黒夜行

>>2009年09月

密閉教室(法月綸太郎)

今日はこんなニュースから。

http://www.venturenow.jp/news/2009/09/28/2359_007129.html

アーカムという会社が、中古本の査定機能を持つASPサービス「買取28号」β版を10/1から無償配布を始める、という記事です。
僕が知らないだけで、ブックオフみたいな大きな中古本チェーンではもしかしたらもう似たようなものが存在するのかもしれないけど、僕はこれは凄いなと思いました。
凄いなと思った点の一つが、無償配布というところ。最終的に機能を追加して有償での提供をするらしいんで、とりあえず使ってもらって良さをわかってもらおうということなんでしょうけど、とりあえずしばらく無料で使えるというのがいいですね。
さらに凄いなと思った点は、このシステムを新刊書店を中心に広めていくつもりだという点です。
最近新刊書店でも中古本を扱うところが増えてきました。買い取りまでやってるかどうかは知らないけど、新刊書店の中の一角に中古本のスペースがあるという店はチラホラあるんじゃないかなと思います。
また僕もかつて、新刊本を3冊買うと中古本が1冊おまけでもらえるというキャンペーンをやったら面白いんじゃないかというアイデアを書いたことがあります。まあ現実にやるのはいろいろ難しそうですけど、一番難しいなと思っていたのがやっぱり買い取りの仕組みですね。あまり人手を割かずに、しかも誰でも出来るようなやり方で買い取りが出来ないとメリットがかなり低くなってしまいます。
この「買取28号」は、中古本を扱い始めている新刊書店には結構いいんじゃないかなと思います。もし僕がさっきのアイデアを現実に移す時が来た場合でも使えるシステムだなと思います。
しかしまあ、新刊書店でも中古本を扱わないと残っていけないというなら、さらに中小の書店は厳しくなるでしょうね。大きな書店チェーンなら、中古本を買い取って、それを自社内のいろんな店舗で在庫の調整が出来るけど、中小の書店ではそうはいかない。こういう流れが進むことで、結局のところ書店の体力勝負みたいな感じになっていくのがちょっと悲しいなぁと思ったりします。
この「買取28号」の仕組みにはもう一つ面白い点があります。それは、正規版に移行してからの話になるんだけど、「買取28号」の月額費用9800円の中から2000円を「作家応援金」として確保し、作家に還元しようという仕組みです。最終的には、売られる中古本一冊一冊の金額に応じて作家に還元できる仕組みを目指すということですけど、当面はその2000円を関連団体に還元する方法でいくんだそうです。中古本によって作家の利益が損なわれてるという議論はよくあるし、以前ブックオフが関連団体に100万円だかそれぐらいを寄付(?)したみたいな記事もみたことがあるような気がします。ちゃんと覚えていませんが。中古本業界も、なるべく作家とうまくやっていきたい、という風に考えているということでしょうね。
「買取28号」は新刊書店でうまく機能するでしょうか?続報があれば注目したいと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、作家・法月綸太郎のデビュー作です。初めて出版されたのが今から20年以上も前になりますが、最近新装版が出ました。
舞台はとある高校。朝教室にやってきた女子生徒は、教室のドアが何故か開かなくなっていることに気づく。ちょうどやってきた担任教師がドアをこじ開けると、そこには血しぶきをまき散らしたクラスメイトの死体があった。
おかしいのは、教室にあったはずの48の机と椅子がすべて消えてしまっていたこと。そして窓もすべて施錠されており密室状態であったこと。
探偵小説マニアである工藤順也は、この不可解ななどに挑むことになるのだが…。
というような話です。
文庫自体に書かれている内容紹介には、『本格ミステリの甘美な果実にして、瑞々しい青春小説。法月綸太郎のデビュー作にして、不朽の名作。』とあるんですけど、そんなに大げさな評価が与えられるような作品なのかなぁ、と思いました。
最後に明らかになるトリックなんかはかなりよかったと思います。何故机と椅子が消えていたのか、何故密室だったのか、何故殺されたのか、というような部分についてはかなりよかったんではないかなと思います。現実的かどうかは別として(本格ミステリに現実的かどうかという視点を持ち込んではいけない。でも本書は割と現実的な作品ではないかと思います)、すべてが論理的に繋がっていて、そういう本格ミステリ的な部分については結構よかったんじゃないかなと思います。
ただ僕がダメだったのは、主人公のハードボイルドっぽいところ。うまく説明できないけど、なんかハードボイルドを気取ってるようなキャラクターなんです。それが実に鬱陶しい。愚にもつかないような思考をだらだらと垂れ流している感じです。それは教師の大神にしてもそうで、この二人の何とも言えない哲学的な会話なんてもうついていけなかったんだけど、僕にはとにかくそこがちょっと微妙でした。別に読めないことはないし、すごくキツいというほどではないんだけど、本格ミステリを楽しみたいと思っているのにどうも余計なものが多いなという感じがしました。
青春小説としては僕には合わないけど、本格ミステリとしてなら悪くないと思います。積極的にオススメはしませんが。

法月綸太郎「密閉教室」



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イチローの流儀(小西慶三)

そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、世界で一番イチローのプレーを見ている野球記者が、イチローというストイックな野球選手について描いた作品です。
著者は共同通信社のマリナーズ担当記者、というのが今の立ち位置だけど、特殊なインタビュー形式を採用するイチローへ直接アプローチすることのできる数少ない野球記者でもある。オリックス時代からイチローを見てきており、メジャーに行ってからもほぼ全試合欠かさず見続けている男が、世間から誤解されがちなイチローの姿を描き出します。
本書はとにかく、これまで著者がイチローに関わった経験を様々に掘り起こし、繋ぎ合わせることで構成されています。イチローがどんなスタンスで野球に臨んでいるのか、世間がいかにイチローを誤解しているか、イチローを最も見続けてきた野球記者でさえ理解するのが難しいその捉えどころのなさ、イチローがどうしてこれほどストイックに、そしてこれほど活躍できる選手になっていったのか、などなどとにかくあらゆる面にスポットを当ててイチローを描き出していきます。
本書を読むと、とにかくイチローというのは凄いな、と思いますね。思考のすべて、そして肉体のすべてを野球に振り向けている。こんな野球選手はいないんじゃないかなと思うんです。いつどんな時であっても、野球選手としての自分をまず第一に考えている。食べる物も、練習の仕方も、スランプの時の対処法もすべて野球選手としての自らの哲学に基づいている。これほどまでにストイックに律することが出来るというのがまず凄いなと思います。
それに、実に頭がいい。本書の著者は世界で最もイチローのプレーを見ている野球記者だけど、そんな彼でさえも、未だにイチローに何か質問をすると「今さらそんなことを聞くんですか」と言われることがある。自分がどういう立場にあるのかをきちんと理解しながら、それでいて誤解されることを恐れずに本心で話す。実際イチローについてはかなり誤解されている部分があるらしいんだけど、それでもおかまいなし。どう見られているかという判断基準ではなく、自分自身がどう思うのかに基づいている。かっこいいですねぇ。
まあそんな風に書いていても凄さが伝わらない気がするんで、すごいなと思った部分を抜き出していこうと思います。

『「二本の一軍でプレーし始めたときから、審判によってストライクゾーンが違うことに対して、かなり広めの自分だけのストライクゾーンを決めて打つようになった。そうすれば審判によってコールされたりされなかたりという、際どいゾーンを無視して打ちにゆき、本来の形を崩すことが少なくなる。」』

『「結果が出ていることと、気持よくプレーできていることの二つは長い目でみればどちらもすごく大切なこと。どちらが欠けてもいけない。結果が出ているからと言って同じところには止まれない」』

『「結果が出ていることと、自分が満足していることは必ずしも一致しない」』

『(ボルチモアで行われた試合前日、時差のせいで眠れずそのまま試合に出たという話の後)
実は大爆発には伏線があった。真夏の大当たりを生み出したのは、イチローの並外れた用意周到さだった。
ボルチモアのダブルヘッダーから六年も前、計画的に予行演習を済ませていた。わざと眠らないで試合に出たのである。すでにメジャー行きを意識し、アクシデントで眠れない日の備えだった。』

『「仕事だと思ってプレーしていたとすれば、ある程度の報酬を手にしたときに、”もういいか、これで”となるかもしれない、でも、これが自分の好きなことだと思うエバもっともっと何かがあるんじゃないか、という気持ちになれる」』

『最近ではやっとビールの小瓶を二本ほど空けるようになったが、メジャーでの生活サイクルになれるまでの数年間、公式戦中はあまりアルコール分を摂ろうとしなかった。
「乾燥した気候でアルコールを飲むと汗のかき方が変わってくる」と話したのは二年目のすぴリングトレーニング中。ちょっとした異変にも敏感に体内センサーが反応した。先にも述べた危機管理能力向上トレーニングのおかげもるが、ほぼ同じ行動サイクルをとることでわずかな変化を感知する能力が伸ばされていったのだろう』

『会見は基本的に二本のメディアと米国のメディア個別に行っている。それが日米双方の一部のメディアから「それぞれに違うことを言っているのでは」と疑われる原因にもなっているのだが真相は違う。
二グループに分けて接したのは、否応なくほぼ毎日会見を続けている日本人の新聞記者たちと、活躍時にのみ話を聞く米国記者たちとの間でイチローに関する知識の差が生じたためだった。さらには通訳を介することでやりとりの流れを切りたくない、という思いもあるようだ。』

『スランプに直面したときの対処法は極めて現実的なものであり、内面の熱さとは対照的である。特徴的な例は「スランプの時、ベストの状態を思い出そうとしない」としたことか。
「苦しいときに一番良い状態のことを思い出すと、理想的な状態と現実との大きなギャップを感じてよけいに苦しくなる」
普通の選手は好調時のフォームなどをビデオなどに収録し、不振脱出の参考にする。それがイチローの場合は良くも悪くもない状態、いわゆる中間地点を修正の参考にしたのがユニークだった。』

『(質問のない記者は会見に参加させないという話の後で)
現行の会見スタイルは、妥協を許さぬイチローと彼の動向を毎日レポートしなければならない我々との間に生まれた現実的折衷案と言える。私の知るイチローは「マスコミ嫌い」ではない。記者にもその道のプロらしくあれ、という期待が極端なほど高い人だった。』

『「一生懸命やっています、はあくまでも他の人から言ってもらうことであって、自分から言うことではない」』

『五万ドルもらったとすれば、少なくとも五万一〇〇〇ドルの仕事を心掛けないといけない。もらってる給料以上の仕事を心掛ければ、その仕事は長続きする』

野球のことをさっぱり知らない人でも、イチローってすごいなぁと思える作品です。是非読んでみてください。

小西慶三「イチローの流儀」



収穫祭(西澤保彦)

そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は5つの章に分かれています。第一章が1982年8月17日の、本書の核となる事件当日の話。以下、第二章が1991年10月、第三章が1995年8月~12月、第四章が2007年8月17日、そして第五章が1976年5月、となっています。
とりあえずネタばれの恐れもあるので、とりあえず内容紹介といては第一章だけを書こうと思います。
川によって東南区と分断されている、首尾木村北西区。東橋と南橋という老朽化した二つの橋によって外部と繋がっている孤立した村です。そこに住んでいるのは6家族のみ。かつては小学校もあったけど、そこが廃校になってからは廃れるばかり。
1982年8月17日。その日は台風が来るということで、夏休み中だった伊吹省路は久々に農作業から解放された。この機会を逃すことはないと、台風の予報にも関わらず省路は、村の人間が「お町」と呼ぶ、ちょっと離れた繁華街に映画を見に行くことにした。
いろいろあって別居中の父親に南橋の手前まで送ってもらった省路は、村に戻るとすぐ異変を知ることになる。同級生の空知貫太(カンチ)と元木雅文(ゲンキ)と一緒に空知家に泊まることになっていた省路は、恐ろしい悲鳴を上げた同じく同級生の小久保繭子(マユちゃん)に出会う。彼女は恐ろしげな顔をして要領を得ない。どうやら繭子の家で何か異変が起こっているらしいと察した省路とゲンキはは、マユちゃんの家に向かった。
そこで彼らは、マユちゃんの一家全員が殺されていることを知る。鎌を首に突き刺され死亡していた。
その後村中をくまなく回ったところ、北西区に住む6組すべての家族が殺されていることが分かった。台風などにより、東橋と南橋は落ちてしまった。北西区に閉じ込められることになった彼らは、なんとか外部に救援を求めようとするのだが…。
というような話です。
西澤保彦と言えば、トリッキーな世界観(主人公が七回生まれ変わるとか、人格が転移してしまう世界とか)の中で起こる殺人事件を論理的に解き明かす、という趣向の作品が多いんですけど、本書はそういう系統の作品とはちょっと違います。警察がほとんど出てこない、という意味では本格ミステリらしい作品ですが、クローズドサークル内で事件から推理までがすべて完結するわけでもないし、名探偵みたいな存在が出てくるわけでもない。一つの村で起こった大量殺人事件を軸に、25年にもわたる歳月を描いているというのも特徴的です。
もの凄く壮大な作品で、かなり楽しめました。結局誰が犯人で何でそんなことをしたのか、という部分についてすっきり納得、という感じにはなれなかったし、ところどころ主人公たちの人格が破たんしているような描写があったりして違和感を感じる部分はないではないんだけど、全体としては伏線が素晴らしく回収されているし物語としても面白かったなと思います。
まず圧巻なのは、第一章で描かれる大量殺人事件の部分です。台風の中、少しずつ死体が見つかる。自分たちの親族の死体まで見つけることになるわけで、中学生たちにはただでさえ負担が大きい。どの家でも電話線が切られていて外部に連絡を取ることが困難だし、外部と繋がっている唯一の橋も二つとも落ちてしまう。それでも彼らは冷静に現場を検証し、ところどころで鋭い推理を繰り広げながら正気を保っていこうとする。殺人犯がまだ村内に残っているのかどうか判断できないまま、死体だらけの中取り残されるのである。
この第一章はやっぱり凄いなと思います。伏線もあちこちに散りばめられているし、じわじわと惨劇が明らかになっていく過程も結構怖い。北西区の住人がほとんど殺されているにも関わらず、不確定要素がいくつかあるせいで殺人犯が誰なのかなんとも分からない、という設定もうまいと思いました。まあそりゃあ、突っ込もうと思ったら突っ込める部分はたくさんあるでしょう。中学生でそれだけ行動力があるかとか、その伏線の配置はちょっと無理がないかとか、ちょっとハチャメチャすぎるなぁとか、まあいろいろ人によっては突っ込みたくなるかもしれませんけど、あくまでも本格ミステリの傍系の作品なわけで、そういう細かい部分にいちいち突っかかってたらこういう作品は読めません。それに、これだけ伏線があって、壮大で、さらに謎もきっちり残しておかなくてはいけないという条件の中では、相当きっちり頑張って描いているなと思いました。
第二章以降は、その惨劇を生き残った中学生が大人になり、ひょんなことからその昔の事件にまた関わるようになる、というようなことが描かれます。一応ここでは、具体的なことは書かないで置きましょう。
昔の事件を再調査する過程でも、まあいろいろ突っ込みたくなるかもしれません。そもそも第二章以降、どうも主人公の人格が結構破たんしているなと思う部分があって、しかもそれが性的な部分についてだったりするんですね。そこまでの設定が必要だったのか、という風にも思うし、また調査の過程で不自然だなとか都合がいいなと感じる部分もあるかもしれません。また本書では、記憶に混乱があるという設定がちょっと多すぎます。大量殺人事件に遭遇し記憶に混濁が、という説明だけど、それにしても肝心なことを覚えていなさすぎるような気もします。
僕は本書を本格ミステリだろうと思って読み始めたし、本格ミステリの場合そういう細かな部分に突っ込んでたら読めなくなるともともと分かっているんでそういう部分はさほど気になりませんが、気になる人がいるかもですね。でも、先ほども書いたけど、これだけ伏線があちこちあって、さらに謎を引っ張るように描かれる作品にしては、実にうまく描いていると思います。
何年にもわたる年月を経て謎は解き明かされることになるんだけど、正直なところその謎解きの部分に関しては微妙に納得しがたいですね。伏線はきっちり回収されているんでそこに不満はないんだけど、犯人がどうして村民全員を殺してしまおうと考えたのか、その動機の部分が相当弱いなと思いました。また、その首尾木村での大量殺人事件の犯人が起こしたのではないかとされる事件が頻繁に発生するんだけど、そっちの方の解決もちょっとなぁと思います。
ただ、事件の解決部分に多少不満があっても、全体としては面白かったんですよね。というのも本書は、誰が犯人なのか、というだけの謎で読者を引っ張っていないからなんです。他にもいろんな要素があって、伏線も様々なものに対して張られている。その中の一つが、首尾木村の大量殺人犯が誰なのか、というもので、その解決が多少不満でも、作品全体がつまらなかったという風にはあまりならないという感じです。ホント、作中に張り巡らされている伏線がなかなかたくさんあって、さすが西澤保彦だなと思いました。
しかし一作品の中でこれだけ人が殺されるというのも相当珍しいですね。かつて「バトルロワイヤル」という作品が新人賞に応募された際、「一作品の中で殺されていいのは10人くらいがせいぜいではないか」みたいな感じの議論が出たという話を覚えています。「バトルロワイヤル」では確か40人ぐらい死ぬはずですけど、本書でも最終的に合計で30人以上は死んでるんじゃないかなと思います。帯の文句も、「こんなに殺していいものか!?」ですからね。
まあそんなわけで、僕は結構楽しめました。「収穫祭」というタイトルも、最後の最後まで読むとなるほどという感じがします。ちょっと長いのが難点ですけど、本格ミステリ系の作品が好きな人なら楽しめるのではないかなと思います。読んでみてください。

西澤保彦「収穫祭」



ドキュメント隠された公害 イタイイタイ病を追って(鎌田慧)

そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、対馬のイタイイタイ病を追ったノンフィクションです。イタイイタイ病は四大公害の一つですが、富山県で患者が多く見つかりました。富山県に流れ込む川の上流にあった工場からの汚染によるものです。カドミウムが体内に蓄積することで骨が変形してしまう、そんな病気だそうです。
富山でイタイイタイ病を発見した医師が、対馬でも患者を見つけたと言って新聞の一面を飾ったのが1968年3月。対馬には鉱山があり、その採掘過程で工場から流れ出る廃水によってカドミウム汚染されているのではないか、ということだった。
しかし、対馬の住民はイタイイタイ病の存在を認めなかった。
著者が初めて対馬に渡ったのが1969年8月。そこで住民からイタイイタイ病について取材を試みるのだが、まったくとうまくいかない。工場のある樫根部落の人々は一致団結し、マスコミが来ても何も喋らない、という方針を取り続けた。
彼らの論理は歪だった。イタイイタイ病なんて存在しない。カドミウム汚染ということなら、1300年も前から鉱山があるんだから、そりゃあ少しはあるでしょう。でも住民は別に、カドミウムなんて怖がっちゃいませんよ、と。
イタイイタイ病を見つけた医師が確認したレントゲン写真は遺体と一緒に埋めたと主張し、厚生省がカドミウム汚染の要観察地域に指定しているにも関わらず、住民の結束は固く、著者はイタイイタイ病の存在を突き止めることができない。
そこには、対馬という過疎の部落ならではの悲しい問題があった。
ある日工場がやってきて、農地を奪うようにして工場を建てた。農家だった人々は、やがて工場で働くようになる。現金収入を得る途が、墨焼きを売るか道路工事しかない、そんな現状の中で、工場で働くことが出来るというのは地元民には恩恵であった。
だからこそ、必死で公害の存在を否定した。工場がなくなれば、生活が立ちいかなくなってしまう…。
結局著者は、何度も対馬を訪れ取材をするも、対馬にイタイイタイ病が存在するのかどうか確信を掴むことが出来なかった。
しかしその数年後、工場がカドミウム公害を引き起こしていたという内部告発の文書が突然著者の元に届き…。
というような作品です。
扱っているテーマは実に面白いんだけど、ちょっとダメでしたね。なんというか、非常に読みにくかったです。作家としての力量の問題なのか、あるいは僕に合わなかっただけなのかわかりませんが。ただ、最近同じような感じのテーマを扱った「アトミック・ハーベスト」という作品があるんですけど、そっちのい方が遥かによかったと思うんですね。僕は、著者の力量の問題なんじゃないかと思っているんですけど…。
本書が普通のノンフィクションのスタイルを踏襲していない、という点はまあいいんです。普通ノンフィクションというのは、対象と自分との間にある一定の距離が必要になります。離れすぎず、深入りせず、という部分から対象を見て、事実をえぐり出す。
しかし本書では、その距離感が存在しないんです。これは、著者がどちらかの立場に必要以上に肩入れしている、とかそういうわけではないんです。そうではなくて、『取材者』としての著者自身が本書の物語の中に大いに関わっている。『取材者』としての自分の行動や考え方まで含めて描写をしている、という作品なんです。
確かに本書のテーマで作品を書く場合、『取材者』自身の行動を外してしまったら何も書けない気がします。何故なら、取材した結果結局何も分からなかったわけですから。取材によって様々なデータや事実が出てきたというのなら、それを元に作品を構成すればいいんだけど、対馬のカドミウム汚染の場合、取材によって浮きあがってくる事実というのがほとんどない。ないことはないんだけど、憶測に過ぎなかったりあるいは明らかにおかしかったりする。だからこそ、『取材者』としての著者がどのように取材を進めていったのか、という部分を中心にして作品を構成するというのはまあ当然だろうと思います。だから、その部分は別にいいんです。
やっぱり文章とか構成の問題かなぁ。とにかく僕には読みにくくてしかたなかったんですよね。報告書や議事録みたいなものからの抜き書きも多かったし、議事録の抜き書きなんか本当に文章を全然いじってない感じなんで、読みにくい。
構成にしても、どこが悪いのかというのはうまく指摘できないんだけど、もう少しなんとかなったんじゃないかなと思うんですね。著者自身の取材や報告書・議事録からの抜粋、あるいは周辺データ(工場の設立過程や歴史などと言ったもの)で構成されているんだけど、そういうものの配置がなんかしっくり行っていない感じがしました。まあうまく説明できないんですけどね。
イタイイタイ病が確認されたにも関わらず住民はその存在を否定し続け、しかし数年後には内部告発によって企業を非難する運動が高まる、なんていう過程は実に興味深いし描きようによっては面白い作品になったと思うんだけど、どうも本書は構成や文章その他によって損をしているような感じがしました。
テーマは魅力的なんですけど、僕にはダメでした。内容がどうというより、読みにくくて仕方ありませんでした。著者の力量の問題なのか僕に合わないだけなのかはよく分かりませんが、僕としてはあんまりお勧めできません。

鎌田慧「ドキュメント隠された公害 イタイイタイ病を追って」



先を読む頭脳(羽生善治+伊藤毅志+松原仁)

本当に書くことがなくて困ったものですが、今回は朝と夜で客層が違う、という話を書こうと思います。
僕は文庫と新書の担当をしているんですけど、普段コミックの売上を抜くことを目標にしています。今まで抜いたことはないんですけど。まあそんなわけで、文庫とコミックの売上については一日の中でしょっちゅう確認することになります。
その売上のデータを見る中で気づいたことがあります。
一日単位で見ても大抵文庫の売上はコミックの売上に負けてしまうんですけど、時間帯によって売れ方がまったく違うんです。
僕は平日は昼の15時からバイトなのでその時間にまず売上をチェックするんですけど、大体その時点で文庫は一日の売上の30~40%ぐらいであるのに対して、コミックは15~20%ということが結構あります。コミックの売れ筋の新刊が出た時なんかはまた違ってきますけど、そうではない普通の日は割とそういう感じです。
夕方18時ぐらいだとこれが、文庫は50%ぐらい、コミックは40%ぐらい、という感じなんです。
でもコミックはここから追い上げるんですね。それで、最終的に文庫の売上を抜く、というのは平均的な日の売上の推移という感じになります。
これをそのまま解釈すればこうなるでしょうか。午前中から夕方に掛けて売上が伸びる文庫は、主婦やお年寄りなんかが中心で、夕方から夜に掛けて売上が伸びるコミックはサラリーマンが中心、という感じでしょうか。
他のジャンルについてはそこまで時間帯別にチェックしているわけではないんですけど、きちんとチェックすれば何らかの傾向が見えてくることでしょう。
また、土曜日はまた違った売れ方をするんです。土曜日は僕は朝番で朝9時からいるんですけど、文庫は夕方18時くらいまでにその日の売上の70%近く売ってしまうんですね。コミックの場合は大体40%ぐらいでしょうか。土曜日に関して言えば、文庫は夕方までに異常に売れる、という傾向があります。土曜日の昼に買い物をして夜は予定があるという人が多いんだろうか、とも思うんですけど、それだとコミックが相変わらず夜売れるというのに当てはまらないですしね。よくわかりません。
先ほど、文庫は主婦やお年寄りに、コミックはサラリーマンに照準が合っているのかもしれない、ということを書いたけど、逆に考えれば、文庫はサラリーマン向けの品ぞろえが出来ていなくて、コミックは主婦やお年寄り向けの品ぞろえが出来ていないという解釈もできるかもしれません。その辺りのことをいろいろと実験して検証していかないといけないんですけど、なかなか難しいなと思っています。
ただ文庫が主婦に照準が合っているというのはかなり当たっているかもしれません。というのも、前にどこかで書きましたけど、入口に置いてある台に子育て本を置いていまして、それが相当売れています。また同じ台に健康やら老後の本なんかも置いているんですけど、これも売れます。逆に、サラリーマン向けの売場というのはあんまり確立されていないかもしれません。新書の売場が基本的にサラリーマン向けに作られていますけど、文庫ではまだまだうまく対応できていないかもしれません。
店によって客層は相当違うことでしょう。他の店がこうしているから、他の店でこれが売れているから、という判断は当然しますが、それだけではやっぱりうまくいかないものです。自店の客層を把握して、いかにそれに合わせていくか。自店の客層が分からなければ、それが判断できるような実験的な売り場作りをしていろいろ試さないといけません。僕はいろいろと失敗ばかりしているんですけど、それでもその失敗からも、なるほどこういう客層はウチにはいないのか、という判断をするようにしています。
なかなか時間がなくて、日々の仕事に追われるだけで、そういう客層をきちんと読むということにそんなに時間を使えていません。もう少し頑張らないといけないですね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、日本が誇る天才棋士・羽生善治と、認知科学や人工知能の研究者二人が協力をし、将棋という複雑なゲームにおいて棋士がどのような判断をしているのか、その秘密に迫ろうとする作品です。
構成としては、まず羽生善治の語りがあります。過去のいろんなインタビューなんかを再構成した文章のようです。話は多岐に渡り、小中学生時代自分がどういう風に将棋を勉強してきたのか、対局中何を考えているのか、将棋とはどんなゲームなのか、スランプになったらどうするのか、棋士それぞれの特徴的な棋風など、将棋や自らの思考に関わる様々な話をします。
その羽生の話をいくつかの章に区切り、その区切りごとに研究者二人の解説が入ります。その解説では、認知科学の観点から見た羽生善治の勉強法・思考法の評価や、棋士の驚くべき記憶力についての実験、また将棋ソフトのこれまでの開発に至る歴史など、こちらも様々なことについて触れています。
羽生氏の話は、とにかくすごく分かりやすいですね。俗に天才と言われるような人は、自分がどのようにやっているのか、何を考えているのかというのを説明するのが下手だというイメージがあります。野球の長嶋さんみたいなものですね。すべてが感覚的なもので、それを言葉に置き換えられない。それが天才の天才たる所以みたいなところはあるのではないかと思います。
でも羽生氏は違います。自分がどのように思考しているのか、何を考えているのかということを、将棋を知らない人にも分かりやすく説明をしています。もちろん、将棋の深い話(振り飛車がどうのというような話)はよく分かりませんが、そうではない部分については本当に分かりやすいです。認知科学の分野では、自分の行動や思考を自分の言葉で説明することを「自己説明」と呼ぶそうですが、羽生氏はこの自己説明の能力が著しく高いと研究者も解説で書いています。
記憶力についても棋士はとんでもないものを持っています。研究者は羽生氏に対してこんな実験をしています。プロ棋士の対局の棋譜を用意し、盤に並んだ駒(手持ちの駒を含む)の内半分以上を伏せた図を三秒間だけ見せます。その後、伏せられた駒が実際どうなっているのかを推理するというものです。
羽生氏はこの問題をいとも簡単に解いたとのこと。これを研究者は「絶対将棋観」と呼んでいます。絶対音感みたいなものですね。絶対音感の場合、何か音を聞いた場合、それがどの音階なのかが分かるわけですが、絶対将棋観の場合、棋譜の一部を見ることで、その棋譜全体がどうなっているべきなのかが判断できるわけです。
記憶実験についてはもう一つ驚くべきものがあります。
初級者・中級者・羽生氏の三者に同じ棋譜を見てもらい、その棋譜を覚えるのに掛かった時間を計る、というものです。またアイカメラという、視点がどのように動いたかということが測定できるカメラをつけてもらうということもしています。
羽生氏が短い時間で棋譜を覚えたのは当然ですが、凄いのはその視線の動きです。初級者が盤のほぼ全面を何度も行き来するように見ているのに対し、羽生氏は盤のほんの一部を見ているだけです。それで記憶が出来るわけです。
ただその後の研究者の説明で少しだけ納得しました。例えばですけど、自分の部屋に帰ってきた時、いつもと少し違っていたら、その違っている部分がどこか分からなくても、何かおかしいという感覚は割と分かりますよね。それは、変化がある部分を注視しているわけではないんだけど頭の中では認識できている。
羽生氏にとって将棋の棋譜というのは、僕らが普段見ている部屋と同じく見慣れたものなわけです。だからこそ驚異的な記憶力を発揮できる。
これを証明するために、こんな実験をしています。将棋の初期状態から、ルールには反しないという条件で適当に駒を動かすとしましょう。そうして何手か経った盤を用意します。つまり、プロの棋譜ではない棋譜を覚えてもらおうというわけです。すると初級者も中級者も羽生氏も記憶できるレベルには差がありませんでした。何でも記憶出来るわけではなく、プロ棋士だったらこう打つはずという前提で成立している棋譜ではないと記憶できないわけです。
また、ある棋譜を見せた瞬間、たった三秒で「これは2二歩を打つしかない」と即答するわけです。その棋譜は本書に載っていますが、僕ならどういう状況になっているのかを把握するだけで1分は掛かるでしょう。それで把握した後も、何で2二歩しかないのか、という点が理解できないでしょう。まあそれは将棋の知識の差ですけど、一瞬見ただけで次の一手を理解することが出来るというのは本当に凄いなと思いました。
将棋に対する考え方についてもいろいろと面白いことを書いています。
まず斬新だなと思ったのは、将棋には指すことでマイナスになる手があまりにも多い、ということです。一手差すことでプラスになるような局面はほとんどないそうで、マイナスの手の中でいかに最善手を探すかということになるんだそうです。動かせばプラスになる手を探すのではなく、動かしたらマイナスになるのだけどその中でどれがいいのかを考える、という発想はなかなか凄いなと思いました。
また将棋というのは、終盤になればほとんど読み切れるゲームらしいですが、序中盤はそうはいかないようです。ではその状態でいかに打つか。それは、自分は選択の幅をたくさん残しながら、相手の手は限定されるように指していくんだそうです。言われてみれば当たり前なのかもしれないけど、なるほど序中盤はそんな風に考えているのか、と思いました。
また試合についてのスタンスもこんな風に書いています。例えば対戦相手の特異な戦法というのがあるとして、羽生氏はそれを避けるようなことはしないと言っています。プロ棋士の世界は狭くて、普段対局する相手はかなり限られる。その中で、じゃあその一局は相手の得意な戦法は避けるとして、じゃあ次も避けるのか、ということになるとあまり意味がない、と。
また、新しい戦法というのは、どうしても実戦で一度試して負けてからでないと身につかない、とも書いています。だから、その一局の勝敗にこだわらず、対局的な視点で判断しているというような話でした。
そういうような羽生氏の考え方がたくさん描かれ、かつそうした羽生氏の思考を科学的に検証した文章が描かれて行きます。なかなかこういった、天才を科学的に解明するという本は多くはないような気がするのでなかなか面白かったです。何にせよ、僕は棋士にはなれないことは明白ですね。羽生氏は、何よりも考え続けることが出来る集中力が大事だ、というようなことを書いています。僕は考え続けるのが苦手なんですよね。すぐ飽きちゃう。パズルとかクイズとかでも、すぐ答えを見ちゃうようなタイプです。数学とか物理は好きだったけど、やっぱりすぐに答えを見ちゃう。とにかく答えを知りたいんですね。自分で考えられればもっといいんだろうけど、それを諦めちゃう。まず棋士にはなれないでしょう。
まあそんなわけで、将棋に興味のない人でも楽しめる本ではないかなと思います。天才の語ることというのは大抵凡人には理解できないことが多いけど、羽生氏の話は実に分かりやすいと思います。読んでも天才にはなれないだろうけど、思考力を高める参考になったりはするかもしれません。読んでみてください。

羽生善治+伊藤毅志+松原仁「先を読む頭脳」



官僚たちの夏(城山三郎)

ある時ふと思いついて、出版社の営業さんにちらっと言ってみたことのあるアイデアがあります。今回はそれについて書いてみようかなと思います。
それは一言で言えば、ある単行本に客層が被りそうな別の作家の作品の冒頭部分を載せてしまうのはどうだろうか、ということです。
前に出版社の営業の方に、『どんな拡材が送られてきたら使えますか?』ということを聞かれたことがあります。拡材というのは、POPやポスターなどのことで、本を売り伸ばすために使えそうな商材ということです。
ただ僕としては、出版社から送られてくる拡材というのは案外使いにくいんです。POPやポスターならまだしも、販売台やらその他特殊なものが送られてきても、使いづらい。売り場に合わないということもあるし、僕のやり方に合わないということもあります。そういう意味で、POPやポスター以外に有効な拡材というのはそう思いつかないんです。
そこで僕はこんな提案をまずしました。小説の冒頭部分だけ印刷された小冊子みたいのがあったら割といいかもしれません、と。お客さんに配って読んでもらえるようにレジ前に置く、とかですね。
なんなら、その作家と客層が被りそうな別の作家の単行本にその小冊子を挟みこんで売っちゃってもいいですね、なんて話をしていたんです。
そんな流れから思いつきました。だったら初めっからその冒頭部分を本自体に組み込んでしまえばいいんじゃないか、と。
例えば、森見登美彦と万城目学の客層は結構被ると思うんだけど、例えば森見登美彦が新刊を出すという時に、その新刊に万城目学の作品の冒頭だけ組み込んでしまう。森見登美彦の小説を買った人が万城目学の小説の冒頭を読むことで興味を持ち、売上に繋がるかもしれません。
もしこれを実際にやるとすれば、まず同じ出版社内の作品でやるしかないでしょう。でも、僕はそこからさらに考えたんです。これのアイデアで広告料を取ってしまえばいいんじゃないか、と。
例えばA社が森見登美彦の新刊を出すとしましょう。その本の中に広告枠がある。そこに他の出版社が自社の作家の冒頭なりを組み込む。例えばB社から万城目学が近いうちに新刊を出すということであればその冒頭を載せてもいいし、あるいはC社が過去に出版した万城目学の作品の冒頭を載せてもいい。あるいはD社が過去に出した森見登美彦の作品の冒頭でもいい。
もちろん広告枠なんだから、小説の冒頭を載せる必要もない。対談でもいいし、マンガでもいい。とにかく、単行本に広告枠を設けて、他社から何らかの広告と引き換えに広告料を受け取る、というやり方は出来るんじゃないかなと思ったわけです。
最近出た東野圭吾の新刊「新参者」なんか、相当の人が買っていくと思うんです。買わなくても、手に取ったり立ち読みをしたりする人は多いでしょう。そこに、何らかの広告を載せるというのは結構有効だったりするのではないかなと思います。あるいはベストセラーでなくても、例えば専門書なんかだとしたら、その本を買う人が興味を持つような別の作品の広告が載れば、それはいい宣伝になるのではないかな、と思ったりします。
もちろん現実的にはなかなか難しいかもしれません。そもそも広告というのは競合しないことが前提のはずなのに、このアイデアでは、本の中に別の出版社の本の広告が載るというのだから大変です。それに、著者が嫌がるという可能性もあるでしょう。一冊の本としてのまとまりが、広告を組み込んでしまうことで崩れてしまい、それが著者の不興を買う、という可能性もあるでしょう。
もし同じ出版業界の広告を載せるのが難しい、ということなら、他業界の広告でもいいかもしれません。
昔こんな帯を見たことがあります。どこかの出版社の文庫の新刊の帯の裏に、どこかのメーカーの蛍光灯の宣伝が載っていました。本を読むならウチの明かりで、みたいなそんな感じの宣伝です。そういう形だったら出来るかもしれませんね。
でもあんまり広告広告しすぎているのも、本としての体裁が悪くなる気がするんで、やっぱり別の作家の小説の冒頭、ぐらいが慎みがあっていいと思うですけどね。
誰かやってくれないですかね。なかなか面白いアイデアだとは思うんですけど、やっぱりいろいろと難しいでしょうか。広告収入でやってきた雑誌という形態が崩壊しつつあるので、同じことを書籍でやってどうする、という意見もあるかもしれないけど、書籍の中で書籍の宣伝をするというのはなかなか面白いんじゃないか、と。どうでしょうか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、まだ続いているかは知りませんが、最近ドラマ化された作品です。経済小説の分野で大きな功績を残した、巨匠と言ってもいい作家の代表作です。
本書は、経済通産省(現・経済産業省)を舞台に、『ミスター・通産省』と呼ばれる異色の官僚・風越を描いた作品なんですが、本書に出てくる人物にはほとんどモデルとなる人物がいるようです。詳しくはウィキペディアなんかをチェックしてもらえばいいけど、本当にこんな官僚がいたんだなと思うと、凄いなと思います。
風越は通産省大臣官房秘書課長というエリートコースにいる男。秘書課長というのは主に人事を扱う役職なのだけど、それはまさに風越にはうってつけなのだった。何故なら、風越はとにかく人間、そして人事に興味があるからだ。通産省の未来にとって、そして日本の未来にとってどうあるべきかをふまえ、常に理想の人事を考える。そんな男だ。
官僚としては異色の男である。自ら『雑な男』と称する通り大雑把な人間で、上に媚びることはなく、下の面倒見はいい。国家のためにがむしゃらに働く人間こそ必要で、能力のある者こそどんどん上へいくべきだ、と考えている。本気で日本の経済界のことを考えるという点では実に官僚的でありながら、一方で周りの目を気にせず、どんな人間にも臆することなく接するそのあり方はまさに官僚からは大きく外れていた。
風越は常に先を見据えていた。目先の利益ではなく、これからの日本のことを考え、そのために通産省はどう変わらねばならないのか、そしてそのために必要な人材は誰なのか。それを常に念頭に置きながら仕事をしていた。
庭野や鮎川と言った、風越が心の底から信頼し、その信頼に期待以上に応える者も入れば、牧のように能力はあるが何を考えているのか分からないのもいる。片山のように、もはや風越とは別次元としか思えないような官僚もいる。
そうした中で風越はやがて、『産業振興法』の成立にすべての情熱を傾けていくことになるのだが…。
というような話です。
評価の高い作品らしく、なかなか面白い作品でした。
正直なところ、本書のような落ち着いた筆致はちょっともったいないかなと思ったりはしました。風越というキャラクターは豪快だし、その周りにいる面子も活き活きしている。産業振興法の成立に関わる部分なんかは相当に盛り上がります。ただ、全体的に文章が大人しいので、作品から漂ってくる勢いみたいなものが文章によってブレーキを掛けられているような気がしてしまいます。もちろん、こういう落ち着いた筆致だからこそこの作品は映えるのかもしれません。あまり大げさにやりすぎるとウソ臭くなてしまうかもしれない。それでも、僕の個人的な好みからすると、もう少し盛り上がりのある文章の方がいいんじゃないかなと思ったりはしました。
でも、さすがに面白いですね。とにかくまず、風越というキャラクターが素晴らしい。たぶん多くの人が、こんな風になれたらいいかもしれない、と思うんじゃないでしょうか。権力に媚びず、自分自身のことには無頓着で人のため国家のために邁進する。細かいことは気にしないで、やることなすこと豪快。敵も多いけど、信頼してくれる味方も多い。これと決めたら猪突猛進で、正しいと信じたことを押し通そうとする。官僚に限らず、こういうキャラクターはそう多くはないだろうなと思います。
風越の場合、とにかくすべてがはっきりしている。それは、『俺たちは国家に雇われているのであって、台仁に雇われているのではない』というようなセリフ一つでも分かる。一事が万事こういう感じなのだ。おかしいと思ったことには従わず、正しいと思ったことは無茶でも通す。芯が一本しっかり通っているから、煙たい存在であっても邪険にするわけにもいかない。こんな生き方が出来たらいいですね。羨ましい限りです。
羨ましいと言えば、片山を羨ましいと思う人も多いかもしれません。片山は、秀才中の秀才ともてはやされて通産省に入ってきたものの、テニスやらヨットやらゴルフやらと遊んでばかり。左遷に近い辞令をほのめかしても、何でも従いますよと飄々としている。君たちはワーカホリックだよ、と言って遊びに精を出す。それでいて、きっちりやるべき部分はきっちりとやっている。そつがない。風越とは対照的な男で、実際二人は最後まで反りが合わない。片山みたいな生き方をしたいなぁと思った人も少なくないかもしれません。
他にも出てくる面子が実にいい。鮎川や庭野は、まさに風越一派として風越を陰に日向に支えていく。風越は敵も多いし、説明が足りずに誤解されることも多い。弁解したり、あるいは釘を刺したりと気の休まる時がないのだけど、それでも二人は風越のために身を粉にして働くのだ。風越にそれだけ魅力があったということでしょう。
牧というのもなかなかおかしな男だ。順調に階段を上がっていたはずだが、病のために戦線離脱。自ら希望して一時パリまで言っている。外務省と違って通産省の場合、上に上がる人間は海外勤務はほとんどない。
そうやってエリートコースから完全に外れていたところを、風越が抜擢する。抜擢というか、風越は牧の思惑を理解した上でパリに送り出したわけで、時期を見ていたというだけだけど、それでも周囲は驚いた。
しかしその牧と風越が微妙に合わない。政策ではお互い目指す方向は似ていて、そこに向かって邁進するのだけど、やり方や性格的な部分でうまくいかない。風越の子飼いとでもいうべき庭野や鮎川ともあまりうまくいかない。一癖も二癖もある曲者である。
ころころと代わる大臣にもいろいろと苦戦を強いられることになる。大臣なんて誰がなったって同じだ、と日々言っている風越にしても、様々な場面で大臣とやり合ったり煮え湯を飲まされたりすることになる。特に『産業振興法』成立のために駆けずり回っていた頃は、この大臣の存在が相当厄介な問題になったこともある。
そういった様々な思惑や人間関係の中で、風越という風雲児が存在し続けたということがやっぱり凄いなと思うんですね。風越みたいな厄介な人間は、すぐに煙たがられて飛ばされてもおかしくないように僕には思える。それでも、風越自身は保身になるようなことはほとんどしてこなかったにも関わらず、最終的にはあれこれあって通産省のトップにまで上り詰めることになるのだ。
僕は政治というのはよく分からないし、民主党が政権を取ってからは官僚主導の政治は止めるみたいなことを言ってるようで、これからどうなるか知らないけど、あくまでの僕のイメージでは、官僚というのは、『国の利益ため』ではなくて『省の利益のため』に動いているような気がするんですね。海堂尊が厚生労働省のやり方を批判するような小説をたくさん出しているけど、そういうのを読んでも、自分たちの省のことしか考えてないんだろうなと思ったりするんですね。
だから、風越と言う人間には良い面も悪い面も多々あるだろうけど、それでも『国の利益ため』という軸がまったくブレなかったという点において、こういう人の存在は本当に大事ではないかなと思うんですね。今の官僚に、風越にするような期待をすることはなかなか難しいでしょう。目先の利益のためにうごめいているような人々を理解したり応援したりする気にはなかなかなれません。風越だったら、そりゃあ敵はおおかったでしょうけど、この人のためならという気にもなれそうですよね。
政治にはまったく興味がないけど、風越みたいな風雲児がニュースを騒がせてくれたりしたら、少しは興味がもてるかもしれません。
名作と言われるだけのことはあって、なかなか面白い作品です。本書は経済小説というわけではないけど、経済についての描写は結構多いです。経済についてチンプンカンプンの僕にはよく分からない部分も多々あったけど、そういう部分は読み飛ばしていけば特に問題ありません。経済が苦手だという人でも普通に楽しめると思います。ぜひ読んでみてください。

城山三郎「官僚たちの夏」



会社が消えた日(水木楊)

本当に書くことがなくて困っております。さてどうしたものか。
昔、びっくりマンチョコってありましたよね?今でももしかしたら売ってたりするのかもしれないけど。プロ野球チップスなんてのもありました。最近チラッとみたニュースには、ちびまるこちゃんが一話収録されたDVDがついたお菓子が売られるとかなんとか。
これらの共通点は、お菓子そのものを買うのが目的ではなくて、一緒についているおまけが目的だ、ということです。
書店でもその傾向がかなり加速している感じがあります。
雑誌なんてのは最近本当に、雑誌本体を買ってるんだか付録を買ってるんだか分からない状態になっています。特に女性誌ですね。女性誌なんか、付録があるものは売れるけどないものはあんまり売れない、という感じになってきているんじゃないでしょうか。最近では、ビジネス誌やスポーツ誌なんかにも付録がついていたりします。
雑誌の場合、なるべく幅広い層を取り込むか、あるいはもの凄く専門的になるかどちらかという選択肢しかないです。専門的な雑誌の場合、付録がなくても、あるいは多少値段が高くても、その雑誌を買わないと得られない知識が必要なわけで、お客さんは買うでしょう。でもなるべく広い層を取り込みたい雑誌の場合、概ね内容自体は大したことがないものになります。テレビと同じで、視聴率のいい番組ほど低俗だったりします。そうなると、付録でもつけないともう売れないんでしょう。雑誌の休刊の話はもう常態化している感じがありますが、最近では女性誌の「PINKY」が休刊するという話が出ました。そこそこ人気のある売れている雑誌だと思っていたんですけどね。もはや『雑誌』という枠組みそのものが限界に来ているんだろうなと思います。
そんな中で好調なのが、いわゆるブランドムックです。一番有名なのはcherというブランドでしょうか。外を歩くと、かなりの女性がこのcherのバッグを持っていたりします。
ブランドムックというのは、まさにおまけつきのお菓子みたいなもので、おまけとしてついてくるバッグやらなんやらがメインで、雑誌自体はほとんど中身がないようなものでしょう。確かに1500円とか2000円とかでブランド物のバッグが一つ手に入るというのはお得でしょうけど、でもそのブランドムックが売れれば売れるほど同じものを持っている女性の数は増えるわけで、街中で被る可能性が高まるでしょう。それはいんでしょうかね。ホント、ブランドムックが売れるのが不思議でなりません。
今年は、ブランドの手帳まで出ました。あんまり売れていないような気がしますけど…。しかしそれまで女性ファッションブランドの手帳なんて、書店で売るようなものはなかったはずなのに、今年は結構いろんなところが出しているみたいです。機を見るのに敏ということなのかもしれませんが、本屋なんだかバッグ屋何だかわからなくなりつつありますね。
今のところ付録なんかがついたりするのは雑誌だけですが、もしかしたら普通の本にもついたりするでしょうかね。このアイデアについてはまた次の感想で書こうと思うんだけど、これは案外悪くないんじゃないかというアイデアが一つあったりします。
売上を伸ばさないといけないでしょうから、そのために打てる手は何でも打たないといけないというのは分かるけど、本そのものの力というのがどんどん奪われていくようでちょっと悲しいですね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
新しい画期的な企画をプレゼンテーションする予定で、役員の椅子ももう間近。順風満帆なサラリーマン人生を送っていたはずの木沢涼介。先輩に誘われなんとなく入った会社ではあるが、合っていたのだろう、何事もなくここまでやってこれた。自殺したり頭がおかしくなってしまった奴も何人か見てきた。仕方がないとはいえ、サラリーマンというのはなかなかに厳しいものだ。
しかしそんな木沢に、ある日突然とんでもない事態が襲いかかる。
いつものように会社に入ろうとビルのゲートを通ろうとしたところ、認証出来ずに通してもらえない。木沢は警備員に社員証を見せ通してほしいと説明するが、しかし警備員は木沢の勤めるMOBIDという会社はそもそもこの建物の中にはない、と説明する。
そんなバカな。しかしいくら調べてみても、MOBIDという会社はどこにもないのだ。電話しても繋がらないし、かつての同僚や社長に連絡しても繋がらない。会社情報や株式情報からもMOBIDの名前が完全に消えてしまったのだ。
木沢は一か月に渡り、ありとあらゆることをやった。会社の痕跡がどこかに残っていないか、出来ることはなんでもした。しかしそれでもまったく見つからない。会社が忽然と消えてしまったとしか思えないのだ。
しかし一ヶ月後、なんとMOBIDが元に戻ったことを知る。しかし相変わらずビルのゲートは通れない。なんと、MOBIDという会社は戻ってきたが、誰ひとり木沢がMOBIDの社員であったことを覚えていないのだ。社員名簿にも載っていないし、かつての同僚も木沢の顔を見て困惑するばかり。
何が起こっているのかさっぱり分からないまま、生活していくために職を探そうとする木沢。しかしそううまくいくわけもなく…。
というような話です。
まったく知らない作家の作品ですが、タイトルと内容紹介に惹かれて読んでみました。思っていた以上に面白い作品でした。
先に書いておくと、本書は『何故会社が消えてしまったのか』を明らかにするミステリーというわけではありません。そうではなくて、何らかの理由で会社が消えてしまうという経験をした男がどういう風に生きていくのか、ということを描いた作品です。帯に『衝撃の企業SF小説』とあったので、たぶんこれは何故会社が消えたのかというのを明らかにするミステリーではないなと思って読んだんで僕は問題なかったですけど、もしそういう作品だと思って読み始めると肩透かしをくらうかもしれないのでご注意を。何故会社が消えてしまったのか、という理由は特に明らかにされません。そうではなくて、そんな理不尽な目にあった男がいかに生きていくのか、ということを描いた作品です。
著者略歴を見るともう70歳ぐらいの人らしいんですけど、日本経済新聞社に入社して論説主幹を務めたというんだから凄い人なんでしょう。本書も経済的な部分、サラリーマン的な部分に関して相当リアリティを感じる作品なんですけど、著者の経歴を知ればなるほどという感じがします。
僕は別にサラリーマンじゃないんで実際のところ主人公の気持ちにそこまで肉薄出来ないのかもしれないけど、実際サラリーマンをやっている人からすれば、こんなことありえないと分かっていてもちょっと背筋が凍るほど恐ろしいんじゃないかなと思います。サラリーマンじゃなくたって、これまで自分が所属していた組織や集団が突然消え、そして戻ってきたわいいけど誰も自分のことを覚えていない、という事態に遭遇したら相当混乱するでしょう。さらにそれが、役員の椅子が間近、という挫折知らずのサラリーマンだとしたら余計にキツイだろうなと思います。
会社の人間が誰も自分のことを覚えていないということが分かってからの木沢の人生は、それはもう散々なものです。警察に逮捕されたり、妻と娘と離れ離れにならなくてはいけなかったり、『失業者』にもなれないから再就職もままならないなど、とにかく現実は相当に厳しいです。
まあ実際、リストラされたりした人も似たような苦しみを味わっているんでしょう。でも、もし本書の設定が普通にリストラだとしたら、ここまで共感出来なかったような気がします。うまく説明できないけど、会社が突然消えるというリアリティのない設定の方が自分自身との距離を感じられるので、その分主人公の様子を冷静に見ることが出来るのかもしれません。もし設定がリストラだとしたら、もしかしたら自分もそうなるかも、とか考えて冷静には読めないかもしれません。まあうまく説明できないんだけど、会社が突然消えるというリアリティのなさが、逆にリストラされた人の気持ちをより理解する一助になっているような、そんな小説であるように感じました。
でも一方で、会社が突然消えるという設定をうまくいかしきれていないのかもしれない、という風にも感じました。会社が突然消える、という設定以外はリアリティのあるストーリーにしたかったからこういう感じになったんだろうけど、そうなるとちょっと会社が突然消えるという設定が全体から浮きすぎているなとも思うんです。どうすればいいのかというのは具体的に提案できないんだけど、会社が突然消えるという設定をもう少し作中で活かさないと、ただリストラされたサラリーマンの話とそこまで大きく変わらない小説になってしまうと思うんですね。そこがちょっともったいないかなという感じがしました。
最後の最後で木沢がする決断は、一つの方向性を示しているような気がします。何に対しての方向性なのか、というのはよく分からないんだけど、木沢がした決断の方向性を誰しもが胸の内に保持しておくべきではないのかなという感じがしました。生き方は一つではない、ということをもっと多くの人が実感できる世の中になれば、もう少し精神的に豊かになれるような気がしました。
突拍子もない設定とリアリティのある描写がうまくマッチした作品だなと思います。なかなか面白い作品だと思います。サラリーマンだったら、読んでみたら結構面白いかもしれません。読んでみてください。

水木楊「会社が消えた日」



ROMES06(五條瑛)

今日は連休ということで多少時間もあったので、部屋にある本をちょっと片付けてみました。読んでつまらなかった本とか、人からもらったんだけど要らない本とかを箱に詰めたんだけど、箱の方が全然足りなくてまだまだ進んでいません。5箱詰めたんだけど、まだ詰めるべき本はたくさんあります。困ったものです。
この本をどうしようかと思うんだけど、やっぱり基本的には古本屋とかに売ることになるでしょうね。捨てるにしても手間が掛かるし、ネットで見つけたんだけど、中古本を引き取ってくれる割といいサービスがあるんで、ちょっと使ってみようかなと思っています。まあその前に、なんとか箱詰めを頑張らないといけないけど。
こういう時につくづく感じるのは、やっぱり本というのは場所を取るよなぁ、ということです。
最近は電子書籍というのが徐々にではあるけど広がり始めているように思います。iPhoneなんかでも雑誌の記事が見れたりというようなサービスが始まったりしているようです。
でも、僕としては、電子書籍というのはやっぱり好きになれないんですね。本という印刷された形のもので読みたい。所有したいという部分もあります。僕はどれだけ電子書籍が広まっても、紙の本がなくなるとは思っていないけど、ただ電子書籍が広まるにつれて、紙の本の値段はどんどん上がっていくことでしょう。
紙の本は好きだけど、でもやっぱり問題になるのが場所を取るという点です。電子書籍はその点に関してははっきり言ってものすごく優れていると思います。それでも、本好きであればあるほど、電子書籍というのはなかなか受け入れがたいと思うんです。
また、良かった本は手元に残しておきたいものだけど、そうでない本は処分したいと思うでしょう。本好きであればあるほどそういう本も多くなるでしょう。せめてそういうものだけでもなんとかなると嬉しい。
でも現状では、古本屋に売るか捨てるかぐらいしかないんですよね。僕は普段から古本屋で本を買っているような、書店員の風上にも置けないような人間ですけど、それでも古本屋が台頭するのはマズイと思ってはいるんです。でも、本好きが持っている大量の本を受け入れる先が古本屋しかない、となるとなかなか難しいものがあります。
そこでふと思いついたアイデアがあります。今から書くアイデアは、普通に考えれば実行不可能でしょう。それは自分でも理解していますけど、こういうことが出来たらちょっと面白いんじゃないかと思うんです。
基本的なアイデアとしては、普通の新刊書店がお客さんから本を買い取る、というものです。それだけだったら実際に既にやっている書店チェーンはあります。
ただ僕のアイデアはここからです。このお客さんから買い取った本を、新刊と同じ値段で売ってしまおう、新刊と同じ扱いで売ってしまおう、というものです。
流れとしてはこういう風になります。新刊書店はお客さんから本を買い取る。この際重要になってくるのは、その時点で普通に流通している本に限らないとなかなか難しいという点ですけど、まあそういう細かい点はとりあえず置いておくとします。買い取った本は、最終的には新刊と同じ値段で売るので、買取金額は普通の古本屋の値段よりも高めに設定することが出来ませす。この点だけでも、古本屋より優位に立てるのではないかと。
ここからが問題です。お客さんから買い取った本は、ある程度の量をまとめた上で、取次を通じて出版社に返品をしてしまうんです。出版社はその本を吟味し、カバー等を掛け替えるだけで新刊として出せるか、あるいはどうやっても売り物にはならないかという点を判断します。その上で、新刊として売りなおすことの出来るものはカバーなどを掛け替えた上で、新刊として売りなおすことのできないものはそのままの状態でその書店に送り返します。
書店は戻ってきた本の中から、新刊として売れるものは売場に置き、そうでないものはその書店の独自の判断(捨てるか、あるいは中古本のコーナーを作って売るか)により処理することになります。
そもそも書店で売られている『新刊本』にしたって、売場でお客さんが立ち読みをしているし、あるいはどこかの書店が返品したものが再度回されたりというようなことを繰り返しているわけで、まったく読まれていない、まったく汚くなっていない本、というのはないと思うんです。だったら、お客さんが綺麗に読んで綺麗に扱った本を再度新刊として流通させてしまう、というのはさほど不可能なことではないんじゃないかと思うんです。
もちろん問題は多いでしょうね。そもそも一般の読者からの抵抗はかなり大きいかもしれません。自分が買っているのが『新品』であると信じているからこそ新刊書店で買うわけで、それがもしかしたらどこかのお客さんから買い取った本かもしれないとなれば反発が出るかもしれません。
またこのやり方の場合、新刊書店の買い取り担当者にはかなりの目利きが必要になるでしょう。最終的に新刊として売ることが出来るほど状態のいいものを選別して買い取らなくてはいけないので、新刊書店に持って行ってもほとんど買い取ってもらえないとなればお客さんも売りにこないかもしれません。
それに出版社の手間もかなり必要になるでしょう。一番問題なのは、その書店から回ってきたものはその書店に戻さなくてはいけないという点で、これは相当ネックになるでしょう。
まあそんなわけで、実現するわけのないアイデアですけど、実現出来たらちょっと面白いかもしれません。法律的に何か問題があるかもしれないけど、これなら作家の利益も守られるのではないか、と。古本屋で売り買いされる場合作家には利益が入らないけど、この仕組みだったら、一旦出版社に戻ることになるので、再出荷したというデータを記録しておけば、その分のお金を著者に支払うことも可能でしょう。デメリットがありすぎますけど、メリットもそれなりにある。誰かデメリットが最小限になるようにこのアイデアを洗練してくれるような人はいないでしょうかね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は近々NHKでドラマ化されるその原作本です。関西国際空港をモデルにしたと思われる、海上の埋立地に浮かぶ西日本国際空港を舞台にした、世界最先端の警備システムとテロリストの戦いを描いた作品です。
日本でもかなり新しく、また機能という点でも日本随一の西日本国際空港は、警備という点でも世界最先端を誇っている。そもそも空港自体が海上にあるため、出入口が制限され、そのために警備がしやすいという点もある。しかしそれ以上に、世界最高の警備システムと言われるROMESを導入しているということもあって、空港の警備は盤石だと誰もが考えていた。
そのROMESの最高運用責任者が成嶋だ。最高運用責任者というか、ROMESのシステムを完璧に扱えるのは成嶋しかいない。成嶋はROMESの開発元から送られてきた人間で、相当変わっている。ROMESと飼い犬であるハルしか信じていない、人間を基本的に信頼していない男なのだ。なら取っつきにくい男なのかというとそうでもなく、むしろ親しみやすい男だ。掴みどころのない男である。
ある日、空港の外周道路沿いを走っていた車が突如炎上した。殺傷能力の低い爆弾が仕掛けられていたらしい。その前兆をROMESは捉えていた。
それからも、不穏な動きは続いた。『チーム』と名乗る集団から犯行予告のようなものが届いてもいた。一体『チーム』の目的は何なのか。どうもROMESのシステムについて敵は熟知しているらしいのだが…。
というような話です。
全体としては、まあまあという感じでしょうか。
まず一番問題だと思うのは、その長さですね。本書は文庫本で600ページ近くあるんですけど、絶対そんな分量は必要ないと思うんです。不要な部分を削っていけば、たぶん500ページを切る作品に仕上げることが出来るんじゃないかと思います。もしかしたら450ページぐらいには出来るかも。確かに、西日本国際空港内の設備やROMESの仕組み、あるいはかなりいる登場人物の描写なんかにページ数が必要なのかもしれないけど、もっとストーリーを絞ることが出来ると思うんですね。ちょっと冗長すぎるなと感じました。
冗長すぎる、というのと似たような話になるけど、ストーリーの展開がどうも遅いんですね。初めの車の爆破が起こってから、どうも事態が進んでいかない。しかもテロリストの仕掛ける爆破や仕掛けがどれも規模が小さいんです。もちろん最後まで読めば、その理由は分かります。それでも、テロリスト側の仕掛けで読者を引っ張るほどのインパクトがないならば、やっぱりもう少し展開を早くしないと厳しいと思うんですね。成嶋という男が実に牧歌的な人間なんで、そういうふんわりとした雰囲気が作品のところどころで漂ってくるのはいいんだけど、成嶋とは関係ない部分でダラダラした描写が多かったりして、ちょっとそこが問題だなと思いました。
登場人物の描写とか、ストーリー全体の骨格、あるいはテロリスト側の正体や犯行理由なんかは悪くなかったと思います。同じテーマ、同じ設定で、別の作家が書いたらもう少しいい作品に仕上がったかもしれません。
キャラクターについては、誰もが活き活きしていて、かなり良かったと思います。視点人物がころころ変わるんで、それについていくのが結構大変だとは思いますけど、出てくる人がみんなちゃんと活き活きと描かれているので、そういう描写はうまいと思いました。
また、テロリスト側の事情が徐々に明らかになっていくやり方とか、犯行に手を染めなくてはいけなかった理由とか、そういうのもきっちりと描かれていて、なかなか良かったと思います。
だからドラマにしたら案外面白いストーリーかもしれません。映像の方がぴったりきそうなシーンも結構ありますしね。原作はさほどでもないけど、もしかしたらドラマは成功するかもしれません。
まあそんなわけで、そこまでオススメという感じではないですね。もう少し作家に力量があれば、という感じがしました。ドラマはもしかしたら面白いかもしれません。

五條瑛「ROMES06」



星間商事株式会社社史編纂室(三浦しをん)

そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は三浦しをんの最新作です。三浦しをんのオタク趣味がかなり色濃く出ている作品です。
川田幸代は、星間商事という商社に勤めるOL。彼女が配属されているのは、社史編纂室という閑職だ。その名の通り、社史を編纂するために集められた部署だ。しかし、部長はこれまで一度も顔を見せたことがないし(幽霊部長と呼ばれている)、課長は仕事をしているところなんてほとんど見たことがない。みっこちゃんは、朝のラジオ体操は元気だけど資料室で調べ物をするとか言って姿を消すし、矢田にいたっては合コンばかりで仕事を真面目にする気がない。そんなメンバーだから、創立60周年を記念して出すことになっていた社史も出せず、既に61年目に突入している。
幸代はいわゆる腐女子で、同人誌作りに精を出している。出世は望んでいないし、定時に帰れて週末も休める今の職場にそんなに不満はない。付き合っている彼氏と一緒に住んではいるが、時々ふらっと長旅に出て行ってしまう甲斐性なし。結婚はまだまだ遠いだろう。
ある日のこと。ひょんなことから、自分が同人誌を作っていることが課長にバレてしまう。すると課長は、社史編纂室でも同人誌を作ろうではないか、と大張りきり。一方で幸代たちは社史を調べていく中で、彼女たちが「高度経済成長期の穴」と呼んでいる空白があることに気づく。誰もがその時代のことを話したがらないのだ。生来の生真面目さからこの「高度経済成長期の穴」について調べてやろうと決意する幸代だが…。
というような話です。
相変わらず三浦しをんの小説は面白いです。本書も、のほほんとした始まりなのに、中盤から結構マジな感じの展開になっていく。その一方で、会社で同人誌を作ろうとしているような緩さ。このバランスがいいですね、実に。
初めの方は、寄せ集めの使えない面々がウダウダと適当に社史を作ろうとしているというような感じで始まるんだけど、段々ときちんとしてくる。幸代にしたところでもともとやる気があるというわけでもなかったのだけど、他の面々はさらにそれに輪をかけてやる気がない。課長は何も指示をしないし、部長はそもそもいないし、矢田は遊んでばっかり。みっこちゃんはまだマシだけど、積極的というほどでもない。そんな面子で日々だらだらと仕事をしている。
でも次第に真面目に社史を作り始めるようになるんですね。そのきっかけが、「高度経済成長期の穴」。会社のOBに話を聞こうとするんだけど、その時期のことはどうしてものらりくらり交わされてしまう。会社の専務からも、その時代のことについては触れてほしくないというオーラがプンプン漂ってくる。となれば逆に知りたくなるのが人情ってものだ。
しかも、同人誌作りの精を出し始めた課長が書く小説というのが、幸代らが調べようとしていることに何だか似ているのだ。ちゃらんぽらんな課長だけど、何か知っているのだろうか?調べを進めていく内に、サリメニ共和国という東南アジアの国(注・実際には存在しません)が関わっているらしいということが分かってくる。細い糸を辿っていく内に、かつて会社が行っていた後ろ暗い過去が明らかになっていく…。
という感じで結構真面目な感じになるんですね。
その一方で、幸代が個人的に勤しんでいるオタク活動についてもかなり描写されます。イベントとか夏コミ・冬コミなんかの描写や、一緒に同人誌活動をしている友人との友情、何故か冬コミに出店ことになった社史編纂室の面々らとのやり取りなど、なかなか面白いです。作中には、幸代や課長が書いた小説の一部も載っていて、まさに三浦しをんワールド全開という感じです。
さらに、同僚の恋愛だとか、あるいは幸代自身の恋愛、友人の結婚などなど、アラサー女性の心情だとかいろんな恋模様なんかも盛り込まれていてなかなか盛りだくさんだったりします。
最終的に出来上がった社史はなかなか爽快なものがあります。どういう風になったのかというのは是非読んでもらうとして、こういう反抗的なことは僕は大好きだったりするんで、社史編纂室にいたら楽しかっただろうなとか思ったりしました。表だって反抗せずに、搦め手で攻めていくというのもいいなと思いました。
相変わらず面白い作品です。ホント三浦しをんって、どんな舞台を選んでも面白い小説の書ける作家だなと思います。凄いものです。確か最近、林業を舞台にした小説も出ていたはず。そっちもぜひ読みたいですね。本作もなかなか面白い作品です。ぜひ読んでみてください。

三浦しをん「星間商事株式会社社史編纂室」



トーマの心臓(森博嗣)

連休中はたくさん本を読もうと思っているんだけど、困った事に書店の話のネタがないんだなぁ。まあ何とか捻り出すつもりではいるんだけど。
僕は書店で文庫と新書の担当をしているのだけど、とにかくこれまでは色んなことを試して、いろんなことを取りいれて、新しいことをいろいろやってきた、と思っています。売上を伸ばすために、もっと言えば、お客さんに面白い売り場だと思ってもらえるようにするには何をすればいいのか、常に考え実行してきました。
しかし最近、その新しいことのネタがなくなってきた感じがあります。やれることをやりきった、という状態ではないだろうけど、でも何が出来るのか分からない。売上はそこまで下がってはいないとは言え、楽観できる状況ではないわけで、打てる手はなるべく打たないといけないのだけど、なかなか思いつかない。
まあそんなわけで今回は、これまで僕がどんなことをやってきたのか、みたいなことを箇条書きにしてみようかなと思うわけです。自分がこれまでやってきたことを振り返ることで、これから何が出来るか思いついたりしないかな、とちょっとだけ期待しつつ、それよりは、まあ結構いろんなことをやってきたな、と自己満足に浸りたいという理由です。

・棚と面陳のバランスを変えた
→僕が担当になった当初は、棚の量が多くて、面陳が少なかったんです。棚からどれぐらい売れているのか、というのを見極めながら、適正な感じにバランスを取ったつもりです。

・棚前にその出版社の文庫を平積みするのを止めた。つまり出版社別に平積みを並べることを止めた
→多くの書店で未だにこの方式が取られているんだけど、僕はどうしてもそれが正しいことだとは思えない。出版社別に分けてもお客さんにそんなにメリットはないように思う。それよりは、似たような客層の本をまとめるほうがいいんじゃないかと。
僕は自分でフェアを組んで展開するというのはほとんどやらないんだけど、新刊や既刊を組み合わせることで、すべての売場をフェア台みたいにしている、と言ってもいいかもしれません。

・売場を増やした
→店内のデッドスペースを見つけ、そこに無理矢理文庫を置くスペースを作ることで、売場を増やした。

・スタッフに大量にPOPを作ってもらうようになった
→現在僕が仕事を頼めるPOP職人が3人くらいいるので、とにかくPOPを作ってもらいまくっている。文庫の売場は、出版社からもらったものも含めてPOPだらけである。

・多面展開をせずにある一冊の本をたくさん売ることの出来る売場作りをした
→多面展開が好きではないので、多面展開をせずにいかにたくさん本を売るかという発想でいろんなやり方を考えた。
特にこれによって、世間的に売れていない本をウチの店だけ大量に売る、ということが可能になって、店独自の特色を出せるようになったと思う。

・オススメ帯を作ってもらって常時つけている
→「メチャクチャ売れてます」「担当注目」「今が旬」「まだ読んでないの?」「これは傑作」と言った帯をいろんな本につけています。

・売れたスリップを見て、平積みになっているものが棚から売れているかどうかチェックし、棚から売れていたら補充する
→これをやることで、平積みになっているのに棚からばかり売れている本は、平積みにしている場所が悪いのだな、というような判断が出来るようになっていく、という利点もあります。

・世間的に売れている本はとりあえず何でも発注して売場に置く
→世間的に売れている本がとりあえず店にある、ということをお客さんに認識してもらうことが重要。そうなれば、次に話題になった作品も、あそこにあればあるかも、と思ってもらえるかもしれない

・ライトノベルをきちっと仕入れて売るようにした
→客層的にライトノベルはかなり伸びしろがあると思ったので、かなり頑張った。今では新刊の配本も相当な数入ってくるようになった。

・棚にランク外の作品をガンガン突っ込むことにした
→ランク通りの棚を作っても他の書店と似たりよったりになるので、意識的にランク外の作品を入れるようにした。ランク外の作品でもモノによってはかなり回転するので、積極的に実験するようにしている。

・面陳や平積みを日々入れ替えるようにしている
→客層的に、常連というか、割と頻繁に来てくれるお客さんが多いはずなので、毎日来ても売場がかなり変わっている方が面白いだろうと思い、日々動かしている。凄いものになると、最終的に六ヶ所か七か所ぐらい移動させる文庫もある。

・新書を文庫の売場に、文庫を新書の売場に並べておくようにした
→特に新書は、基本的にビジネスっぽいものでまとめているので、そうではない類のものが入ってくると新書の売場ではあんまり売れない。そこで文庫の売場に置いたりということをよくする。また、文芸書やコミックを文庫の売場に置いたりということも時々する。

・何冊売れたかカウントするものを作ってもらい、POPと一緒につけている
→バスケットボールの試合なんかで使う得点を表示するやつ。0~9までの数字があって、めくると点数を表示。そういう感じのものを作ってもらい、これぞという文庫につけて、今どれだけ売れたのかというのを表示している。

・ウォールポケットを使って、特殊な多面展開を始めた
→多面展開は好きではないのだけど、普通にしていては使えないスペースをウォールポケットを使うことで活かすことが出来たので、そこで多面展開をつい最近始めた。

・過去二回、オリジナルのカバーを作ったことがある
→文庫にもともとついているカバーの上から、さらにスタッフに作ってもらったオリジナルのカバーをPOPの代わりにつけて売ったことがある。オリジナルの帯の延長線上にあるような感じ。

・複数巻の作品を効率よく売場に置くやり方を考えた
→特にライトノベルの売場でよくやるのだけど、一巻目だけを面陳で置き、二巻以降をその隣に二冊ずつぐらい差して置く、というやり方。ライトノベルは売れるのだけど売場がそんなに広くないので、苦肉の策として。

・面陳の棚を奥に傾けた
→それまではプラスチック製の支えみたいなものを使って面陳の本を落ちないようにしていたのだけど、棚を奥に少し傾けることで落ちないようにすることが出来ることに気づいた。

今思い出せる限りだとこんな感じでしょうか。
僕は担当者の仕事に関して誰かから教わったという経験がほとんどありません。前任者から教わったことは、本を発注するやり方についてのみで、それ以外のことは教わった記憶がありません。色んなスタッフからのアイデアを参考にする、ということはありますが。また、他の店の真似をしたということもあんまり記憶にありません。ここに書いたようなことも、僕以外やっている人はそう多くはないんじゃないかなと思います。少なくとも、見て判断できることについては、同じようなことをやっている店はみたことがありません。
今後も、ある本を売るためにオリジナルの小冊子を作ったり、オリジナルの棚プレートを作ったりというような計画はあります。棚からいかに売るか、というのが課題の一つでもあるので、これからも考えないといけません。ただ、革命的なアイデアというのはなかなかないなという感じがします。棚前にその出版社の文庫を平積みにしないとか、多面展開をせずにたくさん売るみたいなのは結構革命的だったかなと自分では思っているんだけど、なかなかそういうアイデアというのは出てこない。難しいものです。
これからも、たとえ失敗してもいろんなことをやっていこうと思います。どんな売場がいいのか、というのは正解がありません。強いて言うならば、お客さんに認められる、喜んでもらえる売場こそが正しい売場と言えるでしょう。売場の完成形というのはないと思っています。これからも、どんどん売場を変えていけたらと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、小説家・森博嗣が、漫画家・萩尾望都のコミックを小説化したものです。森博嗣は、自身が飼っている(飼っていた、かな?)犬に「都馬(トーマ)」という名前をつけたのだけど、音の響きはもちろんこの「トーマの心臓」からだろうし、「都」という字は萩尾望都さんから取った、とどこかに書いているのを見た記憶があります。森博嗣にとっては雲の上の人というような存在で、非常に尊敬している人なんだそうです。
ちなみにですが、僕は原作のコミックは読んだことがありません。
舞台はたぶん日本。時代は少し前だと思うんだけど、でも現実の日本とはちょっと違うんじゃないかなと思う。良家の子息だけが通う男子校が舞台です。
主人公のオスカーは、その学校の校長の元に預けられている。母親は父親に銃で撃たれて死に、その父親は行方不明。父親の親友だった校長が身柄を引き取った。オスカーは未だに、銃声で目が醒めた朝のことを思い出す。
オスカーは、ユーリという同級生と相部屋だ。本来は四人で一部屋なのだが、オスカーとユーリは特別に二人で部屋を使っている。ユーリは最近どうも不安定だ。しかしそれは、同室であるオスカーだからこそ知りえることであるようだ。ユーリは他の人の前ではそういった面を見せていないようだ。
トーマという美しい下級生が、ユーリに手紙を残して死んだ。トーマは生前、頻繁にユーリに手紙を送っていたが、ユーリはそれを一度も読むことはなかった。最後の手紙は読んだ。
しばらくして転校生がやってきた。驚くべきことに、その転校生エーリクは、トーマと瓜二つだった。反りの合わないユーリとエーリク。初めは、エーリクがあまりにもトーマに似ているせいでユーリがさらに不安定になったのだ、と思った。
しかしどうもそうではないようだ。実際ユーリはエーリクに対してそっけない態度を取っているようだが、原因はもっと別にあるような感じがする。
オスカーはユーリを救いたいと願うも、なかなかうまくいかない…。
というような話です。
僕は先ほども書いた通り原作のコミックは読んでないしこれからも読む予定がないんですけど、恐らく原作とは大きく変えているんだろうなと思います。
というのも、本書はどこからどう見ても森博嗣の作品だからです。森博嗣的な世界観に沿って書かれている作品です。それが、萩尾望都の描く世界観とぴったり一致するとはどうしても思えない。だとすれば、萩尾望都の世界観を一旦解体し、それを森博嗣的な世界観の中で咀嚼し、それを小説化した作品なんだろうなと思います。原作のコミックは読んでないけど、恐らくまったく別物ではないかと想像します。
ただそれでも、描こうとしたものは同じだろう、と思います。森博嗣は萩尾望都を尊敬しているわけだから、描くべきものが変わってしまってはおかしい。描く過程に違いがあっても、描いているものは同じなんでしょう。
つまり、萩尾望都のコミックが、
「1+2+3+4+5+6+7+8+9+10=55」
という数式だったとしたら、森博嗣の作品は、
「10+9+8+7+6+5+4+3+2+1=55」
という感じなのではないかなと思います。計算の過程は違うけど、答えは同じ。それと同じように、描く過程が違っても、描いているものは同じということなんではないかなと思います。
作品としては、どうでしょう、まあまあという感じでしょうか。特別に素晴らしいという感じではなかったかな、という感じがします。しかし、まったく別の人の作品を、ここまで自身の世界観に置きなおして小説にすることが出来るんだな、という部分に凄く感心をしました。なかなか出来ることではないと思います。何にせよ、原作があるものを別の表現方法にする場合、その原作の匂いだとか雰囲気だとか、そういう痕跡みたいなものは色濃く残ってしまう気がするんですね。原作のコミックを読んでない僕が言うのもおかしな話ですけど、本書があまりにも森博嗣的世界観に彩られているので、たぶん萩尾望都的な部分というのはかなり薄れているんではないかと思うんです。それが凄いなと思います。物語を一旦解体し、自分の中で咀嚼するというのはそう簡単に出来ることではありません。そこが凄いなと思いました。
全体的に違和感があるのは、出てくるのがほとんど男だからでしょう。萩尾望都という漫画家については詳しく知らないけど、ボーイズラブの文脈で語られているのを時々見かけるので、この「トーマの心臓」という作品も、いわゆる耽美コミックというような、そういう作品なんではないかなと思います。ボーイズラブにはまったく理解できない僕としては、結局のところ登場人物たちの情感だとか必死の思いみたいなものがよく理解できない部分がありました。森博嗣は男なのに、ボーイズラブ的な部分が理解できるんだろうか。それとも別に原作もそんなにボーイズラブっていう感じではないんでしょうか。
原作のコミックを知らないんで、萩尾望都の作品のファンが読んだらどうなのか、というのはまったく判断できません。森博嗣の作品としてということであれば、まあ普通という感じでしょうか。森博嗣的な世界観は色濃く出ていますが、ストーリー自体が森博嗣らしくないので、なんとも言えないという感じです。そんなにオススメという感じではありません。
しかし森博嗣は本書をどういう風に書いたんだろう、というのは興味深いですね。常に、ストーリーがまったくない状態から書き始める、と言っている森氏ですけど、今回は多少変えているでしょうけど、基本となるストーリーは元からあるわけです。その状態で小説を書くというのはなかなか大変だったのではないかな、と勝手に想像します。

森博嗣「トーマの心臓」



宵山万華鏡(森見登美彦)

今日は小説のタイトルについて書こうかなと思います。
つい最近ですが、東野圭吾の新刊「新参者」という本が出ました。文庫でも東野圭吾の作品が売れていて、最近の新刊では「赤い指」というのがあります。
でも僕はいつも思うんです。ホントに、残念ながら東野圭吾の小説のタイトルはどれもイケてないな、と。
「使命と魂のリミット」「ある閉ざされた雪の山荘で」「天空の蜂」「ゲームの名は誘拐」「眠りの森」「仮面山荘殺人事件」「むかし僕が死んだ家」など、どれもイマイチパッとしないタイトルだし、「手紙」「片思い」「秘密」「悪意」「分身」「予知夢」など、普通にそのまま辞書に載っているような言葉がタイトルになっている作品も多いです。
ベストセラー作家で言えば、横山秀夫なんかもタイトルが微妙だなと思うものが多いです。「半落ち」「第三の時効」「震度0」「臨場」「顔」「動機」「深追い」など、何だかパッとしないなぁというタイトルばかりな気がします。
まあ東野圭吾にしても横山秀夫にしても、作品は非常に質が高いし、最終的にベストセラー作家になれているわけで、まあ別にタイトルにセンスがなくなったどうということはないんだろうけど、ちょっともったいないよなという感じがします。
逆にタイトルにセンスがあるなと思う作家は、森見登美彦や伊坂幸太郎や森博嗣ですね。
森見登美彦だと、「夜は短し歩けよ乙女」「太陽の塔」「四畳半神話大系」「有頂天家族」など。
伊坂幸太郎だと、「アヒルと鴨のコインロッカー」「重力ピエロ」「陽気なギャングが地球を回す」「死神の精度」「終末のフール」なんかです。
でもやっぱり一番凄いなと思うのは森博嗣です。「すべてがFになる」「封印再度 Who inside」「幻惑の死と使途」「有限と微笑のパン」「人形式モナリザ」「夢・出会い・魔性」「少し変わった子あります」「λに歯がない」「銀河不動産の超越」「月は幽咽のデバイス」「恋恋蓮歩の演習」「数奇にして模型」などなど。その独創的なタイトルの付け方はさすがだなと思います。
タイトルというのはやっぱり大事だと思うんです。それが内容に合っているかどうかというのは僕は本来的にどうでもいいんじゃないかと思っていて、いかにして読者の目を惹くかというその一点においてタイトルほど重要なものはないと思うわけです。例えば、「新参者」というタイトルの本を書店で見かけたとしましょう。その人が万が一東野圭吾という作家を知らなければ、その本に惹かれることはないでしょう。でも、「宵山万華鏡」や「重力ピエロ」や「すべてがFになる」みたいなタイトルを書店で見かけた場合、もしその作家のことをまったく知らなかったとしても、やっぱりなんとなく気になってしまうのではないかなと思います。本というのは音楽なんかと違って、買うまで内容について知ることはなかなか出来ません。買う前に知ることのできる情報にはいくつかあるけど、その中でやっぱり重要な位置を占めるのはタイトルだろうなと思うんです。僕も、まったく知らない作家の作品でも、タイトルが秀逸だとつい買ってしまうことがあります。
また書店員の立場からも、タイトルが大事だということが出来ます。例えば東野圭吾の作品に「秘密」というのがありますが、ウチの店で使っている検索機でこれを検索しようとすると、「秘密の花園」やら「磯野家の秘密」と言った作品も一緒にヒットしてしまうことになります。もちろん絞り込んで検索するやり方はありますが、完全ではありません。タイトルが短かったり、あるいは同一のタイトルがたくさんあるようなものだったりするような場合、検索そのものに時間がかかることになって、結果的にお客さんを逃してしまう可能性があります。
そういう意味では読み方が変なタイトルというのもマイナスですね。今パッと思いついた例で書くと、大田蘭三という作家の作品に、「蛇輪」というのがあるんですけど、このタイトルの読みはなんと「スネークリング」なんです。お客さんが「へびわ」っていうタイトルの本を探しに来て、それを検索機にそのまま入れてもヒットしないわけです。そんな検索しにくいタイトルをつけるというのも、売り逃しを引き起こす原因になります。
だから、「宵山万華鏡」や「重力ピエロ」や「すべてがFになる」という作品は実にいいですね。他の作品とタイトルが被る心配がないし、読み方だったおかしなことはないからすぐに出てくる。書店員が検索しやすいタイトルをつけるというのも、実に大事なポイントではないかなと僕は思ったりします。
作家の方がこのブログを見ているわけがないでしょうけど、タイトルをつける際には、上記のようなことを踏まえながらつけてもらえると売上に少しは繋がるかもしれません。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は森見登美彦の最新作です。6編の短編で構成される連作短編集です。どの短編も、京都のお祭り「宵山」を舞台にしたものになっています。

「宵山姉妹」
三条通りに面した四階建てのビルにあるバレエ教室に通う姉妹。姉は何にでも好奇心旺盛で興味の赴くままにあちこちフラフラする。妹は堅実で真面目で、そんな姉の行動にハラハラさせられながら、それでも姉と一緒にいるのを楽しんでいる。そんな姉妹。
その日は宵山で、街が浮足立っている。教室を終えた二人は、姉が強く主張したため、内緒で宵山を見物することにした。
たくさんの観光客に囲まれ、幻想的な提灯の灯りや賑やかな露店の雰囲気を楽しみながら、二人は蟷螂鉾を見るために街を歩き回る。そんな時、妹は姉の姿を見失ってしまった。心細くて泣きそうになっていた彼女に手を差し伸べてくれたのは、赤い浴衣を着た小さな女の子たちだった…。

「宵山金魚」
藤田は千葉に住む男だが、出張で大阪に行くことになり、高校の同級生だった乙川に「今年は宵山にこい」と言われていたこともあって京都にやってきた。二人とも奈良の出身だ。
高校時代、乙川は超金魚を育てた。毎週教壇に木彫りのお地蔵さんを置いたり、学校中のトイレットペーパーを桃の香りのするものに取り換えたりと言った奇天烈なイタズラばかりしていた男のやることはよくわからなかった。超金魚というのもその一環で、何でも水温やら濁り具合を微妙に変えた水を用意し、幾多の試練をかいくぐったとんでもない金魚を生み出したという。本当によく分からない男だ。
乙川が宵山を案内してくれると言ってくれたのだが、途中ではぐれてしまった。とある駐車場から乙川に電話をすると、そこはマズイという。立入り禁止区域にしていされていて、祇園祭司令部に連行され、宵山様にお灸をすえられるぞと脅され、そして実際その通りことは進んでいくことになる…。

「宵山劇場」
小長井は、大学の同級である丸尾に誘われ、珍妙なイベントに参加することになった。丸尾の知り合いに乙川という男がいるが、その友人の一人を宵山に呼ぶからうまいこと騙してくれ、ということだった。
小長井はとある劇団で裏方をやっていた腕を見込まれ、丸尾に声を掛けられた。かなりの人間が集められ、そこには因縁のある山田川もいた。金に糸目をつけず、やりたいようにやってくれという指示らしく、妄想ほとばしる山田川の指示のもと、宵山の晩だけに出現する幻想的な世界観を作り出すことになるのだが…。

「宵山回廊」
千鶴はずっと地元に住んできて、就職も地元でした。叔父が画家をやっていて、その関係で画廊の柳さんと親交がある。
ある日その柳さんと街中で会い、そこで叔父に会いにいってやってくれと言われた。宵山の日だった。千鶴も叔父も、宵山を避けていた。叔父の一人娘が失踪したのが宵山の晩だったのだ。
気は進まないが柳さんの頼みとあっては行かざるおえない。叔父は私のすることは何でもお見通しという風だった。何でも先回りするように動く。かなり老けたようだ。年齢のスピードにすぐわないように思える。
その日千鶴は叔父から奇妙なことを聞かされることになる。明日からは、もう会えない、と…。

「宵山迷宮」
柳は、自分が宵山の一日を繰り返していることに気づいてしまう。毎朝起きると、母親が蔵にいて、何か探し物をしている。テレビからは、今日は宵山だというニュースが流れる。宵山のループから抜け出せなくなってしまった。
昨日とは違った行動をしようと、いろいろと変えてみる。自分がどうしてこんなことになってしまったのかよく分からないが、狐塚紹介の乙川という男がよくやってくる。蔵の中にあるはずの水晶玉を是非探してくださいね、ということだった。しかし、ないものはない。そんなに督促されても困るのだ。
ある時ふと思った。自分がこんな状態に陥っている原因はあれなのではないか、と…。

「宵山万華鏡」
バレエ教室に通う姉妹は宵山の街に繰り出した。姉は渋る妹の手を引きながら、目移りするようにあちこち飛び跳ねるように見て回った。蟷螂鉾を見た後、赤い浴衣を着た小さな女の子に妹が見とれている間、妹と手が離れた。イタズラ心が湧いた。姿を隠して、妹を慌てさせてみよう。
すぐに後悔した。妹を見失ってしまったのだ。
姉は、街中で多くの人が奇妙な風船を持っているのを見かける。ヘリウムガスが入っているように浮いているのに、中に水が入っているようで、さらに金魚までいる。通りがかったバレエ教室の女の子に聞くと、坊主がタダで配っているという。坊主を探し出しもらおうとしたのだが、もうないのだという。それでも駄々を捏ねると坊主は、じゃあついてくるかいと言って、姉を奇妙な世界に連れていくのだが…。

というような話です。
いいですね、やっぱり森見登美彦は。実に面白いです。やっぱり好きな作家ですね。
本書は、ちょっと大げさに言うと、今後の森見登美彦の作家としての一つの方向性を強く指し示すような作品かもしれないな、と感じました。これまでの森見登美彦の作品らしさを十分に残しながら、一方でこれまでにない落ち着きをみせている。僕は「きつねのはなし」という作品があんまり好きではないんだけど、それは森見登美彦の作品にしては落ち着きすぎているからでした。本書も実に落ち着きのある作品で、「有頂天家族」や「夜は短し歩けよ乙女」と言った作品のようなはしゃいでいるような感じが薄まっているんだけど、それでもこれまでの森見登美彦らしさはきっちりと残されている。また、これまではおふざけのように描かれていた部分が、実に幻想的な感じを持つようになりました。これまでの作品でも不思議なことというのはたくさん起こっていたけど、それは僕の印象の中では、軽薄さを伴うというか、ちょっとふざけてみましたというような、そんな感じがしたんです。でも本書では、より一層格調高くなっている雰囲気があって、より幻想のレベルが上がっているように思いました。そういうよな理由から、今後の森見登美彦の作家としての方向性を形作るような、そんな作品になっているのではないかなと感じました。
しかし相変わらず不思議な話を書きます。本書は大体、二話で一セットになっています。宵山というお祭りを舞台にして、三つのストーリーが描かれることになります。
冒頭とラストで出てくるバレエ教室の姉妹の話は、ちょっとインパクトに欠けるきらいはあるものの、上品な感じのストーリーです。宵山というお祭りを前にしてはしゃぐ姉妹。その姉妹に降りかかってくる幻想的な出来事。その日の出来事は将来彼女たちの心にどういう形で残るのかな、そんな風に感じさせる作品です。
乙川が友人を騙す話はとにかくハチャメチャで楽しい雰囲気が滲み出てきます。僕は大学時代に演劇をやっていて、僕は小道具なんかを作るいわゆる裏方でしたけど、その時の楽しかった記憶が思い出されるようなそんな話でした。乙川という男が実に奇妙な男で、変人が好きな僕としては近くにいたら面白いだろうなと思える男でした。深く関わると面倒な事に巻き込まれそうですけど。
画家と画商の出てくる話では、一転落ち着きを取り戻して、宵山の一日が繰り返されるという奇妙な世界観を元に不思議な物語を生み出しています。結局何が何だったのかイマイチ掴みどころがないというのも森見登美彦らしいなと思いました。
三つのストーリーはどれも同じ宵山を舞台にしているはずなのに、ところどころで齟齬がある。うまく世界同士が噛み合っていかない。帯に「現実は一つじゃないから面白い」って書いてあるけど、まあそういうことなんだろうなと思います。
しかしいつも思うけど、森見登美彦は装丁に恵まれているなと思います。本書も、装丁の絵が実にいいです。絵が綺麗というだけではなくて、作品のイメージにぴったりなんですね。もし森見登美彦のことをまったく知らない人でも手に取ってしまうだろう、そんな魅力的な装丁に仕上がっているなと思います。
僕の中では、森見登美彦の作家としてのターニングポイントと言える作品なのではないかと思っています。森見登美彦の今後のさらなる飛躍にも期待させてくれるような作品です。相変わらず面白い作品を書いてくれます。早く新刊を出してくれとは言わないですから、これからも是非書き続けてほしいものだなと思います。オススメです。ぜひ読んでみてください。

森見登美彦「宵山万華鏡」




終の住処(磯崎憲一郎)

今日は、昨日発覚したちょっとありえないような二つのミスについて書こうと思います。
まずは、客注についてです。客注というのは、店内に在庫がない本についてお客さんから注文を受け発注するというものです。
昨日、9/14に発売されるある雑誌を取り置きしていたというお客さんが来店しました。初め僕が対応したわけではなく、僕の隣にいたスタッフが対応したのですが、お客さんが言った雑誌を取り置きの棚から探している間に、そのお客さんは別の雑誌も持ってくるから、と言って一旦レジから離れました。
その間に、その隣のスタッフに何を探しているのかと聞くと、「週刊朝日だ」というんです。注文を受けた時点でお客さんに渡す控えをそのスタッフは受け取っていて、そこにも「週刊朝日」と書いてありました。で、取り置きの棚にある「週刊朝日」を取り出しました。
その後お客さんが僕の方のレジに来て、さっきの取り置きの雑誌を買うと言ってきました(結局もう一冊買うと言っていた雑誌は持っていませんでした)。そこで、さっき取り置きの棚から抜き出した「週刊朝日」を持って来たんですけど、その時お客さんは、「頼んだのは「週刊アスキー」なんだけど」と言ったんです。
最終的に売場に「週刊アスキー」が残っていたので事なきを得ましたが、あれはビックリしました。恐らく注文を受けた時点でスタッフが聞き間違えたんでしょうね。実際、調べてみると、「週刊朝日」も「週刊アスキー」も共に9/14に発売していました。しかしそれにしても、聞き間違えるかねぇ、とか思ってしまいました。ちょっとありえないミスですね。
もう一つもちょっとありえないミスです。ウチの店には、コミックの新刊台というのがあって、基本的には新刊はすべてそこに置かれることになります。
「JIN」というコミックがあるんですけど、たぶんこれがドラマだかアニメだか、とにかくそういうのになるんだと思うんです。つい最近15巻が発売されたらしいんだけど、1巻から14巻までが最近入荷したみたいです。
で、何故か、「JIN」の7巻が新刊台に平積みされていたそうで、恐らく新刊と間違えて4人のお客さんが購入しているだろう、ということが昨日発覚しました。
昨日あるお客さんが店に来て、新刊台にあったものでかつ最新刊かどうかスタッフに確認して買ったのに全然違った、と怒ってきたお客さんがいたそうです。そりゃ怒りますよね。最新刊かどうか確認されたスタッフが誰なのか分かっていませんが、恐らくデータをおざなりにしか確認しなかったのでしょう。しかし何よりも、再新刊ではないのに新刊台に置いた担当者がありえないですよね。
まあそんな、常識的にちょっとありえないミスが昨日立て続けにあって驚きました。どんな形であれミスはしてはいけないと思うけど、人間だからまったくミスをしないというのは不可能です。それでも、どう考えても防げただろうというミスはやっぱり許せないですね。なんというか、スタッフ全体がそうですけど、もう少ししっかりしてもらえないと困るなと思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は今年度上半期の芥川賞受賞作品です。本書には、芥川賞を受賞した「終の住処」という作品と、書きおろしの「ペナント」という作品が収録されています。

「終の住処」
何となく結婚した妻と生活を始めるも、何故か妻はいつも不機嫌なのだった。「別に今に限って怒っているわけではない」と妻は言う。不機嫌の理由はよくわからない。
男は誘惑をはねのけているつもりながら、何度か妻以外の女性と関係を持つことになる。その内に子供が生まれた。働いている会社でも変化が起きた。妻とはある日以来、11年間会話を交わさなかった…。

「ペナント」
部屋の壁中にペナントを貼りまくっている部屋にいる一人の少年。その部屋は少年の部屋ではないようだ。少年はペナントの数を数え、ふかふかのベッドに入り込み、そして壁に開いた穴に手を差し入れる。
一人の男が、公園に囲まれたホテルへと向かう途中でボタンを落とした。それを広いに階段を降りるも、見つからない。繁華街に向かい飯でも食べようと思ってあてどもなくさまようが…。

というような話です。
うーん、イマイチよく分からない作品でした。そもそも僕は、芥川賞を受賞するような、いわゆる文学チックな作品というのは得意ではないんでなんとも言えない感じでした。
本書のような、感覚で理解する作品っていうのは難しいです。良いとか悪いとかいうのがよく分からない。結局好きか嫌いかに換言されることになるんじゃないかという気がします。エンターテイメント作品であれば、ストーリーやらキャラクターやら構成やら文章やらを総合的に判断して、好き嫌いとは別に良い悪いという判断が出来るんだけど、こういう感覚的な作品の場合それが実に難しい。そういうわけで良く分からない作品でした。
誤解を恐れずに言えば、村上春樹の短篇小説みたいな感じでした。僕は、村上春樹は好きなんですけど、短編はダメなんです。短編だと、村上春樹の世界観を共有する前に物語が終わってしまう印象があって、どうしても入り込めないんですね。本書もそんな印象があって、作者が描くわけのわからない世界観は結構好きなんだけど、短すぎてその中になかなか入り込めない。もう少し長い作品だったらもしかしたらもっと好きになれるかもしれないな、という感じがあります。この作品だけではどうとも判断できない感じがします。でもじゃあ他の作品を読む気があるかと言われると、うーんという感じですけど。文庫になってから考えます。
「ペナント」の方はさらに意味不明な作品で、こっちはダメだなという感じがしました。「終の住処」の方は、物語がもっと長ければ受け入れられそうだけど、「ペナント」の方は長くてもダメでしょうね。イマイチよく分かりません。少年と男の関係とか。ボタンを探すとか壁中のペナントとか。普通の人はこういう小説を読んで、作品の構造とか何が言いたいのかっていうのが分かるんでしょうか。だとしたら羨ましい限りです。
というわけで、何とも言えない作品でした。割と評判がいい感じがしたので読んでみたんですけど、少なくとも僕には合わないです。もっと長い作品を書いてくれたらちょっと読んでみてもいいなと思います。僕としてはそんなにオススメは出来ません。まあでも、こういう作品が好きだ、という人がいるだろうというのは理解できます。

磯崎憲一郎「終の住処」



プリズン・トリック(遠藤武文)

今日は、ちょっと取り上げるのが遅くなってしまったかもしれませんけど、この話題。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090914-00000052-zdn_n-sci

「ブラックジャックによろしく」などで知られる漫画家・佐藤秀峰氏が、自身のWebサイトで販売するという新しいビジネスモデルを始めた、というニュースです。
佐藤氏はこれまで、出版社側といろいろ揉めた経緯があるようで(僕は見たことがないんですけど、その経緯は著者自身のサイトにマンガになって描かれているそうです)、そういうこともあって、出版社を通じての作家活動に疑問を持ち、自らWebサイトで自身の作品を販売するという行動に至ったのだ、ということです。
確か、正確に覚えていないんだけど、書籍として新刊が出ない、というわけではなかったような気がします。書籍の方は書籍の方で出して、一方で自身のサイトでも配信する、というようなスタイルを取るんだったと思います。
佐藤氏は、他の漫画家にもこのシステムを使うよう呼び掛けているようです。乗る漫画家が出てくるかどうか、というのはなかなか難しいところかもしれません。出版社との関係を悪化させたくないという人もいるでしょうし、現状でそこまで不満はないという人もいるでしょう。敢えて冒険心を持って、佐藤氏のシステムに乗る、という決断の出来る漫画家がどれだけいるのか、それは僕にはなんとも分からないな、という感じがします。
さて、佐藤氏が始めたこのビジネスモデル、一体どういう影響を与えるでしょうか?
僕は大きく二つの影響が出るのではないかな、と思います。一つは、書籍のコミックの売上について。そしてもう一つは新人発掘についてです。
前者については、もちろん大きな影響が出るのではないかな、と思います。佐藤氏は、新作30円、旧作10円、という値段設定をしています。どれぐらいの分量が30円、あるいは10円で提供されているのか不明ですが、仮にコミック1巻分を30円ないしは10円で提供しているのだとすれば、書籍のコミックが受ける影響は甚大ではないかなと思います。
佐藤氏は9/7にシステムを立ち上げましたが、初日の売上が10万円になったそうです。ご祝儀の意味合いもあったのではないか、と佐藤氏自身も言っているようですし、今後も同じだけの売上を見込めるかどうかは難しいかもしれませんが、しかしこの一日の売上が10万円というのは凄いなと思いました。1冊400円以上するコミックが30円で手に入るとすれば、やはりそちらに流れていくでしょう。30円や10円という、気軽に買える値段設定にしたことも大きいと思います。多くの漫画家が佐藤氏のシステムでコミックを売り始めるとすれば、書籍コミックが受ける影響は甚大だろうと思います。
佐藤氏のシステムからどんどん売れてしまえば、出版社だけでなく、取次も書店ももちろん儲からない。書店で働いている僕としては、なかなか耳の痛い話だなと思います。まだ始まったばかりなので、そこまで大きな影響はないかもしれません。しかし、こういうWebサイトでの配信が進んでいけば、電子書籍との関わりも出てくるだろうし、コンテンツが充実することで電子書籍の市場が一層大きく広がっていくという可能性もあります。ただでさえコミックは売れなくなっているらしいのに、なかなか厳しいなと思います。
もう一つの新人発掘についてです。これは僕の勝手な予想ですが、佐藤氏のシステムを使えば、新しい形の新人発掘が出来るのではないかなと思います。新人から原稿を集め、それを一般に公開する。それに元して、一般からの投票によって受賞作を決める、なんていうことが出来るかもしれません(もちろん佐藤氏のシステムがなくなってそんなことは技術的に既に出来るだろうし、それを誰もやってないということは、今後もそうなることはないということかもしれませんが)。いずれにしても、恐らくサイト上でコミックを配信するという以外の使われ方も考えられるのではないかなと思います。例えば、マンガ喫茶は実際にコミックを在庫としてもたなくてはいけないですが、佐藤氏のシステムに多くの漫画家が参加すれば、マンガ喫茶がコミックの在庫を持たなくてもマンガ喫茶としての経賊が成り立つようになるかもしれません。
いずれにしても、佐藤氏の立ち上げたこのビジネスが成功し、定着するのかという点にすべてが掛かってくるでしょう。本として手元に残らなくてもいいから安くコミックを読みたい、という需要は恐らくかなりあるでしょう。そういう層をどれだけ取り込むことが出来るのか。出版・書店業界は動向を注目していくことでしょう。僕もどうなるか注目しておこうと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、今年度江戸川乱歩賞を受賞した作品です。選考委員の多くが「志が高い」と言い、欠陥だらけだったにも関わらず受賞に至ったという作品です。
舞台は市原にある交通刑務所です。交通事故などで刑が確定した受刑者を収容する刑務所で、一般刑務所と比べ警備や監視などの点において幾分緩いという特徴があるようです。もちろんそうは言っても、そこで薬品を使った殺人事件が起こっていいほど、緩やかなわけがありません。
ある日、朝の点検に際し、受刑者の一人の行方が分からないことが判明した。行方が分からなくなっていた受刑者は、何故か隣の舎房の倉庫で見つかった。臭化パンクロニウムという、俗に言う筋弛緩剤を投与され、顔と手に濃硫酸がかけられていた。臭化パンクロニウムも濃硫酸も、刑務所に在庫があるものではない。ドアの内側には、「石塚、死すべし。 宮崎」と書かれた模造紙が貼られていた。倉庫の窓には網戸が貼られていたが、それが破かれていなかった。舎房全体が密室だったことになる。
刑務所内で、刑務所内には存在しない薬品によって、しかも密村状況下で行われたありうるはずのない殺人事件。警察は捜査を開始するも、早々に行き詰まる。犯人はどこかに逃走したはずの受刑者の一人のはずなのに、なんと加害者が誰なのか特定できないのだ…。
というような話です。
新人の作品らしく、あちこち粗が目立つ作品ではありますけど、ただ選考委員が「志が高い」と評した理由は分かりました。刑務所内での密室殺人、というとんでもない謎は、作品の粗を見なかったことにしてもいいか、と思えるほどなかなかインパクトのあるものでした。しかも、衝撃はそれだけに留まらない。捜査が進むにつれどんどんと意外な事実が明らかになっていくし、どんどんと奇妙なことが展開されていく。物語は、まとまりがつかなくて発散しそうな気配を何度も漂わせながら、それでもなんとか強引に最後まで持っていき、謎解きまで行くことになります。最後の最後に仕掛けたヤツはさすがにやりすぎな気はするんだけど、まあ全体としては起伏が激しいし展開も面白いし、ここ最近の乱歩賞の中では、「天使のナイフ」や「13階段」と比較したらもちろん落ちるけど、それでもそれらの作品の少し下辺り、というぐらいの評価でもいいかもしれません。なかなか面白い作品だと思いました(ちなみにですが、ここ最近の乱歩賞で読んでるのは、「13階段」「滅びのモノクローム」「カタコンベ」「天使のナイフ」「三年坂 火の夢」です)。
欠点としては、やはり選評でも多くの作家が挙げているように、視点人物が多すぎるということです。これは確かにもう少しまとめるべきだと思いました。たぶん、作品の中にいろんな要素を詰め込みすぎたからだと思うけど(天童荒太氏は選評で、応募原稿はどれも規定枚数ギリギリのものばかりだったけど、そんなに枚数を必要としない作品ばかりだったように思う、というようなことを書いています)、そのせいで多くの人間を視点人物にする必要があったのだろうと思います。もう少しストーリーを絞って、視点人物を絞り込めば(理想としては、三人ぐらいの視点が交互に繰り返される、みたいな構成だといい)、もっとよかったのではないかなと思います。
選評では、中盤が穴だらけ、というようなことが多く書かれているんだけど、読んでてそこまで酷いとは思わなかったので、恐らくその辺りの部分は書きなおしたのでしょう。
読めば新人の作品だな、ということが伝わる作品で、かなり荒削りな部分はあるんだけど、キャラクターもそれなりにきちんと描けていたと思うし、全体に勢いがあると感じました。乱歩賞など昔からある新人賞ではよく、これから書ける作家かどうか、という部分まで含めて新人賞を選ぶんだけど、確かにこの作家は、これからも書ける作家ではないかなと思いました。本書は、刑務所内での密室殺人という実に本格ミステリっぽい作品でありながら、実に乱歩賞らしい作品に仕上げていて、頑張ったなと思います(って偉そうですけどね 笑)。
というわけで、いろいろと評価は分かれる作品でしょうが、僕はアリだと思います。やはりこれぐらい壮大な謎を考え、多少強引ではあってもそれをきちんと最後までまとめるというのはかなり評価できると思います。これからも頑張ってほしいものです。好き嫌いがかなり割れそうなので易々と勧められないですけど、是非読んでみてください。
あと本作とは全然関係ないんですけど、選評でほとんどの作家に高評価だった「二度目の満月」という作品を読んでみたいですね。恐らく、乱歩賞じゃなければ受賞したのではないかな、と選評を読んでて感じました。

追記)amazonのレビューを読むと、酷評もかなりあります。まあ確かに、気持ちは分かります。まあでも、面白い作(を書けそうな新人は応援してあげましょうよ。なんて思ったりもします。結構これからいい作(書ける作族になるんじゃないかと思うんですけどね。

遠藤武文「プリズン・トリック」



ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。(辻村深月)

さて今日も微妙に時間がないので、前書きは短めで行こうと思います。
店にいるとお客さんの問い合わせなんかをよく受けるんだけど、その時本当に不思議だなと思うことがあるんです。
これは前にも書いた記憶があることだけど、それは、探している本があるのにそのタイトルを言わないことです。
例えばこの間も、こんな風に問い合わせを受けました。「時代小説の売場はどこですか?」と。でも僕が「何かお探しのタイトルはありますか?」と聞くと、「八朔の雪」って本を探してるというわけです。
僕が不思議なのは、何で初めからタイトルで聞いて来ないんだろうか、ということなんです。他にも、○○出版の本はどこですかとか、誰それの本はどこですか、という聞かれ方をよくするんですけど、でもそういう人の中には結構、探しているタイトルがあったりする人がいるんです。
もちろん、何か特別なものを探しているわけではないなら分かりますよ。時代小説で面白そうな本を探したいとか、この著者の作品で何が出てるか見たいとか、そういうことなら全然分かります。でも、きちんと探しているタイトルがあるのに、どうして漠然とした情報をまず提示しようとするのかが不思議だなと思うんですね。
まあもしかしたらこういう心理なのかもしれない、と想像できる仮説はあります。それは、欲しい本そのものを問い合わせてしまうと、それを買わなくてはいけないという心情になるのではないか、ということです。だから、欲しい本そのものではなくて、それがありそうな売場について問い合わせるのかもしれません。理解できなくもないんですけど、結局それは遠回りでしかないよなぁと思うんですけど。まあでも確かに、問い合わせをしたら買わないといけないかも、という小心者的な感情は僕も持ってるので、分からないわけではないんですけど。
本屋で問い合わせをする際は、なるべくタイトルを言ってもらった方が助かります。買わなくても全然構いませんので。
そういえば村上春樹の「1Q84」の続編が出るようですね。発売は来年とのことなのでまだまだ先ですけど、当初続編が出るかもしれないという話が出た時に、確か出版社だったかな、「特にその予定はありません」みたいなことを言っていたような気がしたので、著者が突然書く気になったのかもしれません。昔誰かに聞いた話なんですけど、「ねじまき鳥クロニクル」も、もともと二巻までで終わらせる予定だったのが、いろいろ悩んで三巻目を書くことにしたようです。今回もそういう感じなのかもしれません。
しかし、「1Q84」の三巻が発売されたら、書店の担当者は悩むでしょうねぇ。どれぐらい仕入れたらいいのか分からない。「1Q84」は爆発的に売れたけど、それはある種の宣伝や雰囲気によって生み出された幻想的なマジックだったとも思うんです。雰囲気に流されて買ったという人が結構いるはず。そういう人が三巻が出たら買うのかどうか。そういう部分を読まないといけないので、仕入れには苦労するだろうなと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、辻村深月の最新作で、書きおろしの作品です。これまで学生を中心に描いてきた辻村深月ですが、本書ではこれまでの作風とは変わって30代を目前に控えた女性が主人公です。
東京でフリーのライターをしている神宮司みずほは、幼馴染みの望月チエミを探している。最近はほとんど連絡を取っていなかったけど、小中学校の頃は仲がよかったし、みずほが大学を卒業してから一旦地元山梨に戻った時もよく遊んだ『親友』だった。
チエミは、母親を刺し殺した容疑で指名手配されている。
地元で派遣社員として働くチエミとは、もう人生が重なることはないと思っていた。会わないことが自然になるくらいの時間が流れてしまった。そんな矢先に起きた事件だった。
みずほは、長らく連絡を取っていなかったかつての友人に話を聞きに行ったり、事件直後チエミが唯一接触したかつての恩師のところへと足を運んだりもした。秘密を抱えながら、自分が出来る手はなるべく打とうと頑張るつもりだった…。
というような話です。
本書を読んでとにかく思ったことは、女ってのは大変だなぁ、ということです。本書は、もちろん男が読んでもそれなりに楽しめるだろうけど、基本的にはやっぱり女性のための小説だろうなと思います。
本書の中には、いつもの辻村作品のように様々な価値観が提示されることになりますが、その中で最もベースとしての役割を果たす価値観があります。
それが、「負け犬にはなりたくない」という表現でいいと思うけど、そういう感じの価値観です。
本書の舞台は山梨で、都心ではないという意味で田舎が舞台となっています。田舎では結婚が早い、と言います。また、職がそう多くない中で、女性が将来を生きていく過程の中で結婚というのは避けて通ることの出来ないものなわけです。そういう中で、いかに結婚し子供をもうけるか、負け犬にはならないようにするか。それが本書でベースとして提示される価値観になります。
その価値観を元に、例えば主人公であるみずほは、そういう結婚にしか価値観を見出せないような旧友から離れていくことになるし、一方でかつて遊びまくってたギャルが子持ちになり、かつての面影もないほどに生活観を感じさせるようになったりするわけです。30代を目前に妻子ある男性と終わりの見えない恋愛をしている人もいれば、未だに男女差別の激しい会社の中で男と張り合って仕事をするような女性も出てきます。
先ほども書いたように、本書には様々な価値観が提示されることになるんだけど、それが30代前後の女性のものだと、すべからく先ほどの「負け犬になりたくない」(バイト先に「負け犬」という言葉が分からないという女性がいたんで一応書いておくと、本書では「負け犬」という言葉は、30代未婚子なしという、酒井順子が「負け犬の遠吠え」という著作で示した意味で使われています)という価値観がベースとなって、それに付け加えたり、対比したり、拒絶したり、許容したりと言った形で様々な女性の人生が描かれることになります。
そういう女性の話を読むと、本当に女性というのは大変なんだなと思うわけなんです。
女同士の人間関係というのは、傍から見ていても本当にめんどくさいなと感じることが多いです。いつでも群れていて、そのグループの中で独特のルールや価値観みたいなものが形成されていく。些細なことでもそのルールから外れると、グループから外されてしまう。馴れ合いや許容が重要で、恋愛の話は隠しごとなし。それでいて、相手がどんな男と付き合っているのかというのに敏感で、相手の男のレベルを知って勝ったか負けたかなんてことをやっている。お互い何でも話せる関係を装っていながら、実は表面的な言葉だけで飾り立てていて、皆が思っている本音があってもそれを口に出すのはタブー。
あくまでも僕のイメージですけど、女性が群れると大体こんな感じになるのではないかなと思うんです。そういう人間関係のただ中にいる女性自身も、そういう人間関係にうんざりしているはずなのに、そういう関係性の中から抜け出すことが出来ない。特に、さっきも書いたような、「負け犬になりたくない」みたいな価値観が一般に広く浸透しているような土地柄であればあるほど、その価値観を軸として関係性のすべてが語られてしまう。ホントに僕は男でよかったな、と思うわけなんです。女性同士の人間関係は、ちょっと耐えられないと思う。
もちろん、そういう人間関係の中にいない女性もいることでしょう。僕のバイト先には、そういう人間関係から逸脱したサバサバした女性が割と多い気がするし、大学時代の友人もそんな感じです。特に大学時代の友人に、女五人ぐらいで割とよく集まってるのがいるんだけど、その五人はは本当にそういうめんどくさい女性特有の人間関係を感じさせないですね。まあ内実はどうか知らないけど、割と珍しいタイプなんじゃないかなと思います。
本書では、そういう女性特有のドロドロしたというか窮屈でめんどくさい人間関係がたくさん語られます。「負け犬になりたくない」という価値観をベースにして様々に存在する価値観が、チエミという題材とみずほという聞き手を得て、様々に吹き出すことになります。本書ではそうした、30代前後の女性がたくさん出てくるんだけど、どの人も実際に僕らの近くにいてもおかしくないようなリアル感があって、実に輪郭がはっきりとしています。みずほが会いに行く女性はそれぞれに価値観がまるで違うんだけど、キャラクターがしっかりしているので、それぞれに違う価値観であるのに、そのそれぞれに共感は出来ないけど納得することが出来ます。みずほは、チエミの行方を追うためにそういうかつての旧友に再会するわけだけど、その過程でかつて彼女らとの間にあった出来事も思い返し、チエミのことだけでなく、彼女らとの関係性にも何らかの変化をもたらすことになります。本書が、チエミの行方を追う手がかりを得るというためだけにみずほが旧友に会うというストーリーだったらさほど面白くなかったかもしれないけど、そういう個々の旧友との関係性についてもいろいろと話が出てくるので、作品としてより深みが出ているという風に思いました。
後は、本書でとにかく異彩を放っているのが、やはり追われる側であるチエミでしょう。みずほはチエミの話を旧友に聞きに行くのだけど、そこで再確認されることになるチエミの生き方はなかなかに理解するのが難しいものだなという感じがしました。
チエミについて語られる一つ一つのことは、さほど大したことがないかもしれません。両親と異常に仲が良い。人生を自分で切り開こうという発想がない。自分の周囲のことにしか関心がない。などなど。しかし、そういう風にして語られるチエミの全体像は、何だかいびつなんです。どこが、という指摘をするのは難しいのだけど、でもどこか不自然。みずほも旧友も、不自然だったということは理解しつつも、じゃあはっきりとどこが変なのか言葉で指摘するのは難しかった。価値観が違うと言えばそれまでだけど、それだけでは説明しきれないような何かがあるように思えます。
チエミのような価値観が一般的だとはちょっと思えないけど、でもそういう生き方をしている人はいるかもしれません。だからどうだ、ということはないんだけど、生きていくのがなかなか大変だろうなという感じはします。
チエミに大きく影響を与えたものとして、両親の存在があります。チエミは両親の価値観をモロに受け、それがいびつであることに気付かないままで大人になってしまったわけです。
本書では、この親との関係というのも一つのテーマになっています。みずほも母親との関係に難しいものを抱えていて、未だにそれを消化することが出来ない。職がないためにパラサイトシングル化するしかない田舎の女性にとって、親との関係というのはまた一種別の意味合いを持つようなんです。
僕も親との関係であーだこーだあった人間なんですけど、今では、これは運が悪かったんだなと思うようになってきたんです。結局のところ、親と子というのは、合うか会わないかというだけの問題に帰着するんだと思うようになりました。どんなに親が正しいことをしていたとしても、それが子供に会わなかったらダメ。合うかどうかは運みたいなもので、努力によってどうにかなるものではない。今ではそんな風に思っています。
みずほは僕なんかより大変な子供時代を過ごしたようですけど、まあなんとなくみずほのことは分かるような気がします。僕は親に何かされたというわけではないんですけど、でもやっぱりみずほのように親を避けて生きる大人になった。これはもう仕方ないことなんだろうなと思います。
最後に。タイトルはちょっとどうかなぁと思います。目を惹くタイトルだから、そういう意味では成功かもしれないけど、内容とうまく合っているのかというと微妙かもしれない。内容と関係ないことはないけど、もう少し違ったものにした方がよかったのかもなぁと僕は個人的に思いました。
これまでの学生を扱った作品とはまた一味違った感じの作品です。なので、もしかしたら合わないという人もいるかもしれません。僕の中でも、これまで読んだ辻村作品と比較してしまうと、やっぱりちょっと下の方になるかな、という感じの作品ではあります。ただ、辻村の作家としての力量が元々高いので、それでもそこらの普通の作家の作品よりは遥かにいい作品ですけどね。辻村作品を勧めるとしたら別の作品を勧めますが、本書もなかなか良い作品です。読んでみてください。特に女性にお勧めです。

辻村深月「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」




去年ルノアールで完全版(せきしろ)

さて今日も時間がないので前置きはさらっと。今日はこんなニュース。

http://www.shinbunka.co.jp/news2009/09/090915-01.htm

ジュンク堂が文教堂の筆頭株主になった、という話。しかし僕にはこのニュースをどんな風に解釈したらいいのかよわからんのですね。経済とか株の世界というのはどうもよくわからない。
しかし最近、出版業界の再編みたいなものが加速していますね。ジュンク堂の親会社だって印刷会社の大日本印刷だし、ブックオフの株を何社かの出版社で持ち合うみたいなニュースもあったし。かと思えば、確か青山ブックセンターがブックオフ資本で立ち直ったり。何だかもうグチャグチャですね。よくわかりません。一番よく分からないのは、その再編によって具体的に何がどう変化するのか、ということ。何か出版業界が大きく変わるんでしょうかね。
そんなわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
本書はハードカバーで出た時多少話題になった作品です。帯にはドラマ化もされた、って書いてあるんだけど、このエッセイをどうやってドラマにしたんだろうか。
本書は、本書を読む限り限りなくニートに近いとしか思えない、起きたら毎日喫茶店「ルノアール」に行くことを日課にしている著者が、そのルノアールで見たお客さんやそこで著者自身がした妄想について綴った作品です。
全編、実にどうでもいいような妄想が展開されているので結構面白いです。よくもまあ、そんなアホなこと考えるようなぁ、というようなことをずっと考えている人みたいで、ちょっと変わったモノを見ると妄想せずにはいられない性格のようです。
あと面白いのが、ルノアールに集うちょっと変わった人々の描写です。僕はルノアールという喫茶店には行ったことがないと思うんだけど(ちゃんとは覚えてないけど)、そんな変な人ばっかり集まる喫茶店なんでしょうかね。例えばこんな人たちが描かれます。

・父親が子供に対して何か怒っている。父親の方は、子供が謝らないとサッカーの観戦に連れて行ってあげない、というのだが、どう見ても子供は行きたくなさそう。しかも何故子供が怒られているのかというと、「車をかじった」から。

・若い夫婦が喧嘩。ドライブに行ったのだけど、奥さんがセリーヌ・ディオンのCDを忘れたためその美声が聞けなかった、というのが旦那が怒っている理由。その反論として奥さんは、「マライア・キャリーは持ってったでしょう!」と反論。

・「クリームを抜いたアイスココア」を注文した女性客。しかし注文の際、「クリームを抜いて下さい」としつこいくらい言う。注文が通った後も一度カウンター近くまで行き、そこで「クリームを抜いてください」と念を押す。しかし、注文通りの品がやってきたのに、結局一口も飲まずに会計して帰る。

・子供に読み聞かせをする母親。しかし読み聞かせをするにはあまりにも重い内容。タイトルを盗み見ると、なんと「五体不満足」。しかも別の本がテーブルに置かれているのだけど、それが「ゲームの達人」と「老人力」。ベストセラーばっか!っていうか子供に読み聞かせするのに適当ではない。

というような、かなり変わった人々がいつも著者の前に現れるようなんです。面白いものです。確かにこんな人がいたら観察してしまいますね。普通の人が何を求めて喫茶店に行くのか僕には分からないけど(僕は喫茶店ってのにほとんど行かないんです)、こんな変な人に日常的に遭遇できるならちょっとルノアールに行ってみてもいいかな、とか思いました。
すごくオススメするようなほんじゃないけど、軽く読むにはいい本だと思います。一つの話が3ページくらいしかないんで、トイレとかに置いといたらキリよく読めるんじゃないかなと思います。

せきしろ「去年ルノアールで完全版」



アトミック・ハーベスト プルトニウム汚染の脅威を追及する(マイケル・ダントーニオ)

今日は時間がないので冒頭の話は手短に。今日ネットで見て驚いたニュースです。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090916-00000394-yom-soci

僕がネットで見た時は、まだ登山がどうとかっていう情報は載ってなかったはずなんで、自発的に失踪したのか、と思って驚きました。今見たら、登山で遭難したかもしれない、という記事になっていて、まだ安心できないとは言え、僕の中ではちょっとホッとしています。
いや、漫画家っていうのは相当辛い職業だと思うんですよ。具体的にイメージ出来ているわけではないんだけど、少なくとも小説作家よりは相当にハードだろうな、と。そういう環境がキツくて失踪したんじゃないか、と思ったんで、そうじゃなさそうなんでちょっと安心しました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、西側最大のプルトニウム工場があるハンフォードを舞台にして起こる、プルトニウム汚染の実態と、そしてそれと闘う人々の話を描いた作品です。まだ全部読み切れてないんですけど。
アメリカでは、ソ連との冷戦を背景に、核兵器の配備を早急に進めた時期があります。攻撃すれば世界が破滅してしまうほどの核を保有してしまえば、ソ連はアメリカを攻撃できないはずだ、という理屈の元、信じられないような予算をつぎ込んで核兵器の配備にまい進しました。
その中核を成したのが、プルトニウム工場です。核兵器に原料とも言えるプルトニウムを精製する工場がアメリカ各地に出来、操業を開始することになります。
しかし時を経るに連れ、プルトニウム工場周辺の環境汚染について関心が高まることになります。それは、新聞記者や周辺にすむ農家の人々と言ったような外部の人間や、あるいは工場内部で働く人々からの訴えによって、徐々に表面化していくことになります。工場側、そして環境省側は一貫して、区域外をプルトニウムで汚染したという事実はない、と言い張りますが、その主張は様々な方向から突き崩されていくことになります。
しかしその一方で、ハンフォードに住む人々の多くはプルトニウム工場に賛成している、という事実があります。彼らにとってプルトニウム工場は、豊かな生活を保障してくれるものであって、それを失うことは考えられないことでした。後年、プルトニウム工場で働いていた人の多くが深刻なプルトニウム汚染にさらされていたということが分かるのに、そこで働く人々は工場側の『安全だ』という主張をそのまま受け入れ、工場批判派に相対することになります。
核は必要悪だ、という認識の元に一気に広がっていった核兵器の製造。しかしその陰では、急速な需要の増加に追いつけず、管理が疎かになっているという実態がありました。多くの人々が様々な努力を積み重ね、最終的にハンフォードのプルトニウム工場を閉鎖に追い込むまでの物語です。
まだ最後まで読み切れていないんですけど、なかなか骨太の素晴らしい作品だと思いました。著者の素晴らしいところは、恐らく本書を書いている時点で工場側・環境省側が大いに誤っていたという事実を認識しているでしょうが、それでも両者の意見・状況をなるべく等分に公平に描こうとしている、という点です。普通こういうノンフィクションが描かれる場合、工場批判派の視点に立って、いかに工場側が酷かったのか、ということを書くような内容になりがちです。なるべく公平さを保とうとしても、どうしてもそういう方向に傾いてしまうことが多いと思います。ただ著者は、どちらの側にも個人的な肩入れをしていないようなスタンスで本書を書き進めています。まだ正式な結論が出ていないような出来事を描く際には、著者自身のスタンスや姿勢を表明することも大事でしょうが、ハンフォードのプルトニウム工場については、冒頭で元内務省長官が推薦のことばを寄せていることからも証明できるように、明らかに工場側・環境省側に非があったとはっきりしている出来事なわけです。そういう題材を扱う際には、本書で著者が取ったように、どちらにも肩入れしすぎないでフラットな立場で書くというのは重要ではないかなと僕は感じました。
しかしこの汚染の実態はとんでもないものがあります。詳しいことは読んでもらうしかないですが、確かに知識不足・経験不足から故意ではない形で環境を汚染してしまった、というケースはあるでしょう。しかしほとんどはそうではない。工場側が犯した汚染は、その大半が怠慢によって引き起こされているわけです。しかも中には、意図的に汚染を引き起こしたことさえあるようです。もちろん科学者ら工場側のトップの人間は、この汚染が環境や人体に相当の影響を与えるということは認識していました。しかしそれを警告することはなかったし、それ以前にその状況を改善する気もなかったわけです。
内部から工場を追いつめた人間に、監査官の男がいるんですけど、彼は監査を繰り返す中で、工場内の管理のあまりの杜撰さを知ることになります。しかし、それをいくら上に提示しても、改善される余地は一向にないんです。上の人間は、実際に重大な問題が起こっているわけではないのだから問題ない、という姿勢でこれに対処しようとしないんですが、監査官にはいつ重大な、それこそ工場バッシングが盛んになり始めた時に起こったチェルノブイリの事故のようなことが起こってもおかしくない、と判断していました。しかしそれを改善しようとする人は内部には一人もいなかったわけです。
僕が凄いなと思ったのは、これだけ重大な環境汚染が、つい最近まで行われていたということです。この問題が表面化し始めたのが1980年代頃。たった20年ほど前の出来事です。確かに日本でも、工場排水やら光化学スモッグやら、とにかく産業構造の急激な変化において重大な環境問題が行われていた時代があったと思うけど、でもたぶんそれってもっと前の話だと思うんです。もちろん近年でも企業による環境汚染はそれなりにあるだろうけど、でも本書で描かれるようなとんでもない規模の汚染はないんじゃないかなと思うんです。
そして僕が凄いなと思うもう一つの点は、この科学が発達し、人々の知識レベルも向上しているような世の中にあって、盲目的に工場のことを信じ続ける人々があまりにも多すぎではないか、ということなんです。もちろん彼らにも彼らなりの生活があっただろうけど、それでも危険の兆候というのは目に見える形で現れていたはずなんです。それらを敢えて見なかったことにして、工場は安全だと盲信出来る人々の存在が、僕にはちょっと不思議ではありました。でもどうでしょうね。僕も実際その土地に住んで、工場で働いていたとしたら、どうだったか分かりませんけどね。
他国の話とは言え、なかなか衝撃的な作品だと思います。日本は非核三原則がありますが、アメリカが密かに核を持ち込んでるのではないか、なんていう話は昔からありますよね。本書を読むと、核はホントに廃絶しないといけないな、と思います。ぜひ読んでみてください。

マイケル・ダントーニオ「アトミック・ハーベスト プルトニウム汚染の脅威を追及する」



片隅の迷路(開高健)

今日はある出版社が文芸部門を閉鎖するというニュースについて書こうかなと思います。
記事(というかとある作家のブログですけど)はこちら。

http://roadsidediaries.blogspot.com/2009/09/blog-post_03.html

晶文社というのは、割といい本を出すことで有名な出版社ではないかなと僕は思っています。あんまり晶文社の本は読んだことがないんですけど、あんまり売れないけど良い本を出す出版社というイメージがあります。
その出版社が、文芸編集部門を閉鎖して、これまでもずっと稼ぎ頭だった学習参考書や学校案内だけを出していく、ということに決まったんだそうです。文芸に関しては今ある在庫を売り切ったらお終いだそうで、重版したりというようなこともないようです。
これまでも、出版社自体の倒産という話は散々あって、つい最近もゴマブックスがかなり大規模な倒産というニュースがありましたけど、出版社内の一部門を閉鎖する、というのはなかなかないんじゃないかなと思います。
この決断には惜しむ声が多そうな気がしますけど、でも出版社としても苦渋の決断だったんでしょうね。晶文社としたって、学習参考書で稼ぎながら、一方で文芸書を出すことに矜持みたいなものはあったはずだと思うんです。たとえ採算が取れなくても、なんとか続けたいと思っていたはずでしょう。それでもどうにもならなくなって閉めざるおえなかったんでしょうから、仕方ないだろうと思うんです。
でも、業界の慣習はどうか分かりませんけど、こういうやり方はあったんじゃないかなと思うんです。その文芸編集の部門だけ、どこか別の出版社に買い取ってもらう。版権も編集者もすべてひっくるめて編集部門を丸々他者に売ってしまうというやり方は出来ないのでしょうかね。あるいはやろうとしたけど交渉がまとまらなかったのかもしれませんけど。
出版というのは、良い本をだそうと思ったら半分趣味みたいな感じでやるしかないんじゃないかと思うんです。良い本っていうのは、本当になかなか売れないんです。だから、内容が薄っぺらでもなんでもいいから売れる本を一方で確保しておきながら、そのもう一方で良い本を作り続けるという体制でないともはや成り立たないんじゃないかと思うんです。だからこそ、ベストセラーをたくさん抱えているような大手出版社に編集部門だけ組み込むみたいなやり方は結構うまく行くんじゃないかと思うんですけど、どうなんでしょうか。
しかし、ゴミみたいな本が山ほど売れるような世の中にあって、もう出版というものにロマンを求めることは難しくなってしまったのかもしれません。もちろん、ゴミみたいな本が売れてしまう原因は書店にもあります。売れる本を売らないと経営が成り立たないというのはもちろん正しいし、それを否定する気はないけど、その中でいかに良書を売っていくかということをもっと真剣に考えないといけないのかもしれません。まあ僕ももっと頑張らないといけないですね。まあでも本当に難しいですけど。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、1962年に単行本が発売され、1972年に文庫化された作品を、改めて新刊という形で掘り越して発売された作品です。四国で実際に起こったとある冤罪事件をベースにした作品です。実際の名前とは登場人物の名前が変わっていること、そして小説と同じく各人の内面描写がされているという点が本作をノンフィクションではなく小説にしているわけなんですけど、でも解説に書かれた実際の事件の経緯を読む限り、実際に起こった冤罪事件そのものを描いた作品と言っていいと思います。
以下、実際の事件の方ではなく、本書の小説の内容を紹介します。
ある年の11月。農機具店の主人山田徳三が何者かに刺殺された。妻の洋子や娘の道子は、何者かが押し入り徳三を刺したと証言した。その時分外を歩いていた二人の人間も、農機具店から出てきたのではないかと思われる人影を目撃している。妻の洋子は脇腹と背中を刺され病院に搬送されることとなった。
事件を追う警察は、しかし有力な容疑者を一人も見つけることが出来なかった。物的証拠が限りなく少なく、これはと思われる容疑者にもことごとくアリバイがあるのだった。結局しばらくして捜査は行き詰った。
しかし捜査が検察に移ると事態は一変する。当初誰もが当然外部犯行説を唱えていたのだが、検察は一変内部犯行説を取ることになる。そして妻洋子は逮捕されてしまうことになる。
決め手になったのは、農機具店で働いていた若者二人の証言である。彼らは洋子が徳三を殺したとする経緯を具体的に証言することとなったが、しかしその証言にはいろいろと不備があった。しかし、主にその二人の少年の証言を元にして、洋子の有罪が確定してしまう。
その後事態はさらに展開し、証人たちが次々に、検察に脅されて偽りの証言をしたと告白することになるのだが…。
というような作品です。
いや、これはホントすごい作品でした。本書の内容は実際の事件の経緯からすると途中の部分までで終わっているのだけど、実際は再審請求を何度も出し、その過程で妻・洋子は死亡し、死亡後に再審請求が認められ、最終的に昭和60年に無罪が確定したとのことです。事件が起こったのが昭和28年だそうだから、実に32年に渡って戦い続けてきたことになるわけです。
しかしこれは恐ろしいですね。昔の話だ、今はこんなことはないだろう、と言ってしまえばそれまでですけど、実際のところこういうケースはまだまだあると思うんですね。容疑者や証人をしつこく追及して証言を変えさせ、検察に都合のいい証言で固めてしまう。結局洋子は、丸っきり嘘っぱちの証言を元に有罪が確定してしまうわけなんです。
洋子は二度上告しましたけど、最高裁への上告を一度した後、それを取り下げてしまいます。取り下げると刑が確定し、自分が罪を犯したことを認めることになることは十分に分かっていて、それでもそうせざるおえなかった。裁判を続ければお金もなくなるし、家族もどんどんと疲弊していく。ここで私が折れれば、少なくともそれは回避できる。そういう悲壮な思いを胸に、洋子は上告取り下げをするんです。しかし運命のいたずらか、まさにその上告取り下げをした日、とんでもない事態が待ち受けていたりするんですね。それも実際にあったことなのかイマイチよく分かりませんけど、たぶんあったんでしょう。事実は小説より奇なり、という感じでしょうか。まあ、本書は小説ですけど。
本書の中で僕がとにかく凄いと思ったのは、洋子の従兄弟の浜田という男についてと、偽証だったと本人が認めた後の経緯です。
浜田は洋子を救い出すために、自ら足を運んで証人の元へと出向き、そしてそこで偽証をしたのだという話を引きだすことになります。最も重症な証言をした証人の行方が分からず、まったくあてもないままに大阪まで探しに行ったりしています。とにかくこの裁判において、もっとも精力的に動いた男ではないかなと思います。彼の努力は凄いなとホントに思います。
また凄いと言えば、徳三が前妻との間にもうけた子供竜子もなかなか凄いです。義理の母に当たる洋子のことを必死で守ろうと心を砕きます。これだけ多くの人に支えられていても、法の壁は厚いのだなと思うとやりきれないですね。
もう一方の、偽証だと告白した後の経緯も凄いんです。結局、裁判の行方に重要な証言をした四人の証人全員から、証言は嘘だったという供述を得たのだけど、しかしこれがまともに取り合われることはないんです。新聞は取り上げるけど、それが法のところまで届かない。普通証言が嘘だったということになれば、しかもそれが重要な証言だったのだから、その嘘の証言によって実刑になった洋子を救い出すような仕組みがなくてはおかしいですよね。しかし事はそう簡単には進まない。結局本書では途中までしか描かれませんが、実際の経緯では事件発生から32年もかかってようやく無罪が確定したわけです。最近でも、足利事件というかなり有名な事件の無罪が確定したというニュースがありましたけど、どうして無実の人間がこれだけ長い間刑務所に入っていないといけない仕組みが当然のようにまかり通っているのか、本当に不思議でなりません。
法に不備があったり、またその運用に不備があったりするというのはまあ仕方ないことだろうと思います。しかしその不備によって不利益を被った人々を早急に救済する仕組みがないというのがどうしても僕には納得がいかないですね。証言を偽証した証人には憤りを覚えますけど、でも仕方ない部分も多々あったことでしょう。何よりも一番最悪なのは検察で、非があったことさえ認めない体質というのは酷すぎるのではないかなと思います。
裁判員制度が始まりましたが、これがこういう冤罪事件にどれだけ大きな意味を持つのか、何とも僕にはわかりません。ただ、これまでの『法の世界の常識』では通らなかったものがすんなり通るようになるかもしれないと思ったりはします。でも何したって、こんな風にしか裁判制度を運用できないのであれば、どんな形であれ警察・検察・裁判所には関わりたくないな、と思います。
淡々と進んで行きますが、内容はかなり深いものがあります。かなり昔の作品ですが、今読んでもまったく古びていない作品だと思います。是非読んでみてほしい作品だと思います。

開高健「片隅の迷路」



放火(久間十義)

さて今日は、ちょっと嬉しい話を書こうと思います。初めに言っておきますが、たぶん前置きがかなり長くなると思います。
僕は本屋で文庫と新書の担当をしているんですけど、基本的なスタンスは、既刊をいかに売るか、ということに重点を置いています。最近特にですが新刊は売れなくなってきているし、売れる新刊はほっといたって売れるわけで、だからほっといたら売れない既刊をいかにして売るか、ということに基本的に力を注いでいるわけです。
それで、別に世間的に話題になっているというわけでもないんだけど、ウチの店だったら売れるんじゃなかろうか、という本をいろんなところから見つけ出して来てそれをいろいろ工夫して売る、ということをずっとやっています。この、別に世間的に売れているわけでもない既刊をいかにして山ほど売るか、というのを考えるのが楽しいんですね。
でも、僕はこのブログで何度も書いていますけど、多面展開はしないんです。多面展開というのは、一か所の広いスペースにある一種類の本をドワッと置いて目立たせるやり方で、最近では多くの書店がこの多面展開をやっているんではないかなと思います。
でも僕はこの多面展開ってやつが嫌いなんです。多面展開というのは要するに、量で目立たせて売る、というやり方なわけなんですけど、裏返せば、量で目立たせないと売れない、ということになります。僕は、一面平積みでもたくさん売れるような売り場を作ろうと日々努力をしています。その方が遥かに効率がいいからで、多面展開をしなくても売れるというなら、多面展開なんて誰もしないんじゃないかなと思います。
ただ、誤解されるかもしれないので一応書いておくと、多面展開をした場合と同じスピードで売れる、なんていうことはもちろんありません。一面平積みでやる方が売れるスピードはもちろん遅いんですが、それでも長く売り続ければそれなりの数字になっていきます。
僕はほとんど多面展開をしたことがないんで分からないんですけど、普通多面展開も3か月ぐらいすれば別の本に切り替えるでしょう。僕の感覚からすると、3か月でも長いですけど、でも3か月以上同じ場所で多面展開を続けるというのはさすがに無理があるのではないかなと思うので3か月ということにして考えてみます。
1か月で100冊売れるとしましょう。もっと売れる店もあるでしょうが、ウチの店でもし多面展開をやったとすればそれぐらいじゃないかなと思うので1か月100冊ということにします。前に一度だけ、「つい誰かに話したくなる雑学の本」というのを多面展開でやったことがあるんですけど(これは僕の意思というわけではなくてやらざるおえなかったんですけど)、その時2か月で大体250冊ぐらい売れたと思うので、1か月100冊はまあまあ妥当かなと思います。
そうすると、3か月で300冊売れるという計算になります。
一方、ようやく本題に近づきつつありますが、例えば僕が結構売っている本に、PHP文庫の「子どもの心のコーチング」という本があります。これも別に世間的に売れているというわけではないんですけど、去年の1月くらいからずっと一面平積みで今も置き続けている本です。
その本が現在累計で300冊を超えています。1年半強くらい掛かって300冊ですけど、3か月の多面展開と同じだけの売上を出せています。しかも、多面展開をしていないからロスは少ないし(多面展開というのは量で目立たせるわけで、だから置いている間ある程度の量が必要になります。つまり、終了時にもかなりの在庫があるという計算になるわけで、それがすべて返品に回ってしまうと思います)、一面しかスペースを占有していないから効率的です。しかも3か月で外してしまうと買うタイミングを逃すお客さんがいるかもしれないけど、僕の場合既に1年半以上置き続けているので買い逃すなんてことはまずないでしょう。僕が多面展開が好きではない理由はいろいろとありますが、上記のような理由もあって、僕は既刊を売ろうという時に、なるべく多面展開をせずに頑張っています。
で、先ほど出した「子どもの心のコーチング」という本の話が今回のメインなんです。先日PHPの営業の方が来まして話をしていたんですけど、その営業の方は、僕が「子どもの心のコーチング」をやたら売っているということをもちろん知っていて、自身が回るいろんなお店でその本を勧めているんだそうです。それで実際に結果が出ている店舗も結構あるんだそうです。
その中で凄いのが、最近勧めたある店舗の話らしいんですけど、「子どもの心のコーチング」を多面で仕掛けたところ、週売50冊を超えているんだとか。週売50冊って、少なくとも僕のいる店ではありえない数字ですけど(ちょっと前に出た「1Q84」ぐらいじゃないかな、そんな無茶苦茶な売れ方をするのは)、とにかくそれぐらい売れているんだとか。すごいものです。
僕はもう何年も前から、今みたいに既刊を売り伸ばさないとっていうやり方をしてきましたけど、ようやく世間的にもそういう認識になったようです(なんか自慢してるみたいですけど、いやそんなことはないですよ、全然)。そのPHPの営業の方とも、書店に行ってよく聞くのは、新刊はダメだから既刊を、ということのようです。とにかく、新刊に頼っていてはこれからの書店はまずやっていけないでしょう。期間限定とはいえ、amazonが配送料無料というサービスを始めたんで、ますます新刊・話題作はamazonに流れて行ってしまうのではないかなと思います。
だから書店は、新刊・話題作ではないもの、お客さんが積極的に欲しいと思っているわけではないんだけど見たら買いたくなるようなもの(そういう本はさすがにamazonで買えるわけがない)、近隣の書店には置いてなさそうなもの、そういうものを探して売場に置く努力をしていかないといけないんだと思います。いろんな本屋に行って文庫の売場を見るんだけど、大抵面白くないなぁと思うことが多いです。僕だって全然まだまだ大したことないんですけど、まだまだやれることは山ほどあると思います。売れない売れないと嘆く前に、ダメモトでいろんなことをやってみましょう!
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は実に多くの人物による多視点でストーリーが進んでいくので内容紹介がしにくいんですけど、刑事と新聞記者の視点に絞って内容紹介をしようと思います。
風俗店と消費者金融が入居する池袋の雑居ビルで火災が発生し、19名の死傷者が出た事件で、警視庁捜査一課火災犯捜査一課の黒田警部補は捜査に当たることになるのだが、このヤマについては元々おかしなところが多すぎた。そもそも、通常暴力団関係を担当している四課が会議を仕切っているのがおかしい。他にも不穏な空気を感じる。何かあるな、と思いながら割り振られた捜査を続けるしかないのだが、その過程で怪しげな人物に行き着く。事件とどう関わるのか分からないが、保険金詐欺でもやらかそうとしているような男がいる。関わっていくにつれて事件との関係が深いと判断することになるのだが…。
東都タイムスの女性記者である美津野まゆ子は、19名の死傷者を出したビル火災の取材を続ける過程で、ひょんなことからある男と関わり合いを持つことになる。火事で死亡した女性と付き合っていたといい、身元の確認に来たのだという。あれこれ関わっていく中でどうもきな臭いものを感じるようになっていく。
一方でまゆ子は黒田警部補とも接触し、お互いに情報のやり取りをするようになる。黒田を通じて、警察側がどうやら一枚岩ではないらしい、何か不穏な動きがあるらしいということが分かってくるのだが…。
というような感じです。
本書は、かつて歌舞伎町で起きたビル火災がモデルになっているようです。実際のビル火災では44名が死亡したとのことで、状況や設定などにかなり変更があるんでしょうけど、細かな部分(例えばガス管がメーターから外れていた、など)を踏襲するなどして、現実の事件をうまくフィクションに再構成しているようです。
正直そこまで期待しないで読んだんですけど、案外面白い作品でした。あんまり期待しなかったのがよかったのかもしれないけど。
初めはちょっと入り込みづらかったんです。というのも、多視点の作品でとにかく視点があっちこっちに忙しなく入れ替わるんで、もしかしたら小説を読みなれていない人だとダメかもしれないです。本書はスポーツ新聞である「東京スポーツ」に連載されていたらしいんですけど、これだけ多視点の作品で読者はついていけたのかなぁ、と思います。
ただ、構成がなかなかうまいなと思いました。ストーリー自体には目新しさは特にないんだけど、多視点の構造をうまく活かして物語を展開させていくという構成力は相当なものがあるなと思いました。初めはただの(と言っては語弊があるでしょうが、小説としてはさほど目立つような題材ではない、という意味です)ビル火災だったのが、少しずつ違和感が増大していって、次第にいろんなことがかみ合わなくなって行く。その、少しずつ明らかになっていく過程みたいなものを多視点を活かして構成していくのが上手いと思いました。
キャラクターについても、初めはちょっと弱いなぁと思って読み始めていたんですけど、徐々にくっきりとしてきて、主要な登場人物についてはかなり上手いこと描き分けをしていると思いました。個人的には、黒田の相方を勤めている刑事の鳥居がいいなと思いました。主要な登場人物以外のキャラクターはちょっとやっぱり弱いんですけど、登場人物がそこそこ多くて、かつ多視点の小説だとさすがにそこまで求めるのは厳しいなと思います。
一点不満を挙げるとするなら、ストーリーがどういう方向に進んでいくのかイマイチ分からないというところでしょうか。もちろんそれを良い点として挙げる人もいるかもしれないですけど、僕としてはもう少しメインとなる部分をはっきりとさせていきながら物語が進んで行ってくれればいいのにと思っていました。ストーリーの主軸みたいなものが真っ直ぐ絞り込めていなくて、いろんな方向に散逸しているイメージがありました。最後までそのイメージは抜けなかったかな。まあそこだけがちょっとなぁ、という感じでした。
でもかなり出来のいい作品だと思いました。久間十義という作家は結構マイナーな作家だと思うんですけど、なんだかんだいって既に読むのは3作目。文庫でも新刊がちょくちょく出ていたりするんで、ちょっと注目していこうと思っています。強くオススメするという作品ではないんですけど、悪くないと思うんで、気が向いたら読んでみてください。

久間十義「放火」



町工場巡礼の旅(小関智弘)

昨日ネットで見た記事にこんなものがありました。

http://www.shinbunka.co.jp/news2009/09/090909-01.htm

書店業界は様々な問題があるんだけど、その中の大きな一つとして返品の問題があります。本というのは委託販売であって、書店は仕入れた本を出版社に返品することが出来る。これが出版社の経営を圧迫しているという現状があります。出版・書店業界全体でどうにかしようといろんな取り組みが始まっているんだけど、正直なところ直接的な成果に結びつくようなものはほとんどないんじゃないかなと思います。
そんな中で、大洋社という書店取次の一社が、返品減にインセンティブを出すという取り組みを来年の7月から始めるとか。
書店毎に目標の数字を決める、というのが何を根拠に決めるのか分からないけど、まあここがなかなか大変なところではないかなと思います。あるいは全体で統一して、売上に対してどれくらい、という感じにするのかな。そうやって返品の量に対してある一定の基準を設け、その基準以内に収めれば報奨金を出しましょう、という仕組みのようです。
これはうまく行くでしょうかね。取次が決める基準値の設定と報奨金の金額次第だとは思うけど、最も重要な点は新刊の配本についてではないかと思います。
僕はこのブログで何度も書いているように、返品のかなりの割合を占めるのが、新刊の初回配本です。特に新書なんかは最近その傾向がかなり強い。とにかく新刊がまるで売れないので、入ってきた分がそっくりそのまま返品になる、ということはザラです。
出版社というのは自転車操業みたいなところで、とにかく新刊を作り続けて書店に送り続けないと成り立たないという仕組みになっています。そのため、駄作だろうがなんだろうがとにかく新刊を出し続けて書店に送ります。ただ、そういうスタンスで作っている新刊だから売れない。それが返品になる。
返品が増えた原因はもちろん書店にもある。売れるかどうか見極めることが出来ずに仕入れをしているという部分ももちろん多々あります。しかし返品が増えた原因はそれだけではない。何度も書いていますが、出版社が碌でもない新刊を作って送ってくることも、返品が増えた一因なわけです。だから、返品を減らす対策を書店だけに求めてもうまくはいかないでしょう。出版社の方にも何らかの働きかけをしないといけないし、出版社自身も変わっていかなければいけない。
僕の印象では、返品の問題が挙げられる度に、それは書店に問題があるというような言い方がされることが多い気がします。書店に非がないわけではないのだけど、何か対策を立てるというのであれば、出版社も含めた対策を考えなくてはいけないだろうと思います。
返品を減らしたらインセンティブというこの仕組み。成功するでしょうか?僕は正直、微妙だなぁと思うんですけど。事前に、要らない新刊は送ってこないでくれ、というようなことが出来る仕組みがあればまた別ですけどね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、長いことずっと旋盤工として働きながら、一方で作家として町工場で働く人々を描き続けた著者の作品です。現在では旋盤工の仕事はもうやっていないようですけど、70歳近くまでずっと現場で仕事をしていたようです。
著者は旋盤工としての仕事の傍ら、全国にある様々な町工場を訪ねては話を聞いて回るというようなことをやってきました。そこで見聞きした経験を生かし、小説やルポのようなものを書いているようです。
本書は様々な媒体に書いた文章を一冊にまとめたものなので、内容紹介がなかなかしづらい。だから、本書で気になった文章を抜き書きするような形で本書の内容紹介をしたいと思います。

『タイに行ってお役人と話していると、しきりとオータという言葉を使う。なんとオータとは金型のことだったという。東京の大田区は世界のオータなのだと、これは太刀川さんがあるフォーラムで語られたエピソードである。』

大田区には現在でも6000ほどの町工場があるようですが(最盛期は8000ぐらいあったらしい)、とにもかくにも町工場がひしめきあっている土地柄で、それは世界でも認められているみたいです。

『たとえば最近、わたしが働く大田区の町工場で、大袈裟にいえば世界中から注目されている金型職人がいる。ジュースやコーヒーのスチール缶のプルトップ型の蓋は、手を切りやすい。実際にアメリカでは、この蓋で指に怪我をしたピアニストが、一億円の損害賠償を求めて訴訟をおこしたという。なんとか指を切らないように工夫出来ないかと、日本でも大学の研究所で十数億円の予算をかけて研究したが、ついに果たせなかったという。それを解決したのが、金型づくり五十年のベテラン職人だった。この人の考案した蓋は、切り離すと同時に断面が丸まっていくというものdえ、これなら指は切れない。すでに世界十七カ国の特許を取ったという。』

切り離すと同時に断面が丸まっていく、という説明はイマイチよくわからないんだけど、これは僕らが普段見ているあのプルトップかな?だとしたら前はそうじゃなかったわけでどういう風に手を切りやすかったのか分からないけど、大学の研究所が十数億円掛けてダメだったものを一人の職人が解決してしまうというところに職人の深さがあるなと思います。

『(ねじを完全に自動で作れる機械の話を書いた後、)
もはやほとんど人の手を煩わすことがないから、装置産業と呼んでもよいようなこのネジづくりをする会社の工場長に、わたしは言った。
「これではもう、働いている人たちの個性なんて、出ようがないですね」
するとその人は、たくさん並んだ機械の合間で立ち働く、まばらな工員ったいの姿を目で追って、
「とんでもない。規格にはずれていないんだからこれでいいや、という人のネジと、規格にはずれてはいないけれど、こんなものを出荷したら工場の恥だ、と考える人のネジとでは、箱にたまったネジの山をひと目見たらすぎにわかります。美しさがちがいますよ」
と、わたしをたしなめた。』

後でも書こうと思うけど、町工場にもコンピュータ制御の機械がたくさん入ってきた。でもだからと言って誰でも作れるわけではない。その機会を操る人間によって出来不出来がある。コンピュータ制御の機械になっても、職人は職人なのである。

『わたしの知り合いの従業員四十名ほどの工場の社長は、ずっとある大手メーカーの下請仕事をしてきた。バブルがはじけ、リストラが進むにつれて、加工賃の切り下げが続いた。担当者の外注係が、来るたびに伝家の宝刀を抜く。
「それがイヤなら他所にまわすよ。どこでもやりたがっているんだから」
たまりかねて彼は、尻をまくった。
するとどうだろう。メーカーは大あわてとなった。いろいろあったが、結果は以前の二倍の加工賃を出すから続けてほしいということで落着した。その町工場の技術は、どこでもやすやすと真似られるものではなかった。貧すれど鈍せずを支えたのは、その高城に長年にわたって蓄積された技術だった。』

こういう話はいいですね。僕は権力とか上司とか、そういう自分よりウエにいるモノが基本的に嫌いで反発してしまうんで、そういうウエの存在をあたふたさせられるというのは爽快です。

『「たとえばウチではリミットが百分の一ミリという制度を守って作っているのを、海外で百分の三ミリなら安く作れます。形は同じものだし、その部品を組み込んでも当初は大差なく機能します。でも、ガタがガタを呼ぶんです。百分の三のガタがあったら、百分の五や六になるのはアッという間ですよ。耐久性を考えないで、安く作ることが優先されています。それはこわいことですよ」
関さんは実例をあげてそれを語る。クルマや電車のような、人の命にかかわる部品でさえ、海外で安く調達すればいい、という風潮が強くなっている。』

最近の電子機器は長持ちしないというイメージがあるんだけど、なるほどそれは、小さな小さな部品をケチっているからなのか、と納得しました。

『「あれを売ってほしいという工場がありますが、売るわけにはいきません。このギヤも自動車部品です。同業者がこれを見て、これだけのものが作れるなら、金型の特許を取っておけとすすめられました。でも、ヘタに特許を申請すると情報を盗まれてしまうおそれがあるので、特許なんか取りません」
大田区の町工場の経営者には、似たような考えで特許を取らない人が多い。なかには、誰がやったってできっこないから、特許なんて必要ないと豪語している人もいる。大蔵省(現・財務省)印刷局指定の自動現金支払機のなかに組み込まれている真空ポンプを作っている三津海製作所などが、そのいい例だろう。』

誰も真似できやしないから特許なんて取らないというのも凄いけど、下手に特許を取ると真似されるかもしれないから取らないというのも凄いなと思います。

『実際最近、大手メーカーがそれこそ日本中を駆けまわってもできなかったというほどの金型を、「捨絞り」の工夫で作った金型の名人は、将棋が大好きだというので納得させられた。この人の工夫は、プレス加工したら捨ててしまうスクラップの部分にわざわざ絞り加工をするというものだが、その小さな部品ひとつができないために、メーカーは毎年多額のペナルティをアメリカに払い続けてきたという。その金型を見たときにはわたしも舌を巻いた。』

これは凄いなと思いましたね。最終的に捨ててしまう部分に、加工の途中で一工夫することで、誰も出来なかったことをやり遂げる。指先の技術も凄いんだろうけど、職人というのは手順を考える天才でもあるというのが本書を読んでよくわかりました。

本書を読んで、今まで誤解をしていたなと思いました。恐らく多くの人が僕と同じような誤解をしているのではないかなと思います。それは、昔ながらの機械(旋盤だのフライス盤だの)を使って作るのが職人で、最新鋭のコンピュータ制御の機械は、そういうこれまでの職人がやっていた仕事を素人でも出来るようにしたものだ、と。
もちろんそういう面はゼロではない。コンピュータ制御の機械によって、かつての職人技が不必要になったケースもあるでしょう。
しかし実際はそうではないんですね。コンピュータ制御の機械も、使う人間の技術によってその性能を活かせるかどうかが決まる。コンピュータ制御の機械を使えば誰でも同じものが作れる、というわけではない。コンピュータ制御の機械も、旋盤やフライス盤と同じく職人の道具の一つであって、それはこれまでの技術を駆逐するものではないということなんです。
また、コンピュータ制御の機械が導入されたことによってそれまでの技術が不要になったようなケースでもこういうようなことがあるようです。ネジだか何だかをそのコンピュータ制御の機械で作る際、ある職人がやると歩留り(原料から期待される生産量に対して実際に生産された量の割合)が100%に近くなるのに対して、素人がやると歩留りが60%程度になってしまうといいます。まったく同じ機械を使っているにも関わらず、使う人によって製品の出来が変わってしまう。これはまさに、昔ながらの機械と変わらないのではないかなと思います。
しかしホントに、こういう町工場の世界にかなり興味が湧いてきました。もちろん僕にそんな腕前があるとは思えないけど、ちょっとこういう世界に飛び込んでみたいなという感じはあります。不況で大変らしいんで難しいかもしれませんけど、世界中で自分だけしか出来ない、という仕事だって出来る可能性があるわけですよね。それって凄いなと思うわけなんです。昔は3Kと言われて嫌われた職場のようですが、最近ではかなり若い人が入ってきているところもあるようです。もし何らかの機会があったら、こういう町工場の世界に飛び込んでみようかなと思います。
なかなか面白い作品でした。知らない世界についての話を読むのは結構好きです。日本のこうした技術がもっと生かされればいいなと思います。そのためには僕ら消費者がもっとしっかりしないといけないんですけど、なかなかそれは難しいでしょうか。

小関智弘「町工場巡礼の旅」



わけいっても、わけいっても、インド(蔵前仁一)

さて今日は棚卸しの話を書こうかなと思います。
つい先日棚卸しがありました。他の小売店がどういう風にやっているのか分からないけど、ウチの店はそれなりに店が広かったりするんで、棚卸しは専門の業者に来てやってもらっています。
しかしこれがまあお粗末な仕事でございました。酷いのなんのって。棚卸しが終わってまだ一週間と経っていませんが、ミスをボロボロと見つけております。
棚卸しが何なのか分からないという人のために(僕も今のバイト先で働くまで知りませんでした)、棚卸しについて説明しておきます。たぶん決算だとかそうい時の数字で必要なんだと思うんだけど(詳しくは知らない)、店の在庫をすべてカウントし在庫量を把握するというのが棚卸しです。やり方はいろいろあるでしょうが、ウチの店では専門の業者が機械で一冊一冊入力しながら、店内にあるすべての本の在庫をカウントしていました。
とにかく一番酷かったのは、文庫のストッカーの一部が丸々カウントされていなかった、ということです。ライトノベルの売場に二つストッカーがあるんですけど、それが一切カウントされていないんです。僕が一番初めにそれに気付き、その後雑誌のストッカーでも似たようなことがあったようです。一応指示通り、ここにストッカーがありますよという印をつけていたんですけど、それを完全にスルーしたようです。
別のパターンではこういうのがあります。ピュアフル文庫の「コンビニたそがれ堂」という作品があるんですが、これは現在のところシリーズが二作出ていて、僕はその二作を並べて売場に置いていました。その二作は表紙がすごく似ていて、タイトルも二作目の方に副題みたいなのがついているだけなので、まあ確かにパッと見は同じ作品のように見えるかもしれません。
それがやっぱりカウントミスでした。例えば実際の在庫が、1巻5冊・2巻5冊だとすると、データは1巻10冊・2巻0冊という感じになっていました。つまり並んでいる二作を同じ作品だと勘違いして入力してしまったということです。これはまあミスとしては理解できなくもない範囲ですが、でもちゃんとしてくれよと思います。
またこんなのもありました。書店の売り場で、下の台に置いているものを平積みと言いますが、棚のライン上に表紙を見せて並べることを面陳と言います。僕は2~3冊しか在庫がなくても面陳で売場に置くようにしているんですが、その場合冊数が少なくて目立たなかったり取り出しにくかったりします。それを防ぐために、文庫と同じサイズに切った底上げみたいなものを作っています。書店に送られてくるパネルを文庫サイズに切っていくつか重ねたもので、その底上げは全体的には白っぽい感じになります。
で、双葉文庫という文庫があるんですけど、これは文庫自体が白いんですね。ある双葉文庫の面陳の一番後ろにその底上げを置いていたところ、どうやらその底上げも一冊とカウントしているようなデータが見つかりました。実際は4冊しかないのに、底上げ分も含めて5冊というデータになっています。確かに色が似てて紛らわしいかもしれないけど、それぐらいちゃんとカウントしてくれよと思いました。
あと、昨日また変なデータを見つけました。これはどうして間違えたのかさっぱり理解できないんですが、店頭に10冊平積みになっている本が在庫0になっていました。もしかしたらですけど、棚卸しの時点でその文庫の上に何か別の文庫が置かれていて、そのせいでカウントされなかったのかもしれない、と思いますが、理由はよく分かりません。
僕なんかは日々きっちりデータを見ているんでこういう異変には気付きますが、ウチの店の他の担当者はそういう部分を結構疎かにしている場合が多いんで、気づかないで放置されているケースもあるでしょう。そうなると在庫のデータをまったく信用できないということになってしまうので困ったものです。在庫をきちんと適切な数字にするというのが棚卸しのはずなのに、棚卸しのせいで在庫がメチャクチャというとんでもない状況ですね。やってられないなぁと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、以前も何かの感想の際に紹介しましたが、出版社の方から献本いただいた作品です。献本というのは、色んな理由により出版社が自社の本を贈るというもので、本書の出版元である旅行人というところから献本をいただくのはこれで二作目です。実にありがたいことです。確か出版社の方はこのブログの存在を知ってくれていたはずですので、この場を借りてお礼を申し上げます。ありがとうございます!正直なところ大した知名度があるわけでもないただの一書店員に献本いただいたところでどうこうなるというものでもないんですが、ありがたく読ませていただきました。
でも今回は、ちょっとご期待に添えるような感想は書けないかと思います。僕の好みにはちょっと合わない作品でした。僕はいただいた作品だろうがなんだろうが感想は出来る限り正直に書きたいと思っているんで、ご容赦ください。
本書は、ざっくりと説明してしまうと著者がインドを旅行する話です。著者は作家であり、「旅行人」という雑誌の編集長(たぶん)であり、かつグラフィックデザイナーという多才な方です。恐らくグラフィックデザイナーとしての興味からでしょう、本書で描かれる旅の多くの目的は、インドの絵画、特に壁画や家の壁に描かれているような絵を見に行くというものです。
著者はガイドブックには情報がほとんどないような奥地へ僻地へと旅を進めながら、現地の言葉がまったく分からない状態で、手探りのままそうした絵を探し求めます。世界的に評価の高いアーティストの絵を見ることが出来た一方で、まったく目的が適わなかったという土地もあります。インドという奇妙な国の中で、いい人にも出会い、あんまりよくない人にも出会いながら、マニアックと言ってしまっていいような目的のためにインドを縦横無尽に旅する旅行記です。
さて、何故本書が僕に合わなかったのかという話をこれからしようと思いますが、それを、以前同じく旅行人の方から頂きました、田中真知の「孤独な鳥はやさしくうたう」と比較して書いてみようと思います。僕はこの「孤独な~」は結構好きな作品でして、同じ旅行記でも何が違うのかという話を書いてみたいなと思います。
僕は、自分で旅に出るなら非日常がいいけど、旅行記を読むなら日常の延長がいいな、と思うんです。自分が実際に行って経験できるのならば、それは日常からかけ離れた非日常性を求めるというのは当然でしょう。ただ、旅行記を読むというのは、それを読んでいる間どうやっても自分はそこに行けないわけです。そうなると、そこに書かれていることが非日常的だとどうしても対岸の火事のように感じられてしまうんです。
大抵の旅行記というのは、多かれ少なかれそういう非日常性を有していて、だから僕はそもそも旅行記というのがそんなに得意ではないんです。本書も僕にとってはまさに非日常性の塊という感じの作品でした。インドに旅行に行くということも、ガイドブックに載っていないような僻地に旅行に行くということも、そして絵を見るために旅行に行くということも、僕にとってはすべて非日常的な出来事です。それは、実際僕自身が体験できるというならば楽しいでしょう。でも僕に出来ることは誰かがした経験を読むことぐらいで、そうなるとなかなかその非日常性の中に入り込むというのが僕には難しいんですね。
一方で、「孤独な~」は非常に珍しい旅行記で、日常の延長線上にあるかのような作品でした。著者が旅行先で経験した出来事を書いている、という意味では確かに旅行記でしょう。でもそれは、たまたま舞台が海外だった、という感じで、僕らの日常のほんの僅か先にあってもおかしくないような、そういう出来事がたくさん扱われていました。描かれている事柄は、旅行先で経験することとしてはそう大したものではないかもしれません。でも、それを経験するのではなく読む側の僕としては、読むことしか出来ないからこそ日常の延長にあるような話を読みたいんですね。「孤独な~」はまさにそういう作品で、これまで読んだ旅行記の中でもトップクラスに良かったなと思うわけです。
本書は、僕にはちょっと合わなかったですけど、これからインドに行こうとしている人、あるいはインドに行ったことがあるという人なら楽しく読める作品ではないかと思います。つまり、これから行こうと思っている人に対しては『情報』としての価値を持ち、既に行ったことがある人には『経験の共有』という価値を持つ作品ではないかと思います。特に著者のように、ガイドブックに載っていないようなところを回ろうと思っている旅行者には有益な情報になりうるだろうし、ガイドブックに載っていないということはそこを訪れる旅行者は少ないわけで、そういう経験を共有するきっかけになるという意味では有益な作品だと思います。ただ僕のように、インドに行ったことがあるわけでもなく、行く予定があるわけでもなく、行きたいというわけでもない人間にはちょっと合わないかもしれないなと思います。
というわけで僕としては、同じく旅行人から出ています「孤独な鳥はやさしくうたう」という作品をオススメいたします。普通の旅行記とはかなり趣が違うので是非とも読んでください。

蔵前仁一「わけいっても、わけいっても、インド」





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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)