黒夜行

>>2011年11月

1勝100敗!あるキャリア官僚の転職記 大学教授公募の裏側(中野雅至)

内容に入ろうと思います。
本書はタイトルの通り、旧労働省(現厚生労働省)のキャリア官僚だった著者が、様々な理由から一念発起、大学教授になることを目指し、様々な経緯を経て大学教授になるまでの顛末を描いた作品です。
著者が官僚から大学教授を目指した理由には様々な要因があったようですけど、大きな要因としては、「個人としての業績」に関心が向き始めたことと、官僚の仕事に対する理不尽さがあったようです。
組織の中で仕事をしていると、どうしても歯車の一つにならざるを得なくて、個人の業績というものがなかなか見えにくい。それまで個人の業績というものに特別執着があったわけではない著者ですが、政治家の影に隠れる官僚という立場でずっと仕事をしていく中で、個人の業績というものへの関心が出てきたようです。
さらに、官僚の仕事の理不尽さが追い打ちをかけます。連日の深夜までの残業、なんていうのもそうなんですけど、威張りちらしている政治家や、政治家の秘書だという理由で威張っている小物なんかの態度に触れるにつけ、どうにか転職できないかと考えたようです。
そこで、個人の業績が残せ、それまでの自分の仕事も生かせ、かつ現実味がまだありそうな転職、ということで著者は大学教授を目指すことになります。
しかしこの道がなかなか一筋縄ではいかない。
著者は既に結婚し、子どももいたので、退職してからあれこれ転職の活動をする、という選択肢はありませんでした。つまり、官僚として働きながらどうやって大学教授に転職するか、です。著者は確かに、キャリア官僚というなかなか特殊な立ち位置にいましたけど、特段実績があるわけでも、省内のエリートコースにいたわけでもなく(そもそも著者は、市役所員からキャリア官僚に転職した変わり種で、そういう意味でもエリートコースには乗りにくい)、だからこそ本書で描かれていることはある程度、一般のサラリーマンが大学教授に転職する際の参考にもなるわけです。
少し前まで、大学教授にどうやってなったらいいのかというのは本当に謎だったようですけど、最近は大学教授というのは公募で募集が掛けられています。時代の流れによって、不透明な(?)選考ではなく、公募で大学教授を募集するという大学が増えているんだそうです。
しかし、公募されているからと言って、大学教授にすんなりなれるわけではない。そもそも少し前から「高学歴ワーキングプア」なんて言葉も出てきて、博士号を取得しても大学教授になれない人がわらわらいるわけで、そういう中で、社会人から大学教授になろうというのはなかなかにハードルが高い。
著者は、大学教授への転職がどれだけ大変なのかということをまるで知らないまま、自分の直感だけを頼りに様々なことをやっては玉砕していく。本を出せば声が掛かるかもしれないと思って、出版費用を多少自分が負担してでも本を出版したがダメ、どうやったら大学教授になれるのかを大物大学教授に突撃、なんてことをやっていたりした。
その後著者は新潟に出向することになり、それまでよりは多少時間が取れるようになったので、戦略を変えた。博士号を取得することにしたのだ。
著者は幸いなことに旧労働省時代に、人事院の長期在外研究員制度で、アメリカのミシガン大学に留学させてもらっていたので、修士号を持っていた。だから、新潟で博士号を取得するために大学に通い論文を書くことに決めたのだが、そこからも一筋縄ではいかない。そもそも博士課程に進むためには、自分を指導してくれる教授を探してこなくてはいけないのだ。社会人にはハードルが高い。
それから正攻法のように、博士号を取得し、論文もたくさん書くのだが、しかしそれでも転職はなかなか決まらない…。
というような、著者の大学教授への転職記です。
凄く面白いかと言われるとそうでもないけど、そこそこ面白く読めました。
僕は、何度も書いているけど、就職活動というものをまったくしたことがないのです。だから、就職活動だの転職活動だのがどれぐらい大変なのかというのが、実感としてまるでないんですね。ゆるゆると生きてきたので、ホント申し訳ないことです。だから、就職活動が大変だったとか、今まさにそういう大変な最中にいる、というような人には、結構共感できる部分があるんじゃないかな、と思います。
それにしても、大学教授を公募している、という部分からして僕には初耳でした。確かに大学教授ってどうやってなるのかよくわからない職業だけど、本書にも書かれているけど、テレビとかで有名になった人がどこかの大学の教授になってたりすると、そういう特例みたいな採用は一応あって、でも基本的にはその大学の博士課程を終了した人とかが教授になるんだろうなぁ、とか漠然と思っていました。
でも今は、公募が主流なんだそうです。もちろん、本書で描かれているように、サラリーマンが大学教授になることのハードルの高さは相当なものですけど、それでも今の時代、誰でも大学教授を目指すことが出来るんだなぁ、と思いました。
本書の巻末には、著者が受けた(そして落ちた)大学一覧が載ってて、恐らく100以上あるんだろうけど、そこまで落ち続けても止めなかったというのが凄いなと思います。就職活動の場合、そりゃあ受かるまで頑張るしかないけど、転職活動の場合、仕事を続けながらなわけで、どこかで諦めたくなっちゃうような気がするんですよね。しかも著者のように、仕事は激務だし理不尽なことも多いけど、結構安定しているだろうキャリア官僚という地位を捨てて大学教授になろうとしていたわけで、その状況の中であれだけ落ち続けてもチャレンジし続けるというところが凄いなと感じました。
内容としては、本当にサラリーマンから大学教授へ転職する人向けの実用的な記述が結構多くて、だから純粋な読み物として読もうとした場合にちょっとわずわらしいような部分もあったりするんだけど、それなりに読み物としても読める体裁にしていて、まあまあ面白いな、という感じでした。しかしホント、アカデミックな世界というのは色々と奇々怪々ですね。自然科学系だとまた違うみたいですけど(世界中に競争相手がいるし、論文も基本英語だし)、著者のフィールドである社会学系なんかは、それぞれ色んな部分に独自のルールや暗黙の了解があって、素人からすると謎めいた風に映るような気がします。
なかなかない経験をした著者の転職記です。本気で大学教授に転職してやろう!という人にはなかなか有用な本だろうと思います。読み物としてもそれなりに面白く読めると思います。

中野雅至「1勝100敗!あるキャリア官僚の転職記 大学教授公募の裏側」



「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス(戸田山和久)

内容に入ろうと思います。
本書は、今を生きる僕たちにまさに必要な知識を身につけさせてくれる必読の一冊です。
本書の大きな目標の一つは、『市民が科学リテラシーを持つことの意味を与える』というものです。本書の非常に重要な目標がそれです。科学リテラシーというのは、科学的知識ではなく、メタ科学的知識をいかに持つか、という話になります。このメタ科学的知識というのは、「科学がどういう風にすすんでいくのか」「科学がどういうふうに政策のなかに組み込まれているのか」「科学はどんな社会的状況が生じたら病んでいくのか」などについて、つまり科学というジャンルそのものに対する知識、ということになります。とはいえ、この話は本書の第Ⅱ部になります。
では第Ⅰ部はなんの話か。第Ⅰ部では、『科学を語るための概念』について様々に語られていきます。
ざっくりと第Ⅰ部の内容を追って行きましょう。

第一章は、「「理論」と「事実」はどう違うの?」 
理論と事実という言葉は、かなり間違って捉えられていることがある。イメージとして、「理論」は不確実であやふやでひっくり返る可能性があるもの、「事実」は二度とひっくり返ることのないものだと捉えられることがある。そしてある種の人びとは、「理論」と「事実」の二分法で物事を考えて、「事実」でないなら「理論」だ、というような風に捉える。
しかし、科学というのはそもそもそういうものではないのです。『科学が扱っているのはすべて理論であって、そのなかにより良い理論と、あまり良くない理論がある。科学の目的は、理論をほんの少しでもより良いものにしていくことだ』と本書にあります。
科学というのは、100%の真理と100%の虚偽の間のグレーな領域で、少しでも良い仮説を求めていく営みです。科学は、「確実に正しい」や「確実に間違っている」ということを断言することはなかなかできない。その間で、少しずつ仮説を良い方向に前進させていくことが科学なわけです。だから、「科学的に正しいか間違っているか」あるいは「科学的に安全か危険か」という二分法で物事を考えるのは、少なくとも科学的な姿勢ではないわけです。

第二章は「「より良い仮説/理論」って何だろう?」
より良い仮説であるためには、三つの基準がある。『より多くの新しい予言をする』『その場しのぎの仮定や正体不明の要素をなるべく含まない』『すでに分かっている多くの事柄をできるだけ多く説明できる』。
大事なことは、あくまでも良い理論かどうかは比較・程度の問題だ、ということです。そうやって、少しずつ比較をしていって、あまり良くない理論を捨てて行って、そうやって科学は進歩してきたわけです。

第三章は「「説明する」ってどういうこと?」
本書では、説明には三つのパターンがある、と紹介されます(ちょっと簡単には説明できないので省略)。
その三つに共通することを抽出すると、それこそが「説明する」ということの最も核心的な要素である。そしてそれは何かというと、
『科学的な説明とは、「裸の事実」をなるべく減らしていこうという営みです』
ということになります。
「裸の事実」というのは、「とにかくそうなっているのだ」と受け入れるしかないことです。ビッグバンによって宇宙は始まったけど、じゃあ何故ビッグバンが起こったのかと聞かれると、少なくとも現在の科学では「とにかくそうなっているからだ」と答えるしかない。これが「裸の事実」です。科学はこの裸の事実を減らしていこうという方向に進んできた学問なわけです。

第四章は「理論や仮説はどのようにして立てられるの?どのようにして確かめられるの?」
まず、「非演繹的推論」と「演繹」の二種類が説明されます。短く説明するのが難しいからそれぞれの説明は省くけど、性質の違うこの二つの推論を合わせることで、科学は『仮説演繹法』という武器を手に入れることになります。これは、科学で一般的に行われている、「仮説を立て、その仮説から導かれる予言を引き出し、それを実験で確かめることで仮説の確からしさが増す」というプロセスです。重要な点は「確からしさが増す」という部分。
『仮説から引き出された予言が当たっても、仮説はより確からしくはなりますが、100%真理、ということにはならないのです』。詳しいことは省くけど、科学はそうやって、慎重な態度と共に進歩してきたのです。

第五章は「仮説を検証するためには、どういう実験・観察をしたらいいの?」
人間は「確証バイアス」と呼ばれるものに支配されやすい。これは、「こうじゃないかな」と思ってそれを確かめる時は、そこに当てはまる例ばかり探してしまう、というものです。血液型占いが当たったように感じるのも、この確証バイアスの仕業です。この当てはまる例を「検証条件」と言いますが、仮説を検証するためには、その仮説に合わない「反証条件」をチェックする必要があります。心理学の世界で有名な「四枚カード問題」は、この「検証条件」と「反証条件」の話を非常に分かりやすく明示してくれます。
そして、科学につきまとう「疑似科学」と呼ばれるものがあるけど(水に色んな声を掛けると、その感情によって結晶の出来方が違う、みたいなもの)、疑似科学の特徴はこの「反証条件」を示さない、という点が挙げられます(他にもあるけど)。どうやったらその仮説が反証されるのかを明示せず、どんな場合でも「検証条件」だけしか存在しないような状況を生み出してしまいます。脳科学なんかは、分野全体がそういう状況に陥りつつある、というような話もあります。
一方で科学は、反証に開かれている。だからこそ、僕が本書の中で一番の名言だと感じたことの言葉に意味が出てくる。
『科学は、間違えることができる』
科学が反証に開かれているということは、科学は間違いを犯すことができる、ということです。逆に言えば、疑似科学はどんなことがあっても間違えることが出来ない、という点で、やはりそれは科学とは一線を画すものなのです。

第六章は「なぜ実験はコントロールされていなければいけないの?」
ここでは、仮説を正しく検証するために、どういう条件に気をつけて実験を設計しなくてはいけないのか、というような話が描かれる。一つだけに実験をするのではなく、対照群を用意して比較するであるとか、人間相手の場合は二重盲検法というさらに厳しい条件の中で実験をやっている、というような話が出てきます。仮説の正しさを示すために必要な要素以外の条件をいかにしてすべて同じにするか、という点が非常に難関で、科学者たちはそこに細心の注意をはらうことになります。

とここまでが第Ⅰ部。ここまでで、科学そのものを対象に考えるために必要な様々な道具立てが示されます。ここまででも、本書は十分に素晴らしい。もちろん、理系の学生なんかでこれから研究に入ろう、なんて人にもかなり具体的で示唆に富む作品だろうけど、そうじゃない人、つまり科学の素人の人たちにこそこれらの知識は本当に必要だなと思ったのでした。
その理由が第Ⅱ部で示されます。第Ⅱ部は二つの章からなり、「科学者でない私がなぜ科学リテラシーを学ばかければならないの?」と「「市民の科学リテラシー」って具体的にはどういうこと?」の二つです。第Ⅱ部は、原発の事故を下敷きにして話が進んでいくので非常に身近な問題として捉えることが出来るし、何よりも、科学者ではない僕たちがなぜ科学リテラシーを持たなくてはいけないのか、という非常に重要な問題を、少しずつ分かりやすく進めてくれるので、本当に読むべきだと僕は感じました。
第Ⅱ部でも様々なことが描かれますが、一番重要な点は、僕たちは科学リテラシーを持って科学だけではなく、社会と関わっていかなくてはいけない、という点。
『あえて挑発的に言うと、自分たちが市民になって、科学・技術まみれになったこの社会を、何とか健全な仕方で維持していこうというつもりがないんだったら、科学リテラシーなんて必要ないわけです。市民になりたくないなら、科学を学ぶ必要なんか、さらさらないのです。』
本書では、「市民」と「大衆」が明確に区別されている。「大衆」は、何かあった時に文句を言うだけだけど、「市民」は何か問題が起こった時、それに主体的に関わることが出来る人、自らがシステムの一部であるということを自覚出来る人、ということになります。
そういう感じで、何故科学リテラシーを持たなくてはいけないのか、僕たちが科学リテラシーを持つことで社会はどう変わるのか、ということを丁寧に説明してくれます。
本当に本書は、凄く素晴らしい作品だと思いました。最近読んだ新書に「もうダマされないための「科学」講義」という本があるのだけど、本書と合わせて読むと非常に良い作品だと思います。
原発の事故以来、僕自身も他の多くの人も、科学リテラシーの重要さを認識したのではないかと思います。科学の知識を持っていたり科学を語ったりすることではなく、科学的知識に触れた時になんらかのツッコミをすることが出来る。それこそが僕らが求められている態度であるわけです。
でも、それってなかなか難しい。本書にも、こんな風に書かれている。

『思うに、皆さんはこうした「科学で分かったこと」ばかり教わってきたのではないでしょうか。しかし、ここで皆さんに知ってほしかったことは、科学がどう進んでいくか、科学はどういう特徴をもった営みなのか、科学者は困ったときにどう判断するのか、といったことです。これって、あまり高校までの教育で教わりませんよね。でも、科学・技術時代を生きる市民にとって、こうした、科学の内容と区別した意味での科学とはどんな活動かのツィ気はきわめて大切だと思うのです。なぜなら、それこそが、科学者にならない市民にとっておそらく唯一使い道のある知識だからです』

まさに本書は、こういうことを伝えるために枚数を費やして様々なことを書いている。実際こういうことは、なかなか学校では教わらない。でも、確かに僕らは科学者になるわけではないのだから、リトマス試験紙の色がどう変わるとか、何と何を混ぜたらどうなるという知識よりは、科学というジャンルそのものに対する知識を持っている方がより重要になっていくだろうと思います。
「もうダマされないための「科学」講義」とともに、科学というものを一つのジャンルとして捉えて、科学というものを対象に思考するというスタイル(恐らくそれは、科学哲学と呼ばれるジャンルなんだろうと思う)の作品なのだけど、複数人による講義形式だった「もうダマされ~」より、本書の方がより作品としてまとまりがあり、主張に一貫性があって、凄くよかったと思います。先程も書いたけど、確かに本書はこれから研究者や科学者になろうという人に、科学というもののスタンスを伝えるという意味でも有益ですけど、何よりもまず、科学者にならない僕たちが科学とどう接していくかというスタンスを知るのに本当に重要な作品だと感じました。
科学の本、と言われると難しそうな気がするけど、そうではありません。野球の本で喩えると、一般的な科学の本が、野球を実際にプレーするためのルールやテクニックについての内容であるのに対して、本書は、野球観戦に必要な知識についての内容という感じです。もちろん、野球を感染するためにある程度野球のルールは知らなくてはいけないけど、でもその辺りを深入りしなくてはいけないわけではない。そうではない部分でも野球を見る視点というのはある。本書はそういう、科学というものとの新しい触れ方を教えてくれる作品だと感じました。
一読の価値がある、本当に素晴らしい作品です。特に第Ⅱ部は、「何故市民が科学リテラシーを持たなくてはいけないのか」の例として、原発問題のあれこれがかなり詳しく描かれるので、そこを読んでただ原発問題に関する情報の仕入れ方だけ学ぶ、なんて読み方でもいいだろうと思います。とにかく、これはあらゆる人に必読な作品です。本当に、是非読んでみてください。


戸田山和久「「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス」



ワン・モア(桜木紫乃)

内容に入ろうと思います。
本書は6編の短編が収録された連作短編集です。

「十六夜」
北の離島・加良古路島に、とある事情で飛ばされた女医・柿崎美和。役場から派遣されている保健師・鈴木清美と共に診療所を回していく日々。病気を発見することが目的で、治療が必要であればヘリと漁船で総合病院に運ばれる。治療は期待されていないのだ。
高校時代の同級生で同じく女医である滝澤鈴音から突然連絡がある。大腸ガンにおかされているという鈴音は、親から受け継いだ診療所を美和に託したいという。
美和は島で、既婚者であり元水泳選手の木坂昴と体の関係があった。そのことはもう、島中の人間が知っている…

「ワンダフル・ライフ」
鈴音は、自身の大腸がんを知って、診療所をどうするか考えた。市民病院にいた頃から一緒に働いていて、自身の診療所に来てもらった看護婦の浦田寿美子の意見をまず聞き、それを受けて美和に連絡を取ることに決めた。
今住んでいるのは、診療所と自宅を合わせた建物で、Mハウスの志田拓郎が担当してくれた。鈴音の、元夫だ…

「おでん」
トキワ書店の店長であり佐藤亮太は、今まで女性と付きあったことがない。今ではもう諦めている。
家に帰ると、部屋の前に坂木詩緒がいた。かつてトキワ書店のレンタルビデオコーナーでアルバイトをしていた、亮太が密かに思いを寄せていた女の子。恐ろしいぐらいに変形した顔を見て何も言えず、とりあえず部屋に通した。
詩緒はそれからしばらく亮太の部屋に住むことになるのだが…

「ラッキーカラー」
鈴音の診療所で看護婦として働く浦田は、結婚しているかどうかではなく、子どもがいるかどうか聞かれるようになった今も独身だ。既に良心も、浦田の結婚については諦めているようだ。
浦田は5年前のある約束を思い出す。ガンの治療でやってきた赤沢としたあの約束…

「感傷主義」
美和と鈴音と高校時代の同級生だった八木浩一は、自分の学力と家庭の事情により、医者になることを諦め放射線技師になった。病院で美和と鈴音と再会し、それからまた付き合いは続いている。
まさか自分が鈴音のガンのレントゲン写真を撮ることになるとは…。
ディーバというスナックに、かつて歌手を目指して東京に出て、うまく売れずに戻ってきた米倉レイナがいる。八木はディーバの常連だ。ある日八木は、レイナに相談事があると言われ…

「ワン・モア」
拓郎は、鈴音の友人であり、鈴音の診療所を引き継ぐことになった美和に頼まれたことをきっかけに、鈴音とまた一緒に暮らすことになった。厳しい治療にさらされる鈴音の、体の方はわたしがなんとかする。だからあなたには、心の支えになって欲しい。離婚した元夫に一体何を支えられるというのか。
長いこと男やもめで暮らしていた父親から、再婚するから実家の荷物を引きとってくれないかという連絡があった…

というような話です。
これはなかなか評価の難しい作品だなぁ。
僕が本書を読んで感じたことを素直に書くとこうなります。
とにかく巧い。だけど、僕には合わない。
とにかく、作品として全体的に、本当に巧いんです。淡々とした文章を読ませるだけの力があるし、かなり短い話なのに(6編入ってるのに200ページ弱)、登場人物を非常に濃く描き出している。ハッとさせる描写もあるし、どうにもならない宿命みたいなものを背負ってしまっている人達の、それでも必死で生きている姿を丁寧に描いているところなんかホントにいいと思う。
って具合に、良い部分は凄くたくさん見つかるんだけど、でもどうしても、読んでて僕にはあんまり合わないなぁ、という感じなんです。
これは、桜木紫乃作品で初めて読んだ「ラブレス」も似たような感じがしました。あの作品も、細かな要素に切り分けて評価するなら、あらゆる点で巧いと思う。でも何故か、作品全体から感じる印象は凄く良いというところまではいかないのですよね。
たまにこういう作品があって、でも自分の中でどうしてなのかうまく説明は出来ないんです。「ラブレス」についても本書にしても、読んで凄く良かったって感じる人のことは凄く明確に想像出来るんです。そういう力を持った作品だというのは分かる。でも、なんでだか僕にはそこまで合わないのですよね。不思議です。
なんとなく書いてみるんだけど、この著者、ちょっと明るい感じの作品を書いてみて欲しいかも、とか思ったりしました。「ラブレス」も本書も、ちょっとテーマ的にもちょっと重い感じだし、文章的にもなかなか重厚感がある感じで、ちょっとずっしり来ます。もちろん、そういう作品だから僕には合わないんだとかそんなことを言うつもりはないんだけど、もしこの作家の力量で書かれた明るい感じの作品を読んでもしダメだったら、やっぱりダメなのかなぁ、と思えるような気がします。なんか言ってることがよくわからなくなりましたけど。
本書の一番素敵だと思う点は、『ままならなさ』を非常にくっきりと描いている、ということではないかと思います。
本書で描かれる人々は、とにかく何かしらままならない状況を抱えている。それは、離島に飛ばされたことであったり、ガンを患ったことであったり、一方通行の恋であったり、年齢や結婚のことであったり、諦めなければならなかった夢であったり、素直に割り切ることが出来ない未来のことだったりと様々な形を取るんだけど、そのそれぞれのままならなさが本当に丁寧に描かれていく。音も痛みもないままメスで切り裂くようにして、鋭敏に輪郭を描き出していく。
人は色んな生き方を選びとるし、時には選ぶことさえ出来ないまま前に進むしかないこともある。その中で、諦めなくてはいけないこともあるし、見なかったフリをしなくてはいけないこともある。人生の積み重ねの中で避け切れないそれらの出来事は、作中の彼らに様々な感情を与えていく。それらを、直接的な言葉で暴力的に描き出してしまうわけではなく、間や空気を絶妙に配置することでほのかに伝える。それが巧いなぁ、と思います。
ままならなさの中に、ほのかに救いがあり、ラストでパッと明かりが灯るようにして色がつくような話が結構多い。僕らが生きているようなささやかな日常の中で繰り広げられる小さな、でも彼らにとっては濃く重要な出来事が、彼らの感情の揺らぎとともに染み渡ってくる。そんな感じの作品だと思います。
初めの方でも書きましたけど、僕は、本書を非常に巧い作品だと思うのだけど、その一方でどうしても強く自分に合う作品ではないなと思う、なかなか評価のしにくい作品でした。でも、この作品を読んで素晴らしいと感じる人のことは容易に想像できます。かなり実力のある、これからに期待の出来る新人ではないかと思います。読んでみてください。

桜木紫乃「ワン・モア」


夜の写本師(乾石智子)

内容に入ろうと思います。
エズキウムに住む少年・カリュドウは、右手に月石・左手に黒曜石・口の中に真珠という三つの品を持って生まれてきた。生みの母親から離されたカリュドウは、女魔道師であるエイリャに育てられる。
ある時、エズキウムを支配する大魔道師・アンジストがやってきて、エイリャを殺してしまう。なんとか逃げ切ったカリュドウは、隣国であるパドゥキアで写本師としての修行を積みながら、アンジストへの復讐を誓う…。
というような話です。
凄い作品だ、ということはわかります。でもやっぱり、ファンタジーをまったく受け付けない僕には、全然ダメな作品でした。半分ぐらいまではなんとか頑張って読みましたけど、あとは流し読みしちゃったもんなぁ。ファンタジーがあんまり、っていう人にも大丈夫だから、って言われて読んだけど、いやはや、超バリバリの弩級のファンタジーじゃないっすか!
というわけで、ファンタジー好きな人には恐らく物凄くツボな作品なんだと思うんだけど、僕はもうまるっきり受け付けない作品でした。まあ、好みの問題は仕方ない。

乾石智子「夜の写本師」



倒立する塔の殺人(皆川博子)

内容に入ろうと思います。
が、本書は内容紹介がなかなか難しいんだなぁ。
かなり入り組んだ構成の物語になっています。
舞台は、太平洋戦争末期の女学校。
空襲が激しくなる東京で、身近な人がどんどんと死んでいく中で、少女たちは授業も受けられず、飛行機の部品を淡々と作っている。
阿部欣子(イブ)は、いろいろな事情があって友人の三輪小枝宅に居候することになった。そこで小枝から、ある一冊のノートを手渡される。それは、<倒立する塔の殺人>と書かれ、中は複数の手書きの文章が連なったものだった。
よくわからないまま、イブはそのノートを読み始める。読み進めていく内に、どうやらそれは、複数の人間で書き継いだ小説のようなものだ、ということがわかってくる。
<倒立する塔の殺人>は、二つのパートに分かれている。一つは、そのノートに文章を書くことになった少女たちが、どういう経緯でそのノートを手にし、文章を書くことになったのか、という現実を写しとった話が描かれていく。
そしてもう一つは、死去したロスタンという教師の代わりにやってきたサマンという教師が、女学校の生徒であるミナモと関わっていく、という物語だ。
あらゆる経緯によって複数の少女たちの手に渡ることになったそのノート。小枝は、そのノートにも文章を寄せている上月という先輩の死に不審なものを感じている。それをイブに解き明かして欲しいと期待してそのノートを渡したのだが…。
というような作品です。
この作品も僕にとってはなかなか評価の難しい作品だなぁ。
僕は、これは凄い作品だ、ということは分かるんです。でも、僕にはちょっと難しすぎます。
本書の魅力は、終戦間際の少女たちの生き方をリアルに描き出しているという点と、ミステリ的な物語の二点があると思うのだけど、僕にはミステリ的な部分は正直まったくわかりませんでした。ノートに書かれた物語と現実がかなり複雑に絡まり合っていく物語で、僕には目の前のストーリーを追うのが精一杯でした。もうちょっとじっくり時間を掛けて丁寧に丁寧に読んだら、また違ったかもしれないのだけど。難しかったなぁ。この作品、親本が理論社から出てて、そこのYAシリーズみたいなところから出てるんです。つまり、ヤングアダルト的な人向けに一応書かれているはずなんです。ホントに、みんな、この小説読めるのかなぁ。僕にはかなりハードル高かったんだけど。
終戦間近を生きる人々の物語、という点ではなかなか面白く読めました。僕があんまり得意とする時代設定ではないので、やっぱり読むのはちょっと大変だったのだけど、かなり細かなところまで当時の日常を描き出しているという風に感じました。皆川博子の作品は他に「開かせていただき光栄です」しか読んでないんだけど、どちらも、現代の日本ではない世界の日常について相当に細かな描写をしている作品で、そういう部分は本当にちょっと凄いなと思いました。
表紙はかなり好きなんですよね。凄くいいと思います。僕はやっぱりこういう作品を読むと、自分の読解力のなさを実感させられます。いつかこういう作品をきちんと読めるような人になりたいものなのだけどなぁ。

皆川博子「倒立する塔の殺人」



暴力団(溝口敦)

内容に入ろうと思います。
本書は、社会畑を主とするノンフィクションライターである著者が、長年暴力団の世界の中でトップである山口組を見続けてきた経験を踏まえ、日本の暴力団という組織について、その来歴や構造や現場などについて余すところなくすくいとった、著者曰く暴力団ものの集大成のつもりで書いた作品、だそうです。これからどんどん落ち目になっていくだろう暴力団という組織の今を残す、という意味で、なかなか面白いノンフィクションになっているのではないかなと思います。
各章の章題に沿って、どんな内容が書かれているのかざっと追ってみます。
第一章は、「暴力団とは何か?」 ヤクザと暴力団の違い、指定暴力団とは何か、そもそもどんな仕組みで成り立っている組織なのか、共生者や暴力団関係者っていうのはどういう立ち位置の人を指すのかなどなど、とにかく暴力団という存在に対する基本的な知識が描かれていきます。
警察庁が22の指定暴力団を定めているそうなんですけど、その22の団体で全暴力団組員数の96.1%をカバーしてるんだそうです。また、トップの山口組だけで全体の半分弱ぐらいの組員数で、山口組って凄いですね。
第二章は「どのように稼いでいるか?」 一般的に「シノギ」と呼ばれる様々な稼業によってお金を稼ぎ、それを親分に上納するという仕組みでやっているわけですけど、暴力団というのは、組の名前を使うことを許可するだけで、どうやってお金を稼ぐかはそれぞれの才覚に拠っているわけです。
基本的なシノギは四つと言われていて、本書では覚醒剤・恐喝・賭博・ノミ行為の四つについて詳しく書かれます。
第三章は「人間関係はどうなっているか?」 どんな経緯で暴力団に入るのか、女性は入団できるのか、どうやったら出世出来るのか、刺青を入れたり指を詰めたりするのは何故か、というような、暴力団に入ること、そして入った後で絡む様々なことについて書かれます。
本書で何度も書かれることなんだけど、本章でも書かれていることに、「暴力団員は一般人を殴れない」というのがあります。これは何故かというと、裁判によって「使用者責任」というものが組長に対しても及ぶという判例が作られたからです。
どういうことかというと、例えば組員の誰かが暴力を振るったことで、そのトップである組長にも「組員を使用した」という責任を負わせる、というものです。この判例以降、山口組なんかでは組員に、絶対に喧嘩はするな、と忠告しているそうですし、山口組と刷られた名刺をすべて回収して破棄している、なんて話もあるそうです。
第四章は「海外のマフィアとどちらが怖いか?」 ここでは、日本の暴力団と、イタリアやアメリカのマフィア・香港の三合会・台湾や中国の流氓(リュウマン)などについて、それぞれどう違うのか、という比較がなされます。
それぞれ様々に違いはあるのだけど、一番の違いは公然性と非公然性だと言います。日本の暴力団は、その存在や成員が公にされている一方、諸外国のマフィアらは、完全に表に出てこない秘密組織です。これは、どんな犯罪をメインに金を稼いできたのか、という違いによるところが大きくて、後々の章で書かれるけども、日本でも最近は「半グレ集団」と著者が呼ぶグループが、そういう非公然性によってマフィア化しているんだそうです。
しかし凄いのは、アメリカと日本のマフィア・暴力団員数の違い。アメリカには26~27ぐらいのファミリーがあり、FBIは約2000人がマフィアのメンバーと見ている。一人のマフィアと行動を共にしているのが10人いると言われるようなので、約二万人という計算。一方日本の暴力団は、準構成員を含めずに構成員だけで3万6000人(2010年末現在)。人口の違いなんかも考えると、日本の暴力団の人数の多さを知ることができます。
第五章は「警察とのつながりとは?」 暴力団対策法はどれだけ効果を上げているのか、芸能人や政治家はなぜ暴力団と付き合うのか、そもそもどうして暴力団はなくならないのかなどなど、暴力団と関わりの深い組織や法律なんかの話が書かれます。
正直なところ、暴力団対策法は実効性という点であまり成果をあげることができていないようですけど、沖縄を除く全都道府県で制定されている暴力団排除条例にはかなり泣かされているそうです。これは、暴力団だと分かると、部屋も借りれないし銀行口座も作れないしという、暴力団は生活をするな、という条例で、不況の煽りを受けて落ち目な暴力団という業界をさらに厳しくさせているんだそうです。
第六章は「代替勢力「半グレ集団」とは?」 ここ最近、暴力団の力が弱まっているのに比例するように、この半グレ集団が幅を利かせているんだそうです。最近では、海老蔵事件で名を上げた関東連合なんかが半グレ集団だそうです。
半グレ集団は、犯罪によってお金を稼ぐという意味では暴力団と同じですけど、基本的には(つまり法律上は)堅気の人間です。そこまで大きく組織立ってもいないし、暴力団のようにその名前で相手を威圧する必要もないのであまりその存在は表には出て来ません。振り込め詐欺や出会い系サイトの運営、偽造クレジットカードの使用やペニーオークションの運営など多岐に渡っていて、生まれた時から様々な電子機器に囲まれて生きてきた世代が、ネットの世界で様々な隙間を見つけて詐欺行為をするというのが大体の彼らのやり方のようです。著者は、
『つまり暴力団は割に合わない稼業になりつつあり、半グレが似合う時代に入ってしまったのです』
と書いています。
最終章である第七章は「出会ったらどうしたらよいか?」 暴力団と関わらなければならなくなったらどうしたらいいか、という基本的なスタンスについて書かれています。基本彼らは一般人に暴力を振るうことができなくなりましたし、とにかく警察のことが怖いので、その辺りのことをきちんと認識しつつ、妥協しない自分を弱く見せない、というようなところが大事になってくるようです。
著者の立ち位置は、暴力団に肩入れするでもなく、かと言って暴力団を敵視するわけでもなく、かなりフラットなところにいるように感じます。そういう視点で書かれている作品なので、僕らが誤解しがちな部分なんかの認識を改めることが出来たり、過剰に怖さを感じずに済むんだなと思えたりする感じの作品でした。暴力団以上にタチの悪い半グレ集団についても結構詳しく書かれていて、これからの世渡りにとってなかなか実用的な作品なのではないかという気がします。
自分から暴力団と関わろうという人はそうはいないでしょうけど、いつ関わることになるかわからない世の中ですし、暴力団の力が弱まっているとはいえ、とりあえず読んでおいたらいいんじゃないかなと思える作品です。

溝口敦「暴力団」



物語論 17人の創作者が語る(木村俊介)

内容に入ろうと思います。
本書は、インタビュアーとして様々な人にインタビューをしてきた経験を持つ著者による、『物語』を作る人々へのインタビューをまとめた作品です。『物語』とカッコで括ったのは、作家や漫画家だけではなく、ウェブデザイナーやバイオリニストなど、かなり幅広い人選だからです。広い意味で『物語を立ち上げる人』という形の括りで17人が選ばれています。
とりあえず初めに、誰にインタビューをしたのかという17人の名前全員を挙げ、その後、僕が個人的に気になった文章を抜き出しつつ何か書くというスタイルで感想を進めていこうと思います。

村上春樹/小説家
橋本治/小説家
島田雅彦/小説家
重松清/小説家
桜庭一樹/小説家
是枝裕和/映画監督
杉本博司/現代美術家
諏訪内晶子/ヴァイオリニスト
根岸孝旨/音楽プロデューサー
中村勇吾/ウェブデザイナー
渋谷陽一/雑誌編集者
荒木飛呂彦/漫画家
かわぐちかいじ/漫画家
弘兼憲史/漫画家
うえやまとち/漫画家
平野啓一郎/小説家
伊坂幸太郎/小説家

橋本治『いつしか結婚が個と個の結合みたいなものにされてしまったことで、愛があったら何とかなるだろなんて思いこみも生まれたわけです。すると、家庭には男女のエゴが渦巻いて、簡単に破綻するしかなくなりました。男と女が集まって作った家庭というひとつのシステムを動かすためには、そのための「頭(かしら)」が要るのに、それをなしにしてしまったものだから、家族のあり方がわからなくなってしまったんです。』

橋本治の作品は読んだことがなかったんだけど、なかなか感銘を受ける文章が多かった。この話でもそうだけど、「頭(かしら)」についての話は、なるほどという感じにさせられました。

橋本治『経済を回復させることしか考えなくなるから、本来回復されるべき問題が見えなくなって「これはもともとは経済ではなくて人間の問題なんだ」という根本の原因も見えなくなったんですね。』

ここでの『人間の問題』っていうのは、『「頭(かしら)の不在」』ってことなんですけど、なるほどと思ったり。

橋本治『今は、ほとんどの人が、たとえば映画やドラマで死んでいく登場人物が「……あとは、頼んだ」と言ってガクッとなるみたいな、頼む立場としてしか自分を捉えていないんです。でも、頼む立場にいるからには、そのずっと前から「頼まれる立場」でもあったはずなのに、それが自覚されないまま、「頼む」とだけ言って、つながりが残せたらいいみたいになっているのも、「頭(かしら)」を失った時代の特色なのかもしれないですね。』

この話は、凄くしっくりきたというわけではないんだけど、なんとなくわかる気がして。

橋本治『私はある時期に、10歳ぐらい年下の人たちの「これがわからない」という問いに答えていくことで人はひとつずつオトナになるんだ、と実感したぐらいですから。』

これはまだそういう経験がないからわからないけど、いつかそういう日が来るかしらん。

橋本治『専門的な世界で符号のように通用しているものの考え方を「ヘンだ」と思ってしまったら、もういちいち脇道に逸れたところから考えていくしかないんです。』

これは最近、凄くよく思います。

橋本治『戦後にも同じことが言えます。思想的な対立もあったけれど、日本の復興は基本的には商売として達成されてきました。面倒な問題は他の誰かが考えてくれるだろうという、「頭(かしら)」がなくなる時代につながる日本人の志向は、もともと近代のはじめから準備されていて、その問題を考えるにはまたかなりの時間と労力が必要になると思うんですけど。』

「面倒な問題は他の誰かが考えてくれるだろう」ってのはまさに僕もそう思っていて人のことは言えないんだけど、でもまさにそういう時代だよなぁ

重松清『この問題に限らず、僕は「持って行き場のない思いの、その持って行き場のなさ」を書きたいのかもしれません。持って行き場を置いてしまうと、それこそ解決させるための、許してもらう一瞬のための物語になってしまう。
(中略)
実際、自分が立ち向かわなければいけない相手が目の前にちゃんといる状況は、人生の中では意外と少ない気がしているんです。相手が目の前にいた時にはちゃんとできなくて、去った後に何とかしなくちゃいけなくなる。それが「後悔だ」と思う。』

重松清の話は、メインとしては「十字架」という作品について語られている。確かに、目の前にいるって状況は少ないかもなぁ、と。

重松清『「カシオペアの丘で」の頃から考えてきたことですが、物語を書くことは、星空の星を結んでいくようなものだと思うんです。昔の人は空を見上げて、ああも結べる、こうも結べるという中で星座を作ってきたわけです。
当然、結ばなかった星も無数にある。ひとつの物語を書くというのもそれと同じように、いつも無数の結び方の可能性の中から選んで星座を作っていくわけです。そこには「語られなかった物語」がかならず残ってしまう。すごく怖いことでもあるけれども、だからこそ非常に豊穣なものが宿るとも言える。』

これはまさに的確な表現だなぁ、と思ったり。

桜庭一樹『でも、海外文学に影響を受けて、日本を舞台に重たい物語を書きたいと思った場合、どのようにして「神様」の空白を埋めるのかは、作家にとってとても切実な問題じゃないかと考えています。』

ここでいう「神様」というのは、『日本人にとってそこまで宗教化できるもの』という意味で、なるほどと思いました。

是枝裕和『お客さんは、宣伝を見てから映画に行くのかどうかを決めるのだから、そこまで含めて自分の作品ではないかとも考えています。』

こういう発想は、作り手側の人が言うのはなかなか新鮮だなぁと思ったり。

杉本博司『写真で芸術を作ってそれで生活するなんて想像もできなかったですけど。
ただ、デビューの方法だけは「上から順番に降りていこう」と決めていました。下からはいあがるって、何でもほとんど無理じゃないですか。だから、いちばん上からプレゼンテーションをすればいいし、もしダメなら少しずつ降りていこうと決めて、いきなりMoMA(ニューヨーク近代美術館)にプレゼンに行きました。』

こういう人が、やっぱり凄い人になっていくのですよね。ホント。

諏訪内晶子『幼少時から大切にしてきたのは「目的をきちんと自覚しながら時間を過ごす習慣を持つなら、何をしても結果はいいものになる」ということです。芸術家の仕事は、三年や四年のあとまでの計画を今のうちに立てておいて、自分の進む道を自分で創り上げていく作業ですから。』

子供の頃からそんなこと考えてるってのが、やっぱりもう違いますよね。

根岸孝旨『今は、音楽を作る側には「お金がない」とか「流行している音楽をやらなければ受けない」とか、とにかく愚痴が多い時代です。
(中略)
しかし、そんな時代だからこそ「これが好きなんだ」「これを伝えたいんだ」という気持ちを大切にしなければならないのではないでしょうか。音楽の魅力というのは、やはり「よくわからないけどすごい」というマジックにしかないのですから。』

これは本でも同じでしょうなぁ。

中村勇吾『職種ではなく、ウェブデザインを手段に何をやりたいのかがなければ意味がないでしょう。
僕の場合は「新しい時代のプログラムを作りたい」というためにウェブデザインはかなり有効に使えたけど、そういう目的がないならやめておいたほうがいい、と志望者たちには伝えているんです。』

こういう、手段と目的の話は常に意識していないといけないよなぁ、と思いました。

中村勇吾『まずは誰でもやれることから時間をかけて作りこみます。そういう単純な努力でやれることって、やられているようでやられていないですから、そこで人より時間をかければ、まず、ベーシックな部分での質の高さは確保できるわけです。』

基本的な部分を疎かにしてはいけない、って意識だけは一応常に持っているつもりだけど、実践はなかなか難しい…。

渋谷陽一『たとえばジョン・レノンは僕にとっては神様のような存在ですけど、それでも彼と二時間食事をするよりは30分のインタビューをするほうが絶対におもしろいと思うんです。もっと言えば、100回のメシよりも一回のインタビューの方がいいんです』

人間への興味が尽きないのだろうなぁ、と羨ましくなります。

渋谷陽一『もちろん叩いても開かない門はありますけど、僕は「この門は開くはずがない」と思いながら門を叩くようなことはしません』

こういうことを言える人になりたいものです。

渋谷陽一『僕の仕事というのは、雑誌にしても何にしてもそうやって、いつも客目線で受け手やファンとしての発想を大事にしているから、仕事として成立しているんじゃないのかな。』

これはどんな仕事でもそうだよなぁ、と思ったり。

荒木飛呂彦『漫画家と編集者の出会いは「偶然」というところがあるんです。僕の場合も「週刊少年ジャンプ」に持ち込みの電話をして、出たのがたまたま初代担当の椛島さんという方でした。彼の影響がなければ今のようなマンガを描いていないんですよ。彼がずっと「ジャンプでマイナーをやろう」と鼓舞してくれていましたから。「メジャー誌にマイナーが載ってるからおもしろいんだよ!」と。それで自由にやれたんです。』

才能もだけど、出会いも重要ですなぁ。

荒木飛呂彦『1980年に20歳でデビューしてから、「ジャンプ」に編集部には、絶対にマネするな、先輩の足跡を踏むな、と言われ続けたんですよね。手塚賞っていう割といい賞でデビューしたんですが、「勝負はこれからだ」とクギを刺されてぜんぜんチヤホヤされない。けっこう虐げられていた気がするな。でも、それがよかった。チヤホヤされたらすぐダメになったでしょうから。』

今のマンガ業界も、やっぱこんな感じなのかな。

荒木飛呂彦『これは批判で言うのではないけれど、いまの漫画も、新しい表現を開拓して欲しいなと思います。ヒットした先行作品の要素を寄せ集めたら売れるに決まっている、というのではなくてね。僕も漫画や映画作品については分類や分析をしますけれど、その基準も「売れたから」ではなくて、あくまで「自分がおもしろいと感じたかどうか」だけですから。』

いいこと言うなぁ。

荒木飛呂彦『僕にとって、漫画を描くということは日記を書くみたいなものなんです。「ジョジョ」って、すごく構築した作品だとよく思われているんですけど、自分の中ではその時その場で考えたことをアドリブで描くジャズみたいなもので、ちょっと間違えてもその現場の一回限りの録音ならではの味が出ていたらおもしろいんじゃないの、という考え方でやっているんです。』

ジャズみたいなもの、って表現が好きだなぁ。

平野啓一郎『今は、教養と言われるものを共通の話題にしなければならない必然性を誰も感じていませんし、興味もないことを勉強する必要はないですが、「ネットに興味がある」「アニメに興味がある」などとそれぞれに関心の対象が細分化されていった果てに、共通の話題としてはネットやマスコミで流通しているその時々の情報だけになってしまっているというのもちょっとさびしいですね。』

そういう時代に本屋で働いている自分に何ができるか、と思ってしまった。

平野啓一郎『結局は、作家自信が数千人に向けるつもりなのか、あるいは数万人か数十万人かで、書き方も編集のやり方もかなり変わってくるんだと思います。1000人単位の読者に向けて書いていく素晴らしい小説もありますし、これは自分の探求としてやるべきだという仕事が、どうにか維持されるような環境が文学の世界に残っていけばいいなとは思います。』

本屋も頑張らないといかんのだろうなぁ。

平野啓一郎『以前に、プロダクト・デザイナーの深澤直人さんが、会話の中で、多くの人にとってアクセスできるデザインというのを、バウハウス以降の機能主義のデザイン史を参照しながら、非常にロジカルに説得力のある言葉で説明してくれたことがあって、それに比べると、資本主義の弊害を口にしながら漫然と文学作品が売れなくなったことを嘆いている自分の業界は世の中から取り残されているんじゃないかと感じたことがあります。文学が「マイノリティ」であることを自認するなら、もっと必死に「伝える」努力をすべきですよ。』

「伝える」努力をすべきですよ、はそうだよなぁ、と。作家が、ではなくて、僕も、という意味ですけど。

平野啓一郎『その時のジャズの状況は、ウェブ2.0を経た後に小説が経験していることに似ている気がします。
マイルスが偉かったのは、彼としてやりたいことを壊さないまま、より多くの人にアプローチできる方法を徹底して考えたことです。』

これはまさに、今出版・書店業界が置かれている状況への、重大なメッセージではないかと。

伊坂幸太郎『でも、もしも、殺し屋なんていうひ現実的な職業の人たちについての話を、五十歳ぐらいの、社会経験もしっかりある大人たちが本気で夢中になれるのだとしたら、それはそれでかなり素敵なことじゃないですか。そうやって大人に楽しんでもらえるための工夫をしたいなぁ、と思っています。』

うんうん、と思ってしもーた。

伊坂幸太郎『ただ、「わからない人にはわからないでもいいんだよ」と開き直ってしまったら、そこで確実に作品のクオリティは上がらなくなるような気がしますし、「どうやったらわかってもらえるんだろ。魂を売らずに!」みたいな思いが、作品のレベルを引き上げてくれるんじゃないか、とだんだん思うようになってきました。』

「魂を売らずに!」ってところがいいですね。

伊坂幸太郎『僕の場合はありがたいことに、たくさんの読者がいるように思うので、料理でいえばファストフードみたいなものなのかな、なんて少し悲観的にもなるのですけどね。ただ、まぁ、ファストフードも工夫は欠かさないし、もしかすると、見かけはファストフードでも栄養のあるものを提供することはできるかもしれない。何より、たくさんの読者に読んでもみくちゃにされるという状況は、全員が体験できることではないのだから、ありがたい場所で戦わせてもらっているのかもな、と自分に言い聞かせています。いや、苦しいことも多いんですけど。』

こういう吐露みたいな箇所はちょくちょくあって、売れてしまうことの功罪みたいなものがにじみ出ています。

伊坂幸太郎『「ゴールデンスランバー」を書く時期あたりから僕が変化してきているのは、「物語の風呂敷は畳まないで、いかに納得してもらうのか」にチャレンジしているところなんです。
物語の風呂敷は、畳むプロセスがいちばんつまらない。今、僕は描いていても読んでいてもそう思っています。だから、物語の風呂敷は広げるけれど、畳まないで楽しんでもらいたいんですよね。
しかも、それを、「逃げ」とは見えないかたちにしたいな、とそれが最近ではすごく大事な挑戦です。』

本書では、伊坂幸太郎の作風の変化みたいなものの背景に、どんな思いや考え方があったのか、というのが結構書かれていて、自身の立ち位置も含めて色々思う所があるようであります。

伊坂幸太郎『「伊坂幸太郎は、物語は畳まないけれども心は畳もうとしている」というのは、自分からは「そうなんですよね。心は畳もうと決めているんですよね」と即答できるほど言語化してきたわけではないけど、あんまり違和感のない言葉かもしれません。』

著者の分析を受けての発言だけど、そこまで読み取れる著者も羨ましいなと思ったり。

伊坂幸太郎『この「読みやすさ」はコンプレックスでもあるんです。やっぱり、「わかる人にだけわかる」という作品には憧れますし。ただ、最近は、自分はそういう読みやすいものしか書けないのだということを理解してきてもいますし』

まあこういうのは、読者の側がそれを強く望んでしまう、という部分も、大きく反映しているのだろうけど。

というわけで、こんな感じです。
広い意味での『物語』という捉え方で編集されているので、物語の書き方とかそういう話ばかりではない、かなり多様な話がいっぱい出てきて、狭い意味での「物語」に強く興味のない人にも、参考になる言葉や心に届く言葉が出てくるのではないかな、と思います。是非読んでみてください。

木村俊介「物語論 17人の創作者が語る」



オクターバー・ガール 螺旋の塔に導くものは(伊藤螺子)

内容に入ろうと思います。
高校生の興梠(コオロギ)真尋は、自分が気に入った音楽を聞くと、その音楽から連想される世界へとトリップしてしまう、という特異体質の持ち主。小学生の頃、父が運転する車に乗っている時、ラジオから流れて来た曲を聞いた時に初めて体験して以来、コオロギにとって音楽を聴くことは、他の人とは違った意味を持った。
そのコオロギの特異体質を知っているのは、歩く校則違反と呼ばれる学校一の問題児・荒巻小吉だけだ。ひょんなことから気が合い、コオロギもショーキチも、お互い唯一仲良くしている相手だ。これまた校則に違反してアルバイトをしているCDショップの面々とも、コオロギは面識がある。
ある時ショーキチが、バイト先のCDショップが主催しているライブにコオロギを呼んだ。なんだか曰くありげな顔をいて。
シズハライサナという、同年代のように見える歌い手の歌を聴いた途端、コオロギは螺旋の塔へとトリップしていた。
螺旋の塔を登り切った先の部屋には、スズハライサナと同じ顔をした女の子がいた。彼女と話す中で、どうもこれはこれまでのトリップの体験とは違う気がするぞとコオロギは思い始める。
ショーキチから聞いて驚いた。なんとスズハライサナは同級生だというのだ。本名は、静原秕奈。
コオロギは、少しずつ静原のことが気になっていき…。
というような話です。
これはなかなか読ませる作品でした。
デビュー作で、しかも著者略歴を見る限り僕と同い年っぽいんだよなぁ。新人のデビュー作としてはなかなか巧く出来ているのではないかと思います。
まず、設定が絶妙だと思います。コオロギの、音楽を聴くと異世界にトリップしてしまう、という特異体質が、凄くストーリーに幅を持たせている。
本書は基本的には、高校生三人が学校や学校外でわらわらするという、一応日常的な世界に軸足を置いた作品ではあるんだけど、そこにコオロギの得意体質を組み込むことで、ファンタジー的な要素をうまく取り込んでいる。僕はあんまりファンタジー的な作品が得意ではなくて、そもそも始めっから全部ファンタジー的な世界観って作品だと、すんなりと受け入れられないことが多いんだけど、その点本書は、日常の世界の中に時折ファンタジー的な世界が挿入されるという構成になっているから、僕でも読みやすかった。もちろん逆に言えば、ファンタジー的な作品が好きな人がどんな風に本書を読むのかはちょっとわからないのだけど。
そのファンタジー的な描写、なかなか巧いなと思いました。コオロギがトリップする世界は、大きく4つぐらいあるんだけど、そのそれぞれがなかなか巧く描かれていく。一番多く描かれるのはもちろん螺旋の塔で、その螺旋の塔は、コオロギが訪れる度に少しずつ変化していく。その変化の描き分けなんかもいいと思うし、塔の最上階にいる女の子(名前はついてるんだけど、書くとちょっと混乱するから一応書かない)の感じも好き。作中のストーリー展開ともっとも深く関わるこの螺旋の塔の描写は、これから物語がどう展開していくんだろう、という興味をガシガシ与えてくれるという点でもなかなか巧く機能していて、いいなと思います。
本書の冒頭が、まさにコオロギがトリップした世界が描かれるんだけど、これで物語に一気に引きこむ辺りはうまいなと思いました。初めちょっと、なんだこの描写は?って思うんだけど、すぐにそれがコオロギの得意体質と結びついていることが判明する。なかなか読者を引き込むのに巧い冒頭だなと思いました。
タンブリンマンという男が現れる異世界、というのも描かれる。この世界でのやり取りは、ちょっと哲学っぽい感じがして好き。コオロギにとって、何かを確かめたり背中を押してもらいに行く世界で、作中の中でなかなかいい味を出しているなぁ、という感じがしました。
もう一つ描かれる、一度しか描かれない異世界ってのがあるんだけど、これに関わる部分はちょっと僕の中では未消化って感じだったなぁ。恐らくストーリーとも密接に関わっているはずなんだけど、ちょっと僕には難しかったです。コオロギの内面に関わる部分の話で、きっとこの部分がもう少し理解できれば、もう少し面白く読めたような気がします。
ショーキチと静原の二人のキャラも結構好きですね。
ショーキチは、見た目はとんでもないしかなりの問題児だと思われているけど、実は結構いい奴という、マンガとか小説とかでそれなりによく描かれるようなパターン化された人物だけど、でもそれでも、コオロギとの他愛もないやり取りは面白いし、実は…という部分が巧くストーリーに絡んでくるのもいい。結構友達になれそうな気がするなぁ、って思ったりしました。
静原はショーキチとは対照的に、社交的でもないし全然喋らない。歌っている時は別人のようで、普段は大人しく存在感がないように思える。でも時々そうではない一面が垣間見えることがあって、こちらもなかなか好きなキャラでした。ちょっと、実は…の部分にギャップがありすぎて、うーんって感じになる部分もあったけども。
ストーリーはなかなか巧く出来ていると思いました。なかなか一筋縄ではいかないというか、決してシンプルではない物語で、新人でこれだけ書けるのはなかなかの力量だと思います。ただ個人的な意見では、なかなか高いレベルを目指しているけども、まだそこまで力は蓄えられていないという感じがして、もう少しだけシンプルな物語でもよかったのかもしれないなぁ、なんて思ったりしました。
音楽が好きだったり素養があったりすればもっと楽しめたのかもとか思いつつ、それでもなかなか巧く物語を描く作家だなと思いました。新人のデビュー作としてはなかなかレベルが高いと思います。是非読んでみてください。

伊藤螺子「オクターバー・ガール 螺旋の塔に導くものは」



知らない町(鏑木蓮)

内容に入ろうと思います。
映画監督を目指し、掛け持ちのバイトで生活費を稼ぎつつ、そのまま惰性でフリーター生活を続けている門川誠一。門川は、アルバイトとして、とあるマンションの管理人のようなことをしている。今ある建物をすべて取り壊し、新しい建物を建てようという計画があるその場所にまだ住む人々に、こちらに移転しませんか?と案内し、ていよく追い出すというのがその仕事の一つだ。高齢者の一人暮らしが多い建物で、門川は話には聞いていたけどついにそれにぶち当たってしまう。
孤独死だ。
帯屋史郎という一人暮らしの老人の死体を発見してしまう。死体を発見し、遺品なんかを整理するというのも業務の一つになっていて、嫌々ながら門川は帯屋の遺品を片付けることにした。
しかしそこには、映画監督を志望している門川には宝の山に思えるものがたくさんあった。
かなり古い号のキネマ旬報。カメラや映写機やテープの編集用の機械まであった。
門川は会社に内緒でそれらを自分でもらってしまうことにした。
門川が一番気になったのは、8ミリフィルムだ。話によれば帯屋氏は、映写技師だったらしい。恐らく帯屋氏が自ら撮ったものだろう。さっそく自宅に持ち帰り、シーツをスクリーンにして8ミリフィルムを見た。
とんでもなく惹きこまれた。
それは、リアカーを引く一人の女性を移した白黒の無声映画だった。女性は手ぬぐいをひっかけ、山道をリアカーと共に登りながら、どうやら何か物を売っているようだ。本当に、ただそれだけの映像だ。
しかし門川は、かなりの映画を見てきたという自負があるが、それでもこの映像は、物凄い力を持っているとそう感じた。
帯屋氏を題材に、ドキュメンタリー映画を撮ろう。
門川はそう決意し、一人帯屋氏について調べ始めるが…。
というような話です。
これは評価の難しい作品だなぁ。
題材は非常に面白い。けど、作者の力量がちょっとそれに負けている。それが正直な感想です。
具体的な名前は出さないけど、同じ題材であの作家が書いてくれたらもっと傑作になったんじゃないかなぁ、みたいな風に思ってしまいました。ちょっと惜しいなぁ。
背景的な部分は凄くいいと思います。無縁社会というテーマは、実はそれほど表立っては描かれていないのだけど(著者の出自もあって、やっぱりミステリ的な作品には仕上がっている)、作品の根底をしっかり支えてくれているという感じ。他にも、ここでは書かないけど、なかなかに重厚な背景があって、その辺りの物語の展開的には結構巧く出来てるなぁ、という感じがします。ギリギリ繋がって行った細い線を辿った先に、なるほどそんな展開が待っていたのですね、という感じ。その物語を、無縁社会というテーマで緩く包んでいるという感じで、そういう全体的な題材の面白さというのはいいと思います。
ただ、文章とか作品の構成とかがイマイチだったかなぁ。どうすれば良かったのかという具体的なアイデアは浮かばないのだけど、もうちょっとやりようはあったよなぁ、という感じがしてしまいました。もったいないなぁ。もっと、この魅力的な題材(無縁社会的な部分だけではなく、ミステリ的なストーリー展開まで含めて)を活かせるやり方はあったような気がするんだけど、惜しいなぁ。
しかしいずれにしても、この作品をきちんと描くには、もうちょっと分量が必要な気がします。それだけの題材だからなぁ。だから逆に考えれば、なるべく手に取ってもらうハードルを下がるために分量を抑えていて、その制約の中でという条件付きなら、それなりに巧いこと描いているのかもしれません。わかりませんが。
個人的には、甲山のキャラが一番好きだったかな。僕自身はああいう感じの生き方がどうしても出来ないから、ちょっと憧れてしまう、みたいな部分もあるのかもしれません。上昇志向があって、でも嫌味ではなく、ただの冷血漢ではない、というキャラクターは結構好きだな、と思いました。
個人的には強くオススメする作品ではありませんが、決してダメな作品ではないと思います。死ぬことをリアルに意識する経験のある人には、違った読み方があるのかもしれません。死ぬ、ということについては、色々と考えさせられる作品だと思います。

鏑木蓮「知らない町」



星やどりの声(朝井リョウ)





内容に入ろうと思います。
舞台は、快速に乗れば50分程で新宿までたどり着く、海沿いの町・連ヶ浜。商店街から少し離れたところにある「星やどり」という軽食喫茶の店で物語は生まれる。
建築家だった父は、六人兄弟がまだ小さい頃、ガンで亡くなった。それから、星やどりの切り盛りは、すべて母・律子の双肩に掛かることになった。ビーフシチューと自家焙煎のコーヒーが自慢の店。子どもたちはみんな、父とビーフシチューが大好きだ。
就職活動が全然うまくいかなくて焦っている長男・光彦。常にカメラを持ち歩き、まったくランドセルが似合わない大人びた三男・真歩。サンダルとばっちりメイクで高校に行き、派手な友達と全力で若さを謳歌する二女・小春。アホ全開で、でも幼馴染の女の子の動向が気になる二男・凌馬。小春と双子の姉妹で、でも小春とは対照的に黒髪ノーメイクで秀才の三女・るり。そして、父のいなくなった早坂家を必死で支え続けた長女・琴美。
兄弟たちの中には、いつまでもずっと父親の面影が夏の余韻のように残っている。それぞれが、自分の置かれた立ち位置から、自分の将来と早坂家の将来を見ている。父親という中心をぽっかりと失った早坂家は、ところどころ見えない隙間に侵食されながら、少しずつその形を削り取られていく。
星やどりにはブランコの形をした席があり、その席の常連のおじいさんがいる。茶色のカーディガンをいつも来てるから、ブラウンおじいちゃんとみんな呼んでいる。そのブラウンおじいちゃんが店に来なくなったことが、一つのきっかけだった…。
というような話です。
いやはや、ホントやべぇ。やべぇよ。俺、朝井リョウの小説とぴったり過ぎるんだ。羊水みたいにぴったり。
なんだろうなぁ、この吸いつくような感じ。自分と同じ形をした何かにすっぽり包まれたみたいな感覚が凄すぎる。デビュー作の「桐島、部活辞めるってよ」の時もホント衝撃を受けたけど、この作品も凄いなぁ。ホント、朝井リョウは僕にとってちょっと凄すぎる作家だ。
僕は、朝井リョウの書く小説の、人間や情景を描写する時のタッチが物凄く好きなんだ。絵心のない僕には経験はないけど、画家がカンバスに絵筆を引いた時、まさに自分がイメージしたぴったりの色やラインが出た、みたいな感じかもしれない。朝井リョウの絵筆の動かし方、カンバスに定着する絵の具の感じ、絵筆を引く時のためらいのなさ。そういうものが本当に好きだ。
「桐島~」の時は、こんなに活き活きと高校生を描ける作家がいるなんて、っていう衝撃にやられた。あの読後感はちょっと衝撃的だった。言葉が煌めいているような感じがして、触ったら弾けそうな気がした。
一瞬の切り取り方も好きだ。本書では、真歩って小学生がカメラを撮るんだけど、そこからの連想で、朝井リョウのフレームの切り取り方が凄く好きだなと思う。
そんな風に世界を切り取ってみせるんだ、ってあらゆる場面で思った。人物を、瞬間を、情景を、そんなフレームで切り取るんだ、って。自分では絶対に撮れない写真を見ているような気がする。同じようにカメラを構えていても、僕にはそれは見えていないし、そのフレームも見えていない。朝井リョウは、自然にその立ち位置に立って、自然にそのフレームでそれを切り取る。その切り取り方が僕にとっては絶妙過ぎる。
「桐島~、」の時は思わなかったけど、本書を読んで、なんか小説を書いてみたくなった。誤解されるだろうからちゃんと書くと、それは別に、これぐらいの小説だったら俺だって書けるよ、なんて感覚からじゃ全然ない。
これもまた写真の喩えで言うと、自分にピッタリ来る写真を見た時に、これと同じ視点から見てみたい、って思う感覚に凄い近い気がする。ちょっと違うメガネでも掛けているのかもしれないって疑いたくなるぐらい、僕は朝井リョウとは違うものを見ている。そして僕は、朝井リョウが見ているその見方に憧れてしまう。同じ場所から同じようにして自分も見てみたい。その場所に立って、同じようにカメラを構えたって、きっと同じようには見えないんだろうな、とは思う。それでも。それでもいいから、同じ場所に立ってみたいし、同じようにカメラを構えてみたい。
なんか、凄くそんな風に思わされた。小説を読んで、小説を書いてみたくなった、ってのは、もしかしたら初めてかもしれない。
冒頭からまず惹かれる。冒頭3ページぐらいで、兄弟六人の描写が一気にされる。僕は普段小説を読んでいても、登場人物の名前をなかなか覚えられないし、そのキャラを把握するのにも結構時間が掛かる。でも本書の場合、初めの3ページを読んだだけで、兄弟六人の名前とキャラは全部インプットされてしまった。ビックリした。ホント、どんな魔法を使ったんだろうって思った。大げさじゃなくてホントに。「桐島~」の時も衝撃的だったけど、ホントに朝井リョウは、人物の立ち上げ方が巧い。ふわり、って音が聞こえてきそうなくらい、何かが空から舞い落ちてくるかのように、いつの間にか人物の輪郭がそこにある。それは、雪みたいにはらとやってくるのに、雪のようには簡単には溶けない。砂糖を混ぜたしゃぼん玉みたいに、触れても割れない。でも、輪郭はぐにゃぐにゃしてる。その不安定な感じを安定感のある文章で描き出していて、なんか凄いんだホント。
個々のストーリーとか、個々の人物とか、色々書きたいことはある。でも、なんか違うんだよなぁ。「桐島~」の時も思ったけど、朝井リョウの小説って、要素に分解することに意味がないかもって思っちゃう。割と普通の小説って、ストーリーはこんなで、展開はこんなで、キャラクターはこんなでって感じで、要素の集合として全体を語ることが出来るって僕なんかは思ってたりする。それぞれの要素の足し算が全体、みたいな感じ。でも朝井リョウの小説って、そうじゃない気がする。そもそも要素に分けられない気がするし、要素に分けたところで、それを改めて足しあわせても元通りの全体にはならなそうな感じ。なんだろう、ホントに。でもそう感じなんだ。ストーリーはこんな感じでとか、展開はこんな風になってとか、キャラクターはこんなところが良くて、みたいなことをいくら書いたって、そうじゃない部分に核心みたいなものがあるような気がしちゃう。どうしても僕には捕まえられないその核心を捕まえようと、作品をどう切り刻んでみても、やっぱりその核心は見つからないような気がするんだよなぁ。
でも一つ思うのは、その核心の部分ってもしかしたら、読者の側にあるのかもっていう風にも思う。巧く説明できないけど、作品全体に読者が持つ何かを混ぜ合わせることで、この作品が成り立ってるみたいな。まあ、それはどんな小説だってそうだよ、とか言われたらそれまでなんだけど、なんかそういうのとは違うレベルでそう感じる。
あー、しかしホント久々に、こんな抽象的な感想書いてるなぁ。こういうの嫌いじゃないけど、読んでる人的にはなんのこっちゃわからんのだろうなぁ、きっと。
あんまり意味がないことを承知の上で、ストーリーとか展開とかキャラクターとかについて書いてみようかな。
「桐島~」は、ストーリーのあるなしで言えば、ない小説だったと思う。ストーリー自体に意味がある小説ではなくて、人物を立ち上らせることそのものに主眼があるような、そんな小説だった。もちろん、本書にもそういう部分はちゃんとある。でも本書はそれだけじゃない。ストーリーも本当にいい。
本書は、僕が冒頭で内容紹介をした際に書いた順番通りで、六人の兄弟それぞれの章が描かれる。兄弟はそれぞれ個別の問題を抱えていて、まずそのそれぞれがいい。しかもその個別の問題が、少しずつ父親と関わり合っていく。兄弟それぞれが、父親の不在に対して考えたり感じたりする部分があって、それが彼らの中で様々に熟成されて、それぞれの問題へと昇華されていく。
個人的に一番好きだったのは、真歩の話かなぁ。真歩がどうしてあんまり笑わない子どもになったのか、っていう理由は、凄くいい。「桐島~」の時も感じたことなんだけど、朝井リョウは、年齢も性別も、あらゆる人物を見事に書き分ける。真歩の抱えている問題は、小学生らしさを残しつつ、小学生らしくない真歩らしいという、本当に絶妙なラインで、凄くよかったと思う。
でもやっぱ、小春の話もよかったし、るりの話もよかった。特にこの二人の描き分けはよかったなぁ。朝井リョウは、女性の視点からものを見るというのも本当に巧い。女性が読んだらどう感じるか分からないけど、少なくとも男の僕からすれば、そうそう女子ってそういう男が全然見てないとこ見るよなー、みたいな部分が凄く多くて、凄くいい。これはホント、女性の意見を聞いてみたいよなぁ。朝井リョウが描く女性視点は、女性的にどうなのか。
そして、それら個別の話の積み重ねとして、最後の展開がある。これがまたいい。それまでの物語が、本当に巧いこと繋がっていく。「桐島~」で圧倒的な描写力を見せつけた著者だけど、ストーリーもここまで巧く描けるようになったってのはホントにびっくりです。凄いな。
人物は、もう全員いいとしか言いようがない。やっぱ、朝井リョウが描く人物って好きすぎるなぁ。そういうふうに切り取るんだ、って思うような場面が本当に多くて、ワクワクするし惹かれてしまう。
って色々書いてみるけど、やっぱこういうこと書いてもなー、とか思っちゃうなぁ。ホント罪深い作品だわ。
最後に、僕なりに凄く惹かれた文章を二つ抜き出して終わりにします。この二つはホント一例だけど、比喩や単語の使い方とか、雰囲気の立ち昇らせ方とかが本当に好きです。

『海というものを背景にすると、人間は急に脇役になる。どこからどうシャッターを切っても、それは海の写真になるのだ。』

『向かい風が強い。一瞬、前に進もうとする力と追い風がぶつかりあって、ゼロの中にいるような感触がした。』

特に後者の『ゼロの中にいるような感触がした』って表現は、僕の中で本作中トップです。素晴らしいよ、ホントに。
ちょっとべた褒めですけど、べた褒めしたくなる作品です。この作家、やっぱちょっとスゴすぎると思う。今この若さでこれだけ書けるんだから、ホントこれからが楽しみで仕方ない。どこまで行くんだろう。ホントに読んでほしい一冊です。

朝井リョウ「星やどりの声」



金色の獣、彼方に向かう(恒川光太郎)

内容に入ろうと思います。
本書は、ちょっと異世界チックな世界観を持つ4編の短篇集。連作短編集なのかどうかはちょっと微妙なラインで、全体的に『鼬』がモチーフになっているけども、それぞれが大きく繋がっているという感じはない。

「異神千夜」
人里離れた森の奥に住む遼慶は、久方振りの客人に茶を振る舞う。その男は、少年時代南宋から来た男に才を認められて宋へ向かったが、やがて、来る戦争に先駆けて、日本の動向を探る役割を負わされることになる。そこで出会った、鼬を連れた鈴華という女。宋の国に潰された村で祈祷師のようなことをしていたという鈴華は、次第にその得体のしれなさを顕にしていく…

「風天孔参り」
樹海のほとりでレストランと宿を経営している男。客足は少なく、周囲は限界集落に近い。
ある日やってきた月野優という女性が、ここに泊まりたいとやってきた。彼女の話を聞くと、なんでも山で道に迷っている時に、風天孔という穴に飛び込むことで自殺する集団に出会い、山を降りることが出来たのだという…

「森の神、夢に還る」
それまで動物にしか憑依しなかったわたしは、ある時、森の中の線路沿いにいたあなたに憑依し、あなたとともに東京まで行った。東京で苦労させられたあなたは、しかし働き始めたレストランで出会った女性と親しくなった。あなたはわたしの存在には気づいていなかったけど、やがて知ることになり、わたしは過去の、こうなる前のわたしのことをあなたに話す…

「金色の獣、彼方に向かう」
大輝は、蛇と蛙で遊んでいる時に、金色の鼬を見つけ捕まえる。家に持ち帰り飼うことにした。ルークと名付けたその鼬は、千絵という少女と一緒に飼っているようなもので、異様にしつけが行き届いているようなルークの存在は、時に周囲の大人に違和感を抱かせた。ある日千絵に呼ばれ家まで行った大輝は…。

というような話です。
どうしても僕は、恒川光太郎とは相性があんまりよろしくないのですよね。
デビュー作の「夜市」があんまりで、うーんという感じでした。でも徐々に、この恒川光太郎という作家の高い評価を耳にするにつけ、僕が恒川光太郎と合わないだけなんだろうなぁ、と思うようになりました。
作品を読むと、巧い、とは思うんですね。凄く巧いんです。特に冒頭の「異神千夜」は巧いと思いました。冒頭から結末までの、どう展開していくのかわからないストーリー運びはさすがだなと思います。
巧いとは思うんだけど、どうしても自分の中で突き抜けないのですよね。それは僕が、ファンタジー的な要素のある作品が基本的にあんまり受け付けない、ということとも関わってくるんだろうと思います。
本書は、ファンタジーというタイプの作品ではありませんけど、ちょっとした異世界を扱っている、というタイプの作品ではあります。僕はどうも、そういう作品とあんまり相性がよろしくないのですよね。僕の想像力が貧困なのか、その世界の中に入り込めない、という感じがします。もちろん、異世界を扱った作品でも良いと思える作品はあるんでしょうけど(ただやっぱり、パッとは思い浮かばないです)、基本的にはあんまりです。
こういう、独特の世界観を創り出せる人(作家に限らず、映画でもマンガでも)は凄いなと思うんです。僕はホントなかなか想像力に乏しい人間なんで、全然そんなことは出来ません。そういう、独特の世界観に浸れるという人には、凄くいい作品なんだと思います。僕自身はちょっと、そういう独特な世界観を持つ作品ってのがあんまり得意ではないので、本書をうまく評価することは出来ないんですけど、気になる方は是非読んでみて下さい。

恒川光太郎「金色の獣、彼方に向かう」




恒川光太郎「金色の獣、彼方に向かう」

てのひらの父(大沼紀子)

内容に入ろうと思います。
舞台は、世田谷区、松陰神社前駅から徒歩十五分の女性専用の下宿「タマヨハウス」。
タマヨハウスは、タマヨさんという女性が、一人で住むには広すぎる家を、三人の女に間貸ししているという物件。築七十五年、玄関バストイレは共同、朝夕の食事付きで家賃七万円。
長瀬柊子は、ニシオトモミという人を案内しなくてはいけないのに、タマヨハウスまでの道を迷っている。とある事情から無職となり、絶賛転職活動中である柊子は、12年前に買ったリクルートスーツを着てあちこちの面接に行くのだが、成果は芳しくない。
ニシオトモミさんは、タマヨハウスの新たな管理人になる人物だ。その人を迎える役目を、柊子が仰せつかっている。
タマヨさんは突然タマヨハウスを出てアメリカに行ってしまった。その事実を、タマヨさんがアメリカから掛けてきた電話で知る、というぐらいの突然の出来事だった。なんでも、アメリカにいる友人の看病をしたいから、ということのようで、代わりにニシオトモミさんを管理人としてあてがってきたのだった。
一時間も遅刻して、さすがにタマヨハウスの前では待ってないだろう、という予想は当たっていた。どこにもニシオトモミさんらしき人物はいない。いたのは、乳母車に犬を載せた、目付きの悪い妙齢の紳士だった。あまり目線を合わせないようにタマヨハウスに入ろうとしたところを呼び止められてしまった。
なんと、その紳士がニシオトモミさんらしいのだ。
管理人として常駐することになったニシオトモミさんは、管理人として甲斐甲斐しく働いた。掃除や料理などは男性とは思えないほどの手際で、趣味でやっている編み物も実に巧い。また、住人の個人的なトラブルにも、管理人としての責任だから、という律儀さで積極的に関わっていく。「私が仕事だと思ったら、それはもう仕事なのです!」トモミさんは言う。
司法試験を目指し、ひたすらに受験勉強を続ける一方で、なんらかの形で家族とわだかまりを抱えている久遠寺涼子。アパレルメーカーでバリバリと働きながら、逃げられるはずもないとある事情からふらふらと逃げ続けている北田撫子らとともに、最初『異物』でしかなかったトモミさんとの共同生活は進んでいき…。
というような話です。
これはかなりいい作品でした。この著者の作品はなんだかんだ結構読んでるんだけど、ホント書く度に巧くなっていくなぁ。
本書を読んで僕が連想したのが『錨』です。
タマヨハウスというのは、『船』みたいなものです。特にそれまで関わりがあったわけではない人達が、一つ屋根の下で暮らしている、という理由で緩く繋がっている。外に出ていこうと思えば全然出ていけるけど、でも船の中にいた方が安全。
一方で、船って案外脆い。大型船だったらどっしりしてるだろうけど、タマヨハウスぐらいの小さな船だと、ちょっとしたことでもすぐ揺れる。しかも彼女たちが生きている『海』は、彼女たちにとってはなかなか厳しい面も持つ。就職が決まらない柊子、司法試験に挑み続ける涼子、ちょっとしたと表現できない現実を抱える撫子。彼女たちは、それぞれの形で、目の前にある『海』と闘っている。
タマヨハウスにやってきたトモミさんは、彼女たちにとって『錨』のような存在になっていく。そういう物語です。
初めはあらゆる点で周囲から浮いていたトモミさん。アメリカ暮らしが長かった、という理由だけでは説明をつけられない違和感がある。その違和感を、短い言葉で説明するのは難しいんだけど、本書を読んでいると、トモミさんのその『ズレ』が面白くって仕方がない。しかもトモミさんとしては、自分がおかしなことをしているという自覚がないのだ。このトモミさんのキャラが本当に素敵で、こんな時トモミさんだったらどんなことをしでかしてくれるんだろう、っていう期待が、ページをめくらせる原動力になる。そういう意味では読者にとっては、トモミさんっていう存在は強力な『エンジン』でもあるのかもしれないなぁ、とか思ったり。
こんな風な表現をして、読む前にイメージをつけちゃうのはあんまりよくないのかもしれないけど、僕は本書を読んで、『東京バンドワゴン』の大家族じゃないバージョンだな、と感じました。他人同士ではあるけど、一つ屋根の下で暮らしている人たちの間で、なんだかいろんなことが起こる。まあ大体がトラブルなのだけど、ちょっと変わった価値観を持つトモミさんに振り回されつつ、いろんな大立ち回りを繰り広げた末に、いろんなトラブルは丸く収まっていく。その過程が本当に面白い。
本書は、春・夏・秋・晩秋・冬・再春という6編で構成されていて、それぞれでいろんなトラブルが起こるんだけど、一編につき一つのトラブル、というような綺麗な別れ方をしているわけではないし、どんなトラブルなのか書いて読む人の興を削ぐのもあれかなと思って内容紹介では書かないでおいた。
でもほとんどが、家族とのトラブルだ。
本書には、こんなフレーズが出てくる。

『家族は万能ではない。家族だからこそ救えないことはいくらでもある。』

柊子も涼子も撫子も、そしてトモミさんさえも、家族というものとなんらかのわだかまりを抱えている。僕も、家族というものとは色々あって、まあ家族って色々めんどくさいなぁとか思ってる人間なんだけど、結局なんだかんだ言って、家族という関係の中で何もゴタゴタがない、ということは、あんまりないんだろうなぁ、という気がします。柊子も涼子も撫子も、別に特別な人ではない。ごく普通の環境で育った、ごく普通の人だ。彼女たちが抱えるわだかまりは、だから僕らのそれと重なり合う部分が多いのではないかと思う。一つ一つは、ちょっとしたことだ。姉妹のちょっとした差、嘘はつきたくないというちょっとした強情さ、仕事は絶対に疎かに出来ないというちょっとした気の張り方。そういうちょっとしたことって誰もが抱えているだろうし、そういうちょっとしたことが結局物事をどうにもならないところに追い込んだりもする。
そういう時に、トモミさんが本当にうまいアシストをするんだよなぁ。トモミさんのアシストで一番好きだったのが、七夕だ。これはホントよかった。よくもまあそんなこと思いつくよ、というような見事さで、あっぱれって感じだった。こんなことしてもらったら、そりゃあ嬉しいし、心もぐらりと動くよね。
トモミさんがやっていることは、どう考えても首突っ込みすぎだろ!というものが多いし、状況が状況なら、あるいは人が人なら、もしかしたら不愉快に感じるレベルだったりするかもしれない。でも、なんにせよ、トモミさんの『泰然』としている有り様が、なんかいろんなことを納得させてくれる、という感じもしました。初めの内は違和感でしかなかったトモミさんの存在は次第に、トモミさんがそう言うなら仕方ないよね、となっていく。トモミさんのどこまでもブレないあり方が、周囲の人間に何かを伝え、そしてそれが、目に見えない何かを動かしてくんだろうなぁ、という気がしました。年の功と言えなくもないけど、トモミさんみたいな落ち着きを手に入れたいものですよね、ホント。
個人的には、柊子の一番共感しました。
柊子は、いつでも道に迷っている。
転職がまるで決まらない、という状況の中だから仕方ないのかもしれないけど、でも柊子は、無職である今じゃなくても、ずっと道に迷ってきたような、そんな人に見える。
昔、ある文庫のPOPのフレーズとして、こんな文章を考えたことがある。

『光の射す方へ、と大人は言うかもしれない。でも、そんな光、見えたことない』

柊子もきっと、そんな光が見えなかった人だろうな、という気がします。涼子と撫子は違う。涼子は弁護士という光が、そして撫子にはアパレルでの仕事という光がきちんとあった。でも、柊子にはそれがない。
僕も、そんな光が全然見えない人生をずっと送ってきた。
どこに向かって歩いて行けばいいのか、まるで分からなかった。一寸先は闇、っていうけど、その慣用句とはちょっと違った意味で、まさに視界のちょっと先はもうまっくらで、それ以上先は全然見えない、という感じだった。手探りで歩こうにも、何にも触れない。匂いもなければ、音も聞こえない。そんな中で、何の役に立つのかわからない『勉強』という杖だけを持って、僕はずっと歩いてきたのだ。
幸いにも今は、その光を見つけられているような気がする。今の書店の仕事は、僕にとっては天職なのではないか、と思っている。ただ、ここまで来るのには、僕なりにそれなりに大変だった。
柊子は、未だ道に迷っている。光は見えないし、進むべき道もわからない。そういうところが、本当に自分に重なる。『私は、道に迷っている』という文章が出てきた時、俺も!と思わず思ってしまった。
結局人生っていうのは、生まれた時には持っていなかったものを何で補うかを追い求める、ということなのかもしれない。そしてその補うものこそ、僕らには光に見えるのかもしれない。欠落を感じている柊子は、でもまだその欠落を補う何かを見つけられていない。でも、その予感はある。きっと柊子は、このまま生きていけば、自分の欠落をぴったり補う何かを見つけることだろう。そう予感させてくれるところもいいなと思う。
突然管理人が代わりあたふたする下宿での生活、というだけではない、人の心を暖かくする眼差しに満ちた作品だと思います。是非読んでみてください。

大沼紀子「てのひらの父」

地球最後の日のための種子(スーザン・ドウォーキン)

内容に入ろうと思います。
本書は、作物の多様性を守ることで農業を守り、かつ世界中から飢餓をなくすという信念に沿って行動し、国際的な農業のあり方を変えた一人の伝説の植物学者・ベント・スコウマンの生涯を追いつつ、世界の食料がどう守られているのかを知ることが出来るノンフィクション。
『タイム』誌はかつて、ジーンバンカー(シードバンカーとも言う。世界中のありとあらゆる種子を収集・保管する人)としてのスコウマンを、「人々の日々の生活にとって、ほとんどの国家元首より重要な人物である」と評したことがあるらしい。しかし多くの人が、スコウマンが一体何をした人なのか知らないだろう。もちろん僕も知らなかった。
冒頭でまず、1998年にウガンダで見つかった、小麦の伝染病の中でも最も手強い「黒さび病」(この1998年に発見された黒さび病は、「Ug99」という名前がつけられた)についての話が描かれる。黒さび病の原因である真菌は、風に乗って国境を越え、ありとあらゆる小麦に感染してしまう。当時農家や育種家らにとって、この問題はとんでもない脅威だった。本書にもこう書かれている。『小麦の世界で何か恐ろしいことが起きていて、世界の一握りの科学者たちが、日々のパンに甚大な影響を与える疾病の撃退方法を必死に探していることなど、思いもよらなかったに違いない。』
何故こういうことが起きてしまうのか、そして将来的にそうなることを予見していたスコウマンは一体何を目指したのか。それが本書の大きな焦点の一つになります。
ここに、作物の多様性という問題が関わってくる。これは、確かに言われてみればその通りで、考えれば誰でも分かることなんだけど、これまでまったく想像もしたこともなかったことなので、凄く新鮮でした。
育種家と呼ばれる人達がいる。スコウマンも元々は優秀な育種家だった。育種家というのは、小麦なら小麦を品種改良する人のことだ。効率よく収穫できたり、収量を増大させたりと言った改良に加え、寒い地域でも育てられる品種、塩害に強い品種など、とにかくあらゆる特性を持つ品種を生み出す人達のことを指す。
ここで、ある育種家が、ありとあらゆる点でパーフェクトな小麦の品種を開発したとしよう。その小麦は、効率よく収穫出来、収量も多く、また寒い地域でも暑い地域でも、塩害があっても完璧に育つ品種だとしよう。
そうなれば当然、世界中のあらゆる農家がその小麦を植えたいと思う。そうなれば、自分のところの収入を増やすことが出来るからだ。
しかしこれは、作物の多様性の消失という新たな問題を引き起こす。つまり、世界中で栽培されている小麦が、すべて同じ品種になってしまうのだ。
そうなるとどうなるか。冒頭で書いた「Ug99」のような病気発見された際、世界中に一気に広まり小麦は壊滅してしまうのだ。そうなれば、人類は一気に危機に瀕することになる。たとえばバナナはかつて、一度同じような状況で絶滅しかけたことがある。
メキシコに拠点を持つ国際トウモロコシ・コムギ改良センター(CIMMYT)に所属していたスコウマンは、シードバンク(ジーンバンク)の設立に精力を傾けることになる。
シードバンクというのは文字通り、世界中のありとあらゆる種子を保管する場所だ。それは、現在栽培されている品種はもちろん、過去栽培されていたけどすでに栽培されていない品種、その作物の祖先である在来種など、とにかくありとあらゆる種子を収集し保管することが目的だ。
シードバンクの利点は大きく二つある。
一つは、育種の拠点として、その膨大なデータベースを誰でもアクセスすることが出来る、という点だ。特に近年、遺伝子情報の特許取得の競争が激しく行われていて、国際的なコングロマリットが、ある遺伝子情報を独占的に確保してしまうという流れがある。スコウマンでさえもその流れに抗することはなかなか難しかったが、しかしジーンバンクの存在は確実にそれに対抗する存在として機能している。育種家や研究者は、ジーンバンクに保管されている種子の提供を受け新たな品種を生み出し、それをさらにまたジーンバンクに戻す、というやり取りの繰り返しが、作物の多様性を生み出す。そしてその多様性こそが、世界の食料を守ってくれる、ということなのだ。
そしてもう一つは、「Ug99」のような伝染病に対抗しうる遺伝子を見つけ出す可能性を保管しておくことが出来る、という点だ。
作物が感染する伝染病への対抗策は、一つしかない。それは、その伝染病に抵抗力のある品種を見つけ出し、それを今栽培されている品種と掛け合わせることで、その伝染病への抵抗力を持つ品種を新たに生み出すしかない。
具体例としてこんなことがあった。とある植物収集家が小麦の収集をするためにトルコへ向かった。そこで、「みじめな姿をした小麦で、背はひょろ長く、背はひょろっと長く、茎はかぼそく、簡単に倒伏し、赤さび病にかかりやすく、冬の寒さに弱い」種を見つけた。それでもまあ一応ついでにということで採取し、アメリカの遺伝資源コレクションに追加された種子があった。
その15年後、アメリカを手痛い黄さび病が襲った際、この黄さび病への抵抗性を持つ小麦が、まさにその「みじめな姿をした小麦」だったのだ。
この一件だけでも、シードバンクがどれだけ重要であるか分かるだろう。将来的に、どんな伝染病が流行るか分からないし、もちろんそれに抵抗性を持つものがどれなのかあらかじめわかるはずもない。だからこそ、今有用であるかどうかという視点とはまったく別の観点から、将来的に役に立つかもしれない、という観点から、シードバンクというものは作られている。
スコウマンは、誰もシードバンクの重要さに気づいていなかったことからその重要さを見抜き、あらゆる人間を巻き込んでその設立に邁進した。シードバンクを作るだけではなく、それをどう有効に活用するかということにも力を向け、また同時に、世界中から飢餓をなくすために、自らの生活を犠牲にして研究に邁進した。
しかしその一方で、スコウマンの人生は決して恵まれたものではなかった。常に直感と理想を背景に行動し続けたスコウマンは、組織の中でうまくやっていけるタイプの人間ではなかったし、実際に組織の中で軋轢を生み出していた。遺伝資源は誰にでも開かれたオープンな情報であるべきだというスコウマンの考え方とはまったく逆の流れの中で、しかも遺伝情報を保管するということそのものの重要ささえきちんと理解されないままで予算が削られていく中で、スコウマンはやがてCIMMYTを解雇されてしまうことになる。
しかしそれからスコウマンは、通称<地球最後の日のための貯蔵庫>と呼ばれる、ノルウェー最北のスヴァールバル諸島に築かれた世界種子貯蔵庫の所長となった。これは、まさに通称の通り、隕石の衝突などによって人類がほぼ絶滅したとしても、そこの貯蔵庫の種子を使うことで新たに農業を始めることができる、ということを目指したものだ。
そんなスコウマンの生涯と、世界の農業事情を追ったノンフィクション。
なかなか興味深い作品でした。細々としたことが書かれすぎていてちょっと興味の持てない部分も若干はあったのだけど、基本的にはまったく知らないことだらけだったので、本当に新鮮な作品でした。
そもそもジーンバンクの存在を知りませんでしたからね。で、本書のタイトルから、なるほどそういう種子を集めたジーンバンクってのがあるのね、じゃあそれはやっぱ地球が壊滅的な被害を被った時の場合なんだろうなぁ、とかそれぐらいの想像しかしてなかったんですけど、ジーンバンクのもっと重要な存在価値を本書で初めて知って驚きました。
でも確かにそうなんですよね。とある品種だけが世界中で好まれて栽培されていけば、やがてそれに甚大な被害をもたらす伝染病が発生した時に食料は危機に陥る。2050年までに世界の人口は90億人に達するという。だとすれば、必要な食糧増産は75%にも及ぶらしい。これは、世界が過去一万年のあいだに口にしてきた食料の合計を上回る量なんだそう。
だからこそ農業というのは、より効率よくより多くの収量が得られることを目指さなくてはいけない。しかしそうやって品種改良された品種ばかりが世界中に広まってしまうと、多様性が消失することでまた危機がやってくる。そのジレンマを解消するための存在がジーンバンクなんだと知って、なんか凄く感動しました。
だって凄いじゃないですか。今でこそ、農業が大企業によって寡占されて、同一品種が世界中を席巻する環境になってるけど、ちょっと前はそうではなかった。そうではなかった時代に、そういう時代がやってくることを見抜き、さらにそれに対抗するために、今有用なわけではないシードバンクなんてものを世界のあっちこっちに作っちゃった人がいるわけで、そりゃあ確かに国家元首より重要な人だよなぁ、って感じがしました。
本書は、スコウマンの話だけではなく、農業の世界に大きな影響を与えた様々な科学者たちの話も描かれます。特に強烈だったのが、ロシアのヴァヴィロフという植物学者。その時代その国にたまたま生まれてしまったために、素晴らしい功績と能力の持ち主が不遇をかこつことになるという状況はやっぱりやりきれないものがあります。
また本書を読むと、農業というものの抱える様々な問題について触れることが出来る。やはり大きな問題は、国際的な大企業が農業の世界を席巻し、知的財産を押さえてしまう。大規模農業を否定することは、人口の増大が予想されるこれからの世の中では難しいのだけど、裕福な国と貧しい国との格差みたいなものが浮き彫りになる。
遺伝子組換えの話も出てくるし(スコウマンは、飢餓を解消するために遺伝子組換えという技術は素晴らしいものだという認識だったようだ)、戦争や財政難などにより貴重な遺伝資源が失われていってしまっている現状についても言及している。食というのは人類の基本であって、何があっても食物は作り続けなくてはいけない。止まるわけにはいかないし、むしろ進み続けなくてはならない。そのためにはやはり、多くの人がこれらの問題を共有し、意識していくしかないのかもしれないな、と思いました。
僕にとってまったく知らなかった世界のことが描かれていて、本当に新鮮でした。描かれていることは、なかなか想像できない大規模な世界の話ではあるけど、最終的にはここで描かれていることは、僕たちが普段食べている食べ物に直結する。農業というものがどんな仕組みで成り立っているのか知っておくことは、もしかしたらこれから重要になってくるかもしれません。是非読んでみて下さい。

スーザン・ドウォーキン「地球最後の日のための種子」



印刷職人は、なぜ訴えられたのか(ゲイル・ジャロー)

内容に入ろうと思います。
本書は、1730年代に、まだイギリスの植民地だったニューヨークで起こった、『言論・報道の自由』をめぐる、とある闘争の歴史を描いたノンフィクションです。
それは、ニューヨークに、ウィリアム・コスビーという男がやってきたことから始まる。
ウィリアム・コスビーは、新たにニューヨーク(およびニュージャージー)植民地総督になった男。この男は、本国イギリスで政略的な結婚によって高い地位を手に入れ、縁故によってニューヨーク植民地総督になった男。先の赴任地であったスペインのミノルカ島で、ある商人の財産を違法に没収したために裁かれ、多額の負債を抱えている男で、ニューヨーク植民地総督の地位は、金のなる木だとしか思っていなかった。
赴任して早々からコスビーは、とにかくあらゆる形で私腹を肥やすようになって行き、次第に市民の不満感情は高まっていく。しかし、とにかく横暴でかつ本国に強力な後ろ盾のあるコスビーに対抗することは難しかった。
その状況で立ち上がったのが、とあるきっかけでコスビーと揉めることになった参議会の古参議院であるリップ・ヴァン・ダム、コスビーとやりあうことでニューヨーク最高裁判所主席判事を罷免されてしまったルイス・モリス、そしてニューヨークの著名な弁護士であり、後にコスビーに訴えられる印刷職人の弁護を担当することになるジェームズ・アレクサンダーとウィリアム。スミスの四人だ。
この四人は、コスビーの悪行を暴き立てる新聞を創刊することに決めた。しかしそのためには印刷職人が必要だ。当時ニューヨークには、二人の印刷職人がいた。一人は、政府の御用新聞の印刷を担っていたウィリアム・ブラッドフォードで、当然彼に印刷を頼むわけにはいかない。そこで彼らは、もいう一人の印刷職人であるジョン・ピーター・ゼンガーに印刷を任せることに決めた。
当時、扇動的文書誹毀罪という法律が存在した。これは、印刷物で政府や役人を批判することを取り締まるものだった。当時の裁判は、植民地側の人間が陪審員となって行われたが、この扇動的文書誹毀罪については、『印刷したかどうかという事実に関しては陪審員が判断し、内容が事実であるかどうかは裁判官が決める』ということになっていた。
この法律をもとにコスビーは、彼らが創刊したニューヨーク・ウィークリー・ジャーナル紙を壊滅させようと目論み、やがてその印刷を担っていたゼンガーが逮捕されてしまう…。
というような話です。
本書は、漢字すべてにフリガナがついていて、文字も大きく、ページ数も少ない、子どもでも読める作品なので、大人が読むと若干物足りなさはあるだろうけど、僕は二つの点で本書は良いなと思いました。
一つは、題材の面白さ。
そしてもう一つは、まえがきと訳者あとがき。
まず題材の面白さから。本書は、先程言ったように子どもでも読める作品なので、ちょっと物足りなさはある。この題材で、もっと深く突っ込んで大人向きに書かれたノンフィクションがあったら読んでみたいなぁ、と思わされる。
けどそれでも、本書に書かれている内容だけでもなかなかに面白い。
それは、この出来事が、アメリカの独立に直結している、という事実が一番大きいかな。
この出来事をきっかけに、市民が政府や役人を批判することが出来る自由というものが確立されていき、その機運の高まりの先にアメリカの独立というものがある。アメリカという国がどういう歴史を辿ってきた国なのか知らないし、今のアメリカでの言論・報道の自由の状況なんてのも別に知らないんだけど、その背景にこんな出来事があったということは僕は全然知らなかったし、こういう背景があってこそ独立が起こったのだという部分は、なんか凄く面白かったです。アメリカ人にとってこの話って、どれぐらい浸透してるもんなんだろうなぁ。
そして後者のまえがきと訳者あとがきについて。僕は、ちょっと大げさかもしれないけど、本書にとってもっとも重要なことはこの二箇所に書かれていると感じました。
まずはまえがき。まえがきではこんな風に書かれています。

『もちろん、これらの史料から事件の全容が明らかにされるわけではありません。手紙も、そして記録文書も、伝えているのは、事のほんの一面だけかもしれません。何百年か経つうちに、紛失したり破棄されたりした手紙や文書もあるでしょう。(中略)過去が新たに書き替えられる、そんな日が訪れるかもしれません。でも、いまのところは、これからお話することが、報道の自由をめぐって歴史に深く刻まれた、ほぼ三年にわたり、事件のいきさつ、真相です。』

僕は本当に、学校で習う歴史の授業が大嫌いで、今も本当に全然知識がないんだけど、その理由の一つは、『これが過去に本当に起こったことだ』っていう風な教え方をしていると感じたからでした。
僕は子どもの頃から、まさにこのまえがきで書かれているようなことをずっと違和感として持ち続けていました。ホントにこれが過去に起こったことなのか?都合のいいように書かれているものだってあるだろうし、その事実を知る際にもっとも重要な史料が見つかっていないかもしれない。もちろんそんなことを言ったら、歴史なんてものはまるで何も確定できなくなってしまうのだけど、だからこそ僕は、このまえがきに書かれているように、『過去が新たに書き替えられる』かもしれないよ、と言って教わりたかった、という気がするのです。
それは、科学も同じです。科学も、教科書で習う時点では、これが正しい、と教わる。でも科学にしたって、どんどん過去の知見が否定されて、新たな知識が積み重なっていく。だから科学にしても、『過去が新たに書き替えられる』かもしれないものとして教わりたかった(でも、科学の教育者はどうかわからないけど、科学者はそういう部分にはかなり自覚的だと思う)。それでも科学の場合は、やろうと思えば自分でその真偽を確かめることができる。科学をどう定義するかって話は色々あって難しいみたいだけど、少なくとも科学に求められることの一つに『再現性』というものがある。これは、誰がやっても同じ結果を得ることが出来る、という意味だ。この再現性がないものは科学とは判断されない(少なくとも今は)。だから科学は好きだったんだろうなぁ、と思います。
本書が子ども向けの作品だからこそ、なおさらこのまえがきには大きな意味があるなと僕は思います。学校で教わる歴史が、いつか書き変わる日がくるかもしれない、と思いながら学ぶことは、僕は大事だと思うんだよなぁ。
そして今度は訳者あとがき。これも抜き書きしてみます。

『人々が、恐怖心から、言いたいこともいえないままにちぢこまっている社会。報道される事柄が、国に都合のよいように、規制され、ゆがめられている社会。かつて日本にも、そのような「闇の時代」がありました。
比べて二十一世紀の現在は、「明るい」を通りこして「まぶしすぎる」と言っていいかもしれません。日々さまざまなメディアから情報が雪崩をうってあふれだし、個々人までが、ネット社会の匿名性に守られて、嘘も真もひっくるめ、不特定多数にむけて言いたい放題言える時代なのですから。ひとりひとりが、情報の受け手であり、かつ発信者となる時代です。
疑う受け手でありたいものです。
覚悟ある発信者でありたいものです。』

これも、まさに今の時代に生きる人々にとっては必要なスタンスを説いていると感じました。最近の僕の大きなテーマである『自分の頭で考えろ』ということにも凄く通じます。そう、今の日本は「まぶしすぎる」という感じがする。だからみんな、サングラスを掛けて自分に届く光を弱めようとする。その時、どんなサングラスを掛けているかで、自分にどんな光が届くのかが変わっていく。みんなが同じ光を受け取っているわけではないし、そもそも自分のところにすべての光が届いているわけではない、ということを、僕たちはもっと自覚しながら生きていかなくてはいけないと、この訳者あとがきを読んでより強く思いました。
言論・報道の自由っていうのはなかなか難しい、と本書を読んで感じます。僕は、出版・書店業界の末端にいて、自分で言論や報道に直接関わっているわけではないけど、それに間接的には関わっている。『自由』という言葉の解釈がどんどん希釈されていってしまう感じのするこの世の中で、どんな言論や報道でもいいのか、という疑問を持つことは多くあるけど、その一方で、やっぱり言論や報道を規制することの恐ろしさも感じる。特にそれは、3.11以降の原発関連の報道に現れているし、自分を含めその状況に強い怒りを表明していないことの怖さも感じる。結局、自由は行きすぎてもいけないし規制されてもいけないのだろうけど、じゃあどの辺りが中庸なんだよと言われてもそれはわかんないし、難しいよなぁ、と思ってしまいました。
でも本書で、コスビーの横暴に対抗するために、それまで自分たちの手元にはなかった『言論・報道の自由』を獲得するために(それを獲得することが主目的ではなかったとはいえ)、あれだけの大きな動きが起こったというのは素晴らしいことだな、と思いました。
本書の題材で大人向けに書かれた作品を是非読んでみたい気もするのだけど、子ども向けの本書もなかなか面白く読めるのではないかなと思います。僕は本当に歴史を知らないので、アメリカの歴史とか知ってる人ならもしかしたら常識的な話だったりするのかもしれないけど、僕はまるで知らない話だったのでなかなか面白かったです。子どもと一緒に読んだりするといいのかも。色々考えさせられます。読んでみてください。

ゲイル・ジャロー「印刷職人は、なぜ訴えられたのか」



公式本LIVE福島 風とロックSUPER野馬追 僕らは君たちの恋人になりに来た(講談社)

内容に入ろうと思います。
本書は、3.11の震災後の2011年9月14日から19日に掛けて、福島県を横断する形で六日間連続で毎日場所を変えてフェスを開くという「LIVE福島 風とロックSUPER野馬追」というイベントの公式本で、出演アーティストへのインタビューや観客たちの声や写真、企画した人間たちの想いなどが書かれている作品です。
この、フェスの常識を完全に無視した、六日間連続違う場所でフェスをやるという企画の言いだしっぺは、福島県出身であり、それまで「福島のことが嫌いだ」と公言しつつ、福島出身のアーティストとユニットを組んで活動してきた、クリエイティブディレクターの箭内道彦。それに多くの人が賛同し、箭内がそれを思いついた時は誰もが無理だと言ったとんでもないイベントを大成功させてしまった。
構成としては、半分から三分の二ぐらいまでが、出演アーティストたちへのインタビューであり、あとは観客の声や主催者やスポンサーらの想いなどがあれこれと書かれています。
音楽にまるで興味のない僕が何故この本を読んでいるかというと、それはちょっととある形で頂いたというわけなんですけど、僕の中では結構読んで良かったと思える作品でした。
先に書いておくと、本書は僕にとって、音楽の本でもタレント本でも原発の本でも震災の本でも福島の本でもありません。アーティストたちは、震災後の状況で音楽をやることの意味とか、原発の是非とか、故郷福島への想いとかあれこれ語るのですけど、その個々の具体的な話が僕の中で突き刺さったわけではありません(ただ、誤解のないように書いておくと、個々の具体的な話も、僕にとっては共感できるものが多かったです)。僕にとって本書は、『言葉の本』という感じがしました。
僕の中での最近の大きなテーマの一つが、『自分の頭で考えること』で、どんな本を読んでも、どんな考え方に触れても、そういう視点から物事を捉えてしまうようになっているのだけど、その観点から見て、本書は非常に良い作品だと僕は感じました。
というのも、特に福島に強く関わりのあるアーティストらの考え方や立ち位置が非常にはっきりしているからです。
本書で書かれる、様々なアーティストの考え方に合わなさを感じるという人はもちろんいるでしょう(一応何度も書いておきますけど、僕は結構賛同できる意見が多かったです)。でも、はっきり言って僕の中では、そこは重要ではない。僕にとって重要なのは、『彼らの言っていることの正しさ』ではなくて、『それが自分で考えた意見なのかどうか』ということだ。
恐らくこれは間違った考え方だと思うのだけど、最近僕は、『たとえどれだけ正しい意見であっても、自分の中で咀嚼しないでただ人の意見の受け売りで済ませている人よりは、たとえどれだけ間違った意見であっても、自分の中でひたすらに考えて考えて自分の立ち位置をはっきりさせている人の方が遥かにいいのではないか』と思えてしまう。本書で様々なアーティストが語る意見の正しさは僕には分からない。好き嫌いで言えば僕にとって好きな意見が多いけど、正しいかどうかと聞かれると、僕にははっきりと断定が出来るような背景や勇気や経験はない。でも、本書で語る人々は、それをはっきりと明確に語る。その語り口からは、どんなに激しく否定されようともその意見を手放すつもりはない、という強い意思を感じることが出来る。
とにかく思考停止してはいけない、考え続けなくてはいけない、というのが最近の僕の大きなテーマの一つであるので、そういう意味で本当に色々と考えさせる作品でした。
個人的に引用したいなと思わせる箇所はかなりあったのだけど、全部引用しても仕方ないと途中で判断したので、二つだけにします。

TOSHI-LOW(BRAHMAN)『いちばん初めに東北に電話したときに、「何持っていけばいい?」って電話したら、「いや、TOSHI-LOWくん、隣にいる大事な人たちを抱きしめて」って言われて。何もかも流された人たちが、「俺たちはそれができないやつが周りにいっぱいいるんだから」って。「『行ってきます』って送り出した子どもの『ただいま』を聞けかなったやつがいっぱいいるんだから」って。「だから今、TOSHI-LOWくんのできることは、俺らのところに来ることじゃなくて、抱きしめることだよ」って言われて。そうだなあと。そう言えるその人が、すばらしいなと思ってね。』

西田敏行『今、経済を優先してその後に儲かればいい暮らしができるんだっていう、そんなリスキーなところで走っている豊かさって、自分はほんとうの豊かさではないと思うし、恐らくLIVE福島に出てくれた、あるいは来てくれた人達の思いもそうだったんじゃないかなぁ。』

他にも共感できるフレーズは結構あったんですけど、特にこの二つは自分の琴線にバシバシ触れたんで引用してみました。
色んな考え方があっていいと思う。アーティストたちの意見を間違ってると思ったっていいし、偽善だって思ったっていいと思う。僕は、本当に大切なのは、自分で考えるということだと思うのだ。特に今はそう。様々な情報に踊らされて、お上の言うことに従順という姿勢は、これからの日本を生きていく中でかなり難しい立ち位置に立たされるのではないかと思う。手元に届く情報も、国を動かす人達の思考も信頼しにくくなっている今の日本の中で、せめて自分のこと、そして自分のちょっとした周りのことだけでも自分の頭で考えて行動しないと、もうダメなんじゃないかって凄く強く思うのだ。みんなと同じじゃなくたっていいし、将来笑われたっていい。結果的に間違うことを恐れずに、自分で導き出した結論にそって自分の人生を決めていくというのは、何よりも重要なことになっていくのではないかと思う。
だから僕は本書を、『自分の頭で考え自らの立ち位置を明確にしている人達が吐き出す言葉の塊』と捉えた。本書で書かれている様々な意見が正しいかどうかなんてことには、はっきり言って僕には興味がない。好き嫌いの判断はあるけど、それ自体もどうでもいい。そうではなくて、このとんでもない事態に対して、今だって自分の立ち位置をはっきりさせるのに多くの人が苦労している中で、大震災から半年、いやそれよりももっと前から自らの意見を明確にし、それを音楽やそれ以外の形で発信し続けたかれらのあり方を知り、そのあり方を見習おうと思えるようなそんな作品だと僕は思うのです。
そんな読み方をしているので、本書を音楽本とかフェス本とかアーティスト本とか原発本とか、そういう形で読んだ人がどう感じるのかは正直よくわかりません。僕は、『言葉の塊』として、本書は凄く良い作品だと感じました。
音楽というものに絶妙な距離感、というものもいいと思うんですね。多くのアーティストが書いているように、震災直後、音楽というものの無力さを感じたという意見が多かった。それは、音楽というものが直接的に震災や復興というものと結びつかないからだと思う。だから多くのアーティストが、今そんなことしている場合なのか、と感じた。
その距離感の中で、原発の問題を語る、というのが、僕には凄くいいなと感じられました。これが、小説とか映画だとまた違った形になるだろうと思う。もっと直接的に原発の問題とリンクするのではないかという気がします。でも、音楽ってちょっと違って、もう少し離れたところにいる感じがする。だから、原発っていう、今まさに生々しさを放っているものを語るには、いい距離感な気がする。
それでいて音楽って、リアルタイムのフィードバックがあるのが面白いんだろうなぁ、って気がします。昔筒井康隆が新聞連載で、読者からの反応を小説に取り入れつつ連載を進めていく、なんていうことをやってたはずだけど(タイトルは忘れた)、それにしたって相当無茶な企画だったと思う。小説や映画っていう表現だと、リアルタイムで相手の反応を取り入れるということが出来ない。でも、音楽のライブってそれが出来る。それがまた、まさに生々しさを放っている事柄に対してのリアクションとして、音楽というのはありなのかもしれないなぁ、と感じさせてくれました。
個人的には、凄くあれこれと考えるきっかけを与えてくれる、凄く良い『言葉の塊』だと思います。僕は、たまにつけるテレビと、店内で流れる有線以外では音楽をまったく聴かないという人間で、フェスももちろん行ったことがないんですけど、本書を『言葉の塊』として捉えるならば、凄く良い作品だと思いました。是非読んでみてください。

講談社「公式本LIVE福島 風とロックSUPER野馬追 僕らは君たちの恋人になりに来た」



あがり(松崎有理)

内容に入ろうと思います。
本書は、北の方にあるとある街にある蛸足大学(色んな学部が蛸足のようにあちこちに散らばっている大学)を舞台にした5編の短編が収録された連作短編集です。明言はされないけど、著者の出身大学を考えると、あの街が舞台なんだろうなぁ、という感じがします。

「あがり」
生命科学研究所で共に研究をする幼なじみのイカルとアトリ。研究所内でたった二人しかいない女子の内の一人であるアトリは、研究所一の問題児と思われているイカルの同類と思われている。確かにアトリも、金魚鉢で金魚を飼ったり、恒温槽でうずらの卵を孵化させようとする変人だ。
イカルが尊敬していたジェイ先生が死んでしまってから、イカルはちょっとおかしくなってしまった。6つある温度反復機をすべて占拠して何かやっており、他の人の実験計画に大いに支障をきたしている。それを注意してくれと、二人の共通の指導教官に頼まれた。
イカルは、ジェイ先生の主張を裏付ける実験をしているようだ。
ジェイ先生は、生物進化の原動力となる自然淘汰は、あくまでも個体に対して働く、と主張していた。しかしそれに反対売る遺伝子淘汰論者は、個々の遺伝子はその数を最大にするために生物体を利用しているのだ、と。
ならば。もし遺伝子淘汰論者の言い分が正しいなら、ある一つの遺伝子がものすごくたくさん、ほかの遺伝子たちが追いつけないくらいたくさん増えたら、そこで『あがり』というわけで、進化は終わってしまうのか、と。それを確かめたいんだ。

「ぼくの手のなかでしずかに」
数学科に席を置く僕は、教養部時代からの友人で、理学研究科から医学研究科に入った変わり者から、お前なら興味を持つだろうという論文をもらった。確かに興味深い。
しかし、それを実行してみようと思った直接のきっかけは、ある日たまたま書店で出会ったある人物によるところが大きい。
一般向けの数宇学書の新刊を眺めることが習慣である僕は、その日も書店の数学書売り場にいた。そこで、素数分布予想に関する本を手に持っている美しい女性を見かけ、思わず声を掛けてしまった。
素数分布予想は、ぼくの生涯の目標の一つだ。300年以上誰にも解かれていない、数学界における超難問だ。ぼくはこれを解くことで、寿命を延ばそう。そんな野心を胸に秘めている…。

「代書屋ミクラの幸運」
代書屋というのは、研究者の代わりに論文を書いてあげる仕事だ。ミクラは、トキトーさんに引きずり込まれるようにして代書屋になった。一分野だけではなく、ありとあらゆることに関心があるミクラにとってはうってつけの仕事だ。まだ駆け出しで、トキトーさんほどの仕事は出来ていないのだけど。
学内で、『出すか出さないか法』と呼ばれる、3年以内に論文を一度も発表しない人間は即解雇という厳しい法律ができて以来、代書屋の存在価値は増した。今日呼ばれた文学部社会学科応用数理社会講座の教授も、どうにもならなくて代書屋に依頼するしかなくなったのだった。
その教授の生涯のテーマは、幸運と不運だ。数式にとって、近い将来であれば幸運と不運が起こるかどうか算出できる、という。どうにか掲載されるように頑張らねばならない。
ミクラがあまりその研究を信用していないと見て取った教授は、試しにとミクラの幸運と不運を算出する…。

「不可能もなく裏切りもなく」
おれと友人は、あと半年以内に論文を発表しなくては大学を追い出されてしまう。おれは、研究もだが教育も面白く、そっちにかまけている間に時間が過ぎて行ってしまったくちだが、友人は違う。論文を、書けないのだ。
おれは、友人が専門書を複写している場面で、論文のテーマを思いつき、友人に、共同で論文を書かないか、と持ちかける。研究というのは、立案・検証の準備・検証・結果の記録という四段階があり、貢献度が同じであれば、複数著者を第一著者として認められるのだ。友人は、自身で論文を書かなくていいというおれの申し出に喜んで乗った。
おれが考えたのは、遺伝子間領域に関する仮説だ。ヒトの全塩基配列は既に解読されているのだけど、その内実に9割以上が『がらくた配列』と呼ばれ、情報がまったくない部分だ。この壮大なムダが何故存在するのかは、遺伝子操作技術の勃興期に発見されて以来ずっと謎のままだ。
おれはこの遺伝子間領域に関して、画期的な仮説を思いついた。これは、遺伝子たまりと進化で読み解ける問題なのではないか?さっそく立案し、実験屋である友人に実験を頼む…。

「へむ」
少年は、ヒトと関わることが苦手で、クラスの中では浮いている。絵を描くことが得意で、周囲は遠巻きに一目置いているという感じ。少女は、自身を『永遠の転校生』と呼ぶ。他者に心を開くことのなかった少年は、少女にだけは関わった。
少女は少年を、母親が働く大学の研究室に連れて行く。そこには人体の骨があり、少年はその骨を丁寧に描写する。
大学の地下には、雨の日用に書く施設を渡り歩くための地下通路が発達していて、そこに『へむ』がいる。少年と少女は、時間さえあれば『へむ』たちと戯れる…。

というような話です。
いやはや。ちょっとびっくりしました!この作品、凄くいいなぁ。
著者は、理学部を卒業したいわゆるリケジョで、だから理系の研究室の雰囲気がものすごくリアルだ。僕は理系のくせに、研究室的なところに行く前に大学を辞めているんで、直接的にその雰囲気を知っているわけではないんだけど、きっとこういう感じなんだろうなぁ、という雰囲気が凄くいい形でにじみ出ている。
それを表現しようとすると、『研究室は、何かが起こる場所だ』となるだろうか。
世の中には様々な研究分野があるけど、特に理系の研究分野では、大学の研究室からすべてが始まる、ということが多い(他にも、企業の研究室なんて場合もあるだろうけど)。過去の様々な叡智も、大学の研究室から始まったものが多いだろう。時代や環境などによって様々違いはあるだろうけど、理系の研究所を取り巻く状況は決して豊かではないだろう。金はないし、設備も古い。それでも、そんな場所から、何かが起こり、何かが見つかる。本書の中で、研究をすることは物語を物語ることに似ている、というような感じの文章が出てきたけど、まさにそうだと思う。本書は、『物語が始まる場所』としての研究室の姿を、非常にうまく描き出している。そこがまず一番素敵だと思う。
科学を扱ったり、研究室を舞台にしたりする小説は、これまでも多くあっただろう。でも本書は、上記の理由で他の作品とは一線を画す。本書は、科学を中核に据えた物語、というわけではない。何かが起こる予感を孕んだ研究室という場を見事に切り取る作品なのだ。
それはこんな風に表現してもいいかもしれない。例えばサッカーという競技は、サッカーボールがなくては始まらないけど、でも観客はサッカーボールを見ているわけではなく、サッカーボールを追う選手の動きを見ている。本書もそれに近いものがあると思う。本書におけるサッカーボールは、科学だ。しかし、それは物語の核ではない。その科学という名のサッカーボールを追いかけたり蹴ったりしている人びとの動きを描き出す作品なのだ。だから、本書で描かれる科学そのものが理解出来なくても、致命的な問題にはならない。例えばサッカーの試合で、選手には見えるけど観客には見えないボールで試合が行われるとしただろうだろう。確かにボールが見えないことの不自由さはあるけど、それでも、試合はある程度充分に楽しめるのではないだろうか。本書はそういうイメージで読んでもらえたらいいかな、と思います。
というのも、実際本書で扱われている分野って、かなり高度だったりします。遺伝子だまりがどうとか、遺伝子間領域がどうとか、あるいは数学だけどリーマン予想の話なんかも出てきます。それぞれについて、理系の人ならまだしも、文系の人は理解することはおろか、ものによってはイメージすることも出来ないだろうなと思います(特にリーマン予想)。それでも、臆することはありません。本書は、それらそのものがメインというわけではありません。
本書は、表題作である「あがり」で第一回創元SF短編賞を受賞した著者の作品なわけですが、実際のところ「あがり」以外はあまりSFという感じはありません。
「あがり」は、SF読みではない僕にはきちんと評価は出来ないだろうけど、なかなか面白い設定のSFだと思いました。この作品こそまさに、『何かが起こる予感を孕んだ研究室』という雰囲気をうまく醸し出しているからこそ成り立っているのだろうな、という気がします。なかなかの荒唐無稽さという点ではSFチックだけど、本書のような雰囲気の中で描かれると、もしかすると?という気がしてしまうところが凄くいいです。
「ぼくの手のなかでしずかに」と「代書屋ミクラの幸運」と「不可能もなく裏切りもなく」はまったくSFではありません。
「ぼくの手のなかでしずかに」と「代書屋ミクラの幸運」では、淡い恋愛が描かれているところがなかなか面白いですね。この二つにはあまり、『何かが起こる予感を孕んだ研究室』という雰囲気はないんですけど、とにかく全体的な雰囲気が素敵な作品です。研究というもののもつ先の見えなさみたいなものと恋愛がなんとなく淡く重なり、研究者というどうしようもない世界を身を置いていることの悲哀みたいなものが感じられる作品です。
そして「不可能もなく裏切りもなく」です!僕の中でとにかくこの作品はメチャクチャ素晴らしいと思いました!ちょっとビックリしたなぁ。本書の中で、ダントツにいいと思います。
まず、遺伝子間領域に関する仮説が面白い。「あがり」に出てきた仮説もなかなか面白かったけど、この遺伝子間領域に関する仮説は、ホントに実際そうなんじゃないか?と思わせるものがありました。この仮説って、実際に検証されたりしてないのかなぁ。既に実験が行われてて否定されているなら仕方ないけど、そうでないなら、この仮説、すっげー面白いと思うんだよなぁ。著者のオリジナルなんだろうか。だとしたら凄いなぁ。
そしてそれよりも何よりも、おれと友人を取り巻く、本当に狭い狭い世界でのどうにもならない関係性みたいなものが本当に素晴らしかった。これは本当にうまく説明できなくて、雰囲気がいいとしか言えないんだけど、遺伝子間領域の仮説以外の部分はほんとさほどなんてことない物語の展開だと思うんだけど、ブワッと立ち上るものがある。研究者同士だからこそ通じる感覚、そしてその大学で研究をしている者同士だからこそ通じる感覚が、読んでいるものを遠ざける、その感覚がまた凄くいいと思う。その場に身を置いていない人間には到底届かない感情の深さみたいなものをほんの一瞬だけど見えるようにしてくれている感じがたまらない。新人でここまで書ける作家ってホント凄いなと思います。
最後の「へむ」は、ちょっとファンタジックな感じを取り込んでいて、それまでの作品とはかなりタイプが違っている。子供が主人公というのも大きな違い。でも、他の作品と世界観は共通していて、これだけ違うタイプの作品でも同じ雰囲気を漂わせることが出来ることに驚きました。この作品を単体で読んだらそこまで強く評価はしないかもしれないけど、本書の中の一作として収録されていることで、凄く良い収まりを獲得しているというような、そんな印象を受けました。
さてちょっと時間がないので駆け足で行くと、本書のもう一つの特徴は、横文字がまったく出てこない、ということ。横文字で出てくるのは人名のみで、後はすべて和名で書かれている。たとえば、

「電子レンジ」→「電磁波調理器」
「リーマン予想」→「素数分布予想」
「コンクリート」→「人造石灰岩」

というような感じです。
これがまた、作品の雰囲気に合っているんですね。この雰囲気を醸し出すために意図的にやっているのか、それとも横文字を使うのがただ嫌いなだけなのかはちょっと分からないけど、本当にうまく雰囲気に合っていると僕は感じました。こういうことを、小手先の目新しさを出すためにやるような新人とかもたまにいるような気がするけど、本書の場合はそんな感じはまったくありません。意識的にせよ無意識的にせよ、横文字を使わないという選択は正解だったなぁ、と思います。
SF作品にしか見えないでしょうけど、SFっぽいのは表題作だけです。本書は基本的には、『物語が始まる場所』としての、『何がが起こる予感を孕んだ』研究室という場所の雰囲気を濃密に立ち上らせている作品です。またちょっと凄い新人が出てきたものだと思います。是非読んでみてください。

松崎有理「あがり」




「本屋」は死なない(石橋毅史)

この本について何か書くことはハードルが高すぎる。
Wordに感想は書いたけど、これをネット上にあげたり、誰かに読んでもらったりすることはきっとないだろうな。
色んな意味で考えさせられる作品です。出版・書店業界に興味があるという方は是非読んでください。

石橋毅史「「本屋」は死なない」

預言者ピッピ2巻(地下沢中也)

内容に入ろうと思います。
昨日感想を書いた「預言者ピッピ」の2巻目です。
さて、この2巻目の内容をどこまで書くか、ってのは難しいですよね。僕は1巻の内容についても、中盤以降についてはほとんど書かなかったので、その状態で2巻の冒頭だけでも説明しちゃうと、なんだかよく分からないことになりそうです。1巻を読んでない人が、僕が書いた2巻の感想を読んじゃってネタバレになるのも嫌だし。とはいえ、何も内容に触れないと何も掛けなくなるんで、どうにか色々ごまかしつつ、自分の中でここまではいいかというギリギリのラインまでは書いてみようと思います。
ピッピは、その能力が解放されたために、様々なデータにアクセスし、そしてついに、ちょっととんでもない預言をする。それはあらゆるマスメディアで取り上げられ、その預言の対象となった人物は一躍時の人となった。その人物は、絶対に預言なんか当たらないと余裕の表情だが、世間はピッピの預言が当たると見ている。
一方研究者たちは、『ピッピがなぜそんな預言をしたのか』という点に関心を寄せる。するとピッピは、さらに驚くような未来予測を展開してみせたのだ。それは、誰しもがすんなりとは受け入れられない、というか、ピッピの発言をそもそも理解することが出来ないような超絶的な預言であり、研究者の一人は、ピッピの預言を再検証すべく、ピッピと似た、しかしピッピとは違った特性を持つロボットを作る。しかしそのロボットも、ピッピの預言に間違いないと断言してしまう。
一方で、船上で人間の言葉を喋り始めたサルは、アメリカに連れてこられ研究対象となった。何故サルが喋るようになったのか。エリザベスと名付けられたサルは、時に人間を超える感情や行動を見せる…。
というような話です。
いやー、やっぱり凄かったです2巻も!ホント、続きが気になって仕方ないなぁ。続巻が出るのに4年掛かってるから、3巻が出るのがいつになることか…。
1巻からなかなか深い物語だと思っていましたけど、2巻を読んだ今は、1巻はまだまだ序章だったということがわかりました。1巻は、どちらかと言えば『ピッピ』という存在の紹介、というような位置づけの巻で、ストーリーそのものはあまり進まなかった感じがします。『ピッピ』という異物が世の中に存在する時、世の中はどう反応しどう変化し何が起こるのか、という部分が中心でした。
しかし2巻では、ストーリーが一気に進んでいくことになります。これがまたスリリングだ!
ピッピの預言は二つに分けることが出来る。具体的には書かないから、『小さな預言』と『大きな預言』と呼びましょう。『小さな預言』も、別に小さくはないんだけど、『大きな預言』と比べると圧倒的に小さい、という意味で使います。
『大きな預言』の方も、非常に謎めいている。ここでは、ピッピのある種の限界が描かれていて、それも物語に大きな謎を浮かべている。未来を完全に正確に予知することが出来るはずのピッピは、何故ああいう状態になるのか。それも非常に気になるのだけど、残念ながら『大きな預言』の方は、この巻では凄く大きな進展があるわけではない。今後の巻に期待、という感じです。
本書で大きな問題となるのが、『小さな預言』の方です。これが凄い!確かに1巻で、タマゴを使った実験をやっていた。しかしそれでも、このピッピの『小さな預言』には無茶があると思った。どうやったらそういう条件が可能になるのか、まったく想像が出来なかった。
想像が出来ないものに対して、『想像以上に』という表現を使うのは明らかにおかしいのだけど、でも使わせてください。この『小さな預言』の顛末は、本当に想像以上の出来事でした。まったくもって意味が分からない。これに合理的な説明をつけることが本当に出来るのだろうか?と不思議で仕方がない。色んな点で謎めいている。1巻では、ピッピという存在の不可解さで読者を引っ張っていったが、2巻に入って一気に、物語で読者を引っ張るようになった。この著者の他のマンガはほとんど読んだことがないからわからないけど、著者紹介には『主に短編ギャグのフィールドで活躍してきた』と書いてあるから、本書は著者の作品では結構珍しい方なんだろう。この、ページをめくるたびにざわざわさせる感じは見事としか言いようがない。
本書ではストーリーで読者を引っ張る感じになっているけど、1巻に引き続いて、哲学的な思考というのがあちこちに出てくる。これがまた非常にいい雰囲気を醸し出している。最強の知性を前に、人間の存在は霞む。しかしそれでも、人間が生きることに意味はある。そう信じる人間だけが、ピッピと対峙出来る。そうでなければ、ピッピほどの知性を前に正気ではいられないのではないか。
1巻では、ピッピのキャラクターをより強く印象づけるという効果を持つ哲学的なセリフや状況が、今度はストーリーを加速させるための装置として機能している。素晴らしい。ここまで哲学的な問いかけに満ちた物語だとは想像もしなかったので、本当にビックリしたし、こういう話が好きな僕としては、物凄く興味深い作品です。
本書で僕が特に好きなシーンが二つある。そのどちらも抜き出してみようと思うんだけど、まず長い方から。

『わたしの息子のタミオは…タミオは探究心旺盛な子供だった。いつでもなんにでもなぜ?なぜ?と知りたがった。疑問はいつまでも果てることなく、わたしはそんな息子を美しいと思った。(事情により中略)タミオには無限の想像力があったよ。くだらん常識などにとらわれない自由な創造の翼を持っていた。そこにはたったひとつの決まった答えなどありはしない。考えること、想像することは、いつの日か現実になるとピッピは言った。それなら、不可能などすべて想像の中で可能にしてしまえばいい。できないことなどないのだと思えばいい』

意図的に文章を省略したので、1巻を読んだ人でも、これがどんな状況で誰に言った言葉なのかわからないだろう。このシーンは非常にいい。このセリフそのものもそうだけど、これを言った科学者の心中を想像すると、余計に言葉に深みがます。またこれは、個人との関わりだけではなく、科学との関わりとの関係でもある。どんな状況であっても諦めず、自分の信念を信じ、不可能だと断じないその姿勢は、まさに科学者の鑑だ。
さてもう一つの好きな場面。

『あなたがもし考えることをしない人間なら、いったいあなたは何のために人間なの?』

これは発言内容から、誰が言ったセリフか分かってしまうかも。
僕は1巻の感想で、こんなことを書いた。

『僕は最近いくつか新書を読んでいて、そのどれもが僕に『自分の頭で考えろ!』と強く訴えかけてくる。それぐらい、今の日本は(僕も含めて)自分の頭で考えない人間が多い。その怖さを、本書が増幅して提示して見せてくれた。そんな気がします』

2巻で、まさにそれに近い言葉が出てきました。本当にそう。『小さな預言』に関しても、自分の頭で考えない多くの人間が現れる。冷静に考えれば疑問の余地はいくらでもあるはずの事柄を、ピッピの預言だ、というだけの理由で信じる。自分はそんなことはない、と言い切れる人がいるだろうか?みのもんたが勧めれば無条件で信じる、という行動はある程度の年齢以上の女性ならよく見られる行動だし、みのもんたに限らず、『この人が言っているなら正しいだろう』と無条件に信じてしまう相手というのは誰にでもいると思うんです。それが本書の世界では、たまたま世界中が一致してピッピだった、というだけのことであり、これは不思議なことでもなんでもないな、と思います。
僕たちはもっと、自分の頭で考えなくてはいけない。『正しそうに見えるもの』と『正しいもの』はまったく違う。ピッピのように、ありとあらゆる知識を持つことが出来るわけではないにせよ、『検討することなく物事を無条件に信じるのを止める』という態度を身につけることが出来れば、少しは情報に短絡的に飛びつくこともなくなるのではないかと思うのです。
まあでもそれはなかなか難しい。また引用すると、こんなセリフが出てくる。

『人間は自分が信じたいものを信じるんだよ。たとえそれが間違っていても。圧倒的な科学知識を手に入れた現代人が、昔のひとに比べて圧倒的に成長したかといえば、そんなことはないと思うんだ。あいかわらず、自分の信じたいものだけを信じていると思うんだ。それが間違いかどうか確かめることさえしないままに』

本当にその通り。僕たちはどうしても、信じたいものを信じる。どんなに『正しい事実』が目の前にあろうと、それを自分が信じることが出来なければそれは自分にとって事実ではないし、どれだけ『間違った事実』が目の前にあろうと、それを自分が信じることが出来れば、それは自分にとっては事実です。
最近本当によく思うのだけど、世の中には『間違った知識』や『正しくない知識』が多い。もちろんそれらは、『僕の持っている知識の範囲内で判断できる事柄』であって、僕も、自分の知識がまるで追いつかない分野では、『間違った知識』や『正しくない知識』を無意識の内に信じてしまっているのだろうと思う。
書店で働いていると、明らかに科学的に間違っているとか正しくない知識が書かれているものがある。そして時にそれが爆発的に売れてしまったりする。その本を売ることに僕は非常に強い罪悪感を抱くのだけど、売れている本を売らないわけにはいかない。
『売れていること』と『本の内容が正しいこと』に、あるいは『テレビで紹介されたこと』と『本の内容が正しいこと』に関係はまるでないのだけど、そう錯覚してしまう。それは、自分の頭で考えていないということだよなぁ、と思う。少しでも疑う力があれば、『この本は怪しいな』とすぐ分かるはずなのだ。でも売れてしまう。『信じたいものを信じる』生き物だからなのだろう。
という感じで取り留めもなくあれこれ書いてみたけど、あれこれ書いてみたくなるような作品なんだよなぁ。ホントに凄い!コミックをたくさん読んでいるわけではないからちゃんとした比較は出来ないのだけど、それでも、本書は僕がこれまで読んできたコミックの中でダントツの1位だし、オススメのコミックを聞かれたら本書を勧めようと思っています。
ストーリーもピッピの存在も凄く濃いのだけど、それ以上に、作品全体に漂う『よくわからなさ』に凄く惹かれます。答えが出ない、あるいは存在するのかどうかも分からないような哲学的な問いかけや状況というのも結構あって、そういう話が好きな僕としてはかなりお気に入りの作品です。是非この衝撃を体感してみてください!

地下沢中也「預言者ピッピ 2巻」


預言者ピッピ1巻(地下沢中也)

内容に入ろうと思います。
珍しく続けてコミックを読んでいます。
主人公は、ピッピ。タミオといつも一緒にいて、二人は仲良し。
二人はいつも一緒にいて育ったけど、二人には大きな違いがある。
ピッピは、未来を予知出来る。
ピッピは、科学者が総力を結集して作ったロボットだ。例えばピッピは、パチンコ台のようなものに卵を落とし、どういう経路を卵が通るのか、正確に予測することが出来る。卵の初期状態におけるありとあらゆる情報を収集・分析し、それらを数学的・統計学的に処理することで、未来がどうなるのか完璧に予測出来てしまうのだ。
ピッピは、日本の地震研究所で管理されている。そして、ピッピに直接入力される情報(たとえばタミオと喋ったりしたことなど)以外は、地震に関係する情報しか入力されないように厳しく管理されている。人間は、技術的にはクローン人間を作り出せるけれどもそれをしないように、ピッピはありとあらゆる未来予知が出来るのだけど、地震予知だけに留めておくよう科学者は自分たちを戒めているのだ。
しかし、ピッピを取り巻く状況はどんどんと変わっていく。
ピッピは地球上でたった一体しかない、前例のない存在だ。そのピッピが、前例のない状況に次々と置かれていく。人間は、ピッピを使いこなすことが、管理しきることが出来るのだろうか…。
というような話です。
これはメチャクチャ面白い!凄いなこの作者。ちょっとびっくりした。
僕がこの著者のことを知ったのは、「コミックいわて」という、岩手県が発行したアンソロジーコミックです。岩手出身・在住の漫画家の作品を集め、岩手県が発行するというなかなか斬新な企画で、本書の著者である地下沢中也も「コミックいわて」に作品を書いていたのでした。
僕は「コミックいわて」に掲載されている作品の中で、地下沢中也の作品が一番気になりました。話としてはまったく理解不能で、なんだかよくわからないまま終わったんですけど(褒めてるんですよ、これ!)、メチャクチャ気になる作品でした。
それで、地下沢中也の作品が気になると言ったら、この「預言者ピッピ」を教えてもらえたのでした。
僕の場合本当にタイミングがよかったんです。「預言者ピッピ2巻」がつい最近発売になったんですけど、実はそのお陰で1巻が重版されたのでした。もし2巻が出るタイミングでなかったら、僕は1巻を手に入れることは出来なかったでしょう。なんだか凄くいいタイミングだったなぁ、と思いました。
本書の何がいいのか、というのは、非常に伝えにくい。マンガなのに、という表現はマンガに失礼かもしれないけど、普段マンガを読まない僕としては、マンガという土俵でこんなに深く考えさせられる物語が存在するんだなぁ、とか思ってしまいました。
ピッピの存在は、麻薬のようなものです。ピッピの能力は、未来のありとあらゆるすべての予測を完璧に正確にすることが出来る。麻薬のように、それは危険な存在だ。麻薬は、人間に多大な快楽を与える。そして、一度依存してしまうと、それなしで生きていくことが難しくなる。
ピッピの存在は、多大な快楽を与える。それは、『未来を知ることが出来る』という、ただそれだけの単純な快楽ではない。ピッピの存在が、どんな快楽を引き起こすことになるのかは、是非本書を読んでほしいのだけど、なるほど、という感じだった。ピッピの予言が引き起こす快楽は、ちょっと後戻り出来そうにないほど恐ろしい。そしてそれは、ピッピの不在を許さないほどの強いものになる。
そう、『ピッピの不在が許されなくなる』ということが、ピッピの存在の最大の問題であり、最大の魅力である。例えばすでに、携帯電話というものの不在は、僕らの世界では許されないだろう。突然携帯電話の使用が禁止されるとか、製造が中止されるなどしたら、世界中からとんでもないブーイングが来るだろうし、暴動だって起こりかねない。
ピッピは、携帯電話と比較にならないほど、その『不在』が許されなくなる。
何故ならピッピは、『人を救う』ために作られ、存在し続けているからだ。
この、『人を救う』というのも、非常に難しい問題をはらんでいる。
本書では、こういうセリフが要所要所で出てくる。

『なぜ目の前の救えるものを救わないの?』
『それじゃあ君は、今目の前の救えるものを、救わないというのか?』

これは僕には、終末医療や移植なんかを通じて、今の僕らでも充分直面しうる問題だと思う。
例えば自分の両親が自宅で倒れたとする。過去既に何度も同じような状態になり、その度に救急車で病院に運んだ。既にかなりの高齢で、抱えている症状が好転することはないとしよう。
そこで、この問いを突きつけることは出来る。『目の前の救えるものを救わないのか』と。
現代の医療をもってすれば、そのまま生かし続けることは可能だ。病状は好転しないものの、点滴やらなんやらで死の淵から引き戻すことは出来る。しかし、それは死のギリギリのところに留めているというだけの話であって、果たして救っているのか。
またこんな例も考えられる。
日本では、正確には覚えていないけど、まだ臓器移植はきちんとした形で認められていないのではなかったか(そのために、海外に治療に行くというような人が時折ニュースになる)。臓器移植をすればほぼ間違いなく助かる命があり、しかもその患者にぴったりと合ったドナーも存在するとしよう。しかし、日本の法律が国内でその臓器移植を許さないとしたら。技術も環境も、目の前の命を救う体制が整っているのに、それが許されない。
ピッピの存在も、そういうものに近いような感じがある。ピッピはその能力を使い、様々な形で人の命を救うことが出来る。地震予知、という形で既に多くの人を救ってはいる。しかし、ピッピの能力を最大限に活かせば、もっと広範囲で、もっと色んな形で人々を救うことが出来る。
だから本書では繰り返し問われる。
『目の前の救えるものをなぜ救わないのか』と。
これは、ピッピの能力を最大限に使うことに反対するとある科学者に向けられる言葉だ。その科学者は、ピッピの能力を解放することで、直接的に自らが利益を得ることが出来る立場にいる。しかしその科学者は、それが分かった上で、それでもピッピの能力を解放することに反対する。
その立場は、凄くよくわかる。僕もその科学者と同じ立場だったら、自らの良心に従って、ピッピの能力の解放には全力で反対するだろう。
印象的な言葉がある。あんまり内容を引用してこれから読む人の興を削がない方がいいのだろうけど、次の二つだけ。

『我々には迷う自由も間違う自由だってあるはずなんだ。しかしそれすらなくなるよ。行う前にそれが充分間違いだとわかったなら。考える前に答えが出てしまったなら』

『問題は人間だ。問題なのは我々人間が、答えのない説明のつかない問題を不安なままずっと持ち続けるよりも、たとえ証明されていなくてもいいから、とりあえずなんらかの確信を持てる方に簡単に安心を感じてしまうこと。まだ訪れてもいない未来をまるで現在と同等に扱って、すでに決まった運命には従うしかないとあきらめてしまうこと』

これは非常に重い言葉だと思う。僕たちの世界には、まだこういうセリフがぴったりくるような状況というのは存在しない。唯一、狂信的な信者を有する宗教団体はそれに近いかもしれない。教祖の言葉を『必ず起こるもの』と信じることで、ピッピの予言と大差ない状況を生み出すことが出来るけど、僕にはなかなかそういう環境も想像出来ない。
迷う自由も間違う自由もある、というのは、その通りだと思う。ありきたりの表現だけど、未来はわからないからこそ面白いし、僕らは生きていける。未来が確定してそれを知った上で、僕らは生きていくことなんかまず出来ないだろう。それがどんなに素晴らしい未来であったとしても、未来が分かってしまっている、という事実が、未来を一瞬にして曇らせてしまうだろう。
そして何よりも、後者のセリフの重さは凄い。これは、未来の話として読まなければ、近い状況を想定することが出来る。
例えば、東日本大震災や福島第一原発の人災などだ。
まさにこれらに直面した人々の多くは、『問題なのは我々人間が、答えのない説明のつかない問題を不安なままずっと持ち続けるよりも、たとえ証明されていなくてもいいから、とりあえずなんらかの確信を持てる方に簡単に安心を感じてしまうこと』という状態に陥らなかっただろうか。それがまるで根拠のない、むしろ悪影響を及ぼしかねない情報であったとしても、『健康に良い』『放射能を防げる』と喧伝されていれば、たとえそれが証明されていないことであっても、信じるという確信とともに、簡単に安心を感じてしまう。まさに同じ状況だ。
あの震災と原発の事故の際の、ありとあらゆる人の不安や揺らぎや混乱などを見ていると(もちろん自分も含みます)、もしピッピが現実にいたとしたら、本書で危惧されているような状況にあっさりと転んでしまうだろう。ピッピという、『絶対に未来予知を間違えない存在』というのは、そういう様々な意味で危険な存在だ。
しかし、欲や権力や金に目の眩んだ連中は、そういう危険性に目を瞑る。これも、原発事故と似たようなところがある。ピッピを管理する委員会は、科学者の反対にも関わらず、あっさりとピッピの能力の解放を決めてしまう。それがどんな自体を引き起こすのか、精密な検証をすることもなく。
全能に近い能力を手に入れたピッピは、もはや人間の手には追えなくなってしまう。ピッピの能力を解放したような連中は、所詮ロボットなんだから、自分たちが管理できないはずがない、と高を括っているのだろう。しかし、物語はどんどんと不穏な展開を見せる。唐突に現れたと思える、船上のサルの物語も進行する。物語がどんな風に進んでいくのか、全然分からない。
本書は2007年5月に発売された。2巻がつい最近発売になったから、実に四年半ぶりに続きが出たということになる。待ち望んでいた人はきっと多かったことだろう。僕は、すぐ読める。これは幸運だなぁ。
凄い物語です。マンガを読んで感動する、ということは、これまでの僕の人生にはありませんでした。マンガのことはよく分かりませんが、コマ割りが凄いとか絵がムチャクチャ上手いとか、そういう感じはないような気がします。でも、なんだか落ち着かないような、心をざわつかせるような物語を描く。そしてそれは、3.11よりも後に読んだから、という理由も大きいのかもしれない、と思う。僕は最近いくつか新書を読んでいて、そのどれもが僕に『自分の頭で考えろ!』と強く訴えかけてくる。それぐらい、今の日本は(僕も含めて)自分の頭で考えない人間が多い。その怖さを、本書が増幅して提示して見せてくれた。そんな気がします。是非読んでください!これから僕は、オススメのコミックはなんですか?と聞かれたら『預言者ピッピ』と答えることにします。

地下沢中也「預言者ピッピ 1巻」




地下沢中也「預言者ピッピ1巻」

夜明けの図書館(埜納タオ)

内容に入ろうと思います。
本書は、僕が読むにしては珍しくコミックです。
舞台は暁月市立図書館。新米司書として配属された葵ひなこは、慣れない図書館業務にてんてこまいになりながら、難問であるレファレンス業務に力を入れている。
レファレンス業務というのは、利用者からの漠然とした問い合わせだ。本のタイトルや著者名などで本を探しにくるのではなく、こういうことが載っている本、こういうことに使える本、というような感じで問い合わせがくるものを、様々な形で対応していく業務です。市役所から出向で来ている、庶務経理担当の大野さん、情報サービス担当の石森さん、葵と同じく司書の小桜さんなどと共に、かなり難問のレファレンスに立ち向かう人々を描いた作品。

「記憶の町・わたしの町」
80年前の郵便局が写った写真が載っている本はないだろうか、という問い合わせ。かつて家の事情で叔母の家に預けられていたその人は、当時自分と遊んでくれた郵便局員のことをよく夢に見るのだという。

「父の恋文」
時田春恵50歳は、物置を整理中、亡き父が遺した手紙を発見する。迷惑ばかりかけ通しだった父。くずし字で書かれた手紙を解読してやろうと思い立って図書館に向かう。
くずし字の辞典で調べるも、冒頭だけで恋文だと分かってしまった春恵は、解読を放棄する。しかしその後、再度解読に当たることにした春恵から、葵はその手紙の解釈を問いかけられ…。

「虹色のひかり」
子どもが、というよりも、図書館業務全般が得意ではない大野は、「ぼく、嘘つきじゃない」という子どもの相手をすることに。なんでも、自分の影が光るのを見た、と言ったところ、クラスメートたちから嘘つき呼ばわりされたというのだ。真剣に取り合うつもりはなかった大野だったが…。

「今も昔も」
相野かなえは、ふと耳にした都市伝説に囚われている。あかつき橋で満月の夜に振り返ったら、あなたの大切な人が消えてしまう、という噂だ。その真偽を知りたい、という難問だったが、あっさりその元の話は見つかる。しかし、やっぱり噂通りのことが書かれていて落ち込むかなえを見た葵は…。

というような話です。
これは素敵なコミックでした。普段あんまりコミックは読まない人間なんで、コミックを結構読む人からしたらどうなのかはちょっと分からないんですけどね。
僕自身が書店員だから、というのも関係してくるかもしれません。書店員も司書と同じく、お客さんから色んな問い合わせを受けます。中には本書で描かれているような、こういう感じの本、というような問い合わせもあるんですね。
でも、言い訳だけど、これがなかなか難しい。質問に答えること、が難しいのではなくて、質問に答える時間を捻出するのが難しいんです。
司書の方も、そりゃあ他の時間に追われて時間はないでしょうけど、書店員もなかなか時間はない。毎日どっさりやってくる本を並べたり、他にも色んなことをしなくちゃいけない。だからこそ、問い合わせ一つに物凄く長い時間を割けるかというと、結構難しい。
もちろん、タイトルを言われて、その在庫の有無だけ答えているような仕事は嫌だなぁ、とよく思います。でもやっぱり、調べるのにも限界がある。それに、図書館の場合なら(もしかしたら違うかもしれないけど)、『図書館内にある本の中から最適なものを見つけ出す』ということではないかという気がするんです。ただ書店での問い合わせの場合、問い合わせの内容によっても変わるけど、『世の中に出版されているありとあらゆる本の中から最適なものを見つけ出す』という問いかけであることもあります(もちろん、今店内に在庫があるもので探す、という問い合わせもあるのだけど)。そうなると、もうどう探していいのかかなり難しいですよね。
また、これは本書を読んでからのイメージだからまた間違ってるかもしれないけど、図書館では『漠然とした問い合わせの場合、特定の本が聞かれていることは少ない』のではないかというイメージがあるんだけど(本書でも、くずし字が読めるようになる本など、特定の本を指しているわけではない問い合わせがほとんど)、書店の場合、『漠然とした問い合わせだけど特定の本が聞かれている』ってケースが結構あるんですね。タイトルも著者名も出版社も何も覚えてないけど、特定のある本を探している、というケースが。そうなると、これがまた難しい。
まあそんなわけで、司書と書店員ではちょっと問い合わせに対するスタンスみたいなのが違ったりするかもしれないけど、でも僕も、出来ればお客さんの問い合わせには答えてあげたいと思うんで、本書はなんか凄くよくわかるなぁ、という感じがしました。
話も、全部レファレンス業務なんだけど、少しずつ違っている。「記憶の町・わたしの町」では、探している本にたどり着くまでの過程を、「父の恋文」では、司書の仕事の範囲を逸脱した解釈の手伝いを、「虹色の光」では、それぞれの成長を、「今も昔も」では、本の持つ可能性や奥深さを伝えている感じで、話ごとに違った工夫をしていてよかったなと思います。
また、レファレンス業務だけではない部分での、図書館の細部みたいなものがちょろっと描かれていて、そういうのも面白いです。僕は、結構本を読んでるくせに、図書館に入り浸った経験ってのがあんまりなくて(本を借りて読むってのが苦手で、学校の図書館なんかにもほとんど行かなかった)、大学時代は調べ物とかで仕方なく行ったけど、大学の図書館って本書で描かれているような感じとちょっと違うから、図書館の裏側っぽいものが垣間見れてよかったなぁと思います。
どの話もかなりよかったんだけど、個人的に好きなのは「虹色のひかり」かな。この話で大野が子どもにバシッというセリフが凄くいいんだよなぁ。大野自身の葛藤も描かれていて、話としてはこれが一番好きだなと思います。
本が好きな人、図書館によく行く人、図書館や本屋で問い合わせをしたりする人なんかにはかなり面白く読めるんじゃないかな、という感じがします。是非読んでみてください。

埜納タオ「夜明けの図書館」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)