黒夜行

>>2011年03月

麒麟の翼(東野圭吾)

内容に入ろうと思います。
本書は、東野圭吾の最新作であり、加賀シリーズの最新作でもあります。「新参者」に引き続き、加賀は日本橋署の刑事です。
日本橋の中程には、翼の生えた麒麟を象った像がある。日本橋交番の巡査はある夜、ふらふらとそこへと近づいていく酔っぱらいを目にする。やがて麒麟のふもとで座り込んでしまった酔っぱらいに声を掛ける巡査。しかし、その胸にはナイフが突き刺さっていた。男は病院に搬送されるが、そのまま死亡が確認された。
すぐに捜査本部が立てられ、捜査が始まった。所轄署の刑事である加賀は、警視庁捜査一課の刑事であり、従兄弟でもある松宮と組むことになった。
捜査はその夜に大きく動いていた。車道に飛び出しトラックに轢かれた八島冬樹が、被害者である青柳武明の財布を所持していたのだ。八島は意識不明のまま病院に搬送され、意識が戻らないまま治療が続けられている状態だ。
青柳は日本橋周辺で何をしていたのか、青柳と八島はどこで会ったのか、青柳は何故麒麟の元まで歩いて行ったのか…。いくつもの些細に見える謎を、刑事の足で解決していく。徐々に状況は明らかになっていくのだが、しっくりとこないピースもある。
一体あの日、何が起こったのだろうか…。
というような話です。ネタバレを防ごうとすると、どうしてもこれぐらいのことしか書けません。
いやー、さすがの東野圭吾です。面白かったなぁ。さすがです。熟練、という感じです。
最近東野圭吾の作品を読むと、どんな感想よりもまず一番に、『巧いなぁ』という感想が浮かびます。作品にもよるけど、とにかく巧さが際立っていると思う。ここ最近だと、「新参者」と「麒麟の翼」は本当に巧いなと思ったけど、とにかく細部に渡って巧い。読ませる力、些細な気づき、話の持っていき方、ちょっとした会話、人間の描き方など、とにかくどこをとっても巧いと感じます。
それは僕にとっては、職人・東野圭吾、という感じがするんですね。職人の技って、パッと見派手さはないし、高度な技術が見えにくいけど、よく見るととんでもない技法が使われてたりするし、何よりも安定感がある。東野圭吾のこういう、『巧いなぁ』と感じる作品は、本当に、職人・東野圭吾、っていう感じがします。
でもその一方で、芸術家・東野圭吾、っていう作品もまた期待ちゃうんですね。僕は東野圭吾の芸術家的な側面も大好きだったりします。「名探偵の掟」のようなぶっ飛んだ感じとか、「分身」のような作品発表当時には恐ろしく斬新だった発想を駆使したり、あるいは「白夜行」のような超絶的な作品だったりと、職人的な巧さとは違った、チャレンジ精神とか逸脱とかに満ちあふれた、そういう芸術家的な側面をふんだんに発揮した作品も久々に読みたい、と思ってしまうんですね。
最近、芸術家・東野圭吾、的な作品ってないような気がするんですね。まあ、それは仕方ない感じもします。これだけとんでもないベストセラー作家になってしまうと、出版社の人としては、『無難に売れてくれる作品』を求めてしまうはずです。僕が編集者でも、僕はまあチキンな人間なんで、同じようにしてしまうと思います。そうなると、職人・東野圭吾、的な作品がやっぱりいいですよね。とにかく職人の方は、安定感が抜群ですから。
一方、芸術家の方は、結構バクチです。トリッキーなことをやったり、長大な作品だったりと、とにかくちょっと尖った感じのことを東野圭吾がやってしまうと、売れるかもしれない、でもコケるかもしれない。コケるかもしれないリスクを、もはや東野圭吾に対しては許容出来ないんだろうな、とこれは勝手な想像ですけど、そんな気がします。
僕はもったいないと思うんですね。このまま、職人・東野圭吾、的な作品ばっかり増えてしまえば、広い意味で赤川次郎とか西村京太郎的な立ち位置になってしまうと思うんです。もちろん赤川次郎とか西村京太郎が悪い言いたいわけじゃないけど、東野圭吾は、もっと幅広い作品が書ける作家だと思うし、もっとチャレンジ精神に満ちあふれた作品だった書けるんじゃないかと思うんです。だから、職人・東野圭吾、的な作品はもちろん書きつつ、たまには、芸術家・東野圭吾、的な作品も書いてくれたらいいんだけどなぁ、なんて思ったりします。
というわけで、長々と東野圭吾の職人&芸術家話をしてみましたけど、また内容に戻ります。
ネタバレになるからストーリーにはあんまり触れられないのが辛いところなんだけど、とにかく「新参者」の時も同じことを思ったはずなんだけど、よくもまあこんな地味な物語をここまで読ませるものだなぁ、と強く思います。
本当に本書で描かれるのは、実際に警視庁の刑事が捜査していてもおかしくないようなありふれた事件(なんていう表現はあんまり適切ではないんだろうけども)なんです。殺人事件だからもちろん新聞には載るだろうけど、別に大きな話題があれば一気にニュースからも忘れ去られてしまうんじゃないか、というような、そういう目新しさがあるわけではない事件です。ナイフが突き刺さったまま麒麟の像のところまで歩いた、というところがちょっと変わっているだけで、小説の題材にはちょっとなりそうにはない、センセーショナルな部分はまるでない事件なんですね。
これを、本当に見事に読ませます。これは本当に職人技だな、と思います。そこらの作家が同じ題材で作品を書いたら、まあつまらない作品に仕上がるだろうな、と思います。それぐらい、事件自体には小説を引っ張れるだけのモノはないんです。
じゃあどんな風にそれを読ませる作品にしているか、というと、簡単に説明するのは難しいよなぁ。加賀の存在はもちろん大きいのだけど、それは後で書くとして、そうだなぁ、なんというか『まなざし』かな、という気はします。
うまく説明できないんだけど、東野圭吾の(本当はここは『登場人物たちが』と書くべきなんだろうけど)物事や人に向ける『まなざし』がいいんだと思うんです。なんだろう、ありきたりの表現だけど、人間らしいというか。その状況にいたら、その登場人物はどう考え、どう感じるか、東野圭吾は本当に真剣に考えているんだろう、と想像できるんです。もちろん、作家は皆そうだろうけど、群を抜いているという気がします。市井の人々の感覚みたいなものを本当に自在に取り出せるかのようで、そういう『まなざし』がいいんだと思うんだよなぁ。ホント、うまく書けないけどもさ。
加賀は相変わらず凄いなと思います。推理もそうなんだけど、何よりも気遣いみたいなものが凄い。刑事として事件を解決するのは当然で、その上で、自分が人間として何が出来るのかを真剣に考えている。加賀という刑事はそういう人間なんだろうなぁ、という感じがします。
加賀の推理力は相変わらずハンパなくて、この事件も、ほぼ加賀が一人で解決したようなもの。異動すると、異動先の町を歩きまわって自分のものにするらしいけど、そうやって足で培ってきた知識や人間関係に、加賀の驚異的な観察力が加わって、加賀から逃れられる情報は何もないんじゃないか、という感じがします。
加賀の推理は、本当に現実的なんです。警察ミステリー小説であっても、現実にはそううまくいかんだろとか、さすがにそれは偶然すぎるだろ、みたいな捜査の展開とか手法とかあったりするけど、本書ではとにかく、加賀の推理とか行動とかは理に適っているという感じがします。普通の人からすればさらっと流してしまうような、あるいは、そもそも疑問にさえ思わないような、本当に些細な事柄を無視することなく、それについて真剣に考えることで、加賀の推理の道筋はひらいていきます。偶然に左右されることももちろんあるけど、それだって実際の警察の捜査でありそうなレベルだと思う。やっぱり加賀の存在は、この地味な物語を成立させる上でもの凄く重要だなと感じました。
ストーリーそのもの以外でも、うまいなぁ、と感じる部分が本当に多いです。さりげない描写が光る、という感じですね。一つだけ、こんな部分を抜き出してみようと思います。

『(被害者宅に向かう加賀と松宮は、被害者宅付近にマスコミがいるのを見つける)
二人が門に近づこうとすると、案の定、彼等の一人が駆け寄ってきた。眼鏡をかけた、小狡そうな男だった。
「こちらに御用の方ですか。どういったご用件で?」
松宮は片手で制し、もう片方の手で自分の胸元を叩いた。ここに警察のバッジが入っている、という意味だ。通じたらしく、男はひるんだような顔になって足を止めた。』

この場面、普通の作家だったら、警察手帳を出して見させるか、あるいは「警察だ」と言わせてしまうでしょうね。でも東野圭吾は、胸元を叩く、という描写をした。実際の刑事がこういうことをするのかどうか、それは僕は知らないけど、なんとなくありそうな感じはするし、雰囲気は凄く伝わってくる。こういう、別にストーリー自体とは大きく関係ないんだけど、さりげない場面の描写が光ってるなぁ、と感じる部分はたくさんあって、さすがだなぁ、と感じました。
まあそんなわけで、色々書きましたけども、とにかく面白かったし、何よりも『巧かった』です。職人・東野圭吾、の本領発揮という感じがしました。芸術家・東野圭吾、の作品も是非読みたいところですが、本書は本書で素晴らしい作品だと思います。一応シリーズはシリーズですが、別に本書から読んでもほとんど差支えはないと思います(まあ、加賀という一人の刑事の物語としてはシリーズを通じて色々あるんで、人によってはシリーズをちゃんと順番に読む方が楽しめるのかもですけど)。是非是非読んでみてください。

東野圭吾「麒麟の翼」



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幸せって、なんだっけ 「豊かさ」という幻想を超えて(辻信一)

内容に入ろうと思います。
本書は、まあ色々書いてあるんですけど、要約すると非常に簡単にまとめることが出来ます。
まず、物質的に「豊か」であることが「幸せ」である、という考えに疑問を持とう、そして、「豊かになるしかない」という思い込みそのものが、僕らを不幸せにしているのだ、ということに気付こう。
というようなことが、著者自身の言葉や、あるいは多くの学者たちの言葉を引用しながら書かれている作品です。
僕は、本書で著者が主張していることの多くには、本当に賛同できます。でも、作品としてはあんまり面白くなかったなぁ、というのが正直な感想です。どうしてなのかはうまく説明できないけど、色んな人の言葉を引用しすぎて、著者自身の言葉が少ないような気がしたのもそうかもしれないし、新書で出版されてて扱っている題材的にも一般の人向けに書かれているはずの本なのに、若干学術的というか難しめというか、そういう雰囲気を感じたからかもしれません。本書で主張されている内容は、僕は本当に強く賛同できるんで、ちょっともったいない、という感じがしてしまいました。
本書で繰り返し主張されていることは、さっきも書いたことだけど、物質的にあるいは経済的に豊かになることが幸せだというのは幻想ではないか、いやそれ以上に、物質的経済的に豊かになろうとすればするほど不幸になっていくのではないか、ということです。僕も、基本的にはそんな風に感じています。本書では、日本人は時間をお金に変えてしまったために、お金はたくさん持つことが出来るようになったけど、時間がない、というようなことも書かれてて、まあそうだよなぁ、という感じがしました。
僕自身の話をしましょう。
僕は、高校か大学の頃にはもうそう思ってたと思うんだけど、絶対金持ちにはなるまい、と決意しました。何故そう思ったのか。まず僕には、たくさんお金があったところで、やりたいことがまったくなかった、ということ。ブランド物の服とか高級車みたいな、お金をたくさん持ってないと買えないものには興味がなかったし、旅行三昧とか美味しいもの三昧みたいなことにもほとんど興味が持てなかった。今もそうだ。お金をたくさん使わないと実現できないコト・モノには、今もほとんど興味が持てない。
また、金持ちになること、そして何よりも金持ちであり続けることは、自分にとってめんどくさいだけだろうな、という感じがしたのだ。まず金持ちになるには、競馬とか株でとんでもないラッキーを引かない限り、そりゃあもうかなりの努力をしなくちゃいけないでしょう。そんな気力は僕にはない。さらに、仮に金持ちになれたとしても、税金がどうとか、セキュリティがどうとか、あるいは周りに寄ってくる人間は自分のお金目当てなんじゃないかというような疑心暗鬼、そういうものが絶対ついて回ると思ったし、それは自分のとってはとてつもなくめんどくさいなと感じられるんで、金持ちにはなるまいと思ったのでした。
たぶん、僕のこういう発想こそが、本書で描かれていることの骨子なんだろうと思います。物質的経済的に豊かになることは、決して幸せを約束しないし、むしろ不幸せを呼びこんでしまう。もちろんそうではない人もいるだろうけど、そういう人も多いんじゃないかなと思うわけです。
じゃあどうすればいいのか、という結論としては、本書ではスローライフがどうとかってことが書かれているんだけど、まあそれは個々人がそれぞれ見つければいいんだと思います。とにかく、物質的経済的豊かさは、本当に幸せになるための切符なんだろうか、という疑問を持つこと、それがまずスタートなんだと思います。もちろん人によっては、物質的経済的豊かさは絶対に自分に幸せをもたらす、と断言できる人もいるでしょう。別にそういう人の存在を否定するつもりはありません。ただ、テレビとか雑誌とかでみんなそう言ってるし、なんかそういう場からドロップアウトするのは怖いし、みたいな発想で、この窮屈な競争社会を生き抜いている人がいるならば、ちょっと考えてみてもいいんじゃないかな、という気はします。
残念ながら作品としては面白くないと僕は感じたんですが、書かれている内容は凄く共感できるし、賛同するかどうかは別として、日本に生きる一人ひとりが持つべき視点ではないかと思いました。

辻信一「幸せって、なんだっけ 「豊かさ」という幻想を超えて」




メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学(松永和紀)

内容に入ろうと思います。
本書はまさにタイトル通りの作品。メディアが健康情報や科学的な知識を、いかに間違った形で報道しているのか、ということについて、具体例を山ほど挙げながら啓蒙している作品です。
本書はとにかく具体例のオンパレードで、どんな具体例が載っているのかは後で箇条書きでバーっと書くとして、この本は、まさに今読むべき本だと思います。
今日本は、放射能汚染の話題が深刻です。僕はテレビも新聞もほとんど見ないんでよく知りませんが、ほうれん草から放射能がとか、水から放射能がみたいなニュースで、日本が色々わらわらなっているようです。
もちろん、そうやって報道されている事柄が、実際に危険かもしれません。僕は決して、今報道で危険視されていることがたくさんあるけど、それは別に危険じゃない、と言いたいわけではありません。僕が言いたいのは、現実に起きていることが危険かどうかは知らないけど、少なくともメディアが流す情報には間違いやあるいは誤解を招くような表現が山ほどある、ということです。本書は、「発掘!あるある大事典Ⅱ」の納豆ダイエットの捏造の後ぐらいに書かれているみたいで、結構前の作品ではありますが、今まさに読む価値のある作品ではないかと思いました。
僕は本書を読みながら、気になる箇所があると線を引き、線を引いたページをドッグイヤーしていったんですが、ドッグイヤーしていないページの方が圧倒的に少ない、という状況になりました。それぐらい、僕にとっては良いことが書かれている作品でした。
本書に、なぜそういう間違った報道がまかり通ってしまうのか、という点について、ある論文からの引用でこんな風に書かれています。

『だが、もともと「悪いニュース」が「いいニュース」になる傾きを持つジャーナリズムにおいて、「警鐘報道」は特有の「危うさ」を持っていると考えるべきなのだ。「警鐘を鳴らす」のだから、そこでは「悪いニュース」しか「ニュース」にならない。「悪いニュース」だけが報道に値する「いいニュース」となる。「悪いニュース」こそが「いいニュース」なのだから、「悪いニュース」を否定するような事象は「いいニュース」にはなり得ない。しかも「悪いニュース」が後に誤っていたことが分かっても、「警鐘をならしたのだから」と免罪される。そうした環境の中で、「悪いニュース」=「いいニュース」だけが増幅していく。「警鐘報道」はこうした陥穽が付きまとう。』

これは、普段テレビを見ている、テレビの情報にあまり踊らされない人なら、あーそうだなー、と実感できることではないか、という気がします。とにかくメディアは、「危ないよ」「怖いよ」「ヤバいよ」ということばかり取り上げる。それが本当に危険かどうかの判断は保留して、「◯◯さんが危険だって言ってたよ」という報道をする。あるいは、特殊なケースだけを大げさに取り上げて、「危険だよ」と叫ぶ。メディアというのはそういう行動原理で動いているわけで、メディアに接する僕らの意識を変えないといけないのですね。
また、記者にとっても、「危ない」という記事を書くほうが楽だ、という内容で、次のような文章もあります。

『「危ない」と書く方が楽なのも事実だ。あとで安全だと分かっても非難されることはあまりない。逆に安全だと書いて、あとで危険と分かったら、非難される可能性は極めて高い(この文章は、ある本からの引用)』

『多面的な性質を持つもの―それは原子力発電所でも食品でも何でもよいのですが、その中からたった一つの弱点を取り上げて、ことさらに大きく報じても、「危ない」報道として成立します。たった一人の異端の学者が「危ない」と主張し、おおかたの学者が反論していたとしても、反論を無視すれば大々的な「危ない」ニュースになります。』

『一方、「危なくない」を伝えるためには、さまざまな角度から微細に検討し、「大丈夫」「次も大丈夫」と証拠を積み上げていかなければなりません。そして、科学にはまだ不明の事柄も多い以上、どれほど詳しく検討して安全の証拠を積み上げていったとしても、それはリスクゼロを証明することにはなりません。ないものは証明できない、という科学の持つ根源的な壁が立ちふさがるために、「危なくない」という報道は難しいのです。』

これも実になるほど、という感じがしますね。「安全だ」と言えば、もし安全じゃなかった場合に非難轟々。でも、「危険だ」と言って後で安全だと分かっても批難はこない。「安全だ」という報道をするためには労力が半端無く必要。それなら、「危険だ」という報道をする方が遥かに楽だ、というわけです。
何もこの本にしても、メディアの科学的な報道がすべて間違っている、なんていうことを言っているわけではありません。ただ、メディアはこういう姿勢でしか科学的なことを報道できないのだから、メディアの情報に接する我々の方がきちんとした意識を持たなくてはいけない、という心構えの話をしているのだと思います。
あと、僕が本書を読んで最も大事だと思った話を先に書きましょう。これは、食品添加物や農薬などを安全に使える限度をどう決めているのか、という話です。
まず、複数種の動物を使って、『どんな影響も出ない量』、つまり『無毒性量』を実験で突き止めます。これは、『その物質を一生涯にわたって毎日摂取しても影響が出ない量』という意味です。
しかしこの『無毒性量』は、あくまでも動物実験による結果。人間と他の動物では、人間の方が鈍感なものも多々あるらしいんですが、人間の方が敏感に出来ていると安全側に評価して、『無毒性量』に十分の一を掛ける。さらに、大人やお年寄りや子供では影響が違うかもしれないことを考慮して、さらにそれに十分の一を掛ける。これを『一日摂取許容量』とするのです。
つまり、食品添加物や農薬の『一日摂取許容量』というのは、『その物質を一生涯にわたって毎日摂取しても影響が出ない量(ただし動物実験によって突き止められた値)』のさらに百分の一、というわけです。
食品添加物や農薬と放射能ではまた違うだろう、というような意見もあるかもですが、何にせよ国が定める基準は、これほど厳しい条件で安全側に設定されているわけなんで、基準の100倍とかそんな報道があっても、まあ全然問題ないと考えていいんじゃないか、と思います。
さてというわけで、本書でどんな具体例が取り上げられているのか、箇条書きで書いてみましょう。僕自身も、そうだったのかー、という話が結構あったんで、知らなかった情報もいっぱいあるのではないか、と思います。

TBSの「ぴーかんバディ」で紹介された白インゲン豆ダイエットを行った人たちが病院に搬送される出来事が頻発した。TBS側は、調理の仕方などで充分な情報が伝えきれなかったと謝罪したが、そもそも白インゲン豆にダイエット効果はなし。ダイエット効果があるとされたファセオラミンは熱を加えると活性が失われるし、ファセオラミンを活性を失わない状態で取り出したサプリメントがあるけど、その効果も根拠がないと判断されている。

中国産冷凍ホウレンソウの残留農薬問題。残留農薬が検出されたことは事実だけど、それは食べ続けても影響が出るわけではない極々微量。健康被害が出るとは到底考えられない数値だった。日本の残留農薬を規制する制度は、世界一厳しいと言われているらしいです。

かつて日本でも大量に使われたDDT。レイチェル・カーソンの指摘によって一転「悪い化学物質」とされてしまったけど、最近WHOが、使い方次第でリスクを最小限にしベネフィットを最大限にすることが出来るとする見解を発表。マラリアの予防効果が絶大だということが分かったそうです。このWHOの判断は各国で議論を呼ぶ、DDTを使う国からの輸入を認めるべきか、などいくつもの議論が出たようですが、日本ではマスコミがほとんど報じず。

玉ねぎが糖尿病にいい、という情報は誤り。確かにそういう論文は存在するが、ラットの実験を人間に適応すると、体重50キロの人が毎日玉ねぎを50キロ食べなければならない、という計算になり、非現実的。

糖尿病を防ぐにはシナモンもいい、という話もあるけど、これも元になる論文はあるけど、効果の出るだけの量を摂取するには、料理に50振りくらいしなくてはならない。しかもドイツでは、シナモンにはクマリンという大量に摂取すると肝障害を引き起こす物質が含まれているという指摘がされている。

紅茶には血管を拡張する作用がある、というのは正しいけど、ミルクティーにするとその効果がなくなってしまう。

緑黄色野菜に含まれるベータカロテンをは、がんや心臓疾患など様々な病気に罹る割合を低くすることで注目されているけど、喫煙者にベータカロテンをサプリメントで摂取させると肺がんのリスクが非常に高まるという結果が各国で発表され、現在では喫煙者にベータカロテンを摂取させないよう指導されている。

厚生省研究班が、食物繊維が大腸がんを防ぐという研究を調査。それを受けて新聞は、「食物繊維少ないと危険 大腸がんリスク2.3倍」という記事を書いた。しかし研究班の発表文を見て著者は驚く。そこには太字で、「食物繊維は大腸がんリスクとは関係なし」と書かれていた。
その研究では、食物繊維はいくら大量に摂取しても大腸がんリスクには変化はないけど、食物繊維の摂取が極端に低い女性に限り大腸がんリスクが上がる、という結果になった。それをメディアは、『食物繊維の摂取が極端に低い女性』のケースだけをことさらに大きく描き、先程のような見出しになった。

環境ホルモンの研究は巨額の研究費を掛けて行われたが、現在のところ、人に対して影響を与えるものはなく、哺乳類にもなく、化学物質に敏感に反応する魚で四物質の作用が確認されたのみ。諸外国では、環境ホルモンについては日本ほど騒いでいない。

環境ホルモンに関しては、『化学物質は通常の生殖毒性試験で作用が出ないとされた量をはるかに下回る量で影響が出た』という、いわゆる『低用量仮説』が話題になった。もしそれが本当であれば、毒性学がひっくり返る。これを確かめるために巨額の研究費が掛けられた模様。しかし結局低用量仮説は否定された。しかし日本のメディアはそれを伝えず、『化学物質はどれも、信じられないほどの微量で影響する』という誤解が広まったまま消えない。

『化学物質過敏症』は、一時期もの凄く話題になったけど、未だに科学的には認められていない。化学物質に影響を受けているかもしれないし、他の原因によってそうなっているかもしれない、という可能性もある。現在研究者の多くは、遺伝的な違いに注目している、という。ある特異な体質の人に関係があるだけで、すべての人に起こりうる現象ではないのではないか、という説が優勢。

三菱自動車のリコール問題が話題になっていた最中、新聞紙上では、三菱自動車製の車の炎上例が多数報道されました。しかし消防白書によると、自動車の車両火災は通常、年間8000件も起きている。車両火災は三菱自動車に限ったことではなく毎日起きている。しかしその時期、三菱自動車の車両炎上だけが取り上げられていた。

ベストセラーとなり、食品添加物バッシングのきっかけになった「食品の裏側」は、科学的に間違った記述が多い。サッカリンは以前発がん性が疑われていたものの、現在ではほぼ否定されているし、アスパルテームは、二万人に一人といわれるフェニルケトン尿症の患者にはリスクがあるのは確かだけど、それ以外の人にはまったく関係がない。

化学調味料を食べ過ぎると、頭痛や腕に震えなどの「中華料理症候群」(チャイニーズレストランシンドローム)が起こる、というのは、未だに一般向けの医学書なんかに記載されているけど、科学的には完全に否定されている。

研究者に訪ねてみると、ほとんどの人が、十分に安全性評価が行われている合成着色料の方が安全だ、と断言する。しかし、食品メーカーや流通業者がバッシングに踊らされるほど、安全性は下がり添加物メーカーは儲かる、という驚くべき現象が起きている。天然色素は高い上に安全性が保証されているわけではないからだ。

化学物質無添加石けんというのは、そもそも矛盾。石けんを構成する物質がそもそも化学物質なのだから。合成品か天然物かということは、その物質の毒性や環境影響を検討していいか悪いかを判断する際には、何の意味ももたない。実際最近では合成洗剤が改良され、従来あった欠点の多くが解決されたため、石けんよりも環境負荷が少ない、と考えられている。

有機野菜だから安全で美味しい、という保証はまったくない。農薬を使った食品の方が安全なものもある。

植物は外敵やストレスから身を守るために、『天然農薬』とでもいうべき、人体に有害な物質を出していることがある。適切に農薬を使えば天然農薬が出ることもなく、安全な食物に育つのに、農薬を使わないばっかりに、人体に有害な天然農薬を口にしている可能性はある。

メディアはスローフードを推し進め、昔の日本の食事は良かった、というが、実際は決してそうではない。農家の食卓に野菜がのぼらないなんていうのは普通だったし、同じものばかり食べている「ばっかり食」が普通だった。スローフードでは味噌がもてはやされているけど、著者の母はこう振り返る。
「昔の味噌は塩辛くて、今の味噌のようなうまみがなかった。手作りの醤油も塩辛いばかりでひどくまずく、市販の醤油が食べられるようになった時には、なんておいしいことかと思った。あんなものを食べる生活にはもう二度と戻りたくない」

昔の平均的な日本人の食生活は貧しく、それが短命につながっていたというのは栄養学者の一致するところ。なのにメディアは、昔の日本人が健康的な生活を送っていたような錯覚を撒き散らす。

マイナスイオンはニセ科学の代表のような存在。そもそも、『マイナスイオン』の定義が曖昧。

遺伝子組み換え食品を食べると、がんやアレルギーを引き起こす、という発表をした研究者の「トンデモ」ぶりに各国のメディアはすぐに気づき、初めから報道をしないかすぐに報道するのを止めてしまったのに対し、日本のメディアはそのお粗末ぶりを見抜けず、その博士の言葉をそのまま報道してしまった。もちろん遺伝子組み換え食品の人体への影響はまだ研究の途上だけど、少なくともその博士の研究は完全に否定されている。

どうでしょうか。僕は、三菱自動車の話は凄く面白いと思ったし、食物繊維と大腸がんの関係の報道については凄いなと思ってしまいました。メディアがどれだけお粗末な報道をしているのか、ということがよく分かるのではないかな、と思います。
僕は、さっきも書いたけど、テレビも新聞もほとんど見ません。なので、自分がそういった情報に踊らされやすいのかどうか、というのはちょっと分かりません。ただ、僕はツイッターをやってるんですけど、ツイッターでは、僕らは情報の受け手であると同時に発信者でもあります。ツイッターではよくデマが回ってきますが(地震後様々なデマが流れましたが)、そのすべてに正しい判断をして情報発信が出来たかというと、ちょっと自信はないですね。
今の世の中、誰でも情報の送り手になることが出来ます。だからこそ、テレビや新聞といった権威ある情報を信じたくなる気持ちも分かります。でも、テレビや新聞の情報こそが最も誤っているということも多くあるわけです。じゃあどうすりゃいいんだよ、ということですが、こればっかりは自身の情報へのリテラシー能力を高めるしかないのでしょう。本書の最後には、科学情報を見破る十か条が載っています。情報と正しく付き合っていくことは非常に難しいですが、それが大いに求められる時代に僕らは生きています。特に科学的な知識は、真偽を判断できるだけの知識が僕らの方にないことが多いので、騙されやすくなってしまいます。テレビや新聞や雑誌の情報だからと言って安易に信じてしまうのではなくて、疑いの目を持って情報と触れることに気を配りましょう。是非今読んで欲しい一冊です。

松永和紀「メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学」




羊の目(伊集院静)

内容に入ろうと思います。
本書は、連作短編集のような形式を取った長編作品です。連作短編のように、それぞれの章の内容を紹介することも出来ますが、後半どう話が展開していくのかを書かない方がいいだろうと思うので、物語の初めの方だけ書こうと思います。
まずは全体の構成から。本書の主人公は、神崎武美という侠客だ。そして物語は、最終章を除いてすべて、武美以外の人物視点で描かれていく。本書を読んですぐに僕は、東野圭吾の「白夜行」を連想した。本書では、最終章は武美視点による物語ではあるが、どちらも、主人公を様々な人物による視点で描き、主人公の内面描写をしない形で物語が進んでいきます。
物語は、一人の夜鷹が、赤子を育てながら客を取っている、そんな場面から始まります。夫を亡くし、一人で子を育てるしかなくなった女は、体を売ることでどうにか生き延びている。しかし、満足の行く子育ては出来ない。
女は客を取る一方で、これはという男を探してもいた。一人で子育てをすることに限界を感じていた。
浅草で女は、名をなしつつあった侠客である浜嶋辰三を見かけた。評判を聞くと、なかなかの男であることが分かった。女は、辰三の愛人である女に、自分の子を預けることに決めた。
神崎武美は、浜嶋辰三をただ一人の親とあがめ、生涯の忠誠を誓った。幼い頃から、辰三の危機に体を張ろうとする凄みがあった。
辰三は浅草を拠点とし、関東をどんどん束ねていった。成長した武美は、まさに辰三の右腕として、請われるままに人を殺す、闇社会を震撼とさせる暗殺者になっていった。
やがて武美は、追われ身を隠す立場になる。向かってくる人間を片っ端から殺し続ける武美は、隠遁先でキリスト教に出会う。
というような話です。
全然まったく内容紹介になっていませんが、武美が幼い頃からかなり年を重ねるまでの長い年月の描かれた大河長編で、なかなか凄い作品だったと思います。
なんとなく僕は本書を読むまで、僕には合わなそうな作品な気がしていました。僕はどうも、男臭い小説ってあんまり得意ではないんです。でもこの作品は、結構すんなりと読むことが出来ました。
あまりどういう展開になるのか書きたくないので、内容についてあんまり触れられないのが難しいところですけど、とにかく武美の一生は、壮絶、という言葉を100回重ねてもまだ足りないくらいの凄いものだと思いました。
武美の行動原理はたった一つです。それが、「辰三を親とあがめ、辰三の言うがままに行動する」というものです。ヤクザや侠客の世界では、そういう関係性みたいなものはそう珍しくはないんだろうとは思います。それでも、武美が辰三を慕う気持ちは強すぎる。もちろん、育ててもらったという恩があるのは間違いないのだろうけど、何かそれ以上の鬼気迫るものを感じます。それだけ武美にとって、辰三という人間に感じ入るものがあった、ということなのでしょう。
ただ、この思いの強さは、決して対称ではない。これが本書を読んでて感じる、一番のやりきれなさです。具体的には書かないのだけど、武美が辰三を思うようには、辰三は武美のことを思っていない。それが、物語の端々から伝わってくるわけです。もちろん、武美の耳にも、雑音程度にはそういう情報は入ってくる。しかし武美は、そうした雑音に一切耳を傾けることがない。自分をどれだけ犠牲にしても、辰三を守り、辰三の希望を叶えるための礎になる。その姿勢がブレることはありません。
この人間関係は、まさに『侠客』という特殊な世界でしか成立しえないのでしょう。ヤクザとも違う、侠客というかつての時代に栄えた誇りある人たち。家族以上の人間的繋がりをそこに見出してしまう、その濃さみたいなものが作品中からほとばしっていて、その強さに圧倒されつつ、一方で、こんな人間関係は現代の日本では成立しえるのだろうか、とも考えてしまうんですね。
そういう時代だった、という言い方で、武美と辰三の関係や、あるいは侠客という存在についてひとまとめにするのはよくないだろうけど、でも時代の空気みたいなものは大きく関係があるんじゃないか、という気がします。侠客というのが一般の生活の中で存在し得たのも、時代の空気によるところが大きいんだろう、という気がします。当時でも、ヤクザと侠客というのは、その存在として一線を引かれていたようですけど、だからと言ってじゃあ現代に侠客が存在できるかというと、たぶん難しいでしょうね。侠客の存在を許容していた市民の度量が広かったのだというつもりもないし、侠客という器の大きな存在に足る人物が今の日本にはいないなんていうつもりももちろんないんだけど、やっぱり時代の空気こそが、侠客という集団を、そして武美と辰三のような関係を成立させていたのだろう、という気がします。その時代の空気みたいなものが作品から立ち上ってくるようで、文章や描写の巧さが素晴らしいと感じました。本書は、武美という一人の稀代の暗殺者を描いていると同時に、侠客という存在が許されていた時代のその空気を綿密に描いているという風に感じました。
もう一つ僕が書いておきたいことは、武美の圧倒的な孤独についてです。本書では、武美の幼い頃からの長い年月を断片的に描いている作品です。それぞれの章でも、武美は圧倒的な孤独の中にいるわけですけど、本書では描かれていない部分での孤独も伝わってくる感じがしてきます。辰三を唯一の親と見定め、その生涯を辰三に捧げる決心をした時点で、武美の孤独は決定的だったということでしょう。自分を育ててくれた女性が本当の親ではないということも小さな頃から知っていた武美にとっては、孤独というのはありふれた、自身にとっては空気みたいなものだったのかもしれません。
武美は、敵を多く作りましたが、少ないながらもその生涯において、武美に絶対的な信頼を寄せる人間にも出会えてきました。それは、武美の人間性が元々清らかであるということが大いに関係するわけなんですけど、でも武美は、誰かに寄りかかろうとはしない。辰三にさえ、寄りかかりはしないのだ。武美が孤高を愛しているのかどうか、それは僕には分からない。そういうものなんだ、という諦めにも似た感覚でいるのではないかと僕は思う。そんな風にして生きていける人間がいるのか、僕には分からない。いや、孤独の中で生きている人はたくさんいるだろう。僕の疑問はそうではなくて、そういう圧倒的な孤独の中で、長く長く会うことが出来ないでいる辰三だけを心の拠り所として生きていくことは出来るのだろうか、ということだ。目の前に、自分に信頼を寄せてくれる人がいれば、寄りかかってしまいたいという誘惑を撥ね付けるのは難しいのではないか、と思う。
もちろん武美は、自分の存在が周囲の人にとって災厄をもたらすものでしかない、ということは充分に認識していた。だからこそ、誰にも寄りかからずに生きていたのだろうとも思う。でも、それでも、そんな生き方は本当に出来るのか、と思ってしまうのだ。
最終章を除いて、武美の内面は表には出てこない。常に誰かの視点で武美の外側ばかりが描かれていく。「白夜行」でもそうだったけど、それは圧倒的な孤独の中にいる人間を描くのに適していると感じる。強さと脆さが同時に内在しているような、そんな危うげな佇まいが、全編を通じて胸に迫ってくる。
静かなタッチで描かれる作品だけど、ここで描かれる感情は激情だと思う。感情の強さが、そこかしこに隠されている。武美の強さ、そして脆さは、武美の生きた年月分積み重なっている。ここで描かれる武美の姿は、ほんの断片でしかない。その断片でさえ、読む者の胸をうつ。
重厚感溢れる物語です。静かに進んでいく物語の中に、熱く強く溢れ出るものが潜んでいます。武美の圧倒的な孤独を思い、その深さにため息をつきたくなります。是非読んでみてください。

伊集院静「羊の目」




せきれい荘のタマル(越谷オサム)

内容に入ろうと思います。
大学入学と同時に静岡から上京し、せきれい荘という古臭いアパートに一人暮らしをすることになった石黒寿史は、とんでもない隣人を持ってしまった。
タマル、である。
タマルはせきれい荘の寿史の部屋の隣に住み、しかも寿史と同じ大学、しかもなんと同じサークルの先輩、という人物である。
このタマル、とんでもないのである。
実にいい奴なのだ。人のために動ける人間。でも、そのやり方に難有り。お節介にもほどがあるというレベルで人に絡んでいく。健康にいいと早朝に寿史をたたき起してランニングに連れだそうとするし、家主よりもくつろいで寿史の部屋で酒を飲み、さらに好きな女性がいるととことんまでド直球に突き進んでいく。結局寿史は、このタマルに振り回されることになる。
さて、寿史は映画研究部に所属しているのだけど、そこに入部したのは、同郷で予備校も同じだった法村珠美が所属しているから、という理由がほとんどだ。寿史は、いろんな隙を見て珠美にアプローチを掛けようとするのだけど、これがなかなかうまくいかない。
一方、この映画研究部にもまあいろんなことがあるのだ。部長と副部長の険悪な雰囲気や、主に恋愛方面での複雑な人間関係、はたまた盗難事件があったり、あるいはもっととんでもない事件があったりと、色々と騒がしい。
そんな中でタマルは、タマル道とでもいうべき道をひたすらに突き進んでいき、いろんな人間に迷惑を掛けつつも、いろんなところでファインプレーをしているというような、そんな話です。
なんというか、基本的に大学生の日常がメインで描かれている作品なんで、内容紹介がちょっとしにくいかもです。
越谷オサムは良い作品を書きますね、ホント。ザ・青春小説!という感じの小説を書くのが本当にうまいと思います。
とにかく本書は、タマルという人間のキャラクターがエンジン全開で、このキャラクターを実に見事に造形したことが作者の勝利だな、という感じがします。タマルって、とにかく人のことを親身に考えて全力で行動できる人間で(でも空気は読めない)、普通に描くだけじゃたぶん、いやいやそんな人間いねーよっ、って思われちゃうような、そんなキャラクターだと思うんですね。けど著者はこのタマルを、こんな奴が周りにいたらめんどくせーなー、と読者に思わせるぐらいのリアリティを与えて描き出しているんですね。これはお見事です。
何が凄いって、タマルが出てこないシーンでもタマルの存在感は強烈だ、っていうことなんですね。その場でタマルの話をしていたり、タマルっぽくなってるぞって指摘したり、とにかくそこにタマルがいるかどうかに関係なく、タマルっていうのは存在感に満ちあふれているんですね。
もちろん、その場にタマルがいる時の破壊力はなかなかのものです。初めのウチはそこまで強く感じないかもだけど、中盤以降、物語がどんどんと『危険』な感じの展開になってて、そこでのタマルの活躍と言ったら八面六臂って感じです。
もちろん、ちゃんとタマルの背景みたいなのも描かれる。つまり、どうしたタマルがタマル的になったのか、という背景だ。これは、話としては別に凄い要素があるわけじゃないんだけど、でもこの要素作中での出し方(演出の仕方)がなかなか巧いなと思いました。なるほど、そこでそう来ますか、と。
正直僕は、タマルみたいに生きられたらいいな、と思う部分はあります。正直、少しだけ羨ましい。普段言いたいのに口に出さないこともたくさんあるし、一方で、俺って自分のことしか考えてねーよなー、と感じることだってある。自分の生き方に、なんというか、自分で合格点をあげたり出来ないよなぁ、という感じなんですね。
タマルの生き方は、周りをすぐ巻き込むし、周りの人間を閉口させるだろうけども、それでも、言いたいことは素直に言う、可能な限り常に全力で向かっていく、相手の気持ちを思いやる、そういう生き方って素敵だなと思うんですね。とはいえ、まるっきりタマルそのものになりたいかって聞かれると、それは嫌だなぁ、と思うのだけど(笑)。
タマル以外の登場人物も、なかなかに魅力的な人が多い。もちろん、タマルほど突き抜けてる人間はいないけど、寿史の振り回されっぷりとか、珠美の機械オタクな感じとか、北先輩の包容力とか、鈴木の優しさとか、他にも部長も副部長もなかなか人間らしさに溢れていて素敵だと思います。どこにでもいそうな大学生なんだけど、部分部分で何かしらスパイシーな部分があるのがいいんだろうなという気がします。個人的には、北先輩が結構好きです。
ストーリーは、さっきも書いたけど基本的に大学の日常という感じ。でも、巧いこと話が転がっていくんです。読み始めはホント、なるほど大学生の青春物語ね、とか思いながら読んでたんで、中盤以降の展開はなかなかびっくりしました。なるほど、そんな風に進んでいくわけなんですね、と。それでも、その中盤以降の展開が突拍子もない感じではないし、前半で描かれるいくつかの場面が後半で伏線になってたりと、タマルのキャラクターだけに頼っているわけではない、物語の展開のさせ方としても巧いと思いました。
『愛すべきお人好し』であるタマルが台風のようにいろんなものをなぎ倒していくわけなんだけど、決してタマルのキャラクターだけが素晴らしい小説というわけではありません。まさに、ザ・青春小説!と言いたくなるような、爽やかで(ちょっと暑苦しいけど)スリリングな大学生の物語です。読む方も、タマルの破壊力に振り回されて、なんだか元気になっていく小説ではないかな、と思います。是非読んでみてください。

越谷オサム「せきれい荘のタマル」




金比羅(笙野頼子)

内容に入ろうと思います。
とはいえ…、ほとんど理解できなかったので、内容の紹介も何もないですが。
本書は、『金比羅の一代記』らしいです。金比羅っていうのは、神様とか霊とか、そういう感じの何者かです。赤ちゃんの中に入り込み、しばらく人間として生きた金比羅の一代記、だそうです。
もうとにかく、冒頭から文章が全然頭に入ってこなくて、もの凄く必死で読んだつもりなんだけど、全然理解できませんでした。とりあえずその状態で大体半分までは読んで、まあここまで頑張って読んだしなぁというわけでもう少し読んで、あと後半は相当とばし読み、最後の最後はほぼ諦めてしまった作品です。
何度でも書くけど、僕は本当に国語とか大嫌いだったし、読解力も全然ない人間なのだけど、こういう作品を読むと、自分の読解力のなさを痛切に思い知らされるなぁ、という感じがします。自分の中の理解できる上限を相当超えてしまっている作品で、良い作品なのか、面白い作品なのか、そういう評価はまったく出来ませんです。とにかく、なんの話なのかさえほとんど理解出来ないような、そんな感じでした。
というわけで、これ以上書けることがほとんどありません。良し悪しは僕には判断できませんが、amazonでは割と評価が良いみたいです。

笙野頼子「金比羅」




5(佐藤正午)

内容に入ろうと思います。
しかし、どんな風に内容の紹介をしたらいいのか、イマイチわからない作品だなぁ。
主人公は、津田伸一という小説家。なのだけど、冒頭しばらくは、中真智子と中志郎という夫婦の話が続く。二人は結婚8年目。もう長いこと、セックスをしていない。お互いもう、それですっかり諦めてしまっている。
二人は、真智子の姉が福引きで当てたバリ旅行に行くことにした。志郎としては、嫌々である。
しかし志郎はバリで、成田空港でも見かけた両手に薄手の手袋をした女性と落ち合う。ふとした偶然からその手に触れた志郎は、なんと妻への愛情を蘇らせたのだ。
ここで、話は小説家の津田伸一へと戻ってくる。津田伸一は、とにかくあちこちの女性(人妻も含む)と関係を持っているのだけど、その一人が中真智子だった。しかし津田伸一はある日突然中真智子から、もう会えない、と言われてしまう。夫がバリ旅行以来、大きく変わったから、と。
しばらくして津田伸一は、偶然にもサイン会にやってきた中志郎と出会う。そして志郎から、一人の女性と、記憶にまつわる、不可思議な話を聞かされることに…。
というような…、話なのかなぁ。いやホント、内容の紹介はしにくい、というか、僕がきちんと内容を把握出来ていないと言うか。
僕の読後の感想としては、長い物語を読んだという充足感に欠ける作品だなぁ、という感じです。本書は文庫本で600ページを超える作品なんですけど、僕には正直、こんな長い小説にする必要があったんだろうか、という感じがしてしまいました。
文章は巧いと思うんです。技巧的すぎるわけでもなく、かと言って平坦なわけでもなく、強弱のきちんとした文章だと思うんですけど、どうもストーリーがイマイチなぁ。
結局、なんの話だったんだか、イマイチよく分かりませんでした。こういうよく分からない感って、村上春樹の作品を読んだ時の置いてきぼり感に近い気がするんですけど、でも読後感は全然違うんだよなぁ。村上春樹の作品の場合、置いてきぼりにされるんだけど、その後ろ姿だけでもなんか素敵に見える、みたいなところがある気がするんだけど、本書は、置いてきぼりにされつつ、かつ後ろ姿に惹かれないっていう感じなんです。
なんだろう。この物語は、どこに焦点を当てて読んだらいいのかなぁ。津田伸一という小説のダメさ加減?石橋という不思議な能力を持つ女性?中真智子と中志郎の夫婦関係?津田伸一と関わりを持つ女性たち?なんというか、どういうまとまりがあるのか、イマイチ僕には掴めなかったのだよなぁ。個別のエピソードは面白いと思うんです。津田伸一の小説家としての変節みたいなものも、石橋という変な能力を持つ人間との関わりも、津田伸一の周りに集う女性たちの個性も、中真智子と中志郎の夫婦関係も、個別には面白い。でもそれらが、面白いまとまり方をしているかというと、そんなことはないと僕は感じました。連作短編みたいな形で、それぞれ個別の話を分離した方が面白いんじゃないかなぁ、という気さえしました(あくまで僕が勝手にそう思った、というだけですけど)。
佐藤正午は、昔「ジャンプ」という作品を読んだことがあって、これもどうやら世間的にある程度評価された作品みたいなんだけど、僕にはイマイチわからなかった。白石一文みたいな感じで、どうも僕には合わないんだよなぁ。今回久々に佐藤正午に挑戦してみたんだけど、やっぱり合わなかったなぁ。
この作品が、世間的に評価されているのかどうか、イマイチ知らないのだけど、僕にはちょっと面白さが分からない作品でした。一番の難点は、長いこと。長い物語を読んだだけの充足感を、どうにも感じられないと思うのです、僕は。もっと短く出来たんじゃないかなぁ、とか思ってしまいます。こういう作品が好き、という人もいるでしょうけど、ちょっと僕的にはあんまりオススメは出来ません。

佐藤正午「5」



12人の優しい「書店人」(山本明文)

内容に入ろうと思います。
本書は、大書店から中小書店、新刊書店から古書店店主まで、とにかく『本』を売ることを真剣に考え、奮闘し、そして何がしかの実績や結果を残した人たちについて、インタビューなんかを元に書かれている作品です。タイトルの通り、12人の書店人が紹介されるほか、本屋大賞や電子書籍に関するコラムなんかも載っている。
まずは、20坪の実に小さな書店ながら、地元の人を初め、業界的に大きな注目を集めている往来堂書店の笈入さん。大手書店を辞めて往来堂に移った経緯や、棚編集の妙について語っている。
次は、恭文堂書店の田中さん。往来堂と恭文堂は共にNET21という中傷の書店が集まったグループを形成しているのだけど、田中さんはその副社長。老舗書店の三代目店主として店を経営しつつ、出版流通や書店員の質などについて、自ら出来る限りのことを考え実行してきた。
次は、三省堂書店の内田さん。内田さんは「POP王」として業界では有名な人。現在も1日1枚POPを描きつづける毎日を送っている。POPを描くようになった経緯などを語っている。
次は、オリオン書房の白川さん。内田さんと白川さんは共に、本屋大賞の創設に関わった人で、現在も手弁当で本屋大賞の運営をしている。アルバイトで書店員としての経歴をスタートさせ、売り場をどう作るかをずっと考えてきた。
次は、評論家の茶木則雄さん、ときわ書房の宇田川拓也さん、三省堂の中澤さん、恵文社の大滝さん。前者二人は、千葉で「酒飲み書店員大賞」を、後者二人は京都で「京都水無月大賞」を運営している。共に、地域の書店員で集まって『発掘』を目的とした賞を創設し、それを全国展開まで広げていった実績がある。
次は、ふるほん文庫やさんの谷口さん。谷口さんは、まだブックオフもインターネットでの古書販売もない時代に、「絶版文庫」を集めまくって古本業界に風穴を空けた人物。新刊書店で古本を扱うようになったのも、谷口さんの動きがきっかけだった。ブックオフとインターネットに押され業績が悪化、現在は故郷の広島県で再起を図るべく準備をしている。またここで、ふるほん文庫やさんの古本を常設している、新刊書店である東京堂の佐野さんも紹介される。
次は、丸善の沢田さん。アルバイトで書店員としての経歴をスタートさせ、幾多の実績を挫折を抱えつつ、現在は丸善らしからぬ書店を作る、個性的な書店員です。
そして最後に、丸善の社長である小城さんへのインタビュー。『ハイブリッド』という言葉をキーワードにしつつ、これからの書店像を描いていく。
大体こんな感じの作品です。
僕は書店員なので、やっぱり面白かったですね。良いなと思った部分に線を引くとちょっと膨大な数になりそうな気がしたんで、本当に最小限にしてみたけど、そうだよなぁ、という点が本当に多かった。
僕が個人的に凄く共感した文章をいくつか抜き出してみます。

『いかに孤独な書店員が多かったか。これは僕も実感しました(三省堂・内田さん)』

『(なぜ本屋大賞の運営を、手弁当でずっと続けているのかと問われ)本が泣いている。棚が泣いている。泣き声が本当に聞こえてきますよ(三省堂・内田さん)』

『僕は、100万部の本が一本出るよりは、10万部の本が十本でてくれた方が遥かに嬉しいんです(ときわ書房・宇田川さん)』

色々書きたいことはあるんだけど、まず本書を読んで本当に驚いたのは、ネット上の某所で連載されていたとあるコラムは、あの書店員さんだったのか!という驚きでした(ぼかした書き方で申し訳ないですけど、一応明確に書かない方がいいと思うんで)。連載されていた当時、更新される度毎回読んでたけど、まさかあれがあの人だったのかぁ。ちょっとビックリしました。というわけで、この話はこれでお終い。
本書では繰り返し、著者自身の意見として、「パターン配本」「再販制」「委託販売」についての是非が問われます。それぞれがどんな仕組みなのかは、書店員ではない方は是非どこかで調べて欲しいんですけど、どれも、良い面と悪い面がある。一概に、これが悪い、と言えるものはなかなかない。でも、現場にいる書店員としての実感では、やはりパターン配本は今の現状にはなかなかそぐわない気がするし(とはいえ、じゃあ代替のアイデアがあるのか、と言われれば僕にはありませんが)、とはいえ再販制と委託販売がなくなっちゃったらきちんとした仕入れが出来る自信もなかったりします。新刊が多すぎる、という話も本書の中で時折出てきますが、とにかく個人的な意見としては、新刊をどんどん減らして欲しいなぁ、と思います。返品率が40%を超える、それは書店が精度のない発注をしているからだ、という意見は、ある面では正しいと思うし、僕だって自分の発注の精度が高いとは思っていません。でも一方で、新刊があまりにも売れなくなっているこの時代、パターン配本で自動的に入ってくる新刊は、その多くが返品されることになります。特に、僕は新書の担当もしていますが、新書の新刊の売れなさはちょっと異常で、それなのに創刊が相次ぎ、入ってきた新刊をちょっと売り場に置いてすぐ返品する、なんていうのが常態化している気がします。書店員がもっと精度の高い発注をすべき、というのは正しいと思うけど、一方で、出版社も新刊を減らす努力をして欲しい、と僕なんかは思ってしまいます。そうじゃないと、返品なんか絶対に減らないと思う。
本書に出てくる新刊書店の書店員は、そのほとんどが『既刊をいかに売るか』ということに着目していると感じます。いかに既刊を売るか、というその手法については人それぞれです。棚編集で、あるいはPOPで、あるいは賞を創設して。どんなやり方でもいいですけど、やっぱり僕も、これからの書店員というのは、既刊を売るための武器を持っているかどうかでその資質が測られているんじゃないか、と感じます。新刊は、パターン配本によって勝手に送られてくるので、送られてきたものを並べ、売れれば追加し、売れなければ返品する、という、ほぼルーティンの仕事として成立してしまいます。もちろん、『売れる新刊をいかに確保するか』という点で各書店員の力量に差が出ることになるわけですけど、それは大書店にいるか中小書店にいるか、あるいは都心の書店か地方の書店か、という差もかなり大きな影響を持つと思います。
一方で、既刊を売るのは本当になかなか難しい。新刊売ることばかりが常態化してしまった書店員が、いざ既刊を売ろうと思って売り場にただ置くだけじゃ、たぶん既刊を売ることは出来ないだろうと思うんです。もちろん、メチャクチャでかい書店が、ワゴンでどーんと展開すれば、ただ置いてるだけでも売れるかもだけど、そういうことが出来る書店は限られている。
先程も紹介したけど、100万部の本が1冊より、10万部の本が10冊というのは、本当にそう思う。今は本当に、売れてる本はさらに売れる、売れない本は全然売れない、という超二極化だ。何かのきっかけでドーンと売れれば、100万部ぐらいまで売れる本は結構あるんだけど、でも10万部ぐらいの、結構売れたね、っていう本は実は少なかったりするんじゃないか、と思う。新刊や話題作ばっかり売るというのは、みんなで同じ本ばっかり売ってるっていうことだ。たぶんこのやり方は、いずれ限界が来ると思う。もし万が一、『みんなが買ってる本だから買う』というお客さんばかりになってしまえば、書店がジリ貧になるのは当然だ(もちろん、『みんなが買ってる本だから買うというお客さん』の存在は大事だ。そういうお客さんを否定しているわけではない。でも、みんながみんなそうなってしまっては、出版・書店業界は恐らく保たないと思う)。
だから、100万部の本を生み出すのに手を貸すよりは、10万部の本を生み出す方に手を貸す方がずっといい。もちろん、100万部売れる本も大事だし、売れる本はガンガン売れて欲しい。本書には本屋大賞のコラムもあって、それは凄く良い内容だったと思うんだけど、本屋大賞も、『発掘』という趣旨はもちろんありつつ、とにかく『売れる』ことに主眼を置いているという点で、100万部の本を生み出すのに手を貸している賞だろうけど、でもそういう存在ももちろん大事だ。でも、書店員みんながそうなっては困るし、書店の仕事が全部そういう方向を向いてしまっては困る。僕は、もちろん売れる本はガンガン売りつつ、売れていない既刊を10万部売るのに手を貸す書店員でありたい、と思っているし、なるべくそういられるように、日々頑張って仕事をしているつもりです。
本屋大賞のコラムについてちょっと言及したけど、これは凄く良いと思う。確かに本屋大賞には色々批判もあるし、僕も同様の批判を感じたことがないと言えば嘘になるけど、でもこの文章を読むと、本屋大賞ってやっぱり必要だな、という気がする。もちろん、人によって感じ方は違うだろうけど、本屋大賞を創設した二人の言葉というのはなかなかに重みがあって、なんだか色々考えさせられる。
しかし本書で僕が一番面白かったのは、丸善の沢田さんの部分。丸善の沢田さんは、名前はあちこちから聞く有名な書店員ですけど、なるほどこういう人で、こんな来歴の人なのか、と凄く楽しく読んだ。お客さんからPOPを集めてフェアっていうのは、僕もずっと昔に考えて、一時真剣に考えたけど、まだ実行できてない。でも沢田さんはもうやってるんだよなぁ。これは今でもやりたいと思って、一応自分の中で保留中のアイデア。あと営業さんが来てくれた時、「ここには遊びに来てますから」と言ってもらえる、という話もあって、これは僕も実際に何人かの営業さんがそうで、嬉しいなと思う。とにかく現場の人で、本を売るのが楽しくって仕方ないんだな、ということが伝わてくる。
そんな沢田さんの項にも、著者の言葉として、こんな文章がある。

『書店員とはそもそも孤独なのだ。顧客で溢れ、出版社の担当営業がしょっちゅう顔を出すような都心の大型店でない限り、書店員はよほど意識してどこかにつながりを作らなければ、よりどころを失ってしまう。』

先ほど三省堂の内田さんの言葉でも紹介したけど、本当にそう思う。僕も、たまたまバイトで働き始めた店が他と若干関わりのある書店で、多少外との繋がりは持てていたんだけど、僕が担当になった頃は営業さんもほとんど来なかったし(一応都心に近い店ですけど、店の規模があんまり大きくないんで)、店には本の話が出来る人がほとんどいなかったりで、僕もずっと孤独だなと思ってました。時々既刊の仕掛けにうまく行っても、なんというか、話せる人がいないというか。
僕の場合、ツイッターを初めて、そっちで色々と繋がりを持つことが出来て本当にラッキーだったなと思うんだけど、僕は本当に幸運だっただけで、孤独な環境にいる書店員はたぶん相当いると思う。バイトや契約社員なのにとんでもない仕事量を抱えつつ、日々の作業に追われてやりたいことが出来ず、何かやっても誰も評価してくれないなんていう環境にいる書店員はきっと多いだろうと思う。そうして、書店業界から去っていく有能な人も多いんだろうと思う。どうしたらいいのかは分からないのだけど、書店員がもっと誇りを持って、自分たちは素敵な仕事をしているのだという自負を持てるような環境というのは作れないものなのかなぁ。
あと、ふるほん文庫やさんの谷口さんというのは、僕は全然知らなくて、こんな人がいたのか!と驚きました。業界の常識を次々と打ち破り、自分に出来る限りの努力とアイデアを注ぎこみ、何度となく押し寄せてくるピンチを切り抜け、逆にチャンスにしてしまうその強さは凄いなと感じました。「異能の人」と呼ばれたのも、凄く分かる気がします。
最後に。丸善の沢田さんの項を読んでて、ふとアイデアが思いついた。僕はこうしてブログで日々本の感想をダラダラ書いてるわけだから、これを店頭でも見れるようにしたらどうだろう、と。ディスプレイとか使えればいいけど、それは難しいだろうから、僕が良いと思った本の感想だけプリントアウトして売り場のどこかに置いといたらどうかな、と。これはちょっと早速検討してみようと思います。
というわけで、書店員が読んだらもちろん面白いと思うんですけど、本が好きな人書店が好きな人が読んでも面白く読めるんじゃないかな、と思います。書店はまだまだ頑張っています。書店員のみんな、頑張りましょう!

山本明文「12人の優しい「書店人」」




クリスマスのフロスト(R・D・ウィングフィールド)

内容に入ろうと思います。
本書は、下品きわまる名物警部・フロストを主人公とした、シリーズ第一作です。
ロンドンから70マイル離れた田舎町デントン。そこに、一人の名物警部がいる。ジャック・フロストだ。
フロスト警部は、地味な捜査と事務仕事が大の苦手で、書類仕事を嫌がって、せっかく立てた手柄を人に譲ってしまうほど。始終下品だったり無礼だったりする言葉を口から吐き出し続け、上司の命令は無視し、やりたい放題やっているのだけど、刑事としての勘はなかなかのもの。しかし、やはりデントン警察のお荷物であるフロストが警部としていられるのも、ひょんなことからもらったとある勲章のお陰だったりもする。それで、強烈な上昇志向を持つデントン警察の所長であるマレットは、フロストを追い出せないでいるのだ。
デントン警察に、警察長の甥であるクライヴ・バーナードが着任したその日から、デントン警察は大わらわだった。娼婦であるジョーン・アップヒルの娘・トレイシーが、日曜学校からの帰り姿を消したのだ。デントン警察は、ボランティアも募り、街中を探し回るが見つかる気配はない。
夜中銀行の玄関口を金槌でこじ開けようとする不審者が現れたり、謎の霊媒師の予言を聞きに行かなくちゃならなかったり、30年以上前のある事件が絡んできたりと、一人の少女の失踪事件は、フロスト警部があっちこっち引っ掻き回すお陰で色んなものを引っ張り込んでしまい…。
というような話です。
僕は、実はこの作品自分には合わないんじゃないか、と思ってて期待が低かったんで、案外面白かったな、という感じでした。
僕はそもそも外国人作家の作品があんまり得意じゃなくて、しかも、この作品はバイト先の外国人作家をかなり読むスタッフからもらったんだけど、その人が、僕には合わないかもなぁ、と言ってたんですね。それで、駄目かもなぁ、と思いながら読んでたんで、結構面白かったです。でも、期待が低かった分面白いと感じた、という部分はあると思うんで、ちょっとなんとも言えませんですけども。
読む前は、フロスト警部について、凄く駄目駄目な人間、という先入観があったんだけど、いやなかなか出来る良い奴じゃないですか!確かに、下品なことばっかり言ってるし、人の神経を逆なでするようなことばっかりやってるけど、それはとりあえずそれとして。当てずっぽうな部分はあるけど、かなり勘は鋭いし、ワーカホリックと言っていいくらいとにかく仕事ばっかりしてる(それで、一時相棒になったクライヴはうんざりさせられることになるんだけど)。時折する真面目な話は結構良いこと言ってるし、価値観がちょっと違うだけで思いやりもきちんとある。署長のマレットのような、自分の欠点になるような行動をしかねない問題児は最悪だ!というような価値観の持ち主ならともかくも、普通に接していく分にはかなりいい奴だなぁ、という気がしました。実際、署長以外の人間には好かれてるみたいですしね、フロスト警部は。
とはいえ、やっぱりフロスト警部の言動は酷い部分もありますね。署長の車にぶつけるとか、ちょっとお下劣なことを言うとかはまだいいけど、書類仕事を放置しすぎて部下の残業代がつかなくなるかもしれないという事態に陥ったり、捜査会議をすっぽかしたりするのはやっぱいかんよなぁ、という感じがします。まあそれでも、なかなか人間的魅力に溢れた人物で、下品なだけじゃないところがいいと思います。
他にもたくさんの登場人物が出てきますが、基本刑事たちの描写は結構素敵ですね。デントン警察という一つの警察署内の人間関係を凄くよく描けていると感じました。特に、署長のマレットはなかなかアクの強い人物で、しかもこういう人物はやっぱりある程度ステレオタイプなところがあって、日本人の類型的な上司像っていう感じもして、イギリスが舞台の小説ですけど、なんだか面白く感じられるんじゃないかな、という気がします。マレットとフロスト警部のやり取りも面白いですけど、新入りのクライヴとフロスト警部の掛け合いもなかなか面白いです。
ストーリーも、なかなかうまく転がっていくんですね。正直、一本の筋みたいなものはないんです。少女の失踪から始まって、ホント色んな出来事が起こるんだけど、それらが全部スーっと一本の線で繋がるわけじゃない。そこは個人的にちょっと残念なところだったんだけど、でも、いくつか別々の事件がうまいこと組み合わさって、そこにフロスト警部の直感的な捜査も加わったりして、なかなかうまいこと転がっていきます。ミステリとしては、そんなに上等っていう感じでもないような気がするんですけど、でもキャラクターの魅力と、巧みな展開で、なかなか読ませる作品に仕上がっているんだろうという感じがしました。
長いですけど、外国人作家の作品があんまり得意ではない僕でも、そう苦労することなく読めました。好き嫌いはあるかもだけど、なかなか面白く読める作品だと思います。読んでみてください。

R・D・ウィングフィールド「クリスマスのフロスト」




ワーキングプア 解決への道(NHKスペシャル『ワーキングプア』取材班・編)

内容に入ろうと思います。
本書は、「ワーキングプア 日本を蝕む病」の続編で、前作で日本の問題点を示した上で、本書では解決策を模索する、という内容になっています。
解決策を模索する上でNHKの取材班が行ったことは、諸外国の状況を取材することでした。本書では、韓国・アメリカ・イギリスの状況が書かれています。
韓国は、日本以上に非正規労働者の多い国で、労働者全体に対する非正規労働者の割合は、日本では30%であるのに対し、韓国ではなんと50%を超えているんだそうです。国としても危機感があり、実態調査や法改正などを進めているのだけども、現状では有効な解決策は打ち出せてはいないのが現状だ。
韓国が国家的な経済危機を3年足らずで奇跡の回復をしたそうなんですけど、それは実際は、正社員を解雇しどんどんと非正規労働者の雇用を進めていった結果だそうです。そのため、若者たちは仕事に就くことができず、そればかりか、正社員として働いている人たちでさえも、自分がこのまま安定した生活を送っていけるのかどうか、常に不安にさいなまれながら生きているのです。
実際韓国では、「三八線」と「四五線」という言葉があるようです。これは、38歳を超えると、いつ「早期退職」や「名誉退職」を勧告されてもおかしくない、そして45歳を超えると、少数の管理職候補以外は肩たたきに合う(事実上定年が45歳ということのようです)という意味の言葉だそうです。非正規労働者だけではなく、正社員でさえも安住していられないという現実があります。
本書では、韓国のある非正規労働者である若者を取り上げていますが、彼は兵役に行っている2年間の間に国の状況が大きく変わってしまった。彼は名門大学に入学したのだけど、兵役前には卒業後の就職率が80%ぐらいあったものが、兵役から帰ってみるとそれが20%程度になっていたんだそうです。結局就職先が見つからず、以後ずっと非正規労働者としてあちこちを転々としているようです。
不当に解雇されたといってデモをしている女性がふと漏らしたこんな言葉が印象的でした。
『法律っていうものは、何て言えばいいのか…、私たちからはとても遠いものなんですね』
次はアメリカ。アメリカはワーキングプアという言葉の発祥地でもあり、日本の二歩も三歩も先を行く国なのだけど、この国の現状は恐ろしい。何が恐ろしいかというと、ホワイトカラーの人たちもどんどんと仕事を奪われていっている状況なのだ。アメリカでは、『いまのアメリカでアウトソーシングされない職業は、大統領ぐらいなものだよ』と言われるぐらい、ありとあらゆる職業が賃金の安い海外への流出していって、どんな仕事をしている人でも、明日には仕事がなくなっているかもしれない、というとんでもない状況のようです。
必死でIT技術を身につけ、IT企業で年収一千万円以上をもらっていたある男性は、突如その拠点が外国へ移ると決まり、仕事を失った。今は、ボロボロのキャンピングカーに済み、赤字分は自分の給料から補填しなくてはいけないという契約になっているサンドイッチ販売店で雇われ店長として働いている。国による医療保険のないアメリカでは、きちんと仕事をしていないと病院にも行けない状況で、一旦仕事を失ってしまうと這い上がるのは難しい。
そんな中で、ノースカロライナ州の取り組みは非常に素晴らしい。ノースカロライナ州では、海外にアウトソーシングされない分野は何かと考え、高い技術力が必要なバイオ関連分野に目をつけた。主に非正規労働者たち向けに、非常に安くバイオ関連の技術をみにつけられる講座を開き、その一方でバイオ関連企業を積極的に誘致、両者の思惑が非常にうまく一致して、雇用を創出することに成功しているのだ。アメリカではこのように、地方の自治体レベル、あるいは本書ではちらっとしか触れられていないけど、教会によるサポートなんかが進められているようです。
イギリスの取り組みは素晴らしい。非正規労働者による問題が大きくなる前に対策をしようと、国をあげて物凄い規模で対策をとっている。
例えば相談員と呼ばれる人を、13歳から19歳までのすべての若者に対してあてがい(もちろん相談員は一人でたくさんの若者を担当することになるのだけど)、声を掛けたり仕事の紹介をしたりといったことをマンツーマンで行う。13歳から19歳までの若者のありとあらゆるデータベースをすべて共有し、どの機関からも同じデータベースにアクセス出来るようにしているため、若者を追跡しやすくなっている。
また、社会的弱者を雇用したり、職業訓練を行う社会的企業に積極的に補助金を出したり税制面で優遇したりして、社会的企業による貢献を促している。また、日本では職業訓練中賃金は発生しないけど、イギリスでは職業訓練期間は最低賃金のお金を支払うことになっているので、職業訓練を継続しやすい。
また一番素晴らしいと思ったのが、「チャイルドトラストファンド」と呼ばれるものだ。これは、2002年9月以降に生まれたすべての赤ちゃんに対し、250ポンド(取材当時のレートで約6万円)が振り込まれた口座をプレゼントする、というものだ。しかもこれの凄いのは、もらった子供が18歳になるまでお金を引き出すことが出来ない、ということ。なので金利などで、子供が18歳を超える頃には100万円を超えるお金を手に出来るんだそうです。これは素晴らしいと思った。
さて、翻って日本はどうか。本書では、釧路市での取り組みが紹介されている。とはいえ、釧路市がもの凄く特別なことをしているというわけではない。既に存在している「生活保護」というセイフティネットと、国の事業である「自立支援プログラム」を組み合わせ、そこに自治体の努力を組み込んでいるのだ。
現在多くの自治体で、生活保護の受給を受け付けの段階で阻む行為があるようなんですが、釧路市では受給資格を満たしていれば基本的に受け入れる。その上で、自立支援員という人を配置し、生活保護を受給している人の自立支援を手助けしている。
まずNGOなどでボランティアをしてもらい、人とのつながりや自分が誰かの役に立っているという感覚を持ってもらう。そしてその後、アルバイトでもいいから何か仕事を見つけてもらう。そして徐々に収入が増えるような状況にもっていって、最終的に生活保護をもらわなくても済むような生活に持っていく、というところまでをサポートするわけです。正直僕は、イギリスでの取り組みは日本では無理だろうなぁと感じたので(日本政府にイギリスと同じことが出来るとは思えない)、この釧路市の取り組みは素晴らしいと思いました。ただ釧路市にしても財政が厳しいし、地方では本当に仕事もないので、自立支援プログラムもなかなかうまく進まないというのが現状のようです。とはいえ、最終的に生活保護をもらわなくても済む生活レベルになれないとしても、人との繋がりや自分の存在を認めてもらえたりすることへの貢献度は高いと思うんで、釧路市の取り組みは素晴らしいと思いました。
最後に、日本で路上生活を続けるある男性のことを描き、「働きがい」と「人とのつながり」がいかに大事であるか、ということを主張しています。
前作の「日本を蝕む病」も素晴らしかったですけど、本書も素晴らしいと思います。これは本当に多くの人に読んで欲しいほんだなと思います。
副題が「解決への道」となっているけど、ズバッと分かりやすい解決策があるわけではありません。このワーキングプアの問題は、日本だけでなく世界中で大きな問題になっていて、各国がそれぞれの事情を考えて今必死で対策を考えているという状況です。
国別で見れば、イギリスの対策は他を圧倒するな、と感じました。あそこまで、国を挙げてワーキングプアの問題と戦っているところは、なかなかないんじゃないかな、と思います。イギリスとまったく同じことをやるのは難しいかもしれないけど、見習うべきところはあるんだろうと思います。
しかし本書は、今ワーキングプアではない人にも本当に読んで欲しい、と思いました。というのも、アメリカでの現実があるからです。アメリカでは、単純労働以外のホワイトカラーの仕事でさえも、どんどんとアウトソーシングされていってしまう時代です。それによって、中流程度の生活をしていた人でさえも、どんどんとワーキングプアに落ち込んでしまっています。これは、日本でも起こりうるのではないか、と感じました。ワーキングプアは自分たちの問題ではない、と感じている、企業で正社員として働く人たちは少なくないと想像しますけども、そう遠くない将来、この国がアメリカのようにならないとは誰にも言えないと思います。特に、本書を読む限り、ことワーキングプアの問題に関しては完全に先進国の中では対策に遅れを取っているといわざるおえない日本の現状を知ると、今きちんとした仕事をしている人でも安住は出来ないのかもしれない、と思います。未来を悲観しすぎることは意味のないことですけど、こういう可能性もある、という事実を知ることは必要だと思います。
また書きますが、今地震で大変です。もちろん目下の問題は、地震とその地震による影響から立ち直ることだと思います。ただ僕は思うのです。震災の前からワーキングプアだった人は、復興後の生活に希望を持つことは難しいのではないか、と。今この窮地を脱すれば、という希望を抱くことが出来ないとすれば、それは本当に哀しいことだと思います。
今どうにかしなくてはならない問題が地震であることは間違いありません。しかしその一方で、このワーキングプアの問題はこの地震によって一層顕在化するだろうと思います。停電や物流の混乱などによって、店の営業時間が変動するでしょうが、そうした中で影響を被るのも、そうした非正規労働者たちだろうと思います。本当に、日本だけではなく世界中を蝕んでいるこの病を、見過ごすわけにはいかなくなってくると思います。
ワーキングプアの問題は、本当に根深いものがあるので、個人で出来ることは多くないかもしれません。ただ、「仕事のやりがい」を個人で与えてあげるのは難しいかもですが、「人とのつながり」の方はなんとかなる可能性はあるかもしれません。そしてそもそも、このワーキングプアという問題をもっと知ってほしいなと思います。是非是非読んでみてください。

NHKスペシャル『ワーキングプア』取材班・編「ワーキングプア 解決への道」




盤上のアルファ(塩田武士)

内容に入ろうと思います。
本書は、将棋をモチーフにした小説です。でも、将棋をほとんど知らなくても楽しめると思います。
主要な登場人物は二人。神戸新報社に勤める秋葉隼介と、いかつい坊主の真田信繁である。
秋葉は長年事件記者として、プライベートなどほとんどない生活をしていたけども、事件記者であるという自負をずっと持って仕事をしてきた。性格がひねくれていて、周囲から嫌われる秋葉だったが、きっちりと結果を出してさえいればいいはずだ、と気にする素振りもなかった。
しかしある日上司から、文化部の囲碁将棋担当に配置換えを言い渡される。左遷だ。囲碁も将棋もまるで知らない秋葉にとっては、初めからイライラさせられるしストレス満載であった。まるで興味もないことに加えて、特殊な世界のしきたりみたいなものに慣れず、うんざりしていた。
一方真田は、黒いタンクトップに坊主という激しい外見で、流行らない喫茶店の厨房に立っている。かつて将棋連盟の奨励会でプロ棋士を目指してしのぎを削っていたけども、年齢制限により諦めざるおえなくなる。その後はずっと、アルバイトで33歳まで生きてきた。
幼い頃母親が出奔、父親は借金取りに連れ去られて天涯孤独となった真田は、苦しい人生を強いられてきた。将棋以外何も出来ない真田は、喫茶店のバイトを辞めさせられたのを機に、奨励会脱退後も特例でプロ棋士を目指せる険しい道を目指し始めた。
飲み屋で一度喧嘩しただけの二人が何故か同居するようになり、真田の奇行に振り回されながら秋葉は徐々に将棋の世界に引きずり込まれていくことになるのだが…。
というような話です。
新人のデビュー作ですけど、なかなか面白かったです。新人のデビュー作としては、なかなかの出来なんじゃないかなと思います。これからも良い作品を産み出していけそうな予感がします。
将棋をモチーフにした作品ですけど、この作品はまず何よりも登場人物たちが凄く活き活きとしていて素晴らしいです。基本的に、変わった人間しか出てきません。こういう表現はあんまり良くないかもだけど、ホントみんな、素敵な社会不適合者です。秋葉が最も常識人に見えなくもないけど、秋葉も相当変わってるし、秋葉が囲碁将棋担当になってから出会う面々は、ホントメチャクチャな人間ばっかりです。
その最たる人物が、やっぱり真田ですね。真田の描かれ方は、なんだか凄く人間味に溢れていて、無茶苦茶な人間だし、一緒にいたらたぶんイライラするだろうし、ちょっと困った人間ではあるんだけど、読んでる分にはなんか凄く親近感を覚えます。結局、真田との出会いが秋葉を変えることになりますしね。
で、秋葉と真田と何故か一緒に同居することになった、秋葉と真田が喧嘩した飲み屋のママである静っていうのがまたなかなか素晴らしいですね。いや、これは素晴らしい。こんな女性がいたらもう振り回されてもしょうがないか、っていう感じはします。言ってることもやってることもなんかおかしいんだけど、それがいいですね、ホントに。静にはちょっと惚れます。
秋葉が囲碁将棋担当になって組むことになった関もなかなか凄いです。序盤で存在感をアピールする以外、あんまり出てこないんですけど、序盤での存在感はなかなかのものです。それにしても、変人を書くのがうまい。変人好きの僕としてはなかなか素敵です。
林鋭生もよかったです。林は、真剣師として登場するんだけど、彼の物語はまた別で読んでみたいな、と思わせるだけの貫禄がありました。
っていうか、この作品はもっと厚く出来ると思うんですね。真田の過去は割と描かれるものの、林もそうだし静もそうだし、あるいは序盤でやりあった女流棋士二人もそうだけど、もっと個々の登場人物の過去とかの描写を入れ込んでいけば、もっと面白くなったような気はします。まあもちろん、新人賞への応募作だから枚数制限はあるだろうし、新人がそんなにたくさん書いてもまとまるものもまとまらなくなる可能性だってあるから仕方ないんだけど、作品として見た場合、もう少し分量を多くして、ここの登場人物の描写を増やしたら、もっと良い作品になりそうな気はしました。
一方で、将棋の小説として読むと、若干物足りなさはある気がします。これについてももちろん、将棋について詳しく書いちゃうと将棋を知らない人が敬遠しちゃうから、というのは理由として分かるんだけど、もう少し将棋の特殊な世界(ってなると、やっぱり奨励会の話になっちゃうんですけど)の話があってもよかったかなぁ。でもそうすると分量が多くなるし、なかなか難しいですね。
将棋をモチーフにした作品ではありますが、将棋の描写というよりは、登場人物達の魅力的な描写で読ませる作品、という感じがします。新人のデビュー作にしてはなかなかよく出来ていると思います。読んでみてください。

塩田武士「盤上のアルファ」




哀愁の町に霧が降るのだ(椎名誠)

内容に入ろうと思います。
本書は、椎名誠の自伝的小説です。というか、ほぼ自伝なんじゃないか?小説風自伝、と言ったところか。学生時代から現在(執筆当時)まで時間軸が入り乱れているのだけど、基本的には椎名誠ら一味(?)が青春時代のある一時を過ごしていた克美荘での物語、ということになる。
話は、椎名誠がなんとなく(だったと思う)書き下ろしの小説を書こう、と思うところから始まる。A出版社(本書の親本を出版したところ)の担当者が、椎名誠を和歌山のホテルに缶詰にして一気呵成に書かせようとするのだけど、うまく行くはずもない。
現実の椎名誠も、椎名誠が描く小説も、脱線に次ぐ脱線を繰り返しながら、次第に、椎名誠と克美荘に大きく関わる人物が出てくる。
中でも主要な人物は、現在イラストレーターとして活躍する沢野ひとしと、弁護士になった木村晋平の二人だ。椎名誠と沢野ひとしは高校の同級生、木村晋平は沢野ひとしの友人だった男で、それに何人か加えて、アホなことばっかりやっていた。喧嘩したりだとか、イタズラしたりだとか、酒を飲んだりだとか、特になんということもないダラダラとした日々を送っていたのだ。
その合間合間に、現在(執筆当時)の椎名誠が出てくる。大抵はA出版社の担当者と何やらやりあっているのだけど、別件の仕事であちこち旅に出かけたり、本を書くのに当事の記憶を呼び覚ますため沢野ひとしと木村晋平と酒を飲んだり、と言ったようなことをするのだ。
で、すったもんだあって、ようやく彼らは克美荘、へとたどり着く。
その、陽の差さないジメジメとした狭い空間で、彼らは酒を飲み、酒を飲み、酒を飲み、時々いたずらをしたり、時々盗みを働いたり、時々恋をしたりと、まあ大半は酒を飲んでいるわけなんだけど、そんなユルユルとした、なんとも風情漂う青春のひとコマを切り取った作品。
なんとなく思っていたのとは違ったんですけど、これはこれで面白い作品でした。
いや、僕がこの作品をどう捉えていたかというとですね、こういうことなんです。椎名誠って確か、「本の雑誌」っていう雑誌の創刊に関わっている人だと思うんですけど、その「本の雑誌」創刊に至るあーだこーだが描かれている話、なのかと思ってたんですね。そういう意味では、ちょっと残念ではありましたけど、これはこれでなかなか渋い良い作品だったと思います。
この作品を表現するのに、僕的にピッタリだと思う言葉は、『渋い』なんですね。なんだろう、うまく説明できないけど、なるほどこういう時代もあったんだなぁ、という感じがするんです。今の感覚からすると、椎名誠が克美荘で過ごした時代の緩やかさみたいなものは、ちょっと想像を絶する感じがします。その隔世の感が、僕に『渋さ』を感じさせるような気がします。一昔前の映像とか見ると、『古いなー』って思うこともあるけど、『渋いなー』って思うこともあると思います。そんな感覚だと思ってもらえれば。
時系列はあっちこっち行くし、話はどんどん脱線するし、なかなかメインの話は始まらないし、小説を書くはずの椎名誠がどっか外国に旅に行っちゃうしで、もう結構ひっちゃかめっちゃかな感じの作品なんですけど、なんとなくうまくまとまっている感もあるんですね。それが不思議。終わったんだか終わってないんだかよく分からない終わり方なんだけど、それがこの作品には妙に合っている気がしなくもない。なんとも不思議な作品なんです、ホントに。この、まとまっていないようでまとまっている風でもある、終っていないようでいて終わっている風でもある、という感じは、椎名誠という個性にしか生み出せないようなものかもしれないなぁ、と思ったりします。
メインの話である克美荘の話に行き着くまでの話もなかなか面白いんだけど、やっぱり克美荘の話は面白い。沢野ひとしがとにかく空腹だとヤバいとか、木村晋平は司法試験の勉強をしないといけないのに克美荘でのお父さん役をやらされたりとか、驚愕すべき適当すぎる金の管理とか、意味不明な珍客・イベント・イタズラの数々とか、もうとにかくアホみたいな話ばっかり。高野秀行の「ワセダ三畳青春記」に近いけど、作品の雰囲気は結構違う。「ワセダ~」はノリとテンションをマックスまで引き上げたような描写で突っ走るような感じがあるんだけど、本書の場合、抑制しているのについ零れ落ちてしまうというような奇妙なテンション(というか、その残滓というべきか。なんだろう)みたいなものがあって、読後感は結構違う。
克美荘で彼らと一緒に暮らしたいか、と聞かれれば、絶対に暮らしたくないけども、もの凄くおおらかな時代の中で、先の見通しのことなど何も考えず、その場限りの快楽だけに猪突猛進出来る彼らの生き方や仲間との関係性みたいなものは、ちょっと羨ましく思います。少なくとも現代では、これほどの『環境』は、生み出したいと願ってもなかなか生み出せないだろうな、と思います。
なんだろうなぁ。今の日本って、ちょっと余裕がないな、って気がするんです。今は、ちょっととんでもない地震とかあって、そりゃあ余裕も何もないけど、地震がなかったとしても、余裕ってないですよね、あんまり。
本書で描かれているようなアホみたいな生き方をする若者たちが出てくるっていうのは、社会に余裕があるからなんだろう、っていう気がするんです。そうじゃないと、こういう人たちは存在を許容されないですよね、きっと。今は国とか国民とかに余裕がちょっとない(地震であることを除いたとしても)ので、なんか窮屈だな、という気がします。自分自身が本書で描かれているような椎名誠らのような生き方をしたいとは思わないけど、でもそういうアホみたいな若者たちが許容されるような世の中であって欲しいなぁ、とは思ってしまいました。
あんまり作品の内容自体には触れてませんが、なかなか書きづらいんですよね、内容について。あっちこっち話は飛ぶし、克美荘での話、という以外特にこれというような話があるわけでもないんで、なかなか。ノスタルジックな面もあるんで、著者と同年代の人なんかは余計に面白く感じられるのかもです。僕は、こんな時代いいなぁ、という感じで読みました。自伝的小説なのか、小説風自伝なのか、どちらとも言えないような作品ですが、読んでみてください。

椎名誠「哀愁の町に霧が降るのだ」







ワーキングプア 日本を蝕む病(NHKスペシャル『ワーキングプア』取材班・編)

東北でとんでもない地震が起きて、大変な時ですが、僕個人は関東に住んでいて、特別な被害は受けていません(関東でも被害が甚大なところはあります。僕のいるところは大丈夫だった、ということです)。通常通りの生活を心がけようと思います。もし普段からブログを見てくださっている方で、僕のことを心配してくれる方がいたら、と思って一応冒頭で但し書き。
内容に入ろうと思います。
本書は、NHKスペシャルで特集された「ワーキングプア」についての放送を書籍化したものです。僕の読み違いかもですが、このNHKの放送で『ワーキングプア』という言葉を使ったことで(この言葉自体は、放送大学教授の宮本みち子さんが提唱されていたのをNHKが使ったとのこと)、国会でも『ワーキングプア』という言葉が使われるようになるくらい、言葉として広まったようです。
『ワーキングプア』とは、『働いても、生活保護水準以下の生活を強いられている人たち』のことです。一生懸命働いても報われず、どれだけ働いても豊かになれない、という層が確実に増えているんだそうです。
取材当時(たぶん2005年前後だと思う)、『貧困問題』というのは、ある意味で語りつくされてしまっているテーマで、貧困問題を取り上げることに決めた時、果たして新しい切り口で番組を作ることが出来るのか分からなかった、といいます。つまりその時点で、この『ワーキングプア』という層の実態については、一部の専門家や当事者を除いて、ほとんど知られていなかったのだろうと思います。
取材班は取材を進めていく内に、これまでの貧困問題とはまた違った、新たな貧困の現実に直面することになります。
取材班は、日本国憲法を一つの指針としました。

日本国憲法第二五条「生存権、国の社会的使命」
すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する

これに照らし合わせて、今の日本が、「日本人に生まれてよかった」と思えるような国の形を成しているのか。彼らは、それを徹底的に取材します。
本当に多くの人が出てきます。個々の人たちについて詳しく書いていると、本書の内容丸々ここで書くことにもなりかねないんで、それぞれざっとですが、こんな人達が取り上げられている、ということを書いてみます。
公立高校をトップの成績で卒業し、高待遇の大手電機メーカーに就職した女性。しかしその後、別の工場への配置換えの辞令を受け(当時働いていた工場が中国に移転するため)、母親の看病をしなくてはならないその女性は地元を離れるわけにはいかず仕事を退職。取材当時、まだ仕事は見つかっていなかった。
漫画喫茶に寝泊まりする男性。ハローワークに通っているが、住所がないと面接さえも受けられない状況が続いている。
秋田県。農業だけで暮らしていける人たちはほんの僅かで、現実は税金さえも払えない人たちが増えている。生活保護を受けようにも、『持ち家などの資産があってはいけない』『二等親以内の親族からの扶養が不可能である』という条件が、地縁も血縁も強い秋田という地では大きな足かせとなり、自殺する人が後を絶たない。
秋田県で洋服の仕立て屋をしている男性。洋服の一級技能士の免状を持っているが、今では値段の張る仕立てのスーツを作る人はほとんどいなく、「お直し」の細々とした注文だけでなんとか暮らしている。去年(取材当時から見て)の年収は20万円。それでも、毎日店を開けている。入院している奥さんの医療費も馬鹿にならない。
子供二人を育てる母親。母子家庭。二つの仕事を掛け持ちし、休みもなく、睡眠時間は毎日4~5時間。仕事を探すため、まず子供を預ける場所を見つけようと、市役所に相談に行くも、「働いていない人の子供は預かることが出来ない」と言われてしまう。
岐阜県は繊維産業で栄えた。しかし今はもう壊滅的だ。法律違反だが、低時給で働く中国人(研修生というような名目で受け入れている)が大量に流れこんできて、値下げ競争が止まらない。普通の競争が出来ず、廃業を余儀なくされている会社が多くある。
年金の受給資格のないお年寄り(あと数年払えばもらえる、という人もいる)は、死ぬまで働くしかない。アルミ缶を回収したり、あるいは市が請け負っている公園の清掃をしたりといったことで、毎日の生活の糧や親族の医療費などを確保している。
児童養護施設で生活する子供たち。最近では、親の暴力など、両親がいるのも関わらず児童養護施設で保護される子供が増えている。児童養護施設では、高校生までの生活を保証している。しかし、親の庇護もないまま、高校卒業してすぐ児童養護施設を出されても、自活の道を探れる人は多くない。貧困は、連鎖する。
こういった貧困の一部は、『自助努力が足りないせいだ』と言われることが多かった。フリーターやニートなどは、努力できるのに努力していないだけなのだ、と。取材班にも、当初そういう思い込みがあったようだ。
しかし、今の日本の現実は、もはやそうじゃない。仕事をしたくてしたくて、必死で仕事を探しているのに仕事が見つからない。あるいは、寝る間も休む間も惜しんで必死で働いているのに、生活が豊かにならない。そういう人たちが増えているのです。
その議論の中で、セーフティネットの充実、を声高に主張する人がいるようです。つまり、生活保護などの社会保障を充実させよう、ということです。
しかし、本書で描かれている現実を見ると、本当にそうなのだろうか、という気になる。例えば秋田県では、県民性もあって、多くの人が生活保護ではなく死を選ぶ。またお年寄りにはやはり、思い出の残った持ち家を手放したくない、という人が多くいるようで、それが生活保護受給の条件を満たせないという状況もある。
本書でも、冒頭でこんな風に書いている。
『「セーフティネット」が必要以上に強調されない社会、つまり、人間が人間らしく暮らせる、誇りを持って働ける社会、労働に対する正当な報酬を得ることができる社会、それこそが求められているのではないだろうか。』
確かにそうかもしれない、と感じた。セーフティネットの存在が大前提で、いいよいいよ、みんなこっちに落ちてくれば、なんて社会より、セーフティネットはあくまでも最終手段、それを使わずに済む環境を作るよ、っていう社会の方が断然良いはず。
しかしその一方で、『自助努力が足りない』とか言われてしまう。もちろん、自助努力が足りない人もたくさんいるだろう。後でうだうだ書くけど、僕もその内の一人だ。でも、自助努力をフルにやりきって、それでもどうにもならない人たちも山ほどいるんだ、という現実は消えない。そういう人たちが、最低限とはいわず、きちんとした生活を送ることが出来る社会。それが築けないようなら、日本という国には未来はないんじゃないか、と思ってしまう。
僕はフリーターだけども、色んな幸運によって、一人で生きていく分には、どうにか困らない程度以上の生活が出来ている。もちろん、今の環境がどれだけ続くかは分からないし、恐らく将来的には破綻するだろうことは目に見えているんだけど、まあ正直、それでもいいか、と思っている。
僕はたぶん、自助努力の足りない部類の人間ではないか、と思う。たぶんまだ、全力疾走で頑張れば、今の不安定な生活からどうにかこうにか抜け出すことは不可能ではないかもしれない、という環境ではないかと思う(まあ、年齢的にそろそろ難しいだろうけど)。
それでも、まあいいか、と思っている。僕は結婚する気がないし、子供なんてもっての他だし、両親や兄弟とも疎遠になるように努力してきた。だから、誰かのために人生を立てなおさなくちゃいけないってこともないし、僕の存在(あるいは非存在)が誰かにもの凄く迷惑掛けるということもないと思う(もちろん、誰にも迷惑を掛けずに生きていくことは不可能だ、ということは分かっています)。僕はある時から、そういう風でも生きていけるように、自分の人生の道筋を慎重に選んできた。僕は、止むなく今の立ち位置にいるわけではなくて、自分でそれを選択して今ここにいるのだ。
だから、本書で取り上げられている人たちと僕は全然同じじゃない。僕は適当に生きている結果だから自己責任だけど、本書で取り上げられている人たちは、自己責任はゼロではないだろうけど(ゼロの人もいるかもだけど)、それ以上に、社会の悪い部分を被ってしまっている人たちだ。そういう人たちの存在をまず認知し、そして理解してあげる。対策自体は、恐らくもの凄く時間が掛かるだろうし、何が有効であるのかを的確に判断するのも難しいんだろうと思います。だから、認知して理解してあげる。これが大事なんじゃないかな、という気がします。
この本はちょっと売ろうと思うんだけど、僕が考えたPOPのフレーズは次の二つ。

『働けるって、幸せだ』
『覚悟を持つか、諦めるかの、二者択一。日本。』

今売れている新書に、「デフレの正体」っていうのがあるんだけど、これを並べて置いたりすれば、結構客層的には合うんじゃないかな、と思ったりします。
今地震で凄く大変な状況だけど、でもそんな中で、「日本って凄いじゃん」とか「もっと日本を良くしよう」みたいな雰囲気が立ち上がっているのも確かだと思います。震災も目下の現実ですが、本書で描かれていることもまた現実。今僕らが感じている、そういう「日本をみんなで良くしよう」というような感覚を、是非震災復興後の『日常』にまで引き継いでいってくれたらいいなぁ、と思います。というわけで、是非読んでみてください。この本は、頑張って売るつもりです。

NHKスペシャル『ワーキングプア』取材班・編「ワーキングプア 日本を蝕む病」 




「余剰次元」と逆二乗則の破れ(村田次郎)

内容に入ろうと思います。
本書は、タイトル通りではあるけれども、『余剰次元』と『逆二乗則の破れ』を扱った作品です。基本的な主張は、
『僕らが生きているこの世界は3次元ではなく実は5次元以上(つまり2次元以上の余剰な次元が存在する)である。その余剰次元の大きさは1ミリメートル程度である可能性があり、それ以下の距離では、重力の逆二乗則は破れ別の式に従う可能性がある』
というものである。
まあ難しい話ですね。
ざっと本書の流れを書いていこうと思います。
まず、宇宙の形はどうなっているのか、という話。地球儀というものがあって、あれで僕らは地球の形が『球』であることを知ることが出来るけど、じゃあ宇宙儀なんてのをつくるとしたらどういう形になるのか。観測の範囲内ではどうも三次元であるようではあるが、しかし人間が観測できる宇宙の範囲は狭い。その先ではどうなっているかわからない、というような話。
さてそこから重力の話になります。現在ではアインシュタインの一般性相対性理論が重力の理論なのだけど、これは特殊な状況を除けばすべてニュートンの万有引力の法則と一致する。本書で考える状況は万有引力の法則の適応範囲内なので、すべて万有引力の法則で考える。
万有引力の法則の法則もケプラーの法則も、逆二乗則の法則と呼ばれる、『距離の二乗に反比例する』という法則だ。これを詳しく説明し、かつ、万有引力の法則に出てくる万有引力定数を測定したキャベンディッシュの実験などに触れている。
そして次に、同じく逆二乗則に従うクーロンの法則に注目。有名なラザフォードの散乱実験やクオークの発見などの実験から、クーロンの法則が非常に小さなスケールでも成立することが確認された過程を紹介し(実は、重力というのはあまりにも小さいため、現時点でさえも1ミリメートル前後での小さなスケールでしか万有引力の法則が成立することが示せていないのだ)、また逆二乗則が球の表面積による計算から出てくることを示し、そこから、各次元におけるクーロンの法則を導いている。つまり、クーロンの法則を、次元において一般化した、ということだ。
そして次は、クーロンの法則に限らない力の法則全般を、次元だけではない様々な条件を加味した一般化をすることになる。不確定性原理から導かれる仮想粒子の交換というアイデアによる湯川型の補正、量子力学的効果を加味した真空偏極による補正などを考慮して、力の法則の一般的な形を導き出している。
さてそして次の章が、本書のメインである。すなわち、余剰次元というアイデア、そしてその余剰次元が1ミリメートル程度という非常に大きな可能性がある、というアイデアについてだ。
これはADD模型と呼ばれる斬新な論文が一つのきっかけになった。これは『重力の階層性問題(電気力・強い力・弱い力という三つの力に比べて、重力だけが異常に小さい、という物理学場の難問)』を解決するために考えられた模型だ。
これは、空間が3次元ではなく余剰次元を持ち、その余剰次元が従来考えられていたよりも十分な大きさを持ち、かつ重力だけがその余剰次元の方向に伝播できるという三つの仮定のみで、最難問の階層性問題が解決できることを示したのだ。
この章では、ADD模型からどんな帰結(あるいは可能性)が導かれるのかをいくつか提示する。そしてそれは、数人で小規模な実験室で行うような実験でも検出可能な予測を提示するのだ。そして実際、余剰次元を検出しようといういくつかの実験を紹介し、現時点ではまだ余剰次元は見つかってはいないという現状を確認している。ここで、著者らのグループがどんな試みをしてきたのか、という点にも触れられる。
最後に、この余剰次元の問題が他の分野にどんな影響を与えるのか、という周辺の問題に触れて本書は終わります。
全体的にはなかなか骨太で、ちょっと難しいですね。『文系の人でも易しく読めるように』書かれている作品ではなく、『ある程度物理の知識を持っている、という前提で』書かれている本なので、重力の理論とか量子論なんかについてある程度知識(というかイメージ)がないとちょっと厳しいかもしれません。僕も、ちょっとよくわからなくて読み飛ばしてしまった箇所がちょっとあります。
余剰次元、というアイデアは、リサ・ランドールの「ワープする宇宙」という作品で触れたことがあります。本書と「ワープ~」を比較すると、やはり「ワープ~」の方が作品としての質が高い、という印象がありました。「ワープ~」では、初めの方でかなり、現代物理学の成果について説明をし(しかも、かなり頑張って読めば文系の人でもついていけるかもしれない、という感じでした)、そしてその後余剰次元についての自身のアイデアを書いています。本書も大体同じ構成と言えばそうなんですが、本書では余剰次元に関する部分についてだけ、重力や量子論の話を抜き出している、という印象なのに対して、「ワープ~」の方は余剰次元に関係するかどうかに関わらず、現代物理学の総括みたいな形で前半が進んでいく感じです。
どちらがいいか、というのは、好みの問題だと思います。僕としては「ワープ~」の方を勧めるけど、結構厚いし単行本出し値段もそれなりにするわけです。でも、余剰次元だけじゃなくて現代物理学全体についてかなり詳しく知ることが出来ます。一方で、本書は余剰次元に関する部分のみピックアップして、重力の理論や量子論なんかを描写しています。余剰次元というアイデア自体への理解や、そのアイデアがどうして生まれたのかと言った背景なんかを知るには、本書で十分だ、という感じがします。また、リサ・ランドールと本書の著者である村田次郎では、理論家と実験家という違いもあります。村田次郎は実験家なんで、実験家らしくデータやグラフと言ったものが多用されます。僕はどちらかというと理論的な話の方が好きなんで「ワープ~」の方が好きですが、実験が好きという人には本書の方が向くかもしれません。
とはいえ、本書もなかなか面白い作品でした。特に僕が面白いと感じたのは、力の法則の一般形を導く、という話。仮想粒子が不確定性原理から導かれる、というのは他の本でも読んだことがあった気がするんだけど、その説明も分かりやすかったし、湯川秀樹がどうしてノーベル賞をとったのかというのも漠然とだけど分かりました。また、電気力・強い力・弱い力・重力の四つの力をグラフにして、どの距離でどういう形のグラフになるのか、というのを一遍に視覚化出来るようにしてくれたのも面白いと思いました。
ADD模型に関する話は、「ワープ~」で読んでたので、理論的な話はなんとなくは知ってたんですけど、それが実験室での小規模な実験でも検出可能かもしれない、という話は面白いと思いました。そりゃあ実験家は燃えるでしょうね。今素粒子に関する実験は、LHCみたいな加速器での実験が主流になってしまっているけど、余剰次元というなかなか斬新なアイデアを、実験室での実験によって検出できるかもしれない、となれば、そりゃあみんな頑張るでしょう。本書を読む限り、著者の研究グループは近いうちに世界最高の精度での実験に成功する見込みがあるようで、非常に楽しみです。
しかし、「ワープ~」の時もそうでしたけど、相変わらず『余剰次元』をイメージするのは難しいですね。『余剰次元が1ミリメートル程度の大きさを持つかもしれない』というのが凄いことだというのはなんとなく分かったんだけど、でも具体的にイメージしようとしてみると、やっぱり難しいです。もちろん人間には、4次元以上のものを具体的にイメージすることは不可能だから当然ではあるんだけど、それでももう少し漠然とでもいいからイメージを掴めればいいなぁ、と思うんだけど。僕らの住んでいる3次元空間は、より高次元であるブレーンという膜のようなものに閉じ込められているかもしれない、という説明は、相変わらず具体的なイメージが出来なくて、難しいなぁ、と思ってしまいます。
でも、もし本当にこの余剰次元のアイデアで、重力の階層性問題が解決できるとすれば、四つの力の統一という大目標も不可能ではなくなるかもしれないわけで、誰か頑張って余剰次元を見つけて欲しいものだ、と思います。僕が生きている内に頑張ってください、ホントに(笑)。
現代物理学というのは本当に難しくなってしまって、一般性相対性理論や量子論をほんのさわりだけなんとなく理解できる、ぐらいでしかない僕ですが、こういう本を色々読んで、なんとなく分かった気になりたいと常に思っています。余剰次元という仮説は、あまりお金がなくてもアイデアさえあれば世界中の研究者を出し抜ける可能性のある、魅力的な実験テーマだろうなぁ、と思います。世界中の物理学者が盲点を衝かれて驚愕した、ADD模型というアイデアを是非堪能してみてください。

村田次郎「「余剰次元」と逆二乗則の破れ」




13時間前の未来(リチャード・ドイッチ)

内容に入ろうと思います。
本書は、いわゆるタイムトラベル物の小説なのだけど、少なくとも僕はこれまで読んだことのない設定で斬新でした。物語が12章から始まり、11章、10章…、と遡っていく、という構成からしても、一風変わっているというのが分かると思います。
ニック・クインは、大規模な航空機事故が起こったまさにその日、取調室で刑事に尋問されていた。その少し前、ニックは妻・ジュリアの死体をこの目で見た。そして刑事は、ニックこそ妻殺しの犯人だと判断し、執拗な尋問をしているのだ。
ニックは妻を深く愛していた。今朝方つまらないことで喧嘩してしまったけども、だからと言ってジュリアを殺すはずがない。しかし刑事は、ニックの車のトランクから見つかった銃から指紋が検出されたという。ニックが見たこともない、恐ろしく派手な装飾のついた銃だ。
ジュリアを失った失意から、何も物を考えられなくなっているニック。しかしそんな折、取調室にいるニックの元へ、一人の初老の男がやってきて、ニックに時計を手渡す。
「きみには12時間ある」
そしてニックは、取調室にいた時刻から2時間前にタイムスリップしていた。初老の男から渡された手紙を読んで、信じがたいがニックはとにかく状況を理解した。
ニックは、ある1時間を過ごす度に、そこから2時間時間を戻ることになる。つまり、取調室に12時から13時までいた場合、13時になった時点でニックは11時に戻る。それからニックはまた12時までの時間を過ごし、そして今度は10時に戻る、という具合である。
1時間ずつ前の時間に遡りながら、ニックはジュリアを救い出す手立てを何とか見つけ出そうとするのだが…。
というような話です。
これはなかなか見事な作品だったな、と思います。タイムトラベル物って色んな種類が出てるけど、1時間ごと戻る、っていう設定はなかなかないんじゃないかと思います(少なくとも僕は思いつきません)。そういう設定の先行作品がもしかしたらあるかもしれないけど、でも本書は、その設定を実に見事に活かしています。1時間ごとに遡る、という設定と、物語のあらゆる展開や要素が見事に結びついていて、全体として非常に見事な構成になっていると思いました。
1時間ずつ時間を遡ることで、少しずつ状況が明らかになっていく、というスリリングさを失って欲しくないので、上記で書いた内容紹介以上の事柄についてちょっとこれ以上触れないようにするつもりなので、内容についてはほぼ触れられないのが残念です。『なぜジュリアが殺されなくてはならなかったのか』や『あらゆる手立てを講じても結局ジュリアの死を食い止めることが出来ないのか?』とか『そもそもニックがタイムトラベルをすることになった理由はなんなのか』など、本当にうまく出来ています。物語の構成力・展開のさせ方が本当に見事だと思います。
特に素晴らしいのは、ジュリアがなぜ殺されることになったのか、という背景です。その背景の構築の仕方が本当に素晴らしくて、それがこの物語の1時間ごとの展開を読めなくさせているし、ミステリ的な展開としても面白くなっているし、ニックのあらゆる努力を無効にしてしまうわけで、秀逸だなと思いました。いや、ホントに良く出来てる。
誰が出てくるのか、ということも書くと内容に触れざるを得ないんで登場人物についてもニックとジュリア以外には触れませんが、登場人物たちも見事に描かれていて素晴らしいです。ニックの、ジュリアのためなら何でも出来る、という感覚はなんとなくアメリカ的な感じがしちゃって、ちょっと読んでて照れくさい気もするけど、でも考えてみれば、自分が妻の死を食い止められるかもしれない、となればそりゃ必死になるよな、とも思います。だから、よくハリウッド映画とかであるような、外国の夫婦ってなんかすげー愛合ってるんだなぁ、みたいな感覚も、本書の場合は若干薄めて捉えられる感じもあって僕は好きです。
というわけで、内容にほとんど触れられないので、本書の魅力を十分伝えきれているかどうか不安ですが、ネタバレしてもしょうがないんで諦めます。
一点だけ、僕がどうしても気になった点があって、それを書いてみます。それは、タイムトラベルの瞬間、所持品はどこまで携行されるのか、という問題です。
ニックはもちろん服を来てるし、タイムトラベルに必要な時計も持ってるから、基本的な判断としては、『タイムトラベル時に携行していたものは1時間遡っても持っていられる』はずなんです。初めは、『一番初めの、取調室にいる時に携行していたものだけ、どの時間でも携行可能』なのかと思ってたんですけど、ある章の最後で手にしたあるものを、次の時間に持って行けているので、その仮説は捨てました。
でもその一方で、ちょっとだけネタバレをしてしまうけど、タイムトラベルのタイミングで手錠を掛けられているという場面があって、でもその次また1時間戻った時は手錠がなくなっている、という場面がありました。他にも似たような齟齬があったかもだけど、僕が特に気になったのはこのシーンです。手錠だって、『携行しているもの』なんだから、1時間戻っても手錠をされたままじゃないとおかしいんじゃないかなぁ、と思ったんだけど、もしかしたら何か僕が読み違えているかもしれません。ちょっとその辺りの設定が曖昧なまま進んでいる気がしました。そこがもう少ししっかりしてるとよかったかな。
あと設定でもう一つ気になることがあるんだけど、これは非常に説明しづらい。
例えば本書で時間を遡るのを、12←11←10←…←1と書きましょう。初めは12にいて、どんどん1時間ごと遡っていくわけです。
僕が気になるのか、最後1から12に戻る時、『どの時間軸にニックは戻るのか』ということなんです。
本書では、基本的に説明はありませんが、恐らく大前提として、1で成立した状況がすべて反映された12(これを12←1と書きましょう)に戻る、ということになっています。つまり、12←11とか、12←10というようなのは存在しなくて、ニックは12←1に戻れる、というわけです。
個人的には、このタイプの小説でそこまで深く設定をする必要はない、と思います。時間論がどうたら、という話を組み込むことで、ノンストップのストーリーの流れをぶった切る必要はない、と思うからです。でも、作品とは関係なしに、もしこういうタイムトラベルが可能だとしたら、必ずしも12←1に戻れるとは限らないよなぁ、と思うんです。
それに、もし12←1へ戻れるんだとしても、パラレルワールドとして12←11や12←10も存在するんだと思うんです。たまたまニック視点では12←1だったからいいものの、12←11や12←10みたいなパラレルワールドはじゃあどうなるんだ、っていうところが気になりますね。でも、さっきの『携行品問題』は作品自体に若干ケチをつけていますが、こっちの『時間軸問題』については、作品自体にケチをつけているつもりはないので、悪しからず、という感じです。
というわけで、精緻に編みこまれた物語なので内容について触れることは難しく、作品の魅力をを伝えきれたか地震はありませんが、なかなか異色の設定のタイムトラベルミステリーだと思います。外国人作家の作品が基本的に得意ではない僕でも、もの凄く楽しく読めました。登場人物もそこまで多くないので、読みにくさはないと思うし、1時間ごと時間を遡るという設定が素晴らしく絶妙に織り込まれているし、スピーディでワクワクさせる物語です。映画化も決まっているようで、これは確かに映画にしたら面白いかもです。まあこれだけ長い作品なんで、大分内容を削らなくちゃいけないだろうから、そこが難しいと思いますけどね。是非読んでみてください。

リチャード・ドイッチ「13時間前の未来」







底辺女子高生(豊島ミホ)

内容に入ろうと思います。
本書は、豊島ミホが自身の高校時代のことを書いたエッセイです。「檸檬のころ」という小説を刊行する際、どうせならウェブでエッセイでも書かないか、と担当編集者に言われて、即決で高校の話を書くことに決めたんだそうです。
タイトルから分かるとおり、豊島ミホ自身は高校時代、「底辺」だったんだそうです。
中学時代は決してそんなことはなかったのです。具体的には書かれていなかったはずだけど、中学時代の豊島ミホは、クラスでも中心的な存在だったはず。なのに、高校では「底辺」になってしまいます。
それは、『具体的な出来事』によってそうなった、というわけではありません。
いや、『具体的な出来事』はいくつも本書で描かれています。秋田の田舎出身だった豊島ミホは、高校で都会に出てきて、女の子の一人称が「わたし」だったことに衝撃を受けたり(豊島ミホの育ったところでは、「オラ」が基本)、高校二年の春にとんでもない大家出を企てて実行したりと、まあ『具体的な出来事』というのはちゃんとある。
でも、結局のところ豊島ミホを「底辺」に押しやったのは、自身の『劣等感』なわけです。色んな出来事が豊島ミホ『劣等感』を濃くしていく。そしてその『劣等感』が、豊島ミホを「底辺」へと押しやっていく。そういうジワジワとした流れに抗うことが出来なかった高校時代の出来事を、その素晴らしい記憶力と(高校時代のことではないけど、豊島ミホは、中学三年の卒業時の、自身のクラスメート全員を、出席番号順に言えるんだそうです)、感受性豊かな文章で描ききったエッセイです。
いいですねー、このエッセイは。僕は『わかるわかる』と思ってしまいました。エッセイが面白い作家、というのは本当に稀で、僕の中では、三浦しをん・乙一・万城目学・森見登美彦ぐらいなのだけど、ここに新たに豊島ミホを加えてもいいなぁ、という感じがします。
とここで、僕自身の話を書きましょう。
僕は、高校時代は、まあかなりうまく立ち回った、と自己評価しています。恐らく、中の上ぐらいの位置には常にいられたのではないか、と思う。中の上というのは、時々上の下ぐらいの場所にも行けたりして、『表面的には』僕の高校生活は悪くなかったと思う。少なくとも、「底辺」ではなかったし、暗黒だったということもない。
とはいえそれは、あくまでも『表面的には』というだけの話だ。『内面的には』僕はやっぱり劣等感のカタマリで、だから豊島ミホの話に共感できてしまうのだ。
僕は、高校時代に限らないのだけど、とにかく『周りの人間に勉強を教える』という立ち位置をうまく確保して、それで人間関係を構築していった。正直言って僕には、それぐらいしか武器がなかったのだ。別に、友達を作るために勉強をしていた、とかいうわけではない。僕には別の理由があって(これを書くと話が長くなるんで書かないけど)元々勉強ばっかりする生活を日常としていたのだ。僕が持っていた唯一の武器。
幸い僕は、ただ勉強をしていただけの人間というわけではなく、自分でいうのもなんだけど、人に教えるのは結構うまかったと思う。ただ勉強が出来るだけの人間の周りにはそう人は集まらないけど、勉強を教えるのがうまい人間の周りには、少しずつ人が集まってくるものなのだ。自分から人に話しかけたり、面白い話で話題をリードしたり、あるいは容姿が抜群によかったりといった武器のない僕には、『あいつは勉強教えるのが巧いぜ』という噂が少しずつ広まることだけが、唯一人間関係を構築できるチャンスなのである。
それは、大方巧くいった。大体計算通りに、僕の周りに人は集まってくれた。幸い、運動が致命的に出来ないわけでもなく(というか、案外出来た方だと思う)、とんでもなくブサイクというわけでもなかったわけで、ある程度の立ち位置にはずっといられたと思う。
じゃあ一体どこに『劣等感』を感じていたのか。
それは、まさに僕の人間関係を構築する鍵とも言える、『勉強を教える』という点にあるのだ。つまり、僕を慕ってくれる人、僕の周りにいてくれる人は、僕という人間に『勉強を教える』という価値があるからこそ僕の傍にいるわけで、それがなくなったら用なしなのだろうなぁ、という感覚だ。これは結局、ずっと消えなかった。というか、常に感じていた。そんなことはない、と言ってくれる人はまあいるだろうけど、僕がそう感じちゃうんだから、仕方ないのである。
花とミツバチの関係みたいなものだ。ミツバチは花の蜜を取りにくる。その過程で、脚にたまたま花粉がつき、その花粉が遠くに運ばれることで、花は受精が出来る。しかし、もし花に蜜がなければ、ミツバチはやってこないだろう。わざわざ花粉だけ運んであげるために花のところにやってくるわけがない。
僕もそんな風にずっと考えていた。僕は蜜を持っていて、周りのミツバチたちは僕の持っている蜜が欲しい。だから僕の周りにくる。でも、もし万が一僕が蜜を持っていなければ、きっと今周りにいるミツバチたちは僕の元から去るだろう、と。
僕がいう『劣等感』を、豊島ミホが語る『劣等感』と同列で語ることは、間違っているのかもしれない。少なくとも豊島ミホからすれば、『表面上だけ』でも平和だったんだからいいじゃないか、となるかもしれない。でも、僕は同じだと思いたいのだ。豊島ミホが語る、自分から男子に話しかけることが出来ず(高校二年の春から卒業まで、男子と喋ったのはたった3回、その3回の状況をすべて覚えているのだ)、掃除当番を押し付けられ、授業に出なくなって保健室にばかり通うようになった豊島ミホの高校生活と、僕の高校生活は、見てくれは全然違う。でも、本質的にはそう変わらない、と思いたい。少なくとも僕は、豊島ミホの『劣等感』にもの凄く共感できる。結局のところ、『表面的に』どの立ち位置にいるか、ではないのだ。そう考えると、誰がどんなことを考えて高校時代を過ごしていたのは、正直分からないものだ、という気になる。一部の超特権的な最上級レベルの人たちを除けば、その人の立ち位置に関わらず、大なり小なり『劣等感』めいたものは感じていたのかもしれない。
本書で描かれる豊島ミホの高校時代の日常は、なんだか使い慣れたタオルのような手触りがある。もちろん、経験的にはまったく重ならない。豊島ミホの語る高校時代の日常は、『僕の実際の高校時代の日常』とはまったく重ならない。
でも、『僕の仮想の高校時代の日常』とは、もの凄く重なるのだ。つまりそれは、『運が悪ければそうなってたかもしれない、僕の高校時代の日常』ということだ。僕はたぶん凄くラッキーだった。運だけで高校時代を乗り切った、という自覚がある。運が悪ければ、豊島ミホの高校時代の日常とそう大差ないものになっていてもおかしくないと思う(僕も3~4回、家出を企ててみたことあるし。ほぼすべて、未遂だったけど)。ほんの少しのバランスの違いで、僕は豊島ミホの描く高校時代の日常の住人になっていたと思う。その差は、本当に僅かだったはずだ。その、決して僕が経験することはなかった『僕の仮想の高校時代の日常』を『思い出させて』くれる作品だな、という感じがしました。
と、ここまでほとんどまったく内容に触れていないような気もするけど、ちまちまとエピソードだけ抜き出しても面白くないだろうし、豊島ミホの手による絵や、感受性豊かな文章と相まって面白くなる作品だと思うから、読んでみてください、としか言いようがない。
最後に一つだけ。作中で、僕が最も共感してしまった文章があるので、それを抜き出して終わろうと思います。

『私は、周りの人の感情が波立つところを見るのが好きじゃないのだ。なるべく穏便に過ごしたい。変化なんて起こらない方がいい。』

自分とまったく同じ考え方だったんで驚きました。いや、ホント、その通り。
というわけで、高校時代(中学時代とかでもいいけど)、ヒエラルキーの最上階にいたわけではない人(共感できるのは、決して「底辺」の人だけではないはず)には是非読んで欲しいと思います。もちろん、現役の高校生・中学生なんかにも読んで欲しい。豊島ミホも書いている。『私が言いたいのは、こんなに目の前が見えないくらいあっぷあっぷしていても、いつかはどうにかなるってことです。』確かに、何だかんだで僕もどうにかなった(なっている、と自分では思っている)。だから、リアルタイムで色々悩んでいる人にも読んで欲しいなと思います。『表面的には』平和だった僕の言葉はあまり伝わらない気もするけど、まあなんとかなると思う、ホントに。というわけで、是非読んでみてください。

豊島ミホ「底辺女子高生」




こちらあみ子(今村夏子)

内容に入ろうと思います。
本書は、太宰治賞を受賞し著者のデビュー作となった「こちらあみ子」と、単行本書き下ろしの「ピクニック」の二編が収録された作品です。

「こちらあみ子」
あみ子は、お母さんが家で開いている書道教室を覗く。そこで見かけた男の子に心を打たれる。のり君。実はのち君と同じクラスだったことを知ったのは、大分後のことだった。
のり君と時々一緒に帰った。のり君はほとんど喋らなかった。あみ子は、時々学校に行って、先生に怒られて、家ではお母さんに「あみ子さん」と呼ばれ、抱きしめられたことはなかった。
ある時から、兄は不良になって、お母さんはやる気を失った。そしてあみ子は、何も変わらなかった。相変わらず時々のり君を追いかけ、時々授業に出て、風呂に入らなかった。

「ピクニック」
ローラースケートに水着というスタイルで接客する『ローラーガーデン』に、七瀬さんという新しい人が来た。皿洗いを希望していたのだけど、ビキニを来て接客することになった。年齢はちょっと上。ローラースケートを履くと転ぶので、裸足で仕事をすることになった。
七瀬さんは、誰もが名前を知っているお笑い芸人と付き合っている、といった。馴れ初めは、七瀬さんが幼い頃に川で拾った、片方だけの運動靴。
ルミたちは、そんな七瀬さんの恋愛を陰ながら応援し、時にはドブさらいの応援に行った。七瀬さんも、そのお笑い芸人との恋の相談を、ルミたちにした。
お笑い芸人が落とした携帯電話は、なかなか見つからない。

というような話です。
どちらも、作品の雰囲気を壊さないままで内容紹介をするのが非常に難しい作品でした。こんな感じの文章で、なんとなく雰囲気が伝わってくれたらいいなぁ、と思うんですけども。
ちょっと凄い作品でした。一番近い表現を探すと、『心がざわざわする』という感じです。
読んでいる最中、全然落ち着かない。歯の隙間に挟まった食べかすが、舌先でうんうんやっても全然取れない、みたいな違和感がずっと続く。結局最後まで、歯の隙間から食べかすが取れることは、ない。凄く、ざわざわする。こんな感覚になる小説はなかなかない。
どうしてざわざわするのか、をちょっとだけ考えてみた。
見当はずれかもしれないけど、今の僕の解釈では、
『登場人物たちの立ち位置がまるで想像できないから』
ということではないかと思う。
例えば「こちらあみ子」では、あみ子はなかなかに突拍子もない少女として描かれる。あみ子は自由奔放で、あみ子自身は自分の抱いている感覚をきちんと言葉に置き換えることは出来ないのだけど、でも読んでいると、あみ子が何をどう感じているのか、ということは凄く伝わってくる。
その一方で、周りの人間があみ子のことをどう感じているのか、という立ち位置は、本当にイライラするぐらい見えてこない。ここが、まさにざわざわの源なのではないか、と僕は思います。
例えば、あみ子のことを『あみ子さん』と呼ぶ母親。例えば、あみ子と一緒に帰っているのに一言も喋らないのり君。例えば、あみ子の鎖骨の部分を何度か押してあみ子を部屋から追い出す父親。例えば、トランシーバー片手にあみ子と遊ぶ兄。彼らが、あみ子のことをどんな風に感じ、どんな風に扱おうとしているのか、もどかしいほど分からない。
もちろん、少しずつ分かってくる部分もあるし、まったく分からないわけじゃない。それでも、最後の最後まで、はっきりとしたことは何も分からない。
あみ子は、周囲の反応や変化に鈍感だ。鈍感、という表現が当てはまっているのかどうかも分からないけど、とにかくあみ子自身は、周りからの影響をほとんど受けない。あみ子の視点のみで進んでいく「こちらあみ子」という作品は、だからこそ、周囲のあみ子に対する感覚がもどかしいほど伝わってこない。万華鏡のように、常に様相が変わっていく、どんな一貫性のないものでもいい。あみ子に対して、時には優しく、時には厳しく、時には無関心で、時には怒りを覚える、とかそういうバラバラな感覚でもいい。知りたいのだけど、でも読者は、無表情で佇む仏像の表情を読み取ろうとするかのようなもどかしさしか感じることが出来ない。
「ピクニック」もそうだ。こちらは「こちらあみ子」とは違って、メインとなる七瀬さんの視点では描かれない。七瀬さんの先輩である『ルミたち』というのが語り手だ。それなのに、その『ルミたち』が七瀬さんのことをどう思っているのか、全然分からない。だからざわざわする。こちらの話では、一人明確に七瀬さんに対する態度を表明する人物が出てくるのだけど、でも読めば読むほど、その人物も何を考えているのかよく分からない。
こう書くと、ただ人間が描けていないだけの小説だ、と勘違いされてしまうかもだけど、それは全然違う。あみ子や七瀬さん以外の人物も、人間らしさに溢れている。人物としての香りは、芳醇に立ち上っていると感じられる。それなのに、あみ子や七瀬さんに対しての感情だけがうまく理解出来ないのだ。それぞれの話の主役的な人物への感情をはっきりさせないままで、人物としての輪郭を明確に描く、というのは凄いことだと思う。
「ピクニック」も好きだけど、やっぱり「こちらあみ子」の方が好きだなぁ。あみ子の、『世界への収まらなさ』みたいなものが弾けているし、見方によっては輝いていると思う。そしてその一方で、僕はあみ子の世界をほんの一部しか知ることが出来ていないのだろうな、とも感じる。あみ子の内側にある世界は、もの凄く広い。ただその世界は、他者と容易に共感できるものではないし、あみ子の抱える世界に入り込むにはある種の覚悟がいる。もしのり君にその覚悟があれば、なんていう意味のないことを考えてみたりするけど。はっきり言って、その覚悟を持てる人間がいるとは、僕にはちょっと想像できないのだけど。
あみ子は、決して孤独ではない。いや、孤独かもしれないけど、あみ子自身はそれを孤独だとは捉えていない。他者と世界を共有することが出来ないことが孤独だとは考えないのだ。あみ子はあみ子で完結している。完結しているように見える。それを『強さ』と捉えるか、『弱さ』と捉えるか、あるいは別の何かと捉えるかは、読む人次第だろうと思う。僕はそれを、どう捉えただろう。うまく言葉には置き換えられないのだけれども。
本当に、不思議な作品です。読む人によって感じ方に大きく差が出る作品だとは思います。ただ、『心がざわざわする』という感覚は、理解してもらえるんじゃないかな、と思います。その『ざわざわ感』が、作品の称賛に繋がるか嫌悪に繋がるかは人それぞれかと思います。僕はかなり好きな作品です。これからどんな作品を書いて行くのか、楽しみで仕方ない作家です。是非是非読んでみてください。

今村夏子「こちらあみ子」




数学ガール 乱択アルゴリズム(結城浩)

内容に入ろうと思います。
本書は、数学を物語形式で扱った「数学ガール」シリーズの第四弾です。今回の副題は「乱択アルゴリズム」。全体的に、アルゴリズム(プログラム)や確率の話が中心になっていきます。
ざっとどんな感じで話が進んでいくのか、概略みたいなものを書いていこうと思います。
まずは基本設定から。このシリーズは高校を舞台にしていて、主要登場人物は4人+1人(プラスの一人は今回初登場)。
まず、主人公の「僕」。高校三年生で、数学が好き。数式が出てくると燃えるタイプで、人と数学の話をするのも好きだけど、一人で数学と格闘するのも好き。
次にミルカさん。「僕」と同じく高校三年生。才媛、という表現が相応しい女性で、数学が好きな人達に、常に教師となって、深遠な世界を垣間見させてくれる存在。クールなんだけど、時々弱さが垣間見える。そういえば今回は、ピアノ弾くシーンはなかったなぁ。
次は、テトラちゃん。高校二年生。「僕」に数学を教わりに来たことがきっかけで、常々数学談義をする仲になる。テトラちゃんは、分からない部分を放っておかず追求し、かつ、『どこが分からないのか明確に言葉で主張できる』という点が素晴らしい。努力家だけど、ドジっ子。
次に、「僕」の従姉妹で中学三年生のユーリ。「~にゃ」というような喋り方をする。時々「僕」の家まで来て、数学を教わっていく。ユーリはまだ中学生で、数学の知識は多くはないけど、論理に強い。侮れない。
そして最後に、本書で初登場のリサ。双倉図書館という、ミルカさんが関わりのある図書館のところの娘。赤髪でハスキーボイス(でも無口)。常にパソコンのキーボードを叩いている。プログラミングが得意。あと、クールに見えて意外に世話焼き。
そんな面々が、放課後集まったり、ファミレスでだったりと、とにかく色んなところで数学談義をする、という物語に乗せて、数学の面白さ・奥深さに迫っていく作品。
まずは、基本的な確率の話。有名な、「モンティ・ホール問題」も出てくる。
それからいきなりアルゴリズムの話が出てきて、僕は結構びっくりした。大学時代、C言語の授業をやったけど、もちろんまったく覚えてないし、プログラミングというのは本当に苦手。だから結局最後まで、アルゴリズムの擬似コードはほとんど読めなかったなぁ。
とはいえ、書いてあることを追っていけば、擬似コードが直接読めなくても理解は出来る。リニアサーチ・アルゴリズムという、ある数列の中にある数があるかどうかを調べるアルゴリズムについて、実行回数をどう評価するか、という展開。ここでの話は、本書におけるアルゴリズムの話の基本となるので、アルゴリズムが苦手な人は、まず初めのこれをちゃんと読むのがよいです。
その次、順列や組み合わせ、パスカルの三角形といった基本的な話が出てきた後で、『確率とは何か』という話になる。『公理から確率を定義する』という話の中で、確率分布や標本空間と言った言葉が出てくる。
そもそも、『確率』という言葉には三種類意味があるというのも初めて知りました。詳しいことは本書を読んでもらうとして、『公理的確率』『古典的確率』『統計的確率』(この三つの名称は、正式名称かもしれないけど、一応本書では、『これらをそれぞれ~~~と呼ぼう』という表現が使われているので、正式な呼び方ではないかもです)の三つがあるみたいなんですね。この話自体、テトラちゃんの、『確からしさ』という言葉に対する疑問から始まったわけで、テトラちゃんらしいなぁ、という感じがしました。
そこからさらに、期待値や期待値の線形性、インディケータ確率変数、なんていう話が出てきた後、僕が凄く面白いなぁ、と思った問題が出てきます。
それが、
『すべての目が出るまで、サイコロを繰り返して投げる。このとき、投げる回数の期待値を求めよ』
です。
なんか簡単そうなんだか難しそうなんだかさっぱりわからないんだけど、どこから考えたらいいんだか全然分からない、という意味では本当に取っ付きにくい問題です。でもこの問題の解答は面白かったなぁ。
そこからアルゴリズムの話に戻って、O記法という表現が出てきます。これは、アルゴリズムの実行ステップ数が、入力のサイズが大きくなった時、スピードがどれぐらい遅くなるのか、を表す表記法です。そしてその後で、バイナリサーチ、比較ソートという二つのアルゴリズムについて、O記法によって実行ステップ数を解析する話になります。やっぱりこの辺りのアルゴリズムの話は、なんとなくわかった気がする、という感じになってしまいますね。アルゴリズムの話は、僕には実に難しいです。
その次は行列の話。これまた学生時代僕の苦手だった分野です。ただ、本当に基本の基本からやってくれるんで(テトラちゃんが、どっちが行でどっちが列なのか分からなくなってしまう、と言った時、あー僕もそうです、と言いたくなりました。そこで書かれていた覚え方で、バッチリ覚えましたけど)、凄く助かります。ケーリーハミルトンの定理とか行列式とか、とにかく行列の一般的な性質について復習、という感じでしょうか。この辺りの話は、行列について知識をちゃんと持ってる人には退屈かもですが、僕みたいに行列苦手ってい人には復習がてら楽しく読めると思います。
そしてそこから、ピアノ問題に入るんです。これもなかなかに斬新な問題でした。このピアノ問題自体も相当面白いんですけど、ここでの話が、まさか最後の方デもう一度使われることになるとは思わなかったんで、その構成の美しさにビックリしましたですよ。
本書のどの問題も大体そうなんですけど、問題は物凄くシンプルで、具体的な例を考えるのはさほど難しくないんです。でも、一般的な式を導いたり解いたりというのはまるで歯が立たない。でも、説明を読んでいると、あーなるほど分かる分かる!という感じになる。そういう、本当に微妙なラインの問題のセレクトが相変わらず素晴らしいなぁ、と思いました。
ピアノ問題の後は、アリスの放浪問題が来て、ここでも、行列的な計算の工夫みたいなものが色々出てきます。
さてその次に、強正美優問題、というのが出てくるんだけど、まさかこの話がP≠NP予想に繋がっていくとは思わなかったんで驚きました。このP≠NP問題、僕はこれまでもいくつか数学の本を読んでる時に出てきたんだけど、イマイチ理解できなかったんですね。そもそも何が問題なのかが理解出来ない、という問題でした、僕の中では。
でもそれが、本書ですぐ解決してしまいました。P≠NP予想について僕が理解したことを書くと、大体こんな感じ。
まずP問題というのは、『効率的に解を見つけることが出来る問題』のこと。一方でNP問題というのは、『その問題の一般的な解を発見できるかどうかはともかく、ある解の候補が与えられた時に、それが確かに正しい解なのかどうかということは効率的に判定できる問題』のこと。
正確さを恐ろしく欠いて具体例を挙げると、たぶんこんな感じの理解でいいんだと思う。
P問題は、例えば『x+3=4』みたいな感じ。これは、x=1と『効率的に解くこと』が出来る。
一方で、例えば『x^100-x^50+1=0』みたいな式があったとしよう。この方程式は、ちょっと一般的な解を見つけるのは難しそうな気がする。でも例えば解の候補として、x=1が与えられたら、これが正しい解なのかどうかは『効率的に判定できる』。こういうのがNP問題。
(一応書いておくけど、ここで挙げた二つの式が、実際にP問題・NP問題なのかは僕には分かりません。ただ、さっき書いた文章をなんとなく理解しやすいようにこんな例を挙げてみました、というだけです)。
で、P≠NP予想というのは、『NP問題の中にP問題ではないものが存在する』という予想だ。現在、『すべてのP問題がNP問題であること』、つまり、『効率的に解くことが出来る問題はすべて、解の候補が与えられた時に正しい解であるかどうか効率的に判定できる』は証明されている。ただ、『すべてのNP問題はP問題である』、つまり、『解の候補が与えられた時に正しい解であるかどうか効率的に判定できる問題のすべては、効率的に解くことが出来る』というものは証明されていない。そしてほとんどのコンピュータ科学者は、『すべてのNP問題はP問題で問題である』という命題は間違っている、つまり、『P≠NPである』と考えている。これがP≠NP予想です。
いやー、初めてすっきりしました、このP≠NP予想について。こんなに分かりやすい説明を読んだのは初めてです。
で、NP問題には、NP完全問題と呼ばれるものがあって、『NP問題の内一つでもP問題であることが証明されれば、すべてのNP問題はP問題であること(P=NP)を証明できる』ということがすでに示されているんだそうです。そこで次は、歴史上初めてNP完全問題であると判明した問題、充足可能性問題(SAT)を、乱択アルゴリズムによってどうたらこうたら…、という話なんだけど、やっぱりアルゴリズムの話は難しくなっちゃうんで、この辺りのことは人に説明できるほど理解は出来ていません。でも、ちゃんと理解は出来なかったと思うけど、論理を追っていくのは楽しいし、ここでまさかピアノ問題と繋がるとは思っていなかったんで、驚きもありました。
最後のクイックソート・アルゴリズムについても同じで、論理を追っていくのは凄く楽しかったけど、やっぱり人に説明できるほどの理解は出来ませんでした。擬似コードを直接読んで理解出来ない自分の脳味噌が残念な感じでした。
大体全体の流れはこんな感じです。
「数学ガール」のシリーズを読んでいて思うのは、『何も考えずにいると、ただ当たり前だとしか思えない事柄を、色んな方法で掘り進めていくことで、当たり前ではないことが見えてくる』
ということなんですね。
「数学ガール」ではとにかく徹底的に、『定義』や『例示』や『前提』といったことに立ち返ります。それらは、自分が今どこにいるのかを知るための錨だったり、あるいは一歩でも前に進むための動力だったりします。はっきり言って、『定義』も『例示』も『前提』も、どれも『当たり前のこと』です(場合によっては『前提』は当たり前じゃないことがあるけど)。でも、そういう当たり前のことからスタートし、それらを駆使して深めていくと、スタート地点からは想像も出来なかったような地平までたどり着いている。これが数学の面白さ・奥深さだし、それはそのまま「数学ガール」の面白さ・奥深さにも繋がっていきます。『「数学ガール」を読むと、数学の面白さが分かる』というのは、まさにこの点を指しているんだと僕は思います。
あと本書では、テトラちゃんが素晴らしかったと思います。本書で「僕」が何度も言及する場面がありますが、テトラちゃんにとって、
『自分は、ほんとうにはまだ分かっていない、という自己認識』
が最大の武器です。
僕は、『分からないところが具体的に分かる』というのは羨ましいと思うんですね。ある意味でそれは一つの才能です。普通は、『どこか分からない部分があるんだけど、どこが分からないのか具体的には指摘できない』とか、『分かっていないことに気づいていない』というケースばっかりだと思うから。テトラちゃんが『分からない』と発言する度に、テトラちゃんの理解度の深さが伝わってきます。『分からない』と発言しているのに、その人物がもの凄くその対象を理解していることが分かる、というのはちょっと凄いですよね。シリーズを通じてのでのテトラちゃんの成長っぷりは素晴らしいものがあるけど、本作でさらに大きく成長したような気がします。
また本作では、ミルカさんの名言もたくさんありますね。

『伝える価値があることを、正しく伝わるように書く。
――それが、論文の本質だ。
これまでの人類の発見に、自分の発見を新たに重ねる。
――それが、研究の本質だ。
過去の上に現在を重ね、未来を見る。
――それが、学問の本質だ。』

『巨人の肩に、立とう』

『約束を守らないのは悪者。約束が守れなくなるのは自己。でも――約束をしないのは弱虫だ』

いいですねー。特に『約束』に関するくだりは、ミルカさんっぽくなくて凄く素敵です。数学の部分だけじゃなくて、ところどころ挟み込まれるストーリーの部分も、結構読ませるんです。
そんなわけで、相変わらずのクオリティ・面白さ・分かりやすさ、素晴らしすぎると思います!本作から読んでも基本的には構いませんが、やっぱり是非シリーズ1巻目から読んでほしいですね。数学は好きなんだけど、計算とか論理を追うのはあんまり得意じゃない、なんていう人にはもってこいだし、数学は得意じゃないんだけど好きになりたいんだ、という人にももちろんオススメです。是非是非読んでみてください!

結城浩「数学ガール 乱択アルゴリズム」




裏閻魔(中村ふみ)

内容に入ろうと思います。
一ノ瀬周は、追っ手に斬られて瀕死だった。そこに通りがかった彫り師である宝生梅倖は、周に『裏閻魔』と呼ばれる呪いを掘り込んだ。
その瞬間、周は不死の存在になった。長いこと裏閻魔を禁じていた梅倖にとっての、最後にして最高傑作だった。
周の身体は、裏閻魔がなければ死んでしまうほどの重症だ。宝生には周の裏閻魔を抜くことも出来るが、そうすれば周は即死だ。永遠に生きるか、今ここで死ぬかの選択を迫られた周は、梅倖を恨みつつ、永遠の生を受け入れることにした。
梅倖から彫り師の技を教わり、梅倖の死後、周は宝生閻魔を名乗るようになった。裏閻魔をきっかけに出会った警視の信正や、自分に瀕死の重傷を負わせた男の娘である奈津と共に、年を取ることなく生きる閻魔は、なんとか社会の中で生き延びた。
閻魔には一人、敵を呼んでいい相手がいた。梅倖のかつての弟子で、自らに裏閻魔を施し閻魔と同じく不死の肉体を手に入れた男・宝生夜叉。同じ宿命を背負っているのに、決して共に生きることの出来ない相手。閻魔の生涯には、いつも夜叉の陰があり…。
安政の世から昭和まで、孤独に生きた男の生涯を描いた作品です。
なんというか、物凄い規模で宣伝されるようになる作品みたいなんですけど、正直、ほどほどには面白い、という感じでしょうか。
正直、物語としては、ちょっと地味だな、という気はします。それでも、これは普通の形で世に出されるのならばそれでも良かったんだと思うんですけど、たぶん普通ではない形で世に出ると思うんで、そうなると物足りなさを感じる人が多くなるんじゃないかな、と思います。
不死になった男の孤独を追うのが物語の主眼で、まあ確かに面白くないこともないんだけど、ありきたりと言えばありきたりだし、という感じ。設定はなかなか魅力的だとは思うんだけど、それが十分活かされてはいない、という印象を受けました。もっと面白い物語には出来たんじゃないかな、という感じがしてしまいます。ちょっと全体的に、方向性が定まらず散漫な印象を受けました。
奈津の存在はなかなか良かったと思います。奈津がいなかったら、ちょっと読むのに辛い作品だっただろうと思います。閻魔と奈津の関係がなかなか切なく、かつあざとすぎず、なかなか読ませる、という感じでした。
全体的に、悪くはないんですけど、やっぱりベクトルが定まっていないような感じで、不要な部分をどんどん切り捨てて、かつ目指すべきベクトルへの要素をもっと盛りこんでブラッシュアップすれば、もう少し面白くなるような気がしました。さらっと読むにはそれなりに面白く読めるとは思います。

中村ふみ「裏閻魔」




カササギたちの四季(道尾秀介)

内容に入ろうと思います。
本書は、直木賞を受賞したの、受賞後第一作です。4編の短編が収録された、連作短編集です。
舞台は、さいたま市にあるとあるリサイクルショップ。口が達者(だと思っている)な華沙々木が店長、美術をかじったことのある日暮が副店長の二人だけの店で、買い取ってきたものを日暮が美術の腕を使って手を入れることで価値をつけて売りだそう、
という店なのだけど、開業以来二年、万年赤字の店である。
そんなリサイクルショップカササギには、南見菜美という、冗談みたいな中学生が出入りしている。とある件をきっかけに知り合ったのだけど、日暮はこの菜美を失望させないために色々苦労させられているのだ。
そう、『華沙々木は名探偵だ』という思い込みこそが、菜美の救いの一つなのだ。それを壊してはいけない。
華沙々木は、何か事件の匂いを嗅ぎつけると首を突っ込んでしまいたくなる厄介な性格なのだけど、残念ながら華沙々木の推理が当たることはまずない。しかしそれが『当たった』ように見えるのは、華沙々木の推理をなんとか推測し、先回りして『証拠』を捏造して用意し、なんとか現実の方を華沙々木の推理に合うように苦労している日暮の存在が大きいのだ…。

「鵲の橋」
鳥が翼を広げたデカいブロンズ像を買い取ってしばらくして、一人の少年が店にやってきた。ハンカチを落としたので探させて欲しい、というので許可するが、どう考えてもその少年は嘘をついている。二人は、これは『ブロンズ像放火未遂事件』に関係しているのでは、と推理する。買い取った、あの鳥のブロンズ像の台座に火をつけられる、という事件があったのだ。売約済だったその商品は、結局その人が買い取っていったのだけど。
ブロンズ製品を製造する会社に辿り着いた面々だったが…。

「蜩の川」
家財道具一式を売って欲しい、という大口のお客さんからの電話依頼。ちょっと遠いが、大口の注文なので、頼まれた品をトラックに積んで、何故かついてきた菜美と共に、秩父の山で、その筋では定評のある木工店へと向かった。
そこには、サチと呼ばれる女性が修行中で、やっと本弟子として認められ、そこで本格的に住むことになったんで、家財道具一式が必要だったようだ。
その木工店では、神木から切り出した丸太が保管されているのだけど、しかし何者かがその丸太に傷をつけたようだ。事件の匂いを嗅ぎ取ってしまった華沙々木は、意気揚々と推理を展開するが…

「南の絆」
僕たちは、菜美と知り合うきっかけになったとある出来事のことを思い返していた。
家財道具一式を買い取って欲しい、と連絡があり向かった二人は、そこが離婚したばかりの母子家庭だと知る。その一人娘が菜美だった。当時小学生だった菜美は、父親が家を出て行ってしまったことを大いに悲しんでいた。
その夜。彼女の家に泥棒が入ったらしい。盗まれたのは、飼猫一匹。当然事件の匂いを嗅ぎとってしまった華沙々木は、大胆な推理を展開するのだが…。

「橘の寺」
いつも無価値なものを脅すようにして高値で買い取らせる住職に、オーディオプレイヤーが欲しいからと頼まれた。ふっかけて値段を提示しても、そのまま払ってくれた。おかしい、とは思ったが、何がどうなっているのかわからない。
数日後、その住職から、みかん狩りに来ないか、と誘われる。寺に庭に生えているのだそうだ。何度確認しても無料だ、というので、実に怪しかったが、華沙々木がみかんが大好きらしく、菜美と三人で行くことにした。
大雪のため一晩寺に泊まることになったのだけど、その日寺に泥棒が…。

というような話です。
なかなか面白い作品でした。ジャンル分けしようとおもったら、ユーモアミステリ、とでも言えるかもしれません。僕は、道尾秀介が描く、重苦しい痛々しい世界観も大好きだけど、こういう軽いタッチの作品も好きです。道尾秀介にしてはかなり軽いタッチで、こういう作品も書くんだなぁ、と思いました。
どの話も、よく出来ている、と思いました。設定上、どうしても都合よく『泥棒』が出てくるのはまあ多少は仕方ないとして、なかなかうまく物語が展開していくと思いました。
巧いのは、まず華沙々木が勘違いした推理を展開するような下地が存在すること(そしてその推理は、読者もある程度想定することが出来るように描かれている)、そして日暮の『技術』によって『証拠の捏造』が可能な事件であること、そして真相を知っている日暮はその真相を誰にも話すことが出来ないような性質の事件が描かれている、という点です。これらを、ほぼすべての話でクリアするのは、なかなか難しいだろうなぁ、と思いました。よく出来ていると思います。
何故日暮が華沙々木のトンチンカンな推理を『裏付け』してあげなくてはならないのか、という点で、まさに菜美という存在が重要になってくるわけで、そういう人間関係の微妙なところを描いてくるのも、まあさすが道尾秀介という感じです。日暮の、『色んなものを壊しちゃいけない。そのために自分が少々苦労するのは仕方ない』という生き方は、何だか凄く共感できてしまう気がします。
僕が一番好きな話は、一番初めの「鵲の橋」ですね。日暮が陰で暗躍することで、物事が完璧にうまくいった、という感じがします。他の事件は、『華沙々木が間違った推理をするなんてこと、菜美には見せられない』という動機がほぼメインなのだけど、この「鵲の橋」についてはそれだけじゃなくて、日暮が動くことである人が恐らく救われるのだろう、というところがいいな、と思いました。
直木賞受賞作が相当に切なく重苦しく痛々しい話なんで、それを読んだ後でこの作品を読むと、その軽さとのギャップにちょっと戸惑うかもしれません。人によっては、「月と蟹」とはあまりに雰囲気が違って面白くない、なんていう感想になる人もいるかもしれません。でも、道尾秀介というのはとにかく守備範囲の広い作家で、野球で言えばピッチャーもキャッチャーも内野も外野も全部出来る選手、みたいなもんだと思います。人によって、ピッチャーをしている道尾秀介が素敵、サードを守っている道尾秀介が凛々しくて最高、とか色々あるでしょうけど、キャッチャーをやってない道尾秀介なんて道尾秀介じゃない!なんていう評価はまあナンセンスだよなぁ、と僕は思ったりするんで、まあ何を書いてるんだかよく分からなくなりましたけど、この作品も是非読んでみてください。

道尾秀介「カササギたちの四季」




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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)