黒夜行

>>2007年10月

インシテミル(米澤穂信)

当たり前のことを言うようだけど、僕らは普段殺人とは無縁の生活を送っている。
もちろん、世の中にこれだけ殺人の報道が溢れているのである。どこかには殺人犯がいるだろうし、どこかには殺人の被害者がいるだろうし、どこかには被害者の関係者がいることだろう。それは充分分かっていて、それでもなお言うのだけど、僕らの生活というのはあまりにも人を殺すということからかけ離れている。まるでそれはテレビの中にしか、あるいは小説や映画の中にしかないものであるかのように錯覚させられもするし、実際自分が生涯にわたって人を殺すということにどんな形であれ関わるとは思わずに生きていくことだろうと思う。
まあ当然だ。
人を殺すというのは、あまりにもハードルの行為だ。ハードルが高い、という表現は不謹慎かもしれない。しかし、どうだろうか。非常に的確な表現ではないかと僕は思うのだ。
正直僕らは、人を殺すということについて真剣に考えたことはないだろう。もちろん人によっては、憎んでも憎みきれないほどの相手が存在していて、どうしても殺してやりたいと願って止まない相手がいたりするのかもしれないけど、しかしそれを具体的に考えてみるということまではさすがにやらないのではないか。殺してやりたい、とは思うけど、ではそのためにどうするか、という思考にはなかなか辿り着かないはずだ。映画にもなった小説に「青の炎」というのがあって、これはある青年が人を殺すための手段をあれこれ模索する、という話であるが、現実的にそういうことはなかなかない。
その前提で言えば、人を殺すというのは僕らの中である種ゲーム的な意味しか持たない。倫理的に人を殺すことが悪いことは分かっているし、してはいけないことだということも分かっている。しかし、人を殺すという状況があまりにも僕らの目の前に現れでないために、ついそういう倫理的な、道徳的な部分は思考から排除される傾向にある。であるとすれば、ハードルが高い、という表現もかなり現実に即した思考ではないか、と僕は思うのである。
とまあ回りくどいが、とにかく人を殺すというのはハードルの高い行為だ。やってはいけないことだと諒解はしているけれども、しかしやっていいと言われたところですぐに出来るものでもない。
人を殺すというのは、まあこれも言うまでもないことだが、一個の生命を失わせるということである。倫理的、道徳的な判断がなくても、これは躊躇するだろう。僕らは普段の生活の中で、牛肉を食べ、魚を食べる。そう言った意味では、生命を奪うということについてある種の鈍感さを兼ね備えているとも言えると思うが、しかしやはり人間の命というのはまた別のものだ。重みが違いすぎる。よく言われることだが、人の命はその人だけのものではない。その後ろに、様々な人の顔が浮かぶ。そのすべての顔を涙で埋め尽くす行為が殺人である。なかなか出来はしないだろう。
しかし、ほんの僅かな差ではあると思うけど、僕は普通の人よりは人を殺せるのではないか、と思っている。たぶんこの話は前にもどこかに書いたと思うけど。
僕は人を殺さない。事故や未必の故意ギリギリみたいなものはもしかしたらありうるかもしれないけど、直接的に僕が手を下す形で殺人を犯すことはまずないだろう。
それは何故か。
答えは明白である。それを、法律が禁じているからである。発覚すれば、法律に則って罰を与えられるからである。だからこそ、僕は人を殺すことはない。明快である。
しかし一方で、これはある種いつでも人を殺せる可能性を秘めた答えでもある。というのも、じゃあ人を殺しても100%罪に問われないとしたらどうなるのだ、ということになるからだ。
現実的に、僕が生きる範囲内では、人を殺して絶対に罪に問われない環境と言うのはない。たまに小説なんかに(あるいは現実でもあったと思うけど)、ブラジルの話が出てくる。詳しくは覚えていないけど、ブラジルという国は、外国人男性がブラジル人女性と結婚をした後、男性が他国において犯罪を犯していたとしても、男性をその国に引き渡すことはない、というような法律があるらしい。つまり、日本で犯罪を犯した後、ブラジル人女性と結婚して現地で所帯を持てば、たとえ犯罪者であることが発覚しても罪には問われないのだ。まあそういうような抜け道もあるが、しかしそれは僕の生きる環境ではない。僕の生きる環境では、人を殺せば間違いなく罪に問われるだろう。だからこそ、こんな考えには意味はない。
しかし時々考えてみることがある。もし人を殺しても罪には問われないとして、僕は人を殺すだろうか、と。
法律に、緊急避難、という文言がある。これも時々小説で見るものだけど、要するにどうしようもなく状況の時には人を殺してもいい、というものだ。僕がこれを知ったのは、金田一少年の事件簿と言う漫画の中でである。客船が難破した際に、ぎゅうぎゅうになった避難用の船にさらに人が乗ろうとした際、その人が乗ってしまえばその船は間違いなく沈むと判断した人が、その助けを求める手を振り払い船には乗せず、結局その人を死なせてしまった、という話があった。まあこれは仕方ないと思う。僕も同じ状況なら、同じことをするかもしれない。自分一人なら犠牲になってもいいけど、その人を乗せることでその船自体を危険にさらすということなら、止む終えない。
さて、今度は実際に起こったらしい事件の話だ。ある雪山に出かけていった一行が遭難し、洞窟のような場所に避難をした。後日救助隊が見つけた際、生き残っていたのはたったの一人だった。
その唯一の生存者は、何人かいた他の生存者を殺していた。残り僅かな食料を自分だけで確保するためだった。この生存者は、緊急避難を適用され、罪には問われなかったという。
この状況だと僕は悩む。僕の場合、積極的に生きようという発想が人より欠けているので、自分が生き残るために仕方なく誰かを殺す、という選択はしないかもしれない。同じことは、映画になって話題になった「バトルロワイアル」についても言える。あれは人殺しゲームというよりは、生き残りゲームである。生き残りたいという気力に欠ける僕には向かないだろう。
さてならば、本作のような状況下ではどうだろうか。
あとでもちゃんと説明するが、ざっと書くとすれば、人を殺すことで報酬がもらえ、犯人を指摘することで報酬がもらえる、ということになる。また、その環境の中で起こったあらゆる法に触れる出来事は、超法規的な措置により罪を問われることがない、という状況。こんな環境であれば、僕は人を殺すだろうか。
殺してみてもいい、と思うかもしれない。もちろん、本作の状況の場合、絶対的に罪に問われることはない、という確証に欠けるので難しいだろうが、もし何らかの形でそれが明確に保証されるのであれば(例えば総理大臣がやってきてそれを口頭で宣言する、とか)、やってみてもいいと思えるかもしれない。別に積極的に人を殺したいわけではない。時々、「人を殺してみたかった」という理由で殺人をする人間がいるが、僕はそういうタイプの人間ではない。しかし本作のように、人を殺すことのためにすべて誂えられた空間の中であれば、まあちょっとやってみてもいいんじゃないか、と思ったりするかもしれない。
まあそれでも、実際自分が人殺しが出来るかどうかは分からない。難しいところである。ただゲームではなく、そこに積極的に人を殺したい理由(相手をどうしようもなく恨んでいる、とか)があれば、可能かもしれない。うん、たぶん可能だろうな。
物騒な話をしている、と思われるかもしれないが、しかし決してそうではないだろう。僕がここに書いた文章で証明をしたことは、結局僕は生きている限り人を殺すことはないだろう、ということである。多少考え方に問題はあるかもしれないが、しかし安全な人間であることには変わりはない。ちょっと人間性を疑われるような文章だなと思ったので、ちょっと最後に付け足しをしてみました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
参加者は、その奇妙なバイト募集要項に対して、ありとあらゆる反応を示した。冗談だろうと思った者もいる。その異常さに気づかなかった者もいる。気づいた上で面白いじゃないかと思った者もいる。各人様々な反応を示しながらも、しかし皆何らかの理由を持ってそのアルバイトに応募した。
結城理久彦もその一人だった。彼は大学生で、車が欲しかった。女性にモテるには車が必要で、であれば金が必要だ、と思っただけだ。だからコンビニでアルバイト情報誌を眺めていた。
そこに、須和名祥子という、自分とはレベルのかけ離れていると感じさせる美人がやってきた。とにかく、近寄りがたいという形容でもまだ足りないくらいの存在感である。その須和名は結城に、バイト情報誌の見方を教えて欲しい、と頼む。
お金に困っているようにはまったく見えないし、というかどこからどうみてもどこかの令嬢であるとしか思えないのだが、しかしそんな殺人的な美女に頼まれたら断りようもない。結城須和名に、あれやこれやとバイトの情報を教える。
その中で、そのバイト情報の要項があった。須和名が見つけた。初め彼は気づかなかった。気づいた後は誤植だと思った。というか誤植でないはずがない。誤植でないとしたら、怪しすぎる。
時給1120百円。
そう書かれていた。時給1120円ではない。1120百円である。つまり、時給11万2000円。ありえない金額である。しかも、拘束期間は7日間でその期間すべての生活をモニターさせてもらうというものなのだが、拘束時間すべてに対して金額を払うという。つまり1日そこにいるだけで250万円以上の大金が入ることになる。ありえない。やっぱり誤植だ。そうは思ったが、しかしまあ誤植なら誤植でもいい。時給1120円でも充分にいい条件ではないか、と結城は考えた。楽天的な性格もあって、彼はそのバイトに応募した。
そして採用になった。
会場にモニター参加者が集まってからも、何一つ重要なことは伝えられることがなかった。しかし、モニター生活が開始されてしばらくして、状況は自ずと分かってくる。
つまり、集められた12人で殺し合いをしろ、ということなのである。
人を殺したら報酬が2倍になる。被害者になったら報酬は1.2倍になる(この場合お金は親族に振り込まれる)。探偵となって犯人を指摘すれば報酬は3倍になる。しかしもし間違えれば報酬は0.5倍になる。
これは報酬に関する規定だが、それ以外にも様々な規定が存在し、犯罪が起こりやすい条件が整えられている。そもそも、各人には個室が与えられるのだが、その部屋には鍵が掛からない。いつでも、誰でも、どの部屋にでも忍び込んで殺人を犯すことが出来る環境なのである。
<暗鬼館>と名付けられたこの地下空間に放り込まれた12人は、やがて訪れるのかもしれない殺人に怯えながらも、まあ大したことにはならないさ、と高を括って過ごしていく。
しかし、やはりというべきか、夜明けと共に一人目の犠牲者が生み出され…。
というような話です。
さすが米澤穂信という感じの作品でした。僕はかなり面白いと思いました。
米澤穂信と言えば<日常の謎>系のミステリがメインであい、これまで読んできた中で殺人がメインで扱われたものはなかったと思います。その米澤穂信が、これまでの作風を打ち破って新しい領域にやってきました。元々こういうミステリも好きだったのだろうし作品としてもたくさん読んできていると思うので、米澤穂信としてはこういう作品を書きたかったんじゃないかな、と思ったりしますけど。
まさに本格ミステリというべき作品で、完璧な、しかも露悪的なクローズドサークルの中で、殺人が起きやすい環境がお膳立てされ、その中でどんどんと人が死んでいく。ある種「バトルロワイアル」にも似た雰囲気のクローズドサークルで、こういう殺人ゲーム的な状況はまあ他の作品でもあると思いますけど、しかし本作のようにルールが徹底しているのも珍しいと思いました。
それぐらいかなり明確にルールが定められていて、その設定は巧いと思いました。人を殺したり犯人を指摘したりすることにボーナスを与え、またある一定の時間は外に出ることを禁じるなど、うまく人を殺すように誘導していくような環境です。
参加者にはそれぞれ凶器が与えられるのですけど、誰が何の凶器を持っているのか分からない、というところも巧いと思いました。誰かが殺された際、それがどんな方法で殺されているのかを見れば、その凶器を持っている人間が犯人ということになります。しかし、まあそこもまた巧くいかないところで、よく出来てるな、と思いました。
また僕が一番素晴らしいと思ったところは、誰でも犯人になりえて、かつ誰でも探偵になりえるということです。普通本格ミステリというのは、よほどのことがない限り探偵役というのが決まっていて、ワトソン役というのも存在します。しかし本作では、殺そうと思った人間は誰でも犯人になりえるというのは当然として、犯人に思い至った人間であれば誰でも探偵になれるのです。しかも、ここが重要なポイントなのですけど、<暗鬼館>内部では、犯人は多数決によって決定します。もちろん、実際犯人であるかどうかは彼等をモニターしている主催者が把握しているわけで、たとえ<暗鬼館>内で多数決によって決まった犯人が間違えていても、主催者の方としては全然構わないわけです。多数決によって決まった犯人は<牢獄>と呼ばれる部屋に幽閉されることになり、その段階でゲームから退場ということになるわけなんですけど、なかなかお見事な設定だと思いました。
そしてその設定を最大限に駆使して殺人を実行した犯人というのもなかなかのものですね。こちらもお見事、と言う感じです。ちょっとこれはさすがに見破れないだろうな、と思います。まあもちろん僕は、ミステリを読んで犯人を指摘できたことなんて一度もないんですけど。
さて本作で最も謎なのは、須和名祥子という存在でしょう。徹頭徹尾なんともいえない存在感を醸し出していました。かなりトリッキーで魅力的なキャラクターでしたけど、しかしついていくのは大変そうだな、と思いました。最後まで、結局何者なのかよくわからなかったし、指一本がいくらなのかもよく分かりませんでした(笑)。
人によっては、殺人をゲームのように扱った非現実的な環境でのストーリーは好きではないかもしれませんが、基本的にミステリが好きという人であれば間違いなく楽しめる作品だと思います。非常に高度な論理性によって事件が解決されるので面白いと思います。是非読んでみて欲しいですね。まさに米澤穂信の真骨頂という感じです。是非お試しください。
しかし結局「インシテミル」の意味がよく分からなかったな。「INCITE MILL」を日本語みたいに読んだというのは分かるんだけど、英語の意味がどうも。なんとなく調べると、「人を駆り立てる工場」みたいな意味になって、まあ全然分からないというほどでもないんだけど…。もっとスマートな訳し方はないですかね。

米澤穂信「インシテミル」




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追伸(真保裕一)

幸せというのは、追いかけ続ける限り永久に手に入らないものなのだろう、と僕は思います。
人間と言うのは欲深い生き物で、どれだけ幸せな立場にいても、それよりももっと上へと思ってしまうものです。自分がどれだけ恵まれているかという現状を意識することなく、あくまでも相対的に現在の自分よりもさらに上を目指そうとする。そういう性質故に、幸せを追い求めようとしてしまう人には幸せは訪れないのだろうと僕は思います。
例えば、生まれつき超お金持ちの家に生まれたとしましょう。望むものは何でも手に入り、望まないことは一切しなくていい。すべてが思い通りに運び、何でも出来る。生まれながらにしてそういう環境に置かれたとしたらどうでしょうか。
恐らく、それがまず普通になります。普通というのは退屈であるということです。望むものすべてが手に入るのも、望まない一切のことをする必要がないことも、すべて退屈です。だからこそ、さらに上を目指そうとする。一般的に考えて既に十分恵まれているはずなのに、それが既に普通になってしまえば、さらに上を目指す他ないわけです。
だからこそ僕は、今の自分は幸せだと思うように生きることにしています。
まあ実際僕の生活は、他の人から見たらそこまで幸せには見えないかもしれません。住んでいる家もぼろっちぃし、日々家に閉じこもって本ばっかり読んでるし、特に外に出て友人と会うでもなく、バイト先と家を往復するだけの日々です。しかし、まあ僕としてはこのささやかな生活にかなり満足しているし、現状で今の生活に付け足したいものというのは特別ありません。まあ彼女ぐらいいてくれてもいいんじゃないか、と思ったりはしますけど、それもいないならいないでまあいいかという感じです。
未来に対して望んでいることもなければ、こうなりたいという夢も特にあるわけではありません。望むことは、今のこの生活が乱れたり崩れたりすることなく恙無く進行していくことだけです。
人からすれば、そんな生活は空しいと思われるかもしれません。何も望まず、現状に満足しているだけの生活など退屈で仕方ない、と。
しかし僕からすれば、多くのものを望みすぎている人ほど不幸に思えます。こんな比較は既におかしいとは分かっていますが、僕ら日本人の生活というのはアフリカとか他のアジア諸国なんかよりは遥かに恵まれているわけです。僕は別に、それで充分なのではないか、と思えてしまうわけです。僕の場合、生きていることにさほど興味があるわけではないのですが、まあそれでも生きているだけで充分という感覚は多少あります。僕の目から見ると、多くの人は多くのものを望みすぎているのではないかという風に見えます。
そりゃあもちろん、恵まれた生活を誰だってしたいものでしょう。いい家に住んで、いい家族に恵まれて、病気もせずに穏やかな死を迎える。あるいは、娯楽を尽くし、異性と遊び、とにかく贅沢の限りを尽くすという生き方もいいかもしれません。確かにそういう生活に憧れる気持ちも分からないではないのですけど、しかしそれを望むこととそれを得るために必要な努力が見合うのか、ということは考えなくてはいけないだろう、と僕なんかは思います。
それでよく思うのは、マイホームについてですね。
日本人は、とにかく必死で働いて、ちょっと会社から遠くてもいいから自分の家を持ちたい、と考えます。そのために、30年ものローンを組んで、自分が定年退職を迎えてからもそのローンを払い続ける、みたいな生活をするわけです。ローンがあるために生活は結構厳しくなり、何か突発的な出来事があると対応できなくなるかもしれません。
僕からすれば、どうしてそこまでして必死こいてマイホームを持とうとするのかが分かりません。もちろん、マイホームがあるに越した事がないというのはもちろん理解できます。しかし、それを得るために必要な労力にはどうしても見合わないだろう、と思えてしまいます。それぐらいなら、賃貸でもいいから、仕事にあくせくせずにゆったりと生活をする方が全体的には豊かなのではないか、という気がします。
恐らく僕の考えは、今の日本という社会の中では相容れない考え方だと思うのだけど、でも僕自身間違っているとは思えないです。多くの人が、幸せという幻想を見たいと願い、そしてより面倒なことに、多くの人がそういう人の幻想を叶えようと様々なものを提供してしまう社会であるのです。幻想を間に挟んだそのループが、結局のところ僕らの生活を縛っているといえるのではないでしょうか。
幸せというのは、結局自分が今手元に持っているものをいかに大切にすることが出来るか、ということで変わってくるのではないか、という気がします。まだ手にもしていない幻想を追い求める先に幸せというのはありえません。自分がこれまでに獲得してきたものを見つめ、大切にし、それを慈しむことで幸せというのは生まれるのだろうと思います。手に入らない、あるいは手に入るかもしれないと思わせる幻想は捨て、本当の幸せだけを見つめるべきではないでしょうか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、全編手紙で構成されている作品です。
その手紙は、二種類に分けることが出来ます。
一方は、その手紙のやり取りによって離婚について話し合っている一組の夫婦です。
船舶の設計士である悟は、2年近くギリシャへ赴任することになったのだが、ライターとして日本で仕事をしている妻である美奈子にどうするのか確認をした。つまり、自分と一緒にギリシャに来るか、あるいは日本に残るか。
美奈子が交通事故に遭い片足を不自由にしたこともあって、結局その決断を美奈子が下せないまま、悟はギリシャへと旅立ったのだった。
しかし、しばらくして悟の元に届いたのは、一通の手紙とそれに同封された離婚届だった。
手紙には、近況と、そして離婚を考えているという内容のことがしたためられていました。急な心変わりが納得のいかない悟は、同じく美奈子に手紙を出し、そうしてギリシャと日本での文通が始まります。
悟も美奈子も、これまでの自分のあり方や美奈子が遭遇した交通事故のことなどを含め、また近況などを織り交ぜながら手紙を綴りますが、ある時美奈子が、祖父が遺したという手紙を送ってきました。
それは、祖父と祖母の間の手紙のやり取りでした。
なんと祖母は、殺人容疑で逮捕された経験があるらしく、拘置所に拘束された祖母と、外からそれを見守る祖父との手紙のやり取りでした。
50年前に起こった、親族の誰も知ることのなかった二人の真実がそこに書かれていて…。
というような話です。
うーん、ちょっと微妙な感じだったなという気がします。
構成と文章は素晴らしいと思いました。真保裕一の作品は、とにかくどれも文章が読みやすくて、今回もそれは見事という感じです。今回の場合手紙のやり取りということもあったかもしれませんが、難しい言葉を使わずに、それでいてさらりと流れてしまうわけではない文章を書くというのはいつもながらいいと思います。
また、構成もなかなか技巧的である気がします。とにかく全編手紙という構成は、それだけでストーリーを伝えるという上で非常に難しいだろうな、と思います。地の文も会話文もなく、ひたすら手紙だけという構成で、しかしお互いの状況や、小説的なストーリーの展開をきっちり見せてくるという部分も、まあさすがだなという感じでした。
しかしどうしてもちょっと…と思うのが、ストーリーですね。なんというか、なんとも言えないくらい平凡な感じでした。
やっぱり真保裕一にはどうしてもミステリ作家という印象が強いせいか、ミステリの要素を強く求めてしまう部分というのがあるのかもしれません。ただ、そういう部分を抜きにしても、ちょっとありきたりでなんて言うのことのないストーリーであるような気がしました。
悟と美奈子の手紙のやりとりは、もはや退屈と言ってもいいくらいのものがあります。一応最後にちょっとだけ真相を明かすような展開になりますが、それ以外には特別何かが起こるというわけでもありません。ただ、離婚という文字を前にした二人が、手紙を通じて想いを伝え合っているだけという感じで、正直面白くないな、と思いました。
まあそれに比べたら、祖母と祖父の手紙のやり取りの方はまだよかったかな、と思います。祖母は激しい取調べに負けて罪を認めてしまいましたが、しかし祖父は祖母の無実を信じている。とにかく協力的で、捜査のようなことも自分でしてしまう。祖母の生い立ちにもいろいろと含むところがあり、まあそれなりに読める話かなという感じはしました。それでも、やっぱりミステリ作家真保裕一本領発揮という感じではないんですけど…。
というわけで、器は素晴らしいのだけど、中の料理が美味しくなかった、というような印象の作品でした。作家としてのテクニック的な部分は相変わらず衰えていないという感じがしましたが、いかんせんストーリーに魅力がない気がしました。ただ、心情なんかが非常に丁寧に描かれているので、ストーリーが平凡でも人間の心の有り様みたいなものを追いかけるような話が好きだというような人には合うかもしれません。

真保裕一「追伸」




スロウハイツの神様(辻村深月)

昔から、結構小説を読んできた。
僕は基本的に一つのことが長続きしない性格だ。すぐに飽きてしまう。何に手を出してきたのかちゃんと覚えていないけど、昔カメラに手を出したことがあった。写真に興味を持ったのだけど、結局長くは続かなかった。
昔からそうで、熱中するということとは結構無縁だった。一時嵌まることはある。なんかいいなと思って手を出してみることはある。でも続かない。興味はあるし、面白いと思うのだけど、でも飽きる。同じことを続けるということが出来ない。この性格はあんまり好きではないのだけど、でもまあ仕方がない。
まあその中で、本を読むという行為だけは長いこと続いている。小学生の頃から読んでいるのだから、自分でもよく続いているな、と思ったりする。
まあ正直読書にしても飽きっぽさは出てくる。それは、同じ本を読み返すことがあんまりない、というところに現れる。僕はとにかく、常に新しい本を読んでいたい。一度読んだ本は、それはそれで僕の中で価値のある大事な存在ではあるけど、でも読み返すということはほとんどない。それも飽きっぽさの現れなのかもしれない。でもまあ自分としては、本を読むという行為そのものを続けてこれたことをなかなか頑張っているなと思うのである。
でも、それが最近ちょっと危ういかな、と自分で思い始めている。もしかして、と思うのだ。自分は本を読むことに少し飽きはじめて来ているのではないか、と。
最近自分の中で、本を読むという行為がどうもおざなりになってきているような気がする。別に適当に読んでいるつもりはないし、面白い本を読んだら今でも感動したりするのだけど、しかし小説を読む受け皿としての僕が、以前のそれとは少し変わってきているような気がしてしまうのだ。
それはうまく言葉で表すことは難しいのだけど、それでも表現しようと思えば、本というものの無限さに圧倒されているのではないか、と思っている。
僕は、それこそ生活のほとんどを本を読むことに当てていて、休みの日なんかほとんど家から出ないような生活です。ご飯を食べながら本を読むし、歩きながらだって本を読みます。
そんな生活をしているのに、今読めるのは一日に一冊が限界です。一月に30冊ちょっと。年間では400冊に達しない、それぐらいのレベルです。
確かに普通の人からすればありえないほど読んでいるでしょう。っていうか読みすぎだろ、という人もいるかもしれません。
でも、それでも読みたい本が一向に全然なくならないわけです。今僕の部屋には、まだ読めていない本が山積みになっていて、それが毎月毎月増えている状態です。
なんとなくだけど、その状況に自分が疲れてしまっているのではないか、という気がするわけです。
もちろん、こうも思います。読んでも読んでも読みたい本がなくならないというのはある意味幸せだな、と。これだけ読んでても、まだまだ読みたい本が続々と出てくるというのは素敵だな、と。だからこそ僕は日々本を読み続けるし、本を買い続けます。
だから自分でもよくわかっていないのでしょうね。今はまだ、本を読むのを止めようだとか少し冊数を減らそうだとか、そんなことは全然考えていません。しかし、いつかは分からないけど未来には、そう思うような日が来てしまうのではないか、と思っています。もしそうなったら、今度は自分が小説を書くことにしようかな、なんて考えてはいますけど。
本を読むというのは、僕の中では既に習慣以上のものになってきてしまっています。昔なら、ちょっとした気分転換に読むとか、あるいは学校の休み時間にちょっと読むとかそういうレベルだったのに、今では、生活するということと本を読むということがほとんどイコールになってしまっています。そんな、ある意味で取り込まれてしまっているような生活に疲れている、ということなのかもしれません。大げさな言い方かもしれませんが、もう少し本と『距離を取る』ということも必要なのかもしれません。
一方で、僕はこんなことも考えます。僕はずっと本を読むということを続けてきたけど、でも本を読むことで人生が変わったなんていう経験はないな、と。
僕は本を読むことを娯楽だと思っているし、もっと言えば暇つぶしだと思っています。それはこれまでずっとそうで、その立ち位置が変わったことはなかったと思います。
本作に、チヨダ・コーキという、若者に絶大な人気のある作家が出てきます。チヨダ・コーキの作品を読む人は、心の底からチヨダ・コーキの作品を支えにしているわけです。チヨダ・コーキの小説があるから、今の自分がある。チヨダ・コーィの小説があるから、これまで生きてこれた。そう人々は言います。
僕にはそんな経験はなかったな、と振り返ってみて思います。今まで読んできた本の傾向もあるのかもしれないけど、面白いとか感動したとか哀しいとかそういうことを思ったことはあっても、この本があるから自分があるみたいな、この本を読んだからこそ今の人生があるみたいな、そんな経験はやっぱりないな、と思います。
先ほどは、もっと本と『距離を取った』方がいいのかもしれないと書いたけど、一方で、もう少し本に『熱くなっても』いいのかもいいのかもしれない、と思ったりもします。
どちらにしても、今さら僕の人生から本を読むことを引き算することは出来ないですね。どんな形であれ、僕は本とこれからも深く付き合っていくことでしょう。なんて大げさな言い方かもしれませんけどね(笑)。
そろそろ内容に入ろうと思います。
赤羽環は、大学在学中に脚本家としてデビューし、今は売れっ子と言ってもいいくらい人気脚本家になった。
そんな赤羽がオーナーであるスロウハイツというアパートがある。
オーナーと言ってもまあ形だけで、皆と一緒に住んでいるというだけだが、まあ形としてそのアパートは環の持ち物である。
そこに、芸術家の卵と呼んでいい人々が住んでいる。手塚治虫のいたあのトキワ壮の現代版のようなところである。
住んでいるメンバーはこんな感じ。
森永すみれ。画家の卵。絵は非常に巧く、環もそこは評価しているのだけど、いかんせん営業力がなく、才能が埋もれている形である。バイトをして生計を立てているが、上司運に恵まれないらしく、バイト先では憂鬱なことが多いようだ。長野正義の彼女であり、環の数少ない女友達であり、スロウハイツにおける炊事担当である。
長野正義。映画監督を目指して映画制作会社で働くも、なかなか芽が出ない。自分の感情を映画で表すなど恥ずかしい、だから感情のない冷めた映画を作るというスタンスを貫いていて、そこさえ破れればいい監督になれそうなのにと環も言う。環とは大学時代から友人になった。
狩野壮太。児童向けの漫画家を目指して日々投稿を続けるも、こちらも同じくなかなか芽が出ない。悪意のまったくない、純真なストーリーを好むために、それが足枷になっているようだ。こちらも正義と同じく、環とは大学時代からの友人。
円屋伸一。環とは高校からの親友であり、漫画家を目指している。しかし、このストーリーが始まった段階では既にスロウハイツを出てしまっていた。環の存在をあまりに意識しすぎたためだった。
さて、ここまでは卵であったが、スロウハイツには正真正銘の芸術家というのが存在する。
チヨダ・コーキだ。
チヨダ・コーキは高校在学中にデビューをし、以来十数年間ひたすらトップとして走り続けてきた。既に30代だが、今でも中高生に圧倒的な支持を得ている作家であり、その作品は今でも売れ続けているし、新しい作品をどんどん生み出し続けている。環は昔からチヨダ・コーキのファンであり、いろんな縁からチヨダ・コーキをスロウハイツに呼ぶことになった。
チヨダ・コーキは誰にでも優しく、世間ズレしていない純真な男である。それ故に、短いとは言えない経歴の中で、一度だけ筆を置いたことがある。
チヨダ・コーキの小説のせいで人が死んだ。
もう10年くらい前のことだが、福島県の山奥のある廃病院で15人もの人が死んだ。主催者は、集団自殺をすると偽って人を集めたが、メンバーを舞台に集めた後、彼等に殺し合いをさせたのだ。主催者自身も死に、後に遺されたのはビデオカメラと遺書。そのビデオカメラは、殺し合いの様子を映した凄惨なもので、遺書にはビデオの映像はすべてコウちゃん(=チヨダ・コーキ)にあげる、と書かれていた。
その事件にマスコミは飛びつき、マスコミは当然のようにチヨダ・コーキを責め立てた。そして彼は書けなくなった。
そんな彼を救ったのが、「コーキの天使ちゃん」と後にいわれるようになった新聞社へのある投書である。128通に及んだその手紙は新聞に連載されることになり、それを読んだチヨダ・コーキは復活した。
環とチヨダ・コーキ、そしてその他卵たちが、スロウハイツという一つ屋根の下で過ごす日々。楽しいだけじゃない、トラブルがないではないけど、彼等は一つになっていろんなことを乗り越えながら毎日を過ごしていく。
だが、そこに一つの不穏が忍び寄る。加々美莉々亜という名の、少女の形を借りた不穏が、スロウハイツの生活を軋ませる…。
というような話です。
いやはや、予想していた以上にいい話でした。ラストのラストまで読めばミステリ作家らしい部分が覗けるのだけど、それ以外は青春ものという感じで、しかも一癖も二癖もある。かなり読んでよかったと思わせる本です。
まずこのスロウハイツという設定がいいですよね。こうやって、環が気に入った人だけを集めて一緒に住む。環というのは負けず嫌いで時々扱いに困ることはあるけど、でもその才能は素直に評価できるし、人間としても魅力的である。他のメンバーも概ねいい人ばっかりで、読んでいるとこのスロウハイツの生活が本当に楽しそうに思えます。
僕はあまり人間のことが好きではないはずなのに、こういう仲間とか絆みたいなものに時々憧れたりしてしまうところがあります。結局そういう状況になっても、その距離感に馴染めなくて結局嫌になってしまうんだろうな、とは思うのだけど、でもやっぱり時々憧れますね。小説では描かれない部分に本当に大変さが潜んでいると分かっていながら、それでもいいなと思ってしまう。どうしようもないですね。
正直僕には才能と言えるようなものは何もないし、何かに向かって努力をするというのも得意ではないので、このスロウハイツには入れてもらえないと思うのだけど、でももし入れたとしても途中で疲れてしまうかもしれませんね。それだけ濃い人間関係がそこでは築かれています。他人に干渉されたくない、という意識の強い今の若者にはあまりそぐわない生活形態でしょうが、でもこういう生活が出来る人もいるんでしょうね。羨ましいと思います。
辻村深月というのは、デビュー作はかなりミステリタッチで、それ以降はミステリというわけでもないエンターテイメントな感じの作品を出しているという印象ですけど、しかし人を描くのが巧いなという風に思う作家でもあります。
こうなんていうか、人を描いているという感じではなくて、人を捉えているというような雰囲気を感じさせます。よく作家が、キャラクターが勝手に動く、というような表現を使いますが、まさにその勝手に動き出したキャラクター達をじっくりと観察してしっかりと捉えて離さない、という感じです。どのキャラクターもきっちりと描かれていて、その骨太さに驚きました。主役級の環やチヨダ・コーキは当然としても、森永や正義、狩野や円屋と言ったキャラクターまできっちりと描いていて、漏れがないという感じでした。ストーリーの中で違和感なくキャラクターを動かしながら、同時にストーリーの方でも強弱をつけることが出来ていて、この作家はホント巧いなと感心させられました。人の心の隙間とか、人と人との感情のズレみたいなものをしっかりと捉えるのが巧くて、まだ20代でこれだけのものが書けるのか、と思ったりします。
あとストーリーの方もさすがとしかいいようがありません。正直最終章までは、何が起こるというわけでもなく(いやもちろんゴタゴタはいろいろ起こるのだけど)、スロウハイツというものを起点としたそれぞれの人々のあり方とか日常みたいなものを切り取っている感じで、もちろん最終章がたとえなかったとしても僕の評価は変わらなかったと思うけど、しかし最終章にはやられましたね。お見事!と思いました。なるほど、ストーリーはすべてここに行き着くために存在したのだな、と思う出来で、かなり素晴らしいと思いました。僕はあまり小説を再読することはありませんが、しかし最終章を知ってからまた頭から読み直すというのもなかなかいいかもしれないな、と思いました。
というわけで、まだまだ書き足りない気もしますけど、僕の中では大絶賛の作品です。是非読んで欲しい作品です。辻村深月の作品をもう少し読んでみたいですね。とりあえず「くじらのなんとか」っていうのを読みたいです。

辻村深月「スロウハイツの神様」





あなたの呼吸が止まるまで(島本理生)

何かを表現するための方法はたくさんある。僕の知っているやり方から、僕が知らないだろうやり方まで、これまで多くの人がその可能性を求めて様々な挑戦を続けてきたのだと思う。
その中でも僕は、言葉を介さない表現というものはすごいな、と思ってしまうのだ。
言葉というものは僕は好きである。人間のコミュニケーションの基本だし、様々にバリエーションがある。外国語のことは知らないけど、日本語というのはとにかく表現が豊かなようだ。一つの事象、一つの感情でさえ山ほど表現が存在するし、色の名前や季節の表し方などもたくさんある。世界で初めて小説(文学)が生み出されたのも確か日本だし(違ったっけ?)、俳句などの日本独自の表現形式もある。言葉によるコミュニケーションというのはとにかく無限であるし、果てしない。
ただ、それと同時に感じるのは、言葉による表現というのはどこか断定的であるな、ということだ。
例えば小説を読むでも歌を聴くでも映画を見るでもいいのだけど、情景だの会話だのと言ったものは言葉を通じてやり取りされる。音楽はちょっと別だけど、小説や映画などは言葉なしにはなかなか成立し得ない表現方法だと思う。
言葉が断定的であると僕が感じるのは、表したいものを言葉にとって囲ってしまうからだと思う。
言葉というのは比較的狭い範囲の物事しか指すことができない。だからこそコミュニケーションのツールとしてはかなり有用であると思う。言葉によるコミュニケーションでももちろん誤解は存在するが、しかしある一つの言葉が指す物事というのは限定的だということには変わりない。「リンゴ」という言葉はあの食べ物のリンゴを指すわけで、別の状況では犬のことを指している、なんていうことはない。
何か表現をする時に、自分の表現したいものにぴったりと合う言葉が存在すればいい。しかし、大抵そういうことはないだろう。言葉というものがあまりにも狭い範囲のことしか指さないので、自分の表現したいものからちょっとずれてしまう。そのずれが積み重なっていくと、結局自分が表現したいものとはまったく違うものが出来上がってしまうことになる。その中でいかに表現をするかというのが問われるわけだけど、なかなか難しいだろうと思う。
言葉というものから開放された時、表現というのは少しだけ自由の羽を伸ばすことが出来るのではないかと思っている。自分の表現したいものを一旦言葉に落とし込むのではなく、それそのものをダイレクトに誰かに伝えることが出来れば、それは素晴らしいことだと思う。
本作では、舞踏というものが扱われている。
正直僕は舞踏というのは見たことはない。恐らくこれからも見ることはないだろうと思う。しかし本作で描かれる舞踏というものを考える限り、舞踏というのはまさにそういう表現としてぴったりなのではないかと思うのだ。
舞踏というのは、小道具やセリフなんかをまったく使うことなく、自らの体の動きだけで何かを表現するという芸術である。ストーリーがあるわけでも具体的なシチュエーションがあるわけでもない。だから、その舞踏を見て観客が感じるものは、それこそ一人一人違ったものになるだろう。自分の伝えたいものがきちんと伝わるかという意味では伝わらないのかもしれない。
しかし、限定的ではないイメージを、言葉ではない形で伝えることが出来るというのはすごいではないか、と思うのだ。それが、見る人に届く過程でまったく違ったものに成り代わってしまったとしても、それはもはや問題ではない。表現する者が何かを表現しようとして、見ているものが何かが伝わったと感じれば、それで一つ完結していると言えるだろう。
この文章を書いていて思い出したことがある。
バイト先の女の子がバレエをやっていて、その発表会があったので観にいったのだ。バレエというのも、そういう限定的ではない表現だな、と思ったのだ。
発表会は二部に分かれていて、第一部は白鳥の湖だった。これはセリフはないけどストーリーはあって、まあ限定的ではあったと思うのだけど、第二部はいくつかのグループに分かれてそれぞれがいろんなテーマで踊るというものだった。
この第二部を見ていて、これは面白いぞ、と思ったのだ。もちろん僕はバレエなんか全然知らないし、今まで見たこともなかったのだけど、それでも彼女たちが統一された踊りを舞う度に、なんとなく言葉に還元できない、イメージみたいなものが伝わってくる感じがするのだ。僕が受け取ったものが、相手が表現したかったものかどうかはもちろん分からないのだけど、しかし何となく何かが伝わった気だけはするのだ。言葉を使った表現では、こういうことは出来ないと思う。なんだか少しだけ羨ましいなと思ったのだ。
きっと僕はこれからも小説を読むし、もしかしたらもしかしたらだけど小説を書こうとするかもしれない。結局僕は言葉に縛られたまま生きていくのだと思うのだけど、たまには言葉から開放されて、何でもない、ただの一個の表現として存在してみたいかもしれないな、と思ったりしました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
野宮朔は12歳の小学生。父親は舞踏家で、大道具の仕事をしながら、赤字を出しながらも年に何回か講演を行っている。母親とは離婚した。舞踏のことしか頭にない父親を見限ったらしい。今では家事全般は朔がやっている。また、普段から父親の関係者と会ったりしているせいか、周囲の子供と比較してかなり大人びた性格をしている。
父親の知り合いの佐倉さんという人に出会う。31歳で、父親と同じくやっぱりどことなく変な人なんだけど、一緒にいると妙に気になる。お兄さんという感じだ。時々会うのだけど、会う度によく分からない感情がやってくる。
学校では鹿山さんという女の子とよく話す。というか鹿山さんとぐらいしか話さない。鹿山さんははっきりしていて自分の意見をきちんと言って、そのせいだと思うけどクラスでもちょっと浮いている。でもそんなあり方が朔には羨ましくて、鹿山さんを尊敬している。
また、ちょっとしたきっかけで田島君という男の子が気になる存在になった。好きとかそういうのじゃないと思うけど、なんとなく気になる存在。
朔の日常は緩やかに過ぎていく。その中で起きた、朔にとっては消せないある事件。そして朔は一つの復讐を決意する…。
というような話です。
うーん、どうでしょうか。なんとも言えない作品だなと思います。
島本理生の作品は「ナラタージュ」を読んだことがありますけど、まああっちはそれなりに読めたかなという気がするんですけど、この作品はどうなんでしょうね。なんとも言えない読後感です。
文章は相変わらず巧いという感じがしますが、でもこの作品はなんかダメです。ダメな理由を言葉にしようと思うんですけど、どうも巧くいかないですね。
作中で語られるある事件がダメ、というわけではないと思います。いや、もちろんダメなんだけど、それが作品として浮いているとか違和感があるとかそういうことではないような気がします。もっと別のことに違和感を感じているような気がするんですけど、よくわかりません。全体的にぼんやりとした印象でした。
佐倉さんや父親が関わる大人の部分と、鹿山さんや田島君が関わる子供の部分がどうも巧くかみ合っていないようなそんな感じはしました。ストーリー全体としても、その二つの部分はお互いに影響しあっていないというか、あまり全体として関係ないかなという感じです。朔という少女のあり方が、その二つの領域をどうも巧く生きていない感じで、微妙な齟齬がある、というようなそんな感じでしょうか。
というわけで、僕としてはオススメ出来ない作品ですね。なんとも言えない感じです。ただ、舞踏というのはちょっと面白そうだな、とは思いました。

島本理生「あなたの呼吸が止まるまで」



世界でもっとも美しい10の数学パズル(マーセル・ダネージ)

ブームの最盛期という意味ではちょっと前に過ぎてしまっているような気はするけど、数独というのが一時期ものすごく流行った。ナンプレ(ナンバープレース)とも呼ばれるパズルであるが、今でもその種のパズルを買っていく人は多い。数独を扱ったパズル誌は日を追う毎に増えていき(決して大げさな表現ではないと思う)、数独を扱った本が続々と出る。まあ今はパズルではないけど、インド式計算術みたいな方が人気なのかもしれないけど。
数独というパズルのルールは簡単である。9×9マスの正方形があり、その内部がさらに太線で3×3の正方形9つに分かれている。その計81マスに、1~9までの数字をあるルールに従って入れるのである。そのルールというのは、縦横それぞれ列に1~9までが一つずつ入ること、そして太線で囲われた3×3のマスに1~9までが一つずつ入ること。この二つだけである。
この非常に単純なルールを持つパズルが人々の心を捉えるらしい。特に高齢者の方なんかが、ボケ防止のためにやったりしているようである。あるいはサラリーマンが電車の空き時間にやったりしているのだろうと思う。
僕もパズルを解くのは好きなのだけど、でも数独はあんまり好きではない。というのも、数独というパズルは既に解き方がわかってしまっているからである。僕は、まあ解く時間や解き方のスマートさなんかを無視すれば、大抵どんな難しい数独でも解ける自信がある。数独には100×100マスなんていう化け物みたいな特別版も作ろうと思えば作れるわけだけど、それだって根気よくやればきっと解ける。だからどうも面白いと感じられないのだ。
僕が高校時代に嵌まったあるパズル誌がある。残念ながらそのパズル誌は、僕がその存在を知ってから1年とちょっとで休刊になってしまい、一時また復活をしたのだけど、現在では既になくなってしまった雑誌である。
それが、「パズラー」という雑誌である。
この雑誌の革命的だった点は、とにかくありとあらゆる種類のパズルを載せていた、ということである。
書店にいってパズル誌のコーナーを見てもらえば分かると思うのだけど、現在出ているパズル誌というのは、大抵一種類のパズルしか載っていない。「数独」なら数独だけの雑誌、「イラストロジック」だけならそれだけ、「アロークロス」ならそれだけ、「クロスワード」ならそれだけだし、「漢字パズル」ならそれだけしか載っていないのだ。一つの雑誌で一つの種類のパズルを載せるというのが、今も昔も基本的なスタイルになっている。
その中にあって「パズラー」という雑誌だけが異彩を放っていた。「パズラー」は、とにかく掲載するパズルの種類を限定しない。「数独」も「イラストロジック」も「クロスワード」も、その他ありとあらゆる基本的なパズルが山ほど載っていたのだ。
しかもそれだけではない。
世の中にはパズル作家と呼ばれる人々がいるのだけど、そのパズル作家たちが毎月、誰も見たことのないような新しいパズルを作ってはその雑誌に載るのである。ルールから何から自分で生み出して作る、作家オリジナルのパズル。基本的なパズルというのは既に解き方が確立されてしまって、そのやり方に則っていけば必ず解くことが出来るのだけど、作家オリジナルのパズルというのはまずどうやって解けばいいのか、というところから考えなくてはいけないのだ。これは面白かった。毎月毎月新しいパズルを生み出す作家がすごいと思ったし、難問パズルと言って死ぬほどハイレベルのパズルなんかも毎号載っていて、高校時代はそのパズルの発売日から1週間くらいは、授業中も隠れて解き続けるくらい嵌まったのである。
さらにそれだけではない。
「パズラー」には、読者からパズルを公募するコーナーというのもあったのだ。一般の人が、自らルールを決めオリジナルな新しいパズルを生み出して投稿する。実際その投稿によって才能を認められ、「パズラー」誌上でパズル作家としてパズルを発表するようになった人もいる。僕も毎月のようにパズルを投稿したものである。一度だけだが、ある月の最優秀パズルとして載ったこともある。かなり嬉しかった記憶がある。
とにかくそんな革新的で素晴らしいパズル誌だったのだが、事情はよくわからないが休刊になってしまった。あれは哀しかったなぁ。今でも僕は、「パズラー」が当時の質で復刊するのであれば買うつもりがある。それほどに魅力的なパズル誌だった。今世の中に出回っているパズル詩がカスだと思えるぐらいのもので、素晴らしかった。ホント、世界文化社さん、なんとかもう一度「パズラー」を蘇らせてはくれないものでしょうか?夏原さんとか今井さんとか菫工房さんとかの有名なパズル作家さんをなんとか集めて、もう一度是非とも復活させて欲しいものだ、と思います。
あとそういえば僕は、数独のオリジナルのパズルを作ったりもしている。きかっけはバイト先のスタッフで、数独を解きたいという女子が二人もいたのだ。初めは普通の数独を渡していたのだけど、その内自分でオリジナルのルールを付け加えた数独を作って渡すようになった。自分でもなかなかよく出来たと思うものもいくつかある。なかなかパズルをやりたいという人はいないので陽の目を見ることは少ないのだが、また機会があればパズルを作ってみようかなとも思うのである。
パズルというのは、決して多くの人を魅了するわけではないが(今の数独ブームや、アメリカの偉大なパズル作家であるサム・ロイドなどの例外はあるけど)、しかし太古の昔から人々を惹き付けて止まない存在だった。今も昔も、多くの人々がパズルを生み出しては、多くの人々がそのパズルを解いてきたのである。そんな古今東西様々に存在するパズルの中から、世界10大パズルとでもいうものを選出し、そのパズルそれぞれについての数学的な関係について語ろうというのが本作の主旨である。
さてというわけで、本作で紹介されている10の数学パズルをまず書こうと思います。

「スフィンクスの謎かけ」
有名な話だろうが、大昔、オイディプスがスフィンクスに謎掛けをした。それはこんなものだった。

『朝は4本、昼は2本、夜になると3本の脚をもつものは何か?』

答えは、人間である。
さてこれが何故数学の問題と関係するのかというと、まあ実際あんまり関係ないのだけど、ただ問題をいかにして考えるのかというその手法について触れている章である。

「アルクインの川渡りのパズル」
これもまあ有名だろう。パズル自体はこんなものだ。

『1匹のオオカミと1匹のヤギを連れた1人の旅人が大きなキャベツ1個を抱えて川岸に辿り着く。残念なことに川を渡るボートは一つしかない。ボートが運ぶことのできるものは二つまでである。もし旅人が一緒にいなければ、岸に残されたヤギはキャベツを食べ、オオカミはヤギを食べてしまう。オオカミはキャベツを食べない。さて最少の往復回数で川を渡るにはどうしたらいいだろうか』

このパズルからは、組み合わせ論の話が展開される。

「フィボナッチのウサギのパズル」
これは、パズル自体よりも、フィボナッチの数列の方が有名だろうと思う。
パズル自体はこうである。

『非常に大きなかごの中に一つがいのウサギを入れる。もし毎月それぞれのつがいが新しい一つがい(つまり雄雌の双子)を生み、そのつがいが生後二ヶ月目から再び一つがいを生むとすれば、一年後には何つがいのウサギが生まれているだろうか?』

この一ヶ月毎のウサギの数が、あの有名なフィボナッチ数列になっている。この章では、フィボナッチ数列の驚くべき様々な性質について触れている。

「オイラーのケーニヒスベルクの橋」
これもかなり有名な話ではないかと思う。図を載せることが出来ないのでパズル自体を上手く説明できないが、ドイツのケーニヒスベルクという町に実際あった橋に関するパズルである。

『ケーニヒスベルクの町を流れるプレーゲル川には二つの島があり、7つの橋が本土とのあいだをつないでいる。どの橋も二度渡ることなく7つすべての橋を渡ることが出来るか?』

このパズルの答えは、できない、である。要するにこれは一筆書きの問題であり、そこからグラフ理論と位相幾何学という話になっていく。

「ガスリーの四色問題」
これも有名な問題である。要するにこうだ。

『ありとあらゆる形状の地図を塗り分けるのに必要な色の数は何色か?』

これは地図制作者のふとした疑問から生まれたパズルであり、地図制作者は経験的にそれが4色で充分だろうと思っていたが数学的な証明は出来なかった。現在では、一応証明された、ということになっている。というのも、この四色問題を証明するにあたって、コンピューターの力を借りなくてはいけなかったからだ。純粋な数学的な証明がなされたわけではない。この四色問題は、数学の証明という問題に一歩踏み込むものであった。
まさにこの章では、証明するということそのものについて触れている。

「リュカのハノイの塔のパズル」
これも有名だろう。ハノイの僧院には実際にこのパズルと同型のものがあるらしい。これも図を描けないのでパズルの説明は難しいが、要するにこうである。

『三本の棒があり、その1番目の棒には64枚の円盤が上から小さい順に並んでいる。その円盤を、小さい円盤の上に大きい円盤を載せてはいけないというルールを守った上で三番目の棒にすべて移し変えるのにどのくらいの手順が必要か?』

ハノイの僧院では、この移し変えをすべて終えたら世界が終わる、と伝えられているらしい。実際それはその通りかもしれない。この移し変えに必要な手順は2の64乗-1回であり、1秒に一回の手順を行ったとしても5820億年の年月が掛かるのだそうだ。このパズルから、無限というものについて考えていく。

「ロイドの地球から追い出せのパズル」
アメリカにかつて、サムロイドという天才パズル作家がいた。生涯に1万を超えるパズルを生み出し、そのどれもが魅力的で挑戦的であり、解こうとするものを熱中させたものだったが、さてそのロイドが生み出したパズルの一つに「地球から追い出せ」というものがある。これも図が描けないので説明は困難だがこういう感じである。

『地球に見立てた二枚の円盤を中心で固定し、二枚の円盤を回転できるようにする。地球の周囲には13人の中国人戦士が描かれているのだけど、その円盤を少しずらすとああ不思議、さっきまで13人いたはずの戦士が12人になってしまうのである』

このパズルから、錯視や不可能図形の話なんかになっていく。

「エピメニデスのうそつきのパラドクス」
これも有名な話である。いろんなバージョンがあるが、クレタ人のやつが一番メジャーだろう。

『クレタ人であるエピメニデスは、「すべてのクレタ人はうそつきだ」と言った。さてこれは本当か。』

もし「クレタ人が嘘つきだ」というのが真であれば、エピメニデスは嘘をついていることになる(エピメニデスはクレタ人だから)。となれば彼の発言は「クレタ人は嘘つきではない」ということになるが、これは矛盾である。一方、「クレタ人が嘘つきだ」というのが偽であれば、エピメニデスは正しいことを言っていることになる(エピメニデスはクレタ人だから)。となれば彼の発言は「クレタ人は嘘つきである」ということになるが、しかしこれも矛盾である。この話から、論理学やゲーデルの不完全性定理の話なんかになっていく。

「洛書の魔方陣」
魔方陣もよく知られたパズルだろう。

『ある正方形の中に数字を入れ、縦横斜めどの和をとってもすべて等しくなるようなものを魔方陣という』

この章では、魔方陣の魅力について語っている。

「クレタの迷宮」
これはパズルなのかな、という気はするのだが、要するに迷路である。クレタの迷宮として知られている伝説はこんなものである。

『クレタ島につくられた牢獄にミノタウロスという獣がいて、毎年男女の生け贄を捧げてきたが、ある時テセウスという男がその牢獄の迷宮に入り、ミノタウロスを対峙し、かつ自らの身体につけた紐を辿ることで迷宮から抜け出したのである』

この章では迷路を扱っている。

さてこれで10すべてのパズルを紹介したことになる。これはパズルなのか?というものもあったが、概ね有名で誰でもなんとなくは知っているものばかりではなかっただろうか。
本作は、かなり初心者向けに書かれた本で、僕も数学的に秀でているとは言いがたい人間だけど、それでもちょっと簡単すぎるかなという気がする内容でした。数学を知っている人からすれば当たり前すぎる言葉や式の変換なんかもかなり丁寧に解説をしていて、数学初心者にはかなり適切な本だと思うけど、普通ぐらいに数学を知っている人からすればちょっと退屈ではないかなと思える本でした。
また、10の数学パズルを選んでそれぞれについての数学的な考察を考えるという内容になっているために、一つ一つの掘り下げが非常に薄い気がしました。まあ、それぞれのパズル一つで何冊もの本が書けてしまうようなものばかりなので、本作のような構成にした場合どうしても一つ一つが薄くなってしまうのでしょうが、やっぱり物足りなさを感じました。
あと本作は既に4刷まで来ているのだけど、でも誤植がかなりありました。僕が気づいただけでも三つはありました。辺DCなのに辺BCと書いてあったり、4の2乗と表記しなくてはいけないところを42と書いてあったりして戸惑ったりしました。
というわけで、全体的にはあまりオススメ出来る作品ではないですね。でも本書の中の四色問題のところを読んで、やっぱり四色問題の本は買おうと思いました。あとサムロイドの「地球から追い出せ」のパズルも実物を見てみたいものですね。気になりました。
あまりオススメ出来ないので読まなくてもいいと思います。

マーセル・ダネージ「世界でもっとも美しい10の数学パズル」


世界でもっとも美しい10の数学パズルハード

世界でもっとも美しい10の数学パズルハード

永遠の出口(森絵都)

今回の内容とは全然関係のない話になってしまうのだけど(まあ無理矢理なんとか結び付けようとはしてみようと思いますけど。どうなりますか)、今日ずっと見ていたテレビ番組の話を書こうと思います。
それは、爆笑問題とビートたけしが司会の番組で、『責任』というキーワードを元に、いろんな社会的な問題を考えてみよう、というような番組でした。
そこでは、学校の責任が扱われ、亀田三兄弟の話題が取り上げられ、今の子供達のあり方を問い、またメディアの現状について討論をしたりしていました。また、責任感テストなるものをやっていて、自分がどのくらい責任感のある人間なのかということが判定できる、というような番組でした。
さてそもそも『責任』というのは一体何だろうか、と考えたわけです。漠然とした問いで、僕だって別に何か答えがあるわけでもないのだけど、でもそもそも『責任』ってなんだろう、って思いました。
僕らは、社会というものの中で生きています。そこではありとあらゆるものに取り巻かれ、ありとあらゆるものが隣同士になっています。また様々なルールが決められ、そのルールを守るように言われます。窮屈ではあるけれども、しかし人間が長い年月を掛けて、より生きやすいシステムを模索した結果、今あるような社会というものが生まれたわけです。
基本的に『責任』という言葉は、この社会とセットになる言葉ではないかと僕は思うわけです。僕が言う社会というのは国とか法律とかそういう大きなものだけではなく、家族とか友人とか、要するに自分を取り巻くものすべて、というような意味合いですけど、その社会というものの中で生きる上で『責任』というものは意味を持ってくるのだと思うわけです。
今日やっていたテレビ番組でも、この社会に対する『責任』というものを扱っていました。社会というものがどんどん高度に、そして複雑になっていくにつれて、『責任』という言葉の持つ意味もどんどんと変わっていきます。それが今、学校という場で、あるいは若者のあり方そのものに如実に現れ、また企業の不祥事とそのトップの辞任や、あるいは亀田三兄弟や何とかっていう横綱などの追求というものに関わっていき、また、『責任を取ること』と『責任を回避すること』が論じられ、またメディアはどうあるべきかということが議論されるわけです。
ただその番組をぼーっとしながら見ていて、僕はふと感じたわけです。
『責任』という言葉は、本当に社会に対してのものだけなのだろうか、と。
社会に対して『責任』を果たしていればいいのか、あるいは社会の『責任』から逃れることだけが悪なのか。
もう一つだけ、『責任』という言葉が対するべき存在があるような気がしました。
それは、『自分自身』です。
僕がこれまで言ってきた社会に対する『責任』というのは要するに、関係性の問題だったわけです。人間関係の中に生じる『責任』であり、他人の存在があるからこそ発生する『責任』でもあります。
しかし、それだけでは満足ではないような気がしました。
もちろん『自分自身』というのも社会の中に含まれはします。しかし、『自分自身』とは関係性で結ばれているわけではなく、存在そのものとして繋がっているわけです。存在に対しての『責任』というのもあるはずだし、それも考えなくてはいけないのではないか、という風に思いました。
では、『自分自身』に対する『責任』とは要するに何でしょうか。
それは、『自分自身と寄り添う』ということではないかと思います。『自分自身を見極める』と言ってもいいし、『自分自身を信じる』と言ってもいいと思うのだけど、要するに『自分自身』の存在を正確に把握するということではないのかな、という気がします。
僕らは意外と、『自分自身』のことを知っているようでいて知らなかったりします。自分を過信しすぎてヘマをしたり、自分のことを信じ切れなくて何かを逃したりと、そんなことばかり繰り返しながら生きているわけです。
僕はこの、『自分自身』の『責任』というのが、社会に対する『責任』というものと表裏を成すのではないかと思っているわけです。
今世の中は、モラルが低下しているだの人を信じていないだのとまあいろいろと言われていて、結局その話は社会的な『責任』を果たせない人間が多いという結論に向くのだと思うのだけど、しかしそれは同時に、『自分自身』への『責任』が果たせていないからではないか、という気もするわけです。『自分自身』を巧く見極めることの出来ない人間が多すぎて、『自分自身』を信じきれない人が多すぎて、『自分自身』と寄り添えない人が多すぎて、それで社会的な『責任』も果たせていないのではないかな、という感じがします。
昔がどうだったか、正直僕は知りません。しかし僕の中でのイメージでは、昔の人は大抵『自分自身』のことをそれなりにきちんと把握できていたのではないか、という気がします。どれくらいの人間で、何が出来て何が出来なくて、何を信じていて何を信じていなくて、というようなことを自分でちゃんと持っていたのではないかという気がします。
今の世の中というのは、情報が多すぎて、僕らは日々ありとあらゆる価値観にさらされ続けます。その情報の多さに、現代を生きる僕らは、どんどんと『自分自身』を見失い続けているのではないかな、と思いました。
社会的な『責任』を果たすことはもちろん必要だし重要だと思います。しかしまずは、『自分自身』への『責任』について考えてみてはどうでしょうか?向き合って飼いならして落ち着いて、そうしてからようやく僕らは、社会的な『責任』を果たす存在になるのではないかと思いました。
子供というのは要するに、その過程を経る期間であるとも言えるかもしれません。社会的な『責任』を果たす大人になるために、『自分自身』と向き合う時間が子供時代であるのかもしれません。
現代は、環境のせいなのかあるいは大人のせいなのか、子供が『自分自身』となかなか向き合うことの出来ない世の中なのだろうな、と思います。もっと傷ついて、もっと考えて、もっと諦めて、そうやって『自分自身』の大きさを知悉して初めて大人になるのではないでしょうか。
僕は子供時代のことをほとんど覚えていません。高校の頃までの人間関係や出来事などはほとんど忘れてしまっています。僕は子供時代に、『自分自身』と向き合って、『自分自身』への『責任』を果たしたのでしょうか?碌でもない大人になってしまった今では、もはや『自分自身』と向き合うだけの勇気はなかなか出てこないわけですけど…。
やっぱり本作の内容とはあんまり関係のない話のまま終わりました。そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、紀子という一人の少女の小学三年生から高校三年生までの九年間を描いた作品です。
紀子という少女は、どの年代でもどこにでもいる普通の少女です。中学時代ちょっとだけグレ掛かったものの、基本的には平凡でどこにでもいるようなありきたりな少女です。
しかしそんな平凡な少女でも、印象に残る出来事、些細なことだけど気に掛かる思い出、つまらないと言って切り捨てることの出来ないゴタゴタなんかがあります。黒魔女のように恐ろしい担任もいたし、恋のドキドキもあった。初めて男の子と付き合ったり、その恋愛にボロボロにされたり、初めてアルバイトをしたりもした。両親の不仲にヒヤヒヤしたり、友人とのいろんな関係もあった。そんな、人から見れば小さな、でも本人としては大きな出来事を通じて、紀子という少女は少しずつ大人になっていく。その過程を、繊細な視点で追いかけながらも、時代背景も映し出しながら一人の少女の人生の一瞬を鮮やかに切り取っていく…。
というような話です。
なるほど、なかなかいい話だと思いました。
本作は、ハラハラするような展開があるわけでもなく、驚くべき結末を迎えたりするわけでもない、どちらかと言えば平凡な話の連続なのだけど、しかし書き手が巧いとそういう平凡な話でもここまで読ませるものなのだな、と思いました。
なんというか、少女というのを巧く映し出しているのだな、という感じでした。微妙な友人関係だったり、思春期特有のあり方だったり、一向に定まることのない生き方だったりするところに、紀子という少女の少女としての不安定さが描き出されていて、その巧さに惹かれて読んでしまう作品でした。
構成としては連作短編集に近い感じになっていて、それぞれの時代毎に章が分かれ、それぞれで印象的なエピソードを中心にその時代を描き出す、という形態です。ちょっとした冒険に少女のドキドキを感じたり、初めての恋愛のふがいなさを一緒に噛みしめたり、何もしたくないっていう諦念みたいなものに共感できたりと、まあ僕とは性別が違うのだけど、いろんな話の中でこの少女に寄り添うことが出来る感じがあって、なかなかよかったな、と思います。
主人公だけではなく他のキャラクターもなかなか巧い造型で、しかも何が巧いかと言えばキャラクターをキャラクターによって際立たせているのではないというところです。よく『キャラクター小説』と言われるような小説があって、特徴的な喋り方とか奇行なんかによってキャラクターを定めて面白く描くような小説があるけど、そういう感じではありません。口癖があるわけでも、変な行動をするわけでもなく、誰もが地に足をつけたようなキャラクターなのだけど、しかしストーリーの中で着実な役割(なんか変な表現ですけど)をこなしているために、そのストーリーの合間からキャラクター性が浮かび上がってくるというような感じでした。キャラクターがストーリーから浮いて独立しているのではなく、キャラクターがストーリーに寄り添う形で存在を確立していて、これはかなり筆力がないと出来ないのではないか、という感じがしました。
僕としては森絵都の作品なら「DIVE!!」の方に遥かに軍配を上げますが、しかし本作もなかなかいい作品です。しっとりとした風合いがあって、ゆっくりと少しずつ読み進めていくのに合うような作品だと思いました。
女性が読んだら、自分にもこんな時代があった、とより共感することの出来る作品なのかもしれません。派手さはないですけど、落ち着いたいい作品だと思います。読んでみてください。

森絵都「永遠の出口」



月光ゲーム(有栖川有栖)

本格ミステリという小説のジャンルがある。探偵が出てきて、アリバイだのダイイングメッセージだの密室だのと言ったものが出てきて、まあ人が死ぬような話である。最近では『ミステリ』という言葉はほぼ『エンターテイメント』と同義になっているけれども、『本格ミステリ』と呼ばれる場合、そう言ったジャンルを指すことになる。
さて本格ミステリはよく、リアリティに欠けるという批判がされる。大体こう言った内容だ。
『何でわざわざトリックなんかを使って人を殺すのか』
『身近で人が死んでいるのに探偵の真似事なんかするだろうか』
『証拠もないのに探偵にトリックを見破られたからと言って犯人が自白するのはおかしい』
などである。
これらの批判について、そんなことを言ったら小説として成り立たないではないか、という返しをすることも出来る。要するに小説というのは、何を書いてもいいわけで、リアリティを追求するだけが小説ではないはずだ、と。
しかしそうではなく、そもそも僕にはそういった批判自体がどうもなぁ、という感じがするのだ。
僕らは普通に生きていれば、殺人事件なんかにはそう遭遇することはない。まして、本格ミステリではよくクローズドサークルという特殊な状況が描かれるのだけど(要するに、嵐の山荘モノと言われるやつで、何らかの事情で外界と連絡が断たれてしまった状況で殺人事件が起こる。警察が介入出来ず、しかし犯人は間違いなくその集団の中にいるという状況を作れるので、本格ミステリでは比較的多用される)、普通に生きていればクローズドサークルで起こる殺人事件なんかにはまず遭遇しないだろう。
であれば、そういう状況下で人がどう行動するかについて、リアリティもへったくれもないだろう、と僕なんかは思うのだ。わざわざそんな批判をしてまで本格ミステリを貶める必要もないんじゃないかな、と思ったりするのである。
正直僕も、クローズドサークルでの殺人事件に実際巻き込まれたら、自分がどう行動するかわからない。
例えば自分が犯人でも被害者でもなかった場合、その場で友人を失った哀しみにくれるのか、あるいは犯人を見つけ出してやろうと探偵の真似事をするのか、正直分からない。あるいは何もしないかもしれない。僕は多少ミステリを読んでいるので(ただ犯人が分かった試しはないのだけど)、真相を究明したいと思うかもしれない。しかし一方で、どうせ何も分かりはしないのだからおとなしくしていようと思うかもしれない。あるいは、犯人を指摘するのではなく、次の殺人が起きないような手立てを打とうとするかもしれない。正直言って、そういう状況になってみないと分からない。
また自分が犯人の側だとしても同じである。よく、何で犯人が限定されてしまうようなクローズドサークル内で殺人事件なんか起こすのか、というような批判がある。そうじゃなくて、例えば離島に旅行に行っているのならば、そこから東京なりどこなりにでも戻ってから、東京で殺した方が発覚し難いだろう、と。
ただそういう状況だけでもないだろう。例えばXさんはAさんを殺そうと思っている。ただAさんが死んだということだけははっきりと痕跡を残したい、つまりAさんを殺したいのだけど死体を隠匿するわけにはいかない、という状況だとしよう。だとすれば殺す場所にさほど大差があるとも思えない。離島で殺そうが東京で殺そうが誰かに目撃される可能性はあるし、どちらかと言えば離島で殺す方が目撃者が少ない可能性だってある。離島で殺す場合、もちろん容疑者が限定されてしまうという危険性はあるのだけど、しかしうまくやれば、誰かに罪を着せたり、あるいは自分だけは犯行が不可能だったと証言してもらえるような状況を作り出すことだって出来るかもしれない。ハイリスクだが、しかしうまくやればハイリターンでもあるのだ。人を殺すという重大事だからこそ、賭けてみる価値はあるのかもしれない。
それに、そもそも人を殺すというのはとんでもないことなのである。僕はもちろん人を殺したことなんてないから分からないけど、しかしふとある一線を超えてしまった時に殺意が完成するのかもしれない。だとしたら、そこがクローズドサークルであるかどうかに関係なく、突発的に殺意が訪れてしまえばもう仕方ない。
確かに僕だって、本格ミステリにリアリティがあるとは思っていない。そもそもそういうクローズドサークルのような状況にはなかなかならないし、わざわざ苦労して密室なんかを作って何の意味があるだろうとも思う。登場人物が死んだ人間をさほど嘆き哀しんでいないようにも思うし、最後犯人があっさりと犯行を自白してしまうのもどうかなと思わないでもない。しかしまあそういう部分はそれとして、でも僕は本格ミステリにリアリティがないという批判はしたくない。誰もそういう状況に陥ったことがないのであれば、そういう状況で人間がどう行動するかなんて誰にも分からないのである。
まあこういうのは理屈ではないわけで、本格ミステリがダメだという人にはまあ生理的にダメなんだろうな、とも思う。別に無理矢理本格小説を読んで欲しいと思っているわけでもないのだけど、しかし他のジャンルに比べて一際批判が厳しいジャンルであるように思うので、なんとなく擁護してみたりしました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、綾辻行人と並んで本格ミステリを成熟させた(だろう)有栖川有栖のデビュー作です。
舞台は矢吹山のキャンプ場。今は小康状態を保っているものの、10年前には小規模の噴火が起き、200年前には大噴火を経験したこともある火山である。
さてそこに大学生ばかりの四つのグループがほぼ同じ時にキャンプを張ることになった。
物語の語り部は、英都大学の推理小説研究会に所属する有栖川有栖。推理小説研究会のメンバーは4人で、江神さんという部長が本作の探偵役である。
他には、雄林大学の男女混成の7人グループと、同じく雄林大学の男ばかりの3人グループ、そして神南学院短期大学の女子ばかりの3人グループの17人の大所帯である。
彼等はすぐに意気投合し、料理の役割分担をしたりキャンプファイアーをやったりと楽しく時を過ごしていた。
しかし三日目の夜、彼等を悲劇が襲う。
なんと矢吹山が200年ぶりに大噴火を起こしたのだ。灰と瓦礫が散乱する中、どうにか一人の死亡者も出さずに噴火を乗り切った彼等は、しかし土砂崩れのためにそのキャンプ場に閉じ込められることになった。食料を切り詰め、救助が来るのをひたすら待つことにする。
しかし翌朝、さらなる悲劇が襲う。なんと、メンバーの一人がナイフで刺されて死んでいるのが見つかったのだ。明らかに殺人事件であり、間違いなくこの中に犯人がいるのだ。
死体の傍らには「Y」と思しき文字が。ダイイングメッセージである。推理小説研究会の面々はそれぞれに知恵を絞るが、しかしアリバイを持つ者は誰もおらず、動機も皆目わからず進展しない。
その後次の犠牲者が現れ…。
というような話です。
本作は20年近く前に出版された本なのですが、今でも充分読むに耐える作品になっていると僕は思います。もちろん、全体的には何となく古臭さを感じるストーリーではありますが、しかし読みやすい文章と軽快な感じのストーリー運びで、20年も前に出版されたという感じはそこまでしません。
しかし、火山でクローズドサークルを作るとはかなり大胆な発想だな、と思いました。地震とか孤島とか雪の山荘なんかはよくあるけど、火山というのはたぶん初めて読みました。別に物語上火山である必然性は特にないと思うんですけど、しかし火山という設定を巧みに使っていると思いました。火山の噴火と殺人犯という二つの要素が、登場人物達を疲弊させイライラさせていく感じがなかなか巧く描かれているような感じです。また、噴火の度に逃げ惑うパニック感みたいなものもなかなかのものだと思いました。
本筋であるミステリの部分も、解決まで読むとなるほどという感じがしました。ストーリーを読んでいると、こんなので犯人を特定できるんだろうか、という感じがずっとしていました。というのも、誰も確たるアリバイもないし、初めて会った者同士で動機になりそうなものも思い浮かばない。ダイイングメッセージである「Y」もどうにでも解釈出来る代物で、また科学的な捜査はまったくない。遺留品や証拠物件はあるけど、それにしたって大した手掛かりになるとも思えない。そんな状況から、なるほど論理的に犯人を導き出せるものなのだな、と思いました。もちろん、多少牽強付会な部分はないでもないかなと思いましたけど、しかし全体的には巧くまとめたと思います。いろんな伏線が張られていくわけですけど、なかなか巧いものだと思いました。
ただ、探偵役である江神の存在感がちょっと薄すぎたかなという気はします。そういうキャラクターの探偵なんだろうとは思うのだけど、しかしストーリー全体を通してどうも江神の探偵としての印象が薄いです。江神はかなりリーダーシップを取って集団をまとめているので、そのリーダー的な素質みたいなものはかなり垣間見ることが出来たわけですけど、しかし探偵的だったのはラストの解決の部分だけという感じでした。そこがちょっと物足りないと言えば物足りなかったかなという気がします。
というわけで、有栖川有栖はこれからもちょっと読んでみてもいいかなと思わせる作家になりました。最近では、この「月光ゲーム」のシリーズの長編第四作目である「女王国の城」が出て、なんとかそこまで辿り着けたらいいかなと思っています。また、火村という犯罪心理学者が探偵役である別シリーズも読んでみたい気がします。本作も、目新しさはないしちょっと時代遅れだと感じる人もいるかもしれないけど、でも落ち着いたなかなかしっかりとした作品だと思います。本格ミステリが好きなら、読んでみるといいと思います。

有栖川有栖「月光ゲーム」


愛でしか作ってません(後藤田ゆ花)

今日は時間がないので前書きをすっとばして内容紹介に入ります。他の人の睡魔までこっちにやってきて僕に植え付けているのではないかと思うくらい眠くて困っています。
さて内容ですが、本作はどうも実話を元にした小説のようです。
BL関係の小説と漫画では業界トップの売上をクオリティを誇るYOIカンパニー。そこで編集者として働く佐藤珠美はれっきとした腐女子である。BLを愛し、BLを世に届けるために日夜とんでもない量の仕事をこなしている。
雑誌が5誌とそこで連載された作品の単行本をメインにしていて、編集者の数は漫画部門で6人。一人当たり30~40人近くの漫画家を担当するような現状で、とにかくメチャクチャ忙しい。
しかしそんな最中、編集長が不穏な情報をもたらす。どうやら親会社の経営がかなり危なく、そのあおりを受けてこのYOIカンパニーも潰れるかもしれない、ということだった。
そんな!私達は業界No.1である自信があるのだ。売上もクオリティも。YOIカンパニーがなくなったら腐女子の心の拠り所がなくなってしまう!YOIカンパニーの作品を愛してくれる人を、そしてYOIカンパニーで作品を描き続けてくれる作家を裏切るわけにはいかない!
そこで彼女たちは、身売り作戦を考えることになる。つまり、編集者と発行している雑誌・単行本ごと、自分達を丸ごと買ってくれるところを探そうというのである。
○潮社やK談社やMファクトリーなどすぐわかるお馴染みの出版社や、恐山出版など元ネタになっている出版社がどこなのかわからないようなものまで出てくるけど、彼女達はとにかくいろんな可能性を探っていろんなところに声を掛けていった。
その過程で佐藤は、何故か小説を書くことになった。K談社の文芸の編集者と知り合い、なぜかそういう話になったのだ。佐藤はその文芸の編集者に恋をしている。あの人のために本を書こう!
雑誌の編集を続けながらの綱渡りのような身売り作戦。彼女達の努力は実るのか?そして佐藤の恋は?
というような話です。
さてこの本、表紙を見てもらえばわかると思うのだけど、結構際どい感じの見た目の本です。折り返しの部分の絵なんかもかなりのものです。内容的にはBL的な部分はほとんどありませんが(佐藤の妄想という形で少し出てくるけど)、まあカバーなしで読むにはなかなか勇気のいる作品かなという気が。まあもちろん僕はカバーなしで余裕で読んでますけど。
もはやBLと言われてなんのことか分からない人はいなくなったんじゃないかと思うけど(それくらい一般的な知名度はあるでしょう)、しかし市民権を得たというところまでは行ってないでしょうね。三浦しをんがBL好きを大っぴらに公言したりして、また「腐女子彼女」なんていう本が出たりして、BLを取り巻くイメージについてはさほど悪いものではなくなった気がするけど、まだまだBL自体というのはなかなかハードルが高いと僕は思います。
まあそれは僕が男だからだと思うのだけど、本当にBLというのは何がどう魅力的なんだか全然理解できませんね。何だかいろんなものを飛び越えてしまっている感じです。しかも、男から見ればそのかなり飛び越えてしまっているように見えるものを、かなり多くの女性が好きだというのだから、まあ何とも不思議な世界だなと思います。
僕がこの本を読んでとにかく感じたのは、皆がやる気のある会社というのは羨ましいな、ということです。
僕は、まあ甘い考えかもですけど、とにかく仕事というのは楽しくないと続けることが出来ません。いくら給料が今の10倍になっても、つまらない仕事なら恐らく続けられないでしょう。だから今の本屋の仕事というのは僕にとっては面白いし、やりがいも感じています。
しかし、どうも周りの人間には恵まれていません。僕がバイトをしている店は、ほとんどの人がやる気のない店です。この点についてグダグダ書くことはしませんが、しかし本作を読んで、どれだけ仕事がきつくてもいいから、本作の人達みたいにやりがいのある仕事を精一杯皆で一緒に頑張る、というような仕事がしてみたいな、と思いました。羨ましい限りです。
本作は、まあ小説としては二流でしょう。出てくるキャラクターはなかなか面白いと思うけど、文章が巧いというわけでもなく、ストーリーは実際のことがメインだろうから作家自身のオリジナリティを評価するのも難しく、だから何とも言えないですね。まあでも、出版関係の裏側やBL業界の実情なんかが覗ける作品ではあるので、僕はそういう意味では楽しめるかなと思いました。
オススメはしませんが、BLという言葉は知ってるけどそれ以上のことはぜんぜん分からないという初心者の人が、BLというものを理解するためのテキストとしてはまあいいかなと思いました。

後藤田ゆ花「愛でしか作ってません」



雪沼とその周辺(堀江敏幸)

田舎に暮らすことが出来るか、というような問いかけをしてみる。
この問いかけは、大きく二つの要素に分解することが出来る。
一つ。娯楽の少ない土地で生活をすることが出来るか。
一つ。田舎での濃密な人間関係の中で生活をすることが出来るか。
もちろん田舎暮らしには他にも、車を運転できるかとか、利便性に富んでないところでの生活は出来るかなどいろんな要素はあると思うのだけど、大きく蒸気の二つに集約されるのではなかろうかと僕は思っている。
僕の場合、初めの条件は恐らくすぐにクリアできる。今でも僕は、都会に住んでいることでの恩恵というのはあまり受けていない。ディズニーランドに行くでもなく、ゲームセンターやカラオケに足を運ぶでもなく、ただ家とバイト先を往復するだけの生活なので、娯楽という面ではさほど問題はない。テレビもほとんど見ないので映らないチャンネルがあっても困らないし、映画なんかも見ないから映画館が少なくても困らない。友人との距離が遠くなるというのは困ったものだが(僕の場合、どこかに遊びに行くというのは基本的に誰かに誘われた場合でしかないので)、まあそれもクリアできないこともない問題であるようには思う。
ただ二つ目が厳しいような気がする。
僕のイメージの中では、田舎での人間関係というのは酷く濃密なのだ。もっと正確に言えば、濃密か排他のどちらかでしかない、と思う。近所づきあいなどというレベルを超えた深い付き合いをしなくてはいけないか、あるいは完全に排除されるかのどちらかである。
完全に排除される場合も困ったものだ。田舎での生活というのはやはり共同体というのがメインだろうし、その共同体に加えてもらえないというのは生活に支障をきたすということでもある。生活のシステムが、その共同体の存在を前提にして組まれている(と僕は思っている)ので、共同体に入れないと生活が立ち行かなくなってしまうように思える。
しかしかといって、じゃあ共同体に入ることが出来ればいいかと言われればそんなこともない。僕にとってはということだが、濃い人間関係というのはどうも疲れてしまうのだ。濃くなくても、普通の人間関係でも結構ダメな人間なのに。
他人と深く関わるというのはめんどくさい。他人のことなんかほとんど関係なく生きたい。人の善意や悪意に振り回されて右往左往するのは好きではない。だったら、一人でいる方がまだいいと思ってしまうのだ。
別に田舎で暮らしたいと思っているわけではないのだけど、しかしもしそういう展開になるとしたら、僕にはなかなか厳しい生活になるだろうな、という気がします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、7編の短編が収録された連作短編集になっています。
舞台は、雪沼という地名の小さな町で、その町に静かに生きる人々の生活を切り取った話になっています。

「スタンス・ドット」
個人で経営していたボーリング場を今日で閉めようと思っている男の話。トイレを借りに来たカップルに、最後だからどうぞやっていきませんかとゲームを勧める。

「イラクサの庭」
東京の家を売り払い、わざわざ雪沼まで引っ越してきて料理教室を始めた女性の話。つい先日亡くなったのだが、その最後の言葉が何だったのかという話になる。

「河岸段丘」
夫婦でダンボールの組み立てをやっている男の話。どうも機械が右に傾いているような気がする。これは自分がおかしいのか機械がおかしいのか。今度青島さんに見てもらおうか。

「送り火」
使わずに空いていた民家の一間を借り受けて書道教室を開いた男の話。旅先でランプを買い集めるのが趣味な妻がと、針金でも入っているかのような姿勢で座り続ける男の話。

「レンガを積む」
居ぬきでレコード店を引き受けた男の話。スピーカーの音を調節するためにレンガを下に敷こうという話になるのだけど。

「ピラニア」
中華料理屋を経営する男の話。銀行の担当者である男との会話から妻との出会いなんかを回想する。

「緩斜面」
消火器を売る会社に再就職をすることになった男の話。死んだ友人の息子と凧揚げの話になるが。

というような話です。
うーむ、ちょっと僕には地味すぎる作品だったかな、という感じがします。基本的にエンターテイメント作品ばっかり読んでいるので、こういう地味で素朴な文学チックな作品を読むとどうもついていけない感じになってしまいます。
どの話も、些細な日常から自分のあるいは誰か他人の人生について思いを馳せる、という話になります。そういう感情の機微みたいなものに基本的に疎いので、ちょっと僕には合わない感じでした。
ただ、文章がうまいということだけはわかります。なんというかありきたりだけど、ものすごく丁寧、という印象です。真摯という言葉でもいいのだけど、とにかく巧いなと感じさせる文章でした。
読んでてびっくりするのは、突然終わる感じがすることです。どの話も読んでてそう思ったんですけど、ここで終わるのか、という感じがしました。舞台を見ていて、突然幕が下りるみたいなそんな印象でした。その印象が一番強かったのが「河岸段丘」でした。おぉ、いきなり終わった!とびっくりしました。
まあそんなわけで、僕としてはちょっと合わない感じの作品でしたが、しかしこの作品は三つも賞を受賞しているし、文庫で出た時の売れ行きもなかなかのものだったので、世間的にはなかなかいい評価なのではないかと思います。エンターテイメント寄りの作品を読むのではなく文学寄りの作品を読むという人は読んでみたら合うかもしれません。

堀江敏幸「雪沼とその周辺」




バッテリー(あさのあつこ)

中途半端に才能を持つというのは残酷だなと僕は思う。
たぶん世の中にはそんな人間がたくさんいるのではないだろうか。
狭い世界では問題ない。狭い世界の中でなら、中途半端な才能だろうが頂点に立つことが出来るかもしれない。周りの人間を圧倒させることが出来るかもしれない。自分の才能を信じ続けることが出来るかもしれない。
しかし、一歩その世界を出れば、まるで通用しなくなる。
常に、上には上がいるのだ。どれほど才能がある人間でも、自分より上の人間に出会わないという人間は稀だろう。ほんの僅か、ほんの一握りの人間だけが、どんな場所でも頂点にい続けることが出来る。それ以外の人間は、常に自分より上の存在を見せつけられ、その才能に圧倒され、そして打ちひしがれることになるのだ。
僕は、基本的にどんな才能も持っていない。運動もからきしだし、将棋や囲碁やチェスや麻雀やポーカーが強いわけでもない。周りの人間を惹き付けるような人間的な魅力があるわけでもなければ、人を操ったりするようなことも別に出来ない。
ただ、昔から勉強だけは多少出来た。それこそ、中途半端にそこそこよく出来た。
小学校の頃なんかはまあよかったと思う。そんなに勉強をしなくてもテストでそこそこの点数は取れた。六年の頃から何でだか塾に通うようになったのだけど、まあそれもあって多少は周りの人間に差をつけることが出来たのではないかと思う。
ただ、段々とそれが通用しなくなってくる。上には上がいるということが段々分かってくる。それでも僕は、僕なりに必死で努力をした。自分には、勉強しかないということが当時痛いほどよく分かっていた。勉強をすることでどうなるかなんてことは考えなかった。勉強するということが、僕の中での一つのアイデンティティであった。ちょうど本作の巧にとって、投げることが自らのアイデンティティであるように。
自分から勉強を取ったら何も残らないということはちゃんと知っていた。だから、自分が天才でないと気づいてからも必死で勉強をした。人の何倍、とは言わないけど、しかし周りの人間よりは遥かに勉強をしたのではなかったか。
しかし、やっぱり中途半端だった。勉強が出来るやつというのは、まさに空気でも吸うかのように問題を解く。そんなやつが高校時代にいた。いくら頑張っても絶対に追いつけないんだろうなと思った。
結局勉強しかなかったはずの僕だけど、しかしその勉強さえ中途半端な才能しかなかった。今なら冷静に判断できる。僕には勉強の才能はなかったな、と。
もしも、何て言葉を使っても意味がないことは分かっているのだけど、でも考えてみる。もしも、僕が初めからもっと勉強の出来ない人間だったらどうだっただろうか。頑張ればトップに立てるかもしれないなんて幻想を抱くことになんてならないくらいの学力しかなかったら、どうなっていただろう。答えは出ないけど、しかしたぶん今とは違う自分になっていただろうなとは思う。
少し前にヤフーのニュースで、日本の漫画家は大変だというような記事を読んだ。週刊誌に連載を持っているような漫画家ではなく、アニメの制作会社なんかにいる人達にことである。
今アニメの製作現場というのは、安い労働力を求めて中国なんかに仕事を回してしまうため、日本の制作会社が仕事を取るにはアニメーターの賃金を落とすしかないのだそうだ。毎晩残業をして、時には徹夜までして、それでも月給が15万円とか。他にアルバイトをしないと生活できないけど、しかしその時間も取れない。親のすねをかじらないとアニメーターとしてやっていけない。そんな記事だった。
それを読んで僕は、どうして才能のある人間が苦しまなくてはいけないのだろう、と思ったのだ。
僕には絵の才能というのがほんの僅かすらない。絵がうまい人を見ると本当に羨ましいと思う。その万分の一でもいいから才能をわけて欲しいものだと思う。
しかし、そうやって僕が羨む才能を持っている人が、普通のサラリーマンより大変な労働環境の中で仕事をしていかなくてはいけないのが現状なのである。
厳しいことを言えば、それは結局中途半端な才能を持ってしまったが故の苦しみなのだろうと思う。絵を書くのは人並み以上に巧い。これまでだったらどんな場所でもトップでいられた。しかし、結局のところ、週刊誌なんかで連載を持つことが出来るような漫画家になることは出来ない。そういう才能だったということだ。しかし、連載は持てなくても、普通以上の絵は描ける。描けてしまうのである。あるいは、描き続ければいつか連載を持てるかもしれないという希望もあるのかもしれない。だからこそ、厳しい環境の中で耐える。耐えようと思う。
しかし、それは虚しい。どこにも行き着くことのない才能は、正直持っているだけで虚しい。頂点に、あるいは頂点に近づく可能性を秘めていないのであれば、才能の持つ輝きというのは失われてしまう。あるいは、その輝くことのなかった才能が持つ暗さが、本物の才能を輝かせているのかもしれないが。
才能というものの本質を考えた時、やはりそれは自分を信じることが出来るかどうか、という点に掛かってくるのではないかと思う。
もちろん、いかに自分の才能を自分で信じてみたところで、凡人は凡人である。凡人が無駄に自分の才能を信じようと思っても、そこには何も意味はない。しかし、自分の才能を信じきることの出来ない人間に、才能が宿ることはないだろうとも思う。
巧はどうしてそこまで己を信じ抜くことが出来るのか。
本作の主人公である巧は、自分の才能を微塵も疑うことはない。自分はボールを投げるために生まれてきた人間で、その才能に一滴の不安もない。うぬぼれているわけでも過信しているわけでもなく、ただ自分の中での事実として、自分自身が持つ能力を評価し、信じきっているのである。
ある意味で、これはものすごく強いと思う。自分のことをここまで信じ切れるなんて、僕にはどうしても信じることが出来ない。僕はかなり自分に自信がない人間だけれども、しかしそれを差し引いても巧は自信がありすぎる。自分の才能を信じすぎている。
まだ中学生の少年が、である。どうしてそこまで自分を信じぬける。上には上がいるという事実を知らないわけではない。世界が広いということを見落としているわけではない。そうではない。
巧にとって、他人の存在は重要な問題ではない。他人と比較して自分の位置を確かめるのではない。自分自身の絶対的な立ち位置をまず定め、それに周りの環境を合わせていく。自分自身の位置が揺らぐことはない。だからこそ、自分自身を強く信じ抜くことが出来る。巧というのはそういう人間だ。
しかしそれは、一方で弱さでもある。絶対的な立ち位置を決めるということは、その立ち位置を崩されたらもう立つ場所がないということでもある。その場所以外には立たないと決めた人間に、他に立てる場所があるわけがない。それは強さでもあり、同時に弱さでもあるだろう。
僕は凡人である。何の才能もないし、自分自身を信じているわけでもない。ただの凡人。得ようとするものも、失いたくないものもない。ただ流されるままに生きているだけだ。僕の中には何もない。
時々それは哀しいことなのではないかと思う。自分が凡人であることが、ではない。まあそれは仕方ないのだが、しかし凡人だって自分自身を信じることぐらい出来るのではないだろうか。才能を、ではない。存在を、である。しかし僕にはそれさえ出来ない。
しかし一方で、それでもいいのかもしれないとも思う。才能も信念も何もいらない。強くなければ、弱くなりようもない。どこにも向かわず、何とも対せず、ただ道なりに歩いていく。それでもいいのではないかとも思う。
時折、才能のある人間に憧れることがある。生まれ変わるなら棋士か数学者になりたいと思うこともある。しかし、才能というのは残酷だというのも分かる。才能があるからこそ、より才能のある人間の凄さを理解することが出来る。そして、絶対に追い付くことが出来ないということも理解することが出来る。しかし、自分は既に同じレールの上にいるのだ。追いかけるか、背を背けるしかない。どっちにしても、厳しい道だ。才能がなければ、そんなこと悩むこともないだろう。
どんな生き方がいいのか僕には正直分からない。しかし、才能と言うのは諸刃の剣であるといつも思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
父親の転勤により各地を転々としてきた原田一家は、この度岡山県の新田市に移ることになった。そこには、母である真紀子の父、つまり巧の祖父である井岡洋三が一人暮らしをしており、原田一家は一緒に住むことになったのだ。
巧は天才ピッチャ-である。ボールを投げるために生まれてきたという強い自負を持ち、それが揺らいだことはかつて一度もない。他人に関心がなく、興味があるのは野球だけ。いや、それも違う。興味があるのは、自分がボールを投げることだけ、という傲慢な人間である。
巧は中学生になるのだが、その春休み。同級生である永倉豪と出会った。豪は地元の野球チームでキャッチャーをやっており、そして巧のことを知っていた。大会で目にしたそのボールに魅せられ、巧とバッテリーを組みたいと願った。その願いが、叶うかもしれない。
巧のボールを受けてみて改めてその思いが強くなった。このボールは俺が受ける。他の誰にも渡さない。
そうして二人は出会った。
しかしこのバッテリーは順調というわけではなかった。巧はピッチャーとしての才能がある。豪にはキャッチャーとしての才能がある。巧はそれで充分だと思っていた。それ以外に必要なものなどない。
しかし現実にはそうはいかない。部活での嫌がらせ、納得の出来ない指導、そしてある事件…。人を巻き込んで振り回さずにはいられない巧のその存在が、二人の完璧なバッテリーを容赦なく襲う。
ボールをミットに投げるとはどういうことか、巧の球を受けるとはどういうことか。二人はお互いを深く傷つけ合いながらも、バッテリーとして完成されていく…。
というような話です。
というかまあ、全六巻の話を簡単にまとめようなんて無理な話ですね。
さてというわけで、満を持して巷で評判のバッテリーを読んでみました。
これはなかなかいい小説だと僕は思いました。去年はまさにスポーツ系の小説が続々と話題になりましたけど、「一瞬の風になれ」や「風が強く吹いている」や「DIVE!!」なんかにひけを取らない作品だなと思いました。
まず普通の野球の物語とは全然違う感じがいいですね。僕が野球の物語で知っているのは、昔入院している時に読んだ「ドカベン」と、どこで読んだか全然記憶にない「わたるがぴゅん」と、あと小説では東野圭吾の「魔球」とかぐらいでしょうか。まあ「魔球」はちょっと違うんで外しますけど、そういう野球の物語というのは基本的な王道みたいなものがあると思います。
それは、「特殊な才能を持った人間が集まって戦う」あるいは「努力によって勝利を目指しましょう」みたいな感じです。しかし本作はそのどちらでもありません。
本作では、巧というのが一応天才的なピッチャーとして出てきますけど、しかしそれだって魔球が投げれたりするわけではありません。じゃあ青春みたいに、努力と汗と仲間で勝利を!という話でも全然ありません。著者のあさのあつこが、まずそういう部分を否定したところから物語が始まっているわけです。
本作では、仲間と一緒に努力すれば勝てるだの、仲間を信じて突き進むだの、そういう青春小説みたいなお題目は全然出てきません。それよりも、これは本当に児童書なのか?と思うくらい強くそしてギリギリのところの人間関係を描き出していると思います。
その中心にいるのが巧です。
巧はとにかく、傲慢という言葉がぴったりの人間です。自分で納得できたことには従うが、納得できないことには先生や先輩の言うことでも聞かない。自分の才能に絶対的な自信があって、その部分に関しては他人の意見を聞かない。そもそも他人に関心を持つことがなく、他人と関わることが煩わしいと思っている。そんな人間である。
正直僕は、巧と結構近い人間だな、と思います。まあ才能はないんだけど、性格的にはかなり近いものがあると思います。自分が納得できないことには従うことが出来ないし、自分が絶対的に正しいと思っていることは他人の意見を聞かないし、基本的に他人に関心がないし。
僕の場合は、しかしその性格を抑えることで生きてきたわけです。自分のこの本来の性格を全面に表に出して生きていけるほど僕は強くありませんでした。自分の牙を必死で隠しながら、なるべく周囲の人間と争うことがないようにして生きてきたわけです。
しかし巧は違います。自分のその性格を押し隠すことなく、むしろ全面に押し出して生きています。誰の目から見ても、その生き方は窮屈なように見えるだろうと思います。前に進めば進むほど軋轢が増えていく、そんな生き方です。
しかし巧は意に介しません。周囲のことなど一切考えることなく、自分の才能のことだけを考え、それだけのために生きています。巧のような生き方はしたくないけど、しかしある意味で羨ましいなとも思うわけです。
そんな巧が物語の中心にいるわけで、トラブルが起きないはずがありません。とにかく物語は、巧に振り回されているといってもいいでしょう。天才的なピッチャーとして生きる巧といかにして関わっていくか。それが本作で最も強く描かれている部分です。
その中で最も辛い部分を選んでしまったのが豪です。巧とバッテリーを組むことを切望し、そしてそれが叶ってなお、豪は悩み苦しみます。巧が一向に悩んだりすることがないのとは対照的に、豪はとにかく悩みに悩み抜きます。巧という天才と出会ってしまったがために抜け出せなくなってしまったわけです。
巧と豪は常に危機を抱え続けます。どちらかの問題だったり、あるいは両方の問題だったりするわけだけど、しかしそれをお互いで力を合わせて乗り越えていこうなんてことはしません。あくまでも、それぞれがそれぞれの立場で悩み、相手と向き合う。向き合った相手が何を考えているのかはわからない。しかし、巧は投げ続けるし、豪は受け続ける。そういう関係です。
とにかくこの、巧と豪それぞれの生き方、そして巧と豪の関係というのがすごくいいと思いました。本当に中学生なのか?と思いたくなるくらいの関係で、それはまあ本作の登場人物全般に言えるのだけど、こんなに深い関係に中学生の時点で出会ってしまったら大変だろうな、と思います。それほどに巧には才能があったし、そして幸か不幸か豪にはその才能を受け止めるだけの器があったということです。
本作は、試合のシーンが描かれないという点でもかなり珍しい野球物語ではないかと思います。普通野球の物語であれば、試合での勝負というのが一つのメインになるはずなのに、本作ではほとんど試合というものが描かれません。野球小説なのに試合がほとんど描かれないというのもsうごいなと思います。もちろん全然描かれないわけではないけど、しかし全六巻の分量があって、試合に割いたページ数がこれだけなのかと思うと、すごいなと思うわけです。試合の描写をして盛り上げるよりも、巧という天才少年とその周囲の人間の内面を描き出したいという強い欲求に従ったのだろうな、という風に思いました。しかし、試合の描写がほとんどないのにここまで面白いというのも驚異的だなと思いました。
本作を読んでいて、特に興味深かったキャラクターが3人います。青波、吉貞、瑞垣の三人です。この三人はかなり好きですね。それぐらい強烈なキャラクターでした。
青波というのは巧の弟です。青波は身体が弱く、小さな頃から病名も覚えられないような難病にいくつもかかりながらなんとか生きているような子供なんだけど、しかし強い。巧の持つ強さとはまた違ったしなやかな強さがあるなと思います。
それに視点が面白い。人とは違った視点で、何となく本質をズバッと突くような感じがあって爽快ですね。人懐っこいし、こんな弟がいたら面白いかもしれない、と思わせる感じでした。
吉貞というのは巧のチームメイトでポジションとしてはサードだけど、一時キャッチャーでもあるような感じの男です。とにかくいつもおちゃらけていて口から先に生まれたような人間なんだけど、しかし何でも器用にこなす。決して口だけの人間ではない。しかも観察力は抜群で、そうは見えないけど頭も切れる。敵に回したらちょっと恐ろしいなと思わせるタイプの人間です。まさに、能ある鷹は爪を隠すと言った感じで、かなり好きですね。あと喋りも面白いし。
瑞垣は、横手二高という、巧のいるチームの対戦相手になるチームの男です。横手二高には、10年に1度の天才と言われる門脇というスラッガーがいて、その幼馴染みでもあります。
この男の屈折っぷりがまたなかなかいいわけです。常に天才天才と言われ続けた門脇の傍にい続けたためにあさっての方向に捻じ曲がってしまっています。とんでもない男です。
吉貞と同じくとんでもないお喋りですが、しかし吉貞がただおちゃらけているだけなのとは違い、鋭いナイフみたいな切れ味があります。口調こそ吉貞と大差ないとは言え、言葉で相手を翻弄することに長けた人間です。また嗜虐的な趣味もあるようで、さらに頭もいい。なかなかに魅力的な男だなと思いました。
というわけで感想を書こうと思えばまだいろいろ書けると思いますが、そろそろ疲れて来たのでこの辺で止めようと思います。とにかく、ただの野球物語ではないし、野球だけの物語でもありません。面白い部分と真剣な部分がきっちりと混じりあい、中学生ではあるけれども「少年」よりも大人びた「男」が描かれている作品ではないかと思います。非常にいい作品だと思います。惹き込まれました。是非読んで欲しい作品だと思います。大人も子供も関係ないだろうなと思います。既に児童書というレベルを超えています。っていうか児童書に普通「蕩揺」なんて言葉使うか?俺もちゃんとは意味わかんないちゅうねん。まあ中学生がこの作品を読んでどう感じるのかというのは是非聞いてみたいですね。興味があります。
分量はありますが、しかし読みやすいし面白いので是非読んでみてください。

あさのあつこ「バッテリー」












有頂天家族(森見登美彦)

人間というのはとかくいろいろと考えたがる生き物である。なんということもないことをあれこれと考えながら、その考えていることに囚われてしまいながら毎日を生きているのである。
まあ例えば、今日は美味しいご飯を作れるだろうかとか、好きな女性に電話をして話が出来るだろうかとか、親父の髪の毛が薄くなってはいけないだろうかとか、かきを食べてあたらないだろうかとか、今日どんな服を着ていけばいいのだろうかとか、まあそういうことをグダグダと日々考えているものである。
まあこの考えるという行為が人間らしいとも言える。昔なんとかっていう有名な哲学者も(デカルトだっけ?)、
「我思う、故に我あり」
と言ったとか言わなかったとか。まあ要するに、考えるからこそ自分というのは存在するのだ、というような意味だろう。たぶん。
だから人間はこんなことまで考えてしまう。
何で自分は生きているのだろう。
これこそ、まさに愚問と言わざるをえない。まさに考えても仕方のないことである。答えが出る問いではない。考えたところでどこに向かうわけでもない。はっきり言って考えるだけ無駄である。
しかし人間はどうしても考えてしまうのである。まあ僕も考えてしまったことあるし。まあ分からないでもない。
他の生き物というのはどうなのだろう。やっぱり、何で自分は生きているんだろう、とかは考えないものなのだろうか。動植物と会話をすることは叶わないが、しかしもしそんな技術が確立したら是非聞いてみたいところである。
自分は何で生きているのだろう、と考えなくてもいい生き方というのはなかなかに羨ましく思える。自分の存在についてうだうだ考えるのではなく、既に生きてしまっている自分だけを見つめることの出来る生き方というのはなかなかいいものではないだろうか。それこそまさに、余計な悩みがない生き方であろうと思う。
本作では狸たちが跳梁跋扈する。さてその狸の中の一匹で、本作の主人公でもある矢三郎は、正月初詣にやってきて、でこんなことを考える。
特に何も願うことはないな、と。
とりあえずみんな生きているし、とりあえずみんな楽しんでいる。問題がないではないが、しかし特に大したことではない。面白おかしく生きていければ、それでいいではないか。そんな結論に達するのだ。
まあこれは狸の話であり、というかそもそも狸が実際こんなことを考えて生きているとも思えないが、しかしそれはともかくとして、こういう生き方はなかなかいいとは思わないだろうか。
特に何も願うことのない生き方。
それは、現状を限りなく肯定でき、現状に限りなく満足することが出来ているということである。もちろん、高望みすることは可能だ。しかし、高望みというのは留まることを知らない。上には上がいる。とにかく人間は、ありとあらゆるものを望み、望んでは高望みをし、高望みの果てにまで行き着こうとする。貪欲な生き物なのである。
しかし、その生き方はどうだろう。永遠に登りきることのない階段をひたすら駆け上がっているだけの人生であり、それは疲れてしまうのではないかと思う。だったら、自分はもう登りきるところまで登りきったと自分で判断を下し、その高さで満足している方が生き方としてはよくはないだろうか、と思ってしまう。
どんな生き方をしたところで、上には上がいるのだ。高望みを繰り返す生き方には終わりがない。常に上がいる状態で、常に上ばかり見続けている生き方には際限がない。上を見るのではなく、自分がいる場所そのものをきちんろ見据える方が豊かな人生が送れるような気はしないだろうか。
狸がどうやって生きているかはまあどうでもいいとして、僕ら人間の話である。とりあえず僕らは生きている。その上で、面白おかしく生きていくことが出来れば、もうそれ以上望むことは特にないのではないだろうか。面白おかしく生きていくことが出来るかどうかというのは、本人の心持ち次第である。そうなれば、不幸など世の中からなくなってしまうのではないか、と楽観してみたりする。
なんてことを、特に生き甲斐もなくつまらんく生きている僕が言ったところで微塵の説得力もないのであるけれども。上に書いたようなことを、まず自分自身に言い聞かせなくてはいけないだろうか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
もう少し前書きではまともなことを書きたかったんですけど、どうも何を書いていいのかわからない感じだったのでこんな風になりました。面白い作品の場合は前書きをちゃんと頑張りたいんですけど、今回は結構難しかったですねぇ。
舞台はいつものように京都です。
糺ノ森に住む狸の名門一家である下鴨家。父親の総一郎はかつて狸界を取り仕切る頭領である「偽右衛門」を長年務めてきたが、少し前に思わぬ不幸から命を落とす羽目になった。狸界の頭領の死としてはありえないほど無残な死であった。
総一郎亡き後に残されたのは、母親と四人の兄弟である。母親は宝塚に魅了され、自身も美麗な美男子に化けては玉突きに興じるのを楽しみにしている。またとにかく雷が天敵であり、雷が鳴ると兄弟四人は何をおいても母の元に駆けつけ怯える母を宥めるというのが日常になっている。
長兄である矢一郎は、父亡き後、偉大なる父の跡を継ぐべく「偽右衛門」の座を得ようと日々政治的な画策を続けているが、土壇場に弱い性格が偽右衛門の器にはなりきれていない。長兄のライバルは、父の弟であり、下鴨家とは激しく仲の悪い夷川家に婿入りした夷川早雲であり、今は偽電気ブラン工場の主でもある。元は下鴨家の人間とは言え、今では早雲も下鴨家を憎んでおり、金閣・銀閣という息子を使っては下鴨家に卑怯で下らない悪戯を日々仕掛けてきては、下鴨家を疲弊させている。
次男の矢二郎は、あるきっかけにより最も気力のない狸になってしまい、そしてそのやる気のなさが頂点に達したある時、突然蛙として生きることを選択し、今では六道珍皇寺にある井戸の底で暮らしている。彼は既に狸に戻る方法をすっかり忘れており、狸界でも井戸の底にいる蛙がかつて矢二郎だったということを記憶する者は少ない。
四男である矢四郎は未熟者であり、ワンパターンにしか化けられない上にすぐに尻尾を出してしまう。早雲が経営する偽電気ブランで修行をする身だが、金閣と銀閣に日々いびられている。偽電気ブラン工場での修行を命じたのが今は亡き父総一郎なので修行を止めてもいいのだが、いろいろ事情があってそうはならない。
そして本作の主人公が、三男である矢三郎である。
矢三郎は矢四郎とは違って変身の名人であり、日々いろんなものに成り代わっては遊んでいる。彼は、かつて天狗界の重鎮であった如意ヶ嶽薬師坊、現在では赤玉先生と呼ばれている男の世話を日常としている。かつて下鴨家の狸を含む多くの狸がこの赤玉先生の講義を受けて学んでいたものであるが、その凋落は激しく、その凋落の一端を担っている矢三郎は多少の自責の念から赤玉先生の世話を続けているのである。赤玉先生は風呂嫌いで、放っておくと碌なものを食べない、グダグダな生活をしている。そのくせかつての威厳だけは振りまこうとするのだから質が悪い。
さてその赤玉先生の凋落の最たる原因は、弁天という人間である。元々は鈴木聡美という普通の名前を持つ普通の少女であったが、まだ天狗として威厳を保っていた赤玉先生がある時掻っ攫ってきて自分の手元に置き始めたのだ。それから赤玉先生はその鈴木聡美を熱心に教育し、瞬く間に彼女は天狗をも凌ぐ天狗としての才能を開花させ始めたのだった。老いらくの天狗に飽き飽きした彼女は、赤玉先生を陥れる一計を案じ、矢三郎と協力し見事それを成し遂げたのだった。それから彼女は京都の街をフラフラと飛び回りながら、赤玉先生のことを一顧だにすることなく日々遊びまわっている。
弁天という名は、彼女が所属する「金曜倶楽部」という怪しげな会に由来する。金曜倶楽部と言うのはその名の通り金曜に集まって何事かをしている会なのだが、実体はよく知られていない。定員は常に7人で、それぞれに七福神の名がつけられていることから弁天なのであるが、しかし狸界にとってこの金曜倶楽部というのはその悪名高いことで有名である。
何故なら金曜倶楽部は、年越しに狸鍋を食べるという習慣があるからである。年末になると狸界は、誰がその犠牲になるかで戦々恐々とするのである。
さて、そんな狸と天狗と人間がもんどりうって跳梁跋扈する京都で、彼らは日々下らない化かし合いを続ける。その化かし合いは最終的に、「偽右衛門」の座を奪い合う矢一郎と夷川早雲の戦い、ひいては下鴨家と夷川家の戦いになていくのだけど…。
というような話です。内容紹介と言いながらキャラクターの説明ばかりで、ストーリーは全然説明してないですね。
でもまあ、言い方は悪いかもだけど、ストーリーはあってないようなものです。とにかく狸と天狗と人間が跳梁跋扈するというだけで、本筋の話があるというわけではありません。なのに無茶苦茶面白い!さすが森見登美彦です。素晴らしい!ただこれはもう自分の中では仕方ないと思うのだけど、「夜は短し歩けよ乙女」を超える作品ではないな、という感じです。でもまあそれは、「夜は短し~」があまりにも良すぎるという話で、本作ももちろん無茶苦茶面白いです。
本当にストーリーはあってないようなもので、じゃあ狸と天狗と人間は何をしているかと言われると困ってしまいますね。金閣と銀閣が悪戯を仕掛けたり、赤玉先生が駄々を捏ねたり、弁天が理由もなく誰かを陥れたり、父総一郎のことを思い出したり、長兄が政治的にいろいろ動いたり、次男が蛙としての生き方に研きがかかったり、四男が臆病風に吹かれたりと、本当にそんなことばっかりしてストーリーが進んでいきます。特にこれと言って何も起こらないのに、話はどんどん進んでしかも面白い。ホント不思議な作品だなと思います。
また、森見登美彦的な奇妙な小道具みたいなものも相変わらずたくさん出てきます。偽電気ブランは「夜は短し~」で出てきましたが、実際この飲み物は狸が作っていて、狸はこれが大好きだという話になります。また「朱硝子」というバーが出てくるのだけど、このバーはどれだけ狸が入っても一杯になることはないのだそうです。奥にどんどんと通路が広がっており、その果ては冥界に繋がっているという噂もある奇妙なバーです。「夜は短し~」でも出てきた偽叡山電車も登場するし、「へそ石」なんていう石についてもヘンテコなことをやらかします。とにかくこういう、ちょっと変な世界を生み出すのはまさに森見登美彦ならではと言った感じがします。
また最後の最後はなかなか緊迫した展開になっていきます。それまでが至極のんびりした緩やかな感じだったので、最後の怒涛の展開はなかなか圧巻です。もう何がどうなっているんだかさっぱり分からない大混乱っぷりは、「太陽の塔」のラストを彷彿とさせる感じです。
というわけで、もうとにかくキャラクターの魅力でガンガンに押されまくってしまう作品です。いやはや、面白い!続編の第一章が近いうちに雑誌に掲載されるようです。この続編が読めるというのも嬉しいものです。しかし個人的には、「夜は短し~」の続編を読みたいところでもあるんですけど…。
というわけで、絶対読んで欲しい作品です。すこぶる面白いです。やっぱ森見登美彦は最高ですね。大絶賛です。狸と天狗と人間のドタバタ劇をご賞味ください。

森見登美彦「有頂天家族」



Rのつく月には気をつけよう(石持浅海)

友情に期限はあるかな、とか思ったりすることはある。
僕は基本的に、人間的に自信のない人間なので、人間関係にはどうしても臆病になる。まあ昔からずっとそうだったので、今ではもう慣れっこになってしまっているのだけど。
基本的に僕は、自分から人に関わろうということをほとんどしない。それが出来ればもう少し人間関係を広めることとかも出来たのかもしれないが、しかし僕には無理である。
僕の場合、既にセッティングされてしまった場で人と話すということは出来る。例えば、仕事場というのもそうだし、合コンとかも参加したことは一度もないけど、しかし参加してしまえばとりあえず何かは喋ると思う。飲み会があるよと言われれば言ってそこで喋り、会議があるよと言われればそこに行って喋る。まあこういうことは出来ないこともない。
しかし、自分でその場をセッティングする、というのが僕には出来ないのである。
たぶんこんなことを考える必要はないのだと思うのだけど、自分がセッティングした場ではどうしても全責任が自分にあると思えてしまうのだ。誰かつまらなそうにしていたら事前の準備が足りなかっただろうかとか、誰か怒っている人がいたら何かまずいことしたかなとか。そのくせ、相手が笑っていたり楽しそうにしていても自分が頑張ったと思えるわけではないので、なんというか疲れるのである。
だから、自分から人を誘ったりということが基本的に出来ない。誰かが声を掛けてくれるのを待っているだけだ。人がセッティングしてくれた場であれば、自分に責任はないと思える。その余裕が多少僕を人間的にしてくれるのである。
さて、友情に期限はあるのかという話に繋げなくてはいけないですね。
僕の場合そういう性格だから、基本的に友人関係みたいなものが疎遠になりがちなのである。例えばだが、大学に入った瞬間から既に僕は高校時代の友達とは連絡を取らなくなっていた。もちろん僕が東京に出たということもあるのだけど、しかしそれでも普通多少連絡ぐらいはするんではないか。しかし僕にはなかなかそれは出来ないのである。
近くにいる友人にしたって、自分から声を掛けることはない。だから周りの人間がふとした瞬間に僕の存在を思い出し、まあとりあえず呼んでみるかなという気になり、かつその時僕の予定が空いていないとなかなか会うという感じにならない。
まあそれはそれでいいのだけど、問題はこのままのやり方でいつまで友人関係というのは保つことが出来るのだろうか、ということである。僕は早晩破綻するんじゃなかろうか、と踏んでいるのだけど。
まあ10年もすれば周りの人間はどんどん結婚していくことだろう。そうなれば、そもそも友人たちとの付き合いというのもどんどん減っていくことになるだろう。まあ何だかんだで結局友人との付き合いというのは終わりを迎えるものなのである。寂しいところではあるが、まあ仕方ないのかもしれない。
何でこんな話をしているのかと言えば、本作で出てくる三人がなかなか羨ましいからである。大学時代からの友人であった三人は、社会人になった今でも頻繁に集まっては家飲みをしている。もちろんずっと続くわけではないだろうが、しかしそこには一つの定型がある。定型を持てば普通よりは関係性は長く持続するだろう。三人という人数もいい。多すぎず少なすぎずちょうどいい。こんな関係が長いこと続いているというのはなかなかいいではないか。
まあどんなものにも終わりは来るわけで、それはまあ仕方ないことなのだけど、ささやかだけど長く続いて欲しいものというのもやっぱりあるなぁ、と思ったりします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は7編の短編を収録した連作短編集になっています。
まず基本的な設定から。
長江高明、熊井渚、湯浅夏美の三人は大学時代の友人で社会人になった今でもよく会う。会うのは飲む席でというのが多い。というかそれしかない。長江が場所とつまみを用意する、熊井が酒を用意する、そしてここ数年の習慣として誰かがゲストを呼んできて4人で飲む、というのが定着している。
毎回ゲストを交えて、違った酒とつまみで飲み会を開くのだけど、しかし毎回そこで小さな謎が話題になる。それを長江が悪魔的な頭脳で以って解決する、という話です。
以後、内容紹介の一番初めに、酒とつまみの組み合わせも書いておきます。

「Rのつく月には気をつけよう」
ボウモアのウイスキー×生ガキ

夏美が連れてきたゲストである柏木一重は、昔生ガキにあたったことがあるという。以来口にしたことはなかったのだが、しかし今回また挑戦してみる、とのことだった。
その生ガキにあたった時の話を一重から聞くことになった。上司の新築祝いの席で出された生ガキを食べた翌日に腹痛に襲われたということだったのだけど…。

「夢のかけら麺のかけら」
ビール×チキンラーメン

今回は、つまみとして最高なのは何かという話の流れで、チキンラーメンをつまみにしているやつがいるという熊井の発言を受けて開かれた。もちろんそのチキンラーメンをつまみにしているという塚本がゲストである。
さてそこでは、塚本が最近出くわしたある出来事が話題になる。普段から塚本は自宅でチキンラーメンを食べているために床にそのカスを落としてしまうことになるのだけど、ある日床に大量のチキンラーメンが落ちていて、そしてその件で彼女に酷く怒られたのだ。しかし寝ぼけていてどうも自分で落としたのか記憶にない。まあチキンラーメンを床に落とすのは自分ぐらいしかいないと考えたのだが…。

「火傷をしないように」
オレゴンの白ワイン×チーズフォンデュ

今回のゲストは夏美が連れてきた後輩、須田明日香である。今回はチーズフォンデュなのだが、そこで堅いフランスパンはチーズフォンデュにして食べればいいという話を聞いた明日香は、ぽつりと「そっか、こんなふうに食べればよかったんだ…」と呟く。それを聞きとがめた三人は明日香の話を聞くことになる。それはなんともおかしな話で、バレンタインデーに義理チョコをあげたら、そのお返しが堅くなったフランスパンだった、という話なのである…。

「のんびりと時間をかけて」
泡盛×豚の角煮

今回のゲストは、長江の研究仲間である赤尾である。さてその赤尾だが、柔らかい角煮を食べてふと「やっぱり角煮は、柔らかいのがいちばんだな」と呟く。やはりそれを聞きとがめた三人は赤尾の話を聞くことにする。
それは付き合っていた彼女との話だった。付き合っていた彼女がある日、明らかに手抜きで作っただろう角煮を出してきたことがあった。それまでも角煮を彼女の作った角煮を食べたことはあったが、しかしここまで堅いのは初めてだった。ただ彼女も、別に失敗作だとかっていう言い訳をしなかった。あれは結局なんだったんだろう…。

「身体によくてもほどほどに」
静岡の日本酒×ぎんなん

今回のゲストは熊井の同期である塩田律子。実は今回は塩田の方に長江に相談したいことがあったらしく、それで熊井がこの会をセッティングしたらしい。
それは婚約者との話である。プロポーズをされたのだが、しかしそのプロポーズが後から考えるとちょっと変だった。彼はプロポーズの言葉として、「そろそろ、家庭を持とうか。」といい、その後寿司屋で出た茶碗蒸にのっていたぎんなんを見て「こんなおいしいぎんなんを、家でも食べようね」と言われたのだ。
どうということもなさそうだが、しかし塩田はかつて喘息持ちだった。気管支系の病気にぎんなんが利くという話はよく聞く。塩田は婚約者に、自分がかつて喘息持ちだったということは伝えていない。
ならばこれは、婚約者が自分の身辺調査をしたということではないか。そういう相手と本当に結婚してしまってもいいものなのだろうか…。

「悪魔のキス」
ブランデー×そば粉のパンケーキ

今回のゲストは、というかゲストという括りはおかしいのだが、まあ夏美が連れてきた。というか、夏美の婚約者である。冬木健太という男である。
さて今回は、アレルギーの話から健太の妹の話になった。健太の妹の彼氏というのが生エビのアレルギーのようで、食べると口やのどがかゆくなって大変なことになるらしい。
さてそんなある日、いつまでも起きてこない彼氏を起こそうと家までやってきた妹だったが、そこで彼氏は唇がかゆいと訴える。前夜は飲み会だった。もしかしたらそこで誤ってエビを食べてしまったのかもしれないが、しかし唇だけかゆいというのはどういうことだろう。
そこで妹は、もしかしたらエビを食べた人とキスをしたのではないか、と考えて喧嘩になったのだけど…。

「煙は美人の方へ」
パイパー・エドシックのシャンパン×スモークサーモン

さて、長いこと続いたこの家飲みの習慣も終わりを告げる時がやってきた。これまで会場を提供し続けてきた長江が引っ越すことになったのだ。
荷物が運び出されてがらんどうとした室内で、長江・熊井・夏美・健太の四人で飲むことになった。
さて今回は、スモークサーモンからの連想で、大学時代のキャンプの話になった。かつては今の三人だけでなく、樋山隼人と岡野真知子という計5人でよくつるんでいた。キャンプに行ったのもその5人である。
そこでちょっとしたアクシデントが起こる。長江が拾ってきた木が湿っていて、燃やした時に大量の煙が発生したのだ。まあみんな面白がっていたし、今となっては楽しい思い出である。
しかしその話を聞いた健太が、「樋山さんと真知子さんにとっても特別な一日だったけど、みんなにとっても特別な1日だったんだね」と、普段の長江のような意味不明なことを言う。どうやら健太は、過去のその出来事から何かを推察したらしいのだが…。

というような話です。
全体的にはまあ小ぶりな作品であるかな、という感じはします。しかし一編一編を読んでいると、なるほどやっぱりなかなかうまいなぁ、と思わせます。
基本的にどの話もフェアい作られていて、推理のための材料は全部提示されるわけです。まあその材料の提示の仕方がなかなかこなれていて巧いなと思いました。会話の端々にさりげなくそういったヒントみたいなものを散りばめていって、それで全体として違和感なくスムーズに話を進めていくというのは、やっぱり熟達しているという感じです。
また、解くべき謎がどれも男女の間の微妙なやり取りに絞ったというところも非常によかったと思います。本人としてはさほど気にしていなかったようなものでも、その話が実は深い意味を秘めていたということを気づかされるわけで、ストーリーとしてもなかなか良く出来ていると思います。
昨日「もしもし、運命の人ですか。」の感想の中でも書きましたけど、男女のやり取りというのはとかく擦れ違うもので、本作で扱われているのもそういう擦れ違いばかりです。相手にメッセージを送ったつもりだけど届いていないとか、間違って伝わっているとか、そういう状況を長江がうまいこと解きほぐしていくわけです。それが大体、その飲み会の時のつまみに関係しているという趣向もなかなか巧いですよね。
どの話もなかなか巧い感じで進んでいくんだけど、僕なりに一番すごいな、と思ったのが「火傷をしないように」ですね。これは、バレンタインデーのお返しとしてホワイトデーに堅くなったフランスパンをもらったとい話なんですけど、これはなかなか珍妙な感じでした。発端も珍妙なら解決も珍妙という感じで、しかも伏線の張り方もなかなかよかった話だと思います。男の方としては、堅くなったフランスパンをあげることでメッセージが通じるはずだったんですけど残念!という感じの話ですね。
あと最後の「煙は美人の方へ」もなかなかいいです。長江が探偵役ではないというのも面白い趣向だし、またラストならではの展開もあります。それに、バーベキューの時の話もなかなか巧い具合に進んでいって、なるほどという感じでした。
さて最後になりますが、僕はこの本を読んで初めての経験をしました。それが、僕の名字と同じ名字を持つ登場人物が出てくる小説を読んだ、ということです。
僕の名前はまあそんなに多くはない比較的珍しいタイプの名字で、今まで現実世界でも同じ名字の人には会ったことないし(親戚を除く)、また小説を読んでもこれまではそういう名字はいなかったような気がします。初めて本作で自分の名字と同じ登場人物が出てきて、不思議な感じがしました。まるで自分が呼ばれているような感じです。なかなか新鮮な感じがしました。まあどの名前かは想像してみてください。
というわけでそこまで積極的に読む本でもないけど、読んでみたら楽しめるという感じの作品だと思います。少なくとも、読んでみて損することはないでしょう。巧くまとまっている作品だと思いました。

石持浅海「Rのつく月には気をつけよう」


もしもし、運命の人ですか。(穂村弘)

恋愛というのは、異国の人とコミュニケーションを取るようなものである。同じ日本人同士のはずであるのに、何故か恋愛においてだけ遠く国境を隔てるような感じになってしまう。
そもそも言葉が通じないし、習慣や文化も違う。そんな異国の人とコミュニケーションを取るのは本当に難しい。恋愛においても、それと同程度の難易度が存在する。
例えばボディーランゲージの話をしよう。
日本で、「こっちにきて」という意味のボディーランゲージはどうなるだろう。大抵の人は、手のひらを下に向け、指をそろえて手前に引く、という動作をするのではないだろうか。日本人ならほぼ誰だってそうするだろう。
しかしこの動作、アメリカでは「あっちへ行け」という意味になるらしい。真逆である。日本人相手にならいいが、アメリカ人相手にこの動作をしてしまうと、相手を怒らせてしまうことになるだろう。こっちは別にちょっと来て欲しいということを伝えたかっただけなのに、ボディランゲージの解釈に違いがあるために誤解が生まれてしまう。
また日本でなら、YESの場合は首を縦に、NOの場合は首を横に振るとなっている。大抵の国でそうだろう。しかしまったく逆の国も存在するらしい。つまり、YESの時に首を横に、NOの時に首を縦に振るらしい。もはや意味不明であるが、しかし当人同士おかしいことをしている認識はない。ただ同じものが違って見えるというだけの話である。
また、こんな話だって作れる。
アメリカ人が、日本の田舎での生活を知ろうとやってくる。そこは田んぼや畑が広がり、森や山に囲まれた自然豊かな場所である。
そのアメリカ人は、畑の一角にイモが山積みされているのを目にする。ちょっと見てみよう。そんな気持ちでイモを手に取ったりしていると、近くの民家から一人の老人が怒ったような顔で出てきてこう言った。
「掘ったイモいじるな!」
そこでアメリカ人はこう返す。
「It is just 12 o'clock.(ちょうど12時です。)」
まあよく言われる話なので分かると思うんだけど、日本人が普通に「掘ったイモいじるな!」と言うと、それはアメリカ人には「What time is it now?(今何時ですか?)」と聞こえるらしい。だからこそそのアメリカ人は、時間を聞かれたのだと思って答えを返したのである。
これもどちらも悪気があるわけではない。しかしお互いのコミュニケーションは一向に伝わることはない。
男女のコミュニケーションというのもかなり近いものがあると僕は思う。お互いに、まず相手がどんな言語、どんな文化を持つ人間なのかを探らなくてはいけない。その上で、相手に伝わる形で言葉やボディーランゲージを伝えなくてはいけない。そうでないと、相手にいつまでも自分の気持ちが伝わらないまま、逆に完全に誤解されたままでいることになってしまう。
しかし最も難しい問題は、相手がどんな人間であるのかを見極める、ということである。相手が繰り出す言葉やボディランゲージをどんな文化圏の常識で解釈をすればいいのか、ということがなかなか掴めないのである。
例えば本作の帯にこんな文章がある。本文から抜き出されて書かれたものである。

『或る夜のこと、友達の家に何人かで集まって遊んでいるとき、コンビニエンスストアに食料の買い出しにゆくことになった。
「僕、行こうか」と私が名乗りをあげると、
「じゃあ、あたしも行く」とSさんが云った。
どきっとする。
今、Sさんは「じゃあ、あたしも行く」って云わなかった?
「じゃあ」ってなんだ?』

帯に書いてあるのはここまでだが、続きがある。

『「買い出し係がもうひとりくらい要るでしょう。それなら」という意味の「じゃあ」だろうか。その場合、「じゃああたしも行く」=「買い出しがもうひとりくらい要るでしょう。それなら、あたしも行く」である。
この「じゃあ」はスルーしていい。私にとって特別な情報ではない。
でも、と思う。今の「じゃあ」にはもうちょっと、なんか、こう、微妙なニュアンスがなかったろうか。いや、確かにあった。
もしや、あれは「ほむらさんが行くなら」という意味の「じゃあ」ではなかったか。その場合「じゃあ、あたしも行く」=「ほむらさんが行くなら、あたしも行く」ってことになる。
「ほむらさんが行くなら、あたしも行く」
それは「ほむらさんが好き」ってことではないか。
大変だ。
告白だ。』

さてここまでの文章を読んだ女子としては、「この男は頭がおかしいんではないか」という判断になるのではなかろうか。「ほむらさんが行くなら、のわけないじゃん。ただもう一人ぐらい必要かなってだけだよ~。まじで男ってこんなこと考えてるんだ~」とか言われそうである。
しかし、まあ考えるのである、男は。アホだから。
僕もどちらかと言えばこういうことを考えてしまう人間である。結構長い付き合いの友達とかで、相手の性格とかを割と知っているような場合だとそんなことはないけど、まだそこまで知っているとは言いがたい相手とこんな状況に陥ったら、ほむらさんみたいに頭をフル回転させてしまうのではなかろうか。
今の「じゃあ」はなんだ?
意味のある「じゃあ」なのか?
意味のない「じゃあ」なのか?
これは要するに、相手が使っている言語を理解し切れていないというところにある。
つまりそのSさんが言った「じゃあ」が、日本人にとっての「こっちに来て」なのか、あるいはアメリカ人にとっての「あっちへ行け」なのかが分からないのだ。どちらも、形としては同じだ。しかし、それを発した側と受け取る側が同じ文化圏にいるという保証はない。お互いに違う解釈をしてしまう場合もある。
しかし、じゃあどうすればいいのか、ということについて答えはない。知らない相手がどんな文化圏にいるのか、どんな言語を用いれば通じるのか、というのは結局のところ分からないのだ。分からないまま、相手とのコミュニケーションを成立させようとしている。涙ぐましい努力である。
別の例を出そう。
僕の知り合いに、大学生の時に生まれて初めて彼女が出来た男がいるのだが、しかし三ヶ月で別れてしまったのだ。直接話をしたわけではないのだが、その別れた原因というのは、彼が彼女にその三ヶ月まったく手を出さなかった、かららしい。
つまりこうである。男の側としては、自分の初めての彼女であるし緊張もしてるしどうしていいのかも分からない。それに、いきなりそういうことをしてもいいものだろうかと悩む。そういう関係になるまでに付き合い始めてどれぐらいの期間を置くべきなんだろう。分からない。でも、今手を出してみて拒絶されたら、せっかく出来た彼女を失ってしまうかもしれないし…、というような葛藤があったに違いない。
しかし女性の側としてはこうである。三ヶ月も全然手を出してこないなんて、私に魅力がないのかしら。そうだよね、普通男なら三ヶ月も我慢しないものだしね。ってことはやっぱ私じゃダメってことか。仕方ないね。
まあその相手の女性というのは見たことも話したこともないが、しかしこんな感じだろう。
お互い悪気があるわけではない。ないのだが、しかし残酷なまでに擦れ違ってしまう。こんなことの繰りかえしの中に、恋愛というのは存在しているのである。
そう考えると、恋愛が成立するというのは本当に奇跡的なことなんではなかろうか、と思ってしまう。世の中にあまりにもカップルが多すぎるように思うのでその奇跡をなかなか実感することはないのだけど、しかし、言葉が通じるがどうか全然分からない相手とのコミュニケーションをなんとか乗り越えて恋愛は成立するのだ。すごいものだと思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、恋愛というものをテーマにしたエッセイです。しかし普通のエッセイではない感じでした。うまくは言えないのだけど、これは面白い!と思いました。久々に自分の中で大ヒットのエッセイを読んだ気がします。
しかしまあ何が面白いのかといわれるとなかなか分析するのが難しい感じがします。まず一つには、この著者と僕が結構似ているというのもあるかもしれません。ごくごく普通の人間であることや、あれこれ余計なことを考えてしまうようなところ、また男女に関わらずトリッキーな人間に惹かれてしまうなど、結構似たようなところがあります。だから読んでて、なるほどなるほど、という感じになります。
あと思うのは、なんとなく温度差のギャップが面白い感じがしています。どういうことかと言うと、著者の書く文章というのはどうもテンションが低い感じがするんです。なんとなくそこはかとなく、文章自体から温度をあまり感じないなという気がします。
でも書いている内容はなかなかのテンションの高さです。自分のこれまでの経験なんかを交えながらも恋愛について熱く語っています。その温度差がなかなか面白さをかもし出しているような気がします。
しかしまあいろんな話が出てきて面白いですね。
例えば、女性から瓶の蓋を開けてと言われる、というシチュエーションについての話があります。
著者は女性にそれを頼まれると酷く緊張するんだそうです。というのも、開けられなかったらどうしよう、と思ってしまうからです。その気持ちは僕も分かります。開けられなかったら最悪だ、どんな手を使ってでも開けなくては、と思うと思います。
しかしその後著者は、この瓶の蓋を開けるということについて女性側の意見を聞く機会があったそうです。そうしたら女性としては、「自分でもたぶん頑張れば開けられそうな瓶を渡している」のだそうです。でそれを男がさくっと開けるのを見て、「すごいじゃん」と褒めてあげたい、んだそうです。だから男としては、開くかどうかなんて心配をしないでさくっと開けてくれればいいのだ、ということでした。
なるほどなるほど。そうだったのか。開けられるかどうか試されているのではなく、開くことが分かっていて瓶を渡されているのである。そう考えれば一安心というものである。しかしまあこういうところでも擦れ違いというのは起こる。
擦れ違いと言えば面白い話があった。コンデンスミルク事件である。
あるカップルがいた。二人はデートでイチゴ狩りにやってきたのである。二人は入口でお金を払い、ミルクを渡される。二人はイチゴを狩っては美味しく食べていたのであるが、しかしそこには罠が存在していた。
入口で渡されるミルクは明らかに少ないのである。確かにここはイチゴ取り放題、時間無制限であるが、しかしミルクは少ししか渡されない。これではイチゴ狩り続行の危機である…。
しかしその時、男がバッグから赤いコンデンスミルクのチューブを取り出したのである。男は以前にもこのイチゴ狩りに来たことがあり、こういう状況になることが分かっていたのである。だから彼女のためにコンデンスミルクをわざわざ持参したのだ。
彼女はそんな用意周到な彼を改めて見直し好きになっていった…。
ということにはならなかった、という話である。
この話は、著者がある女性と話している時に出てきた話らしいけど、そのコンデンスミルクを彼が出した時、女性はちょっとだけ冷めてしまったらしいのだ。
何故か。
女性としてもうまく説明できているわけではないが、要するに例えそれが罠であろうとも、初めてのことを二人で共有したかった、というのだ。つまり、ミルクがなくてイチゴが食べられなくなっても、その状況を共有したかった、ということだ。しかしそれは、彼の取り出したコンデンスミルクによって打ち砕かれてしまう。
彼はもちろん善意からコンデンスミルクを用意したわけだけど、しかし彼女からすれば方向が間違っていたのである。難しい。難しすぎるよ。何が正解なのかさっぱりわからないセンター試験の国語の問題みたいではないか。そうだ、あのセンター試験の国語の問題も、何故かアホみたいに答えがわかるやつというのがいたものだな。恋愛も、そうやって何故か答えがわかる人間が勝っていくのだろう。ということは僕はずっと負けっぱなしか…。悲しいものである。
とまあそんなわけで、とにかく面白いエッセイです。男性向けだとは思うけど、女性にも読んで欲しいと思います。男はこんなことを考えながら女性を見ているのだ、ということを学んでいただければ、相互理解のために、男女の掛け橋のために、両者の親善のために、世界平和のためにいいのではないか、と思います。是非読んでみてください。

穂村弘「もしもし、運命の人ですか。」



天国で君に逢えたら(飯嶋夏樹)

病気は人を平等にする、と思う。
僕らは生きている中で、様々なものを獲得して行きながら前に進んでいる。それはあたかも服を着飾るようなもので、裕福であればあるほど装飾は増えるし、逆に貧しければ装飾は減っていく。人生という囲いの中で僕らは、その装飾の差を競い、より装飾の多い生活を目指しながら、一方で装飾の少ない人生になってしまうことを極度に恐れながら生きている。
格差という言葉がよく使われることになったけど、本当に僕らの生き方というのは人によって大きな差がある。裕福であったり、上の立場にいる人であればあるほど出来ることは増え、やらなくてはならないことは減るし、貧しければその逆になる。生まれつきその立ち位置が決まっている人もいるし、努力してあるいは何か不幸があってその立ち位置になってしまった人もいるだろうが、とにかく人の生き方というのは千差万別、人の数だけ存在すると言っていい。
大抵そういう生き方に差のある人同士というのは、人生が交錯するようなこともなければそもそも共通項がない。普通であれば同じ立場に立つことは決してありえない。お互いを理解しあうということもないだろう。
しかし、病気というのはその格差というものを飛び越えていく。まったく共通項のなかった人々を、病気という一つの括りで大きく括ってしまう。
正直、治る余地のある病気であれば、病気になっても依然格差は存在するだろうと思う。お金があるかどうかによって、受ける医療が全然変わってくるだろう。医療機関や主治医も、お金さえあれば自在である。お金がないために貧しい人には治せない病気も、裕福な人であれば簡単になんとかなってしまう。
しかし、治ることのない病気であれば、人は病気という地平で平等になる。
ガンというのは基本的に治療法は存在しない。あるのは、ガンに侵された部分を切除する、という外科的な手術だけである。もちろん最近は医療が発達して、初期の段階で発見されたガンなんかは薬で治せたりするのかもしれないけど、基本的には切るしかないものだと僕は思っている。
そして、ガンが臓器のあちこちに散らばっているとか、あるいは切除することが絶対に出来ない部分にガンが転移したとか、そういう場合であればもうほぼ生き残ることは不可能な病気である。
医者がもう無理だと言えば、もう無理である。これは、お金があろうとなかろうと関係ない。たとえ100億円用意したとしても、治せないものは治せない。今後新たな治療法が開発されたりすればまた別かもしれないが(なんとなくありえそうなのは、クローン技術によってガンに侵された自分の臓器をあらたに作り出し、それと取り替えるという治療法である)、しかし現段階では、治らないガンというのはとにかく治らないのである。
さてそうなると、金持ちだろうが貧乏人だろうが、政治家だろうが芸能人だろうが、ビンラディンだろうがダライラマだろうが関係ない。どんな人間だろうと、もうすぐ死ぬという事実を突きつけられ、その現実を目の前にして生きていかなくてはいけないのである。
その生き方は、ガンになった人間にしか、もうすぐ死ぬと言われた人間にしか分からないだろう。そういう意味で彼らは、他のすべての括りを失って、ガンという括りで僕らと隔てられる。あちら側とこちら側に分けられる。
もうすぐ死ぬと言われた人間は、日々をどう生きているのだろうか。やっぱり僕には想像することもなかなか出来ない。
僕の拙い想像では、今日と変わらない明日が来ることが恐怖になってくるのではないか、と思う。痛みはどんどんと強くなってくる。日々痛みに気力を奪われていき、寝ることもままならない。そんな一日がまた明日もやってくる。自分がガンであるということを嫌でも思い知らされる明日がまたやってくる。その当たり前の事実がもの凄く恐ろしくなるのではないかと思う。
また、少しずつ死に確実に近づいているというその感覚を日々味わっていかなくてはいけないというのも辛いだろう。僕は、もし自分が死ぬのなら、死ぬと分かってから死ぬまでの時間がとにかく短い死に方がいい。交通事故とか地震とか脳卒中とか、そういう死に方である。とにかく、あぁこれで自分は死んでしまうということが分かってから長くは生きていたくない。
それで考えると、ガンというのは最悪である。少しずつ生を削り取られていく。子供の頃、砂山に棒を立てて周りの砂を少しずつ取り去っていき、最後棒を倒した人が負けというような遊びがあったけど、まさにそんな感じで少しずつ削り取られていくのだと思う。それはきっと僕には耐えられないだろうな、と思う。
ガンは突然やってくる。そこには、どんな意味においても理由など存在しない。どんなに悪いことをしてきた人にも、逆にどんなにいいことをしてきた人にも平等にやってくる。誰からも好かれている人でも、誰からも嫌われている人でも、素晴らしい功績を残した人でも、最悪な汚点を残した人でも、人を助けた人でも、人を殺した人でも、全然そんなのは関係なくガンというのはやってくる。そういう意味においてもガンというのは平等で、同時に平等であることが憎らしくなってくる。
どうせなら、と考えてみる。どうせなら、デスノートみたいにガンが決まればいいのに。この世の中に要らないと思われた人の名前がノートに書かれ、その人がガンになる。そうなれば、少しは溜飲が下がろうというものだ。まあそんなことはありえないのだけど。
ガンは人の命を奪っていく。何故奪っていくかに理由はない。平等という言葉も、ガンという言葉の前には空しいなぁ、と思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、世界的なサーファーであった著者が、ガンに侵されたことをきっかけにして書いた小説です。著者は39歳で死んでしまいました。最近映画化もされましたね。
僕は本作を読む前ずっと、本作は自伝みたいなものなんだとばかり思っていたんですけど、でも普通に小説でした。勘違いだったですね。
野々上純一は今、手紙屋という仕事をやっている。元々精神科医だったのだけど、ひょんなことからこの手紙屋という仕事をやるようになったのだ。
そもそもは美容師だった野々上は、しかしあることをきっかけにして医者を目指すことになる。
自身もうつ病になった経験があるということもあり、また別の医師からの勧めもあって精神科医になったのだけど、それで配属されたのががんセンター。そこでしばらく、患者からの不満をとにかく一手に引き受けるサウンドバックのような日々を過ごしていた。
しかしその後、ガン患者の心の内を知ろうとするプロジェクトが始まり、やがてそれが「手紙屋Heaven」という形になっていく…。
というような話です。
いやはやなかなかいい話だと思いました。初めて小説を書いた人の本だとは思えないですね。ちゃんと小説になっているし、面白い。それでいて、ガン患者自身が書いた小説だから、ガンというものについて語られる言葉に重みがある。ストーリー自体はユーモアに溢れ明るいものなのだけど、ふとガンというものに深く考えさせられる作品だなと思います。
手紙屋というのは何をするのかと言えば、要するにガン患者の話を聞いてそれを手紙の形にまとめる、ということです。もうすぐ死ぬと宣告されている人々は、しかし本当の胸のうちというものをなかなか明かしません。それを、誰かに手紙を宛てるという設定にして話を聞き、患者のカウンセリングにしよう、という試みです。また、もうすぐ死んでしまうわけで、遺される人々にちゃんと気持ちを伝えたいということもあります。そうやって手紙屋Heavenは存在しています。
本作では、その手紙屋Heavenを始めることになる野々上の生い立ちと、手紙屋Heavenを開いてからの日々を描いた作品という構成です。
手紙屋という設定はなかなか面白くて、恐らくこれは著者の希望でもあるのではないか、と思います。あとがきで著者の奥さんが文章を寄せているのだけど、その中で、「僕は子供達に文章を残す」と言って著者は小説を書き始めた、というようなことが書いてあります。それは、自分が伝えたいと思うことを小説に残すということでしょう。自分は小説として残せるけど、他の人はそうとも限らない。だから手紙屋みたいな存在があればいいのに、ということで考えたのではないか、という風に思います。
手紙屋Heavenにやってくる人はまあなかなか変わった人間が多くて、皆何らかの形で悩んでいるのだけど、やはり人と話をするということで気持ちが安らいでいくものでしょうね。手紙屋Heavenみたいなものが実際出来たら面白いなと思います。
その手紙屋Heavenを運営する野々上もまあなかなか大変な人生を歩んでいますが、しかしその人生の中でも特に面白いなと思ったのが、野々上の妻の祖父の存在です。
源三というその祖父は事業を成功させた人でもあり、また話しているとなんだかすべてを話したくなってくるようなそんな魅力を持った人です。
その源三さんが、手紙屋Heavenのすべてを作ったと言ってもいい人です。野々上から、ガン患者の話を聞くというプロジェクトがうまくいかないことを聞いた源三さんは、すぐさま動き出し、あれよあれよという間に様々な人を取り込んでは手紙屋Heavenを生み出してしまいました。この作品の中でこの源三さんが一番インパクトがあって一番好きなキャラクターですね。ほんの一瞬しか出てこないんですけど、しかし強烈でした。
また最後もなかなかよかったです。一人のガン患者がいかにして死と向き合っていったのかという話で、悲壮感はまったくなくて、こんな風に力強く死ねたらいいだろうなと思わせる話でした。ここに、自分の決意を著者がこめたりしたのかもしれません。
というわけで、かなりいい小説だと思いました。世界的なサーファーがガンに侵されたのをきっかけにして書いた小説、という売り文句がなくても全然普通に小説として完成している作品だと思います。なかなかいいと思います。是非読んでみてください。

飯嶋夏樹「天国で君に逢えたら」



平成関東談震災 いつか来るとは知っていたが今日来るとは知らなかった(福井晴敏)

またこんな話で申し訳ないのだけど、関東で大地震が起こったとしたら、とにかく発生直後には死んでいたいなと思う。
正直僕の中で、大震災の中で生き残るというのは結構地獄に近いと思うのだ。
生き残るパターンを考えてみよう。
一番キツそうなのは、地震発生直後に生き埋めになって、何日も後に救助される、というパターンである。これは嫌だなぁ。いつ助けが来るだろうかと不安になりながら、怪我をした痛みに耐えながら、とにかく何もない空間でじっとしていなくてはいけない。これは嫌だ。そうなるぐらいなら死にたいものである。
また生き埋めにならなくたって、何か怪我をするかもしれないし、体の一部を欠損したりするかもしれない。骨折とかであればまだいいけど、視力を失ったり片手を切断しなくちゃいけなかったりするかもしれない。なんていうか、そうなってしまって生きていくというのは嫌だと思う。
まあしかし、五体満足でとりあえず最初の揺れを乗り切ったとしよう。しかしもしそうだとしても、生きていくことに憂鬱であるということに変わりはない。
だってまず、何もかもがぶっ壊れているのである。道路も線路も電柱もビルも家々も橋もコンビニも何もかもが壊滅的な状態になっているのである。とりあえず皆避難所で生活をするということになる。
この避難所の生活というのがまた憂鬱ではないか。僕は震災のニュースを見る度に思うのだけど、皆避難所では何をして一日一日を過ごしているのだろう。体育館のようなところに大勢が集まって、しかも地震という非日常の中で神経が高ぶっている中で、そこに娯楽や余裕みたいなものがあるとはどうしても思えない。くだらない些細な争いがあったり、醜いやり取りがあったりと、集団生活らしい齟齬みたいなものがどんどん出てくるような気がします。
僕のイメージの中ではこんなことが起こりそうな気がします。震災に対する準備をかなりちゃんとしている人が一部いて、そういう人達は避難所の中でも比較的いい生活が出来ているわけです。飲み水や乾パンもあって、ラジオも聞ける水の要らないシャンプーなんかもある。まあそういうのは、当然あらかじめ備えていた人間の当然の権利なので僕としては文句はないです。
ただ避難所の中で、そういう生活の差に理不尽にも不平等を感じる人が出てくるだろうということです。そういう人は、震災に対する準備をしていた人に、みんなのために持っているものを共有しようとかなんとか言ってきたりするわけです。当然準備をしていた人からすれば、準備をしてなかったあんたらが悪いだけでとやかく言われる筋合いはないわけで、それで争いが起きる。格差格差といわれていますが、こういうところでも格差というのが起こりうるでしょう。
まあ避難所生活にもなんとか慣れたとしましょう。しかしじゃあそこからどうするんだ、っていう話ですね。
街はまだまだ復旧しないわけで当分避難所生活だろうけど、しかし仕事をしなくてもいいのかっていうとそんなこともないだろう。じゃあどこで仕事をするかって、それまで働いていた会社が残っているかどうかは怪しい。僕はまあフリーターで会社がどうというのはあんまり関係ないかもだけど、しかし震災直後の街で仕事なんか見つかるわけがないだろう。どうせ僕なんかは何の技術もないわけで、仕事を手に出来るとは思えない。その内、避難所からも追い出されることだろう。アパートに住んでいるわけで、恐らくそこもぶっ潰れているとなれば、じゃあどこに行けばいいんだろう。
僕はそういう状況で生きる気力みたいなものを奮い立たせることの出来る人間ではないので、ありとあらゆるやる気を失うのだろうなという気がします。とりあえず、街がある程度復旧するまでぶらぶらしていよう、から始まって、結局何もしないままそのままホームレスになりそうな気がします。
というわけで、大震災がもし起こったとしたら、生きていていいことなんてのは恐らくないと思います。生きていたら友人の死なんかにも哀しまなくちゃいけないけど、でも死んでいればそんなことは関係ありません。だからもう、関東で大震災が起こるのであれば、とにかく発生直後に瓦礫に押しつぶされるか何かしてあっさりと死んでしまいたいなと思ったりします。
こういう有事の時こそ人の器が分かると言われると思うけど、そういう意味では僕は全然ダメだと思います。非常事態になればなるほど使えなくなる人間です。日常の中であればそこそこ普通の人間だと思いますが、何か突発的なことがあるとダメですね。たぶん、やるべきことは頭に浮かぶんではないかな、と思います。けどそれをやる気力が出てこないのではないかな、という気がします。
関東にどでかい地震が来るぞ来るぞと言われてもうどれぐらい経つでしょうか。人々は既に危機感が緩みきっているかもしれません。確かに起こるかもしれないけど、でもまだ先大丈夫、なんて思っているかもしれません。
まあ僕はいつ起こっても不思議じゃないよな、と思うんですけど、防災の準備なんかは全然していません。なんか別にいいや、っていう感じです。投げ遣りですね。大震災が起こったらさっさと死ねることを期待して、まあ何も準備しないままでいこうと思います。ホント想像ですけど、大震災を生き延びても特にいいことはないんじゃないかな、と思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、福井晴敏が週刊誌に短期集中連載した、震災予測を元にした小説です。
設定としては、マグニチュード7.3の地震が関東を襲った、というものです。都によって提出された被害予測を元に、関東で地震が起きたら一体どうなるのか、というシュミレーションをしています。
主人公は西谷久太郎。事務用品を扱う会社で働いていて、今日もその営業の関係で都庁に来ているのだった。
エレベーターに乗っているまさにその時地震が発生。そこから西谷の最悪の災厄が始まっていく。
突如現れた眼鏡の男、甲斐節男。何でか知らないけど、地震に関するあらゆる情報を持っていて、逐一それを西谷に報告してくれるのだ。
そんな甲斐と一緒に行動をしながら、西谷はとりあえず家族と再会することを目標に瓦礫の山をかき分けていくのだけど…。
というような話です。
まあこの作品もなんというかなんというかという話で…。
まあ実際大震災になったらこういうことが起こるんだろうな、というのは分かる小説で。まあそれ以上でもそれ以下でもないでしょうね。面白いかどうかと言われれば、あんまり面白くはないです。震災被害のデータなんかを見るよりはずっと面白いですけどね。
しかし日本という国もすごいですね。そりゃあ地震大国と言われているぐらいの国なので仕方ないとは言え、首都機能のほとんどが大地震一つで壊滅してしまうようなところにあるんですからね。もし東京で大地震が起きたら、その被害総額は120兆円を軽く超えるそうです。これは、あの神戸の地震の11倍とか…。いや、別に神戸の地震が大したことなかったなんていいたいわけでは決してなくて(そんなわけありません)、東京というのは要するにそれだけいろんなものが詰まっているんだろうなという感じがします。
まあ東京で地震が起こったらとにかく大惨事にはなるでしょう。その大惨事を見ることなく死ぬことが出来れば僕はいなぁ、と思います。備えあれば憂いなし、というのは、死ぬ覚悟さえあれば全部うっちゃれる、という意味にも取れますしね(笑)。まあ一読して震災への意識を高めるというのもいいかもしれません。どうせいつか起こるわけですしね。

福井晴敏「平成関東大震災 いつか来るとは知っていたが今日来るとは知らなかった」



停電の夜に(ジュンパ・ラヒリ)

結婚というのは結局のところ、知らない人と一緒に暮らす、ということである。
これは結構すごいことなんじゃないかな、とか僕は思うのだ。
みんな、案外普通に結婚して、普通に結婚生活を送っているように見えるけど、実はすごいことをしてるんだろうな、という気がする。
人間誰しも、誰かのことをちゃんと理解するなんていうことはできないものだ。どんな人間の間だって、誤解があるし、分かり合えない部分というのがある。
しかし人はどうしても、理解し合えたという幻想を見たいようだ。なんとなく僕のイメージではそんな感じがする。
確かに、こんなに自分と合う人はいないとか、これほど自分のことを分かってくれる人はいないみたいなことで結婚を決めたりとかするんだろうけど、でもそういうのは全部幻想なんじゃないかなとか僕は思ったりするのだ。そう見える、というだけの話で、実際どうかは分からない。全然分かっていないなんてことだってあるだろう。
ただ、人々がそうやって幻想を追い求めるからこそ、争いも起きるのだと思う。理想が高すぎる、とは言わないけど、自分が見てきた幻想が崩されると、何かすべてが終わってしまったかのようなそんな感じになるのではないかという気がする。
それは、相手が変わったのではなく、自分が抱いていた幻想が崩れたというだけの話である。崩れたということは、結局その幻想はただの幻想でしかなかった、ということでもある。それだけの話なはずなのに、しかしやっぱり相手に抱いていた幻想が崩れてしまうと落胆する。こんな人だとは思っていなかった、なんて思ったりする。
結婚というのは、そこから本当のスタートを切るのだろうなとも思う。
婚姻届を出して一緒に生活を始めるだけでは本当のスタートラインに立てていないのだ。相手に抱いていた幻想が崩れて、さてその上でじゃあどう付き合っていくか、という問を突きつけられるのが結婚というものではないかと思う。
相手に抱いていた幻想が崩れたから別れるのか、あるいはそこから新しい関係を見出していくのか。その葛藤まで含めて結婚というのはあるのではないかな、と思う。
結局のところ、他人と暮らすということに変わりはないのである。考えるだけで、僕には出来そうにないなぁ、と思う。結局どこまで行っても他人であるということが分かっていても、結婚というのは結構ハードルが高いんじゃないかなぁ、と思ったりします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は9編の短編を収録した短編集になっています。

「停電の夜に」
毎夜電気工事のために1時間停電することになった。その一週間の間に、夫婦はお互いの秘密を口に出し合う…。

「ピルザダさんが食事に来たころ」
パキスタンの情勢が不安定な頃、ピルザダさんという人がよくうちに食事にやってきた…。

「病気の通訳」
タクシーの運転手で外国人向けの案内をしている男は、家族連れでやってきたある旅行者の奥さんから何故か内緒話を打ち明けられる…。

「本物の門番」
住む家はないけどあるアパートの階段掃除をしている女性の話。

「セクシー」
奥さんのいる男性と日曜日毎に会っている女性の話。

「セン夫人の家」
ベビーシッターとして自分の面倒を見てくれるセン夫人との短い関わりの日々。

「神の恵みの家」
引っ越してきた家のあちこちにキリスト教を思わせる品々が隠されていて、それを妻がどうも気に入ってしまっているようだ…。

「ビビ・ハルダーの治療」
とにかく治療法がまったく分からない病気を患っているある女性は、ある時医者に結婚すれば治ると破れかぶれのようなことを言われるが…。

「三度目で最後の大陸」
インドからアメリカに渡ってきたある男が、かなり高齢の女性が家主となっているアパートに住むことになるが…。

というような話です。
たぶん一般的にはかなり評価の高い作品なんでしょうけど、僕はまあまあかなっていう感じでした。
全体的になんとなく江國香織を連想させるような作風でした。僕は江國香織という作家は好きなんですけど、江國香織の短編はちょっと苦手で、本作にも似たような雰囲気を感じます。文章は丹精だし、観察力は上品という感じで悪くない作品だと思うんですけど、どうも僕とは水が合わない感じの作品でした。
全体的に女性向けの作品であるような気がします。繊細な描写で夫婦やそれに近い関係の深いところを描き出しているような感じで、女性が読めば結構うまく嵌まるんではないかな、と思ったりします。
この作家はインド系の人で、デビュー短編となった「病気の通訳」でO・ヘンリー賞を、また本作「停電の夜に」という作品でニューヨーカー賞を総なめ、また新人作家としては異例のピュリツァー賞まで受賞したんだそうです。かなり評価の高い作家なんだろうなと思います。
表題作でもある「停電の夜に」は結構いいと思ったんですけど、残りはそうでもなかったですかね。よく意味の分からない話もありました。ちょっと期待していただけに残念です。
しかしホント最近はあんまりいい作品に出会えていません。ちょっと不安に思っているのは、これは作品のせいではなくて、僕自身が読書という行為に飽き始めているのではないか、という疑惑が少しだけあったりします。どうでしょう。そんなことはないと思うんですけど。とにかく面白い本をガンガン読みたいものです。
というわけで本作は僕としてはあんまりオススメできません。でもたぶん世間的な評価は高いはずなので読んでみてもいいかもしれません。

ジュンパ・ラヒリ「停電の夜に」





ロゼッタストーン解読(レスリー・アドキンズ+ロイ・アドキンズ)

今年の頭にエジプトに行きました…。
という話をするのにすごくぴったりな内容の本なんですけど、しかしいかんせんこの本があまりにも面白くなかったために、前書きを頑張って書くだけの気力が出てきません。なので、まあざっと。
エジプトではいろんな遺跡を回りましたけど、そのほとんどすべてにヒエログリフと呼ばれる文字が刻まれていました。鳥やフンコロガシを象ったような象形文字で、見ている分にはそれなりに面白いですけど、もちろん意味は全然分かりません。
お土産屋さんでもこのヒエログリフというものを目にします。楕円のような囲みのあるヒエログリフを「カルトゥーシュ」と呼び、実際には高貴な人の名前を書くのに使われるのですけど、そのカルトゥーシュがお土産屋さんで売られています。パピルスを使ったしおりのようなものに、自分の名前をヒエログリフにして書いてくれる、みたいなものもありました。そういえば僕も書いてもらったような記憶がありますけど、まあ家のどこかにはあるでしょう。
その、古代エジプトで使われていたヒエログリフをいかに解読したのか、というのが本作では扱われています。
有名な「ロゼッタストーン」という石があります。この石は、既に知られているある二言語とヒエログリフという三種類の言語でまったく同じ文章が書かれている、というものです。つまり、ロゼッタストーンを解読できれば、ヒエログリフ解読について大きな一歩を踏み出すことが出来る、と考えられていたわけです。
僕はこれまでずっと、ヒエログリフの解読は、ロゼッタストーンを解読することが出来たからこそ実現したものだと思っていたんですけど、本作を読む限り(まあ流し読みなんですけど)、どうも違うみたいですね。若き言語学者であるシャンポリオンは、ロゼッタストーンではなく、遺跡やパピルスなんかに書かれた他の様々なヒエログリフを研究することでヒエログリフを解読したようです。
まあ本作はそんな、ヒエログリフを解読した天才言語学者であるシャンポリオンの生涯を描いているわけなんですけど、どうも読んでて面白くないなと感じました。
何がダメなのかというのはうまく説明が出来ないんですけど、ヒエログリフの解読そのものよりも、政治的・歴史的な話が多くて、シャンポリオンの人間性やその時代性を描くことに重きを置いているような気がしたからかもしれません。もちろんそれはそれでノンフィクションとしては正しいあり方かもですが、僕としてはいかにヒエログリフが解かれたのかというところを読みたかったわけで、そういう意味では残念な感じでした。
しかしやっぱりノンフィクションというのは作家の力量の差が出るなと思いました。少し前に、サイモン・シンの「暗号解読」という本を読んだんですけど、この人の本はホント面白いと思います。「暗号解読」の中で、暗号ではないけど暗号のようなものとして、ヒエログリフのような古代文字の解読にもページを割いていたんですけど、本作とは比べ物にならないくらい面白かったと思います。何が違うのかは相変わらずよく分かりませんが、ノンフィクションというのは本当に、作家の力量次第であると改めて感じました。
というわけで本作は僕の中ではかなりつまらない作品でした。オススメできません。サイモン・シンの「暗号解読」を読む方が100倍面白いと思います。

レスリー・アドキンズ+ロイ・アドキンズ「ロゼッタストーン解読」



ゴーダ哲学堂(業田良家)

生きていることに意味はあるのか。
一時期真剣に考えたことがある。
まあ僕が考えたのは、
『人間が生きることに意味はあるのか』
ではなく、
『僕が生きることに意味はあるのか』
だったわけで、ちょっと違うのだけど。
『僕が生きることに意味はあるのか』
という問の答えは結局、
『ない』
だった。
僕が生きている意味は、僕にとっては全然ない。
考え続けた結果、僕はそういう結論に達した。
それでも結局僕が生きているのは、
同時に、僕は死ぬことが出来ないという結論にも達したからだ。
だから、僕は生きている。
とりあえず生きている。
退屈な人生を、とりあえず乗り切っている。
さて、まあ僕の話はとりあえずいいとしよう。
もっと大きな話だ。
『人間が生きている意味はあるのか』
という問である。
この問はそもそも不十分だと思う。
結局、誰のために意味があるのか、という部分が抜けている。
『人間が生きている意味は人間にとってあるのか』
『人間が生きている意味は地球にとってあるのか』
『人間が生きている意味は神様にとってあるのか』
などなど、まあいろんなパターンがある。
でもまあとりあえず、
『人間が生きている意味は人間にとってあるのか』
を考えるのがベストかな。
本作のあとがきで著者も同じ問に答えを出そうとしている。著者はその答えに達するのに30年掛かったらしい。そんな問に、そもそもまだ25年くらいしか生きていない人間が答えを出そうと言うのがそもそも間違っているだろう。
さて、ここまで長ったらしくいろいろ書いてきたけど、
『人間が生きている意味は人間にとってあるのか』
という問に対する僕の答えはこうである。
『人によって違う』
当たり前過ぎて何を言っているんだって感じだと思うが、しかしそうだと思うのだから仕方がない。
結局僕らは、一人一人見ている世界が違うのである。人生に差がある、という話ではない。僕らはみんな、同じ世界に住んでいるようで、実はそうではないということに気づいていないだけなのだ。
僕らは確かに、同じ地球、同じ空間、同じ時間には生きている。しかし、それでもそれぞれの人が生きている世界というのはまったく違う。一人一人が認識したあり方でした世界は存在しない。もともと世界が存在し、それを僕らが認識しているのではなく、僕らが認識したその形で世界が存在しているのである。
だから、それぞれの人が認識した世界の中で、生きている意味は変わってくる。
くだらない譬えをしようか。例えば遺伝子操作みたいな何らかの事情で、日本で生まれてくる女性は全員、一般的な価値判断からして『美人』と言われるような女性ばかりになった、としよう。そうなると世の中の男性としては幸せな気分になるだろう。
しかしここに、一般的な価値判断からして『不美人』と呼ばれるような女性がタイプの男がいたとしよう。その男にとってはその日本は面白くもなんともない世界になる。
要するにこういうようなことで、結局同じものを見ていても違った判断をするわけで、それはつまり、自分の認識によって世界が創られているといことにほかならない。
そんな僕らの世界を共通なものとして錯覚させているのが言葉である。言葉という共通因子が、僕ら一人一人の世界の違いを隠そうとする。あたかも同じ世界に生きているのだという錯覚を与えようとするのだ。
僕らにとって、『虎』は『虎』だし、『赤』は『赤』である。しかし、同じ言葉で表されているというだけで、僕らが同じものを見ているという保証はどこにもない。結局言葉は、僕らの認識や感情と言った部分にまでは入り込むことが出来ないのだ。
『言葉にあるものはすべてある』
これは本作に何度か出てくるフレーズである。
しかし、それは正確ではないと僕は思う。
言葉にあるものはすべてあるかもしれない。しかしその一つ一つは、人によって違ったものとして認識されているかもしれない。
そうやって考えれば、まあ生きていることもそんなに大したことではないように思えてくる。
みんな違った世界を見ているんだから、世の中がこんだけおかしくなるのも当然だよな、とか思ったり。『世界平和』っていう言葉だって、人それぞれ認識の仕方は違うのだ。そんな状態で『世界平和』が達成されるわけがないだろう。
『生きている』という言葉だって、人それぞれ違う。だったら、その意味を考えるのもその個人でしかありえないだろう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、全24話で構成されるマンガです。本のタイトルの通り、なかなか哲学チックなストーリーが展開されます。だからと言って、ニーチェだなんだというような難しいものではなく、
『生きていることに意味はあるか』
ということについて、著者が考える様々な事柄を詰め込んだ作品です。あとがきでも著者は、この作品は自分が一番言いたかったことをマンガにしたものだ、と書いています。
なんでこの本を読もうと思ったかと言うと、僕がいる本屋が属しているあるグループのある書店の人が、竹書房から出ている本の中でこの本が一番素晴らしい、と言っていたからです。ちょっと読んでみようという気になりました。
さてそれで内容の紹介なんですけど、24話全部書くのはなかなか大変なので、自分が気に入った話だけ書こうかなとか思います。

第二話「ポジティブシンキング」
感情制御装置をつけた主人公。銀行員だが、上司から理不尽な仕事を言い渡され、感情制御装置をつかっても制御できないほど落ち込んでしまう。
そこで医者に行き、さらにマイナスの感情一切を取り除くようにしてもらうのだけど…。

最後のオチがなかなか怖いなと思いました。

第五話「真実」
幸せな家庭を築いている主人公。仕事も順調。野球でもホームラン。言うことなしだ。
完璧に幸せで、完全に美しい人生だ。
だから決めた。こうするのが一番いいはずだ…。

これも最後のオチにびっくりしました。なるほど。

第八話「人類の代表」
人類の代表として天国まで行くことにした主人公。そこで神に出会ったが、神は彼の問に答えてはくれない。さらにそこで創造主に出会うことになる。創造主は言う。わたしは世の中をこれほど豊かに作ったのだ!

豊かさとは何か、ということですね。結構深いなと思いました。

第十話「損得ロボ」
家事や買い物などを一手に引き受けるロボットが開発され、一般にも広く広まった。「損得ロボ」といわれた彼らは、もっとも効率的であるやり方を自らの力で導き出すことが出来るという機能を持っていた。
やがてその機械の新型が発売されることが決まったのだが…。

なんか哀しい話でした。

第十二話「役割ロボ」
自由を求めてそれまでの生活を捨てる代わりに、自分の容姿や記憶を完全にコピーしたロボットを家庭に置いていく、ということが流行する。
この家庭も、父親が出奔し、父親そっくりのロボットが残された。娘は、妻と自分を捨てた父親を嫌い、その代わりであるというロボットも嫌っていた。
しばらくすると、自分の上司など周りの人間もどんどんロボットになっていき…。

この話は、本作のすべての話の中でもかなり好きな作品です。言葉ではうまく言えないのだけど、なんだか無常というような感じがしました。

第十九話「悲劇排除システム2」
クローン技術により、身体的な衰えは完全に排除された世の中。誰もが長生きし、容姿もみた20代のような状態に保つことが出来るようになった。
そんな世の中で、死ぬということはどういうことだろう。

こんな世の中になったらかなり怖いな、と思いました。

第二十話「悲劇排除システム3」
刑務所から出所した主人公は、何故か大金持ちになっている母親に迎えられ、様変わりした世の中で生きていくことになる。北海道と沖縄はアメリカに売られ、土をエネルギーに変える技術のお陰で豊かにはなったが、一方で地盤沈下の恐怖に怯えることになった世界で…。

何が正しいことなのか、っていうのは分からないよなってなことを思いました。

そんな感じの作品です。
他にもまあいいと思える話は結構あったんですけど、まあそういうのも全部入れると数が多くなるんで、これぐらいで止めておきます。
どの作品もなかなか哲学的な思想に満ちていて面白いと思いました。生きているというのはどういうことなのか、ということを中心として、そこから派生するいろんなことに話を広げて、世の中を風刺したりだとか、あるいは人間の愚かさを指摘したりだとか、そういういろんな要素を含んだ作品です。
マンガだからこそ出来る表現みたいなものも結構あるし、マンガでこういうことも出来るのかという風に思いました。
本作では、ロボットというのが一つのキーワードになっていて、ロボットが関わってくる話というのが多かったのだけど、やはりロボットと人間の対比というのは面白い思想が生まれてくるものだな、とか思いました。
読もうと思えばいくらでも深読みすることの出来る作品だと思います。読む人によって感じ方にかなり差が出る作品ではないかな、と思いました。なかなかいい作品だと思います。この著者の作品では、映画化される「自虐の詩」というのが割と注目されそうですけど、こっちもなかなかいいと思います。是非読んでみてください。

業田良家「ゴーダ哲学堂」



不気味で素朴な囲われた世界(西尾維新)

さてさて。
ぼくらは。
どうしたって。
囲われているのだ。
覆われているとは言わないが。
壊れているというほどでもないが。
しかし確実に囲われてはいるのだ。
でも。
何にだろう。
僕らは何に囲われているのだろう。
その囲いが見えるというわけではない。
物質的な意味でも。
比喩的な意味でも。
あるいは他のどんな意味合いにしても。
僕らにはその囲いは見えない。
何故か。
それは。
その囲いがどうしようもなく日常だからである。
僕らは。
日常によって囲われてしまっているのだ。
日常というのは。
あまりにもありきたりなものだ。
あって当然。
なければ不自然。
手に取るように。
足蹴にするように。
それははっきりと存在する。
そして。
あまりにもはっきりと存在するが故に。
僕らには見えないのである。
じゃあ。
日常にどうしようもなく囲われてしまっている僕らは。
哀しいくらい不自由だろうか。
囲われているというのは。
そもそもどういうことだろうか。
囲いというのはつまり。
境界ということである。
境界というのはつまり。
分断ということである。
日常という囲いに囲われている僕らの外側には。
囲われていない世界としての外側が存在する。
逆説的に言ってしまえば。
外側が存在するからこそ。
内側が存在するのではないか。
あるいは。
外側が存在できるように。
内側が存在するのかもしれない。
まるでドーナツのように。
ドーナツの穴は。
ドーナツの存在なくしては存在しない。
ドーナツそのものは外側である。
外側が存在することで。
内側が存在する。
しかし逆に考えてみれば、
ドーナツという外側が存在できるように。
ドーナツの穴という内側が存在するとも言えるだろう。
僕らの生きている世界も同じで。
囲われている内側は。
案外空洞だったりするのかもしれない。
僕らが生きているわけではない。
僕らが存在するわけではない外側のために。
空虚な内側が存在するのかもしれない。
それに日常という名前をつけて。
僕らはただそこで停滞しているだけなのかもしれない。
日常がたとえ空虚だろうと。
僕らの何かが変わるわけでもない。
日常は日常として。
さも当たり前の存在として。
いつまでも変わることのないものとして。
ドーナツを食べればドーナツの穴も消えてはしまうが。
ドーナツが存在し続ければドーナツの穴も存在し続けるように。
いつまでもあり続けるものとして。
それはずっと僕らと共にあるだろう。
しかし。
その日常に退屈してしまったとして。
誰がそれを責めることが出来るだろう。
どうしようもなく日常であるということを。
否定したくなってしまうことを責めることが出来るだろう。
僕らは。
いつまでも知ることの出来ない外側のために。
そのためだけに存在している内側の中に。
ただ無為に囲われているだけかもしれない。
であれば。
知ることの出来ないはずの外側を知ろうとする。
あるいは。
いつまでも変化のない内側を改変しようとする。
それらは。
安易に否定することの叶わない本能的なものかもしれない。
日常の打破。
異常の想像。
日常の否定。
異常の肯定。
今日と同じ明日がやってくることを。
心から喜ぶことの出来る人がいる。
今日と違う明日がやってくることを。
心の底から望んでいる人がいる。
どちらも。
同じ日常を生きている。
ぼくらは。
一緒に囲われてしまっている。
いつでも。
囲いの外に逃れることは叶わない。
だったら。
ドーナツの穴を食べるしかないのだろうか。
明後日が違った日になるように。
一昨日にいる僕は。
静かに日常の境界に立ってみる。
日常という囲いのその先の世界を見ようと。
決して見ることの出来ない外側を見ようと。
諦める価値すらない世界の果てを見ようと。
明後日にいるべき自分自身の姿を見ようと。

そろそろ内容に入ろうと思います。
さてなんとなくこんな感じの前書きになりましたけど、でも別にこんな感じの雰囲気を漂わせている作品というわけでは決してありません。なんとなく書く内容を考えると、こういう感じの方が自分的に書きやすいかなとか思ったもので。まああまりに不気味で、あまりに素朴なんですけどね(って特に意味のある言葉ではありません 笑)。
本作は、西尾維新の「きみとぼくの壊れた世界」の同系列の作品という位置付けになります。ただ、続編と言うにはそこまでの関連性のある作品でもないので、あくまでも近世界観を持つ作品という感じの位置付けでしょうか。
タイトルについてですが、まあこれは知っている人なら知っている当たり前の話なんですけど、まあとりあえすこの話は書いておかなくてはいけないでしょう。「きみ」に「ぶ」をつけて「不気味」、「ぼく」に「そ」をつけて「素朴」、「壊れた」に「か」をつけて「囲われた」という、たぶんそれだけの言葉遊びのためにつけられたタイトルだと思います。
というわけでダブルダウンでの(?)前書きになりましたけど、本当に内容に入ります。
串中弔士は、時計の分針が一向に修理される気配のない上総園学園に通う中学一年生。弔士は退屈な日常を打破しようとして日々あれこれ努力をしているのだが、しかしなかなかその成果は報われない。今日はわざと弁当箱を忘れて登校してみたのだが、やっぱり特に何も起こるわけではない。
その弁当箱を放課後に届けてくれたのが、姉である串中小串は、学園の奇人三人衆に数えられるまさしく奇人である。図書館で大声で喋っていてもそこだけ治外法権という扱いをされるほどであり、校内では伝説的な存在である。三人衆の他の二人はといえば、本物のなかの本物である崖村牢弥と、嘘しかつかないと決めている童野黒理である。この三人はUFO研という名前だけの部活をやっていて、非常に仲がいい。
さて弔士は日常を打破するために、姉である小串のアドバイスもあって誰かに告白をしてみることにしたのだが、しかしなかなかうまくいかない。とりあえず童野黒理―ロリ先輩―を狙うも失敗。その後、最近努力の甲斐あって富に仲良くなることが出来た、学園の中でも最大の奇人である病院坂迷路の元へ向かうも、何も出来ないうちに撃沈。そして最後に、同じクラスの伽島不夜子―ふや子さん―を振り回すも、何だか何もしないまま終わってしまった。なんだかなぁ。
そして翌日。事件は起こる。
動き出した時計台の分針。
同じく動き出した、にわか探偵の病院坂迷路。
そして同じく動き出した、学園全体の不穏なバランス。
囲われているはずの、退屈な僕らの日常が、少しずつ音を立てて動き始めていく…。
というような話です。
さて西尾維新の最新作ですけど、いやはややっぱり面白いですね。西尾維新は最高です。
一応西尾維新はミステリ作家としてデビューしているのでおかしくはないんですけど、でもやっぱりこれまでの作品の数からいうと純粋なミステリというのは少ないですよね。本作は久々の、西尾維新なりの本格ミステリです。
西尾維新なりの、と付け加えたのは、西尾維新がある程度本格ミステリを皮肉ったような立場を取っているからです。恐らく西尾維新自身は本格ミステリが好きなんでしょうけど、しかし作品として存在するにはおかしな点がたくさんある。自分が本格ミステリを書くなら、多少王道は外しても、不自然な疑問を解消しようとした、というような感じではないかな、と思います。
まあ本格ミステリで、その例に漏れずトリック的なものはもちろんあるわけだけど、しかしやはり西尾維新の場合そのトリック的な部分がどうしてもメインにはならないな、と思います。本作でのメインは、やっぱり奇妙なキャラクターたちということになるでしょう。
奇人三人衆や主人公の弔士にしてもまあおかしいっぷりは全開に発揮されますが、しかし何よりもキャラクターとしてずば抜けていると感じたのは、やはり病院坂迷路でしょうか。
なんとこの病院坂迷路、本作における探偵役でありながら、ひと言も喋らないという離れ業を繰り出しています。じゃあそもそも弔士とはどうやって会話をしているんだ、という疑問が出てくるわけですけど、それは弔士が病院坂迷路の表情や視線から相手の言っていることを推察する、という形でコミュニケーションが取られていきます。
圧巻なのは病院坂が自らの推理を開陳する場面で、
『結局のところ科学捜査も』
という書き出しから始まって、
『何も遠慮することはないのですよ』
で終わるまでの、ページ数にして10ページぐらいの文章のあとに、
『病院坂迷路先輩は、そんな表情をした。』
と続きます。
つまり、その10ページにも及ぶ事件の真相を弔士は病院坂迷路の表情だけから読み取って理解した、というような設定になっています。いやはや、この設定には驚きましたね。無茶苦茶にもほどがあるだろ!というような感じでした。
弔士は弔士で被虐的な趣味を持つ変わった男だし(後々には女装までしてしまう。そういえば言い忘れてたけど、病院坂迷路は学ランを着て男装しているのだった)、小串は小串で天然でかなりおもろいキャラだし、崖村は結構まともに見える感じだけど、その異常なまでのまともさが逆に異常というようなキャラクターで、まあみんな一筋縄ではいかないわけです。
個人的に面白いなと思ったのが、ロリ先輩こと童野黒理とふや子さんこと伽島不夜子の関係ですね。ロリ先輩は嘘しかつかなくて、ふや子さんは相手の嘘をほぼ完璧に見分けることが出来るという設定です。なんていうか、この関係はまあ疲れるだろうな、って感じでした。
さてストーリーはですけど、なるほど普通の本格ミステリ的な話を経由して、やっぱり狂った方向へと進んでいきます。最後の最後の展開というのはなかなかすごいものだなと思いました。あと、最後の最後のあの二人の会話も僕はかなり好きでしたね。まあ意味が理解できるかっていうとよくわからないというしかないんだけど。
まあそんなわけで、相変わらず面白い作品でした。「きみとぼく」を読んだ人にはもちろん読んで欲しいし、読んでなくても別に特に問題のない作品なので、気が向いたら手にとってみてください。万人受けはしないと思いますけど、でも僕は力強くオススメします。

西尾維新「不気味で素朴な囲われた世界」



瑠璃の海(小池真理子)

人生と恋愛は、決して等価なものにはなりえない、と僕は思う。
恋愛経験のなさすぎる僕がこんなことを言っても全然説得力の欠片もないのだけど、でも恋愛というのはどんなことがあっても、人生の一部でしかありえない。どれだけ人生の中で大きな割合を占めるようなことがあったとしても、人生そのものになってしまうということはない。もしそんな風に感じたのだとしたら、それは幻想だ。
しかし世の中には、この幻想を見ている人がたくさんいるように思う。すべてを捧げてもいいと思える恋愛だとか、この身の破滅するまで突き進むような恋愛だとか、そんな幻想を抱くようなのだ。本来であれば、人生があってその中に恋愛があるはずであるのに、まず恋愛が先にあり、そのついでに人生があるといわんばかりの人がいたりする。
恐らくそういう人は、そういう幻想を見たいと欲しているのだろうなと思う。誰かに見させられているわけでも、無意識のうちに見ているのでもない。見たい見たいと思い続けて常に恋愛をしているのである。
恋愛というのは、容易にありとあらゆるものを破壊する。その力の凄さをたぶんまだ僕は実感で来ていないのだろうと思うのだけど、しかし恋愛の持つ破壊力は想像するだけですごいと僕は思う。一瞬にしてということもあれば、緩慢にということもある。どちらにしても、恋愛は何かをあっさりと破壊していく。
しかしそれは、きちんと抑制の利いた恋愛であれば問題のない話のはずだ。恋愛の持つ破壊力は強大だけれども、しかしブレーキが利かないわけではない。いくらでもその強さを加減することが出来るのだ。
しかし、人生と恋愛が等価であるという幻想を持っている人は、その抑制をなかなか利かすことができないはずだ。恋愛こそが人生であるのだから、その過程で何かを抑制しなくてはいけないという発想に至らないのだろうと思う。結局恋愛に人生を捧げると、何らかの破壊が待っている。破壊されても立ち上がり、また恋愛をし、そしてまた破壊されるのである。
その繰りかえしの中に何があるのだろうな、と僕なんかは思ったりする。それで人生は彩られるのだろうか。それならいいのだけど、どうも僕にはそうは見えないのだ。
人生という土台があってこそ、恋愛というのはきっちりとした形で存在しうる。恋愛は、人生と等価にはなりえない。その幻想の中では、新しい人生は生まれ得ないだろう、と僕は思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
園田萌はバス事故で夫を失った。失意の内に日々を過ごす萌。
ある日萌の元に一通の通知が届く。それは、バス事故で親しい人を喪った遺族で、訴えを起こそうという集まりの連絡であった。
あまり乗り気はしなかったものの一応その集まりに顔を出してみた萌は、そこで石渡遊作という男性と出会った。遊作はあまり名の知られていない作家であり、同じくバス事故で一人娘を喪ったのだった。
その集まりの席では多少会話を交わしたぐらいだったのだが、どんな成り行きか、萌と遊作は親しい仲になっていく。周りの誰からも理解されなくてもいい、ただ二人でどこまでも一緒にいたい。そんな強く濃い恋愛を描く…。
というような話です。
さて何でこの本を読もうと思ったのか自分でも不明ですけど、とりあえず初めて小池真理子の作品を読んでみました。
うーん、やっぱダメでしたね。女性作家が描く女性向けの恋愛小説っていうジャンルがあって、唯川恵とか林真理子とか村山由佳とか山本文緒とかそういう作家がいて、その中に小池真理子もいるんだけど(あくまでそれは僕の中でのグループ分けなんだけど)、やっぱりこういう作家はけっこう苦手だなと改めて思いました。
まあそもそも女性向に書かれているだろうから、男の僕が読んでダメっていうのは妥当なのかもしれないですけどね。
どうもこういう、濃い恋愛みたいなのはちょっときついなって思いました。どうも自分の中に理解できるポイントみたいなものが少ないです。理解できないこともないけど、だからなんですか?みたいな感じになってしまいますね。
さすがに文章は読みやすいと思ったけど、でもそれだけですかね。
まあそんなわけで、僕はダメでした。女性が読んだらどうなのかはわからないですけど。
しかし最近どうも当たりがないんだよなぁ。当たりがないだけならいいんだけど、どうも外れが多くて…。難しいです。

小池真理子「瑠璃の海」




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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)