退する。商店街が潰れるから、車でしか行けない場所にしか買い物する場所がないと、買い物難民が発生する。そういう社会のありようを、田川の捜査の過程で、あるいはオックスマートの色んな描写の過程で、色々と垣間見ることが出来ます。「車がなければ生活できないなんて、街じゃない」という田川の言葉には、確かにそうだよなぁと思わされてしまいます。
「食品の安全」については、少なくとも今の僕にとっては「巨大SCが地方を破壊する」より関心がある問題です。先に書いておくと、本書は読者がどんな立ち位置に立っているかによって、小説そのものの読み方も変わるだろうし、受け取る問題提起の強さも変わってくるのだろうと思います。
本書では、ちょっと具体的にはここには書けないのだけど、僕らが普段口にする食品の安全性について、ちょっと色々恐ろしいことが描かれます。確かに、知らないわけではない。僕は自分の口に入るものが、それが安ければ安いほどちょっと危険なものだということぐらい知っている。しかし、何がどう危険なのか、ということはやっぱり知らない。僕は、より「食品の安全」の方に関心があるとは書いたけど、正直あんまり食べることに興味がないので、日常的に強く関心を抱いてるかというとそうでもない。それでもやっぱり、本書で描かれる食品の裏側をあれこれ知ると、うわぁー、って気になるし、こういう社会は嫌だなぁという感じもします。
本書で描かれていることのどの程度まで真実を描き出しているのか、小説という体裁になっている以上読者には判断が出来ません。でも恐らく、こういう現実は既に色んなところにあるんだろうと思います。本書は、牛やあるいは肉全般が取り上げられているけど、きっと他の食品だってこういう背景はあるでしょう。こういうことは確かに、企業や色んな団体が隠していることだろうから、普通には目に触れない。だからと言って、知らなくていいわけではもちろんない。
本書で明確に問題提起されているのは、上記二点だと思います。でも僕は、本書が暗黙の内に提起してしまっている問題に一番強く関心があります。
それが、「消費者のモラル」です。「消費者のモラル」って表現だとちょっと違うかな。でもうまく表現できない。
ネタバレになってしまうから具体的にはまるで書けないんだけど、本書には、「それが正しいことはわかってる。でもその正しいことをすると、消費者が騒ぎ、風評被害など起こりかねない。だからその正しいことは出来ない」というような背景を持つある事柄が描かれる。田川が追う事件のかなり中核を成す事柄だ。逆に言えばその事件は、「その正しいことをしても、消費者が正しい反応をして大騒ぎしなければ」起こらなかったのではないか。僕はそれを強く感じてしまった。
もちろん、これはなかなか難しい。マスコミがマスコミとしてなかなか機能しにくい世の中であるし、成長し続けなくてはいけない、利益を上げ続けなくてはいけないという資本主義の論理と、これからどんどん人口が減少していきますます消費が落ち込んでいくことが予想される日本において、企業としてギリギリの判断が問われる場面というのも多々あるのだろうと思う。そういう中で、消費者がきちんとした節度ある反応を示すことは、もしかしたら過去どんな時代よりも難しくなっているのかもしれない。
でも僕は、そういう世の中の怖さを感じてしまう。
つい最近、「A3」というノンフィクションを読んだ。麻原彰晃の裁判を傍聴した著者が、明らかに精神障害の症状を呈している麻原彰晃を座らせて裁判が進行していく、そのことに誰も意義を唱えないことに強い違和感を感じ、そこから生まれた作品だ。
麻原彰晃を死刑にすべし、という意見についてとやかく言うつもりはない。僕自身の意見はないけど、麻原彰晃は死刑にされるべきだという意見そのものには、特に異論も反論もない。ただ、きちんとした手続きに則って正しい裁判を起こった上で麻原彰晃を裁かなければならない、という意見が出ないことはなかなか怖い。確かに、麻原彰晃が精神障害の症状を呈しているというような情報は、断片的には入ってくるけど、きちんとした形で僕らのところに届くわけではない。だから、ある程度は仕方無い。けど、麻原彰晃がきちんとした裁判を受けられていないことを知った上で、まだその反応であると、怖い。
こういう傾向は、放射能に絡んだ事柄でも大きな騒動をいくつも生み出してきた。正しいことを正しいやり方でやろうとしても、正しくない知識を喧伝するマスコミとその正しくない知識に翻弄される消費者によって阻害され、全体として不利益を被ることになる。誰が悪いのか、それは単純に答えられる問題ではない。けど、僕ら消費者一人ひとりが、「もう少し賢い消費者になろう」という意識を常に持っていなければ、現状が回復されることはないのだろうなと思います。
恐らく著者がこの作品にこめた意図とは違うだろうけど、僕は本書の中のその点が一番気になり、一番怖いなと感じました。
「食品の安全」に絡んだ話でも、本書を読めば、オックスマートと本書に出てくるある会社「A」の違いははっきり分かるだろう。一方は、企業として生き残っていくためのギリギリの判断。もう一方は、初めから客を騙そうという明確な意図がある。別に、どちらもよくない。けど、これが同じ扱いでニュースになったりすることには、違和感がある。明らかに、Aの方が悪質だ。しかし、実際マスコミが報じる際は、恐らくオックスマートの方が大々的に取り上げられるだろう。何故なら、オックスマートの方が大企業で、マスコミは消費者がそういうネタが好きだと思っているからだ。本書でなされる問題提起は、やはり大資本だけを悪とすることは難しい。企業と消費者は両輪だ。片方だけ悪いとするのは無理がある。状況をカイゼンしたいと思うなら、まず僕ら消費者が賢くなる必要があるだろう。
僕らが生きている社会がどんな風に成り立っているのか、その一角を見せてくれる作品です。こういう社会に既になってしまった今、僕ら個人に出来ることがなんなのか考えることはなかなか難しいけど、そういうことを考える人が増えるという事実そのものが状況を大きく改善するかもしれない、とも思います。是非読んでみて下さい。

相場英雄「震える牛」



仙台ぐらし(伊坂幸太郎)

内容に入ろうと思います。
本書は、伊坂幸太郎のエッセイ集です。他にも伊坂のエッセイは発売されていますけど、僕が伊坂のエッセイを読むのは、たぶんこれが初めてのはずです。荒蝦夷という東北の出版社が出している「仙台学」という季刊誌(かな?)に連載されていたエッセイと、震災関係のいくつかの文章、そして書きおろしの短編が収録されている作品です。
伊坂幸太郎はエッセイを書くのが得意ではないようで、荒蝦夷さんから依頼されたエッセイには当初、「エッセイのようにみえるフィクション」を書こうと努力したそうです。しかしもちろんそれもハードルが高かったようで、基本的にその試みは一番初めの「タクシーが多すぎる」だけで終わり、以降は伊坂の周囲の日常の事実を中心に書くエッセイになったようです。
作家をしているから見知らぬ人から声を掛けられることも多いけど、でも実は自意識過剰な状況も多いという話。好きで通っている店が閉店してしまうという話。自身の作品の映画化について。世の中がどうも、なんでもかんでも機会まかせになっていることへの危惧。自分の家の庭にやってくる猫の話。そして、心配性にすぎる伊坂幸太郎が、日々どんな心配事に悩まされているのかなど、本当に日常的な話を、伊坂幸太郎の書く小説作品のような雰囲気を醸し出しつつ書いている作品で、そのおかしみにある書きっぷりに思わず笑ってしまうような場面が多々ありました。
そしてやはりというべきか、避けられない震災の話。伊坂幸太郎は、本書が「震災の本」として扱われることを若干危惧しているようなので、この感想ではその部分にはあまり触れないようにするつもりだけど、伊坂幸太郎の視点から見た震災の姿というものが、そして伊坂幸太郎が抱きたいと希求している未来への希望の姿が描かれています。
そして最後に短編小説。震災後の石巻で移動図書館のボランティアをしている二人(この二人には実在のモデルがいるらしい)を主人公にした、震災というものを背景に持つ短編だけど、「僕は、楽しい話を書きたい」ととあるエッセイの末尾で書いていた伊坂幸太郎らしく、楽しい話になっています。伊坂幸太郎らしいラストの終わらせ方は、思わずクスっと笑ってしまいました。こういう、ありえるわけないんだけどもしかしたら、って思わせる力、やっぱ伊坂幸太郎は凄いなと思いました。
小説の面白さとエッセイの面白さというのはなかなか別物で、小説はメチャクチャ面白いのにエッセイはそうでもないなぁなんて思う作家さんは結構多いです。逆に、凄く稀ですが、小説も確かに面白いんだけど、この作家さんエッセイの方がより抜群に面白いな、という人もいます。とはいえ、ホントに少数派ですね。以前森博嗣が書いていましたけど、森博嗣にとっては小説を書くよりもエッセイを書く方が断然難易度が高かったそうです。
伊坂幸太郎のエッセイは、なかなか面白いと思いました。エッセイの面白さって、どこに自分の視点を置くか、その視点が普通の人とどれぐらい違うのか、という点をきっちり明確に描けると凄く面白くなるのかなぁ、という漠然とした感覚があるんですけど、伊坂幸太郎の物を見る視点は、僕は結構好きです。伊坂幸太郎は、僕がエッセイがべらぼうに面白いと感じる作家さんと比べると、物事も見る視点は一般よりだなと感じます。なんというか、凄く普通の人の感覚で物事を見ているなと。しかもそれが自然体だなということが分かる。だから、伊坂幸太郎の視点が特別奇妙なところにいる、だから面白い、というわけではないのだけど、自然体のままの視点をそのまま文章にするというのも実は結構なかなか難しいもので、そういう部分が僕は好きなのかもしれないな、という感じがします。
一番初めの「タクシーが多すぎる」の話は、よく出来てるなぁ!と思ったんですけど、半分は創作だそうです。そうだよなぁ。こんな小説みたいな話、そうあるわけないよなぁ。乙一の「小生物語」ってエッセイがあって、まさにこの作品が、伊坂幸太郎が目指した「エッセイっぽくフィクションを描く」って作品なんだけど、「タクシーが多すぎる」は、半分は創作だということを知ってから、そのことを連想しました。
それぞれの話で面白いなぁと思う部分はそれぞれあるんだけど、でもそれを羅列しても仕方無いんで、一個だけ内容にちゃんと触れようかな。
「心配事が多すぎる」の話です。
伊坂幸太郎は、結構心配性みたいです。僕は自分が、悲観的で心配性だという自覚があるんですけど、その僕が血行驚くぐらい心配性だなと思いました。なにせ、北朝鮮がテポドンを発射するかもしれない、というニュースの時に、どうなるんだろうと不安に駆られていたと書いています(みなさんはそんなことなかったですよね?というのを前提に書いてるんだけど、どうかな、違うかな)。他にも、そんな心配するのか、そんなこと心配してても仕方無いのにな、なんて思わせる話が多くて、一応悲観的で心配性であると自覚している僕的にはかなり面白かったです。僕は結構、具体的な物事への心配というベクトルはあんまり持ってなくて、どっちかというと「物事がはっきりしないこと」「具体的ではないことそのもの」への不安とか心配みたいなことを感じることが多いんだけど、伊坂幸太郎はどちらかというと具体的な物事に対して心配になることが多いようで、そこが大きく違うなぁと思ったりしました。僕は、物事が具体的になっていると、「輪郭がはっきりしている」という理由で、あまり不安に感じることがないかなぁ、という気がします。
その中に、こういう変わった考え方があります。伊坂幸太郎は、何か悪い物事が起こりそうな時に、「でも自分がこうやって心配しているからこそ、物事はうまく行っているのだ。だからこそ、自分はこれからも心配し続けなくてはいけないのだ」というような発想をします。もちろん伊坂幸太郎は、その発想がまるで論理的ではないことはわかっているし、馬鹿げているなと思っているのだけど。
これは、ちょっと違った部分でですが、凄く自分と近い発想で、なんとなく嬉しくなりました。
僕はこういう発想をすることがあります。僕は昔から結構健康体で、日常的に体調を崩すということが少ないし、虫歯だとか花粉症だとか、そういうものとも今のところ無縁なんだけど、それについてこんな風に考えています。「自分が悪いことをあまりしないから、神様的な人がそれを見ててくれて僕を健康なままにしてくれているのだ」
自分で書いてても、なんて論理的でないんだ、と思います。一応書いておくと、僕は別に神様とか信じているわけでもなくて、この部分は別に神様でなくても「先祖」でも「創造主」でもなんでもいいし、別に超越的な存在を信じているわけでもなくて、ただ概念的にそういう存在で表現すると楽ってだけなんですけども。
僕はこの考え方が全然論理的ではないし、相関のかけらもないとわかっているけど、でも何故かこういう発想が頭の中にあって、何かちょっと悪いことをしようとする時の抑止力になっています。まあもちろん、別に清廉潔癖な人間でもないんで悪いこともしますけど、悪いことをするにしても毎回この発想は頭をよぎるんですね。自分でも不思議だなぁと思います。
さてこの作品、作品そのものとはまったく関係ないちょっとした事情により、もしかしたら書店で手に入りにくい本かもしれません。なのでこの作品について言えば、その時読みたい気分でなくても、見つけた時にとりあえず買っておく方がよいかと思います。いずれ文庫化もされるでしょうけど、個人的な予想では、普通の単行本と同じようなスパンでは文庫化されないような気もしますし。これらはすべて、ちょっとこういう表現は正しくないかもしれないけど、「著者のある種の優しさ」に裏打ちされている(あるいは裏打ちされるかもしれない)事柄だと僕は思っています。ほら、伊坂さんと同じような心配性を発揮して、「今これを買わないともう二度と手に入れることは出来ないかもしれない」なんて思ったりしながら買ってくださいね(笑)。

伊坂幸太郎「仙台ぐらし」



A3(森達也)

とんでもない作品を読んだ。
繰り返す。
とんでもない作品を読んだ。
本書は、オウム真理教を内側から撮りセンセーションを巻き起こしたドキュメンタリー『A』から続く著者のライフワークのような作品。『A3』というドキュメンタリーも撮り始めていたものの、『A』『A2』があまりにも興業的にうまく行かず、文章にシフトせざるを得なかった、と書いている。
本書は、森達也が初めて、そして最後になるだろう麻原彰晃の裁判を傍聴したことがきっかけで始まった。カメラを持ち込めない裁判という場は自分のフィールドではないと感じていた森達也は、オウム真理教とこれまで関わりながら、麻原彰晃を一度も自分の眼で見たことがなかった。一審の判決が言い渡されるその裁判を傍聴した森達也は、強烈な違和感に襲われる。
この裁判は、異常だ。
麻原彰晃は、明らかに何らかの精神的な障害を持つ症状を呈している。同じ動作を反復するし、どうやらオムツもしているようだ。
しかし、麻原彰晃に対して精神鑑定が行われたことは、それまで一度もなかった。裁判所が退けているのだ。
そしてさらに、そんな麻原彰晃の状態を長年見続けながら、この裁判の異常性を書いたり言ったりすることのない記者やジャーナリストの態度にも、森達也は強烈な違和感を覚える。
これでいいのだろうか?
麻原彰晃を含め、オウム真理教関連の裁判では、事件に関して明らかになっていることがほとんどない。地下鉄サリン事件にしても、誰が指示を出し、どういう過程で事件まで至ったのか、まるで究明されていないのである。もちろん、森達也は、正常な裁判が行われても真相が解明される可能性は低いだろう、と書く。しかしそれでも、麻原彰晃を精神鑑定し、麻原彰晃に治療を施してから再度きちんと裁判を行うべきではないか。現在の麻原彰晃には、裁判を継続できるだけの能力はない、そういう風にしか森達也には見えない。
本書で森達也は、ありとあらゆる方向からの視点を提示する。しかし、本書で森達也が訴えようとしていることは、その核心となる部分はシンプルだ。

「オウムは特別だ、という理由で作られた様々な例外が、やがて前提に変化し、社会を変えた」

本書では繰り返し、そう訴える。歴史は、次々に上書きされる。メディアは、それを意識しつつ行う。司法は、それを見越した上で、通常であれば考えれれない超法規的措置を繰り返す。
森達也は、警鐘を鳴らす。僕たちがかつてどういう社会にいたのか、そしてそれをオウム真理教がどのようの変えてしまったのか、現在の社会はどうなっているのか。森達也は、思い出して欲しい、と訴える。
本書は、凄い内容だ。僕は好きでノンフィクションを結構読むのだけど、これまで読んだ中でも圧倒的な圧力と質量を持って本書は何かを訴える。森達也は、メディアにしても本にしても、完全な客観は存在しないと書く。本書も、森達也の主観から逃れることは出来ない。そして同時に僕は思う。本書をどう読むかも、読み手側の主観を逃れることは出来ない。本書を読んで何を感じるか。読む人によって大きく変わるのかもしれない。
本書で提起されている問題意識は、そのスケールの差は大きいけれど、僕が常に抱えている問題意識と相似形を成す。
僕が抱えている問題意識はこうだ。

「大多数の支持がありさえすれば何をしてもいい、という社会の圧力が強調されすぎている」

僕は最近、常にこれを感じる。世の中のあらゆることに対して。それは、僕が働いている業界に対してもそう感じる。
『大多数の支持がありさえすれば何をしてもいい』というのは、資本主義の社会で生きる上で、ある程度は仕方無いと思っている。何らかの形で支持を集めたものが需要され供給されるというのは、資本主義の社会の中では当然だろう。しかしそれが行き過ぎている。強すぎる。僕にはそう感じられて仕方がない。過去との比較は出来ない。本書で森達也が主張するように、オウム以前以後でそれが変わったのかどうか、今の僕にはそういう比較は出来ない。でも、僕が今日本の社会で生きている実感として、その強さはあらゆる場面で感じる。
これが僕には怖い。そしてその怖さは、本書で森達也が主張し、読者に考えるよう訴えているまさにその部分と重なる。
『大多数の支持がありさえすれば何をしてもいい』という社会では、次第に、『大多数の支持を獲得すること』が一つの目的になる。するとどうなるか。支持を獲得しようとする人は、『市民の考える力を奪う』『市民から情報を隠す』というような手段を取り始めるようになる。どんな手段を使ってでも『大多数の支持を獲得すること』が目的になるということは、そういうことだ。
現実に今の日本は、そういう社会になる。僕たちはどんどんと、自分で考える力を奪われている。メディアが恣意的な情報操作をすることで、情報が意図的に隠されてしまう。
僕は、そういう社会に生きている怖さを常に実感している。どんどんと、ヤバイな、と感じる状況になっていると思う。これは、犯罪とか司法とか原発とか、そういう大きな話だけではない。僕は書店員だけど、書店という現場にいても、そういうことをよく感じる。『大多数の支持がありさえすれば何をしてもいい』という原則が、強力になりすぎていると感じてしまう。それが持つ危険性を把握する人間が減り(あるいは敢えて見ないようにしているだけかもしれないけど)、またそれへの反論を許さないような同調圧力を感じることもある。僕の妄想かもしれない。でも、僕はそう感じる。本書を読んで、スケールも違えば、社会と深く関わる度合いの差も大きいのだけど、それでも、森達也が僕がずっと抱いてきた不安を、オウム真理教というテーマからこうして形にしてくれたというのは、僕には凄く安心できたし嬉しかった。
『大多数の支持がありさえすれば何をしてもいい』という社会のありようを、僕らは日々眼にしているはずだ。しかし、なかなかそれが意識されることはない。僕は時々この不安について話すことがある。でも、ほとんどの人には通じない。僕が正しいかどうかは分からない。でも僕が言いたいことは、相手が僕の主張を認めてくれない、ということではない。相手が僕の主張を理解してくれない、ということなのだ。僕はそう感じる機会が多い。僕らの目の前には、本当に多くの実例があるはずなのに、それはなかなか視界に入ってこない。それも、怖い。
森達也はまえがきでこんな風に書いている。

『今はどうなのだろう。たぶん使命感についていえば、当時より少しはあるかもしれない。でもあったとしても「少しは」のレベルだ。基本的には変わらない。たまたま僕には、見えたし聞こえたのだ。見えたのだから見えると言うしかない。聞こえたのだから聞こえると言うしかない。知ったからには素知らぬ顔はできない。だってもしも目を凝らして、耳を傾けてくれれば、きっと誰もが気づくはずだと思うのだ。』

『さまざまな上書きが大量になされているけれど、目を凝らせばきっと見えてくるはずだ。耳を澄ませば聞こえてくるはずだ。そして思い出してほしい。考えてほしい。あの事件はなぜ、どのように起きたのか。彼と事件によって、この社会はどのように変わったのか。現在はどのように変わりつつあるのか。』

著者のこういうスタンスを始めとして、著者の考え方は僕は本当に好きだ。著者は、何かを押し付けないし、無理に議論はしない。主観を取り除くことなぞ出来ないと言ってドキュメンタリーやノンフィクションと関わる。何よりも僕が著者の態度で好きなのは、断定しないことだ。例えばこんなシーンがある。ある事柄について、オウム真理教の信者の「ほとんど」はそうだと思う、という表現の後で、「すべてと書かないのは、すべての信者に会っていないからだ」と付け加える。こういうスタンスは、当たり前だと思うかもしれない。当然じゃないか、と。でも、本書で描かれる様々な人たち(司法関係者やジャーナリストなど)は、その当然さをわきまえない。その厚顔さを、僕たちは無関心で許容する。そういう世の中になってしまっている。厚顔な彼らだけが悪なのではない。それを許容してしまう僕らも悪なのだ。そしてその変質の始点にオウム真理教が存在すると著者は主張する。

『なぜなら地下鉄サリン事件以降、主語を被害者に置き換えることで自由にものが言えなくなるこの傾向は、北朝鮮拉致問題などでさらに加速して、結果としてこの国の現状とこれからの方向に、とても歪で大きな影響を与えているからだ』

『オウムは特別である。オウムは例外である。暗黙の共通認識となったその意義が、不当逮捕や住民票不受理など警察や行政が行う数々の超法規的(あるいは違法な)措置を、この社会の内枠に増殖させた。つまり普遍化した。だからこそ今もこの社会は、現在進行形で変容しつつある。』

『でも同時に、言葉を失う自分を、僕は肯定する。なぜなら当事者の痛苦をリアルに感覚できない非当事者の後ろめたさをこの社会が忘れたがゆえに、加害者への嫌悪や憎悪が全面的に発動し、日本社会の変質は始まったと思っているからだ。』

本書は、「月刊PLAYBOY」で連載された。同時進行で変化していく状況を追い続けながらの連載で、先日森達也の話を聞く機会があったのだけど、この連載がどこに向かうか、どんな風に終わらせるか、連載開始時にはまったく構想はなかったという。
状況の変化をリアルタイムで追いかけながら、逮捕された教団幹部の面会に足しげく通い、かつて様々な形で麻原彰晃と関わった人たちへのインタビューを試みる。膨大な量の資料をひたすら読み込み、「正史」としてこれから残り続ける記述への膨大な矛盾点や整合性の取れない言説を指摘し、またかつてオウム真理教の報道がどのようになされ、それが何にどのような影響を与えたのかを指摘する。麻原彰晃を別の視点から見ようとすればするほど、麻原彰晃という存在への多面性に翻弄され、麻原彰晃が変質させた社会の歪さに嘆息し、メディアが持つ宿痾について思考する。森達也の思考や感覚は、僕にはまっとうに思える。僕もきっと、麻原彰晃の裁判を見れば同じように感じるだろう。しかし、それは社会の中ではマイナーだ。恐ろしくマイナーだ。社会は、膨大な量の報道に圧倒され思考停止し、偏向した情報を信じて一体化する。

『それはこの社会の願望である。なぜなら、もしも彼らが普通であることを認めるならば、あれほどに凶悪な事件を起こした彼ら「加害側」と自分たち「被害側」との境界線が不明瞭になる。それは困る。あれほどに凶悪な事件を起こした彼らは、邪悪で凶暴な存在であるはずだ。いや邪悪で凶暴であるべきだ。
社会のこの願望にマスメディアは抗わない。』

そしてこれは、司法も同じだ。

『ヒトラーは自殺した。だから戦後世界は、彼の言葉がないままにナチスを解析せねばならなかった。麻原は不在ではない。法定で語らせることができる。ところが今、まさしくその法定(裁判所)が、彼の言葉を封じようとしている。彼を放置してさらに壊そうとしている。でもこの国の多くの人は、これを異常なこととして捉えない。』

『確かに僕も、仮に麻原彰晃が正気を取り戻したとしても、法定の場で事件の真相が解明されるという全面的な期待はしていない。その可能性はとても低いと考えている。
でもだからといって、手続きを省略することが正当化されてはいけない。「期待できない」という主観的な術後が、あるべき審理より優先されるのなら、それはもう近代司法ではない。裁判すら不要になる。国民の多数決で判決を決めればよい。国民の機体に思いきり応えてやればいい。ただしその瞬間、その国はもはや法治国家ではない。
(中略)
誰かに適正な裁判を受けさせる権利を守ることは、僕らが公平な裁判を受けるための担保でもある。』

僕は恥ずかしながら、麻原彰晃の裁判について関心を持たずにいた。断片的な情報は知っていた。麻原彰晃が法定で意味不明な発言を繰り返している。弁護団が控訴趣意書を提出しなかった。そういう、細切れの情報は知っている。しかし、それらは、まったく違った位相を持っていた。僕が持っていた漠然とした情報は、まったく別の見方の出来る多面体だった。本書では、その別の見方が提示される。麻原彰晃が精神的におかしくなっている可能性は知っていたけど、まさかここまでとは思わなかった。ある精神科医の引用の中で、非常にわかりやすい表現があった。

『わかりやすく言えばですね、訴訟中に胃潰瘍がみつかったと。そうしたときに放っておくかということですね。当然内視鏡を入れて出欠を止めないといけないですね。そういうことをするべきであるにもかかわらず、どうも裁判官が意味不明なことを言って頑張っている。そういう状態ではないかと思います』

控訴趣意書を提出しなかった経緯も、初めて知った。驚くべきことだった。まさかそんな経緯があるとは思ってもみなかった。普通に報道されたように、裁判を遅らせる法定戦術としてだと思っていた。
本書には、このような多面体がそこかしこにある。森達也は、断定はしない。多面体を多面体のまま提示してくれる。本書を読んで、初めて知ったことは山ほどある。これらが正しく報道されていないとするならば(そして本書を読む限り、やはりそれらは正しく報道されてこなかったらしいけども)それは明らかにメディアの暴挙だし、これらの情報が「正しい形で」(まあこれが非常に難しいのだけど)提示されれば、少なくとも今のような社会にはなっていなかったのではないか、という気さえする。今のような社会に変質してしまった大元のきっかけを作ったのは間違いなくオウム真理教であるが、それを自分たちの都合のいいように利用し、意図的にせよそうでないにせよ社会をここまで変質させたのはメディアと司法なのだろう、という気がする。メディアと司法のあり方が変わったことで国民の意識が変わり、さらに国民の意識が変わったことでメディアと司法のあり方が変わるというフィードバックの関係。この現在進行形のスパイラルの中に、今僕たちはいる。
本書については、言及したいことが多すぎて、逆に書けない。麻原彰晃という質量を追いかける過程で、これほどの視点、これほどの多面体、これほどの価値観が提示されるとは、思ってもみなかった。考えさせられる、というレベルではない。今まで度の合わないメガネを掛けさせられていて、本書はそのメガネの存在に気づかせてくれるような、それほどの衝撃がある。自分が度の合わないメガネを掛けさせられていることに、なかなか気づくのは難しい。そんなメガネを掛けているから、視界には入っているはずなのに、見えないのだ。その恐ろしさを、本書は抉り出していく。
僕は、今の社会が嫌いだ。嫌いというか、怖い。狂っているとさえ思う。僕らはもう長いこと、これが常態と化している中で生きている。だからこそ、日常になってしまったこの社会そのものについて深く考えることは面倒臭い。この社会のありようを無自覚に受け入れる、前提とする方が楽だ。そうやって社会はより一層、危険な坂を転がり落ちていくことになる。
是非とも読んで欲しい。自分の思い込みを、自分の価値観を、自分の信念を、少しずつ疑おう。それは、あなた自身のものではないかもしれない。社会によって、もっと言えばオウム真理教によって、あなたの中にいつの間にか代入されただけの代物かもしれない。それを見極めよう。たぶん僕たちは、そうしなければならない。

森達也「A3」





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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)