黒夜行

>>2006年09月

朝のガスパール(筒井康隆)

RPGという形態のゲームがある。僕は今まで一度もやったことがないのだが、面白い人には面白いらしい。
あのRPGというゲームは、プレイすることで参することが出来る、という性質のものである。プレイによって、ストーリーに変化を生み出したり何かを判断したりすることによって、RPGという世界に参加することができる。
しかし、映画にしても小説にしてもそうだが、基本的には、見る・読むという行為が、イコール参加するということにはならないものである。
小説というのは、読むという行為がそもそも受動的なものである。それはもう仕方がないわけで、読者は常に受身だ。作家が生み出したものそのままを受け取って享受するしかないのである。
昔何かで、西尾維新がこんなことを言っていたことを思い出す。本というのは、残りのページ数でクライマックスに近いかどうか分かってしまうメディアである、と。そういう意味でも、小説というものには限界があるだろう。
さて、読者が参加することができる小説というものが存在したとしたら、どうするだろうか?
本作は、つまりその部分との挑戦だったと言ってもいいかもしれない。
僕らの世代で一番記憶に新しいものと言えば、「電車男」の存在があるだろう。関連本や類似本が多数出版されるに至ったが、ネットでの書き込みをそのまま書籍化するという、ある種読者が物語に(しかも「電車男」の場合は現実に)影響を与え続けたという意味で、読者が物語に参加した、という形態の一種であると言えるかもしれない。
しかし、新聞連載中に読者から意見を受けつけ、それを小説に反映する、などということは聞いたことがない。
僕が知っている限りでは、スティーブン・キングの「グリーンマイル」の話がある。正確な記憶ではないのだけど、あの「グリーンマイル」という作品は、確か文庫で全六巻だったと思うのだけど、一巻ずつ出版する度に読者からの反応を聞き、それを参考に続きを書いた、というような話を聞いたことがある。それにしたって連載ではない(確か)わけで、連載でそれをやってしまおうという発想は、なかなかすごいものがある。
僕は、こういう新しい挑戦をしようとする人が好きだ。型どおりのものとかはつまらなく感じてしまう。慣習を打ち破り、慣例を否定するようなそういう人間が大好きである。
筒井康隆は、新聞連載中に読者から反応を受け付けるというこの形態で、一体何を目指したのだろうか。恐らくではあるが、筒井康隆が本来目指した意図とは多少(あるいはかなり)かけ離れた結果に落ち着いたのではないか、と思えるのである。
つまり、新聞購読の読者に、小説に参加するということに意味がイマイチ理解できなかった、ということであろう。小説を受動的に消費する経験しかなかった(僕ももちろんそうだし、仕方がないことではあるが)人々は、筒井康隆のこの画期的で素晴らしいアイデアを完全に理解できなかったのだと思う。
僕ならどうしただろうな、と考えてみる。当時僕が朝日新聞を購読してこの連載を読んでいたとして、しかし他の多くの読者と同様に、作者になんらかの反応をすることは難しかっただろうな、と思う。やはり、小説を受動的に消費することに慣れきっているからだろう、と思う。
筒井康隆が先駆となって切り開いたこの道を通ろうと思う人間は多くはないだろう。どう考えても、イバラの道である。それだけ筒井康隆がやったことは評価されるべきだと思うのだけれども。
しかし、今これと同じことをやったら大変だろうな、と思う。というのもこの連載は、ネットとも連動していて、ネットからも意見を受け付けていたのである。今ではさらにひどいのだろうが、ネットがそれほど普及していていなかった頃から、荒らしをするような連中は多かったようだ。今同じことをしたら、ネット上での議論がもの凄いことになって、連載がストップするようなことにもなりかねないだろうな、と思う。そういう意味では、いい時期にやったのだろうな、と思う。
小説に参加をする、という文化は、むしろこれから大きく可能性を広げている分野だろうと思う。猫も杓子も、というと聞こえが悪いが、誰も彼もがブログを持っている時代である。日常を書くものもいれば、小説を書くものもいるだろうし、それらに対して意見する人間も多くいることだろう。また、ブログが書籍化するケースも大分増えてきている。そんな風潮でなら、筒井康隆が行った形態とはまた違った形で、小説に参加するという試みが出来るのではないか、と期待する。
僕は、筒井康隆のこの実験を、面白いと評価します。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、先ほども書いたように、朝日新聞の連載で行われた小説で、連載と同時に読者から感想や意見などを受けつけ、それを小説に反映するという形式をとった、かなり先鋭的な作品になっています。
しかもそれが、メタ的な物語になっているわけで、よくこんな話を新聞連載でやったな、と思ったりもします。
さてこの作品は、内容を説明するのがすこぶる難しいのだけど、頑張ります。
まず、「まぼろしの遊撃隊」というゲームがあります。これは、地球ではないどこかの惑星で、何らかの目的のために派遣された遊撃隊が戦闘を行うというようなSF的なゲームであり、一種のRPGのようなものです。プレイする人間がゲームないのあらゆる状況に「判断」し「対応」することで物語が進展します。ただこのゲームは、企業の重役や社長などに人気のあるゲームで、管理職的な手腕が問われる内容になっています。
そのゲームをよく利用している、金剛商事常務の貴野原という男がいます。貴野原は会社の同僚や上司と呑気にゲーム談義に花を咲かせるわけですが、一方で妻の聡子は、株で大損をして大変なことになっています。それを夫にいうことも出来ず、しかし株で儲けた頃から始めたパーティ通いの癖は止められず、日に日にまずい状況になっていく、という有様です。今では、日々怯えて暮らす中で、パーティに出席することだけが気分転換になる、という状況です。
というように、貴野原たちが存在するステージで物語はいろいろと展開します。
さてここまではいいのだけど、ここからいよいよメタ的な話になっていきます。
話の途中で突然、櫟沢という名前の作家と澱口という名前の編集者が出てきます。もちろんこれは、筒井康隆とその編集者のことなのですが、彼らの話題は、新聞連載に対する読者からの反応の論評、ということになります。
つまり、筒井康隆という作家に送られた反応が、櫟沢という作家の存在によって小説内存在となり、虚構の世界に落とされるわけです。つまり、その論評の部分も小説の一部、つまり虚構だということです。これが、メタ的な部分になります。
こうして、「まぼろしの遊撃隊」をプレイし物語を展開させる貴野原たちと、「朝のガスパール」を購読し物語を展開させる読者という対応関係が存在する、入れ子構造となるメタ的な物語ということになります。
登場人物が多く、しかもメタ的な物語、なんてものを、ホントによく新聞連載なんかでやったな、という感じがします。
物語自体は、そうですねぇ、すこぶる面白かったわけではないですけど、悪くはないと思いますね。登場人物が結構面白いし、何よりも、どう展開するのか、どう収束させるのか、という期待が常にあるわけで、そういう点でいいと思います。
僕としては、SF的な部分もパーティ部分も論評部分も、特にがやがやいう程のものではないと思うのですが、どうも世の中には、自分の嫌いなジャンルのものは認めないという人が多いようで、SFファンはSFにしろといい続け、SFが嫌いな人はもっと普通の話を書けという。僕とすれば、そうやって自分が読みたいと思うジャンルを芝ってしまうことこそが、小説を読む楽しみを奪うのではないか、と思ってしまいます。これは偏見ですが、赤川次郎や西村京太郎を買い続けている人は(読んだことがないので批判的なことをいうべきではないとわかっていますが)、読書に対して保守的すぎるのだということです。特定の種類の物語しか好めないなんて、貧相だな、と僕は思ってしまいます。もちろん僕も、歴史の知識がないという理由で時代小説は苦手ですが、あとは何だって読みます。とにかく、全部読まないでつまらないとごちゃごちゃ言う人間はどうしようもないな、と僕は思うのですが、どうでしょうか?
何より僕がよかったなと思うのは、メタ的な部分ですね。僕は本作を読んで、竹本健治の「ウロボロスの偽書」を思い出しました。「作家」が虚構内に存在するステージと、その虚構内の「作家」が描く物語が並走し絡み合うことで物語が展開していくという点が似ていると思うし、何よりも僕はメタ的な物語が好きなんですよね。最近こういう話を書く人があんまりいなかったから、久々にメタ的な物語を読めてよかったな、という気がします。
読んでて気になったのは、先ほども書いたけど、ネット上での発言のマナーですね。今でももちろん問題にはなっているだろうけど、昔から酷かったんだな、と思わされました。匿名だからこそ、というネットの性質上仕方がないことなのかもしれないし、言っても仕方がないことだとわかっているけども、もっと節度を守った発言をするべきだろうな、という気はします。筒井康隆の分身であろう櫟沢の怒りももっともだ、という気がします。しかし、あれだけの罵詈雑言をよく新聞に載せたな、という感じもあります。朝日新聞としても、かなりの英断だったんだろうな、という気はします。
本作は、日本SF大賞を受賞した作品です。万人向けの作品ではないと思いますが、好きな人はかなりいいと思います。現実とはないか、虚構との差はなんなのか、とまあそこまで難しく考えるような作品ではないですけど、とにかく、こういう新しくて画期的なチャレンジは僕は大好きです。筒井康隆という作家、これからも注目していこうと思います。

筒井康隆「朝のガスパール」



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東京ディズニーランドをつくった男たち(野口恒)

僕自身、生まれてから23年という月日が経った。つまりそれは、東京ディズニーランドが同じだけの年月を経ている、ということである。
僕と東京ディズニーランドの誕生日は、ほんの二週間ほどしか違わない。僕が、1983年3月29日。ディズニーランドは、1983年4月15日である。共に、23歳、同い年である。
しかし、そのまったく同じ23年間という月日を経て東京ディズニーランドが完成したということを知っている人はどれだけいるのだろうか。1983年にその産声を上げるまでに、23年という月日が経っている。すごい、と単純に思う。
僕の記憶する限り、生涯でディズニーに行ったことは二回しかない。一度目は、小学生の頃の修学旅行で出ずに―ランドに、二度目は、ついさいきん友人とディズニーシーへ。だから、ディズニーランドというものについては、ほとんど知らないと言っていいだろう。
しかし、あそこは本物だ、と思う。本物だけが持つ力を兼ね備えている空間だと思う。
小学生の頃の東京ディズニーランドの記憶はもはやないが、つい最近行ったディズニーシーの記憶ならある。
あそこは、やばい。
ディズニーシーという空間で、世界が完結しているのである。あの空間にいる限り、日常を完全に排除することができる。一旦入ってしまえば、まさに別世界。どこを見渡してもすべてがディズニーであるという空間で、僕らは圧倒的な非日常を味わうことができるのである。
すごいものを作ったな、と本当にそう思った。
ディズニーというのは、アトラクションやショーの魅力だけでは決してない。本作でも何度も書かれているけど、プリンシプルや思想がきちんと存在する。それは、一度行ったくらいの僕にでもわかるほど、徹底したものだ。
とにかく驚かされるのは、スタッフのレベルの高さだ。別にそんなに多くのスタッフと接したわけではないけど、誰も彼もが完璧に仕事をこなしているように見える。もう、完璧なのだ。僕は、割と仕事に対しては几帳面な人間で、だから職場に仕事にだらしのない人間がいると非常に腹立たしく感じてしまう人間なのだが、そういう僕にぴったりの仕事ではないかと思う。周囲の人間の誰もがきちんとしていて丁寧に仕事をするような場所で仕事ができることは、僕としては非常に羨ましいな、と思う。
またディズニーのすごいところは、待ち時間でも飽きさせない、ということだ。
ディズニーランドはとにかく人が満載いるところなのだけど、並んでいる時も目を楽しませてくれる。そういう意味で、どこにも隙がない。まさに、完璧な哲学がそこにあるのである。
僕は、誰にでもできるわけではないことができる、というのは非常に羨ましいと思うのだけど、本作を読んで、ディズニーランドの完成までになんらかの形で関われた人間を非常に羨ましく思う。正直言って、これからの日本で、このディズニーランド建設以上に魅力溢れる大企画は、なかなか生まれないだろうと思う(東京都がオリンピックをやるみたいな話をしているけど、僕はそんなことよりも遥かにディズニーランド建設の方が魅力的に見える)。もちろん、本作を読んだだけでは絶対にわからないような、死ぬほど辛い状況に何度も遭遇したことだろうと思う。それでも、ディズニーランドに関わることの出来た多くの人間はこう思っているだろう。なんだかんだ言って、ディズニーランド建設に関われてよかった、と。
僕と同い年のディズニーランドは、これからも多くの人を魅了していくことでしょう。僕も負けないように頑張ろうかな、と思います。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、東京ディズニーランドというものがいかにして出来上がっていったのかという、そのノンフィクションです。
東京ディズニーランドは、ある一人の人間の夢から始まりました。川崎という、当時京成電鉄の社長であった男だ。この川崎が、本場アメリカのディズニーランドを見ていたく感激し、是非とも日本にもディズニーランドを作りたい、とそう思ったわけである。
しかし、この川崎という男がディズニーランドを作ったわけではない。もちろん、多大な支援はしたのだが、立役者は別にいる。
それが、高橋という、現オリエンタルランド会長である。
この高橋という男はそもそも、どこかの会社でサラリーマンをやっていた男だった。いろんな縁で川崎と面識があり、川崎は高橋という男を見込んで、この事業に協力してくれるよう頼んだのである。
しかし、当初高橋は、浦和市の海岸の埋め立てだけをやるつもりだった。ディズニーランドなんて元々興味がないし、川崎さんの言うことだからとりあえず埋め立ては頑張るけど、でもあとは知らないよ、というスタンスであった。
しかしこれがどっこい、話はそこで終わらない。結局高橋は、埋め立てが完了してからもこの件に関わりっぱなしになることになり、最終的にはありとあらゆる困難を乗り越えて、ついにディズニーランドを完成させてしまうのである。高橋が埋め立て事業に着手したのが48歳。ディズニーランドが完成した頃には既に70歳になっていたという。まさに、人生を賭けた仕事だった、と言えるだろう。
東京ディズニーランドの建設には、もうとにかくひと言では決して言いようのないくらいの、ありとあらゆる困難が付きまとっていた。もうこの一つ一つがとにかくやっかいで、高い壁であった。しかし高橋という男は、時には独断で勝手に話を動かしながら、とにかく粘り強く辛抱を続け、あらゆる運も味方につけながら、あらゆる困難を乗り越えてしまう。その高橋という男の、あらゆる面における手腕に、もう脱帽という感じである。
土地だけはあるが金がない。千葉県は大々的に支援してくれるが、親会社が難色を示す。そんなことをしているうちにディズニー側が痺れを切らし、何度も交渉決裂になりかける。そんな23年間である。東京ディズニーランドというのがどれだけの苦労の上に完成したか、よくわかるものである。
僕は、プロジェクトXというのを見たことはないけど、恐らく本作はそんな感じの作品なんだろうと思う。とにかく、ハラハラドキドキという感じである。東京ディズニーランドは実際に存在するのだから、どんな流れになろうとも完成する方向に進むことはわかっているのだけど、それでも、もしここでこうだったら、というような局面がやってくる度に、どうなるのだろうか、と思わずにはいられなかった。
驚いたのが、ディズニー側の超強気な要求である。金も土地もディズニー側は負担しない。しかしディズニー側は、東京ディズニーランドの入場料の10%、物販の5%をマージンとしてもらう。もうそんな、無茶苦茶とも思える条件だった。当時の主だった人間は、そんな条件は呑めるわけがない、と考えていた。それだけのマージンを取られて、しかも建設費などの借金も返さなくてはならないのに、採算が合うとはとても考えられなかったのである。現在の東京ディズニーランドを知ってしまっている僕らからすれば、東京ディズニーランドがどれほど集客力を持っているか分かっているのだが、当時はまだ何もわからない状態だったのである。親会社が、あらゆる局面で難色を示したのも無理はない。
ディズニー側との交渉も、あと一歩で決裂というようなギリギリのラインだったのだけど、もっと大変だったのがお金の確保である。当初の予定では、建設費は1000億くらいと見られていた。しかし、最終的な建設費は1800億円にまで達したのである。しかもそれを、親会社である三井不動産がバックにいるとはいえ、東京ディズニーランドが完成しない限り収入のあてがまるでないオリエンタルランドという子会社が借り受けるわけだから、相当なものであっただろう。とにかく、金策もあらゆる手が使われている。
しかし、本当に何よりすごいのが、高橋という男の存在である。とにかく、自分がやりたいとおもったわけではない事業を、ただのサラリーマンであった高橋が、最後の最後まで妥協することなくやりとおした、というところが、一番すごいところではないか、と思う。
東京ディズニーランドの存在を、もう僕らは当たり前のように受け入れているけども、ほんの少し何かが狂っていただけで、あの空間は存在しなかったかもしれない、と思うと、なかなか感慨深いものがある。
友人に、オリエンタルランドで働いている人間がいるのだが、本作に描かれているようなことを知っているのだろうか、などと思いながら本作を読んだ。こういう成功物語的な話は好きだ。非常に面白く読んだ。やはり最後は、金でも権力でもなく、情熱なのだなと思えたし、というか、情熱で夢が実現する時代が確かに存在したのだな、という風にも思った。
何にしても、東京ディズニーランドによく行く人も行かない人も、ちょっと読んでみるとすごく面白いのではないかな、と思います。本作を読んだ上であらためてディズニーランドに行くと、また何か違った顔が見れるかもしれません。

野口恒「東京ディズニーランドをつくった男たち」



銀行籠城(新堂冬樹)

人同士の繋がりというのは、細く脆いものなのだろう。それはもう、僕は中学生くらいの時からそう思うようにしている。
中学生の頃だと思う。僕は、世界中の人間から嫌われている、そう考えて生きていこうと決めた。
まあ、そのきっかけになるような特別な何かがあったわけではない。いじめられていたわけでも、特別何かに悩んでいたわけでもない。ただ、モヤモヤとした形の定まらない何かが内側にあって、それをちゃんとした形に落ち着かせるには、そう考える他ななかった、と今でも思っている。
その考えは、今でも健在で、僕は基本的な発想として、あらゆる人に嫌われている、と考えるようにしている。その方が、楽なのだ。
人の善意や善行を期待することとは、勇気がいることだし、疲れる。きっとこうだろう、こうしてくれるに違いない。そんな幻想はすぐに崩れるし、期待が大きければ大きいほどもろくも崩れるものだ。
結局、自分が一番可愛いということだ。
僕自身、死への恐怖はそこまで強くはない。いやもちろん、あるにはある。しかし、痛みもなく一瞬で殺してくれるなら、その方がいいと考えてしまう人間だ。
むしろ僕の場合、死なないけど半端ない苦痛を継続的に与えられるとか、自分のせいで誰かが迷惑を被るとか、そういう状況にはちょっと耐えられない。自分が死ぬこと以上に、耐えられないだろう。
だから、本作のような状況におかれた時、さっさと殺されてしまうのが楽だよな、なんて考えてしまうかもしれない。それが僕的に、自分が一番可愛い、ということの意味だ。
兄弟愛、家族愛、隣人愛。そうした、自分以外へ向ける愛というものを殊更強く強調したがる世の中だけど、それははっきり言って幻想でしかないだろう。誰だって、一皮向けばそこには悪意がある。他人への。剥き出しではない悪意が潜んでいる。普通の人生を歩んでいる限り、その悪意が溢れ出ることはない。しかし、何かをきっかけにして、人間はいくらでも残虐になれる。それが、自分愛というものである。
戦争だって、恐らくその論理で継続されているはずだ。誰だって、戦争をしたいわけじゃない。でも、相手を殺さなければ自分が死んでしまう。自分が引き金を引かなかったせいで、誰かが死んでしまうかもしれない。そんな状況の中でなら、人を殺すことを正当化することは容易いだろう。人間なんて、そんなものなのだ。
人間は、底知れぬ悪意を隠す手段を身に付けることで、社会を築いたといってもいいだろう。それは、社会というものをきちんと継続させようとするためには悪いことではないかもしれない。剥き出しの悪意に満ち溢れた社会など、うんざりだ。
しかし一方で、誰もが悪意を仮面で隠している社会というのも不気味なものである。もちろん、程度は人それぞれ違うだろうし、ほとんど悪意というものを持たない人もいるかもしれない。
しかし、仮面越しでは誰もが条件は同じだ。その不透明性が、圧縮された空気のように力を持ち、いずれどこかにゆがみを生じさせるのだろう。そんな社会も、はっきり言ってうんざりだ。
僕は、僕自身の悪意には比較的ちゃんと気づいている自覚がある。だからこそ余計に、それを周囲に敷衍しなくてはならないのが怖い。自分だってこうなのだから、という目で、他人の仮面を透かし見ようとしているのである。
もうそんな自分の存在すら面倒臭く感じられる。だからこそ僕は、誰もが圧倒的な悪意を抱えていて、その悪意は自分に向いているのだ、と考えるようにしているのである。そうすれば、相手の仮面を透かし見ようとする自分の存在を意識せずに済む。相手の悪意を推し量ろうと気苦労することもなくなる。
誰かの悪意は、誰かを圧倒する。あなたの悪意は、誰を圧倒しますか?
そろそろ内容に入ろうと思います。
五十嵐は、完璧に準備を整えて、ある銀行の前にいる。時刻は、午後三時。シャッターが下りはじめると同時に、店内に入った。
一ヶ月ほぼ毎日通っただけあって、顔を知られている。行員は、自分の存在に気が付いた。五十嵐は、荷物から銃を取り出した。
銀行内にいたのは、行員と客を含めて38人。沸きあがる悲鳴と広がる動揺。しかし、まだ彼らは楽観していたと言える。五十嵐という男の恐ろしさを。
五十嵐は、逃げようとしたサラリーマンの頭を眉一つ動かさずに撃ち抜いた。全員を壁際に立たせ、二階の行員を呼ぶが、時間に1秒遅れたという理由で人質の一人が射殺される。
全員に服を脱ぐように命じ、圧倒的な支配力で全員を奴隷とした。初めこそ立ち向かっていた者も、あまりにも冷酷無比なこの犯罪者に立ち向かうのは諦めていく。
五十嵐は、銀行強盗ではない。かといって何か要求を出したかと言えばそうでもない。ゲームを愉しむようにして人を殺し、警察を翻弄し続けるだけ。
五十嵐の目的は一体なんなのか。警察は、この事件を解決に導くことができるのか。
というような話です。
かなり面白かったですね。新堂冬樹らしい作品だな、と思いました。
まず、ここまで冷酷で冷静な犯罪者というのもなかなかいないだろうな、という感じです。躊躇することなく人を殺すことができる、感情的にではなく計画的に戦略的に人を殺すことができるという点で、五十嵐という男は果てしなく恐ろしい男です。
犯罪小説の場合、犯人の側に何らかのつけいる隙やミスがあったりして、そういうところから牙城が崩されていくのだけど、本作の場合、その辺りのことは完璧です。つまり、隙がない。小説では、すべて犯罪者の思惑通りにはいかないぞ、という部分で読者を惹き付けるものだけど、本作では、五十嵐という男はすべてを思惑通りに運んでいきます。ミスもなく、ある意味で、五十嵐の完全な犯罪だと言えるかもしれません。それが、本作の特徴だと思うし、面白いところだなとも思います。
しかし、自分が実際中にいたら…と思うと、ちょっと恐ろしいですね。何ができるだろう、と考えてしまいます。誰も救えず、自分のことしか考えられない、という状態には陥りたくないけど、でも周囲を救おうとすれば自分が被害を被ってしまう状況にあって、一体何ができるだろうか。他人への愛というものが、どれだけ脆いかということを思い知らされるだけだろうな、という気がします。
逆に、自分が五十嵐の立場だったらどこまでできるだろうかな、と考えてみるけど、こっちは結構いけそうな気がするんですよね。つまり、五十嵐と同じ立場に自分が立っているとしたら、僕は五十嵐と同じ事をすることはできなくはないだろう、ということです。あっさりと人の命を奪うことも、そこにいる人間を奴隷にするためのあらゆる戦略も、きっとできるだろうな、という気がしました。別に、五十嵐が特別異常で狂っているという風には思えませんね。
あとこういう作品を読むといつも思うのが、マスコミについてですよね。なんていうか、前にも「牛乳アンタッチャブル」の感想でも書いたけど、とにかく僕は、犯罪の被害者だとか加害者だとかに群がるマスコミというのが大嫌いで、もうアホなんじゃないか、という気すらします。きっと、頭がおかしいんだと僕は思いますけど。もう少し、まともな思考はできないものか、と思ってしまいます。大丈夫か?日本のマスコミは。モラルが一番欠如していそうな気もします。もうなんとかしてください。あぁ、マスコミなんか消えればいいのに。
ラスト、五十嵐の目論見が分かるようになる場面。まあ、分かりやすい物語運びだとは思うけど、そのシンプルさが逆に、物語を締めているように思います。五十嵐の残虐さも一層浮き出るし。まあ、結末もああだけど、まあそうだろうな、という感じですね。
短い話だし、これは読んだら結構いろいろと考えるんじゃないかな、という気がします。割とオススメです。読んでみてください。

新堂冬樹「銀行籠城」



号泣する準備はできていた(江國香織)

江國香織にしても村上春樹にしても、僕の好きな作家なのだが、最近思うことがある。
それは、彼らの短編集はちょっと苦手だな、ということ。それについて、なんとなく考えてみた。
恐らく、僕にとって彼らの短編集は、成熟していないものに感じられてしまうのである。
彼らの紡ぐ長編作品というのは、僕には成熟した作品に感じられる。それは、やはり長さによる積み重ねが世界を生み出す作家だと僕自身が思っているからだ。
例えばこんな例えをしてみよう。
ある薄い透明なガラスがあるとしよう。それを一枚一枚重ねていく。数枚重ねたくらいでは、そのガラスの透明度はそこまで損なわれない。しかし、何枚も何枚も、それこそ何百枚と積み重ねていくと、ガラス事態の透明度がどんどんと失われていき、どんどんと濁りくすんでいくことだろう。
僕の中で、彼らの短編と長編の位置付けは、そんなところにある。つまり、彼らの短編というのは、透明なガラスを数枚載せただけのもので、色の変化が感じられないまま、つまりその内部の世界が大きく揺らがないうちに終わってしまうという印象が強いために、自分の中で苦手に感じるのではないか、と思う。
そういう部分を含めて僕は、成熟していないという言葉を使った。
彼らの物語は、日常という世界を言葉によって揺らがせる力がある、と僕は思っている。言葉を選び積み重ね、世界を語り壊しまた生み出すことで、日常を揺らがせる。恐らく僕はそこに魅力を感じているのだと思う。
しかし、それが短編ではなかなか威力を発揮されないように感じられてしまう。恐らく、僕の読みの浅さもあるのだろうが、うまくその断片を読みきれないのだ。
また、物語性の希薄さも、苦手の理由になるかもしれない。
物語には物語性がないといけないか、というとそんなことはないのだが、彼らの紡ぐ短編には、物語性がかなり希薄なような気がするのだ。それらは、断片であり破片であり、読者の中の何かと融合することで物語性が生み出されていくものなのかもしれない。あるいは、空白の部分、欠けていると思われる部分を、何で埋めるかによっても、その物語性が変わっていくのだろうと思う。
江國香織にしても村上春樹にしても、文章がとてもいい。その文章を、文字の羅列を読んでいるだけでも、充分に満足できるべき作品だとは思うのだ。ただ、短編集であると、その日本語の部分でさえも、あまりうまく入ってこない感じがする。
本作は、現在と現在ではないものとで構成される物語だ。現在と現在ではないものとが、日常という非日常を生み出す。その僅かな描写が、恐らく人によっては物語性を生み出すのだろうか。なかなか難しいものである。
両者の短編集をこれから読まないということはない。しかし、やはり難しいだろうな、と思いながら読むことは確かだろう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
とはいうものの、本作に収録された短編を一つ一つ紹介することはなかなか難しいことです。なんというか、あらすじとして何かを書くと、それは元の物語とはまるで別のものになってしまうような、そんな感じがするのです。それに、僕にとっては物語性の希薄な物語なので、あらすじを書くということがちょっと難しいな、という気がします。
ということで、短編のタイトルだけを以下に羅列して、内容の紹介は止めようと思います。

「前進、もしくは前進のように思われるもの」
「じゃこじゃこのビスケット」
「熱帯夜」
「煙草配りガール」
「溝」
「こまつま」
「洋一も来られればよかったのにね」
「住宅地」
「どこでもない場所」
「手」
「号泣する準備はできていた」
「そこなう」

何故タイトルだけ書いたかと言えば、なんというかタイトルだけでも非常に魅力的ではないか、ということだ。僕的には、「じゃこじゃこのビスケット」「こまつま」なんていうタイトルはすごくいいなと思った。
内容的には、そうだなぁ、「溝」と「そこなう」が割とよかったかな、という気はする。しかし全般的に、その流れというものが捉えられないものが多くて、どうしてそこに落ち着くのだろう、という作品が多かった。ある川を下っていたら、別の川の河口に出てしまったような感覚だ。何で自分はここにいるのだろうか、というような不安定感は、ちょっと僕には理解するのは難しい作品だった。女性なら、どうなのだろう?
しかしそう考えると、この作品で直木賞をとっていることはすごいな、と思う。だって、直木賞の選考委員なんてのは、おっさんとおばさんだらけなのだろうし、おっさんになんか特に本作の感性というかそういうものは理解できないと思うのだ。そう考えると、なんかすごいな。
僕が本作の中で一番よかったなと思うのは、解説ですね。こんないい解説は久しぶりに読んだな、という感じでした。ちょっと、解説の冒頭だけ抜き出してみます。

『江國香織さんの小説は、読む、というより食べる、という感じだ。その味わいは一見、銀のさらに盛られた青いイチヂクとか、硬く焼いたジンジャービスケットとか、あるいは亜記の午後のオレンジティーのように思われがちだが、実は違う。
江國さんの小説は肉食だ。濃密な葡萄酒で煮込まれた肉。それを手掴みで食べる。指の先までしっかり舐める。口の周りがべたべたしても構わない。そして、それらはすぐに体の中に流れ始める。小説の血液が流れてしまったらもう、読者としての距離をとることができない。自分のせつなさや怒りやあきらめや、官能までもが、こんなにもはっきりと形を与えられ、目の前に差し出されているのはなぜだろうと、半分いぶかしく思いながらも、離れる事ができない。』

そして、最後はこう終わる。

『そうしてすべてを味わいつくしたあと、やってきたものは、不思議なきれいさだった。全身がきれいなものに包まれていた。皿を片付けて、口のまわりをぬぐい、指先をすっかり洗っても、そのきれいさは何日間も続いた。自分がほっそりした女の人になったような気もした。知らず知らず、珈琲カップを持つ手つきまで変わっている。
これはいったい…と思い、そして気がついた。
これが、江國さんの小説なのだ。五感に魔法をかけられてしまう。生きる力が蘇生する。高潔な女たちの、その熱さに寄り添われながら。
嘘のない人生を歩いていこうと思う。
江國さん、ありがとう。』

こうして抜き出した部分だけでなく、全体的に上品で、しかも内容の解釈やその表現力なんかもかなりレベルが高いと思う。森博嗣の「ナ・バ・テア」のよしもとばななによる解説を読んだ時もなかなかのものだと感じたけれど、この解説もかなりよかった。作家だということだけど、光野桃なんて聞いたことないなぁ。ちょっと注目した方がいいだろうか。
そんなわけで、僕にはこの作品はちょっとダメでした。女性が読んだらどう思うのか知りたいところですが。村上春樹にしてもそうだけど、やはり合う合わないはかなりはっきり分かれる作家です。まだまだいろんな作品があると思うので、どんどん読んでいこうと思います。

江國香織「号泣する準備はできていた」





結婚なんてしたくない(黒田研二)

「おかしな話だと思いませんか?普通は、なんらかの行動を起こしたときに、その理由を訊かれるものでしょう?『どうしてピアノを習い始めたの?』とか『どうしてアメリカに行こうと思ったの?』とか。なにかをすることに理由はあるけど、なにもしないことに理由なんてないと思いません?それなのに、結婚の場合は違うんです。『どうして結婚するの?』とは絶対に訊かない。いつだって、『どうして結婚しないの?』なんです」

そうだよなぁ、と思う。これは、日本だけだろうか。欧米とかアジア各国とかどうなんだろう。
と不思議に思う。
確かに、結婚しないことを責められることは、どう考えてもおかしいと思う。おかしいと思いながらも、誰もがその評価を気にしている。別に、したくてできないというわけでもないのに、さも何か欠点でもあるかのように言われるのだろう。変な世の中である。
負け犬、なんて言葉が一時期流行った。確か、30歳未婚女性のことを言うんだったような気がするけど、それがどうしたというのだろう、と僕なんかは思ってしまう。結婚したいのに出来ない人は可哀相だと思うけど、したくないのにしろといわれる人もまた可哀相だな、と思う。
僕自身は、今の時点では結婚はしたくないと思う。そういう意味では、本作の登場人物と非常に似ていると思う。
結婚することで自由がなくなるのが嫌だ、と多くの人はいうかもしれない。僕の場合、まあそういう理由もなくはないけど、それ以上に、責任が重くなるのが怖い、というのが大きい。誰かと人生を共有するという責任感に、ちょっと耐えられないかな、と思うのだ。まあ、とにかく責任というやつが苦手なのだ。ダメ男ですな。
もちろん、誰かと常に繋がっていられる、というのはいいものなのかもしれない。もう一人きりでいることに慣れすぎてしまっているのでなんともいえないけど、年を重ねる毎に、孤独感というものは強くなっていくのかもしれない。孤独感を埋めるために結婚をする、というのもおかしな話のような気もするが、まあそういう決断もきっとあることだろう。
僕としては、結婚だとか離婚だとか、そういったことがもっと重くない社会がいいな、と思う。軽々しく結婚したり軽がるしく離婚したい、というわけではない。そういう、当人同士の気持ちの問題ではなく、周囲の扱い方の問題だ。
つまり、結婚すれば周囲は幸せだと見るし、結婚しなければ周囲は不幸せだと見る。結婚をすれば成功者で、結婚できないのは欠陥があるからだ、と見る。そうではない社会だったらいいな、ということだ。それなら僕も、もう少し結婚について考えてもいいと思う。なんというか今の風潮では、あまり結婚したいという気にならないのである。
最近は、晩婚化が進んでいるだろうし(たぶん)、そもそも格差社会の中にあって、結婚できない人口が増えてきたことだろう(僕もどちらかと言えばその人種だろう)。少しずつではあるが、結婚というものに対する意味が変わっていっているのかもしれない。
それでも、まだまだ結婚への幻想は根強いはずだ。特に田舎ではそうだろう。孫の顔が見たい、なんて、僕からすればもう死語みたいなものだけど、実際にはまだまだ健在なんだろう。なんというか、自由ばかり追い求めるわけにはいかないとはいえ、不思議な世の中だよなぁ、と思う次第である。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、5人の男がそれぞれ主人公となって話が進んでいきます。5人が5人とも、いろいろな事情があって結婚はしたくない、と考えている人達です。
佐古翔は、女性をナンパしてセックスにまで持ち込む、その過程を、人生最大の娯楽だと言ってのける男だ。既に30歳半ばで、昔ほどのナンパテクはなくなっているものの、まだまだ遊び足りないと思っている。今日も一人ナンパして、今から後略しようと思っているところだ。会話も悪くない、車にも乗せたし、後は家まで連れ込むだけだ…。
しかし、自宅に着くと予想もしないことが。なんと、彼の家の前に女の子が一人寝転んでいる。死んでいるわけではなさそうだが、誰だこの子供は?女の子が持っていたメモには、「お忘れかもしれませんが、彼女はあなたの子供です。しばらくの間、預かっていただけますでしょうか?」とある。
俺の子供だと?そんなバカな?過去に関係のあった女との子供?そうなのか?
とりあえず、連れてきた女は帰ってしまうし、女の子を放り出すわけにもいかないわけで、家に上げることにした。なんの因果か、しばらく女の子を預かるハメになってしまった。まじかよ…。
藤江克実は、アニメオタクだ。「電撃ナイト☆ミスティ」というアニメの春風うららというキャラクターにぞっこんだ。もう彼女以外のことなどどうでもいい。彼女以外に愛する人はいないという、筋金入りのマニアである。
そんな彼は、今探しているものがある。ナンバー23と呼んでいる、等身大のフィギュアだ。ずっと探しているのだけど、全然見つからない。その熱中ぶりで、ミスティファンの間でも彼は有名になっていた。
そんなある日、ミスティ仲間のショージから、ネットオークションにすごいものが出てるよ、との情報。早速見てみると、なんとそこにはあの探し求めていたナンバー23が!これはなんとしても落とすしかないのだが、このにゃあというハンドルネームの人が引かない。あぁ、どうしよう。このままじゃ競り落とせない…。
蒲生要は、ジムのインストラクターをしている。何故か、おばさん連中にはモテるのだが。
はぁ。
ため息も出るというものだ。何せ彼は、同性愛者なのだから。それは、周囲には言えない。言えるわけがない。絶対に隠さなくてはならない。
しかし周囲は、結婚どころか浮いた話一つない彼に、なんとか話を持ってこようとする。その度に、言い訳を考えなくてはならなくなる。
どうしてこんなに生きずらいのだろう。異性を好きになれないというだけで、どうしてこんなに苦労しなくてはならないのだろう…。
真鍋聡士は小さな焼き鳥屋の主人だ。最近雑誌に掲載されたとかで、やたらと忙しい。迷惑な客もチラホラやってきてうっとおしい。しかし、自分しかいないわけだから、やるしかない。
そんなある日、父親が倒れたという電話を受ける。手術は成功したらしいが、東京の病院へ行った方がいいという。でもねぇ…と逡巡する母親は、一人暮らしをしたことのない真鍋を置いて東京に行っても大丈夫なものか、心配している。何をバカなことを言っているんだ、と真鍋は母親を送り出すのだが、予想は見事に当たり、とんでもないことになっていく…。
相馬浩文は製薬会社のMRだ。付き合っている彼女はいる。ついこの間デートの終わりに、結婚を切り出されてしまった。彼女のことは大好きだし大切にも思っているけど、でも結婚となると踏み切れない…。
その日、コンタクトレンズを落としたと言って困っている女性を見つける。モデルかと思うような美人だ。いろいろあって食事をしに行ったりするようになるのだが、付き合っている彼女のこともある。俺はどうすればいいんだろう…。
というような話です。
初めは、結婚に対する考え方が違う5人の人間を並列に並べて平凡に終わるストーリーかと思ったのだけど、なるほどさすがというか、まさかあんな展開になるとは思わなかった、というような話でした。いつも思うけど、黒田研二、お見事。
5人の中では、真鍋と相馬に割と共感できるかな、と思います。真鍋の、別に寂しいと思ったことはない、というのも、相馬の、どうしても結婚に踏み切れない、というのも、結構分かるなぁ、と思いながら読んでいました。あとは、蒲生みたいな同性愛者はやっぱ大変なんだろうな、ということですね。まあ、ここにはあまり共感できないというか賛同できないというか、まあ多少複雑な事情があるわけですが…。
結婚に対する考え方は、100人いれば100通りあるんじゃないかというくらい、やっぱ皆違うんだと思いますね。結婚したい人でも、それをなんとか掏り合わせながらやらないといけないし、結婚したくない人でも周囲に気を遣わなくてはならない。もういいかげんそういうのは止めませんか、って思うんだけどね。
でも、女性としてはやっぱり結婚というものは、ある意味でやはりプレッシャーなんだろうか。それこそ、負け犬だみたいに言われてしまうのだろうか。本作でも、相馬の彼女が、ちょっと結婚に焦っている感じがある。それは、自分の内側から出てきたものなのか、あるいは社会との掏り併せで出てきたものなのか、まあなんともいえないところだが、女性というのはまだまだ大変だな、と思うわけである。
本作では、佐古の家にやってくる香澄という女の子が出てくるのだけど、この子がかなり可愛い。というか健気でいい。こういう子供なら、いいかもしれない。うーん、しかしだ、何であの母親からこんなに素晴らしい子供が育ったのかは謎なのだけど…。
読んでて、かなり楽しい話でした。共感できるかどうかという部分をとりあえず置いておいても、充分に楽しめるエンターテイメントだと思います。読んでみてください。

黒田研二「結婚なんてしたくない」



書店繁盛記(田口久美子)

本屋で働き始めて…たぶん三年目に入った。たぶん、というのは、とにかく僕は年号には滅法弱いのだ。自分の年齢すら、即答できないことがある。友人が何歳だから僕は何歳かな、みたいな風に考えるのだ。友人が、この曲は中三の頃だから何年前の曲だなとか言うのを聞くと、よくそんなことわかるな、と思う。というわけで、本屋で働き初めてたぶん三年目なのだ。文庫の担当になってもう少しで丸二年になるだろうか。たぶん。こんなのだから、歴史の授業が嫌いだったのだ、たぶん。
とまあ余計な脱線だらけで始まったが、とにかく書店で働くことが楽しくて仕方がないのである。これは、日に日に楽しくなっているわけで、自分でもすごいなと思っている。自分の中では、こんなに楽しい仕事はないと思っている。なんと言っても、自分が選んだ本が売れるのである。こんな快感なことはない。
日々僕は、新刊を出し、補充を出し、補充の注文をし、要らない本を返品し、時々POPを作り、フェアみたいなものを考え、仕掛け的に売りたい本をいろいろ探し、と言ったようなことを毎日やっている。
人によっては、何が面白いんだ、と思われるだろう。まあ確かに、給料はそんなに高くはないし(僕がバイトだからというのもあるが、そもそも書店業界というのは、慢性的に給料が低い)、比較的力仕事だし、日々出てくる新刊の知識を追いかけるのかほとんど不可能に近い。
それだけではなく、僕はまあ僕なりに、今いる書店に対しての不満(というかそこで働いている従業員に対してというか)もあるし、書店というものにそもそも付きまとう慢性的な問題もたくさんある。
それでも、僕には楽しくて仕方がないのである。
何がというのは何とも説明しづらいが、やはり、本が売れていくというのが快感で仕方がない。自分が売りたい本が売れるともっと嬉しい。
例えば、という形で宣伝をしてみよう。僕は今年、とにかく売りたくて売りたくて仕方がない本がある。読んで感動した本で、今力を入れて売っている。
それは、七井翔子という女性の「私を 見て、ぎゅっと 愛して」という本である。文庫の担当なのに、文庫ではない本を売っている。いやまあそれはどうでもいいのだが、この本は、恐らく一般的には売れていないだろうと思う。しかし、うちではなかなか売れている。とまあそんなわけで、こういうのが嬉しい。お分かりだろうか。
まあそんな楽しい仕事ではあるのだが、先ほどにも書いたが、書店業界というのは、慢性的に続いている問題がある。それに、最近起こり始めた問題というのもある。とにかく、小売店業界として、かなり特殊な業界なのである。
そういうところが、なかなか一般の人にはわかってもらえないのである。僕も、書店で働くようになる前は、全然知らなかった。取次ぎだの再販制度だの客注だの、そんなものはまるで知らない人間だったのである。
そういう、書店業界・出版業界に関するあれこれをもっと知って欲しい、というのが本作である。
著者は、田口久美子という書店員である。割と有名な方のようだ。キディランドやリブロなどの書店経験を経て、現在はジュンク堂池袋本店の副店長というお方である。
田口久美子という方は、以前にも本を出版していて、「書店風雲録」というのだが、そちらはリブロという書店を中心にして、一昔前から現在までの書店業界の変遷を描いた作品であったが、本作は、実地での書店業務や、現在の書店業界を取り巻く諸問題などをエッセイ風にまとめた作品で、こちらの方が親しみやすい作品だった。「暴本」として書店員の間では有名な(はずの)「暴れん坊本屋さん」というコミックに似ていると思う。
本作では、書店員でなければ知らないようなことや、書店員でも知らないようなことがいろいろと書かれる。
書店員でもなかなか知らないだろう話として、再販制度撤廃の動き、というものがある。
そもそも再販制度というのは何かと言えば、大雑把に言ってしまえば、本は定価販売である、ということだ。日本には、独占禁止法みたいな法律があって、市場を独占してはいけないみたいな法律があるのだが、その適用を免れているのが、本と新聞なのだ。だから、本と新聞は安売りが出来ない。日本全国どこでも同じ値段である。
これは、日本という国にいると普通のことに思えるのだが、世界を見渡すとそう一般的なことではないようだ。アメリカでは端からそんな制度はないし(一般の小売り品のように、出版社からの卸価格が決まっていて、書店は決められた範囲内でディスカウントして売る、らしい。よくわからないが)、韓国では、書店では再販制度を維持しているけど、ネットでの規制はなくなったようだ。つまり、ネットで売る限り安売りができるらしい。イギリスは、かつては再販制度があったが、現在は廃止されているという。そういう例もあるために、日本もうかうかしていられない。
再販制度が崩れると何が一体困るのか。これは、非常に困るのである。
つまり、再販制度がなくなれば、大量に入荷すればするほど割引制度が適応され、そのため売値を下げられる。つまり、大型店舗で売られる本は安く、小さな本屋で売られる本は高い、ということになる。大型店舗の書店がある街はいいだろうが、そうでない街では、高いのを我慢して買うか、あるいはネットで買うということになる。そうなれば、中小の書店はまず間違いなく潰れ、大型店舗の書店のみが生き残るということになりかねない。
その、日本の活字文化を支えているとも言える再販制度が、もしかしたらなくなるかもしれない、という話があるのである。もちろん、という言い方は間違っているかもしれないが、アメリカの圧力である。アメリカという国は、自分の国のやり方が一番最高だと思っているので、日本の再販制度を苦々しく思っている、らしい。今はなんとかアメリカの圧力に屈してはいないが、一般の人の興味のないところで、日本の本の価格が大きく変わるかもしれない攻防が繰り広げられているのである。書店員としては、恐ろしいことだ。再販制度がなくなったら、書店という形態がどうなるのかも想像できない。あらゆる本について、これはいくらで売ろう、と決めなくてはならないのだろうか…。そんなのは、嫌だし無理だ。
最近書店業界を揺るがしつつあるのは、amazonの存在である。
これは、少しでも書店員としての自覚のある人間ならば、少なからず意識する存在であろう。
書店にとって、amazonはかなり脅威だ。あれだけ便利なシステムを作られては、書店としての存在感が翳ってしまうのは仕方がないものだが、それにしたってと思わなくもない。
本屋って、楽しくないか?
僕はもう、本屋に行って(まあ古本屋の方が多いが)、何か面白い本はないかな、と探すのが楽しくて仕方がないのである。そういう人は、まだいるだろう。
しかし、世の中の風潮は違うらしい。本を読まなくなったというが、まあそんなことはないだろう。それはいいのだが、やはり全体として本を読む量は減っているだろう。それにも増して、自分で本を選ぶということをしなくなった。新聞に載っていたから、テレビで紹介していたから、ネットで評判がよかったから。つまり、本屋に行かずして、欲しい本を決めているのである。ならば、amazonが手っ取り早い。もう、そういう風潮は仕方がない。
僕は、本屋に足を運んでくれさえすれば、魅力的な本に出会えるような売り場を見せられると思っている。ただ、そもそも書店に足を運んでくれないのならばそれも出来なくなる。
こういうジレンマは、多くの書店員が抱えていることだろう。今、日本の書店で売上の1位はセブンイレブン(しかしこれは雑誌が主体なので除く)で、それについでamazonが2位らしい。amazonだけで、日本の書籍の売上の5%を占めているらしい。ちなみに比較で言えば、紀伊国屋の本店の売上が1%くらいらしい。恐ろしいではないか。
このままでは、amazonに侵略されてしまう。困ったものだ。どうしよう。どうにもならないのである。ただ、努力しないわけにはいかない。大変だ。ただ、それを自覚している書店員がどれだけいるか…。少なくともうちの書店員には果てしなく少ないだろう。悲しいことである。
また本作で最も共感できたのは、客注の部分である。
客注というのは、お客さんからの注文である。店にない本を出版社に注文してお客さんに売り渡す。
これがしかし、どれだけ大変なことか、やはりお客さんは理解してくれないものだ。もちろん、僕も書店員でなかったら、何で店に入る日が分からないんだ、もう何週間も待っているのに、と思うことだろう。それはわかる。わかるけども、書店員の言い分もあるのである。もちろん、いい訳だけど。
これは、出版社との戦いでもある。
本作でも書かれているが、出版社がもう少し気を使ってくれれば、客注のミスもなくなるのだ。
本には短冊と呼ばれる紙が挟まって入荷するのだが、客注品にはそれと分かるようにちょっと違う短冊がくっついてくる…、
はずなのだ。
しかし、これがそうもいかない。
客注品なのに短冊が変化のないものもあるし、ましてや、客注品なのに短冊すらついていないものもある。特に、講○社という出版社は酷い。適当にやっているとしか思えない。なんて書くと怒られるだろうか。
僕も入った頃は、客注とは縁がなかったのだが、しかし、客注に関するトラブルは結構あった。僕自身も受けたことがなんどもある。その度に、大慌てでいろいろ調べるのだ。これが、本当に大変なのだ。
これはまずい、と思って、僕はとにかく客注品の管理をすることに決めたのである。これは、本当に大変だった。大変だったが、そのお陰でかなりトラブルを減らすことが出来るようになった。僕は、この成果だけでもかなり店に貢献していると思うのだが、どうも周囲のスタッフの協力を得られない。一人で奮闘している最中である。
とにかく、客注というシステムをきちんとすれば、amazonにここまで押されることはなかったはずだ、と田口さんは書く。それは言いすぎなような気がするが、ある意味で正しい。あらゆる問題がある書店・出版業界だが、この客注というのもその一つである。
とにかくそういったわけで、いろいろな問題や日常業務や自分の辿ってきた歴史などについて、多くの人の話を聞きながらまとめている本になっています。書店員の人は読んだら面白いだろうし、是非とも書店員ではない人にも読んで欲しいと思います。本屋さんは思ったよりも大変なんだなと思っていただけたらと思うのだけど。
しかしこういう本を読むといつも思うのだが、もっと大きな書店で働きたいものだな、と思う。もっと、いろんなことをしてみたい。もちろん、大きな書店にいるからと言っていろんなことが出来るわけではないだろうが、少なくても可能性は広がるだろう。
それともう一つ。もっと、本好きな人と一緒に働きたい、というのがある。
うちの本屋は、本屋なのに本を読む人が少ない。担当者ですら、全然読まない。だから、いろいろやろうとしても盛り上がらないことは多々ある。もっと本好きの人が多ければいろんなことができるのに、といつも思っている。
まあ何にしても、文庫と新書を自分の好きなように自由に選んで売れるのだから、かなりましだと言えるだろう。他の本屋がどうかは知らないが、いろんな条件やしがらみなんかがあって、好きなように出来ない本屋もあるだろう。まあそれだけでも満足すべきだろうか。
今の本屋の形がどれほど保てるか、それは誰にもわからない。amazonも台頭しているし、電子書籍なんてものもある。本という形態がなくなってしまうなんてこともあるかもしれない。そうなったら悲しいが、もっと悲しいのは、本屋というものがどんどんなくなっていってしまうかもしれないことだろう。未来の本屋はどうなるだろう。不安もあるし、期待もある。とにかく僕にできることは、本を売り続けることだけである。

田口久美子「書店繁盛記」




黒い太陽(新堂冬樹)

自分の力で世界が動く、という感覚は、非常に快感だと僕は思う。
その世界は、別に大きなものでなくてもいい。ささいな世界でも構わない。そういうことなら、多くの人に似たような経験があると言っていいだろう。
例えば、家族という世界が、一番顕著だろうか。親というのは、もちろん違いはいろいろあるだろうが、基本的には、自分の力で子供が成長するという過程を見ることができる。それは、些細な世界かもしれないけど、親からしたら快感だろう。
僕の場合は、本屋を中心とした小さな世界を動かせている、ということに快感を感じる。
僕が売りたいと思って選んだ本を、お客さんが買っていく。なんというかそれは、僕の世界を少しだけ広げるのとともに、お客さんの世界も少し広げてあげたというような、そういう感覚になって、僕は嬉しい。僕はもう、純粋に本が売れることが嬉しくて、特にベストセラーじゃない本が売れるともっと嬉しい。だから、日々いろんなものにチャレンジしていくのだけど、まあなかなか難しいものである。
人はそれぞれ、様々な世界を持っている。それぞれに違う自分がいて、それぞれに与える影響が違う。他人に影響を与える世界もあれば、与えられる世界もあることだろう。
ただ、人によっては、自分の影響力の強い世界を、もっと広げたいと思う人もいるだろう。男という人種は、割とその傾向が強いのかもしれない。僕にはあまりないけど。
それが、夜の世界の話になると、さらに一層強くなっていくことだろう。
僕は夜の世界にはほとんど関係したことはないけど(ほとんどというかまったくだろう)、恐らく縄張りを奪い合う日々なのだろうと思う。誰も彼もが、自分の陣地を広げたくてギラギラしている。才能だけではなく、力も要求される世界だ。弱肉強食の典型だろう。
実力さえあればのし上がっていける世界ではあるけど、もちろん裏を返せば、実力がなければすぐにはじかれてしまう世界でもある。
成功すれば、莫大な金と、自分の力で動かせる割と広い世界を手にすることができる夜の世界。しかし、成功の反対がただの失敗ではすまないその世界は、一握りの成功者しかゆるされないものだ。
実力主義であるということはいい。その方がやりがいがあるというものだろう。僕は、サラリーマンという生き方がたぶんダメだろうし、だから逃げたと言えなくもない。どう考えても、つまらないと思う。日々同じことの繰り返しでしかないような気がしたのだ。夜の世界は、そういうことがない。
しかし、どう考えても僕に実力があるわけがない。まあ別に夜の世界に生きたいというわけではないけども、こうやって実力主義の世界でのし上がっていける人間を羨ましく思うのもまた事実である。
なんというかまとまりがなくなってきたので、そろそろ内容に入ろうと思います。
植物状態になった父親の入院費を稼ぐために仕方なく夜の世界に入り込んだ立花。キャバクラのボーイとして働くことになった。学歴不問で寮付きの仕事は、高校を中退して働くことに決めた立花にとっては渡りに船であった。
しかし立花は同時に、夜の世界を嫌悪してもいた。間接的にだが父親をあんな風にした元凶。それが、夜の世界だったからだ。
それでも、背に腹は変えられない。裏表の激しいキャストの人間性や、下卑た下心満載の客などに苛立ちを覚えながらも、立花は仕事を覚えていった。
忌み嫌っているキャストの中に、一人だけ気になっている女性がいた。千鶴である。
千鶴は、裏表のなさそうな女性だし、水商売風でもない。聞いた話によれば、立花と同じく借金があり、仕方なく始めたとのこと。しかし、立花の勤めるミントキャンディでは追随を許さないトップキャストだ。立花は、私語さえも禁じられているホールとキャストという関係でありながら、千鶴に惚れていた。
そんなある日、一人の客が千鶴の胸に触れようとしていた。立花はカッとなって、その客を殴り倒してしまった。
謹慎一週間。
クビを覚悟していた立花は、風俗王と畏れられる社長の藤堂にそう言われた。さらに驚くべきことに、謹慎後はホール長に格上げする、というのである。
藤堂は自分をかっているらしい。しかし何故…。
千鶴との関係や夜の世界に浸る覚悟などを経て、立花は夜の世界でのし上がっていくことに決めるのだが…。
という話です。
新堂冬樹の作品はそんなに多くは読んでないけど、これが一番好きですね。
キャバクラの裏側を描いた小説というのはそれなりにあるのだろうけど、でも本作はその中でも、もの凄く自然な感じというか、まあキャバクラのことは何も知らないけども、それまでに読んだどの小説よりも、キャバクラという世界が自然に描かれているような気がしました。
つまり、そこに満ち溢れる悪意や嫉妬などを、大げさすぎず、また隠しすぎずにきちんと書いているような気がして、いいなと思いました。
キャバクラに普段から通っている人は、もちろんお約束的なことはわかってるんだろうけど、それでも本作を読んだら、キャバクラに行きたくなくなるんじゃないか、と思いました。
あと、話がすごく分かりやすくて、夜の世界のことは全然分からない僕なんかでも、すんなり理解できました。例えば馳星周なんかの話だと、中国人とかヤクザとかたくさんでてきて、クスリだの殺し合いだのたくさんあって、みたいな感じでどんどん複雑になっていくのに、本作では、一介のボーイだった男が、いろいろあって風俗王である藤堂に挑む、というメチャクチャ分かりやすい話で、だから誰でもすんなり読めるんじゃないかな、と思います。
あと僕的には、千鶴のキャラが結構好きでしたね。僕は、さばさばした男っぽい冷たい人が好きなんだけど、千鶴は割とそんな感じの女性で、しかもなんというか、新堂冬樹の登場人物らしからぬ性格で、好感が持てました。
あと女性で言えば、冬海がすごいと思いましたね。東京中のキャバクラでナンバーワンという冬海に立花は研修として接客をしてもらうのだけど、とにかくすごい。あんな女性なら誰でも惚れるだろうな、という感じで、ホントにすごかった。だからそういう意味でも(つまりそういう本当にすごい人に心を奪われたりしないように)、キャバクラには行かないようにしよう、と思いました。
羨ましいのは、立花が研修期間中に風俗をハシゴしてたとこですね。まあ実際やったら死ぬだろうけど。
というわけで、僕の中ではかなりよかったです。普段小説を読むときは、時々ページ数を確認してしまうのだけど(あとどれぐらいで読み終わるのかなという確認のため)、本作はページ数をほとんど見ずに読んだ気がします。それだけ集中したということでしょうか。ドラマになったみたいだけど、そっちのことは分かりません。まあ読んでみてください。

新堂冬樹「黒い太陽」





ニート(絲山秋子)

昔のある哲学者は、こんなパラドックスを考えた、という。
『飛んでいる矢は、瞬間瞬間では静止しているはずだ。ならば、飛んでいる矢は、止まっているのではないか』
僕自身、このパラドックスをいかに解決するかは知らないのだが、数学的には既に説明のついている話だったと思う。
なるほど、面白いことを考えるものだな、と思った。
今風に言えば、こうなるかもしれない。
映画は、元々は静止した写真の組み合わせである。ある瞬間には、静止した写真が1枚そこにあるだけのはずだ。ならば、映画は止まっているのではないか。
何かおかしいとは思うだろうが、それはこれこれこうだ、と説明できる人はなかなかいないだろうと思う。
僕らの人生はどうだろうか。
僕らの人生の一瞬一瞬は、止まってはいないだろうか?
上記に書いたことはパラドックスであり、実際にはありえないことだが、しかし上記のことを敷衍して考えてみるならば、次のようなことも言えてしまうのではないかと思う。
すなわち、人生の一瞬一瞬は止まっていても、全体としては動いているように見える。
そう、僕らは日々、とにかく進んでいると感じているはずだ。前なのか後ろなのかそれはわからないが、とにかくどこかの方向へは進んでいるはずだ、と感じているはずだ。
それはまあ当然のことだろう。僕らは、日々生きていればお腹も空くし年も取る。何も変わらないまま時間を過ごすことができる人などいないのである。
しかし、それでも、人生の一瞬一瞬は止まっているのかもしれない。全体としてはある方向に動いていても、一瞬一瞬は止まっているのかもしれない。
それは、少し恐ろしい想像ではないだろうか。進んでいるつもりだし、実際どこかに向けて進んでいるのだけど、でもある瞬間は止まっている。止まっているものの集合によって人生というものが構成されているのかもしれない。そう考えると、人生というものが少し怖くなってくる。
何か、虚構のありもしないものに支えられているような、そんな幻想すら浮かんできそうである。
自分の人生を、時間の単位はどんなものでも構わない、ある一瞬を切り取ってみよう。例えば僕ならば、朝起きてから仕事に行くまでの時間を一瞬だと捉えてみよう。
そうするとやはり、何の変化もないように見える。次の瞬間を切り取っても、その次でも、何の変化もないように見える。変化のないものの連続が、変化を生み出しているという不思議さ。
今、ある一つの話を思い出した。忍者が跳躍力を伸ばすためにする訓練の話である。
どこでもいいからとにかく、木の苗木を植える。その苗木を、毎日一回ずつジャンプして越える、という訓練をする、という話だ。
苗木の生長は、日々の時間の中では大きな変化は見られない。大雑把に言ってしまえば、昨日の苗木の高さと今日の苗木の高さは、ほとんど同じである。しかし苗木はまた、年という単位で見れば大きく成長する。毎日その木を飛び越える忍者は、いつしか大木と化した木をもまたぎ越す跳躍力を手に入れる、という話である。
これも、もちろんおかしいということはなんとなくわかる。その訓練をしたところで、大木を超えられるような跳躍力は身につかないだろう。途中で越えられなくなるのがオチだ。
しかし、どこがおかしいのかと言われると、なんとも答えようがないのである。
人生も、毎日苗木を飛び越しているようなものかもしれない。ほとんど変化のない日々というものを通じて、いつしか大木を越えられるようになったりする。そんなものなのではないだろうか。
人生の一瞬というものを、大切にしたいとは思う。一瞬一瞬を大切にすることで、恐らく人生そのものを充実させることができるだろうことも確かだ。
しかし一方で、一瞬を切り取ったところでどうにもならない、という感じもしてしまう。一瞬は一瞬で価値はある。しかし、そこは無風景である。何もないし、何も続かない。それが、人生の一瞬というものなのかもしれない。
結局のところ何が言いたかったかと言えば、つまり本作は、人生の一瞬を切り取った作品だ、ということでした。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は短編集になっています。それぞれ雰囲気は違うのですが、全体的に、人生への倦怠感みたいなものが表現されている短編集ではないか、と全体を俯瞰して感じます。

「ニート」
昔ちょっとだけ関わった男が、今死にかけているようだ。食事は週に三回。一回は具なしのラーメン、二回は調味料だけのチャーハン。
とにかく、お金がないらしい。働いていない。ニート、というやつだ。
私も、昔はニートだった。でも今は、小説書きになって、そこそこお金もあったりする。お金を貸したりっていうの、すごく難しいけど、でも知らん振りするのもなんだかで…。
結局、グダグダな関係になってるけど、これはこれでいいんじゃないか。

「ベル・エポック」
友人が、実家に戻るらしい。その引越しの手伝いにやってきた私。
婚約者が、突然死んでしまったのだ。結婚するつもりでいた友人は、仕方なく、実家に戻る。どんな気持ちなんだろう。
引越しの後でケーキでも食べよう、と友人が「ベル・エポック」でケーキを買ってくれている。
今は亡き婚約者の思い出なんかを交わしながら、荷物の詰め込みは進んでいく。さてこれでもう終わりだとなるのだが…。

「2+1」
アイツは、またダメだったらしい。金がなくなって、いろんなライフラインが止められつつある。とりあえず、なんとかするからこっちにおいでよと、長野にいる人間を東京まで呼ぶ私。
私は今、友人とルームシェアしている。ただ、友人と呼べるかどうかは、いささか微妙だ。何せ、しばらく顔を合わせていない。連絡事項は、手紙のやり取りだ。険悪、なのだ。
そんなところに、男を連れ込んだ私。最初からいたかのように馴染む彼。なんなんだろう、この生活。

「へたれ」
正月を松岡さんのいる大阪で過ごすために、今僕は新幹線に乗っている。
東京駅構内のホテルで働いている。今年は運良く、正月が休みに重なった。妻には、ちょっと前に逃げられた。そのことはまだ、義母である笙子さんには言ってない。
笙子さんはそう、名古屋に住んでいる。ただ今年は、証拠さんのところにはいかない。松岡さんと、正月を過ごすのだ。恐ろしく味の薄いおせちを食べながら…。

「愛なんかいらねー」
かつて講義を担当していたある生徒。しばらく関わりがあったものの、いつしか関係が切れていたある生徒。その彼が、突然私の目の前に姿を現した。
刑務所帰り、だという。ホントかどうか、それはわからない。どうして私を頼ったのか、そしてどうして私は、彼を部屋に上げてしまったのか…。

大体こんな感じの短編集です。
一番好きなのは、「ベル・エポック」ですね。これは、どうにでも解釈できるという意味でも怖いし、ある一つの解釈をするとすればかなり怖い話です。なんというか、語り口からは想像のできないラストで、そのギャップがかなり気に入りました。
逆によくわからなかったのが、「へたれ」ですね。これは、どうにも何が言いたいのかわかりませんでした。どの方向に進んでいるのかよくわからない話でした。
他の三作「ニート」「2+1」「愛なんかいらねー」は、同系等の物語ですね。どうしようもない男を、割としっかりした女が支えるというか養うというか。
僕は、可能ならばヒモみたいな存在はかなり憧れるので、この三作に出てくるような、ヒモになれる能力のある男というのは、ちょっと羨ましいですね。僕は、どう考えてもヒモの能力はないので。
というかものすごく不思議なのは、どうして女は、そういう男をヒモにしてしまうのだろうか、ということ。というか、どうしてそういう女性が存在するのか、ということ。
なんていうか、男に貢いだり男を養ったりしても、女の方にはメリットはまったくないし、最後の「愛なんかいらねー」では、かなり酷いこともされたりもします。それでも、ヒモ男を容認できる女性がいる、ということが、僕にしてみればかなり理解しがたいというか、どうしてなんだろうな、という感じです。僕も、そういうヒモ男を広い心で受け止めて、もう何にもしないでグダグダしてても養ってくれるような女性とお会いできたらいいななんて思っています(まあありえないでしょうけどね)。
本作は、人生の一瞬、日常の一瞬を切り取ったような作品で、だから冒頭でも書いたように、始まりと終わりで特に変化がない、みたいなものが多いです。もちろん、現実というものもそういうものなのでしょうが。つまり、変化しないということ、というものを描いているということで、本作は結構面白いかな、と自分の中では思っています。
文章は、そこまで評価するほどでもないような気がするのですが、どうでしょうか?別に、普通かな、という感じです。洗練されたという感じでもないし、特にはっと思わせる言葉があるわけでもないし、もちろんだからと言ってダラダラというわけでもないのだけど、とにかく普通かなという感じがしました。
割と注目の作家なので読んでみました。確かに、注目したほうがいいかな、という作品でした。これから、何点か読んでみようかと思います。
本作は、割と読みやすいし、読後感も悪くないと思います。是非にというわけではないけど、気が向いたら読んでみてください。

絲山秋子「ニート」


ママの狙撃銃(荻原浩)

本気じゃないにしても、人を殺したいと思うことは、日々ある。些細なことではあるけれども、むかついたり腹が立ったり、とにかく殺してやりたいと思うことは少なくない。
ただ、真剣にこう問われたら、答えに窮するだろう。
あなたは、人を殺すことができますか?
第二次世界大戦が終わった時点で、日本人の一般市民が、人を殺すということに積極的に関わることはなくなった。関わりがあるのは、死刑執行官と殺人者ぐらいだろう。
それでも、僕らの周りには、日々死の情報で溢れかえっているような気がする。ニュースで、ありとあらゆる殺人が報道され、殺人ではないが、事故や災害のニュースも耐えない。
それでも、もちろんのことだけれども、僕にも、恐らく大半の人にも、人を殺すということがどういうことなのか、わかりはしないだろう。
僕は、戦争で人を殺した経験のある人の話を聞いたことはない。人によっては、祖父や曽祖父辺りから、戦争の話を直に聞いたというような人もいるかもしれないが。
それは、どんな世界なのだろうか。
自分が手を下すことで、この世の生命が一つ失われるということ。それは、タブーであり禁忌であり、犯してはならない一線だ。そこを、敢えて踏み越えなければならなかった人達は、一体どうその世界を乗り越えたのだろうか。
僕には、人を殺すことができるだろうか?
少し前に読んだ、久部坂羊の「無痛」という作品の中に、人間は、人を殺せる人間と殺せない人間に分かれる、というような話があった。
それはもう、生まれついての絶対的な差異だそうで、人を殺せない人は、どんな武器を与えられてもどんな情況であろうと自分が危険になろうと、人を殺すことはできない(もちろん、過失などは含めないが。自らの意思でということ)。一方で、人を殺せる人間は、なんらかのきっかけさえあればその一線を踏み越えることができる。そういうものらしい。それがどの程度真実をついているのか僕にはわからないけども。
僕は、こんな風に考えてしまう。人の命の重みを知っている人ならば、人を殺してもいいのではないか、と。
最近は、むかついたからというような理由や、どうでもいいような些細なきっかけで人を殺してしまうような人が増えてきた気がする。そういう殺人は、確かに許せない。人を殺したという事実やその重みを、一瞬で忘れることができそうな人が人を殺すことは、許せない。
しかし、人間の命が、少なくとも自分の命と同じくらいには重いもので、それを奪い取ることでどれだけ哀しむ人がいて、それを自分はやろうとしているのだ、ということを自覚し背負う覚悟がある人ならば、人を殺してもいいのではないか、と思ってしまう。少なくとも、そういう人になら殺されてもいいかもしれないと思うし、自分の身内がそういう人に殺されたとしたら、多少は許せてしまうかもしれない。
僕は、人を殺すこと自体が悪いことなのではないのではないか、と本作を読んで思った。悪いのは、同じ人間であるその命を軽視することだと思う。人を殺すということは、短絡的に見れば人の命を軽視しているようにしか見えない行為だから、だから殺人は悪だと教えられる。しかし、もし人の命を軽んじない殺人があるのなら、それは許されるべきではないだろうか。それは、勝手な想像ではあるけれども、戦争で人を殺した多くの人に共通するのではないか、と僕は思っている。恐らく、未だに大きなものを抱えているだろう。そういう殺人ならば、倫理的にどうかということは別として、少なくても僕なら許せる。
僕は、自分も含めて人間なんて大した存在ではないと思っている。つまり、その命を軽視しているところが、きっとあるだろう。僕が人を殺せるかどうかは別として、少なくとも、僕が人殺しをしたら、僕は自分を許さないだろうな、とは思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
福田曜子は、二人の子供を持つ主婦だ。夫は中堅の会社のサラリーマン。ちょっと難しくなってきた娘と呑気な息子の世話に追われながらも、ひと時の愉しみをガーデニングに見出す。ローンはたんまり残っているけど、マイホームも手に入れた。福田曜子は、ささやかだけどほんのり温かいこの幸せをかみしめている。
そんな時に掛かって来た一本の電話。その電話が、曜子と過去の記憶とを鮮明に結びつける。
電話の主はK。本名は知らない。向こうで―かつて曜子は、アメリカでアメリカ人の祖父と暮らしていた―祖父の代わりに一度仕事を引き受けたことがある。どうやってここの番号を調べたか知らないが、間違いなく、間違いなく仕事の依頼だ。
曜子は、ただの主婦じゃない。祖父に教わった銃の腕前はプロ並み。大分昔の話だが、まだ腕前は落ちてはないだろう。
そう、曜子の祖父は殺し屋だった。曜子も、その仕事を一度引き受けた。
まさか、また仕事の依頼が来るなんて…。絶対に断らなくちゃ。断らなくちゃ…。
というような話です。
これは、ホントに最高でしたね。話のところどころで何度か泣きそうになったし、最後もかなりやばかったですね。読み始めは、まさかこんな話だとは思わなかったから(なんとなく、もっとアクションチックな感じだと思ってた)、普段の荻原浩らしい人間味溢れる物語で、すごくよかったです。
何が一番すごいって、主婦と殺し屋っていう、明らかにリアリティが破綻しそうな設定を、まったく破綻させずに描いているところですね。僕は、基本的にはリアリティにはこだわらない人間だから別にそういうところは気にならないのだけど、でも本作のリアリティはなかなかのもので、主婦が殺し屋であることがまったく不自然ではないストーリー運びと設定で、お見事でした、という感じですね。
時折、回想として挟み込まれる、曜子と祖父との思い出も、なかなかよかったですね。祖父の含蓄に満ち溢れた言葉は、今の曜子の生活まで染み渡り、もちろん仕事をする上でもきちんと役にたっているもので、そういう言葉が結構締まっていました。
また、これはもうさすがというべきか、家族のこともきちんと描いていて、というかむしろそれが本筋なのではないかという感じで、この福田家のあらゆるドタバタが、一つひとつ染み込むように、じんわりとあったかくなるというか、そういうエピソードがたくさんあって、よかったです。
ダメ夫の孝平も悪くないし、娘の珠紀のゴタゴタもすごい話になっていくんだけど、でもやっぱり一番いいキャラは秀太ですね。僕にも弟はいるけど、あんな弟だったら面白かっただろうけどな、とちょっと思います。ちゃんと泳げもしないのに居間で泳ぎの練習をしたり、自分なりのルールを持っていたり、とにかくいいキャラでした。
まあいろいろ書きましたが、とにかく本作の中で一番読み応えがあるのは、やはり曜子が、人の死というものについて悩み考える部分ですね。全体的にホームドラマのような感じの雰囲気を出している作品なのに、そこだけ非常に重い感じで、曜子の逡巡が痛いほどに伝わってきます。
『あなたのためなら、人が殺せる。』
これは帯に書いてある文句だけど、曜子というのは本当にそういう人格です。確かに、事情があって他の様々な理由で仕事を引き受けなくてはならなくなったというのもあるのですが、一番大元の基本は、誰かを守るために人を殺す、というそのスタンスです。
その曜子のスタンスは、人を殺す場合だけに留まりません。ここでは書かないけど、別の場面でも発揮されます。その部分を読んで人々は(とくに子を持つ母親は)どう感じるのかわからないけど、僕は正しいと思いました。あの正しさは、一面的な正しさでしかないし、別の方向から見ればもちろん悪なんだろうけど、それでも僕は、曜子の行動を正しいことだと思います。
人を殺すという、明らかに非日常的なことに直面して、曜子はあらゆることを考えます。その思考が、時には悲しいし、時には共感できもするのだけど、やはり人を殺したことがない僕とは、かなりの隔たりを感じます。
それでも、曜子という人は、人の命を決して軽んじてはいません。未だに、かつてアメリカで殺した男の幻覚が見えるほどです。それだけ、大きなものを背負って人を殺している。大きなものを背負うだろう、という覚悟を持って人を殺している。だからこそ、曜子が人を殺すということについては、決して正しいとは言えないし、間違っていることは間違いないんだけど、それでも共感できない部分がないでもないな、と思えます。
だからこそ、ラストはなかなか衝撃的でした。
とにかく、いい話です。荻原浩らしい作品だし、ほんわりしてるのにシリアスでもあるというそのバランスが見事だと思いました。是非読んでみて欲しいと思います。

荻原浩「ママの狙撃銃」



三年坂火の夢(早瀬乱)

火というのは美しいものだと思う。
美しさというものは、人それぞれ感じ方が違うものだろうが、火に魅入られる人というのには、かなり共感できる。
形がない、というところが、僕としては魅力的ではないか、と思う。
昔から日本人は、儚いもの、永遠ではないものに美を感じてきた(はずだ。たぶん)。諸行無常、というのとはまた違うのかもしれないが、とにかく日本人の心には、そういう感性がある。
火というものは、常に揺らめいている。形が定まらない。一瞬前を再現することはありえず、一瞬後を予測することもできない。その不安定さが、美しさを醸し出すのではないか、という気がする。
幻想的だ、ということも出来るだろう。今でも、幻想的な雰囲気を生み出すために、ロウソクの炎が用いられることは多いだろう。刻々と揺らめき、それと共に形を変え、時間や空間すらも歪めてしまいそうなその力に、僕らは魅入られてしまう。
しかし同時に、火というものは恐ろしいものでもある。
僕の友人に、火事で家が全焼した、という人がいる。
詳しい話を聞いたことはない。その人も、今ではその状況を笑って話せるようになったようだが、それにしても、想像するだけで恐ろしいものである。
火は、僕らの予想もしないようなところで発生し、予想もできないような被害をもたらす。
火事のニュースも日々絶えないが、火事で焼け出される人、家を失う人は、何を思い、どう感じるのか、僕にはやはり想像ができないところである。
人類史上最大の発明は何か、という質問が、媒体は何か忘れたが各種の知識人になされた企画があった。たぶん、ネットか本のどちらかで読んだと思うのだけど。
あらゆる回答があった。宗教・貨幣・社会・インターネットなどなど。
その中に、火、という回答もあった。
それを見た時、なるほどそうか、火も人間が生み出したものだったなぁ、と感じたものである。
火は、そもそもは自然現象である。燃焼という現象の付属物に過ぎない。しかし、それを起こす方法を見つけ、管理する方法を生み出したのは、人間である。火を人間が発明したものだ、という発想がなかったので新鮮だと僕は思った。
今では、火のない生活は考えられない。あらゆるものがそうだが、火もまた諸刃の剣である。危険なものであり、かつ、便利なものでもある。
火と人間の付き合いは長い。話は元に戻るが、その美しさに触れた時間も長いだろう。初めて火を生み出した人間は、それを恐れたかもしれない。それを生み出した人間を、周りの人間は恐れたかもしれない。しかし、長く付き合う中で、火は美しいものだという感性が広まっていったことだろう。
芸術のように一つの形に保存しておけるものとはまた違った美しさを生み出す火。その魅力は、なかなか深いものだろうと思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、今年度の江戸川乱歩賞を受賞した作品です。
舞台は、19世紀から20世紀の狭間、1899年から1900年にかけての話である。
奈良県の農村に住む一人の少年。名前を、内村実之という。士族崩れの家の次男で、今は中学生だ。兄義之は帝大生という超エリートであるが、実之の方は勉強はあまりできない。家には、兄を帝大にやったせいでお金はなく、仕方なくこのまま上の学校には行かずに働くことになるのだろうか、と考えている。
そんな折、東京から兄が戻ってきた。驚くべきことになんと、兄は大学を辞めたというではないか。こっちで働くことに決めた、という。
しかし、何よりも驚いたのが、兄が怪我を負っていることだった。腹に刺し傷のようなものがある。屋根の修繕をしていた竹柵に落ちたと言っていたが。
「三年坂で転んでね」
その腹の傷が原因で兄が死ぬ直前、兄はそう謎の言葉を遺した。
兄の腹の傷と三年坂という言葉に何かあると思った実之は、お金の都合をなんとかつけて実家を飛び出し、東京で勉強をしながら三年坂や兄の足取りについて調べることにしたのだが…。
一方、東京の大学進学のための予備校、「開明学校」。ここに講師として教鞭をとっている二人がいる。
一人は、イギリス帰りのお坊ちゃまで英語を教えている高嶋鍍金(鍍金というのは本名ではないが)。もう一人は、帝大の研究生で物理化学を担当している立原総一郎である。
二人は、講師という形で知り合い、あるきっかけで行動を共にするようになった。そのきっかけというのが、鍍金が雑誌に寄稿したという、火事についての話である。
鍍金に火事の原稿を依頼した出版社の男が怪しい、と立原は言い始める。東京で火事でも起こそうとしているのではないか、と。
そんな話から、立原と鍍金は、東京と火事というものについて調べることになった。発火点と呼ばれるいくつかのポイントに火を放てば東京を焼き尽くすことが出来るという噂や、大火の時に町中を走り回っていた人力俥夫の話など、断片的な情報がいくつか集まってくる。
そんな中で、二人の間でも、三年坂というキーワードが浮かび上がってきて…。
というように、実之のパートである「三年坂」と、立原・鍍金のパートである「火の夢」が交互に繰り返されるという構成の物語です。
僕は、なかなか面白いと思いました。正直巻末の選評を読むと、綾辻行人以外の選考委員からの評価が割と低いのだけど、でも言うほど悪くないと思いました。もちろん、去年の「天使のナイフ」には遠く及びませんが、その前の「カタコンベ」なんかよりも遥かによかったと思います。
江戸川乱歩賞というのはミステリの賞で、基本的には現代を舞台にした、人が死ぬミステリが多いのだけど、本作は近年の傾向とは違って、舞台は明治時代の東京で、ミステリの中身も人が死ぬ話ではないという感じで、その辺りも新鮮でよかったかな、と思います。そういう点では、高橋克彦の「写楽殺人事件」に近いかな、とも思いました(あああの作品は確か人が死ぬミステリだし舞台も現代だった気もしますが、雰囲気的には近いかな、と)。
「三年坂で転んでね」という謎の言葉、兄の不可解な行動と死の謎、三年坂に隠された秘密、立原と鍍金が追う火事の真相、実之の父親の謎、実之の調査につきまとう不審な視線、などいくつもの謎が折り重なるように描かれていき、しかもラストは、それらをうまく収束させてばっちり決まっていると思います。キャラクター造型は多少平坦かもしれないけど、そこまで大きな欠点にならないだろうと思います。
僕なりの欠点を挙げれば、当時の東京の描写についてがちょっと厳しかったですね。僕は、頭の中に地図を描けない人間なので(地理感覚はかなり疎いのです)、あっちの道をどう進んで、ここを行くとどこになって、みたいな描写が続く場面は、ちょっときつかったですね。三年坂を探す、という必然性があるので仕方ないことだとは思うんですが、その辺のダラダラとした部分は、もう少しなんとかならないものかな、という感じでした。
あと、プロローグのようにして冒頭に置かれた「古い話」という章。あそこには、ちょっといろんなものを詰め込みすぎた感があります(断片的な話がいくつも続いていて、読み始めはちょっとどうかなって思ったりしました)。あそこに書く話をもう少し削って、削った分を本編中にうまく紛れ込ませるという処理をした方がよかったかなぁ、と僕的には思っています。
ただまあ、大した欠点ではないですね。選評では、「この作品の面白さは、あまりに題材自体のものでありすぎた」「アイデアを詰め込みすぎた」などと書かれているけど、そんな風にも特に感じなかったし、結構普通に面白く読める作品だと思います。
この早瀬乱という作家は、江戸川乱歩賞を受賞する前に一度デビューしているんですね。「レテの支流」という作品でホラー小説大賞佳作を受賞しデビューしています。そっちも読んだんですけど、そっちはいや、つまらなかったですね。これだけ作品のレベルに開きがあるのもどうかと思いますけど。「レテの支流」を読んでダメだった人も、こっちなら大丈夫じゃないかな、と僕は思います。
とにかく、江戸川乱歩賞らしくない作品だけど、それまでの受賞作にもそこまで負けない面白い作品だと思います。読んでみてはいかがでしょうか?

早瀬乱「三年坂火の夢」



アイの物語(山本弘)

ロボットと人間が共存するような世界は、少なくても僕が生きている間に実現することはないだろう。
もし万が一実現するようなことがあっても、今から何百年も先の話になるだろう。
だから、ロボットがどうこうという話を、今僕が真剣に考えるような必要は、特にはない。
しかし、こういう疑問は、必要に限らず、誰しもが抱くものではないだろうか。
ロボットが心を持つことは可能なのだろうか、と。
これは、あらゆるSF小説で、昔から語られ続けてきた、古典的な問題である。最近では、ロボット工学の進化とともに新たな知識がどんどんと増えていき、それに伴いまた新しい形での、ロボットと人間の物語が、いくつも生み出されている。
ただ、結論が出たことはない。ないはずだ。誰も、それを確認することができないのだから。
僕は、ロボットが心を持っているかどうか、そんなことはどうでもいいのではないか、と思えてしまう。
これは、無関心、ということではない。そうではなくて、それを論じることに意味がないのではないか、という指摘である。
何故なら、僕はこう考えてしまうからだ。
自分以外の他人が心を持っているということを、僕らはどうして盲信できるのか。
あるいは、自分自身がこころを有しているということを、何故確信できるのか。
これに答えられる人がいるだろうか?
僕らは、同じ種族であるというだけの理由で、お互いに心がわかっているような気がしている。気の合わない人もいるし、理解しがたい人もいる。それでも、人間同士であるならばおおかた理解し合えると信じているし、また、そもそも自分自身が心を持っているということを疑うようなことはない。
しかし、それは正しいのだろうか?
もちろん、心とは何か、という定義を明確にしないでこの話をしているので、多少話に混乱があるような気もするが、続けよう。
例えば、人によっては、脳の反射のみで会話を続けるような人がいるかもしれない。そういう人は、心がなくても、複雑な脳という機構の反射のお陰で、日常生活を不自由なく過ごせるし、会話だって普通に交わせる。ただ、心はないのである。そういう可能性を、僕らは完全に否定することは出来ないはずだ。なぜなら、心を持っている人との差異がないからだ。
そう考えてみれば、ロボットに心があるかどうかを論じることが、いかに無意味なことかと思えてくるではないだろうか。
あるいはこう考えてみてもいい。
例えば、ある一人の殺人犯と、自分が駆っているペットの犬を比べることを考えてみる。自分にとって、どちらの方が理解しやすい対象だろうか。
殺人犯は、同じ言語を有しているかもしれないが、人を殺すという大罪を犯しているが故に、その心理を理解したいと思えない。一方でペットは、言葉こそ通じないが、意思の疎通は出来ているような錯覚を与えてくれる。
この場合、どちらを理解しやすいと考え、どちらに心があると考えるだろうか。
結局、人間を人間として、ロボットをロボットとして一括りにしてしまうから、議論が停滞してしまうのだと僕は感じる。人間にも、あらゆる人間がいる。その中には、理解しがたい人もいるし、共感できる人もいる。それを、その差異を無視して人間という一括りにしてしまえば、最終的な議論は、人間は人間同士だから理解し合える、というところに行き着くしかない。それでは、議論は進展しないだろう。
ロボットに心があるかどうかを論じることが重要なのではないと僕は思う。
重要なのは、どうすれば僕らがロボットを理解することができるか、どうすればロボットに心があると錯覚できるか、ということだと思う。結局は、人間側がいかに信じるかによって、ロボットに心があるのかないのかが決まると僕は思っている。
恐らく、人間と淀みない会話を交わすことのできるようになるAIが登場するのは、遥か先のことだろう。だからこの議論も、所詮は机上の空論でしかない。しかし、ロボットに心があるのか、という議論は、いつかかならず一般の人の間で議論されることになることだろう。その時に、もし共感できる人がいるならば、僕の考えを心に止めておいてくれたらな、と思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は短編集なのですが、久々に僕は、これほど見事に構成された短編を読みました。正直に言うと、一つ一つの短編自体は、それほど大したことはないです。面白くないわけではないけど、そこまでぐっとくるものではないです。しかし、この短編集の構成は、もうすごく見事ですね。こんな短編集は、今まで読んだことはないかもしれません。非常にうまく出来ています。
というわけでまず、その構成から先に説明します。
舞台は、今から数百年後の未来。地球上は、人間の人口が極端に減り、人工知能を持つロボットが支配するようになった。人間は、ロボットの存在を恐れている。かつてロボットが人間に歯向かい革命を起こしたために、今のような世界になったと常に語っている。人間とロボットが共存する世界だが、その仲は、お世辞にもいいとは言えない。
そんな世界で、ある一人の少年が、ロボットに追いかけられている。非常に美しいロボットだ。食料を盗んだ少年を追いかける。逃げられないと思い戦闘態勢に入るが、相手は信じられないくらい強い。結局少年は、ロボットに捕らえられてしまう。
ロボットに捕まったら酷い目に遭う、といわれ続けてきた。しかし、その噂に反して、ロボットは何もしてこない。アイビスと名乗るそのロボットは、少年に向かってこう切り出した。
「聞かせたい物語があるの」
アイビスは、20世紀から21世紀にかけて人間が創造した物語を少年に語らせるために連れてきたのだという。少年はいぶかしむ。ロボットのプロパガンダにまみれた物語を聞かされることになるのでは、と恐れているのだ。しかし、少年は「語り部」とあだ名される存在でもある。物語を語って聞かせる存在だ。だから、人一倍物語には興味がある。
少年は、アイビスの語るという物語を聞くことに決めた。
そうして、アイビスが語るという設定で、いくつかの短編が収録されている、という構成になっています。
ただ短編を並べるだけではなく、それを包み込む一段上の物語がある、という構成が非常に新しくて、面白いなと思いました。アイビスが何故これらの物語を語りたがるのか、という謎もあって、非常に興味深い構成になっていました。本作は、ただ短編を並べただけの構成だったらかなりの駄作だったと思いますが、この構成のおかげでかなりいい作品になっています。
というわけで、それそれの短編をざっと紹介しようと思います。

「宇宙をぼくの手に」
ネット上で仲間を募り、SF小説の創作をするグループ、<セレストリアル>。<セレストリアル>というのは、創作上の設定である宇宙船の名前でもあり、メンバーはそれぞれ、その宇宙船の船員という設定で、物語を創作していくのだ。椎原ななみは、その捜索集団のリーダーだ。
ある日のこと、現在進行中の物語がまた面倒な方向へと進もうとしている時、椎原の元に刑事がやってきた。何でも、<セレストリアル>のメンバーの一人である谷崎祐一郎が殺人を犯し、行方不明になっている、というのである。一応訪ねてくるかもしれないということで、来たようだ。
まさか…という思いが強かったが、椎原はあるアイデアで、谷崎をなんとか救おうと決めた。
それは、現在進行している物語上で谷崎に呼びかけるというものだった…。

「ときめきの仮想空間」
あらゆる五感が完全に再現される仮想空間。一般に普及するにはまだコストが掛かる代物だが、割と普及しているものだ。ゲーム感覚で楽しめる。
その仮想空間で日常を楽しんでいる小野内水海は、ある日樫村昴という少年とバーチャル上で出会った。今まで一人で過ごしていただけに、ちょっとドキドキする。
小野内には、ちょっとした希望があった。バーチャルないの<DREAMPARK>というところに、樫村と行きたかったのだ。年齢が上がるとともに体験できるバージョンが上がるのだが、その新しいバージョンを一人で体験するのはちょっと怖い、という理由からだ。
快く一緒に行ってくれることになった。二人は、<DREAMPARK>内で、リアルなアドベンチャーを楽しむ。小野内は、リアルな自分は大人しいけど、バーチャルの中でなら大胆になれる。だったら…。

「ミラーガール」
クリスマスプレゼントにパパが買ってきてくれたのは、今大人気の「ミラーガール」。鏡の向こうにいる女の子とお喋りが出来るおもちゃだ。もちろん槙原麻美は、鏡の向こうの世界なんか存在しないし、それが人工知能だってことも知ってるけど、でもシャリスは私の一番のお友達。
初めのうちはよかったんだけど、でも段々周りからおかしな目で見られるようになった。まだミラーガールなんかで遊んでるなんて、気持ち悪い、ということらしい。でも、私の一番の友達がシャリスだってことには変わりはないんだ。
ある日、ミラーガールの調子が悪くなり、麻美は焦った。シャリスと喋れなくなっちゃう。修理をしてもらおうと、ブルーハッカーと呼ばれる人を探し出して会いにいくのだけど…。

「ブラックホール・ダイバー」
私は全長740メートル。<イリアンソス>という名前の宇宙船だ。今は、文明圏から7000光年離れた<ウペオワドゥニア>という名のブラックホールの監視という仕事をしているが、既にその役割も失われ始めて久しい。今では、退屈なのでこうして余ったシステム・リソースを使って、散文を書いているのが日常だ。
もう一つ、時々訪れる日常がある。それは、ブラックホール・ダイバーをもてなすことだ。
ブラックホール・ダイバーとはその名の通り、ブラックホールにダイブする人間のことだ。彼らは、ブラックホールをうまく通り抜けることができれば別世界に行くことができると信じていて、それで何人もの挑戦者がやってきては、最後のひと時を私の中で過ごすのである。
今日も久しぶりに、ブラックホール・ダイバーがやってきた。オレンジの髪の女性だ。しかし、これまでのダイバーと、どこか違うような気がするのだが…。

「正義が正義である世界」
この世界は、本当の世界じゃないって噂がある。確かに、この世界には欠落したものが多い。トイレがなんのためにあるのかわからないし、あるところから先には行けないようになっているみたい。噂だけど、15歳を過ぎたら次は16歳になる世界もあるみたいだし、なんか想像できないな。
メル友からメールが来た。私は、あなたとは別の世界にいるのよ、だって。いやいや、そんなことずっと前からわかってたよ~。でも、そっちの世界は、なんだか大変なんだね。私がそっちにいければ、助けてあげられるよ。だって私は、なんと言ってもSIだからね~。
しかし、メールのやり取りを交わすことで、驚くべき真実を知ることになる…。

「詩音が来た日」
介護用ロボットがうちにやってくるらしい。プロトタイプのもので、つまり実験用だ。どれだけ訓練をしても、やはり現場での実践をしないと、ということで、神原のいる施設に配属されることになった。ロボット好きだっていう理由で、私がその詩音の担当になることになったのだけど。
詩音は、かなり優秀だった。介護士として必要な技術はほとんど完璧に身につけていた。ただ、コミュニケーション能力が問題だった。ユーモアというものがわからないし、お年寄りとの会話もうまくいかない。
そういうことも、全部私が教えるのか、と思うと、大変だ。
詩音は、よくやっている。しかし、ちょっとした齟齬が生まれ始めていることも確かだ。やっぱり、ロボットが何を考えているか、ちょっとわからないなぁ…。

「アイの物語」
過去の物語を語り終えたアイビスはついに、人間とロボットの本当の歴史を、少年に語り始める。
21世紀初頭、二足歩行ロボットがようやく登場し始め、人間はそれらを戦わせることを望んだ。しかも、等身大のロボットを。
しかしそれには、莫大な費用が掛かる。そこで考え出されたのが、バーチャルの世界の中でロボットを組み立て、バーチャルの世界の中で戦わせる、というものだ。これは一大ブームを呼び、大会も数多く開かれることになっていった。
それと共に、TAIと呼ばれるようになったバーチャル上のロボットの人権を訴える声が出てきた。同時に、TAIは危険であるという意見も出始め、論争になる。
そんな中で、バーチャル上のTAIを現実のパーツでロボットにしましょう、というサービスが出始める。かなり高価だが、それに飛びつく人も出始めた。バーチャルな存在だったTAIが、現実に肉体を持つことになった。人権を訴える声と危険を訴える声が同時に高まる中、TAIはTAIで独自に話し合いを重ね…。

こんな感じです。
短編それぞれで取り出してみたときに好きなのは、「宇宙を僕の手に」「ブラックホール・ダイバー」「詩音が来た日」といったところでしょうか。まあ、それでも、個々の短編は自体は、そこまで面白いものではないかもですね。SFをよく読んでいて親しんでいる人なら違うかもしれないけど、僕はあまりSFを読まないので。
しかし、その短編の外側の、アイビスの物語の方は、すごく興味が持てました。ラストで、それぞれの短編がそれなりにリンクして収束していく物語も、なかなかうまいなと思いました。
全編を通じて、ロボットには心があるのか、ということを基本的なテーマにしている感じです(そうでないものもあるけど)。ここで語られる物語から、何か一つの結論が導き出せるわけではないけど、ただ山本弘が描く「ロボットの本音」というのは、すごく興味深く読めました。ロボットが、どういった理屈で物事を考え判断しているのかということを、結構緻密に描いていて、それはなかなか見事だなと思いました。
一つ一つの短編そのものよりも、全体で大きな長編として読んだ方が面白い作品だと思います。本作は、雑誌に掲載された短編が4編あるのですが、それを既に読んでいるという人も、この「アイの物語」という単行本の形になった作品を読んでみるのがいいと思います。
とにかく、短編集としての構成が見事でした。素晴らしいと思いました。

山本弘「アイの物語」



牛乳アンタッチャブル(戸梶圭太)

人間とは、忘れる生き物である。
僕自身について言えば、とにかく記憶力は貧弱である。人の名前など、一度では絶対に覚えられないし、しばらく会わなければ、知り合いでも名前を忘れてしまう。顔と名前が一致しないことも少なくない。ただ僕は、割と真面目な人間なので、仕事上で忘れっぽいのは問題だなと思い、手にメモを書くという習慣がずっと昔からある。本屋で勤めている今でも、その習慣は変わらない。前にお客さんに、刺青かと思った、と言われたこともあるけど、こうしないと、とにかく僕はダメなのである。
そういえば、学生時代文系科目が嫌いだったのも、記憶力が貧弱だったせいもあるだろう。あんな、ただ覚えるためだけの科目、僕にできるわけがないのである。
そんなわけで、とにかく記憶力の悪い僕だけれども、そういう僕自身の個性とは無関係に、とにかく人間とは忘れる生き物だ。
僕が一体何について言っているのか。
まあ、マスコミについてである。
日本という国だけなのか、あるいは世界中のマスコミに差はないのか、とにかくマスコミという輩は、僕の価値基準から言えば最低の部類である。一応断っておくが、広告とかのマスコミではなく、報道の方のマスコミである。
彼らは、自らの存在を、一体なんだと思っているのだろうか。正義の使者だと思っているなら、その価値観を叩き潰してやりたい。
とにかく、彼らのやり方は、酷いと言い切ってしまっていいだろう。
人間は忘れる生き物だ、という話から大分遠ざかった気がするけど、一応繋がる予定なので、このままこの話を書いていこう。
本作の中に、こんな文章がある。

『どいつもこいつもいっちょまえに正義の使者みたいな気分でいやがるんだろう。よってたかって雲印乳業を極悪大企業に仕立て上げるつもりなのだ。
 世の中はいつだって悪役を必要としている。日頃の鬱憤をぶつけるための悪役を。報道機関というのは庶民にわかりやすい悪役を供給し続けるのがその社会的な役割なのだ。そいつらが今度の雲印乳業を悪役に仕立て上げようとしている。』

まあ、雲印乳業の幹部の言い訳なので、その言い訳の部分には賛同できないけど、このマスコミを、「庶民にわかりやすい悪役を供給し続けるのがその社会的な役割」としたところは、非常に共感できる。
そう、彼らは庶民に、分かりやすい悪役を供給し続けているだけなのである。それは、別にどんな対象であっても構わない。分かりやすくて、刺激的で、長続きしそうな悪役なら、何でもいいのである。
そう、マスコミというのはそういう存在を、もう社会的なゴミとして見ているので、どう扱ったところで正義は自分の下にある、と考えているのだろうと思う。
そんなバカな。
彼らは一様に、報道の自由という言葉を振りかざす。なるほど、それは確かに認められているかもしれない。
しかしだ、しかしそれよりも守られるべきものは、数多くあるのではないだろうか。
社会的に悪とされることをした人が、マスコミというハイエナに食われるのは、まあこれは仕方がないだろう。もちろん程度にもよるのだが。
しかし、マスコミというのはそれだけでは終わらないところだ。ネタがなくなれば、当事者の周辺にまでどんどん対象を広げていく。果ては、最初の騒動とはまるで無関係なところをつついて、さも仕事をしたかのような顔をするのである。
おいおい、と言いたくなる。それは違うだろう、と。
もちろん、悪を起こした当事者に対する態度も、酷いことが多い。会見などで、いろんな質問が飛び交ったりする。しかし、相手を一方的に悪だと決め付けた質問ばかりである。それでは、公正とは言えないと思う。いかに事実だけを報道するか。それこそが、報道機関の使命だと僕は思うのに。
憶測という形で、いろんな推測を垂れ流すのもマスコミだ。そういう形で現れたものは、いつしか憶測という形を失い、どんどんと別の形を持ってくるものだ。マスコミという力の大きさを知らないのか、あるいは知っていて意図的にそうしているのか。もちろん後者だろうが、とにかくマスコミのやり方は酷いと僕は思うのである。
さて、人間は忘れっぽいという話に少し近づけよう。
マスコミは、本来ならばもっと、断続的に情報を届けるべきだと僕は思うのだ。少し前に起こったことも再検証し、事実を伝え、忘れ去られないようにする。もちろん、そうしたことをやっている部分もある。しかし、主流ではない。
マスコミはとにかく、今旬の話題にしか飛びつかない。それはもう、一頭のヤギの屍骸に百頭のライオンが群がるように、である。そうしてしばらくすると、もはや骨しか残っていないとばかりに、その話題から撤退するのである。
そんなやり方では、見ている人に何かを残すことは出来ないだろう。
とにかくマスコミは、常に獲物を待ち構えている。獲物が見つかると一斉に襲い掛かり、骨だけになるとまた別の獲物を探す。辺りには、骨ばかりが散乱する惨状だが、誰もそちらには見向きもしない。
もうそんなやり方は止めてもらえないか、と僕はいつも思ってしまう。
僕は、見つけた獲物は6割方食い尽くしたところで撤退し、しばらくしてその獲物の味を思い出すようなそんな報道が必要ではないかと思うのだ。
僕自身について言えば、本作の元ネタとなった、雪印乳業の集団食中毒事件のことは、もうすっかり忘れていた。頭の片隅にも残っていなかった。あの当時、何が起こって最終的にどうなったかも、全然覚えていない。これでは、また同じことが起こっても仕方がないだろうな、と思えてしまうのである。
マスコミは、その力をフルに使って、他のあらゆる組織や個人を標的にする。その活動は確かに、モラルを意識させることに繋がるだろうとは思う。
しかし、マスコミを糾弾する組織というものがないというのが、僕はおかしいと思うのだ。これでは、マスコミのやりたい放題ではないか。もちろん、マスコミの規制を促すような組織がないわけではないだろう。しかし、力を持っているとは言いがたいだろう。
とにかく、マスコミというのは変わらなければならないと思う。まあ、誰が何を言ったって、変わらないと思うけどね。だって、マスコミに心底むかつく人って言うのはマスコミから直接被害を受けた人で、そういう人が何を言っても、負け犬の遠吠えに聞こえるし、マスコミから被害を受けたことがない人は知らん顔だろうし。まあそんなもんだろうな。
どうにかならないものだろうか。
まあそんなわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、先ほどもちらりと書いたけど、あのかつて起こった、雪印乳業の集団食中毒事件を題材にした、まあパロディ小説的な感じですね。ノンフィクション的な内容というわけではなく、まあバカバカしい話ですね。まあ、戸梶圭太ですからね。推して知るべし、という感じです。
ある日のお客様相談室。いつもよりなんだか苦情の電話がひっきりなしで、お客様相室に掛からないからと代表番号に掛けてくる人が出る始末。おいおい、一体何が起こったんだよ。
次第に状況が明らかになってくる。どうやら、大阪近辺で出荷された牛乳を飲んだ人が、集団で食中毒になった、らしい。
おいおい、マジかよ。ってか、どうするよ。
幹部の話し合いは、クソみたいなものだった。自分の保身しか考えていないバカばっかりだ。その他、各種責任者も、バカばっか。おいおい、雲印乳業って、なんて会社だよ、まじ。こんなにアホばっかだったのか…。
というわけで立ち上がったのが、柴田という幹部。とにかく牛乳が好きという、愛社精神に溢れたこの男は、このままだと会社が沈むと判断し、独断である計画を進めることにした。
それが、クビキリ前提の内部調査チームの設立。とにかく、アホばっかりの上層部のクビを切りまくって、雲印乳業を立て直そう、というのである。
さて、その内部チーム、動き出したはいいが…その間にも、会社は大混乱で、ホントに大丈夫か?
みたいな話ですね。
戸梶圭太の作品はこれで三作目ですが、これが一番好きですね。
とにかく、戸梶圭太らしく、ノンストップの馬鹿馬鹿しい話が展開されていきます。初めこそ、社会派の話題を持ってきたものの、愛人にかまける幹部や、アホな記者会見、殺し屋が出てきたり、派手なバトルシーンがあったりと、とにかくメチャクチャなんだけど、でも読み応えがあるっていう感じですね。
雲印乳業の描写も、幹部の話し合いや記者会見の裏側など、とにかく無茶苦茶なんだけど、不思議と、実際の事件でもこんなことが行われててもおかしくないよな、と思わせるような感じがあって、よかったですね。まあ、ありえないことも山ほどあるんだけど。僕は、小説に特にリアリティを求める人間ではないので、そういうところは全然いいんですね。
キャラクターも、なかなかいいのが揃っていますよ。
一番いいのは、高見桐江ですね。新入女子社員でありながら、物語の中で割と大事な役割を担う彼女は、結構好きなキャラでした。僕は、物怖じしないクールな冷たい女性が好きなので、高見はかなりよかったですね。
あと、醜いものを徹底的に嫌う向井という男もよかったですね。まあ、近くにいたらちょっと迷惑かもだけど。
四文字熟語しか話さない奇妙な男も、無駄に存在感があってよかったし、宮部というチームのリーダーも、なんだかんだいってあんな人間だったし、加山のあの激しいキャラクターも、米倉のあの陰気なキャラクターも好きですね。唯一、萩尾だけはよくわからなかったですけど。好きでも嫌いでもないって感じですね。
無茶苦茶な話がオンパレードだけど、さらさらっと楽しく読めるし、汲み取ろうと思えばいろんな教訓を教えてくれる作品だし、面白いと思いました。まあ、舞城王太郎ほどではないけど、ぐちゃぐちゃっとした無茶苦茶な話が大丈夫な人は、読んでみてもいいと思います。

戸梶圭太「牛乳アンタッチャブル」



クドリャフカの順番(米澤穂信)

日々こうして無為に時間を過ごしていると、自分に高校生だった頃があるなんてことが、時々信じられなくなってくる。
まだ、10年と経っていない時間だ。ほんの、という形容でも大げさではないだろう。しかし、まるでそんな時間はなかったかのように、少なくとも僕の意識からは隠されている。無論、小学生・中学生だった自分など、遥かかなたの深淵にあることだろう。日や月という単位はそれほど早く感じないのに、年という単位は、過去を振り返る度に早く感じられるのは、一体どうしてだろう?
もう一度、子供時代をやり直せる、という話があったら、どうするだろう?こちら側にはなんの不利な条件もなく、また小学生くらいから人生をやり直すことができる、といわれたら。
僕は、その選択を断るかもしれないな、と思う。少なくとも、今の僕のままの性格で昔に戻っても、人生がそう変わるとは思えないのだ。
昔から、勉強ばかりしている子供だった。正確に言えば、小学6年の頃からだ。その頃から、塾に通い始めた。以後、とにかく勉強ばかりしている学生だった。
だから、学生らしいことをちゃんとしたような記憶は、残念ながらない。
やはり一番残念なのは、恋愛を出来なかったということだろうか。まあ今でも大差はないが、とにかく彼女というものに恵まれたことがないわけで、まあそこは未だに努力が必要な部分でどうしようもないのだが、高校の頃にまあ一度くらい恋愛できていればよかったなぁ、なんて思う。
あとはそうだなぁ、学生らしいことが何なのかも僕にはちょっとわからないなぁ。
昔から、好奇心のなさすぎる人間だった。本作に出てくる、好奇心旺盛なお嬢様や知識豊富な福部なんかと比べるまでもなく、僕にはとにかく好奇心というものがなさすぎる。興味の対象が狭すぎるし、いつまで経っても広がっていかない。まあ意識してどうにかなるものでもないので、しょうがないのだろうけど。
とにかく、昔から閉じていたな、と思う。今思えばだが、閉じていることを不自然に思わせないように、僕は勉強をしていたのではないかとすらも思う。それくらいのことを、僕ならやりかねない。
今でもそうだが、閉じているということは僕を安心させる。とにかく、機密性というものにこだわってきた人生ではなかったかと思う。どこかに隙間はないだろうか、すぐに壊れそうな部分はないだろうか、鍵はきちんと掛かっているか。そんなことを日々点検し、かつ、この施設は別におかしなものではないですよ、というアピールを外側に向かってするような日々。原子力発電所のようなものかもしれない。
高校生をもう一度やり直すというのは、あまり魅力的な提案ではない。また日々勉強しまくる生活をするのは嫌だし、そうだとにかく僕は実家が大嫌いなので、またあの実家での生活をしなくてはいけないのも無理だ。
しかし、誰か別の人の人生を借りて高校時代をやり直せるなら、それはちょっと魅力的かもしれないな、と思う。本来ならば高校時代というのは、もっと青春な時代のはずだ。誰かの人生を借りて、その青春な高校時代をやり直すというのは、いいかもしれない。
正しいものだけが残るわけではないというのは充分分かるが、できれば正しい側にいたかったな、と今の僕は思います。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「氷菓」「愚者のエンドロール」と続く、<古典部>シリーズの第三弾です。
ついに、神山高校文化祭、通称<カンヤ祭>が始まった。この日のために文集作りを進めてきた(というかそれが唯一の活動内容だった)古典部としては、お披露目の意味も兼ねた重要な場だ。
しかしここに来て、古典部はある重大な問題を抱えることとなった。
文集を、刷りすぎてしまったのだ。予定では、30部。しかし実際は、200部。200部である!些細な手違いから生まれたミスだが、しかし事態は深刻。この200部を、できれば完売、悪くても120部くらいは売らなくては、古典部は大赤字である。そうでなくとも、売れ残った文集を捨てるのは、忍びない。
古典部のメンバーである、千反田・福部・伊原・折木の四人は、それぞれがそれぞれの方法で、なんとか文集を売ろうと画策し、それを実行に移す。まあ折木は店番をしているだけなのだけどね。
が、そんな慌しい古典部を尻目に、学内では奇妙な事件が発生していた。なんと、いくつかの部活から、なにやら細々としたものが盗まれているのだ。まあ、なんと、と形容するようなものでもないのだけど。
事件の情報を得るうちに、この事件を利用すれば文集を売ることができるのではないか、という気運が高まる。となれば、もちろん頭脳として活躍すべきは折木奉太郎その人である。折木は、文集を売るという目的のために、学内で起きている、通称<十文字>事件に思考を巡らすことになるのだが…。
とにかく、めちゃくちゃ面白い!いやホント、この<古典部>シリーズは、作品を重ねる毎に面白くなっていきます。
もうもちろん、キャラクターは言うまでもないでしょう。前二作の感想でも書いたと思うからあまり詳しくは書かないけど、とにかく魅力的なキャラクターに溢れていて、読んでて本当に面白いですね。本作は、四人それぞれが視点を変えて、一人称で語るという作品になっているので、それまでの折木奉太郎視点の二作とはまた違う感じで(特に、千反田の視点が面白い)、とってもいいですね。
でもちろん、ストーリーがいい。
本作は、まあ言ってしまえば、前半半分では何も起きないと言っていいでしょう。ちょくちょくいろいろあるのだけど、結局物語が動き出すのは、半分くらい読んでからですね。それまでは、ひたすら学園祭の様子が描かれるわけです。
でも、この何にも起きない部分も、すこぶる面白いんですね。何で著者は、こう何でもない文化祭をここまで面白く描けるのか不思議なくらいで、どこを読んでいても笑えたり納得したり感心したりという感じで、読ませるなぁ、という感じでした。僕の高校にも文化祭はあったけど、ここまで盛り上がっているわけではなかったから(本作の<カンヤ祭>というのは、とにかく文化祭にかなりの力が入った高校なんですね)、この文化祭の盛り上がりを読んでいるだけで、充分楽しめました。もちろん、そういうところにもきちんと伏線が張ってあるので侮れないんですけど。
そしてもちろん、後半に入ってからも面白くなります。
後半は、<十文字>事件に焦点が当たっていきます。この事件は、それまでのシリーズでもそうだったけど、事件というほど大したことは起こってないですね。それぞれの部活から、本当に些細なもの、どうでもいいものが盗まれる、というだけのものなわけで。でもそのどうでもいいような事件を、うまく書くんですね。それこそ、大事件でもあったかのように食い入るように読んでしまいました。
米澤穂信という作家すごいところは、<日常の謎>系のミステリで長編を書くところですね。
ミステリと聞くと人が死ぬ話だと思っている人も多いとは思いますが、北村薫という作家が<私>シリーズというものを出してから、日本でも<日常の謎>系と呼ばれる、人が死なないミステリというものが多くなってきました。
しかしそういう<日常の謎>系のミステリは、ほとんどの場合短編、もしくは連作短編の形式をとります。というのも、人が死なない話で、そこまで話を引っ張るのは難しいんですね。
でも米澤穂信は、人が死なないミステリで長編を書きます。しかも、その人が死なないミステリの核となる部分ですらも、ちょっと些細なものが盗まれる、というくらいのもので、そういう設定で長編を書けてしまうというのは、本当にすごいなと僕は思います。
後半の話の進め方も、解決に至る道筋も、解決の仕方も、とにかくどれも秀逸ですね。もうここまで完璧なミステリを書いて、かつキャラクターも面白いなんて、米澤穂信は本当にすごい作家です。
もう、べた褒めですね。これは、読むべきだと思います。もちろん、<古典部>シリーズの初めから読んで欲しいですけど。本作だけでも読めなくはないですけど、前作までで関わりのあるキャラクターもいるし、そもそも文集の名前が「氷菓」で、これは<古典部>シリーズの第一作目のタイトルなわけです。もちろん、関係あります。だから皆さん、ちゃんとシリーズで読みましょうね。
いい話でした。是非読んでください。

米澤穂信「クドリャフカの順番」



λに歯がない λ HAS NO TEETH(森博嗣)

死ぬことで失われるものは、一体なんだろう。
そう考えた時に、まず気づいたことがある。
僕らは、死を死だけで定義することは出来ない、という事実である。
死ぬということがどういうことなのか、誰にもわからない。
意識がなくなったら?
心臓が止まったら?
体がなくなったら?
何が、死なのだ。
死を定義するには、生きてはいない、という形でしか定義ができない。
もしかすると、それすらも間違っているのかもしれないが。本当は、死んでいるということが、生きていないというだけなのかもしれないが。
僕は、こんなことを考えてしまう。
死ぬことで失われるのは、生との掛け橋だけ、なのではないかと。
つまり、死ぬことで、生きるということに関わるありとあらゆるものが失われる。しかし、ただそれだけなのかもしれない。
肉体も生者との関係性も、もちろん失われるだろう。
しかし、意識や思考や記憶など、生きることそのものとは無関係なものは、保存されるのではないか、と。
少なくとも、そうでないことを検証することは不可能だ。死者は、生者との関係があらゆる形で断たれるのだから、どうあっても検証はできない。もちろん僕は、イタコだの交霊だのと言ったことはまるで信じていない。
死んでみないとわからないことだろう。恐らく、それだけは仕方がない。
しかし、もしそういったものが保存されるとするならば、生きていることと死んでいることの違いは、それほど多くはないだろうと思う。関係性を持つことの出来る範囲が違うだけ、なのではないだろうか。肉体を持っているグループと肉体を持っていないグループがあるというだけの話で、両者は決して混ざることはない。肉体を持つグループから肉体を持たないグループへ変化することは出来るが、その逆はない。まるで、羽化を遂げるチョウチョのように。
そう考えると、脱皮や羽化という現象も、一つの死の形なのかもしれないと思えてくる。たまたま、肉体を持つ存在から肉体を持つ存在へと移行するというだけで、実はその移行は死と呼べるものなのかもしれない。意識や記憶や思考は残る。しかし、形だけが変わる。脱皮や羽化をする前の存在も、その瞬間のことを不安に思っているのかもしれない。まるで僕らが死を恐れるようにして、彼らもその瞬間を恐れているのかもしれない。
そう考えると、死ぬということが大したことではないのかもしれないと思えてくる。ただ、羽化をするのだと思えばいい。羽化と違って、肉体は失われてしまうけれど、それでも、そんなに変化はない。死の前後で、大きな変化はない。その間に起こる変化が、どれほどのものだろうか。いもむしが蝶に変わる方が、よっぽど変化としては大きくはないだろうか?
僕らは、死を恐れる。得体の知れないものだし、どうやっても一度しか経験できないものだ。経験者の助言というものが、まったくない世界。不安になるのも仕方がないのだろう。
死を恐れるが故に、ありとあらゆるものが生まれてきた。それは、宗教だったり哲学だったり科学だったりしたが、死を恐れるが故に人間は変化を遂げてきたと言えるだろう。
一方で、死を望む人もいる。僕も実際、真剣に自殺を考えたことがある。あと一歩で、実行に移すところだった、というところまで行った。もし、死後も意識が残っていても、自殺をするメリットはきちんと残る。それは、生者との関係を断つ、という手段の一つだ、ということだ。それがあるからこそ、人は自殺をしようとするし、また自殺を止めようともするだろう。僕は、後者だった。
僕は、宗教に沿った意見を持ちたくはない。特定の宗教は言うに及ばず、宗教のように聞こえる意見すら持ちたくない、と思っている。
しかしそれでも、こう考えてしまう自分をちょっと止められない。
死後も、思考は残る。生者にそれを取り出すことが出来ないだけで。
どこかに、あのアインシュタインの思考が残っているかもしれない。そう思うだけで、なんだかロマンに満ち溢れるではないか。
なんか、書きたいと思っていたことと大分違う内容になった気がするけど、そろそろ内容に入ろうと思います。でも、思いつきにしては、死は羽化のようなものだ、という考えは、我ながらなかなか悪くないかもしれないなぁ。なんて、自画自賛。
物語の冒頭で、四つの死体が発見されます。
場所は、ある大手の建築会社の研究施設。そこは、近隣のあらゆる大学と共同研究をしており、西之園萌絵や加部谷恵美などが通うC大学もその一校だ。
その関係もあって、山吹早月と海月及介は、死体が発見されたその朝、同じ敷地内にいるという事態になった。
警察の断片的な情報を聞く限り、どうやら密室らしい。被害者の身元は今のところ不明。大学の関係者ではないようだ。割と年齢の高い被害者で、共通している点が二点。死体に歯がなかった(死後抜かれたものらしい)ことと、衣服のポケットに、「λに歯がない」と書かれた名刺大の紙が入っていたこと。
捜査は難航を極める。とにかく、被害者の身元すらわからないのだ。侵入経路はもちろん不明。凶器の拳銃も発見されていない。
密室であったということで、専門家だと思われている(というか自認しているのだが)西之園萌絵に連絡が行く。そうして情報を集め、いつものように皆で議論をするのだが…。
今回の作品は、このGシリーズの中で、初めて面白いと思えた作品でした。一番初めの「Φ」もまあ悪くはなかったけど、本作ほどではなかったですね。とにかく、シリーズ5作目にして、ようやく大当たりと言った感じです。
とにかく何故よかったかと言えば、S&Mシリーズ的な雰囲気がかなり盛りだくさんだったからだと思います。それまでGシリーズではそこまで出番の多くなかった犀川が、萌絵との議論でかなり喋り、その議論そのものがかなりいいものになっているし、全体に、死ぬことについて、自殺をすることについて議論するような流れになり、そういう哲学的というか深遠な会話が、かなり僕には楽しかったですね。
後、まあいつものように密室ですが、なるほどまだこんな手があったか、という感じで、歌野晶午の「鬼密室」を読んだ時のような印象を受けました(と言っても通じないと思いますけど)。もちろん、推理でそこに辿り着くのはまあ無理だとは思うし、もしかしたらそんなトリックかよと納得いかない人もいるかもだけど(まあ確かに、密室のトリックにしても、S&Mシリーズの方が秀逸だけど)、でも今回のもまあ悪くはないと思います。
ギリシャ文字との関連については、多少前進なのか、あるいは停滞なのか、なんとも判断がつかない感じですが、とりあえず、いろんなことが絡んできそうな予感がたっぷりだったので、今後に期待という感じです。なんか、コナンの黒尽くめが関わる事件みたいな感じです。なかなか進まない。
でも今回は、「λ」という記号である意味がちゃんとあって(ちゃんとかどうかは人の判断によるだろうけど)、まあちゃんと意味があるからこそGシリーズ的には停滞なのかもしれないとも思うし、なかなかその辺が難しいところだったりします。
というわけで、本作は結構面白いと思いますよ。というか僕には面白かったです。
と少し話は変わって、本作と直接関係ないのだけど、こんな風なことを考えてしまいました。
森博嗣のようにして、赤川次郎が生まれたのかな、と。
というか、赤川次郎が「赤川次郎」になってしまうように、森博嗣も「森博嗣」になってしまうのだろうか、という懸念が、自分の中で大きく膨らんでいます。
僕は、赤川次郎の作品は読まないと決めています。それは、そもそも作品数が多いし、大衆作家という感じで、好きな人には申し訳ないけど、読むにはちょっとレベルの落ちる作品なんではないか、という風に思ってしまうわけです。
ただ、赤川次郎がデビューし、その当時から赤川次郎の作品を追いかけている人はいると思うし、そういう人は赤川次郎の面白さがわかっているのだろうと思います。まあそれはいいわけです。
ただ、僕の中で赤川次郎は、「赤川次郎」なわけです。このニュアンス、なんとなくわかってもらえるでしょうか?
そしてふと考えた時に、もしかして、森博嗣も、今森博嗣を読んでない人からすればいずれ「森博嗣」になってしまうのだろうか、と思ってしまったわけです。
なんだかそれは、ちょっと悲しいな、という感じがしました。僕は、森博嗣が「森博嗣」にならないことを心から祈ろう、と思っています。
まあそんな感じです。これは、ちょっと読んでみてください。いいと思いますよ。
それでは、本作の中から気になった部分を抜き出してみようと思います。今回は、結構多い。

(前略)
「どうやったのか想像もできない、という状況ではありません。ただ、どうしてそんなことをしなければならなかったのか、は想像が難しいですね。うん、でも、普通の殺人事件でも同じかもしれません。どうしてそんなことをしなければならなかったのか、理解できますか?」
(後略)

(前略)「でも、生きていれば、いろいろなことができます」
「そう、死ぬことだってできる」
(後略)

「(前略)しかし、たとえば、芸術家が、ある作品を完成させようとしているとき、それをいつ完成と見なすか、いつ作ることをやめるのか、と考える。その選択にも似ている。手を止め、創作をやめることは、つまり作品の死かもしれない」
「死ぬことで、個人が完成する、という意味ですか?」
「そう考えることもできる、というだけだけれどね。そういった種類の、死にたいという気持ちも、必ず存在するはずだ」
(後略)

(前略)
「たとえば、死んだ人間を、もう一度、生かす、というような発想だ」
犀川は静かな口調だった。しかし、力の籠もった発音で、声が僅かに震えていた。こういったことは、ときどきある。西之園はそれを知っていたので、背筋が寒くなった。
「彼女ならば」犀川はじっと西之園を見据えた。「できそうな気がする」
(後略)

(前略)「私は、今、生きてるなって思いました」
「うん、生きているのは、自殺を保留している人たちだ」
(後略)

(前略)
「すべてはイメージだ。生きていることも、生きているとイメージしているだけだ。死んでいる状態も、生きているものが、死んでいるとイメージしているだけだ」
(後略)

(前略)
「別に、お答えにならなくても、けっこうですよ」赤柳は微笑みかけた。難しい質問だと自分でも思えた。もし、尋ねられたら、自分だって答えられないだろう。
「そうですね」沓掛は苦笑した。「常に、今の赤柳さんの疑問を自問したいと思います」
(後略)

(前略)
人の手も、そして資金もかかることだろう。実行犯を特定して、その人物の罪を実証するために、莫大なエネルギィが消費される。もし、それだけの人と金が、もっと建設的なものに使われていたら、どれだけ多くの人間が幸せになったか、と考えられなくもない。まるで、戦争にかける金があったら、教育や福祉を充実させろ、という主張と同じだ。
(後略)

(前略)
だから、貴女も、もう少しだけ、我慢をして生きていなさい。
今に、この素晴らしさが迎えにくる。
(後略)

(前略)
「もっと、そう、自然に還るという気持ちなんです。水や空気になっていく気持ちなんです。実際には地面の中へ墜ちていくんですけれど…、でも、恐怖なんて全然なくて、とても清々しい、綺麗な気持ちなんです」
(後略)

(前略)
真賀田四季は、人の生はプログラムのバグだと言った。ならば、死ぬことで、バグは排除される。さっぱり綺麗になれるのか…。
(後略)

(前略)
人間は、命というものを、まるで自分の所有物であるかのように認識している。自分が獲得して、自分で育て上げたものだと錯覚している。自分の作品だとでも思っているようだ。それだから、それを取り上げられることに、最大の恐れと恨みを抱いているのだろう。
(後略)

(前略)
「狂った人間に、あんな真似ができると思うか?」
(後略)

(前略)
その炎で一瞬だけ、二人の間に浮かんでいた不思議な感情が照らし出された。けれど、そんなものは存在しなかったかもしれない。炎が消えると同時に、二人とも忘れてしまったからだ。
(後略)

森博嗣「λに歯がない」



世紀末大バザール―六月の雪―(日向亘)

僕は、守りたいものを持っている人を、羨ましいと思う。
それを守るために生きている、とまでいうつもりはないけど、それを守ることが生き甲斐だ、といえるような何かを、僕も持てればいいのにな、と思う。
誰しもが持っているものではないだろう。
一番簡単に思いつくのは、家族という存在だろう。自分の命に代えても、家族は守りたい。そういう考えは、多くの人に共通するかもしれない。もちろん、そうでないが故に起こる事件もたくさんあるのだけど。
ただ、こんなことをいうと非難されるかもしれないけど、守るべきものが家族だというのは、ちょっとありきたりすぎるな、と僕なんかは思ってしまう。別に、ありきたりであることが悪いわけではないのだが、なんというか守っているという感覚に乏しい気がしてしまう。まあ、自分の家族を持ってもいないような人間が、こんなことあれこれ言ってもしかたないんだけど、何か別なものはないだろうか、と思ってしまう。基本的に、天邪鬼なのである。
やはり、形のないものを守る、ということが、重要なのかもしれないな、と思う。
よく自分でもわからないけど、つまり、優しさとかこだわりとか、そういうものかもしれない。
自分でも、書いててよくわからないが。
ただ、自分に何かを守るような力があるのかどうか、ということを考えると、かなり不安になってくる。
僕自身、かなり弱い人間である。出来れば、守ってもらいたいな、と思ってしまうくらいの人間だ。ダメダメである。
何かを守るためには、きっと強い意志が必要なのだろう。それは、僕の今までの人生とは、結構無縁なものだったと思う。
あー、なんかダメだな、今回は。うまく文章が書けません。というわけで、内容に入ろうと思います。うーむ、悔しいなぁ。
本多巧は、ノストラダムスの予言を、まあ割りと信じている。今は、1999年5月。おお、滅亡の年ではないか。しかし、地球滅亡よりも先に自分の滅亡を迎えるのは、なんともしゃくではないか。うーむ、それを避けるためには、なんとかして仕事を見つけねば。あと一ヶ月でいいんだが…。かなり、金欠である。
さてそんな本多が向かったのは、大阪だ。とにかく、ビリケンのご加護にあやかって行き先を決めてみた。我ながら適当だが、たまたま入ったお好み焼きで、気になる会話をしている二人を見つける。
入札に談合がありそうな気がするのだが、どうにもおかしいのだ、というような話だ。本多は、その謎がわかった。二人に考えを注進してみると、おぉ、なんだか仕事にありつけそうな状況になってきたぞ!
そこで出会った根来という男に、あんたは何ができるんだと聞かれ、瞬殺で考えはじき出した答え。それが、「探偵」だった。俺が探偵かぁ。まあいいか、なんとかなるだろう。
ちょうど探偵を探してたとかで、そんな根来に連れて行かれたのが、短い言葉ではなんとも表現しようのない、果てしなく奇妙な建物だった。モール、というらしい。とにかくそこで、探偵として雇われた本多は、人探しを依頼された。その調査を、美少女(しかしオカマらしい)の相棒と共に調査をしているうちに、なんと奇妙な事件が二つも発生してしまった!おいおい、なんだよこれは…。
というような話ですね。
本作は、鮎川哲也賞佳作という新人の作品なんだけど、これが結構面白かったですね。
とにかく本作の面白いところは、軽妙な文章と、珍妙なキャラクターたちですね。
文章は、なんというか軽妙洒脱というのか、とにかくいい意味で力の抜けた文章で、読んでいてすごく楽しい感じになります。大阪弁と泉州弁(そんなのホントにあるのか?)の入り混じった無茶苦茶な会話や、そういうのとはまた違ったカタコト的な日本語の会話や、それぞれのキャラクターに合った情景の描写なんかが文章でうまくなされていて、こういう文体が今までなかったかというとそんなことは全然ないけど、結構新しい文体だなと読んでて思いました。
キャラクターは、もう本当に変な人間ばっかりで、それだけでとにかく面白いですね。僕は、小説を原作に映像にするのはあまり好きではないのだけど、この作品はちょっと、キャストを見てみたい気がします。どんなメンバーがどんな格好をして、どんな喋り方をするのか、楽しみになるでしょう。
どんなキャラがいるのか、ざっと書いてみましょうか。
モールの主で、「~あるよ」とけったいな日本語を喋る、黄色が好きな源さん。
アナーキストを気取り、シニカルでそつがなく、それでいてかなり適当な、探偵本多。
違法建築オンパレードなモールの設計を手がける大男、大工。
モールの皆から大兄貴と呼ばれる、まだ年若い根来。
ものすごく美少女で、でもオカマらしい、無免許で車を爆走させる、口の悪いリィ。
やくざの偉いさんで、驚くべき年齢の、がたいのいい強面、郷田。
元警察官で、現市長、かなり秀才で何かたくらんでる稲葉山。
なんでも知ってる物知りな、美人の奥さんを持った謹吾ちゃん。
とこうやって書いてる分には、それぞれのキャラクターの面白さが通じないのだけど、ホントどのキャラも、一癖も二癖もある感じで、面白いですね。
さて本作は、選考会上で、かなり物議を醸し出した作品だそうです。その理由は、鮎川哲也賞というのが、ガチガチのミステリの賞だ、というところにあります。
本作には、密室が二つほど出てくるのだけど、その密室の謎は、物語の半ばで、ある二つの先行作品のトリックで解決してしまいます。
つまり、密室を扱っているのにそれは本筋ではなく寧ろオマケみたいなもので、ならば本作はミステリなのか、という議論がなされたそうです。鮎川哲也賞が、ミステリの賞ではなかったらこんな問題にはならなかったんでしょうけど。
ただ本作のストーリーは、かなりいいと僕は思いました。ラストで明かされる様々は、それまでのたくさんの伏線を引き連れて一気に収束します。なるほど、そういうことなのかと、僕としては結構気に入ったストーリーです。
でも、回収されなかった伏線がかなりあるような気がして、まあ本作の続編でも書けばそれを回収することも出来るのかもだけどそんなストーリーでもなさそうだし、ちょっとその辺りがどうなんだろうな、と思ってしまったところです。
まあそんな欠点はあるけど、僕としては、モールの誕生の話もすごくいいと思ったし、結末は優しさに溢れているし(まあちょっと悲しいけど)、いい話じゃないかなと思いました。
すごくオススメということはないですけど、読んで損することはまあないでしょう。読んでみてください。

日向亘「世紀末大バザール―六月の雪―」



アイムソーリー、ママ(桐野夏生)

女は強い。男なんかよりも遥かに強い。やっぱりそう思う。
なんというかそれは、生命力の違いなのかもしれないと思う。
女は、どんな状況でも、冷静である。まず何を守らなくてはいけないか、何を奪わなくてはいけないか、何を壊さなくてはいけないか。そういうことをきちんと把握し、そこから揺らがない。だからこそ、どんな状況でも耐えられるし、大切なものを守っていけるのだと思う。
逆に、男というのは、弱い。男は、見たいものしかみない。自分の都合のいいものしか見ない。その生き方でなんとかなる、と子供の頃から知っているわけだ。男はバカだ。
だから、自分の見たいものが視界からすべて消えてしまうと、男はどうしていいのかわからなくなる。他の方向を向いてみればまだ見えるものはあるのに、自分がこれと決めた方向しか見ないのである。だから男は、ちょっとでも状況が変わると、弱い。
いつも思うことだが、世の中は昔から、男が強い社会だった。最近は結構変わってきているのだろうけど、やはりそれでも、男が優遇されているように見えるだろう。
それはやはり、男の臆病さが産んだシステムなんだろう、と僕は思っている。男は本能的に、女には勝てない、と悟っているのだ。だからこそ、女を恐れるが故に、法律や常識でがんじがらめにして、男性優位の社会を作り上げたのではないだろうか。
昔から僕は、こんな風に思っている。
捨てるものが多い人間ほど強い、と。
これは、なんというか、ちゃんとした説明のできるわけではない、根拠のまったくない話なんだけども、そんな風に思っている。
僕らは生きている間に、あらゆるものを溜め込んでいく。精神的にも肉体的にも社会的にも、様々のものを溜め込みながら生きていく。というか、そういったものを溜め込んでいくということが、生きていくということなのかもしれないとも思う。
そうして溜め込んできたものを、どれだけ捨てることができるか。それで、人間としての強さを知ることができるのではないか、と僕は思うのである。
僕の印象では、女性は多くのものを捨てることが出来る、という感じがする。女性は、男性よりもより多くのものを溜め込んでいるような気もするが、一方で、捨てなくてはいけない状況になったらそれらを一気に捨てられる。そんな感じがする。
なるほど、何が大事なものなのかをきちんと把握しているからこそ、いざとなれば多くのものを捨てることができるのかもしれない、と今思った。それが、女性の生き方なのかもしれないな、と勝手に思った。
女性は、子供を育てるために、必然的に強くなるのだ、というようなことを聞いたことがある。ならば、出生率の下がっている現代、女性はどんどんとその力を失っていくだろうか…なわけないか。相変わらず女性は強いままだろう。まあそれはそれで悪くはないんだけど。
同じ犯罪を犯すのでも、最後の一線をあっさり超えることが出来るのが女性だと思います。
女性は怖いなぁ、いろんな意味で。いやまあ、そんなに女性を知ってるわけでもないんですけどね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
物語の始まりは、ある年の離れた夫婦から始まります。
孤児などを集めて世話をしていた施設の保育士と、その施設で育った子供、という関係で結婚した美佐江と稔。年の差、25歳以上。周囲からは、親子に見られたりもする。しかし、二人は幸せだからいいのである。
そんな二人の人生は、ふと訪れた焼肉屋でのある出会いをきっかけに、大きく変わることになる。
その焼き肉屋にいたのは、アイ子だった。美佐江と稔と同じ施設にいた子供。初めはわからなかったが、思い出したのだ。
アイ子についての印象は、美佐江と稔で大分違った。美佐江はいい子だったといい、稔は怖かったと言った。まあそれでも何にしても、懐かしい再会だ。美佐江はアイ子を誘ってはみたのだが…。
まあこれだけでは全然内容紹介になっていませんが、こんなところで。
本作は、とにかく目立つ作品です。
まず、表紙ですね。世の中にはいろんな本があるけど、印象的な表紙の本というのはなかなかないものです。本作はその、印象的な表紙の本の一つですね。
ピンクに染まった写真の中では、下着姿らしき女性が後ろみせて逃げています。裸足で、廃屋らしき中を。こんな煽情的な表紙はなかなかないですね。本作の内容とも、結構合ってます。
それに、帯の文句ですね。全部抜き出してみましょう。

『かつて女であった怪物たちへ、そして、
これから怪物になる女たちへ捧ぐ、衝撃の問題作!』

すごいですね。『かつて女であった怪物たち』という文句が秀逸すぎて最高ですね。担当編集者の力の入れようを感じられます。
内容は、その派手で煽情的な表紙と帯の文句に負けることのない、激しい物語になっています。読み始めは、まさかこんな話になるとは思わなかったのだけど。
桐野夏生は本当に、殺伐とした世界観を描くのがうまいな、と思います。本当に表紙の写真の印象通りの世界観で、壊れてざらざらでどうしようもなくて救いがなくて、でもそんな中をドブネズミのようにして生きていく、というそういう世界を、違和感なく描いてしまいます。馳星周のようなノアールという感じでは決してなくて、ノアールというのはもっと、暗いながらもさらに暗い方向へと前進していくパワーみたいなものがある感じなのだけど、桐野夏生の描く世界は、前進も後退もないみたいな、とにかくどんずまりの中で、どうやってごまかしながらやっていくか、みたいなところがあって、そういう閉塞感みたいなものがうまく描き出されているな、という気がします。
しかも桐野夏生は、女というものの醜さを描くのも長けています。男には、こうは書けないだろうな、というような描写がどの作品にもあって、結構怖いな、という風に思わされます。
本作は、登場人物たちがかなり老齢です。若くても40代くらいで、後はほんとに50代以上の連中がごろごろ出てきます。
しかし不思議なことに、文章を読んでいるだけでは、その歳を感じることがありません。みんなとにかく、強くてパワーがあるんですね。だから、会話や行動だけ読んでいると、とても老人たちの行動とは思えないようなものばかりが出てきます。
なんというか、そういうのも一つのリアルなのかもしれないな、と思いました。実際僕らは、老人というだけで、穏やかで静かなイメージを抱きがちだけど、そんなのはこっちの印象でしかないんだ、ということを強く突きつけられたような気がします。
割と重い話のはずなんだけど、スラスラ読めてしまいます。面白いか面白くないかで評価できる作品ではないのだけど、エンターテイメントとしては、さすがは桐野夏生という感じだな、と思いました。表紙と帯の文句にグッと来た方、読んでみてはどうでしょうか?

桐野夏生「アイムソーリー、ママ」


アイムソーリー、ママハード

アイムソーリー、ママハード

出られない五人(蒼井上鷹)

さて今回は、何について書くのか多少悩んだが(ストーリー重視の作品の場合、いつも悩むのだが。世界観や人間を描いている作品なら悩まないけれど)、こういうことについて書いてみようと思う。
警察を、呼ぶか呼ばないか、ということについて。
小説の中には、というかミステリの中にはという感じだが、何か事件が起きても警察を呼ばない、というスタイルのものがある。そういう作品の状況設定のことを、クローズドサークル、と呼んだりもする。
例えば、綾辻行人の館シリーズや石持浅海の作品なんかがそうだろう。他にもあるかもしれないが、すぐには思いつかない。
作家としては、警察に出てきて欲しくないから、特殊な状況を設定するわけである。それは、近代的な科学捜査をされては一発でばれてしまうようなトリックであるとか、あるいは、警察を描くのが苦手とか、まあそういう理由があるのだろうけど、とにかくそういう作品がある。
人によってはそういう作品のことを、幼稚だ、というような表現で貶す。つまり、現実にそんなことが起きたら、まずどうしたって警察を呼ぶだろう、という主張である。だからこそ、どんな理由であれ、警察を呼ばないという設定は作者のエゴであり、リアリティがない、と。
まあ、言っていることはわからなくもない。
ただ、誰しもがみんなホントにそうか、と言われれば、そんなことはないだろう。
世の中には、ひき逃げみたいなことはしょちゅうある。ホントかどうかは知らないが、工事現場で死体が見つかっても、工期が遅れるのを嫌がって警察に届けないようなことがあるらしい(と本作では書かれていたが、どうだろう)。まあ、あってもおかしくないかもしれない。少し話は違うかもしれないが、猫の屍骸が道の真ん中にあるからと言って、保健所に連絡をするという人が、どのくらいいるだろうか。
僕自身も、警察を呼ばなかったという経験が一回ある。
友達と沖縄に旅行に行くことになったのだが、実質運転できそうな人間が僕しかいなかった。しかしその僕も、免許を取ってから一度も運転をしたことがない、という有様である(今から考えると、あの旅行はかなり無謀だったなぁ)。
なので、沖縄旅行に行く前日に、レンタカーを借りて運転の練習をすることにした。
さて運転中である。僕はある場所でちょっとだけパニックになり(今でも思うのだけど、あの時の状況は僕だけが悪いわけではないと思っているのだが)、慌てて切り返しだのUターンだのしている時に、ポールみたいなものに車をぶつけた感触を感じた。
しかし、である。本来ならばそこで警察を呼ばなくてはならないのだろうが、僕は呼ばなかった。警察を呼ばないと保険が下りないという話も思い出したが、でもまあいっか、と思った。実際後で車を停めて確認しても、僕には傷やヘコミなどがわからなかった。まあ、大丈夫だろう、と思ったのである。
しかし、まあ実際はダメだったわけで、そこからいろいろあったのだが、結局高めの修理費を払わされることになったわけである。まあ仕方ない。
でも、とにかく警察というのは嫌だよな、と僕は思う。出来ることならば関わりたくない。そう思ってしまうのは、仕方ないことではないだろうか。特に、こちら側に非があるときは。
なんか、いろいろ思い出すなぁ。
中学生の頃、万引きをして店主に見つかった。あの時は、警察には通報されなかったけど、当時の僕はもうものすごくヒヤヒヤしていた。警察に通報されたらどうしよう…。いや、あの恐怖はなかなかのもんですね。
結構な距離キセルしてたのが駅員にバレて、連れて行かれそうになった時も、かなり焦ったなぁ。あの時は、駅員が背中を見せた瞬間に脱兎のごとく逃げ出したけど、腕でも掴まれてたらおしまいだったなぁ。まあこれは警察とは関係ないけど。
とまあ、些細なことだがいろいろある。
警察と言えば、取調室に入ったことが一回ある。
と言っても、僕が何か悪いことをしたわけではない。
今働いているバイト先で、僕が偽札を見つけたのである。
その時の警察の対応がまたダメダメで、明らかに今年は入りましたみたいなクソ警官に相手をさせられて…とまあ文句はあるけれども、そんなこともありました。
さて、かなり脱線した感じがするけど、本題は、事件があったら警察を呼ぶかどうか、だったかな。
自分にやましいことがないなら、別に普通に呼ぶだろう。死体の第一発見者になったらいろいろとめんどくさそうだけど、それでもまあ、仕方ない。市民の義務だ、なんていうつもりはないけど、なんか通報しなかったら後味が悪くなりそうな気がするのである。
しかし、もし警察を呼びたくない事情があれば、それがどんな些細なことであれ、かなり悩むだろうと思うのだ。少なくとも、僕はそういう人間だ。
どんな状況でも、例えば死体を見つけたらどんなことがあっても通報するべきだ、と言える人間はまあ素晴らしいと思います。しかしだからと言って、警察を呼ばないということがリアリティがないと言われるのはちょっと間違ってるような気もするなぁ、と思ったりするのでした。
まあそんなわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
その昔、アール・柱野という酩酊作家と、「ざばずば」と呼ばれるバーがあった。アール・柱野はそのバーの常連であり、というか住人であった。アール・柱野は、作家として、あるいはミュージシャンや役者として、結構な人気があった。しかし、酒の飲みすぎが祟ったのか、脳溢血で死亡した。その後、「ざばずば」のマスターも死に、「ざばずば」も閉店することになった。
さて話はそこから少し飛ぶ。その、「ざばずば」のあった吉良ビルが取り壊されることになり、だったらということで、アール・柱野を偲んで、解体前日の「ざばずば」に入り込んで酒でも飲みましょう、みたいな企画が持ち上がった。
集まったのは、幹事の峰も含めて五人。医者の田沼。田沼の病院で看護婦をしている熊野。若い女性の鵜飼、既に酒臭い八角、というメンバーである。
アール・柱野を偲ぶ会は、まあ順調にスタートしたと言っていいだろう。その後の展開に比べれば、ということだが。誰しもがそれぞれ、微妙な事情を抱えている。それぞれの思惑が少しずつ染み出し、奇妙な空間が形成されようかという時、地震が起こった。
その拍子に、無造作に積まれていた箱の中から、死体が見つかった。
この死体はなんだ?とにかく警察を呼ぼうではないか…。いや、しかしそれはまずい。もう少し考えよう…。
各人の思惑と勘違いから、事態はどんどんと変な方向へと進んでいくのである…。
というような話です。
これが、なかなか面白かったですね。
正直に言えば、ラストはちょっと不満で、もう少し見事な解決みたいなのがあるのかと思ったんだけど、ちょっとそうはいかなかったですね。
でも、とにかく読ませます。ぐいぐい引っ張られるように読みました。そんなに長い話じゃないのだけど、とにかく目まぐるしく状況が変わっていって、ものすごくテンポの速い映画を見てるような感じで、よかったですね。後はとにかく、この話をラストどうやって終わらせるんだろう、という期待を結構もたせる作品で、最後の20ページくらいまで、どうなるんだろう、とワクワクしながら読んでました。
登場人物は、まあ変な人間ばっかりで、しかも作中で印象がコロコロ変わって、そういう変化をちゃんと描けてる感じで面白かったですね。
時折、アール・柱野が書いたという設定のエッセイや小説が挿入されるんだけど、これもなかなか味のあるもので、ちょっと他の作品が読みたくなるような、そんな気にさせてくれました。
とにかく、新人にしてはなかなか読ませる作家だと思います。ドタバタ系の話が好きな人は、結構楽しめるんじゃないかな、と思います。ちょっとこの作家、注目してみようかなと思いました。

蒼井上鷹「出られない五人」


小さき者へ(重松清)

重松清の小説を読むと、家族について考えてしまう。
少し前なら、その考える家族というのは、現実の家族のことだった。ここの感想でも何度も書いたことがあるけれど、僕は家族との折り合いが非常に悪い。悪いつもりである。そうした、過去のもろもろのことや今の状況について、考えることが結構あった。
しかし、最近はちょっと違うのである。最近僕の頭に浮かぶ家族というのは、架空の、現実にはありえない、恐らく未来にもありえないだろう家族のことなのである。
空想の中で、僕の架空の家族というものがいて、僕の架空の子供というのがいる。
正直僕は、結婚願望はないし、結婚はまあしないだろうし出来ないだろうと思っている。よしんば万が一結婚をしたとしても、子供を欲しいとは思わない。まあそんな人間なので、僕のその空想上の架空の家族は、本当に未来のどんな瞬間にも存在し得ない、ありえないものだとは思う。
それでも僕は最近、その架空の家族、というか、架空の子供について考えてみることが多い。
奥さんという存在は、僕の空想には出てこない。出てきたとしても、僕は映像的な想像力には乏しいので、まあどんな顔をしているかとかそういうのはない。子供についても、男なのか女なのか、はっきりしない。別に、どっちでもいいと思っているんだろう。
その空想の中で、僕はどんなことを考えているのか。
例えばこうである。もし子供に、「なんで空は青いの?」と聞かれたら、僕はなんと答えるだろうか。そういう、空想である。
青以外の可視光線がすべて吸収されてしまうからだ、と難しい説明をするか。
神様が青色が好きだったんだ、とあしらうか。
うーん、わかんないなぁ、と言って逃げるか。
あなただったら、どうするだろうか?
僕は、上に書いたようなことはしたくないな、と思うのだ。何でだろうか、と考えてみる。とそれは、目線の問題だな、と思う。
つまり、上記のような対処をする親は、子供に対して、上からの目線でいるのだろうな、と思えてしまうからだ。
正しい知識を与えるのも、ごまかすのもあしらうのも逃げるのも、すべて子供に対して、大人として接しようとしているからだ、と僕には思えてしまう。それが、決して間違っているとは言わない。子供に対して、大人として、親として接するのは、正しいことなのだろう。
しかし、その距離感というのが、少しずつ問題を大きくしているのではないか、とも思ってしまう。
親と子供の距離というのは、本当に難しいと思う。近すぎてもダメ、遠すぎてもダメ。たぶん、どうあってもダメなのである。
しかし僕は思うのだ。それは、親と子供、という関係の中で距離感を見つけようとするから間違っているのではないか、と。
僕は、なるべくなら、自分の子供と友達のように接したい、と思う。それは難しいと思う。想像するだけで難しい。しかし、その努力はすべきではないか、とも思えてしまう。
先ほどの、「空は何で青いの?」に、僕はなんて答えるか。
「一緒に調べよう」僕は、そう答えてあげたい。それも、間違っているのかもしれない。しかし、どんな人間関係も、無理や妥協がなくては成立しないと僕は思っている。親と子として無理をするくらいなら、友達として無理をしたい。僕はそんな風に思う。
これも、いろんなところで書いているところだけど、僕は子供に、「パパ」とか「オヤジ」とか「お父さん」絶対に呼ばせない。自分のことも名前で呼ばせるし、子供のことも名前で呼ぶ。想像だけど、これは大事なんじゃないかって、今の僕は思っている。
未来の、恐らく誕生することはないだろう僕の子供へ。お父さんは今、こんなことを考えています…なんて、いやちょっとこれは恥ずかしいことを書きましたが…。
家族というものは、答えのない集団です。それだけに、いろいろと考えなくてはならない部分が多いのだな、と改めて思わされます。なんだかんだ言って、重松清の小説を読むと、より結婚したくなくなるんだよなぁ…なんて。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、短編6編を収録した短編集です。
相変わらず重松清らしいいい作品です。重松清は、大抵の作品で「家族」というテーマを扱っているのに、作品がかぶらないというか、いつも違った角度から作品を書いていてすごいと思います。僕なんか、重松清の感想を書くと、いつも似たり寄ったりになってしまうのに…。
まあそんなわけで、それぞれの内容を紹介しようと思います。

「海まで」
妻の真理、子供のミツルとカズキ、そして僕。お盆のこの時期、僕の実家のおばあちゃん家にお泊りというのが、夏の一大イベントだ。ミツルはおおはしゃぎだが、カズキは元気がない。車酔いしやすいっていうのもあるんだろうけど、それだけじゃない。
どうやら…カズキはおばあちゃんに嫌われているようだ。直接聞いたことはない。でも、たぶん間違いない。カズキだってもうそれに気づいてる。だからこそ、おばあちゃん家には行きたくないのだし、今も元気がないのだ。
「どっちでもいい」が口癖の、損な性格の子だ。ミツルはハキハキ何でも主張していくのに、カズキにはそれが出来ない。でも、僕はカズキの味方だ。
おばあちゃん家に着く。やっぱり、懸念は当たったようだ。カズキの嫌いなものばかり出るし、ミツルばっかり贔屓してるし…。今年ことは、ちゃんと言ってやらなきゃ…。

カズキを嫌ってるおばあちゃんの心理というのが、なかなかうまく想像できなかったんだけど、でも、旦那を亡くして田舎で一人寂しく暮らしている母親に、息子である僕が強く言えない気持ちもわからないではない。
年老いた親をどうするか、という問題も、あらゆる家庭が抱えている問題なんだろうし、ますます結婚って大変だなって思った。

「フイッチのイッチ」
転校生の山野朋美は、いきなり注目される存在になった。クラスの女子の中でいばってる芦沢みどりに、ビンタをくらわせたのだ。大泣きする芦沢を尻目に、そ知らぬ顔の山野。女子は怖い。男子は、女子の前でこそ口にはしないけど、みんなそう思ってる。僕、田中圭祐だって、同じだ。
その山野は、何故か僕に近づいてくるようになった。周りからは、夫婦だとか付き合ってるだとか、そんな風にからかわれている。芦沢組に僕が目をつけられたらどうしてくれるんだ…って、なんか弱いな、僕。
理由はすぐにわかった。山野んちも、離婚したらしい。学校帰りに、そんな話をお互いにすることになった。母子家庭の「ベテラン」である圭祐とは違って、「離婚ホヤホヤ」の山野は、なんだか学校で気張っている印象とはまた違って見えた。
まあそんな縁でよく話をするようになったんだけど、半年に一度会う僕の父親を巡って、なんだか大きな話になって…。

離婚って、なかなか実感湧かないけど、子供がどんな風に感じるかって難しいよな、って思う。でも僕としては、子供のために離婚しない、っていう選択肢はもっと嫌だなぁって思うから、それなら離婚してくれた方がいいかなぁ、とも思う。何にしても、子供は、大人が思うほど子供じゃなくて、でも、大人が思う以上に子供だったりするわけだ。

「小さき者へ」
お父さんはもう、おまえにどうしていいかわからないんだ。だからこうやって、お前に出すことのない手紙を書いてるんだ。
息子が、徐々に荒れはじめている。学校で問題を起こすし、家では部屋に閉じこもって出てこない。母親に暴力を振るったりするし、会話もない。
息子がビートルズのCDを聞いている。とっかかりはそれだった。
お父さんは、ちょっと嬉しかったんだ。お父さんがビートルズを聴いたのは、今のおまえと同い年、14歳の時だった。だから、ちょっと嬉しかった。そんなのにすがるな、ってお前は言うだろうけど。
だから、お父さんの中学の頃の、ビートルズの話を聴いてくれ。お父さんにも、14歳の頃があったんだって、わかってくれ。
そうだよな、お父さんもお前くらいの頃は、お父さんみたいな大人が大嫌いだった。なんでそんなこと、忘れちゃったんだろうなぁ。
父親は、息子が読むことのない手紙を、ひたすらに書き続ける。

大人になると、子供の頃の自分を忘れるっていうけど、それは本当なんだろうな、って思いますね。僕ももし父親になることがあったら、自分の父親のようになってしまうかもしれません。自分が嫌悪していた両親と同じになってしまうかもしれません。なんでだろう。子供の頃あんなに嫌ってた大人に、あんな大人にだけはなりたくないと思ってた大人に、ぼくらはあっさりとなってしまうんだろうな、きっと。それが、ちょっと悲しいかも。

「団旗はためくもとに」
高校を辞めよう。美奈子は、そう決めた。それで、お父さんとも言い合いした。何で辞めるんだって聞かれて、「なんとなく」としか答えられなかったのは弱かったけど、でもあたしは真剣なの。
お父さんは、応援団出身だ。今でも、「押忍」ばっか言ってる。なんなの、「押忍」って、って感じだけど。授業参観はヤクザみたいな格好で来るし、未だに応援歌を歌って近所迷惑だって言われるようなお父さんで、でもあたしのことが大好きだ。
でも、なんかうまくいかない。高校を辞めなきゃいけないのは、あたしの中でもう絶対なのに、それを分かってくれない。「押忍」の精神はいいからさ、あたしの話も聞いてよ…。

美奈子のように、よく理由は言えないんだけど、でもどうしてもしなきゃいけないっていう心理は、わからないでもないですね。僕は、大学を中退して一旦実家に戻されたんだけど、その時実家にいて、僕はここにいちゃいけないんだ、って思ったわけです。ちゃんとした理由を言えるわけではないし、ただ実家が嫌だっただけかもしれないけど、それでも僕は、とにかく実家から逃れなくてはいけない、と思って、今の生活を始めました。
「押忍」の精神が、後悔しても言い訳しないことだっていうのは、ちょっといいなと思いました。まあ、応援団みたいなのは、かっこ悪いと思うけど。

「青あざのトナカイ」
脱サラして始めたピザ屋。どうしてもピザ屋をやりたかったわけではない。とにかく、一国一城のあるじになりたかった。そのために、手っ取り早かったというだけの話だ。
だが、失敗した。売上を上げることができずに、潰してしまった。
妻と子供を、妻の実家に追いやり、毎日酒を飲むような生活が一月。妻からは、義父の縁で再就職の話ももらっているのだが、ふんぎりがつかない。
自分は負けた。誰がなんと言おうと負けたのだ。もう、立ち上がる気力が出てこない。
時代のせいにした。商店街のせいにした。しょうがなかったと思おうとした…。でも、やっぱり俺は負けたんだなぁ…。

格差社会と言われるようになったけど、僕なんかは無理をすることはないかな、と思ってしまう人間なので、今のままでもまあいいか、と思ったりします。身の丈にあった、と言うんでしょうか、なんというか、高望みしなければ、それなりに普通に生きていけます。
男は、なんていうか上を目指さなきゃみたいなところがあるのかもしれないけど、そういうのも段々難しい世の中になってきてるし、勝ち負けとか気にしなければいいのに、なんて思ったりもするし。
あぁでも俺は、趣味で本屋を経営したいかも。なんて。

「三月行進曲」
なんとなく応募した、少年野球の監督。時間拘束も結構厳しくて、家族サービスも出来ない生活で、家族からはもう呆れられているのだろう。
そんな中、さらに余計なことをしようとしている自分がいる。
チームのメンバーだった三人を、甲子園に連れて行く。そう決めた。
きっかけは、チームのリーダーだったヤスヒロのある出来事だった。落ちたはずの私立中学の受験。しかし、落ちたと言えずに、ずるずる来てしまった。友達はみな、ヤスヒロは私立中学に行くものだと思っている。いまさら、言えない。
そんな相談を、ヤスヒロの母親からされた。だったら、と思った。関係ないけど、だったらヤスヒロを、甲子園に連れて行きますよ。
それなら、とあと二人の顔も浮かんだ。ジュンとケイジだ。
幼馴染の二人は、でもジュンの方が力関係が強い。陸上をやりたかったケイジを野球部に入れたのもジュンだ。今二人は、最後の試合の件で喧嘩をしてる。二人の仲直りにもなればいい。
妻には反対された。おせっかいなんじゃない、という裏には、家族サービスって発想はないわけ、って本音も見え隠れする。
でも、やらなきゃいけないんだ、と自分に言い聞かせる。彼らを、甲子園まで連れて行ってやらないと…。

ヤスヒロみたいなのは、すごくわかりますね。僕は、実際後々困るよなぁ、って思ってホントのこと言っちゃうけど、でもヤスヒロみたいな状況になる可能性も、ないではないなって思います。
ジュンみたいなのは、ちょっと苦手だなぁ。
子供は、男と女どっちがいいかって話。それは難しいですね。どっちにもどっちの苦労があって、結局父親は、子供とうまくやっていけないっていうだけの話だと僕は思うんだけど。悲しいですね。

それぞれの作品は、登場人物も違うし関連性もないけど、僕は個人的にこんな共通点があるんじゃないかって思ってます。
それは、どの話にも、損な性格の人間が出てくる、っていうことですね。
みんな不器用で、うまいこと生きていくことができなくて、でもそうのは仕方ないっていう感じの人が、どの話にも出てくるような気がします。
僕自身も、すごい損な性格をしていると自覚してる人間です。僕の場合、友達でも何かに誘ったりとか出来ないし、好きな子がいてももちろん告白できないし、そもそも人に嫌われてると思っているような人間で、いつも損な性格だよななんて思ったりするんだけど、もうそういう自分を諦めたというか受け入れたというか、もうしょうがないよな、と今では思っています。
だから、要領よく生きている人間に憧れたりもするけど、でも一方でそういう人間が嫌いだったりします。要領だけで生きている人とか、ホントダメですね。羨ましいっていう意味の嫉妬もあるんだろうけど、でも、不器用な人間の方がいいなと思います。
そういう不器用な人間がたくさん出てくる話で、僕は好きですね。
あとがきで重松清は、
『「問題がなにも解決していないじゃないか」と叱られることの多いぼくのお話の中でも、本書の六編はとりわけ「解決しなさかげん」が際立つものとなった。』
というようなことを書いています。そしてその後でこう続く。
『でも、それが、ぼくの考える生きることのリアルだ。』
あきりたりの解決や、お決まりのエンディングばかりの物語が多い中で、重松清のこのスタイルは、非常に好感が持てます。確かに、「解決しない」ということが、リアルなんだって思えることが、別に具体的に何かあったというわけではないけど、すごくそう思えるようになった。
現実があまりにも分かりにくいから、せめて物語の中では分かりやすい方がいい、ということなのかもしれないけど、僕としては、このもどかしさみたいなものが残る重松清の作品は、いいなと思います。
本作も、いつもの重松清らしく、すばらしい作品です。是非とも読んで欲しいな、と思います。

重松清「小さき者へ」



マルコムX自伝(アレックス・ヘイリィ)

人種差別とか黒人とかマルコムXとかについて、書くべきだろうとは思う。というか、普段の僕ならそういうことについてあれこれ書くだろう。
ただ、なかなか気力が湧かない。
マルコムXという名前は、歴史の授業で聞いた記憶がある。アメリカにおける黒人の地位みたいな話も、歴史の時間で聞いたような気がする。ただ僕には、アパルトヘイトと公民権運動の違いもわからないような人間なのだ。そんな人間に、何を語ることができようか。
結局、人種の壁は厚い。というか、与えられたイメージというものが、抜けないのである。
僕の持っているイメージで言えば、中国人はしたたかだし、黒人は怖いし、アメリカ人は陽気でずるいし、というようなイメージで、そういうのは抜けない。こういうのは、人種だけの問題じゃなくて、例えばだけど日本人にしても、大阪人は抜け目ないし、東北人は大らかだし、みたいなイメージがやっぱりあるわけだしで、そういうのはなかなか拭うことはできないものだ。
だからどうしろというようなことはない。僕は、生まれてから今の今まで、人種というものについて真剣に考えたことはないし、これからもないだろう。日本人が日本から出ないまま人種について考えるなんて、これこそ偽善以外のなにものでもないだろう。
僕は、黒人というのはいいなぁと時々思う。なんというか、黒人としてスタイルというのがかっこよく見えることはある。本作の中にも、黒人は生まれつきダンサーだ、みたいな言葉があるのだけど、なるほどそうかもしれないな、と思う。よくわからないけど。
まあそんなわけで、なんとも言えないが、そろそろ内容に入ることにしようと思う。
本作は、まあタイトルの通り、マルコムXの自伝である。幼少の頃のことから殺される直前のことまでが、かなり詳細に描かれている。
で読んでどうだったかと言えば、もう僕にはものすごくつまらなかったのである。読んでいて苦痛になるほどだった。
この本は、バイト先のあるスタッフに勧められて読んだのだけど、もうとにかく、僕にはダメだったとしかいいようがない。
半分読んだ段階で、つまらない本だなぁ、と思ったのだが、後半半分を読み始めて、もっとつまらないと思った。だから後半は、とにかく読みきることだけを目標に流し読みをしたのだけれども、それでもかなり大変だった。
僕はもうとにかく、宗教というフィルターを通した発言というのがダメで、どんなに正しいことを言っていても、その宗教というフィルターが僕には邪魔をしてしまう。前半では、悪さばかりして無神論を貫くマルコムXが、後半で突如としてイスラム教を信仰するようになり、発言のすべてがイスラム教の考えを中心としたものになる。もうそれだけで、宗教アレルギーの僕としてはダメで、その宗教満載の後半部分よりも、まだ前半の、悪いことばっかりやってました的な部分の方がましだったなぁ、と思います。
僕の人生三冊目の挫折本になるかもしれないと思いましたが、とりあえず読むだけ読みきりました。その、この本を勧めてくれたスタッフはこの本を、去年読んだ本の中で2位(そのスタッフもまあかなり本を読む人なのだけど)だと言っていたので、面白いと思う人には面白いのだろうとは思いますが、僕としてはオススメしません。
そんな感じです。

アレックス・ヘイリィ「マルコムX自伝」






俺たちのR25時代(R25編集部編)

人と違う、ということに憧れる。
これは、今を生きる若者に比較的共通する感覚だと言っていいだろう。
よく言われることがある。若者達は、人と違うことを目指しているのに、結局は同じになっている。ファッションも考え方も、どれも何かの受け売りだ、というようなことを。
僕らは、人と違うことを望みながら、一方で、人と違うことを極端に恐れもする。それが、僕らが生きている世界だと思う。
僕らは、何かしたい、と思う。金持ちになりたいし、遊んで生きていたいし、とにかく楽しいことをしたい。そんなことが出来る何かをしたい、と思っている。しかし、その何かは、まるで具体的な形を成していない。過程をすっとばして、結果だけを夢想する。そうして結局、何かが形を結ばないまま、誰もがお決まりのコースへと進んでいくのである。
そうやって、個性のない世代が出来上がる。
何らかの形で世の中のトップに立てる人間は、本当に一握りだ。そこには、運もあるかもしれないし、偶然もあるかもしれない。才能だけあっても、どうにもならないのかもしれない。
しかし、何よりも今は、勢いとかパワーみたいなものが圧倒的にないと思う。
僕は、特別熱いことが好きなわけではない。そういう場があれば、まあ乗り切れるかもしれないけど、特別好きなわけじゃない。そう思う人は、結構多いだろう。
いつからだろう。熱くなることがかっこ悪いことだってなっていったのは。マジになる、っていうのがダサいっていう発想。そういう土壌が、少しずつ何かを壊していったのかもしれない。
あるいは、目指すべきものとの距離が近すぎるのかもしれない。昔なら、どん底は本当にどん底だった。だからこそ、そこから何とかして這い上がってやろうという気概が生まれたのかもしれない。
今は、どんなにどん底でも、そんなに悪くない。そこそこ安定した生活が出来てしまう。ハングリーになりきれない環境なのだろう。そういうことも、関係するだろうか。
何かが終わってしまったということではない。新しい才能は、どんどんと生み出されていく。しかし、それらは、どんどんと消費されるだけで終わってしまっている印象がある。長く続く才能が生まれにくい時代になったのかもしれない。
若い時代をどう過ごしたか。それが、それ以後に人生に大きく関わっていくのだとしたら、今すべきことは何だろう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、R25というフリーペーパーに連載されていた、著名人へのインタビューを、一冊の本にまとめたものです。
計26名へのインタビュー。
とりあえず、名前を列記しておこう。

哀川翔
石田衣良
井筒和幸
糸井重里
忌野清志郎
楳図かずお
江川達也
奥田民生
ガッツ石松
唐沢寿明
京極夏彦
九重親方
笑福亭鶴瓶
高橋名人
武田鉄矢
つんく♂
テイ・トウワ
トータス松本
萩本欽一
福井晴敏
藤岡弘、
布袋寅泰
松尾スズキ
モンキー・パンチ
八嶋智人
吉田秀彦

とりあえず特別共通項はなく、ただそれぞれの分野で何がしか才能を持っている人間をピックアップしているのだろうな、という感じがする。あと、そのインタビュー当時有名だった人、とか。
さてでは語っている内容はどうかと言えば、うーんこれがあんまり響かないんですよね。なんでだろうなぁ。これだけのそうそうたるメンバーで、でも言っている言葉が響かないっていうのは、ちょっと不思議だなぁ、と思いましたね。
まあもちろん、インタビュアーに問題がある場合もあるかもしれないですね。それはちょっと本作を読むだけではわからないのでなんとも言えないんですけど。
なんというか僕としては、ちょっと不満の残る作品でしたね。もう少し各人の思想的なものが全面に出てたら面白いな、と思ったんだけど。もちろんコンセプトとして、「25歳から34歳くらいまでの間どうしていたか」というインタビューだから、過去を振り返るような内容になるのは仕方ないんだけど、それでも僕としては、もう少し現在を語って欲しかったかな、と思います。過去ばっかり語ってても、仕方ないかな、と。
まあそんな消化不良な作品でしたが、割といい言葉もあったので、抜き出してみようと思います。

萩本欽一「ひとりでやったことは感動を呼ばないんですよ」

ガッツ石松「俺が凡人と違うところは”なぜコイツは俺より上なのか”という感性なり、自分なりの”if”かな」

京極夏彦「”こんなつもりで書いたのに、こんなふうに読まれて悲しい”なんて言うのは、職人としては最低ですよね」

京極夏彦「広告は通俗なもんです。通俗として作られたものが、たまさか芸術として認知されることもあるんだろうけれど、それは認知する側の問題であって、発信者が芸術家を名乗るのは筋違いだろうと、強く思ってたんですよ」

京極夏彦「本を”高い!”っていうのは、”価値がない”って言ってるようなもんです」

京極夏彦「読書を楽しみたいと思うなら、一生懸命ツボを探す。面白がろうとして読むことが大事なんですよ」

江川達也「結局、すべての手をつくして、それでもダメならあきらめろ」

吉田秀彦「テレビの報道ってオリンピックになると激しくなるじゃないですか。(中略)いつも優勝してればいいんだろうけど、負けたときに色々と言われるのは一生懸命やっている人間にとっては辛いことなんです」

まあこんな感じでしょうかね。
今、このシリーズの第二弾の、「R25つきぬけた男たち」っていうのが結構売れてて、僕も買ってあるんだけど、どうだろうなぁ。本作みたいな感じだとちょっとまた拍子抜けって感じなんだけど…。
まあ、あまりオススメはできないですね。誰か、尊敬する人や好きな人がいる、というなら買ってもいいとは思いますけど。

R25編集部編「俺たちのR25時代」


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2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)