黒夜行

>>2006年06月

99.9%は仮説(竹内薫)

固定観念、なんてやつがありますね。なんか、あんまりいい響きじゃない言葉です。
どうしても、『固定観念に縛られている』という言葉の使われ方をするからでしょうね。できればそうありたくはない、と思うものですが。
しかし、やはり僕らは日々、この固定観念ってやつにやられっぱなしなわけです。
そうですね、例えば、極論すれば、『赤信号では止まる』っていうのは、固定観念ですねよ。確かにこれはルールで、こういう統一されたルールがないと生活上困る、という暗黙の了解なわけだけど、でも固定観念であることには変わりないわけです。ちょっと前に読んだ金城一紀の「SPEED」という本の中で、車で赤信号を無視して走るというシーンがあるのだけど、その中で登場人物の一人が、
『赤信号だから止まらなきゃいけないってのは、思考停止と同じようなもんだ。俺は、自分の頭で考えて自分で判断するぜ』みたいなセリフがあって、まあそうだよな、という感じがしました。
まあある意味で、僕らの生活は固定観念で成り立っていると言ってもいいのかもしれませんね。もちろん、それなくしては生活がうまくいかないという固定観念もたくさんあるので、そう易々とそれを捨て去ることなどできませんが、例えば本作の中でも例のあった、ネクタイについてはどうでしょうか?
サラリーマンなら大抵の人はつけているネクタイですが、あれにはどんな意味があるでしょうか?礼儀上つけたほうが好ましい、という価値観が支配的なのだろうけど、でも機能的にはなんの役にも立たないし、意味のないものです。由来を見ても、正確にはわかっていないとはいえ、礼儀上の意味を見出せるようなものではありません。
要するに、固定観念なわけです。ネクタイを締めることが礼儀正しい姿勢だ、という固定観念に支配されているわけです。これだってもう既に充分社会的に認められているものなので、よっしゃー、固定観念から脱するために、今日から俺はネクタイを締めないぞ!というわけにはいかないでしょうが、まあ気持ちの上で、これは固定観念で本当は意味がないのだけど、でも社会的に一応締めておいたほうがいいから絞めるんだ、というような意識ぐらいはしてもいいかもしれません。
さて僕が昔考えたある発想の話をしましょう。これは、思いついた人にとっては常識で、森博嗣の「臨機応答・変問自在」の中でも、それは常識です、と返答されていたようなものですが、でもなかなか興味深い問題だと思います。
それは、『人間は皆同じ色を見ているのだろうか?』ということです。
意味はわかるでしょうか?
今ある色があるとしましょう。それをとりあえず、『謎の色X』と呼ぶことにしましょう。Aさんにはその『謎の色X』は『赤色』に見えますが、それを「青色」という言葉で認識しています。一方Bさんにはその色は『黄色』に見えますが、同じくそれを「青色」という言葉で認識しています。
つまり、AさんBさんは共に、同じものを見ているのに違う色に見えていて、しかしそれを同じ言葉で認識しているとしましょう。
そうした場合、会話に破綻は起きません。ああ、相手も恐らく同じ色を見ているんだろうな、と思います。
しかしそれって、ただの仮説で固定観念ですよね。言葉だけ共通していたって、相手が必ずしも同じ色を見ているとは限らないと思うんです。そのことに気付いて、どうにかこれを検証できないかな、とちょっとだけ考えてみましたが、無理みたいですね。
例えば同じように、人間同士が会話をしたり一緒に行動したりすることが出来るのも、ある意味で固定観念のお陰と言えるでしょう。
つまり僕らは自分以外の他人に対して、『自分という人間と、そこまで大きくは違わないだろう』という仮説をもって接しているわけです。だから、会話も通じるし、行動を共にすることもできます。
でも、そういう固定観念が邪魔になることも結構多いわけで、まあ難しいものです。
僕らは、常識というものを比較的疑うことがありません。常識なんだから、と考えて、思考停止になっています。だから子供に、『これはなんでこうなの?』と聞かれたら、『そんなの常識でしょ』としか返せない大人が増えているわけですね。
子供の『なんでこうなの?』という疑問が、世界に対しても最も正しいあり方だろうな、と思います。大人というのは、生きていく中で、様々な固定観念を身に付け、生きていく効率を重視していきます。その中で、何でだろう?と考える思考を止めてしまっています。
子供は、仮説に染まっていません。だからこそ、どうしてなんだろう?と気になります。大人になった僕らも、子供の時のように、自在に仮説から抜け出せればいいのに…、と凡人の僕は思ってしまいます。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、科学作家でミステリー作家でもある著者が書く、世界は仮説に満ちている、ということを簡単にまとめた内容になっています。竹内薫という人は、ニュートンと言う雑誌の前編集長だと思っていましたがそれは違ってて、竹内均という人でした。
さて本作では冒頭で、いきなりこんなことが書かれます。
『飛行機が何故飛ぶのか、未だに分かっていない!』
これは驚きますよね。普通、飛行機がどうして飛ぶのか、なんて理屈は、とっくの昔に解明されていると考えますよね。
ところがです!これが、専門家の間でも、よくわかっていない、というのが真実らしい。つい最近アメリカで出た本がその物議をかもし出すきっかけだったとかで、結局飛行機は、よくわからないけどとりあえず飛んでいる、というわけですね。誤解しないでもらいたいのは、基本原理が分かっていないというだけで、飛行機が飛ぶことについてのあらゆるデータや技術は日々進歩しているんです。要するに、原理なんかわからなくても、使えれば上等、っていうのが科学のスタンスなんですね。
ここが、数学と大きく違うところです。つい最近読んだサイモン・シンの「フェルマーの最終定理」の中にも書かれていたけど、数学の世界で証明されたものは、絶対に覆ることはないが、物理の世界で証明されたものは、簡単に覆る、ということです。
一番わかりやすいのは、物質の最小単位についての話でしょうか。昔は分子が一番小さいと考えられていました。それが、原子→電子・陽子→クオークと来て、今では超ひもという最小単位が考えられているようになっています。どんどんと新しい発見によって、理論が覆っていくというのが、科学の歴史です。
また、一般の人にもかなり有名なあのアインシュタインも、ニュートンが創り出した、誰もが正しいと信じていた仮説を、相対性理論という考え方で打ち壊しました。これはなかなか衝撃的な発想で、仮説は一つには決まらない、という相対性という考え方を柔軟にしたアインシュタインだからこそ出来た発想だと言えるでしょう。
さて本作はそういう、いわゆる科学についての話がメインではあるのですが、それだけではありません。つまり、世界が仮説だらけである、ということを認識することで、他人とのコミュニケーションも円滑にしてしまおう、という指南書でもあるのです。
つまりこういうことです。
人間はそれぞれ、自分自身の仮説(まあ価値観ともいう)を持っています。話がかみ合わなかったり相手を理解することが出来ないような場合には、短絡的に相手がダメだと考えるのではなく、相手の持っている仮説と自分の仮説がうまく組み合わないだけだ、と考えればいい、そういうことです。
僕は、比較的こういうのが得意だったりするんですね。
例えば大学時代に僕は、ディスカッションというのをたまにやったりしました。まあ、何人かでテーブルを囲んである議題について英語で議論する、というものだったんだけど、その中で時々、議論の食い違いというものが起きるんです。
二人の人が議論をしているんだけど、どうもかみ合わない。お互いに、かみ合わないことはわかるんだけど、どうしてかみ合わないのかわからない。
そんな時僕は、あぁこれは、あっちの人はこれをこう考えてるけど、こっちの人はこれをこう捉えているから食い違っているのだな、と分かるんです。だから、これこれこうだから食い違ってると思うんですけどどうですか?みたいな話をするんだけど、割とこれが合っているんですね。
もちろん間違えることもあるけど、僕は比較的、相手の持っている仮説と自分の仮説との相違点というものを、客観的に判断できたりするのではないか、と自己評価しています。
まあそんなわけで、世の中がどれだけ仮説に満ち溢れているかを簡単に分かりやすく説明してくれると共に、自分で考えるということが大事だとか、コミュニケーションを円滑にする方法なんかも載っている本作は、文系理系問わず、かなり面白く読める本だろうな、と思います。タイトルを見て、文系の人はちょっと敬遠しているかもしれないけど、まったくそんなことはないと思いますね。すごくわかりやすいし、難しいことなんかまったく書いてません。
自分の持っている固定観念を打ち破るためにも、読んでみてはどうでしょうか?
最後に、本作に載っていた言葉を引用して終わろうと思います。

『つまり科学とは、一番新しい仮説の集まりにすぎないのです。
科学はあくまでも文化であり、それゆえに永遠の真理にはなりえないのです。』

竹内薫「99.9%は仮説」




スポンサーサイト

コミックファウスト(太田克史)

日々新しいものが次々と生み出されているけれども、
『本当に新しいモノ』は、産声を上げて誕生する。
僕にとってこのコミックファウストというコミック誌は、産声を上げて生まれた、『本当に新しいモノ』なわけです。
というか、太田克史がやってきたこと、やろうとしたいることのすべてが、『本当に新しいモノ』と言ってもいいかもしれません。
文芸やコミックは、既にある大きな枠組みが出来上がってしまっている、閉鎖された業界だと僕は思います。
誰それの本は売れる、新人は豊富にいるけど出来のいいものはなかなか出てこない、雑誌は売れない、全体的な売上も伸び悩んでいる、宣伝に力を入れた本は売れる。
もちろん、時折そういう常識を超えて出てくる作品というのもありますが、大体が、これぐらい売れるだろうとか予測できてしまうような世界だし、面白いもの・売れるものを次々に出していくことは出来るかもしれないけど、新しいものを出すこにはそろそろ限界があるかな、というような、そんな世界ではないかと思います。
そんな世界の中で、業界全体を変えてやろう、と考えているのが、太田克史だと思います。
この人について、詳しいことはしらないけど、講談社の編集者で、20代の頃からミステリ系の重鎮と仕事をして、どんな経緯があったか知らないけど、一人で「ファウスト」という雑誌を創刊し、ついには台湾での発売も決まるほどの成功に導き、そして今回、満を持してというか、コミックの編集に携わり、今現在は『海外文芸部』というような名前の、一人しかいない部署に異動になって、そこでまた新しい仕事をしようとしているような、そんな破格の編集者です。
正直にいって、太田克史の仕事の仕方は羨ましいものがありますね。同じ講談社にいる編集者にしても、同じように思っている人はいるのではないかと思います。
もともと編集者というのはそういうものかもしれないけど、しかし、1から100まで全部自分で決められて好きなようにやれて、それでいて成功するっていうような仕事が出来る人は、雇われ人ではほとんどいないと言ってもいいでしょう。
羨ましいものです。
情熱と情熱で化学反応を促す、その触媒のような働きをしている太田克史。彼の仕事は、もしかしたら短期的には評価されないのかもしれない、と思っています。「ファウスト」は比較的評価されているような気はしますが、まだまだこれから、と言ったかんじでしょうか。
しかし、長期的には、間違いなく評価されるだろう、と僕は思います。かつて太田克史という伝説的な編集者がいて、彼はこんな仕事をしてきたんだ…と語り継がれるようになるでしょう。講談社の同じく伝説、宇山編集者と一緒に。
というわけで、新しい世界への産声とともに誕生したコミックファウスト。内容の紹介に入ろうと思います。
いろんな企画が入っているけども、まあ細かく紹介していこうかな、と思います。

<ショートコミック>朝倉ジョージ「彼女の風景」
こういう絵や色のタッチでのコミックはあまり見ないので、そういうとこはいいかもですね。色が綺麗です。ストーリーは、評価できるほど長くない、ですね。

<ショートコミック>VOFAN「上好的企鵝飛彈」
台湾人VOFANによるコミック。セリフも中国語ですね(もちろん訳もありますが)。国際的です。ただ、コマ割とかが、平凡かなという気がします(なんて知った口を利いてますが)。ストーリーは、同じく評価できるほど長くないです。

<ショートコミック>門小雷「green house little thunder」
香港のイラストレーターの、初コミックだそうです。もちろん中国語。ストーリーは、うーんどうかな、って感じですね。絵もあんまり好きじゃない。

<ショートコミック>パク・ソンウ「陽光コンサート」
韓国人だそうで。韓国語ですね。まあ、なんといいますか…。

<コミック>ウエダハジメ「鉄人形舞台」
ストーリーがとりあえずよくわからないんで、ほぼ読み飛ばしました。一番初めの女の子の絵が可愛いなって感じです。

<コミック>TAGRO「SON HAS DIED FATHER CAN BE BORN」
まあまあですね。ようやくストーリーの分かるコミックが出てきた、って感じです。絵はあんま好きじゃない。

<コミック>西島大介「レミュエル・ガリヴァと」
これは結構好きですね。戦闘の話なんだけど、残虐なのにコミカルと言った感じの絵で、割と好きですね。

<インタビュー>成田兵衛×太田克史「MANGA vs WORLD?」
成田兵衛さんというのは、アメリカで日本のマンガを展開している「VIZ Media」という会社のエグゼクティブバイスプレジデントで、つまり日本のマンガを世界に広める仕事をしているわけです。その影響力はなかなか大きいようで、こんな人がいるんだなぁ、と感じで、割と面白く読みました。

<寄稿>江上英樹「成田君のこと」
上記の成田兵衛さんについて、スピリッツ編集部時代の上司が特別寄稿。成田さんって、ホントにすごい人なのか?という疑惑が…。

<インタビュー>茨木政彦×太田克史「成田君と、『週刊少年ジャンプ』と、『SHONEN JUMP』と」
ジャンプの編集長との対談です。もちろん上記の成田兵衛さんについてですが、これを読んで、さらに疑惑は深まりました(笑)

<コラム>椎名ゆかり「アメリカで日本のマンガの未来派明るいか」
タイトル通りのコラムです。あんまり面白くありません。

<コラム>宣政佑「知られざる韓国の姿」
コミックにどれだけ韓国が取り入れられているか、という話。面白くありません。

<???>渡辺浩弐「Hな人人」
本作中に計3作載っています。僕が好きなのは、一番初めの、「チェック/アウト」で、漫画喫茶の中で生きている少女の話です。

<小説>西尾維新×CLAMP「アナザーホリック―ランドルト環エアロゾル 第一話『アウターホリック』」
西尾維新が満を持して贈る、CLAMP原作の「HOLiC」のノベライズの第一話です。これはなかなか面白いですね。本作の中で、初めて積極的に面白いと思いました。「HOLiC」のことはまるで何も知らないけど、これを読んで、なんとなく大体のキャラクターのことが分かったし、ストーリーもこういう風に進むんだろうな、と分かりました。これは、8月のノベライズ発売が楽しみです!

<解説>福井健太「解説・『×××HOLiC』」
『×××HOLiC』を知らない人のための解説です。

<小説>上遠野浩平「マーズの方程式」
横山光輝という昔の漫画家の「マーズ」というコミックを原作とした小説です。なんだか、世界観がよくわかりませんでした。よくわからない言葉が出てきて、それが何なのかわからないまま話が進んでしまうので、うーんって感じでした。

<解説>更科修一郎「解説・『マーズ』」
『マーズ』を知らない人のための解説です。

<エッセイ>枕木憂士「もの思う葦」
バットマンシリーズについてのエッセイです。なんのこっちゃ。

<エッセイ>上遠野浩平「Beyond Gruding Moment」
『ファウスト』の方でも載っていた、音楽についてのエッセイ。音楽には興味がないので読んでません。

<コミック>原作・西尾維新 絵・高河ゆん「放課後、七時限目」
高河ゆんという人は知りませんが、西尾維新原作という豪華なコミックです。というか、高河ゆんという人の絵は結構いいですね。天才兵器開発者で牢獄に入れられているという少女が出てくるのだけど、この少女がすごくいい。目隠しされていて、女性を描く上では結構難しいのではないかと思うけど、口もとがメチャクチャセクシーで、萌え~って感じでしたね。ストーリーも好きな感じです。やっぱ西尾維新はいいですね。

<コミック>舞城王太郎「ぬるつべピリリ」
舞城王太郎のコミックです。ストーリーは相変わらず舞い城王太郎っぽくて、何が何だかよくわからないけど、まあ面白かったなぁ、という感じです。ただ、絵はあんまり好きになれないかも…。

<コミック>作画・toi8 原作・ゆずはらとしゆき「空想東京百景~黒い猫」
よくわからないストーリーだったんで、ほぼ読み飛ばしました。

<コミック>ともひ「稲荷坂ゆうひの自転車旅行記」
イラストレーターで、本作で漫画家デビューを飾ったともひの作品。これ、結構よかったですね。少年と女と猫しか出てこないんだけど、少年のあのシーンはよかったし、女は結構魅力的に描かれてるし、猫は面白いしで、なかなかでした。

<編集後記>太田克史「『コミックファウスト』編集後記」
編集後記ですね。太田克史さん、お疲れ様です。

というわけで、個人的には、うーんどうだろうな、という感じも残るコミックファウストでしたが、こういう挑戦は、いろんな人がいろんな形でやっていくべきだと僕は思うんですよね。そういう意味で、やっぱり太田克史は素晴らしいと思う。
これからも、あらゆる分野に革命を。

太田克史「コミックファウスト」




フラッタ・リンツ・ライフ Flutter into Life(森博嗣)

空って冷たくて、
空って厳しくて、
空って無慈悲で、
空って無関心で、
でも
綺麗だ。
こんなに綺麗だ。
僕に優しい。
それが綺麗だってこと。
そんな綺麗な空に、
僕は包まれている。
冷たくても、厳しくても、
僕にはまるで天国のようだ。
そう、
ここでなら死んでもいい。
もう既に天国だというなら、
それでもいい。
ただ、
死んだら落ちなきゃいけないって、
それはヤだな。
ずっと浮かんでいられればいいのに。
どうしてみんな空を飛ばないんだろう。
いや、
どうして人間って空を飛べないんだろう。
僕だって飛べない。
機体がないと飛べない。
こんなに不自由な体で、
こんなに不自由な機体で、
僕らは空を飛んでいる。
僕らは空を汚している。
そう、
きっと僕らだって、
空を汚しているだけだ。
人間の存在が許されていない。
機械の存在も許されていない。
鳥も時折地に足をつけ、
雲も時折場所を変え、
太陽と雨で景色を切り替えながら、
いつだって空のご機嫌をとっている。
みんな、
空に敬意を払っている。
だったら僕らも、
戦わなくちゃいけない。
美しいダンスを奏でるために。
綺麗な音色を響かせるために。
それが僕らの宿命で、
それが僕らの仕事で、
だから僕は生きている。
空のご機嫌を取りながら、
なんとか空に浮かべてもらって、
そうやって日々すごしている。
なんて欺瞞だろう。
でも、
誰もがそうやって生きている。
空を飛べる僕らの方が、
少しは綺麗だって思わない?
だって、
綺麗なものしか浮かべないんだ。
汚いものはみんな地上へ、
墜ちていく。
そこで生まれ、
そこで育ち、
そこで死ぬ人間も、
どこまでも汚い。
ただ時々、
空に浮かべるやつがいるっていうだけだ。
そいつだって、
綺麗なわけじゃない。
空に浮かんでる瞬間だけ、
その一瞬だけ、
ちょっと綺麗だってだけだ。
だって、
ずっと綺麗でいつづけられるなら、
僕らはどうして地上に戻ってこなくちゃいけない?
どうして空を飛び続けていられない?
あぁ、いやだ。
こんな汚い地上。
空気も人も、
意思も運命も、
感情も肉体も、全部。
それでも僕らは、
生きてくために仕事をして、
仕事のために空を飛んで、
空を飛ぶために人を殺して、
そうやって汚くなって、
地上に戻ってくるしかないんだ。
それが運命。
だから僕は、
今でも空を飛んでいる。
空がいつまでも、
優しく僕らの頭上にあるうちは。
そうやって自分を騙せるうちは、
生きている価値はあるかもしれない。
自由は空にある。
いや、違うかな。
空にある自由こそが本物だ。
本当の自由を生み出そう。
不完全な僕を乗せて、
綺麗過ぎる空に向かって。
内容に入ろうと思います。
本作は、「スカイクロラ」「ナバテア」「ダウンツヘヴン」と続くシリーズの第四作目です。キルドレという、老化することのない永遠の子供を主人公に据えた、戦争と空の物語です。
僕は飛行機乗りだ。クサナギスイトの部下で、相棒はトキノ。腕は、まあ悪くないと思う。その自覚はないけど、スイトと一番親しいパイロット、っていうのが、周囲の僕に対する評価みたいだ。
仕事は、戦闘機に乗って、偵察をしたり、戦闘をしたり。敵の飛行機を墜とすと、決まっていく場所がある。フーコのとこだ。何でいつも、フーコのとこに行くんだろう。そう決めてるわけでもないのに。
時々、行くことにしてる場所がある。名前は知らない女性の家。出会ったのは偶然で、そこに行くことになったのも偶然で、行き続けてるのは…惰性かな。習慣って言った方がいいか。とにかく、毎回同じやりとりが繰り返される。僕は何を望んでいるのだろう?彼女に何かを望んでいるのだろうか?彼女が普段何をしているのか、僕は知らない。
スイトのことを心配する声が、方々から上がる。情報部のカイ、新聞記者のソマナカ、トキノも時折そんな素振りを見せるし、あの名前も知らない女性もそうだった。
スイトは僕に言う。出来れば、彼女には二度と会わないで欲しい、と…
という感じです。
本作の文章の真似をして(出来てるかどうかはともかく)、一人称で内容紹介をしてみたけど、これはなかなか書きやすいかもしれない。わかりやすいかどうかは別として。
本作について、もはや言うことはない、と終わらせることもできるけど、なんとなくそれもどうかと思うので、何か書こう。
本作の雰囲気が僕はどうにも好きなのだ。これまで読んだどの小説よりも淡々とした世界観と文章が、冷たさよりも本質を鋭く突きつけるようで、時々冷やりとする。単純な言葉の組み合わせで構成される文章は、しかし、ものごとをシンプルに、抽象的に、本質的に抉り出し、まとまりのない形を作りながら、読むものに何かを残す。まるで、すぐに形が変わってしまう雲みたいに、読み度に印象が変わるだろう。
強いて言えば、戦闘シーンは苦手だ。フラップとかエルロンとかエレベータとか、全然わからないから、なかなか想像が出来ない。しかし、読者に知識がないことを承知で、敢えて森博嗣はこの形を選択しているのだろう。確かに、短く改行された戦闘シーンは、読んでいて想像はできないけど、心地よい酩酊感を与えてくれるように思う。
本作は、比較的空を飛んでいるシーンが少なかったように思う。地上での話が多かった。だからどうということはないけれども。
本作を読んでいて、「スカイクロラ」の冒頭の夢の話が思い出された。恐らく何らかの形で関連してくるだろう、という予感はある。どうなるだろうか。楽しみである。
キャラクターの話もしよう。
限りなく登場人物の少ないシリーズであるが、本作の中では、フーコのキャラクターが結構際立っていたように思う
。決して頭は良くないけど、バカではない女性。そのバランスが非常にいいと思ったし、また声が良くないという設定も、僕としては結構気に入っている。
キルドレという存在も、より重要なアイテムになってきた。なるほど、これで「スカイクロラ」に繋がるだろう、という、なんとなくの道筋というか予測はつくような物語だ。
キルドレ、という存在がもし実際にいたら…という話を書こうかと思ったけど、本作の登場人物たちは、自分がキルドレであることに対して、特にどうとも思っていない。キルドレである自分の人生しか生きられないのだから、比較のしようがない、ということだ。なるほど、もっともである。しかし、永遠に老化しないというのは、僕には耐えられるだろうか?たぶん、無理だろう。恐らく僕の場合、いつか死ねるという思いがあるからこそ、生きていけるのだと思う。キルドレには、なりたくない。
さて、そろそろ最後ということで。表紙の話をしましょうか。
本作の表紙は、ダークブルーとでも言うような色を基調とした感じだ。綺麗だし、いいと思う。ただ、文庫にする時はどうするのだろう、と思ったりした。本シリーズは、ハードカバーと文庫で装丁家が違う。問題は、文庫の色をダークブルーにした時に、「スカイクロラ」と結構かぶる、ということだ。文庫の装丁家としては、なかなか難しい局面だろうか。そういえば森博嗣自身は、ピンクを予想していたらしい。
というわけで、もうとにかくこのシリーズは、是非ともいろんな人に読んで欲しいと思います。ダメな人は多いでしょう。結構人を選ぶ作品だとは思います。でも、装丁が綺麗だったから、ととりあえず一旦自分を騙して、まず「スカイクロラ」を買ってみてほしいなと思います。美しい世界が、待ってますよ。
というわけで、いつものです。

(前略)
虫を触ったら面白いとか、草の根っこを引っこ抜くとすっとするとか、高いところから飛び降りたら気持ちが良いとか、そういった感覚を、すべて自分には無駄なものだと処理してしまった。その結果できたものが、つまり大人だ。そういうのを、大人しい、というのだろう、たぶん。
(後略)

「(前略)生まれることって、もうできないじゃない」
「死んだら、できるんじゃないかな」
「まあ……本気でそう思う?」
(後略)

(前略)
地上には、鬱陶しいことが多い。それはもう小さなときから、否、僕が生まれるまえから、ずっとそうなのだ。
(後略)

(前略)
愛情があれば、戦いは起こらない、という話もよく聞かれるところだ。それは、本当に笑ってしまうほどおかしい。では、愛している人間が殺されたら、どうして復讐しようと考えるのか。そもそも、人間が戦う原理は、最初は愛情の獲得だったのではないだろうか。愛情があるからこそ、戦っているのではないか。
(後略)

(前略)命令されないかぎり、必ず向かっていく、それが戦闘機乗りの特性だ。どちらかといえば、穏やかな人間が多いのに、空へ上がると、例外なくそうなる。戦闘的になる、という意味ではけっしてない。戦うことが礼儀なのである。それが、相手に対する敬意であり、自分自身に対する忠義なのだ。
(後略)

森博嗣「フラッタ・リンツ・ライフ」



オペレーションローズダスト(福井晴敏)

危機がリアルじゃなくなった。
テレビの向こうに、
ネットの彼方に、
自分の外側に。
みんな、危機を遠ざけようと努力してきた。
世界中のどこかで何かが起こっても、
日本中のどこかで何かが起こっても、
すぐ近くのどこかで何かが起こっても、
テレビやネットを通して、別次元の話にすり替えてしまう。
もしかしたら、自分に深く関わりある何かだって、
人間は遠くに追いやれてしまうのかもしれない。
そうやって得られた偽りの安全。
不満を押し込めて、
不実を溜め込んで、
虚実を入り混ぜて、
虚構に入り組んで。
僕達は、どれだけ不安定な足場に立っているというのだろう。
そうまるで、埋立地である臨海副都心さながらに。
磐石だと奏でられた無責任な声音に乗せられて、
一切の負債をその両肩に押し付けられ、
ありもしないものを守ろうとした力に奪われて、
あっけなく崩壊した臨海副都心さながらに。
日本という国が陥った現実。
仮定の上に仮定を積み重ねるような不安定な論理のごとく、
不実の上に不実を、
虚構の上に虚構を、
逃避の上に逃避を、
負債の上に負債を、
まるで、最後に崩した人間がすべて悪いとでもいうかのように組み上げられた、
悪意と不徳という建材で組みあがった日本という名の建造物は、
悪夢の上に悪夢を重ねる現実を、紙一重で支えてきた。
もはや限界。
いや、いつだって限界だったのかもしれない。
奇跡ともてはやされた戦後の復活。
それを支え続けた、極東の島国の日本人という精神。
それは、すでにない。
守るべきものを失った。
守るべきものを見失った。
それだけの50年だった。
日々の安寧に身を任せ、
未来への期待に今を塗り込め、
過去の不実を忘れ去り、
そして、
今ある危機さえも見失う。
そうやって出来上がった日本という国家。
牙を抜かれ、
盾をもがれ、
剣を失い、
それでいて、戦場を、ジャングルを生き抜けと命じた世界。
法という名の檻に押し込まれた窮屈な姿態が悲鳴をあげる。
守るべきものを失い、
守るべき力も失って、
安全の破片を日々取り落としながらも、
それでいて誰もが安全であることを盲信する。
力は柔軟を奪い、
組織は硬直を誘い、
国益という名の幻想を守り、
個人という名の現実を捨てる。
危機感を感じられない個人が悪いのか?
危機感を感じさせない組織が悪いのか?
どちらがどうとも言えないままに、
答えを先延ばしにしてきたツケ。
過去を顧みることもなく、
今日を慈しむわけでもなく、
明日を待ちわびるでもなく、
すべてが平坦で単純で変化のない日々。
動物園の檻の中で猛獣がおとなしくなるように、
危機感を感じられない世界の中で、
危機感を感じようと努力することは難しい。
ならば…。
そう考えた意思は美しい。
どこまでも綺麗だ。
守るべきものが見えているということ。
守るべき力がないことを知っているということ。
無知がすべての力であり、
無知がすべての危険でもあるということを知っているということ。
いっそ高潔と呼んでも違和感のない純粋な意思。
貫き通すことにすべての意味がある明確な意思。
彼らの意思は、恐らくかき消されることだろう。
彼らの遺志は、恐らく失われてしまうだろう。
それでも、
一瞬でもいいから、それを遺したことに価値がある。
ローズダストという新しい言葉に乗せて、
象徴たるすべてを現出させたことに意味がある。
その光景を見た者は、
忘れることはできないだろう。
たとえ、ローズダストという新しい言葉を知らなくとも、
そこに、新しい未来への想いが込められていることを、
忘れることは出来ないだろう。
その気持ちが、一人一人の心の中で静かに時を経れば、
日本という国は、
また再生の時を歩めるのかもしれない。
戦いに終わりはなく、
安全に終わりはなく、
時間に終わりはない。
そして、
ローズダストという新しい言葉もまた、
終わりはない。
内容に入ろうと思います。
ネット業界で躍進を遂げるアクト・グループの一つ、アクト・ファイナンシャルのオフィスビルの入っている赤坂フォルクスビル。その駐車場で、セムテックスと思われる爆発物が爆発した。アクト・ファイナンシャルの役員である水月聡一郎の死亡は確認されたが、爆発の規模に比して、被害は大きくなかった。
公安四課に所属し、『ハムの脂身』と揶揄される並河次郎は、ちょうど現場近くに居合わせたのをいいことに、担当でもないのに、爆発現場に乗り込んだ。セムテックス独特の臭気が、並河に嫌な予感を芽生えさせたからだ。
神泉教。
11年前に地下鉄爆破テロを敢行した宗教団体である神泉教は、今は名を変え勢力は落ちているとはいえ、国内でセムテックスを入手できる団体は限られている。また神泉教のテロか?と頭に過ぎった並河だったが、現場で恥をさらし、すごすごと退散の憂き目に遭った。
しかし、何があったか、公安四課に戻ってみると、サッチョウ―警察組織のトップ中のトップにして、エリート揃いである警察庁が、並河を呼んでいる、という。何事か、と働かせる頭もないままに呼び出しに応じると、『ハムの脂身』でしかない並河に、驚くべき情報が与えられる。
曰く、北朝鮮からの5名の工作員が日本に上陸した形跡がある。恐らく今回のテロはその集団の仕業だろう。しかし当面は、神泉教の方向で捜査をしているように見せる…。
ついていけない頭をなんとか働かせるが、きな臭いものを感じないでもない。さらにおかしなことに、警察が、普段するはずのない合同捜査を、なんと自衛隊とするらしい。さらに、その自衛隊のある男―丹原朋希のお供をするように言いつけられる。
なんなんだ、これは。一体何が起こっている。デタラメにしか思えない丹原の行動を尻目に、しかし二度目のテロが繰り返されてしまう。
あらゆる思惑、あらゆる思想が絡み合う。その中心にいるローズダストと丹原朋希。深すぎる闇に足を踏み入れてしまった並河は、あらゆる間違いをなんとか正そうと奔走する。
平和ボケした日本という国。「この国の状況」を作り出したすべての者。あらゆる者への憎悪を燃やしながらも、純粋に新しい言葉を追い求めた男。裏切られ苦しみぬいた人生を味わいながらも、最後まで戦いぬいた男。
痛みを知らない、危機感を感じられないすべての日本人を嘲笑うかのようなテロ集団に、なす術はないのだろうか…。
という感じです。
さて本作は、「終戦のローレライ」「亡国のイージス」という傑作を生み出した福井晴敏の新作ですが、やはりその二作と比べると弱いな、という感じがしてしまいます。なんというか、エンターテイメントとして弱い、という感じですね。思想的にも描写的にも、「終戦」「亡国」並の勢いはあるんだけど、スリルとか驚きとかワクワクとか、そういう物語としての展開という点においては、ちょっと弱いですね。
もちろん、その二作と比べて、という話であって、十分に面白いことは面白いわけです。「終戦」と「亡国」は、僕の中では歴史的傑作だと思っているわけで、この二作に匹敵する作品をそうそう書けるもんじゃないということは分かっているけども、まあそれでもやはり期待はしてしまう、という話ですね。
本作は、相変わらずいろいろなことを考えさせます。
例えば、つい最近までワールドカップがありましたが、それに熱狂する日本人を見て、日本はやばいんじゃないか、と僕は思いました。
日本人は、流行っているものにとりあえず乗っかっておこう、という発想があるような気がします。売れてる本、流行ってる映画、人気の俳優。ワールドカップだって、普段からサッカーが好きだっていう人なら全然いいんだけど、ワールドカップだから、という理由で騒いでいる人を見ると、そしてそういう人があまりにも多すぎる現実を見て、大丈夫だろうか、と思ったりします。
飛躍するかもしれないけど、この風潮は、例えば、ヒットラーのような人間が日本に現れたとしたら、みんながそれに乗っかって入ってしまうような、そんな風潮にも受け取れます。
伊坂幸太郎の「魔王」という作品の中で、国民がファシズムに偏っていく過程が描かれたりするのだけど、日本という国は、自国の言葉というだけでなく、自分自身の言葉というものを持たないがために、簡単に人の意見に納得して与してしまうところがあるような気がします。理由も背景もロクに考えないまま、流行っているから、みんながそう言っているから、というだけの理由で思考停止し、判断することを放棄する風潮が大いにあるような気がします。それは、潜在的な恐ろしさを孕んでいると、僕は勝手に思っています。
その風潮を推し進めているのが、なんと言ってもマスコミという存在でしょう。事件も事故も殺人も、すべてエンターテイメントにしてしまって、当事者たちの思いを汲み取ることよりも、視聴者の願望を実現することばかりに奔走するマスコミ。自由という言葉を穿き違えて、国民が自分の意見をもたないことをいいことに、誤った価値観を無意識のうちに植え付けようとしているマスコミ。正しいかどうかの判断を停止し、熾烈な競争と視聴率との戦いの中でモラルを失ってしまったマスコミ。そうした存在が、国民一人一人から自分の言葉、新しい言葉というものを奪い去り、口を開けば誰もが同じことをいう社会になってしまっているのだと思います。
僕らは、与えられる情報を疑うという思考をあまりしません。週刊誌やネットの情報ですら、大半を信じるような国民が、新聞やテレビの内容を疑おうはずもありません。そうやって思考停止していれば、責任を負わなくて済むという一人一人の考えも、その思惑につけこんで情報と価値観を植え付けようとするマスコミも、どちらも、自分の言葉、自分の意見というものを失ってしまっているのでしょう。
いや、そうではないのかもしれません。誰もが、自分の言葉、新しい言葉を持っているのかもしれません。それを口に出すことができないだけで。口に出す場が存在しないだけで。
それは、本作の中に出てくる組織というもののあり方を見ていてそう思いました。
警視庁・公安・警察庁・自衛隊・市ヶ谷。それぞれに違う組織が、あるテロ組織に翻弄されるのだけど、価値観も指揮系統もまるで違う組織にあって、協調というものがまるで取れません。
組織間の思惑、そして国家の利益。組織が大きくなればなるほど、組織の利益というものが重視され、あらゆるものが瑣末なものとみなされてしまう。個人個人の意識やレベルは高いのに、一人一人はそれぞれに言葉を持っているのに、組織という枠の中で押し流され消えてしまう。
組織は硬直する。それはよくわかっていることだけど、国を守るという重要な組織にあって、国を守るということの意味すら統一されていないというのは、どこまでも矛盾でしかない、とそう思います。
さてまあそんなわけで、いろいろ考えることの多い作品なわけですが、僕的に気になった登場人物をちょくちょく紹介しよう、っていうことにしましょう。
まずは、丹原朋希ですね。純粋さと繊細さを持ち合わせ、いつだって壊れそうなのに、その内に獰猛な獣を飼っている男。この男がいなければ、すべてが終わっていた、という気もするし、ある意味で、この男がいたからこそすべてが始まった、という言い方もできる、そんな存在です。過去・現在と語られるその姿は、なかなかに共感できるキャラクターで、彼の周りにいる様々な人間を取り込んでしまうその力は、すごいなという感じです。
並河も、泥臭くて好きですね。「川の深さは」の中で出てきた刑事(名前忘れたけど)を彷彿とさせる感じで、マンガみたいなキャラクターだけど、時にはこういう、無茶苦茶泥臭いキャラクターに触れるのもいいなぁ、という感じですね。まあほんと、こんな50代がいたら、ちょっとすごすぎだけど。
入江一功は、ローズダストの若きリーダーだけど、彼の立てる作戦と、彼が持つ思想というのは、どこを切り取っても綺麗で、テロという残虐な行為をしているにも関わらず、その美しさばかりが目立つような存在でした。まるで、燃え盛る炎を見て美しいと感じてしまうような、そんな危うい美しさではあるけども、その魅力はなかなかのものです。
あとはまあそうですね、個人的に気になったのは、緑川とか、並河の娘とか、真野留美とか、美佳とか、羽生とか、千束とか、まあとにかくいろんなキャラクターがなかなかいい味を出しているっていうことですね。無茶苦茶なキャラクターもいるし、硬質な文章がキャラクターをうまく描けていないということもあるかもしれないけど、まあそういうのも含めて、いいんじゃないかな、っていう感じですね。
というわけで、最後に戯言でも。

死を意識したものは弱く、
死を覚悟したものは強い。

まあそんなわけで、「終戦」や「亡国」には及ばないとは言っても、なかなか面白い物語だし、読む価値はある作品だと思います。長いけど、読んでみてください。読んで、いろいろ考えるということに意味があるんじゃないかな、と思います。たとえ、なんらかの行動に移せなくても。

福井晴敏「オペレーションローズダスト」








サンタのおばさん(東野圭吾)

「ルールが偉くなった。融通が利かない」
これは、森博嗣の「スカイクロラ」の中に書かれていた文章で、なるほどなぁ、と思ったのでよく覚えている。
ルールというのは本当は、ある集団をよりよく運営するために作られる。ルールがなければ集団は確かにうまく機能しなくなる。ある一定の基準を設けて、それに従って行動することが、よりよい集団を作る。これは全然間違っていない。
しかし、次第にルールというものが一人歩きするようになってしまう。初めは集団のために存在していたルールが、今度は集団を縛るようになっていく。そのルールが存在するために、集団がうまくまとまらなくなってしまう。そういうことがよくある。
それを僕は、警察小説を読むと、非常によく痛感する。
警察という組織は、不文律というか、明文されないルールが山ほどあり、それら一つ一つを忠実に守らなくては昇進が叶わない。しかし、そのルールを守るが故に、捜査に大きく支障をきたすということになる。警察全体の利益を守るために、捜査を切り捨てる、というようなことがよく行われ(少なくても小説の中では)、なんとも効率の悪い集団だな、という印象が強い。
ルールの存在は、必要だと思う。価値観の違う人間同士が一緒になるのだから、そこには一定の基準が必要なのは当然だ。
しかし人間は、何故そのルールが作られたのか、という背景を忘れて、ルールだからという理由でルールを守ろうとする。もちろん、そうしなければならない状況もあるだろう。それでも、ルールだから守る、というあり方は、集団を、そして人間自身を硬直させはしないか、と思うのだ。
柔軟に、という言葉は、ルールの前では虚しいが、ルールだから、という思考停止を止め、ルールであることに意味を、もう少し考え直すのもいいかな、なんて思ったりしてみました。
さて、本作の内容と大分かけ離れた話をしたところで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、作家・東野圭吾が原作を務めた絵本です。古本屋や書店で探したけどどうしても見つからなかったので、amazonで買ってしまいました…という話はどうでもいいとして。
さて話は、フィンランドのある小さな村でのことです。
毎年開かれるサンタ会議に遅れそうになっているイタリアサンタは、大慌てで会場に向かう途中、同じくサンタ会議に向かう途中だという女性と出会う。新しい事務の人かしらん、と思いながら会場まで一緒に行くことに。
さて、会議ギリギリについたイタリアサンタ。今年の議題は、会長が辞めることに伴う、新会長の選出と、新しいアメリカサンタの承認だ。新会長には副会長がなることになったけど、新しいアメリカサンタには驚いた。
なんと女性なんだ。
サンタが女性って、それはいいのかなぁ…。どうなんだろう…。
というわけで、今年のサンタ会議は大混乱!
という話です。
まあ分かりやすい話ですね。絵本にしては文字が多いと思うけど。
乙一原作の「くつしたをかくせ!」という絵本も読んだけど、同じくサンタの話なのに、こっちはなかなか難しかったですね。難しいというかよくわからないというか。まあ乙一らしいからいいんですけど。
東野圭吾の方は、まあ言いたいことは分かりやすいというか、なるほどという感じですね。でも子供に聞かせたら、いろいろ質問されそうな気がして、それはそれで面倒くさいかもしれないけど。
本作を読んで、なるほど確かにサンタが男である必要はないかなぁ、という気がしました。職業がそもそも男優先で考えられてきた時代の名残(という言い方はおかしいかもしれないけど)なんだろうけど。確かに、サンタの赤のイメージだって、コカコーラ社がつけたわけだし、サンタが男でなくちゃいけないってこともないだろうなぁ。
しかし僕は思うんですけど、例えば「看護婦」っていう言葉がなくなりつつあるじゃないですか。あと、スチュワーデスとか。こういうのは、男女差別だとかなんとか、そういう女性団体があるんだろうけど、そんなの関係あるかなぁ、って思っちゃうんですよね。僕が男だからそういう発想になるのかもしれないけど、呼び方を変えたところで別にどうにもならないだろう、って思いますね。過剰に反応しすぎなんじゃないか、って。いや、完全に話が脱線してますけど、そんなことを思ったもんで。
まあ何にしても、平等なのはいいことだけど、平等であることを突き詰めすぎるのもどうかな、という気はしますね。なんだかんだ言って、人間は平等になんかなりえないわけだしね。
まあそんな感じですね。
というわけでこれで、東野圭吾の作品で読んでいないのは2作、「怪しい人々」と「白馬山荘殺人事件」だけになりました。両方とも持っていることは持っているので、読むだけなんだけど、なかなかこれが遠いわけで。
まあ、機会があれば読んでみてください。

東野圭吾「サンタのおばさん」




さよなら妖精(米澤穂信)

ふと考えてみれば、僕らは文化というものを、いつの間に見につけているのだろうか?
そしていつから僕らは、文化というものに関心を失ってしまうのだろうか?
赤ちゃんが言葉を覚える仕組みというかプロセスは、未だにはっきりとは解明されていないようだ。それはそうだろう。それが解明されれば、語学教育に革命をもたらすことになるだろう。
だから、どうやって母国語を身につけたのか、僕らは知らないし説明できない。いつの間にか聞き取れるようになっているし、いつの間にか喋れるようになっている。そうやって、苦労も疑問も特に抱かないまま大人になり、母国語に関心を抱かなくなっていく。
文化を習得するプロセスも同じだと考えてもいいのだろうか?
それにしては僕らは、自国の文化を知らなさ過ぎる。そう感じる。
確かに、その国で生きていく上で必要最低限のルールというかコードは、誰もが大体身に付けている。法律を理解すること、お金の価値を把握すること、何をしてはいけないか、何をするべきなのか。社会という枠組みの中で必要とされることは、生きていく過程で学ばされたり学んだりするようになる。
しかし、文化となるとそうはいかないだろう。
外国人に、日本的であることを説明しようとした時に、一体何を伝えるだろうか?
さすがに、武士だのハラキリだのと説明する日本人はいないだろう。しかし、茶道だとか相撲、富士山や歌舞伎、そうしたものを「日本的なもの」として外国人に紹介する人は結構いるだろう。いやそれは確かに間違ってはいない。しかし、そういった、伝統と呼ぶべきものを持ち出して自国の文化と称するのは、いかにも苦し紛れに僕には思える。もっと、生活に密着した日本らしさというものを伝えるべきなのに、僕らはそれを意識的に言葉にすることが恐らくできないだろう。
しかしそれは、一方で仕方のないことだと言えなくはない。つまり、何にしてもそうであるが、文化も比較しないと違いがわからないのである。違いがわからないということは、そこに日本らしさを見出すことができないということだ。
例えば、日本の鉄道は時間に正確だ、という話がある。僕らにとっては、時刻表通りに電車が来ることなど当たり前すぎていて、外国人に「日本の電車は時間に正確なんですよ。日本的でしょ~」と自慢するような発想は全然なかっただろう。しかし諸外国と比較して、日本の鉄道は時間に正確だということがわかるようになると、なるほどこれも日本的なことの一つなのだな、と理解できるのである。
文化とは万事こんなものである。
藤原正彦の「国家の品格」の中で、こんな話があった。
今、国際化が叫ばれていて、誰もが外国人と同じように英語を操るようになった。それは確かに悪いことではないかもしれない。しかし、喋る内容が伴わない。欧米人は、あらゆる国の歴史と文学に興味を持つ。日本人は、自国の歴史も文学も知らないままで、ただ道具として英語だけは操れるから、外国人から奇異に思われる。英語を身につけるよりもまず、歴史と国語に力を注ぐべきだ。喋る道具よりも、喋る内容に磨きをかけなくてはだめだ、と。
これを読んで僕は、なるほどな、と思ったものだ。確かに、日本人は喋る内容に乏しいだろうな。文化的には非常に成熟した国柄であるのに、現代に生きる日本人の多くは、それらに関心を示さなくなってしまった。いわんや、日常の、生活に密着した文化(生活の知恵だとかちょっとした雑学)も失われつつある。昔は僕も、冬休みには凧を作った記憶がある。飛ばせたかどうかは記憶にはないが、凧を作るというのがまだ身近にあった。今ではそんなことをする人はいないだろう。恐らく都会では。凧の作り方というのも、どんどんと忘れ去られていってしまっているだろう。
経済が発展することはいいことだと思う。しかしその基盤としての文化をないがしろにしてしまうのでは、本末転倒であるという気もする。聞いた話で正確ではないかもしれないが、イギリスという国は、経済的にはあまり豊かではないけど、伝統と文化を重んじる国なのだそうだ。経済的に貧しくても、知識や伝統が重んじられ、重宝される。そういう国柄の方が、お金はなくても豊かに生きていけそうな気がする。文化というものを、もっと大事にするべきだろう。
それと同時に、他国の文化というものも、積極的に知るべきなんだろうな、と思う。僕自身、やれと言われたら難しいだろうけど、他国の文化を知ることで、自国の文化に愛着が湧くということもあるだろう。また、他国の文化に触れることで、自国の文化を再発見することもあるだろう。
ふと思ったことだが、昨今市町村の合併が盛んである。まあ悪いことではないのだろうが、恐らくそのために失われてしまう文化もあるのではないか、と想像する。これも、本末転倒の一種だろうな、と思いました。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
守屋と太刀洗は、同じ高校の同級生。ふとしたきっかけで、比較的喋るような関係にはなったが、しかし親密というほどでもない。沈黙が苦にならないような距離感でありながら、しかし近くはない、という、多少説明しずらい関係だ。
そんな二人が下校中、雨宿りをする一人の少女を見つけた。どうやら日本人ではないようで、しかし英語で話し掛けるも通じない。マーヤと名乗るその少女はユーゴスラビア出身で、英語は話せないが日本語は流暢だ。
さてそのマーヤだが、のっぴきならない事情により、行く場所がないのだという。考えを巡らせた守屋は、旅館をやっている白河に思い当たる。人のいい白河は、マーヤを2ヶ月自宅に置くことを了承してくれる。
こうして、マーヤとの謎に満ちた日々が始まった。
「哲学的な意味がありますか?」
これが、マーヤの口癖だ。祖国のために、あらゆる国のあらゆる文化を知ろうとしているマーヤにとっては、あらゆることが興味の対象で、どんなことにも関心を示す。
そんな中で、マーヤの口から語られる、少し奇妙な状況。それを、日本ならではのことなのだ、と誤解されないように、守屋は合理的な説明を考えようとする。どうやら太刀洗はわかっているようだが、何故だか教えようとはしないのだ。
そんな風にして、マーヤの目から見た謎を追う日々だが、彼女の出身であるユーゴスラビアの状況が悪化し、マーヤに対する守屋の感情も少しずつ揺れ始めている。2ヶ月経ったら、マーヤはユーゴスラビアに帰ってしまうのだという。恐らく、大変な状況になっているだろうユーゴスラビアに。
マーヤがいなくなって1年。守屋と白河は、彼女がユーゴスラビアの一体どこに帰っていったのか、推理によって解き明かそうとするのだが…。
というような話です。
米澤穂信は、いわゆる「日常の謎」系の作品を書く作家で、本作もその流れの一つです。
しかし本作ではそれが、さらに追求されているというか、とにかく一つ一つの謎が、どうでもいいというか大したことないというか、この話を内容だけ取り出してそのまま短編にしたら、メチャクチャ詰まんないだろうな、と思うほどの些細な謎が出てきます。まあ例えば、傘を持ってるのに何故差さなかったおか、とか、お寺にもちを供えに行く若者の話とか、とにかくそんな感じです。
しかし、本作はメチャクチャ面白いわけです。ストーリーというか謎自体は小粒なのに、全体としてはもの凄く面白い。
これは、本当にキャラクターの面白さなんだろうな、という気がします。いや、ストーリーに不満があるわけではないし、後半の重くなっていく展開にはなかなかだと思わされるのだけど、やはり本作はキャラクターが見事ですね。
やはり強烈なのが、ユーゴスラビアから来たマーヤです。日本語が微妙に通じないところ、英語がまったく通じないところ、あらゆるものに興味を示すところ、純粋な好奇心、「哲学的な意味はありますか?」というセリフ、時々繰り出される高度な冗談。そういう可愛らしい面もいいのですが、マーヤが日本に来ているその目的だとか、後半になって見せる一面とか、とにかく多面的な存在で、読んでいてものすごく面白いですね。恐らくこんな子が近くにいたら、いろいろ見せてあげようとか、いろいろ連れまわしてあげようとか、いろいろ教えてあげようとか、そんな世話を焼いてしまいたくなるような感じだろうな、と思います。
さて次は守屋ですね。米澤穂信の小説の主人公は、かなりの確率で高校生だけども、そのどれもが近い雰囲気をかもし出しています。それは、無気力ではないけど積極的でもなく、諦めているわけでもないけど熱心でもない、という感じです。それでいて、高校生とは思えないほどの博識と冷静さを兼ね備えている、という感じで、本作の守屋も概ねこんな感じですね。僕は、男にしても女にしても、クールな感じの人が好きなんで、守屋みたいなキャラクターは結構好きだったりします。
そして太刀洗ですね。名前もすごいですけどキャラクターもなかなかで、クールを通り越して無愛想といった感じです。結構説明のしにくいキャラだけど、でもこの太刀洗っていうのも僕的にはかなりいい感じで、いいなぁと思います。
他にも、白河とか文原とか出てくるんだけど、それぞれにキャラクターがちゃんとしていて、全体として本当にまとまりのある感じになっています。
こんなどうでもいい謎でこんな面白いミステリーを作れてしまうんだという驚きと、なんとも魅力的なキャラクターを詰め込んでくれたなという嬉しさが、読み終えた時の感想ですね。それまでのどの作品とも雰囲気は違って、最後は結構重い感じの話になっていくんだけど、でもいろいろ考えさせられるし、読んでいてもの凄く面白いと思います。是非とも読んで欲しいな、と思います。

米澤穂信「さよなら妖精」




嫌われ松子の一年(中谷美紀)

演じる、というのはどういう感じなんだろう、と僕は思う。あまりにも、僕とは遠い世界だからだ。
いや、正直に言えば僕も日常生活の中で演じているのだけど、それとは違う意味で、ということだ。つまり、演じているという視線にさらされながら演じるというのはどういう感じだろうな、ということです。
役者というのは、僕のイメージでは、服を着替えるようにして役を演じ替えることが出来る、と思っている。僕からすれば、すごい存在だ。一体どうすればそんなことができるのだろうか、と不思議に思う。
昔「ウイングマン」というようなタイトルの漫画があったような気がする。その中で、そこに描いたものが現実に存在するようになる、というようなノートが出てきたのを今思い出した。欲しい服があればそこに絵を描く。その服に必要な機能があればそれも書く。そうすれば望み通りのものが手に入る、というわけだ。
役者というのは、まさにそのノートにイメージした役柄を描くようにして演技をするのだろうか?
少なくとも、役者が演じる役は、実在しない存在であることの方が多い。実在しないその存在を、想像だけで作り上げ積み重ね、そうして一つの役柄を生み出していく。着せ替え人形の洋服をすべて自分で作り出さなければいけない、というハードな存在である。
僕は大学時代に少しだけ演劇をやっていて、小道具を作るところにいたのだけど、身近に役者というものが存在する初めての経験だった。彼らは、自在に感情を生み出せるようだし、というか既に、自在に感情が湧き上がってくる、というレベルまで追求していたようなところがあって、同じ人間とは思えないなぁ、なんて思った記憶がある。
またちょっと前に、知り合いの出ている演劇を見に行ったこともある。演劇というものを初めて見た経験だった。予想外に面白くて、やはり役者というのはすごいんだな、と思う次第である。
映画やドラマはほとんど見ないので、役者が演じる、ということについて詳しく理解したり観察したりする機会がなかった。もちろん、多くみたところでそれがわかるというものでもないだろう。しかし、映画を良く見ている友達がいるのだが、彼らが時々、演技が下手だ、というようなことを口にすることがあって、なるほどそういうこともわかるもんなのか、と僕は思うのである。僕には、なかなか演技のうまい下手はわからない。
ただ、役者という存在が、特に映画やドラマで役者として生きているような存在が、僕とはかけ離れた存在であるということはよくわかる。わかりすぎるほどに。それが、時に羨ましく、時にほっとする事実であるということも、また確かなことなのだけど。
さて、少しだけ話を脱線させよう。
僕は個人的に、日常生活の中で、自分というものを演じている。
こういう人は結構多いと僕は思っているのだけど、どうだろうか?自然体のまま、何も隠したり誇張したりすることなく、素のままの自分で生きていける人というのも確かにいるのだろうけど、自分を隠し偽り誇張し歪め、そうやって実像を虚像で覆い隠すような生き方をしている人は、かなりいるだろうと思う。
僕自身、人からこう見られよう、という視点の中で日々生きている。その中で、こうすればああすれば、きっとこう見られるだろう、という演技をしている。
これは、比較的窮屈な生き方だ。僕も、できれば素のままの自分で生きていけたらなぁ、と思う。ただ一方で、こうして演じることを選択した自分の生き方はたぶん間違ってなかったな、とも思うのである。
ある意味で役者の演技と違うことは、演じているか否か本人以外にはわかりようがない、ということである。役者の場合、演じているという前提の元で演技をする。見る側にも、あの役者は今この役を演じているんだ、という前提がちゃんとある。
しかし、自分が自分を演じている時には、その違いは本人にしかわからない。だからこそ、僕の演技はそのまま自然なものとして受け入れられるだろう。もし、生きる手段として個人を演じる選手権みたいなものがあったら、僕は結構上位に食い込めるだろう。なんてね。
そんなわけで、日常の中で自分を偽って演技をしている僕ですが、それだけでも十分に疲れるし大変です。周囲の人間からは、演技をしているように見られなくてもこれだけ大変なのです。いわんや、演じているという前提の元自然さを求められる役者という存在がどれだけ大変だろうか、ということですね。本当にすごいな、と思います。
まあそんなわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、タイトルからもわかる通り、中谷美紀が「嫌われ松子の一生」の撮影をしている間に書いた撮影日記を、エッセイとして出した本です。メイキングブックなんかで、映画の宣伝の一貫として本が出されるようなことはあるかもしれないけど、映画の主演女優が、映画の撮影中のことについて、リアルタイムで日記を書き続けた書籍というのは、かなり珍しいのではないか、と思います。
さてというわけでじゃあどんな内容かと言えば、これが一言で言えば、バトルですね。ザ・バトル。
誰と誰のバトルかと言えば、監督・中島哲也と、女優・中谷美紀のバトルですね。いやこれが、壮絶って言ってもいいような爽快なバトルで、ホントに、こんな雰囲気で映画なんか撮れるんだろうか、というようなそんなバトルっぷりでした。
中島監督という人が、とにかく撮影中は厳しいことで有名なのだそうだけど、「嫌われ松子の一生」の撮影中はとにかく、中谷美紀への嫌がらせなのではないか、と思うような無茶苦茶な接し方をします。他の役者にはかなり優しく接しているのに、中谷美紀にだけ厳しい。なんだそりゃという感じですが、中谷美紀も負けてはいません。「殺してやる!」「うるさい、あっちいけ!」なんて罵詈雑言を聞かせられてもめげずに、寧ろ監督に厭味で反論し、話し掛けるなオーラを出している監督に始終話し掛け、そうやって掛け合いの罵倒漫才のようなやり取りをしながら映画を撮影していく、その様を文章にした、そんな内容になっています。
しかし、中谷美紀の扱われ方はすごい。中谷美紀が自分で書いているので、その点を多少差し引くとしても(巻末に中島監督の文章があったけど、そこには、この話はすべて本当ですと書かれていた)、主演女優をこんな風に扱っていいのだろうか、という感じが始終してて、中谷美紀はよくがんばったなぁ、と本当に思いました。
中島監督というのは天才監督と呼ばれているようで(それともこれは中谷美紀だけが言っているのだろうか?)、とにかく映像にこだわる監督なのだそうです。だからこそ、役者の演技や感情をないがしろにしたり、映像にこだわるあまりに撮影がうまくいかなかったりと、常に現場は厳しいムードに包まれるようです。巻末で中島監督は、「撮影中は余裕がなくて、周りに配慮することができない」というようなことを書いていて、その言葉通り、現場ではとにかく文句ばっかり言っているような人なのだけど、それでもその監督についていこうと思うスタッフがいることを思うと、すごい監督なのだろうな、と思いました。「下妻物語」の監督で、それも結構評価が高いし、「嫌われ松子の一生」をちょっと見てみたくなりました。
あと、とにかく中谷美紀のことをより好きになりました。
女優・中谷美紀、というのがどういう評価なのか僕は知らないわけだけど、文章を読む限り常に謙虚で、自分の演技は下手だとか、下手な女優だとか、そういう表現が結構出てきます。さらに追い討ちをかけるようにして、映像優先であるあまりに役者の感情を無視してしまうような監督の元で、自分らしさを出せなくて大変な撮影だっただろうに、中谷美紀という女優はどこか余裕を失わずにいるような気がします。監督とのやり合いはいつまでも続いているし、何よりもこのエッセイを揺れることもぶれることもなく、淡々と書き続けているあたり、凄いもんだな、と思いました。
また、これは女優としての宿命なのだろうけど、女性としてよりも女優としてを優先する辺り、さらに好感度が上がりますね。特殊メイクや睡眠不足などにより肌が荒れ、また演技のために太ったりと、とにかく女性であることを優先できない仕事は本当に大変だと思うけど、それにも負けずにいるし、また、現場にパジャマで行ってしまうというような辺り、僕としてはかなりいいですね。
トリッキーな性格も相変わらずで、巻末の中島監督の文章の中で、「ありえない、中谷美紀」というような言葉があります。かなり普通じゃない、トリッキーな人だっていうことで、益々素敵ですね。中谷美紀のことは前から好きだったけど、益々好きになりました。いいなぁ、中谷美紀。すげー綺麗だし。
みんなで集まって一つのものを作り上げる、というのは結構好きだったりします。でも、本作を読んで、映画の製作に携わるのはキツイだろうな、と思いました。僕にはちょっと耐えられそうにないと思います。ただ同時に、映画を作れる人のことを、ちょっと羨ましいな、と思ったりもしました。
中谷美紀という一人の女優が、そのすべてをかけて演じたという松子。それと同時に記されるエッセイには、情熱や意気込み、諦念や後悔、憤怒や消沈など、さまざまな感情が詰め込まれていて、さらにそれが分かりやすく読みやすく面白い文章で包み込まれています。僕は映画を見ていないですが、それでも全然楽しめます(まあ、映画についての多少のネタバレ的なことは含んでいるような気はするけど)。なので、映画を見ていない人でも全然大丈夫だし、読んだら映画を見たくなるだろうと思います。是非とも読んでみてください。面白いですよ。

中谷美紀「嫌われ松子の一年」


嫌われ松子の一年ハード

嫌われ松子の一年ハード

二〇〇二年のスロウ・ボート(古川日出男)

内側と外側を決める。そのことが、生きるということの第一歩なのかもしれない。
どこまでが自分の内側で、
どこまでが自分の外側なのか。
その境界を、
僕自身はきちんと把握しているか。
それは、善悪でも道徳でも倫理でもない。むしろそれらはすべて、外側だと言ってもいいだろう。
そういう、外側に属する二元論ではない。
自分、という境界を元にした、あらゆる概念を二分する判断。
僕は、自分の内側にあまり多くのものを入れない。その自覚がある。
なるべく自分の内側を、シンプルで空虚に保ちたい。そういう願望がある。
なるべく外側からの闖入を許さない。検閲し排除する。そうやって僕は、境界を意識し、内と外を意識し、不純物を意識し、そうやって、内側をクリアにするようにして生きてきた。
しかしどうだろう。僕自身は、僕自身の内側から出ていただろうか?僕自身の内側に、閉じこもっていなかっただろうか?
つまり、自分の居場所としての内側を快適にするために、あらゆるものを捨てていなかったか?
普通の人は、どうやって生きているのだろう。自分自身を、自分自身の外側に置くということを身に付けている人もいるのだろう。それは、客観的ということとはまた違う。なんとか言葉にするならば、自分自身に依存していない、ということだろう。
そういう人は寧ろ、内部と外部の境界が曖昧なのかもしれない。内側を、そして外側を強く意識することはないのかもしれない。自分自身が、自分自身の外側にいることで、あらゆる障害を既に排除しきっているのかもしれない。
それは、強いと思う。少しだけ羨ましくも思う。
ただ、僕には境界を薄れさせる自信はない。内部から出ることも恐らく出来ないだろう。自分自身が苦労して創り上げた桃源郷。意識して生み出した理想郷。長い時間を掛けて描かれる絵画のような統一された世界観。それを、やはり手放すことは出来ないだろう。
閉ざされている、という圧迫感は、寧ろ安心を与える。
途切れている、という絶望感は、寧ろ諦念を与える。
もし、脱出のためのスロウ・ボートがあったとして、
僕は、それに乗るだろうか?
乗れるだろうか?
乗りたいのだろうか?
少なくても、スロウ・ボートが存在することを信じてみるくらいなら、いいかもしれない。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
まず本作の成立過程から。
タイトルから分かる人もいるだろうけど(本作は当初新書版で発売され、その時のタイトルは「中国行きのスロウ・ボートRMX」で、まあそのまんまなんだけど)、本作は村上春樹の「中国行きのスロウ・ボート」のオマージュというかトリビュートというか、そういう企画で書かれた作品です。他にも別の作家が、他の村上春樹の作品をトリビュートしているようです。
さて僕は、その村上春樹の「中国行きのスロウ・ボート」も読みましたが、ちょっと僕にはなんともわからない作品でした。確か短編集だったと思うのだけど、どれも、なんとも言えない作品で、難しかったし、面白くなかったな;あ、という感想でした。
さてそれを古川日出男がトリビュートしたわけですが、こちらの作品は割と結構いいと思います。分かりやすいし、読みやすい。
本作の内容は、「出トウキョウ記」と初めにあるように、東京を脱出しようとしたある男のストーリーになっています。
これまでに三度東京を脱出しようとして、三度とも失敗した。その度ごとに彼女を失うというオマケ付きで。そんな感じです。
さて1度目。夢日記を書こうと決めて、その手段として登校拒否を選択した少年は、ある田舎の(しかしそこはまだ東京)小学校に転校させられる。寮のような施設での共同生活に苦労しながらも、彼はある一人の少女と出会う。
トリッキーな少女だった。
ひたすら喋る。脈絡もない話をひたすらに。周囲の人間は閉口し、彼女に近づかなくなった。しかし、彼は考えた。彼女の世界は、夢日記の解釈と同じではないか?僕は、彼女と会話をすることは可能なのではないか?
そうして彼と彼女とはカップルになった。しかし、東京脱出目前で彼女を失ってしまう。
さて2度め。彼は大学生になっていた。順当にキャンパスライフを送り、順当にアルバイトをして、順当に彼女が出来た。彼女とは、それはそれはセックス三昧だった。彼女の乳輪は、片方は北海道の形をしていた。それが彼女の出身地だった。ならばもう片方は彼女の終着地であるべきではないか?そこはどこだ?二人はそれを追い求め、そして見つける。
行こうそこへ!それにはまずお金が!というわけで、二人はこれまで以上にアルバイトに励む。しかし、その選択のために、彼は東京脱出を目指さなくてはならなくなり、順当にそれに敗れ、またも彼女を失うことになった。
さて三度目。とある事情によりすこぶる借金を背負ってしまった彼は、フル回転でありえないレベルの仕事をこなす。そうやって過ぎていく彼の20代前半。そうこうしているうちに、彼の預金はいつしか膨れ上がっていた。
彼は決心する。東京脱出が不可能ならば、東京の中に、非東京を創り上げるしかない、と。
彼の解答はカフェだった。超絶的な料理を作るシェフと多国籍なスタッフとともに。
しかし、シェフが腰を痛める。代わりにとやってきたのがその妹。彼とその妹はお互いに恋をする。お互いを必要とする。
しかし、やはり順当に彼は彼女を失うことになってしまう。もちろん、東京脱出は叶わぬまま。
そうやって過ぎていった過去の日々。
そして今は、二〇〇二年のスロウ・ボートの中。
という感じです。
最近読んできた古川日出男の本は、なかなかに難しい作品が多かったので(LOVEは結構分かりやすかったと思うけど、13とベルカとロックンロールはなかなか難しかった)、この本はなかなか分かりやすくてよかったと思う。
本来このストーリーをどう読み解くのがベストなのかわからないけど、僕は冒頭で書いたように、東京からの脱出というのを、自分自身の内部からの脱出、という風に捉えた。もちろん、難しく考えながら読んでるわけじゃないけど、まあそんな解釈もできるんだろうな、という程度の話。自分自身の意思や力だけではどうにもならない運命によって、自分自身の内側から脱出できない男の話かもしれないな、とまあそんなことを思いました。
古川日出男あ描く女性の姿っていうのが僕は結構好きで、やっぱ強烈に印象に残っているのは、「サウンドトラック」のヒツジコと写真銃の女の子だけど、とにかく女性の描き方がいい。本作でも、女子高生料理人は結構好きだった。
何がいいのかというと、女性らしくないところでしょうね。女性を女性らしく描かない。それでいて、魅力的に描いているというところが、僕としてはものすごくいいのだろうな、と思います。
本作は、古川日出男をとりあえず読んでみよう、と思っている人には最適かもしれません。とにかく短いので読みやすいし、古川日出男っぽさも充分に出ています。ストーリーも比較的分かりやすいし、なかなか楽しめると思います。もちろん合わない人もいるとは思いますが、もしこれを読んで、古川日出男結構いいじゃん、となったら、次は「沈黙/アビシニアン」か「サウンドトラック」か「LOVE」あたりがいいかなと思います。
そういえば、「gift」を読んでないな。読みたし。
まあそんなわけで、古川日出男って今結構注目されてるけど何から読もうかな、とか、他の作品は長くてどうもな、という人は、まずは本作を読んでみるというのはいいと思います。

古川日出男「二〇〇二年のスロウ・ボート」




死日記(桂望実)

子供は生まれてきただけでも幸せだ、ってそんなのは嘘だと思う。
人間は、いや、大人は、あらゆるものを美化しようとする。自分が生きている世界を、現実を、できるだけ綺麗なものにしておきたいようだ。綺麗な面だけ見ていたいというか。とかく、自然の摂理というもの、人間が手を加えようのないこと、そうしたことに対する信仰というか幻想は強い。
生まれてくれるだけで幸せだなんて、大人の都合でしかない。僕らはみんな、子供だった時期があったはずなのに、子供だったことをすっかり忘れてしまっている。大人は子供の視点を失い、大人の都合で物事を切り捨てる。
生まれてきた子供は皆、生まれてきた時点では不幸せなのかもしれない。僕はそう思う。
よく使われる言い方だろうけど、赤ちゃんは生まれた時に泣いている。生まれたことを後悔していないと誰が言えるだろうか?
子供は生まれながらにして不幸である。生まれたこと自体が不幸なのである。
結局人間の幸不幸を左右するのは、環境でしかない。生まれてきたそのことは不幸かもしれない。それでも、恵まれた環境に生まれさえすれば、人生は幸福に満ちていく。
しかし、恵まれない環境に生まれてきた子供は、どこに幸福を見出せばいいというのか?
赤ちゃんは、生まれてくるそのこと自体が素晴らしいのだ、という人間は、ならば途上国で同じ発言をすることができるだろうか、と僕は思う。もちろん、途上国に行ったことのない僕があれこれ言っても説得力の欠片もない。しかし、そういう環境に産み落とされてしまった子供達が、幸せだとは僕には思えない。先進国と比較して、という話ではない。そうではなく、絶対的な指数として、彼らはどうしようもなく不幸だと僕は思うのである。
日本でも、実情は大して変わらない。環境の違いが、そのまま子供の人生に大きく関わってくる。
子供には、生まれた段階ではその環境に抗う力が備わっていない。これもよく言われる話ではあるけど、他の哺乳類や他の生物は、生まれながらにして環境に解き放たれる種がほとんどだ。生まれてから、これほどまでに環境に依存しなくてはいけない種は珍しいだろう。神様という存在がもしいるならば、人間には、原罪として、生まれながらにして環境に依存するように作られたのかもしれない。
不幸は連鎖する。その連鎖の鎖をほどくのは至難の業だ。
僕は子供の頃、自分が置かれた環境が嫌で仕方なくて、意識的に、その環境から精神的に独立しよう、と努力してきた。肉体的にはその環境に依存しなくてはならないが、精神的に依存することのないようにしよう、と。そしてそのうちに、環境に依存しなくても生きていけるようになったら、肉体的にも独立しよう、とそう考えて生きてきた。
今では、家族という名の環境からは、肉体的にも精神的にも独立している。言葉としては、隔離しているという表現が正しいかもしれない。それが正しいことだったか、未だに分からないが、こうするしかなかったことだけは確信している。
子供は、家族という名の環境に依存して存在する。これは、幸せであるかもしれないし、不幸であるかもしれない。いずれにせよ、子供の人生は、不幸に始まり、環境によって左右されると言っていいだろう。
子供を愛することができない親がいるそうだ。気持ちは、正直に言えばわからないこともない。僕も、子供は苦手だ。しかし、だったら産むなよ、と思う。安易な考えの元、『生まれてきてしまった』子供達は多いことだろう。
子供を生きる、ということが難しい時代になってきた。恵まれた子供の方が寧ろ少ないのかもしれない。経済的には恵まれているだろう。しかし、その豊かさと反比例するようにして、大事な何かが欠落している、そんな感じがする。
『愛』と呼ばれるものかもしれない。子供達に今必要なのは、ゲームでも勉強でも夢でもお金でもなく、『愛』なのかもしれない。そんな風に思った。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
まずは構成から説明しましょう。本作は、大部分を日記が占めています。その合間に、刑事による取調べのシーンが挟み込まれる、という形式です。
日記の書き手は、中学三年になったばかりの田口潤。14歳。三年に進学したことをきっかけに、日記をつけることにした。日々の内容は短いながらも、ほぼ毎日きちんと書いている。
彼が書く日常は、お世辞にも幸せとは言いがたいものである。実の父親の死後、家に寄り付くようになった加瀬という男。母親の新しい彼氏らしいが、潤は加瀬とは反りが合わない。定職はない。ギャンブルはする。そして何よりも実の父親と同じく、母親に暴力を振るうのである。それでも母親は、加瀬の元を離れようとしない。次第に潤のことを置き去りにするようになった母親。潤の孤独は続く。
そんな彼の生活を支えてくれた人々も大勢いる。働かない母親と加瀬のせいで日々貧しい生活を強いられていた潤は、新聞配達のアルバイト先で、同級生の家で、学校の先生に、隣近所のおばさんに、ととにかく様々な人に目をかけてもらって、日々をなんとか生きている。
母親への愛情は失わないままに、しかし荒んでいく日々。そんな中で潤は、次第に不幸な事件に巻き込まれるようになっていく…。
とまあそんな話です。
かなり面白かったです。というか、読んでて多少辛い感じにはなるのだけど。
まず、日記の内容が秀逸ですね。とにかく、まさしく『日記』という感じで、日記としてのリアリティがもの凄くありますね。主人公の少年の日常というものを余すところなく切り取りながら、一方で惨めで辛い生活を描く。日記を書くことで生活の支えを得ている、という雰囲気すら漂わせる感じで、作中に登場する日記としては本当にかなり秀逸だな、と感じました。
また、その日記という携帯が非常にうまく活かされているな、と感じました。というのも、日記という携帯を取ることによって、小説としての文章自体から、『悲壮感』を奪い去ることに成功している、と僕は思うのです。
つまり、潤という少年は、日記の中で生活の辛さをアピールするために日記を書いているわけではなく、日記を書くと決めたから書いている、という感じで、それはつまり、日記の文章自体に日常の悲壮感を特にアピールするわけではない、という、本作の日記のスタンスに合います。さらにそのスタイルは、こう書いてはいるけど本当はもっと辛いんだろうな、というような読者の側の憶測を引き出すことに成功しているような感じで、だから、日記の文章としては本当にそんなに悲壮感はないのだけど、その背景をうまく感じさせることで、文章に悲壮感を滲ませる以上の効果を得ている、と僕は感じました。日記という形式を取る作品は結構あると思うけど、日記という形式がこれほどうまく合致した作品はなかなかないのではないか、という気がします。
また、とにかく潤という少年が非常に好ましく描かれていて、こんな少年が何故不幸を背負わなくてはならないのだ、という辛さを感じます。似たような系統の小説で、重松清の「疾走」がありますが、あちらでは主人公の少年がどんどんと荒れていってしまいます。一方で本作の少年は、自分の日常が他の人よりも辛いことも、自分の人生が幸福ではないことも、そういったすべてを受け入れた上で
、さらに無上に母親を愛し続けるという健気な少年なのです。時折シニカルな視点の登場する日記ですが(例えば、「大人は何故わかりきったことを真顔で聞くのだろう?というような記述」)、ふっとした中に、少年のついたため息のような文章が潜んでいて、そんな部分に差し掛かると、一人で背負うことはないんだよ、と教えてあげたくなってしまう。
実際に、同じような構図、つまり、不幸な日常だけれども母親のことは愛している、という子供達はいるのだろう。それこそ不幸である。不幸な日常で、なおかつその不幸を生み出した張本人を恨むことができるならば、まだ救われると僕は思う。でも、それを愛し続けるとなると、それは不幸でしかないだろう。
母親の愛に飢えたというわけではない、多くを望んだというわけではない。ただ、普通の人生を願っただけの少年を取り囲む無残な現実。その辛さにため息をつくも、一方で、少年の無垢な純真さが、痛ましいながらも一片の救いになっているかもしれない。そんな物語でした。
しかし、正直に言えば、一点だけ納得がいかない(ミステリ的に言えばアンフェアではないか)という部分があって、まあしかし許容できなくもないか、という感じで微妙でした。やはり、同じ部分について疑問を持つ人はいるでしょう。まあ本作はミステリというわけでもないだろうし、まあそういうところはいいのかもしれない。難しいところである。
「県庁の星」で一躍ブレイクした作家桂望実のデビュー作です。結構いいです。作風は、「県庁の星」や「ボーイズ・ビー」などと大分違いますが、これはこれで楽しめます。読んでみてください。

桂望実「死日記」


ないものねだり(中谷美紀)

変わった、エキセントリックな女性というのは結構好きだ。
というわけで僕は、中谷美紀が好きなのである。
さて、いささか飛躍しすぎだろうか?
僕はとにかく、普通というのがダメだ。僕自身は普通でどうしようもなく凡人だが(しかし周囲の人間に言わせれば、僕は変わっているらしい。この認識の違いはなんだろう?)、とにかく自分以外の人間には、普通じゃないということを求めがちだ。
男でも女でも、とにかく型にも枠にもはまらないような、行動的にも考え方的にも、少しねじれたような人間がいい。
特に、女性に対してはその傾向が強い。
僕はとにかく、『女性らしさ』というものをどうでもいいものだと思っている。
もちろん、綺麗なお姉さんは好きだけれども、まあそういうことではなく、自分をいかに『女性』に近づけるか、という努力をしている人が苦手なのである。
ここでいう『女性』というのは、『女性たるものこうあるべし、と世間では考えられているイメージ』という意味であって、それを守ろう、あるいはそれに近づこう、と考えるような思考を持っている人には、あまり魅力を感じることがない。
この難しさは、この『女性』から意図的に離れて魅力を見出せる人(つまり僕にとっての魅力ということだけど)は、綺麗な人だけである、ということだ。これが一番難しいのである。
だから、綺麗ではない人が『女性』から意図的に離れようとした時に、それはよほどうまくやらないとちゃんとはいかない、ということで、こういうところに不公平さが存在するなぁ、と思うのである。
さて中谷美紀だが、本作を読む前から僕の中ではエキセントリックなイメージではあった。しかし、本作を読んで、よりそのイメージが強くなったのである。
次のような記述を見ればわかりやすい。すべて本作中に書いてあったことだが、
『ハンカチの携帯なんてまずしていないし、櫛や鏡を持ち歩いたことなど数えるほどしかない。』『(「ケイゾク」の撮影中は)現場における女優としての体裁などどうでもよくなってきて、空き時間を廊下で寝て過ごしたり、』『ピアスに限ったことではなく、顔の周りに宝飾品をぶら下げることが、どうも面倒で、』ってなものであり、挙句の果てには、『50キロもある私にとって』と、なんと体重まで公開してしまうという、そんな女性なのである。
素晴らしき哉。
あれだけ綺麗な女性であるにも関わらず、ここまで無頓着であるということがどれだけすごいか、ということです。僕にとって女性の『女性らしさ』というものは要らないものだけど、やはり世の中の女性としてはそうはいかないというのが普通でしょう。程度はあるにしても、そこそこ『女性らしさ』は身に付けないとな、と思っていることでしょう。しかし、そういう部分から完全にはみ出したところに中谷美紀という女性はいて、もうだから、本作を読んでより好きになりました。
やはり、社会的にある程度力のある女性だからこそこういった振る舞いも可能だし許されるのかもしれないけど、それにしても、こういった女性が増えてくれないかなぁ、と個人的には期待しています。
というわけで、そろそろ内容に入ろうかと思います。
本作は、中谷美紀がアンアンに連載していた「男子禁制!?」というエッセイをまとめて本にしたものです。
これが以外にいい文章を書くんですね。
まずわかりやすい。テンポもテンションも終始一定だし、ぶれない。的確な日本語を使っているな、という印象を受けるし、ダラダラした日本語にはもちろんなっていない。自分を一切取り繕うことをしない文章には非常に好感が持てるし、エッセイとしては非常に上質な仕上がりではないか、と思う。
そして何よりもすごいのが、それぞれ大した話を書いているわけではない、ということだ。
それの一体何がすごいというかと言えば、大した話ではないのに、なかなか面白いのである。
例えば女優なのだから、撮影の裏話とか芸能人の友達とか、そういったところからネタを仕入れれば、まあいろいろ配慮はあるかもしれないけどネタには困らないし、読み手としてもわかりやすくていいだろう。
しかし、そういう話がないわけではないが、基本的に、中谷美紀という一人の女性の日常を、さりげなく切り取ったような、そんな内容になっているのである。
最近はブログなどで日々日記を書いている人が増えているだろうけれども、しかし、大した話ではないことを日常の中からみつけ、それをある一定の長さの文章にし、それでかつ面白く仕上げるということは、これが結構難しい。つい、読んでいる人にウケがよさそうな話題を選んでしまいがちになるだろう。中谷美紀はそうしていない、というだけでも、本作には価値があると思う。
ではどんな話が多いかと言えば、食の話が多い。どうやら、結構食べるようである。また、食を通じて様々な人と知り合いになっていて、その方面の話題は結構尽きないようだ。食に興味のない僕としても、例えば「花わさび」だとか、北海道のお土産(名前は忘れた)なんかは食べたいなぁ、と思うほどで、面白かった。
また、健康についての話題も結構あった。ヨガやマッサージ、姿勢矯正など、役作りに必要なものから自ら危機感を覚えて始めるものまで様々である。
あとはまあ、習い事や映画や旅行の話が載っていて、中谷美紀かく語りき、という内容だった。
面白かったのが、柴崎コウと間違えられた、という話だ。どうやらそのまま柴崎コウで通したらしい。この二人は姉妹だという噂があるけど、本当だろうか?
表題作でもある最後のエッセイは、女優としての生き方に「ないものねだり」をしている自分を描いている。このままの生き方でいいのだろうかと思う一方で、カタギの仕事をしてみたい、と思っていたりもするという、まあ厳しい世界にいるからだろうか、ほんの少し垣間見えた弱音だったのかもしれない。
女優という特殊な生き方に身を捧げた、中谷美紀という一人の女性。なんでもないものの中からふっと面白さを抜き出す文章と、その飾り気のない日常が、読んでいて楽な気持ちにさせてくれます。女優という遠い存在でありながら、中谷美紀という存在を身近に感じさせる内容になっています。是非とも読んでみてください。

中谷美紀「ないものねだり」



フェルマーの最終定理(サイモン・シン)

数学の美しさは、驚異的であり、かつ特殊である。
美しいもの、と言って思い浮かべるものはなんだろうか?例えば、人にも確かに美醜はある。あるいは、建造物や宝石、文章や絵画、自然や環境、そういった様々なものに美しさを感じることだろう。
さて、おおまかに二つに分けよう。つまり、人間が作ったものとそうでないものの二つだ。
人間は古来、ありとあらゆるものを作ってきた。それは、利便さを追求してきたものもあるが、美しさというものを追い求めてきたものも数多くある。
しかし、人間が生み出したものに対して感じる美しさは、どこか『違う』という感覚を与えはしないだろうか?
うまく表現できる自身はなにだが、テレビドラマを例にあげようと思う。
テレビドラマというのは、いくつもの『お約束』というものがある。今はこんなシーンはアニメぐらいでしかありえないだろうが、例えば、朝遅刻しそうになって学校に向かって走っていると、可愛い同級生とぶつかって…、あるいは、事件解決のシーンは何故かいつも崖か岩場、というような、つまりそういうことである。
僕らはテレビドラマを見る時、そういった数々の『お約束』というものを、こう捉えているだろう。現実の生きる人間としては、それは不自然だと理解している。しかし、テレビドラマを見ている時の人間の心理は、そのテレビドラマの内部にあるのである。そのテレビドラマの内部からの視点で捉えれば、その『お約束』は不自然ではない、という風に処理できるのである。こうやって僕らは、現実世界ではほぼ起こりえないと知っている数々の『お約束』を処理しながら、テレビドラマを楽しんでいる。
さてここで話を戻すが、人間が作ったものに対して人間が感じる美しさというのも、それと同じ構造を持っているのではないか、と思うのである。つまり、『人間が作ったもの』を見ている『人間』は、『人間が作ったもの』と同じ部分にある。これは、『お約束』を見ている人間の視点が『テレビドラマ』の内部にあることと対応している。その上で人間は、その『人間が作ったもの』に美しさを感じる。そういう構造ではないかと思うのだ。
もし人間が、今いる世界のもうひと回り外側の世界(つまりそれは、テレビドラマを見ている現実の人間の視点に相当する)にいくことができるとするならば、もしかしたら人間の作ったものは、テレビドラマの『お約束』のように不自然なものなのかもしれない。僕はそんな風に思ってしまうのである。
もちろん、人間が作ったものに対して僕も美しいなと感じることはよくある。特に僕は、緻密な建造物・奇抜なデザイン・流麗な文章、そういったものに美しさを感じることが多い気がする。しかし、あくまでもそこには、人間が作ったものである、という限界が存在するような気がしてしまうのも事実である。
一方で、人間が作ったわけではないもの、ここでは自然と表現するけれども、それを考えてみよう。
僕は、自然というものは何にしろ、美しさを備えていると思う。
ここで注意しなくてはいけないことがある。僕らは、刷り込みとして、『自然=美しいものだ』という概念を植え付けられすぎている、ということだ。とにかく、自然は美しいものである、という概念ばかりが広がりすぎている、と感じる。
僕は僕なりに、できるだけその固定観念を排除した上で、それでも自然は美しい、と判断しているつもりである。証明はできないけど。
というわけでここでは、自然は美しいものということで話を進めていく。
さて、自然は何故美しいかと言えば、逆説的な話になってしまうが、結局それを人間が作り出すことができないからではないかと思うのである。
例えば人間は、クローンという技術を生み出した。これは倫理的にかなり賛否両論を集めているが、これにしても、自然を単にコピーしているだけにすぎない。また、砂漠に緑を、という活動があるけれども、結局あれも、自然の再生能力を補助しているにすぎない。
というかそもそも、『人間が生み出したわけではないもの=自然』という定義をしているので、何を作ろうが人間が作ってしまえばそれは自然ではないのだけど。とにかく、人間は自然に太刀打ちできないからこそ、そこに美しさを見出すのだろうと思う。
また、自然は人間が存在しなくても美しくありつづける、というところもまたいい。例えば、人間が作り出すものは、人間が存在しなければその美しさも存在しない。しかし自然の場合、人間がいようがいまいが関係なく、それだけで美しいのである。
さて、ここまでが前置きで、ようやく数学の話をしよう。
では、数学は、人間が作ったものなのか、あるいは自然なのか、どちらだろうか?
この質問は、本質的に難しい部分を含んでいる。というのも、この問いは、長年数学者の間で語られているからである。
数学者の数学に対する立場というのは二通りある。
一つは、数学は元から『存在』するものであり、人間はそれを『発見』しているだけだ、という立場。これは、『神様のノートを覗き見る』というような表現をされる。
もう一つは、数学は人間が『生み出した』ものであり、人間はそれを『発明』しているのだ、という立場である。
前者が、『数学=自然』、後者が、『数学=人間が作ったもの』ということになるだろう。数学者の間でも意見がわれているのである。
数学は、人間という存在がいなければ間違いなくその美しさを見出すことのできなかったものである。そう考えれば、数学は自然ではないのかもしれない。しかし一方で、数学の中で見出される美しさは、とても人間が生み出したとは思えないほどの超越した美しさなのである。
数学の美しさを言葉にすることはとても難しい。しかしその美しさは、体感することさえできれば、他に代えようもないほどの鮮烈さを持っていて、なるほど、数学に魅了される人間がこれほどにも多いのも頷けるな、という感じがする。
数学者は、美の探究者だ。それは、学問を追い求めるというよりも寧ろ、芸術を追い求める姿勢に近い。数学者は、まだどこかに眠っているかもしれない美の神秘を求めて、日々思索に耽っているのである。それがどれほど高級な思索なのかを、なかなか普通の人は知ることができない。
本作は、そんな数学者の高級な思索の一端を垣間見せてくれる至極の作品である。
というわけで内容に入ろうと思います。
さてまずは、本作のテーマである、フェルマーの最終定理について説明しようかと思います。この定理は、様々な経緯を経て、数学にあまり興味のない人間にも広く知れ渡ったものなので、知っている人も多いかと思います。
まずは本作に倣って、ピタゴラスの定理、という懐かしい話をしましょう。恐らく中学時代(小学校では習わないよな、確か)に誰もが馴染んだあの定理です。
ある直角三角形の、直角に交わる二辺の長さをそれぞれx,y、斜辺の長さをzとした時、どんな直角三角形についても、
(xの2乗)+(yの2乗)=(zの2乗)
が成り立つ、というのがピタゴラスの定理でした。
さて、今から350年ほど前の数学者フェルマーは、このピタゴラスの定理を拡張して考えてみることにしました。すなわち、nを自然数(n=1,2,3,4…ということ)とした時に、
(xのn乗)+(yのn乗)=(zのn乗)
を満たす整数解x,y,zが存在するだろうか、ということです。
つまり、
(xの3乗)+(yの3乗)=(zの3乗)
(xの4乗)+(yの4乗)=(zの4乗)
(xの5乗)+(yの5乗)=(zの5乗)
………
というような式が成り立つような整数解x,y,zはあるだろうか、とフェルマーは考えたわけです。
そしてフェルマーは、ある本の余白に、世界中で有名となった次の文句を書いたのです。
『(xのn乗)+(yのn乗)=(zのn乗)
を満たすような整数解x,y,zは存在しない。
私はこの定理の真に驚くべき証明を持っているが、余白が少なすぎてここには書けない。』
なんとも人を喰った男である。以来350年間、この問題はフェルマーの最終定理として、そして、数学上最も証明の困難な問題の一つとして、数学界の中でも特異な位置を占めていたわけです。それゆえに、フェルマーの最終定理に関わる歴史には、ありとあらゆるドラマとロマンが詰まっています。本作には、そのすべてが詰まっている、と言っていいでしょう。
大まかな流れは、他の同様の本(フェルマーの最終定理に関する本はいくつか読んだことがある)と同じような形式です。すなわち、まず古代の数学の話が出て、フェルマーとその時代の話が描かれる。そこから、フェルマーの最終定理と格闘した数学者、またはなんらかの貢献をした数学者の話を続け、そして最後に、フェルマーの最終定理を見事証明したアンドリュー・ワイズという数学者に焦点を絞っていく、という形式です。形式に特に変わったところはないし、むしろ王道だと言えるでしょう。
しかし、本作は、他のどんなフェルマーの最終定理に関する本よりも、そして他のどんな数学に関する本よりも(無論僕が読んだ中ではということだけど)、とにかく簡単に分かりやすく書かれていて、しかも面白い作品でした。サイモン・シンという作家は、本当に稀有な能力を持った作家だな、と思いました。
まず、全体の構成は特に他の作品と変わらないのに、流れというものが本当にうまく作られています。通常、フェルマーの最終定理に関わらず、数学に関する本となると、ある一連の明確な流れを示すということは難しいです。というのも、一つの証明の話の中に、いくつもの必要な知識があるわけだからです。他の本ではそれをどう処理しているかというと、『ここでちょっと、今後の展開に必要なので、流れを一旦切って~~の話をしましょう』という感じで持っていくのである。
しかしサイモン・シンは、フェルマーの最終定理に必要な道具や知識を、ある大きな流れの中に巧みに潜ませ、流れを分断することなしに読者を導いていきます。これは本当に驚異的な構成力だと思いました。さすがに、章と章の間では流れは切れているけども、ある章の内部で言えば、ある話の過程で必要な知識を提示し、その提示された知識を元とする話を次に出し、さらにその流から次に必要な知識に結びつく話をする、という感じで、無駄がないし、息継ぎなしでも苦しくない、という表現がぴったりの作品でした。
また、他の数学の本では、読者にはどうせ理解できないだろうから、という著者の考えが見え隠れすることが多いです。例えば、
『モジュラー形式とは、喩えていうならば…』
と言った感じの文章があるとしましょう。この場合文章の奥には、
『(読者にはきっとわからないだろうけども)モジュラー形式と(いうものがあってそれ)は、(読者にはわからにだろうから)喩えていうならば…』
というような思考が読み取れてしまう、そんな文章が多いのです。しかし本作の中でサイモン・シンは、そんな逃げを打つことはありません。例えばモジュラー形式ならば、それを、できるだけ具体性を排除した上で、しかし抽象的にもなりすぎず、できるだけ多くの人が理解できるように、という風に配慮されています。通常フェルマーの最終定理の本ならば、証明の最終段階についてあれこれ詳しく書いたりはしません。大体、谷村=志村予想に触れ、これを証明できさえすればフェルマーの最終定理を証明したことになるということを示し(この証明すら省かれるのがほとんど)、さらにそれがモジュラー形式というものと関係があるのだということをほのめかし、そして証明された、という形で終わるものが大半だと思います。しかし本作では、なるべくわかりやすい形で、何故谷村=志村予想を証明すればフェルマーの最終定理を証明したことになるのか、という点にも触れ、またモジュラー形式と楕円曲線の関係とその解法へのアプローチというものについてもある程度踏み込んでいる、という、今まで読んだこともないような内容まで書いてあって、しかもわかりやすいという、本当に驚異的な作品でした。
さて、本の内容から離れて、もう少しフェルマーの最終定理についての話をしましょう。
フェルマーの最終定理は、それが発表された当時、そしてしばらくは比較的注目された難問でした。しかし、実は次第にその価値が疑われるようになってきて、つい数十年前まで、大方の数学者が見向きもしないような問題になってしまいました。それは、それを解くことで名声は得られるかもしれないが、解くことに膨大な時間が掛かる上、解いたところで数学という分野に新たな革命をもたらすものではないだろう、と思われていたからです。
しかし、谷村=志村予想が現れ、その考えが一変しました。
名前からわかるようにこの予想は、ある二人の日本人が生み出したものです。これはどういう予想かということをなるべく簡単に説明しようと思います。
古代の数学者から連綿と受け継がれてきた分野に、楕円曲線というものがあるます。ある方程式の形で表されるものに関する分野で、これは古来から長年の伝統のある由緒正しき数学の一分野です。
一方で、モジュラー形式という、かなり最近の数学の分野があります。これは、他の数学との関連性が極めて弱いという、追求することにあまり価値を感じさせない分野で、世界では置き去りにされた分野でした。
日本の谷山と志村は、このモジュラー形式の注目し、ある一つの予想を打ち立てることになります。それは、あるモジュラー形式は、ある楕円曲線と対応しているのではないか、ということです。比喩的な表現をすれば、『モジュラー形式』という名前の南京錠と、『楕円曲線』という名前の鍵があって、それが一つ一つに対応している、つまりある『楕円曲線』という名前の鍵で開けられるのは、ある一つの『モジュラー形式』という名前の南京錠だけなのではないか、という予想でした。
この予想は、発表された当初はまるで見向きもされませんでした。それは、そんなことが成り立つわけがない、という感情からでした。何故なら、古代から伝統のある『楕円曲線』と、最近になってようなく研究され始めた『モジュラー形式』が、結局は同じものであるということがあるだろうか、と思ったからです。
しかし次第にその素晴らしさが認められ、「もし谷村=志村予想が正しければ…」で始まるいくつもの証明が提出されるようになりました。この予想が証明されれば、数学界でかなり有益だと考えられるようになりました。しかしこの谷村=志村予想は、証明するのがかなり困難だと思われていたのです。
そしてある数学者が、谷村=志村予想とフェルマーの最終定理を結び付けました。つまり、谷村=志村予想を証明しさえすれば、自動的にフェルマーの最終定理は証明されたことになる、ということが示されたわけです。
これで、フェルマーの最終定理は、またも表舞台に戻ってきました。フェルマーの最終定理を証明することは数学的に特に進歩がないと思われていたのが一変し、フェルマーの最終定理が証明されれば、数学界でもかなり有益な予想である谷村=志村予想も証明されたということであり、数学界にとって大きな一歩になるからです。
日本人としては、フェルマーの最終定理という難問に、日本人のアイデアがかなりコアな部分で関わっている、ということが誇らしく思えます。さらにもう一人日本人が関わっているのです。それは、フェルマーの最終定理を証明したと思っていたワイルズの証明に穴があることがわかり、途方にくれていたワイルズに最後の光明を見出した岩澤理論というものでした。日本人もなかなか素晴らしいものです。
さて最後に、数学における証明がどれほど重要であるか、という強烈な例が載っていたので、書いてみようと思います。
フェルマーの最終定理は、コンピューターを使って、nがかなりの大きさまで行っても整数解は存在しないということがわかっていました。普通の感覚ならばそれでいいのではないかという感じになるのですが、一つ反例があります。
オイラーという数学者が提唱した「オイラーの予想」というものがあります。それは次のようなものです。
(xの4乗)+(yの4乗)+(zの4乗)=(ωの4乗)
が成立するような自然数解は存在しない、というものである。長年に渡ってこの「オイラーの予想」は、証明されることも反例が見つかることもなかった。コンピューターで結構大きな値までやってみたけど自然数解は見つからなかったので、誰もがこの予想は正しいのだと思い始めた。しかし、1988年にノーム・エルキース人が、次のような解を発見したのである。
(2682440の4乗)+(15365639の4乗)+(18796760の4乗)=(20615673の4乗)
というわけで、オイラーの予想は成り立たないということが証明されたわけだが、しかしすごい数字である。
こういう点から見ても、数学において証明というものは、とても大事なのである。
フェルマーの最終定理には、ロマンと絶望とドラマがつまっています。普通は、文系の人間だけでなく、理系の人間でも理解するのはお手上げな世界です。しかし、サイモン・シンという非凡な才能を持つ作家が、理系の人間だけでなく、文系の人間にもわかりやすい本を書いてくれました。それに感謝して、皆この本を読むべきではないか、と僕は思います。数学の美しさというものが隅々にまで行き渡った作品です。是非読んでみてください。

サイモン・シン「フェルマーの最終定理」



対談集 妖怪大談義(京極夏彦)

京極夏彦の妖怪の話を聞くのは、非常に面白い。
妖怪とはなんぞや、と聞かれてたらなんと答えるだろうか?まあ、ぬらりひょんとか河童とか塗壁とか、そういういわゆる化け物のことだろう、とまあそう答えるでしょう。
いや、まあそれはきっと正しいのだけど、でもたぶん間違っている、というようなところが面白い。
妖怪の発生と妖怪自体は、まあ当たり前だと言われるかもしれないが、密接に結びついている。
妖怪というのは、そもそもそれ自体で存在していたわけではない。例えば、ウルトラマンやポケモンのように、まずその存在があるわけではない。
そうではなくて、初めにあるのは、怪異なのである。
例えば、家が軋んで音が鳴る、という現象がある。これは、現代ではいくつかの要因が重なった自然現象だとわかっているけども、昔はそんなことわからない。わからないけど何故か家が鳴る、というのは非常に怖いぞ、と。だったら、これは『家鳴り』という妖怪が家を鳴かせているんだ、ということにしようではないか。全てではないけど、こういう過程で大抵妖怪というのは生み出される。
なので、そもそも形があるわけではない。家が鳴ると、それを子供とかに、「あれは『家鳴り』っていう妖怪の仕業なんだよ」と説明するための、その仕組みとして生み出されるのが妖怪なのである。
こういう話を知るだけでも充分に面白い。
さらにそこから、現代に至るまでの妖怪の変遷も分かる。いつからか、妖怪に絵が与えられるようになる。もちろん、誰も見たことはないわけで全部想像なんだけど、それでもこれこれの妖怪はこういう形でこういう性質、というような図鑑が出来たりする(鳥山石燕とかが有名)。
そうすると今度は、妖怪がキャラクターとして一人歩きするのである。そうなると今度は、妖怪に対して別の解釈がなされるようになる。
先ほどの『家鳴り』の例で言えば、それまでは家が鳴った時の説明としての機能だったはずなのに、一人歩きして以降は、『家鳴り』が家を鳴らすのだ、ということになってしまう。
うーむ、この例はちょっと分かりづらい。座敷わらしの話にしよう。
座敷わらしというのはそもそもは、突然財産を成した家に対しての説明機能としての役割で生まれた。つまり、ある共同体の中で突然財を成した一家があったとして、その説明として、あそこには座敷わらしが出るんだ、とこうなる。後々の説明として機能していた。しかし、座敷わらしという形と性質が広まると今度は、座敷わらしが来るからお金持ちになる、という風に認識が変わってしまう。
論理が逆転してしまうのである。
そうなると、元々の説明、元々の機能というのがどんどんと失われてしまう。妖怪という存在がよくわからなくなってきたのも、そうした経緯がある。
それを、民俗学という分野で何とか復活させよう、と今頑張っている人がいるのである。
話は少し変わるが、僕らにとって妖怪と言えば、もう『ゲゲゲの鬼太郎』をおいて他にはないだろう。水木しげるが創り上げた世界だが、京極夏彦はこう言っている。
水木しげるがいなかったら、妖怪の3分の2はダメだった、と。
水木しげるは研究家ではなくただの(という言い方は失礼だが)漫画家なのだが、ひたすら好きな妖怪の漫画を書き続けたことが、結果的に妖怪という学問に対して大きく貢献した、ということらしい。ビバ、水木しげる。
まあ最近では、妖怪といえば京極夏彦、という認識も割と一般的になりつつあるでしょう。僕も、上記に書いたようなことは、京極夏彦の作品を読むまではまるで知らなかったわけだけど、それがものすごく分かりやすく書いてある。妖怪というものがただのキャラクターではなく(まあ京極夏彦は、妖怪はただのキャラクターだと言っているけど)、それ以上に意味も機能もあった存在として描かれていて、しかも小説としても抜群に面白い。妖怪を広めた功績としては、京極夏彦もなかなかの位置にいるだろうなぁ、という感じです。
まあそんなわけで突然内容紹介に入りますが、そんな京極夏彦が、妖怪好きのあらゆる人と対談をする。それをまとめたのが本作ですね。
正直に言うと、本作はちょっと難しいですね。京極夏彦というのは、基本的にメチャクチャ頭がよくて、でも小説では読者にすごく分かりやすいように物語を書く。しかし、対談では、対談の相手も頭がよくて、かつ同じ妖怪を趣味にする人間とあって、どうにもついていくのが難しい。悪く言えば、京極夏彦の趣味の対談であって、読者は置いていかれているという感じがする。いやまあ、京極夏彦はすごく楽しそうだから、まあいいと言えばいいのだけど。
とりあえず、対談相手の名前を列挙しましょうかね。
水木しげる・養老孟司・中沢新一(中央大学教授)・夢枕獏・アダムカバット(武蔵大学教授)・宮部みゆき・山田野理夫(農業系の研究員)・大塚英志・手塚眞(映画監督。たぶん手塚治の息子?)・高田衛(各種大学教授歴任)・保坂正康(ノンフィクション作家)・唐沢なをき(漫画家)・小松和彦(民俗学者)・西山克(関西学院大学教授)。
まあしかし色んな人と対談してますが、特に大学教授や研究者との会話には、なかなかついていけないですね。
それにしても、京極夏彦は広範な知識を持っているな、と感心します。でもたぶんそれは、知識を詰め込んだからではない、と僕は思うのですね。構造を理解しているのだと思います。
京極夏彦は、とにかく妖怪のことが大好きで、妖怪のことばっかり考えてきた。妖怪というのは、考えれば考えるほど構造的になかなか複雑で、それを突き詰めるようにして考えてきた。そうやって妖怪の構造を理解することで、同時に、他のあらゆるものの構造も理解できるのだと思いますね。つまり、ある分野の構造を、別の分野にも当てはめる。すなわち、社会や文化や人間関係やその他様々なことに。そうすると、多少の知識で、その分野を大まかに捉えることができるようになる。恐らくそういう思考を持っているのではないか、と思うわけです。
森博嗣という作家がいて、僕の印象だと氏も、世の中の構造をまず理解する人間なのだろうな、と思います。なんというか、羨ましい限りです。頭がいい人というのはいいですね。
本作の中で一番面白いのは、唐沢なをきとの対談「妖怪図鑑は、愛と勝負感で決まる!」ですね。とにかく、妖怪図鑑についての話をひたすらするんだけど、すっごいどうでもいい話なんだけど、これが面白いんですね。これがとにかく一番面白い。
あと、宮部みゆきとの対談「妖怪と心の闇をのぞく」も、なかなか示唆に富んだ話があって、いいなと思いました。これがとにかく一番長いですけどね。
その宮部みゆきとの対談の中で気になった部分を抜き出してみようと思います。

『(話は、少年犯罪についてです)
京極:(前略)でも、メディアを通じて日常的に擬似的な死を見せられているからといって、短絡的に「俺も殺していいんだ」と思うかといえば、それはないと思う。ゲームと現実は違うんだということくらいは、みんなわかっていますよ。
宮部:子供だってね。
京極:そう。だからこれは逆なんだと思うんです。ゲームと現実は違うはずだと思いたい、それを確認したいという気持ちの表れなんじゃないか。ゲームでは簡単に人が死ぬ。でも実際の死はもっと重たくて荘厳であるべきだ、だからこそ本当に人を殺してしまったら、何かものすごいことが起きるのじゃないかという幻想を抱いている。神威を試すもっとも簡単な方法はタブーを冒すことなわけで、だから、殺人のような大罪を犯したら天罰が下るとか、何かあってしかるべきだ。
ところが、やってみたところでどうにもならない。
宮部:かえって保護されちゃったりするしね。』

『(話は、小説について)
京極:まあ小説というものはそもそもそういうものなのかもしれませんけど、不遜な話ですけど、僕らはみな、過去に書かれた小説を過大評価している節があるのではないのかと、常々疑問に思っていたんですが。これって深読みじゃないの(笑)と。
宮部:そう、どんなことも、今、ほら、深読みして意味をつけることがみんな習慣になっちゃってるから。
京極:「面白けりゃいいじゃん」って態度、僕はものすごく好きなんですけどね。(後略)』

全然妖怪の話じゃないけど、妖怪の話からこんな話になったりします。しかも、結構示唆に富んでいると思いませんか?僕は、なるほど確かに、って思いました。ゲームによって人の死を軽んじているのではなく、逆にその神聖さを知りたいと思っている、とか、昔の文豪の作品を過大評価しているとか、そうそうって感じでした。
まあそんなわけで、なかなか難しい話も一杯あるので、あんまり普通にはオススメは出来ないんですけど、妖怪好きだっていう人はやっぱ読んでみると面白いかもしれませんね。まあそんな感じです。

京極夏彦「対談集 妖怪大談義」



富豪刑事(筒井康隆)

正直僕は、お金持ちにはなりたくないなぁ、と思うのだ。
という話は以前何かの感想でも書いたような気はするが、恐らく大分昔のことなので、いいとしよう。
お金はあるに越したことはない、という考え方を否定するつもりはまったくない。そりゃああるに越したことはない。お金というのは、それで物を交換するというだけでなく、とりあえずの安心と言ったものまでくれるわけである。
しかし、使い切れないほどのお金を持ちたいとは、どうしても思えないのである。何故なら、どう考えてみても、めんどくさいことが増えるからである。
まず何よりも、お金をたくさん持っているが故に、あらゆる用心をしなければいけない。お金を奪われるかもしれない、お金を騙し取られるかもしれない、身内が誘拐されるかもしれない。そういう、お金さえ持っていなければ無縁の心配事を、日々用心しなくてはならなくなるのである。それも無論金で解決しようと思えばできないことはないだろうけども。
また金というのは、とりあえずの安心だけでなく、無用な力まで引き寄せてしまうものである。お金を持っている、というだけでそれは、充分に力となりうるのである。
僕は金持ちになったことはないのでわからないが、恐らく周囲の反応が桁違いに変わることだろう。かしずく者、へつらう者、こびる者。そうしたものが周囲にわんさか増えるに違いない。そういう状況をむしろ楽しめる、という人もいるかもしれないが、僕は断然イヤである。金持ちだから、という理由でよってくる人間をどう信用しろというのである。たぶん僕は、金持ちになたとたんに人間不信になるだろう。いや、金持ちとは大抵そういう人種なのかもしれないが。
それでも、自分が稼いで金持ちになる分にはまだいい。しかし、自分の家族が金持ちであるが故に、自分までも同じように扱われる、という状況はよりイヤだなぁ、と思う。
例えば、芸能人の子供とか、政治家の子供とか、或は犯罪者の子供とか、とにかく、子供には一切責任はないにもかかわらず、生まれながらにしてある程度の不自由が生じる出生というのがある。僕は非常に普通な両親から生まれた非常に普通な人間なのでそんな悩みとは無縁だが、そういう出生にまつわる悩みを持っている人はいることだろう。
それは、金持ちについても同じだと思う。金持ちの家に生まれることは、割と幸せなことだと思うかもしれないが、そういうわけでもないだろう。お金は持っているかもしれないが、それに付随して多くの悩みも持っているはずだ。例えそれが、金持ちならではの悩みだと言われようが、本人はそれで悩んでいるのだから仕方がない。
世の中には、金持ちになりたい人で溢れているようである。しかし、僕にはその風潮がどうにも理解できない。もちろん僕には、金持ちになったところで金の使い道がない、ということもある。大してやりたいこともなければ、欲しいものもないのである。ならば金持ちになっても意味はない。ただ、そういう理由だけでなく、一般の人々が、金持ちになることについてのメリットとデメリットについてちゃんと考えているのだろうか、という風に思ってしまうのである。金持ちになりさえすれば、すべてはハッピー、なんてことはないはずである。
僕は、金はないけど時間はそれなりにある、普通の庶民でありたいなぁ、と切に願うばかりである。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は連作短編集なのですが、まずは大枠の設定を書こうと思います。
刑事なのに大富豪という意味不明な経歴を持つ神戸大助。キャデラックを乗り回し、最高級のハバナの葉巻をくゆらせ、大豪邸に住み、日々10万円もするライターを落とすような、そんな常人とはかけ離れた生活をする男であるが、実に謙虚な男で、金持ちであることをひけらかすわけではない。むしろ、金持ちであることを恥じている風でもある。
そんな大助が、捜査会議で突拍子もないことを言い出す。自腹で金を出すから、こんな計画をやってみないか、というのである。それは、もはや捜査とはいいがたい、破天荒な計画なのだが、湯水のように金を使ってもまったく懐の痛まない大助は、むしろ喜んでその計画を実行に移す。はて、事件は解決に至るだろうか…。
というような設定なんです。
というわけで、短編それぞれを紹介しましょう。

「富豪刑事の囮」
7年前に発生し、時効寸前という5億円強奪事件。事件に使用されたという特殊な塗料から、容疑者は4人にまで絞られたのだが、そこからはどうにも進展がない。捜査本部としては、ボロを出すことを期待してこのまま尾行を続ける、という方針になろうとした時、大助が提案する。自分がその4人の容疑者に近づいて、金を遣わせるようにしてみます。そうすれば、5億円を奪った犯人は、金の隠し場所に行くかもしれません。
と言って大助は4任の容疑者に近づき、彼らを超豪勢なパーティーに招待するのだった…。

「密室の富豪刑事」
金属加工会社の社長が、自社の一室で死亡した。火災が発生していたのだが、死因はよくわからない。しかも現場は密室。事故や自殺ではないと思われ殺人として捜査を始めるも、密室どころか、死因や出火元すらわからないという状態。容疑者は、同じ金属加工会社の社長で、ライバル同士だった男ただ独りなのだが、証拠も何もない。
さてそこで大助が提案する。今から僕が、同じ金属加工会社を設立して、その容疑者の会社のライバルになります。そうすれば、彼はもう一度同じやり方で僕を殺そうとするでしょう。そうすれば犯行方法など簡単に分かりますよ、と…。

「富豪刑事のスティング」
誘拐事件が発生した。通報者は会社社長で、息子がいなくなり、身代金として社員の給料だった500万を奪われた。味をしめた犯人がもう一度連絡してきて、もう500万寄越せと言ったもんで警察に連絡をしたとのこと。金の工面が出来ないので、明後日まで待ってくれと犯人に伝える。
富豪刑事としては黙っていられない。たった500万なのに、と。大助は策を練り、社長に金を貸す一方で、犯人を追い詰めようとするのだが…。

「ホテルの富豪刑事」
これまで暴力団とは無縁だった温厚なこの町で、ある大きな二つの暴力団組織が談合を行うらしい、との情報が入る。宿泊施設の多くないこの町では、恐らく組員達はあちこちの旅館にバラバラに宿泊するだろう。そうなると警備がやっかいだ…。
とそこで大助が提案する。それならば、全員を収容できる超高級ホテルを貸しきりにしてしまいましょう。そこは、父親の持ち物なので。それならば監視しやすいし、町の治安も守れるのでは…。

いや読んで見て思ったけど、この富豪刑事という設定は素晴らしいな、と思った。
解説の人も書いていたけど、まず「富豪刑事の囮」を読んでこう思った。確かにこれならば、刑事が富豪である必然性があるストーリーになっているな。素晴らしい。しかし、これ以外のストーリーで富豪刑事を必然的に絡ませることなんかできるんだろうか?
しかし、それを筒井康隆はやってのけてしまったわけである。
何よりもすごいのが、「密室の富豪刑事」だろう。犯人に密室にしたのと同じ条件を与えることでもう一度犯行を誘発し、不明だった犯行方法を明らかにしよう、という発想はそもそもいい。しかしそのために、会社を一つ丸々作ってしまおうなんて発想が、これまでの刑事ものであり得ただろうか?この発想は本当にすごいと思った。現実的かどうかなんてことは既にどうでもいいことではあるが、しかし、お金さえあれば不可能ではないよなぁ、という風にも思ってしまうのである。
「富豪のスティング」の、身代金を立て替えるという話はあまり発想として素晴らしいわけではないけど、「ホテルの富豪刑事」の、二つの暴力団組織を一つの宿泊施設に泊まらせるためにホテルを丸々貸しきりにするっていうアイデアは笑った。なんと馬鹿馬鹿しいんだと思いながら、なるほどそういう風に持っていくか、と感心したのである。
また、この大助の父親というのが面白い。父親の事業が成功したがためにこうして富豪となっているのであるが、父親は昔の悪行を大層恥じているようで、大助が自分の金を使って世のために働いてくれるのならばこんなに嬉しいことはない、と言って泣くのである。馬鹿馬鹿しいが、これはこれで面白い。
筒井康隆は元々SF作家であるらしく、本格ミステリを書くのは大変だったらしい。この4編を書くのに2年半掛かったというが、それでもトリック自体ははやり、本職のミステリ作家に比べれば劣るだろう。それでも、この『富豪が富豪の力をフルに使って事件を解決する』という強烈な目新しさのために、この作品は非常に面白いものとなっている。
また作中筒井康隆は、いろいろと面白い趣向を凝らしている。読者に語りかけてみたり、時系列について試行錯誤したりと、文章の限界にチャレンジするような型破りな形式で、そういうところも僕としては好きである。
さて、この作品を原作としてドラマが作られたようだが、どうやらドラマでは富豪刑事は新米女性刑事ということらしい。というか、深田恭子というキャスティングはかなり合っているように思う。たぶん原作とはいろいろと設定が違うのだろうけど、それにしてもどう変わっているのか気になるところである。
かっちりとしたミステリが好き、という人にはあまりオススメできない作品だが、とりあえずミステリならどんなのでもオーケーという人なら楽しめると思うし、ミステリを普段読まない人でも全然大丈夫だと思う。強くオススメする作品ではないけど、読んでみてもいいと思います。

筒井康隆「富豪刑事」



ザレゴトディクショナル―戯言シリーズ用語辞典―(西尾維新)

世界を丸ごと一個創ってしまう。
恐らくは、それこそがアート/芸術の定義だろう。
その定義に沿えば、戯言シリーズはアートであり、西尾維新はアーティストである。
そう、まさに、辞典が一冊出来てしまうほどに、それは見事な世界なのである。
世界を生み出す、なんていうことは並大抵のことではない。
絵や音楽にしても、ただそれらを作るだけではアートにはならない。見るものを、聞くものを打ち震えさすような世界観/思想がそこには必要だし、その世界に浸りたいという欲求を起こさせなければならないのだ。方法論などないに等しいし、成功への道が必ず残されているわけでもない。
小説や映画などは、世界を丸ごと創っているように思えるかもしれない。しかし、それも違うだろう。あれは、ただ物語を生み出しているに過ぎない。この辞典の中で西尾維新は、物語と世界を同じような意味で使っているという風に書いていたが、それは西尾維新の言葉の使い方である。本来、物語と世界は同一ではない。物語を生み出したからと言って、世界を創ったことにはならないのである。
では一体、世界を創るには何が必要なのか?
とここで、聖書の一節なんかを抜き出して書けたりするとかっこいいんだろうけど、あいにく聖書に関する知識はまるでなかったりする。
閑話休題。
気の利いた答えを思いつかなかったが、結局のところ、多様さと緻密さではないかと思う。
バラエティとディテール。
物語と世界は、ディテールという意味において共通しているが、バラエティという点において違うのだろうと思う。
物語というのは基本的に、語られるべきストーリーというものであり、それは基本的に一つに集約される。読者にこれが伝わって欲しい、読者にここで驚いて欲しい、そういう発想の元に作られるのが物語である。だからこそ、多様さには欠けてしまう。
創り上げられる世界というものには、あらゆるものが詰め込まれる。思想・価値観・人物。そうした様々に、多様性が与えられる。
また僕は、文字というものが持つディテールというものは素晴らしいと思っている。
正直に言えば、映像や絵の方が、リアリティを追求することは出来るだろうと思う。しかし、ディテールを追求することが出来るのは文字だと思う。
何故なら、人間が情報を捉えるのはほぼ視覚によるわけで、それと同じ土俵で勝負をしても、作られたものは明らかに正確にはなりえない。
しかし、文字で書かれたものを頭の中で想像するという行為は、それによって強力なディテールを獲得することができる、と僕は思っている。確かに、映像ほどのリアリティはないかもしれない。しかし、ちゃんと操りさえすれば、そのディテール追求の幅は、映像に遥かに勝る、と僕は思う。
実際、文字というメディアは長く存在しうる。例えば映像は、機械の種類が違えば再生できない。もし過去大昔に何らかの映像が存在していたとしても、まずそれを再生するための機械を作らなければ見ることはできない。
一方で文字は、どれだけ昔のものでも読むことができる。昔から存在するとはいえ、聖書があそこまで広まったのは、むしろ文字というメディアのお陰ではないかと思うのだ。
なんだか話がかなりずれてしまったような気がする。何の話をしていたかと言えば、世界を創るという話だ。
もしこの世界に創造主というものがいるならば、やはり多様性と緻密さにはこだわったことだろう。同じように、アートの創造主は、多様性と緻密さを追い求めねばならない。
さて西尾維新である。西尾維新は、デビュー作から続く大人気シリーズ<戯言シリーズ>で、一つの世界を創り上げた。決して大げさな表現ではないだろう。単なるライトノベルではない、単なるミステリではない、単なる小説ではない。もしこのシリーズが上記のどれかだとしたら、ここまでの人気を獲得することはなかっただろう。
本作が人気を博したのは、まさにその内部に世界を包み込んでいるからである。シリーズが進むにつれてどんどんと肥大していくことになったその巨大で偉大な世界。
それが今、辞典という形になって、よりその存在を強固にした。
古今東西様々な作家がいるが、自身のシリーズ作の辞典を作ってしまった作家は思いつかない。例えば、ミステリのトリックを分類した本とか、西村京太郎の作品で描かれた地名を旅する本とか、そういうものはあったかもしれないが、辞典ではない。まさにそれは、辞典を作れるだけの世界観をもったシリーズ作品がないということだろう。
…いや、一つだけ思い出した。角川スニーカー文庫から出ている「トリニティ・ブラッド」というライトノベルがあるのだけど、それはシリーズの辞典のような作品が出ていた。まあ、これは例外ということで。
というわけでそろそろ内容の紹介と行こうかと思います。
と言っても、どうしょうかいしていいやら…。
とにかくまずは注意からいきましょう。
本作は、<戯言シリーズ>を前作読んでいない読者は、絶対手に取るべからず!
とにかく、<戯言シリーズ>を読んでいない人にはまったく無意味な、というかともすれば悪影響のある作品で、つまりそれは、多分なネタバレを含んでいるから、ということなのである。とにかくシリーズすべてを読んでいない読者には、どのページもネタバレのオンパレードと言った感じで、まったくオススメできない。是非ともまずは、<戯言シリーズ>を読んで頂きたいものである。
というと、本作には明かされなかった秘密が満載なのでは?と期待する読者もいるかもしれないが、そういうわけでもない。いーちゃんの名前が明かされるわけでも、その他未回収だと言われる伏線が明らかにされるようなことはあまりない。
じゃあどんな内容なのかといえば、<戯言シリーズ>製作舞台裏、と言った感じである。例えばそれは、登場人物の名前をどう決めた、とか、こういう別ストーリーが存在していた、とか、書いていてこれは楽しかった/難しかった、とか、そういう話が主なのである。
これはなかなか面白い。
やはり何にしても、舞台裏というのは面白いものなのである。完結したからこそ言えることというようなことも結構載っていて、やはりファンにはオススメの一作なのである。
僕としては、忘れているエピソードや、忘れている登場人物が結構いたりして、実現するかどうかは別として、もう一度シリーズを読み返したいなぁ、という気にさせられた。なるほど、こういう効果を狙っての辞典なのか、という気がした。
しかし本作を読むと、日本語というのはやはり面白いなぁ、と思う。西尾維新は、自ら言葉遊びが好きだと言っているけれども、それもやはり日本語の融通の利く性質が大いに貢献しているな、と思ったものである。
そもそも、一つの単語に、ひらがな・漢字・英訳・読み、といくつもの意味を不可することができる。しかも、漢字というのがまた便利なもので、漢字単体で意味を持つことができるので、さらに意味を付加できる。読みにいたっては、どこで区切るかによって意味を変えることができるし(「クビキリサイクル」というタイトルの意味を本作で解説しているのだけど、なるほどという感じである)、とにかく日本語というのは、言葉遊びには最適な言語だと僕は思う。
もちろんそこには、西尾維新という言葉遊びの才能が必要なのだけど、正直に言って、西尾維新の言葉遊びの才能はすごいと思う。よく文章を評するときに、「美しい」とか「綺麗」とか「面白い」とかそういう表現はあるけれども、文章が「楽しい」というのは西尾維新の文章だけだと思う。
そういう意味で、西尾維新の言葉遊びの真髄を知ることの出来る一冊だ、ということもできるだろう。
さて本作は袋とじがされている。この袋とじという形態、講談社ノベルス<密室本>という企画で初めて実現されたのではないかと思うが(前例はあるかもしれないが僕は知らない)、<密室本>の企画の際は、「密室を集めたシリーズなのだから、本自体も密室にしよう」という発想だっただろうが、本作の場合はもう少し実際的な理由からのようだ。つまり、「<戯言シリーズ>を読んでいない読者がチラ見しないように」という配慮からだろう。それはなかなか正しい配慮だと僕は思う。読みたい人は是非買ってください。
さて、知っている人は知っているだろうけども、本作は元々単行本の形で単独で発売される予定ではなかった。以前から告知されていた<西尾維新限定BOX>の一企画として考えられたものだったのだが、その限定BOXの発売が何故か延期になり、急遽(だと思う)この辞典だけが先行する形で発売されたのである。
さてその限定BOX、西尾維新にちなんで、限定24140セット(だったかな?それか24014セットか?)の販売である。もちろん速攻で予約する気満々である。書店に勤めているので、恐らく普通よりも情報を早く入手できるのではないか、という期待もある。とにかく、手に入れられなかった、という事態だけは避けたいものである。
まあそんなわけで、<戯言シリーズ>の世界を余すところなく詰め込んだザレゴトディクショナル。<戯言シリーズ>を全部読んだという人限定で、超オススメです。是非買いましょう!

西尾維新「ザレゴトディクショナル―戯言シリーズ用語辞典」



13(古川日出男)

物語の限界は、それが『物語』である、ということではないか、と思った。
これだけの文章では恐らく意味はわからないだろう。
物語、ストーリー、小説。どのような呼び方をしても構わないが、そうしたものは常に、大筋ではある流れを持つ。分かりやすく言ってしまえば、起承転結、というものだし、いくつか分類があるとは言え、物語として存在するからには、読者に納得してもらえるなんらかの流れが必要である。
これが、『物語』であるということの必然である。
しかし、ここに物語の限界がある。つまり、ある一定の枠をまず自らで決め、その中で収めなければならない、という条件こそが、物語の限界ではないか、と思う。
分かりやすく、映画で例を出そう。映画の限界とはつまり、あのフレームである。映画の画面の枠。あれを超えた部分で映像を見せることはできない。少なくとも今のところは。これが、映画の限界である。もちろん、技術が進化すれば、360度フラットな、まるでプラネタリウムのような映画が出てくるかもしれないが、今のところそんなことは出来ていないだろう。
映画の場合、内容ではなくそもそも物理的に枠が存在するのだが、あらゆる物語の場合、その内部に、不可侵の枠というものがどうしても存在してしまう。
逆にその枠を無視して物語を書いたとして、それは『物語』ではない、という評価を受けてしまうかもしれない。
僕がなんの話をしているかわかるだろうか?うまく伝えられていない気はするのだが、つまり世の中には、『物語』であることが前提の物語が溢れすぎていて、それ以外の選択肢を受け入れない状況にあるのではないか、ということだ。
本作は、『物語』の枠を超えた物語である、と言っていいと思う。
本作の読者は、物語の展開よりもまず、その圧倒的なイメージに満たされてしまうだろう。言葉の限界に挑むかのような色彩感、感情の表出のギリギリまで挑んだ言語化、めくるめく幻想、そして世界観。物語がどう、ということがどうでもよくなってしまう。その世界に身を置き、そのすべてを体感する、ということが、読書の第一義の目的となる。
例えば、京極夏彦の作品を例に出そう。京極夏彦の作品は、読んでいるうちに、犯人が誰かなんてことがどうでもよくなってしまう物語である。これもすごいことだと思う。ミステリでありながら、犯人が誰なのかという物語の展開を脇に追いやってしまうという構成は、並の作家では不可能だ。しかし、京極夏彦は、最後はやはり論理的帰結というものに辿り着く。そうやって、物語を『物語』として閉じる。
古川日出男は違う。『物語』として閉じないのである。いや、もちろん僕の読みが浅すぎて、『物語』として閉じていることに気付かないだけなのかもしれない。しかしまるで、物語を『物語』として閉じることを拒否するかのような、そんな物語なのである。
絵で例えてみよう。絵画の世界は広いのであらゆるジャンルが存在すると思うが、やはり一般的なのは、見た物をそのまま描くという写実的なスタイルだろう。物語においても、これが一般的、つまり、物語を『物語』の枠の中で描くということだと思う。
しかし古川日出男の作品を絵に例えれば、キャンバスに複雑な色彩が載った抽象画、というイメージである。奇しくもこのイメージは、本作で神の映像として出てくるのだが。絵画としては、こういうスタイルも一ジャンルとして認められるだろう。しかし、小説の場合、こういうスタイルは枠から外れているために、なかなか受け入れられることがない。
古川日出男は、敢えてそこにチャレンジしたのである。しかも、デビュー作で。
以前僕は、『物語』として完結していない物語を読むのは苦手だった。本を読むということは即ち、『物語』を読むということであって、それがない物語など読む価値はない、と思っていた。最近は徐々にそういう傾向も減ってきた。そんな中でこの作品に出会えたことは、タイミングがよかったという感じである。
まあ、そろそろ内容に入りますか。
本作は基本的に二部構成になっている。第一部は「13」、第二部は「すべての網膜の終わり」である。
第一部は、ザイールの奥地のジャングルを舞台にした、サルとキリスト教の物語、という感じである。
『一九六八年に東京の北多摩に生まれた橋本響一は、二六歳の時に神を映像に収めることに成功した。』という、なんとも魅力的な書き出しで始まる第一部。
橋本響一は、生まれながらにして左目だけ色弱という特異な障害をもって生まれた。そのためなのか、驚異的な色彩感覚を持っていることを自覚した響一は、色の世界に目覚めていく。一方で彼は、神童とも呼ばれる程に、高い知能指数を持っていた。
転機となったのは、従兄弟でありザイールでサルの研究をしている関口が、響一の家にザイールのある部族の少年ウライネを連れてきたことだ。複雑な事情によりウライネを日本に連れてくることになった関口は、彼の日本でのパートナーに響一を選んだ。短期間中学校に編入することになったウライネとともに、四六時中時間を共にした。
そして高校進学を控えた時期。響一はある決断をする。
ウライネと関口のいるザイールに僕も行く。
両親を説得し、学校の先生を無理矢理納得させた後、本当に響一はザイールへと向かう。
そこに、極彩色の色の世界が広がっていることを期待して。
一方で、ウライネの部族とは一種敵対関係にある部族に生まれた一人の少女、ローミ。森の中で偶然出会うことになった片足の白人傭兵。13という認識票をつけたその白人傭兵との出会いのお陰で英語を喋れるようになったローミは、村の人間から特別な存在として認識されるようになる。
そうやって、背景も人種も何もかも違う響一とローミ。この二人が、ザイールの奥地で邂逅する。
そして第二部。こちらは、ハリウッドを舞台にした、映画と音楽と神の物語、という感じである。
「ブラッドフォビア」という映画を大ヒットさせた新人監督のマーティンと主演女優のココ。二人には次の作品となるあらゆるオファーが舞い込んで来るのだけど、二人がやりたいものとはあわない。ココに促されたマーティンが引っ張り出してきたものは、昔自らが書いた「すべての網膜の終わり」という話。これを叩き台にして映画を作ろう、という話にまとまる。
一方で、南米に舞台を移してサルのフィールドワークを続ける関口は、未開の土地であるはずのアマゾンの奥地でなんと響一と再会する。響一は一時期ハリウッドで仕事をしていて、そこでも10年で神の映像を作り上げた、と語った。
また、CDという名の化け物的なミュージックアーティストが現れる。まさに、音楽たる音楽を生み出す男が、音楽という形の限界に挑む。
こうしてあらゆる人間がリミックスされていき、マーティンとココが作り上げようとしている「すべての網膜の終わり」が完成しようとしている…。
大体こういう感じの話です。
といっても、ストーリーに意味がある物語ではない、ということは前半でうだうだと書きました。というか、短い部分でのストーリーの展開/完結というのはないではないのです。しかし、それが長編という形になると、物語という体裁からずれてしまう、という感じなのです。
とにかく、もの凄い物語ですね。圧巻です。物語の中盤、いいかげんもうザイールのジャングルの話はいいよ、と思うような中だるみの部分もあったんですが、それでもあらゆる面において圧巻の物語だと言えるでしょう。
しかし、とにかく読むのに時間が掛かりました。僕は、古川日出男はすごく好きだし評価もしているのだけど、とにかく読むのにメチャクチャ時間が掛かるのです。本作も、分量だけ見れば3日もあれば読めるはずの作品なのですが、なんと5・6日も掛かってしまいました。何ででしょう?別につまらないというわけじゃないんですけど。先週一週間とにかく眠かったというのはありますけど。
さて、解説でも書かれていたけど、前半と後半で雰囲気もスタイルもガラリと変わってしまう、という構成は、賛否両論かもしれないと僕も思いました。僕はしかし、どちらかと言えば賛成です。というか、第二部で雰囲気が変わって、展開がスピーディになってよかったなぁ、という感じなのですが。
以前に読んだ、黒武洋の「メロス・レヴェル」という作品があって、ネタバレになるかもだけどこの作品は、後半で突然主人公が替わってしまいます。僕は読んでて、なんだこりゃ、と唖然としたものです。本作の雰囲気の変化もこれに近いものがないわけではないけど、でも今回はアリだな、と僕は思いました。
デビュー作でこれだけの世界観を生み出せてしまう著者には脱帽という感じです。何故デビュー当時、あまり注目されなかったんでしょうか?最近は、「アラビア」で賞を取り、「ベルカ」でこのミスや本屋大賞で取り上げられ、「LOVE」で賞を取るという、飛ぶ鳥を落とす勢いですが、デビューの段階からその恐るべき片鱗は存在していたというべきでしょう。
好き嫌いははっきり分かれるでしょう。途中で読むのを諦めてしまう人も出てくるだろうと思います。それでも、読んで見て欲しい作品です。これだけの世界観には、本当になかなか出会えないと思います。

古川日出男「13」




悠悠おもちゃライフ(森博嗣)

こんな話を聞いたことがある。
外国人が日本人を見た時に奇妙に思ったこと、という質問で、いい大人が漫画を読んでいる、というのがあった。昔の話だから今はどうか知らないが、その当時(と言いつつどのくらい前かも不明)外国人の大人は漫画を読まないのが普通だったようだ。漫画は子供が読むものだ、という認識があったのだろう。
日本でも同じようなことがある。
遊んでいる大人を非難する傾向にあるように思う。アメリカ人は家族や週末を大事にするし、イタリア人は仕事をほっぽってでも遊ぶ(とこれはイメージで書いています。実際はどうか知りませんが)。しかし日本人は、大人が遊ぶということについて、なにやら否定的な感情があるように思う。「子供みたいに遊んでないで仕事をしなさい」という言葉は、違和感なく通じるだろう。
最近ではさらに行き過ぎたことに、子供が遊ぶことさえも非難しているのでは?と僕には観察される。都会の子供だけかもしれないが、塾だの勉強だのに追われて、遊んでいる暇がない。遊んでいる暇がないのである。驚異的ではないか。子供のうちは確かに勉強に投資する価値があるかもしれない。それにしても、遊ぶ暇がないほど勉強するのはどうかと思う。とはいえ、僕も同じような学生時代をすごしたものだけれども。今振り返れば、多少失敗だったのではないか、と思っているが。
『遊ぶ』という言葉は、本来否定的な意味を持つ言葉ではなかったはずだ。
『遊びがある』という言葉がある。例えば、『このハンドルには遊びがある』という風に使われる。この場合『遊び』とは、『余裕がある』という意味で使われているだろう。確かに『遊ぶ』という行為は、余裕があって初めて成立するものだ。つまり、評価できる状態だと言えないだろうか。
あるいは、『遊び心』といった言葉もある。遊び心のある会社、なんて言ったりもする。この場合、『余裕』や『度量』、あるいは『創意工夫』と言ったような意味になるだろう。これもまた評価としては悪くないものだ。
言葉だけで捉えれば、『遊ぶ』ということは古来、いい状態だと認識されていたはずではないだろうか。
しかし今現在、とにかく『遊び』が失われていると思う。
若者は働きもせずに『遊んで』いるではないか、という人はいるかもしれない。しかし、彼らはただ『暇つぶし』をしているだけであって、決して『遊んで』いるわけではないのである。今の若者は、暇だからという理由だけで、さして興味もないことをとりあえずやってみる、という形で手を出す。『遊ぶ』というのは、もっと創造的で前向きで、暇がなくてもその時間を生み出したいと思う何かであると思うのだ。
『遊べる』環境が、どんどんと少なくなってきている。マンション住まいが増え、庭がなかったり部屋数が少なかったりすることも原因の一つだろう。空き地が減っていったことも、学歴が重視される世の中になったことも、原因の一つだろうとは思う。
しかし、最終的に行き着くのは、大人が遊ばなくなった、その点ではないだろうか。
昔の子供には、場所も時間も仲間もいた。手に入らないものは数多くあったが、創意工夫でなんとかするだけの情熱があった。
今の子供は、場所も時間も仲間もいない。一方で、物だけはいくらでも手に入る。そんな中で、どう『遊んで』いいのか、分からないのである。
『遊び』のプロとして、大人が『遊んで』いる姿を見せるということが、最もいい方法なのではないか、と思う。
著者自身も、こう書いている(この文章は、帯にも載っている)。

『大人は、自分で稼いだ金で遊ぶ。遊ぶために稼いだのだ。子供が勉強しているとき、遊びに熱中している親というものは、非常に自然な好ましい人間の姿だと僕は考えている。』

ここまで言い切ることのできる森博嗣はそれはそれdすごいと思うが、一理あると思う。『遊んで』いない大人の姿を子供が見て、大人になったら『遊べ』ないのだな、と思ったら、将来に対してやる気がなくなってしまう。『遊んで』いる大人を見て、大人になってもあれだけ『遊べる』のか、と思わせる方が、どれだけ健康的だろうか。
僕自身、『遊ぶ』のはかなり苦手である。かなりの『遊び』下手である。本を読んで暇つぶしをするしか能のない人間である。僕も、森博嗣のように、全力で『遊べる』ような人間になれたら、どれだけいいだろうか、と思う。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、雑誌「ラピタ」に連載していた原稿を、2年で区切って書籍化したものです。連載自体はまだ続いているけども、とりあえず一旦の区切り、という出版のようです。
さて内容はと言えば、森博嗣の趣味ワールド全開、と言っていいでしょう。とにかく模型作りを最大の趣味としている森博嗣が、全力で突き進んでいる趣味道について持論を語る、という趣向になっています。
とはいえ、まあ脱線も多いので、趣味道を基本軸とするエッセイ、と思ってくれればいいと思います。
相変わらず、森博嗣独特の考え方が盛りだくさんです。特に、自分が熱中していることなので、様々に独特の思考があるようです。
しかしそれらは、言われてみれば納得するものが多くて、なるほど確かにそうかもしれない、と思うようなことが多いです。
例えば、趣味を共有するという発想が間違っているのではないか、という話。そもそも趣味とは一人で突き進むものだ、と。他人の視点が入ると、あいつを見返してやろう、と言った動機から趣味をやることになりかねない。自分が楽しむための趣味なのに、その方向は間違ってはいないか。
あるいは、物を作るという行為は、完成させることが面白いのではなく、作り始め、そして作っている過程が面白いのだ、という話。これは非常によくわかる。
何度も書いたのであまり長くは書かないが、昔演劇をやっていた際に、小道具を作るセクションにいた。とにかく、木で作れるものは何でも作った。椅子なら今でも簡単に作れるだろう。もちろん、芸術的に美しいもの、は無理だが、実用に耐えるもの、ならば可能だ。
ある時僕は、馬車を作ることになった。というか勝手に作ることに決めた。その設計を始めたのだが、これが面白い。とにかく、たった一枚の写真から、どう木を組み合わせるのかや、サイズをどうするかなど、ありとあらゆることを決めるのだ。かなり長い時間掛かって(パソコンをうまく使えないので、設計はすべて手書きだった)設計を終えた時には、100%作れることを確信していたので、自分的にはもう作らなくても充分満足、という状態ではあった。しかし、やはり作って見せなければならないわけだが。
そうやって作っている時に感じたことは、完成させることが面白いのではないのだな、ということである。実際、馬車を作る作業も面白いことは面白かったし、完成した時は自分でもよく作ったもんだと思ったが、しかし、設計している時ほどの面白さはなかったように思う。
まあそんなわけで、森博嗣の趣味道も、少しは理解できる、というものである。今も、場所と時間さえあれば、何か作りたいなと思うのだが、なかなか実行には移せない(ただのめんどくさがり屋だし、それはつまりそこまでやりたいというわけでもないという表れなのだろうけど)。
大人になってもどんどん『遊ぶ』べきだと思う。そういう意味で、森博嗣は素晴らしく羨ましい。『遊ぶ』資金を得るために小説家になったほど、なのである。ツワモノではないか。ただ、そういう生き方はまた羨ましい。ある意味で理想の一つではあるが、理想というのはなかなか実現しないものだから厄介である。
さて、僕の場合は、森博嗣の著作は何とか手当たり次第読もう、と思っている人間なので、本作ももちろん読んでみた。同じ趣味を持たない人間としては、まあまあと言った内容である。もちろん、つまらないということはない。ただ、お勧めの本かと言われれば、そんなことはない、と答えるしかないだろう。そんな感じの本です。
というわけで最後に、本作の中で少しだけ気になった文章を抜き出してみようと思います。

(前略)
子供が星空を見上げて、「わぁ気持ち悪~い、蕁麻疹みたい」と言ったら、その自由な発想を讃えよう。そのピュアな感覚に大人は心を洗われるべきだ。知らず知らずのうちに感染している「大人病」にどうかご注意を。
(後略)

(前略)クリエーティブな仕事をしている人間の活動場所は、例外なく散らかっているものだ。もし、きちんと片づいているとしたら、それは、いつも決まったルーチンの仕事をしている場所であって、店か事務所か、それとも展示場のいずれかだ。「創作」していない証拠である。整理をするのは、仕事の効率化のためだが、効率化と正反対の行為こそが創作であり、遊びであり、芸術だ。子供が遊んでいる場所を見よ。いわゆる楽しみとは、間違いなくこのベクトルなのである。
(後略)

森博嗣「悠悠おもちゃライフ」



ちいさいぶつぞうおおきいぶつぞう(はな)

京都というのはいい土地だよな、と思う。
人生の中で、2・3回くらいしか訪れたことのない土地だけど、行くたびに、何だかいいとこに思えてくる。
やっぱ、古いものが沢山あるからだろうな、と思う。
僕は、そもそも歴史は苦手だし、古いものに特別愛着を持っているわけでもない。でも京都に惹かれるのは、たぶん、あの古い建物に惹かれているのだろうと思う。
昔から、というのは嘘だけど、僕は次第に、建物ってすごいな、と思うようになってきた。しかも、木造の、とにかく古い建物だ。鉄筋の建造物には特に興味は持てないのだけど、木で作られたものには、何故か興味が惹かれてしまう。木だけで、しかも釘も何も使わないで、あれだけの建造物を作れてしまう、というところに、驚嘆しているのだろうと思う。
あとは、やっぱり文化的なものでしょう。
なんて言うお寺かは忘れたけど、庭が有名なお寺があったと思う(漠然としすぎですね)。どこから見ても、13個あるはずの石が12個にしか見えない、とかいうような不思議な庭で、また小石で水を表現するような風流さとかが、なんかすごいなぁ、と思っていました。
とにかく、お寺や神社(この違いが僕にはよくわかっていないのですが)の敷地の中で一つの世界が完結していて、そこにすべてがあるというか、その狭い敷地の中ですべてを表現しようとしていたというか、そういう精神が、ものすごく日本的な感じがして、外国にはない発想だろうなと思うし、だから惹かれてしまうのだろうな、と思う。
だから、と続けるのはおかしいかもしれないけど、仏像というものに注目したことは、あんまりなかったのである。京都という土地に行っても、建物や自然といったものに興味を示しても、仏像にはあまり関心がなかったように思います。仏像で覚えているのは、三十三間堂でみたやたらいっぱいいる仏像ぐらいですかね。
世界中に様々な信仰があって、それと共に様々な信仰対象としての像が作られているでしょうし、それが美術として研究・評価されてもいるのだろうと思います。人間を模した像が人気を集める、という心理は非常によく理解できるのだけど、何故そこで仏像なんだろうか?という疑問が僕にはあったりします。
さてそんな僕が何故こんな本を買ったのかと言えば、バイト先の女の子で、仏像が好きだという人がいて、ふむふむ奥が深いのだなぁ、なんて思っていた矢先に見つけた本だからです。仏像の専門書じゃないし、薄いしエッセイ風で読みやすそうだし、なるほどいっちょ読んでみるか、という感じで手にした本です。
内容はそのままストレートで、仏像が好きで好きでたまらないモデルのはなが、京都・奈良の仏像に会いに行き、その感想なんかをエッセイにまとめたものです。
著者のはなは、大学で東洋美術を専攻していたようで、知識は残っていないけど、その頃から仏像に興味を持ち始めたようです。
そんなはなの視点による仏像の描写は、ああやっぱり好きなんだろうな、ということがよくわかる文章です。表情に始まり、心の会話をするというところまで、とにかく仏像を愛しまくっちゃっています。
正直に言えば、本作を読んだからと言って、より積極的に仏像に興味を持った、というようなことはありません。でも、仏像の見方というものについて、その面白さを学んだような気がします。
つまり、友人を写した写真を見るような感覚で接すればいいのだろう、と思います。写真の中であるポーズで固まった友人を見て、この時はこんなことを考えてこんな風にしてるのだな、と思うように、仏像を見ながら、きっとこんな風なことを考えて僕らのことを見てくれているのだな、という風に見れば、また違った感じで仏像を見ることができるのだろう、と思いました。
本作への不満としては、写真がちょっと少なかった、というところでしょうか。紹介された仏像について、全部写真が載っているわけではありません。もちろん、規則によって撮影が禁止されているものもあるだろうし、仕方ないのですが。はな自身が書いたイラストが随所に載っていて、それがまた仏像の特徴をよく捉えていて、それはいいなと思いました。
本作を読んでいて一番興味が湧いたのが、法隆寺の百済観音です。これは、写真がなくはなのイラストのみというものなのだけど、そのイラストを見ているだけで、ちょっとこの仏像は見てみたいな、と思わせるものでした。はな自身、百済観音に似てるね、と人生の中で二回も言われたようで、そういう意味でも思い出深いのかもしれないけど。このほっそりした百済観音の姿態は、ちょっと興味がありますね。法隆寺って、あの俳句にも出てくる寺ですよね?行ったことあったっけなぁ?
僕自身には、そこまでヒットすることのなかった作品ですが、さてバイト先の仏像好きの女の子は本作を読んでどう思うか…とりあえず読ませてみようと思います。
まあやっぱり、仏像にしても建物にしても、行って直接見るのがベストだ、ということでしょうか。これは、僕の持論とは反するんですけど…。まあそういうことにしておきましょう。
仏像好き、というのが世の中にどのくらいいるのかわからないけど、少なからずいるのだろうな、と思います。本作もなんと、3ヶ月の間に5回も重版するという人気っぷりで、コアなファンというのはいるんでしょう。もちろん、はなのファンかもしれませんが。仏像に興味があるという方、是非とも探してみてください。

はな「ちいさいぶつぞうおおきいぶつぞう」



iCon Steve Jobs―スティーブ・ジョブズ 偶像復活―(ジェフェリー・S・ヤング+ウィリアム・L・サイモン)

才能とは何か、と聞かれると、答えるのに難しい。
何かが得意だ、ということももちろんある。音楽の才能がある、セールスの才能がある、数学の才能がある。とにかく何でもいい。自分がこれだと言える分野において、天才的な知識と能力を持っていること。才能とはそういうことかもしれない。
僕は、自分に才能がないことはわかっているので、才能がある人間を羨ましく思う。生まれつきなのか、あるいは努力によってなのか、とにかく秀でている人間を見ると、羨ましいのと同時に、尊敬の念を覚える。
さて一方で、特別に何かに秀でているわけではないのに才能があるという人がいる。というか、本作を読んでそういう人間の存在を知った。
スティーブ・ジョブズ、その人である。
スティーブ・ジョブは、あらゆる分野で革新的な事業を成し遂げた。何でもアリのアメリカという国においても、破天荒な人物である。
しかし、ある特別な才能があるか、と言われると、答えるのは難しい。彼は、プログラミングも出来なければ、マーケティングも得意ではない。映画や音楽の才能があったわけでも、コンピューターの知識ですらあやふやではないあかと思う。
しかし、彼には紛れもなく才能があるのである。
ひと言で言えばそれは、誰かに魔法を掛けることのできる才能、とでも言えばいいだろうか。
まさしく、現代の魔法使いである。
彼は、あらゆる分野で、誰も成しえないだろうと思われる成功を収めて来た。その成功が一体どのようにもたらされたかを考えると、結局のところ、優秀な人材を見つけ、その人物を説得し、明確で夢溢れるビジョンで魅了し、不可能を可能にさせるように動かす。彼がし続け、今もしていることは、これだけである。
人を動かすことの出来る才能。彼のこの才能は、もはや魔法のレベルである。
少しだけ話は逸れるが、僕の大学時代の話をしよう。
僕は、その大学でも有名な(しかも悪いほうで有名な)サークルに所属していた。どういう悪い評判なのかは、実は様々にあって一言では言えないのだが、その一つに、尋常ではない激務、というのが挙げられるだろう。
非常に説明するのが難しいのだが、僕のいたサークルは、明確な委員制度があり、それにまつわる膨大な仕事があった。実際、サークルのメンバーは100人をゆうに超える規模であり、実務的な仕事だけでも大変だったのだが、この説明も難しいのだが、実務的ではない、非常に抽象的な仕事も沢山あり、とにかく日々仕事に追われるような毎日だった。僕自身の話をすれば、委員をやっていた一年間、睡眠時間が少ないくせに遅刻の許されない環境だったため、机で突っ伏しながら寝ていた、というほどである。
さてそんな中で僕は、委員を取りまとめる立場についていた。
正直に言って、これは大変な立場だった。異常なほど忙しく、しかも当然報酬なんかないような環境の中で、不満や矛盾が噴出する中、それでも委員に仕事をしてもらわなければならないのである。僕はそもそも人見知りなので、話すことで問題を解消するようなことは苦手だった。とにかく僕は、委員の中でも自分が一番仕事をしているように他人に見せる努力をし、あいつがあれだけやってるなら、まあ仕方ないこれはやるか、と思わせるように頑張った。
まあこういう経験から僕は、人を動かすことがとてつもなく難しい、ということを学んだ。学んだだけでそれを活かすようなことは特にしていないのだが、そのおかげと言えるかどうか、スティーブ・ジョブがどれだけ素晴らしいか、普通よりは少しは分かるような気がしている。
彼は、例えるならば、行ったこともない国の様子を、さも行ったことがあるかのように具体的に魅力的に語るような、そんな才能を持っていた。やろうという意思とスタッフはいる、しかし事業計画は何もない、という状態でも、彼は大見得を切って(本人にはそんな自覚はないのだが)交渉に挑む。
彼の魔法に掛かると、誰もが夢を見させられてしまう。本作にこんな場面がある。マッキントッシュを開発している最中のアップル社でマーケティングマネージャーだったジョーは、スティーブから販売計画について、「発売後100日で7万台、初年度50万台というすさまじいMacの販売目標数字」を聞かされ、「そんなばかな」と思ったという。しかし、スティーブの魔法薬を飲んでいると、「2,3ヶ月のうちに、自分でも同じことを言うし、信じるようにもなっていました。」という状態になってしまうらしい。「スティーブは、みんなにすごい影響を与えていました。彼の言うとおりにするのは無理だって頭ではわかるんです。でも、どうしても実現したいという気持ちにさせられ、そのうち、信じるようになってしまうんです。」ということらしい。
また別の人間はスティーブについて、こう言っている。
「スティーブには、自分から見た現実よいうものを他人に信じさせる力があるんです。鋭い切り返しや伽ッ離フレーズ、洞察力に満ちた意見を次々とくりだしてけむに巻いてしまうんです。」
他にも多くの人間が、スティーブについて同じようなことを語っている。まるで魔法を掛けられたかのように、彼の言うことに魅せられてしまうのだ、と。
これこそが、本当の才能だし、カリスマ性なのだろう。カリスマ性とは、既に能力とはかけ離れたものだ。存在そのものだし、力そのものだと言えるだろう。才能だけでは力は発揮できないが、カリスマ性だけなら、才能がなくても力を持つことはできる。スティーブは、まさにそういった人間だったのだろう。
たった30年前には、パソコンは存在していなかった。スティーブは自らの手でそれを生み出し、コンピューターという新たな産業を切り開く。
そして、映画・音楽の分野でも、信じられないような成果を残してきた。もちろん、スティーブ一人の功績ではありえない。しかしどれも、スティーブなしではありえなかったものばかりだ。おおげさな言い方をすれば、クレオパトラの鼻が少し低かったら世界は変わっていたかもしれないという言葉があるように、スティーブ・ジョブという男がいなかったら世界は変わっていたかもしれない、とそう思う。
もちろん、素晴らしいだけの人間ではなかったようだ。僕は、本作で読んだだけで、スティーブという人間の才能とカリスマ性にものすごく惹かれてしまっている。しかし同時に、本作で読んだだけで、彼の人間性や性格を受け入れることは出来ないだろう、とそうも思った。
とにかく、傲岸不遜という言葉を地で行くような人間だった。常に忠誠を求め、忠義に反したと彼が思えばすぐに切られる。独善的でわがままで、人の言うことなど端から聞こうとしない。正直言えば、僕は彼とは個人的に関わりたくないな、という思いで一杯だ。
破綻しているとも思えるような性格と、その逆をいく尋常ではないカリスマ性。スティーブ・ジョブtいう男の魅力はその二面性にあるのかもしれない。少なくとも、彼が成したあらゆる偉業は、これから先ずっと語り継がれることだろう。カリスマ性をまとった偶像として、あるいは、傲岸不遜な暴君として。
とにかく、あらゆる意味でスティーブ。ジョブとは魅力的な人間だ。本作はそんなスティーブ・ジョブの半生を描いた、ノンフィクションである。帯にはこんな風に書いてある。

『カリスマの虚像と実像を追った
「非公認」ノンフィクション』

内容の紹介といきたいところだが、スティーブの半生を綴ったノンフィクションだ、という説明で終わってしまう。ということで、スティーブ・ジョブという男の半生を、非常に簡略化して以下に書くことで、内容紹介としようと思う。
1955年2月24日誕生。生まれたと同時に養子に出され、以後育ての親と共に過ごす。両親に捨てられたという思いは、後々まで彼の心に傷となって残る⇒子供の頃からエレクトロニクスに興味を持つ⇒後にアップル社の共同創設者となるスティーブ・ウォズアニクと出会う。既に、天才的なプログラマだった⇒禅に興味を持つようになる⇒大学を中退し、エレクトロニクスの会社で働くようになる⇒ガレージから始めたパソコン「アップル」の製作により、後に大企業となる「アップル社」を創設する。ウォズアニクが作り上げた「アップルⅡ」が大ヒットし、大学を中退し金もコネもない若者が立ち上げた企業としては、異例の急成長を遂げる⇒以後アップル社内でいくつかのプロジェクトが立ち上がるがうまくいかない⇒経営陣とも不穏な関係になり、トッププロジェクトだった「リサ」開発から外される。しかし、社内でゲリラ的に開発を進めていた「マッキントッシュ」に目をつけ、強引に開発に加わるようになる⇒マッキントッシュ完成。しかし、思ったほど売れない⇒その後様々な確執があり、スティーブは自ら立ち上げたアップル社を追い出される⇒その後、同じくハードを製作する「ネクスト社」を立ち上げ、アップル社から数人技術者を引き抜いて新プロジェクトをスタートさせる⇒ネクスト社も順調とは言いがたい状況が続く⇒後に「ピクサー社」となり、映画界に多大なる影響を与えることになるある小さな組織を、ハード製作の組織であると思い買い取る⇒ネクスト社は相変わらずの業績。ピクサーは、スピルバーグと仕事をしたり、CGアニメで賞を取り絶賛されるなどするが、まだ利益を出すに至らない⇒ピクサーに目をつけたディズニーが、共同でアニメ製作を交渉。成立する⇒第一弾である「トイ・ストーリー」が世界中で信じられないヒットを飛ばす⇒ピクサーがヒット作を連発する一方で、ディズニーとの関係が悪くなる。相変わらず、ネクスト社の業績は悪い⇒アップル社が危機的な経営状態を迎え、新規事業のためにネクスト社と手を組むことになる。そのお陰でスティーブはアップル社に返り咲き、また采配を振るうようになる⇒アップル社がiMacを生み出す⇒世界中をあっと言わせるものを作ろうと音楽に目をつけ、iPodを開発。音楽業界も席捲する⇒最終的に、パソコン・映画・音楽の三つの分野において、誰もなしえないような驚異的な偉業を成し遂げる
これだけを読むにしても、無茶苦茶な人生だと言えるだろう。しかし、実際はもっと無茶苦茶なのである。インドを放浪して死にそうになったり、子供を認知しなかったり、忠義を尽くしたスタッフをあっさり切り捨てたり、気まぐれで交渉を決裂させたり、とにかくやることなすこと破天荒で、常に周りにいる人間がなんらかの損害を被ってきた。
一長一短なのである。彼がいなければ、パソコンが登場するのはもっと遅かったかもしれないし、ディズニーを凌駕するような映画会社は出来なかったかもしれないし、世界中を音楽で塗り尽くすようなことは不可能だったかもしれない。しかし一方で、彼がいたお陰で人生が無茶苦茶になったり、そこまでいかずとも、人生をかなり引っ掻き回されたりした人間がかなりの人数いるわけだ。どちらも評価する必要はないが、前者も後者もなければ、スティーブ・ジョブという男ではなかった、ということだけは確かだろう。
勝ち組負け組という言葉がある。大方それは、お金を持っているかいないか、ということだけで判断されているだろう。スティーブ・ジョブは、お金を欲しがらなかった。ケチだという人は何人もいるだろうが、業績の悪かったネクスト社やピクサー社のスタッフに、自腹で給料を出していたような男である。
お金は決して目的ではない。そんなの二の次なのだ。彼が求めているものは、世界からの名声と、そして新しいものを生み出すという環境だ。そのスタイルが、僕には好ましく映る。お金を転がすだけの人間には出来ないことを、スティーブは成し遂げた。彼こそ、本物の勝ち組だと言えるだろう。
さて、スティーブとは直接関係ない言葉だが、本作の中で非常に印象的だった言葉があるので紹介しよう。ピクサー社で、「トイ・ストーリー」の脚本と監督を務めた、もはや伝説と言ってもいい男ジョン。彼はもともとディズニーにいたのだが、CGアニメの可能性を見出せない頭の固い連中に見切りをつけてピクサーにやってきた。「トイ・ストーリー」の大成功で考えを改めたディズニーは、ジョンをディズニーに呼び戻そうとする。その時にジョンが言ったという言葉がこれだ。
「ディズニーでも映画は作れるが、ピクサーでなら歴史が作れる。」
彼もまた天才だった。天才の言葉というのは、ストレートでそして重い。こんな言葉を、一生に一度でいいから言ってみたいものである。
本作を読んで、Macとピクサー製作のアニメとiPodにものすごく興味を持った。その三つは、今の僕の生活にはまるで無縁のものだ。パソコンではネットとワードしか使わないし、映画は見ないし、音楽も聞かない。そんな僕が、その三つに興味を持ってしまうような、それほど素晴らしい魅力を備えたものを、たった一人の人間が生み出してきたということが、どれほどすごいことだろうか。とりあえず、ピクサー製作のアニメを見てみようか、という気に少しなっていたりする。
さて、帯にはこんな言葉も載っている。
「発禁騒動も巻き起こした全米話題の書、待望の邦訳!」
不思議なのは、一体誰が発禁騒動を起こしたのか、ということだ。スティーブ本人か?それともディズニーだろうか。よくわからないが、とにかく話題になったということは頷ける作品だった。
そもそもはビジネスマン向けに書かれた本なのかもしれない。でも、普通の人でも全然楽しめる作品だと思う。Macもピクサー製作のアニメもiPodもよく知らない僕が楽しめたのだから。ノンフィクションは苦手だという人は、まあ本作は結構厚いので手を出しにくいかもしれないけど、是非とも読んでみる価値はあるのではないか、という気がします。お勧めです。

ジェフェリー・S・ヤング+ウィリアム・L・サイモン「iCon Steve Jobs―スティーブ・ジョブズ 偶像復活―」



GOSICK(桜庭一樹)

占いというものを、僕は基本的に信じることはない。
まあ言ってしまえば、僕の人生には特に不要なものである。
しかし、それを信じたくなる気持ちはわからないでもない。少なくとも、宗教を信じるということよりも、占いを信じるということの方が好ましいのではないか、という気がする。どちらがいいわ悪いかという話ではない。宗教は最終的に集団になるが、占いは決して集団にはならないという点がいいと思う。もちろん、占い師を狂信するような場合もあるだろうが、その場合は、既に宗教と呼んでしまっても問題はないだろう。
僕には、納得のいかない人物というのが一人いる。
細木数子である。
僕は、あの人間の存在だけは認めることができないのである。
大きな枠で括れば、細木数子は占い師だろう。僕は、別に占い師自体の存在はいいと思っている。まあその理由は後で書くとして、しかし、細木数子だけは納得いかないのである。
もちろん、歯に衣着せぬ発言や、占い師とは思えないような激しい予言など、そういう部分でも多少嫌悪感はないではない。しかし、僕が嫌悪しているのはそういう部分ではない。
僕が言いたいことは、あれは既に占いではない、ということだ。
本が売れたり、メディアによく顔を出すようになる前の細木数子がどうだったのか僕は知らない。もしかしたらその時期は、とてもいい占い師だったのかもしれない。実際、細木数子の占い(というか六星占術)はよく当たるらしい。そうした理論を確立したというだけでも素晴らしいのかもしれない。
しかし今細木数子がやっていることは、力を振りかざすことだけである。占い師として築いてきた力を使って、ただ人を操って面白がっている風にしか僕には見えない。僕は思うのだ。何らかの力のある人間は、それを抑え使うべきところで発揮する能力というものも同時に身に付けなくてはならない、と。しかし細木数子は、片手を振るえば大勢の人間をなぎ倒せるだけの力を持ちながら、それを押さえつける術を持っていないように見える。だからこそ、僕は細木数子のことが嫌いなのである。
まあ、細木数子のことでこんなにウダウダ言ってもしかたない。このまま行くと、単なる細木数子バッシングになりかねないので話を変えよう。
占いというのは、いい面と悪い面があると思う。
先にいい面から書こう。
占いのいい面は、背中を押してくれる、ということである。人間は、日々何かに悩んだり、何かに躊躇ったりしている。ほんの僅かな力が加われば決心できるのに、というラインで留まっている。そんな中で占いというのは、その背中をポンと押す役割を持っている。
例えばだが、女性に告白しようと考えている男がいたとする。ただ、いざ告白するぞと思っても、なかなか勇気がでない。そんなある日の占いで、「自分をアピールするのに絶好の日。ラッキーアイテムは文庫本」とかなってたら、その日彼はバッグの中に文庫本を潜ませて、想い人に告白をすることだろう。そういう、あと一押しという部分を担ってくれるという点で、占いというのはとてもいいと思う。
一方で、悪い点もある。これは、力を持った人が占いに頼ることについての話である。
例えばよくドラマの設定などで、大会社の社長が占いに頼っている、というような話が出てくる。実際そんなことがあるかは知らないが、まああってもおかしくはないだろう。
僕は、そういう関わり方は非常に危険だと思う。
何故なら、力を持った人間は、占いの通りに事実を動かすことができるからだ。
力のない人間の場合、占いに接しても自分の行動を変えるだけである。もちろん、周囲の人間の行動も変えようとする人もいるかもしれないが。どちらにしても、大した影響はない。
しかし、力を持つ人の場合、占い師が告げた通りに、周囲の人間の行動や状況を変えることができてしまう。占いが当たるのではなく、占いが当たるように行動することが出来てしまうのである。
僕は、こういう関わり方は非常に危険だと思うのだ。
だから、力のある人間は、適度な距離を持って占いと接するべきだと僕は思う。結局占い師に操られている、という結果になりかねない。
日本人は結構占いが好きな種族だそうだ。特に、日本以外ではまったく認知度のない血液型による性格診断など、幅広い種類の占いが存在する。占いとの関わりは慎重であるべきだと僕は思うけども、神社のおみくじ程度のことならばまあいいかな、と思います。知り合いに聞いたのですが、おみくじは最後に引いたものが有効、なんだそうですね。まあ、どうでもいいことですけど。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
時は1924年。ヨーロッパに一国であるソヴュール王国に留学した久城一弥は、聖マルグリッド学園に通う日本人だ。帝国軍人の三男というのが口癖で、兄二人に劣等感を持つが故に猛勉強し、家族の反対を押し切って留学をした。しかし、聖マルグリッド学園は、西欧の身分の高い人間ばかりがゴロゴロといて、劣等感は絶えることはないのだが…。
その学園の敷地内に存在する図書館。無駄に高い、塔と呼んでも差し支えないその建物の最上階に、まるでそこが棲家であると言わんばかりに居座っている少女がいる。
ヴィクトリカ。
男名を冠された少女は、しわがれた声とは対照的に、美しく非常に幼い顔立ちをしている。人形のよう、という形容が大げさではなく、着ている服装も人形そのものだ。
そんな彼女は、人気のないその図書館塔の最上階で、日々書物を読んで過ごしている。そこを訪れる者は、一弥ただ一人。自然と二人は、まあ会話を交わすようになる。
日々図書館塔で過ごすヴィクトリカは、退屈をもてあましている。密室で人が死んだ、という話を聞きつけた一弥がその話をすると、たちどころに事件を解いてしまう。
そんなある日、いくつかの偶然が重なって、一弥とヴィクトリカはある船に乗船することになった。無気味な雰囲気を残すその船は、いつしか恐ろしい戦場と化して…。
というような話です。
本作は、もう表紙を見ればすぐわかるほど、明らかにライトノベルです。しかし、ミステリとして、結構レベルの高い作品だと僕は思います。
というか、やっぱ桜庭一樹はレベル高いなぁ。
まず、密室で人が殺されるという事件がある。まあ、ミステリを結構読んでいる人からすれば、知ってしまえばなんだっていうようなトリックかもだけど、でもその部分もよく出来ていると思う。もちろんそれだけじゃなくて、その後、幽霊船と呼ばれる奇妙な船で、生死を賭けた冒険が始まるのだけど、ここでもミステリ的な要素はふんだんに用いられていて、前の密室事件も含めて、様々な伏線が最終的に消化されていくところなど、まさしくミステリだな、という感じです。
いやまじ、ライトノベルだと思って侮ってはいけないですね。
というかそもそも、本作がライトノベルとして出版されて、しかも人気シリーズになったっていうのは、なんか間違っているような気がします。まずキャラクター的に、特に萌え的な要素があるわけではありません。まあイラストでは結構可愛く描かれているヴィクトリカも、読めば分かるけど、別に可愛らしいキャラクターというわけではないし、これが何故ライトノベルとしてウケたのかよくわかりませんね。もちろん、ミステリとして一般文芸で出されたとしたら、多少インパクトの薄い作品かもしれないけど、それでもその方が正しいような気がしてしまいます。
まあそんなことを言いつつ、結構ヴィクトリカのキャラクターは好きなんですけどね。頭がいいというのもそうだけど、僕は基本的に冷たい人間が好きだったりするので、ヴィクトリカのように、気が強くて冷たいというようなキャラクターは割と好きなのです。
あとは、あとがきが面白いですね。とにかく長いあとがきで、しかもどうでもいいようなことが書いてあるのですが、面白いです。このシリーズでは、あとがきを長く、というのが一つのテーマみたいなんで、そこも楽しみな感じです。
一つだけ難点を言えば、本作は、本編とサイドストーリーが交互に描かれるのだけど、そのサイドストーリーの方の前半部分が、短すぎてかつよくわからなくて、アレ?っていう感じがしたっていうぐらいですかね。
いやホントに、結構ミステリとしてそこそこレベルの高い作品だと思います。シリーズの続きが結構気になるし、読みたいという感じにさせます。表紙を見て抵抗を覚える人はいるかもしれないけど、是非とも読んで見てほしいなと思います。ライトノベルだと思って侮ってはいけませんよ。桜庭一樹はホントにレベルの高い作家だと思います。

桜庭一樹「GOSICK」



銃とチョコレート(乙一)

善悪は、一体どう決まるのか。
いい悪いに、理屈はあるのか。
僕達は、とりあえず完全に一人で生きていくことはできない。どこかしらで、何かしらの集団に属している必要がある。
集団が形成されると、そこにはルールが生まれる。常識や価値観が統一されるようになり、法律が作られる。そうやって僕らは、集団の中で生きている。
その中で、一体善悪はどう決まるのか。
善悪が絶対的でない、ということは、説明する必要もないだろう。
例えば、戦争が最も分かりやすいだろう。ブッシュの仕掛けたイラク戦争。アメリカとしては(というかアメリカ政府としては)、あの戦争は善だろうし、というか善だということにしておきたいだろう。しかし、イラクからすれば、悪だろう。そして、それ以外の国にとっても、善悪の判断は恐らく分かれるだろう。
日常生活の中でも、善悪の判断は分かれる。
例えば、個人的な話をすると、僕は浮気は別にいいと思っている。誤解されないように説明すると、これは僕自身が浮気をすることが、ではなく、相手が浮気をすることが、である。僕としては、浮気をされても全然一向に構わない。
これは、かなり少数派の意見だろう。普通は、浮気は悪だと思われていることだろう。まあ、そういうどうでもいいレベルでも、善悪の判断は付きまとう。
「国家の品格」の中で藤原正彦が面白いことを書いていた。
「何故人を殺してはいけないのか」ということを論理的に説明することは不可能だ、と。自分なら、「何故人を殺していいのか」についても論理的な説明をつけることができる。そうやって、論理の不完全さを説く話だった。
人を殺す、という、感覚的には明らかに悪のことでさえ、では何故悪なのかと問われると、うまく説明できないものなのだ。ダメだからダメだ、というしかない。
そういった中で、一体何が善悪を決めるのか。
僕の中で答えは決まっている。
善悪は、数だ。
善悪は、数によって成り立っている。
これは、民主主義のみで通用することかもしれないが、しかし真理であると僕は思う。
ルールも常識も法律も、結局は大勢の人間が賛成するように決まっていく。それが民主主義というあり方なのだろうけども、そういうこととは無関係に、人間の根幹として、そういうものが根付いていると僕は思う。
大多数の人間が認めているから。
大多数の人間が信じているから。
大多数の人間がやっているから。
そういう判断で、善悪というものは簡単に決まっていく。
僕には経験はないが、いじめというものもその論理で決まっていく。
いじめられる人間だって悪い、という話を聞くが、いや実際そんなことは稀だ。本当のところは、力を持つ人間が大多数の意見を操作し、数の論理でいじめを善にしてしまっているのである。
だからこそ、いかに多くの人間を操ることができるか、これが力である。
そして、その意味で、力とはマスコミである。マスコミは、簡単に人を操作することができる。
だからこそ、マスコミをその内に抱えている集団は、善悪の判断を基本的にマスコミに託してしまっている、と言っていいだろう。
僕としては、それは間違っているよな、と思う。マスコミに踊らされている国民を見ていると、なんなんだこいつらは、と思ってしまう。テレビでこれが体にいいとみのもんたが言えば、スーパーからそれが消えうせ、芸能人が感動したと宣伝した本がベストセラーになり、韓国のスターが祭り上げられ、一過性の加熱な報道合戦が繰り広げられ、そうやって方向性もバラバラなまま人間を操って、そして後は知らん顔、である。操る方のマスコミもどうにかして欲しいものだが、操られる方の国民もどうにかして欲しいものである。
だんだんと、自分で何かを判断するということが少なくなってきているような気がする。判断を誰かに委ねたままで多くの人が生きているような気がする。
勝ち組負け組という言葉があるが、判断を誰かに委ねている時点で既にそれは負け組と言っていいだろうと思う。
知識がないが故に判断できないことも沢山ある。しかし、善悪の判断は、誰かに委ねるのではなく、自らで判断するべきだ。僕はそんな風なことを思いました。
というわけで、何を書いているのかよくわからなくなってきたので、そろそろ内容に入ろうと思います。
さて本作は、乙一の最新刊であり、乙一の本当に久しぶりの長編です。乙一の長編は、「暗黒童話」と「暗いところで待ち合わせ」しかないわけで、なので本当に久しぶりという感じですね。まさに、ファン待望の一冊です。
舞台は、戦争を終え、貧困が蔓延したある国。そこに、少年リンツが住んでいます。
その国では、富豪達の家から金品が盗まれるという事件が多発している。現場にはカードが残されていて、そこに記されていたという<GODIVA>の文字が、怪盗の名前として定着するようになった。怪盗ゴディバ。
一方で、怪盗ゴディバを捕まえるべく日々捜査をしている探偵ロイズ。その類稀な推理力で日々怪盗ゴディバを追っている探偵ロイズは、国中の子供達が一目会いたいと願うヒーローである。
ある日リンツは、父と一緒に買いに行き、結果的に形見となった聖書の中に、古びた手書きの地図を見つける。虫食いの穴だらけで、裏に風車の絵のある地図。場所の手掛かりとなるような表記は何もなく、とりあえずよくわからないものとしてリンツは放っておく。
しかし、その後、新聞記者見習で知り合いのマルコリーニから、怪盗ゴディバの残すカードの裏には風車の絵が書かれている、という情報を得て、リンツは考える。まさか、あの地図は、怪盗ゴディバが残したものなのではないだろうか。怪盗ゴディバとなんらかの関係のある地図なのではないか…。
タイミングよく、探偵ロイズが、怪盗ゴディバに関する情報を広く集める、と公表した。早速リンツは、憧れの探偵ロイズに会えることも期待して彼に手紙を書くのだが…。
という感じです。
いや、すごいですね。乙一というと、あんまりミステリ作家としての印象が強くないのだけど、本作はホントに、バリバリのミステリですね。
もちろん、探偵ロイズを初めとする一行が、怪盗ゴディバの正体を推理し捕まえようとする、というメインの物語もミステリらしい感じです。しかし、そういうメインの物語以外の部分でも数限りない伏線がちりばめられていて、それが最後に見事に収束していくという手法は、本当に伊坂幸太郎の初期の作品を読んでいるようで、バリバリのミステリも書けるんだな、と感心しました。いや~、素晴らしかったですね。
ミステリとしてのありとあらゆる仕掛けがあちこちにあって、ホントに気が抜けない物語です。まさかあの出来事が!とか、まさかあの人が!というようなことが目白押しです。
伏線もそうだけど、二転三転の物語も、ホントハラハラドキドキ、という感じです。どんどん新しい展開に移っていって、そしてその度にサプライズを用意しているので、本当に結構驚きました。読み始めの印象と、読み終わりの印象が、これほどまでに違う作品も珍しいような気がします。かなり大げさな表現をすれば、読み始めはハリーポッターで、読み終わりはバトルロワイアルと言った感じでしょうか。
相変わらず淡々とした文章で、しかもダークな物語を書いているので、そのギャップというかなんというか、不思議な乙一ワールドが全開、と言った感じです。実際に、リンツの周りにはかなり多くの悪人が集ってきて、物語が進むにつれてどんどんとダークな展開になっていって、あれこれって一応子供向けっていうことで書かれてる物語だよな…と考えちゃいました。まあもちろん、子供が読んでも楽しめると思うけど。
しかし、怪盗ゴディバって、人を喰った名前だよなぁ。しかも、銃とチョコレートっていうタイトルも、まあなるほどなぁという感じで。細かいところまでいろいろ考えられてるな、という感じです。
登場人物には結構好きなキャラがいて、全編で基本的に真面目な感じでいた主人公のリンツはそんなでもないのだけど、学校一の悪ガキのドゥバイヨルとか、探偵ロイドの助手のブラウニーとか、なかなかいいキャラクターだな、と思いました。ドゥバイヨルは、よくわかんないけど、結局いい奴だったのかな、という感じがします。
まあ、ミステリ的な部分にあまり触れないように書かなきゃいけないからなかなか難しいけど、ホント読んでて楽しい作品でした。最後に、あらゆる伏線が一気に消化されていくところなんかはホント圧巻で、ミステリ作家としても才能があるんだな、と感心しました。相変わらずの乙一ワールドも、ダークさが失われていなくて素敵でした。
とにかく、もう買うしかありません。読むしかありません。是非ともどうぞ。いつもとは少し違った乙一を体感することができるでしょう。是非とも読んで見てください。

乙一「銃とチョコレート」



 | ホーム |  »

プロフィール

通りすがり

Author:通りすがり
災害エバノ(災害時に役立ちそうな情報をまとめたサイト)

サイト全体の索引
--------------------------
著者名で記事を分けています

あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や行~わ行

乃木坂46関係の記事をまとめました
(「Nogizaka Journal」様に記事を掲載させていただいています)

本の感想以外の文章の索引(映画の感想もここにあります)

この本は、こんな人に読んで欲しい!!part1
この本は、こんな人に読んで欲しい!!part2

BL作品の感想をまとめました

管理人自身が選ぶ良記事リスト

アクセス数ランキングトップ50

TOEICの勉強を一切せずに、7ヶ月で485点から710点に上げた勉強法

一年間の勉強で、宅建・簿記2級を含む8つの資格に合格する勉強法

国語の授業が嫌いで仕方なかった僕が考える、「本の読み方・本屋の使い方」

2014の短歌まとめ



------------------------

本をたくさん読みます。
映画もたまに見ます。
短歌をやってた時期もあります。
資格を取りまくったこともあります。
英語を勉強してます。













下のバナーをクリックしていただけると、ブログのランキングが上がるっぽいです。気が向いた方、ご協力お願いします。
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

アフィリエイトです

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
本・雑誌
11位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
和書
9位
アクセスランキングを見る>>

アフィリエイトです

サイト内検索 作家名・作品名等を入れてみてくださいな

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ

Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

カウンター

2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)