黒夜行

>>2006年07月

ひとがた流し(北村薫)

人との繋がりというのは、簡単に言葉では言い表せないような気がする。
そう、軽々しく言ってしまえば、そこには物語がある。
物語が生まれるからこそ、人との繋がりが生まれる、と言ってもいいかもしれない。
そしてそれは、祈りですらあるように思う。
舞城王太郎という作家が、確か「暗闇の中で子供」について、物語こそは祈りだ、というようなことを書いていた。
その時、わかった気がした。物語になることがそもそも祈りであり、祈りを介して物語は生まれるのだと。
つまり、大げさな言い方だが、祈りから人との繋がりが生まれるのかもしれない。
僕らは今、人との繋がりがかなり希薄な時代を生きている。
インターネットは、世界を広げはしたが、一方で、人間同士の距離を押し広げもした。
それまでは近くにいることのできた人同士が、インターネットの存在によって、近づけなくなってしまった。
繋がりを得るためにインターネットを使うことで、
日々僕らは、誰かから遠ざかっている。
そんな切ない時代を生きている。
誰もがそれをわかっていて、しかしそこからは既に抜け出すことはできない。
誰もが孤独を感じているのに、生身の人間との付き合いを広げることができない。
まるで、インターネットをした時間に比例して人間関係が深まるのだと錯覚しているかのようだ。
そんな中で、親友という存在はなかなか生まれにくいものだ。
僕は昔は、友達はいるかと聞かれることが怖かった。なんと答えればいいかわからなかったからだ。僕からすれば友達だと思っている人が、自分のことを友達だと思っていないかもしれない。だから僕は、友達ということばに少し敏感だったと思う。
今では、多少変わった。友達がいるかと聞かれれば、いると答えられる。もちろん、相手が自分のことを友達だと思ってくれているという確信は、今でもない。ただ、友達というのは、一方的に思っているだけでも成立するんじゃないか、とまあそんな風に考えることにしたからである。
しかし、親友となると、なかなかそうはいかないだろう。
僕は、親友はいるかと聞かれれば、困るだろう。なんと答えようか。僕のことを親友だと思ってくれる人はいるだろうか?いなくてもいいのだけど、もしいるのだとしたら、「親友はいない」と答えるのは悪い。悪いが、しかしなかなか「親友はいる」とは言えないものである。
親友とは、どんな存在なのだろうか。優しさとか信頼とか、そういうものもあるかもしれないけど、僕はこう思う。
自分の隣にいついても不自然ではない人。
自分でこう定義してしまうと、自分には親友はいないかもしれないなぁ、と思ってしまう。さすがに、自分の隣にいついても不自然じゃない人は、いないだろうなぁ。
僕は、親友はいないのだろうし、友達は少ないと思う。基本的に人間関係が閉鎖的で広がることはないし、その閉鎖的な人間関係の中にすら、億劫がってなかなか出て行かないことすらある。
でも、こんな想像をしてしまうのも事実だ。
例えば今から20年経って、おじさんと呼ばれるような年代になったとしよう。その時に、僕には友人と呼べる人が一人でも残っているだろうか、と。
そのことを考えると、少し怖くなる。孤独には結構慣れているつもりだけど、でも、人間関係が完全に閉塞してしまうのは、やはり哀しいだろうし、孤独だろうと思った。
だからと言って、今から社交的になれるわけでも、自分から何かを切り開いていけるわけでもない。なんだか先のことを考えると、不安である。
僕の性格では仕方のないことだ。しかし、閉鎖的な人間関係が閉じてしまわなければいいな、と正直祈っている。
そろそろ内容に入ろうと思う。
が、本作はなんとも内容の紹介がしずらい。
特に何が起こるわけでもない、淡々とした日常を描いているだけだからだ。
北村薫としては珍しい。<日常の謎>系のミステリを書き続けてきた著者が、初めて<日常>だけを描いたのではないか、という感じがする。北村薫らしさは健在であるが、やはりミステリ色のない作品は、少し淋しいなぁ、と思う。北村薫のミステリのキレが抜群であることを知っているだけに。
物語は、学生時代に出会って、紆余曲折を経て今でも友人関係にある、40代の女性3人を中心にして描かれる。
ある放送局でアナウンサーをしている千波。社内ではもう大分先輩になってしまった。春から、念願だった異動が叶うと知り、頑張ってきた自分を振り返っている。結婚はしておらず、ネコのギンジローと一緒に生活をしている。
作家である牧子。結婚して一人娘であるさきをもうけたが、その後離婚。母一人娘一人の生活をしている。さきは高校生で受験生だ。時々ギンジローの世話をしている。
専業主婦の美々。専業主婦と言っても、カメラマンである夫のマネージャーのようなこともやっている。今の旦那とは二度目の結婚だ。一度目の結婚で生まれた娘・玲とは、本当の父娘のように仲がいい。
この3人を軸として、なんでもない日常が淡い色彩をもって描かれていく。千波が出張で四国に行く、さきの案で青山のライブハウスに行く、玲が写真にのめり込んでいる。そういう、日常の何でもない風景が、静かに、そして丁寧に描かれていく。
そんな中で、同時に進行していく破壊の影。どこか壊れていきそうな何かを抱えた人びとは、それぞれの思いを胸に、真っ向からそれに対峙しようとする。逃げずに、堂々と。
日常を紡がれることによって浮き上がる些細な変化と、重い決断を迫られるいくつもの場面。そういう波を経て、親友の絆は深まっていく…。
というような話です。
読んでいて、これに似た雰囲気を持つ小説を読んだことがあるなと思って思い出したのが、江國香織の「思いわずらうことなく愉しく生きよ」である。あちらは3姉妹の話だったが、こちらは3人の友人の話である。しかし、漂う雰囲気は結構近いと思った。それぞれに個性のある3人が織り成す、何でもない日常とそこから派生する破壊。そうしたものを静かに切り取った作品である。
北村薫というのは、元々は短編を中心に書いていた作家であるが、その名残りなのか、はたまた落語なんかが好きな影響なのか、本作は、とにかく短い落語の話を無数に繋げて長編にしたような、そんな印象がある。落語を聞いたことはないけれど、イメージでは、一つの話が2、3分の話もあるだろう。そういう短い落語をいくつも無数に繋ぎ合わせて物語が出来ている感じがする。
あるいは、ショートショートを無数に繋ぎ合わせた作品、というような言い方もできるだろうか。とにかく、どの場面でも、些細だけれどもどうでもいいということはないエピソードが語られて、その集積で物語が出来上がっているという印象だ。語り手の吐息で出来上がった物語、と言えるかもしれない。
誰もが、どんなに平凡に見える日常の中に、何かしらを抱えて生きている。それを悟られないようにしたり、あるいは打ち明けたり、そういうことは人それぞれだろう。ただし、なかったことには出来ない。どんなに消したい過去でも、どんなに忘れたい出来事でも、なかったことにはならない。なんというか登場人物達は、それをわかっていてなお前を向いて歩いている。そんな印象が強かった。

『…女同士だったから、ただの友達で、…会わない時には、一年以上も会わなかった。…でも、今、考えてみれば、そんな時でも、あなたが…この世のどこかに、確かにいてくれるってことが、ずっと…わたしの、支えだった』

こんなことは、なかなか言えるものではないだろう。
なんとも言えない優しい余韻を残す物語です。ミステリではない、北村薫の物語。どこまでも淡く、どこまでも優しい物語、読んでみてください。

北村薫「ひとがた流し」



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ある10代の日記(冨増寛和)

僕は、人間には多様性を求めるけれども、メディアには統一性を求めている。
つまり、一個の存在としてまとまりがあるか否か、である。
例えば、僕はこうしてブログを書いている。でも、このブログには、本の感想しか書かない、と決めている。これが、統一性、である。あるいは、編集されているかいなか、ということだ。もう一つブログを持っていて、そちらの方にはまとまりのない雑多なことを書いているのだけれど、しかしそちらは、メディアとして機能させようというよりも、友人に対して俺は生きてるぜ、という証としての機能を持たせているつもりなので、まあ何を書いてもいい、ということにしている。
ブログにもいろいろあって、でも僕が受け入れられないのは、とにかくとりとめのないいろんなことが書かれているブログだ。サッカーの話が書いてあると思えば本の感想を書き、食べに言ったレストランの話があるかと思えば芸能人についてのあれこれを書いている。
なんというか、こういうブログは、統一性がない故に面白くないと思う。そういうサイトは、運営している個人に関する知識がそもそもない状態では楽しむことは難しい、と思っている。
ブログに限らず、あらゆるメディアには統一性が必要だと思っている。
テレビ、新聞、本などはゆうに及ばず、広告やパンフレットなんかでも、とにかくメディアとして何かを発する媒体には、統一性が必要だと僕は思っている。
例えばブログの場合、「日記」とタイトルをつけてしまえば、何を書いてもいいということになってしまうだろう。テレビなら「ノンフィクション」とか「ルポ」とかつければなんでも番組になるかもしれないし、新聞なら「?」をつけさえすればどんなものでも記事にできてしまうのかもしれない。
しかしそういうのは、編集されていないが故に統一性を欠き、だからこそメディアとしての意味が弱まるのではないか、と僕は思っている。
例えば、僕の中で今年読んだ本1位の「私を 見て、ぎゅっと 愛して」は、元々ウェブに載せていた日記だった。あの本を、「日記」とタイトルをつけて本にすることも、まあ出来ただろう。なんと言っても、日記であることは間違いないのだから。
しかし、日記であると同時にあの本は、物語でもあった。物語として編集されているが故にメディアとしての価値があるし、傑作になりえたのだと僕は思う。
「日記」とタイトルをつければ、何でも無編集にメディアとして成立する、というのは間違っていると僕は思う。
本作の著者は、人間としての多様性については間違いなくずば抜けているだろうと思う。興味深い人間である。しかし、「日記」と名付けてしまった本作は、メディアとしての存在価値が、少なくとも高いということはないだろう、と僕は感じてしまいました。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
冒頭からの話で本作を貶しているような感じだけど、それは「日記」というスタイルを取ってしまった外見についてであって、中身については決して悪いものではないかな、ということをまあ先に書いておきましょう。
さてまずこの作品を読むことになった経緯から。
本作は、バイト先のあるスタッフに、読んでみてくださいよ、と勧められたものでした。話を聞くと本作の著者は、そのスタッフの友人の知り合い(というわけで僕とはまったく無関係の人なんだけど)ということで、そんな人が本を出してることを知って勧めたという経緯でした。
さてそんな本作ですが、内容は確かに「日記」ですね。雑多なものが整理されずに無秩序に並べられていて、正直、こんな形式の本が出てしまうということは、間違っているような気がしました。なんらかの形で、もう少し編集するべきだったのではないか、と思います。
内容については、まあいろいろ書いていますが、純粋な日記を除けば、僕がこの感想で書いている文章に似ている文章が多いですね。
僕のこの感想の文章は、「まえがき・内容紹介・感想」という三つに分かれるのだけど、その「まえがき」の部分に似たような文章が結構多かったですね。だから、思想や価値観なんかは似ているとは思えないけど、同じような発想から文章を書く人だな、と思いました。
まず冒頭で、「本を読むべきか否か」についての考察があって、これはなかなか興味深いものがありました。友人と議論したという内容については、さほど新しいことを言っている感じはしなかったのですが、その後、レストランと食材になぞらえて、本を読むということを捉えている箇所は、面白いなと思いました。こんな感じです。

『さきにも述べたが、レストランに入り飲食を楽しむような気分で、著者のひねくれた思想・意見を綴ったこの本を読むべきではない。本の中にあるものは食材の切れ端である。決して完成料理ではない。火の通っていないナマモノを安易に口にすれば食中毒を起こさないとも限らない。それらの食材をひややかな目で見つめ、ひろい上げ、充分に吟味し、独自の調理をもって手料理に仕立て上げるべきは読者自身である。』

この喩えは、なるほどその通りだな、と思いました。本に書かれているものは食材であって、完成料理ではない。それらの食材をどう調理し完成品にするかは読者自身だ、という考えは、なるほど、あらゆる読者が頭の片隅に入れておくべきことだな、と思いました。
というわけで以下、なるほどなぁ、と思った意見や思想なんかをざっと取り上げてみようかと思います。

「絵画について」
『現代美術は好きじゃない。解説なしに理解できないのなら、そもそも絵として表現する意味なんかない』というような文章がありました。
これはなるほどその通りだな、と思いました。僕は絵画には明るくないので小説について書こうと思うのだけど、僕にとっての現代美術というのは、昔の文豪の作品に当たります。
昔の文豪の作品は、いい小説だとされています。しかしそれらは、僕にとっては解説なしには理解できない作品です。国語の授業でやるのも、解説が必要だから、でしょう。それは、書かれている内容が難しいとかそういうことではなく、書かれた時代やその時代の思想について僕らが知識を持っていない、という理由からであって、だからこそ解説が必要なのだけど、でもそこまでしてそういう小説を読もうという気になれません。
同じく、時代小説というのも苦手です。僕は、歴史というものについて果てしなく無知で無関心なのだけど、時代小説というのは前提として、ある程度の歴史的事実を知っているべし、というものです。これも、解説なしに理解できないもの、に加えてもいいでしょう。
とにかくそういうわけで、芸術にしても小説にしても何にしても、解説なしに理解できないものというのは、もはや娯楽を通り越して学問であって、そういうものは面白さが伝わらないものだろうな、と思いました。

「おとなとこどもについて」
『子どもを叱る必要はない。まずは子どもと自分を対等な立場として認識すべきである』というような文章がありました。
これに関連して、僕は普段からこんなことを思っています。
もし万が一僕が結婚するようなことがあって、そしてもし万が一子どもが生まれるようなことがあれば(可能性としてはどちらも驚くべき低さですが)、僕は自分の子どもに「お父さん」とか「パパ」とかは呼ばせない、と決めています。じゃあどうするのかと言えば、名前で呼ばせようと思っています。
日本人というのは、苗字や役職名で人を呼ぶことが多いような気がするけど、それはある程度の立場の違いとかを感じさせるし、親しみを湧かせる様な呼び方でもありません。
僕は、子どもと親は対等であるべきで、友人のように接することが一番いいと思っています。だからこそ僕は、自分の子どもには、名前で呼ばせよう、と思っています。小さな一歩ですが、大切ではないかな、と思います。

「愛について」
著者は、何故愛というものが存在するのだろうか?ということについて思考しているのだけど、その思考の果てに行き着いた結論がなかなか面白いものでした。
それは、
『愛というものが世界のバランスを良い意味で損なわせているものだ』
というものだ。
まあ説明が必要だろうけど、例えば愛のない世界では、人間がとり得る行動や、そのために世界に与えられた未来への選択肢は少ないだろう。
しかし、愛があれば、兄弟愛、人間愛、自己愛や、純粋に他人を愛する気持ちから、人間は様々な行動をする。つまり、未来における選択肢は増え、それによって人間や世界は益々広がりを見せる。
つまり、将来的な予測不可能性を上げるために、愛というものがあるのではないか、というものである。
これは、エントロピーが増大する方向に世界は向かっている、という発想と似たようなもので、なるほど面白いことを考えるものだな、と思いました。愛とは、予測不可能性を高めるために人類が編み出したものだ、なんて、なんてロマンのない結論だろう!

「少年犯罪と生育環境について」
この中で著者は、子どもが見る「親の姿」こそ、もっとも影響力のある教育なのだろう、と書いています。
僕はこの意見を、別の著者の作品の中でも読んだことがあります。
森博嗣という作家の著作のあらゆるところで、子どもへの教育というものについて触れられているけれども、つまりそれは、「親の姿」を見せること以外のなにものでもない、というような話でした。森博嗣自身は、子育てというものをまったくしなかったようですが、とにかく楽しく遊んでいる姿を子どもに見せることがいいという考えだったようです。
僕も、「親の姿」が子どもに与える影響は非常に大きいだろうな、と思います。僕は子どもの頃、両親の喧嘩というものをよく見たのですが(非常に狭い借家に住んでいて、自分の部屋というものがなかったので、必然夫婦喧嘩も居間で行われるのでした)、母親が明らかに理不尽な理由で父親に当たっていて、そうやって父親に当たる母親も、理不尽だと分かっていながらそれに反論しない父親も、同時に嫌いになりました。僕は正直、反面教師として、親からかなりいろんなことを学んだと思っています。
森博嗣のように、教育などという概念は幻想だ、というところまでは思いませんが、少なくとも、親の背中というものが一番大きな教育だろうな、とは思っています。

まあそんなわけで、内容的にはいろんなことが書いてあってまとまりはありませんが、一つ一つに内容についてはそれなりに面白いなと思うものがありました。まあ時には、論旨のよくわからないものもありましたが、冒頭で著者が、今読み返すと稚拙に感じられる、と書いているので、まあそういうところは目をつぶろうではないか、と思います。
あと、どうやら恋愛に悩んでいるのだろうか?と思うような箇所が何度かあって、詳細はさっぱりわからないのですが、まあそれも10代の日記だったということでよしとしましょう。
「日記」という、まとまりのなさすぎる形式についてはちょっと納得がいきませんが、一つ一つの内容はまあ悪くはないでしょう。まあオススメはしませんが、立ち読みくらいでさらさらと読むみたいなのはいいかもしれません。

冨増寛和「ある10代の日記」



赤い指(東野圭吾)

考えたくもないこと、考えるのを先送りにしたいこと、というのはたくさんある。
というか、僕にですらある。
こんな言い方をするのは、周囲の人間は、些細なことでも先送りにしているなぁ、という風に感じるからだ。
例えば夏休みの宿題。僕が今まで出会った人間の9割は、夏休みの最終日になんとかする、と答えたものだ。僕は、夏休みに入る前に宿題なんか全部終わらせてしまうような人間だった。どう考えても、その方が効率がいいし、面倒にならない。誰もがそれをわかっているはずなんだけど、でも多くの人は、宿題というめんどくさいものを後回しにするようだ。
また、最近よく聞くのが、公共料金の振込みである。
僕は銀行引き落としなので関係ないのだけど、周囲の人間には、まだコンビニなんかで支払いをしている人がいる。いやそれ自体はどうでもいいのだけど、ただ支払いを出来るだけ先に延ばそうとする、らしい。それで、結局止められたりしてしまうわけだが、僕なんかからすれば、早く払えばいいのに、という感じである。わざわざ面倒臭くなることがわかっているのに、どうして先手を打って行動しないのだろうか、と思ってしまうのである。
というわけで僕という人間は、なるべく先手を打って布石を打って、後々面倒臭いことにならないようにしよう、と考えている人間なのである。
そんな僕ですらも、先送りにしたことがある、という意味である。
例えば、自分の老後のこと。
僕は年金を払っていないのだけど(あのシステムは崩壊するだろうと、崩壊とまではいかなくても、確実に破綻とみなされる方向へ進んでいくだろうと思っているので)、だからと言ってじゃあ自分の老後をどうするのか、なんてことは、大して考えていない。貯金はしているけれども(自分では普通だと思っていたのだが、周囲の人間に言わせると、結構驚くぐらい貯金をしている、ということらしい)、まあそれくらいだ。自分の中では、まあ50代くらいで死ねたらいいなぁと思っているので、そもそも老後なんかない、とまあそんな風にも思っている。さてさて、うまくいくだろうか…(こういうことは楽観的である)。
さてもう一つ。自分以外の老後についても考えなくてはならなだろう。
親の老後である。
さて、このブログでも何度となく書いたことだけれども、僕は両親というのがとにかくダメである。子どもの頃から、とにかく関わりたくない存在だった。なのに、親の前ではいい子を演じる、という、自分なりには結構歪んだ子ども時代を過ごしたと思っているので、なおさらである。
さて、その親の老後についてである。僕は長男である。だから、なにがしかの責任は、まあ社会的にはあるのかもしれない。
しかし、無理だろう。自分の感情的に無理である。両親の老後の面倒を見るということが、どうしても自分の感情的に難しい。まずその前に、クリアしなくてはならない問題が山積みだ。両親に対しての負の感情をまずは消化する、とか。
最近は、痴呆症(認知症という呼称に変わったが、どうにも使いづらい。やはり一旦定着した名前を変えるのは難しいと思う)の問題などもある。痴呆症にならなくても、足腰が弱ったり、病気になったり、とにかく誰かの介護が必要な状況になることは間違いないだろう。
そういえばこの感想を書いているまさに今思い出したのだけれども、父親からこのあいだメールがあって、家を買うとか建てるとか、そんな話だったような気がする。うちにそんな金があったのか、と思う一方で、そういうお金は老後の自分達の面倒を見るためのお金(施設に入るとか)に使ってくれないかな、と思ってしまったことを思い出した。
酷いものである。
しかし、どこの家庭でも同じような問題を抱えているのに、誰もが先送りにしようと考えていることは間違いないだろう。結婚をする時に、相手の両親の老後について考えることなんかまずないだろう。相手の家族なんか関係ない、という風に思うことはないだろうが、いやいや何かあるにしたって全然先のことだよ、と誰しもが思ってしまうだろう。
本作の中ではこんな風に書かれていた。高齢化社会になっていることは誰の目にも明らかだったのに、国が大した対策を取らなかった。だからそのツケを今、個人が払わされているのだ、と。
その通りである。明らかに高齢化社会で、それはこれからもどんどんと、若者の負担となっていくだろう。
僕は、ある意味で対策を取っていると言えるかもしれない。自分の家族と出来うる限り距離を置く、という形で。僕は、両親への嫌悪だけを背景に、今の一人ぐらいの生活を始めた。両親との接触はほぼないし(つい先日祖父の葬儀があって、そのために久々に地元に戻った。その際に、久々に両親に会った)、連絡も、たまに父親からメールが来るくらいだ。
あらゆる意味で布石を打った行動を取る、という自分の資質は、こんなところにも活かされてしまっているのかもしれない、とそんな風に思った。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、東野圭吾唯一のシリーズキャラクターだと言える加賀恭一郎が久々に登場するミステリです。
加賀の父親で、松宮の叔父でもある隆正は、今入院している。癌、だそうだ。死期は近い。ただどうやら、加賀は見舞いには来ていないらしい。松宮はそんな加賀に対して、冷たいという印象を拭えない。
松宮は、隆正によくしてもらったという記憶しかない。隆正のお陰で、人並みの生活が出来たと言ってもいいほどだ。いわば、恩人である。ならば、最後まで彼を看病しよう、と誓う。
松宮は警視庁捜査一課の刑事だ。恩人である隆正に憧れて刑事になった。ただ、殺人事件はかつて一度しか扱ったことがない。まだ新米である。
一方、前原昭夫は会社にいる。定時は過ぎている。大した仕事があるわけでもない。しかし、会社に残っている。
そんな折、妻八重子から電話がある。すぐに帰ってきて欲しい、というのだが、何が起こったのかわからない。釈然としないながらも、漠然と政恵のことを思った。昭夫の母親であり、妻八重子とそりの合わなかった、今ではすっかりボケてしまったあの政恵が何かしたのだろうか、と…。
家に帰ってみると、なんと少女の死体があった。なんということだろう。聞けば、息子の直巳がやったのだという。
目の前が暗くなるようだった。信じられないが、死体が転がっているのは事実だ。警察に電話をしなくては…。
その思考を八重子が遮った。警察はダメ。警察に知られたら、もう私達終わりだよ。直巳の人生、無茶苦茶になっちゃう。
とにかく警察に知らせる気のない八重子。昭夫の理性は警察に突き出すべきだと判断しているが、しかし八重子は納得しない。
仕方ない…。
昭夫は腹を括った。死体を捨てに行くことに決めた。もう後戻りはできない…。
というような話です。
東野圭吾は、さすがですね。いろんなジャンルの作品を書く作家ですが、やはりミステリを書かせた時のキレは抜群だと思いますね。
倒叙形式(犯人が誰なのか分かっているミステリ)というのはもう普通になってきたけど、でもただの倒叙ミステリではないですね。つまり、犯人がいかに犯行を隠すのか、というだけではない、ということです。いやもちろんその行動は、犯行を隠すための一つの方策なのだけど、しかしこの発想は恐ろしいものがありますね。
ただ、もし自分だったら、と考えてしまう人は多いのではないでしょうか?正直言って、このアイデアは魅力的なものだと思います。すごく不愉快な言い方になるだろうけど、一石二鳥のアイデアです。人間としては最低でしょうが、少なくてもそれを採るかどうかで揺れる気持ちは理解できてしまいます。
また、加賀による解決も、もう見事なものですね。加賀は、いよいよ解決だ、というところで、こんなことを言います。
「刑事というのは、真相を解明すればいいというものではない。いつ解明するか、どのようにして解明するか、ということも大切なんだ」
恐らく、こんな風に思っている刑事は少ないだろう。もちろん、被害者に親身になってくれる刑事や、加害者に同情をする刑事もいることでしょう。しかし、絶対数としては多くない、というのが勝手な印象です。それよりも、手柄を求めて人の気持ちを考えない刑事、というのが、やはりイメージに合ってしまいますね。
だから、本作での加賀の解決の仕方というのは、すごくいいですね。少なくても、救いがある。救いの場を提示出来ている。ちょっとよかったですね。
あと本作を読んで思ったのが、前原家の人々の人間臭さみたいなものですね。
特に、八重子という女性が、僕の中の女性像とぴったりで、さすがだな、と思いました。
僕の中で女性像というのは説明すると、女性というのは結論まずありきだ、ということですね。
これから書くことは、男と女どっちが優れているとかそういうことではなくて、それぞれそういう性質だということなんだけど、女性はまず結論ありき、男はまず論理ありき、ですね。
だから、息子の直巳を警察に突き出そう、という話になった時に、昭夫は論理的に考えて、この状況を脱する方法はないから直巳を警察に突き出そう、と考えます。
しかし八重子は、まず結論ありき、つまり、直巳は絶対に警察に突き出さない、という結論がまずあるのです。そのためにどうしようかというアイデアも、論理的に考えたらそれは不可能だという判断もなくて、まずはその結論が大きく横たわっているわけです。
恐らく女性は、いずれ母親になるためにそういう性質を持って生まれるのだろうな、とそんな風にさえ思いました。
あと直巳という中学生は、最悪ですね。殺人という大罪を犯していなくても、最低ですね。いやいや待てよと。人殺しをしたのはお前だぞ、と。それでその態度はなんだよ、と。これに関しては、昭夫の憤りや怒りは当然だし、そんな直巳を常に擁護しようとする八重子の判断は間違っていると思うのですが。
とにかく、自分だったらどうだろうか、ということを強く考えてしまう作品だと思います。
最後に。物語の終わり方がよかったですね。本作における加賀という男の描かれ方がどうにも腑に落ちなかったのですが、最後ですべて理解できました。余韻も最高です。
ただ、唯一難点を挙げるとするならば、物語そのものではないのだけど、『構想6年』という触れ込みですね。
今確認したら、本の帯や本自体にはそんなことは書いてなかったんだけど、この作品が紹介される時は(POPやamazonでの紹介など)、この『構想6年』という文字が躍ります。
しかし、それは違うだろう、と思いますね。確かに、本作は1999年に雑誌に掲載された「赤い指」という小説を元にして作られた書下ろしの小説らしいけど、6年考えてたような作品ではないと思いますね。久々に長編の書き下ろしでもやるか、でもなんか素材はないか、あぁそういえば前にこんな作品書いたなぁ、じゃあこれを下書きにして書いちゃえ、という感じで書かれたんじゃないかなぁ、という気がします。だって、あの緻密にして長大な「天空の蜂」を書いた時だって、取材3年執筆1年だって言ってたわけで、まあそれと構想とは違うのだろうけど、でも『構想6年』は言いすぎだよな、と思うわけです。
あと、東野圭吾の作品にしては、装丁が地味じゃないかな、とも思いました。
まあ内容は、さすが東野圭吾と言った感じです。内容以外について多少難点を挙げてみましたが、内容はもうばっちり面白いです。是非とも読んでみてください。

東野圭吾「赤い指」



アラビアの夜の種族(古川日出男)

物語は存在し、
物語は語られる。
物語は読者を求め、
物語は読者を選ぶ。
物語は時間を重ね、
物語は時間を紡ぐ。
物語は空間を超え、
物語は空間を生み出す。
物語は偶然を装い、
物語は必然を創造する。
物語は生み出され、
物語は壊される。
物語はどこまでも続き、
物語はいつまでも失われる。
物語は力を持ち、
物語は意味を持つ。
物語は今日を終わらせ、
物語は明日を呼ぶ。
物語は物語を生み、
物語は読者を生む。
物語は永遠を獲得し、
物語は永続を知悉する。
物語は底を失い、
物語は天を貫く。
物語は過去を塗りこめ、
物語は未来を繰り込む。
物語は歴史と並び、
物語は物語と並ぶ。
物語は完璧を目指し、
物語は完成を抱く。
物語はすべてと等価であり、
物語は無と等価でもある。
連綿と語られ続ける物語。
失われることのない物語。
永遠を体現する物語。
空間を飛翔する物語。
すべてが物語であり、
物語がすべてである。
世界は物語であり、
物語こそが世界である。
物語には、力がある。
僕らは、その力を見失いがちかもしれない。
語られることで威力を発揮する力。
紡がれることで成果を生み出す力。
世界は一編の物語であるという真理。
その力を、僕らは見失いがちかもしれない。
真の物語であるということ。
変化を生み出し、力を誇示するということ。
正しさが組み込まれているということ。
物語のすべては、読者に委ねられている。
どう紡ぐかではなく、
どう読まれるか。
いやむしろ、読むという行為そのものが既に、紡ぐということなのかもしれないが。
物語と対峙できるのは読者のみであり、
読者の前のみに物語は提示される。
その物語を、そのすべての物語を、僕は取り込みたい。
物語の真の力を知り、そのすべてを飲み込みたい。
物語として生きるということ。
語られるということ。
紡がれるということ。
物語そのものであるということ。
それはまさしく究極であり、
それこそが永遠なのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「アラビアの夜の種族(英題:THE ARABIAN NIGHTBREEDS)」という、作者不明の物語を翻訳した、という形態をとった作品です。というか、実際その元となった物語があるのかわかりませんが、恐らくないのでしょう。巻末に著者のあとがきで、その「THE ARABIAN NIGHTBREEDS」との出会いについて書かれているのだけれども、まあそれも虚構なのだと思います。
こういう形式の本は割とあって、最近では北村薫が、エラリー・クイーンの未訳本が発見された、という設定で、「ニッポン硬貨の謎」という作品を発表したのが記憶に新しいところです。
さてそういう「翻訳本」の体裁をとった作品ですが、では内容に入りましょう。
これもまた複雑なのです。
聖遷(ヒジュラ)暦1213年(西暦1798年)のエジプトはカイロ。これが本作の舞台設定です。
アイユーブという、優秀であらゆることに秀でた優秀な人間がいます。
このアイユーブは、当時のエジプトを治めていた23人のベイ(知事)の一人、イスマーイール・ベイのマムルーク(支配階級奴隷)の一人でした。ただし当時における奴隷というのは今とはイメージが異なり、ある意味で優遇された地位だともいえます。
さて、そのアイユーブですが、当時のエジプト情勢にあって非常に重大な姦計を仕掛けようと策略を練ります。
まずは当時のエジプトの情勢を紐解きましょう。
当時のエジプトにあって、一つの噂が流れていました。それは、フランス軍がエジプトに攻めてくる、というものです。それは事実であって、その先頭を切る将軍は、なんとあのナポレオンなのです。
さて、ではエジプトの人びとは不安を感じていたかと言えば、そうでもありません。自国の軍は最強だと思っていたわけで(それは甚だ見当違いもいいところだったのですが)、フランス軍が攻めてこようがなんのその、と思っていました。
エジプトの大半の人々と、23人のうちの22人までのベイが。
ある一人のベイだけは違っていました。それが、イスマーイール・ベイです。マムルークにして当代切っての知恵者であるアイユーブに諭され、フランス軍の脅威を膚で感じていたのです。
そんな時にアイユーブが、一つの姦計を提案します。
それは、ある伝説に基づいた計略でした。
昔々、表の歴史とは切り離された裏の歴史があります。
ある一冊の本に関する歴史です。読むものを魅了して病まない魅惑の書、読む者と「特別な関係」に陥ってしまう書。そうした本に関する伝説です。
今のエジプトと同じく他国に攻め入られた時、ある者がこう提案しました。読むものを魅惑して病まない本がある。それを、敵国の大将に差し出せばいいのではないか、と。
早速、敵国の言葉に翻訳する作業が進められました。しかし翻訳者もまたその書に見入られ、原本と共に姿を消してしまった。
『災厄の書』と名付けられた伝説の書に関する物語。アイユーブはイスマーイールにこう提案するのです。
この『災厄の書』を、ナポレオンに献上しようではありませんか…。
しかし、アイユーブのその言はまるきりの嘘。『災厄の書』など、存在しません。しかし、アイユーブの計略は揺るぎません。
何故か。
そう、彼は今からその『災厄の書』を創り出そうと考えているからです。伝説と呼ばれた語り師によって語られる長大な物語を書にまとめ上げることで…。
というような物語です。
さて本作は、前半はもうとにかく最高でした。文庫では全3巻なんだけれども、2巻の途中くらいまでは、もう最高に面白くて、読むは読むは、止まりません。物語に引き込まれること引き込まれること。その力は本当に傑作のそれでした。
しかし、後半に入ると、どうにも僕にとっては心地悪い物語になっていきました、後半読み進めれば進めるほど、どうにも割り切れない感じになっていって、なんか違うなぁ、という感じになってしまいました。
そもそも、アイユーブによって新たに創り出されようとしている(あるいは伝説の語り師によって語られ続けられている)『災厄の書』というのは、大きく二つに分けられます。
前半は、後々絡み合う3人の主人公の生い立ちや歴史などを綴っていて、後半はその3人が邂逅し展開される物語、ということになっています。
その前半部分、つまり主人公3人の生い立ちに関する部分は、もう最高に面白いですね。これはほんとに最高でした。どこがとか何がとかではなくて、もうこれぞ古川日出男だ、というようなもので、とにかくその圧倒的なパワーと幻惑的な言葉遣い、そして人を喰ったような会話など、とにかく魅力溢れる物語でした。
しかし後半の、3人が邂逅してからは、どうにも変な話になっていって、途中途中理解できない部分も結構あったし(夢がどうちゃらとか)、展開がどうにもごちゃごちゃで、無茶苦茶なのは古川日出男らしいんだけど、でもちょっと僕には合わないなぁ、という感じでした。
前半と後半で僕の中でここまで評価の分かれる作品なので、全体としての評価は非常に難しいのだけど、でも一読する価値のある作品だ、ということは出来ます。
本作はとにかく、言葉というものが無尽蔵に費やされる物語で、本当に知らない単語、知らない漢字のオンパレードでした。よくこんな言葉知ってるな、という感じで、著者の博識さに驚きました。大げさな言い方だとは分かっていますが、広辞苑に載っている言葉の半分は、本作の中で使われているのではないか、と思うほどの言葉の量でした。
また、ルビの振り方も独特で、多様な言語感覚が刺激的な作品でした。
あと本作は、古川日出男の作品にしては、文章が非常に読みやすかったです。まあ、古川日出男の文体は本当に独特で、どの作品を読むのにも非常に時間が掛かるんだけど(まあ本作も読むのに無茶苦茶時間が掛かりましたが)、でも本作はその中でもかなり読みやすい作品だったなと思います。
日本推理作家協会賞と日本SF大賞を受賞し、このミス12にもランクインしている作品です。類似する作品が思い浮かばないという点ではもう比類ない作品だということは出来るでしょう。向き不向きははっきり分かれる作品だとは思うけど、でもこの才能には是非触れて欲しい、と思います。

古川日出男「アラビアの夜の種族」







書店風雲録(田口久美子)

何度でも言うけれども、やっぱり本屋というのはいい。すごくいい。
本当に面白い仕事だと思うのだ、本屋というのは。もちろん、たくさんの仕事をして比較したわけではないからわからないけれども、他の仕事にはない面白さが本屋にはあると思う。
それは、一言で言えば、関連付ける、ということだと思う。
何かを売るという仕事は世の中にたくさんあるけれども、その大半は、個々のモノを売っている。眼鏡屋は眼鏡を売っているし、服屋は服を売っているし、レコード屋はレコードを売っている。
しかし、本屋は決して本を売っているわけではないのである。
いやもちろん、本を売っていることは間違いないのだけど、そうではなくて、本屋というのは、本と本の繋がりを売る仕事なのである。
以前書店に関する別の本を読んだときには、その繋がりを売るということを編集と呼んでいた。本屋は、本を編集するところだ、と。
例えばそういう意味で、本屋は図書館とはまるで違う場所である。
図書館は、いかに本を分類するか、という場所である。本の内容を判断し、それにあった分類を振る。そうして、効率のいい収蔵をするということが図書館の目的である。
しかし本屋はそれとは違う。便宜上ある程度の分類は必要だが(例えば、文庫や実用書や理工書を分けることなど)、しかしそれは本質では決してない。本屋の本質は、本を売り場において編集することで、単体の本としての価値以上の価値を引き出す場、だと僕は思っている。というか、そういう売り場作りができることが、理想の本屋だと思うのである。
ただ残念ながら現実的には、編集を行えている本屋というのは少ない。
僕はあまり外に出ない人間ではあるけれども、それでも知らない街に行くようなことがあれば、必ず本屋を探して中を覗いてしまう。本屋で働く前は、まあどんな本があるかな、という興味からだったが、今では、どんな売り場作りをしているのだろう(特に文庫)という観点から本屋を見るようにしている。
しかし、なかなか心を動かされるような本屋というのはない。その時売れている本を並べ、ベストセラー作家と呼ばれる作家の作品をまとめて並べ、置き方に特に工夫があるわけでもなく(編集という意図が感じられない)、つまりどこにでもある普通の本屋の光景がそこにはある。
これは最近よく思うことで、どこの本屋に言っても同じようにしか僕には見えなくなってきた。売り場面積の広い本屋であれば、その広さを活かしていろんなことをするだろうしそれで差別化もされるのだろうけど、小規模・中規模の店というのは、意識的に工夫を凝らしていかなければ、どこも同じような売り場になってしまう。どこに行っても同じような光景しか見られない。これは、すごくつまらないことだと僕は思う。
僕自身はどうか、という話をしようと思う。僕は、少なくとも意識の上では、どこにでもある本屋にはしたくない、と思っている。というか、それを念頭につねに仕事をしているつもりである。
一般的に売れていない本でも仕掛けてみる・とりあえず置いてみる、売り場を意識的に常に変化させる、うちの店で売れているものを見極める、など、まあ言葉にするのはなかなか難しいのだけど、結果が出ているかどうかは別として、なるべく他の店との差が出るように努力するようにはしているつもりである。
僕には一つ持論がある。
本屋に本を買いに来る人には、2種類のタイプがいると思う。一つは、ある決まった本を探しに来る人、もう一つは、何か面白い本はないかなと思って本屋に来る人。
僕はとにかく、後者のような人が楽しめるような店作りにしたいと思っている。モットーは、「毎日来ても2時間は楽しめるような売り場作り」である。まあ、まだまだ努力することは多いのだけど。
なんとなく書店員をしているという人が結構多くなってきたのではないかと思う。何かの本に書いてあったが、書店員の商品知識が絶望的に低くなっている、そうだ。確かに、日々出版される新刊の洪水を網羅することは不可能だ。それでも、基本的な知識のない書店員が多すぎる、ようだ。
だからこそ、画一的で個性のない売り場が出来上がってしまう。それは、昔から本屋が好きだった僕としては、非常に哀しいことである。
僕一人の努力でどうにかなるなんて、まさかそんなことは思ってないし、全国には恐らく、もっと本屋を楽しい場所にしよう、と頑張っている人がたくさんいるだろうと思う。
今は、本屋は情報に押し流されようとしている、と僕は感じる。日々創刊されては廃れていく大量の雑誌たち、手軽に読めるビジネス書や新書、話題のベストセラー。それらはすべて、情報を入手しよう、という目的のために生み出されるものばかりだ。
僕は本屋というのは、編集をすることで物語を提供する場だと思っている。物語と言っても、小説ということだけではない。売り方によっては、実用書も理工書もビジネス書も、なんでも物語になりうる、と僕は思っている。本作を読んで、よりそれを確信したと言ってもいい。
少なくとも今は、文庫の売り場で編集を続けることで、小説の中身以外の物語を提供できるように努力したい、と思う。本屋はこんなに面白い場所なんだということを、なんとかアピールできたらな、と思っています。
というわけでそろそろ内容にはいろうと思います。
本作は、池袋のリブロという書店(開店当時の名前は違ったみたいだけど)に深く関わりのある著者(今ではそのリブロの真向かいにあるジュンク堂で働いているらしいのだけど)が、リブロという当時から今にかけて本屋の異端ともいえるような個性を発揮した本屋の様子を、当時のことを思い出しながら、また当時の同僚などに話を聞きながら書いた、まさに書店の風雲録である。
池袋リブロというのは、西武百貨店が独自の資本で始めた本屋だそうで、百貨店初の本屋ということで、当初から注目をされたらしい。西武百貨店の社長堤氏が、西武百貨店を文化の地としたいと考え、その流れの中でリブロという書店はかなり独自の路線を歩んでいくようになる。
また、途中からリブロに参加するようになった、中村・今泉という両人が、リブロという本屋の方向性を大きく決めたようである。特に今泉は、人文系の書籍に精通し、キーワードから派生させていくつものフェアを生み出していったそのやり方で、注目の書店員となったようだ。
とにかく、常に業界の風雲児だった(とは言いすぎかもしれないけど)リブロという書店が辿ってきた道筋が、その当時の書店・出版の状況やいろんな苦労話などを交えながら描かれている作品です。
この作品は、以前に読んだ「本屋さんの仕事」という本の中で、書店員は読んでみたら面白いと書かれていたので、興味があって読んでみました。
実際、かなり面白かったですね。
出来立ての本屋には、新刊やベストセラーがなかなか入りにくいということ。書籍の流通というのはかなり特殊で、とにかくそれでかなり苦労したこと。
また、百貨店の書店ということで様々な苦労があったこと。本屋という形態が、どれほどおかしなものなのか、まあちゃんとはわからないけど、なんとなく分かりました。
今では当たり前の風景になっている、ある一冊の本を多面で並べるという手法。これは、リブロの中村という人が初めてやったようです(もしかしたら今泉さんだったかも)。「窓際のトットちゃん」というベストセラーがあって、しかし開店したばかりのリブロには入らない。そのことで出版社と口論になり、売り言葉に買い言葉、出版社の人が、「そんなに言うなら欲しい数を言え!」とこう来る。負けじと、「だったら500冊!」と注文したら、ほんとに来た。仕方ないから多面平積みをしたところ、面白いように売れる。こうして、あの多面積みが生まれたそうだ。一時期、「トットちゃん積み」と呼ばれたらしい。
また、「白い犬とワルツを」をありえない冊数売った小さな書店の話には感動しましたね。どんなに弱小の本屋でも、できることはあるんだということに、自信を持ったと同時に、俺もなんかそんなベストセラーを生み出したい!と思ったりしました。
つい20年くらい前までは、今のようなミステリーの隆盛はなかった、というのも、当時を知らない僕からすれば意外な話でした。今でこそ、エンターテイメントといえばミステリー、ミステリーといえばエンターテイメントと言われるくらい、もうミステリーというジャンルは広がっているけれども、ちょっと前まではミステリーというジャンルなんかホントにマイナーだったようで、時代も変わるもんだな、と思いました。
今泉という人が人文系に強い、という話はさっき書いたけど、この人が考えたいくつものフェアとその書目についても本作では取り上げていました。しかしこれが難しいのなんの。思想だとか哲学だとかそういう本を、意図的に並べることで流れを生み出す、というやり方だったようだけど、いやしかし、よくそんなところまで知識があるものだ、と思いました。でも本作を読んでて、今まで文庫しかやったことないのだけど、もっと広い本屋で自由にできるのならば、今泉氏のようなやり方でいろいろやってみたいな、と思いました。
その他、出版社の話や、当時の周辺にいた奇人についてなど、とにかくいろんな話が満載でした。本屋という観点から時代を捉え、本屋の変遷の中から時代の移ろいを探ろうとする中に、様々なエピソードを交えながら当時を振り返る本作は、確かに書店員以外の人にはあまり向かない本かもしれないけど、書店員は本当に読んだら面白いと思います。
本作の最後に、まとめのようにして著者がこんなことを書いていました。
『新入社員の採用面接をするたびに、出版業を志す彼らの優先順位は出版社・取次・書店なのだとつくづく身に染みる。私は、「書店にいらっしゃい、書店に」という言葉をいつも呑み込む。』
だからこそ本作を書こうと思ったのだ、という話に繋がるのであるが、本当に本屋というのは面白いと思う。情報や物語を編集するのが出版社の仕事なら、書店の仕事は本そのものを編集することです。その楽しみを、多くの人が気づいてくれたらいいな、と思います。

田口久美子「書店風雲録」



総特集西尾維新(ユリイカ特別増刊号)

小説は、とにかく読んでて面白ければいい、と僕は思っている。
だから、小説の流れだとかあり方だとか変遷だとかそういうことについて、外野があーだこーだ分析したり評論したりしているのは、僕としては比較的不快なのである。
んな難しく考えることか?と思ってしまう。
最近隆盛を誇っている(と言っても一部にだろうけど)ライトノベルというジャンルについても、いろんなところでいろんな評論がなされている。その前は、本格・新本格についてのあれやこれやが評論の対象になっていた。今では、エロゲーやアニメなんかも含めた萌え系のジャンルについて、総合的に評論が展開されていたりする。
しかしそういう評論は、一体誰のために必要だというのか、僕にはまったく理解できないのである。
例えば、ライトノベルの評論があるとしよう。ある作品について、これはこれこれの影響を受けて、これこれの流れがあって、こういう描写にそういう影響が現れていて云々…という文章である。
さてこれを、その当の評論の対象になったライトノベルの読者が読むか、と言われれば、読まないだろう。評論なんて、興味ないはずだ。ならば、そのライトノベルの著者が読むかと言われれば、まあ読むかもしれないけど、でもそこまで興味があるわけではないだろう。どちらかというと、自らの文章が国語の試験問題になったような感覚を覚えるかもしれない。傍線の部分で作者が言いたいことは?みたいな設問で、いや俺別にそんなこと考えて書いてないし、みたいに思うのと同じ感想を、そういう類の評論に対して抱くかもしれない。
となれば、こうした評論は読む人がいなくなってしまうことになりまはしないか。唯一、同じく評論を生業にする人を除いては。
評論というのは、時々国語の教科書に載っていたのを読まされたような気がするけど、どうにも面白くない。なんというか、一言で言ってしまえば、あんた考えすぎだよ、というのが感想で、とにかく書いていることがわけがわからない。
小説の評論にしたって、これは何かのメタファーで、これはこう読める、なんて文章を書き散らしたって、小説の売上が上がるわけでも、評価が上がるわけでもない。だったら、そんな評論なんていらないだろう、と僕は思ってしまうのである。
本作にも評論が山とあるのだが、そのどれもが、何を言っているのかさっぱりわからない。こんな文章が成立することが、僕には理解できないのである。
さてまあそんな話はいいとして、西尾維新である。
僕は、西尾維新関連の本は結構読んできたと思っているけど(ファウストに掲載されている作品と、同人誌に載ったという短編は読んでないけど)、こんな西尾維新の特集雑誌が出ているなんて、全然知らなかったのである。不覚にも。僕は書店員なのですが、8/1に発売されるノベライズに合わせて、西尾維新関連本をちょっと集めようかと思って検索したら本作をみつけて、これは読むしかないかと注文したわけである。
西尾維新という作家は、ある意味で一部のマニア受けといった感じが否めない作家だけど、僕としては、もっと広く受け入れられていい作家だと思っている。
そうならない最大の要因は、西尾維新の作品をライトノベルだと思っている人が多くいるからだろう。イラストのついた作品はすべてライトノベルで、まっとうな大人が読むべきものではない、みたいな風に思われているのだと思う。
まあ実際、宮部みゆきとか東野圭吾とかを読んでいるような人がいきなり西尾維新を読み始めたら、なんだこりゃ、みたいな風に思うかもしれないけど、でも表紙で拒絶されちゃうのはもったいないよな、と思うのである。
そう、そういう話を書いたのが、本作の冒頭に載っている西尾維新の短編、「させられ現象」なのだけど、まあそれは後の話で。
西尾維新と似たような作家は結構多くいる。近い世代で言えば、佐藤友哉や滝本竜彦、もう少し広く見ると、森博嗣や舞城王太郎や京極夏彦などである。
しかし、西尾維新のように、主体となって評論の中心になる作家は少ない。特集で一冊の本が組まれる作家など、本当に僅かなものだろう。
他の作家と西尾維新を分けているもの。恐らく本作に載った評論諸氏はそれを明らかにしようとしているのだろうが、いかんせん文章が意味不明なのでなんともいえない。
僕に言わせてもらえれば、西尾維新は時代の要請にぴったりと当てはまっていた、ということだと思う。恐らく、今の形のままの西尾維新が、10年早く出ていたら早すぎただろうし、10年遅かったら遅すぎただろう。つまりはそういうことだと僕は思う。
しかし、それを偶然だというつもりは僕にはない。西尾維新には、時代を見極める目があった、というだけの話だ。もし10年前、あるいは10年後に作家としてデビューしようとしていたら、西尾維新はその時の時代に合った作品でデビューを果たしていただろう。恐らくその部分が才能なのである。
戯言シリーズを完結させ、今は一旦の休息とも思える期間であるのかもしれない。8/1に発売になる2作のノベライズをもって、また西尾維新は加速するのだろうか?これからもその活躍に期待である。
というわけでそろそろ内容に入ろうかと思います。
と言っても、本作の大部分は意味不明な評論で、読むべき部分はむしろ少ないかもしれません。
というわけで、読むべき部分を先に紹介しましょう。

西尾維新書き下ろし小説「させられ現象」
書店から走ってやってきたという、ちょっと奇妙なよく喋る中学一年生、両島なこと。彼は、今しがた書店で経験した奇妙な出来事について、とりあえず誰だか知らないけど捕まえて喋りたくて仕方がない、という感じである。
彼が捲し立てるように語るのは、とある本屋で目撃した、ある女子高生の奇行である。修学旅行で京都にやってきたというその女子高生は、本屋の片隅で、売り場にある本を片っ端から床に放り投げていたのである…。
一体何故に…?

僕は書店員なので、本当にこんなことをしている人間がいたらぶっとばしますけど(でも可愛い女子高生だったらぶっ飛ばせないか…笑)、でも彼女の思想は、多少なりとも理解できてしまいますね。「世の中に面白くない本なんてない」という主張には納得いかないですが、「本を外見で判断してはいけないわ。タイトルや作者や出版社なんかで、本の中身は決まらないんだから。そんな理由で本を読むかどうかを決めるかなんて、それは本という存在に対する侮辱なのよ」という意見には、かなり納得できる。
確かに僕も、読みたくて買う本というのが大半だけど、時折、これは全然知らないけど買ってみようかな、と思う作品に出会う。そういう作品が素晴らしい作品だと、すごく得した気分になる。今年は、一回そういうことがあった。あれは素晴らしい出会いだったと僕は今でも思うのである。

対談・西尾維新+斎藤環「王道を逆立ちして行く」
本作には西尾維新との対談が二編収録されているのだけど、こっちの斎藤環との対談の方がわかりやすくていいですね。
この斎藤環という人は精神科医らしいのですが、よくライトノベル系の対談で見かける人ですね。なんでか知りませんけど。
どこがいいということはないんだけど、もう一個の対談と比較してすごく分かりやすかった、というのがよかったですね。もう一個の評論は、ライトノベルの評論でも結構有名な哲学者との対談なんだけど、これが難解なんですね。よくわかりませんでした。

質問状・冲方丁+西尾維新「冲方丁から西尾維新への44の質問」
なんでここで冲方丁が出てくるのかはわかりませんが、西尾維新の答え方が結構いいですね。でも、質問は結構変なのが多くて、なんだこりゃって感じでしたけど。「臨機応答・変問自在」のような感じで、西尾維新もやっぱり頭がいいんだなと思いました。

本作で読む価値があるのは、この三つくらいですかね。あとは、とにかく難解で意味不明な評論が15個くらいあって、流し読みだけど一応全部読んで、予想通りうんざりしました。あー、こんなぐちゃぐちゃでめんどくさい文章が何故世の中に存在するのだろう、という感じでしたね。うっとうしい。
他には、何人かが書いたイラストとか、西尾維新を読み解く本の紹介とか、西島大介という漫画家の「絶対安全西尾維新」というコミックとか、あと巻末には戯言シリーズなんかの人物紹介なんかもありましたね。
西尾維新のファンブック的な本は「西尾維新クロニクル」というタイトルで発売されているからいいっちゃあいいんだけど、でももう少し違う内容を予想していたので(つまりわけのわからん評論ばっかりだったことが不満だということなのだけど)、まあいいでしょう。西尾維新だし。それくらいは許してしまいましょう。書き下ろしの小説もあることだし。
まあそんなわけで、そこまでオススメってほどでもないですね。書き下ろしの小説はあるけど、恐らくいつかどこかに収録されるだろうし、だからファンなら是非、っていうほどのものでもないですね。まあ気になる人は、結構重版されてるみたいだし、注文すれば手に入ると思うので、読んでみてください。本作に載っている評論が理解できるという人も、いたらちょっと知らせてほしいですね。

ユリイカ特別増刊号「総特集西尾維新」



わたしを離さないで(カズオ・イシグロ)

考えるべきことが多すぎる。
でも、できればそれを考えたくはない。
怖い、とさえ思う。
光があれば影がある、というのは当然のことだろうと思う。それは、真理ですらある。しかしそれがどんなに正しくても、いや違うかもしれないな、それが正しすぎるが故に、僕らはその影を見なかったことにしようと考えてしまう。
実際、世の中は、知りたくもないことで溢れている。
僕らは日々、ブラウン管の向こうに、新聞の向こうに、あらゆる世界を見る。僕らは、情報という細い糸で、世界と繋がっている。
でもやっぱりそれは、ブラウン管の向こうの世界だし、新聞の向こうの世界である。僕らと地続きの、まったく同じ世界の出来事であると実感できることは少ない。
世界のどこかでは、今も戦争が行われている。というか、行われているはずだ。正直、正確なところは知らない。
だけれどもそれが、僕らが実際に赴くことの出来る場所、僕らが住んでいるのと同じ世界で行われているなんて、僕にはやっぱり信じられない。
僕らは、自分の生活の周辺以外の世界を、どこか遠くのこととして考えてしまう。例えばそれは、山の頂上から下の景色を見下ろすようなもので、その景色の中に自分の住んでいる場所があっても、どこか別の世界に感じられることだろう。そうやって僕らは、わかる範囲の世界しか知ろうとしない。
悪いことだとは決して思わない。確かに僕らは日々、忙しすぎると思う。常に何かに追われている。そうやって言い訳して、他のいろんなことを遮断しようとしている。
ただ、立ち止まることなんて絶対できない。出来るわけがない。誰だって、明るい方を目指して走っている。少しでも遅れれば、そこには闇が迫っていると信じている。後ろは振り向けない。振り向いたら最後、囚われてしまうかもしれないから。だから、走り続けるしかない。
そうやって僕らは、影を見ないように見ないようにして生きている。
ただ、僕らは一方で、影の中に生きている人もいるということを知っている。出来れば知らないフリをしたいけれども、でもどうしようもなく知っている。
その世界は、どうしようもなく怖い。想像するだけで怖い。すべてが違っていて、すべてが壊れているように見える。何もかもすべて。
そんな世界の中で生きている人のことを考えると、怖くなる。自分ももしかしたら、そうなってしまうかもしれないのだろうか、と。
例えばこんな話がよくテレビ番組などでされる。何かしら犯罪が起きるとする。凶悪な犯罪だ。犯人は捕まり、事件は一応解決を見る。
しかし、マスコミは収まらない。捕まった犯人の過去を暴きたて、大々的に報道する。一体何故だろうか?
一般の人々はこう考えている。あんな凶悪な犯罪をしでかした犯人なんだから、普通の人とはどこか違うはずだ。過去に何かあったとか、生まれつき何かがおかしいとか。そうであってほしい。というか、そうでないと困る。だって、あんなに凶悪な犯罪を犯した人間が、僕らと変わらないごく普通な人だったとしたら、僕にだってあんな犯罪を犯す可能性が残されてるってことになるじゃないか…。
マスコミは、一般の人のこうしたニーズに応えて、犯人の凶悪さを示す過去なんかを報道するのである。
同じように、影の中で生きている人は、僕らとは違うのだと思いたい。そうじゃなければ困る。誰しもがそういう感情を抱いている。
知らないでいたい、という感情は、世界を歪ませる。影を一層濃くするかもしれない。あるいは、光を弱らせるのかもしれない。歪みは、どこかで僕らの世界にも、大きく影響を与えている。
世界は不可逆である。進んでしまったものは変わらない。原爆を保有することに決まった世界は、原爆のない世界に戻ることはできない。もうそれは仕方がないのである。
そんな世界の中で、闇を背負わされる人がいる。世間の知りたくないという認識の中で、不甲斐ない人生を余儀なくされる存在がいる。だからと言って、軽々しく何かができるわけでもない。僕はできれば逃げ続けたいけど、世界が同じく逃げ続けられるかは、誰にもわからない。
何が正しくて何が間違っているか。世界にそれを決めることはできない。人間にだって出来ないかもしれない。誰もそれを決められない。進んでしまった世界を元に戻すことは誰にもできない。
ならば、その世界の中で、どうにか足掻いてみるしかない。どんなに無駄でも、どんなに微力でも、元に戻らないことは分かっていても、何かが変わるかもしれない。そうやって、何かを期待しながら、静かに時を過ごすしかない。
外からは絶望にしか見えない世界も、その中に入ってみれば、案外絶望だけではないということもあるだろう。貧困にあえぐ国には絶望しかないように思えるが、案外子ども達の笑顔は輝いていたりする。豊かな国の子ども達なんかよりも遥かに輝いていることもある。
しかしそれは、外の世界を知らないが故の輝きであるということも、また間違いのないことだ。知ることで、絶望に包まれてしまうこともある。だったら、知らないでいたい。知らせたくない。
世界は大きく歪んでいる。その歪んでいる部分を直視しようとしない姿勢が、また世界を歪ませる。僕らはその歪みきった世界の中で、静かに生きていくしかない。自分のいる場所が影ではないと信じながら。
そう、僕らが生きているこの場所も、実は影かもしれない。絶望に包まれているのに、それに気づいていないだけなのかもしれない。だったら僕は、知らないままでいたい。知って絶望に包まれるよりも、知らずに生きていたい。
どうか、これ以上世界が壊れませんように。
そろそろ内容に入ろうと思います。
でも、正直いって、僕は本作の内容をほとんど書こうとは思いません。
例えばミステリの場合、何を書いてもネタバレになる、みたいな作品がありますが、まあそれに近い気もします。実際は、ネタバレがどうとかいう話ではないのだけれども、本作に関する予備知識を一切ない状態で読むのがいいと僕は思います。解説氏も同じことを書いていましたし、僕が本作を読む前に見たあるネットの書評でも、同じことが書いてありました。それらに追従するわけではありませんが、内容に深く踏み込むことはしないようにしようと思います。
というわけで内容については、本作の帯に書かれた文章をそのまま書いて終わりにしようと思います。
『謎の全寮制施設に生まれ育った若者たちの痛切なる青春の日々と数奇な運命を感動的に描くブッカー賞作家の最新長編』
僕は本作を読んで、雰囲気の似ているなという作品を三つ思い浮かべました。
天童荒太の「永遠の仔」
森博嗣の「スカイ・クロラ」
そして、どの作品というわけではないのですが、村上春樹の作品。「ノルウェイの森」に近いでしょうか。
全編、ある女性の独白という形式を取った作品なのだけど、その語りがなんというか熱心で、うーんうまく表現できないけど、忠実とでもいうのか、感情のブレなどを見せないままに、最後まで同じテンポで語られる感じがいいなと思いました。そういえば今思い出したけど、この全編独白という形式が、蓮見圭一の「水曜の朝、午前三時」に似ているな、という感じがしました。そう考えると、小説の雰囲気自体も似ているような気がしてきました。
とにかく解説氏も書いているように、丁寧に作りこまれた作品で、その丁寧さには本当に驚きました。
その丁寧さは、分かりづらいものを分かりづらいままに理解させようという部分での丁寧さの表れ、という感じがしました。
どういうことかというと、例えばドラマのあるシーンを想像してください。あるカップルがいるとして、喧嘩になります。こういう場合、喧嘩の理由というのは、ものすごくわかりやすいものに設定されていますね。浮気したとか、そういうことですね。
でも現実世界のことを考えてみた時に、結果はわかりやすくても、その原因がわかりやすいというのは稀だと僕は思うのです。
例えば自分のことを考えてみてもそうです。僕は仕事場で、一時期かなりイライラしていた時期があります。まあそれは今でもイライラするのですけど、以前よりはましだと思います。
何故イライラするのかといえば、周りのスタッフの仕事に関することであって、とにかく些細なことなのだけどいろいろ積み重なって、である日そのイライラが募って本人にあれこれ言う、ということが多かったです。
しかし、その口を出すきっかけになる出来事自体は、実は大したことではないことが多いです。僕としては、その行為だけであなたにこんなことを言っているのではないのだ、というアピールをしているつもりですが、向こうとしては、何でこんなことぐらいでこんなに言われなきゃいけないんだ、という感じかもしれません。向こうとしては、原因はひどく分かりにくいものに映ることでしょう。
本作では、あらゆることが起こり、あらゆるものが過ぎていくのですが、その原因がはっきりすることの方が少ないと思います。しかし著者は、その分かりにくさを、丁寧な筆致でうまく描き上げて、分かりにくいし時には全然わからないけど、でも納得できないこともない、という、非常に微妙なバランスの元へと読者を導いていきます。そういう丁寧さは、僕が思いつく限り村上春樹の作品の中にしか見られないものであって、正直すごいな、と思いました。
実際、僕がこの物語の主要な登場人物だったら、と考えます。この作品を読んだ多くの人が同じことを考えることでしょう。その想像は、現実感を伴いません。もちろんです。現実感など喪失させるような世界なのですから。
しかし、その現実感のなさを振り切って想像を広げたときに、僕という存在がどうなるのか、やはりはっきりはわからない、というのが正直なところです。本作で描かれる世界は、あまりにも繊細で、でもあまりにも鈍感で、わかってないフリをしたり、わかっているフリをしたり、嘘をやりすごしたり、嘘をついたり、そうやって何とか生きていくことのできる世界です。すべてが虚構で、でもその虚構を現実として生きることを強いられる生き方は、僕には想像できませんでした。著者がこの物語を紡ぎ上げるのに要した想像力のすごさに、圧倒されました。
著者について、少し書いておきましょう。名前を見ればわかるように、日本人です。確か僕が何かで読んだところによると、帰化しているようなので、厳密には日本人ではないのでしょうけど。
1954年長崎生まれ。5歳の時に海洋学者の父の仕事の関係でイギリスに渡る。大学で文学や創作を勉強したが、当初はミュージシャンを目指していた。しかしやがて執筆活動を始める。
1982年のデビュー作「遠い山なみの光」で王立文学協会賞を受賞、1986年の「浮世の画家」でウィットブレッド賞を受賞、そして1989年の「日の名残り」では、イギリス文学の最高峰であるブッカー賞を受賞しているという経歴である。イギリスの賞については正確には知らないけれども、デビューからこうして次々に賞を受賞しているというのは、恐るべきことだと思う。
最後に、本作についての海外での評判を書いて、感想を終えようと思う。
本作は、発売後すぐに<タイム>誌のオールタイムベスト100に選ばれた。これは、1923年から2005年に発売された作品を対象にしたもので、刊行した年に選ばれるというのは、驚くべき快挙なのだそうだ。
また、<ニューヨークタイムズ>を初めとする各誌で、2005年のベストブックに選ばれ、また、若者に読ませたい成人図書に与えられるアレックス賞を受賞。他にも、ブッカー賞を初めとするいくつもの主要な賞の最終候補に残るなど、2005年に発売された英語圏の小説で、もっとも話題になった一冊、だそうである。
すごい作家のすごい作品である。恐らく、歴史に残る作家だし、歴史に残る作品だろう。日本人が、世界でこれだけ活躍しているのを見るのは、すごく嬉しい。これからも、是非とも頑張って欲しいものだ。
じわじわと押し寄せてくる何かが強烈な印象を残す作品です。時間があれば、何度でも読み返したくなる作品でしょう。是非とも読んでみて欲しいなと思います。

カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」



Lady,GO(桂望実)

たぶん僕は、あんまり嘘をうまく楽しめない人間だろうな、と思う。
いや例えば、テレビのバラエティ番組なんかは、全然面白いと思う。あれは虚構で、ほとんど嘘とは言わないまでも、かなりの演出が加えられたものなわけで、でもそういうのは大丈夫だと思う。
たぶん、自分ひとりに向けられた嘘じゃないからだろうな。
キャバクラの話である。
この流れだと、キャバクラは悪いものだと思っていると勘違いされそうなので先に書いておくけど、僕はキャバクラというものに特にマイナスな印象はない。そこで働いているからと言って、下に見るような人もいるみたいだけど、ちょっと僕には共感できない。というよりも、自分が今の性格のまま女性だったとしたら、絶対にキャバクラで働けない(成功できない)だろうな、と思うわけで、だからむしろすごいなぁ、という感じすら持っている。
そんなキャバクラだけど、きっと僕は行っても楽しめないのだろうな、と漠然と考えている。まあ、行ったことはないから想像なのだけど。
その理由が、嘘を楽しめないだろう、ということである。
キャバクラというところは、まあイメージだけど、嘘を駆使してお客さんを楽しませよう、リラックスさせよう、という場だと僕は思っている。だから、嘘を嘘として理解したり、嘘とうまく付き合ったりするテクニックが、お客さんの方にも要求される場なのである。たぶん。
ただ、僕は基本的にマイナス思考の人間なので、嘘とうまく付き合うのは難しい。例えばそれは、本作のこんな言葉とうまく共感できる、という辺りでもわかる。

『詩音にはわからないんだよね。好意を持たれることが少ないとね、ちょっと親切にされただけど、うるってきちゃうんだよ。私はそのおじさんの気持ち、よくわかるな。おじさんは、自分の気持ちを抑えられなくなってるのかもね。自分が思っている気持ちの量と、相手が思ってくれている気持ちの量は、同じじゃないんだよね。シーソーの両端にそれぞれの気持ちを置いたとすると、水平になることは絶対になくて、いつもどっちかに傾いている。自分の思いのほうが重いと気づいても、水平にしたくても、どうやって軽くしたらいいか、わからないんだよね。』

これは、遊びで不倫をしていたつもりなのに、向こうが本気になっちゃって困っている、という詩音の告白を聞いて、主人公の玲奈が感じていることなのだけど、こういうのはわかる。
例えば世の中には、『セックスしたくらいで彼氏面しないでよ』みたいなことを考えている女性もいるのだろう。でも、それってそういう前提って言うかルールって言うか、そういうのがちゃんとわかってる相手ならいいけど、みんながみんなそうじゃないっていうことを、分かって欲しいって僕なんかは思うんですね。
キャバクラでも、同じことを感じるんじゃないかな。たぶんキャバクラに行けば、彼女達は自分に気があるんじゃないか、って錯覚するようなもてなしをされるんだろう。それが嘘だってわかってても、いやでもホントはとか、そういう風に考えたくなっちゃうのが男ってもんで。
だから、嘘を嘘だと割り切って楽しめるというのが、キャバクラを楽しむ一つのテクニックなんだろうけど、僕にはそういうのがちょっと難しそうだな、と思った。まあ、キャバクラには恐らくいくことはないだろうから、問題はないんだけど。
あと一つ考えたことは、僕が好きな女性のタイプについて。
僕は、冷たい女性が好きなんですね、基本的に。
というと誤解されそうな気がするんだけど、ホントに冷たいとちょっと哀しいわけで、冷たそうに見える女性、というのがいいわけですね。
なんでだろう、と思っていたのだけど、本作を読んでちょっといろいろ考えてみた。
それは結局、自分が嘘をつかなくていい、っていうことなんだと思う。
それはどういうことかというと、例えばこんな場面を想像して欲しい。
メチャクチャテンションの高い人がいるとしよう。まあ、江頭2:50みたいな。そういう人が周りにいる時に、あなたはいったいどう振舞うだろうか?
その人のテンションに引きずられずに、自分のペースでいられる人ならいいんだろうけど、僕はなかなかそうできない。そのテンションの高い人は、周りも自分並のテンションになってほしいと思ってるだろうし、だったら乗らないのは失礼だよな。でもだからと言って、テンションの高い自分って言うのは普段の自分とは違うわけだから、そこは演技をしなきゃいけないな。
僕はそんなことを考えて、結局、なるべくテンションの高い状態でいるように、自分を偽ってみせるのである。
基本的に僕は、なるべくその場にいる人に合わせよう、と考えてしまう人で、だからいつも何かしら演技をして繕っているわけで、でもそういうのってすごく疲れる。
気を遣う人には僕も気を遣い、優しい人には礼儀正しく振舞い、面白い人がいればよく笑い、怒っている人がいればなるべく目立たないようにしようと思う。
でも、冷たそうに見える人の場合、そういう演技とかっていうのがいらないんじゃないか、って僕は錯覚できる。
なんでかっていうと、ほっとかれてる感じがするからだと思う。同じ空間にいるのに、ほっとかれる感じがする。それが多分冷たく見える原因なんだと思うけど、でもそういうのって、僕には心地よかったりする。同じ空間にいて会話はないのだけど、でも全然気まずくないっていうのが、人間関係として理想的だと思っているので、たぶんだから僕は、冷たそうに見える人に惹かれるのだろうな、と思う。
逆に考えて、だからキャバクラは苦手なんだろうな、と思う。キャバクラに行くと、ほっとかれない。常に気を遣われるし、常に話し掛けられる。やっぱそういう場面だと僕は、何かしらのキャラクターを作り出して演じてしまうので、ちょっと疲れる。きっとそうだろう。
そういえば、本作の中にこんな言葉がある。

『どうやって子どもは大人になっていくんだろう。もう私はちゃんと大人になっているんだろうか。なってる。十六歳の時に私は大人の世界に押し出されたんだから。だったらどうして、いまだに突然哀しくなったり、涙が出たりするんだろう。孤独と私は上手に付き合えているはずなのに、時々負けそうになるのはなんでかな。』

すごくよくわかる。
基本的にほっといて欲しいのに、でも時々孤独に負けそうになる。僕はそうだ。勝手だと思うけど、しょうがないわけで、そういう距離感の持てる女性がいいなぁ、と思った。
嘘をつかれるのは得意じゃないけど、嘘をつくのも得意じゃない。でも、嘘なんか最悪だなんて思ってるわけでもない。
上手に嘘をつける人。
優しい嘘をつける人。
そんな人はホントに素晴らしいと思う。本作のケイみたいな存在だ。
嘘は、時々優しくもなるし冷たくもなる。嘘と上手に付き合って、嘘を上手に使いこなせればいいな、と思うのだけど、そういうのって、やっぱなかなか難しい。
まあそんなわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
派遣会社から紹介される仕事を転々としながら生活をしている南玲奈。高校の時に両親は離婚し、どちらも既に再婚している。どちらの家族からも取り残された玲奈は、十六歳の頃から一人暮らしをし、自立して生活している。
つい最近、彼氏と別れた。理由は…よくわかんない。私が暗いから?なんでだろう。やっぱり、へこむ。
派遣会社から、今の職場はあと1週間で終了ですと連絡が来る。次の仕事を早く探さなきゃ。貯金は全然ないし、部屋の更新も近い。ジリ貧の生活。やばいかも。
そんな時、友達の一人からタイニューを勧められる。キャバクラの体験入店。1日2万円を現金でもらえるらしい。そんな言葉に釣られてタイニューに挑戦してみるけど…やぱ向いてないよ、私。かわいくないし、ネクラだし、上手に嘘とかつけないし。
暖房が壊れた。やばい。修理代とかいくらだろう。暖房ないと、ホント死ぬ。でもお金ないし…。
そうやって、キャバクラで働くことに決めた玲奈。でも、次の派遣の仕事が決まるまでの繋ぎだよ。2週間で辞めるよ、私は…。
しかし、キャバクラの店長の羽田や、スタイリストでオカマのケイ、店でトップの美香なんかの影響を受けながら、次第に玲奈は変わっていく。
キャバクラの仕事って、大変だけど、でもやりがいあるかも…。繋ぎだとか思ってたけど、頑張ってみようかな…。
まあそんな感じですね。
桂望実という作家は、ホントに、不器用な人間を描くのがうまいな、と思いますね。
「県庁の星」「ボーイズビー」「死日記」と読んで来たけど、どの作品にも、生きていくのがちょっと不器用で、そのせいで割をくらってる人間が出てくるんだけど、そういう人間が衝突したり努力したりすることで変わっていく、という物語がとってもうまい。
本作も、南玲奈という女性は、ちょっと不器用だ。自分の意見を口に出すまでに時間が掛かるし、感情が表情に出にくい。そういったことで、たぶん彼氏に振られた。分かりにくい、って。
家庭の事情っていうのもなかなか複雑で、こう真っ直ぐに歩けていない感じだ。どこにも居場所がなくて、そんな自分には慣れてるつもりなんだけど、でもやっぱりそれは、ぽっかり空いた大きな穴をわざと見ないようにしてるだけであって。
そんな玲奈が、キャバクラという場で、どんどんと変わっていく。
本作が、どこまでキャバクラという現場に忠実なのかわからないけど、でもやっぱりキャバクラという場は、容姿だけではどうにもならない世界なのだな、と思う。容姿はもちろんそれなりに必要だけれども、でも努力なしに成功できるところでもない。そういう場所であるということは、寧ろ女性にとっていいステージなんじゃないかと思う。
例えば事務のOLさんなんかは、仕事は単純なわけで、仕事での評価はもう差がないだろう。だから、気に入られるかどうかは容姿が重要、っていうことになりかねない。
でもキャバクラは、いくら容姿がよくてもトップになれない。こういうのって、すごい平等でいい感じがしてくるな。
本作で僕が一番好きなキャラは、ケイですね。とにかく、芯のまっすぐ通った人間として描かれている。もちろん、ハゲでデブでチビでさらにオカマなわけで、人生いろいろあったのだろう。でもそういう辛い部分を出さない。出しても嘘を散りばめて優しくする。
とにかく、このケイという人の嘘は優しい。僕だったら、ただ黙ってることしか出来ないような場所でも、ケイは嘘を駆使して優しさで包み込もうとする。こういう風に嘘をつける人になるたいと思うけど、難しいだろうなぁ。
羽田という人間も面白い。なんというか、人間が深い気がする。底が見えない。時々怖いし、時々優しい。でもそういう、作られていることがわかる嘘っていうのも、僕は嫌いじゃない。少なくても、ばれないように巧妙に装った嘘よりは。
ストーリー自体は、まあ本職のキャバクラ嬢からすれば、こんな楽じゃないとか、こんなうまくはいかないとか、いやもしかしたらそういう感想もあるのかもだけど、僕は全然いいんじゃないかな、と思う。時々書評なんかで、リアリティがないという表現があるけど、僕には全然理解できない。例えば本作にしたって、もしかしたらキャバクラという世界は、もっとドロドロして汚らしい世界なのかもだけど(想像なので違ってたらすいません)、でもそういう部分を書かないからダメだ、とかいうような評価は全然間違ってると思う。リアルなんていくつもあると思う。僕らは、世の中のリアルを全部見られるわけじゃない。だから僕は、小説の中の世界がどれだけ現実世界と違ってたって、全然いいと思う。むしろ、新しいリアルがもう一つ増えた、という形で僕は捉えるようにしている。
まあそんなわけだけど、ストーリー自体は特にどうってことはないんですね。キャバクラ嬢を始めた女性が変わっていく、というだけなわけで。でもそれを桂望実が書くと、ホントに人間味溢れる物語になる。人間の描き方が繊細で、すごくいい。細かい描写というか視点がいつも秀逸で、よく見てるなぁ、という気がする。桂望実はいいと思う。
僕としては、「県庁の星」や「ボーイズビー」の方が好きなのだけど、本作もかなりよかったですね。桂望実はまじ、注目ですよ。

桂望実「Lady,GO」




十七歳だった!(原田宗典)

僕の記憶力は、もうそれは恐ろしいまでに悪いのである。前世が虫だったのではないかと思うほどである(この「前世が虫」というのは、僕が人をバカにする時に時々使う表現である)。
とまあ突然記憶力の話をしだしたのだけど、そんなわけで僕は、昔のことを本当に覚えていない。中学の頃は小学生時代のことを、高校の頃は中学生時代のことを、大学の頃は高校生時代のことを、もう綺麗さっぱり忘れてしまっているわけである。
例えば僕は、20歳の時に成人式に出た(実際は出てないのだけど、まあ地元に戻ったということ)。その時、とにかく高校時代の友達の顔と名前がまったく一致しないのである。もちろん、よく関わっていた人は覚えているけれども、同じクラスだったけどそこまで、みたいな人の場合、もうあっさりと記憶からシュポッと抜け落ちてしまっているわけである。
そんなどうしようもない記憶力を誇っているわけで、当然過去の思い出というものも本当に残っていない。
僕がすごいなと思うのは、こんな時である。友人同士で喋っている時にテレビからでもなんでもいいのだけど、音楽が流れてきたとしよう。そんな時友人は、「これは中学3年の頃の曲だ」とかいうわけである。
大抵人はそうやって、音楽と年代を関連付けられるらしい。僕は、まあもちろん音楽にまるで興味がなかったとはいえ、そんなことはまったく出来るわけがないのである。音楽に限らず、昔のことをふと思い出すような、そんな小道具というか出来事とか、そういうものが限りなく不足しているわけである。
そんな、本当に過去という時間は存在したのだろうか?と疑ってしまいたくなるような死滅した脳細胞を持っている僕ではあるのだが、しかし本作を読んで、なんだかいろんなことを思い出したのである。いやまあもちろんそれらは、忘れていたわけではなく、思い出せなかっただけなのだろう。しかし、きっかけというものに乏しい僕としては、本作は非常にいいきっかけだったと言えるだろう。
そんなわけで今回は、普段と趣向を変えて、本作を読んで僕が回想した、僕自身の高校時代(時々中学時代や小学時代が混じるかもしれないけど)をあれこれ書いてみようかなと思う。
しかしまずこれだけは書いておこう。本作の著者と僕との違いである。
本作の著者は、高校時代の自分を、「自意識過剰で、みんなが自分に注目していると思っていた」という感じで語っている。つまり、果てしなく前向きで楽観的な人間だったということだろう。
しかし、僕はまあまるで正反対の人間なのである。基本的に、超悲観的で後ろ向きな人間なのである。ある意味で自意識は過剰だったのだが、それは、「あらゆる人が僕のkとを嫌っているはずだ」という、メチャクチャマイナスの方向へと発揮されていて、だから著者とは全然違うのだけれども、まあそんなことを踏まえながら読んでもらえればなぁ、という感じです。

「方言」
著者は元々東京の生まれなのだけど、家族の都合で岡山ひ引っ越したらしい。その時初めて岡山弁に接し、驚愕したという。
僕は静岡の出身なのだけど、これがあまり方言がない。語尾に「さ~」と付けるのが一番ポピュラーな方言かもしれない。
「昨日ウリナリ見たさ~」みたいな使い方をするのである。たぶん…。
というのも、もう静岡を離れて大分経つので、ちゃんとは覚えていないのである。というわけで、方言の話は実は特にないのであった。

「恋愛」
高校生といえば、恋愛したくてたまらなくなっちゃう時期なのである。もちろん早い奴は、中学生、小学生の頃から付き合ったりなんだということをしているわけだけれども、はい僕は高校生になってもそんなものとは無縁だったのですね。
好きな人はできるんです。というか、惚れやすいんですね。結構すぐ好きになっちゃう。けど、何もしないんですね、これが、ず~~っと片想いのまんま、何も出来ないでいるわけで。
一つ覚えていることがありますね。僕は高校時代、恋愛経験が一度もないのに、何故か3人くらいの友達(男)から恋愛相談を受けていたのだけど(恋愛経験もないのに、あれこれ言っていた気がする)、その内の一人が好きだった人を、実は僕も好きだったのである。
こういう場合、人は複雑な気分になるのだろう。友達の恋愛は応援したい。でも、自分が好きだという気持ちも抑えるのは難しい。ジレンマですなぁ。
しかし僕は、基本的におかしな人間なので、別に全然なんともなかった。その友達のことは心から応援していたし、邪魔をする気も全然なかったわけで。なんというか、そういうのは全然へっちゃらな人間なのである。
確か僕の記憶が正しければ、卒業も間近というような時期に、俺も実は彼女のことが好きなんだ、というような話をした気がする。自分から率先していったわけではなく、そういう流れになったのだと思うのだけど…。
まあ、内気でマイナス思考の人間には、恋愛はなかなか難しいわけでござんすね。

「うんこ」
学校でうんこは出来ない。いやマジ、男子にとってこれは死活問題だと思いますよ、ホント。
女子は羨ましいですね。小でも大でも変わらないですからね。男は、大の方に入ったらもう100%うんこですからね。そういえば不思議だったのは、女子はなんで、友達と連れ添ってトイレに行ってたんだろうなぁ。うちの学校だけかなぁ?
そうそううんこだけど、僕も学校でうんこだけはとにかくしたくなかったですね。世の中の普通の人は、朝必ずうんこが出る、という体なのだろうけど、僕はそんなことはなく、朝家でうんこをする時もあればしない時もあるみたいな感じで、しかも父親のうんこが長くて…とまあそんなことはどうでもいいのだけど、とにかくだから、学校でうんこしたくなっちゃう時もあるわけである。僕は一体どうしてたんだろうなぁ、ホント。あんまり覚えてないですね。なるべく見つからないようにこそこそうんこしてたかな?
そうそうそういえば、ちょっと興奮したのが、掃除の時に女子トイレに入ることですね。あれはちょっと、悪いことをしている感じがして、ドキドキしたもんですね。
あぁそうそう、うんこの話ですね。一つだけ記憶があります。たぶんこれは小学生の頃だったと思うのだけど、うんこがメチャクチャしたかったんだけど、我慢したんですね。でも、帰り道に、もうこれは限界なりッ、というところまでおいでなすった。これはもう仕方あるまいと、あと5分も歩けば家につくというところで、野グソをしましたね。あの時は、葉っぱでお尻を拭いたなぁ。まあそんな記憶もありますねぇ。

「タバコ」
僕は比較的優等生を演じていたわけで、今まで一度もタバコを吸ったことがないですね。いや正直、吸わなくてよかったと思いますよ。割と健全な学校だったので、友達でも吸っている人はあんまりいなかった気がするなぁ。

「エロ本」
男子といえばエロ本、エロ本と言えば男子という相互関係を成すエロ本だけど、僕は人生の中で、エロ本を買ったという記憶はないのですね、これが。いや、ホント。
じゃあ一体どうしていたかというと、まあいろいろ考えるわけですよ。
まずは、家族が買い物に行っている時に一人残って、父親の部屋に押し入る。んで、父親が隠している比較的軽度なエロ本を引っ張り出してくる。
あとは、近くのコンビニ(と言っても、個人の弁当屋でいろいろ他にも売ってますみたいな店だったけど)の雑誌コーナーで、なるべく誰にも見られないように注意を払いながら立ち読みする。もちろんその立ち読みしている時に写真とかを頭の中に記憶して家に帰るわけですね。
あとは、拾ってくる、というのもありましたね。家の近くは、ちょっと歩けば林みたいなところだったのだけど、そこに大量のエロ本が捨ててあったわけです。これ幸いと拾ってくるのですが、問題がありますね。
それは、子供の頃僕には、自分の部屋が無かった、ということですね。これは困った。何しろ、エロ本を隠しておける安全な場所というものが見つけにくいわけで。
いろいろ考えた結果、今のテレビの裏、という大胆な場所に隠すことにしました。灯台下暗し、というわけです。そして、受験勉強と称して(いや実際勉強はしていたのだけど。というか、高校時代は勉強してばっかだったからなぁ)深夜まで起きていて、家人が寝静まってから引っ張り出す、というような感じでしたね。
まあ、いろいろ考えればなんとかなるもんですね。いやはや、大変なもんでしたよ、ホント。

「家出」
家出については、いろんな話がありますね。
一番初めは、なんと小学生時代にまで遡りますね。もう僕はとにかくその頃から実家が嫌で親が嫌で(という話はいろんなところに書いているので割愛。長くなるし)、まあ実家から逃げ出そう、という安易な考えだったのだけど、その小学生の頃の家出の話というのは、まあどうしょもないわけで。
ある日、確か家庭科の時間だった気がするのだけど、僕は友人の一人に、「明日家出するから」と宣言してしまったのである。なんと大それたバカなことをしたのだと今では思うけど、当時は本気だった。
そしてその夜である。もちろん、家出などする勇気のなかった僕は、結局次の日学校に行くのであるが、いやあれはホントに休みたかったですね。だけど、休んだら休んだで、おおアイツはホントに家出したんだ、という話になりかねないし、いやこれはいくしかあるいまいと決意して行ったのだけど、あれは嫌だったですな。大勢の人に言わなくてよかったなぁ、という感じです。
そして、間にもう一個家出計画があった気がするのだけどまあそれはあんまり覚えてなくて、で高校時代になります。この時は、割とかなり本気で家出を計画していました。荷物をまとめて隠しておき、家人が寝静まった頃、自転車で夜の街並みを疾駆する、という形で、僕は家出への第一歩を踏み出したのである。
しかし、やはり小心者であるので、途中で酷く心細くなってきたのである。家出をして、俺は一体どうなるのだ。このまま何もできずにホームレスか?そして淋しく死んでいくのだろうか…。
そんな風に考えてしまった僕は、まだ隣町を越えもしない辺りで自宅へと引き返すことになるのである。何故か泣きながら、全力疾走である。おまけに、書置きを残してきたのだけど、その書置きが何故か暗号で書かれているという、もはや意味不明なオマケつきである。高校生の家出なんて、まあそんなもんである(のか?)

「制服」
これまた僕は至極真面目な人間を装っていたので、制服もかなり規定どおりに着用していた。
周囲の人間で、ちょっと悪ぶった人間は、すぐに学ランのカラーを外すのである。でも、あれは本当にかっこよかったのだろうか?確かに、カラーが何故存在するかも意味不明だが、あれをとったからと言って特にかっこいいということもなかった気がする。
あと冬にもなると周りの人間は、中にセーターとかを着てくるわけだ。いやそれは別に悪いことではなかったのだけど、決められた色以外のものを着てきたりする輩もいたわけで、でも僕なんかは、寒さには無駄に強かったので、肌着も着ないで、ワイシャツに学ランだけという至ってシンプルな服装で冬を過ごしたものである。
なんにしても今思うのは、制服でよかったな、ということである。毎日学校に着ていく服を選ばなくてはならなかったら、どれほど憂鬱だっただろうか。

「ブラヒモ」
共学の高校に通っていたのだけど、夏はいいですね。
こう、女生徒のブラヒモが見えちゃうわけですよ。
男子は、そんなことくらいで興奮しちゃいますね。こう、シャツの下に肌着を着ているような女子ももちろんいたけど、ブラジャーが見え見えみたいな女子もいたわけで、そんな女子が前の席に座っていたりすると、授業そっちのけどそこを注視してみたりとか、まあそんなのが男子なのである。夏の女生徒のブラヒモは、かなりよかったですね。

「酒」
何度も言っているのだけど、僕は非常に根が真面目なので、高校時代にお酒を飲んだことはない…。
というのは嘘で、いやほとんど嘘ではないのだけど、卒業ホント間近という時期に誘われたカラオケボックスの中で、僕は初めて酒を飲んだのである。割と健全な高校生だったのではなかろうか。

「万引き」
本作には万引きに関しての話は載ってなかったのだけど、昔はいろいろと真剣に考えていた時期があったなぁ、と思ったので書いてみようと思います。
昔から結構本を読む人間だったので、本屋でいかにばれずに万引きをするか、ということを考えましたね。
例えば、店の入口付近にあるフリーペーパーを持って店内に入り、お目当ての本をその中に挟んで隠し持って店を出る。
あるいは、大掛かりな細工を必要とするアイデアもあった。ジャンプのような厚めの雑誌の中を文庫本が入るくらいくり貫いて、それを持って店に入る。店内で文庫本をジャンプに詰め、何食わぬ顔で外にでる。
もちろん、実際実行することはなかったが、書店員となった今では、もうホント、万引きは止めて、という感じである。
さてじゃあ万引きをしたことがないのか、というとそんなわけではなく、中学時代にやらかしたことがある。何故かレンタルCD屋みたいなところで、安室ナミエの「Can You Celebrate」を万引きしようとして、店主に見つかってしまったのである。幸いにも警察に引き渡されることなく済んだが、いやはやアホなことをしたものである。しかし知り合いには、電気店でラジカセを万引きした、とかいうようなツワモノが存在するわけで、世の中広いものである。万引きはいけません。

「麻雀」
ルールを知っているというくらいで、全然わからない麻雀だけど、僕が高校生の頃に流行っていたのは、トランプの大富豪ですね。暇さえあれば集まって、お金を掛けて(些細な金額だけど)大富豪に興じていました。懐かしいですね。あれって、地方によってルールがいろいろあるんですよね。久々にやってみたいとこですなぁ。

まあとこんなわけで、長々と僕の思い出を書き連ねて見たわけだけど、本作はこういういろんなことを思い出させてくれたというわけで、懐かしい感じのする作品でした。
というわけで、ざっと内容に入ろうと思います。
著者は家の都合で、岡山の進学校に入ることになった。慣れない方言や過剰な自意識に悩まされながらも、とっても奔放に、いつでも自由に、きままだけどなんとも言えない難しさのある高校時代というものを、楽しくにぎやかに駆け抜けた、その頃の出来事を面白おかしく書いている作品です。
わかるわかる、というものもあれば、それはどうだろうなぁ、というものまでいろいろあるけど、全体的にすごく面白かったですね。軽妙というか、ほとんどふざけてるんじゃなかろうか、というようなタッチの文章は、もうとにかくスラスラ読ませるし、いろんな表現で当時の感情をキリリと描こうとしているあたり、とても感心しました。
しかしなんと言っても、20年近く前のことをこうも鮮明に覚えていられるものなのか、と僕はそっちの方に驚きましたね。僕が特別記憶力が悪いだけなのかもしれないですけどね。
とにかく、馬鹿馬鹿しくてでもいとおしい、そんな酸っぱい高校時代を描いています。著者と同年代でなくても、また女性でも充分に楽しめるんじゃないかなぁ、と勝手に思ってみたりします。
あと、書店員としては、本作の表紙が気になりますね。とにかく真っ赤で、すごく目立つ本です。
まあそんなわけで、結構古い本だけど、今読んでも全然面白いんじゃないかな、という感じがします。読んでみてください。

原田宗典「十七歳だった!」




夢はトリノをかけめぐる(東野圭吾)

僕はどうにも、スポーツを観るということが得意ではない人間である。
例えばつい先日までやっていた、サッカーワールドカップ。日本中が毎回熱狂に包まれる中、わたくし基本的にまるで興味がないわけで、うーむ何故サッカーはこんなに人気なんだろう、と不思議に思うくらいである。
とはいえ、サッカーはまだ僕にとって、観れる方の部類である。野球も、冗長だなとは思うけど観れないこともない。しかし例えば、ゴルフ。あれはきっと観れないだろう。展開が恐ろしくスローで長すぎる。アメフトやラグビーなんかは、観ててもルールがよくわからない(ラグビーは高校の体育の授業でやったにも関わらず)。バスケとかなら観れるかな。
さて、我が友人の一人も同じくスポーツを観ることに興味がないのだけど、その理由をこんな風に言っていた。
『筋書きがないドラマだからつまらない』
つまりこういうことである。
テレビのバラエティ番組は、とにかく観ている人を笑かそうとしている。つまり、どのシーンであっても気を抜かない。どこを見ても大抵それなりに面白い。これが、筋書きがあるということである。
一方でスポーツは、筋書きがない。ないからこそ、たまに信じられないような展開や結果になったりする。しかしそういうことはごく稀で、大抵の場合は、筋書きがないからこそ退屈な部分が多い。
大体こういう主旨である。
なるほどなぁ、と僕は思ったものである。確かにそれはそうだと思った。例えば、スポーツニュースなんかで試合をハイライトで見ると、結構面白いな、と思う。それはもちろん、編集されているから、つまり、筋書きのないはずのドラマに、編集という形で筋書きが与えられているからである。
しかし、試合を全部観るとなると、退屈なシーンも観なくてはならない。というか、ほとんどがそういうシーンだろう。僕としては、それが効率が悪いと思える。
小説やバラエティ番組のように、筋書きが与えられているものに触れる方が、僕としてはいいなぁと思うのである。
だからまあ僕はスポーツをほとんど観ないわけで(まあテレビ自体最近ほとんどみないのだけど)、当然、ワールドカップもオリンピックもまったくもって興味がない。こんなことを言ってはダメなのだろうが、何故あれだけのことであんなにワーワー騒げるのかと、割と僕は不思議に思っている人間である。
僕が個人的に嫌だなと思うのは、外野があれこれ騒ぎすぎなところである。ワールドカップにしてもオリンピックにしても、まあ国を挙げて注目が高いのはいいだろう。しかし、選手がミスをしたら蛇蠍のごとく責め、メダルが獲れなければ大仰に落胆してみせるようなマスコミや観客の姿を見ていると、どうにも不快な気分になってくるものだ。あんたは、彼らに対して何をしたんだ、と。コーチだとか監督だとかがそう感じたりするのは、まあいいだろう。でも、まったく無関係の人間が、外野からグダグダどうでもいいことを言ったりしているのを観ると、なんとレベルの低い国なんだろうな、と思ってしまうのである。
とはいえ、本作を読んで感じたことでもあるが、注目を集めなければ強くもなれないというデメリットもある。
本作は、冬季オリンピックの話なのだが、冬季オリンピックは注目が低い。かなり低い。トリノは、カーリングやフィギアスケートなんかが注目を集めたけど、他はもう全然だった。ひどいものである(という僕もその一人だが、普段からスポーツに関心がないのだからいいではないか、と自己弁護)。
注目を持たれないと、そもそもスポーツ人口が増えない。分母が少ないのから、スター選手も多くは輩出できない。だから試合で勝てない、というスパイラルである。
サッカーや野球は、日本での注目が高い。子供たちは、サッカーや野球をやりたがるものである。しかし、マイナーなスポーツにはやりたいと思う人がそもそも少ない。
朝のニュース番組「とくダネ」のキャスター小倉さんが、オリンピックの開催時にこんな主旨のことを言っていた。
『外国では、メダルを獲るとものすごくいい待遇を国から受けることになる。だからこそ、選手は頑張るのである。日本は、金メダルを獲っても、国からの待遇は、100万円が渡されるくらいである。これでは、日本という国は強くなれない。もっとスポーツに力を入れるべきだ。』
お金がどうの、とは言いたくないものだが、しかしそれが動機の一つになれば、それはそれでいいのではないかとも思うのである。
何にしても、スポーツを観ることにまったく関心のない僕が言ってもまるで説得力のない話なのだけど、日本のスポーツの裾野を広げるためにも、やはりスポーツには関心を持ったほうがいいのだろうなぁ、という結論だったりします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、作家東野圭吾が、トリノオリンピック取材を通じて、日本人にとって冬季オリンピックとは何なのだろうかを深く考察するエッセイである。
と大層なことを書いてはみたけど、いやいや内容は、冬季オリンピック種目のあれこれとトリノオリンピック観戦記、と言ったところである。そんなに深いエッセイではなかったりする。
このエッセイが面白いのは、エッセイらしくないその設定である。
巻末に、こんなことが書いてある。
『本書は、事実に基づいて書かれていますが、一部はあからさまにフィクションです。』
さて、本作の冒頭の出だしはこうである。
『僕はネコである。』
なんとも珍妙なエッセイである。
まあどういうことかとネタバレをすると、本作の視点は、作家東野圭吾ではなく、東野圭吾の愛猫・夢吉なのである。
さてその夢吉、一体何があったのやら、ふと気付くと人間の姿になっていた。という、なんとも奇妙な設定から物語りはスタートする。
東野圭吾は、人間の姿になったネコを見て、無性に腹が立つ。ネコの時には、ダラダラグダグダしていても一向に構わなかったが、これが人間の姿になるとどうにもおかしい。
ならば、と東野が思いついたのが、夢吉に冬季オリンピックのスポーツを練習させて、そして金メダルを獲る、というものである。なんと馬鹿げた発想だろうか、と嘆くのは意味がないわけで、これはあからさまにフィクションなのであるが、まあとにかく、オリンピック種目を練習したくないならラーメン屋でアルバイトをさせるぞ、というよくわからない脅し文句で夢吉を脅し、いろんな練習場や競技選手に会い、いろんな話を聞いて回るのである。
まあそれが前半の内容。
後半はといえば、ようやくトリノへ出発である。
しかしここで東野圭吾に、本当に思いもよらなかった出来事が降りかかる。いや、東野自身にとっては寧ろ非常によかったことなのだが、なんと直木賞を受賞したのである。
さて、この直木賞受賞とトリノがどう関係するかと言えば、直木賞受賞パーティーが2006年2月17日。トリノへの出発が2月18日の午前中。無茶苦茶である。パーティーで散々酒を飲んで、一睡もしないままトリノへ向かうという次第である。
まあそんなドタバタとしたトリノ行きではあったが、向こうへ行ってからもバタバタする。それはもう、仕事に掛けては不真面目で有名なイタリアという国のこと、あらゆる部分がお粗末で、特にトイレが酷かったようである。まあそうした運営上の不満。
あとは、アメリカの応援がうるさいとか、日本人選手が活躍しないとか、まあそういうことで時折イライラする東野であるが、まあそれでも概ね楽しんだようである。
というような様子を、夢吉の視点で描いたのがこのエッセイである。
エッセイとしてはまあ普通の内容であるけれども、このネコの夢吉視点のエッセイというところが非常に面白い。夢吉は東野のことを「おっさん」と呼ぶのであるが、こうなんというか、おっさんを非難するような箇所も結構あって、ああ自己批判しているのだな、とまあそんなことを重いながら読んでいました。
アルペンスキーヤーを主人公にした「フェイク」という作品の取材、ということで何気なく言った一言が、このトリノ観戦、そして本作の執筆に繋がったようで、大作家にもなると話が早いものだと思うのである。まあとにかく、その「フェイク」という作品が楽しみなところである。
本作の最後に、オリンピックは結局メダルなのか、という考察がある。もちろん夢吉との会話なのだが、これがなかなか示唆に富んでいて面白い。
例えば中国は、冬季オリンピックにはスケートに力を入れている。というか、スケートにしか力を入れていない。だからこそ、メダルをバンバン獲った。オリンピックはメダルであると考えている夢吉は、中国のようなあり方はいいんではないか、という。
しかし東野は違う。日本の入賞者のデータを出してきてこう言う。これだけの入賞者が日本にはいる。あらゆる種目で、もしかしたらメダルを獲れるかもしれない。スケートの応援でしか楽しめない中国よりも、いろんな種目を応援できる方がいい。
確かに結果としては、入賞よりもメダルの方が目立つしいいだろう。しかし、それではスポーツは育たない、と東野は言う。もちろん、メダルを獲って注目を浴びてスポーツ人口を増やすというのもある。しかし、とにかく選手の層を厚くするためにも、入賞できる力を持つ選手を多く育てることに力を入れるべきだろう、と。
日本は、メダルこそ少なかったけど、なかなか頑張っているのだなぁ、と思ったものである。
まあそんな感じのエッセイなのだけど、基本的にスポーツもオリンピックも興味のない僕でも結構楽しめました。もちろん、東野圭吾という作家が好きだからという理由もあるかもしれないけど、ネコ視点のエッセイというのは非常に面白いところですよ。読んでみてください。

東野圭吾「夢はトリノをかけめぐる」




溝鼠(新堂冬樹)

復讐、というのは、ほとんど考えたことがない。
どうやら僕は、比較的温厚な人間らしい。
というのは実は嘘で、まあめんどくさいだけなのだけど。
復讐をする、というのは、恐ろしくエネルギーのいることだと思う。正直、よくもまあそんなこと出来るなぁ、と僕は思ってしまう。
例えば、こういう話はよくあると思う。彼氏を他の女に寝取られた女が、その男と女に復讐をする。方法はまあいろいろあるのだとして、まあそういうことをする人は現実にいるのだろうと思う。
許せないとか、憎たらしいとか、そういう感情を持つことは、まあ理解できる。ただそこから、何らかの行動を起こして復讐をしてやろう、という発想が僕にはないのである。
よくいうことだけど、誰かを嫌いになったり憎んだりすることは、非常にエネルギーのいることだ。僕は、憎むという段階でもうめんどくさくなって、まあいいやと思ってしまう。
ただ、例えば先ほどの恋愛の話のような場合なら、まだ理解できなくもない。愛だとか恋だとかっていうのは、人を狂わせるものだし、まあそういうこともあるかもしれない。
しかし最近は、ほんの些細なことでも憎しみを覚える人間が多いようだ。
ニュースで、電車の中で口論になって一方が殺されてしまった、というニュースがあった。その発端は、くつを踏んだとか体が当たったとか、そういうレベルの話である。
たったそれだけのこと―僕にはそうとしか思えないことでも、計り知れない憎しみを感じる人間がいて、それに対して復讐をしてやろうと考える人間がいる。
なんとも恐ろしいものだと僕は思う。
これでは、いつどこで恨みを買っているか、その本人でもわからないということになってしまう。人それぞれ価値観は違うわけで、不快に思うこと、憎しみを感じる対象が異なるのは仕方がない。しかしそれでも、納得のできる理由とそうでない理由があると思う。
僕は、別に善人ではないけど、でもなるべく人に迷惑を掛けないようにしようと心がけているつもりではある。それは、トラブルに巻き込まれるのがめんどくさい、というだけの理由だけれども、それでも何らかのトラブルに巻き込まれてしまうかもしれない。なんとも生きにくい世の中になってしまったものだ。
復讐代行業。そんなものが実際に存在するかどうかはわからないけど(しかし前に、「別れさせ屋」という会社があるというのをテレビ番組で見た。夫婦やカップルが穏便に別れることが出来るようにあらゆる手を尽くす、というような会社で、依頼人もそこそこいるらしい。復讐代行業というものがあってもおかしくはないと思う)、なんだか歪んでるなぁ、と思ってしまうのである。
本作を読んで思ったことのもう一つは、お金への執着である。
僕は正直、お金に執着心がまったくない。
と言ってもなかなか信じてもらえないかもしれないけれども、本当である。
確かに、無駄なものにお金は遣いたくないなぁ、と思う。僕にとって無駄なものとは、僕にとって興味のないもの、ということであって、興味のあることには普通にお金を遣う。
なんというか、僕の周りの人間を見る限り、とにかくお金が欲しい、金持ちになりたい、と言っている気がする。
しかし、僕には特にそんな欲求はない。僕は今アルバイトで、別にお金に潤沢では全然ないけど、でもまったくお金に困ってはいない。僕の周りの人間は、何故だかとにかくすぐにお金がなくなってしまうらしい。僕からすれば、不思議な話である。給料日前になると、お金がないない言っている周囲の人間の話を聞いて、一体何にお金を遣えばそんなになくなるのだろうか、と思ってしまう。
僕の場合、とにかく満足できるお金の遣い方が少なすぎるのである。例えば世の中の人は、おいしい食事を食べる、存分に買い物をする、旅行に行きまくる、というような形で、お金を消費して満足を得ることができるのかもしれない。
しかし僕の場合、お金を遣って得られる多くのことに対して、特に満足が得られないのである。だからまああまりお金を遣わないのだけど。
本作に出てくる鷹場という男は、もうそれは恐ろしいほどのケチである。落ちている10円は拾うし、人におごる金なんて一銭もない。とにかく、1円でも多くの金を得て、1円でも出費を抑えるという男である。
どうにも僕にはそういう心境が理解できないわけで、お金を溜めることが目的になっている人というのは、何が楽しいのだろうかなぁ、と思ってしまうのである。
お金は、もちろんあるに越したことはないだろうと思う。しかし、そのあるに越したことのないお金を得るために、普段から犠牲を払わなければならないとしたら、それは満足のいく生き方ではないような気がするのである。
というわけで、いろんな意味で鷹場という男の生き方にはまるで共感できないわけで、世の中にはこんな人間もいるのかしらん、と思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
依頼人から話を聞き、最適な復讐方法を考え実行するという、復讐代行業でバリバリ稼いでいる社長の鷹場。鷹場を含め社員は皆、嗜虐的な性向を持っていて、とにかく、人の嫌がることをすることが快感で、人の苦痛に歪んだ表情を見るのが愉快で仕方がないという、筋金入りのサディスト集団である。彼らは、給料という実益のためというのもあるが、自らの趣味を満足させるために、日々仕事に勤しんでいる。
あるデート嬢に騙されたという依頼人からの要請で、そのデート嬢の髪を剃り、眉を剃るという屈辱的な仕打ちを与えたこともあった。彼らの仕事に手加減というものはないのである。
そんな、溝鼠のごとく荒んだ人生ではありながら、鷹場としては順風満帆だった人生が大きく歪んだのは、ある一人の男と再会したためだった。
源治。鷹場の父親でも元ヤクザ。
整形して別人のような顔になっていた父親。幼い頃から鷹場に虐待を加え続け、また姉と引き裂く原因を作った男に強烈な憎しみを感じていながらも、どこか未だ恐怖を引きずる鷹場。突然現れた源治にうろたえながらも、虚勢を張ろうとする。
しかし、源治の思惑を知るや、人生の歯車が大きく狂わされたことを悟った。
源治の持ちかけてきた話は、ある意味で魅力的なものだった。3人で―源治と鷹場と鷹場の姉である澪の3人で2億円を山分けしようという話。しかし、バックにはヤクザの影があるヤバイ話。ヤクザとは関わらないように生きてきた鷹場は断ろうとするが、罠に嵌められた自分は逃れられないことを知る。
ならば、この男を出し抜いて、澪と一緒に新たな生活をスタートさせる。それしかない。
一方で澪は、ある暴力団の組長の宝田に見初められ、その女になった。誰もが振り返るような完璧な美貌と、ほとんど働かなくても美を追求できる境遇。人から羨まれてもおかしくない境遇だが、澪は不満だった。
宝田という男の元から逃れられないこと。それが不満だった。
そこに振って湧いた一つの計画。ある大学病院の教授候補から2億円をかっぱらおうという作戦。澪は周到に頭をめぐらせ、すべてから自由になるために、計画に加担していく…。
というような話です。
もう、しょっぱなからぐっちゃぐちゃですね。もう、サディスティックな展開、バイオレンスな展開、ブラックな展開と、とにかく冒頭から突っ走ってます。ノアールを読んだのはかなり久しぶりですが、馳星周の「不夜城」や「漂流街」、小川勝巳の「葬列」なんかを思い出しましたね。こう、不快感を催すほどの過激で直接的な描写が満載で、いやはやよくここまで書きましたな、という感じですね。
しかも、2億円を巡って争われる物語なのだけど、仲間であるはずなのに裏切り・疑うということのくり返しで、とにかく醜いという感じでした。
ストーリーはとにかく、もうひたすらトップスピードでひた走る感じで、息つく暇も与えない、という表現がぴったりな感じです。この場面をどうやって切り抜けるんだろう?というようなシーンがたくさんあって、なかなか面白かったですね。
でも本作は、読んだ後に何が残るかといわれれば、ストーリーではなく、登場人物の強烈な個性ですね。ストーリーは忘れても、登場人物の倒錯っぷりは、忘れないでしょう。
鷹場と源治は同類で、ケチで嗜虐的である。両者のケチっぷりは本当に凄まじくて、それくらい別にいいんじゃないか?と思えるところまでこだわって、お金に執着しようとします。1億円以上の現金を持っているのに、道に落ちている10円を拾うという感覚が僕にはなかなか理解できませんね。
嗜虐的というのは、とにかく本作の登場人物のほとんどに当てはまる言葉で、それはもう異常としか言いようのないものでしたね。
澪ですら、源治の血を引いているが故に同類であって、他人の苦痛を知って快感を得るし、そういう人間の心境も理解できる人間だったりします。
しかしとにかく一番最悪に倒錯しているのは、八木という、復讐代理業の社員ですね。
八木はもうとにかく、他人が嫌がることを思いつく天才という感じで、しかもそれを冷徹に実行するということのできる人間です。しかも、ほんの些細なことで復讐心を誓うような人間で、電車の中で足を踏まれただけの人間の家族を一ヶ月調査し、母親と娘に復讐するというような感じです。もうホントに、八木のような人間が世の中に存在するなら、是非とも関わりたくない、と切に願うような、そんな人間でした。関わったら最後、どうなるかわかりませんね。
宝田というヤクザの組長も変態なのですが、もうそれがごく普通に見えてくるくらい濃い人間達ばかりで、とにかく醜くて醜くて、溝鼠の生き方は嫌だな、と思いました。
さてストーリーに話を戻しますが、全般的に面白かったですね。でも、最後の最後、アレはどうなんだろう?と僕は思ってしまいました。ちょっと、最後のあの鷹場の決断というか判断というか、そういうのは理解できなかったですね。今までずっとある一方に傾いていた天秤が、突然何もしてないのにもう一方に傾くようなそんな不自然さがあって、最後はちょっと台無しだったかなぁ、と思います。まあ、そうじゃない展開を考えても確かにチープな物語になってしまうのかもしれないけど、でももう少しやりようはあったんじゃないかなぁ、という気がしました。もうすぐページもなくなるけど、これどうやって終わらせるの?と思っていたら、突然あれ?って感じで終わってしまって、そこが僕としては残念なところでした。
今まで新堂冬樹の作品は、「血塗られた神話」「忘れ雪」と本作の3つを読みましたが、本作が一番よかったですね。あんまりというか全然爽快な物語ではないけど、まあたまに読むならこういうのもいいですね。
どろどろした醜い人間達が繰り広げる汚らしい物語です。そういうのが大丈夫な人は読んでみてください。

新堂冬樹「溝鼠」



ホーキング、未来を語る(スティーヴン・ホーキング)

創造主、という存在がいるとしよう。それを、神と呼ぶかどうかは別として、この世界をなんらかの意志を持って作り上げた存在という意味である。
その創造主は、今の世界が出来上がるように世界を作り上げたのだろうか?
あるいは、いろんな実験をくり返し、あらゆるデータを調整しながら、やっと出来上がったものなのだろうか?
なんというか、世界は複雑なのだ。
人間という知的生命体が生まれてから歴史は浅いが、しかし宇宙全般についてかなり長い間、最高峰の頭脳が日々頭をフル回転させている。
それでも、宇宙の真理というものに到達しない。
宇宙を統べる法則はまだ完成しないし、宇宙がいかにして始まったのかも説明することはできない。生命が誕生した仕組みも、その進化の過程だって、まだ明らかではない。
自分の目で確かめることの出来る、巨視的な世界での出来事は、随分昔に理論的な整備は大体出来ていた。何故リンゴは地球に向かって落ちるのか、ということから始まり、天体の運行や砲弾の軌道など、そういう目に見えるレベルでの理論は、かなり整ってきているし、実用というレベルで見れば、もう充分すぎるほどかもしれない。
しかし、目に見えない世界の出来事というものは、実はより一層複雑であるということが、段々と分かってきた。
20世紀最大の科学の進歩として挙げられる、量子物理。かのアインシュタインが、「神はサイコロを振らない」と言ってその理論を受け入れなかったことで有名だけど、今では量子論なくして、現在ある科学技術を語ることはできないらしい。量子論が存在するからこそ、テレビが映るのだそうだ。
量子論というものは、僕らの巨視的な世界とはまるで違った様子を見せ付けてくれる。
その一つが、アインシュタインが受け入れることのできなかった、不確定性原理である。
例えば、高速道路を走っている車を上空からヘリで観察している、ということを考えよう。これは、目で見ることのできる巨視的な世界でのことである。
この場合、現在の技術を持ってすれば、車の速度とその正確な位置は、測定することができる。つまり、ある位置における車の正確な速度を、僕らは知ることができる。
しかし、目に見ることのできない微視的な世界では、それはできない、というのである。
例えば今、一つの原子が運動をしているとしよう。この時、ある位置における原子の速度を測定しようとしても、それは不可能であり、あるいは、ある速度における原子の位置を測定することも不可能なのである。位置と速度を同時に決定することができない、というのが不確定性原理であり、位置や速度は、確率的にしか観測できない、というものである。
これは、巨視的な世界に生きる僕らの常識からすれば、考えられないことである。しかし、この考えられないような複雑さを持った量子論が、今では当たり前のように事実として受け入れられているのである。
僕は疑問に思うのである。
何故ここまで、世界は複雑なのだろうか、と。
というのも、創造主というものが存在するならば、自らが作り上げた世界についての理屈は、やっぱり創造主はすべて押さえておかなくてはならないだろう、と考えるからである。
わざわざここまで複雑にしてまで世界を創りたかったのか?
あるいは、これほど複雑にしなくては、今のような世界のありようにはならなかったのか?
人間原理、という考え方がある。説明することはなかなか難しいのだけど、簡単に言ってしまえば、「世界は、人間が生まれるように設定されて生み出された」というような考え方である。
こう書くと、なんだそれは、と思うかもしれないけど、でもこう考えればどうだろうか。
宇宙というのは、あらゆる基本的な定数によって支えられているのだけど、今僕らがいる世界というものは、そういう定数が、人間にとって都合のいいものになっている。
しかし、僕らの宇宙ではないどこかに、その定数が僅かに違っている無数の世界が存在するのではないか?僕らの世界は、その無数の宇宙の一つであり、その様々な定数の設定が偶然知的生命体の発生に有利だったために、今の世界になった。僕らはその世界に生きているのだから、宇宙が人間にとって都合のいいように出来ているのは当然である。
こう考えれば、人間原理もあながち無茶苦茶ではないようである。
ただ、いくつも宇宙があるということから、僕はこんな連想をしてしまうのである。
やはり宇宙は、創造主の実験場なのではないか、ということだ。
例えば、無限大の容量を持つコンピュータがあるとして、そのコンピュータ内で、いろんなパラメータを変えることのできる世界創造プログラムというものを起動させる。同時にいくつもの世界が生み出されるが、知的生命体の発生しないものをドンドンと淘汰させていく。そうして残ったのが今僕らのいる宇宙である…。
つまりこの宇宙は、僕らよりも一つ上の次元の創造主が行った、コンピュータ内のプログラムかもしれない、ということだって、全然ありえると思うのだ。そういう発想の映画や小説も、古今東西たくさんあることだろう。
もしそうだとしても、別に僕らの生活に何らかの支障が生じるわけでもない。しかし、科学者は失望するかもしれない。結局、誰かの意思の手のひらの上で転がされていただけなのだから。
物理学は、宇宙の始まりを追い求め、自らの世界の存在について追求していくようになってきた。それは、世界や人類の根元を突き止める作業である。それは難しいだろうし、もしかしたら不可能なのかもしれない。しかし、それが可能なのはまた、物理学しかないというもの、また事実である。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、世界的な物理学者、スティーヴン・ホーキングが記した、現代物理学の最先端を記述した本です。
というわけで、スティーヴン・ホーキングという物理学者について大雑把に説明をしようと思います。
車椅子の物理学者として有名で、筋ジストロフィーのために、現在では声も出せない状態ですが、20代で死ぬといわれていたのにも関わらず、現在は60歳を越えています。
若い頃から天才的な仕事をしてきた物理学者で、特に宇宙物理の世界では世界のトップをひた走っています。あのアインシュタインと双璧を成すとも言われるほどの物理学者で、アインシュタイン以来、これほど知名度のある物理学者もいないでしょう。車椅子だからという理由ではなく、純粋な学術的な知名度で一般にアピールしています。
「ホーキング、宇宙を語る」という、物理学について語った本が世界中でベストセラーとなりましたが、本作はその続編という形態で書かれた本です。ただ、ホーキング自身が冒頭で書いているように、ただの続編にするつもりはなく、どうせ書くなら新しいものを、という意気込みで書かれた本です。前作ではほとんどなかったカラーイラストをふんだんに盛り込んだ作りになっています。
内容としては、アインシュタインの相対性理論から始まり、時間とは何か、ひも理論や量子論、タイムトラベルは可能なのか、というような、とにかく多岐に渡った内容で、現代物理学の最先端(の一部なのだろうけど)をこれでもかと載せています。
内容は、かなり難しいですね。巻末に用語集があるとは言え、いろんな単語が文中ではほぼ説明なしに使われていますし、まったく馴染みのない概念も山ほど出てきます。相対性理論や量子論なんかはまだ理解できるのですが、時間の形だとかブレーンがどうのとか、そういうかなり抽象的な概念については、どうにもついていけませんでした。
そう、物理学というのは既に、抽象的な議論をする場になっているようです。もちろん、根本となる、あるいは根拠となる物理現象や実験結果、あるいは基本理論などはあるのでしょう。しかし、昔は哲学的な分野だったはずの問いが、かなり物理の世界に持ち込まれて、それらをなんとか数式で、理論で説明できないか、という方向へどんどん進んでいるようです。
巨視的な世界を説明する学問から、微視的な世界を説明する学問へ、そして今は、目に見ることすらできない抽象的な世界を議論する学問へと、物理学は変わってきているようです。
というわけなので、本作は文系の人には恐らくついていけないだろうし、理系の人でもかなりの人が無理なのではないか、と思えてしまいます。僕も、一応理系のつもりではいますが、後半に行けば行くほど、ついていくのが困難になりました。自分は文系だと思っている人は、まず手を出さない方が正解だと思います。
恐らくこれでも、普通の物理学者が語るよりはかなり易しく書かれているのでしょう。それを理解できないわけで、物理学というものは、もはや一般の人の手に届く学問ではなくなりつつあるのだな、という感じがしました。ただ、スティーヴン・ホーキングという物理学者はすごいのだろうな、となんとなく思いました。

スティーヴン・ホーキング「ホーキング、未来を語る」



後巷説百物語(京極夏彦)

物事には、必ず裏と表がある。
というより、裏と表だけでなく、見る方向によっていろんな形に見える。
ただ僕らは、いろんな方向から物事を見ることが、非常に苦手だ。
例えばそれが、ただの物質であるならば、僕らにはわかりやすい。例えばお皿は、上から見れば円、横から見れば下に凸な曲線だけど、どこから見ようが、それがお皿であるということは間違いなくわかる。
しかし、何かの出来事となると、とたんにうまくいかなくなる。
幽霊の正体見たり枯れ尾花。
これが、物事をあらゆる視点から見ることが難しくなっているということの、一つの形である。
要するに僕らは、何か出来事を見るときに、それに合っていると自分で判断したフィルタを、自然に選択しているのである。それを、あまりにも無意識に行っているために、どんなフィルタが目の前にあるのか、自分でも気付かない、ということになるのである。
先ほどの枯れ尾花の例ならば、僕らは、夜人気がないということ、枯れ尾花(=すすき)の下には幽霊が出るという話があること(これは昔のことだけど)という情報を複合的に考えて、今この状況ならば幽霊を見てもおかしくないかもしれない、というフィルタを選択しているのである。
色眼鏡で見る、という言葉があるけれども、まさにその通りで、人の数だけ色眼鏡があると考えてもいいだろうと思う。
客観的とか主観的とかいう言葉があるけれども、物事をなかなか客観的に見るということは、実際には難しい。僕らはいつでも、様々なフィルタというものを通して、世界を主観的に見ることしかできないのである。あるいは、そのフィルタを、あらゆる形で共有することが出来ている集団の中ならば、それは客観的と言うことができるかもしれないけど。科学、という世界では、いろんな物事のフィルタが統一されているだろうので、恐らくあれは客観的だと言っていいだろう。
さてそうなると、詐欺というものの仕組みも、なかなか面白く思えてくる。
近年まれに見る天才的な詐欺として大成功を収めたのが「オレオレ詐欺」だけれども、これに限らず詐欺というものはつまり、いかに相手に、自分の都合のいいフィルタを選択させるか、というところにすべてがあるのだろうな、と思うのである。
「オレオレ詐欺」の場合、詐欺師は、電話の向こうの誰かに対して、「自分は息子なのだよ」というフィルタをまずかけさせるのである。その上で、お金を奪い取る。
「オレオレ詐欺」というものは、電話の向こうの誰かを息子だと思わない限り成立しないわけで、ちょっと考えると騙されるわけない、と思ってしまうのであるが、そこが盲点だったりもするのである。つまり、息子の声を電話で聞き分けられないわけがない、とかいうような思い込みなんかも、うまく利用しているのであろう。
また、宗教も、フィルタをうまく利用している集団であろう。あれは、いかに多くの人に、同じフィルタをつけさせるか、ということがすべてであって、そうやって周りが同じフィルタを持っているという状況が、自分を安心させたりするのだろうから、なんともうまく出来たシステムだな、と思うのである。
僕らは、フィルタをなくして世界を見るということは、本当に難しい。子供の頃はそれができただろう。フィルタが形成される前ならば、僕らは世界を、フィルタなしのまま、ありのまま見ることができたはずだ。
しかし、大人になるにつれて、常識やら様々なものに囲まれるようになって、そうやって少しずつフィルタは出来上がっていく。大人になればなるほど、物事をクリアに見ることは難しくなっていくのである。
ただ、それでもいいのかもしれないな、と思う。少なくても、自分はフィルタ越しに物事を見ているのだという自覚さえあれば、いつかフィルタの呪縛から抜け出すことができるかもしれない、という幻想を持つことができる。ささやかだけど、それでいいかもしれない、と思うのである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は<巷説>シリーズ、と呼ばれているかどうかは知りませんが、そのシリーズの完結編となっています。
さてこのシリーズがどんなものなのか、ざっと説明しておきましょう。
諸国を旅して不思議な話を集め、いずれ本を出版したいと考えている山岡百介。彼は旅の行く先々で実際にいろんな話を集めては、自らも不思議な体験に遭遇したりしている。
そんなある時に出会ったのが、又市という男。この男、口先三寸だけで生きてきたような男で、謀る騙す陥れるとなんでもやる男である。
しかし、詐欺師というとそうでもない。又市の仕事は、あっちを立てればこっとが立たず、というような、とにかく八方塞りな状況を、あらゆる知恵と仕掛けによって妖怪の仕業に見せかけ、八方丸く収める、というものなのである。
又市の存在を知ってしまった百介は、世の怪異をきちんと見ることが難しくなってしまった。又市のような存在が怪異を生み出していることもある、ということもあるのである。時には又市の手伝いをしながら、それでも諸国漫遊し、不思議な話を集め続ける百介である。
これがシリーズの大体の話である。
さて本作であるが、本作はちょっと趣向が違うのである。
それまでの話から、たぶん40年くらいは経っている。
恐らく30代だった百介が、本作では立派なご隠居、九十九庵という名の家に一白翁と名乗って隠居しているじいさんである。
さてそんな百介の元に、時折顔を見せる連中がいるのである。
東京警視庁一等巡査である矢作剣之進、かつては藩士だったがご一新後貿易会社に勤めるようになった笹村与次郎、旗本の次男坊で洋行帰りというハイカラな男倉田正馬、山岡鉄舟に剣の手ほどきを受けたと称し町道場を開いている渋谷惣兵衛の四人である。
さて彼ら、一体何の用があって一白翁を訪ねるかと言えば、発端は常に、剣之進が持ち込む不可思議な事件なのである。
剣之進はいつもなんらかの事件に関わっているが、その事件がどうにも珍妙なのである。そこで、そんな珍妙なことがあるのだろうか、という文献を、まずは与次郎に探してきてもらう。それから四人で、それについてあーでもないこーでもないと語るのである。
ただし、結論はでない。
さすれば、かつて諸国を漫遊し、不思議話については右に出るものなしという百介に話を聞きに行くのがよかろう、ということになる。
そこで、剣之進は懸念の事項について問うのだが、逆にそこで百介の語る不思議な話に聞き入ってしまう…。また老人は、かつて又市と関わった事件に想いを馳せることになる…。
とまあこういう構図の物語である。
それでは、それぞれの話を紹介しようと思います。

「赤えいの魚」
剣之進の持ち込む事件が発端だ、と書いておきながら、この話だけは少し違う。
発端は、世次郎がちらりと話した、ある島が沈んでなくなったという話に始まる。その真偽を確かめたかった剣之進は文献に当たるが、どうにもハッキリしない。そこで一白翁の元へと向かうのだが、そこで、年中霧に囲われた、一度行ったら二度と戻ってくることのできない島の話を、一白翁に聞かされることになる。
エビスの顔が真っ赤になったことで滅んだ島があるのだよ。
一白翁は、そういって話を始めるのである…。

出だしの話としては、かなり面白かったですね。一白翁の語る島というのが、本当に奇妙なところで、しかしその奇妙さに島の住人は気付かないというところが、何か恐ろしいなという風に思いました。なるほど、あの島を壊すのは、並大抵ではいかないな、という感じですね。

「天火」
剣之進懸念の事件というのは、ある火事である。どこぞで大火があったのだが、下手人と目された女が奇妙なことをいうのである。
火の玉が建物の中に入ってきた。その中には、先妻の顔がくっきりと見えた。
剣之進は、火の玉が火事を起こすことはあるのか、火の玉の中に顔が見えることはあるのか、ということを問う。結論のようなものは出るには出るが、一白翁の話も聞きに行くことに。
すると、一白翁の口から、かつての文献に載せられていたのとまったく同じ構図の事件が語られることになる。
人望のある代官様。淫蕩の病を持つ妻。霊験新たかな坊さんに治してもらおうとするが、妻に誘惑されたその坊さんを、代官様は殺してしまった。正気を失った代官様と妻は、天火によって焼かれてしまったと、そういうお話。
剣之進の事件の真相と、かつての天火の真相は?

これもうまいですね。何も知らなかった当時の百介の視点で語られるのが面白いですね。百介自身が体験した天火の話は、本当にどうなるものやらと冷や冷やしました。また、剣之進が持ち込んだ事件も、なるほどというような話がついて解決し、面白い話でした。

「手負蛇」
剣之進懸念の事件は、今度は蛇なのである。
どこぞで、蛇にかまれて死んだ男がいる。それだけなら、ただの事故のはずなのだが、そう簡単にもいかない。
問題は、70年近く開けられることのなかった祠の中にあって石で出来た箱の中にいた蛇が男を殺したということなのである。
蛇が70年も箱の中で生きるものだろうか。
もし70年も蛇が生きるというなら、これは事故だ。しかし、そうでないというなら、下手人がいるはずなのだ、という話である。
なるほど難しい話だということで、いつものように一白翁の元へと向かうと、なんとその老人、その祠が作られた時その場にいたのだという。老人の語る物語から導かれる真実は…?

ちょっと難しい仕掛けかなぁ、とも思ったけど、まあ不可能ではないでしょう。不確定要素も多いですが、完璧な確実さを求めているわけでもないのでしょうし。
しかし本当に、毎度毎度、うまい話を考えるものだと思います。

「山男」
剣之進懸念の問題は、今度は山男である。
山男は人なのか獣なのか怪物なのか。
発端は、ある村で起きた娘の失踪事件である。突然いなくなった娘を探しに行った男が殺されるという事件もついている。
さてその娘、なんと3年近くしてから発見された。しかし、なんと子供を背負っていたのである。娘は発見された当初錯乱していて、うまく話すことができなかったようだ。しかし、異常に体のでかい恐ろしい男に襲われたというようなことを言っていた。
それで、山男である。今村では、山男を狩り出そう、という動きがある。山男が人間ならば、それは止めさせねばならない。しかし、獣だとするならば、子供が生まれるわけはない。一体どうなのだろうか。
いつものように一白翁の元へと向かう一行。そこで彼らは、百介自身が実際に遭遇した山男の話を聞くことになる。そして、剣之進の持ち込んだ事件に対して曖昧な態度を取る百介に代わって、百介と一緒に住んでいる小夜という女が、事件の真相を看破する。

ありきたりといえばありきたりの話なのだけど、うまくフィルタを被せてありきたりでない話に見せているというところは、さすがにうまいなと思いました。百介の語る山男の話は、ちょっとだけ人間関係がわかりずらくて苦労しました。

「五位の光」
剣之進の懸念は今度は事件ではなく、さる筋からの相談なのだという。それは、帝に関わるかなり位の高い人からの相談である。
さて今回の問題は、鷺である。鷺は光るのか否か、ということだ。
その位の高いお方には、ある記憶があるのだという。どこぞの沼地。自分はまだ3歳くらいで、女に抱かれている。そこに父親がやってきて、なんと女に土下座をするではないか。女は父親に自分を受け渡すと、なんと女は鷺に代わり空へと飛んでいったのだという。その鷺の体は青く光っていた。
これは、事実なのか、あるいは私の幻覚なのか。そういう相談である。
百介の述懐が、物事の裏の裏まで明らかにする。

どの話でもそうだけど、このシリーズを読んでいると、嘘というのは必ずしも悪いだけのものではないな、ということがもの凄くよくわかります。つくべき嘘とつくべきではない嘘を見極め、また嘘をつくならつき続けるべきだ、というようなことが、すごくよくわかる話になっています。

「風の神」
剣之進の懸念は、またも相談で、今度は、百物語の正式なやり方はどんなもんであろうか、というものだ。
先の事件で関わった高貴なお方の筋からの依頼で、ある塾の門弟が、化け物はいるのかと問われ、流れで、ならば百物語にて検証しようではないか、ということになったらしい。
さて、百物語をすることになったのですと、一白翁に伝えに行った与次郎はそこで、小夜の出生について知り、また一白翁からある頼まれごとを受けることになる。それは、ある高貴な坊さんをその百物語に混ぜて欲しいこと、そして最後の話を自分にさせてもらいたい、ということである。
さて百物語当日。一体何が起こりますやら…。

百介という男が、最後の瞬間で掴み取った生というか、そういう感じの話ですね。百介らしくないというところがまたよくて、シリーズの最終話としては、悪くないな、という感じです。まあ他の話に比べれば地味だと思いますけど。

僕はこの<巷説>シリーズを読んでいて思うのが、島田荘司に似てるな、ということです。
島田荘司という作家にどういう印象を持っているかわかりませんが、僕の中では、力技作家、という印象です。
それは、そうですねぇ、K-1の選手みたいなイメージです。とにかく、どんな手を使ってでもいいから、なんとかねじ伏せ強引に押し込める。島田荘司という作家の印象はそんな感じです。
このシリーズは、例えるならば柔道という感じですね。力業は力技なのだけど、無理矢理というわけではなく、相手の力を利用して相手を倒す柔道のように、柔軟さや流麗さがある感じで、まあ島田荘司と比べるのは無理があるのかもしれないけど、近いかもしれないなと思いました。
又市の仕掛けというものは本当に見事で、さっきも書いたけど、こういう嘘ならば世の中にたくさんあってもいいなぁ、と思いました。又市らが仕掛ける仕掛けが現代でも有効ということはないでしょうが、その精神を受け継ぐことは可能でしょうね。そういう存在がいたら、面白いなと思います。
恐らくこのシリーズはこれで完結だと思いますが、それはちょっと残念ですね。又市らの大仕掛けは、また読んでみたい気がします。
というわけで、長い話ですが読んでみてください。すごい面白いですよ。このシリーズは、ミステリの形としてもかなり新しいと僕は思います。ミステリというのは、問題を解き明かすまでがストーリーだけど、本作は、問題を解き明かした後、いかにそれを丸く収めるかというところが主眼だったりします。オススメです。是非どうぞ。

京極夏彦「後巷説百物語」



マムシのanan(リリー・フランキー)

リリー・フランキーの立ち位置というものが、僕は好きだ。
つまりそこは、隙間なのに本流という、一軒相容れないような場所なのである。
イメージとしては、京都の無茶苦茶狭いけど品格ある裏道。京都のそんな道は通ったことないのだけど。
リリー・フランキーを、街道に例える人はいないだろう。とにかく、普通ではない。というか、普通を嫌悪しているようにも見える。人が橋を渡るなら自分は泳ぎ、人が笑うなら自分は黙るみたいな、そんな常にアンチを目指すようなそんな印象がある。
しかし、だからといって、その存在を誰にも知られていないような小道やわき道のようなものでもない。とにかく、アンチとして王道なのである。アンチであることというのは普通、何かを阻害したり排除したりすることで成立するのだと思うのだけど、リリー・フランキーは、基本的に何も排除しないし阻害もしない。すべてオールオッケーで受け入れた上で、アンチなのである。
そういうリリー・フランキーの立ち位置というのは、普通はなかなか出来ないものであり、だからこそ、少し羨ましく思う。まあ、彼と同じような人生は、ちょっと嫌だけど。
彼のそういうスタンスは、経験と視点によく現れていると思う。
リリー・フランキーはとにかく、普通の人間が決して経験することが出来ないような奇妙奇天烈な経験を、それはもう数多くしている。まさかそんな人間が!という人間に出会うし、まさかそんな光景が!というような光景にも出くわす。リリー・フランキー自身が、なんらかの吸引力を持っているのではないかとすら思うくらいである。
しかしそうではなくて、リリー・フランキーはつまり、何も拒絶しないで生きてきたわけである。大抵の人間は、自分の中でいくつも、これは無理だなというものを持っている。そういうものを、避けられるものなら避けようと生きている。
しかしリリー・フランキーは、自分にとって得しないことをわかった上で、無理だなと思うことにも、積極的な意志を持って立ち向かうのである。そこには、無駄に豊富な好奇心と、有り余るお馬鹿な思考が隠されているわけだけど、まあそれはいいとして。
さらにリリー・フランキーのすごいところは、その各種の経験を、それなりに自分の中で消化することができるということである。それは、深く考えたり何らかの意味付けをしたりするというようなことではなく、なるほど、こういうこともあるのだなぁ、と自分の中で落ち着きのある場所に着地させることができるということである。何でも飲み込むそのスタンスには、あっぱれである。
視点については、なんというか、「神は細部に宿る」という有名な言葉を引用したい。つまりリリー・フランキーの視点は、「視点は細部に宿る」というような感じなのである。
というか、細部ほどよく見ている、という感じだろうか。とにかく、あらゆるものに隙間を見ることに関して卓越していると思う。
大抵の人は、モノとモノの関係を文章にする。つまり、モノ一つを円にしたとき、その重なり具合を文章にすることで、エッセイなり小説なりというものは出来上がっている。
しかしリリー・フランキーの場合は、その円と円が作り出す隙間にこそ目が行くのである。よくもまあ、そんな微妙で些細なところに目がとまるなぁ、という感じ。
しかしそれが、せせこましくなく映るのも、リリー・フランキーらしいと言えるだろう。つまり、その隙間を論じる上で、強く主張をするために、読んでいる人に、なるほどこれは重要な問題なのだな、と思わせる、ということである。きっとこれが、リリー・フランキーの文才なのだろう。
だからこそ、リリー・フランキーのエッセイは非常に面白い。その独特の経験と独特の視点がうまく融合し、限りない化学反応と共に一つの文章になると、リリー・フランキー特有の、なんともいえないエッセイになるのである。
「東京タワー」がヒットするまで、文筆家としてのリリー・フランキーをまったく知らなかったわけだけど、こういう才能が広く知られるようになることは、いいことだと思う。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、まあリリー・フランキーのいつものエッセイなのだが、その成立過程が面白い。
ここでなぜか、小泉今日子という名前が出てくる。
小泉今日子が雑誌「anan」に連載していたエッセイをまとめた本に、「パンダのanan」というものがある。もうお分かりだろうが、本作はこれをトリビュート(?)した作品で、同じく「anan」誌上に載せたエッセイをまとめたものである。装丁や構成もほとんど「パンダのanan」と同じであり、面白いことを考えるもんだな、と思うのと同時に、よく小泉今日子はオッケーしたな、とも思うのである。
まあそんなわけでエッセイだが、本作はまあそれまでとそこまで内容的に変わることのないエッセイである。多少、エロエロさが加減された、上品な(?)作品に仕上がっているような気はするが。さすがに、小泉今日子に遠慮したためだろうか(笑)
本作は僕の中で、今までのどのエッセイよりもよかったなぁ、と思うのである。
大体おおまかに言って、女性のことや恋愛についてのことが書かれているわけで、その指摘みたいなものが結構鋭いなと思う。また、これはなかなかいいことを言っているなという文章が結構あってよかった。抜き出してみよう。

『おしなべて女は恋愛が盛り上がっている時に恋のトラウマを作り、男は恋愛関係が盛り下がっている時にトラウマを作る。』

『”木を見て森を見ず”という言葉があるが、全体を見渡すことも必要だけれど、女は森を見渡した後にもう一度、一本の木を凝視する注意力が大切なのである。』

『誰かに寄りかかりたい気持ちと、人を愛する気持ちは同じじゃない。』

『淋しさに勝てる女は美しい。ひとりの時間を豊かに過ごせる人。そんな人がいるなら、ボクは憧れてしまう。』

『つまり、この世では”相手が去り際に発する言葉を信じてはいけない”ということなのだ。』

『所詮、金で買えるモノなんかはどれも安いものなのだ。少々無理をしたところで、気持ちがよくなれるんだったら買えばいい。どうしたって、無い袖は振れないワケで、買えないものは買えない。』

『見守ることや、口にも手にもしない優しさもある。女の人がもっと、そんな優しさを読み取れる生き物ならば世間の優しさはさぞかし美しいものであるだろう。』

『「言わなきゃわからなじゃん」という人には、おそらく言ってもわからないのである。
”女は確認作業が必要なのよ”と感性の鈍いことをしたり顔で言う人がたまにいるが、だったら横断歩道渡る時もいちいち指さし確認してればよろしい。
確認作業とは自己満足であって、思いやりや愛情とは程遠いものがある。』

『人間の関係性を写真に一度撮って、その上がりを眼で見て確かめ、”友だちっぽくみえる画””つきあってるっぽく見える画”を確認し、そこでやっと「この人は友だち」「私たちはつきあっている」と納得するのであろう。
面倒臭い人たちである。』

どうであろうか。結構示唆に富んだことを言っているとは思わないだろうか?それだけ、他の作品よりは、上品で格上の作品になっていると僕は思うのである。
さて、本作について唯一問題点を挙げるとするならば、それは装丁である。
デザインが悪いとかそういうことではなく、もっと実際的な問題である。
それは、表紙のマムシの部分の耐久性が明らかに弱いのである。
マムシの部分が、ペロンペロンめくれかえっているのである。これは一体どうしたらいいのだろうか?恐らく、押し花のように、重い本で上から押し付けでもしない限り、これは元には戻らないだろう。明らかに、この装丁は失敗だと思う。まあ、リリー・フランキー自身がやったんだけど。
まあ、欠点といえばそのくらいで、内容は本当に面白いです。短い作品だけど、堪能できると思います。読んでみてください。

リリー・フランキー「マムシのanan」



超人計画(滝本竜彦)

この作家の感想を書くときは、いつでも大抵ひきこもりの話を書いてしまうものなのだけど、今回はなんとか別のベクトルを探してみようと思う。
となると本作の場合、彼女を作るということ、についてだろうか。
わたくしにとって非常に不思議なことは、世の中の人々は一体、どうやって彼氏彼女を作っているのだろうか、ということである。
これは、七不思議なのである。いや、他の六個は特にないのだけど。
まあこれだけの人間が世界中にいれば、まあそれは気の合う人間など、たくさん存在していても不思議ではなかろう。好き合う存在もそりゃあたくさんいるだろうと思うのである。
しかし、そういう人と一体、どうやって知り合っているというのだろうか。
不思議である。
世の中には、出会いがない出会いがないと言いながらいつだって恋人がいる人もいれば、出会いは多そうなのに恋人がいなかったり、もてそうでもないのに恋人がいたり、もてそうなのに恋人がいなかったり、まあそういうよくわからないことがたくさんあるわけで、どうなっているのだろうかと思うのだ。
不思議である。
まあこれだけ頻繁に書いていると、京極堂あたりに、「世の中には不思議なことはないのだよ」と言われそうだが、考えてみれば京極堂がいかに配偶者を獲得したかというあたりも、不思議な話の一つではある。
とまあそれは関係ない話だが。
世の中には、合コンというようなシステムが存在するようで、僕は人生の中で一度も行った事がなければまるで興味もないのであるが、ああいう場を好む人間は、一体何を考えているのだろうか、と思ってしまう。
だって、男も女も、恋人を見つけよう、場合によっては結婚相手を見つけよう、と思ってその場にいるわけであって…。
うーむ、気持ち悪い図だなぁ、それは。
なんというか、別に出会いにロマンティックな期待をしているとかそういうわけでは全然ないのだけど、お互いがよりいい人を、なんて血走った目で相手を見定めて一喜一憂するような、そういう場って非常に辛くないだろうか、と考えてしまうのである。
そう考えると、合コンというのは空テンションで突っ走るというイメージがあるのであるが、それも寒々しく感じてしまう。
合コンで出会って素晴らしい人に出会うことはできるかもしれない。しかし、そもそも僕としては、「合コンに出てでも恋人をゲットしたいぜ!」という気持ちそのものに引いてしまうような気がするのである。
というわけで、合コンはやはりダメだなぁ。
今の世の中、出会い系というものも存在する。援助交際の温床にもなっているわけで非常に悪い印象を持たれがちだが、出会いの場を広げるという意味では悪くない選択肢に思える。まあ、もちろんやったことはないのだが。
本作中でも、出会い系で彼女をゲットだぜ!というような場面があって、滝本竜彦や僕のような、積極的ではない男には、一見していいような気がするのだ。
ただ、やはり顔を合わせる前から好きだのどうだのというやりとりは、非常に怖いな、という気もする。会ってみたら…というような、比較的悪い想像が容易に出来てしまうので、少なからず恐ろしいものである。会う前はすごくフィーリングが合う様な気がしていても、やはり会った時の印象次第では、すべてをなかったことにしようと考えることもあるだろう。
うーむ、出会い系も難しいものだなぁ。
なんて無駄な思考に時間を費やしているが、まあ言ってしまえば早い話、めんどくさいだけだという指摘もできる。なんというか、恋人を積極的に作ろう、という行動が、非常にめんどくさいし、というかむしろ、恥ずかしいという気もするのである。恋人を積極的に欲しがってる俺とか、実はちょっと痛いのではないか…みたいな無駄な思考が頭を過ぎったり…。
とまあいろいろ書いてきたが、結局僕に彼女を作ることは難しい、ということである。基本的に人見知りで引っ込み思案なので、直接自然に出会う人とも、特にうまい流れに持ち込んだりなんてことが出来るわけもあるまい。
まったくもって世の中の人は、どうやって恋人を作っているのか。不思議なものである。
というわけでまあ、僕には人間彼女を作ることは難しいということはわかったわけですが、話はここからです。なんと、脳内彼女という存在があるようです。
これはすごいですね。脳内彼女ですよ、脳内彼女。
もちろん僕には脳内彼女はいませんが、滝本竜彦という男には脳内彼女が存在するようであります。脳内彼女というのは文字通り、彼の脳が生み出した妄想の彼女であって、常に彼を肯定し励まし、常に彼のことを好きでいてくれて、拒絶することもいなくなることもない、完璧な存在なのである。
脳内彼女。これは、引きこもりにして生まれてこの方人間女性と付き合ったことがない滝本竜彦にとって、完璧なる創造物であり、完璧なる彼女なのであり、その存在は紛れもなく唯一無二なのである!
と無駄に力説してはみたものの、やはり少しだけ痛々しい。いや、少しだけという表現は過小だろうか。うーむ、どうだろう。
世界中に滝本竜彦という男した存在しなくて、ならば仕方ないと脳内彼女を設定することは悪いことではないかもしれれない。あるいは、滝本竜彦という人間は、薬のやりすぎで頭がぶっとんで二重人格になり、しかも覚醒状態でそれを認識できるため、そのもう一方の人格を脳内彼女に設定してみたということかもしれないけど、とにかく、無茶苦茶である。
ただ、滝本竜彦が概ねひきこもりであるということを考えれば、まあ悪い発想ではないな、という気はする。世界は狭い部屋の中のみで展開するわけで、その小世界の中でなら、誰にも迷惑を掛けないし、誰からも非難されることはないだろうし。ただ、ひきこもりから脱しようという努力の中では、脳内彼女という存在は、むしろマイナスだろうと思う。
まあそんなわけで、脳内彼女という存在を獲得した滝本竜彦。人間彼女を追い求めるのであるが、一体どうなることやら…。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、先ほども言ったように、脳内彼女という完璧な存在を既に獲得している滝本竜彦が、いやいやこれじゃあいけない、人間彼女を作らねば、そのためには超人にならなくては!ということで、滝本竜彦がいかに超人への道を進んでいくか、ということを描いたエッセイ(なのか?)です。
一応エッセイという形を取っているのだけど、脳内彼女との会話が出てきたり、脳内彼女が文章を書いているような章が存在したりと、普通のエッセイではまったくありません。どこまでが創作で、どこまでが事実なのかまるでわからないという意味では、本作はエッセイではなく小説と呼ぶべきかもしれませんが。
例によって引きこもりであるが故に、2年間まともに仕事(もちろん執筆活動)をしてこなかった滝本竜彦は、このままじゃ廃人になる、と思い、エージェントが提示してくれたエッセイの話に飛びつく。とにもかくにもなんとかエッセイをものにしなくてはと、いろんなことに挑戦しようとするのだけど、うまくいかない。
その一つが、渋谷に行こう!計画である。本作の前半は、ほとんどその話である。とにかく、人間彼女を作るには、渋谷でナンパだ!という、明らかに無謀な目標を打ち立てた滝本は、しかしあまりに渋谷に行きたくなくて、渋谷に行ったという妄想でエッセイを書いてみたり、あらゆる手を使って自分はもう渋谷に行ったのだと思い込んでみたり、そういうありとあらゆることを捻じ曲げてみるのだけど、もちろんそんなことで許されるわけもなく。
もちろん常に精神状態が安定であるわけもなく、というか当然のように常に不安定で、嫌なことから逃げるために寝続けてみたり、薬を使ってみたりして、日々どうにかこうにかやり過ごしているような状態で、そんな状態の中で、エッセイを書くために、という一心で、日々あらゆることにチャレンジ(ほとんど失敗するのだが)するという、涙ぐましい努力をしている。
やはり脳内彼女は最高だ、というようなわけのわからない結論に達しそうになったり、脳内彼女との関係が微妙に変化したりと、脳内彼女関係の話もすごく面白くて、巻末には、脳内彼女が贈る特別付録みたいなものすらあって、なんとも面白い設定である。
まあそんなわけで、概ね本作は、滝本竜彦が人間彼女獲得を模索する内容であって、あとがきに「結婚した」と書いてあるのだけど、これは本当なんだろうか?とよくわからないところである。
とにかく本作は、馬鹿馬鹿しくて無茶苦茶面白い。もう、馬鹿馬鹿しいことにかけては、東野圭吾のエッセイ「あの頃僕らはアホでした」なんか目じゃないくらいバカらしい。エッセイをそこまで読んでるほうじゃないけど、でもここまで馬鹿馬鹿しい作品は、そうないだろうと思う。
脳内彼女という設定が秀逸で、つまり脳内彼女という設定を作ることで、自分を外側から客観的に見ることになり、その「わかってるんならなんとかならないのかなぁ」という辺りが面白い。
なんというか、滝本竜彦のひきこもりというのは、本当のひきこもりで、結構リアルにまずいんだろうけど、でも本作を読んでると、こんな面白いエッセイが書けるんだからまだまだ大丈夫なんじゃないか、と思えてしまうのである。
脳内彼女が、明らかに「綾波レイ」である辺りもいいですね。綾波レイは結構好きなんです。それに、滝本竜彦のすべてを基本的に肯定するという健気な姿勢も、悪くないですな。
そういう、恋愛小説(?)の雰囲気も漂わせながら、一方でひきこもりという現実を無駄に突きつける本作は、間違いなく誰でも爆笑の一冊になるでしょう。是非読んで欲しい作品です。

滝本竜彦「超人計画」




ミシン(嶽本野ばら)

たぶん僕達は、日々自分を騙しながら生きているのだろう。
気付いているのに、気付かないフリをしているのだ。
あるいは、本当に気付いていないこともあるかもしれない。
その時は、突然そのことに思い立って、驚くことになるだろう。
生きているということは、壊れ続けているということ。
そういうことを、僕らはどこかに隠したまま生きている。
僕らは、生れ落ちた時から、既にカウントダウンが始まっている。そこからの1秒1秒で、人間は刻々と壊れていく。
成長しているように見えるかもしれない。進化しているようにも見えるかもしれない。
しかし、それらは全部幻想だ。人間だけでなくありとあらゆるものは、生れ落ちたその瞬間が完璧なのであって、後は醜く壊れていくだけだ。
無機物を考えて見ればいい。例えばテレビは、買ってきたその瞬間が最も性能がいいはずだろう。使い続けることで、だんだんと性能が落ちていく。常に壊れ続けているのである。
有機物だって同じだろう。有機物だけ、時間が逆に進むはずがない。時間と共に、いつも壊れ続けているのである。
人間は、恐らくそれに気付いた時から、それはまずい、と考えたのだろう。そんなわけがない。生きていることが壊れていることだなんて、壊れ続けることが生きているということだなんて。
だから、言葉や価値観を駆使して、人間は幻想を得た。
僕らは壊れているのではなく、成長しているのだと。進化しているのだと。いい方向に変わっているのだと。
それが生きているということなのだと。
幻想は、常に何かを歪めることで成立する。何かを歪めるという対価と共に幻想は存在する。
その歪みは、現実世界の汚濁という形で現れる。
自分は成長しているのだという傲慢。
自分は進化しているのだという楽観。
自分は壊れてなどいないという認識。
そういうものすべてが、現実世界を汚濁する。
その中で、きちんと自らを把握している人間も存在する。
自分は、時々刻々と壊れ続けていることを認識している人もいる。
しかし、世界はそういう人格に対して、優しくない。
幻想を抱く人間に真実を見せるのに、彼らの力はあまりに弱い。
壊れ続けていることを認識する者は、だからおかしな人間とカテゴライズされ、爪弾きにされたり、迫害されたりする。彼らの正当性は、彼らの中には存在するが、社会の中には存在しない。
高潔な人格という存在。汚濁にまみれたこの世界の中で、唯一自らの立ち位置を把握している存在。それでいて、正しさのなんたるかを歪められんとしている存在。
時に彼らは己を挫き、
時に彼らは己を貫く。
どちらにしても、壊れ続けているという認識をもち続ける高貴さを、僕は尊重したい。
その崩壊を、自らの外に求めようとしない高潔さを、僕は尊重したい。
もしユートピアが存在するとしたら、その世界は遍く退廃的だろう。何故なら、壊れ続けていることを認識できる者こそ、そこに住む価値があるのだから。
現実は厳しい。それは誰にとっても厳しい。だから、生きていくために幻想にすがるのは、仕方がないことなのかもしれない。
しかし、幻想にすがらずに生きている人も、恐らくは存在することだろう。僕らはそうした存在を笑うべきではない。貶めるべきでもない。その高潔さを讃え、尊重すべきである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、嶽本野ばらの初の小説作品です。それまでは、エッセイをフリーペーパーに連載していたことはあったけど、小説はこれがデビュー作だそうです。
本作は、「世界の終わりという名の雑貨店」と「ミシン」という二編の短編が収録されています。それぞれの内容をざっと書こうと思います。

「世界の終わりという名の雑貨店」
フリーライターという仕事に嫌気がさした僕は、仕事を辞めた。事務所として使っていた物件も引き払おうとしたのだが、立ち退きを宣告されているという大家に、タダでいいから今の部屋にいてくれないか、できればそこで何か商売をしてくれないか、と言われる。
勧められるままに商売を始めようとするが、特に売るものもない。部屋を漁ってかき集めた雑貨と、近くで買いあつめた駄玩具をテーブルに並べ、ローソクの明かりだけという薄暗い店内にクラシックを流すという、奇妙な店が出来上がった。名前は、「世界の終わり」にした。
当初は開店休業状態だったが、雑誌にとりあげられたことがきっかけで少なからず知名度が上がった。そんな折に現れた一人の少女。全身をVivienne Westwoodブランドで包み込んだその少女は、ほぼ毎日来店しては、閉店までいることすらあった。僕らの間に会話はない。しかし、どこかそれを心地よいと感じている自分がいることも確かだった。
ある日、大家の息子だという人に、出て行ってくれと宣告される。どうやら、かつてのあの大家は亡くなったらしい。この店を畳まなくてはいけなくなったとその少女に告げた僕は、一緒にどこかに逃避行しようと、まるで思ってもみなかったことを口にしてしまう…。

「ミシン」
新しいものにまったく興味の持てない私。テレビもファッションも好きな男の子の話も、まったくついていけない。私が面白いと思うのは、昔の文学。それも、女同士の恋を描いたような、そういう禁断の文学。「花物語」を読んで以来、自分がいかに乙女であるか気付いてしまった私。
私は、エス、つまり今の言葉で言えばレズみたいな性格がある。男の子にはまったく興味が持てない。ただ私は、ブスでチビでデブだ。どんなに憧れる女の子がいても、エスの関係になんかなれるわけがない。
そんなある日私は、衝撃的な出会いをすることになる。テレビを見ていた私は、死怒靡寫酢という名のバンドのボーカル・ミシンを見るまでは。
ミシンは、パンクバンドのボーカルらしく、過激な発言や無茶苦茶な行動で人気を得、それ以来バンドの知名度もどんどんと上がっていった。
私は願った。貴方ともっとお近づきになれますように。願いに願って、祈りに祈った。どうしても私は、貴方の側にいなくてはならない…。

どちらの作品も共通して感じるのは、社会と人間との関係についてですね。
どちらの作品の登場人物も、社会的にうまく生きていくことのできる人間ではありません。主張できなかったり、すべてを諦めていたり、そういった基本的な姿勢が、社会との適合を阻んでいるとはいえ、本作を読むと、彼ら自身が悪いのではなく、社会そのものが悪いのだ、ということが伝わってきます。
彼ら自身、そうした言葉を口にしたり、そういう態度を取ったりすることはないのですが、登場人物達の諦念の潔さというようなものが、逆に社会の醜さを強調しているようで、そんな中でも生きていかなくてはいけないという思いが、どこからともなくにじみ出ているような感じです。
「世界の終わり」の方は、壊れているということが形でわかる作品ですね。壊れていく過程をダイジェストで見るというか。少女が抱えなくてはならなかった現実と、それを捨て去ることで残すことができたものの対比が、くっきりと浮かび上がっている感じです。
「ミシン」の方は、壊れているという形が見えにくい作品です。目の届かないところで着実に壊れているというような感じなんですが、それは次のようなセリフに集約されるような気がします。

『現在進行形のものなんて、私は信じないし、興味がないわ。レトロ趣味な訳じゃないの。只、今という時代がどうしようもなくやりきれないだけ。』

『停止した時だけは私を裏切らない』

これから壊れていくという未来を知っていながら、それにまっこうから対抗できる人は、なかなか多くはありません。これから壊れていくということに気付いているのが自分だけという状況ならなおさらでしょう。だからこそ、未来に期待しないという、そういう生き方を取らざる終えないのです。
どちらかといえば「ミシン」の方が好きですが、「世界の終わり」の方も結構いいと思います。
文章が結構独特で素敵で、自らを卑下するような一人称から生み出される物語は、なかなか新鮮でした。気になる文章も結構ありました。いくつか抜き出してみようと思います。

『本来、情報誌は、知らないことを知りたいという読者で支えられてきました。知ることによって得をすることはあります。しかし得をすることは知ることから派生する付属物でしかありません。が、今情報誌から情報を得ようとする読者は、単に得がしたいだけなのです。彼らの中で知ることは、イコール得をすることなのです。得をする為に必要なものは、情報ではなく情報量なのです。情報は眼に見えませんが、情報量なら眼に見えます。見えた気がします。僕はその即物的な考えを、とても下品だと思います。』

『よく、お互いの前では格好をつけずにありのままでいられるなんてことをいって、恍惚としているカップルがありますが、それは単にお互いがだらしなく、そのだらしなさを赦しあっているだけに過ぎないのだと思います。』

『自分の趣味嗜好なんて、そうすんなり変わるもんじゃないでしょ。趣味嗜好を時代によって変えて生き残っていくブランドや人って、私は大嫌い』

どこまでも諦めていながらも、どこまでも高潔であるという人格。そういう人格にとって、社会はどこまでも汚らしいものでしかないので、生き方をきちんと選び取らねばなりません。その過程で生み出される澱のようなものが、本作ではしっかりと描かれているような気がします。
デビュー作とは思えない作品です。短いですが、かなり読む価値はあると思います。是非読んでみてください。

嶽本野ばら「ミシン」




斎藤一人さんに教わった「強運を呼ぶ本屋さん」の成功法則実践ノート(清水克衛+池田光)

世の中にはいろんな本があって、「成功する」だとか「かならず出来る」だとか、「法則」だとか、そういう文字が並んでたりするわけなんだけど、でも僕は思う。
本当の成功法則だったら、人に教えないだろう、と。
いや、教えようと考える人もいるのかもしれないけど。でも、ほとんどデタラメだろうな、と僕は思う。
結局は、その人がどうやって成功したか、という話であって、一般化できるものではない。僕の印象では、そういう感じの本は、一般化できないものを無理に一般化しようとするから、怪しい本になっているのだと思う。「こうすれば必ず成功する」ではなく、「私はこうやりました」という本ならまだましなんだけど…。
まあ、売る人がいれば買う人もいるわけで、需要と供給はマッチしているからいいのかもだけど…。
なんというか、そういう情報に踊らされるのだけは嫌だな、と思いました。
まあそんなわけで本作の内容なんですけど、久々に、激しくつまらない本を読みましたね。
最近僕は、本屋の仕事をより充実してやるために、いくつか本屋に関係する本を買ったわけで、これもその一つなんだけど、本屋とはほぼ関係ない、一般的な成功法則(なんてものは存在しないけど)についてグダグダ書いてあるような本で、正直買って損しました。
久々に、最悪ですね、これは。
斎藤一人というのは、ビジネス関係の本で本当によく見る名前だけど、その人に関連する本を初めて読みました。一生読まないだろうな、と思いました。
とにかく、何を言ってるんだ、という感じですね。「宇宙の法則」がどうたらとか言われても、はぁ?って感じなんですけど…。
本屋に関係した部分で2,3悪くない話は書いてあったけど本当にそれだけで、後はどうでもいい話のオンパレードで、正直ほとんど読み飛ばしました。
アマゾンでの評価を見て買おうと決めたのですが(書店で手に取って買ったわけではないので、買う前に中は見なかったです)、こんな本が評価されるというのは、本当に意味がわかりませんね。大丈夫でしょうか?
本作に載っていたNPO「読書普及協会」は、ちょっとだけ興味がありますね。
まあそんなわけで、読む価値のない最低の本でした。どうしてくれようか、という感じです。斎藤一人さんの本って、面白いですか?(まあ本作は、斎藤一人さんの本ではないのだけど)
読まなくていいと思います。

清水克衛+池田光「斎藤一人さんに教わった「強運を呼ぶ本屋さん」の成功法則実践ノート」




風の男 白州次郎(青柳恵一)

人間として尊敬できる人というのは、本当にそう多くはない。
友達としていいとか、仕事仲間としていいとか、そういうレベルでの人間関係はたくさんあるかもしれないけど、人間として最高だという評価のできる人は、そう出会えるもんじゃない。
僕も、まあ本作を読んでしまったからというのもあるのかもしれないけど、そういう人間には未だ出会っていないのだろうなぁ、という気がする。
人間として尊敬できるかどうか、ということには、個人個人それぞれの基準があるだろうし、ひと言でいうことはなかなか難しい。どこか欠点があっても何かにずば抜けている人もいるかもしれないし、満遍なくなんでもできるような人もいるかもしれない。
ただ一つ言えることは、先を見通す力があり、自分で物事を判断できる、ということは、僕にとって一つ大きなポイントかな、という感じです。
最近は、「国家の品格」のお陰で、武士道というものが見直され始めているだろうけども、実際、武士道精神を持った日本人というのは、本当に少なくなっただろうな、と思います。まあ僕も、武士道精神が何かってわからないんですけど。
恐らく昔は、この武士道精神を体現していた人がいたのだろうし、やはり尊敬もされていたのでしょう。今の世の中では、社会的にほとんどうまく合わないような人かもしれないけど。
まあ尊敬されるような人になれればいいなぁと思います。
ちょっとまとまりがなくなってきたので、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、昭和史に大きな影響力を持った、白州次郎という男のノンフィクションです。
最近、NHKで取り上げられたとかで、白州次郎という人が注目されています。あのGHQをして、「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめ、日本国憲法の制定にも立会い、誰に対しても臆することなく意見をいう男。昭和史の巨人とも言われる男の生涯を描いた作品になっています。
白州次郎という男は、ひと言で言えば何者なのか、ということが、僕にはそもそも知識がありませんでした。本作を読んで、よりわからなくなった、というのが本音ですね。まず、政治家でも代議士でもない。昭和史に大きな影響力を持ったのに、日本国憲法の制定に立ち会ったのに、政治家ではない、ということが僕には驚きでしたね。とにかく、政治の表舞台にはとことん顔を出さなかった人間で、あとはさまざまな会社の会長や取締役を歴任したり、かと思うと突然田舎に引きこもって農業を始めたりと、様々な顔を持つ男でした。
政治や歴史に疎い僕としては、本作を読んでも、彼が昭和史になした影響力というものがなかなか実感できなかったのだけど、恐らくすごい人だったんだろうな、と思います。
とにかく、吉田首相の懐刀と言われた人で、吉田首相をサポートするような人間だったわけで、しかもそれが政治家ではないっていうのだから、すごいものである。
破天荒な話は数多くあるが(一つものすごいなと思ったのは彼の父親の話で、お小遣いをあげるような時に、「これで一年過ごせ」というような渡し方だったようで、その父親にしてこの息子なのだろう、と思った)、とかく、周囲の人間を本当に大事にする人だったようで、白州次郎に関わった多くの人がその人柄に触れ、今でも涙を流して懐かしむといった具合らしい。人に忠義を尽くすというあり方は、僕がなかなか出来ないことなので、すごいもんだな、という気がします。これはなかなか、お金があるから、というような余裕だけでは生まれてこないものですね。
本作には、白州次郎を評したある人のこんな話があります。ちょっと長いけど全部抜き出してみます。

『私利私欲をもってつき合おうとする人間を白州ほど敏感に見抜き、それに対し厳しい反応を示した人を他に知らない。そして、そういう人間は白州を怖いと思うだろう。白州が晩年に至るまで、仲良く着き合っていた人に共通した性格があった。私心のない人、大所、高所に立って、自分の考えや行動すらも客観的に捉えられる人、本当の愛情のある人。白州次郎は真の意味で国際人であったが、「国際化」という言葉が叫ばれる今日、むしろ国際化の逆コースを辿っている。経済界で本当の「国際人」が何人いるか。白州の目には寥々たるものに映っていたであろう。日本の経済が発展し、孤立している、その孤立していることにも気付かず、あるいは孤立していることを、諸外国が日本経済の発展をやっかんでいるとしか思わない、そういう人間を白州は「イヤシイ奴だ」と言っていた。白州次郎に、もしわがままなところがあったとすれば、そういう「イヤシイ奴」と決してつき合おうとしなかったことだろう…。』

上記の話は、本作を読んだ限りの僕の印象と合致したもので、とにかく多くの人に愛されたのだな、と思った。
さて、本作に対する感想だけど、僕が思ったのは、本作は、白州次郎を知っている人が、あぁ懐かしいね~、と言って読む本ではないか、という感じがした。
正直僕は、本作を読んでも、白州次郎という人間がよくわからなかった。もちろん、一冊の本で一人の人間を理解しようとすることが無理だと思われるかもしれない。
しかしそうではなくて、本作の構成のようなものがあまりうまくなくて、しかもページ数もそこまで長くない。なんというか、足りないなぁ、という感じがしてしまったのである。他人のアルバムを見ているような、そういうわからなさがあるように思う。
だからまあ、正直あんまりオススメはできないのだけど、恐らく白州次郎の入門としてはいいのだろうと思う。まあ気が向いたら読んでみてください。

青柳恵一「風の男 白州次郎」


本屋さんの仕事(太陽レクチャーブック)

本屋という仕事はもう、とにかく僕にとって楽しくて仕方がないものだ。
本当に天職だと思う。
今の本屋で働き出したのは、本当に特に理由もなく、まあ偶然だ。いろいろあって大学を中退して、一旦実家に戻されたものの、実家が嫌で飛び出してこっちにまた戻り、まあ働くしかないかという感じになり、飲食はきついよな、じゃあ本屋にでもするか、という、本当にそんな感じで本屋で働くことに決めた。
もちろん、本を読むことが好きだったから本屋という発想が出てきたのであるけども、でもその時はまだ、『本を売る』ということの楽しさを知らなかった。とにかく読むのが好きな人間だったから、まあ知識だけはそこそこなんとかなるだろう、という発想で本屋で働き始めた。
入って半年で偶然にも文庫の担当になることができて、本当にそれはラッキーだったのだけど、担当になってからh本当に日々楽しくて仕方がない。
まずはやはり、自分の好きな本を置ける、というところが最高ですね。僕は、特に誰からも縛られることなく、比較的自由に担当の仕事をしているのだけれど、そのお陰で、自分が売りたいと思う本をどんどんと売り場に出すことができる。もちろん売れない本もあるが、メチャクチャ売れる本もある。他の本屋では売れてないだろうなぁ、というような本が、うちではメチャクチャ売れてたりすると、もうそれだけで楽しくて仕方がない。
また、これは文庫だけかもしれないけど、とにかく古かろうが新しかろうが関係なく、売れる本は売れる。というか、書店員の情熱さえあれば、大抵の本は売れる。やはり、読んで欲しいというこちらの気持ちが、なんらかの形でお客さんに伝わるのだろう。そうやって、本を通じて、形にならない繋がりが生まれるというのも、魅力的だ。『あそこの本屋、面白い文庫がいつもあるから行ってみよう』そんな風に言われるような売り場を作りたいと思っている。
また、文庫の担当をやっているお陰で、僕自身読みたいと思う本が急激に増えた。これは、商品知識が増えるに従って、読みたいなと思う本が増えていくということなのだけど、他にも、何かのランキングで上位にある本で、売り出すべきなのだろうけど、その前に自分で読んでから判断しよう、とか、あの作家のこんな文庫があったんだ、というようなものを見つけたりとか、そういう風にして、どんどんと読みたい本が増えてしまうために、僕はもう常に、消化しきれないだけの本を抱えるようになってしまった。今はとにかく、本を読む時間が欲しいというのが本音ですね。
本作中にも書いてあったことだけど、本屋の仕事というのは、ボーっとしててもなんとなく出来ちゃう、割と簡単な仕事なんです。取次ぎというところから入ってくる震撼を売り場に出し、売れてないものを返品して、ってことをルーティンでやっていけば、一応形にはなってしまうし、それなりに売上という形にもなる。
しかし、それでは全然面白くない、と僕は思う。
僕は、本屋に行くのも結構好きで、ちょっと時間があって近くに本屋があればふらっと立ち寄ってしまうのだけど、そこで、例えば文庫なら、あぁここは、最近の新刊と、出版社からのフェアくらいしか置いてない店だな、とか最近は分かってしまう。つまり、その店の書店員の独創性というものが感じられない本屋である。
もちろん、僕自身が書店員だからこそそういうことにも気付くのだろうけど、でも、そういうスタンスは、お客さんにも間違いなく伝わると僕は思う。
僕は、売れない新刊はすぐに外すし、売れない出版社のフェアもすぐ外す。売りたい本、オススメしたい本が山ほどあるので、そんなものにスペースを使っている余裕はないのである。
それよりも、売れそうな本を発掘するほうが、どれだけ楽しいか。
本屋というのは、規模によってどれだけ新刊が入ってくるかということが決まる。そして大体売上は、新刊がどれだけ売れるかで決まるでしょう。しかし、そこまで大きくない本屋は、もとから新刊の配本が少ない。とすれば、生き残るためには、新刊以外の本で独自性を出して、売上を伸ばしていくしかないだろうと思うのだ。
僕は、惰性でボーっとしながら書店員をやっているような本屋には行きたくないし、少なくても自分の売り場もそうしたくはない。とにかく常に何かを提案し、常に何かにチャレンジし、くり返し来てくれるお客さんが、来るたびに違う印象を持てるような売り場にしたいと思う。
今ほんの売上というのは大きく減少しているらしい。本屋の数も少なくなっているようだ。そんな状況の中で、どうやって売上を伸ばし、どうやって独自性を打ち出していくか。書店員は、ボーっとしているのではなく、そのことについて真剣に考えるべきだろうと思う。
僕は、どんな本でもやろうと思えば売れる、というのを信念に、これからも文庫をじゃんじゃん売っていこうと思っています。
というわけで内容に入ろうと思います。
本作は、池袋コミュニティ・カレッジで2004年の4月から8月にかけて行われた、「太陽講座 本屋さんの仕事」での講演に、部分的に内容を追加して出来上がった作品です。
本作の講演に顔を出す書店の名前をざっと上げてみましょう。
タコシェ・ブックファースト渋谷店・ユトレヒト・TSUTAYA TOKYO ROPPONGI・BOOK246・古書 日月堂・杉並北尾堂・ハックネット・恵文社一乗寺店
さて、一つでも聞いたことのある書店はあるでしょうか?残念ながら僕は、渋谷のブックファーストくらいしかわかりませんでした。
ブックファーストを除いたそれぞれの書店は、独自の戦略によって生き残りをかけた、非常に小さな専門店です。洋書専門店・旅行本専門店などを初め、一般の新刊や文芸作品を置かない、置いても一部というような特殊な書店から、一方では何でもありの古書店だったりと、とにかく独自性という点ではかなり突き抜けている本屋さんばかりです。
内容としては、それぞれの書店の経営者を数人呼んで、インタビュー形式で話を進めるという感じですね。それぞれの経営者の、本屋に対する哲学や経営のスタンスなどがそれぞれに違っていて、本屋の奥の深さを知ることができます。
TSUTAYA TOKYO ROPPONGIのデザインを手がけた幅允孝氏は、こんな風なことを言っています。

『買いたい本が決まっている方はアマゾンで注文しますよね。「なんかいい本ないかな」ってふらりと立ち寄った方が、図らずも面白いと思う本と出会う機会を作ることが、今の本屋に求められていることだと思う』

どの書店の経営者も一様に、いかにアマゾンに対抗するか、という点を強く意識しています。それほどまでにアマゾンというのは力のある流通になってきています。
まさにその通りで、買う本が決まっている人はほとんどアマゾンで本を買う時代になってくるでしょう。これは間違いなくそうなるだろうと思います。
独立系の専門店が、アマゾンに出来ないことを模索するのは当然として、では、僕が働いているような、いわゆる新刊書店は、一体アマゾンにどう対抗していけばいいのか?
やはりそれは、上記と同じく、「なんか面白い本ないかな」というお客さんをいかに大切にするか、ということに尽きるだろう、と思います。僕は個人的に、「なんか面白い本ないかな」というお客さんにとって売り場を作ろうと、自分なりにいろいろ考えて実践しています。それが成功しているのかどうなのかは正直わかりませんが、これからの本屋は、探している本がすぐに見つかるかどうか、という点よりも、どれだけ面白い本と出会えるか、という部分に焦点が当たっていくだろうと思います。
本作のキーワードとして、『編集』という言葉が頻繁に使われます。本屋というのは、雑誌を編集するのと同じく、本を編集してそれをお客さんに提示する場所なのだと。これからの書店員には、編集能力が求められる、というのが、大方の経営者の意見でした。
またある人は、こんなことを言っていました。本屋というのは、本を売る場所ではなく、本と本の関係を売る場所なのだ、と。
いかに本を編集して、いかに本を関連付けて売り場に並べることができるか。これからの書店は、そうした部分にもっと力を注いでいかなくてはいけないでしょう。
現状では、それはなかなか難しいことだと言えます。他の担当との連携というのはなかなかうまくいかないものだし、第一温度差もあります。管理の問題もあるし、やはり効率的だとは言えません。ヴィレッジヴァンガードのようにシフトしていくというならまだしも、今の現状も維持し、かつ他とも連携するというのはなかなか困難だし、どっちつかずになってしまうでしょう。
とにかく、今できることを出来るだけ頑張る。今の僕にできることは、とにかく文庫という枠の中で本を編集し、いかに魅力的にアピールするか、ということですね。まだ担当になってからそれほど時間は経っていませんが、チャレンジ精神を忘れることのないようにしたいと思います。
本作に登場した経営者の誰もが口を揃えて言うことは、本屋は儲からない、ということです。とにかく利益率が低いので、事業としての効率は非常に悪いでしょう。しかし、それでも本屋をやりたいという人はたくさんいる。僕も、将来的には自分の本屋なんてものを持てたらいいかもなぁ、なんて大それたことを考えていますが。
やはり本屋という場には、特殊な魅力があるのです。それに惹かれる人間がいて、そこに集まる人間がいる限り、本屋という形態はなくなることはないでしょう。
面白い本を発信していくためにも、これからも頑張っていこうと思います。全国の書店員の皆さん、頑張りましょうね!

太陽レクチャーブック「本屋さんの仕事」




宇宙創世(サイモン・シン)

科学というのは最大のミステリーだと思うし、
科学者というのは最高の探偵だと思う。
だから僕は、科学者というのが羨ましいのだと思う。
科学者という存在はこれまで、自然界のありとあらゆることを解き明かしてきた。
火は何故燃えるのか?
空気は何で出来ているのか?
そういったごく当たり前のことでさえ、大昔には的外れな推測がなされていたわけだ。それらについて、合理的に推論を重ね、現実に合う理論を科学者というのは作り出してきた。
お陰で僕らは、自然界のありとあらゆることについて、どんな原理で成り立っているのか、どんな法則が働いているのか、大まかに、大体知ることができるようになってきた。
しかし、科学では到達できないこともまたあるだろう。僕はそう思っていたし、恐らく科学者自身もそう思っていただろう。
例えば、
『宇宙はいかにして始まったのか?』
この問いには、いかに科学者と言えども答えられないだろう、と思われていた。それは哲学の問題であり、科学の問題ではない、と。
しかし、かつてある科学者がこんなことを言っていたことがある。
『人間は、星の成分やその性質を知ることはできない』
これはつまり、星まで行ってその物質を採取してこなくては観察できないことであり、即ちこれらに関する研究は不可能だ、と言った科学者がかつていた。
しかし、それは覆された。光というものをとことん研究することによって、人間は、どれだけ遠くにある、光でさえも何十年も掛かるほど遠くの星の成分でさえ、知ることが出来るようになった。
常に科学は、常識を超えたところに存在する。
まさにその通りである。
例えば、かつての人々は、地球の周りを他の星が回っている、と考えていた。いわゆる地動説である。
この事実をして、昔の人はバカだったんだな、と思うことは、明らかに軽率である。例えば最近の小学生を対象にしたアンケートで、地動説と天動説どちらが正しいか、という質問に対して、4割の子供が地動説が正しいと答えた、という話があった。これはもちろん知識がないだけの話だ、ということなのだが、そうでなくても古代の人をバカにすることは決して出来ない。
例えば少し前に、遺跡の発掘の際に不正を働いて、秩父原人とかいう原人がいたというような主張をしていた大学教授がいたことを覚えているだろうか?あの時、周囲の誰もが、秩父原人は存在するのだ、と思ったはずだ。それは、その大学教授が権威ある人だったからというものもあるだろうが、人々の、『秩父原人がいてくれたらいいな』という曖昧とした願望が、そうした幻想に繋がったのだと僕は思う。
とにかく、常識というものはかなり手強い。昔の人は、『地球が宇宙の中心である』という考えにしがみついた。神が創った宇宙なのだから、人間のいるこの地球こそが中心であるべきだ、と。今ではこういう思考はありえないだろうが、当時としては寧ろ常識だったし、地球が太陽の周りを回っていると主張したガリレオが処刑されてしまうほどである。大げさに言えば、先ほどの秩父原人の例で、秩父原人など嘘っぱちだ、と主張した人間を処刑するようなものである。宗教というのは怖いものである。
とにかく、そうした誤った常識を打ち砕いてきた歴史が、科学の歴史なのである。
『宇宙がいかにして始まったのか?』
これにも人々は、ある一つの願いを持っていた。それは広く常識として広まっていくのだが、それは、『宇宙は太古の昔から今と同じ状態で存在し、これからも変わりなく存在し続ける』というものだ。
相対性理論で、科学者としてはトップクラスに有名になったかのアインシュタインですら、この『変化のない宇宙』を望んだ一人である。自身の作った相対性理論の式からは、『変化する宇宙』という解が出てきてしまうのに対して、アインシュタインは対抗策として、相対性理論の中に宇宙定数という項を付け加えることまでしたほどだ。これをアインシュタインは、生涯最大の失敗だ、と語ることになるのだが、それほどまでに宇宙は定常であることを望んだのである。
こうして見ると、科学の歴史というものは、科学的ではない面によって支配されているのだな、と感じるのである。昔の人は、ガリレオがどれだけ説得力のある論証をしようと、『地球が太陽の周りを回っているはずがない』という、科学的ではない常識によってその説を粉砕した。どの時代でも同じようなことは起こり、その度に天才とその天才が生み出した理論によってそれを打ち砕くということを繰り返してきた。今でも、宇宙の始まりはあったかなかったかで、論争が続いている。多くの科学者がビッグバン論を支持しているとは言え、ビッグバン論を非難する勢力がいなくなったわけではない。
今ではビッグバン論に有利な証拠がかなり集まってきていて、ビッグバン論優性という状況である。しかし、ビッグバン論が出てきた頃は、ビッグバン論の方が不安定で論拠の少ない案だった。その後長い間、決定的な証拠が見つかることのないまま、長い年月が過ぎた。その期間科学者は何をしてたかと言えば、観測や実験や論理的な論証ではなく、感情で双方の陣営と議論をしているのである。まさに仮説というのは、証拠が出てくるまではひたすら仮説であり、決定的な証拠が見つかるまではいかなる議論も不毛なのだな、と感じさせます。
宇宙がいかに始まったのか。今やその話は、量子物理学という、ものすごく小さな物質(原子や電子など)を扱う学問に託されました。宇宙という、僕らを取り巻くものすごく大きな存在の始まりを語るのに、ものすごく小さな物質を扱う分野が駆り出される。宇宙というものは、本当に奥が深いな、と思います。
宇宙がいかに始まったのか。それが解き明かされる時がくるかどうかわかりませんが、できればその結論を知りたいものだな、という風に思います。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、タイトルこそ「ビッグバン宇宙論」となっていますが、ビッグバン論についてのみの話ではありません。人間がいかに宇宙と接し、宇宙を知り、宇宙を調べてきたのか。その歴史をあますところなく盛り込んだ、豪華な内容になっています。
例えば、相対性理論だけの本とか、ビッグバン論だけの本とか、あるいは天文学の歴史の本、量子物理学の最新の話だけの本など、宇宙に関するそれぞれの話が書かれた本、というものは、これまでにも数多く存在したことでしょう。しかし、宇宙というものを一つの大枠に据えて、それを、数十世紀というスパンの時間の流れの中で、どのように進化していったのか、ということを描いた本は、これまでなかったのではないか、という風に思います。
というのは、やはり一人の人間がそこまで知識を持つことは難しい、と思うからです。相対性理論もビッグバンも天文学も他の物理上のあらゆる発見も理解して、それを物理を知らない人にも分かりやすく書く、というのは、並大抵の努力では不可能です。知識だけなら科学者は持っているでしょうが、それを分かりやすく書くことは難しいでしょう。ノンフィクションライターなら分かりやすく書くことはできるかもしれないけど、知識を理解することが難しいでしょう。そう考えると、サイモン・シンという存在は、本当に稀有だなと思えてきます。
本作はまず、古代ギリシャ人がいかに宇宙を捉えていたか、というところから始まります。地球の大きさを測り、太陽までの距離を測り、という風にして、天体に関する知識を増やしていきました。
そこから、天体の運行というものに興味を持った人々が、地球や他の惑星がどのような動きをしているのか、ということを考えるようになります。実は古代ギリシャ時代既に、『地球が太陽の周りを回っている』と考えていた哲学者がいたにも関わらず、その後、地動説として知られる、太陽が地球が回っているという説に大きく傾いていきます。そこから、天文学の観測技術というものが大きく進化していき、ようやく太陽中心のモデルが受け入れられていくようになります。
さて、宇宙論にとっての次の事件は、アインシュタインの登場です。アインシュタインの作り上げた相対性理論というものは、名前だけは有名でしょうが、中身は非常に難しく、感覚的にも理解しがたいことが多い理論です。しかしこの相対性理論のお陰で、宇宙論は一変しました。
当時科学の世界では、光というものに対する問題が立ちはだかっていました。光は秒速30万キロメートルで進むことが知られていましたが、それが『何に対して』なのか、ということが問題でした。
これは、音のことを考えてみればわかるでしょう。音は空気中を伝わります。つまり音というのは、空気に対して音速なわけです。なので、真空のガラスケースの中に鈴を入れても、媒質となる空気がないため、音は聞こえません。
しかし、真空のガラスケースの中の鈴が見えなくなるわけではありません。これはつまり、真空中も光は伝わっている、ということです。真空というのはつまり何もない空間であるはずなのに、光が伝わるのは何故だろうか?それが当時の科学の最大の疑問でした。科学者はその回答として、空気中にはエーテルという物質が存在していて、それが光を伝えるのだ、と考えるようになりました。
その考えを打ち砕いたのがアインシュタインです。アインシュタインは、有名なある思考実験によって、光についての難問を解き明かしました。
その思考実験とは、『目の前に鏡を置いたまま自分自身が高速で移動している時、鏡に自分の顔は映るだろうか?』というものでした。アインシュタインの直感は、鏡に自分の顔は映る、というものでした。そこから彼は慎重に考え、ついに、光は『観測者に対して』秒速30万キロメートルで進む、という考えを導き出しました。この考えから生まれたのが、相対性理論です。
さて、アインシュタインの相対性理論の式を解くと、宇宙は膨張している、という答えが導き出されました。これは即ち、時間を逆に巻き戻せば、宇宙がある一点に収束していた時期があるのではないか、宇宙の始まりというものがあったのではないか、という考えに行き着きます。この考えは、一部では出ていたのですが、アインシュタイン自身がまずそれを否定したがために、主流の考えにはなりませんでした。
しかし、ハッブル望遠鏡で有名な、天文学の観測の巨人ハッブルが、宇宙が膨張しているという証拠を見つけ出しました。宇宙が実際に膨張しているのならば、始まりはあったに違いない。宇宙はビッグバンから始まったに違いない、という考えが、にわかに力を持ち始めました。
しかし、安定した宇宙を望む勢力の方が多く、その勢力は、「定常宇宙論」というモデルを考え出しました。これは、膨張はするけど変化はしないという宇宙モデルで、それまでのどの観測結果とも矛盾しない、ビッグバンモデルと対抗しうるアイデアでした。それからは、ビッグバンと定常宇宙論のどちらが正しいのか、という論争になっていきます。
なかなか決定的な証拠が見つからない中、観測の精度を上げ、あらたな観測技術を生み出し、そうやって観測データを積み上げていくことで、また、問題となっていたいくつかの理論に肉付けをしていくことによって、ビッグバンモデルは徐々に正しいのではないか、と認められるようになりました。
そして、ビッグバンモデルには決定的とも言える証拠が近年ようやく見つかり、大枠で、ビッグバンモデルは正しいだろう、という見方になりました。理論はまだ完璧ではなく、補強しなくてはならない部分も数多くあるとは言え、宇宙はビッグバンから始まったという理論はとりあえずしばらくは揺らぐことはないだろう。
というような現在までの流れを、細かく懇切丁寧に紡ぎ出した。非常に質のいいノンフィクションです。
とにかくサイモン・シンのノンフィクションの特徴は、そのわかりやすさにあって、例えばそれは次のような説明からもわかります。

『たとえ特異点を物理学的に扱えたとしても、「ビッグバン以前はどうなっていたのか?」という問題は、論理的に矛盾しているがゆえに答えることは不可能だと考える宇宙論研究者は多い。なにしろビッグバン・モデルによれば、ビッグバンのときには物質と放射が生じただけでなく、空間と時間も生じたはずだからだ。もしも時間がビッグバンで創造されたのなら、ビッグバン以前には時間は存在しなかったことになり、「ビッグバン以前」という言葉は意味を失う。これを理解するために、「北」という言葉を考えてみよう。北という言葉は、「ロンドンの北はどうなっているか?」とか、「エディンバラの北はどうなっているか?」という問いには使えるが、「北極の北はどうなっているか?」という文脈では意味を失うのである。』

このようにしてサイモン・シンは、常に分かりやすい文章と比喩で話を展開していく。前に読んだ「フェルマーの最終定理」でもそうだったが、物理や数学についてまるで知識のない人間にも恐らく普通に読むことができるだろう。それぐらい、分かりやすい文章なのである。
また僕としては、アインシュタインや相対性理論が好きなので(理解できるという意味ではないけど)、本作中それに触れる部分があってよかったと思う。アインシュタインは、間違いなく今世紀最大の天才の一人だが、彼はこう言う。
『私には特別な才能はありません。激しいほどの好奇心があるだけです。』
またこうも言う。
『大切なのは、問いを発するのを止めないことです。』
アインシュタインという一人の天才が成した仕事はあまりにも高度で複雑なので理解することは難しいけど、彼は間違いなく、最も神に近かった男である。
『もしも神の宇宙が一般性相対性理論の予想と異なる振る舞いをしたらどうしますか?』と一人の学生に聞かれたアインシュタインはこう答えている。
『そのときは神を気の毒に思ったろうね。とにかくこの理論は正しいのだから』
さて長くなったのでこれくらいにしておこう。最後に、巻末に載っている、あらゆる人間が『科学とは何か?』を答えにした言葉があるのだが、その中から面白いものを。

『新しい理論が受け入れられるまでには次の四つの段階を経る。
第一段階―こんな理論はくだらないたわごとだ。
第二段階―興味深くはあるが、ひねくれた意見だ。
第三段階―正しくはあるが、さほど重要ではない。
第四段階―私はずっとこの理論を唱えていたのだ。
   J・B・S・ホールデン イギリスの遺伝学者』

なるほど、という感じである。
とにかく、宇宙論という観点から見て、これほどまでに見事なノンフィクションはないでしょう。分かりやすさと構成の妙、そして歴史の陰に埋もれた人間ドラマを引っ張り出してくる手法には、圧倒的なものを感じます。是非とも、科学が苦手だという文系の人に読んで欲しいと思います。宇宙についての理解と興味が深まることでしょう。

サイモン・シン「宇宙創世」






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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)