黒夜行

>>2012年02月

もういちど生まれる(朝井リョウ)





内容に入ろうと思います。
本書は、ちょっとずつ重なりあう人間関係の中にいる五人の大学生を描いた、連作短編集。

「ひーちゃんは線香花火」
ぼんやり寝ていたら、キスされた。
汐梨は、ひーちゃんと風人の顔を浮かべる。今キスしたのはどっちだろう?たぶん風人なんだろうな。
汐梨もひーちゃんも美人で、風人はイケメンだけどちょっと残念。そんな三人は、ごく普通の大学生にはどうしてもなれなくって、みんなとはちょっと外れたところでいつも一緒にいる。この三人の関係性は、凄く、心地いい。
汐梨には尾崎っていう彼氏がいる。尾崎といる時、時々風人のキスの感触を思い出す。尾崎に、キスの話をしてみようか。どうせまたいつものように、「そんなにたいしたことじゃない」って、言うんだろうな。

「燃えるスカートのあの子」
翔多は、バイトの休憩が被ると、青いメッシュを入れたハルに話しかける。ハルはいつでも冷たくて、でも翔多が話しかければきちんと相手をしてくれる。翔多は、ハルに興味があるわけではない。高校時代、椿と友達だったという理由で、ハルに話しかけている。
雑誌の読者モデルもしたことがあるという椿は、どこにいても注目される。翔多は、同じサークル部員として椿と関わり合いながら、椿から聞かされる彼氏とのノロケ話に悲しい気持ちになったりする。
ある飲み会で、椿が彼氏と別れていたことを知る。ちょっと後には、河口湖でのサークル合宿が控えている。
翔多は、単位を楽に取れると有名な授業で、礼生と知り合う。礼生は学生映画を撮っているようで、凄いパーマと虹色のメガネと理解出来ない発言が飛んでるけど、なんとなく関わることが多い。

「僕は魔法が使えない」
美大に通う新は、凄い才能をもったナツ先輩とよく一緒にいる。ナツ先輩はコンクールでいい賞をもらい、その絵が美大のピロティに飾られている。でも新は、ナツ先輩の才能は、ナツ先輩にとって残酷なのかもしれない、とも思っている。
自主制作映画に関わることになったナツ先輩にくっついて動くことが多くなってきた。その折、ナツ先輩は珍しく、絵や才能の話をする。その時に一番向き合うべきものを描くべきだ。ナツ先輩はそうやって、コンクールで賞を獲った絵を描いた。
新は、父を亡くしている。一年も経たない内に母が、新しい男の人を家に連れてくることに、なんとなく嫌なものを感じてしまう。父の作ってくれた、黄金のカレー。

「もういちど生まれる」
遥は二浪が決まり、20歳を目前に、未だ予備校に通っている。幼なじみの風人と電車で時々会うと、ホッとする。昔のままの感じで話すことが出来る相手は、もう本当に少なくなってしまったから。
子供の頃、椿と入れ替わっているのがバレたら、プリンをあげなきゃいけなかったな。
双子の姉である椿は、推薦で大学に通い、読者モデルもしていた。双子なのに、遥の方が顔のパーツがちょっとずつ劣っていて、今はもう椿に入れ替わることなんか出来ない。
新しく好きになった人に合わせて髪を切った椿。学生映画の撮影で忙しいんだよ、と言った椿に、自分があんなことをするなんて。

「破りたかったもののすべて」
ハルは、授業料の高いダンススクールに通っている。私は、部屋にこもって手を絵の具まみれにしている兄貴のようにはならない。ダンスで食べていけるように、必死で必死で練習を続ける。
普通を選びとることが出来なかったハルは、高校時代仲の良かった椿が、今もうまくやっていることを知ってなんとも言えない気持ちになる。自分を今支えてくれているのは、バイト先でノーテンキな声を出してハルに話しかけてくれる翔多の存在だけだ。でも翔多も、椿との恋に破れたら、唯一の接点を失うことになるハルと、まだ喋ってくれるだろうか?

というような話です。
もう、これは相性が抜群だっていうことなんだろうと思うんだけど、やっぱちょっと朝井リョウの作品ってピッタリすぎる。この作家はホントに凄いなと思うし、今の作品ももちろん大好きだけど、これから成長していく過程でどんな作品を生み出していくのか、本当に楽しみで仕方がない。
本書を読むと、『一瞬』という言葉が強く思い浮かぶ。
朝井リョウの小説はどれもそうだけど、一瞬一瞬の連続として物語が成立しているように思う。こういう小説って、案外読んだことがないような気がする。
普通小説って、説明的な文章もあれば、人物紹介的な文章もある。物語を読者に届ける上で必要な要素としての、ただそれが存在することで『物語なんだな』ということが伝わってしまうような、そういう要素って必ずあるはずだと思う。
でも朝井リョウは、そういう小説の書き方をしないように思う。
朝井リョウは、主人公が感じる目の前の一瞬の切り取り、その連続として物語を生み出していく。今の一瞬を切り取る、そしてその10秒後の一瞬をまた切り取る。そしてさらにその10秒後の一瞬を切り取る。そういう切り取られた一瞬一瞬が、ふわりと積もる雪のように重なっていって、物語が成立しているように思う。
それって、結構奇跡的だなと思う。
朝井リョウが、というか各々の主人公たちが切り取り一瞬一瞬は、あまりにも切実で、あまりにも儚い。ぼんやりと何も考えているだけの人間には、今も10秒後も対して変化はないだろう。でも本書で描かれる人たちは、そうではない。必死さのベクトルや、その対象に違いはあるけど、みんなどこかを目指しているし、どこかを抜けだそうとしている。そういう人たちの一瞬は、一瞬ごとにめまぐるしく変化していく。朝井リョウは、その儚い瞬間を、サバンナで動物たちの決定的瞬間を絶妙なタイミングでフィルムに収めるカメラマンのように切り取っていく。
それがやっぱり凄いなと思う。
今まで、「桐島、部活辞めるってよ」「星やどりの声」と読んできたけど、僕が感じるそういう『一瞬の切り取りの連続』というベースは変わらないままで、作品ごとに描きだそうとしていることが変わっていくのも面白い。
「桐島~」は僕は、まさに瞬間芸とでも言うべき作品だったと思う。一瞬一瞬を的確に絶妙に切り取っていく、その積み重ねとして作品を成立させるという、少なくとも僕がこれまで読んできた小説にはなかなかなかったような斬新なやり方で、そのやり方だけを武器に物語を描いた。「桐島~」については、ストーリーがない、という批判を目にすることがある。実際その通りだ。でも僕は、だからこそあの作品の凄さが際立つのだ、と思う。一瞬の切り取り方、そしてその一瞬の積み重ね方の斬新さに、僕は衝撃を受けた。凄い作家が出てきたものだなと思った。
「星やどりの声」では、父親という一つの大きなベクトルに向って物語が編みあげられている感じがした。一瞬を切り取っていくことは変わらない。しかし「星やどりの声」では、切り取ったものの積み上げ方により主眼が置かれているように僕には感じられた。一瞬を切り取って積み上げていったものが何を形作るのか。
本書はどちらかと言うと、一瞬の切り取り方に主眼がより強く置かれているような気がする。本書は、「桐島~」に結構近くて、「桐島~」よりは大分あるけど、物語性はちょっと薄いと思う。でも、様々な切なさのベクトルを持つ様々なタイプの人間を描き分ける中で、目の前の一瞬の切り取り方がより絶妙になっていくような感じが僕にはした。
本書では、そうやって切り取られ積み重ねられる人物像というのが、やっぱり見事過ぎる。どの作品でも、朝井リョウが描く人物ってちょっと驚異的に素晴らしいと僕は思っているのだけど。
みんな、どことなく淋しいし、どことなく切ない。「桐島~」で朝井リョウは、高校生を描いた。高校時代というのは、まだギリギリ鈍感でいられる時代でもある。意識してバカでいられる時代だ。
けど、大学生になると、なかなかそうはいかない。将来を選ばなくてはいけないし、20歳が近くなる。本書で繰り返し出てくるのが、子供の頃20歳ってもっと大人だと思ってた、という感覚だ。それは、分かる。確かに自分が20歳になる時、20歳ってこんなもんなんだ、って思ったような気がする。子供の頃は20歳は大人に思えた。でも20歳の自分は、全然大人になったような気がしない。
彼らはそういう、具体的に何に悩んでいるのか判然としないような、でも確かに誰もがそこをくぐり抜けてきたよねと思えるような、そういう漠然とした曖昧さの中にいる。だから、色んな方向に振れるし、ブレる。進んでいる道の正しさを純粋には信じきれないし、自分がどこかに辿りつけるなんてこと、ありえないような気がしてしまう。
そういうバランスを欠いた人たちが切り取る一瞬は、実に多彩だ。そしてその多彩さは、朝井リョウの持つ豊かな言語表現に担保されている。朝井リョウの表現力には、本当に驚かされる。言葉ではなく、感覚として直接脳に染み込んでるんじゃなかと思うような表現が多い。文字を一旦頭の中で処理して理解するというプロセスを経ないで、文字を見た瞬間に脳内に何かはっきりとしたものが立ち上がるような、そういう感覚だ。これはきっと、相性の問題もあるのだろう。もしかしたら、朝井リョウが繰り出す表現を、僕と同じような感覚で受け取らない人もいるのかもしれない。でも、僕にはちょっとぴったり過ぎる。
一番驚いたのは、「もういちど生まれる」の冒頭の文章。ホント、どっからこんな文章が沸き上がってくるんだろう。そのセンスには、ちょっと嫉妬してしまう。
僕は小津安二郎の映画を見たことがないのだけど、僕の中の小津安二郎の映画のイメージは、特に明確なストーリーがあるわけでもなく、人々の日常をそのままそっくりカメラで撮ってみました、みたいな感じだ。そのイメージが合ってるのかどうか知らないけど、僕にとって朝井リョウはそういう作家だ。「星やどりの声」はかなりストーリー性のある作品だし、本書も「桐島~」と比べれば全然ストーリー性のある作品だと思うけど、でも僕は、朝井リョウの作家としての魅力のベースになっているのは物語性ではないと思っている。どの角度から、どんな人間を、どんなタイミングで切り取るのかという、その瞬間の切り取り方の絶妙さにこそ、朝井リョウの魅力はあると思う。僕が知らないだけかもしれないけど、なかなかこういう作家はいないと思う。本当に、驚異的な作家だなと思う。
個人的には、冒頭の「ひーちゃんは線香花火」が、ストーリー的にも抜群で素晴らしいと思った。最後の「破りたかったもののすべて」は、話としてはそこまで好きではないんだけど、でも登場人物の中で一番気になったのは、「破りたかったもののすべて」のハルかもしれない。「もういちど生まれる」では、「星やどりの声」と同じく双子が出てくるんだけど、朝井リョウは、決して対称にはなりえない双子(しかも姉妹)の、どうしようもない宿命みたいなものを描くのが凄くうまいなと思う。朝井リョウの描き方だと、双子ってモチーフはきっと描きやすいんだろうな、と思う。なんとなくだけど、そう思う。
相変わらず、朝井リョウの作品はちょっと素晴らしいと思いました。たぶんこの作家とは、相性の問題は結構大きいと思う。著者と感覚がどれぐらい合うかによって、感想がかなり変わってくるかもしれない。ドンピシャはまれば、ちょっと凄い読書体験になると思います。作家丸ごと好きという作家はそうそう現れ出ませんが、僕の中で久しぶりに、朝井リョウは作家丸ごと好きというタイプの作家だなと思います。是非読んでみて下さい。

朝井リョウ「もういちど生まれる」



ルポ資源大陸アフリカ 暴力が結ぶ貧困と繁栄(白戸圭一)

内容に入ろうと思います。
本書は、毎日新聞の記者として、2004年から2008年の4年間、南アフリカ共和国・ヨハネスブルグ特派員として、サハラ砂漠以南48カ国をたった一人で担当しながら、「暴力が結ぶ貧困と繁栄」をテーマに、かなりの危険を冒しつつ、アフリカに強く関心を持つことのない日本人に(これはかなり仕方のない部分があるのだけど)、アフリカにどうにか関心を持ってもらおうと奮闘し続けた記者によるノンフィクションです。

「格差が生み出す治安の崩壊 南アフリカ共和国・モザンビーク共和国」
南アは、かつて白人によるアパルトヘイトに支配された国であったが、アパルトヘイトは今はない。アパルトヘイト時代は、人種がすべてを決めた。その人種差別が撤廃され、南アに平和が訪れたかというとそうではない。南アは、日本とは比べ物にならないほどのとんでもない経済格差が存在し、それにより暴力や犯罪が飛躍的に増加しているのだ。
アパルトヘイト以後、黒人の間でもとんでもない経済格差が生じるようになった。アパルトヘイト時代にはそこまで広くはなかった低所得者たちが居住するキャンプは、アパルトヘイト以後その規模をどんどんと拡大し、キャンプは溢れかえった。そんな南アでは、富に最も容易にアクセスする手段として、暴力が氾濫した。個人による暴力だけではなく、組織犯罪も南アにはびこる大きな問題であり、強盗や人身売買が日常的に行われている。

「「油上の楼閣」からしみ出す組織犯罪 ナイジェリア連邦共和国」
ナイジェリアという国は、世界でも最も危険な国に挙げられている。FBIはナイジェリア人の犯罪組織を、「麻薬密売と金融詐欺を手がけるもっとも活動的かつ拡大傾向にある国際犯罪組織」として世界八十カ国以上でその活動を確認したと発表している。また「オンライン取引をおこなう上で最も危険な国はどこか?」という毎年行われている質問でも、31%という圧倒的多数の企業がナイジェリアを挙げている。今、ナイジェリア人による組織犯罪は、世界中に広がっている。
ナイジェリアの混乱の元になっているのが、油田だ。かつてナイジェリアは、輸出総額の25%をパーム油が占める世界最大のパーム油輸出国だった。しかし今は、輸出総額の90%以上を石油が占める、超石油依存の国に変貌している。
そのナイジェリアでは、自分たちの土地を勝手に掘られ油田にされ、用済みになれば見捨てられ、地元にはなんの恩恵ももたらさない油田開発に憎悪を抱く多くの貧しい人達と、石油産業によって莫大な利益を得る人々との間の格差や考え方の違いにより、様々な闘争が行われている。
複雑なのが、ナイジェリアの石油産業を批判し武力闘争をしているグループが、実は国や石油関連企業と手を組んで石油を密売して利益を得ているというような、複雑な事情だ。ナイジェリアの石油産業は、国内をズタズタにしている。

「「火薬庫」となった資源国 コンゴ民主共和国」
コンゴでは、武装集団による虐殺が絶えない。コンゴのありとあらゆる村に出没し、住民を虐殺していく。この虐殺の背景は、非常に複雑だ。この虐殺には、ルワンダ大虐殺に端を発する長い歴史が存在し、現在武装集団が住民虐殺を行う理由は、コンゴ内の情勢を不安定な状態で維持することで自分たちの利益を得るという、非常に不毛なものだ。
彼ら武装集団の資金源は一体なのか。そこに、アフリカと先進国を繋ぐ鍵がある。彼らの資金源となっているのは、コンゴに大量に埋蔵されている金などの鉱物資源だ。先進国で便利さや豊かさのために使われている様々な鉱物資源が、コンゴ国内における武装集団の資金源となっている。

「グローバリズムが支える出口なき紛争 スーダン共和国」
著者が任期中ずっと抱えていたテーマの一つが、スーダンのダルフール紛争だ。ダルフール地方の二つの反政府勢力が政府に反旗を翻したことから始まったこのダルフール紛争は、著者の任期中もずっと長いこと続いていた。
ダルフール紛争では、政府軍が民間兵の武装強化をし、住民を襲撃しているという事実がある。スーダン政府はその事実を公式には認めていないが、著者が実際にあった避難民たちは、スーダン政府が自分たちを襲撃していることは当然だと認識していたし、国際社会もそのように認識している。しかし著者を初め誰もが、なぜスーダン政府が大規模な住民への襲撃を行なっているのか、その理由についてはまるで理解出来ないでいた。
著者は、かなり危険な取材を決行する。なんと、密入国をし、スーダン政府と対立している反政府勢力と接触するというのだ。

「世界の「脅威」となった無政府国家 ソマリア民主共和国」
ソマリアという国が日本で問題になったのは、著者が南アでの駐在を終え日本で永田町での取材に追われるようになってからだ。ソマリア近海を通る船がソマリアの海賊に襲われるようになったというのだ。
ソマリアという国は、世界で唯一、中央政府が存在しない国、つまり無政府状態の国だ。国連なども撤退し、事実上地図上には存在しない国として扱われているような有様だ。国内は、様々な武装集団がはびこっており、暴力によって支配されている。
著者は、ソマリアの首都であるモガディシオに潜入取材を敢行することが出来た。そこで見た光景は、驚くべきものだった。政府が存在しない中民間で紙幣が刷られ、ネットカフェや携帯ショップが存在する。有志で集まった教師たちが学校を運営している一方で、世の中のありとあらゆる武器が露天で売られているという衝撃的な光景もあった。
ソマリアを取り巻く環境が激変した後、著者はもう一度モガディシオ入りを果たすことになる。

というような話です。
いやはや、これはちょっと凄すぎる作品でした!本書の凄い点は様々にあるのだけど、その中で一点だけ挙げるとすればこれだろう。それは、『恐らく、世界中に存在する本やメディアの中で、本書でしか知りえない事実が存在するだろう』という点だ。
著者は、『危険を顧みず』という表現が生ぬるく感じられるくらいの危険を冒し、普通行こうと思わないところに行き、普通会おうと思わない人に会いに言っている。著者はもちろん現地取材に加え、取材前に様々な資料を読むのだけど、どの資料をひっくり返してもどうしても書かれていない事柄を、あっさり取材相手から聞き出したりしている。本書で描かれていることの内、どの程度が「本書初の情報(というか正確には、毎日新聞誌上の連載初、なのだろうけど)」なのかはわからないけど、本書にはそういう情報が相当数あるのだろうと思います。
僕は先日、石井光太がナビゲーターを務め、ノンフィクション作家で元朝日新聞記者である松本仁一氏の話を聞く機会があった。松本氏もかつて朝日新聞記者としてアフリカに駐在したことがある人で、その当時の取材の様子などを色々聞くことが出来たのだけど、松本氏と本書の著者が共に共通しているのは、実際に現場を見る、という強い執念だ。
松本氏の話の中でも、その部分はかなり強調されていた。とにかく、現場を見なくては始まらない。本書でも著者は、普通だったらちょっと諦めるだろう様々な状況に乗り込み、果敢に取材をする。そこまで辿りつけさえすれば、それまで誰も知らなかった情報があっさり手に入る。しかし、まずそこまで行こうとも思わないし、行こうと思ったってひょいと簡単に行けるものでもない。時には国境を超えて密入国し、時には無政府状態の都市に入り込みギリギリの状態で取材をするという中で、著者はアフリカの現実を多数目にすることになる。
著者がアフリカを切り取るために用いた視点が、「暴力が結ぶ貧困と繁栄」だ。あとがきで著者は、この視点には限界があると告白している。確かにそうだろう。本書で描かれるような似たような環境にあるアフリカの国が、必ずしも同じ状況になっているわけではない、という事実がある。しかし著者は本書を書く上で、この視点にこだわった。それは一つには、僕ら日本人(だけではなく、基本的に世界全体)が、アフリカという国に関心を持っていないという事実がある。
著者はヨハネスブルグ特派員時代、あの手この手を駆使して紙上に自分の記事をねじ込む工夫をしなくてはならなかった。それは、やはり新聞紙面は国内・アメリカ・アジア地域の話が中心に載るわけで、アフリカの話に興味を抱く読者は少ない。そういう中では、世界で大きなニュースがあると、アフリカでどれだけ重大な出来事が起こっていても、アフリカのニュースは切られてしまう。そういう中で著者は、アフリカの現状が、どれだけ先進国と関わりを持っているのかということを切り口とすることで人々の関心を喚起できれば、と考えたのだ。
しかし、僕が本書を読んで一番に感じたことは、アフリカというのは国によってここまで違うのだな、という当たり前の事実だ。
僕は、新聞もテレビも全然見ない、情報はそれなりにネットから手に入れるという人間で、結構時事問題に関する知識は少ないという自覚がある。とはいえ、アフリカという国に関する知識度で言えば、日本人はそこまで誰も大差ないのではないかと思う。
どうしても、『アフリカ』という大きな単位で捉えてしまうことが多くて、個々の国でこれほどまでに違った現実があるのだと、本書を読んで初めて思い知らされた。アパルトヘイトによって解放されたはずの南アで、経済格差によって暴力が激増しているという事実は、南アでワールドカップが開催されたというごく一般的な認識からはかけ離れているものだし、僕らが生きていく中で使わないわけにはいかない石油や様々ま鉱物資源が、ナイジェリアやコンゴでの混乱や紛争を支えているという事実は、まるで知らなかったわけではないけど、本書で具体的にそれを知ることになってもの凄く驚かされた。スーダンが抱える内戦が、ルワンダ大虐殺という他国の出来事に端を発しているというのも驚くし、ソマリアという国が無政府状態であることも知らなければ、無政府状態下での人々の生活などはもちろん想像も及ばなかった。
しかも何よりも驚かされるのは、アフリカでこれだけとんでもない出来事が起こっているにも関わらず、日本に住む僕にはそれが情報としてまったく届いていないという事実だ。
もちろんこれは、僕自身の社会問題への無関心さもあるだろうけど、それに加えて、メディアがいかにアフリカについて報じないかというのが如実に現れるのだと思いました。エジプト革命の際、僕はネットでそれに関する情報を知ることは出来たけど、日本ではテレビでエジプト革命について報じられることはほとんどなかった、というような記述を見たような記憶があります。特に、石油や鉱物資源などが、アフリカの暴力と先進国の繁栄を直接的に繋げる存在であるという事実は、やっぱりもっと知られるべきだと思うのだけど、なかなか難しいのだろうと思います。
国際的に発表されている数字だけでは、あるいは僕らが普段見ているニュースだけではまったく想像も出来ないような現実が、アフリカを覆っています。本書を読んで思ったことは、僕らの生活を豊かにするものが、アフリカの人々を貧困や暴力においやっているのだ、ということです。正直なかなか、遠く離れたアフリカのことを意識することは難しいです。が、やはり無関心でいてはいけない、と痛感させられました。
最後に、全編に渡って非常に驚かされ、考えさせられる内容なのだけど、その中にあって、僕が一番気になった言葉を抜き出して終わろうと思います。これは、無政府状態のソマリアで、子どもに教育を施そうとギリギリのところで踏ん張っている校長の言葉。

『ソマリアの一番の問題は、子供たちが生まれた時から暴力の中で育つことです。ソマリアの子供たちは「法の支配」を知らない。意見の違いを銃撃戦で解決する社会で人間が育つということがどういうことなのか、あなたには想像できますか?』

凄いルポルタージュだと思います。是非読んでみて下さい。

白戸圭一「ルポ資源大陸アフリカ」



晴天の迷いクジラ(窪美澄)

内容に入ろうと思います。
本書は、以下では連作短編集っぽく紹介しますけど、長編です。三人の、現実をもがきながら生きている男女の生き様を描く作品です。

「ソラナックスルボックス」
由人は、東京でデザイナーとして働いている。とはいえ、華やかな世界ではない。ブラックに近い会社の中で、人間として許容してはいけないレベルの仕事に忙殺される毎日だ。
子供の頃、母の視線は常に兄に向けられていた。身体の弱かった兄は、誰かの世話をすることで自分の存在価値を見出そうとする母親によって、厚く厚く介護されていた。由人は、端的に言って母親から放っておかれた。由人に構ってくれるのは、祖母だけだった。しかし由人は、祖母から受ける愛情に今ひとつ飛び込めないでいた。
専門学校に通い始めた由人は、ミカと出会う。やがて付き合う関係になるが、就職後仕事に忙殺された由人は、あえなくミカに振られてしまう。
由人のいる会社はおそらく、もうすぐ潰れる。もうさすがに、限界のようだ。

「表現型の可塑性」
由人が働く会社の女社長である野乃花は、東京から遠く離れた漁港のある町で生まれ育った。子供の頃から絵を描くことに掛けては神童で、家がどうしようもなく貧乏だったのだけれども、担任の先生の個人的な伝手で、県議会議員の息子である英則から絵を教わることになった。
高校生だった野乃花は、英則に恋をした。初めての恋だった。
初めこそ絵画教室を持っている英則のところへ生徒の一人として通うという体裁だったのだけれども、次第に二人は二人だけで会うようになった。野乃花は、絵を描くことができれば、そして英則に触れられさえすれば、すべて満足だった。
野乃花の妊娠に気づいたのは、野乃花の母親だった。

「ソーダアイスの夏休み」
正子は成長するにつれて徐々に、母親がよそとはどうも違うようだと気づくようになった。
正子の母親は、正子の姉にあたる長女を幼くして亡くしていた。それが大きな契機となって、母親は正子の健康や交友関係に異様に干渉してくるようになった。ずっと幼かった頃は、それが当たり前だった。他の家の子と学校で少しずつ関わるようになって、初めてその違いを知ることになった。
母親の移行で友だちを家に呼ぶこともなかなか難しく、また門限を設けられていた正子には、友だちを作ることがまず困難だった。そんな時、同級生の男子との関わりから、彼の姉と親しくなるきっかけがあった。正子にとって、初めて親友と言える存在だった。
彼女との関係は、そう遠くない内に終わった。

「迷いクジラのいる夕景」
由人・野乃花・正子の三人は、何故か座礁したクジラを見に行くことになった。何故だろう。由人が強引に主張したのは確かだけど、何故この三人なのだろう。三人は、日光によってやけどしつつあるというクジラの皮膚を眺め、クジラのどこへも行けなさを自らに重ねていた。
クジラ対策に駆り出されている人の家に泊めてもらうことになった三人。彼らは成り行きから、『家族』としてそこにしばらく滞在する。

というような話です。
窪美澄の作品を読むと、必死で生きていた頃の自分自身のことを思い出す。
僕は、今こうして大人になってからは、割と穏やかに毎日を生きていけるようになったのだけど、昔はそうじゃなかった。哺乳類なのに水中で暮らすクジラみたいなものだ。時々水面に顔を出して呼吸をしないと、長いこと水の中にいることが出来ない。水中に居続けることが僕にとっては苦痛でしかなくて、でもクジラである僕は、決して陸では暮らせない。陸地というフロンティアの存在が自分の視界に入っていたかどうか、もう覚えていない。けど、たぶん見えていただろう。そこに僕は行くことはできないんだと、きっと思っていたに違いない。
魚類だったらよかったのにな、と思うことは何度もあった。
子供の頃、子供の世界の中をスイスイと自在に動き回れる人が羨ましかった。子供であることを最大限に活用している人がいた。無知故に自由な行動を取れる人もいた。あるいは、本当はクジラなのに自分のことを魚類だと実にうまく騙し込んでいる人もいた。
僕はそのどれにもなれなかったような気がする。
自分を魚類だと騙そうと思って、必死になっていたはずだ。子供らしさを活用できず、鈍感なわけでもなかった僕には、その手しかなかった。でも、これは結構辛かった。何が辛かったのだろう?本当はクジラであることを知ってもらえないこと?魚類であると偽ること?たぶんその当時は、言葉にしたことがなかったんじゃないかと思う。
僕は、本書で描かれる人たちにように、壮絶な環境に生まれ育ったわけではない。それなりにありきたりの環境で生まれ、特にしんどい事実を抱えているわけではない家族と共に生きていた。でも僕にはその生活が苦痛で苦痛で仕方がなかった。家族、という存在が非常に辛かった。いつでも叫びだしたい自分を抑えていたような気がする。あの頃の僕は、もうどんな時でも我慢ばかりしていた。
今思えば、僕の家族が悪かったわけではないのだろうな、と思う。恐らく、僕個人の個性の問題だ。でも、当時はそんな風には思えなかった。母親が、父親が、兄弟がダメだからこそ、僕はこんなに辛いんだ、そう思い込もうとした。
本書で描かれる人たちは、紛れも無く辛い家族を抱えている。僕のように、フェイクの辛さではない。誰かに語ることを躊躇してしまうような、本物の辛さだ。
家族というのは、何故だかよくわからない社会的な理由によって、一方的に切り離すことが出来ないという点が一番しんどい。自分の都合で選ぶことはできないし、自分の都合で勝手に離れることは出来ない。由人も野乃花も正子もみんな、家族との関わりに振り回され、その遠心力で人生の中心から振り飛ばされてしまっている人たちだ。
本書の主人公は由人・野乃花・正子の三人だが、物語の遠景には常に、『母親』という存在が立ちはだかる。
母親というのは、なかなか厄介な存在だ。僕は一生、母親というものを経験することはないだろうから、はっきりと実感する機会は恐らくないだろう。でも、様々な形で描かれる『母親のあり方』を読むにつけ、母親という存在の暖かさと同時に、母親という存在の難儀さもひしひしと伝わってくると感じます。
例えば由人は、母親にあまり関わってもらえない子供だった。母親の愛情は、初めは兄に、そしてそこからどんどん対象を変えるのだけど、結局由人に向けられることはなかった、その事実は、由人という人格を創り上げる上でとてつもなく大きな影響力を持った。
野乃花にとって母親というのは、自分のことだった。自分が母親になることなど、まだまるで想像もしてなかった頃に、子供が生まれた。野乃花が子育てをすることになる環境は、かなり孤独だった。周りに人はいるはずなのに、野乃花は子供と一緒に空間に閉じ込められているみたいだった。母親というのは、なんと困難な存在なのだろうか。
そして正子。正子にとっての母親は、立ちはだかる大きな壁だった。初めは、それが壁だと気付けないでいた。次第に母親の存在を壁だと認識できるようになると、その圧迫感におののいた。母親を飛び越えてその向こう側になど、到底たどり着けそうになかった。壁としての母親の存在は正子に、ありとあらゆることを諦めさせる負の装置として働いた。
僕にとって母親というのは、無言の圧力だった。僕に、何か言うわけではない。干渉してくるでも、叱咤するでもない。しかし、体中から『期待』という名の放射を放っているように僕には感じられた。その放射から、僕は逃れたかった。でも、実家にいる頃は、それが出来なかった。実家から離れてみてようやく、僕はホッとした。実家にいた18年間は、ホッとすることなどほとんどない生き方だったのだなと、改めてそこで実感した。
父親という存在は、家族という形態の中でゼロになることは出来る。もちろん、マイナスにもなりうるしプラスにもなりうるが、しかし父親はゼロにもなれる。母親は、無理だ。母親はゼロにはなれない。どうしたって、針はどちらかに振れる。それがプラスであれば、平穏だ。しかし、マイナスに振れることも当然ある。子供には、それを選ぶことは出来ない。後天的に対処可能な領域もきっとあるだろうけど、基本的には、運だ。
母親という存在が苦手な僕にとって、正子の母親の存在は、もう嫌悪感を抱かせるほどの醜悪な存在だった。一人子供を亡くしているというのは、わかる。わかるつもりでいたい。でもそれが、誰かを縛る鎖になってしまっては、全然意味がない。そういう意味では、由人の母親も似たようなものかもしれない。これは偏見だけど、子供が出来ると同時に(あるいは結婚と同時に)仕事を辞めるケースが多かっただろう一昔前の社会の中では、母親というのは子供の存在に何らかの形で依存することによってしか、自分の存在意義を確かめることは出来なかったということなのだろうか?
素晴らしい未来の可能性を強く望めば、人生というのは可塑性を持ちうるだろうか?
本書を読んで、このことを考えてしまった。
人生は、流動的だし不確定だ。しかし、完全にではない。僕等の未来は、過去の積み重ねによってある程度固着されるし、確定されていく。生きていくということはすなわち、可塑性をどんどんと失っていくということでもあるのだろう。
この、生きていくこと=可塑性の喪失というのは、生きていく上で非常に大きな足かせとなる。つまり、一度落ちると、元の場所に這い上がるのでさえ非常に困難なのだ。
本書で描かれる三人も、まさにそういう状況にいる。どこが分岐点だったのか、それは色んな見方があるだろう。しかしいずれにしても彼らは、底辺に近い場所で人生の可塑性が失われつつある。
この可塑性を取り戻す『何か』は存在するのか。
人生はいつの間にかスタートしているし、そしてそのくせ、走り続けてもゴールが見えてくるわけでもない。どこを目指したら、何をしたらいいのかよく分からないまま無為に走り続けて、いつの間にか可塑性を失っている。この環境は、彼らにとってのささやかな希望でさえ、一瞬にして絶望に変換させてしまう。そしてその事実こそがまた、人生に可塑性をさらに失わせることになる。
僕は昔から、『生きてさえいればいい』という考え方に、なんとなく違和感を覚えてしまう。本当にそうだろうか?
人生の可塑性を取り戻す何かがちゃんと存在するのであれば、『生きてさえいればいい』というアドバイスは有効だと思う。きちんとした社会では、それが成り立ちうるのではないか。わからないで勝手に書いてるけど、僕はそんな気がするのだ。
でも、今の日本はどうだろう?
由人はある瞬間、「この国はおかしくないか?」という疑問を立ち上らせることになる。
僕も、そう思う。
その「おかしさ」を、可塑性で表現することは出来るんじゃないだろうか。つまり今の日本は、人生の可塑性を取り戻すにはあまりにも困難な国だ、と。
そんな世の中にあって、『生きてさえいればいい』という意見に、僕は若干の疑問を感じてしまう。生きて、それで、どうすればいい?
僕は、自分が幸運だったという自覚がある。それは、今僕はちょっとした恵まれた環境にあるという自覚があるのだけど、しかしそれについてではない。今僕が不幸な環境にいるわけではない、というその事実に対して、僕は幸運だったという自覚がある。人生のどこかの瞬間で、ほんの少し何かが違っていたら、僕は容易にもっと辛い環境に押し込められていただろうと思う。
僕は運良くこうではなかった。でも、それはただ単に運が良かっただけだ。
僕は、運悪く辛い環境に身を置かざるを得ない人たちに、『それでも、生きていさえすればいいんだ』とは、なかなか言える自信がない。人生の可塑性が失われ続ける社会の中では、生きていけば行くだけ、辛い何かを次々と背負うことになっていくだろう。
座礁したクジラを助けるべきかどうか。作中で、そういう話が出る。もし海に返すことが出来ても、生き残れる可能性は結構低い。そのクジラにずっと付き添っていくわけではない僕たちが、「それでもクジラは生かしてあげるべきだ」というのは簡単だ。しかし、それは、本当に正しいことなのか?
ほんの僅かな可能性でもあれば、僕たちは常に、前に進まなくてはいけないのだろうか?前に進む努力を諦めてしまうことは、悪なのだろうか?
僕らは、どこだって歩いていけるはずだ。
そこに道がなくたっていい。
道しか通れないわけじゃない。
前に進めなくたっていい。
自分にとってのゴールが、常に前にあるとは限らない。
著者がこの作品を通じて伝えたかったことがなんなのか、それは僕にはわからない。『生きていさえすればいい』かもしれないし、まったく別の何かである可能性の方がきっと高いだろう。いずれにしても、僕はこんな風に感じてしまった。僕たちは、無数にあるはずの選択肢の中の、何故か選びとることが出来ない多くの選択肢の存在を忘れさせられているのではないか。人生の可塑性を取り戻す可能性は、そこにあるのではないか。
三人が、何故か座礁したクジラを見に行く過程で、それまでに絶望にピリオドを打とうとする過程を描いた「迷いクジラのいる夕景」は、やっぱり特に良かった。まったく別々の絶望を背負いながら、騙し騙し、どうにかこうにか生きてきた三人は、座礁したクジラに自分を重ねることで、何か悪いものが少し溶け出して行ったり、無理しすぎてトゲトゲしていた部分が丸くなったり、こだわっていた何かを諦めたり出来るようになる。それまでの三章で各人の生い立ちがきちんと描かれているからこその最終章であるのだけど、彼らの生い立ちが最終章でうまく混じり合い、融け合い、絡まり合っていく中で、少しずつ、自分が打つべきピリオドの形を見定めていけるようになる。ギリギリ炎が燃え尽きない、限界の直前をうまく引き出しているからこそ、彼らが踏み出すことになる一歩の偉大さが、胸に染み入ってくるのだろうなと思います。
「ふがいない僕は空を見た」で衝撃的なデビューを果たした著者。個人的な感想で言えば「ふがいない」の方が好きなのだけど、本書もやはり壮絶で凄まじい作品だった。本書を読んだある人が言ってたのだけど、かつて文豪たちが創作によって引き受けていた『絶望を描く』ということを、現代的な設定の中でここまで描き出せる作家は、窪美澄ぐらいしかいないのではないか、と。確かに、それはその通りかもしれない。
最後に、僕が好きなフレーズを抜き出して終わろうと思います。

『君がもし、人より優れた特別な何かを持っていたとしても、それをなんの加工もせずに、後生大事に抱えたままでは、まったく意味がない。この世界で生きていくためには、求められるように、その特別な何かを、自由に形に変えていくことのほうが大事なんだ。どんな環境にいたとしても』

窪美澄「晴天の迷いクジラ」

圓さん、天下を回る(升本九八)

内容に入ろうと思います。
宇部圓は、莫大な借金を背負いつつ、就職が出来ないままニートで居続けている女性。圓には、一般的にはまるで役に立たない特殊な能力がある。圓が何らかの経済活動と関わることで、その取引に関わった様々な背景をイメージとして見ることが出来るのだ。例えば、コンビニでチョコを買うと、そのチョコの原材料となるカカオを作っているアフリカの子供の光景が目に浮かぶ。圓は、謎の組織から逃げる過程で、とある集団に組み込まれ、圓の特殊能力を生かした仕事をすることになった。
神山厘太郎は、小学生ながらトレーダーで生活費を稼ぐ。両親は既にないが、厘太郎には、不合理なものを聞き分ける能力があり、その能力をフルに活用し、かつ自身が合理的な判断をすることで複雑な経済の世界を渡っていた。
その厘太郎は、梅園というとある有名な経済学の教授に教えを乞いたいとアポを取る。行動経済学を学びたいという厘太郎を突っぱねる教授だったが、教授が持っているという商店街の中のリサイクルショップ「輪廻堂」の共同経営者にならないかという謎のオファーを受ける。
金城銀次は、厘太郎が経営に関わることになった「輪廻堂」に何故かいた銀髪の男だ。金城はその世界でも有名なハッカーで、その技量を見こまれて梅園教授に引っ張られてきたのだった。
この三人は、それぞれの特殊能力を合わせて、ちょっとした裏事業に手を貸すことになった。しかしその過程で彼らは、日本経済が直面しているとんでもない問題を知り、その裏で暗躍しているだろう有象無象の存在を感知するのだが…。
というような話です。なんかなこうやって内容紹介すると、なんかつまらない小説っぽくなっちゃうなぁ。
この作品、案外面白かったです。全然期待しないで読んだんですけど、割と読ませる作品でした。
経済の話をメインに据えているんですけど、経済なんてホントパッパラパーで全然理解出来ない僕でも大丈夫でした。なんか難しそうな用語はちらほら出てくるんですけど、言ってることはそこまで難しい話ではありません。もちろんよくわからない部分も出てくるんだけど、でもそれがストーリー理解の致命傷になることはない感じで、だから結構誰でも楽しめます。
本書では、現在日本が直面している非常にまずい現状をモチーフにして、経済的な知識のない僕にはうまく判断できないけど、ある程度はリアリティのあるストーリー展開になっているのだろうと思います。
本書は読んでいると、小説としてそれなりにグイグイ読ませつつ、経済について結構知ることが出来る本だと思います。何故日本は借金だらけでどうにかなるのか、商店街の経済を活性化させるにはどうすべきか、ヒューリスティックとはどんなもので何故人間はそれに嵌まるのか、などなど経済的な面白い話が結構出てきます。個人的に僕は行動経済学とか結構好きで、そういう本を読んでたりもするので、なるほどなぁという感じがしました。厘太郎は、自分がこれまでやってきたことを否定したくて行動経済学を学びたいと願う。経済が感情で動くということが理解できず、合理的な判断を下せばそれが最も高い利益を得られるし、みなそう行動すべきだ、という風に考えている少年です。この少年が様々な経験を経てどう変化していくのかというのも面白い点です。
経済の話を軸にしてるけど、エンタメとしても結構面白いです。まさに行動経済学のように(笑)、感情や衝動によって物語がずずんと展開されていきます。なかなかハチャメチャな場面とかもあって、結構楽しませてくれます。後半は、とにかく圓の破天荒っぷりがもう面白くて、合理的に物事を考え行動する厘太郎には驚くような展開が連続します。なかなか小さな設定から始まった物語が、ラストかなり大きな展開になっていて、壮大な話になったなぁと思いました。
経済の話も難しくなく、エンタメとしてもなかなか面白く読ませてくれる、するするっと読むには楽しい一冊ではないかなと思います。読んでみてください。

升本九八「圓さん、天下を回る」


詩羽のいる街(山本弘)

内容に入ろうと思います。
本書は、詩羽という不思議な少女がいる街を舞台にした、四編の連作短編集です。

「それ自身は変化することなく」
飯塚陽生は漫画家志望で、新人賞にどうにか引っかかったものの、そこからまだデビューできないでいる。編集者にネームの書き直しを命じられているのだけど、編集者の言う通りに変えてしまうと、作品の魅力がまるでなくなってしまうように思えるのだ。
気晴らしに公園でスケッチをしていると、一人の女性を中心に、小学生五人ほどが群がってきた。どうも、最近人気のカードゲームのカードの交換会をしているようだ。その女性は、誰がどんなものを欲しがっているか、誰がどんなものを手放したがっているのかを完璧に把握し、すべての要求を満たすようなアクロバティックで複雑なやり取りをいくつも成立させていた。凄い人がいるもんだな、と陽生は思った。
「今日一日、デートしよ」
詩羽と名乗った少女にそう声を掛けられ、訳もわからないまま街を連れまわされることになった。詩羽は街中に知り合いがいて、そして先ほど見たカードの交換会のような要領で、色んな人の過剰や不足を采配することで、あらゆる人の欲求を満たすように行動していた。
そして驚くべきことに詩羽は、ここ数年お金を持ったことがないし、家もないというのだ。詩羽は、様々な事柄をマッチングさせるその報酬として、食べ物や寝る場所などを確保することで日々の生活を成り立たせていた。
陽生は目の前で、まるで奇跡のように物事を動かしていく詩羽を見ていた。

「ジーン・ケリーのように」
田神沙世は、自殺しようとしていた。中学の夏休みの半ば、沙世は首つり自殺をするための道具を買い込み、山へと向かった。もうこんな世の中、生きている価値なんてない。
まさに首を吊ろうというその瞬間に、なんだかよくわからないけど女性が斜面をすべり落ちてきた。詩羽と名乗ったその女性は、まさに首吊りをしようとしている沙世を見て、まあどんな生き方をしてもどんな死に方をしても自由だし、どうぞどうぞちゃちゃっとやっちゃってと、まともな大人とは思えないようなことを言ってきた。いつの間にか詩羽の勢いに巻き込まれていた沙世は、首吊りは死体がかなり汚いからいい薬を裏ルートで手に入れてあげると言って、沙世の自殺を一日先延ばしにさせた。ちょうどその日流星群を見る計画を立てていた詩羽は、沙世をそこに呼ぶことに…。

「恐ろしい「ありがとう」」
長船紘一郎は、嫌がらせが趣味だ。ネットの掲示板を荒らす、ブログを炎上させる、コンビニのカップラーメンの底に穴を空ける、図書館の本の最後のページを切り取るなどなど。絶対に自分の犯行であると露見することのない嫌がらせを思う存分やり切るというのが、長船にとって唯一と言っていいほどの気晴らしだった。自分の嫌がらせに右往左往している人間を想像するだけで憂さ晴らしが出来るというものだ。
しかしある日、長船の環境は一変することになる。詩羽と名乗る女性が突然紘一郎の元へとやってきて…。

「今、燃えている炎」
諸事情あって、内容紹介を省略しよう。

というような話です。
いやはや、これはもうべっらぼうに面白かった!!山本弘ってSF作家っていうイメージが強くて(デビューなんかはラノベ方面なんだろうけど)、何作か読んだことがあるんだけど、好きなんだけどSF作品特有の難しさみたいなものもあって、自分の中で「これは凄い!」ってところまで行かない作品が多かったんだけど、この作品はもうハチャメチャに面白かったです。本書の解説は有川浩なんだけど、まさに有川浩作品が好きな人には間違いなくドンピシャだと思うし、エンタメ作品としてウルトラ面白いと思いました。とにかく何にしても、詩羽のいる街に住みたくなる!ってか詩羽に会いたいなぁ。
「それ自身は変化することなく」の内容紹介でチラッとネタバレ的なことをしちゃってるんだけど、これを伏せたままだと感想がちょっと書けないし、それが予め明かされていたからと言って読むのにそこまで支障はないと判断したんだけど、詩羽というのはとにかく、お金も家も持たずに生活しているんですね。
これが、山奥で仙人のような生活をしているっていうなら分かる。実際に山奥で仙人のような生活が出来るかどうかはわからないけど、文明社会から離れて暮らせば必然的にお金というものとも関わらなくなるだろうと思う。
でも本書で描かれる詩羽は、そうじゃない。ちゃんと文明社会で暮らしているし、身体を売ったりしているわけでもないのだけど、お金も家もないまま生きている。
解説で有川浩がこんな表現をしている。

『詩羽は「奇跡」に魔法を使わない』

まさにその通り。詩羽は、まるで魔法のような形で、お金も家もない生活をもう何年も続けている。しかしそれは、決して魔法ではない。詩羽にはちょっととんでもない能力が備わっているのだけど、発想だけで言えば僕らでも実践可能なレベルの事柄だ。それで詩羽は、奇跡を起こす。その奇跡の恩恵をお金以外の形で受け取ることで、詩羽は生活をしている。
この詩羽の生き方の発想は、これから生活していく中でリアルに必要になっていくのではないかと思います。
詩羽の能力というのは、ある小さな社会の中で、何かが足りない人のところに誰かが余らせている何かを、誰かが必要としているサービスをその能力を持つ人にやってもらうというような、高度なマッチングです。これはただ、AさんとBさんの間のマッチング、というような生半可なレベルではない。例えば、AさんとBさんの過剰でCさんの不足を埋めるとか、Aさんの不足をBさんが、Bさんの不足をCさんが、Cさんの付録をAさんがとか、そういう非常に複雑なマッチングも次々と成立させていく。
こういう説明だとわかりにくいだろうから、一例を挙げます。
本書の中に、スーパーの余り物でもう捨てるしかない野菜を使って料理を出すエコな店がある。オープン前、こういう店を作りたいんだと詩羽にこぼしたところ、すぐにスーパーの店長と話をつけて棄ててしまう野菜をもらえることになった。さらに、やはりその店でもすべての食材を使い切ることが出来るわけではない。余った野菜は肥料にする。さてここで、別の人が出てくる。切り売りされた土地のうち建物を建てるにはどうも微妙で持て余している土地を持つ人と、定年退職をした人で農業でもやりながら過ごしたいという人を詩羽はマッチングさせた。店の廃材で作られたその肥料は、その農業者の元へと渡され、さらに彼が作った野菜がその店の料理に変わる。
具体的に詩羽がやっていることを挙げると、こういうことだ。
これって、小さな社会を成立させるためにもっとも重要なポイントなんじゃないかな、と僕は強く感じました。日本、という大きな単位がなかなかうまく成り立ちにくくなってきた世の中にあって、地方分権なんかを含め、より小さなコミュニティが機能し始める、そんな実例が増えてきているような気がします。そういう中にあって、詩羽ほどの卓越した能力を持つ人間がいなくても、詩羽のしていることを行政の仕組みとして取り入れ、一人ではなく多くの人によって成り立たせることが出来るシステムに出来るとすれば、非常に強いと思うんですね。もちろん色々難しい点はあるんだろうけども。
解説の有川浩はこう書く。

『だが、「奇跡のシステム」を使いこなすには才能が要る。詩羽自身も自分がその才能に優れていることを認めている。
詩羽のような才能を持ち得ない私たちが、現実に奇跡を持ち帰ることは難しいかもしれない。
しかし、そのシステムを「知っている」ということは、私たちの人生を大いに豊かにするだろう。』

読んでいる間、僕もまさにまったく同じことを考えていました。そう、詩羽の能力は、なかなか真似出来るものではない。けれども、詩羽のような発想でお金を持たずに行きていくことが出来るのだ、という可能性を知っておくことは、非常に重要だし、それをただの可能性ではなく現実に変えていくことが出来るのも、まずこのシステムのことを知っている人ではないだろうかと思います。
本書を読んで僕は二つのことを思い出しました。
一つは、坂本恭平「TOKYO 0円ハウス0円生活」という本。この本は、著者が「鈴木さん」というホームレスと出会ったことから生まれた作品で、様々なホームレスの生活をフィールドワークすることで、理想の家とは何か、ということを追求している作品です。
作中で取り上げられている「鈴木さん」というのは、まさに0円生活の達人です。多少現金収入のルートがあるんで完全に0円生活というわけではないのだけど、詩羽が人と人を繋げることでタダで生きているのに対して、「鈴木さん」は生活上のありとあらゆる創意工夫によって、お金を極力使わないで生活をするという生き方を選択した人だ。作中で描かれている「鈴木さん」の描写を読んでいると、僕より生活力がある人だと思うし、この人はきっとホームレスの社会を離れても成功する人なんだろうなという感じがしました。そういう人がホームレスを自発的に選択して生きているというのが凄く面白かったなと思います。詩羽の生き方とはまるで違うのだけど、ちょっと連想しました。
もう一つの連想は、鎌倉に行った時の出来事。あるごはん屋さんでご飯を食べたのだけど、その店のチラシに面白そうなイベントが載っていました。正確なことは忘れたのだけど、協力してくれる店舗を周辺からかき集めて、お金を介在させないで経済活動をしよう、というようなものでした。一例を挙げると、フリーマーケットを開くんだけど買い物は物々交換でとか、呼び込みをある一定時間やってくれたらこれをサービスしますよとか、そういうお金以外のやり方でサービスを受けることが出来、お互いに利益を得ることが出来る、というような感じのイベントが書かれていて、実際にそのイベントに行ったわけではないのだけど(確か行った時にはまだやってなかったんだよな)、これは面白いなぁと思ったのでした。こっちの話はちょっと、詩羽の生き方に通じる部分がありますよね?
本書を読んで強く感じさせられたのは、『お金ってなんなんだろう?』ってことでした。
僕個人は、お金に強い執着はありません。生活していくのに不自由のないお金さえあれば、後はそこまで高望みはしないし、お金に釣られて(例えば「安いから」とかそういうのでもいいんだけど)何か行動をするということが本当に少ないです。正直お金持ちにはなりたくないと思っているし(お金をたくさん使えるというメリットより、お金をたくさん持つことによる様々な面倒くささというデメリットの方が、僕の中では大きい)、詩羽のようにまったくなしで生活することは今の僕には無理としても、なくてどうにかなるなら別にそこまで強く欲しいとは思わないという感じです。
お金っていうのは、人を幸せにするのかなぁ?
僕には、お金のあるところには争いがあるような気がします。もちろんそうではないことも多々あるでしょうけど、争いの大きな原因の一つに、間違いなくお金を挙げることは出来るだろうと思います。争ってまでお金を手に入れて、それで本当に幸せになれるんだろうか?という疑問が、僕の中にはどうしてもあるんですね。
本書を読んで、こんな風にも考えてしまいました。お金っていうのは、誰かと直接繋がらなくても生きていけるように存在するものなのかな、って。
実際お金がないことを想像してみたら、何か買おうとする度に物々交換の交渉をしなくてはいけないし、そもそも給料を支払うみたいな感じにはならないだろうから、みんなが色んなものを共有しつつ、お互いのことを考えつつ消費をしていく感じになる気がします。それって、もの凄く他の人との関わりが増えますよね。お金ってものが存在することで、僕らはほとんど誰かと煩わしいやり取りをすることなく、何かを手に入れることが出来るわけです。
本書を読んでいると、お金のそういう側面が凄く残念に思えてきます。詩羽には、貨幣経済を否定してやろうぜい、とか言った思想はないだろうけど、詩羽はお金以外の形で様々な人を繋げていくことで、お金の持つ「より人と関わらなくても済む」という要素を強く否定することになります。本書を読んでいると、お金で手に入れたものと、そうではない形で手に入れたものとでは、たとえそれがまったく同じモノやサービスであったとしても、たぶんまったく違った印象になるのだろうな、という感じがします。
『生きること』について考えさせられる作品というのは、結構多い。生と死というのは小説の中でも非常に大きなテーマの一つだからだ。でも本書は、『生活すること』について凄く考えさせられる。この『生活すること』を強く考えさせる小説って、なかなかないような気がするんですよね。そういう意味でも本書は、かなり斬新で非常に重大なテーマを扱った作品だなという感じがします。
4つの短編同士は、もちろん設定を同じくする話なんだけど、話ごとに視点人物が変わるので、話はそれぞれで独立している。でも、短編同士の繋がりがいくつもあって、巧いこと書くなぁ、という感じがします。
どの話も凄く面白かったんだけど、個人的には「ジーン・ケリーのように」が結構好きかなぁ。ストーリーとして非常によく出来ているのは最後の話だと思うんだけど、この「ジーン・ケリーのように」の話では、詩羽の能力がある種の経済活動以外にも抜群の力を発揮するという描写が巧いと思うし、自殺しようとしていた少女の心の揺れや、そこに詩羽が入り込んでいく過程など、色々見事だったよなぁ。冒頭の「それ自身は変化することなく」は、詩羽の神憑った生活っぷりを具体的に知ることが出来るのが面白いし、三番目の「恐ろしい「ありがとう」」は、有川浩の解説中の「これほど清々しい「悪意に対する勝利」は他にない」という表現がまさにぴったりで見事だし、一番最後の話はちょっと理由があって内容紹介はしなかったけど、作中で出てくるあるオリエンテーリングが非常によく出来た設定で、ちょっと設定を変えれば福本伸行「カイジ」で題材として使えるんじゃないかな、と思ったりしました。
今の疲れた日本で生きていくための希望を与えてくれる作品ではないかと思います。本当に本書はオススメです。是非読んでみて下さい!

『彼女にはお金はない―でもその代わり、生きてゆく力はたっぷりくれるよ』

『すべての人間の共通の目的な、幸福に生きることです。何が幸福かは人によって違いますけどね。でも、少なくとも不幸になることを望む人はいないはずです。
ところが、いつの間にか「今まで通りの生き方を続けること」が人生の目的になってしまっている人がいるんです。』

『「何で誰もこれに気がつかないんですかね?べつに綿菓子のサイズが法律で決まっているわけじゃないのに」
「さあ、「綿菓子はこういう大きさのもの」っていう、根拠のない思いこみに縛られてるんじゃない?」』

『本当は人間はみんな、自分の人生を変える力は持ってるはずなんです。ただ、「変わるわけがない」「変えたくない」って、理由もなしにそう思ってるだけなんですよ』

『だから愛とか正義なんか関係ないです。そんなお題目で人間は動かせません。協力し合う方が得だって気づかせればいいんです』

山本弘「詩羽のいる街」



ホームグラウンド(はらだみずき)

内容に入ろうと思います。
就職した不動産会社で営業マンとして苦戦にあえいでいる辻本圭介は、自身の祖父が所有する広大な土地を賃貸マンションや駐車場に変えようという提案と共に、祖父・雄蔵の顔を時折見に行っていた。
圭介の母親は、雄蔵と仲が悪かった。
高校時代に妊娠し、駆け落ち同然で結婚した母・由紀子は、高校生で妊娠したことで激昂した雄蔵とやり合い、以後ほとんど実家には寄り付かなかった。そのため、圭介も雄蔵と関わりあった記憶があんまりない。ほとんど他人のようなものだ。
広大な土地の四方を高い塀で覆い、周辺住民と関わりのない雄蔵は、周囲で嫌われ者だった。連れ合いを去年亡くし、畑仕事にも身が入らなくなりその広大な土地を遊ばせてしまっている状況に、圭介は目をつけたのだ。
実際雄蔵は、ある時まで圭介の話に乗り気だった。しかし先ごろ脳溢血で倒れて以来、どうも雄蔵の態度が変ってしまった。どんな変化が雄蔵の中で起こったのか、圭介には窺い知ることが出来ない。
雄蔵宅へとよく一緒に足を運んだ会社の先輩・春菜と共に、その後も雄蔵宅へと話をしに行くが、やはり雄蔵はそれまで乗り気だった計画に興味を失ってしまっているように思える。
そしてやがて、雄蔵は語った。去年亡くした連れ合いが言っていた不思議な話、そして脳溢血で倒れた時に経験した出来事。そして雄蔵がこれから、何をしようとしているのか…。
というような話です。
これはいい小説だったなぁ。まさかこんな切り口でスポーツ小説が成立するなんて、想像も出来ませんでした。
本書は、一言で表現すると、『サッカーボールの出てこないサッカー小説』という感じです。
疑問に思う方は多いでしょう。僕がさっき書いた感想には、サッカーのサの字もなければ、スポーツ小説らしい要素はまるでない。
それでも本書は、紛れもなくサッカー小説なのです。
僕は本書を読んで、二冊の小説を連想しました。
一冊は、古内一絵「快晴フライング」。舞台は、水泳部が廃部寸前の高校。その水泳部でエースだった、しかし人付き合いの悪い主人公は、水泳部を廃部にしないためにまず部員集めをするところから始めなくてはならない。しかも、高校にはプールが存在しない。そんな状況の中、市民大会での優勝を約束してしまう、という話。部員もいないし、練習する場所もないしで、物語の三分の二ぐらいはまったく水泳をしない、という斬新なスポーツ小説。
そしてもう一冊は、渡辺健「遺言状のオイシイ罠」。同じアパートに住む男女四人は、先ごろ死んだ大家からの遺言で、4000坪の土地を相続できることになった。しかしそれには一つだけ条件がある。その4000坪の土地は、木や畑など様々な自然に溢れているのだが、四人で力を合わせて最低でも五年間は農業を続けること、というものだ。そこで四人は、どうにかして手抜きして相続条件を満たすだけの農業を適当にやろうとするが…、という話。状況は大分違いますが、なんとなく雰囲気が近かなぁ、と。
ますますどんな小説か分からなくなったでしょうか。
本書は、冒頭から引き込まれる。引き込まれるというか、親身になれる、と表現するべきだろうか。
冒頭では、サッカー少年が出てくる。しかしこのサッカー少年、サッカー遊びをする場所を見つけられないのだ。
学校のグラウンドは不審者対策で土日は申請しないと使えない、マンションの中にはでは何故かサッカーが禁止にされていた。近くの公園や、ちょっと遠くの広場には、サッカーのような危険な球技は禁止、と立て札がある。
父親と一緒にサッカー遊びが出来る場所を探している少年。彼はただ、ちょっとボールと戯れたいだけだ。しかし、そのちょっとを実現してくれる場所が、近くにまったく存在しない。
これは、東京の話ではないのだ。本書の舞台はたぶん千葉だと思うんだけど、そういう東京などの都会ではない場所であっても、今やそういう環境になってしまっているのだ。
僕は静岡の田舎出身だけど、小中高ともグラウンドへの出入りは自由だったはずだし、近くには特に目的があるわけでもない、でも球技が禁止されているわけでもない空き地が適当に点在していた。僕自身は(静岡出身であるにも関わらず)まるでサッカーに興味がなかったし、野球にも他のスポーツにもさほど興味がなかったですけど、それでも放課後グラウンドで友達とバスケをしたり、近所の空き地で缶蹴りをしたりしたものです。
今はそういう環境がことごとく奪われてしまっているのだなぁと、今の僕にはなかなか実感することのないことを冒頭でガツンと思い知らされました。
本書には、こんな文章が出てきます。

『その姿を見て、和彦は自分の愚かしさを感じた。自分はこれまで子どもには、晴れた日はゲームなどせずに外で遊べと繰り返し行ってきた。でも、どうなのだろう。それはある意味では、子どもに無理難題を押しつけていただけなのかもしれない。携帯ゲームやカードゲームに興じる子供たちを不思議がる大人は少なくない。でも子供がそういう遊びに走る理由をつくってきたのは、大人ではなかったのか。』

僕は、『自分で何か選ぶことが出来ること』こそが、ある種の『未来への可能性』そのものだ、と思っています。無数にある(ように見える)選択肢の中から、自分がそれを選び取ったのだと実感できる環境。それこそが、未来への新しい扉を開く鍵なのではないか、と。
しかし今子供たちは、現実的にその環境を手に入れることが出来ないでいる。もちろん、サッカー以外のことであれば、不自由なく遊べるのかもしれません。でも、少なくともその周辺で暮らす子供たちの思考から、『サッカー』という選択肢は消える。そうやって大人たち(僕もその一人かなぁ)は、子供の選択肢を少しずつ削り取っていく。
とある公園に『サッカーなどの危険なスポーツは禁止です』という立て看板を見つけた父親は、同じ敷地内に『子供は地域の宝物』という看板を見つけて苦笑する。大人たちは、『どんな場所』から『どんな子供たち』のことを『見て』いるのだろう。
この冒頭のやり取りだけで、僕は結構惹きこまれてしまった。別に子供がいるわけでもない僕がそう感じたのだから、子供のいる親にしてみたらさらに共感の度合いは高いのだろう。
そこから、『サッカーボールの出てこないサッカー小説』が本格的に始まる。
恐らくここまでの流れで大体予想出来るだろうから書いちゃうけど、本書は、雄蔵が所有する広大な土地を、芝生を植えサッカーの出来る場所にしよう、と目論む人びとの話だ。つまり本書は、『サッカーをする場所をどう生み出すか』という小説なのだ。そりゃあ、サッカーボールも出てこないわけだ。
何故雄蔵はサッカーグラウンドを作ろうと思ったのか。その理由には、なかなかに深い背景がある。
それが本書を、スポーツ小説としてではない、家族小説としてのサッカー小説、という実に変わった作品に仕立て上げている。
雄蔵自身は、サッカーと関わりを持ったこともなければ、サッカーの試合を見に行ったこともない。圭介がサッカーをすることだって、土地利用の話で圭介が雄蔵の元を訪れるようになってから知ったことだ。それぐらい雄蔵とサッカーは縁遠い。そんな雄蔵は、あることをきっかけにして、サッカーグラウンド作りの計画を着実に実行に移していく。
その背景には、不仲のままである父・雄蔵と、娘・由紀子の歴史が横たわっている。
雄蔵が自らの土地にサッカーグラウンドを作る。確かにそれは大きな変化だが、しかし誰かの人生を、特にその土地利用を手がけることで営業成績を上げようとしていた圭介の人生を大きく揺さぶるほどの影響力を持つわけはない。普通はそう思うだろう。
しかしこの雄蔵の行動は、圭介だけではなく、他の様々な人間の人生を変えていくことになる。
雄蔵にとっても由紀子にとっても、そしてそれまで何も知らないでいた圭介にとっても、雄蔵と由紀子の不仲に関わる事柄は、人生の中で無視できないだけの存在感を持っていた。しかしそれは、ずっと平行線を辿ったまま、圭介が就職し働き出すだけの時間が経過しても何も変化しなかった。
雄蔵の土地改変計画に触発されて変わった人々は多い。その筆頭はもちろん圭介だが、圭介と共に雄蔵宅を訪れる機会の多かった春菜についてもそうだ。春菜の変化が最もよく表現されている箇所があって、そこの『そういう自然のにおいを嗅いでいると、生きてる気がするじゃない』って感想は、なるほどなぁ、という感じがした。雄蔵は、とある個人的な目的のために、自らの土地をサッカーグラウンドに作り変えようとしているだけだ。しかしその行動は、様々に波及的な影響を与え、広がっていく。
圭介は土地改変の過程で、少しずつ自分の生い立ちを知ることになる。圭介は、サッカーなどまるでやらない両親に育てられ、そしていつの間にかサッカーをするようになっていた。きっかけを思い出せない。何故雄蔵と由紀子の仲が悪いのか、由紀子は冴えない父親である修司のどこに惹かれたのか。これまで疑問に感じつつも特に追求する必要性を感じていなかった様々な疑問に、様々な形で答えが与えられる。
その過程を描くことで、本書は家族小説として成立している。祖父が広大な土地をサッカーグラウンドにしようとしている。その突拍子もないアイデアから、家族の歴史が浮き彫りになっていく。
本書は、子供の抱える窮屈さから、老人の不安や孤独までを、サッカーというものをベースとして語る。サッカーの練習をするわけでも、サッカーの試合をするわけでもなく、ただサッカーをする場所を生み出そうとすることが、これだけ豊かな物語になるのだなぁ、と凄く感心しました。それなりにスポーツ小説を読んできましたけど、本書はかなり変わった形で作中にサッカーを取り込んでいて、凄く面白いと感じました。
最後の展開は、まあ色んなことがトントン拍子に進みすぎている感じもする。でも、その結果そのものが重要なのではない。自分の人生を見つめ、他人を受け入れていく中で、多くの人たちが自分の可能性を広げていく。そこに、希望を見出すことが出来る、という意味で、順調に進みすぎているあれこれも良く見えてきます。

『見てみろ、ここが、おまえの遊び場だぞ』

雄蔵が呟くこの台詞を、僕はなんだか凄く力強く感じました。
本書で描かれる人びとは皆素敵だ。特に僕は、修司の存在が素晴らしいと感じた。修司は、これまで圭介がずっとそう思っていたように、うだつのあがらない特にこれというところを見出すことが出来ない男だ。しかし、その修司の印象は、ある瞬間から一変する。修司の生きていく上での強さ、みたいなものを圭介は垣間見ることになる。
雄蔵の土地改変の話と繋がらないわけではないけど、そこから少し離れたところで少しずつ色んなことが描かれていく。少しずつ変わっていく大人たちの有り様が面白く描かれている作品だと思います。
本書は、冒頭でも書いたように、非常に変わったスポーツ小説です。練習するでも試合するでもないサッカーを描くことで、家族という非常に大きなものが描かれていきます。その設定の斬新さと、登場人物たちに注がれる眼差しの素敵な小説です。是非読んでみてください。

はらだみずき「ホームグラウンド」



謎の1セント硬貨 真実は細部に宿る in USA(向井万起男)

内容に入ろうと思います。
本書は、宇宙飛行士である向井千秋の旦那である向井万起男氏による、固い言い方をすれば「アメリカ文化論」とでも言えるようなエッセイ集です。
著者がこの本を書くことになる最初のきっかけになった出来事をまず書こう。
宇宙飛行士である妻に会いに、著者はよくアメリカに行き、奥さんと二人で持ち前の好奇心を発揮して色んな場所に出かける。そんな夫婦がある時飛行機の中で、ちょっとした出来事に遭遇した。
その日がクリスマス・イブでなかったら、この本は生まれなかったかもしれない。
客室乗務員の一人が、エコノミークラスの乗客に向って、こんな提案をした。
「ファーストクラスのお客様に出すシャンパンが余ったので、どなたか一名に差し上げます」と。ノリのいいアメリカ人の乗客は、大騒ぎでノリノリだ。
さらに客室乗務員の話は続く。
「どうやってお一人を選ぶか考えたのですが、一番古いペニー(1セント硬貨)を持っている方に差し上げます」と。
するとその瞬間、財布の中を見たわけでもない乗客の一人が、「シャンパンは俺のものだ!」と叫んだ。
日本人である著者らはもちろん、アメリカ人の乗客にも何がなんだかさっぱり分かっていない模様。
説明を聞くと、どうもこういうことらしい。1セント硬貨は、今は亜鉛で作られているけど、昔は銅で作られていた。しかし戦争で銅が不足したため、戦時中は鋼鉄で作られた、というのだ。スチール・ペニーと呼ばれているその1セント硬貨を持っている、ということのようだった。もちろんシャンパンはその乗客のものとなった。
しかしここで著者は、持ち前の好奇心が疼いてしまう。スチール・ペニーは1943年にしか作られなかったらしいけど、他の都市には作られていないのか、スチール・ペニー以外の呼び名はないのかどうか、などなど。
日本に帰ってから、スチール・ペニーについて書かれているサイトを見ていた著者は、そのサイトにメールを送ってみることにする。自分のくだらない質問なんかには答えてもらえないかもしれない、という不安は払拭され、実に丁寧な返事が返ってきた。
そこで著者は、味をしめてしまった。アメリカのサイトにメールを送れば、アメリカ人はどんな質問にでも答えてくれるのかもしれない。
元々書籍化する予定はなく、完全に自分の趣味でやっていた「アメリカのサイトへのメールでの質問」を、最終的に書籍化したのが本作です。
以下ざっと、著者がどんな対象に興味を持ったのか、という部分についてだけ、各章ごとの内容を書いてみようと思います。

「奇妙な数字」
合衆国憲法には、「14年間にわたって合衆国住民ではない者は大統領に選ばれる資格がない」と記載されている。何で「14」なんて中途半端な数字なんだろう?

「巨大な星条旗」
著者がアメリカで車を走らせている時に気づいた事実がある。「何故トヨタの販売店は、バカでかい星条旗を店の前に掲げているのか?」

「空を見上げたポパイ」
ポパイの像があると聞いてやってきたクリスタル・シティ。しかしそこには、日本人にとっては無視できない歴史的な事実があった。それに関する疑問。

「い~い湯だなin USA」
スポーツクラブに通う妻と共に汗を流した後、お風呂に入る。アメリカ人も入る。しかしアメリカ人と日本人ではどうも、お風呂に入る(温泉に入る)ことの意味合いが違うようだぞ?

「黒い革ジャンの少年たち」
ハンク・アーロンというのは、大リーグの歴史を、そしてアメリカの歴史を語る時に誰もが口にする偉大な黒人選手。そのハンク・アローンが子供時代に練習したというカーバー球場を見に行こうとそれがあるという町まで向かうも、町の住人は誰もカーバー球場の場所を知らない。何故?

「100万匹わんちゃん」
ドライブが好きな夫婦は、アメリカの道路でよく動物が轢かれて死んでいるのを見かける。それについてある友人から、「アメリカ人は、飼っているペットが要らなくなると、車から落として後ろの車に轢かせるんだ」という話を聞く。本当だろうか?

「制服を着ている人々」
妻が、空港には6時間前に来て人間観察をしているというちょっと変わった夫のために、ちょっと面白いものを見せてあげると言って空港に連れてきた。確かにそこは面白かった。職員が皆制服を着ていないのだ。他にもサウスウエスト航空は、なかなか他の航空会社にはない斬新な取り組みをしている。どうしてそうなっているのか、ちょっと気になるじゃないか。

「シンデレラの暗号」
アメリカで生活する妻から、アメリカのスーパーはおかしい、という話を聞く。例えば、卵1個の値段と、卵6個パックの値段では、卵1個辺りの値段は変わらない。また、同じ商品なのに違う値段がついている。時には、バラで買うよりセットで買う方が値段が高くなるというのだ!何でそんなことになっているのか。

「キルロイ伝説」
あるトイレで、アメリカで最も有名な落書きを見つけた著者。それは、第二次世界大戦中、兵士たちが世界中のあちこちに書きまくったという”Kilroy was here”というもの。著者は前からこの落書きについては知っていたけど、具体的には知らない。「キルロイ」とは誰なのか、何故みんなが同じものを書くようになったのか…。

「マクドナルド万歳!」
基本的に白いご飯がないと食事にならないという和食党の著者は、しかしアメリカで渋々マクドナルドに行く機会が増えた。これは、マクドナルドしか行ける場所がない、ということではない。そうではなく、マクドナルドの店舗がある特殊な設計になっているため、非常にお世話になっているから何かお返しをしないと申し訳ないかもしれない、という気持ちからなのだ。それは、アメリカのマクドナルドは、店内に入ると店員に見つかることなくトイレに直行できる、というものだ。これはマクドナルドが意識してそうしているのだろうか?

「勝手にしやがれ」
アリゾナ州は夏時間を使っていない、という話を耳にした著者は、アメリカにおける「夏時間」と「標準時間」の複雑さに興味をもつことになる。

「ヒューストン市警の対応」
かつて100%相手側が悪い自動車事故の歳に驚愕の対応をされたヒューストン市警。そのヒューストン市警に著者は、長年疑問だったスピード違反者への取り締まりに関する疑問を投げかけることに。

「オザーク高原のイエス・キリスト」
アメリカの歴史の中で特異な存在を持つジェラルド・L・K・スミスという人物が、著者が割とよく行く町にイエス・キリストの像を建てたということを知り、俄然興味を持つ。著者はこの、ジェラルド・L・K・スミスという人物について詳しく調べることに。

「ニューヨーク市への忠告」
妻が驚愕の情報を仕入れて来た。自由の女神像で有名なリバティ島は、地図で見るとどうも、隣のニュージャージー州の管轄に思えるというのだ。しかも、宇宙飛行士仲間が、ニューヨーク州とニュージャージー州が島の領土を巡って争っているという話も知る。ホントかよ?

「修道士からの手紙」
アメリカにあるメンフィス士に、ピラミッドがあった。メンフィスだからピラミッドを建てようという安易な発想で作られたらしい。他にも、アメリカにはパリという地名が多くあり、その内の一つにエッフェル塔があるというのだ。そう言われたら見に行くしかない。そのエッフェル塔はどういう経緯で作られたのか…。

というような話です。
いやはや、これはなかなか面白い作品でした。無差別に大量の質問メールを送りまくる、という著者のやり方も面白いですけど、それにきちんと返事を返してくれるアメリカ人が非常に多いこと、そしてその返ってくる答えの多様さに非常に驚かされました。
ネットでちょっと調べたけど見つけられなかったんだけど、日本でもどこかの誰かが、「ちょっとした疑問を企業の広報に電話して聞いてみよう」みたいな企画をネット上で見たことがあります。まあでも、これは分かる。本書でもいくつか企業にメールを出しているけど、企業としては聞かれたら答えないわけにはいかない。とはいえ、先に挙げた日本の例は電話だ。電話の場合、なかなか回避することは難しい。しかし著者は、メールで質問を送っている。やろうと思えば無視できてしまう。しかしアメリカ人たちはそうはしなかった。しかも著者は、企業ではない、ごく一般人や官公庁にもメールを出している。中には、こんなとんでもない人にこんなメール出していいんかいな、と思わせるような人もいる。しかしそれでもみんな、結構ちゃんと返事をくれる。日本で、メールで問い合わせをした場合どうなるかってちょっと考えてみたんだけど、日本だとメールでの質問には、特にその質問内容が特別重要ではないと判断されたら、返事は返ってこないような気もするなぁ。
とはいえ著者は、実際に様々なところにメールを送り、そして返事を受け取る。著者の(そして奥さんの)尽きることのない好奇心や、気になったことをとことんまで調べてやろうというそのエネルギーの強さにはもの凄く感心させられるのだけど、それ以上に、著者が抱いた本当になんてことのない些細な疑問から、アメリカという国が持つ様々な「おかしな」ところが浮き彫りになって面白い。
こういうのはなかなか、アメリカ人には掬い上げることが出来ないものだ。日本人の場合で考えたら分かる。よく外国人が、日本人のこんなところが変わってる、というような話をしているのを知る機会があるけど、日本人からしたら、疑問も抱くきっかけがないような、ごくあたり前のことが多かったりする。それと同じで、日本人である著者にとってはおかしく映る事柄でも(とはいえ、やはり著者はちょっと気になるポイントが変わっているようにも思う。実際、著者の疑問に、奥さんが共感しないことは多々ある)、アメリカ人にとってはごく当たり前すぎて、それが変であることさえ意識するきっかけがないような、そういうことが多いのだ。
それは、返事メールのニュアンスからも感じ取れることがある。「なるほど、そんなこと考えたことなかった」というような反応が結構あるのだ。僕もどちらかと言えば、細かなことがあれこれ気になってしまう質の人間だけど、それでもきっと外国人から見れば、より多くの「変わっていること」をスルーしながら生きているんだろうな、という気はする。本書が「アメリカ文化論」になっているというのは、まさにそういう点だ。著者は、日本の文化も時折引き合いに出しつつ、アメリカの文化のおかしなところ、矛盾したところ、不合理なところをあぶり出していく。その過程が非常に面白い。
特に僕が感心したのは、アメリカ人にとっての「大統領」や「星条旗」の意味。日本人にとっては、まあ違うという人も多々いるだろうけど、基本的には「首相」や「日の丸」にそこまで強く思い入れを持つ人はいないのではないかと思う。しかしアメリカ人の場合、「大統領」や「星条旗」というものを非常に尊敬し、大事にする。どちらがいい、という話をしたいわけではないのだけど、国というまとまりが徐々に失われつつあるように僕は感じてしまう日本という国より、移民ばかりだし州ごとにある程度独立を保っているという、国としての基盤が決して一枚岩とは言いがたいアメリカだからこそ、余計に「大統領」や「星条旗」という統一的なものに思い入れを強くするのかな、と想像して、それはそれで悪くないような気がしました。
個人的には一番面白かったのは、「キルロイ伝説」の話。これは本当に興味深いと思いました。僕自身は本書を読むまで、キルロイの落書きのことなんかまるで知らなかったわけなんですけど、第二次世界大戦中多くのアメリカ兵が同じことをしていたのに、どうしてそんなことが起こったのかアメリカ人が意識していない、深く考えていない、という点が凄く面白いと思いました。この話の最後で著者がやろうとするある試みは、さすが好奇心の塊だなという感じがして面白いと思います。
個別に色々書こうと思えばいくらでも書けるけど、内容に直接触れるのはこれぐらいにしようかな。
しかし、この夫婦の仲の良さ、そして好奇心の強さは、人生楽しいだろうなぁと思わせる力があります。お互いが様々なことに好奇心や疑問を持ち、そしてもう一方もそれに乗っかって楽しめてしまう。もの凄くくだらない目的のために何時間を車を走らせることになるのに、貴重な休暇をそんな風に過ごしても、お互いに嫌ではないどころか、バリバリに楽しんでいる。そういうところが、作中の端々から伝わってくる感じがして、本書の面白さは、もちろんアメリカのちょっと変わった文化という内容が非常にいいからなんだけど、それ以上の面白さがこの夫婦のあり方からにじみ出ているなという感じがしました。
アメリカに興味はない、という人にもきっと楽しめるでしょう。というのは、本書はアメリカのことを書く過程で、日本と比較をしているからです。すべてではないにせよ、日本ではこうなのにアメリカではこうなんだね、という話を読むと、日本という国についても色々と考えさせてくれる作品になるだろうと思います。是非読んでみて下さい。

向井万起男「謎の1セント硬貨 真実は細部に宿る in USA」



僕らは星のかけら 原子をつくった魔法の炉を探して(マーカス・チャウン)

内容に入ろうと思います。
本書は、『僕らの身体を含め、ありとあらゆる物質の構成要素となっている様々な原子は、一体どこでどのように生まれたのか?』というテーマを主軸に、化学や量子論、また天文学や原子核物理学などありとあらゆる分野における様々な発見や功績を繋ぎ合わせるようにして、ミステリ小説のように展開させていく科学書です。
本書の話の展開をざっと追っていくとこんな感じになる。
まず、『原子』というものの発想、つまり万物は「これ以上分割することが出来ない何者か」によって構成されているという発想がどのように生まれ、またそれがどのように実験によって確認されてきたのかについて触れる。原子がどのように生まれたのかをする前にまず、原子というものの存在がどのように立証され受け入れられていったのかという話が必要だということだ。古代ギリシャ時代に既に原子というアイデアは生まれており、しかしそれは絶対に証明することが出来ないだろう、とある時期までは思われていた。物理学は、目で見て観察出来ることを対象とすべきで、原子はどんなことがあっても見ることが出来ないはずだ、という一派がかつて物理学の中に存在したのだ。
しかしそれは覆された。アインシュタインが原子の存在を理論的に実証したことを皮切りに、様々な形で原子の存在が、そして原子がどのように構成されているのかという知識が、化学や量子論など様々な分野で理解されていった。
その過程で、様々な疑問が生まれ、解消されていく。その中の一つに、水素原子の質量に関する疑問があった。水素原子の質量は、本来の値よりも若干大きかったのだ。数字だけ見れば、ほんのわずかの差でしかない。しかしこの発見が、天文学と繋がっていく。
天文学の分野では昔から、太陽の存在が大きな謎だった。どんな物質で構成されているのかやその大きさなど、様々な謎が存在したが、これも原子と同じく、永久にそこにたどり着くことの敵わない対象なのだから、太陽について詳しく詳細を知ることは絶対に不可能だろうと思われていた。しかしその予測はことごとく覆り、なんと地球にいながらにして、太陽がどんな物質で構成されているのかなど、太陽についての様々な知見が増えていくことになる。
しかし、非常に大きな問題が一つ存在した。それが、太陽を燃やし続けているもの、太陽が放つ膨大なエネルギーの源は何であるか、ということだった。
これは非常に大きな問題だった。太陽の年齢が明らかになると、これまでの長い間太陽を輝かせ続け、そして今も膨大なエネルギーを発している太陽が、一体どこからエネルギーを得ているのか、長い間謎だったのだ。
しかしその答えは、なんと原子に存在した。先ほどの、本来の値よりも若干質量の多い水素の存在は、原子間にものすごい結合エネルギーが生じていることの証だった。そして太陽のエネルギーの源は、この結合エネルギーだった。水素がヘリウムに変換される過程で、膨大な結合エネルギーが放出されるのだ。
これによって、ヘリウムが水素から生成される過程が明らかになった。ヘリウムは太陽(恒星)の内部で作られていたのだ。
しかしでは、他の元素も太陽の内部で作り出されていたのだろうか?
しかし、そうではなかった。重い元素ほど、高温・高密度の環境が要求されるのだけど、恒星の内部でその条件を実現するのは不可能だと思われていた。
そこで、ガモフという物理学者が考えたビッグバンという現象が注目された。ビッグバンは、宇宙が始まった時に起こったとされるとんでもない爆発のことで、その状態であれば超高温・超高密度が実現されるはずだ。
しかしこのビッグバンによるアイデアも暗礁に乗りあげてしまう。計算によると、ビッグバンで原子が生成されるのは、ビッグバン直後の10分間ですべての反応が起こらなくてはならず、それはどう考えても不可能だった。
恒星内部でもない、ビッグバンでもない。宇宙には、僕らを構成する原子を生み出してきた魔法の炉は存在しないかと思われた。
しかし、超新星というとんでもない天体が発見されたこと、その天体が内部にとんでもない高温状態を持っていることが分かり、可能性が開けた。しかし、大きな難関があった。恒星内部で原子が次々と作られていくためには、まずなんにせよ、ヘリウムが別の原子に変換されなくてはならない。しかし、どのように考えても、ヘリウムが他の原子に変化するような可能な反応を考えだすことが出来ないでいた。
しかし、科学者たちのたゆまぬ努力と、そして一部の科学者による突飛なアイデアによって、この壁も乗り越えられていく。宇宙は、非常に絶妙な微調整をすることで、まさにそのやり方でしか不可能という素晴らしい方式を用意していたのだ。
そうやって、原子がどのように宇宙で生まれてきたのかという謎に少しずつ迫っていく作品です。
これはなかなか素晴らしい科学書だと思います。本書の素晴らしさは、「原子はどのようにして生まれたか?」というレールの上に、これまでの非常に重要な科学的発見・洞察を並べることで、現代に至る物理学・化学・天文学の流れを非常に興味深い形で描いているという点です。なかなかこういう科学書はないと思います。
ごく一般的な科学書であれば、「量子論についての本」とか「相対性理論についての本」など、科学の特定のジャンルについて触れていることでしょう。実際のところ、科学のありとあらゆるジャンルについて知識を深めることは非常に難しいので、一般的に科学書は、著者の得意分野を中心として、その周辺についてはあくまでもざっくり描く、というイメージが僕にはあります。
でも本書は、まったくそういう作品ではありません。本書で扱われている分野は、科学の中でも相当多岐に渡ります。著者は元々天文学者だったようなので、天文学方面の知識はそれなりにあったのでしょう。でも、同じ科学とは言え、量子論や科学や原子核物理学など、ジャンルの違う様々な知識について同程度に深めるというのは非常に難しいだろうと思います。しかもそれらを、時系列に並べているというわけでもない。「原子を生み出した魔法の炉」という『犯人』を見つけ出す物語が最も盛り上がるように、あらゆる科学的知見が時系列さえも無視されて(もちろんある程度は時系列で描かれているとはいえ)描かれているという点が、他の科学書とは大分違うなという感じがしました。
特にこの、「原子はどのようにして生まれたのか?」という題材の設定の仕方が非常に面白いし、巧い。まず原子というのは、人間を含む万物を構成する非常に重要な要素だ。しかしある時期まで、それらがどのようにしてこの世の中に誕生したのか、理解されていなかった。それについて考えを深めれば深めるほど、今僕らが生きている宇宙のような感じに原子が存在するのは不可能なのではないか、と思わされてしまう。
そこには、山ほど困難が存在する。実際に僕らは存在するし、僕らは原子から成り立っているのだから、原子が何らかの形で宇宙に誕生したことはもちろん間違いない。しかし、どうやって原子が生まれたのかという理屈が、全然分からない。どころか、あらゆる可能性を考えても、道が閉ざされているように思えてくる。これは、ミステリを読んでる過程で、どう考えてみても登場人物の誰もが犯人ではありえないよなぁ、と思わされるようなそんな感覚に近いです。
本書では、ミステリ小説のように、少しずつ謎が明らかになっていく。その過程が非常にスリリングで、科学書として非常に面白いのだけど、それ以上に、ストーリーが非常に面白い。時には、そんな偶然でそれが発見されたのか、そんな無茶苦茶な発想でそんなアイデアが生まれたのか、という背景もあったりして、非常に興味深いです。
また、原子と星とが直接的に結びつくというのも非常に面白い。確かに現代物理学では、マクロ的な状況(天体など)に使える相対性理論と、ミクロ的な状況(原子など)に使える量子論を、最終的にどうにかして融合しなくてはいけないと考えられていて、だからこそ原子と宇宙の繋がりはそう突飛ではないかもしれない。しかし、原子の内部に存在するエネルギーが太陽のエネルギーの源かもしれない、という発想は素晴らしすぎるほど驚異的だし、しかもそこからの考察で、星の存在が原子を生み出しているという関係性も分かるようになってきて、自然は本当にうまくできているし、そしてその精巧な仕組みを読み解けてしまう人間の凄さを感じさせられます。
僕らの身体を構成する原子が、実は星によって形成されたのだと聞くと、なんだか気になっては来ませんか?
ただ、こういう非常に面白い構成をしているが故にどうしても避けることが出来ない欠点が一つある。
それは、時系列が若干前後して描かれるために、ある知見が描かれる際、当時の人達は何を知ってて何を知らなかったのかを正確に把握することが難しい、ということがある。例えばある料理を作る映像を、時系列を無視してバラバラに編集するとしよう。すると、ある時点で鍋の中に入っている食材が一体なんであるのか、把握することは結構難しい。それと同じで、時系列が色々入れ替えられている部分では、その時点まででどこまでわかっているのかというのが、非常に混乱するなと感じました。ただ、これは僕がある程度科学的知識を持っているからこそ感じる点であって、そこまで科学的知識を持っていない人には障害になるものではないと思います。とはいえ、本書はなかなか結構難しくて、絶対無理とは言わないけど、高校生で本書を読める人って結構限られてるかぁ、という感じがしました。難しい理論的な描写については飛ばして結論だけ読んでいければきっと読めるだろうけど、でもそれじゃ面白さはちょっと減るよなぁ、という感じがしてしまいます。
もう一つ欠点を挙げるとすると、翻訳かなぁ。僕は普段そこまで翻訳がどうのとかって言わない(ってかわかんない)んだけど、本書はちょっと読みにくいかもという感じがしました。訳の日本語はもう少し簡単な洗練された形に移せるんじゃないかなあ、という感じがしてしまいます。あと、用語のセレクトに若干???と感じる部分があって、これは僕のただの勘違いかもしれないけど、ちょっと違和感を覚えることはありました。具体的にどうって指摘できるわけではないんだけど、科学者だったらそんな風に用語は使わないんじゃないかな、と思えるような使われ方をしていて、もう少し全体的に訳が洗練されていればもっと面白く読めただろうなと思います。
「原子はどのようにして生まれたか?」という、非常に興味深いテーマを主軸に設定して、そのレールの上に現代物理学における様々な重要な知見・洞察を配置することで一編の物語のようにして科学の歴史を描いていく、非常に構成に優れた作品です。内容は、ちょっとやっぱり箇所によっては文系の人には厳しいだろうなと思います。でも、臆せずに読んで欲しいと思っています。どこもかしこも難しいわけではないし、難しく感じられる物理の具体的な部分はすっ飛ばして結論的な部分だけ読んでいけばさほど難しくはないだろうし、それでも本書は充分楽しめるのではないかと思います。是非読んでみて下さい。

マーカス・チャウン「僕らは星のかけら 原子をつくった魔法の炉を探して」



遺体 震災、津波の果てに(石井光太)

内容に入ろうと思います。
本書は、東日本大震災で壊滅的な被害を被った町の一つ、岩手県釜石市を舞台に、震災直後『遺体』と向き合い闘った人たちの記録です。
釜石市は、ちょっとした特殊な地形から、港から釜石駅までの「マチ」と呼ばれる場所と、そこから奥の内陸部で、被害に大きな差が出た。「マチ」は壊滅し、しかし内陸部では「マチ」が津波によって甚大な被害を被ったことさえしばらくの間わからないぐらい、それは両極端な差だった。
津波によって壊滅した「マチ」では、津波の犠牲者となった多くの人たちの遺体が次々に発見される。東日本大震災全体の犠牲者数は、太平洋戦争や関東大震災と並ぶほどの規模であり、現代の日本でこれほどまで膨大な遺体と同時に直面するという経験は久しくなかった。
そんな中、この遺体と向き合い闘った人たちがいる。
かつて葬儀社で働き、今は民生委員としてお年寄りと関わっていた千葉、身元確認のために駆り出された医師の小泉や歯科医師の鈴木、スポーツ課に所属する釜石市職員ながら、「マチ」の遺体を遺体安置所まで搬送する役割を担い続けた松岡、葬儀社で働き現実的に遺体の火葬などの手筈を整え奔走した土田など、日々増え続ける遺体と対面し、彼らをどう扱っていくのか常にギリギリの判断にさらされ続けた人々の苦悩が描かれる。
本書は、遺族の話ではない。
もちろん、作中で登場する人物もみな、親族や知り合いを亡くしている。そういう意味では遺族の話ではある。
しかし本書は、遺族としてではない形で遺体と関わらざるを得なかった人々の壮絶な数週間を、圧倒的な現実力で切り取るノンフィクションである。
読む前から、圧倒されることは分かっていたけれども、読んでやはり、圧倒された。読んで、「人は死んでそこで終わりではない」という実に当たり前のことを、強く強く再認識させられた。亡くなった瞬間から、新しい時計の針が動き出す。多くの人たちはしばらくの間、止まった時間の中で生きていたかもしれない。何かを考えることも、何か希望を持つことでできないまま、震災直後から針の動かない時計を抱えながら過ごしてきた人も多かったかもしれない。
でも本書は、様々な理由から、その止まったはずの針を無理矢理自分で動かした人、あるいは誰かによって無理矢理動かされた人たちの奮闘の記録だ。それは彼らにとって、どんな時間だったのだろう。想像の及ばない完膚なきまでの現実の中で、周りの人とちょっと違った時間の中で動き続けてきた彼らは、実際何をどう受け取り、何をどう感じただろう。
本書を読んで僕は、情報と経験の差をいやというほど思い知らされた。
僕たちは、東日本大震災について、膨大な情報に触れた。津波の映像を見た。瓦礫の山の写真を見た。被災者たちの肉声をテレビを通じて聞いた。他にも、様々な形で僕たちは、東日本大震災についての情報に触れた。
しかし、当然のことながらそれは、経験とはまるで違ったものだ。
本書を読んで、経験とは「共有できないものだ」と強く感じた。これは、被災者と被災者以外の共有の話ではない。被災者同士であっても、個々人の経験はきっと共有することは出来ないだろう。
僕たちが情報に触れる時、それはある方向を持っている。写真や映像であればそれらが撮られたフレームや撮影者の意図が、肉声であればどんな経験をした個人の話であるのか、そしてその話をどう切り取るのかという編集者の意図が。そういう形で僕らが触れる情報には、何らかの方向性がある。僕たちは、その共通した方向性を持つ情報に触れるので、その方向性に賛否はあるにせよ、その方向性を共有することは出来る。
しかし経験というのは、経験した個人によってのみ、その方向性が意味を成す。個人の経験は、個々に別々の方向性を持つために、同じ現場にいて、同じ光景を見ていても、同じ経験にはならない。
たぶんこうやって僕が言っていることなど、凄く当たり前のことなのだと思う。でも、その当たり前のことを実感することは、実はなかなか少ない。何故なら、同じ現場にいて、同じ光景を見ている場合、それがまったく異なった経験になるという状況は、実は多くないからだ。細かな差異はあれど、やはり同じ現場にいて、同じ光景を見ていれば、似たような経験になる。
しかし東日本大震災は、その日常感覚をあっさりと奪った。どこにいて、何を見たのか、というよりもさらに、『誰が』という個の要素が経験に非常に大きな差を与える、とんでもない出来事だった。本書は、そういう部分を実にうまく掬いとっているように僕には感じられた。著者が、石井光太という視点を極力はずし、様々な人達から話を聞くことで著者自身が再構築した人々の視点で釜石を語る。もちろん、あとがきでも著者が書いているように、それには限界がある。しかし、様々な視点の人間によって、様々な『経験』を語らせることで、本書は、東日本大震災が一瞬で奪い去ったその日常感覚を実にくっきりと浮き彫りにしているように僕には感じられました。
本書は、ノンフィクションでありながら、個々の人物の視点で釜石の数週間を切り取っているので、ある種小説のように進んでいく。それぞれの個人の心情という、どうしたって正確には切り取ることは出来ないだろうという視点を敢えて採用して、著者は釜石で起こったことを再構築しようとする。だからこそ本書には、間違いや誤謬もあるのだろう。特に、著者は震災後数週間後から関係者にインタビューを開始したので(著者は震災直後から被災地に入っていたけど、その当時は混乱しすぎていてインタビューどころではなかった)、「その時どう感じたか」という部分は、語っている本人にしたところで正確な部分を思い出すことは難しい部分もあっただろう。でも、そういう誤解や誤謬を恐れず、著者は個々の視点で感情を載せてノンフィクションを進めていく。きっと、ノンフィクションの手法として、著者のやり方には色々と反論が出ることもあるだろう。でも、本書の圧倒的な現実感は、やはりこの手法を選びとったからだ、という感じがする。
描かれる個々人は、様々な場面で様々な感情に見舞われるのだけど、その中で僕が最も強く心を引きずられたのが、まだ生きている人たちへの描写だ。
生き残った人たちではない。生きているのだけど、目の前にいて助けることが出来なかった多くの人たちへの思いだ。
その中でも、一番印象に残っている話がある。消防団員の佐々が体験したことだ。津波が起こった後ですぐ、生き残った人がいないかと夜の海辺を捜索している時、遠くからか細い女性の声が聞こえる。話を聞いてみると、海に浮いた浮遊物の上に乗っているのだけど、泳げないし暗くて何も見えないからそのまま潮に流されている、という状態にあるらしい。消防団員の一人が、自分が泳いで助けに行くと主張するが、佐々はそれを引き止める。今行ったら、お前が死ぬぞ。どうやっても、彼女を助けてやることが出来ない。せめて佐々は、声が聞こえる限り、彼女に声をかけ続けた。
この描写が僕は一番こたえたけど、多かれ少なかれ、誰もがこういう経験をしている。目の前でまだ生きている人がいる、でもどうやっても助けてやることが出来ない。彼らにとっても、辛いことは多々あっただろうと思う。誰にとって何が一番辛いかなど、考えても意味はないだろう。それでも、死と直面する機会はまだ日常の中にはあるだろうけど、目の前でまだ生きているのに助けることが出来ないという状況は、なかなか日常の中で直面する機会は多くないのではないかと思う。そう考えて僕は、東日本大震災が奪った日常感覚の大きさみたいなものを、改めて実感させられました。
本書は、遺体と向き合う人々を描く作品で、当然「死」というものが強く前面に押し出されて描かれる。しかし、そうではない細部の描写に、僕は非常に惹かれるものがあった。
例えば、遺体を捜索する自衛隊員が描かれる。震災の後の巨大津波の後も、何度も津波警報が発令された。初めの内は津波警報に従って避難していた地元住民も、次第に大した津波がやってこないと思うようになる、津波警報が発令されても避難しなくなった。しかし自衛隊員である自分が津波警報を無視するわけにはいかない。遺体の捜索中に津波警報が発令されれば、重い装備を抱えたまま何度も避難場所まで行かなくてはならないことの徒労感みたいなものが描かれる。
あるいは、釜石の内陸部と「マチ」とで、被害だけではなく認識の差異がもの凄く大きかったこと。「マチ」はもちろん津波で壊滅的な被害に遭うが、内陸部に住んでいた者の多くは、津波によって避難者が続々内陸部にやってきてからも、本当にそんなとんでもない被災状況なのだろうか?と疑わずにはおれなかった。ほんのすぐ傍の出来事であったにも関わらず、津波直後はそれほど認識に差があったのだという事実。
また、釜石だけには限らず東北地方全体がそうなのだろうけど、地域の共同体がまだきちんと残っているからこそあらゆることに対処出来たのだろうな、という描写。

『東北の小さなマチでは、消防団に加入していることが責任のある大人の証の一つとなり、それを機に地域の住人と親族のようなつきあいをすることができるようになるのである。』

こういう描写があるように、共同体としてのまとまりがあったからこそ、危難を乗り越えることが出来たのだろうと実感できる。もし同じことが東京で起こった場合、本書で描かれる様々な決断や行動の内、どの程度まで実現出来るのだろうか、と考えさせられてしまった。
こういう、直接的に「死」と関わるわけではない描写まで非常に細かく触れられていて、それがより日常との乖離を、「死」の圧倒さを強調しているという感じがしました。
最後に。あとがきで著者が書いている文章を引用して終わろうと思います。

『震災後間もなく、メディアは示し合わせたかのように一斉に「復興」の狼煙を上げはじめた。だが、現地にいる身としては、被災地にいる人々がこの数え切れないほどの死を認め、血肉化する覚悟を決めない限りそれはありえないと思っていた。復興とは家屋や道路や防波堤を修復して済む話ではない。人間がそこで起きた悲劇を受け入れ、それを一生涯十字架のように背負って生きていく決意を固めてはじめて進むものなのだ。』

絶対に読んでおくべき作品だと思います。

石井光太「遺体 震災、津波の果てに」



プリズム(百田尚樹)

内容に入ろうと思います。
結婚を機に退職し専業主婦となった聡子は、自身の不妊治療がなかなか進まないストレスからまた外に出たいと思い始め。家庭教師派遣会社に登録した。そこで初めて紹介されたのが岩本家だ。
岩本家は、世田谷にある古い洋館に住んでいて、聡子は自分とは交わることのない上流階級の生活に圧倒される。息子の修一はなかなか教えやすい子供で、数学の成績もぐんぐん伸びていった。岩本家には実に立派な庭があり、その庭が気に入った聡子は家人に断って時折その庭で佇んでいた。
ある時そこで、見知らぬ男性と遭遇する。屋敷の離れに住んでいるというその男性は、会う度に印象が変わった。紳士的なこともあれば、馴れ馴れしいこともある。頻繁に会うわけではない相手だったが、初めは翻弄されどうしていいかわからなかった聡子も、次第に彼の存在に興味を惹かれるようになってきた。岩本家の人にそれなりに話を切り出しても、どうもはぐらかされてしまう。彼の存在はある意味で、岩本家のタブーであるようだった。
やがて聡子は彼から、衝撃的な事実を知らされることになる。半信半疑のまま聡子は彼と関わりを持つようになり、かなり深入りすることになるのだが、次第に彼に惹かれていくことに…。
というような話です。
本書は、本書の題材となっている『あること』を感想中に書くか書かないかで、大分書ける内容が制限されるんだけど、やっぱり書かないことにしようかな。
なかなか興味深い題材で、現実的にそう転がっているような恋愛ではないけど、なるほど確かに突き詰めて考えてみるとどうなんだろうと思わせる設定だなと思いました。
しかしその『あること』を書かないとなると、ほとんど書けることがないのだよなぁ。
本書の題材となる『あること』に関する描写は、素人にもわかりやすかったなという感じがします。その方面の本をそこまで読んだことがあるわけではないけど、ちょっと興味はあるんで、ちょっとなんか読んでみようかなぁ。
『あること』に関しては、まあ個人差が大きいだろうし、そもそも実例が少ないだろうからなんとも判断しにくいけど、本書での描かれ方はそれなりにリアリティがあるんだろうと思います。聡子が恋する相手のような存在はなかなか面白いし、それ故の葛藤みたいなものが興味深いかなと。
聡子の心情の変化については、そこまで納得できる感じではなかったかなぁ。浮気だからどうというんではなくて、なんとなくそういう風に心情が変化していった理由みたいなものが 僕には捉えにくかったかな、という感じ。とはいえ、まあこういうのは個人差があるでしょうしね。
個人的には、最後の最後の余韻的な部分はよかったですね。具体的な作品名は挙げないけど、某ベストセラー作家のとあるベストセラー作品の感覚にちょっと近い感じがしました。そうか、両者の関係性にはまさに今思い至ったけど、設定は大分違うとはいえ、似たような状況下での恋愛を描いてはいるなぁ。
なかなか特異な設定の恋愛小説です。興味がある人は読んでみて下さい。

百田尚樹「プリズム」



真夜中のパン屋さん 午前一時の恋泥棒(大沼紀子)

内容に入ろうと思います。
本書は、シリーズ第二弾です。とりあえず作品全体の設定をまず書いておきます。
ブランジェリークレバヤシは、真夜中にだけ開くちょっと変わったパン屋さん。オーナーだけどパンは作れない暮林と、パン作りの腕は抜群だけど口は悪い弘基の二人が切り盛りしている。この二人、実はある一人の女性となかなか複雑な関係にあるのだけど、それはとりあえず内緒。
そこに、高校生の希美が転がり込んできた。希美は、実は暮林家とはまるで関係がないのに、そのまま居候してしまったのだ。
真夜中に開いているパン屋さんには、なんだかちょっとした問題を抱えた人たちがたくさん集まってくる。彼らの問題に少しずつ関わりあっていきながら、誰もがお互いに傷ついた羽を休めている…。
というような感じ。
というわけで本書の内容紹介です。
開店直後のブランジェリークレバヤシに、一人の女性客がやってきた。しかしその人は、正確な意味ではお客ではなかった。佳乃と名乗ったその女性は、弘基の存在を確かめると、いきなり婚姻届を見せつけた。そこには、佳乃と弘基の名前が書いてある。
「約束したんだから、結婚しよ!」
そう言い寄る佳乃に一同面食らう。15年前の約束を持ちだしたようだけど、弘基はそれには取り合わない。どうやら追われているらしい佳乃は、しばらくの間だけでもいいから置いてくれないかというと、暮林があっさりとOKしてしまう。そんなわけで佳乃は、希美と一緒にブランジェリークレバヤシの二階で寝泊まりすることになったのだ。
しかしこの佳乃という女、なんとも怪しい。
ブランジェリークレバヤシは、佳乃が店に立つようになってからというもの、男性客がごそっと増えた。確かに佳乃は美人だ。しかしそれ以上に、馴れ馴れしいというか、人との距離がちょっと近すぎるのだ。暮林にもベタベタしているのを見て、なんだか希美は嫌な気分になってしまう。
まあ、それだけならまだいい。ところがこの佳乃、唯一持ってきたボストンバッグの中身がなんと札束の山だったのだ!
佳乃を探す男たちの影も見え隠れし、希美が不信感を募らせていると、変態脚本家の斑目がちょっとした事態に巻き込まれていて…。
というような話です。
いやはや、面白かったなぁ!シリーズ一巻目より格段に面白くなっています。こんな表現をするとちょっと誤解されるかもだけど、シリーズ一巻目は、作中で関わることになる色んなキャラを紹介する巻、そして二巻目である本書が、愉快なキャラクター達が揃った上でシリーズ始動、という感じがしました。一巻目ももちろん面白いんですけど、連作短編だった一巻より長編である本書の方が、物語的にも濃密な感じになっていて、凄くよかったです。
大沼さんはどんどん、人への眼差しを描くのが絶妙になっていくな、という感じがします。前巻でもそれは現れていましたけど、本書でそれがより開花したな、という感じです。
誰かを理解すること、そして誰かを救うこと。本書で強く描かれるのは、この二つです。
本書で中心的に描かれるのは、佳乃だ。佳乃は、周囲の誰にもその理由を推察できないような動機によって、金持ち相手に詐欺を働き続けている。佳乃という存在をどう理解するか、どうやって救うか、というのが、佳乃にまつわる様々な謎や出来事と共に本書のメインになっていくのだけど、でも決してそれだけではない。
弘基も暮林も斑目も、そして希美も、それぞれなかなかに複雑な過去を抱えている。基本的に全然関係のなかった人同士が、パンという食べ物を間に挟みながらちょっとずつ集まって、お互いに意識的に無意識的に支え合いながら生きている。普段は、全然そんな風に見えない。佳乃が抱えている闇は、その深さまではすぐ分からないものの、闇を抱えていることはすぐ分かる。でも、特に弘基も暮林も、普段の感じからはどれほどの過去を抱えているのか、察することは難しい。
これは、理解するとか救うとかって話にも関わってくる。僕達は生きている中で、出来ることなら誰かのことを理解したいと思っているし、出来ることなら誰かのことを救いたいと思っている。積極的にそうしたいと思っている人は少ないかもしれないけど、ちょうどいいタイミングだったら、無理のない範囲だったら、自分の得意な状況だったら、そんな風に思っている人は多いだろうと思う。
でも、普段の姿から何も察することの出来ない相手の場合、理解することも救うことも難しい。弘基は、実は一度救われた側の人間だ。絶望的な環境から、恐ろしいまでの強運と努力によってはいあがってきた男だ。だからこそ弘基は、誰かを理解すること、誰かを救うことの意味を知っているし、その想いが、本書の物語を動かす原動力の一つにもなっている。
暮林は、難しい。暮林というキャラクターは、未だきちんとは掴めない。理解されることも、救われることも、きっと拒んではいないのだろう。でも、きっと求めてもいない。弘基や佳乃のようなタイプは、ある意味では捉えやすい。近づき方さえ失敗しなければ、理解することも救うことも、それなりにはきっと出来る。でも、暮林はどうだろう。暮林はもう長いことずっと、自分の感情の置き場所に戸惑っている。どこに仕舞いこんだらいいのかまったく分からないものをずっと抱えながら生きている。適当なところに下ろすわけにもいかないし、もちろん棄ててしまうことも出来ない。弘基にはパンがあり、佳乃には周囲にはまったく理解できなかったけれども本人には切実に欲しかったものがあった。しかし、暮林に、それはない。佳乃が抱える闇は深いし、弘基がかつていた場所の闇も濃かった。しかし、実は一番厄介な闇を抱えているのは、暮林なのだろうな、という風に思う。
いやいや、別に暮林についてこんなに長々と書くつもりじゃなかったんだ。
理解する、という話に絡んで、バビロニアの話が出てくる。高い塔を作ろうとして神の怒りを買い、言語をバラバラにされてしまった、あのバビロニアだ。
「言葉が通じない」という感覚は、僕は本当に昔はよく抱いていたし、今も時々思う。自分が正しいかどうかは分からない。そういうことではなくて、なるほどこの人は自分とは違う世界に住んでいるのだな、と感じさせられてしまう状況というのが凄く多かった。僕には理解出来ないことが『常識』として認知され、僕には許容できないことが『当たり前』として感受される。自分にとってごく自然な事柄が、もの凄く不可思議な印象をもたれる。そんなことばっかりだった。もう一度書くと、別に自分の正しさを認めて欲しかったとかそういうことではない。ただ、使っている言語が違いすぎて言葉そのものがお互いの間でやり取りすることが出来ない、そういう感覚。理解できる相手というのは結局、どれだけ似た言語を使っているか、ということに大きく左右されるのだ。
本書では、様々な背景によって、言葉が通じ合わなくなってしまった人たちが描かれる。無論、ブランジェリークレバヤシの面々は違う。彼らの場合、言葉にしなくても通じてしまうぐらいの関係が既にある。しかし、佳乃を初め、佳乃の周辺で関わる人達の言葉はなかなか通じない。言葉が通じない相手をどう救うのか。やけくそになった弘基が吐く台詞がなかなかカッコいいんだな。
誰かを救う話だ、なんて大きなことを書いてみたけど、本書を読むと、人を救うって、もっと小さなサイズの発想でいいんだな、って思う。特にそれを思わされるのは、暮林の奥さんだった美和子がかつて言ったという言葉。傘に絡んだ話なんだけど、その件を読むと、そうやって差し伸べた手は無駄かもしれない、なんていう悩みは無意味なんだな、なんて風に思わせてくれる。時には、ただそこにいるだけで誰かを救うことだって出来るかもしれない。誰かを救おう、という気持ちは高尚だし、素敵だ。でも僕達はもっと、自分が生きて呼吸をしているだけで救われているかもしれない誰かのことを想像してもいいんじゃないかな。佳乃という、なかなか深い闇を抱えた女性を中心とした物語だけど、その中心はやっぱりブランジェリークレバヤシっていう小さなちょっと変わったパン屋にある。パンを作って届ける。その本分を見失わない範囲で、自分に届けられるものをきちんと理解した上で前に進めば、そんなに間違ったことにはならないのかもしれないなぁ、なんて。
個人的には本書では、斑目が凄く好きだ。
斑目というのは、ちょっと書いたけど、変態脚本家だ。この斑目、実に見事な変態なのだが、恋愛も変態的だ。基本的に脳内で誰かと恋に落ち、交際をし、そしてやがて別れるという、妄想の中に生きられる男なのだ。
しかしその斑目の妄想が、なんかいい形で発動するのだ。「自分にとって恋愛とは、うまく騙されることだ」と言い切った斑目は、その才能を遺憾なく発揮し、相手の心にアプローチする。何を言ってるか意味不明だと思うんだけど、ちょっと具体的には書けないのでこれぐらいだなぁ。他の場面でも、まあわかりやすい動機があるとはいえ、斑目の行動や発想は本書の中でもなかなか秀逸で、個人的には凄く好きだなぁ。アホだし、変態だけど。
最後に。本書は希美視点で進む物語なのだけど、希美が誰にどういう感覚を抱くかによって、跳ね返ってくるようにして希美自身の価値観が透けていく過程がなかなか面白い。まだ17歳の希美は、なかなかに特殊な家庭環境だったこともあって、ごく普通のことに対しても驚くし、そもそも何が普通なのかよくわからないままだ。そんな彼女にとって、特殊な人達が集いに集うブランジェリークレバヤシはさぞ刺激が強いだろう。その中で僕が一番好きだったのは、写真で見た美和子への感想だ。

『大きく口を開けて笑える人、屈託なく誰かと肩が組める人、そばにいる誰かを、それとなく笑顔にさせられる人。自分がひねくれていると認識している希美ではあるが、それでも他人の正の資質に憧れを抱かないわけではない。』

本書を読んでいると、弘基や暮林の想い出の中の美和子の話が少しずつ語られて行って、美和子という女性に会ってみたいなという気に凄くさせられます。
本書単体でも読めなくはないでしょうが、是非一作目から読んで下さい。誇張ではなく、大沼さんは作品を出す度にどんどんとパワーアップしているという感じがします。裏の内容紹介に『不器用な人たちの、切なく愛おしい恋愛模様を描き出す』って書いてあるけど、確かに恋愛要素もあるけど、それ以上に、誰かを想う気持ちの強さとか、本当の優しさとか、そういうものが描かれている作品だと思います。是非読んでみてください。

大沼紀子「真夜中のパン屋さん 午前一時の恋泥棒」



人間にとって科学とはなにか(湯川秀樹+梅棹忠夫)

内容に入ろうと思います。
本書は、世界的物理学者である湯川秀樹と、見識ある文化人類学者である梅棹忠夫の二人による4つの対談を収録した作品です。
本書の7割以上を占めるのが、「人間にとって科学とはなにか」と題された章で、これは1967年に中公新書から発売された同名の新書の再録である。それ以外に、
「現代を生きること―古都に住みついて」
「科学の世界と非科学の世界」
「科学と文化」
という三つの対談が収録されている。
どんな内容なのか、というのを簡潔に説明するのは、これがなかなか難しい。湯川秀樹も梅棹忠夫も、専門分野だけではなく様々な広汎な知識を持ち、普通の人が展開しないような独特な発想を繰り広げつつ、科学というものを中心に据えて様々な方面にその話の触手を伸ばしていくので、ちょっとここで内容紹介をすることは難しい。
二人の話がなかなか高度だったので(これについては後で書くけど、難解というのとはまた違うのですよね)、自分の中で追いつけない話も多々あったので、とりあえず自分の中で理解できた気がする部分だけをなんとなく書いてみようと思います。僕の解釈が間違っている可能性は多々あるので、あんまり鵜呑みにしないでくださいね。

まず、情報と生物学と物理学の話が出てくる。これまで科学というのは基本的に、物理学に代表されるように、不確定な要素というものをなるべく排除して、きっちり定義出来るものを対象にしてきた。生物学はそういう学問ではなくて、遺伝子に代表されるように、情報をいかに運ぶかという観点が初めからあった。徐々に最近、物理学と生物学が近接し始めて生物物理学なんてのが生まれるようになって、ようやくそうなって、物理学はそれまでに対象としていた事以外のものまで研究の対象に含めなくてはいけないような時期に来たのではないか、という話。

また、科学にはどんな価値があるか、という話もされる。科学は他の学問と大きく違って、その学問体系そのものには、他に還元できそうな価値はない。もちろん結果として、科学的知見が何かに転用されて価値を生み出すことはあるが、そもそも科学的体系というのは価値を持たないことが大前提である。科学的探究心というのは、人類が生まれ持った感覚なのではないか、というような話。

また、科学と人間という話も出る。科学、特に物理学は、ヒューマニズムと相性が悪い。物理学の場合、その内側に研究対象としての人間、というものを含める必要がない、というか、必要がないと思われてきた。基本的には、世の中の現象を理解するための学問であって、人間の存在は物理学自体の中には必要ない。しかし生物学はそうではない。まさに人間を含んだあらゆる生命を学問の対象にしている。特に「こころ」の問題をどう科学で扱うかというのは非常に難しい問題。今後、物理学とヒューマニズムがどう折り合っていくのか、というのは興味深い、という話。

科学と宗教の対比は、そこかしこでなされる。科学と宗教がどういう点で似ているのか、そしてどういう点で違うのか。科学は宗教の代わりになりうるのか、というような話。

科学の大衆化の話も出る。これまで、科学者という人種は本当にごく僅かだった。しかし、その数は着実に増えている。これは、科学が大衆化されていっていると見ることが出来る。その過程で、サラリーマン的に仕事をこなすというような、およそ知的探究心とは無縁の科学者も多く出てくるだろう。しかし、科学の大衆化が起こることで、科学の発展は起こるのだろう。事実、アメリカ・ソ連・日本辺りでは科学の業績が多く出ているのに、かつて科学の中心地であったヨーロッパは最近大人しい。きっとヨーロッパは、科学の大衆化をやってこなかったのだろう、という話。

他にも色んな話が出てくるんだけど、僕が文章で書いて説明できそうなのはこれぐらいかな。それにしたって、自分がいかに理解していないかを再認識させられるという感じでしたけども。
本書では、別に難しい単語が出てくるわけでもないし、難解な言い回しが出てくるわけでもない。言葉一つひとつ、文章一つひとつをとってみれば、さほど難しくないというか、むしろ平易であるかもしれないとも思う。でも本書は、すんなり読める作品ではない。
それは、僕の解釈では、平易な単語に両者がそれぞれ一般的以上の意味を付加させていること、そして文と文の間を繋ぐ論理が飛躍しているように思えることの二点に拠っているのではないかと思います。
二人は、ごく一般的な単語を、ごく一般的ではない意味で使っているような感じがする。ちょっと具体例がパッと思いつくわけではないけど、自分の頭の中にあるモヤっとした概念を伝えたいのだけど既存の言葉にぴったりくるものがない時、それに代用して何か別の言葉を使っているのかもしれないな、と感じさせる部分が結構ある。二人の間では意思の疎通が出来ているんだろうし、読んで分かる人には分かるんだろうけど、読解力のない僕には難しい。
文と文の間の論理の飛躍は、天才が書く数学の解答用紙を見ているようなものだなと思った。数学の問題を解く時、式変形をするものだけど、例えば僕が式展開を10回やって答えを出す問題を、天才は3回ぐらいで答えを出す。その間の式展開は、その天才にとってはあまりにも自明すぎて、回答用紙に書くまでもないのだ。本書も、そんなイメージを抱いた。二人としては当たり前の、つまり自明である事柄については無意識的に外して話をしている。しかしそれは、知性が高いからこそ可能なのであって、僕のような凡人にはなかなかついていけない。湯川秀樹と梅棹忠夫という二人の天才の会話だからこそ成立するんだろうなぁ。
本書は、まあ色んな話題が出てくるのだけど、とりあえずは「科学というものをどう捉えるか」という話がメインだ。そしてここでいう「科学」というのは、対談に湯川秀樹がいることもあって、ほとんど「物理学」とイコールである。今では科学というのは、とにかく裾野が広がったけど、確かにある時期まで物理学が科学の中心にいた時代があって、そういう意味で「科学」と「物理学」を同一視する感じになっています。
本書は、科学の中のそれぞれのジャンルにおける細かな話は出て来ません。単語としては、量子論だとか相対性理論だとか、ニュートンだとかアインシュタインだとか色々出てきますけど、そういう個々の事柄について話が飛ぶことはほとんどありません。そうではなくて、科学というものの本質を捉えるために、例えば生物学や宗教と比較をする、科学が大衆に開かれたことでどういう影響が出るかを考える、科学にはそもそもどんな価値があるのかを考える、というように、まさに「科学」そのものを話題の中心に据えています。そういう対談なので、話の展開はかなり抽象的になります。ただその一方で、科学の知識がなければ読めない、という作品でもないので、むしろ読解力のきちんとある文系の人だったら案外読みこなせちゃうんじゃないかな、という気がします。僕は、自分が読解力に欠けていることを知っているので、科学は好きだし科学的な知識はそれなりにあるけど、でも本書はちょっと難しかったです。なんか高校の教科書とかに載ってた評論文みたいな感じの文章ですね。
僕にとっては難しかったんですけど、でもやっぱり面白かったですね。全体を通して作品を理解するというのはちょっと難しかったんだけど、個別の話は凄く面白かったです。二人とも科学というものに対してなかなか批判的な視点を持っていて、そこから導かれる結論が色々と楽しい。例えば、「過去の研究の蓄積なんて見たって仕方無いんだから、図書館とか全部封鎖しちゃって、自分の頭で考えて、それで相対性理論なんかを自分で発見しちゃえばいいんだ」みたいなことを言ったり、「みんな役に立つことをしてたら忙しいんだから、これからはどれだけ何もしない人間を生み出せるかが重要なんじゃない?」みたいなことを言ったりしている。そういう個々の意見に対してどう感じるかは、読者それぞれの好みの問題として、でもそういう結論を出すに至る論理の流れなんか結構楽しいし、科学というものの良さをもちろん十分に認めた上で、さらにちょっと批判的な視点で見てみるという見方は僕は結構好きでした。
最後に、これは気になるなぁ、という文章をいくつか抜き出して終わろうと思います。

『湯川:「私」の発言としての情報は「私」という乗り物に乗っていたときに本来的な意味を持っていた。それを「私」から情報だけ切り離して、供給する。主体から切り離された言葉だけがさまようていた。あとは知らんというところに何があるのかな。自由があるのかな。自由があるというだけではいい足りんので…』

『梅棹:そこが大変重大なところだと思うんです。むしろ科学というものが価値から過離れているというそのことが、人間が科学を生み続けてきた一つの原動力であるといってもいい。でき上がった科学にあとから価値づけをすることはできるんです。しかし、なにかの価値のために、科学をつくり出してきたのではないと思うんです。』

『梅棹:もう一つ、ほかと違う科学に特徴は、ものごとを説明できないことが非常に多いということです。(中略)人間は、次々といろんな考え方を生み出して科学をつくってきたけれども、以前としてそれは完結していない。科学は未完結体系なんですね。人間の体系的知的活動の中で、これだけ体系性が少ない部門は、私はほかにないt思うのです。』

『湯川:孫悟空がお釈迦さんの掌の外に出られないということがあるでしょう。これはまさに、宗教というものの性格をよく表している。出られんようになってると思わなければ、宗教にならない。お釈迦さんの掌の外はなんやろか、まだなんぞあるのかどうか。そんなことを気にするのが科学者です。』

『梅棹:科学的な考え方、科学的な方法が発達して科学が成果を生んできていることは事実ですが、一方では、科学がものごとにたしかな答を与えるのは、非常にむつかしいことなのだということが、だんだんはっきりしてきた。科学が本当の答を出し得るものなのかどうか、いろいろな実際的な問題に対して。実際的であればあるほど、科学がちゃんとした答をその問題に対して出せるのかどうか。怪しい点がある』

『梅棹:宗教には、初めにまず説明があると思うのです。科学は、なんでも説明するものだというふうに一般に考えられているけれども、逆なんですね。宗教こそ、なんでも説明する。その説明が宗教への確信を支えている。科学は、なにか革新的でない。科学というのはつねに疑惑にみちた思想の体系なんですね。』

湯川秀樹+梅棹忠夫「人間にとって科学とはなにか」


偉大なる、しゅららぼん(万城目学)

内容に入ろうと思います。
日出涼介は、高校生になるにあたり三年間、実家のある湖西(琵琶湖の西周辺の地域)から、湖西と湖東のちょうど中間くらいにある石走にある日出本家に赴くことになった。
これは、涼介の父も、そして兄も経験していることだ。涼介の父は日出家から離れごく一般的なサラリーマンとして働いているが、兄はその力を使ってマジシャンとして活躍している。
そう、涼介には、日出家に伝わるある特殊な力が備わっている。これから三年間、日出本家で修行をすることで、その力をきちんと使いこなす術を学ばなくてはならないのである。
石走にある日出本家は、石走城に住んでいる。城だ。日出本家は日本で唯一、江戸時代から現存する本丸御殿で実際に生活をしている家族だ。
日出本家には、変わった人間が多い。
みなからパタ子さんと呼ばれる女性は、屋敷中を掃除してはいるものの、一体どんな理由で城にいるのかまるでわからない。城にいる人間ではまだまともそうなので色々聞くのだが、その度にはぐらかされてしまう。清子という日出本家の長女は、城の中でほとんど見かけることがないのだが、初めて会った日は白馬に乗っていた。そのインパクトだけで十分である。現当主である淡九郎はなかなか怖い人物で近寄りがたい。
しかし何よりも、日出本家の跡継ぎであり、涼介と共に同じ高校に通うことになる淡十郎の存在感はなかなかのものだ。
日出本家は、日本の財界にも大きな影響を持ち、こと本拠地である石走の町における影響力は絶大だ。日出家の者と知ると、人々は警戒し恐れる。その中にあって、淡十郎への評判はなかなかのものだ。これまで、自分の障害になるものはすべて排除してきた。少なくとも石走において、淡十郎の思い通りにならないことなど何もない。そんな淡十郎と共に学園生活を送らなくてはならない涼介は、大小様々な迷惑を被ることになる。
石走の地には、日出家と同じく特殊な能力を持つ棗家が存在する。様々な理由によりその勢力が衰えてしまった棗家ではあるが、この両家は過去1000年以上に渡って、各自の持つ謎めいた能力を巡って不毛な争いを繰り返し続けてきた宿敵同士なのだ。
淡十郎と涼介と同じクラスに、棗家の跡取りである棗広海がいる。淡十郎と広海の間のちょっとした誤解、そして恋を巡るささやかないざこざが、両家の1000年の歴史には存在し得なかった新たな展開を呼び覚ます…。
というような話です。
相変わらず万城目学、面白い小説書くなぁ!過去、京都や大阪や奈良など、町自体が長い長い歴史を持ち、どんなことが起こってもまあ不思議ではないかもしれない、というなかなか特殊な環境の中で作品を描き続けてきた万城目学だけど、本書は琵琶湖である。確かに琵琶湖も、日本の中でかなり特異な存在感を持つ場所だと思うし、舞台としては抜群だと思う。でも、これまでのような、町そのものに強い歴史を持つわけではない舞台でこれだけ面白い作品を書けるんだから、やっぱりさすがだよなぁと思います。
先に本書の欠点を一つ挙げておくとすれば、それは展開の遅さ。確かに、人気作家になったからこそ許される(ある程度物語の立ち上がりが遅くても読んでもらえる)やり方だと思いますけどね。大体、前半半分は舞台設定の説明だと思ってもらっていいかもです。もちろん、そこは万城目学、その舞台設定の部分でも小ネタを繰り出して色々と面白く話を進めていくんだけど、でも肝心の物語はほとんど展開しない。本書の核となる物語がきちんと展開するのは半分まできてようやくという感じで、この展開の遅さはやはり欠点に挙げざるを得ないかなぁ、という感じがしました。
とはいえ、物語がきちんと展開し始めてからは、やっぱり加速度的に面白くなっていきますね。奇想もここまでぶっ飛ぶとさすがだなという感じがします。基本的には、1000年以上もどう使ったらいいかよく分からないでいた力を持った家同士の小競り合いという感じなんだけど、細かな部分の設定が実に巧みで、万城目学の作品を読むとどれでもそう思わされてしまうけど、ホントにこんなことあってもおかしくないかもしれないなぁ、って感じがしてしまいます。
その、もしかしたらホントにこんなことが起こってたかも、という舞台作りは絶妙で、例えば僕が感心したことの一つが、何故彼らは表舞台にまったく名前が残っていないのか、という説明がきちんとなされることです。日出家と棗家が持つ能力があれば、その力を使ってかなり有利に物事を進めることが出来、その昔から琵琶湖一帯でかなりの名声を築くことが出来るはずだと普通なら思う。
でも、ちょっと無理矢理感もあるけど、でもなかなか巧い設定によって、そうなることが回避されている。彼らにとっては力の解放は、あらゆる制約の元に行われていて、それでその力を巧く使って名声を得ることがなかなか難しいのだ。
この、力の解放に伴う制約や、あるいは長年に渡る日出家と棗家の交流の薄さが、物語に非常に面白いアクセントとなっている。誰がどんな事実を知っていて、誰にどんなことが出来てということが少しずつ明かされ、それによって物語が実に巧いこと展開していく。もちろん、実際にはありえない力をモチーフにした作品なので、どうしてもちょっと無理矢理感(そこはちょっと話の辻褄合わせに無理矢理作っただろ)みたいな部分もないではないのだけど、物語としてはやっぱり面白くなる。こうやって今感想を書いていて、彼らがどんな力を持っていて、次第にどんな状況に置かれることになるのか、という部分を明かすことが出来ないからどうしてもズバッと魅力を伝えることが難しくなってしまうけど、他の万城目作品同様、よくもまあここまで奇妙な設定と物語を考えだしたものだなぁと思わされる面白い作品でした。
無理矢理感と言えば、ラストの展開は、個人的にはもうちょっとやりようがなかったかのかなぁ、という感じはしました。さすがに、それやっちゃえるなら何でもアリじゃね?みたいな部分もあって、ちょっともったいない気がしました。
個人的には、日出家の長女でとんでもない力の持ち主である清子が結構いいキャラだなと思います。前半ではほとんど出てこない謎のキャラなんだけど、後半ではもう清子を中心に回っていると言わんばかりの大活躍で、清子が周りをどれだけ振り回すかってのはなかなか面白いです。あと、棗広海の妹の話がもう少し物語に絡んでくれたらよかったなぁ、という気がしました。ほとんど描かれないから分からないけど、結構いい感じのキャラとして描けそうな気がするんだよなぁ。
なかなか物語の核心部分に触れられないので、巧く感想が書けないのだけど、万城目作品らしく、読んでてて凄く楽しい小説です。本書の場合、前半は舞台設定の紹介で、半分を超えないと核となる物語は展開して行かないということさえ頭に入れて読めば、ものすごく楽しめる小説ではないかと思います。是非読んでみてください。

万城目学「偉大なる、しゅららぼん」




20歳の自分に受けさせたい文章講義(古賀史健)

内容に入ろうと思います。
本書は、『大学でなにかしらの文学論を学んだわけでもないし、ライター講座に通った経験もない。せっかく入った出版社も、たった10ヶ月で辞めてしまった。そこからずっとフリーランスの立場でライターを続けている』著者による、すべて自身のこれまでの仕事の中で身につけてきた文章を書くための「実学」が書かれている作品です。
本書は、大きく二つにわけることが出来る。
一つは、冒頭50ページの「はじめに」と「ガイダンス」で描かれる話で、「文章を書くとはどういうことか」「何故文章を書くのか」という話。そしてもう一つは、第1講から第4講で描かれる「文章を書くための技術論」である。
今回は、前者の「文章を書くとはどういうことか」「何故文章を書くのか」のみに絞って感想を書こうと思います。何故なら、後者の「文章を書くための技術論」については、書きたい部分が多すぎて、自分が書きたい部分を全部書くと、本書の内容丸々引き写すようなことになりかねないと思うからだ。それぐらい、本書で描かれる技術論は実際的だと思う。
僕もこうしてブログで駄文を書いている人間なわけですが、その技術論の部分は、「確かにそれは意識してやっている」「漠然とだけど確かにそういうことやってるかもなぁ」「なるほどそんなやり方があったか!」というような三つのタイプの感想をあちこちで抱いた。どれを僕がすでに意識してやっていて、どれが新鮮だったのかという形で技術論についても感想を書いたら個人的には面白いと思うけど、さすがにそれは止めとこうと思うのでした。
先に書いておきます。たぶんこれを書いておかないと、色々突っ込まれそうな気がするので。
僕はこのブログで書いている感想は、「誰かに読んでもらうこと」が最優先事項ではありません。僕にとってここでブログを書くことは、「読書の最終段階」であって、僕にとっては「ブログで文章を書くこと」=「読書の一部」という認識です。もちろん、僕のブログを読んでくださってる方もいるのでしょうけど(ホントありがとうございます!)、とはいえもし僕が「誰かに読んでもらうこと」を最優先事項にしているのであれば、さすがにもっと分量は減らすし、段落ごとにもっとスペースを空けて読みやすくしたり、一度書いた文章を読みなおして推敲したり(こうして書いているブログは、基本一発書きで、書いた後読み返して修正したりすることはありません)、そういうことはきっとやるでしょう。でも僕にとって、「誰かに読んでもらうこと」が最優先ではないので、そういうことはしません。自分でも、こんな長い文章書いても読んでくれる人は少数だよなぁと思ってるんですけど、それはそれで僕の目的としては間違っていないのでいいのです。
何でこんな言い訳から先に書いたかというと、今から僕があれこれ書くことについて、「このブログではそうなってないじゃん!」と言われるとちょっと辛いなぁと思うからです。僕はブログ以外にも、何らかの報酬をもらって文章を書くという機会が時々あるんですけど、そういう場合には、本書で書かれていることの一部を実践しているなぁ、という感覚はあったりします。というわけで、僕のブログでの文章がどうであっても、寛大な気持ちでいていただけると嬉しいであります。
まず大前提として、「何故文章を書く技術が必要なのか」という話をしておこう。ただ単に「文章って書けるようになったらなんとなくいいよね」というだけでは、ちょっと弱いだろう。
本書では、考えてみれば当然なのだけど、非常に重要な指摘がなされる。

『われわれが文章を書く機会は、この先増えることはあっても減ることはない』

著者が出版社に入社した15年前は、会社の名刺にメールアドレスの記載はなかったらしい。これは、持っているのに表記されていなかった、というのではなく、個人にメールアドレスが与えられていなかった、ということだ。メールアドレスどころか、パソコンも一人一台ではなく、中小企業のほとんどは自社のHPを持っていなかった。当時取引先と交わす手紙といえば、年賀状・暑中見舞い・招待状・詫び状ぐらいだったという。
しかし今はどうだろう。
僕は会社員ではないからわからないけど、日に何十通ものメールを送っているサラリーマンはいるのだろう。それに、ブログ・SNSなどはつい最近爆発的に広がりを見せたものだ。今後どんなコミュニケーションサービスが登場するか予想もつかない。
そういう現状の中ではまず間違いなく、何らかの文章を書く機会は増えることはあっても減ることはないと予想することは妥当だろうと思う。その中で、文章を書く技術を持たないことは、ある意味で羅針盤を持たずに航海に出るようなものかもしれない。
なぜ若いうちに”書く技術”を身につけるべきなのか、という問いに著者は、僕が本書を読んで最も賛同し共感したことを挙げる。

『答えはひとつ、「書くことは、考えること」だからである。
”書く技術”を身につけることは、そのまま”考える技術”を身につけることにつながるからである。』

これについて詳しいことはまた後で書く予定です。
まず著者は本書の目的をこう書く。

『ということはつまり、本書の目標は「文章がうまくなること」なのだろうか?
残念ながら、少し違う。
文章が「うまく」なる必要などない。
本書が第一の目標とするのは、「話せるのに書けない!」を解消することだ。より正確にいうなら”話し言葉”と”書き言葉”の違いを知り、その距離を縮めることである。』

僕らは日本語を普通に話すことが出来るけど、書くことはなかなか難しい(という人が多いだろう)。先に書いておくけど、僕は自身のことを「文章を書ける人間」だと認識している。「いい文章を書ける」かどうかというのはまた別だ。でも僕は「文章は書ける」と思う。でも周りを見ても、文章書けないと言っている人は多い。
話せるのに書けない。著者の問いはまずそこから出発する。何故、話すことは出来るのに、書くことは出来ないのだろう?
この話に関連して、なるほどと感じた話が出てきたので先に書いてみる。女子高生はメールをガンガン打ってコミュニケーションを取っているじゃないか、という批判があるだろう、と著者は読者の先回りをする。それについて著者は、メールの文化が発達することで、同時に発展してきた文化があることを指摘する。
それが「絵文字」だ。
確かに女子高生はメールで文章を打っている。しかしそれは、「絵文字」という文字ではないものによって補完されたやり取りだ。「絵文字」によって補完された文章は、「文章を書く」こととは違う、と指摘している。これは女子高生のメールに限らず、文章で(笑)などと書いてしまうようなものも「絵文字」として同様に扱っている。僕らは今「文章を書く」際に、「絵文字的なもの」に表現の一部を託してコミュニケーションを取っているのだ。
話すという行為は、言葉だけに頼ってなされるものではない。むしろ、言葉以外の要素(ノンバーバルコミュニケーションと呼ばれるもの)の方が遥かに影響力が強い、と言われている。文章における「絵文字」も、ノンバーバルコミュニケーションのようなものだ。文章を書くというのは基本的に、ノンバーバルコミュニケーション一切なしの文字だけの勝負になる。だから、「話せるのに書けない」ということになるのだ。
じゃあどうすればいいのか。
本書ではこう書かれる。

『書こうとするから、書けないのだ』

こう書くと、禅問答みたいでよくわからないだろう。
さらに著者の意見はこう続く。

『文章とは、頭のなかの「ぐるぐる」を、伝わる言葉に”翻訳”したものである。』

これは本講義における「文章とはなにか?」の定義として書かれているのだけど、つまり著者は『書くことをやめて”翻訳”せよ』と言っているのである。「ぐるぐる」というのは、まあイメージで分かると思うのだけど、もう少し伝わりやすい表現を文中から抜き出すと、『言葉以前の茫漠たる”感じ”』となる。
「文章を書く」ということを考えると、「頭の中に文章がきちんとあって、それをなぞるようにして文章を書く」というイメージだろうか?
少なくとも、僕はまったくそうではない。本書で書かれているように、文章を書く直前まで僕の頭の中には「ぐるぐる」しかない。これから書こうと思っている文章は一文も頭の中にはない。
今こうして打っている文章も、キーボードを叩きながら考えている。頭の中に漠然と混沌と散在する「ぐるぐる」を”翻訳”しているのである。
ここから、本書の中で僕が最も共感した、非常に重要な事実を導くことができる。
「ぐるぐる」を翻訳するというのは、具体的にはこういうことだ。

『その「なんかよくわかんない」部分に、言葉を与えなければならない。』

例えばいま僕はブログの文章を書いている。頭の中には、本を読んだ過程で色んな形でとどまっている「ぐるぐる」がたくさんある。それらはもちろん「ぐるぐる」なので、まだ言葉にはなっていない。何度も書くけど、文章を書く直前まで、僕の頭の中には明確な言葉はほとんどない。
「文章を書くこと」は「「ぐるぐる」を翻訳すること」であり、「翻訳する」というのはつまり「言葉を与えることだ」。
「文章を書くこと」を「頭の中に既に文章が存在し、それをなぞること」だと思っているということは、「書くために考えている」という状態のはずだ。でも本書は、「文章を書くこと」はそういう営みではないと指摘する。「文章を書くこと」は”翻訳”なのであって、つまりそれは、『人は解を得るために書くのだし、解がわからないから書くのだ』。
本書の中で僕が最も共感した部分はここだ。
端的に著者はこう表現する。

『考えるために書きなさい』

まさにその通りだ。
先ほど僕は、「僕にとって文章を書くことは読書の一部だ」という話を書いた。まさにそれは、この点が大きく関わってくる。
本をただ読んだだけでは、自分の頭の中にある「ぐるぐる」は、言葉を与えられないまましばらくすると消えさってしまう。これはなんだかもったいない。
僕はその「ぐるぐる」に言葉を与えるために、このブログを書いている。こうして公開している文章ではあるけど、僕にとってここで文章を書くことは誰かに何かを伝えることが主目的ではない(もちろん、本書で描かれる話は「誰かに何かを伝えることを目的とした文章の技術論」です)。僕にとってこのブログで文章を書くということは、「自分の頭の中の「ぐるぐる」に言葉を与え(翻訳し)、自分の中の理解を深めること」が主目的だ。だからこそ僕にとって、このブログで文章を書くことは「読書の一部」なのだ。
この『考えるために書きなさい』という話は、本当にしっくりくる話だった。本書の中で最も重要な点ではないかとさえ思う。
「話せるのに書けない」という話も確かに重要ではあるが、「考えてるのに書けない」という状態に陥っている人もきっと多いはずだ。でも、それは逆だ。「書くことで考えを深める」のだ。こういう風に意識を転換させるだけで、「文章を書く」という行為が少し違った風に見えないだろうか。
僕は、自分の中で言語化したことはなかったのだけど、まさに「書くことで考えている」という自覚がある。キーボードを叩く直前まで、僕の頭の中にはこれから打つべき文章は浮かんでいない。書こうとする意識と、頭の中の「ぐるぐる」にどうにか言葉を与えようという意識を常に自覚しているので、書くという行為がそのまま考えるということに直結するのだろうと思う。
先ほど、『われわれが文章を書く機会は、この先増えることはあっても減ることはない』と書いた。もちろんそれは恐らく間違いないだろう。しかしそれでも、文章そのものがそこまで上手くなくたって仕事は出来るよとか、自分はSNSもブログもやらないし、という人もいることだろう。そういう人は確かに、「誰かに何かを伝える」という意味で文章を書くことはないのかもしれない。でも、僕にとって「文章を書くこと」の最大のメリットは、「書くことで考えを深めることが出来る」という点なのだ。これは、誰かに何かを伝える必要がないから自分には文章術は必要ないと思っている人にも、無視できないポイントではないだろうか。僕が本書を読んで一番強く感じた点はそこで、だからこそ本書で描かれる文章技術は有用であると感じたのだ。
宣言した通り、「はじめに」と「ガイダンス」の内容にしか触れなかった。本書のメインの部分である文章技術の話も、とにかく非常にためになるものばかりだ。小手先の技術に終止することは少ない。むしろ、書く側の意識を転換させるような発想が多い。どういう意識を持って文章を書くか、どういう視点から文章を遂行するか、どういう判断で書くべきことを決めるか。どれも、文章を書く人間の「態度」に関わるものであり、そういう意味で世の中に多く出回っている文章技術の本(読んだことはないけど)とは一線を画すのではないかという気がします。
星海社新書は本当に、生きていく上で武器になる作品を多く出し続けているけれども、一番初めの「武器としての決断思考」に匹敵するぐらい、本書はありとあらゆる人に有用な作品ではないかと思いました。「文章講義」というタイトルを見て、自分は別にそんなに文章を書かないしな、と思った方。「はじめに」と「ガイダンス」だけでも読んでみてください。「文章を書くこと」がどういうことなのか、そのイメージが変わるのではないかと思います。本当に素晴らしい作品だと思いました。是非読んでみてください。

古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義」



魚神(千早茜)

内容に入ろうと思います。
舞台は、かつて一大遊郭が栄え、しかし今では往時ほど栄えていない、ほぼ遊郭だけで成り立っている島。その島で白亜とスケキヨは暮らしている。
白亜とスケキヨは姉弟で、捨てられた子供だった。ある婆に拾われ、いつか売られる宿命の中で育てられてきた。二人ともそのことを頭の片隅のどこかで理解してはいたものの、日常の中であまりそれを意識することはなかった。まだ自分たちが商品としての価値を持つ前の、子供の頃のことだ。
彼らは、鏡のようにお互いの存在を共有することが出来た。お互いの間には、言葉も感情もいらなかった。傍にいるだけで相手が何を考えているのかお互いにわかったし、お互いの存在だけですべてが完結することが出来た。だから、島にいる他の子供たちともほとんど関わりを持たなかったし、彼ら二人には他の子供たちのことがよく理解できなかった。
二人は常にお互いの存在を拠りどころにして生き、お互いの存在が不可分になっていった。しかし、彼らは大人になるにつれて、バラバラに売られてしまう。スケキヨは、酷い扱いを受けるという裏華町へ、そして少し遅れて白亜は遊郭に売られ、しばらくして島一番の遊女となった。
スケキヨが売られて以来、彼らは一度も会っていなかった。しかし白亜は常に、近くのどこかにスケキヨの気配を感じていた。有名な薬売になっているらしいスケキヨに、しかし白亜は会いに行こうとはしなかったし、スケキヨも白亜に会いには来なかった。
遊女として生きる白亜は、己の境遇に何か思うこともなく過ごすが、最後にスケキヨに会った際に出会った男との再会によって、白亜の時計はまた動き始める…。
というような話です。
僕はこの著者の「からまる」という作品を読んで衝撃を受けました。「からまる」は、僕が去年読んだ本の中でダントツ1位の作品です。なのですけど、本書はちょっと僕には合わなかったです。僕はあらゆる機会に書いているけど、ファンタジー的な要素を持つ作品というのが非常に不得意で、時々そういうタイプの作品でも受け入れられるものはあるんですけど、大抵ダメなんですね。本書は、ファンタジーと言えばファンタジーだし、そうではないと言えばそうではない作品ではあるんですけど、やっぱり僕が苦手とするタイプの物語なんですね。
ファンタジー的な作品を読むと、作品と僕との間に不透明な膜が二重にも三重にも重なっているような感じがして、文章が全然頭の中に入ってこないんですね。僕は、文章を読んでて頭の中で映像が浮かぶというタイプの人間ではないので、ファンタジー的な作品だとその変換が凄く難しいんだろうなぁ、と思っています。
本書は、濃密な世界観が描かれます。ストーリー云々というタイプの作品ではなく、その作りこまれた濃密な世界観の中に浸る、というタイプの作品だと思います。そういうタイプの読み方が出来るという人には、相当魅力的な作品なんじゃないかな、と思います。僕には合わない作品ですけど、この作品の凄さみたいなものはなんとなくわかります。新人のデビュー作であるということを除いても、これだけ濃厚な世界観を構築して読ませるというのは相当にハードルの高いことだと思います。
個人的には、作中にもっとスケキヨが出てきてくれるといいんだけどなぁ、という感じでした。本書は白亜視点で進む物語なのだけど、途中でスケキヨが売られ、その後白亜は長いことスケキヨと会わなくなるので、物語の始めでスケキヨがしばらく登場して以降、スケキヨがほとんどまったく出てこなくなるんですね。個人的には、白亜の物語よりもスケキヨの物語の方に強く惹かれます。スケキヨがどんな環境の中で何を見、何を感じ、どんな判断で身体を動かしているのか。そういう部分がすごく気になります。もちろん本書は、白亜が遠くから微かに感じるスケキヨの描写からそれらを感じ取らせる、という作品なんだろうと思うんですけど、不透明な膜に遮られて僕にはなかなかその辺を理解するまで本書を読みこなすことができないでいます。
自分の得意・不得意なジャンルっていうのはどうしても出てくるものですけど、やっぱりこういう作品を自分の中できちんと読みこなすことが出来ないというのはもったいないなぁ、と思います。僕には、本書をうまく評価することは出来ません。凄い世界観が描かれているなぁとは感じられるんですけど。もし僕のように、本書があまり受け入れられなかったという方がいたら、是非「からまる」の方も読んでみてください。一作でその作家との相性を判断してはもったいない、という好例のような作家さんでした(少なくとも僕の中では)。

千早茜「魚神」



ビヨンド・エジソン 12人の博士が見つめる未来(最相葉月)

内容に入ろうと思います。
本書は、ノンフィクション作家の最相葉月が、12の最先端の科学研究(ただし連載時での最先端)を紹介する作品です。それぞれの研究に従事する人の歴史、研究内容とその成果、そして著者が意識的に設定したテーマとして、科学者になるに当たってあるいは科学者を続けるに当たって影響を与えた本について書かれています。
著者は「はじめに」の文章で、次のように書いている。

『人はなぜ、科学者になるのだろうか。いつ、どこで科学と出会うのだろうか。(中略)科学の道に進んだとして、どのように研究テーマをみつけるのだろいうか。そのテーマを障害にわたって探求し続ける意志の力はどこから生まれるのだろうか。(中略)人はなぜ科学者になるのかと書いたけれど、世の中には、科学者になる人と、ならない人がいる。科学も人の営みであるからには、その違いがなんであるのかを知りたかった。』

まずざっと、それぞれの研究者と研究内容を書きだしてみようと思います。(肩書きなどは、単行本発売当時のもの)

「東京大学医学系研究科教授・北潔」
アフリカで感染の広まる、アフリカ睡眠病という感染症がある。ツェツェバエというハエを媒介とした感染症で、感染初期からしばらくの間は特に自覚症状がないものの、2年から8年治療せずに放っておくと死に至る。北潔は、日本で発見されたアスコフラノンという物質がアフリカ睡眠病の特効薬になると考え、その目処がついた。あとは資金さえきちんと拠出されれば薬の開発まで行ける段階に来ている。この薬がアフリカに届けば、発展途上国へ向けた純国産の国際新薬第一号になるという。
影響を受けた本は、シュバイツァーの伝記。

「東京学芸大学教育学部准教授・佐藤たまき」
1968年に福島県で発見され、ドラえもんでもモチーフになり一躍有名になったフタバスズキリュウが2006年、首長竜エラスモサウルス類の新属新種であることを同定、フタバサウルス・スズキイと学名が登録された。この快挙を成し遂げたのが佐藤たまきだ。とにかく恐竜少女だった佐藤は(しかし首長竜は恐竜ではないらしい)、女性であることや、恐竜研究ではなかなか職がないことなどに苦戦しつつ、今後フタバスズキリュウを研究する学者は必ず参照することになる「記載論文」を書き上げた。
影響を受けた本は、藤原正彦「若き数学者のアメリカ」

「鳥取大学乾燥地研究センター生物生産部門准教授・坪充」
アフリカを初め、その土地その土地に実際に赴きフィールドワークをする形で、現地の農業問題に関心を持ち解決してきた。例えばアパルトヘイトが終わったばかりのアフリカでは、これまで大規模農業しか行われてこなかったが、これから確実に小作農が増える。それに当たってどういうやり方が必要であるのかを研究したりした。
影響を与えた本は、ネルソン・マンデラ「Long Walk to Freedom」(邦題は「自由への長い道」)

「独立行政法人海洋研究開発機構地球内部変動研究センター特任上席研究員・石田瑞穂」
日本でまだ『地震学』なるものがなかった時代から地震の研究を続け、紫綬褒章や優れた女性科学者を顕彰する猿橋賞を受賞している現役の地震学者。日本の地震学の中心に居続けた女性。石田は巻末で、3.11の震災に関する特別項で再度出てくる。
影響を受けた本は、高田宏「言葉の海へ」

「明治大学理工学部応用化学科准教授・深澤倫子」
南極大陸の氷床の奥深くに、クラスレート・ハイドレート(空気の化石)と呼ばれる氷が眠っている。古代の大気がそのまま化石になったと言われるもので、これを発見したのは日本人だった。雪と氷の研究で世界的に知られる物理学者・中谷宇吉郎の系譜にいる。
影響を受けた本は中谷宇吉郎「中谷宇吉郎随筆集」

「東京大学大学院工学系研究科准教授・峯松信明」
音声工学によって、音声を認識できるロボットを開発しようと試みるも、そもそも音声工学の理論に違和感を抱き初めそこから離れ、人間が音を認識するのに近い形で機械に音を認識させようと研究。その過程で自閉症の人たちの言葉の認識に興味を持ち、その中で、自閉症でありかつ動物学者でもあったテンプル・グランディンのことを知り感銘を受ける。
影響を受けた本は、テンプル・グランディン「動物感覚」

「東京大学医科学研究所教授・甲斐知恵子」
エイズやSARSなどの人獣共通感染症の研究に関わる甲斐は、その中の一種で東南アジアで小規模な流行を繰り返していたニパウイルスの人工合成に成功するという世界初の快挙に成功した。当時競合する研究室は他にも3つほどあったが、未だ甲斐の研究室でしか成し遂げていない。
影響を受けた本は、キュリー夫人の伝記。

「金沢大学フロンティアサイエンス機構特任教授・岩坂泰信」
物理のかっちりしたところに惹かれていた岩坂は、流体力学の不安定さに興味を持ち、色々あって黄砂を研究することになった。日本で黄砂の研究をしている人は誰もいなかった時代だ。中国というなかなかに高いハードルを乗り越えつつ、今も黄砂が地球環境にどんな影響を及ぼしているか研究を続けている。
影響を受けた本は、大谷光瑞に関する本(津本陽「大谷光瑞の生涯」など)

「株式会社SRA先端技術研究所取締役、東京大学先端科学技術研究センター特任教授・中小路久美代」
まだ生まれてから40年ほどしか経っていない情報技術の分野の黎明期から、大学ではなく民間企業人として研究に携わり続け、人を中心に据えたプログラムやインターフェースなどの開発に従事している。
影響を受けた本は、真篠将「モーツァルト」

「独立行政法人理化学研究所免疫・アレルギー科学総合研究センター・徳永万喜洋」
分子生物学の分野で待望されつつも誰も成し遂げられなかった、生きている細胞一分子を顕微鏡で観察できる「一分子イメージング」という手法を開発した。それにより、免疫の定説を覆す発見もした。
影響を受けた本は、講談社「少年少女世界伝記全集」(特にエジソンの伝記)

「独立行政法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)月・惑星探査プログラムグループ(JSPEC)宇宙科学研究本部(ISAS)個体惑星科学研究系助教・矢野創」
はやぶさのサンプラーと呼ばれる、イトカワの物質を採集する機構に携わった研究者。
影響を受けた本は、エリスン・A・オニヅカ「風は偉大なる物を燃え立たせる」

「三菱化学生命科学研究所(L研)アルツハイマー病研究グループ発症機序解明チームリーダー・主任研究員・星美奈子」
日本でまだアルツハイマー病が何か知られていなかった時代からアルツハイマー病の研究に携わり、アルツハイマー病の発症機構として多くの科学者から支持されているアミロイド仮説に疑問を持ち、それを覆す可能性を持つ世界初の発見を成し遂げた。
影響を受けた本は、ジェーン・グドール「森の旅人」

やっぱり科学の本を読むと、ちょっと気分が高揚するな、という感じがします。特に本書では、連載時での最先端とはいえ、リアルタイムで結果が発表されているようなまさに最先端の研究について触れられている。科学論文を読まない限り、なかなか知ることの出来ないこういう最先端の研究に、その一端でも触れることが出来るというのはやっぱりいいなぁと思います。自分が研究したいとかそういう感覚は特にないんだけど、やっぱり今まで知られていなかったことを発見する、理解できなかったことを理解するというのは凄く楽しいし、興奮させられますね。
本書は、最先端の研究を扱っているという点で非常にいい作品なんだけど(この点は、時間があればまた後で触れたい)、でも個人的にはちょっと残念だなと思う点がいくつもあります。これは、著者の力量とかそういうことではなくて、どうにもしようがない部分なのだろうとは思うのだけど、こうだったらもっと面白くなるだろうになぁ、というのがちょっと残念でした。
その最大のポイントが、本書で12の研究内容が紹介されているという点です。端的に言うと、一つの話が短い。
一つ一つの研究内容でそれぞれ一冊の本が書けるかどうかはちょっとわからないけど、少なくとも三つぐらいのテーマで一冊というのは十分可能だろうと思います。恐らく連載枚数の都合など色々あったんだと思うんだけど、本書はその短いという点に置いて色々とちょっと残念だなという部分が多い。
まず、その短い話の中で、人・研究内容・影響を受けた本の三つを盛り込むのはなかなか厳しいということ。これについては、分量を増やす以外の解決策がないので、著者としても大変だっただろうなと思います。その制限の中にあって、影響を受けた本について触れているというのは好感を持てました。
分量が短いことのデメリットはまだあって、それは分かりやすさが削られてしまうことがあるということです。科学の本というのは、やっぱり専門的な話がバンバン出てくるので、難しい部分もある。しかしそれは、説明の仕方によってある程度軽減することが出来るものなんですね。そこに科学ノンフィクション作家の力量の違いが現れる。でも本書の場合、書かなければならない必要なことだけで紙幅が埋まってしまって、分かりやすく伝えるという部分にまでページを割けれていないんだろうなという印象を受けました。一応理系だった僕でも、やっぱちょっと難しいよなぁと感じる部分はありました。そういう部分をもう少し丁寧に描写出来るだけの分量はやっぱり欲しかったなぁ。
また、易しく書くという以外にも、分量が多く費やされているところは重要、そうでないところはさほどでもない、という読み方が出来るので、特に科学などの難しい描写がなされる作品の場合、やっぱりある程度の長さは欲しいなと感じました。この辺りが、分量に関する不満。
そしてもう一つは、これは読者側(もちろん僕も含めて)のハードルなのだけど、やっぱり最先端の研究というのは、その分野についてある程度知識がないと驚けないな、というものです。これは分量の問題とも関わる話なんだけど、やっぱり最先端であればあるほど理解は難しくなる。科学というものの起こり始めの頃は、頑張って勉強して自分で実験すれば誰にでもどんな分野でも関わることが出来ただろうけど、もはや現代科学は、ちょっと分野が違うと使われている言葉も実験のやり方もまるで違って、研究者同士でも分野が違うと全然研究内容を理解出来ない、なんてこともあるだろうと思います。最先端の研究内容は知りたいけど、現代科学の専門性の高さのハードルをどう超えていくかというのはやっぱり難しい問題だなぁと感じました。
とはいえやっぱり、本書の大きな魅力の一つは、最先端の研究内容が扱われているという点です。物理・化学・生物の枠には収まらない、様々なジャンルでの研究内容が描かれていて、しかもそれが世界初だったり多くの人を救えるかもしれない研究だったりする。最先端の研究結果というのは、科学論文を読むか、あるいはノーベル賞でも獲らない限り、一般の人の目に触れることはなかなかない。そう考えると、本書のように最先端の科学を紹介してくれる作品は非常に有意義だなと思いました。
僕が個人的に凄く興味を持った研究は、音声工学から言葉の不思議を探る研究と、生きたままの分子一つを観察できる顕微鏡を開発した研究の二つです。前者は、音声を喋る機械について思考する過程で、もしかしたらこういう人間がいるのではないか、と考えてディスレクシアの人や自閉症の人の存在を知ったり彼らのあり方を想像したりする過程が、僕がこれまで理解してきた科学のあり方とは結構外れている感じがして、凄く面白いと思いました。喋る機械を作るために自閉症の人と関わるという発想は、本当に素晴らしいと思いました。後者は、恐らく今後分子生物学の分野で物凄く重要視されていくだろう発明でしょうし、それによってどんな発見が生み出されていくのか非常に楽しみです。
影響を受けた本の話もなかなか興味深かったです。特に、科学や科学者の伝記とはまったく関係のないものに影響を受けている人が結構多くて、だから僕はこんな風に感じました。科学や科学者の伝記を読むことで、科学の世界とはまるで関係ない分野にいる人に影響を与えることだってあるだろう、と。だからこそ、もっと科学の本を布教していこうと思いました。
分量の短さに付随するもったいなさは結構あるものの、最先端の科学を分量の短さという制約の中で最大限に分かりやすく伝えようとしている良書だと思います。是非読んでみてください。


最相葉月「ビヨンド・エジソン 12人の博士が見つめる未来」



くちびるに歌を(中田永一)

内容に入ろうと思います。
舞台は、長崎県の五島列島にある、城跡に建てられた中学校。そこの合唱部の物語。
産休に入った合唱部顧問の松山先生の代わりに、五島列島出身の松山先生の知人で、かつて神童と言われたものの今は東京でニートをしている美貌の柏木先生が合唱部の顧問に決まった。
中学三年の仲村ナズナ、ずっと松山先生に合唱を教わっていた合唱部のメンバーだった。生真面目な部長の辻エリや、天使のような朗らかさを持つ長谷川コトミらと共に、長いことずっと女子しか所属していなかった合唱部で合唱を続けてきた。NHK全国学校音楽コンクール(通称Nコン)の予選突破を目指して、女声合唱で今年も臨むつもりだった。
しかし予想外のことが起こる。美貌の柏木先生の人気があまりにも高すぎて、これまで女子しかいなかった合唱部に男子も入部してきたのだ。しかもその内の一人は、ナズナの幼なじみである向井ケイスケ。一体何を考えてるんだか…。
女子の中にも若干男子反対派はいたものの、初めの内はおおむね穏やかに過ごしていた。しかし徐々に男女の亀裂がはっきりしてきて…。
中学三年の桑原サトルは、基本的に学校ではぼっちだった。存在感が薄く、一日中誰とも話さないこともある。教室では寝たフリをして色んなことをやり過ごし、部活にも入らずになるべく早く帰るようにしている。
なるべく早く帰るようにしているのには理由がある。親戚が経営している工場で働く兄を迎えに行かなくてはいけないのだ。
兄は発達障害があり、母の粘り強い教育のお陰で日常生活のある程度の部分は一人でこなせるようになったものの、工場への行き帰りの付き添いはサトルがやることにしている。サトルは、兄の隣にいることが心地良い。何故なら、兄だけは自分の存在を間違いなく必要としていると感じられるからだ。
そんなサトルは、とあるちょっとしたことをきっかけに、合唱部に入部することになった。柏木先生目当てで入部し、徐々に合唱の練習に熱心ではなくなっていく他の男子とは違って、サトルはきちんと合唱の練習をした。でも、合唱そのものに強く興味があったわけではない。サトルは、以前ちょっとしたきっかけで喋ったことのある長谷川コトミに惹かれているのだった…。
というような話です。
柔らかい感じのするいい小説でした。中田永一テイストという感じですね。中田永一名義では、もしかしたら初の長編なのかな?まあ別名義でも、あんまり長編作品ってないから、そういう意味でも珍しいのかな。
先に書いちゃうけど、本書はラストシーンがメチャクチャいいです。なるほどなぁ、あのシーンのためにあの辺の設定があったわけかぁ、とか思いました。僕は小説を映像にするのはあんまり好きではないけど、本書のラストシーンは凄く絵になりそうな気がしました。
中田永一とか乙一の小説とか読んでるとたまにあるんだけど、読み始めどうも視点人物が誰なのかわからないことがあって、本書もしばらく、視点が二人の人物の間を交互に動いていることに気づきませんでした。あと、サトル視点の方はすぐ視点人物がサトルだってわかったけど、ナズナ視点の方は長いこと名前が出てこなかったような気がして、誰なんだろうなぁ、とか思いながら読んでました。その辺を除けば、やっぱ中田永一は読みやすい小説を書きますね。
合唱の話だけど、音楽小説というところまではいかない感じで、どちらかというと学園小説ですね。合唱の話がメインになることはあんまりないから、馴染みのない人でも読みやすいと思います。青春らしい悩みがあったり、青春時代だからと言って許されないだろという展開もあったり、ちょっとした家族の話だったり、五島列島というなかなか不便なところに住む生活のことだったり、様々なことを少しずつ組み上げて行って物語が成り立っています。方言で綴られる文章はなんか優しい感じがするし、一人ひとりが持つちょっとした優しさみたいなものが胸に染みるシーンもところどころあります。安心して読める作品ですね。
個人的には、柏木先生は結構面白いキャラで描かれているから、ストーリーの中でもう少し輪郭がはっきりするとよかった気がしました。僕の個人的な印象では、ちょっと中途半端だったかな。
全体的に柔らかい感じのする、読んでて安心感のある作品です。ラストシーンは秀逸だと思いました。是非読んでみてください。

中田永一「くちびるに歌を」



「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔(森達也)

凄い作品だった。
本書の存在は、前から知っていた。ただ、どうしてか読まなかった。確か何か読まないことに決めた理由があったはずだった記憶があるのだけど、もう思い出せない。近々僕は、森達也と石井光太のノンフィクション講座のようなものに参加させてもらう。そのために、森達也の作品を読もうと本書を手に取った。今まで読んで来なかったことを後悔するような作品だった。
内容に入ろうと思います。
本書の内容は、一言で説明できる。『一介のテレビの雇われディレクターだった森達也が、オウムのドキュメンタリー「A」を撮影した過程を描いたノンフィクション』。しかし、そんな説明では零れ落ちるものがたくさんある作品だ。
地下鉄サリン事件が起こり、オウム真理教への過剰な報道合戦が繰り広げられている中、森達也は報道の中に身を置きつつ、どうしても違和感をぬぐい去ることが出来なかった。その違和感は、スパッと言葉で表現できるほど簡単なものではない。だから、という言葉で繋げていいのかどうかわからないけど、森達也はオウム真理教を題材にしたドキュメンタリーを撮ることにした。
ある場面で森達也は、マスコミ関係者に向ってこう感じる。

『しかしオウムという単語が方程式に代入された瞬間、おそらくは彼の思考が停止した。』

森達也は、上祐史浩に変わってオウム真理教の広報担当になった荒木浩にアプローチをする。何故荒木だったのか、それは初めの内は自分の中でも理解されない。しかし次第に、荒木が教団の言葉と世間の言葉の狭間でもがいている人物であること、そしてそれが、既存のマスメディアの報道とそれに違和感を覚える自分という図式に重なり合う部分があることに気づく。もちろん、荒木に着目した理由はそれだけではないが。
森達也は荒木に、ドキュメンタリーの撮影を依頼する。モザイクは一切使わない(その理由を森達也はこう説明する。『モザイクは対象となる人や場所の固有性を隠すという本来の機能よりも、「負の要素を持つ人」という一つの記号としての意味を持ち始めた。』)など、オウム真理教側にとってなかなかハードルの高い条件もあったが、森達也はどうにか荒木を説得する。
初めて撮影にやってきた日、荒木は森達也にこう語る。

『でも、ドキュメンタリーって以来は、森さんが初めてですよ』

基本的にマスコミは、素材が得られればいい。それはテレビ局や新聞社にとって、自分たちの報道したいことに合致した素材であれば、それ以上のものは要らない。基本的にそういうスタンスで取材が行われてきたから、誰もオウム真理教をドキュメンタリーで撮る、内側から見るという発想をしなかったのだろう。
何故オウム真理教のドキュメンタリーを撮るのか、撮りたいと思ったのか。森達也には自分の中で分からないまま撮影が始まる。功名心もなかったわけではないだろう。実際始めの内は、テレビで放送されることが前提で映像が撮られていた。しかし制作会社から撮影には協力できないと通達され、一人で撮ることを決意し、どこで発表するのかという当てもないまま、森達也はひたすらに撮り続ける。
やがて森達也は、おぼろげにつかみ始める。オウム真理教という存在についてではなく、オウム真理教をドキュメンタリーで撮りたいと思った自分の気持ちを。

『…ずっと考えていた。撮影対象であるオウムについてではない。自分についてだ。「オウムとは何か?」という命題を抱えて撮影を始めた僕が、いつのまにか、「おまえは何だ?」「ここで何をしている?」「なぜここにいる?」と自分に問いかけ続けている。』

『しかし、残された信者、逮捕された信者が、今もオウムにこだわり続ける理由は解かなくてはならない。理由はきっとあるはずだ。その思いは僕にこのドキュメンタリーを発想させた動機の一つだ。そして今、理由はおぼろげながら見え始めている。彼らが今もオウムに留まり続ける理由、そのメカニズムは、オウムの内ではなく、オウムの外、すなわち僕らの社会の中にある。』

本書、そして僕は見ていないけど「A」という映画で描かれていることの一つは、「日本人のメンタリティ」であり、それはすなわち「組織に隷属し思考停止を選択する日本人」だ。オウム真理教の内側から社会を見ることで、森達也は様々な視点に気づく。そしてそれはあまねく、日本人の思考停止を浮き彫りにする。

『子供が無視や小動物を無邪気に殺せるように、自覚を失った社会は止めどなく加虐的になる。、自覚がないから、昏倒した信者を見下ろして大笑いができる。自覚がないから事実を隠し、作り上げた虚構を公正中立だと思い込んで報道することができる。自覚がないから不当な逮捕をくりかえすことができる。自覚がないから、社会正義という巨大な共同幻想を、これほどに強く信じることができる。』

これは、今の僕達が住む社会でも基本的に変わらない。僕はつい最近、オランダの新聞記者が書いた「こうして世界は誤解する」という作品を読んだ。イラク戦争の特派員として派遣された著者が見た、決して報道されることのない様々な事柄を書いたものだ。本書では、マスコミのあり方についても非常に印象的に描かれるのだけど、それはまた後で書くとして、「それでも~」を読んで僕は、日本人だけではなく世界の人々が、状況の差こそあれ壮大な思考停止の中に生きているのだということを自覚させられた。日本でも、先の東日本大震災では、報道のあり方を含め様々なことを考えさせられた。思考停止によって混乱し錯綜していく現実も、直にではないにせよ目にした。もちろん、自分の判断を超える巨大な事象が起こった時、誰かに判断を委ねたいと思う気持ちはよく分かる。オウム真理教に限らずあらゆる宗教も、巨大な事象が起こるかもしれない、あるいは死後という不可知な事象に対しての不安を取り払うために、ある意味では思考停止をしていると表現することも出来るだろう。もちろんこの文章は、宗教団体を非難しているわけではない。逆に、宗教団体の場合、「何に依存して思考停止をしているのか」が(少なくとも表面的には)見えやすいという点では、宗教に依らず思考停止している人たちよりマシかもしれない、という議論も可能だろう。社会や大衆、あるいは「空気」など、はっきりとは言語化も視覚化も出来ないものに依存して思考停止している方が脅威かもしれない、と本書を読んで思わされた。
もちろん日本人のメンタリィや社会性の中にこの「思考停止」は非常に大きく組み込まれているために、そこから逃れることは非常に難しい。森達也自身もそうだろう。森達也は、自身が考えるドキュメンタリーのあり方に殉じて、オウム真理教と対峙する。それは、既存の考え方や言葉には依らずに撮る、というものだ。しかし、やはりそれは完全に出来るわけではない。ドキュメンタリーを撮るという大きな目的のためにそれを強く自覚している森達也でさえ、思考停止のくびきから逃れることは難しい。
ここで森達也のドキュメンタリーに対するスタンスを書きたいのだけど、その前にまず、本書で描かれるもう一つ重要なテーマとして、マスコミのあり方に関するものがある。映画「A」の中では、森達也はマスコミのあり方はテーマではない、と言っている。しかし本書では、森達也自身のドキュメンタリーに対する考え方を語る上でどうしても、対立軸として既存のマスコミのあり方に触れざるを得ない。そういう断片をちょっと抜き出してみたい。

とあるマスコミ関係者が、ある場面で口にした「報道の自由」という言葉に対して、森達也はこう思う。
『「報道の自由」という主張は本来なら、報道を妨害する権力や圧力に対して拮抗すべきフレーズのはずだ。少なくとも、「正式な返答をいただくまでは取材はお断りします」と、撮影を拒絶する位置個人に向かって発するべき言葉ではない。』

多くのマスコミが取材に訪れたある場面で、森達也は一人の女性ディレクターを評価する。
『カメラが回りだしたその瞬間、彼らと自分との共通言語の欠落に気づいた彼女は、少なくともメディアの常套句でその断絶を補填することは選択しなかった。曖昧な言葉を放り出して無理矢理引きずりだした信者の言葉を、編集で当初の意図通りに紡ぐという常套手法を選択しなかった。その意味では僕は彼女の誠実さを称えたい。』

一橋大学に荒木が呼ばれた際報道の話になるが、そこで森達也が思考したことは非常に興味深い。これは、森達也のドキュメンタリーの手法にも通じる話。
『事実と報道が乖離するのは必然なのだ。今日この撮影だって、もし作品になったとしたら、事実とは違うと感じる人はたぶん何人も出てくる。表現とは本質的にそういうものだ。絶対的な客観性など存在しないのだから、人それぞれの思考や感受性が異なるように、事実も様々だ。その場にいる人間の数だけ事実が存在する。ただ少なくとも、表現に依拠する人間としては、自分が完治した事実には誠実でありたいと思う。事実が真実に昇華するのはたぶんそんな瞬間だ。』
そしてそれに続けて森達也は、「既存のメディアへの批判ではないマスコミの欠点」を指摘する。
『今のメディアにもし責められるべき点があるのだとしたら、視聴率や購買部数が体現する営利追求組織としての思惑と、社会の公器であるという曖昧で表層的な公共性の双方におもねって、取材者一人ひとりが自分が感知した事実を、安易に削除したり歪曲する作業に埋没していることに、すっかり鈍感に、無自覚になってしまっていることだと思う。』

次の文章を引用して、森達也のドキュメンタリーに対する考え方に移ろうと思う。

『世の中のほとんどの現象は、「わかる」ものだという前提を僕らは持っていた。そしてこの思いこみが、僕らの日常を成り立たせてきた。曖昧に「わかる」ことで、僕らは平穏な日々を送ることができた。
オウムは、この思い込みを、曖昧さによって成立してきた日常を、抉りとって目の前に突きつける。』

森達也のドキュメンタリーに対する基本的な立場はこうだ。

『ドキュメンタリーの仕事は、客観的な事実を事象から切り取ることではなく、主観的な真実を事象から抽出することだ。』

『公平中立なものは作れない。
断言できる。主観の選択が結実したものがドキュメンタリーなのだ。事実だけを描いた公正中立な映像作品など存在しない。』

このスタンスは、僕は凄く好きだ。本書では、『カメラが日常に介在するということは、対象に干渉することを意味する。』という文章に続けて、物理学の量子論の話が出てくる。観測することで対象に干渉し、「干渉しない素のままの対象を観測することは出来ない」のだ。まさにその通りだと思う。それをきちんと自覚している森達也に好感が持てる。
森達也の、『自分の言葉を探そうと格闘する』という表現が好きだ。僕も、感覚としては近いものを理解することが出来る。借り物の、誰かの言葉で何か物事を理解した気になることは、あまり好きではない。ただもちろん、世の中にあるすべてのことについて、自分の言葉を探し自分自身の立ち位置を見つけることは非常に難しい。だからこそ、ある程度の思考停止が世の中を円滑に進ませているという事実もあるのだろう。しかし、せめて身の回りのこと、自分が直接関わる範囲のことぐらいは、なるべく『自分の言葉』を探そうとしている。
森達也はまさにそれを映像でもやっている。自分でも何を掴みたいのかわからない、何を撮ろうとしているのかもわからないものを撮ろうと、ひたすらにカメラを回す。自分の中では結局最後までそれを掴めたという感触はないままだ。しかしそれでも、森達也は作品を完成させる。それは、森達也が自分の主観で切り取った、オウム真理教という真実だ。
本書は、森達也自身の迷いや不安さえもきちんと描き出されていることが、ノンフィクションとして素晴らしい。僕は森達也や、あるいは大崎善生のような、対象に深く入り込んでしまい、通常のノンフィクションやドキュメンタリーからすれば客観的ではない視点から、主観的に事象に斬り込んでいくスタイルが好きなのだけど、その過程はもちろん不安の連続だ。既存のドキュメンタリーの手法から逸脱し続けることは、そしてそもそも何よりも、過程を持つ社会人としての生活からもともすれば逸脱しかけないようなギリギリのところで撮り続ける森達也には、撮影の間振りかかる様々な突発的な出来事によって揺れる。
例えばこんなシーンがある。撮影中の映像素材を、とある事情から撮影対象に見せなくてはならないかもしれない、という状況に追い込まれた森達也は、こう吐露する。

『何のことはない。結局のところ、世間の別紙が怖いから、作品の製作過程に傷がつくことが怖いから、オウムに映像素材を渡せないと僕らは主張しているのだ。』

様々な場面でこういう述懐が現れる。オウム真理教と相対し続けることは森達也にとって、自己を客観的に、そしてさらにオウム真理教という特殊な視点を含ませた客観から自己を見つめ直す過程でもあった。オウム真理教に食い込み少しずつ抉っていく過程も非常にスリリングだ。しかし同時に本書は、オウム真理教とカメラを介して対峙する無名の映像マンの葛藤も非常にスリリングで読み応えがある。
結構色んなノンフィクションを呼んでいる方だと思うけど、本書はかなり印象に残る強い作品でした。映像作品である「A」も見てみたいと感じました。是非読んでみてください。今の自分のあり方や社会やマスコミとの関わり方なども含め、様々なことを考えさせられる作品だと思います。

森達也「「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔」



EVERNOTE 活用編 仕事や暮らしに使える140文字レシピ(できるシリーズ編集部編)

内容に入ろうと思います。
本書は、最近僕が使い始めてちょっとハマり始めている「EVERNOTE」についての解説本です。解説本と言っても、操作の仕方や技術的な話が書かれている作品ではない、というのが本書の非常に大きな特長なんですけど、その前にまず、EVERNOTEって何?というところから話を始めようと思います。
EVERNOTEというのは、凄くざっくり説明すると、「ありとあらゆる情報をクラウド的に収集・保管することが出来る機能を持ったフリーソフト」という感じでしょうか。クラウド的にというのは、パソコンで登録したものを携帯でも見れるというように、あらゆる情報端末から同じ情報を見ることが出来る、と思ってください。
EVERNOTEはコミュニケーションツールではないので(コミュニケーションも出来ますが)、基本的に自分の保存したいと思う情報を何でも保存することになります。テキストや写真はもちろん、PDFファイルも音声ファイルも、ツイッターのツイートも、とにかくどんな形式のデータであっても保存できるという優れもので、僕はこのEVERNOTEをついひと月前から使い始めて、既にすっかりハマってしまっています。
EVERNOTEには、「ノート」「ノートブック」「タグ」という言葉が使われます。これはそれぞれ、「ルーズリーフ」「バインダー」「ポストイット」だと思ってください。一枚のルーズリーフ(ノート)に様々な情報を記録する、そしてそのルーズリーフ(ノート)を、ジャンルごとにバインダー(ノートブック)にまとめる。さらにここのルーズリーフ(ノート)には個別のポストイット(タグ)をつけることが出来て、バインダー(ノートブック)とはまた違った形でルーズリーフ(ノート)を分類することが出来る、というイメージです。
EVERNOTEは基本的に無料で使えます。僕も、今は無料のバージョンで使っています。ただ無料のバージョンは、ひと月に使える容量が60MBと制限があります。プレミアム会員になると(確か年間で4000円の支払い)、ひと月に使える容量が一気に1GBまで増えます。僕もプレミアム会員になりたいなぁ、と思っているんですけど、なかなか踏ん切りがつきません。
僕はEVERNOTEを始めるに当たって、「ねこえば!」という、EVERNOTEのファンサイトを熟読してから始めました。それで、初心者ながら結構色んな機能を知ることが出来たし、タグの整理の仕方なんかも分かってかなり使えるようになったのだけど、でもやっぱり僕は個人的に、EVERNOTEって使いようによっては凄い使い勝手がいいよな、と思っていました。かなり色んな面白いことが出来るだろうな、と。
だから本書を買ってみました。
実は僕は、EVERNOTEの設定や操作の仕方に関する本も買ったのだけど、本書はそういう本ではありません。本書は、『EVERNOTEを具体的にどんな風に使うのかという実例集』です。そういう意味で本書は、もちろんEVERNOTEを使い始めたばかりの人にもいいでしょうが、EVERNOTEが何かわからない、EVERNOTEを使ったことがないという人にもかなりオススメの一冊です。とにかく、EVERNOTEというのがどういうもので、どんなものに応用出来るのかということが、煩雑な説明を省いて描かれているので、初心者やまだ使っていない人にもかなり触れやすい作品だと思います。これが、細かな操作方法とかがゴチャゴチャ書いてあったりするとめんどくさくて読む気を失いますけど、本書は『基本的な操作は知っていることが前提で、そういう部分が省略されて書かれている』作品で、だからこそ、『初心者や未使用者にとって読みやすくなっている』と思います。もちろん、初心者や未使用者には、本書一冊だけでは、何が出来るか分かっても、じゃあそれをどうやったらいいかというのはよく分からないだろうと思います。でもそれは、また別の本や、あるいはネットなんかでどうにか調べられる類のものです。僕が先ほど上げた「ねこえば!」というサイトを結構読み込むだけで、基本的な操作以上のことを知ることができます。なので本書は、『具体的にどんな使い方が出来るのかを細かな操作を省いて書いている』という点で、非常に初心者・未使用者向けだなと思うのです。
どんなことが出来るのかは是非本書を読んで欲しいのだけど、例えば家電製品の説明書をWEBでダウンロードしてEVERNOTEに入れておくとか、自分に必要な薬の種類とか飲み方を書いておくとか、押入れにあるものの写真を撮ってどこに何があるか分かるようにするとか、気になったレシピをWEBから引っ張ってきて後々冷蔵庫にあるもので作れそうなものを検索するとか、とにかく色んな使い方が出来ます。
僕が感じるEVERNOTEの良さというのは、大きく二つあります。一つは、『日常的に覚えている必要はないけど、時々懐かしくなったり必要だったりする情報を保管しておける』、もう一つは、『今必要なわけではない情報を、将来必要になるかもしれない情報として保管しておける』です。前者については、思い出やあるいは家電の説明書や押入れの中のものなど日常的に使うわけではない様々な情報を整理するのに非常に強力です。後者は、主に仕事かもしれないけど、とりあえず気になったからと行って入れておいた情報が、後々何かのアイデアを喚起する役に立つかもしれないし、将来の状況にとって必要なピースになるかもしれない。いつか使えそうな気がするんだけど、でも正直今は必要ないという情報を仕舞っておけるというのは素晴らしいですよね。僕も、ちょっと時間がなくてなかなかEVERNOTEに情報を入れられてないんだけど、でも少しずつでも色んな情報を放り込んで、自分のEVERNOTEを面白いものにしたいなぁ、と思います。
本書はもう一つ特長があって、本書一冊分の内容をPDFでダウンロードすることが出来る、ということです。そのダウンロードしたものをEVERNOTEに入れておけば、本を持っていなくてもいつでも同じ情報を引き出せることになります。便利な世の中ですね、ホント。
繰り返すけど、本書はEVERNOTEの設定や操作方法を書いた本ではなくて、具体的にどんなことに使うことが出来るのかを書いた本なので、初心者や未使用者にこそ読んだら刺激になる作品ではないかなと思います。個人的には、どうしても本書には女性視点がないので、女性がEVERNOTEを使ったらどんなアイデアが出てくるのかというのをもう少し読んでみたい気がします。是非読んでみてください。

できるシリーズ編集部編「EVERNOTE 活用編 仕事や暮らしに使える140文字レシピ」



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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)