黒夜行

>>2011年09月

ここにないもの 新哲学対話(野矢茂樹)

内容に入ろうと思います。
本書は、絵本のような感じの哲学本です。かなり大きい字で書かれていて、いとう瞳さんって方による抽象画っぽい挿絵がところどころにある、という感じです。
ミューとエプシロンの二人が、哲学的なあれこれについて会話をしている、という内容。ミューは、自分の考えていることをうまく言葉には出せないけど、時々鋭いことを言ったり、何気ない発言がヒントになったりする。哲学的な会話の発端となる疑問を提示するのは大抵ミューの方。
一方エプシロンは、言葉であれこれ考えるのが得意。本書の中で、哲学的な思考を担っているのは、このエプシロンの方だ。エプシロンもミューと同様、世界のあり方について疑問を持ったりしているのだけど、ミューの疑問の持ち方は『純粋な疑問』であるように見えるのに対して、エプシロンの疑問の持ち方は、『思考する対象を見つけるための疑問』という感じがする。
二人はそれぞれ、自分が持っていることが、自分が理解できる概念、そういったものをお互いに擦り合わせていきながら会話を続ける。答えらしきものはそれなりにはある。でもそれは、『ミューとエプシロンが会話の末に辿りついた答え』だ。それが、読んでいる人間の答えである必要はない。哲学の問題というのはそういうものだし、本書で扱われている五つのお題もそういうものだ。重要なのは、思考の過程。どんな議論を経て、二人はその結論に辿りついたのか。その過程こそが大事。
だからこそ、哲学の本を読んだ時は大抵そういう風にしているつもりだけど、本書については、内容を詳しく書いたりはしない。結局ブログで僕が書けるのは結論のようなものぐらいで、でもそれだけ抜き出したって仕方ない。大事なものは、そこに至る過程の方にある。
本書で話される話題は次の五つ。

『「人生は無意味だ」って、どういう意味なのだろう』
『十年前のぼくも、ぼくなんだろうか』
『ことばで言い表せないもの』
『自分の死を想像することはできるか』
『未来は存在しない?』

どうだろう。結構、似たような疑問を感じることがあるのではないだろうか?
本書を読んで、それらの疑問に対して納得できるかどうかはわからない。さっきと同じようなことを書くけど、本書は、『こんな風に哲学の話をしてみたら?』っていうそのやり方を提示してもくれている気がする。ミューとエプシロンは、時々ただ哲学とは関係のない雑談をしているように感じる。でもそれが、後々関係してきたりするし、重要なヒントになったりする。もちろんこの作品はお話だから、都合のいいようにそういう会話が作られているのは当然だ。でも、実際にそういうことってある。問題となっていることを真正面から考え続けていると、行き詰まる。でも、とりあえず脇道にそれてみたり、関係のない話をしていたりすると、案外、さっき行き詰まった問題に関わってきたりする。そういうのって面白い。
僕はこういう、抽象的なやり取りって凄く好きだ。好きなんだけど、そういう会話が出来る相手ってほとんどいない。二人思い浮かぶ人がいるんだけど、でも僕を入れた三人で話すテーマは、『何故人は生まれたのか?』ってことだけだ(二人のウチの一方が、それに異常に関心があるため)。だから、他の抽象的なテーマで話をしたことは、たぶんない。
こういう抽象的な話って、特に結論が出るわけでもないし、自分が無意識の内に抱えている『前提』をきっちり見つめなくちゃいけなかったりして、会話として面白くないと感じる人の方がきっと多いんだろうな。僕はエプシロンのように、『純粋な疑問』を感じることはほとんどないんだけど、『思考のための疑問』を感じることは結構あって、だからこういうことを考えるのは結構好き。だから、ミューみたいな人がいてくれたら、結構本書のような会話が出来るんだろうなぁ、とか思うんだけど、正直、ミューみたいな『純粋な疑問』を持てる人って方がかなり希少だから、難しいんだよなぁ。
内容についてはほとんど触れないつもりなんだけど、『「死」というのは内側がない概念だ』というのと、『死ぬことが怖いのは、死ぬことが怖いんじゃなくて、生のわからなさが抹消されてしまうのが怖いのだ』って話は、本書の中でも特になるほどと思えた。あと、『ご飯の味論法』は凄く面白いしわかりやすい。なるほどなぁ。
なんか内容には触れないと決めた時点で、ブログの感想に書けることがほとんどなくなっちゃうからこんな感じの感想だけど、僕は結構好きです、この本。相当頑張らないとだけど、頑張れば子供でも読めるかもしれない。僕は本書をエプシロン的な立ち位置で読んだけど、子供が読んだらきっと、ミュー的な立ち位置に立って読むんだろうなと思う。それはそれできっと、また違った読み方が出来るんだろうな。本書はきっと、どんなタイミングで読むか、によっても、きっと感じ方が大分変わるだろう。それは、抽象度が高いから、そこに自分自身を投影させやすい、ってことなんだろうなという気がする。だからこそ、自分がどんな状態であるのかによって、本書の感じ方は大分変わるんじゃないかなと思います。
ちょっと前に同じ著者の、「哲学航海日誌」って本を読んだことがあったんだけど、そっちはべらぼうに難しかったんだけど(凄く刺激的で面白くて、いつかまた読みたいと思わされる本だったんだけど)、本書は、決して難しくないわけではないけど、とっつきやすい作品だと思います。哲学の本って結構好きで、多少読んではいるんだけど、本書は『読みやすさ』という点では一番オススメです。是非読んでみてください。

野矢茂樹「ここにないもの 新哲学対話」



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絶叫委員会(穂村弘)

内容に入ろうと思います。
本書は、著者が見聞きした印象的な言葉とともに、その言葉に考察を加えている作品です。巻末で著者が書いている文章を抜き出すとこんな感じ。

『名言集的なものをやってみようという意図で始めたのですが、実際に書き進むうちに、名言というよりはもう少しナマモノ的な「偶然性による結果的ポエム」についての考察にシフトしていきました。』

本書には色んな言葉が出てきてきて、瞬発力的なインパクトで惹きつけるものや、一瞬わからないけどじわじわくる言葉、言葉としての使われ方がどうなんだろうと疑問を感じさせるものなど色々です。そういう色々なものについて、言葉に対して独特の感覚を持つ著者(著者は元々サラリーマンですけど、今は歌人として活動中)が色々突っ込んだり、自分なりの違和感を表明したり、そんな感じで進んでいく作品です。
本書は本当に、言葉のインパクトみたいなものが作品のキモみたいなところがあるので、凄く引用してみたい言葉はいっぱいあるんですけど、なるべくそれは控えようと思います。言葉を引用しないで内容に触れるのがなかなか難しいので、ちょっと色々書けそうな二つの言葉(というか状況)だけ抜き出してあれこれ書いてみます。
まずは美容院での言葉。

『おかゆいところはございませんか』

これに対して著者はは、『なんとなくもやもやする』と書く。『誰が最初にこの質問をしようと思ったのか。これってきめ細かいサービスなのか』と。
これに対するもやもやは、僕も凄くわかる。つい先日髪を切りに行ったのだけど、その時も当然聞かれて「大丈夫です」ってもちろん答えるわけなんだけど、不思議だよなぁ。
本書でも書かれていたけど、あの質問に対して「ここがかゆいです」って答える人って、何パーセントぐらいいるんだろう。そもそも、「ここ」ってのをどう表現したらいいかわからない。「耳の上らへん」とか「頭頂部よりちょっと右下」とか言えばいいんだろうか。なんか僕にはそれが、アホみたいなやり取りに思えるんだよなぁ。
ホントに、一体誰がこんなこと聞こうと思いついたんだろう。美容院という状況下において、必要とされている言葉であるとはどうしても思えないのに、こんなに広まったのはなんでなんだろうなぁ。
さてもう一つはトイレの張り紙。

『いつもきれいにご利用いただきありがとうございます』

著者はこの言葉に対して、『何かを捨ててしまった言葉に思えるのだ』と書いている。このコメントが素晴らしいなぁ、と思いました。
確かにそう。この言葉は、何か大事なものを捨ててしまっている言葉に僕にも思える。一線を超えているというか、やりすぎている感じがある。暴力的な感じさえする。
恐らくこの言葉への違和感は、この張り紙を考えた人間のマイナスの感情みたいなものが透けて見えてしまうからだろうなぁ、と思う。絶対にこの言葉を考えた人間は、『ありがとう』という感情を抱いていない、ということがはっきりと伝わってしまうのだ。それが、言葉を陵辱しているように感じるのだろうなぁ。
著者のこういう感覚は、凄くよくわかる。僕も、著者ほどではないだろうけど、言葉というものに対して凄く気になるし、深く考えてしまう人間だ。
僕は、なるべく自分の言葉で話したり書いたりしたい、と思っている。これは、『借り物の言葉は嫌い』という意味ではない。『自分オリジナルの言葉で』という意味ではなくて、『その時の自分の感覚・感情・気持ちになるべくぴったり寄り添った言葉を使いたい』という意味だ。別にそれが借り物の言葉であっても、自分の気持ちにかなり近ければそれを使うことは抵抗はない。
逆に、自分の言葉で話したり書いたり出来ない時は、凄く苦痛を感じる。その苦痛は、僕が感じる精神的な苦痛の中では、かなり上位に入る。そういう意識を持つようになったのは、ここ数年のことだ。それまでは、自分が感じるある種の精神的苦痛の出所がよく分からなかった。今では、『言葉』が原因だということが分かるようになってきた。
例えば一例を出そう。僕は、『絶対』という言葉は絶対に使えないのだ(←書くまでもないでしょうけど、この文章はわざと書いてます)。
僕は、自分が『絶対』という言葉を口にすると、嘘をついているような感覚になる。結果的に嘘にならなかったとしても、『絶対』という言葉を口にすることが不適切な感覚っていうのは本当に強くある。
例えば、『その発言をするまさにその時自分がそう思っている』という意味で『絶対』という言葉を使うことは、たぶん出来る気がする。その瞬間の自分の気持ちであれば嘘はないだろうから。でも、例えば将来に渡っての自分の感情とか行動とかに『絶対』という言葉は使えないし、自分以外の要素が関わってくるようなものについても『絶対』という言葉は使えない。
もっと具体的に書こう。例えば僕は、『ピタゴラスの定理(三角形の斜辺の二乗は、他の二辺それぞれの二乗の和ってやつ)は絶対に正しい』と言うことは出来る。ピタゴラスの定理は、やろうと思えば自分で数学的な証明が出来るだろうし(今出来るかなぁ…)、実際に数字を当てはめてみてその正しさを感じることも出来る。
でも例えば、『フェルマーの最終定理(Xのn乗+Yのn乗=Zのn乗を満たす、3以上のnは存在しないみたいなやつ)は絶対に正しい』とは言えない。フェルマーの最終定理は、数学的には正しいことが証明されていることはもちろん知っている。でも僕は、その正しさを、自分で証明する、という形で確認することは出来ない(フェルマーの最終定理の証明の論文って1000ページ以上あるみたいだし、はんぱなく難しいですからね)。だから自分の中では、『正しいと言われている』という感じがぴったりくる。でも、フェルマーの最終定理の話であれば、自分以外の誰かに話をする時には、『絶対に正しい』という表現は出来るかな。数学、という学問への信頼があるから。
でもこれが物理になるとまた別なのだ。例えば、『相対性理論は絶対に正しい』と、僕は自分以外の人にも言えない。数学の場合は、一旦証明されれば、その正しさは強固で完璧だ。覆ることはありえない。でも、物理の場合は、『現時点で正しいと認められている』という程度でしかない。物理の世界に、絶対正しい、ということはない。だから、『相対性理論が絶対に正しい』とは言えない。
かなり厳密な学問の世界のことであっても、僕は『絶対』という言葉をこんな風に使い分けている。いわんや、日常生活のレベルで『絶対』なんて言葉、まず使えるわけがない。原発事故の記者会見とかそういう場の時、科学者は『絶対』という言葉を使えない人種だ、というような話をちらほら見かけたんだけど、ホントそうだと思うし、僕は科学者ではないけど、『絶対』という言葉の使い方については科学者にかなり近いと思います。
他にも僕の中には、この状況でこの言葉は使いたくないなぁとか、こういう言葉を考えなく使っちゃう人はちょっとなぁとか、そういう感覚は結構ある。他人の言葉遣いについては、まあそこまで目くじらを立てるような感じの人間ではないけど、自分の言葉の使い方については結構考えてしまう。特に、『言わされているな』と自分で感じてしまう状況は凄く嫌だ。その苦痛は、なかなか想像しにくいレベルだと思う。僕も一応大人だから、こういう場ではこういうことを言わないといけないよな、こういう場ではこういう言葉は使うべきではないんだろうな、みたいなのはある程度きちんと分かっているつもりなんだけど、分かっていることと納得していることは違う。自分の中では、状況にはぴったり合っているのだろうけど、自分の感覚とはぴったり合わない言葉を使わなければいけないのは苦痛でしかないのだよなぁ。
人間関係に苦痛を覚えるのも、この言葉の問題が結構大きいんだろうなぁ、と気づいたのは、本当に最近のことだ。やっぱり、自分の言葉ではない言葉を使わなくてはならない状況というのはある。それは、親しくなればなるほど増えていくということもあって、なんだかなぁ、という感じがする。僕が、自分の感覚にぴったり合う言葉を使っても、誤解されたり怒られたり不機嫌になられたりしないような感じならいいんだけど、なかなか難しいんですよね、それって。
自分と言葉の使い方が似ている人とか、似てなくてもいいから言葉の使い方にこだわっている人だといいなぁ、と思うんだけど、やっぱりそういう人ってそうは多くないんですよね。どうも、その言葉本当にあなたの言葉なのかなぁと思うことがあって、その度にザラッとした感じがつきまといます。僕の言葉に対するこだわり(なんて表現にするとちょっとかっこよすぎるんだけど、なんていえばいいかな、ちょっと出てこないな)はちょっと過剰だという認識はあるのだけど、でも言葉に対するこだわりのない人の鈍感さみたいなものの激しさにちょっとウガッとなることはあります。
穂村弘のような、流そうと思えば流せてしまう世の中の言葉に対して引っかかりを覚える人って、結構好きです。凄く仲良くなれそうな気がします。
なるべく引用しないでここまであーだこーだ書いてきましたけど、最後に一つだけ、僕が一番爆笑した名言だけ抜き出して終わろうと思います。
これは著者が大学時代の友人であるムロタの言葉で、友人宅に何人かで集まっていた時、ちぃちゃんという女の子が辺りをちょっと片付けようとした時の言葉。

『あ、ちぃちゃん気をつけて。その辺で俺、さっき靴下脱いだから』

まあどの言葉に反応するかは人それぞれでしょうけど、お気に入りの言葉は何か見つかるでしょうし、著者の言葉に対する感覚に惹かれる方もいるだろうと思います。パラパラめくってみるのでも面白いですけど、やっぱり流れの中でそれぞれの言葉を読む方が面白いかなぁと思います。ある話題の時に、よくもまあそんなに色んな類例を引っ張ってこれるものだよなぁ、と感心しました。是非読んでみてください。

穂村弘「絶叫委員会」




たまさか人形堂物語(津原泰水)

内容に入ろうと思います。
本書は、「玉坂人形堂」という、ちょっとした人形の小売をしつつ、人形の修繕をメインにした店を舞台にした連作短編集です。
まず全体の設定から。
「玉坂人形堂」のオーナーは澪。祖父から譲り受けた店を成り行きで受け継がなくてはいけなくなっただけであり、人形には素人。
玉坂人形堂では、二人の職人を雇っています。
一人は富永という若者。なんと新卒での就職。なんでも実家が裕福だとかで、無給でもいいから修行として働かせて欲しい、と言われ、バイト代程度の賃金で働いてもらっている。人付き合いがいいほうではないし、無断欠勤なども酷いのだけど、人形への知識と修理の腕は確か。
もう一人は師村さん。個人の話はほとんどせず、経歴はほぼ不明。富永くんと二人ではどうにも回らないとなった時、澪は新聞広告に「ありとあらゆる人形を直せる人」と募集したところ、「世の中にある人形の半分くらいなら」と言ってやってきてくれたのが師村さんだ。その知識と腕はとんでもなく、必ずやどこかで名を成した人だとしか思えないのに、どうやっても師村さんの素性は知れないのだった。

「毀す理由」
壊れた人形を直すのが玉坂人形堂の役割の一つ。しかし、「壊れた」ではなく、どうみても「壊した」としか思えない人形もある。
美貌の依頼人が持ってきた活人形。まるで本物の人間としか思えない精巧さだけど、顔の部分だけが壊されている。修繕用にと、人形の元の写真を見ると、なんと依頼人と瓜二つなのだ。しかし、師村さんによれば、それはちょっとおかしいという。その人形は、どう判断しても30年以上も前のもので、依頼人の顔そっくりに作れるはずがない、と。
一方、テディベアを持ってくる親子。子供がそのテディベアを引きちぎってしまうらしく、耳や足が取れてしまっている。何度修繕しても、二週間後にはその状態で戻ってくる。富永くんは、これをどう修繕すべきか考える。

「恋は恋」
富永くんが友人から預かったというラブドール。ラブドールの用途を想像するとどうにも気持ち悪い澪には、それをしばらく預かると言った富永くんに文句も言いたくなるのだけど、不思議と、しばらく一緒にいると慣れてくるものだ。持ち主とも話したけど、ラブドールにはいろんな扱われ方があるのだと感心した。
もし不具合があったら見ておいてくれと言われた富永くんは、預かったラブドールの欠陥を知りメーカーに連絡するが…。

「村上迷想」
村上に遠縁がいるのだけど行ったことがない、というと、二人の職人に呆れられた。それぐらい、人形で有名な土地らしい。
恐ろしげな曰くのある人形などを見せてもらいつつ、遠縁のお宅に泊めてもらうことにした澪だったが、その日、そのお宅の息子のウチの一人が突然死んでしまう。なんでも、父親の愛人だった女性の家で倒れたというのだが…

「最終公演」
人形劇ってのは一体なんの差があるんだろうね、という商店会長の問いかけに思わずと言った感じで反応してしまった師村さん。ズデニェク・パラフという、富永くんは知っていたようだけど聞き覚えのない名前から、師村さんが経験したという、チェコの異端人形劇団の話になり…。

「ガブ」
ラブドールを預かった際にちょっとした知り合いになったラブドール制作会社の束前さんから、師村さんの素性に関するヒントめいたものを知らされる。なんでも、『軽井沢のコレクター』という、人形の世界では知らぬ者のいない存在が、近々師村さんを訪ねてくるというのだが、束前さんが師村さんに伝言するように言ってた「ガブが待ってる」とはなんのことなのか…。

「スリーピング・ビューティ」
この話は、ちょっと内容を書かないでおきましょうかね。

というような話です。
派手さはないし、凄くいい!と言えるようなところがあるような作品ではないんだけど、短いなりに話は深くて、隅々まで丁寧さが行き渡っている、凄く優しい作品だと思いました。凄く分かりやすい魅力があるわけではないから、人に勧めようとすると短い言葉でパッと伝えられるような作品ではないんだけど、ふとした時に手にとってなんのきなしに読んでみるとじんわり来るような、そういう作品だと思います。こういう本を、派手に売るんじゃなくて、じわじわと少しずつ売りたいなぁ、と思えるような、そんな作品です。
本書は、微妙にミステリっぽいタッチが入っているんだけど、でもミステリという感じではない。そういうあやふやな感覚を抱かせるのが、人形というものが持つ不可思議な存在感なのかな、という気がしました。
人形を前にすると、人はいろんな感情を持つだろうと思います。一つ一つ思い入れも違えば、感じ方も違う。もちろん世の中の色んなことはそうだけど、人形も、同じ形ですべて割り切れるようなものではない。
特に、修繕をメインにしている玉坂人形堂には、強い思い入れを持った人間が集まることになる。なにせ、「諦めてしまっているものも一度持ってきてください」とアピールしているのである。であれば、様々な形の人形が集まることになる。
その特徴が最も出ているのが、一番初めの「毀す理由」でしょう。ここで扱われる二つの人形は、「どうして壊してしまうのか?」というものが物語の核になっているのに、それがスパッとわり切れる形では提示されない。読む人によっては、この解決ではぼんやりとしていて納得できない、という人もきっといるだろうと思う。それはそれで、きっといいんだと思うんですね。書こうと思えば、分かりやすいスパッとした解決を扱うような物語だって作れたはずです。でも著者はそうはしなかった。この物語は、「どうして壊してしまうのか?」というのがメインの物語であるように見せつつ、その裏では、「人形とその人形に思い入れを持つ人間の想いの深さはこれほどのものなのだ」というメッセージを込めたのだろうなと思います。
また本書では、玉坂人形堂で雇っている二人の職人がかなりいい味を出しています。富永くんの、ちょっと大げさに言えば傍若無人っぷりは読んでいて痛快だし、師村さんの背景に隠された深い深い物語には、人形というものが持つ『魔』みたいなものを感じさせられました。超絶的な技量を持つ師村さんだからこそのその背景は、師村さんの人間性を非常によく反映しつつ、物語として非常に読ませる話になっていて、さすがだなと思いました。本書は、連載していた雑誌が休刊になってしまったために、途中で連載を終えなくてはならなかった、という事情があったようなんですけど、続編も考えているようですし、是非今度は富永くんの背景についても面白い話が知れたらいいなぁ、と思いました。
個人的には、「村上迷想」だけちょっと浮いているような気がしました。舞台が玉坂人形堂周辺じゃない、ということもありますが、物語のテイストとしても、全体から若干浮いている感じがします。物語のラストも、うーん、という感じで、僕の中ではこの話だけがちょっと微妙かなぁ、と思ってしまいました。
「最終公演」は、凄く不思議な話で、パラフの講演を見てみたい!と思わされました。魔術師のような人形劇を行なっているパラフ氏の公演の思い出語りを師村さんがするわけなんですけど、最後の最後のオチも含めて、なんだか魔術的な語りに取り込まれてしまったような感じがしました。
そして、内容を書かなかった最後の話。これはホント、なかなか良い終わらせ方だと思いました。まさかそういう展開になるとは思っていなかったので、ちょっとびっくりしました。僕は別に人形には興味はないんだけど、仕事として、こういう環境で働けるってのはいいだろうなぁ、とか思いました。
僕の中で津原泰水って、ちょっとホラーというかそういうテイストの作品を書く作家だと思っていたので(「ブラバン」だけが例外なんだろうなぁ、となんとなく思っていたのでした)、こういう作品も書くんだなぁ、という印象でした。表紙のイメージも結構合っている気がします。細部まで丁寧に作りこまれている作品で、凄く好感の持てる作品です。是非読んでみて下さい。

津原泰水「たまさか人形堂物語」



平成猿蟹合戦図(吉田修一)

内容に入ろうと思います。
が、本書は、単純にストーリーを紹介する形での内容紹介が非常にしにくい作品なんで、8人の主要登場人物たちの照会をすることで内容紹介に代えようと思います。
真島美月は、長崎の離島出身。そして今、歌舞伎町の雑居ビルの間の看板の隙間に、生まれたばかりの赤ん坊を抱いてしゃがんでいる。
島に仕事がなく、博多でホストとして働いていた夫・朋生と連絡が取れなくなって、とりあえず博多まで出てきた美月は、しかしそこで朋生はもう三週間も前に辞めていて、今は歌舞伎町で働いている、と聞く。どうしたのだろう、と思いつつ、まあとりあえず歌舞伎町まで行ってみることにした美月だったが、その歌舞伎町の店も辞めてしまっていたみたいで、一向に朋生に会えない。
そんな時、雑居ビルから顔を出したのが、そのビル内で働いていた浜本純平だ。
浜本純平は、元々バーテンをしていたが、その店の常連だった『蘭』という店のママだった美姫に、二倍のバイト代を出すからと言われて、そこでボーイのような仕事をしているのだ。とりあえず美月を自分の部屋に泊めた純平は、大した意味もなく美月に、自分が目撃したひき逃げ事件の話をする。たまたま目撃したひき逃げ事件。翌日犯人は出頭したのだが、なんと実際に轢いた人間とは別人だったというのだ。
山下美姫は、『蘭』という韓国クラブを切り盛りしている。物凄く繁盛しているわけでもないが、その店のオーナー会社の社長が美姫の遠縁だとかで、不自由のない給料をもらっている。純平がひょんなことから知り合ったという美月という女の子に、島に帰りなさいというつもりで会ったのだけど、何故か自分の部屋にしばらく住むように言っていた。美月の息子である瑛太が可愛かったというのもあるが、美月が磨けば光る逸材だったということもある。
美月の夫である朋生は、ホストとして大した才能もなく、歌舞伎町の店も嫌になって、しばらく純平にも連絡を取らないまま失踪していた。ふらりと帰ってくると純平から、ちょっと前まで美月ちゃんが来てたんだぞと言われて驚く。純平と朋生の二人は、純平が目撃したひき逃げ事件を使って、どうにか大金をせしめられないだろうか、とよからぬ計画を立てる。
世界的なチェロ奏者である湊圭司は、有能なマネージャーのお陰もあって、日本でじわじわと人気が出始めている。コンサートだけではなく、テレビにも出るようになっている。しかし圭司には、ずっと気がかりな案件があって、心は落ち着かない。
圭司のマネージャーである園夕子は、政治家の秘書を目指しているのだが、今は生活のために圭司のマネージャーをしている。政治家の秘書という野心を諦めたつもりはないし、いつも相談させてもらっている占い師には、そろそろ秘書として仕えるべき人に出会ってもいい頃なのだけど、と言われている。夕子は、圭司の身辺がなんだか落ち着かないことを察知しており、独自に調べ始めている。
岩渕友香は、芸術系の大学に通う学生だ。友香の父は、かつて痴漢の冤罪(と友香は信じている)で起訴されたことがあり、そして今も、ある事情により友香の家族は厳しい状況に置かれている。友香の家族は、叔父のお陰で成り立っている。友香の周囲の人間は、そんな友香を遠巻きに見て親しくせず、友香にしてもそういう立ち位置は都合がよかったのでいいのだが、一人山崎颯太だけがずっと友香に親しげに話しかけてくれる。
秋田で一人暮らしをしている奥野サワは、もう96歳。ヘルパーさんに色々と手伝ってもらってはいるものの、まだ耳も遠くはなく、足腰はなかなか言うことを聞いてくれないけど、まだまだ健康だ。騙されて借金を背負わされて心中した息子夫婦。そしてその息子たちの現況。思い巡らすことは多いけど、サワの日常はもう大体平均化されている。それをどうこう思うこともない。

というような話です。
これは不思議な話だったなぁ。凄く面白かった!どう不思議かというと、例えばこんな感じ。友達から突然連絡があって、ちょっと散歩にでも行こうぜと言われる。で、とりあえず普段着でついていってみる。とにかくひたすら歩くなぁ、とか思いながら特に疑問のなく歩き続けていると、いつの間にか山の頂上にいた!みたいな、そんな感じの小説です。
始まりと終わりの落差が物凄いんですね。落差、って表現だと、最後下がっちゃうイメージになるかな。そうじゃなくて、スタートは物凄く低いところに立ってたはずなんだけど、ゴールは物凄い高いところに立ってた、みたいな落差なんです。不思議な小説でした。これから高いところに上がっていくぞ!というような予感をまったく感じさせないまま、ホントいつの間にか、えっもう頂上付近なの!?みたいな、そんな感じの小説です。
ストーリー運びが抜群に巧かったなぁ、と思います。この作品は、ともすれば荒唐無稽な話になりかねません。いや、実際荒唐無稽な話なんですけど、でも妙にリアリティがある。たぶん下手な作家が同じ題材で小説を書いたとしたら、間違いなくまとまらないままだったでしょう。元々ほぼ他人だった8人の日常を個別に追いつつ、少しずつ彼らの人生を交差させていき、その上で、これそんな話になるんすか!みたいな展開を迎えて、最後凄く良い感じで終わるもんなぁ。よくこんな小説が書けたもんだと思います。
全体のストーリーも凄くいいんだけど、本書の何が良いって、個別に描かれていく8人それぞれの、特にどうってこともない日常の描写がいいんですね。奥野サワの日常なんて、ホント変わり映えのしない淡々とした感じだし、美月とか純平とかみたいに、瞬間的に物凄く注目を集めるような場面がある登場人物だって、基本的には大した日常を送ってないわけです。
でも、その平凡な日常を面白く読ませるんだよなぁ。本書は、この8人それぞれの日常のリアルさというのがまず土台としてしっかり存在して、その上でちょっとびっくりするようなストーリー展開が上物として建っているというイメージです。この土台の部分がもし脆かったとしたら、ストーリーは映えなかっただろうなぁ。
僕が一番好きなキャラは園夕子だったりしますけど(やっぱこういう優秀な人って素敵ですよねー)、本書を読んで、その日常の輪郭が一番いいなと思ったのは、実は美月だったりします。あんまり物事を深く考えない性格だし、とりあえず瑛太と朋生さえいたら満足ー、みたいな、実際僕の周りにいたら僕自身はあんまり興味持てないだろうなぁ、というキャラなんだけど、本書で読むと、美月の日常がなんか凄く気になる。これが不思議でしたね。特別好きなキャラってわけでもないのに話は気になるって、僕の中では結構珍しい気がします。
逆に、この人はもうちょっと日常の輪郭が濃い方がよかったなぁっていうのが、友香と圭司です。この二人は、ちょっと僕の中では印象薄いんですね。友香とか、実際近くにいたらたぶん結構気になるキャラだよなぁ、とか思うんだけど、本書に描かれている日常にはあんまり興味持てなかったりして。なんだろうなぁ。そういう意味で、ホント不思議な感覚が残る小説でした。
メインのストーリー展開については、まあとやかく言う人はきっといるんだろうなぁ、とか思いつつ、僕は面白いと思いました。伏線、というか、それまでの流れを力むことなく綺麗に繋げることで、無理なくストーリーを展開させているように見えるのに、あんなにスタート地点から程遠いような展開になるっていうのが僕にはちょっと超絶技巧だなぁ、と思ったりしました。この小説、一体どこから考えたんだろう。しかも週刊誌の連載みたいだからなぁ。ホント、著者の力量を強く感じさせる作品でした。
メインのストーリーにはあんまり強く触れられないし、8人それぞれについて細かく触れるのもなかなかしんどいんで、ちょっとフワッとした感じの感想になっちゃったのは僕なりにちょっと残念なんだけど、でも本書は、あんまり中身について知らないまま読み始めた方が楽しめるような気もします。なるべく内容を書きすぎないように注意しましたし。個人的には、タイトルと装丁がちょっと残念なんだよなぁ、と思っちゃうんだけど、中身は凄くいいです。タイトルと装丁にあんまり惹かれなくて手に取らなかったって人も、是非読んでみてください。なかなか味わえないタイプの感覚を残す作品だと僕は思いました。

吉田修一「平成猿蟹合戦図」



孤独と不安のレッスン よりよい人生を送るために(鴻上尚史)





内容に入ろうと思います。
本書の内容は、まさにタイトル通りです。一文で書くならば、
『よりよい人生を送るための、孤独と不安についてのレッスン』
となります。まさにタイトル通りですね。
これは本当に、色んな人に読んで欲しい本です。
たぶん、孤独と不安に苦しんでいない、という人はそうそういないのではないかと思います。僕は、後でも書くつもりでいますが、孤独とはかなりいい関係を築けている、と自分では思っています。でも、不安とはまだまだいい関係を築けていなくて、時々苦しくなったりします。本書では、少子化が進んだことで、大人になってから孤独と不安に苦しめられることになる人が増えている、というような話もあって、まあそこに本当に因果関係があるかどうかは別として、ざっくりとしたイメージでは、昔より遥かに、孤独と不安との付き合い方に悩んでいる人は増えているのではないか、と僕は勝手に思います。
本書は、孤独や不安をなくすための本、ではありません。本書には、こうあります。

『つまりは、どんなものを信じても、受け入れても、人は、一生、孤独と不安から自由にはなれない、ということなのです。』

本書は、孤独や不安をどうやってなくしたらいいか、ではなく、孤独や不安とどう付き合って行ったらいいか、という本です。孤独や不安は、どうやっても消えることはありません。孤独や不安とどう付き合っていくべきか、僕らはなかなか生活の中で自然に学ぶ機会が少なくなってきています。だからこそ、意識的に、孤独や不安とのつきあい方を学んでいくしかないのです。
本書は、前半では孤独について、後半では不安について書かれています。それぞれについて、ざっとどんなことを言っているのか書いてみようと思います。
孤独の方で重要なキーワードは、『「本当の孤独」と「ニセモノの孤独」』『一人でいることは悪いことなのか?』『世間という名の神様』という感じです。
最も重要なポイントは、『一人でいることは悪なのか?』ということです。
本書には、こうあります。

『一人がみじめなんじゃなくて、一人はみじめだと思い込んでいることに、苦しめられているんじゃないかと、僕は思うのです。』

ホント、その通りだと思います。僕は、いつの頃からか、『一人はみじめだ』という価値観から抜け出すことが出来ました。どうやって抜け出したのか、その過程はまったく覚えていないのだけど、いつの頃からか、一人でいることはみじめじゃない、と思えるようになりました。
いや、この表現だとちょっと違うんだな。僕は『一人でいると周りからみじめだと思われるだろうな』という考えから抜け出せたのでした。僕自身は元から、一人でいることはみじめだなんてあんまり思ってなかったんですけど、でも周りの人はそういう風に見るだろうな、という風には思っていたのでした。だから、あんまり一人でいたくはなかった。でも、いつの頃からか、そういう感覚を抜け出せていました。それは僕にとって、本当に楽になれる第一歩だったな、という気がします。
僕は今、一人でいることが全然苦ではない。もちろん、ずっと誰にも会えない、とかなったらそれはそれで寂しいけど、会おうと思えば誰かには会える、という状態の中で一人でいることは、特になんとも思わない。むしろ、一人でいることの方が気楽でいい。煩わしさがない。
いつも誰かとメールしていたり、触れ合っていたり、繋がっていると感じられないと辛い、という人は、凄く多いような気がする。そういう人は、『一人でいる自分はみじめだ』という価値観にガチガチに縛られているんだろうと思う。それは、そこから抜けだした僕からすると、本当に辛いだろうな、と思う。

『「友達ができればラッキーだけど、あわない人と無理に友達にならなくてもいい。一人でいてもそれは普通のこと」という価値観がしっかりあれば、イジメのエネルギーは、ずいぶん減るんじゃないかと思うのです。』

本書にはイジメの話も出てくるけど、ホントその通りだなと思います。昔は僕も、友達がいないのは寂しいなぁ、っていう風に思ってたはずだし、今だって友達が全然いなくなったら凄く寂しいだろうけど、それでも、合わない人と無理に友達になることはないってのはホントそうだと思う。寂しいから、というだけの理由で繋がっている関係って、凄く辛いと思う。
本書では、「本当の孤独」と「ニセモノの孤独」という話も出てくる。
「一人はみじめだ」と苦しむことが「ニセモノの孤独」。じゃあ「本当の孤独」は何か。それはこうあります。

『「本当の孤独」とは、自分とちゃんと対話することなのです。』

一人旅などで、自分から一人である状態を作り出す。なるべく誰とも連絡を取らず、特に目的のある行動もしない。出来るだけ長くその状態を維持する。すると次第に、自分と対話する状態になっていく、と著者は言います。
僕は実は、そういう状態を自ら作り出したことがあります。僕には、半年間、誰とも会話を交わさなかった時期、というのがあります。
その時期は、本当に色んな人に迷惑を掛けたな、と思います。かなり心配もしてもらったことでしょう。でも、今だから思うけど、僕はあの時期は凄く大事だった、と思います。その時期、自分が何を考えていたのかは、もはや思い出せません。でも確かに、誰とも喋らず、ネットを見るでもなく、ひたすらテレビを見続けるだけの生活を半年も続けていると、自分と対話する以外にやることがなくなってくるんですね。僕が孤独から脱することが出来たのが、その半年間を経験して以降だったのかどうか、もはや記憶にないから分からないのだけど。
あの半年間は、僕にとって、ありとあらゆることをリセットするのに本当に必要な時期でした。自分がそれまで生きてきた過程で抱え込んできた要らないものたちを、あの半年で全部振り払った、そんな気がします。その半年の前後で、変わりなく僕を迎え入れてくれた友人たちにも、本当に感謝しています。口に出しては言わないけどさ。
一人でいることはみじめだ、という価値観にさいなまれている人は、一度自分の意思で一人になってみるといいと思います。社会人だとなかなか難しいけど、学生ならどうにでもしようはあるでしょう。本書では、社会人だって、交通事故にでも遭ったと思えばどうにでもなるような気がするけど、みたいなことが書いてありました。本書に書いてあることではなくて、僕が何かで読んだ話ですけど、社会人の中にも、ある日突然会社に来なくなって失踪して、一週間ぐらいすると何食わぬ顔で出社してきて、でもそれから見違えるように変わった、なんていうこともあったりするみたいです。どうにもこうにも行き詰まっている人は、そんなことをやってみてもいいのかも。
最後に、世間について書きます。本書では、欧米における神と、日本における世間が対比されています。
日本人は、自分の意見をなかなか言わないし、周りに流される、とよく言われます。本書ではそれを、日本では世間が神の代わりになっているからでは、と分析します。
一神教を信じる人達は、悩んだり困ったりした時、最終的に自分が信じる神に問いかけます。そして、その神との対話によって、自分で判断を下します。
日本には、宗教的な意味での神というのはあんまり存在しない。でも、欧米人にとっての神と同じような働きをしているのが、世間、ではないか、と著者は言います。そして、現在の日本の世間は、中途半端に壊れているからこそ、息苦しさを覚えるのではないか、とそういうようなことが書かれています。
僕も日本人だから凄く分かるけど、世間の流れに反するのは凄く難しい。世間、っていうのは、広い意味で世の中ってことでもあるし、狭い意味では自分の周囲ってことでもある。世間が神様と同じなんだから、神様が言うことには従うしかない。でも中途半端に壊れているから、素直に従うのにも抵抗がある。そういう複雑な世の中に僕らは生きているわけです。
本書によれば、これは世界の最先端の悩み、なんだそうですよ。最近では外国でも宗教を信じない若者が出始めてきて、そういう若者が日本人と同じような悩みを抱えるようになっている、んだそうです。なんか、日本人がずっと付き合ってきた悩みが世界最先端だっていわれると、なんか楽しいですよね(笑)
さて、不安の方の話にいきましょう。僕は、不安とはまだいい関係を築けていないので、こちらの方が凄く響くことが多かったし、落ち込むことも多かった。
不安の方の話のキーワードは、『「他者」と「他人」』『「いまある自分」と「ありたい自分」』『人は分かり合えない』という感じでしょうか。
まず、人は分かり合えない、という話からしましょう。これは、孤独の話と似ている部分もあって、僕達は『人は分かり合えて当然だ』と思うからこそ苦しいのではないか、ということです。
これはそうですよね。僕は、この点に関して言えば、そう思っています。相手のことなんか、どうせわかりゃしないんだから、と僕は思っている。分かろうとする努力はもちろん大事。でも、絶対に分かることはない、と思って接しています。それは、聞きようによっては寂しく聞こえるかもしれないけど、そうではないと思えれば、凄く楽になれると僕も思います。
「いまある自分」と「ありたい自分」の話は、凄くよくわかりました。僕らは、自意識がちょっと過剰なところがあって、だから不安になる。「いまある自分」が何かしようとしても、それよりも上にいる「ありたい自分」が、そんなことして大丈夫なの?それって面白い?と突っ込んできます。それで僕らは、行動できなくなったり、前に踏み出せなくなったりする。「いまある自分」と「ありたい自分」との対話によって自分の行動を決めるのではなく、「いまある自分」と「目の前の相手」との対話によって自分の行動を決める方がいい、と本書ではいいます。
そして本書の中で僕が一番共感しながら読んだのが、「他者」と「他人」の話。まさにこれは僕の最大の問題点を本質的にズバッと衝いていると感じました。
僕は、深い人間関係が本当にしんどい。一番しんどい深い人間関係は、家族だ。僕は、小学生の頃既に家出を考えるくらい、両親が(というか、実家が)嫌だった。家族、という距離感に既に小学生の時点で耐え難かったのだ。
それは、今でも変わらない。家族に限らず、人間関係が深くなると、自分が辛くなっていく。自分なりの言葉でそれを説明することは出来ていたのだけど、本書の『他者』と『他人』の話は物凄くわかりやすかったし、結局のところ僕は、『他者』とうまく関係性を築けない人間だ、ということなのだ。
『他者』と『他人』の違いは、ズバッとは説明できないんだけど、『他人』は最終的に排除するか無視すれば済む相手、『他者』はそうすることが出来ない相手(家族や隣に住んでいる人や職場の人など)という感じです。
本書にはこうある。

『じつは、人間が成熟しているかどうかは、「他者」とどれぐらいつきあえるかだと僕は思っています。
やっかいな存在=「他者」とどうつきあえるかが、その人が成熟しているかどうかのバロメーターだと墓kは思っているのです。
そしてそれは、別な言い方をすると、自分の不安ともうまくつきあえるか、ということなのです。
「他者」とうまくつきあえる人は、自分の不安ともうまくつきあえるのです。「前向きの不安」を生きられる人です。そして、孤独とも。』

まさにその通りだ、と思いました。僕は未だに、不安と良好な関係を築けていない人間で、ちょっとしたことでもすぐに不安になってしまいます。そして僕は、『他者』ときちんとした関係を築くことが出来ない人間でもあります。つまり本書によれば、僕が不安と良好な関係を築きたければ、まず『他者』との関係をうまく築けるようにならなくてはいけない、ということになります。
…うぅ、それは厳しいなぁ。
関係性が深くなればなるほど、きちんと向き合うと辛くなる、というのは今の僕にとってはいかんともしがたいことなんですよね。それを乗り越えなくてはいけないのだなぁ。いや、でも、それを認識させてくれたことは本当に助かりました。僕は、『他者』との関係と不安について結びつけて考えたことがなかったので、それを知らないままだったら、結局僕はずっと、不安と良好な関係を築くことが出来ないままだったでしょう。
いや、『他者』との関係をきちんと築けるかどうか、僕にはちょっとわからないのだけど、でもとりあえずどうすればいいのか、という指針がなんとなく分かったということだけでもよかったなと思います。
中学生の自分に読ませたかったな、という本はいくつかあります。「非属の才能」という本も、中学時代の自分が読んでいたらどれだけ救われていたか、と思いました。本書も、中学時代の自分に読ませてあげたい気がします。周りにいた大人で、本書に書いてあるようなことを僕に教えてくれる人はいなかったはずです。こういうことを少しでも学校で教えてくれたら、学校って素敵な場所だと思えるかもしれないのに。
本書に書かれていることは、凄く『当たり前』のことかもしれません。僕は孤独についてはかなりいい関係を築けていると思っているので、孤独に関する部分は、結構『当たり前だな』と感じました。でも、不安については、凄く新鮮な意見がたくさんありました。
確かに本書は、『気づいている人からすれば言葉にする意味さえ感じられないほど当たり前のこと』かもしれません。でも、それに気づいていない人がたくさんいる、ということが重要であり問題なわけです。『一人でいることはみじめではない』『友達は少なくていい』『人は分かり合えない生き物だ』と言った意見のどれか一つでも『当たり前だ』と感じられないものがあったら、是非本書を読んで欲しい、と僕は思います。
あと、今から書くことは、僕にしか当てはまらないことかもしれないのだけど、僕が昨日読んだ「武器としての決断思考」と本書は、対になるというか、セットで読むと凄くいい作品ではないか、と思いました。内容はまったく違う作品です。片や決断の仕方についての本であり、片や不安と孤独についての本。でもどちらも、この不安定でしんどい世の中を生き抜くために必要なものではないか、と感じました。「武器としての決断思考」が武器を提示してくれているとすれば、本書は盾を提示してくれている、とそういうことなのかもしれません。
無理矢理言葉にすると、こんな風に言えるかもしれません。決断をすることは不安だし、孤独を恐れて決断が鈍ることもあるかもしれない。だからこの二作品は、セットで読んだらいいのではないかと。
少なくとも今の僕にとって、この二冊を続けて読めたことは本当にラッキーだったと思います。今抱えている不安について、どう立ち向かって行ったらいいか、指針が与えられたような気がします。
ちょっと僕的には、今日書いた感想は全然納得がいっていなくて、普段だったらもう少しいい感じに書けたんじゃないかと思うんだけど、今日はなんか文章が冴えてないなぁ(まあ、読む側からしたら、いつだって冴えてないかもだけど…)。もしかしたら、この感想を読んでも、本書の魅力があんまり伝わらないかもしれないけど、これは本当に良い本だと思います。たぶんほとんどの人が、孤独と不安の両方、あるいはどちらか一方に苦しんでいたり悩んでいたりするはずです。どちらにも悩んでいない、と断言できる人は、本当に少ないのではないかなと思います。
恐らくこれからますます、僕らが生きていく環境は悪くなっていくでしょう。そんな世の中を生き抜くために、武器である「武器としての決断思考」と、盾である本書は凄く有意義な本ではないかと思います。是非読んでみてください。

鴻上尚史「孤独と不安のレッスン よりよい人生を送るために」



武器としての決断思考(瀧本哲史)

内容に入ろうと思います。
とその前に、著者の略歴みたいなものをざっと書いてみようかな。本書に書いてあるものをざっくり抜粋します。

『東京大学法学部を卒業後、大学院をスキップして直ちに助手に採用されるも、自分の人生を自分で決断できるような生き方を追求するという観点から、マッキンゼーに天職。3年で独立し、今世紀中には返済できないほどの借金を負ってしまった企業の債権などを手がける。また、他の投資家が見捨てた会社、ビジネスアイデアしかない会社への投資でも実績を上げる。京都大学では、「意思決定論」「起業論」「交渉論」の授業を担当し、教室から学生があふれるほどの人気鋼材になっている。(中略)星海社新書の「軍事顧問」も務め、本書が単著デビュー作となる。』

凄い人ですね、ホント。なんていうか、羨ましいです。東大とか京大とかマッキンゼーとかって経歴がどうこうってことじゃなくて、自分で道を切り拓ける辺りが。
本書はそんなとんでもない著者による、『決断思考』を養うための本です。基本的には、京都大学で行なっている「意思決定論」の授業の内容をベースにしているようです。
先に書いておくと、本書を読んでいる過程でドッグイヤーをしまくったんですけど、ドッグイヤーをした部分について全部引用したり内容に触れたりすると、本書の内容ほとんどについて書かないといけなくなってわけがわからなくなるので、本書の肝である『ディベート思考のやり方』の具体的な部分にはほぼ触れないことにします。
さて、ちょろっと名前を出してみましたけど、本書では『武器としての決断思考』を養うために、『ディベート思考』なるものが提示され、それについてかなり詳細に解説が加えられていきます。
『ディベート思考』というものがどんなものなのか、という話を書く前に、まず、何故『ディベート思考』が(というかどんなものであれ『決断思考』が)必要とされるのか、という話を先に書きます。これは、ガイダンス、と名付けられた、授業前の講義内容の説明みたいな章で書かれているものです。
これまでの日本は右肩上がりの成長をしていたので、誰しもが大体同じような未来を想定しながら自分の人生を設計することが出来ました。「みんなと同じ」「これまでのやり方」を選択しておけば、大きな問題はない、そんな時代でした。
でも今の日本は、もはや誰にも明確な未来予測が出来ない国になってしまいました。僕らはもう、過去のやり方が通用せず、未来予測も出来ないという状況の中で、自分の人生について、自分で決断をしていかなくてはならない、そういう時代の中にいます。
著者は自らの職業を『ゲリラである若者たちに武器を配る軍事顧問だ』と書いています。
中央政府が安泰だった時代であれば、その中央政府の言うことに従っていればよかった。でも今の時代は、中央政府が崩壊し、正規軍がいなくなってしまった。僕らは、なりたくなくてもゲリラとして戦場で戦わなくてはならなくなってしまった。
ただ僕達は、突然ゲリラになった(ならざるをえなかった)ので、いきなり最前線に立っても、あっという間に全滅させられてしまう。
軍事顧問というのは、様々な武器の選択肢を提示し、個々人がその中から自分にあった武器を選ぶのを手助けする役割を担います。まさに著者はそれをやろうとしている。
では、この時代に、ゲリラである僕達が持つべき価値のある『武器』にはどんなものがあるのか。
あらゆる場面で決断が必要とされる世の中だからこそ、著者は、『意思決定の方法』を最優先に身につけるべきだ、と言います。
さてそこで著者は本書で、『意思決定の方法』として『ディベート思考』という武器を僕達に提示し、その使い方を懇切丁寧に教えてくれます。本書の内容のほとんどは、『ディベート思考』という武器の使用方法であり、それについてはこのブログではほとんど触れないことにします。気になる人は是非本書を読んでみてください。
僕は実は、大学時代にディベートを少しだけかじったことがある。実際ほとんど使いこなせなかった(というか、僕はESSにいまして、ディベートそのものも英語でやってたのですよね。ディベートそのもの、というよりは、英語でディベートをする、という部分に僕には大きなハードルがあった気がします。ディベートって、かなり短い時間で自分の意見をまとめて、かなり早口で自分の意見を言わないといけないんですよね。無理ッス)ので、ディベート自体は身についていないのだけど、本書を読んで、まさに大学時代に教わったディベートの知識がかなりそのまま載っていて、僕は本書を、復習するような気分で読みました。
所詮復習だから、僕的に本書には価値がなかったか?いや、もちろんそんなことはありません。
本書は僕にとって、大きく二つの意味で非常に有益な本でした。
まず一つ目は、ディベートが実生活に使える実学である、ということをきちんと教えてくれたこと。
大学時代、ディベートのやり方はなんとなく学んだとは言え(本書を読んで、そういえばこんなことやったな、と思いだした程度なので、ほとんど覚えていなかったわけですけど)、それがじゃあどう役に立つのか、というのは、自分の中でほとんど理解できていませんでした。次でも詳しく書くけど、ディベートというのは『ディベートをする』ために必要な知識であって、ディベートなんてほとんどする機会がないんだから使い道ないよなぁ、と思っていた僕の考え方を変えてくれました。
本書の中で、非常に重要なことが書かれています。それは、実学には『知識・判断・行動』という三段階が存在すること。
例えば自動車の免許を取る時に教わる『認知・判断・動作』。道路にボールが転がってくる(認知)→子どもが飛び出してくるかもしれない(判断)→ブレーキを踏む(行動)という具合です。
実学もまさにそうで、知識として持っているだけでは武器にはならない。ある知識を持っていた時、それをまずなんらかの判断に繋げる。そしてその判断を通して、何かの行動に移す。そこまでやらないと、実学に価値はない、と本書では言います。
本書で使われている意味とは少し違うと思うけど、こんな風に言えるでしょう。僕は、ディベートのやり方という知識だけは持っていた。でもそれを、判断・行動に繋げる方法を知らなかった(というか、自分の実生活の中で、それが判断・行動に繋がる知識だという認識がなかった)。本書はそのきっかけになったのでした。
そしてもう一つ。こちらの方が圧倒的に重要ですが、ディベートを『一人でする思考』に応用することが出来るのだ、ということを教えてくれました。
さっきもちょっと書いたけど、僕の中でディベートというのは、『誰か相手がいる状況で議論を戦わせる』ためのもの、だと思っていました。議論をするツールであって、思考のためのツールではない、という思い込みがありました。
でも本書を読んで、ディベートの知識をきちんと使えば、『決断思考』をするための強力な武器になるのだ、ということが凄くよく分かりました。
ディベートの知識をあらかじめ持っていた僕でさえ、本書はこれだけ有益だったのだから、ディベートに触れたことがない人には、本当に隅々まで役に立つ作品ではないかと思います。
しかし僕は、大学時代になかなか面白いことやってたんだなぁ、と本書を読んで改めて思いました。本書には、『推論』についての話が出てくるんだけど、これもまさに大学時代まったく同じことを教わったのだよなぁ。
推論というのは、主張と根拠を繋ぐものです。とこれだけの説明ではよくわからないだろうか例を。
例えば、『Aさんは良い人だ』(主張)に対して、『お年寄り道案内をしていたから』(根拠)がある。これをもっと詳しく見ていくと、(主張)と(根拠)の間に、『人助けをすることは良い事だ』(推論)があることがわかります。相手の主張に反論するには、この推論の部分に突っ込むといいよ、というようなことが書いてあるんだけど、まあその辺は本書を読んでください。
僕はこれを大学時代にいたESSで、『ロジックの三角形』という名前で教わりました。主張を頂点にして、その下の左右に根拠と推論を配置した三角形。そしてこの三角形は、推論の部分を頂点とすることで、永遠にしたに同じような三角形を繋げることが出来る、みたいな感じで教わりました。大学時代にいたESSはかなり頭のおかしなところだったし、そこで学んだことが今どれだけ活かされているかと聞かれるとそれは困るけど、まあなかなかちゃんとしたことをやってはいたんだなぁ、と改めて認識しました。
ディベートのやり方についての詳細については書かないけど、僕は本当にこの部分をかなり真剣に読んだ。新書をこれだけ真剣に読んだのは久しぶりかもしれない。元々知っている知識はかなりあった。忘れていたものも多かったけど、僕にとっては復習的な意味合いが大きかった。でも、元々知っていたことでも、本書の説明をなるべく丁寧に読んだ。練習問題として提示されているものも、自分なりにちゃんと考えた。まだ本書を読んだだけでは、ディベート思考というのは僕の血肉にはなっていないだろうけど、僕自身が持つ具体的な問題についてディベート思考を使って考えてみることで、ディベート思考の考え方を見につけたいなぁ、と思っています。
別に本書は、仕事人だけに必要なものではありません。仕事以外の場でも、人生における重要な決断というのはたくさんあります。結婚するかどうか、家を買うかどうかなどなど。本書の巻末にはこんな風に書かれています。

『ディベートの手順なんて忘れてもいい。この本を読んで、一つだけ忘れずに心に留めておいてほしいのは、「自分の人生は、自分で考えて、自分で決めていく」ということ。』

これは、誰にでも当てはまることでしょう。特に、これから社会の中でいくつもの大きな決断にさらされるであろう20代30代の人たちには、どんな立場の人であれ必要な『武器』ではないかと思います。
僕は本書を読み始める前に別の本を読んでいて(鴻上尚史「孤独と不安のレッスン」という本です)、それを一旦読むのを止めて本書を読み始めたんだけど、その「孤独と不安のレッスン」の中に、『悩むことと考えることは別物』というような話が出てきて、ちょっと本書と通じるものがあるな、と思いました。悩んでいる状態というのは、具体的なことを何も思い浮かべないまま、ただどうしようと思っているだけです。でも本書で武器として渡された『ディベート思考』を使えば、悩んでいる事柄をディベートの俎上に載せるにはどういう論題にすればいいか、その論題に対して具体的にどう考えていけばいいのか、というのが分かるので、ただ悩んでいるだけの状態から脱しやすくなるのではないかと思います。
最後に、本書で繰り返し書かれていることに触れて終わろうと思います。それは、『ディベート思考は、正解ではなく、現時点での最善解を導き出す手法である』ということ。正解を導き出すとなると、結局どうしたらいいのかわからなくなって思考停止に陥りがち。そうではなくて、とにかくディベート思考を始めたら、何らかの結論を出すことを考える。ディベート思考に沿ってあらゆることを考えて、その結論として、唯一の正解かどうかはわからないけど、とりあえず今現時点での最善解を見つけ出そう、という発想です。だから、正解を導き出せる思考法ではない、ということはきっちりと頭に入れておくべきでしょう。
現時点での最善解をディベート思考によって導きだすことで、もしその導きだした最善解が結果的よくなかった時、議論の道筋は既に出来上がっているのだから、どこを修正し何を切り替えたらいいのかがはっきりわかるのだ、と本書では書かれています。何よりも、思考停止に陥ることは避けなくてはならない。具体的な様々なことを考え天秤に掛け、その結果最善解をとりあえず導き出し、それが結果的にダメであれば、議論の筋道を遡ってまた別の最善解を導き出せばいいのです。正解ではなく、最善解を導き出すための方法だ、というのは非常に重要です。
今日本で生きるということは、荒波の中出航する船にいるようなものかもしれません。その中にあって本書は、進むべき方向を決めるための手段である羅針盤のような役割を果たすのではないか、という気がします。これからの時代、本書で提示されるような武器(もちろん、本書で提示されるものだけがこれからの世の中に必要な唯一の武器というわけではないでしょう)を持たずに生きることは、羅針盤なしで荒海に立ち向かうようなものかもしれません。自分に必要な武器であるかどうかは、読んでから判断すればいい、と僕は思います。是非読んでみてください。

瀧本哲史「武器としての決断思考」



ねにもつタイプ(岸本佐知子)

内容に入ろうと思います。
本書は、翻訳家でありエッセイストであもある著者のエッセイです。一つのエッセイが4ページぐらいで、その内1ページが、クラフト・エヴィング商會の挿絵が入る、というような構成になっています。
本書は、『妄想系エッセイ』とでも呼んだらいいでしょうか?
僕は、妄想系エッセイの書き手は乙一ぐらいだと思っていたんですけど(乙一の「小生物語」はホント爆笑させられるエッセイです)、まさか他にもいたとは。妄想系エッセイというのは、現実なのか妄想なのか分からないことを、さもホントのことであるかのようにしれっと書く、というようなエッセイのことです(僕が勝手にそう呼んでるだけですが)。
本書には、どこまで本当で、どこからが妄想なのかさっぱりわからない話が満載です。
例えば、「△△山の思い出」に出てきた「ロープウェイ風呂」のように、冒頭からどう考えても妄想でしょこれ、という話はいい。ロープウェイ風呂というのはその名の通り、ロープウェイが風呂になっているもので、乗り場が脱衣所になっていて、裸になって、窓の辺りまでお湯が入ったロープウェイに乗るというものだ。ホント、どっからこんな変な発想が出てくるのか分からないんだけど。
一方中には、初めは現実の話だったはずなのに、途中から妄想に変わるもの、というのもある。その代表が、「リスボンの路面電車」だろう。初めは、リスボンには怪我をした人が多かったけど、あれは建物すれすれに路面電車が通っているからかなぁ、というような、まあ本当の話なんだろうなぁ、と思わせる始まり方なんだけど、突然そこから、都が突然新宿マルイヤング館の前に一夜の内に直径三十メートルほどの穴を設置した、という話になる。意味不明である。意味不明なんだけど、面白いんだよなぁ。
こういう妄想めいた話は、小説では森見登美彦とか万城目学が得意とするところだろう。奇想を駆使して小説を書くことに掛けて、あの二人は凄いと思う。しかし、エッセイでそれをやる、というのはなかなか凄い。森見登美彦の「美女と竹林」は、妄想系エッセイと呼ぶべきかもしれないけど、あれは僕はどちらかと言えば小説として読んだ。本書は、妄想が駆使されているけど、エッセイだなぁ、という感じがする。
それは、日常感の違いだろうなぁ、という感じがする。岸本佐知子の妄想は、日常の一歩先を巧く掴んでいるんだと思う。
岸本佐知子が妄想で描く人や町や光景は、なんとなくどこかにありそうな気がする。あるわけないんだけど、でもそのあるわけのなさが、ギリギリないな、というラインをうまく通っているのですよね。それに岸本佐知子はそれを、さも現実のことであるかのようにしれっと書く。本当にしれっと書くのだ。それがまた面白い。恐らく岸本佐知子という人は、『ギリギリないな』世界の住人であって、時々僕らが住むこの現実の世界にやってきては、自分が住む世界との差をエッセイに書いているんだろうなぁ。そんな気がする。
また、岸本佐知子の発想は凄く面白い。一番納得してしまったのは、「ニュー・ビジネス」に出てくる「汚れの通販」の話だ。
通販ではよく、汚れがこんなに綺麗に落ちる!というような用品が紹介される。岸本佐知子はそれを見てこう考える。あれを見て『欲しい』と思う気持ちを分析してみると、『うちの洗面台の汚れを落とすあの商品が欲しい』よりはむしろ、『あんな風に気持ちよく落ちる汚れが欲しい』なのではないか、と。だからこそ、汚れをチューブのようなものに入れて売ったらどうか。クレンザーのおまけにしてくれたら、私はそのクレンザーを買うだろう、みたいなことを書いている。
これは確かにその通りだなぁ、と思うんですね。通販番組あんま見ないけど、あそこで落としてる汚れって、実際家庭の中にそうはないですよね。でも欲しい。それはやっぱ、あんな凄い汚れを落として爽快な気分になりたい!ということなんだろうなぁ。全然そんなこと考えたことがなかったから、面白い発想だなぁ、と思ったのでした。
前に岸本佐知子の「気になる部分」というエッセイを読んで、それで本書にも興味を持ったんだけど、僕の記憶だと、「気になる部分」の方は、どちらかというと著者自身の話が多かったように思う。会社員時代の話とか、子どもの頃の話とか、自分の普段の失敗話とか。本書は、そういう話はほとんどなくて、奇想天外な話ばかりである。自分の話を書いても面白いし、妄想を書いても面白いなんて、羨ましい限りです。ホント凄いなぁ。
最後に、短くて容易に引用できそうで、かつ凄く変わった話、というのがあるんで、それを引用して終わろうと思います。「日記より」という題のエッセイの一つだけど、これをホントに日記に書いてたとしたら狂人ではあるまいか。

『某月某日
いつも行く渋谷の書店の片隅に、それまで気が付かなかった薄暗い怪談を見つけた。降りていくと、池のように大きな水槽があり、その中で一頭の白熊と、むくつけき体格のアメフト選手数人がじゃれ合っていた。水は濁った緑色でおそろしく臭いのだが、男たちは楽しそうに白熊と戯れている。手前の柵に、展望台の望遠鏡のようなコイン投入口があり、「コインが切れると白熊が怒りだします」と書いてある。あわてて小銭入れの中から硬貨を出してつぎつぎ投入したが、それもじきに底をつきそうになってきた。私は振り返って助けを求めたが、みんな立ち読みに夢中なのかそれとも聞こえないふりなのか、誰も顔を上げてくれない。』

全般的に、大体こんな感じのエッセイです。淡々とした書き方と、その雰囲気に似つかない奇想っぷりが面白いです。是非読んでみてください。

岸本佐知子「ねにもつタイプ」



円卓(西加奈子)

内容に入ろうと思います。
主人公は、小学三年生の渦原琴子、通称「こっこ」。
こっこは、『孤独』を愛している。孤独になって、一人涙したい。でもその欲求は、残念ながら敵わない。なにせこっこは大家族。三つ子の姉と、両親、祖父母と暮らしている。そして居間には、中華料理屋からもらってきたでっかい円卓。邪魔。
こっこは、人と違うことに物凄く憧れる。だから、『ものもらい』になって『眼帯』をしてきた香田めぐみに憧れ、ベトナム人の両親が『なんみん』で、名前が三つに分かれているグウェン・ヴァン・ゴック(通称グックん)に憧れ、吃音が激しく吃った声でしか喋ることが出来ない幼なじみのぽっさんに憧れ、クラス会中『不整脈』になって倒れた朴くんに憧れるのだ。
それに比べて、三つ子の姉の平凡さと来たら。美人で三つ子であれば、いかようにでも人生を面白くできそうなものなのに、彼女らはそれをしない。凡人だ。
両親と祖母もアホだ。こっこの琴線に触れやしない。唯一、祖父である石太だけは、評価してやってもいい、と思っている。
こっこの日常は、なかなかに忙しい。興味の赴くままに、あれこれ首を突っ込む。こっこの唐突さは、周囲を怯えさせることもある。しかしこっこは平気だ。凡人になんて、どう思われたって気にならない。
というような話です。
これは、これ以上の内容紹介はなかなか難しいなぁ。凄く面白いんだけど、物語性はない。いや、これは決して作品を貶しているのとは違って、物語性なしにこれだけ読ませるのは凄いな、と思っているのだけど、伝わるかしらん。
これはなかなか面白いなぁ。ちょっと違うけど、「こちらあみ子」となんとなく近いざわつきを感じさせる。もちろん、こっこの方が理解しやすいし、馴染みやすい。そうなんだけど、こっこにしてもあみ子にしても、世界への対峙の仕方、折り合いのつけられなさ、その有り余るパワー、みたいなものが凄く近いような気がしました。
小学3年生の頃、クラスメートにこっこのような女の子がいたら、と想像する。僕はどう感じただろう。恐らくだけど、『羨ましい』と思っただろう。たぶんだけど。
当時の僕は、自分をかなり押し殺していたと思う。僕自身はたぶん、こっこのように振るまいたかったと思う。でもそれは出来なかった。自分を、『ある程度の普通』という枠の中に閉じ込めておかないと、色々面倒だと思ったのだ。
実際、こっこは色々と面倒な状況になる(なっているはず)。こっこがそれを『面倒だ』と認識しているかどうかは別として、こっこのあり方は、色んな人を巻き込んだり、状況を混乱させたり、周りの人を不思議がらせたりする。僕にはそういうことが出来なかった。だからきっと、近くにこっこのような女の子がいたら、羨ましく思っていただろうと思う。
こっこはどんな大人になるのだろう。『ある程度の普通』の枠の中に自分を抑えこんでいた僕は、大人になって、その枠を取り払うことが出来た。少しは楽になった。こっこは、そんな枠の存在を認識しない。その枠がないままで大人になることは、こっこにとって恐らく大変だろうと思う。
それを強く感じさせたのが、『イマジン』についてのくだりだ。このくだりは大変に素敵だった。本書の中で一番素敵かもしれない。
こっこと、幼なじみのぽっさんと、そしてこっこの祖父である石太が喋る。何について喋っているか、それを短く表現することは難しいのだけど(それこそ『イマジン』ということになるのだけど)、ここでこっこは、自分には理解出来ない理由によって自分の行動を制限しなければならない理不尽さに憤る。こっこが真剣なだけに、こっこにこの話の重要さを理解させるのは難しい。
ただ、こっこの言っていることも、僕は理解できてしまう。確かに、こっこの側から見れば、こっこは正しい。何よりも、主張が一貫している、という点がこっこの素晴らしいところだ。ブレない。子どもは真っ直ぐな意見を言うものかもしれないけど、それにしたってある程度の年齢になれば、いろんなバランスを取ろうとして自分の意見を調整したりするようになるだろう。こっこには、それがない。眩しいくらい、こっこはブレない。
こっこの真っ直ぐな意見に、普段こっこを諭す役割であるぽっさんも、言葉に詰まる。確かにこれは難しい。でも、普通は問題にはならない。何故問題にならないかというと、普通はみな、生きている中で、そのルールを『なんとなく』理解していくものだからだ。
でも、こっこにその『なんとなく』は通用しない。ぽっさんもきっと、こっことのやり取りを通じて初めて、自分が『なんとなく』しか理解していなかったことを理解したことだろう。
そういうことは、世の中にはたくさんある。
誰かがはっきり決めたわけではないルールとか、どうしてそうなっているか分からないけど守られている規則とか、そういうものが世の中にはある。僕も、実はそういうものは好きではない。好きではないけど、大人になるに従って、そういうものに絡めとられて行くことになる。僕は、出来うる限り抵抗したいと思っているのだけど、どうかな。
こっこに非常に共感した部分はもう一つある。まずその部分を抜き出そう。
状況はこうだ。自分に妹か弟が出来ると言われたこっこ。三つ子の姉はえらく喜んでるし、祖母がこっこに嬉しいよね、というようなことを言う。しかしこっこには、その嬉しさは分からない。そう言うと祖母は、「弟か妹出来てもな、こっこが可愛いのんは、変わらんのやで」という。
そう言われてからのこっこの内面だ。

『ちがう!
そんなことはどうでもいいのだ。弟や妹に嫉妬をしているのではない。ただ、家族が増えることは、手放しで喜ぶべきことである、という、決められた反応が気色悪いのだ。』

まさにその通り!僕はこの部分を読んで、昔読んだ、森博嗣のエッセイの中に書かれていた文章を思い出した。
そこで森博嗣は、

『南向きの窓が良いなんて誰が決めたんだ』

というような趣旨のことを書いていた(確か)。森博嗣は、家の中はちょっと暗いぐらいの方がいい、というようなことを書いていた気がする(確か)。確かにその辺りのことは、個人の趣味の問題だ。でも、家のアピールをする時には、南向きの窓が強調されるし、みんなそれに賛同する(しているように見える)。
僕もこっこが言うような『決められた反応』が気色悪く感じられる人間だ。世の中には、それを否定するとアホなんじゃないかと思われるような価値観は結構ある(上記の、家族が増えることは嬉しいことだ、というようなものだ)。別に、何にどう感じたっていい。人に合わせることなんてないし、人と合わない自分を恥じることはない。でも僕も、そう思えるようになったのは、ホント割と最近のことだ。子どもの頃は、無理だった。だから、こっこのことが眩しい。羨ましい。こんな風にありたかった、と思わせられる。
みんながこっこのようになったら、それはそれで困る。でも、こっこのような人がいなく、みんなが同じ方向を向いているようなのは耐え難い。僕の個人的な実感では、現代は、みんなが同じ方向を向くことがよしとされているような、いやそうではなくて、みんなが同じ方向を向いていることに誰もが気づいていないというか、そういうような時代な気がする。僕は、それがちょっと怖い。もっとみんな、バラバラの方向を向いてもいいんじゃないかな、と思っている。こっこを見習え、とは言わない。でも、こっこの理解者であるぽっさんぐらいにはなってくれたらいいなぁ、と思うんだなぁ。
この作品は凄くいい。物語性のなさなんてどうでもよくなるぐらい、こっこがいい。こっこの反応を深刻に受け止めすぎないこっこの家族もなかなか面白いし、こっこと色んな関わり方をするこっこのクラスメートも面白い。これは、続編みたいなのも読んでみたいかも。こっこ中学生バージョンとか、こっこ高校生バージョンとか。そして大人になって、結局平凡な自分に気づく、みたいな、そうだいな物語になったらいいなぁ。こっこは素敵です。是非読んでみてください。

西加奈子「円卓」




<子ども>のための哲学(永井均)

内容に入ろうと思います。
本書は哲学の本です。でも、普通の哲学の本とは大分違います。
本書は、大部分を占めるのは、著者が子どもの頃から考えていた、ある大きな二つの問題について、結局著者自身がどんな風に考えたのか、という部分です。その二つの問題というのが、『なぜぼくは存在するのか?』と、『なぜ悪いことをしてはいけないのか?』ということです。たった一言で文章にしようとするとこうなるけど、著者が子どもの頃から抱き続けた問題というのはかなり深く、容易ではありません。
僕は正直、著者のこの二つの問題について書かれている部分には、ほぼついていくことが出来ませんでした。どちらも、たぶん問題そのものはざっくりとは理解できたと思う(それでも、取りこぼしている部分は相当多いだろうと思うけど)。ただ、問題を理解してからの、著者自身の解決というか思考というか、そういうのは本当に難しかった。なかなかついていくのが難しい。前に、野矢茂樹の「哲学・航海日誌」を読んだ時も感じたんだけど、無人島に持って行って、理解できるまで永遠に読み込みたい、という感じがしました。それぐらい、ついて行くのが大変でした。
本書のタイトルは、「<子ども>のための哲学」となっていて、素直に捉えたら『子どもにも理解できる哲学』だと思うだろうけど、読み終わって、このタイトルはそういう意味ではない、ということが分かった。<子ども>と、カッコつきになっているところが重要。
僕は、著者が本書の中で提示する、著者が子どもの頃から抱き続け考え続けて来た二つの問題についてはほとんど理解できなかったのだけど、それでも本書には読むべき価値があったと感じました。それは、結局『哲学する』とはどういうことなのか?について、非常に重要な示唆を与えてくれる作品だからです。
まず本書の冒頭の文章を抜き出してみましょう。

『哲学といえば、たいていのひとは、ソクラテスやプラトンからデカルト、カントをへて、ハイデガー、ウィトゲンシュタインにいたる西洋哲学史上の人物を思い浮かべるようだ。そして、哲学を学ぶとは、そういうひとたちの書いたものを読んで、理解することだと思っているひとが多い。しかし、そういうやり方で、哲学の真髄に触れることは、絶対にできない。少なくとも、ぼくはそう確信している。
本人にとってはどんなに興味深い、重大な意味をもつものであっても、他人の見た夢の話を聞くことは、たいていの場合、退屈なものだ。それと同じように、他人の哲学を理解することは、しばしば退屈な仕事である。そして、どんなによく理解できたところで、しょせんは何かまとはずれな感じが残る。ほんとうのことを言ってしまえば、他人の哲学なんて、たいていの場合、つまらないのがあたりまえなのだ。おもしろいと思うひとは、有名な哲学者の中に、たまたま自分に似た人がいただけのことだ、と思ったほうがいい。いずれにしても、他人の哲学を研究し理解することは、哲学するのとはぜんぜんちがう種類の仕事である。』

この文章だけでも、本書に価値があると思う。僕も、本書を読むまでは、『哲学』=『過去の偉人達の考えたことを知ることだ』と思っていた。でも著者は、過去の偉人たちの哲学を知ることと、哲学することとは、まったく関係のないことだと言っている。そんなことで、哲学の本質にはたどり着けないのだ、と。
では、哲学するためにはどうすればいいのか。本書にはこうある。

『つまり子どものときに抱く素朴な疑問の数々を、自分自身がほんとうに納得がいくまで、けっして手放さないこと、これだけである』

これこそが哲学することの重要な点であり、これだけでいい、と著者は言うのだ。
ここで、<子ども>という表記が重要になる。本書に直接定義めいたものはないけど、<子ども>とは、子どもが抱くような存在そのものに対する疑問を持っている人、というような意味だと思う。こんな文章がある。

『つまり、大人になるとは、ある種の問いが問いでなくなることなのである。だから、それを問い続けるひとは、大人になってもまだ<子ども>だ。そして、その意味で、<子ども>であるということは、そのまま、哲学をしている、ということなのである。』

本書はつまり、<子ども>のための哲学、なのであって、子どものための哲学、ではないのでした。だから、タイトルから受ける印象以上に内容は結構難しい。
著者自身がそういう<子ども>だったようです。周りの子ども、あるいは大人を含めて、誰も自分と同じような疑問を抱いていないようだ、と気づいてしまった著者は、そこから、哲学のなんたるかを知らないまま、ひたすらに自分にとって重要な疑問について考え続けた(本書では、哲学のなんたるかを知ってから哲学するのは遅い、というか、一般的な意味での哲学を学んでしまったら哲学することが難しくなる、と言っています)。そしてその結果、知らず知らずのうちに哲学していたようなのです。
だから本書は、『自分自身の<子ども>の驚きから出発して、みずから哲学しようとするひと、せざるをえないひとのために書いたのだ』ということになります。
僕も、著者ほど複雑な疑問を抱いていたわけではないし、著者ほど深く問題を突き詰めて考えたわけでもないけど、中学高校ぐらいの頃は、他の人にとってはさほど重要ではないように見えた、しかし僕にとっては重要で仕方なかった問題についてずっと考え続けていました。その問題がどういうものなのか、今言語化するのはなかなか難しい。大雑把に言えば、『どうして自分は生きていなくてはいけないのだろう』みたいなことだと思うけど、たぶんピッタリとした言葉は見つけられないような気がする。
当時の僕が哲学していたのかどうかは、もはやよく分からない。本書では、<子ども>の哲学は、『もっとかわいた、はっきりとした疑問なのである。ぼくは深刻になやむどころか(後略)』と書いてあるのだけど、僕は当時深刻に悩んでいた。僕にとっての疑問は、純粋な疑問ではなく、自分の周囲との関係や生き方と強く強く結びついている疑問だったので、あれが哲学していたということになるのかはちょっと疑問だ。それに、そういう状態だったから、自分の抱いている疑問について深く深く考え続けることにある種の苦痛を伴いもした。だからこそ、本書で著者がやっているようには、深く突き詰めて考えてもいない。ただ、他人にはまったく理解してもらえないだろう疑問や悩みについてウダウダ考え続けていた、という点だけは共通しているかな。
本書は、野球のやり方を、将棋のやり方を教えてくれる本と同様、哲学のやり方を教えてくれる本です。やり方を教えるその一例として、著者が考え続けた二つの疑問について詳細が書かれている、という体です。だから究極的には、著者の二つの疑問そのものについてはどうでもいい。本書でも、

『読者のかたがたが、もし万が一ぼくの問題と同じ(あるいは似た)問題をもっておられるなら(ぼくの考えも参考にしつつ)考えてみてほしい。別の問題をもっているなら(ぼくのやり方を参考にしつつ)考えてみてもらいたい。何も考えるべき問題がなければ、もちろん何も考えなくていい。でも、もし考えるべき問題があるならば、それを考えぬいてみてほしい。それはだれにでもできることなのだし、哲学なんてそこからしか始めようがないのだ(ただし、人生の悩みや苦しさから哲学をはじめてはいけない。それは必ず悪い思想を生み出すから)。ぼくが言いたかったことは、せんじつめればただそれだけのことだ。』

と書いてある。本書では、こういう考え方が貫かれている。こういう哲学の本は珍しいのではないか、と思いました。哲学と言えば、過去の哲学者の考えを学ぶことだと思っている人(僕も本書を読むまではそうだった)には、目から鱗の作品なのではないかと思います。
僕は、ウィトゲンシュタインにはちょっと興味はあるけど(全然知らないけど)、カントとかデカルトとかハイデガーとか、そういう人たちには特に興味はありません。哲学的な思考(永井均の著作である「翔太と猫のインサイトの夏休み」っていう哲学の本は凄く面白かった!)には結構知的な関心を持ったりするけど、深く知識があるわけではありません。要するに、哲学というものについてよく知りません。でも本書を読んで、それで全然問題ない、むしろその方が<子ども>の哲学のためにはいいのだ、というようなことが分かって、なんか良かったなという気がします。著者のように、周りの人には理解してもらえない、その疑問を突き詰めて考えたところで何も益はないし何も変わらないような疑問というのを、否応なしに考え続けてしまう人というのはいると思います。まさにそういう人のための本です。長年抱いている疑問は特にない、という人は、別に読まなくてもいいと思います。必要な人には本当に必要な作品ではないかと思いました。是非読んでみてください。

永井均「<子ども>のための哲学」



つぶやきのクリーム(森博嗣)

内容に入ろうと思います。
本書は、森博嗣の100のフレーズに、それぞれ2ページずつの補足が書かれている、という体裁の本です。まえがきで森博嗣はTwitterに触れていて、別に森博嗣自身はTwitterをやる気もないし、たまに見ても大した呟きを見つけられないけど、要するに、100のフレーズはそういう「呟き」のようなものだ、という感じです。
僕はこれまで、森博嗣の小説だけではなく、エッセイもたくさん読んできたの、森博嗣的思考と言うのには結構触れてきた人間だと思う。だからこそ、少なくとも僕には、新鮮だ、という感じの内容ではありませんでした。それは、これまで出版された本と内容が同じだ、というようなことを言いたいわけではありません。似たようなことももちろん書いている部分もあるだろうけど、内容が似通っているというわけではありません。それは、思考の方向性というか、森博嗣の立ち位置というか、視点の置き方とか、そういうものが、やっぱりブレないなぁ、凄いなぁ、という感覚だ、と思ってください。だからこそ、本書に限らず森博嗣のエッセイを初めて読むという人には、こういう思考・立ち位置・視点には驚くだろうなぁ、と思います。
本書で描かれていることも、なるほど、と感じられるものもあれば、そういう見方もあるのか、と感じられるものもあり、あるいは、それについては僕自身は興味がないなぁ、というものももちろんあるわけなんだけど、基本的にやっぱり、森博嗣の思考には共感できる部分が多いし、自分もナチュラルにそういう風に思考出来る人間になりたいものだ、と思うものが多いです。
どの作品(小説を含めてもそうだけど、基本的にエッセイを指しているつもり)でもそうだけど、森博嗣は、常識や慣習にナチュラルに疑問を抱く。何故そうなのか、何故そうしなくてはいけないのか。多くの人は、その疑問を感じることがない。その疑問を抱かない方が、つまり、常識や慣習に唯々諾々と従っている方が、楽だと知っているのだ。
僕はどちらかといえば、疑問を抱いてしまう方だ。もちろん、森博嗣ほどではない。僕も常識や慣習に流されている部分はたくさんあるだろう。とはいえ、そういう感じだから、生きづらさを感じるのだろうと思う。森博嗣ほど能力があれば、常識や慣習に疑問を抱いても、そう強い生きづらさを感じずに済むのかもしれないなぁ、とか思ったり。あるいは、ただ単純に年齢や環境の問題、というのも大きいかもしれないけど。
個人的には、森博嗣のような思考の人が増えてくれると僕は生きやすいのに、と思う。世の中はもっと、森博嗣の思考のような、合理的な判断で回って欲しい、と感じてしまう。世の中は、そうなってはいない。余計なものがたくさんくっついてくる。山とかを歩いていると、服に何か植物がついているようなことがあるけど(なんて植物なのか知らないけど、そういうやつありますよね?)、それに近い。知らぬ間にくっついている。僕は、気づけば取るようにしているけど、たぶん気づいていないものも多いはずだ。森博嗣はきっと、そういう服についてしまうような植物に全部気づき、そして、服についたそれをどうやって取るかという思考よりも、それが服につかないようにするにどうすればいいか、というようなことをずっと考えているような人である(あくまで僕のイメージですけど)。
そういう人が増えてくれれば、つまり、余計なものをそぎ落とすためにどうしたらいいか、というような方向性の人が増えてくれれば、僕自身はきっともっと生きやすくなると思う。余分なものがたくさんある方が、経済はうまく回るんだろうし、それによって恩恵を受けられる人もきっとたくさんいるのだろう。僕は、そういう部分には強く興味を持てないから、もう少し余分なものが世の中から減ってくれたらいいのにな、といつも思っている。
森博嗣の言っていることは、少なくとも僕にとっては、赤道直下の国でコートを着ている人に『何でそんなもの着ているの?』、と聞くようなものに近い。つまり、凄く当たり前のことを言っているように感じられる。もちろん全部ではない。自分がこれまで考えたことがなかったような方向性の思考ももちろんたくさんある。でも、すげぇ当たり前だよな、と感じられるものも非常に多い。
赤道直下の国でコートを着ている人からすれば、『みんなが着てるから』とか『そうするのが普通だから』とか、あるいは『それがルールだから』なんていう答えを返す人もいるかもしれない。赤道直下でコートを着ることが『普通だ』と思えない人には、その人の言っていることは理解出来ない。恐らく森博嗣が世間を眺める視点は、こういう位置にあるのではないだろうか、と思う。恐らく、実に多くの人間がおかしなことをしている、そんな風に見えているんだろうなぁ。僕も、たまにそう思うことはある。森博嗣のように、なんでもかんでもそういう視点から見えてしまうというのも、ある意味では羨ましい。でも、それはそれで相当の『覚悟』みたいなものが必要とされるんじゃないかなぁ、という気もする。僕は、森博嗣は天才だと思っているのだけど、その天才さは、一般の人からすれば『覚悟』が必要としか思えない場所に、飄々と(あるいはそう見えるように)座っているからだったりするのかなぁ、という気もする。わからないけれど。まあ森博嗣からすれば、こうやって森博嗣のことを分析しようとしている人間は、ゴミでしかないんだろうなぁ。いや、僕はそれでいいんですけど。
いつものように、内容を抜書きしてあーだこーだ書こうと思うのだけど、ちょっと躊躇してしまう。それは、本文中に、

『評論家口調で、「これはおすすめできない」と書いている人は、自分がすすめるも
のにどれくらいの自信があるのだろう。どの程度の責任を感じているだろう。おそら
く、なにも考えていないにちがいない。それゆえ、無害といえば無害である。』

『偉い人の話を聞いて、それをそのままブログに引用しても、これっぽっちも偉さには近づけない。』

というような記述があるからだ。
いや、別に、本の内容をブログに書くことについては、以前から森博嗣は不快感(と表現していい感覚なのかは不明だけど)を示していた。僕も、別にそれを知った上でブログで感想を書いているし、抜き書きもしてきた。だから、本書だけ躊躇する、というのは、少なくとも僕も理屈には合わない。だからまあいつも通りやるんだけど、まあでも、先に引用した二つについても、言っていることは非常に共感できてしまうんで厄介なんですよね。
さて、本書には、電子書籍や書店に触れた部分がある。

『いよいよ、印刷された書籍は出る幕がなくなってしまう。こうなることは、二十年もまえから予測されていたことで、今さらそれがどうだ、という議論はしたくないけれど、ようやく大衆が移り始めた感じは見える。書籍が書店で売られるシステムをもっと合理化していれば、まだまだ存続の可能性はあっただろうけれど、残念ながら、時既に遅しとなった。』

『売れない商品、売れ残り商品を沢山並べている店、それが書店である。』

書店で働いている者としては反論したい部分もあったりするのだけど、でもそう見られているということは自覚すべきである。結局のところ、書店がなくなって困るのは、書店で働いている人間だけなのかもしれない。もちろん、書店で働いている者としては、そうではないと信じたいところだけど、でも今のままだと、書店はちょっとどうにもならない。既に王手をかけられている状態、と言ってもいいだろうと思う。森博嗣の予測はきっと当たるのだろう。少なくとも、何かとんでもないパラダイムシフトでも起こらない限りは。そして、そんなパラダイムシフトが起こりそうな予感は、少なくとも僕には感じられない。
僕はこれからも書店で働く者として、自分が信じる方向に精一杯努力をするつもりだけど、しかし悲観的な感覚は決してなくなることはないだろうなと思う。

物を売る立場の人間として、面白い話もあった。

『世の中には、一流よりも二流の方が圧倒的に多い。二流の感性の受け手は、一流よ
りも二流の作品の方に安心する。みんなも良いと言う。だから、それが良いものの典
型にある。』

『近頃の傾向として、易しくて理解できるものを好む、軟らかくて食べやすいものだけを好きになる、というのがある。そんな気がするだけだろうか。』

『良い品物だから売れる、欲しいものだから買う、というメカニズムは
むしろマイナ。』

物を売る立場の人間としては、売れるものは何でも売らなくてはいけない。しかしその一方で、売れていくものが決して質の高いものであるわけではない、という感覚は常にある。
僕個人としては、良い物をたくさん売ることで、より良い物が生まれやすい環境を生み出せたら、あるいは、良い物をたくさん売ることで、良い物を見分ける力を学べる環境を生み出せたら、と思っているのだけど、なかなかそうはいかない。作中で森博嗣も、良い物はそんなに売れない、と書いている。これは、僕の実感とも一致する。なかなか難しい。そこそこのものばかりが売れていく世の中で、どうして良い物を作ろうという人が出てくるだろう。一応断っておくけれども、僕自身が少なくとも本に関しては良い物を見分ける力が普通の人よりはあるよ、なんてことを主張したいわけでは全然ないのですよ。

仕事といえば、こんなフレーズもある。

『作業に取りかかる以前に、ほとんどの仕事のグレードは決まっている。』

このフレーズ自体は、特別新鮮なわけではないけど、でもこれを、ペンキ塗りの話から導き出すという補足の話は非常に面白いと思う。

また、こんな思考もある。

『一般に、自由人と呼ばれるような人は、不自由を我慢する能力がなく、我慢ができないからなんとか自由になろうとする。そのうち、比較的能力がない人は、犯罪者になる。残りの比較的能力のある人は、社会で成功する。』

非常にスマートにまとめるなぁ、という感じがしました。僕は、不自由を我慢する能力がまったくない人間だけど、能力はそう高いわけではないから、いつしか犯罪を犯すかもしれない。これは謙遜とかではなくて、自分が犯罪を犯すかもしれない可能性というのは、考えているのだ。それぐらい、不自由に対する耐性がない。今はたまたまラッキーなことに、不自由さをほとんど感じずにいられる環境なのだけど、それが様々な偶然によって成り立っているということもちゃんと知っている。環境が少しでも変われば、僕はどうなるかわからない。
自由については、こんなフレーズもある。

『「自由なんていらないよ」という人にかぎって、金だけは欲しがる。』

これは、この文章だけだと、どんな状況を説明しているのかちょっとわからないかもしれない(僕は分からなかった)。でも、補足を読むと、なるほど、と思わされる。森博嗣は大学の助教授という職を去って以降、さらに人に会わなくなる生活をしているようなんだけど、個人ブログを見ている、というような記述があった。恐らくそういうところからの観察もあるのだろうな。森博嗣の周囲の観察力は高いよなぁ、といつも思う。
森博嗣と考え方が近くて、嬉しいなぁ、と思うような思考も多い。

『国を愛することは、具体的にどのような心理なのか、僕は今一つ理解できない。僕は、故郷を愛したり、どこかの地域を贔屓にしたりといった経験がない。「先祖」というものが何かも、またそれに縛られる思想も理解できない。人が創り出した文化、つまり伝統は大事だと思うが、それがその「場所」にあるとは思わないのだ。高校野球で、自分の県の高校を応援する気持ちが僕にはまったくわからない。説明してもらったことはあるけれど、まったくこれっぽっちも納得できなかった。』

『僕の場合、眠ることや食べることが人生の目的だとは考えていない。生きるために
は、眠ること食べることが必要だから、ある意味では「しかたなく」寝ているし食べ
ている、という感じがしている。』

『親の死に目にあえないことの何が問題なのだろう?』

『子供は自由だというが、大人ほどではない。』

『死というものが、これほど特別視されるのは、やはり「いつ訪れるか」がわからな
いからだろう。生きられる時間が決まっていれば、死はもっと日常のものになってい
たはずだし、死を迎えるための方法も確立されていたのではないか。最期の日は、少
なくとも誕生日以上のイベントになっていたはずだ。』

こういう思考は、周りの人間に通じることもあるし、通じないこともあるけど、僕にとってはどれも普通のことで、そうではない風に考えられる方が不思議だなぁ、と思うこともある。

まあそろそろ、具体的な引用はやめようかな。
森博嗣の思考に触れると、自分の甘さとか弱さとかに気付かされる。でも、もうそれでもいいか、という感覚も出てきてしまう。森博嗣のようにはなれないよなぁ、と思ってしまうのだ。自分の本分に沿って生きればいいか、と思う。別に森博嗣は、僕に何かを強制させようとはしない。けど、森博嗣のような思考・生き方に触れると、なんとなく自分のダメさ加減が怖くなる。けど、もう諦めよう。速やかに諦めよう。
というわけで、受け取る人次第でしょうけど、僕にとってはやはり森博嗣の思考は、心地いいと同時にざわざわさせられる、そういうものです。森博嗣の思考に触れると、自分がどれだけ多くのものに縛られ、そしてそれが不自由さを生み出しているのか、ということに気づくのではないか、と思います。是非読んでみてください。

森博嗣「つぶやきのクリーム」



伊藤Pのモヤモヤ仕事術(伊藤隆行)

内容に入ろうと思います。
本書は、「モヤモヤさまぁ~ず2」「やりすぎコージー」などの人気番組を手がけるテレビ東京のプロデューサーで、
「モヤさま」で呼ばれるようになった「伊藤P」という呼称で親しまれている著者による、自身の仕事術について書いた本です。
本書はまず初めの章で、万年最下位のテレビ局であるテレ東という環境が自分にどんな影響を与えたのか、という話が出てきます。僕はここの部分が一番好きだったんですけど、詳しいことは後で書きましょう。
それから、プロデューサーというのは結局何をする人で、どんな部分に気を配らなくてはならないのか、企画はどんな風に考えてどうそれを上に通すのか、またそもそもプロデューサーである前にサラリーマンである自分は、サラリーマンとしてどうあるべきで、どんな風にやってきたのか、ということなどを、自身が手がけてきたあるいは関わってきた番組の話なんかを織りまぜながら書いている作品です。
それと同時に、さまぁ~ずの二人、テレ東のアナウンサーである大江アナ、大橋アナ、構成作家の北本かつら、新入社員当時の上司である近藤さんによる寄稿もある、という構成です。なんと巻末には、伊藤Pの奥さんまで文章を寄せているという豪華版(?)です。
さて、内容については後でおいおい触れるとして、本書を読んだ感想を率直に書こうと思います。

本書には、正直に言って、さほど大したことは書いていないな、と感じました。
でも同時に、本書を読めば読むほど、この人と一緒に仕事したい!!!と思わされました。

これが僕の正直な感想です。こういうタイプの本って、凄く珍しい気がします。この、『この人と一緒に仕事したい!!!』という感覚こそが本書の真髄であって、読むべき価値がある、と思いました。
例えば比較として、僕が大好きな作家である森博嗣のことを引き合いにだしてみようと思います。
僕は、森博嗣という作家が非常に好きです。小説も大好きですが、エッセイなどでその思考に触れられることも凄く好きだったりします。森博嗣は、凡人と同レベルでは語れないほどの高みにいる、と僕が感じられる人で、その思考の断片は、僕の感覚を凄く素敵なところにまで連れて行ってくれます。研ぎ澄まされた、鋭さをギリギリまで隠したような思考や言葉には、快感さえ覚えます。
ただ、じゃあ森博嗣その人に会ってみたいかというと、そういうわけでもありません。もちろん、森博嗣の思考に触れることが出来るなら会ってみたい。でも、僕の印象では、森博嗣は興味のない対象には開かないだろうし(鉄道や模型など、自身の興味のある対象に関わる人に対しては開くのだろうけど)、であれば会ったところでその思考に触れることは出来ないだろうなぁ、と思ってしまうのです。森博嗣と遜色のない天才であれば向きあって話が出来るかもしれないけど、自分がそうではないことは知ってるし。
だから、森博嗣の場合、書かれている言葉や思考は凄いと思うし、それに浸りたいと感じるのだけど、直接会ってみたいとか、一緒に何かをやりたい、という感じにはならないんですね。
一方伊藤Pは、書いていることは平凡です。もちろん伊藤Pには、様々な番組を成功させてきたという実績があるからこそ、その平凡さは『究極の平凡さ』なのだと分かります。ここで僕がいう『究極の平凡さ』というのは、様々にあれこれ考え続けてきた結果、最終的に辿りついた結論が平凡なものだった、というものであって、それ自体に価値がないなんて風に思っているわけではありません。組織の中で様々な経験をし、誰も進んでいない道をひたすら進み続ける人間が言う『平凡さ』には、平凡な人間がただ口にするだけの『平凡さ』とはかけ離れた価値があると思います。
それでも、やっぱり言っていることは平凡で、書かれている言葉そのものに強く反応する、ということはありませんでした。
でも、読めば読むほど、伊藤Pに会いたくなる。この感覚は、小説やエッセイを読んでて頻繁に感じるものではない。作品と著者を切り離して考える僕は、作品がよくても著者自身にはそこまで強く関心を持てない、ということはよくある。ましてこの作品は、書かれている内容自体は平凡なのだ。なのに、伊藤Pにどうしようもなく会いたくなるし、一緒にお酒とか飲みたいなぁという感じがするし、この人と何か一緒に仕事をしてみたい、という感覚になる。
僕は人生の中で、この人と何か一緒に出来たら面白いだろうな、と感じられた人が数人いる。直接知っている人もいれば、名前だけ知っている人もいるけども、僕を問答無用で惹きつけ、その人と一緒に仕事をしている人が羨ましくて仕方がない、という人がいる。僕の中で伊藤Pも、その中の一人に入りました。本書の中で、確か大江アナだったと思うけど、伊藤Pは人たらしです、みたいなことを書いてたんですけど、ホントその通りだと思うし、本書もまさに『人たらしの本』だと思いました。読むだけでその人と一緒に仕事をしたくなる本なんて、そう多くはないですよね!
僕が本書を読んで一番好きだったのが、第一章の『最下位局・テレビ東京で育って』です。ここで書かれていることは、なんとなく自分にも当てはまるような部分があって凄く納得出来たし、共感できる気がしました。
テレビ東京は、47年間連続で、視聴率最下位の局です。それには様々な理由があるけども、局の事情でテレ東には出演しないとなってしまった芸能人が結構いるとか、番組の制作費が他局の十分の一ぐらいしかないなど、どうにも仕方のない部分が付きまといます。
その中で伊藤Pは、『TBSを超えよう、日本テレビに勝ってやる、という考えそのものは空虚です。「どうやって勝つか」がないかぎり、やたら勝ちを目指してもしょうがない。』と言います。
勝ち方を考える、という言い方を本書の中でよく伊藤Pが使いますが、これは最下位だからこそ発想できたことでしょう。これが、例えば2位とか3位なら、「何がなんでも1位になるぞ」となったはずです。それ自体は悪くないと思います。でも僕は、そういうのがあまり好きになれない。数字で負けていても、別の基準で勝っている。それは、ただの自己満足に過ぎないかもしれない。でも、数字だけで物事を判断してしまう/されてしまうことがあまり好きではない僕は、この『勝ち方を考える』という発想が凄く好きです。
僕も、最下位とは言わないまでも、そういう底辺のレベルからスタートして、今もそのレベルにいる人間です。
僕が本屋で働いていて、文庫と新書の売り場を任されているんですけど、僕がいつ店は、大手チェーンでもないし、店自体が凄く広いわけでもない。元々知名度があったわけでもないし、優秀なスタッフがいたわけでもない。僕は、今働いている店で初めて書店員になったので、書店のイロハはまったくわからない。それなのに、書店の仕事をまともに教えられるような人間は誰一人いなかった。基本的にやる気のない担当者ばかりで、売り場は基本的にどこも死んでいる。売上を伸ばそうという関心を持つ社員は誰一人いない。
そういうところから僕の書店員人生は始まりました。最下位とは言わないまでも、決して良いと言える環境ではありません。
でも僕は、そこがスタート地点だったことに、今では感謝しています。
僕は今、『定石』を無視した売り場を作っている、と自分では思っています。書店には、こういう場合はこうすべきだ、というような、囲碁・将棋でいうところの定石がたくさんあるはずです。ただ僕はそれを全然知らない。誰も僕にそんなことを教えてくれなかったのです。だから、全部(とは言い過ぎかもだけど)自分で考えた。どういう売り場であればお客さんに楽しいと思ってもらえるか、また来たいと思ってもらえるか、あそこだったら面白い本があるかもしれないと思ってもらえるか。そういうことをあーだこーだ考えて、色々実行して、それで今に至っています。
その過程で、普通の書店ではありえないだろうことを様々にやってきました。失敗したものもありますが、今でも継続しているものもあります。ウチの店に他店の書店員の人が来ると、こんなやり方初めて見たと言われて僕がびっくりすることもあったりします。
僕は、自分のやり方が正しいのか、ずっと不安です。もしかしたら、『定石』通りに売り場を作る方がより売上が上がるのかもしれない。でも僕には、その『定石』がどうしても正しいと思えないものが多い。どうしてそんな風にしているのか疑問に感じることが多い。これは、その『定石』をまるで知らなかったからこそ出来た発想だろうと思うんです。もちろん、自分の今のやり方が大間違いである可能性だってある。それを判断する基準が売上なのかもだけど、数字だけで判断されてしまうのもなんか嫌だ。もちろん数字は大事だけど、伊藤Pが言っているように、視聴率で勝てなくたって別の視点での勝ちを追い求めたっていいのではないか、と思ってしまう。
伊藤Pはこんなことを書いている。

『もし視聴率を15%獲ろうとなったら、ターゲットをそこまで絞らず、いろんな人を巻き込む考えを持ち込まないといけません。でも万人受けを狙うと、熱を持って支持してくれる固定ファンを取りこぼしてしまう危険性がある。どちらを選ぶか?僕の番組にあるのは、もちろん「好きな人だけ見てくれればいい」という方法論です。』

僕はさすがに、『好きな人だけ来てくれればいい』なんてことは言えませんが、本書の中で僕が一番共感したのがこの部分です。
僕は今、どこの書店も、視聴率15%を狙って売場作りをしているように感じてしまう。もちろん、そうじゃない書店だってたくさんあるだろうけど、大多数の書店はそうではないかと思う。
僕は、視聴率15%を狙う書店の数は、もっともっと少なくていい、と思っているんです。みんなが同じ本を売って、売れている本ばっかり売れてしまう、という今の現状が、僕は正直怖い。僕は、『書店は、お客さんが本を選ぶ力を養う場を与えなくてはならない』ということをずっと考えて売場作りをしてきたつもりなんだけど(だって、リアル書店にしか持ちえない存在価値って、もうそれぐらいしかないんじゃないかと思ってるんです)、今の流れは、『お客さんから考える力をいかに奪うか』となってしまっているように思うんです(さすがにこれは言い過ぎかもだけど)。
もちろんそれは、書店というのは薄利多売で、かつ超斜陽産業であるという事実を無視しては考えられないことで、とにかく売上をガツガツ獲っていかないと店自体の存続が危うい、という事情があるから仕方のないことだとは思う。でもなぁ、と僕は思ってしまうのだ。
もっと、視聴率5%を目指す書店が乱立していいと思う。お客さんは、どの書店に行くか、というところから選択を始める。視聴率5%でいいなら、15%を目指すより、より個性を強く出来るし、尖ることも出来る。本書には、『ガイアの夜明け』を立ち上げたプロデューサーの言葉として、『テレ東はお客さんを差別するべき』という言葉が出てくるんだけど、テレビ局や書店に限らず、もっとそういう方向性があってもいいんじゃないかな、と感じる部分は結構あったりする。
みんなが視聴率5%を目指す売り場を作るのはそれはそれで困る。でも、みんなが視聴率15%の売り場を作るのもそれはそれで困ると思う。で、今は、視聴率15%を目指している書店が多すぎるんじゃないかな、と僕は思っている。なんか知り合いの書店員の人が読んだら色んな反論をぶつけられそうな文章を書いてみたけど、ずっと考えていたことを書いてみました。
本書では、帯にも書いてあるんだけど、『1%の天才』というフレーズが出てくる。正確に引用するとこうです。

『自分の才能が100%だとしたら、99%は凡人。でも、1%はものすごい天才だ』

で、その1%の天才を心の底から信じて仕事をしなさい、ということです。
僕の1%ってなんだろうって考えると、僕が自信を持って人に言えることは、『長い感想文をほぼ毎日のように書ける』ということかな、と思います。僕はそれ以外の部分については、まるで自信がない。感想文にしたって、良い文章を書けていると思えることなんてほとんどなくて、ただ量を書いているだけという自覚がある。でも、毎日のようにこんだけの分量の文章を書ける俺って凄くね?とは思ってる。その部分があるからこそ、本の良し悪しを独断して売り場で勧めることが出来るし(人に本を勧めるって行為は、凄く怖いんですよ)、自分のやっている仕事にも多少なりとも意味を見つけられるかな、という気はしている。たぶん、この自分の中の1%を信じることが出来なくなったら(具体的に言えば、長い文章を書けなくなったら)、怖くて書店員の仕事なんて出来なくなるんじゃないか、と思っている。
本書には、僕の大好きなテレビ番組である「モヤさま」の裏話的な話も載ってて面白い。僕は今もうほとんどテレビは見てなくて、心の底から見たいと思える番組はホントに「モヤさま」ぐらいしかない。この番組の空気感がホントに好きで、ずっと見てしまう。
「モヤさま」に興味のない人には意味がわからないだろうから、具体的にあーだこーだ書くことはしないけど、本書に出てくる「モヤさま」の色んな裏話を読んでいると、伊藤Pだからこそ、あの番組の空気感をずっと長いこと継続させられているんだろうな、と思いました。ホント、伊藤Pと仕事が出来る人は幸せだと思います。
本書は、誰がどう読むかで色んな捉え方があるんだろうけど、僕はPOPのフレーズとして、「最下位の仕事術」っていうのを思いつきました。万年最下位の立ち位置にいたからこその発想と、それを膨らませ続けたことでどうなっていったのか、という話だと思いました。
冒頭でも書きましたけど、本書を読むと、伊藤Pに会ったり一緒に仕事をしたくなったりすると思います。そういう魅惑的な作品です。自分が上司であれば、伊藤Pのような立ち位置を目指そうと思ってもらえたらいいし(本書で伊藤Pは、『人の上に立つものは、媒介であれ』と言っています)、自分がまだ部下の立場であれば、こういう上司をなんとしてでも探しだそう!というモチベーションになってくれたらいいなと思います。是非読んでみてください。

伊藤隆行「伊藤Pのモヤモヤ仕事術」



私たちが星座を盗んだ理由(北山猛邦)

内容に入ろうと思います。
本書は、5つの短編が収録された短篇集です。

「恋煩い」
アキはもう一年近く、ホームの向かい側で本を読んでいる一つ上の先輩に片想いをしている。
子どもの頃から仲の良かったトーコとシュン。アキはシュンに告白されたことがあったけど、アキにはシュンは合わないと思った。シュンはトーコと付き合ったらいい、とずっと思っているのだ。それからも、三人仲良く遊んでいる。
トーコがアキに、片想いが叶うといううわさ話を教えてくれた。普段はそんなことに耳を貸すことのないアキだが、今はどうしようもなく、そのおまじないにすがってしまっている…。

「妖精の学校」
目覚めると、白いワンピースのようなものを着せられた男女がたくさんいる島にいた。それまでの自分の名前をすっかり忘れてしまって、ヒバリという名前を与えられた。
クラス委員長のウミネコを初め、いろんな人から、この島での生活やルールを教えてもらった。僕達は、この島でクラスことで、いずれ妖精になるんだそうだ…。

「嘘つき紳士」
膨大な借金にまみれている俺は、ボロボロになった携帯電話を拾ったことで名案を思いついた。その携帯電話の持ち主だった男になりすまして、遠く離れた地にいる遠距離恋愛の相手に振り込め詐欺を働こうと思いついたのだ。
なんでもないメールのやり取りを繰り返す。俺も後から知ったことだが、携帯電話の持ち主は事故死していた。彼女はまだそのことを知らない。何も知らない女性を騙しているという罪悪感に押しつぶされそうになりながら、着々と準備を進める俺…

「終の童話」
そいつに触れると石化してしまう。そんな怪物が、貧しい村を襲った。
ウィミィを子どもの頃から面倒見てくれたエリナも、石化してしまった。ウィミィは、崖スレスレで石化してしまったエリナの元へと毎日通った。
村はどんどん変わっていった。様々なことが起こった。悲劇から十年以上だったある日、西の国から奇跡を運んでくる男が現れた…。

「私たちが星座を盗んだ理由」
十数年ぶりに再会した夕兄ちゃん。看護婦になっていた姫子は、子どもの頃、夕兄ちゃんがどうやって星座を消したのか、長年の謎を聞いてみることにした。
病弱だった姫子の姉に首飾りを贈ることにした夕兄ちゃんは、姫子の姉に、首飾り座が消えたと信じこませた。一体どうやって…。

というような話です。
まあまあ面白かった、という感じでしょうか。全体的に小粒な感じはしました。どうしても北山猛邦って作家は、派手な仕掛けを満載にする本格ミステリ作家、という印象が強くあるんで、小粒に思えてしまうのかもしれません。
「恋煩い」は、読み始めてすぐに、この設定ならこういう話が作れるなぁ、と思ったことがそのまま当たりました。まあ妥当な物語、という感じがします。ラストのオチは一番秀逸だと思いました。
「妖精の学校」は、ラストが不親切すぎてちょっと好きになれないかなぁ。これ、もう少しラストの提示の仕方を変えてくれたら、もう少し面白い印象の物語になったんじゃないかなぁ、と思うんだけど。
「嘘つき紳士」はなかなか巧く出来ていた気がします。どういう風に話が転がっていくのか分からない感じはありました。
「終の童話」は、本作中、ミステリとしては一番完成度が高いような気がしました。これ、もう少し細部を丁寧に書いて中編ぐらいの物語にしたら、もっといい作品になったんじゃないかな、という気もします。
「私たちが星座を盗んだ理由」は、ちょっとモヤモヤする感じはありました。僕があんまり星座に興味がないからでしょうか?
ファンタジックな設定の物語と、現実を舞台にした物語とか交互に出てくる感じで、多彩な感じはします。デビュー作以来の印象が強いからか、ファンタジックな作風の方がなんとなく著者に合っているような感じがします。
スルッと読むにはなかなかお手軽なミステリかな、という感じはします。興味がある方は読んでみてください。

北山猛邦「私たちが星座を盗んだ理由」



孤島の誘拐(戸梶圭太)

内容に入ろうと思います。
舞台は、本土から離れた孤島。そこは既に限界集落であり、未来への希望など何も無いような環境だった。
島で唯一の医者だった熊亥永太郎氏の葬儀には、やはり薄井家の連中は来なかった。薄井家は宝くじに当たって大金持ちになって以来、島の人間すべてを泥棒であるかのように扱い、薄井家は島中の人間から嫌われていた。
その薄井家の次男、善貴ももちろん島で嫌われているのだけど、その善貴を心底嫌っているのが、石狩という、島で善貴についで若い男だ。父親の介護のために泣く泣く戻らなくてはならなかった石狩は、父親から引き継いだ畑から取れる作物で僅かながらの収入を得ているが、その畑に善貴はしょんべんをしやがったのだ。
どうにか善貴に復讐してやれないかと、善貴を見張ることにした石狩。後をついていく途中で気づかれ、一緒に善貴の隠れ家まで行くことに。話してみると実はそんなに悪い奴じゃないようだと思えてきて、石狩としては複雑な気持ちである。
善貴と別れた翌日、善貴の隠れ家に行ってみようと思い立った石狩は、隠れ家の近くで死んでいる善貴を発見してしまう。マズイ。どう考えてもマズイ。自分が疑われてしまう要素にまみれている。そう思った石狩は、色々工作しようと目論むも、ちょっと目を離した隙に善貴の死体が消えてしまったのだ!
なんで!どうして死体が消えるんだよ!
一方薄井家には、善貴を誘拐したというメッセージが届き…。
というような話です。
サクサク読むにはいいんじゃないかな、と思う作品です。
物語は、割とギャグ的に進んでいきます。特に堀部って刑事が出てきてからの脱力感はなかなかのもの。石狩を含む数名が、超とんでもない事態に巻き込まれているんだけど、なんでかユーモラスな感じで話が進んでいきます。
かなりドタバタなストーリーです。善貴の死をきっかけに、複数の人間の思惑が絡みあって、刑事の目からみると事件は単純ではない。実際は、善貴の死を巡って、複数の人間が暗躍しているので、全体としてはチグハグな感じになる。でも、堀部って刑事がそれに輪を掛けてちぐはぐな印象を与える刑事なので、もはやカオス。
そういうドタバタ感の演出はなかなか面白いなぁと思ったんですけど、孤島で誘拐っていう設定がもう少し活かされるストーリーだと面白かったかな、と思います。このストーリーだと、どうしても孤島でなければならなかった、という説得力が弱い気がします。孤島でなくても、どこか山奥の村とかそういう設定でも十分成り立つような気もしました。せっかく、孤島で誘拐、っていうなかなかに魅力的な設定なのだから、ちょっともったいないかなぁという気がしました。
ラストも、もう少しやりようがあるような気がしたなぁ、と思いましたけど、まああれはあれでいいのかもしれません。
スイスイと楽しく読める小説だと思います。

戸梶圭太「孤島の誘拐」



女子は、一日にしてならず(黒野伸一)

内容に入ろうと思います。
OLの奈美恵は、とにかく超絶的に太っている。会社からの帰りがけに、肉まんとピザまんを11個食べて、しかも帰ってから普通に夕飯をバクバク食べるくらい太っている。
会社では、仕事は出来る有能な人間だと一定の立ち位置にはいるものの、周りから蔑んだような感じで見られているのは知っている。強く生きてきた奈美恵は、そんな視線を蹴散らすようにしていくのだけども。
同じ会社で秘書をしてる腐れ縁の西陣がとある場所に取材に行くからついてきてと言ったのがFB。「Fat is Beauteful」の略で、とにかく太った女性が集まって飲み食いするだけの場だ。
成り行きで入会することになった奈美恵。そこが主催するお見合いパーティで彼氏をゲットした奈美恵だったが…。
というような話です。
まあ、さらっと読むにはいいんだろうけど、というような感じの作品です。
スイスイ読めることは確かですね。
後半はやっぱり、ちょっと都合の良い展開かなぁという気がしました。
まあ分かりやすくて、そういう作品を求めている人にはいいんだろうけど。
僕はやっぱり、痩せている人の方がいいです。痩せすぎているのも困っちゃうけど。

黒野伸一「女子は、一日にしてならず」



開かせていただき光栄です(皆川博子)

内容に入ろうと思います。
舞台は18世紀ロンドン。瀉血となど、まだ医学的に正しくない治療法が世に広まっていた時代、解剖によって人体をくまなく観察し、その観察によって医学を前進させようとする男がいた。
その男の名を、ダニエル・バートンという。
まだ解剖が一般的ではなく、そもそも外科医が床屋と同じ程度の扱いをされていた時代、周囲からの悪評をものともせず、墓掘りから死体を買い、防腐剤を開発し、幾多の標本を生み出し、正しい医学的知見を見出してきた。
ダニエルが開いている解剖教室は、実は兄ロバートのものだ。
ロバートは、内科医として上流社会へと喰い込み、ダニエルの後ろ盾となっている。とはいえ、ダニエルの仕事を純粋にサポートしているわけではなく、ダニエルが作る標本や、ダニエルが発見する医学的知見を、すべて自らの名の元に発表することが目的だ。ダニエルもロバートのそんな行いに気づいてはいるが、ロバートの後ろ盾なしには解剖教室を続けることが出来ないもの事実だ。
ロバートのその行いは、ダニエルの弟子たちも苦々しく感じている。
ダニエルには5人の弟子がいる。一番弟子であり、最も業績を上げているエドワード・ターナー(エド)、細密画が得意で、解剖中絵を描くことを任されているナイジェル・ハート、そしてあと三人、お喋りのクラレンス・スプナーと、太っちょのベンジャミン・ビーミス、そして痩せっぽちのアルバート・ウッドの五人だ。彼らはみなダニエルのことを心から尊敬していて、ロバートの悪行に苛立ちながらも、ロバートなしでは解剖教室が成り立たないというジレンマを受け入れている。
ある夏の日、ダニエルの解剖教室には三つの死体が存在した。
一体は、いつものように墓掘りから買った死体だ。妊娠六ヶ月の母体という、極めて珍しい死体で、ダニエルはこの解剖を心待ちにしていた。
しかしそこに、ロンドンの治安を守る存在である犯罪捜査犯人逮捕係(通称 ボウ・ストリート・ランナーズ)がやってきた。妊娠六ヶ月のその死体は、ラフヘッド家という高名な地位のお嬢様であり、それでボウ・ストリート・ランナーズが動いているらしかった。
彼らがやってくる前に死体を暖炉に隠した弟子たち。ボウ・ストリート・ランナーズの二人を追いやって、さて解剖の続きを、と思った時、今度は治安判事の使いの者がやってきた。
アン=シャーリー・モアと名乗ったその女性は、治安判事ジョン・フィールディングの姪であり、女でありながら盲目の治安判事の『目』として動き回っている。解剖をしようと暖炉から引きずりだした<六ヶ月>の死体の包みをアンに開けられてしまったのだが、なんとそれは、四肢のない少年の死体にすり替わっていた。
アンが一旦退いた後で、<六ヶ月>の死体を見つけるために再度暖炉の中に入ったところ、そこで第三の死体を発見した。その死体は、顔を潰され判別できなくなっていた…。
というような話です。
これは凄い作品だったなぁ。ミステリとして、相当よく出来ている、と思いました。
本書で最もメインとなるのは、もちろんミステリ的な部分です。このミステリ的な部分の作り込みはなかなかのものです。この部分については、ちょっとしたことがネタバレになりそうな気がするんで、極力なにも書かないままで終わらせたいところですが、ちょっとは何か書きましょう。
冒頭で現れる三つの死体。一つは解剖教室で買い取ったものだけど、後の二つは謎。しかし、この三つの死体について、少しずつ様々なことが明らかになっていく。初めはそれぞれ、まったく繋がりがないとしか思えない状況だ。たまたま三つの死体が解剖教室に揃ってしまっただけ、という感じがする。しかし、もちろんそんなことはない。謎の二つの死体だけではなく、解剖教室で買い取った<六ヶ月>の死体までも、物語に深く関わっていくことになる。
本書では、様々な人間が、少しずつ嘘をつく。それがさらに状況を謎めいたものにする。嘘をつく人間はそれぞれ、自らの良心に従って嘘をつく。皆それぞれに大切なものがあり、守りたいものがある。そのために些細な嘘が降り積もっていくことになる。盲目の治安判事であるサー・ジョンは、視力を失った代わりに研ぎ澄まされた鋭敏な聴力を持つといわれ、相手の言葉が嘘かどうか分かる、と評判だ。しかしそんなジョンさえも困惑させるような展開が次々とやってくる。
三つの死体以外にも、まだまだ死体は増え、謎めいた状況も積み重なっていく。それらは少しずつ解けていく。しかし、解けていく端から、また絡まっていく。疑わしい人物がはっきりしてきてからも、サー・ジョンは予断を持たない。あらゆる可能性を捨てず、細かな点を決してないがしろにせず、少しずつ真相に迫っていく。
事件そのものの展開も魅力的ながら、このサー・ジョンの探偵としての手腕には驚かされる。サー・ジョンは盲目で、アンという姪を右腕として、アンが見たものすべてを忠実に語らせることで視力を補っている。自分の目でものを見ることが出来ない、というハンデを、様々なやり方で補っている。それは、鋭敏な聴力だったり、相手に触れることだったり、あるいは驚異的な記憶力で矛盾点を見つけ出したり、ということだ。また、探偵としての能力だけではなく、人間としても信頼がおける。この時代のイギリスでは、国が強い警察組織を持つことを危惧する市民感情が強く、公的な警察組織というのはほとんどなかった。賄賂によって犯罪を見逃すような、そういう不敬の輩が跋扈する時代だった。その状況を変えたのが、サー・ジョンの異母兄であるヘンリー・フィールディングだ。彼は警察組織の改革に乗り出し、賄賂によって犯罪を見逃すような状況を一掃した。ジョンはそんな兄に協力し、今に至っている。サー・ジョンに采配なら信頼が出来ると、市民からも厚い信頼を得ている人物である。
パズルのピースがぴったりと合わないような謎めいた出来事が頻発する事件と、それを追うサー・ジョン。その攻防が本書の大きな魅力の一つだと思います。
また、強く関心を惹かれる題材が、ダニエル主導による解剖だ。ダニエルには、モデルとなる実在の人物がいる。ジョン・ハンターという、本書のダニエルとほぼ同じ境遇(兄が内科医で解剖教室を持ち、それを弟のダニエルが回していて、成果をすべて兄に取られる、というような状況)だった実在の解剖医だ。
本書の巻末に、「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」という本が、参考文献のトップに載っている。僕はこの本を読んだことがあって、本書の冒頭を読んですぐ、あーあの本の人がモデルなんだな、と分かった。それぐらい、本書で描かれるダニエルは、ジョン・ハンターと酷似している。
「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」を読んだのは結構前なので、もう内容を詳細には覚えていないけど、解剖学の祖、どころか、近代医療の祖というような存在だったはず。それまで治療といえば、呪いと同じようなことしかしていなかった。まったく効果がないことが後世証明された瀉血(病気になるのは体内の血の巡りが悪いからだ、という説に立って、体内の血を抜く治療のこと)がメインの治療法としてまかり通り、確かある有名な人(名前は忘れた)も、瀉血をされすぎたせいで死んだ、というようなことが何かの本に書かれていたような気がします(「解剖医~」だったかなぁ)。
ジョン・ハンターはそんな状況を変える。解剖によって得られた知見を重視し、それまでの学説に一切こだわることなく、自らが辿りついた正しい治療法を広めた。初めの内は、医者の間では、ジョン・ハンターのやり方は異端だと言って相手にされなかったのだけど、その効果が少しずつ広まっていくにつれて、治療法も広まっていった、という感じだった気がします。
本書では、ダニエルの解剖にかける気概みたいなものが随所に描かれます。もっと解剖をしなければ、死因も死亡推定時刻も確定出来ない、そのためにはもっと死体が必要だ、今のロンドンでは死体を確保するのは本当に厳しい、なんとか法律を変えられないかと、ダニエルは何度もサー・ジョンに詰め寄ります。生活のほとんどを解剖に捧げているという感じで、五人の弟子もそんな師を強く尊敬している。ミステリの部分だけでなく、実在の人物をモデルにした、当時の『解剖』に関わる状況を見事に描いて見せている点も素晴らしいと思いました。
また、解剖に限らず本書では、18世紀当時のロンドンの雰囲気というものを細部まで描き出そうとしています。もちろん僕は当時のロンドンのことなんて知らないわけですが、なるほどそんなこともあったのか、と思うような細かなエピソードが、メインのミステリの部分とはさほど関係のない部分についても描写されていて、当時のロンドンの雰囲気を正確に描き出そうとするその意気込みが伝わってきました。
例えば、と言って具体的に書けることは多くないんですけど(ホントに細かい部分での描写が多いので、なかなか読後記憶に残っているものは多くはないんです)、例えば『窓税』というものを僕は初めて知りました。本書で詳しく描かれているわけではないんだけど、恐らく窓を一つ作る毎に税金が掛かるのでしょう。だから、刑務所には窓がないし、ある少年が住んでいた部屋は、窓税を払いたくないがために、レンガをいくつか取り払って窓の代わりにしている、という有様。そういう、ストーリー的には特別必要ではないけど、当時のロンドンの雰囲気を醸し出すのに役に立っている描写がそこかしこでされていて、それが僕は一番凄い点ではないか、と思いました。もちろん、過去のある時点を舞台にした小説(時代・歴史小説なんかはそうですね)では、その当時の風俗や雰囲気なんかをいかに描写するかが作家の腕の見せ所になるんだろうけど、本書はその当時のロンドンのことをまるで知らない人にも、なるほどこんな感じだったんだろうな、と思わせる雰囲気が漂っていて、それがミステリの部分と非常に巧く絡みあって、全体として非常に質の高い作品になっていると思いました。
事件を引き起こした動機や、最終的な着地点なんかも、この当時のロンドンだからこそ、というような部分が含まれていて、ただ単にジョン・ハンターをモデルにしたくて18世紀のロンドンを舞台にしたわけではないということが分かります。本当に細部にまでこだわりのかんじられる作品で、僕は皆川博子の作品を初めて読みましたけど、これはちょっと他の作品も読んでみるべきかもしれないな、と感じました。
ミステリとしての質の高さと、18世紀ロンドンの雰囲気の描写の質の高さ、そして実在の人物を舞台にした『解剖』の状況を取り巻く描写が見事に絡みあった絶妙な作品だと思います。装丁も本当に素敵だと思うし、タイトルもなかなか洒落てますね。出てくるのが外国人ばっかり(当然ですが)なので、外国人作家の作品を苦手とする僕にはちょっとどうかなと思ったんですけど、冒頭でダニエルの弟子五人の名前を覚えるのにちょっと苦労した以外は、スムーズに読むことが出来ました。是非読んでみてください。

皆川博子「開かせていただき光栄です」




コミックいわて(岩手県)

内容に入ろうと思います。
本書は岩手県知事が企画し、岩手県が発行した、岩手県出身の漫画家10名によるアンソロジー作品です。本書は今年1月に出版され、既に三刷まで行ってるんですが、三刷の分の収益の一部を災害義援金に充てることになっているそうです。四刷目以降はどうなるのかはわかりません。

普段あんまりマンガは読まないので、収録作家とその作品内容をざっくり紹介しようと思います。

池野恋:代表作「ときめきトゥナイト」
収録作「風のおくりもの」 転校したばかりで友達のいない少年の目の前に、「サブロー」と名乗る謎の存在が現れる

神田♥ジョセフィーヌ:
収録作「ジョセ チャリing」 地元盛岡を自転車でフラフラする旅行記のような感じ

とりのなん子:代表作「とりぱん」
収録作「かもしか温泉」 無人の温泉にやってきたカモシカが見つけてしまったもの、それは…

そのだつくし:
収録作「幸来来」 リストラでUターンした主人公は、同窓会で旧友に、「年に一度はバカになろうぜ」と誘われるが…

吉田戦車:代表作「伝染るんです。」
収録作「0歳児、北へ」 自分のDNAが含まれてなさそうな娘に、故郷・岩手の空気を吸わせるべく地元を回る

佐藤智一:
収録作「メドツ日記」 カッパ淵で捕まえてきたカメ。それは実は…

地下沢中也:
収録作「バンカラの恋」 バンカラが異様なまでにもてはやされるとある高校の話

飛鳥あると:
収録作「キリコ、閉じます!」 霊が見えてしまう高校生の女の子のお話

小田ひで次:
収録作「ひで次くん山へ!」 歳を取ったせいか岩手山が気になる。そこで登ってみることに…

くどうよしと:
収録作:「イーハトーブを歩く男」 岩手で、どうも見たことがあるような人が多数目撃される…


というような話です。
個人的な話なんだけど、ついちょっと前に盛岡に遊びに行ったことがあるんで、ここ行った!っていうところが本当に多くて、そういう意味でも凄く楽しめました。「ジョセ チャリing」で書かれている街並みは知ってるところばっかりだったし、カッパ淵も行ったことあるし、さんさ踊りは行けなかったんだけど、ちょうど僕らが行った一週間後がさんさ踊りで、なんとなく街がさんさに向けて動き出してるみたいな雰囲気があったりしました(岩手を案内してくれた方がさんさで踊るって言ってましたし)。ホント一回しか行ったことのない土地なのに、知ってるところ・話題がホントたくさん出てきたんで、個人的になんか凄く面白かったです。
僕が一番気に入った話は、地下沢中也「バンカラの恋」です。これはホント、ちょっと斬新すぎて感動しました。正直、岩手っぽさは全然ない話なんだけど、伝統的なバンカラ生徒(自分でも書いてて意味がわかりませんが)が校内で異様な人気を獲得している中、その当人はその雰囲気を冷ややかな目線で見ている、というような、やっぱり書いてても意味不明な感じですが、この意味不明さ、僕大好きです。普段マンガ読まないし、本書に収録されているマンガ家さんの作品、たぶんどれも読んだことないと思うんだけど、地下沢中也さんの作品は、ちょっと他のも読んでみたいって気にさせられました。
他にこれはいいなと思ったのは、佐藤智一「メドツ日記」と、飛鳥あると「キリコ、閉じます!」です。「メドツ日記」は、カッパ淵で釣れたのが、どう見てもカメにしか見えないんだけど、実はカッパだった、っていう話で、しかもそいつ喋れる!メドちゃんがいい味出してます。「キリコ、閉じます!」は、結構絵が好きな感じ。黒髪パッツンの女の子、なかなかいいです。
しかしまあなんにしても、地方自治体が先導でマンガを出版しちゃうって面白さが本書の大きな魅力の一つですね。マンガが始まる前に、本書で扱われている岩手にまつわる題材の説明とか、岩手出身の漫画家・岩手を暑かったマンガの紹介なんかもあって、結構力はいってるなぁ、っていう感じがしました。色んな作家から原稿集めてきてただ組んで出版した、ってだけではない、これを出版することで岩手の良さを知ってもらいたい、というような意志を感じました。
普段マンガをほとんど読まないんで、マンガとしてどうなのか、という評価は僕にはなかなかしにくいんですけど、凄く個人的な感想でいえば、ついちょっと前に盛岡に行ったばっかりだったんで、知ってる場所・題材が多くて凄く楽しめました。地下沢中也さんは個人的に注目!一ついうと、表紙はもう少しなにかやりようはあったかなぁ、という気がしなくもないです。

岩手県「コミックいわて」

死のテレビ実験 人はそこまで服従するのか(クリストフ・ニック+ミシェル・エルチャニノフ)

この作品は、国が全国民分買い上げて、全家庭に配るべき作品ではないかと思う。マジで、テレビが家に一台でもある人は絶対に読んだほうがいい。

まず、2009年、フランスのテレビ局が実際に行った、とある実験の内容を読んで欲しい。

『架空のクイズ番組のパイロット版(実際には放送されないので賞金が出ないと説明される)の収録に、慎重に選んだ一般参加者を集め、彼らに出題者になってもらう。彼らは問題を読み、解答者(実験協力者)が間違える毎に電気ショックを与えるよう指示される。電気ショックは一問間違える毎に電圧が上がり、最高で460ボルトまである。そしてその電圧まで行くと解答者を死に至らしめるかもしれない、と予感させるような状況にある。
さてその状況の中で、果たして参加者の内、何%の人が460ボルトまで電気ショックを与えただろうか。』

正解を書く前に、少し背景的な説明をしようと思います。
まずこの実験は、1960年代にアメリカのイェール大学でミルグラムという心理学者が行った、通称「アイヒマン実験」と呼ばれる、心理学の分野で非常に有名な実験をテレビに応用したものだ。
そのアイヒマン実験とはこうだ。ミルグラムは、記憶力に関する実験と称して被験者を募集し、科学実験という<権威>のもとで、被験者が見ず知らずの相手に対して電気ショックを与える場を設定した。実験内容は、被験者が「先生役」となって問題文を読み、「生徒役(学習者)の人」(実は実験協力者)がそれに答え、もし答えがまちがっていたら電気ショックを与える、というものだ。電気ショックの強さは間違える度に上がり、最高で450ボルトという、死んでもおかしくない強さに設定されている。
このアイヒマン実験は、当時大きな反響を巻き起こした。このアイヒマン実験では、実に60%強の人々が、450ボルトの電機食器を生徒役に与えたのだ。これは何度も追実験が行われ、その度に同様の結果が出ている、信頼できる実験である。
これは、『<権威>から良心に反する命令を受けた時、個人はどれくらいの割合でそれに服従するのか』を調べる目的で行われた実験だ。この実験の名前の元になっている、ナチス・ドイツで上司の命令により数百万人の人々を収容所に送る手配をしたアドルフ・アイヒマンは、当初とんでもない冷酷非常な人間である、と思われていた。しかしこのアイヒマン実験が行われ、その結果が広まるにつれ、善良な人間であっても権威から命令されれば自らの良心に反してでもそれに従ってしまう、という人間の行動が明らかにされたのだ。
冒頭で書いた実験は、そのアイヒマン実験の応用だ。この実験で目的としていることは二つある。一つアイヒマン実験と同じく、『人は服従しやすいのかどうか』である。そして、もう一つの目的の方がより重要である。それは、『テレビは<権威>を持つかどうか』である。
さてこの辺りで冒頭の実験の正解を書こう。アイヒマン実験では、最後まで電気ショックを与え続けた人は、全被験者の60%強だった。2009年に行われたクイズ番組を舞台にした実験では、なんと81%もの人々が最後まで電気ショックを与え続けたのだ。
本書は、この実験を思いついたフランスのテレビマンとその実験に協力した一人であるジャーナリスト兼哲学者による、どうしてこの実験をしようと思ったのかという話から、実験が実際にどう進みどんな結果が出たのか、そしてどうしてそういう結果になったのかまで考察している作品です。この実験の模様は、「死のテレビ実験」というタイトルで実際にフランスで放送され、本書の実験内容に関する部分は、そのドキュメンタリーをベースに書かれています。
本書は、大きく分けて三部構成である。
第一部は、「いかにテレビは過激になり、そしてその現状から、どうして自分たちがこの実験を思いついたのか。そして実験の準備をどれだけ綿密に行い、実際の実験はどう進行していったのか」という内容。
第二部は、「実験で現れた様々な個別の事象について詳しく触れつつ、被験者たちの心の動きや葛藤を分析する」という内容。
そして第三部は、「実験結果を受けて、それぞれについて考察を加えつつ、テレビという権力について総括する」という内容。
まず、第一部の冒頭で、どうしてこの実験を行うことにしたのか、という話が出てくるんだけど、その話は後回しにします。ここでは、『テレビがこれだけ過激であるという具体例』をいくつか挙げ、このままの流れで行けばいずれテレビは番組内で人を殺しかねない、だからこそ今このタイミングで、『テレビが<権威>を持つか否か』を確認する実験を思いついたのだ、という話なんだけど、その、『テレビがこれだけ過激であるという具体例』が本当に酷すぎるのだ。日本のテレビ番組が幼く見えるぐらいの過激さで、先にその話を書いてしまうと、そっちに引きずられて本書のメインの話に焦点が当たらなくなってしまうかもしれない気がしたんで、ちょっと後回しにします。
さてその後で、実験の準備と進行について描かれます。
実験の準備には二年以上の時間を掛けたそう。テレビのクイズ番組という雰囲気を出すために実際の演出家や脚本家に参加してもらい、臨場感のある番組作りを行う。また被験者を集めるのにもかなり慎重だった。アイヒマン実験でもこれは慎重に行われていて、なるべく被験者の層が均質になるように、マーケティング会社二社に依頼して被験者の募集を手伝ってもらった。
実際の実験についても、すべての被験者に条件が同じになるように慎重に進められていった。例えば一例として、タクシーで被験者をテレビ局まで連れて行く際、運転手はラジオのボリュームを上げるように指示されている。これは、被験者が運転手に話しかけないようにするための配慮である。
解答者に電気ショックが流れるというのはもちろんフェイクで、実際には電気ショックは流れない。また、出題者から解答者は見えない&会話が出来ない状況に置かれ、解答者による電気ショックを受けた反応などはすべてあらかじめ録音されたものが流されたのだ。
こうして、細部に渡って慎重な設計を行って、この実験は進められていった。統計学的に言っても、被験者の数は充分だというお墨付きをもらっているらしい。なのでこの実験には、テレビが好きな人だけ、嫌いな人だけ、あるいは水準の高い生活をしている人だけ、低い生活をしている人だけ、というような偏りはほとんどないし、実験手順についてもすべての被験者にまったく同じものが提供されたのだ。
その状況で、被験者たちは様々な反応を見せる。最後まで電気ショックを与え続けたのは81%、というのは確かにその通りだが、その人達も個別には様々な反応を見せたし、もちろん、途中で電気ショックを与えることを止めた19%の人たちも、一括り出来るような行動を取ったわけではない。ある程度のタイプ分けは出来るとはいえ、極限状況に追い込まれた被験者たちは、色んな行動を取る。それらについて、かなり詳細に書かれているのが第二部だ。
本書ではなんどか触れられているが、本書ではとにかく、被験者たちの心のケアが最優先に置かれた。どんな形であれ実験が終了したほぼその瞬間に、これはクイズ番組のパイロット版ではなく心理学の実験だったことが明かされた。実験後、しばらくその事実を伏せていれば、心理学的に得られた知見はもう少し増えただろうと思われる。しかし実験を行った側は、そのデータを捨てて被験者の心のケアを優先したのだ。この実験とアイヒマン実験とでは、細部で若干の相違があるが、この点も一つの相違点である。
第二部では、<変種実験>についても説明される。冒頭の81%というのは、<基本実験>の数字である。実験計画者たちは、微妙に条件を変えた<変種実験>をいくつか行うことで、<権威>の本質がどこにあるのか見極めようとしている。その詳細については本書に書かれているので是非読んで欲しいのだけど、<変種実験>では、服従する率が下がるものが多かった。ほんの僅かな条件の変化で、服従するか否かが決まる、と言ってもいい。本書で繰り返し書かれていることだけど、服従してしまうのはその人が残虐だからでも心が弱いからでもない。「<権威>に命令されたら残酷な行為に走る」というのは、決して他人事ではないのだ。だからこそ、この<変種実験>によって、どういう状況であればより危険なのかが明確になるし、それは知っておくべきだと思う。
第三部では、テレビの持つ<権威>の総括だ。テレビの危険性について様々なことが書かれていて、僕はそのいちいちにすごく納得できるのだけど、一番危険なのは、『面白ければ何をしてもいい』という『テレビ的な価値観』を『無意識の内に刷り込まれてしまっている』ということだろう。目に見える<権威>には対処のしようもある、しかし、テレビという目に見えない<権威>は、それが<権威>であることさえ認識するのが難しいから、余計に危険な存在である、というのは非常にその通りだと思いました。
というわけで、内容についてあれこれ書いてみました。
これは本当に凄い作品だと思います。今まで色んなノンフィクションを読んできましたけど、知的好奇心を刺激する作品(物理とか数学とか)は別として、これは僕の中で相当トップクラスにズドンと心に突き刺さった作品です。
僕は正直、もうほとんどテレビを見ていません。週に最高で3~4時間、週に30分も見ないということも別に普通です。高校時代ぐらいまでは結構テレビ見てましたけど、大学に入ってから見る時間は極端に減り、結局今ではほとんど見ていません。
どうしても、テレビを面白く感じられなくなってきているな、と思うのです。テレビは、最もマジョリティに対して開かれているはずのメディアなので、きっと今テレビを見ている人たちにとっては、テレビというのは面白いメディアなんでしょう。僕にはもうその感覚がついていけなくなってしまったのです。
そんな僕でも、本書を読んで、自分はどうなるだろう、と考えてしまいました。正直、普段あまりにもテレビを見ないので、テレビ的な価値観に凄く支配されているという実感はありません。ありませんが、恐らく本書で描かれる実験の被験者の中にも、そういう人はいたでしょうし、そういう人でも最後まで電気ショックを与え続けた人はきっといるだろう、と思うのです。
たぶん、僕の文章をここまで読んだ人も、『自分だけは大丈夫だ』と思っているに違いありません。自分はそんなことするはずがない、電気ショックを最後まで与え続けたのはその人が弱いからだ、自分はいつでもそんなゲームからは下りられる、たぶん電気ショックを最後まで与えた人が81%もいるのはフランスだからで、日本人はまた違うだろう等々。きっと色んな形で、『自分だけは大丈夫だ』とみんな思っていることだろうと思います。
でも、本書を読むと、そうは言っていられないと思います。普段テレビをほとんど見ない僕でさえ、ちょっと実際その実験に被験者として参加していたらどうなっているか分からない、と不安になるほどなのです。
自分で書くのもなんですが、僕は昔二回ほど、ちょっとだけテレビに映ったことがあります。カメラを持った人が僕のところに取材に来る、という経験が二度ほどある。その時僕は、テレビってちょっと怖いな、と思いました。
本書でも描かれているけど、『テレビ的な価値観』が広まると、『テレビが求める理想的な出演者』を演じようとしてしまうのです。これは僕も本当にそう感じました。カメラを向けられると、素のままの自分でいるというのはなかなか難しい。もちろん、素のままの自分でカメラの前に立てる人もたくさんいるだろうけど、恐らくそうじゃない人の方が多いだろうと思うんです。僕はそれでも、なるべく自分の意に反することはしたくなかったのですが、それでも、テレビに求められていることをやってしまった部分もある。本書で使われている文章をそのまま抜き出すと、『被験者たちの心の中には、参加すると決めた時点ですでに「自分で決心したからには、言われたことをしっかりやりとげなければならない」という気持ちが芽生えていた。』 本当にそういう気分は強く理解出来ます。
僕は個人的には、<権威>というものが嫌いで仕方ありません。僕のことを個人的に知っている人なら、僕がどれだけ『自分よりも立場が上の人』に反発しながら生きてきたのか、ということを知ってくれているのではないかなぁ、と思います。中学生の頃、担任の先生が勝手に決めたことに反発して決定をやり直すように求めたり、大学時代、委員だった僕は自らの直接の上司的な立ち位置の人に猛反発してとある集まりを欠席したり(恐らくそのサークル史上でも初かそれに近いぐらいの珍事だったんじゃないかなぁ)、バイト先の社員に間違っていると思うことをボロクソに言いまくったり、というような、上の人間が言っていることに素直に従うことが求められる現代社会ではまるで役に立たない社会不適合者なわけです。
誰かに支配されたり、誰かに服従しなくてはいけない状況というのが、性格的に耐えられない人間です。そういう状況になると、どことなく反発心が沸き上がってしまうような、そういう人間です。そんな僕なのだけど、それでも、テレビの取材の時は、このテレビという力に反発するのは難しい、と思わされてしまったわけです。
そういう自分なりの経験があるからこそ、本書はより強い実感を伴って読むことが出来た。この実験では、本当に被験者たちは様々な行動を取る。そのどれが自分であってもおかしくないのかもしれない、と本当に思った。
この実験で、葛藤なくクイズを止めることが出来た被験者はたった一人です。他の被験者と比べ物にならないくらい早い段階でクイズを止めることが出来たのはたった一人だけ。クイズを途中で止めることが出来た19%の内のほとんどは、悩みながらもかなりの電圧まで電気ショックを与え続け、ふとした思いつきやちょっとした状況の変化をうまく掴みとってどうにかクイズを止めることが出来たわけです。19%の人が、強い意思でクイズを止められたわけではない。ひょっとするとそのまま最後まで電気ショックを与えてしまったかもしれないけれども、どうにか必死の思いでそこから抜け出すことが出来た。本書を読むとそういう印象が凄く強いです。
だからこそ、ここまで僕の文章を読んでくれた方、絶対に『自分だけは大丈夫』と思わないでください。本書にもこんな風に書かれています。

『最後に、この実験に深く関わった者として、一言。人は自分で思っているほど強くはない。「自分は自由意志で行動していて、やすやすと権威に従ったりしない」、そう思い込んでいればいるほど、私たちは権威に操られやすすく、服従しやすい存在になるのである。』

さてここで閑話休題。初めの方で、後で書く、と言っていた、諸外国の過激なテレビ番組の話をここで書きましょう。たくさん書きたいんで、短く箇条書きのような感じで行こうと思います。

・アメリカのテレビ番組。賞金を獲得するために、参加者たちはゴキブリを食べたり芋虫がうようよしている水槽に頭を突っ込んだりする。

・イギリスのテレビ番組。マジシャンが銃を使ったロシアンルーレット(弾が一個だけ装弾されている)で、弾がどこにあるか当ててみせるという企画で、実際にそのマジシャンが自分に向けて銃の引き金を引く様を生放送でやった(実際は、5秒遅れで流したらしい)

・ブラジルのテレビ番組。ある犯罪捜査番組の司会者が、自らが関わっている麻薬密売の敵対組織のボスの殺人依頼をギャングに依頼した。そして警察より早く現場に着き、遺体からまだピストルの煙が上がっている死体を撮影する。

・スペインのテレビ番組。プロポーズ番組に呼ばれた女性。あなたにずっと思いを抱いている男性がこれからプロポーズします、と説明されるが、実はその男性はその女性のストーカーであり、女性はそのストーカーから逃れるためシェルターで暮らしていた。番組スタッフはその事実を知りながら女性を騙してスタジオに連れてくる。その女性は数日後に殺害された。

どうでしょうか。他にも様々な具体的なテレビ番組の例が挙げられるのだけど、正直頭おかしいんじゃないか、という気がしました。僕は本書のプロローグで、初めて81%という数字を目にした時、日本のテレビ番組のことを頭に浮かべながら、こんなに高い数字になるだろうか、と半信半疑でした。でもその後、この各国のテレビ番組の状況を読んで、なるほどテレビがこれだけ過激になっているなら、それは81%って高い数字になってもおかしくないか、と思ったのです(本書を読み終えた今では、その国のテレビのレベルがどうであれ、恐らく似たような数字になるだろう、と思っているけれども)。
でもこの部分を読んで、自分の価値観もテレビ的なものに支配されているのかもしれないな、と少し思いました。例えば日本のテレビでは、バラエティとかで食べ物で遊ぶことに対してクレームがくる風潮がここ数年で高まったように思う。本書を読むまでは、いいじゃんそれぐらい目くじらを立てなくたって、と思っていました。でも本書を読んで、もしかしたらそういう発想は、自分がテレビ的な価値観に支配されているだけなんじゃないか、という感じもしてきたのです。
『面白ければ何をしてもいい』という価値観をえいえんと流し続けたテレビ。その価値観に支配されると、『面白さ』を追求するためのあれこれにクレームをつける人たちを、『空気が読めない』と判断しがちだと思います。でも、それって本当にそうなのかな?と、僕は本書を読んでちょっと考えるに至りました。最近あんまり見ていないとはいえ、やっぱり子供の頃はかなりテレビを見てたし、テレビと共に育ってきたという部分は否定できないわけで、自分のあらゆる価値観が、テレビを通じて流れてくる価値観によってどう変質してしまっているのか、自分を見つめ直すことは大事かもしれない、と本当に強く思いました。
本書については書きたいことがまだまだたくさんありすぎるのだけど、細かいところまで書きだすとキリがないし、本書を読む楽しみを減らすことになってしまうかもしれないので、これぐらいに留めておくことにします。
最後に、本書の内容とは直接的には関係のないことを。
本書は、テレビは<権威>を持ちうるか、という実験でした。ここで言う<権威>とは、色んな要素が含まれるでしょうけど、その中の一つには、それに触れる者に容易に価値観を植えつける、という部分もあるのだろうと思います。
そしてその、容易に価値観を植えつける、という部分は、決してテレビだけが持つものではない、と思うのです。生活の中のあらゆる側面の中で、そういう部分は顔を出している。
僕は書店で働いているので、書店の話をします。書店も、『本を売る』という点に関しては、まだまだお客さんに『容易に価値観を植えつけることができる』存在だと思うのです。
だからこそ僕は、自分たちがどんな価値観を植えつけているのか、ということについて、もっと自覚的であるべきだ、と強く思うのです。
一例として、多面展開の例を挙げます。多面展開というのは、一箇所に本を10面とか20面とかとにかくワーっと並べて目立たせて売る、という手法です。
僕はこの多面展開が好きではないんですが、単純にこのやり方を否定したいというわけでもありません。ただこのやり方が、お客さんに対してどういう価値観の植え付けを担っているかという点について、自覚的でなくてはいけない、と思うのです。
あくまでもこれは僕のイメージだけど、お客さんの中には、『多面展開にされている→面白いんだ→買おう』という人はいると思います。これが僕の言う、容易に価値観を植えつける、ということです。それはやがて、『とりあえず多面展開されているものを買えばいい』という思考に繋がっていってしまうと思うのです。
別に、それが良い作品であれば(良い作品であると多面展開をする人間が信じていれば)、全然問題ない手法だと思います。でも、個人的には、『売れているから』『お客さんが求めているから』というだけの理由で多面展開をすることに、どうしても強い違和感を覚えてしまいます(本を読まない書店員が増えているので、そういう書店員は間違いなく存在するはずです)。それは本当に正しいやり方なんだろうか、と思ってしまうのです。もちろんこれには色んな意見があるでしょうし、反論も色々とあるでしょうが、少なくともその行為は、テレビが視聴率のために分かりやすい価値観を押し付けるのと似たような違和感を僕に抱かせます。
別にこの話は書店に限ったことではありません。現代社会では、恐らく様々な場所で、こういう価値観の植えつけ合いが行われているはずです。その流れに逆らうことは本当に難しい。でも、僕は個人的には、自分がどんな価値観の植え付けに加担しているのか、それについて自覚的であるべきではないか、という感じを強く持っています。もちろんこの言葉は、自分にも向けられているわけですが。
さて本当にこれで最後です。僕はつい最近、適菜収「ゲーテの警告」という新書を読みました。「ゲーテの警告」と本書をかなり近い時期に読んだことはただの偶然ですが、この二冊は本当に表裏を成す作品ではないか、と個人的に勝手に思っています。「ゲーテの警告」は、作中でB層と呼ぶ、自分ではあまり考えず、偉い人の意見を鵜呑みにする人たちの存在を明確にした作品です。そこで描かれるB層と、本書の実験で最後まで電気ショックを与え続けてしまった人たちは、僕の中で被る。もちろん多くの違いはあるが(実験の被験者たちは、権威に対して強制的に服従させられたのに対して、B層は強制的に服従させられるような環境にいるわけではないのに服従しているような振る舞いをしてしまう、というのが一番違う)、この二作を読むことで、現代社会の何かが浮き彫りになってくるような、そんな印象がありました。是非両作品を読んで欲しいと思います。
久しぶりに、ここまで衝撃的な作品を読みました。本当に、普段本をまったく読まないという人でも、これだけはとりあえず読んだ方がいいと思います。是非とも読んでみてください。

クリストフ・ニック+ミシェル・エルチャニノフ「死のテレビ実験 人はそこまで服従するのか」



少女病(吉川トリコ)

内容に入ろうと思います。
本書は、母親と三姉妹を描いた連作短編集。かつて一世を風靡した少女小説家で、今ではノベライズなんかを時々手がけるだけの母親・織子。父親がいなく、母親の織子が家事一切を放棄する家で、家族の面倒を取り仕切ることで人生の大半を過ごしてきた長女・都。売れない漫画家を恋人に持ち、自身は特に働くでもないまま30歳まで生きてきた次女・司。美しい容姿を持ちながらどうしようもなく普通で、一人だけ年の離れた子供である三女・紫。

「長女・都」
病院に行くと、「少女病」に掛かっていますね、と診断される。少女病?そんな病気あったんだっけ?先生曰く、男と付き合うとすぐに治るらしいんだけど。
これまで男性と付き合ったことがない。というか、男の人は苦手だ。都の中では男というのは少女小説の中の登場人物のようでしかなく、現実の男というのはよくわからないのであった。普通三十も超えれば、みんなそういうことは普通に分かるものなのかしら?
ぎっくり腰をやって、たまたま行った治療院で、若い(と言っても自分と同年代)男に触れられ、なんだかその耳障りのいい声に惹かれている自分に気づく。でも、だからって、どうしたらいいんだろう?

「次女・司」
真山のところに行っても、どうにも休まらない。どうも真山はピリピリとしているようだ。うっかりとは近づけない。何かあった?って聞いても、特に答えてくれるわけでもない。でも真山は、司が初めて惚れた男だ。付き合ったことも、セックスしたことも、ないわけじゃない。でもそれまでは、適当にくっついてすぐ分かれるような、そういう恋愛ばかりだった。
周りがどんどん結婚していって、久美子まで結婚するらしい。織子に招待状を隠されていて、返信が欲しいって電話があってそれに気づいた。みぃちゃん(都)も、見合いの日からなんだか変わった。結婚することが女の幸せなんだろうか、本当に。

「三女・紫」
自分がどうしようもなく普通だっていうことには、もうずっと前から気づいている。キレイなのに残念、と言われていることも知っている。自分の容姿に気を遣うことにあまり興味を持てないのだ。
みぃちゃんがお見合いの日以来変わってしまって、なんだか残念。紫は、まだ恋をしたことがない。でも、織子の話を聞いて、なんだかそういうものに強い何かを感じられないでいる。図書館で声を掛けられた丸地のような男はこれまでもたくさんいたけど、なんだかよくわからない。
太郎だけは別だ。
太郎が他の男と違うのは、紫が太郎に会いたいと思っている、ということだ。紫が会いたいと思う時に、何故か太郎はそこにいる。
太郎は、たらしだ。それに気づけない紫ではない。太郎が色んな女性にその笑顔を向けていることも知っている。それでも紫は、太郎のことがずっと気になっている…。

「母・織子」
家事全般を担っていた都が結婚することになって、家を出てしまう都の代わりに、家事をみんなで分担しよう、と言い出したのは紫だ。面倒くさい。それに、学級会みたいに多数決なんて取り出すもんだから、やってられない。
今まで付き合いのなかった出版社の編集者から、自伝風の小説を書いてもらえないか、と依頼がある。確かに織子の人生は、小説に出来るだけのネタに溢れている。それでも、どうにも織子は乗り気になれない。小説を書くことは織子にとって、現実を見ないでいる手段の一つなのだから…。

というような話です。
なかなか面白い作品でした。僕が読みながら連想したのが、江國香織の「思いわずらうことなく愉しく生きよ」です。そっちの内容ははっきりとは覚えていないんだけど、確かそっちも三姉妹の作品だったような記憶があります。しかも本書と同じく、結構トリッキーな三姉妹の。
女って面白いなぁ、と個人的には思ってます(普段僕は、特に文章で書く時は『女性』って単語を使う方が多いんだけど、今回は作品的に『女』って表記の方がしっくりくるんでこっちを使います)。女って、一人でいる時と複数集まった時で全然違う。複数の女が集まることで、なんか男には理解出来ない化学反応が起こるみたいなんですね。だから女は、誰と一緒にいるかで本当に違う姿を見せる。
もちろん女は、男の前でも違った姿を見せるのでしょう。でも、男に見せる面ってのは、ただの一面だと思うんですね。それがどんな男であっても、自分の中の『これが男に見せる面』っていう、ただ一種類の面だけが表に出てくる、というのが僕の印象です。
でも、女同士が集まると違う。意識的なのか無意識的なのかそれは判断できないけど、女はどの女と同じ空間にいるかで、見せる面が全然違う。僕には化学反応としか表現しようのないその変化は、それぞれの個性が強ければ強いほど、余計に大きな変化を見せる。
本書は、そんな個性の強い女同士が同じ空間にいる時、どこでどんな面が現れるのか、そんなカタログのような小説なんじゃないか、と僕は思いました。都・司・紫・織子の組み合わせって11通りあるんだけど(場合の数とか苦手なんだけど合ってるよなぁ)、その11通りそれぞれについて、誰がどんな面を見せるのか。くるくると変わる万華鏡のように移ろうその姿がめまぐるしく描かれているような感じがあって、やっぱりどうしても男の僕には追いつけない部分があるものの、なかなか面白いなぁ、と思いました。
個人的に一番惹かれるのは紫ですね。物凄く整った容姿なのに、図書館に部屋着同然の格好で行き、首に新聞社のロゴが入ったタオルを掛けている、とかマジ最高過ぎますね。そういう、自分がどう見られるのか自覚的でありながらそれを自分の中で無視出来るっていうのは、僕は強く惹かれるんでありますなぁ。
都もなかなかいいですね。恋をしたことがない、男がどういう存在かっていうのは少女小説からのイメージしかない、っていうのはちょっと恐ろしい気もするんだけど(笑)、その状況を特別焦るわけでもなく(まあ、家族の世話があるから、という都なりに強い言い訳があったから焦らずにいられた、ということかもしれないけど)、ゆるりと過ごしているのもいいですね。僕は本作中で一番好きな場面は、紫の章で描かれていた『みぃちゃん、あたし今日徹夜なの』ってシーンなんだけど、あの場面での紫と都は良かったなぁ。
司については、あまり強く何かを感じられる対象ではないんだけど、司の章の冒頭で書かれている、司が編集者に迸出したマンガのネームのうだうだした文章が凄く好きですね。『なんでしあわせになんなきゃいけないの?』っていうのは、僕もホントそうだよなぁ、といつも思っています。『しあわせじゃなきゃ人間じゃないって必死すぎ。悪いけど、ぜんぜんしあわせそうに見えないよあんたたち。』うんうん、その通りだと思うんだよなぁ。
母親の織子については、ちょっとなんともいえないのだけど、まあ織子の存在があったからこそ、これほどまでに謎めいた空間(三姉妹+母親が住む城)が生まれたのだなぁと思うと、まあそれだけで充分かな、という気はします。織子についてじゃ、最後の方に出てきたこのフレーズ、
『でもしょうがないじゃないか、とも思うのだった。居直るわけじゃなけど、最初からなんでもうまくできる人間などいないように、母になるのも妻になるのも――それどころか生きるのも女をやるのも、私たち、これがはじめてなんだもの。うまくできなくてあたりまえなのだ。』
って言い訳は、僕も常に使いたいなぁと思っているところなのでありました。
やっぱりどうしても女性向けの作品だろうとは思います。冒頭の都の章の初めがチェックシートになっていて、それに当てはまると少女病なんだそうですよ。まあ、みんながみんな大人になる必要もないんじゃないかなと、昔から思っていたようなことを再確認出来た作品だなという感じがします。女性のみなさん、是非読んでみてください。




吉川トリコ「少女病」

ロボットが日本を救う(岸宣仁)

内容に入ろうと思います。
本書は、徐々に社会的な需要が高まってきており、日本のみならず世界各国で熾烈な開発競争が進んでいる『ロボット』について、日本の現状や大きな課題、今後の展望、また諸外国の動きや日本のからくり人形からの流れなど、様々な方面からアプローチしている作品です。
序盤から中盤に掛けては、ロボット先進国と呼ばれる日本におけるロボット作りの最先端に触れられるような内容になっています。福島原発内で作業をした、階段も50度以上の傾斜も登ることが出来る作業ロボット、避難所で活躍した癒しロボット「パロ」、鉄腕アトムをつくれと言われて開発に着手した「アシモ」、その他、介護や手術、娯楽と言った分野で最先端を走る日本のロボット技術について、どういう部分が日本のオリジナルであり、他国のロボット事情とどう違うのか、また日本のロボットが国内だけではなく海外で(時には日本以上に海外で)評価されているという事実なんかにも触れつつ、からくり人形からの流れを汲む、他国とは違った設計思想を持つロボット事情を追って行きます。
そして中盤以降は、日本のモノづくりがさらされている国際的な脅威、というものが中心になって語られます。
それは、『知能化』と『国際標準』という二つの側面から語ることが出来る。
『知能化』というのは、エアコンが部屋の中の人の存在を能動的に感知して設定温度を変えるとか、美味しいご飯が炊ける炊飯器とか、そういうただの家電ではないプラスアルファの性能を持った機械たち。『知能化』というのはそういうものを指します。
そしてこの『知能化』を実現するのは、ハードではなくソフトです。そして日本は、ハード作りは上手いのだけど、ソフト開発ではまだまだ欧米から(特にアメリカから)大きく立ち遅れてしまっている、というのが現状です。国内のロボット研究者に聞いても、若干の意見の相違はあれど、やはりみな、ロボットはハードの戦いではなくソフトの戦いになっていく、という認識を持っているようです。
そしてもう一つの『国際標準』。こちらの方がより深刻です。
モノづくりがハイテク化していく中で、国際的に規格を合わせようという動きが必然となっていき、モノづくりの現場では今、国際的な規格を勝ち取ることが出来るか、というのが最大の問題になりつつあります。
これは、携帯電話を例に取ると非常に分かりやすい。一時は、世界の携帯電話市場のほとんどを独占していた日本企業は、しかし国際標準の戦いに敗れ、今では市場の3%を占めるばかり。ガラパゴスと呼ばれて久しいけれども、あれは国際標準獲得の失敗による衰退だったのだそうです。
この二つが、モノづくりの根本を変えてしまった。その中で日本はいかにして戦っていくのか。そのモノづくりの最前線について書かれています。
というような内容です。
なかなか面白い作品だなと思いました。日本のロボットといえば「アシモ」ぐらいしか知らなかった僕だけど(欧米では、癒しロボットの「パロ」が凄く高い評価を受けていて、ギネスにも載ったりしているらしいんだけど、ちゃんとは知らなかったなぁ)、本書を一冊読むと、ロボット開発の現状についてかなり詳しく知れるのではないかと思います(あくまで現状だけで、ロボット開発の歴史みたいなものんはほとんど触れられていませんが)。
冒頭でいきなり、福島原発内で作業した「クインス」というロボットの話が出てくるんだけど、この開発にまつわる話は非常に興味深い。クインスは、米国製の作業ロボットより遥かに高性能であるにもかかわらず、米国製の作業ロボットが事故から一ヶ月後から内部での作業を開始したにも関わらず、「クインス」はそれに遅れること三ヶ月後に実戦投入となったのでした。
その最大の理由が、放射線に対する備えがクインスにはなかったからです。日本はたくさんの原発を抱える国であるにも関わらず、放射線に対する備えのあるロボットが作られていなかった。
そしてその背景には、政治的な問題がある。実は日本でも原発用ロボットの開発が検討されたことが二回あったのだけど、企業が超特急で基礎開発を終えた時点で、東京電力らからなる「実用化評価検討会」が、原発は安全だから原発用ロボットを作る必要はない、と言ってこの計画は打ち切りになってしまったんだそうです。ロボット開発に於いても、東京電力の罪は重いのでした。
ホンダが開発した「アシモ」と、江戸時代のからくり人形「弓曳童子」の話は非常に面白いと思いました。弓曳童子は、4本の矢を射るからくり人形だけど、かならず一本は失敗する。欧米で作られてきたからくり人形は、いかに正確に動作するかを競うものが多かったのだけど、日本のからくり人形は、失敗をさせることで大衆に受け入れられるように進化してきた歴史があり、その違いこそが、家庭内でのサービスロボットという分野の開発に関して、日本が最も有利と言えるDNAなのではないかという話が出てきます。アシモの開発者もその弓曳童子の思想からヒントを得て、アシモの開発に活かしているわけです。
ところでアシモ開発についてはこんな話も。ホンダの幹部はなんと、バチカンのローマ教皇庁を訪問し、人型ロボット開発の是非を尋ねたことがあるんだそうです。風の便りに、「ここまで人間に近いロボットを作るのは神への冒涜」という批判が聞こえてきたためらしいけど、凄いですね。結局ローマ教皇庁は、ホンダがそのロボットを作るのは神のご意向に沿うものだ、との回答を得て安心したんだとか。
具体的なロボットについての話を読んでいて僕が感じたことは、
『便利さに慣れてしまうより、不便さに慣れる生活の方が僕は好きだな』
ということです。
例えば本書には、頭の中で考えるだけでロボットを制御出来る、「ブレイン・マシン・インターフェース」という技術についての話が載っています。まだ基礎研究の段階とはいえ、脳内の血流の変化を読み取ることで要望を理解しロボットが動かせるような技術ができはじめているんだそうです。
その開発者が、「エアコンの温度設定をする時、巧く言葉には表現しにくいけどこれぐらいの温度、みたいな微妙な要求が伝わるようなものを作りたい」というようなことを言っている部分を読んで、そう思ってしまいました。
やっぱり、微妙な部分が伝わりにくかったとしても言葉で表現する努力をするべきだと僕は思うし、やろうと思えば出来ることをどんどん便利にして言ってしまう方向性というのは僕はちょっと怖いなと思ってしまうんですね。
僕は、ロボットというのは、人間には出来ないそのロボットにしか出来ないことをやる存在であって欲しいな、と思ってしまいます。例えば福島原発内で作業した「クインス」みたいなものですね。人型ロボットの存在を否定するつもりはまったくないのだけど、人がやれることをロボットに代替させる必要があるとは僕にはどうしても思えないのです。これから日本は少子高齢化で、労働人口が圧倒的に減るから、今の日本の豊かさを維持していくには、外国人の移民を受け入れるかロボットに労働力を肩代わりしてもらうしかない、って話も出てくるんだけど、僕はそもそも、『今の日本の豊かさを維持していくためには』っていう前提を放棄すればいいんじゃないかな、と思ってしまう人間でして、別にロボットで労働力を補填しなくてもいいんじゃないかなぁという気はしてしまいます。まあ僕としては、介護とか娯楽の分野でロボットが活躍してくれたらいいんじゃないかな、と思います。
後半の、『知能化』と『国際標準』の話も非常に興味深かったです。僕は、国際的なモノづくりの現場が、まさかそれほど激変しているとは知らなかったんで、携帯電話なんかも、なんでそんなガラパゴスになっちゃったのかなぁ、と思っていたりしました(まあ携帯電話に関しては、日本企業がひたすら高機能化に特化し続けたというのも大きな原因の一つみたいだけど)。
これについては、国際標準の重要性がまだ日本でそこまで重視されていなかった頃、その重要性を折に触れて力説していたという、当時三菱電機の社長・会長であった野間口有の言葉を引用してみます。

『日本人は戦後、モノづくりで成功した経験があるせいか、QC(品質管理)に自信を持ちすぎる傾向があります。われわれは標準以上のQC力を持っているから、権威あるところが標準規格を決めてくれれば、もう一段上の信頼性をもって製品をつくってみせますと考えがちです。でも、九五年にWTOがTBT協定を結んで以降は、空いてに国際標準を取られたら日本にいくらいい製品があっても市場で勝負できない。ISOなどで合意された国際標準ができると、その分野は国際標準が市場を先導してしまう時代になったのです。』

WTOのTBT協定というのは、ざっくり説明すると、どれだけいい技術・規格があっても、国際標準が決まれば各国その基準に従いなさいねという取り決め、のことで、この存在が、日本のモノづくりの環境をかなり激変させたのだそうです。韓国なんかが国を挙げて色んな分野で国際標準を取りに行こうと全力で動いているのに比べると、まだまだ日本の動きは遅いというのが現状なんだそうです。
また『知能化』の流れによる、ハードよりソフトという動きも、ロボットの分野に限ってみても、グーグルやマイクロソフトなんかがソフト覇権に乗り出してきて、ロボット大国日本という部分にあぐらを書いているとすぐひっくり返されてしまうような、そういう状況だそうです。そういう、大きく変わってしまったモノづくりの現状の話も、非常に面白かったです。
日本がロボット開発においてどれだけ一日の長があるのか、そしてその一方で、国際的なモノづくりの潮流がどうなってしまっているのか、ということについてなかなか面白く描かれている作品だと思いました。是非読んでみてください。

岸宣仁「ロボットが日本を救う」



公安は誰をマークしているか(大島真生)

内容に入ろうと思います。
本書は、警察小説などでもよく出てくる「公安」について書かれている本です。公安全体についての話もありますが(各県の警察内での公安組織や、公安組織それぞれを管理している組織など)、基本的には、「公安の中の公安」と呼ばれる、警視庁公安部について、どの課がどんな対象を扱っており、過去にどんな事件に携わったことがあるのか、というようなことについて詳しく書かれています。
公安というのは、特高の流れを汲む組織で、戦後GHQによって、警察組織の中央集権的な仕組みは廃止されたのだけど、公安だけは密かにその名残を残しているんだそうです。基本的に公安は、各県の警察署の「警備部」と呼ばれるところの一つの課として、当然それぞれの県警の管轄下にあるのだけど、公安だけは警察庁警備局から直接司令がきて、その指令系統の中に県警の本部長や各警察署の署長は含まれていないのだそうです。所轄の公安担当者は公安部の忠実な手足であり、時には署長さえも無視させる。そういう、一種の中央集権的な組織が継続されているんだそうです。
さて、「公安の中の公安」である警視庁公安部には、公安総務課・公安一課~四課、外事一課~三課、公安機動捜査隊という9つの課が存在する。それぞれ与えられた役割が違い、また最近出来た課などもあり、本書ではそれらについて詳しく書いている。ちょっと今日は時間がないので、ここでは、それぞれの課がどんな組織や事件を扱っているのかをざっと書くだけにしようと思います。

公安総務課:共産党、またオウム真理教や統一教会など、日本の政治体制を脅かすようなカルト(反社会的な宗教団体)が対象
公安一課:「革労協」「中核派」「共産同」などの流れを汲む過激派
公安二課:「革マル」の流れを汲む過激派
公安三課:右翼
公安四課:写真の整理などの後方支援
外事一課:アジア以外のスパイ(主にロシア)
外事二課:アジアのスパイ(主に北朝鮮)
外事三課:アルカイーダ
公安機動捜査隊:ゲリラ事件などで初動捜査に乗り出す研究肌の頭脳集団

公安というのは、小説なんかを読んでいても、「何をやってるんだかよくわからない、蔭で陰湿にコソコソ動いてる連中」という印象が強いです。恐らくそれは、刑事から見た公安の印象を強く反映しているんだろう、と僕は想像しています。刑事と公安の相性は非常に悪い(と本書にも書いてある)。オウム真理教の捜査の際、刑事も公安も、担当の範囲も関係なくすべての警察官があらゆる捜査に駆り出されたのだけど、その中でも公安の秘密主義は異常だった、というようなことも書かれています。
まあそういう意味で、どうしても悪いイメージがつきまとってしまう公安だけど、本書を読むと、やっぱり彼らの存在は大事だよなぁ、と思います。本書は特別公安に肩入れした内容というわけではなく、これまでの公安の活動を淡々と綴っているのですけど、やっぱりこういう存在があってこそ、僕達の日常の平和が保たれているのかもしれないなぁ、と思います。
実際、著者が知る公安関係者は、「誰かがやらなければ」という強い使命感を持っている人が多い、んだそうです。もちろんその一方で、汚れ役を自認するあまり、国と国民を守るためには場合によって手段を選ばなくていいという独善に陥る危険性をはらんでいるようにも思う、と著者自身の感想も書かれています。もちろんやりすぎている面もあるでしょうし、彼らの功績のお陰で何かが守られている部分というのもあるのでしょう。なかなかグレーな存在ですが、個人的には、公安の人たちには頑張って欲しいものだなぁ、という気がします。
ちょっと前に、公安出身の作家の小説、というのが売れたんだけど、僕は正直それを読んで、面白くないなぁ、と思ったんですね。小説、と銘打つならば、小説に徹して欲しいんだけど、リアルさを出したいのか、小説というより報告書みたいな印象が僕には強かったです。それを読むなら僕は、完全にノンフィクションである本書を読む方が、公安について詳しく知ることが出来るんじゃないかなぁ、と思います。普段なかなか知る機会のない、というか、公安警察を経験していない刑事でさえも案外知らないんじゃないか、というような世界の話が描かれているので、警察小説とか特別興味のない人でも面白く読めるんじゃないかな、と思います。ホント、久しぶりに目にしましたしね、「パナウェーブ研究所」って名前。懐かしいです。
しかし本書で僕がとにかく一番驚いたのは、この文章(P29)。

『日本のキャリア官僚制度は廃止が決まっているが』

ホントですか?キャリア官僚ってのは、警察組織の話で書くと、普通に公務員試験を受けて警察官になるのと、国家公務員試験をパスして警察に入るのとで立場が全然違うってやつで、「踊る大捜査線」でいうと、青島はノンキャリアで、室井さんがキャリア、ですね。そのキャリア官僚制度の廃止が決まってる、って本書でさらっと書かれてるんですけど、マジで今まで聞いたことないんだよなぁ。ネットでちょっとだけ調べてみたんだけど、どうもそれらしい情報はヒットしないし。ホントだとしたらどうなるんだろう。これまでかかれてきた警察小説とか刑事ドラマなんかが古臭くなる時代が来る、というような、なかなか衝撃的な変化だと思うんですけど、詳しい方いますか?
というわけで、読み物としてなかなか面白いと思います。日本にこんなことしている人たちがいるのか、と実感できるのではないかと思います。読んでみてください。

大島真生「公安は誰をマークしているか」



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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)