黒夜行

>>2007年07月

滝山コミューン1974(原武史)

学校とはおかしなところである。
僕はどうしても学校というところにあまり馴染めなかった印象がある。別に友達がいなかったわけでも勉強がつまらなかったわけでもないのだが、学校というのは僕に違和感を与える場所だったというような質感が残っているのである。
やはりそれは、同じ年の子供たちが集団となって集っているというその異常さによるのであると思うのだ。
もちろん、ただ集っているだけなら問題ない。そういう場所は、学校でなくても他の場所でもあっただろう。塾にしてもそうだし、僕は別にやってなかったが習い事の場だってそうだろう。
学校が特殊であるのは、集団をより集団らしくしようという意識があるからだと僕は思うのだ。
分かりやすい例で言えば、行進だとか、「起立、気をつけ、礼」と言ったような行動に現れる。動きを統制しよう、という発想である。チャイムが鳴れば席につくように、廊下は走らないように。もちろん当然のルールであるのだが、その当然の範囲が学校というのは多少広かった印象がある。こんなことまで統制しなくてはいけないのか、というようなことが多かったような気がするのだ。
行動だけではない。
読書感想文を書くということにしても、授業で積極的な挙手を求めるということにしても、とにかく皆で同じ方向を向き進んでいこうという意識がそこにはある。たとえその方向に疑問を感じたとしても、それを止めるものはいない。子供はまだ幼すぎて判断に自信が持てないし、教師はそもそも思考を停止しているからである。
集団をより集団らしくする。
それは即ち、僕の中で宗教団体や軍隊と言ったものにイメージが直結する。学校は、個性を伸ばす場としてではなく、個性を埋没させ同じ方向に向かわせる場であるというイメージだ。それが僕には強い違和感を抱かせた。子供の頃も、その違和感を言葉にすることは出来なかったにしろ、違和感そのものは感じていたのではないかと僕は思う。
それは結局、教育とは一体なんなのかという疑問に直結するのだ。
僕の中でのイメージは、教育というのは個々の道を押し広げてあげるというイメージである。北に向かおうとしている子供がいれば北側を歩きやすくする、南へ向かう子供がいれば南側を歩きやすくする。もちろん全生徒にそれをやるのは無理だろうとは思うのだが、しかし理想としては教育というのはそうあるべきではないかと思う。
しかし実際は、子供を皆同じ方向に歩かせようという教育が成り立ってしまっている。皆で北に向かって歩きましょう。ほらほら、南に行くのは間違ってますよ、東に行くのは危ないですよ、西に行くのはもう少し大人になってからにしましょうね。そんなことをいいながら、全員を北に向かって誘導するのが、これまで行われてきた教育というものの正体ではないかと思うのである。
教育の場、即ち学校というのは、世間からいささか孤立したところにある。常識からも家庭からも僅かに距離を置いたところにあるような気がする。だからこそ、学校における異常さというものはなかなか気づかれにくい。そうやってこれまでも、学校という場が形成されてきたのである。
教育は時代を映す鏡であると思う。学校も時代によって大きく変化してきたことだろう。どの時代の教育が正しかったのかという議論も難しいだろう。これからも教育は変わっていくことだろう。恐らく、誰も教育の正しい姿というものを知らないままで。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、著者が子供の頃に住んでいた東京都の久留米一帯に存在した滝山団地と、その滝山団地が出来たことによって生徒数が急増した第七小学校についての記録である。
著者が描こうとする目標は、「滝山コミューン」についてである。
これは著者が便宜上そう呼ぶことにしたものであって、恐らく正式な名前がついているわけではない。著者が「滝山コミューン」という名称で何を指しているのかと言えば、1974年前後、第七小学校を舞台にした、滝山団地の保護者らを巻き込んだ、ある教育的改革のことを指している。PTAと学校が一体となって、当時広く信奉されていたある教育理論について実践していったその集団を「滝山コミューン」と呼んでいる。
ではそのある教育理論とは何か。
それは、全国生活指導研究協議会(全生研)が唱えた「学級集団づくり」というものである。
全生研は、日教組(僕はこの日教組というのが何なのかよく知らないけど)から派生した民間教育研究団体である。その全生研が唱えた「学級集団づくり」という指導方法が、第七小学校において、片山という教師を中心にして、というか片山という教師のほぼ独裁という形で実践されていった。
片山は4年5組のクラス担任となり、以後6年5組までクラス替えのない持ち上がりの同じクラスをずっと担当することになる。片山は、「学級集団づくり」で唱えられている指導を実践し、5組を学年全体のリーダー的な組にし、また6年の時には学校全体をも支配する大きな権力を持つに至ったのである。
では「学級集団づくり」とはどんな指導であるのか。
それは、一言で言ってしまえば、生徒が生徒を監視するシステム、というものである。
教室内に班を設け、常日頃からその班単位で競争をさせる。競争の結果最下位であった班は「ボロ班」と呼ばれ蔑まれる、という、今考えれば恐ろしい仕組みで成り立っていたものである。今こんなことをすれば、恐らくPTAから多大な文句がくるだろう。しかし当時は、そのPTAが片山の指導を支持した。
本作のスタンスは、そんな「滝山コミューン」の形成に至る過程を時代背景まで描写しながらつぶさに追っていくと共に、小学生であった著者がその「滝山コミューン」に感じたありあまる違和感について綴ったものになっています。
本作はちょっとどうも僕には難しい本で、さながら国語の教科書に載っていた評論文を読んでいるような感じでした。ところどころ文章が難解であるし、引用された文章はもっと意味が分からない。ちょくちょく関係のないところ(著者としては時代背景を描いているつもりなのだけどけど、僕には脱線にしか思えなかった)へと飛び、本筋が何なのかを見失いそうになったりという感じでした。ホント文章は、「傍線①の指している内容は何か」という問題文になりそうなくらい、ちょっと僕には合わない、評論文のような感じでした。
本作を読んでとにかく思ったことは、よくもまあそんな昔のことを覚えているなぁ、ということです。著者は今40代だそうですが、小学校の頃と言えば30年も前の話です。それを、さも昨日の出来事であるかのように描写しているわけです。この記憶力にはちょっと驚きますね。時々、「これこれだったかは思い出せない」みたいな記述があるのだけど、いやいやそもそもこれだけ覚えてられるなら充分でしょう、と思いました。固有名詞なんかは後々調べれば分かったかもしれないけど、学校の中での人の動き、誰がどんなことを喋ったか、というようなことも、まるでビデオカメラに撮って保存しておいたのではないかと思えるくらい詳細に書いていて、すごいなと思いました。
本作では、小学生だった著者が当時の学校のあり方に疑問を抱くというスタイルですけど、僕もその当時の学校にいたとしたら大きく違和感を感じただろうなと思います。もちろん、当時の教育に対して否定的な著者の一方的な文章しか読んでいないので、当時の学校教育について即断することは出来ないにせよ、本作で描かれていることが概ね正しいのであれば、ちょっとそれはあまりに異常だなという感想です。だって、小学生なのに、クラスで何か係を決める時に方針演説をするのである。例えばあるレクリエーションがあって、その係が「レク班」「歌声班」「日直班」とある。そしてクラスにはなんと、4つの班があるのだ。
これはどういうことかと言えば、班の数より係の数を減らすことで競争原理を組み込もうとしているのだ。係を得られない班は「ボロ班」と呼ばれる。そうならないためにも方針演説でいかにいいアピールをすることが出来るかが重要だ。しかし、小学生にこんなことをやらせてどうなるんだろう、という気がする。ちょっとおかしいと思う。
本作は、何故か知らないけどちょっと話題作っぽかったので読んでみたのだけど、とにかく、1974年当時の学校の雰囲気というものを何らかの形で知っている人でないとちょっと読むのはきついのでないかと思います。著者の学校と同じようなことが行われていたにしろいないにしろ、同時代の学校の雰囲気を知っている人であれば比較しながら読むことが出来ると思います。でも僕みたいに、そもそも当時の学校についてまるで知識のない人間が読んでも、あんまり得るものはないなぁ、という感じでした。
また、全体的に、著者の個人的な回想録という向きが強くて、有名人ならともかく特に名前も知らない人の回想録なんか読んでもなぁ、みたいな感じはあります。全然知らない人のアルバムを見てるような感じです。
まあそういう意味で、本作をオススメ出来る対象は結構限られてくるような気がします。僕自身は、あんまりオススメはしません。

原武史「滝山コミューン1974」



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数学ガール(結城浩)

僕は結構数学が好きである。
まあ好きであることと得意であることは、残念ながら必ずしも一致しない。確かに学生時代の数学の成績は決して悪いものではなかったし、むしろいいと言ってもよかったレベルだと思う。しかしそれは、受験数学を解くための知識であり、数学を解いていたというものではない。受験数学も確かに面白い。けれど、数学はもっと面白いのである。
僕がどれだけ数学が好きかということを証明しよう。
僕は今年の一月にエジプトへ旅行に行ったのだけど、飛行機に乗っている時間が片道で15時間とかそんなレベルであった。僕は本を読むのが好きだけど、15時間もあったら最低でも3冊は読める。行き帰りのことを考えると、最低でも6冊の本が必要になる。これは結構荷物になるなぁと思って諦めたのだ。
そこで僕が考えた作戦が、数学の問題集を持っていく、というものだった。講談社ブルーバックス新書から出ている「入試数学伝説の良問100」という本を買い、ノートとペンを持って機内で数学の問題を解いていたのである。もちろん僕は、既に二次方程式の解の公式すら忘れているというくらい知識的には難アリの状態ではあっために、問題自体はほとんど解けなかったのだけど、しかし数学の問題を考えるというのはやはり娯楽であるなぁ、と僕は思ったものだ。
ちなみにこの問題集は、我が家にある友人がやってきた時にも活躍をした。同じく割と数学が好きなやつで、借りてきたDVDで映画を見ながら同時に数学の問題を解いている内に、そのうち映画を完全に放り出して数学の問題を解いていたこともある。
また僕は今、毎日数学のサイトを見ている。
僕が見ているのは、「数学の部屋」というサイトの掲示板と、「高校数学良問」というサイトの二つである。どちらも相応にレベルが高く、ほとんどの問題は自力では解けない。解けたとしても正確な論証は出来ないのだけど、しかしこういう面白い問題が存在すること、そしてそれに対するエレガントな解答、さらにそんな問題を鮮やかに解くことが出来る人がいるということそのものが、本当に素晴らしいことであると思うのだ。
とにかくこれらのサイトを見ていて思うのは、世の中には恐るべき人がたくさんいるという事実である。とにかく、僕なんかからすれば何をとっかかりにしてやり始めればいいのかさっぱりお手上げであるという問題も、実にエレガントに解いてしまう人間がたくさんいるものである。
以前「数学の部屋」の掲示板に、こういう問題が分からないんですけど分かる方いますか?という投稿があった。

(√2+1)^500
((ルート2プラス1)の500乗)
の少数点第150位の数字を求めよ。

問題自体は誰でも理解できるだろう。(√2+1)という数字を500回掛け合わせた時、その小数第150位の数字は何か、という問題である。問題文の意味だけなら小学生でも分かる問題だ。
しかし、これを解かなくてはいけないとなると、何からやり始めればいいのかさっぱり分からないということになる。2乗や3乗の数字を実際に計算してみて傾向を知るとか、無理矢理500回掛け合わせる計算を手計算で何とか頑張る、くらいしか方針が立たない。
解答は実に素晴らしいものに仕上がっている。

(1+√2)^n=a[n]+b[n]√2 (a,bは自然数)とすると
(1-√2)^n=a[n]-b[n]√2
a[500]-b[500]√2=(1-√2)^500>0
また (√2-1)^3=5√2-7<1/10 なので
(∵(7+1/10)^2=7.1^2=50.41>50=(5√2)^2)
a[500]-b[500]√2=(1-√2)^500=(√2-1)^500
={(√2-1)^3}^166・(3-2√2)<(1/10)^166
よってb[500]√2は、自然数であるa[500]よりわずかに小さい数(差は1/10^166未満)であり、(1+√2)^500=a[500]+b[500]√2 は小数点以下に9が少なくとも166個並ぶ。
よって小数第150位の数字は9。

どうだろうか。つまり(1+√2)の500乗について考えるのではなく、(1-√2)の500乗について考えるのである。それによって、500乗した時の整数部分とルートの部分の差について考える。その差を出してみると、500乗したときのルートの部分は、整数部分よりもほんの少しだけ小さいということがわかる。この「ほんの少しだけ」というのがどれくらいであるかといえば、0.1を166乗したよりも小さい、ということだ。0.1を166乗した数というのは小数点以下に0がずっと並ぶということであり、ルートの部分が整数部分より0.1を166乗した数よりほんの少し小さいということは、つまり小数点150位の数字は9であるということになるのである。
確かに、解答は理解することが出来る。しかし、どうやったらこんな解答を導き出すことが出来るのか、ということが僕には不可解であり、また数学の魅力でもある。
過去の偉人の歴史を知ることも非常に楽しい。
確かガウスだったと思うけど、当時の天才数学者であったガウスは小学生の頃、先生に1から1000までの数字を全部足し算するように言われる。もちろん先生としては、その計算には時間が掛かるだろうということで出した問題だ。しかしガウスはその問題を一瞬にして解いてしまう。この話は有名だから知っているだろうけど、1と1000を足す、2と999を足す、3と998を足す…ということを続けると、1001という数字が500個出来る。だから総和は500500である。
もちろんこんなことは今では誰だって出来る。しかし小学生の時に教えられもしないうちからこんな解法を見つけ出すことが出来るものだろうか?その過程に見せられてしまうのである。
数学というのはとにかく美しさを追求する。とにかく数学というのはシンプルであり整然としていて、そこには必ず美が存在する。誰もがその美しさを求めて数式を操る。
そして何より、数学というのは完璧な体系である。数学的に証明されたことはどんなことがあっても覆ることはない。例えば他の分野ではそんなことはない。物理や化学の世界で今信じられている理論も、もしかしたら明日にでも覆るかもしれない。また歴史なんかは常に改変されていると言ってもいいだろう。
数学だけが、常に完璧である。不完全性定理なんてものが存在して、どんなことをしても完璧な数学的体系を作り出すことは出来ないということが証明されてしまったが、しかしそれが数学の完璧性を奪うわけではない。数学は完璧であり、どこまでも美しい。
例えば異星人とのコンタクトがあるとする。僕らが使っているどんな言葉も相手には通じないし、ジェスチャーも通らない。しかし、数学の体系だけは宇宙のどこでも同じである。確かに異星人には「1」という数字の意味は分からないかもしれないが、しかし図示された円の意味は分かるだろう。数学だけが、唯一言葉を超えてコミュニケーションを取ることが出来る分野なのである。
受験数学に追われて数学に嫌気が指してしまうのはもったいない。数学の奥深さ、そして美しさを、もっと多くの人に(というかまずは自分が)理解してくれればいいなと思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
主人公であるぼくは高校生になった。彼の趣味は、数式を展開すること。つまり数学だ。中学時代も、ずっと図書室にこもっては数学的な思索にふけっていた。
同じクラスにミルカという少女がいる。とにかく数学のことになると彼女はすごい。勝手にぼくのノートに書き込みをしたり突然講義を始めたりするところがあるけれども、しかしミルカとの数学談義にはいつも引き込まれる。
二年になる。ぼくはある後輩の女の子から手紙をもらう。そこには、数学のことをいろいろ聞きたい、教えてもらえないですか、というようなことが書いてあった。
彼女の名はテトラ。数学はまだまだ勉強し始めで疑問だらけだけど、でもきちんと勉強したいという意欲の伝わってくる子だ。分からないところがあればすぐに聞くという姿勢もいい。
ぼくはこうして、ミルカとテトラという女性と数学を介した交流を続けることになる…。
というような話です。
本作は小説ではありません。純粋に数学の本です。もともとウェブで連載されていたものを本にまとめたもののようですが、いや~、ホント面白い本でした。数学がちょっとでも好きだという人にはかなりオススメできます。
本作で触れられる話題はかなり多岐に渡っていて、何か統一性があるというわけではありません。ミルカが唐突に話し出すトピック、テトラが分からないところを質問するケース、また数学の村木先生が出してくれる興味深い問題を三人で解くケース。あるいは主人公が独自に思索に入るケース。いろいろである。
内容は、冒頭でも書かれているように、小学生にも分かるものから大学生にも難しいものまで様々である。大別すれば、テトラからの質問に答える部分は小学生にも理解できる話で、ミルカや村木先生が出してくる話はかなり難解なものが多いという感じです。
本作を読んで一番驚いたのは、フィボナッチ数列の一般項を求めることが出来るのだ、という事実です。
フィボナッチ数列というのは有名な数列で、
0、1、1、2、3、5、8、13、21、…
というように続いていく数列のことです。数字の並びをよく見れば規則性に気づくと思いますが、前の項とその前の項を足したものが数列として続いていきます。
0+1=1
1+1=2
1+2=3
2+3=5
3+5=8

と言った具合です。
僕はこのフィボナッチ数列自体は知っていましたが、まさかこの一般項を求めることが出来るとは思っていなかったのでかなり驚きました。
このフィボナッチ数列の一般項を求めるために概略をざっと書きましょう。
使うのは、母関数という概念です。
フィボナッチ数列は、
0、1、1、2、3、5、8、13、21、…
と続いていくわけですけど、この各項を係数に持つような関数を母関数として定義するわけです。この母関数をF(x)と置くと、
F(x)=0・x+1・x2(xの二乗)+1・x3+2・x4+…
となります。
ここからはちょっと簡単に説明するのは難しいのでざっと書きますが、この母関数の閉じた式(つまり…の部分のない式ということ)をまずは求め、それをさらに無限級数で表す。その無限級数のxnの項の係数Fnが、フィボナッチ数列の一般項ということになる。
ホント、数式を使わないで概略だけを文章で書くのは本当に難しいのだけど、これはホントにすごい。数列を関数として見るという発想も素晴らしいし、その関数を展開していくことで一般項が求められるなんてすごいと思いました。
一般項にはなんとルートの数なんかを含む大仰な式になっていて、整数の数列なのに一般項にルートなんだ、とそういう意味でもすごいなと思いました。
本作を読んで感じるのは、数学というのは答えは一つだけど、解き方は無限に存在するんだな、ということです。
後半で、分割数というものに関する問題を村木先生から出されるのだけど、これに対する三者の取り組みが全然違っていて面白い。もちろんミルカの解法がもっともエレガントで素晴らしいのだけど、さらにミルカは驚くべきことをする。主人公のぼくが途中で行き詰まった解法を発展させ、また別の道筋を見つけ出してしまうのである。数式を追っていくのは確かに結構大変だけど、でもちょっとワクワクするような展開でした。
また、数学というのは発想が本当に大事なのだなということも思いました。
主人公のぼくがテトラにsinxのテイラー展開についてひとしきり講義をした翌日、テトラは驚くべきことを口にするわけです。なんと、sinxを因数分解しよう、というのです。もちろんテトラだけの知識ではこの話は行き詰まってしまうのですが、ミルカの手助けもあって、このsinxの因数分解の話から驚くべき結論が導き出されてしまいます。しかもそれは、あの偉大な数学者であるオイラーの解法であるというのです。主人公のぼくさえ、sinxを因数分解しようなんて発想はしなかったわけで、とにかく知識や計算力が欠けていても、きらめくような発想さえあれば数学は光り輝くのだなという感じがしました。
本作ではミルカとテトラという二人の女の子が出てくるのだけど、この二人のキャラが非常にいいですね。まさにツンデレとドジっ娘という感じで、萌え的な要素もばっちりです。
ミルカはメガネを掛けた才女という感じで、いつもクールなのだけど、主人公のぼくがテトラと仲良くしているのを見ると足を踏んづけるみたいなところがあったりします。
テトラは元気っ娘でいつもはしゃいでいるような子で、完全な妹キャラです。数学の話があんまり分からなくても、この二人のキャラを追っているだけで充分楽しめるかもしれません。
とにかく、少しでも数学が好きという人にはオススメ出来る作品です。難しい話もありますが、基本的に優しく描かれているので大丈夫だと思います。読んでみてください。

結城浩「数学ガール」



僕はパパを殺すことに決めた(草薙厚子)

子供の頃、家出を計画したことが何度かある。
一番最初は、小学六年生の頃だったと思う。
正確には覚えていないのだが、ある日の家庭科の時間、普段そこまで仲がいいわけではない同級生の一人に、僕は突然こんなことを言ったのである。
「明日家出するつもりだ」
当時の僕が何を考えてそんなことを言ったのかさっぱり思い出せないが、しかしそんなことを言ったのは確かだったと思う。
その時は、実行には移さなかった。次の日、学校に行くのが嫌だったことを覚えている。でも、家出することを告げた友人に、何だ家出してないんじゃん、とか言われたような記憶はない。
その後も、正確な記憶こそないが、家出をしようと自分の中で決意を固め、思考を繰り返していた記憶がある。その間、実行に移すことはなかったのだが、しかし家を出たいという気持ちは、僕の中でずっと燻っていた。
一度だけ、実行に移したことがある。
確か高校生の頃だったと思う。
もう無理だと思い、少しずつ準備を重ねていた。家出する際に持っていく荷物を少しずつまとめ、また小遣いも少しずつためるようにした。そして夜中の1時過ぎだったか、僕は自転車に乗って家を出たのである。
どこにもあてはなかった。ただ僕は目的もないまま、ただ家から離れたいという理由だけのために自転車をこぎ続けていた。
途中で猛烈な不安に駆られた。
このまま家出をして、僕は生きていけるのだろうか、という不安だ。
行くあてもない。バイトなどの経験もなく、仕事が出来るわけもない。家もない。一体どうすればいいというのだろう。自分が無力であり、無力な自分はたとえ嫌でも家に帰られなくてはいけないのだ、と悟った。
それからは、泣きながら自転車を漕いで家に戻った。
母親が起きてくるまでに家に戻らなくてはいけない、と思ったのだ。
今はどうか知らないが、母親はとにかく起きるのが早かった。3時くらいには起きていたのである。だから、急いで返って布団に入らなければ、僕は家出を実行しようとしていたことがバレてしまう、と思った。
なんとか母親が帰ってくる前に家にたどり着くことが出来た。
だから結局、両親は僕が家出を計画していたことがあるということには気づかなかったはずだ。ただしこれについては僕の方で告白をしたことがある。大学三年になった頃、僕が引きこもり始めた当初のことである。
また僕は一度、万引きを店主に見つかったこともある。
僕の住んでいた町内に、小さなCDショップがあった。確かもうないはずだ。そのCDショップで僕は万引きをし、店主に見つかった。その時は幸いにも警察を呼ばれることはなく、店主からの注意で済んだのであるが、家に帰ると両親は泣いていた。
何故僕はこんな話をしているのか。
それは、とにかく僕は両親が、そして実家が嫌で嫌で仕方がなかったということである。
いつも逃げたいと思っていた。両親と顔を合わせ、適当な会話を交わし、一つ屋根の下に一緒に住んでいるというそのすべてのことが嫌だった。
僕の両親が、取り立てて僕に何かをしたということはない。むしろ兄弟の中でも僕は比較的いい風に扱われていただろうし、そういう意味での不満は特になかった。
僕が不満だったのは両親の喧嘩だった。
別に喧嘩と言えるほどすさまじいやり取りがあったわけではない。母親が父親に厭味をいい、それに父親は特に何かを言い返すわけでもなく受け入れる。そんな環境だった。
父親に厭味を言う理不尽な母親も嫌だったし、そんな厭味に口答えも碌にしなかった父親も嫌だった。
僕はとにかく、彼らとは距離を置きたいと考え、自分なりに最大限努力をした。いい子に見られるように手伝いなんかも積極的にし、またいろんな打算的な発想から勉強もバリバリやった。親に勉強しろなどと一度も言われた記憶はないが、自主的に勉強をし続けた。
恐らく親からすれば、別に不満のない、もしかすると自慢ですらあった息子であるかもしれない。成績はよかったし手伝いはするし反抗期も特にない。手も掛からないし素直だし、と言った印象だったかもしれない。
しかしそれはすべて、僕が作り出した幻想であって、極言すれば親は、僕の本来の姿をほぼ見たことがないと言えるだろう。
親から虐待をされていたり、またもっと酷い家庭環境にいる人からすれば、なんて程度の軽い悩みなんだと思われるかもしれないが、それでも僕としては結構大変だったのだ。子供時代を、ある種の自主的な抑制の元で過ごさなくてはいけなかったことは、今でも人格形成に大きな影響を与えているように思う。
だからこそ家出を企図したりもするし、万引きもしたのだ。
万引きは、こうやって万引きをすれば親は困惑するだろうな、という発想がどこかにあった。もちろん、基本的には見つかることが前提だったわけではない。ただ、もし見つかったとしても自分的には悪い方向にはいかないだろう、という発想があったと思う。
ただ、親を殺そうという発想は僕にはなかったな、と思う。そういう方向に、僕の思考は進んでいかなかった。
恐らく理由は二つあるだろう。
一つは、努力次第で回避可能な問題であったということだ。もちろんどの努力によって何かを諦めなくてはいけなかったりということもあったが、回避することが出来るという点が大きかったように思う。最悪逃げればいいだろうと思うくらいで、殺さなくてはいけないというほどでもなかった。
もう一つは、家から脱出するあてがあったということだ。それが大学進学であり、仮ではあるが、家から逃れるために手段がすぐ先にあったということがあるだろう。もう少し我慢しさえすれば、というような余裕があったために、親を殺すという発想にはならなかったのだろうなと思う。
ただそれは結局のところ、僕の運がよかったということでしかない。僕だって、あと少し何かがあれば親を殺すという発想に行き着いたかもしれないし、それを実行に移す事だってあったかもしれないのだ。
親殺しというのは重大な犯罪であると認識されている。昔は、普通の殺人事件と親を殺したのとでは罪の大きさが違ったような気がする。尊属殺人というのだったか。
しかし、環境としては、家庭というのはもっとも殺意の生まれやすい場所であると僕は思う。
何故なら殺意とは、基本的には人間関係の深さと比例するからである。
深くそして長く付き合った相手だからこそ、憎しみや恨みなどを持ちえる。もちろん、瞬間的にかっとなって、というようなケースもあるだろうが、基本的には人間関係の深さと関わりがあると僕は思う。
家庭の中で殺意が育つというのは、僕にとっては至極自然な発想だ。生まれた時からそこにある環境であり、特に子供にとってはそこがすべてであるとさえ言える。そこで、長い時間を経て殺意が芽生えていくというのはなんら特別なことではないと思うのだ。
この少年のケースもそうだった。
奈良県の優秀な進学高校に通っていた少年が、自宅にサラダ油を撒き放火したのは、2006年6月20日のこと。早朝未明のことで、自宅で寝ていた母(実母ではない)と弟と妹はその火事で命を落とした。放火した少年は逃走を試み、約60時間後警察に保護された。
本作のタイトル通り、少年の標的は父親ただ一人であった。母にも兄弟にもなんの恨みもなかった。しかし、唯一の標的だった父親を殺すことは出来なかった。というか、父親が不在であるということを知っていて、少年は火をつけたのだ。
6月20日。どうしてもその日までに放火をしなくてはいけない理由が少年にはあった。
少年が通っていた高校には、テスト毎に保護者を呼び、テストの点数や順位などを発表するような保護者会が存在した。その保護者会が開かれるのが6月20日だったのだ。
少年は、英語1のテストで、平均点よりも20点も低い点数をとってしまった。酷く怒られるだろうし殴られるだろうと判断した少年は、父親に「平均点より7点上だった」と伝えた。
この時には既に、父親を殺すことに決めている。理由はそう、平均点よりも20点も低い点数を取ってしまった、というそれだけの理由だ。
嘘をついたことは、6月20日の保護者会にはばれてしまう。その日までにはなんとかして父親を殺さなくてはならない。そうして、いかにして父親を殺すかという思考に少年は没頭する。
様々な思考を経て、少年は家に火をつけることを思い立ち、保護者会当日の朝それを実行した。
少年の置かれた環境は苛酷だった。
父親と実母の家系は医者や薬剤師ばかりであり、少年も子供の頃から医者になることが当然であるという風に育てられてきた。小学校に入る前から父親とのマンツーマンの勉強が開始され、それは少年が放火をする直前まで続けられることになる。
遊ぶことも大好きだったサッカーをすることも制限され、とにかく勉強だけの日々。成績は常にトップクラスであったが、父親から褒められた記憶はあまりない。とにかく悪い成績を取れば怒られる。日常的に暴力も受けていた。なんでこんな問題も解けないんだ、どうして居眠りをしてるんだ、と言っては殴られ蹴られた。それでも少年はなんとか我慢をし、父親の望むように勉強をし続けた。
もちろんそんな生活が破綻しないわけがない。当然の帰結として、放火という最悪な形でその生活には幕が下りた。
本作は、「奈良エリート少年自宅放火事件」と呼ばれることになるこの事件についてのルポタージュである。
著者は本作を出版するにあたって、理由を三つ述べている。
一つは、少年事件であるために真実が明かされなかったという点である。あらゆる少年事件について取材を続けた著者としては、少しでも真実を伝えたいということだろう。
二つ目は、これが「家族の中で起きた事件である」ということだ。つまり、外から見ている人間にはその真相は分からない。ならば知っている者が伝えなくてはならない。またそれを伝えることで、家族というものについて考え直してもらおうという意図もあっただろう。
三つ目は、誤報についてである。この事件が起こった当初、「継母と少年の関係」が事件の引き金になったと報道された。継母の両親としては、娘の名誉を回復させたいという気持ちもあったようだ。そういう意味でも本作の出版には意味があると言う。
さて、ここで疑問だが、著者は一体どのようにしてこの事件の真相について知ることが出来たのだろうか。少年事件の裁判は公開されないし、著者も述べているように、被害者や加害者の家族に取材をしようと思っても、誰も取材に応じてはくれなかった。これでは真実の知りようがない。
しかし著者には切り札があるのだ。
それが、この事件に関する捜査資料である。
どうやって入手したのかそこまでは触れられていないが、著者はこの事件に関する捜査資料を3000枚以上も入手したのだという。本作は実に、その7割以上がその捜査資料からの引用で出来ている。そこには、少年や少年の父親らの肉声が綴られている。
本来こうした形で捜査資料が世の中に出ることは好ましくないのだろうし、実際本作を巡っては、加害者の父親から訴えられているというニュースを見たこともある。勝手に捜査資料を本にして出版したのはなんとか権の心外だとかそういう話に今なっていて、出版停止の裁判をしているとかいう話だった。
しかし、この事件に関してはこの裁判資料の流出というのは非常に有効であっただろうと思う。同時に、加害者の父親にとっては非常に不愉快であるだろうな、とも。
とにかく本作を読んで僕が思ったことは、加害者の少年にはまったくもって非はないということだ。確かに少年は、自宅に放火をし、人を殺してしまった。しかしそれでも僕は、少年には非がないと言いたい。
少年にはそれ以外に手段がなかったのである。
本作中に引用された父親の供述調書の中で、こんな文章がある。

『でも私自身、なぜそんなことぐらいで火をつけたんだ、なぜ火をつける前に一言でもいいから言ってくれなかったんだ、としか言えません。』

この部分を読んだ時、この父親は頭がおかしいのではないか、と僕は思いました。ここで父親が言う「そんなことぐらい」というのは、先にも書いた、英語1のテストで平均点より20点も低い点数を取ってしまったことを指すのだが、「そんなことぐらい」で放火するように仕向けたのはまさにその父親なのである。
実際少年は、ことある毎に父親に主張をしている。ほんの僅かな反抗をするだけでさらに逆上するような父親に、自分のささやかな意見を伝えるだけでも相当な勇気がいっただろうと思うが、それでも、もうマンツーマンで勉強を監視するのは止めて欲しい、殴るのは辞めて欲しい、いい点を取ったならもっと褒めて欲しい、というようなことを口にしているのである。
しかし父親は、そんな言葉に耳を貸さない。一度など、学校の担任の先生を交えた話し合いの中で少年が父親への不満を口にし、それを聞いた父親がもう殴らないと言ったにも関わらず、その後暴力については一向に変わることがなかった。
その父親がである。「なぜ火をつける前に一言でもいいから言ってくれなかったんだ」などと言っても、こいつは馬鹿かとしか思えないのである。少年は一言どころか何度も言っているのである。父親がそれに気づかなかっただけである。
少年の方はもう理解していただろう。つまり、この父親に自分の言葉は通じないのだ、ということに。
こういう経験は、生きていれば結構あるものだ。僕も、自分の両親にそんな感情を持ったことがあるし、今もバイト先で同じようなことを思っている。
自分の言葉が通じない相手に自分の現状をどうしても訴えたい場合、そのためには相手が思ってもみないような驚くべき手段に出るしかないのだ。
少年の場合、父親のやり方に不満を抱いていたけど、しかしそれについて父親に文句を言っても言葉が通じることはない。周囲の人間に相談をしても、その悲壮さはなかなか言葉では伝わらない。
であればどうするべきかと言えば、「こんなことをしでかすくらいこいつは思いつめていたのか」と思わせるような行動を取るしかないのだ。
実際、僕が万引きをした背景にも似たような感情がある。僕の主張としては、万引きなんてしてしまうくらいあなた方は僕を追い詰めているのだ、という主張だった。もちろん僕はそれを言葉にして伝えてはいないので、僕のその意図は届いていないだろうが、子供というのはそういういろんな形でSOSを発するものなのだ。
少年としても、言葉の通じない父親に現状を理解させるにはよほどのことをしなくてはいけないという発想があっただろうと思うのだ。当初は父親を殺すつもりでいたが、結局は父親が不在のまま放火に及んでいる。これも最終的には、「これだけの事件を起こせば父親だって目を覚ますだろう」というような発想があったと思うのだ。
だからこそ僕は、少年に非はないと主張したいのだ。少年にもし非があったとすれば、それは暴力的で狭い価値観しか持っていない父親を持ってしまったことだけであり、それは少年に選べる類のことではないのだ。
少年事件が秘匿されるのには、少年の未来を考え、その更正に不利になるかもしれないという発想があると思う。しかしこの事件の場合、どこをどう探ってみても少年に非はなく、もちろん断言は出来ないが今後父親と関わりさえしなければ再犯の怖れもないだろうと思う。であれば、むしろこの事件に関して公にすることは、少年の更生にとっては非常に有利だとさえ僕には思えるのだ。
問題は、少年の父親である。この父親はまた結婚し子供をもうけるかもしれない。そうなれば、同じような悲劇が繰り返される怖れがある。真に対処しなくてはいけないのは、自宅を放火した少年の方ではなく、この父親の方である。
本書を巡って裁判沙汰になっているという話は上記で書いた。もちろん少年事件の捜査資料を勝手に出版することは何らかの罪に当たるのかもしれないが、しかし本作をきちんと読めば、むしろ少年の更生に一役買うという判断は出来てもおかしくないと思うのだ。であれば、父親としてはそれを歓迎してもいいのではないかという気もする。まあこの部分に関しては僕の間違った考えもあるかもしれないが。
恐らく父親が本書の出版を差し止めにしたい理由は、自分自身のことが悪い風に描かれているからだろう。とにかく利己的なのだ。自分が悪く描かれているから、何らかの法律的な理由を見出して訴えているのだろうと思う。とにかく、こんな大人がいるということがすべての元凶であると思うのだ。
もちろん、少年事件のすべてが親に原因があると暴論を言いたいわけではない。しかしそういうケースも多々あるだろうと思うのだ。家庭という環境は、殺意が芽生えるには充分な素養を備えている。家族を持っている方には今一度家族というもののあり方を考え直して欲しいと思う。
本作は、数ある少年事件の中の一つを扱った作品に過ぎないですけど、しかし読んで欲しいと思います。本作を読んだだけでどうなるというわけでもないですが、しかし貴重な少年自身の声を知ることが出来る作品です。一つに事例から本質を掴み取ることは難しいですが、何か家族というものについて考えるきっかけになるのではないかなと思います。

草薙厚子「僕はパパを殺すことに決めた」



でかい月だな(水森サトリ)

争いのない、平和な世界というのは、もちろん決して悪いものではないと思う。戦争を経験した国、あるいは直接戦争で命のやり取りをしたことのある人なんかは、心のどこかで同じようなことを考えているかもしれない。みんなが穏やかで諍いのない世界を実現するために努力をしている人もいる。
しかし、冷静に考えてみるとそれはちょっと怖い。
僕が普段行っている銭湯の近くに、集会場みたいな店舗がある。外から見ると何なのかよくわからない店舗なのだけど、店の中をちらりと見ると、そこにはパイプ椅子がずらりと並び、そこには老人がたくさん座っている光景を見ることが出来る。
あぁ、なるほどな、と思ってしまうのだ。
もちろんその集会場で何が行われているのか正確には知らないが、恐らく詐欺に近い何かではないかと思うのだ。老人を集め、初めの内は甘言を囁いて老人達を安心さえ、そのうち高い物を売りつけるというアレである。
争いのない世界というのは、どうにもそういう集会場みたいなイメージがあるのだ。
そういう集会場の中に僕が入ったとすれば、恐ろしいほどの違和感を感じることだろう。なんだこの雰囲気は、と。みんなどうして騙されていることに気づかないのだろうか、と。異様な雰囲気の中で、違和感を感じているのは自分だけという状況である。
また話は飛ぶが、以前ある有名な宗教団体のセミナーみたいなものに出たことがある。大学時代の友人に誘われて、何人かで参加したのだけど、この時の雰囲気も僕に違和感しか感じさせなかった。
小学校の体育館よりも広い畳敷きの部屋にうじゃうじゃと人がいて、その前面には巨大なテレビが据えられていた。そのセミナーでの記憶はほとんどなくて、誰がどんな話をしていたかなんて全然覚えていないのだけど、しかしあれだけの人が、なんの違和感もなくあれだけの場所に集い、なんの違和感もなく何か特別だと信じているものに向いている様子は、ちょっと僕には異様に思えた。
争いのない世界は、そんな雰囲気に近いような気がするのだ。
誰もが誰にも優しい。怒りや憎しみと言った感情はない。常にお互いを労わるような言動を繰り返し、すべてを美しい調和の中に閉じ込めようとするそのあり方には、違和感しか覚えないのではないかと思うのだ。
多少の悪意があるからこそ世の中は機能するのかもしれない。変な譬えだが、料理でも甘さを引き立てるために塩を入れたりする。塩を入れなければ甘味が引き立つことはない。世の中における悪意というのも、その塩みたいなもので、その悪意が存在するが故に、世の中の善意というものがより協調されて見えてくるのではないかという気もするのだ。
僕は、基本的には善意というのはあまり信じていないのだ。
僕は昔から、世界中の人間から嫌われていると信じて生きてきた。根拠があるわけでは全然ない。しかしこれは、僕が生きる上での道しるべでもあるし、また生きる上での前提にもなっている。
この考え方に、やろうと思えばいくらでも説明をつけることは出来る。今僕がふと思ったのは、ありもしない悪意を仮想的に設定することで、僕は人一倍善意を信じたいのではないか、ということだ。
あらゆる人から嫌われている、という悪意を仮想的に設定する。僕の立場としては、善意というものをまったく信じないというものであるはずだ。しかし逆の発想をすれば、僕は世の中に悪意という塩が必要であることを直感的に知っていたと言えるかもしれない。塩をどれくらい入れればいいのか僕には分からない。ただ、たくさん入れれば入れるほど甘味が増すと盲目的に信じているのかもしれない。
まあ本当のところは誰にも分からないわけだけれども。
悪意は人を傷つけ、傷つけられた人がまた悪意を持つ。悪意は連鎖し、遺伝する。恐らく世界は、あらかじめ悪意の存在ありきで作られたのだろう。だから僕らは、争いのない善意だけの世界を実現することは出来ない。それは理想であり夢であり仮想である。僕らはこれからも、様々な形に化けた悪意と向き合いながらも、ほんの僅か存在するかもしれない善意を期待しながら生きていくことだろう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
ぼくはある日、友人の綾瀬に崖から突き飛ばされ、右足に大怪我を負い死に掛けた。ぼくが手術に耐えながら入院をしている間、綾瀬は僕の知らないどこかで泣いて謝り、しかし理由については分からないと繰り返す。家族は被害者として疲弊する。友人たちは時々見舞いに来てくれた。年は流れ、彼らは中学三年になり、ぼくは入院とリハビリのために失った時間を、中学二年としてやり直すことになった。
学校に行き始めた僕は、様々な人間と出会うことになる。
バスケ部だったぼくは、しかしこの足ではもうバスケは出来ない。かつてのバスケ部の友人とはなんとなく疎遠になっていった。一方で僕が急速に仲良くなって行ったのが、学校でも伝説的な存在である中川だ。
中川は成績がトップクラスで、カリスマ的な存在感を放っているが、それゆえ誰も近づけない雰囲気がある。<錬金術同好会>というものに所属していて、とあるきっかけからその同好会に入ることになったぼくは、変人中川と親しくなっていった。
クラスには、横山かごめという女子がいる。いつも片目に眼帯をしている。伊達メガネならぬ伊達眼帯らしく、先生などにも時折注意をされるのだが、しかし外す気配はない。人形のようにひっそりとしていて、誰とも喋らず孤高を保っている。毎日のように挨拶をするのだが、返事が返ってきたことはない。
夢を見る。
それは「やつら」についての夢だ。「やつら」は人を乗っ取る。乗っ取られた人間は特別変化があるわけではない。しかし、「やつら」は争いを好まない。「やつら」に乗っ取られた人は表情を失い、口は魚臭くなるが、しかし一方で世の中はどんどんと平和になっていく。
ぼくはまだ「やつら」には乗っ取られていない。「やつら」と目を合わせないようにし、また能面のような表情を取り繕い、口を魚臭くするようにしている。
ただ思うのだ。どうして自分は「やつら」に取り込まれたくないのだろうか、と。取り込まれてしまえばこの不安な感じからは逃れることが出来る。だが、ぼくはやっぱりどうしても「やつら」に取り込まれたくはないのだ。
空に魚の姿を見てしまった。
その日以来、なんだかぼくの周りはおかしくなっていった。誰もが突然「やさしさ」に包まれたように態度が変わっていったのだ。みんなどうしたというのだろう…。
というような話です。
この本は、「メッタ斬り」の中で、その年の新人賞受賞作の中で唯一と言っていいほどよかった作品、という高い評価を受けていたので読んでみました。
その評価に違わず、なかなか面白い作品だったな、と思います。
ストーリーはなんとも説明できないくらい奇妙なもので、大怪我を負った少年を取り巻く雑多な出来事を描写しているとしか言いようがないのだけど、その不思議さ加減がなんとも言えずいいなと思う。
ガラスの欠片のような断片がいくつも組み合わさってストーリーが出来上がっているのだけど、その一つ一つがいい。大怪我を負った主人公とその家族の関係、大怪我を追わせた加害者とその被害者の関係、主人公が見る夢、学校や近所を取り巻く奇妙な変化、そういう一つ一つの話が微妙にズレた印象を与える感じで、そのズレた感じが僕にはいいと思えました。
また、中川と横山というキャラクターが非常にいいと思いました。
横山は、カリスマでありながら変人で、とにかく周りに誰も寄せ付けない雰囲気があるのだけど、何故か主人公だけは横山に近づくことが出来た。横山というのは本当に変なやつで、一緒にいても喋らないこともあるし、気も遣わない。なのに、もっと大きな意味で懐の深い男で、そのさりげなさが素晴らしい。主人公も、横山といるとなんだか気持ちがほぐれるような感じになるのだ。
僕はとにかく変人が大好きなのだけど、この中川という人間はいいなと思った。中川みたいな人間になりたいとさえ思ったりするのだ。だって、キャベツでバスケをするような男だよ?この発想と行動と、そして感情と気遣いみたいなものはなかなかすごい。羨ましいものである。詐欺師かもしれないけど、でもまあ中川みたいな詐欺師なら別に騙されてもいいか、と思う。
横山かごめもものすごくいい。前半ではその正体をほとんど現さないのだけど、後半ではもう全開になる。近くにいたらちょっと扱いに困りそうなキャラクターだけど、でもこういう女の子も結構悪くないと思わせる。不思議な少女でオカルティックなのだけど、まあなかなか楽しい子である。
そして何よりも、主人公自身がなかなかいい味を出している。
この主人公の持つ味というのはなかなか説明しずらいのだけど、どうも僕はこの主人公に共感できるのだ。周りの人間は主人公を見て、段々理解できない感覚を持つかもしれない。実際後半で主人公は家族と折り合いが悪くなる。しかしそうやって周囲と折り合いがつかなくなればなるほど、僕には彼のことが理解できてくる感じがするのだ。似ているのかもしれないな、とも思う。
ラストシーンもなかりいい。どんなラストなのかは書かないが、なんとなくしこりのようなものが残る感覚はあるものの、まあ仕方ないと思えるものだった。お互いの永遠の根性比べだという表現も、なかなかいいではないか。
この作家の作品をもっと読んでみたいなと思わせる作品でした。ファンタジーというほどファンタジーでもないのだけど、でもどこか現実から遊離しているような不思議な作風は、ちょっと僕には合っている感じがします。ちょっとなんとも説明し難い作品ではありますが、まあそんなに長い作品でもないし、ちょっと読んでみて欲しいかなと思ったりします。

水森サトリ「でかい月だな」



生物と無生物のあいだ(福岡伸一)

生物とはなんだろう、という一見簡単そうな問いかけが存在する。
あなたなら、どう答えるだろうか?
なかなか一息で説明しきるのは難しいことに気づくのではないか。呼吸をしている、子孫を残す、心臓が機能している。どういう表現をしても、どうもすっきりしない。こう考えて初めて、「生き物であるということとは一体どういうことなのだろうか?」という疑問を真剣に考えるようになる。
安心していただきたい。
生物学の世界ですら、まだ正確な記述は存在しないようだ。生物学の世界では、未だに「生き物であるとはどういうことなのか?」ということを明快に答えるすべを持たない。
デオキシリボ核酸、通称DNAという存在がある。現代人であればおしなべて知っている知識だろう。それがどんなものでどんな役割をするのか正確に答えられなくても、DNAという名前と簡単な機能くらいは答えられるはずだ。
DNAは生物学の世界での大発見であり、この存在を認識することでありとあらゆることが変わった。それまで、野生の生き物を追い掛け回してその生態を研究していた分野であった生物学は、DNAを解明しまたDNAを操作すると言ったやり方でアプローチする手法に変化していった。
生物を、DNAによって規定する定義というものがある。
「生命とは、自己複製を行うシステムである」
つまり、DNAを有し、自己複製を繰り返すシステムすべてを生命であると定義づけようという一つの流れがあった。
昔何かの本で、「生き物はDNAを運ぶ乗り物でしかない」というような表現を見たことがある。つまり生きていることは、即ち自らの持つDNAを次世代に繋げるための器でしかない、というような意味だ。生きていることの一つの帰結として自己複製というシステムは存在し、これによって生命を定義付けることが出来るのではないかというのが二十世紀の生物学がたどり着いた一つの答えである。
しかし、それだけで答えとするのにはどうにも不具合がある。
ウイルスという存在がある。今でこそ電子顕微鏡の存在によってその存在は容易に確認できるようになったが、昔の光学式の顕微鏡では捉えられないほど小さなものである。ありとあらゆる病気を発症するこのウイルスは、しかし生命かどうかの境界線に存在する。
ウイルスは、自己複製能力を持つ。自分自身をDNAによってどんどんと増殖することが出来る。これは即ち、二十世紀の生物学がたどり着いた結論によれば、ウイルスを生命であると呼んでいいということになる。
しかしウイルスというのは、この自己複製能力以外の部分を見ると、どうにも物質に近い振る舞いをするのである。栄養を摂取しない、呼吸もしない、二酸化炭素を出すことも、老廃物を排泄することもしない。一切の代謝を行っていないのである。
またウイルスを純粋な状態で精製し、特殊な条件の元で濃縮すると「結晶化」する。これは、普通の生命ではありえない。
このようにウイルスという存在は、自己複製能力を有することを生命の定義に据えた場合に非常に都合の悪い振舞い方をするものなのである。まあ世の中には、植物でもあり動物でもあるという「ミドリムシ」みたいな生き物もいるわけで、ウイルスも、生物でもあり無生物でもあるとすればいいのかもしれないが、どうもそれもおかしな話である。
自己複製能力の存在が生命の定義の根幹を成すことは間違いないだろう。しかし我々の認識には何かが欠けているのである。
著者は言う。砂浜を歩いていると、小石や貝殻を見つけることが出来る。小石を見て僕らは、それが無生物であると瞬時に判断することが出来る。一方で貝殻の方は、こちらも無生物であることには違いないが、しかしかつて生物であったということをこれまた一瞬のうちに判断することが出来る。僕らは意識的にか無意識的にか、ある物体が生物であるか無生物であるかという判断を瞬時にしているのである。
その際、僕らが一体意識していることは何なのだろうか。生命とは、一体どのように定義されるべきものなのだろうか。
本作では、その生命の定義をすることを目指して話が進んでいく。
本作は大きく二つに分けることが出来ると思う。
前半部分は、これまでの生物学の概要を一気に説明していると考えていただければいい。DNAが発見されるまでの生物学とはどんなだったのか、DNAはいかにして発見されたのか、あるいはそれにまつわるどんなドラマが存在するのか、DNAが発見されたことでどのような変化が起こったのか。そういった、DNAと生物学との関わりを中心にして、生物学という歩みそのものを記述した部分である。
後半になると、著者独自の研究の話に移っていく。生命とは何であるかという本質に迫るべく、これまで著者が行ってきた研究に触れつつ話が進んでいくのだが、その前に一つの考えが提示される。それが、
「生命とは、動的平衡にある流れである」
という考えである。
聞いたことがあるかもしれないが、人間の細胞というのは絶えず入れ替わっており、数年もすれば元々あった細胞は一つ残らず消えてしまうという。しかし、そうやって個々の細胞は消えていっても、枠組みとしての生命は変わらずそこに残り続ける。生命というのは、完成されたレゴブロックのようなものではなく、構成要素を絶えず入れ替えながら動的に平衡状態を保っている、とそういう意味である。
著者は、生命というのが自己複製能力を有する存在であるのと同時に、この動的平衡状態にある存在であるということも生命の定義として適切ではないだろうかと考えている。
著者が行ってきたある実験について書こうと思う。それは、膵臓に関する実験であった。
膵臓という器官は消化酵素を生み出す場所であり、つまりそれは、膵臓内の細胞で生み出された消化酵素が、何らかの手段によって細胞の外側に放出されている、ということである。
しかし、細胞を覆う細胞膜は、非常に安定した物質で、通常の状態であれば外側と内側の間で物質のやり取りなどすることはない。そんなことが頻繁に行われれば、細胞間は非常に不安定な状態になってしまうだろう。
では膵臓の細胞は一体どのようにして生み出した消化構想を細胞の外側に放出しているのか。
この仕組みの説明をするのはなかなか面倒なのでここではしないが、実に生命というのは素晴らしい仕組みでもってこの問題を解決している。つまり、内側の内側は外側であるというトポロジー的な発想でそれを実現しているのだけど、見事であるとしか言いようがない。
さて著者の実験の本質的なところはここからである。
著者のグループは、この膵臓で行われている一連のやり取りに関して、どんなタンパク質が関与しているのかを突き止めることが目的であった。そのためにありとあらゆる手段を講じて研究を重ね、ようやく、GP2と名付けたあるタンパク質が、この一連のやり取りに重要な意味を持つタンパク質だろうというところまで推定できるようになった。
さてここからである。
DNAが発見されて以来その技術は凄まじい進歩を遂げ、細かな手順は書かないが、要するにそのGP2というタンパク質を一切持つことのないマウスを人工的に作り出すことが出来るのである。著者のグループの仮説は、GP2というタンパク質が膵臓の一連のやり取りに深く関わっているのだから、GP2のないマウスを生み出せば膵臓の機能に著しい欠陥が生じるだろう、というものだった。
しかしその仮説は大いに裏切られることになる。
なんとそのGP2を一切持つことのないマウスは、しかし通常のマウスとほとんど変わらない状態で生育を続けたのである。
これは一体どういうことだろうか?
実際のところ、GP2が膵臓のそのやり取りに重要なタンパク質であるということは間違いない。しかし、それがないマウスを生み出してもまったく問題はないのである。
ここに、生命という存在のダイナミズムが存在し、つまりこれこそが、生命が持っている動的平衡のお陰なのである。
生命というのは、時間によって縛られたある一定の方向を持つシステムである。これを少しだけ折り紙に譬えることにしよう。
折り紙で鶴を折る手順というのは決まっていて、基本的にそのどの手順を飛ばしてしまっても鶴は完成しない。
しかし生命の場合、そうではない。鶴を折るためのある手順を完全に忘れてしまったとして、しかし生命はその手順抜きで完成形である鶴にまでたどり着く別の経路を見つけ出すのである。
これは即ち、GP2が存在しない、つまりある手順が一つ抜け落ちたとしても、それを除いた形で完成形にまでたどり着くことが出来ることを意味しており、これこそが生命の持つ動的平衡状態ということである。
著者は、生命とは、動的平衡にある流れである、という一つの定義を提示して見せた。もちろんこれで終わりではないし、この定義が完全に正しいのかという議論はこれからなされるのであろう。生命とは何かという問いに答えはないのかもしれないが、これからも生物学者はその問いを考え続けていくことだろう。
というような内容です。
最近売れている新書で、気になったので買ってみました。
まず他のこういうサイエンス系の本と違うのは、文章です。理系的な、堅い感じではありません。帯で茂木健一郎が、「詩的な感性」という表現をしているけれども、まさにそういったある種の感性の元に文章が描かれているという感じがします。短い章の合間合間に、唐突に流れとは関係なさそうな話が出てきたりするのだけど、そういう描写が小説を読んでいるような感じですらあります。著者が以前研究をしていたニューヨークの様子、かつての母校の様子、人物や建物の描写。こういったものが、どことなく繊細な文章によって紡がれている感じがします。
もちろん、本書の根幹である生物学の話の部分では論理的な文章です。しかし、比喩がなかなかうまく、しかも素人に分かるように易しく説明しようという意識を垣間見ることが出来て、非常に読みやすい本だなと思いました。
生命とは何か、という、素人からすれば既に答えが出ているのではないかと思わせるような、生物学の根本をつくような疑問を提示した作品なのだけど、後半で著者が提示する「動的平衡」という話は本当になるほどという感じがしました。著者の比喩では、波打ち際にある砂で出来たお城だったのだけど、とにかく生命の細胞というのは常に入れ替わる、入れ替わるのに全体としての平衡は保たれる。それはすなわち、ジグソーパズルのようなものである、という説明も非常に分かりやすかったし、何故細胞をこれほどまでにすぐ入れ替えなくてはいけないのかという問いに、エントロピー増大の法則から逃れるためにはこれしかやりようがないという説明もなるほどなという感じがしました。
本作はサイエンスミステリーという形で紹介されていますが、科学そのものについての話だけでなく、人物の話もいろいろ載っていて面白いなと思います。
一番驚いたのが、野口英世の話です。著者は、かつて野口英世が在籍していたアメリカの研究室で研究を続けていたのだけど、そこで野口英世の評価があまりにも低いことを知ります。理由を知ればまあなるほどという感じがするのですが、僕らはどうもそういう事実を知らないできています。お札の肖像画にもなってますし。これはちょっと驚きました。
また、DNA発見を巡って様々な人が様々な形で関わっていたのだということを指摘する部分も、科学の世界もやっぱり完全にフェアというわけにはいかないのだなぁ、という風に思わされました。
また、サーファーにして生物学者という人物が出てきたり、あるいはピアニストにして実験技師である男との交流が描かれたりと、そういう部分でもなかなか面白い作品だな、と思いました。
所々難しい話がないでもないですが、でも基本的には文系の人でも読める本だと思います。というか僕は、人生の中で生物学を選択したことが一度もないので生物に関する知識はほぼゼロなんですけど、それでも全然読めたので大丈夫だと思います。生命とは何かという、単純なようでいて奥の深い問いを考えることで、科学の奥深さについて知ることが出来る一冊になっています。なかなか面白いいい作品と思うので、是非読んでみてください。

福岡伸一「生物と無生物のあいだ」




ZOKUDAM(森博嗣)

子供の頃の壮大な夢、というのがあるだろうか。僕にはあんまりないので具体的なイメージはそこまでできないのだけど、魔法使いになりたいとかウルトラマンになりたいとかそういうような類の夢である。
まあ実現するわけがないのである。当然だ。魔法は存在しないし、ウルトラマンも存在しない。残念である。非常に残念ではあるが、しかし事実である。
さて子供は、いつかこの事実に気づくことになる。これもまた至極当然の話だ。いつまで経っても、魔法だのウルトラマンだのと言っているようでは先が思いやられる。サンタクロースの不在だって、世界中のありとあらゆる子供たちが受け入れてきた事実なのである。魔法やウルトラマンも然りである。
しかし世の中には、諦めない人というのがいる。その執念たるや驚くべきものがある。
世界的に最も有名なのは、あのシュリーマンではないだろうか。子供の頃に読んだ伝説だか神話だかの話を、シュリーマンは信じたのである。シュリーマンが最終的に見つけた都市の名前は完全にド忘れしてしまったけれども、トロイの木馬とかなんとかそういう伝説のある都市の遺跡を、彼は見つけたのだ。周りの人間は当然信じていなかった。あの話は、ただの御伽噺だ、と。けどシュリーマンは、子供の頃から信じていたことを諦めることはしなかった。その執念が、遺跡の発掘という偉業に繋がるのである。
さて、ガンダムの話である。
僕はまったくもってガンダム世代ではない。「Zガンダム」というのを「ゼットガンダム」と言ってしまうくらい無知である。これはバイト先で指摘されたことがあるのだが、正しくは「ゼータガンダム」というらしい。いやいや、そんなの常識ではないと僕は思うんですけど。
ガンダムというのは、言わずとしれたロボットである。たぶんロボットというと怒られるだろう。誰に怒られるのかは定かではないが、ガンダムが好きな人には、モビルスーツだ、と指摘されるだろう。別に名前なんかどうでもいいと思うのだが。それに、モビルスーツよりロボットという響きの方が僕は好きである。
宇宙空間を、人間型のロボットたちがひしめきあいながら、何かの目的の元に戦うという話で、本当に僕はガンダムを見たことがないので全然知らないのだが、しかし今でもありとあらゆる形でガンダムが取りざたされているのを見ると、やはり恐るべき人気を誇っているのだなぁ、と感心するのである。
僕としては、どちらかと言えばエヴァンゲリオンの方が好きなのである…という話はまあ別にどうでもいいですね。
さて、ガンダムである。
当時リアルタイムでガンダムを見ていた人達は、みな一様にこんな風に思ったのではないだろうか。
自分が大人になる頃には、きっとガンダムのようなロボットが出来ているに違いない。いやいや違う違う、もしかしたら存在しないかもしれないが、それなら自分で作るまでである。ガンダムに乗って、そして戦うのだ!うーむ、これは素晴らしいアイデアであるぞ!あのガンダムに乗れる日が来るとは。
みたいな。
もちろん現在でもガンダムのようなロボットは作られておらず、恐らく今後も作られることはないだろう。夢破れて山河あり、である。
ただ以前にこんなニュースを見たことがある。
どこかの中小企業の社長が、二足歩行ロボットを作った、というニュースだった。これは、人が一人乗って、本当にただ二足歩行をするというだけのロボットで、重い物を持つことが出来るわけでも、早く走れるわけでもなく、実用性はほぼゼロと言ってもいい代物であるのだけど、しかしそんなものを一介の中小企業が作ったのだった。
ロマンであるらしい。要するに、ガンダムに憧れて、作ってしまったということだろう。ある意味で、子供の頃の夢を実現したのだなぁ、と感心したものである。
ただ、やはり人が乗って戦う人型のロボットというのは開発されることはないだろう。無駄である。使い道がない。ガンダムは、夢のまた夢と言えるだろう。
しかしそれはそれとして、今の子供たちはガンダムを知っているのだろうか?そっちの方が気になる。
そろそろ内容に入ろうと思います。
日本のとある郊外にある、世界的に有名なネズミのいる遊園地の地下に、その秘密基地は存在する。もちろん秘密基地なのだから、人には秘密である。
ロミ・品川とケン・十河の二人は、その秘密基地に配属されることになった。ロミは、ここがどんなところか知らないが、その明らかに普通ではない部分にため息をついている。おかしい。私はただのOLだったはず。それが、ちょっと上司と喧嘩したからって、こんなところにやってくる羽目になるとは…。
さてその秘密基地に一体何があるのか?
ZOKUDAMである。
賢明な諸君は、もう既にこのZOKUDAMが何であるか凡その推測をすることが出来ることだろう。
そう、ロボットである。あのガンダムのような、人型をした、でもガンダムよりも明らかに格好の悪い、しかも不穏なことに明らかに人が乗って操縦するような類の、そういうロボットがそこに鎮座ましましていたのである。
おいおい、とロミは思う。
え、えっ、えーと、いやいやまさかねぇ。まさか、これに乗れって言うんじゃないでしょう?違いますよね、そんな。だって乗れるわけないじゃないですか、こんなのに。第一乗ってどうするんですか。いや、まさかだよねぇ。
まさかであった。
やはり最悪の予想通り、ロミとケンはこのロボットに乗って敵と戦うのだそうである。
それから、ロミとケンの複雑にして虚無的な日々が幕を開けるのである…。
というような話です。
本作は、「ZOKU」の続編という位置付けなんですけど、いやはや無茶苦茶面白いと思いました。僕の中では、「少し変わった子あります」以来の大ヒットという感じです。
まずこの無謀な設定からしてもう最高ではないですか。いきなり配属されたところにロボットがある。最悪の想像通り、どうやらそれに乗って誰かと戦うらしい。おいおい、マジかよ…みたいなところからスタートするわけですけど、いや~このくだらなさ、脱力加減というのがいいですねぇ。
また、さすが森博嗣らしく、このロボットに対する現実性みたいなものもきっちり考えているわけです。雰囲気的には「空想科学読本」みたいなイメージですが、要するにこれだけのロボットを作り維持し、かつそれで戦うということは、一体どれくらいの労力が必要なのかということをリアルに描いています。だからものすごく馬鹿馬鹿しいです。人型でかつ人が乗って操縦するロボットというのはかくも厄介なものなのか、という感じです。やっぱガンダムが縦横無尽に飛び回り敵をばっさばっさなぎ倒すというのは難しいのだなぁ、という感じでした。
全体的に、読者を脱力させることに全神経を集中させている作品で、とにかくお馬鹿な作品でした。作家もわざわざこんな分野に踏み入ろうとはしないわけで、だから類似の作品はほとんどないのではないかとすら思えます。これだけ力の抜けた作品というのも素晴らしいと思うし、何よりもこんなくだらない設定で作品を一本書けてしまうというのが素晴らしいなと思います。
彼らと、彼らと戦う敵というのは、要するに前作「ZOKU」で馬鹿馬鹿しい悪戯の応酬をしていた二つの組織なわけですけど、でもその背景みたいなのはあんまり出てきません。なので、「ZOKU」を読んでいなくても全然問題ありません。「ZOKU」より本作の方が遥かに面白いような気がするので、是非読んでもらえるといいと思います。
カバーを外すとそこにはロボットの絵が描かれているんですけど、これがまたダサくてダサくて…。なんか哀しくなってきます。仕事とは言え、こんなロボットに乗らないといけないとしたら、ちょっと哀しいです。
ここまでくだらなくてかつ面白い小説というのはなかなかないのではないかと思います。森博嗣の作品で、僕の中で久々の会心作だと思いました。是非読んでみてください。

森博嗣「ZOKUDAM」



精霊の守り人(上橋菜穂子)

大人になるにつれて、守らなくてはいけないものというのはどんどんと増えていく。
子供の頃は守られる立場にいる。周りの人間に助けられ、庇護されながら生きていくのだ。もちろん子供にだって守らなくてはいけないものはあるけれども、それはちょっとした優越感であるとか、あるいは些細な立ち居といったようなもので、必死で守らなくてはいけないというものでもない。
しかし大人になればなるほど、自然守るべきものは増えていく。
自立し一人で生きていかなくてはいけなくなると、自分が立っている不安定な立場であるとか、あるいは大人としての責任感だとか、あるいは家族であるとか、そういう様々に守るべき対象が増えていく。守るべきものが増えすぎて、大人というのはどんどん身動きが取れなくなってしまうように僕には思える。因果なものである。
僕は大人と呼ばれる年齢になってはいるけれども、しかし守るべきものをなるべく持ちたくないと思っている。僕が人生から逃げ続けている理由の多くはここに帰するのではないかと思う。
とにかく僕の人生は、守るべきものをいかに殺ぎ落とすかということに費やしてきた人生であった。守らなければならない状況から逃げ、それを手にしてしまったとすればすぐさまそれを捨て、常に身軽であることを選択してきた。そのためにきちんとした大人になることは出来ていないし、今でも必死で逃げ回っている卑怯者であるのだけど、しかし今の生き方を変えるつもりは特にはない。
僕にはどうしても不思議で、どうしてみんな大人になると、そんなに守る覚悟を身に付けることが出来るのだろうか、ということだ。誰もが大人になると、自分の生きる地盤を守るために潔くサラリーマンになり、またわざわざ苦労をしてまで守るべき家族を手に入れたりする。その他にも、生きていれば様々に余分な守るべきものが吸い付いてくるというのに、どうして人々はそれを平気な顔をして受け入れることが出来るのだろうか。どうしてもそれが分からないのだ。
子供の頃僕は、大人になる過程できっと何かが起こるのだと思っていた。今のままの僕が大人になってもまともな大人にはなれないことはずっと昔から知っていた。まともな大人になりたかった僕は、きっと人生のどこかで転機が訪れ、何かが大きく変化し僕をまともな大人へと導いてくれるのだと思っていた。というか、皆誰もが大人になるためにそういう過程を経るのだと思っていた。
しかし、別にそんなことはなかった。僕はずっと子供の頃の僕のままだったし、いつまで経っても変化はやってこなかった。もしかしたら僕以外の人にはそういう何かがやってきたのではないかとすら思う。自分だけチャンスを逃してしまったのではないだろうか。
今でも僕は、何かを守るという行為が酷く苦痛だ。それは、自分を含めた誰かの人生を大きく握ってしまうということである。僕はそれに見合う責任のある行動はどうしても取れそうにない。だから、なるべく人とは関わらず、ひっそりと生きていこうと思っているのだが。
守るものをたくさん持っているものはすごいと思うし強いと思う。羨ましいけど、でも憧れはしないという矛盾が僕の中にあって難しいのだけど、もっとちゃんとした大人になれればよかったのにな、と思うことはよくあります。
そろそろ内容に入ろうと思います。
バルサは恐るべき強さを持った女用心棒。お金で依頼を受けて、誰かを守るというのを仕事にしている。
そんなバルサが橋を渡っている時、その一本上流側の橋を皇族の行列が渡っていたことが、バルサの運命を大きく変えることになる。
牛が突然暴れ、乗っていた皇子が川に投げ出されてしまった。咄嗟に川に飛び込んで皇子を救出したバルサは、その後感謝の意を込めて宮殿での接待を受けることになる。
しかし話はそこで終わらない。バルサにとっては寝耳に水の驚くべき展開が待っていたのだ。
なんと、バルサが助けた二の妃の息子であるチャグムを引き取って欲しいと言われたのだ。チャグムには現在特殊な事情があり、その父親である帝から命を狙われる羽目になってしまった。自分の元からいなくなるのは淋しいが、しかし殺されてしまうよりも、例え遠くであってもどこかで生きていて欲しい。そう二の妃に言われ、バルサは依頼を受けることに決める。
そこからは、帝に使わされた追っ手から逃げる、チャグムとの旅が始まる。
チャグムに訪れた事情というのはいささか厄介なものであった。なんとチャグムの体には、ある生き物の卵が隠されているのだという。百年に一度卵を産むといわれるその生き物は、海の中にいて雲を生み出すと言われ、卵が無事返られなければ旱魃になるとも言われている。恐ろしいことに、その卵を食べようと狙っている恐るべき怪物の存在があるらしい。バルサは、帝からの追っ手とともに、その怪物からもチャグムを守らなくてはいけなくなるのだが…。
というような話です。
このシリーズは、まあもちろん昔から評判の高かったシリーズなのでしょうが、児童文学として出版されたためになかなか広く認知されることのなかった作品でした。しかしこれが新潮文庫に収録されるようになり、またNHKでもアニメ化されているということで、ちょっと今話題になっている作品だと思います。
僕はいつもファンタジー作品を読むと言っていることだけど、基本的にファンタジーというのは得意ではありません。子供の頃それに類するような作品も読んでこなかったし、RPGみたいなゲームだって一度もやったことがありません。ファンタジー系の漫画やアニメに触れたことも特になく、だから僕の中にはファンタジーの文脈というのがどうも欠如しているようです。
それでも、この作品はかなり面白いかもしれないな、と思いました。ファンタジーというのは詳しくないのであまりウダウダとは書けませんが、世間的な評判が高いのも頷けるなと思います。
ストーリー自体はどこまで変わったものではないと僕は思います。恐らくファンタジーではよくある展開ではないかと思います。何か秘密を持った人間が逃げ、その秘密を守らなくてはいけないと考えている勢力が追いかけるという構図で、まあよくあるものでしょう。
恐らく本作の評価が高いのは、背景の設定みたいなものが緻密であるというところではないかと思います。新ヨゴ皇国という国の伝説、もとからその土地に根付いていた伝説、星読博士の存在、バルサの来歴、その他多くの部分でその設定が優れているという風に思います。もちろんファンタジーをそんなに読み込んでいるわけではないので断定は出来ませんが、恐らく本作を高く評価している人の意見はそういうことではないかなと感じます。
またキャラクターが結構いいです。バルサやチャグムなどの主要な登場人物はもちろんですが、ほんの一瞬しか出てこない脇役でさえもどことなく印象を強く残す感じがあります。
バルサの恋愛やチャグムの成長など様々な要素が絡み、物語を一層深くしているし、またこの作品は<守り人>シリーズと言われるシリーズになっているのだけど、この後バルサとチャグムは一体どうなるのだろうかという部分も非常に気になります。とりあえずしばらくシリーズを読んでいこうかなと思います。
ファンタジーが好きという人なら手に取るべき作品ではないかなと思います。ファンタジーが得意ではないという人にも読みやすいんではないかと思います。僕は、「ハリー・ポッター」は1巻だけ読んでもういいかなと思いましたが、本作は続きが読みたいなと思わせる作品でした。アニメにもなってるようなので、それを観てからというのでもいいかもしれませんね。読んでみてください。

上橋菜穂子「精霊の守り人」



星新一 1001話をつくった人(最相葉月)

何事も、とにかく続けるということはものすごいことである、と僕は思う。
僕は昔から、とにかく飽きっぽくて、やり始めたことをすぐに投げ出してしまうような子供だった。
今となっては何に挑戦したのかも既に覚えていないが、長続きしなかったなぁ、ということだけは覚えている。そういえばカメラに嵌まった時期もあるし、小説を書いていた時期もあるし、パズルを作っていた時期もある。今はこうして長いことブログで感想を書いているけれども、これにしたってどれぐらい続くかわからない。まあ星新一に倣って、1001作の感想を書くまでは続けてみようかしらん、とか思ったりするのだけど。とにかく、本を読むことだけが唯一長続きしていることだ。何も生み出さず、常に受動的に出来ることだからだろう。怠け者の僕にはぴったりの趣味である。
ギネスブックという世界記録をいろいろ載せた本があるけれども、あそこにも様々な記録が載っている。ある一つのことを長く続けたという記録ももちろんあるだろう。最近ニュースになったものだと、キンキキッズが、デビュー作以来25作連続でオリコン1位を獲得したとかでギネスに認定されたというものもある。
さて、星新一という人間をご存知だろうか?
僕は正直、そこまで知っているというわけでもない。
僕が初めて星新一という作家を『認識』したのは、ちょっと前に「ぶらんこの向こうで」という文庫が話題になり大きく売れた時だろうと思う。もちろん星新一という作家の名前はそれまでにも目にしていただろうけど、それは本当に目にしていたというだけのもので、作家としてちゃんと『認識』したのは、「ぶらんこの向こうで」が話題になった頃のことだと思う。
だから僕には、そこまですごい作家であるとは思われなかった。
もちろん、ものすごくたくさんのショートショートを書いたということは知っていた。実際何作かは分からないが、公称では1001作ということになっている。この数字はとにかくすごい。ショートショートというのは、原稿用紙にして10枚程度、文字数にすると5000字以内くらいのものすごく短い小説のことで、短編よりも短いものを指す。素人考えであれば、原稿用紙10枚程度の物語であればそこそこの時間で書けるだろうと思いがちだが、実際は普通の短編小説並に書くのに時間が掛かるという。それはまあそうだろう。物語というのは、文章を書くことよりも、寧ろその構成や発想の方が重要である。分量が少ないからと言って苦労せず書けるというわけではない。
それを1001作である。月に5作、年間で60作書いたとしても15年以上掛かる計算である。とにかくすごいとしか言いようがない。
しかし僕は、それだけの作家であると思っていたのである。確かにものすごい作品数を残した作家だ。アイデアマンだったのだろう。あるいは作品を書くスピードが速かったか。ショートショートの第一人者という肩書きも知っている。ただそういう人であって、それだけの人だったのだろうと思っていたのである。
しかし、それはまったく違ったのである。
僕は星新一の作品をほとんど読んだことがないが、なんとなくのイメージとして、星新一をSF作家だと思ったことはない。ショートショートの作家だという認識だったし、ジャンルが何なのかということはあまり考えたことがなかった。
しかし実際は、星新一がいなければ、今のSF作家、SF小説は存在していなかったかもしれなかったのである。日本にまだSFという言葉が存在せず、科学小説が子供向けの低俗な小説であると思われていた時代に、日本にSFを広めるべく尽力した人であったのである。後に大作家になり、僕も大作家であるという認識を持っている小松左京や筒井康隆も、星新一のことをいたく尊敬していたという。つまり星新一というのは、小松左京や筒井康隆をある意味世に送り出したと言ってもいいくらいの存在なのである。
それだけでも星新一というのはすごいと思った。何せ以前は、文学でなければ小説ではないし、科学小説なんて子供が読む本だと思われていたのだ。そんな時代にSFを広めるというのは、現代においてライトノベルをもっと広い読者に広めようと努力するものではないかと思う。しかも、現代であれば、アニメだの映画だの雑誌だのと言ったものが以前よりも豊富であるし、アピールに仕方も様々にある。しかし、アニメにも映画にも出来ず、SF専門誌も1誌しかないような状況でSFを広めようというのだから、無謀だっただろう。
今でこそまたSF不況であると言われたりするが、確かに日本でSFというジャンルは根付いた。それはまさに星新一という作家の存在があってのことなのである。
また、これは現在でもそうではないかと思うのだが、ショートショートというのは常に不当な扱いを受けてきたのだと言う。
決して文学ではない。また、SFの世界を牽引してきたにも関わらず、途中からSFでもないとされてしまう。とにかく短いしあっという間に読めてしまう。SFを正当に評価することの出来る編集者が少なかった時代に、ショートショートを正当に評価することの出来る編集者もまた少なかったのである。
だからこそ、ショートショートをきちんと評価し、また世に広めようと努力する編集者の存在は貴重であった。先日亡くなった、講談社の伝説的な編集者と言われた宇山日出雄(秀雄)もその一人であった。宇山は、ショートショートの専門誌を立ち上げるほど星新一に入れ込み、ショートショートというものを世の中に広く伝えようとした編集者であった。
この作品を読むと、星新一という作家はもっと評価されていいはずだと思う。多大な功績を残しているのも関わらず、世間一般での評価はあまりに低いのではないかと思えてしまう。星新一を再評価するという意味で本作は非常に重要であると思う。
内容は、非常に広範囲に渡る。
前半3分の1くらいは、星新一の父親であり、戦前日本で知らない者はいなかった星製薬という会社の社長であった星一についての記述にページが割かれる。星新一が、作家になる前に一体どんなものを背負ってきたのかということを明らかにするための部分である。
正直僕は歴史だの時代背景だのと言ったことに非常に疎いので、この星一に関する部分の記述はちょっと退屈だったのだけど、しかし星新一の辿ってきた道筋が決して平坦ではなかったのだということがよくわかる部分でもある。
星一は、二十歳で渡米し向こうの大学に通いつつ、日系人向けの「日米週報」という新聞を発行していた。この「日米週報」の発行により、当時の有力者と大きな繋がりを持つようになり、それが後の星製薬の事業展開に大きな利益をもたらし、また一方で不利益をもたらしもすることになる。
ワンマンタイプの社長であり、とにかく思いついたことをすぐ実行に移すような人間だった。後ろを振り返ることは決してなく、常に前進あるのみ。人には、「死なないことに決めている」などと言っていたような人間だった。
そんな父親を持つ新一(本名は親一。ただ今後も新一で統一する)は、当時からレベルの高い学校に通い、そこで様々な人間に出会う。戦争が始まっても理系であったため徴兵が免除され、結局そのまま終戦を迎える。
将来何になりたいという明確な希望こそなかったが、自分には一般企業は無理だと考え、公務員試験を受けたこともあった。
しかし星一の死をきっかけに、紆余曲折を経て星新一は星製薬の社長に就任することになった。
しかし、長い長い歴史の中で様々な騒動にさらされた星製薬は、新一に引き継がれた時点でとんでもない借金を抱えていた。経営の経験などない20代の新一に建て直しなど不可能である。結局再建・整理については別の人間に任せることにし、新一は星製薬から去ることになる。
また何をするでもない日々を過ごしていた新一であるが、この頃ある転機が訪れる。「空飛ぶ円盤研究会」という、世の中の不思議なものについて語る研究会が出来、また、海外SFを日本に持ち込んだ矢野徹の存在、また矢野徹に感化され「宇宙塵」という同人グループを作った柴野拓美らの存在である。
新一はそれらの集まりに顔を出すようになった。もとから本は読んでいたし、理系であったため不思議な話や科学的な話にも興味があった。何よりもそのメンバーで馬鹿な話をしている時はとにかく楽しかった。
やがて「宇宙塵」という名の同人誌が出ることになり、新一はそこにショートショートを書くことになる。それを読んだ矢野徹が、これは天才だと思い、当時探偵小説の大家であった江戸川乱歩の元へ、天才が出ましたと報告に言った。矢野と江戸川乱歩の関係というのは、矢野が日本にSFを持ち込んだ当初からのもので、日本にSFを根付かせたいと思っていた矢野が、同じく日本に探偵小説を根付かせた大先輩である江戸川乱歩の意見を聞きに言ったことに始まる。
そんな縁があり、新一のショートショートは、江戸川乱歩が編集長を務める雑誌「宝石」に転載されることになり、新一の名前はにわかに注目され始める。そこから、SFを牽引し、またショートショート1001作という偉業達成へのスタートを切ることになるのである。
晩年の星新一は少し物悲しさを漂わせる。相変わらずショートショートは不当な評価をされるし、また読者が中高生にシフトしたことでさらに下に見られるようになってしまった。賞も獲れない。また作品にもこれまでのようなキレがないことを自覚している。睡眠薬がなければ眠ることが出来ない。後輩であった筒井康隆や小松左京が大いに評価されている。1001作を達成しても特になんということもない。そんな様々なことが星新一を寂しくさせている。
最後は癌との戦いだった。71歳という若さでこの世を去った。
内容紹介がどうも長くなったが、それだけボリュームのある作品である。
最相葉月の作品は、「絶対音感」という作品を読んだことがある。「絶対音感」にしても本作にしても、非常に評価が高い。確かに、星新一という作家を余すところなく描き切っているように思える。また、事実のみに即して書こうという客観性がずっと保たれている。そういうところがいいと思う。
時々ノンフィクションを読んでいると、まず結論ありきのものに出くわすことがある。何かの事件についてのものなど特にそうである。そういう、著者の憶測を裏付けるためのノンフィクションみたいなものはあんまり好きではない。それよりも、集められるだけ資料や証言を集め、それを基に一体どんな真実を浮き彫りにすることが出来るかというノンフィクションの方がいいと思う。
本作は人物について描いたノンフィクションであるので、結論がどうとかいう作品ではないが、しかしその主観をなるべく排除しようとして書かれている文章が非常に好感を持てる。可能な限り資料に当たり、また本人とは直接関係のない部分についてまで取材を疎かにしない姿勢も素晴らしいと思う。
星新一という作家は知っていても、ではどんな作家であるのかということまで知っている人は多くはないだろう。まさか大企業のお坊ちゃんで、一時期社長をやっていたこともあって、またSFというジャンルを牽引していた存在であるとは思わないだろう。僕は星新一という作家に特に思いいれはないが、しかしなかなか読みごたえのある作品だと思った。かなり長いし、初めの3分の1が星新一とはあんまり関係ない話なので人によっては退屈かもしれないが、まあ読む価値はあるのではないかと思います。

最相葉月「星新一 1001話を作った人」





名もなき孤児たちの墓(中原昌也)

うーむ。
ちょっとこの本については特別書くようなことは何も思い浮かばないです。
というか、うーむ、これ小説ですか?というのが唯一の感想と言いますか。
久々にちょっと酷いものを読んだなぁ、という感じでした。
でも本作は、野間文芸新人賞とかいうのを受賞しているので、この作品をある一定以上の形で評価している人もいるのでしょう。ということは、単に僕の好みに合わなかっただけ、ということでしょうか。
何にしても、これが小説として通るのなら、ありとあらゆる文章が小説として成立してしまうと僕は思うのですが、それは気のせいでしょうか?
「メッタ斬り」の中で、大森望と豊崎由美が絶賛していたので読んでみたのだけど、うーむ、ダメだと思います、この作品。
というわけでオススメしないので、どうしても興味があるという人以外読まなくていいのではないか、と思います。

中原昌也「名もなき孤児たちの墓」



空飛ぶタイヤ(池井戸潤)

僕は、「正しいこと」が好きである。なんか変な言い方だが、そうとしか言いようがない。
世の中生きていると、いろいろと「間違った」ことに出くわすことがある。初めに言っておくけれども、僕だって別に「間違った」ことをしてこなかったというわけではない。明らかに間違ったことをしたこともあるし、意図せず間違ったことをしてしまったこともある。しかしそれでも、少なくとも今の僕は、どう「間違った」ことを許容することは出来ないのである。
そういう性質は、割と子供の頃からあったような気がする。
僕は子供の頃の記憶というのが本当に希薄で、ほとんど覚えていないのだけれども、それでも覚えていることがないわけではない。
その中に、多分小学校の頃のことだったと思うのだけど、合唱コンクールについての記憶がある。
当時の担任だった先生はかなり合唱コンクールにやる気を見せていて、先生自ら選曲をし、生徒の意見を聞くでもなくその曲で決定ということにしてしまい、給食の時間にそれを流すなどしていた。
ただ、僕にはどうしてもそれがおかしいと思えてしまった。確かに担任としては、「勝てる曲」を選んだつもりなのだろう。何が理由か知らないが、とにかく勝ちたかったのだろうと思うのだ。まあそれはいいし、そうやって生徒にハッパをかけるのも悪くはないと思うのだけど、でも勝手に曲を決めてしまうのはどうなんだろうと思ったのである。
だって、歌うのは生徒だぞ、とまあそんなことを思ったのだ。
どういう経緯を経たかその辺りのことは全然覚えていないのだけど、僕はそのことを問題にし(もしかしたらその時学級委員か何かだったかもしれない)、生徒自身で改めて選曲をしなおす、ということになったのだ。まあ結果的に、担任が決めた曲と生徒が決めた曲は同じになったのだけど、でも結果の問題ではないと僕は思ったのだ。生徒が選んだというその過程が大事だと思ったし、正直周りの人達は何でわざわざ曲を選びなおさなきゃいけないんだとか思っていたかもしれないけど、でも僕としてはかなり満足出来たのであった。
今となっては理由はあまり覚えていないのだけど、昔から僕は結構先生に反発する人間だったのではないか、と思う。もう一つ記憶に残っていることがあって、中学時代だったと思うけど、毎日日記のようなものを書いて担任に提出する「コギトノート」というものがあった。僕はそのコギトノートに、新聞の切り抜きで文字を並べ、担任のことを非難する文章を書いた記憶があるのだ。最終的にそれが問題になって、担任に呼ばれた僕はビンタをされることになったのだけど、しかし何であんなことをしたのかさっぱり覚えていない。
僕には、周りの多くのことがどうも「間違っている」ように思えてしまうのだ。もちろんそれは、僕が正しいというわけではない。何が正しいのかは正直分からないのだけど、でも周りの人間が間違っていることは分かるということは非常に多い。
今のバイト先でもそれは同じである。
僕は本屋でバイトをしているのだけど、今のバイト先で働き始めて半年で、あぁこの店はダメだな、と思った。しかし、僕はまだ入って半年のペーペーである。とやかく言ったところで相手にされるとは思えない。
なので僕は、とにかく仕事を無茶苦茶やり、また細かな提案を幾つかしては状況を改善させるということを繰り返し、周囲の人間の理解を得るようにし、地盤を築くことにした。とにかく、いつかあいつ等に文句を言ってやろう、というそれだけの目的で一生懸命仕事をしたのだ。
そうやってしばらく地盤を築いた後、頃合を見計らって僕は牙を剥くことにした。間違っていることを糾弾し、改善を促すようにしたのである。
それはまあ今でも変化はない。僕はこれまでも、ワードの文書で20枚近くの要望書を出したこともあるし、面と向かって文句を言ったこともある。しかし一向に変わる気配がない。もう最近では諦めているが、しかし相変わらず「間違い」続けているのである。
正直、どうして「正しいこと」を主張するのにこれだけの時間と努力が必要なのか理解が出来ない。本当にどうかしていると思う。
「正しいこと」はつまらないし、それをやるには労力も必要だ。それでも、誰もが「正しいこと」を目指して努力をしなくてはいけないと思うのだ。
そういう意味で僕は、桃源郷があれば行ってみたいと思う。誰も嘘をつく必要もなく、正しいことで充たされているだろう桃源郷は、僕の理想的な環境かもしれないと思う。
現実は桃源郷には程遠い。この「間違ったこと」で充たされた世の中で、「正しいこと」を主張し続けることは愚かなことなのだろうか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
小さな運送屋である赤松運送の社長である赤松の元へ、一本の電話が掛かって来た。何でも、うちの社のトラックが事故を起こし、人が一人亡くなったのだという。
次第に状況が分かってくる。
どうやら、人を撥ねたというような話ではないようだ。トラックの車輪が突然外れ、その外れたタイヤが歩行中だった被害者にぶつかり亡くなったということであった。
赤松はそれから忙しさに追われた。
被害者の葬式へ出向いても門前払い。警察がやってきて家宅捜索をする。銀行が融資を渋り始める。取引先が事故のことを知り仕事を引き上げる。事故のことを知った同級生の息子がいじめられる。PTAの会長でもある赤松も非難を浴びる。
しかし赤松は信じていた。
赤松運送が使っていたトラックはすべてホープ自動車のものであったが、ホープ社の事故調査では問題はないし、原因は整備不良であると結論付けられていた。
しかし、赤松運送では自社で整備をしているのだが、一般に知られている基準よりも遥かに厳しい基準で整備を行っている。もちろんそれでも万全ということはないかもしれない。しかし赤松は、自分の会社の整備員を信じていた。
であれば残る原因は一つしかない。
ホープ自動車の構造的欠陥である。
赤松はホープ自動車と戦う決心をする。しかしまったくうまくいかない。ホープ自動車に調査結果を出すように言ってものらりくらり、ならば故障箇所の部品を返せと言っても返さない。
そのうち、週刊誌の記者もこの問題に気づき始めたようで、赤松はそれに期待もしている。
ホープ自動車と同じグループである銀行内部の動き、またはホープ自動車そのものの動きも追いながら、実際にあった事件を元に描いた作品です。
いやホント、素晴らしい作品でした。今年読んだ本の中でトップ10には入るのではないかと思います。
帯にも書いてあるけど、直球の企業小説です。企業小説などというと、割と敬遠する向きもあるかもしれません。僕も、経済小説だとか企業小説だとかというのはどちらかと言えば苦手です。サラリーマンでもないし、企業だの株だのと言ったことはどちらかと言えば苦手だからです。
しかし本作は、僕が苦手にしているようなそういうものはほとんど出てこず、ひたすら人間が描かれていきます。とにかく、この人間の描き方はホント素晴らしいものがあるな、と思いました。
特徴的なキャラクターだけでも、赤松・沢田・狩野・井崎、そしてちょっと異色だけど片山と言った人々である。
赤松は先ほどからも書いたけど、運送会社の社長である。とにかくこの赤松はすごい。読んでいて、とにかくこの赤松の悔しさみたいなものが常に自分にも染み渡る感じがするのである。
赤松はただの中小企業の社長なのだけど、執念でもって超大企業を相手に戦いを挑んでいるのである。
とにかくその過程がすごい。
ホープ自動車からすれば赤松運送など取るに足らないただのちっぽけな会社で、もうひたすらあしらわれるのである。それでも赤松は諦めない。独自に調査を続け、ついに警察も週刊誌の記者でさえも掴めていなかった事実を突き止めるのである。
その間にも会社の経営についてもなんとかしなくてはいけない。沈没しかけていた会社をなんとか立て直そうと東奔西走、従業員を守ろうととにかく頑張るのである。
また会社のことだけにとどまらない。
学校での問題もあるのだ。これがまた厄介で、最近問題になっているクレーマーのような親が出てくる。まあまたそれは後で書くのだけど、とにかく常に赤松は誠実に対応をする。確かに、こんな社長であればついていきたいと思うかもしれない。
沢田は、ホープ自動車のカスタマーセンターみたいなところの課長だ。要するにクレームの対応をしているのだけど、赤松ともやりあうことになる。しかし沢田は、赤松には強気の態度を見せつつ、一方でホープ自動車に対して危機感も持つ。本当にこの会社は大丈夫なのだろうか。沢田も独自の調査をし、この会社が明らかなリコール隠しをしていることを突き止める。なんとか体質の改善をしようと奮闘するのだけど、エリート意識に凝り固まった官僚のような世界の中では、なかなかそれは難しい。
狩野はそんなホープ自動車を裏で操る実質的な権力者だ。もちろんリコールについても知っていて、なんとそれは社長が変わる度に代々申し送りされるようなことだったらしい。T会議というリコール隠しを主目的とした会議を主催するなど、ホープ自動車の悪の部分をすべて主導している人間だ。
とにかく官僚的な発想で、悪いことを悪いとも思わない。とにかく顧客なんかどうでもいい、銀行だって当然支援するだろう、とりあえず注意しなくてはいけないのは国土交通省だけ。そんな人間がトップにいるというだけでもう絶望的だけど、こんな人間が権力を持っていることが本当に絶望的だと思わせる。世の中の企業のほとんどはそうではないと思うけど、こんな企業が実際にあったのだと思うと恐ろしくなる。
井崎はホープグループの一つであるホープ銀行の社員である。ホープ自動車が担当であるのだけど、ホープ自動車への支援策を検討する立場にある。
しかし井崎は、ホープ自動車への支援策にどうしても前向きになれない。
もちろんグループ企業として支援しないわけにはいかない。しかし井崎は、ホープ自動車の経営体質に疑問を抱いている。三年前にもリコール隠しでその評判を大きく落とした。それが変わっているのか。事業計画も適当で、とてもではないがこのように推移するとは思えない。
しかし、ホープ自動車の担当者からは、融資についてせっつかれる。まるでこっちが悪いとでも言わんばかりの口調だ。
そんな折井崎の耳に、友人でもある週刊誌の記者から、ホープ自動車のリコール隠しについて耳にする。これが本当なら大変なことだ。井崎はどうしたものか悩むのである。
井崎はこの作品の中で非常に普通の人間だ。普通の判断をし、普通の行動をしている。しかし、その普通である井崎の視点で銀行内部が描かれる。やはり銀行というのはかなり特殊な世界であるように思われる。そういう意味で面白い。
さてそんな中にあって、企業とは関係ないところに強烈なキャラクターがいる。
片山である。
片山は、赤松の息子が通う小学校の親の一人であるのだけど、僕はこの作品中もっとも質の悪い人間だと思いました。
片山は昨今結構問題になっているクレーマーのような保護者です。とにかくありとあらゆることの文句をいい、しかし自分の子供が疑われると過剰に反応する。子供もダメで、とにかく親子揃ってダメなのだけど、この片山にも赤松は苦しめられる。
赤松の息子がお金を盗んだとして疑われるということがあった。当然これも片山が問題視するのであるが、どうもおかしいのだ。もちろん息子が盗むわけがないのだが、じゃあ誰がやったかということになるとどうかということになる。これもなかなか無茶苦茶な結末があるのだけど、とにかく赤松の心労は嵩む。
僕が、本作中で片山が最も質が悪いと思うのには理由がある。例えば企業に関わる他の人間であれば、サラリーマンだから上司に従うしかないとか、企業の利益を守らなくてはいけないとか、まあ理由がある。もちろん狩野のように、私利私欲のために行動する人間もいるかもしれないが、その大半は仕方なく間違ったことをしてしまうのである。
しかし、片山は違う。片山は、とにかく自分の都合で周囲に当たり散らす。自分だけが満足できれば他の人間はどうなってもいいという考えだ。
僕としては、そういう人間は許せない。絶対に間違ってると思う。最近こんな親が増えているというのなら、本当に教師も他の親も大変だろうな、と思う。
本作はストーリーもすごくいい。群像劇というのだろうか、様々な人間の視点からストーリーが描かれるのだけど、とにかくドキドキしてしまう。もちろん実際にあった事件を基にしているわけで、だから最終的な結末というのは分かっている。それでも、この先一体どうなるんだろうとドキドキさせてくれる。
いやー、本当にいい小説を読んだという感じです。去年直木賞候補になったのも頷ける作品でした。是非是非いろんな人に読んで欲しいものです。江戸川乱歩賞受賞作はそんなに大したことないと思ったのだけど、これほどの作家になったとは驚きです。ちょっと他の作品も読んでみようかなと思います。

池井戸潤「空飛ぶタイヤ」




完全版 摘出 つくられた癌(霧村悠康)

僕の中には、二人の人間がいる。
一人はこう考えている。
時々ニュースなんかで医療ミスが取り上げられている。天敵を間違えただとか血液型を間違えただとかかんじゃを取り違えたとか、そんな単純なミスとしかいいようのないミスが報道される。
それを見て、何でそんな単純なミスをするんだろう、と思う。だって、ちょっと確認すればいい話だ。意識的にきちんと確認をしていれば、そんなミスはしないだろう。しかも、何人もの人が関わっているのだ。その過程で誰か一人くらい気がついてもおかしくないだろう。まったく病院というところは、そんなミスも改善できないなんて、なんて怠慢なところなのだろう。
そんな風に考えている。
もう一人はこう考えている。
ミスをするのはどうしたって仕方ないことだな、と思う。だって人間なのだから。ミスをしない完璧な人間はいない。うっかりしていた、変な風に思い込んでいた、そんなことは結構ある。
僕もバイト先でミスをしたりあるいは周りの人間がミスをするのを見たりする。商品を袋に入れ忘れたり、お釣りを私間違えたり。どれも単純なミスだ。ちょっと確認すれば絶対に防ぐことの出来るものだ。しかしいつまで経ってもなくならない。僕は人一倍そういう単純なミスには気を配っている自信はあるのだけど、しかしそれでも時々は何かしてしまう。
思い込みというのもある。本を探しているお客さんに問い合わせを受けるとする。その際、「A5」と「英語」を聞き間違えることは結構ある。この前も、お客さんは「A5版」のコミックを探していたのに、僕は「英語版」のコミックだと勘違いをして、しばらく食い違ったやり取りをした経験がある。
単純なミスはもちろんなくすべきではあるが、しかしそれを人間がしているのであるから完璧にというのは難しい。機械だって、時々はエラーを出す。少しくらいのミスは許容しておかなくてはいけない。
医療ミスの最も厳しいところは、そのミスによって人の命が奪われるかもしれない、というところにある。つまり、どんな職種の人間よりもより高いレベルを求められる。それだけの責任があるのだ。しかしだからと言って、ミスがなくなるわけではない。
そんな風に考えている。
この二人の僕がせめぎあっている。状況によってどちらかの意見が強くなることもあれば、交じり合ったままよくわからなくなってしまうこともある。
本作では、本来右の乳房が癌であったのに、間違えて左の乳房を切り取ってしまう、というミスが描かれる。このミスを医者側はなんとか患者に気づかれないようにうまくごまかしながら処理をしようとするのだけど、これは責められるべきことだろうか、と思う。
もちろん女性としては、乳がんの際乳房を残せるかどうかというのは重大な問題であるし、また癌でもないのに乳房が切り取られてしまったとしたらその哀しみは計り知れないことだろう。もちろんその哀しみは男には理解できるものではないのだろうけど。
ただ、もう間違って切ってしまっているのである。もう左の乳房はどうしたって戻ってこない。どうにかすれば左の乳房を戻すことが出来るのであれば、患者にミスについて説明をしその対処をするべきだろうとは思う。しかし、もう絶対に戻ってはこないのだ。であれば、嘘をつくことも一つの解決策ではないかと思えてしまう。もう二度と戻ってこない乳房を間違って切ってしまったのだと正直に言うよりは、左も実は癌でした、早期に発見できてよかったですね、と言ってしまう方が、患者さんのためにもなるのではないだろうか。
もちろん人によってこの感じ方は違うだろう。どうやったって左の乳房が戻ってこないことを知っていても、ちゃんと正しいことが知りたいという人はいるだろうし、むしろその方が多いのかもしれない。僕は、別に知りたくない。もう既に取り戻すことの出来ない過去であるならば、嘘でもついてくれた方がいいと考えるのではないかなと思う。
医療現場における根本的な問題というものも絡んでくる。つまり、圧倒的に時間と人が足りない、という現実である。もちろん医者の中にも悪いやつはたくさんいるだろうし、患者のことなんかまったく考えていないようなやつもいることだろう。しかし、医者として真面目にやろうと思っている人には、医療の現場というのはかなり厳しい世界である。研修医ならなおさらで、安い給料で長い時間働き、時には寝ることすらままならないような状態で診察を続けなくてはいけないこともある。そんな状態にあって、絶対にミスをするなというのは本当に酷というものではないか、と思うのだ。
もちろん、もう一人の僕も黙ってはいない。ミスはミスであるし、そのミスが与える影響は計り知れない。医者というのは、とにかく完璧を目指すべきである。人の命を預かっているのだから当然だ。とまあそんな風にも思うのだ。
医療というのは難しい。難しい問題を様々に孕んでいるけれども、しかしなくなったら困ってしまうものでもある。矛盾を抱えたままあり続けるしかない。
ただ何にせよ、現場の人間が声を上げるというのが一番いい。本作を読むと、現場の声がひしひしと伝わってくる感じがする。
そろそろ内容に入ろうと思います。
O大学医学部第三外科に所属する研修医である本木は、今まさに手術を始めよう、というところである。第一助手として、執刀医である高木教授の前に立っている。指導教授である村上も第二助手としてスタンバイしている。
手術は、乳癌根治術である。全摘出手術である。高木のメスさばきはいつ見ても素晴らしいものがある。本木は何故か違和感を感じたが、しかし高木のメスさばきについていくだけで精一杯であった。
手術はもう終盤に差し掛かっている。高木も何か違和感を感じ始めている。これまで乳房を切ってきたけども、リンパ節も腫れてないようだし。まあとりあえずこのまま進めよう。
そして完全に手術が終わったころ、本木が周囲を完全に混乱させることを言う。
「は、はんたい」
術前に左胸にメスで切る部分のラインを引いたのは本木だ。本木は、本来右胸にラインを引くべきであったのに、間違えて左胸にしてしまったのだ。
誰もが凍りついた。しかし、このまま右胸の手術をしないわけにはいかない。とにかく右胸をやろう。それからのことはそれから考えよう…。
術中に調べたら、左胸も癌だと判明したので左胸も手術をしました。
患者にはこれで押し通すことにした。一応納得してくれたようである。しかしまだまだやらなくてはいけないことはある。病理に左胸の検査をしてもらい、癌だったという診断をもらわなくてはいけない。もちろんこのミスには緘口令を敷いて…。
一方高木は、次期外科学会長選挙へ向けての政治的な活動についても多忙を極めていた。医療の世界は政治家顔負けに複雑な政治というものが行われている場であって、選挙となればその政治力が遺憾なく発揮されるのだ。あらゆる人間に会い動向を知らせてもらい、また票の取りまとめをお願いする。そうやって高木は、少しずつ着実に足元を固めていった…。
というような話です。
かなりいい作品だと思います。なんとなく「面白い」という評価をするのが不謹慎に思えるので「いい」という表現を使いましたが。
最近は現役の医者が小説を出すというのも結構あって、まあ一番有名なのは「チーム・バチスタの栄光」の海堂尊だと思うけど、「バチスタ」が完全にエンターテイメントであるのに対し、本作はノンフィクションとの混合という感じがします。
何せ、医療現場で行われている様々な欺瞞を暴く、というような趣向の作品で、とにかく読んでいて、すごい世界だな、と思いました。医療ミスやそれに対する対処、薬の治験、政治活動。とにかくあらゆる意味で普通ではない世界です。
読んでいて、きっと僕には耐えられない世界だろうな、と思いました。医療の世界というのは、正しいことを正しい形ですることの出来ない世界だ、と感じました。正しいことをするには何か間違ったこともしなくてはいけないし、それよりもさらに、正しいことをしないで間違ったことばかりしている人の方が優遇されるような、そんな世界であるように思います。正しいことをしようとしている人間が辛い目に遭う。なかなか報われない世界だなと思いました。
とにかく、医療現場についてありとあらゆることが描かれている作品だと思います。たぶん読んだら、病院に行くのが怖くなりそうな、そんな感じではないかと思います。ただ僕が読んでいてどうしても感じてしまうのが、ここに描かれていることは確かで、恐らくいろんな医療機関で行われているのだろうけど、しかしそれは仕方ないことなのだろうな、ということです。まあそうやって諦められる人はそんなに多くはないと思いますけど。
本作を読んでいて一番すごいなと思ったのは、左胸が癌だと診断される部分です。まあこれについてもいろんなことがあるのだけど、恐ろしい世界だなと改めて思いました。ちょっとやりすぎではないか、という気もしました。
小説として特に酷いところもなく、文章も読みやすく、しかも内容もなかなかいいと思いました。ただ、これを読んで病院が信用できなくなっても、じゃあどうすればいいわけ、という疑問は残ったりするんですけど。結局病気とか怪我になったら病院にいかないわけにはいかないし。まあとにかく読んでみてください。続編もあるらしいので、機会があったら読んでみようかなと思います。

霧村悠康「完全版 摘出 つくられた癌」




狐笛のかなた(上橋菜穂子)

僕は思うのだが、人というのは退化することこそあれ、進化することはもはやありえないのではないか、と思ってしまう。何故ならば、人間はもはや、生きていく上で自分自身の能力を必要としなくてもいい時代になってきているからである。
ありとあらゆる技術の進歩によって、様々に便利な機械が発明され、現在の僕らの生活に広く浸透している。ほんの一昔まえには想像すら出来なかった機械が発明され、恐らく今後も誰しもが想像し得なかったものが次々に生み出されていくことだろうと思う。
しかしそれは、決して人間の能力を豊かにする方向には進んでいかない。
最近見たニュースに、人の誕生日を覚えられなくなった、というものがあった。携帯電話にいろんな情報を登録できるようになってから、見れば記録してあるという安心感から誕生日などの情報をわざわざ覚えるようなことはしない、というのだ。まあこれは確かにそうだろう。僕らは最近、自分の脳ではなく、機械の方にあらゆる情報を溜め込むようにしている。もちろんそれは、いつでも取り出せる状態にあるのだから、自分の脳にあるのと大して変わらないかもしれない。しかし同時に、確実に脳の機能は退化していくことだろう。
こういうことは例を挙げればキリがないが、例えば暦なども挙げられる。昔はカレンダーなどなかったし、天気予報もなかった。けれども昔は、今以上にそうした情報が重要視されていたはずだ。作物を育てたり、あるいは祭事を執り行ったりするのに必要だからだ。であれば、どうにかしてそうした情報を得るしかない。だから、星や陽の沈み方などから季節を知り、また周囲の様々な変動から天気を推し量っていたのだろう。恐らく昔の人は、誰でもこういう感覚を持っていたはずだ。そうしたものも、既に今では失われてしまっている。
もし昔の人を現代に連れてきたら、僕らは魔法使いに思われることだろう。見慣れない機械を自由に操り、さも大したことではないと言わんばかりに複雑なことをあっさりとやってのけるのである。
しかし同時に、僕らが過去に行ったとしたら、その時代に生きる人々を超能力者であると感じるのではないかと思う。恐らく、今の僕らからは完全に失われてしまった感覚というのを持っているはずだと思う。それをうまくは説明できないのだが、要するに今僕らが機械の力を借りてやっていることを機械なしでやっていたのであるから、それだけ個々人の感覚や能力みたいなものが強かったのではないか、と思うのだ。
だからこそ、僕は思うのだ。今の僕らからは完全に失われてしまったが、特殊な能力を持った人が過去にいたとしても決しておかしくはないな、と。
僕が知っているそういう人々に、陰陽師がいる。詳しくは知らないが、恐らく魔術的な能力を有した人々だったのだろう。もちろん実際にそういう能力を持った人が実在していたのかどうかは分からない。それでも、今の僕らには失われてしまっているだけで、元々人間には備わっていた種類の能力であるのかもしれない、とも思うのだ。
きっと人間というのはもっと出来る生き物だと思うのだ。まだまだ余力はいくらでもある。普段は表には出てこないが、かつてはきちんと機能していた、秘められた能力みたいなものが必ずあるはずだと思う。
しかし、それが進化という形でもう一度日の目を見ることはないのだろうと思う。機械に依存しすぎていて、能力を開発するような機会にまったく恵まれないからである。恐らくこれからも、今の僕らは持っているけど未来では失われてしまう能力というのがあるはずだと思う。それはもはや仕方のないことで、そういう生き方を人間が選択したのだから今さらどうこう出来るものでもない。
それでも、機械に頼るのではなく、己の能力だけで生きていたはずの時代を羨ましく思ってしまったりもするのである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
小夜は人の心の声が聞こえる特殊な能力を持つ少女だ。子供の頃、手負いの狐を救い、また森陰屋敷に幽閉されていた少年と親しくなった。それがまさかずっと先に意味を持つことになるなんて…。
大人になった小夜はある時、今はなき母のことを知る人々と出会う。自分の出生についても知っている彼らの話を聞くうちに、春名ノ国と湯来ノ国の間の微妙な争いについて知ることになった。
ある事情から湯来ノ国は春名ノ国に恨みがあった。そのため湯来ノ国は呪者を使って春名ノ国を攻撃し続けていた。春名ノ国にも呪者はいたのだがある時命を落とし、それ以降はなんとか相手の攻撃をかわすのが精一杯の状況であった。
ある日、そんな微妙な状況だった両者に決定的な事態が持ち上がった。
春名ノ国の後継ぎが落馬によって命を落としてしまったのである。血筋から後継ぎを出さねばらなぬので、このまであれば春名ノ国は湯来ノ国から養子をもらわねばならない。しかしそれだけは是非とも避けたい。
春名ノ国の後継者問題に、あらゆる人間が巻き込まれていく…。
というような話です。
著者は児童文学出身の人で、今でも児童文学を書き続けている、んだと思います(たぶん)。最近著作が文庫になってきていて、児童文学の世界だけではなく広く知られるようになってきていると思います(僕も文庫になるまでこの作家のことは知りませんでした)。それにしても最近は、児童文学出身の作家が元気だな、と思います。あさのあつこ・森絵都・佐藤多佳子らが切り開いた道を、後継者がどんどんと続いている、という印象です。
さて本作ですが、ジャンルで言えばファンタジーになります。でどうも僕にはファンタジーというジャンルは合わないようなのです。まあ昔からそれは分かっていたわけですけど。ハリーポッターも一巻を読んだけどそんなにまあまあかなっていう感じだったし、宮部みゆきの「ブレイブストーリー」もまあまあかなという感じでした。
何でかというのを考えてみたんですけど、特別理由みたいなものが思い浮かばないんですよね。ただ一つ挙げるとすれば、日本ではファンタジー=児童文学という構図がある、という点があるかもしれません。児童文学というのは基本的に大人も楽しめる作品が多いですが、それでも基本はやはり子供向けに書かれているはずです。だから、ちょっと物足りなさを感じてしまうのかもしれない、という風には思います。
実際ファンタジーというジャンルは得意ではないですけど、それはつまらないというようなものではなくて、面白さを深く理解できないという意味です。本作も、物語としてはまあまあ面白かったとは思うのですが、しかし絶賛するほどの作品でもないかなと思ってしまいます。たぶん僕は、ファンタジーを読んだら、全部そこそこ面白い、という評価になるのではないかと思います。そういう意味での合わなさを感じる、ということです。
本作では、小夜と野火の関係がまあ面白いですかね。女性であれば、こういう報われない恋みたいな設定は結構好きだったりするかもしれないですね。
でもやっぱり、呪いだとか魔法だとかっていうのはどうも僕にはピンとこないですね。だって、「呪いだ!」とか「魔法だ!」とか言ってしまえば、原則なんでもアリですからね。もちろんそこに一定の制限を加えて調整するからこそ面白くなるんでしょうが、どうも四次元ポケットのような都合の良さを感じてしまうのでしっくりきません。そういうところもファンタジーが得意ではない要因かもしれません。
まあ軽く読める作品だし、大人でも子供でも読める作品だと思います。ファンタジーが好きという人は読んでみてもいいのではないでしょうか。

上橋菜穂子「狐笛のかなた」


あおい(西加奈子)

どうにも掴みどころのない作品なのである。
こう、この前書きのところで何を書こうかなというのがなかなか見つからないのである。難しいなぁ。
というわけで、今日も残念ながら時間がないわけで、前書きをすっ飛ばして内容に入ろうと思います。睡魔に勝てない自分が恨めしいというかなんというか。
本作は、中編やら短編やらが計3編収録された作品です。

「あおい」
私はカザマ君と付き合っている。なんかとぼけたような人でよくわからない男の子だ。でも、親友だった女の子から奪ってしまったなんていう始まりがあったりする。
スナックでバイトしていて、そこに森さんっていう人がよく来る。ママのお気に入りらしいんだけど、でも最近は私に会いに来てくれているみたいだ。森さんも変な人で、おかしい。
本屋で働くみいちゃんという女の子とよく喋るようになる。みいちゃんは、将来小説を書くために辞書を読んでいる。言葉を蓄えておくため、だそうだ。Tシャツのセンスが素晴らしくいい。
で、どうも私は妊娠したようなのだ。

「サムのこと」
サムが死んだ。もちろんサムっていうのは本名でもなんでもないんだけど、僕らはずっとサムって呼んでいた。
もういい大人なのに、僕らはずっとフラフラ生きてきた。みんな未だにバイトばっかりだし、とにかくめんどくさがり屋だ。
サムの通夜に顔を出すことにする。皆で、サムの思い出を語る。でもそれは、結局のところ自分自身を語ることでもあった。

「空心町深夜二時」
車がちょっと事故って、JAFを呼んだ。その間にラーメンを食べている。空心町深夜二時。一緒にいるのは恋人。
私は、大阪を出て東京に行くことに決めた。それを恋人にも伝えた。で、何のはずみだろう、ついでに「別れよう」なんて言ってしまった。なんであんなことを言ったのだろう。

というような話です。
うーむ、久々に、ちょっと評価の難しい作品を読んだな、という感じです。読み終えた今でも、この小説は面白かったのか面白くなかったのかということがよく分かりません。
どの話も、基本的なストーリーみたいなものが欠如している作品で、そういうものよりも、思考で行間を埋めるみたいなそんな作品でした。独り言をそのまま文章にしてみました、というような作品で、それが関西弁で永遠続いているという感じです。
僕にはどうしても、登場人物達の言動や会話が突拍子のないものに思えて仕方ないわけです。どうしてそんな行動を取るのだろうとか、なんでそんな思考になるのだろうと言ったようなことを次々と繰り出してくる感じです。それは大抵女性の行動なわけだけど、すごく支離滅裂に感じられました。
最近、「三年身籠る」という作品を読んだのだけど、この作品に出てくる女性の言動もかなり支離滅裂という感じはしました。しかしその作品の場合、支離滅裂に見えるのだけどしかしどこか論理的であるようにも感じられたわけです。つまり手品とかを見ていて、自分にはこれがどうなっているのかまったく理解できないけど、でも何らかの種がまああるんだろうな、という風に思える作品でした。
しかしこの作品は、僕にはただ支離滅裂なだけに感じられてしまいました。特に「あおい」なんかはそうなんだけど、どうしてそんな風になるのかなぁ、という部分がどうしてもついていけない感じでした。さっきの例で例えれば、手品とかを見ているのだけど、あれこれもしかしてホントに魔法か何かなんじゃないかな、というようなそんな不安を抱くような感じです。
それに、ストーリー性がほぼゼロというのもなかなか評価に困ります。普通小説というのはどんな形であっても、何かが始まって何かが終わる、というような形態ではないかと思うんです。でも本作は、とにかく何も始まらないし、で何かが終わるわけでもなくて、変なたとえをすれば、映画を途中から見て途中で見るのを止めてしまったような、そんな感じの作品という印象でした。
僕の推測では、恐らく僕にはこの作品を理解する感性はないのではないか、ということです。これが、ただの新人のデビュー作ということなら僕もここまで評価に困ったりはしないんですけど、僕は西加奈子の作品を他に既に2作読んでいるし、そちらはまあそれなりにいい作品だと思うので、つまり作家としての力量みたいなものはきちんとあるはずです。しかも本作は、デビュー作であるにも関わらず別になんの賞を受賞したりするわけでもなく、恐らく持ち込みか何かだと思います。であれば、これを読んだ編集者なりが、一読してこれは本にしよう、とか思ったわけで、そうなるとやはり一定以上の評価を受けているはずだ、という風に思われるわけです。だからきっと、このよく分からない読後感みたいなものは、きっと読む自分の方に何か問題なり欠如なりがあるのかもしれないな、というのが僕の結論です。
無責任なことを言いますが、若い女性には合う感性なのかもしれません。ちょっと男が読んで何か理解できる話かというと、ちょっとそれは難しいような気がします。やはりこの本を勧めるとしたら若い女性にでしょう。というか是非読んでみて感想を聞かせて欲しいなと思います。若い女性にはこの作品の感性みたいなものを理解できるのかどうか。気になるところです。

西加奈子「あおい」



斜め屋敷の犯罪(島田荘司)

お金が有り余っているというのはある意味不幸だ、と僕はいつも思っている。たぶんそんな風に思っている人はほとんどいないだろうが。
世の中の人間は、誰もが金持ちになりたがっているように思える。とにかくお金であればなんでもいい。どんな形でもいい。とにかくお金持ちになりたい。お金はいくらあっても困らない。やりたいことは山ほどある。行ってみたい場所も、誰も出来なかったようなことも、何もかもしてみたい。恐らく純粋にそんな風に思うのだろう。
しかし、ただそれだけで済むならいい。実際は、お金持ちになるということは、いくつもの面倒なことを背負い込むことになる、と僕は思っている。
まず、よからぬ連中が周りを取り囲むようになる。おべっかをつかったりへいこらしたりするような人間しか周りに寄り付かなくなり、本心で話すことが出来る人間がいなくなる。自分ではそうありたくもないのに、勝手に祀り上げられてしまう。
また、金がある人間はそれらしい振る舞いを常にし続けなくてはいけない。極端な例ではあるが、例えばレストランなどに言っても常に高い物を注文しなくてはいけないような、そんな雰囲気になるのではないか。その日の気分で食べたいものがあっても、周囲がそれをさせない雰囲気が生まれてしまうような気がする。何でも自分のしたいことをやるためにお金持ちになったはずなのに、お金持ちになることで自由に出来なくなってしまうことが生まれるような気がするのだ。
しかし何よりも一番不幸だと思うのは、お金があることで、普通の人間には到底出来ないようなことも出来てしまう、ということだ。
それが楽しいことや何かに貢献するようなことであればいい。子供のために遊園地を丸ごと貸しきるだとか、あるいはどこかの団体に多額の募金をするだとか、そういうのは全然問題ないのである。
しかしお金があることで、多少後ろめたいこと、社会的に非難されるべきこと、あるいは狂気の目で見られるようなことも思い通りに出来てしまうのだ。
幸か不幸か、周りにそれを止める人間はいない。さらに金はある。世間一般の常識から考えればどれほどおかしなことであっても実現できてしまうのである。
誰もが、何でも自分の思い通りに出来るようにお金を手にしたいと願う。しかしお金持ちであるということはそう簡単なことではないと僕は思う。少なくとも、僕には絶対に向かないだろう。使い道はないし、周囲の人間を信じられなくなるし、めんどくさいことだらけだと思う。やってみたいことがある人はお金持ちを目指すのはいいかもしれないが、しかしなったからと言ってそれが出来る環境にあるかどうかは分からない。そううまくはいかないのではないか、という気がする。よくあるではないか。高額の宝くじに当たったがために、家族の仲が悪くなってゴタゴタする、と言ったようなことが。宝くじ程度でもそうなのだから、それ以上のお金持ちなどもはや想像も出来ない。
前にニュースで、世界で二番目くらいのお金持ちの人が、資産の7割近くを寄付するみたいなことを発表していた気がする。それくらいの方がいいよな、とか思う。健全だし、何よりも安全だ。お金は恐ろしいものである。魔力とでも名付けるべきものがそこには潜んでいると思う。その魔力に、僕はあてられたくないなと思うのである。
ちょっと今日は時間がないのでそろそろ内容に入ろうと思います。
北海道の最北に、ある奇妙なお屋敷がある。ハマー・ディーゼルという会社の会長が建てた屋敷で、<流氷館>という名前がついている。
その建物は二つに分かれている。一方は普通の建物であり、もう一方はピサの斜塔を模した塔である。
さてこの二つの建物が奇妙なのは、それが傾いているということである。北側が持ち上がるような形で床が傾いている。もちろん、そういう風に作られた屋敷なのである。会長の浜本氏はここに客を呼び、人々がこの屋敷で右往左往する様子を眺めるのが趣味だと言う。変わった男である。
さてクリスマスに、浜本氏がこの屋敷に幾人かの客を呼んでパーティーを開くことになった。客は、ハマー・ディーゼルの下請け会社の面々や学生などである。
初日の夜から不可解なことが起きる。三階の部屋で休んでいた女性が、窓の外に変質者がいたと言って騒ぎ立て、その後なんとある部屋から死体が見つかったのだ。奇妙なことに、完全に密室で行われた殺人であった。
警察がやってきたにも関わらず、翌日の夜にも同じく死体が見つかり、またも密室での殺人であった。屋敷の中に犯人がいるはずだが、それぞれにアリバイがあり、また動機のありそうな人間もいない。警察としては最早お手上げである。
そうして呼ばれてやってきたのが、名探偵・御手洗清である…。
というような話です。
本作は島田荘司の作品の中でもなかなか評価の高い作品だったので、割と古い作品ですが読んでみました。
トリックは、なかなか壮大ですごいものでした。まだまだこんなトリックがあるのだなぁ、と感心したものである。
まあトリック以外の部分は、まあ平凡でしょうね。キャラクターは平凡だし、会話もなんか不自然な感じもするし。まあこういうのは本格ミステリではよくあるわけで、いちいちそんなことを指摘していたら本格ミステリは読めないと思いますけどね。要するに、ミステリとしてはなかなかの出来だけど、小説としてはどうだろうか、という感じです。金持ちはいかにも金持ちらしく、警察はいかにも警察らしく描かれていて、紙の上だけの存在で活き活きしないない感じです。
まあでも、トリックは一読の価値はあるかもしれませんね。このワンアイデアだけでここまで作品を作ったのはまあなかなか評価すべきかなとは思います。本格ミステリが好きだという人は、チャレンジしてみてください。

島田荘司「斜め屋敷の犯罪」


斜め屋敷の犯罪文庫

斜め屋敷の犯罪文庫

強運の持ち主(瀬尾まいこ)

僕はやっぱり、占いというのはどうしても信じられないなと思うのだ。というか、なんかむかついてしまう。
やっぱそれもこれもすべての元凶はあの細木なんたらさんのせいだろうと思う。あの細木なんたらさんが適当なことをべらべらとテレビで言っていて、まったくどうしてあんな適当なことを言っている人のことをみんな信じたりするんだろうね、どうしようもないね、なんか気持ち悪いなぁ、みたいな風に感じてしまうのだ。
だって、どう考えても占いなんて適当ではないか。
毎朝のニュースの最後にあるような星座別の占いだって、ラッキーカラーがどうでラッキーアイテムがどうでなんて何を根拠に言っているんだと思う。というか、日本人を12のタイプに分けただけのものなわけで、なんで同じ星座の人間が同じ運勢なんだ、っつう話になってくるわけで。雑誌に載ってる占いとかもそうだけど、何を言ってるんだという感じである。
細木なんたらさんの占いはもうちょっと込み入っているんだろうけど、にしたってあそこまでみんながはまる意味が分からない。なんとか星人みたいなのがあって、プラスだのマイナスだのがあって、大殺界がある。って、んなの言葉だけじゃねーか、とか思ってしまうのだ。時々まともなことを言っているように聞こえることがあっても、それは一般論を言っているだけであって占いでも何でもない。細木なんたらさんなんか明らかにインチキなわけだけど、しかし誰もそれを指摘しないんだよなぁ。やっぱ金になるからだろうか。
水晶を眺めたり、竹みたいな棒をじゃらじゃらさせたりして占ったりする人もいるんだろうけど、それで一体何が分かるわけ?って感じだし、ホント意味がわからないのである。
まあ少しは前向きに検討してもいいかなと思えるのは手相占いである。手相というのは人にとって違うわけで、それをある一定数のサンプルを取って統計的に処理をしたものが手相占いであって、まあ当たるかどうかは別として、一人一人違うものを対象にしているというのがいい。誕生日や血液型なんてのをいくら組み合わせても自分と同じ組み合わせの人間は間違いなくいるから信憑性がないけど、手相なら双子でもない限り(双子の手相が同じかどうか知らないけど)皆違うわけで、ちょっとは話を聞いてもいいかなとは思う。
日本人というのはどうも占いが好きなようで、何でだろうとか考えてみると、やっぱ特定の宗教がないからかもな、とか思ったりする。キリスト教だの仏教だのと言った何か特定の信じる対象があれば、占いなんか信じる必要もないだろうし、ここまで広まることもないだろう。宗教を持っている人は、自分が信じる神だのそういったものを頼ればいいわけで、占いは不要である。
人間はやっぱ何か頼れるものが欲しいわけで、占いというのはそれを簡単に与えてくれるものなのだろう。宗教ほど熱心でなくてもいいし、ただ人の言っていることを信じるだけだから手間も掛からない。宗教の場合、願っても叶わなかった場合神だのなんだのに不信を抱いたりするしかなくなるけど、占いの場合は、まあ占いだし当たらないこともあるよね、と気楽に構えていられる。そういう手軽なところがきっと受けているのだろうなと思う。
実際占いというのはいつの世も本当になくなることがない。いつの世も、まあ僕に言わせれば胡散臭い占い師がボンボンと出てきては適当なことを言ってるなぁ、という感じだけど、しかし本当になくならない。女性は相変わらず占いが大好きだし、ちょっと違うけど血液型に関する番組がいろいろ作られたりしている(でも確かこれには何らかの規制みたいなものがなされた気もするけど)。
と、まあ何だかんだと占いを馬鹿にしてきたけど、でも占い師というのはかなりすごいなとは思うんです。だって、やってる方だってこれ適当だよなとか絶対分かってるわけじゃないですか。なのに、相手の相談を真面目に聞いて、星がどうだの運気がどうだのという話をしながらなんらかのアドバイスをする。口がうまくないと出来ないし、はったりを使いこなせないと絶対に無理だろう。そういう意味で占い師はすごいとは思う。
まあ何にせよ、僕は一生占いなんか信じないし、細木なんたらさんのことは馬鹿にし続けることでしょう。なんつーか、占いなんて陳腐なものはさっさと消えてなくなればいいと思うのに、とか思ってしまうわけです。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は四編の短編を収録した短編集になっています。

「ニベア」
人間関係が煩わしくて、OLを辞めて占い師になった吉田。占い師としての名前はルイーズ吉田である。毎日デパートの一角を借りて営業をしている。20分で3000円。まあなかなかいい商売だ。
まあ色んな相談を持ってくるお客さんがたくさん来るが、しかしルイーズはそのほとんどに直感で答える。占い本通りの解釈なんてしない。まあそんなのはどうでもいいのだ。最終的には、お客さんの納得する答えを出せばいいのだから。
さて今日は珍しく小学生の男の子が一人でやってきた。初めは占い必要があるのかどうか分からないような変な相談を持ってくる。スーパー丸栄とサトヤのどっちにいくべきかとか、掲示係と図書係のどっちになった方がいいかとか。
でも最後になかなか難しい相談を持ってきたのだ。
お父さんとお母さんどっちを選んだ方がいい?
しかしどうもこの少年の家庭は、ちょっとおかしいみたいなのだ…。

「ファミリーセンター」
今日やってきたのは女子高生。ある男性の気を惹きたいのだけどどうすればいいか、っていう相談だ。まあよくある相談だ。好きな男の子を振り向かせたいなら女性誌でも読めばいいいのに、とか思いながらも適当なアドバイスをする。
するとしばらくしてその女子高生はまたやってきた。占い通りにやったけど当たらなかった、と言われ、まあたまにこうやって文句を言いに来る人はいるんだよねとか思っていると、次はどうしたらいい?と聞かれた?ルイーズは驚く。一回外れた占い師にまた頼ろうとするのは珍しいからだ。
それからもルイーズは適当なアドバイスをするのだが、外れたと言ってはまたどうしたらいいか聞きに来る。なんか厄介なことになってきた。でも、この女子高生の態度、なんかおかしいんだよなぁ…。

「おしまいの予言」
関西弁の男の子が一人でやってきた。男が一人でくるというのは珍しい。
その男の子は来るなり奇妙なことを言い出すのだ。
自分は、人のおしまいが見えてしまうのだ、と。何か物事の終わりがあるとそれをなんとなく予感することが出来るというのだ。
それから言い出したこともまた奇妙で、それは、しばらく自分をここに置いてくれ、という。この変な能力をどう活かしたらいいか勉強するために占い師の元におかせてくれ、と。人と関わりたくなくて占い師を始めたというのに何でこんなことに…と思いながら、押しかけてくる男の子を押し返すことも難しい。
そうやって結局なし崩し的に男の子は居座ることになっちゃったんだけど、ある時彼がふとこんなことを言うのだ。
「ルイーズさんにも終わりの予感が見えるんだけど…」
そう言われたルイーズは大慌て…。

「強運の持ち主」
いろいろ考えてアシスタントを雇うことにした。竹子さんという女性を採用したのだけど、しかしこの女性、なんとも関わり難い相手だった。
占いに熱心なのはいいけど、本に書いてあることをそのまま言ってしまう。悪いことが起こるようならそれをそのまま言ってしまうのでお客さんとしても不安がる。どうも融通というものが利かないようだ。何だか竹子さんとはうまくやっていけないような気がする。
いろいろ考えて、強運の持ち主である自分の彼氏を竹子さんに見てもらうことにした。彼はボーっとしてるけど運勢だけは最強なのだ。しかし彼を占った竹子さんは浮かない顔。何でも運勢は最強なのだけど、時期的に運気が下がってしまうというのだ。それを聞いてルイーズは慌ててしまうことに…。

というような話です。
本作は占いをモチーフにしてるんだけど、でもやってる本人が適当にやってると言っているところが面白いです。人間を観察し、大まかに相手の性格や状況を把握し、その上で相手の相談内容を吟味し、相手が望んでいるだろう結論、あるいは常識的に妥当だと思える結論を導き出して言う。全然占いはしてないんだけど、これだけで占い師としての体裁は保てる。まあ多少話術は必要だけど。やってることは人生相談と同じなんだけど、それにちょっと占いというベールを纏わせるだけである特定の人には信憑性を持たせることが出来るようになるのだろうな、と思った。
そんな適当に占いをしているルイーズなのだけど、人から占いめいたことを言われてしまうと慌ててしまう。そこがまたおかしい。自分は適当にやってるはずなのに、人から言われると動揺してしまう。なんか分かりやすいんだか分かりやすくないんだかなんとも言えない性格である。
また、ルイーズには通彦という一緒に住んでる彼氏がいるんだけど、この通彦もまたおかしい。
ルイーズが通彦と出会ったのは占いの場で、その時付き合っていた彼女と一緒だった。まだその時は真面目に占いをしていた時期で、通彦の運勢を調べてみるととんでもなく運勢がいい人だということが分かった。これだけ運勢のいい人なんだから手に入れないと後悔すると思い、ルイーズはありとあらゆる占い的な手段を駆使して彼女と別れさせ、通彦と付き合うことに成功したのだ。
しかし通彦は普段からボーっとしているし、よく分からない料理を作っては美味しそうに食べる。休みの日も別にどこに連れて行ってくれるわけでもない。どこが強運の持ち主なのか分からないのだけど、ルイーズとしてはまあ満足している。
この通彦がなんともとぼけたキャラクターで面白い。読んでて和む感じである。どちらかと言えばダメ男だと思うが、しかしこういうキャラクターも悪くないと思わせる。僕も通彦みたいにのんびり生きたいものである。
本作は瀬尾まいこにしては珍しく(なんて言ってもまだそんなに読んだことないけど)ミステリ的な要素がある。特に「ニベア」と「ファミリーセンター」の二つはそうだ。どちらも、よく分からないお客の謎を解き明かすという趣向になっている。ただやっぱりミステリ作家ではないからだろう、ちょっと甘いような気がする。どちらも微妙にミステリになりきれていない気がする。まあ著者としてはミステリを書いたつもりではないのかもしれないけど。
「おしまいの予言」の関西弁の兄ちゃんもすごく面白いキャラだし、「強運の持ち主」の竹子さんもいいキャラをしている。瀬尾まいこは本当に楽しいキャラを描くのがうまいと思う。現実にいそうででもちょっと現実離れしているような、そういう微妙な間を狙った描き方がうまいような気がする。
短い話だしすごく軽く読める作品です。さらっと読むには向いている本だと思います。読んでみてください。

瀬尾まいこ「強運の持ち主」



電車屋赤城(山田深夜)

職人という存在には結構憧れる。
僕が職人の中で最も惹かれるのが、刀鍛冶である。今では刀鍛冶なんて存在するのかどうかもよくわからないけど、なんかあれはすごいなと思ってしまう。
もちろん、刀鍛冶を間近で見たことがあるわけではない。僕が知っているのは、テレビや本などで読んだだけの情報である。
しかし、日本刀を作るというのは本当にすごいと思う。物理の知識などまったくなくても、火の色を見るだけで鉄の温度が分かる。いかにして鉄を強くするか、どう鉄を打てばいいのか、そういったことをすべて経験で知っている。昔は日本刀というのは道具であっただろうけど、それはただの道具ではなく芸術でもあった。よく切れること、そして美しいシルエットを持つことが日本刀の魅力だ。熱い炉のようなものの前で鉄を熱し、幾度も幾度も鉄を打ちつける。その姿はなかなかに惹かれるものがある。
また、ちょっと違うが、沖縄に行った時のことも思い出す。沖縄の竹富島というところに行ったことがあるのだけど、そこにアクセサリーを作る職人がいた。海岸で拾う流木や石なんかを加工してネックレスだの腕輪だのを作っているのだけど、その悠悠自適に見える生活は羨ましく思えた。もちろん生活は楽ではないだろう。いくら材料のほとんどがただとは言え、そうたくさん売れるものでもないはずだ。それでも、自分の技術一本で静かに暮らしているその生活には、真似は出来ないけれども羨ましさを感じたことを覚えている。
また職人と聞いて思い出すのは、日本のある町工場だ。
日本には、世界にも通用する驚くべき町工場がある。総勢6名の会社で、平均年齢もすこぶる高い。しかし、世界中でそこでしか作ることの出来ないものがたくさんある。
一番有名なのは、痛くない注射針ではないだろうか。確か何かの賞も獲ったはずである。従来の針と比べてありえないくらい細くしたその注射針は、従来の製法とはまるで違うやり方によって作られた。
また僕の記憶が確かなら、携帯電話を小型化するのに成功したのもその町工場の功績だったと思う。携帯電話の小型化にはどうしてもモーターを小型化する必要があったのだけど、それがどんなメーカーも開発することが出来なかった。しかしその町工場がなんとか開発に成功したのだ。これもうろ覚えだが、確か特許は獲っていないのではなかったか。理由を聞かれてこう答えたはずだ。うち以外には作れるはずがない。作れるものなら作ってみろ。すごい自信である。
NASAなど海外のトップクラスの企業からも注文の依頼があるという、日本の驚くべき中小企業。日本の誇るべき技術力である。
また、これも何かで読んだのだけど、ipodの外枠(ちゃんと覚えていないのだけど鉄製の普通じゃないやつだったはず)も日本が作っているそうだ。というか、日本の職人以外には作ることができないとか。日本人は手先が器用だといわれているけれども、なるほど世界からも評価されているのだな、と思う。
僕はそうした職人というものに憧れるのだけど、しかし同時に、自分には絶対なれないということも知っているのである。これは諦めているとかそういうことではなく、そういうことなのだ。
というのも僕は、これまで何かに熱中したり没頭したりした経験がないのである。もちろん面白くてのめりこんだり、やりがいを感じたりすることはあった。それでも、我を忘れて没頭したり、寝るのも忘れて熱中するなんていう経験は一度もない。どんなことであっても多少醒めた場所に立っていて、何故だか知らないけど自分の中でブレーキを下ろしている感覚なのである。
職人というのは僕の中で、一つのことをとことん突き詰められる人間だと思っている。そこには、努力や才能やそういった何よりも、まず根気というものが要求されるように思う。僕はもともと飽きっぽい性格ではあるが、しかし仕事であればきちんとやる方だと思う。しかしそれは、決まった枠の中で全力を出すということだ。自分で新しく枠を作り出したり、既存の枠を無視したり、枠の外側を目指したりということはない。そういう意味でやはり僕には根気がない。職人にはなれないだろうなと思うのだ。
思えばこれからどんどん職人というのは少なくなって行くことだろう。技術の進歩によって、職人にしか実現できなかったことが機械でも再現できるようになってしまった。伝統芸能などもどんどんと失われて行き、また後継ぎがいないという問題を抱えていることだろう。技術が伝承されない。奇跡のような手腕が消えてしまう。やはりそれは淋しいように思う。
確か今地方では、畳屋なんかの職人を必要とするものを残そうと、若者を呼び寄せようという試みを始めているはずだ。確かに、興味を持つ若者は結構いるかもしれない。しかし、根気のない今の若い世代にどこまで伝承することが出来るか。職人のいなくなるだろう日本は、きっとどこかのっぺりしたものになってしまうのではないかと思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は長編と書かれていますが、僕は短編集だと思ったのでそういう形で内容を紹介しようと思います。

「1000形」
田宮純一は、もう四年も引きこもっている。きっかけは高校受験の失敗。以来対人恐怖症になり、家族と接する機会も少なくなっていった。
外に出なくてはいけないとは思う。しかし、なかなか一歩を踏み出すことはできない。
ただ、ある日を境に純一は外に出てみようと思った。前から叔父さんに、叔父さんが経営している電鉄会社の下請工場でアルバイトをしてみないかと言われていた。純一はやってみることにした。
純一に初めて与えられた仕事は、従業員の作業服の洗濯である。毎日ものすごい量の洗濯が出る。それを純一が洗う。単純でしかも一人で出来る仕事だ。これならやれそうかもしれない。
そこで赤城に出会った。
口を開けば誰もが優秀な職人だという。しかし人付き合いが悪く敵も多い。無口だしなんだかよく分からない人だ。
でも純一は、その不思議な魅力に惹かれていく…。

「トレイン・ブルース」
佐島は、神奈川電鉄の社員として車両整備の仕事に従事している。赤城とは同期だ。赤城の腕には敵わないが、しかし佐島が赤城に大いに勝る点がある。
耳、である。
誰よりも耳がいい佐島は、他の人が聞き分けられない音を察知し、いち早く故障部位を特定してしまう。神奈川電鉄一優秀なテストマンである。
しかしある日、佐島の元に信じられない知らせが飛び込んで来た。
息子が事故で死んだというのだ…。
赤城が無骨ながら佐島を労わる。その静かな優しさが染みる。
しかしなんと、赤城はとある事件のために懲戒免職処分にされてしまうのだ…。

「継電器」
純一の叔父であり、エース工業の二代目社長である三郎は、今大変な苦境に陥っている。親会社である神奈川電鉄が、1000形の電車を随時廃棄し、3000形と入れ替えていくことになった。3000形に替われば、これまでのようにたくさんの整備士は不要になる。必然的にエース工業への仕事も減ることになり、なくなく三郎は人切りをしなくてはならなくなったのだ。
三郎は、自分が二代目社長になったのは間違いだったのではないかとずっと思ってきた。自分のせいで今の惨めな状況に陥っているのではないかと落ち込んでいる。しかし落ち込んでばかりもいられない。親会社との複雑な関係が今日も三郎を待っている。
一方で三郎や佐島は、赤城の行方を懸命に捜していた。三郎の内縁の妻のような存在である恵が、実家に帰った時にちらと赤城らしき人の姿を見かけたといい…。

「紅差し指」
恵はこれまで碌な人生を歩んでこなかった。騙され奪われてばかりの人生。でも三郎と出会ってからは幸せだ。小さいながらも小料理屋も開くことが出来た。これ以上望むのはきっと贅沢だ。
赤城の行方はあっさりと見つかった。とにかく連れ戻す説得をするために誰かが福島まで行くという話になる。恵は、自分が行くと言い切った。そして三郎も一緒に行くと言った。何か決意を秘めたような目。何を考えているのだろう。
赤城を取り巻く状況は何故かどんどん複雑になっていた。なんと、親会社である神奈川電鉄が、赤城を呼び戻せというのだが…。

「ハマボウ」
かつてカム制班班長だったが、事情があって駐輪場に飛ばされていた原田は、何故かまた横須賀工場へ戻るよう辞令を受けていた。この問題児のおいらを呼び戻して一体何をさせようっていうんだろう。
そろそろ命日だった。原口はもともと漁師だった。ある時知り合った女性と周囲の反対を押し切って無理矢理結婚したのだが、漁に出ている時に事故に遭い、妻を失ってしまったのだ。その命日がもう近い。一年のうちでその日だけは泣くことに決めている。
戻って早々、ある1000形のある故障原因を究明することになった。もちろん赤城もいる。しかしその赤城をもってしてもなかなか事故原因は究明されない。
このままだと命日の日も出勤しなくちゃいけないだろう。しかしそれは仕方ないことだ。今年は墓参りに行けないかもしれない…。

「レール」
神奈川電鉄の問題児である加藤は、いつも碌に仕事をするわけでもなく、また誰彼構わず横暴な態度を取っては嫌われていた。それでも止めさせられないのは、偏に彼が神奈川電鉄の大株主の係累であるからだった。
加藤は私生児として生まれてきた。母親を既に亡くしているのだが、その死の間際に、父親が神奈川電鉄に関わる人であるということを知る。神奈川電鉄に入るのなら便宜を図ってもらえることになっているという言葉を聞き、だったら父親を探しに行ってやろうじゃないか、と思ったのだ。電車なんかにはもともと興味がなかった。
ある時、1000形のとある故障原因を追求する班に無理矢理入れさせられた。当然赤城もいた。その故障は、加藤が唯一覚えた回路図が関係しているものだった。ちょっと興味がないでもない。というか、何だかこの故障の原因だけはちゃんと突き止めたくなった…。

「継軌」
純一はユカリと共に赤城のギター演奏を聞きに来ている。その演奏はもはやプロ並で、驚くほどうまかった。
赤城の今後については誰もが危惧していた。本人はまるで関心なさそうにしているので何を考えているのかさっぱりわからないが、とにかくこのままでは1000駅形がなくなるのと同時に赤城は解雇されてしまう。
原田はアクロバティックなアイデアを実現させようとしていた。原田を迎えに言った純一は、1000形を他の電鉄に引き取ってもらい、それとセットで赤城も引き取ってもらおうと考えているらしい。しかしその交渉もなかなかうまくはいかないようだ。
ついに残る1000形はあと一両になってしまった。純一は会社まで戻る際、どうせならとその1000形に乗って帰ることにした。しかしそれから…。

というような話です。
僕はこの作品を読んで、重松清みたいな作風だなと思いました。こんな風に思わせる作家はなかなか珍しいなと思います。
とにかく、電車を通じて人間を描こうとしている作品です。物語には様々な人間が出てきて、引きこもりの少年や子どもを失った親、二代目としての自信のない社長や鼻つまみ者のダメ社員など、ありとあらゆる人間がいます。そのすべての人間が、赤城という無骨で物静かな職人と関わることで何かしらの新しい道筋を開くことが出来るようになるのです。
赤城というのは、愛想はないし人付き合いは悪いしで、深く関わらないで遠くから見ている分にはすごく悪い人間に見えるけれども、しかし近づいて見れば見るほどその良さが分かってきます。口にしなくても伝わる言葉があり、視線を合わせなくても伝わる気持ちがあるという感じで、そのさりげない好意というのが非常に好感が持てます。しかもそれを自慢げにするわけでもなく、というか自分がしたことを忘れているようなふりまでするような男で、まあ不器用な感じは否めないですけど、でも関われば関わるほど魅力ある人間であることが分かります。実際赤城と関わった様々な人間が、赤城を慕い赤城のために何か出来る事はないかと模索します。
それにしても赤城というのは本当に不器用な男で、うまく立ち回るということが出来ません。自分の正しさを信じているがために上とは衝突するし、正しいことをしてもそれを明かさなかったり、言い訳もしないし何かに従属したりもしないまさに一匹狼という感じで、本当に組織には馴染まない男だなと思います。それでいて一部の人達からは熱狂的に愛されるわけで、なんとも不思議な男だなと思います。
本作は、章毎に主人公が替わり、彼らが何かしらの問題と対峙し、最終的に赤城が何らかの形でそれをまとめてしまうという話で、とにかく赤城の個性が非常によく活かされている作品だと思いました。まさに職人気質の男で、僕としては非常が持てました。
著者は20年間車両整備の仕事をしていて、文筆活動に専念するために会社を辞めたという異色の作家ですが、まだ作品数はそれほど多くないはずなのにここまで安定した文章を書けるというのはすごいなと思いました。自分の得意な世界を描いているというアドバンテージはあるにしても、決してそれだけではない魅力がこの作品にはあります。1000形という廃棄寸前の車両を取り巻く人々を鮮やかに描ききった作品で、僕はすごくいい作品だなと思いました。
著者紹介の写真はなんだかすごく怖そうな人ですけど(っていうか実際絶対怖い人だと思いますけど)、作品は非常に暖かくて人間の温もりを感じられる作品です。ってこんな言い方だと、著者は血の通ってない人間みたいですね。いやそんなつもりは全然ないんですけど。かなりオススメできる作品です。是非読んでみてください。

山田深夜「電車屋赤城」




ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!(深水黎一郎)

本格ミステリというのはつまるところ、意外な犯人をいかに生み出すことができるかという試みであり、その成果の集大成であると言えるだろう。
古今東西ありとあらゆる作家達が、ありとあらゆる試行錯誤をこらして、この「意外な犯人」というものに挑んできたわけである。などと書くと僕が古今東西様々なミステリを読みこなしている風に聞こえるかもしれないけど、まあそんなことは特になく、最近の新しいミステリしか読んでいないのだけれども。
しかし、この「意外な」というのはなかなかに難しいものがある。言わずもがなであるが、あらゆるパターンといものは既に出尽くされてしまっているのだ。探偵が犯人、動物が犯人、被害者が犯人など様々で、それどころか、被害者が誰か分からないとか目撃者が誰か分からないとか、とにかく犯人以外のありとあらゆるバリエーションが既に考えられてしまっているのである。
しかし、そんな「意外な犯人」のバリエーションの中に、その存在は早くから知られていたにも関わらず、誰しもが作品という形で昇華することの出来なかったパターンといものが一つだけ存在するのである。
それが、「読者が犯人」というものである。
これはアイデアだけは以前から言われてたようだ。とは言えそれは、「意外な犯人」を生み出すのに熱心なミステリ界へ、だったら「読者が犯人」なんてのも出来るんだろうね、みたいな揶揄を込めて言われたというような話もあるのだが。
実際、「読者が犯人」というトリックに挑戦した作家というのはいるらしい。それはある一定の成果を挙げはしたらしいが、しかしかなり限定的な条件付きで成立させたものであるようで、やはり「読者が犯人」という試みが成功したとはなかなか言えないだろう。
しかし考えてみればそれも当然の話である。本作の中でも指摘されているように、読者というのは小説の枠組みの外にいる存在である。どれだけ「意外な犯人」を生み出してきても、それは小説の枠組みの内側にいる存在が犯人である。しかしこの「読者が犯人」というトリックは、小説の枠組みの外側にいる人間をどうにかして小説の内側へと引き入れ、犯人に仕立て上げなくてはいけないのである。
それに、例えばある特定の読者だけに当てはまるというのでもいけない。豆腐屋のおじさんとかアフリカの難民とか宇宙飛行士であるとか、そういう特定のある読者だけが犯人足りえるというのではなく、レストランの看板娘もテレビ番組の司会者も、あるいはそれこそ織田信長やシェイクスピアが読んだって同じように犯人として成立しなくてはいけないのである。
これは相当にレベルの高い難問であって、というか恐らくまずもって不可能ではないかというくらいのものである。まあそれくらいの難問でなければ、あっさり解かれてしまっていただろうとも思いますが。
さてそんな超ド級の難問に、日本のある新人作家が一つの回答を叩き付けたというわけです。タイトルにご丁寧に「犯人はあなただ!」などとつけ、また表紙には鏡を模したようなデザインが採用されているわけです。なかなか自信ありげな感じ。さてどうなりますやら…。
そろそろ内容に入ろうと思います。
私は作家であり、現在とある新聞に連載小説を発表している身である。そんな私の元にある一通の手紙が届きました。
その手紙は香坂誠一という人物から送られたもので、内容は驚くべきものでした。
香坂なる人物は、本格ミステリの隆盛についてあれこれと語り、その後に、自分は「読者が犯人」であるという素晴らしいトリックを思いついた。ついてはそのトリックを是非買い取ってはいただけないだろうか、という内容であった。
その手紙に不思議な魅力を感じつつももちろん心底から信じることが出来るわけもなく、友人に相談したりなどしていた。
一方で私は、超心理を研究しているある教授の元へ通っている。超心理とはつまり超能力のことであって、ある事情から超心理について調べてみようと思い立ったのだ。
そのうち、香坂から二通目の手紙が送られてくる。トリックを買い取って欲しいという話は相変わらずだが、同じ封書に奇妙な文書も同封されていた。
香坂の言う「読者が犯人」というトリックとは、一体どんなものなのだろうか…。
というような話です。
さてタイトルや装丁や帯でさんざん煽っているわけですけど、トリック自体はまあこんなものか、という感じのものでした。でも確かに、「読者が犯人」という要件を充たしたトリックではあると思います。まあなかなか苦しいとは思うけど、でもこのワンアイデアを小説という形にうまく落とし込んだのはなかなか評価してもいいかなと思います。
一応読めば、確かに僕が(つまり読者が)犯人だと思える作品にはなっています。そういう意味ではなるほどうまくやったなという感じはあります。しかしそこに至る過程でやはり多少の無理があることは否めないよな、という感じです。
なんかネタバレになりそうなんであんまり詳しいことは書きませんが、本作で使われているトリックを使って小説を書こうとした時、本作のような料理の仕方がすごく適切だという感じはあります。トリック自体は苦し紛れだけど、そのトリックをうまく活かしきったという点ではいい小説と言えるでしょう。
ただ後半、解説めいた文章が出てくるのはちょっとなぁ、と思います。伏線を張った箇所を自分で説明しているんだけど、それはちょっとやりすぎなんじゃないかなという感じがしました。その部分はちょっといらなかったかなぁ、と思ったりします。
うーん、ちょっと人に自信をもって勧めるほどの作品とは言えないですね。キワモノの作品にちょっと手を出してみたいという人にはいいかもですね。まあトリックはさておき、小説としてはそこまで悪くないと思いますけどね。

深水黎一郎「ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!」




フタマタ生活。(大崎ユリ)

僕は基本的に、浮気については寛容というかどうでもいいというかそんなに騒ぐようなことでもないかなと思っている。どうも世間一般の認識とはズレがあるようだ。
僕が浮気をする、というシチュエーションはなかなかやってこないと思うからあんまり考えたことはないのだけど(まず彼女が出来ないから浮気のしようがないですね)、でももし自分にそういう状況がやってきたらちょっと考えてしまうな、とは思うんです。実際浮気をするかと言われれば、まあしないとは思います。やっぱり相手に悪いなとは思うし、世の中的に間違っていることだとされているからです。でも僕の中にはきっと、なんで浮気が悪いんだろう、という思いがずっと残り続けるんではないか、とそんな気がします。
例えば僕に彼女がいたとして、その彼女が浮気をしたとしても僕は全然構いません。出来れば隠してくれればもっといいけど、でも「明日は○○とデートしてくるね」「おう」なんていう感じでもいいかなとか思います。
そもそも、何故同時に二人以上の人を好きになってはいけないのか、というところが大いに疑問ですね。何ででしょう?
もちろん、初めに付き合っている方の相手に悪い、というのは分かります。それがすべてだと言えなくもないけど、でもそうかなぁ。
だって世の中にはこれだけ多くの人がいるわけです。その半分は異性なわけです。その中で、同じ時期に二人以上の人を好きになってはいけないというのは、どう考えても不自然で不合理だと思うんだけど、やっぱ僕の方が間違ってるんでしょうかね?
僕は別に浮気をしたいわけではありません。僕はちょっとめんどくさがり屋なので、二人の女性と同時に付き合うなんて芸当はまず出来ないでしょう。一人で充分だと思います。でも世の中にはパワフルな人もいて、何人とでも付き合えるという人もいるだろうし、どっちにも完璧な愛情を注ぐことが出来るという人だっていてもおかしくはないと思うんです。
よく浮気の場合だと、「どっちが好きなんだ」みたいな話になったりすると思います。でも僕の中でその質問はおかしくないかとか思ったりするわけです。だって、どっちも好きなわけです。どっちかなんて選べないことだってあってもおかしくないと思うんです。それでもやっぱりどっちかを選ばないといけないものでしょうかな?それが恋愛ってものでしょうか?
結婚したら、まあ浮気はダメだろうなと思うんです。つまり結婚という仕組みにはそういう意味があると思うんです。あなたのことだけを愛することに決めました、みたいなそんな宣言みたいなものでしょう、結婚というのは。
でも自由に付き合ってる限り、まあ浮気をすることがいいかどうかはさておき、付き合っている人がいながらも他に好きな人が出来てしまうというのは仕方がないんではないかと思います。少なくとも僕はそう思うし、だから僕自身が浮気をするかどうかは別として、付き合っている彼女がいたとしたらその彼女には別に浮気をしてもらっても全然構わないと僕なんかは思ったりします。
基本的に僕は束縛というのがダメなんだと思います。恋愛に限らず、僕は世の中のありとあらゆる束縛から逃げながら生きてきたような人間で、他の人が束縛であると感じない些細なことですら僕には苦痛だったりします。だからこそ同時に、誰かを束縛するというのも苦手で、だからこんな変な考えをするようになったのかもしれません。
そうだ、全然関係ないけど、どこからが浮気なのかというような議論もあったりしますね。あれどうなんでしょうね?僕は、まあキスとかしちゃったら浮気なような気がしますけど。
浮気にはもっと寛容になってもいいんじゃなかろうか、と思うんですけど、やっぱそうはいかないでしょうかね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、専門学校に通う女性がブログに書いていた文章を書籍化したものです。
ブログを始めるきっかけは、フタマタです。
著者は、シュウジさんという社会人の男性と付き合っていました。3年近くにもなる恋愛で、結構長いものです。著者の家庭が不安定になった頃から支えになってくれた人で、彼氏としてももちろんだけど、自分を支えてくれる存在としてもかけがえのない人でした。
しかし少しずつ、専門学校の同級生にも惹かれ始めてしまいました。ハルというその男の子はシュウジさんとは全然違うタイプだったけど、何だか気になる存在で、いつもハルのことを考えてしまいます。結局ハルは、彼氏がいることを承知で愛人になりました。
それからは、ハルとシュウジさんとのフタマタの生活が始まります。悪いことをしているとは思いながらも、どうしてもどちらも好きという思いを捨てきれない。どちらかに決めないといけないんだろうけど、どうしたらいいんだろう?
みたいな話です。
僕は基本的にブログ本には好意的で、これまで読んで来たどのブログ本も面白かったのだけど、この作品はちょっとあんまりかな、と思いました。
というのも理由があって、どうしても「私を見て、ぎゅっと愛して」と比較をしてしまうからです。
「私を見て~」も同じくブログ本で、彼氏がいながらも出会い系を止めることが出来ない女性の話です。とにかくこの本が素晴らしくて、僕が去年読んだ本の中で1位に輝きました。文章も状況の展開も何もかもが素晴らしくて、これはもはやブログ本のレベルを超えてるなと思ったものです。
そんなすごい作品を既に読んでしまっているので、ブログ本でかつ恋愛を扱ったものにはちょっと厳しい視線で見てしまうところがあると思います。本作も、「私を見て~」と比較してしまうと、どうしても文章は稚拙で、状況としても平易だなという感じがしてしまいました。まあどこにでもありそうなブログ、という感じです。
僕が思うに、世の中にこれだけブログが溢れている中で、それでも書籍化する価値のあるものというのは、小説を遥かに超えた日常があって、それが事実として行われているのだというリアルさを伝えることが出来ているものだと思っています。これまで読んで来たブログ本にはそうしたものがあったと思うのだけど、本作は、小説並かそれ以下の状況しか提示出来ていないので、僕としてはあまり満足できなかったのだろうな、と思います。
というわけで、もし本作を読もうという人がいるなら、一緒に「私を見て~」も読んでみてください。「私を見て~」はちょっと傑作だと思います。オススメですよ。って、全然「フタマタ生活。」とは関係なくなってしまったけど。

大崎ユリ「フタマタ生活。」



ビッグイシューと陽気なホームレスの復活戦(櫛田佳代)

最近雨が降ると毎回思うことがある。そうか、今日はホームレスのおっちゃんたちはビッグイシューを売れないんだな、と。梅雨の時期である。昨日今日などは台風までやってきた。なかなか売るのに厳しい時期がやってきただろうな、と思う。
先日、渋谷までビッグイシューを買いに行ってみた。本当に、ただそれだけのために渋谷まで行ったのである。
本に書いてあった通りの場所を見てみたのだけど、それらしい人はいない。とりあえず渋谷駅周辺にいるはずだと思ってうろうろしてみるのだけどなかなか見つからない。で、一周回って初めの場所に戻ってみると、今度はそこに販売員のおっちゃんがいた。
正直声を掛けるのは恥ずかしいな、と思った。性格的にも人見知りな方だし、社交的な人間じゃない。それに周りには結構人もいる。ちょっと抵抗があったのも確かだ。
けど、これを買うためにここまで来たんだから、と勇気を出して声を掛けてみた。確か、「買いたいんですけどいいですか?」とか「売ってもらえますか?」とかそんなようなことを言ったのだと思う。
最新号はゲゲゲの鬼太郎が表紙で、しかも合併号だった。合併号は300円で、うち150円が販売員に入る。バイト先にビッグイシューに興味のある人がいたのでその人の分も含めて最新号を二部買い、あとはバックナンバーを買うことにした。
その販売員は、「私はバックナンバーで生きてるんですよ」と言っていた。実際、最新号から10号くらい前のバックナンバーの表紙が載ったポスターみたいなものも持っていたし、しかもバックナンバーの内容についてもちゃんと覚えているのだ。これがこういう特集で、これは結構売れたからそろそろなくなるかも、みたいな。ある号だけちょっと仕入れられなかったらしく、この号だけないんだよ、ごめんねぇ、みたいなことを言ってくれた。
結局バックナンバーを3つほど買うことにした。
お金を渡す時にちょっと間違えてしまって(最新号が300円であることをすっかり忘れていたのだ)、200円少ない金額を初めに渡してしまった。すぐに間違いに気づいたけど、ちょっと申し訳ないことをしたな、と思った。本作を読んで初めて知ったが、以前偽の1万円札を出されて大損したことのある販売員もいるようだ。ホームレスからも金を奪い取るなんて最低だと思うけど、とにかくちょっと厭な思いをさせてしまったかな、と反省した。
ちょっと雑談めいたものもしたのだ。渋谷にはもう一人有名な販売員がいるとかまあそういったことだ。僕としてはもう少し話をしたかったなと思ったりしたのだけど、でもやっぱり何を話したらいいか分からなかったし、それに商売の邪魔になっちゃうかなとか思ったりして、なかなか難しいなと思った。結局あんまり話も出来ずに帰ってきてしまった。
販売員のおっちゃんはホームレスであるとはいえ、まったく汚いというイメージはなかった。本当に、普通のおっちゃんである。ものを売っているのだという自覚がきちんとあって、清潔にしていなくてはいけないと思っているのだろうなと思う。
買ってきたビッグイシューはまだ全部に目を通しきれてはいないのだけど、でも読んでいてなかなか面白い雑誌だな、と思った。今まで知らなかったような話もたくさんあるし、有名人もたくさん出てくる。僕が一番好きなのは、販売員一人一人をクローズアップしたコラムみたいなもので、これは毎号かならず載っているようだ。これだけは全部読んだ。買ってくれた人に手作りの折り紙をあげる人や、時間帯によって販売場所を変えている人もいる。また、ホームレスから脱して仕事を得ることが出来た人の話も載っていたりする。その一つ一つが真摯で非常にいいと思う。
ビッグイシューというのは、やはりまだまだ知名度は高くないと思う。僕はつい最近まで知らなかったし、バイト先の人に話しても知っている人は誰もいなかった。大学時代の友達で知っている人はいたけども、やはりまだまだ浸透し切れてはいないという印象が強い。
ビッグイシューというのは、知れば知るほど素晴らしい器であるということが分かる。あとはそれを取り巻く僕たちが、いかにこの器の良さを伝えていくことが出来るかということに掛かっていると思う。たぶん誰でも、ビッグイシューに関わることは出来る。ビッグイシューを買う、販売員に差し入れをする。また、美容師がボランティアで髪を切ったりと言ったようなこともあるらしい。自分の持っているスキルを提供することだってきっと出来るだろう。あるいは、自分の住んでいる地域でビッグイシューが売られていないという人は、年間購読も可能だし、あるいはビッグイシューを読めなくても雑誌に何かを投稿することは出来る。あるいは行動力のある人ならば、自分の住んでいる地域にビッグイシューを呼ぶなんてことも出来たりするかもしれない。
誰でも何か一つは出来ることがあると思う。もっともっとビッグイシューに関わる人が増えればいいのに、と思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ビッグイシューに関わる人々について書いた本です。
最近、「ビッグイシュー 突破する人びと」という本を読んで初めてビッグイシューという存在を知った。他にもビッグイシューについて書かれた本がないかと思って見つけたのが本作である。
まずビッグイシューの説明からしよう。
ビッグイシューというのは、ホームレス支援のために創刊された雑誌である。この雑誌はホームレスだけが販売できるもので、定価200円の雑誌を1冊販売することで販売員は110円を手にすることが出来るというものだ。
もともとはイギリスで始まったもので、今では世界中で同じような雑誌が生み出されている。世界中のそうした雑誌の横の繋がりというものもあり、大きな流れとなっている。
「ビッグイシュー 突破する人びと」は、ビッグイシューという会社が出来上がるまでの奮闘やそこで働く人々の現状、あるいはビッグイシューという雑誌の考察なんかが中心になっていた感じだったけど、本作では著者が自分で見たり聞いたり経験したことを一冊にまとめたという感じの本である。
著者は渋谷でビッグイシューを販売している販売員を見つけ、そこから気になって関わるようになった。初めは販売員に声を掛けるのも恐る恐るという感じだったが、ビッグイシューの事務所に顔を出したり、あるいはいろんな販売員と接したり、また月一回の会議なんかに出たりするうちにどんどんのめり込んでいき、結局ホームレス・サッカー・ワールドカップのためにスウェーデンまで行ってしまうほどである。
「ビッグイシュー 突破する人びと」とはまた違った形でビッグイシューについて触れているので面白い作品でした。何よりも、ホームレス・サッカー・ワールドカップの話が載っていて面白いと思いました。
ホームレスを海外に行かせようというのでまず問題なのがパスポートだけど、それだけではなく経営状態が決していいとはいえないビッグイシューとしては、スポンサーを募ってお金を出してもらうというのも難関であった。そういう難関を何とか乗り越えてスウェーデンまで行き大会に出場するのだけど、これがまたなかなかいいのだ。
なんと日本チームは、優勝の次に栄誉ある賞だとされるフェアプレー賞を受賞するのである。どうしてそういうことになったのかというのは是非本作を読んで欲しいものだけど、日本チームはとにかく大絶賛されたのである。日本のホームレスも捨てたものではない、という評価はよくわからないけど、そんな風に思いました。
また販売者のミーティングの模様が描かれているのもいいと思いました。これは月に一回開かれるもので、販売者がお互いの販売方法を知って取り入れたり、あるいは記事の内容や表紙をもっとこうした方がいいみたいな提案をしたりというもので、読んでいてちょっとすごいなと思いました。
例えば販売者にはリーダーと呼ばれる人がいて(これは東京だけのシステムらしい)、そのリーダーが一ヶ月の販売数を報告し、また何故売れたか、何故売れなかったの分析までちゃんとやります。雨の日にはどうしているのかという話や、警察やヤクザが出てきたというようなものまで話はいろいろで、一人一人が真剣です。
一番すごいと思ったのが、ラミネートフィルムの話です。雨の日に雑誌が濡れちゃうので、本部の方でポスターをラミネート加工してもらえないか、という提案をある販売員がしました。本部はそれを了承するのですが、そのすぐ後に販売員から、「いくら?」という質問が出ます。
これはちょっとすごいなと思いました。僕なんかでも、より販売数を伸ばそうという試みなのだからラミネート加工くらいタダでやってくれるだろう、とか思ってしまうと思うんだけど、彼らはそうではありません。お互いにビジネスをしているのだという姿勢がきちんとあって、その関係が非常にいい形で成り立っているなという風に思いました。
とにかく、知れば知るほどビッグイシューというのは面白いな、と思います。
最後に、本作に載っていたある販売員の言葉を載せようと思います。

『あとはすべて売り方や、110円の重みをしってるもんは売れるし、知らんもんは売れん。受け取った200円をありがとうございました、ゆうてポケットへスッと入れる人間は売れんと思う。受け取った200円を見つめなおしてポケットに入れるもんが売れる。』

含蓄のある言葉だなと思いました。ホントに。僕も、まあストリートで売っているわけではないけど、本屋で本を売っている身としては、ちょっと痛いところをつかれるというか、自分の販売者としてのあり方を指摘されたような感じがします。
僕の感想なんかまあ影響力は微々たるものですけど、でもこの感想を読んでくれた方、少しでもビッグイシューに関心を持っていただけたでしょうか?だとしたら僕としても非常に嬉しく思います。近くでビッグイシューを売っているという方、是非一度買ってみてはいかがでしょうか?

櫛田佳代「ビッグイシューと陽気なホームレスの復活戦」




歯と爪(ビル・S・バリンジャー)

僕はなかなか古典作品というものには手を出さない。これにはまあいくつか理由があるのだ。
一つ目は分かりやすい。つまり、読んでいる時間がないのである。正確なデータは知らないが、現在世の中には数々の本が出回っている。新刊の出版点数は、10年前と比べて2倍になっているというようなデータも見たことがある。世の中にはありとあらゆるジャンルの本があり、その中で自分の興味のある範囲というのはそれなりに限られてくるものである。しかしそれでも、1日に1冊読めるとして、年間で400冊弱の本しか読めない人間としては、やはり現在の出版点数の多さには悲鳴をあげるしかない。次々に出版される新刊に追いつくだけで精一杯で、とてもではないが古典作品に手を出す余裕がないのである。これが一つ目の理由である。
二つ目は、古典作品につきまとう古さの問題である。これには反論がある人もあろうが、僕はそんな風に考える。
古典作品というのは、誰もがその良さを認め、時代を超えてもなお読み継がれる本であって、それはこれだけ多くの本が出版されている現在まで変わらないのであるから内容についてはやはり一定以上のものがあるのだろうとは思うのだ。例えば夏目漱石の「こころ」など未だに売れている。夏の時期になるともっと売れる。恐らく読書感想文なんかと関係があるのだろうが、とにかく未だに売れている。まあ、売れていることと読まれていることは決してイコールではないと思うが、しかしやはり認められた作品だという評価には変わりはないだろう。
しかし、どれだけ多くの人が絶賛し、どれだけ読み継がれようとも、古典作品というのはやはり大昔に書かれた本であることには変わりないのである。それはつまり、描かれている人や情景が様変わりしてしまっているということであるし、そこに現れる常識や知識などにも大きな隔たりがあるということである。もちろん、そういう舞台設定であっても、普遍的(この普遍的という言葉がまた厄介であると思うのだけど)な何かが古典作品には込められているのだろうし、舞台自体が多少古びようと、そこに込められている普遍性みたいなものが古びるわけではないという主張なのだろうとは思うのだ。
でもやはり、同時代ではない物語だからこそ、理解できない人物やわけの分からない常識などが描かれ、奇妙な会話や意味の分からないジョークなどが交わされたりするわけで、一個の読み物として判断した時に、それはやはり古びているとしか言いようのない何かが込められていると思ってしまうのだ。
そして三つ目に、恐らくこれが最も大きな理由であると思うのだけど、学生時代にやらされた国語の授業の存在がある。あのせいで、僕は古典というものが大嫌いになったと未だに思っている。とにかく国語の教育というものについては早急の考え直すべきだと思うのだけど、まあそれは本筋から離れるのでこれ以上は書かないことにしよう。
国語の授業ではよく、日本の古典作品が扱われることが多い。それも、その一部をである。それを授業中に読まされ、主人公が何を考えているだの、どう成長しただの、主題は何だのと言ったことを考えさせられるのである。
もちろんこの場合、本当に悪いのは古典作品ではなく学校教育における国語の授業である。しかし、国語の授業での悪い記憶がトラウマとなって、そこで扱われていた古典作品に嫌悪感を抱くようになってしまってもそれは仕方のないことではないかと思うのである。
そうした理由から僕は古典作品にはあまり手を出したくないと思っているのである。
しかし、その考えも少しずつ変えなくてはいけないだろうなと思うこともある。
きっかけは、携帯小説の登場である。
ある時ネットで、何かの企画で女子中高生を呼んで、携帯小説について対談をさせているというものを読んだ。その中で女子中高生は、「縦書きの小説は読む気がしない」「普通の小説にはリアルを感じられない」というようなことを言っているのである。
さてこれを僕の話に照らし合わせて考えてみよう。すると、僕が古典作品に抱いている嫌悪感は、女子中高生が普通の小説に抱いている嫌悪感と同じなのではないかと思われてくる。「縦書きの小説は読む気がしない」というのはつまり小説の形式についてのもので、それは僕が、「古典作品は文章が古かったり難解だったりするから読む気がしない」と言ったりするのと同じである。また、「普通の小説にはリアルを感じられない」というのは、僕が「古典作品は古い」と言っているのと変わらないではないか!このままでは、携帯小説しか読まない女子中高生と同じレベルになってしまう、という危惧を抱いているのである。
だからと言ってすぐ古典作品に手を伸ばすというのはなかなか難しいものがある。しかし古典作品に限らず、今まで苦手に感じていたジャンルの小説にも少しはチャレンジしていこうではないかという感覚が芽生え始めているのは事実である。
まあそんなタイミングでこの「歯と爪」を読んだのは偶然と言えば偶然ではあるが、しかし苦手な古典作品、しかも僕の苦手な外国人作家の作品という二つの大きな壁を超えることが出来たのは大きかったのではないか、と思う。って言いすぎですね、これは。
まあ時間の許す限り、名作と呼ばれている作品も少しずつ読んでいけたらいいな、と思っています。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は「カットバック」という手法、つまり二つの物語を交互に描くというやり方で物語が展開していきます。
一方の物語は終始法廷が描かれます。とある事件についての裁判が行われているわけです。
この事件はなかなか難しい問題を孕んでいます。被害者はアイシャム・レディックという運転手なのですが、彼の死体はどこからも見つかっていません。見つかっているのは、欠損した指だの義歯だの肉の塊りが燃やされたと思われる灰だのといったもので状況証拠に過ぎません。死体なき殺人事件の裁判というわけです。
検察側はありとあらゆる証人を喚問しては、事実を一つずつ積み上げていきます。死体が見つからないとは言え、被告の犯罪を立証することは出来るという気概に満ち溢れています。果たしてこの法廷の行方は…。
もう一方は、リュウという名の奇術師が主人公です。
物語の発端は、リュウがタリーという一人の女性と出会うところから始まります。あるきっかけで出会うことになった二人はその後結婚することになり、またリュウの奇術のパートナーとしても活躍をすることになるのだけど、あるきっかけからタリーが隠し続けていた秘密が明らかになります。リュウは彼女を守ろうと知恵を絞り続けるのですが…。
という話です。
さて本作はもう相当に古い作品です。僕が読んだ東京創元社の文庫版の初版が出たのが1977年。アメリカで元の本が出たのが1950年代とのことで、既に半世紀近く前の本ということになります。
さて帯にはこんな文句があります。
『奇才バリンジャーが、驚くべき前代未聞のトリックで読者に挑戦する!
ミステリ史上に名を残す名作!』
なるほど確かに、1977年に日本でこれが出版された当時であればこの文句はまさしく文句なしに正しかったでしょう。しかし、まあこれは古典作品の宿命であると思うのですが、さすがに現在もこの文句が通用するかと言われるとそれはなかなか難しいものがあると思います。
と言って作品がダメだったわけではありません。なるほど確かに、アメリカで1950年代にこの本を読んだら、あるいは1977年に日本でこの本を読んでいたとしたら、間違いなく最大級の驚愕が襲い、最上級の賛辞をもって褒め称えたことでしょう。
しかしやはり時代は進み、ミステリも進化した現在では、より驚くべきミステリというのが様々に生み出されてしまっているわけで、正直読み終わって、なるほど悪くないとは思ったものの、素晴らしいというところまでは行きませんでした。
でも構成はなかなか見事です。特に裁判のシーンが非常に効果的だったと僕は思います。同じトリックでも料理の仕方によって大分変わります。本作では、交互に挟まれる裁判シーンが非常にいい効果をもたらしているために、全体としていいまとまり方をしていると思います。
まあこれ以上は詳しいことには触れないことにしましょう。ネタバレになりそうな気がするので。
しかし本作を読んで実感したことは、ミステリという分野はどんどんと進化をしているのだな、ということです。
例えば文学であれば、進化という言葉は相応しくないような気がします。例えば、夏目漱石や太宰治と村上春樹を比べた時にどちらがより進化しているのかというのは議論する価値がないでしょう。時代によって変わる価値観の元に文学というものは生み出されているわけで、そこに進化も何もないはずだからです。
しかしミステリというのは誰が見ても明らかに進化しています。ある段階でトリックなどは出尽くしているわけで、そこでジャンルとして衰退してもおかしくなかった分野であるのに、トリックを複合的に組み合わせ、また料理の仕方を変えるなどして日々新しいミステリを生み出してきました。
ミステリに進化という言葉が相応しいと思うのは、まさに本作のような古典作品を読むような時です。当時としてはもちろんこの作品が充分衝撃的だったわけですが、しかし現代ではもっと衝撃的なミステリがたくさんある。その驚きを与える差異みたいなものには、やはり進化という言葉が相応しいような気がしました。
そういえば書き忘れましたが、本作は非常に変わったある試みをした本です。
それは、「返金保証」というものです。
なかなか聞きなれない言葉ですが、説明するとこういうことです。
本作は、結末部分が袋とじになっています。その袋とじの部分にはこう書いてあります。
『意外な結末が待っていますが、あなたはここで、おやめになることができますか?もしやめられたら代金をお返しいたします。封を切らずに直接小社までご持参(または郵送)の方には、代金はお返しいたします。(原書もここで封じられています)
なお、書店ではご返金の扱いはいたしません。』
僕がこの作品を読もうと思った理由はまさにここにあって、なるほどこんな変な本があるのかというような興味からでした。いろいろなことを考えるものです。しかも、1977年からずっと未だにこれを続けているわけで、東京創元社も偉いなと思いました。
現在のミステリを読みなれている人にはちょっと物足りなさを感じる作品かもしれません。しかし小説として、そして何よりもミステリとしての完成度は非常に高いと思います。どうせ袋とじの封を開けさえしなければ返金してもらえるのだし、ここは一つ読んでみてはどうでしょうか?

ビル・S・バリンジャー「歯と爪」


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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)