黒夜行

>>2007年08月

極め道(三浦しをん)

子供の頃、本当に小さい頃は、「生きていればいいことがある」という言葉を信じたかもしれない。まだ自分が生きてきた年月はほんの些細なものだし、まだまだ未来に希望を持っていてもそれは責められる話でもないだろう。
しかし、今となってはもはやそんな言葉を微塵も信じはしないのだ。何が「生きていればいいことがある」だ。そんなわけがなかろう。人生というのはそう甘いものではないのだ。辛く厳しい中に、時々辛くも厳しくもないものがある、というだけの話で、いいことなんかちっともありゃあしない。いやいやもしかしたらこれは僕だけなのだろうか。他の健全な諸君には、毎日笑い飛ばしたくなるほどのいいことがやんやと降りかかっていたりするのだろうか…。もしそうだとするならば小生大いにヘコむところであるが、まあしかしそんなことはあるまい。
生きているのは本当に大変なことだ、と僕は思うのだ。特に僕は大変だ、と我が事ながら思う。要するに、やりたいことも将来の展望も食べたいものも見たいものも特にないのだ。読書だって、僕の中では暇つぶしという位置付けである。そんな状態の中で、毎日仕事をしながら辛い人生を歩んでいくというのはなかなか酷なものがある。
しかしなんだかんだ言って結局僕が思うことは、人生というのはどう解釈するかという問題だけが残っているのだろうな、ということなのである。この境地に達すれば、「生きていればいいことがある」という言葉もある種の解釈をすることが可能になるのだ。
つまり、「いいこと」を待っているというスタンスでは人生は豊かにはならないのだ。何故なら、「いいこと」というのは決してやってはこないからである。呼んだって引っ張ったって来やしないのだ。甘い言葉を囁いても言葉巧みに騙しても来ることはない。「いいこと」というのは待っていても仕方がないのだ。
つまりどうするか。それは、自分の身に起こったすべての出来事を「いいこと」であると解釈するようになればいいのだ。こう考えると、「生きていればいいことがあるよ」という言葉も理解できるようになる。つまり「生きていれば、自分の身に起こるすべての出来事をいいことであると思える境地に達するよ」ということなのだろう。決して「いいこと」が無条件にやってくる、という話ではないのだ。
これに気づいた時、僕はあるクイズを思い出した。そのクイズとはこんなものである。

『A君の元に悪魔がやってきました。悪魔はA君の願いを何でも叶えてくれるというので、A君は自分の車を世界で一番早い車にして欲しいと言いました。悪魔はその願いを引き受けましたが、いつまで経っても一向に自分の車が早くなったという実感はありません。しかし悪魔は、お前の願いは叶えてやったぞ、と言ってきました。さてこれは一体どういうことでしょう?』

さて分かるだろうか。答えを聞くと、なるほどという感じになる。
というわけで早速答えを書いてしまうと、こういうことである。

『A君の車以外のすべての車を遅くした』

つまり、A君の持っている車には何も変化はないのだけど、A君の車以外のすべての車をA君の車よりも遅くすることで、実質A君の車を世界で一番早くするという願いを叶えたということです。
どうでしょうか。このクイズは、先ほど僕が言った「解釈」の問題と似ている気がしないでしょうか?つまり、自分の周囲の出来事に変化はないのだけど、解釈次第で相対的な変化をもたらすことが出来る、という感じです。
恐らく、待てど暮らせど「いいこと」というのは永久にやってはこないでしょう。それは、「いいことが起こらないかなぁ」と思いながら生きている人のところにはなおさらやってこないわけです。何故なら、そんな風に思いながら生きている人というのは、望んでいる「いいこと」というのもレベルが高いわけで、現実は到底そのレベルにまで届かないからです。
発想を変えましょう。もう身の回りのすべての出来事を「いいこと」だと解釈することにしましょう。犬のウンコを踏んでも「なるほどこれは新しい靴を買いなさいという啓示だな」とか、財布を落として見つからなくても「僕は貧しい人に募金をしたんだ」とか、まあそんな風にいい方に考えていくことが出来れば人生というのはより楽しくなるものではないか、と思うわけです。
…、とまあ書いてはいますけどね、いやはやなかなかそんな風に思えるもんじゃないですよ、アンタ。日々いろいろ嫌なことが起こるのに、それを全部いい風に解釈しろだなんて拷問みたいなものですね。それこそまさしく、今流行の「鈍感力」ってやつかしら。僕にはどう頑張ってみても「鈍感力」の欠片もなさそうだから、やっぱり人生は厳しいものになりそうだわさ。
そんなわけで、三浦しをんというのはなかなか羨ましい性格をしているな、とまあそんな話をしてきたつもりです。三浦しをんは前向きですからね。人生楽しいかもですね。なんて。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「ボイルドエッグズ・オンライン」という、三浦しをんがエージェント契約をしている(確か)ところのサイトで連載をしていたエッセイをまとめたものです。本当に初期のもので、恐らくデビュー長編である「格闘するものに○」を出版する前後にネットに書かれたものをまとめたものではないかと思います。もちろん三浦しをんのエッセイ第一作です。
三浦しをんと言えば、直木賞も取りベストセラーもばんばん出してと超有名な作家になりましたが、この頃はまだ古本屋でのアルバイトを掛け持ちしているれっきとしたフリーターだったわけで、まだまだ作家としての地盤のない時期のエッセイということでまた面白い感じです。
本作中に、「格闘するものに○」に関連して三浦しをんは友人に、「もし○談社から原稿の依頼があったらどうする?」なんてことを聞かれます。それに対して三浦しをんはあれこれ妄想をするのだけど、しかし最後には、○談社から依頼が来るなんてありえない、なんていう結論に達するわけです。
しかし今となってはどの出版社でも引く手数多でしょうから三浦しをんのこの予想は大きく外れることになるわけですけど、そういう初期の頃の話なわけで面白いです。
なんかかなり自由なエッセイで、ある章など(ホントかどうかは分からないけど)三浦しをんの友人が「ボーイズラブ小説」について語っています。三浦しをんではなくその友人が文章を書いている、という設定です。自由ですねぇ。そうそう、ちょっとした発見なんですけど、本作を連載していたのが1998年から2000年にかけてで、本作の記述を信じれば、その頃にはまだ「ボーイズラブ」という言葉は一般的ではなかったみたいです。三浦しをんは「JUNE系」なんて読んでいます。なるほど、「ボーイズラブ」という言葉は結構最近のものなんですねぇ。
あと、つい最近「人生激場」を読んだんだけど、その中のあるエッセイが本作のエッセイとほぼ同じでした。「人生激場」は週刊誌の連載だったようで、だから締め切りに間に合わん!となった三浦しをんが、うーむここは仕方ない昔書いたエッセイをちょろっと変えてごまかして出してしまえ!ってな感じにしたのではないか、と勝手に想像します。
三浦しをんは彼氏が彼氏が、みたいなことをよく言っているわけですが、これまではどうか知らないけど、作家になって以降三浦しをんに彼氏が出来ないのは(ってたぶんいないんですよね?)、恐らくエッセイに何でも書いてしまうからではないか、と思います。弟なんかもエッセイに書かれるのを嫌がっているのに頻繁に登場するわけで、男としては「うーむ、三浦しをんと付き合うとあることないことないことないこといろいろ書かれてしまうのではないか。恐ろしい!」ってな具合になっているのではないか、という気もします。あくまでも想像ですが。
日常の些細なことからどうでもいいことを考えるというのはいつものパターンで、また三浦しをんのお馴染みのグータラな生活もどんどん出てきます。どちらかと言えば「人生激場」の方が好きでしたが、でもやっぱり三浦しをんのエッセイは最高に面白いと思いました。これからもちょうちょく三浦しをんのエッセイを追いかけていこうと思います。オススメですよ。読んでみてください。

三浦しをん「極め道」



スポンサーサイト

くちぶえ番長(重松清)

僕の記憶の中では、小学校時代というのはとにかく女子の方が強かったな、という感じがある。それも高学年になればなるほど、である。
低学年の頃は、性別というのはほとんど関係ない、ただの子供である。男子も女子もいっしょくたで特に違うって言うことはない。もちろんその中にはなんとなく序列みたいなものが出来たりするのだけど(いや、小学校によっては明確に序列が出来たりするのかも。僕のいたところは比較的平和だっただけかもしれないけど)、まあお互い同志だぜ、みたいな関係である。
しかし高学年になっていくにつれてそうではなくなっていく。段々と女子が男子から離れていくのである。
恐らくこの表現は正しい。女子の側からすればどう感じているか分からないが、男子の側からすれば女子が離れていくという表現になる気がする。
原因は明らかである。要するに、男子よりも女子の方が早く成長するのである。第一次性徴期とかなんとかそんな名前だった気がするのだけど、それが確か女子の方が早いのだ。
するとどうなるか。女子の側からすれば、男子が幼く見えるのだろうと思う。僕の中には小学校の頃の記憶はほぼないのだけど、ただなんとなくそんな気がする。男子というのはいつだって馬鹿な生き物で、いつまでもふざけたり喧嘩したりしているものだ。それを女子は、子供だわねぇ、なんて思いながら見ているわけだ。
また、たぶんその第一次性徴期とやらに関係あるのだろうけど、この時期女子の方が背が高い。僕は、今でこそ180cm近くあるのだけど、小学校時代は列に並んだ時に前から3番目くらいというかなり背の低いお子ちゃまであった。一方で女子の身長というのは何故かぐんぐん伸びる。あの頃の体格の差というのはかなり大きいわけで、そうでなくても僕は誕生日が3/29という極端な早生まれであるために、相手によっては丸1年くらい成長が遅かったりするわけで、あの時期はなかなか哀しかったなぁ、となんとなく思う。
まあ要するにそんな感じで小学校の頃の女子というのは強いものである。具体的な記憶というのはほとんど挙げようがないのだけど、そんな感覚だけは残っているものだ。
僕は、今でこそ人にあれこれ文句を言ったりするいけ好かない人間なのだが、小学校時代を含めた子供の頃というのはとにかく弱っちい存在だった。あんまりちゃんとは覚えていないのだけど、いじめとまではいかないけどからかわれたりとかはしていたような気がする。下校時に先輩のランドセルを持たされるとか、上履きがどっかになくなるとか、教室でズボンを脱がされるとか、まあ結構そういうことはあったと思う。我ながら情けないものである。しかしほぼ記憶に残っていないので、そこまで酷くもなかったのだろう、と勝手に思っているのだが。あるいは忘れたいほど嫌な記憶だったか。ってんなわけないけど。
本作を読んでふと思ったことは、そういうからかわれたりしている時に女子に助けられたりとかしたらどうなんだろう、ということだ。
正直、それは結構嫌だなぁ、と思うんじゃないかって気がする。確かに小学校時代女子は強かった記憶がある。まあもちろん人それぞれだったと思うけど、でも全体としては男子よりも女子の方が強かったと思う。であれば、僕が何かされている時に助けるなんてことも、やろうと思えば出来たのかもしれない。
しかしやっぱり男子としては女子に助けられるのは恥ずかしいものだ。女子なんかに助けてもらって、とまたからかわれるかもしれない。まあ女子としても、また男子はアホなことやってるよ、ほっとこほっとこ、ってな感じだったのではないかと思うので心配するようなことでもないのだろうなとは思うのだけど。
思い返して見てもほとんど思い出すことは出来ないけど、でも大雑把な印象として僕は、学校における人間関係というのは辛いな、みたいに思っていたのではないか、と思う。学校が嫌だったわけではないけど、でもちょっとそこでちゃんとしていくには疲れるなぁ、みたいな。いや何が言いたいかと言えば、マコトみたいな女子がいたらすこしは何か違っていたのかなぁ、ということなんだけど…。
うーむ、どうもうまく文章を書けないのだなぁ。残念。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は「小学四年生」という雑誌に連載され、文庫オリジナルとして出版された本です。
本作は、現在では作家になっている著者が、小学校時代のある時期のことを綴った「ひみつノート」を見つけ、懐かしい思いでマコトという一人の少女を思い出し、もしかしたら自分の出している本を見てくれるかもしれない、ということで現在ではどこで何をしているのかわからないマコトを探すためにマコトについての本を書いた、という設定の話です。
小学四年生の頃、ある一人の少女が転校してきました。その女の子は学校に来る前から噂になっていました。六年生でも登れない木の上に座ってたとか、一輪車に乗るのがすごくうまいとか、いじめられてた子を助けたとかそういう話です。またマコトは、僕のお父さんのかつての友人の子供でした。お父さんとその友達は小学校時代の友達なんだけど、お父さんの友達、つまりマコトのお父さんはもう亡くなってしまっています。
マコトは僕と同じクラスになりました。ちょんまげを結った髪型で、そのちょんまげがゆらゆら揺れています。その自己紹介でマコトは驚くべきことを口にするのです。
「わたしの夢は、この学校の番長になることです。」
さてそれからは、マコトの苦難の道が始まりました。というか、マコト自身はさほど気にしていなかったみたいですが、クラスの女子のほとんどがマコトを敵対視するようになったのです。そんな中でもマコトは番長らしく振舞い、次第に皆と打ち解けていくようになりました。
マコトと一緒に過ごした長かったようで短い一年間の出来事を、様々な場面に分けて綴った物語です。
いやはや、さすが重松清です、ってな感じで相変わらずいい話を書きます。本作も、もうベタはベタなんです。「小学四年生」っていう小学生向けの雑誌に連載されていたことからも分かるように、ありがちで分かりやすい話です。けどそんなベタな話でも、巧い作家がきちんと書けばすごくいい話になります。重松清というのはとにかくそういうことをやらせたら天才なわけで、だから僕はこのベタな小説を読んでところどころ泣きそうになったりしたわけです。
とにかくマコトというキャラクターがもんのすごくいいです。女子なんだけど番長になりたくて、強きを挫き弱きを助けるという精神で、スポーツは万能なのに何故か泳ぐのだけは苦手で、男勝りででも時々やっぱり女の子で、喧嘩も強いし泣かないしくちぶえもうまい。ほんと頼もしいし面白いキャラクターでした。本当に番長みたいな感じになっていて、同学年だけじゃなくて下の学年からも頼られるし、上の学年には恐れられているわけです。いやホントすごいですね。
僕は結構男みたいな女性が好きなわけで、だからこういう男勝りなマコトみたいなキャラクターはいいなぁ、と思ってしまいます。このままのキャラで大人になってくれれば…なんてどうでもいい想像をしてしまいました。
あとマコトにいつも振り回される主人公の僕(ツヨシ)もなかなかいい感じです。初めはダメダメな感じだったんだけど、マコトに影響されてどんどんと変わっていく。先生に怒られないようにってことばっかり考えていたのに、次第に怒られてもいいからちゃんとしたことをしようって思うようになるわけです。でまあもちろんマコトとのほのかな恋愛みたいなものも描かれるわけで、いい感じです。
マコトとツヨシの話だけじゃなくて、学校の友達とのあれこれや、ツヨシの家族との関わりなんかもホント面白くて、重松清はホントうまいわぁ、と思ってしまいました。
というわけで、非常にいい作品だと思います。本当に小学生から読むことが出来る本だと思います。子供に読ませるというのもいいかもしれませんね。オススメです。読んでみてください。

重松清「くちぶえ番長」




アサッテの人(諏訪哲史)

個性が問われる時代になっている。というか、別に誰かに問われているわけではなく、個々人が勝手に個性を強いているだけとも言えるが、ともかく誰もが個性的であろうと意識をする時代になった。
しかしその個性的であろうとするベクトルはどうも不自然なものであるように感じられる。つまりこれはよく言われることであるが、誰もが個性的であろうとするが故に、結局皆同じになってしまう、という現象を引き起こすのだ。
若者に多いが、とにかく周囲の人間とは違うのだということをアピールしたがる人間がいる。もしかしたら自分も周りからはそう見られているだろうか、と不安になったりもするが、まあともかくそういう人間は、周囲との差別化を図るために何らかの逸脱を企図することになる。
しかし彼らの企図する逸脱というのは、ある一定の範囲内に収まるもの、あるいはある一定の方向に定められたものでしかない。普通ではないことを目指して逸脱をするのに、その逸脱の仕方に一定のルールが存在するのだ。
例えば高校生なんかは、制服をかなり着崩したりする。今の高校生がどんな感じなのか僕には知る由もないけど(まあバイト先の本屋には高校生がよく来るけど)、僕が高校時代の頃は、学ランだったので襟のカラーを外したりだとか、ワイシャツを着ないでTシャツの上にそのまま学ランを着るだとか、ボタンをほとんど外したままにするとか、ワイシャツをズボンから出しっぱなしにするとか、まあ要するにそんな感じであった。
しかし逆に言えば、大体上記のような範囲に収まるのだ。彼らは、普通とは違うことを目指して逸脱をしているのに、逸脱の方向性が皆同じであるが故に、結局逸脱を目指した人間達はまたぞろ様相を同じくしてしまうということになるのだ。
もちろん、彼らだってそのことを知っていてやっているのだ。
つまり彼らが逸脱をしたいと考えているのは、「普通の集団」からなのである。「集団」から逸脱したいのではなく、「普通の集団」から逸脱をしたいのだ。「集団」からの逸脱を目指すのであれば他の誰とも違う地平を目指さなくてはならないが、「普通の集団」からの逸脱を目指すだけであれば、その逸脱をした者同士が同じになってしまってもまあそれは許されるのだ。そもそも、「集団」の逸脱というのはよほどうまくやらなくてはただ浮いた存在になってしまう。誰しもそれに恐怖を抱いているのだ。「集団から」逸脱し、誰でもない自分を確立することの難しさを知っているからこそ、安易に「普通の集団」からの逸脱を目指し、中途半端な逸脱を実践して満足をしているのである。
ではもし、浮いてしまうことを覚悟で「集団」からの逸脱を目指すとすれば、そのためにはまず何をすべきだろうか。
そのためにはまず、「集団」というものを徹底的に知ることから始めなくてはいけない。「集団」というものをこれ以上ないというぐらいまで分析し追求し、その結果として「集団」からの逸脱が可能になるのである。
本作中では、俳句を例に取っていた。俳句には字余り・字足らずというものが存在する。これは即ち、「俳句」という「集団」からの逸脱に他ならない。ただその逸脱は、五七五という俳句の定型を踏まえそれをきちんと知った上での逸脱でなければならない。自由律の俳句しか知らない人間には、字余りも字足らずも逸脱ではない。五七五という定型にこだわることで、初めて字余り・字足らずという逸脱が可能になるのである。
では、「日常」からの逸脱を目指すためには、何をしなくてはいけないか。
つまりそれは、凡庸でありきたりな「日常」というものをとことんまで知り尽くす必要があるだろう。そこに埋没する必要があるだろう。「日常」の中に埋没し、埋没しきったところに逸脱が存在する。逸脱の存在価値がある。
人は皆、何らかの形で個性的であろうとする。それはつまり逸脱を目指すということに他ならない。しかし逸脱とは、「日常」への埋没、あるいは「日常」の連続の中にしか存在し得ない。「日常」を無視した形でなされる逸脱は、もはや逸脱ではないのだ。裏を返せば、逸脱を目指すものこそ、「日常」の真の体現者であるのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
しかし本作の構成はいささか難しいのできちんと内容紹介が出来るかどうか分かりません。
まず本作には、この「アサッテの人」の著者が出てきます。しかしそれは、『アサッテの人』の著者である諏訪氏ではないと思われます。小説内に「アサッテの人」の著者が登場人物として存在し、それが『アサッテの人』として出版されている、という感じです。この登場人物としての作者を作者Aと呼びましょう。
さて本作は最終的には何の話かと言えば、作者Aの叔父の話ということになります。
作者Aはこれまでにも叔父についての小説(これが即ち「アサッテの人」である)を書いてきたのだが、どうもうまくいかない。叔父について普通の小説の体裁を踏襲して描くのでは、どうも不具合が生じるのだ。それは、叔父という存在そのものの不可解さから来るものであり、本来であるならば叔父について小説にするという試みを断念するべきであるのだが、しかしそれもつまらない。というわけで著者Aは折衷案を考えた。
著者Aが、「アサッテの人」の最終的な形に採用した形式はこのようなものである。つまり、著者Aがこれまで叔父について書いてきた様々な文章(これを「アサッテの人」の草稿と呼ぶ)と叔父自身が残した日記、そして著者A自らの記憶をごったに再構築をして、小説らしきものを作り上げよう、という試みである。
というわけで本作の構成はこのようになる。叔父についての記述を、ある部分は自らの草稿から、ある部分は叔父自身の日記から抜書き、その間を著者A自身による回想あるいは分析によって埋めるというものである。
さてその叔父であるが、ではどんな人物であったのか。これについてなるべく誤解のないように著者Aは酷く回りくどく小説にしたわけで、ここで僕があっさりと本質を剥ぎ取って装飾だけの文章を記すのは著者Aとしては不本意であろうが、まあ仕方なかろう。
叔父は、「ポンパ」や「タポンテュー」といった奇妙な言葉を、その時々の文脈に無関係に唐突に口に出す人物であった。要するにそういう人間である。しかし叔父は精神的におかしかったわけでも狂っていたわけでもない。そんな叔父について、なるべく客観的な視点から忠実にその存在を再現したという内容になっているのである。
というような内容です。
いやはや、もんのすごく奇妙な小説でした。これが。群像新人賞を受賞したというところまではいいとして、芥川賞まで受賞したというのはなかなかのものだな、と思います。何がなかなかなのかと言うと、芥川賞の選考委員もこういうものを評価することが出来るのか、ということですが。
ただ僕としてはなかなか評価に困る作品でもあります。一読しただけではその奇妙さに戸惑うことしか出来ないわけで、もしかしたら再読したらまた違った味わいが出てくるのではないか、という予感をさせる作品ですが、しかしなかなか実験的な作品であって、実験的というのはつまりどういうことであるかと言えばある程度読者を置き去りにしなくてはいけないということであって、そういう意味では実験小説としては成功している、という言い方は出来るかもしれません。
僕は純文学系の作品はあんまり読まないのでなんとも分かりませんが、しかし純文学系の作品でメタ的なものを扱った作品というのは珍しいのではないか、と思います。筒井康隆ぐらいしか思い浮かびません。そういう意味でも、よく芥川賞がこれを評価したな、と思いました。
とまあここまでなんだかんだと否定的な意見を書いている感じですけど、でもこの作品はちょっとすごいと思います。何がすごいかと言えば、うまく言えないんですけど、その客観性とでも言えばいいでしょうか。
本作は、過去の著者A自身の草稿や叔父の日記から一部を抜粋したものを集めた、という形式を取っています。ただもちろんそんな草稿だの日記だのが存在するわけがないのであって、つまりそれはすべて諏訪氏の創作であるということになります。
しかし同一人物の創作であるのに、そこには微塵も同一を感じさせることがありません。普通、小説の中に例えば誰かの手記だの手紙だのを書くということになっても、なかなか作者本来の文章というものを抜け出すことは難しいわけです。小説の書き手と、その小説に出てくる手紙の書き手は別人であるはずなのに、それがうまくいっているということはなかなかないような気がします。どこか著者本来の視点が混じったり、あるいは内容が偏り過ぎて不自然さを感じさせる、と言った具合です。
しかし本作の場合、草稿を書いていた頃の著者Aと現在の著者Aと叔父というこの三者は、まったく別の存在として認識することが出来ます。つまりそれは、本当に著者Aの草稿や叔父の日記が存在していたかのような錯覚を呼び起こします。まるで手元に本当にその原本があって、それを参照しながら著者Aが文章をタイプしているのが目に浮かぶようなそんな作品なのです。
うまく説明できませんが、それを実現するための強靭な客観性みたいなものが本作を本質的に強いものにしているのではないか、という風に思いました。
また、言葉に対する感覚の鋭さみたいなものも光っています。本作では、奇妙な言葉を突然口に出してしまう叔父というのが登場しますが、その叔父の言葉に対するこだわりみたいなものが強く印象に残るし、子供の頃から一緒に育ってきたという著者Aにもその傾向が強く残っています。だからこそこの『アサッテの人』という作品は、全体的にリズムや一語一語の表現みたいなものに神経を配って文章が練られているという印象を受けました。だから再読したら、一読目では感じることのなかったいろんなものを新に発見するのではないかな、という気もします。
しかし何度も書きますが、この作品を評価することが出来るというのは、まだまだ出版業界も懐が広いな、という感じがします。本作を僕は実験小説として捉えていますが、実験小説というのはあらゆる意味で紙一重です。とにかく、ギリギリのラインで小説として成り立っているという感じがしました。それは、作品の内部に破綻を明確に組み込むことで、逆説的に破綻を防ぎ作品を成立させているかのようにも見えます。なんというか、不思議な作品でした。
本作は群像新人賞という新人賞を受賞している著者のデビュー作なんですが、群像新人賞を受賞してデビューし、その後同じ作品で芥川賞を受賞するというのは、村上龍以来30年ぶりの快挙なのだそうです。まあだからなんだってことはないんですけど、ちょっと出来れば今後も活躍して欲しいなと思える作家です。次の作品がどうなるかちょっと期待です。

諏訪哲史「アサッテの人」



楽園(宮部みゆき)

本当はこの前書きの部分で書くのにより適したテーマはまた別に存在するのだけど、それについて書くとネタバレに繋がってしまうなぁ、という風に思うのでちょっとそれは書かないことにします。
秘密を隠し続けるというのは本当に体力を必要とするものです。
人は誰でも、些細なことから重大なことまで、少なからず秘密を持っているものです。僕も、ほとんどの人が知らない秘密というのもあるわけで、やっぱりそれは出来る限り知られたくない、と思うわけです。僕の抱えている秘密など、吹けば飛んでしまうような些細なものですけど、それでも秘密を抱えているというだけで充分な重荷になります。
だからこそ僕は、なるべく秘密を持たないように生きていこう、と努力をしています。具体的にどうしているのかと言うとまあそんな大したことはしてないんですけど、そもそも人から隠さなくてはいけないようなことをしないとか、仕方がなくそれをしてしまうことになったらそれについて自分から喋ってしまうとか、どうしても隠さなくてはいけない場合はなるべくそれについて忘れるようにする、とかです。
ちょっと話は違いますが、同じ理由で僕はあんまり嘘をつくこともしません。嘘をつくというのは、つまり何か秘密を抱えるということであって、それは自分の中であんまり愉快なことではないからです。だから僕が何か行動をするような時には、これをしてしまったら後で嘘をつかなくてはいけない羽目にならないだろうか、と考えてから行動に移します。まあ誰でもそうかもしれませんけど。
しかしそうやって生きていても、どうしても嘘をつかなくてはいけない状況に陥ったりします。そういう状態の時は、本当にいろいろと大変なものです。
詳しいことは書きませんが、一時期僕は人には言えないある人間関係を抱えていました。人には言えない、と書きましたが、それはある特定の人達には知られてはいけなかった、ということです。その特定の人達に知られないように(いや、もしかしたら知られていたかもしれませんが)日々気を遣うというのはなかなか大変なものでした。まあ僕は、あんまり嘘をつかないように生きているわけですけど、同時に嘘をつくのが結構うまいと自分では思っています。嘘を割と本当らしく人に思わせることが出来る、と自分では思っています。まあそれでなんとか大丈夫だったと思っているわけですけど、秘密というのはホントなるべく抱えていたくないものです。
秘密というのは不思議なもので、隠せば隠すほどどんどんと大きくなっていきます。一番初めの段階で隠さずにいれば大きなことにはならないのだけど、一旦隠してしまうと面倒なことになります。そのまま隠し続ければ続けるほど、より表には出しにくくなっていきます。秘密を自分の内側に隠し持っている、ということがプレッシャーとなり、自らの言動がおかしくなったりもするでしょう。ホント、秘密なんて持っててもいいことはないわけです。
でも例えばこんなことを考えてしまいます。
僕はほとんど車には乗りませんが、だからこそ事故を起こす可能性というのも結構あるんじゃないか、と思います。不運が重なって、あるいは相手側のミスで人を轢いてしまう、というようなことがあったとしましょう。この場合、隠さずに警察にすぐにいけば、罪もそこまで重くならないかもしれないし、人を轢いてしまったという後悔はもちろんいつまでも残り続けるにしろ、秘密を隠しているというプレッシャーには悩まされずに済みます。
しかし人を轢いたのが人気のない場所だったら、やはり悩んでしまうかもしれません。うまくいけば、このまま逃げてしまえばバレないのではないか。でも車の方に何か痕跡が残っているかも。だったら今からどっかに追突事故でも起こしたらどうだろう。居眠り運転をしていたということにして自分で事故を起こせば、ひき逃げの時の痕跡を目立たなく出来るんではないか。でも近くでひき逃げと自損事故があったら疑われるか。だったらやっぱり死体は隠すしかないか…。
なんてことを考えてしまうわけです。でまあ割と高い確率でバレるでしょう。そうなると、一番初めの段階で言っておけばただのひき逃げだったのに、最終的には死体遺棄の罪まで負うことになるわけです。と頭で分かっていても、でもやっぱり逃げて隠すことを考えてしまうのだろうな、と思ったりします。
本作には、自分の娘を殺害しその死体を自宅の床に埋め、16年間も隠し通した夫婦が出てきます。同じ状況に自分が陥ったらどうするだろうなぁ、と考えてしまいます。
死体を隠すことで司法からは逃れることが出来るかもしれない。しかし、自宅の床下に娘の死体がある、いつ見つかるかもわからないとビクビク暮らしていくのは辛い。しかしじゃあ死体をどこか遠くにやればいいのかというと、それでも結局いつ見つかるのかとビクビクしなくてはいけない。じゃあ自首するのかと言えばそれも躊躇ってしまう。でも決断をしなくてはいけない…。やはり想像の世界では、自分にはその決断を下すことは出来ないな、と思います。
一方本作には、人の記憶が見えてしまったかもしれない少年が出てきます。いわば超能力です。その少年は既に死んでしまっているわけですけど、生前その能力を隠し通さなくてはいけないと子供心に分かっていたことでしょう。普通とは違うのだということが分かっていたでしょう。これは犯罪ではないですけど、しかし口に出せばちょっとおかしな人間だと思われることは分かっていたでしょう。こういう秘密を抱えて生きていかなくてはいけないというのもまた辛いことです。
不本意にも大きな秘密を抱えて生きていかなくてはいけなくなった人生というのは僕には想像出来ません。しかし秘密を抱えることはどんな場合でも辛いことになります。なるべくそういう人生に近づかないように心がけよう、と思っています。
なんか今回の文章はいつも以上にダメな気がします。うーん、ちょっと残念。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は「模倣犯」の続編という位置付けで、「模倣犯」の主人公だったフリーラオターの前畑滋子が登場します。
あるフリーペーパーを発行する会社に籍を置く前畑滋子の元に、ある一人の女性が訪ねてきました。その女性については、知り合いのライターから話を聞いたのですが、とにかく一度でいいから話だけでも聞いてやってくれないか、ということでした。
女性は萩谷敏子という50代の女性で、これまでにもいろんな出版社やテレビ局を訪ね回っているとのことでした。
彼女の話というのは、つい先ごろ交通事故で亡くなった彼女の一人息子についてです。
小学生だった息子・等は絵が得意で、学校でも表彰されるほどのものだったわけですが、しかし一方で彼は幼稚としかいいようのない奇妙な絵も遺していました。それは、彼の表現によれば、「頭に浮かぶ映像を描いている」とのことで、その映像が浮かぶ時は「頭がぐるぐるして絵を描かないではいられない」とのことでした。等君の死後その絵を知人に見せたところ、その中のある一枚の絵に驚きました。なんとそこには、ある事件で注目された家と思しき絵が描かれていたからです。
その事件というのは、初めは些細な火事でした。住宅密集地での火事で、出火元だけではなくもらい火を受けた家が何軒かありました。その後事態は大きく展開し、そのもらい火を受けた内のある一軒が、自宅の床下に娘の死体を埋めたと告白したのである。娘を殺してから16年が経過し、既に時効になっている事件であったので両親が逮捕されることはなかったものの、一時はマスコミでも大きく取り上げられました。
等君の絵の中に、その家としか思えない絵があったわけです。しかもその事件が発覚したのは等君の死後であり、等君がその事件について知りえるはずもなかったわけです。
敏子の知人は、これは超能力に違いない、テレビ局にでも何でも売り込みなさいよ、と言って彼女をけしかけ、それを真に受けた彼女はこうして律儀にもいろんなところを回っている、というわけです。
敏子は息子が超能力を持っていたと確信しているわけではありません。しかし、実際どうだったのかということを知りたがっています。もし出来ることならばその調査をやってはもらえないか、ということでした。
滋子は、このあまりに突拍子もない話に戸惑いましたが、敏子が非常に好人物であったこともあって、とりあえず出来るところまで調べてみよう、ということに決めました。
そこから滋子はあらゆる角度からこの件について調べていきました。調べれば調べるほど、等君の能力は本物だったのではないか、と思わざるをえなくなりました。また等君の遺した絵には、なんとあの「模倣犯」事件を想起させる絵もあり、滋子はこの調査に宿命のようなものを感じたりもします。
そして滋子は途中から調査の方向を変えます。等君に超能力があったかどうかを調べるのではなく、彼の能力が本物だと仮定して、では彼は一体誰の記憶を盗み見たのだろう、ということを調べることにしたわけです。16年間も誰にも知られることなく娘の死体を隠し切った夫婦の所業を、誰かは知っていたに違いない。その記憶を等君は盗み見たのだ。ではそれは一体誰なのだろうか…。
というような話です。
いやはやホント、もはやお見事としかいいようのない作品でした。宮部みゆき、さすがです。素晴らしい!ブラボー!ですね。なんて陳腐な褒め言葉を多用したくなるくらい見事な作品でした。宮部みゆきはホント職人だと思いました。
事件自体は「模倣犯」と比べると驚くほど地味です。「模倣犯」の時は大量殺人でしたけど、本作は娘を殺し16年間も隠し通した夫婦の事件です。もちろんそれでも充分ショッキングな事件ですけど、しかし滋子が関わるのは犯人が誰かを突き止めるという話ではありません。犯人は分かっているし、しかも既に時効が成立しています。普通の犯罪小説ではこれ以上あんまり突っ込みようのないところから物語が始まるわけです。
しかもそこに至る過程がまた面白いです。既に死んでしまっているが超能力を持っていたかもしれない少年、という入口はホント素晴らしいと思いました。初めは「クロスファイア」とか「龍は眠る」みたいな異能者ファンタジー的な話になるのかと思いましたがそうではなく、超能力という話を出してきながらも、最後まできちんとした犯罪小説で、その話の運び方が素晴らしいと感じました。
とにかく物語は、超能力少年と時効になった遺棄事件という入口からは想像もつかないほど広がりを見せ、また深く深くまで進んで行きます。滋子が調べれば調べるほど事件は裏側を覗かせmまた深みへとどんどんと進んでいくわけです。これだけ地味な話を元にこれだけ面白い作品をしか新聞連載でやってしまうというのはホントすごいなと思いました。
一点だけ気になったのは、ラスト付近にある滋子が出したという設定の手紙です。手紙なのに、状況を詳しく説明するような手紙らしくもない会話文なんかがあって、やっぱちょっとこれは手紙らしくないなぁ、と思ったりしました。まあ小説である以上これは仕方ないと思いますけどね。
あとこれは作品の不備ではないのだけど、こう上下になっている物語というのは、下巻の内容紹介(帯なんかに書いてあるやつ)が結構ネタバレをしているような印象を僕は受けます。これはなんとかならないのかぁ、といつも思ったりしますがどうでしょうか。
ラストのラスト、物語の終わりはかなりいい感じでした。なるほど、そうやって終わりますか、という感じでなかなか予想外な感じでしたし、いい終わり方だな、と思いました。
とにかく、かなり素晴らしい作品だと思います。今年読んだ本の4位になりますかね。お見事です。結構長いですけど、スイスイ読めてしまいます。かなりオススメです。是非読んでみてください。

追記:今amazonの評価を見たんですけど、案外皆さん辛い評価なんですねぇ。僕は相当面白いと思いましたけど。まあ「模倣犯」ほどではないしにしろ。
あと、本作は「模倣犯」を読んでなくても読めるとは思いますけど、でもやっぱり読んでた方がいいだろうなとは思います。

宮部みゆき「楽園」





「世界征服」は可能か?(岡田斗司夫)

つい最近、「ゾラ・一撃・さようなら」の感想の冒頭で、僕はお金持ちにはなりたくないのだ、という話を書いたのだけど、その話まさに本作の感想で書くべきないようでした。いやはや、タイミングを見誤ったなぁ、というか。
その感想の中で僕は、お金持ちになりたくない理由を二つ書きました。一つは「お金持ちになってもやりたいことがない」で、もう一つは「お金持ちになったらめんどくさいことばっかりだ」というものです。この二つが、本作の流れに非常によく合っているわけです。著者の岡田氏は、アニメで世界征服を謳う悪の組織には、「世界征服をしてどうしたいのか」というビジョンが見えないし、またいろいろと考えてみると、「世界征服をしたらいろいろめんどくさいことがあるよ」と言っているのです。うーむ、まさに僕がお金持ちになりたくないという話と同じではないですか。
さて、子供の頃に世界征服なんてものを夢見たことがあるでしょうか?僕は子供の頃「ヤッターマン」とか見てましたけど(本作でもちょっとだけ「ヤッターマン」の話が出てきて懐かしかったです。「タイムボカン」シリーズは面白かったなぁ)、でも別に世界征服とかには憧れなかったと思います。世界征服なんかできっこない、とかそんな醒めたことを考えていたわけではないとは思うんだけど、どうせ世界征服をしようとしても正義の味方が現れるしなぁ、ぐらいのことは考えていたかもしれないですね。まあ子供の頃のことはさっぱり覚えていないのでわかりませんが。
そういえば唐突に変なことを思い出しました。世界征服と多少は関係あるんではないかと思います。
小学校だかの卒業の時に、なんか文集とか作るじゃないですか?クラス毎にページがあって、各クラスがクラスメイトの紹介を含めてページをどうするか決めるんですけど、確かウチのクラスは、将来誰がどうなっているかというのを勝手に予想する、みたいな企画だったような気がします。正確には覚えてないんですけど、そんな感じだった気がします。でもその予想は一体誰がしたんだろう?思い出せませんね。
その僕の予想の欄に、「総理大臣」とか書いてあった気がします。「大統領」とかだったかな。あんまり覚えてないですけど、そんな感じだったと思います。なんだか知りませんが、当時の同級生の目から見たら、こいつはまあ総理大臣にしとけ、みたいな感じに見えたんでしょうかね。総理大臣になるというのは世界征服とは関係ないですけど、でもある意味で支配するということに繋がるので書いてみました。変なことを思い出したものです。
さてアニメとか特撮ヒーローの話ですが、よく世界征服という設定が出てきます。で彼らはその目標を達成しようといろいろと頑張るわけですけど、そこに正義の味方が現れて悪の組織をコテンパにやっつけるわけです。で悪の組織の目論みはなかかな達成されない、というのが王道のストーリーなわけですけど、やっぱりおかしいですよね。
本作では、「悪の組織が敵を一体ずつしか出してこないのがおかしい」とか「世界征服をするのに人民を殺してしまうのはよくない」みたいなことを書いているわけですけど、僕が変だなと思うのは、何で自分たちの世界征服という目標を邪魔する正義の味方を仲間に引き入れようとしないんだろうな、ということです。
だって考えてもみてください。正義の味方というのは、とにかく毎回邪魔してくるわけです。悪の組織からすれば、別に正義の味方と戦うために敵を送り込んでくるわけではなくて、基本的には世界征服をしたいから、それには正義のヒーローが邪魔だから敵を送り込んでくるわけです。それには膨大な手間とお金が掛かるし、効率が悪いです。
だったら、その豊富な資金力にモノを言わせて、正義の味方を買収すればいいんじゃないか、とか思いますね。まあいろんな事情でそれは出来ないのかもしれないけど、少なくとも戦う前に出来る限りの交渉をしてみるべきではないかと思います。まああのアニメとか描かれているのは、その交渉が破綻した後で、もう戦う以外に選択肢など残されていないのだ、という状態なのかもしれませんけどね。
本作では、実際に世界征服をした実例も挙げています。
例えば北朝鮮の金正日です。彼は、自分の私利私欲のために一国を支配しているわけです。
ただ、この金正日の成し遂げた世界征服を分析することで、世界征服における構造的な問題点というものが浮かび上がってくるわけです。
それは何かと言えば、結局金正日が欲しいものは北朝鮮内のはない、ということです。
金正日は北朝鮮を支配しているわけで、もちろん何でもし放題です。物量という点では圧倒的です。どんなものでもどんな量でも手に入るし自由です。
しかしそれでも金正日は満足出来ません。何故か。それは、北朝鮮内部からは面白い娯楽が生まれないからです。
金正日は北朝鮮を支配することで、人民に不自由な生活をさせて自分だけ豊かになろうとしています。しかしそうすると、経済というものがうまく回っていきません。経済が上手くまわっていないところに面白い娯楽が生まれるわけがないのです。娯楽というのは、自由主義の原理の元で切磋琢磨が繰り返されるからこそ面白いものが生まれるのです。
だから金正日は大好きな映画を外国から輸入しなくてはいけないのです。一国を支配しているのに、娯楽は他国から輸入しなくてはいけない。つまり、暴力的に支配するだけでは世界征服のうまみはない、ということなのです。
では、世界征服を首尾よく成し遂げたとして、これからも自分は豊かで楽しく生きていきたいと思ったらどうするべきかと言えば、それは人民を豊かにしていくしかないわけです。ということは支配者である自分がしなくてはいけないことは何かといえば、世界を平和に保ち、経済を順調に回していくということになります。しかしそうなると、世界中のありとあらゆる問題の解決が自分に持ち込まれることになります。それを解決しないと世界の平和が訪れず、世界が平和でなくなれば自分も豊かに暮らして行けないからです。そうすると、折角支配者になったのに世界中の紛争を解決するだけの人になってしまうわけで、これはただめんどくさいだけです。
そこから著者が何を考えるかと言えば、世界征服にはうまみがあるのか、ということです。
少なくとも18世紀くらいまでならうまみがあった、と著者は言います。それは、まだ階級社会というものが残っていたからだ、と言います。
階級社会というのは何かと言えば、お互いの階級のことを理解しあうことの出来ない社会です。文化や娯楽のすべてが、階級によって断絶をしている社会です。
少し前のイギリスは階級社会だったそうです。例えば飲み屋の真ん中には仕切りがあって、一方を「パブ」、もう一方を「サルーン」と呼んで区別していたようです。「パブ」には労働階級が行き、「サルーン」にはアッパーミドルと呼ばれる人達は「サルーン」に行きます。
この違いは何かと言えば、出てくるビールは同じなのに「サルーン」の方が値段が高い、というだけです。他に違いはありません。つまり高い階級の人達は、階級が高いというだけの理由で高いお金を払う、それが階級社会なわけです。
また階級社会では芸術や娯楽もまるで違います。労働階級の楽しむ音楽と言えば街頭でのギターの弾き語り、貴族階級は専属の音楽団を持っている、という違いがあって、この両者は決して交わりません。労働階級が音楽団の音楽を楽しむことはまずないし、貴族が街中で立ち止まって弾き語りを聞くということもありえません。
こういう階級社会であれば、世界征服をするうまみはあります。つまり、異なる階級の文化や芸術を楽しむことが出来るようになるわけで、今まで出来なかったことが出来るようになるわけです。
しかし現在は階級社会というのはほとんどありません。自由主義というものが広まって、階層はあるけども階級はありません。この違いは何かと言えば、結局お金を出せば何でも手に入る世の中になった、ということです。
例えば今現在世界征服をしたとして、じゃあ何を望むかと言えば、出来る限り高いものを手に入れよう、というぐらいのものです。しかしそれだってお金さえあれば手に入ってしまうものであって、わざわざ苦労して世界征服をしなくたってどうにかなる類のものです。世の中のものにはありとあらゆるものに値段がついてしまっていて、逆に一部の特権的な人だけに与えられるものというのはほとんどありません。どんなに高価なダイヤだって、お金さえあれば僕だって買えます。この1億円のダイヤは、年収が1兆円以上ある人にしか売りません、なんていうことにはなりません。また映画だって、特権階級の人専用のものが作られることはありません。貧乏人も支配者も同じものを見ます。そんな世の中において、世界征服というものはあまりうまみのないものになってしまったというわけです。
じゃあもし今世界征服をするとすればどういう形になるのか、ということを著者は考察します。それにはまず、悪とは何かという定義が必要です。
悪というのは結局のところ、現在の価値観を否定すること、になるわけです。バブル時代の悪は「お金があるのに儲けない」ことで、バブル後の悪は「お金のことしか考えない」になるわけです。
じゃあ現在の価値観はどう形作られているかと言えば、それは「自由経済」と「ネットの情報」です。つまり、「おのには適正な値段がついている」とか「ネットの情報に頼って考えることをしなくなった」というものです。となれば、これに対するものが悪ということになります。つまり、「高くても敢えてこれを買う」とか「ネットではなく周囲の人間の意見を大事にする」というようになるわけです。これらを目指すことが現在における世界征服になるわけです。なんだかロハス的なボランティア団体のようで、全然悪の組織という感じがしませんが。
アニメなんかでよく出てくる「世界征服」という設定について大真面目に考えてみた作品です。
本作はまあ最近割と話題になっている作品ですけど、なるほどなかなか面白い本だな、と思いました。
初めこそアニメとかの設定を真面目に考えるという感じで、こういうアニメに突っ込みを入れる感じの本なんだろうな、と思っていたら、中盤から後半に掛けて結構真面目な感じの内容になっていきました。
世界征服をするためには組織を作らなくてはいけない、という話からその組織をどう運営していくかというところまで語っていて、これはまさしくビジネスの話だな、と思いました。また、世界征服の構造的な問題を指摘したり、あるいは織田信長やチンギスハンなど歴史上世界征服を成し遂げた(あるいはその寸前までいった)例なんかも挙げていて面白いなと思いました。
個人的には、世界征服をする過程で資金を集めなくてはいけないのだけど、その資金集めがうまく行き過ぎて世界征服なんかどうでもよくなってしまうのではないか、というような辺りがなるほどなぁと思いました。確かに世界征服にはお金が掛かるでしょうけど、そのお金を稼ぐことが出来るならばもうそれでいいんじゃないか、と思ってしまいそうになりますね。何でわざわざ世界征服なんてめんどくさいことをしなくちゃいけないのか、って話になります。
またドラゴンボールに出てくる「レッドリボン軍総帥」の話も、あぁそんな奴もいたなぁとか思って面白かったです。彼は悪の組織を率いて、何でも願いの叶うドラゴンボールを部下に探させるんですけど、その目的はなんと、自分の背を高くすること、だったわけです。部下たちは総帥が世界征服を目指しているものだと思って一生懸命頑張っているのに、その総帥はなんと自分の背を高くするためだけに部下をこきつかっているわけで、そりゃあ部下もやってられないですよね。
まあそんなわけで、真面目な部分と面白い部分が入り混じっている本だな、と思いました。もちろん、全然真剣に読むような本ではないんですけど、暇つぶしにさらりと読むにはなかなかお手ごろな本ではないかと思います。もちろん世界征服なんて荒唐無稽なわけですけど、でも北朝鮮みたいな例もあるわけでなんとも言えませんね。というわけで、読み方によってはいろいろ考えられる本でもあると思います。興味のある人は読んでみてください。

岡田斗司夫「「世界征服」は可能か?」



夜明けの街で(東野圭吾)

そもそも僕は、結婚というものに対してあまりいい印象がないのだ。積極的にしたいと思えるものではない。一生しないかといわれればそんなことはないと答えるしかないが、しかししない可能性の方が高いだろう。まあそもそも出来ないとは思うけど。
僕が嫌だなと感じるのは、結婚というのがあまりにも巨大なイベントであるという認識である。僕はこれが、ありとあらゆる人間の人生を縛っているのではないかと思うのだ。
例えば一例を挙げよう。周りの人間も皆そうだけど、ほとんどの人は大人になるとサラリーマンになる。もちろん、資格を取って自立するような人もいるだろうし、あるいは起業するような人もいるかもしれないが、まあ何にせよ、社会的に安定した基盤を築こうとするのだ。
まあ確かに当然かもしれない。社会人として生きていくのは何らかの仕事をしていることが当然だとは思うし、自立して生活をしていくにも仕事をすることが必要だろう。しかし、ここからは僕の想像だが、皆がサラリーマンになるのには結婚という要素も大きく関わっているのだろうと思うのだ。
つまり皆、結婚するために、あるいは結婚するという可能性を消さないためにサラリーマンになるのではないか、という風に考えてしまうのだ。結婚するためにはどうしたって経済的に安定していることが必要だし、技術も資格も才能もない自分は経済的に安定するにはとりあえずサラリーマンになるしかないだろう。そんな発想がないとは言えないだろうし、というか間違いなくあるだろうと思うのだ。そのために皆、やりたくもない仕事をし、下げたくもない頭を下げ、飲みたくもない酒を飲むのだ。結婚するために、である。
おかしなものだ、と思うのだ。僕は別にそういうことを嫌ってフリーターをやっているわけではないけど、しかし結婚の可能性を減らさないようにサラリーマンになる、というような発想は絶対に嫌だなと思うのだ。何かが間違っていると思うのだ。まず自分の生きたいように生きて、もしその生活と寄り添える人がいればその人と結婚をすればいいのに、人々はまず結婚をするということが頭にあってそれに向けて人生を設計しているように思えてしまうのだ。
確かに昔から結婚というのは一大イベントだっただろうとは思うのだ。しかし時代は大分変わったのだ。以前であれば、結婚しないということはそれだけで人間としての評価が下げられるようなものだったし、そもそも結婚をしないという選択肢がなかったのだとは思う。しかし今は、結婚しなくたってそこまで評価が下がるわけでもないし(まあ女性はまた違うかもしれないけど、男はそうでもないだろう)、結婚をしないで生きていくという選択肢だって十分に確立されていると思うのだ。
しかしそれでも人々は、とにかく結婚することを考えている。結婚することを一つのゴールと考えているように思う。僕にはそれがどうしても不思議で仕方がない。
結婚をゴールにしたってどうにもならないだろう、と思うのだ。結婚というのは一つの通過点でしかないわけで、それは高校に入学するとか、会社に就職するとかそういうようなことでしかない。それぞれのことはもちろん大事だが、しかしそこから新しく何かが始まるのだ。
しかし結婚の場合、そういう発想は二の次三の次にされる。結婚してから始まる新しい生活についてはとりあえずおいておいて、まず結婚するということを優先にするのだ。結婚のどこにそんな魅力があるのか僕にはさっぱり理解できないわけで、ちょっとおかしいなぁ、と思ったりする。
僕の理想としてはこんな感じがいい。付き合っている女性がいるとして、まあ別段普通の付き合いをしているわけだ。お互いに、結婚がどうとかそういう話をすることもなく、お互いに相手の収入がどうとか料理の腕がどうとかそういうことを特に考えもしない。で、何でもない時、まあ例えばテレビでも見ているような時に突然僕が、「結婚でもしてみる?」とか言って、相手の方も「ああいいねぇ、しようか」みたいなそんな感じで、で特に何も変わることなくとりあえず婚姻届だけだして、またそれまでと特に変わらない生活をする。こんな感じだったらいいなぁ、と思うのだけど、まあそうなることはまずないだろうな、と思う。
さてそれで浮気の話である。僕は思うのだけど、結婚をあまりに巨大なイベントにしすぎるから浮気が起こるのだと思うのだ。
つまりこういうことである。結婚を一大イベントだと考えて結婚したある夫婦は、まあ新婚の時はいいとしても、次第に生活が色褪せてくる。結婚をした時が二人のピークで、後は下がっていくだけの生活だ。それに、結婚する前はお互いに、相手を振り向かせようとして一生懸命努力をしてきた。つまりお互いのいいところだけを見てきたのだ。しかし結婚をすると、安心感からそんな努力も放棄するようになる。悪い点もどんどん見えてくる。
そうなると、何か刺激を求めたくもなるし、つまらない日常から脱却したくもなる。そうなると、誰か別の異性との交際が楽しくなったりする…。
みたいなことではなかろうか。浮気はすべて、結婚というものに浮かれすぎた夫婦の元に起こるのではないか、と暴論を唱えてみることにする。
僕が上で書いた理想のような結婚であればそんなことはないような気がする。そもそも結婚というのは一つの通過点でただの区切りでしかないわけで、結婚する前と後で特別何かが変わるというわけではない。今までだってそういう生活を続けてきたわけで、だから何も変わらない。結婚というのはただ婚姻届を出した日ということなだけで、イベントでもなんでもない。そんな夫婦なら、そもそも浮気という発想にもなりにくいのではないかと思う。
結婚するのが嫌な理由をもう一つ思い出したけど、そうそうついさっき書いたことだけど、結婚をするとお互いに努力をしなくなるということだ。つまり、結婚をした瞬間から相手の悪い面も見なくてはいけない、というのが嫌なのだ。もちろん人間にだっていろいろ嫌なところはあるわけでそれを見たくないと言っているわけではない。そうではなくて、結婚という区切りを境にそれを見なくてはならないのが嫌なのだ。どうせなら、付き合っている頃から悪いところは出していかなくてはいけないと思う。それで相手に嫌われたって、それは仕方ないだろう。お互いに合わなかったというだけの話で、結婚前にそれが分かってよかったということにもなる。
しかし実際はそういうことにはならなくて、お互いにいい面ばかりを相手に見せようとする。だからこそ結婚してからの変化も急激なものに感じられるわけで、悪循環であると思うのだ。
もう少し時代が進んで、結婚というのがイベントでも何でもないという時代にならないだろうか。それこそ、ピザでも頼むかのように結婚出来るような世の中であれば楽なんじゃないかと思うんだけど。
うーむ、浮気の話を書こうと思ったんだけど、全体的に結婚の話になってしまった。僕はまあ個人的には浮気はいいと思っているんだけど、この「いい」というのは相手がしてもいいということでもあって、まあなんというかそんな感じ。まあしょうがないんじゃないかな。好きになっちゃったら、そらしょうがないでしょ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
僕はそれまで、浮気をする奴なんかアホだと思ってきた。妻も子供もいるのに女性と付き合って家庭を壊すなんて愚の骨頂だと。
だからそんな自分がまさか浮気をすることになるとは思わなかった。
会社に秋葉という派遣社員がやってきた。31歳。歓迎会では、結婚しない相手とは付き合いたくはないし、彼氏が浮気をしたら殺すとも言っていた。僕は最初は別に彼女になんの興味も持っていなかった。
きっかけは、バッティングセンターで偶然会ったことだ。僕は大学の友人と飲んでいたのだけど、流れで彼女も入れてカラオケに行くことになった。そこで彼女は酒をたくさん飲んで酔っ払い、僕が送る羽目に。だからってどうにかなったわけではなくて、彼女は僕の背中でゲロを吐いてぐらいだ。
翌日。彼女の方から待ち合わせのメールがあった。汚れたスーツを返してくれるのだろうと思ったのだけど、彼女はそれをお金で返すという。それに彼女は謝っていない。それを指摘すると、じゃあとりあえず明日また、という話に。何だかおかしなことになったなぁ、と思いはするものの、久々に若い女性とのやりとりで楽しいというのもある。
そんなきっかけで彼女と親しい仲になっていった。友人の助けもあって、クリスマスイブを一緒に過ごしたりもした。僕の心も次第に彼女の方へと傾き、彼女と一緒になりたいと思うまでになっていった。
しかしある時、彼女から思いもかけない話を聞かされる。かつて実家で殺人事件があったというのだ。その時はそれだけの話だったが、しかしその後いろんな人からの話を聞くに、どうも秋葉がその殺人事件の重要参考人と目されているらしいということが分かってくる。
彼女とは一緒になりたい。しかし彼女は本当に殺人犯ではないのか…。僕の心は大きく揺れ動いていた…。
というような話です。
さてこの作品ですが、僕がちらほた聞いていた前評判はどれもあまり芳しくないものでした。で読んでみての感想ですが、確かにこの作品は、東野圭吾の作品としてはちょっと劣るなぁ、というものでした。
後半ミステリ展開になるのだけど、しかしあくまでも全体的には不倫の話が中心で、それがあんまり面白くない感じです。妻側の視点がない、というのも一つの理由かもしれないな、と思ったりもしました。基本的に主人公と不倫相手の視点ばかりで、妻がどう思っているのかという描写がなかったので、ただ主人公と秋葉が普通に付き合っているような感覚であまり緊迫感がなかったような気がしました。
また後半に出てくるミステリ的な展開というのもそこまで大した話ではなく、そこまでびっくりという感じではありませんでした。
割といいなと思ったのは、主人公と秋葉が不倫関係に陥っていく初めの過程で、なるほどこんなやりとりがあれば僕も引き込まれてしまうかもしれないなぁ、と思いました。なかなか自然な流れではないかな、と思いました。
というわけで今回はあまり東野圭吾らしさを感じることの出来ない作品でした。まあ毎回傑作を書けるというわけでもないでしょうからね。これは仕方ないとは思いますが。次回に期待をしましょう。

東野圭吾「夜明けの街で」



ゾラ・一撃・さようなら(森博嗣)

例えば今僕の目の前に100億円があったら、そしてその100億円が自分のものになるとしたら、僕はどう感じるか。
僕はきっと何も感じないだろう。使い切れないだろうな、とは思うかもしれないが、何に使おうか、とウキウキするようなことはない。もしかしたら、あぁ、面倒なことになるな、と思うかもしれない。100億円なんて持ってたら誰かに命を狙われたりするだろうな、みたいな。
周りの人間はとにかくお金が欲しいみたいなことを言う。僕にはあんまりその感覚が理解できなかったりする。100万円くらいなら現実的なお金だ。1000万くらいでもまだ認識できるかもしれない。でももう億を超えたらダメだろう。ダメな気がする。
みんな、お金を手に入れたら何をするつもりなのだろう。きっとやりたいことがたくさんあるのだろうな、と思うのだけど、やりたいことなんか世の中にそんなに一杯あるだろうか、と疑問だ。少なくとも、僕にはない。お金を掛けてしたいことはほとんどない。
僕にとってお金というのは、生活を保障するものでしかない。つまり、生活を困らないようにするためだけのもので、お金を使って何かしたい、というようなことはない。
だから僕は、お金持ちになりたいと思ったことは一度もないのだ。豪邸もポルシェも美女も、別にどうでもいい。というか、金持ちになったらめんどくさいことばかりだろうと想像される。お金を守らなくてはいけないし、いろんな人との付き合いもあるだろう。お金を持っている、ということを周囲にアピールする生活をしなくてはいけないし、税金がどうのだとか、ああ想像するだけでめんどくさい。
たとえば今僕が宝くじの一等3億円が当たったとしよう。僕なら、仕事を辞めてどっか適当なところに隠居して本を読んで適当に暮らしていくだろう。他の人ならどうするだろう。とりあえずしばらく豪遊して遊んで暮らすのだろうか。分からないが、恐らく僕は大分人とは違うのだろう。
お金に執着がないというのもまたダメだろうと思う。とにかくホントにお金に執着がなくて、例えば人にお金を貸したりとかすると、まあ返ってこなくてもいいか、とか思うのだ。というかそもそも貸したことを忘れてしまうので、返してくれと言ったこともない。
一度こんなことがあったのだけど、友人が借りた金を返すよと言って俺にお金を返してきた。でも僕の記憶では、そのお金が返ってきていたはずだったので、俺もう返してもらったよ、と言ったのだ。その時は、恐らく金に執着のない俺の記憶が間違っているだろう、という話になって金を受け取ったのだけど、それくらいどうでもいいのである。
まあその内、というか将来絶対、僕はお金に困ることになるだろう。そもそも年金も払ってないし。けど、まあそれは仕方ないし、まあどうでもいいし、どうしようもないことだろう。まあ何にしても、間違っても僕が金持ちになることはないから大丈夫だろう。何が大丈夫かって、まあよくわからないのだけど。
そろそろ内容に入ろうと思います。
探偵である頚城の元に、ある依頼が舞い込んで来た。志木真知子という超絶的な美人が依頼人であり、彼女の依頼は、ある美術品を取り戻して欲しい、というものだった。
法輪清次郎というタレントにして元都知事が、ゾラという殺し屋に狙われているという噂がある。依頼人が取り戻して欲しいと願っている天使の演習という美術品は、その法輪が所有しているという話だった。法輪がゾラに殺されてしまう前に是非取り戻して欲しいのだ、という。とりあえず頚城は、出来るかどうか検討してみる、と告げた。
頚城は考えた末、法輪の本を出したいのだという口実を設け法輪に近づくことにした。法輪の自宅にも行くことができ、またとあるきっかけから法輪の自宅に滞在できることになった。
一方頚城は、依頼人である志木の魅力にやられていた。会う度に惹かれていく自分に気づく。罠かもしれないと自覚はしているものの、しかしその誘惑に勝てはしなかった。
ゾラは本当に法輪を暗殺するのか。また、天使の演習は手にすることは出来るのか…。
というような話です。
本作は森博嗣の最新刊ですが、うーむ今回はちょっと微妙だな、という感じがしました。なんというか、まあ普通の小説かな、という感じでした。なんというか、あんまり書くこともないなぁ、というか。
志木真知子という女性はなかなかに魅力的だなと思いました。確かにこんな女性がいたらメロメロになりそうだな、という感じがしました。
というか頚城という男はなかなかモテる男のようで、なんかフィリップ・マーロウみたいな探偵ですけど(いや、正直よく知らないで書いてますけど)、赤座という女性とか水谷という女性とか、頚城の周りにはいつも女性の姿があって羨ましいなぁ、と思いました。
事件自体はまあなんとなく予想通りという感じで、まあ一瞬驚きの展開になりかけましたけど、最終的には予想通りになりました。
これは、まあシリーズになったりはしないでしょうねぇ。まさか、ゾラという暗殺者が活躍するシリーズが出来たりして。
まあそんなわけで、あんまりオススメは出来ません。まああんまり読まなくてもいいかなぁ、という感じではありますが、どうでしょうか。

森博嗣「ゾラ・一撃・さようなら」



映画篇(金城一紀)

レンズを通して世界を見ると、何か少し違った感じに見えてくるものだ。と言っても残念ながら映画の話ではないのだけど。僕はまあ映画をほとんど観ないので、映画の話は出来そうにない。僕が言っているのは、写真の話である。
僕は人生のある時期、何故かものすごくカメラに嵌まったことがある。高校に入学する直前に、恐らく入学祝いだったのだろう、親に一眼レフのカメラを買ってもらった。今ほどデジカメが一般的ではなかった時だったとは言え、何故自分が一眼レフのカメラを欲しがったのか、全然覚えていないのだけど。
それから僕は、とにかくいろんなものを写真に撮りまくった。
別に、レンズやピントやシャッターの開放時間なんかについて勉強をしたわけではないし、構図や露光なんかに気を配ったということもない。同じ時期、デアゴスティーニ系の、「週刊写真のなんとか」みたいな雑誌が出ていてそれを毎週買ったりしていたのだけど、別に内容をきちんと読んで勉強していたというほどでもなくて、そこに載っている写真を眺めたり、あるいはカメラや写真家の歴史についての文章を読んだりしていただけだった。だから本当に、ただ何も考えることなくシャッターを切っていただけ、というのが正しい。
初めのうちはモノを撮っていた。近くの草木だとか、川だとか山だとか、自動車とか街並みとか、とりあえずそういうものばかりを撮っていた。雨の降っている夜にカメラを抱えて外に出たこともあるし、病院の敷地に忍び込んで、一時期話題になった流星群を写真に撮ろうとしたこともあった。
モノを撮るのは、撮るということだけを考えれば簡単だ。相手に許可を取る必要もないし、相手との関係性を考える必要もない。とりあえずカメラを向けて写真を撮ればいいだけだ。基本的に人見知りで、高校に入ってからもしばらくはなかなか人と打ち解けることの出来なかった人間としては、モノを撮るというのは必然的だっただろうな、と思う。
しかし次第に僕は、ヒトを撮るようになっていった。
初めのうちは、友達を作るためというのが主な目的だったように思う。何かイベントがあると僕はカメラを持っていき写真を撮るようになっていった。その過程で、アイツはどうもいつも写真を撮ってる変なやつだということになっていって、まあそんな流れで友達が出来ていったような気がする。
僕はずっと、ヒトをモノのように撮っていた。つまり、撮る相手に許可を取ることもなく、撮る相手との関係性も考えずに、モノを撮るようにしてヒトの写真を撮っていた。まあ身も蓋もない言い方をすれば隠し撮りということになるのだけど、しかし何故か知らないけど僕のその行為は友人たちの間では受け入られたようだ。嫌がっている人も中にはいたかもしれないけど、基本的に僕は誰彼構わず勝手に写真を撮っていたし、それで文句を言われたことは一度もなかった。
ちょっと話はずれるが、僕はどうしてもカメラ目線の写真というのが好きになれないのだ。まあ撮られる分にはまあいいかと思うのだけど、自分が撮る分にはどうも嫌だなと思えてしまう。つまりそれは、カメラの存在を意識した被写体ということであって、その人そのものではない、という風に僕には思えるのだろう。僕は、もちろんその人の本当の姿などというのは写真なんかでは写し取れないのかもしれないけど、でも出来るだけ自然な姿を捉えたいと思っていたのだ。
そうやって、ヒトをモノのようにして撮っていると、段々と不思議な気持ちになっていくのだ。それはなんと説明すればいいだろうか。あたかも、カメラを構えている自分の存在が世界の中から消えてしまっているようなそんな感覚なのである。
時折小説では、死んだ人間が語り部になっているものがある。僕が感じていたのはそれに近い感覚かもしれない。カメラを構えることで、僕はその場にいない存在になれる。誰も僕のカメラの方を振り向きはしないし、僕の存在も意識することはない。少なくとも僕にはそう感じることが出来た。この感覚は、カメラなしではなかなか得ることは出来ないだろう。昔テレビ番組で耳にしたような記憶があるが、一流のカメラマンというのは、カメラさえ構えていれば戦場だろうが恐怖がなくなるのだという。そういうものに近い感覚だったりするのかもしれない。
またカメラを構えることで、僕自身の存在が世界から消えてしまうと同時に、僕がカメラを通して見ている世界も何か違っていくように思えた。カメラを外せばまったく同じ光景が目に入ってくるはずなのに、カメラを構えた時に見ることの出来る世界は、そうでない現実とはほんの僅か違っているような気がしたのだ。
それも恐らく、自分の存在が消されていることと関係があるのかもしれない。つまり、カメラを持っていない場合僕の存在は世界の中にあるけれども、カメラを構えた場合僕自身の存在は世界から消える。つまり、僕の不在によって世界がほんの少し違った見え方をしていたのかもしれない。幽体離脱をした時のように(したことはないのだけど)、いつもとはほんの少し違ったところから世界を見ていたということになるのかもしれない。
そうして僕は高校時代山ほど写真を撮った。その中には僕が気に入っている写真もそれなりにあった。でもまあ手元には残っていないのだけど。何故なら、高校三年の文化祭で、あるものを作るのに写真が必要だから、どんな写真でもいいから写真を提供して欲しい、というような呼びかけがあったのだ。そうなれば、恐らく校内で一番写真を撮っていただろう僕が出さないわけにはいかないだろう。どうしたのか正確には覚えていないが、たぶん持っていた写真のほとんどを提出したのではなかっただろうか。フィルムはまだどこかに残っているはずだから、まあ現像しようと思えばいくらでも出来るのだろうけど。
大学に入ってからもしばらく写真は撮りつづけていたのだけど、しばらくして僕の写真熱は冷めてしまった。以後ほとんどカメラを手にしたことはない。今ではそのカメラは友人に貸してしまって手元にはない。
ただあの、世界から自分が消えてしまう感覚というのはまた味わってみたいものだな、と思う。今年の初めにエジプトに行ったのだけど、その時インスタントカメラを持っていった。しかし撮ったのはほとんどモノばかりだった。あるいはカメラ目線のピース写真だ。だから、自分が世界から消える感覚というのは味わえていない。
カメラが発明されてからどれぐらい経つのか知らないが、しかし人間は不思議なものを生み出したものだ。写真というのは真実を写し出すと書く。もちろん写真に写っているものは真実だ。しかしそれを撮った者までが真実であるかどうかは分からない。常に写真には、それを撮った者の姿が写ることはない。撮影者は常に、真実という世界とは違った世界の中に惹き込まれているのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は5編の短編の収録された作品になっています。それぞれの内容を紹介します。

「太陽がいっぱい」
僕のデビュー小説が映画化されることが決まった。編集者とその撮影現場に見学に出かけた帰り、僕は一人の女性に呼び止められる。それは永花で、僕たちは中学の頃のただの同級生に過ぎなかったが、しかし二人の出会いは要するに、ある一人の男の存在を強く意識させずにはいられなかった。
僕と龍一は同い年で、いわゆる在日朝鮮人の通う民族学校に通っていた。僕たちはそれまで全然親しくはなかったのだけど、「大脱走」という映画をきっかけにして親しくなり、以後一緒に映画を見るような仲になった。龍一はクラスにもたくさん友達がいたようだが、僕には友達と呼べるのは龍一ぐらいしかいなかった。
日本の高校に進学した僕と、持ち上がりで民族学校の高校に進学した龍一の人生は、その後なかなか交わることはなかった。会う機会がないでもなかったが、しかしかつてほどの親しみは二人の間には消えてしまっていた。今ならSOSだったんだろうなと思う龍一からの連絡にも、つれない返事をした。
あることをきっかけに小説を書き始めた僕は、龍一とかつて語り合った物語で作家デビューをし、そうして永花に再会した。そうして僕は、龍一を救おう、と決意するのだった…。

「ドラゴン怒りの鉄拳」
わたしは五ヶ月に渡ってもう外の世界には出ていなかった。連れ合いを亡くしてからだ。必要なものはネットで注文し、ひたすら家に籠って生活を続けた。
連れ合いは自殺だった。自殺の原因が分からなかったわたしは戸惑ったが、そのうちに事実が明るみになっていった。連れ合いは製薬会社に務めていたのだが、その製薬会社が副作用が発生することを知っていながら新薬を販売していたこと、そしてその秘密を知っていた連れ合いは自殺を強要されたのではないか、ということだった。その会社の不正を暴く証拠がまだ見つかっていないらしく、連れ合いが隠し持っているのではないかと報道され、一時期は家の周囲が騒がしくなった。
わたしが家を出るきっかけにしたのは、久々に電話のコードを繋いですぐ掛かって来たレンタルビデオ屋からの電話だった。未返却のビデオがあるのだと電話口で言われ、借りた記憶のないわたしは、恐らく連れ合いが借りたのだろうと思ってそのビデオを探し出した。そしてそれを返すために家を出ることにしたのだ。
レンタルビデオ屋の店員はいい人だった。多額の延長料金を払わせてしまったせめてもの償いなのか、店員は自分がオススメだというビデオをタダで貸してくれるようになった。わたしはそれを見、返しに行く度に感想を伝えるという習慣になった。そしてある時お茶でもしないかと誘われるようになり…。

「恋のためらい/フランキーとジョニーもしくはトゥルーロマンス」
石岡はほとんど学校に来ない。来ても授業中に寝ていたり本を読んでたりといった具合だ。隣の席になって三ヶ月だが、だからそれが初めての会話になった。
「ねぇ、一番好きな映画ってなんなの?」
僕もクラスでは浮いた存在で、だからなのかもしれないが石岡とも気があった。ある日、区民会館で「ローマの休日」を一緒に見た。その日は石岡の誕生日だったらしい。自分が誘われたことが少し嬉しかった。
それから石岡は、ある計画の話をした。弁護士をしている父親が保釈金を現金で持ち出すチャンスがある。それを奪い取ってやろう、という計画だった。誰にも言うんじゃないぞ、と口止めされたけど、もちろんそんなつもりはなかった。何故なら、僕もその計画に参加する気だったからだ。
石岡の杜撰な計画を補うべく、僕も計画に加わった。そうして僕らは大金を奪い取って逃げた…。

「ペイルライダー」
両親が離婚するかもしれない、ということに感づいてしまったユウは、やる気のない友人と共同研究を始めてしまったためにその尻拭いをしなくてはならず、レンタルビデオ屋で映画を借りた。その帰り、父親がヤクザだという同級生に絡まれてしまった。困っていると、真っ黒なバイクにのった人が現れ、それを見てビビった相手は退散していった。
バイクに乗っていたのは予想に反して小柄で、しかもおばさんだった。ニカっと笑って少年の緊張をほぐしたおばさんは、ユウをバイクに乗せることにした。ユウはそのスピードに感動し、はしゃいだ。帰りに区民会館でやっていた「ローマの休日」を見たりした。
おばさんと別れるその時、ユウは溜め込んでいたものをすべて吐き出すように泣いた。泣いて泣いて泣き続けた。おばさんは強く抱き締めてくれた。ユウはそれで元気をもらうことができた。
その夜、ある一人の受験生は自宅の前で繰り広げられたバトルを見ることになる。黒塗りのベンツに乗ったヤクザの集団と、真っ黒なバイクに乗った人の壮絶なバトルを…。

「愛の泉」
おじいちゃんを亡くしたおばあちゃんは目に見えて元気がなくなってしまった。おばあちゃんの孫に当たる僕たちは、なんとかおばあちゃんを元気付けてあげようと知恵を絞り、葬儀の時におばあちゃんがポロっと口にした、初デートでおじいちゃんと見た映画を映画館で上映してあげよう、ということに決まった。ローマのなんとかだった、というから「ローマの休日」だろう。もちろん、プロデューサー役はいつものように僕だ。
しかし、問題は山積だ。フィルムを手に入れることが出来るのか、会場を抑えることは出来るか、日時はどうする、そしてお金はどうする…。
僕はそれでも、様々な人間の力を借りながら、どうにか計画を進めていった。その中で、ある一人の女性に恋をしたり、従姉妹の背中を押したりとまあいろいろ大変だったわけだけど、どうにかこうにか上映会にこぎつけることが出来た。8/31、区民会館で「ローマの休日」を上映するのだ…。

というような話です。
金城一紀は、作品数はそこそこありますが割りと寡作な作家なので、ファンは常に新刊を待ちわびています。本作も久々に出た金城一紀の新刊ということで話題になっています。
で本作ですが、なかなかいい作品だと思いました。これまでの金城一紀の作品にはない上品さみたいなものが漂っていて、またこれはこれで違う一面だな、という感じです。
僕としては、とにかく最後の二つが気に入りました。
「ペイルライダー」はかなりカッコよかったです。少年を助けバイクに乗せてあげる前半と、ヤクザと戦う後半のギャップがものすごいものがありますが、しかし一人の女性をここまでに駆り立ててしまったのだからまあそれは仕方ないことだな、という風に思ったりしました。なかなかヒーローとしては描かれないおばさんが主人公だったというのもなかなかポイントだな、と思いました。
そして何よりも「愛の泉」です。
僕は金城一紀の作品は、こう誰かのために何かの計画を立ててそれを実行する若者を描いた作品というのが好きです。まあ分かると思いますけど、これはつまり<ゾンビーズ>シリーズのことなんですけど、この最後の「愛の泉」もまさに<ゾンビーズ>シリーズと言った感じで最高に面白かったです。本作ではすべての話で、区民館で上映される「ローマの休日」の話が出てきますが、最後にその上映を計画している人々の話が来るというのはうまい構成だなと思いました。
またこの上映を計画している若者たちがまた面白いわけです。引きこもりだった少年だとか、物静かで人形みたいな少女とか、とにかくすべてがパーフェクトで女帝みたいな女とか、とにかくアホ過ぎて愛らしい少年とか、とにかくそんな変わった連中ばかりが集まっていて、しかもそこに恋愛の話も絡んだりしていて、<ゾンビーズ>シリーズの縮図みたいな印象でした。いやはや、ホント面白かったです。
あと、すべての話に「ローマの休日」が出てくるといいましたけど、もう一つ、製薬会社の事件の話もほぼすべての話に出てきます。よくある手ですが、こうやって短編を繋いでいくのはうまいなと思いました。
一番初めの「太陽がいっぱい」はちょっと難しいなぁ、と思ったんですけど、「ドラゴン」は分かりやすい恋愛の話で結構よかったし、「恋のためらい」も変な話で結構好きでした。全体的になかなかいい作品だなと思いました。
さて金城一紀には是非是非<ゾンビーズ>シリーズの新刊を書いて欲しいものですけど、こちらもなかなかいい作品だと思います。上品な作品で、新しい一面だと思います。本作では映画の話がたくさん出てくるわけで、もちろんそれらの映画を見ていたりしたほうがより作品を理解できるんでしょうけど、映画とかほとんど見たことのない僕でも充分楽しめる作品でした。読んでみてください。

金城一紀「映画篇」



永遠の0(百田尚樹)

特別死にたいわけではない。しかし死にたくないわけでもない。
こんなことを書くと、戦争から必死で生き延びて来た人に、そして今という現実を必死で生きている人に怒られてしまうかもしれない。
しかし僕は、どうも生きていることに激しい執着を持つことが出来ない。どうしても生きたい、という風になかなか思うことが出来ない。
死のうと思ったことはあるし、でも死ねなかった自分がいるわけで、結局生きていたいんじゃないかと言われてもまあ仕方ないことなのだけども、それが、積極的に死にたいわけでもないけど死にたくないわけでもないという微妙なところに繋がるわけだ。
ただ僕が嫌なのは、死に方というのは自分で選ぶことが出来ない、ということだ。
積極的に死のうということであれば、いくらでも死に方を選ぶことは出来る。ビルから飛び降りてもいいし電車に轢かれてもいい。睡眠薬を飲んでもいいし首を吊ってもいい。自殺という死に方を選択するのであれば、死に方はまあいくらでも選ぶことが出来るだろう。
しかし、自殺以外の死に方となると、あとはもはや運である。交通事故で死ぬかもしれないし癌になるかもしれない。脳卒中で死ぬかもしれないし、誰かに殺されるかもしれない。自分がどんな死に方をするのかまるで分からないのだ。僕は、死ぬことそのものよりも、その死に方を選ぶことが出来ないという事実の方が嫌だな、と思うのだ。
もちろんこんなことを、戦争経験者の方が聞いたら憤慨することだろう。俺たちは、死に方を選べないどころか、死ぬことを強要されたのだ、と。
僕は戦争のことは何も知らない。とにかく歴史の授業が大嫌いだったので、学校でも地理だとか政経といったような授業ばっかりやっていた。だから、太平洋戦争がどんな経緯で起こりどんな流れを経ていったのか、どんな軍人が中心となっていたのか、日本という国がどういう状況にあったのか、そういうことは僕にはさっぱりわからない。
ただ、戦争が馬鹿馬鹿しいものだ、ということだけは分かる。というか、日本のかつての軍部がアホだったということだけは分かる。
詳しいことは知らないが、軍部の上層部は自分たちは戦場に行くわけではないから無茶な作戦を立てる。その無茶な作戦を下の人間に強要する。明らかにおかしな作戦なのだが、上の人間の言うことには逆らえない。もちろん作戦は失敗し、その責任は何故か下の人間が取らされる。一方で、自分たちが戦場に出なくてはいけないような場面になると、進むべき状況で退却をしたりする。もちろん僕のこういう知識は、ノンフィクションなどではなくほぼ小説から得た知識なので間違っている部分もたくさんあるかもしれないが、とにかく戦時中の軍部がアホだったからこそたくさんの人が死んだということだけは間違いないだろうと思う。
特攻というのもその愚策の一つだろう。
碌に飛行訓練もしていない若者をとりあえず飛行機に乗せて、レーダーや機銃の嵐の中アメリカ軍の空母に向かって突っ込む、なんていうのは人間が考える作戦ではない。少なくとも、それをやるのが同じ人間であるということをきちんと理解してさえいればこんな作戦は成立しなかっただろう。上層部がみな、兵隊は駒のようなものだと思っていたということだろう。酷いものである。
特攻を命令された人たちは、死に方を強要されることになった。死に方を選べない、などと嘆く暇もなく、お前はこうやって死ね、と同じ人間に決められてしまったのだ。これほど哀しいことはないだろう。いくら何かのためだと思うように努力をしても、しかしそれと自分の命が釣り合うと考えるのは難しい。しかも、自分の死が直接的に誰かを守ることに繋がると考えることも難しいだろう。しかし当時の若者たちは、様々な葛藤を振り切って、死ぬためだけに飛行機に乗って散っていったのだ。
もし彼らとまったく同じ状況に、現代に生きる若者がいたらどうなるだろうか、と考えてみる。これは、荻原浩の「僕たちの戦争」の設定とほとんど同じだけども、どうだろうか。
つまり、今の自分が突然戦時中に放り込まれたとして、特攻を志願するかどうかの紙を渡されたら、どうするだろうか。
当時の若者たちは、大勢の人間が犠牲になっているのだから自分も、という気持ちも多少はあったかもしれない。でもそれよりも、「志願しない」と言ったらどんな目に合わされるか分からない、という恐怖の方が大きかったのではないだろうか。そういえば、特攻と回天という違いはあるけど、横山秀夫の「出口のない海」にも似たようなシーンがあった。回天に志願するかどうか、と問われた時の葛藤の場面である。
自分はどうだろうか、と考える。もちろん、戦争についてほとんど何も知らないのだから考えるも何もないのだが、しかしそれでも出来るだけ想像してみると、やはり僕も「志願する」に丸をしてしまうような気がする。それはもちろん、国のためとかそんな理由ではなく、周りも恐らく皆志願するだろうし、自分だけ外れるわけにはいかない、という心理からだろう。
ただ僕に出来そうにないな、と思うことがある。実際特攻に出た若い隊員は、戦闘機に乗り込む際清々しい笑顔だった、というような記述がある。もちろん全員が全員そうではないだろうが、割と多くの人間がそんな心境に達していたらしい。それは、残された人間を不安にさせないように、という心理からだそうだが、僕には出来そうにない。これから必ず死ぬという作戦に飛び立つ直前に、笑顔など作っている余裕はないような気がする。
恐らく今後その機会はないとは思うが、僕は特攻では死にたくないと思う。人生において、死に方を選べないことも、人は必ず死ぬということも嫌なことではあるのだけど、しかし何よりも、人に勝手に死に方を決められるということが嫌である。
戦争は二度と起こって欲しくはないが、しかしそれはなかなか難しいかもしれない。ただ願うのは、戦時下においても、人の命は人の命として尊重されてほしいものだ、ということです。
そろそろ内容に入ろうと思います。
司法浪人生である佐伯健太郎は、フリージャーナリストを目指している姉・慶子に頼まれ、自分の祖父について調べることになった。
祖父と言っても現在の祖父ではない。祖母は現在の祖父と再婚したが、その前に、宮部久蔵という男と結婚していた。健太郎も慶子も、直接はその宮部の血を引いている。その宮部について調べて欲しい、というのが姉の頼みだった。
宮部については、特攻で死んだ、ということしか聞かされていなかった。意識的なのかどうなのか、祖父も死んだ祖母も、宮部については何も口には出さなかった。とにかく、当時の宮部のことを知っている人を探し出しては話を聞くということを繰り返すことになった。
宮部は臆病だった。
そう聞かされた時は確かにショックだった。宮部は、戦闘に積極的に参加せず、出来るだけ被害を被らないようにしながら、とにかく生き続けることを切望した軍人だった。
「生きて帰りたい」
軍人としてはあるまじき発言を耳にしたものもいる。とにかくどんな状況下でも生き続けることを第一に貫き続けた男だった。
健太郎は様々な人間に話を聞いた。その過程で驚くべき真実を知ることになる…。
という話です。
本作は、世間的に割と評判になっているようで、児玉清も絶賛していることだし、まあ読んでみようかなと思いました。
なかなかいい作品だと思いました。
僕は戦争について書かれた本(小説かノンフィクションかに関わらず)をあんまり読んだことがないのでそういうものと比較することは出来ないですけど、でも「生きて帰りたい」と口に出すような軍人について、様々な人間の記憶を頼りに再構成していくという構成はなかなか面白いと思いました。普通戦争モノだと、こういう感動的な話があったとか、こういうすごい人がいたという話がメインになると思うんだけど、本作の場合、臆病とまで言われたしかし凄腕の戦闘機乗りの話で、なかなか面白いと思いました。
実際いろんな人の話を聞いているうちに、宮部の印象は二転三転していきます。宮部について語る人と宮部との関係の違いによってその話が変わるからですが、宮部を軽蔑しているものもいれば、宮部を恩人だと思っているものもいて、なるほど一人の人間についてこうやっていろんな方向から構成していくというのは面白いものだなと思いました。構成自体はちょっと違いますけど、山田宗樹の「嫌われ松子の一生」に近い印象を受けました。
もちろん、戦争について書かれた部分もなかなかいいと思いました。僕は戦争について全然知らないので、本作で書かれているようなこともほぼ初耳なんですけど、零戦がそんなにすごい戦闘機だっていうのも知らなかったし(一時期世界最強だったんですね)、作戦の不備だの最前線の状況だの知らないことがたくさんあって僕としてはなかなかためになりました。っていうか本作を読む限り、軍部の上層部さえちゃんとしてれば、日本は戦争に勝てたんじゃないか、とか思ったりしますね。まあ勝てなかったにしても、被害をもっと少なく出来たのではないかという風にも思うわけで、戦争で最も愚かなのは、実際に戦いもしない上層部なんだなと改めて思いました。
また、宮部は一流の戦闘機乗りだという設定なので、戦争についての話のメインは戦闘機を使う部隊なんですけど、有名な撃墜王だの伝説の操縦法だのいろんな話があって、また戦闘機ということでなんとなく森博嗣の「スカイクロラ」を思い出したりして、面白かったです。
本作中に、高山という新聞記者が出てくるんですけど、その高山は「特攻隊員と9.11のテロリストは似たような精神を持っている」みたいな持論を持っているようでした。僕は、やっぱりそれには賛同できなかったですね。高山の言っていることは違うな、という気がしました。どこがどう、ということは言えないんですけど、なんとなく違和感を感じました。またその流れで、話を聞きに言った元軍人の一人が、あの戦争のきっかけを作ったのは新聞社だと思う、という持論を展開していました。これについてはなんとも判断できませんが、なるほど一理あるのかもしれないな、と思ってしまいました。いつの世も、メディアが人々を煽るものだし、メディアが煽ったからこそ、大した問題ではないことが大事になったりするわけで、そういう意味では新聞社が戦争を引き起こしたというのも間違ってはいないのかもしれないな、と思いました。
最後の最後で突然明かされる真実は、結構びっくりしました。何故あれほど死ぬことを怖れた宮部があんな行動を取ったのか。なかなか言い終わり方だったように思えます。ただこの作品をミステリーというのはどうかと思います。ミステリーというのはあらかじめ伏線がきちんとあってそれが最後に回収されるべきだと思うんですけど、本作は別に伏線があったとかいうものではないのでミステリーというのはちょっと違うような気がします。
僕はなかなかいい作品だと思いました。年配の人が読むともっとよく感じられるかもしれません(児玉清が勧めているから、という理由ですけど)。特攻の話ということでまあ結構重いように感じられるかもしれませんがそこまででもないと思います。読んでみてください。

百田尚樹「永遠の0」




東京バンドワゴン(小路幸也)

さてまあ僕はこれまでいろんなところでずっと言って来たように、どうも家族というものが苦手なのである。どうも馴染めないというかダメで、親とも兄弟ともこれまでしっくり行ったことがあんまりない感じです。
まあそれはとりあえずいいんですけど、僕が結局分からないのは、僕は自分の家族のことが苦手なのか、あるいは家族というものそのものが苦手なのか、ということです。これはさすがにまだ分からないわけです。
僕はもちろんこれまでに一つの家族しか経験していません。偶然その家族が僕に合わなかった、という可能性はあるでしょう。例えばこれから僕が万が一にも結婚するようなことがあって新しい家族を作るようなことになれば、おぉなんだ家族っていいものなんじゃないか、とか思ったりするのかもしれないし、逆にあぁやっぱり僕は家族というそもそもの集まりが苦手なんだなとか思ったり、まあどっちかはまだ分からないのだろうな、と思います。
ただ、これまで経験した家族というのがどうもあんまり好きではないので、新しい家族を経験したい、つまり結婚したいなという風にはあんまり思えないのは事実ですね。まあ恐らく結婚しないだろうなぁ、とも思っていたりするし。
さてちょっと話は変わって、大家族の話をしようと思います。よくテレビでやっているあれです。
僕はあの大家族のテレビ番組なんかを見ていると、もちろんやっぱり家族ってめんどくさいなぁ、と思うのと同時に、あぁいう生活もちょっとは羨ましいなぁ、と思ったりするわけです。
めんどくさいなぁ、と思う部分は、まあ説明する間でもないですけど、人がいつもいっぱいいてうるさいとか、分担しなくちゃいけない仕事がたくさんあるとか、あんまり個人個人の願いが叶わなそうだなとかまあそういったことですね。実際大家族っていうのはホント大変だろうな、と思うわけです。洗濯だの料理だのっていうのももの凄い量になるし、あれだけ子供がたくさんいればトラブルも絶えないでしょう。
一方で羨ましいなぁ、と思える部分は、きっちりとしている点です。
大家族で生活をするというのは、きっちりルールが存在していてそのルールがきっちり守られているということです。もちろん破るやつは出てきますけど、そうするときっちりと怒られるわけです。
僕はそういう風に、何事もきっちりとしているというのが好きなわけです。大きなものがいくつかのシンプルなルールで運行している、というのがいいですね。
だから大家族の子供たちは、下の子の面倒も見るし、買い物にも行くし、洗濯物も畳むわけです。食べ終わった食器は自分で流しに持っていくし、料理の支度を手伝ったりするわけで、そういうことを自然とやるわけです。ルールを守らなかった子供には親がきっちりと叱り、ルールが絶対であるということを示すわけです。当然親もそのルールを守っているわけで、だからこそその背中を見ている子供たちも自然とそのルールを守るようになっていくわけです。
逆に最近増えているだろう一人っ子なんかの場合だと、そのたった一人しかいない子供がルールブックになったりします。子供はワガママを言い放題で、何でも買ってもらったり、なんでも与えられたりするのでしょう。なんか間違っている気がしますが、しかし子供が一人しかいない環境ではそれも仕方ないことなのかもしれないな、とか思ったりします。
家族の温かさとか言ったものは正直僕にはよく分からないのだけど、しかしこの世のどこかに、あるいは未来のどこかに、僕にぴったり合う家族の形があればいいなぁ、と思います。もしそれに出会うことが出来なくても、まあそういうものが存在するのだ、ということだけでも分かると嬉しいかもしれませんね。ちなみに、この「東京バンドワゴン」の家族だったら、いくらでも仲間に入れて欲しいものです。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は四つの短編を収録した短編集になっていますが、まず作品全体の説明をします。
舞台は、下町に古色蒼然と存在するある古本屋一家です。
その古本屋は三代続く伝統ある店で、お店の名前は「東京バンドワゴン」です。昔からこの名前だったので、当時はかなり珍しがられたそうです。
現在の主人は堀田勘一。でこの家族はとにかくやたらたくさんいるわけで、勘一の息子で伝説のロッカーである我南人、我南人の長女で画家でシングルマザーの藍子、藍子の娘で花陽、我南人の長男でフリーライターの紺、紺の妻で元スチュワーデスの亜美、紺と亜美の息子で研人、我南人の愛人の子で旅行添乗員の青、とまあたくさんいます。こういった面々がみな一つ屋根の下で生活をしているわけで、それはそれは騒がしいものです。古本屋の隣では手作りのカフェも併設していて、男は古本屋を、女はカフェをそれぞれ切り盛りする、という感じになっています。
さてこの家族には、二年前に亡くなってしまった、勘一の妻だったサチという女性がいます。この物語の視点は、この天に昇ったサチが務めます。時々運がよければ紺と会話をすることは出来ますが、それ以外には家族に何も出来ない身でありながら、いつも空の上から家族を見守っています。
ではそれぞれの内容を紹介しようと思います。

「春 百科事典は何故消える」
東京バンドワゴンでは奇妙なことがありました。朝、店のものではない百科事典が二冊棚にささっていて、それが夕方になると姿を消すのです。たったそれだけのことで実害もないのでしばらく様子を見ることにしたのですが、次第に状況が分かってきます。しかし、その話が解決したと思ったらまた別の問題が持ち上がり…。

「夏 お嬢さんはなぜ泣くの」
藍子の様子がどうもなんとなくおかしい。どこがというほどでもないのだけど、なんとなく何かに気を取られている、というか…。
プレイボーイである青に嫁入りに来たのだといって、牧原みすずさんという女性の方が押しかけてきました。その日から住み込みで働くことになったんですけど、よく気が付く女性で働き者。しかしどうもみすずさんも青も沈んだ顔をしているような気が…。
その他にも、猫の首輪に文庫本の切れ端がついていたり、あるいはストーカーが現れたり、なんだかバタバタしています。

「秋 犬とネズミとブローチと」
岐阜のある温泉旅館の主人が、大量の古本を処分したいと言ってきました。その鑑定のために紺が出掛けて行くことになったんですけど、しかしこれが一騒動になりまして…。
一方で、老人ホームで嘘の外泊届けを出した女性を巡って、ちょっとした縁から東京バンドワゴンの面々が駆り出されることになりました。さてその女性は一体どこへ行ってしまったのやら…。

「冬 愛こそすべて」
勘一が風邪をこじらせて寝込んでいます。もうすぐ青とみすずさんの結婚式があるというのに大丈夫でしょうか。
青が結婚するのだから、我南人の愛人だった人にも連絡を取って式に出てもらえばいいじゃないという藍子の言葉に、我南人は藍子をあるところへと連れ出すのだけど…。
一方で青とみすずさんが式を挙げる神社の神主さんがある本を見つけたと言ってやってきました。それは、夏目漱石の「それから」の初版本だったんですけど、そこには東京バンドワゴンの先々代が書いたと思われる家訓がたくさんありました。そしてその一つに、「冬に結婚するべからず」というのがあって、さて皆どうしようか悩んでしまいます。そういえばこの神主さん、今浮気をしているのではないかと疑われているのですねぇ。

というような話です。
いやはや、とにかくべらぼうに面白い話でした。もともと本作の評判は知っていたんですけど、予想以上に面白かったなという感じでした。素晴らしい!
まず何よりも素晴らしいのは、とにかくこの東京バンドワゴンの面々の描き方ですね。大家族の生活をうまく描きながら、いろんな人の特徴をどんどんストーリーの中に盛り込んで行く感じは素晴らしいものがあります。一人一人が本当に突出した魅力あるキャラクターになっていて、それぞれがそれぞれに役割を持っていて、誰かの出番が少ないということもなく皆均等に話に登場してくる辺り、かなり作家の腕があるのだろうな、という風に思いました。
とにかくこの家族を巡ってはいろんな複雑な事情があるわけで、藍子がシングルマザーだったり、我南人の愛人の子がいたり、青の押しかけの嫁入り候補が飛び込んできたりとまあ大騒ぎですけど、でもそういう話もストーリーの中にうまく織り込みながら何らかの進展を見せるので非常にうまいなと思いました。
一つの短編の中にいくつかの出来事を盛り込んで、まあそれらが密接に関係することも関係しないこともあるんですけど、あれだけ短い話の中にこれだけいろいろ詰め込めるのは見事だと思いました。
とにかく読んでいて、この東京バンドワゴンという家族が非常に羨ましく思えてきます。みんな気持ちが優しいいい人ばかりだし、先々代が残した家訓を未だに律儀に守ろうとしているし、家族のどんなことでも(多少諍いはあるにせよ)大らかに受け入れてくれるし、毎日ドタバタしてるけど楽しそうだし。こんな家族の一員として生まれたら、僕も楽しかったかもしれないな、とか思ったりします。
さて本作を読んで僕が一番感心したのがその視点についてです。先ほども書きましたが、本作はもう死んでしまってこの世にいないサチという女性が視点を務めているのですけど、この手法はかなり新しいなという風に思いました。いや、もちろんこれまでにもこういうやり方はあったかもしれませんが、それは作品の必要性からそうしてきたものばかりだと思います。すぐ思いつくのは有栖川有栖の「幽霊刑事」ですけど、この作品の場合、確か何かの事件に書き込まれて命を落とした刑事が、死んでからその事件の真相を解くというような話だったはずで、これだと死んだ人間が視点人物になるのは必然だと言えます。
しかし本作のような作品の場合、視点人物が死んでいる必要性はまるでないわけです。でも、そういう小説でこういう視点を採用したことで非常に大きな利点が生まれているように思います。
この死んだ人が視点人物であるといいうのは、一人称でありながら神の視点を持つことができるということです。通常一人称の小説の場合、その視点人物がいないところの描写は出来ないという問題があるのですが、死人であれば割と自在にあっちこっち移動出来るわけで、そういう意味で都合がいいわけです。また一人称の小説なので、三人称のように堅くなることもなく、また内面の描写も自然に描ける、というわけです。こういう形の視点をとった小説はこれまでにもあったかもしれませんけど、少なくとも僕が知る限り本作がもっともいい効果を上げているという風に思いました。お見事です。
これ確か続編があったはずなんですけど、それもすぐ読みたいですねぇ。僕は小説を映像化するのはあんまり好きではないですけど、でもこの作品は連続ドラマなんかにしたらかなり面白いような気がします。僕はあんまりタレントの名前とか知らないんですけど、誰がどの役をやるのがいいかなぁ、なんて思いながら読んだりするのも面白いかもしれません。とにかく是非読んでみてください。最高に面白いと思います。かなりオススメです。

小路幸也「東京バンドワゴン」




悪人(吉田修一)

どうでもいい話をしよう。日本語は難しい、という話である。
「定休日は金曜日です」という文章について考えてみましょう。これはどういう意味かと言えば、まあそのままの意味で、「定休日は金曜である」ということであって、もっと言えば、「定休日は金曜だけである」ということになる。これはまあいいだろう。
じゃあ、「金曜日は定休日です」だとどうなるだろう。この場合、「金曜日が定休日」であることはもちろん間違いないのだけど、でも定休日が金曜だけなのかどうかというところまでは分からない。もっと言えばこの文章は、「金曜日は定休日の一つです」という風にも解釈できる。定休日が金曜日しかない場合でも使えるが、金曜日以外に定休日があっても成立する文章だと思う。
さてでは、「金曜日が定休日です」だとどうなるだろう。この場合はまた、「金曜日だけが定休日です」という風に解釈するのが普通ではないだろうか。つまり、金曜日以外に定休日はない、ということになる。
さてこれまで三つの文章について考えてきました。
「定休日は金曜日です」
「金曜日は定休日です」
「金曜日が定休日です」
この三つの文章は、基本的な構成要素はほぼ同じで、順番が入れ替わっていたり、ほんの一部が違っていたりするだけです。でも文章の意味は結構違ってくるわけです。それほど大きな差ではないかもしれませんが、しかしどの文章を選択するかによって、誤解を招く可能性があるかもしれないという風に思います。
さて、この話が一体どこに繋がるのか。
つまり僕が言いたいことは何かといえば、人生もこれと同じようなものではないか、ということです。
人生というのは、人それぞれ大きく違うように思えるけれども、しかし構成要素はほとんど違わないのではないか、と思います。ただ、順番が入れ替わったりあるいはほんの僅かな違いがあったりして、結果としてそれが人生を大いに変化させたりするわけです。
また他人との比較でなくても同じようなことが言えます。人生におけるありとあらゆる選択肢はほとんど変わりがないものかもしれません。しかし、ほんの僅かな違いや選ぶ順番なんかによって、これまた人生は大きく違ってきたりするわけです。
僕らは、生まれた境遇や生きていく環境なんかを時に喜んだり、時に嘆いたりします。もっといい家に生まれればこんな生活はしていないのにとか、いい環境で育ってきたから順調に人生を歩めているのだとか。
しかし、人生というのはいつでも狂う可能性を秘めているわけです。それは、それまで生きてきた過去とはまったく無関係である場合もあるわけです。数列のように、こういう順番で来ているから次はこれだ、という風には行きません。どんなんにしたところで未来は予測できず、起こってしまう出来事をただ受け入れて行くしかないわけです。
これまでの人生で、様々な選択をして来た事でしょう。その選択の度に人生が枝分かれしていると考えれば、僕たちの人生にはありえたかもしれない無数の「ありえなかった人生」が存在していることになります。どこかでほんの僅か選択を違えれば、その人生はまるで違ったものになったかもしれません。「は」を「が」に変えるだけで文章の意味が変わるように、ほんの僅かな選択の積み重ねが、今のあなたの人生を作り上げているわけです。
僕は、正直なところこれまでの人生をあまり後悔したことがありません。もちろん細かい部分では、あんな恥ずかしいことしなければよかったなとか、あんな辛いことすることなかったなと思うことはあるのですが、しかし全体の流れを見た時に、その流れ自体を後悔することはありません。自分なりに、順調に歩んできたかな、という風に思います。と同時に、他人から見ればそうは見られないのだろうな、という風にも理解しています。そりゃあまあそうで、大学も中退しているし、今もフリーターだし、何が順調だコラ、という感じになるのでしょうけど、それでも僕はこれまでの選択は正しかったな、という風に思うわけです。
もし自分が殺人犯として捕まるようなことがあれば、やはり後悔するでしょうか。あそこでああしなければ自分は人なんか殺さなかったのに、みたいな。まあ恐らく後悔することでしょう。後悔してもしきれないでしょう。しかし残念ながら、それ以外の人生というのはありえなかったわけです。人生というのは非情で難しいものだな、という風に思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
ある人気のない山道で、保険外交員の女性が殺された。彼女はある男性と待ち合わせをしているのだと友人に告げ、そのままいなくなってしまった。
また一方で、殺された保険外交員の女性とその夜間待ち合わせをしていたある男。彼女とは出会い系のサイトで出会った。その夜は、ちょっとでもいいからとにかく会ってほしいと男の方がゴリ押ししたのだった。
この地方のある一角で起こった地味な殺人事件を中心にして、様々な人々の人生が描かれて行く。被害者の友人、被害者の家族、加害者、加害者の家族、加害者の友人、その他その事件に近い人から遠い人まで、様々な人生が工作して行く。
そして物語はやがて一つに収束していく。それは、一組の男女の愛の物語として収束していくのだ。
というような話です。
本作は新聞連載されていた作品で、単行本になってからかなり評判のいい作品だったので読んでみました。
基本的に僕は吉田修一という作家がダメで、これまでに「パークライフ」という作品しか読んだことがなかったんですけど、それがもう絶望的に僕には合わない作品で、今後読むことはあるまい、と思ったのだけど、まあ読んでみたわけです。
感想としては、まあ結構悪くないかな、という感じです。少なくとも僕が吉田修一(そして吉田修一作品)に描いていたイメージとは大分違う作品でした。
ただ世間的に評判になっているほどには素晴らしいとは思えませんでした。もちろん、なかなか迫力のあるすごい作品だとは思いましたが、こういう感じで作品を書く作家は結構いるわけで、それらと比べてしまうとやはりまだまだかなという感じがしました。
というか、本作は多視点で様々な人を描くという点でなんとなく東野圭吾の「白夜行」に似ていて、ある一つの事件を深く掘り下げていくという点でなんとなく宮部みゆきの「模倣犯」に似ていると思ったわけですけど、やっぱこういう作品と頭の中で比較をしてしまうわけで、そりゃあ太刀打ちできないだろう、という感じです。あと全体の文章の感じがなんとなく桐野夏生に似ているなぁ、という風にも思いました。「魂萌え!」なんかと結構近い印象を持ちました。
本作がすごいなと思うのは、これだけ地味な事件を題材に長編を一作書いてしまった、という点です。これがミステリならば、殺人の方法とかアリバイとかそういう話でいくらでもストーリーを作れるんでしょうけど、本作はそういう話ではありません。ある殺人事件の周りにいる様々な人を描いた作品で、事件自体はそこまで中心にありません。
実際現実に起こる事件の場合は、そりゃあその事件に関して様々なことが起こるだろうと思います。人が一人殺されるというのは大変なことで(まだ実感したことはないですけど)、その周りでは様々な人の人生が思いがけず狂わされていることでしょう。
しかし、しかしです。もちろん現実の事件の場合その周囲では様々な出来事が起こります。しかし、それらを集めて小説になるかと言えばまずならないでしょう。言い方は悪いですけど、それらはただの地味な些事でしかないわけで、地味な殺人事件の周囲で実際に起こったことを丹念に拾い集めてもあんまり面白い結果にはならないような気がします。
しかし吉田修一はそれをやってのけたわけです。なんの変哲もないただの地味な事件一つを発端にして、その周りに生きる様々な人々を鮮やかに描き出しました。事件から近い人も遠い人も、皆事件の影響を何らかの形で受けることになり翻弄されます。その翻弄のされ方を、万華鏡のように自在に視点を変えながらくっきりと描き出したという点で、本作はなかなかすごい作品ではないかという風に思いました。
タイトルの「悪人」というのも非常に意味深なものです。僕は本作の終わり方が、これでいいのかよ、と思ったわけですけど、まあその終わり方がなんとなく「悪人」というものと関わってきます。「悪人」とは一体誰だったのか、というのが最終的な本作のテーマであって、僕にはまだその答えは出せそうにありません。
というのも、明らかに「悪人」ではない一人の人間がいて、その周囲には様々な人間がいるわけですけど、じゃあ一番の「悪人」は誰かと言えば特別該当しそうな人は見当たらない。結局明らかに「悪人」ではない人が「悪人」だと思われるしかない、というストーリーで救いがないんですけど、「悪人」であることを選び取ったあの人は結局救われたんだろうか、とまあいろいろ考えたりするわけです。なんというか、皮肉なタイトルだなと思いました。
本作は、作家の力量さえあれば、どんな地味な事件からでも物語を生み出すことが出来る、ということを如実に示した作品であるように僕には思いました。トリッキーな事件も、魅力的な謎も、変わった登場人物も設定せずに物語を組み上げて行くのはなかなかに難しいものではないかと思います。それを新聞連載でやったというのだからなかなかすごいものだなと思いました。僕としてはそこまで強く勧める作品ではありませんが、世間的にはなかなか評価されている作品です。興味がある人は読んでみてください。

吉田修一「悪人」






サニーサイドエッグ(荻原浩)

定番の質問に、猫が好きか犬が好きか、というものがある。これを聞いてどうするのか、またこの答えによって何をどう判断されるのは定かではないが、割とこの質問は好まれているような気がする。なんとなく犬と猫は対照的で、どちらが好きかによってその人の性格が分かったりするのかもしれない。
僕の場合、そもそも動物がそんなに好きではないので(というか、まあ別に動物はいいのだけど、それをペットとして飼う事が好きではないので)、犬か猫かなんていう質問にはちゃんと答えられそうにないのだが、しかし敢えて答えるとすれば猫かな、という風に思う。
というか僕の場合、実際に犬や猫を飼うという状況を想定できないので、犬や猫が人間だとしてどっちが好きかという判断になっているような気もするのだけど。
実際飼うなら犬の方がいいかもしれない。忠実だし利口だし、ペットを飼うのが好きなら楽しそうな気がする。芸もしそうだし物覚えもよさそうだ。
でもそういう人間はあんまり面白くない。僕はとにかく変わった人が好きで、変わっていればいるほどいいのだけど、犬というのはどこか行動が予測できてしまう部分がある。自分がこうしたらああうするのだろうな、と予測できてしまうのはあんまり面白くない。
その点猫は違う。猫は自由気ままだし人間の言うことなんか聞かないしわがままだ。飼うんだとしたらちょっと嫌かもしれない。でも人間だとしたら僕の好みに合う。次に何をするのか分からないところが面白いと思える。
まあこんな話も、だからどうした、という程度の話でしかないのだけど。
僕が猫を好きなのは、あんな風に生きていければいいなぁ、と思っているからかもしれないとも思う。
猫は、まあそれなりのルールはあるのだろうけど、基本的に自由気ままに生きているように見える。野良猫であれば生存競争は厳しいかもしれないが、飼い猫であれば、主人に忠誠を誓うこともなく、義務も何もなく、ただ日がな一日与えられたご飯を食べてはうろうろしていればいい。社会に縛られることもなく、自由に生きていける。なかなか羨ましい存在だ。
ただ、もし猫になれると言われても断るだろう。猫のように生きたいだけで、猫になりたいわけではない。やっぱり人間の方がいいような気がする。
何を書いているのかよくわからなくなってきたけど、まあ何にしても、僕はペットは飼いたくないなぁ、ということである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、タイトルからも分かる通り、「ハードボイルドエッグ」の続編になっています。珍しいことではありませんが、出版社が変わっていることが多少気になるところではありますが。
フィリップマーロウに憧れて探偵を始めた最上俊平は、しかし現実にはマーロウのような事件を扱えるわけではない。久しぶりに手にした仕事は、やはりいつものようにペット探しだった。ある大金持ちの飼い犬を探す仕事だ。そしてそれは徒労に終わる。
友人であり、バーのマスターでもあるJの店に足を運ぶと、人を雇わないかと話を切り出される。Jの友人の娘で、ブロンドで青い目の若い女が仕事を探している、というのだ。面接だけならと最上は了承する。
しばらくして、和服を着た美女が事務所にやってきた。もしかしてこの女性が仕事を探しているのか…と思ったがやはり違った。その女性は依頼人であり、いなくなったロシアンブルーのリュウを探してくれませんか、という依頼だった。やはりまたペット探しである。もちろん引き受けた。
さてそれからして、「ブロンドで青い目の若い女」が事務所にやってきた。まあ確かになぁ…。
というわけでロシアンブルーのリュウを探す日々が始まるわけだが、やっぱりどうも一筋縄ではいかないトラブルに巻き込まれていってしまうのだ…。
というような話です。
さて僕は、前作の「ハードボイルドエッグ」はそこまで面白いとは思えなかったんですけど、残念ながら続編である本作もそこまで面白いとは思えませんでした。
このシリーズの最大の弱点は何かと言えば、それは展開があまりにも遅い、ということではないかと思います。もちろん荻原浩の作品なので、何も起こらない部分であってもそれなりに読ませる作品ではあるんですけど、でも本作の場合、200Pくらいまで読まないと話が展開して行きません。それまでは単なる真面目なペット探しの話で、確かに「ブロンドで青い目の若い女」である茜とのやり取りはそれなりに面白いものの、やはりこの展開の遅さはいかんともしがたいという風に思います。
またこう言ってはなんだけど、事件自体も短編小説で充分ではないかと思えるくらいの内容であって、これだけのネタで長編一本書くというのは、ちょっと内容を薄くしすぎではないか、という風にも思ったりします。
もちろん荻原浩の作品なので、全体的な部分で言えば標準をクリアしている作品だと思うのですが、どうも荻原浩の他の作品と比べた場合見劣りするなという感じです。
ちょっとなかなか面白いと評価するのが難しい作品かなぁ、と僕は思います。まあ前作「ハードボイルドエッグ」も、評価している人はたくさんいたと思うので、そういう人にはいいんではないかな、と思います。ただ、荻原浩の作品を初めて読むという人には、やっぱりこのシリーズを勧めることはしないかな、と思います。

荻原浩「サニーサイドエッグ」




予告された殺人の記録(ガルシア=マルケス)

こんなことを書いてはきっといかんのだろうな、と思うのだ。例えば万が一僕が将来殺人犯として逮捕されるようなことがあった時に、ほらあの犯人は昔こんなことをブログに書いていたぜうひゃうひゃ、みたいな風にマスコミに取り上げられたりするかもしれないし、というかまあそんな心配をする前に道義的にいかんのだろうなとは思うのだ。
でもまあ書いてしまおう。
許されるならば、人を殺してみたいな、と思うのだ。
でもきちんと書いておくが、僕は決して人を殺したりはしないだろう。それは、捕まりたくないからだ。これは即ち、100%捕まらないという保証があれば殺してみたいということではあるが、しかしそんな状況は100%ありえないことは知っているので、僕は人を殺さない。
まあ理由はといえば、結局のところ純粋な興味でしかない。子供の頃、アリを踏んずけてみたり、トンボの羽をむしってみたりしたあの延長線上にあるのだ。純粋に、人が死んだらどうなるのかという興味と、同時に人を殺したら自分がどうなるのかという興味である。
さてしかし考えてみると、何故人を殺してはいけないのか、ということを説明するのは難しい。どうだろうか。例えば子供に、「何で人を殺してはいけないの?」と聞かれた場合、どう答えるだろうか。
まあいろんな説明が出来るかもしれないが、しかし割とそれらは説得力に薄いはずだ。どれに対してもすぐに反論が出来てしまうような気がする。
最終的には、法律でそう決まっているから、ということになる。では人を殺してはいけないという法律を作ったのはどんな人かと言えば、それは自分が殺されたくはないと思った人である。つまり人は、殺されたくないからこそ人を殺してはいけない、ということになるだろう。
しかし僕は、まあ別に殺されてもいいかな、とか思ったりする人間である。そういう人間は少ないだろうがいるだろう。ではそういう人間は人を殺してもいいのかというともちろんそんなことはないわけで、なかなか難しいものだ。
前に「国家の品格」を読んだ時に著者の藤原正彦氏が面白いことを書いていた。同じく「何故人を殺してはいけないか」という話題だったが、氏は人を殺してはいけない論理的な理由を少なくとも30は思いつくことが出来るだろう、しかしそう言う問題ではないのだ、というような意味のことを書いていたような気がする。人を殺してはいけないというのはもはや決まっていることで、理由がどうこうと言ったような問題ではないのだ、という。それを読んだ時、なるほどこれがもっとも論理的な説明だろうな、と思ったものである。
人は人を殺す。これは人が生きている限りなくなりはしないだろう。まあ、だからなんなんだ、という話は特にない。ただそれだけの話である。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、30年以上前に起こったある殺人事件について、様々な人々の証言を拾い集めながらその記録をするある男の話である。
その事件はなかなか奇妙な形で起こった。ある婚礼の翌日に起こった事件であったのだが、事件の直前までに、町にいるほとんどの人々がその殺人のことを知っていた。つまり被害者が殺されてしまうということを知っていたのだ。理由は簡単で、犯人である双子が犯行前に自らがこれからする予定である殺人について多くの人に語っていたからである。
何故広く予告されていたはずの殺人が実行に移されてしまったのか。実際に起きた事件を元に、ルポタージュのような手法で描かれた作品です。
さてガルシア=マルケスと言えば、「百年の孤独」でノーベル文学賞を取ったことで有名ですが、しかし「百年の孤独」はいつ文庫になるんでしょうね…、って全然関係ない話ですけど。でも、永久に文庫にはならないのかもしれませんね。恐らくハードカバー版で今でも売れているんでしょうし。
さてというわけで本作ですが、やっぱり予想通りというべきかダメでした。
僕は基本的にどんな本でも読むスタンスの読書家ですが、外国人作家・古典作品・時代小説はかなり苦手だったりします。本作はそのうち、外国人作家と古典作品という二つの要件を充たしているわけで、多少期待はしていたものの、まあダメだろうなと思って読み始めたわけです。
僕の場合最大の難関はいつも同じで、それは登場人物の名前をさっぱり覚えることが出来ない、ということです。本作の場合もそうで、結局殺された人間と殺した人間以外のほとんどの人間の名前が分からずごっちゃになってしまいました。短い話なのにたくさんの人が出すぎているので、ちょっと厳しいですね。
また人間関係とは風習・風俗的なものがよく分からなかったので、ストーリー展開がよく分からないところが多々ありました。恐らく日本とは文化が違いすぎるからだと思いますが、なんか掴めませんでした。
ガルシア=マルケス自身はこの作品が自身最高傑作だと言っているようですが、そうなると「百年の孤独」を読むべきかどうしようか悩むところですね。いつかは読もうと思っているんですけど、うーむどうしようか。
まあそんなわけで、本作はそこまでオススメ出来ません。というか僕には合わない作品でした。

ガルシア=マルケス「予告された殺人の記録」



ブンブン堂のグレちゃん(グレゴリ青山)

やっぱり僕には、あんまり古書というのは似合わないな、と思うのだ。
さてここで、古本と古書の違いをなんとなく書いておこう。一般的な定義ではないかもしれないので、僕が勝手にそうやって使うよというくらいの話である。
古本というのは僕の中で、ブックオフで買う本のことである。つまり、新刊書店で出回っている本を安く買うのが古本であると僕は思っています。
でも古書というのは違います。古書というのはまさしく古書であり、戦前だとか昭和だのといった古い時代に出されていた、今現在では新刊書店ではまず間違いなく入手することの出来ない昔の本、ということです。
僕は普段からブックオフのような古本屋で本を買いますが、しかし古書には手を出そうとは思いません。あくまでも僕の守備範囲は、現代の小説であって、ちょっと古い本を読もうとする場合でも、現在普通に新刊書店で手に入るような太宰治や夏目漱石やドストエフスキーなんかがせいぜいです。
さてでは、古書の魅力というのは一体どこにあるのでしょうか。
残念ながら古書に特別興味のない僕には分からないわけですが、しかし世の中にはこの古書にどうしようもなく魅せられてしまった人というのがたくさんいるわけです。
いや、僕もまあ分からなくはないんです。例えば昭和の時代を映し出した風俗の本だとか、あるいは現在ではなかなか手に入らないかつて活躍した作家の作品だとか、そういう内容の部分について言えば僕だって興味がないわけではありません。京都に行った時、マンションの二階で営業していた古本屋(名前忘れました)に行ってみましたが、そこはレトロな雰囲気たっぷりのところで、そこに並んでいる古書のいくつかには結構惹かれたりしました。
でも僕がどうしても理解できないのは、例えば箱に傷があるだろか、あるいは帯がないだとか、要するにコレクターについてです。
まあ世の中のありとあらゆる分野にコレクターというのは存在するのだとは思いますが、古書の世界にもそれがあって、やれ初版だと価値があるだとか、全巻揃っていないとダメだとか、特装本をどうしても手に入れたいとか、そういう内容に関係のない蒐集というのが僕にはどうも理解しがたいな、という感じがするわけです。
うーむ、どうも話がまとまっていかない感じがします。
古書店と呼ばれるところにも行ったことはありますが、あれは小売店の環境としてはどうなんだろうといつも思わされます。
まず、店がどうも薄暗いイメージです。店が狭くてかつ本をたくさん並べているせいか、どうも照明が隅々にまで行き渡らない印象があります。
あと店主に問題がある気がします。僕が行ったことのある古書店がたまたまそうなのかもしれませんが、気難しそうなオッサンが店番をしてたりします。そうでなければやる気のなさそうな眠そうなオッサンです。そういうところだと、なんとなく入るのも気がひける感じがしてしまいます。
入るのに気が引ける理由の一つに、お客さんの姿がない、というのもあります。古書店に数人以上のお客さんが入っているのを見たことがありません。もちろん神田だとかそういう古書店街みたいなところだとまた別なのかもしれませんが、たま~に僕がそういう古書店に入ると、かならず客が僕一人みたいな状況になりました。まあそれはそれで落ち着いていていいんですけど、入りにくいことは間違いないですよね。
そういういろんな事情を考えると、よく古書店というのは成立するものだなと思ったりします。店に特色があって、それぞれに固定のお客さんがいるからなんでしょうけど、それにしても不思議な商売だなといつも思います。
まあこれからも、僕と古書店というのは交じり合わないだろうなとは思いますが、でもその不思議な世界を知ることが出来るのはなかなか面白いものだな、と思います。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、現在漫画家として活躍する著者が、20歳前後の専門学校生だった頃にバイトをしていた古本屋での話をコミックエッセイという形でまとめたものです。
特にこれといった理由もなく古本屋で働き始めたグレちゃんは、しかしその濃ゆい世界に圧倒されてしまいます。古書業界が不思議な人を呼ぶのかどうかは分かりませんが、とにかくグレちゃんの周りには非常に変わった人がたくさんいました。
また、古書店の仕事というのも面白いものです。汚れを落としたりはたきをかけたりといった基本的なことの繰り返しですが、時には本の間にラブレターを発見したり、あるいは不思議なお客さんに出会ったりと面白いこともたくさんあります。独特の用語なんかもあって、一層不思議な世界です。
またグレちゃんは、古書店で働き始めたからなのかどうかは知らないのだけど、ある特定の古書に興味が湧いてきました。ある挿絵画家だとかある作家だとかある俳優だとか、そういう興味の範囲に引っかかった古書を買っては、いろんな形で楽しんだりしたのでした。
青春を感じさせるようなバイトを求めていたはずなのに、よりにもよって古書店。古書店での話を友人にすると、いろいろ考え直した方がいいよとか言われる始末であるが、まあ思い返してみれば楽しい日々だったのではあるまいか…。
というような話です。
本作もネットで評判を知って買ってみたんですけど、なかなか面白い内容でした。
古書店業界のことを真正面から真面目に書いているわけではなくて、どちらかと言えば著者の自伝の舞台がたまたま古書店だった、というような話なわけで、その距離感みたいなものがよかったかなという風に思います。古書店でこんなことがありました、こんなことをしてみました、こんなことを言われました、というような本当にただの日常をうまいこと漫画にしています。
本作で何よりも面白いのが、やはり次々に出てくる濃ゆいキャラクターたちでしょう。とにかく、これは古書店だからなのか?と疑問に思うほど濃ゆいキャラクターがわんさか出てきて面白いです。古書店仲間だったりお客さんだったりするわけですけど、やはり古書にとりつかれている人には変わった人が多いんだろうな、という気がしました。
古書に興味がなくても普通に楽しめるエッセイではないかと思います。気が向いたら読んでみてください。

グレゴリ青山「ブンブン堂のグレちゃん」




夜中に犬に起こった奇妙な事件(マーク・ハッドン)

僕のバイト先には、ちょっとだけ奇妙な印象を与えるスタッフがいる。たぶん他の人はそこまで気づいていないのではないかと思うくらい些細なことではあるのだけど、僕にはいつも気になってしまうのだ。便宜上彼のことをA君と呼ぼう。
学生のアルバイトなのだけど、そのちょっとした奇妙さについて説明するのはどうも難しいような気がする。僕も、正直どこがどう奇妙なのかきちんと把握できていないかもしれないが、まあちょっと頑張ってみよう。
僕は立場的によく、いろんなスタッフからあれこれ聞かれることがある。探しているものが見つからないとか、分からないことがあるとか、どうしていいか分からないとか、まあそういう類のことである。
普通の人というのは僕に何か聞く時、最終的に「大体のところ」で納得する。これは適当に理解したとかそういうことではない。こう運用上定式化できないような様々なことというのはあるわけで、この場合には必ずこうする、というようなルールがない場合の方が多い。つまり、その曖昧な状態を受け入れる、ということだ。
具体的な例というのはうまく思いつかないけれども、まあ例えば何らかのトラブルがあったとする。その人では対処出来なくて僕が処理をしたとする。そのあとでそのスタッフが、今の場合はどうすればよかったですか、とか聞く。そういう時僕は、まあそのトラブルの内容にもよるが、今さっき起こったケースだとこうしたけど、でもああいう場合はこうすることもあって一概にはなんとも言えない、みたいなことを言うこともある。相手は、まあそんなものか、といってそういう「大体のところ」で納得するのである。
しかしA君は違うのである。特別違うというほどでもないのだが、A君の場合、この「大体のところ」で納得するというのが嫌であるように見受けられるのだ。
例えばさっきの話で、まあ何かトラブルがあったとして僕が対処をしたとしよう。その後で僕はA君に上記のようなことを言うのだけど、でもなんとなく彼は納得してくれないのだ。それは、別に僕の説明に対する不満というわけではなさそうで、要するに、かっちりとしたルールがないことについての不満ではないか、と僕には思えるのだ。
だからA君はその後で、「じゃあさっきみたいな場合にはこれこれこうしたらいいっていうことですよね」と返すのだ。まあそれは正しい。ついさっき僕が処理をしたのとまったく同じような状況であればそういう対処でいい。でもそんなことはまずないだろう。同じようなトラブルでも個々に状況は違うわけで、だからまったく同じような状況に対する対処を知っていてもあまり意味がないように僕には思える。しかしA君は、ついさっき起こったのとまったく同じようなトラブルの場合どうすればいいのか分かった、ということで満足出来るようなのだ。
どうだろうか。僕のこの説明で、僕が感じる違和感をなんとなく理解してもらえただろうか?
僕はA君と接するといつも、ルールが決まっていない状況に出くわした時この人はどうするのだろう、と思ってしまう。A君は、ルールがかっちりと決まってさえいればそれに基づいた行動を取れる人間だ。だから、一度こうだと教えれば、大抵その通りに出来る。まあこういうことが出来ない人もたくさんいるので、そういう点では決して悪くはないだろうと思う。
しかし、彼の中でまだルールが分かっていないような状況(実際それに対するルールがあってもなくても)の場合、A君はとりあえず思考停止に陥るような気が僕にはする。
うまい例を思いつけなかったので変な話をしよう。
例えばどこかでキャンプをしているとする。そこではカレーを作ることになっていて、A君はそのカレーを作る担当の一人になったとしよう。
さてA君はとりあえずジャガイモを切ることになったのだけど、切った後の皮をどうすればいいのか分からなかったので責任者に聞いた。それでどこに皮を捨てればいいのか分かった。
さて次にA君はニンジンを切ることになったのだけど、A君は「ジャガイモの皮」をどこに捨てればいいのかは知っていたけど、「ニンジンの皮」をどこに捨てればいいのか分からなかったので、もう一度責任者の人に聞いた。
もちろんここまで極端だと言いたいわけではない。もちろんA君だって、上記のようなケースであればもちろんニンジンの皮はジャガイモの皮を捨てたのと同じところに捨てるだろう。ただ僕がなんとなく感じている違和感を誇張して表現すると上記のようになるということだ。
僕は本作を読んで、何故かA君のことを思い出しました。もちろんA君は別に自閉症だのアスペルガー症候群だのということはないのでしょう。でもなんとなく近いものを感じるなという印象です。
A君はこれからもあんな感じで生きていくのでしょうけど、なんとなく不安を感じてしまうのは僕だけでしょうか?かなり優秀な理系の大学に行っているのですけど、確かに理系というのは論理的に考える学問が多いわけで、そういう意味では適しているかもしれないのだけど、でも応用力だとか発想力だとかも同時に要求されるわけです。そういう点で彼はちょっと苦労するのではなかろうか、と勝手に想像してしまいました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は非常に面白い形態を取った作品です。それは、本作の主人公であるクリストファーが初めて書いたミステリ小説、という体裁を取っていることです。もちろんこれだけであれば古今東西よくある形態ですが、本作の面白いところはそのクリストファーの特性にあります。クリストファーは自閉症なわけです。つまり本作は、自閉症の少年が書いた小説、という体裁を取っているわけです。
冒頭から読者は度肝を抜かれるかもしれません。何故なら、一番初めの章が「2」になっているからです。読み始めた時僕は、これは何らかのトリックが隠されているに違いない、と思いました。昔僕は、冒頭が「13章」である小説を読んだことがありますが(この小説のタイトルが分かる人はかなりマニアックである)、そういう風に何かミステリ的な仕掛けに関わっているのだろうと思ったわけです。
でもその後章は「3」「5」「7」…と続いて行くわけです。その理由をクリストファーはすぐに書いています。曰く、僕は素数が好きだから章を全部素数の数字にするのだ、と。
僕はある夜、ミセス・シアーズの家の庭でミセス・シアーズの飼い犬であるウエリントンが庭で使うフォークに刺されて死んでいるのを見つけた。ミセス・シアーズは僕の友達で、その飼い犬が殺されたのだから、僕はウエリントンを殺した犯人を探し出すことにした。そしてクリストファーはその話を小説に書くことにした。何故ならシボーン先生が小説を書くことを勧めてくれたからだ。小説を書くならミステリにしようと思った、何故なら僕はシャーロックホームズが好きだからだ。
そうして僕は、ウエリントンを殺した犯人を見つけ出す探偵の話やお父さんとの生活の話なんかを小説に書いた。その内に、初めはウエリントンを殺した犯人を見つけ出すという一つの謎だったのが、謎が二つに増えてしまった。僕は二つ目の謎も解くことに決めた。
僕は謎を解く中で驚くべき真相にたどり着くことになり、そこから僕の大冒険が始まるのだが…。
というような話です。
本作は世界中で広く評価されている作品だそうで、42カ国で翻訳され累計で一千万部を超えるベストセラーだそうです。
僕は本作を読んで、なかなかいいなとは思いましたけど、そこまでもんのすごく絶賛というほどでもありませんでした。ただ、この作品が評価される理由はなんとなく分かりました。何故ならこの作品は、「アルジャーノンに花束を」になんとなく似てるからです。僕は「アルジャーノン」もそこまでもんのすごくいいとは思わなかったわけですけど、「アルジャーノン」がかなり評価されているのならば、本作も評価されるだろうな、という感じがします。だから、「アルジャーノン」を読んでよかったという人は本作も是非読んでみることをオススメします。
本作のとにかく面白い部分は何かと言えば、徹頭徹尾自閉症児が書いた小説であるという設定を貫いているところです。それは本当に見事なもので、小説の流れには全然関係のない絵が出てきたり、数学の証明を付録で載せたり、先ほども書いたけど章を素数の数字にしたりと、とにかく小説としては普通ではありません。しかし僕らから見て普通ではないことだけれども、クリストファーにすれば必然性もありかつ論理的な構成なのであって、読んでいくうちにそのクリストファーの判断基準みたいなものが次第に分かってきます。そのだんだんクリストファーと一体化していくような物語の運びが本当に見事だな、という風に思いました。
また、僕も意識的に使おうとしてうまく行きませんでしたが、本作には「~、なぜならば~」という表現がもう頻繁に出てきます。これは自閉症児の特徴なのかどうかはわかりませんが、クリストファーはとにかく論理的であることが好きで、だからありとあらゆることに理由をつけて論理的であろうとします。
また本作では、会話文になるとこんな表現になります。

『ぼくはいった、「~」
お父さんはいった、「~」
ぼくはいった、「~」
お父さんはなにもいわなかった。
ぼくはいった、「~」』

こういうやり方は、普通の小説の場合であれば未熟であると言われます。誰々が言った、という地の文を書かずに誰の会話なのかを分からせるのが小説家の腕の見せ所なわけですけど、本作はその法則を完全に無視します。もちろんそれは、自閉症児が書いたという設定を通すためなわけですが、その徹底っぷりはなかなかすごいものだと僕は思いました。
他にも本作を読むと、まあどこまで一般的なものなのかは分からないのだけど、自閉症児の理屈みたいなものがすごくよくわかって面白いなと思います。別に僕は自閉症児と関わったことはないのだけど、でもそういう人々がいることは知っているし、なるほど彼らはこんな風に世界を見て生きているのだな、ということがなんとなく分かるようになって新鮮でした。彼らが世界を見る目はかなり人とは違っていて、新鮮な驚きを感じることが出来るのではないか、と思います。そういえば全然関係ないですけど、伊坂幸太郎の「陽気なギャングが地球を回す」にも、チラリと自閉症児が出てきたな、なんてことを思い出しました。
また本作を読むと、生きていくということの難しさみたいなものを再発見できるような気がします。クリストファーという少年の存在は、どうやっても社会とうまく折り合いがつきません。どうしたって誰かに迷惑を掛けるし、クリストファーには理解できないことはたくさん出てくるわけです。
でもそれはクリストファーや自閉症児だけに関わらず、最終的には誰もが抱えている問題なわけです。結局のところ、自分の存在を社会に合わせていかなくては生きていくことは難しいわけで、それを改めて思い出させる作品だなと思いました。
僕は本作を、普通の小説を読みなれている人に特に読んで欲しいな、と思いました。パラパラ捲ってもらえば分かるけど、かなり斬新な形態の小説になっています。新鮮に感じられることでしょう。また大人が読んでも子供が読んでも面白いだろうと思います。特に大人が読むと、自分たちがどれだけ枠に囚われているのかということがなんとなく分かるのではないかな、という気がします。なかなか面白い作品だと思います。読んでみてください。

マーク・ハッドン「夜中に犬に起こった奇妙な事件」



人を動かす(D・カーネギー)

さて今回は、ひたすら言い訳が並ぶ感想になるのではないか、と思う。見苦しい(読み苦しい?)かと思うので、あんまり読まない方がいいかもしれません。僕もあんまり言い訳はしたくないので、なるべく前向きな方向に書こうとは思いますけど。
自分の非を認めるというのはなかなか難しいことである。特に、それを正しいと思ってやっていたことを否定されるのはなかなか辛いものがある。しかし、どう考えてみても僕が間違っていたわけでそれは受け入れるしかないだろう。仕方ないことである。
僕は昔から結構、自分だけは正しいという風に思うタイプの人間だった。僕が優れた能力を持った人間であるということでは決してないのだが、どうも周りの人間を見ていると愚かしく見えてしまうのだ。もちろんすごいと思える人間にもたくさん出会って来たが、しかしそうでないことの方が多かったように思う。
もちろん傍目から見て、僕の方が圧倒的に間違っていることもたくさんあっただろうし、今でもあるだろうと思う。要するに勘違いなのだ。自分だけは正しいと勘違いしているだけなのだが、しかしその状態になかなか自分で気づくことは難しいのである。もっとこうすればいいのにとか、どうしてああしないんだろうと言ったようなことをずっと周囲に抱いてきたわけで、そういう中で自分のことを過信し続けてきたのだろうと思う。
まあしかし、これは早速言い訳だが、それはまあいいのだ。誰だってそういう部分はある。誰だって自分は正しいと思っているし、自分だけは間違っていないと思いたいものだ。間違いを自覚できていてもそれを認めたくないものだし、見て見ぬ振りをしたいものである。まあ人間だからそれはいいとしよう。
問題は、そういう時に僕がどういう対処をしてきたか、ということである。つまり、周りの人間が明らかに間違っていると僕が判断した際に、僕は一体どうしてきたのか、ということだ。
僕はとにかく、正論を振りかざして相手の間違いを真っ向から指摘し、相手を叩きのめすようにして対処し続けてきたのである。これはもはや対処とは言えないだろう。ただの喧嘩だし戦いである。今の僕ならまあそれが(ようやく)分かったのであるけど、しかしこれまでの僕は決してそうではなかった。自分が間違っているなどと微塵も思わず、寧ろ正しいことをしているのだ、自分は正論を言っているのだから間違っているはずがない、と信じて日々相手に戦いを挑んでいたのである。
愚か者である。しかし、やはりこういうことは指摘されないと分からないものだ。僕はこれまで、この点を真剣に指摘されたことはなかった。まったくなかったわけでもないが、しかしその時はそれについて理解するにはまだ子供だったということもあったと思う。
僕は本屋でバイトをしているのだけど、ある時こんなことがあった。お客さんから注文を受けることを客注というのだけど、ある出版社が客注したものとは別の商品を送ってきたことがあった。当然、お客さんが注文したものとは違うのだからそのまま渡せるわけがない。とにかく客注の担当者に、出版社にすぐ正しいものを送ってもらうように手配してくれ、と僕は頼んだわけです。
しかしその時の出版社の対応が、僕には到底納得できないものでした。この件に関しては完全に出版社のミスであるわけで、こういうケースの場合出版社が直送(取次というところを経由するのではなく、出版社が直接運送会社に頼んで送るということ。つまり出版社の側が運送費を負担することになる)するというのが普通の対応だと僕は思っているんですけど(この認識が間違っている可能性もあるけれども)、しかしその出版社は、いかなる場合でも直送は受け付けていない、というわけです。
でもまあここまでは僕も仕方ないかもしれないな、と思ったりしたわけです。まあそういう出版社もあるだろうし、会社の方針として決まっているのならば、この電話をしている相手にごちゃごちゃ言ってもどうにもならないかもしれないな、とまあそんな風に思ったりもしました。まあなるべく早く出庫してもらえばそこまで時間も掛からずに入ってくるだろうし、まあいいかと思ったりしたわけです。
でもこの話には続きがあるわけです。
なんとその出版社は、近い内に棚卸を控えているから出庫が遅れる、というわけです。
そこまでの話は客注の担当者がしていたわけですけど、それを客注の担当者から聞いて僕は怒りに満ち溢れました。だって考えてもみてください。このケースの場合、100%出版社の側のミスで、書店の方に一切非はないわけです。それなのに、直送は出来ないし棚卸があるから出庫が遅れるだのでどうしてもまともに対応しているとは思えませんでした。
だからその時点で電話を替わり、僕が話をすることにしました。
といっても僕がしたことと言えば、相手に非を認めさせようと正論を言い立て、どれだけ相手が間違っているかを懇々と説き、なんとかして無理矢理にでもこちらの希望を通そうと喧嘩を吹っかけただけでした。もちろん話はうまくまとまらず、結局出庫が遅くなるという向こうの言い分をそのまま飲むしかありませんでした。まあこの件に関しては、また別の手を尽くしてなんとかトラブルにならないように事を収めたのだけど、当時としては本当に腹が立ちました。今でも、間違っているのは相手の側だと思っています。
しかし結局僕は相手に喧嘩を吹っかけただけで、こちらの目的は何一つ達成することが出来ませんでした。確かに間違っていたのは相手かもしれません。しかしだからと言って相手の非をあげつらうようなことを言って相手が心を入れ替えてくれるかと言えばそんなことがあるわけがないのです。あの時の僕が本作を読んでいたとしたら、もしかしたら別の対応が出来ていたかもしれません。相手の立場に立ち、こちらの要求を満たすことが相手にとっても利益になることを伝えればよかったのだと思います。まあなかなか難しいとは思いますが。
僕はその他の場面でも、様々に相手を非難する行動を取り続けてきました。
その最たる例というのが、バイト先の社員に対する扱いです。
具体的な話は書きませんが、僕が働いているバイト先の社員というのはかなり間違っていると僕は思っています。それは今でも変わっていません。改善すべき部分がたくさんあると思っています。
しかしそのために僕が取った手段というのも、また相手を非難するという方法でした。
僕はとにかく、相手のことを非難し続けました。それはもうなかなか酷いもので、最終的にはワードの文章で20枚近くに及ぶ要望書なるものを作成しそれを渡したくらいです。ここでも僕は、相手に正論をぶつけ、相手の間違っている部分を指摘し、改善策を押し付け、そうやって喧嘩を吹っかけ続けてきました。
本作を読んだ今となってはその方法では人は動かないということがはっきりと分かりました。しかし少し前の僕は、それが正しいことであると思ってやっていたわけです。相手が自分の悪いところに気づいていないのであればそれを指摘しなくてはいけないと思ったし、相手が改善策を思いつけないのであればこちらが押し付けるしかないと思っていました。間違っていることは正面切って正さなくてはいけないし、必要とあれば恐怖で縛るしかないと僕は思っていたわけです。
そう、これが僕の考え方の根本にありました。最終的に人を動かすには、恐怖で縛るしかないのだろうな、という考えです。北風と太陽の話で言えば、完全に北風のやり方だったわけです。
この恐怖で縛るというのは、本作を読んだ今でも、必要になる場面は必ずあると僕は思っています。それは、やる気のない人間を動かす場合です。もちろん本作には、やる気のない人間を動かすためのあれこれも書いてありましたし、それは実践するべきでしょう。しかし最近の若者を見ていると、そのやる気のなさというものはすさまじいものがあると僕は思っています。お金を稼ぐためにここにいるのだ、だから出来るだけ楽をしたいのだ、ということを全身から発しているような若者を見ると、やはりこういう場合には恐怖で縛るしかないのだろうな、という思考になってしまいます。
話はずれましたが、要するに以前の僕は、恐怖こそが人を動かす源であると思っていたわけです。言葉にするとその間違いはよりはっきりするわけですが、しかし実行しているうちはなかなかそれに気づきません。やらないとあいつがうるさいから、という思考を相手に植え付けることが出来れば、人は動かざるおえないし、それがまあ一番手っ取り早い方法だろうなと思っていたわけです。本作を読めば、それがもっとも愚かしいやり方であるということがすぐに分かります。でも、やはり言われないとなかなかそれには気づかないものです。
しかし、では僕は一体どうすればいいのかという話になるわけで、それは即ち本作に書いてあるようなことを実践しろということなんですけど、ただここで一つ大きな問題が立ちはだかるわけです。
本作は、人を動かすことについて書いた本ですが、僕が動かさなくてはいけないのは社員、つまり僕の上司である、という点です。
つまり僕の場合、下の立場であるはずの僕が上司を動かさなくてはいけない、という構造的な問題があるわけで、それが多少話をややこしくするなぁ、という風に思うわけです。
本作を読むと、結局のところ、『上司がいかに部下を動かすか』ということについて書かれた本だということになります。まあそれはそうで、本作は要するに、上に立つような人間になりたいとか成功したいとか金持ちになりたいとか尊敬される人間になりたいとか、要するに基本的にはそういう人に向けて書かれた本であって、書かれている例なんかもそういうケースが多いわけです。僕は別に成功したいわけでもないし上に立ちたいわけでもないし尊敬されたいわけでもなくて、ただ僕の場合上司を動かしたいということなんですけど、しかしそのためには本作に書かれたことをただ実行するだけではダメなのだろうな、と思うわけです。
というわけでここで、本作に書かれた法則をすべて抜き出して書いてしまおうと思います。この法則の部分だけ抜き出しても、本作を読まないとなかなか伝わるものも伝わらないだろうから、これぐらい抜き出して書いてしまっても大丈夫だろうと勝手に思っているわけですが…。

『人を動かす三原則
「批判も非難もしない。苦情も言わない」
「率直で、誠実な評価を与える」
「強い欲求を起こさせる」』

本作には他にも、『人に好かれる六原則』や『人を説得する十二原則』や『人を変える九原則』などあり、それぞれに含蓄のある話がされるのだが、とりあえず『人を動かす三原則』について検証してみようと思います。
まず一つ目。『批判も非難もしない。苦情も言わない』については出来ると思います。つまり、今までやっていたことを踏みとどまって我慢すればいい話で、これは大丈夫だと思います。というか、ワードで20枚の要望書を出して以降は特別非難や批判をすることもなく、まあそれなりに平穏にやれているとは思います。ただこれに関しては難しいところがあって、僕のこれまでの態度がこれまでなので、こちらが批判していない時でも相手が批判されたと感じるケースが出てくるだろうな、という点です。これはまあ、長い時間を掛けて僕のイメージを修正していくしかないのだろうなとは思います。ここが、まあ努力のしどころといいますか。
しかし、二つ目と三つ目はなかなか難しいと僕は思うわけです。
二つ目の『率直で、誠実な評価を与える』に関しては、まさに先ほど言った、下の立場の人間が上司を動かすという構造的な逆転に関係してきます。評価を与えるというのは結局のところ、上の立場の人間が下の立場の人間にすることなわけです。もちろん出来ないことはないでしょうが、しかしそれをやり続けるというのはどうも立場的に不自然であるという感じがします。まあ出来たところで、上司に関する評価を周囲にそれとなく流し、その噂が上司の耳に入ることを期待する、くらいのことでしょうか。そういう風に、何らかの手を加えないとこれに関してはなかなか難しいのではないかと思っています。
これに替わる手段としては、恐らく『感謝する』というものが当てはまるのだろうな、と思います。これは一つ目の『批判も非難もしない。苦情も言わない』と似た部分はありますが、より積極性を持たせたものというわけです。上司の何らかの仕事に対して感謝の意を示す。これは僕の性格的になかなか難しい話ではありますが、まあしかしやるべきことではあるだろうなと思います。うーん、難しい。感謝するというのがどうも苦手なのである。
まあそんなわけで三つ目だが、『強い欲求を起こさせる』というのも実際問題、非常に難しいのである。
何故か。
僕は本屋で働いているわけで、僕がとにかく強く持っている欲求は、『本を一冊でも多く売りたい』ということである。とにかくこれは、僕の仕事における基本であり、またほとんどの書店員がそうだろうし、そうであるべきだと思います。書店というのはなかなか特殊な世界であって、書店員の売りたいという思いがより売れ行きに反映するわけです。これほど売りたいという意思と売れ行きが比例する世界も珍しいのではないか、と僕は勝手に思っているんですけどどうでしょうか。
さて話が多少ずれましたが、僕としてはこの『本を一冊でも多く売りたい』というのは当然の欲求で、呼吸をするように当たり前のことだったりするわけです。
しかし、当店の社員にはそれは当てはまらないように思えます。社員に限らず担当を持っている多くのスタッフがそうなのですが、当店は本に関心のある人間があまりにも少ないと思うわけです。当然、『本を売りたい』と思ってるとは思えないわけで、それは社員にしても同様です。
僕はもう結構長いこと今のバイト先で働いていますが、社員が一体何を求めてあそこで働いているのか未だに分からないのです。あの店で働くことでどうしたいのかというのが見えてきません。
三つ目の法則は要するに、相手にこれがしたいと強く思わせるということですけど、僕には彼らの欲求がイマイチ理解できないので何かを強く思わせることが出来ないのではないかと思うのです。少しでも本に関心があれば、その関心がある分野について売上を伸ばそうではないか、という欲求を起こさせることも可能かもしれませんが、そういうものも特に見つけられません。また本をたくさん売るというのでなくても、例えばこの本屋を有名にしたいだとか、この分野には強い本屋にしたいとか、そういうようなことも全然見出すことが出来ません。ただ彼らは、日々ルーティンを、まるでそれが作業であるかのように淡々とこなして行くので、彼らが何を求めて働いているのかよく理解できないわけです。これはまだまだ観察が足りないだけという可能性もありますし、もっと積極的に仲良くなってお互いを知るべきだということもあるのかもしれませんが、しかし僕の想像ではあまりそれは見込みがなさそうな気がしてしまうわけです。本当に彼らは本に興味がないので、何故彼らが本屋で働いているのか未だに僕には理解することが出来ないでいます。
さて上記三つの法則以外にも、本作には様々な法則が書かれています。僕が実行できそうなもの、という基準でちょっと抜き出してみようと思います。

『議論に勝つ唯一の方法として議論を避ける』
『相手の意見に敬意を払い、誤りを指摘しない』
『自分の誤りをただちにこころよく認める』
『相手が即座にイエスと答える問題を選ぶ』
『相手にしゃべらせる』
『相手に思いつかせる』
『遠回しに注意を与える』
『まず自分の誤りを話したあと相手に注意する』
『命令をせず、意見を求める』
『顔をたてる』

と言ったような感じです。
僕が本作を読んで思ったことは、部下(厳密には僕には部下はいないのだけど、適当な表現がないので部下という言葉を使います)に対しては割と本作に書かれたような法則を使って接しているような気がするな、ということです。もちろん完全に出来ていると言いたいわけでも、自分がすごいと言いたいわけでもないわけで、本作に書かれたようなことの100万分の1も出来ていないとは思うんですけど、でも発想としては近いものを持っている気がします(つまり何が言いたいかと言えば、発想としては持ってるけど実践できてないってことなんですけど)。間違っていても直接には指摘せず、小さなことでも褒める。自分だってよく間違えると言いながら相手に指摘をするし、意見を求めることも多い。相手に期待をかけて相手に何かを完全に任せるというようなこともします。もちろん出来ていないことの方が多いし、出来ていると思っているものでも圧倒的に足りないとは思うんですけど、部下を動かす方に関してはまだ望みはあるかなと思いました。
ただ僕の欠点は、誰に対してもそれが出来るわけではないという点です。僕が上記のような扱いが出来るのは、そこそこ仕事の出来る部下に対してだけで、仕事が出来ないと一度判断してしまうとその人を完全にシャットアウトしてしまう傾向がありました。もうそれについては最悪なので、これから少しずつ直して行ければいいと思いますが。
でもホント仕事が出来ない人はいるんです。能力的に出来ないというのであればまだ僕は許せるし、対処のしようはあると思うんですけど、やる気がないというのはちょっと僕はお手上げです。相手にやる気を出させるというのは僕にとってはかなり苦手な分野で、そういう意味では部下を動かせるなんて言ってはいけないだろうなと思ったり。はい、反省します。
まあいろんな意味でこれまでの僕は間違っていたわけで、それを気づかせてくれた人がいるわけで、それには大きな感謝だなと思います。僕はこれまで、人になるべく怒られないようにして生きていこうというスタンスで生きてきたので、実際ほとんど怒られずに子供時代を過ごしているので、本当に怒られ慣れていません。怒られるとすぐヘコむしガックリと来てしまいます。ただそれでもとりあえず前に進むしかないわけで、本作に書かれていることを実行することは今の僕にはかなり難しいところではありますが(長年この性格で生きてきたので、それを今から変えていくというのはなかなか困難が伴います)、でも出来ることから、時間が掛かっても努力して行ければな、と思います。
本作はとにかく名著として誉高い作品ですが、本当に一読の価値のある作品だと思いました。タイトルは「人を動かす」になっていますが、人を動かすことについてだけではなく、人間関係のあらゆる場面において活用できる法則が、その膨大な実例と共に載っています。もちろん一度読むだけで何かが変わるというわけではないでしょう。読んで実行し、また読んで実行しということを繰り返して行きながら自分のものにしていくしかないだろうな、と思います。
とにかくあらゆる意味で人間関係をどうにかしたいと思っている人。あるいは、今のところ自覚はないけどもしかしたら人間関係において間違ったことをしているかもしれないと思ってみようという人。そういう人に是非読んで欲しい作品です。僕はまあ接客業の仕事をしているわけですけど、本当に世の中には様々な人がいて、会計の度にありがとうと言ってくれる人から(これは普通のことに思えるかもしれませんが、しかし自分が買い物をする時のことを思い出してください。言ってますか?)、些細なことから文句を言ってくる人まで本当に千差万別です。そのありとあらゆる人に対処できる万能の法則などあるわけがないですが、しかし本作はその基本的で普遍的な考えについて丁寧に書いてくれています。世の中のすべての人が本作を読みそれを実行したらそれはそれで気持ち悪いと思いますが(笑)、しかし多くの人に知って欲しいと思える内容でもあります。すぐに実行できるかどうかは別として、とりあえず読んでみることをオススメします。読むことで自分が自覚していなかった過ちについて知ることが出来るかもしれないし、今直面している問題を解決する手立てを得ることが出来るかもしれません。たった数時間読むだけで、本の値段以上の価値を得られることは間違いないでしょう。是非読んでみてください。もちろん世の中には、こんな本読まなくたってここに書いてあることぐらい知ってるわよ、という人もいるかもしれませんが。そういう人は既に成功しているでしょうから、ますます本作を読む必要はないんだろうなと思います。とまあ余談でした。

D・カーネギー「人を動かす」




なぜこの方程式は解けないか?(マリオ・リヴィオ)

人が美しさを感じるその仕組みには、一体どんなものがあるのだろう。
例えば人間の美しさはどうだろう。誰もがそれぞれの好みがあり一概には言えないが、しかし大まかに言ってこの人は美人だ、というようなコンセンサスみたいなものはあるはずだ。雑誌の表紙を飾るような人は要するに、世間的に美しいと思われるような人、ということである。
さて問題は、その誰かを美しいと感じるのは、先天的なものなのか、あるいは後天的なものなのか、ということだ。人間にはそもそも美醜を判断するような基準があり、その基準に沿って判断を下しているのか、あるいは、生きていく中で接した様々な情報によって後天的に培われるものなのか。時代や国によっても美人の評価というのが変わるのであるからそれは後天的だと判断できるかもしれないが、しかし一方で美しさの何らかの基準が存在するという実験結果もあったりする。
これは人の美醜だけに関わらない。
例えば美術はどうだろう。ある絵を見て美しいと感じるかどうか、これももちろん個人差があるのだが、しかしそれも先天的なものか後天的なものかという問題がある。音楽にしても同じで、美しいと感じるその基準は一体どこで作られているのだろうと思う。
ある時から、そうしたありとあらゆる美しさについて、数学的に記述してみようという動きが出てきた。つまり、人が何を美しいと感じるかという問題を、数学の問題として扱うことが出来るのではないか、という発想だ。
もちろん、厳密に数式ですべてを処理出来るわけではない。しかし長年の研究によって、美しさの中にはある種の対称性が潜んでいるはずだ、ということが次第に分かってくるようになる。
対称性というのは言葉通りで、左右対称だとか点対称だとかというような、ある一定の規則によって並んでいるようなもののことである。数学的な言い方をすれば、ある何らかの操作を加えても変化のないもの、ということになる。
例えば正三角形を考えてみよう。これは誰もが美しい形、整った形であると判断するだろうが、正三角形には当然対称性が備わっている。左右対称であるし、また60度、120度、240度回転をしても変わらないので回転対称性を備えていると言える。数学的な言葉で言えば、60度の回転という操作を加えても変化がない、ということになる。
美しさの根底にはこの対称性というものが深く関わっているはずだということまでは分かるが、しかしこの対称性という問題はそのままではどうも数学的に扱いづらい。どういう対称の種類があるのか、あるいはそれぞれがどういう性質を持つのかを記述することは出来るが、しかしそこから先に進むことはなかなか難しい。
そこで群論というものが威力を発揮する。
こう書くと、対称性の研究を押し進めるために群論というものが発展して行ったかに思えるが、しかしまったく事実は違う。この群論という発想は、ある若き、かつ非業な数学者が、五次以上の方程式を公式によって解くことが出来るか、という命題について考える際に生み出されたものなのである。方程式の解の公式と群論というものがどう結びつくのかという点については、僕の力が及べば後で触れることにします。
さてでは群論とはどんなものかということです。
群論とは、非常にシンプルな4つのルールによって組み立てられるものです。その4つのルールというのは、

・ある群の二つの要素(これを元という)にある操作を加えた結果もその群の元になる
・元を組み合わせる場合、その順番には関係がない
・どの元と組み合わせても変化がないような元(これを単位元と呼ぶ)がなくてはならない
・どの元に対しても、その逆の元(これを逆元という)がなくてはならない。ある元とその逆元を組み合わせると単位元になる

となる。
非常に簡単で明快な例としては、整数の群というものを挙げることが出来る。整数は足し算という操作に関して群を成す。

・整数を二つ選んで足しても、その結果は整数になる
・1+2も2+1も同じである
・単位元は0である
・逆元はそれぞれの元に-をつければいい

こういった形で、ありとあらゆる集合が群を成すことを示すことが出来るのである。また、対称性を成すものはかならず群を成すということも証明されている。
この群という視点で物事を見るというのはどういうことかといえば、物事を単純化しその本質だけを抽出するということだ。この群という発想を使えば、バラバラに思えるいくつもの事象が、実は同じ本質を持ったものだということを理解することが出来る。具体例を挙げるのはなかなか難しいので避けるが、この事象を抽象化しその特徴を比較できるという特徴は、数学だけに限らずありとあらゆる分野において絶大な威力を発揮してきた。
さてではこの群論というアイデアを数学界に持ち込んだ若き天才の話をしよう。20歳で不運にもこの世を去ったガロアである。
ガロアの時代、世の中では五次方程式の解の公式を見つけようと躍起になっていた。というのも、四次方程式までは解の公式を発見できたのだが、以後長い間多くの数学者が挑戦したにも関わらず、五次方程式の解の方程式を見つけることが出来なかったのだ。
ガロアも初めは、解の方程式が存在するという前提の元で研究を進めていたが、途中で存在しないのではないかという方向へとシフトした。それからのガロアの発想については、数学界ではかつてこれほどのものはなかったのではないかと賞賛されるほど見事なもので、若き天才はまさに、何もないところから独力で群論という輝かしい分野を切り拓いたのだ。
しかしこれほどの成果にも関わらず、ガロアのアイデアがあまりに革新的であったため、かつ当時の数学界のトップが五次方程式に解の公式がないことを認められなかったために、ガロアは生きている間碌な評価を得られなかった。貧困に付きまとわれ最後には決闘によって命を落とすというかなり波乱万丈な人生を送った数学者でもある。
ガロアが五次以上の方程式を扱う際に何を考えたのかということを説明するのは非常に難しい(というか僕自身があまり理解出来ていない)。それでも何とか説明を試みるとこうなる。
ガロアはまず、その類稀な発想の飛躍によって群というものを定義した。そして、方程式のn個の解を元とする群を考えたのである。ガロアは最終的に、その群がある性質を持っているならば方程式を公式によって解くことが出来る、ということを示したのだ。残念ながら、五次方程式についてはその条件が当てはまらず、つまり五次方程式は公式によっては解けないということが示されたのであった。
五次方程式を解くという数学の問題が、群論という、数学史上最高と言ってもいいぐらい素晴らしい分野を生み出した。そしてそれを成し遂げたのは、若干20歳の若い数学者であったのだ。こういう本を読むと本当に数学というのは面白いなと思うのである。
本作を僕は数学の本だと思って買ったのだけど、読んでみてちょっと違うかなという風に思いました。五次方程式にまつわる歴史的な流れや対称性に関するありとあらゆる事例みたいなものに多くページを割かれていて、純粋に数学を楽しめるという内容ではない気がしました。実際読んでいて、結構飛ばし読みをしてしまいました。数学者の人生についての記述も面白いといえば面白いんですけど、時代背景やその他細々としたことが多すぎて、もっと数学の話に的を絞ってくれたらよかったのになぁ、と思ったりしました。
群論の話は非常に面白かったし、五次方程式の問題からどうやって群論が生まれたのかというのもいいと思ったのだけど、でもその群論というのが対称性の研究にどれだけ使われているかという部分があまりなかったような気もしました。対称性についての話はいくつもあったのだけど、それは群論とは関係ない部分での話で、ちょっとその辺りも物足りなかったかなという気がしました。
面白い部分もありましたが、全体的にはちょっと物足りない作品でした。もうちょっとうまく書けたのではないか、という風に思わなくもありません。ちょっとあんまりオススメは出来ないかもしれません。興味があるという方はどうぞ。

マリオ・リヴィオ「なぜこの方程式は解けないか?」




クジラの彼(有川浩)

大きな視点で見れば世界は最終的にたった一つに集約されるのだけど、しかしやはり小さな視点で見るとそこかしこに世界というのはある。僕らの知らない世界があちらこちらに散らばっている。
世の中にはいろんな人がいて、牛丼屋でアルバイトをしている人もいれば、給食センターで働いている人もいるし、ボランティアでアフリカに行っている人もいれば、蟻の生態について調べている人もいる。ホームレスにも会社社長にも、AV女優にも市長にもそれぞれの世界があって、それぞれが小さな世界を作っている。
そして、間違いなくそのすべての小さな世界の中で恋愛というものが存在している。
恋愛というのは水みたいなもので、どんな場所にだって入り込んでしまう。年齢や環境などとは無関係に、恋愛の存在しないところはないと言ってしまっていいだろう。どんな世界にも何らかの形で恋愛は存在するわけで、そこに例外はない。
それが自衛隊という環境であってもだ。
自衛隊というのは僕からすれば非常に遠い存在だ。日本を守ってくれる存在ではあるのだろうが、しかしどうしたって守られているという実感には乏しい。災害などが起こった際に派遣されるケースが多いが、それにしたって僕はあまり関わったことがないし、僕と自衛隊という世界は結局交わることがない。
だからよくわからないイメージばかりが先行してしまうのだが、そこで起こっているはずの恋愛という部分にはなかなか想像が向かない。自衛隊というと、男ばかりの世界でものすごく閉鎖的で、外との交流があまりなく、そこに恋愛が存在するということについてあまりスムーズにイメージが出来ない。北海道で暮らしたことのない僕が北海道での冬の生活が想像できないように、自衛隊における恋愛というのもやはり想像できないものだ。
しかし、だからと言って恋愛が存在しないということはありえない。
知らない世界のことを知るというのは純粋に楽しいものだ。知るだけで自分の世界が広がるというのでは決してないが、しかし知らなかったことを知ることで見えてくるものはある。
実際、自衛隊における恋愛というのは相当に厳しいものがある。まず「普通」ということがありえない。異動も頻繁にあって必然的に遠距離恋愛になることもあるし、そもそも自衛隊の外の人との出会いが極端に少ない。基本的に寮のような生活なので外泊許可なども取らなくてはいけないし、機密をもらすことも出来ない。陸にいる人間ならまだしも、潜水艦乗りであればさらにその難易度は上がる。そもそも次いつ会うことが出来るかということすらさっぱり分からないのである。
そんな「普通」ではない恋愛の形を見ていると、僕らが「普通」だと思っている恋愛のなんと自由なことか、ということを実感するだろう。僕らの「普通」の恋愛にも様々に不満を抱く人がいるだろうけど、しかし、こう言ってはなんだが、自衛隊の恋愛に比べたら非常にいい。知らない世界について知るというのはつまり、自分が今いる世界と比較をするということでもあり、そこから見えてくるものもたくさんあることだろう。
恋愛というのは、小説では使い古されたテーマだ。ありとあらゆる恋愛の形が描かれ、消費されてきた。しかしどうだろう。恋愛を通して未知の世界について知るという小説はまだまだ多くはないように思う。そういう意味でも、本作は非常に面白いと思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、自衛隊を舞台にした恋愛小説をまとめた短編集になっています。有川浩がこれまでに発表した作品(主に「空の中」と「海の底」)の登場人物が多数出てくるので、そういう意味でも楽しめる作品です。
それぞれの短編をざっと紹介します。

「クジラの彼」
小さな商社に勤める中峯聡子は、人数合わせのために呼ばれた合コンで、見せゴマとして呼ばれただけの冬原春臣という超イケメンを掴まえた。お互い気があったし、ものすごく気楽にいられる関係で、付き合っててすごく楽しい。
でも彼は、潜水艦乗りだった。機密なので、潜水艦の停泊スケジュールなんかも知ることは出来ない。潜水艦ではメールも電話も届かない。本当に、「ただ待つ」だけの超厳しい遠距離恋愛の始まりだった…。

「ロールアウト」
軍用機の設計を請け負う会社で航空設計士として働く宮田絵里は、ちょっとしたピンチに陥った。
男子トイレに入らなくてはいけなくなったのだ。
ヒアリングのために基地を訪れた絵里は、案内役である高科という幹部自衛官に連れられて、高科が「通路だ」と言い張る男子トイレを横切らなくてはいけなくなった。これはセクハラではないのか…と頭を過ぎるが仕方ない。しかしこれは、トイレとの関わりのほんの始まりにすぎなかった。
軍用機の設計に関して自衛官からの要望を聞くヒアリングの席で絵里は、高科からの要望を聞くことになった。そこでの第一の要望がトイレだった。とにかく、使いやすいトイレにしてほしい。絵里は孤軍奮闘高科の要望を組み込むべく奮闘するのだが…。

「国防レンアイ」
女性陸上自衛官はWACと呼ばれている。女の割合が圧倒的に少ない自衛隊のこと、とにかく性別さえ女であればどんな不細工でもモテる場所だ。WACの方もそれを知っていて、だから階級の高い男を狙おうとしている。
さて配属したしたての新人WACに、つまらない男に引っかかるんじゃない、と檄を飛ばしている上官がいる。女教官として勇名を馳せる三池舞子だ。彼女と同期である伸下は、彼女の下僕のような扱いを受けているのだ。
今日も呼び出されて、飲みに付き合わされることになった。
話はお決まりの失恋話だ。とにかく、基地外の男と付き合っては遊ばれて捨てられるということを繰り返しているのだ。歯がゆい思いが募るが、しかしそれを口に出すのは難しい。今日もただ黙々と彼女の愚痴を聞き続けるだけだ…。

「有能な彼女」
夏木大和には、付き合って三年になる、五歳年下の彼女がいる。海上自衛隊の中でも特に問題児で通っている夏木に、将来を嘱望され主流に乗ろうとしている望が、ある事件をきっかけにして押しかけるようにして夏木の元へとやってきたのだ。
今では上陸の度にウィークリーマンションを借りて同棲するようになっている。しかしまだ結婚という話にはならない。夏木はどうも臆病なところがあって、イマイチ踏み込めない。十年来の付き合いである冬原に、30を越えたらプロポーズするのも気後れするよと言われ、それが現実になっている。
有能で主流になろうとしている彼女に自分は釣り合うのだろうか…いつもそんなことばかり考えてしまう。

「脱柵エレジー」
脱柵、というのは一般的な言葉ではない。要するに脱走のことで、様々な理由で脱柵をする者が出てくる。人間関係が巧くいかない、訓練についていけない、規則だけの生活が嫌になったなど理由は様々だが、いつまでもなくならない理由に色恋沙汰がある。
今日も清田は、彼の部下である吉川がすんでのところで未然に防いだ脱柵未遂者の前に立っている。要するに遠くにいる彼女に会いにいこうとしたというよくある話で、しかし清田にはそんな脱柵未遂者の心を入れ替えるネタを持っている。
自身もかつて彼女に会うために脱柵を試みたことがあるのだ。そして部下である吉川も同じく。こうして脱柵未遂者を捕まえては、いつもそのネタを繰り返すことになるのだ…。

「ファイターパイロットの君」
五歳の娘が唐突に降ってきたもんのすごい話題があって、それは「パパとママが始めてチューをしたところ」というものだ。幼稚園でそういう話になったらしい。すげー話をしているものだ。
なんて感心している場合ではない、と高巳は思う。妻である光稀はファイターパイロットとして忙しくしているので、火事だのこういう子供とのやり取りは全部自分のところにやってくるのだ。
日本中を大混乱に陥れたある事件が終わったあと。
高巳と光稀はデートをする運びに。そういうことに全然慣れていない光稀はもう異常に可愛くて反則ではないかと何度も思った。
そうして、デートの帰りの車の中でキスをした。
なんていうことを大分縮めて娘に教えてあげる。
家に入らずにファイターパイロットなんて危ない仕事をしている光稀のことを、高巳の両親は苦々しく思ってる。隙あらば娘に光稀の悪口を吹き込もうとする。娘もそれで揺らいでいるようだ。
信じてあげてくれ。
高巳は娘にそう語りかける…。

というような話です。
いやはや、さすが有川浩です。この作品もメチャクチャ楽しませていただきました。
巻末に有川浩は、自分は活字で書かれたベタ甘ラブロマが大好きなんだ文句あるかこらぁ~、なんてことを書いてあるんですけど、いえいえ全然文句なんかありません。すごくいいと思いました。
本作は自衛官の恋愛を描いているわけで、かなり普通じゃない恋愛小説です。展開は、まあ有川浩自身が言っているようにベタですが、でも設定が普通ではないので非常に面白いです。恋愛を最優先には出来ない、常に何らかの天秤や壁が存在する中で、彼らがいかにして相手との関係を築いて行くのかというのが本当に読みどころで、普通の恋愛小説とは違った面白さがあると思いました。
また、自衛隊の恋愛を描くことで、自衛隊という未知の世界についても知ることが出来るのは面白いところですね。これまでも有川浩は自衛隊を描いた作品を書いていますが、それは非常時における自衛隊であって、なかなか彼らの日常というのは伝わってこないものです。本作は、もちろんすべてでも完全でもないでしょうけど、でも自衛隊の普段の生活を垣間見ることの出来る作品としても非常に面白いのではないかなと思います。
また本作は、「空の中」や「海の底」の登場人物がわらわら出てきて、それらの作品を既に読んでいる僕としては、なるほど面白いなぁ、というところもありました。「クジラの彼」「有能な彼女」は共に「海の底」に出てくるし、「ロールアウト」と「ファイターパイロットの君」は「空の中」だと思います。「国防レンアイ」と「脱柵エレジー」は分かりませんが、登場人物の名前がどことなく聞き覚えがある気がするので、どこかに出てきたのかもしれません。
特に冬原・夏木・光稀の話を読めたのがかなりよかったですね。三人ともかなり強烈なキャラクターで印象的だったので、彼らの恋愛の話は読んでてかなり楽しかったです。特に光稀に関してはかなり萌えました。超ツンデレなので、最高ですね。
有川浩は初めこそラノベから出てきましたが、今ではエンターテイメント作家として第一級の作家になったなという風に思います。とにかくどの作品を読んでもべらぼうに面白いわけで、すごいものだと思います。この作品も是非読んで欲しいなと思います。「空の中」や「海の底」を読んでるとより面白いとは思いますが、本作を読んだ後にそれを読んでもいいかもしれません。かなりオススメです。普通の恋愛小説に飽きた人にも、恋愛小説をあんまり読まない人にも勧められる作品です。是非読んでみてください。

有川浩「クジラの彼」


ウソの歴史博物館(アレックス・バーザ)

僕は昔、インターネットをうろうろと見ていて、こんな記事を見つけたことがある。

『「10桁で終了」 円周率ついに割り切れる』

いやホント、これには度肝を抜かれました。マジかよ!と驚いて、慌ててそのページをじっくり読む羽目になりました。そこには、こんな文章がありました。

『無限に続くと思われていた円周率がついに終りを迎えた。千葉電波大学の研究グループがこれまでの円周率演算プログラムに誤りがあったことを発見。同大のスーパーコンピュータ「ディープ・ホワイト」を使って改めて計算しなおしたところ、10桁目で割り切れたという。10桁目の最後の数字は「0」だった。

 千葉電波大学の研究グループの発表によると、円周率計算に際し、改めて既存の円周率計算プログラムを点検してみたところ、円周の誤差を修正する数値に誤りがあることに気が付いた。この数値を正常値に直して計算しなおしてみたところ、円周率は10桁で割り切れたという。

 同大の発表では円周率は「3.151673980」。3.1415・・・と続く、従来考えられていた数値は全くの誤りで、早急に修正が必要だという。また、これをうけて円周率暗記記録のギネス認定(5万4千桁)も取り消される見通し。

▽円周率暗記世界記録保持者の西岡さんの話
 死にたい。』

初めはホントだと僕も信じました。すげー、円周率って割り切れたんだ、と思って検索サイトで他のデータも見てみようと思って検索をしてみたんですけど、全然見つかりませんでした。そのうちよくよく考えてみれば、円周率の最後の数字が「0」ってのはどう考えてもおかしいな、と思いました。だって、最後の数字が「0」ってことは、要するに円周率は9桁だったということなわけで、なるほどこれは嘘なのか、と思いました。
この文章は、『虚構新聞』というサイトのもので、定期的に嘘の記事を発信するサイトなのだけど、その円周率の記事を読んで以来、僕は日々このサイトをチェックするようになりました。
現代では誰もがインターネットを使っていて、手軽に情報を発信できるようになったために、こうした嘘も簡単につくことが出来るようになりました。僕も自分のブログを使って他愛もない嘘をついたことがあるのだけど、まあやろうと思えばいくらでも出来るものです。
しかし昔に遡ってみれば、ペテンというのは一部の人たちのものでした。新聞社の人間や、あるいは巧妙な話術を持ったパフォーマーだけが操ることの出来るものだったわけです。
そういえば思い出しましたが、日本でももの凄い嘘記事が新聞に出たことがありますね。スポーツ紙だったと思いますが、「志村けん死亡」みたいな記事が一時期飛び交っていたような気がします。あれは一体なんだったんでしょうね。
嘘というのは、時に人を楽しませ、時に人を憤慨させるものですが、しかしこれからも消えることなく残り続けるでしょう。エイプリールフールには、未だに誰かに嘘をつこうかなと考えます。実際嘘をつくかどうかは別として、やはりエイプリールフールのような習慣が広まったのも、人々が嘘を求めているということの現われなのだろうなという風に思ったりします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、古今東西ありとあらゆる嘘をかき集めて紹介した本になっています。
もともとある学生が、卒業論文に取り組んでいる過程で様々な嘘にとりつかれてしまい、嘘についてまとめたウェブサイトを立ち上げたことがきっかけでした。そのサイトは毎月100万ヒットを記録する人気サイトになり、こうして書籍化が決まったようです。
本作の表紙はなかなかインパクトがあります。一葉の写真が載っているのだけど、それは9.11で崩壊したツインタワーの屋上で撮られた記念写真なのだけど、その背後にこれからビルに突っ込むだろう航空機が写っているという構図になっています。もちろん嘘の写真ですが、一瞬おっと思わせます。
こういう些細な嘘から、人を傷つけたり歴史を改変させるような嘘まで、ありとあらゆる嘘が載っています。エドガーアランポーやコナンドイルの話もあれば、あの有名な、「宇宙戦争」をラジオドラマで流した時の狂乱みたいなものも載っています。こうやって嘘を体系的にまとめたという点でこの本は悪くないかもしれません。
ただ読んでて面白いかというとちょっとなぁ、という感じがします。一番の理由は、ほとんどが外国の話だ、ということではないかと思います。日本の話も一つありましたが(藤村新一という考古学の第一人者が捏造をしていたという話)、本当にそれくらいで、他は全部アメリカだとかヨーロッパだとかの話でした。この日本版を誰かが作ってくれれば、結構面白いんじゃないかなと思うんですけど。
まあ軽く読むにはいい本だと思いますけど。短いネタがいくつも並んでいる形式なので、通勤電車なんかで読んだり、あるいはトイレに置いておいて少しずつ読むでもいいかもしれません。まあそんな感じの本です。

アレックス・バーザ「ウソの歴史博物館」



人生激場(三浦しをん)

変わった視点を持っている人というのはやはり羨ましいものだ。もう凡人の名を欲しいままにしている僕からすれば本当に憧れである。
そもそも僕は、三浦しをんとはそこまで大差ない生活をしているはずだ、という感覚がある。もちろん三浦しをんの生活について詳しいわけがないが、基本的に部屋にいてマンガだの本だのを読んだり、あるいはテレビを見たりし、時々外に出ては友人に会ったりするのである。
少なくとも、外面的な行動としては大差がないと思う。というか大差はないはずだ。僕だって、基本的には家とバイト先の往復の生活をしている。バイト先で数多くの他人と接触する機会があることを考えれば、三浦しをんよりもより刺激的な生活を送っていると言えるかもしれない。
しかし、客観的に判断をした場合、刺激的な生活をしているのは間違いなく三浦しをんの方である。
何なのだこの差は、と僕は憤慨するのだ。おかしいではないか。なぜ日がな一日家に閉じこもってあーでもないこーでもないと妄想に耽っている女子の方が刺激的な生活を送っていて、それとほぼ変わらない生活をしている僕の生活がどうしてここまで凡にまみれているというのだろうか。
まあその原因は恐らく観察力の差にあるのだろうと思う。
僕にはとにかく観察力というものが欠片もない。そういう機能が久しく退化してしまっているのではなかろうかと思うくらいだ。もう何年もお目に掛かっていないタレントのようなものである。あれ、あの人って今何してるんだろう?みたいな。話は大きく脱線するが、あのテレビでよくやってる「あの人は今」みたいな番組。よくあんなこと出来るなぁ、と思うのだ。だってあの番組の構造は、今売れて成功しているタレントが、何らかの理由で芸能界から去ったかつての同志をネタにするというものであるわけで、なんというか醜悪だなぁ、という感じがするのだ。以上脱線終了。
まあそれはいいのだが、つまり僕の場合、観察力が人より遥かに劣るために、何か周囲で刺激的な出来事が出来しても、それに気づかないのである。うまく掘り下げてやれば非常に面白くなるような出来事で溢れているはずなのに、どうにもそれに気づかないのである。
しかし、三浦しをんは見逃さないのだ。恐らく彼女を中心とした半径500mの円内は彼女のフィールドであって、その中で起こった出来事であれば水も漏らさぬような掬い上げ方をするのだろう。誰もが見過ごすような些細な出来事にさえ反応し、そこから想像の翼をこれでもかと言わんばかりに広げるのである。だからこそ、自己完結していながらも世界はどんどん広がって行くという、羨ましいんだか羨ましくないんだか正直よく分からない状態になったりするのである。
こういう三浦しをんみたいな存在を知ると、僕ももっと周りに気を配ってみれば刺激的な出来事に出会うことが出来るのではなかろうか、と思えてくる。しかし恐らくそれは無理だろう。何故ならば、三浦しをんには観察力という武器と共に、妄想力という武器まで兼ね備えているからである。
三浦しをんの妄想力は凄まじいものがあって、まさに火のないところに煙を立てるような働き方をする。まったく情報がゼロのところから、何の根拠も理由もないままに、勝手にあれこれと妄想を膨らませて行くのだ。その緻密さは恐るべきものがあって、恐らく大抵の人間はついていけないだろう。いやもしかすると最近この手合いが増えているのかもしれないという風にも思ったりする。あのBLのコミックを買っていくような人は、もしかしたら三浦しをん並の妄想力を有しているかもしれない。うーむ、それはそれで怖い。
何でもないはずの日常が、三浦しをんの手に掛かると鮮やかに非日常へとシフトする。それはまるで魔法のようでであり、誰もが三浦しをんのような魔法を持っていれば、人生はおろか世の中がどんどんよくなってくのではないかと思えるほどである。うーむしかしそうしたら引きこもりばかりになってしまうか…。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は三浦しをんは「週刊新潮」に連載していたもので、日常の雑多な出来事を妄想で味付けをして面白おかしく仕立て上げたエッセイになっています。
この『おもしろおかしく』という部分は本当に誇張ではない真実面白いわけで、思わずニヤリとさせられてしまうものばかりである。
一例を挙げると、本作の中には洗剤のCMの話が書いてある。これはどういうものかといえば、要するに洗剤のCMはおかしいぞ、という内容である。
洗剤のCMというのは今も昔もそこまで差がないわけで、どういう構成になっているかと言えば、まず子供が恐る恐る家に帰ってくる。で、ミーとソースだかなんだかをこぼしてしまった服をベッドの下に隠したりするのだ。でまあ当然の如くその服は母親に見つけられてしまうのだけど、しかしこの魔法のような洗剤を使えば白さ倍増、母親も娘もニッコリというあれである。
さて僕は別段疑問を抱かなかったのだけれども、三浦しをんはこのCMに大いに疑問を抱くのだという。それは、何故子供はあそこまで母親を恐れなくてはいけなかったのか、ということだ。
最後は結局母親も子供もニッコリなわけであるが、しかし冒頭の子供の怯えようはなかなかすごい。これはつまり、その家庭では日常的に虐待が行われているということではあるまいか。だから当然、ミーとソースの汚れをくっつけた服を母親の前に出すわけにはいかない。こっぴどく怒られるからである。
しかし服が見つかり、当然折檻が始まる。この子はなんて悪い子なのペンペン、と言った具合である。しかしそこに正義の味方洗剤マンがやってくる。奥さん、この洗剤を使えばそんな汚れたちどころに落ちますよ、と囁きかけるのだ。それを使った母親は汚れが落ちてすっきり、子供も母親の機嫌が直ってニッコリ、とそんな話なんじゃなかろうかと三浦しをんは指摘するのだ。それをあんなにコンパクトにまとめてしまうものだから、初めと終わりがどうもおかしなことになってしまうのだ。
洗剤のCMを見ても一向にそんなことを感じることのなかった僕は、やはり妄想力が足りないということでしょうか。僕はこの話を読んだだけで、三浦しをんよあんたはすごいよ、と思ったものである。よくもまあそこまで変なことを考えられるものだ、と思う。他にもこのエッセイは、コンドームはいつから世の中に広まったのか老人にインタビューするだとか高村薫の新刊の内容を僅かな手掛かりから勝手に推測するだとか、あまりの下痢のためにつんくの謝るとか、もうとにかくよく分からない話のオンパレードなわけです。これだけ日常の中に非日常を見出すことが出来たらそれはさぞ楽しいだろうなぁ、と思う次第である。
エッセイの本筋とは関係ないのだけど本作には一つ非常に興味深い話がありました。救助犬の話ですが、彼らもノイローゼになるという話だった。ニューヨークのテロの際に救助犬が借り出されたのだが、さすがにあの瓦礫の山から生存者を発見することは難しい。そうこうしていると救助犬が弱ってきたのだという。これだけ生存者を見つけられないということは、自分たちの能力が劣っているせいではないだろうか、と考えてしまうらしい。犬なのにその発想は偉い!と思うのだけど、じゃあどうするのかといえば、救助隊員が瓦礫の山に寝転がって生存者のサクラをし、それを救助犬が発見することで救助犬は回復するのだそうだ。すごい話だなぁ、と思ったものである。
まあそんなわけで本作には、日常を軽く逸脱した滅法面白い話が盛りだくさんです。これは是非読むべきでしょう。無茶苦茶面白いですよ。さすが、三浦しをん侮りがたし。かなりオススメである。

三浦しをん「人生激場」



 | ホーム |  »

プロフィール

通りすがり

Author:通りすがり
災害エバノ(災害時に役立ちそうな情報をまとめたサイト)

サイト全体の索引
--------------------------
著者名で記事を分けています

あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や行~わ行

乃木坂46関係の記事をまとめました
(「Nogizaka Journal」様に記事を掲載させていただいています)

本の感想以外の文章の索引(映画の感想もここにあります)

この本は、こんな人に読んで欲しい!!part1
この本は、こんな人に読んで欲しい!!part2

BL作品の感想をまとめました

管理人自身が選ぶ良記事リスト

アクセス数ランキングトップ50

TOEICの勉強を一切せずに、7ヶ月で485点から710点に上げた勉強法

一年間の勉強で、宅建・簿記2級を含む8つの資格に合格する勉強法

国語の授業が嫌いで仕方なかった僕が考える、「本の読み方・本屋の使い方」

2014の短歌まとめ



------------------------

本をたくさん読みます。
映画もたまに見ます。
短歌をやってた時期もあります。
資格を取りまくったこともあります。
英語を勉強してます。













下のバナーをクリックしていただけると、ブログのランキングが上がるっぽいです。気が向いた方、ご協力お願いします。
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

アフィリエイトです

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
本・雑誌
17位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
和書
12位
アクセスランキングを見る>>

アフィリエイトです

サイト内検索 作家名・作品名等を入れてみてくださいな

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ

Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

カウンター

2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)