黒夜行

>>2006年11月

京都でのんびり(小林由枝)

住んでみたい場所があるとすれば、それは沖縄か京都だな、と思う。まあ、どっちもベタですけど。
沖縄は、のんびりしてるような気がするし、自由そうな気がするし、暖かい気がするし、なんかいい感じがする。ただ、沖縄に住むというのは大変なことなのだ。仕事がないというのが一番の問題で、だから沖縄に住みたいと願う人の大半は、途中で諦めざる終えなくなる。厳しい土地である。
というわけで、少しは現実的なのは京都の方だろうか。
京都には、たぶんだけど過去三回しか行ったことがないと思う。中学の修学旅行で一回と、大学時代に二回。他にもあったかもしれないけど、特に記憶にはないなぁ。
とにかく京都と言えば、お寺というイメージである。実際、中学の時の修学旅行では、金閣寺だの銀閣寺だの竜安寺だのを見て、教科書に載ってる通りだとか枯山水はいいなぁ、なんて思いながら見てたし、大学時代の二回も、一回は清水寺のライトアップされた紅葉を見るのをメインにいくつか寺を回ったし、もう一回も記憶は定かではないけどどこかの寺に行ったと思う。
なんというか、京都に行ったなら寺に行かなきゃという感じがするし、まさにそれが観光だろうな、と思うのだ。
実際お寺というのは好きだ。歴史だの由来だのにはまったく興味がないので、どんな伝承があるとかこの石の由来はなんてのはどうでもいいのだけど、あの非日常的な、自分がそこにいるのが場違いなんではないかと思う空間と、昔からそこに確かに残っている建物や建造物の素晴らしさなんかには惹かれてしまう。出来れば観光客がたくさんいるようなとこではなく、小さくて無名でもいいから、その小さな空間を独り占めできるようなそんなところがいいなぁ、という風に思うけど。
でも、お寺ばっかり見て回るのは、京都の半分も目にしてないのと同じなんだろうな、と思う。
その、街全体すべてが、京都という土地の魅力なんだろう、と思う。
今日本の中で、古都と呼べるのはもう京都くらいなものだろう。ただ古いだけの土地や建物なんかは全国に様々あるだろうけど、でも品格を兼ね備えた古さというのは、もう京都にしか残っていないような気がする。新しいものを柔軟に取り込んでいきながら、昔からの古さを決して損なうことなく大切にしている土地。多くの場所で失われてしまった、繋がりや人情と言ったようなものが未だに息づいているだろう土地。そんな、街全体とそこに住む人々が作り出す古都という雰囲気を味わうことこそ、京都という街の楽しみ方なんではないか、という気がする。
もちろん、京都に住んでいない人間にそんな楽しみ方をするのはなかなか難しい。観光で行こうと思えば、やはり各種お寺を巡り、街並みは、お寺とお寺を繋ぐだけのただの書割りみたいな、そんな旅行になってしまいかねない。
だからこそ、京都に住んでみたいな、という風に思うのである。
基本的に僕は出不精なので、散歩みたいなことは趣味ではないのだけど、でも京都ほどの魅力を兼ね備えた街であれば、出不精の僕でさえも散歩に出かけるかもしれない。歩くたびに違う発見があり、季節とともに楽しみ方が変わる。歩くだけで世界が変わり、佇むなかで時間の流れも変わっていく。そんな京都という街に、ちょっと憧れてしまう。
しかし、京都に住んでいる人には、そういうものは当たり前過ぎて気付かないものかもしれないなぁ、という風にも思う。ちょっと話は変わるのだけど、僕の知っている京都在住の人は、金閣寺に行ったことがない、みたいなことを言っていた。それは、東京に住んでいる人間が東京タワーに上ったことがない、というのと同じようなものかもしれないけど、でも住んでいる土地のことは逆に真剣に見ないものなのかもしれない、という風にも思う。
外にいる人間からすれば、京都という土地は素晴らしいし、そこに住みさえすれば散歩するかも、なんて言うけど、でも京都に住んでる人からすれば、もう慣れっこで、大したことがないという風に思うものなのかもしれない。そういえば僕も、静岡の出身で、富士山が常に大きく見えていたのだけど、だから富士山を見ても全然何にも感慨はない。しかし、富士山を普段見慣れていない土地の人は、やはり富士山を見ると感動するものらしい。難しいものである。
まあとにかく、京都というのはいいなぁ、と思うのである。たとえ冬寒くても、たとえ夏暑くても、いいなぁ、と思えてしまう。きっとそんな機会は訪れないだろうけど、でも機会があれば京都に住んでみたいな、と思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、京都生まれ京都在住のイラストレーターである著者が、自身が気に入っている京都の散歩道とその周辺について、自身の絵と文章で紹介している本です。
何でこんな本を読んでいるかといえば、近々京都に行く予定があるのと、本作がどうも世間的に売れているらしいという話を聞いたのとで、まあだったらついでだし読んでみようかな、と思った次第です。
本作は、ガイドブックという感じではないですね。店の紹介やその連絡先なんかも書いてあるし、お寺の見所なんかも書いてあるのだけど、でもガイドブックとして使うという感じの本ではないですね。
本作をもっとも有効に活用できるのは、京都に住んでいる人でしょうね。京都に住んでいる人が、日々フラフラと散歩に出かけるのに、こんなところがあるんだよ、という紹介になっているので、京都に住んでいる人にはオススメです。
でもそうでない人にももちろんいい本で、僕としてはこういう読み方がいいんじゃないかと思います。
まず、本作をとりあえず読む。ざっと読む感じで、この店に行きたいとかそういうことはあんまり考えない。
そんで、読んだらとりあえず京都に行く。エリアを絞ってもいいし、本作に書かれているエリアを全部見てもいいけど、まあそんな風にして、本作に書かれていたことをあんまり気にせず、自分のやり方で歩く。
そんで帰ってきたら、また本作を読む。そうすると、またいろんな発見があって、また行きたくなる、とそんな感じの読み方がいいかなと思います。
また本作は、場所を案内するというだけではなくて、視点を案内する本だな、という感じがしました。どういうことかと言うと、漫然と歩いているだけでは見落としてしまいがちな部分を細かく拾っているという感じです。本作を読むと、ここに書かれている場所についてどんな場所を見たらいいのかということもわかるし、それ以上に、京都という街を散歩する上でこういう部分にも目を配って歩くと楽しくなるんだろうな、という感覚がなんとなく分かってくるんじゃないかな、という風に思います。
本作は、イラストがとってもいいですね。大学で日本画を学んだというだけあって、日本的な風景の描写やその色使いなんかが綺麗ですごくほんわかします。写真以上に京都の魅力を伝えるような絵で、絵を見ているだけでも楽しくなれるんじゃないかな、と思いました。
僕が本作を読んで行ってみたいなと思ったエリアは、北野・千本西陣・京都御苑・寺町と言った辺りです。なんとなく、京都っぽい街並みなのかなぁ、というような土地のような感じがして、ちょっとブラブラ歩いてみたいかな、という風に思ったりしました。
まあそんなわけで、自分では初めに読む時は個々のお店の情報なんかに気を取られるななんて書いておきながら、以下に気になった場所をちょっと書き出してみようと思います。

北野
「ひだまり」 五辻通 千本釈迦堂にほど近い
畳敷きでコタツまである喫茶店(軽食屋)みたいなとこらしいです。その、畳にコタツというのと、隠し味に味噌を入れたカレーというのが気になりました。

千本西陣

「京のてんてん 西陣本店」
てぬぐい屋さん。お土産にいいかなぁ、なんて。

「蕎麦屋 にこら」
蕎麦だのうどんだのというのは大好きなんで。別にここじゃなくても蕎麦やうどんならなんでもいいんだけど(笑)

「かま八老舗」 五辻通浄福寺西入ル
生姜風味のどら焼きを売ってるそう。生姜風味のどら焼き、というところが気になった。

祇園松原

「尾張屋」
かおり丸という、匂いのついたボールのようなものを売ってるみたいです。これも、お土産にいいかなぁ、と。

「革工房Rim」
一点ものの手作りの革製品を扱っているらしい。これも、お土産目当て。

寺町

「アンティークベル」 姉小路通寺町西入ル
レトロな雑貨が置いてるそう。これもお土産…ってお土産を買うことしか考えてないみたいだなぁ(笑)

「アスタルテ書房」 御幸町通三条上ル
ここはとにかく是非とも行きたい!靴を脱いで黒のスリッパに履き替えて入る本屋らしいんだけど、人の家にお邪魔するような感じと書いてあって、たぶん普通の本屋とは雰囲気が違うんだと思う。あぁ、ここは行くぞ~。

あと、お寺で言えば、知恩院や建仁寺なんかが気になりました。
まあそんなわけで、ガイドブックではなかなか拾わないのではないか(と勝手に思っている)場所や見所なんかを、絵と文章でうまく書いている作品です。とりあえず買って、パラパラ読んでみるのがいいと思います。

小林由枝「京都でのんびり」




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POP王の本!~グッドセラー100&ポップ裏話~(POP王)

昔から、本を読むのは結構好きだった。今ほど大量に読んでいたわけではないのだけど、その当時自分の中で好きだった本をまあそれなりに読んでいたなぁ、という風に思う。 しかし、まさか自分が、本を売ることにハマるとは思いもしなかった。 とにかく、本を売るというのは楽しい。もちろんいろいろ思うところはないではないけど、それでも純粋に本が売れることが楽しくて仕方ない。売れれば売れるほど、もっと頑張ろうではないか、という風に思う。 僕は今書店でバイトをしています。特に深く考えて選んだわけではなく、まあ割となりゆきという感じで今の仕事をしています。どこでバイトをしようかと考えた時に、飲食系やコンビニは無理だな、と思ったわけで(以前にやったことがあって、自分には向かないと判断)、まあならば本読むのは好きだし本屋かなぁ、という安易な発想でした。 入ったタイミングがすごくよかったために文庫の担当になることが出来ました。それまでも、まあいろいろ手伝いなんかをしながら、本屋の仕事は自分に合ってるな、と思っていたわけですけど、自分の裁量で売り場に置く本を決められるようになってくると、俄然仕事が楽しくなってきました。 何が一番楽しいかと言えば、やはり自分が売りたいと思った本を売る、ということですね。僕は、まあそこそこ本を読んでいるわけで、なので素晴らしいと思うような作品にも結構出会ったりしています。その本が、世の中的に売れている本だと、まあ売れてるならいいか、という感じになってしまいますが、売れてなさそうな本だと、だったらワシが売っちゃるけぇのぉ(と何故か広島弁)という感じになってきます。 例えば僕が文庫の担当になってから初めて大きく売り出した本に、森博嗣の「スカイクロラ」という本があります。それまでの僕は、売れている本の補充でも、一回あたり10冊とか20冊とか、まあチマチマやってたんですけど、その「スカイクロラ」を売ろう!と決めてからは、文庫売り場ではない場所に売り場を確保したり、POPを書いてもらうように頼んでみたりとやりつつ、いきなり50冊注文するという冒険をやってみたわけです(今の僕からすれば50冊注文というのは大した数字ではないんですけど、文庫の担当に成りたてだった当時としては、なかなか勇気のいる決断でした)。 さてそんなわけで「スカイクロラ」を大きく売り出してみたんですけど、結果は上々で素晴らしく売れました。これは、今でも売り場に平積みにして置いているんだけど、まあ初めの頃の勢いはないとはいえ、未だに売れ続けています。こういったように、世の中的にあんまり売れてない、書店が注目していない本を見つけては、それを大きく売り出すというのは、もう僕の中で一種の麻薬みたいな感じになっています。そういう日々を過ごす中で、本を売るのは楽しいなぁ、という風に思うわけです。 最近書店の事情というのはなかなか苦しいようで(詳しいことを知っているわけではないんですけど)、古本屋やamazonのようなネットショッピングによって、僕が働いているような新刊書店と呼ばれている本屋は、なかなか苦戦を強いられているわけです。特にamazonの台頭は脅威で、いずれ多くの人間が、本屋ではなくネットで本を買う時代になってしまうのではないか、と心配しています。 しかし僕は思うのです。本屋に行かなくては見つからない本が必ずあるわけです。ネットで本を買う場合、欲しい本が決まっているということが前提になってきます。そうすると、自分が知っている本、そして興味を持った本しか手に取ることがなくなるということになります。 しかし本屋に行けば、そこには自分の知らない本がたくさん並んでいます。ふとしたことから、今まで興味のなかった分野の本や知らなかった作家の本を手にとって、まあ読んでみようか、という風になる。これこそが、新刊書店としての役割だ、と僕は思っているし、お客さんにもそういう風に思ってもらえたらいいなぁ、と思っているわけです。 だからこそ本屋というのは、もっともっと頑張らなくてはいけないと思うのです。新刊だの出版社が組むフェアだのを適当に置いて仕事をした気になっているような本屋はダメなんです。もっと、自分が売りたいと思う本を積極的にアピールし、様々な幅の人間が興味を惹くような売り場作りというものを努力しないといけないのです。 僕だって、まあ全然出来ているとは言えませんが、でも努力をしようとはしています。僕は、うちの本屋に来たお客さんが、外に出るときは買うつもりのなかった本をたくさん抱えている、という感じの本屋にしたいわけです。まあ、いろいろあって(僕だけではどうにもならないこともあるけど)難しいけど、でも努力を怠ってはいけないな、という風に思います。 まあそんなわけで、POPの話をまったくしませんでしたが、そろそろ内容に入ろうと思います。 まず、POP王と言うのはなんなのか、という説明から始めましょうか。 ある書店員の物語です。その書店員は、ある日突然、一日一冊本を読み、一日一つPOPを作ろう、ということに目覚めました。その、一日一POPというのは、お客さんや営業にくる出版社の方の楽しみになり、かなり評判がよくなりました。 しかしその書店員はある日、本社へと異動が決まり、現場から離れることになりました。それを惜しんだのが出版社の営業の人達です。特に、本の雑誌社という出版社の営業の人が残念がってくれ、だったら本の雑誌社のHPでPOPの連載をしませんか、ということになったのです。 そうして、本の雑誌社で平日毎日POPを更新する、POP王と呼ばれる人間が生まれたのでした。 というわけでそんなPOP王が今までに書いたPOPは1500枚以上。その中から100点(冊)を選び本にまとめたのが本作です。 書店で働いていない人にはわからないかもだけど、一日一POPというのがどれだけ大変なことか。僕には少なくとも無理です。日々の雑事に追われて、ルーティンの仕事でさえもギリギリの中で、さらに一日一POPをやれと言われたら、ちょっと死にますね。たまにPOPは作りますが、それでも一つ作るのにかなり時間が掛かるわけで、POP王はすごいなぁ、とホントに思います。 POPについて少し書きましょう。POPがもてはやされるようになったのは、ある事件がきっかけでした。それは、「白い犬とワルツを」という本が大ベストセラーになったことです。この何が事件かと言うと、この大ベストセラーは、東京のある小さな書店がPOP付きで展開したことがきっかけで生まれた、と言われているからです。もう僕もこのブログの中でこの事件については何度も書いていますけど、それくらい書店業界の中では既に伝説になっているのです。それまでは、出版社の宣伝の力などで本が売れると考えられていて、本屋というのは本を置くだけ・売るだけという認識だったのが、本屋発のベストセラーが生み出されたことによってその認識が大きく変ったのです。本屋からでもベストセラーを生み出すことが出来るというのは、書店員としてはかなりワクワクすることではないか、と思います。 POPというのは、利点も欠点もあって使い方が難しいものなのですが、でも僕はできるだけPOPは使いたいし作りたいと思っています。どんなに欠点が大きくても、利点がそれを上回る、と僕は考えているからです。書店の独自性をどんどん打ち出していかないといけない時代になってきているのだからなおさらだと思います。僕自身は残念ながら、POPを作るのはすごく苦手なんですけど、本作を読んで、なるべく頑張って作ろう、という風に思ったりしました。文章だけなら、まあこうしてブログを書いているだけあっていくらでも思いつくんですけど、デザインを考えたり、あるいはそれなりにちゃんとした字を書くというのが苦手で、つい手書きのPOP作りを敬遠してしまいます。難しいものです。多少練習が必要でしょうかね。 本作は、POP王が作ったPOPが載っているだけではなくて、コラム的なものが載っていたりもします。POPの作り方や現在の書店の状況など、まあ軽めの内容が多いです。POPの方も、なんというか見ているだけで読みたくなってくる感じで、売り場に置いてみようかなと思う本も何点かありました。POPは白黒とカラーのものがあって、正直何を基準にそれを変えているのかよくわからないですけど。 本作は面白い趣向があって、本作の帯に、本作のPOPがついています。もちろんPOP王の手によるものでしょう。ちょっと、見て笑ってしまいました。 まあそんなわけで、買うほどの本ではないな、という感じですけど、本屋で見かけたらパラパラと中を見るだけでも楽しいんじゃないかな、という風に思います。書店員なら、買って読むのももちろんアリですよ。 POP王「POP王の本!~グッドセラー100&ポップ裏話」

さおだけ屋はなぜ潰れたのか?(池田浩明)

さて、一応書いておこう。
本のタイトルを見て、あぁついにこいつもあの「さおだけ屋」を読んだわけね、ビジネス書も読むんだぁ。
と思ってはいけない。
よく見て頂きたいところだが、若干タイトルが違うのである。「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」ではなく、「さおだけ屋はなぜ潰れたのか?」である。著者も、まあ違う。そして、内容も、ビジネス書ではなく、小説である。
さてまあ、前置きはこれぐらいでいいだろうか。
さて僕は書店で働いているので、ベストセラーというものには敏感である。まあ正確に言うならば、ベストセラーになりそうな本に敏感、ということではあるのだが。
本と言うのはなかなか不思議なもので、全然思った通りに売れることがない。これは売れるだろう、と思ったものが売れなかったり、逆に、これは売れないだろう、と思ったものが売れたりする。突然、なんで今ごろこんな本が?という売れ方をするものもあれば、うー今在庫があれば絶対に売れるのに、というものもある。とにかく、売れるもの・売れそうなものを発掘するのが書店員の仕事だと僕は思っているので(そういう認識のない書店員が多すぎるような気がするのだが)、いつも出来る限りいろんなところに目を配りながら、そういう情報を求めているわけである。
さて、まあそうした中にあって、ベストセラーというのは別格の存在なのである。
どれくらい売れたらベストセラーというのかは、まあ別に明確に基準などないのだろうが、大体10万部と言ったところではないだろうか。それも、じわじわと長い年月をかけて累計で10万部というのではなく、ある一定の期間のうちでその10万部を達成する、というようなのが、大体ベストセラーと呼ばれるのではないかと思う。
ごく最近のベストセラーというものを、何点か挙げてみよう。
東野圭吾「手紙」
恩田陸「夜のピクニック」
蓮見圭一「水曜の朝、午前三時」
新書「世界の日本人ジョーク集」「若者はなぜ三年で辞めるのか?」
まあ他にももちろんたくさんあるが、こんなところだろうか。これらは、10万部どころではない化け物みたいな部数を売り上げているだろうし、「手紙」に至っては、発売一ヶ月で100万部を超える大ベストセラーである。
しかし、ベストセラーがどうやって生み出されるか、ということは、本当に誰にもわからないのではないか、と思う。
上記に挙げた本は、まだ分かりやすい。「手紙」や「夜のピクニック」は、人気作家の文庫化で、かつ映像化が決まっていたから、「水曜の朝、午前三時」は、児玉清が絶賛したため、「世界の日本人ジョーク集」は朝日新聞で取り上げられたため、「若者はなぜ三年で辞めるのか?」も、どこだか正確には覚えてないけどビジネス系の新聞に取り上げられたと思う。
こういうものはパブリシティというような形で言われたりするのだけど、要するに宣伝で、いろんな媒体が宣伝をすることでベストセラーが生み出されていくことは、まあ事実だ。テレビだと、「王様のブランチ」の影響力は大きい。
しかし、そうではないものもある。
書店業界的にもっとも有名なものは、「白い犬とワルツを」であろうか。僕はこれが爆発的に売れたとき書店で働いていたわけではないので直接は知らないのだけど、もはや伝説と言ってもいいだろう。書店系のエッセイみたいなものには、ほぼ必ずと言っていいほど取り上げられるものだ。
それは、ある小さな町の本屋さんが仕掛けたもので、その一店舗がPOPを使って爆発的に「白い犬とワルツを」を売り始めた。それが全国的に広がり、やがて累計で100万部をゆうに突破するような大ベストセラーになったのだという。僕としてもこれに憧れているのだが、なかなかうまくいかないものだ。書店発のベストセラーというのも最近は結構多いけども、やはりなかなか難しいものである。
さてでは最大の問題ではあるが、ベストセラーというのは内容的にはどうなのだろうか。
僕は、別にベストセラーになった本をたくさん読んでいるわけではないので、ここからはかなり無責任に書いていくけども、ベストセラーの場合、内容にそこまで価値があるわけではない、と僕は思う。もちろん、ベストセラーであっても、内容的に素晴らしいものはあるだろうと思うけど。
ベストセラーというのは、多くの人に受ける作品である、ということだ。それはどういうことかと言えば、多くの人に素晴らしいと思われる作品ということではなく、多くの人に悪いと思われない作品、ということなのである。つまり、ありとあらゆる人間のことを想定し、それぞれの人間が嫌だなぁ、と思う部分をどんどんと削っていくことで、ベストセラーというものは出来上がるのではないかと思うのだ。
例えば、自分ひとりでカレーを作るとしたら、味についてそこまで考える必要はないだろう。辛かろうが甘かろうが、まあ別に自分の好みにすればいい。二人や三人でも、まあ相談をして、甘すぎたり辛すぎたりするカレーを作ることはできる。
しかし、例えば100人前のカレーを作らなくてはならない、となった時、その味はどうすればいいだろうか。子供も大人も老人もいる。甘すぎても辛すぎてもダメではないか。じゃあやっぱ普通ぐらいの辛さかな、というところに落ち着いてしまうだろう。ベストセラーというのはつまり、その普通くらいの辛さのカレーのようなものだと思う。それはそれで悪くないけど、でも独創的で刺激的なカレーではない、ということだ。
なら、ベストセラーの価値というのは一体なんだろうか、ということになる。
それは、多くの人が読んでいる、という付加価値そのものである。
僕は、呆れるくらい本を読んでいる人間だから、ベストセラーも読み、かつそうでない作品を読む時間もある。しかし、普通の人はなかなかそうはいかない。やりたいことは他にもあるし、本を読む時間はなかなかない。そんな中で何か本を読むとしたら、普通の人は何を基準に本を読むのだろうか。
結局のところ、それを読んだときに、周りの人間と話が出来るか、に基準が置かれるのではないかと思うのだ。読書そのものが好きで好きでしかたない、というような僕のような人間ならともかくも、普通の人というのは、本読むことをコミュニケーションの一手段として考えているだろうと思う。そう考えれば、必然的に、売れている本を読む、というのが手っ取り早い、ということになる。その、多くの人が読んでいるはずである、という付加価値こそが、ベストセラーの価値であり存在意義なのだろうと思う。だからこそ、内容はまあどうでもいいのだ。面白ければ、あの本は面白かったね、と話をすればいいし、つまらなければ、あの本は最悪だったね、という話をすればいい。どっちにしても、ベストセラーとしての役割は果たせるのである。
しかしまあ同時に思うのは、ベストセラーというのは誰が読んでいるのだろう、ということだ。僕の周りの人間で、「世界の中心で愛を叫ぶ」だの「バカの壁」だの「ハリーポッター」だのを読んだという人の話を聞いたことがない。ベストセラーというのは、そこに吸い込まれれば売上が何故か上がるという穴にただ吸い込まれているだけで、実際は誰も読んでないんじゃないかなぁ、とそんなことを考えてしまいますね。不思議なものです。100万部を超えた作品なら、理屈では100人に一人は読んでてもいいと思うんだけど。まあ問題なのは、僕に100人も友人がいないということでしょうか(笑)
そろそろ内容に入ろうと思います。
カバ夫は、「さおだけ屋はなぜ潰れないのか」という本を買い、そのタイトルだけでさおだけ屋は潰れない鉄板の職業なのだろうと勘違いしてさおだけ屋を始めたはいいが、すぐに潰してしまった。家には売れ残ったさおだけが数千本残り、借金まみれで金はむじんくんから引き出して生活をする有様だ。
まさかベストセラー様が嘘をつくなんて。これは返金を要求せねばと、購入先であるブックオスへと向かうカバ夫。そこには、ベストセラーに目がないカバ夫をカモだと思って待ち受けているマンガ君という店員がいた。
カバ夫はマンガ君に、「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」は嘘つき本だから返金するよう要求するもあっさり断られ、そうしてなぜかカバ夫はマンガ君から、ベストセラーである「キッパリ!」を購入してしまうことになるのだが…。
というようにして、それぞれのベストセラー本をカバ夫は読み(あるいは読んだ気になり)、それを曲解して実行するももちろんうまくいかず、毎回マンガ君に怒鳴り込みにいくも、その度に新しい本を売りつけられ、という繰り返しの物語です。
本作で扱われているベストセラーを、とりあえず全部載せてみましょうかね。
「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」「キッパリ!」「チーズはどこへ消えた?」「ノストラダムスの大予言」「「捨てる!」技術」「えんぴつで奥の細道」「ウェブ進化論」「声に出して読みたい日本語」「頭がいい人、悪い人の話し方」「やっぱりお前はバカじゃない」「国家の品格」「生協の白石さん」「13歳のハローワーク」「美しい国へ」「オムシの言葉」「電車男」「話を聞かない男、地図の読めない女」「人は見た目が9割」「開放区」「バカの壁」
といった具合である。今も売れているものもあれば、今ではもう売れてないものもあるけども、少なくとも一度はベストセラーだったことのある本ばかりである(残念ながら、「やっぱりお前はバカじゃない」だけは、ベストセラーだったような記憶はないのだが)。
どんな本かと端的に説明するとすれば、ギャグマンガを読んでいるような感じです。文章だのに期待する本ではなく、その全編に漂う脱力感をまあ楽しむ本という感じで、そう一番近いのは、こち亀を小説にしたような感じ、という表現でしょうか。お決まりのパターンが繰り返されたり、現実的ではないことをやったり、馬鹿馬鹿しいことが起こったりと、まあカバ夫と両さんはちょっと似てるかもしれないです。
とにかく毎回、ベストセラーを曲解して実行するというストーリーで、時々だけどその曲解の仕方が面白いものもありました。「えんぴつで奥の細道」での曲解は正直かなり笑いましたね。まさかあんな解釈をするとは、とカバ夫のすごさ(?)を見せ付けられた感じがしました。
本作を読んで一番に感じることは、まあベストセラー批判という感じでしょうかね。というか、ベストセラーを読む人間の方を批判しているのかもしれませんが。カバ夫並みに曲解する人間が世の中にまあいるわけはないですけど、本を読む人間の理解力や、本を作る側の無責任さみたいなものを皮肉っているような作品でした。
また、本作で扱われたベストセラーは、すべて実用系の本(つまり小説ではないということ)で、カバ夫は本を読むだけで人生を変えられると思ってベストセラーを金もないのに読み漁るのだけど、世の中のそういう部分も皮肉っているんでしょうね。つまり、本を読むだけで変わろうなんて甘いんだよ、ということですよね。いやホント、「頭のいい人、悪い人の話し方」を読んだところで、結局は悪い人の話し方から抜けられるわけではないですよね。それを、読んだだけで自分はいい人の話し方になれた、みたいな風に安心する人間が多いような気がして、それを批判しているような感じがします。
僕も思いますが、情報を選択するのはそれぞれ個人の役割であって、誰かが情報をくれるわけではありません。ベストセラーであってもその情報を過信してはいけないし、ベストセラーではないものに、自分にとっての本当に価値のある情報があることだって多いと思います。その、読者の無批判性とその無自覚さに警鐘を鳴らしているのだ、と解釈をすることにしましょう。
まあとにかく、隅から隅まで馬鹿馬鹿しい話ですけど、「ベストセラー案内+こち亀」(いや案外「ベストセラー不案内+こち亀」かもしれないけど)と考えればいいでしょうか。興味があればどうぞ。

池田浩明「さおだけ屋はなぜ潰れたのか?」


さおだけ屋はなぜ潰れたのか?ハード

さおだけ屋はなぜ潰れたのか?ハード

風が強く吹いている(三浦しをん)

独りっていうのは、僕は好きだ。それは、美しくって綺麗で清々しいものだ。
独りというのは、どうしてそんなにも輝いているんだろうな、と思ってしまう。僕は、比較的昔から、孤独というものとは慣れ親しんでいたつもりだ。もう、人生の相棒と言ってもいい。孤独と語らいあったり、あるいは傷を舐め合ったりしながら、人生を生きてきたし、これからも生きていくことになるだろう。
独りが世界を満たしているというのが、すごく気持ちがいいことなんだと思う。
自分の周りの世界のすべてが、自分独りと同じになる。自分のために世界が存在し、世界のために自分が存在する。まるで、世界が自分にぴったり張り付いているように、お似合いの夫婦の結婚指輪のように、納まるべきところに納まっているんだと思う。
だから、僕は独りというのが好きだ。時々、寂しかったり哀しかったりすることはあっても、独りが世界を埋めるその感覚は、どこまでも綺麗な気がする。
なるほど、走るというのはそういうことなのかもしれないな、と思った。独りが世界を満たしているような、その高みをひたすらに目指しながら孤独と付き合っていく、とそういうことなんだろうな、と。
僕のことをよく知っている人には意外かもしれないけど、僕は中学時代陸上部にいた。ちなみに高校時代は何をしていたかというと、囲碁である。まあそれはいい。
陸上部で僕は、一応長距離の選手だった。長距離と言ったって、1500mとか3000mとかそんなものだ。
走ることは、今でもたぶん嫌いではないと思う。きちんと走るなんてことは最近ないし、そもそも体力から言って長く走るなんてのは絶対に不可能なんだけど、それでも、走るという行為そのものは好きだと思う。だから、運動部しかなかった中学時代、運動が嫌いな僕が、仕方なくとは言え選んだのが、陸上部の長距離走だったのだと思う。
当時は、目立って早かったわけではなかったけど、でもそれなりの早さだったと思う。体育測定なんかの1500mの持久走のタイムなんかもう忘れてしまったけど、でも当時はそこそこ周囲と比べても悪くなかったと思う。練習も、そこそこに頑張った。あの時期は少なくとも、走るということについて、少しは楽しみを見出せていただろうと思うし、多少の努力をしていただろうと思う。
走るというのは、とにかくも苦しいことだ。ただ、苦しい。足は疲れ、呼吸は乱れ、思考は散漫になり、それでも修行のように足を交互に出しながら前に進まなくてはいけない。
それは、本当に苦しい。僕が過去に走ったことのある最長距離は、高校時代のマラソンの10kmだけど、たったその10kmでも走り続けるのは苦しい。走りながら考えていることは、一秒でも早くこの時間が終わらないだろうか、ということだったと思う。
しかし同時に、走っている時の感覚というのは爽快だ。苦しいことには変わりないのだけど、走っている自分の状態が、なんだか違う人間のように感じられる。
きっとそれが、走ることでしか辿り着くことの出来ない、独りの世界なんだろうな、と思う。
誰とも共有することの出来ない世界。誰とも語らいあう言葉を持たない世界。自分だけで追い求め、自分だけで掴み取らなくてはいけないその独りの世界が、きっと多くの人を魅了し、多くの人を走るという行為に進ませているのだろう。
僕は、その中学の三年間以降、陸上というものとは縁がない。走るということの、その入口の入口辺りをチラっと見ただけで終わってしまっているだろう。その先の先、終わることのないその世界の辺縁でどんな世界が見えるのか興味があるけど、でもそこまで自分が辿り着くことはまあ不可能だろう。
走る人が見ている世界を共有することは出来ない。毎年新年に盛り上がる箱根駅伝。僕はほとんど見たことはないのだけど、でも例え見たとしても、画面の向こうで歯を食いしばって走っている彼らの見ているものを、どうやっても共有することは出来ないだろう。
たぶんそれは、まるで違ったことなんだろう。初めて空を飛んだ人間が見た景色が、空を飛ばない人間にはまるで想像も出来ないように、走るということを追求した結果見ることの出来る景色は、そうでない人間がまるで想像することが出来ない形をしているのだろう。
羨ましいな、と思う。努力すれば、ある程度のものは見えるかもしれない。しかし、本作に出てくる走のように、選ばれた人間だけが見ることの出来る世界というものも、また確かに存在するのだろう。
走ることを追求すれば、いずれ独りであることを追及することになる。否が応でも孤独との戦いを強いられる。
「速く」ではなく「強く」。
なるほど。速く走れることよりも、強く走れることがいかに大切なのか、それがわかったような気がする。
そろそろ内容に入ろうと思います。
清瀬灰二(ハイジ)は、風呂上り、道路を美しく駆け抜ける一人の男を目撃する。どうやら、万引きをして逃げているところらしい。ハイジの目は、その完璧なまでの走りに囚われていた。
すぐさま後を追いかける。走という名のその男は、ハイジと同じ寛政大学の新入生らしく、また親からもらった当面の下宿代を麻雀ですってしまったらしく、今大学校舎内で隠れて野宿をしているという。
ならば、とハイジは誘いをかける。自分のいる竹青荘を紹介しよう。ちょうど一部屋空いてるんだ。家賃は3万、賄いつき。金がないなら、しばらく家賃の払いを待ってもらうように大家さんに言ってあげるよ。
そんな甘言に乗せられた走は、まあいいかと思って竹青荘への入居を決めたのだった。
竹青荘の住人は、こんな感じである。
そっくりな双子で、明るいキャラクターのジョータとジョージ。
日々クイズ番組を見ては真剣にクイズに参加する雑学王、キング。
留学生で丁寧な日本語を喋る、ムサ。
生まれのド田舎で神童としてもてはやされた、神童。
部屋にマンガを死ぬほど溜め込み、日々それを読むことだけにすべてを費やす、王子。
司法試験に既に合格し、今はフラフラとクラブ通いをしているユキ。
浪人と留年を繰り返している、超ヘビースモーカーのニコチャン。
そして、ハイジと走の10人である。
ハイジは思った。やっと10人揃った。大学入学から四年目にして、初めて竹青荘に10人が揃った、と。

そしていつの間にか、この竹青荘のメンバーは、そのほとんどがマラソンや長距離走など無経験にも関わらず、なんと箱根駅伝を目指すことになってしまったのだ!


!!
というようなトントン拍子で話を勝手に進ませ、甘言と強迫とを繰り返しながら箱根駅伝を目指すことに決めたのは、もちろんハイジだ。面々は、それぞれ不満や正当な主張を繰り広げるも、ハイジは引かない。走も思う。こんな素人だらけの10人で、あの箱根駅伝なんかに行けるわけがない。
そんないろんな思惑渦巻く竹青荘を舞台に、7人の素人と1人の超ド素人、そして2人の経験者は、いざ箱根駅伝を目指し、青春の汗を流しまくる!
というような話です。
いやもうホント、何をか言わん、ですよ!ホントに感動しました。傑作です。傑作!三浦しをんの小説は確かにそれまでも素晴らしいものがたくさんあったけど、もう別格です!素晴らしい!後半はずっとうるうるしながら読んでたし、もう最後の最後は泣かずにはいられない、という感じでした。そんなに涙腺が弱い人間ではないんですけど、でもダメでしたね。ホント、ひっさしぶりに超がいくつもつくぐらいの素晴らしい作品を読みました。今年読んだ本の1位は「私を見て、ぎゅっと愛して」で不動ですけど、本作は2位かもですね。しかも、1位とかなり僅差の2位。それぐらい、ホントに素晴らしかったです。
もう、ストーリーもキャラクターも何もかもが素晴らしくて、文句のつけようがありません。
超超超素人集団が、長距離走の王者とも言うべき箱根駅伝に殴り込みをかけようという無茶苦茶なストーリーで、実際長距離走の指導者や実際の選手が読んだら、いやいやそんなうまく行くわけないよ、なめんなよ、みたいに思うのかもだけど、でもいいじゃないですかそこは。小説なんですから。
練習方法やその上達の度合いなど、長距離走のことなんかまるで知らない人間にもわかりやすいように書かれているから、そういう描写を積み重ねていくことで作品としてのリアリティがどんどんと増していく感じがしました。それもそのはずで、この作品は、走ることなんかとうの昔に諦めた(みたいなことがどんかのエッセイに書いてあったような気がする)三浦しをんが描いた駅伝小説なわけで、そりゃあ長距離走を知らない人間にもわかりやすいように書かれているのは当然ですね。
10人しか部員がいないわけで、選手としての練習と平行して実務的なことも同時にこなさなくてはいけないわけで、そういうことも含めた周辺的なこともきちんと描かれていて、とてもきちんとした小説だなと思いました。
ストーリーだけでなく、とにかくキャラクターがもう最高で、これこそ三浦しをんの真骨頂という感じがしました。
どのキャラクターも大好きなんですけど、やっぱ双子と走とハイジ辺りが素敵ですね。
双子は、その明るさで竹青荘全体を盛り上げもするし、また時にはトラブルメーカーになったりで、しかも恋の予感みたいなものもあったりで、作中でも結構重要なキャラクターです。
本作の主人公とも言える走は、その成長ぶりに感動、という感じです。走るということが大好きで仕方なくて、しかしその走る環境や一緒に競い合う人間について、いつもどうにもならない不満を抱えていた。記録や大会なんかに関係ないところで一人で走っていこう、と思っていた矢先にハイジに声を掛けられた走は、青竹荘の面々と一緒に箱根駅伝を目指すことによって、人間的にも、そして長距離走の選手としても飛躍的に成長を遂げます。その過程でもう様々なことがあっていろいろ大変なわけだけど、素直に走の成長を喜べるのではないかと思います。
しかしなんと言っても本作の最大のキャラクターは、ハイジでしょう。ハイジは、自身が選手でありながら、同時に監督・コーチも兼任しているわけで、ド素人だらけの集団を一人で掌握している人間です。掌握という言葉がホントに適切で、ハイジの人を操るやり方は、もう見事というほかないです。素晴らしい。ハイジがいなければ箱根駅伝を目指すという夢も、そこで走る力を身に付けることも出来なかったでしょう。最大の功労者です。初めは、思いつき(のように周りには思えた)で箱根駅伝を目指すと言ったハイジに、まあやってやるかというくらいの気持ちだった面々が、最後にはいっぱしの駅伝ランナーになって箱根を疾走するようになったわけで、ハイジというのは偉大だなと思いました。
他にも、ニコチャンはどっしりと構えた感じが安心感を与えるし、理論派のユキの知的で論理的な部分はかなり好きだし、神童の実務能力と行動力、そして走も認めた、走ることへの強さには感動したし、ムサのとぼけたキャラクターは場を和ませたものでした。あっ、キングについて書いてないなぁ。でも、雑学王というだけで、案外印象になかったかもなぁ。許して、キング。
王子についても書いてないじゃないか、と言われそうだけど、これは別で書こうと思っていたんですね。
つまり、三浦しをんはこの王子というキャラクターに、自分を重ねているだろうな、ということですね。
部屋にマンガばかりで走るのが遅い、なんて、どう考えても三浦しをん自身だし、そういうキャラクターを一人配することで、三浦しをん自身も箱根駅伝を目指したんだろうな、と思いますね。実際走れなくても、小説を書くことで箱根駅伝に参加してやる、みたいなそんな意思を勝手に読み取りました。
後半は、箱根駅伝で各人が走っている場面になるのだけど、もうどこを読んでもうるうるしてしまいます。これまで頑張ったね、ここが最後だから頑張って、でもあんまり無理はしちゃダメだよ、というような、まるで親のような気持ちになりながら、それぞれのキャラクターを応援することが出来ます。それぞれにドラマを持たせ、それぞれに見せ場を持たせる三浦しをんのストーリーテリングは、もう脱帽という感じでした。
いやもうホント、繰り返しますけど、素晴らしい作品です。三浦しをんを知っている人も知らない人も、ホント読んでください。これは、あらゆる人の心に届く物語だろうと思います。素晴らしい。泣きます。ヤバイです。読みましょう。是非是非。これを読まずして今年は終われない、という感じです。僕も、箱根駅伝にはこれまでまったく興味がなかったんだけど、ちょっとだけ見てもいいかな、という気分になりました。まあ、全部は見ないだろうけど。
自信を持ってオススメします。是非是非読んでください。というか読みましょう。いや、読みなさい。そんな感じです。

三浦しをん「風が強く吹いている」


風が強く吹いているハード

風が強く吹いているハード

ぶらんこ乗り(いしいしんじ)

世界との向き合い方は人それぞれに違って、でもそれってすごいことだと僕は思う。
誰にも教わることは出来なくて、どうやって学べばいいのかもわからなくて、そんな状態で僕らは、世界という混沌に放り出されてしまう。
初めっからうまく出来る人間ももちろんいる。まるで選ばれた人間であるかのように、世界とすんなり向き合って、お互いに微笑みあって、意思の疎通も楽しい会話もすべてなんでもないことのようにさらりとやってのけてしまうような人間もいる。
しかし、みんながみんなそうじゃない。
世界ってやつとどう接していいのかわからなくて、見つめられても顔を赤くするだけで、目を合わせたり手を触れ合ったりもできないまま、そのうち世界ってやつから遠ざかろうとしてしまうような、そんな人間だってたくさんいるんだと思う。
世の中うまくいかないものだ。
世界に受け入れられているなぁ、と思える人を見ると、羨ましく思う。悩みのない人間なんていないと思うけど、世界というものが生み出す風にうまくひょいっと乗れてしまう人間なら、生きていくことにそれほど苦労しないで済むのかもしれないな、と思う。
向こう側に行ってしまいたいな、と思うことは、まあないではない。
誤解しないで欲しいのは、別に死にたいとかそういうわけではなくて、なんて言えばいいかなぁ、世界から離れたい、みたいな感じかなぁ。
こんなことを思ったことがないだろうか?
自分のことを誰も知らない土地に行って、そこで新しくやり直したい。
多かれ少なかれ、似たようなことを思った人はいるのではないでしょうか?それが、僕の言う向こう側です。
自分が生きている世界というのは、生きているなかでどんどん変化をし、その変化にどんどんとついていかなくてはいけなくなる。関わる人間が増えれば増えるほどその変化は大きく、また深くなっていく。世界にすんなり乗り切れる人間ならば問題はないことだけど、世界とうまく付き合っていけない人間にとっては、なかなかこれは難しい。
今の世界を全部リセットして、新しい世界の中で生きていきたい。
それは、ただの逃避だということはわかっている。そうしたところで、本質的に何かが大きく変るわけではない。また同じことを繰り返すだけだ。世界についていけなくなって、苦しいと喘いで、また逃げたくなってしまうだけだ。
だからこそ、あっち側へと行かないでいいように、こっち側で引っ張ってくれる人の存在というのは、すごく大事だ。僕も、こっち側にいる友人の存在のお陰で、あっち側に行かなくて済んでいる、と思っている。彼らにはそんな意識はないだろうけど、僕は彼らに引っ張ってもらっていると思っている。その引力がなくなってしまえば、僕はどうなるだろうか?
僕らは、こっち側への引力を強くするために、ありとあらゆるものを抱えて生きていくのかもしれない。抱えるものが多くなれば多くなるほど、こっち側に引っ張る力は大きくなっていき、揺れ動くことがなくなるのだろうと思う。
ぶらんこのように。
ぶらんこのように、あっち側とこっち側への誘惑にゆらゆら揺れたくはない。引力は、感じないからこそ負担にならないのに、ぶらんこのように揺れ続ければ、その引力をつねに見つめ続けることになる。
ぶらんこを漕ぐように身軽に生きたいとも思う。しかし、ゆらゆら揺れ動くブランコは同時に、僕らを不安にもするだろう。漕げば必ず戻ってくるぶらんこ。その確かさの中に、何かを置き忘れてしまうのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
おばあちゃんが見つけ出してきたかび臭い麻の袋。その中には、今はもういない、あの天才でひねくれ者だった弟が残したノートがあった。
弟は、四歳の頃からもう字を書き、それどころかお話を作って書いていた。お話を作っては私に聞かせ、それが私の毎日の楽しみでもあった。とにかく弟は天才だった。
サーカスを観にいった後から弟は、ぶらんこに凝り出すようになった。学校の校庭のぶらんこで遊ぶのはもちろん、家の庭の木の上に自分でぶらんこを作って、そこで寝起きしていたりもしたのだ。
ある日、ぶらんこに乗っている弟の喉に、ちょうど雹が落ちてきたことがあった。その日以来弟は、声を出せなくなってしまった。
声の出せなくなった弟は、動物の話が分かるようになったといい、動物から聞いたお話をノートに書くようになったのだけど…。
というような感じです。
とにかく、すごくいい話でした。
もう何が一番好きかって、弟が書くお話ですよね。これはもうすごい。どれを読んでもはっとさせられるというか、新鮮な視点でものを見られるというか、とにかくひらがなで書いたお話のどれもが、本当に素敵でした。特に、空中ブランコの夫婦を描いた「手をつなごう!」は傑作です。ホント、いいお話だと思いました。
あと、登場人物がとぼけたキャラクターが多くていいですね。基本的に、私の家族が主な登場人物になるのだけど、両親もおばあちゃんも私も弟もみんなそれぞれにいいキャラクターをしていて、読んでいて楽しいですね。
しかしなんと言っても一番面白いのは、犬ですね。この犬は「指の音」という名前で、名前からしてすっとぼけた犬なんだけど、体の半分しか家がなくて、その毛のない方にいたずら書きをされて喜ぶような犬で、まあとにかくこの犬のキャラクターがよかったなと思います。
後はまあもちろん弟がいいですね。天才という設定なんだけど、その天才の部分がそんなに押し出されているわけではなく、なんというか、子供の体の中に大人を押し込んだがために当惑しているような、そんなキャラクターでした。ブランコのように揺れ動く弟と、その揺れに合わせようとしてうまくいってない私というその対比もいいと思ったし、弟が見せる、子供の部分と大人の部分の対比というのも面白いな、と思いました。
ストーリーは、まあ弟の回想というものを中心としていろいろ語られるのだけど、でも特別これと言った出来事があるわけでもなく、それでいてここまで面白く読ませるなんてすごいなぁ、と思ったりしました。
あとは、私という女の子の視点で、すごく緩やかで綺麗な日本語で物語を書くなぁ、という風に思いました。漢字とひらがなの使い分けみたいなものにもかなり気を配っている感じがするし、簡潔なのに、重ねることで洗練された表現を生み出すようなその文章力というものは、見事だという感じです。日本語の完成という意味では、江國香織と似ているところがあるかもしれないな、と思いました。
読んでいて、じんわりと暖かさが広がっていくような、そんな作品でした。是非読んで欲しいと思います。僕も、他のいしいしんじの作品をいろいろと読んでみようと思いました。

いしいしんじ「ぶらんこ乗り」



風の影(カルロス・ルイス・サフォン)

作家という存在は、僕にとって憧れである。
自分がそうなりたい、という願望ももちろんある。作家としての生き方を自分が得て、作家として認識されるというのは、僕の中で夢でもあって目標でもある。まあ、そう簡単にいかないだろうとも思っているけども。
でもそれ以上に、作家という存在そのものに、どことなく興味を惹かれる。
やはりそれは、作品がどれだけ有名になろうとも、作家そのものは表に出てこないからだろうと思う。
映画や音楽も小説と似たような分野だと思うけど、でもそれぞれ対照的である。俳優や音楽家というのは、その作品そのものももちろんのことながら、俳優である自分、あるいは音楽家である自分というその存在そのものも大きな価値を持って来る。メディアに頻繁に顔を出し、その私生活が探られ、プライバシーが晒されて行く。俳優や音楽家という存在は、そういうものが付きものだし、宿命だと思って諦めるしかない。
しかし、作家というのはまた別だ。作品それ自体と、作家その存在が、完全に切り離されている。もちろん、雑誌などのインタビューや講演会、あるいはサイン会などで顔を出すようなこともないではないけど、でも作家というのもが大っぴらにメディアに取り上げられることは少ない。作家の中には、完全に覆面作家として存在している人もいて(有名なところでは、舞城王太郎や殊能将之や西尾維新など)、男なのか女なのかもわからないという人もいる。
そういう、作家の存在が表に出ないからこそ、作家そのものの存在について、少し惹かれてしまうのかもしれない。
それは、作家の日常や過去を知りたいというのとは少し違う。なんというか、作家というのは、メディアのあちら側ではなく、メディアのこちら側にいるような、そんな親近感を抱かせるのである。テレビの向こう側にいる人間はすごく遠く感じるけど、作家というと、まだ少し身近に感じる、ということはないだろうか?もしかしたら、街を歩いていれば、すぐ近くに作家がいるかもしれない。自作の著者紹介のところやメディアなどで顔を出している作家ならともかく、そうでない作家なら、その辺を歩いている誰もが有名な作家かもしれない、という可能性を持っているのである。
そういう近さがいい。遠すぎず近すぎず。そういう微妙な距離感の中に作家と読者という関係がある、というのが、なんだかいいなぁ、と思うのである。
だから、特別作家の存在自体に踏み込みたいというわけでもない。アイドルの追っかけのように、家を突き止めたりだとか、サイン会に全部行くだとか、そういうことにはあんまり興味がない。ついこの間、早稲田大学の学園祭で行われた米澤穂信の講演会には言ったけど、それよりももう少し前にあった、森博嗣の名刺交換会にはいかなかった。
作家との距離を縮めるのは、自分が作家になるという方法のみがいい、と思っている。自分が作家になることで、これまで作家対読者だった関係を、作家対作家になることで距離を縮められたらいいなぁ、と今はそんな風に思っています。
そろそろ内容に入ろうと思います。
物語は、1945年、バルセロナの小さな古書店から始まります。
「センペーレと息子書店」を経営しているセンペーレは、息子ダニエルをとある場所に連れて行くことに決めた。
そこは、「忘れられた本の墓場」と呼ばれている場所だ。そこには、この世の中から忘れられたありとあらゆる本が収められた場所で、ここに初めて入った者は、その本の中から一冊を選び、その本を生涯に亘って大事にしなくてはいけない、という決まりがある。
ダニエルはそこで、フリアン・カラックスとい作家の「風の影」という作品を選んだ。家に帰って読むと、その世界にどんどんと引き込まれてしまい、虜になってしまった。
フリアン・カラックスの本をもっと読みたい。純粋にそう願ったダニエルだったが、彼の著作はまるで見つからない。噂では、彼の著作を探しては燃やしている人物がいるとかで、さらにフリアン・カラックスというのは、謎に満ち溢れた作家だということもわかる。
ダニエルはそうして、フリアン・カラックスという謎の作家について調べることになった。彼について調べていくうちに沸き起こる疑問と、立ちはだかる様々な障害。それらを乗り越えながら、ダニエルはフリアン・カラックスの生涯を掴もうとするのだが…。
というような話です。
本作は、今年の外国人作家の小説の中でダントツの話題作であり、セールス的にもかなりの部数を記録しています。今のところ、37カ国500万部を突破したとかで、うちの書店でもそこそこ売れているし、今年の各種ミステリーランキングでも上位にランクインしている作品です。
しかし、僕にはどうしても面白いとは思えませんでした。
決してつまらない作品ではないと思います。フリアンカラックスという謎めいた作家のミステリーというものを軸として、歴史だの恋愛だのを織り交ぜながら、またあらゆる人間関係を複雑にもつれさせながら物語を展開していくその手腕はすごいと思ったし、物語の重厚感という意味では、最近読んだどの本よりも確かなものだとは思いました。
それでも、特にワクワクもドキドキもハラハラもなく、とにかく長い話だな、と思いながら読んでいました。言ってしまえば、ダニエルという少年が、フリアン・カラックスという謎めいた作家について調べる、というだけの話で、僕にはその面白さがあまり伝わってはきませんでした。
もしかしたら、とこれは勝手に僕が今思ったことですけど、あんまり日本人受けはしない作品なんじゃないかなぁ、という気はしないでもないです。いや、適当に言ってみましたけど。
本作の中でとにかくよかったなと思える点は、フェルミンという登場人物の存在ですね。上巻の途中から物語に関わってくるんだけど、このフェルミンというのがかなりいいキャラクターでした。フェルミンの出てくる場面は、それがどんな状況だろうと面白いと思ったし、その存在感はなかなかのものでした。フェルミンというキャラクターがいなければ、ちょっと本作を読み通すのを諦めていたかもしれないですね。それくらい、僕にとってはなかなか重要なキャラクターでした。
あまり褒めるようなところが見つからないのだけど、まあ各種ミステリランキングなんかをみて、で売れてるから買ってみようかな、と気軽に買うのはちょっと危険かな、と思います。本作は、ミステリーとして読むにはちょっと弱い、と思います。だから、ミステリーが好きな人というよりは、歴史の重厚感だとか、あるいは丁寧な取材と筆致で描かれた壮大な物語みたいなものを好きだというような人には、まあいいかもしれないですね。ミステリーだと思って読むと、ちょっと拍子抜けという感じがするんじゃないかと思います。
あまりオススメはしないですけど、興味があればどうぞ。

カルロス・ルイス・サフォン「風の影」





オロロ畑でつかまえて(荻原浩)

田舎暮らしに憧れる人間は多いらしい。
でも、僕には無理だろうな、と思う。
豊かな自然だの、綺麗な水だの、時間から解放された生活だの、まあ田舎での生活を美化するような表現はたくさんあるだろうけど、しかしそこでの生活は、想像以上に苦労が多いだろうと思う。
僕は、まあ田舎と言えば田舎で生まれたのだけど、中途半端な田舎で、だからこれと言って面白い話もない。バスが2時間に一本だとか、学校のクラスが1クラスしかないとか、田んぼばっかりだとか、まあそんなことはなく、ある意味どこにでもありそうな中途半端でどうでもいいような、まあそんな町だった。
まあそういう、ド田舎というほどでもない中途半端なところで育ったのだけど、子供の頃は悪くなかったと思う。昔からテレビゲームなんかにはまるで興味がなく、今からは想像もつかないが、外で結構遊んでいた。かくれんぼだとか缶蹴りだとか、あるいは基地を作るだとか、そういう他愛もないような遊びばかりして遊んでいたのだけど、それはそれで面白かった。野球もどきみたいなものを出来る広い空き地みたいなところもあったし、近くには子供にはそこそこ広い、でも別に危険というわけでもない山が広がっていたりして、子供からすれば結構遊べるとこだったと思う。
しかし、今自分がそこに住んでいるとしたら、一体何をしているだろうか、と思ってしまう。
退屈で死んでしまうんではないか、と。
僕は、まあ別に今住んでいるところでも大したことをしているわけでもなく、日がな一日部屋に籠っては本を読んでいるだけなのだけど、でも大きく違うと思うのだ。
周りに何かあって、でもそれをしない、というのと、
周りに何もなくて、しようと思っても出来ない、というのとでは。
僕はかなりの出不精で、まるで外を出歩かないのだけど、でも行こうという気になりさえすれば、渋谷にも横浜にも行けるし、映画館だろうがカラオケだろうが行ける。それだけじゃなく、何かしようと思えばとりあえず一通りなんでも出来てしまう環境が、まあ周りには揃っている。
なんというか、そういう環境が周りに揃っているからこそ、いつでも外に出て何でもできるという安心感があるからこそ、逆にこうやって日がな一日家にいて本を読んでいられるんじゃないか、と思うのだ。
これを、実家のある町でやってみたら、すごく寂しい。周囲からだけでなく、自分自身でさえ、周りに何もなくてすることがないから本を読んでいるのだ、という気分になってしまう。本当に本を読みたくて外に出ないのに、なんだか寂しい気持ちになってしまうだろう。
年齢を重ねればまた違うのかもしれないとは思う。時間の流れや趣味なんかが緩やかに変化していって、次第に、田舎の生活もいいじゃん、みたいに思ったりするのかもしれない。
しかし、今はダメだろうな、と思う。畑仕事にも、綺麗な空気にも、田舎特有の人間関係の深さにも、まるで興味がもてない。何日か旅行で泊まるには田舎というのは素晴らしいと思うけど、そこにずっと住むことを考えると、少しだけ恐ろしいと思う。
半年前くらいに沖縄に行ったのだけど、その際竹富島というところに行った。僕は旅行とかあまり行かない人間で、だからそんなに経験が多いわけではないのだけど、今まで行った場所の中で一番素晴らしいところだったと思う。海も綺麗だし、建物も伝統的なもので新鮮だったし、時間が恐ろしくゆったり流れているし、すごくいいところだと思った。一瞬、あんなところに住めたらいいだろうな、と思った。
しかし、実際あそこに住むということを考えたら、自分には無理だろうと思う。恐らく、1ヶ月と経たないうちに閉塞してしまうだろう。別に孤独に耐えられないというわけでもないのだけど、自分自身が閉じてしまうような、そんな気がする。
昔からだろうけど、最近では特に過疎化というものが進んでいるだろうと思う。若者は、都会に出たきり戻ってこないのだ。それは、仕方のないことだと思う。どれだけそこに魅力があろうとも、やはり若者と都会というのは切り離せないと思う。
このままではよくないとは思うが、手立てはない。誰も自ら進んで過疎の村に行きたいとは思わないだろう。難しいが、しかし今どうにかなるものでもない。流れに身を任せ、時間が解決してくれると願う他ないだろう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
牛穴村は、「奥羽山脈の一角、日本の最後の秘境といわれる大牛山(2238メートル)の山麓に、サルノコシカケのようにはりついた寒村」である。そこの、2人減って8人になってしまった青年団が、村の今後を話し合っている。
村おこしでもしないか、という意見に、村唯一の大学出のエリートである慎一が、広告代理店に頼もう、と切り出した。村おこしをプロデュースしてもらうのだ、と。東京の友人に、広告代理店に勤めている奴がいる。そいつに頼もう、と。そうしようという話になって、慎一と、もうひとり悟という男が東京へと向かうことになった。
一方でユニバーサル広告社という広告代理店で働く杉山は、明日のプレゼンのために、コンドームの広告のアイデアを練っていた。倒産間近と思えるほど経営状態が思わしくないようだ。是非明日のプレゼンには勝ちたいところだ、とアイデアを搾り出す。
なんの因果か、この牛穴村の二人とユニバーサル広告社がタッグを組むことになった。何のとりえも名産もない過疎の村と、倒産寸前のユニバーサル広告社で、一体どんな村おこしが出来るのか…。
という話です。
荻原浩のデビュー作であり、広告代理店に勤めていたらしい自身の経験を活かした作品です。
荻原浩は、今ではいろんなタイプの小説を書く作家だと認識されているけども、デビュー当時はユーモア作家でした。その片鱗は、以後のどの作品にも散りばめられているけれども、ここまでユーモアに傾倒した作品はなかなかないなぁ、という感じでした。
ド田舎で、方言があまりにきつくて何を言っているかわからない牛穴村と、たった3人しか社員のいない怪しげな広告社が、怪しげでやぶれかぶれのアイデアをひっさげて村おこしに励むところが、馬鹿馬鹿しくもあり、でも当人としては必死なんだよなと微妙に哀しくなりながら、村おこしに一生懸命になる人々を楽しく読みました。ただ村おこしをするというだけの話で小説を一本書いてしまうところがなかなかすごいと思いました。
特に何が起こるというわけでもなく、大きな波があるわけでもない、なんというか長閑で平凡な話なんだけど、荻原浩がそれを小説にすると、全編にうまくユーモアが散りばめられて、肩の力を抜いて気軽に読めるのに、それでいて薄くないという、なんとも言えない小説になるなぁ、という感じでした。
キャラクターもなかなか面白くて、村に戻ってきたオカマとか、ユニバーサル広告社の変人とか、杉山の娘とか、キャスターの脇坂とか、読んでいて魅力的な人が結構出てきてよかったなぁ、という感じでした。
誰が読んでも面白いと言える小説ではないかと思います。気軽に読める小説なので、是非読んでみてください。

荻原浩「オロロ畑でつかまえて」



始祖鳥記(飯嶋和一)

空を飛ぶ、ということは、今では当たり前のことになってしまった。そこには、どんな深い意味もないし、ロマンもない。ただ、手段としての飛行であり、空というものを人間が制した、その余韻としての飛行でしかない。
しかし、空というものは、人間には拓かれていない、未知の空間であった。そこは、鳥以外に生あるものは存在することは適わず、重力という、目に見えないもののあまりに大きな力を持つ存在によって地面へと押し付けられている人間にとっては、計り知れなく遠い世界であった。
かつて人間は、空を飛ぶなどということを、まるで考えたことなどなかっただろう。空というものは、人間がどうにか出来る空間ではないという意識が常識であっただろう。鳥になって空を飛んでみたいと思う人間は数多くいたかもしれないが、人間のまま空を飛んでみようと思うような人間はいなかったはずだ。
海というのは、船というものが登場することによって、かなり昔から拓かれた空間だった。しかし、人間が空を制するようになるのは大分後の話だ。空を制することが出来るなどという発想すら、そもそもなかったのだから。
飛行機を作った人物として知られるのは、ライト兄弟だ。ライト兄弟がどんな人物で何をしたのか知らなくても、ライト兄弟が飛行機を作って飛ばすことに成功した、ということくらいは、誰しもが知っているだろう。
しかし、そのライト兄弟の登場よりもはるか100年も昔の日本に、空を飛ぶということを目指した男が実際に存在したという話は、なかなか知られていないだろう。僕も知らなかった。
ライト兄弟よりも先んじたその男は、一体空に何を求めたのだろうか。
空というのは、人間に対して冷たい。航空技術が発達した現代であろうとも、一歩間違えれば死と隣り合わせの空間だ。しかもそこは、誰とも共有することの出来ない孤独に満ち溢れている。
森博嗣という作家の作品に、「スカイ・クロラ」シリーズというものがある。飛行機乗りである少年を描いたシリーズなのだが、その作品にこんな感じの文章があったはず。
『汚いものは空に浮かんでいられない。
綺麗なものしか、空にはいられないんだ。』
そう、そこは、あらゆる綺麗なものだけが集う楽園なのかもしれない。汚いものは重くなって、いずれ地上に戻るしかない。鳥だって飛行機だって、ずっとは飛んでいられない。地上に時々は降りなくてはいけない。綺麗なものではないからだろう。
綺麗なものしか受け入れないという、その空の潔癖さに、人は憧れるのかもしれない。普通には向かうことの出来ない場所だからこそ、何か大きな意味を見出すのかもしれない。
空を飛ぶなどということが馬鹿馬鹿しい空想でしかなかった時代がかつてはあった。人間が空を飛ぶなどということが、寧ろ咎であるとさえ思われる時代が確かにあった。そんな時代でも、空はいつでも同じように佇んでいる。誰も寄せ付けず、誰も受け入れず、ただ変わらぬ姿で佇んでいる。
そこを目指そうなどというのは、確かに痴れ者と呼ばれてもしかたなかったのかもしれない。しかし、それがどんなに荒唐無稽であっても、そしてそれがどんなに人心を惑わそうとも、実現させるその気持ちがすべてである。今の世の中は、夢を諦めるために時間が存在するような時代だ。夢を抱くことが憚れるような時代だ。何か胸に秘めたものがあっても、それをなかったことにすることが求められる時代だ。
夢を持つということ。そんな、誰にでも出来る単純なことを貫き通すということが、酷く難しくなっているように思う。
言い訳やごまかしなどを繰り返しながら、夢を諦める人々はきっと多いだろう。しかし、例え実現しなくとも、その夢へ向かって歩き続けることが出来るというのが、一つの価値だという風にも思える。
空を飛ぼうとしたかつての町人のように、僕らも、それが胸の奥底でもいい、何か熱い夢でも持って生き続けたいものである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、三部構成になっています。時代は、1761年から1804年という長い期間の物語です。
第一部。舞台は岡山。鳥人と謳われた備中屋幸吉という男の、生まれから捕り物に至るまでの時間を描く。
幸吉は、宿屋の次男として生まれた。幸吉のことを「ああやん」と呼ぶ三男の弥作と始終一緒にいるような感じで、また鳥寄せが得意であった。旅芸人である絵描きや、近くに茶屋の女性などとの交流を描いていく。
家の都合で奉公に出されることになり、幸吉は傘屋へ、屋作は表具師の元へと別れることに。縁あってまた一緒に住むことになるのだが、その頃周囲では、鵺という怪鳥を見たという噂が持ちきりになるのだが…。
第二部は、幸吉が旧友の船に乗るようになる話である。
江戸で、巴屋という塩問屋の当代であった伊兵衛は、幕府と四軒問屋に塩の流通が牛耳られているのを苦々しく感じていた。それをなんとかしようと策を練り、あとは実行に移すまで、という段にあったが踏ん切りがつかない。それを、幼い幼女の死体を見て腹を括ることにした。
その策の一環として、大坂で協力をしてくれる船に渡りをつけようと出向いたのだが、一向にいい話にならない。そんな捨て鉢になりかけた伊兵衛を救ったのが「タク駝丸」という名の船の楫取りであった杢平という男だった。その男との出会いによって、やがて江戸の塩の流通を大きく変えることになるとは伊兵衛も思っていなかった。
一方で、同じく「タク駝丸」の船頭である源太郎は、故郷である岡山のかの地で、旧友である幸吉と再会していた。源太郎が誘うまでもなく幸吉は、船に乗せてくれと頼むのだが…。
第三部。幸吉が駿河の地で木綿商いを始める話である。
海から陸へと降りた幸吉は、町頭である三階屋の手助けもあって順調な木綿商いをスタートさせることが出来た。駿河の地で幸吉は、自分を殺し、ただ駿河の地に馴染むようにして日々を生活してきたのだが、ある日世話になったsの三階屋がやってきて、凧を作って欲しいのだ、と切り出した。幸吉自身を所払いの刑に追いやったあの凧を作れという…。
というような話です。
備中屋幸吉という、凧のようなもので空を飛ぶことを目指した、鳥人と謳われた実在の人物元にした小説になっています。
とにかく、ありとあらゆるところで絶賛されている本だったので読んでみたのですが、期待したほどずば抜けて素晴らしいという風には思えませんでした。
それはきっと、こういう時代物の小説を読みなれていないからだ、とは思います。例えば、現代小説を読むとき読者は、自分の知っている身近なものを想像しながら読むと思うのだけど、時代小説の場合はそれがなかなか難しいと思うんです。時代小説を読みなれていたり、あるいは時代劇なんかを見慣れていたりすれば、ある程度想像の幅が広がるんだろうけど、そういうものを読んでも見てもいない上に、そもそも歴史だの時代だのというものにかけらほどの興味もない人間には、やはりこういう小説は合わないのだろうな、と思いました。
もちろん、つまらなかったわけではないんです。すごい小説だとは思いました。ただ、読みづらかったし(読むのにすごく時間が掛かりました)、情景を思い浮かべ難かったし(距離や時間の単位一つとっても、どれくらいなのかわからなかったり)、そういうわけで、すんなりよかったと言えない作品でした。
しかし、取材については半端ないなぁ、という感じでした。これだけの小説を書くためには、この小説の中に描かれた知識の数十倍の知識が必要でしょう。しかもそれを、ただ知識として知っているだけでなく、自分のものにしなくてはこんな小説は書けないだろうと思います。僕が同じことをやろうとしたら、取材だけで3年は掛かりそうですね。とてもじゃないけど、やりきる自信はないですね。
僕には知識がないので情景を思い浮かべにくかったんですけど、でも知識のある人が読めば、その圧倒的な情報量に驚くことでしょう。僕はかつて、横山秀夫の「クライマーズ・ハイ」を読んだときに、新聞社の雰囲気というものが、手で触れられそうなほどリアルに描かれていることに驚いたことがあって、まるでカメラで24時間取り続けた映像を見ているようだ、と感じたことがあるのだけど、恐らくこの作品も、読む人によってはそういう感じを引き起こすだろうな、と思いました。まるでその時代その場所にいて、自分の目で見てきたかのような情景描写は、圧巻ではないかと思います。
本作を読む前の印象では、幸吉という人物を中心にした年代記のようなものだと思っていたのだけど、そういう性格なのは第一部だけで、第二部第三部は共に、どちらかと言えば幸吉の周囲の人間が主人公となり、幸吉はその背景にいながらも存在感を示す、というような感じになっていました。
話としてよかったなと思うのは第二部で、幕府と四軒問屋に牛耳られた塩の流通を、たった一人の人間の奇抜な発想から、いかにそれを打ち破っていくか、というところがすごくリアルでハラハラさせるものがあり、いい話だと思ったし、海を生きる男たちの生きざまなんかも結構いいと思いました。
幸吉という男の生き方には、まあ共感できる部分と出来ない部分とあったのだけど、人物的には面白いと思うし、結構好きな感じでした。幸吉を中心に集まってくる人間がどこまで史実通りなのかわからないけど、そういう人間もいい人間が多くて、幸吉という人間は幸せな人生だっただろうな、という風に思ったりしました。
まあいずれにしても、年配や中年の男性向けの小説ではないかと思います。重厚さや人々の活き活きとした生きざまなんかを描いた様は、恐らく他の時代小説を大きく上回るものなのでしょう(他の時代小説を読んだことがないのであくまで想像だけど)。時代物の小説が苦手でも読める、とアマゾンのレビューには書いてありましたけど、でもやはり、時代物の小説だのドラマだのに多少触れていないと厳しいだろうと僕は思います。

飯嶋和一「始祖鳥記」


イッツ・オンリー・トーク(絲山秋子)

年齢を重ねるにつれて、恋愛というものの意味がどんどんと変わっていくのだろう。
いや、違うな。恋愛というものの意味が、どんどんと増えていくだろう。こっちだな。
若いうちは、好きになった人と、特に何も難しいことを考えず、ただ好きという理由だけで、ただ愛してるという理由だけで、恋愛をずっとずっと楽しむことが出来る。若いというのは、まあきっとそういうことなんだろう。
しかし、年齢と共に、それがそううまくはいかなくなってくるのだろうと思う。
つまりそれは、結婚というものを多くの人が意識し始めるからだ、ということだ。
若いうちは、好きだから付き合おう、でよかったものが、団々年を経ていくと、付き合うということが結婚前提ということになってしまう。付き合う前にそんな決め事をしなくても、なんとなくそんな雰囲気になっていくものなんだろう。
それが、年を取るということである。なんて分かった風に書いてみましたが。
さてしかし世の中には、結婚をしたいと特に思っているわけではない男女も数多くいるわけだ。特に最近は晩婚化が進んでいて、今まで結婚適齢期だとか言われていた時期を大幅に過ぎてから結婚することが多くなってきている。まあこの辺は、女性の社会進出がどうのこうのという話なんだろうけど。
さて、そこに落とし穴があるのである。
世の中の多くの人が、まだ結婚はいいや、と思っている現実がある。しかし一方で、このくらいの年齢なら社会的にはそろそろ結婚という話が出るよな、という幻想がある。
この二つが、そういう微妙な時期にいる男女の付き合いを、微妙に歪ませているのではないかと思う。
つまり、なかなか相手に踏み込まない、という距離感が生まれるのではないか。
あるいは、まあ別にいいや、というような諦めが生じるのではないか。
相手の結婚に対する考え方が読めないからこそ相手に踏み込むのを恐れ、一方でそういう駆け引きをめんどくさがって、私はそういうの関係ないから、という退廃的な雰囲気を見に付けたりするのではないだろうか。
僕の勝手な印象ではあるが、男は前者のようになりやすく、女は後者のようになりやすいのではないか、と思うのだ。
男は、結婚という重さから逃げたくて臆病になり、女は臆病になった男を安心させたくて諦めのオーラを発散する。そうやって、なんとも言えない、微妙で歪んだ恋愛というものが形成されるのではないか、と思うのだ。
別に、それがいいか悪いかという話をしているのではないのだが、僕は馬鹿馬鹿しいな、と思うのだ。
いつになったら、恋愛と結婚はまるで別のものだ、という根本的な発想が浸透するのだろうか。そうなれば、男と女は、年齢に関係なく気軽に恋愛を楽しむことができ、歪んでしまうようなことはないだろう。
僕の周りの人間も、チラホラと結婚という言葉を口にするようになった。実際結婚したやつはいないが、結婚したいと思っているやつは多いようだ。なるほど、こういう連中が結婚への幻想を生み出し続けている元凶なのだな、と思うのだけど。
年齢と共に恋愛というものがどんどんと窮屈なものになるのだろうな、と思うと、若いうちに恋愛をしておきたいものだ、と思うのだが、なかなかそううまくいくわけもなく、八方塞なのでありました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、2編の中編(短編?)を収録した中篇集になっています。それぞれ内容を紹介しようと思います。

「イッツ・オンリー・トーク」
橘優子は、直感で蒲田に住むことに決めた。
今朝、男に振られたばかりだ。何のとりえもないどうしようもない男に、「別れよう」と言われて。それで、蒲田に住むことにしたのだ。うつ病のために仕事を辞めた今は、貯金を切り崩しながら、絵を描いての生活だ。
優子の元を、ありとあらゆる男が通り過ぎていく。
蒲田で選挙活動をしていた大学時代の友人。彼はEDで童貞だった。
出会い系サイトで知り合った、卑猥なことをされるためだけに会う痴漢。
福岡で自殺しようとして失敗したいとこ。彼をすぐに呼んで、一緒に住むことになる。
ネットで知り合った、うつ病のヤクザ。
大学時代に告白され、それきり合ってない男。あだ名はバッハで、EDの立候補の事務所の手伝いをしている。
そういう男が、優子との関係を築きながら、しかしどこか歪なままで、その歪さを解消できないままで時間だけが過ぎていく。唯一、初めから歪なままで出会い歪なままの関係が自然である痴漢だけは別なのだが。
そんな優子の、退廃的ではあるが後ろ向きではない日常を描いた作品。

「第七障害」
早坂順子は、自分が馬を殺したということをいつまでも悔いていた。
障害レースの大会でのこと。その第七障害で順子は、人馬転をやってしまった。そのために足の骨を折った馬は、安楽死させられてしまったのだ。
順子に責任はない、と周りに言われるも、いたたまれなかった順子は、乗馬クラブを辞めた。
順子は合コンで出会った警官と付き合っていたのだが、その人馬転の日を境に関係がうまくいかなくなる。ついには別れるのだが、東京に住んでいるその警官の妹と気が合い、高崎なんかにいないでルームシェアして東京に住もうよと言われて東京へ出て行く。
そこで、乗馬クラブ時代のライバルだった永田篤と本当に偶然再会するのだけど…。

というような話です。
まず、この二編の違いを、ルービックキューブに例えて説明してみようかなと思います。
ルービックキューブというのは、僕は全然出来ないのだけど(1面揃えるのがやっと)、でもあれは定石というかやり方があります。そのやり方をきっちりと守って1面1面丁寧に作って言って最後まで完成させる、というやり方なのが「第七障害」です。
しかし世の中には化け物のような人間がいまして、シャシャシャシャシャッと何回かカチャカチャやっただけで完成形にしてしまうような達人もいるわけです。そういうやり方なのが「イッツ・オンリー・トーク」ですね。
なんとなく意味はわかりますでしょうか?
「第七障害」の方は、ドミノが倒れていくように展開が分かりやすいんですけど、「イッツ・オンリー・トーク」の方は、いつの間にこうなったの?とか、どうやったわけそれ?みたいなことが積み重なって、でも最終的にきちんと形になってしまうのだな、という感じの小説でした。
どっちも、男女の微妙に変わっているおかしな歪んだ関係を描いた作品ですけど、その主人公の女性に共感できるかどうかで、読んだ人の感想が大きく変わるでしょうね。僕は、ものすごく共感できたというわけではないけど、そういう退廃的な女性がまとう雰囲気というのが結構好きなので、悪くない作品でした。
「イッツ・オンリー・トーク」の方では、やはり痴漢との関係が一番いいですね。解説にも同じことが書いてありました。他の男とはいささか消化不良という感じがしないでもないけど、痴漢との関係はかなり昇華されている感じで、見ていて清々しいというか、いいと思いました。解説ではこんな風に書いています。
『日本中の悩める女子に「痴漢」を。もちろん彼氏とは別枠で!』
うーむ、そんなこと言われたら、僕も痴漢になってしまおうかしら(笑)
こういう人間関係、というか男女関係もアリだよなぁ、という、ある意味で優しさに包まれた作品という感じがしました。
「第七障害」の方は、「イッツ・オンリー・トーク」と比べると地味な作品で、あまりこれと言ったところはないのだけど、まあ警官の妹と再会した永田のキャラが、まあ結構よかったですかね。
さて、本作で一番羨ましいことは何かと言えば、解説を書いているのが書店員、ということですね。なんでも、本作のハードカバーが発売された時、直感で大量に注文し、6面平積みをしたとかで、そういういろんな縁があったのでしょう。僕も、昔は直感で平積みする本を選んでいたのだけど、最近はホントに保守的になったなぁ、と思います。直感でいいと思わせる作品が少なかったというのもあるのだけど。
まあそんなわけで、書店員が解説を書くというのは今まで見たことがなくて、すっごく羨ましい限りですけど(帯のコメントとかはよくあるけど、解説を書店員に書かせるなんてのはないと思う)、俺もいつかそんなチャンスを夢見て、直感を働かせながら本を選んでいこうと思います。
まあそんなわけで、割といいと思います。女性が読んだら、結構いいかもです。若い女性向けという感じではないですけど。気が向いたらどうぞ。

絲山秋子「イッツ・オンリー・トーク」


デッドエンドの思い出(よしもとばなな)

日常というものが僕らをぴったりと覆って、きっと僕らのことを守ってくれているのだろうな、と思う。
例えば僕らは、プールに入ったりすると、あぁ水の中に入ったのだな、と実感する。その冷たさや手触りが、それまでいた空間とは異質なもので、少しだけ別の世界に踏み入れたような感覚になったりする。それも、慣れてしまえばどうということはない感覚になってしまうのだけど。
しかし考えてみれば、魚が同じように感じることはまあないだろうと思う。彼らにとっては、周囲に水があるという状況は、生まれた時から不変の変わらない事実であって、そこに何かしらのことを思うことはないだろう。もしかしたら、自分の周囲を、水というものが覆っていることすら、彼らには感じられていないのかもしれない。
僕らも、そんな魚のようなものではないか、と思うのだ。
僕らは普段、日常というものに覆われて生きているのだが、それを意識することはまったくない。それは僕らにとって、当たり前すぎるほど当たり前のものだし、それは、手触りや温度を確かめることの出来るようなものですらないのだ。だからこそ僕らは、日常という存在をまるで意識しないし、その大切さをかみしめるようなこともない。
しかし、それがどれだけ大切なものなのかということに、いつかは気付くことになるだろう。自分の周囲を覆っている日常というものが、必ずしも不変ではなく、必ずしも優しいものではない、ということに気付いてしまうかもしれない。
それは、非日常に触れた時に襲われる感覚だろう。
普段とはまるで違うステージへと足を踏み入れる時、それは僕らがプールに入るようなものだけど、そんな時にまず、その非日常の感触がやってくる。ざらざらしているかもしれないし、得体が知れないかもしれないし、どことなく不快かもしれないし、あるいは思いがけず心地よかったりするかもしれないが、とにかくまずは、その異質な非日常の感覚が僕らに押し寄せてくる。
しかし、それは長くは続かない。プールにしばらく入っていれば、水の感触や温度に慣れるように、非日常のその異質な感触にも慣れてしまう。
しかしそこで僕らは、日常というものの感触に思いを馳せることになる。非日常というものに触れて初めて、日常というものがどんなものだったか思い出せるし、そのありがたみや大切さというものを実感することが出来るのである。
しかし、皮肉なものである。一度異質な非日常を経験してしまえば、それまでと同じ日常に戻ることはできないのである。非日常に触れることでそれまでの日常の大切さを知ることが出来たというのに、その日常に再び戻ることは難しい。
かようにして人生というものは、後悔の積み重ねで出来上がっていくのである。
幸せとは何かと聞かれた時に、それぞれに答えがあるだろうと思う。金持ちになることだとか、美女と付き合うことだとか、あるいは世界一周をすることだとか。そういうものも、もちろんいい。悪くは決してないだろう。
しかし、日常というものを出来る限り意識し、その日常を大切に出来ること、それそのものを幸せだと感じることが出来るというのが、もっとも幸せなことではないか、と思うのだ。今の自分の人生にはない。非日常的な幸せを望む気持ちも分かるし、それは決して悪いことではないのだが、しかし、何でもない日常を平穏に続けることの出来る幸せというものが、何よりも大切で輝いているものではないか、と僕は思う。
それは、他人の人生と比較することで分かるものではない。自分の人生を見つめ、それをきちんと意識することで、自分自身と比較することで感じることの出来る幸せだ。世の中、他人と比較した幸せばかり希求する風潮が強いような気がして、それは逆に、人間としては寂しいのではないだろうか、と思わないでもない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、5編の短編を収録した短編集になっています。
それぞれの内容を紹介しようと思います。

「幽霊の家」
洋食屋の後継ぎである私と、洋菓子店の後継ぎであり、しかしそうなりたくはないと思っている岩倉くん。同じような立場でありながら生き方は違う二人。私は、洋食屋を継ぐことを決め、それを見据えてあらゆることに手を出すが、一方岩倉くんは、洋菓子店は継ぎたくないがやりたいことがあるわけでもなく、とにかくお金をためるためにバイトばかりしている。
バイトのお礼に食事でもいかない、と誘った私に、ならうちで鍋でもしない、と言った岩倉くん。そこは、取り壊すことが決まっているボロアパートで、死んでしまった大家さん夫婦の幽霊が出るのだという。

「「おかあさーん!」」
出版社に勤める私は、ある日のこと、いつものように社員食堂で昼食を食べようとした。後から考えればいろいろと嫌な予兆はあったのだけど、しかしいろいろあって気付かなかった。
どうなら、私が食べたカレーに毒が盛られていたらしい。毒と言っても大量の風邪薬だが、それでも体調を大きく崩して入院することになった。
退院してもだるさはまるで抜けず、しかしそれでも動けないわけでもないので仕事には出る。多くの人から好奇の目で見られ、好奇心からの質問に答える生活は、私を少しずつ弱らせていった。

「あったかくなんかない」
小説で生計を立てている私には、遠くに灯る明かりから思い起こされる、一つの過去の出来事がある。
まことくんという男の子の話だ。誰からも可愛がられた天使のような子供で、それなりに複雑な家庭の事情はあったが明るく優しく生きていたまことくん。私は、時々一緒に遊ぶような関係だったのだけど…。

「ともちゃんの幸せ」
かつて同級生にレイプされたことがあるともちゃんは、それでもその現場である河原を嫌だと思うこともなかったし、男の人全般を嫌いになることもなかった。のんびりした性格なのだ。
ともちゃんには、好きな人がいる。あたまもハゲていて、手も毛だらけの人なんだけど、でも何でだか好きになってしまった。でも、彼女がいるみたいで、残念だけど仕方ないと思っていた。なんと言っても、会釈するまでに二年もかかったのだ。
そんな風にして何年も時が経ち、特になにをするわけでもなく待っていたともちゃんだが…。

「デッドエンドの思い出」
婚約者だった人から悲しく辛い形で別れを告げられてしまった私は、家族の元に帰ってなぐさめられたりでもしたら自殺してしまうと思い、旅行中のおじさんの持っている、取り壊しの決まっているバーの二階にしばらくいさせてもらうことにした。
その下のバーで働いている西山君と時々会ったり、仕事を手伝ったりするようになった。なんでもない関係だけど、一緒にいて楽かもしれない。そうやって少しずつ時間を掛けて自分を落ちつかせている。

というような感じです。
よしもとばななの小説を初めて読みましたけど、なんとなく思っていたイメージと違いました。文章は、もっと文学チックな固い感じなのかなと勝手に思っていたんですけど、全然そんなことはなく、すごく読みやすかったです。それでいて、文章が流れてないというか、きっちりしているというか、ダラダラしてないというか、そういううまさがあるなぁ、と思いました。小説をあまり読まない人向けの、読みやすいんだけどダラダラしたような文章では全然なくて、堅苦しくないけど軽くもないというようなバランスの取れた文章だなと思いました。
でも、本作の内容は、ちょっと僕的にあんまり、という感じでした。つかみ所がなくて、さらさらと流れていくような感じで、どうにも馴染めなかったですね。登場人物は、結構好きな感じの、あっさりとしていて諦めが早くてでも緩んでいないというような女性が出てきてよかったんですけど、どうもその恋愛という話になると、なんともわかりませんでした。女性向けの本、という感じでしょうかね。あとがきを読むに、自分の経験は一切書いていないけど、自分の私小説的な一冊だ、というようなことが書いてあります。自分の中で一番好きな作品です、とも。
僕はちょっとあんまりという感じでしたけど、本作で描かれているような、ちょっと辛く陰のあるラブストーリー、みたいなのがいいと思える人ならいいかもしれません。まあ何にしても、女性向けだと思いますけど。女性の方で気になったら、読んでみてください。

よしもとばなな「デッドエンドの思い出」



59番目のプロポーズ(アルテイシア)

キャリア女子、という言葉を初めて聞いたかもしれない。
ふむふむ、そういう人種もいるのかぁ。なんというか、みんな大変なんだなぁ、と思う。
キャリア女子というのはまあ要するに、仕事がバリバリバリバリ出来てしまう、収入も男並みかそれ以上で、全然自立した生活が出来てしまうというような、そんな生態である。
しかし、いろいろと大変らしい。
仕事の面では、それは楽しいだろう。男と張り合って対等に仕事が出来るし、給料だってそこそこあって何だって出来る。そういう生き方を望む女性は増えているかもしれないし、まあ憧れる理由もわからないではない。
でも、どうも恋愛という面においては、キャリア女子というのはうまくいかないものらしい。
ふむふむ。
一番の原因は、男が嫌がる、んだそうだ。つまり、自分よりも仕事の格も上給料も上の女性と付き合うことを、男側が望まない、のだそうだ。うーむ、そういうものだろうか、と僕なんかは思うが。わからない。僕の場合、そういう社会的な無駄なプライドとかそういうのはまるでない人間だから、女性の方が社会的に上だろうがなんだろうが別に困ったり落ち込んだり嫌だったりということはまるでないのだけど、でも普通一般の社会人男というのは、社会の中でのし上がっていくというのをとにかく目標にしているような節があるような気がして、そういう人からすればキャリア女子というのは確かに合わないのかもしれないなぁ、と思う。
またキャリア女子というイメージからうまくいかないことも多いらしい。
例えば合コンをやっても、あなたみたいな優秀な人とは話が合わない、だとか、派手な世界にいていろいろ得することがあるんでしょ、と思われたり、とにかくそういう、キャリア女子についてのイメージ(偏見)みたいなものが漠然とあって、そういうものがキャリア女子の恋愛を妨げるようなのだ。
ふむふむ。なるほどなるほど。
そうしてキャリア女子というのは、自分自身というものをうまく殺しながら(隠しながら)、恋愛をしなくてはならないハメになる、のだそうだ。うーん、確かにそれは大変そうだなぁ。
実際僕の中のイメージでは、社会的な身分が高い人ほど、外見で恋愛をしているような気がする。外見というのは容姿という意味ではなくて、年収だとか車だとかおしゃれなレストランだとか高級ホテルだとか、そういう都合よく装飾されたきらびやかな外見をお互いにやり取りし合うような恋愛を、彼らはしているような感じがする。
しかし、それは本当に楽しい恋愛だろうか?
もちろん、そういうきらびやかな感じが好きだという人もまあ世の中にはいるだろう。僕としては、そういう人は理解できないし好きにはなれないのだけど、しかし全部が全部そうではないだろう。
キャリア女子だから、派手派手できらびやかなのが好きだろう。
というようなのは、どうも誤解らしい。いやもちろん、そういう人もいるんだろうけど、全員ではないということ。
ふむふむ。
よく、金持ちと結婚したい、と言ってる女性の話を聞くけども(友達でも、まあ冗談なのかどうなのか、そういうことをいうのはいるわけで)、しかしホントにそれは幸せなんだろうか、と僕は思ってしまうのだ。本作中でも、アルテイシアは、お金は一番ではない、という真理に辿り着く。僕も、まあそうだろうな、とは思う。しかし多くの人は、そうは思わないようだ。年収だとかキャリアだとか、そんなものばかり目に入るらしい。
いやしかしもちろん、アルテイシアにしてもすぐにその結論に辿り着けたわけではない。彼女にしても、ありとあらゆる経験を繰り返す中で、ようやくその結論に辿り着いたわけだ。
確かに、比較してみないとわからないことはたくさんある。お金持ちと結婚したいと言っているような人間は、お金持ちと付き合ったらどうなるかを知らないからそういうことに憧れるんだろうと思う。きっと大変だろうなぁ。しかしそれは、経験しないとわからないことなのだ。そういう意味で、キャリア女子というのはいいかもしれない。ありとあらゆる経験が出来るという意味では。
書いていてまとまりがなくなってきたけども、つまり何が言いたいかと言えば、自分を隠すことなく恋愛が出来るのは素晴らしいということだ(というようなことをここまでの文章で僕は書いていたか?)。
僕は恋愛に関して、こんな話を耳にしたことがある(テレビか雑誌でだと思うけど)。
ありのままの自分で恋愛をしたいというのは、ただ怠けているだけなのでは?
そうなのだろうか?確かに、相手のことを考えて、多少は自分を曲げたり変えたりしなくてはいけないだろうな、とは思う。相手にまるで合わせないというのは違うと思う。
しかし、恋愛を成功させる、あるいは維持するために、本来の自分とはまるで違う自分を引っ張り出してきても、それはまるで意味がないんじゃないか、と思うのだ。
男の中には、恋愛はセックスだと思っている人間もいるだろうから、そういう人間には、とりあえずセックスが出来るまでいい自分を見せておけばいいや、と思う人もいるかもしれない。女性の中にも、恋愛はセックスだと思っている人はまあいるだろうから、それはまあいい。
しかし、本当に恋愛をしようと思ったら、偽りの自分を続けていくのは辛いだけだろう。それは、相手に合わせる努力ではなく、自分を殺す意味しかない。
気を遣わないでいられる恋愛関係を望むのは怠惰だと人はいうかもしれない。しかし、自然体の自分で相対できない相手と一緒にいて、一体何が楽しいのだろうか、と僕は思う。
どうしても付き合いたい人がいて、そのために自分を偽って付き合うとしよう。しかしそれは、セックスがしたいだけだと言ってもいいだろうと思う。何故なら、本当にその人と一緒にいて楽しみたいなら、偽りの自分で接近するのは、逆効果でしかないからだ。
僕は、恋愛経験が恐ろしく少ないけれども、でもセックスをしたいから恋愛しようなんて思わないし、自分を殺してまで恋愛をしようとは思わない。人からだらけているように見られようが、お互いに自然体でいられるような相手と、とにく気を張るようなこともなく、ただ漫然と時間が流れるのにまかせて、ゆったりと恋愛を出来る相手が見つかればそれはそれでいいし、見つからなければそれはそれでいいと思っている。
恋愛をするという、それ自体が一つの価値になりつつあるけれども、もう一度、恋愛というのはどんなもんだったかなぁ、と考え直してみるのもいいのではないか、と思います。
というわけで、果てしなくまとまりのない文章でしたが、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、mixiで大人気だった日記を書籍化したものです。
アルテイシアは、広告代理店に就職し、現在は独立して仕事をしているという、バリバリのキャリア女子。でありながら、ガンダムを中心とする漫画オタクでもある(アルテイシアという名前も、ガンダムから取ったらしい)。
これまで、58人の人間に言い寄られるという、かなりのモテぶりで、しかしいい恋愛はほとんどない。キャリア女子という立場がいろいろと原因になって、もの凄く憧れていた人と付き合えたのにフラれ、ストーカーまがいの経験もし、セフレも時によってはいるという、なんとも寂しい女性である。とにかくこれまでは、「やらせてくれ」といわれ続けた人生だったらしい。
現在も、4人の男性に言い寄られている。マーケティングを仕事としている職業病か、それぞれの4人の男性に、こうすれば喜ばれるだろうという自分像を作り出して接してしまって、虚しい。自分はホントは、下ネタ大好きだし漫画大好きだし、別に高級レストランとか高級車とかどうでもいいんだけど、でもそういうのも全部隠して恋愛をしなきゃいけない。
なんだか虚しい。
そんな時に、知り合いのやってるバーで一人の男と出くわす。
オタクである。
何故か意気投合し、無限の知識を持つそのオタクとガンダム話で盛り上がるのだが、偶然とは恐ろしいもの、そのオタクと一緒にいる時に友人から合コンをセッティングしてくれという話があり、目の前のそのオタクに、合コンやる?と誘いを掛けてしまう。
その合コン後。モテない病を長年患った最強のモテないオタクは、アルテイシアに一世一代の告白をする。
「すごく好きなんで付き合ってもらえませんか!!!」
で始まる、熱い熱い想いの吐露。アルテイシアは、58人もの男に言い寄られてきたので、男を簡単に信用できない、今までやらせてくれと言われ続けてきたからそう簡単には返事を出来ない、とそう返すも、そのオタクはこういってのける。
「じゃあ、僕は59人目にして初めて、『やらせてくれ』と言わない男になります。指一本ふれません!」
その日から、そのオタクは59番と呼ばれることになった。
今まで付き合ってきた男とは真逆(というか異人種)である59番と付き合っていけるのだろうか、と悩みながら、とりあえず返事を保留するアルテイシア。いろいろドタバタとあり、結局は付き合うことになるのだが…。
キャリア女子とモテないオタクの究極の恋愛がここに展開!
というような内容です。
いやー、面白かったですね、ホント。こういうweb本はその質が千差万別だと思うけど、この作品はホントに面白いですね。
アルテイシアは、この日記の中で、自分の感情だとか過去だとか59番との付き合いだとかを、赤裸々というのを通り越したくらいオープンに書いていて、自分の中の、これを言ったら私は悪い女だと思われるよなぁ、ということも、逃げないできちんと言葉にしていて、そういう部分が非常に好感が持てるというか共感できるなぁ、という感じがしました。
アルテイシアという女性は、僕の好きな感じの女性だと思いますね。いやもちろん、外見はわからないし、それに巨乳だというけどまあそれも僕的にはどうでもいいのだけど、こういう女性らしくない女性というのは僕は好きなんですね。
なんというか、女性らしさっていうのが僕は苦手で、化粧をきちんとしないとコンビニにも行けないとか、おしとやかで清楚な感じとか、そういう、女性とはこうあるべきだ、みたいな型にはまってるような人って、ダメなんですよ。まるで、工場で出来たてほやほや産地直送の、あぁみんな同じ型から作られたのね、と思うようなそういう女性は、すごく苦手なんですね。
そういう意味でアルテイシアという女性は、僕的に好きな感じです。そういう、女性らしさというのを追及することを嫌悪しているような性格で、いいですね。下ネタをガンガン飛ばそうが、タバコだの酒だのをどんだけやろうが、別に僕としては全然いいし、なんなら寝癖がついたままパジャマでコンビニにいけたりするような人とか、いいですよね。
結局、そういう外面的な部分を取り繕うような人はダメで、アルテイシアという女性がそうではなかったというところが、本作のいいところでしょうね。例えばですけど、「電車男」という話を、エルメス側から書いても全然面白くなかったと思うんです。僕は、中谷美紀は大好きですけど、電車男の中のエルメスは、ちょっとなぁ、という感じです。
さて59番の話に入りますが、この59番という男は、凄い!とにかく凄い。
ひたすらモテなくて、そこから逆行するような人生を歩んできて、自分の人生を切り拓くために柔術を始めて、その道に邁進していこうと決めた、ガンダムと図鑑マニアだけど(まあ他にも得意分野はいくつかある)、恋愛に関するストイックさというのは、本当にすごいです。
例えばですけど、まあ僕はそんなにセックスに積極的というわけでもないし、セックスのために恋愛をするとかまあ別にそういうのもいいんだけど、でも、無条件にセックスできるような状況が目の前にあったら、それはどんな男でもセックスをするでしょうよ。世の中の9割9分の男女が、この状況なら間違いなくセックスをするだろう、という状況は、まああるわけです。
しかしそんな状況でも、59番はセックスをしない。これはすごい。アルテイシアと付き合ってからも自分からセックスをしようということにはならなくて、結局アルテイシアの方から仕掛けるようなハメになったりする。
いやー、ここまでストイックになれる人間が、世の中にはいるんだなぁ、と感心しましたわたくし。
他にも、家庭環境を反面教師にしたせいなのか、あるいはバイブル(?)である図鑑のせいなのか、59番の考え方は、人とはかなり違います。その人とは違う部分が、たぶんだけど、結構多くの人に共感されるんではないかな、と思います。こんなこと言ってみたいとか、こんなこと思ってみたいとか、でもそんなの漫画とかドラマの中だけだよなぁ、とか思っているようなことを、59番はいともあっさりと、さも普通のことであるかのように言ったりします。ホント、59番みたいな男がいるというのは、奇跡みたいな感じはしますね。
さらに59番は、とてつもない非常識であって、もうその非常識な部分は爆笑なわけですよ。葱という漢字を知らなかったり、これまでのクリスマスの仰天の過ごし方だったり、あるいは趣味の悪すぎる服装だったり。とにかく、59番の存在そのものがつねに爆笑であって、楽しいです。
アルテイシアは、59番と一緒にいるととにかく気を遣わないで楽なようで、二人は、高級レストランに行くわけでも、そもそもどこかに遊びに行くわけではないのに、毎日下らないことをしながらゲラゲラ笑って過ごしています。アルテイシアからしてみれば、これまでの恋愛と比べてまるで想像も出来ないような恋愛でしょうが、こうやって日記を読む限り、こういう恋愛の形がよかったんだろうな、と思いました。
これは、読んだらオタクはかなり勇気をもらえるんではないかな、と思います。本作を読んだ限りでは、キャリア女子とオタクは、出会いさえすればうまくいくのではないか、ということですね。しかし、その出会いがそもそも最大のネックであり問題なわけで、相変わらずオタクには難しいでしょうけど。
僕も、本作のような恋愛がいいなぁ、と思いました。お互い、駆け引きだのに片意地を張ったりせずに、毎日どうでもいいことに笑い転げて、相手に気を遣わずに気楽に一緒にいて、でまあ時々セックスをする。いいではないですか。そんな恋愛なら、いくらでもしたいですね。
まあそんなわけで、恋愛をしている人もしていない人も、キャリア女子もオタクもそうでない人も、とにかく読んでみてください。確か、本作を原作としたドラマがきっかけで、藤原紀香と陣内智則は結婚を前提に付き合うことになったわけで、本作は実際にカップルを生み出すほどの力を持っているわけです。是非是非、web本だしなぁと思わずに、手に取ってみてください。新しい形の恋愛を見ることができるでしょう。
それにしても、本作の表紙の写真がユンソナに見えるのは、僕だけでしょうか?まあ関係ないですけど。

アルテイシア「59番目のプロポーズ」


レキシントンの幽霊(村上春樹)

あなたにとって、怖いものというのは何かあるだろうか?
別に、何か特別な答えを期待しているわけではない。純粋に、ただ怖いものを思い浮かべてくれればいいのだ。
僕の場合、一体なんだろう。
バイト先のスタッフで、雷が怖いという人がいる。とにかく、雷はダメなのだそうだ。しかしあれは、一体何を怖れているのか僕にはよくわからない。落ちる、と思っているのだろうか?まあそういう人もいる。
友人には、虫がダメだという人がいる。これは、怖いというよりは気持ち悪いということなんだけど、でも本人的には怖いのだろう。虫はダメなのだそうだ。
他にも、高いところが怖い、暗いところが怖い、あるいは幽霊が怖いというような人もいるのだろう。世の中には、いろんなものを怖がる人がいるものである。
恐怖という感情は、一種の安全装置であり、それを感じることで危険を回避しようというある種の本能である。確かに、人間が何かしら恐怖を感じる対象というのは、何かしら危険を伴うものである場合が多い。またそうでなくても、個人的な経験に基づいた危険を回避するための本能であるのかもしれない。例えば、子どもの頃に犬に噛まれたことがあるから、犬が怖い、というような。
僕の場合、どうだろう。
上記で挙げたようなものを、特に怖いと感じるようなことはない。それはらすべて僕からすれば、目に見えるものであるし、言葉として存在するものである。正体が容易に判明するものだし、そうであれば自分の中でいかようにも処理することが可能であると思う。
僕が恐怖を感じるのは、やはり人間そのものであろうか。
人間というのは、わけのわからない存在だ。例えば、雷はただの放電だし、暗闇は光がないという状態だ。高いというのは位置エネルギーが高いというだけだし、幽霊は幻覚か、まああるいは本当に死者であったとしてもそれはただ死者であるというだけのことだ。それぞれ、どんなものであるか簡単に説明ができるし、概念がきちんと整っているし、また言葉通りの存在である。
しかし、人間というのは、そういうあらゆるものから外れている、と僕は思う。簡単に説明はできないし、概念は整っていないし、言葉通りではない存在なのだ。
ひと言で言えば、理解できないのだ。
恐怖というのは、理解できないものに対する畏怖から始まるのだと思う。昔は、雷というのがどういう現象なのか、恐らく説明ができなかっただろう。その時代であれば、雷は畏怖の対象になりうる。今では、それが何なのかきちんと解明されている。理解できるのである。そうなれば、本能的に恐怖を呼び起こすかもしれないが、それは畏怖の対象にはなりえない。
理解できないことこそ恐怖であり、その最たるものは、やはり人間そのものと言えるだろう。
こうして数多くの人間がこの世の中には存在しているけれども、その存在自体が僕には恐怖である。誰かの意識的な悪意が僕を無残に切り刻むかもしれないし、誰かに無意識的な悪意が僕をからからに干からびさせるかもしれない。
自分以外の人間を理解することはまず不可能だし、ともすれば自分自身さえもきちんと把握することはできない。そんな、ある意味で不確かでしかない人間というものを、どうして多くの人は許容できているのだろうか、と思う(少なくとも、僕にはそう思える)。諦めているのかもしれないが、恐怖を感じることはないのだろうか?
分かりやすい恐怖というのは、言葉にしやすいし、感情にも出しやすい。しかし、分かりにくい恐怖の場合、それが何故恐怖であるのかということを伝えるのに、まずその点に苦労する。人間が怖い、という考えは、言葉にしないまでも誰しも共有できる恐怖ではないかと思うのだ。しかし、それはなかなか表に出すことは難しい。
地震雷火事親父、と言われる。この言葉の真理は、案外最後の「親父」にあるのかもしれない。「人間」と書いたのでは、生々しすぎる。ならば、少し捻ってユーモアを加え「親父」にしたらどうだろうか。そんな風にして語られるようになった言葉ではないか。そんな風に空想してしまう。
人間存在の恐ろしさは根元的なものだと思うけど、その根元に人間は突き当たることがない。その徒労感に対する恐怖なのかもしれない、とも思うのだが。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は7編の短編を収録した短編集になっています。それぞれの内容を紹介しようと思います。

「レキシントンの幽霊」
これは数年前に実際起こったことである。
僕は、名前は仮にケイシーとしておくが、そのケイシーという一人の建築家と友人になった。僕がマサチューセッツ州に住んでいた頃の話だ。ケイシーは、信じられないくらいのレコードのコレクションを持っていて、僕はそれに惹かれたのだ。
何度か家に行くことがあってある日、僕はケイシーから留守番を頼まれることになった。その一日目の夜のこと。階下でなにやら物音がする。どうやらパーティーが行われているらしいのだが…。

「緑色の獣」
庭にある椎の木が私は好きだ。心の中で、何度もその椎の木と会話をした。
いつものように庭の椎の木を眺めていると、その根元の土が盛り上がり、そこから緑色をした獣が出てきた。その獣は私の家の玄関にやってきて、ドアをこじ開けてしまうのだ…。

「沈黙」
大沢さんと僕は、飛行機を待っています。意外にもボクシングをやっているという大沢さんに、僕は特に大きな意味合いもなく、「人を殴ったことがありますか?」と聞いていた。
大沢さんは、一度だけある、と答えました。そうして大沢さんは、中学時代の青木という男との嫌な思い出を語りはじめました…。

「氷男」
私は、氷男と結婚をした。
スキー場のホテルのロビーでひたすら本を読み続けていた氷男に、興味があって話し掛けたのが始まりでした。次第にお互い惹かれるようになり、結婚することにしました。周囲は猛反対しました。しかし私はその反対を押し切り結婚をしました。
結婚生活は順調でしたが、次第に私は退屈をするようになってきました。そこで、旅行にでも行かない、と氷男に言ってみました。そうして彼らは、南極へと旅行に行くことにしました…。

「トニー滝谷」
トニー滝谷というのは本名だ。戸籍上はもちろん、滝谷トニーとなっているのだけど。
父親は滝谷省三郎。トロンボーン奏者だった。戦中・戦後をうまいこと息抜き、結婚して子供をもうけた。妻は、出産の三日後に死んだ。
トニー滝谷は、子供の頃から孤独だった。しかし、それに悲しみを感じるような子供ではなかった。何でも一人でこなしていたし、それが普通だと思っていた。
精緻なイラストが評価されるイラストレーターになってから長い年月が経った頃、彼は人生で初めて恋に落ちた…。

「七番目の男」
その夜に話をすることになっていた最後の男である七番目の男は、10歳の頃に彼を捉えようとしたという、奇妙な波の話を始めた。
台風が接近した日、ちょうど台風の目に差しかかった頃のことだ。仲がよかったKと連れ立って海岸へ行った。そこで彼らを、波が襲ったのだ…。

「めくらやなぎと、眠る女」
時々耳が完全に聞こえなくなってしまう、といういとこを連れて、以前通っていたのとは別の病院へと行くことになった。バスは、その時間帯にしては異常とも言える込み具合だった。なんとも、不思議な感じだった。
病院に着き、いとこが診察へと向かうと、彼は高校時代に入院していたある女の子の、めくらやなぎの話を思い出していた…。

今回の作品は、ちょっと僕にはあんまり合わなかったなぁ、という感じでした。どこがどう、というのはうまく言えないのだけど、合わなかったですね。村上春樹の短編集というのはそもそもあんまり得意ではないんだけど、まあそういうことでしょうか。前にも村上春樹の別の短編集の感想で書いたけど(あるいは江國香織の短編集かもだけど)、彼らの短編集というのは、世界が成熟に至る前に世界が終わってしまうような感じが僕にはして、だからちょっと入り込めないのではないか、と思います。
好きな作品は「沈黙」と「めくらやなぎと、眠る女」ですね。「沈黙」の方は、最後に大沢さんが語る真理のようなものが、よかったです。本当に怖いものとはなにかという問いに対する、的確で正しい答えのような気がします。この真理は、今ではより大きくなって僕らのところに届くような気がします。
「めくらやなぎと、眠る女」の方は、なんとなくいいという感じですね。よくわからないんだけど、よくわからないけどダメというのと同じように、よくわからないけどいい、という感じです。
しかしこの作品は、デジャヴュなんですよね。絶対、過去どこかで読んだことがあるはずなんです。読み始めた時は気付かなかったけど、途中で、あぁ、これは以前どこかで読んだことがある、と気づきました。
しかし一体どこで読んだのか、それがまるで思い出せません。村上春樹の別の短編集に収録されているとは思えないし、雑誌に載ったのは僕が生まれた年なので読んでいるわけがありません。教科書に載っていたのかなとも思ったんですけど、村上春樹の作品が教科書に載ってたりしますかね?というわけで、結局どこで読んでいるのか思い出せないんですけど、読んだのはまあ間違いないだろうなと思います。
そんなわけで、僕としてはあんまりオススメではない作品ですね。短編集で一番いいのは、「東京奇譚集」ですね。

村上春樹「レキシントンの幽霊」



鴨川ホルモー(万城目学)

何事も、始めるのは簡単である。
などと書くと、いやいや、始めることこそ難しいよ。重い腰を上げる、なんて言葉もあるくらいじゃないか、と言われそうだが、いや断じて違うのだ。
何事も、始めることは容易い。
何が難しいかといえば、そう、終わらせることである。
西尾維新という作家は、どこかでこんなことを書いていた。
「誰でも小説を書き始めることは出来るけど、小説を終わらせることが出来るのは作家だけだ」
まさに、という言葉ではなかろうか。
その通りである。終わらせることの難しさに比べれば、始めることの簡単さなどものの数にも入らないと言い切ってしまってもいいだろう。
例えば、今こうして更新している僕のブログだが、始めた時のは別に大したきっかけがあったわけではない。まあ、ブログでも書いてみようかな、といった、至極ざっとした始まり方をしたのである。
しかし、もしこのブログを終わらせようとしたら、それは非常に難しいことだと思う。今では、本を読んだらこのブログを書くということが習慣になっているし、終わらせるきっかけもないだろう。そうやって、このブログはどんどんと更新されていくのである。
例えば、いじめも同じだと思う。僕は、悲惨ないじめられ方をしたり、積極的にいじめに加担したような経験はないのだけど(まあ、ちょっといじめられたり、ちょっといじめたりというようなことはないでもないが)、あれも、始める時のノリはとても軽い。ちょっとムカツクからとか、なんとなくとか、あってないような理由のためにいじめというのは始まってしまうものだ。
しかしこのいじめというのも、終わらせるのがすごく難しい。殴ったり水を掛けたりというような暴力的ないじめの場合、それを主体的に行うリーダーのような人間がいるわけで、だからそのリーダーが止めさえすれば必然的にいじめがなくなったりもするかもしれない。
しかし、無視やシカトといったような、消極的ないじめのような場合、終わらせるのは非常に困難だ。始めは、まあちょっと話さないしようぜ、みたいなことであっても、誰も話し掛けないというのが常態になっていくにつれ、話し掛けたくても話し掛けられない雰囲気になっていってしまう。そうして、止めたいのだけど止められないという状況の中、いじめがずるずると続くことになってしまう。
まあ一応書いておくけど、本作は別にいじめの話ではない。
例えば、宗教も同じようなものかもしれない。始まりは、ごく小規模な集まりで、活動だって大したことではなかったかもしれない。しかし、オウム真理教や白装束集団のように、どんどんと規模を増していってしまうと、いくらトップが止めたいと思っていても、なかなか止められるわけではない。そうやって、どんどんと宗教というのは深みにはまり加速していくのだと思う。
まあ一応書いておくけど、本作は宗教の話でもない。
例えば、みうらじゅんが出している「とんまつりJAPAN」という本がある。僕は未読なのだが、内容がどんなものか大体知っている。それは、日本中のありとあらゆる奇祭を集めた本なのだ。とにかく、何のためにやっているのか、というかそれそのものがなんなのかよくわからない祭りが次々と出てくるらしい。
そういう祭りにしても、やっている本人としては、その意味もわかっていないし、むしろ止めたいと思っているかもしれない。しかし、その祭りも始まりは些細なものだっただろうが、しかし止めるのは容易ではないのである。
まあ一応書いておくけど…とまあくどいですね。
そんなわけでいろいろ例を挙げてみたのだけど、どうでしょう、わかっていただけましたでしょうか。いかに、何かを止めるというのが難しいことであるか、ということを。
そしてこれは、僕の実体験でもあるのである。
僕が大学時代に入っていたサークルは、それはそれは奇妙なサークルでした。そのサークルについてあれこれ説明するには中編小説くらいの文章が必要だし、その奇妙さを説明するだけでも短編小説くらいの文章が必要なのだが、とにかく変だった。
その中で一つだけ、特に周りから変だと思われていただろうな、というものを挙げてみよう。
それは、UFOを呼ぶ円陣、というものだ。これは、実際それが行われている時は、2ちゃんねるでも話題に上るという、非常に有名なものなのだが、ただやっている人間に言わせてもらえば、あればUFOを呼んでいるわけではない。
どういうものかと言えば、照明の落ちた大学構内の噴水前と僕らが呼んでいる場所で、真っ暗な中、100人からのサークルのメンバーが円になり、数人の怒号が響き渡る、という、もう文章にするとその奇妙さが一層強く伝わるという、奇妙奇天烈なものなのだ。
もちろん、やっている人間だって恥ずかしいと思っているし、これはどうなんだろう、と思っているのだ。特に、入った当初、まだ1年生だった頃などは、本当にどうなんだと思い続けていた。周囲では、その円陣とはまるで無関係な学生が、帰るために近くを通り過ぎているのである。時に苦笑が聞こえ、時に嘲りの対象にもなるその行為を、しかし僕らはある一定期間の間、毎日行うのである。もちろんやっている僕らの側にも説明はあるのだが、周囲の人間にはなかなか理解されないだろうと予測される。
こうして、やっている人間でさえおかしいと思われていることが、しかし長い間そう続いているという理由で、誰も止めることができないのである。世の中には、伝統という名前の元に、ありとあらゆる奇妙なものが、まるで重大なものであるかのように続いている。しかしそれは、本当に続けるだけの意味合いがあることなのだろうか、という疑問は、しかし常に封印されてしまうのである。しかしが同じ文章の中に二度出てきて気持ち悪いことこの上ないが。
それをする理由がわからなくても、長く続いているからという理由で止められないことはおそらくたくさんあるだろう。本作も、そんな伝統という名の元に巧妙に隠されたある奇妙な競技を巡る物語なのである。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
みなさんは、「ホルモー」という言葉をご存知か。
そんな珍妙な文章から始まるこの小説。いやいや、知るわけないっちゅうねん。
舞台は、現代の京都。
京都大学に合格した一回生である安部は、葵祭という伝統的な祭りの場において、牛車を引くというアルバイトをしていた。その折に知り合った、帰国子女だという高村とともに、帰りがけに奇妙なサークルの勧誘につかまってしまった。
京大青竜会という、広域指定暴力団のような、どう前向きに評価しようとしてもセンスのないそのサークルは、配るチラシの内容もなんとも言えず珍妙であった。
『普通のサークルじゃ飽き足らないと考えているア・ナ・タ!京大青竜会に入ってみませんか?私たちは、大学生活をよりおもしろくするため、日々様々なことにチャレンジし続ける、まったく新しいタイプのサークルです。他大学との交流もあるので、たくさんの人たちとも友達になれるヨ!』
あ、あやしい。あやしすぎる。こんなに曖昧にしかサークルの紹介が出来ないなんて、やっぱり何か宗教系のサークルなのではないか…。
もちろんそう思った二人だが、しかし新歓コンパに参加してしまう。それは、大学生というのは金がないからなのだ。とどのつまり、新歓コンパをハシゴして、4月を乗り切るしかない、という涙ぐましい努力なのである。
その京大青竜会の新歓コンパで、安部は早良京子という女性に一目惚れしてしまう。
それから安部は、何故かあのサークルに積極的な高村に誘われて仕方なく、という形を取りながら、早良京子に会うためだけに、その珍妙で果てしなく胡散臭いサークルに顔を出し続けたのだ…。
とちょっとまて、これで内容紹介を終わらせてしまうと、ホルモーが何たるか、まるで説明していないではないか、というお叱りを受けそうではあるが、いやいやそれは無理なのである。ホルモーだけの説明をしようと思えば、結局本作と同じだけの分量が必要ではないか、と思う。というわけで、ホルモーのなんたるかは読んで知るべし。
ということなんだけど、いやー、久々に無茶苦茶面白い小説を読みましたね。これは、最高でした。
表紙を見てもタイトルを見ても、はたまた折り返しの内容紹介を読んでも、まったくどんな話だか想像もつかない作品。しかも本作でデビューという新人。しかも、産業編集センターという、どう考えても知名度の低そうな、どこそれ?小説を出版するような出版社ですか?と聞きたくなるような作品であり、その全貌は本当に謎に包まれているのだが、この作品は紛れもなく傑作だと言えるでしょう。
とにかく、ここまで馬鹿馬鹿しいストーリーは久しぶりで、僕は読みながら何度も笑いました。無茶苦茶下らない設定というのと、古都京都という取り合わせが非常にグッドなミスマッチ具合を生み出していて、シュールなんだけどグイグイ読んでしまうというような、不思議な魅力を持つ作品でした。
とにかく、全編ホルモーについての作品なわけなんだけど、これはホントに読んで知って欲しいですね。ホルモーについてここで、これこれこういう感じのもの、ということはまあ出来なくはないのだけど、でも言ってもよくわからないし、やはりこの作品と結びつくことで非常に面白い感じを出すと思うので、説明することは敢えて止めることにします。
いやでも、ホントに最高でした。京大青竜会というサークルが、僕が大学時代にいたサークルの胡散臭さと同じような雰囲気を持っていた、というのもあるのかもしれないけど、そのサークルの一回生と三回生(読めば分かるけど、このサークルには二回生はいないのである)との間の、微妙な食い違いというかかみ合わない感じとか、あるいは、徐々に怪しい世界に引き入れられていくことを実感していくその雰囲気だとか、また男女を巡るゴタゴタだとか、達観してるんだかなんだか分からない友人とか、とにかくそういうものを全部ひっくるめて面白くて、でもやっぱりなんと言っても、ホルモーという設定が秀逸だったからこそここまで面白い作品になったのだろうな、と思います。
いやー、よくこんな下らないことを考えたものです。ホルモーですよ。そしてタイトルが鴨川ホルモー。このセンスにはもう脱帽ですよね。古本屋でこのタイトルを見つけて、なんだか分からないけど惹かれたその感覚を信じて買ってみたけど、ホント当たりでした。
京都が舞台になっていて、祭りだの神社だのというのが頻繁に出てくるので、京都に住んでいる人には結構面白いんじゃないかな、と思います。西尾維新という作家の戯言シリーズという大人気シリーズがあるんですけど、その舞台も京都で割りとよかったけど(人生で二回ぐらいしか行ったことないけど、やっぱ京都ってのはいいですよね)、本作はより今日とらしさに溢れている感じで、いいと思いました。
とにかくこれ、読んでみてください。くだらない小説は受け付けないのだ、我輩は文学しか読まん!というような人にはダメでしょうけど、小説を読んで楽しみたいというような人にはホントオススメです。いやー、久々に傑作でしたね。しかも、こういう、まだ世の中的な知名度が低くて、しかも傑作である作品というのを、人よりも先んじて見つけられる、というのはなかなか嬉しいものです。そういう意味でも、本作はかなりの掘り出し物でしたね。
もう少し早く読んでいれば、本屋大賞の3位くらいで投票してもよかったかな、と思う作品です(既に投票を済ませてしまっているので残念ですが)。「鴨川ホルモー」というタイトルにちょっとでも惹かれた方、これは読んでみる価値のある作品だと思いますよ。そのあまりの馬鹿馬鹿しさに笑おうではありませんか!

万城目学「鴨川ホルモー」



約束(石田衣良)

優しさと哀しさというのは、寄り添っている。辞書で引けばどちらも違う意味で載っているのに、同じものなんではないか、と思うこともある。使い古された言い方だけど、まるでオセロの裏表のように。
優しさが哀しさを生み出すこともある。
哀しさが優しさを生み出すこともある。
あるいは、優しさと哀しさの境界が溶け合って、新しい何かが生み出されることもあるかもしれない。
生きている中で僕らは、様々な経験をすることになる。楽しいことも辛いことも、ありとあらゆる経験をしながら、僕らは人生というものを生きている。
一瞬で過ぎ去る楽しさや苦痛もある。
しかし、一生関わる楽しさや苦痛もあるだろう。
楽しさの場合なら、それは問題ない。一生それを受けることが出来るという自分の境遇に感謝し、その境遇が普通なことではなく、素晴らしいことなんだということをかみしめながら、何かに感謝するようにして生きていけばいい。
しかし、一生伴っていかなくてはいけないような苦痛を背負わされてしまった時、人生というものの意味が大きく変わってしまうことになる。
出口の見えない閉塞感。
終わりへと届かない徒労感。
そうした、諦めにも似た日常を過ごしながら、自分の人生の意味を考え続けなくてはいけない。そんな人生も、認めたくは無いが、間違いなく存在するのだろう。
それは、ふとしたきっかけで、まるで予兆もなく訪れる。どうして自分が、と思うような、理不尽な衝突でしかないのだろう。
僕には、そんな人生を、今は想像することはできない。嘆き苦しみ後悔するような日々の中で、それでも前に進まなくてはいけない人々の生活を、リアルに思い描くことは難しい。自分にそれが訪れないことを祈りながら、もしそうなったら自分は折れてしまうだろうな、とも真剣に思うのだ。
そんな人生だからこそ、ちょっとしたきっかけで光が差し込むようなこともある。
それは、両手で優しく包み込んでも壊れてしまいそうなほど些細なものかもしれない。体温で解けてしまうほど繊細なものかもしれない。
しかし、終わることのない毎日を過ごしている人々にとって、それは些細でも繊細でもない、とてもしっかりとした希望に見えることだろう。
優しさと哀しさ。
どこにでも転がっているものではない。むしろ、急速に失われ続けているものなのかもしれない。
優しさに心を打たれることも、
哀しみに心を焼かれることも、
最近は少なくなっているよう気がする。
当たり前の優しさに鈍磨してしまった日常や、
哀しみで膨れ上がる日常が、
既に常態になってしまっているからなのかもしれない。
僕らが生きている日常が、常に存在すると保証されているわけではない。どこまでも、永遠に続くと決められているわけではない。日常を日常という時間の流れでしか捉えられなくなってしまった今を生きる人々には、失われつつあるものなのだろうと思う。
一日一日をきちんと意識して生きること。
意味のない一日なんてどこにもないことを知ること。
そうやって、何も考えずに過ごしている毎日にきちんと意味を与えることで、優しさも哀しさも、きちんと日常に意味をもたらしてくれるのだと思う。
優しさも哀しさも、きっと僕を暖めてくれるはずだ。そう信じて、僕も毎日をきちんと生きていこうと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、7編の短編の収録された短編集になっています。それぞれの内容を紹介しようと思います。

「約束」
僕の英雄が死んでしまった。友達で、心の底からカッコいいと思っていたのに、死んでしまった。
通り魔事件に巻き込まれた。恐怖で動けなくなっている僕を助けるために突き飛ばして、自分は刺されて死んでしまったのだ。英雄だったのに。彼みたいになるのが、僕の夢だったのに。
それから僕は、ちょっとおかしくなった。どうでもよくなってしまった。彼が生きていないのに、自分だけ生きてるのがおかしいような気がした。だから、死のうと決めたんだけど…。

「青のエグジット」
引きこもりを脱したその日に電車で事故に会い片足を失った息子。私は、リストラ要員に課される過酷な研修にも耐え、神経質で横暴になった息子のわがままにも耐えながら、日々を過ごしている。
ある日、息子の気まぐれで外出した帰り、ある書店に貼られていたポスターを息子が見つめていた。片足のダイバーが海に潜っている写真だった。あのポスターが欲しい。そういったその日から、息子はダイビングにのめり込んでいくようになった…。

「天国のベル」
息子の耳が突然おかしくなった。何も聞こえなくなっちゃったと訴えかける息子。病院で検査をしても、機能的な障害は見つからない。恐らく、心因性の突発性の難聴でしょう、ということだった。
心療内科で知り合った女性に誘われて、耳は聞こえないはずなのに電話のベルだけは聞こえるという息子と共に旅行に出かけるのだけど…。

「冬のライダー」
モトクロスにはまって、高校が始まる前の時間で河川敷で練習をしていると、「へたっぴ」とそこにいた女性に言われてしまう。助言からすると、モトクロスをやっていたような感じだが、オフロードバイクに乗っている姿は見たことがない。
いつも日曜日になると、河川敷は小学生たちで溢れかえる。もちろん、モトクロスの練習だ。いつも小学生何人かと勝負をするのだが、いつでも完敗だ。バイクの性能はこちらの方が上なだけに、惨めな気持ちになる。
いつしか、「へたっぴ」と言ってきた女性が練習に付き合ってくれるようになり、上達していくのだが…。

「夕日へと続く道」
学校に行かずに、冷たい公園のベンチの上で、ただ時間が過ぎるのを待っている。皆でおんなじことをしている学校っていうのがバカらしいし、でも引きこもりと同じ風に見られたくもない。だから、こうやってずっと外にいる。
廃品回収のノロノロとしたトラックがやってきて、冷蔵庫を荷台に上げるのを手伝ってくれないか、と声を掛けられた。いつしか、助手席に乗っておじさんの仕事を手伝うようになっていった。そんな日常が、ある日突然破られることになって…。

「ひとり桜」
いつもこの桜からと決めている。満開の桜を追って北上する二週間の撮影旅行。その最初はこの、細い特に見ごたえがあるわけでもないこの桜だ。まだ満開とは言えないが、そのくらいの咲き具合がちょうど合っていると思う。
一人の女性に声を掛けられた。同じくこの桜が好きでここに来ているのだという。こんな桜を自分以外の人間が気にとめているという事実を不思議に思いながら、撮影を続けた。
翌日、また顔を出した女性は、思いがけない告白をする…。

「ハートストーン」
実家に一人で遊びに言っている息子が倒れたと、母から連絡があった。ちょっと前から、頭が痛いと言っては吐いていたりしていたのだが、どこか悪かったのだろうか。
夫にも連絡をつけ、急いで病院へと駆けつけてみる。息子は元気だったが、医師から、脳に腫瘍のようなものが見えるといわれる。病院を代え、再検査をすると、髄芽腫と診断される。手術でよくなると思うが、運動機能に障害が残るかもしれない、と。
なんでうちの息子が。二人はそう嘆くが、同時に、私が息子を守ってやらないと、と固く誓う…。

というような話です。
どの話も、辛い人生に直面したり衝突したりしながら、それでも現実と向き合いながら努力をする、というような話で、どれもいい話だったなぁ、と思います。
僕が好きな話は、「約束」「青のエグジット」「天国のベル」「夕日へと続く道」ですね。
石田衣良は最後のあとがきで、児童の通り魔事件のニュースを見て泣き、新連載の話が来た時にそれを思い出して「約束」を書いた、というようなことを書いていました。なるほど、この作品にはなんとなく力があるな、と思っていましたけど、力を入れた作品なんでしょうね。最後のシーンは、かなりよかったと思います。
「青のエグジット」も、辛い話ではあるけど、ラストがいいですね。もちろん、現実にはああうまくいくことはないんだろうけど、それでもこういう話はいいと思います。ただ、もし自分に子どもがいたとして、彼のような息子がいたら、ちょっときついなぁ、と自分では思いました。
「天国のベル」は、最後が都合よすぎるよなぁ、という感じはするのだけど、でも僕としては全然アリです。なるほど、そう繋がるのかぁ、という感じでした。
「夕日へと続く道」は、おじさんと少年という取り合わせが素敵だし、それぞれに抱えているものがあって、まるで見知らぬ二人なのに助け合っている、という辺りがいいですね。病室で父親が言ったセリフは、おいおいお前がんなこと言うなよ、と思いましたけど。
石田衣良という作家は、これはことごとく書いているけど、軽さがウリの作家だと思っています。しかし、こういうシリアスで真面目な作品も書けるのだな、という驚きがありました。軽い作家だと思っていたからこそ、なお衝撃が来たというか、石田衣良らしくないな、と思ったりしました。
ただ僕が石田衣良の作品で苦手な点が一点あって、それは何でも固有名詞で表現するというところですね。確かにそういう言葉は取材したりすれば分かることなんだろうけど、でも普通知らないだろという固有名詞を出されても読者としては困りますよね。病院の検査でMRIに入るシーンがあるんだけど、そこで『久明と志津子はガントリーにのみこまれていく息子の足首をにぎって、』というような表現があって、いやいや普通の人は、ガントリーなんて言葉知らないよ、とか思ってしまうんですよね。他にもこういう、普通知らないでしょというようなものがたくさん出てきて、それはちょっと苦手ですね。
僕は今でも覚えてるんだけど、江國香織の「東京タワー」の中で、床屋の三色の回ってるやつを「三色のグルグル」みたいな感じで表現しているのがあって、そういうのはすごくいいと思うんですよね。あれももちろん固有名詞とかあるんだろうけど、でも「三色のグルグル」って言われる方が、すんなりあたまに入ってくると思いませんか?そこだけがちょっと、石田衣良の苦手なところですね。
まあその辺を差し引いても、いい作品でした。結構ウルウル来る作品もあって、心のどこかに突き刺さるような作品に出会えるんではないかと思います。結構オススメです。読んでみてください。

石田衣良「約束」



三四郎はそれから門を出た(三浦しをん)

本が好きである。
本が好きである。
本が好きである。
さて、あと何回言おうか。
本が好きである。
もういいだろうか。
とにかく、本がなくては、僕の生活は成り立たないと言っていいだろう。言いすぎどころか、言い足りない気すらする。
何故好きなのか。
が説明できるのならば、苦労することはない。
それは例えば、綺麗なお姉さんは好きですか、と聞かれて即答は出来るけど、じゃあ何で?って聞かれたら、綺麗だからとしか答えようがないのと同じである。
意味不明である。いいのである。それでいいのである。グリーンだよ~~~(絶叫!)
とまあ、無駄にテンションを上げても仕方ない。話をそこそこ戻そうではないか。
このブログを日々読んでくれているような人がどれだけいるかわからないけど、まあそういう人には、僕がどれだけ本を読んでいるのか理解することは出来るだろう。
とにかく、本を読んでいる。というか、本しか読んでいない。
本作の冒頭で三浦しをんは、自らの生活をこう書いている。
『読書が好きである。
いや、もはや好きとか嫌いとかいう範囲を超えて、読書は私の生活に密着している。私が一日のうちにすることといったら、「起きる。なにか読む。食べる。なにか読む。食べる。仕事をしてみる。食べる。何か読む。食べる。何か読む、寝る」である。ちょっと食べすぎじゃないか。もちろん食べているときにも、なにかを読んでいる。本が手近にないときは、郵便受けに投げ込まれたマンションのチラシを読みながら食べる。』
まさに共感である。共感しすぎてどうしようかと思うくらいだ。
まあ、多少違う部分もないではない。僕の場合、そこまでは食べないし、チラシも読みはしない。しかし共感である。
僕の場合、とにかく読みながら何かをしているのである。例えば人は、食べながら本を読むんじゃない、とかいうかもしれない。歩きながら本を読むなんかアホやろ、とか言うだろう。しかし、違うのだ。僕の場合、本を読みながら食べているのである。本を読みながら歩いているのである。
そういうことである。つねに優先順位は本を読むことにあるのである。
何がそんなに僕を読書に駆り立てるのか。
を説明できるなら苦労はない。
それは、綺麗なお姉さんは好きですか…と聞かれることもないからまあいいか。
しかし、ベタな答えを用意させていただこうではないか。
何故本を読むのか。
そこに本があるからだ。
決まったぜ。
まあそんなわけで、くだらないことしか書いていないのだが、とにかく本が好きだということは分かっていただけたでしょうか。
まあいいのである。読書というのは個人的なものなのだ。誰かと共有するというのはなかなか難しい。感想を言い合うことは出来ても、読んだ経験そのものを共有することは出来ない。脳内に展開された光景も、それを表現する言葉も、全てが内的なものなのだ。
必然的に、読書というのは寂しいものにならざるをおえない。しかしまあ、それは逆だという気もしなくはないが。もともと寂しかったからこそ、読書というものと親和したという方が正しいのかもしれない。
……。
危ない危ない。思いがけず、しんみりした話になってしまった。
いやいや皆さん、読書というのは素晴らしいですよ。どれだけ部屋が本で埋め尽くされようとも、どれだけお金を散財する結果になろうとも、運動不足になろうとも、世間から取り残されようと、
いいのである。いいんである。グリーンだよ~~~(絶叫!)
というわけで、読書はもう最高なんです。
しかし、こんなことをこのブログに書いても仕方ないということを今思い出してしまった。だってあれだ、このブログを読んでいる人は、そもそも本好きしかありえないのだった。おっとっとである。というか、おっとっとって、古いなぁ。
というわけで、本が好きではなかった人は本を好きになりましょう。そして、本が好きな人はさらに好きになりましょう。そして、本が無茶苦茶好きな人は、どうしましょうね、もう本に埋もれて死にましょうか(笑)
本読みましょう、皆さん。本は素晴らしいですよ。食べ物よりも、服よりも、恋愛よりも、人生よりも、読書ですよ。読書 is life.Life is 読書。ってなもんですね。
まあそんなわけで、そろそろ内容に入りましょうか。めちゃイケを見ながら文章を書いてるから、もうよくわからなかうなって来ましたわ。今オオトカゲが出てきましたよ。
さて本作は、三浦しをんが、ありとあらゆる雑誌に書いて書いて書きまくって書き散らした、本に関するエッセイ+αである。
とにかく、先ほども書いたが、三浦しをんというのはアホかというくらい本が好きなのである。バカがつくくらいの本好きなのである。
どのくらい好きかと言えば。
例えば、部屋には押入れがあるのだが、そこは本でいっぱいで閉まらない。
本を紐でがっちり縛ったものをいくつも作ってベッドにしている。
電車に乗っている時、他人が読んでいる本が気になって、カバーが掛かっているのもものともせずそのタイトルを確認しようとする。
本屋に行くと、乱れている雑誌を直してしまう。
というくらいである。
筋金入りと言ってもいいだろう。
今でこそ作家であるが、それまでは新刊書店と古本屋でアルバイトをしていたのである。というか、他のアルバイトをしていたこともあるのだが、続かなかったそう。それも、すごくよくわかる。僕も、コンビニやファミレスでバイトをしたことがあるのだが、3ヶ月くらいで辞めてしまった。僕も、本に関わっていないとダメなのだ。うむうむ、共感共感。
さてそんな筋金入りの三浦しをんは、とにかく本も読めば、本に関わるあれこれをしたりもする。
そんなあれこれをエッセイにしたのが本作である。
ってのは書いたかな。まあいいや。
第一章は、雑誌「Gag Bank」に連載した、読んだ本の感想記である。とにかく、何でも読む。何かも読む。それを、短い枠の中で面白おかしく書く。僕もまあ本の感想を書いている身ではあるけど、なかなか面白く書くことは難しいのである。やはりこれも才能と言えるだろう。
第二章は、朝日新聞で連載した、こちらも本の感想記。こっちは一回につき二冊紹介している。しかしホント、読む本に見境がない。僕もなかなか見境のない読書をしているけど、それ以上だ。まとまりというか、方向性らしきものがまるでない。僕もまだまだだなと思わされる。
第三章は、紀伊国屋書店のPR誌である「i feel」に連載した、本に関するエッセイ。とにかく、本に関するあれこれが、三浦しをんの面白い文章によって描かれる。しおりの話であれだけ面白い文章にできるのだし、理想の本屋を妄想するだけで面白い文章になる。三浦しをんは面白なぁ。
第四章は、雑誌「anan」に連載した、本とはまるで無関係なエッセイである。温泉だの歌舞伎だのに行ってみたり、トイレや盆栽について考えてみたりと、なんとなくカルチャーっぽいことを取り上げては文章を書いている。本以外のエッセイでも面白い。さすがである。
第五章は、まあ何に連載したというわけではない、あちこちにまさに書き散らした、これも本とは関係ないエッセイである。まあどこでもそうだが、三浦しをんはあらゆるところであらゆることを考えているものである。
で最後第六章は、個別の作品についての書評である。雑誌に掲載していたものなのか、あるいは個人的に書き溜めていたものなのかは不明。それにしても、さすがにいろいろ読んでいる。
とにかく本作は、本好きにはたまらない一冊であろう。そうそう、と共感することしきり、なるほどと納得することしきり、羨ましいと絶叫することしきり。とにかく、本好きの本好きによる本好きのための本なのである。
もちろん、本好きだけではなく、どんな人にも楽しめるようになっている。本作には、僕も読んでいないような本の感想がバンバン載っているのだけど、内容を知らないのに面白い。読んでいない人をきちんと対象にして文章書いていることがよくわかる。
面白いぞ!これは面白いぞ!三浦しをんは面白いけど、エッセイは特に面白いと思う。小説よりも面白いと思う。と言ったらアレだろうか。
まああれだ、ドラマの「東京タワー」が始まってしまったからこのくらいで終わらせるけど、本作はオススメですよ~。スラスラサラサラ読めちゃうので、本を読むのが苦手な人にもオススメですよ~。三浦しをんは面白いですよ~。
しかし、今回の感想はちと適当すぎたかなぁ。反省しきり。

三浦しをん「三四郎はそれから門を出た」



遺書~5人の若者が残した最期の言葉~(verb)

自分が書いた遺書を、久しぶりに読み返してみた。というか、書いてから読み返したのは、今回が初めてかもしれない。
死ぬことを考えたことがあるのだ。その時に、遺書を書いてみた。今読むと、笑えてくるほどどうしようもない文章だけど、当時は真剣だったはずだ。当時自分がどう考えていたのか、既に自分の中の記憶からは遠いが、それを思い起こさせるような文章が残っているというのは、恥ずかしくもあるが同時に楽しくもある。
若者の自殺が最近相次いでいる。
…という表現は、僕は好きではない。
確かに、最近若者の自殺が報じられることが多い。それは事実だ。遺書を公的機関に送りつける、というやり方も報道され、関心が高まっている。
しかし、若者に限らないが、いつだって自殺は起こっているのだ。今だけではない、常に起こっているのだ。
自殺をブームにするのは、マスコミだ。
僕は、とにかくマスコミというのが好きではないので、偏った意見に聞こえるかもしれないけども、書こうと思う。
マスコミのやり方というのは、どう考えても間違っている、と思う。もちろん、自殺に関する報道だけではなく、あらゆる面で間違っていると思うのだが。
確かに、自殺について報道することで、社会を動かすことは出来るかもしれない。責任を追及したり、あるいは事実を引っ張り出してきたりすることは出来るのかもしれない。
しかしそれは、一瞬でしかない。真夏の暑い日にアスファルトに撒いた水のように、一瞬にして蒸発してしまう動きでしかない。何かセンセーショナルな自殺があればそれを取り上げ、飽きたらとりあえずそこから撤退する。
これは、どんなマスコミがどんな取材をする上でも同じだが、しかしこんなやり方で何かが変わるわけがないと僕は思う。
それに、マスコミが執拗に、学校側の責任を追及するのも、いい加減に止めて欲しい、と思う。
こんなことを言うと非難されそうな気はするが、自殺というのは、どんなに努力をしてもなくならないものだ。交通事故が絶対になくならないのと同じで、いじめや自殺と言ったものも絶対になくならないものなのだ。どれだけ努力し、どれだけ注意を払ったところで、なくなることはない。
もちろん、なくならないからと言って、なくす努力をしなくてもいいということには決してならないし、学校側に完全に非がある場合というのももちろんあるだろうと思う。しかし、どんな自殺のケースでも、学校の管理体制がだとか、担任の不注意がだとか、そんなことを言っていたら、学校側は戦々恐々とするくらいしか出来ることがない。それは言ってみれば、交通事故が起きたら常に道路や信号のせいにするようなもので、そんな馬鹿な話があるわけがない。
マスコミが、無意味に執拗に責任を追及しようとするがために、学校側は隠さなくてもいいようなことを隠さなくてはならなくなる。それは、遺族が真実を知る機会を失う、ということだ。真実を伝えるのが使命のはずのマスコミの存在のせいで、遺族が真実を知ることができなくなるというのは、誠に皮肉なことではないか。
また僕は、学校側に責任がない、と言っているわけではない。ただそれは、自殺をした後に追及されるような責任ではない、という意味である。
教師は、もっと強い存在でなくてはならない、と僕は思う。とにかく、学校側が責任を持つべき点は、その一点である。
僕が学生の頃(高校生まで)は、先生というのは恐い存在だった。僕は昔のことは本当に覚えていられない人間なんだけど、小学校時代の先生で未だに覚えている人がいる。女の先生で、とにかく恐かった。
印象的なエピソードが二つある。
一つは、これはどういう経緯でそんなことになったのかはっきり思い出せないのだが、ペンキのついた給食を食べた、というものだ。たぶん、落としたものは食べられない云々、みたいな話の流れだったと思うのだけど、その先生は、ペンキのついた給食を食べたのである。これは、教育とは関係ないが、強烈なものだった。
もう一つ。授業ボイコットである。こう言うと今ならば生徒がボイコットするという意味に取られそうだが、その先生は、先生が授業をボイコットしたのである。
確か、授業中生徒がうるさくしていた、というのがその理由だったような気がするけど、先生は教室を出て職員室に行ってしまった。僕らは、困った。どうしよう…、である。当時の学級委員長と副委員長が先生に謝りに行く、という形でその場は収まったような気はするが、とにかくそんな記憶がある。
僕よりも昔はさらに厳しかったことだろう。
別に、昔の方がよかった、というつもりはない。やはり、行き過ぎた体罰はよくないだろうし、時代によっても教育環境と言うのは変わるべきだと思う。
しかし、今の状況は絶対に間違っている。
先日、たけしと爆笑問題の教育番組を見ていて、信じられない話を聞いた。
朝起きられないからと言って、先生にモーニングコールを頼む親。
学芸会の劇で桃太郎をやることになったが、端役を与えられた子の親が文句を言い、結局18人全員が桃太郎役になったこと。
そして、そうしたことを止められない教師。
学校という空間においては、教師という存在が一番に力を持ってなくてはいけないと思うのです。生徒でも親でもなく、教師が。教師が力を持ちすぎることで別の問題が発生したとしても、今の状況よりは遥かにいいだろうと僕は思う。
教師が力を持ったところで、自殺を止められるわけではない。それは当然だ。一クラス数十人という生徒を一人で面倒を見ている教師が、どれだけ努力をしたところで、自殺しようとしている生徒を止める抑止力になるわけがないだろう。
しかし、教師がちゃんと力を持つことで、学校という組織がきちんとうまく回っていく。僕はそう思う。そうすることで、歪んでいた部分も直っていく。いじめが完全になくなることはありえないが、それでも減る方向にシフトしていくことは間違いない。
日本では、教育というものが既に失われてしまっているのだろう。失われているはずなのに、形として歴然と残るその教育という制度の中で、あらゆる歪んだものに取り囲まれながら、子どもは窮屈に生きていかなくてはならない。それは、大きな苦痛でしかないし、試練と言ってさえいいかもしれない。
僕は、生き続けるという選択が出来なかった人間を、責める気にならない。夜回り先生もこんなことを言っていた。子どもが死のうとしていたら、それは完全に大人の責任だ、と。
社会は既に、若者を救うことができなくなってきている。失われていく命を、黙って見ていることしかできなくなってきている。マスコミは、それをただ助長させるだけの役割しか果たしていない。こんな世の中で、子どもは一体誰を頼っていけばいいというのだろうか。
強くなれない子どもがたくさんいる。それは、決して弱いのではない。歪んだ社会の中でまっすぐ生きていこうとすれば、どうしてたって壁にぶつからざるおえないのだ。その壁を越えられないからと言って、壁を生み出した人間がそれを弱いと言って糾弾することなど出来るだろうか?
自殺というのは間違っている、と人は言うかもしれない。でも僕はそうは思わない。間違っているのは、自殺という選択肢しか与えることの出来ない大人であり、社会である。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、5人の自殺をした若者を取り上げたノンフィクションの形態を取っています。
一番斬新な点は、それぞれの若者が遺した遺書が掲載されているということでしょうか。自殺を扱った書物というのはそれなりにあるかもしれませんが、実際に遺書を掲載してという形は、珍しいのではないかと思います。それに、当時の状況などを取材したものをまとめた文章や、ハードカバー版(サンクチュアリ出版刊)の取材から数年経ってから文庫化に際して再度取材をした「その後」や、遺族が遺書に返信するという形で書かれた「遺族による遺書への返信」などが盛り込まれています。
自殺者本人の内面に迫る、というよりも、残された遺族の現実を追う、というような感じで、そうすることで遺された人間の苦悩を表現し、本書を読んだ人間に結果的に自殺を思いとどまらせようとした、というような意図があるのかな、と考えました。
掲載されている遺書は、どれも結構短いもので、しかし様々に思いが込められています。大半は、いじめられた相手を罵ったり、生きていることを嘆いたりという内容ですが、一つだけ妙に冷静で落ち着き払ったものがあり、死ぬ前には人はいろんなことを思い、いろんなものを遺そうとするのだな、と思いました。
僕は、先ほども少し書いたように、どんな場合であれ絶対に自殺はしてはいけない、というような立場ではないですけど、でも、自殺をしようとしている人には是非読んで欲しいかもしれない、と思いました。思いとどまって欲しい、という意味もありますが、自分と同じような人間がいるということ、そして遺された者の悲しみを理解した上で、さらに自分の感情を整理するために本作を読んで欲しいかもしれない、と思います。整理した上で死ぬことを決断するならそれは仕方ないことですが、とにかくその整理のきっかけにでもなるのではないかと思います。
また、自殺を考えていなくても、とにかく自殺というものを考えるために本作を読んで欲しいかもしれないな、と思います。本作を読むと、身近で自殺をしている人がいても絶対に気付かないだろうな、と思わされます。僕も、自殺をしようとしていた前後で、特に変化はなかっただろうと思います。気付けなかったと後悔しているような人がいれば、それは仕方のないことだ、と諦めましょう。遺された者は、生きていかなくてはいけないのですから。
死を選ぼうとしている人に僕らができることは、選択肢を提示することです。それだけです。
死以外の、自殺者にとって現実的な選択肢をいくつどのくらい用意することができるか、ということです。死のうとしているその考えを、他人が変えることが出来るなんていうのは、それは思い上がりだと僕は思います。考えを変えるのは、本人です。そのために選択肢を用意すること。それくらいのことしか出来ないのです。
死んでいく者の言葉の重みは、遺された者に大きくのしかかります。その悲しみを、誰も共有しなくていいような世の中になれば素晴らしいと思うのですが。
特別素晴らしい作品だとは思えませんが、こういう系統の作品は珍しいし、自殺というものを考えるいい機会になるのではないか、と思います。読んでみてください。
というわけで、今回は特別企画ということで、僕が昔書いた遺書を全文書いてみようか、と思ったりしています。
うーん、読み返してみて、無茶苦茶恥ずかしかったんですけど、でもまあ既に笑い話に出来ることだし、書いている内容も、まあ基本的な考え方自体は変わらないとしても、そこまで今の自分を追い詰めるようなものでもないし、いいかなと思ったりしました。でも一番の問題は、書いている内容があまりに幼稚で恥ずかしいのと、友人にもし見られたら最強に恥ずかしいな、ということですが、まあこんな機会もないだろうし、ちょっと載せてみることにします。友人達よ、万が一気まぐれにこの遺書を読んでも、俺には何も言わないでください。無茶苦茶恥ずかしいので。
遺書は、かなり長いです。ダラダラとつまらないことがたくさん書いてあるので、読んでて退屈なだけでしょうが、興味があればどうぞ。あと、個人名や、僕個人のデータがバレそうな特徴的な言葉は全部伏字にします。あと、誤字脱字もそのままにしてみました。

『これを誰かが読んでいるということは、かなりの確率で僕はもう死んでいるんだと思います(というよくありがちなフレーズから始めてみました)。
まず何から言ったらいいのかわからないけど、本当に申し訳ないと思う。自分勝手だし、相当ひどいことをしていることは十分にわかっているつもりです。ずっと目指していた○○がとれて、マジメチャクチャ嬉しい時になんて本当に申し訳ないとしか言いようがないです。
だからこそ、この最後の文章で、なぜ死のうと思ったのか、そしてそう決めるに至った経緯を書き遺しておくべきだと思って、今これを書いています。
で、死ぬと決めた理由を書こうと思うんだけど、先に書いておくと、たぶん意味がわからないと思うし、納得できないと思います。自分でも自分の気持ちをちゃんと文章に出来るかわかりません。だから理解できなくても許してください。
理由を簡単に書けば、「わざわざ生きていたいと思うような理由がない」とでもなるのかな。で、これからその「わざわざ」の意味を書いておきます。
まず1つ目は、「わざわざ仕事をしてまで生きていようと思わない」ということですね。俺はこれまでで3つのバイトをしたことがあります。でもその全てを2ヶ月で辞めてしまいました。バイトが嫌いな人はいっぱいいると思います。でもそういう人でも、仕事である以上嫌でも続けるのだと思います。でも俺の場合それが出来ません。俺の○○時代や今年の○○での作業を見ている人ならわかると思うけど、やりたくないことは本当にやりません。それがどんなに俺の責任のはんちゅうだとしても、やらないと決めたことは頑としてやりません。そしてそれは○○だから、学生だからなんとか許されているわけです。社会に出れば、そんなことは言ってられません。やりたくないことでもやらないといけません、去年の夏、俺がちょっとヤバかった時期があったけど、それはやりたくないけどやらなきゃいけない状況が辛くてああなったんだと思います。つまり、あるやりたくない仕事がある。俺がそれをやらないでいることは出来るけど、その代わりに俺が迷惑をかけたくないと思っている人に迷惑をかけてしまう。それは嫌だからその仕事はやらなくてはいけない。その繰り返しの状況が辛かったです。だから俺が社会人になったとして2つの状況が考えられるわけです。1つは、迷惑をかけたくない人に迷惑がかからないようにやりたくない仕事をやる。しかしそのためにやたら優うつになる。2つめは、やりたくない仕事をやらないがためにクビになる。こんな人間にまともに自立できるわけはないです。
もちろん仕事をしないで生活し続けることなど不可能です。そんなことはわかっています。だからこそ死のうと決めました。
2つ目の理由は、「わざわざ自分を偽ってまで生きいようと思わない」ということです。これはどうにも説明しずらい。何とか頑張ります。
抽象的な話からしましょう。普通人は他人との関係において、ある程度自分を隠しながら生きていると思います。そしてその隠す程度は、親・友達・まったく知らない人など、その人間関係の種類に応じて変わってくると思います。でもそれは自分を偽っているということではない、ということはわかってくれると思います。適度に自分を隠しながら生きるというのは、当然誰しもがやっていることでしょう。
しかし、俺の場合は多少違います。俺の場合、本当の自分だと、日常の生活を持続することができません。極端に言えば、本当の自分の性格は、「他者との人間関係を築き持続させることが不可能で、かつ全ての物事に対して無気力・無感動」という感じだと思います。極端に言いすぎかもしれないけど、大筋で合っていると思います。この性格ではほぼ間違いなく日常生活を送ることは不可能です。
そこで僕は、別の人格(と言うと言いすぎかもしれません。性格と言ってもいい)を作り出し、その人格で生活をするようになりました。その性格を説明すれば、「そこそこ人間関係を築き、それなりに持続させ、かつそれなりのことに興味をもつ」みたいな感じですかね。もちろんこの人格は、本当の俺とまったく違うわけではなく、本当に俺と別の性格が混じった感じだと思って下さい。で、この別の人格で生活をする、ということが、俺の中で「自分を偽る」ということです。
具体的に言いましょう。一番いい例が母親との関係です。俺はある時期から母親がものすごく嫌いになりました。でも母親が嫌いであることを全面におし出すと非常に生活しずらい。だから別の人格は母親とそれなりの関係を築くようにしていた。そういうことがあってから俺は、自分が生きやすいように自分を「偽る」ことをするようになりました。
でもそういう風にしていると、段々と自分ってものを見失っていきます。なぜわざわざ自分を「偽って」まで生きようとしてなくてはいけないのかがわからなくなってきます。俺は○○ではかなりいい人間関係を築けたと思います。俺としては、出来ればこのまま時間が止まって、今の仲間とずっといたいと思う。でも社会に出たら、新しい人間関係を築かなきゃいけないし、たぶん自分を「偽わら」ないとどうにもならないと思う。だから生きていたくない。
以上2つの理由で俺は死にたい。というかむしろ生きていたくない。たぶん理解は出来ないと思う。それは仕方ないことだと思って諦めてほしい。
俺は、春に引きこもってて、その時期にはもう死にたいとは思っていた。でも死ねなかった。それはやっぱり3年目○○をやってないのと、今の○○の仲間ともう会えなくなると思うと辛かったから。だから○○をやると決めた時にはもう、○○が終わったら死のうと思った。たぶん誰も気付かなかったと思う。ついさっき、○○式・○○飲みがあったけど、その時ですら誰も俺が死のうとしているなんて思わなかったと思う。だからそのことについて自分を責める人がいたらそれはやめてほしい。俺もわざわざそんなこと誰かに言うわけないし、言動からもそんなことは絶対ににおわせなかったはず。自分を責めないでください。
よし、ここまで書いてとりあえず、伝えるべきことは書いたはずだから、あとは個別に思うことを書いてくわ。
(以下略)』

ホントは、以下略の部分も書こうと思ってたんだけど、やっぱここは友達に見られたら死ぬほど恥ずかしいので止めることにしました。
今読むと、遺書というよりも、自分の考えを整理するための文章ですね。死ぬことを決意したというよりも、死ぬための理由を搾り出しているような、そんな感じです。まあ、文章はマヌケですけど、これでもそれなりに追い詰められていたことは確かなので、許してくださいな。
というわけで、長々とどうでもいい文章を書き連ねてみました。

verb「遺書~5人の若者が残した最期の言葉~」



スイートリトルライズ(江國香織)

僕は、結婚に前向きになることができない。
というか、興味がない。
というか、むしろ嫌だ。
なんでそうなのか、その辺を書いてみようと思う。
まず多くの人が、結婚というものをゴール的なものとして捉えているように思えるのが嫌なのである。いい結婚をすれば勝ち、悪い結婚をすれば負け、みたいな、そんな優劣を争っているように思えてしまう。そうでなくても、結婚というのが大きな一区切りだ、というような意識は、多くの人が持っているんではないかと思う。
いやいや、そんな一大イベントか、と思うのだ。
むしろ僕は、いかに結婚するかではなく、いかに結婚し続けるか、ということが重要だと思うのだ。つまり、結婚というのは、単なるスタート地点でしかないように僕には思える。
人はこんな風に言うかもしれない。確かに、結婚はスタートでもあるけど、でも結婚というゴールに向かってとりあえず走っていって、そのゴールでもあるのだ、と。
しかし考えてみて欲しい。自分の学生時代のマラソンの経験を。マラソンを走りきってゴールをした後に、はいまた走ってと言われたって、全力で走れるわけがないでしょう。
僕は、結婚してから全力で走るべきだと思うのだ。それこそ、正しい形だと思う。しかし多くの人は、結婚するまでに体力の大半を使い果たして、そこからは惰性で歩き続けるような、そんな印象がある。
それは嫌だな、と思う。
相手がそうなるのも嫌だし、自分がそうなるもの嫌だ。結婚というゴールを超えた人間にとって、そこからの生活は、あらたなスタートではなく、ただの惰性にしかならないものだろう。
つまり、そういう結婚に対する多くの人の幻想が嫌だ、ということですね。
まだありますよ。
結婚するということは、役割が決まる、ということですよね。
即ち、夫と妻という役割が。
これが、僕は嫌なんです。
結婚すると同時に、夫と妻になるのが嫌なんです。
なんで、個人と個人でいられないんでしょうね。
もちろん、お互いが強く意識すれば、個人と個人という関係のままでいられるかもしれません。夫という役割を、妻という役割を、互いに押し付けあうことなく、一人の人間として対等に付き合っていくことが出来るかもしれません。
しかし、周囲はそうは見ません。結婚した男女は、男は夫として見られるし、女は妻として見られます。
なんて理不尽なんでしょうか。結婚というのがそういうものなんだ、と人はいうかもしれませんが、僕はそれが嫌なんです。
もっと嫌なのが、父親・母親という役割を与えられることです。子どもがそもそも好きではないということはありますが、しかしそれ以上に、自分が父親と呼ばれ、相手が母親と呼ばれるようになってしまうのが、僕には耐えられないのです。
なんで、一人の個人として扱われなくなってしまうのだろうか。僕には、それが納得いかないんですね。
もっと、自由であればいいと思うんです。結婚というのが、もっと形式的でつまらないものであればいい、と僕は思うんです。
僕の理想の結婚というのはこんな感じです。
結婚してからも、それ以前となんら関係性が変わらず、夫だとか妻だとかいうしがらみに共に縛られることなく、夫婦としてよりは個人として生きる、というような、そんな感じがいいです。そうなると、結婚というよりは同居という感じですが、それがいいなと思います。
ここまで書いてみたけど、やっぱ伝わらないでしょうね。自分で書いていても、説得力ないなぁ、と思います。
ただ、結婚というのが、僕にとっては重過ぎるんですね。
結婚するというだけで、いろんなものが一緒にくっついてきてしまうんですね。人間関係やルールや偏見が。そういうありとあらゆるものからかけ離れた、純粋に共に暮らすという意味でしかない結婚というものなら僕はいいのですが、世の中では結婚というものに様々な意味を与えたいらしく、どんどんとその意味が重くなっていってしまっているのが、僕には嫌なんです。
だから僕は、結婚してからも恋愛をしたって、全然いいと思うんです。何がダメなんでしょう?別に、積極的に浮気をしたいとか言っているわけでは全然ないんです。でも、結婚している身だから恋をしてはいけない、みたいなそういう縛りも、僕はおかしいな、と思うんですね。
もっと、結婚というものを自由な概念にしてくれたらいいのに、と思います。そうすれば、僕だって結婚するのに、と。
僕は、自分が結婚している姿が想像できません。まあ、しないでしょう、間違いなく。出来るとも思えませんし、出来る機会があっても、踏み切れるかどうか。
しかし、もしするようなことになるとすれば、その辺りをきちんと話し合いたいものだ、と思います。結婚することによってあらゆるものに縛られるというのは、僕にとっては本末転倒です。結婚することで、さらに自由になれる、そんな可能性だって、あってもいいではないですか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
瑠璃子と聡は結婚している。比較的早い結婚だった。初め積極的だったのは向こう。今では、瑠璃子の方が積極的なのかもしれない。
瑠璃子は、テディベア作家である。趣味で作り続けていたものが、いつの間にか人気になったのだ。雑誌に連載も持っている。お菓子作りも趣味の一つだ。
瑠璃子は、夫を愛している。すぐ部屋に籠りゲームを始めてしまっても、聞いてるのかどうかわからない相槌を打たれても、変な敬語で喋っても、そんな聡のことを、瑠璃子は愛している。
聡は、外資系の会社で働くサラリーマンだ。会社と家を往復するだけの毎日。瑠璃子は日々、毎日の報告をあれこれとしてくるけど、自分の方は話すことはない。会社に言って仕事をして帰ってきた。それだけだ。それでも、瑠璃子という妻の存在は、大事だと思っている。たとえ、浮気をしたら殺すよ、と言われていても。
最初に浮気をしたのは、瑠璃子の方だ。
是非譲って欲しいベアがある。そう言ってきた男がいた。彼女が気に入っちゃって。そんなことを言っていた。翻訳家を目指している男だった。
いつの間にか、関係を持つようになった。夫がいない間の情事。春夫の家は、居心地が良すぎる。でも、帰らなくちゃ、と思う。私は夫を愛しているのだし、夫が帰ってくるまでには家にいないと。
聡も、ちょっとしたきっかけから浮気をするようになる。
大学時代入っていたスキーサークルの後輩だ。同窓会で再会した。当時から自分のことを気に入ってくれていたのは知っていた。
そうして、いつの間にかそういう関係になった。
不思議なもので、お互い浮気をするようになってから、夫婦関係はうまく行くようになった。
『なぜ嘘をつけないか知ってる?人は守りたいものに嘘をつくの。あるいは守ろうとするものに』
瑠璃子の言葉だ。彼らは、浮気をしているという秘密を持つことで、相手に嘘をつくことで、円滑な関係を生み出したのだ。
『ここにあるのは愛ではなく飢餓なのだ。』
夫だけを愛したいと願う瑠璃子。
浮気をすることで妻の存在が強くなった夫。
二人の、いささか奇妙で、僅かに歪んだ夫婦生活を、淡々とした筆致で描く。
というような作品です。
今まで読んだ江國作品の中でも、ダントツで読みやすい作品で、もうスラスラ読めてしまいました。
僕は、この夫婦のあり方というのは、結構健全だな、と思うんです。
人によっては、二人とも浮気をして、なんなんだ、というような感じになるのかもだけど、でも僕にはそうは思えません。それは、先ほども抜き出した瑠璃子のこの言葉、
『なぜ嘘をつけないか知ってる?人は守りたいものに嘘をつくの。あるいは守ろうとするものに』
ですべて説明できるような気がします。嘘をつくことで、相手を大事にすることができる。ありのままでいることで不自然になっていた関係が、ありのままではない姿を見せ合うことで自然になっていくということ。それは、すごく分かりやすい真理のようなものではないか、と僕は思いました。
もちろん、浮気をすることがいいと言っているわけではありません。僕は、浮気をすることは別に問題ないと思っている人間ですが(自分がというだけではなく相手がしてもそれは同様)、でも浮気をすることが悪いことだという価値観も理解できないわけでもありません。
ただ、お互いに浮気をしながらも、心はお互いの方を向いているのであれば、それは正常ではないだろうか、と思うのです。つまりそれは、結婚することでお互いに埋めることができなかったものを、別の人で補っているというだけであって、前提としては二人の結婚生活がある、ということだと思います。結婚生活があるからこそ欠落がわかり、その欠落を埋める方法が分かる。それは、至極自然なことではないかと僕は思うんです。
心が完全に浮気相手に向かってしまっているような浮気はダメだろうなと思うけど、結婚生活を前提にしている浮気というのはある意味で健全さの表れではないか、とそんな風に思うんですけど、どうでしょうか?
僕は、瑠璃子と聡の結婚生活にかなり賛同はできますけど、でも瑠璃子という女性はちょっと苦手ですね。気の抜けた相槌しかしないことを分かっていていくらでも話し掛けてくるところとか、心が完全に夫に向きすぎているとこととか、ちょっとダメですね。もう少し、距離を置けるような相手がいいなぁ、と僕は思います。
聡の方は、ちょっと無気力すぎるかな、という感じがしました。もう少し、しゃんとしてもいいかなぁ、と。それと、結婚してるのに部屋にこもってゲームばっかりしてるのは、やっぱダメだよなぁ、と思いました。
本作は、江國香織が比較的よくやる、二人の人称が短いシーンで交互に変わっていく、というスタイルですけど、ポンポンとテンポがよくて、いいと思います。また、江國香織らしく、ちょっとズレた登場人物が語るちょっとズレた言葉も、結構好きではあります。それぞれのキャラクターはそこまで好きではないですけど、作品全体としてみると、結構好きな作品だな、と思います。
結婚している人からすると、この作品を読んでどう感じるんだろうな、と思います。それぞれに身勝手だと思うかもしれないし、羨ましいと思うかもしれません。まあそれはわかりませんが、結婚してようがしてなかろうが、読んで楽しめる作品だと思います。結婚して、一緒に生活をするというのはどういうことなんだろう、ということを考えさせられます。友達に、とにかく早く結婚したい、という男がいるんだけど、相変わらず僕にはその心理が理解できないでいます。まあ、本作を読むと、結婚ってなんなんだろうな、って思いますよね、やっぱり。
でも、僕の理想とする、比較的自由な概念の結婚という感じはするので、こういう感じなら、まあ悪くはないですね。
とにかく読みやすいのでオススメです。読んでみてください。

江國香織「スイートリトルライズ」






愛のあとにくるもの(孔枝泳)

運命の人だ、なんていう感覚は、本当にあるだろうか?少なくとも、僕はそこまでのものを感じたことはないので、なんとも言えない。
初めから結ばれることがわかっていたかのような、
いつまでも永劫隣にいつづけることが決まっているような、
どこまでもきっちりと隙間なく結びついていることが明白なような、
そんな相手であるという直感。
もし僕にそんな直感が訪れたら、ちょっと不安になるかもしれないと思う。
ここで終わりなのか、という感覚というか、これを逃すともうない、という感覚というか、そんな気分になるかもしれない。
望みは、叶わないからこそ美しいと思うし、夢は、届かないからこそ綺麗なんだと思う。
いつまでも追いかけ続け、その背中を見続けられる方が、案外幸せだったりするかもしれない。
運命の人だと自分が信じた人と、その隣を歩くことが出来るとして、それはでもそこから先がないような気がしてしまう。その出会いの瞬間、自分が盲目になって、相手がまるで盲導犬であるかのように錯覚するかもしれない。この人がいなければ、もう歩くことすらできない、というような感覚は、逆に恐怖かもしれない。
そこに飛び込んでいけるのが、女性だろうな、と思う。男は、なかなか恐怖に立ち向かえないものだ。それともそれは、僕だけだろうか。
女性が白馬の王子さまを待っている、というのはよく言われる表現だけど、男の場合のそれに相当する言葉はないような気がする。本作にも書いてあったが、男は基本的に狩人で、自らで追うのが楽しいのだ、というようなことが書いてあったから、それも理由の一つだろうが、それ以上に男の場合は、待つことに恐怖があるのではないかと思う。それは、盲目になってその自分の手を引いてくれる人を待ち望んでいるようで、盲目のまあ世界と対峙したくないという現れだろうか。
女性は、僕から見ると、恋に対してとても前向きに見える。どんな困難があっても、どんな障害があっても、どんな恐怖があっても、それを乗り越えてでも結ばれたい、と願っているように思う。あなたは、私の運命の人なんだから、と思いつめているようにも思える。
それはいいことなのだろう。愛し合っている間は。
しかし、愛のあとにくるものは、深い深い溝だ。容易に抜け出すことができないような、深い深い溝だ。女性は、愛が終わってしまったらその深い溝に入らなくてはならないことを承知していながら、その深い溝がどれだけ自分にとって恐怖であるかをきちんとわかっていながら、それでも愛というものに向かっていく。
正しいけど、それは同時に痛ましくも思える。
女性は、こんなことを言う僕に、恋に本気になれない可哀相な人間だとかなんとかいいそうだ。まあいい。僕は、深い溝には入りたくないのだ。その覚悟さえ決めれば、すばらしい愛の世界が待っているとしても、僕は深い溝には入りたくない。
女性は強い。そしてたくましい。愛を支配するのも、愛に支配されるのも、やはり女性だろうな、と思う。男は、そんな女性の巻き起こす風に乗っかってみたり翻弄されたりしているだけの、ただの道化なのだろう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
韓国人女性である紅は、父親の経営する出版社で編集者をしている。ある朝のこと、父親に日本語の通訳をするように頼まれてしまう。その日一日だけだから、と。
7年間、ほとんど使ったのことのない日本語だ。だから通訳が不安だ、ということではない。日本語は喋りたくないのだ。
潤吾を思い出してしまうから。
7年前。日本語を学ぶために日本へ留学した紅は、そこで運命の人に出会う。潤吾という名のその日本人は、その存在のすべてが紅にとって幸せなものだった。愛している、と思った。わたしたちは、愛し合っている、と。
結局、運命の人だと思っていた人との別れはあっさりやってきた。あんなにも好きだったのに、あんなにも愛していたのに。運命の人だったのに。
忘れようとしても忘れられないその日本での恋を思い出させてしまうからこそ、日本語は使いたくないのだ。
予定していた翻訳者が体調が悪くて出てこれないらしい。日本からやってくる、佐々江光という名の作家の通訳なんだという。まあ、仕方ない。やるしかないだろう。
運命というのがあるならば、あるいは神様が存在するならば、この仕打ちは皮肉でしかないだろう。
紅の前に現れたのは、佐々江光を名乗っていた作家というのは、
潤吾だった。
運命的に再会することになった二人。
彼が日本へと帰るまでの7日間。それまでの7年間を凝縮したかのような7日間。奇跡は、彼らの元に訪れるのだろうか。
というような話です。
この孔枝泳という韓国人女性作家の作品を読むのはこれが初めてですが、本当に江國香織にそっくりな作品です。僕は、江國香織の作品は、好きなものと嫌いなものとくっきり分かれるのだけど、本作はその、嫌いな方の江國香織の作品に似ています。
ちょっと、僕にはうまく消化できない物語でした。
なんというか、理科の実験で漏斗というのがありましたよね。紙みたいなものを敷いて、そこに溶液を流し込んで、みたいなやつ。あれ、ポタポタ時間を掛けて溶液が落ちてくるけど、読んでてそんな感じでした。文章が、漏斗から落ちてくる溶液みたいに、ポタポタとしか入ってこなくて、ダメでした。そのダメな感じが、自分的にダメな江國作品を読んでいる感じとすごく似てました。
ただ、文章とかは綺麗だと思うし、表現とかもキリっとしてる感じで、文章はいいと思うんですね。物語が僕と合わなかっただけで。こういう作品を読むといつも僕が書くことですけど、女性が読んだらまた違う風に思うのかもしれません。特に、似たような経験がある女性なら、結構共感できたり入り込めたりするのかもしれません。
というわけで本作の感想は終わりですが、最後に余談を。
本作は、辻仁成が男性パートを書いたものと対になっている作品で、前にあった、江國香織と辻仁成の「冷静と情熱の間」みたいな感じです。辻仁成はコバンザメ作家みたいな風にも言われていて、こういう女流の超有名どころと一緒に作品を出して、コバンザメのようにして活動している、という、まあ揶揄ですね。まあ、男性視点の方を読む気はとりあえずありませんけど。
まあそんなわけで、僕にはダメだったけど、いいと思える人はいるかもしれません。江國香織の作品は全般的に大丈夫、だという人にはかなりオススメですね。気が向いたらどうぞ。

孔枝泳「愛のあとにくるもの」


愛のあとにくるものハード

愛のあとにくるものハード

削除ボーイズ0326(方波見大志)

時間というのは不思議なものだ。実体が掴めるわけではないのに、僕らの生活を根本から支配している。時間というものがどんな形をしているのか、未だにわかっていないのだ。
そもそも、時間というものは、存在するものなのだろうか、と思う。
1秒という単位は、人間が勝手に定義したものだ。確か、地球と月の間を光が進む時間のなんとか万分の1、みたいな定義だったと思うけど、でも定義できたからと言って存在するとは限らない。
僕らは時間というものを、ほぼ時計というもので実感し判断するだろう。時計が時を刻んでいるように思えるし、確かに実際そうなのかもしれない。しかし、それが幻想である可能性も充分にある。
つまり、時間というのは、人間がそう思い込んでいるからこそ存在しているだけであって、本当はないのではないか、と思うのだ。
少し難しい話になるが、数学の話である。複素数、という、数学の嫌いない人からすればジンマシンが出るような分野に、iという数字がある。これは、二乗すると-1になるという数字だ。
わかるとは思うけど、普通どんな数字でも、二乗すればプラスの数になるはずだ。しかし、iという数字は、二乗するとマイナスになるのである。果たして、こんな数字は存在するのだろうか?
実際世の中で、二乗すると-1になるような物体や現象は存在しない(はずだ)。現実にあるどんなものも、iとは無関係である。
しかし、iという数字は、物理や数学の世界ではなくてはならない数字だ。現実には存在しないかもしれないが、計算過程や何かを表現する際に、便宜的に用いる意味でものすごく便利な数字なのである。だからこそiという数字は、恐らく現実には存在しない数字だが、重要な数字だとして認識されている。
時間というのも、まったく同じではないか。
現実に、時間というものは存在しない。iのようなものだ。しかし、人間が日常生活を送る上で、あるいは意識だの記憶だのというものが人間として重要になってきたことで、時間という概念が便宜的に必要になった。だからこそ、人間は、実際には存在しない時間というものを生み出したのではないだろうか。
詭弁であるし、実際時間というものが存在しなかったところで、だからどうというようなことも特にない。だけど、そんな風なことを考えてしまうのだ。
過去、というのは、現実の中のどこにも存在しないものだ。現実には、現在という時間しかありえないわけで、過去も未来もない。ただ永遠と、現在という時間がスライドしていくだけである。
ただ、ならば一体、現在という時間は、過去になった瞬間に、どこへ行ってしまうのだろうか。
映画のフィルムのように、前のコマが今のコマと同一平面状に残っているということはありえない。もしそうなら、なんらかの方法で一つ前の過去という時間へ戻れてもいいはずだ。
無限のパラレルワールドが存在するのかもしれない。現在という時間が過去になった瞬間に、それはあるパラレルワールドを生み出す。永遠に無限に同じことが繰り返され、永遠に無限にパラレルワールドが生み出されていく。
現実の中に存在しないはずの過去という時間を、現実にいる人間が手を加えるというのは、一体どういうことなんだろう、と思うのだ。それは、すべてのパラレルワールドの軌跡を追い、そのすべてを一旦収束させてからまた発散させるような、とてつもないエネルギーを必要とすることなんじゃないだろうか。
もし万が一、そんな莫大なエネルギーがどこかに存在していたとして、さてあなたは過去を変えたいと思うだろうか。
僕は、そう思ったことはない。恥ずかしいことも後悔していることもやり直したいことももちろんある。しかし、結局思うに、キリがない。整形をする女性が、どこまで手を加えていいかわからずキリがなくなってしまうように、過去に手を加えられるとしたら、歯止めが効かなくなってしまい、結局、本来の自分とはかけ離れた自分が出来上がるだろう。それは本末転倒だし、そのかけ離れた自分というものにもまた別の苦労があるはずで、だから終わりはない。
人間は、現在という時間の中にいる。それは、人間が生み出した幻想かもしれないが、それでも少なくとも、現在という時間の中に過去は存在し得ない。どれだけ多くの人の記憶に残っていても、どれだけ無限の記録があっても、過去という時間はすでに失われているのだ。その失われている時間を甘受し、現在という時間をきちんと見据えることこと、人間の正しい生き方だろう。
タイムマシンがもし発明されたとするなら、僕は過去へはいかないだろう。それは、僕にとっては終わってしまった時間だし、既に死んでいる時間だからだ。どうせなら、未来を見に行きたい。それは、まだ変わる余地のある、生きた時間だからだ。死んだ時間にしがみついて生きていくような生き方は、僕はしたくない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
川口は小学六年生。バリバリの遊び盛りだ。クラスや学年の微妙な人間関係もうまく渡り歩きながら、それなりに面白い小学生ライフを送っている、まあ言ってみれば普通の小学生だ。
一番の友人は、ハル。幼馴染で、ずっと仲良しだ。でも、今ハルは車椅子の生活だ。ある出来事があって、ハルは歩けなくなってしまった。あんなに足が速かったハルからその足を奪うなんて、神様も残酷だ。
コタケっていう友達もいる。変なプライドを持っていない、いい奴だ。本名は大山なのに一番背の低いコタケは、ハルにそうあだ名をつけられて、ずっとそう呼ばれているのだ。
さて三人は今、フリーマーケットの売り場に来ている。まあダラダラと過ごしていると、ジュースを買いに行っていたコタケが、浮石を見た、って言った。
浮石は、クラスにいる、結構暗めの女子だ。一時期登校拒否だったとかで、友達もいないようだ。だから僕としてもどうでもよかったんだけど、高校生にからまれてるみたいだ、ってコタケが言うもんだから、まあやっぱり助けなきゃいけないって感じだよな。一応、男だし。
そんなわけで、多少不愉快な気分になりながら浮石を助けたその帰り、僕は変な機械をおじさんからもらった。なんでも、女の子を助けて偉かったから、だそうな。おじさんの言っていることはよくわからなかったけど、どうもある出来事をなかったことにすることが出来る機械のようだ。
テレビを見ながら迂闊にも深爪をしてしまった僕は、なるほどちょっと試してみよう、と思ったのだ。その機械を使うと、あら不思議、深爪がなおっているではありませんか!
これは、本物だ…。ハルたちにもその機械の説明をし、KMDという名前をつけた。それから彼らは、何か起きるたびにKMDを使うことになるのだが、あれこれとやっているうちに、なんだか大変なことになってきて…。
というような話です。
微妙に評価の難しい作品です。
そうそう、まずこれは書いておきましょう。本作は、第一回ポプラ社小説大賞をいう新人賞を受賞した作品なんですけど、その賞金がなんと2000万なんです。これは、新人賞史上破格の金額ですね。これまでは、江戸川乱歩賞の1000万円が最高で、少し前に出来たこのミス大賞が1200万円でちょっと話題になったんですけど、そこから一気に2000万円まで賞金が跳ね上がりましたね。ちょっとやりすぎだろう、と思います。本作の評価そのものはともかく、2000万円の価値はないと思うんです。さすがに。どうなんでしょうね、この新人賞の賞金の高騰は。
で本作ですけど、評価が難しいですね。
発想は、まあありきたりと言えばありきたりの時間もの。過去を3分26秒だけ消せるという機械の存在を軸にしたまあSF的設定なんだけど、その設定の使い方は結構うまいかなと思いました。
というのも、普通こういう話の場合、何か冒頭で大変なことが起きて、でそこから機械を使って、でさらに混乱したりなんかして、その修復をしていく。修復のための伏線を作品に織り込みながら、物語を収束させる、というパターンだと思うんですけど、本作はちょっと違うんですね。
本作の場合、冒頭で何かが起こったりはしません。例えばミステリでいうような事件のようなものは起こりません。その例で言えば、中盤辺りで事件が起こる感じですね。それまでは、日常を描きつつ、伏線を書いていくわけです。その伏線もまた意味が違っていて、普通なら、例えばミステリなら事件が起こって、その事件を解決するための伏線が散りばめられると思うんだけど、本作の場合は、中盤での事件そのものに対する伏線というものを冒頭から描写していく、という形態で、その形はかなり新しいような気がしました。なるほど、その事件を浮き彫りにするために、それまでの描写があったのね、という感じです。
この場合の最大の欠点は、冒頭から読者を引っ張る力が薄れる、ということですね。普通なら、冒頭で出てくる事件やら謎やらで、物語を最後まで引っ張る形になるだろうけど、本作のような構成だとそれが難しくなります。しかし本作は、冒頭から結構読ませる感じの作品で、そこは結構頑張ったなぁ、という感じでした。
しかし、そういう構成にしたせいで、最後の最後がちょっとうーん、という感じになってしまいました。普通の構成の場合、なるほど事件はそういうことだったのか!みたいなところで終わればいいのだけど、本作の場合は冒頭から引っ張ってくる謎やら事件やらがないわけで、いろんなことをごちゃごちゃ書きながらも、最終的に焦点が絞られなかったな、という印象はありました。物語の収束のさせ方がちょっと弱かった、という気がします。
最後の最後のあの二人の会話も、僕的にきっとこういうことなんだろう、みたいな結論がないではないんですけど、でもちょっとわかりづらいと思います。もう少し分かりやすいところから引っ張ってこれなかったのかなぁ、と思うんですけど。
本作は小学生を中心にした物語なんだけど、その小学生の描写というのはすごくよかったと思いますね。今の小学生のことを僕は知らないのでなんとも言えないけど、少なくとも僕のイメージする小学生像というのをうまく描写してるという感じです。人間関係の難しさとか煩わしさ、小学生らしい発想や行動など、小学生を描くという部分に関しては、かなり評価できると思います。
でも、文章的にはちょっとなぁ、という感じもしました。小学生の一人称という形態をとっているので不自然ではないのでしょうし、読みなれてくると段々不自然さを感じなくもなったんだけど、でも読み始めた時は、ちょっと文章が合わないな、という感じがしました。まあこれは、著者のが普通の文章で作品を書いたときにまた評価すべきことだとは思いますけど。
キャラクターは、結構面白かったと思います。主人公の川口を始め、ハル・コタケ・浮石と言った主要メンバーから、川口の兄妹母やあんまり出てこない脇役に至るまで、それぞれに面白いキャラクターだったなと思います。一番好きなのは、やっぱり浮石ですね。相変わらず、ああいう暗いというかクールというか、名探偵コナンの灰原哀みたいなキャラクターは大好きなわけで、いいと思いました。
といろいろ書きましたが、総合的な評価となると、うーんどうでしょう。読んで損はないけど、強くオススメするほどでもない、という感じですね。まあ、さっきも書いたけど、これに2000万はちょっと出版社的には損と言う感じかもです。まあ、この作家がこれから異常に化ければ話は別ですが。
まあそんなわけで、それなりに興味があるという人はまあどうぞ、と言う感じです。

方波見大志「削除ボーイズ0326」

ブルータワー(石田衣良)

未来は明るくひらけていると信じたい。僕もそう思う。
昔から、未来への期待は大きかった。アニメやSFなどで未来の世界が描かれ、そこではテクノロジーが遥かに進化し、人々がより豊かに過ごしている様が描かれている。新しい概念、新しい発想、新しい生き方、新しい技術。そうしたものを人々は夢想し、未来へと託してきた。
それほどに、現在というものに希望を持てないでいる、ということなのだろう。未来に希望を持ち、一歩一歩自分がそこに近づいていると錯覚することで、人々はなんとか現実というものを生きているのだろうと思う。
大局的なことだけでなく、個々の未来予想でも同じだろう。自分の将来の人生を考えた時、そこには少なくない期待が込められているに違いない。いい奥さん(あるいは旦那さん)と結婚し、素晴らしい過程を築き、社会的にも成功し、お金も充分にあり、すべてが順調に素晴らしくうまくいっている自分。そうしたものを期待するし夢想もするだろう。
それは、正しい姿であると思う。未来に期待が持てないで、どうして生きていけるのだろう。戦時下にいる人々だって、戦争が終わった後のことを考え続けて生き延びたはずだ。この空襲を乗り越えれば、また輝かしい未来へと一歩近づく。ここで死んだら、素晴らしい未来を見られない。子どもに、明るい未来を届けてやりたい。そうやって、誰も保証してくれるはずのない実体のない未来というものを、無理矢理素晴らしいものだと思い込むことで、なんとかやってこれたのだろうと思う。
しかし、本当に未来は期待できるものなのだろうか。人間は、いつまでも豊かさを無限に追求することが出来るものなのだろうか。
いや、そういう問題でもないのかもしれない、とも思う。
物質的な問題からすれば、未来であればあるほど充実するのだろう。それは、50年前と今を比較すればわかるし、100年前と50年前を比較しても明らかだ。技術というのは積み重ねた先にしか存在し得ないものだから、時間とともにどんどんと発展していく。今ないものも、未来の技術であれば出来てしまう、そんなことはやまほどあるだろう。
しかし、人間としての生き方、つまり精神的な面からすればどうなるだろう。
単純に比較することは不可能だが、例えば50年前と今では、精神的にどちらが豊かだと言えるだろうか。答えは人それぞれだろうが、僕は50年前の方が人間的だったと思う。今の世の中は、個が勝ちすぎていてバラバラの印象が強い。そんな中で、精神的な豊かさを追求するのはなかなか難しいと思う。精神的な部分では、未来へと行けば行くほど、どんどんと貧しくなっていってしまうのではないだろうか。
あるいは、資源の問題もある。石油の枯渇やオゾン層の破壊など、地球の限界が今結構言われている。地球の限界が、人間の限界でもあるだろう。
未来は本当にひらけているのだろか?そこに何を求めるかで、答えは変わってくる。しかしだとしても、そもそも何かを求められるような世界が存続するのか、という疑問すらある。
未来への幻想が、今を生きる人間の活力になるならば、それはいいことだと思う。しかし、本気で未来のことを考えるのならば、楽観していてはいけないだろう。未来は無限にひらけているわけではない。今を生きる僕らのあり方が、未来を決めるのだ。たった一つの大きな過ちが未来を閉ざしてしまうかもしれないし、今を生きる人々の油断が未来を変えてしまうかもしれない。
未来は、現在のどこにもない、形も実態もないものだ。そこに何を期待しても、どんな意味を与えても、誰も困らないし何も変わらないだろう。しかし、未来を変えるのは、今を生きる僕らであるということだけは、決して忘れてはいけないことだと思う。何も出来ないかもしれないし、何かを壊してしまうかもしれない。しかし、未来に対する責任を胸に生き続けることが出来れば、未来は少しずつひらけていくのではないかと思う。
未来の世界がどうなるか。限りなく素晴らしい世界になっていることを期待して。
そろそろ内容に入ろうと思います。
瀬野周司は、膠芽腫という脳のガンを患っている。治療のために頭髪は薄くなり、今では車椅子の生活だ。余命は、およそ1・2ヶ月と言ったところだろう。
妻と二人で、高さ200メートルの超高層マンションの最上階から一階下の部屋に住んでいる。妻との関係はもう冷めている。介護はそれなりにしてはくれるが、もう愛情のようなものはないだろう。
もう、この世界に、周司の生き甲斐となるようなものはない。もはや、死を待つばかりの男だ。
そんなある日、尋常ではない頭痛を感じたと思ったら、いつのまにか彼は、見慣れない景色の中にいた。その中で自分は、車椅子にも乗っていないし、頭髪も充分にある。どこだかわからないその世界の中にしばらくいるうちに、おぼろげながら状況が理解されてきた。
どうやらここは、200年後の未来のようだ。黄魔という、インフルエンザウイルスを遺伝子改変した悪魔のような生物兵器のために、地上に人間が住むことが容易ではなくなった世界。そこには、塔と呼ばれる、高さ2キロの超高層建築物が国家の形を形成し、上層階であればあるほど階級が高くなるという、貧富の差が激しく分かれた世界であった。
その世界の中でセノ・シューと呼ばれることになった周司は、どうやら大一層に住む特権階級で、塔の全権を握る三十人委員会のメンバーの一人であるらしい。
その世界の中で周司は、ありとあらゆることに巻き込まれながら、200年後の未来らしいその世界を救おうと奔走することになる。時折頭痛がやってきては、意識だけ現在と未来とを行き来する生活の中で周司は、どうせ死期の迫った人生、出来ることはやってやろうではないかと意気込むが…。
というような話です。
正直な印象としてはこんな感じですね。
石田衣良も、こんな話書けるんじゃん。
今まで読んできた石田衣良作品は、それがウリなんだろうけど軽さが全面に押し出されたものが多かったんだけど、この作品は、SF的な発想を主軸に、かなり硬質な世界観を描き出している作品で、結構好きな作品です。
なんとなく表紙のイメージから、テクノロジーが進んだきらびやかな未来の世界が舞台の話なんだろうと勝手に思っていましたが、全然そうではなく、石田衣良の作品にしては珍しく、かなり泥臭い感じの世界観でありストーリーでありました。以前ある人から、池上永一の「シャングリ・ラ」は、石田衣良の「ブルータワー」と似ているかも、と言われたことがあって、それは違うんじゃないかなとその時は思いましたが、読んでみて、確かに似た感じの作品ではあるな、と思いました。本当に石田衣良らしくない作品で、これはこれで新たなステージという感じでいいんじゃないかなと思いました。くどい恋愛小説を書いているよりは、よっぽどいいんじゃないかと思いますが、どうでしょうか?
200年後の未来の設定というのがなかなか面白くて、塔が一つの国家になっている、というものでした。そこも、ある意味で「シャングリ・ラ」に似ているような感じもするけど、とにかく、どんな形であれ国家が出来れば、そこには政治か階級の差が出来るものなんだろうなと思ったし、高いところにいる人間ほど偉いという発想はまさにそのまんまで、面白い設定だと思いました。また、黄魔というウイルスの設定もかなりちゃんとしているような感じで(まあ実際どうかわからないけど、小説なんてのは、リアルっぽく見えればあとはなんでもいいと思っているので、実際と比べてどうかなんてことは僕としてはどうでもいいんですけど)、よかったと思います。
何の能力も持たない平凡な男が世界を救う、なんていう話自体はまあベタなものですけど、意識の跳躍というSF的な設定と組み合わせることで、なかなか面白いストーリーに仕上がっていると思います。また、登場人物もかなり様々にバラエティに富んでいて、特に200年後の未来世界での登場人物には、かなり好感の持てる人間が多かったです。リーナとかシズオミとかミコシバとかココ(はちょっと違うけど)とか、とにかくいいキャラクターだったなと思います。特にリーナはいいですよね。出会いの部分はちょっとご都合主義的だなと思わなくもないですけど(あとあと仲間にさせるためだけにあのシーンがあったような、そんな浮いた印象があるんですけど)、でもまあそんなことは気にならないくらいいいキャラクターでした。
石田衣良らしく、恋愛的な部分もないではないですけど、全体に占める割合から言ったら全然大したことはないし(とこんなことを書くのも、僕はどうも石田衣良の恋愛小説が苦手だからですけど)、作風自体も石田衣良っぽくないので、石田衣良が苦手だというような人にも結構オススメできると思います。
石田衣良の新境地とでも言うべき作品です。結構オススメです。読んでみてください。

石田衣良「ブルータワー」



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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)