黒夜行

>>2012年01月

世界が賞賛した日本の町の秘密(チェスター・リーブス)

内容に入ろうと思います。
本書は、カルチュラル・ランドスケープ史家(ってなんなのかわかってないで書いてますけど)であるアメリカ人の著者による、日本のママチャリ文化の素晴らしさ、公共交通の素晴らしさ、そして何よりもママチャリや公共交通によってどことでも接続することが出来るその町そのものに対して惜しみなく賛辞を送り、日本人がその良さになかなか気づいていない事柄について啓蒙するような内容になっています。
著者はアメリカの大学の教授ですが、フルブライト奨学金を得てここ20年間の間に数年日本に滞在しています。日本に滞在中は、著者が『自転車町内(自転車だけで生活に関わるあらゆる場所へとアクセスできる町)』と呼ぶ町に住み、実際にママチャリに乗り、その素晴らしさを体感し続けてきたと言います。
本書は、大雑把に分けて、前半はママチャリの話、そして後半は日本の都市や公共交通についての話になります。
前半で著者は、これでもかというくらいママチャリを褒め倒します。まず、著者のママチャリに対するスタンスの中で、これは面白い視点だなと思ったものを抜き出してみます。

『大げさな話にするつもりもありませんし、例外もあるでしょう。しかし、ママチャリは環境にやさしいだけの地域交通手段ではありません。ママチャリは、日本の伝統的な部屋のスケールを決定させた畳と同様の尺度(モジュール)を、日本のコミュニティにもたらしたのです。』

これはなるほど、という感じがしました。日本にある自転車町内は、狭い道が多く自動車の進入に対してある程度抵抗が出来、また自転車で移動することで、ママチャリのかごに入る分の買い物しかせず必要以上の買い物をしなくなるし、自動車という受動的な乗り物にではなく、自転車という能動的な乗り物に乗ることで運動不足も解消されるといいます。この話はすべて、著者が生まれたアメリカでの生活と比較して語られます。アメリカではどこへ行くにも自動車で、スーパーにはどうせ自動車に積むことになるからと大きなショッピングカートが用意されている。それで不用意にたくさん物を買ってしまい、それを収納するために大きな冷蔵庫が必要になる車を運転するだけだから運動不足になり、肥満になる。また大量のエネルギーを消費する自動車に対して、自転車は省エネです。また子供がいる家庭であれば、自動車で移動する際にはチャイルドシートに縛り付けられて視界も狭まってしまうのに対し、自転車での移動であれば人や環境との接触を犠牲にすることなくモビリティを確保することが出来ると指摘しています。それに、ママチャリに乗って町中を走ることで、常に何か発見をすることが出来る。アメリカでは、洗濯物は乾燥機で乾かすことがほとんど常識のようですが、著者はママチャリで町中を走ることで外に洗濯物を干すことの素晴らしさを知り、以後アメリカでも洗濯物は外に干すようになったとのことです。著者は日本に来る度に、洗濯ばさみ付きの小さな物干し竿をアメリカ人の友人への贈り物として購入しているそうですよ。
普段日常的にママチャリに乗って移動している僕らにはすぐには実感できませんが、諸外国の現状と比較することで、ママチャリがいかに素晴らしい乗り物であるかということがなんだか伝わってきます。
実際に著者は、外国人によるママチャリへの様々な賛辞を見たり聞いたりすることになります。本書で書かれているそれらの文章を抜き出してみます。

(ある留学生の話)『私の故郷のトルコでは、多くの人が自転車を所有したいと思っていますができません。なぜなら、トルコの都市はみな、自動車のために整備されているからです。私の家から大学のキャンパスまで自転車に乗って行ったり来たりできることは、私が日本で生活していて本当に感謝したことの一つです。トルコ人の友人が日本の私を訪れて、私がいかに自転車を利用しているかを知ると、うあらやましがります。』

『私は、母国のアメリカで長年にわたり、ママチャリの素晴らしさについて講演をおこなってきました。たいていの場合は、講演後には数名が「ママチャリがぜひとも欲しい」と私に話しかけてきます。』

『このように秩序だって自転車が駐輪されていることに感銘を受けるアメリカ人は私だけかもしれないと、以前、疑問に思ったことがあります。(中略)試しに東京の田端駅近くにある、念入りに整列された自転車の写真を見せてみました。彼らはそのような駐輪場を見たことがないようで、誰もがその写真に感銘を受け、ニュージャージー州から来たある役人は、「なんて素晴らしいんだ。これこそ未来だ!」とまで叫びました。』

いかがでしょうか。僕ら日本人にとって、自転車と共にする生活というのはあまりにも日常的過ぎて、それに対して何かを感じるようなことは特にないだろうと思います。でも、諸外国の人から見れば、日本でママチャリに乗って生活できること、そしてそれがきちんと機能していることは、とてつもなく羨ましくかつ素晴らしく見えるようです。なんか、そこまで絶賛されることじゃないような気がするんだけどなぁ、って気もするんだけど、でもやっぱりそれは、恵まれた環境の中にいるから気づかないということなんでしょう。というか、日本以外の諸外国の、自動車への依存や公共交通の貧弱さに逆に日本人は驚かされるのではないかと思います。
またママチャリに次いで著者は、日本の公共交通も絶賛します。第三章の章題は「どこにでも簡単に移動できる国はじつは珍しい」なんですが、本書を読んでいると本当にそれが伝わってきます。アメリカは、かつては網の目のような鉄道が張り巡らされていたけど、自動車の発達により急速に廃れ、今では、各都市がそれぞれ固有の鉄道網を有してはいるけど、都市間を結ぶ鉄道網はほぼ存在しないようで、飛行機や自動車以外では遠出することが不可能なんだそうです。
日本では、ママチャリやバスで駅まで行き、そのまま電車で近くの町まで買い物にも行けるし新幹線でより遠くの地方や都市に行くことが出来る。きちんとトイレが整備され、車内は正確で、基本的に非常に安全で正確。さらに、日本中にその交通網が張り巡らされている。そんな国は日本以外にはほとんど存在しないようです。
日本の公共交通を絶賛する、こんな文章があります。

『私は 東京学芸大学の博士号を取得して、現在ニューヨークに住んでいるオーストリア人美術史家に、「日本の生活で最も懐かしく思うものはなんですか」と尋ねたことがあります。彼女は「ニューヨークは素晴らしい公共交通を有していますが、そこから出ようとすると、まるで捕虜になったかのような気がするのです。私が日本の生活で懐かしく思うのは、私が東京から出ようと思えば、公共交通を使ってどこにでも行けたことです。」』

これもやはり、日本に住み鉄道を当たり前に使っている僕ら日本人にはなかなか実感することは難しいですが、僕らはどうも相当に恵まれた環境にいるようです。著者はこの章をこんな風にまとめます。

『ママチャリ、自転車町内、駅前駐輪場と同じように、高速の新幹線から信頼できる地方バスまで網羅する日本のきわめて優れた公共交通システムは、過去から引き継いだ宝であり、とくに地球温暖化の時代においては、将来への価値ある贈り物なのです。』

非常に余談だけど、僕はつい最近「新幹線をつくった男」という、この男がいなければ新幹線は生まれなかっただろうという島秀雄という技術者についての評伝を読んだのだけど、だからこそ余計に『過去から引き継いだ宝』という表現になんかグッときました。
続く章では、これほどまでに素晴らしいママチャリが、実は日本ではあまりいい扱いを受けていないようだぞ、という話になります。スポーツ自転車が日本でも普及し始めるようになったことで、重くて遅いママチャリを馬鹿にする声はそこかしこで上がり、また国や地方自治体や商店街は、自動車の違法駐車などには目くじらをたてないのに、自転車の違法駐輪には異常に反応する、また、今後の日本にとって自転車の駐輪場問題は喫緊の課題であるにも関わらず、理由が不明なまま駐輪場に最適な場所が駐輪不可に設定されているというのも、ママチャリが迫害されていると言えます。スポーツ自転車は大抵スタンドがないためママチャリのようにはきちんと並べられず、しかも部品を分解しやすいので盗難に対する用心はママチャリ以上に気を使わなくてはならない。日本では最近、スポーツ自転車の良さを奨励するような意見が多く出されているけど、購入可能な自転車はほぼスポーツ自転車しかないというアメリカでは、国民の大半が自転車を所有しているけども、ほとんど乗っていないそうです。
著者には、これほどまでに素晴らしいママチャリがなぜ迫害され続けているのか理解が出来ません。僕も本書を読んで、確かにそうだよなぁ、という感想を強く持ちました。
そしてこれ以降の章では、都市というものに焦点を当てて話が進んでいくことになります。日本では現在、特に東京の街を、一旦取り壊して大規模な都市計画によって東京という街を再構築しよう、というような議論が存在するようです。しかし著者はその考えに異を唱えます。既に日本に存在する「自転車町内」こそ、世界にさきがけて日本が独走する未来の町のあり方であり、日本人はこれをいかにして守っていくかを考えなくてはいけない、と諭します。現在急速に変わりつつあり様々な街並みの具体例を紹介しつつ、またアメリカで実際に行われた街のスクラップアンドビルドの実例などを引き合いに出し、日本の小さいスケールの町並みとそこに生きる人々の暮らしがいかに素晴らしいかを力説します。
また、「自転車町内」を存続させるには、自動車を出来る限り廃し、可能な限り公共交通を利用するという形がもっとも好ましいです。しかしそのバランスが、最近の日本ではちょっとおかしくなり始めている。素晴らしい公共交通を持つのに利用されていないとか、自動車に乗らないことがどれだけ素晴らしいか、また日本で少しずつ動き始めている街に自動車を流入させようという動きについて、また高速道路1000円の衝撃など、様々な事例を挙げつつ、日本がどうやって今の町並みを維持していくべきかを語っていきます。
著者は改めてこう主張します。

『日本人はたいへん幸運だと、私は思うのです。なぜなら、日本では公共交通だけで、とてつもなく多くの場所とつながっているからです。どんなに小さな村の集落でも大都市の中心でも、しっかりと時刻表通りに正確に、そして持続的に公共交通が運行されています。これは日本の素晴らしい宝であると、私は思います。』

本書の読み始めは、なんかよくわからないガイジンが(すいません)、なんか適当にママチャリを褒めちぎってるなぁ、ぐらいにしか思ってなかったんですけど(すいません)、読み進めていく内に、なんだ日本って凄い国なんじゃん!と誇らしくなっていくような、そういう文化論的な側面が僕は結構好きでした。普段慣れきってしまっている事柄について新しい見方を提示してくれたような感じで、凄く面白かったです。
僕は実にタイミングがいいことに、つい最近「それでも、自転車に乗りますか?」という、こちらも同じく新書を読みました。この二つの作品が、対立した立場にいるわけではないけども、非常に異なった立ち位置から日本の自転車文化について論じていて凄く面白いと思ったので、ちょっと比較してみようと思います。
本書は、先程から書いているように、ママチャリ万々歳というスタンスです。これほどあらゆる点で素晴らしい乗り物はなく、実に優れていると繰り返し説きます。「自転車町内」という、自転車で行ける範囲内ですべてがまかなえる小さなスケールの生活空間も絶賛しています。
一方で「それでも、自転車に乗りますか?」は、スポーツ自転車(著者はママチャリもどきと呼んでいるようですが、ママチャリのような外見をしているけども、性能的にはスポーツ自転車というタイプみたい)に乗って通勤している著者による、自転車って結構危険だから結構気をつけて乗った方がいいよ、という内容の本。本書では、ママチャリについての言及はごく一部だけですし、直接的にママチャリのことを批判している文章もないと思うのだけど、でも全体的に著者のスタンスとしては、「ママチャリはいいんだけど、ママチャリっていうのが存在しちゃうから余計色々ややこしいんだよなぁ」という感じではないかと僕は思いました。
片や自国では自動車がメインの交通手段であり、国中を網羅する整備された公共交通もないアメリカに住み、片やスポーツ自転車を学生時代から乗りこなし通勤までしているという立ち位置の違いが、これほどまでに明確に現れるものなんだなと感じました。「それでも~」を読み終えた時は、なるほど日本に自転車が増えすぎるのも問題だな、なんて思ったのだけど、本書を読んでそれがガラリと変わって、なんだ自転車って結構すげぇんじゃん、とか思ったりしています。読む順番が逆だったら、またかなり違った感想だったんだろうなぁ。人の意見に影響されやすい方ではないと思うんだけど、やっぱりなかなか自分の意見をきちんと持つというのは難しいものですね。
本書を読んでまた、阿川大樹「D列車で行こう」という小説のことも連想しました。この作品は、地方の赤字鉄道をどうにか再建しようと立ち上がる三人の男女の物語で、本書(「世界が絶賛~」)の中で著者がこんなことを言っていることから思い出しました。

『私の友人が住む日本海に臨む村では、通学をする児童を除けば、誰もがどこへ行くにも自動車で移動します。この村には日本中のどことでも結んでくれる電化された鉄道が走っているのですが、ほとんど利用されません。この村には路線バスも走り、鉄道ともしっかりと接続していて、村内の各地はもちろん、ずいぶんと離れた集落とも結ばれているのですが、そのバスに人が乗っているのを見かけることもほとんどありません。
私はつねに、このような鉄道やバスがあることがどれほどありがたくて幸運なことかを友人に説いて、しっかりと利用しないとそのうち失ってしまうと忠告しています。』

本書の中には、地方の人ほど糖尿病になりやすい(車に乗ってばかりで運動しないから)というデータが発表されたことがある、という話も出てきます。まあその真偽はともかく、確かに車ばかり利用していれば、いずれ公共交通はアメリカのように廃れて行ってしまうでしょう。とはいえ、今の日本の地方では、なかなか車なしの生活というのも難しいはず。その辺りのバランスをどうしていくかというのが重要になってくるのだろうなと感じました。
読めば読むほど日本という国の良さが染み出してくる作品です。僕らにとってあまりにも当たり前で、日常でしかない様々な出来事が、世界に目を向ければ実は非常に特殊だったということが凄く分かりやすく説明されます。ママチャリという世界に誇る文化を失わないためにも、僕らはもっと町やコミュニティやそうしたものに関心を持っていかなくてはならないのだろうな、と感じました。是非読んでみてください。

チェスター・リーブス「世界が賞賛した日本の町の秘密」



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ニッポン異国紀行 在日外国人のカネ・性愛・死(石井光太)

内容に入ろうと思います。
本書は、貧困や差別などに苦しむ人々を描くノンフィクションを多く書いている著者による、日本に住む外国人の実態を描いた作品です。
本書は大きく分けると、死・風俗・宗教・医療の4つにわけられます。
第一章は「死」。僕は本当にまったく想像したことがなかったのだけど、ここでは、日本で外国人が亡くなった場合、その遺体がどう扱われるのか、ということが描かれる。
どういう宗教に属しているかにもよるが、基本的に日本で外国人が亡くなった場合、その遺体は大使館などを通じて本国に送られる。火葬して遺骨を送るのではなく、死体のまま送るのだ。
そのため日本でも、そういう外国人の死体用のエンバーミング技術というものが存在する。
エンバーミングというのは、南北戦争をきっかけに発展していったものらしい。アメリカの歴史上初めての国内での戦争で、戦死した兵士を近くで埋葬するのではなく故郷に送り届けなくてはならなくなったために発展した。それを1974年に日本人医師が日本へと持ち込み、広まっていったらしい。
エンバーミングを施された死体を本国に送り返すのに、どれぐらいの費用がかかるか。国や死体の状況など様々な条件に左右されるものの、ざっと100万円程度は掛かるらしい。日本に来てお金を稼いでも、日本で死んだらその死体を本国に送り返すための費用でお金がなくなる、なんていうこともあるらしい。また、亡くなった人物が貧しい場合、同じ国出身の日本国内の仲間がお金を出しあってどうにか費用を捻出するという。それほどの大金をつぎ込んでまで、本国で土葬にしてもらう、あるいは本国で火葬にしてもらう。そういう現実はまったく知らなかったし、想像したこともなかった。
本章では、イスラーム墓地についても触れられている。イスラーム教は基本的に土葬が原則だ。人の魂は死と共に肉体から一度離れるが、「最後の審判」を経てまた戻ってくると考えられているからだ。しかし原則として日本では土葬は認められていない。そこで、イスラーム教徒のための墓地というのが存在する。
現在日本国内で、イスラーム教徒向けに土葬を受け付けている墓地は三箇所のみだという。狭い土地を有効に活用して、明治時代以降イスラーム教徒が日本へと流入してきた背景を支えてきた。

第二章は、外国人による風俗店の話。
日本の風俗業界において、2005年から2007年に起こった出来事は、誰にも何が起きているのかまるで理解出来ない、得体のしれない怪物に襲われたかのような現象だった。
2001年に起こった「歌舞伎町ビル火災事件」をきっかけに、石原都知事は歌舞伎町の浄化作戦を行い、店舗型の風俗店を次々に摘発した。経営者は、デリヘルなどの無店舗型の風俗店に切り替えざるを得なかった。それが2005年頃の話。
その頃デリヘルの情報サイトは、ネットに繋いでさえいれば札束が降ってくると言えるほど、まさにバブルのような狂乱だったらしい。しかしその当時何故か、上野周辺のデリヘル情報サイトだけ、どんどん広告が減っていった。上野周辺からは店もどんどんとなくなり、やがて空白地帯のようになってしまった。
初めの内、何が起こっているのか誰にもわかりませんでした。
原因は、韓国のデリヘルが上野周辺に次々と出来たことでした。
韓国では2004年に性売買防止法というかなり厳しい法律が施行され、ほとんどの風俗店が摘発された。そこで彼らは日本へやってきて風俗店の経営を続けることにしたのだ。
ある風俗情報サイト運営者は、日本と韓国の風俗店の違いをこう語る。

『違法なことを合法に見せかけてやろうとする日本の風俗店と、違法であることを違法として開き直ってやる韓国人風俗店とでは勝負にならないんです。』

韓国人風俗店は、女の子の写真に恐ろしいまでの修正を加え、かなり安い値段で本番までやらせた。これにより日本の風俗店は撤退を強いられ、風俗業界には値下げの嵐が吹き荒れることになった。
韓国人風俗店が増えすぎて商売にならなくなると、彼らは地方に行った。地方ではまだ、韓国人風俗店と日本の風俗店はある程度棲み分けが出来ているようだ。
「売春島」と呼ばれる島の現状や、中国人妻を斡旋するビジネスの話が続き、この章の最後でイスラエル人による『バスタ』と呼ばれる職業の話が出てくる。これは、渋谷などによくいる外国人の露天商の仕事だ。日本のバスタの親分が、本国に募集を掛け人員を集めている。
このバスタをやっているイスラエル人は、日本人女性と結婚することが多い。ケースは大きく二つに分かれる。
一つは、ある程度純粋な恋愛に近いもの。バスタをやるイスラエル人は、不法滞在が見つかって強制送還されることを恐れる。一方、地方に住む女性は寂しさを抱え、白人のような外見の彼らであれば自分の孤独を癒してくれるのではないかと彼らに近づく。そうやって結婚するパターンがある。
一方、偽装結婚もある。バスタをやっている男が、30万円とかで日本人女性と偽装結婚してもらうのだ。
この問題は、深い。

『地方で暮らす若い子にとって30万円は大きいですよ。(中略)そんな時、「白人のかっこいい男と偽装結婚すれば、借金を返済できる」と言われたらどうします?する子だって出てきますよ』

『彼女たちにとっても、日本人男性と結婚するよりいいと思うことだってあるんですよ。地方に残っている男性で優秀な人は決して多くありません。少なくとも、地元のヤンキー上がりの日本人男性と結婚するよりは、大学を卒業しているイスラエル人との偽装結婚は、<割りのいいお見合い>みたいなものなんだと思います。借金も返済できて、ハンサムな白人とも結婚できて、そこそこの暮らしもできる。いいこともたくさんあるんです。』

『はい。言葉は悪いですけど、障害がある女の子って結婚相手が見つかりにくいですよね。けど、心の中では結婚したいと願っている。そこで、イラン人とかバングラデシュ人とかはそういう子を道ばたで見つけては声をかけて結婚しないかというのです。(中略)でも、それだって、いわゆる<偽装結婚>というような悪いイメージじゃないんです。聞いた話では、イラン人が車椅子の女性と一緒に暮らしていくうちに恋愛感情が芽生え、幸せになったそうです。子供もできたということでした。障害者を60万円で買うといえば犯罪のような感じがしますけど、当の本人たちはとても満足しているんです』

これは、日本に住む外国人の話でありつつ、同時に日本という国の様々な病をも浮き彫りにしているようで、もちろんまったく知らない話だったので非常に興味深かったです。

第三章は、宗教の話。
世界で一番不況に熱心だと言われる韓国の宣教師は、日本で大規模なホームレスの支援をしている。韓国人はとにかく、世界中どんな地域にも宣教師を派遣して、布教活動をしている。そんな韓国人たちにもそれぞれの背景があり、純粋な信仰の気持ちからだけではなく布教活動をしているという現実が浮かび上がる。
また、タイ人の占い師の話も出てくる。タイ人は占いを非常に気にするようで、一時は風俗嬢などを相手にする占い師が大久保などの町にひしめき合うようにいして存在していた。それがどのように衰退し、今に至っているのか。

第四章は、医療の話。
外国人が日本で病気になった時、言葉が通じない、薬が何に効くのか分からないという不安から、病院にこない人は多い。そういう状況を改善すべく、NPOが外国人医療センターを作り、医療通訳などを通じて外国人の診療に当たっているのだけど、なかなか難しい問題がある。また美容整形も同様で、美の基準が国によって違うこともあり、日本に住む外国人は日本の美容整形に行かず自分でやってしまうことも多い。それによる事故で大変な事態に落ちいるケースもある。
外国人=HIV感染者というイメージについても話がされる。HIVがまだどんな病気なのかまるで知られていなかった時期に起きた「松本エイズ事件」の話から、HIV感染者に関する現状を書いている。

というような感じの内容です。
僕は本書が初石井光太作品です。普段は、イスラムだとかあるいは東日本大震災の被災地など、かなり深刻な状況下での取材の多い著者というイメージがあるのですけど、本書はそういう僕のイメージからすると、結構ライトな感じなのかなという気がします。他の石井光太の作品を読んだことがないので比較は出来ませんが、本書はちょっと、全体的にはノンフィクションとしての強さみたいなものは薄いかなという感じがしました。個別にはかなり興味を惹かれる話題が取り上げられているものの、基本的なトーンとしては、自分の目で見たことを変換しているというよりは、人から聞いた話を写し取っているという感じで、今ひとつ強さに欠けるかなというのが僕の感想です。
特に、第三章・第四章はちょっと弱かったかなぁ。宗教という題材はちょっと扱いにくかったかもだけど、医療というテーマはもう少し掘り下げられたんじゃないかという気がします。勝手な印象ですけどね。
その一方で、第一章と第二章は結構良かったです。特に第一章。日本で亡くなった外国人の死体がどうなるのか、なんてこれまで想像もしたことがなくて、本国で土葬するために100万円近く掛かるなんていうのは、ちょっと衝撃的でした。宗教と深く関わる部分でもあり、全然想像したこともない世界の話だったんで、非常に面白かったです。
第二章も、冒頭から印象的でした。誰にも原因を掴めなかった特異な現象が起きているというところから、韓国人による風俗店が急増していったという話の流れは凄く面白かったし、風俗店が不況のあおりをもろに食らってかなり厳しくなっているというのも分かりました。
しかし何よりも、バスタの話は非常に考えさせられました。地方の若い女性が寂しさからイスラエル人と結婚する、あるいはお金のために偽装結婚をする。しかし最終的にその結婚がうまく行く。そういう現実はまったく知らなかったし、日本に住む外国人だけではなく、日本の病根に迫っているような部分もあって、興味深かったです。
僕は普段日常の中で、外国人と共に暮らしているという意識はありません。生活の中で、外国人の姿を見かけることは稀だし、彼らがどこでどんな風に生きているのか、まるで考えたこともありませんでした。本書は、見えている人にとっては日常なのかもしれないけど、多くの日本人にとってはなかなか触れることも知ることもない世界が描かれていて、なかなか興味深いのではないかと思います。僕は他の石井光太作品を読む予定があるのですけど、本書が初の石井光太作品だった僕には、本書を石井光太作品入門書と捉えていいのか、あるいは石井光太らしさをきちんと知っておくために別の作品から入るべきなのかはちょっとよくわかりません。他の石井光太作品の作品と比べれば、そこまで辛い現実が描かれているわけでもないので、読みやすい作品だとは思います。興味があれば読んでみてください。

石井光太「ニッポン異国紀行 在日外国人のカネ・性愛・死」



それでも、自転車に乗りますか?(佐滝剛弘)

内容に入ろうと思います。
本書は、学生時代から自転車に乗り、現在も通勤は基本的に自転車で行い、大学の卒論も『年交通体系における自転車の位置と役割』という自転車をテーマにしたものであり、かつ自身も自身の子どもも自転車に乗る事故を起こした経験を持つ著者による、日本の自転車を取り巻く状況やその変化、そして諸外国の現状などを踏まえつつ、今後日本人はどう自転車と向き合って行くべきなのかを語る作品です。
著者は冒頭で、東日本大震災が日本の自転車利用者を一気に増やす結果となった、と書きます。そして、決してそれだけが原因ではなくここ10年徐々に問題が顕在化してきたわけなのだけど、自転車同士や自転車と歩行者による事故が年々増えてきているという現状がある。本書でも、賠償金が5000万円などという訴訟も取り上げられているし、最高で6800万円というのもある。著者自身が起こした事故では解決に三ヶ月、そして著者の息子が起こした事故ではなんと解決に四年掛ったというその詳しい状況も描かれます。
本書の趣旨を著者はこう書きます。

『そんな問題意識から、あらためて、ひとりのサイクリストの立場から、単なる自転車礼賛ではなく、冷徹にその存在を見つめた上で、どうあれば、すべての人にとって、「それでも乗りたい自転車」として、もう一度認知されるのかを考えてみようというのが、本書の趣旨である。』

序章でまず、日本がいかに自転車大国であるかということが描かれる。外国人が日本に来た時驚くこともあるそうなのだけど、これほどまでにどこへ行くにも、そして年齢性別に関わりなく自転車に乗っている国というのはそう多くはないらしい。世界にはもちろん自転車が普及している国というのもあるのだけど、しかしそういう国は、平坦だったり雨があまり降らなかったりと、自転車にとって都合のいい環境であることが多い。しかし日本はそうではない。

『こうした条件を差し引いて比べれば、日本は世界最先端の自転車普及国といっても過言ではないだろう。雨も雪も降り、台風も襲来し、坂だらけで、乗用車を購入するハードルも低い日本で、これだけ自転車が普及しているのは、まさに驚異的といってもよいだろう。』

そんな自転車普及国だからこそ、様々な問題が顕在化してくることになる。
しかし、自転車多いことだけが、自転車に関するトラブルが引き起こされる原因ではないのだ。
第一章で著者は、自身の通勤ルートを詳述しながら、具体的に自転車にとってどういう事柄が危険であるのか、という話をする。
そして第二章。ここでは、「自転車はどこを走ればいいのか?」という、日本独自の非常に重要な問題について語られる。

『この命題が問題となるのは、先進国ではほぼ日本だけという特殊事情があることをまず押さえておきたい。なんとなれば、諸外国では、ほぼ例外なく「自転車は車両であるがゆえに、車道を走る」ことが、鉄道は線路上を走ることが自明なのと同じくらいすっきりと理解され、浸透しているからである。』

では何故日本では、「自転車はどこを走ればいいのか?」ということが問題になるのか。それには大きくわけて二つの理由がある。
一つ目は、道路交通法の規定である。詳しくは書かないけど、日本の法律の場合、自転車は基本的に車道を走るものだというのは明記されているものの、条件次第では歩道を走ってもよし、という条文がある。これが曲者なのだ。このせいで、日本では自転車はどこを走ればいいのか明確に規定されないことになってしまう。
そしてもう一つが、ママチャリの存在だ。そもそもママチャリというのがどうして生まれたかというと、

『そもそも、「歩道を自転車が走ってもよい」という1970年に定められた施策の下で、低速走行をメインとして生まれたのがママチャリであり、ママチャリは車道を走るのはそもそも適していないようにできているわけである。そして日本では、大半がその低速車であることに留意しておく必要がある。』

そう、日本のママチャリというのは、法律が一部改正され、自転車は時として歩道を走ってもいいですよ、ということになったからこそ生まれた自転車なのである。ママチャリの多い日本では、自転車はじゃあ完全に車道ね、という風に決めることは難しいのである。
そして第三章では、著者と著者の子どもが起こしてしまった事故について詳述している。自転車保険には入っていなかったものの、会社で入っていた保険の特約が適応される事案であって、それで著者は事故負担がなく済んだ。しかし、息子が起こした事故の方では、事実関係やどこまでを補償するのかということで見解が分かれ、解決に相当な時間を要した。著者の実感としては、自転車での事故は、自動車での事故以上に解決への道のりが遠いかもしれないとのことだった。特に自転車同士、自転車と歩行者の場合だと、お互いに未成年ということもよくあるので、事故原因を特定しにくい、という難しさもある。
第四章では、マクロ的な視点から自動車事故を見ている。様々な統計からデータを引っ張ってきて、日本では自転車による事故が諸外国よりはるかに多いこと、自転車事故そのものも増えているなど明らかにしていく。また、実際の判例や、ここ最近起きた印象的な自転車による事故などを取り上げ、また自転車乗りが加入することが出来る保険、またそれは必要であるかどうかなど、自転車に乗るための心構えや備えなんかをきちんとするために重要な章だと思う。
第五章では、自転車先進国である諸外国の事例、あるいは日本国内でも面白い試みをしている地方自治体などが取り上げられる。ヴェリブというシャアサイクルをパリ市内に大規模に設置したフランス、自転車を持ち込める車両や自転車専用道路などをかなりしっかりと作っている韓国。どちらも共に、10年前には街中で自転車はほとんど見られない国だったのだけど、特にフランスではヴェリブの設置が大きな成功を見せている。また日本国内では、富山県の「シクロシティ富山」、横浜市の「ベイバイク」、京都市の観光客用のレンタルサイクル、宇都宮市の「宮サイクルステーション」など、様々な取り組みが各地で行われている。すぐ変わるのは難しいだろうけど、少しずつ状況が変わっていくのかもしれない。
という感じの話です。
僕は、基本的に徒歩で生活している人間で、ちょっとだけ自転車を使う、という人間なのですけど、それでも本書を読んで、怖いなぁと思うのと、無知はいかんなぁ、と思いました。
怖いなぁっていうのは、やっぱり事故ですね。過去の判例などを見ると、自転車事故に対する加害者への厳罰化の流れは確実にあるようで、自動車と同じレベルの意識が求められるようになりつつあるのだけど、一般市民はその感覚をまだ実感できていない。そのすれ違いの中に深刻な問題があるな、という感じがしました。特にやっぱり、賠償金が6800万円みたいな事例があることを知っちゃうと、そこまでヘビーに乗らない僕でさえ、やっぱり自転車保険は入った方がいいのかなぁ、って気になったりしました。
無知はいかんなぁって方は要するに、自転車に乗る側の人たちの意識が変わったとしても、歩行者や車のドライバーたちの意識が変わっていかないと意味がないというようなことが書かれていて、そうだよなぁ、という感じがしました。フランスと韓国はそれぞれ、鉄道へのテロの多発と原油価格の上昇という現実を前に、国全体が自転車というものへのシフトを考えて実行している国なのだけど、特にフランスの方は、国民のコンセンサスをある程度取れるからこそ出来るのだろうという気がします。なにせパリっ子にとって、自転車に乗るなんてのはダサイことだったわけで、それをたった10年ほどで意識を変えてしまえたというのは凄いなという気がします。日本においても、東日本大震災を契機として、自転車に関する国民の合意を得られればいいのですけどね。
日本独自の自転車絡みの問題や、著者自身の経験をふんだんに盛り込んだ事故とその対応、諸外国の自転車に対する取り組みなど、全体的にうまくまとまっている作品だと思いました。著者の視点も、自転車乗りとして自転車乗りにとって都合のいい発言をするわけでもなく、その逆でもなく、非常に客観的に、乗り物としての自転車のことをよく見ていると感じました。日本の特殊さを理解しつつ、省エネで小回りも利く自転車が、もっといい形で広まってくれればいいと思います。自転車に乗っている人は、自戒を込めつつ、読んでみるといいと思います。

『自転車通行にこのような原則があることを、自転車を運転する側が知っておくのは自明の理であるが、それと同様に大事なことは、道路をシェアする相手側、つまり歩行者、オートバイや自動車の運転手もその認識を共有しているかどうかである。』

『自転車先進国は、自転車専用レーンへの車の駐車に対して、「ちょっとくらいいいか」では済まないくらいの、恐ろしく高額の反則金を科しているところがおおい。取り締まりも、カメラで徹底的に「監視」する。こうして安全を確保してはじめて、自転車を安全に車道に誘導できる。』

『難関交差点が”難関”だと認識できるのは、ここを実際に自転車で走った経験のある人だけである。このように日本では、突然どこを走ったらよいかわからなくなってしまうという、ミステリーのような道路が確実に存在するのである。』

『駐輪には一定のスペースが必要であり、それを確保するには、社会的なコストがかかる。場合によっては利用者がその費用の一部を負担することも避けられなことである。訪問先の軒下に停められないと面倒だと思うような人、わずかな駐車代を惜しいと思う人は、自転車にのるべきではない―そういう時代になろうとしている。』

『フランスの自転車施策を取材する間、何度も聞かされたのが、「移動権」という言葉である。人は誰でも自由にそして快適にどこへでも移動できる権利を有する。その権利を「移動権」と呼ぶ。』

『自動車と自転車の関係は、テレビとラジオの関係に似ているように思える』

佐滝剛弘「それでも、自転車に乗りますか?」



謎のチェス指し人形「ターク」(トム・スタンデージ)

内容に入ろうと思います。
本書は、1769年にフォン・ケンペレンという人物が作成し、当時の人々を熱狂させ、様々な有名人と関わりを持ち、現代の人工知能やコンピュターを生み出す端緒の一つとなった、「ターク」と呼ばれたチェスを指す人形についてのノンフィクションです。たぶんこれを書くと興味を持ってくれる人が増えるだろうから書くけど、本書で描かれるタークはまず間違いなく、小川洋子「猫を抱いて象と泳ぐ」のモデルになっただろうと思います。
オーストリア=ハンガリー帝国の女帝だったマリア・テレジアの宮廷で行われたとある奇術師の舞台に、物理学や機械工学に通じていた官吏であるケンペレンは呼ばれた。科学技術に精通したケンペレンであれば、その奇術を見破ることが出来るのではないか、とマリア・テレジアは考えたのだ。しかしその舞台が、ケンペレンの人生を狂わせることになる。
その舞台を見た後マリア・テレジアにその舞台の評価を聞かれたケンペレンは、「陛下がいまちょうど目にされたものより、自分ならもっと驚くような効果を発揮し完璧に人を騙せるような機械を作れると信じております」と答えた。そしてケンペレンは、六ヶ月間公務を免除され、その間に「ターク」を作った。
タークは、世界中ヨーロッパやアメリカのチェスの強豪を次々と打ち破る、恐ろしく強い人形だった。
タークは、チェス盤を置いた机の前に座って長いパイプを持ち、ターバンを巻いたエキゾチックなトルコ人のような格好をした人形だった(「ターク」は「トルコ人」という意味。ケンペレン自身は自分が作った人形に名前をつけなかったけど、この人形はそう呼ばれた)。机の下に隠された機械的な装置を見せ、また机の下に人が隠れているわけでもないということをちゃんと見せてタークの実演は行われ、18世紀の人々は、タークが本当に自分でチェスを指しているものだと信じた。
当時、オートマンと呼ばれる自動人形が花ひらいていた時代だった。特定の時刻になったら人形の仕掛けが出てくるという時計から始まって、次第にその仕掛け部分だけが作られるようになり、人間のように楽器を演奏するオートマンなど、様々なものが生み出されては人気を博した。タークはそんな時代の中にあって、機械で動いていると謳われたオートマンの一つであった。
ケンペレンは当初、タークの実演はそこまで長くやるつもりではなかった。しかし、熱狂が熱狂を読んだ。ケンペレンの生み出したタークは、あちこちで評判となり、次第に広い会場を借りきっても満員になるほどの盛況っぷりを見せた。ナポレオンもタークと対戦したことがあるというように、著名人も多くタークに興味を示し、当時のチェスの有能な指し手も無視できない存在になっていた。
『1783年のロンドンで、けんぺのチェスを指すオートマンに匹敵するほど人気のある見世物を想像することは難しい』と書かれているように、タークによる実演はどこへ行っても大人気を博した。本書は、何故タークが生み出されたのか、タークが生み出されるにいたるオートマンの歴史、タークの所有者の変遷などと共に、メインは、タークというチェス指し人形に対して大衆がどんな反応を示し、またタークがどんな分野にどんな影響を与えたのか、ということが描かれる作品です。
18世紀には、タークは機械人形であるとしてほとんど疑われることがなかった。機械的なものというものがまだそこまで普及しておらず、機械というものがそもそもなんなのかよくわからないという時代背景の中で、人々はタークが見せてくれる奇跡を素直に受け取る。
しかし19世紀に入ると、その状況も変わっていく。蒸気機関など機械的なものが普及するようになり、大衆の間でも、機械に何が出来て何が出来ないのかということが少しずつ想像出来るようになってきた時代。その中にあって、タークの驚異的な能力は、機械には生み出すことが出来ないはずだという批判や、あるいは、タークは具体的にはこんなトリックで動かされているはずだというような推理まで、様々な反応が出てくるようになった。
いずれにせよ、タークはその存在によって、非常に有益な議論を様々に生み出す存在だった。

『オートマンは娯楽や技術、商業の交差点で、それぞれの分野のアイデアの交流を引き起こし、さらなる核心をもたらす触媒となった。そして英国を訪問している間に、タークはこうした過程の中で予想外の役割を果たすことになった』

『グリムはこのオートマンにたいへん感心し、「物理学や化学、機械学はわれわれの時代に、無知と野蛮の支配した時代の熱狂や迷信が産み出した以上のものを生み出した」と宣言した。そしてタークは「ヴォーカンソン氏がフルート吹きで耳にもたらしたものを、心や目に対してもたらした」と表現した』

ケンペレンはタークを生み出すことでまず、『ケンペレンは自分の機械にチェスを指させるという、明らかに知的な仕掛けを選んだとき、「機械は人間を模倣したりそのまま再現したりできるか」という活発な論争に火をつけたことにな』り、さらにそれだけではなく、具体的な様々な分野への刺激的な影響を与えることになった。
たとえば、タークではないのだけど、ケンペレンは喋る機械の研究もしていた。

『ケンペレンの本は今日でいうところの実験音声学を創設したものと言え、彼が追究した音声機械の研究は当時最も進んだものだった。彼が最後に作った喋る機械は、いまでもミュンヘンの科学技術博物館に所蔵されている。この機械は19世紀になって、電信の先駆者となった英国のチャールズ。ホイートストンによって複製が作られた。ホイートストンは1863年にこの機械を、アレクサンダー・グラハム・ベルという若者に見せている。ベルはそこで見聞きしたものに触発され、すぐに自分の喋る機械を作り始め、彼がそのために行った音声の機構や模倣、伝達の研究が、ついには1876年の電話の発明へとつながっていく。』

間接的ではあるけど、ターク(というかケンペレン)は、電話を発明するきっかけにもなっている。
また、現代のコンピュータに先駆ける階差機関や解析機関を発想したチャールズ・バベッジという男は、少年の頃タークを見て、機械が本当にチェスを指せるはずだと信じ、大人になってから歯車を組み合わせて計算する機械を組み立てた。タークはそういう意味で現代のコンピュータに通じるものもあり、また当然のことながら、機械が意識を持ちうるか、人工知能は可能なのか、というところにも深く関わっていく。
変わったところでは、タークについて取材したある記者の存在がある。

『リッチモンドでオートマン展示会を行なっている間に、メルツェルはまたバーナムのように将来がたいへん有望そうな才能のある若者に出会った。その2番目の若者は興行師ではなくジャーナリストで、彼がタークについて書いたものはその後はるかに広く行きわたって有名なものになり、その過程が新しい文学の形を決めるものでもあった。彼の名は、エドガー・アラン・ポーといった。』

彼がタークについて書いた、タークはきっとこんなトリックで動いているに違いない、という内容の記事は、現在の推理小説の元祖といわれているようだ。それまでタークについて批判する人たちの言い分は、各々が勝手な予想を言い合っているだけであって、それは検証という形になっていない。ポーはタークについて、ある仮説を立てた上で、その仮設が実際に矛盾なく現実に当てはまるのか、という観点から検証を行なっている。これが、今日の推理小説における『推理』の元祖だと言われているようです。タークは推理小説も産み出しているのですね。
本書の最後には、機械(コンピュータだけど)が初めてチェスで人を打ち破った、「ディープ・ブルー」の話も出てくる。機械が知性を持つかどうかという点について、実際の科学の現場でも、あるいはSFや文学などでも、よくチェスというものが使われてきた。その元祖がタークであり、タークの存在は、ディープ・ブルーにまで連綿と繋がっているのである。
タークそのものにまつわる話も面白くて、20年間動かされずに埃を被っていたり、様々な事情による持ち主が変わったり、そして最後には火事で焼かれてなくなってしまうなど、タークそのものもなかなかに波乱の人生を送っています。
そんな、タークという、当時の人々を熱狂させ、また様々な分野に多大な影響を与えたチェス指し人形のお話です。
これはホント面白かったなぁ。はっきり言って、内容としては薄いと思う。結局本書は、タークがどんな反応を引き起こしたのか、というのを丁寧に集めたもので、劇的な展開があるわけではない。それでも、自分は一度足りともみたことがないタークという人形に対して、すごく不可思議な感覚に陥る。本書には、『多分、最も大きな発見は、彼が再現したタークを見ていると、それがどうやって動いているかを知っている人でも、純粋に機械仕掛けで動いているという幻想を強く持ってしまうということだった。タークの持つ何かが、人に騙されたいという根本的な欲求を喚起するように思える』という文章があって、まさにそれは本を読んでいても伝わってくるものがある。ここまで僕の感想を読んでくれる人ってそうは多くないだろうから書いちゃうけど、ディープ・ブルーってコンピュータがようやく最近チェスのチャンピオンを破ったわけで、18世紀当時に純粋な機械人形が人間相手にチェスで勝てるわけがない。もちろんタークの中には人がいて、その人がタークを操っているのだ(僕もこの情報を知った上で本書を読んだんだけど、でもネタバレというほど大きなものではないと思う。現代人であれば、ちょっと考えれば、タークが人によって動かされているというのはわかるはずだ)。その事実を知ってさえ、なんだかタークという人形は、本当に知性を持って自分でチェスを指しているのではないか、という気にさせてくれる。それは、ケンペレンが様々なところに張り巡らせた巧妙なトリックが実によく作用しているからなのだけど(タークを再現した奇術師が、タークの存在は機械的にではなく奇術的に非常に優れていると評価している)、タークが動いている姿を実際に見てみたかったなと思わせるし、タークという存在がこれほどまでに多くの分野に影響を与えたことが理解できるような気がしてくる。
本書をどう読んでも自由だけど、『昔の人ってマジで、コンピュータもない時代に機械がチェスで人間に勝てるとか信じてたわけ?』みたいな風に思うのは危険だと思う。つまりそれは、現代に生きる僕達も、何らかの『無知』の中に生きているからだ。
今を生きる僕たちには確かに、タークが純粋に機械だけで動いているなんて信じることは馬鹿げているように思える。そんなわけないだろ、と言いたくなる。しかし、僕らだって実際、未来人からすれば、あの当時の人々ってあんなこと信じてたんだ、と思われることを、無意識的に信じているはずなのだ。
例えば、適切な喩えかどうかは自信がないけど、日本で信じられている血液型占いなんかもその一つだと思う。血液型占いは、世界中で日本と韓国でしか信じられていないし、もちろん科学的に根拠なんてあるわけもない。血液型で性格が違って見えるのは、『そう見えるだけ』あるいは『後天的に社会で生きていく中で獲得していったもの』だと僕は思っていて、先天的なものではありえない。でも、日本人は血液型占いが大好きだし、心の底から信じている人がどれぐらいいるかはわからないけど、それなりに多くの人が信じているだろう。
かつて人々は、地動説というものを信じていた。太陽が地球の周りを回っている、という説だ。その説に従うと、様々に不都合なことが立ち現れてくるのだけど、しかし宗教の絡みもあって、当時の人々は地動説を信じた。後に天動説が出てきて、太陽の周りを地球が回っていることがわかったけど、しかしだからと言って地動説を信じていた人を無知だと言って笑うことは難しい。結局のところ僕達は常に、過去の人よりは情報量的に優位にいて、そして未来の人よりは情報的に劣ったところにいるのだ。僕らも、未来の人からみれば、情報不足のせいで(あるいは単に考えが足りない場合もあるだろうけど)ありえないことを無意識のうちに信じてしまっているはずだ。だから本書は、過去の人たちを笑うのではなく、今を生きる自分たちへの戒めとしても非常に有益な作品ではないかという気がします。
知性とは何か、機械と人間の境界はどこか。後年学問として発達することになる様々な分野に多大なる影響を与えたタークというチェスを指す機械の存在を是非堪能してください。是非読んでみてください。

トム・スタンデージ「謎のチェス指し職人「ターク」」



新幹線をつくった男 伝説のエンジニア・島秀雄物語(高橋団吉)

内容に入ろうと思います。
本書は、『当時、英、米、仏の戦勝国においても、鉄道社長の振動理論は手付かずなままであった。高速鉄道列車という発想すら芽生えていない』 そんな敗戦直後という時代に、『復興に向けてようやく立ち上がった日本の車両技術は、島と松平によって、鉄道先進各国に大きく水をあけたのである』 と著者が評すほどとんでもない化け物のようなシステムだった新幹線を、その卓越した先見性と完璧なまでの合理性によって、そして『もし島秀雄が、国鉄にカムバックしなかったら…。今日の日本の鉄道は、大きく様変わりしていたにちがいない。という話を、何人もの国鉄OBの方からうかがった』 と言わしめるほどの圧倒的な存在感で創り上げた島秀雄という伝説的なエンジニアについての評伝です。
島秀雄は、明治時代に狭軌・広軌論争(線路の幅の話。日本の鉄道において常に議論されてきた重大な問題らしい)で大きな活躍を見せつつ、結局悲願であった広軌への移行を達成出来なかった島安次郎という、これも鉄道の世界においては伝説的な人物の息子だ。島秀雄の最大の功績は新幹線を作ったことだが、島秀雄は、名機と呼ばれるD51を作った人物としても知られている。
本書では、技術者として島秀雄がどんな歩みを辿ったのか、国鉄がどういう歩みの中で新幹線という途方もない計画を進行させたのか、島秀雄はどうして国鉄を去り、そしてまた戻ってきたのか、新幹線に至る技術的な歴史はどういう流れなのか、島秀雄が辿った道のりの中で他にどういった人物が大きな影響を与えたのか。というような、島秀雄という男を中心軸に据えて、新幹線開発に至るまでの流れを追っています。
本書を読んで一番強く感じたことは、もったいないなぁ、ということです。題材は滅法面白い。本書で扱われている題材は、鉄道に興味がない人間でも思わず惹きこまれてしまうような力を持っていると思う。しかしいかんせん、ノンフィクションとしてはちょっと弱い。最大の弱点は、本書はある程度鉄道に関する予備知識がないと楽しめないだろうなぁ、という点です。
本書はしょっぱなから、明治時代に起こった狭軌・広軌論争の話が出てくる。鉄道にまるで興味のない僕は、そもそも狭軌と広軌という二種類があったことも知らないし、それが鉄道の歴史の中でそれほどまでに重大な論争なのだということも知らなかった。しかし本書では、それはさも当然であるかのように扱われるんですね。他の部分でもそうで、例えば技術的に難しい部分の説明が、ある程度予備知識を持つ人間以外には分かりにくくなるのは多少は仕方ないとはいえ、全体の作りが、ある程度鉄道に関する予備知識は持ってるよね?という前提があるように感じられて、そこが本当に残念だった。本書は、題材はピカイチなのだから、書き方次第でもっと面白くなる。本書のような、正直あまり構成や描写がいいとは言えない作品でも、島秀雄というエンジニアにメチャクチャ興味が湧きます。もっとノンフィクションとして洗練されてればなぁ、という感じが否めません。誰か同じ題材でもっと面白いノンフィクションを書いてくれないかなぁ。
今の新幹線とほとんど同じ計画が、既に昭和16年に議論され着工されていたこと、島秀雄がおよそ丸2年も諸外国を外遊していたこと、戦時中彼らは何をしていて、そして戦後どういう限定された条件下で素晴らしい仕事をしてきたのかという話、機関車列車以外のアイデアが『非常識』であった時代から電車列車(機関車で引っ張るのではなく電気で動く電車)の未来がやってくることを抜群の先見性で見通していた島秀雄が、その実現のためにどういった小さなたくさんのステップを乗り越えてきたのか、この人がいなければ新幹線は完成しなかっただろうと言われる第四代国鉄総裁十河信二の破天荒さ、そして島と十河が受けた不遇の扱い、事故から何を学びどうやって安全性の高い鉄道を生み出してきたのか、そしてその延長線上にあるこれまで公表されてこなかった島秀雄の遺書、政治の世界での騙し合いと世界銀行相手のやり取りなどなど、とにかく個別の話は抜群に面白い。もう少し全体を巧くまとめる手腕があれば、もっともっといくらでも面白くなる作品だと思えるだけに、凄くもったいないなぁ、と感じてしまいました。
鉄道とはまるで関係ないのだけど、島秀雄の性格が伝わるエピソードがあるので引用してみたい。キリスト教に入信した娘が島秀雄にキリスト教の教えを熱心に説いたことがある。その際、島秀雄はこう言ったという。

『たしかに素晴らしい教えだと思う。しかし世界に数ある宗教をすべて網羅せぬ限り、最上の教えとはいい切れぬし、したがって帰依することもできない』

僕もまさにそういう発想をするタイプの人間で、島秀雄好きだなぁと思ってしまいました。徹底的に合理的に物事を進めた島秀雄らしい言葉だなと思いました。
東海道新幹線開発がどれほど素晴らしい事業であったのか。それを端的に表現したこんな文章がある。

『世界銀行では、いまでもこう語り継がれている。
「数ある世銀借款の中で、もっとも成功し、稔り豊かで、かつ世銀にとってもっとも誇らしい融資が、日本の東海道新幹線建設である。」』

僕は、日本の新幹線がそこまで凄いものだとはまったく知らなかったので、本書を読んで改めて日本の技術力に驚くとともに、島秀雄という怪物のようなエンジニアがいたことを、なんか日本人として誇らしく思えてきます。
にしても島家というのはとんでもない家系で、父は鉄道の世界で名を馳せた大物、長兄である秀雄はD51と新幹線を生み出し、次兄・茂雄はNHK技術研究所所長やソニー研究所所長などを歴任した電気技師、三兄・邦雄は鉄道技師として非常に有望だったらしいが東京大空襲で死去。四兄・恒雄は、ビールの近代的な大量生産技術を開発した化学技師。そして五兄は、戦後初の国産旅客機「YS-11」の中心的な設計者として技術者の間では名が通っているという。なんというか、全員化け物だな。しかも、D51と新幹線とYS-11を世に送り出したのが兄弟だってんだから半端ないっすね。
というわけで、作品としてはそこまで褒められないんですけど、題材は抜群に面白いです。同じ題材でもっと面白い作品を書いてくれる人はいないだろうか、と思っています。まあでも読むと、日本の技術力の高さ、新幹線が生み出されるまでの紆余曲折、そして島秀雄という化け物エンジニアの凄さが伝わると思います。最後にいくつか、気になった文章を抜き出して終わります。

『昭和39年に開業した東海道新幹線建設の最大の功労者は、実は、第4代国鉄総裁の十河信二というべきである。十河老裁の2期8年におよぶ頑固一徹の頑張りがなければ、断じて東海道新幹線は誕生していない。だが、技術長・島秀雄の明晰な設計ビジョンとリーダーシップがなければ、たとえ東海道新幹線が出来上がっていたとしても、世界の鉄道はとうの昔に斜陽しきっていた可能性が高い。』

『島は、のちにこう回想している。
「(戦時中の話)やがてくるはずの電化の時代にそなえて、思う存分、設計図を書かせていた。上に知られるとしかられるので、こっそりとやっていたが、今考えて、あんなに夢にあふれた時期を、私は知らない。」』

『日本の鉄道は、1日たりとも止まっていない。8月15日でさえ、鉄道は平常どおり動いている(中略)明日知れぬ焦土で運行死守を貫けたのは、当時の鉄道人のプライドである。島によれば、「職員全員が歯を食いしばって頑張った」からであった。』

『すでに何度か触れたように、理想の鉄道は電車列車である(中略)今考えれば、いいことずくめなのだが、当時は、「非常識」であった。世界的にも長距離電車列車の類例がなかったのである。その最大の理由は、振動と騒音。つまり乗り心地の悪さである。』

『事実、新幹線を開発するにあたって、島が最後まで貫いたポリシーは、「未経験の新技術は使わない」であった。』

高橋団吉「新幹線をつくった男 伝説のエンジニア・島秀雄物語」



火星ダーク・バラード(上田早夕里)

内容に入ろうと思います。
舞台は、火星に人類が住み始め、既に火星生まれの人類が現れ火星独自の文化が生まれている、そんな遠い未来の話。火星全体をテラフォーミングするのではなく、火星のごく一部をパラテラフォーミングすることで、資金を抑え火星移住への現実的な道筋を切り開いた。深い峡谷を透明なドーム状のもので覆った都市がいくつか点在する火星には既に、地球への郷愁を抱くことのない、それどころか火星よりさらに遠い宇宙へと思いを馳せる人々がたくさんいる。
水島は、とある事情で地球で刑事になることが出来ない男で、どうしても刑事になりたかった水島は、人手不足のため若干の経歴には目を瞑る火星へとやってきて、治安管理局員となった。地球で言う刑事と同じで、犯罪者を追い詰める立場だ。
水島は、仕事への熱意は人一倍あるし、筋の通った男気のあるやつなのだが、いかんせん協調性に欠け、常にバディと不和を起こしていた。しかし現在のバディである神月璃奈とは奇跡的に相性がよく、長いこと信頼できる相棒として一緒に仕事をしてきた。39歳の水島は、若く美しい璃奈に若干惹かれている自分も自覚していた。
快楽的に女性ばかりを殺しまわっていた凶悪犯ジョエル・タニを捕まえ列車で護送中、何か奇妙な出来事が起こり、それが水島の人生を一変させることになる。意識を失った水島が目を覚ました時、目の前にあったのは惨状だった。璃奈は銃でメッタ撃ちにされ、ジョエルは逃亡してしまっていた。車内で唯一生き残った水島は、璃奈を殺害した容疑で逮捕されてしまう。
水島には、自分が何をしたのか、あの時の状況がどうだったのかという記憶がない。幻覚を見たのは間違いないが、璃奈を撃ち殺すことなどあるだろうか?とにかく、真実を知りたい。しかし、治安管理局を管理する司法省直轄の組織である調査室は、明らかに水島に対して隠し事をし、嘘をついている。
どうにかして自身で調べることを決意した水島だったが、何か強大な力が働いているようで、自由には動けない。しかし水島はあることをきっかけにして、アデリーンと名乗る少女と出会う。アデリーンは水島に、とてもではないが信じることなど出来ない荒唐無稽な話をした。火星の総合科学研究所が、進化した人類<プログレッシブ>を密かに作り上げているという。アデリーンもその一人で、先の列車事故は自分のせいで引き起こされたというのだが…。
というような話です。
いやはや、これは面白い作品だったなぁ。僕はホントSFが不得意な男で、あんまりSF作品で面白いと思える作品に出会えることが少ないんだけど、この作品は凄く面白かったです。
設定としては、伊坂幸太郎の「ゴールデンスランバー」や、トム・ロブ・スミスの「チャイルド44」のような、超絶的に不利な状況下でどうやって逃げるか、という話が結構メインになっていきます。とにかく、立場的にはほぼ丸腰の一介の管理局員が、火星政府を背景に持つ超巨大組織から逃げ延び、さらにそれだけではなくアデリーンという少女や、他にも水島に関わったことで追われてしまうようになった人たちを守る、しかも同時並行でその強大な組織が必死で隠している情報を暴きだそうとする、という部分がストーリー展開の中核になっていきます。
これがなかなか読ませるんですね。水島は、本当にもう満身創痍、結構限界レベルまで自らの身体と精神力を酷使して、逃亡と調査を続ける。初めの内その動機が、璃奈という信頼できるバディを殺されたから、という理由なのが若干弱い気がしますが(でもこれは、璃奈に関する描写が非常に少なく、水島と璃奈の関係性が物語の中で強くは浮かび上がらないからという理由だけど)、しかし水島の融通の利かない、自らの信念を折らない、自分を痛めつけてでも大切なものを守りぬこうとする生き方が非常に強く描かれていてなんというか清々しいし、さらにアデリーンと出会ってからは、いかにしてアデリーンを守るかという部分も強く動機に組み込まれていくので、読んでいくにつれて、水島の行動を応援したくなっていきます。できる限り誰にも頼らず、相手が憎むべき相手であっても出来る限り傷つけず、という非常に困難な縛りを自分にもうけつつ、水島は周囲の人間を説得によって味方につけ、自らの行動によってその清廉さを証明し、そういう泥臭いやり方で少しずつ前に進んでいく。その、必死の逃亡と調査の物語がまず非常に読ませると思います。
ストーリー展開の核はその逃亡と調査なんだけど、物語の核としては、<プログレッシブ>という進化した人類の存在が上げられる。これについて詳しく書くとネタバレになりすぎるような気がするからあんまり書かないようにするけど、<プログレッシブ>であるアデリーンの孤独・不安・諦念、あるいは<プログレッシブ>を推進しようとする人間の野心・展望・信念、そうしたものが物語の核として存在する。
これは非常に考えさせられる内容です。<プログレッシブ>は要するに、遺伝子の組み換えの技術なんかによって、人間の遺伝子を人為的にデザインして作られるのだけど、これは僕らの社会でも、出生前診断やジーンリッチなどの考え方で少しずつ現れているものだ。その延長線上に、この物語がある。遠い将来、火星に人が住むようになるのか分からないし、また遺伝子組み換えの際本書で描かれるような状況が起こりうるのかどうかもわからないけど、でも本書を読み、人類はどうあるべきかという問いかけをすることは出来る。それは、本書で扱われていることに限らない、僕らが生きている世の中でもそのまま通用する問いかけになるはずだ。
水島はある場面でこんな風に叫ぶ。

『私が欲しいのは、どんな未来が訪れても、誰もが自分の選びたい生き方を選ぶことのできる社会だ!』

一方で、<プログレッシブ>を推進するトップはこう自問する。

『人間は、どこまでいっても、己の罪深さから逃れられないのか。
科学の力で、それを克服することはできないのか。
どこまでも罪を犯し続けるしかないなら、人類にとっての真の平安はどこにあるのだ。
それを望むことすらも、あるいは、姿を変えた罪の姿でしかないのだろうか―。』

この作品は、人類というものの存在について、鋭く様々な問いを突きつける。はっきりと答えの出る問いではない。ある人はその答えを、自らの信念によって支えるだろう。ある人はその答えを、永遠に保留し続けるだろう。ある人はその答えを、対話によって探ろうとするだろう。SFが得意ではない僕が言っても説得力はないけど、こういう現代の社会ではありえない設定をSFとして提示することで、人類や未来に対して深く考えさせる。そういう力がSFにはあるな、と実感させられる作品です。
一人ひとりの行動は、自分が当事者でなければ責めることが出来るものが多いだろう。<プログレッシブ>に関わる研究者も、水島やアデリーンを追い続ける人間も。しかし、もしその当事者になってしまえば、もしかしたらそんな選択をせざるを得ないかもしれない。そういう究極の状況が何度も提示され、人間の葛藤や深みが描かれる。誰のことをも否定することは難しい。もちろん無条件に肯定することも難しい。そういう中にあって、水島という男の清廉さは見事で、これほどまでにストイックに生きるのはしんどいだろうなぁと思ってしまった。でも、僕も割と嘘がないように生きたい人間で、水島のような男の生き方にはちょっと憧れてしまうのだけど。
物語は、凶悪犯を護送中の列車内で起こった、傍目から見ればちょっとした事件から、とてつもない話へと展開していく。SFの設定も見事だけど、水島を中心としたサスペンス的な展開は読み応えがあるし、これがなんと恋愛的な要素も見事に絡みあって、一体感のある世界観を生み出している。これがデビュー作だからなぁ。凄いものですよ、ホント!
SF的な作品が苦手な人も多いかもしれないけど、SFが基本ほとんど読めない僕でも読めた作品なのでそこまでハードルは高くないだろうと思います。長い作品ですけど、一気読みできてしまうのではないかと思います。表紙も素敵だしなぁ。是非読んでみてください。

上田早夕里「火星ダーク・バラード」



僕は本をつくりたい。(荒木スミシ)

内容に入ろうと思います。
本書は、兵庫県でたった二人(現在は三人なのかな)で本を作り続け、売り続けるということをやっている「NON CAFE BOOKS」という小さな出版社のお話です。
本書は、NON CAFE BOOKSがどのように出来ていったか、という過程が描かれるのだけど、とりあえずまずNON CAFE BOOKSがなんなのかという説明をしようと思います。
NON CAFE BOOKSは基本的に、荒木スミシという作家の作品を出す出版レーベルです。というか、荒木スミシが立ち上げた、自身の著作を出版するための個人レーベルなんですね。この、大手出版社から本を出すでもない、自費出版とも少し違う、作家自身が個人レーベルを持つという新たなスタイルが、出版業界というなかなかに旧弊な業界において注目されている存在です。小ささを武器にしていて、全国1万店舗以上ある書店の中で、大体200店舗ぐらいしか扱っていないという、そういう本です。
本書は、著者の荒木スミシがどのように本を出すに至ったのか、何故NON CAFE BOOKSを立ち上げるに至ったか、そこでどのように本作りをしているのかというようなことが書かれている作品です。基本的なスタンスとしては、『僕が経験してきたことは、ちょっと特殊なことだったけど、でも誰にだって僕らみたいなことは出来るんだよ』という感じで、本を作りたいと思っている人に向けて、自分たちがこういう経緯で出版というものに関わってきたのだ、という経験を語るという感じになっています。
著者は元々、出版するつもりのない小説を書いていました。書き上がっても出版するつもりはありませんから、新人賞などに応募することもありません。ただ、本という形にすることにはなんとなく興味があって、それで自費出版で555冊だけきちんと製本された本を作った。そしてそれを無謀にも、好きなクリエーターとか、好きな雑誌の編集長とか、好きなアイドルとかに勝手に贈ったりしていた。
そんな中に、紀伊國屋書店の出版部というのもあった。紀伊國屋書店は、著者の経歴を見て、その本を著者の地元である加古川店に送った。地元作家をまとめる棚が加古川店にはあって、紀伊国屋の人から、売れないと思うけどちょっと置いてみるよ、という話がくる。
そしたらこれが、かなり売れてしまった。5冊も売れないと思うと言った書店員の予想とはうらはらに、加古川店だけで200冊売れた。当時全国で、その店にしか置かれていなかった本である。
その裏で、著者の荒木スミシは、家族や友人たちと色んなことをやってみるんだけど、そういうことの甲斐もあって、取り扱い店も増え、雑誌などで取り上げられることも増え、やがて幻冬舎からメジャーデビューすることになる。
のだが、ここで著者を不幸が襲う。10万人に1人しかならないと言われている、一型糖尿病に罹患してしまうのだ。
それまでの生活とはまったく違った生き方を余儀なくされた著者は、その中で、自分がやりたいことを見つめ直し、やがてそれはNON CAFE BOOKSという形に結実していくことになる。広告代理店で働いていた奥さんと共に、本のデータから自分たちで作り、書店営業も自らやり、やがて一部書店の週間ランキングに入るようになり、徐々にNON CAFE BOOKSの認知度は上がっていく。
そういう過程を描いた作品です。
読み始めは、ちょっとなんか微妙かなぁ、と思ってたんですけど、次第に面白くなりました。かなり旧態依然とした出版業界の中にあって、常識の枠に囚われないで出版活動をしている人たちのシンプルな考え方が、長いこと書店で働いてきてなんとなく初めの頃の純真さを失いつつある(笑)僕には、なかなか響くものがありました。
出版・書店業界というのは、ホント不思議なことがたくさんあります。もちろん、他のどんな業態であれ、それぞれの業界内で独特な因習とか前提とかあるものなんだろうけど、出版・書店業界の場合、『再販制』という非常に特殊な制度の存在のために、他の業界とはまた違った形での奇妙さに溢れているという風に感じることがあります。
もちろん、その奇妙さは、書店にとって恩恵であることも多い。なにせ、僕みたいなフリーターが、売り場に何を置いてどれを発注するかなんてのを決めて実行できるのも、再販制のお陰ですからね。でも再販制はまた、出版・書店業界に様々な禍根を残していく。本書でもこんな風に書かれているけど、

『僕は思うのだけど、こういうやり方をみんながみんな、続けていると出版界が、自分たちのシステムで、自分たちの首を絞めて、苦しむ結果になってしまう。』

まさにその通りだな、と思う。出版・書店業界は、自分の首を自分で絞めていることを自覚しつつ、そうせざるを得ないという、結構ヤバい業界です。その中で色々と考えさせられることも多いのだけど、それはまあとりあえずこの感想では書かないことにして。
さっきの文章んい続けて、著者はこう書きます。

『正直、「気持ち」は二番で、一番は「商売」というのが、プロと呼ばれている。けれど、小さな僕たちのやり方だと、その順番が逆転して、なんか「おいしい野菜を届けましょう」くらいの本のつくり方が可能なんです。
いろいろな商売の形があっていいんですよね!』

大手の出版社が『「気持ち」は二番で、一番は「商売」』なのかというのはとりあえず置いておくとして、NON CAFE BOOKSは気持ちを一番に持ってくることが出来る。商売としてはあんまり儲けられないかもしれない。でも、規模が小さいということの自由度の高さ、儲け以外のメリットの大きさというものもある。僕は割とどちらかといえばそういうものにちょっと惹かれてしまう部分があって、凄く儲けられなくたっていいから面白いこと、ワクワクすること、誰か近くにいる人を楽しませることが出来ること、そういうことに関われたらいいなぁ、と思っていたりする。ちょっと前に読んだ、藤村靖之「月3万円ビジネス」にも通じるような部分がある感じがした。
NON CAFE BOOKSが、どんな風な価値観・考え方で本作り・書店営業などをしているのか。それが伝わる文章をいくつか抜き出してみようと思います。

『「お金儲けです」って売り方、つくり方もあるんです。それは否定しません。でも「気持ちを伝えたい、伝播させたい場合はロマンのある売り方」もある。「ロマン」に共感したい人がそのワクワク感に乗ってくる。その「ロマン」を持って本をつくり続けたいな、というのは今もまったく変わっていないです。』

『僕は思うんだけど、小さな出版社の楽しみって、本屋さんの風景を帰ることでもある。
ある本屋さんには置いてあるけど、ある本屋さんには置いてない。これって、書店員さんからすると面白い、魅力のあること、なんだよね。』

『だから、ノンカフェブックスみたいな小さいところがやれることっていうのは「本屋の風景を変える」っていうことが、一番わかりやすい自分たちの活動だったように思う。
それは、賛同してくれる本屋さんとだけやればいいことであって、そういう本屋さんと出会えることを目指して営業すればいい。
逆に言うと、自分たちの本がどこでも並んでいて、買うことが出来るんだったら本の価値はあまりなくなってしまう。
だから、最大200店舗くらいの本の置き方でやっていこうというのは、ある。
それは、自分たちの本と本屋さんに価値を取り戻す一つの方法論だったように思う。』

『結局は自分がわくわくするっていう方向に舵をとっていくっていうか、自分がこっちにいったら感動するだろうなっていう方向に素直に進んでいったらそっちには何か鉱脈があって、進んでいくものだと思う。
ワクワクする方向、感動させる方向にいったら間違いない、と僕は今、そう思えます。
それは、苦しい道かもしれないけど、ものをつくってワクワクっていうのは、こんな本があったら夢の一冊やん、って思えることだと思う。
こんな本を買ってくれる人がいたらそれもまた夢の一冊です。
自分にも、読者にも、夢の一冊が訪れたら、成功ですよね。』

こういうのっていいなぁ、って僕は結構思ったりします。やっぱり経済って、どんどん大きくなって、そうなればなるほど、大きいところがどんどん一人勝ちしていっちゃうみたいなのはどうにもしようがなくて、でもその中で、ちょっとずつでもいいから小さな成功を積み重ねていく、大きなところには出来ないようなことをゲリラ的にやっていく、そういうのって僕も憧れてしまうなぁ、と思います。
以前、ミシマ社や夏葉社と言った、こちらもかなり小規模で出版社を運営する人たちのトークショーに参加したことがあって、そこでも、やっぱり規模が小さいっていいなぁ、って思ったりしました。もちろん、規模が小さいことによる辛さもデメリットももちろんあるだろう。でも結局それは、好みとして自分がどっちに惹かれるかって話だと思う。僕は、大きく儲けられなくたっていいから、自分がワクワク出来ること、身近な少人数の人たちを楽しませることが出来ること、そういう大多数を相手にしないことにやっぱりちょっと惹かれます。なかなかそういうことを仕事にしていくって勇気はないんですけどね。
僕は、NON CAFE BOOKSの存在を知ったのもつい最近だし、本書を読むまでNON CAFE BOOKSの本は一冊も読んだことがありませんでした。でも本書を読むと、荒木スミシの作品がちょっと読みたくなるし、NON CAFE BOOKSを応援したくなりますね。今手元に「月曜日、地球を盗む」という作品があるので、その内に読む予定でいます。
本書では、小さな出版社が本作りをする上でのドタバタというのも描かれていて面白い。
例えば、印刷所に渡すデータも自分たちで作っているのだけど、奥さんはフォトショップとイラストレーターしか使えない。本作りには、それ専用のソフトとかが使ええないといけないんだけど、それは無理。じゃあどうするか。

『やり方としては、イラストレーターで文字をレイアウト編集して、一ページずつ画像として入港するというやり方です。これは実は写真データをつくるやり方で、僕たちの本は文字が並んでいる写真データなんです。未だにこの方法でつくっていますよ。めちゃくちゃ面倒くさいですけれど、他のやり方を知らないのです。笑』

また、印刷所がミスをする、という話も面白い。印刷料を下げるために、小さい出版社を探しだして印刷をお願いするのだけど、毎回何らかのミスをしてくる。二人はそれを、アイデアで乗り切る。謎の白紙ページが出来た時は、その白紙ページにちょっとデザインのシールを手貼りする。傷ついたり日に焼けたりしないようにするためのPP加工を忘れられた2000冊の本は、書店限定バージョンとして上からさらにカバーを掛けることで別バージョンを生み出すという策で乗り切る。小さな出版社を切り盛りするというのは、こういう日々起こるトラブルや失敗をどう成功に結びつけていくのか、というアイデアとの勝負でもあるわけです。
あと、これはちょっと別の機会にとある記事で目にしたことがあるんだけど、『再製本』というのも作っちゃう。これは、傷んだりしてそのままでは出荷できない4冊の本を、表紙を剥ぎとって中身だけ合体させ最出庫するという荒業で、これもちょっと話題になった。そういう、小回りの効く規模だからこその七転八倒も面白くて、やっぱりこういうのいいなぁ、という感じがしてしまいました。
読んでいると、文章的にはちょっとなぁという箇所も多いし(「わくわく」や「ワクワク」のように、同じ単語が別の表記でされていたり、「やり方としては~やり方で、」というような文章もある)、そういう意味で本としての完成度はそこまで高くないかもだけど、書かれている内容は非常に面白いです。本を作りたいと思っている人には、『手の届く範囲の夢』が描かれている作品だという感じがしました。出版業界は、旧弊で硬直しきっていて、だからこそNON CAFE BOOKSのような挑戦が生き残れる余地がある。是非読んでみてください。そして読者の中から、また新しい挑戦をしてくれる人が現れてくれることを祈っています。

荒木スミシ「僕は本を作りたい。」



約束の地(樋口明雄)

内容に入ろうと思います。
舞台は、山梨県八ヶ岳市。キャリア官僚として環境省で働く七倉航は、出向などでこれまであちこちの地方自治体に行き、2年足らずでまた別の地へ、ということを繰り返してきた。40歳近くにもなり、そろそろ出向生活もお終いだと思っていた頃の辞令だった。
今回は、野生鳥獣保全管理センター八ヶ岳支所長という立場だ。野生鳥獣保全管理センターというのは2008年に設置された環境省の一機関である。2000年に、ハンターがペンションのオーナーを猟銃で撃ち殺したという凄惨な事件を背景に設置された野生鳥獣保全管理法という、野生鳥獣の保全・管理に関する新たな法律によって、山を取り巻く環境は大きく変わった。そのために作られたのが、野生鳥獣保全管理センター、略称WLPである。
地元の農家は、獣害に苦しめられている。山が痩せ、食物が得られなくなったために、里に降りてくる生き物が急増したのだ。そしてその中には、クマなどの人に危害を加える生き物もいる。
これまで山の生態系は、食物連鎖のトップに位置するオオカミによってそのバランスが維持されてきた。しかしそのオオカミも絶滅し、日本では長い間猟師が山の生態系を維持するのに一役買っていた。地元の農家などの期待もあり、いわゆる獣害と呼ばれる生物を猟師たちが駆除していく。そうやって山の秩序が保たれてきた。
しかし、山が痩せ、かつ猟師がマナーを無視してレジャー感覚でどんどん乱獲していったことで、クマは絶滅の危機に瀕するほど激減、獣害も一向に減らないという現実だけが残った。
そこでWLPは、駆除は並行して行いつつ、野生鳥獣の生態調査などを通じ、駆除ではない形で自然と人間とが共存できるような道を選びとる、そういう方針で設立された。
しかし、WLPを取り巻く環境は、非常に苦しいものがあった。農家・猟師・行政、あらゆるところから突き上げがくる、非常に孤立した活動だ。もちろん、その活動を支持してくれる人もいる。しかし、未だに害獣の駆除こそがベストな方法だと信じて疑わない農家や、自分たちの既得権益を奪われた猟師たちとはうまく行っていない。
七倉は、あなたには絶対合わない、と言われた職場へとやってきた。WLPの面々はとかく個性が強すぎて、七倉では管理しきれないだろう、と言われたのだ。確かに、個性的な面々が揃っていた。地元狩猟会からWLPに移ってきた古参猟師である戸部と黒崎、ベアドッグというクマを退治するのではなく追い払うための犬を訓練しているハンドラー(ベアドッグのパートナー)である峰と新海、そして二人のハンドラーのトレーナーとしてアメリカから期限付きでやってきているクレイグ、サルなどの生態調査を行なっている紅一点・神永。皆、山を愛し自然を愛し動物を愛している、だからこそクマを殺すこともあるし、激務に耐えている。初めの内七倉には、彼ら管理官たちの自然に対する感覚が理解出来ないでいた。特に、古参猟師として名を馳せ、<稲妻>と呼ばれる巨クマと対峙し重傷を負ったこともある戸部の生き方には、ずっとキャリアの世界で生きてきた七倉にとっては、理解出来ないものであった。
それまで出向先では、お飾りのように事務仕事ばかりこなしていた七倉だったが、ここでは身体を動かすことこそが仕事だった。クマ電(クマが出没したことを知らせる電話)の対応から猟銃の扱いまで、今まで知ることのなかった知識や身体の動かし方に戸惑いつつ、さらに個性豊かなメンバーに翻弄されつつ、七倉は次第に、WLPが向き合わなければならない現実の深さというものを理解していくことになる。
WLPはやがて、山に潜む<稲妻>を超える化け物の存在を感知することになる。しかも、山がおかしい。何か異変が起きている…。
というような話です。
なんですけど、この内容紹介だと全然作品を紹介できてませんね。七倉には一人娘がいて、妻を失った七倉は男手一つで娘を育ててて、その娘の羽純の物語も様々にあるし、2000年に起こった、ある法律を生み出すきっかけになる殺人事件も物語の大きな柱である。物語に厚みがありすぎて、僕じゃあうまく内容紹介が出来ませんですなぁ。
これはホント凄い作品でした。物語としてももちろん面白いんですけど、とにかく深く考えさせられる作品です。
内容紹介でもちらっと書いたけど、WLP(これは架空の組織。野生鳥獣保全管理法も、現時点では存在しない法律だそうです)はとにかく、あらゆる組織との板挟みになっている。
WLPは、山を取り巻く矛盾を解消するために設立された。

『このまま同じ状況が続けば間違いなくクマは絶滅する。それがわかっていても、人的被害が出るからには駆除をしなければならないという矛盾。だからこそ、規律を守り、判断力のある人材が駆除活動に必要だった。WLP設立の意義はそこにある。』

しかし、WLPの意義はなかなか理解されない。例えば地元農家にとって、獣害は本当に深刻だ。

『全国で獣害による農作物の被害は年間二百億円といわれる』

農家の一人は、こんな風に言う。

『だいたい、あんたらが鉄砲撃ちを規制するだもんで、シカやイノシシが増える一方だ。おまけに近頃はサルまで群れになって下りてくる。なあ、密猟ぐれえいいんでねえかい。ああいう悪い動物はみんな撃っちまっていいだよ。山に動物がいんようになっても、儂らはいっこうにかまわんがね』

これが農家のホンネだ。農作物を育てている立場からすればその通りだろう。しかしこの考えは、山の現実を理解しない発言でもある。確かにかつては、猟師による駆除で山のバランスが保たれていた。しかし今は、山が痩せ、山に住む動物たちが山で食料を得にくくなった。山に食料が豊富だった頃は奥山にいて人里に下りてこなかった動物たちは、どんどん里に下りてくるようになった。この現実があるからこそ、クマを初め動物は激減しているのに、獣害が減らないという現実となる。
そこでは、地方行政の怠慢さも浮き彫りにされる。ごみ処理などをずさんに行い、かなり山に負担を掛けてきたツケを、一気に払わされることになる。しかし、この期に及んでも行政の汚さが発揮される。物語の後の方の展開になるから具体的には書かないけど、その行政のあり方がWLPを苦しめることになる。
そして猟師との対立も存在する。これも非常に難しい問題だ。
先程も書いたけど、猟師はかつて、オオカミに変わって山のバランスを調整する役割を担っていた。それでなくても狩猟というのは日本の伝統的なものだ。それを理解し、WLPは猟師の存在を否定する立場ではない。共に協力し、自然を守っていこうと手を取り合うことが出来るとWLPの面々は考えている。
しかし猟師の側はそうではない。
猟師はかつて、自由に狩猟を行うことが出来た。解禁日があったり、あるいは狩猟をしてはいけない区域が定められていたりはしたものの、基本的には狩猟は自由なものだった。しかし、別荘やペンションなどが山の中に建つようになり、道路も整備されるようになると、狩猟の場と人の生活の場が近接することになった。それが、野生鳥獣保全管理法を生み出すことになる凄惨な事件へと繋がっていく。
野生鳥獣保全管理法により、狩猟はWLPの管理下に置かれることになった。基本的に狩猟は、駆除目的であってもWLPのメンバーの立ち会いなくしては行えないようになった。それが、地元猟師たちの反発を生み出している。
戸部と黒崎という二人の古参猟師がWLPに入ったことも、猟師たちの反感の種となっている。要するに、戸部と黒崎は裏切り者だ、というのだ。
しかし戸部と黒崎にも考えがある。二人は、これまで猟師たちが成してきた役割を否定するつもりはもちろんないが、しかしそれは時代に合わなくなりつつあると理解している。戸部も黒崎も、狩猟そのものももちろん好きだが、それ以上に自然を愛する男で、自分たちが愛する自然を守るために必要な選択としてWLPに加わることに決めたのだ。この猟師たちの軋轢というのも、物語の中核を成し、物語に深く関わっていくことになる。そして後でも書くつもりだけど、この物語は、戸部という職人的な猟師の生き様を描く作品でもあるのだ。
もう一つ。本書では、WLPの活動に真っ向から反対する動物愛護団体の存在もある。
この動物愛護団体の存在も、非常に厄介だ。
彼らは、山の動物たちが里に下りたり人に危害を加えてしまうのは、人間が自然を締め付けやりたい放題やってきたせいであり、人間が動物を管理するような権利はない、と主張し、WLPが規定にそって行うクマの薬殺や、それどころか里に下りてきたクマをベアドッグで追い払うことさえ抗議する人たちだ。
自然を痛めつけてきたのは人間だ、という部分には、WLPの面々も同感なのだ。しかし同時に、それでも人間と自然は矯正していかなくてはいけないのだから、現実解として薬殺や追い払いは必要だ、というのがWLPの立場だ。
非常に印象的な文章があるので抜き出してみる。

『私たちはね、七倉さん。あの愛護団体の人たちよりも、たぶんもっとクマを愛しとるです。それは、いつも身近に接して、クマつう動物を見てきているからです。でも、ときには愛するがゆえに殺さんとなんねえことだったある』

『連中はクマを愛してはいるだろうが、理解しようとしていない。一方的にイメージ化して捉えているにすぎない。そこに自然に対する敬意はなく、むしろ人であるがゆえの傲慢さの表れがある。クマを差別しているのは連中のほうなのだ。』

これも、非常に難しい問題だ。物語の中で、WLPと愛護団体が若干歩み寄りを見せる場面がある。しかし、それでも遠い。お互いの認識は遠すぎる。本書がWLPの視点で描かれているからかもしれないけど、やはり僕には、WLPのあり方の方が正しいように思える。愛護団体の主張には、「ではどうしたらいいのか?」という問いに対する答えが欠けているように思える。しかし彼らにしても、正しいことをしているつもりなのだし、実際主張の一部は理解できる。
本書ではそういう、農家・行政・猟師・愛護団体など、WLPの活動・理念と対立する様々な立場が描かれ、その過程で、人間と自然の共生の難しさが浮き彫りにされていく。
本書では、なかなか一般の人には理解出来ない深い問題が描かれる。それも、都会に住んでいる人間がなかなか思いを馳せることのない問題だ。
獣害というものが存在することぐらいは僕も知っていた。山が痩せているというのも、自然がどんどん失われて行っている現実の中では、普通に理解できる事柄だ。しかし僕が知っているのはその程度のことで、後のことなど考えたことがなかった。猟師の存在が生態系の維持に役立っていた時代があったことや、駆除をしてもしても獣害が減らない理由、農家や行政からの無理解など、そこに住んでいる者であってもなかなか想像しにくい、受け入れにくい問題が浮き彫りにされる。
こういう善悪の判断がすんなりと決められない事柄を、マスコミは極端に報道する。マスコミは、分かりやすい切り口で単純な構図を一般の人に提供する装置だ。クマが暴れている、山が痩せている、そういう断面的な事実を伝えはしても、その背景を深く追うことはない。だから僕たちは、山が抱える問題、そして自然と人間の共生の難しさという問題をすっかり知らないで生きていくことになる。
僕たちは、問題を細かくバラバラにして考えることが得意だ。例えば、獣害が増えているから動物を駆除する、猟師の数が減っているから生態観察などを取り入れて新しい野生鳥獣の管理体制を整える、そういう風に細かくした問題に対策を立てることは出来る。
しかし、山というのはそういうやり方では太刀打ちできない存在だ。本書を読んで強くそう思った。
山というのは、一個の大きなシステムだ。そのシステム全体を丸ごと受け入れて情報収集・判断・行動を行わなければならない。
それが出来るのが、戸部という男だ。
戸部は、地元猟師の中でも別格の腕前を持つ男で、何よりも山への愛に溢れた男だった。自分の顔に傷をつけた<稲妻>というクマのことさえ憎んではおらず、山というシステムそのものを受け入れ、自分の問題と捉えることの出来る男だった。
本書は、戸部というストイックな男の生き様を描く作品でもある。戸部の生き方は、かつて存在したマタギのようなものに近く、職人的なものだ。猟師がそもそも少なくなっているという現実もあれど、そうでなくてもなかなか現代にはそぐわない生き方でもある。初め七倉も、この戸部という古参猟師の扱いには非常に苦労させられることになる。
しかしその一方で、戸部の持つ知識・技量・経験は、WLPにはなくてはならないものだ。公的な機関であるWLPだが、知識も技術もない公務員で回せるほど自然は甘くない。戸部のような人間が先導を切り、後進に伝えていくことで、古い時代のあり方から新しい時代のあり方へと移行していくそのまさに過渡期が描かれているのだ。だからこそ、様々な軋轢に塗れることになる。
戸部のようにストイックに生きていくことは僕には出来ないだろうなぁ、と思いつつ、でも憧れてしまう。元々、自分には無理だとわかっていながら、職人的な生き方には少し憧れてしまうところがある。戸部のように背中で語る男になれたらいいよなぁ、とちょっと羨ましく思えたりします。戸部という古参猟師を描くだけでも、ある程度の分量の小説が書けるんじゃないかなぁ、という感じがします。戸部の描写はハードボイルドだなという感じがします。
七倉の娘である羽純の存在もいい。羽純は、母親を亡くしたことをきっかけに心を閉ざしがちになった。仕事に忙殺される七倉にはそんな羽純を構ってやる余裕もない。そんな羽純がいる子どもの世界にも、大人の世界のしがらみが引き写されることになる。羽純は、子どもらしくいたくないと意識し、孤高のまま過ごす。母親の死というものを自分の中でうまく消化することが出来ず、自分でももてあましがちな感情が渦巻いている。そういう大人びた存在である羽純が時折見せるどうしようもない子供らしさみたいなものに心を打たれる。
また、問題を抱えているのは、七倉親子だけではない。戸部や黒崎とは違い、地元狩猟会に留まり、WLPの存在を目の敵にしている古瀬という古参猟師がいるが、この古瀬も、血縁のゴタゴタに悩まされることになる。七倉親子ともども、自然と共生することの難しさは、そこで生きる様々な人たちに様々な形で陰を落とすことになる。
WLPという架空の機関を設定することで、ここまで見事に山の現実を、自然との共生の難しさを、人間の強欲を浮き彫りにしたという点が素晴らしい作品だと思います。深い山を背に生きた経験というのがないので(裏山程度の山の近くには住んでましたけど)、これまで考えたこともなかったような、それでいて非常に重要な問題について考えさせられました。やはり人間の欲が、動物を、山を、自然を追い詰めていて、その結果さらに人間に被害がもたらされるという悪循環は、一筋縄では解決しない。その絡まった感じを凄く丁寧に描き出していて、そしてもちろんそういう部分だけではなく物語としても面白くて(結局感想中には書かなかったけど、ミステリ的展開やサスペンス的な展開にも溢れた作品なのです)、色んな読み方が出来る作品だと思います。自然と共に生きるということの難しさを知ることが出来ました。是非読んでみてください。

樋口明雄「約束の地」






「上から目線」の構造(榎本博明)

内容に入ろうと思います。
本書は、現代を生きる人々(その中でも特に若者)が、どんな感覚・考え方で人間関係を捉えているのか、そしてそれが現実にどのように表に現れ他人からどう見えるのか、そこには心理学的にどんな背景が潜んでいるのか。そういったことについて非常に分かりやすく説明されている作品です。
本書はタイトルで少し損をしているような気がするので、まずちょっとその辺りの誤解を解いてから内容に入ろうと思います。タイトルだけ見ると、「上から目線」というものだけが作品の主要なモチーフなのだ、という気がすると思います。確かにこの「上から目線」問題(具体的には本書を読んで欲しいんだけど、きちんとした実力・能力を持った年長者が、正しい言い方で下の者を注意したり諭したりしても、それを「上から目線」だと言って拒絶する若者が多い、という問題)は作中の大きなベースとなっているのだけど、決してそれだけを扱った作品ではない。そこを入口として、日本の今の若者たちの他者との関わり方にどういった問題があるのか、現実的な問題としてそれがどのように現れているのか、その傾向は日本という国の文化・歴史とどのように関わりがあるのか、というような、かなり広い意味でのコミュニケーション論だと思います。若者に焦点を絞った話が多いのは事実ですが、年長者側の話もあり、また、そういう若者と年長者はどう対峙していけばいいのか、という話も描かれるので、どんな年代の人が読んでもためになる作品だと思います。確かにこの「「上から目線」の構造」ってタイトルはインパクトがあるんで悪くないと思うんですけど、内容を読んだ今となっては、若干このタイトルのせいで敬遠しちゃう人がいるのかな、という気もしました。ので補足。
読みながらPOPのフレーズを考えたんですけど、メインは、「本書を読むと、最低でも一人は、身近にいる誰かの顔が思い浮かぶ」ってフレーズにしようかなと。ホント、メチャクチャ色んな人の顔が浮かびました(笑)
良い新書を読むとどうも感想を書く時に引用が多くなりますが、本書もきっと引用の多い感想になるだろうと思います。とりあえず『』付きの文章は全部引用です。
第一章は、「なぜ「上から目線」が気になるのか」。先ほど書いた「上から目線」問題について扱われている章です。
『うっかりアドバイスすると「上から目線」と反発されるから、言いたいことも言えない。そんなふうに嘆く上司や先輩が少なくない。』これが今の現状のようです。確かにその感覚は、結構分かる。僕自身はそういう人間ではない(つもり)だけど、周りにはやっぱりそういう感じの人が多い印象はあります。この章では、この現象がどうして起こるのか、ということを解きほぐしていく。
最近では、上司が下の者から「上から目線」だと指摘されることに敏感になった。その根幹にあるのが、『パーソナリティの市場的構え』という、リッヒ・フロムの提唱した考え方だ。『フロムは、現代の市場経済の原理が、個人の人間的価値にまで及んでいるとした。(中略)それと同時に人間の価値も、どんな能力がありどんな人格を備えているかということよりも、周囲の人たちから気に入られるかどうか、受け入れられるかどうかによって決まる。そこで、多くの現代人は、まるで人気商売のように、人から認められ好感を持たれることを求めるようになった。』
こういう感覚がベースとしてあるからこそ、『部下や後悔から「部下や後輩から「上から目線」を指摘されたりしたら、それはもう穏やかではいられない』のだ。
では、上の者に対して「上から目線だ」と突っかかる人間には、どういう心情が働くか。それは、『見下され不安』だ。『見下されるのではないかといった不安が強いために、本来は役に立つアドバイスも、こちらに対して優位を誇示する材料と受け止めてしまうのだ。』『人を見下す傾向のある人は、人が自分を見下すのではないかといった恐れを抱きがちだ。したがって、人より優位に立ちたいという思いが強いのに現実にはなかなか優位にタテない自信のない人物が、相手の上から目線を過度に気にする。そんな事情があるのではないか。』
そしてその見下され不安の背景には、「劣等感コンプレックス」が存在する。劣等感というのは誰もが持つものであり、時にそれは自らの成長の原動力となる。しかし現代人は、何か劣等感があるとそれを隠したりないものとみなして自分を大きく見せようとする。

『足の遅い子が傷つくからと小学校の運動会の駆けっこで順位をつけない動きが全国に広がったときに感じた違和感は、そのあたりにある。人それぞれに得手・不得手があり、人より劣る能力があるのも個性であって、引け目に感じることはない。(中略)そうしたことを体得させるのが(教育にとって)大切なはずだ。』

著者は、日本独自の承認欲求について言及する。欧米では、自分から成果をアピールし、それに対して報酬をもらうことが承認欲求を満たすことになるのに対し、日本はそれでは承認欲求は満たされないというのだ。

『自分からアピールせずに、相手がこちらのひそかな要求に応えてくれることをひたすら期待して待つ。それが日本流のやり方なのだ。だからこそ相手の出方が非常に気になる。甘えに応えてくれないと、見捨てられたような被害感情が生じる。』
また、自分自身をどう捉えるかによって他者への関わり方が変わる、ということも、実験で多く確認されているようだ。

『自分自身に対してネガティブな感情を持つ者は他者に対してもネガティブな感情を抱きがちであること、そしてカウンセリングの進行に伴い自分に対する見方がポジティブになっていくにつれて他者に対する見方もポジティブになっていくことを多くの事例とともに確認している。(中略)「見下された」といきり立つ人物は、相手との関係以前に、自分自身が自分に勝ちを感じられないという問題を抱えているのである。』

本性では、若者が「上から目線」にどう反応するかだけでなく、年長者がなぜ「上から目線」になってしまうのかという話も描かれる。本章だけではなく後の章でも描かれるのだけど、結局のところ、社会や情報の流れなどの変化によって若者と年長者の立場が変わり、そのため年長者が歪んだ形で「上から目線」を行使せざるをえなくなったという。

『買い物に出かけても、レストランや喫茶店に出かけても、店員に対して横柄な態度を取る人物を見かけることがある。これがたいていは若者ではなく年長者なのだ。』
この章の最後では、そんな若者たちと上司や先輩という立ち位置で接するためにどうしたらいいか、そして自身が「上から目線」という立ち位置に陥らないためにはというアドバイスになる。

『親切心からアドバイスしたのに「上から」と非難され、若い連中のことを思ってアドバイスすることのどこが悪いのかわからないと嘆く上司や先輩の側の気持ちはよくわかる。でも、子どもの頃に、愛情を持って口出ししてくる親をうっとうしく思ったことを思い出してみれば、部下や後輩の気持ちには想像力を働かせることもできるはずだ。』

『松下電器(現パナソニック)の創業者松下幸之助は、(中略)人に指示し、命令するにあたっては、「あんたの意見はどうか。僕はこう思うんだが」というように相談調に話をしていくという(「人を活かす経営)PHP研究所』

『「コンプレックスによる上から目線」に陥らないためには、「自分の抱える自信のなさ」を謙虚に見つめることが必要だといえる。』

第二章は「「上から」に陥りがちな心理構造」。本章はなんとなく、タイトルと内容が合っていない印象が僕にはあるんだけど、大雑把に言うと、「自分はまだまだこんなもんじゃない」と思っている人間(現代の若者に多い)の心理を分析しています。
子どもから大人になる過程でまず『社会的比較』というものを経る。これは、それまでは自分のやった成果だけによって自己を評価できたのに対し、次第に誰かと比較することで自己を評価するようになる成長過程だ。そしてさらにその後、『理想自己との比較』がやってくる。自分がどうなりたいのか、という理想的な自分を想定し、それと今の自分を比較することで自己を評価するようになる成長過程だ。著者は、『社会的比較にあまりに振り回されている人は、自分の中で理想自己が確立されていないのではないか。そんな観点から自分自身を振り返ってみるのもよいだろう』と言う。
今の若者は理想自己ではなく『誇大自己』を抱えている。これは、『自分は本当はこんな人間ではない』『もっと出来る人間のはずだ』という感覚だ。『仕事ばかりでなく、恋愛や友達づきあいに本気でのめり込めないのも、今の自分を守るため。傷つくのが怖くて他者と深く関われないというのも、魅力のない現実の自分、人とうまく関われない現実の自分に直面するのを避けるためなのだ。』
『結果を突きつけられるのを避け、言い訳の余地を残しておくには、とりあえず頑張らないにかぎるというわけだ。』
最後に、自己愛の話が出てくる。日本人は欧米人と異なり、自分の成果を自分では話さず、それを誰かに気づいてもらい認めてもらうことで自己愛を満たすことが出来る。『そのため、日本人は、自分の自己愛がどうしたら相手から満たしてもらえるかに過敏にならざるを得ないのである。相手が自分の自己愛を満たしてくれる人かどうか絶えず気にしながら暮らしているのである。そこに、アメリカ流の自己愛の満たし方を追求する若者が現れたきた。ここに現代の上下関係の難しさの一端がある。これが小此木の見方である。』

第三章は「空気読み社会のジレンマ」 冒頭で、トイレでご飯を食べる学生の話が出てくる。一人でご飯を食べるのを見られたくなくて、トイレに逃げてしまうのだという。『そのために、援助の手を差し伸べる大学も出てきている。ある大学では、一緒に昼食を食べる友達のいない学生のために、カウンセラーが昼に一緒に御飯を食べてあげる制度をスタートさせたという。』
また逆に、友達が出来たことで悩む学生の話も著者は聞く。

『友達ができたといって相談に来た学生もいた。以前は友達ができないと悩んでいたわけだから、良かったじゃないかと思うのだが、話を聞いてみると、本人は相当深刻に悩んでいるのだ。
「うっかりしたことを言って、変なヤツだと思われたらおしまいだ」
「ここで気を抜いたら、また友達を失う」』

僕自身、ここまでではないけど、こういう感覚はある程度まで理解できる。中学高校大学時代ぐらいは、こういうことでよく悩んでいたものだ。今はまったく気にしないでいられるようになったのだけど。その話は、まあ最後の方に時間があったら。

『このような対人関係に自信のない若者が非常に多いのが、現代の特徴と言える。企業が新卒者採用にあたってコミュニケーション力をとくに重視するようになったというのも、コミュニケーションが苦手で仕事に支障をきたす若手が増えていることの証拠と言ってよいだろう。』

こういう、対人関係に自信のない状態を『対人不安』という。余談だが、本書ではこの『対人不安』が、日本独自の概念であり、精神医学の用語はほぼ西洋から入ってきたけど、『対人不安』だけは英訳が存在しないという。

『対人不安とは、自分が他者の目にどのように映っているか、あるいはどのように映ると予想されるかをめぐる葛藤によって生じる不安である。対人不安の強い人は、他者の目に映る自分の姿が自分の望むようなものになっていない、あるいはならないのではないかといった不安の強い人と言える。』

対人不安の具体的な事例や、その背景に「自分が分からない」と言った『アイデンティティ拡散』と呼ばれる状態が存在するという話が続く。アイデンティティ拡散は結局のところ、他者との関わりが薄まってしまったことによって起こるのだ。

『自己像を認知するということは、他者がこちらを見るように自分自身を見るということである。つまり、他者のまなざしを取り入れることだ。(中略)それができるようになるには、他者に向ける自分のまなざしと自分に向けられる他者のまなざしのやりとりを十分に経験しておくことが前提となる。』

『このことを社会学者のクーリーは、「他人の目に映ったものが自己である」と表現している。「人からどのように見られているか」が自己だというのである。』

『人からどう見られるかによって自己像がつくられていく。そこでわかるのが、人間関係の希薄化が言われるようになるとともに、「自分がわからない」という人々が増えてきたことの理由である。人間関係が希薄化すると、他人を鏡とする機会が少なくなる。ゆえに、自分がわからなくなるのである。』

さて、若者はそんな状況をどう生きているのか。それが『キャラを立てる』ことだ。

『今の若者の間では、自分がどんなキャラを立てるかは、非常に重要な問題であるようだ。いったんあるキャラを確立すれば、いつもそのキャラでみんなに対すればよいのだから、いちいち相手との関係を考えずにすむので、ある意味では気楽と言える。』

これは確かにその通りだなぁ、という感じがします。僕自身も、そういう風にやっています。誰にどんなキャラで相対するのか、というのは、少なくとも僕らの世代にとって(きっともっと下の世代にとっても)非常に重要です。
著者はそんな現状に対して違和感を抱く。

『若者が友だちにさえ非常に気をつかっているというのは、若者たちと接していて感じる違和感のひとつであった。「こういう感じが親しさなんじゃないかな」などと考えながら、友だちに対する態度を決めている感じがある。』

この違和感も、非常によくわかる。僕も、冷静に客観的に考えると、その違和感には大賛成だ。でも、実際他者と関わる時には、その冷静で客観的な視点は失われる。なんというか、そういう風に行動しなくてはいけない感じがするのだ。
それを著者は、山本七平の著作を引用しつつ、『空気』という言葉で捉える。僕らにとっても馴染み深い、あの『空気』だ。

『これに関しては、文化評論家山本七平が的確な分析を行なっている。日本には「空気」を読むというきわめて独特な文化規範があり、これは非常に大きな絶対値を持った妖怪で、一種の超能力のようなもので、あらゆる議論は最終的には「空気」で決められる。』

『「われわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断のきじゅんだが、本当の決断の基本となっているのは、『空気が許さない』という空気的判断の基準である(山本七平「空気の研究」文春文庫)』

この『空気を読む』という特殊な妖怪のせいで、日本人はホンネでやり取りしたり、素の自分で誰かと接するのが難しくなっていく。

『ホンネを出し、それに対する反応を得ることによって、自分が見えてくる。昨今の「自分がわからない」という若者の急増やカウンセリングの流行も、若者たちが他人という鏡を持たなくなったことによるのかもしれない。』

第四章は「目線に敏感な日本人」 恐らくこの章で最も重要な点は、次の部分だろう。

『相手との間柄が決まらない限り、相手をどう呼ぶか、自分をどう呼ぶか、敬語も含めて言葉遣いをどうするのかが決まらないのだ。』

これが日本のコミュニケーションの特徴である。
かつて日本では、『遠慮が必要になる人間関係を中間体とすると、その内側には遠慮する必要のない「身内の世界」、その外側にはやはり遠慮をする必要のない「他人の世界」がある(土居健郎)』 ウチとソトでは共に遠慮が必要のない関係であったが、その意味合いは異なる。これが現代になると、大きく変わる。

『現代の若者にとって関心の対象は親しい友達ぐらいであって、他人が遠い存在になっており、他人の目を気にしない傾向が強まっているとしたら、それは「世間体」の原理がもはや機能しないということを意味する。』

そしてそこから続いて第五章の話に移るけど、第五章は「「上から目線」の正体」。ここでは、母性原理と父性原理の二つの概念を使って、日本と他国におけるコミュニケーションの違いを分析している。

『では、母性原理と父性原理というのは、いったいどのようなものなのか。
河合は、「よい子だけがわが子」というのが父性原理とすれば、「わが子はすべてより子」というのが母性原理だとしている。』

日本は圧倒的に母性原理によって支配されている国で、そこに欧米から父性原理に基づく様々な価値観が入ってきたことで混乱が生じている、という話がされる。

『日本文化の底流に深く根付いている母性原理に父性原理をどのように調合していくかが、非常に深刻な課題になっているといってよいだろう。』

とりあえずここまでざっと書いてみたけど、本書で描かれていることは本当に凄く理解できた。年長者からすれば、今の若者は「甘えている」という風にしか見えないだろう。そう思われることは、凄く理解できる。でも、若者の側にも様々な理由がある。その理由を知った上で、なお非難されるのはいいのだけど、とりあえず表面的な事柄だけで「最近の若者は~」と言われてしまうことには違和感を覚える。
しかし、なかなか今の若者の感じ方を分析的に書いてくれる本に、少なくとも僕はこれまでそこまで多くは出会わなかった。古内憲寿の者作ぐらいだろうか。そういう意味で本書は、非常に良書だと思う。確かに、どうしたらいいか、ということはあまり書かれていないかもしれない。でも、お互いの背景にどういう理由があってそういう行動になるのか、ということをもう少し理解し合うことが出来れば、そこから対話が始まり、解決作を講じることも出来るようになるのではないか。
そういう意味で、若者だけではなく、若者と関わる人たちに是非読んで欲しい作品だ。もちろん若者にも甘えはある。あるけれども、ベースとしてこういう深刻さを抱えているのだ、という現状を、理解して欲しいとは言わないから、頭の中に知識として入れておいて欲しい、と思う。
最後に自分の話を。僕自身も、先程ちらっと書いたけど、中学高校大学時代までは、本書で描かれているようなことで凄く悩んでいた。僕は大学を中退しているのだけど、その理由も、本書で描かれていることを使ってすんなり説明できるような気もしてくる。
それがいつの間にか、周囲の視線を感じないで生きられるようになった。それは、直接的には大学を辞めたことがきっかけで、今でも僕はあの判断は正解だったなと思っている。今では、周囲から自分がどう思われるか、ということに、ほとんど興味がない。どうぞ見たいように僕のことを見てくれればいいし、好きなように判断してください、と思っている。そう思えるようになって、凄く楽に生きられるようになった。今そういうので苦しんでいる人も、どうにかその状況を突破して楽に生きる方法を自分なりに手に入れることが出来たらいいなぁ、と祈っております。
現代の日本を、コミュニケーションと若者論という切り口で浮き彫りにする良書だと思います。是非読んでみてください。

榎本博明「「上から目線」の構造」



来るべき世界(手塚治虫)

内容に入ろうと思います。
本書は、1951年に親本が発行された、手塚治虫のコミックです。
スター国とウラン国は共に原爆の開発をしており、馬蹄島と呼ばれる島は、スター国が長年原爆実験を行なっていたところだった。そこに潜入した山田野博士は、原爆実験により生物相が大きく変化している現実を知ることになる。山田野博士はその島から、謎めいた生物を連れて帰るのだけど、ひょんなことから山田野博士を尾行することになったヒゲオヤジという私立探偵は、後にフウムーンと名づけられることになる謎の生物によって、遠くへと飛ばされてしまった。
山田野博士は、馬蹄島での生物相の変化は人類を脅かすとんでもない事態だと認識し、国際会議でそれを訴えるも、各国の利益にしか興味のない人たちのくだらない会議によって、山田野博士の警告はことごとく無視される。また、スター国とウラン国は、原爆開発・実験を始めとして、考え方の合わない事柄が非常に多く、ついに戦争に突入してしまうことになる。
スター国の新聞社の息子がスパイとしてウラン国に潜入したり、様々な人間がウラン国の地下工場に集められていたり、フウムーンが独自の動きを見せたりと状況はめまぐるしく変化していく中で、やがて人々は、地球にどんな事態が起ころうとしているのか、フウムーンは一体何を企んでいるのかを知ることになり…。
というような話です。
これはなかなか面白かったなぁ。この本は、たまたま遭遇した小規模なバザーで売られていた古本で、手塚治虫のマンガだってこと以外何も知らないまま買ってみた本です。原爆実験の話は、かつてビキニ諸島で行ってたという原爆実験がモチーフとなっているんだろうし、スター国とウラン国は明らかにアメリカとソ連だったりで、本書が発売された1951年当時の状況が実に色濃く反映されているんだろうけど、まさに今原発の問題を抱えている現代の日本という国の状況を背景に本書を読むというのも、凄く面白いなと感じました。
本書は、かなり重いテーマを扱っているにも関わらず、非常にコミカルな作品です。僕は手塚治虫の作品をこれまで読んだことがないので(「ブラック・ジャック」なんかを若干適当に読んだことがあったかもだけど)、他の作品がどうなのかという比較は出来ないのだけど、これだけ重厚なテーマをコミカルに描く手腕はなかなかのものだなぁ、と思います。
原爆という、どうしたって暗かったり重かったりしてしまうテーマなんだけど、本書にはそこまでの悲壮感はない。確かに、どんどんと酷い状況になっていくのだけど、なんか表面的には凄く楽しそうなのだ。マンガの歴史に明るくはないけど、当時まだマンガというものは新しいジャンルだっただろうと思う。そういう新しいものを、なんとなくハードルの高いものにしてしまうと、ジャンル自体の発展が見込めない。それを意識していたかどうかは判断のしようがないけど、手塚治虫は、マンガというジャンルに新しい読者を引き込むために、おそらく当時多くの人々にとって強く関心のあった出来事をベースに、読んで楽しいと思わせるようなそういう作品を描いたのではないかな、という気がします。
このコミカルさは、物語をスイスイと前に進ませる、そういう役割も担っていると思う。本書は、物語としては結構な分量がある話だと思う。でも本書は、短いコマでどんどんストーリーが展開していく。それで違和感なく読ませるのは、一貫して物事をコミカルに描き続けているからだろう、と思うんです。
本書では、誰か親しい人が死んだり、何か深刻な出来事が起こっても、悲しみが生まれなかったり、生まれたとしても一瞬でその悲しみが引っ込んだりする。そういう部分を、もっとリアルにきちんと描いていこうと思ったら、この作品はもっととんでもない分量の作品になっただろうと思う。コミカルなタッチでどんどん物語を展開させていくことで、楽しく読んでもらえるだけではなくて、全体の分量を圧縮することでより触れやすい形に仕上げているのではないかなぁ、という感じがしました。
ストーリーは、様々な人間の色んな思惑や予想外の出来事なんかが結構入り組んでて、展開が凄く面白いです。地球が危ない!というような全世界的スケールの状況を描きつつ、一方で、近所の私立探偵が行方不明になっちゃってさてどうしたもんかねという井戸端会議的な状況も描かれる。ちょっと考えの足りない人間、行動力のある人間、頑固な人間、知的な人間、そういう様々な人間が、その特色をかなり誇張して描かれていくので思わず笑っちゃう場面も多いし、シリアスな場面なのにズッコケさせたりするようなところもある。僕が一番脱力して、なんじゃこの展開と思ったのが、ヒゲオヤジが囚われていた地下工場がら脱出しようとする時の一場面で、敵側の人間がうっかり扉の鍵を渡してしまう、なんていう描写があって、そこだけ切り取るとどうしてそうなった!みたいな感じになるんだろうけど、そういう脱力させる場面ってのがあちこちに結構あったりして、すんなり受け入れられちゃうんですよね。
しかし、1951年当時マンガというものがどういう立ち位置にいたのか、僕は全然知らないのだけど、漫画技法的に、今読んでもまるで遜色ないというか、その当時からもはやこんな感じの表現が使われていたんだなぁ、なんて思わされる部分がたくさんありました。手塚治虫って、僕の貧弱な知識だと日本のマンガの祖みたいな人だと思うんだけど、やっぱりさすがだなという気がしますね。今でも手塚治虫が産み出した(んだと思うたぶん)表現が使われ続けていることを考えると、手塚治虫という人はマンガというものがほとんど世の中に存在しない頃から、もう相当に洗練されたマンガを描き続けて来たのだなと感じました。凄い人なんだなぁ。
原爆の恐ろしさや戦争のバカバカしさを浮き彫りにするというテーマがはっきりしているのだけど、テーマの重厚さとは対照的に描写はコミカルで、非常に面白く読みました。1951年に発売されたとは思えないほど、今読んでもあまり古さを感じないのではないかと思います。(これはまあ僕があんまりマンガを読まないからかもしれないけど)。原発問題を抱える今の日本の状況を背景に読むというのも、非常に感慨深いなという感じがしました。是非読んでみてください。

手塚治虫「来るべき世界」



火床より出でて(山上たつひこ)

内容に入ろうと思います。
主人公は、金沢に事務所を構える探偵・成瀬智久。成瀬はまず、倉根唯志という男からとある依頼を受ける。
久岡母子の動向を見張って欲しい。
23年前、倉根家で凶行が起きた。唯志はまだ生まれていなかったが、7歳になる兄が、菊池俊昭という男の殺されたのだ。
菊池は、病院を経営する倉根義一の患者の一人だった。ある時菊池は、自分のガンの発見が遅れたのは院長のせいだと言い掛かりをつけ、倉根家に押し入って、義一とその妻に重症を負わせ、7歳の息子をさらった。菊池は各地を転々と逃げ続け、謝罪しなければ子どもは返さないと言い続ける。やがて捕まった際には、子どもは面倒になって殺した、と主張した。
菊池は死刑が確定したが、刑の執行を待たずして病院で命を落とした。
久岡文子は菊池の妻だ。唯志は、文子が『苗の会』という、死刑廃止運動を続ける団体と接触を持っていることを知り、彼女たちが一体何をしようとしているのか探って欲しい、と依頼する。
その後間を置かずして、もう一人の依頼者がやってきた。久岡文子の娘、亜希子である。
亜希子は、一人の男性を探して欲しい、と成瀬に依頼した。
その男性は、父親が殺人犯となり困窮していた久岡家に援助をしてくれた人で、露木という名前と写真、そして手帳が残っているのみだった。つい先日文子が死に、亜希子の中で、自分たちの恩人である露木と連絡を取りたいという気持ちが生まれた。
成瀬は、23年前世間を騒がせた事件の被害者側と加害者側両方から依頼を受けることになった。しかしこの依頼は、お互いを補完するものだと成瀬は判断し、同時並行でどちらの依頼も進行させることにする。
成瀬は、23年前の事件を調べ、露木が残した手帳を隅々まで目をこらし、微かな手がかりを求めて露木と関わりのありそうな人の元を訪ねた。しかし、露木という男の存在は一向に立ち上がってこない…。
というような話です。
かなりボリュームのある作品で、しかもテーマが重厚。なかなかさらりと読める作品ではありませんが、かなり読ませる作品だと思いました。僕はどうしても、ハードボイルド的な作品というのがあまり得意ではなくて、本書はどちらかというと、フィリップ・マーロウ的世界観における探偵という感じの役回りなんだけど、それでも結構惹きこまれる作品でした。
本書では、物語は遅々として進まない。まあ、そりゃあそうである。事件自体は23年前のもので、関係者が故人だったり、存命でも記憶が薄れていたりする。しかも、露木を追う手がかりはほとんどないに等しい。そういう、かなり条件の悪い中物語がスタートしていくので、これで話がトントンと進んでしまったら、それはそれでおかしい。とにかく成瀬は、徒労と無駄の間を往復するような、そんな調査をひたすらに続けていく。まあこういうのは、僕がなんとなくイメージするハードボイルド的世界観とも合うんですけどね。だからあんまりハードボイルドって得意じゃなかったりするんですけど。
でも本書の場合、成瀬が目の前のものをどう見るか、という視点が非常に面白い。本書の読みどころの一つは、目の前に現れては消える様々な対象に対して、成瀬がどういう距離を取り、どんな風に関わるか、という部分ではないかと感じました。
例えば本書では、様々な境遇の人びとが出てくる。事件によって人生を狂わされた人、事件と向き合って自分の人生を生きている人、その事件とは無関係なところで苦労を重ね辛い現実を生きてきた人びと。あるいは、物語にほんの一瞬しか足跡を残さない通りすがりの人びともいる。そういう人びとに対して成瀬は、成瀬なりに一貫した態度で接する。馴れ合うでもなく、同情するでもなく、突き放すでもなく、受け入れるでもなく、成瀬なりの独特の間合いから、相手を斬りつけるでもなく抱きしめるでもない関わり方をする。成瀬がどういう人と出会い、どんな判断を下し、どういう関わり合い方をするのか。本書はそういう積み重ねの中こそが物語の中核にあって、一向に進まないメインのストーリーを補っている、というかむしろ主従を逆転している。
それに成瀬の価値判断が面白いのは、人に対してだけではない。物や街や歴史や、そういう物語に直接大きく関わるわけではないモチーフに対しても、常に成瀬の視線は留め置かれる。それぞれに対し、成瀬は何らかの判断をし、何らかの結論を出さなければ気が済まないかのようだ。そうやって、成瀬の目の前に現れる様々なものへの態度を知ることで、成瀬自身というものが立ち上ってくる。それがなかなか面白い。
もちろん、メインのストーリーも面白い。23年前の事件を、しかも事件そのものではなく、23年前の事件以後に出会ったとある人物を探しだして欲しい、という依頼に対して、まさかこれほどの着地点が用意されているとは思わなかった。しかも、初めの内は『ただの調査人』という立ち位置であったはずの成瀬が、次第に変わっていく。事件と昔から深く関わっている関係者であるかのように、この状況を自らの出来る範囲でどうにかしなくてはならない、という使命感が生まれる。依頼人とは深く立ち入らないようにしている成瀬をしてここまでさせるだけの現実というものがなかなか凄くて、よくこれだけの作品を書けたなという感じがしました。メインのストーリーについては、ネタバレなしであれこれ書くのが難しいのでこれぐらいに。
本書では、様々な価値観が描かれる。それは、犯罪加害者と犯罪被害者の間の溝、そして加害者・被害者に関わらず犯罪と関わりを持ってしまった者と世間との間の溝から湧き出てくるものだ。
それらの様々に描かれる価値観が、非常に考えさせる内容になっている。犯罪加害者にも犯罪被害者にもなったことがない僕には、軽々しく何かを言うような資格はないけども、価値観が対立する宿命にある加害者と被害者の間の様々な考え方を、著者はあらゆる場面で引き出していく。自分が一度も考えたことも覗いたこともない世界の中で、どういう感情が渦巻き、どういう論理がまかり通り、どういう価値観が置き去りにされているのか。そういう実情を丁寧に写し取っていると感じました。
具体的に挙げてみます。

『一時の激情で人を殺してしまった善人より、衝動をおさえて平常を保っている殺人鬼のほうを自分は支持するんだって』

『感動しちゃいけないんだ。自分の息子を惨殺された犯人を許し、”かけがえのない人”と言ってまで苦しみからのがれたい、癒されたいという母親の真理こそを考えてやらなきゃいけないんですよ』

『清廉潔白に生きていれば犯罪に巻き込まれるはずがない、という冷ややかな思想がこの社会にはあるんです』

また、172ページからの『苗の会』での話には、様々に考えさせられるものがある。決して割り切れないものを、しかし社会としてはどうにか割り切るしかなくて、法律や裁判所が存在する。だから、そこからこぼれ落ちてしまうものがあるというのはどうにもしようがない事実だ。そのこぼれ落ちたものを、加害者や被害者が、あるいは世間の人間がどう扱うか。結局これは法律や国を超えたところで、個人と個人の間にしか答えが成立しえない問いだ。望んだわけではなくその状況に身をおかなくてはならなかった人びと、そして自らの意思でそういう環境に身を置く人びと。個人間でしか決着のつけようのないものを、社会全体の大きな動きにしなければならない(そうしなければ大きな環境そのものが変わらない)という状況の中で奮闘する人びとや、途切れることのない苦しみの中に光明を見出したいと頼る人びとなど、暗中模索する人びとが描かれていて、色々と考えさせられる作品でした。
余計な先入観を持たせたくなくて最後に書くことにしたけど、本書の著者は、かつて「がきデカ」というコミックで一躍有名になった漫画家です。僕はその頃の著者のことも、「がきデカ」という漫画のことも知りませんが、漫画家から小説家、という以上に大きな転身なのではないかと思います(「がきデカ」というのはギャグ漫画っぽい感じだったようで、本書の雰囲気とは似ても似つかない)。著者が今後も小説を発表していくのか、その辺りのことはよくわかりませんが(本書は親本が2003年に出たものの文庫化で、著者略歴を見る限り小説作品はそこまで書いている感じがしません)、小説家としてもなかなかの才を持つ人だと感じるので、是非とも書き続けていって欲しいと思います。是非読んでみてください。

山上たつひこ「火床より出でて」



アクセルを踏みこめ(原マサヒコ)

内容に入ろうと思います。
まず、本書に書かれている、著者の略歴を引き写してみようと思います。

『「平民宰相」と呼ばれた第19代総理大臣・原敬の子孫。
高校時代の成績はビリからNo.1で、次第に学校にも行かなくなり、誰よりも早くクルマの免許を取って大好きなクルマと戯れる。
あげく親からも勘当されて、一人暮らしを余儀なくされつつも、メカニックの世界でNo.1を目指しつ自動車整備士の視覚を取り、トヨタ自動車に入社。ディーラーメカニックとして勤務しながら5000台もの自動車修理に携わる。
その後、整備技術を競う「トヨタ技能オリンピック」で最年少の23歳にして見事優勝を果たしトヨタNo.1の座に。また、「カイゼン」のアイデアを競うアイデアツールコンテストで2年連続全国大会出場。
その後、活躍の場をIT業界に移してからも、PCのサポートを行なっていたデルコンピュータでは「5年連続顧客満足度No.1」に貢献。現在もITサポート企業に所属し、活躍している。』

そんな著者による、自伝と言っていいのかな、失敗や挫折ばかりだった自分の人生を振り返り、自分の経験を踏まえた上で、既に働いている人、そしてこれから社会に出ようとする人に示唆を与えるような内容になっている。
著者は、高校時代はまったくダメな男だった。著者には、先天的なハンディもあった。多汗症であり常に手のひらが汗にまみれていたことと、色弱でありはっきりとしていない色の区別がつきにくい、ということだ。このハンディも原因の一つとなり、著者は学校でいじめられたり、友達が出来なかったりする。次第に学校に行かなくなり、親にも勘当される。
自動車だけは大好きだった著者は、ずっとクルマに触っていられるだろう、と思って自動車整備士を目指す。
が、なかなかそう甘くはなかった。
著者は名も知れない専門学校を出た後トヨタに入ったのだが、同期にトヨタの自動車学校を出た男がいた。知識の差もあるが、やはりトヨタには同じ自動車学校出の先輩も多く、会話でも取り残されていく。新人は誰でもそうだが、雑用ばかりでクルマにも触らせてもらえず、高校時代とあまり変わらない毎日を惰性で過ごしていくことになる。
そんな著者を変えたのが、先輩のベテラン整備士・石田さんだ(本書は、出てくる人物は基本的に仮名らしいです)。
石田さんは、整備の鬼のような人だった。その動作は一切のムダがなく、また整備士のプロとして、そしてお客さんと関わる一人のサービスマンとして、常に高みを目指している人だった。
色んなことがありふてくされ、また仕事にもばらつきがあってまだ全力を出せていない頃に、著者は石田さんに何度も怒られた。石田さんはよく、クルマのたとえを使いながら著者を諭す。ほら、クルマだってこうだろ、というわけだ。石田さんに言葉を少しずつ噛み締めるようにしながら、目の前の仕事を少しずつ丁寧にこなしていく内に、著者は次第に、整備の世界でNo.1になろうと決意するようになる…。
というような流れの、自伝風自己啓発本、という感じでしょうか。
帯に、『泣けた』とか『今年のベストワン』とかそういう言葉がこれでもかと躍っているのはちょっとウザイなぁ、と思ってしまうのだけど、まあそういう先入観をなるべく排除して捉えてみると、なかなかよかったかな、と思います。本書は元々、「人生で大切なことはすべてプラスドライバーが教えてくれた」って単行本の新書化らしいのだけど、その親本の方の評価もかなり高いみたいです。
とにかく本書は、石田さんの存在が素晴らしすぎます。
石田さんが放つ数々の言葉は、自動車整備に関わらず、ありとあらゆる世界において非常に深く染み入る、そういうものだと思います。どんな些細なことにも手を抜かず、常にプロとして考えて行動し、さらに下の者を教育する。石田さんという人はまさに理想的な上司で、こういう人が僕の人生でも近くにいたらなぁ、とか思ってしまいました。
その一方で僕は本書を読みながら、こんなことも考えてしまうのでした。僕はこれまでの人生で、『どうやったら怒られないか』ということばかり考えて生きてきた。だから、怒られないやり方、というのはどんな場所にいてもすぐ体得してしまう、と自分では思っています。
僕は本当に、人生で怒られたことっていうのが本当にほとんど記憶にないんですけど、それは結局、自分が『怒られること』を避けていたからそういう人が周りにいなかったのだろうな、という気もしました。だから、石田さんみたいな人がこれまで俺の人生にはいなかったなー!なんて嘆くだけではダメで、まず自分の方が、怒られることを積極的に受け入れよう、というスタンスにならないとダメなのだろうな、と思いました。器用貧乏というか、体が怒られることを避けるように動いてしまうんで、ダメなんですけどね…。
石田さんの名言を少しだけ引用してみましょう。

『横を向いてもアクセルを踏みこめ。視線は常に進行方向を見ておけ』

『目先の仕事でラクしようとして、お客様を満足させることができずに信用を失っていくんだ。』

『だけどフェラーリからしたら、そんな弱点はどうでもいいんだよ。自分の強みを最大限生かすことしか考えなねえんだから。だから、お前の弱点なんてどうでもいい。そんなことよりも、自分の強みを生かすことを考えろってことだ、俺が言いたいのは。で、お前の強みは何だと思う?』

『まずはやらせてやれよ、俺らの仕事は経験がすべてなんだから。それで変なやり方をやろうとしたら止めてやったり、あとからやり直したりしながら教えてやるんだよ。それをお前が全部やってどうすんだバカ』

『毎日の行動が未来を変えるんですから』

他にも、ちょっと引用しにくい形(会話の流れとか)で良いことを言っていたりします。石田さん、ホント凄いです!自分の仕事にプライドを持っているし、そしてそれを下の者にきちんと伝えようとしている。厳しいことを言うこともできるし、自らの行動で自らの言葉を証明することが出来る。何よりも、積み重ねてきたことによる重みが全然違って、本当に著者は良い師と出会ったな、と思いました。
著者ももちろん素晴らしい。石田さんという素晴らしい師の存在があっても、著者の側にそれを受け入れるだけの力がなければ意味がない。著者は、石田さんが個別の事例に対して言うアドバイスを、自分の人生全体に当てはめて考えようとする。そしてそれを自分がどう受け止め、それに対して何ができるかを自分なりに真剣に考え、そして今自分が出来ることから少しずつ始めて行く。
たとえばワイパーの話。石田さんは著者に、ワイパーを長持ちさせる方法を知ってるか、と問う。答えられない著者に対して石田さんは、

『ワイパーはなぁ、晴れの日に使うんだよ』

という謎の答えを返す。
晴れの日が続くと、ゴムというのは水分を含んでいるからどんどん固くなる。だからそんな時にウィンドウウォッシャーを出して二三回動かしてやると長持ちするんだ、とアドバイスをする。
そのアドバイスを受けて著者は、こんな風に思う。

『まだクルマにも触らせてもらえないメカニックの卵。言ってみれば、晴れの日が続いて出番のないワイパーだ。いつか、雨の日が来て活躍するときが来るかもしれない。いや、来るだろう。そのときまでに準備をしておかなければならないのではないだろうか。ただ黙って待っているだけでは、固いゴムのように使いものにならなくなってしまう。』

こんな感じで著者は、石田さんからのアドバイスを自分のものにしていきながら、辛い環境に耐え、自らの先天的なハンディを乗り越え、少しずつ前に進んでいく。そしてやがて、トヨタNo.1の座にたどり着くのだ。
本書で描かれていることは、どれもシンプルなことばかりだ。それらは、シンプルだからこそ日常の中に紛れ、シンプルだからこそ記憶の中に紛れてしまうような、そういうことだ。そういう小さいけれど大切なもの、僕たちが仕事の風景の中に無意識の内に紛れ込ませてしまっていることを、目に見える形で描き出してくれている。当たり前のことだからこそ毎日続ける意味があり、当たり前のことだからこそ毎日続けることが難しい。
個人的には、もう少し読み物として洗練されているといいなぁ、という感じはしたのだけど、まあ新書という形態を考えるとそう悪いものでもない。自分に言い訳をしたくなるような時に読み返してみると、自分を律することが出来るかな、という感じもする。社会で働く人にとって、当たり前だけど大切なことが書かれている、と感じました。是非読んでみてください。


原マサヒコ「アクセルを踏みこめ」



科学の栞 世界とつながる本棚(瀬名秀明)

内容に入ろうと思います。
先に書いておきます。今回の感想は、引用だらけになります。とにかく、引用したくなるような素晴らしい文章に満ち満ちた作品なんです!
本書は、いわゆる書評集です。しかも、大なり小なり『科学』というものと関わる本についての書評集です。
ここまで読んだ時点で、あっ私には関係ないや、と思った方。もう少し僕とお付き合いくださいませ。
まず、「はじめに」で書かれている文章が素晴らしい。引用を織り交ぜつつ、著者がどんな想いで科学に関する本の書評を書いているのか、本書を通じて何が伝わってほしいのか、ということを書いていこうと思います。
まず著者は、本書を三人の読者へ届けたい、と書いています。その三人とは、『これから進路を決めようとしている中学生や高校生』『いま社会で働きながら、読書の愉しみとともにあるあなた』『私の父』です。
中高生については置いておいて、社会人に対しては、『そうしたあなたと科学書の話ができたらと願ってこの本をつくりました』、自身の父については、『学術に専念した人生を送ったからこそ、ピュアな好奇心がその先にある。そうした父に楽しんでもらいたいと願い、私はこの本をつくりました』と書きます。
中高生に対しては、こんな素敵な文章を届ける。

『本書があなたに伝えたいのは、科学実験が好きで読書が好きな人生ってすばらしいじゃないか、ということなのです。あなたは理系に進んでも小説好きでいられるし、文系に進んでも科学を楽しむことができる。そして未来をいま真剣に考えているあなたは、おそらく自分が将来どのように社会に貢献できるかと悩んでいることでしょう。科学の本を読むということは、そうした悩みに向き合いm未来を考えてゆくことでもあるのだと伝えたい。』

その後著者は、「科学の本を読むというのは、一体どういうことなのか」と問い、それに答える。僕は元々理系で、科学的な事柄に凄く興味があったので、自発的に科学の本を読んできた。しかし、そうではない人たちにとって、科学の本というのはハードルが高い、というのも凄く想像出来る。僕は歴史が苦手なのだけど、そんな僕が、なんの情報もないままとりあえず歴史の本を選んで読んでみろ、と言われるようなものだろう。
著者は、科学の本を読むということは、ちょっと違った体験をもたらす、と書いています。

『もとの生活に還るための、日常を取り戻すための本と違い、本書に登場する科学書の多くは、むしろ読むとあなたに新たな疑問や謎を残すでしょう。本のページを閉じた後、世界はもとに戻るのではなく、むしろ変化して見えるでしょう。世界があなた自身にチューニングされるのではなく、いままで少しばかり社会のしがらみにとらわれていたあながた、本来の宇宙に調律される、それが科学の本を読むということなのだと思います。』

『そうした豊かで複雑な私達の心のあり方が、宗教観も生活習慣も違う異国の人々に想いを馳せ、見ることさえできないはるかな宇宙のイメージに胸踊らせる、人間ならではの読書の歓びを産み出すのです。』

『自由を求めて社会を変えることを革命と呼びますが、科学の本を読むことは、ささやかな娯楽であると同時に小さな革命なのだと思います。この世界を、宇宙を見るために、自分が少しだけ変わるのですから。』

そうした、科学書を読むことの素晴らしさを伝えたあとで、著者は、科学の本を読む歳のコツやスタンスを教えてくれる。特にそれまで科学的な本と触れて来なかった人には、科学の本とどう向き合ったらいいか悩むことだろう。僕だって、歴史の本をどう読みどう捉えたらいいのか、誰かに手助けしてもらえなければ、ちょっと辛いかもしれない。

『科学の本を読むときも、だから周りの声なんか忘れて、自分ひとりで向きあうのがいいのです。読後の感想をブログやソーシャルサービスに書いている人も、「的外れなことをいって笑われたらどうしよう」と周囲を気にする必要なんてない。』

『ひとつだけ科学の本を愉しむコツがあるならば、類似した分野の書物をいくつか謙虚に読んでみることでしょう。ちょうど小説の分野を開拓するときのように。』

そして最後に著者は、本書をどんな風に捉えて欲しいのか、という自らの希望を書く。本書は、「科学書の書評をし、その本に興味を持ってもらうこと」だけを目的に書かれているのではない。

『本書は書評を集めた本ですが、本当のことをいえば、ここに掲載した書物が大切なのではありません。未来にああなたがきっと手に取るであろう、いまは世に出ていない科学の本のために、この書評集をつくりました。』

『私たちにとって科学のホントはどのようなものであり、それを読むとはどのような愉しみであるのか。読むことでどのような未来がつくられるのか。それが本書の主題なのです。どのように科学の本を読むことがおもしろいのかと考えてゆけば、次に新刊書を見つけたとき、「これはおもしろそうだ」とあなた自身のアンテナが働くのではないか。』

どうでしょうか。本書に興味を持ってもらうことは出来たでしょうか?ここまで読んでもらって、それでもやっぱりこの本は自分には関係ないな、と思われたら、まあそれは仕方ありません。諦めます。でも、ここまで読んで、なるほど科学書ってちょっとハードルが高いような気がしてたけど、この本を頼りに読んでみたら面白いかもしれないぞ、と思ってもらえたら嬉しいです。
本書はまさに、新しい世界の扉そのものだと思います。ドアノブこそついていませんが、ページをめくることで、鍵なんかなくたって、あなたはそれまで知らなかった芳醇な世界へと旅立つことができます。それまで自分の身近に科学書がなかった人にこそ、この本をまず手にとって欲しい。本当にそう思います。
というわけで以下、『書評の中にキラリと光言葉があった』本について、その文章の引用と共に書いてみようと思っています。僕が既に読んでいるかどうか(読んでいる本も多少ありました)、あるいはその本を読みたくなったかどうか、ということとは関係なしに、純粋に、書評の中の文章に惹かれたかどうか、という基準で選びます。かなり多くなると思いますけど、気が向いたら読んでみてください。

「ぼくドラえもん」増刊「もっと!ドラえもん 5」『「のび太と恐竜」に感動した皆さんのなかから、未来の恐竜学者が生まれるだろう。それが物語の力と科学の夢なんだと僕は思う。』

ジョン・ブロックマン「キュリアス・マインド ぼくらが科学者になったわけ」『だがここで本当に重要なのは、登場する27人全員がずっと何かに興味を持ち続け、ふしぎだ、おもしろい、と思う自分の気持ちを大切にし続けてきたことだ。それなら誰もが今日からできることだ。』

森博嗣「森博嗣の半熟セミナ 博士、質問があります!」『だから愛らしいこの本に関しては、少し変わった活用法を提案したい。まずは誰かに森さんの設定した質問テーマだけを書きだしてもらう。そして「自分ならこの質問にどう答えるだろう?」と考えてみるのだ。』

星新一「人民は弱し 官吏は強し」『この本のすごみが身に染みるようになったのは、ぼくが大学で薬学を学んでからだ。10代のときに読んでいてよかったと心から感じた。ぼくが薬学をいまも心の故郷にしているのは本書の影響だろう。』『いまは難しいと感じてもいい。どうかこの本を大切に置いていてほしい。いつかきみが本当に科学をめざすとき、この本はかけがえのない宝となるはずだ。』

森博嗣「創るセンス 工作の思考」『森のノンフィクションには常に真っ当、当たり前なことが書かれている。だが工学分野で類似の書き手が少ないため、相対的にエキセントリックに見えるに過ぎない。』『工作とは基本的に不可逆な好意であり、必ず部分的な破壊を伴う。』『理科離れ対策は、まず大人がものづくりを楽しむことだという主張は見事に真っ当である。』

前田知洋「人を動かす秘密のことば なぜあの人は心をつかむのが上手いのか」『ぼくも趣味でカーdkマジックを練習することがあるけれど、誰かに演じるときは技術よりコミュニケーションが大事だということが実感できる。』

玉井真理子「遺伝医療とこころのケア 臨床心理士として」『現代社会において生命の意味を考えることは、背負っている思い荷物を腰をかがめてもう一度背負い直すことだそうだ。ならば荷物の重さを感じる感受性を失わないこと、腰をかがめるのをいとわないこと。』

A・R・ルリヤ「偉大な記憶力の物語 ある記憶術者の精神生活」『ルリヤさんはシィーを通して、人が言葉を、世界を認識するとはどういうことかという、大切な問題を投げかけてくる。』

スティーブン・ジョンソン「マインド・ワイド・オープン 自らの脳を覗く」『閃きの瞬間、脳内で何が起こっているのか。およそ創造的な仕事についている人なら一度は考えたことがあるはずだが、本書の著者は自分を被験者にしてこの難問に挑戦する。』

中村徳子「赤ちゃんがヒトになるとき ヒトとチンパンジーの比較発達心理学」『ヒトでもチンパンジーでも赤ちゃんにとって愛着相手とは、常に世界へ好奇心を掻き立てる窓口であり、また情緒的に混乱したとき自分を回復させる拠りどころなのだ。』

ビル・マッキベン「人間の終焉 テクノロジーはもう十分だ!」『遺伝子工学やナノテクノロジー、ロボット学などの技術がこのまま進んでいったとき、いずれ私たちは自分の子どもをデザインする誘惑に駆られるようになるだろう。』

下條信輔「サブリミナル・インパクト 情動と潜在認知の現代」『コカ・コーラはあらかじめブランド名を知って飲むと脳のある部分が活動するのに、ペプシだとさほど反応しない。ペプシは脳科学的にもブランド戦略に失敗している』

池谷裕二「単純な脳、複雑な「私」」『本書の書評のため初期の著作から刊行順に彼の足跡を一気に読んでたどり、そうだよ、研究者はいつだってこうやって一人の人間として歩んでゆくんじゃないか、と心のなかでうなずいた。』

ダン・ガードナー「リスクにあなたは騙される 「恐怖」を操る論理」『理性に基づき、客観的に情報と向き合う「頭」だけでリスクが判断できれば苦労はしない。人は主観的な「腹」の感情に振り回される。』

吉川肇子+矢守克也「クロスロード・ネクスト 続:ゲームで学ぶリクス・コミュニケーション」『神戸市の職員有志はこのゲームを通じて若い職員へ震災の記憶を伝えた。』

新妻昭夫(文)+杉田比呂美(絵)「ダーウィンのミミズの研究」『興味を持った新妻さんは、ダーウィンの仕事を調べ始める。この絵本「ダーウィンのミミズの研究」をめくれば、ダーウィンの熱意が新妻さんに乗り移ったことがわかるだろう。』

クリスタン・ローソン「ダーウィンと進化論 その生涯と思想をたどる」『科学の発見はその時代とかたく結びついている。歴史や社会が科学とつながるという事実に驚くかもしれない。でもこれが本当の科学への第一歩だ。』

シャロン・モアレム+ジョナサン・プリンス「迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか」『なぜぼくたちは体によくない遺伝子を受け継いでいるんだろう?迷惑な遺伝子も実は人類進化の過程で重要な意味を持っていたのでは?』

ジョナサン・マークス「98%チンパンジー 分子人類学から見た現代遺伝学」『「人間の本性は人間にできることの範囲にすぎない」と著者は明快にいう。だが私たちは自分と他人の範囲の差ではなく、絶対的な違いとして捉えてしまうものだ。その境界に起ち現れるさまざまな差別や摩擦に、私たちはどう向かってゆけばよいのか。』『科学は物事の見方である。あなたたちの考え方は科学的に間違っているということはたやすいが、それもまたひとつの自民族中心主義なのではないかと著者は指摘する。』

カール・ジンマー「「進化」大全 ダーウィン思想:史上最大の科学革命」『長い休暇が取れたら本書を持って都会を離れ、くつろぎながら何度も読み返してみたい。自分の内にあったナチュラリストの精神が、きっと蘇ってくるだろう。』

ピーター・D・ウォード「恐竜はなぜ鳥に進化したのか 絶滅も進化も酸素濃度が決めた」『本書は恐竜が鳥に進化した理由だけを書いた本ではない。』

長谷川善和「フタバスズキリュウ発掘物語 8000万年の時を経て蘇ったクビナガリュウ」『後にフタバスズキリュウと名づけられたこの化石はブームを起こし、藤子・F・不二雄のマンガ「のび太の恐竜」のモチーフともなった。(中略)本書は「のび太の恐竜」に一度も言及しない。』

八代嘉美「iPS細胞 世紀の発見が医療を変える」『何よりすばらしいのは、ES細胞やiPS細胞を学ぶことは医療の未来を開くばかりではなく、生命の根源を探求することであり、それはわくわくすることなのだというスタンスに貫かれていることだ。類書にない大きな特長である。』

カール・ジンマー「大腸菌 進化のカギを握るミクロな生命体」『大腸菌(E・コリ)を語ることはすなわち遺伝子研究の歴史を語ることだ。(中略)大腸菌を主役に据えて遺伝子研究の勃興期から黄金時代までを語ってみせる。』

武田康男「楽しい気象観察図鑑」『こんなにクオリティの高い写真集をまとめるまで、いったいどれほど長い時間、著者の武田康男さんは空を見続けてきたのだろう。』『この本がすばらしいのは、美しい写真を眺めることで減少が理解できることだ。その瞬間から世界が鮮やかに生まれ変わる。』

リチャード・ノートン「隕石コレクター 鉱物学、隕石学、天文学が解き明かす「宇宙からの石」」『本書を読んでいると隕石の手触りさえ想像できる。』『この本が見事なのは、隕石について読むことで、生命や地球、宇宙の謎まで視野が広がってゆくことだ。』

サイモン・シン「宇宙創成」『著者のサイモン・シンさんは謝った理論を唱えた人を決して避難しないが、アインシュタインさえも英雄として書かない。そこがすばらしい。すべての科学者がいきいきとしている。』

アーサー・C・クラーク「楽園の日々 アーサー・C・クラークの回想」『人工衛星を使えば世界中にテレビ中継できるというアイデアを1945年に初めて発表したのは、後に宇宙科学の解説者として頭角を現すことになる28歳のアーサー・C・クラーク青年だった。』

武田康男「すごい空の見つけかた」『書店に行けば空の写真集はたくさんあるが、この著者の本以上のものにはなかなかお目にかかれない』『気象予報士の視覚も持つ高校教師の著者がつくる本はいつも、掲げられた写真の見どころが何であるのか明快に伝えてくれる。だから次の瞬間から自分でも空を見上げ、「すごい空」を探すことができる。理想的な科学の本だ。』

日高敏隆「春の数えかた」『いきものたちはいったいどうやって春の到来を知るのだろう?』『本書を読み進めると、ぼくたちは何度も驚きの声を上げることになる。あっ、そうか、それも世界のふしぎなんだ!』『日高さんは常にいきものたちの視点から世界を捉え直してみせる。ぼくたちはヒトという視点に縛られているけれど、いきものにはいきものの論理があるのだ。』

リチャード・プレストン「世界一高い木」『彼はマリーという女性と出会い、巨木ゼウスの上でプロポーズし、気の上で結婚式を挙げる。』『鳥は木の上にいる人間を警戒しない。プレストンさんの目の前に鳥が降り立ち、すぐそばを群れが枝をかすめるように飛んでゆく。』『スティーヴたちが登ったセコイアの超常には、なんと川にいるはずのプランクトンや、山椒魚や新種のミミズまでが棲んでいたのだ。』

佐藤克文「ペンギンもクジラも秒速2メートルで泳ぐ ハイテク海洋動物学への招待」『水中では電波が届かないので無線通信は難しい。だから後でロガーは自分で回収しなくてはならない。南極の平原を埋め尽くすようにして立つペンギンの群れから、佐藤さんは自分のペンギンを探すのだ。』

鈴木忠+森山和道「クマムシを飼うには 博物学から始めるクマムシ研究」『「先生のお話を伺って、たぶん僕はこれから、コケを見るたびに「この中にクマムシがいるのかな?」とか思うようになる」と森山さんがつぶやき、鈴木さんが嬉しそうに応じる。』

青山潤「アフリカにょろり旅」『いきなりこの本は、ひとりの黒人青年が周囲の人からボコボコにされているシーンから始まる。』『ウナギが海で産卵する瞬間を見た人はいない、といったらびっくりするかもしれない。』

小松義夫「ぼくの家は「世界遺産」」『家とは周囲に広がる大自然の環境とぼくたち家族の境界につくられるとびきりすてきな「遺産」なんだ、と読んでいて実感してくる。』

コンラート・ローレンツ「ソロモンの指輪 動物行動学入門」『もしあなたが動物好きで、科学が好きなら、一生のうちに必ずコンラート・ローレンツさんの本を手に取るはずだ。いまは読まなくても、きっと将来、魅了され感動する。だから今回の書評はそんなきみの未来に向けて書こう。』

新井紀子「ハッピーになれる算数」『何かに没頭しているとき、人間の脳はもっとも自由になるそうだ。つまりルールを味方につけて難問に挑戦するとき、ぼくたちは好きな音楽や本に没頭している瞬間と同じく、自由なんだ。』

足立恒雄(文)+上村奈央(絵)「「無限」の考察」『これは数学の本だが、世界を見るぼくたち自身のあいまいさを根本から捉え直す驚異の本でもある。』『「無限」と聞くと、とても神秘的でふしぎな感じがしないだろうか?しかしそのふしぎな感じは、ぼくたちが「無限」の定義をあいまいにしたまま漠然とイメージしているからdと著者の足立恒雄さんは教えてくれる。』『ああ、そうか、本当の自由は数学にあるんだ!と気づく人も出てくるかもしれない。』

ロバート・P・クリース「世界でもっとも美しい10の科学実験」『最後にクリースさんは問う。「もし実験に美があるなら、それは美にとって何を意味するのだろうか?」』

ミチオ・カク「パラレルワールド 11次元の宇宙から超空間へ」『でもミチオの本は他のどんな宇宙論の本よりもわかりやすく、ていねいで、胸踊るのだから、思い切って飛び込んでみるのがいい。』

戸塚洋二「戸塚教授の「科学入門」 E=mc2は美しい!」『宇宙はわかるよといい切ってしまったらおもしろくない。想像もつかなかったものを実験で発見するのが科学の醍醐味、と最後に戸塚さんはいう。なんてすてきな言葉だろう。その遺志を継ぐのはぼくたち読者だ。』

武田康男「世界一空が美しい大陸 南極の図鑑」『武田康男さんはぼくのいちばん好きな空の写真家だ。武田さんの写真集は科学の本でもあって、読んだ瞬間からぼくたちの世界の見方を変える。』『人間たちも部屋に鍵をかけない。そんな世界がこの地球上にあるのです、という一文に、ぼくは心を打たれたのだった。』

生化学若い研究者の会「光クラゲがノーベル賞をとった理由 蛍光タンパク質GFPの発見物語」『一方で著者らは、研究に貢献しながらノーベル賞を受賞できずバスの運転手になったダグラス・プラッシャー博士へのまなざしも忘れない。』『10年後、皆さんもこのような本がきっと書ける。本書を読んで科学のおもしろさに目ざめたら、今度はあなたが伝える番だ。』

百島祐貴「ペニシリンはクシャミが生んだ大発見 医学おもしろ物語25話」『未来をつくることが、目の前のひとりのいのちを救う。医学のすてきな力だ。』

ピーター・ジェイムズ+ニック・ソープ「古代文明の謎はどこまで解けたか ⅠⅡⅢ」『本書は考古学者とジャーナリストのふたりが、誰でも聞いたことのある魅惑的な歴史の謎を次々に遡上に上げ、ウソとホントの言説をきちんと区別し、トンデモ学説を切り捨てながら、自ら魅力的な仮説を展開してみる労作だ。』

ピーター・アトキンス「ガリレオの指 現代科学を動かす10大理論」『フィレンツェ科学史博物館には、ガリレオの亡骸から切り取られた右手の中指が展示されている。ガリレオの実験観察の技法は科学観の一大転換をもたらした。彼の指先は「化学的手法」が真理を掘り起こしてゆくさまの象徴であり、身体は儚くとも知識は永遠であることの象徴でもある。』

スティーヴン・ストロガッツ「SYNC なぜ自然はシンクロしたがるのか」『「今この時代に科学者であることが、どれほどワクワクすることかを実感していただけただろうか?」という結びの一言に、あなたも心を打たれるはずだ。』

イーヴァル・エクランド「数学は最善世界の夢を見るか? 最小作用の原理から最適化理論へ」『最後に作者がたどり着くのは私たちの合理的な意思と勇気だ。泣きはしないが、胸に迫るものがあった。』『あなたは想う、もし10年前に本書が邦訳されていたら日本のSFは少しは変わっただろう。だがあなたがこれから見る夢は、確かに未来のSFを変えるのだ。』

ロボ鉄取材班「ロボ鉄」『この「ロボ鉄」は、これからロボットの鉄人になろうとする人たちへの、熱いエールだ。いま各地のロボコンで活躍している高校生や大学生が次々と登場して、アイデア帳の中身や設計図を見せてくれる。これを眺めたら誰だってロボットをつくりたくなるだろう。』『勉強とロボットの両立で大切なのは、「凝る」ことではなく「簡単なものを確実に仕上げる」こと。』

名和小太郎「エジソン 理系の想像力」『この本を読んで、エジソンに対する印象が変わった。エジソンの真の想像力とは、たくさんの発明をまとめあげて、社会へつなげてゆくことの想像力だったのだ、とこの本はいう。』『ものをつくるのが好きな人なら誰でも、自分の発明で世の中をよくしたいと夢を描くだろう。でも白熱灯ひとつを発明したからといって、すぐに社会が変わるわけではない。ではどうすればいいんだろう。ものづくりのシステムと、社会のシステムを考え抜く必要がある。』『理系の想像力は、社会をどのように変えてゆけるのか。』

藤森照信「人類と建築の歴史」『そして著者は「建築探偵」の異名を持つ藤森照信さん。ミステリー小説を読むような気持ちでページをめくろう。』

P・W・シンガー「ロボット兵士の戦争」『日本ではロボットを友だちとして論ずることが多い。だが本書を読むことで、ぼくらとは大きく異なるロボットへの価値観が、海の向こうの国に存在していることがわかる。』

山根一眞「小惑星探査機はやぶさの大冒険」『はやぶさの情報はインターネット上に溢れすぎているからあえてわかりやすく書いたという、山根さんの手さばきも堪能してほしい。』

リチャード・モラン「処刑電流 エジソン、電流戦争と電気椅子の発明」『いかがわしさと科学が同居した電気椅子。本書はこのいかにもアメリカ的な発明が、エジソンとウェスティングハウスというふたりの発明家の確執から生まれた事実を語ってスリリングだ。』

石黒浩「ロボットとは何か 人の心を映す鏡」『だがロボットを人間そっくりにすればするほど、私たちはいまだ人間の本質に遠く及ばぬ認知コミュニケーション問題しか炙り出せ無いのだと感じてしまう。本書はその限界を超えようともがき、挑戦し続ける工学者の、未来への果敢な一歩である。』

浅田稔「ロボットという思想 脳と知能の謎に挑む」『しかしそれでもなお、ロボットはあまりにも自由な存在だ。自由であるがゆえに想像力の限界が試される。ロボットを人間に近づけようとすればするほど、ロボットは人間から遠ざかってゆく。』

最相葉月「星新一 1001話をつくった人」『でもノンフィクションは難しそう、読みたくもないって?いまそう想うなら読まなくてもいい。でもこの最相さんが書いた星新一の伝記は、どこか目に見えるところに置いていてほしいんだ。』

ジャン=クロード・カリエール「教えて!!Mr.アインシュタイン」『タイムマシンに乗って過去へ行き、有名人に会って思う存分に話を聞いてみたい、と夢想したことはないだろうか。本書はまさにそんな思いを募らせた作家が書いた小説だ。』

キャサリン・パターソン「星をまく人」『ぼくたちの体は、夜空で光る星と同じ材料でできている。この事実がエンジェルにひとつの希望を与える。彼女はいつも北の空で動かない北極星を仰ぎ、自分もしっかり明るく輝いてゆこうと決意する。』『星はただ輝くだけだ。しかしそれを見て心を動かすのは、誰もが持つ普遍の力なのだと本書は伝えている。』

ジョディ・ピコー「私の中のあなた」『深くあなたの心に突き刺さり、医療の本質と、そして生きることの意味について生涯考えさせる科学の本でもある。考え続けること、それは科学のいちばん大切なことなのだ。』『アナたちの母親であるサラが、ケイトの難病に向き合い、アナを産み、育ててゆくまでの人生を丹念に綴ったパートは、皆さんが親になったとき改めて心に響くだろう。』

バーナード・ベケット「創世の島」『対話だけで進む本書は、実は優れて映像的な物語だ。読めばあなたの脳内でイメージが爆発する。』

ロアルド・ダール「一年中わくわくしてた」『ロアルド・ダールはふしぎな作家だ。ぼくの場合、「チョコレート工場の秘密」(評論社)の作者というよりも、まずは大人向けのミステリアスな短編小説の書き手であり、中学生のことから新しい読書の世界に入る際の入門書であった。』『ああ、もっと本を読みたい、と思う瞬間だ。』

藤子・F・不二雄「大長編ドラえもん のび太と鉄人兵団」『「他人を思いやるあたたかい心…」博士が改造を決意するときの台詞だ。ぼくは、この言葉にならないテンテンテンに、藤子先生の願いと希望と感じる。』

小松左京「小松左京の大震災‘95 この私たちの体験を風化させないために」『これから私たちは小松さんが阪神・淡路大震災後に生きた一年間を生きることになる。』

ちょっとやりすぎたかもしれない、と思いつつ、とりあえずここまで書けて満足。疲れた。
個人的には、これも科学書の括りで紹介してくれるんだ、って本が結構あって面白かった。「アフリカにょろり旅」とか「夜中に犬に起こった奇妙な事件」なんかは、普通では科学書の中には入らない一般向けの本で、こういうのもしっかりちゃんと組み込まれているのがいい。なにせ、ドラえもんの作品が二つも入ってますからね。
本書の書評を読んで読みたくなった本をカウントしてみたら、64冊もあった。無理!!でも、ちょっとずつでも読んでみたい。自分の生きている範囲内では絶対に出会うことはないだろうって本もいくつも挙げられていて、いつかどこかで出会った時は間違いなく買ってしまうだろう。思ったより、僕が読んでいた作品は少なかった。結構科学書読んでるんですけど、やっぱりまだまだ奥は深いですなぁ!
最後に。著者はとある書評の中でこんな風に書いている。

『それにしても本書の訳者・矢野真千子が手がけた本にはハズレがない。もはや信頼のブランドである』

外国人作家の小説でも同じようなことがありますよね。訳者で選ぶ。僕はこの矢野真千子さんって人を知らなかったので、覚えておこうと思いました。僕が信頼している訳者さんは、青木薫さんという方で、この方が訳している作品はほぼ無条件で信頼するようにしています。
今年、是非手にとって読んでみて欲しい作品です。いや、どうせなら、今は読まなくてもいい。でも、著者がどこかの書評で書いていたように、本書をいつも目に見えるところに置いていて欲しい。そう思える作品です。「はじめに」でも書かれていたけど、本書に収録されているかどうかが重要なのではありません。あなたが未来に手に取るかもしれない本、その本に興味を持つことが出来るようにアンテナを張っておく、そのための作品でもあります。科学書の書評集だから、というのではなくて、書評集として素晴らしい作品だと感じました。是非読んでみてください。

瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚」



こうして世界は誤解する ジャーナリズムの現場で私が考えたこと(ヨリス・ライエンダイク)

内容に入ろうと思います。
本書は、オランダの新聞の特派員としてアラブ諸国に駐在し、後に『ジュナリスト』誌のジャーナリストオブザイヤーに選ばれた著者による、報道するとはどういうことかやアラブ諸国の現実などについて書き綴った作品です。
本書は、報道についての本でもあるし、アラブ諸国についての本でもある。でも、一般的なジャーナリストの手になる本とはなんか少し違う。普通は、著者自身が見たものを描く。しかし本書は、ただそれだけではない。普通僕たちはものを見る時に、何らかの視点に立って見る。それを、『眼鏡を掛ける』と表現してみよう。僕たちは、あらゆる物事を、自分なりの眼鏡を掛けて見る。本書は、著者が書けている眼鏡を疑うところから始まる。そうして、自分が書いている記事が誰かにどんな眼鏡を掛けさせていることになるのかを自覚し、自分が見た本当の現実はその眼鏡を掛けたままでは見ることは出来ない、という思いから執筆されている、そんな風に感じました。

冒頭で著者はこんな風に書く。

『が、そうはならなかった。テクノロジーが革命を経験したからだ。アラブ世界もまた革命を経験した。本質的には何も変わらなかったのは伝道者、つまり主要メディアだけだった。』

『今までのところ、自社の用語選択の理由をウェブサイトなどで説明している組織は、大手メディアの中にはひとつもない。(中略)同様に、ある問題をなぜ報道するのか、いかに報道するのかといった選択についての説明もまったくない。メディアは、ほとんど無意識の領域といってもいいほど根深いところに、独裁者的な、あるいは少なくとも家父長制的な要素を抱え込んでしまっている。』

『個々のジャーナリストが自分の選択について読者や視聴者とオープンに対話することは、”絵”から抜け落ちてしまう事柄を伝える強力な手段になりうるのではないか。私はずっとそう思っている。』

著者は大学でジャーナリズムについて学んだわけではありません。政治学とアラビア語を学んでいた著者は、恐らくアラビア語が出来るというだけの理由で新聞社から声が掛かり、アラブ諸国の特派員となることになりました。
ジャーナリズムについて学んでこなかった著者にとって、報道の仕事はまるでわからないままのスタートだった。著者は、実際に現地で取材を進める過程で、少しずつ報道の現実というものを学んでいく。
それは、著者がそれまで抱いていたイメージを根こそぎひっくり返すものだった。
アラブ諸国を取材し始めた著者は、こんなことを思う。

『現地に行くまえの私には、中東について明らかに先入観があった。大半はメディアから仕入れたものだ。ひとたび現地に到着すると、その先入観が現実に取って代わられた。そして、その現実はメディアがつくった絵よりはるかに一貫性がなく、はるかにわかりづらかった。』

『特派員だった私は、あるひとつの状況についていくつかの話をすることができた。しかし、メディアはひとつを選ぶしかなく、その際に選ばれるのはたいてい広く行き渡ったイメージを補強する話だった。』

現地で取材を続ける中で著者が理解したことは、「特派員はその場にいることが重要である」ということだった。
僕もそうだったけど、例えばアラブ諸国に関するニュースなどは、現地の特派員が足で動いて情報を得て、それを伝えているものだ、と思っていた。著者ももちろんそう思っていた。
しかし、現実は違っていた。
世界のいくつかの通信社が、世界中あらゆるところに人員を配置している。彼らが世界の目や耳となっている。そして、ほとんどの新聞・テレビ・雑誌は、その通信社から送られてくる情報をただ選ぶだけ、なのだ。そしてそれは、現地にいなくても、オランダの新聞社のデスクにいても出来ることだ。
では現地にいる特派員は一体何をするのか?
それは、「この情報は現地から届いたものですよ」ということをアピールするためのものなのだ。新聞の記事なら「日付記入線(デートライン)」というものがある。これは、記事が発信された場所を記載するところだ。オランダから送られてきた通信社からの情報を元に、アンマンで著者が記事を書く。するとデートラインは「アンマン」と記載されるのだ。テレビであれば、同じくオランダから送られてきた情報を元に書き起こした記事をカメラの前で喋る。現地で取材した情報ですよ、という風を装って。

『それまでは、特派員というのは歴史的瞬間の目撃者だと思っていた。何か重要な出来事が起こったときにはそれを追いかけ、なりゆきを調査し、報道するものだと思っていた。が、私は事件を調べにいったりはしなかった。それはもうずっとまえになされていた。私は現地リポートをするために向かうだけだった。』

『私は以前、国際部というのは見識ある人員が世界を見渡し、真剣な熱慮の末、どれをニュースとして流すか決める場所だと思っていた。(中略)しかし、世界中を見渡しているわけではなかった。彼らが見ているのは通信社で、そこから上司―業界用語で言うなら国際部長―が選択をする。』

現地での取材・報道を繰り返すことで、そういう仕組みでなければ回っていかない、ということも理解していった。しかしそれと同時に、これでいいはずがない、という思いも膨らんでいく。

『私の記事ではアラブ世界でのポジティブな体験は隠されていまっていた。それだけでなく、ご多分に洩れず、アラブは異質で悪質で危険であるというイメージを広めてしまっていた。ニュースというもののありようと考えると、旗を燃やしスローガンを唱える”怒れる人々”について書くことはできても、カメラの外で何が起こっているかを読者に伝える余地はなかった。』

『私は常々、”ニュース”というのは世界の最も重要な出来事を集めたものだと思っていた。けれども特派員として半年を過ごして、現実が分かった。ニュースとは、非日常を―規則の中の例外を―扱うだけのものだ。アラブのようにあまりよく知られていない世界ではこれが曲解を生む。』

『私はハゼム(人名です)を見て思った。”私はエジプトで実際に起こっていることだけを書くべきなのだろうか、それとも、ここの人々が実際に起こっていると「思っている」ことも書くべきなのだろうか?”』

こうしてジャーナリズムというものについて深く考えさせられた著者であったが、それと同時に、ジャーナリズムと独裁政治の関係についても考えさせられた。
著者は、独裁政治というものは見聞きして知っていた。しかしそれはやはり知識だけであり、独裁政治というものを体感すると、アラブ諸国でのジャーナリズムの難しさがより一層理解することが出来た。

『特派員としてカイロに到着したとき、ジャーナリズムの実践とはひと揃いの道具のようなもので、世界中どこに行っても荷解きして使えると私は思っていた。しかし、独裁政治と民主主義は、型ちがいの二台の車、というわけにはいかなかった。』

独裁政治というのは、その中にいて経験しないと、どういう状況なのかまるで理解出来ない。例えば著者は、オランダから、ある急ぎのメールに返信がなかった、と言ってなじられたことがある。そこで著者は、「その時私がイラクにいたことは知ってましたよね?」という。しかし、これだけではやはり話は通じない。独裁政治下においては、他国にメールを送ることさえままならないのだ。
ジャーナリズムの現実を少しずつしった著者は、少しずつ自分の視点で自分が伝えたいと思う記事を書こうと思うようになる。しかし、それは不可能なのだ。ある国では、ジャーナリスト一人につき一人の秘密警察がつく。その秘密警察の監視下でなければ、取材どころか何かの行動ひとつ行えない。また、独裁政治下では、周囲に密告者がはびこっているので、市民は自分の思っていることを口に出すことは出来ない。何かの取材をしても、それが相手の本心である可能性は実に低いのである。

『昨日、警察に呼び止められてね、と言う実業家もいた。(中略)「Uターンしようとしているうちに」とその実業家は言った。「四歳の娘がもう警官に千リラ紙幣を差し出していたよ。何もかもが賄賂で動くことになれきってるんだね」』

『「アラブ人ならきっとこう言うでしょうね」イラクを出たところで、ヨルダン人の運転手が言った。「ハミハ・ハラミハ―あなたを守る者があなたから奪う」』

『後年、バグダット陥落後、あるイラク人女性がBBCに語ったところによれば、フセイン政権下での彼女の暮らしは「アタマの中に誰かがいて、何かを言おうとするたびに危険がないかどうかチェックしている感じ」だったそうだ。』

『おれはね、もし捕まった場合におれのかわりに刑務所に行ってくれる男も特別に雇ってるんだ。エジプトでも賄賂なしで運営してるなんていうヨーロッパの会社があったら、そいつらは嘘つきだね。賄賂を払わなければ、とっくの昔に破産しているよ』

『デモというのは自分が賛成する、あるいは反対するものについて表現するために市民が自由におこなうものと普通は思うだろう。しかし、独裁政権下ではこうした”怒りの爆発”は当局によって仕組まれている、もしくは少なくとも厳重に管理されていることが多い。デモ参加者の多くが秘密警察で働いているか、少なくとも密に監視されている。』

著者は、一般の人のイメージに合う記事ばかり書くことに疑問を持ち、もっと個人を、生活を伝えようという取材を精力的にしたから、こういう話はいくらもある。そういう中で著者は、やがてこういう事実に気づくことになる。アラブ諸国でジャーナリストとして取材を続ける以前には、いや取材を始めた当初もまったく理解していなかった事柄だ。

『今このカイロの会議場で、中東に関する最も重要な要素がニュースから抜け落ちていることに気づかされた。良質なジャーナリズムにとって独裁政治は、たとえば常日頃の旅行代理店の腹立たしい無能さなどと同じレベルの障害ではない。アラブ世界では、独裁政治それ自体が報道すべき最も重要な事柄なのだ。』

多くのメディアは、『独裁政治下で何が起きているのか』を報道する。しかしそれは、小さな檻に閉じ込められたホッキョクグマの生態を記録しているようなものだ。小さな檻に閉じ込められたホッキョクグマは、野生にいる時とはまるで違った生活をするだろう。ここで重要なのは、その小さな檻という環境がホッキョクグマにどういう影響を及ぼしているか、だ。つまり、独裁政治そのものがもっとも伝えられるべきことなのだ。
しかし、主流のメディアではそういう報道がなされない。その檻が映らないようにしてホッキョクグマの生態を描く。すると、ホッキョクグマというのはこんない凶暴で、始終イライラし、人間が近寄ると恐ろしいことになる、という部分だけが伝わる。しかしそれは、小さな檻に入っているからだ。その事実をすっぽりがすっぽりと抜け落ちたまま、ホッキョクグマの生態を伝えても、何も伝わったことにならない。著者はそのことに気づかされることになる。

『典型的な事例であるかどうかも、事実であるかどうかすらわからない個人的な印象や逸話で、ラジオのニュース番組や新聞紙面を埋めるわけにはいかない。だからこそ、私よりアラビア語が達者で経験もコネも豊富な同業者さえ、通信社から流れてくるニュースに固執するのである。だからこそ、最も容赦のない独裁者さえ通信社を国外追放することはしなかった。その必要がなかったからだ。通信社はすでに自分で自分にさるぐつわをかませていたのだから。』

『わたしはラジオで叫びたかった。新聞に大文字で書きたかった。「私にはわからない。質ことができないのだ。独裁政権下なのだから」と。』

『何を見せられて「いない」かは知りようがない。』

著者は、イスラエルとパレスチナの取材もする。そこで知った現実は、イスラエルの広報能力の高さと、パレスチナの広報能力の低さだった。

『メディア戦争はマーケティングだ。対象となるグループにどれだけ頻繁にメッセージを届けられるか。それがメッセージの内容そのものと同じくらい重要なのだ。』

イスラエルは、自らを弱者に仕立てあげるのがうまい。あらゆるカードを使い、あらゆる金を使い、欧米諸国に自国のイメージを伝えている。それが悪いことだ、と書いてあるわけではない。良い悪いを判断できる話ではないのだ。そうではなく、報道に接する際、イスラエル側の報道については、かなりイスラエル側の主張をそのまま報道せざるを得ない現実があるのだ、ということをきちんと知っておかなくてはいけない。

また著者は、イスラエルでの占領の現実を知る。なんと著者は、イスラエルに移住して、そこから取材活動をするのだ。そうした中で著者は、占領という事実がメディアに乗らない理由を知る。

『占領された国々では、アラブの独裁政権下にあるのと同じ力が作用していたからだ。ニュースにする価値のある進展がないのだ。つまり、占領下の日常については、特派員はせいぜい背景記事に書くしかない。ニュースの流れはつねに事件によって形づくられる。言い換えれば、占領自体はニュースにならないが、新しくなされた攻撃はそのつどニュースになる。』

『何か日常から逸れた出来事があり、検証可能な情報が手に入れば、それはニュースになる。しかし、ニュースでありつづけるためには問題に足がなければならない。問題そのものが動き続けていなければならない。』

というわけで、僕の方の事情で、ここまで(P210)までしか読めてないのに感想を書いた。あと残り70ページに何が書いてあるかは、まだ分からない。分からないけど、それまでの部分と同様、僕らの目を開いてくれるような事実が多く書かれていることだろう。
今回は、かなり引用を中心に感想をまとめた。その方がいい、と判断したのだ。この作品は、是非とも読んで欲しい。本書は確かに、アラブ諸国での取材の話だ。けれども、日本にいてテレビや新聞に接する際にも、本書で警告されているのと同じ事柄が当てはまるはずだ。報道というものがどんな病理を抱えているのか、ニュースとして伝えるということが一体どういうことなのか。そういうことをきちんと捉えた上で、様々な情報に接しなくてはいけないのではないか、と考えさせられました。素晴らしい作品だと思います。是非とも読んでみてください。


1月6日深夜追記
この感想を書いた時点では未読だった部分でよかった文章を引用します。

『第二次インティファーダの最初の三年で、イスラエルの暴力によって死亡したパレスチナの民間人の数は、その反対のケースの三倍にのぼった。それでも、話題になるのは”血なまぐさい攻撃”であって、”血なまぐさい占領”と言われることはほとんどなかった。パレスチナの攻撃によってイスラエル人の犠牲者が六人出れば、中東では”緊張が高まって”いることになった。一方、イスラエルの暴力によってパレスチナ人市民が十五人死亡した週は、”比較的平穏な時期”としてほとんど無視された。パレスチナ自治政府は頻繁に”テロが怒らないような対策を十分にしているかどうか”の説明を強いられたが、イスラエルの政治家たちが”占領をしなくてすむような対策を充分にしているかどうか”の説明を強いられたことなど一度もなかった。BBCのウェブサイトでは”いかにテロをやめさせるか”が議論された。しかし”いかに占領をやめさせるか”についてのフォーラムはなかった。』

『預言されたがゆえに恐怖が実現されてしまうことがある。が、希望や信頼も同じだ。ニュースが恐怖を煽る光景を流すのをやめ、希望や自身を鼓舞する物事を好意的に取り上げたら何が起こるだろう?』

『独裁政治も戦争なのだ、と私は言いたい。政権当局が自国民に対して仕掛ける戦争なのだ、と。』

『ちなみに<ソニー>はまだ戦闘が終わらないうちから「Shock and Awe(衝撃と畏怖)」を新しいゲームのための商標として登録した。』

『幼児が最初に発することばもパパやママではなく、”爆弾””殉教者””飛行機”になった。』

『戦争による損害に保険金は支払われない。(中略)だからもし階段から落ちたり、何かほかの自己にあったりしても、警戒解除の合図が出るまでは待たなければならない。』

『それがニュースにとってのもうひとつの本質的なフィルターだった―視聴者だ。』

『私がエジプトでアラビア語の勉強をしていた1996年には、インターネットも電子メールもなく、取り立てて言うほどの衛星放送もなく、携帯電話もなかったが、それがたった17年前のことだとは信じがたい思いがする。二度と戻れない別世界であり、子供たちの世代に説明するのは難しい。』

『カメラ付き携帯電話の出現は恒久的な変化を報道界にももたらすことになった。』

『イランのデモの報道からわかるのは、情報の供給が自由化されたからといって問題がすべて解決されるわけではないということだ。さらに理知的かつ多面的に情報を利用することが要求されるということだ。
これは誰がどう考えても西欧の特派員にとっては不可能である。西欧のメディアが支持する思想を全力で叩き潰そうとする政権について報道する際、いったいどうしたら中立を保てる?』

『すべてのメッセージはメディアによって報道された瞬間に歪められる、というメッセージを込めて本を書いたら何が起こったか?そのメッセージもまた歪められてしまったのである。』

『同業者たちとも面白いやりとりや対決があった。同業者はたいていこう言う。オーケー、きみの本の内容を一分で説明してくれ。私はこう答える。あるひとつの状況を一文で説明するのは不可能である、ということを書いた本だよ。』

『本書は、個々のジャーナリストがコントロールできる範囲を超えたところにある要因―それでいて報道の内容や方法に影響を与える要因―について書いたものである。』

『ニュースを報道するメディアには視聴者に対し、自分たちが追っているのはあくまで”ニュース”であるという注意を促す必要がある。(中略)それでも、ジャーナリストには、あなたが眼にしているものは”例外”であって”通常のこと”ではありませんよと確実に視聴者に知らせる責任がある。』

『私たちの知っている形でジャーナリズムが存在しうる独裁国家は、もはや独裁国家ではないのである。』

『印刷に値するものを記事にするという従来のジャーナリズムの手法は、それが培われてきた政治システム―つまり、民主主義―にしか適さないという事実をひとたび受け入れることができれば、従来にない報道の余地が生まれるはずだ。』

『ジャーナリストは記事を書く際、ニュースとは世界を描写するものであると同時に世界に影響を与えるものであるという事実を織り込んだほうがいい。とりわけPR会社や省庁の通信部などがなんの縛りもなく活動している現状にはなんとか手を打たなければならない。彼らがそうやって活動をしていられるのは、主要メディアが彼らの存在に気づかないふりをしつづけているからだ。』

『ニュース・メディアは、問題ひとつに対し多数の見解があることを受け手に率直に打ち明けたほうがいい。コンセンサスなど存在しないということが唯一のコンセンサスであると、読者や視聴者にしっかり認識してもらう必要がある。』

『情報の選択について市民が投票にも似た決定を下す際に、”何を聞く必要があるか”ではなく”何を聞きたいか”を基準にするなら、民主主義はどうやったら生き延びられる?非常に難しい問題である。ほしいと思う食べ物だけを与えられれば、人は肥満する。聞きたいと思うニュースだけを与えられれば、人は無知に、そして独善的になる。』

『だから、私もまた読者を操作しているのだということを、どうか心に留めておいていただきたい。避けられないことではあるのだが、私としては正直に言っておく必要があるだろう。』

『』

ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する ジャーナリズムの現場で私が考えたこと」



ほんものの魔法使(ポール・ギャリコ)

内容に入ろうと思います。
世界中のトップクラスの魔術師(しかし実態は手品師)が集まる町・マジェイア。そこは、周囲を高い壁で覆われ、魔術師以外の人間は入ることが出来ない町だった。魔術師にとって、自分たちの奇術や舞台のネタやトリックがさらけ出されてしまっては困ってしまうので、そういう風に町全体を閉ざしているのだ。
翌日に、魔術師名匠組合加入のための選考会を控えたある日、マジェイアの一人の旅人がやってくる。アダムと名乗ったその旅人は、世界トップクラスの魔術師が集まるマジェイアの噂を耳にし、自分の魔術師としての力を試してみたいと、遠くからやってきたのだった。モプシーという名の毛むくじゃらの犬を連れたアダムは、門番とあれこれのやり取りがあったものの、どうにかマジェイアの町へと入ることが出来た。
そこで開かれた、魔術師名匠組合加入のための選考会の予選で、アダムは審査員他その場にいた魔術師全員の度肝を抜き舞台を披露した。町一番の魔術師で、市長でもあるロベールは、アダムの舞台を絶賛し、そのトリックを教えてもらおうとアダムを自宅へと招待する。実はアダムは、マジェイアの町に入ってから偶然出会った女の子をアシスタントに採用していたのだけど、ジェインという名の女の子が実はロベールの娘だったのだ。ジェインにしてもロベールにしても、アダムが起こした奇術のトリックがどうしても分からず、悶々とすることになる。
一方で、同じく審査員だった魔術師で、ロベールに代わりマジェイアの覇権を握らんとする全能マルヴォリオは、アダムが『ほんものの魔法使』なのではないか、と疑う。アダムがやっているのは、トリックのある奇術なのではなくて、本当に魔法なのではないか。
そうなれば大変だ。そんなとんでもない魔術が存在するとしたら、マジェイアの魔術師は全員職を失ってしまう。どうにかしなくてはいけない。しかも、アダムを擁護しているロベールも、この機会に追い落とすことが出来るかもしれない。
そんな周囲の思惑とは無関係に、純真で穏やかなアダムは、親切心から他の魔術師の舞台を手助けし、ロベールやジェインがトリックを教えてくれと聞いてきても、素直に、これはほんものの魔法なんだ、と明かしてしまう…。
というような話です。
これはなかなか面白い作品でした。
本書で描かれているものをどう受け取るかというのは、結構人それぞれだろうという気がしました。童話というのとは違うでしょうけど、どちらかと言えば児童文学的なものに近い作品で、受け取り方は様々に出来るだろうと思いました。
僕が本書から受け取ったのは、『価値観の対立』と『視点の切り替え』の二つです。
まず『価値観の対立』の方から。
本書では、魔術師と呼称しつつ、実際はトリックのある奇術をすることで生計を立てている魔術師たちと、その中に一人飛び込んだほんものの魔法を使う魔術師の間の、価値観の闘いが描かれます。
僕が真っ先に思い浮かべたのが、天動説と地動説の話です。かつて人々は、すべての天体が地球の周りを回っているという天動説を受け入れていました。宗教的に、神は完全な世界を作ったはずだから、地球はすべての中心にあるはずだ、というところから天動説が生まれたわけです。しかし次第に観察とのズレが見出されるようになり、やがて、地球は太陽の周りを回っているのだ、という地動説という考え方が提示されました。
現代に生きる僕たちからすれば、地動説が正しいことは明確に知っています。地球は太陽の周りを回っているし、宇宙の中心は地球ではない。
しかし、天動説の考え方を受け入れ、信じるというよりはそれを無意識の内に受け入れていた人々にとって、地動説という考え方はそう易々と受け入れられるものではなかったでしょう。実際に正しいことが、その時代その社会の中で受け入れられるわけではないのです。
こういうことは、僕らが生きる生活の中でも頻繁に起こりえます。天動説・地動説ほど大きな話ではないにしても、たとえば会社の中で会議は必要だと思っている人と会議は無駄だと思っている人の価値観の相違、結婚しなくては人生負けだと思っている人と結婚しない生き方でも十分満足できる人の価値観の相違など、僕らが生きている世界にも常にこういう価値観の相違がある。
僕らが生きている世界では既に、ある情報はほとんど一瞬の内に拡散し、僕たちは、自分が望めば、あらゆる情報を手に入れそれを比較し検討することが出来る。しかし、人々が常にそういう環境の中で生きられたわけではない。
本書の舞台となるマジェイアも、情報というものが人々に開かれているわけではない。マジェイアという町は、魔術師(実際は奇術師)たちの既得権益を守るために、町を城壁で閉ざし、魔術師以外の人間の侵入を防いできた。不可思議な現象にはすべてトリックやネタが存在するはずだ、というのが彼らの根本的な前提となる、彼らが生きる上で揺るがせには出来ない重大な価値観であって、アダムという旅人はたった一人でその価値観を揺さぶってしまった。だからこそ、マジェイアの町では諍いがトラブルが議論が起き、結果的にアダムやモプシーは危うい状況に立たされてしまう。
そういう、『価値観の対立』が非常にコミカルに描かれていて面白いんです。マジェイアの町に、ロベールと全能マルヴォリオという二人の魔術師が対立しているという設定も非常に巧く生きていると思いました。二人の魔術師にとって、アダムというほんものの魔法使の登場は、お互いに別々の意味を持っていた。ロベールにとっては、自分がそのトリックを独占しさらなる繁栄に使おうという野心が、全能マルヴォリオにとっては、アダムという旅人が、マジェイアの町では死刑に値するほんものの魔術の遣い手なのではないかという疑念を、自らの覇権争いに利用しようと企んでいる。この構図が、アダムという魔術師の存在をより不可思議な立ち位置に落としこむわけで、しかもアダム自身はそれに無神経ときている。奇術と魔術という二つの価値観の対立を、作品全体の設定が巧く活かしているなと感じました。
もう一つは『視点の切り替え』。児童文学として読んだ場合、こちらの方が子供にとっては非常に新鮮に映るんだろうなぁ、と感じました。
アダムは、アダムの魔術を奇術(トリックのあるもの)だと信じている人々から、そのトリックを教えて欲しいと散々問いかけられる。しかしアダムには、それには答えようがない。いや、きちんと正直に答えているのだ。「ほんものの魔法だ」と。
しかし周りの人間はそれを信じない。彼らマジェイアの魔術師にとって、どんな不可思議な現象に対してもトリックが存在する、ということが、彼らにとっての重大なる大前提なのだ。だからアダムの「ほんものの魔法だ」という言葉を、「君たちにはトリックは教えてあげないよ」という意味にしか取ることが出来ない。
そういう状況の中で、アダムのアシスタントを務めるジェインがしびれを切らし、どうして私にもトリックを教えてくれないの、とアダムに詰め寄るシーンがある。
そこでアダムがジェインに対して語って聞かせることが素晴らしい。
具体的にはここには書かないことにするのだけど、アダムがジェインに向かって言う、『それがそんなに特別なことなのかい?』という言葉が凄く納得できるくらい、アダムの言葉を聞くと視点ががらりと切り替わる。
それはまさに、天動説を信じていた人が、あることをきっかけに瞬時に地動説を信じてしまうような、そういう大胆な視点の切り替えだ。しかし、アダムの言っていることは、何も特別なことではない。アダムは、ごくごく当たり前のことしか言っていない。だからこそ『視点の切り替え』なわけだけど、マジェイアの魔術師たちが元々知っていたにも関わらず、そういう視点では見ていなかったあらゆる事柄を、アダムは魔術であると捉えているのだ。
ここに、アダムの価値観が集約されている。作中では、マジェイアの魔術師たちの価値観はふんだんに描かれるが、アダムの自身の魔術に対する価値観というのはあまり現れてこない。「ほんものの魔法」とか「当たり前のことをしているだけだ」というような表現が時折出てくるだけだ。
彼が自分の魔術をどう当たり前だと感じているのか、そしてマジェイアにどういう思いを抱いてやってきたのか、ということが現れ出るこのシーンは凄くいい。何よりもいいのが、『きみの魔法』という視点だ。

『この中には、まさにそういうときに役立つ、「できる」って仕切りと「やってみせる」って仕切りとがあるんだ。その鍵をあけることさえ学べば、強力な魔法がきみを助けてくれて、山をも動かすにいたるだろう』

人と関わっていると、なるほどそんな風に物事を見るのか!と視点が切り替わる思いをする場面というのがあるのだけど、本書もまさにそうで、魔術と奇術というものを、どちらが上でどちらが下というのではない、もっと違った形で捉えることが出来るようになった気がしました。
ファンタジーとか児童文学とか、そういう括りの作品でしょうけど、基本的にファンタジーも児童文学もそこまで得意ではない僕でも凄く楽しめる作品でした。大人になると、世の中には様々な価値観が存在すること、そして見る視点を変えれば物事はいろいろな風に見える、ということは自然とわかってくるものだけど、まだそういうことがきちんと把握できていない子供なんかに読ませてみても面白いかもしれません。是非読んでみてください。

ポール・ギャリコ「ほんものの魔法使」



私の個人主義(夏目漱石)

内容に入ろうと思います。
本書は、夏目漱石が明治44年に(1つだけ大正3年だけど)日本の各地で講演をしたものから五つを選んで収録した講演集です。
一応自分に分かる範囲でそれぞれの章の内容を書いてみたいところですが、基本的に良さげな文章を抜き出すことで内容紹介に代えようと思っています。
先にざっくり、何故この本を読んだのかという理由を書きます。
2012年の僕の目標の一つが、どうにかして古典を読む、というものです。そこで、なんとなく12作古典を選び、一ヶ月一冊を課題図書に設定して、通常の読書に加えて、その課題図書をひと月の間に可能な限り読み返す、というようなことをやってみようと計画しています。
で、1月の課題図書に設定したのがこの、夏目漱石「私の個人主義」なわけです。

「道楽と職業」
この話は、現代でも非常に示唆に富む、本書の中で一番好きな話だった。僕が長いこと仕事に対して抱えているとあるモヤモヤの答えが、この話の中に見つけられそうな気がするのだ。
漱石は、昔と比べて、現代の仕事は細分化されている、という。ではそれを、逆方向に過去にさかのぼってみる形で論理を展開していくとどうなるか。そうすると、自分の生活の一切を誰にも頼ることなく、すべて自分一人でやってしまう存在、というものを仮定することが出来る。
さてそうなると、仕事というものはこういうものだと考えられる。自分は、着物を縫ったこともなければ米も搗いたことがない。しかし、文章を書いたりというようなことは出来る。つまり仕事が専門分野に別れるということは、自分に出来ることを誰か他人のためにやることで、自分に不足しているものを報酬として手に入れる、ということだ。つまり、自分が誰かのためにやった仕事の分だけ、自分の元に同じだけのものが返ってくる。
そういうところから論理をスタートさせ、仕事と道楽の違いについて言及する。

『するとこの一歩専門的になるというのは外の意味でも何でもない、すなわち自分の力に余りのある所、すなわり人よりも自分が一段と抽んでている点に向って人よりも仕事を一倍して、その一倍の報酬に自分の不足した所を人から自分に仕向けて貰って相互の平均を保ちつつ生活を持続するという事に帰着するわけであります。それをごくむずかしい形式に現わすというと、自分のためにする事はすなわち人のためにすることだという哲理をほのめかしたような文句になる』

『また職業の性質が分かれば分かるほど、我々は片輪な人間になってしまうという妙な現象が起るのであります。言い換えると自分の商売が次第に専門的に傾いてくる上に、生存競争のために、人一倍の仕事で済んだものが二倍三倍ないし四倍とだんだん速力を早めて逐付かなければならないから、その方だけに時間と根気を費やしがちであると同時に、お隣の事や一軒おいたお隣の事が皆目分からなくなってしまうのであります。』

『吾人は開化の潮流に押し流されて日に日に不具になりつつあるということだけは確かでしょう。それを外の言葉でいうと自分一人では生きていられない人間になりつつあるのである。自分の専門にしていることに掛けては、不具的に非常に深いかも知れぬが、その代り一般的の事物については、大変に知識が欠乏した妙な変人ばかりが出来つつあるという意味です。』

『従って自分が最上と思う製作を世間に勧めて世間は一向顧みなかったり自分は心持が好くないので休みたくても世間は平日のごとく要求を恣にしたりすべて己を曲げて人に従わなくては商売にはならない。この自己を曲げるという事は成功には大切であるが心理的にははなはだ厭なものである。』

『よく人が商売になると何でも厭になるものだといいますがその厭になる理由は全くこれがためなのです。いやしくも道楽である間は自分に勝手な仕事を自分の適宜な分量でやるのだから面白いに違ないが、その道楽が職業と変化する刹那に今まで自己にあった権威が突如他人の手に移るから快楽がたちまち苦痛になるのは已むを得ない。』

『要するに職業と名のつく以上は趣味でも徳義でも知識でもすべて一般社会が本尊になって自分はこの本尊の鼻息を伺って生活するが自然の理である。』

『要するに原理は簡単で、物質的に人のためにする分量が多ければ多いほど物質的に己のためになり、精神的に己のためにすればするほど物質的には己の不ためになるのであります。』

「現代日本の開化」
この章も非常に面白かった。まずここでは、物事を定義すること、についての話から始まる。これがまずなかなか面白い。動かず固定されている概念であればかっちりとした定義でもいいが、物事は大抵変化し動くものだから、その変化を前提に定義を考えなくてはいけない、と説く。
その後、活力節約の行動(=義務)と活力消耗の趣向(=道楽)という二つの用語を定義し、そこから『開化』というものを定義する。
そしてその後、明治維新の話になる。基本的に開化は内発的であるのだけど、明治維新は外発的な開化であった。それが近代の日本にどう影響を及ぼしているのか、を説く。

『もし一言にしてこの問題を決しようとするならば私はこう断じたい、西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。』

「中身と形式」
この話もなかなか面白い。ここでは、ちょっと抽象的な話で、専門家と素人が物事をどう捉えるか、という話から、物事の中身と形式の話になる。専門家は中身を見、素人は形式を見る、という話。

『物の内容を知り尽くした人間、中身の内に生息している人間はそれほど形式に拘泥しないし、また無理な形式を喜ばない傾きがあるが、門外漢になると中身が分からなくってもとにかく形式だけは知りたがる、そうしてその形式がいかにその物を現すに不適当であっても何でも構わずに一種の智識として尊重するという事になるのであります。』

『要するに形式は内容のための形式であって、形式のために内容が出来るのではないというわけになる。もう一歩勧めていいますと、内容が変われば外形というものは自然の勢いで変って来なければならぬという理屈にもなる。』

「文芸と道徳」
この章の話は難しすぎてほとんど理解できなかった。引用もなし。

「私の個人主義」
この章は一番読みやすかったような気がする。漱石がこれまでどんな風に生きてきたのかという個人的な体験から、自身がどのように『個人主義』という考え方に至ったのか、という話。

『私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞと気概が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図してくれたものは実にこの自己本位の四字なのであります。』

『私のような詰まらないものでも、自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があれば、あたな方から見てその道がいかに下らないにせよ、それは貴方がたの批評と観察で、私には寸毫の損害がないのです。』

『それで私は金力には必ず責任が付いて廻らなければならないといいたくなります。自分は今これだけの富の所有者であるが、それをこういう方面にこう使えば、こういう結果になるし、ああいう社会にああ用いれば、ああいう影響があると呑み込むだけの見識を養成するばかりでなく、その見識に応じて、責任を以ってわが富を所置しなければ、世の中に済まないというのです。いな自分自身にも済むまいというのです。』

『今までの論旨をかい摘んで見ると、第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重じなければならないという事。つまりこの三ヶ条に帰着するのであります。』

『要するに義務感を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます。というものは、そうした我儘な自由は決して社会に存在し得ないからであります。よし存在してもすぐ他から排斥され踏み潰されるに極っているからです。私は貴方がたが自由にあらん事を切望するものであります。同時に貴方がたが義務というものを納得せられん事を願って已まないのであります。こういう意味において、私は個人主義だと公言して憚らない積です。』

さてどうでしょうか。なかなか含蓄に富む文章が多いなぁと僕は感じました。特に「道楽と職業」はやっぱり素晴らしかったと思う。これは、あらゆる社会人やこれから社会人になろうという人は読むべきではないかなぁ、という感じがしました。
さて、内容については、まだ初読なので(あと最低でも二回は読みたいと思ってるんだけど、出来るかなぁ)深いところまでは突っ込めませんが、直接内容とは関係のないところで二点面白かった点を挙げようと思います。
まず一点目は、講演の本題に入る前の夏目漱石の謙遜です。毎回夏目漱石は、自分なんかをこんなところに呼んでもらって、で何か喋らなきゃいかんのだけど、前の人の話も良かったし、きっと後で話す人もいいだろうから、自分はさらっと短くまとめて去ろうと思います、みたいな感じのことを言うんですね。まあ謙遜なんでしょうけど、毎回同じような口上というのが面白いなと感じました。
さてもう一点は、本書で描かれる明治時代の描写が、現代の日本と近いなぁ、と感じたことです。特に、若者というのはいつの時代も同じような存在なのだなぁ、と思った文章をいくつか抜き出してみました。

『豈計らんや既に一年も二年もボンヤリして下宿に入ってなすこともなく暮らしているものがある。現に私の知っている者のうちで、一年以上も下宿に立て篭って、未だに下宿料を一文も払わないで呆然としている男がある。』

『門外漢というものはこの無理に気が付かない、また気が付いても構わない。どんな無理な判断でも与えてくれさえすれば安心する。』

『私はこの夜に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当が付かない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ちすくんでしまったのです。そうしてどこからか一筋の日光が射して来ないか知らんという希望よりも、此方から探照燈を用いてたった一筋で好いから先まで明らかに見たいという気がしました。ところが不幸にして何方の方角を眺めてもぼんやりしているのです。ぼうっとしているのです。あたかも嚢の中に詰められて出る事の出来ない人のような気持がするのです。私は私の手にただ一本の錐さえあればどこか一ヶ所突き破って見せるのだがと、焦燥り抜いたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見するわけにも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるのだろうと思って、人知れず陰鬱な日を送ったのであります。』

一番上は、今のニートとか引きこもりみたいな感じを彷彿とさせますよね。当時、優秀な大学を卒業したのに仕事が何故か見つからない、という環境だったそうです。
二番目は、若者に限りませんけど、今の日本人がまさにこうだな、という感じがします。『売れてる!』『芸能人の◯◯がオススメ!』という形式ばかりに目が行って中身を見ないですからね。
最後は、夏目漱石が学生時代に抱えていた葛藤です。夏目漱石ほどの人物でも、学生時代、そしてイギリス留学時代は、こういう感じで悩み苦しんでいたんだなぁ、となんとなく親近感が湧きました。
文庫本で160ページほどの作品なのに、読むのに6時間以上掛かるという、相変わらずの古典読めない男ですが、それをどうにか克服しようという今年の目標の第一弾でした。思った以上に面白い作品で、びっくりしました。やっぱりスイスイと読める作品ではないのですけど、非常に含蓄に富んだ文章は、現代でも普通に通用するだけの力を持っていると感じました。二度三度と読むことで、もう少しこの作品の中身を理解できるようになればいいな、と思っています。僕は、夏目漱石の「こころ」を読んで何が面白いのかさっぱり分からないとか言う人間ですが、本書は非常に面白かったです。まあ、難しくなかった、とは言いませんが、是非読んでみてください。

夏目漱石「私の個人主義」



私のいない高校(青木淳悟)

内容に入ろうと思います。
が、本書はホント、どう説明したらいいかなぁ。
時は1999年、舞台は「学校法人 国際ローゼン学園」という女子高。そこに、ナタリー・サンバートンというカナダからの留学生がやってきた春、というのが物語のスタートだ。
ナタリーを受け入れたローゼン学園の日々を、まるで日誌で報告でもするかのように、あるいは記録映画でも撮影しているかのように、実に細かなところまで詳細に綴った作品。
としか内容紹介のしようがないんだよなぁ。
ホントに、報告書みたいな作品でした。これは、暗に『つまらなかった』と表現しているとかそういうことではなくて、本当に形態が報告書みたいでした。ナタリーの受け入れのために学校側が、特に受け入れクラスの担任の教師がどんな準備をしたのか、高校でのナタリーの様子や変化はどうか、そういうナタリーについての描写が多くなるのだけど、決してそれだけではなく、本当にただの高校の日常が事細かに描かれているんです。クラスでの席替えの際どういう手順でやったか、◯曜日の時間割はこうだけど、いろいろな事情があってこの日はこうなって、さらにナタリーだけは別でこういう時間割になるとか、担任の教師が母親を旅行に連れて行く話だとか、体育の時間で練習が行われていたダンスの発表があるだとか、そういう日々の細かな話を、実に細かなところまで拾いながら描写していく。ただそれだけの話なんですね。
というわけで、どう評価したらいいか難しい話だったなぁ。
決してつまらなくはないんです。というか面白いといえば面白い。
僕にも高校時代ってものがあったわけで、その時のことがなんとなく思い出されるんですね。本書では、高校を舞台にしたごく一般的な小説ではまず描写されないようなちまちました話、重箱の隅をつつくような話、つまり小説の中に取り込むにはちょっと小さすぎる話こそが集積しているような作品で、これまで読んだどんな学園小説よりも、自分の高校時代のことを思い返した気がします。そういう意味では楽しい。そうだったなぁ、こんなことあったなぁと、別に女子高にいたわけでもない僕にもなんか懐かしく思えるほど、凄く細かな描写がなされます。
しかし一方で、小説として面白かったかと聞かれると、凄く困るんですね。本書を『小説』と受け取るのはなかなかに難しい。正直、ストーリーらしいストーリーはなく、別にそういう形で小説として成り立っている作品もたくさんあるのだけど、本書はそういうタイプの作品とはどうも違っていて、やっぱり報告書に近い。自力ではもう見ることも体感することの出来ない世界をリアルにのぞき見しているような感覚が面白いのであって、小説というものに対する面白みを感じているわけではないのだろうなぁ、という気がしました。
ちょっと僕には、本書を『小説』としてどんな風に捉えたらいいのかわからないような感じがしました。本書を小説だとするならば、非常に奇妙な小説です。なんとも言えない気持ちになります。面白くなかったわけではないけど、やっぱりそれは小説として捉えての話ではないから、感想もなかなか長く書くのが難しいですなぁ。どう人に薦めたらいいのか悩む作品ですが、興味がある方は読んでみてください。読み始めの感じのまま最後まで続いて終わります。

青木淳悟「私のいない高校」



ニキの屈辱(山崎ナオコーラ)

内容に入ろうと思います。
加賀美は、18歳でデビューし今や人気女流写真家になった村岡ニキのアシスタントになった。
ニキのデビュー写真集を目にしてからずっとニキのファンだった加賀美。学校で写真を学び、周りが写真で生活していくことを諦めるなか、卒業してからフリーターになり写真家への道を目指すつもりでいた加賀美は、しかし何者にもなれないまま、身のある行動を取ることが出来ないまま、無為に時間が過ぎていった。このままではいけない、と思っている頃、ニキがアシスタントを募集していることを知り、どこが気に入られたのか、採用されたのだ。
ニキは小柄で、かしこまったパーティの場でもTシャツにブルージーンズにズタ袋を背負うという格好だ。もちろん化粧なんかしないし、長い黒髪は輪ゴムで留めている。それでもニキは人目を引くような容姿をしているし、加賀美もアシスタントとして働き出した当初は、恋愛的なことを考えもした。
ニキは、自分が女だと見られることに、異常に拒絶反応を示した。
雑誌のインタビューなんかで、自分が「女の子」と書かれることを拒否するし、「女性写真家」でもダメなようだ。「あんな写真を、こんな女性が撮っていたんですね」と言われて吐いたこともある。写真にしか興味がなさそうな感じで、なんというかつけいる隙がない感じだった。加賀美は、初めは機材を持たせてもらえなかったのに徐々に信頼を勝ち取り、やがてフィルム交換までさせてもらえるようになった加賀美は、仕事の時は周囲の人に凄く低姿勢なニキが加賀美だけには暴言を吐くような環境にも耐えられた。
自分はニキにとって、どんな風な存在だと思われてるんだろう。
というような話です。
かなり分量的には短い話なんですけど、これはなかなか良い話だったなと思います。
ニキの造形がとにかくいい。僕はどうしても、こういう造形の女性って凄く惹かれちゃうんですね。
自分が女性だと思われること自体に拒絶反応がある、っていう部分はちょっと針が振り切れてるなぁ、って気もするけど、そういう、自分が女性であるということに無頓着でいられる女性っていうのは、僕は凄く気になってしまいます。無頓着、って表現すると、女性だと思われることに拒絶反応のあるニキには当てはまらないかもだけど、要するに、女性であるということを武器にしたりアイデンティティにしたりすることなくいられる、というぐらいの意味です。
ちょうど昨日、金原ひとみの「マザーズ」を読み終えたばかりなので、余計にそう思うのかもしれません。「マザーズ」は、子育てという現実と悪夢のように闘う三人の母親の物語なのだけど、女性にとって子供を育てることに関するあれこれは、女性としてどう生きるかという大きな命題を突きつけるわけで、否が応でも女性としての生き方というものが抉られていく。確かにそういう現実はその通りなのだろうけど、そういう世の中にあって、自分が女性であるということに、少なくとも表面上だけでも無頓着でいられる、というのは、僕は凄いことだと思うし、そういう女性に惹かれてしまうことが多いんですね。
凄く好きなやり取りがあります。加賀美がニキに、髪の毛を輪ゴムで留めるとキューティクルが傷つくから止めたほうがいい、というのだけど、ニキは、キューティクルって何?と、キューティクルの存在を知らないらしい。そこで加賀美が、髪を艶やかに見せるものですよ、というと、ニキはこう言い返してくる。

『そうやって、実在しないものを、雰囲気で語ってると、ろくな写真が撮れないんだ』

このやり取りだけでもキュンとしますね僕は、マジ惚れます。
帯に「恋愛小説」って書いてあるからまあいいかと思って書くけど、本書で加賀美とニキは付き合うことになります。
ニキが凄く可愛いんだなぁ。
ニキはある場面で、こんなことを言う。

『だけど、私は加賀美くんと会えてよかった。自分の人生に、こういう類の幸せがこっそり用意されていたなんて、予想だにしなかったから』

こんな感じで、ニキは付き合っている間、凄く可愛い。仕事の時は加賀美に辛い感じで当たるんだけど、プライベートでは恥ずかしがりながらもべったりする。
ニキには恋愛について、というかニキの生き方に関して、ニキなりの考え方がある。その、ニキの独特の考え方を、時折加賀美は理解出来ないし、不満を抱くこともある。でも、ニキのその考え方も凄くわかる。自分がこれまでそうやって生きてきた、ということは、すんなり崩せるものではないし、自分の中で大切なものの順番がぐちゃぐちゃになっていってしまうことへの恐怖みたいなものは凄く感じられた。
ニキは、自分の人生に恋愛なんてものが飛び込んでくるなんて想定していなかった。だから、そのための場所を用意していない。そのための言葉や態度や感情も、全然準備できていなかった。だから、ニキにとって加賀美と付き合っている時間というのは、物凄く幸せな時間であったと共に、もの凄く不安な時間でもあっただろう。ニキは写真家だ。写真家として、色んな準備をし、構想を練り、機材を揃え、そうやって現場できっちりと仕事をする。そういうことをずっとやってきたニキにとって、加賀美を受け入れる場所も、加賀美にかける言葉も、自分の感情の表し方も、そういったものすべてがまるで準備されないまま現場に飛び込んでしまった加賀美との恋愛というのは、ある種の格闘に近かったのかもしれない、という風に思いました。
最後、加賀美とニキが話す場面が凄く好きだ。特に、加賀美がニキに自分が撮った写真を見せた時のニキの反応には、ちょっと泣きそうになる。ニキの抱えている、捻れて捻れて今にも切れそうな感情が、パチンと音を立てて切れてしまったみたいで、凄く痛々しいのだけど、でもなんか暖かくもある。恋愛には、こういう場面は出てくるものなのだろう。誰だって初めて恋愛する時というものはあるのだし、どれだけ恋愛をしたところで恋愛に慣れられない人もいるだろう。自分を素直に受け入れられないとか、誰かの好意をまっすぐに受け取れないとか、そういうものの積み重ねは、恋愛に限らずどんな関係性の中にだってありえるわけで、その微妙なすれ違いみたいなものが凄くうまく描かれていて素敵だなと思いました。
僕は恋愛小説ってあんまり得意ではないんだけど、本書のような、ちょっと現実の世界で探しだすのは難しそうな突飛な女の子の話とかは好きだなぁ。恋愛小説って、リアルに描こうとすればするほど僕はなんか冷めちゃう感じがあって、本書は、ニキという女の子の造形が、ありえないとは言わないまでもなかなか現実の世界ではお目にかかれないタイプの存在だと思うから、そういう意味で面白く読めたのかもしれないなぁ、という感じもします。
本書は、確かに恋愛小説です。でもその前に、一人の人間の弱さや不安なんかを丁寧にすくいあげている作品だと思います。ニキという、自分が恋愛をすることなんてこれまで想像だにしていなかった、しかしその一方で写真家としては若くして評価されている女の子の初めての恋愛という、なかなか複雑に屈折した感じが凄く素敵です。是非読んでみてください。

山崎ナオコーラ「ニキの屈辱」



マザーズ(金原ひとみ)

内容に入ろうと思います。
本書は、三人の母親が、それぞれの人生の中で、子育てというとてつもないものと向き合い戦う物語です。
小説家であるユカは、高校時代からずっと自堕落な生活を送っていた。クラブに顔を出し、クスリをやり、男を漁る日々。ギリギリ10代で結婚し、作家になったユカは、何故か家を出ていった夫と、週末婚という形で結婚生活を維持している。
娘の輪は、そんな母親の元で、きちんと育っている。ユカも、子どもが生まれた当初は相当に苦労した。今では、それなりに適当でいいこと、家事の手伝いやシッターさんを雇っていることなどで、輪の子育てに以前ほどは強いストレスを感じないでいられている。
とはいえ、まだクスリとは縁を切れていないし、旦那と週末婚という歪な状況であることには変わりない。
涼子は、ごく普通の専業主婦だ。母親がちょっと面倒だったり、旦那が子育てに協力的ではないなど、それは色んなことはあるが、涼子を取り巻く状況は極々一般的だろう。
涼子は、子育てに追い詰められている。
子育てを取り巻く環境が、これほどまでに厳しいとは、予想もしていなかった。まともな睡眠は取れないし、抱っこのしすぎで腕が腱鞘炎になるほど。一弥は言うことを聞かないし、まだ喋れる年齢でもないから、意思の疎通もまるで出来ない。旦那は、自分では子育てに協力的だと思っているが、実際は口を出すだけで何もしてくれない。私がこれほど大変な目にあっているという現実をまるで知らないで、ただ聞こえのいいことばかり言って私のことを責めるばかり。
このままでは体力・気力的にもしんどく、自分の時間もまるでないと感じた涼子は、保育園に預けることを決めるが、自分に話をしないで勝手に決められたことに憤慨する旦那から、保育園なんかに預ける必要はない、などと言われてしまう。あなたには、私がどれだけ大変な目にあってるかわからないのよ。
五月は、一流シェフと結婚し、子どもが生まれてからもモデルの仕事を続けている。表向き、ママモデルとして幸せな感じを演出しているが、実際は夫と家庭内別居に近い状況になっている。五月には、夫のことがまるで理解出来ない。子育てに関する考え方の違いから、それ以上言うと離婚するぞと夫に言われ、それ以来夫とはほとんど会話もない。一人娘の弥生は、両親の不仲を察知して、自分が明るく振る舞うことで場を和ませようとしてしまうところがあって、五月には何故だかそういうところが癪に障ることがある。とはいえ五月は弥生のことを愛しているし、あまり手が掛からなくなってからは負担も減った。
五月は、高校時代の友人である待澤と浮気をしている。
夫はもう自分に関心がないものだと判断した五月は、いけないと思いつつ、心の安定や平穏のために待澤を必要とした。待澤といる時は、弥生や夫のことを考えないで済む。
そんな三人は、ユカと涼子が高校時代からの知り合い、ユカと五月がとあるパーティで顔見知りとなり、また三人全員が同じ保育園を使っているということから、次第に互いにやり取りが生まれることになる。それぞれまるで環境の違う三人は、それでも子育てという難事業を共通項として、お互いと深く関わっていくことになる…。
というような話です。
この作品は、評価に困るなぁ。
とにかく、凄い作品でした。子育てという現実を、こんな形でくっきりと描き出した小説というのは、なかなかないのではないかと思います。
子育てというのは、ただ子育ての苦労、というものだけではない難しさがある。それは、女性としての生き方の話とは切っても切れない話で、本書では、子育てというモチーフを徹底的に深く抉ることで、女性として生きるという現実を切り取っていく。
その部分は本当に凄いと感じた。詳しいことは後でまた書くけど、とにかく凄い小説であることは間違いない。
しかしその一方で、この作品はどうしても僕には遠い。それは、僕が男である、という事実とはまた別の理由がある。
結局のところ、今の僕にとって子育てというのは、ブラジルで行われているサッカーの試合ぐらい遠い存在なのだ。
本書は、『子育てをした経験がある人』『子育てをしている人が周りにいる人』『子育てというものについて、自分の問題であるという意識で真剣に想像をしたことがある人』にとっては、物凄く抉られ、物凄く響く作品なのだと思う。とにかく、『子育てという現実や想像と、真剣に向き合ったことがある人』には本当に読んで欲しいし、そういう人にこそこの物語は届くだろうと思う。
でも、僕はそういう人間ではない。子育てをしたこともないし、子育てをしている人が周りにいるわけでもないし(ただ、これは少しずつ増えてくるだろうけど)、子育てというものについて想像してみたこともない。それは、少なくとも今の僕にとって、エスキモーの日常とか、深海に住む生物みたいに、あまりにも遠い対象でしかない。
だからこそ、僕は本書の凄さを体感することは出来るのだけど、この作品を理解できるとか僕の心の奥底に届いた、という風なことは言えない。この作品は本当に、どういう立場から読むかによって感じ方がまるで変わる作品だろうと思う。
『子育てという現実や想像と、真剣に向き合ったことがある人』であれば、男女ともこの作品に打ちのめされるだろう。とはいえやはり本書は、圧倒的に女性にとって強いインパクトを与える作品だろうと思う。
以前僕は知り合いの女性二人と、今の日本で子どもを産んで育てることについて、という話をしたことがある。その時のことを思い返すと、やはり女性二人と僕の間の温度差は相当なものだったと思う。女性にとって、子どもを産み育てる、ということは、『子育て』という単語で簡単に括られるような対象ではない。それは、女性としてどう生きるかという大きな命題であって、それは子供を生むことに興味があるとかないとか、自分がどういう環境にいるかに関わらず、ありとあらゆる女性を等しく包みこむ深さを持っている。
本書には、非常に惹かれる文章が多々あって、後でそれぞれ抜き出すつもりだけど、今ここで一つだけ抜き出してみます。

『男は、女性が陥ったら欝になるような状態で生きているのだ。女にあって男にないものは、自分自身の胎内にありながら自分自身を大きく左右し、人生をも大きく変えてしまう抗う事のできない絶対的な存在だ。女は成長過程で思いのままにならない体や現実を受け入れ、その条件下で生きていく術を身につけていくのに比べて、男は絶対的なものが自分の胎内ではなく外にあると思い込むから、幻想を追い続けながら生きていく事ができるんじゃないだろうか。でも私もいつか、自分の中にある絶対的な存在を、失うかもしれないのだ。』

この文章は、まさにそうしたことを書いていると思いました。男にも、自分の内部にはないにせよ、外部にはそういう絶対的な存在というものを見つけることは出来るだろうと思う。出世、なんかはそういうものになるのかな。でも男の場合、そういう絶対的な存在から逃れられないわけではない。それは、社会の中で形成されているある種の合意でしかなくて、男が絶対的だと思い込んでいるだけのものに過ぎない。
しかし女性の場合は、子供を産む産まないに関わらず、その絶対的な存在から逃れることは出来ない。逃れようとすれば、男以上に激烈な状況を進まなければならないだろう。そういう、女性にとっては逃れようのない絶対的な存在というものを、本書は本当にグリグリと抉り出していく。子供を育てる、という小説は、きっと世の中には多く存在するだろう。子供を育てることが、女性の生き様に関わってくる、という展開の物語だってたくさんあるはずだ。でも本書は、そういう作品とは比べ物にならないほどの強さを持つ。
その理由の一つが、本書のさらけ出しっぷりではないかと僕は感じています。
この作品では、子供を育てる三人の母親が、自分の心情を恐ろしいまでにさらけ出す。恐らく、近しい人間でさえその本音を聞くことはほとんどないのではないか、と感じさせるほど、子育てというものにまつわるかなり濃密な本音がどんどんとさらけ出されていく。
本書は、そこかしこにそういう本音がちりばめられているのだけど、とりあえず僕がこれはと思った文章を抜き出してみます。

『言葉を獲得していく事によって、輪が人間的な人間へと去勢されていく姿を見ていると、自分を肯定されているような気になるのかもしれない。』

『今自分が感じている育児の苦しみや喜びを共有できない人と、私はもう有益な関係を築けないような気がするのだ。』

『あの、壁をぶち破って土足で踏み込んでくるような赤ん坊の乱暴なコミュニケーションに慣れてしまうと、大人同士の関係が如実に快適で楽で虚しいものかが分かる。』

『女は女を見るとまず自分よりブスか美人かを気にする生き物だ。そしてどこか一つでも外見に自分より劣った点を見出せなければ、その相手とは決して仲良くなれない。』

『待澤は、女が母になる事の意味を分かっていない。』

『ここまで苦労をしてあれほど労力をかけて、ここまで育ててきたのにすべてが水の泡になってしまうという、そいういう思いだった。』

ちょっと最後の文章は、ネタバレも絡むんでぼかしてみました。
どうでしょう?特に世の中の結婚している男は、奥さんのこういう本音をたぶんまるで知らないだろうし、耳から聞いたってきっと理解出来ないだろうと思うんですね。
本書で描かれる、そういうブレーキなしで描き出されるさらけ出しっぷりが、ちょっと他の作品にはない強さを兼ね備える理由なのではないか、という気が僕はします。
本書は、子供のいる男が読んだら、またそれはそれでかなりしんどいんだろうなぁ。本書は女性の生き様を抉る作品だけども、同時に男にとっては、男の寄って立つ場所からはなかなか見えない(あるいはただ見ようとしていない)暗い現実みたいなものを突きつけられるわけで、相当しんどいだろうと思います。こういうことを知らないでいたからこそ、男は無神経でアホみたいなことを安全地帯から言うことが出来るわけで、こういう現実の一端でも知ってしまったら、もうそういう態度ではいられないのだろうなぁ、という感じがします。
なんか、凄く色々書きたい気がするんですけど、さすがにこの作品については、深いところまで触れると色んな意味で火傷しそうな気がするんで止めておこうと思います。個人的には、作中で最も普通の環境にいる母親である涼子の物語が、子育てをする家庭のどこにでも起こりそうな感じがして恐ろしかったです。あと本書を読んで強く感じたのは、本書で描かれているのは、何百万分の三、あるいは何千万分の三なんだろうな、ということです。みな一人一人、違う現実と闘っているんだろうなぁ、と考えさせられました。
僕個人は、さっきも書いたような理由でちょっと打ちのめされるほどまではいかなかったのですけど、でも凄い作品だということは理解できます。『子育てという現実や想像と、真剣に向き合ったことがある人』には、男女問わず読んで欲しい作品だと感じました。

金原ひとみ「マザーズ」



すっきりわかる!超訳「哲学用語」事典(小川仁志)

内容に入ろうと思います。
本書は、サラリーマン・市役所職員から、フリーターを経て哲学者になった『庶民派』哲学者である著者が、難しい用語を使うことで興味ある人間を哲学から遠ざけているという現状を憂え、哲学の世界で使われている様々な言葉を『超訳』することでわかりやすく親しみやすくしようと目論んで編まれた哲学用語事典です。
本書を著者がどういう考えの元に執筆したのかについて、凄く分かりやすい文章が「はじめに」のところにあるので、ちょっと長いですけど全文抜き出してみます。

『ではどうして、そのような誰もが難しいと感じる翻訳をいつまでもつかっているのでしょうか。言葉は生き物ですから、本来であればどんどん変化していくはずです。それには、日本の哲学研究の世界における悪しき伝統が関係しています。
つまり、日本の哲学研究者には伝統を重んじる人たちが多く、どうしても先人が築いた遺産をそのまま受け継ぐ習慣があるのです。だから、誰かがやめようといわない限り、いつまでもこの状況が続くわけです。
私は常々この状況をおかしいと感じてきました。難解な用語を使い続けるせいで、哲学自体が普通の人たちから敬遠される存在になってしまっているのですから。本当にそんな難解な用語を使う必要があるのか?もっと簡単な言葉に言い換えられないのか?哲学にめぐり合って以来、ずっとそんな疑問を抱いてきたのです。』

僕は、本当に時々哲学の本を読むんですけど、確かに哲学の用語は非常に難しいなぁ、と思います。字面を見ても全然イメージが沸かないもの、あるいは、通常の日本語とは違った使い方をされているものなんかがひしめきあっていて、確かにそこがまず哲学の大きなハードルになっているよなぁ、という感じがします。
実際著者も、高校時代進路で法学部を選んだのも、倫理の授業で習った哲学用語に一種の拒否反応を示してしまったからだ、と書いています。そこから、サラリーマン・フリーター・市役所職員・大学院に入り直し、そこから哲学者になるという回り道をすることになったわけです。
でもそのお陰で、ごく一般的な視点を持った哲学者として、普通の感覚で哲学を語ることが出来るという強みを持つことにもなります。そういう意味で、本書のような事典を執筆する人間としてぴったりだったのだろうと思います。
本書は、確かに哲学用語を解説した作品ですけど、哲学用語の多くは日常会話でも使われるようになっているものも多く、そういう意味で、哲学に興味のない人にとっても実用的な内容になっている、と著者は書いています。実際僕も、そうだなぁ、という感じがします。また著者は本書の読み方として、事典として引くのもありだし、哲学の入門書として読むのもアリだ、という風にも書いています。僕は、哲学の本を読むとは言っても、初心者のそのまた初心者というレベルなんで、確かに僕のような人間には、入門書としてなかなかうってつけの作品かな、という感じがしました。
というわけで、基本的に事典なので内容の紹介はしにくいので、以降は、僕がこれまで見聞きしたことのある単語で、でも意味をあまり把握していなかった単語について、それぞれの超訳だけ載せてみようと思います。

ルサンチマン→(超訳)負け惜しみ
ポストモダン→(超訳)近代を批判的にとらえる現代思想
パラダイム→(超訳)ある時代や分野において常識とされる物の考え方
ニヒリズム→(超訳)一切の既成の価値を否定する立場
ペシミズム→(超訳)何でも悪くとらえる態度
弁証法→(超訳)第三の道を創造する方法
アウフヘーベン→(超訳)矛盾を解決すること
アガペー→(超訳)無償の愛
アナーキズム→(超訳)一切の権力をなくそうとする立場
アフォーダンス→(超訳)知覚が行動のための情報を提供すること
アプリオリ→(超訳)経験なしに
アンチノミー→(超訳)どっちも成り立つこと
ドグマ→(超訳)独断
ノマド→(超訳)既存の秩序に抗して自由な生き方ができる人
パトス→(超訳)心の動揺
唯物史観→(超訳)経済が歴史を動かすとする説
構造主義→(超訳)何でも仕組みで考える立場
実存主義→(超訳)自分で人生を切り開く生き方
功利主義→(超訳)行動原理として快楽や幸福を重視する立場
形而上学→(超訳)自然の原理を度外視して考える学問
限界状況→(超訳)乗り越えようとしなければならない壁
現象学→(超訳)無心で頭に浮かんだものの中にこそ真実があるとする考え方
言語ゲーム→(超訳)言葉の意味は文脈次第という考え方

また、<日常の用法とはちょっと意味の異なる用語>という章もあって、そこにはこんな単語が並ぶ。
批判→(超訳)本質を吟味すること
エロス→(超訳)理想の状態を求める愛
反省→(超訳)意識や世界の状態を吟味すること

さて、どうでしょうか?超訳されたものだけ読んでも意味のわかりにくいものも多いでしょうけど、一緒に付されている解説を読むと、なんとなくわかった気になれると思います。
個人的には、凄く良い本だなと感じました。本書を読むだけである程度哲学の入門書になる、という点もいいし、そこから先何か哲学の本を読んでみようという時、辞書代わりになるというのも素敵だと思いました。こういう風にわかりやすく説明してくれることで、確かに多少の正確さは失われるかもしれないけど(でも著者は、その点は可能な限り努力した、と書いていました)、多少の正確さを犠牲にしてでもわかりやすく伝えるということは僕は凄く大事なことだと思っているので(これは科学についても同じ)、多くの人に読まれて欲しい本だなと思います。哲学に特に興味がない、という人にこそ読んでもらって、哲学に興味を持って欲しいな、と思います。是非読んでみてください。

小川仁志「すっきりわかる!超訳「哲学用語」事典」



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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)