黒夜行

>>2011年07月

真贋(吉本隆明)

内容に入ろうと思います。
本書は、ざっくり説明すると、吉本隆明が書く生き方本、という感じではないかと思います。
吉本隆明が触れる話題は、かなり多岐に渡ります。言ってしまえば、僕はちょっと散漫な印象を受けました。こういう世の中になったという話、自分の仕事や生き方について、政治経済宗教などの話、子育てや育ちの話、などなど、なんというか、思いついたことを書いている、という感じの印象でした。
個人的には、ちょっとぼんやりした感じの作品だなぁ、と思ってしまいました。ちょっと僕の考え方にはうまく合わないぞ、という感じがしました。
この印象は、僕の中で、確固とした比較対象が存在します。それが、森博嗣です。
森博嗣は大学の助教授でかつミステリ作家、吉本隆明が何者なのか僕は正確に知りませんが、批評家とか詩人なんでしょう。著作業をしている、という以外に共通項を見出しにくい二人ですが、僕の中で本書を読んでいる間、常に森博嗣のことが頭に浮かびました。
僕は吉本隆明の作品は、本書しか読んでいません。他にどんなことを書いているのか、どんな思想の持ち主なのか、というようなことは基本的に知りません。だから僕の中で吉本隆明は、『真贋』という生き方本を書いた人、という扱いで今後書きます。
森博嗣の場合は、集英社新書から出ている「自分探しと楽しさについて」「自由を作る自在に生きる」などの、森博嗣本人はそんな風に表現されたくないでしょうが、同じく生き方本を書いた人、という扱いでいきます。
僕の中で森博嗣の生き方本は、非常に鋭い印象です。森博嗣は物事を、あまり一般的ではない切り口から両断します。そしてそれを、結構断言する感じで書く。「~と思う」というような表現ももちろん出てくるんだけど、少なくとも僕の印象では、森博嗣がそういう表現をする場合は、森博嗣自身がそれに興味を抱いていない事柄に関してではないか、と思います。基本的に自分の考えをスパッと提示し、そしてそれが僕の考え方と非常に親和性が高かったりするのです。だから森博嗣の生き方本は僕の内側にスーっと染みこんできます。
一方で本書は、森博嗣と比べてしまうと非常にファジーです。そもそも、「~だと思います」「~という気がします」という表現が結構出てきます。確かに本書は、『吉本隆明がそう思ったこと』について書かれている作品なので、「思う」とか「気がする」という表現が結構出てきたところで文句を言うようなことではないのかもしれないのだけど、やっぱりちょっと気になってしまいました。
しかもその「思う」「気がする」という意見の表明が、どこから出てくるのかイマイチよくわからないのでした。吉本隆明の周囲の観察によってそう判断したのか(そういう風に記述がなされている箇所もありましたが)、あるいは、根拠も何もないただの自分の独断なのか。そういう部分がイマイチはっきりとは分からないままでした。
例えば本書には、こういう文章が出てくる。

『現に、子どもが成人してから一番なつかしがるのは母親であって、父親ではありません。これは百パーセント疑いのないことであり、父親の役割は母親を介して子どもに作用しているだけです。父親に親しみを感じている子どもがいたとしたら、母親との関係がよっぽど悪かったのでしょう。そうでなければ、大体人間は死ぬ間際まで、思い起こすのは母親のことです。親愛の情を持って慕うのも母親と決まっています。』

母親にまったく親しみを覚えない僕としては全力で反論したい箇所ではありますが、まあ僕個人のことはとりあえずどうでもいいです。僕はこの箇所を読んで、『現に』という表現は一体どこから繋がっているのか(別に前後にそれを補強するような話があるわけではありません)、『百パーセント疑いのないことであり』とか『~と決まっています』というのは一体どこにそんな根拠があるのか、僕にはさっぱり理解できませんでした。
先ほど森博嗣は断言をしていて鋭い、というような話を書きましたが、それとこれとは話が違います。森博嗣の断言は、『自分がこういう風に考えている』という事柄についてです。しかし吉本隆明のこの箇所は、『世間はそういう理で動いている』という部分について断言しているわけです。それはさすがにやりすぎではないか、少なくとも僕にはまったく共感できないぜよ、という感じがしてしまいました。せめて周囲の観察によってそう判断しているということであって欲しいのだけど、そういう記述があるわけでもないし、そういう周囲の観察のないただの自身の独断であるならば、それはちょっと違うんじゃないかなぁ、と思ってしまいました。
また、どうもこれは矛盾してないかな、というような箇所もありました。まあこれについては、あとがきを読む限り、編集者が全体の構成をやった、みたいな感じのようなので、著者に責任を求めるべき部分ではもしかしたらないのかもしれないのだけど。
具体例を挙げましょう。僕が気になったのは、別々の章にあった次の二つの文章です。

『(自分の文芸批評のやり方についての話で)つまり、消息通は知ってるけれども、一般の人だったら知らないという情報は、僕にとっては意味がなく、誰にでもわかる材料しかつかいません。噂や評判で人のことをああだこうだとは言いたくないのです。それだけは心構えとして持っています。』

『(田中角栄の話の流れで)中国の場合は、いまもそうしたタイプの政治家がいます。中国共産党は、日本の共産党と違い、故郷の代表として党の幹部になって中央で政治をやるそうなのです。なぜ僕がそんなことを確信するかというと、かつて学生運動をやっていたとある大学の教授からそのとおりだったと教えてもらったからです。』

解釈次第かもしれないけど、僕にはこの二つの文章は矛盾していると思うんだよなぁ。前者では『誰もが知ってる情報しか使わない』といいつつ、後者では『とある教授からの情報によって判断している』わけです。うーむ、と思ってしまいました。前者は『文芸批評』についての話だから、そうじゃない場合は違うんだよ、ということなのかもですけど…。
そんなわけで、僕の中ではすごくぼんやりした印象の作品でした。森博嗣の持つ鋭さを感じることが出来ず、思いついたままに浮かんだ事柄について散漫に書いた、というような印象です。まあいずれにしても僕にはあんまり合わなかったんだよなぁ。
とはいえ、面白く読める部分もそこそこはありました。『本を読むことで心が豊かになるというのは違うのではないか』『お互いに言いにくいことを言い合えるかどうかが、良い関係の基準』『柔道の谷亮子が何を考えどんな練習をしているのか』なんていう話は結構面白かったし、まあ面白く読める部分もちらほらある、という感じです。
個人的にはちょっと僕には合わない作品でした。やっぱり森博嗣の作品の方が僕には凄く合う気がします。まあでも結局は、自分がどんな風に生きてきたか、どんな考えを持ってるかに左右されるような気がするから、森博嗣が合わないけど吉本隆明は合うって人もたくさんいるだろうし。相性の問題かもしれません。

吉本隆明「真贋」




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哲学・航海日誌ⅠⅡ(野矢茂樹)

内容に入ろうと思います。
本書は、哲学の本です。
と短く答えるしかないぐらい、僕は本書を理解できてません。数日間必死で格闘しましたけど、結局最後の最後までは読めないままこうして感想を書いております。
本書の全体的な内容(というか流れ)については、まえがきで著者自身が書いている文章が非常に簡潔にまとまっているはずなので、それをそのまま引用しようと思います。

『本書は第Ⅰ巻と第Ⅱ巻に分かれている。第Ⅰ巻では、まず旧来の他我問題を論じ、そこからの脱却を図る。ついで、アスペクト論と根源的規約主義を二本の柱として、新たな他社問題をあぶり出そうと試みる。第Ⅱ巻では、そこからさらに進んで、行為および言語(コミュニケーション)という場面において、第Ⅰ巻で出された「規範の他者」「意味の他者」の姿を浮き彫りにしようとする。ここで私は、私の手製のいかがに乗って、行為論と言語論という現代哲学の荒波を渡ろうとしている。果たして渡りきれたか、沈没したのか。いや、私はまだそのただ中にいる。』

さて、僕が本書とどんな風に格闘したのか、というのを書きましょう。
まず、先で引用した文章中だと、『~そこからの脱却を図る。』という部分までは、かなりきちんと理解しながら読んだ(少なくとも読んでいる間は)。細かな論理は追えないにしても、全体がどういう流れで進んでいるのかきちんと理解しながら読めた、と思う。これが大体、Ⅰ巻の200ページぐらいまでの話です。
で、そこを超えると『アスペクト論』なるものが説明されるのだけど、この辺りから非常に難しくなった。自分が今その時追っている文章の意味は、なんとなく理解できる。でも、それが全体として繋がってこないんです(少なくとも僕の貧弱な頭の中では)。もう少し詳しく書くとこうだ。読んでいる間、『アスペクト論』そのものの説明についてはなんとなく理解できた気になれた(と思う)。ただ問題は、何故今ここで『アスペクト論』についての説明がされているのか、それがまったく理解できなくなってしまったのだ。
これは、その後の章についても状況はほとんど同じである。ある事柄が論じられる。その事柄そのものについては、目の前の文章を追うことでどうにか理解出来る(ただ後で書くけど、この状況もどんどん厳しくなっていく)。でもその一方で、何故今その事柄が論じられているのか、つまり本書全体の中でこの事柄の占める位置が一体どの辺りなのか、そういうことがまったく理解出来ないまま読み進めることになってしまったわけです。
しかも、さらなる問題が発生するわけです。本書の構造は、きちんろ理解出来ていないままなのであくまで憶測なんだけど、かなり積み重なっている感じがします。例えばまずAが論じられる。そしてその次の章では、Aで論じられたことを踏まえてBが語られる。そしてさらに次の章では、AとBで論じられたことを踏まえてCが論じられる…、という感じである。
そうなると、どこかの章があまり理解出来ないままだと、それがその後ずっと尾を引くことになってしまう。Aはきちんと理解できていても、Bが50%ぐらいしか理解できなければ、Cについての理解度も必然的に下がる。そうなるとまたDの理解度が…という負の連鎖に嵌って、次第に目の前の文章を読んでいてもその部分の内容さえ理解出来ないような状況に陥ってしまったのでした。
そして、Ⅱ巻のラスト100ページを残して、僕は本書を断念しました。
さてそこで遡って、自分がきちんと内容を理解できたと感じた冒頭の200ページについて、せめてそこだけでも内容の紹介をしようとパラパラめくってみたのだけど…、
とても説明できそうにないのであるよ。
読んでいる間は、ホントかなりの理解度だったと思う。その部分を読んだ直後であれば、恐らく何事かは書けただろうと思う。基本的にこの部分は、他我問題について、まず哲学の世界で先行する主流の(?)考え方を説明し、著者自身がそれに反論し、その後著者自身の考え方を述べる、というスタイルで描かれているのだけど、そのどの部分に対してもかなり理解していたはずなのに、今となってはもはや、人に説明できるくらいの何かは頭の中には残っていないのです。
あー、残念。
頭の中の残滓だけで書くならば、この部分は非常にスリリングでした。他我問題を痛みの問題として捉え、相手が痛みを感じているということを自分はどう捉えるのか、という問いかけに答えようとする過程で、様々に斬新な(少なくとも僕にとっては)考え方が出てきて、目からウロコだなぁと感じる部分も多かったです。しかし、きちんと理解できたと感じられたはずの冒頭200ページの内容さえ紹介できなくて、ホント残念で仕方ない。
冒頭200ページに限らず、どの章を読んでいても、かなり斬新な考え方が出てくるので、作品全体の繋がりが理解出来ない僕だけど、個々の章では結構楽しめました。僕は元々理系の人間で、理系で扱われる分野って厳密にかつ論理的に議論される事柄が多いという印象があってそういうのが好きなんだけど、哲学というのも同じ土俵にいるのだなぁ、と感じました。『普段何気なく使っている言葉』『意思を持つということ』『意図と欲求の違い』『身体を動かすとはどういうことか』など、普段あまり厳密にかつ論理的に考えることのない対象を、厳密にかつ論理的に思考してみると、ここまで深くて複雑で興味深い議論になるのだなぁ、というのが本当に新鮮でした。人間は、色んなことをファジーなままで捉えているからこそ日常生活が成り立っているのだな、そこに厳密さを要求すると、途端に色んなものが破綻してしまう(あるいは破綻してしまったように見える)のだな、と思いました。確かに、それらを考えることにどれだけの意味があるのか、はっきりとは提示しにくいだろうとは思うけど(別にそんな難しいこと考えなくたって日常は回っていくんだから、別にそんなこと考えなくたっていいじゃん、と感じる人はたくさんいるだろうと思う)、僕はそういう実益のない(あるいはないように見える)事柄を真剣に考えることが結構娯楽的に面白いと感じられる人間なんで、本書の難易度はちょっと僕には高すぎたのだけど、全体的に面白い話だなと思いました。
個人的には、無人島にこれ一冊持って行って、死ぬほど熟読する、なんてのをやってみたいですね。少なくとも、数日間で読破することを目指す作品ではまったくありません。そういう意味で、今の僕の読書のスタイル・スピードにはどうしても合わない作品なんですけど、無人島で永遠にこれを読み続けて少しずつ理解力を高めていく、というようなことはやってみたいなと思いました。
というわけで、内容にはほぼまったく触れていない感想になりましたけど、それほど僕には難易度が高かったのだ、と思ってください。じっくりじっくり読みたい、と思わせる作品ではあります。難しい本だけど、是非チャレンジして見て欲しい、と言いたくなる作品です。自分が読破出来なかったくせにこんなことを言うのはダメですが、是非読んでみてください!

野矢茂樹「哲学・航海日誌ⅠⅡ」







使ってみたい落語のことば(長井好弘)

内容に入ろうと思います。
本書は、内容の紹介は非常にあっさりしたものになりますが、落語に使われている言葉の中から、著者がこれはいいと思うものを抜き出し、それについて解説を加えている、という作品です。落語に詳しくない僕には分からないのですが、恐らく落語ファンには定番的な作品なんだろうなぁ、という感じの言葉が多数収録されているんだろうと思います。
基本的に、落語から抜き出した言葉で1ページ、そしてその言語についての解説が2ページという構成の作品です。解説では、その言葉がどんな状況で使われているのかという説明や、現代の世の中でその言語を使うとしたらどんな風に使ってみたらいいか、というようなことが書かれています。
僕の感想としては、音が聞こえないのが最大のネックだな、という感じです。これは別に、CDをつけろ、とかそういう話ではありません。
僕はこういう落語の言葉って、文字だけではニュアンスはすべて伝わらないんだと思うんですね。以前とある方と『小説の中に出てくる方言』の話をした際に、方言というのは発音まで表現の中に含まれているから、文字として読む場合どうしても違和感がある、という話を聞いて、なるほどそれは面白い意見だなと思ったことがあります。この落語で使われる言葉の場合でも、僕は非常に似たようなことを感じました。
先程も書いたように、音が聞こえる、というのは、CDをつけろ、とかそういうことではありません。例えば日常的に落語に触れている人であれば、本書を読んでも自分の脳内でその言葉がイントネーションまで含めて再現されることでしょう。あるいは落語に触れてなくても、テレビの時代劇とか時代小説なんかに触れる機会の多い人には、自身では直接耳にしたことのない落語の言葉であっても、テレビや小説からの類推で自分の頭の中で言葉を再生することが出来るかもしれません。そういう人が読む場合、落語で使われる言葉のニュアンスまですべて含めて捉えることが出来るので面白く読めるかもしれません。
ただ僕の場合、そういうベースとなるものが何もないんですね。落語も人生で一回しか聞いたことがないし、時代劇や時代小説には触れる機会はない。そういう僕が本書を読んでも、言葉がただ文字としてしか脳内に入っていかないので、どうしてもその言語の良さみたいなものが伝わりにくいんだろう、と思いました。
やっぱり落語って、基本的には耳で聞くものだろうから、字面以上にイントネーションような耳で聞く部分が大事になってくるんだろうと思うんです。そういう意味で、ちょっと僕には馴染めない作品だったかな、という気はしました。
さて、本書の内容とはちょっと離れたことを書きますけど、本書を読んでてふと思いついたことがあります。それは、

『楽しむために努力をする、という人々の姿勢ことが、文化や芸術や伝統を生み出してきたのかもしれない』

ということです。
例えば今の僕には、落語を十分に楽しむことは出来ないと思うんです。そりゃあ、一回だけですけど落語を聞いた経験で言うと、落語的な知識が何もなくたってそりゃあそれなりには楽しめます。実際に落語を聞かせてもらった時は、凄く面白かったです。
ただ、それはやっぱり表面的でもあるのだろうな、と思うのです。本書を読んでても思うけど、落語というのはやっぱり奥が深い。何かの作品のパロディになってる部分もあれば、その話の舞台になっている当時の風俗を知ってこそ笑える部分というのもある。とにかく、知識を蓄えれば蓄えるほどより一層面白さを享受出来るんだろうと思います。
そしてそれって、様々な文化・芸術・伝統の分野で同じだろうと思うんです。僕には岡本太郎の絵の良さははっきり言ってよくわからないし、シューマンの作る音楽の良さも分からないし、歌舞伎の楽しみ方も分からないのだけど、それらについて『楽しむための努力をする』ことで、より深い世界に届くんだろうなぁ、と思うのです。
まあ、当たり前のことなんでしょうが、そこからさらに僕は本の話へと飛躍します。
最近の若い人は、ビールを飲まないようです(と、本の話をすると宣言しておいてまずビールの話)。別にビールを飲まないことが悪いことだなんて全然思わないんだけど、飲めば飲んだでなかなか美味しいものだと思います。ただやっぱり、初めはそんなに美味しいとは感じない。僕もかつてはビール飲めない人間でした。でも、なんとなくちょっとずつ飲むようになって、今では普通に飲みます。僕はそういう経験はなかったけど、若い内に無理矢理飲まされたり、あるいは空気的になんとなく飲まないといけないみたいな感じでビールを飲むようになった、という人もきっと多いんだろうと思います。
初めは美味しくないんだけど、飲み続けていれば美味しく感じられるようになる、というのは、なんとなく芸術や伝統に似ている部分も感じます。そしてそれは、小説なんかも結構似た部分を持ってるような気がするんです。
僕はなんだかんだ小説を読んでますけど、昔からこんなに読んでたわけでもないんです。高校ぐらいまでは、ある特定の作家しか読まない人間でした。大学時代に突如本を大量に読みだして、そこからこんな感じになっていきましたけども。
小説も、難しい作品は結構あるし、そのジャンルの定番的な作品をある程度読んでないとよく理解出来ない作品というのも結構あります。そういう意味で、ある程度数をこなすことで面白さが見えてくる、という部分は確実にあるだろうと思います。
今、『楽しむための努力をしなくても楽しめる』娯楽が物凄く増えています。携帯に入ってるゲームなんかはその最たるものでしょうが、そういうお手軽な娯楽に多くの人が流れてしまっているような気がしています。
他の娯楽でも、より多くの人に買ってもらう(消費してもらう)ために、娯楽自体の難易度を下げる、というようなものはいくらでもあると思います。僕は個人的には、そういう流れって怖いな、と思うんです。
もちろん、誰もが色んな分野について『楽しむための努力』をすることは難しいと思います。僕は本を読むだけで精一杯だったりします。ただもし今、『楽しむための努力』を向ける分野が何もない、という人は、是非何かそういうものを一つでも持ってもらえたらいいなぁ、なんて思ったりしました。
というわけで、作品とはまったく関係ない話を書きました。
先ほど書いたように、本書で抜き出されている落語の言葉を見て音が聞こえてくるような人にはなかなか合う作品なんじゃないかな、と思いました。

長井好弘「使ってみたい落語のことば」




一鬼夜行(小松エメル)

内容に入ろうと思います。
本書はジャイブ小説大賞を受賞した、著者のデビュー作です。
ある日空から妖怪が降ってきた。
物語は、そんな突拍子もないところから始まる。
舞台は、江戸幕府が瓦解してから5年、文明開化の音がそこかしこに聞こえつつ、未だ江戸時代の名残を残す、そんな東京でのこと。
強面で人嫌いで、周囲から恐れられる商人・喜蔵の家の庭に、ある夜突然生意気な少年が空から降ってきた。基本的に誰も信用せず、誰とも関わらずに生きている喜蔵だが、どんな気まぐれか、その少年を拾って世話してやることにしたのだった。
その少年は小春と名乗り、自分は百鬼夜行の途中ではぐれてしまった鬼だ、と主張する。喜蔵は、それ自体はさほど気にとめない。小春の言っていることを信用していないからではなく、どうでもいいと思っているのだ。小春が人間だろうが妖怪だろうが。
小春は大飯食らいで、かつ、喜蔵をこれでもかと面倒に巻き込んだ。どうやら妖怪にいたずらされているらしい面々が小春と喜蔵の元に集まるようになり、その度に小春に振り回されることになり…。
というような話です。
なかなか面白い作品でした。妖怪が主人公の(というわけではないんだけど、主要な登場人物として出てくるような)作品って、あんまりどうかなぁ、と思ってたんだけど(京極夏彦の<京極堂>シリーズも、妖怪が主人公だと思い込んでてしばらく読まなかったくらい)、妖怪っぽい妖怪という感じでもなくて、すんなり読めました。
小春のキャラクターがなかなかいいなと思います。妖怪なんだけど、まるで妖怪っぽくない。妖怪は人に悪戯するのが生業みたいなものなんだけど、小春は、ちょっかいを出すぐらいの悪戯はしてみるけど、本当に人間を困らせるようなことはしない。本書の中には、とある理由から人間に悪戯をしないと決めた妖怪が出てくるんだけど、小春はそういうのとも違って、性根がなんだか妖怪っぽくない、という感じなのだ。時折垣間見せる妖怪っぽい部分はあるんだけど、基本的には生意気でやんちゃな少年でしかない。
ただやっぱり妖怪は妖怪なので、人間の機微みたいなものは察することが出来なかったり、人間の言動を不思議そうに眺めていることもある。そういう、人間と妖怪の感覚の違いみたいなものが作中で面白く描かれているな、という感じがしました。
あとやっぱり喜蔵も素晴らしいですね。完全にツンデレでしょう、これは(本当に、デレの部分は少ないのだけど)。色んな人間に裏切られた、という過去を持つ喜蔵は、なるべく人を信用しないように、人と関わらないように、と考えてずっと生きてきた。人と関わっても碌なことはない、と。だからこそ、小春ともなるべく深入りしないままでいようとするし、小春と関わることで増えてきた周囲の人達との関わりも、なるべくあっさりとしたものになるようにと、物凄く頑固でいる。
でもそれが、やせ我慢なんだろうなぁ、というのが伝わってくるんですね。本当は、誰かと関わっていたいし、人を信頼もしたい。でもそうしないと決めた、というその一点にこだわって、そこから抜け出せないでいる。小春の天真爛漫な感じがうまい具合に作用して、少しずつ喜蔵が素直になっていく(とは言っても変化は本当にほんの少しなんだけど)過程はなかなか面白いと思います。
他にも深雪とか彦次とか弥々子とか、なかなか魅力的なキャラクターが出てくるんだけど、ちょっとあまりにも時間がなさすぎるので省略。
妖怪の話でバタバタするだけじゃなくて、喜蔵や小春の抱える過去なんかも描き出されていって、深みのある物語になっています。
妖怪と言っても別に怖いものじゃなくてなんだか滑稽な描かれ方をしているものが多いし、そもそも小春がまったく妖怪っぽくないのが凄く面白いです。凄く妖怪が好きだっていう人にはどう感じられる作品なのか分かりませんけどね。小春と喜蔵の意地っ張り同士の掛け合いがなかなか読ませる作品だと思います。是非読んでみてください。

小松エメル「一鬼夜行」




ドナウよ、静かに流れよ(大崎善生)

内容に入ろうと思います。
本書は、「聖の青春」でノンフィクション作家としてデビューし、その後小説家に転校した著者による、ちょっと変わったノンフィクションです。
きっかけは、見過ごしてしまいそうなほど小さな、とある新聞記事だった。

<邦人男女、ドナウで心中
33歳指揮者と19歳女子大生 ウィーン>

この小見出しに続く、10行にも満たない本当に小さな記事を読んだ大崎善生は、この遠く離れたウィーンで起こった出来事にいたく惹かれた。理由は、自分でも説明できない。何故19歳の少女が心中をしなくてはならなかったのか、新聞記事内での曖昧な表現による咀嚼の出来なさ、心中であるのに、二人の死体は別々のところで見つかったという事実。
そういう些細なことが気になってしまったのかもしれない。しかしそういうことではなく、もっと違うものであるようにも思われた。
どうしようもなく惹きつけられているのだ、と。
新聞に載った続報を読み、知り合いの編集者などから情報を得るなど、著者は少しずつ情報収集へと動いた。自分を突き動かす衝動への理解はとりあえず脇に置いて、現段階で調べられる範囲の情報は手に入れておこう。そういう気持ちだったはずだ。
その過程で、著者はようやく、19歳の被害者の名前を知る。
渡辺日実。
その名前を知ったことが一つの大きなきっかけになったのかもしれない。ノンフィクション作家としてデビューした著者は、この事件について書きたいという衝動に突き動かされることになった。自分がなぜこの事件にそこまでこだわるのか、やはり説明は出来ないでいた。それでも著者は、自分の気持ちが動き出していることをはっきりと感じた。
出版社の打ち合わせの帰り、新宿でよく行くスナックで、新潮社の方をママが紹介してくれた。名刺には、この事件をかなり突っ込んで追った『週刊新潮』の名がある。そこでその新著者の人に、自分がどうしてか気になって仕方ない事件のことについて話を切りだしてみたのだ。
するとそこで著者は、予想だにしなかった驚愕の事実を耳にすることになる。
なんと死んだ渡辺日実は、ルーマニア人のワタナベ・マリアの娘だ、というのだ。
ワタナベ・マリアとは、アマ女流としてトップクラスの実力を持つ女流棋士であり、かつて将棋雑誌の編集長をしていた著者はもちろん知った名であったのだ。
まさかあの心中事件の被害者の一人が、自分の知った人間の娘だったとは…。
そこから著者は、この事件の取材に、本腰を入れることになる…。
というような話です。
凄いノンフィクションだったと思います。あくまでも個人的な好みの問題ですが、やっぱり大崎善生は、小説よりもノンフィクションの方が圧倒的に巧いよなぁ、と思います。
本書は、非常に変わったノンフィクションだと思います。
僕がざっくりイメージするノンフィクションには、二種類あります。それは、事実を対象としてそれを客観的に描くものと、事実の中に入り込んで主観的に描くもの、です。
前者は例えば、事件モノのノンフィクションなんかがあります。実際に起った事件について、関わった人たちへと取材をし、膨大な事実の欠片を集め、それを再構成したもの。
後者の場合だと、旅行記なんかがそうかなと思います。自分が旅行をしたという経験(事実)を、自らの主観によって描き出すもの。
大体どちらかに分類できるだろうと僕は思っているんですが、本書はそのどちらでもありません。実際の事件について客観的に描く部分もありつつ、一方で事実の中に自らを入り込ませて主観的に描く部分もあります。
実際、著者自身がノンフィクションの中に出てくる、というタイプのノンフィクションは時々あるんですが、正直あんまり巧いと感じられないものが多いんですね。自分がその取材に対して何をしたのか、あるいは、取材それぞれの瞬間でどう感じたのか、というようなことを書くのだけど、どうもそれがノンフィクションとして巧く融合されていない作品が多いという印象が僕にはある。
本書は、その難しい融合を成し遂げている、と僕には感じられる。その鍵を握っているのが、『著者自身の衝動』ではないか、と僕は思う。
この心中事件について、著者は小さな新聞記事を見た瞬間から、表現しがたい『衝動』に襲われることになる。何故その小さな記事に自分が惹きつけられたのか、そしてその関心がどうしてずっと長く消えずにいるのか、そしてあまつさえ、このほとんど情報もないような心中事件について『書きたい』と感じてしまうのか。そういうことすべてをひっくるめて僕は『衝動』と表現しているけど、本書では、客観的な事件の事実の描写と並行して、この『著者自身の衝動』が主観的に描かれていく。
心中事件について深く取材をするその一方で、何故自らがこの件に突き動かされているのかという『衝動』について考察する。それが、単純な時系列順ではない構成によって巧く融け合っている。
たぶんこの作品が、単純に客観的に心中事件について追っているだけであったら、恐らくここまで面白い作品にはならなかっただろう、と思う。渡辺日実と、彼女と心中をした33歳の千葉師久の二人の物語は、客観的に見ただけでも十分興味深かったかもしれない。ただやっぱり、それでは弱い。著者自身の、取材対象者への特別な思い入れ、それはつまり、遠くウィーンで心中した人が将棋で自分と繋がっているという事実、そして、取材の過程で浮かび上がってきた、渡辺日実という女性の高潔なまでの生き方などだけども、そういうものを著者の筆圧から感じることが出来る、自らの内側に芽生えた『衝動』をどうにか昇華させようともがいている。そういう奮闘が伝わってくることこそが、この作品の一番の魅力ではないか、という気がする。
本書の中で著者は、常に揺れている。いや、正確に言えば、著者が書く文章自体に揺れはなく、自分の中できっちりと立ち位置を見定めてから作品を書き上げたのだろうけど、そこに行き着くまでに大きく揺れていたし、その過程が少し垣間見える。
それがもっとも強く現れている部分が、日実の母親であるマリアと関係が悪化した場面でだろう。
マリアは、著者の取材を全面的に受け入れることについて、とある思惑があった。しかし著者はその思惑を拒絶する。それは、ノンフィクションという形式を巡るマリアと著者の見解の差だと言えることだけれども、そこでマリアは『事実などないのだ』というようなことを著者に言う。
一人娘を亡くしたマリアが言うこのセリフはなかなかに重く、著者も深く考えることになる。
表面的な事実は分かる。日実が死亡した日やFAXやメールなどに残されたやり取りなどだ。しかし、その裏にある、死んでしまった者たちの思考は、もう永遠に知ることは出来ない。それは、表面上に現れる様々な事実から推測を重ねていくしかない。それは人によって見方に差が出てくるだろうし、見る人の数だけ事実があると言ってもいい。
マリアにはマリアの事実があり、著者には著者の事実がある。マリアは、せめてこの部分だけは私の(マリアの)事実を書いて欲しい、と著者に言った。それは、著者にはどうしても許容できないことだったので拒絶したのだが、しかしその言語は著者を揺さぶる。
著者は最終的には、決して知りえないだろう日実の内面を、きっとこうだっただろう、と憶測で書いている。それは、自信に満ちた推測というよりはむしろ、ささやかな祈りみたいなものなのだろう。こうであって欲しい、その願望が透けて見えるような気がする。
それは、ノンフィクションという作品としてどうなのか、疑問に感じる人もいるかもしれない。決して知りえない日実の内面に漸近しているかのような表現は、ノンフィクションとして相応しくないと感じる人もいるかもしれない。でもそれは、著者が突き動かされてきたどうしようもない『衝動』と共に描かれるからこそ、作品として成立しているのだと思う。もう亡くなってしまった、決して辿りつけるはずのない渡辺日実という少女の存在を幻視する、そうすることでそれを事実として受け止めたい。そういう著者自身の希望が強く反映されているような気がします。
とこんなことを書くと、ノンフィクションとして事実考証に甘い作品だと思われてしまうかもしれないけど、全然そんなことはありません。著者は、数少ない手がかりを元に、出来うる限りの情報を集め、付き合わせていく。マリアの頼みを拒絶したのも、それが事実かどうか証明できるものが何もないから、という理由だった。ピースが大幅に欠けたジグソーパズルをやってるようなもので、残っているピースはすべてしっかりと組み上げた。その上で、足りなくなってしまっている部分の絵を、自らの希望を託しつつ想像する。そういう作品だと思いました。
しかしホントにやりきれない話だなと思いました。
千葉師久という男は、指揮者を自称していたけども、実際には音楽的な知識はほとんどなかった。奇行や被害妄想が目立ち、日本にいると家族に迷惑が掛かるからと、お金を持たされて海外に追い出されたのだ、という話のある男。その千葉が、日実を自らの妄想へと引きこみ、行動や思考を制限し、次第に千葉の世界観に取り込まれていくことで、最終的に心中をしてしまった。
それが、日実の両親の解釈だ。
実際に現地で様々な人の話を聞いた著者は、また別の解釈をした。その解釈も、実にやりきれないのだけども、まだ救いは感じられる。日実という少女がどういう心情を抱えて死んでいったのか、その部分が決定的に違う。それは、19歳の少女が抱えるにはあまりにも高潔で美しい決断であり、ある意味で輝いていると言ってもいいのではないか、という感じもする。
まあしかし、それもあくまで著者の解釈だ。実際どうだったのかは、突き詰めれば結局、二人にしか分からない。
最後の方で著者は、こんな風に書いている。

『きっと彼らはみな、こう考えていただろう。
「私が彼女にしたことは、果たして正しかったのだろうか」』

著者は様々な人達に話を聞く。そしてそのほとんどの人が、深い後悔を抱えている。
日実を死なせずには済んだのではないか、と。
日実の周囲にいた人々は、千葉という男の危険さ、そして日実が置かれた状況の危険さを十分に理解していて、どうにか千葉と日実を引き離そうと、そして日実を日本へと帰そうと努力をしていた。最終的に二人が心中してしまうという未来を知っていれば、もちろん誰もがもっともっと必死になったことだろう。しかし実際は、誰もが後から後悔するほどに、なかなか巧くはやれないでいた。きっと、間違っていたというわけではない。誰もが、その時自分が出来る範囲の中で、出来うる限りのことをしていたと思う。でも、日実と関わった人たちは、もっと何か出来たのではないか、あるいは、あの時せめてこうしていれば、という後悔を消せずにいる。たぶんほんの少し何か違っていれば、二人はきっと心中をしなかったはずだ。しかし、様々なすれ違いが起こり、様々な不運が襲い、結果的に二人は心中してしまうことになる。
ただ、日実の心情がもし著者が解釈した通りであるならば、周囲の人間に出来たことはそう多くはなかっただろう、とも思う。二人の世界で完結していた、という表現がぴったりくる気がするけども、少なくとも日実にはそうなってしまうだけの背景があった。両親の生き方が違っていればもしかしたら、と思わなくもないけど、実際それぐらいまで遡らなければ、心中を食い止めることは難しかったのではないか、と思う。
最後まで読み終わった時の読後感は、なんともいえない。何かが伝わってきている気はする。ただそれは、命の大切さとか、家族との関わり合い方だとか、そういう分かりやすく括れるようなことではないのだと思う。もっと、言葉になる以前の思考のカタマリみたいなものが直接脳内に入ってくるような、そんな感じがする。著者が小さな記事から理由も分からず感じた『衝動』と同じく、この作品を読んで読者の内側に残るものは、なかなか表現のしようのないものなのではないかと思った。
敢えて書こうとすれば、人間の存在の矮小さと、影響力の大きさ、という感じでしょうか。人間がどこまでもちっぽけな存在であるというのと同時に、一人の人間が残す足跡の広さみたいなものが、この作品から伝わってくる事柄なのかなぁ、と漠然と思います。
著者自身が作品に足跡を残しつつ、どうにもならなかった高潔な関係性の二人を追うノンフィクションです。うまく消化できない多くのものが自分の内側に入り込んでくる、そういう感じがしました。是非読んでみてください。

大崎善生「ドナウよ、静かに流れよ」




ぐろぐろ(松沢呉一)

内容に入ろうと思います。
本書は、『BURRN!』という音楽雑誌に連載されていた、『アナルは負けず嫌い』というコラムを書籍化したものです。
という紹介だけでももはや意味不明という、なかなか変度の高い本である。
本書では、とにかく『不快なるもの』を徹底的に取り上げている。ゴキブリやSMなんてのはまったく普通で、スカトロやゲロや痰や食虫など、とにかく『不快なるもの』ばかりについてのコラムばっかりである。
著者はそういう方面に好奇心のある人で(ただしのめり込むほどではない)、元々は音楽を中心に様々な文章を書けるライターとして色んな文章を書いていたのだけど、次第にこういう方面の仕事ばかりになって行ってしまったらしい。
しかしこの『アナルは負けず嫌い』というコラム、元々は『不快なるもの』を書くようなコーナーではなかったのだ。
では元々はどういう目論見の連載のつもりだったのか、というと、特に何も考えはなかったらしい。アナルマニア方面の人から耳にした「アナルは負けず嫌い」という言葉が強烈で、とりあえず連載のタイトルにしてみた。連載第一回は、その『アナルは負けず嫌い』というコラムタイトルの背景を説明するために、アナルだのSMだのということについて延々と書いている。
で、この『アナルは負けず嫌い』という連載の方向性を決めたのが、まさにこの第一回のコラムだったのだ。正確に言えば、この第一回のコラムを読んだたった一人の読者の抗議によってだった。
『不愉快なことを書くな』という趣旨のその抗議を知り、著者はこのコラムの方向性を、『不快なるもの』とすることに決定。以後、どこからそんな話を仕入れてくるんだか、それはそれは不快な話のオンパレードで素晴らしい。
いや、僕は別にそういう『不快なもの』に特別興味があるわけでもなく、っていうかスカトロとかゲロとか痰とか食虫とか全面的に無理なんですけど、別に写真があるわけでもなく、臭いが漂ってくるわけでもなく、ただ文章で読む分にはまったく平気。スカトロの話を読みながら飯を食う、なんて場面もありましたよ。まあ決して、愉快な食事じゃないですけどね。
前半の方は、飲食店で客が残した料理を使いまわしているとか、幽霊の話とか、エログロ方面ではない話も結構あるんだけど、後半はかなり、スカトロだのゲロだのって話ばっかりになる。
しかしこれ読んでると、世の中は広いって思いますよ、ホントに。僕にはウンコ食べる人間の気持ちがしれないけど、それに快感を感じる人間もいるわけだし、痰の話を書いた後で(著者は痰とウンコのプールのどっちかで泳がなければいけないと言われたらウンコを選ぶ、と書いている)、40代の女性から、痰の何が不快なのか全然理解出来ない、という手紙が来るなど、ホント凄い。三和出版という、社内の人間がほぼ何らかの形で変態という会社にいるとあるスカトロマニアの話にはホント爆笑した。

『もとはウンコが好きだったんですよ。小学校の頃から、女の子と駅までシックスナインの格好をしてウンコを食べ合う夢をよく見てました。』

って文章にはノックアウトですよ。そんな小学生、いるんだなぁ。
他にはどんな話が出てくるのかは是非読んで欲しいものなのだけど、いやはやホント、世界は広いです。著者は作中で、

『かくも人間の感覚はさまざまだ。自分が不快だからといって、他人も同じだと思い込むのは慎みましょう』

って書いてて、まさにこの本全体に通じる言葉だなぁ、と思いました。この本を読むと、異なる神への信仰を理由に戦争することなんか馬鹿らしくなる気がします。人間の振れ幅はここまで広いんだぞ、と。
とまあ、とにかくメチャクチャな内容で、ここまで僕の文章を読んだ人の中には、そんな本自分とは合わない、どうせ頭のネジの狂った人間の書いてることなんだろう、と思われるかもしれないけど(そんなこと思わないかな?だとしたら著者に申し訳ない感じだけど)、そうではないのだ。著者は、確かにこういうエログロ系の方面に好奇心を持っているのだけど、著者本人は至ってまともであって、多少趣味趣向は一般人からズレている部分はあるかもしれないけど、感覚は非常に真っ直ぐなのである。
それを端的に表現している文章がこれ。

『どんなセックスをしようと勝手、でも道にゴミを捨ててはいけない』

著者は、例えばエロ系雑誌の編集者と喫茶店で打ち合わせをしたりすることがあるけど、雑誌によっては、「チンコ」「マンコ」などの言葉を平気で口にし、性器の写った写真をテーブルにおおっぴらに並べる編集者がいるらしく、著者はそれをたしなめる。人に迷惑を掛けてはいけない、という当然の良識を持っているのだ。
また、セクハラについて考察している文章は非常に論理的に筋が通っていて、筋が通らないことに納得の出来ないことが多い僕にも共感できる部分は多かった。例えば、立場にものを言わせてセックスを迫るなんてのはもちろんアウトだし、「◯◯さん(女性)はホント貧相な体ね」なんていうのも、「君はビッコだから歩き方が面白いなぁ」というのと同じなのであってもちろんいけない。
その一方で、「君はどんなセックスをするのかね?」という雑談はいいのではないか、という。もちろん、立場を利用してそれを無理矢理言わせようとするのはダメだけど、ただの雑談レベルであれば、その質問は、「君には彼氏がいるのか」という質問と大差なのではないか、と。
もちろん人が聞きたくない話をするべきではない、という意見もあるだろうけど、じゃあ、「私は独身だから、他の人が家庭の話をしているのが不快だ」という人がいたら、そこでは家庭の話は出来ないことになってしまう。それを不快だという人が一人でもいればその話はしてはいけない、というのであれば一貫性があっていいのだけど、セックス的な話だけがセクハラ扱いされてしまうのはちょっとおかしいのではないか。
というような趣旨の意見で、僕は非常に納得しました。僕は個人的に、一貫性のない矛盾したルールや決まりや意見や価値観には結構敏感な方で、そういうものにすぐ反応してしまいます。僕個人は、もちろん出来ていない部分もあるだろうけど、なるべく一貫性ということを重視して日々行動しています。逆に、意見や行動に一貫性のない人間にはかなり腹が立ちます。
著者はそういう意味で、非常に好感の持てる人です。一貫性というものを大事にしていて、結構共感できる。エログロ的な、非常に不快な話をしているにも関わらず、それを書いている著者に大して不快感を抱かなかったのは、そういう一貫性をきちんと持った人だということが感じられたからだろうなぁ、と思います。
また、『はっきりした理由もなく嫌っている』という状態をよしとせず、何でもチャレンジしてみる、というのはとにかく素晴らしい。ウンコについての本(本書ではない別の本)を書くのにウンコを食べたことがないとかダメだろと思いとりあえず舐めてみたりとか、ゴキブリ入りのキャンディを、食べ物を粗末するのが嫌いだからと言ってゴキブリも食べたりする姿勢は、僕はまったく真似したいとは思わないけど、素晴らしいと思いました。
エログロ的な話はまったく受け付けない、鳥肌がたって気持ち悪くなる、というような人には勧めませんが、スカトロやらゲロの話をしている割にはそこまで不快感は強くないのでは、と思います。著者の人柄によるんじゃないかなぁ、と思うのですけども。色んな意味で世界が広がると思います。是非読んでみてください。

松沢呉一「ぐろぐろ」




県庁おもてなし課(有川浩)

内容に入ろうと思います。(一度書いた文章が消えたので失意の書きなおし)
高知県観光部に「おもてなし課」が設立された。観光立県を目指し、県外観光客を文字通り「おもてなしする」課として、斬新なネーミングと共に設立された。
しかし、ネーミングの斬新さとは裏腹に、悲しいまでに「お役所」的だった。
まず手始めに取り組んだのが、他県でも既に行われている『観光特使』(県内の施設の割引券付きの名刺を、県内出身の著名人に配ってもらう)という企画だし、その企画にしても、お役所独自のグダグダな仕事の進め方によって、様々な軋轢を生むことになった。
おもてなし課に所属する掛水は、観光特使を依頼していた作家・吉門喬介から連絡をもらう。そこで吉門から、お役所的な仕事へのダメだしや、観光特使の企画そのものの不備など、厳しい指摘をされ凹む掛水。しかしそれからしぶとく吉門と連絡を取り合い、相談をし、それを県庁へとフィードバックして行くことになった。
そんな吉門から、「パンダ誘致論」について調べてみろ、と掛水は言われる。それは十数年前、高知県庁の職員だったある男が掲げた壮大なプロジェクトで、その器を使いこなせなかった県庁は結局その男を県庁から追いやったという、県庁としても嫌な歴史なのだった。
これも吉門からのアドバイスで、民間感覚を持った女の子を雇えということでおもてなし課に採用された明神と共に、「パンダ誘致論」を掲げた清遠和政とアポイントを取ろうとするのだが…。
というような話です。
相変わらず素晴らしい作品でした!有川浩の作品でハズレだったことって一度もないんだけど、本書もホントメチャクチャ面白い作品でした。別に泣けるようなストーリー展開じゃないんだけど、ところどころウルウルさせるような展開とかあって、ホントいい話だったなぁ。
有川浩の作品の良さを挙げたらキリが無くなるだろうけど、本書で一番素晴らしいなと思ったのが『視点の切り替え』です。これは観光に限らず、どんな仕事の人にも、そして仕事じゃない場面でもホント大事なことじゃないかと感じました。
高知県の県民性に、『自分たちの持つ良いものに気づかない』『良いものを宣伝する力が弱い』というのがあるそうです。そういう県民性だからこそ、という描写も多くあるだろうけど、実際に県庁の人たちが、高知県にこれほどまでに観光資源があるのか、と気づく描写は本当に面白いと思います。
これは実際僕にも経験があります。僕は静岡出身で、特に富士山にかなり近いところに住んでたので、日々ドデカイ富士山が目の前に見える環境でした。だから静岡に住んでいる頃は、富士山について殊更何か考えたというようなことはなかったです。でも状況してみて富士山の話になると、結構富士山って、普段それが見えない人にとってはアピールする対象なんだなぁ、と初めて気づきました。
おもてなし課の面々も、高知の開発から取り残されたことによる、他の県では実現不可能なほどの豊かな自然や、ウミガメの産卵が毎夏ハズレなしで見れること、また他県ではほとんどなくなりつつある『日曜市』も未だに残っている、なんていう、自分たちにとって当たり前だった日常風景が、まさか観光資源になるなんて、と『視点が切り替わる』描写が多くて、本当に面白いなと思いました。
よくある話題で、『家庭毎の味噌汁の具』の話があるけど、あれと同じようなもので、自分にとって普通であることが、他から見れば実はそうではない、というような新鮮さって、意識的に視点を切り替えようとしないとなかなか見えてこないですよね。
僕は本屋で働いているけど、出版・書店業界にも、古い慣習ややり取りみたいなのが結構残ってて、不合理だなと思うことがあります。そういう、誰もがわかってるけど変わらない部分、というのももちろんたくさんあるんだけど、その一方で、他の業界の人からすれば異常なんだけど出版・書店業界の人はなかなか気づいていないこと、っていうのもまだまだたくさんあるんだろうと思います。そういうことへ意識を向けるきっかけになる一冊かもしれないなぁ、と思いました。
有川浩は、本当に人間を描くのが巧いと思うんですね。人の機微、といいますか。どういう場面でどういう人が、どう感じどう行動するのか、という部分への想像力が本当に凄いな、といつも思います。
本書には、いくつか対立関係や恋愛未満の関係なんてのが出てくるんだけど、それぞれが本当によく描かれている。しかもそれが、物語の展開から自然に湧きでてくるものなわけで、見事としか言いようがないですね。掛水と明神さんのやり取りにキュンキュンする人はたくさんいるだろうし、人によっては掛水と吉門のやり取りに萌え萌えするだろうし、吉門とその姉のやり取りは緊迫感があって素敵だし、清遠の器のデカさには感激する人がたくさんいるんじゃないかなと思います。
あと、公務員の論理、というか組織の論理みたいなものも描かれていて、そういうのに超絶的に拒絶反応を示してしまう僕には、やっぱり公務員とか向かないだろうなぁ、とか思いました。その辺りのことも有川さんは分析してたりして、なるほどなと思ったり。公務員というのはホント、新しいことをやるのに向かない組織なんだなぁ、としみじみと思いました。
あー、さっき書いた感想が消えてなければもっと色々と書けてたはずのことがあるんだけど、ちょっと時間切れもあってこれぐらいで。とにかくホント面白いです。観光とか県庁とかそういうことに特別興味がなくてももちろん楽しめるし、特に地方に住んでいる方なんかは、読むと色々と思う部分があるんじゃないかと思います。そして本書を読むことが、「おもてなしマインド」を伝達する一番の手段だとも思いますしね。もちろん、有川作品には欠かせない恋愛的な要素も結構あるんで、そういうの目当てで読んでも楽しいです。ホント、高知に行ってみたくなります。特にゆずで村起こしに成功した馬路村とか興味あrなぁ。是非是非読んでみてください。

有川浩「県庁おもてなし課」


オールド・ルーキー 先生は大リーガーになった(ジム・モリス)

内容に入ろうと思います。
本書は、著者自身が経験した、ちょっと驚きの実話です。
子供の頃から野球に魅せられていたモリス。軍に務めていた父親の関係で引越しばかりの生活だったモリスにとって、唯一の友達は野球だったり、野球を通じてしか誰かと親しくなることは出来なかった。
モリスは幼い頃から、野球だけに限らず、ありとあらゆるスポーツで怪物的な才能を発揮した。野球もフットボールもバスケットボールも、何でも周りの子供たちよりうまくやった。走るのも早かった。
モリスは、人生の早い段階から、大リーガーになることを見定めていた。それ以外、何も考えなかった。
モリスは大リーガーへの夢を叶えるべく、もちろん努力をした。しかし、その努力は、怪我などによってなかなか実ることがなかった。結婚し、子供をもうけたモリスは、野球への道を諦め、堅実に仕事をし給料を手に入れる人生を選んだ。
しかし、運命は彼を、そのまま放っておくことはしなかった…。
というような話です。
バイト先の人が絶賛してて、それで借りて読んだ本なんだけど、僕にはちょっとうーむ、という感じだったなぁ。
個人的な意見を言うと、ちょっと焦点を当てるべきエピソードの取捨選択が間違ってるような気がする。確かに、著者自身であるモリスにとっては、婚約者とのあれこれは大事な部分だろうし、正確さ追求するための細かな描写も必要だったのだろうけど、僕にはそういう部分がちょっと退屈に感じられた。一方で、モリスが子供たちに野球を教える立場になり、そこで、自分たちがプレイオフまで行ったら先生も大リーグのトライアウトを受けてください、と言われてから実際に大リーガーになるまでの、僕からすれば一番盛り上がる部分なんじゃないか、っていうエピソードが実にさらっと描かれている。そこはもっと重点的に描かないとダメなんじゃないかなぁ、という気がしました。少なくとも、奥さんとの出会いやその後のあれこれなんかを書くよりはよっぽど重要な部分ではないか、という気がします。
子供時代のあれこれのエピソードや、両親とのあまり良いとは言えない関係なんかは、モリスという個性がどう形成されていったのかを語る上で重要だろうから、そういう部分はいいんだけど、もっとエピソードの取捨選択が僕に合うような形でされていたらよかったのになぁ、という感じがしました。
ストーリー自体はなかなか刺激的だと思います。何度かの怪我や、奥さんや子供を養っていかなくてはいけない男が大リーガーの夢を一旦諦めるも、そこから奇跡的に復活する、というのは、それが現実に起こったことだという衝撃も加わって、ホントに面白い話だと思います。これだけ素晴らしい素材なのだから、もう少し調理の仕方をきちんとすればもっと面白い作品に仕上がったんじゃないかなぁ、と思うんだけど。
恐らくこの本は、モリス自身が書いてるんだろうけど、やっぱりプロのノンフィクションライターみたいな人が書いたらよかったんじゃないかなぁ、と思います。自身が経験したことを書く場合、どうしても、自分が書きたい部分と、読者が読みたい部分との擦り合わせみたいなものが難しいんじゃないかと思うんだよなぁ。
個人的には、ちょっともったいない作品かなという気がします。題材は素晴らしいのだけど、作品としてはもっともっと良いものになる予感を抱かせる作品でした。




ジム・モリス「オールド・ルーキー 先生は大リーガーになった」

海炭市叙景(佐藤泰志)

内容に入ろうと思います。
本書は、海炭市という架空の町を舞台にした、18編の短編が収録された短篇集です。18編すべての短編を紹介するのはしんどいので、全体的な雰囲気だけざっと。
海炭市というのは、かつては炭鉱で栄えた町だけども、今は寂れていく一方。周りは海しかなく、時期によって観光客がたくさん来たりする。
そういう町で、ひそやかに生きていく人々を描く。年を越す金がない兄弟が、故郷に戻ってきた夫婦が、プロパンガス運送の仕事に就く男が、市電の運転手が、切手を集める少年が。そういう、海炭市周辺に住む様々な市井の人々が描かれていく。明るい未来があるとは決していえないその町で、鬱屈や諦めの蓄積と共に過ごす人々のささやかな日常を切り取った作品。
様々な奇跡的な出会いがあって復刊に至った作品で(その経緯を詳しく知っているわけではないんですが)、埋もれてしまっていた作家の作品がこういう形で世の中に出てくるというのは凄くいいことだなと思います。
ただ僕には合わない感じでした。たぶん、非常に良い作品なんだろうと思うんですけど、僕の読書とは相性が良くなかったなぁ、と。
僕にはどうしても、小説をじっくり読む、ということがもう出来なくなってしまっています。書店員になってからは余計にそうですが、とにかくどうにかして早く読みたい、と思ってしまうのです。で、もちろん当然の話ではありますが、そういう読み方ではうまく合わない作品というのもたくさんあるはずなんです。
本書も読む前から、これは時間を掛けてゆっくり読もう、という気構えで読むことが出来れば、また違ったかもしれません。ふだんの二倍・三倍ぐらいの時間を掛けて読むつもりでページを捲れば、また違った印象になったような気もします。ただ、僕が読みたいと思っているスピードで文章を追おうとすると、なかなか文章が入ってこないのですね。
僕は古典作品を読むのが凄く苦手なんですけど、それも恐らくそういう理由なんだろうなぁ、という感じはします。僕が読みたいと思うスピードで読むと、どうしても文章が入ってこない、という感じがします。本書を読んであまり入り込めなかったのも、恐らくその辺が理由だろうなぁ、と思います。
僕は地方出身者ですが、地方に住んでいた時に地方らしい鬱屈とか劣等感みたいなものを特に意識することなくだらだら過ごしていたので(まあ、ある程度平和だったのでしょうね、僕の周辺は)、海炭市に住む人々の感覚というものにどこまで近づけたかというと、なかなか難しいものがあります。ただ、海炭市のような町は日本中至るところにきっとあるのだろうし、彼らに共感できる人たちというのも恐らくたくさんいるのだろうと思います。
ストーリー自体は、これと言って特別あるわけではない話が多いですが、だからこそ彼らの日常という現実がリアルに浮かび上がってくるような気がします。特別なことが起きるわけがない、そんな諦めにも似たような現実の底で暮らす人々の、やっぱり特別なことが起こるわけではない日常の物語。共感できるという人は結構いるのではないかと思いました。

佐藤泰志「海炭市叙景」




百物語 浪人左門あやかし指南(輪渡颯介)

内容に入ろうと思います。
本書は、「掘割で笑う女」に続くシリーズ第二弾です。
剣の腕は立つのに怪談話には滅法弱い苅谷甚十郎は、師範代になるかもしれないという話を受けて、また江戸で修行をすることになった。平松左門のいる道場に戻る途中、兄弟子である辻村鉄之助が開いた道場へと顔を出したところ、甚十郎はとんでもないお願いをされることになってしまう。
自分の代わりに百物語に参加してはもらえないか。
鉄之助も、甚十郎がそういう話を苦手としていることは百も承知しているはずなのだけど、果し合いの予定が入ってどうしても行けなくなってしまった、という。なら左門さんに行ってもらえばいいじゃないですか、というと、もちろん真っ先に声を掛けたのだが、何故か断られたのだ、という。仕方なく甚十郎は嫌々ながら百物語に参加することになってしまった。
幽霊画に囲まれた暗い部屋の中で、何故か中年の浪人ばかりが集められた百物語が始まった。百物語を主催しているのは、商人の和泉屋。百物語は粛々と進み、始終恐れながらもなんとか耐え切った甚十郎だったが…。
というような話です。
シリーズ一作目より二作目の方がより良かったです。なかなか面白く読ませる作品です。
とにかく、全体の構成が巧い。正直なところ一作目は、全体の構成が若干散漫な印象はありました。物語がどこへ進んでいくのか分からない、という、恐らく著者の狙い通りの構成なのだとは思うのだけど、それにしてもちょっとあちこちの断片がくっついていると言う印象で、最後まで読めばなかなかの構成だったと思えるのだけど、読んでいる途中はどうしても散漫さを感じてしまいました。
本作は、そういう印象はまったくなかったですね。百物語の話と並行で、いくつかのエピソードが同時に展開していくのだけど、これが最後の方でうまいこと繋がるんですね。見事だと思いました。
物語の中心は二つ。まず百物語の席で起こった出来事にはどう説明をつけるか。そしてそもそも、何故その百物語は開かれたのか。それらの謎が、甚十郎や左門の個人的な事情と見事に結びついてくるんですね。しかもそれが、百物語で怪談を話しているとか、道場の師匠が昔語りをしている、というような場面の描写が少しずつ繋ぎ合わさることで、じわじわと浮かび上がってくるんですね。百物語で起こった出来事については、甚十郎を中心に捜査めいたことが行われるのだけど、何故その百物語が開かれたのかという方については、中盤を過ぎても全然誰も捜査的なことや推理的なことをしない。でも、最後にそれが一気に繋がってくるんですね。ホント、構成の巧みさの勝利だなぁ、という感じがしました。
シリーズを続けて読んだから、というのもあるかもだけど、個々のキャラクターもなかなかしっかりと根づいている感じです。特に左門と甚十郎というメイン二人は、良いキャラしてるなぁ、という感じです。二人は、普通一般のミステリで言うところのホームズとワトソンというのに近い関係だと思うんだけど、甚十郎の臆病さと、左門の傍若無人さが非常に良くマッチしてると思います。やっぱりここでも、京極夏彦の<京極堂>シリーズの中善寺と関口って感じがして、どうしてもこのシリーズを読んでいると<京極堂>シリーズを連想してしまいます。
ただ、<浪人左門あやかし指南>と書いてあるのに、今回はちょっと左門の活躍が少ないかなぁ、という感じはしました。っていうか、左門出番少すぎじゃないか?確かに物語の都合上、なかなか出にくかった話かもしれないけど、もうちょっと左門が出てきて話を引っ掻き回してくれたら面白いんだけどなぁ、とか思ったり。
本書では、物語の多くのページを割いて、百物語で和泉屋が語った怪談が多数載っています。最後まで読めばどうしてそういう構成になっているのかは分かるんだけど、ホント怪談が好きな作者なんだろうなぁ、と思いました。それぞれの話は、もうちょっと怖かったりオチがはっきりしてたりするとよかったけど、とか思っちゃったけど、まあ百物語でする怪談なんてそんなもんだろうしなぁ、と考えると、うまく設定に合わせた程度の怪談を用意したのかしらん、とも思ったり。
構成がなかなか巧く出来ているミステリだと思います。前回も書きましたけど、一応時代設定はかなり古めですが、時代小説という感じではなくて、現代もののミステリとさほど変わらない感じで読めると思うので、時代物はなぁ、と敬遠している人にも是非読んで欲しい作品です。個人的には二作目(本作)の方が好きですが、一作目を読んで甚十郎と左門の関係なんかを知ってる方がより楽しめると思うので、是非一作目から読んでみてください。

輪渡颯介「百物語 浪人左門あやかし指南」




堀割で笑う女 浪人左門あやかし指南(輪渡颯介)

内容に入ろうと思います。
城下町に、幽霊の噂が広まっている。いくつかのパターンがあり、堀割から女が覗いていたとか、木の上に女の上半身だけがとか様々なのだけど、それらには共通項がある。
女の姿を見たら死ぬ、というものだ。
幽霊の噂の広まった町は、夜ともなればひっそりとしていた。出歩くのは助平か飲兵衛くらいなもの。特に幽霊が出ると噂された堀割の辺りは真っ暗で、人通りも少ない。
そこで、次席家老の檜山織部が暗殺された。
政治力学に従って檜山は病死だとされ、何事もなかったように日常は過ぎていく。
その町に、一人の腕の立つ少年がいた。苅谷甚十郎というその少年は、滅法腕は立つのだが怪談話には異様に恐れるというので、よくからかわれていた。
その甚十郎、江戸へと修行に出ていた時、平松左門という凄腕の男に稽古をつけてもらい、ますます強くなった。この左門という男、酒と怪談話が滅法好きという男で、やはりここでも甚十郎は怖い怪談話をたんまりされて脅かされたものだった。
檜山暗殺に関わった者の周辺と、浪人である左門の周辺で、様々な幽霊話が、誰かからのうわさ話という形で入ってくる。檜山暗殺に関わった者たちは、次々と『死人』に殺されていく。そして左門は、幽霊話の背景を探っていく…。
というような話です。
なかなか面白い作品でした。最近メフィスト賞受賞作品ってあんまり読んでなかったんですけど、これはなかなかないタイプの作品だなと思いました。
読んでいても、物語がどういう方向に進んでいくのか、しばらくまったく読めないんですね。
初めは、ただの怪談を扱った物語だろうか、と思うような話です。短い幽霊話がいくつも出てきて、背景を説明される幽霊話もあるけども、そうではないものもある。檜山暗殺と、浪人左門がぶらぶらしていることが物語の主軸なのだろうけど、そうではない様々な断片も色々と入り込んでくる。そもそも、檜山暗殺の話と左門の話との繋がりは、初めのウチは全然見えてこない。
しばらくするとようやくなんとなく分かってくる。これは、ミステリの枠組みに幽霊話という皮をかぶせているのだな、と。そこで僕は、京極夏彦の作品をチラッと連想しました。
京極夏彦の<京極堂>シリーズとか、あるいは<巷説百物語>シリーズなんかは、両者の物語の構造こそ違えど、共に『妖怪』という怪異の膜を隔てることで、謎めいた状況設定を生み出したり、あるいはこんがらがった状況を解決したり、という物語です。妖怪、という存在がまだある程度信じられていたような時代に、その妖怪という怪異を人為的にうまくコントロールすることでそこに物語が生まれる、そういう印象です。
本書もかなり近いものがある、と思いました。本書では妖怪ではなく幽霊だけど、幽霊という存在をうまく膜として機能させ現実に起こっていることを覆い隠し、それによって謎めいた状況を生み出している、という物語なわけです。
本書に、なるほど、という一文がありました。

『ほとんどの人は幽霊が出てきた段階で考えることをやめてしまうのだそうです。私のように信じきって徒に怖がるか、大目付さまのように頭から否定してしまうか、なのだそうです。』

これが本書の物語の特徴を巧く説明している、と感じました。確かに人間って、自分には理解しがたい状況に名前だけポンと与えて、それ以上考えない、という傾向ってあるなと思います。ちょっと飛躍するけど、現代でもそういう傾向ってありますよね。『フリーター』とか『婚活』みたいな新しい言葉をどんどん生み出していくことで、それらについて深く考えることを止めてしまっている、みたいな状況って。
現代では、『幽霊』っていうのはなかなかそういう存在にはなりにくいだろうと思います。現代では、『幽霊』というものは、人々の間の共通の話題にはちょっとならないだろうな、と思うんです。もちろん信じている人はいるだろうし、いないと言い切ることは出来ないよなぁ、程度の人もいるだろうけど、でも『幽霊』の話題が日常的に上るような環境にはない。だからこそ、本書のような物語は現代ではなかなか成立させにくいですね。
だからこそ、本書の時代設定はいいですね。まだ民衆の間で、『幽霊』というものの存在がある程度信じられていて、それが日常的な話題になるような環境でないと、なかなかこういう物語は成立しません。
そしてそういう舞台設定の中で、幽霊という存在をうまく定着させるやり方がうまいと感じました。ある程度幽霊が信じられている時代だからって、どんな幽霊の話題でも定着するなんてことはないでしょう。それぞれの話がどういう経緯で生まれ、どういう流れを通って広まり、それがどんな影響を与えているのか、という部分をかなりきちんと描写しているな、という印象がありました。そしてその幽霊話が、もろもろの謎解きに積極的に関わっていく、というその辺りの物語の構成の仕方も巧いなと思いました。
本書は、舞台は時代小説で描かれるような感じですが、非常に読みやすいと思います。僕は正直時代小説ってあんまり得意な人間じゃないんだけど、本書は当時の風俗とか知識とかがほとんどなくてもスイスイ読める感じです。こういう言い方をしたら身も蓋もないかもだけど、幽霊という設定を巧く活かすためのこの時代設定なんではないか、という感じがしたので、結構現代ものの小説と同じように読める作品ではないかと思います。
どこをどうすれば、というのは巧く言えないけど、もうちょっと全体の構成はスマートに出来るんじゃないかなぁ、とか思ったんだけど、でも新人のデビュー作としてはなかなか読ませる作品だと思いました。シリーズになっているようで、ちょっと二作目も読んでみる予定です。なかなか珍しいタイプのミステリではないかと思うので、是非読んでみてください。

輪渡颯介「堀割で笑う女 浪人左門あやかし指南」




慈しむ男(荒井曜)

内容に入ろうと思います。
東京タワーが爆破され、尋常ではない被害をもたらした。タワーの脚の部分に爆弾が仕込まれ、完全に倒壊したのだった。
警察は、未曾有のテロとして捜査を開始するもの、手がかりを掴むことはまったく出来ない。どの方面へ捜査をしても、何も見つからないのだ。少量の爆弾で東京タワーを倒壊させたことから、かなり爆弾の知識に詳しい人物であることは分かったが、それだけだった。
フリーのカメラマンである天羽眞理子は、東京タワーが倒壊したまさにその時、倒れくる東京タワーの真下にいた。職業的な反射神経から思わず膨大な写真を記録した眞理子は、しかしそこに写っている地獄絵図を見て眞理子の心は打ちのめされる。
このとんでもない犯罪は、しかしこれだけで終わるわけではなかった。犯罪史上に残るこの悪行は、たった一人の悪魔のような青年によって企図され、少しずつ大量虐殺への道を進んでいくのだった…。
というような話です。
この小説、もっと良く出来るなぁ、というのが、読了後の素直な感想です。
書く力は凄くある作家だと思います。なかなか警察組織のことを書くのは、新人作家には厳しいんじゃないかと思うんだけど、なかなか現場の雰囲気が伝わる感じで書けているし、その他細部に渡る取材も行き届いていると思いました。ところどこそ、全体のバランスを考えると、そこは書き込み過ぎなんじゃないかなぁ、という部分もあったりするんだけど、まあその辺りのことはそこまでは気になりませんでした。物語の設定やストーリーの展開もなかなか巧く出来ていると思うし、著者の作家としての力量はそれなりに高いのだろうなぁ、と感じました。
個人的に気になった点をいくつか書いてみます。
まず、視点人物がちょっと多すぎる。たぶんこの著者、映像畑出身の人なんだろうと思うんだけど、非常に映像的なカット割りを多用するんですね。各シーンは長かったり短かったり色々なんだけど、そのシーン毎に視点人物がすぐ変わる。というか、一つのシーンの中でも視点が入り乱れているような場面もあったような気がするんだけど、これは非常に読みにくいなと感じました。
映像の場合、こういうシーン毎に視点人物がどんどん変わっていくっていうのは普通なんだけど、小説の場合そういうやり方はあんまり合わないと僕は思う。もちろん、そういうタイプの小説がないわけではないえど、小説技法的にかなりハードルが高いと思うんです。
僕だったら、主要な視点人物を三人に絞りますね。天羽眞理子と、刑事の誰かと、あと主犯の三人。で、その三人の視点だけではどうしても描けないシーンについては、どんどんバッサリ切っていく、という感じがいいと思うんです。本書は、全体的に分量もちょっと多いんで、そうやって全体を削っていくと結構ちょうどいいんじゃないかなと思ったりします。
たぶんそういう風に構成を変えたら、もう少し全体的にスマートな作品に仕上がってたんじゃないかなと思うんですね。ここは要らないなぁと感じる描写は結構あったし、何よりもまず、物語の主人公が誰なのかがちょっと分かりづらい。そりゃあ、主犯の男がメインはメインなんだろうけど、他にも色んな人物が山ほど出てきて、誰に注目して物語を追っていけばいいのかがちょっと掴みづらい気がします。視点人物を三人ぐらいに絞れば、そういう部分も解消される気がするんだけどなぁ。
あと、最後の最後の展開はもう少しどうにかならなかったかなぁ、とか思ったり。これだけの分量の作品なんだから、前半から中盤に掛けてを厚くするんじゃなくて、ラストの場面をもっと厚くしたらいいんじゃないかな、とか思ったりしました。あそこの場面は、もっと盛り上がる感じに書けるような気がしました。
なかなか力量のある作家だと思いますが、この作品自体はもっともっとブラッシュアップさせることが出来るだろうなぁ、とそんな感じがしました。

荒井曜「慈しむ男」




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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)