黒夜行

>>2007年11月

首無の如く祟るもの(三津田信三)

今日はすこぶる時間がないので、とりあえず内容だけざっと紹介しましょう。
とある村を仕切っている秘守家。代々その村を治めてきた一族であるが、しかしその一族には首無と呼ばれる存在に魅入られてもいた。後継ぎとなるべき男子がどんどんとその首無の怪異によって命を落とすとされ、それに対抗するために様々なしきたりや儀式が存在する旧家である。
本作は、高屋敷妙子という、当時事件を調べていた巡査の妻だった女性が、媛之森妙元という筆名で、秘守家で戦前と戦後に起きた事件を元に小説を書く、という設定で進んでいく話です。
戦前戦後どちらの事件とも、被害者が首を切られるという形で殺されます。現場は様々な状況を併せて考えてみても何重にもなった密室状態。誰にもアリバイが存在する。この事件はやはり首無の仕業なのだろうか…。
というような話です。
この作品は、どうも世間的にはかなり評価の高い作品のようです。まあ恐らくかなり狭い世界でそうなているというだけの話でしょうが、ホント僕には納得がいきません。そもそもこの作家自身がかなり評価が高いんですけど、僕には意味不明としか思えません。
本作は、確かにトリックはかなりすごいです。トリックの部分だけ抜き出して考えれば、それはかなり高い評価になるというのも頷けます。本作では要するに、『何故被害者の首が切られたのか?』という部分があらゆる意味でメインになるんですけど、その理由は本当にこれまでにはありえなかったものだと思います。また、ある一つの状況さえ分かれば、多くの謎に一気に説明がつくという意味でも、トリックの鮮やかさは見事であると僕は思います。
しかし、しかしです。トリックだけはかなり素晴らしいのだけど、全体として小説としてみた時に、この作品は全然面白くないんですね。冗長というか退屈というか、読んでいてワクワクさせるという感じがまったくありません。また、ちょっと前に読んだ「禍家」という作品もそうでしたが、お世辞にも文章が巧いとは言えない作家です。むしろ、ちょっと稚拙と言ってもいいぐらいではないか、と僕は思っています。本作は『禍家』と比べたらまだましですが、それでも、ミステリは基本的に文章があんまりなっていないということを差っぴいても余りあると思うくらい、ちょっと文章が酷いと思います。
僕が読んでてずっと思ったのが、もし京極夏彦が同じ設定同じトリックで作品を書いたとしたら大傑作になったのではないか、ということです。恐らく京極夏彦なら、この設定このトリックを使って、もっと物語として面白いものを生み出せただろうと思います。それが僕の中で残念でなりません。もちろん京極夏彦と三津田信三では作家としてのレベルがまったく違うのでそこまでのものを求めるのは酷であるとは思いますが、しかしこれだけ素晴らしいトリックがこれほどつまらない作品に用いられてしまったということが僕の中では非常に残念でなりません。
確かに、このトリックを知るために本作を読むというのもまあ価値がないではありませんが、しかしそれにしても小説としてはつまらないのでなかなか読む気にならないのではないかと思います。もちろん僕としてはオススメはしません。あぁ、ホント何度もいいますが、京極夏彦が書いてくれていたらどんなによかったか、と思います。悔しい!

三津田信三「首無の如き祟るもの」



アジア新聞屋台村(高野秀行)

人間はやっぱり、かなり環境の影響を受けているのだろうと思う。まあ当然と言えば当然の話なのだけど、本作を読んでより強くそう思った。
まあ小さなところから言えば、学校や家庭という環境を挙げることが出来る。子供にとって学校や家庭というのは、ほとんど唯一と言っていいほど絶対的な環境で、僕らはほとんどその影響から逃れることが出来ない。最近大ベストセラーになって書店を賑わせている「ホームレス中学生」の場合、その片翼である家庭の方が解散してしまったわけだけど、それでも家庭に近い互助関係みたいなものなしには生きていけないわけで、やっぱり多少なりそういうものの影響があると思う(ちなみに僕はまだ「ホームレス中学生」を読んでないので、内容については憶測と伝聞です)。
子供の頃の環境というのは本当に重要で、恐らく人格形成にかなり影響を与えるだろうな、と思います。誰でもそうなんじゃないかなと思うんだけど、今の僕の基礎みたいなものは、やっぱり学校と家庭で作られただろうと思います。ものすごく大人物に育ったり、あるいは非行に走ってしまったりというのも、まあ全部が全部ではないのは当然として、ある程度そういう子供の頃の環境に依存するのだろうなと思うわけです。
しかしこういう小さな単位での環境というのは、比較しようと思えば出来なくもない、という点があります。実際他人の人生を経験することは出来ないわけですけど、人の話を聞いている中でふとしたことから違いを知るようなことは結構あります。それぞれの家庭では普通にやっているけど、全然一般的ではないこととか普通にあったりします。僕なんかの場合、母親が納豆に砂糖を入れて食べていたので、僕も真似してそうしていました。納豆に砂糖を入れるのがありえないということを知ったのは結構後になってからだったと思います。そういう、なるほどこれは普通じゃないんだ、というようなことを知るようなことが出来るし、その違いについて実感することも出来ます。
ただ、僕らが普段当たり前過ぎて気づいていない、もっと大きな環境というのがあるわけです。それが、国という単位ですね。
僕らは普段、自分が日本人である、なんてことを意識するようなことはありません。自分の名前を名乗ることで自分がどの家に属しているか、自分の出身大学はどこか、どんな派閥のグループにいるか、なんていうことは割と意識しているものだと思うのだけど、自分が日本人であるということはなかなか意識に上らないだろうと思います。
まあそれはそうで、何故なら僕らの周りには大抵外国人がいないからですね。日本という国は島国で云々、ということで、なかなか外国人を意識することはないし、比較対象がいないので日本人としての自分というものもなかなか意識することはありません。僕ももちろんそうで、日本人としての自分なんてことを考えることはほとんどないと思います。
だからこそなんでしょうけど、他の国の人々のことを聞くと、何だかすごいなぁ、と思ってしまうわけです。
僕が本作を読んでとにかく思ったことは、日本人というのはちんまりとしているなぁ、ということです。
本作ではさまざまなアジア人が出てくるんですけど、どこの国の人も、それぞれやり方に違いはあるものの、ものすごく行動力があります。あとでも書きますが、本作に出てくる新聞社の劉さんという女性は別格にしても、他のスタッフも皆、とにかくアグレッシブです。常に動いていないと死んでしまうマグロみたいに、いつでも飛び回っている印象があります。
日本人の場合、遊ぶことに掛けては行動力が抜群、という人はいるように思います。しかしそういう人でも、自分で何か仕事をやろう、みたいな独立心みたいなものはあんまりなかったりします。大抵の人は会社にいて、与えられた仕事をやるという感じです。
しかしアジア人は、とにかく思いついたら何でもやってみる、という感じのようです。別格の社長の劉さんの話をすると、まあそれまでにもいろいろやってきて、今度は新聞社でも立ち上げようと思った。でも知識も何もない。とりあえず広告でスタッフ募集というのを出した。すると、元全国紙の記者だったという人がやってきた。そこで劉さん、その元記者に、「新聞社のことは何も分からないので教えて下さい」と言ったそうだ。ちょっと日本人には真似できない発想である。
また、どの国の話か忘れたけど(台湾か韓国だったと思うのだけど)、こんな話もあった。
その国のある女性は、日本で日本人男性と結婚をした。しばらくして夫がリストラに遭うのだけど、さてそこから妻はすごかった。まずなけなしの貯金をはたいて新車を一台買ってきた。それで夫に、この車に乗って羽田空港で待ってろ、というのだ。つまり送迎のタクシーをやれ、というのだ。夫は初め無理だと言ったのだけど、妻はとにかく自分が営業するから大丈夫だ、と強気。結局その商売は大当たりし、今では二人で貿易会社をやっているとかなんとか。日本人の夫婦だったら、夫がリストラされたら離婚というような話になりそうだ。少なくとも、ここまでやるような女性がいるとは思えない。すごいものである。
まあそういうもろもろのアジア人の話を読んで、日本人はちんまりしているなぁ、と思ったものです。まあそれが悪いとは思わないけど、でもアジア人的に生きている方がなんとなく人生は楽しいような気もします。
というわけで、今日はすこぶる体調が優れないので、そろそろ内容に入ろうと思います。無茶苦茶面白い作品なのでもう少しあれこれ書きたかったのですが。
そういえば一つ書いておかなくてはいけない話があります。本作は、高野秀行の初の小説です。今まで辺境の話を書いたりワセダの三畳一間での生活を書いたりしていましたけど、本作はとりあえず小説なんだそうです。だから上で書いたいろんなことも、その小説のなかから抜き出した話、というわけです。
しかしこの小説、とても小説とは思えないような作りをしています。リアリティという言葉では不適当なのではないかと思うほど、本当にあった話であるという風にしか思えません。リアリティというのは、ある仮想があって、その仮想が現実に近いという錯覚を与えるという意味で、一旦対象を仮想だと認めているわけです。しかし本作は、読めば読むほど現実そのものにしか思えない感じです。読んでいるうちに何度も、そうだそうだ、これは小説だった、と確認したほどです。
なんでそんなことになるかと言えば、自伝仕立てであるという小説の作りと、高野秀行という作家の特殊性が絡んできます。
自伝仕立てというのはどういうことかといえば、主人公が<タカノ>、要するに著者自身であるということです。設定としても、時々外国にフラフラ行く、ワセダの三畳一間に住むライターで、まるっきり高野秀行そのものです。この自伝仕立てというのがまず一つ現実という錯覚を生み出します。
もう一つ、高野秀行という作家の特殊性ですが、この作家はとにかく普通ではありえないような経験を様々にして、その経験を今まで本にしてきました。だから、これは非常に逆説的なのですが、高野秀行の周りで起こることが異常であればあるほどそれがより<現実らしさ>を備えるということになるわけです。
本作はまさに異常な世界を描いた作品で、それは見事に高野秀行という人格そのものとマッチするわけです。こういうことを実際に高野秀行が経験していてもおかしくはないな、と思わせる話で、それがより<現実らしさ>を生み出しているのだと思います。だから高野秀行は、文章や構成ではなく(別にそれらが悪いと言っているわけではありません)、作家のキャラクターによって小説にリアリティを与えるという、かなり稀有な作家であると言えると思います。だから本作を読む際のオススメとしては、まず何でもいいから高野秀行の作品を一冊読んで、その後で本作を読むと非常にいいと思います。
まあそんな能書きを垂れたところで、内容を紹介しましょう。
主人公であるタカノはある日奇妙な電話を受けた。こんな内容である。
『エイリアンのレックですけど、原稿を書いてください』
意味不明である。まあしかし原稿なら書いてやろうと思って、どれぐらい書けばいいのかと聞いてみた。するとこんな返答。
『縦が24.5センチで横が17センチです』
何だそりゃ!こんな原稿依頼は初めてである。普通文字数とか原稿用紙の枚数とかで依頼するはずなのに、まさか記事の大きさで答えられるとは…。そんなわけでむくむくと湧きあがった興味に引きずられるように、タカノはその新聞社に関わるようになる。そう、<エイジアン>である。エイリアンではなかった。
初めはライターとして参加だったはずなのだが、<エイジアン>に関わってみてここはすごい、と思った。新聞を発行するのに会議がない。編集長もいない。5つも新聞を発行しているのに、ほとんど紙面を一人で作っているような人もいる。また出来上がった新聞を見てみると、原稿依頼の際の奇妙な分量の意味も分かった。実際何文字でもいいのだ。その記事の分量が少なければ文字を大きくする、多ければ文字を小さくするというとんでもないやり方で新聞が組まれていたのだ!なんなんだここは!
またスタッフも皆すごい。社長の劉さんはとにかくすごいが、他のスタッフもとんでもないのが揃っている。まさにカオスだ。
しばらくすると劉さんから、この新聞社の編集顧問をしてもらえないか、という話が出る。よっしゃいっちょ俺がこのとんでもない新聞社をなんとかしてあげようではないか、と意気込むタカノ氏だったが…。
というような話です。
ホント無茶苦茶面白い話でした。今年読んだ本のトップ10に入れてもいいと思うし、<笑える>という意味での面白さで言えば今年1位と言ってもいいような作品でした。ホントあまりにも無茶苦茶過ぎて唖然とするような作品です。
とにかく出てくる話が本当の話なのではないかと思わせる作品で、またその話の一個一個がべらぼうに面白いわけです。この面白さを僕の文章では伝えようがないのが残念ですが、とにかく何度でも繰り返しますけど、無茶苦茶面白いです。
キャラクターも本当に最高ですね。アジア人と言っても中国人韓国人台湾人タイ人中東系なんかもいて、まさに人種のるつぼみたいな会社です。その中で、それぞれの国民性みたいなものをちゃんと押さえつつ(まあ僕は別にそれぞれの国民性について詳しいわけではないのでそれぞれが正確なのかはわからないけど、少なくともちゃんと描き分けていたと思いました)、一方でキャラクターとしてもものすごく厚みをもった登場人物がざっくざっくと出てくる感じで、読んでて楽しい気分になりますね。特に社長の劉さんは本当に面白くて、国際電話の代金をただにするために電話会社を設立してしまうようなとんでもないような人です。すごいもんです。
ストーリーは、とにかくその<エイジアン>の中で起こるどたばたを描いていて、これマンガとかアニメとかにしたら面白そうかもとか思ったりしました。
というわけで、もう絶対的な自信を持ってオススメできる作品です。ちょっと面白すぎる感じもします。是非読んで欲しい作品ですね。高野秀行に嵌まりそうです。

高野秀行「アジア新聞屋台村」



戦闘妖精・雪風<改>(神林長平)

いやはや、今回はまあ前書きはなしで行きますけど、ダメでしたねこの作品。僕にはダメでした。メチャクチャ面白くなかったですね。
この作家の本を初めて読みましたけど、とにかく世間的にはものすごく人気のある作家で、その中でもこの作品は特に評判のいい作品のはずなんですけど、僕にはどこが面白いのかさっぱり分かりませんでした。この作品が好きだという人には非常に申し訳ないですけど。
さらに失礼なことを言えば、何かのマニュアルを読んでいるようなそんな作品でした。パソコンとか携帯電話とかのマニュアルです。意味の分からない専門用語がたくさん羅列されていて、読むのに苦労するという点では似ているような気がします。
まあそんなわけで、僕としては全然オススメ出来ない作品です。かなり流し読みをして大雑把なストーリーだけは追いかけましたが。結局よく分かりませんでした。雪風という超高機能な戦闘機で、ジャムという異星人と戦うという話です。世間的には評価の高い作品なので、興味のある人は読んでみてもいいと思いますけど…。

というわけで今日は時間があるのでちょっと違う話を。
そろそろ一年も終わりという感じですが、ここにきて僕にはちょっとした目標が出てきました。それは、このブログの感想の記事を今年中に1000個(『記事』を数える単位ってなんだろう?)まで持っていこう、という目標です。
それには、今年中にあと39冊読んで感想を書けばOKです。しかし残りの時間で39冊読むというのは、かなりギリギリです。達成できるかどうかはかなり微妙なところでしょう。でもまあなんとか頑張ってみます。
感想が1000個というのはなかなかすごいもので、ざっとした計算をしてみるとこうなります。1回の感想で平均4000字書いていると仮定して(平均するともうちょっと少ないとは思いますが、この方が計算に都合がいいので)、記事1000個では4000000文字(400万文字)になります。これは原稿用紙に換算すると1万枚になります。単行本1冊が大体原稿用紙500枚ぐらいだとすると、原稿用紙1万枚というのは単行本で20冊相当ということになります。
このブログを始めてたぶん3年とちょっとという感じだと思うので、その期間で単行本20冊相当の文章を書いたというのはなかなかのものではないかな、と思います。大体2、3ヶ月で1冊ペースという感じで。いや結構すごいなと思ったりします。
まあそんなわけで、当面の目標はこの記事を1000個達成というところに置いてみようと思います。さてどうなりますやら。

神林長平「戦闘妖精・雪風<改>」


配達あかずきん(大崎梢)

さて今回はちょっと趣向を変えて、内容紹介に合わせて本屋のことをあれこれだらだら書く、というスタイルにしてみようかなと思います。本作は5編の短編からなる連作短編集で、それぞれについて書店的にいろいろ書けそうなテーマになっているので。
全体の大まかな設定だけ先に書きましょう。駅ビルの6階にある成風堂書店。駅ビルらしく女性客の多い、100坪ほどの中型書店である。そこで働く社員の杏子とアルバイトの多絵が、日々降りかかる難問を見事解き明かす!という話です。

「パンダは囁く」
とあるお客さんからの問い合わせに杏子は困惑することになる。これまでの様々に難解な問い合わせを受けてきたが、これは最高峰と言ってもいいかもしれない。
それは、病気で家から出られない老人に頼まれたというとある男性からの依頼だった。何を言っているのか聞き取りづらく、それでもなんとか聞き書きしたというその内容は、まさに意味不明としかいいようのないものだった。

『あのじゅうさにーち いいよんさんわん ああさぶろうに』

???なんのことかさっぱりである。これで三冊の本を著しているらしい。また出版社は分からないのかと聞くと、『パンダ』と答えたと言う。パンダか…。パンダといえばあれしか思いつかないが…。
そんなわけで多絵に相談をしてみる。彼女は分かったようだが、何故かお客さんが探しているわけではないらしい本を男性に渡している。一体どういうことだ?

本屋というのは本当に、様々な問い合わせが持ち込まれてくる場所です。他の普通の小売店ではここまでの問い合わせは恐らくないでしょう。本というのは種類が膨大で、しかも大抵のお客さんは何故か情報が曖昧なままでやってきます。著者や出版社が分からないというのは別にそこまで困りませんが、タイトルが分からないとなるとかなり厳しいです。時には、『表紙が青色で、これぐらい(と言って指を広げる)の厚さの本だったんだけど』とか、『どこかの新聞の広告に載ってたんだけど、なんの新聞か忘れちゃった』とか、『電車の中吊り広告にあって、タイトルをちゃんと見てこなかったんだけど』みたいな問い合わせもあって、いやホント、それだけの情報だとちょっとこっちも厳しいっす!と言いたくなるようなものが多いです。
僕が割と覚えているのは「震災マップ」みたいな本が立て続けに出始めた頃の話です。震災マップというのは地震が起きた時に、どういう道を歩いていけば安全かというのが詳しく載っているような本で、一時期雨後の筍のように次々と出てきました。そのまさに出始めの頃、まだそこまで話題になっていなかった(はずの)頃、ある一人の初老の男性が、『今話題の、ほら地震のやつ』というような聞き方で問い合わせをしてきました。ホントに、その本の話題が僕の耳に届く前のことで、お客さんが何を言っているんだかぜんぜんわかりませんでした。結局そのお客さんは、『何でそんなことも分からないんだ!』と言って怒って帰って行ってしまったのだけど、しばらくしてその震災マップの話題がようやく僕の耳に届き、なるほどこのことだったのか、と思いました。なるべく情報を収集しようとしているつもりではありますが、それでも話題になっている本すべてを網羅することは難しいものです。
また困るのは、例えば『大人の塗り絵はどこですか?』と言うような問い合わせです。こういう場合お客さんは大抵、特定の欲しいものが決まっているわけではなく、そういう系の本であればいいという感じなのですが、時折ある特定のものが欲しいという方がいます。そうなると調べるのが大変です。どれもタイトルは似たようなものだし、お客さんは大抵出版社とかを覚えていません。パソコンで検索して画像を見てもらうしかないという感じになって、なかなか大変になります。
また、お客さんの記憶違いというのも本当によくあります。最近あった話だと、『ネオっていう雑誌ありませんか?』と聞かれたのだけど実際は『MOE(モエ)』だったり、あるいは『デナイトクラブっていう雑誌ありませんか?』と聞かれたのだけど実際は『Daytona Club(デイトナクラブ)』だったりします。タイトルの一部を覚え間違えているようなケースも結構あって、これはこれで探すのが結構大変だったりします。お客さんのいい間違いではなく、スタッフの聞き間違いというケースもあるので侮れません。
ここに書いてもたぶん仕方ないとは思いますが、皆様本屋に本を訪ねに行く際は、少なくともタイトルだけは正確に、出版社や著者名もわかっていると助かります。曖昧な情報でも、とりあえず本屋さんで聞けばわかるだろう、という発想はなるべく控えていただければなぁ、と思ったりします。まあそれでも、聞かれれば頑張って探しますけどね。

「標野にて 君が袖振る」
お店に一人のお客さんがやってきました。その女性は始めてみる方だったのですが、その方の母親がよく当店に来てくれていました。ほとんど常連さんと言ってもいいくらいの方です。
その女性の話によれば、どうやらその母親がいなくなってしまった、とのことでした。いなくなる前にその女性は、『いつもの本屋さんで面白い本を見つけたわ。その中にとっても重大なことが書いてあったの』と告げられたそうです。それで、恐らく買ったのはここだろうと見当をつけて来店されたのでした。
しかしその女性が持ってきたレシートを見て杏子は驚きました。なんとその母親が買っていったのは「あさきゆめみし」というコミックだったのです。コミックなんて買うような方ではないので何かあるとは思うのだけど…。

この話のように、母親がいなくなってしまうなんていうような話が持ち込まれたことはありませんが、レシートを持って本屋にやってくる人というのは結構います。
その一番多いパターンは、交換や返品です。この交換や返品について一般的に書店でどうなっているのかよく分かりませんが、僕のいる店では、交換は状況にもよるけど基本的には可(この状況にもよるというのがいろいろ難しいのだけど)、返金については基本不可だけどこちらも状況による、というまあなんとも言えない感じです。
もちろん、ページが破れているとかページが抜けているとか、あるいは汚れていた折れている、というようなケースであれば、店内に同じものがあれば交換、同じものがなかったりした場合というのは返金になります。付録がついていなかったとかCD-ROMが再生できなかったなどいろんなケースがありますが、基本的に本自体に不具合があれば書店は普通に対応するだろうと思います。
ただ問題は、お客様の都合で交換・返金になるような場合です。家に帰ってみたら家族が同じ本を買ってくれていた、頼まれたのだけど間違ったものを買ってしまった、発売日を勘違いして前の号を買ってしまった、などなどとにかく様々なケースがあって、時には判断に迷うケースもあります。本の場合、基本的にどこまでがOKのラインなのかというのが見極めずらい部分があるからなおさらです。普通の売り物であれば、開封した時点でアウトとなるでしょうが、本の場合その開封というような状態が特にありません。ならどこを基準にするのかというのは結構難しいのではないでしょうか。
またレシートを持ってくるケースでもう一つあったのが、会社の経営者の方がある領収書を持ってきて、この明細を知りたい、とやってきたことです。いつも思うんですけど、なんで領収書には明細が載らないんでしょうね。不思議です。

「配達あかずきん」
成風堂書店では配達も行っているのだけど、その配達先の一つでとんでもないことが起きたようだ。
それは美容院でのことなのだけど、ある常連の女性客が、いつものようにお目当ての雑誌を開きながら待っていると、そのページの間から自分の盗撮写真が出てきたわけです。その女性客は怒りに怒って大問題となり、お店自体がかなり窮地に立たされているとのことです。杏子は、自分の店が配達をした雑誌でトラブルが起こってしまい、気に病んでいます。
その雑誌を配達したバイトの女性が何か鍵を握っているようなのだけど、しかし一体どういう経緯でこんなことになったのだろうか…。

配達というのは僕のいる店ではやっていないですけど、これは大変だろうな、と思います。
時々お客さんには聞かれますね。ある雑誌を毎号定期購読することにしようとしている方が、『これってウチまで届けてくれるの?』というようなことをたまに聞きます。当店ではそうしたサービスはやってないんです、と説明するのですが、それについて僕には一つ疑問があるわけです。
よく雑誌なんかに、今度こんな本が出ますよ!という広告があって、そこに予約票みたいなものが一緒になっているケースがあります。また、『週刊マイロボット』みたいな毎週出てちょっとずつ集めていくような雑誌の場合も、定期購読を申し込むような予約票みたいなものがついていることがあります。お客さんはそれに必要事項を記入して書店に持ってきてくれるのですけど、その予約票の項目の中に『住所』というのがあるんですね。
僕は客注も多少関わりがあるのですが、この予約票というのは基本的にそこまで必要なものではないのですね。お客様としたら、この予約票がないと注文できないのかもしれない、と思っているのかもしれないけど(っていうかそう思うのは当然の気もするけど)、実はそんなに必要なものではありません。それはいいんですけど、でも何で項目として『住所』が入っているのかというのが僕としては解せないですね。もちろん配達を請け負っている書店もあるでしょうが、しかしそれはそれとして各店が対応すればいい話で、その予約票に住所を書く欄があれば、家まで送ってくれるのではないか、と少し思ってしまうような気がするのだけど。
まあ幸いそれに関するトラブルというのは特に起きてないけど、まあちょっとした疑問として不思議に思っていました。

「六冊目のメッセージ」
あるお客さんがお店にやってきました。その女性は長いこと入院をしていたようで、その間母親がこの本屋で本を買い病室に持ってきてくれた、とのことでした。母はここの本屋の方に、どんな本を持っていったらいいのか相談をしたようで、退院した今その方に是非お礼を言いたいとのことでした。
しかし、その女性が読んだという5冊の本のタイトルを聞くや、杏子は顔をしかめます。その5冊は様々なジャンルに渡って幅広く散っており、店内のスタッフにそこまでのジャンルをカバー出来る人材がいるとは思えません。男性スタッフだったとのことで店内の男性スタッフに聞いてみたのだけど、誰も心あたりのある人はいません。一体誰がこの5冊の本をオススメしたのだろう…。

『何か面白い本はありませんか?』という問い合わせは、そこまで多くないですけど時々あります。その度に僕は、人に本を勧めるのが得意ではないなぁ、と落ち込みます。
僕は本だけは山のように読んでいる、かなりの読書家と言ってもいい人間ですが、しかし読んだ本をすぐ忘れてしまいます。読んだ内容も、そもそも何を読んだのかということもです。だから、何か人に本を勧めるような場合にすごく困ります。まず自分がなんの本を読んだのかというところから思い出さないといけません。
また短い時間で相手の好みを探り出すというのもかなり至難の業です。『何か面白い本はないか?』と聞いてくる方は、大抵そこまで本を読んでいないと思われる方が多いです。だからどういう本が好きですか、という質問をしても明確な答えが返ってくるわけではありません。かといって好きな映画とかコミックとかを聞こうとしても、今度はこっちにその知識がありません。難しいものです。だから無難に、どんな人にでも受け入れられそうな、伊坂幸太郎とか宮部みゆきとか東野圭吾とか横山秀夫とか、そういう無難な作品をオススメすることになってしまいます。なんかそういう時、やっぱ違うよなぁ、と思うんですけど、でも冒険して相手が面白くないと思っても困るし、とかいろいろ考えてしまいます。本当は舞城王太郎とか森博嗣とか勧めたいんですけどね。
前に、『ものすごく怖いホラーはないですか?』って聞かれて結構困りました。ホラーはあんまり読んでないので、貴志祐介とか山田悠介とかそういうありきたりなものを勧めた挙句、自分が読んでいないJ・ケッチャムの「隣の家の少女」という本を勧めてみたところ、その本を注文していきました。未だに取りに来てくれていませんが…。問い合わせを受けた時酔っ払ってる感じがしたからなぁ。
また以前には、『試験に出そうな小説を探しているんだけど』というこれまた難易度の高い問い合わせがありました。さすがに分からなかったので、文豪と呼ばれている作家の作品をあれこれ言ってお茶を濁しましたけど。
『最近のミステリでオススメを』という問い合わせもつい最近あって、でもやっぱりパッとはオススメ出来なかったですね。そういう人は大抵文庫で探しているんですけど、僕はほとんど本をハードカバーで読んでしまうから、という理由もあったりしますけど。

「ディスプレイ・リプレイ」
出版社から送られてくる封筒の中身を整理していると、その中から「ディスプレイ・コンクール」の案内状を見つけました。たまたまレジに入っていたバイトの子が興味ありげだったので、『トロピカル』というコミックのディスプレイを完全に任せて見ることにしました。
すると、友人の助けも借りて素晴らしく見事なものが出来上がりました。早速写真に撮りこれで落着。売上にもさっそく反映しているようで、担当者としても満足です。
しかし翌日、朝出勤してみると、そのコミックのコーナーが真っ黒なスプレーでグチャグチャにされていました。酷い!誰がこんなことをやったのか、多絵と一緒に考えることになったのだけど…。

書店には、出版社が企画する「ディスプレイ・コンクール」なるものがあります。近くの書店でやっているところを見たことがあるかもしれませんが、とにかくとんでもなく凝りまくった装飾をした売り場を作り、それを写真にとって応募するというものです。優秀賞なんかを取ったディスプレイなんか見てると、ホントすごいもんだ、と思ったりします。そもそも僕にはそんな才能はないし、もしあったとしてもそれに割ける時間はないなぁ、とか考えてしまいますが。
もう一つ書店員が生み出すものと言えばPOPがあります。このPOPについても、本が取りづらいとか本を傷めるとかいろんな意見があって、お客様の立場からすればどういう風に見えているものなのかイマイチ把握しづらいですが、書店員や出版社の側からすればすごく大事なものだと言う認識があります。
とにかくPOPをつけるかつけないかで全然売れ行きが変わってくるわけです。出版社から送られてくるPOPやパネルをつけるだけでとんでもなく売れたりすると、なんだかなぁ、という気分にはなりますが。
逆に自分がPOPをつけた本が売れたりすると嬉しいですよね。最近では、「チーム・バチスタの栄光」という本が文庫になったので、『この本を読まないのは犯罪です』っていうPOPをつけてみました。
ただ問題は、僕自身POPを描くセンスがないということです。だからいつも、文章だけ考えてバイトの女の子に書いてもらうか、あるいはパソコンで作るという感じになっています。手早くちゃちゃっとPOPを描くセンスがあればいいなぁといつも思うんですけど、もう僕は自分のセンスには見切りをつけました。ホント、POPを自分の手で書ける人は羨ましいといつも思います。

まあそんなわけで、こんな感じで内容紹介と書店の話を書いてみました。本書の巻末には書店員の対談も収録されていて面白いです。定期購読をやっていない本屋があるんだなぁ、とびっくりしたりしました。まあ確かにとんでもなく大きな本屋だと、定期購読に対応している余裕はないのかもしれないですけどね。
この作品はかなり面白かったです。僕が書店員だからという点を差っぴいても充分面白いと言える作品です。
まず本屋の仕事がすごく忠実に描かれている感じがしました。この作家は元書店員だったようで当然と言えば当然かもしれませんが、しかし本屋の仕事をここまでミステリと密接に結びつけた作品は過去になかったのではないかという気がします。どの話も、なるほど本当に本屋で起こってもおかしくないかもしれないなぁ、というようなリアリティがあり(「配達あかずきん」みたいな話はさすがにないでしょうけど)、巧いなと思いました。
ストーリーとして一番圧巻なのは、巻末の対談でも触れられているように「配達あかずきん」ですね。これはミステリとしてもなかなかの出来だと思います。誰がどうやって盗撮写真を仕込んだのか、という謎もありますが、また別の謎も絡んできて、なかなか巧い具合に進んでいきます。それに、配達をしているバイトの女の子がなかなかいい感じのキャラです。
また「パンダは囁く」もかなり面白いと思いました。これは書店員でも謎解きはかなり無理だろうと思うぐらいハードルの高い謎解きですけど、でも最終的な落しどころにはびっくりしました。まさかそんな展開になるとは!という感じです。ホントに自分のいる本屋でこんなことがあっても、恐らくそこまで辿り着けないでしょうねぇ。
また「六冊目のメッセージ」もかなり好きです。自分が気に入った5冊の本を一体誰が選んでくれたのか…、というだけの話ですけど、書店員的にもなるほどという感じの結末だし、それに終わり方がなかなか素敵な感じの話でした。
というわけで、かなりオススメ出来る作品です。書店員はもちろん楽しめるでしょうけど、書店員じゃなくてももちろん楽しめる作品です!これを読んで、本屋も大変なんだ、と分かってくれると多少助かるなぁ、なんて思ったりして。是非読んでみてください。

大崎梢「配達あかずきん」



君たちに明日はない(垣根涼介)

僕は本当にサラリーマンというのは無理なのだ…。
という話がピッタリの作品ではあるのだけど、ここのところこんな話ばっかり書いているような気もしないでもない。なのでちょっと違うこと、会社とか働くということについて書いてみようかなとか思います。
何故働くのか、という質問にどう答えるかというのは人それぞれかなり違うだろうなと思います。やりたいことをやるため、結婚相手を見つけるため、お金のため、権力を得るため、自己実現のため…、とまあいろいろ答え方はあるのだろうと思います。
僕としては、まあ最低限生きていくため、というような答えになるでしょうか。最低限の生活を自分に保障するために、働いて賃金を得る。とはいうものの、何度も書いたことはありますが、僕は自分の意に添わない仕事というのはどうしても出来ない人間で、だからこそサラリーマンという生き方は出来ないのですけど、まあそれはそれとして。出来ればやりがいのある仕事が出来たらいい、という風には思っています。
僕の友人には、仕事というのはお金を得るためにやるもので、だから仕事の内容なんかは何でも構わない、というやつがいます。まあそれも一つの考え方です。
もちろんそれぞれが働くことに対する理由を持っていればいいわけですけど、僕の中でちょっと納得のいかないことがあります。
それは、働くことがイコール社会の中での立ち位置を決める、という点です。
「働かざるもの食うべからず」という言葉が昔からあって、これには納得出来るんです。つまり、働くということが生活することと直結しているわけです。働かないものは、その家族の中での評価が下がり、結果食べることを許されない。まあ分かりやすい構造だと僕は思います。
しかし現代は、「働かざるもの人にあらず」という感じではないでしょうか。つまり、ある一定以上の年齢に達すれば社会に出てちゃんとまっとうな仕事をするべきだ、という風潮があります。まあ最近の話ではなく昔からそうだったのでしょうが。
僕としてはこれにはあまり納得がいかないのですね。働くことが社会的な評価と直結するというのは、どうも理不尽な気がします。
もちろん、働きもしないで親のすねばかりかじって生活していく、なんていうのは僕もダメだと思いますよ。でも例えばですよ、宝くじで1等を当てて莫大なお金を手にした人がいたとしましょう。もう働かなくてもいいやと思って会社を辞めたとしましょう。それでも、現在の社会はそうした人を一段下に見るような気が僕にはするのです。
僕の意見では、あくまでも働くというのは個人的なことではないか、と思うわけです。やりたいことをやるため、生活をするため、自分を成長させるため。なんでも構いません。しかし仕事をする第一の目的というのは、自分に還元される何かのためであるべきだ、と僕は思うわけです。働く中で、会社のためであるとか社会のためと言うような意識が出てくるのは構わないとは思うけど、しかし常に自分の目的というのが最優先されるべきではないか、と思ってしまいます。青臭い意見でしょうか。
今の社会では、働かないことが悪であるというレッテルを貼られるような感じがあります。僕は働かないと生活が出来ないので働きますが、しかし働かなくても生活が出来る人、働くことに特別意味を見出すことが出来ない人にまで働くということを強要することはないのではないか、と僕には思えるわけです。働くというのは、個人の多数にある選択の一つに過ぎないはずです。しかし、社会というのは無言でそれを要求してきます。社会に出て働かなくては一人前の人間とは認めないし、評価もしないわけです。それは一体何でなんだろうな、と僕には思えるわけです。
もちろん、仕事での評価によって社会的な評価が上がるということについては別に問題はありません。仕事をするということでプラスになるわけで、それはそれでいいです。しかし、何故仕事をしないことが即マイナスになるのか。やっぱり僕はおかしなことを言っているでしょうか?
さてちょっと違う話をしましょう。今度は会社という組織の話です。
僕はサラリーマンは無理だ、という話をよくしますが、その理由の一つには、働くということがほとんどイコールで組織に属するということであるから、というのがあります。
僕はとにかく組織というのがダメな人間で、学生時代も結構苦労したと思います。クラスとか学年とかっていう単位でまとまらないといけない場面が結構あるのだけど、そういうのは苦手でしたね。苦手でも表面上はそれなりにそつなくこなすんですけど、内心はかなり緊張しているというようなことがほとんどだったと思います。
才能があれば個人で仕事をすることも出来るし、また仕事の種類によっては一人で出来るようなものもあるのだろうけど、しかし働くということはほぼイコール組織に属することを指します。僕が組織を苦手に思う最大の理由は、組織というのはどうしても膠着してしまう、という点にあります。
どんな組織でもそうでしょうが、組織というのはしばらくすると、その組織自身が『人格』とでも呼ぶべきものを持つようになってきます。伝統や雰囲気や慣習や、まあ呼び方はなんでもいいのだけど、その組織のあり方というのが段々と固まってくるわけです。その組織に属する限り、その『人格』の構成要素の一つにならなくてはいけないわけです。僕にはそういうのがダメで、自分を一つの部品のようにどこかに嵌め込むというのがすごく苦手です。組織が何を求めているかも分かるし、自分がどう振舞えばいいのかも分かるのだけど、しかしどうしてもそれに反発したくなってしまう。どうしてもそういう自分を抑えることが出来ないのですね。
また、組織の中で仕事をするということは即ち、全体の仕事のある一行程を担当する、ということでもあります。僕はそれにあまり面白みを感じることが出来ません。どうせやるなら、初めから最後まで自分が手掛けたい、と思うような人間です。まあ、自分の能力的にもそれは出来ないんですけど、でも組織で働くということは初めからその機会を奪われるということでもあって、だからどうもなと思えてしまいます。
そういう意味では本屋の仕事というのは面白いですね。僕は文庫と新書の担当ですが、基本的にこの二つに関しては売り場をどうするのかについてほぼ自分に権限があります。最初から最後まで面倒を見れるという意味で、やっぱり面白いなと思ったりします。
ただ、やはり組織という面で見ると様々なところに不満を感じてしまいます。まあそれは書きませんけど。
正直に言って僕は、働くということにそこまで強い動機がありません。例えば何らかの理由により、誰かが僕の最低限の生活を一生保障してくれるとしましょう。そしたら僕は、じゃあ働かなくてもいいかな、とか思ったりするでしょう。生活さえ保障されていれば、社会的な評価とか自分を成長させるとか、まあそういうことにはあんまり興味がないですね。まあ本屋の仕事ならやってもいいかな、と思ったりしますけど。
今でも僕はすごいなと思うのだけど、世の中には山ほどサラリーマンがいて、満員電車に文句をいいながら、それぞれの組織へと散っていき、全体の一部でしかない仕事をこなしながら日々を過ごしているわけです。これはすごいな、と僕は思います。そして、やっぱり僕には無理だろうな、と改めて思うわけです。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、長編として捉えるべき作品だと思うけど、連作短編集という形で捉えた方が内容紹介がしやすいのでそうします。
全体の大きな設定だけ先に書きます。村上真介は「日本ヒューマンリアクト」という会社に勤める男である。この会社、何をするかと言えば、リストラ請負会社なのである。様々な会社から注文を取ってきて、内部ではなかなか進めることの出来ないリストラ策をアウトソーシングという形で手助けする、というまあそんな会社です。
そんな会社で様々な人間の首を切る役割を担っている村上。数多くの人間と面接を繰り返し、様々な人間に出会うことで、働くということや人生そのものについて考える、というような話です。

「怒り狂う女」
「森松ハウス」という建材会社が今回の依頼会社である。あくどいやり方で仕事をしてきた男を自主退職に持っていき、そして次はこの芹沢陽子である。写真を見る限り、自分の好みの女性だ。さてどうなるか。
面接をして見て余計に思う。いい、この女。しかし仕事は仕事。ちゃんとやらないと。
陽子は自分がリストラ対象であるということを知り悲しくなると同時に意固地になる。今手掛けているプロジェクトをやりきるまで絶対に辞めない。でも、あの面接以来自分にはなんの話もこない。クビならクビで早く言って欲しい。上司に聞くのも嫌だから…、あの面接の時の村上って男にちょっと連絡を取ってみようか…。

「オモチャの男」
こんかいは「バカラ」というオモチャメーカーだ。涙ながらに現状を訴えた女性の面接を終え、さて次は緒方紀夫という男だ。研究職らしい。さてどうなるか。
…。とんでもなかった。まさかこんな男がいるとは。現状をまるで認識していないし、喋り方もアホっぽい。そうかと思えば自分がリストラ対象であることを知るや構わず泣く。なんだこいつは。今日はどうしても外せない大事な用事があるっていうのに、こんな男にこれ以上構ってられない…。

「旧友」
今回は「ひかり銀行」という都銀である。自分に振られたリストラ対象者のリストを見て驚いた。知った名前がある。誰だったか思い出してみると、そうだ、高校時代の同級生だった男だ。なんという偶然。しかし仕事は仕事、やらないわけにはいかない。
村上は高校時代の別の友人に会い、旧友の名前は出さずに相談を持ちかけた。こいつは今後、銀行内で浮き上がる可能性はあるだろうか…。

「八方ふさがりの女」
今回の仕事は名古屋へ出張だ。コンパニオン派遣会社「T・スタッフ」が依頼会社だ。この会社は元々、「トヨハツ会社」の広報部を独立させた会社であったが、事情により規模を縮小せざるおえなくなった。
そこで面接をした飯塚日出子という女性。コンパニオンの中では並の顔立ちであるのだが、どうも気になる女性だ。おまけに面接でも気の強さを発揮する。なかなかいい。
日出子はなんとしても会社を辞めるつもりはなかった。付き合っている男にも相談したが、どうも頼りない。実家の「みそカツ屋」のこともある。何だか考えることが多すぎる…。

「去り行く者」
社長がどうにも妙な仕事を取ってきた。社長の友人で音楽事務所を経営している人からの依頼だそうだ。何でも、これまで一緒に会社を大きくしてきた仲間の内、どうしても一方を切らなくてはいけなくなったのだが、事情があって自分では決断できない。こちら側が決めた人間を切るから面接をしてくれないか、ということだった。なんとも奇妙な話だったが、その話を村上が担当することになった。あまりにも好対照な二人の内、一体どちらを残すべきか…。

というような話です。
内容紹介を書いていて思いましたけど、やっぱり連作短編集として内容を書くのは無理があったような気もします。というのも本作の半分を占めるある要素を完全に書いてないからです。
それは、村上と陽子の恋愛の話です。
「怒り狂う女」で出てくる芹沢陽子と村上は、結局付き合うことになるわけです。その恋愛の話が作中の、まあ半分とは言わないまでも3分の1ぐらいは占めていると思います。どうもその部分を内容紹介では書ききれなかったですね。
読んでいると、やっぱサラリーマンって大変だよな、とか思ってしまいます。
今世の中がどのぐらい不景気なのか僕にはわかりませんけど、でもやっぱり厳しいことは厳しいんでしょう。実際にリストラをするような会社もたくさんあるのでしょう。今のデータは知りませんけど、ちょっと前に知ったデータでは、年間でサラリーマンの自殺者が3万人を超えるみたいな話もあったりします。そのすべてがリストラではないにしても、リストラが原因というのもかなり多いのではないか、と思います。
組織の怖いところにはこういう面もあります。リストラをされることではなく、組織の中にいれば安泰だという幻想を見せるという部分です。日本はまだ終身雇用制がギリギリ保たれている気がしますが、そういう部分もその安泰を助長する要素になります。
人は安泰を感じると将来に対して投資をします。ローンを組んで家を買ったり、あるいは結婚したりと言ったようなことです。まあ結婚が投資というのはおかしいかもですけど、少なくとも安泰しないと結婚に踏み切れないというのは事実でしょう。
しかしリストラというのは、その途中で登っている階段を外してしまうわけです。年を取ってくると守らなくてはいけないものがたくさん出てくるわけです。それを守るためには会社にしがみつかなくてはいけないのに、でも会社はあの手この手で放り出そうとする。なんかそういう部分の悲哀みたいなものが巧く出ていると思いました。
だからと言って全体的に物悲しい話なのかと言うと全然そんなことはありません。いっそ陽気と言ってしまってもいいような雰囲気を感じます。それは、村上信介が仕事と割り切ってリストラをやっているという面もあるし、また陽子との恋愛の話がところどころに入ってくるからという面もあると思います。
リストラという人生の中でもトップクラスのピンチを突きつけられた人々の反応は様々です。そんな様々な人間の生き様を巧く切り取っている作品だと思います。
しかし実際こんなリストラ請負会社みたいなのがあったら、会社としては便利だろうけど、サラリーマンとしてはたまらないだろうなと思います。本当にこういう会社が出てきたりするかもしれませんけどね。あるいはもう実際にあったりとかするかもしれませんが。ますますサラリーマンと言うのは大変になっていくのでしょうね。皆さん頑張ってください。まあ僕も頑張れよ、って話ですけどね。
サラリーマン、しかもリストラの対象になりそうな年代の人が読んだら結構身につまされる話かもしれません。そういう意味では荻原浩の「明日の記憶」にちょっと近い雰囲気を感じます。決してサラリーマンの元気を与える作品ではないと思いますが、読んだら読んだで何か得られるものがあるんじゃないかな、とか思ったりします。まあそんな難しいことを考えなくても普通に楽しめる作品です。読んでみてください。

追記:
amazonの評価に、こういう作品を書かせたら奥田英朗が日本で一番巧い、とあった。それは確かに、と思った。奥田英朗が本書と同じようなテーマで小説を書いたら、間違いなく本書より面白くなるだろうなぁ、と思ってしまいました。

垣根涼介「君たちに明日はない」


ブラックペアン1988(海堂尊)

プロフェッショナルというのは諸刃の剣でもある。
本人にとってではない。組織にとってである。
プロフェッショナルという人種はそもそも単独であり続けるべき存在であると僕は思っている。組織には馴染まない存在だ。しかしそれでも、そもそも組織の中でなくては存在し得ないプロフェッショナルというのも存在する。そこに矛盾が生じる。
例えば、まあ僕は全然詳しくないのだけど、アメリカのNBAの話をしよう。昔シカゴブルズというチームにマイケルジョーダンという天才がいた。バスケットボールに全然興味のない僕でさえその名前を知っているようなスーパースターだ。フリースローラインからダンクシュートする映像を見たことがあると思うのだけど、あれはまさに化け物だと思った。同じ人間とは思えない。まさにプロフェッショナル中のプロフェッショナルである。
バスケットボールというのはチームスポーツなので、当然マイケルジョーダンもどこかのチームに所属しないわけにはいかない。シカゴブルズはマイケルジョーダンが入ってくるまでは万年下位に甘んじていたチームだったようだ。それがジョーダンの加入と共に毎年優勝するような無茶苦茶強いチームになった。
しかしそれは、組織が強くなったということを意味しない。ただ、マイケルジョーダンという天才がいた、というだけの話に過ぎない。
事実、マイケルジョーダンがいなくなった後は、シカゴブルズというチームはまた下位に甘んじるチームに逆戻りしたのだそうだ。ジョーダンあってのシカゴブルズだった、というわけである。
確かにマイケルジョーダンという存在は、シカゴブルズという組織を何度も優勝へと導いた。その功績は素晴らしいものがあるだろう。もちろん彼のプレーを支えたチームメイトというのもいたのだろうが、しかし功績のほとんどはマイケルジョーダンに与えられてもいいだろうと思う。
しかし、組織の中に図抜けたプロフェッショナルがいるという状況は、組織全体にとってはあまり功を成さないように思う。マイケルジョーダンが加入したことで、組織としてシカゴブルズというチームが強くなったというのならいい。マイケルジョーダンのプレースタイルや戦略なんかをチームメイトが受け継ぎ、それを元に、ジョーダンがいなくなってもレベルのそこまで落ちないプレーが出来るというのなら問題ない。
しかし実際はそうはならなかった。ジョーダンがいなくなると共にシカゴブルズは衰退した。即ち、ジョーダンという存在が組織そのものを強化したわけではない、ということである。
日本では野球の巨人などがいい例ではないかと思う。まあ野球のこともよく知らないのだけど、あのチームは金で一流の選手をガンガン集めてチームを作っている。まさにプロフェッショナルの巣窟と言ってもいいようなチームである。
しかし巨人というチームが強いかというとそうでもない。何故なら、プロフェッショナルというのは組織と相性が悪いものだからだ。プロフェッショナルを集めたところで、チームが強くなるというわけでもない。
プロフェッショナルと組織について、本作ではなかなか難しい問題が提示される。
ある、外科的に難しい手術(これをA手術と呼ぶことにしよよう)がある。これは、かなり熟練の手技を必要とする手術であり、ベテランと呼ばれる医者にしか出来ない類の手術であるとされてきた。本作で登場する佐伯総合外科教室でも、そのA手術を実際にやったことがあるのは過去10年間でたった5人という数字である。
そこに、ある器械(これをB器械と呼ぶことにしよう)を導入しようとする高階という男が登場する。このB器械は比較的操作が容易く、中堅どころの外科医であれば使いこなせるだけのものである。高階は、A手術がプロフェッショナルにしか手術不可能であるという現状はおかしいと思っている。限定された術医にしか出来ないということは、それだけ患者の側に制限が掛かることになる。このB器械を使えば、並の医者でもその難しいと言われているA手術をこなすことが出来る。それでこそ本当の医療と呼ぶべきではないか、と考えている。高階はこのB器械を日本中の病院に広めようという目論みを持っているのである。
これに対し、佐伯という総合外科教室の教授はこのB器械をあまり歓迎していない。このB器械は、手術が容易である反面、多少ではあるが患者に負担(B器械を挿入するために傷つけなくていい部分までメスを入れなくてはいけない)を強いるのだ。患者に負担を強いるくらいなら、技術を磨き技術で以って患者と向き合うべきではないか、と考えている。
さて、この二人の意見をどう思うだろうか。まさにこの点が、プロフェッショナルと組織との難しい矛盾の本質であるように僕には思えるのだ。
つまり組織にとって、プロフェッショナルというのは看板になるし、何よりも実績を生み出してくれるので都合がいい。しかし、プロフェッショナルにしか出来ない事柄が増えていけば、必然的に選択肢は制限され、権力は集中していくことになる。その格差をもし器械によって是正することが出来るのであれば、ならばその是正を容認するべきだろうか。
今の社会というのは基本的にそういう発想によって成り立っている。大量生産の仕組みを生み出して職人を追い出し、マニュアルによる接客を生み出して接客を平板化してしまう。どんどんプロフェッショナルがいなくなり、誰にでも出来るレベルにまでやるべきことが噛み砕かれていく。それが正しいのかどうなのか、僕には判断が出来ない。難しい問題だ。
手術を技術によって行うべきだという意見と器械によって単純化するべきだという意見。この二つの対立は、作中で決着がつく。その結論はここには書かないけど、なるほど、確かにそう言われてみればそれは正しい、と僕は思った。
誰もが小さな領域でいいからプロフェッショナルであるべきだ、と僕は思う。しかし同時に、誰にでも平等に機会が与えられるべきだとも思う。この二つの意見は平行線を保ち、交わることは決してない。どちらが正しいのかは、一般論の中では決断できないだろう。ここのケースで判断していくしかない。
プロフェッショナルはどんどんと減り続けていると僕は思う。それは、プロフェッショナルが生き難い世の中になった、ということでもあるのだろう。あるいは、時代がもうプロフェショナルを求めていないということなのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「チーム・バチスタの栄光」から続く、東城大学医学部を舞台にしたシリーズになります。ただし、時代は遡り、昭和と平成の境目である1988年です。
東城大学医学部の佐伯総合外科教室の医局員1年目である世良雅志は、医師国家試験の合格発表を間近に控えている、未だ医者としての身分ももらっていないような男である。そんな末端ではあるが、医局員としての仕事は降りかかってくる。毎朝の採血なんかはかなりきついが、まあ頑張るしかない。早速手洗いとして手術に立ち会うと言ったこともやる。忙しい毎日だ。
ある日世良は、部屋で手術着のまま横になっている男を発見する。見たことのない顔だ。よく分からないままその男のペースに巻き込まれてしまう。カンファレンスにその男と遅刻して行く羽目になった。
そこで男の素性が明らかになる。官僚養成大学と呼ばれる帝華大学から着たという高階である。東城大学には講師という形でやってきたようだ。佐伯教室に配属らしく、しかもどうやら佐伯教授とはあまりかみ合わせがよくないらしい。なんだか嫌な予感がする。
その高階は、「スナイプAZ1988」という秘密兵器を携えてやってきた。それは、『食道癌における下部食道切除術』という、なかなかに高度な術式の手術を容易にする秘密兵器なのだそうだ。ならばお手並み拝見と、佐伯教授は高階講師に早速手術を命じる。
技術を重んじる佐伯教授と器械の導入を主張する高階。そこに、佐伯教授となにやら因縁があるらしい渡海という謎の医者が混ざりこんで異様な様相を呈する。何が正しいのかを追い求める中で、世良が図らずも知ることになる医者の覚悟のあり方とは…。
というような話です。
さすが海堂尊。相変わらず面白い話を書いてくれます。
このシリーズは重ねる毎にどんどんとミステリー色をなくして行きますが、本作も全然ミステリじゃないですね。何でしょう、一応サスペンスチックな感じではありますけど、どちらかと言えば社会派キャラクター小説と言った方が正確ではないかという感じです。
研修医の目を通して病院が描かれていて、しかもさすがに現役の医者が描くだけあってリアリティはなかなかのもの(と言っても病院の裏側なんか知らないのでそれらしく見えるというだけですけど)で、相変わらず面白いです。
ストーリーは、なんていえばいいんでしょうね。様々な思惑が入り乱れながら、様々な人間模様を描いていくという感じで、相変わらずノンストップという表現がピッタリです。
さらに、最後にいろんなものをエイヤっとひっくり返すその手腕はなかなかのもので、してやられたなという感じがします。巧いですね、相変わらず。まさかあんな展開になるとは思いませんでした。ブラックペアンというタイトルも、なるほどという感じです。
また面白いのは、これまでのシリーズに出てきた様々なキャラクターがちょいちょい顔を覗かせるという点です。もちろん、舞台が1988年なのでこれまでのストーリーと同じ形で出てくるわけではないんですけど、田口や速水や島津も出てくるし、猫田も藤原婦長も花房も出てきます。水落冴子も一瞬だけ出てくるし。これまでのシリーズに出てきたそういうキャラクターの昔の姿が見れるというのも面白いし、これまでの作品で出てきたエピソードなんかも実際に話の中に登場します。まあもちろん、こういう部分はメインの話とは全然関係ないので、これまでの作品を読んでいない人でも充分に楽しめるようになっています。
あと海堂尊は本作とほぼ同時期に「夢見る黄金地球儀」という作品も出しているんですけど、それに言及するような話もちょっとだけ出てきます。なるほど、まさかあれもシリーズと関わりがある作品だとは思わなかったのでビックリしました。読んでみようと思います。
そんなわけで、相変わらず面白い作品ですよ。是非読んで欲しい作品です。もちろん「チーム・バチスタ」から読んで欲しいわけですけど、まあ本作から読んでもいいでしょう。しかしこの人、今も勤務医なのに作品出すの無茶苦茶はないなぁ。すごいと思います。どこにそんな時間があるんだろう。講談社ブルーバックスという新書から「死因不明社会」なんて本も出したし。いやはや、ホントすごいです。

海堂尊「ブラックペアン1988」




The BOOK jojo's bizarre adventure 4th another day(乙一×荒木飛呂彦)

才能がある、というのは、僕にとっては不幸の一部であるという風に思える。という話は前にも書いた記憶があるのだけど、まあ気にしないでまた書こう。
僕らは無意識のうちに、才能を欲したり望んだりしているように思う。子供の頃、将来何になりたいか、という問いかけがあちこちにあったと思うけど、野球選手のように才能を必要とするようなものが多数あったように思う。今はどうか知らないが、ちょっと前の小学生への調査では、公務員が1位だったようだ。それを見て、日本は終わったな、と僕は思ったものだが。
僕らは才能を持つ人に憧れる。スーパープレイを連発するスポーツ選手に憧れ、ぐいぐいと引き込むストーリーを生み出す漫画家や作家に憧れ、数式を自在に操る数学者に憧れ、舌が壊れるのではないかと思うほど美味しい料理を作るシェフに憧れる。自分には絶対に出来ないと思いながら、それでも出来たらいいよなぁ、という風に思うのがまあ普通なのかなと思う。
でも僕からすれば、才能を持っているというのは一種の不幸でしかない、と思えてしまうのだ。それを、中途半端な才能を持っている場合と、完璧な才能を持っている場合の二つに分けて考えてみよう。
中途半端な才能を持っている場合は、まあ想像しやすいだろうと思う。例えば、人よりもちょっとだけ絵が巧い、人よりもちょっとだけ歌が巧い、人よりもちょっとだけ勉強が出来る。まあそういう類の才能である。
世の中というのは本当に広くて、上には上が常にいるものだ。僕の話をすると、小中学生の頃学校の中でもかなり勉強が出来る部類の人間だった。それは、あんまり勉強しなくても、という言葉付きでだ。そこまで努力をしなくても、比較的上位の成績を取ることが出来ていた。
しかし高校に入るとなかなかそうはいかなくなった。僕が行ったのは進学校で、いろんな中学の上の連中が結構集まってくる高校だった。するとやっぱり、みんな頭がいいのだ。その高校でも僕は、それなりに上位の成績をキープし続けた。しかしそれは、かなりの努力の結果なのである。周囲には、まだまだ本気出してないけどね~、というような連中が山ほどいた。なんつーか、そりゃあ勝てねぇよなぁ、と思ったものである。
人よりちょっと絵が巧い人は、じゃあ漫画家やイラストレーターの道に進んでみようかな、と思う。人よりちょっとだけ歌が巧い人は、じゃあ歌手になってみようかな、と思う。しかし、本当に世の中は広いのだ。上には上がいる。自分のレベルでは到底辿り着くことの出来ない世界がそこには広がっているのだ。
ただ、そういう才能を要求される世界へと足を踏み入れると、なかなか抜け出すことは出来ない。つまり、その世界へと足を踏み入れること自体が既に、何かの犠牲の上に成り立っているのだ。であれば、後退することはなかなか考え難い。字部の実力では厳しい世界かもしれないと自覚しながらも、それでもその世界で成功することを信じて前に進んでいくしかない。もちろんそれは、さらなる泥沼に足を踏み入れるということでしかない。そうやって人生を狂わされてしまう。
まあそんなわけで、中途半端に才能を持っている場合は不幸であると思うのだ。
では完璧な才能を持っている場合はどうだろうか。メジャーリーグで活躍するようなスーパープレーヤー。負け知らずの棋士。超一流の写真家。そういう、その世界でトップクラスの才能を有していると思われるようなそんな場合ならどうだろうか。
僕には、それだって充分に不幸だと思えてしまうのだ。
つまり僕にはこんなイメージがあるのだ。才能がある人は、結局その才能に縛られるしかない。自らの意思よりも、その才能の存在を優先しなくてはいけない、と。
例えばバイト先のスタッフの人にこんな話を聞いた。高校時代の友人の話で、数学や物理が異常に出来る男がいた。今ではその男はどこかの会社の研究員になっているようなのだが、しかし彼は研究というのにまったく興味が持てないらしい。そもそも理数系に特に興味がなかったというのである。
しかしそれでも、彼は否応なく理数系の科目が出来てしまうし、そっちの方面での才能があった。だから、興味は全然ないのだけど、そういう系の仕事に就いた、ということである。
さてどうだろうか。この場合、理数系に強いという才能を持っていることは、一つの不幸であると言えないだろうか。
僕は、才能を持っている人というのは多かれ少なかれこういう悩みみたいなものを持っているのではないか、と勘繰ってしまう。やりたいことがあって、たまたまその方面の才能が自分にあった、なんていうのは本当に稀でしかないだろう。そんな確率は本当に低いはずだ。それよりも世の中の大多数の才能のある人の場合、自分にはこの才能があると自覚して、ならその世界に入ろう、という風に考えるのではないか、と思えてしまうのだ。
それはイメージとしては、医者の息子に生まれるのに似ている気がする。医者の息子というのは将来的に医者になることを求められている。この場合才能があるかどうかはまた別の話で、親の意向というものが強く出るのだけど、しかし才能がある場合もこれに近いものがあるのではないだろうか。親の意向が自分の持っている才能に替わるだけの話で、本質的には同じではないのだろうか。
もちろん、描くことが好きで好きでたまらない漫画家というのはいるだろうし、プレイすることが好きで好きで仕方ないスポーツ選手というのもいるだろう。数学を解くことが好きで好きで仕方ない数学者もいるだろうし、歌うことが好きで好きで仕方ない歌手というのもいるだろう。しかしそれは実際には本当に稀だと僕は思うのだ。何かをやりたいと思うことと、自分の持っている才能を活かしたいと思うことは、まったく別のことだと思うのだ。
僕がもし何らかの才能を持っているのだとしたら、出来るだけそれを自覚したくないと思う。自覚してしまったら、もはやそれに囚われるしかない。幸いにして僕には、これと言った才能もないようである。だからこそ、その才能を持て余しているとか、何かに使わなくてはいけないのではないか、と悩むこともないし、才能があるからこそこの世界から抜け出せないなんて思い悩むこともない。素晴らしいではないか。凡人バンザイである。
才能というのは、それを持っているだけでは本当には意味はないと思うのだ。他に何が必要なのかは僕には分からないが、しかし才能だけでなんとかなるほど世の中は甘くない。そんなものを望むよりは、いっそ凡人として凡人らしく生きている方が、まあましかなぁ、と思ったりするのである。
でもそういえば前に、生まれ変わったら数学者になりたいとか書いたことがあるなぁ。うーん、矛盾だ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、あの大人気作家である乙一が、自身が大好きだと言う「ジョジョの奇妙な冒険」というコミックをノベライズしたものです。
僕は「ジョジョの奇妙な冒険」というコミックを読んだことがないので詳しいことは知らないのですが、現在までで第7部までシリーズが進んでいるようです。本作はその中の第4部の設定を舞台として、ストーリーは完全にオリジナルで進んでいく話になっています。「ジョジョの奇妙な冒険」というからには、コミックの方では「ジョジョ」という名前の登場人物がいるんでしょうけど、本作では出てきません。
舞台となるのは東北にある杜王町。そこを舞台にし、物語は2000年である現在と、そこから遡ること19年前の出来事とが並行して語られるという形式になっています。
19年前。杜王町で事務員として働いていた飛来明里は、織笠花恵という女性から電話をもらった。当時明里が付き合っていた大神照彦の何番目かの恋人であると名乗り、彼が違法建築に手を染め莫大なお金を隠し持っていると指摘する内容だった。彼の部屋に入ってみると、天井裏から確かに5000万円以上入ったバッグが見つかった。
問い詰めようと彼を屋上に呼んだはいいが、彼女は豹変した大神に殺されそうになった。目が覚めた時彼女は、ビルとビルの間に挟まれたものすごく狭い場所にいた。どうやら屋上から突き落とされたようだ。死ななかったのは幸いだが、しかしどうやってもそこから抜け出すことは出来ないようだ。屋上から大神が、声を荒げたら両親を殺す、と言ってくる。しかし大神は、明里が隠したお金の在り処を知るまでは彼女を殺すことが出来ない。
こうして明里は、そのビルとビルの間で長いこと過ごすことになった…。
一方で2000年の現在。こちらはも二つの話が同時に進行する。
広瀬康一は漫画家である岸田露伴と親交がある。康一がコンビニでマンガを立ち読みしていると、表で露伴が何かやっていた。猫に餌をやっているらしい。珍しい…、と思ったが、どうも好意からではないようだ。
とそこへ、一匹の血まみれの猫が舞い込んで来る。猫自身に怪我があるわけでもないからどこかでその血がついたのだろう。気になって調べてみると、飼い主だと思われる自宅でその飼い主自身が死んでいた。
奇妙なのはその死に方だ。密室であったのはいいとして、なんとその飼い主の女性は、家の中で交通事故に遭ったというのだ。一体何が起こったのだろうか。彼らは、他の仲間の能力<スタンド>も駆使しつつ、その殺人事件の謎を追っていくのだが…。
一方双葉千帆は、何年か前に自分を助けてくれたあの人ではないかと思われる男と偶然再会した。蓮見琢馬という名のその男は、真夏でも長袖の学生服を着ている、ちょっと変わった人だった。知り合って仲良くなったのだが、彼にはすごい能力があったのだ。
それは、見たもの聞いたものを決して忘れることがない、という能力である。一度でも見たり聞いたりすれば、それをいつでも取り出すことが出来る。いつか食べた料理の塩加減だとか、三年前の交差点の端っこで突っ立っていた男の顔だとか、そういうものを何でも呼び覚ますことが出来た。
琢馬にはある目的があった。自分に与えられた能力を活用して、ある男に復習をするという目的が…。
というような話です。
先ほども書きましたが、僕は本家の「ジョジョ」をまったく知らないのですけど、でも面白く読めました。もちろん本家の方を知っていればより楽しいのかもしれないけど、少なくても知らなくても十分一つの作品として楽しめるようになっていると思います。
ネットでちょっと調べた限りだと、東方杖助・岸辺露伴・広瀬康一・山岸由花子・虹村億泰と言ったキャラクターは本家にも出てくるようですね。そうなると、双葉千帆とか蓮見琢馬とか織笠花恵とか大神照彦と言ったキャラクターは乙一の創作ということになるでしょうか。
本家の「ジョジョ」がどうかは知らないけど、僕のイメージではとにかく戦ってるシーンばっかりの話になるのかな、と思っていました。でも本作の中で戦いのシーンというのは後半3分の1くらいで、それ以外は戦い以外のストーリーでした。いろんな人の背景みたいなものをきちんと描いていて、それがやっぱり乙一らしくて、なかなかいいなと思いました。
何よりも、ビルの隙間に突き落とされてそこで生き続ける女性の話なんて、まさに乙一ならではという感じがしました。その、明らかに異常な状況なんだけど、乙一の筆致に掛かって何だか異常さが緩和されてしまったようなそんな世界観がいいなと思いました。
また、伏線がなかなか巧くって、なるほどと思うような場面が結構ありました。また戦闘の場面でも、いろんな要素を複雑に絡ませていて、面白く仕上げているなと思いました。ただ本家とどっちが面白いのかという部分については僕には比較が出来ないのでなんともいえないですけど。
しかしこの「ジョジョ」の設定って、やろうと思えばかなりいろんなことが出来そうな気がするな、と思いました。清涼院流水という作家がいて、その作家の<JDCトリビュート>という企画があるのだけど、これはある特殊な才能を持った探偵がいる組織である<JDC>を舞台にした話をいろんな作家が書く、というものです。要するに特殊な能力を持った探偵という設定を使えばあとは何でもいいわけなんだけど、「ジョジョ」も<スタンド>さえ設定すればいくらでもこのトリビュートが出来そうな気がします。っていうか実際あるのかもしれないですけど。
あとがきがまた面白いですね。読むと、このジョジョのノベライズを完成させるために、つなぎとして他の仕事をしていた、という風に読めます。つなぎでも充分面白い作品が書けるのだから、このジョジョのノベライズが終わった今、また面白い作品を書いてくださいね、という感じです。
というわけでさっきも書きましたが、「ジョジョ」を知らない人でも十分楽しめる作品だと思います。またこれを呼んで「ジョジョ」を読みたくなりました。まあでも実際読まないだろうな、という気はしますが。漫画喫茶に一日入りびたって読みきる、というやり方をするしかないかもです。面白いので読んでみてください。

乙一×荒木飛呂彦「The BOOK jojo's bizarre adventure 4th another day」




『クロック城』殺人事件(北山猛邦)

どうせ終わるならさっさと終わってくれればいいのに、と思う。
世界の話である。
世界は、というか宇宙は、僕らが想像もつかないようなとんでもない昔に出来上がった。ただとんでもなく昔であっても、始まりはあったわけだ。始まりがあったということは、必ず終わりがあるということだ。宇宙は決して定常ではない。どんな形でかは知らないけど、いつか終わりを迎える。
僕らはそんな宇宙の中で、ほんのつかの間の生が与えられている。宇宙の歴史から比べればほんの一瞬、吹けば飛んでしまうような些細な時間を生きる時間として与えられる。
しかしだ、こんなことを言っても詮無いことは充分に理解しているのだが、僕はそんな時間を全然望まなかったのだ。僕が生まれる前にも、生まれた後も、そしてこれからも、僕は生きる時間を望まなかったし望まないだろう。僕からすればそれは、与えられたものではなく押し付けられたものでしかない。
だから、世界なんかさっさと終わってしまえばいいと思うのだ。
一時、世界は終末論的な話で盛り上がった。ノストラダムスとか言うアホなおっさんの予言を間に受けて、いろんな人間が世界が終わると言って大騒ぎしていた。当時のことを特別覚えているわけではないけど、テレビとかでも特番がよく組まれていたし、関連本も山ほど出たと思う。
正直言ってあの当時、本当に世界が終わると信じていた人はどれくらいいるのだろう。僕はもちろんまったく信じなかった。そもそも、世界と人間が同時に終わる、なんていうことはありえないのだ。まず人間が死に、その後で世界が終わる。この順番が変わることはありえないし、人間と世界が同時に終わることもありえない。よしんば、『人間が死ぬこと』が『世界が終わること』と同義であるとしても、そもそもそんなことが予測できるはずもないのだ。隕石が落ちてくるというのであればまだ知りようもあるが、しかしそれ以外のことはどうにもならない。いついつに世界が滅びます、なんていうのはだから嘘に決まっているのである。
だから僕はあの当時、世界が終わるなんてことは全然信じていなかったと断言できる。
でも同時に、世界なんかさっさと終わってくれたらいいのに、と思っていたことも確かである。
僕は思うのだ。ノストラダムスの予言があんなに騒がれたのは、実は僕のように思っている人間がそれなりにいたからではないか、と。
そもそも世界が滅びるという事象に対して心配したり不安を抱いたりすることに意味はないのだ。意味がなくても人間というのはそういう感情を抱いてしまうものだが、それにしたって世界が終わってしまうことへの不安だけであそこまで盛り上がったというのは僕の中ではどうもしっくりこないような気がする。
それよりは、より多くの人が、こんな世界なんて終わっちゃえばいいのに、と何らかの形で思っていたからこそ、あれだけの騒ぎになったのではないかな、と思えてくるのだ。これは逆説的な意見かもしれないし、少なくとも僕の希望でしかないのだけど、でももしそうだとしたら何となく僕は嬉しい。
僕らは、とりあえず生きてしまっているから生きている、という側面があると思う。つまり、死ぬような積極的な理由はないから生きている、という部分である。人によってはそれを否定するかもしれない。自分には生きていたい積極的な理由があるのだ、と。しかし多かれ少なかれ、そういう側面を否定することは出来ないのではないかと思う。
問題は、世界というものが存在し、それから人間に生が与えられるわけで、じゃあその大前提となる世界の存在そのものが揺らいだ時、果たして人間はそこまで必死に生きようとするだろうか、ということである。
例えば大地震なんかはこういう想定には当てはまらない。大地震というのは、どれだけ規模が大きくたって、世界全体から見れば局地的なものである。つまり、世界にはまだ人が生きていける環境があり、選択肢が多々残されているといえる。
しかし、例えば恐竜が絶滅した原因と言われるようなとんでもない隕石が地球に激突したとしよう。粉塵が地球表面を覆い日光を遮り、気温が低下し、植物が育たず、気候が大きく変動してしまった世の中を想定しよう。その世界の中で、隕石の直撃は免れ、幸いにもすぐには命を落とさなかった人達がいるとしよう。
さて、そんな状況の中で、人はどれだけ生きたいと願えるだろうか。地球がどれほど壊滅的な状況に置かれて、もう回復の見込みはまったくないという状況になっても、それでも最後の最後まで生き抜きたいと願う人はどれほどいるだろうか。
僕は少なくとも、さっさと死にたいと思う。僕の場合、本当に生への執着が薄いので、隕石じゃなくても、大地震のようなケースでも、さっさと死んでしまいたいと考えると思う。僕自身の世界というのは、強固な安定以外の状態をなかなか許さないので、その安定性が奪われるやすぐに揺らいでしまう。その揺らいだ状態の中で生きていくこと自体に関心が持てないので、僕はすぐに死を考える。まあ僕のこれまでの人生はその繰り返しだったと言っていい。
まあ僕の話はいいか。話を戻そう。
SFの世界では、地球にはもう住めないということが分かって、火星とかに移住するみたいな話が出てくる。これも世界の終わりに対抗しようという話に違いない。
しかし冷静に考えた時、どうだろう。地球にはもう住めないとなった時、少しでも可能性のある火星に移住するという選択肢を取るだろうか?やっぱり僕は取らないだろうと思うのだけど、普通の人の意見というのはどうなのだろう。
世界なんかさっさと終わってしまえばいい。叶わない願いだと知りながら、僕はそんなことを日々思ったりする。
そろそろ内容に入ろうと思います。
世界は終わりを迎えようとしていた。
時は1999年9月。予測では、あと一月もしない内に世界は滅びるだろう、と考えられている。既に電力の供給などは途切れがちで、街はどこもかしこも薄暗い。世界には、SEEMだの十一人委員会だのと言った大規模な組織が存在し、世界の破滅を食い止めようと日々活動を続けている。
そんな世界の中で、探偵が一人。
南深騎は探偵である。もともとは普通の探偵だったが、とあるきっかけで<ゲシュタルトの欠片>と呼ばれる幽霊のような存在を退治することが出来ることに気づき、最近の依頼はもっぱらそっちの方面のものばかりになっている。志乃美菜美という不可思議な少女が始終彼の傍にいる。
そんな二人の元を、黒鴣瑠華と名乗る美少女が訪ねてくる。何でも、<クロック城>という彼女が住んでいる屋敷に出るという<スキップマン>という幽霊を退治して欲しいのだ、という話だった。とりあえず話の要点はつかめないものの依頼を受けることにし、途中邪魔は入るものの、瑠華の案内で深騎と菜美は<クロック城>を訪れる。
それは、前面に飽きれるほどデカイ三つの時計がついた建物だった。しかもそれぞれの指す時刻は違う。真ん中の時計だけが正確で、左右の時計はそれぞれ10分ずつ進んだり遅れたりしているのである。
また屋敷に住まう者も変わっていた。研究一筋で愛想のない当主、愛想のない助手、占い師のような男、時計の読めない少年、礼儀正しくない執事、眠り続ける美少女…。
時計の鐘の音と共に、首を切り落とされた無残な死体が見つかって…。
というような話です。
さて、有栖川有栖が大絶賛している、新本格を担う新人のデビュー作です。
本作は、あの奇妙奇天烈な作品を次々と世に生み出したメフィスト賞受賞作であり、なるほどその中にあって埋もれずにいるなかなか個性的な作品だな、と思いました。
本作はバリバリの新本格系のミステリではあるんですけど、しかし作品を覆う雰囲気は普通のミステリとは違ってかなり幻想的です。普通の新本格系の作品とはかなり一線を画す舞台設定だなと思います。
解説で有栖川有栖も書いていますけど、山田雅也の「生ける屍の死」や西澤保彦の作品なんかに近いものがあります。しかしやはりそれらとも違いがあるように僕には感じられました。その違いはうまくは説明できないのだけど、山田雅也や西澤保彦の生み出す世界というのは、『あるトリックを成立させるのに必要不可欠な舞台』を生み出すために必要なわけですけど、本作は決してそうではありません。本作で用いられるあるトリックは、別にそういう特殊な条件を必要とするようなものではありません。それなのに、著者は敢えて作品全体を幻想的で虚無的な舞台へと乗せた。もちろんその舞台設定は全体的なストーリーと結びついていくわけだけど、そのトリックそのものとは結びつくわけではない、という点が違いとして指摘できるのかな、と思いました。
作品全体に拭っても拭いきれない程深く『死』の匂いがこびりついている作品で、その虚無的な雰囲気が僕は結構好きでした。登場人物の誰もが、そこまで生に執着しているわけでもなく、かと言って積極的に死を望んでいるでもなく、世界が破滅すると言われているけどそれすらも無関係という感じで時が進んでいきます。そのあっさりした感じがいいなと思いました。
また、ミステリとは思えないほど様々に奇妙な設定が出てきます。<ゲシュタルトの欠片>や、SEEDや十一人委員会だのと言った存在もそうだし、そもそもが志乃美菜美という存在が不可思議という有様。大筋のストーリーと直接的に結びつくわけではないそういう細かい設定もまた、それまでの新本格系ミステリとは一線を画していて面白いなと思いました。
また解決もなかなかのもので、もしあそこで終わっていたらちょっと残念な作品だったけど、その後も話が続いて、最後には結局あんな感じで終わったから満足、と読んでいる人からすれば意味不明でしょうが、そんな感じです。また個人的によくこんなことを考えたなと思ったのは、『なぜ首を切断したか』という理由です。リアリティはともかくとして、すごい発想です。この『なぜ首を切断したか』というのはミステリの中でもいろんな理由が提示されているわけですけど、僕が知っている中では他に、西尾維新の「クビキリサイクル」での理由がすごいと思いました。本作はそれ以来、久々にすごいなと思った『なぜ首を切断したか』の理由があります。
さて、最後に一つ。本作は著者が22歳の時に書いた作品です。これはすごいなと思いました。若い作家というのはこれまでもどんどん出てきていたわけですけど、でもやっぱりこの若さでこれだけのものを書けるというのはなかなかすごいなと思います。他にもこういう系のガチガチのミステリを書いているようなので、読んでみようと思います。
好き嫌いは分かれるような気がしますが、僕は結構いいなと思いました。作家の森美登美彦も読んだみたいですよ。ブログに書いてありました。評価はどうか知りませんけど。あぁそうそう、帯にも書いてありますけど、本屋とかでページをパラパラ捲ったりしてはダメですよ。それだけは注意してくださいね。

北山猛邦「『クロック城』殺人事件」




どーなつ(北野勇作)

人間の記憶というのは、考えてみればすごく面白いと思う。
例えば、デジャヴというのがある。あれは、『自分が過去に経験したことがないはず』のことを『実際過去に経験した』かのように感じる現象という感じの説明が出来るでしょうか。来たことないはずなのにここに来たような気がするなとか、会ったことない人なのに会ったことがある気がするな、とまあそんな類のあれです。
まあ大半は勘違い何だろうなとは思います。実は来たことがあるし、実は会ったことがあるのだけど忘れている、みたいな。まあそれはそれでいいんですけど、勘違いじゃなかった場合はどうなるのか。
もちろん、何故『経験したことがある風に錯覚する』かという点にも興味があるんですけど、それよりも、何故『自分が過去に経験したことがないはず』という記憶の方が優先されるのか、ということです。
つまりこういうことです。デジャヴという現象は結局のところ、『自分が過去に経験したことがないはず』という記憶と『実際過去に経験した』という記憶を比べてみた時に、『自分が過去に経験したことがないはず』という記憶の方がより真実味がある、ということから生じるんだと思うわけです。僕の中ではその両方の記憶というのは同程度の確からしさしか持っていない感じがするので、一体脳は何を基準に『自分が過去に経験したことがないはず』という記憶の方を正しいと判断するのか、というのが気になるわけです。
つまり、『実際過去に経験した』という記憶の方が本当は正しいかもしれないのに、脳はいかにして『自分が過去に経験したことがないはず』と判断するのか。そう考えると面白いなと思います。
何故それを不思議に感じるかというと、結局記憶というのが物質として残されているわけではない、という点にあるのだろうなと思います。
記憶というのは、まあきっとちゃんとは解明されていないのかもしれないけど、要するに脳の中の電気信号のある状態として存在するのだろうと僕は思うわけです。要するに、脳の中の電気信号があるパターンになった時はこの記憶、別のパターンになったらこの記憶、と言ったような感じです。
イメージとは、電光掲示板みたいなものかもしれません。電球がある配置になったら「あ」という文字になり、別の配置になったら「A」という文字になる。しかし「あ」も「A」も実際に物質として存在するわけではなく、その電球の状態として規定されているだけ、というわけです。
この物質として存在していない記憶というのが、常に正しい形で保存されているというのが僕には不思議に思えるし、記憶に関するいろんな謎はその点にあるような気もしたりしています。
例えば先ほどの電光掲示板の例で言えば、「あ」を構成する電球が一つでも欠けたらそれは「あ」じゃなくなるわけです。もちろん僕らが読む分にはそこまで支障はないですけど、でも「あ」でないことだけは確かなわけです。
僕らの記憶だって、ちょっとしたことで元の出来事とは全然違ったものに変わってしまうはずなのです。物質として存在しているのではなく状態によってしか規定できないのだから、その状態を再現できなければ記憶というのはどんどん変わり失われていくのでしょう。
それなのに、僕らにとって、記憶というのは結構絶対的な感じがしないでしょうか?時々デジャヴみたいな現象があったりするけど、基本的に僕らは自分の記憶について結構自信を持っているはずです。僕も、まあ過去のことについてはかなり忘れているのだけど、それでも小中高の出来事とか楽しかったこと恥ずかしかったこと辛かったことなどいろいろ覚えているものです。
しかし、それらが『本当にあったこと』であるかどうかというのは、自分の記憶からでは確定できないはずだな、と僕は思うわけです。僕らには、僕らが持っている記憶が変質してしまった、というような自覚は持ちようがないわけで、つねに自分が持っている記憶を信じるしかないわけです。しかし、それが間違いなく正しい本当にあった出来事であったということを証明するものは、自分の外部にしか存在しないわけです。
デジャヴの話で、どうして『自分が過去に経験したことがないはず』と脳が断定できるのか不思議だみたいなことを書きましたけど、脳の中ではどっちの記憶が正しいかを決めるだけの基準がないはずだからそう思うわけですね。一体どういう判断でそれを決めているんでしょうか。
もちろん、自分の記憶が全然信用できなくなったら日常生活を送る上で大変なので、恐らく何らかの調整みたいなものが働いてなんとかなっているんだろうけど、まあ不思議だなぁ、と思ったりします。
もう少しうまく僕が感じている不思議を文章に書けるかと思ったんですけど、全然ダメでした。うまくいかないですね。またチャンスがあれば挑戦してみようと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、連作短編集…なのかな、たぶんそうだよな、というような感じです。それぞれの内容を紹介するのは僕にはちょっとハードルが高いので(説明できるようなストーリーではないんです)、それぞれのタイトルだけざっと書いて見ます。

「百貨店の屋上で待っていた子供の話」
「熊野ぬいぐるみを着た作業員の話」
「火星に雨を降らせようとした女の話」
「逃げた脳ミソを追いかけた飼育係の話」
「ズルイやりかたで手に入れた息子の話」
「本当は落語家になりたかった研究員の話」
「異星人に会社を乗っ取られた社長の話」
「大きなつづらを持って帰った同僚の話」
「あたま山にたどり着けなかった熊の話」
「溝のなかに落ちていたヒトの話」

それぞれの話は、まあ概ねタイトル通りの話になっています。まあタイトル通りの話、と言っても想像も出来ないようなタイトルばっかりですけどね。
一応それぞれの話は繋がっていて(その繋がり方もなんとも言えず奇妙なものというか僕にはついていけないようなところもあったのだけど)、だからその大枠の設定みたいなものだけ書けるだけ書いてみようかと思います。
宇宙船だか謎の生命体だか何だか知らないものによって外界とは隔離されていしまったある空間。たぶんその内側の話。そこには『おれ』がいて、まあいろんなところでいろんなことをしていて、もう死んじゃった田宮麻美って言う女との記憶もあれこれあったりして、人工知熊に乗ったりアメフラシの細胞から脳を作ったりしながら、戦争をしたり戦争が終わったりまあとにかくそんな風にいろいろあったりする。
まあそんな話だと思います。
いやはや、正直僕には結構理解できないストーリーでした。難しすぎますね。難しいというか、何だろう、感覚的に理解することが出来ないというか。たぶんちゃんと頭を使ってあれこれやれば理解出来るストーリーなのかもしれないけど、あんまりそこまで頑張る気になれない感じでした。
まずもって、一人称で描かれる『おれ』は全員同じ人間なのか、というところからしてよくわかりません。同じだとしても違うとしても何だかしっくり来ないようなイメージです。
それに、それぞれの話が微妙に重なったりするんですけど、その重なり方も何だか難しくて、時間軸がどうなのかもよくわからないし、とにかく徹頭徹尾なんとも理解の難しい作品でした。
あとがきで著者自身が、自分では面白いと思うけど多くの人に受ける作品ではないだろう、みたいなことを書いていて、うーん確かにそれはそうかもしれないな、と思ったりしました。僕がSF的な下地に欠けるというところを差し引いても、ちょっとこの作品は難しすぎるような気がします。結局どういうストーリーだったのかよく分からないまま終わってしまいました。
まあそんなわけで、僕としてはそこまでオススメできる作品ではありません。ただ、日本ファンタジーノベル大賞を受賞した「昔、火星のあった場所」と、日本SF大賞を受賞した「かめくん」は機会があったら読んでみたいかなと思いました。

北野勇作「どーなつ」



孤島パズル(有栖川有栖)

僕は毎日数学に関するHPを二つほど見ています。そこでは、まあいろんなやり取りがあるのだけど、分からない問題を投稿しそれに解答をつけてもらうとか、あるいは管理者が問題を出題しそれに解答をすると言ったような形式になっています。
僕はもう真面目に数学をやっていた時期をかなり過ぎ去ってしまったので、基本的な数学の知識みたいなものがほとんどありません。二次方程式の解の公式さえパッとは出てこないくらいで、sincosの公式なんか完全に忘れたし、logだとか積分の公式も覚えてないし、とにかく問題を解くことに関するありとあらゆる知識が欠けている状態です。それでも、問題を見てどんな風にして解いたら解けるだろうとか、あるいは人の解答を見たりするのが結構面白かったりします。
しかしそういう数学のサイトを見ているとよく思うのは、世の中には頭のいい人がやたらいるんだな、ということです。
例えばある問題に対しての解答を見ているとよく、どうしたらこんな発想に至るのだろうか、と思うようなことはたくさんあります。解答を読む限り、難しい知識を使っているわけでもなく、複雑な計算をしているわけでもないのですけど、その問題を解く上で超えなくてはならない発想そのものが僕にはどうしても湧きあがってこないな、と思うわけです。
例えばですけど、最近見た問題ではこういうのがありました。

『(3^2008-1)/(2^n)が整数となるような整数nの最大値を求めよ.』

ネット上での数学的な表記が分からない人も多いと思うのでまず問題自体を説明すると、{(3を2008乗して1引いた数)を(2をn乗した数)で割った数}が整数となるような整数nの最大値を求めなさいという問題です。
この問題に対する解答をすべて載せるのは避けますが、解答の第1行目だけは載せます。それはこうなります。

『3^2008-1 =(3-1)(1+3....+3^2007)』

つまり何をしているかといえば、(3^2008-1 )という数字を因数分解しているわけです。右辺がちゃんとした因数分解になっているのかというのは、ちょっと展開してみれば分かることなのだけど、僕がすごいなと思うのは、どうやってこれを因数分解しようという発想に至るのかということですね。
もちろんこういう問題をあっさり解けてしまう人からすれば、こういうのは定石だとかパターンだよとか言うのかもしれないけど、僕にはちょっと魔法みたいに思えますね。まず因数分解出来るとは思わないし、因数分解してみようかなという発想に至っても、上記のような形にまでもっていくことは恐らく出来ないだろうな、という感じがします。こういう問題は数学の難しい知識を使っているわけではないので、発想さえ出来れば今の僕でも解ける類の問題なのですが、しかしやっぱり僕には無理でしょうね。
数学に限らずですが、こういう風に発想の飛躍が出来る人というのは本当に羨ましいと思えます。
僕は読んだことはないのですが、「ビルゲイツの面接試験」という本があります。この本はタイトルから分かるように、マイクロソフトの面接の話なのですが、マイクロソフトの面接ではとんでもない問題が出され、それを解くのにあなたならどうしますかというようなことを聞かれるのださそうです。一例としていくつか挙げると、

『世界のピアノ調律師の数は?』
『ビルゲイツの浴室を設計するとしたらどうするか?』
『富士山を動かすとしたらどうするか?』
『マイナス二進法で数を数えるとどうなるか?』

などと言ったものがあるようです。僕はこれらの問いかけをされて一週間時間をもらっても面白い発想を生み出すことは恐らく出来ないだろうな、と思います。考える上でのとっかかりのある問題ならまだやりようがありますが、こういうどこから始めたらいいのかもさっぱり分からない問題はもう全然お手上げです。しかもマイクロソフトを受ける人は、これを面接中に問われ即興で答えなくてはいけないわけです。なんていうか、マイクロソフトってすげー人の集団なんだろうな、と思います。
さて虚構の世界のことではありますが、僕は名探偵というのもなかなか面白い発想の飛躍をしてくれる存在だと思っています。もちろん彼らは、作家が生み出したトリックを説明するための装置に過ぎないわけですけど、それでもトリックや犯罪の過程が探偵の口から語られると、なるほどよくもそんな考えに辿り着いたものだ、と感心してしまいます。
僕は「名探偵コナン」というマンガが好きで未だに読んでいるんですけど、その中で、怪盗キッドという盗人野郎が探偵であるコナンに向かってこんなセリフを言う場面があります。

『犯罪者は芸術家だが、探偵はその後を追いかける批評家に過ぎないんだぜ』

まあ確かにそうかなとも思いますけど、でも僕の理屈としては、探偵という批評家がいるからこそ、犯罪者は芸術家になりえるのであって、犯罪者は単体では芸術家にはなりえないだろうな、ということです。まあ書いてみて気づきましたけど、この話別に全然関係なかったですね。
僕はそこまで本格ミステリ(いわゆる名探偵が出てくるミステリ)を読んできたわけではないので偉そうなことはいえないんですけど、まあその中で一番好きな探偵は誰かと言われれば、森博嗣のS&Mシリーズに出てくる犀川助教授でしょうか。これまでの探偵の常識をかなり覆した、探偵らしくない探偵です。犀川助教授の推理は、まさに発想の飛躍と美しい論理に彩られていて、読んでいてワクワクします。作家がトリックを説明するためだけに生み出した装置ではないな、という雰囲気を感じる探偵です。
現実には小説に出てくるような名探偵というのは存在しようがないとは思いますが、しかし名探偵のように発想の飛躍が出来る人というのは結構いるだろうなと思います。僕は自分が凡人であることを嫌というほど自覚をしているので、そういう人種を本当に羨ましく思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「月光ゲーム」から始まる江神探偵シリーズの第二弾です。
英都大学推理研究会のメンバーである有栖川と江神は、今年から新たにメンバーに加わったマリアに誘われて、叔父が所有しているという、絶海の孤島に立つ別荘に誘われた。何でもそこには、祖父が残したお宝のパズルがあり、島のどこかにダイヤが眠っている、ということらしい。その謎を解こうというのもあって、三人でやってきたのだ。
そこには他にも10人の男女が集まっていた。マリアの親族や、同じくその島に別荘を持つ画家などである。マリア達は、島にあるモアイ像(これが宝を探すための祖父が遺したヒントらしい)を見て回ったり、あるいは海で泳いだりしながら満喫していた。
しかしその孤島で殺人事件が起こってしまう。無線機が壊され、助けを呼べない状態。迎えが来るのは三日後。その後も殺人事件が起きてしまい…。
というような話です。
なるほど、それなりに評価が高い作品だけに、なかなか面白い作品だと思いました。一作目の「月光ゲーム」よりは確かに面白かったかもしれません。
とにかくバリバリの本格ミステリで、探偵が事件を解くお馴染みのスタイルですけど、でもこのシリーズは結構普通の本格ミステリとは違ったところがあっていいなと思いました。
例えばある事件の際、被害者がダイイングメッセージを遺したのではないか、という状況になっていました。マリアと有栖川と江神の三人で事件について話している時そのダイイングメッセージの話になりかけるのだけど、しかし有栖川が、「ダイイングメッセージなんて論理的に解けるわけがないんだから考えるのは止めよう」みたいなことを言うわけです。
また同じく三人で事件について話している時、ある事件の際部屋が密室になっていたという話になりますが、今度は江神が、「密室にする方法なんて山ほどあって可能性を絞れないから考えるのは止めよう」みたいなことを言います。
普通の本格ミステリだと、基本的に「どうやって密室にしたのだろう」とか、あるいは「あのダイイングメッセージはどんな意味なのだろう」みたいな話がえんえんと続くことになるのだけど、このシリーズはそんなことにはなりません。そういう、どうとでも解釈出来そうな部分はとりあえずおいておいて、もう少し人間の動きや状況の整理なんかに時間を使います。それが普通の本格ミステリとちょっと違うなぁ、と思わせるところです。まあそれなら密室もダイイングメッセージも出さなきゃいいのに、って感じかもですけど、敢えて出しておいてそれに触れないというのが結構新鮮な気がするので僕はいいかなとか思っています。
またアリバイについても同じようなことが言えますね。これはちょっとしたネタバレになってしまうのかもだけど、事件が起こるたびにそれぞれのアリバイを確認するのだけど誰もアリバイを持っている人がいません。よくミステリでは、ある人はアリバイがあってある人はアリバイがなくて、でも次の事件ではそれが逆転してさてどうなるとか、完璧なアリバイがあると思われていた人が実は犯人だった、みたいなことがあるのだけど、前作も本作も、とにかく誰もアリバイというものを確保出来ないわけですね。生きている人すべてに犯行の機会があった、という形になるわけです。
さらにその上で、論理的な話で犯人を特定するわけです。本作の最後で江神が自説を披露する場面が出てくるわけですけど、その中で犯人を指摘するに至る論理というのはなかなかのものだな、と思いました。なるほど、アリバイもないし正確な犯行時間も分からないしというような状況の中で、まあ多分にパズル的で現実的ではないということを差し引くにしても、あれだけの情報から犯人を一人に特定できてしまうか、という驚きがありました。なるほど、確かにそう考えるとそれ以外にありえないなと思わせる感じで、しかもその真相を聞くと、なるほど確かにヒントはすべて提示されていたなという風にも思います。古めかしく「読者への挑戦状」なんてのが挟み込んであるのだけど、まあ確かにちゃんと真剣に考えれば犯人を指摘することが出来るようなつくりになっていると思いました。
まあそんなわけでなかなかいい作品だと思います。既に10年以上も前の作品ですが、あまり古さを感じさせない作品だと思います。「月光ゲーム」よりもさらに洗練され読みやすくなった感じもします。さて次の「双頭の悪魔」も読んでみようかしら、なんて思ったりします。

有栖川有栖「孤島パズル」


それからはスープのことばかり考えて暮らした(吉田篤弘)

料理というのは、本当にちゃんとやれば結構面白いんだろうなと思う。
僕は、いつからそうなったのか全然分かんないんだけどそもそも食べることにまったく興味がなくて、とりあえず口に入って腹が満たされればそれでいいという人間である。食べることが生き甲斐と言うような人がいるけど、僕にはそれはあんまり理解できない。美味しいものを食べたいとか並んででもあの店に行きたいみたいなのは特にあんまりない。
そんな人間だからそもそも舌が死んでいて、だから何を食べても「美味しい」か「まずい」か「普通」の三つの評価しかない。あるいは「食べられる」か「まずい」の二つと言ってもいいかもしれない。どれほど美味しいものを食べてもそこまで感動しないし、逆にそれなりにマズイものを食べてもそこまでガッカリすることもない。
何かを口に入れるという行為自体が既に習慣のようなもので、何か食べたいから食べるのではなく、何かを食べる時間が来たから食べるという感じだ。これが食べたい、と思って何かを食べたことはあんまりない。たまに外でラーメンと食べたりする時ぐらいかも。そういう時も、まあなんとなくラーメンでも食べるか、ぐらいの感じなんだけど。
だから当然のことながら僕には料理を作る才能とかセンスみたいなものは全然ない。そもそも料理を日常的に作っていないので作れるのかどうかも分からないのだけど、恐らくレシピを見ながら作ったところでまともなものは出来ないだろうと思う。たぶん誰が作っても失敗しない料理とかでも、あんまり美味しくは作れないような気がする。ただそれなりの常識はあると思うので、野菜の皮の剥き方が分からないとか、洗剤で米を洗っちゃうなんていうことはないはず。砂糖と塩をどっちから先に入れるとか、それぞれの料理に適した野菜の切り方、なんてのは全然知らないけど。
そういえば突然思い出したことがあります。今はどうか知らないけど、僕が小学生の頃はまだ男女共に家庭科の授業があって、そこで何でもいいから料理を作って食べる、というような日がありました。そこで、正確には覚えていないんだけど、僕らの班はインスタントラーメンを作って食べて怒られたような記憶があります。まあそりゃあそうですよね。料理じゃないですもんね。何であんなことしたんだろう。
料理のすごいところは、どんな状況でもやろうと思えば出来る、ということですね。衣食住というように、食事というのは人間の生活の基本なわけで、生活の形態や社会のあり方、民族や宗教の違いなんかに関係なく、料理を作るという行為はどんな場所どんな状況でも出来るということです。スーパーやコンビニがなくても、ガスコンロがなくても、調味料がなくても、知識とセンスのある人というのはどんな状況でも美味しいものを作り出せてしまうのだろうなと思います。
それに、料理というのが無限であるというのもすごいなと思います。そもそも食材からして世の中にはゴマンとあります。恐らく僕が目にしたことのない食材の方が遥かに多いようなそんなレベルだろうと思います。そのやたら多い食材をいくつも組み合わせて料理というのは生み出されるわけです。それは本当に、ほとんど無限だと言ってもいいだろうと思います。
ある意味で料理は芸術だと言ってもいいでしょう。要素の組み合わせ方が無限にあるなかで何か形あるものを生み出すという点ではまさしく芸術です。しかも普通の芸術と違う点は、基準が明白だと言う点です。例えばピカソの絵のどこがいいのか僕には分かりませんが、美味しい料理というのは僕でも分かると思います。いい映画、いい小説、いい音楽、いいパフォーマンス、そういうものはそれぞれの人の価値観がどこにあるかによって評価が分かれるものだけど、料理というのはすべて舌が決めるもので、しかも美味しい料理というのは大抵の人に受け入れられるものだと思います。
食べることが、そして料理を作ることが趣味だったら、それはそれでちょっと面白いかもしれないと思いました。日々いろんな食材を組み合わせて、まさに自分だけの味を作る。そしてそれを皆に食べてもらって美味しいと言ってもらう。リリー・フランキーの「東京タワー」の中で、オカンはひたすら料理を作って周りの人に振舞っていたそうだけど、きっと料理には、自分一人では完結しないような何かがあるのだろうなと思います。
そういえば今日か明日には「東京ミシュラン」という本が発売になります。これは、あのミシュランがついに東京にやってきた、ということで話題になっていますが、どうやら東京という街は、ミシュラン的な評価で言えば世界で最も美食の街(ミシュランの評価で世界で最も星の多かった街)だそうです。日本の料理は美味しいと言いますが、なるほどそれがこうして証明された形になりますね。三ツ星の店は8店あるのだそうです。まあ恐らく行くことはないでしょうけどね。
全然関係ない話ですが、我が家のハロゲンヒーターがぶっ壊れました。困りました。なんとか新しいものを入手しようと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
みんなにオーリィさんと呼ばれることになるオオリさんは、ふらりとこの街に引っ越してきた。仕事を辞め、新しい仕事を探している最中のことだ。本来ならば仕事を探さなくてはいけないのだけど、どうにもやる気が出ず、日々小さな映画館に足に運んでは誰も見ないような昔の映画を見て過ごしている。
「3」とだけ書かれた袋を街中でよく見かけ、何だろうと思って大家さんに聞いてみると、どうもサンドイッチ屋なんだという。一度買ってみるとこれがひたすらに美味しい。とんでもなく美味しい。病み付きになって、毎日そのサンドイッチばかり食べている。
そのうち、そのサンドイッチ屋の店主である安藤さんと仲良くなり、その息子であるリツ君とも親しくなった。いつも行く映画館では、館内でスープを飲んでいるご婦人が気に掛かる。大家であるマダムも時折声を掛けてくれるし、そういえば家の目の前には教会もある。
そんなオーリィさんの、様々な人を介した日常を描いた作品です。
吉田篤弘の作品というのは何だかんだ読みたい気分になってしまうのだけど、この人の描く世界はいいなぁ、と思います。これまで四作読みましたが、どれも内容的には全然違う話なのに、トーンというか世界観はどれも同じ雰囲気を持っていて、それがすごく僕には合っている感じです。
そのトーンを表すとしたら、水彩画みたいな感じです。ものすごく淡い色ばかり使っている水彩画で、派手さはないしインパクトにも欠けるんだけど、でもなんだかずっと見ていたくなるような、ずっと見てると輪郭だけが妙にくっきりしてくるみたいな、そんな不思議な感じがします。
大抵、特にどうということもない日常が淡々と描かれる作品が多くて、本作もそうなのだけど、その日常がなんとなく変なんですね。何が変なのか考えると、やっぱり登場人物が少しずつズレてるんだと思います。ものすごく変わっているわけでもなくて、だけど普通というわけでもなくて、奇を衒ったおかしさというのではなく、自然体で滲み出てくるようなおかしさみたいなものをまとっていて、みんながみんなそうやってちょっとずつズレてるもんだから、全体として何だか奇妙に歪んでしまっているような、そんな印象を受けるのではないかな、と思います。
本作でも、オーリィさん、大家のマダム、サンドイッチ屋の安藤さんとリツ君、映画館で見るご婦人といろいろ出てくるのだけど、その誰もがやっぱりちょっとおかしくて、そのおかしさが僕はすごく好きだなと思いました。現実にこういう人達はいるだろうなと思わせて、でもこういう人達がまとまって集まることはなさそうだよなぁと思わせるような、そういう絶妙な空間を描き出している感じがします。
本作は連作短編と言ってもいい作品なのかもしれないけど、僕は各章に名前のついている長編だと解釈しました。ストーリー自体は本当に何が起こるというわけでもなく、些細な出来事がただ積み重なっていくだけなんだけど、登場人物のそのおかしさが、平凡な日常をことごとく変わったものにしているような感じです。あと、途中からオーリィさんはスープの研究をし始めるのだけど、それを読んでいると何だかスープが飲みたくなります。別にスープについて詳しい描写があるわけでもないんだけど、それを飲んでいる状況とか、飲んでいる人の感想とかを読んでいると、なるほどスープってのもなかなかいいなと思わせたりしてくれます。寒い時期になってきたし。暖房もぶっ壊れたし。でももちろん僕はスープなんて作るわけもなく、インスタントの味噌汁を美味しく飲んでるんですけど。
というわけで僕はかなり好きな作品です。これまで読んだ吉田篤弘の作品の中で一番好きかもしれません。僕としてはかなりオススメです。是非読んでみてください。

吉田篤弘「それからはスープのことばかり考えて暮らした」



夏への扉(ロバート・A・ハインライン)

未来は一体どうなっているかなと、特に興味を持って考えたことはないのだけど、まあ気にならないということもない。
例えば今から50年後の世界というのはどうなっているだろうか。
そういう予測というのは結構いろんな形で出てくるものだ。SF作家が未来を空想して描いてみたりだとか、映画で未来都市を描いてみたりだとか、あるいは政府が今後100年に実現しそうな技術を公表してみたりだとか、まあいろいろである。
しかし大抵そういうものは実現しない。
50年前の人がどんな未来を想像していたか知らないけど、でもなんだかすごいことを考えていたんではないかなと思う。空飛ぶ車が出来るとか、鉄腕アトムみたいなロボットが出来るとか、風邪の特効薬が完成するとか、月に移住してるとか、まあそんなようなことを漠然と空想していたのではないかなと思う。
しかしそういう未来は全然やってこない。空飛ぶ車を開発している人はいるみたいだけど実現には程遠いし、ロボットだって人間のようにスムーズに歩けるのが出てきてすごいとか言っているレベルである。相変わらず風邪の特効薬はないし、月に住むどころか、宇宙ステーションの構想だってまだ実現していないだろう。
僕は思うのだけど、要するに想像の範囲内の出来事というのは起こらないんじゃないのかな、と思ったりする。うーん、ちょっと言い方がおかしいかもしれないけど、要するに安易に思いつくようなものは実現しない、ということである。
例えば携帯電話のことを僕はよく考える。
50年前の人からすれば、携帯電話というのは想像もしなかったものではないかな、と思う。いつでもどこでも誰でも電話を受けることが出来るというのは想像の埒外だったのではないかな、と思うのだ。
しかし、それは技術的に想像が難しかったのかと言うとたぶんそんなことはなかっただろうと思う。何か機械を小さくする、持ち運べるようにする、というのはありきたりの発想で、可能かどうかは置いておくとして、それを想像することは比較的容易いはずなのだ。
しかしそれでもきっと、昔の人にとってはこの携帯電話というのは驚くような発想だと思うのだ。
何故そういうことになるかと言えば、要するに携帯電話なんていうものが必要になる社会状況そのものを想像することが出来なかったからだろうと思う。いつでもどこでも誰とでも連絡を取ることが必要になるようなそんな状況そのものを想定することがきっとなかったのだろうと僕は思うのである。
つまり僕らが未来に対して想像が出来るのは、今あるものを敷衍し、そこから派生した時の発想でしかないのである。車は既にあったから、それが空を飛ぶようになったら面白いなと考える。ロボットや風邪薬なんかは、単純にあったらいいなと想像できる。しかし、電話は既にあったから、じゃあこれが持ち運べるようになったらいいな、とは思わなかったのだ。思う必要がなかったのである。
そう考えると、僕らが未来に対して考えることも、現在からの延長線上にしかないだろうな、と思えてしまう。今の社会状況を考慮して、その先にどんな可能性があるかな、ということを考えるのである。しかし恐らくそうやって空想した未来はやってこない。何故なら、その空想の基盤にしている社会状況そのものがきっと大きく変わってしまうからである。
本当に、今から50年100年先はどうなるだろう。今の僕には想像の欠片さえ手に入らないような何かが生まれたりするのだろうか。あるいは技術革新は既に限界まで来ており、あとはそれらを組み合わせたりちょっと改良したりするような変化しかないだろうか。あるいは科学の世界でアインシュタインのような世界全部を丸ごと変えてしまうような大発見が生まれたりするだろうか。大統一理論が見つかったり、あるいはリーマン予想が解決していたりするものだろうか。
まあもちろん分からないのだ。そして、分からないままでいいのだと思うのだ。そのうち、焦らなくたって未来はやってくる。間をすっ飛ばして未来に辿り着いたって、きっと楽しくはないだろう。だからタイムマシンはそもそも不要なのだ。不要なものが開発されることもないだろう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
デイヴィスはピートという猫を飼っている。この猫、冬になると毎年、夏への扉を探し始めるのだ。それぐらい、冬が嫌いな奴なのである。デイヴィスの家には異常にドアがあり、ピートはそのどれから夏へ通じていると信じているのだ。
そして今僕も、まさに夏への扉を探しているところだ。まさに失意のどん底と言ってもいいくらい落ち込んでいる。あれほど心酔した婚約者に裏切られ、長年の友人に裏切られ…。今いるここからどこかへ行ってしまいたいような気分だ。
そんな折、むしゃくしゃした気分で酒を飲んでいると、ある広告が目に入った。
『冷凍睡眠保険』
要するに生きたまま冷凍され、ある一定期間後に解凍しようというのだ。それによって、要するに原理的には未来へと行くことが出来る。そうか、この冷凍睡眠を使えば、かつて婚約者だった女が年を食うまでずっと寝ていることが出来る。彼女のことを忘れるにはもうそれしかないんじゃないだろうか…。
というような話です。
本作はSFの定番みたいな作品のようで、作品自体も1979年に出ているのでかなり古いんですけど、まあそれなりに面白い作品かなと思いました。少なくとも、そこまで古さを感じさせる作品ではないな、と思いました。
いや、というかまあ古いは古いんですけど、それはSFの宿命みたいなものだと思います。本作では、執筆された時点での未来を描いているんだけど、まあそれはなかなかお粗末なものだと思います。しかしSFというのは未来を扱う作品が多くて、その未来の状況がお粗末だとやっぱり古さを感じるという構造からは抜け出せないと思います。そういう、未来を描く状況そのものの古さはありますけど、文章や作品全体のトーンと言ったものからは特別古さを感じないなと思いました。
話自体もまあそれなりのもので、冷凍睡眠とタイムマシンを両方使ってちょっといろいろやるという感じで、物語の後半でいろんなところに辻褄が合っていくのはなかなかいいなと思いました。タイムマシンの説明にはちょっと混乱しますけど。
ただ、会社だの株券だの法律だのと言った話が結構出てきて、そういう方面にはとことん疎い僕としては、そういう部分がどうにも冗長という感じを受けました。まあこれは僕の側の問題でしょうけどね。
というわけで、それなりに楽しめる作品だと思います。SFですが、ハードSFというのかそういうハードルの高いSFではなくて、まあファンタジーと普通の小説の間のような作品にSF的な要素を加えてみましたみたいな作品です。そこまで強くオススメはしませんが、まあ悪くないので読んでみてもいいと思います。

ロバート・A・ハインライン「夏への扉」



複雑系 科学革命の震源地・サンタフェ研究所の天才たち(M・M・ワールドロップ)

例えば、物理学と化学との違いは何だろうか?
どちらも、実世界に起こる出来事を対象にしている。手法は様々だが、対象を分解し、それぞれが『どうなっているのか』を調べることで、様々なものを解明してきた。素粒子や分子と言った小さなものから、宇宙や生命そのものと言ったところまで、大小さまざまなものを扱っている。そうなると、どうも物理学と化学の間にはそれほどの違いはなさそうな気がしてくる。
もちろん学術的には何らかの定義の差みたいなものがあるのだろうと思う。ノーベル賞にだって、ノーベル物理学賞とノーベル化学賞があったはず。どちらに含まれるかは、その研究が物理的なのか化学的なのかによるだろうし、となればそれぞれがどういう分野であるのか、という大体の定義みたいなものもきっとあるのだろうと思う。
しかし、考えてみれば、物理学と化学というのは小学校の頃はまとめて理科と呼ばれていた。地学や生物学なんかも全部まとめて、科学的なもの一切を含めて理科と呼んでいた。
結局のところ物理学と化学の違いというのは、人間がそうやって分類しただけだ、という違いでしかないのだと思う。当然といえば当然なのだろうけど、人間が物理学と化学に分けなければ、それはすべて科学と呼ばれただろうし、さらに遡れば、科学と哲学の境界すら曖昧だった時代があることだろう。さらに昔には、科学と哲学と宗教の違いさえなかったに違いない。それは結局のところ、人間がどうやって物事を分類したのか、という差でしかない。
では、経済学と生物学ではどうだろうか。
これは直感的には、人間の分類がどうのというレベルの話ではないように思える。どちらも、最終的には人間を対象にしているという共通点があるだけで、扱っている内容も解析する手法もまるで違う。物理学と化学の場合ならまだ親戚同士という感じもするが、経済学と生物学では畑違いもいいところであるように思える。
ただ、それを結びつけてしまったものがある。それが『複雑系』と呼ばれる分野である。
正直子の複雑系についてあれこれ書くことはすごく難しい。本書を読んでも、かなりレベルが高いということが分かるだけで、複雑系というものについて深いところまで理解するのは難しかった。なのでまあ、僕の理解の及ぶ範囲で複雑系というものについて書いてみようと思う。
そもそも科学というのはこれまで、還元主義的手法と呼ばれるやり方で行われてきた。この還元主義的手法とは何かと言えば、とにかく対象を細部にわたってバラバラに切り刻み、その細切れを解析していくことで全体を把握しよう、というやり方である。例えばそれは、かつて子供達がラジオをバラバラに分解してみせたのに似ている。分解することで、内部に使われている部品やその役割などを自分なりに理解し、その後新しいラジオを一から自分でくみ上げてみる。還元主義的手法というのは要するにそういうやり方である。
例えば物理にしても、人間はモノを分子や原子、はたまたクオーツと言ったものに分解をしてきた。脳科学者は、ニューロンやシナプスと言ったものを見つけ、そのそれぞれの役割を理解しつつある。生物学者はDNAを発見し、それぞれのDNAがどんな働きをするのか理解しつつある。
しかし、こうした還元主義的手法には限界がある。それは科学者も充分承知していたことだった。モノを素粒子にまで分解をしてみても、何故電子と原子が最適な形でお互い存在しあうのか分からない。いくらニューロンとシナプスの働きを理解しても、何故人が意識を持つのかが分からない。DNAをいくら調べてみても、何故人間という複雑な種が出来上がったのかわからない。
それでも科学は、それまでそうしてきたように、還元主義的な手法を貫き通すしかなかった。何故ならば、それ以外にどんなアプローチの仕方があるのか分からなかったからだ。これまでのように、対象を細かく切り刻み、細切れの部分を観察するということを続けてきた。
さてここで話は飛ぶが、ある一人の経済学者がいた。複雑系というのは科学の一分野であるが、しかしそれがまず最初に大きな成果を挙げたのが経済学においてなのである。その中心的な役割を果たしたのが、ブライアン・アーサーという一人の経済学者だった。
アーサーは古典的な経済学のあり方にどうしても疑問を禁じえなかった。古典的な経済学というのは要するに、様々な仮定を設けて、こういう仮定の上ではこうなるはずだ、ということを繰り返しているに過ぎない。その仮定は、数学的な処理を施すのに便利なものに過ぎず、現実的な問題に対して有効であるようには見えない。確かに、そうした仮定だらけの基盤を元に、経済学者は現実の問題にも考えを向けはする。しかしそれは、現実に起こっていることを説明するものではなく、経済学の理屈からすれば経済はこうなるはずだ、と言っているに過ぎない。経済学には何かもっと別なアプローチがあるに違いない、とアーサーは思っていた。
そんな中でアーサーは、『収穫逓増』という考え方を打ち出す。これは簡単に言ってしまえば、「持つものはさらに持つ」というもので、それまでの経済学の考えにはあまりなかったものである。アーサーはこの考えを押し進めようとすすのだが、しかしこの収穫逓増という考えは、既存の経済学者にはまったく受け入れられなかった。そんなものは存在しない、と一蹴である。それでもアーサーはその道を捨てずに行くが、なかなか実らない。
そんな折、サンタフェ研究所という新設の研究所から話が舞い込む。ここで研究をしないか、と。そしてアーサーはサンタフェ研究所に加わった。
そこでは、後々『複雑系』と名付けられるものについてさかんに議論が交わされていた。複雑系とは要するに、個々のあり方に注目するのではなく、その関係性に着目した時にどうなるか、ということを考えるものだった。アーサーは、この複雑系の考えを経済学にも応用出来るはずだと考え、そして最終的に新しい経済学を立ち上げることに成功することになる。
複雑系というのは、あるまとまりの中で、その中にある要素同士がどのように関係していくのかということを見る学問である。だからこそ、あるまとまりとその中に何らかの要素がある系であればどんなものでも研究の対象になる。経済学であれば、経済という世界の中で人間という要素がいかに動くのか。生物学であれば、人間という世界の中で一つ一つの分子がどのように関連し合っているのか。また人類学では、ある国という世界の中で人間という要素が人口というものについてどう振舞うのかを考えることも出来るし、コンピューターという世界の中で人工生命がどう振舞うのかということも考えることが出来る。複雑系というのは、既存の学問の境界をすべて取り払って、複雑系というステージでそれらを吟味することが出来る、そういうあり方なのである。
これは還元主義的手法とあまるで違ったやり方である。複雑系の手法では、物事を要素にバラバラにはせず、個々の関連を考えることで全体にどう影響を与えるのかを考える。これによって、今まで考えることが出来なかった難しい系(非線形と呼ばれる系)について考えることが出来るようになったのである。
複雑系というのは、本当につい最近、ここ20年ぐらいの間に現れ急速に成長をして行った分野である。その中心に、このサンタフェ研究所が存在する。研究所のあり方としてもかなり特殊で、いろんな意味で刺激的な場所である。そこで、分野も何も関係なく、様々な人がコミュニケーションを通じて複雑系というものについての見識を深めていく。本書は、そのサンタフェ研究所の創成期から複雑系というジャンルの発展までをつぶさに追ったドキュメンタリーです。
僕はこういう理系的な本をたまに読むのだけど、その中でも結構難しいかな、と思える作品でした。これは、著者の文章力がどうというような話ではなく、そもそも複雑系という概念そのものが難しいのだろうな、と思ったりします。
本書は、ただ複雑系について書いているだけの話ではありません。複雑系の研究に関わった主要な人間のエピソードや、サンタフェ研究所の喧騒なんかを伝えてくれる本でもあります。学術的な部分については結構難しいと思いますが、そういう人間を描いている部分はなかなか面白く読めるのではないかなと思います。
しかし複雑系というのはすごいなと思いました。言葉だけは知っていましたが、どんなものかはあんまり知りませんでした。複雑系というのが最初に大きな成果を挙げたのが経済学であるというのも面白いなと思いました。経済学という、普通は科学の範疇に入ってこないだろう分野まで取り込んで一つの流れの中で扱えてしまうというのが魅力的だな、と思いました。
また、人工生命に関する話もかなり面白いと思いました。プログラムさらた生命が学習を繰り返すことでプログラムとしてより精度が上がるという話は知っていましたけど、これも複雑系の話からきていたのですね。
というわけで、文庫で700Pぐらいあるのでかなり長いし、結構難しいことも書いてるのでついていくのは大変ですけど、でもなかなか知的好奇心を満たしてくれる面白い作品だと思いました。なんとなくもう絶版になってる気がするので手に入り難いかもですけど、機会があれば読んでみてください。

M・M・ワールドロップ「複雑系 科学革命の震源地・サンタフェ研究所の天才たち」




キッチン(よしもとばなな)

もし今僕がとても大切なものを手に入れたとしても、それをどうすることも出来ないだろう。
一番出来ないのは守ることで、守るということにかけては僕はもう何も出来ない。僕はもう本当に、何かを守るということにかけては最低の人間で、どうにもならない。ただ弱さをさらけ出して包んだふりをしたり、あるいは何も出来ずにオロオロしたりするだけである。
またそのまま放って置くこともできない。その大切なものと何か関わりたい、触れあいたいという感情をきっと捨てることは出来ないだろう。近くに置いて、でもそのまま何もしないで置いておくというのはやっぱり出来ないだろう。
一番出来そうなのは、それを壊してしまうことだけど、しかしそれも難しいだろうな、と思う。大切なものだからこそ壊してしまうという感覚は僕には分からないでもないし、そういう発想はアリだと思うけど、だからって自分に出来るということにはならないだろう。一思いに壊してしまえばきっとすべてがうまく行くような気がしても、やっぱり壊してしまうことは出来ないに違いない。
結局そうやって、自分にとってとても大事なものを手に入れることが出来たとしても、僕はそれを手に持って困惑するだけでどうにもならないに違いない。どうしよう、と考えるだけで人生が終わってしまうかもしれない。前に一歩踏み出そうとするんだけど、どっちが前なんだか全然分からないみたいな感じ。どっちに進んでみても後から後悔しような感じ。でも、留まっているだけというのもどうしようもなく後悔することは分かっていて、でもそれ以外に何も出来ない、みたいな。
そう考えると僕は、大切なものを手にすることをこれまで避けてきたのかもしれないな、と思う。というか、自分の身の回りにあるものが大切でいとおしいものにならないように気を配ってきたのかもしれない。いつでも手放せる、というかそうじゃなくて、そもそも全部自分のものじゃない、自分には属していない、すべて切り離されていて僕とは関係ない。そんな風に思いながら生きてきたのかもしれない。
それは少しだけ孤独を強めるけど、だからってどうってことはない。1.00が1になったぐらいの変化しかなくて、本質的にはきっと何も変わっていないはず。というかそう思いたい。
自分の身軽さを、僕は割と好んでいる。何も属さない、何も所有しない、何も見に付けない。そうやってどんどん身軽になった僕は、それでも結局空を飛べないんだな。別に空を飛びたいわけでもないんだけどさ。身軽になったって人間はやっぱり空は飛べないって話。だったら身軽じゃなくたっていいのかもね、なんて思ったり。
まあ今さら身軽じゃない自分なんて想像できないけど。僕はずっと月に住んでいたのかもしれないし、そう錯覚し続けてきたのかもしれない。今さら地球の重力には戻れないよ、みたいな。でも結局それだって、月に縛られて生きている。いくら身軽でも、すべてから身軽ではいられないって話。
守るべき存在や戦うべき相手が僕の周りにもいるのかもしれない。でも僕はそれを見ないふりをする。月の重力だって僕には重いんだ。これ以上、何かを持って生きることは、きっと出来ないんだろうな。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、3編の短編が収録された短編集になっています。

「キッチン」
桜井みかげはキッチンが大好きだ。どこで眠ればいいのかいろいろ探っていると、キッチンに辿り着いた。そのくらい好き。両親はあっさり若死にし、ついこのあいだおばあちゃんも死んだ。まるっきり、一人っきり。一人で住むにはこの家は広すぎる。
そんな折、田辺雄一と名乗る男性がやってきて、ウチに住まないか、という。彼はおばあちゃんがよく行っていた花屋でアルバイトをしていた青年で、おばあちゃんにはよくしてもらったからという理由で葬儀の手伝いにやってきたのだった。私は何も考えずに彼の誘いに乗り、結局そのまま彼の家で、彼の母親(?)と一緒に住むことになった…。

「満月-キッチン2-」
田辺雄一の母親(?)が殺されたらしい。電話の向こうでそう彼が言っている。ちょっと前の話らしく、葬式なんかは終わってるらしい。どうしても私に連絡することが出来なかった、申し訳ない、と彼は言う。
既に私は彼の家を出て、とある料理研究家の元で働いていた。しばらくぶりに彼の家に行ってみることにした。そこには、すっかり憔悴しきった彼がいて…。

「ムーンライトシャドウ」
なんのことはない、修学旅行の時に何の気なしに渡した鈴が、私と等を結びつけた。私達は付き合うことになった。そしてしばらくして彼は死んだ。
二度と会えない彼のことを思って川の近くにいると、一人の女性が声を掛けてきた。なんだかよくわからない人だけど…。

というような話です。
さてよしもとばななの代表作でかなり評価の高い作品ですけど、僕はあんまりそこまでどうという感じでもなかったかな、という作品でした。もう少し若い頃に読んでたら分からないですけどね。中学生とか高校生ぐらいの頃に。
まあ淡々としている感じで、ちょっと変わった雰囲気を持つ登場人物が出てきて、ちょっと変わった日々を送っているみたいな話で、別に嫌いじゃないけど、そこまで高い評価っていうのがあんまり僕には実感できない感じの作品でした。
でも文章は綺麗だな、と思いました。一個一個の単語は別に難しい言葉とかは使っていなくて、どこにでもありふれた普通の単語なんだけど、それをどうにかして組み合わせて綺麗な文章に仕立てている感じです。ちょうど、ビーズ一つ一つではそこまで綺麗ではないけど、それで首飾りだとかを作るとすごく綺麗なものが出来るみたいな、そんな感じでした。
「キッチン」と「満月-キッチン2-」はまあまあだと思ったんですけど、「ムーンライト・シャドウ」はどうもよく分からない感じの話でした。まあ眠くてちゃんと読めていなかったというのもあるかもだけど。
まあもはや古典と言ってもいいぐらいの作品になったけど(別にそんなに古くはないけど、イメージとして)、まあ僕としてはそこまでオススメという感じではないですね。まあとりあえず読んでみよう、という感じだったのでこんなもんかなとは思いましたけど。

よしもとばなな「キッチン」



死者のための音楽(山白朝子)

僕はいつも、地位や名声なんかは欲しくないと思っている。金持ちになったり誰からも名前を知られるような人にはなりたくないと思っている。
それは、青臭いことを言うように思われるかもしれないのだけど、そうなることで本当の自分というものを失ってしまうように僕には思えるからだ。
例えば僕が大金持ちになったとしよう。そして周りの人間もそれを知っているとする。そうした場合、僕は通常の人間関係を維持していくことがほとんど出来ないだろうな、と思うわけです。
何故なら、例えば誰か新しい人と知り合うような場合、『この人は僕が大金持ちだから近づいてきたのかもしれない』という疑念を振り払うことが出来なくなってしまうからです。もちろんそういう人はたくさん出てくるのでしょうが、でも間違いなくそういう気持ちのない人だって僕の周りには集まってくるだろうとは思います。しかし、どうやっても僕にはその区別が付けられないだろうな、と思います。僕の周りに来るすべての人が、僕が大金持ちだからこそ近づいてくるのであって、僕自身に興味があったりするわけではないのだろう、という風に考えてしまうと思います。
地位や名声を得ても同じことで、つまりそういうものを持っている僕を何らかの形で利用してやろう、あるいはそこまでいかなくても、近くにいれば何かいいことがあるかもしれない、というような人が集まってくるのではないか、という考えをどうしても抱いてしまうと思います。自分が、他の人が持たざるものを持っているからこそ、周りに人が集まってくるのだろうという風に考えてしまうはずです。
そうなると結局、僕がそうなる前に知り合っていた人としか安心して人間関係を築くことが出来なくなりそうな気がします。以前からの人間関係にしても、微妙な変化を曲解しては、自分の変化と結びつけて考えてしまうようになるかもしれません。
もちろん大金持ちになったり地位や名声を得ることで物質的には得するだろうとは思います。今まで体験できなかったことを体験できるようになるだろうし、見たことのないものや触れたことのないものに出会えるかもしれません。そういう点ではもちろん悪くはないのかもしれませんが、しかし問題は、僕にはそういう物質的な欲求というのがあまりないということですね。だからどうしても、大金持ちになったり名声を得たりするということのメリットが自分の中であまり見出せないなと思います。まあもちろん、そんな風になれるだけの素養が僕にあるかと言えばないので、こんな心配をする必要は全然ないんですけどね。
まあどんなものでもそうなのだけど、僕はレッテルを貼られるというのがすごく苦手なのだなと自覚しています。例えば僕がお金持ちになったとしたら、周りの人間は僕をそう認識するでしょう。僕はお金持ちだというレッテルを貼られることになります。そうなると、ありとあらゆる関係性がそのレッテルを基準としたものになってしまいます。誰かに褒められても、誰かに貶されても、それらはすべて僕がお金持ちというレッテルを貼られたからだろうな、と僕は解釈してしまうだろうな、と思います。
僕はもうその状態がかなり行き着いてしまっている感じがしています。というのも、昔から誰かに褒められるというのがあんまり得意ではなかったからです。
今でもそうですけど、誰かに何か褒められるとなんとも言えない感じになります。嬉しくないわけではないんですけど、同時に自分は褒められるべき人間なんだろうか、というような思考が出てきます。つまりこういうことです。僕は、自分では知らないけど何らかのレッテルを貼られていて、そのレッテルによって褒められているだけなのではないか、と。自分の中で架空のレッテルを想像してしまい、そのレッテルがあるから自分は褒められているのではないかという不安が過ぎるわけです。だから今でも僕は、人から褒められてもそれを素直に受け取ったりすることが出来ないでいます。
だから僕は人生の中で、装飾となるような部分を殺ぎ落とすようにして生きてきた感じがします。自分のレッテルになりそうなものをなるべく取り除いて生きてきたようなそんな感じがします。そうやって様々なレッテルの可能性を排除してもなお、架空のレッテルを意識しないではいられないわけです。もし自分が、お金持ちだとか権威だとかいうようなレッテルを持つようになったら、本当に大変だろうな、と思います。
僕は将来的に作家になれたらいいなとは思っています。まあ恐らく無理だとは思いますが、まあ夢ということで。しかし作家になるということは、ある種権威的なものを必然的に見に付けてしまうような感じもあります。それをなんとかして払拭出来たらなと思うわけですけど、そんな心配をする前にまず小説でも書けよって話ですよね。はい、その通りだと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、謎の覆面作家山白朝子の初の著作で、怪談専門誌「幽」に連載されていたものをまとめたものです。7編の短編が収録されています。

「長い旅のはじまり」
寺に来て間もない頃の話。村の者ではない少女が寺にやってきました。少女の腹には小刀が突き刺さっており、父親が襲われて殺されたと告げました。その少女の手当てをし、寺に住まわせてあげることにしました。
しばらくするとその少女が妊娠しました。ただ少女は誰とも経験がないといい、産婆もそれを支持しました。少女は、何故か突然に妊娠したのです。
しばらくして少女は男の子を産みましたが、何とも不思議な男の子でした。海に行ったこともないのに海のことを知っており、誰も教えたわけでもないのに独特の経を知っていました…。

「井戸を下りる」
私の父は高利貸しを営んでいた。金を返さない人間には容赦がなく、父ではあるけれどもかなり恐れていました。ただ、父の機嫌を損ねさえしなければ自由気ままでいられました。
ある時父を怒らせてしまい、慌てた私はふとした拍子に見つけた井戸の中に隠れることにしました。途中で足を滑らせて落ちてしまいましたが、しかし驚くべきことに次に目が覚めると私は布団の中おり、近くに一人の美しい女性がいました。雪というなのその女性は、井戸の底に住んでいるのでした。
それから私はしばらく雪の元に通うようになりました。雪に惹かれている自分に気づきました。日々雪と別れがたくなっていきます。
しかしそうこうしているうちに、私に縁談の話が舞い込んできました…。

「黄金工場」
村と工場の間には森があって、そこを突き抜ければ工場までの近道になる。工場では千絵ねえちゃんが働いていて、その姿をひとめ見ようと、僕はその森を突っ切っていくことにしました。
そこで僕は、黄金に輝くコガネムシを拾いました。ずっしりと重く、千絵ねえちゃんにあげようとしましたが、何故か受け取ってはくれませんでした。
その黄金のコガネムシが母に見つかり、どうしたのかと問い詰められました。母を連れて拾った場所まで行くと、他にも黄金に輝く様々なものを見つけることが出来ました。黄金のちょうちょや黄金のミミズなどです。僕と母はそれらを熱心に拾い集めてはお金に替えていきました。どうやら、工場から出る排水に生き物が触れると黄金に変わるようなのですが…。

「未完の像」
その少女は元々師匠を訪ねてきた。仏像の彫り方を教わろうということだったようだ。師匠を待つ間手慰みに彫っていた鳥はまさに素晴らしい出来だった。結局師匠が戻る前に少女はいなくなってしまった。
翌日もやってきた少女に、弟子を増やす余裕はないという師匠の意向を伝えると、なら私に教えて欲しいと言う。結局私はその少女に仏像の彫り方を教えてあげることにした。少女は旅人を既に三人も殺し、追っ手に追われているのだという。捕まる前になんとか仏像を一体彫り上げたいということらしいのだが…。

「鬼物語」
夜桜を見に集まった人々が無残な姿で殺されるという出来事がかつてあった。また、山に行った子供達の首だけが川を流れてきたこともあった。山に背負われた小さな村だ。村人たちは、熊の仕業だろうと言っていた。
しかし父は、あれは鬼の仕業だという。父は、その夜桜見の時の唯一の生き残りだった。父は鬼の姿を見たのだそうだが、しかしそれを誰も信じようとしなかった。もちろん私も。
そのうち、山を焼いて熊を殺してしまおうという話になるのだけど…。

「鳥とファフロッキーズ現象について」
山の裾に構えた一軒の家。作家である父が執筆に専念するために建てたのだ。その庭で、怪我をしている大きな鳥を見つけた。カラスのようだけどワシにも似た今まで見たことのないような鳥だった。父と私はその鳥を助け、家で飼うことにした。
その鳥は不思議な力を持っていた。例えばリモコンを取りたいなと頭で考えると、その鳥がくちばしにリモコンを咥えて運んでくれるのだ。
そんなある日、父が殺された。銃で撃たれて。鳥も重症を負った。鳥は以前のように私の前には姿を現さなくなったが、しかし以前と同じように私が欲しいものを空から落としてくれた…。

「死者のための音楽」
娘と母親の対話である。
母は子供の頃から少し耳が遠かった。それで両親を恨んだことはないが、しかしそれが原因でよく両親は喧嘩をした。家にいたくなかった母が川の縁で時間を潰そうと考えたのだが、誤って川に落ちてしまった。
その時だった。母の一生を支配することになるあの音楽を耳にしたのは。それは、川の中に落ちた母親の耳にすーっと入り込んできて離れなかった。
それから母親は音楽を聞くようになった。あらゆるレコードを買っては、その時聞いた音楽を探そうとした。あるいはラジオで。しかしそれはどこにもなかった。
もう一度だけその音楽と出会うことになる。父を喪った、あの事故の時に…。

というような話です。
いい作品でしたねぇ。新人とは思えない作品です…、なんて白々しいことを書いても意味がないので止めますが(笑)。いやホント相変わらずいい作品でした。せつないホラーというのがうまく描き出せていますね。
一番好きな話は「鳥とファフロッキーズ現象について」です。これはかなりよかったです。自分が頭の中で欲しいと思ったものを持ってきてくれる鳥の話で、ホラーの要素ももちろんありつつ、全体として酷く哀愁の漂う感じの作品でした。落しどころもなかなかのもので、巧いなと思いました。ある状況に置かれた主人公が鳥と対峙するところなんか哀しくて仕方ないですね。
また「井戸を下りる」もかなりよかったですね。特別何が起こるというわけでもないストーリーなんですけど、伏線が巧く繋がっているし、なんとも言えない奇妙な落ち着き先もらしくていいなと思いました。そもそも井戸の底に部屋があって人が住んでいるなんて設定がいいじゃないですか。
あとホラーという点では「黄金工場」がなかなかのものだと思います。まさに、一番怖いのは人間だ、というような話で、いやもちろんそういう展開を予想しないではなかったですけど、それでも怖いなと思いました。いつものような独特の暖かいのか冷たいのかよく分からない文章だからこそ、その怖さが余計引き立っているようなそんな感じがしました。
他の話もかなりいいですね。唯一、「鬼物語」だけがちょっと微妙かなという感じはしました。しかしどれもかなりいい話で、さすがだなという感じがしました。
とまあここまで僕の文章を読んだ人は、「『相変わらず』とか『いつものような』とか書いてるけど、山白朝子なんて作家聞いたことないし、この作品は作家のデビュー作なんでしょ?」というような疑問を抱いているのではないかと思います。まあその話を少し。
この山白朝子という作家は、ある超有名作家が別名義で出している、という噂があるわけです。僕もその噂を知ったのはつい最近で、この作品は2004年から雑誌に連載されたものをまとめていたわけで、つまりその間まったく僕の耳には入ってこなかった話です。だからまだまだ一般には噂さえ広まっていないような感じだと思いますが、とにかくそういう噂があるわけです。本作を読めば、あぁあの作家の作品だなということが恐らく分かると思います。ヒントとしては、日本一画数の少ない作家、と言ったところでしょうか(笑)。しかしまあ、著者略歴がふざけてますね。

『1973年大分県生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。2005年、怪談専門誌「幽」で作家デビュー。趣味はたき火。』

まあらしいと言えばらしいですけどね。
まあ何でそんなことをしたのか定かではありませんが、個人的な憶測として前書きのような文章を書いてみました。まあどうでしょうね。しかしこの作家の新作を待ちわびていた身としては、まあ名義なんてどうでもいいかと思ったりもしますけどね。
まあそんなわけで、かなりオススメです。是非読んでみてください。ホラーとは言いますが、怖いという感じでは決してありません。切なくなるような怖さという感じです。相変わらずいい雰囲気の作品を書きます。是非読んでみてください。

山白朝子「死者のための音楽」



アイランド(葉月堅)

自分が自分であるというのは、さて一体どういうことだろうか。これは哲学だろうか。哲学的ではあるかもしれない。少なくとも僕には哲学をしているつもりはないのだが。 例えば僕は、1983年3月29日生まれで、血液型はA型で男性。大学を中退し、今はフリーターとして本屋でアルバイトをしている。趣味は読書。まあそんな人間である。 しかし、そういうことによって僕という人間が定まっているというわけではない。 僕は1983年3月29日生まれであるらしいが、それは僕には確かめようがない。たぶん正しいのだろうが、しかし1983年3月29日に生まれたから僕が<僕>であるということはない。血液型も同じで、たぶんA型なのだろうがそれは僕には確認しようがない。また、A型であるからこそ僕が<僕>であるということではない。本屋で働いているから僕が<僕>であるということもないし、趣味が読書だからといって僕が<僕>であるということにはならないのである。 結局それらは、存在そのものに後から付け足された要素でしかないのである。僕には、1983年生まれで…、というようなラベルが存在するが、しかしそれは中身を示すための表示でしかなく、中身そのものではありえない。 例えばそれはこんなことを考えてみると分かりやすいかもしれない。僕は昔実家にいた頃、自分の自転車に名前や住所を書いていたのだが(僕らの頃はそれが普通だった。今ではそんなことをしている人はほとんどいないだろう。個人情報がやいのやいの言われるようになった時代だ。あるいはそれは時代の問題ではなく、地域の問題なのかもしれないが)、しかし自分の名前や住所を書いたからその自転車が僕のものであるというわけではない。その自転車はある瞬間から明確に僕のものであるという存在を有する。それは僕は自転車に自分の名前や住所を書くかどうかということとは無関係の話である。自分の名前や住所をその自転車に書いたからその自転車が僕のものになった、ということではないのである。 僕らの存在はまさにその自転車のようなものである。僕らという存在は、自転車に自分の名前や住所を書くようにして様々に後付けの要素を獲得していく。しかし、だからといってそれらによって僕らの存在が保証されるということでは決してない。それら後付けの要素とは関係ない部分で 、僕らは何か明確にアイデンティティを保有しているはずなのである。 しかしそう考えると、僕が<僕>であるということは一体何によって支えられているのだろう、と思う。後天的に見に付ける要素ではない、人間として核となるような、そういうものは一体何なのだろうか、と。 話は少し変わるのだが、僕が中学生だか小学生だかの頃、毎日の予定を書き込み、かつ日記のようなものを書いて担任の教師に毎日提出する<コギトノート>なるものが存在した。何故そのノートが<コギトノート>と呼ばれるかといえば、そのノートの表紙の部分に「コギト エルゴ スム」という文字がどこかの言葉で書かれているからである。それは日本語では、「我思う、故に我あり」と訳されるようである。 これはデカルトという哲学者が言った言葉であるらしい。つい最近僕は「翔太と猫のインサイトの夏休み」という本を読んだのだが、その中で著者の竹内均がこの「我思う、故に我あり」という話にも触れていた。 デカルトという人は、まずありとあらゆるものを疑うところから始めたのだそうである。例えば自分が見ている物。これは本当に自分の目の前にあるのだろうか。ないかもしれない。それは目という感覚器が自分に見せている幻覚かもしれない。確かに触ることも出来る。しかしその触覚さえ幻覚かもしれない。そういう風にして彼は、ありとあらゆるものの存在をとにかく疑っていった。そうすると、世の中のほとんどすべてのものを疑うことが出来ることに気が付いた。 しかしその中でデカルトは気づくのである。例えば目の前にリンゴが<見えている>として、それに<触れもする>としよう。しかし実際そのリンゴが目の前に<存在する>かどうかは自分には分からない。しかし、自分が目の前にリンゴがあると<思う>ことだけは疑いようがない。実際目の前にリンゴがあるかどうかは分からないが、それがあると<思う>ことだけは疑いようがないではないか、ということに。 だからこそデカルトは、<自分がそう思う>ということこそ唯一正しいものであり、それこそが人間のアイデンティティそのものである、と考えたようです。それを受けて、「我思う、故に我あり」という言葉に結実したということのようです。 これを読んで僕は、なるほど哲学というものの手に掛かると自分の存在の原点というものはそんなところにまで行き着いてしまうのだな、と思ったわけです。このデカルトの考え方も哲学の中の一つのあり方でしかなく、他の考え方ももちろんあるのだろうけど、哲学という土俵で考えるとちょっと難しくなりすぎるなと思いました。 結局のところ、僕には分かりません。僕が<僕>であることを支えるものが一体何なのかよく分からないですね。例えば今この瞬間に僕の外見がキムタクそのものになったとしましょう。だとしても、僕は<僕>であるということには変わりません。周囲の人間にはそうは見えないかもしれないけど、少なくとも僕にとっては<僕>であることに変わりはありません。それはある意味でとても不思議なことで、しかし一方でそうであるからこそ僕らはこうして生きていけるのだろう、とそんな風にも思うわけです。 結局のところ、深く考えすぎないという姿勢が一番なのだろうなと思います。要するに、僕が<誰>であろうと、まあそんなことはどうでもいいわけです。本作でもそんなようなことが書かれます。自分が誰であるのかということを何かに求めるのではなく、それは自分自身で獲得していくべきものなのだ、と。本来的なあり方としての<自分>というものに囚われるのではなく、後天的に獲得する要素としてのアイデンティティをもっと強く持つべきである、と。確かにそうだな、と思います。「我思う、故に我あり」なんてところまで行き着いても、結局のところどうにもならないことには変わりないわけですしね。 そろそろ内容に入ろうと思います。 本作は、デフォーという作家が物した「ロビンソンクルーソー」という小説とリンクさせている作品です。というか、デフォーそのものをストーリーとして描いている、という感じです。まあそれだけではないのですが、その<それだけではない>部分についてはとりあえず触れないということにします。 デフォーはセルカークという男から、自分を小説の題材にしてくれというような話を受ける。セルカークは遭難した末に無人島に辿り着き、そこで5年間も一人で暮らし続けたというのです。その話に興味を惹かれたデフォーは、セルカークの話を物語にしようと考えている。 しかしそこにセルカークの妻と称する女性がやってくる。何でもセルカークの話を物語にするのを止めて欲しいということだった。というのもセルカークの話はすべて嘘だからというのである。 詳しい話を聞くとこうだ。セルカークは乗っていた船で叛乱を起こし、そのために囚人として島に取り置かれた。しかしそれを助けたロビンソンクルーソーという男がいて、それからいろいろあって戻ってきた、とそういうような話らしい。 デフォーはそのロビンソンクルーソーなる男の話にいたく惹かれた。彼はイギリス人であり、セルカークがその島について時点で既に30年以上も一人でその島に住み続けてきた男であるという。もしそれが本当だとしたらそれはすごいことだ。しかしその女の話を鵜呑みにするわけにもいかない。とりあえず気になる話として留めておくことにした。 その後、ホガースという画家がやってきて、今街で話題になっている見世物があると伝えにきた。それは西インド諸島からやってきたという人喰い人種であり、フラーデーという名前なのだそうだ。そういえばセルカークの妻の話にも人喰い人種の話が出てきた。そういうこともあってデフォーはその見世物を見に行くことにしたのだ。 しかしそこでデフォーは驚いた。そのフライデーなる男と話す機会があったのだが、彼はなんとロビンソンクルーソーを知っているというのである。というか、ロビンソンクルーソーとフライデーの父親が一緒にどこかに行ったきり戻って来ず、それを探すために遠くイギリスまでやってきたということらしい。 ここに来てデフォーは俄然興味を駆り立てられた。ロビンソンクルーソーというのは何者なのか?本当に一人で何十年も無人島に住み続けていたのだろうか?彼はロビンソンクルーソーについて物語を書きたいと思い、何でもいいから情報を知ろうとするのだが…。 というような話です。 なかなか面白い話でした。僕の内容紹介だけだと、実在の人物を登場人物に据えたただの小説であるように思えるでしょうが、これが違いますね。後半、驚くような展開になります。僕はちょっとびっくりしました。なるほど、こういう構造の小説なのか、そしてなるほどこんな展開だったのか、という驚きがありました。しかも前半と後半が見事に繋がっていて、新人とは思えない感じがしました。 僕はこの「ロビンソンクルーソー」という小説は読んだことがないんですけど、デフォーというのは実在の作家のようだし、フライデーというのも実際「ロビンソンクルーソー」の中に出てくるのだそうです。 この作品は1996年に出版されているのですけど、なかなか時代を先取りしていたのではないかな、と思います。というのもちょっと前に、ロビンソンクルーソーは実在した、ということを日本人の探検家が示して見せたというようなことがありました。どういう経緯なのか詳しいことは知らないのでなんともいえないですけど、フィクションだと思われていた物語から実在を証明したという意味では、シュリーマンに近いものがあるのかもしれないな、と思いました。 本作はその、ロビンソンクルーソーが実在したという話が明確になるよりもずっと前に出されていた本です。本作の中でも、ロビンソンクルーソーが実在したのだ、ということを示すような流れになっています。それが後半に繋がっていくのですけど、なるほど面白い作品だな、と思いました。文章もなかなかこなれていて、新人作家にしてはなかなか上質という感じがしました。著者略歴には三重大学人文学部助教授となっていて、それで文章がなかなかよかったりするのかもしれません。翻訳家としても数冊著作があるようです。 全体的に意欲的で非常に面白い作品で、また文章もかなりしっかりしています。日本ファンタジーノベル大賞という、畠中恵や森見登美彦、あるいは酒見賢一や佐藤亜紀を輩出したかなりレベルの高い賞ですが、本作も多少劣るとは言え、なかなかいい作品ではないかなと思いました。是非読んでみてください…。と言いたいところなんですけど、それはなかなか難しいかもしれませんね。文庫にはなってないし、恐らくハードカバー版も絶版でしょう。古本屋で見つけるか、ネット書店で在庫を探すか、あるいは図書館で探すか。いずれにしても普通にはなかなか手に入らない作品だろうと思います。まあ興味のある人は頑張って手に入れてください。 葉月堅「アイランド」

ワセダ三畳青春記(高野秀行)

僕は、大学入学と同時に上京し、既に一人暮らしを始めて6年ぐらい経っていると思うのだけど、しかしその間一度も風呂掃除とトイレ掃除をしたことがない。
と聞くとどんな風に思うだろうか。「汚い!」とか「ありえない!」とか言われそうである。まあしかしそれは誤解である。
正確に書けばこうである。一人暮らしをしてからこの方、部屋に風呂とトイレがあったことがない。そう、なかなか僕もトリッキーな住環境の中で生活をしているのである。
これまで二つの物件に住んだことがあるが、どちらもまあ変わっていると言えば変わっている。
初めに住んだのは、いわゆる学生ハイツというところだった。男だけが住めるところで、トイレは各階のフロアにあり、風呂は地下に大浴場があった。コンビニみたいな売店やコインランドリー、テレビ室に卓球室など様々あって、しかも大学まで歩いて徒歩5分という最高の場所だったため、在学中はずっとそこに住んでいた。もともと病院だったという噂があって(卓球室は昔霊安室だった、という噂もあった)、それと関係があるのか部屋が結構狭かったが(押入れがなくて5畳ぐらいだったかな、確か)、僕としては何の不便も感じなかった。友人に同じくその学生ハイツに住んでいた男がいたが、「女子を連れ込めぬ」と言って別の場所へ引っ越して言った。まあ賢明な判断である。僕にはその賢明さが欠けていたというか、賢明であろうとしなかったというか、まあそんな感じでずっと住み続けていたのだ。
その学生ハイツ時代はまあいろいろあったなぁ、と思い出す。その記憶はほとんど、当時在籍していたサークルと密接に関わってくるものばかりであるが、とにかくなかなか思い出深い。入ってすぐのところにロビーがあって、そこでひたすら打ち合わせをし続けたり(しかし、恐らく僕らがあまりにもその場所を使いすぎたため、ある時から外部の人間がロビーにいられる時間が制限されることになった。昔は毎晩徹夜で使ったりとかしていたのだが)、小さな会議室みたいなところを借りて作業をしたこともあるし、みんなでカレーを作ったこともある。ある期間サークルの連中が激しく徹夜をするような時期があり、その間その学生ハイツの大浴場によく入りに来ていた男もいる。彼は僕の部屋に、風呂道具一式を借りに来るのである。
また当時の僕の部屋がとにかくすごかった。無茶苦茶汚かったのである。どれぐらい汚かったかというと、ベッドの上に物を置きすぎたために、毎晩床で寝ていたほどである。足の踏み場もないというのはまさにあの状態で、今思い出してもすごかったな、と思う。
また、僕が計半年にわたって引きこもっていた部屋でもある。僕なりにまあいろいろ大変な時期ではあったし、周りにも多大な迷惑を掛けたのだが、しかし懐かしいなぁ、という風にも思う。
また、僕は大学を中退して一度実家に戻ったのだけど、実家があまりにも嫌過ぎて何度かプチ家出的なことをしたことがある。その際、この学生ハイツのロビーに寝泊りしていたこともある。もちろんしばらく居座っていると常駐している管理人の人にばれて追い出されてしまったのだけど、見つからないようにうまくやれば、あそこに住み続けることはきっと不可能ではないな、と僕は思ったものである。
さてそんなわけで学生ハイツを去り、今住んでいるこの部屋に行き着くのだけど、これはまさに行き着いたという感じの流れであった。
一時期実家に強制送還されていた僕は、しかし実家での生活があまりに嫌過ぎて、さっきも書いたけど何度もプチ家出を繰り返した。そして最終的に我慢の限界に達し、やはり実家を出ることにしたのである。僕は元来行動力はゼロで、行動しないことに掛けてはかなりの自信家なのであるが(そんな自信家は嫌だが)、しかしその時は頑張った。とりあえず簡単な荷物だけ持ってこっちへやってきて、友人宅にしばらく泊めてもらうことにした。
さてそれで部屋を見つけるという話になるはずなのだが、実際はそうではなかった。僕はまずとりあえず仕事を決めることにした。とにかく本屋で働こうということだけは決めていて、それで特に理由もなく今のバイト先に決めたのだが、それから家を探すことにしたのだ。
僕が使ったのはネットである。
とにかく当然のことながら金がない。金がなくてはどうにもならないので、一番初めの引越し資金だけは親に出してもらうしかないだろうが、それにしたって安いに越したことはないだろう。
そんなわけでネットで、とにかく家賃が安いという条件とバイト先周辺というだけの条件で検索をして見つけたのが今住んでいる部屋である。
家賃2万5千円。
この時代にどんだけ安いんだ、という話である。本作に出てくる「野々村荘」は三畳の部屋と四畳半の部屋があるらしいのだが、著者が後年住んだ四畳半の部屋の家賃が2万2千円だそうだ(ちなみに三畳の部屋は1万2千円)。僕の部屋は6畳一間プラス流し台と押入れであり、かなり広い。実質8畳ぐらいある感じだ。それで、著者が住んでいた四畳半と3千円しか違わない。驚異的である。
著者も入居はかなりノリで決めたようだが、僕もまあ同じようなものである。とにかく安ければ何でもいいか、と思っていた。それでも敷金だの何だので引越しに10万くらい掛かったような気がするのだけど、まあ上出来ではなかろうか。
それ以来ずっとここに住み続けている。別にすこぶる快適というわけではないが、しかし特に不満もなく、総合的に満足していると言っていい。確かに風呂がないのは不便だな、と思うことはある。あるがしかし、僕は一方でこうも思う。もし自分の部屋に風呂があったら、結局シャワーを浴びるだけで終わらせてしまうだろうな、と。基本的にめんどくさがり屋なので、浴槽に湯を溜めるなんて生活はしないだろう。しかし僕は基本的に湯に浸かりたいし、なんとなれば足を伸ばして風呂に入りたい。一人暮らしを始めて以降、その欲求は常に満たされてきた。銭湯に行く手間はあるし、しかも僕が入る時間帯がちょっと微妙で値段も若干高いと思うのだけど、まあいいやと思っている。
しかし別にここに住み始めて以降、特にすごい出来事があったということはない。前一度、隣に住んでいる人に、テレビを貸してくれ、と言われたことはある。何でも、自分の部屋のテレビが映らなくなったとかで、テレビが原因なのかアンテナ関係が原因なのか分からないから、ウチのテレビを持っていって配線に繋ぎたい、とかなんとかそんな話だったと思う。その時僕がどうしたのか正確には覚えていないのだけど、でも確か貸したような気がする。その隣人は既に引越し、今僕の隣に住んでいるのは日本語が巧い中国人である。しかし一度顔合わせをしただけで、それ以来姿を見たことがない。東工大の学生で、しかも留学生の試験ではなく日本人と同じ一般の試験を受けて入った、というようなことを大家さんが言っていたと思う。もの凄く頭がいいのである。
あとこれは大家さんから聞いた話なのだけど、店子の中に一人ちょっと変わった人がいるらしい。以前大家さんは、好意から自分の家の洗濯機(家の外にある)を店子の人にも使わせてくれていた。しかし、まあ事情はよく知らないがそれを使わせないことになったようで、まあ僕としては仕方ないと思って近くのコインランドリーに行くのだけど、ある店子はそれに納得がいかなかったようで、洗濯機を自分に使わせない限り家賃は払わない、と宣言をしたらしい。その後この問題がどうなったか知らないが、よく分からない人間はいるものだと思ったものである。
あとそういえばちょっと前に、どこかの宗教の人がやってきた。僕が住んでいるところは、大家さんの自宅の敷地内と言ったようなところにあって、そこにアパートがあると知っている人間でなければ他人が入り込んでこないようなところにある。だから新聞の勧誘も来たことがないし、なんとNHKの集金も来たことがない(しかしもちろん郵便は届くぞ)。学生ハイツ時代もそういう勧誘的なものは入口の詰め所ですべて排除されていたので、僕はそういうものとはほぼ無縁の生活を送ってきたのである。
だから宗教の変な人が来た時は少なからず驚いた。宗教の人が来たことよりも、よくここまで入り込んだな、という感じである。まあ別にその人達は勧誘とかに来たわけではなく、発行している雑誌を手渡し、神に感謝云々というようなことを言って去っていったが、まあ僕の中で事件と言えば事件である。
あとここ最近の僕の関心といえば、ネズミである。
ちょっと前に僕は二度もネズミの姿を部屋で見かけたことがある。またガサゴソというような不穏な音をよく聞くようになった。そこで重い腰をあげ、ネズミ撃退に着手することにした。
調べて見ると、流しの下の壁の一部が崩れている。なるほど、ネズミはここから出入りしているのだなと判断。その穴をガムテープで塞いだのである。ざまぁ見ろだぜ。
しかしつい先日、とんでもないことがあった。なんとドタバタという小動物が駆け巡る音が、なんと天井から聞こえてくるのだ!なんと、敵は上にいたか。天井に棲みつかれてはもはや手出しは不可能。まあその天井でのダンスを聞いたのは一度きりであるが、戦々恐々とした日々を過ごしているのである。というのはウソで、別にあんまり気にしていないのだけど。
まあそんなわけで大して面白い話があるわけでもない。まあそりゃあそうである。面白いことというのは、適切な人間の元に降り注ぐのである。僕は面白いことが降り注ぐには適していない人間なのだ。それは自分でもよく自覚しているからいいのである。面白いことが降り注ぐ人間にはそれがもうやたらめったら降り注ぐのだ。そういう人は、まあ楽しいだろうな、と思う。
さて僕は、まあ何もなければ結局ここに住み続けることになるでしょう。別に転勤があるような仕事じゃないし(っていうかバイトだから当たり前だし)、結婚する可能性については検討する段階から既に捨てている。僕が普段行っている銭湯がもし潰れるようなことがあればちょっと考えなくてはいけないなとは思うが、しかしそれまでは特に問題なく生活が出来るだろう。基本的に衣食住には興味がないのだ。とりあえず、雨がしのげればまあいい…と書いたところで思い出したが、そういえば我が家は雨漏りがするのだった。雨漏りなんてもはや漫画の話のようだが、かなり強い雨が降ると天井から水が滴ってくる。その内天井が腐って落ちてくるんじゃなかろうかとも思うが、まあこれも特には気にしていない。まあなるようになればいいさ、と思う。
まあそんなわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、辺境ライターとして知られる無鉄砲の冒険野郎である高野秀行が、早稲田大学在学中から30歳を越える年まで住み続けた、「野々村荘(仮名)」での青春記です。
著者は大学の探検部に属し世界を文字通り飛び回っていたのだけど、アフリカから返ってきたある日、探検部の後輩が、自分が住んでるアパートに空きが出たから誰か入らないかと言っているのを聞く。三畳一間で家賃は1万2千円。礼金なしの敷金は一か月分、つまり2万4千円あれば入居可能である。著者は財布の中に3万円近くあった。そこで即決。「おれが入る!」
著者は実家暮らしをしていたが、まあ彼の生活なら当然というべきかなかなか居心地の悪い環境だったようで、その部屋を借りたのも当初は避難所として使うつもりだったのだが、半年もするとそこが自宅になっていた。著者もまさか、それから11年もそこに住み続けるとは思っていなかったことだろう。
さてその「野々村荘」だが、とんでもないところだった。とにかく奇人変人の溜まり場のようなところだったのである。
まず大家さんがすごい。とにかく普通じゃない。家賃を滞納しても何も言わないし、入居者が突然変わっても驚かない。ケンゾウさんという司法浪人の人は、かつて野々村荘に住んでいた外国人が部屋を出るや、大家さんに「今日から僕が住みます」と宣言し勝手に住み始めると言った始末である。また、長期に部屋を空けても何も言わないし、部屋を又貸ししても何も言わない。以前など著者の留守中に、著者の部屋に猫が棲みついたことがあったらしいのだが、その時その猫に餌付けをしていたというような逸話の持ち主である。他にもこの大家さんは様々にエピソードを持っているのである。
また先ほど名前を出したケンゾウさんは、お節介な上に口やかましい人で、ルールに厳しい。ルールを守ることが言明されるが、そのルール自体が突飛で変わっているのだ。なかなかついていけるキャラクターではない。人の部屋の電話に勝手に出るし。
また、「守銭奴」という名前の住人もいる。この守銭奴は、まあとにかくケチであるという点で徹底しているのであるが、また一方でとんでもなく臭い飯を作っては食べるということで何度か問題を起こすことになる。
他にも探検部のメンバーが部屋を借りたり、あるいは著者の部屋に始終やってくるわで、とにかく何も起こらない日はないというような感じである。
また、野々村荘の話とは独立して、著者が様々に無謀でかつ馬鹿馬鹿しいことにチャレンジする話も載っている。幻覚植物の人体実験をしてとんでもない目に遭ったり、友人と占い師のバイトをして一儲けしようと企んだりと、アホ全開と言った感じである。
そんなこんなで、とにかく著者の日常は野々村荘と共にあり、11年の歳月をほとんど変わることなく過ごした。周りの人間がどんどん社会に出て行くなかで、著者だけが未だモラトリアムを引きずった生活をし続けているのだ。すごい。本作は、世界中を飛び回っては非日常に触れ続けた著者の、日常の非日常を描き出した作品です。
いやはや、ホント無茶苦茶面白いですね、これは。もうとにかくどこを読んでも笑いっぱなしでした。別に感動できるわけでも役に立つわけでもなくて、最初から最後までただ馬鹿馬鹿しいだけの話なのだけど、こんな11年間を過ごしていたらホント面白いだろうな、と思いました。
しかし作中で、野々村荘の外の人間が最近の野々村荘の面白い話を聞きたがった時、ちょっと考えなくては分からない、というような場面が出てきます。それは、日々あまりにも野々村荘にどっぷりと浸かっているために、何が面白いことなのか考えてみなくてはわからなくなってくる、ということだそうです。それほどまでに野々村荘というのは捩れて歪んで世間のエアスポットのようなところだったということでしょう。
それを象徴するのが、著者が「キムタク」がなんなんのか知らなかったという驚くべき事実です。イシカワという探検部の後輩と一時期一緒に生活をしていたのだけど、その際「キムタク」ってなんだという話になったみたいです。グループ名じゃないのか、と著者が言うと、いやいや人の名前に違いないとイシカワがいい、それを後輩に確認するというのだから、彼らがいかに世間から取り残されていたがわかるというものです。
ただ本作を読んでいると、著者に共感できる部分も多々あってそれはよかったですね。
例えば食事です。著者の食生活もかなり酷いもので、とにかく安く食えれば何でもいいらしい。めんどくさいからという理由で、レトルトのカレーを温めないでご飯に掛けて食べたりするようなので僕よりも重症だと思うのだけど、ずっと同じものを食べても飽きないというのは同じだし、腹に入ればなんでもいいというのも同じですね。
また、「世間」が苦手という話もすごくよく分かりました。結婚式のエピソードがあって、普段「世間」というものを自分から完璧に避けて通っているのに、結婚式というのはなかなか避けがたい。そうやって時々「世間」と関わると冷や汗をかきそうになる、というような話で、「世間」というものに恐怖を感じすらしている僕としてもそれは同感だなと思いました。
また、働くということについても似ています。サラリーマンという存在に強く疑問を感じていて、一瞬だけサラリーマンになるのだけど結局辞めてしまうという話があります。僕もサラリーマンという生き方は絶対に出来ないと分かっているので、著者の気持ちが結構分かる気がします。
そんなわけで、とにかく面白い話でした。とんでもなくくだらなくて、とんでもなく馬鹿馬鹿しい話です。ここまでくだらなくて面白い小説ではない作品を読むのは、乙一の「小生物語」以来かもしれません。かなり傑作だと思います。かなりオススメです。とにかく気楽に読める本です。是非読んでみてください。

高野秀行「ワセダ三畳青春記」




アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(フィリップ・K・ディック)

人間が人間であるということの本質はどこにあるのだろうか?
要素をあげろといわれれば、まあそれなりに挙げることは出来るかもしれない。思考するということ、感情を持つということ、言葉を操るということ、特有の反射が存在すること、などなど。
しかし難しいのは、それを外側から区別する方法があるのだろうか、ということだ。何と区別するのかと言えば、AIのような人工知能とである。
チューリングテストというテストが存在する。これは、AI研究の第一人者(?)であったアラン・チューリングが考えたもので、人工知能と人間を区別するために使われるテストである。どういうものかといえば、まず人工知能と人間をそれぞれ別々の仕切りの中に入れる。でその両者に同じ質問をする。それに対する返答を審判役の人間が聞き、どちらが人間でどちらがAIなのかを判定する、というものである。つまり、どちらがより人間らしい返答が出来ているか、ということを判断するのである。かつてこのチューリングテストをクリアした人工知能はいないらしい。まだまだ人間並みのAIがないということでもあるのだろうが、しかし僕がこのチューリングテストに対して感じることはもう一つある。
それは、そんなテストしか出来ないのか、ということだ。
例えば技術が進み、外見はまったく人間そのもの、というロボットが作られるようになったとしよう。外側を見るだけではもはや人間とは区別がつかない、とする。その場合、このチューリングテストをすることになるのだろうが、しかしそれで人間なのかロボットなのかを区別できなかったらどうするのだろうか。そのロボットは人間であると判断されるのだろうか。
もちろんこの場合、ロボットはロボットなわけで、中身が機械仕掛けであるから最終的には人間かどうか判定できることになる。じゃあ、さらに思考を進めて、もし技術が進み、外見も中身も人間そっくりで区別がつかないロボット(アンドロイド)が生み出されたとしよう。チューリングテストをやっても人間との区別はつかない、としよう。
もしそんなことになったら、そのアンドロイドは人間であると判断されるべきなのだろうか?
こう反論するかもしれない。結局、生物学的に正しい形で生まれてこなかった生物は認められない、と。人間であれば、母親のお腹から生まれてこなければ人間とは見なせない、と。
その主張は分かりやすいしたぶん正しいとは思う。しかし、じゃあそれをどうやって確認するのだ、という問題が残る。人間と人間そっくりのアンドロイドがいたとして、どちらかが正真正銘母親から生まれてきて、どちらかがそうではないという風に区別をつけることは出来るだろうか?何らかの証明書も偽造してしまえば済むことで、この母親から生まれたかどうかというのは本質的ではあるが実際的ではないということになるだろう。
また、クローンという問題もある。クローンの場合、最終的には母親のお腹から出てくる。しかしそれは、ある人物とまったく同じ遺伝子を持った存在である。さてその子供は人間だろうか、あるいは人間ではないだろうか。
結局物事の定義というのはそれぐらい曖昧なものなのである。僕らは普段限りなく曖昧な世界の中で生きていて、特にそれで不自由を感じることがない。しかし逆に言えば、定義が曖昧であるからこそそれが大きく揺らぐこともあるということだ。
僕は書店員なので本の話をしよう。これまで本は、「紙に印刷をされた媒体」というものだったはずである。これは明確といえば明確だったが、しかし誰かがそうはっきりと決めたというわけではない。なんとなくそうだった、というだけの話である。
そのうち、携帯電話が登場し、本の環境も大きく変わった。今の若い人達は、携帯電話で本を読むらしい。彼らにとって本とは「携帯電話で読むもの」になってしまったのである。本という定義が曖昧であるが故に、その根幹が大きく揺るがされたいい例ではないかと思う。
時代はどんどん変わるし、価値観もどんどん変わる。人間とは何か、あるいは生きているということはどういうことかという定義もどんどん変わっていくのではないだろうか。その時僕らは、自分自身の存在をどの程度強く持ち続けることが出来るだろうか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
第三次世界大戦後の地球。そこは、放射性灰に覆われた絶望的な環境だ。多くの人は既に火星への移住を済ませている。地球には、ほんの僅か、何らかの理由で残っている人々が細々と暮らしているだけである。
その地球においては、生きている動物を所有することがステイタスになっている。放射性灰が蔓延したせいで、動物がどんどん死に絶えているからである。
主人公のリックももちろん生きている動物が欲しいのだが、彼が所有しているのはニセモノの電気羊だけである。何とか生きている動物を手に入れようと彼は、莫大な懸賞金の掛かった、火星から逃亡してきたアンドロイド達を追いかけることにしたが…。
というような話です。
本作は、「ブレードランナー」という名で映画にもなり、また古典SFとしてかなり評価の高い(らしい)作品です。1977年に日本で発行されている本で、かなり古いですね。
内容的には、まあ僕がSFがあんまり得意ではないというのもあるのだと思うけど、あんまりパッとしないなぁ、という感じでした。アンドロイドと人間の区別がかなり困難、という設定は面白いと思ったんですけど、それ以外はまあ僕としてはどうということもない感じでした。高く評価されている作品みたいですけど、どこがそんなに評価の高い部分なのかイマイチよく分かりませんでした。
まあ古い作品の割には、今でも充分読むに耐える文章で、その辺は悪くないなと思いましたけど。やっぱ僕にはあんまりSFというのは向いてないのかもしれないな、と思ったりしました。
というわけで、僕としてはそこまでオススメではないんですけど、恐らく世の中的には評価の高いSFのはずなので、興味のある人は読んでみてください。

フィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」



償いの椅子(沢木冬吾)

ハードボイルド作品があんまり得意ではないのか、あるいはこの作品がダメなのかよくわからないのだけど、いやはやとにかく面白くない作品だったなぁ。というわけで今回は前書きを書く気力が出てこないので省略。
能見亮司は5年前、脊髄に銃弾を受け半身不随になる。それから姿を消していたのだが、最近街に戻ってきた。復讐のためだ。あらゆる人間が能見の動向に注目し、様々な思惑が交錯する中で、事態は進展していく…。
という話なんですけど、これがしかし面白くない。
読んでて、多視点で物語を紡いでいるのに誰が誰なのか分からなくなることもないし、ストーリーの運び方も巧いし、妙なリアリティもあるし、裏の世界という独特の雰囲気が出ているなぁ、と感じるのだけど、
でも問題はとにかく面白くないのである。
たぶん小説の技術的な面から見ればこの作家はこなれているし充分巧いのだと思うのだけど、でも全然面白くないのである。可能性としては、僕がこういうハードボイルド作品が得意ではないから、という理由が高いと思うのだけど、それにしたってどうかなと思う。
この本は、どっかの本屋が「これは面白いぞ」って勧めてるらしく、割と売れているっぽい作品なんだけど、僕にはどこが面白いんだかさっぱり分かりませんでした。面白くないのに600Pもある文庫を読みきったというのはなかなか頑張ったなと思います。
まあそんなわけで僕としては全然オススメできません。ただ、ハードボイルドが好きだという人ならまた評価は違うかもしれませんが。どうなんだろう。

沢木冬吾「償いの椅子」




遠まわりする雛(米澤穂信)

基本的に僕はやる気がない。
何に対して、というわけでもない。基本的に、ありとあらゆることに対して、である。強いて言うなら、人生に対して、ということになる。人生に対してやる気がないのである。
本作で主人公の折木奉太郎は、自らをもって「省エネ主義」という。その信条は、『やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことなら手短に。』だ。なるほど、分かりやすい。そして僕と同じである。
どうしてここまでやる気がないのか、ということについてはあまり考えないようにしている。そもそもそういう体質なのだ、というような理解である。それ以上の理解を拒んでいるようなそんな感じも自分ではしている。ならそれはそれでいいではないか、という気もする。
しかしまあ世の中にはいろんな人がいて、その中にはありとあらゆることに興味を持ってやる気を出すような人種というのもいる。要するに僕とは対極に位置する人間である。そういう人間を見ると、すごいなぁ、と思うと同時に、羨ましいなぁ、と思ったりもするのだ。だから、やる気がない状態に満足しているわけでも、好んでそこに留まっているわけでもないような気はする。バイト先に、猫は好きなんだけど猫アレルギーというスタッフがいるのだけど、雰囲気的にはそれに近いかも。いや、近くないかな。
要するに僕の場合、好奇心というものが著しく欠けているのだろうと思う。何かを知りたい、という欲求が限りなく低いのだろうと。
基本的に知識を仕入れることは好きだ。学生の頃は結構勉強もしていた。まあいろいろ事情はあるが、しかし勉強を長いことし続けられたということは、基本的にそれが苦痛ではなかった、知るということを拒んでいなかったということだろうとは思う。
しかしそこに積極性はないのだ。
僕の場合、知識というのは目の前にあるものだけでしかない。例えば自分が経験したこと、教科書に書いてあったこと、人から聞いたこと、などである。これらは全部、労せずして僕の目の前に必然的にあるもので、そういう知識ならいくらでも仕入れられると思う。その範囲の中でという限定つきなら、人よりもより多くの知識を身に付けることだって可能かもしれないし、人が気づかないことに気づくことだって出来たりするかもしれない。
しかしそれだけである。
僕は、自分の背後や頭上、要するに前だけ向いている場合には目に入ってこないところにあるものにはあまり関心がないのである。背後や頭上にも恐らく何かあるだろうし、そこにも知るべきたくさんの知識があることはもちろん知っているのだけど、だからと言って振り向いたり見上げたりという気にはならない。目の前にあるものは、見ようとしなくたって目に入るのだから苦労はないが、背後や頭上にあるものは何らかの動作なしに視界に入ることはない。その動作を僕は億劫がるのだろう。
好奇心の強い人というのは、背後や頭上に留まらず、地面を掘ってみるかもしれないし、どこかに罠を仕掛けて待ち伏せをしたりするかもしれない。そんなことをするには道具付きの動作が不可欠で、さらにそれはめんどくさい。だから僕は、目の前にあるもの、目の前にある世界しか見ない。
さらに厄介なことは、僕にとって何かを知るということは、ただ知るというだけの意味しか持たない、ということである。
普通は知識というのは、何かに活用するために仕入れるものだ。何の役に立つかその時は分からなくても、いつか使う時が繰来るかもしれないと考えて知識を蓄えることだってあるだろう。芸術や創造なんかをする人は恐らくそういうことをしているのだろう。そういう人でなくても普通は、何かをするという前提があって、その上で知識を仕入れる。雑学マニアなんていう人種もいるにはいるが、多勢ではないだろう。
僕の場合は違って、知識を仕入れるというのはただ知識を仕入れるという意味でしかない。それを何かに活用するということが恐ろしく下手なのだ。もちろん、これまでの経験が役に立ったとか、あの時覚えたことが活用された、というようなことがまったくなかったかというとそんなことはない。そんなことはないが、しかし恐らく他人と比べた時にその頻度は著しく低いだろうと思う。そもそも知識を活用しようという発想に欠けているのだ。宝の持ち腐れである。
また、知識を得ることで内的な世界が豊かになるというのも僕の場合あまりないように思える。人と比較できる話ではないが、しかし何かを知ることで自分の内部が変化していると感じられることはそう多くない。
そういうこともあって、知識を得ることにそこまで積極的になれないのである。
この「知りたい」とか「やってみたい」という発想がないと、なかなか生きていくのは退屈である。生きていく上ですることのほとんどの根底にそれがあるように思う。好奇心に欠ける僕は、何をやるにもまずめんどくさいという気持ちが先に立つ。知るということで自分の中の何かが満たされるわけではないからだ。まあ退屈な人生だなとは思うが、まあ仕方ないかなとも思う。
これからもきっと、好奇心が欠けたまま僕は前だけ向いて歩いていくことでしょう。まあ、千反田えるみたいな好奇心のかたまりみたいな人間が周りにいれば別かもしれないけど。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、<古典部>シリーズの最新作で、短編集になります。ホータローらが高校に入学し古典部に入ったところからの一年間を追った話になります。
<古典部>シリーズについてざっと書くと、神山高校に入学した折木奉太郎は、諸般の事情から部員のいなくなった古典部に、諸般の事情から入部する羽目になった。初めは一人で気楽でいいやと思っていたが、その後、好奇心の塊りのような千反田える、歩くデータベース福部里志、漫画部で図書委員の伊原摩耶花の三人が入部し、現在の古典部になる。活動としては特にないが、千反田えるが「気になります」のひと言で何か謎めいたものを持ってきて、それをホータローが解くというのが日常になっている。

「やるべきことなら手短に」
理由あって居残りすることになったホータローに福部里志が神山高校の七不思議を話している。誰もいない音楽室からピアノの音が…、というやつだ。そこへ千反田がやってくる。嫌な予感のしたホータローは、咄嗟に別の七不思議を里志に振り、結局「女郎蜘蛛の会」なる謎の部活のポスターを探すことになるのだが。

「大罪を犯す」
千反田えるが数学の授業中に怒ったという。普段怒らない千反田にしては珍しいことだ。しかし彼女にしても、何がどうなって怒ったのか、よくわからないという。
数学の授業中先生が怒り出す。前の授業でやったのに覚えていないのか、ということから始まりくどくどと。しかし段々勘違いが分かってくる。先生は、ウチのクラスがやっていない一回分の授業をやったと勘違いをして怒っているのだ。問題は、何故そんな勘違いが怒ったのか、ということなのだが…。

「正体見たり」
古典部のメンバーで温泉旅行に行くことになった。そこで伊原と千反田が首吊り自殺の影を見たのだと言う。しかも以前首吊り自殺が実際にあったという部屋にそれを見たという。一人が見たなら錯覚とも思えるが、二人が見たとなれば何らかの見間違いだろう。しかし何を見たのか…。

「心あたりのある者は」
千反田はホータローの推理力を褒める。ホータローは褒められることに納得いかず、全部運がよかったのだと主張する。ならば本当にそうなのか実証しようということで、ある状況について推理するというゲームが始まった。
そのゲームの対象になったのが、ちょうどその時流れた校内放送である。
『十月三十一日、駅前の巧文堂で買い物をした心あたりのある者は、至急、職員室柴崎のところまで来なさい』
さてこれだけの情報から何が分かるか。

「あきましておめでとう」
正月。千反田に誘われて初詣に行くことになったホータロー。伊原が巫女のバイトをしているからそれを見に行こう、という目的もあるらしい。
しかし一体全体どうしたことか、しばらく後に彼ら二人は納屋に閉じ込められてしまうことになる。大声で助けを呼べばいいのだが、しかし知らない人が見たらこの状況、誤解されてしまうだろう。なんとかそうならないようにここから脱出出来ないものか…。

「手作りチョコレート事件」
一年前。伊原は里志に手作りチョコレートを渡そうとして玉砕した。その場で、一年後雪辱を晴らすことを宣言して…。
そしてその一年後。今年もバレンタインの季節がやってきた。伊原は今年こそはと気合の入ったチョコレートを作ったのだが、しかし千反田がちょっと目を離した隙にチョコレートが消えてしまったのだ!責任を感じる千反田。どうしても見つけ出さなくては気が済まないとホータローに協力を求めるが…。

「遠まわりする雛」
千反田に、祭りの人手が足りないと助けを求められた。生き雛祭りという名のその祭りは、豪奢な格好をした雛である千反田を先頭にして町中をあるくのだそうだが、その傘持ちをやってくれないかということだった。まあ仕方ない。協力してあげよう。
というわけで当日集合場所に向かったが、早すぎたようだ。支度をする人びとの話を聞くに、どうもトラブルがあったようだ。コース上に橋があるのだが、そこが工事をしているのだ。おかしい。祭りの日だけは工事を外してもらうように手を回しているはずなのに、と…。

というような話です。
やっぱり米澤穂信は面白いですね。さすがという感じです。
どの話も、まあ<古典部>シリーズのそれまでの流れ通り、<日常の謎>系というのか、まあ言ってしまえばどうでもいいような謎を解くという形態のミステリになります。
しかし僕は思うのだけど、どうでもいい謎とは言うけど、よくもまあそんな設定を考えられるなと感心するような話がいくつもありました。バレンタインのチョコが盗まれるとか、あるいは納屋に閉じ込められるみたいな設定はまだ考えられるかもしれないけど、数学の先生が勘違いをするとか、放送された内容から状況を推測するとか、どこからそんな話を考えるんだろうと思うようなものもありました。
本作の中でもとびきり上質だと思ったのが「心あたりのある者は」、つまり放送の内容から状況を推察するという話なんですけど、これはなかなかすごいです。日本推理作家協会賞の短編賞の候補にもなったみたいですけど、確かにミステリとしてよくできています。状況としては、放送で流れた文章とその放送が流れた状況から、その裏にどんな設定が考えられるのかを推理するというだけの話なんですけど、それだけのことからなるほどそこまで導けるか、という驚きがあります。それが無理矢理という感じでもなく、なるほどそう考えればそうだよなと納得できるもので、よくも人が死なないミステリでここまで緻密な論証を必要とするような設定を生み出せるものだなと感心しました。他の話も、ミステリとして弱いなというものもないではないですけど、でもどの話もストーリーとしてよく出来ていて面白いと思います。
キャラクターも相変わらずとんがっている感じで、まあ印象としては今回はホータローが突出していたような感じはありましたけど、とにかく<古典部>健在というような内容だったなと僕は思います。
本作を読むのにシリーズ全部読む必要はないと思いますが、まあ読んでおいた方が面白いことは確かでしょう。「氷菓」「愚者のエンドロール」「クドリャフカの順番」も是非読んでみてください。
なんてところで、そろそろあの<小市民>シリーズ(って僕が勝手につけましたが)の続きも読みたいところです。秋には新作が出るみたいな話をどこかで仕入れたはずなんですけど、さてまだでしょうか。

米澤穂信「遠まわりする雛」



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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)