黒夜行

>>2006年05月

人のやらないことをやれ!(岡野雅行)

僕はこうなんていうか、天才っていうのがやっぱ好きなんだな。
天才というか、不可能を可能にする人、というか。
人間っていろんな人がいるわけだけど、大抵は凡人だ。もちろん僕も凡人だ。凡人過ぎてどうしようと思うくらいである。周りを見ていても、凡人が多い。そして時々、あぁこいつはすげーな、というような人に出会ったり、直接の面識はないまま知ったりする。
僕の中でまず天才と言えば、アインシュタインが思い浮かぶ。相対性理論をちゃんと理解しているわけではないけど、これはものすごい考えだ。それまでの何百年間、ニュートンが作り上げた世界観を信じきっていた人々に、それは間違っている、と突きつけた理論なのだ。何百年間も、誰も疑いもしなかったことを、たった一人の人間でひっくり返したんだ。アインシュタインについて詳しく知っているわけではないけど、僕はアインシュタインが結構好きなのである。
友達にも一人、あぁこいつはちょっとすげーな、という人がいる。もちろん、アインシュタインと比べるべくもないが、発想というか感性というか、そういう点が人とは違う。凡人ばかりの世の中で、僕の中で彼は結構目立っている。
僕らは、いつの間にか『普通』を目指して生きがちだ。誰しもが子供の頃は、野球選手になりたいだの、アイドルになりたいだの、そんな夢を持ったりする。あるいはもっと漠然と、お金持ちになりたいと考える人もいるだろう。
しかし、子供の頃に願ったそうした『普通じゃないもの』を、大人になるにつれて避けているように僕には観察される。
なんというか、諦めているというのとは違う気がするのだ。むしろ、『普通じゃないこと』に恐怖を抱いているようにさえ見えてしまう。
やはり今の世の中は、『普通じゃないこと』というのを排除する傾向にあるのだ。
堅実といえば堅実で、それは間違った生き方ではないけれども、でも面白いとおも思えない。決して悪く言うつもりはないのだが、僕の友人達もほとんどが、普通に就職し、恐らく普通に結婚し、普通の家庭を築き、普通に死んでいくだろう。
そこに、チャレンジの入り込む隙間はないのである。『普通』から外れることに恐怖を感じているとしか思えない。
僕も、まあそういう傾向にある。多少『普通』から外れているとは言え、まあ大筋では変わらない。
だからこそ、『普通じゃない』人に憧れたりするのだろう。
僕自身の中に、そういう傾向がないわけでは決してない。
何度もレビューの中で書いているかもしれないのでざっと書くけど、大学時代に僕は演劇の小道具を作っていた。その最終年に、僕は馬車を作ることになった。というか実際は、作るかどうかも決定していない時期から、設計を始めたのである。
周囲の大方の反応を聞く限り、まあ無理だろうと思われている感じがした。ならばやってやろう、と僕は燃えたのである。事情があって、分解できる設計にしなければならなかったため、そのアイデアを搾り出すのに時間が掛かったけども、最終的に馬車は完成した。あれは、ホントに面白い経験だった。
また、らせん状の脚を持つテーブルのようなものも作った。あれも、当時いたメンバーの中では、僕ぐらいしか作れなかっただろうと思う。それも、誰もやれないならやってやろう、という発想が根幹にある。
僕も正直、人と同じことをするのは好きではないたちである。もちろん、そんなこと言っていては生きていけないので、人と同じことをして生きているけども、本当ならばこの岡野さんのように、人とは違うことをやって生きていけたらいいなぁ、と羨ましく思いました。
というわけで内容に入ろうと思います。
まあ内容と言っても、ある一人の経営者の自伝のようなものだから、その経歴をざっとまず説明しましょう。
岡野雅行は、現在岡野工業株式会社という、従業員総勢6名の社長(本人は代表社員と名乗っている)である。
この岡野工業、従業員6人の町工場なのだが、世界になだたる中小企業として知られている。僕も、本作を読む前から、この会社のことについては知っていた。
何しろ、作っているものがすごい。ここでしか、というか岡野さんしか作れないものばかりを作り上げてきたのだ。
まず、携帯電話が小型化したのは、この岡野さんの仕事のお陰である。小型の電池の開発の際に、岡野さんの技術がなければ不可能だった。確か、この開発で世界に名を知られたのだったと思う。最近では、数々のデザイン賞などを受賞した、「痛くない注射針」というのがある。これも、あらゆる技術者や専門家から、絶対に不可能だ、物理的に作れない、と言われたものを作り上げ、量産化に成功してしまった。今では、NASAからも以来が来るほどで、取材はBBCを初め世界中のメディアが取り上げ、尊敬する世界の100人みたいなのにも選ばれたり、小泉首相が訪れたりと、とにかくすごい人なのである。
その技術については驚くばかりで、例えば鈴の話が書かれていた。チリンチリンと鳴るあの鈴は、普通3枚の金属板から出来ているのだそうだ。しかし岡野さんはそれを、チリンチリンとなる部分も含めて、1枚の金属板を加工することで作り上げてしまうらしい。これは、未だに他の誰も出来ない技術だそうだ。
そんな岡野さんのでもわからない技術というのがあるらしい。それは、岡野さんの父親の技術であり、神社などにある擬宝珠という、タマネギが重なったような装飾を、たった1枚の金属板から作り出すそうだ。その技術は、未だに岡野さんもわからないらしい。
そんな、世界に名だたる中小企業に育て上げた岡野さんの経営哲学を書いたのが、本作である。
さて、その中身についてものすごく簡単に要約するとこうなる。

①昔はよかった
②人との付き合いは大切にすべし

大体この2点を、あらゆる表現を使って、あらゆる例を挙げて説明しているのが本作である、という感じだ。
①については、ホントに回顧録と言った感じで、今の僕らの生き方の参考にはならない。①ではつまり、昔の時代は大人がいろいろ教えてくれたし、仕事も身近にあったし、遊びからいろんなことを学んだし、とにかくそういう時代で、今の子供達は可哀相だね、ということをくり返し言っているわけだ。まあそんなだから、特に役に立つことは書いていない。いやもちろん、読物としては面白いと思うけど。
②については、いろんな例を引いてその大切さを訴えている。まあそのほとんどは、考えてみれば当たり前のことなんだけど、その当たり前のことが今はできていないよ、というような内容だ。これは、営業をしている人や経営者は、まあ知っているかもしれないけど掴んでおくべきことかなぁ、と思いました。
まあ、本作の内容的には、大したことは書いてないですね。読物としてはそこそこ悪くはないけど、ビジネス書とまではいかないだろう、という感じの内容です。
でも僕としては、こういう不可能に挑戦するような生き方を実践している人は好きなので、まあいいかなぁ、と思います。
まあ、立ち読みでもさくっと読めるような内容なので、手に取ってぱぱぱっとめくって見るのもいいかもしれません。

岡野雅行「人のやらないことをやれ!」




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100回泣くこと(中村航)

恋愛も結婚も、割と僕からは遠い存在で、なかなか近くに感じることができないのだけども、まあ人並みに憧れたりする。
いや、結婚はそんなでもないけど。
普段から一人でいることになれていると、誰かと一緒に時間を過ごすということを忘れてしまう。一人でいる時間が長すぎて、そこに誰かが入り込む隙間がなくなってしまうのだろう。そういうことってある。
でも逆に言えば、誰かと一緒にい続けることで、一人を忘れてしまうということもある。どれだけ個人と個人で向き合っていても、どうしたって二人の境界が曖昧になっていく。そうやって、まるで癒着していくかのように同じ時を過ごして、そうやって恋愛になって結婚になっていく。
どっちがいい、なんてことはない。一人でいすぎて、誰かと一緒にいることを忘れるにしても、誰かと一緒にいすぎて、逆に一人であることを忘れてしまうにしても、何だか間違っているような気がしてしまう。
なんていうか僕は、出来るだけいつまでも、個人と個人でいたい。以心伝心とか、阿吽の呼吸とか、僕はつまらないと思う。なんていうか、そうやって呼吸で会話して言葉を失っていくとか、好きじゃない。もちろん、沈黙を穏やかに感じることができる関係ではいたいと思う。でも、言わなくてもわかる、とかってやっぱ僕は間違ってるような気がする。
それって、段々二人が一人になってるってことじゃないか。
それは違うと思う。それぞれの人格を尊重し、個人としての存在を確認して、そうして初めて向き合うことができるはずだ。隣同士に並んでいても、向き合うことなんてできない。向き合わなければ、わからないことがたくさんあるはずだ。
恋愛をしていても、結婚していても、僕は一人であることを忘れない女性がいいと思う。それは、僕自身が気をつけることでもある。お互いを分かり合うとか、違うと思う。違うからこそ、分かり合えないからこそ、一緒にいる価値があるんじゃないか、と思う。
寂しさに負けて、隣に座ってくれる人を探すのが恋愛じゃない。寂しくても一人を許容し、相手と正面で向かい合うのが恋愛じゃないかと思うのだ。もちろん、寂しさを埋める恋愛を否定はしないけど。
なんだか、そんなことを感じてしまった。
内容に入ろうと思う。
先に感想をざっと書いておくと、つまらない作品だった。だから、文章的にはやる気のない短いものになっているだろうしなると思うけど、でもここまでに書いた文章は割といいんじゃないか、と自分で思っていたりする(なんてね)。
主人公の藤井には、3年付き合っている彼女がいる。いい子だ。結婚も考えている。
藤井は、実家でイヌを飼っている。ブックという名のその犬が、瀕死らしい。同じく瀕死だったバイクをなんとか修理して、彼女にも手伝ってもらいながら、どさくさに紛れてプロポーズをしたりしながら、藤井はバイクで実家に戻る。
二人は、結婚の練習をするようになる。同棲ということだが、二人は結婚の練習と呼んでいる。二人による二人の生活が、そうやって始まる。
ただ、異変は少しずつ形を露にして…。
というような話です。
正直、どこがいいのやらさっぱりわからない作品でした。割と評判がいい作品なので読んでみたのですが、さっぱりです。
なんというか、モンタージュ写真かなんかで、顔の各パーツを全部「普通」って感じのものにしたら、出来上がる顔って多分変な顔になるだろうなぁ、って思いますよね。イメージとしてはそんな感じです。各部分は、もうなんというかありきたりの話で、そのありきたりすぎる話が連なることで、変なというかおかしなというか胸を打たない物語になっているという気がします。
よくある物語を、よくある形に、よくある文章で書いてみました、というような作品です。新人賞の応募原稿にはこういった作品もあるかもしれないな、という感じですね。
ただ、イヌの描き方だけは伊坂幸太郎っぽかったですね。そこだけ、あぁ雰囲気似てるな、って思いました。
まあそんなわけで、読む必要のない作品だと思いますね。まったく心を揺さぶられないというか、のっぺりとした作品です。そんな感じです。

中村航「100回泣くこと」



青空の卵(坂木司)

他人との距離っていうのは、結構難しい。
それは、大人になればなるほど難しくなるような気がする。
子供の頃は、距離感なんか考えなくてもよかったような気がする。もちろんないことはなかったと思うけど、でもはっきりしていた。悪く言えば、加減を知らなかったってことだろうけど。だから、いじめがかなり極端なところまでいってしまう。
子供の頃は、誰を好きになっても、誰を嫌いになっても、誰と何をしても、誰と何をしなくても、別にどうってことはなかったと思う。僕は比較的、他人に嫌われることを昔から恐れていたような人間だったけど、それでもやっぱり子供の頃は、他人との距離については割と無頓着だった気がする。そのせいで人を傷つけたり、逆に傷つけられたりしたことはあったと思うけど、そういうことを経ながら人間は、他人との距離を学んでいくのだろうと思う。
しかし大人になると、なんというか言葉にできない様々なことがある。出来るだけ一言で言えば、他人との関係に、客観性を与えなければいけない、そんな世界に僕らは生きている。
つまり、端から見て不自然ではない人間関係を構築する、ということが、大人になるにつれて必要なことなのだと分かるようになってくる。
これは、子供の頃にはなかなかなかった発想だ。もちろん、先生だとか親だとか、時には警察だとかその他の大人だとか、とにかく子供ではない『大人』の視点を意識することは結構あったかもしれない。しかし、同世代の人間からどう思われるか、という客観性はなかったと思う。
大人になるほど、同世代の他人の目を意識するようになる。その人との人間関係を、誰か他者に明確に説明できないと、それは間違っていることなのではないか、と感じてしまうのだ。
日本という国は、特にそういうところがある。
例えばこんなケースがそうだ。よくありがちだけど、電車やバスでお年寄りが立っている。そういった時に、席を譲ろうとする大人は、日本では少ない。
これは、そのお年寄りと自分との関係を、他者に明確に説明することができないからだ。関係性が説明できない相手に対して何かすると、おかしな人間ではないかと思われる。そういう恐怖が、特に日本人の中にはあるような気がする。
逆に言えば日本人は、関係性に名前さえつけられれば安心してしまうのである。親だから、上司だから、親友だから。そんなのに弱い。
それはどうなんだろう、と僕は思う。もちろん僕だって、人一倍他者の視線を気にする人間である。お年寄りに席を譲るようなことは、間違ってもできない人種だ。
でも、自分も含めてやはり間違っているように感じてしまう。名前の付けられない、通りすがりの関係性が、もっと世の中に溢れていてもいいと思うのだ。日本でそういう関係を探そうとすれば、出会い系や合コンくらいしかないかもしれない。
携帯などのツールの進化で、よりコミュニケーションが苦手になってきている、と言われている。それはまあ正しいだろう。しかしそれ以上に、関係性に客観性を求めすぎるきらいが日本にはありすぎるのだと思う。そこに、便利なツールが登場したから、急速に広まったと考えるべきだろう。
だからどうするべきだ、というような提案は僕には難しい。どうしたって僕も、その呪縛から逃れられそうにないからだ。ただこのままでは、僕らはどんどんと狭い世界に押し込まれて、次第に、人間同士のリアルな接触がなくなってしまうかもしれないと思う。遠い先の話だが、絶対にこないとも言えない未来。そうなった時では、もう手遅れではないかな、と僕は思う。
さてそろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、連作短編集です。
まずは、主要な登場人物を二人紹介しましょう。
一人は、本作の著者と同姓同名の登場人物、坂木司です。彼は、外資系の保険会社に勤める営業マンで、それ以外まあ特に取り立てて言うほどのこともない、ごく普通の人間である。
さてもう一人。鳥井真一である。彼はなかなか一風変わっている。
まず、引きこもりなのである。家から完全に出ないというわけでもないので、引きこもりがちの人間嫌いと言ったところではあるが。プログラマの仕事をしていて、基本的に家からでない。友人である坂木がよく鳥井の家にやてきては、鳥井を外に連れ出そうとするのである。
坂木と鳥井というのは、そういう関係にある。坂木は、鳥井のことが心配でたまらない。比較的休みが自由になるということで、外資系の会社に就職した。鳥井の方はというと、坂木を世界のすべてであると考えている。他の何がどうなろうと知ったことではないが、坂木が傷つくようなことには敏感だ。一見、鳥井が坂木に依存しているようだが、坂木も鳥井に依存している。
そういう、ちょっと変わった関係である。
さてそんな二人が、ちょくちょく遭遇する小さな事件を解決していく。と言っても、事件を見つけるのが坂木の役目で、それを解決するのが鳥井だ。鳥井はあれで、なかなかいい頭脳を持っているのだ。
というわけで、それぞれの短編の内容を紹介しようと思います。

「夏の終わりの三重奏」
坂木が鳥井を外に連れ出す名目として最も頻繁な、月曜日の午前中のスーパーマーケット。料理が趣味で得意な鳥井は、ここで食材を揃える。
そこで、図らずも遭遇することになった一人の女性。缶詰の崩落から助けてあげたというのにそっけない態度で、かなりご立腹な様子。しかし、なんだかんだでその女性と会う機会も多く、一回は夜道で襲われたと言って助けを求めてきたりもした。
そんな女性の態度に不審な様子を嗅ぎ取った鳥井の推理は…。

「秋の足音」
坂木が駅で遭遇した盲目の美少年。ふとしたことで知り合いになり、以後気に掛けていたのだが、どうも彼の元を尾行している存在がいるようだ。後日偶然合った彼からも、尾行されている気配があることを知らされるが、彼が言うには、双子が尾行をしているのだ、ということだ。
坂木は鳥井に事情を説明し、美少年の後を尾行する謎の双子の正体を見極めようとするのだが…。

「冬の贈り物」
歌舞伎役者の知り合いから観劇に誘われた坂木は、当然鳥井も連れ添って見に行った。その楽屋でのこと、知り合いのその役者は、ちょっと変な贈り物が届いたのだ、と少し困惑気味に言う。なんだろうと思っていると、それはなんと亀の剥製らしい。贈り主の名前もなく、手紙もない。ただ、亀の剥製だけだ。何故か手紙だけが後追いで来て、迷惑なものを送ってしまってすいません、とあるのだが、その後も不思議な贈り物は続き…。

「春の子供」
坂木が信号待ちの間に見かけた一人の少年。待てど暮らせど、少年は動く気配を見せない。見るに見かねて声を掛けるも、彼は逃げ出してしまう。どうにかして名刺だけを渡して、いつでも連絡するように伝える。
翌日電話があったが、坂木の名前を連呼するだけで何も言わない。いてもたってもいられず、昨日と同じ場所に出向くと少年はいた。やはり見るに見かねて少年を鳥井の家に連れて行くのだが、一体少年はどうして一人なのだろうか…

「初夏のひよこ」
これは、後日談みたいなショートショートです。

本作のまずかなり奇妙な点は、ほかでもない、坂木と鳥井の関係だ。
大抵の名探偵というものは、理由もなく事件に首をつっこんだり、周囲を顧みずに推理を披露することが多い。探偵であることの動機に悩む法月綸太郎や、推理を披露することを恥ずかしいと感じる犀川創平のような名探偵もいることはいるが。
それでは、本作の名探偵・鳥井真一の動機は一体何か。それは、お人好しの坂木や、あるいは坂木が認める人物を巻き込んでいるかどうか、ということだ。基本的に、何かあっても自分と関係がなければどうでもいい。しかし鳥井としては、坂木を利用したり、坂木を陥れたり、坂木を傷つけたりする人間を許せないのだ。だからこそ、推理を披露して、幻想を打ち崩そうとする。鳥井の動機は、その一点にしかない。
坂木と鳥井の関係で奇妙な点はまだある。坂木が泣くと、鳥井がうろたえるということだ。鳥井にとって坂木はすべてなわけで、その坂木が泣いているとなると、もうどうしていいかわからず、自分もないてしまう。自分の傷にも、他の誰の傷にも無頓着だが、坂木の受けた傷にだけは無頓着でいられないのである。
鳥井は坂木を、坂木は鳥井を全幅に信頼している。お互いに依存し合っていると言ってもいい。これほどの関係は、小説の中でもそうは見たことはない。現実の世界ならなおさらないだろう。だから奇妙に映るのだが、かといって不快というわけでもない。男同士がべったりという図は、割と気持ち悪く映りがちだが、なんとも言えない独特な雰囲気が、それを打ち消している。なんとも奇妙な関係なのである。
そして、彼らの周りで起こる事件もまた、人間関係に少しだけ欠陥を持った人間が起こすものばかりなのだ。ほんの僅かな擦れ違い、ほんの僅かな逆恨み、ほんの僅かなプライドなど、些細な原因から、他人を傷つけたり、他人を思いやれなかったり、他人を信じられなかったりする結果、形として事件が起きてしまうのである。
本作は、ミステリという形を通じて、人間同士の触れ合いや難しさなどを描いている作品だ。<日常の謎>系の物語は多くあるけれども、あまりお目にかかれない種類の物語かもしれない。ただ雰囲気だけは、本多孝好や加納朋子などの、<日常の謎>系の作品を書く作家と相通ずるものがあるように思う。
インパクトは特にない。また僕としては、改章というか転章が多すぎて、少し読みづらいなとも思った。けど、読んで見てもいいと思います。そこまで強くお勧めするほどではないけど、新人のデビュー作としては割りと悪くはない、という作品です。<ひきこもり>三部作の一作目ということで、二作目以降もちょっと読んでみようか、と思っています。

坂木司「青空の卵」



第六大陸(小川一水)

国を超える。
本作は、国を超えるというところに、一つの重点があると僕は思う。
国を超える、という言葉に、僕は二つの意味を込めている。
一つは、国家政治を超えたところでの協力、ということである。
僕らは普段それぞれの国に属しているし、国という体系の中で生活をしている。そこには、たぶんに政治というものが関わってくるし、大局的なものには、すべて政治の思惑があると言っていいだろう。
かつて戦争がおおっぴらに行われていたような時代、国同士はありとあらゆる目的・思惑のために、動いていた。もちろん、詳しくは知らないのでなんとも言えないが、人や計画を助けるためではなく、むしろ積極的に陥れるために政治というものは働くだろう、というイメージが僕にはある。
今でも、それは変わることはないだろう。国益という言葉を振りかざし、それが国民のためであるとアピールしながら、政治というものはあらゆるものを切り捨てていく。
それはまあ仕方のないことなのだろう。
しかし、本作では、打算的な判断しかしないだろうと思っていた国という組織が、あらゆる場面で状況を許容する判断を下すのである。
それを支えているものが、技術者の魂である。
僕は、かつて一応理系に属していた人間であり、素質的にも技術者的な発想があると思うので、彼ら技術者の想いは読んでいてよくわかるつもりである。
彼らはこう言う。
政治の力で、どこかの国のプロジェクトを潰すことは出来る。しかし、我々はそんなことは望まない。我々が望むのは、強力なライバルである。これまでも、強力なライバルの存在が存在するが故に技術は大きく発展していったではないか、と。
これがどういった状況で言われた言葉なのかは、まあ内容に踏み込むことになるので書かないが、なるほどその通りだな、と思った。
僕の個人的な、しかもものすごく狭い話をしよう。
大学時代、演劇のサークルではないが、かなり大規模の演劇をやるサークルにいた。そこで三年間、僕は小道具を作るところにいたのだが、僕の人生の中でもかなり有意義で面白いものだった。
僕は、周囲の人間と比べればという話だが、比較的技術のある人間であり、三年目には、人が実際に乗ることの出来る馬車まで作った。得がたい経験だったな、と今でも思う。
その中で、同じようなことを感じた経験がある。もちろん、政治とは無縁の世界だけれども、ある程度の力関係や打算はある。その中でいかにスタッフのやる気を削がずに、それでいて上の人間がやりたいことを通すかという、常にそういうギリギリの判断を上は迫られていたように思う。それでも彼らは、本作でいうような政治力を行使することはなかった。スタッフ(=技術者)のやりたいようにやらせてくれる環境を、自らが犠牲になってまで作り上げてくれたものだ。だからこそ、僕は馬車を作り上げることが出来たといってもいい。
技術者というのは、お金も政治も打算も理念も、全部関係ない人種なのである。これをやりたい、これを作りたい、こうしたい、それだけが彼らを突き動かしていく。だからこそ、国を超えて技術者はわかりあうことができる。
本作はそういう、技術者を通じての国を超える物語という一面を持っていると僕は思う。
さてもう一つ。それは言うまでもなく本作の主要テーマ、月に行くということだ。
月というのは、地球に存在する『国』という概念を既に超えたところにある。
細かいことを言えば、そうでもないらしい。実際、月を含めた宇宙に関してのあらゆる条約が存在するようだし、また、実際的な権利の問題は不明だが、月の土地を販売しているアメリカの会社というのも実在するほどだ。
しかし、やはり僕ら普通の人間の感覚からして、地球から遥か離れた月という土地は、国という概念を大きく超えた存在である。
宇宙に行きたいか。月に行きたいか。
正直に言えば、僕には特別にそんな感情はない。一生の内に、宇宙に行けなくても、月に行けなくても、別にどうってことはない。地球上にも行ってないところが無限にあるというのに、わざわざ月に行くこともないだろう、と僕なんかは思ってしまう。
しかし、宇宙に憧れる、月に憧れる人間の気持ちがわからないというわけでは決してない。
少し前のニュースで、人跡未踏の大規模な森が発見されたというのがあった(というようなことを、以前の感想でここに書いたことがあるような気もするが)。またかつては、南極やアマゾンなど、人跡未踏であった土地を制覇する冒険家がたくさんいた。
彼らを推し進めているのは、溢れんばかりの好奇心である。誰も知らないものを、この目で確かめたい。誰も見たことがないものを、この目で見たい。誰も踏み入れたことがない土地に、この足で立ちたい。ただそれだけなのである。
そうやって人間は、未開の土地をどんどんと減らしていった。次第に、地球上のあらゆる土地は、調べ尽くされてしまうことになるだろう。
そうなると、もはや宇宙に出るしか仕方がない。
国という概念の通用しない、遥か彼方に存在する月という天体。21世紀には、そこに人が住み始めるだろうと思われていたその天体は、今の技術を以ってしてもやはりあまりに遠い。
しかし、本作を読むと、もしかしたらなんとかなるんじゃないか…と思えてしまう。もしかしたら、月に人が住むようになる日も、遠くはないのかもしれない。
そうなったら恐らく、月にも国という概念が持ち込まれてしまうだろう。それは少し残念な気もするのだけれども。
さて、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、一言で言ってしまえば、月に有人の建造物を造ろう、という物語です。
西暦2025年。サハラ砂漠、南極、ヒマラヤ高地など、ありとあらゆる極限状況下での建設事業で、他の追随を許さない驚くべき仕事をこなす後鳥羽建設。つい最近、後鳥羽建設が完成させた「ドラゴンパレス」。南紗諸島の二千メートルの深海に建設されたその建造物へ、最初の賓客を送る海底船「リヴァイアサン」の乗船する、後鳥羽建設の社員青峰走也は、「リヴァイアサン」内で起こったトラブルを無事回避しつつ、「ドラゴンパレス」完成にほっとしているところであった。
その青峰に、思いもよらぬ話が舞い込んでくる。「リバイアサン」内で知り合った老人と少女。青峰の仕事を評価し、「ドラゴンパレス」内で、月に建物を造る予定だと大法螺を吹いたのはなんと、名古屋を中心に展開する一大テーマパーク「東海エデン」を運営する桃園寺グループの会長とその孫娘であり、その二人から正式に、月に基地を造れと申し込みがあった。しかも、主導者を青峰に指定して。
工期10年、予算1500億。
後鳥羽建設以外では不可能なその一大事業を完遂させるため、青峰を初め様々な人間が東奔西走することになる。
月に有人の建造物を造る。その完成までも、小説とは思えないディテールを有しながらも、一方で人間をしっかりと描き、また「プロジェクトX」を見ているかのような、失敗とそのリカバーを、精緻に描いた物語。
さーてまた、すごい物語を読んだものです。
まず驚かされるのは、その圧倒的なディテールですね。もちろん僕は、技術的な細かな話は理解できません。専門家が見たら指摘するべき数多くの点があるのかもしれません。それにしても僕が指摘したいのはそういう技術的に正しいかどうかというようなことではなく、向けるべき点の視野が広いということですね。地球上で開発されるありとあらゆる機器の性能についてもそうだけど、何よりも、月面という極限状況の中で、一体どうすればどうなるのかという点が細かく検証されていて、そういう視点の広さに驚きました。
無重力空間の中で液体を置けば、球体を保ったまま浮遊する、ってことぐらいは知ってるけど、例えば、宇宙服を着ていても超低温のものを触ると危ないとか、超低温下で宇宙服を着たまま膝を曲げた状態にいると、膝の部分が固定されて動けなくなるとか、そんなこと普通は知るわけないですよね。あと、重力の低い中で水分を沸騰させると、気泡が浮き上がって跳ねるとか。そういう、『月での日常生活』レベルにおいても、技術的・物理的な検証に余念がなくて、本当に取材が大変だっただろうな、と感じました。
しかも、こういう取材が大変だろうなという作品は概して、取材で知ったことをとにかく詰め込んで知識をひけらかそうとするような傾向があるので、読んでいてうんざりすることがあるのですが、本作はまったくそういう部分がなくて、自然と物語に組み込まれているな、という印象を受けました。素晴らしいものです。
とにかく、本作を読むと、お金さえあれば宇宙に基地を作れるのではないか、と思えてしまいます。本作の設定は、もう少し先の未来となっていて、例えば電車の料金などは、人の顔を画像識別して後で請求するというような、今現在のテクノロジーとは少し先の設定がなされているけども、しかしあとがきを読む限りでは、少し頑張れば今でもなんとかなる現実的な技術をここに書いているということなので、近い未来になんとかなってもおかしくなのではないか、と思いますね。
予算にしても、1500億と聞くとかなりの金額に聞こえるし、宇宙開発なんてそもそも国がやるもんだってイメージがあるだろうけど、でも単純に考えれば、日本の人口の1%を占めると言われる億万長者1500人が一人1億出せばいいし、あるいは日本国民全員が一人1500円出すだけでなんとかなるわけです。あとがきを読む限りでは、予算などの数値的なものの桁をいじくってるというようなことが書いてあったので、1500億では足りないのかもしれないけど、でも希望を抱かせる物語ではあります。
そして、技術的なディテールだけでなく、人間もしっかりと描かれています。
そもそも本作は、月を目指す物語なのですが、何故月に行くのかという動機付けがちゃんとなされています。その中心にいるのが、桃園寺グループの孫娘、妙です。
妙という人間は、本作の中でもトップクラスに欠かせない重要なキャラクターで、しかも多少謎めいた感じに描かれています。月に基地を造るという計画の発案者であり依頼主でもある妙は、しかしなかなか脆い危うい存在です。
そもそも、妙がこの計画を打ち出した段階で13歳。美貌で、しかもその年で大学を卒業しているという秀才ぶりだ。しかも、何を考えているのかわからない。妙を中心として、いくつもの人間模様が描かれていく。月へ基地を造るというだけの物語では決してない。
また、青峰走也というキャラクターも、本当に重要だ。月と地球を何度も往復し、様々な技術に関わり、自らで月で建設作業を行う。もちろんそうした、月との関わりとしてもそうだが、妙や他の人間との様々もあり、面白い。多少好人物過ぎて、僕としてはちょっとつまらないところもあるけども。
とにかく、是非とも読んでもらいたい物語です。これほどディテールに満ち溢れ、月への進出をリアルに想像させ、一方で、人間模様も描ききる作家は、そうはいないでしょう。同じく小川一水の「復活の地」を読んだことがあり、こちらもものすごく素晴らしい作品で、小川一水という作家はもっと評価されてしかるべきではないかと思いました(SFの世界では評価されているのだろうけど、一般的な知名度は低いはずです)。SFの苦手な僕がこれほど興奮できる作品なのだから、SFを普段読まない人にも勧められると僕は思います。是非とも読んで欲しいな、と思います。
しかし、酒が入ってるからだろうか…微妙にいい感想が書けない気がする。酒のせいではなく、能力の問題か…。

小川一水「第六大陸」





塩の街(有川浩)

世界が終わっちゃうとか、やっぱリアルに想像することは難しい。今日と同じような明日が来るはずだし、今年と同じような来年がくるはずだし。僕らはそうやって生きている。まさか、自分が生きているうちに世界が終わっちゃうなんてことはないだろう、と思っている。
でも、もし世界が終わっちゃうとしたら、僕らは一体何を守ろうとするだろうか。
表現は悪いと思うけど、僕らの生きている世界から見て、もう充分に終わってしまっている国、というのも世界にはある。後進国だとか第三国とか呼ばれるような国で、貧しく病気や戦争が蔓延し、人間が生きていくのに満足のいく環境を与えることのできない国だ。
最近読んだ、「LOVE&FREE」という、世界中を巡った旅行者の本の中にも、そうした貧しい国の話が出ていた。路上で倒れている子供、お金や物をねだる子供、病気なのに治療も受けられない人。
そういう人達に対して、自分が無力であるということを痛感した、とその著者は書いていた。
一方でこんなことも書いている。
そうした貧しい国の子供たちは、もらった一枚のビスケットを、半分にしてくれた人にあげる優しさを持っている。どんなに貧しくても、こちらに満面の笑みを浮かべてくれる、と。
本当に失礼な言い方だけど、僕らの生きている豊かな社会と比べれば、そうした貧しい国というのはある意味で終わってしまっていると言っていい。しかし、そういう国にも、いや、そういう国だからこそというべきかもしれないが、人間が優しいのだ。
その本の中では、<愛>と呼んでいた。
少しだけ想像をしてみよう。僕らが今生きている豊かな社会が、ある日突然崩壊するとして。満足に住む家もなく、食料にも制限があり、テレビもパソコンも携帯もなく、街に犯罪が溢れていく…。
今の日本がそんな状態になったとして。
そこに、<愛>は残るだろうか?
僕らは、仕方ないとはいえ、豊かさの前提の上に<愛>を重ねて生きている。まず自分が豊かでいられないと、誰かを愛することも、誰かに愛されることもできない生き物だ。
もしも今、その豊かさの前提が取り払われてしまったとしたら、同時に<愛>も崩れ落ちることだろう。
そうでないと言い切れる人はいるだろうか?
初めの問いに戻ろう。
世界が終わっちゃうとしたら、僕らは何を守ろうとするか。
それは、まず間違いなく豊かさだ。僕らは、どんなに世界が終わると分かっていても、豊かさを手放すことができない。それが、僕らが生まれてきてからこれまで、ずっと生きていく上での前提だったのだから。
ただ、それはすごく虚しい。<愛>を捨てることになっても豊かさにしがみつくような生き方は、虚しい。
世界が終わっちゃうとしたら、僕らは何を守るべきだろうか。
やはり、<愛>だろう。恋愛という意味だけでなく、人を大切にしようとする心全般の<愛>だ。
僕らは、世界が終わっちゃうなんて想像はできない。できないけれども、少しくらい心の準備をしておくべきではないだろうか。せめて、豊かさの上に<愛>を重ねるような生き方を、今のうちから改善すべきではないだろうか…。
そんな風に思いました。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
舞台は、終わってしまった日本という国。
『塩害』と名付けられた災害のために。
ある日突然東京湾に『落ちて』きた謎の結晶。その結晶の襲来と同時に、奇妙な現象が、東京を中心に日本全土を襲った。
人間が塩になっていく、という現象。原因不明だが、ある日突然、自分の身体が塩に変わっていってしまうという謎の現象。
そんな『塩害』のために、人口が減り社会が崩壊し、東京は首都としての完全に失った。
人間の住む場所ではなくなった東京という土地に、しかし今でも住み続けている二人の男女。秋庭と真奈。彼らは東京の片隅で、ひっそりと暮らしている。
しかし、ささいなきっかけと無遠慮な発想に彩られることになる二人の人生。気づきたかったことに気づき、知りたくもなかったことを知ることになる。
『塩害』という世界の中で、多くの人が失い置き忘れてしまった<愛>を、真っ向から掴み取ろうとする物語。
そんな感じです。
本作の著者は、少し前に読んだ「空の中」と同じ著者で、そのデビュー作になります。イラスト入りの文庫で、バリバリのライトノベルです。
いやでも、結構面白かったですね、僕的には。
ライトノベルの特徴なんだろうけど、まずはキャラクターがちゃんとしてるっていうか、秋庭と真奈というこの二人が、かなりちゃんと描かれていて(漫画的ではないということ)、いいなぁという感じです。特に、真奈というキャラクターはなかなか面白いもので、敢えて言うなら、ライトノベルらしくないキャラクターだな、という感じです(僕のライトノベルのイメージと比べて、ということですけど)。
また後半で入江というキャラクターが出てくるのだけど、こいつが嫌なやつですね。外堀を埋めるというやり方は僕も結構するけども、入江ほどではないと自分では思っているし、というか入江は無茶苦茶だろうと思いますね。まあ、嫌なやつっていうだけのキャラクターでもないんだけど、でも全面的に好きになるのは難しいキャラクターですね。ストーリー的には、すごく味のあるキャラクターだと思うけど。
物語も、まあ恋愛的な部分も主流だったりするし、最終的にはラブストーリーなんだろうけど、でもそうではない部分もかなり面白くて、ただのラブストーリーに終わっていないな、という感じです。あと、まあ著者の趣味なんだろうけど、戦闘機なんかに関する知識みたいなものもかなり細かく描かれていて、ちゃんと取材とかしてるんだろうな、と思わせました。
ただ、残念な点が2点。
一点目は、結局『塩害』というものが今ひとつ分からなかったということ。後半で結構いろいろ情報が出てくるんだけど、結局『塩害』に関する部分がおざなりになっているような感じは受けました。いや、おざなりという表現はおかしいなぁ…なんていえばいいか。もう少し『塩害』の話を追求して読みたかったな、という感じです。
もう一つは、これは僕の勘違いかもしれないのだけど、同じ文章の中で突然視点が変わった場面が確かあって、あれ?っとか思いました。まあ、あんまりドヤドヤいうことでもないだろうけど。
そんなわけで、割と面白いですね。もちろん、二作目の「空の中」の方が抜群に面白いけど、でもこっちも悪くないです。読んでみるのもいいと思います。

有川浩「塩の街」


夏期限定トロピカルパフェ事件(米澤穂信)

自分の性格が嫌だなぁ、と思うことはしばしばある。きっとそういう人は、結構いるだろう。
僕の場合は、まず人見知りであるというのがいただけない。こう、初対面の人間、というのはまだギリギリいい。そうではなくて、初対面から2・3回目に会うような人、というのがとても苦手だ。顔見知りなわけで知らないフリもできないけど、かといってまだ大して親しいわけでもない、という非常に微妙な距離感がなんとも苦手で、いつもどうしたものかと思っている。最近、徐々に人見知り的な傾向が解消されているとはいえ、それはあくまでもバイト先でのことだけで、普通の一個人としては、まだまだ人見知り道まっしぐらである。
でもまあ、人見知りであっても、さして人に悪い影響を与えるということもないから楽だ。他に自分の性格を見回してみるけれども、客観視できていないという批判は甘んじて受け入れるけれども、でも人に悪い影響を与えるような性格はしていないと思う。多少悪意のある人間ではあるし、多少悪いこともするけれども、まあなんとかセーフではないか、と僕は思う。
ただもし自分が、人に悪い影響を与えるような性格だったとしたら、一体どうするだろうかな、と思う。
ちょっとどうにかしなきゃいけないよなぁ、ってきっと焦るだろう。自分自身をちゃんと自覚して、悪い部分を封じるだろう。どこまで抑えきれるかはわからないけど、無自覚な性格の悪い人よりは、自覚的で悪い部分を抑えようとしている人、という方が遥かに分はいいだろう。
自分自身がそうではないと信じてこういうことを書くけど、世の中には自分の性格に無自覚的な人間が多いと思う。自分の性格を把握しきれていない人間が、である。
自分がこうしたら、相手はこう考えるだろう、という想像力が完全に欠如しているのだろうと思う。それはそれですごいと思うが、周囲としては、もう少し考えてもらいたいものだ、と思うものである。
もちろん、誰にかれにも好かれようなんてそんなことを言っているわけではない。誰からも好かれようなんてのは無理だし、そういう発想は逆に失礼な場合すらある。
しかし、誰からも嫌われないように、という配慮くらいは、日々してもいいではないか、と見ていて思う人がいることも事実である。まあ、無頓着なのだろう。
そういう意味で、本作の登場人物二人は、自身の性格に自覚的であるという点で、充分に好印象である。まあ、小市民をわざわざ目指すことはないんじゃないかな、とは思うけど。
まあそんなわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、基本的に長編なのだけど、第一章と第二章は、短編として雑誌に掲載されたということだし、短編として抜き出して紹介するに値するないようだとも思うので、第一章と第二章の内容を短編として紹介し、その後続く長編としてのあらすじを書く、という形で内容の紹介をしようと思います。
まず登場人物の二人をざっと紹介しておきましょう。小鳩常悟朗と小山内ゆきは、同じ高校の同級生。周囲からは付き合っていると思われている二人だが、実際は恋愛関係にも依存関係にもない、ただの互恵関係だ。なんのための互恵かというと、共に『小市民』を目指すための互恵なのである。
二人とも、中学時代に自身の性格のせいで周囲を傷つけたという経験がある。その経験を反省し、その性格を封印し、『小市民』たらんとする精神の元、二人は日々慎ましやかにすごしていく…はずなのであるが…。
という二人です。

第一章「シャルロットだけはぼくのもの」
小鳩君は、突然自宅にやってきた小山内さんに少し戸惑う。さらに彼を戸惑わせるものが、小山内さんから渡されることになる。
<小山内スイーツセレクション・夏>
そう書かれた洋菓子店のリストと地図である。
甘いものに目がない小山内さんは、何故だか小鳩君を誘って、この夏休み町内の洋菓子店めぐりを敢行する予定のようだ。一体、どんな目的で僕を…。
さてその第一弾。家から離れられなくなったという小山内さんのために、ケーキを買って小山内さんの家まで向かう小鳩君。そして、いざケーキを食べましょう、という段になって、小山内さんに電話が…。まあ、一緒に食べることもなかろうと思って先に食べ始めたシャルロット…。
う、うますぎる!なんと絶品なスイーツなのだろう!
そこで小鳩君の元に誘惑が。今ならば、小山内さんにばれないように、もう一つシャルロットを食べることができるのではないか…。彼の頭はフルスロットルである。

第二章「シェイク・ハーフ」
スイーツセレクションに付き合わされることも日常となったある日。洋菓子店に行く前に腹ごしらえとハンバーガーショップに立ち寄った小鳩君は、同じく同級生である堂島健吾に遭遇する。なにやら面倒なことに巻き込まれている様子の堂島。と思ったらいきなり立ち去って言ってしまう。「半」と書かれた謎のメモを残して…。さて、この「半」は何らかの連絡先に関するメモのようなのだが、しかし一体これはどう解釈すればいいのか…。探偵心がうずうずする。

さてそうして過ぎていく日々であるが、不穏な影が少しずつ忍び寄る。堂島が関わっているというめんどうな出来事は難航しているようだし、小山内さんのスイーツセレクションの意図も今ひとつ見えてこない。そんな中なんと、小山内さんが誘拐されてしまった…。
というような話ですね。
まず、「シャルロットだけはぼくのもの」で、僕は爆笑でした。まさか、こんなことをミステリにしてしまうとは!という驚きで、もう楽しかったですね。「相手にそうと悟られないように、おいしいケーキをもうひとつ食べる」ために計略を巡らす小鳩君が、もうおかしくておかしくて、ミステリはまだまだ大丈夫だな、なんて思ったもんです。<日常の謎>と言われるジャンルのミステリなのに、こんな話は読んだことありませんでした。
しかも何がすごいかって、この馬鹿馬鹿しいミステリが、ちゃんと伏線になっている、ということですね。もちろん、次の「シェイク・ハーフ」もちゃんと伏線になっているわけで、本当に米澤穂信の伏線の張り方と消化の仕方は素晴らしく素敵だな、と思いました。
最終的に明かされる、スイーツセレクションの謎。ラストもどんでん返し、さらに伏線も見事に消化しきっている、という、文句のつけようのない作品ですね。
登場人物の二人も、ますます変なキャラクターになってきて、変なキャラクターが好きな僕としてはいいですね。特に小鳩君の、シニカルというのかそういう性格が、あそこまではとてもできないよなぁ、と思いながらもなんだかんだ理想的だったりするわけで、いいなぁなんて思います。小山内さんは、ちょっとトリッキーすぎますね。近くにいたら、ちょっと怖そう…。
また米澤穂信という作家は、さすがに本を読んでいるだけあって語彙がめちゃくちゃ豊富で、豊富な語彙とテンポのいい語りで、サクサク読めてしまいます。
いやー、これは読書初心者でも、ミステリ初心者でも、本当に手にとりやすい作品ですね。いいと思います。前作よりも、ミステリ的により磨きが掛かっていると思います。是非読んでみてください。

米澤穂信「夏期限定トロピカルパフェ事件」



LOVE&FREE(高橋歩)

一つわかったことがある。
僕はこの感想で、何度か旅行について書いたことがある。その主旨は大体、
『旅行には特別な価値はない』
というものだ。少しだけ説明すれば、旅行に対する好き嫌いの話ではなく、旅行をすること自体の価値の話である。時折、旅行をすることが人生経験に繋がると考える人がいるようだけど、僕にはそんな風には思えない。カラオケに行くとか麻雀をするとか、そういうのと人生経験値のレベルとしては大差はないだろう。大体そういう意味である。
その意見に特別な変更はない。
わかったことは、『旅行』と『旅』の違いである。
僕が無価値と判断したものは『旅行』であり、もしかしたら『旅』には大きな価値があるのではないか、ということだ。
僕の中で、『旅行』と『旅』がどう違うのか。
『旅行』は、場所を目指すもの、と言えるだろう。つまり、どこどこに行きたい、という目的が第一にあるものだ。観光名所にしても遺跡にしても、とにかく目指す目的が、その場所に行きそれを見るというものならば、それは『旅行』ではないかと僕は思う。
さて一方で『旅』は、人を目指すもの、と言えるだろうか。つまり、どこに行きたいということとは無関係で、多くの人に出会いたい、という発想が『旅』ではないかと思うのである。
僕は、場所を目指す『旅行』は、無価値だろうなと思う。何かを見るためだけにその場所に行く、ということに、特別な意味があるとは僕には思えない。これは僕の性格によるのだろうけど、例えば写真でモナリザを見るのと、実際にモナリザを見るのとで、どれほど違いを感じるか、というと大差はないだろう。そういう意味で無価値である。
しかし、人に出会うという目的は、これは大きな価値がある。人間というのは、一人一人皆が違う。同じ人は一人もいない。写真で見てもそれは会ったことにはならないし、会話もできない。世界中の人と出会いたいと思ったら果てしなくきりがない。
つまりそういう意味で、『旅』というものには大きな価値があるかもしれないな、と考えた。
世界は本当に広い。そして人間も本当に数多くいる。日本、という国の中にいては発想すらしないような人間が、世界にはゴロゴロいる。常識も価値観も、感情も愛情も、貧富も社会も、何もかもが違う空間の中で、人間というのはそれぞれに成長していく。そうした一人一人に出会うということに、日本にいては決して出会うことが出来ない人に出会うということに、大きな価値があるのだな、と本作を読んで感じた。
僕は基本的に人見知りなので、見知らぬ人とぱっと会話を交わすなんて芸当は出来ない。英語を喋ることができないという点を差っぴいても、僕は世界の人間と友達になることは難しいだろう。
しかし、どんな人がいるのかは知りたいと思った。知ったところで出会えてはいないのだけど、それでも知りたいと思った。僕にだって友達になる可能性のある人々に、どんな人がいるのか知りたいと思った。彼らが、どんな言葉を持ち、どんな毎日を過ごし、どんな人生を誇っているのか知りたいと思った。
僕は、自分では輪を広げられないけど、広がった輪を外から眺めるくらいはいいだろう。
そうやって本作を読んだ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
さて本作は、ある夫婦の世界一周旅行記です。
だしぬけに、まずは著者略歴を書き写そうかなと思います。

『1972年8月26日生まれ。
20歳のとき、大学を中退し、借金だらけで仲間とアメリカンバー「Rockwell's」を開店。
23歳のとき、すべてを捨ててプータローに戻り、自伝を出すために「サンクチュアリ出版」を設立。
自伝「HEVEN'S DOOR」「毎日が冒険」をはじめ、「CROSSROAD」「自由であり続けるために、僕らは夢でメシを喰う」など、多くのヒットを飛ばす。同時に、「GREAT JOURNEY」と呼ばれる違法だらけの日本縦断路上ライブを敢行したり、お祭りバンド「RAIZING」のボーカルとしてメジャーデビューも果たしている。
26歳の時、再びプータローになり、新妻「さやかちゃん」とふたり、世界一周大冒険に出発。
約2年間、南極から北極まで数十各国を放浪した後、帰国。
2001年より、沖縄に本拠地を移し、新たなる計画「島プロジェクト」に燃焼中。』

なんともうらやましい人生ですね。たぶん、誰もがこういう破天荒な人生を望みながら、一方でそれに踏み出せないんでしょうね。まあそういうものです。
というわけで本作は、高橋歩が、新妻「さやかちゃん」との世界一周大冒険で日々書き溜めていた日記の中から選び出した文章を、自身が撮った写真と共に載せた、そんな作品です。
文章の内容は、旅行に関係あることだったり、旅行を通じて感じたことだったり、まあとりとめもないようなものです。大体こんな感じだということで、僕なりに気になった文章を抜き出してみようと思います。

『サヤカの喜んだ顔が、好きだ。
ごちゃごちゃ能書きをたれる前に、
まずは、この女性を喜ばせることから始めよう。』

『子供の頃、「自転車」を手に入れて、町内すべてが遊び場になった。
ヤンキーの頃、「バイク」を手に入れて、県内すべてが遊び場になった。
そして、今、「時間」を手に入れて、世界すべてを遊び場にしようとしている。』

『「アンタのライフワークはなんだい?」

名前でも、年齢でも、国籍でも、職業でもなく、このおじさんは「ライフワーク」を一番最初に聴いた。』

『オマエハ ナニガ ホシインダ?
それに答えられない人は、旅を続けられないぜ。』

『誰かを愛するということは、
誰かを愛さないということ。

何かを選ぶということは、
何かを選ばないということ。

俺は、捨てる勇気が、まだ足りないみたいだ。』

まあ大体こんな雰囲気。
文章自体は、正直に言ってしまえば、大したことはないと思う。まあ普通の言葉が、割と普通に並んでいる。
しかし、本作のスピリットというかそういうものには共感してしまう。
何故ならば。
著者は、言葉よりも強いものを持っているからだ。
僕らが持っていない、遥かに強いものを。
世界を、言葉でしか語れない僕らとは違って、著者は世界を語るのにもはや言葉なんて必要ない。
そういうスピリットが本作にはあるし、だからこそ、本作に惹かれるのだろうと思う。
立ち読みで1時間位で読めちゃう本です。写真も結構いろいろ載っていて、まあ割と楽しめるでしょう。世界一周旅行の参考にはならないけど、読んでみてもいいと思います。

高橋歩「LOVE&FREE」



空の中(有川浩)

世界のすべてを知ることは、きっといつまでたってもできないんだろうな、と思う。
ちょっと前のニュースでこんなものがあった。地名など正確なことはすっかり忘れてしまったけれども、ある国で、まだ人跡未踏の(というのは、調査がされたことはないという意味で、人間が誰一人入ったことはないという意味ではないだろうけど)森が発見された、というものでした。その森はものすごく広大で、未発見の生態系などがあるだろう、ということでした。余談ですがそのニュースの中で、これだけの森は早急に保護されなければいけない、と結んでいたのですが、そもそもそんな報道さえしなければ森はずっと人目に知られないままだろう、と突っ込んでしまいました。
世広しと言えども、未だに調査の進んでいない未開の土地があるということが割と新鮮に聞こえて、やっぱりどれだけ研究や調査が進もうと、世の中から分からないことはなくならないのだな、と思いました。
人間というのは、好奇心が強い生き物です。僕は正直あまり好奇心というものはないのですが、その人間の性質のお陰で、世界の大体のことについてはあらかた解明されていっています。歴史・物理・数学など学問を問わず、知識は積み上げられ研鑚を重ねられ、僕らはそれを学ぶことによって世界を知悉した気になったりします。
しかし現実的にはわからないことだらけなのです。
最近、「99.9%は仮説」という新書が発売され、割と公表です。雑誌「ニュートン」の編集長だった方が書かれた本なのですが、その帯にはこんなことが書かれています。
「何故飛行機が飛ぶのか解明されていない」
そうなのです。僕ら事情に疎い人間には、飛行機というのはものすごく精密な理論の元に緻密に作られているというイメージを持つことしかできないけど、もちろんそうなのだろうけど、しかしその根幹を成す、「何故飛行機は飛ぶのか」という部分は、未だに仮説のままなのだそうです。
こうやって僕らは、わかったフリをしながら、世界について結構知っている風を装いながら生きているわけです。
時折、ネッシーやらUFOやらミステリーサークルやらが世間を騒がせます。ああいったものは、取り上げ方の問題なのか、いささか眉唾に聞こえてしまいます。しかし、いるかどうかは別として、いないと断言することはまず不可能だろう、と思うのです。僕も、積極的に信じているわけではありませんが、UFO(未確認非行物体)や未確認動物(UMA)なんかが、世界のどこかに潜んでいても決しておかしくはないだろう、と思うのです。
昔見ていたテレビ番組「200X」の中で、スカイフィッシュという生物が取り上げられたことがありました。
これは、体長は1mほどで細長い形、側面には羽のようなものがついている無色透明な空を飛ぶ生き物なんですが、最大の特徴は、目で見ることができない、ということです。そのあまりの飛行スピードのため、ビデオに撮影し、それをスローモーションにしなければ観察できない、という驚異的な生物だったのです。
実際、スカイフィッシュと思われる生物が映っているビデオを見ましたが、本当にスローモーションにしなければ見えないようなスピードで飛んでいて、しかも周囲にいる人間の目にはまったく映っていないように観察されるのです。
後の調査で、スカイフィッシュという生物は存在せず、ハエなどがビデオカメラを横切るときにそうした映像に映る、という解明がなされていて、スカイフィッシュは存在しないのか、残念、と思ったものです。
何が言いたいのか論旨が不明になりましたが、とにかくUMAなんかは世界中探せばどこかにいると思います。日本なら、ツチノコは是非見つかって欲しいですね。他にも、深海や流氷の氷の中など、人間の調査のなかなか及ばない場所や、宇宙空間などそもそも生命の存在できないだろうと思われている場所なんかに、UMAはいるかもしれません。また、僕らが「生物」だと思っている形とはまったく違う形態で存在している生物(例えば意識だけが存在し肉体を持たないとか、今まで無機物だと思われていた物質が実は、人間の1億年を1秒とする体内時計を持っていて、それに従ってゆっくりと変化・進化しているとか)がいるかもしれません。いやもちろん、積極的に信じているわけではないんです。ネッシーもビッグフットもスカイフィッシュもツチノコも、いたらいいだろうなぁ、とは思うけど、別にいてほしいと思うわけでもいたら見つけてやろうと思うわけでもありません。でも、ロマンがあるじゃないですか。人間にこれまで見つからずに生き続けてきた生き物が存在するかもしれないと思うだけで。
そんなわけで本作には、UMAが登場します。それはそれは破格の生き物で、実際こんな生き物いるかもしれないし、いたとしたら人間は気付かないだろうな、と思います。なんだか、ロマンのある作品でした。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
海外との提携なしで、日本独自での航空機の開発計画が持ち上がった。日本の頭打ちになった航空産業を活性化させると大いに期待された計画で、高度2万mでの実用に耐える実際機体も完成にこぎつけたのだけれども、実験飛行の際思いもよらぬトラブルに見舞われる。
原因不明の爆発炎上。
原因究明まで計画は棚上げになってしまう。
一方で、航空自衛隊の中でも実験飛行を担当する科が、同じ空域で2万mへの飛行実験をすることになったのだが、その際にも同じ事故が起こる。
一体、事故原因はなんなんだ?
原因究明のために、航空機開発元の特殊法人から空軍へと送り込まれた春名高巳。空軍の実験飛行で一命を取り留めた武田光稀に話を聞こうとするも、なかなか口を開こうとしない。そのわけは、空中で見たありえないものの存在のためだった。
一方で、高知県で高校生とをやっている斉木瞬。航空機計画で実験飛行を担当し死亡したパイロットの息子である。彼はある日、川で変なモノを見つける。生きているみたいだけど、よくわからないし怖くて逃げた。その話をうっかり、幼馴染でUMA好きの天野佳江に話したところ、捕まえよう!ということになった。めんどうなことになったなぁ、と思いながら従う瞬。
しかしその謎の物体が、まさか知能を有し、人語を解すとは…。
というような話です。
まじで、メチャクチャ面白いです!いや~、そこそこ期待はしていたのだけど、期待以上の作品でした。まさかこんなに面白いとは。
というのもですね、本作の著者有川浩は、ライトノベル出身の作家なんです。「塩の街」という、表紙もイラスト、中にもイラストばっちりというまさしくライトノベルで出版された本でデビューした作家なんです。そちらの作品はまだ読んでないのだけど、やはりどこかで、どうせライトノベル出身の作家だから、そこまでってことはないだろう、と思っていました。
いやしかし、とにかく最高に面白い作品で、びっくりしました。最近は、同じくライトノベル出身で、一般文芸でも本を出すようになった桜庭一樹という作家がいるのですが、ライトノベルも幅が広くなったな、と思います。本作はハードカバーで出版されていて、ライトノベル色はそもそも排除されているのだけれども、内容も普通の文芸作品以上のもので、侮れない、と思いました。一応フォローしておきますと、僕は別にライトノベルの存在を否定するつもりはないのだけど、あまり読まない馴染みのないジャンルということで、多少偏見があります。ライトノベルを好きだという方、気に障ったら申し訳ありません。
さて本作は、まああんなUMAが出てくる段階でSFなんだろうけど、それ以外はものすごく現実的な内容で、軍や政治なんかの攻防や社会の動きなんかは緻密に描かれているし、またUMAと会話する上でかなりの論理力を必要とするのだけど、その辺りもさらりと描いていて、ものすごくレベルの高い作品だな、と感じました。
内容的に僕がもっとも感心したのが、UMAとの会話というか交渉の部分ですね。詳しく触れることはしませんが、<全き一つ>であるというUMAとのやり取りは、なるほど人間というのは、多くの前提の元に生きているのだな、ということを改めて思い知らされます。
内容的にもちろん素晴らしいのですが、なんと言ってもキャラクターが最高です。これはまさに、ライトノベル出身の作家の強みと言えるかもしれません。
とにかく、主要な登場人物は、誰をとってみても魅力的な人間ばかりです。
まず、事故原因の調査のためにきた高巳と空軍パイロットの光稀。この二人のコンビは抜群に面白いです。高巳は、光稀から話を聞こうと、気長に空軍に日参するのだけど、光稀は頑なにそれを拒みます。光稀の性格が本当に頑固で堅物で、しかし飄々として気の長い高巳がそれに付き合っていく、という感じで、この二人は本当にいいコンビだな、と思います。
また、佳江と瞬のコンビも素晴らしいですね。高知弁バリバリで、性格も男勝りな佳江と、あちこち転校を繰り返したが故に標準語で、おとなしい優等生である瞬の組み合わせは、見ていて微笑ましいものがあります。もちろんもどかしくなることもしばしばで、まどろっこしい、ということもあるんだけど、それはそれでストーリーのスパイスということで楽しめるんではないかと思います。この二人の微妙な関係の変化も面白いところです。
そして本作中最大の存在感を放つのは、高知県で瞬の親代わりとなっている宮じいですね。普段は仁淀川で漁をして、全体としてもそこまで登場の頻度はないのだけど、しかし圧倒的な存在感を放っています。年寄りであるが故の落ち着きと妙な説得力を持ち、それでいて論理的に破綻はなく、宮じいの発する言葉は、どんな人間にもまっすぐ心に突き刺さっていきます。ホント、本作を読んだ誰もが、宮じいにほれ込むこと間違いなしだと思います。実在の人物をモデルにしたらしく、なんとなく会ってみたいなという気にさせます。
とにかく、誇張ではなく面白い作品です。ライトノベル出身であるが故の読みやすさとキャラクターの面白さ、そして緻密な取材と豊富な知識に裏打ちされた濃密な物語に、どんどん引き込まれてしまうと思います。是非とも読んで欲しいと思います。是非とも読んでみてください!

有川浩「空の中」



とんち探偵一休さん・謎解き道中(鯨統一郎)

♪好き好き好き好き好き好き~一休さん

懐かしいですね。

慌てない慌てない、一休み一休み。

懐かしいですね。
アニメでやってた一休さんを、子供の頃見ていた記憶がありますね。「この橋渡るべからず」とか「屏風の虎を捕まえる」とかそういうとんちを、座禅を組んで頭に人差し指でぐりぐりやって、ひらめいたなんてやってるあの一休さんは、なかなか可愛いもんでしたね。
歴史のことはまったく知らないのですが、一休さんはどうやら実在の人物のようですね。あのアニメの通り、知恵者だったかどうかは知らないけれども、そういう坊さんはいたんでしょう。
最近、IQサプリという番組をよく見るのですが、なかなか問題が解けないですね。すぐわかる問題もあるのだけど、よくわかるなこんな問題、と思うような問題が多くて、僕は頭が固いななんて思ったりします。
一休さんのとんちも、IQサプリの問題のようなもので、いかに頭を柔らかくして発想するかっていうことで、共通点があるような気がしますね。頭の柔らかさは羨ましい限りです。
さて、何を書こうかあまり思いつかないので、著者である鯨統一郎の話を少し書きましょう。
鯨統一郎と言えば、覆面作家で有名ですね。これは、経歴を一切公表しない作家のことで、他にも舞城王太郎や殊能将之なんかが有名ではないでしょうか。
鯨統一郎と言えば、デビュー作「邪馬台国はどこですか?」で注目を浴びました。僕は書店員で文庫担当なのですが、これは売れましたね、ホントに。僕も読んだのですが、あるバーで交わされる歴史談義から、日本の歴史の謎が明かされるという内容で、歴史にまったく興味のない僕でも十分面白く読めてしまう本で、かなり面白いですね。
鯨統一郎はそういう風に、作中で歴史に新たな解釈を与えるというやり方を多くしていて、その新解釈を読むと、それが正しいのかもしれないという風に感じてしまいます。一休シリーズの「金閣寺に密室」でも、一休さんのとんちとして知られるものに新しい解釈を次々に与えていたし、「北京原人の日」でも陸軍や北京原人の骨に関する歴史上の謎に新たな解釈を与えていました。
そう考えると、京極夏彦とも通ずるところがあるかもしれない、と思いました。京極夏彦も、自作の中で、民俗学に関する新たな解釈を次々と打ち出して、それが、民俗学の研究者にも影響を与えているというような話をどこかで読んだことがあります。在野で、しかも小説という形式を通じて学界に何らかの影響を与えてしまうという点で似ているように思うし、それはすごいことだな、と思います。
そんなわけで、一休シリーズ第二弾。前作は確か長編だったけど、本作は連作の短編集です。
物語の大きな流れはこうです。京の知恵者として知られる建仁寺の小坊主一休。同じ寺に寄宿する少女茜の両親を捜すため、侍の新右衛門と三人で旅に出ることにする、という感じです。その道中で待ち受ける様々な謎を、一休が見事に解き明かす、とこういう感じです。また、謎解きに際してそれを妨害したいと願う人が、「これこれができたらこうしてやろう」という難問を出してきます。それを一休が見事に解く、というとんちのおまけもついています。

「難波・明の景色」
宿を借りようとした寺で一騒動。なんでも、死者の弔いをしたいのだが、その死体には首がなく、寺としては本人かどうかもわからないので断りたい、という問答のようだ。一人の女子を巡る決闘の末に亡くなったのだが、首のありかを一休は考える。謎の解明に一休に科される難問は、明と交流のある部下に、明の景色を見せよ、というもの。

「大和・栗鼠の長屋」
宿を借りる寺でまた一騒動。なんでも住職が、外から誰も入ることの出来ないお堂の中で、首をつって死んでいたのだ。直前まで住職と話をしていた女性が疑われるのだが…。一休に科せられる難問は、つっかい棒を半分に切れ。ただし、切った後もつっかい棒として使えるように、というもの。

「伊勢・魔除けの札」
宿を借りる寺でまた一騒動。寺の住職に相談をしていた女性の話によれば、村に突然現れた美貌で記憶を失った女性が、男どもを誑かしている、ということだった。なんでも、地震が来ることを予知したり、仏像が盗まれることを知らせたりと、予知能力があるとのことで、それを信じきっているもの旦那が日参しているのだと。なんとか目を覚まさせて欲しい、とのこと。一休への難問は、部屋中に張られたお札を、紙一枚で見えなくする、というもの。

「尾張・鬼の棲み家」
今回は、泊めてもらう寺のあてがない。仕方なく、近くにあった民家らしき家に泊めてもらうことに。黒い家と白い家の二軒あり、近い白い家に入る。幸いにも誰も人はいなかった。しかし翌朝目覚めてみると、昨日まではあったはずの黒い家が忽然と消えている。一体どうしてだ…。一休に科せられる難問は、筆に一切手を触れることなく書を書け、というもの。

「駿河・広い庭」
宿を借りる寺でまた一騒動。近くの家で人が死んだようなのだが、隙間一つない建物の中で、首に毒針を刺して死んでいたのだという。自害に間違いないだろうと思われたが、そこの主人がおかしいと言ってくる。自害するような理由はないと…。一休に科せられる難問は、この狭い庭を広くしろ、というもの。

「伊豆・鰻の寝床」
宿を借りる寺でまた一騒動。寺の住職に相談していた女性によると、浜辺に建っていた家が一晩で消えてしまったという。そこにいたはずの旦那もいなくなってしまって、どうしていいか途方にくれているとのこと…。一休に科せられた難問は、畳の上を歩かずに、奥の部屋の襖を開けろ、というもの。

「相模・双子の函」
宿を借りる寺でまた一騒動。住職の耳に、地主が亡くなったとの知らせ。しかも悪いことに、地主の息子で、大分昔に勘当したはずの弟が、遺産目当てか戻ってきているとのこと。なんと息子は双子なのだという。しばらくすると、その悪い弟の方が死んだという知らせが入るのだが…。一休に科せられる難問は、二つある箱のうちどちらに胡椒が入っているか、箱を開けずに当てろというもの。

「武蔵・猫と草履」
さて、茜の両親探しの旅もいよいよ大詰め。宿を借りる寺で出会った住職は、どうにもうろたえた様子。近づいてはならないという建物もあるらしく、どこか怪しい。その建物にはなんと…。一休に科せられた難問は、禅の公案に答え続けよというもの。猫と草履の公案の解釈は、なるほど、という感じ。そして、全編を貫く大仕掛けも待ってます。

前作「金閣寺の密室」は、歴史的な出来事が多かった気がするけど、本作はどちらかというとミステリ色の強い作品で、どちらがいいということはないけど、歴史が好きで鯨統一郎を読んでいるという人にはあまり向かないかもしれません。
しかしなんと言っても、本作は読みやすい。僕はたぶん、普通の本を読む1.5倍くらいのスピードで読めたような気がします。それくらい、サクサク読めます。テンポもいいし、三人の掛け合いも面白いので、すんなり読めるのだと思います。
軽く読める作品を探している人にはかなりお勧めです。読んでみてください。

鯨統一郎「とんち探偵一休さん・謎解き道中」




家族八景(筒井康隆)

コミュニケーションはこれ以上進化しなくていい。
言葉での伝達がどれほど不便なものであっても、それ以上の方法が見つかるべきではない。
僕はそう思う。
何故そんなことを思うのか。
それは、本作でテレパス(精神感応能力者)を扱っているからである。
要するに、相手の考えていることを読むことが出来る能力者のことである。
人間誰もがこんな能力を持っていたら、本当にどうなるだろうか。想像するだけで怖いと僕は思います。
人間は、基本的に記号でコミュニケーションを取る生き物です。バーバルコミュニケーション(言語)やノンバーバルコミュニケーション(身振り手振り)などあるけれども、それらも大別すればすべて記号ということになります。
どの記号にしても、人間同士で大体意味が決まっているからこそ、コミュニケーションが成り立ちます。僕らは、相手が送ってくる記号を、こうだろうと解釈しながらコミュニケーションを日々しているわけです。
だからこそ、誤解や食い違いが生じるのですが、それを不便と思うかどうかは人それぞれでしょう。
考えてみれば、相手を欺くことができるのも、記号でのコミュニケーションならではのことです。こうすれば相手はこう解釈するだろう、という発想を元に、人は自分以外の誰かを、そして時には自分自身すらをも欺くことができるのです。
それが、テレパシーによるコミュニケーションに切り替わったら、一体どうなるでしょうか?
それはつまり、相手の思考をそのまま知ることができるということです。と同時に、自分の思考すらも相手に知られてしまうことになります。
少し前にドラマやコミックで、「サトラレ」というのがありました。僕はドラマもコミックも見てないので知らないのですが、確か自分の考えていることを周囲の人間に知られてしまう人間の話だったような気がします。本作とは逆の話ですが、それも想像するだけで嫌だなという気がします。
人間は、思考とコミュニケーションの間に記号を挟みこむことによって、正常な関係を築けるのだと、改めて思いました。思考をそのまま読むことが出来るようになったら、まともな関係を取ることなど不可能だろう、と。もし人間がそういう能力を獲得することが出来るようになったら、それは進化だと言えるだろうか?難しいところではないかと思います。
僕も、もし自分の思考がそのまま読まれていたら…と思うと少し怖いですね。僕は、外面的にはすごくいい人間を演じられるのですが、思考や発想はなかなか酷いものだと思います。つまり本当に優しい人間ではないということが、恐らく周囲にばれてしまうでしょうね。怖い怖い。
さて、少しSFじみた話をしようと思いますが、技術によって、人間はテレパシー的なものを獲得するのではないか、と思っています。
仮想空間というようなものを想定すれば、テレパシーもあながち荒唐無稽ではないような気がします。
イメージとしては、あの映画「マトリックス」のような世界です。皆頭に機械をつけて仮想空間と接続し、そこで肉体を捨て思考によってのみ存在する。今の技術では不可能ですが、この仮想空間の技術が進歩すれば、マトリックス並とはいかないでしょうが、近いところまではいけるのではないかと思ってしまいます。
そうなった時、人間同士の関係はどうなるのか…ちょっと恐ろしい気がします。
さてもう一つ書きたい話題があって、それは、家族というものについてです。
本作では、八つの家族の形が出てくるのですが、どれもこれも、「醜い」という形容が当てはまるようなそんな家族ばかりでした。
僕は、個人的には家族というものを信じていません。
なんというか、家族というものに対して、「偽りの関係」という印象を持ってしまうところが僕にはあります。例えば、友達の場合、何らかの繋がりから出来あがる関係です。学校の同級生、部活の先輩…。とにかくそういう、何らかの関係性の元に成り立つものです。
しかし、家族の場合、「血の繋がり」以外の具体的な関係性が何もありません。もちろん、「血の繋がり」というものを強く考える人が多いのかもしれませんが、僕にはとてもそんな風には思えません。年齢も経験もまったくバラバラな人間が、「血の繋がり」という目に見えないものだけで繋がれている、非常に不安定な関係だと僕には映るのです。
そういう僕の考えが、本作を読むと正しいのではないか、と感じられてしまいます。
本作に出てくる家族は、どこまでも歪な家族です。外面的な形は、「家族」という形を保っています。しかし、その内面に一歩でも踏み出すと、そこには、打算や抑鬱や嫉妬や不満などが渦巻き、とても正常とは思えない関係が成立しています。
家族だから、というのが僕には理解できません。友達だからとか、上司だからというのは納得できるのですが、親だからとか兄弟だからとか家族だからというのは、どうにも納得がいかないですね。もちろん、そんな僕の方が歪なのかもしれませんが。
特に日本人はそうかもしれないけど、家族を持つということが幸せだ、というよりも、家族を持たないと幸せではない、というような押し付けがましい価値観が蔓延しているように思います。その、無言の圧力に屈するようにして、歪な家族がどんどんと出来上がっているような気もします。家族というものに対する神話を、もっと早く崩壊させるべきではないか、と僕は個人的に思います。家族というものが至上の幸せなのではなく、人生の一つの形態であるという風に考えるべきではないか、と僕は思ったりします。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
本作は短編集なのですが、全編に登場する主人公・火田七瀬の紹介をしようと思います。
七瀬は、人の心を読むことができてしまうテレパスである。子供の頃は、誰もが同じ能力を持っていると信じていたのだけれども、次第にこれは自分だけの能力であり、他人から隠さなければならないものだと分かってきた。七瀬は、自分の能力を隠すため、ある一定のところに留まってする仕事を避け、家庭から家庭へと移っていく、お手伝いさんの仕事を選び、18才の若さであちこちの家のお手伝いさんとして仕事をしていきます。
その訪れる家庭で、テレパスとしての能力で垣間見てしまう家族の歪さを描いた作品です。
それでは内容を紹介しようと思います。

「無風地帯」
尾形家に手伝いに来た七瀬。娘に嫉妬する父。帰りの遅い娘。ナルシストな息子。何を考えているか分からない母。おざなりな形で、家族という形をなんとか保っている尾形家。七瀬は、その能力で、少しだけ家族に揺さぶりを掛けるが…。

「澱の呪縛」
神保家。子供のたくさんいる、大家族であるが、母親がとにかくズボラ。洗濯を溜めるので、臭いの少ないものを子供たちが選んでいく。部屋の掃除もしない。そこで七瀬は、家中から臭いを断とうと努力するのだが…。

「青春賛歌」
河原家。寿郎と陽子の二人家族。寿郎は、若作りにいそしむ陽子のことを憎憎しく思っているが、陽子にその自覚はない。お互いに、表面上は、無関心不干渉を貫いている。しかし、ある日敏郎が陽子に指摘をしてからは…。

「水蜜桃」
桐生家。55歳で退職を余儀なくされた主人勝美。まるで趣味もなく、日々を怠惰に過ごす勝美。そんな勝美を家族はうとましく思い、一方で勝美は仕事を出来ない現状を嘆きながらも、それまでの仕事以下の仕事はしたくないと思っている。そんな勝美が七瀬に向ける視線が日に日におかしくなっていき…。

「紅蓮菩薩」
根岸家。心理学の助教授である新三と、完璧な演技をする妻菊子。新三は無頓着でだらしのない男で、それを、妻菊子の責任ではない形で周囲に喧伝してもらうために七瀬を雇うという屈折した感情を菊子は持っており、そのプライドの高さから、新三に対する日々完璧な演技が生み出されていく。しかし、そうやって押し付けてきた感情は、七瀬の誘導もあっていつしか限界を迎え…。

「芝生は緑」
高木家で働き始めて一ヶ月。高木家の主人から、明日から一週間隣の市川家に行って欲しいと頼まれる。
七瀬はすぐに知ることになる。高木家と市川家は、断固がそれぞれ、お互いの家庭の男女を気に掛けているということを。七瀬は、そんな家人たちの思いを叶えるべく行動に移すのだが…。

「日曜画家」
竹村家。日本画家の大家だった父を持つ主人天州と妻登志、そして息子克己の三人家族。天州は日曜画家で、普段は会社勤めをしているが、時折抽象画を描く。金になる絵をまったく描かないことで家族からは疎まれるのだが、超然とも言える天州のあり方に惹かれていく七瀬…。

「亡母渇仰」
清水家。行き過ぎたマザコンとでも言うべき主人信太郎とその妻幸江、そして信太郎の母の恒子の三人暮らしだったが、恒子が亡くなり、今日はその葬儀。大人の人間とは思えない取り乱した思考と涙に、周囲も苦笑するほど。しかしそんな葬儀会場で、幸江を憎く思う思考が立ち現れる。一体どこから…。

それぞれの内容を紹介しようとすると、実は結構難しいな、という気がしました。
とにかく、家族の醜さというものが、時には徐々に、時には全面に展開されていって、そこに、時には傍観者として、そして時には介入者として眺める七瀬の思考が交じり合い、本当にぐちゃぐちゃとした感じをうまく引き出しているな、と思いました。最前、僕は家族というものを信じていないと書きましたが、本作を読めば誰しもが、自分の身近にいる人間を少しは疑わしく思ってしまうのではないか、とそんな風にさえ思ってしまいます。
特に家族の醜さが際立っているのが、「紅蓮菩薩」「芝生は緑」でしょうか。この二つは、思考と行動がまるで一貫していない、かつ、思考にもそもそも矛盾があるというような感じで、しかも、こういう家庭は実際にあってもおかしくないだろうな、という感じがしました。
また物語として好きなのは、「亡母渇仰」ですかね。これは、うまいなと思いました。
また、かっこつきで描かれる、七瀬が読み取ってしまう内面描写。この描写によって、醜さがさらに強調され、かつ物語に緊迫感を与えることに成功しているように思います。解説でこの手法について誉めていましたが、なるほど素晴らしいものだと思いました。
あと、七瀬という女性が、非常に魅力的に描かれていると思います。18歳から20歳までを描いているのだけど、どんどん美しくなっているのにその美貌を隠そうとします。それは、美しいのに何故お手伝いさんをやっているのか、という無用な詮索を排除するためなのですが、それでも次第に周囲にはその美しさが露見していってしまうのです。
しかも、時折除かせる露悪的な感情が僕としては結構好きですね。テレパスであることを利用して相手の心を操るというような場面が何度かあって、純真なだけではない七瀬という女性に、結構好感を抱いたりしました。
筒井康隆は、ちょくちょく読もうと思っている作家の一人です。本作もなかなか面白い作品で、七瀬の続編があるようなんでそっちにも手を出してみようかと考えています。読んで見てください。家族についてちょっと考えてしまうと思いますよ。あと奥付けの重版の回数を見て驚くと思うけど(僕が持っているのは、平成14年10月5日に71回目の重版というものだけど)、本当に、夏目漱石や太宰治並の重版回数で、すごいもんだな、と思いました。存命中なのに、もはや文豪という感じがします。

筒井康隆「家族八景」



永遠の森―博物館惑星―(菅浩江)

ダメでしたわ、ホント。
僕は、人生の中で、最後まで読むことを諦めた本っていうのが二冊あります。
鳴海章の「Neo Zero」
ディケンズの「大いなる遺産」
そして、その中にもう一冊加えられることになりました。
菅浩江の「永遠の森―博物館惑星―」
どうしてもダメでした。僕自身、疲れていたり眠かったりっていうのはあったかもしれません。それにしても、ここまで物語が入ってこないとは、と読んでいて苦痛でした。
日本推理作家協会賞を獲っている作品で、SF的な作品なのですが大丈夫だろうと思っていたのに、ダメでした。
読まず嫌いはよくないと思って、最近はSFにもきちんと手を出すようにしていたのですが、どうにもどれを読んでもなかなかダメでした。賞を獲った結構著名な作品を読んでいるつもりなんですけど…。
本作も、日本推理作家協会賞・星雲賞・ベストSF1位とものすごい評価を受けている作品なんですが、僕にはそのよさがまったくさっぱりわかりませんでした。
ざっと、内容を書いておきましょう。
短編集です。舞台は、地球からある程度離れた宇宙空間に浮かぶ小惑星「アフロディーテ」。ここは、惑星丸々一つが博物館であり、古今東西時代を問わず、ありとあらゆる「美」が集められているのである。
そこで、直接接続者として働く学芸員・田代孝弘。直接接続者というのは、脳とコンピューターを直接繋ぐことで、曖昧なイメージからでも検索ができる人のことである。
田代は総合管轄部署で働き、3つある部署の調整を日々の仕事としている。そんな田代の、日常を描いた作品。
なんだか、だらだらしているというか、キレがないというか、なんなんだという感じでした。最後の一応オチみたいなところにきても、うーんどゆこと?とか、だから?みたいな感じになることが多くて、よくわかりませんでした。
というわけで僕は、頑張って3分の2くらいまでは読んだんですが、読むのを諦めました。ちょっと読みきれませんでした。お勧めはしませんが、僕がSFが合わないだけだと思うので、SFが好きだという人は手にして見てもいいかもしれません。

菅浩江「永遠の森―博物館惑星―」




スパイ大作戦(室積光)

国を愛する、という発想を、今の世代の人間は既に忘れている。そもそも普段から、国というものを意識することはない。
国を愛していると胸を張って言える人間は、今どれほどいるだろうか?
今日ネットでニュースを見ていた時に、小泉首相が、「愛国心は強制しない」と言った、というようなニュースが載っていた。恐らくは、国家斉唱なんかに関係する話なんだろうけど、内容はよく知らない。しかし、そもそも愛国心なんて強制できるものではないだろう。それこそ、北朝鮮のようにでもしない限り(あれを愛国心と呼べるかは別としても)。
恐らく、戦争を体験しているかどうかで愛国心というものは大きく変わるのだろう。
戦争を経験した世代は、戦時下で国のためと身を粉にして戦い、敗戦後の日本を立て直すためと必死で働いてきたはずだ。個人を犠牲にして、国のため、会社のためにとしゃかりきになって動き回っていた世代。そうした世代にしてみれば、どれほど国家が落ちぶれようとも、やはり国を愛する心を持っているかもしれない。もちろん同時に、同じくらい国を憎んでいる人も多い世代だろうが、それも、国を愛するという発想がまずなければ、国を憎むことはできない、と僕は思っている。
一方で今の、戦争を経験していない世代は、そもそも国というものをリアルに感じることはできない。戦争を知らない世代にとって国とは、土地そのものを指す言葉になっているだろう。つまり領土だ。それ以上でもそれ以下でもない。どんなに値段の高い土地があってもそれに尊敬したり誇りを持ったりすることがないのと同じで、その世代は国というものに何の感慨も抱くことはない。ただそこにあるものとして認識するだけである。
豊かになりすぎた、というのも一因であるだろう。貧しい国というのは、一致団結して国を盛り立てようとか、あるいは何もしてくれない国を憎もうとか、とにかく国というものに対して積極的な何らかの感情を持つことだろう。しかし日本は、豊かになりすぎてしまったが故に、国というものが霞んでしまっているのである。豊かさは国がもたらしてくれているものだという発想がもうない。豊かさは、今の世代には当然のものなのである。
藤原正彦の「国家の品格」という作品がある。これは、資本主義に翻弄され、国としての誇りを失っている日本という国、あるいは日本人に対して、国家としての誇りを持つことの大事さを説いた名著であるが、なるほど、著者が嘆きたくなるものわかるという感じだ。「国家の品格」でも、結局は愛国心というものについて語っていたはずだ。それが失われている。なんとかして取り戻そうではないか、と。
国というのは、領土でも制度でもない。歴史であり伝統である。歴史が苦手で嫌いな僕がこんなことを言っても仕方がないけれども、歴史や伝統を知り、それに誇りを持ち、次世代に継承していくこと。そうやって愛国心というものが芽生えていくはずだ。
恐らく、教育にも問題があるのだろう。マスコミや金銭主義の蔓延なども影響しているのだろう。しかし結局は、一人一人の矜持である。国に誇りを持てない種族は、結局は弱体化する。政治を中心とする制度としての国家に誇りを持てないかもしれないが、日本のよさというものは目を凝らせばたくさんあるものだ。愛国心という、既に死語とも言える言葉を、今一度考え直してみるのもいいかもしれない。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
さて本作は、バリバリのスパイ小説である。スパイスパイの、スパイだらけである。
というと、007のようなド派手なアクションものを想像する方がいるかもしれないが、しかしそれは間違いである。そもそも、舞台は東京の下町の団地から始まるのである。
さてまずは、僕が本作を買おうと決めた、帯のあらすじから書こうと思う。
『カネガスキーが亡命希望→CIAがそれに呼応→カネガスキーが土産を持って来日→困るKGB→CIAがカネガスキーを保護→追うKGB…。どこに絡むんだ日本の田畑!』
このあらすじのくだらなさに惹かれて買ってみました。
時代は、正確にはわからないが、植木ひとしや谷啓がテレビで活躍していた時代、といえばわかる人はいるだろうか(僕にはわかりません)。
田畑明男は、スパイ育成所である陸軍中野学校を卒業した、本物のスパイである。彼は今、結婚し二人の子供もいる、ごく普通のサラリーマンなのだが、一方で、戦後の平和な時代にも関わらず、自らの判断でスパイをやっている。どこの組織にも属さず、どこからも報酬をもらうことはなく、ただ愛国心からスパイを継続する。CIAとKGBのどちらとも連絡が取れ、日々あらゆる情報を(しかし両陣営にとっては大して意味のない情報を)、CIAとKGB両方に流す、という生活を、もう20年以上も続けている。
やっとその努力が報われる時がやってきたのだ。なんと、CIAが立案した作戦の一部に、田畑が組み込まれることになったのだ。
さて、アメリカ大使館の奥深くにその本拠地を構えるCIA。キャプテン・ブルーをリーダーとしたレイバン軍団(常にサングラス着用、コードネームだけ聞いていると戦隊モノを思い出す)が今回実行しなければいけないのは、ソ連の科学者セコイノビッチ・カネガスキーをアメリカに亡命させること。カネガスキーは亡命に際して、アメリカに有益になるある重要な情報を持ってくることになっているのだが、ソ連側には、その情報がアメリカ側に渡ったことを悟られたくない。そのため、一旦手に入れたその情報を記憶し、すぐさまKGBの手に返そうというのが、今回のミッションの重要なポイントである。
そのために選ばれたのが、田畑明男と、たまたまアメリカ大使館に仕事で来ていた見習大工の田村耕二だった。田村には、本人の知らないところでアメリカとソ連の二重スパイになってもらい、最終的に田村の手によって、手に入れた情報をKGBの手に渡るようにしよう、という計画だった。
だったのだが…。
というような感じです。
普通スパイものといえば、それなりに緊張感の伴ったストーリーになるはずですが、本作は緊張感とはまるで無縁のストーリーです。のんびりしてます。CIAのレイバン軍団が、下町の子供と戯れて本名を喋ってしまったり、田村は黙っていろと言われたのに自らスパイであることをばらしてしまうし、とにかく間の抜けた人間ばかりで、ホントにスパイなのか?とい常に突っ込みをいれたくなります。ホントコメディタッチで物語が進んでいきます。
みんな真剣なんだけど、どこかユーモラスになってしまうんですね。田畑も、愛国心から超大真面目にスパイをやっているのだけど、その行動はなんだかおかしいなという感じがします。
まあ予想通りかなりくだらない作品だったわけで、まあでもまあまあな作品という感じですかね。
「都立水商!」と同じ著者だったので、多少期待したのですが、まあそこまでという感じでもないですね。
いや、面白くないことは全然ないんですけど、そこまでお勧めはしないかな、という作品です。気が向いたらどうぞ。

室積光「スパイ大作戦」



εに誓って SWEARING ON SOLEMN ε(森博嗣)

自らの意思で死のう、という感情を持ったことがある。幸いにも今はその感情を持っていないが、かつては間違いなくあった。
どうしてだろう、とやはり時々考える。どうして死のうと考えたのか、言葉で考えてみようとすることがある。
しかし、それはなかなかうまくいくものではない。
直接的でわかりやすい原因があったとは思えない。はっきりとこれと指し示すことのできる何かが見えたわけでもないと思う。
それでも、死にたいという感情が押し寄せてくる。
死ななくては、という感情に支配される。
それは、なかなかに恐ろしいことだ。
人間は、やはり死を恐怖する。大昔からそれは変わらない。死を恐れ、いかにそこから逃れるか。それは、人間の大きなテーマだったはずだ。
一方で死にたいと願う自分がいて、一方で死にたくないと願う自分がいる。前者は社会的な自分であって、後者は本質的な自分ではないか、という気がする。つまり、肉体を滅ぼしたいわけでは決してない。そうではなく、社会的に死を望んでいるのだ。そういう分析をしたことはないでもない。
結局、僕は死ぬことができなかった。それだけが事実である。
世の中には、自ら命を断つ人間が多くいる。最近はニュースでもあまり報道されなくなったが、サラリーマンの自殺も年々増えているようだし、若者だって死んでいるはずだ。
集団自殺というものもある。
一時期、練炭を使った中毒死を、集団で意図して行うという報道が盛んになった。ネットで仲間を集めて一緒に死のうと持ちかける。
正直に言えば、その気持ちはわからないでもない。そういう人間は恐らく、なんども一人で死のうと試みたはずだ。しかし、うまくいかない。やはりどこかで、死にたくない自分が出てきてしまう。
しかし、誰かと一緒ならば、自分一人の意思で辞めることはできない。その場の雰囲気に流されるようにしてでも死にたい、それに、どうせ死ぬなら誰かと一緒がいい、そんな想いが、人々を引き寄せるのだろう。
今僕には、死への誘惑はない。まるでないと言っていいだろう。しかし、将来的にまたその誘惑に魅せられることはあるだろう。これは恐らく間違いないことだと思う。年齢を重ねれば重ねるほど、人は孤独になっていく。僕がそれに耐えることができるか。そのイメージが僕には今はできない。
ただ、死にたいと望んだときに死ぬことのできるシステムというのは、もう少し確立されてもいいのではないかと思う。僕は、今は死にたいとは思わないけれども、生きていることに満足しているかといえばそんなことは決してない。死のうと思っていた時期に、本当に死んでしまっていたとしても、大きな後悔はなかったかもしれない。そんな風に思う。
死にたいという気持ちは持続しない。だからこそ死ぬべきではない、という意見もあるだろう。しかし僕は、だからこそ死なせてあげるべきではないか、と感じてしまう。死にたいと願った時に死ぬことができるというのが、ある意味僕の一つの理想ではある。
誰もが、生きていることを強制される。それでも、そのことに気付かずに、あるいは気付かないフリをして、楽しく生きていくことができる人もいる。しかし、誰もがそうとは限らない。生きていることが苦痛で仕方ない人間だって無数にいるだろう。同じ価値観を当てはめられることに苦痛を感じる人間が。そういう意思は、社会では何故か尊重されない。不思議なことである。
内容に入ろうと思います。
さて本作は、森博嗣の<G>シリーズの最新作です。
加部谷と山吹は、偶然同じ時期に東京へ行くことを、その数日前に知った。帰りの日付は同じである。ならば一緒に帰ろう、という話になり、二人で長距離バスに乗ることになった。
そのバスは、雪のため発車が遅れているようで、発車時刻にギリギリ間に合った山吹も、まったく間に合わなかった加部谷も、なんとか乗り込むことができた。
しかし、なんとそのバスにはバスジャック犯が乗っていたのだ。丁寧な口調で乗っ取りを宣言する犯人。銃を持っているようだが、威圧的ではない。乗客は、携帯電話の使用を許可されるという無防備ぶり。余計な緊張は少ない道中だと言えるかもしれない。
一方で、バスに乗っていない側、つまり西之園萌絵をはじめとする面々は、あたふたと忙しない夜を過ごす。西之園萌絵が各方面に連絡を取り、意見交換をし、二人を心配する。状況が入ってこないことがもどかしい。
そうやって過ぎていく夜。ジャックされたバスに乗った二人はどうなるのか…。
という話ですね。
僕は、このシリーズは当初からあまり評価できていないのだけれども、本作もどちらかと言えば、読後感は微妙だと言えるかもしれない。
なんというかこのシリーズは、読者を微妙なところの落としこむシリーズなのである。
ストーリーはまあそこそこ悪くないし、描かれる乗客の心情も、割と近いものを感じる。ラストまでの展開もさすが森博嗣と言う感じだし、だから作品として悪いかというとそうでもない。
ならば何が悪いのかと言えば、このシリーズ名にもなっているギリシャ文字との関わりである。
本作はシリーズ四作目なのだけど、未だに事件とギリシャ文字との関連がほとんど明かされることがない。真賀田四季が関わっているかもしれない、という話が、確か前作辺りから出てきて、本作ではもう少し進展するかな、という気がしたけど、まったくそんな気配もない。
なんというか、もどかしくなってしまう。
僕の中で最大の恐怖は、このままギリシャ文字と事件との関連、あるいは、ギリシャ文字と真賀田四季との関連が明かされることなくシリーズが終了するのではないか、というものだ。ありえないとは思うが、森博嗣なら何をやるかわかったものではない。
また、本作ミステリーとしては破格の設定だと思うが、事件の犯人が発散するのである。確かシリーズ第1作目こそ、犯人は身近な人間だったはずだが、それ以降は、犯行方法は特定できるけど、犯人は誰か知らないよ、という感じなのである。登場人物表の中に犯人がいない、という本格ミステリー。悪くはないが、まだそのやり方に慣れない、と言ったところだろうか。
とにかくこのシリーズは評価が難しい。前シリーズである<V>シリーズは、それぞれの作品が面白いかどうかで評価できた。しかしこの<G>シリーズは、それぞれの作品だけではなかなか評価が難しいような気がする。これからどう展開するかによって、それまでの作品の評価が決まっていくような気がするのである。
だから今の所なんとも言えないのだが、現段階ではそこまで面白いシリーズではないと思う。森博嗣としては、それまでに書いたものとは別の方向を目指している、というようなニュアンスのことをどこかに書いていたような気がするけれども、やはり<S&M>シリーズのような作品をもう一度読みたくなってしまう。と思うのは僕だけだろうか?
あと、新書なのに一段組みという手法はどうなんだろう?文庫で出せばいいのに…と思ってしまいますね(まあこれについては森博嗣自身もそう思ってるだろうから、森博嗣を責めることは出来ないけれども)。
森博嗣のファンなら、まあ当然買うからいいとして、森博嗣にはじめて触れるという人は、やはりこのシリーズから入らない方がいいような気がします。こんなものなのか、と思われてしまうような気がします。読みやすさで言えば「すべてがFになる」より読みやすいのかもしれないけど、それでも森博嗣にはじめて触れる人には、是非「すべてがFになる」から読んで欲しいなぁ、と思います。

森博嗣「εに誓って」



陽気なギャングの日常と襲撃(伊坂幸太郎)

人間って、愛すべき存在だよなぁと、読んだ後にそう思える小説は、なかなかない。
ただ、伊坂幸太郎の小説を読むと、人間もなかなか捨てたもんじゃないなぁ、とそんなことを思う。
出てくる人間が、どれも優しいのだ、と思う。
もちろん、本作に出てくる人間は犯罪者が多い。というか、犯罪者ばかりである。基本的に、犯罪者が犯罪を起こすクライムノベルスなのである。
しかし、犯罪者にも関わらず、出てくる人間たちがとても人間的で、犯罪者であることを除けば素晴らしい人間であることは間違いないと思う。いや、犯罪者であってもいっか、という気にすらなる。
もちろん、現実はそううまくはいかない、ということはわかっている。現実に生きる人間は、割と悪い人間で溢れている。それは、犯罪をするとかどうとかいうことではなく、人間的に認められないというか受け入れられないというか、そういう類の人のことである。
僕は、比較的友達のいない人間なわけで、そこまで多くの人間に接することはない。接するのは、気心の知れた友達や、好き嫌いに関わらず接しなくてはいけない仕事場での人間などがほとんどである。なので、僕が出会う人間に対して、そういう風に思うことはあまりない。
けれども、ニュースなんかを見ていると、あぁ僕には理解できないな、というような人が結構出てくる。犯罪者に限らず、だ。その人の価値観というか哲学というか、そうしたものを、なかなか受け入れられないというような人。なんだかイメージでは、僕の理解できない人で世の中は溢れているのではないか、と感じる。
しかし、伊坂幸太郎の描く人間は、現実離れしているけれども、人間的にとても魅力的だ。牧歌的、というのだろうか。どの人も、好きになってしまう。
それぞれの人間に、それぞれの哲学がある。もちろん、哲学そのものを受け入れられない場合もないではない。しかし、伊坂幸太郎の小説の登場人物たちは、その自らの哲学を、常に忘れることなく持ち続けるのである。行動にしても意見にしても、自らの哲学を曲げたりすることはほとんどない。そういう姿勢が、読んでいてとても心地いい。
本作の登場人物にしても、彼らは銀行強盗なのである。しかし、彼らの犯行には哲学がある。もちろん、銀行強盗という犯罪は悪いことだが、彼らがやっていることは許せてしまうような気がする。
のどかだなぁ、と思う。彼ら四人組は、決して仲がいいというわけではないように見える。しかし、彼らの関係が僕には羨ましい。あの距離感が、微笑ましく思える。
伊坂幸太郎の小説を読むといつも感じるのは、彼らのいる世界に紛れ込みたい、という感覚だ。同じ世界を共有したい、と感じてしまう。それが出来ないことが、まあ残念で仕方ない。
というわけで、ちょっと何を書いているのかわからなくなったので(と書いて逃げるというやり方を僕はいつの間にか身に付けてしまった。正直に書くと、本作の感想は何を書けばいいのかわからなかった。だけど、面白い作品なので出来るだけ長く感想を書きたかったので、文章がよくわからなくなってくる。面白いんだけど、感想は何を書こう、と悩んでしまう作品は結構あったりする)、そろそろ内容に入ろうと思います。
さて本作は、ちょうど映画が公開されたばかりの「陽気なギャングが地球を回す」の続編になります。つまり、前作で大暴れした四人組、成瀬・雪子・響野・久遠、が、相も変わらず大暴れする、という内容になっています。
なんですけど、先にちょっと本作の成立過程を書いてしまいましょう。実は本作は当初、「ギャング」の主人公達を登場させる8編の短編集になる予定だったようです。しかし、著者である伊坂氏は、短編でいいんだろうか?と思ってしまったようで、短編4作を書いた段階で方向を修正、その短編四作を第1章として組み込んで、長編に仕立ててしまおう、と考えたようです。それで出来上がったのが本作だ、というようなことがあとがきに書いてあります。
という成立過程を踏まえて、内容の紹介をどうぞ。
人間嘘発見器である成瀬は、市役所に勤める公務員である。その部下に、大企業の社長令嬢と交際している男がいる。何でもその部下は、その社長から結婚を反対されているようで、さてどうしたもんでしょうねぇ、とのんびりと相談を受けるのだが、その途中でなんと、屋上篭城事件に遭遇する。刃物を持った男が人質にとった男を掴まえて屋上で立て篭もっている。その人質はなんと、市役所に苦情を言いにきたおじさんだった。人質のおじさんは、何かを書いた紙を落とすのだが…。
演説の達人である響野は、自身が店主である喫茶店に時折来る客からある相談を受ける。なんでもその男は、酒を飲むと記憶を失うらしく。今朝起きてみると、部屋に女性の書置きがあるのだが、その女性のことを何も覚えていない。さて一体その女性はどこの誰だったんでしょう…?という、「幻の女」を探してくれという相談だったのだけど…。
正確な体内時計を持つ雪子は、派遣社員として勤める会社で、同僚の女性から相談を受ける。実は、入手困難と言われるあるチケットを持っているのだが、誰からもらったのかわからない。自分は当日行くべきだろうか、と。その後ドタバタしたもののなんとか会場に間に合ったのだが、結局何も起こらなく…。
スリの天才である久遠は、公園で突然殴られたというおじさんを慰める。話を聞き、いつものように掏った財布から、その相手を見つけよう、と提案する。しかし、ギャンブルにはまっているというそのおじさんはどうやら何か企んでいるらしく…。
と、四人が四人バラバラの事件に遭遇する。まあ、事件と呼べるのかどうかというような事件だが。
さて、そんな風にして過ごしていた四人だが、久々に銀行強盗を実行する。やりなれた仕事だが、その銀行にいた客の一人に成瀬は見覚えを感じる。その時はわからなかったが、なんとその女性は、成瀬の部下のフィアンセである社長令嬢だった。部下に聞くと、連絡が取れないという。誘拐事件ではないか?と成瀬は仲間を集めて言う。久遠の掏った財布から、犯人の足取りを辿るのだが…。
とまあ、相変わらずドタバタのクライムノベルスです。
読んでてとても面白い。
ただ、満足と言えるかというと、少し微妙かな、とも思う。
まず面白い方だけど、これは相変わらずいつものように、四人組のどこか浮世離れした会話だったり、ドタバタっぷりだったり、出てくる犯罪者のまぬけっぷりだったり、伏線の見事な絡みだったり、そういうところはとても面白い。なんかすごくおざなりな誉め方のような気もするけど、これは読んでもらうしかない。
ただ、微妙なところもないではない。まずはやはり、第1章に組み込まれた四つの短編が、最終的にきちんと消化されていないような気がするのだ。これは、先ほど書いた路線変更の影響だろう。四つの短編は、それぞれとても楽しい。僕としては、本編よりも短編の方が面白かったかもしれない。しかし、その四つの短編が本編に影響するのはごく僅かで、実質本編のストーリーにはあまり関係がないような気がしないでもない。とくに僕としては、響野の「幻の女」事件が本編とどう関わるのかがとても楽しみだったのだが、そこまで本編と関わらなかったので残念だった。
あとはなんというか、ストーリーがちょっと単純というか平坦かなという気がした。もちろん、最後のドタバタは面白いと思うし、最後の最後のオチも僕としては好きである。しかし、それまでのストーリーが、ちょっとウキウキが足りない気がした。まあこれも、路線変更の影響だと思うけれども。
まあ、続編だから多少仕方ない気はするけど、伊坂幸太郎だから期待しないでもなかっただけど、ちょっとその辺は残念だったと思うし、前作と比べて満足とは言えないと思う。
しかし、冒頭で伊坂幸太郎は、「前作以上に、現実離れした内容になりましたが、細かいことは気にせずに楽しんでいただければ幸いです。」と書いているのだけど、僕は本作の現実離れっぷりはとても好きだ。時折、リアリティがないと言って小説を否定する人がいるけれども、僕にはどうも理解できない。小説なのに、どうして現実っぽくある必要があるんだ、と思う。小説は小説で、好きなようにやればいいではないか、と。
本作でも、現実離れしたところは山ほどある。特に、田中という発明家が出してくる発明品はうそ臭さ満点だろう。だが、そんなことはどうでもいいのである。僕は、本作をリアリティがないと言って貶す人がいたとしたら、うーんまあどうもしないけど、ムカツクだろう。
最後に。あとがきに気になることが書いてありました。
「この続編の最初のきっかけを与えてくださった、書店員の下久保玉美さん、どうもありがとうございました。」
こんなことが書いてある。
僕も書店員なわけで、なんか羨ましいなぁ、と思う。どうやったら、作家に何らかのきっかけを与えることができるのだ、とあーーー、羨ましいーーぞーー。しかも伊坂幸太郎だし。いいなぁ。
まあそんなわけで、前作を読んだ人はまあ買うでしょうし、映画でこのシリーズを知った人は是非前作から読んでください。期待しすぎると満足度は低いかもしれないけど、もちろん充分面白い作品です。ご堪能ください。

伊坂幸太郎「陽気なギャングの日常と襲撃」


私を 見て、ぎゅっと 愛して(七井翔子)

『愛する』という言葉が、これほど深く、これほど痛く、これほど強く突き刺さる作品を、かつて僕は読んだことがない。
先に言い訳をしてしまおう。
僕は、この作品の感想をうまく書ける自信がない。僕の言葉できちんと語るには、僕の文章はあまりに貧弱だ。稚拙であり、洗練さに欠ける。本作で著者が紡ぐ日本語の美しさ、文章の見事さに、僕は圧倒されている。
それでも僕は、必死で僕の言葉を掴まえる。僕の元に燦々と降り注ぐ、著者の美しい言葉たち。その欠片を拾い集めてでも、僕は感想を書こうと思います。
人間が愛し合うということに、神様はどんな意味を持たせたのだろう?そんな疑問が、ふと僕の心を過ぎる。
愛し合うということ。それは、簡単なことではない。
僕らは、『人を好きになる』ということを、比較的簡単にしてしまう。最近は特にそうではないか、と思う。『好き』という言葉の意味が、どんどんと変わっていく。めまぐるしく。『好き』であることが、『愛している』ということでなくなったのは、一体いつの頃からだろう?
僕らは、『好き』と『愛している』を使い分ける。無意識のうちに僕らは、言い訳を用意している。『好き』だけど、『愛してはいない』と。
だから、愛し合ってもいないカップルが、街中に溢れかえる。ぎらつくネオンの瞬きに呼応するように、カップルがまた一組と、夜の闇に現れては消えていく。
誰もが、孤独を抱えている。孤独を紛らわすためだけに、誰かを『好き』になる。自分の孤独を埋めてくれるならば誰でもいい。孤独を忘れさせてくれるなら何でもいい。僕らはいつだって悲鳴を上げている。自分の上げた悲鳴を聞きたくなくて、けれど誰かを『愛する』には少し怖くって。そうやって、逃げる。逃げて逃げて逃げていく。
わかってしまう。
僕は、七井翔子という女性を理解できてしまう。理解できてしまうことが正しいのか間違っているのか。たぶん、それを問うことが、既に間違っているのだろう。そう信じたい。
時折『純愛』がブームになる。
ただ、『純愛』とは何かと聞かれて、答えられる人がどれだけいるだろう。
僕にもわからない。
『純愛』というものは、作られすぎているように感じてしまう。どこか『純愛』というものに、醒めた視線を投げかけてしまうという人もいることだろう。作り物の中にしか、『純愛』は存在しえない。僕はそう思う。
だからこそ僕は、本作は『純愛』ではない、と書こうと思う。何故ならば、本作は作り物ではないからだ。
その文章から、そしてその奥に透けて見える七井翔子という女性から、『愛する』ということに対する真摯な感情が、まるで風に乗って流れてくるように伝わってくる。あらゆる五感を刺激して止まないその風は、僕らの元へと届き、ふんわりと心を撫でていく。ゆったりと心を洗い流していく。
しかし、同時に僕らは、七井翔子という女性の心の奥深くに巣食う、どす黒いカタマリのようなものも見ることになる。それは、僕らに嫌悪感を与えるかもしれない。何故なら、僕らの中にもあるかもしれないものだからだ。このカタマリの煤け具合が、本作を『純愛』にしていない。徹底的に、苦しいまでに『愛する』ということを追求していながら、一方で醜いカタマリが常にまとわりつく。これが現実という重みであるし、逃げてはいけない現実なのだと、ひどく感傷的な気分になったりもする。
本作で七井翔子自身が産み落とす、自らの汚点とも言うべきカタマリ。それは、同じ形ではないにしろ、誰しもが持っているはずのものだと思う。誰もが、どうしようもなく寂しく、どうしようもなく孤独で、それでも一人を抱えて生きている。誰と一緒に生きていても、誰かと同じ道を歩いていても、どこかで必ず、自分が一人であるという事実を突きつけられる。
一人で生きていくんだということ。
現実を見据えるということは、いつだって厳しい。
誰かに頼ってもいいけど、依存してはいけないだろう。
誰かを愛してもいいけど、独占してはいけないだろう。
人は生きているうちに様々に学ぶ。
しかし、学んでも学んでもどうにもしようがないことに僕らは躓く。
『愛する』ということもその一つだ。
僕は、今まで『好き』になった人のことを思い出してみる。学生時代は、好きな人はいたけど、恋愛なんかしたことはなかった。自分の一方的な『好き』を、相手に伝えることもしなかった。僕は、『好き』を閉じ込め、何もかも押し込めた狭い世界の中で生きてきた。その中で、僕はどこかに忘れ物をしてきてしまった気がする。
取りに戻ることのできない落し物。僕はそれを今、出来るだけ取り戻そうと、バラバラになったジグソーパズルを組み立てるようにして、バラバラになった何かを組み立てているような気がする。
今まで『好き』になった人のことを思い出してみる。
その人達を『愛して』いたかと僕は自分自身に問い掛けてみる。
すぐに答えがでる問いではない。
一生答えの出ない問いかもしれない。
ただ、いつかその問いに答えの出せる関係に出会いたい。
その答えを共有できる人と日々を過ごしてみたい。
孤独を埋めるために誰かを必要とするのは、少し寂しい。
孤独を共有するような付き合いも、どこか冷たい。
孤独に関係なく、一個の人間として、ただ『好き』なだけではなく、『愛して』いると強く信じられる関係に出会うことができればいい。その困難に至る過程を、僕は耐えられるだろうか?
『私を 見て、ぎゅっと 愛して』
できれば、こんなこと、言わせたくないと思う。
自分でも一体何を書いているのかわからなくなってくる。そろそろ内容に入ろうと思います。
まずは、本作の成立過程について。
本作は、七井翔子(仮名だそうです)という女性が、2003年12月15日から2005年2月1日まで、「翔子の出愛系日記」というHPに掲載された日記を書籍化したものです。
著者は、素人の一般女性。
著作は、フィクションではない事実を綴った日記。
僕も、手に取った時には、まあWeb本だからなぁ、とそこまでの期待はしなかった。これだけ世の中に個人の日記が溢れている中で、どれだけアクセスの多いサイトであろうと、所詮は素人の日記だろう。そういう感覚があった。
とんでもなかった。
そこらに無数に存在するWeb本と一緒にしてはいけない。そんなものとは端からレベルが違うのである。
ざっとではあるが、どんな内容なのかという点に触れよう。
七井翔子は、出会い系で知り合った男と、日々セックスを繰り返す。それはもう、衝動と言ってもいいもので、自分でも抑え切れない。
彼氏は、ちゃんといる。
彼氏のことは、かけがいのない存在だ。既に結婚の約束までしている。セックスは淡白であまり満足はできないが、優しい彼だ。
それでも翔子は、出会い系を止められない。誰かに抱かれていないと、誰かに肌の温もりを感じていないと、不安で仕方がない。
実は、アダルトチルドレンという状態に翔子はある。アダルトチルドレンというものは病名ではない。しかし、その状態からあらゆる病気が派生する。彼女は、定期的に精神科に通っている。名木という名の担当医師と、とても気が合う。
仕事は、塾の講師だ。生徒からも塾からも評判がいい。優秀な講師である。人付き合いは苦手な方だが、若林という男性講師とは、冗談を言い合えるいい仲だ。
翔子のことを、病気のことまで含めてとても理解してくれる親友がいる。幼稚園の頃からの親友、由香。彼女にだけは、出会い系で男と寝ていることも話している。包み込むような包容力。彼女がいるから、翔子は生きていられる。
翔子の日常は、緩やかな波を描きながら、壊れるでもなく成長するでもなく、偽りの安定を保って過ぎていく。しかし、徐々に崩壊の兆しが見えてくる。少しずつ、綻んでくる。私は寂しいのに、私は孤独なのに、みんなが私から離れていってしまう…。
というような話を、日々の日記に載せて文章にしたものです。
本作の何が素晴らしいのか。
文章の素晴らしさ。
事実と信じることが難しいくらい波乱の展開。
この二点である。
まず、文章が美しい。揺るがない清廉さを持つ文章は、読む人の心を簡単に揺さぶる。ふと触れた言葉が胸を打ち、ふと触れた文章が胸を焦がす。七井翔子という女性の内面が、汚い面も綺麗な面も、隠すことなくさらけだされているその文章は、しかしどこまでも美しさを損なわない。性的なモチーフを題材にした絵画作品を見て美しいと感じる感覚と似ているかもしれない。
日記の中で七井翔子は、言葉を口にするのは苦手だけれども、文章にするのは楽しい、と書いている。確かに、彼女にとって内面を文章にすることは、一種安定剤の役割を果たしていたらしい。それにしても、ここまで見事な文章を書ける人がどれだけいるだろう。僕も同じくこうやってブログで文章を垂れ流している一人であるけれども、自分の文章が恥ずかしく思えてくる。それくらい、文章が突出してうまい。僕は、実は本作はある作家が覆面で書いた小説なんです、と言われてもまったく驚かないだろう。むしろ、そうであって欲しいと願ってすらいるかもしれない。
そして、七井翔子を取り巻く状況の展開が、事実だとは思えないくらい激しいのである。まさに、ドラマを見ているような展開で、事実は小説よりも奇なりという言葉の意味を、まざまざと見せ付けられた形である。とにかく、出てくる人間がありとあらゆる恋愛の形を追う。その多くは、どれも救われないものばかりだ。『好き』になることも『愛する』こともできるのに、『愛し合う』ことだけが出来ない。そして、その中心に七井翔子がいる。
あらゆる人間が傷つき、あらゆる人間が人生の転換を図る。誰に対しても誠実であろうとする心と、どうしようもなく不誠実を求める体。孤独を埋めるために、隣を歩く誰かを求めるあまりに、彼女は何か大きなものを抱えていくことになる。小さな雪玉が転がって大きくなるように、彼女の人生は、転落と共に余分な何かを常に背負うようなものだ。
映画にもなる「嫌われ松子の一生」という作品がある。あの作品の中で、松子という女性はかなり辛い人生を送る。しかし、本作の七井翔子も、それに負けない辛い人生を送る。激動、と言っても大げさではないかもしれない。それだけのモノが、それだけの想いが、本作には詰まっている。
僕の中では、リリー・フランキーの「東京タワー」を超えました。今年読んだ本のトップ10には間違いなく入るでしょう。僕は書店員なので、やろうと思えば「本屋大賞」に投票できるのですが、もし投票するならこの作品にするでしょう。僕は文庫担当なので、本来ならば本作を売り場に出すとかそういう決定権はないのですが、文芸の担当と交渉して、本作を売り場に置くことに決めました。とにかく、一冊でも多く売って、一冊でも多くの人に読んでもらいたい。それほどに素晴らしい本です。
僕は本作を古本屋で買ったのですが、正直、本作を新刊で買わなかったことを後悔しています。というのも、本作の帯にこんな文句があるからです。
『本書の印税は全額、著者の意向により小児がんで苦しむ子どもたちのために寄付されます。』
著者は、一切の印税を受け取らずに、全額を寄付するのだそうです。「電車男」の、二次使用権は全額新潟の震災被災者に寄付する、というのに似ていますが、全額というのは素晴らしいと思います。
僕は基本的に偽善者なのですが、それとは関係なく、本作は新刊で買えばよかったなと思います。本を買うことで寄付に参加できるというのは、悪くない、と思います。
このサイトを見てくれている方がどんな方たちかはわかりませんが、お願いがあります。本作を広める努力をしてはもらえないでしょうか?もちろん、近くの書店に置いてあるとは限りません。新聞に何度か載ったようですが、それほど話題になっている作品でもありません。でも、僕はどうしてもこの作品をいろんな人に読んで欲しいと思っています。書店員の方、見てましたらあなたの書店に本作を置きませんか?メディア関係者の方、見てましたら何かで特集を組んではもらえませんか?本の感想のブログを持っている方、見てましたらあなたのサイトに感想を載せてくれませんか?他にも、周りの人に、こういう本があるみたい、ネットである人が大絶賛してたよ、と広めてくれるだけでも構いません。
僕は正直、本作に恋をしてしまったようです。ちょっとこの一年、何とかして本作を売ってあらゆる人に読んで欲しい、そう願っています。できるかどうかはわかりませんが、本作にはそれだけの価値があります。
どうかこの記事を読んでださった方、是非とも本作を読んで見てください。そして、もし素晴らしい作品だと思えたら、それを周りに広めてください。よろしくおねがいします。

七井翔子「私を 見て、ぎゅっと 愛して」





太陽の簒奪者(野尻抱介)

異星人はいるか、というのは、比較的興味のある話題である。
異星人はいると思いますか?と問われたら、なんと答えるだろう。僕なら、いてもおかしくはない、と答えるだろうか。
森博嗣という作家が、「臨機応答・変問自在」という著作の中で、「異星人はいると思いますか?」という質問に対して、次のように答えていたように思う。
『いるかもしれないが、同時であるとは思えない』
宇宙開闢以来、46億年という月日が断っていると言われている。その中で、地球上に人類が誕生してからまだ数万年というレベルである。これは、宇宙誕生から現在までを24時間で例えた時、人類が誕生したのはたったの1秒前、ということになるらしい。23時59分59秒に誕生した人類は、宇宙全体の時間で考えると、1秒しか存在していないわけだ。
森博嗣の回答はつまり、人類が誕生してからの1秒と異性人が存在していた時間が、重なっていると考える方がおかしいのではないか、ということだ。つまり、かつてどこかの時間に異星人はいたかもしれないし、これからの未来に存在するかもしれない。でも、僕ら人類が存在しているそのまったく同時の時間の中で、異性人が存在すると考えることは、逆に不自然ではないだろうか、と。
その考え方は、非常に納得のいくもので、読んだ時はなるほどその通りだ、と思ったものである。
異星人とコンタクトを取る、という研究は、実際に大真面目に行われている。
基本的には、異性人が存在するものだと仮定し、さらに同程度の知性を持っていると仮定し、その上で、異性人に向けたメッセージを送り、かつ、異星人から送られているかもしれないメッセージを日々探す、という研究である。そのために、世界中の天文台や関係機関で、電波の送信と受信が行われている。
地球からの異性人に向けたメッセージは、ある方法で並べ替えると絵になるというもので、その絵には、人間の男女を模した絵が描かれている。他にも確か、人間の存在やコミュニケーションを取りたいという意思が絵で表現されているのだったと思う。
ただ、その研究が実るとは思えないのも事実である。同時には存在しないか、したとしてもものすごく遠くにいる。結局はそんな感じがする。
UFOだとか宇宙人による誘拐だとか、そういうオカルト的なものは特に興味はないのだけど、もし現実に異性人とコンタクトを取るようなことがあるなら、それにはちょっと興味がある。
まあそんな風に思いました。
内容に入ろうと思います。
西暦2006年に物語は始まる。地球と水星の日食を観察しようとしていた、高校生であり天文部に所属する白石亜紀は、世界中の他の天文学者と同様、奇妙な現象を目撃する。それは、水星の地表表面から伸びた塔に見え、当初は一体何なのかわからなかった。
詳細な調査により、驚くべきことが判明した。塔のように見えたものは、水星から吹き上がる鉱物資源であり、水星は恐ろしく緻密な無人のシステムによって機械化されていた。水星から湧き上がる鉱物資源は次第に太陽の重力圏に留まるようなり、そして太陽を取り巻く直径8000万キロのリングになった。リングにより日照を遮られた地球は、環境が悪化し、人類にも多大な影響を及ぼすようになった。しかも、誰が何の目的でリングを製造したのか、まるでわからない。
とにかくこのまではまずいと、リングの調査と破壊が早急に求められるようになる。科学者となりリングの研究に身を捧げる白石亜紀は、リングの破壊活動に乗り出す宇宙艦ファランクスに自ら希望して乗艦するのだが…。
感想としては、ちょっとつまらないな、という感じです。正直、これまでもそうだったのですが、やっぱり僕にはSHは合わないな、と思いました。
まず一番の難点は、技術的・現象的な描写がほとんど理解できない、という点です。僕は、下手の横好きですが物理が好きで、得意なわけでも優秀なわけでもないけど、中くらいの理系の人間くらいの知識はあると思っています。それでも、ここで描かれる物理的な現象やさまざまな技術に関する描写が、難しすぎて理解できないし、現象もどんな感じなのかイメージできなかったです。まず何よりもその点が厳しいですね。
あとはまあ、そういう難しい話が結構出てくるのもあって、ストーリーを追うのが疲れてしまうし、そもそものストーリーもそこまで面白いわけでもないので、どうしたものかな、なんて思いながら読んでました。
異性人の存在が確認できて、それでコンタクトを取るという話になるのだけど、向こうからは一向に返答がない。何故だ。という感じの話になって、で最後にそれは説明されるのだけど、その説明も、はぁ?という感じで、わかったようなわからないような感じで、はぐらかされたような気になりました。とにかく、最後があんまり僕としては気に入らないというか好きになれないですね。
あと物語として薄い感じがして、元々短編だったものをいくつか組み合わせて長編にしたらしいんだけど、まあそれが原因かどうかは別として、ストーリーが性急過ぎて内容が薄い感じがしました。
まあ、とにかくあらゆるリアリティにこだわったというようなことがあとがきに書いてあって、その点だけ見れば素晴らしいのだと思うけど。
本作の元になった短編の一つだ、本作のタイトルと同じ「太陽の簒奪者」というものなんだけど、この短編が、SFマガジン読者賞、星雲賞、という二つの賞を受賞しているらしく、かつ、本作「太陽の簒奪者」が、2003年の「SFが読みたい!」の1位になったようで、SFの世界ではかなり評価されている作品のようなので、SFが好きだという人にはいいのかもしれないけど、ちょっとやっぱり僕にはSFというジャンルはダメそうですね。
ただ一点これは悪くないなと思った点があって、それはSFでありがなら現代の技術(あるいは現在から考えて未来にはなんとかなりそうな技術)しか持ち合わせない世界が舞台だということ。SFの世界って、例えば人類が宇宙船を作って他の星に行ったり、ものすごい技術があってすごいことが出来るみたいな設定が多いんだけど、そういうのは僕としては苦手で、ありうる技術のみで異星人とのコンタクトを描いている、という点ではいいなと思いました。
まあ、SFが好きな人は読む、そうでない人は読まない、という明確な作品ではないかなと思います。

野尻抱介「太陽の簒奪者」



思いわずらうことなく愉しく生きよ(江國香織)

恋愛はすべて、ごっこ、なんではないかと思う。
恋愛ごっこ。
恋愛は、異国の文字で書かれた書物を読むことに近いかもしれない。相手の持つ物語を、翻訳しながら理解する。そうやって、物語をお互いに消化していくことが恋愛なのだ、と。
ただ時々訳し間違える。意味のわからない単語があっても、確認しないで、文脈から、雰囲気から、それを理解した気になる。全部完璧に訳さなければならないということはない、という甘え。
それが、恋愛ごっこなんではないか。
だから、ある日突然誰かに、相手の物語の正確な全訳を見せてもらったり、あるいは、ふとした瞬間に、勘違いしていた言葉の正確な意味を知るようなことになった時、そのごっこは終わる。恋愛は、そうして終わる。
あるいは、お互いの誤解に奇跡的に気付かないまま結婚し、生涯をとげることもあるかもしれない。
あのシンデレラの靴が、本当はガラスではなく毛皮だったように、訳し間違えた物語が『真実』として定着することもあるかもしれない。
どちらにしても、ごっこではない恋愛というものがどんなものか、ちゃんとはわからない。ただ、世の中の大半は、恋愛ごっこで占められているような気がする。別にそれが悪いというわけでは全然ない。
正直、何故自分が『恋愛ごっこ』なんかについてここに書いているのかよくわからない。ただ、本作を読んでそれを漠然と感じたのである。
僕には理解できない3人の女性が出てくる。
それぞれの3人が、それぞれの恋愛を過ごしている。
僕にはそれが、恋愛ごっこに見えたのかもしれない。
女性というのは、基本的には僕には理解できない生き物である。まあそれは仕方ない。男にとって、女性というのはなかなか厄介なものなのだ。
以前に、確か「東京タワー」の感想でだったと思うけど、男は論理的で女性は感情的だ、とかいうような話を書いたような気がする。女性が感情的だ、ということを否定的に書いたつもりはまったくなくて、論理的でないが故に男には理解できない、という話を書いたのだが、まったくそうだな、と今も思う。
その3人がどんな女性なのか、ということはまあ後で書こうと思うのだけど、僕はこう疑問に思った。
女性が本作を読んだ時、あの3人の女性の誰か一人にでも共感することは出来るのだろうか?と。僕には、女性ですらあの3人の考え方や行動は理解できないのではないか、と考えている。
一方でしかしこうも思っている。
もしかしたら本作に出てきた3人の女性の本質というのは、女性誰しもが持っている核を大げさに膨らませたものではないのか、ということだ。
本作の3人の女性ほど極端ではない。しかし、その考え方の方向性というか志向というか、そうしたものは大枠で理解できるし、自分にもそうした種のようなものはある。そんな風に女性が感じるのかもしれない。そんな風にも思うのだ。
もしそうだとすれば、女性というのは、僕の予想を遥かに超えて厄介な生き物だということになる。本作の3人の女性の本質を一部でも理解できるとするならば、女性を理解することは僕には絶望的に思える。もちろん、女性に限らず、人を完全に理解しよう、なんて発想が既に傲慢なのかもしれないけど。
一方で、本作には男も何人か出てくる。僕が男だからかもしれないけど、大抵の男にはそれなりに理解を持つことは出来る。もちろん、細かい点でこれはない、というようなことはあるけれども。
ただ一人、僕にはまったく理解できない種類の男がいる。妻に暴力を振るう夫である。しかも、こうした男は、世の中に間違いなく存在することを僕は知っている。彼のような思考に、どうやったら辿りつけるのか、僕には不思議で仕方なく思える。
そういうわけで、早速内容に入ろうと思う。
「思いわずらうことなく愉しく生きよ」
これは、犬山家の家訓である。父の手になる書が、今でも実家に飾られている。
犬山家は、母親と3姉妹からなる。両親は、3姉妹がそう幼くない頃に離婚した。ただ、母親も3姉妹も、今でのそれなりに父親との交流はある。
母親と3姉妹は、とても仲がいい。そして、お酒が強い。社会人になった今でも、機会がある毎に会っては、交流を持っている。
長女の麻子。3姉妹の中で唯一結婚している。結婚を機に、母親とも姉妹とも、もちろん昔の友達とも大分疎遠になった。今では、ほとんどの時間を家で過ごし、夫の帰りを、心から楽しみにする一方で、僅かな緊張も感じる。
夫は、麻子に暴力を振るうのだ。
しかし、麻子はそれを仕方のないことだと感じている。私は、殴られたり髪を引っ張られたりされるだけのことはしてしまっている。夫は本当は優しい人なんだ。そう思っている。
この家庭内暴力については、他の人には内緒ね、ということで、妹の一人、育子にだけは話したことがある。
次女の治子。外資系の一流企業に勤め、趣味は語学の習得。自宅には、恋人であり、同居人である熊ちゃんがいる。
二度求婚されたけど、二度とも断っている。
熊ちゃんほど優しい男はいない、と治子は感じている。頼りがいがある。仕事は、売れないフリーライターをしていて、その点は頼りないけど、そんなことは特に問題ではない。家に熊ちゃんがいてくれる。それだけで私は幸せなんだ。
しかし一方で、『抗いがたい肉体』を持つ、以前も関係を持ったことがある男が、治子の前に姿を現す。治子は、やはり抗えないのである。
三女の育子。突飛で、少しずれた発想を持っている、と言えるかもしれない。恋愛、というものに対して、そんなものは存在しない、とか、そんなものに振り回されたくない、という風に考えている。姉二人の生き方をみて、なおさらそう感じている。
育子は、誰とでも寝てしまう。最初は高校生の頃だった。全然知り合いでもなんでもない、駅の近くに座っていた肉体労働者のおじさんと、そしてそのおじさんの仲間と、次々に関係を持った。愛がなかったことは確実だ。彼らとは仲間だった。仲間だから、セックスをする。
今でも、友達の彼氏や、仕事先で知り合った気に入った人、そういった人達と、育子が『デート』と呼ぶ行為を繰り返す。
育子には、恋愛という形や手続きやなんかが、不自然に思える。
この、3姉妹とそれぞれの男性関係を巡るあらゆる物語が交錯する。時には失恋をし、時には傷つき、時には考えを改め、そうやって日々が過ぎていく。
思いわずらうことなく愉しく生きるために、3姉妹は自由に生きる。
3姉妹がどんな人間なのか、身も蓋もない言い方をするとこうなる。
長女麻子:夫の理不尽な暴力に努めて耐える女
次女治子:人を愛することと関係を持つことは違うことだと明確に主張する女
三女育子:誰とでも寝る女
ちょっと、次女治子については説明が難しいんだけど、大体こんな感じである。なんというか、この3人を登場人物にして、林真理子とか桐野夏生とかが小説を書いたら、ものすごくドロドロしたものになりそうな気がする(林真理子の作品は読んだことがないから、あくまでもイメージだけど)。しかし、江國香織というのは、どんなモチーフを選んだとしても、その文章でものすごく透明な物語に変えてしまう。それはまるで手品のようで、マジシャンの手の中でいつの間にかカードが変わってしまうような、どんな驚きがある。
いつも通りというか、透明で淡々としたテンポと文章で綴る物語は、読みやすくかつゆったりしていて、物語が作り出す世界、物語が包み込む空間というのが心地いい。
しかし本作の場合、やはり僕が男だからだろうか、3姉妹の生き方というものにちょっと理解ができなかった。そういうこともあって、なかなか物語に馴染めなかったところはある。
僕がとりわけ理解できないのは、次女治子である。彼女の場合、前半のうちは、非常に普通な女性に感じる。二度も求婚を断る、という点がどうかなという気もするけど、結婚だけがすべての形ではないと思うので、それも特別どうということもない。ただ、後半に行けば行くほど、どんどんとズレが生じてくる。前半では知ることができなかった、治子が抱える大きなズレ。僕には、どう考えても、熊ちゃんの主張が正しいように聞こえる。治子の主張は、僕には意味が通らないし、熊ちゃんの困惑は当然に感じる。女性はこの治子という女性をどう思うのか、僕としては興味がある。
男はよくこんなことをいう。『女が何で怒ってるのかわからない』。僕も、恋愛経験は果てしなく少ないわけで、ちゃんとしたことはわからないけど、でも確かにイメージでは、女性というのは男には理解できないポイントで怒り出す、という印象がある。
江國香織は、そういう女性を描き出すのがとてもうまい、と思う。もちろん女性だからそうした感情を持ったりそういう状況になったりしたことはあるのだろうけど、でも逸れを表現するとなるとかなり難しいだろう。
麻子と育子という女性も、僕にはなかなか理解できないわけだけど、でも治子に比べればまだましである。麻子のような女性は、残念ながら恐らく世の中にたくさんいるのだろうし(しかし僕には、夫から暴力を振るわれてそれを我慢するという状況がやはる理解できないけれども)、育子のような女性も同じくだろう。育子の、セックスと恋愛が結びつかないという発想は、なかなか男的な発想だなという風に感じるものの、現代の女性には割とないでもない発想なのかもしれないとも思う。
最後に。江國香織の小説には、細部への視点というのが際立っている。部屋の描写にしても、その向ける視点が、非常に女性らしいというか、細かなところへと向く。僕にはわからない固有名詞(お酒の名前やブランドの名前やいろいろ小物の名前)が結構たくさんでてきて、その点は僕としては残念という感じがするのだけど、丁寧に文章が描かれていていいな、と思いました。
江國香織の作品としては(といってもまだ6作しか読んでないけど)、中の中と言った感じの作品です。オススメはしないですけど、女性の方、読んだら3姉妹に対する感想を教えてください。女性が3姉妹に対してどう感じるのか興味があります。

江國香織「思いわずらうことなく愉しく生きよ」



増量・誰も知らない名言集(リリー・フランキー)

こう生きていると、ホントにいろんな人がいるもんだなぁ、と感心するばかりである。
本作でリリー・フランキーが、「人間に上下はないが左右はある」と言っているのはまさにその通りだな、という感じです。人間の幅というのは、小錦のウエストを易々と凌駕し、マッコウクジラのウエストをしてもまだ余りある。とまあ意味不明ですが。
人間にはそれぞれ価値観というやつがあって、これがその人間すべてを決めていると言っても間違いないと僕は思う。常識、というのは基本的に、ある社会で大多数によって認められたルールだけども、価値観というのは、共通項を探す方が困難という、DNA並の個人識別力を持っているわけである。
人間の価値観というのは、実際深く接してみないとちゃんとはわからないものである。そもそも、自分が他人と違う価値観を持っている、ということにもなかなか気付かない人もいるほどだ。自分の価値観が、一般の常識であると感違いしてしまう人間である。こういう人間は周囲から、空気が読めないとか痛いとかいう評判を拝すわけであるが、その声は何故か本人まで届かない。スパムメールを自動的に排除するかのごとく、本人の耳に届くことはないのである。
まあそういうわけで、そうやって相手を深く知らなければわかることのない価値観なのだけど、しかし、一般からかけ離れた並外れた価値観をお持ちの人間の場合、その限りでもない。そういう特殊な外れたお方というのは、普段の会話から、いやはや初対面の段階から、既にそういう不穏なオーラを発しているわけである。人々は、そうしたオーラにはなかなか敏感であり、今でも村八分のしきたりが存在するならば、日本は世界に類をみない村八分大国になっているだろう。
そういう特別なお方というのは、つまり名言を残すのである。そういうお方から発せられる名言を聞くだけで、相手の価値観の深遠を理解し、その深みに触れまいとの決意を固め、万一の時にはそのお方を東京湾に沈めるほどの覚悟を持って、そのお方と接するように心を決めるわけである。
名言である。
本作の前書きで、リリー・フランキーが名言について触れている文章がある。これが、割といい。だから、引用しようと思う。

『僕の好きな名言。本当に味のある名言は、日常生活の中で無意識のうちに口をついて出たような言葉。
考えられたものではなく、荒削りなまま、ためいきと一緒に押し出されたような、本心のかたまりです。
たぶん、みなさんの周りにも、そんな名言がたくさんあることでしょう。
名言とは哲学者や文学者の机の上に飾られているモノではなく、僕らの足元に転がっているモノです。
そして、その「名言」の意味よりももっと大切なことは、それを言った人の、その時の気持ちなのです。』

なるほど、という感じのする文章です。ためいきとともに出る本心のかたまり。いいですねぇ。そして何よりも、その名言を口に出した時の気持ちが大事だという生きざま。素晴らしいではないですか。
僕らが一生に出会うことの出来る人の数は、世界中の人口と比してあまりにも少ないものです。僕らが出会うことのできない人の中に、どれほどのお方がいるのか、残念ながら知ることはできません。
しかし、本作には、僕らが普段知り合うこともできないようなぶっ飛んだお方がぞろぞろ出てくるわけです。過去の偉人は一人も出てこないけれども、現代の変人が淀みなく集う、それが本作です。
というわけで内容の紹介に入ろうと思います。
本作は、リリー・フランキーが普段の生活の中で出会う様々な人から収集した名言を、その状況の説明とともに綴った、まさしく名言集、なわけです。
とここで僕が、リリー・フランキーに対抗して、本当にあった名言の状況を、本作のスタイルに似せて書こうと思います。それを読んでもらえれば、本作が大体どんな感じかわかってもらえるように頑張ろうと思います。

『[御言葉その0]振り切れた常識を持つ女

人は誰しも、常識の中で生きているわけである。それは、誰が決めたというわけではないにしろ、これまで生きてきた人々が積み上げてきた倫理や知恵の結晶であり、まさくし重々しい伝統と同じく、次代へと継承していくべきものである。
しかしここ最近、若者の常識が乱れているとは思わないだろうか。安直に腰を振る女子高生や、何も考えずにオッサンとやりまくる女子大生なんかのアッパラパーはまあいうまでもなく、僕らが普段生きている場所にも、既に常識を外れた人間というのははびこっているわけである。ごきぶりは、一匹見つけたら三十匹はいると思えと言われるが、常識外れの若者は、一人見つけたら十人は潜伏していると思っていいのではないだろうか。
さて僕は本屋で働いているわけだけれども、最近バイトで入ってきた女性Y(二十歳になったばかり)というのがいる。そのYがしでかしたあんぐりな行動に、僕は脳髄にわさびを練り込まれたかのような衝撃を受けたものである。
ある金曜日のこと、僕が普段どおりレジで会計をしていると、一人のサラリーマンがゲーム雑誌を持ってきた。バーコードを通そうと思って裏返しにすると、裏表紙の一角が破れており、そこがセロテープで修復されているのを発見してしまったのである。
なんだこれは?と脳みそのなかに?マークが湧きに湧いたが、それを顔に出すこともなくポーカーフェイスで、ちょっと待ってくださいといってちゃんとしたものを売り場から救出、その場は難なく事を収めたのである。
翌日、雑誌の担当者に、昨日こんなことがあったんですよぉ~、と何の気なしに話していると、その雑誌担当者はなんとなく思いたる節があったらしく、Yさんに聞いてみる、と言って出て行った。
しばらくして戻ってきた雑誌担当者から、おぞましい言葉を聞くことになる。
Yに、これこれこういうことがあったらしいんだけど知ってる?と問うた雑誌担当者は、こういう返事を返されたらしい。
「あっ、はい、私かも~☆」
実際☆はなかっただろうが、しかしそんな感じのテンションだったらしい。なんでも、破れている雑誌を見つけたので、これはどうしようと思案し、セロテープで補修することを思いついたらしい。
あまりの常識のなさに、そしてあまりの返答のバカさ加減に、僕は口をあんぐり、以来Yとはなるべく関わらないように、との決意を新たに、日々を過ごしているわけである。

”御言葉その0”

「あっ、はい、私かも~☆」
(書店員、女性、20歳になったばかり)
~常識という言葉の意味を崩壊させた女の御言葉~』

大体こんな感じで39の名言が紹介されていくわけである。
つくづく、リリー・フランキーというのは変な人と知り合うことが多いのだな、と思う。人間観察研究家を自称しているようだが、確かにそれならば変な人を普通の人より積極的に見出すことがあっても不思議ではないかもしれない。それにしても、リリー・フランキーの変な人遭遇率はあまりにも高いといわざるおえない。
そもそもリリー・フランキーの周囲に普段からいる人間からして変人揃いなわけで、もう変人のサラダボールのようなそんな混沌地帯にいるわけである。変人の中心で名言を叫ぶ、である。
本作を読んでいると、つくづく変な人というのは多いんだな、と感心することしきりである。以前に読んだ「とるこ日記」という本の中で、乙一が「アリの法則」というのを紹介していた。なんでもアリというのは、働き者:普通:怠け者の割合が常に2:6:2ぐらいであって、それは働き者のグループだけを別にして新たなグループを作っても同じようになるのだそうだ。
なんだかそれを思い出した。つまり、世の中には、素晴らしい人:普通の人:変人というのが2:6:2ぐらいに固定されていて、どれだけ優秀な人間ばかりを集めても、結局こう分布してしまうのではないか、ということだ。だから、変人がいなくなることはない。
かなり度肝を抜く変人が揃いも揃っています。恐らくリリー・フランキーの心のメモの中には、ここに書いた10倍くらいの名言が刻まれているのでしょう。それはそれで面白い人生のような気がします。リリー・フランキーやその周囲の人間のように、自堕落で適当で、それでいてなんとか生きていける、というような楽観的な人間に生まれたかったな、と少し思ったりもします。
リリー・フランキーのコラム的な作品の中では一番良かったです。「美女と野球」より「女子の生きざま」より、本作は面白いです。「東京タワー」の次に何を読もうか考えている人は、本作をオススメします。まあ、「東京タワー」とは似ても似つかない作品ですけど。面白いですよ、ホント。

リリー・フランキー「増量・誰も知らない名言集」




真夜中のマーチ(奥田英朗)

こう日々、刺激の少ない生活を送っていると、どんなものでもいいから刺激が欲しくなったりすることはある。
大抵の人はそうだろうけど、毎日が刺激的で仕方ないというような人はなかなかいないだろう。日々退屈なルーティンをくり返し、その中でささやかな幸せを見つけ出して、それで満足する。そうやって、時々気まぐれのように舞い込んで来るスリルを、全力で楽しんだりもする。まあ普通は、そんな人生だろう。
まあ、日々スリルに満ちた生活を求めたって、人間は慣れる生き物だし、どれだけスリリングでも、結局は退屈になってしまうんだろうけど。
さてそんなわけで、なかなか僕らの生活に降ってはこないスリルだけど、でも自分からそれに首を突っ込む、っていうことができないわけでもない。
その代表格、って変な言い方だけど、それは犯罪でしょう。
犯罪って、しちゃいけないって言われるからかどうか知らないけど、ちょっと魅力的に感じることがありますね。もちろん、人を殺したいとか女性を襲いたいとかそんな風にはあんまり思わないけど(いや、もし法律で禁止されてなかったらやるかもしれないけど、っていう話は確かどっかの感想に書いたけど、とにかく人を直接的に傷つけるのはスマートじゃないよなぁ、と思いますね)、知的に颯爽とこなす犯罪、とかはちょっと惹かれますね。
例えば、そろそろ映画も公開される「陽気なギャングが地球を回す」では、四人組が銀行強盗をするんだけども、それがスマートでかっこいい。もちろん、四人が四人とも特殊能力を持っているが故に出来る犯行なんだけど、ああいうのはいいな、って思う。直接人を傷つけるわけじゃないし。
僕は静岡県の出身なんだけど、静岡県の清水市(合併でなくなっちゃったけど)っていうところを舞台にした(確かそうだったと思う)「清水の次郎長」っていう話があって(これって全国的に知られてるのかな?)、これは、江戸時代だかに(僕の時代劇のイメージは全部江戸時代なんですけど)、世の中にはびこる悪い金持ちから金を奪い去って、それをお金に困った民衆に分け与える、みたいな話があって、泥棒なんだけど、スマートでいいなって思ったりしますね。
あと泥棒といえばルパン三世ですね。ルパン三世も、スマートでかっこいい泥棒だと思いますね。
まあそういうわけで、知的な計略の元に何かを盗むっていう犯罪は、実はちょっと興味があったりします。まあもちろん、実行には移しませんけど。
でももし、自分が実行するんでなくても、誰かに誘われたり巻き込まれたりする形で参加できそうな時、もしかしたら悩むかもしれませんね。別に大金が欲しいわけじゃないけど、それによって得られるスリルっていうのは魅力的だ、と思います。先ほど話に出した「陽気な~」の四人の強盗も、別にお金が欲しくて強盗を始めたわけではないんですね。彼らは、四人とも同じ銀行強盗事件に巻き込まれて、で自分ならもっとうまくやれる、と思ってチームを組んで強盗団になるわけです。まあ彼らが求めているのはロマンですけどね。
こう最近は、格差問題というか、金持ちは金を持ってるし、貧乏は金を持ってないというのがすごいはっきりしている世の中になっているようで、清水の次郎長みたいな人が現れないかなぁ、と思ってしまいますね。僕自身はお金に全然困ってないんだけど、例えばニュースなんかで、老人の餓死死体が1ヶ月も放置されて発見された、みたいなニュースをみたりすると、あるとこにはあるのに、と思ったりもします。
まあ何がいいたいかというと、かっこいい泥棒にはちょっと憧れる、ってことです。
そろそろ内容に入りましょう。
本作は泥棒の話です。最終的に、10億を狙うんですが、でも全然かっこよくないんですね。うだつのあがらないチンピラと、うだつのあがらないサラリーマン、そして正体不明の美女、んで犬、という意味不明なチームで10億を狙う泥棒。完全犯罪を目指すけど、トホホっていう展開になるわけで、まあスマートとは言いがたいですね。
10億を掠め取る計画のスタートは、なんとちんけな合コンパーティーの会場から始まります。学生時代に始めたイベントプロデュースの社長(と言っても社員は社長を含めて二人)の横山健司(ヨコケン)は、あがりの少ない合コンパーティーで、なんとか出費を削ろうとちんけなことをしていた。そこにやってきた、サクラであるタレントの卵。社長に、テーブルを替えるようにねだってきた。聞くとそのテーブルには、戦後解体された財閥の一つで、今でも絶大なる力を誇る三田グループの御曹司らしき男がいる、というのだ。名前は三田総一郎(ミタゾウ)これはチャンス、とばかりに、同じくサクラの女の子をミタゾウにあてがうことに。あとで強請って金を引き出そうという腹なのだ…。
というようなところから、最終的に10億を掠め取る計画に首を突っ込むことに。初めは敵だった黒川千恵(クロチェ)とその相棒のドーベルマン(ストロベリー)と、すったもんだを繰り返しながら10億を目指すのだけど…。
暴力団が絡んできたり、裏の世界の取引が関わってきたり、中国人が出てきたりと、舞台設定だけ見れば、馳星周なんかがお得意のノアールの世界なんだけど、本作は全然そんな感じではなくて、寧ろ雰囲気はほんとに、「陽気なギャングが地球を回す」に近いな、って感じがしました。10億をヤクザや中国人の向こうを張って奪うなんていう無茶苦茶な計画なのに、全然緊張感がないというかほんわりしているというか、そういうとぼけた小説です。
ストーリー展開は、金に目が眩んでどんどんと落ちていくちんけな犯罪者そのままの展開なんだけど、でも悲壮感も焦燥感も何もなくて、むしろ清々しい感じがしますね。話の展開は、まあベタでシンプルで、その点もものすごく読みやすいんだけど、最後の膠着状態というか、完全犯罪を目指すがために、金が目の前にあるのに奪えない、という状況設定はうまいなぁ、と思いました。
そして何よりも本作が面白いのは、登場人物がめちゃくちゃ面白いからです。
ヨコケンは、チームの中ではもしかしたら一番まともな人間なんではないか、という感じですね。初めは人を使う立場の人間らしくいばっているんだけど、途中からクロチェに恋をしてしまうがために、なんだか歯車がおかしくなっていって、そういうところもすごく人間的で面白いですね。
で、全然普通じゃないのがクロチェですかね。いやまあ、探せばこういう女性はゴロゴロいるでしょう。男を足で使い、仕事もせずにダラダラし、美人であることを最大限利用して生きる、まるで女王様のような女性。ツンデレという言葉があるけど、このクロチェはツンツンという感じですね。どこでもクールみたいな。俺はこういう、非人間的で冷たい美人っていうのはすごい好きなので、クロチェいいなぁ、なんて思いながら読んでました。高嶺の花…とはちょっと違うかもしれないけどそんな感じで、しかも何故か犯罪に手を染め、弟はそれなりに可愛がる、ってなんかよくないですか?
そして、本作中最強に変な奴が、ミタゾウですね。「三田物産の三田」という名刺のお陰で常にいい待遇を得られるが、会社では明らかにお荷物。窓際も窓際で、誰からも無視されている。驚異的な集中力の持ち主で、数字や記号や文字は、一瞬見ただけで完璧に記憶できる。ただ一つのことにしか集中できないため仕事にはミス連発で、かつ運動オンチ。ヨコケンとのゴタゴタのお陰(?)で、10億強奪の仲間になるんだけど、こいつホントにただのサラリーマンか?ってくらい頭が回る。度胸があるんだかないんだかよくわからなく、ただの鈍感かもしれないが、犯罪計画の中ではものすごく使い勝手がある。今の希望は、会社を辞めてキリバス共和国というところに移住すること。
僕は基本的に変な人が好きなわけで、このミタゾウもすっかり好きになってしまいました。どこか頭のネジが外れているような人間で、でもキレる。仕事場で出会ったら嫌いになるだろうけど、仕事場以外の場所で出会ったら仲良くなれるかもしれない、そんなキャラクターで、面白かったですね。
とにかく奥田英朗は、面白いキャラクターを描くのが本当にうまい。羨ましい限りである。どうやったらそんなに面白い人間を生み出すことができるのか、不思議なもんである。
帯にはこう書いてある。
「新たなるスラップスティック小説の誕生!」
スラップスティックというのがわからなかったので調べてみると、ドタバタ喜劇、というような意味の英語だった。まさしくその通りである。ドタバタついでに10億を狙う奇妙な3人と1匹の物語。是非ともご賞味あれ。

奥田英朗「真夜中のマーチ」



ブスの瞳に恋してる(鈴木おさむ)

美人は三日で飽きる、という言葉がある。
まあ、それを否定する気はない。確かに、美人なだけの人は、三日で飽きるだろう。まあそういうことだ。
しかし、だからと言って、ブサイクな人なら大丈夫か、というとそうでもない。
変な言い方だが、ブサイクなだけな人にだって、飽きることは飽きる。
何を言いたいのかよくわからなくなってきた。これというのも、一応ブサイクな人にも配慮した文章にしよう、という、意味のない配慮が働いているからである。
以前何かの感想で、男に生まれてよかった、という話を書いた。そこでどんなことを書いたのか、正直正確には覚えてないけど、男に生まれてよかった、というのは今でも変わってない。
本作の中にも書かれていたが、男は多少ブサイクでもひどい不公平はないものだけど、女性の場合、多少のブサイクさが、大きな不公平さに繋がるからである。
これは、もって生まれたものだから仕方ないとは言え、女性というのはやはり大変だろうな、と思う。
男として言わせてもらいますが、やはり美人というのは得である。これはもう仕方ない。仕方ないの3乗くらい仕方ない。男の場合、勝ち負けというのは、仕事や地位や女性や収入や、まあそういったことで決まる。だから、後天的なことでまかなうことは可能である。しかし女性の場合、勝ち負けはどうしても、綺麗かどうかで決まってしまう。これは仕方ない。仕方ないの3乗くらい…とまあいいとして、そういう世の中なのである。
最近は、女性の社会進出が盛んになって、女性も男と同じような基準で評価されるような時代になってきているかもしれない。それでも女性の場合、一時期有名になったあの悪しき言葉「負け犬」という言葉がついて回る。いくら仕事で社会で成功しようとも、結婚して子供がいなければ「負け」だという、明らかに理不尽ながら、女性として納得できなくもないだろう、そういう争いの中で女性は生きているのである。
大変だ。男の競争は、純粋なガチンコ勝負だけど、女性の競争の場合、借り物競争のようなもので、そこには運などの能力以外の要素もふんだんに関わってくるような気がする。僕は、男のガチンコ勝負で勝てるわけでもないけれども、少なくとも、女性の借り物競争の世界にいなくてよかったなぁ、と安心するばかりである。
男に生まれてよかったなぁ、とそう思うわけである。
さて、老若男女を問わず、美人には注目するものである。この前、土曜日朝の「めざましどようび」を見ていた時、恐らく50歳か60歳くらいのおじさんが、今をトキメク美人モデル「エビちゃん」のことを知っていて驚いたものである。男なら当然、と思われるかもしれないが、「エビちゃん」の知名度は、おばさんにまで及んでいるわけである。恐るべし、「エビちゃん」。
とまあエビちゃんの話はどうでもいいのだけど、とにかく人々は、美男美女には注目するように出来ているわけである。これは、遺伝子がうんぬんかんぬん、本能がどうたらあーたら、といったわずらわしいことを書く間でもなく、これは仕方ない、仕方ないの3乗…もとい、とにかく真理なわけである。
そして、当然といえば当然のごとく、人々はブサイクには注目しないものである。注目したとしてもそれは、ピンクの象を見ているようなもので、珍しいなぁ、という感じで見ているわけである。
…きっと俺はひどいことを書いている気がする。うーむ、女性を敵に回すと恐ろしいが、まあ仕方あるまい。
しかし、恐らく日本発、いや世界初、いや宇宙初、いや…まあいいとして、とにかく本作はブサイクにスポットを当てた初の本ではないか、と思うのである。
有名な言葉を引用しよう。
本作は、ブサイクの、ブサイクによる、ブサイクのための本である…。
…抗議のコメントやメールは受付けますが、予告なく削除するかもしれません(笑)
とまあそんなわけで、ブサイクを心から愛してしまった一人の勇敢なる日本人の、まさにシートン動物記にも劣るとも勝らない(?)、そんな愛の結婚記である。愛の結晶というべきか、狂気の沙汰というべきか…。
さて、内容はというと、完全なるオノロケ本なのである。
オノロケ、という響きは、普通のカップルがしているのを見ると、ムカツクものである。いくら聖人君子のような僕でも(?)、目の前でイチャイチャしているカップルだとか、ネットでイチャイチャしているカップルだとか、そういったものを見てしまったが最後、ムカツクことだろう(いや、実際そんな場面にはなかなか出会わないだけど。それにやっぱり僕は純真無垢な青年なので(?)、幸せそうなカップルを見てもムカツキません、はい)。まあそんなことはどうでもいいのだけど、しかし本作はまったくムカツク要素がない。それはそうだ。カップルのイチャツキを見せられる時のムカツキというのは、最終的に『あぁぁぁぁぁ羨ますぃぃぃ~~~』という感情から沸き起こるものだけれども、このカップルには、基本的にまったく羨ましいと思える要素がないのである。だから、オノロケ本なのに、ムカツクどころか笑えるのである。
しかし、この夫婦、本当に大丈夫だろうか?というようなエピソードがてんこ盛りである。
まず、結婚に至るエピソードからして破格である。交際期間0日、市役所に婚姻届を提出するまで二人っきりになったことがないという、お口あんぐりなスタートなのだ。お互いが美男美女とか、そこまでいかなくてもお互いそれなりの容姿であるなら、少しは理解できないでもない。外見にお互い惹かれたんだな、それで勢いで結婚してしまったんだな、と。しかし、しかしである!妻である大島は、旦那も認めるブサイクなのである。こんなことがあっていいのだろうか、いやない(反語法、懐かしい)。
いやまあ、結婚のエピソードは百歩譲って(出来れば億歩ぐらい譲りたいところだけど)いいとして、その後の結婚生活のエピソードは、もうハチャメチャである。こんな結婚生活を送る方も送る方で、それを書いてしまう方も書いてしまう方で、読んでしまう方も読んでしまう方なのである。
ここに書かれているエピソードの、なんと8割(管理人推測)が下ネタ&汚い系の話である。恐るべし。しかもそのどれもが、普通の常識人の神経なら、人に知られて恥ずかしいと感じる類のことなのである。いいのか、こんなこと書いちゃって、しかも本になって、しかもドラマにもなって、いいのか鈴木おさむ!
そう、どうやら本作はドラマになっているようである。しかし、しかしである!これをどうやってドラマにすると?もしも万が一本作を忠実にドラマ化したならば、放送時間のおよそ8割(管理人推測)にモザイクが掛かるだろう。だって、ウ○コやオーティ○ポーや、そんなんばっかである。おいおいいいのかと、おじさまおばさまにまでその名を知られるあの「エビちゃん」も出演するドラマで、ウ○コやオーティ○ポーはアリなのか?
もちろん、そういうゲテモノ的というかモザイク的な部分はドラマには盛り込まれないのだろう。しかしそれだと、ドラマとしてのエピソードが足りなすぎるだろう。
まあだから、どうドラマ化されているのか、多少気にならないでもないが、まあ見ることはないだろう。
本作を読んで、男性諸君が羨ましいと感じるのは、身長178cmの、顔も性格もいいモデルと付き合っていた、という部分だけだろう。なんと驚くべきことに、鈴木おさむはそのモデルと別れて、今の妻と結婚したのである。鈴木おさむ氏の頭の中には、宇宙人でも住んでいるのかもしれない。いや、そうに違いない。
周囲からは、未だに面白婚だと言われているらしい。それはそうだ。誰だって本気にはしないであろう。しかし、本気なのである。本気のLOVEなのである。恐るべし人間。恐るべし夫婦。恐るべし芸能界…。
というわけで、異色と言ってもいいだろうオカシナカップルのオノロケっぷり。読んでる分にはすごい楽しいです。バカバカしくて、なんの参考にも、なんの得にもならないと思うけど、世の中にはこんな人もいるんだな、と感心するために読む、というのでもいいのではないか、と思います。

鈴木おさむ「ブスの瞳に恋してる」


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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)