黒夜行

>>2009年10月

数学ガール ゲーデルの不完全性定理(結城浩)

今日は、なるべく数学の話をたくさん書きたいんで、書店の話は省略します。時間もちょっとないですしね。
本書は、「数学ガール」「数学ガール フェルマーの最終定理」の続編で、「数学ガール」シリーズ第三弾になります。まずは登場人物の大枠の設定だけ書いておきましょう。
登場人物は主に四人。主人公の僕は高校二年生。数学が趣味で、学校の勉強以外にも個人的な興味から様々な分野の数学の勉強をしている。
同級生のミルカさん。数学の才媛。数学に関してはずば抜けた才能を持ち、常に数学について語らうメンバーを、予想もしなかった高みへと連れて行ってくれる。クールで常に冷静なんだけど、高所恐怖症と判明。ピアノの腕前もなかなかのもの。
一学年下のテトラちゃん。英語は大の得意なのだけど、数学は得意とは言い難い。それを克服しようとして、数学が得意だと噂の先輩(=僕)に数学を教えてくれるように話しかけてきて以来の関係。理解力は遅いかもしれないけど、理解するまで諦めない粘り強さと、理解してからの定着度は素晴らしいし、時々先輩をハッとさせるような質問をする。
従兄弟のユーリ。中学生で、よく僕の家に入り浸っている。お兄ちゃん(=僕)から数学を教わるのが好き。「~にゃ」みたいに猫っぽく喋る。論理的な話になるととにかく強い。
この三人はみんな主人公のことが好きなわけで、その微妙な恋愛っぷりみたいな部分も面白いんだけど、もちろん本書のメインは数学の話。
本書は、副題が「ゲーデルの不完全性定理」となっていて、もちろん最終的にはそこに辿りつくように出来ているんだけど、それ以外のいろんな話も出てくる。
初めに出てくる大きな話は、「ペアノの公理」というものだ。僕はこの定理の話は今まで知らなかったんで、本書で初めて知りました。ペアノの公理をとりあえず全部書きだしてみます。ちなみにこのペアノの公理は、村木先生という高校の数学の先生が出してくれたものだ。村木先生は、主人公やテトラちゃんに、数学をより深く理解するための問題を時々くれるのだ。

ペアノの公理

① 1は自然数である
② どんな自然数nに対しても、後続数n'は自然数である
③ どんな自然数nに対しても、n'≠1が成り立つ
④ どんな自然数m,nに対しても、m'=n'ならばm=nである
⑤ 自然数nに関する述語P(n)で、(a)と(b)が成り立つとする。
 (a) P(1)である
 (b) どんな自然数kに対しても、P(k)ならばP(k')である
 このとき、どんな自然数nに対しても、P(n)が成り立つ

このペアノの公理というのは、大雑把に言ってしまえば、自然数を定義する、みたいな感じのものだ。自然数なんて、「1,2,3,4…」なんだから、定義も何もないじゃないか、と思うかもしれないけど、そうじゃない。とりあえず自然数が「1,2,3,4…」という形をしているということを「知らないふり」をして、ペアノの公理からどんな風に自然数というものが導かれていくかを見ていくのだ。ペアノの公理は、ちゃんと読めば書いてあること自体はそこまで難しくはないんだけど、それでもこれだけの規則から、過不足なく自然数が定義できる、というのが面白いなと思いました。
その次は、大雑把に括ると、無限の話です。ここでもいろんな話が出てきます。
分かりやすいのは、「0.999999…=1」という話です。これは僕も時々人に話したりするネタだったりします。僕の場合の証明はこうなんです。

X=0.999999…と置く
10x=9.999999… 10倍する
(10x-x)=9.99999…-0.99999… 各辺を引く
9x=9
x=1
つまり
0.99999…=1

でも本書を読んで、今まではそういう計算上でしか捉えていなかったものを、別の角度から知ることが出来たなと思いました。
というか、どうも僕は解釈を間違えていたようですね。
本書によれば、こういうことのようです。

0.9、0.99、0.999、…と進んでいくと、この数列は『ある数』に近づいていく。
しかし、0.9、0.99、0.999、…と進んで行っても、その『ある和』は決して出てこない
だからそのある数を、とりあえず『0.9999…』と表記することに決めた。
『0.9999…』が表している数は1に等しい。

この話はユーリとしているんだけど、ユーリはこんな面白いことを言っています。

『この、「0.999…」という書き方が犯人だ。これ紛らわしいっ!
…あのね、数列を書くときってさ、
0.9、0.99、0.999、…
みたいに、最後にテンテン(…)付けて書くじゃん。だkら、0.9、0.99、0.999、と続けた先に、「0.999…」もいつか出てくるって、思ってたんだよ。でも、そうじゃないんだね。0.9、0.99、0.999の先に、0.999…は出てこない。0.999…なんて書くからまぎらわしいんだよ、まったく!♡とか書いてくれればいのにさ。

・0.9、0.99、0.999、…は、♡に限りなく近づく。
・そして、♡は1に等しい。

こんなふうに言ってくれれば、何も混乱しないのに』

なるほどと思いました。0.9、0.99、0.999、…という数列の先に、0.999…というのは出てこないんですね。僕も出てくるんだと思ってたんです。だから、おかしいなぁ、0.999…って1よりちょっと小さいよなぁ、でも計算上は0.999…と1って同じだよなぁ、とか思ってたんです。なんかすっきりしました。
あとは、自然数と平方数(自然数を二乗した数)はどちらの方が多いか(この『多いか』というのは正確な表現ではなくて、正確には一対一の対応が作れるか、みたいな感じなんだけど、まあイメージ的に)、みたいな話も出てきます。これ、前に別の本で読んだんだけど、自然数と平方数は一対一の対応が出来る、つまり個数が同じ(という表現はちょっと乱暴かもしれないけど)なんです。
同じような話で、対角線論法も出てきます。僕はこの対角線論法ってすごく好きなんです。たぶんきちんと理解しようと思えば、文系の人でも理解できると思うんですよ。だから時々人にこの話をしたりするんですけどね。
大雑把に言うと、実数と自然数はどちらの方が多いか(正確に言えば、実数全体の周豪は加算集合か否か)という話なんです。イメージとしては、小数や無理数まで含めたありとあらゆる数字(実数)と自然数だったらどっちの方が多いか、という問題です。これを、『実数の方が多い』と証明するために使われるのが対角線論法なんだけど、これは素晴らしい発想だと思うんですね。やってることはものすごく単純です。背理法の証明が理解できる人ならたぶん誰でも理解できると思う。それでも、この対角線論法を0から思いつける人というのはまずいないでしょう。カントールさんという無限についての研究をした数学者が考えたものなんですけど、これはお見事ですね。
また極限についての話も出てきます。僕は高校時代とか、極限とかって苦手でした。機械的な計算は出来るんですよ。limの計算とかは、やり方さえ覚えてしまえば式変形だけなんで、別に結構出来たんですけど、じゃあ極限というのは一体何なんだ、という部分をまったくきちんと理解していなかったんですね。本書では、極限というものを定義そのものからきちんと理解しようという話が出てきます。きちんと理解できているかどうかは分からないけど、少なくとも高校時代よくわからないまま機械的な計算をしていた頃よりは有意義な理解が出来たような気がします。
さて本書で最も重要な話は、形式的体系という部分でしょう。これは、直接的にゲーデルの不完全性定理の話に繋がっていきます。
この形式的体系の話は、読んで何となく理解できたつもりではあるんですけど、人に説明するのはすごく難しいですね。
とにかく、数学というものを、記号が持つ意味から離れて『形式的』に定義してみよう、という感じです。
僕らは例えば『+』という記号について意味を知っています。和を取る、ということですね。他にも、『2』という数字が意味するところも知っています。数学というのはこういう、意味を持つたくさんの記号によって成り立っているわけです。
しかし数学というのは、基礎から家を建てるみたいにして順番に作られて行ったわけではありません。様々な数学者が、様々な数学を発見し、関連付け、そうやって今の数学の体系が出来ているわけです。その過程で、いろんな記号に意味がつけられてきたわけです。
そこでヒルベルトさんっていう数学者が、とりあえず一旦意味をすべて取り去って、論理式という形式だけが与えられた状態で、限られた公理と推論規則のみによって定理を証明していく、というプログラムが提唱されたわけです。本書にあるような具体的な例を出さないで説明するのは難しいんですけど、そんな感じです。
イメージとしてはこんな感じかなぁ。例えばこれまで数学者は、オレンジの絵の具や水色の絵の具というのをそれぞれ独立で見つけ、それをいろんな場所で使いながら『数学』というキャンバスに絵を描いていたんですね。そこにヒルベルトという画家が現れて、一度赤・黄色・青の三色だけですべての色を作り出せるかやってみようじゃないか、と提案したんですね。そうやって、赤・黄色・青だけですべての色を作り出せれば、数学というのは無矛盾で完全だということを示せるんじゃないか、と期待したわけです。
で、それを打ち砕いたのがゲーデルさんなんです。今の比喩を使えば、ゲーデルさんがやったことはこんな感じになるかもしれません(間違ってるかもだけど)。
例えば、赤・黄色・青の三つの色を使った世界の中には、どうしても作りだせない色が存在する(その色をとりあえず○色としましょう)。でもその○色というのは、別の三色(例えばオレンジ・緑・黒としましょうか)を使った世界では生み出せますよ、という感じでしょうか(この色の比喩だと無矛盾についての説明が出来ないから不足だなぁと思いますけど)。
つまり、ある数学的体系(赤・黄色・青)の中には、真偽を言及することが出来ない命題(作りだせない色)が存在する。けどその命題(色)は、他の数学的体系(他の三色)では言及できるかもしれない、みたいな感じのことを示した、んだと思います、たぶん。実際、本書のラストで畳みかけるようにして書かれているゲーデルの不完全性定理の話は、さすがに僕には難しすぎて諦めたんで、ほとんど理解出来ているとは言えないんだけど、数式を追うのはほとんど不可能だったんだけど、一応何がやりたいのかという流れはなんとか追っていたつもりです。しかしホントすごいですね、ゲーデルさんは。
ゲーデルさんがやったことはいろんな点で凄いんでしょうけど、僕が理解できる範囲で凄いなと感じたのは、ゲーデル数についての話です。ゲーデル数というのは、論理式に使われる記号にある数字を当てはめ、それにある計算方法を当てはめることで導き出される数字のことです。つまり、論理式一つ一つに固有のゲーデル数を与えることが出来るわけです。素因数分解の一意性により、ゲーデル数から論理式を再構成することもできるわけです。ゲーデルさんはこのゲーデル数というものを駆使しながら不完全性定理の証明を行ったらしいんですけど、発想が凄いですよね。記号を数字に置き換えて一つの大きな数字にしてしまうなんて、とんでもないな、と思いました。
ゲーデルの不完全性定理についてはほとんど何をやっているのか理解できなかったんですけど、いつか時間のある時に時間を掛けてもう一度チャレンジしたいなと思います。
あと本書の中で気に入っているシーンを一つ。とある理由で主人公が落ち込んでいる時ミルカさんが掛ける言葉。

『きみには―すべての次元が見えているのかな
きみには、円周を回る点しか見えていない
きみには、螺旋が見えていない』

そういって励ますところがいいですね。ミルカさんらしい。要するに、三次元にいれば螺旋というのは認識できるけど、自分が二次元にいた場合、それは円周を回る点でしかない、ということですね。なるほど、という感じです。
というわけで、このシリーズはやっぱり素敵ですねぇ。メチャクチャ面白いです。内容的には、かなり難しいものからかなり易しいものまでいろんなものが含まれています。難しい部分については理系の人間でないとついていけないでしょうけど(僕は元々理系ですけど、でも本書のゲーデルの不完全性定理の話は難しすぎました)、易しい話については文系の人でも十分に楽しめる内容だと思います。まずは第一弾の「数学ガール」を読んでみてください。数学って面白いんだな、と思ってもらえれば嬉しいです。

結城浩「数学ガール ゲーデルの不完全性定理」



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フィルム(小山薫堂)

今日はこんな話。

http://news.livedoor.com/article/detail/4416442/

本を読むのが好きな中高生が増えている、というニュースです。
この調査を単純に信じれば、結構嬉しいニュースです。若い人が本を読まなくなった、とよく言われるけど、実際はそうでもないのかもしれない、と思わせてくれるからです。
ただ僕の懸念は、一体どんな本を読んでいるのか、ということなんです。
まあどんな本であってもいいと言えばいいんです。本を読む、という行為というか習慣が大事なわけで、子供の頃は何を読んでたってまあ別にいいだろうとも思います。僕だって子供の頃とか、江戸川乱歩とかも読んだことないし、「モモ」みたいな児童文学(?)も読んだことないし、文豪の作品なんかも読んだことないわけで、人にとやかく言えるほど充実していた読書経歴があるわけでもありません。
ただ一つだけどうしてもマズイよなぁと思うのが、携帯小説の存在です。読書を好きだという中高生が、携帯小説を読むのが好き、なんだとすると、これはちょっとマズイなぁと思うんですね。
何で携帯小説がマズイと思うのかというと、携帯小説を読んでいるような人が、その後普通の一般小説を読むようになるとはどうしても思えないからです。
僕は、何の本を読んだっていいけど、なるべくいろんな本を読んでくれたらいいなと思っているんです。現代ものの小説だろうが、文豪の作品だろうが、ノンフィクションだろうがエッセイだろうが、まあ何だって面白い作品はあるわけで、そういういろんな作品に触れてくれたらと思っているんです。
でも、携帯小説はちょっと異質なんですね。携帯小説を面白いと言って読んでいるような人たちが、僕らが普段読んでいるような本を読むようになるとはどうしても僕には思えないんです。
昔実際にあった話ですが(このブログでもどこかで書きましたが)、前にバイト先にいた10代後半のスタッフに、伊坂幸太郎の「重力ピエロ」という作品を貸しました。この作品、好き嫌いは多少分かれると思うけど、僕の中では読書をし始めたばっかりという人でも読めるメチャクチャ面白い傑作、という認識なんです。ただ、この作品が合わないという人のことも理解できるんで、ダメな可能性もあるかもなと思いながら貸したわけです。
しかしその後、驚くような理由でその本を返されました。何とですね、「難しいから読めない」んだそうです。「重力ピエロ」という作品は、章毎に時系列があっちこっちに飛んだりする構成の作品なんですけど、それが難しくて読めなかった、というんです。
これには僕は衝撃を受けましたね。好き嫌いが分かれることはあっても、「重力ピエロ」が難しいから読めないなんて言われるなんて想像もしなかったですからね。そのスタッフは、山田悠介とか携帯小説とかが好きみたいで、なるほど今の若い人は僕らが読んでるような普通の小説は読めないんだなと思いました。
そういう、今の若い人は現代ものの普通の小説を、難しいからという理由で読めない、という話はよく聞きます。本屋の売場にいる時にも、ある小説を開いて「字が詰まってて無理」みたいな会話をしている女子高生とかみたことありますしね。若い人たちの、本を読む力みたいなものが相当衰えていると感じました。
僕は一度だけ携帯小説を読んだことがありますけど、まー文章が惨憺たるものでした。小説の内容もまあ悲惨でしたけど、まあでもそれは価値観の問題もあるんでとりあえず置いておきましょう。でも文章がとにかく酷い。ああいう小説を読んでいても、まず「読む力」は養われないだろうなと思うんです。だから、本を読むのが好きという中高生が増えたという調査がちょっと心配だったりするんですね。
書店としても、携帯小説や山田悠介以外でも面白い本はたくさんあるんだよ、ということを中高生にもっとアピールできるような売り場作りをしないといけないかもしれないですね。難しいですけど。何せ、「重力ピエロ」が難しいっていう世代ですからねぇ。何だったら読めるんだろうなぁ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は10編の短編が収録された作品です。

「アウトポスト・タヴァーン」
レストランプロデューサーの武田は、アメリカに向かっていた。常に新しいアイデアを出し続けなくてはいけない武田は、壁にぶつかっていた。今度は宇宙というテーマを考え、宇宙食を提供している会社と提携するつもりなのだ。
飛行機で乗り合わせた男に、それならこのレストランに行くといい、と言って「アウトポスト・タヴァーン」という店を教わったのだが…。

「フィルム」
幼い頃僕と母親を捨てた父親が、山梨の老人ホームで息を引き取ったらしい。もう何十年も会っていない人の遺品を受け取りに行く。その中に、現像されていないフィルムがあった。現像するべきか、それとも現像しないで父親にまつわるすべてを捨て去るべきか…。

「スプーン」
つまらないことで恋人と喧嘩し家を飛び出した波多野は、深夜に営業している妙なカレー屋に行き当たった。近くにこんな店があったとは。しかし深夜に営業しているのも変だし、店主も変わっている。そこで波多野は、店主が辛いぞと脅すカレーを食べるのだが…。

「タワシタ」
時々通っていたバーが、飲酒運転の規制が厳しくなったあおりを受けて閉店することになった。その後主人公は売り物件を見つけ、それをかつてのバーのマスターに教える。金を貸してほしいと言ってきたマスターに、バーの内装作りに自分も関わらせて欲しいと言って…。

「パイナップル・ラプソディ」
ピザのチェーン店で成功した世良は、しかし今失意の底にいた。インタビューで知り合って交際していた女性が、パイナップルを置いて家を出て行ってしまったのだ。
小学五年生の美香は、母親と二人暮らし。今日は離婚した父親がやってくる日。その日は、料理教室をやっている母親の手料理ではなくて、ピザを取る。
二人の人生が、ほんの一瞬だけ絡み合う。

「あえか」
不動産会社に勤める島尾は、大口の客を結果的に逃すことになる。何をやってもうまくいかないのだ。
社内の唯一の女性社員と何となく飲みに行くことになった。女性社員の友人もやってきて、二人の女性にやられっぱなしのまま飲み続けるのだけど…。

「青山クロッシング」
その日誕生日である園部は、レストランを予約していたのだけど、絵美が手料理の方がいいでしょうと言ってレストランをキャンセルする。細かな違和感が積み重なっていく。絵美とはもう別れた方がいいのかもしれない。
鎌倉で大工の棟梁をやっている村田は、ついこの間会った女性を、一世一代の覚悟で食事に誘う。あの時のキスがどうしても忘れられなかったのだ…。

「鎌倉の午後三時」
タクシー運転手である細山田は、鎌倉で途方にくれていた。やってられない。まさに自分は、紙コップのように使い捨てられるだけの存在だ。夕刻、さすがにもう戻らないとという頃合いに、一人の老人と出会うのだが…。

「セレンディップの奇跡」
誕生日を迎えた堀井は、しかし今日が最悪の誕生日になることをさっき知った。彼女とレストランで食事をするはずだったのだが、さっき電話でフラれたのだ。あてどもなく街をさまよう堀井だったが、バスの中で一人の老女と出会い、気分が上向いていく…。

「ラブ・イズ…」
レストランプロデューサーをしている三枝は、恋愛に飽きていた。だからこそかもしれない、ついこの間食事をしたレストランで近くのテーブルにいた老女を見かけた時、この女を落としてみよう、と思ったのだ…。

というような話です。
いろいろあって、今度この本を売らないといけないんで、POPなんかを考えようと思ってちょっと読んでみました。
正直そこまで期待していなかったんですけど、割とよかったです。僕が考えたPOPのフレーズはこんな感じ。

『洗練という言葉が良く似合う、大人の小説です』

この作品は、僕よりも年上、30代以降の人とかが読んだらもっといいんでしょうね。なんと言うか、時間と共に積み重なっていく『何か』を実にうまく表現している、そんな感じのする作品でした。たぶん若い人が読んでもあんまりピンとこない作品だろうと思います。僕も、うーん、というような作品がいくつかありました。人生の酸いも甘いも経験して、成功しててもしていなくても、将来の自分がもう明確に見えてきてしまっていて、これまで走り続けてきたけども、ちょっと立ち止まってしまっている、みたいなそんな主人公が描かれるんですね。些細な描写から人間を描くのがすごくうまくて、結構短い短編なのに、登場人物の人生に対する悲哀みたいなものがとてもよく表れていると感じました。これは本当に、まず年齢を重ねた人であること(著者は現在45歳)、そして周囲のあらゆることに興味を持って観察をしている人でないと書けない小説だなと思います。
僕が好きな作品は、「パイナップル・ラプソディ」と「セレンディップの奇跡」です。
「パイナップル・ラプソディ」は本作中一番良いと思いました。ピザのチェーン店の展開で成功を収めた男と、母子家庭で育つ小学五年生の女の子の人生が、本の一瞬だけ交わるというそれだけを描いた作品なんだけど、うまく出来てるなぁと思いました。パイナップルの連想から、かつて自分に成功をもたらしてくれた原泉みたいなものを思い出した主人公が、久しぶりにそこに戻るという流れも自然だったし、小学五年生の女の子が、父親がどれくらい家にいてくれるかを占うそのやり方が、ストーリーを面白くしてくれるんですね。この話は好きです。
「セレンディップの奇跡」は、最後のオチがなかなかいいですね。きっとこれは著者自身の経験も含まれているんではないかなと思います。この主人公も、恋人にフラれてあてどもなく歩いていく中で、今の自分になるきっかけになった出来事を思い出すことになります。かつての約束をすっかり忘れていた自分を反省する、そんな男にサプライズが訪れることになります。短い話なのに、本当にうまいこと人生を描くものだなと思います。
どの話もそうですけど、その後どうなったのかが気になります。主人公たちは、いろんな状況の中で悩んだり思いだしたり苦しんだりするわけですけど、その強張った結び目がほどけかけるというところで大体ストーリーが終わるんですね。その後彼らはどうなっていったのか。その余韻もまた味わえる作品かなと思います。
若い人向けの作品ではないんで、30代以上の人とかに是非読んでみてほしいですね。たぶん、自分だけじゃないんだな、みたいなメッセージを受け取ることが出来るんじゃないかなとか思ったりします。味わい深い作品だと思います。読んでみてください。

小山薫堂「フィルム」



アンダンテ・モッツァレラ・チーズ(藤谷治)

そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、セレクトショップの経営者であり作家でもある藤谷治のデビュー作です。
SIS(セトウチインフォメーションサービス)という会社で働く様々な面々が巻き起こすドタバタを描いた作品です。
SISという会社は、医者や製薬会社なんかが必要とする文献を探し出してコピーするという、なるほどそんなところにも隙間があったのかと思うような隙間産業です。海外の放浪歴がある全身入れ墨女・山田由果、由果の恋人で無駄な知識を山ほど持っているインテリ・溝口健次、尾崎豊をコピーしてるのが丸分かりの歌が下手な路上シンガー・篠原京一、その京一に惚れてSISに入ってしまった宗教の伝道師にして超大金持ちのお嬢様・千石清美、窃盗により現在執行猶予中であり映画オタクである大森浩一郎と言った面々が、とあるきっかけから次第に仲良くなっていき、ある種のチームのような結束感が生まれることになる。
しかし、その幸せな日々をそうと知らずにぶち壊そうとしている一人の男がいた。それが、彼らの上司である野茂美津夫である。野茂は、極度の入れ墨愛好者であり、とにかく入れ墨が好きで好きで仕方ない。そんなところに、飛んで火にいる夏の虫、全身入れ墨だらけの由果がやってきたんだからたまらない。野茂は、なんとか由果の入れ墨をベロベロせんと策略を練るのだが…。
というような話です。
なかなか面白い話でした。とにかくバカみたいな話で、かつ勢いがある。そして重要なのは、勢いだけじゃない、ということですね。普通の小説とは明らかに違う文章や視点で綴られている作品はなかなか新鮮なものがありました。
本書は、物語が動き出すまでにえらく時間がかかります。本書は文庫で240ページぐらいの作品なんだけど、100ページくらいまでは登場人物の紹介というか、出てくる人はこんな人ですよ、こんな風な生活をしていますよ、という感じを描いていて、その後でようやくストーリーが進んで行きます。でもまずその、前半の登場人物の紹介がなかなか面白いんですね。
後半の『事件』に関わっていく面々が、何故SISなんて言う陳妙な会社に来る事になり、そして会社の中でどんな仕事をしているのか。プライベートではどんなことが起こり、それぞれの面々とどんな風に付き合っているのか。そういう描写が楽しいんですね。バカバカしいノリの文章に引っ張られて、特にこれと言って特色があるわけでもない彼らの日常を、面白おかしく描写していくんですね。面白いです。
そしてその後の『事件』についても面白い展開を見せます。発端は、入れ墨愛好家である野茂部長。この男が由果を手に入れようとし、由果と付き合っている健次を追い払おうと計画したことからすべての混沌は始まっていくことになります。こっちの展開についても、バカバカしさは半端ないんで、読んでて楽しいですね。
本書はたぶん、愛とか戦争とか、そんな結構大き目なテーマが内包されている作品なんじゃないかと思うんだけど、僕はそういう難しいことを考えるのがめんどくさい人間なんでよくわかりません。でも面白い小説を読みたいという人にはぴったりでしょう。
本書は、視点人物の設定が変わっているんですね。本書は、基本的に三人称で進んでいくんですけど、でも視点人物である『僕』という存在がいるんです。よくわからない説明だと思いますけど、ホントそうなんです。こんな変わった文章は初めて読みました。どうしてそういう風になっているのかという部分については、ストーリー全体に関わるような意味は特にないんだけど、一応ないこともない、という感じです。まあ映画監督のような視点から小説を書いている、というような設定みたいなんですね。そういう部分も変わってるなと思いました。
作品の最後の方で、まさかアノ話が出てくるとは思いませんでしたね。僕はたぶんですけど、アノ話が小説に出てくる作品というのを初めて読んだかもしれません(もしかしたら既にどこかで読んでるかもだけど)。なるほど、だから舞台が2001年なのね、という感じでした。
軽そうなノリで進んでいく文章ですけど、文章力は結構ある作家だと思います。軽そうな文章で綴っているのに必要以上に崩れすぎていないというのが力があるなという感じがします。結構面白い作品です。ちょっと人を選ぶ作品かもしれませんけど、読んでみてください。

藤谷治「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」



はるがいったら(飛鳥井千砂)

今日も最近のニュースから二つほど。
まずはこちら。

http://www.shinbunka.co.jp/news2009/10/091026-02.htm

雑誌「小学五年生」と「小学六年生」が休刊というニュースです。
これは雑誌の休刊の中でも結構な衝撃なんじゃなかろうか、という気がします。小学館の創業以来の基幹事業みたいだったし、僕は以前何かの記事で、採算が取れなくなっても「小学○年生」は出し続ける、みたいなのを見たことがあったんで、それで余計に印象に残っているのかもしれません。
僕は別に小学生の頃そういう雑誌を読んでいたわけではないんですけど(僕は子供の頃、NHKの教育テレビとかもほとんど見てなかったみたいなんですよね。最近友達と喋っててそれが判明しました。僕は一体子供の頃何をしていたんだろう)、やっぱりそういう雑誌に親しんでいる子供はいることでしょう。今だって時々聞かれますからね。確かに「小学五年生」と「小学六年生」の入荷数は相当少ないなぁ、とは思っていましたけど、まさか休刊とは。ちょっと驚きですね。
さてもう一つ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091025-00000023-mai-soci

グーグルが行っている書籍のデータ化や、アマゾンのkindleみたいな電子書籍に関係するアンケートでしょう。書籍のデータベース化をどう思うか、というアンケート結果です。
6割の人が支持しない、という結果になったそうです。
支持しない人の理由のトップは、ネットや携帯で本を読むと疲れそうだから、というもの。つまり、書籍のデータベース化そのものの事業よりも、ネットで本を読むことに否定的、という意見が多いみたいですね。
僕がへぇと思ったのは、10代とか20代の結果ですね。10代や20代では、賛成と反対がほぼ半々だった(つまり他の世代と比べて賛成する人が多かった)という記事ですが、僕はむしろ10代や20代はもっと賛成する人が多いかなと思っていたので意外でした。若い世代はもう携帯やネットで本を読むことに抵抗がないはずなんで、それでも半分が支持しないというのはちょっと希望が持てる結果かなと思いました。
ただ気になるのは、このアンケートのやり方です。留め置き方というやり方でアンケートを取ったらしいんですけど、これは調査員が自宅に行きアンケートを渡し、後日それを回収するというやり方なんだそうです。回収率は58%。
これだと、若い世代はアンケートに答えない割合が増える気がするんですね。文字書くのとかめんどくさがりそうだし。ただ逆にネットを通じてアンケートを取ると、今度はネット支持派が多勢を占めてしまいそうな感じがするんで、その辺りが難しいかなと思います。
だんだんと書籍や雑誌の電子化の流れが進んで行っていますけど、どこまで進みますかね。僕は正直、あんまり成功しないんじゃないかって思ってるんですよ。いくら若い世代に抵抗がないとは言え、どんな作品でも携帯やネットで読めるかというとそうでもないと思うんです。マンガにしても小説にしても、本という形態だからこそやれる表現というのがあるはずだし、もちろん一方ではネットだから出来る表現というのもあるでしょう。恐らくそういう棲み分けがされる、という程度じゃないかなと思うんです。あとは作家がどう動くか、でしょうけどね。作家がどんどんネットの方に流れていくとしたら厳しいでしょうね。やはりコンテンツあっての本なので。
kindleみたいな電子書籍がどこまで普及するのかというのも懸念ですけど、正直これもそこまで広がらないような気がするんですね。確かに持ち歩いたり読んだりという風には便利でしょう。でもですよ、電子書籍で読む本をどうやって選ぶんでしょうね?本ってやっぱり、表紙とか全体のデザインとか、そういうのもかなり重要だと思うんですね。電子書籍の場合、そういう部分はうまく反映できないと思います。そうなった場合、一体どうやって選べばいいのか。名前の売れている作家の作品、話題になっている作品ぐらいしか電子書籍では売れない、ということになるでしょう。今本もメジャーな作家の作品や話題作ぐらいしか売れなくなっていますけど、それでも本屋という形態があるからこそ、他のいろんな作品も売れたりする。でも電子書籍の場合、そういうロングテールになる部分はまったく売れなくなる気がするんですね。
ちょっと楽観的にすぎる予測かもしれないけど、僕はそこまで書籍の電子化は進まないんじゃないかなぁと思うんですよね。まあ、僕が生きている間ぐらいは、本が隆盛であってほしいなぁ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、小説すばる新人賞を受賞した作品です。
園と行は姉弟だけど、両親の離婚のために離れてくらしている。園はデパートの総合受付をしているんだけど、完璧主義の変わり者。仕事もプライベートも自分の立てた予定や目標通りにやらないと気が済まず、人づきあいなんかにおいても予定が変わったりすると不機嫌になってしまうほど完璧主義。着道楽で、人が着ないような突拍子もない服を着るのだけど、センスがいいのと、ガリガリではないかと思うほど痩せているので、そういう服装が際立って浮いてしまうということもない。幼なじみでお隣さんだった恭司と恋愛めいたことをしているけど、恭司には婚約者がいる。園は、恭司以外には抱かれたことがない。
行は子供の頃から体が弱かった。入退院を繰り返したために、高校を一年留年していたりもする。そんな体の弱さもあったせいか、まるで老成しているかのように、周囲のあらゆる出来事を、「まあそんなこともあるか」と思ってやり過ごすような高校生だ。特別何かに熱くなることもないけど、特別努力しなくても何でもそこそこ出来てしまう。子供の頃に拾ってきた、今では介護が必要な犬・ハルを飼っていて、特に気負うこともなる老犬の介護を続けている。行は再婚した父親と一緒に暮らしていて、生まれが半年しか違わない兄・忍がいて、割りあい上手くやっている。
行がまた体調を崩し入院することになり、ハルの世話を園が引きうけることになった。淡々と進んでいく日常の中で、園と行に少しずつ転機が訪れる。園には恭司のことや、突然始まった些細な嫌がらせ、そして行には進路のことや、同級生のなっちゃんのことなんかだ。
やがてハルが死んでしまうまでの姉弟を描いた作品です。
いやー、これはいい作品でしたね。小説すばる新人賞受賞作品は割合レベルの高い作品が多いけど、これもかなりレベルの高い作品だと思いました。
本書のような作品は、いい作品に仕上げるのは凄く難しいと思うんです。僕がここで言っている『本書のような作品』というのはどういう作品かというと、

1、特別これというストーリーがない
2、今っぽさを表現している

という感じなんですけど、こういう作品はセンスと文章力がないとただの駄作になってしまうんで、著者の力量はすごいなと思いました。
まず、特別ストーリーのない作品を書く、というのが難しいはずなんです。本書の場合、もちろん園と行にはいろんなことが起こるわけなんだけど、でも全体を通じて芯の通った一つの核みたいなものがあるわけでもないんです。一つ挙げるとすればハルという名前の犬の存在がありますけど、でもそれに関わる描写は、この作品のメインと言えるのか疑問なほどの分量でしかありません。確かにハルの存在は本書の中では重要だし、きちんと描写されるわけなんだけど、でもそれは決してメインにはならない。じゃあメインのストーリーは何か、というと特にないんですね。本当に、『ハルが死ぬまでの姉弟を描いている作品』なんです。
こういう作品は、読者の興味を繋ぎとめるのが難しいと思うんです。何かメインのストーリーがあれば、それがどうなっていくのかという興味で引っ張れるけど、本書の場合それが出来ない。タイトルを見れば、最後にハルが死んじゃうというのは明白だし、だとすればハルがどうなるかという部分でだって引っ張れるわけがない。園や行が悩んだり困ったりそういう細かい話がいろいろ出てくるけど、でもいたずらにそこに焦点を当てすぎていないために、それがその後のストーリーに関わってくるのかどうなのかもわからない。だから、それがどうなるのかという興味で引っ張ることも出来ないわけで、だからこそメインのストーリーのない作品というのは難しいんですね。
でも本書は読ませるんです。実に面白い。たぶんそれは、園と行というキャラクターが素晴らしいからでしょう。彼らがどんな風になっていくのか見届けたい、という興味で読まされてしまうんだと思います。
でも、よくあるようなキャラクターで読ませる作品、というのとも違うんですね。キャラクターで読ませる作品の場合、ものすごく突飛なキャラクターが出てきて、そのキャラクターがぶっ飛んだことをするんで楽しくて読む、みたいな感じだと思うんだけど、園と行はそうじゃない。確かに変わってはいるんだけど、どちらも地に足のついたまっとうな人間です。そういうまっとうな人間をきっちりと描くことで人間としての輪郭を浮き上がらせて、その人間への興味によって読者を引っ張っていく。すごいなと思いましたね。
また、今っぽさについても凄いと思うんです。本書は実に今っぽい雰囲気を宿している作品なんですけど、でも小説の中で今っぽさを出すのって、かなり難しいんです。
僕がここで言ってる『今っぽさ』っていうのは、なんか気だるかったり無気力だったり目標を見失っていたり頑張れなかったりというような、まさに現代っぽい雰囲気のことです。こういう雰囲気を小説の中で出そうと思うと、下手な作家の場合どうしても文章が崩れちゃうと思うんですね。キャラクターを軽くしたり、会話を軽くしたり、描写を軽くしたり、なんていう方法で今っぽさを表現しようとしてしまうために、小説としての完成度が低くなってしまうんだと思うんです。
でも本書の場合、きちんと今っぽさが出ていながら、文章がまったく崩れていないんですね。センスのいい文章を書きながら、その合間から今っぽさが滲み出てくる。これはかなり筆力のある作家じゃないと出来ないと思うんですね。これが新人の作品だというのがかなり驚きです。
さっきも書きましたけど、園と行というキャラクターがいいですね。園はちょっとツンツンしている感じで、人によっては冷たいという評価をするかもしれません。不器用でもないし人づきあいが悪いというほどでもないんだけど、完璧主義者故に融通が利かなかったりすることがあって人と接するのを億劫がることがある。そういう部分はちょっと僕に似てるかもですね。僕も、自分に対してはまったく適当なんですけど、他人が関わるとちゃんとしなきゃと思う人間なんで、人間関係に疲れる傾向があります。
行も似てる部分があるんです。行は、親の離婚とか再婚とか自分の病気のこととか、その他いろいろ世間的に見れば結構辛かったりする状況を経験しているはずなのに、それらを「まあそんなこともあるよね」と言って流してしまう。僕もそんな感じなんですよね。僕も、もともとどんな状況にも期待をしていないし、常に最悪な状況も想定しているんで、どんな展開になっても、「まあそうだよねぇ」という感じで流せてしまう。行もそうだけど、何かに本気になったり執着したりということがなかなか出来なくて、行は自分のそういう性格もあって進路に悩んでいたりするんですね。
園の幼なじみの恭司とも似てるなぁと感じる部分があるんですね。これはかなり後半の方で出てくる話なんでちょっとネタばれになっちゃいますけど、まあ書いちゃお。恭司は子供の頃から何でも一番で、何でも出来る奴だと思われてたんだけど、でもそれは実はものすごく必死だったんだ、ということを明かすんですね。常に一番になってやる、と思ってがむしゃらだった、と。そんながむしゃらな感じは周囲には見えないから、何でも出来る奴だと周囲には思われるんですね。
で、恭司は、常に一番になることというのが目標だったから、進学とか就職とかで特にやりたいことも見つけられないから苦労したし、高校ぐらいになると上には上がいるから一番にもなれなかった、と告白するわけなんです。
こういう感じは分かりますね。僕は何でも出来たわけじゃないけど、勉強だけは負けたくないと思って必死でやってましたね。1番とか取れるような人間じゃなかったけど、そこそこ上位には常にいたような感じでした。で、それって恭司と同じで、上位にいたいということだけが目標だから、大学とか特に理由もなく選んだし、やりたいこともないから就職がどうのなんてのも無理でしたしね。それに高校とかと、化け物みたいな奴とかがいて、上位をキープし続けるのも結構大変でしたしね。
なんかそんな感じで、登場人物のあちこちに、ちょっと似てるなぁという部分を感じるんですね。たぶんどんな人が読んでも、誰かのどこかの部分に、ちょっと似てるなぁみたいな風に思ったりするのかもしれません。メインではない登場人物でも結構存在感があったりするんで、自分に似た人を探してみるのも面白いかもしれません。
あと、これはさっき書いた今っぽさの話とちょっと被るんだけど、会話がすごくリアルっぽい雰囲気なんです。初対面での会話とか、入院患者同士の会話とか、気不味くなった友達同士の会話とか、そういうそれぞれの関係性や状況に応じて、それにぴったり合った会話の雰囲気を出してくるんで上手いなと思いました。ホント、センスのいい作家だなと思いました。
でもこの作品、POPとか書こうと思ったら難しいなぁ。何を前面に推しだして勧めればいいのか難しい。作品の雰囲気とか空気感みたいなものが素晴らしいんだけど、でもそれを言葉で表現するのって厳しいなぁ。結構売りたい作品なんだけど、どうしたもんだろう。
表紙だけ見ると恋愛小説っぽくて、それがちょっと読者を敬遠させる要因になりうるなと思うんですけど(表紙の絵は綺麗でいいんだけど、恋愛小説っぽい感じになっちゃってるのがホント残念。恋愛小説は興味ないっていう人はたぶん手に取らないなぁ)、いい作品なんで是非読んで欲しいです。ジャンル分けするのはなかなか難しい作品で、ミステリ-とか恋愛小説みたいに分かりやすいレッテルをつけることは出来ないけど、文章や描写にセンスが光る、これからも期待できる感じの新人だと思います。是非読んでみてください。

飛鳥井千砂「はるがいったら」



頼子のために(法月綸太郎)

なかなか書店の話も書くことがないんですよねぇ。
今日は、店頭で売上ランキングを表示する、という話でも書こうと思います。
書店に行くと、「今月の売上トップ10」みたいな感じで本が並んでたりしますよね。でも僕は、あれがどうしても嫌いなんですよね。売り場でランキングを元に本を並べたくないんです。
何故かというと理由は二つあります。
一つは、ランキングで並べた本ばっかりがバリバリ売れてしまうことになるからです。
もちろん、書店に行った時に、何らかの理由で買う気を起こさせるものが必要だとは思っています。それがPOPだったり店独自の新聞だったりというようなものであれば、本の内容の良し悪しを伝えようとしているわけでいいと思うんです。
でも、売上のランキングっていうのは、本の良し悪しとは関係ないんですよね。ただ、どういう理由でか売れている、というだけの表示でしかないんです。そんな理由だけで本が売れてしまうようになるのは、お客さんを育てることに繋がらないと思うんです。
僕は、本屋の役割の一つというのは、ちょっとおこがましい言い方ではあるけど、お客さんの『選ぶ眼』を養うということだと思うんです。特に最近では、ネット書店なんかも隆盛だし、古本屋だって台頭している。そんな中にあって、わざわざ書店に足を運んでくれるのだから、そこではネット書店や古本屋では提供できない何かを提供できるべきだと思うんですね。
その一つが、選ぶ眼を養うことのできる場、だと思うんです。書店員は書店員でお客さんから学ぶことは多いけど、その一方で書店員がお客さんを啓蒙するという方向も頑張らなくてはいけないと思うんですね。それが出来ないと、どんどん選ぶ眼を持っていないお客さんが増えてしまうと思うんです。
ランキングの表示というのは、その選ぶ眼を育てる可能性を著しく奪ってしまうと思うんです。売れているみたいだから買おう、という発想は、自分の意志で何かを選ぼうという気持ちをどんどん削っていってしまうと思うんですね。売り場にそういうものがなければ、少なくとも売れているからというだけの理由で本を買うことはなくなるので、お客さんの選ぶ眼を養うのを阻害することはないかなと思うんです。
もう一つの理由は、一点目の理由とも若干被るけど、売れている本が良い本だとは限らないということです。
確かにその本が売れているからには、売れているだけの理由があるはずですけど、でもそれが『本の面白さ』である可能性は特に低いと思うんです。大抵は、映画化された、何かで紹介された、どこかの書店が仕掛けて火がついた、というような周辺的な理由で売れることが多くて、その実内容がパッとしないということがかなりあります。
僕の感覚的な意見でしかありませんが、ベストセラーと言われる作品はどうも大味な感じが否めません。そもそも何故そんなに売れるのかと言えば、そこまで個性もなく、かと言って凡庸すぎず、一般的な人の多くがまあ悪くないと感じる作品だから、ということなんだと思うんですよね。個性的な作品は一部にしか売れないし、凡庸な作品は話題にならない。ちょうど中くらいの作品がベストセラーになるんだと思うんです。だから僕は、好きな作家の作品は別ですが、売れている作品はあんまり読まないことにしています。これまで売れている作品を読んで何度も失敗した経験があるんで。
まあそんなわけでランキングの表示はしたくないんですけど、お客さん的にはどうなんでしょうね。やっぱりランキングとかあった方がいいのかなぁ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書の冒頭は、とある男が残した手記、という体裁になっている。一人娘が公園で殺されているのが発見されたのだが、実は娘が妊娠していることを知った父親は、その子供の父親が娘を殺したに違いないと判断し、復讐を計画する。子供の父親を探し出し、その男が確実に子供の父親であることを確かめてから殺す、という手順を踏み、その後自ら自殺をする、というところまで綴った手記だ。
その後事件は発覚し、紆余曲折を経て推理小説家であり探偵でもある法月綸太郎の元へ話が回ってきた。警視である父親から、様々な政治的な要因が絡んでいると聞かされ、とりあえず手記を読んでみることにした綸太郎だったが、その過程で重大な事実を見つけ、政治的な思惑はさておき、この事件の調査に乗り出すことにした。
自殺を図った父親はギリギリのところで一命を取り留めたものの、昏睡状態のままで話を聞き出すことは出来ない。綸太郎は様々な人間から話を聞く過程で、自らが生み出した仮説の正しさを確信していくことになるのだけど…。
というような話です。
WEB本の雑誌の横丁カフェというコーナーでオススメされていた作品で、ちょっと気になったので読んでみることにしました。
全体としては、まあまあという感じでしょうか。著者は、ミステリも好きなようですが、それと同等ぐらい(かどうか知りませんが)にハードボイルドも好きなようで、本書は一応作品の構造的にはミステリなんですけど、ストーリーはハードボイルド的に展開していきます。ただ僕はハードボイルドというのがあんまり得意ではないんですね。レイモンド・チャンドラーの作品も、一作しか読んだことはないんですけど、何が面白いのか僕にはよく分からない、というようなまあそんな人間です。なんで、本書はちょっと僕向きの作品ではなかったなぁ、という感じがしました。
ミステリ的な部分について言えば、なかなか面白いと思いました。自殺を図った父親の手記には、さらっと一読する限りでは特に不自然な部分というのは見当たらないわけなんです。しかし推理小説家で探偵である法月綸太郎は、夜を徹してその手記を読む中で、重大かもしれない点に気づいてしまう。綸太郎は、政治的な思惑から形だけ表に出されただけの、役割としてはピエロのようなものだったのだけど、しかし綸太郎は自ら気がついてしまった真実かもしれない事実を追うために、ピエロの振りをしながら、事件の真相を追い求めることにするのだ。
しかしその捜査の過程がどうもハードボイルド的で、僕には合わないんですね。どうしてこんなにハードボイルドがダメなのか僕にもイマイチ分からないんだけど、あんまり受け付けないんです。面白いと思えないんですね。主人公が気取ってるからかなぁ。名探偵ならもっと名探偵らしくすっとんきょうなことをしたり、周囲には理解できないようなことをしたり、僕はそういう探偵が好きなんですね。なので、この捜査の過程というのはちょっと好きになれなかったです。
ミステリ的な解決としては、まあなかなかよかったんじゃないかなと思います。ちょっとそれは不自然だなぁ、と思うような設定や展開もありますけど、うまいこと『意外な真相』っていうところに落とし込んでいるなという感じはしました。
本書でいろんな場面で出てくる『愛』的な描写はなんとも言えないし(やっぱり古い作品だなぁとちょっと思う)、最後綸太郎が○○と対峙する場面も、あれでよかったのかなぁとか思うわけなんですけど、まあ僕はあんまり細かいところを気にしない人間なんで、まあ全体的にはそれなりだったかな、という感じです。
特に強くオススメするということはないですけど、読んでみたら案外面白いじゃん、という感じになる可能性もないではない作品だろうなと思います。気が向いたら読んでみてください。

法月綸太郎「頼子のために」



いのちの代償 山岳史上最大級の遭難事故の全貌!(川嶋康男)





最近見たニュースから二つほど。
まずこちら。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091021-00000001-oric-ent

モーニングツーというマンガ雑誌が、現在出ている号だけ(だと思うけど)、マンガ誌最安値である190円で売っている、という話です。前号の51%OFFだそうです。
このモーニングツーというのは、なかなか面白い試みをしているんです。以前も、モーニングツーの発売日と同時に、内容すべてをネットにアップする、ということをやって話題になりました。その結果売上が増に繋がったらしいんで、トリッキーな試みは成功したというところでしょう。
今回は、恐らくそういった一連の話題のお陰で宣伝費が大幅に浮いたんで、分かりやすい形で還元する、ということらしいです。こうやってまた話題を提供することが出来るわけで、いい宣伝になっているなと思います。そういえば「聖☆おにいさん」の新刊も出ましたしね。順調だなぁ。
さてもう一つ。

http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20091019_322804.html

こちらは、一時話題になったコルシカというサービス中止の後に発表されたというのがまた面白いですね。
富士山マガジンサービスを通じて雑誌の定期購読をしているユーザーに、デジタル雑誌の提供をするという話です。表紙から裏表紙まで、広告も含めて雑誌全ページをデジタル化しWEBプラウザ上で見れるようにするサービスのようです。
一時話題になったコルシカと違う点は、出版社の許諾を得ているかどうか、という点です。コルシカは、ほぼ同じサービスを始めようとしていましたが、出版社の許諾なくデジタルデータを作成していたことがアウトでした。富士山マガジンサービスの方は、出版社の許諾を得てこのサービスを行っているわけですが、そのせいもあって対象雑誌が非常に限られている。現在は、「SUMAI no SEKKEI」と「日経ビジネス」のみだそうです。
雑誌というのは一冊当たりの権利者がものすごく多いので、デジタルデータを提供するのが実に厄介なんだそうです。なんで、出版社側の許諾を得ながらサービスを行おうとすると、徐々にしか広がっていかない。コルシカはそれを、一気にすべての雑誌を対象に行おうとしたわけですけど、出版社の許諾を得ていなかったために敢え無く中止ということになりました。
雑誌のデジタルデータを提供するというサービスは実に素晴らしいと思うのだけど、いろいろな思惑が絡み合ってどうにもうまくいかない。もちろん紙媒体での売り上げに直結する(すなわち、デジタルデータを得ることが出来るサービスを通じて紙媒体の雑誌を買う流れが出来てきそうなので)ので書店としては死活問題かもしれませんけど、しかしそこに需要があるなら、そういう流れになっていくことはまあ仕方ないでしょう。雑誌はどんどん休刊が決まっていくし、もう紙媒体で成立させるのはかなり厳しいのではないかなと思います。元気なのはブランドムックぐらいでしょう。今度宝島が、イブサンローラン(だったかな、確か)のブランドムックを、初版100万部で出すとか。全部捌けた場合、総人口1億2000万人の内、子供と老人を除いて大体6000万人、そして男を除いて大体3000万人として、女性の30人に一人が同じバッグを持っているということになります。そんなんでいいのかなぁ。いつもブランドムック本が売れるのを見ると、そこが不思議なんですね。
と、話はズレましたけど、いずれにしても、雑誌のデジタル化はもう避けられないところまで来ているようです。確かiPhoneでも雑誌が見られるサービスがなんとか、みたいなニュースも見たことがあるような気がします。雑誌が売れなくなると書店の経営というのはかなり厳しくなるんだけど、どうしたもんですかねぇ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、国内の山岳事故史上最大級の規模で起こった遭難事件で、ただ一人生き残ったリーダーをメインに、その時一体何が起こったのかということを綴っていく作品です。
その事故は、1962年12月、北海道の大雪山で起こりました。北海道学芸大学函館分光山岳部のパーティ11名は、冬山合宿と称して、危険の伴う冬山登山に挑みました。本格的な登山活動を始めてまだ間もない山岳部にとっては、まさにそれは挑戦でした。
冬山の天気は荒れやすい。二つの班に分かれていた一行は、天候の崩れのため合流が一日遅れた。結果的にこの一日が運命の一日となった。
合流後、荒れ狂った天候の中、必死に目的地まで辿りつこうとする面々。しかし、不運な出来事や、判断の甘さ、積もりに積もった疲労などがたたり、メンバーが次々に脱落していく。リーダーである野呂は、彼らを助けるためにも、自分自身が助かって救助を求めるしかないと必死の思いで足を動かす。
結果的に、助かったのは野呂一人。他のメンバー10名は全員死亡という大惨事となった。
生き残った野呂は、『黒い十字架』を背負って生きていくことになる。死んでしまった10名の分まで生きなくてはと思い、それこそ必死で生き抜いてきた。両足を切断するという障害を残しながらも、健常者以上に精力的に動き続けて生きてきた。
大学時代『黒い十字架』を背負わなくてはならなった一人の男の、壮絶な生きざまを描いた作品です。
なかなか凄い作品でした。
この事故のことは直接的には知りません。ただ、冬山で遭難し生き残ったのがただ一人という状況だけ聞くと、昔読んだ金田一一の事件簿のことを思い出します。何の話の時か忘れたけど(速水レイカとタロット山荘の時かなぁ)、登場人物の一人がその、山で遭難し一人だけ生きて帰ってきた、という話をするんですね。ただそのマンガの方の設定と本書で描かれている内容がまったく違うんで、マンガの方がこの事故のことを参考にしているのかどうかは知りません。
冒頭でまず、野呂をはじめとするメンバーが遭難という現実に直面し、そこからいかにして奮闘するかという描写がされます。ここがまず壮絶ですね。冬山は恐ろしいとは言え、全員訓練に訓練を重ねた男たちなわけです。その彼らが、次々に倒れて行ったり行方が分からなくなっていったりする。リーダーである野呂は常に最善の選択を心掛けるのだけど、最善の選択をしてもどうにもならない現実というのがある。まずその凄惨な状況が描かれて行きます。
そこから、野呂個人の話に移っていきます。戦時中の樺太で生まれ、貧しいながらもまっすぐ育って行ってこと。母親の山菜採りについていったことから山へと興味が湧き、ハイキング部と言った方がよかったというような北海道学芸大学函館分校山岳部を、他の大学の山岳部と肩を並べることが出来るような山岳部にしようと先輩に反旗を翻したりする。その結果が、野呂が提案した冬山での合宿だったのだ。
野呂は生還した後、死んだ10名の部員の家族から厳しい扱いを受けることになる。遺族も、野呂に何を言っても子どもたちが返ってくるわけではないこと、そしてきっと野呂は最善の行動を取ったに違いないと思いながらも、それでも野呂を責めずにはいられなかった。野呂もその状況を甘んじて受け入れた。そうして『黒い十字架』を背負うことになったのである。
両足を切断した野呂だったが、歯を食いしばるようなリハビリを乗り越えて、健常者以上に動けるようになった。現在でいうパラリンピックにも出場したことがあるし、スキーのライセンスも持っている。
仕事面でも、まず教師になった。捜索費用を工面してくれた父親に家を建ててやろうと頑張り、またほとんどの生徒が進学しなかった学校で私塾のようなものを開き、学力をつけさせていった。
その後生命保険会社でとんでもない成績を残し、やがて独立。現在ではディール企画という自らが立ち上げた会社で、第一線で働いている。
そんな野呂という男の生きざまを中心に、山岳史上最大級の事故がいかにして起こったのかということが描かれた作品です。
ノンフィクションとして読んだ場合、ちょっと他の作品よりは劣るかなぁと思いました。うまく表現できないけど、この題材だったらもっと素晴らしい作品にすることが出来るのではないかな、と思えてしまうんですね。たぶんもっと力のあるノンフィクション作家であれば、もっといい作品になったのではないかなと思います。題材が実に魅力的なので、恐らくそこは著者の力量の問題であるように思います。
ただやっぱり題材のパワーというのがなかなか凄くて、一気に読んでしまいました。一瞬の判断が迫られる遭難という状況において、常に冷静に対処しようと頑張り続ける野呂は素晴らしいし、最後の最後まで生きようとした他のメンバーもよく頑張ったなと思います。野呂一人が生還した後、ものすごく大変な人生を歩むことになるわけですけど、この野呂という人はまあとんでもないガッツの持ち主で、本当に11人分ぐらいのパワーがありそうな、凄いことをさらりとやってのけてしまいます。元々の素質もあるんでしょうけど、やっぱり、死んだ10名の分まで生きなくては、という強い思いがあったのだろうなと思います。
仕方ないことだとは言え、遭難の描写に関しては、基本的に野呂の証言しかありません。なので、どこまで本当なのか、という部分についてはどうしても拭いきれない疑問は残ることでしょう。しかし、少なくとも本作で描かれている野呂という人物からすると、嘘をついているとは思えないな、と思えてきます。もし何か隠していることがあったとしても、それは自分以外の誰かのために隠さなくてはならなかったことだけではないかな、とか思いますね。実際に野呂という人に会ったことがないんで正確な判断は出来ませんけど、信頼できる人ではないかなと思いました。
こういう気力のある人の話を読むと、生きる気力がほとんどない僕なんか実に恥ずかしい存在ですね。僕は別に、自分の生き方が恥ずかしいとかそんな風に思ったことはないんですけど、でも出来ることなら、野呂みたいにガッツのある生き方が出来たらよかったのにな、と思います。僕はあまりにも多くのことに興味がなさすぎるんで、そういう生き方はまあ無理なんですね。
壮絶な作品だと思います。題材の大きさに、著者の力量が見合っていないという部分は多少あると思いますが、凄く勢いのある作品だと思いました。最近は登山がちょっとしたブームになっているみたいですけど、山は危険なのだという認識を持つ意味でも、読んでみてほしいなと思います。

川嶋康男「いのちの代償 山岳史上最大級の遭難事故の全貌!」



極北クレイマー(海堂尊)

今日は、書店の話でもないし、本書の内容とも関係あるわけでもないんですけど、ちょっと書きたいことがあるんでそれを書いてみようと思います。
それは、小説作品における事実情報の、読者の受け取り方についてです。
昔バイト先のあるスタッフに「カムナビ」という作品を勧めました。僕としては凄く面白かったんですけど、そのスタッフは、読んですぐダメだったと言って読むのを止めたそうです。
その理由が、ありえない描写がされていたからだ、ということでした。
うろ覚えですがどんな描写かというと、主人公か誰かが大学の事務局みたいなところに行った時に、何の確認もなく入れてもらえたとかなんとか、そんな感じだったと思います。そのスタッフは、大学の事務局がそんな不用心に部外者を入れるなんて考えられない、こんな描写はダメだろう、と言って読むのを止めたんだそうです。
amazonの評価なんかを見ていても、同じような判断をする人が時々います。この事実関係はおかしい、作家なのにこれくらいの事実関係もきちんと書けないなんて最悪、とかなんとか厳しいことを言う人です。
でも僕としてはそういう意見はおかしいよなぁと思ってしまうんですね。
理由は二つ。
まず、そんなに大げさに言うことはないだろう、と思うんです。その事実誤認が事実あったとしても、その誤認が読者に重大な影響を与えない限り(例えば詐欺の被害に遭った主人公が弁護士に助けを求めた時、実際の法律では不可能な解決策を提示することで、読者に実際それが出来ると思わせる、みたいなのはダメだと思いますけど)、それぐらいの間違いは別にいいじゃん、と思うんですよね。そりゃあ、事実関係が正確であることが望ましいけど、一人の人間がそこまできっちりとすべての出来事について精通するなんて、不可能だと思いますしね。
もう一つの理由が、こっちの方が比重は大きいですけど、結局読者は、自分が知っている知識についてしか指摘することが出来ない、という事実なんです。
例えばある歴史物の小説があるとしましょう。歴史の知識が豊富にある人からすれば、その作品の事実関係のあまりのなっていなさに憤慨するかもしれません。でも僕は歴史に関する知識はほぼないんで、事実の誤りがあったとしてもそれに気付きません。
さて一方で、作中で数学とか物理的なことが扱われている作品があるとしましょう。そんな作品はほとんど読まない、という人はいるかもしれないけど、東野圭吾のガリレオシリーズなんてのは理系の知識が豊富だし、物理的なことに関して言えば、日常的なあらゆること(車に撥ねられるとか人が落ちてくるとか)に関わってくるんで、ほとんどの作品で物理的な齟齬が見つかる可能性があると言えるでしょう。
僕は元々理系なんで、そういう理系的な間違いについては他の人よりは見つけやすいでしょう。しかし、理系的な知識が苦手だという人は、例え作中で、物理の基本的なことを知っていれば明らかにおかしな描写がされていても、それには気づかずに作品を読み進めることでしょう。
結局のところ、小説の事実関係の間違いを指摘するということは、裏返せば、知識のないことに関しては素通りしているということを曝しているだけ、というのが僕の判断です。もちろん、世の中のありとあらゆること、数学や物理や歴史や漢字、医療や法律やゲームやファッションや文化や流行と言った、知識という知識をすべて持っているという人であれば、小説の中の事実の間違いを指摘して非難することは構わないと思います。でも、実際そんな人はいないわけで、だったらそういう非難は間違いではないかと思ってしまうんですね。
一応書いておきますが、僕は『小説の事実の間違いを指摘する』ことを非難しているんではないんです。小説の中に間違いがあるなら、それを作家なり出版社なりに指摘することは有益でしょう。僕が非難しているのは、『小説の事実の間違いを指摘して批判する』ことです。つまり、事実関係に間違いがあるからという理由で読むのを止めたりあるいは酷い評価を下したりするということです。ネットの評価なんかを見ていても、そういう人が時々いたりするし、そういう人がちょっと多くなってきているような気がするんで、作家も大変だよな、と思うわけなんです。間違いは間違いとして正さなくてはいけませんが、それを作品全体の評価と混同するのは、僕の価値観としては受け入れがたいなぁ、という感じです。
一応もう一度書いておきますが、別に今日ここで書いたことは本作の内容とはまったく関係がありません。何となく書きたくなっただけです。
そろそろ内容に入ろうと思います。
北海道の極北市にある赤字病院に左遷された外科医・今中は、初日から病院の洗礼を受ける。院長と対立しているらしい事務長、経営を立て直そうと奮闘する新任の院長、仕事をしている気配のまったくない異端の研修医・後藤、まともな仕事をせずにダベっているだけの看護師たち。決してやる気があるとは言わないが、それなりに良心があるつもりの今中は、こりゃあとんでもないところに来たな、と思った。扱いが酷いのは大学病院の医局で慣れているからいいとして、患者のことを考えて医療に従事しようという気がまったくない現場では先が思いやられる。
そんな中にあって、市民病院の良心と言われるほど地域の人から慕われている医師がいる。産婦人科医である三枝医師は、今中が来るまで外来も一手に対応していた人で、病院は三枝医師の力で保っているというのが全員の共通認識だった。
しかしその三枝医師を巡って一つの懸念がある。先ごろ出産時に妊婦の死亡事例があったのだけど、それが医療事故ではないか、と言われているというのだ。話を聞く限り医療事故ではありえないし、遺族とも話をして納得してもらっているというが、不安材料ではある。
何だかんだで病院に慣れ始めて行った今中だったが、ある日謎の女性が病院にやってきた。皮膚科医の姫宮と名乗るその女性は、難関そびえたつ魔窟をいとも簡単に制圧し、しかも医療事故調査委員会なんていうものをこの潰れかけた病院に設立してしまった。
ハリケーンのように過ぎ去っていった姫宮旋風は、極北病院にやってくる小波に過ぎなかった。極北病院はそれから、未曾有の混乱に巻き込まれることになるのだが…。
というような話です。
良い小説だと思います。海堂尊の作品は、初期の頃よりエンタメ色がなくなっている代わりに、本格的に医療問題をメインテーマに据える作品を次々に出しています。しかも、エンタメ色が初期の頃より薄れているとは言え、医療問題をこれほど真剣に扱いながら、一方で小説としても面白いという、やっぱり凄い作家だなと思うわけです。本書は、これまでのどの作品と比べても、現実の医療問題を喚起する重要なテーマになっていて、語りとかキャラクターの妙と言ったような部分とは対称的に、作品の持つ重さみたいなものが伝わってくる作品でした。
本書はたぶん現実に起きた出来事をモデルにしている作品ですよね。ある意味ネタばれになってしまいますが、これを書かないと先に進めないんで書いてしまうと、本書の後半で、市民病院の良心と言われた三枝医師が逮捕されてしまいます(まあストーリー上予想出来る範囲なんで、これぐらいのネタばれは許してください)。これって、実際昔ありましたよね。うろ覚えですけど、確かどこかの産婦人科医が刑事事件として逮捕されたみたいなニュースが。その際は凄く騒がれたような気がします。もはや記憶は薄れてしまっていますけど、でも海堂尊の作品を読まなければ思い出すこともしなかったと思うので、それだけでもこういう作品の存在意義は十分あるなぁと思います。
実際に起きた出来事の方は詳しくは知りませんが、恐らく本書はそれを非難すると言った側面を持ち合わせているだろうし、だとすれば現実の事実関係になるべく即した設定にしていると思うのでそれを前提に書きますが、真面目に仕事をしている医師を逮捕するというのは言語道断でしょうね。実際の出来事の方ではどうか知りませんが、本書の中では三枝医師が逮捕されるというのはどう考えても理不尽だと思いました。医療の具体的な部分についてはもちろんわからないし、もしかしたら実際本書で描かれているような裏側での策略みたいなのがあったのかもしれませんけど、それにしても酷すぎるなと思います。
この背景には、『医者は出来て当然』という一般の人の意識があるんだと思います。出産に関して言えば、これだけ医療が発達しても未だに危険な行為であることには変わりはないわけです。しかし一般の人は(僕も含めてもらって構いませんが)、出産で死ぬことはない、と思うようになってきてしまっています。それが、これまでの産婦人科医の努力の賜物であることを知らず、普通にやっていれば出産で死ぬことはない、と考えてしまうために、出産で亡くなったらそれは医療ミスだという判断をしてしまうんですね。
しかも、これは仕方ないとは言え、日本では『逮捕=有罪』という印象がどうしても強いです。逮捕された人は悪いことをしている、という風にどうしても思われてしまうんですね。僕もそのイメージから抜け出せているとは言えませんが、ただいろんな本を読んできた経験から、いろんな思惑から逮捕することがあるということを今の僕は知っています。検察が国策捜査として結論ありきの捜査をしたりとか、あるいはこれも具体的なことは知らないので間違っているかもしれませんけど、ライブドアの事件にしたって似たようなことなんだろうなと思います。ちょっと違いますけど、痴漢の冤罪のケースは多々あるし、最近では足利事件の冤罪の話がよくニュースで出ます。
しかしそれでも、逮捕されれば有罪という印象は強いんですよね。本書でも、医療事故かもしれないという新聞記事が出ると、三枝医師の元を離れる患者がたくさん出ました。市民病院の良心と言われるほど献身的に働いてきたのに、マスコミや警察の言っていることは正しいと盲信して評価を下してしまうんですね。ホント、こんなことが続けば、医者になろうという人がどんどん減ってしまうのも道理だろうなと思います。『出来て当然』と思われ、出来なかったら訴訟を起こされるような職業に、誰が就きたいと思うでしょうか。
さて、堅い話を書きましたが、小説としても面白いです。やはり何よりも面白いのは、姫宮の出てくる場面でしょうか。本書には出てきませんが、もちろん姫宮は白鳥の意向で派遣されているわけなんですけど、その白鳥の影がちらちらと伺えるのが面白いですね。姫宮から見た白鳥像というのがなかなか面白いです。それに、相変わらずスーパーマンみたいな能力を発揮するんです。怪物揃いの病棟をあっという間に掌握してしまうし、やはりただものではありません。
一番面白くて、かつ納得したのが、姫宮が皮膚科医として診療した時のこと。姫宮は一瞬の判断で診断を下すのだけど、患者はそれが気に入らない。前の先生は分厚い本をよく見てそれから診断を下していた、そうしないなら手抜きじゃないのか、と非難されます。
そこで姫宮が取った、白鳥直伝だという変わったやり方は、なるほど面白いもんだなぁ、と思いました。僕は普段、『自分がどうしているか』ではなく、『相手にどう見えているのか』が重要だと思って仕事やら人間関係やらをやっていますけど、まさにこのケースもそれで、人間というのは面白いものだなと思いました。
しっかし、僕がもし医者でこの極北病院に派遣されたら保たないだろうなぁ。真面目に仕事をやる人間が損をする、という典型的なお役所的な病院で、まあ酷い。現状を改善しようとしないばかりか、現状を認識しようともしないという有様で、僕にはちょっとやっていけないでしょう。僕なんか、正論で問題点を指摘して、すぐハブにされるのがオチだろうなぁと思います。
何せ、トイレが和式のボットン便所なのに、いくら言っても改善されないんですからね。酷すぎますよね。
しかし病院側としてもいろいろと言い分はあるでしょう。そもそも市が補助金をカットしているために予算がないし、そのために赤字になっている。診察料の未納も累積しているためにさらに赤字は膨らむばかり。無い袖は振れないというのはまあ確かで、仕方ない部分も多々ある。恐らく多くの地方病院がこういう状況にあるんだろうと思います。そういう現実の中で、実際に現状を目にしたこともない人間が、あーだこーだ文句を言うのはちょっと間違っているかもしれないな、と思います。でもやっぱり、そういう中にあっても、三枝医師や並木看護師のように働ける人間になりたいなぁ、と僕は思うんですね。
というわけで、小説としてももちろん面白いし、それに医療問題の提起についてもこれまでの作品以上に強烈になっているという印象です。海堂尊には頑張ってほしいものだなと思います。海堂尊一人で、厚生省の官僚ども(でも民主党政権になったら官僚政治はなくなるんだっけ?なくらないような気もするけど)と闘えるとは思えないけど、でもこうやって小説を書きまくって、一人でも多くの人を啓蒙してくれれば、いつかは道が啓けるかもしれません。テーマはなかなか思いですけど、難しい話ではないし、小説としても面白いんで、是非読んでみてください。
最後に、作中から気になった文章を二つ抜き出してみます。

『「今の世の中、一人前の医師になっても食いっぱぐれることもある。むしろ一人前になればなるほど、医療ミスや訴訟リスクがつきまとう。なぜかいい医者ほど訴えられるし。だから僕はいい医者なんかなりたくない。困難があったらすたこら逃げる。困難に立ち向かっても、トラブルを解決しても、誰も誉めてくれない。そのくせ一度でも失敗したら袋叩きにする。バカバカしいだろ、こんな世の中のために尽くすなんて、さ」』

『「メディアはいつもそうだ。白か黒かの二者択一。そんなあなたたちが世の中をクレイマーだらけにしているのに、まだ気がつかないのか。日本人は今や一億二千万、総クレイマーだ。自分以外の人間を責め立てて生きている。だからここは地獄だ。みんな医療に寄りかかるが、医療のために何かしようなどと考える市民はいない。医療に助けてもらうことだけが当然だと信じて疑わない。何と傲慢で貧しい社会であることか」』

追記)amazonのレビューに、『続編を書くのは私たちだ』という一文がありました。これはいい表現ですね。まさにその通りかもしれません。本書は、地域医療の結論みたいなものが書いてないから不完全だみたいな評価があるみたいなんだけど、そうじゃなくて、続編を書くのは私たちなんだ、という気概ぐらいは持ちたいものですね。僕が持てているかどうかは、わかりませんけど。

海堂尊「極北クレイマー」




ハチはなぜ大量死したのか(ローワン・ジェイコブセン)

そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、現在北半球で起こっている深刻な出来事についてとりあげた本です。
それは、ミツバチがどんどんといなくなっている、という現象です。CCDと名付けられたこの不可解な現象は、養蜂業界だけでなく、農業全体を危機的状況に陥れるような大問題へと発展しています。
2007年の春までに、北半球から四分の一のミツバチが消えたんだそうです。直接的な原因はまだ解明されていないものの、科学者の多くは、たった一つの原因によって引き起こされているのではなく、複合的な要因によって起こっているのだろう、と考えています。
本書は、そんなミツバチの失踪という出来事をキーワードにして、ミツバチがいかに人間と素晴らしい共生関係を築いてきたのか、農業にとっていかにミツバチは大事であるのか、CCDに対抗するために一部の養蜂家が行っている独自の手法、経済活動に組み込まれてしまったアメリカにおける養蜂の現状など、様々な部分に焦点を当てていきます。
ミツバチの失踪は、僕らの生活にも直結するほど重大な問題なわけです。何故なら、ミツバチがいなければ、果物を始めとする昆虫に受粉を手伝ってもらう植物のほとんどが受粉出来なくなってしまうわけで、そうなると果物の収穫などまったく出来なくなってしまうからです。
もちろん、ミツバチの他にも植物の受粉を手助けする昆虫はたくさんいます。しかし、ミツバチほど優秀な昆虫はいないんだそうです。ミツバチはとんでもない勤勉さで蜂蜜を集める働きものであり、すなわちそれは、植物の受粉を最も手助けする存在であるということになります。そのミツバチが、直接的な原因がまったく分からない謎の失踪をとげていくわけです。
直接的な被害は既に出始めています。カリフォルニアは、世界のアーモンドの80%を担う生産地ですが、それほどまでのシェアを獲得できるようになったのは、養蜂業者のお陰です。毎年受粉の時期になると、アーモンド生産者は養蜂業者と契約をし、ミツバチを借りることになります。敷地内にミツバチの巣枠を置くことで人為的に受粉を促進させるというやり方をずっとやってきました。
しかし、現在アメリカではどんどんミツバチの数が減少している。アーモンド生産者は尋常ではない高い金を払って養蜂業者と契約をするのだけど、しかしそうやって手に入れたミツバチがすぐに死んでしまう。事態はそれほどまでに進行しているんです。
アーモンド農場は、人為的に生産効率が異常に高められた農場なので、ミツバチの減少によって収穫量が下がってしまっても多少仕方ない部分はあるかもしれないけど、もし地球上からミツバチがいなくなれば、花をつける植物の大半が地球上から消えてしまうことでしょう。それほどまでにミツバチというのは、媒介者として重要な存在なわけです。ミツバチがいなくなるという異常事態を前に、ようやく人間はミツバチに依存し続けてきていたのだという現実を認識することになりました。
科学者は原因追及のために奮闘しているようですが、具体的なことはまだ分かっていません。ただ、本書で示唆されているのが、恐らくストレスなのではないか、ということです。何か単一の原因があるのではなく、いろんなストレスが複合的に絡み合って起こっているのではないか、と。
ミツバチはこれまで、人間に無理矢理使役されてきました。煙で燻されたり抗生物質なんかを投与されるのは日常的で、時には受粉のためにトラックに乗せられて長旅させられる。それまではなかったダニやら病気やらにも冒され、人間の都合に合わせるために様々な無理をさせられてきた。そう言ったストレスが積もりに積もって、挙句限界に達したのではないか、という推察がされています。
養蜂業者も手をこまねいているわけにはいきません。様々なやり方で事態を脱しようとするわけですけど、その中には、ミツバチをより自然な状態で飼育しようという発想の人々がいます。薬剤も使わず、無理な移動もさせず、すべてをミツバチに任せる。もちろん、環境や病気に耐えられなくて死んでいくハチも多いけど、そうやって残ったミツバチはどんどんいろんなことに耐性を身につけた種になっていく。そうやって、ミツバチ自身に力をつけさせることで、人間が何か手を加えることを極力避けよう、という発想です。
それを読んで僕は、「奇跡のリンゴ」の木村さんのことを思い出しました。木村さんは、農薬を使わなければ栽培できないと言われているリンゴを、完全に無農薬で栽培することに成功した人なんですけど、発想としてはまさに同じなんだな、と思いました。自然というのは常に最適な選択をする。自然に対して人間が『手助け』することは、実は邪魔だったりマイナスの効果しか生み出さないことが多い。自然の状態に近づけることと企業的農業というのは性格的に合わないわけなんですけど、それでも今後は、いかに両者を擦り合わせていくことが出来るかというのが主題になっていくのではないかなと思いました。
訳者あとがきに、日本の現状が少し書かれていたんですけど、日本のミツバチにはCCDの兆候はさほど現れていないということでした。CCDについては未だに研究途中だけど、CCDの影響下になさそうな日本のミツバチが救世主になるようなこともあるかもしれない、と書かれていました。
しかし、アメリカやヨーロッパでの被害は甚大なようで、食料のほとんどを輸入に頼ってる日本にとってもかなり事態は深刻でしょう。農業輸出国でミツバチがいなくなれば、生産量が落ち、価格が高騰したり、最悪日本に回ってくる分がなくなるなんてこともあるかもしれません。
本書はミツバチの失踪の話だけではありません。解説で福岡伸一が書いていたように、環境全体についての話です。植物との関係においていかにミツバチが重要な役割を担っているのかということを分かりやすく明らかにしていき、主題となっているミツバチの失踪をより深刻な事態として受け止めることが出来るようになります。最近日本では農業が少しずつ脚光を浴び始めていますが、農業というのは自然と共生していかなくてはいけないのに、自然を壊している部分もかなりあるのだなということを自覚しました。CCDの原因の一つには、最近使われ始めた特殊な農薬が原因ではないのか、という話もあるようです。農業というのは大事なものですけど、いかに自然を破壊せずに仕事として成り立たせていくのか。今後はそれがもっと問われていくのではないかなと思います。
ミツバチがここまで重要な存在だというのはあんまり知らなかったのでとても楽しめました。僕らの生活にも直結するかもしれない、現在世界中で起こっている問題です。是非読んでみてください。

ローワン・ジェイコブセン「ハチはなぜ大量死したのか」





遊戯(藤原伊織)

昨日は初めて、出版社の編集者という方に会いました。
以前に出版社の営業さんと、ある本を仕掛けてみようという話になりまして、その本の展開をかなり積極的にやってみたところ、お礼に伺いますとのことで、その本の担当編集者が来てくれました。営業さんも編集者の方も、その本の著者の大ファンとかで、僕みたいに展開してくれる書店の存在が凄く嬉しいみたいでした。
まあその本はまだあんまり売れていないんですけど(泣)、なんとか長い目で見て頑張ろうと思っています。
で、その編集者の方に昨日言われたのが、『ある一冊の本をずっと長いこと売場に置いておくなんて珍しいですね』ということでした。
僕は、売れ続けている本はひたすらしつこく売場に置き続けます。今年で言えば、「凍りのくじら」や「永遠の0」はもう長いこと売ってるし、光文社文庫の「NOTHING」って本も結構売ってます。またもう二年以上置いている本というのもあって、「時生」「子どもの心のコーチング」「思考の整理学」なんかはそうですね。「スカイ・クロラ」に至っては、もう発売から5年ぐらいは経ってるんじゃないかなと思いますけど、発売以来一度も売場から外したことがありません。
僕は、このブログでも何度も書いているんですけど、多面展開が嫌いなんですね。多面展開は、失敗するリスクが大きいし、やれてもそんなに長い期間出来ないし、売場が固定されて面白くないと言った点で僕は嫌いなんです。それよりは、一面平積みでもいいから長いこと置いてずっと売り続ける方がいいと思うし、最終的な累計の売上も、多面展開した場合よりも売れるという可能性だってあります。
でも昨日の編集者の話によれば、割と多くの書店が、仕掛けるからと言ってたくさん発注するんだけど、一ヶ月後に行くともう別の本に変わってる、なんてことはしょっちゅうなんだそうです。それって多面で奥置く意味あるのかなぁ、とか僕は思ってしまうんですね。だったらそのスペースに一面平積みでいろんな本を置いて、売れなくなったものから順に別の本に変えていく、というスタイルにした方が効率もいいような気がするんですよね。
そんなわけで、今時珍しいですよね、なんて言われました。でも、これはちょっと前にも書いたんだけど、出版社の営業の方はやっぱり大手の書店ばっかり回っててはいけない、ということなんですね。僕がいる店みたいに、さほど大きくない店で多面展開をやらない店でも面白いことが出来る。そういうところをもっと発掘していかないといかんのではないかなと思うわけなんですね。まあ、僕の作ってる売場がそんなに珍しいのかは、イマイチ僕には実感できませんけどね。
あとその編集者の方には一つお願いをしてみました。僕が読んであまりにも素晴らしくて、単行本を上下それぞれ100冊ずつぐらい売ったことがある「私を見て、ぎゅっと愛して」という作品があるんですけど、これを是非文庫にしてくださいよ、と言ってみました。僕は、これが文庫化されたら死ぬほど売る気マンマン(それこそ発売してから売場から一度も外さないぐらい)なんですけど、未だにどこの出版社も文庫にしないんですね。なんで、検討してみてください、なんてことを言ってみました。そしたらその場で上下それぞれ買って行ってくれたんでよかったです。
出版社の編集者の方っていうのは結構変わってたり偏屈な人が多いんじゃないかななんていう勝手なイメージがありましたけど、営業さんみたいな感じで普通でした。やっぱり作家と一緒に取材旅行に行ったりしていろんな人と関わるんで、偏屈な人じゃ勤まらないんだろうな、とか思いました。まあ、偏屈な編集者っていうのもいるかもしれませんけどね。
そろそろ内容に入ります。
本書は、連作短編集っぽい長編と、独立した短編が一作収録された作品なんですけど、連作短編集っぽい長編の方は未完です。著者は若くしてガンで急逝したんですけど、その最後の最後まで書いていた作品で、完成させる前に亡くなってしまったようです。

「遊戯」
本間透は、朝川みのりという女性と、ネットでの対戦ゲームで知り合った。何故か会うことになり、本間はみのりに仕事を紹介することになる。そして一方で本間は、これまで誰にも話したことがない秘密をみのりに明かすことになる。
みのりは、派遣社員として働きながら、一方でモデル事務所にも登録していた。ある日社長から突然連絡があり、CMのオーディションに行かないか、と言われる。自分がオーディションに通るわけがないということは分かっていたけど、好奇心から行ってみることにした。
しかしそこでみのりはオーディションに見事合格し、それから立て続けにCMに出るようになっていく。
本間とみのりは時々会って話すくらいの関係で、特別これというほどの関係はないのだけど、しかしその二人の元に同じ人物だと思われる男が顔を出し始める。自転車に乗った初老の男で、特別嫌がらせを受けたというわけでもないのだが、どうにも気味が悪い。一体何を企んでいるのだろうか…。

「オルゴール」
死んだ妻の遺品としてオルゴールが見つかった。底に彫られた名前を見ると、前夫であり日本でも有数の資産家でもある夏目重隆からもらったものだと分かる。
日比野修司は、このオルゴールを返すという名目で夏目の元を訪ねることにした。
日比野の会社はもう倒産寸前で、債権者が日比野の身柄を押さえようと躍起になっている。金策もままならず、あらゆるところをかけずり回ってもどうにもならない。その最後の手段が、夏目家への訪問というわけだ。
祥子という一人の女性を介して関わりあった二人の男の物語。

という感じです。
「遊戯」の方は、僕はなかなか面白い感じだなぁと思いました。もちろん、完結していないんでどんな内容になる予定だったのか分からないわけなんですけど、描写とかストーリーの運び方なんかやっぱりうまいよなぁとか思います。ストーリーが、中年男性の理想というか、中年男性にあまりにも都合が良すぎるみたいなそんな風な批判もあるかもしれないですけどね。まあ確かにそれは否定できないけど(ネットで知り合った女性がその後モデルになるような美人で、しかも相手がこちらにある程度の好意を持ってくれていて、みたいな設定)、僕は別にそれぐらいいいんじゃないかなと思ってるんですね。ガヤガヤ言うようなことじゃない。
本間とみのりのストーリーは、二人が会って話す以外の交わり方ぐらいしかまだしていないんだけど、恐らく拳銃を通じてそれぞれの人生が交差していくような、そんなストーリーになったんだろうなと思います。外交官だった父親が、法を犯してまで拳銃を持ち帰っていた。しかもその拳銃を日本で使ったかもしれない形跡がある、という話と、みのりの父親の再婚相手のかつての夫が銃で殺されているという話が、きっと繋がっていくストーリーになるはずだったんだろうなと思います。そこに、自転車に乗って現れる初老の男がどう関わってくるのかちょっと分からないんですけどね。
解説によれば、藤原伊織は登場人物を絞ってストーリーを作っていくそうなんだけど、「遊戯」も登場人物は相当少ない。メインとなるのは本間とみのりぐらいで、後はちょこっと印象的な人が出てくるみたいな感じ。で、みのりのキャラがいいなぁと思うわけなんですね。モデルになって人気が出てもブレないし、判断のセンスがいいと事務所のスタッフにも太鼓判を押されている。とび職のおじさんと建設現場の足場を上っていくところなんか、結構いいですね。
未完の小説っていうのは確か読んだことがないはずなんだけど、やっぱりモヤモヤするなぁ。誰か書いてくれないですかね。作家は自分の死期を悟ったら、今書いている小説が未完になる可能性を考えて、生きている間に誰かに続きを書いてくれと頼む、という風にするのはどうでしょうかね。まあ作家はプライドみたいなのもあるだろうし、自分の作品の続きを自分以外の誰かに書かれるくらいなら未完のままの方がいい、と思うでしょうけどね。
「オルゴール」の方はまあまあという感じでしょうか。こっちの作品は、「遊戯」以上に中年男性の妄想が強いと批判されるかもですね。祥子という女性が二人の男と結婚する過程は、夢見過ぎとばっさり斬られても仕方ないような話かもしれません。でもまあ、ほどほどには面白かったかなと思います。祥子という女性はなかなか魅力的だし、日比野や夏目がどんな過程を経て今の状態に至ったのかという話も面白く読めました。
未完の小説なんで勧めにくいですけど、藤原伊織の作品が好きだという人は、最後の余韻を味わうという意味でいいでしょう。藤原伊織の作品を読んだことがないという人は、「テロリストのパラソル」とか「ひまわりの祝祭」辺りを読んでみてください。

藤原伊織「遊戯」



文化祭オクロック(竹内真)

そろそろ内容に入ろうと思います。
東天高校の文化祭の初日。ブラスバンドの演奏で華々しく始まった文化祭だったけど、その直後校内放送から、DJネガポジと名乗る謎の男の声が聞こえてきた。DJネガポジは、放送部など複数の部活の合同企画であるFM東天というラジオ企画のDJのようで、初めだけは校内放送を使い、その後は一時間ごとに実際ラジオを通じて放送するということらしい。携帯電話をリレーさせてインタビューをし、曲をリクエストしてもらう、という企画がメインらしいのだが、初っ端のインタビューが斉藤優里の怒りに火をつける。インタビューの相手は野球部の元エースの山ちゃんなのだが、その山ちゃんが優里のことを好きだというのは皆知っていること。東天高校には壊れた時計塔があって、優里のクラスはその時計塔についての研究発表をしているのだけど、DJネガポジはなんと、優里が『この時計塔を動かせる人がいるなら付き合ってもいいな』と言った、という嘘を山ちゃんに吹き込んだのだ。山ちゃんはDJネガポジに乗せられて、針が曲がって引っ掛かっているだけの時計にボールを投げて時計を動かそう、という話に巻き込まれることになる。
ラジオで適当なことを言われた優里は、DJネガポジを探し出して文句をいい、訂正させてやると意気込む。しかしDJネガポジの正体は一向にはっきりしない。どこからラジオを流しているのかも不明なのだ。そうこうしている内に、物理準備室の窓が割れ、それが山ちゃんの仕業だと勘違いされたり、ミステリ-好きの古浦久留美がその謎を解いたことがきっかけで優里と出会い、DJネガポジを探し出す手伝いをしたり、という風に展開していき…。
というような話です。
やっぱりいいですね、竹内真は。この作家、作家としての力量はすごく高いんですけど、残念ながら全然売れないんですね。ホント可哀そうなくらい売れない。こんなに面白くて実力があるのに売れない、なんてことは作家の世界ではよくあることだけど、実力があるからと言って売れるわけじゃないというのは、やる気がなくなりますよね。僕は個人的に、この作家のデビュー作の「粗忽拳銃」とか、ドラマ化だかされた「自転車少年記」とかを売ろうと頑張ったことがあるんですけど、ダメでしたねぇ。売れて欲しい作家なんですけど。
本書も面白かったです。ストーリーとしては実に単純で、文化祭のラジオ企画のDJは誰だ、って話です。でも、一応はそれがメインになっているとは言え、それだけじゃないんですね。何よりも、文化祭の雰囲気がとてもよく描かれているなと思いました。
僕は最近の高校の文化祭っていうのがどんなものなのか知らないんだけど、本書で描かれる文化祭は実に今っぽいなと思いました。ラジオをiPodのラジオ受信機能を使って聞かせるなんてのも現代っぽいし、その企画で携帯(プリペイド式で残高がゼロの、受信専用のもの)をリレーさせて一時間ごとにインタビューなんてのも今風だよなぁと思います。後面白いなと思ったのが、どっかの部活が企画した『ヒッキー部屋』です。パソコン室を改造したものなで、マンガとかDVDとかたくさんあるんだけど、入ったら一時間は出てはいけない、というルールがある。しかも部屋の中では私語禁止。それによってヒッキーの気持ちがわかるとまでは言わないけど、ちょっとヒッキーの気持ちが体験できるかも、という企画なんですね。これもまさに現代っぽい企画ですよね。
また何よりも、時計塔を復活させるという話を中心に、臨機応変に文化祭を盛り上げていくラジオ企画者たちの動きも実によかったですね。本書は、高校の文化祭の企画に悩んでいる人が読んだら、ちょっとはアイデアの足しになるかもしれません。まあ、これぐらいのことはもうどこの高校でもやってるのかもしれませんけどね。
とにかく本書の場合、そんな文化祭の雰囲気が凄くよく出てて、それだけで十分面白いです。まあ僕がいた高校は、ここまで文化祭が活発だったわけじゃなかったけど。あんま覚えてないですけどね。森見登美彦描く文化祭の勢いには勝てませんけど(笑)、現実的な文化祭の描写で言えば、相当面白い作品だと思います。
その文化祭の中で、四人のメンバーが視点人物となって話が進んで行きます。既に名前を出した優里(ユーリ)・古浦(コーラ)・山則之(山ちゃん)の他に、ラジオ企画のメイン実行者の寺沢祐馬(メカオ)の四人です。この四人がいろいろに絡み合って、最終的にDJネガポジの正体というところに行き着きます。ミステリーとして読むとちょっと弱いなという感じはありますけど(特にコーラの推理なんか、探偵というにはちょっとなぁ…という感じもしたし)、でもミステリ-だけがメインという作品でもないし、青春小説として見たら凄く面白いんで、まあそう大きな欠点でもないかなと思います。
ラジオ企画のインタビューの中で、「セカイ系」についてDJと話すというところがあるんだけど、これは面白かったなと思います。「セカイ系」というのは、ライトノベルとかアニメなんかでよく使われる言葉で、一個人の恋愛や人生が世界の崩壊とかとそのまま直結してしまうような、そういう作品郡のことを指すんだけど、その話から、自分と世界の境界とか自分自身の意見を世間の意見にすり替えているとかそういう話が出てきて、この話は面白かったです。しかもこの話、割と作品全体とも関わってくる話なんですよね。
あとインタビューでもう一つ面白かったのは、紅鮭芥子マヨネーズっていうバンドのリーダーですね。楽器も弾けないし、歌も音痴で歌えないのにバンドのリーダーをやっているという奇妙なこの男の話も実に面白いなと思いました。
というわけで、やっぱりレベルの高い作品でした。面白いんだよなぁ、ホントに。何かきっかけがあって売れてくれれば、そのまま中堅クラスの作家ぐらいには位置づけられると思うんですけどねぇ。もう一回、竹内真の作品でも売ろうと頑張ってみようかなぁ。本書も面白いですよ。ぜひ読んでみてください。

竹内真「文化祭オクロック」




フリーター、家を買う。(有川浩)

どうも寝れないんで感想でも書いてみます。あんまり時間をかけたくないんで、本屋の話は省略。
内容に入ろうと思います。
主人公は、25歳のフリーター・誠治。二流の私立大学を卒業し就職したものの、何となく嫌気が差して三ヶ月で退職。実家で親の脛をかじりながら、適当にバイトをするという生活になる。当初はやっていて就職活動も段々おざなりになっていき、誠治は完全にフリーターとして生活をしていた。働いていたバイト先も適当に辞めてしまうほど、やる気も根気もなかった。そのくせ、まだ若いしなんとかなる、自分がやるべき仕事はどこかにある、と信じているような男だった。
そんなある日。ようやく誠治は母親の異変に気づいた。知った、というべきだろう。名古屋に嫁いだ姉が返ってきているのを見て、ようやく事態を知ったのだ。
母親は、重度の精神病に掛かっていた。
誠治は知らなかったのだけど、姉の話によれば、母親は20年来近所の人から嫌がらせをされていたらしい。誠治の就職の問題や、慢性的な父親の無理解なんかも加味され、母親は精神に異常をきたしてしまったのだ。
もの凄い剣幕で父親を罵倒する姉を見て、誠治は心を入れ替えた。何とかしなくちゃ。とりあえず、就職してお金を貯めないと。母親のストレスは、この家に住んでいることから来ている。この家に住んでいる限り、母親の病状はよくならない。父親は、自分の趣味には金を使うが、精神病は心が弱いからだと言って引越しの必要性を理解しない。何にせよ、父親を説得する段階である程度金が貯まっていないとダメだ。
そこから誠治は、ギリギリ第二新卒として就職活動を始めるのだが、これが箸にも棒にも掛からない。すぐに会社を辞めたことや、バイトが長続きしないことを責められるとどうしたらいいのか分からないのだ。
そんな誠治が、母親の面倒を見ながら就職活動を続け、最終的に就職が決まり、そこで思い切ったように仕事をするようになるまでの話を描いた作品です。
相変わらずですけど、有川浩の小説はとんでもなく面白いですね。つい最近「植物図鑑」を読んだんですけど、このレベルの作品を立て続けに書けるっていうのが驚異的ですね。
作家の力量としては、恐らくトップクラスでしょう。出す作品すべてが標準を遥かに超えるもので、しかも作風が多彩。恋愛モノの小説では無敵の強さを発揮するという強みもあるし、まさにイチローみたいに完璧だなと思っています。
例えば東野圭吾なんかと比べた場合、東野圭吾は「白夜行」「秘密」「手紙」と言ったような超ド級の傑作をいくつも物している一方で、さほどでもないというレベルの作品も結構多い。作品によってばらつきがかなりあって、作家としての力量はもちろんあると思うんだけど、安定感が今一つかなと思うんです(それでも、そこらの作家と比べれば遥かに凄い作家ですけどね)。一方で有川浩の場合、駄作というのがほとんどないと思うんです。今まで、これはつまらなかったなぁとか、これはちょっと普通だなぁみたいな作品が一作もないんです。どの作品も、超をいくつつけてもいいくらい面白い。出す作品出す作品常にこのレベルの水準を維持出来ている作家って、本当に一握りではないかなと思うんです。そういう意味で、有川浩の作家としての力量はとんでもなく高いなと思います。
本書も、まあとにかく面白い。本書は、日経ネット丸の内オフィスでWEB連載した作品らしいんですけど、当初与えられたテーマは「新しい一日」と「オフィスと仕事」だそうで。正直、テーマに沿っている作品なのかどうかは微妙なところですけど。連載中も、読者に「暗い!」と驚かれたらしいし。
初っ端から母親が精神病になるんですから、そりゃあまあ思いですね。でも確かに、今の日本の場合、よほどのことがない限りフリーターでも生きて行けちゃうんですね。僕だってフリーターですけど、全然問題なく生きていけます。もちろん将来の問題とかいろいろあるだろうけど、そういうのを考えさえしなければ、とりあえず目先の時間だけは確保できてしまいます。そんな世の中にあって、実家にいて親の脛をかじっているフリーターが一念発起して就職活動を再開するにはそれ相応の理由が必要になるんだろうなと思います。本書の場合それが、母親の精神病なわけです。
しかし有川浩の小説はどれもそうだけど、初めの設定が見事ですね。本書の場合も、脛かじりのフリーターを始めとして、精神病になっちゃった母親、精神病の存在を認めないプライドの高い父親、常に正論で父親を完膚なきまでに追い詰める姉、というような、これだけの役者がそろっていてストーリーが展開しないはずがないという設定を用意するんですね。
でまあいろいろストーリーが展開していくんだけど、うまいですね、ホント。「フリーター、家を買う。」っていうタイトルだけから判断すると、ちょっと現実にはありえないようなストーリー展開を予想するかもしれないけど、実際は本書のどこを切っても現実的に展開していきます(まあ就職活動の経験のない僕にはそれが現実的かどうか判断できない部分もあるんだろうけど)。就職活動についても、母親の看病についても、父親の変化についても、なるほど実際起こりそうだなぁと思わせるような展開になっていきます。誠治は最終的に就職が決まるんですけど、それもなかなか面白い形で決まっていくことになります。
就職活動をしている間は、家族の問題も同時並行で問題が多発することになりますが、誠治の就職が決まって以降はあまり家族の問題がクローズアップされなくなり、誠治の仕事っぷりの描写がメインになっていきます。いままでダメダメだった人間が、ちょっと面白い立場で仕事をこなしていくという展開は面白いです。中でも、就職したばかりの誠治が、今度は人材を募集する側になるという部分は、それまでの経験が実によく活かされていて面白かったです。
職場では、豊川と千葉という二人の部下が出来るんですけど、この二人が実にいいんですね。有川浩の憧れのタイプを豊川と千葉に詰め込んだようで、僕も確かに豊川にも千葉にも憧れますね。こんな風になれたらいいだろうな、と思わせるキャラクターです。この職場での話も面白くていいですね。
本書の最後の最後に、ホントに少しだけ恋愛っぽい展開になるんだけど、これぞまさに有川浩の本領発揮という感じで、ホントに少ないページ数なのに、実にいい展開を描くんですね。ホント有川浩に恋愛小説を書かせたら鬼に金棒だなと思います。今日本で、有川浩ほど面白い恋愛小説が書ける作家はたぶんいないんじゃないかなと思います。
僕自身も実際フリーターでして、しかも状況は大分違うとは言え、家族との関係もあんまりうまくいっていません。僕自身就職する気がないなど、本書とはいろいろ異なる点もありますけど、でも読んでると身につまされるような感じがしました。僕はサラリーマンとして生きていくことは絶対に無理だと悟っているので(中学の頃からぼんやりとだけどそんなことを既に考えていたはず)、だから今フリーターとして生きているのは自分がそう望んでいるからなんだけど、まあそりゃ不安がまったくゼロというわけではありません。考えても仕方ないんで普段は考えないようにしていますけど、時々将来のこととかふと考えるようなことはありますね。でも、どのみちサラリーマンは無理なんで、フリーターでやっていかないといけないんですけどね。でも誠治みたいな感じの仕事だったらいいなぁ。弟が同じような仕事(一応ネタバレにならないようにどんな仕事か書かないようにしてるんだけど)をしてるから、いつか弟の下で働いてみようかな(笑)。
まあそんなわけでですね、有川浩は最強ですよ、ホント。どれ読んでも外れません。本書もとにかく面白いです。是非是非読んでみてください。

有川浩「フリーター、家を買う。」



ヘヴン(川上未映子)

さて先日ですが、いつものようにFAXを見ていると、PHPからのFAXにこんな感じのことが書いてありました。

『「子どもの心のコーチング」 なんとか書店で週売100冊超え!重版出来。仕掛けがオススメです』

これは嬉しかったですねぇ。何でこれが嬉しいのかというと、この「子どもの心のコーチング」という本、たぶん僕が発掘した本なんです(ちなみにですけど、週売100冊売ってるのはウチの店ではありません)。
この話は前もちょっと書きましたけど、嬉しかったんでまた書いてみます。
2年ぐらい前になるでしょうか。新しく手に入れたちょっとしたスペースに何を置いたらいいか試行錯誤している時に、子育て本を置いてみようと思いました。目の前がヨーカドーなんで、主婦層が来るんじゃなかろうか、とかそんなようなことを考えたんでしょうね。でいろいろ子育ての文庫やら新書やらを試してみることになったんですが、その中の一冊にこの「子どもの心のコーチング」という文庫があったわけなんですね。
100%自信があるわけではないんですけど、たぶんその時点で「子どもの心のコーチング」という文庫を店で平積みしていたという書店は、全国でもウチぐらいだったんじゃないかなぁと思います。それぐらい、別にランクの高い本でもなかったし、新刊というわけでもないんです。ただ一覧の注文書の中から見つけて、これは売れるかもしれない、と思って売り始めたわけです。
これがまあ売れましたね。僕は何度も書いている通り多面展開が好きではないんで、この「子どもの心のコーチング」も一面平積みのみという展開でしたけど、なんと去年のウチの文庫の売上で13位という高順位を記録しました。大河ドラマの原作「天璋院篤姫」や、当時たぶんドラマが放送されていたはずの「探偵ガリレオ」よりも売れているわけで、どれだけ売れたかわかるというものでしょう。「子どもの心のコーチング」の一つ上の順位の本は、流行語大賞にもノミネートされた「蟹工船」ですし。まあ一面平積みのみの仕掛けとしてはかなり大成功と言ってもいいでしょう。
この「子どもの心のコーチング」なんですけど、今年も未だに売れていまして、現在当店での累計売上冊数は310冊です。比較対象がないと多いのか少ないのか判断できないでしょうけど、これはなかなかウチぐらいの規模の店ではなかなかの数だと思っています。
でですね、ウチの店にはPHPの営業さんが来てくれるわけなんですけど、この営業さんにこの本売れてますよと勧めたわけです。それでその営業さんは、自身が回っている他の書店でも「子どもの心のコーチング」を勧めてみたそうで、その結果なんとか書店(ホントに名前は覚えてない)では週売100冊という凄い売れ方をするようになって、でPHPからのFAXにも売れ筋の本ですよと案内が来る事になったわけです。
だからまあ嬉しいわけですね。僕はとにかく既刊をガリガリ売ろうと思っていまして、日々いろんなチャレンジをしています。成功するものも失敗するものもありますが、こうやって他の店にも広がっていくというケースはなかなかないんで、頑張った甲斐があったなぁと思います。
というわけで、これからもいろいろ発掘できたらいいなと思うわけなんですけど、それとは別にもう一つ結論としては、出版社の営業はいろんな書店を回らないといけない、ということですね。特に大手の出版社なんかは大手の書店ばっかり回ってるんでしょうけど、僕がいるみたいな小さな書店だっていろいろやってるんだからおざなりにしちゃあいかんですよ、ということなんです。まあ、確かに僕のいる店ぐらいの規模じゃ、全国的な影響力を生み出すような売上は叩きだせないですけどね、でもそのきっかけを生み出すことぐらいは出来るんじゃないかなと。書店の現場では徐々に、いかにして『売れる既刊』を発掘するかという方向にどんどんとシフトしていっているはずです。出版社の営業さんも、不景気やらで人数が少なかったりして大変でしょうけど、ちまちまとながらいろんなことをやっている書店がいろいろあるはずなんで、ちょくちょく来てくれたら嬉しいんだけどなぁとか思ったりします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
今話題の作品です。
中学生の僕は、学校でいじめられている。蹴られたり嫌がらせをされたりしている。二ノ宮という学年の中心的人物がメインとなって、その取り巻きたちがいじめてくる。僕が斜視で、目とかがちょっと気持ち悪いから、たぶんそれでいじめられている。それでも、僕の世界はここにしかないし、学校に行かないわけにはいかない。嫌なことに耐えながら、始終ビクビクしながら、僕は学校生活を送っている。
ある日筆箱の中に、「わたしたちは仲間です」と書かれた手紙が入っていた。その後も机の中に手紙が置かれるようになった。絶対に二ノ宮たちの仕業だと思った。手紙には、会いたいと書かれていた。僕は、罠かもしれないと思いながら、待ち合わせ場所の公園に向かった。
そこにいたのはコジマだった。コジマは同じクラスの女子で、僕と同じくいじめられている。コジマはあまり風呂に入っていないようで汚いし臭いもする。そのせいでいじめられている。
それから二人は、よく手紙のやりとりをするようになったし、時々会うようになったし、稀に一緒に出かけるようになった。コジマと友達になってからも、いじめがなくなったわけではないし、日常は何も変わっていない。それでも、コジマと一緒にいることで少しは楽になれた。お互いいじめられているからというきっかけで出会った二人だったけど、お互いに相手のことを尊重し、困った時は助け、現実の話をしたり現実を忘れていられるような話をしたりした。
僕にとってコジマはなくてはならない存在になった。いつでもコジマの存在を感じていた。コジマからもらった手紙を読み返すだけで、落ち着いた気分になることが出来た。
でも、状況が少しずつ変化し、二人の関係も徐々に変わっていってしまうことに…。
というような話です。
いやぁ、これは傑作でしたね。すごい小説でした。読んでて楽しくはないんです。エンターテイメントではないんで。読んでると、とにかく気持ちを鷲掴みにされたみたいな感じがして、とにかく苦しかったです。これほど感情が揺さぶられるとは思いませんでした。
正直なところ、僕の中で川上未映子っていうのはキワモノのイメージがあったんです。芥川賞を受賞した時に相当話題になったんだけど、何となく胡散臭い感じがしたんですね。芥川賞受賞作の「乳と卵」も、その内読もうと思いながら結局まだ読んでないですしね。
でも本作は、今結構世間で話題になりつつあるんですね。話題になりきっちゃってからだと逆に興味がなくなるんですけど、話題になりつつある本っていうのはちょっと興味があったんで、読んでみることにしました。
まさかこんなに傑作だとは思いませんでしたね。正直びっくりしました。
とにかく痛いんです。主人公が二ノ宮たちにいじめられている描写ももちろん痛い。いじめのやり方としてはありきたりかもしれないけど、でもやられている人間の視点からの描写というのは相当リアルで、凄まじいものがありました。
でももっと痛いのが、主人公とコジマが一緒にいる時ですね。どちらもいじめられている同士なわけです。お互いに頼れる友人もいないし、親には話せないしで、寄り添うしかなかったというのはもちろんわかる。でも、それでも、二人が一緒にいるシーンというのは僕にとっては凄く痛々しいんです。二人が一緒にいる空気感みたいなものがちょっと耐えられない感じを醸し出している気がしました。
特に、コジマが最後まで必死になって主張していた、『私たちは受け入れているんだ』理論は、凄く痛々しい感じがしました。簡単に書くと、私たちはいじめられているけど、やり返したり反論したりはしない。そうしようと思えば出来るはずだけど、私たちはそうではなくて、いじめられることを自ら受け入れているのだ、というような理屈です(うまく説明できてないけど。ニュアンスがちょっと違うんだよなぁ)。確かにコジマの理屈は分からないでもない。コジマはとある事情から風呂に入らないことを決めたわけなんだけど、それによっていじめられることは、自分が受け入れていることなんだと思うことで、いじめている人間を下に見ようとします。
でもこれが、僕にはやっぱり負け惜しみにしか聞こえないんですね。ホントにそうなんだろうか?ホントに受け入れているんだろうか?受け入れているんじゃなくて、諦めているだけなんではないか。僕はずっとそんな風に感じてしまって、だからこそコジマがそれを強く主張する度になんか痛々しく感じられてしまったんです。
もちろん、僕がここで『痛々しい』なんて感想が書けるのは、僕があんまりいじめられた経験がないからでしょう。小学校の時は何だか微妙にいじめられていたような気もするけど、あんまり覚えていないし、大したレベルじゃなかったと思います。なんだかんだ言って学生時代は、中心にはいられないけど中心よりの場所にいたと思っているんで、いじめられる側についてリアルに共感できるかと言われると正直難しいかもしれません。だから僕がコジマや主人公に対して『痛々しい』なんて感想を抱くのは酷いのかもしれないけど、素直な感想として、僕はどうしても二人の空気感に痛々しいものを感じてしまいました。
コジマと主人公には若干のズレがあるんですね。そのズレが、後半重要なポイントになっていきます。コジマは、さっきも書いたように、『私たちは受け入れている』理論を持っているので、その理論を武器に自分を強く保つことが出来る。しかし主人公は、コジマの言っていることを心の底から理解するということはできないし、かと言って自分がどうしていじめられているのか、どうしてこんな状況に陥ってるのか、どうして自分の世界はこんな感じなのかということについて明確な考えを持つことが出来ていないわけなんです。ぼんやり何かを考えることはあっても、結論は出ない。コジマのように、これは自分たちが受け入れているんだし、この経験は無意味なんてことはありえないんだ、と強く思うことは出来ない。そのズレが、最終的に二人の関係性を決定づけることになってしまいます。
本書の中で圧巻だったのは、主人公がいじめグループの一人である百瀬と話をするシーンでしょう。このシーンは正直僕は感動しました。
学校以外の場所で百瀬を偶然見つけた主人公は、勇気を出して百瀬に話しかけ、自分をいじめていることを中心にいろんな問いかけをします。そうやって議論めいたものに発展していくんだけど、この議論の素晴らしいのなんのって。
百瀬と主人公ではあまりにも価値観が違いすぎるんで、純粋に議論として成立してはいないんですけど、ただ強引に一つの議論だと解釈した場合、この議論は圧倒的に百瀬の勝ちだなと思いました。もし同じ場面で百瀬に反論しなくてはいけなくなっても、ちょっと僕にも適切な反論が展開できないと思わせるような、そんな議論でした。お互いに価値観があまりにも違いすぎるために、厳密には議論とは言えないわけなんですけど、要するにこういうことです。百瀬の言っていることに的確な反論をするには、百瀬の土俵に上がらないといけないんだけど、でもそうしたら完全に負けてしまう。主人公は、百瀬の土俵に上がって負けるか、あるいは議論を諦めるかのどちらかの選択肢しかないということになります。
この二人の話については、要約するのも結構難しいんで、是非本作を読んで欲しいわけなんですけど、一つだけ、百瀬が言ったことで、これこそまさにいじめの本質かもしれないと思えるような文章がありました。

『ただ人には、できることとできないこと、したいこととしたくないことがあって、まあ趣味があるってことなんだよ。できることは、できてしまうという、ただそれだけのシンプルな話だよ』

これは、まさにその通りだなと思いました。二ノ宮や百瀬は、『いじめ』なんて酷いことが出来てしまう人間で、主人公はいじめられてもそれに刃向ったりすることがどうしてもできない人間なんですね。できることはできてしまうというそのシンプルさだけが、『いじめ』というものからあらゆるものをはぎ取って残るものなのかもしれない、と思いました。
あと、『自分がされて嫌なことは人にはしてはいけない』というのがいかに欺瞞であるかという話で百瀬が出した例があまりにもぴったりで、なるほど確かにその通りだと認めざるおえませんでした。僕が例えば教師だとして、ちょっと百瀬に理屈で反論するのは難しいだろうなと思いました。ルールというのは、価値観があまりにも違いすぎる人間を抑制するためにあるのだなと、そんな当たり前のことを思わされました。
そんなわけで、とにかく凄かったです。読んでいる間ずっと苦しい小説なんかなかなかないですね。読んで楽しい小説ではありませんが、傑作であることは間違いありません。心が揺さぶられます。是非読んでみてほしいと思います。
帯にいろんな人のコメントが載っているんですけど、僕が一番好きなのは、青山ブックセンター六本木店の間室さんのこのコメント。

『少女が自分の全存在をかけて、彼に「向こう側」の輝きをあげようとしたように、川上未映子はこの高桂に読み手をつれて来るために、400枚をつっ走った』

川上未映子「ヘヴン」




バースデイ・ストーリーズ(村上春樹編訳)

そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、村上春樹が編者となり、ここ10年くらいの間に発表された海外作家の誕生日に関する短編を集めた作品です。最後に村上春樹自身が書いた誕生日に関する短編も収録されています(書きおろし)。

「ムーア人」ラッセル・バンクス
セレモニーで演劇をやった後で、メイクが残るその顔でバーへ。そこで、見覚えのある一人の老女と出会う。

「ダンダン」デニス・ジョンソン
知人の農場へ行くと、その日誕生日を迎えた知人が、麻薬でラリって友人を撃ってしまっていた。

「ティモシーの誕生日」ウィリアム・トレヴァー
毎年両親とともに誕生日を過ごすことが好例となっていた青年が、どうしても実家に戻りたくなくて、嘘をついて使いの者をやってしまう。

「バースデイ・ケーキ」ダニエル・ライオンズ
毎週土曜日に行くケーキ屋で、ケーキを買い忘れてしまったという女性から、最後に一つ残ったケーキを譲ってもらえないかと相談される。

「皮膚のない皇帝」リンダ・セクソン
少年の誕生日を祝いにやってきた三人の老女は、少年に「皮膚のない皇帝」という話をしてあげる。

「ダイス・ゲーム」ポール・セロー
仲睦まじい夫婦の夫の方はサーファーと賭けごとをしている。奥さんの姿は見えない。話を聞くと奥さんは別の男と部屋にいるらしい。

「永遠に頭上に」デイヴィッド・フォスター・ウォレス
これは途中で読み飛ばしたんだけど、プールの飛び込み台から少年が飛び込む話。

「慈悲の天使、怒りの天使」イーサン・ケイニン
誕生日当日、窓を開けたら部屋の中に鳥が入ってきて、動物愛護協会に電話をする。

「バースデイ・プレゼント」アンドレア・リー
会話のなくなった夫婦。妻は夫の誕生日に、最高級の娼婦をプレゼントすることに決める。

「風呂」レイモンド・カーヴァー
誕生日を迎えた少年は車に轢かれてしまう。昏睡状態で入院する少年を看病する両親にケーキ屋から電話。

「バースデイ・ガール」村上春樹
20歳の誕生日、バイトをしていたレストランのオーナーの部屋へ初めて料理を持って行った少女の話。

という感じです。
残念ながら元々あんまり外国文学とかは得意ではないんで、本書も収録されている作品のほとんどがダメでしたね。まあ読む前から何となく分かってはいましたけど。たぶんこの作品は僕には合わないだろうなぁ、って。じゃあ何で買ったんだよって話ですけどね。
僕が好きだったのは、「バースデイ・ケーキ」と「風呂」と「バースデイ・ガール」です。
「バースデイ・ケーキ」は、実に偏屈な老婆が主人公です。この老婆は毎週土曜日にケーキを買う習慣があって、それはもうそのケーキ屋の先代の主人の頃からずっと続いているものです。その日ケーキ屋に行くのは少し遅れてしまったんだけど、いつも買いに行っているのだからまだ開いているだろうと思っていきます。
するとそこには一人の女性が。その女性の子供が今日誕生日らしいんだけど、その女性はあまりにも忙しくてケーキを買うことが出来なかった。今の時間ではもう開いているケーキ屋はないし、どうかあなたのケーキを譲ってもらえないでしょうか、と言われるわけです。
最終的にその老婆は、ケーキを譲らないんですね。なんだこのババア、とか思っちゃうんだけど、最後まで読むと、なるほどそうかぁ、という感じになります。なかなかいい終わり方だった気がします。
「風呂」の方は何とも奇妙な話でした。誕生日を迎えた少年が車に轢かれてしまい、その看病をする両親の話なんだけど、正直言ってただそれだけの話です。でも何か面白い。不思議な感じの作品だなと思いました。
村上春樹の「バースデイ・ガール」もよかったですね。20歳の誕生日に、どうしても都合が合わなくてアルバイト先のレストランで働いている女性が、ふとしたことから今まで見たことがなかったオーナーの元へ夕食を運ぶという話です。そこで女性はちょっと奇妙な体験をした、という話ですね。村上春樹の短編は僕はあんまり得意ではないんだけど、この話は分かりやすくてよかったなと思います。
他の作品は、よく分からなかったり僕には合わなかったり読みにくかったりといろいろあって、僕にはダメでしたね。まあ面白い短編が三つも見つかったんで、よかったとするところでしょうか。
オススメ出来るかどうか、というのは難しいところですけど、海外文学作品が苦手ではないという人は、チャレンジしてみたらいいかもしれません。自分の知らなかった作家を発掘するという意味では、こういうアンソロジーはいいですよね。

村上春樹編訳「バースデイ・ストーリーズ」



植物図鑑(有川浩)

昨日データを見ていると、ものすごく変なのがありました。
14日付の荷物(これは13日に入荷するんですけど)の一部(文庫)が、13日に返品されているんですね。
おいおい、って感じです。
もちろん、入荷したものをすぐ返品する、というケースはあります。でもそういう場合は、本が汚いとか破れているとかそういう時で、しかも再度発注を掛けてから返品をするわけです。
でも昨日発見したものは、再発注がされていない状態で返品されていたわけです。
考えられる仮説は僕には一つしかなくて、補充の荷物を間違って返品だと判断されてしまったのではないかということ。
ウチの店は、補充を開ける場所と返品を切る場所が同じスペースにあります。即ち、同じ空間に、補充の荷物と返品の荷物が同時に存在することになります。だから間違って、補充の荷物が返品の山の中に混ざってしまう可能性もゼロではない状況になっているわけなんです。
今回はすぐ気付いたからよかったけど、もしかしたら過去にも同じようなことが起こっていたりするのかもしれません。だとしたら最悪だなぁ。何とかならんものか。
あとまったく別の話になりましたが、こんなニュース。

http://www.shinbunka.co.jp/news2009/10/091014-01.htm

二見書房が出した「読めそうで読めない間違いやすい漢字」というベストセラーが、飴とコラボする、というニュースです。飴の個包装にそれぞれ漢字クイズがあり、裏に答えがつくらしい。面白いのは、飴の名前そのものが本のタイトルとまったく同じになる、ということでしょうか。
書店的に興味深いのは、書店の取次でもこの飴を扱う、ということでしょうね。書店の取次というのはもちろん通常では本しか扱わないわけですけど(もう少し広く言えば、雑誌コードかISBNのついたものを扱う、ということです。ISBNコードのついたDVDなんかも扱ってますね)、でも書店取次が飴を扱うというのは相当稀なことではないかなと思います。まあ、書店が発注するかどうかはわかりませんけどね。どうでしょうか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
どこにでもいるような、ごくごく普通のOLのさやか。ある日終電ギリギリで帰ってきた飲み会の後、マンションの前で男が行き倒れていた。思わず声を掛けると、「お嬢さん、よかったら俺を拾ってくれませんか。咬みません。躾のできたよい子です」という。
いい男だったし。
というわけでさやかは奇妙ななりゆきから、その男と同居生活をすることになった。彼について知っているのは名前だけ。樹と書いてイツキ。
イツキは料理の腕がハンパなかった。同居の条件として家事全般をイツキが引きうけるということになったのだけど、節約家だしマメだし料理はうまいしでいうことなしのハウスキーパーである。
イツキにはもう一つの顔があった。それが、植物オタクとしての顔である。
イツキは休みの日になると、さやかを外に連れ出した。川べりやちょっと行った先にある小さい山、あるいはその辺の道ばたにさやかを連れて行って、普通の人には雑草にしか見えない植物を摘んでは、それを使った絶品料理をさらっと作ってしまうのだ。『雑草という名の草はない。すべての草には名前がある。』と昭和天皇は仰ったそうですけど、まさにその通り。しかも無造作に適当に生えているように見える草がまたとんでもなく美味なのだ。さやかは当然のことながら、自分を新しい世界に引き込んでくれるイツキに惹かれていくことになる。
しかしイツキが何か隠しているということにも気が付いていた。
触れられたくない部分があるらしく、そういうことを聞かれると黙ってしまう。嘘はつけない。さやかもそれ以上突っ込むことができないでいる。
いつか目の前からいなくなってしまうかもしれない。そんな一抹の不安を抱えながら、さやかはイツキとの探検を心の底から楽しむのだけど…。
というような作品です。
いやぁー、べらぼうに面白かったですね!僕は恋愛小説とかって、読むけどそんなに得意というほどでもないんですね。でも、有川浩のど真ん中直球、ベタ甘ラブラブ小説は、このベタ甘っぷりはわざとだよなぁというのが凄くよく分かるんで相当好きです。有川浩の恋愛小説は、エンターテイメント色を失わず、一方で楽しく読める恋愛小説なので(恋愛小説には、重かったりめんどくさかったり複雑だったりするのもあるじゃないですか。有川浩の恋愛小説にはそんなの無縁)、メチャクチャ良かったですね。やっぱ有川浩はいいですね。ホントレベルの高い作家だなぁと思います。ただ恋愛小説だけじゃなくて、「空の中」みたいな作品もまた書いてほしいものですけどね。最近では、『恋愛小説の有川浩』みたいな感じになってしまって、そういう作品が結構増えましたからね。まあそれを望んでいる読者が多いんだろうから仕方ないのかもしれないけど、僕なんかは「空の中」みたいな傑作をまた書いてくれると嬉しい限りですね。
本書はとにかく、メインとなって出てくる登場人物が、さやかとイツキしかいません。で、ストーリーも、ほとんどが雑草を取りに出かけ、それを料理するというパターンです。そう説明されるとちょっとつまらなそうな小説に聞こえるかもしれません。
しかしまあこれが滅法面白い。まず素晴らしいのは、さやかとイツキの関係ですね。まぁベタ甘な恋愛小説ですけど、でもですね、初めはただの同居人なわけですよ。イツキも、「咬みません。躾のできたよい子です」なんてことを言うわけですからね。そんな状態からどうやって恋愛に発展するのかという部分もいいし、恋愛になってからのアマアマっぷりいいし、そしてその後の展開もなかなかいい。
とにかくイツキのキャラクターがいいんですね。うまく説明できないんですけど、ホストからチャラさを抜いた感じ、というような具合でしょうか。つまりですね、女あしらいは抜群にうまいくせに、チャラチャラしていないし餓えてもいないわけなんです。イマドキの草食系男子という感じでしょうかね。気遣いが出来て優しいし、料理を始め家事全般が完璧だし、しかも律儀で道徳的。植物オタクであるという点がマイナスにならないのであれば、これほど素晴らしい男はいないでしょう。
さやかもなかなかいいキャラしてますね。細かいところはそんなに気にしないし、素直で優しい。反応が分かりやすいし、自分の誕生日を忘れるくらい鈍かった理と、キャラクターとしては見ていて実に楽しいですね。
さらに、本書のメインとでもいうべき植物に関する話がまた実にいいですね。著者は実際イツキみたいに草を取ってきて食べるのが好きらしく(某社の担当編集者は、初対面の人に有川浩を紹介する時、「有川さんて道端の草とか食べるの趣味なんだよ!」というらしい)、本書の最後に少しだけ載っている雑草レシピも、すべて自分で作って食べてみたことがあるという(レシピ自体はいろんな本やマンガを参考にしているらしいけど)。まあ確かに、本読んで調べただけじゃこんな作品は書けないでしょうね。僕らの日常の圏内にあるのに、普段はまったく知りもしないし目にも入らないものが相手ですからね。これはホント経験者にしか書けない小説だなと思いました。
しかし雑草(雑草という名前の植物はないんだけど)の話だけでよくもまあこんなストーリーを作れるものだなと、相変わらずのストーリーテリングの高さに脱帽と言った感じです。しかもそれが恋愛小説に結び付いちゃうわけですからね。雑草と恋愛小説。ありえないですね。そのありえないことをしちゃうのが有川浩なわけですね。やっぱ凄いわ。
しかしなぁ、イツキくらい料理がうまいっていうのは羨ましいなぁ。料理って、絵を描くとか歌を歌うみたいに、センスだと思うんですよね。確かに、レシピ本とかそういうの見ながら作れば、そこそこの物は作れるでしょう。でも、作ってみたことのない料理、あるいは使ったことのない食材を使った料理を作るなんてのは、まさにセンスでしょうね。で、イツキはそのセンスの塊みたいなヤツで、いいなぁと思います。別に普段自炊とかしないんでいいんですけど、努力とかしないである日突然イツキと同じくらい料理が出来るようになったら、僕も自炊するだろうなと思います。ま、当たり前ですけど(笑)。
表紙は、森見登美彦の「夜は短し歩けよ乙女」のカバーなんかと同じイラストの人かと思っていたんですけど、全然違いました。似てるんだけどなぁ。この表紙の絵も実にいいですね。さやかが黒髪なのが実に萌えます。
まあそんなわけでですね、相変わらず有川浩のレベルが高いなぁと思い知らされた作品です。絶対に面白いんで、是非とも読んでみてください。

有川浩「植物図鑑」




復讐法廷(ヘンリー・デンカー)

こんなニュースがありました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091014-00000004-jij-soci

北海道の古書店で、本棚が倒れて子供が重傷、というニュースです。
本棚を床や天井に固定していなかったから、ということなので、普通の新刊書店とかではなかなか起こりえない事故だと思うんだけど、なんか古書店とはいえ、こういう事故が起こってしまうのは残念だなと思いました。
今日は、ヴィレッジヴァンガードについて書こうと思います。元ネタはこちらです。
友人の代理でヴィレッジヴァンガードの株主総会に出た人の話なんだけど、その中で興味深い数字が出ていました。
それが、売上における書籍の売上比が、13.5%だというのです。
1999年時はそれが30%弱だったらしいので、半分以下になっているというのが現状のようです。
ヴィレッジヴァンガードっていうのは、見かけると確かに入ってしまう店です。特に何か買うことはないけど、本に限って言えば、よくもまあこんな品揃えで成り立つものだなぁといつも思ってしまいます。それはつまらない本が置いてあるというのではなく、売れそうにない本が置いてあるからなんですね。その『売れそうにない』というのは、普通の新刊書店に普通に置いていても売れないだろうな、という本で、それをヴィレッジヴァンガードは、本を雑貨のように扱うことで売っているわけです。だからこそ、普通の新刊書店では売れない本が売れているわけなんですけど、しかし現実としては、書籍の売り上げ比率がどんどん下がっているのだそうです。
ちょっと前に、書店の経常利益率ランキングという記事を見つけたんだけど(こちらです)、ヴィレッジヴァンガードは11.1%と他を圧倒するとんでもない数字です。しかしそれは一方で、雑貨の売り上げ比率がどんどん上がってきている、ということでもあるんでしょうね。他の新刊書店の数字を見ればわかるように、新刊書店の経常利益率は1~2%程度です。本の売上が高かったらそこまで高い利益率にはならないでしょう。
でも、利益率の高い雑貨が売れてるならいいじゃん、という人もいるでしょう。でも、それはなかなか厳しいかもしれません。もし仮に、ヴィレッジヴァンガードに本が置いてなかったら、僕はヴィレッジヴァンガードには行かないでしょう。ただの雑貨屋になってしまった場合、あそこまでお客さんが店にやってくるのかどうか、僕には疑問です。ヴィレッジヴァンガードというのは、本屋なんだけど雑貨にも力を入れている、という形態だからこそうまくいっているはずで、基盤となる本が売れていないとすると、厳しくなるでしょう。
原因は分かっているんだそうです。昔は、本が好きなスタッフが入ってきていたけど、最近は雑貨が好きなスタッフが多く入っているという。そりゃあ、雑貨中心になっても仕方ないでしょう。ヴィレッジヴァンガードに合う本って、相当本好きじゃないとセレクト出来ないと思うんです。そういう人が、本屋としての魅力を失いつつあるヴィレッジヴァンガードで働きたいと思うのか。根本的な解決が難しそうな気がしますね。
ヴィレッジヴァンガードみたいな異端児はぜひとも残ってほしいと思うんで、頑張ってほしいものですね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、1984年に邦訳され、その年の週刊文春ミステリーベスト10第1位を獲得した作品で、残念ながらその後絶版になっていた作品です。つい最近復刊されたんですけど、WEB本の雑誌の横丁カフェという書評(こちらです。ただこの書評、ネタばれがあるので注意。ネタばれされた状態で読んでも十分面白い作品ですけど、何も知らないまま読みたいという方は書評は見ない方がいいかと)で紹介されていて、面白そうだなぁと思ったので読んでみることにしました。
倉庫会社の事務員をしているデニス・リオーダンは、60年以上生きてきて些細な犯罪行為すら犯したことのない、実に真面目な男だった。その彼がある日、州外に拳銃を買いに行き、そしてその拳銃である黒人を射殺したのだった。
リオーダンはその足で警察に出向き、自白をするから裁判をしてくれ、とまくしたてる。そうして裁判に掛けられることになるのだ。
リオーダンには娘がいた。しかしその娘は、一人の非道な黒人の手によって強姦され、そして殺されてしまった。
クリータス・ジョンソンというその黒人は、職務質問をされた後、身体検査で女性物の装身具が見つかり、連行される。すぐさま、近くで起こった強姦殺人事件の犯人だと判明したのだが、しかしなんとクリータスは、別の事件で保釈中であったために、強姦事件について無罪放免、釈放されてしまうのだった!
その対応に納得がいかず、はらわたが煮えくりかえったリオーダンは、自らの手で裁きを与えるべく、クリータスを射殺したのだった。
リオーダンは自白の中で、はっきりとクリータスに対する明確な殺意を語っている。裁判以外のやり方でならまだ刑が軽くなる可能性もあるのだが、とにかく裁判に掛けられることを望んでいるのだ。
とある事情で検事から弁護士になったばかりのベン・ゴードンは、ひょんなことからリオーダンの弁護を担当することになった。証拠だけから判断すれば、どう考えても明らかに有罪であるこの事件。しかしゴードンは、被害者は公正な弁護を得られるべきだという信念の元、考えうる限りの手を尽くしてリオーダンを弁護するのだが…。
というような話です。
僕は外国人作家の作品は苦手なんですけど、この作品はすいすい読めました。いつもは、文章が合わなかったり、登場人物の名前が覚えられなかったりして読み進めるのに苦労するんですけど、本書はとにかく読みやすかったですね。25年ぐらい前の作品ですけど、文章や登場人物は古びていないなぁという感じがしました。
内容的にはまさに法廷物で、法廷での闘いが本書のほとんどを占めます。これがまた迫力があるというか、緊張感に溢れているわけなんです。著者は元弁護士らしく、さすがにリアリティがあります。裁判とか見たことないし、ましてアメリカの裁判なんか映画とかでさえ見たことないと思うんだけど、一つ一つのやりとりとか議論の応酬、細かな戦略なんかが本物っぽい感じがして面白かったです。特に途中でゴードンは、それまでの裁判ではありえない(詳しいことは知らないけど、本書を読む限りそうらしい)トリッキーな手を使うことになります。ネタばれになるからそれがどんな手なのかは書かないけど、そこでの議論の応酬は緊迫感があってよかったです。
本書は、リオーダンという一人の男を裁く裁判なわけですけど、同時に法律の問題についても焦点が向かうことになります。それが、まさにクリータスを釈放させることになった、ニューヨーク州の特殊な法律です。なかなか複雑なので、どんな法律なのかはここには書かないけど(この法律ってまだあるのかなぁ)、その法律のおかしさについては誰もが理解出来るような、そんな内容です。
リオーダンは、法によって守られたクリータスを自ら裁くべく殺人を犯した。ゴードンは、法そのものに重大な問題があるのではないか、という方向に陪審員の目をむけさせることで、裁判の流れを変えようとしたのだ。
この陪審員の存在も、裁判員制度が始まった今となっては以前よりはより近いものと思って読めるのではないかなと思いました。アメリカの陪審員と日本の裁判員では役割が違うけど(僕の知識によれば、アメリカの陪審員は有罪か無罪かだけを判定するけど、日本の裁判員は有罪だった場合の量刑まで決めるんだったと思う)、とはいえ一人の人間の運命を握るというその重大さについては理解できるのではないかなと思います。まあ、本書で描かれる陪審員は、他の事件の陪審員よりも遥かに厳しい状況に置かれるわけですけどね。実に難しい判断を迫られる。陪審員が最後いかなる結論を下すのか、そこに至るすべての過程が迫力がある作品だなと思いました。
外国人作家の作品にしては実に読みやすいし面白い作品だなと思いました。外国人作家の作品を苦手にしている人でも読めるんじゃないかなと思います(外国人作家の作品が苦手な僕もすいすい読めましたし)。なかなか骨太の法廷物です。ぜひ読んでみてください。

ヘンリー・デンカー「復讐法廷」



トラウマの国 ニッポン(

今日、「深イイ話」というテレビ番組を見て、へぇそうなんだと思ったことがあるんで書いてみます。
「世界の中心で愛をさけぶ」とか「ホームレス中学生」とか「蹴りたい背中」のような大ベストセラーがありますよね。こういう本には、ある特徴があるんだそうです。
それは、紙の厚さ。
他の本で使われている紙よりも、1.5倍くらい厚い紙を使っているんだそうです。
じゃあ何故そんなことをするのか。
普通に考えれば、紙が厚くなれば本自体も厚くなるので、持ち運びに不便とか長いとか、そういうマイナスの印象を与えそうです。
それでも紙を厚くした理由は、達成感を与えるため、なんだそうです。
上に挙げた三作の現物を見たことがある人なら分かるでしょうけど、どれもページ数はさほど多くありません。大体200ページ前後というところじゃないでしょうか。普通の紙で製本した場合、もの凄く薄くなってしまう。それだと、読み終えた時の達成感が少ない。
紙を厚くして本自体を厚くすれば、読み終えた時の達成感がより得られる。だからこそ売れたのだ、という話でした。
うーん、ホントかよ、とか思いましたけど。
確かに紙の厚さについては、本によってかなり違います。以前いろいろあって伊坂幸太郎さんにお会いしたことがあるんですけど、その時伊坂さんは、『誰も誉めてくれないけど、「ゴールデンスランバー」という作品は、紙も薄いのを使ってお金がかかってるにも関わらず、あのページ数であの値段設定は結構頑張ってるんですよ』みたいなことを言っていました。「ゴールデンスランバー」という作品は確か400ページ以上はある結構長い作品なんですけど、でも本の厚さだけを見ればそんなに長いようには思えないんですね。薄い紙を使ってるからなんでしょう。でも、値段自体は高くなりすぎないように頑張ったんだそうです。なかなか分かりませんよね、そんなこと。
東野圭吾の「超・殺人事件」という作品の中には、重ければ重いほど本が売れる、という短編があります。内容をちゃんと覚えているわけではないんだけど、世の中の流れとして、本は重ければ重いほどいいという価値観になっている。だから製本する時、表紙に鉄板とかを入れてわざと重くする、みたいな話です。最終的には1冊5キロ以上あるようなとんでもない本が出来上がるような話だったと思いますけどね。
確かに本の『見た目』というのは多少は重要なのかもしれないけど、それによってベストセラーになる、というのはちょっと違うんじゃないかなぁと思います。でも、分厚いんだけどページ数はそんなに多くないという本は、確かに最近のあんまり本を読まない層にはアピールするのかもしれませんね。ページ数ではなく、こんなに厚い本を読めた、という達成感が得られるのかもしれません。しかしそんなことで本が売れるんだとしたら、何だか作家もやってられないという感じでしょうね。どうなのか分かりませんけど。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、実に説明しにくい本です。一応ノンフィクションと言えばノンフィクションです。著者が、日本のちょっと変なところを顕微鏡で拡大して書いている、と言ったような作品です。
とりあえず各章のタイトルだけでも書き連ねましょうか。どんなテーマで書かれているのかだけでも伝えないと、内容紹介になりませんからね。

「トラウマへの道 本当の「自分」」
「ふつうの人になりたい 子供たちの「夢」」
「ゆとりの勉強 「教育」の空回り」
「生きる資格 「能力」の証明」
「ユーモアを身につける 「話し方」の学校」
「Simple&Clear? ビジネスマンの「英語」」
「お金の気持ち 「地域通貨」の使い道」
「妻の殺意 「夫婦」の事件」
「愛の技法 「セックス」を読む女」
「生きざま革命 「日本共産党」の人びと」
「せわしないスローライフ 「田舎暮らし」の現実」
「自分とは何か? 「自分史」を書く」

と言った具合です。
例えば初めの「トラウマへの道」は、著者自らがトラウマセラピーみたいなところに行く。そこで自分のトラウマを話さないといけないんだけど、どうにも思い当たらない。他の人は、自分のトラウマをすらすらと喋っている。トラウマが思い当たらないという話をすると、「それは抑圧されているだけ」とか、「トラウマがないことだってトラウマなのよ」なんてことを言われるのだ。
トラウマセラピーに参加している人にいろいろ話を聞いてみると、家族の一人がトラウマに気づくと、まるで伝播するかのように他の家族もトラウマに気づくとか、セラピーの過程で新たなトラウマを思い出すという人もいる。中には、「(トラウマが)治ったらどうしようかと今、真剣に悩んでいます」という参加者さえいる。
みたいな話を淡々と書くわけなんです。
これがもう面白くって面白くって。一番初めの話から笑いっぱなしでした。
著者は真面目に取材をしているんですね。で、取材を受けている側も真面目に答える。でもそれがどうもかみ合わない。取材する側である著者の『先入観』(この『先入観』は一般的な読者が持っているものと同じなんだけど)と、取材相手の話す内容に大いなるズレがあるのだ。著者は、そのズレを余すところなく切り取ってくる。著者と同じ『価値観』を持っている読者は、取材によって浮かび上がってくる現実の違和感が面白くって仕方ないのだ。
次の「ふつうの人になりたい」も面白い。小学生に将来の夢を聞くんだけど、みんな「ふつうの人」になりたい、というのだ。それは具体的にどういう人かと聞くと、小学生の一人は塾の窓から外を歩いているサラリーマンの一人を指さし、「ああいう人」と答えるのだ。とにかく、夢に限らず、あらゆる判断において『ふつう』という答えが優先されるのだ。目立ちすぎず、かと言って目立たなすぎず、ふつうのポジションを維持する。今の小学生にとって、それが一番重要なことらしい。
しかも彼らの生活もまた面白い。まず朝起きたらまず何をするかというと、二度寝をする。とにかく一日中ずっと眠いしだるいのだという。朝はまさに『じごく』なのだという。
いじめをするつもりはないのか、と聞かれると、「ない。だって、いじめてるヒマないから。そんなヒマあったら、他のことで遊ぶ」と答える。またある小学生は、家についたらゲームをやるらしいんのだけど、『ゲームにとびついてゲームをやります。でもやっているうちにあきてくるので、「早く終われ」という言葉を50回ぐらいくりかえしてやっと終わって、その後はじゅくのしゅくだいをやったりしています』なんてことを書く。ゲームさえ、「早く終われ」と念じながらやっているのだ。
つづく「ゆとりの勉強」も小学生の話だけど、こちらも面白い。授業はあまりにも復習ばかりで「だるい」のだけど、先生に腹が立つことはあまりなく、割と同情的らしい。「先生の苦労に比べれば、ボクたちの苦労なんて知れたもんだよ。だって、ボクたちはあと八か月の辛抱なんだから」なんて達観したことを言う子供もいる。学校はどんな場と聞かれれば、「人間関係を学ぶ所ですよ」としれっと答えるし、土曜日が休みになったせいで平日の授業がキツくなり、友達と予定が合わなくなって遊べくなったから塾を止めたなんて子供もいるらしい。
と言った具合に、僕らが何となくイメージしていることとはかなりズレた現実が本書では描かれるのだ。
他にも、資格を取ろうとみんな頑張ってるけど、取ったって何にもならない、むしろ邪魔でさえあるという話や、田舎暮らしはまったくのんびり出来ないという話、妻はセックスに満足していないとか、妻は夫に殺意を抱いているとか、そういう話が出てきて、とにかく面白いんですね。なかなかこの面白さは文章で伝えづらいですね。
草津市での地域通貨の話も面白かったなぁ。草津市には「ありがとう」と「おうみ」という二種類の地域通貨がある。著者は、地域通貨だけでしばらく生活しようと試みるのだけど、まずみんなそもそも「ありがとう」の存在を知らない。何それ、と聞かれ、何故かその存在を著者自身が説明するという事態に陥ってしまう。
もっと面白いのが「おうみ」の方だ。これはもともと地域通貨でも何でもなかったのだけど、いろんな事情があって(その経緯はめんどくさいから書かない。本書を読んでください)、地域通貨として成立させないとならない状況になった。しかしそんないやいやな地域通貨が広まるわけもない。しかし一方で、草津では面白い地域通貨の試みをやっているということでテレビの取材が来てしまった。実態はまったくないに等しい地域通貨なのに、地域通貨の存在だけがマスコミによって一気にクローズアップされてしまったために、いろいろと問題が起きたらしい。
妻が夫に暴力を奮うという話ではこんな話になる。妻が夫を殴るのには、夫側に問題があることが多い。そうなると夫としては、妻に殴られるのは仕方ないと思ってしれっとクールな顔をしてしまうらしい。妻としてはそれがムカツク。妻としては、反省してるみたいにしてほしくない。そうなると、殴ってる自分が悪いみたいに思えてくる。じゃあどうして欲しいのか。やめろ!とか言って抵抗して欲しいらしい。こっちが怒ってるんだから、そっちも怒るなりなんなりして欲しい、ということらしい。わからなくもないような話だけど、僕には理解できない。夫婦というのは僕には異次元の話である。
「スローライフ」と「セックス」の話では、どちらも同じような話が出てきた。どちらも、満足度に関するアンケートみたいなものをすると、割と満足しているという結果が出てくる。しかし実際話を聞いてみると満足している人は少ない。その理由はこう語られる。
「セックス」の場合だと、「他人に聞かれれば満足していると答えるしかない」。「スローライフ」の場合だと、「家を処分してまで田舎にやってきてるんだから、失敗ですなんてことは言えるわけがない」ということらしい。見栄ということなんでしょうか。アンケートが糞の役にも立たないということがよくわかる話でした。
そんなわけで、まあ面白い本でした。この作家の作品は初めて読みましたけど、ちょっと中毒になりそうな気がします。こんな変わったノンフィクションは初めて読みました。ノンフィクションというと堅そうですけど、まったくそんなことありません。淡々と違和感を描き出すその筆致に何度笑ったことか。面白すぎますね、この人。他の作品もぜひ読んでみたいものだなと思いました。この作品もオススメです。是非読んでみてください!

高橋秀実「トラウマの国 ニッポン」




ギャル農業(藤田志穂)

今日は一念発起の第二弾ということで、部屋中の本を片付けました。今日は売ろうと思う本を箱詰めするという作業をし続けましたけど、これがもう大変なんてもんじゃなかったですね。ついでにした部屋の掃除も含めれば、トータルで3時間ぐらい掛かったでしょうか。ちょっと前に箱詰めしたものも含めて、売ろうと思っている本が段ボール13箱分あります。疲れた、ホント。
さて今日は、ちょっと前の記事になってしまいますけど、こんなニュースから。

http://www.shinbunka.co.jp/news2009/09/090918-02.htm

この記事はどういうことかと言いますと、要するにサンクチュアリ出版が出している「やる気のスイッチ 実践セミナー」という本を、2010年3月まではツタヤが独占販売をしますよ、ということです。
僕もですね、具体的にどういう仕組みでこういう商品が出来上がったのか、その辺りのことはよく分かりません。以前、ディスカヴァー21という出版社が、ある新刊をコンビニに先に卸すということをやって少しだけ話題になりましたけど、これはディスカヴァー21という出版社が直接取引(取次を通さず、出版社が直接書店とやり取りする出版社)だったから出来たことのようです。でもサンクチュアリ出版って、普通に取次と取引している出版社だったはずなんで、それがどうしてツタヤで独占販売なんてことが出来るのか、その仕組みはイマイチ分かりません。
しかしこれって、誰にとってメリットがあるんでしょうかねぇ。ツタヤからすれば、ツタヤにしか置いていない本があるということで多少の集客効果があるのかもしれないけど、こういうビジネス書というか自己啓発本を、わざわざそこにしかないからと行って足を運ぶのかというとどうなんでしょうね。これが伊坂幸太郎とか東野圭吾の新刊とかだったらそりゃあ相当の効果があるでしょうけど。まツタヤ側とすれば、売れば売るほど報奨金(1冊売る毎に支払われる、バックマージンみたいなものかな、たぶん)が手に入るらしいんで、そっちの旨みの方が大きいのかな。
また出版社にしても、扱ってくれる書店が多ければ多いほどいいはずです。でも、全国1万店舗以上あると言われる書店の中で、たった800店舗でしか売られないんだから、それが大きなメリットになるのかというと良く分かりません。しかも報奨金も払わないといけないわけですし。出版社としてはどういうメリットがあるんだろうなぁ。
記事の後半にある、「既刊書のインセンティブ販売」というのは正直イマイチよく分からないです。僕のイメージでは、もはやあんまり売れなくなったビジネス書をツタヤの限定された店舗で売ると。たくさん売れば売るほど報奨金が出ますよ、という仕組みなんだろうけど、これもどうなんでしょうね。たとえ販売力がある店舗でも、売れていなかったビジネス書(まあ売れていないというのは僕の予想でしかないけど、売れてるビジネス書をこんな売り方でやる意味がないと思うんで、やっぱりたぶん在庫がだぶついているような売れていない本なんだと思う)をどう展開したところでそれなりの売上しか見込めないんじゃないかなぁ。分からないけど。
まあいずれにしても言えるのは、大資本だからこそ出来る企画だなということです。もちろん資本がなくたって面白い企画はいくらでも出来ると思う。資本がないからと言って何も出来ないと言って嘆いていてはそれはただの逃げだけど、しかし大きなグループであるということを活かした展開を前面に押し出されると、中小の書店はなかなか厳しいですね。要するに、商店街にデパートがやってきたみたいなもので、商店街にいくらいい店があっても、近くにデパートがあったら太刀打ちできないように、小さな本屋が面白い努力をしても、なかなか大きなグループに立ち向かうことは難しいなと思ってしまいます。
まあそれでも、書店というのは小さな規模であってもやれることはたくさんあるという小売業だと思います。他の業界では、値下げやサービスの強化などをしなくては太刀打ちできない状況でも、書店の場合いろんな切り口があるので、やれることはまだまだあるだろうなと思っています。まあいつも同じ結論ですけど、なんとか頑張らないといけないなと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、「ギャル社長」として話題になった著者が現在手掛けている「ノギャルプロジェクト」を一冊の本にまとめたものです。
元々著者は、「ギャル革命」おを掲げて起業をしました。ギャル革命というのは、自身の経験もあり、ギャルというもののイメージ全体が悪くなっていると感じられるので、そのイメージをなんとか払拭しようという意気込みなわけです。格好がギャルであっても、真面目な人もやる気のある人もいる。そういうことをきちんと伝えるためにあらゆることをやったわけです。
しかし、食料問題に興味が行き、企業から4年で社長を引退。現在は「シブヤ米」を、ハチ公の故郷である秋田県で育てたり(つい最近、シブヤ米を収穫というニュースをネットでみました。こちら)、静岡で野菜を育てたりと、実際に自ら体を動かして農業に励んでいるそうです。賛同してくれるギャルを連れて種まきや収穫をしたり、ギャルママを集めて子どもと一緒に農業体験をさせたりと、様々な企画を立てています。その一方で、全国各地を飛び回り、実際に農家の人から話を聞いて、農業の勉強にも勤しんでいるようです。
そんな元ギャル社長の奮闘を描いた作品です。
つい最近出た新刊ですけど、見た瞬間、これは買いだなと思いました。中身はまあ、新書の常としてちょっと薄いなぁという感じではありますが、読んでよかったなと思える本でした。
ギャル社長という存在は知っていたし、ギャル社長が農業を始めたというのも知っていたんですけど、じゃあ実際どういう人なのかというのはまったく知らなかったんですね。僕も世間の人と同じく、『ギャル』というだけでそれなりの勝手なイメージを持っていたように思います。
でも本書を読む限り、ギャルというのは結局ファッションでしかなく、生き方とは関係ないんだろうなと思いました。
やっぱり『ギャル』というと、やる気がないとか適当とか、そんな感じのイメージが出てきてしまうけど、でもギャルにもたぶんいろいろいるんだろうと思います。僕らはギャルのことを全然知らないから、ギャルの中でも凄く奇抜だったりすごく派手だったりするような人をテレビで見てそれで勝手なイメージを作ってるんだと思うけど、こういう著者やその周りにいるようなちゃんとしたギャルもいるんだなと思いました。
僕が著者の一番凄いなと思うところは、とにかく何をするにも常にメッセージがあるということです。
例えば起業した時も、『世間の人にギャルのことをわかってもらいたい』というメッセージがあったし、農業についても、『若い人に農業に興味をもってもらいたい』というメッセージがあります。とにかく、著者にとって、メッセージを伝えるというのがもっとも重要なテーマで、それを実現するにはどうするのかという手段として、起業や農業があるのだなということが凄く伝わってきます。これだけしっかりと伝えたいメッセージを持つことが出来るというのも凄いことだなと思います。
また著者の凄いところは、そのメッセージを伝えるにはどうしたらいいのかということを徹底的に考えているということです。例えば著者は、日本の食料自給率を上げたいと考えていて、ある試算では、日本中の女性が一日に二口のお米を食べれば、食料自給率が1%上がるという話を聞いたようです。でもだからと言って、『身体にもダイエットにもいいからお米を食べよう』というメッセージを発信しない。そうではなくて、『美味しいし、ダイエットにもマイナスではないから、体質的や気分的にイヤでなければなるべく食べてみよう』といメッセージを発信するんですね。
ちょっと話は変わるけど、どうしても大人になると、自分たちが子供だった頃のことを忘れてしまうんですね。大人が子供に向かって言うメッセージは、どれもほとんどが届かない。何故かというとそれは、子供にとってはよく分からないし受け入れがたいメッセージだからです。大人だって自分が子供の頃にそういうことを言われていたら聞かなかったはずなのに、そういうことをすっかり忘れてしまっている。
著者の場合、自身もギャルだというのももちろんあるんだけど、それだけではなくて、どうやったらメッセージが伝わるのかということを最優先で考えている。
だから著者は、イケてる農作業着の開発に取りかかったりもしています。若者に農業に興味を持ってもらいたいと思っているけど、でもファッションがダサいという理由でそもそも入口にさえ来てくれない人がたくさんいるはずだから、だったら可愛い農作業着を作っちゃおうよ、ということなんです。あるいは静岡で収穫した野菜を渋谷のギャルに食べてもらいたいと考えて、飲食店を借りてイベントをやったりします。また、彼女自身が自ら農作業に従事することだって、自分のメッセージを受け入れてもらえるための一つの大きな要因になっているでしょう。
そうやって常に、何をどう伝えるべきかということを真剣に考えている。僕はとにかくそこが凄いなと思いました。
農業については始める前からかなり批判があったんだそうです。『ギャルなのに農業なんてできるのか』『そんな爪で農業が出来るのか』『始めてダメだったらすぐ諦めるんだろう』というような批判です。新しいことを始めようという人に批判が向くのは仕方ないですけど、でも僕なんかからすれば、それが成功するかどうかに限らず、まず行動を起こしたということが凄いじゃないかと思うんですよね。しかも、若者に農業に興味を持ってもらいたいという大きな目標を掲げているわけです。そういう人に、簡単に批判を浴びせるのはどうなのかなと僕は思ったりします。
またこういうこともあったようです。静岡で野菜作りをするというのは、あるテレビのドキュメンタリー番組として追ってもらっていたため、対談の企画もあったんだそうです。その中で出演交渉をしたある人からこんな厳しい意見をもらったのだとか。

『ギャルなんかに「農業」をやるなんて易々と語ってほしくないし、そんな簡単にできるものだと思われるのは、農業をバカにしているのもいいとこ。そんな番組に私が協力できるはずがないし、その子がどれほど、農業を経験しているのか、言ってみなさい。「農業」をやってます、なんていまのレベルで言ってほしくないし、やってみたら大変だったので辞めました、なんていう結果になったら、農家をバカにするのもいい加減にしろ、ということになる。農業は五年やって、やっと少しわかってくるものなんだ』

この人がどんな立場の人なのか僕には知る由もありませんが、しかしこの批判はやっぱりおかしいなぁと僕は思ってしまいます。言っている内容からすれば、農業に何らかの形で関わっているんでしょうし、言ってる内容だって正しいんでしょう。
しかしですね、著者が掲げている目標は、『若者に農業に興味をもってもらう』ということなんです。今農業というのは高齢化が進んでいて、作業が出来る人がいないからほったらかしになっている農地がたくさんあるらしいんです。しかも日本の食料自給率は低い。そういう状況の中にあって、どうにかして若者に農業に目を向けさせるしかない、というのは当然のことだと思うんです。で、実際にそれを目指している若者がいると。だとすれば、確かに初心者だし、すぐ辞めるかもしれないし、農業をナメてるかもしれないけど、でもその壮大な目標に賛同して協力してあげるというのが、今農業に関わっているすべての人がしなくてはいけないことなのではないのだろうか、と思ったりしました(農業にまったく関わっていない僕がこんなことを言うのはおこがましいにもほどがある、というのは十分に理解していますけど)。
著者はこんな風に書いています。

『農業をすることじたいは、今年ちょっと農業に触れただけの私ですら、とても大変だと感じています。
ただ苦しいことやきついことなどの情報はたくさんメディアを通して流れていますが、それでは誰も農業をやりたいと思えないし、どんどん若者と農業との溝が広がっていくと思います。』

まさにその通りだと思うんですね。確かに若者はそもそも農業に興味がないけど、それはある意味で、農業の辛い部分しか知ることが出来ていないからという可能性だってあります。僕だって、具体的なことはほとんど知らないけど、農業は大変そうだなというイメージがあります。もちろん実際大変なんでしょう。でも、大変だ大変だ、きついぞホントに、やっていけるのかな、なんて風な情報ばっかり流しても、結局のところ若者はどんどん農業から離れていくだけです。だったら、たとえ万が一にでも正確な情報が伝わらなかったとしても、農業の楽しい部分、嬉しい部分、あるいは自分たちでこんな風に楽しむことが出来るんだという情報が少しでも流れる方が、確かに誤解を生む可能性はゼロではないけど、最終的には農業の裾野が広がるのではないかなと思うんです。
もちろん、経験も知識も何もない若者に苦言を呈する役割をする人間も必要でしょう。対談企画で要請を断った人も、そういう思いがもしかしたらあったのかもしれません。しかしいずれにしても、大きな目標を掲げてそれに向かって前進している人のブレーキになるようなことは、農業全体にとってプラスには働かないのではないかなと思ったりしました。
というわけで、これからも是非頑張ってほしいものだなと思います。僕もちょっと農業に興味湧いてきましたしね。僕があと思うのは、日本の伝統工芸みたいなもの(輪島塗とかそういうやつ)も若者離れが進んでいるはずなんですね。日本の伝統を守るという意味では、食料と同じくらいに重要ではないかなと思うんです。問題の根っこはどちらも同じで、若者が離れて行っているという現状です。農業の方で一定の成果を出すことが出来たら、伝統工芸とかの方でも何かしてくれたらなぁとか思います。って、全部人任せ(笑)。
そんなわけで、内容的には薄いですけど、いい本だと思います。著者の生き方はメッセージ性が強くて、しかも伝播性が強いなと思います。これからもがむしゃらに行動して、心の底から伝えたいメッセージをバンバン発信して行って欲しいものだなと思いました。

藤田志穂「ギャル農業」



オカマだけどOLやってます。完全版(能町みね子)

さて今日は、昔もなんとなく書いたことがあるかもしれませんが、新刊のランク配本について書こうかなと思います。
まず書店にどんな風に本が入荷するのかという話を書こうと思います。
書店に入ってくる本というのは、大きく分けて「新刊」と「補充」に分けられます。「補充」の方は特に難しいことはないですね。書店の担当者が自らの判断で仕入れる冊数を決め、それが入ってくる、という感じです。普通です。
しかしですね、「新刊」の方はそうではないんですね。こちらには、それぞれの書店毎に新刊ランクというのは設定されていて、それに応じて新刊の配本数が決定するんです。
全国には1万店を超える書店があるようです。その一店一店すべてに、この店はこの新刊を○冊、こっちの店にはこの新刊を△冊、なんて個別に決めているような余裕は出版社にはないわけです。そこで、新刊配本ランクというのが出てくるわけです。それぞれの店の規模や販売力に応じて、ランクが設定されるわけです。標準的な感じだと、1が一番ランクが高くて、それから2、3と低くなって行くに連れてランクも下がっていくという感じになります。
で、出版社は、例えば1万部刷った本の場合、ランク1の店には○冊、ランク5の店には△冊、という数字を決めているんですね。それによって、機械的に新刊の配本数を決定するという仕組みになっているわけなんです。
この仕組みは、うまく機能しているとはさすがに言えないけど、出版社と書店の現状を考えると仕方のない仕組みだなと思います。書店の方は、これから出る新刊がどれぐらい売れるのかという予測をして仕入れるだけの能力がない(人が多いはず、たぶん)、そして出版社側は、個店別に配本数を決定するような人的余裕がない、ということですね。だからまあ仕方がない。
でもやっぱりこれは無理のある仕組みなんですね。
例えばこんなケースがあります。シリーズ物の1巻が発売される時と2巻が発売される時でランクがまったく違ってしまっているので、配本が多すぎる/足りないということになるし、またある作家のシリーズ作品が複数の出版社にまたがっているような場合、別の出版社の売れ行きが考慮されることはあんまりありません。また、ランクが上がれば上がるほど、売れる新刊もたくさん入ってくるけど、どう考えても売れない新刊もたくさん入ってくるんで、その分返品が増えるということにもなります。
しかしですね、まあそれでもこれまでだったら、この新刊ランクによる配本というのは、ものすごく大きな問題を与えることなくそこそこ機能していたと思うんですよ。でも、書店の状況が変わった今、この新刊配本ランクという仕組みは相当無理があるんじゃないかなと僕は思っています。
その変わった状況というのが、新刊が売れなくなり、逆に既刊が売れるようになった、ということです。
最近特に実感しますけど、とにかく新刊というのは売れないんですね。そりゃあもちろん、話題の作家の新刊なんかは売れますけど、そうじゃないようなものはまったく無理。昔の書店は、新刊さえきっちり並べていれば経営は成り立っていたと言います。しかし最近は、本当に新刊がまったくダメです。『新刊』であるという理由だけでは本がまったく売れないんですね。少なくともウチの文庫は、いろいろ事情があって(近くに新刊にめちゃくちゃ強い店があるということですけど)新刊では勝負できないんで、余計に既刊を売り伸ばそうという発想になります。
そういう状況の中で、この新刊配本ランクがどういう弊害をもたらすのか書いてみましょう。
新刊が売れないくせに、既刊がたくさん売れるんで、店の新刊配本ランクが上がる(もう少し詳しく説明すると、こういうことのはずです。新刊配本ランクは、他の店との相対的な売上順位で決まるはず。世間的に新刊が売れていないというのはどこも同じなんだけど、ウチの店では新刊はもう売れないという認識をしているから、既刊をなんとか売ろうとあれこれやっている。だからこそ、新刊をメインで売ろうと思っている店よりも、トータルでの売り上げは上がるはずなんです。だからこそ、相対的に新刊配本ランクは上がるんだと思う)。新刊配本ランクが上がると新刊が以前よりさらにたくさん入ってくるようになるけど、しかしそれは売れない。売れない分は返品に回る。しかし既刊が売れるんで、また新刊配本ランクは上がるかもしれない。そうすると…。
という感じで、どんどんデフレスパイラルみたいな状況に陥って行くんです。実際、感覚として新刊配本ランクが上がったなぁと思う出版社はたくさんあるんですけど、じゃあそこの出版社の新刊をたくさん売った記憶があるかというとまったくないんですよね。既刊の売上によって、新刊の配本ランクが押し上げられていくという状況になりつつあります。
かつては、店の売上の主力は新刊だったんだろうし、だとすれば、売上の高いところに高いランクをつければうまくまわっていたことだろうと思います。しかし今は、売上の高いところでも新刊をたくさん売っているとは限らないんですね。そういうところに、余計な量の新刊が入ってくる。不合理なシステムになりつつあるなぁと思います。
しかし、じゃあ代替案があるのかというと、ないんですね。だから今のやり方で続けていくしかないんだと思うんだけど、難しいなぁと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、著者がブログに書いていたものが書籍化され、最近文庫化された作品です。タイトルの通り、オカマなのにOLをやっていた著者の爆笑エッセイです。現在は手術も終え(チン子がなくなり)、OLも辞めて文筆家として活動をしているようです。
本書は、一つのネタが大体2~3ページほどで展開されて行きます。大まかに言って、チン子がついたままでやっているOL生活についてと、まだ男だった時代のことの二つの話がいろいろと書かれます。
OLとしてどんな風に生活をしているのか、という話は、相当爆笑です。もうメチャクチャ面白いですね。例えば、著者には姉と弟がいるらしいんだけど、著者が男として生活する際には『姉(長女)・著者(長男)・弟(次男)』なのに、著者が女として生活する場合にはこれが、『姉(長女)・著者(次女)・弟(長男)』となるわけです。なるほど、些細なことだけど、会社の人にオカマだってばれないようにするにはそういう部分にも気を配らないといけないのか、という感じでした。
他にも、会社で社員旅行に行こうという計画が持ち上がった時が最大のピンチだったとか(チン子あるのに女湯とかには入れないしねぇ)、女子の会話に入るには設定を考えないといけないとか(高校時代の制服の話とか、生理はどうなのかとか)みたいな話がコミカルに描かれるわけです。
OLの話だけじゃなくて、友人とどんな風に付き合ってるか(著者はかなり友人に恵まれているなと思う)、オカマバーに行ってみた話とか、どんなメイクをしているのかとか(著者は女らしく見せようと思って気合いを入れてメイクをするなんてことはないらしい。本書を読む限り、めっちゃ適当)、恋愛の話とか、そういういろんなことが書かれるわけです。本人としてはいろいろと苦労をしているんでしょうけど、傍から見ている分にはとても楽しいエピソードばっかりです。
さてその一方で、どんな風な人生を経て女として生きていくことになっていったのか、という話も書いてあるんです。男時代のことですね。
これが、僕が勝手にイメージをしていて性同一性障害の人の人生とはまったく違うんですね。
僕の中でのイメージは(これまで多少本を読んだ知識もありますが)、幼い頃から自分の性に疑問を感じていて、周りから思われている性で生きていくのに苦痛で、私は絶対今の性じゃないと確信して大人になっていく、そんな感じだと思っていたんですね。
でも著者はまったく違う。顔や体型がもともと女っぽかったのもあって女に間違えられたことも何度もあったし、文化祭とかで女装させられたりとかしたりということはあっても、自分の性に特別疑問を持っていたわけではないみたいです。オトコを好きになったというようなこともないみたいだし、男だと思われることが嫌だったということもない。
でも大学時代から徐々に変わり始めるんですね。女性と付き合い始めた時に感じた違和感とか、スーツにネクタイというのがどうしても嫌だったりとか。それでも、自分の性に積極的に疑問を持つわけでもなく、それでいて少しずつ女として生きていく道へ足を踏み込んでいって、いつの間にか今みたいになっていた、というような感じみたいです。なるほどー、こういう人もいるんだなー、と思いました。
著者は、性同一性障害という名前が好きではないようで、仕方なく自分のことをオカマと呼んでいたようです。性同一性障害という名前は、私は病気だから仕方ないんですとか、性同一性障害をまだまだ受け入れているとは言えない世間と闘っていますよというようなイメージが強すぎるんだそうです。著者は別にそんな風なことは考えていなくて、ただ楽な方に楽な方に流れて行ったらこうなった、とまあそういうことのようです。その立ち位置も、すごくいいなと思いました。なんとなくしなやかな強さを感じるというイメージですね。
気楽に読める本で、かつ、性同一性障害という名前でこういう人たちを一括りにしていた自分たちの認識に気づかされるような、そんな作品です。性同一性障害と言っても、いろんあ人がいる。やっぱり個人個人を個別に理解していくしかないんでしょうね。別に難しいことはなくて、パラパラめくって読んでいても楽しい作品です。是非読んでみてください。

能町みね子「オカマだけどOLやってます。完全版」



宇宙旅行はエレベーターで(ブラッドリー・C・エドワーズ+フィリップ・レーガン)

さて今日は、つい先日ある出版社の営業さんと話をしました、新書は今後どういう方向に向かうべきであるのか、という話を書こうと思います。
僕は文庫と新書の担当をしているんですけど、とにかく新書については「ありえない」の一言に尽きます。何がありえないかと言えば、新たな新書が創刊されまくりなんです。つい最近で言えば、PHPがサイエンス新書を創刊したし、KKベストセラーズが新たな新書レーベルを創刊しました。
とにかく、新書の売場は新書を置くだけで精いっぱいです。どんな感じの品揃えにしようか、悩む余裕もありません。とにかく日々大量に入ってくる新刊を、いかに新書の売場に出しきるか、ということ以外何も考えられません。
僕は文庫の担当もしているんで、文庫の売り場にもかなり新書を置いています。だから、新書の創刊が相次いでも、何とかまともな形で売場を維持できるんですけど、もし新書の売場のみで新書をどうにかしなければいけないとしたら、まずどうにもならないでしょう。もしそうなった場合、入ってきた新刊を1週間程度で返品するような、そんなサイクルになるんじゃないかなと思います。
それだけ創刊していても、売れてくれればいいですよ。新書が創刊されるのに比例して、新書全体の売上が同じように上がってくれるなら大歓迎です。しかし現状はもちろんまったくそんなことはありません。新書の売上は確かに多少は増えています。新書ブームと言われているように、新書は活気づいているなと思うこともあります。しかしそれは決して、創刊の勢いに比例しているとは言えません。少ないパイを多くの出版社が狙っている、という状況に変わりはありません。
だから、結局入ってきた新刊はほとんど返品することになります。1冊も売れないまま返品する新書のなんと多いことか。新書は返品率もどんどん上がっています。このままのペースでいけば、いつかウチの店の新書の返品率の平均が50%を超えたりするんじゃなかろうか、と思ったりしてしまいます。
では、そんな状況なのに、何故新書がこれほどまでに創刊されていくのか。
先日営業さんと話している時に僕が提示した理由は二つです。営業さんも、確かにそういう理由は大きい、と言っていました。
一つは、当たれば大きい市場だから、ということがあります。何らかの理由で大当たりすれば、相当な売上を見込むことが出来ます。「女性の品格」や「バカの壁」など、とんでもなく売れた作品には新書が結構多いです。また、ページ数が少ないにも関わらず文庫よりも高めの値段設定に出来るので、当たった場合の利幅が大きいのではないかなと思います。恐らくそういうバクチ的な理由から新書への参入を決めているんだろうと思います。
もう一つは、単行本にするにはちょっと、という内容でも出版できるという点です。例えば、ハードカバーで出すにはあまりにも分量が少なすぎるとか、あるいはハードカバーで出すにはあまりにも内容が薄すぎると言ったようなものであっても、新書という形態であれば出版することが出来る。出版社は自転車操業の部分がかなり大きくて、詳しい説明は省くけど、とにかく新刊を作り続けていかないと成り立っていかない業界です。そんな状況の中で、新書というのは実に出版しやすい形態なんだろうなと思います。
では新書は今後どういう方向に向かっていくべきなのか、ということなんだけど、僕が営業さんに言って、営業さんがこれは必ず上の人間にも意見として挙げておきますと言われた話を書きます。内容自体は正直大したものではないんですけど。みんな思っていることを言葉にしただけです。
それは、レーベルとしての『個性』を打ち出していかないと残れない、ということです。
現在は新書創刊の過渡期で、今後も創刊が続いていくとは思えません。どこかでどんどん淘汰されていくことだろうと思います。その際淘汰されていくのは、新書レーベルとしての個性のない出版社ではないかと思うんです。
僕が個性と言っているのは、例えばこういうようなことです。講談社ブルーバックスやPHPサイエンス新書、あるいはPHPビジネス新書のように、そのレーベル自体がある特定のジャンルに特化しているというのが一番分かりやすいでしょう。また、朝日新書のように、それだけではないけど大体ビジネスに関わる内容が多いというようなレーベルも悪くありません。商業的にはあまり成功出来ないかもしれないけど、中公新書なんかは学術的なトーンでまとめているなど、ジャンル毎の特色があれば一番いいです。
ただそうでない個性を打ち出すことも可能です。僕が一番凄いなと思っているのは幻冬舎なんですけど、僕の中での幻冬舎新書のイメージというのは、『常に世間的に話題になる作品を出し続けている』というものです。レーベルとしてはジャンルにまとまりがあるとは言えないけど、全体としては常にヒットを飛ばし続けているというイメージを定着させることに成功したのではないかと思います。
また光文社新書なんかもそうで、僕の中では『面白い企画、面白いタイトルの作品が多いな』という印象です。幻冬舎にしても光文社にしても、出版する作品にジャンルにまとまりはないけど、レーベル全体として特徴的なイメージをもたせることが出来ているのではないかな、と僕は個人的に考えています。
そういうわけで僕は営業さんに、新書はレーベルとしての個性をもっとお客さんに認識してもらえるような方向に持っていかないと恐らく残っていけないと思います、と言いました。今の新書の現状は、新書のサイズで出版されているという以上の共通点のない新書ばかりです。その中にあって、レーベル全体で何らかの個性を持つことが出来れば、それは強みになることでしょう。
書店の現場にいる人間としては、日々あれだけ新書の新刊を返品し、新刊がまったく売れないなと思っているにも関わらず、とんでもないスピードでどんどんと新書が創刊されていく現状はちょっと異常だなと思っています。恐らくそんな状態は長くは続かないでしょう。近いうちに新書バブルみたいなものがはじけて、徐々に淘汰が始まっていくのではないかなと思っています。そうなった時に、残ることの出来るレーベルはどこなのか。どうでしょうねぇ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、まさにタイトルの通り、今後宇宙に行くならエレベーターで行きましょう、という話です。
宇宙エレベーターというアイデア自体は、どこで知ったか知らないけど、何となくは知っていました。宇宙エレベーター自体の説明は後でざっと書きますが、僕が本書を読んで最も驚いた点は、宇宙エレベーター建造のための技術的な問題点は、ほぼ1点のみに絞られているという点です。残りの部分については既存の技術の応用によってカバーできる。その問題の1点のみクリアされれば、後は1兆円ほどあれば宇宙エレベーターは建造できるらしい。1兆円というととんでもない数字のようだけど、NASAはもっととんでもない試算をしている。NASAの試算によれば、2018年アポロ型宇宙船で月面着陸を行った場合、およそ10兆円近くのお金が掛かるということらしい。それに比べれば、1兆円という数字は相当安いものである。技術的な1点の問題点とお金の問題さえクリアできれば、2030年頃には宇宙エレベーターは完成するのではないか、と本書では予想している。
宇宙エレベーターというのはその名の通り、宇宙まで伸びるエレベーターのことである。10万キロメートル(地球と月の間の距離は約40万キロメートル)という途方もない長さのケーブルを宇宙空間から地球に下ろし、そのケーブルをクルーザー(と本書では読んでいる、要するにエレベーターのかご)が上下することによって、宇宙まで行こうというアイデアなのだ。
現在宇宙に行く方法はロケットに頼るしかない。しかしロケットの場合、1キロの物体を宇宙空間に打ち上げるのに約100万円の費用がかかる。もし宇宙エレベーターが出来れば、その費用を2万円まで下げることが出来ると試算されている。つまり、コストを98%もカットできるのである。これによってこれまで実現することが不可能だった様々なこと(地球にコロニーを作るとか、宇宙空間での太陽光発電をするとか)が容易に実現することになり、新たな宇宙開発時代が始まります、というのが本書の骨子です。
本書は、宇宙エレベーターについてほぼ初めて書かれた一般向けの本なんですが、内容を一言で表すとすれば、『投資家向けのプレゼン資料』という感じです。これは別に内容が面白くないということを比喩的に言いたいわけではありません。本書はタイトルや装丁からすると、物理的な話が満載されている本だという想像をするのではないかと思うんですけど、それは違うんです。なにせ、宇宙エレベーターの建造に関する技術的な問題点は1点しかないわけで、それも近いうちに解決できるだろうと考えられているわけです。
じゃあどんなことが書いてあるのかと言えば、宇宙エレベーターを具体的にどのように建造するのかという手順、アース・ポート(宇宙エレベーターの建設地)はいかにして決定されるべきか、トラブルの想定とその対処法、宇宙エレベーターを手にしたものがどれだけ莫大な利益を得ることが出来るのか、宇宙エレベーターの先端部にどんな施設を建造するか、宇宙エレベーターをどんな風に利用することが出来るか、宇宙エレベーターが出来た世界がどのように変わるのか、月や火星に宇宙エレベーターを建造することは出来るのか、というようなことが書かれているわけです。まさに、具体的な細部や数字を除いた計画書みたいな内容で、投資家が本書を一冊読めば、宇宙エレベーターの将来性を判断し、それに投資すべきかどうか決断出来るのではないかというような、そんな内容になっています。もちろん一般向けの本なんで、僕のように別に投資家でもなんでもないような人間が読んでも面白く読めるんですけど、実際は投資家へのプレゼンのために本書を書いたのではないかなとか思ってしまいました。
とにかく、そんな細かな部分までもう考えてあるの?と思うほど、実に細部に渡って計画が進んでいます。あらゆる状況を想定し、そういう場合はこうするという計画が既に出来あがっているんですね。僕は別にサラリーマンとかではないんで企画書の出来とかは判断できないけど、本書はよく出来た企画書なんじゃないかなと思います。
まあそういういろんな部分について興味は尽きないわけだけど、僕がやっぱり一番驚いた点は、もう打つうエレベーターを建造できる準備がほぼ整っているという点です。2030年には完成すると予想されていて、ということは遅くても僕が死ぬまでには宇宙エレベーターが完成する可能性が十分にあるということです。それは凄いですね。宇宙エレベーターというアイデアを聞いた時は、そんなもん出来るわけないだろ、と思っていたんですけど、まさかここまで具体的に計画され、もはや作り出せる状態にまで話が進んでいるとは思ってもみませんでした。
僕は別に宇宙に行きたいと思っているわけではないんですけど、それでも宇宙エレベーターが出来たら素晴らしいだろうなと思います。宇宙エレベーターが出来ることでどんな風に世の中が変わっていくのか、それを見てみたいなという気がします。本書を読む限りでは、とんでもないパラダイムシフトが起こるのだろうなと思えてきます。
本書を読んだ限りでは、宇宙エレベーターを建造した国が、その後の世界を掌握することになるようです。となるとやはりアメリカがしゃしゃり出てきそうですけど、なんとNASAは宇宙エレベーターに消極的らしいんですね。組織が硬直し官僚的になってしまったために、与えられた予算、決められた計画に沿うことが何よりも重要になってしまったために、宇宙エレベーター実現に向けて動くという感じではないんだそうです。ということは、やろうと思えばどの国にもチャンスがあるということですね。
僕が生きている間に、何だか面白そうな時代がやってくる可能性がある、というだけでちょっと楽しくなりました。なんとか頑張って早いとこ作ってほしいですね。世界中の科学者の皆さん頑張ってください。そしてお金が有り余っている人や企業の方、宇宙エレベーターに投資しましょう。宇宙エレベーターって何?という人も、読んだら結構興味湧くと思いますよ。読んでみてください。

ブラッドリー・C・エドワーズ+フィリップ・レーガン「宇宙旅行はエレベーターで」



優しい子よ(大崎善生)

さて今日は、昨日辺りから出版社とかで問題になっているらしい、「コルシカ騒動」(なんて名前で呼ばれてるかどうかは知らないけど)について書こうかなと思います。
正直僕はこの騒動について詳しい情報を知っているわけではないんですけど、昨日ネットでざっと見ただけのあやふやな状態で、僕にわかる限りのこと(間違いもあるかもしれないけど)を書いてみようと思います。
そもそもの発端は、世界初のサービスを様々に生み出している新進気鋭の会社「エニグモ」が始めた「コルシカ」というサービスだそうです。このサービスの提供を何日か前に始めたんだそうです。
コルシカというのはどういうサービスかと言えば、雑誌を現物とデータと両方持てるようにしましょう、ということのようです。コルシカのサービスを通じて雑誌を買うと、雑誌のデータも一緒に手に入る。その後、現物の雑誌を捨ててしまっても、データが手元に残る、という寸法です。
サービス自体は面白いですね。現在このコルシカは問題になっているけど、問題になっている部分さえどうにかすれば、サービス自体は実に面白いし画期的だから是非やってほしい、という評価を得ているんだそうです。
しかしそのやり方に問題があったようです。
まず法的ではない部分の問題から。詳しくは知りませんが、このサービスはコルシカのサイトか何かを通じて雑誌を購入するらしいんですけど、そもそも送料の負担があるし、また自宅に届くまでものすごく遅いんだとか。つまり、雑誌の現物が欲しいという人には特にメリットのないサービスなんだそうです。
しかも、もともとサービス内容としては、『雑誌の現物にデータがつきますよ』という触れ込みだったのに、規約を見ると、『雑誌のデータを提供するサービスですよ』と解釈できるような文言になっているらしいんです。
で、最大の問題は、その雑誌のデータなんですね。なんとこの雑誌のデータはスキャンデータを使っているらしいんです。つまり雑誌の記事そのものをスキャンしてそれをただデータ化しただけ、というものらしいです。だからそのデータ自体がものすごく汚い、という批判もあるようですが、まあとりあえずそれは置いといて。
問題になったのが、複写の許可をどの出版社からも得ていなかった、ということです。つまりこのサービスは著作権の侵害に当たるのではないか、という点で今問題になっているようなんです。
通常こう言ったサービスをするのであれば、出版社や記事の権利者に許可を取り、さらに記事のデータを出版社から提供してもらった上でやるのでしょう。出版社や権利者に許可を取らず、勝手にスキャンしたデータを使ってサービスを始めるのは明らかな著作権の侵害ではないか、ということです。これについて、雑協(だったかな、そんな感じの団体)が正式にエニグモに抗議文を提出したとかそんな感じみたいです。
でもこれは法律的には実に微妙な問題のようですね。つまり、コルシカのサービスをこう言う風に捉えることもできるわけです。
コルシカのサービスは、購入者は雑誌の現物を買っていて、それにスキャンした雑誌のデータがおまけでついてくる、という仕組みなわけです。とすればこういう解釈も成り立ちます。雑誌を購入した消費者が自分で雑誌をスキャンしてデータとして持っておくのはもちろん法的にOKですよね。コルシカは、消費者が自身でスキャンするという部分だけを代行してあげているだけだ、スキャンデータは現物を購入した消費者に対してしか提供されないわけで、スキャンする手間を代行しているだけなのだから著作権の侵害に当たらないのではないか(とエニグモが主張しているわけではないですが)、という風にも考えられるのではないか、という話がどこかに書いてありました。もちろん、雑誌のスキャンデータだけを提供しているなら明らかに著作権の侵害でしょう。しかし、雑誌の現物と一緒にデータを提供しているというところが、問題を微妙に複雑にしているようなんですね。
というのが、僕が理解した限りにコルシカ騒動です。出版社としては寝耳に水の話だったようで、対応に追われたらしいですね。
しかしこのコルシカ騒動、著作権侵害の部分がこれからもクローズアップされていくでしょうけど、サービス自体が継続していくなら、書店としても脅威になるでしょう。コルシカのサービスを受けるのにもちろん多少お金は掛かるんでしょうが、それでも、書店で雑誌を買った場合データは手に入らないのに対し、コルシカで雑誌を買えばデータがついてくるわけです。これはデータで残しておきたいと考える人たちにとっては相当のメリットになるのではないかなと思います。雑誌が売れないと言われている時代に、さらにこんなサービスが流行ってしまえば、書店では余計に雑誌が売れなくなってしまうだろうなと思ったりします。
そこで、すべてを一挙に解決するこんなアイデアはいかがでしょうか。
つまりですね、すべての雑誌が、雑誌の現物にデジタルデータを焼いたCD-ROMとかを毎号つけちゃえばいいんですよね。そうすれば、コルシカというサービスがまったく無意味になってしまうから著作権侵害が云々という部分は問題ではなくなるし、コルシカがなくなるから書店の売上もさがらない。しかも、雑誌のデジタルデータがつくなら雑誌を買ってもいいかもしれない、という客層がもしかしたら増えるかもしれない。素晴らしい、一石三鳥(一石2.5鳥ぐらいかもしれないけど)のこのアイデア、まあ実現は難しいでしょうか。難しいのかなぁ。雑誌の記事なんてデータで管理してるだろうし、CD-ROM自体だって単価は安いだろうから付録として付けられなくはないだろうし、やってやれないことはないんじゃないかなぁ。どうでしょうか、出版社の皆様。出版社の方はこんなサイト見てないと思うけど。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は四つの短編が収録された短編集になっています。

「優しい子よ」
作家・大崎善生の妻は女流棋士で、テレビなんかにもよく出る。その妻がある日メールを受け取った。難病に冒されている息子にどうかサインをもらえないか、と。息子は妻の大ファンなんだそうだ。
妻は、人気商売であるが故に慎重になり、息子さんに直接手紙を書いてもらって送ってもらえないでしょうか、と返信した。
それから、妻と茂樹君との短い文通が始まった。
自分自身とても苦しいはずなのに、子供の頃大怪我を負った妻の足が痛まないようにお祈りしていると常に言ってくれる優しい少年。心が洗われるようなという表現が大袈裟ではない、純真な少年の文章や生き方に、二人はとても大切なものをもらうのだが…。

「テレビの虚空」
自分のデビュー作「聖の青春」の発売直後に、これを映像化したいと言って来た男がいた。テレビ界の生きる伝説と言ってもおかしくはない、テレビマンユニオン会長、萩元晴彦だ。
萩元晴彦の死後、大崎は長野に取材旅行へと向かった。萩元の盟友、宮澤に会いに行くという予定以外、何も考えずに向かった。
甲子園まで行ったエース萩元と一緒に歩んだ、部のマネージャーだった宮澤と、お茶を飲みながら話をし辞去したが、宮澤から連絡があり、宮澤宅に財布を置き忘れてきたことを知る。
思えば、それがその取材旅行を変えるきっかけとなった出来事だった…。

「故郷」
萩元の故郷である飯田市に向かい、そこで偶然のように縒りあった糸を手繰り寄せながら、少しずつ萩元の足跡を辿っていく。故郷を愛し、頻繁に故郷に帰っていた萩元。幼くして亡くした母を最後の最後まで想っていた萩元。萩元の情熱に突き動かされてきた様々な人々。そして飲み友達を失った自分。
萩元という途方もなく大きな存在が、偶然に導かれながらの故郷を巡る旅によって、より近しく感じられるように思えた、そんな旅だった…。

「誕生」
茂樹君の死からちょうど一年。妻が妊娠した。
それからは夫婦の生活が一変した。切迫流産の危険のあった妊娠初期、それから妻がみるみる変わっていく。不安の残る、かつて事故で大怪我を負った足。観念でしかなかった妊娠が徐々に現実になるにつれ、二人の中で少しずつ、しかしダイナミックに何かが変わっていく。そしてそれは、茂樹君の輪郭をほんの少しかもしれないけどくっきりとさせる、そんな力も持っていた。
特に子供が欲しかったわけではない自分が、父親になる。何だかそれは実に不思議なことだ…。

というような話です。
いやはや、これはいい作品でした。素晴らしいですね。私小説という体裁をとっていて、どの話も著者自身が何らかの形で関わっているものです。つまりノンフィクションと言っても間違いではないのかもしれないけど、まあこの話は後で時間があったら書こうと思います。
正直なところ、間の二つ「テレビの虚空」と「故郷」は普通だったんで、あんまりここでは触れません。一点だけ、萩元の納骨式の際の話を書こうと思います。
長野オリンピックの総合プロデューサーを務めた萩元氏は、その閉会式で歌うほど「ふるさと」という歌が好きだったようだ。
納骨式の際、墓に萩元のお骨が入れられたその瞬間、どこからか「ふるさと」が流れてきたのだという。
それは、飯田市が流している正午の時報だったらしい。名プロデューサーとして名を馳せた萩元らしい最後だった、という。
この話には後日談がある。
萩元は自宅で倒れてから亡くなるまで70日ほど生死を彷徨った。時報のチャイムは、半年サイクルで入れ替えているという。つまり萩元は、70日間死を遅らせることで、納骨式のまさにその日「ふるさと」が流れるように仕組んだのではないか、と。
「優しい子よ」はとにかく素晴らしい話だなと思いました。人が死んでしまう話で感動させるのはあざとい、と思う人もいるかもしれないけど、そういうのを抜きにしてこの話は素晴らしいと思いました。
茂樹君が実にいい。タイトルの通り、まさに「優しい子」でした。
一日の内でも調子のいい時間帯をつなぎ合わせないと書けない手紙を必死で書き、また自身はものすごい苦痛と闘っているにも関わらず、妻のもう痛くはない足が痛まないようにと祈っている少年。妻はいつでも茂樹君に会いに行く気マンマンだったが、病気の自分を覚えていてほしくない、元気になってから会うと、自分の死期を知っていたはずなのにそう言い張る気高さ。『いつまでもいつまでもおとこだちでいてください』と言葉にして書くことしか出来ない純真な少年。そのどれもが輝くような暖かさを持っています。
茂樹君と向き合う夫婦もまたいいです。偽りではなく、心の底から茂樹君のことを考えている。茂樹君の死後も、その影響はいつまでも残り続ける。それが、「誕生」という作品に繋がっていくのだ。
著者はこう書いている。
『病気やけがによって失うものもあるけれど、しかしそれによって確実に得るものもあるのだと。』
これは、幼い頃足を切断寸前の事故に遭った妻の経験も合わせて含まれている。茂樹君にここまで共感したのも、自身も幼い頃病院のベッドで長い時間を過ごした妻だったからだろう。そんな二人の、決して会うことはなかったし、実に短い期間だったけれども、心の底から向き合った交流が描かれます。
「誕生」もいいですね。一言で説明すれば、妻が妊娠し出産するまでの話を書いた作品なんですが、そこに茂樹君の影がひっそりと寄り添っている。「誕生」の中で著者は、茂樹君との出会いと別れを、こんな印象的な文章で綴っている。
『茂樹少年の妻への純粋すぎる思いやりや優しさは、まるで私たちのコートに打ち込まれた硬式テニスのスマッシュのようなものであった。それを打ち返すことどころか、ラケットを差し出すことすらできずに、一瞬にして視界から消えさってしまったのだった。目を閉じれば、少年が打ち込んだボールの軌跡だけが辛うじて浮かんでは消えていく。打ちこまれたときの心地よい衝撃とともに…。』
一旦音信不通になっていた茂樹君の父親とも、この「誕生」という作品が雑誌に載ったことでまた連絡が来るようになり、小説と現実とが実に絡み合っている作品だなと思いました。
妊娠の話とは関係ないけど、靴を買う話も僕はいいなと思いました。妻は子供の頃の事故のせいで、片足は22センチでもう片足は23.5センチという不釣り合いなサイズの足になってしまっている。そもそも22センチというサイズが少ないし、両足でサイズが違うのでいつも靴を二足買い、片足ずつ捨てるのだそうだ。
ある日靴を買いにいくと、対応してくれたスタッフが自ら上司と掛け合い、二足買わなくてはならない妻のために10パーセントの割引をしてくれたという。これまでの人生で靴を二足買うということを繰り返してきた妻だったが、こういう対応をしてもらえるのは本当に稀だ、という。僕は本屋で、本というのは基本的に値引きが出来ないんで状況としては同じではないけど、自分がもし同じ状況にいたら同じことが出来るだろうか、と考えてしまいました。
さて最後に。さっき書いた、私小説とかノンフィクションとかの話を書こうと思います。
僕がどうしてそんなところにつっかかるのかというと、amazonのレビューにこんなコメントがあったからです。amazonのレビューって勝手に引用しても大丈夫ですよね?
『ここには一つの実に感動的な話がある.ところが困ったことに,著者はこれを小説だと称する.そうならば,これは fictitious な作り話に過ぎないのかも知れない.もし本当にあった事実の描写なのであれば,この場合ノンフィクションだと称した方が,賢明なのではないか.』
勝手ながら僕はこの意見に反論をしたいんですね。
著者は「故郷」の中でこう書いています。
『ノンフィクションは冷たい。
人の死や挫折を書き続けなくてはならない。冷徹に客観的に、踏み込まずに、ルールに怯えながら。もちろん自分がその素材に必然的にめぐり合えるならば、これからも書いてみたい気持ちはある。しかし、何かを書くために無理に素材にむかっていってまではと思ってしまうのである。
小説は自由だ。
自由こそが小説の美徳である。自分はそれを手に入れるために立ち向かっているのだ。』
この文章と、私小説かノンフィクションかという話を組み合わせて、僕はこういう風に解釈をしました。
著者にとってノンフィクションというのは、『冷徹に客観的に、踏み込まず、ルールに怯えながら』書かなくてはいけないものだ。それは著者自身の価値観の問題で、ノンフィクションがそうであるべきだという話ではないと思うけど、とにかく著者はそう考えている。しかし、茂樹君や萩元氏の話は、そんな風に冷たい姿勢で書きたくなかった。ルールを守ることよりも、多少正確さを書いても書きたいことを、客観的にではなく主観的に、踏み込まないのではなく積極的に関わるようにして、そんな風にして書きたかった。だからこそ、そういう風にして書いた作品はたとえ事実に基づいていてもノンフィクションではなく、著者の中では私小説なのだ、という解釈です。どんなもんでしょうか。
まあそんなわけで、実にいい作品だったと思います。ぜひ読んでみてください。特に「優しい子よ」は素晴らしい。また人によっては、萩元氏を扱った作品の方が染み入るという人もいるでしょう。ぜひ読んでみてください。

大崎善生「優しい子よ」



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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)