黒夜行

>>2006年04月

ダヴィンチコード(ダン・ブラウン)

僕は、宗教というものを貶めるつもりはまったくない。
でもこうは思う。
宗教は、言い訳だ。
人は皆、どこかに言い訳を用意したがる。宗教に限らず、何かを信じるという行為はすべて、言い訳を求める人間の気持ちから生まれ広まったのだろう、と僕は思う。
僕らは生きていく中で、自分の力ではどうにもならないことに何度も出会う。自然災害や事故、別れや死。そうした、どうにもならないことを、僕らはどう扱ったらいいのかわからない。どこかに、自分なりに納得できる説明を常に欲しているのである。
だから、宗教が存在する。僕はそう思う。
僕は何かの宗教を信じているわけではないので、正直よくわからないけれども、宗教というのは、それぞれの人間の人生について、何らかの説明を与えているのではないかと思う。何か不幸があった。何か罪を犯した。そういったような人々に、そのことに対する意味付けをし、相手に何らかの行動を促したり、心境の変化を与えたりする。
まあきっとそんな感じの存在なんだろう。
僕は正直に言って、宗教が与える説明というのを信じられそうにない。例えば、恐らく世界で一番信仰されているであろうキリスト教にしたって、信者は各々、聖書というものを信じているのだろう。しかし、その記述はあまりにも荒唐無稽だ、と僕は思う。聖書を読んだことはないからなんともいえないけど、夢物語でしかないと思う。僕には、それを信じ、神に祈ることで救われるということが、正直よくわからない。
ただ、信じることで救われる、という幻想を与えてくれる、そういう存在は、僕らの生きている世界には必要だろうと思う。人間は、どんな形にしろ、言い訳を必要とするものだ。
しかし歴史上、宗教によって様々な争いや歴史の改ざんが行われたこともまた事実だろう。それは、残念だという風に思う。
さて、キリスト教の話も少し書こう。
僕の小学校時代の同級生に、エホバ教(というのか正確なところは知らないけど)を家族で信仰している人がいた。その子は、例えば運動会には参加しない。何故なら、人と競争することが教えで禁じられている、とかなんとかそういう理由だったと思う。
当時の僕がどんな風に感じたかは覚えてないけど、なんか変だなくらいは思っただろう。実際、何を信じるかは人それぞれ自由だけど、社会との違いが大きくなるような信仰はむしろ不必要ではないか、と思う。
確かエホバ教というのはキリスト教の一つだったような気がしたからこんな話を書きましたが、どうでしょうか?
キリスト教というのは、恐らく世界中で信じられているのだろうし、世界最大の宗教だと言っても間違いではないと思います。日本でどれだけ信者がいるのか知りませんが、それなりにはいるのでしょう。
キリスト教という宗教が存在することは別になんの問題もありません。キリストを神として信じようが、聖書を心から信じていようが、教会に足しげく通おうが、そんなことはどうでもいいことです。
ただ僕なりに間違っていると思うのは、キリスト教という存在そのものが大きな力を持っている、ということです。
記憶はおぼろげなので間違っているかもしれませんが、以前こんなニュースを見たような気がします。
今では危険を避けるために避妊具は定着していると思うけど、なんだか一時期キリスト教のお偉方が、
『避妊具をつけてのセックスで妊娠を制限するのは、神を冒涜する行為だ』
とかなんとかアホなことを言っていたような気がします。僕の記憶違いでしょうか?
そのニュースを見た時は、キリスト教のお偉方はなんて頭がおかしいんだろう、と思ったと思います。あなたが何を信じるかは自由だし、キリストの教えとかいうものを守ろうとする気持ちも神をあがめる気持ちももちろん間違いではないけど、でも避妊具をつけるなっていうのは明らかに間違ってるだろ、と思うわけです。
そのキリストのお偉方の意見がどれだけ広まっているのか知りませんが、こういう風に、宗教というのが力を持ってしまうというのは大きな間違いだと僕は思うのです。
それは、日本のオウム真理教の事件で、日本人も思い知ったことでしょう。
宗教という存在は、僕には不要のものだけど、存在意義は充分にあると思います。しかし、信じるという純粋な気持ちを利用するような、間違った存在の仕方をするようになったり、そう出切る様な大きな力を持ったりするのはまずいだろうな、と思ったりします。
僕は日本で生まれて日本で育っているので、宗教というのはホントに無縁です。だから、生活に、社会に、国全体に宗教というものが欠かせなくなっているという状況がうまく理解できません。多くの国で、キリスト教が国教とされているのだろうけど、本作を読んで、改めて宗教の持つ力というのは、諸刃の剣だな、と感じました。
そんなわけで、内容に入ろうと思います。
公演を終え、ホテルで休んでいた、ハーヴァード大学教授で、宗教象徴学が専門のラングドンは、ホテルの部屋に掛かって来た電話で眠りから引き起こされる。断りもなく部屋までやってきたのは、DCPJ(司法警察中央局)という、アメリカでのFBIに相当する機関の警部補だった。彼に見せられた写真で目が覚めた。
ルーブル美術館の館長で、公演の後会うはずだったソニエール館長が殺されたらしい。しかも、かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの有名な素描<ウィトルウィウス的人体図>を模した異様な死体となっていた。
何故自分が呼ばれたのか、正確にわからないまま、閉館後のルーブル美術館で、ラングドンは死体となったソニエールと対面した。そこには、館長が残したとおぼしき不思議な暗号が残され、DCPJの警部との会話の中で、宗教象徴学専門の立場から考えられることをラングドンは喋ることになる。
状況が変わったのは、暗号解読官であるソフィーがルーブル美術館にやってきてからだ。彼女は、有無を言わさず現場に押し入って、戸惑うラングドンにあるメッセージを伝えた。
あなたは、ソニエール館長殺害犯として疑われているのよ。
ソフィーの機知により、どうにかルーブル美術館を抜け出した二人。ラングドンは、ソフィーがソニエールの孫だと知り、ソフィーはあの暗号は祖父が私に残したものだと確信する。
こうして、初めてあった二人は、ラングドンを捕まえようと躍起になる警察を振り切りながら、ソニエール館長が残した暗号を追いかける。その中で、キリスト教の歴史に隠された重大な真実に近づくことになるとも知らないで…。
僕は正直に言うと、この本作の元となる考えを知っていました。本作を読む前に、それについて知っていたという人はそれなりにいることでしょう。僕はそれを、あるテレビ番組の特集で知りました。なるほどな、と思う一方で、それがどれだけ重大なことなのかわからなかったような記憶があります。
本作は、元になる話を知っていても全然楽しめる作品でした。何よりも、ソニエールが遺したいくつもの暗号がかなり見事な出来だし、サスペンスの要素もふんだんに盛り込まれているし、かつキリスト教の隠された秘密について非常に分かりやすく知ることのできる物語になっています。
ただ、やはり本作でも、そのキリスト教が何とかして隠蔽しようとする秘密が、どれだけ重大なことなのか、実感することができませんでした。やはり、それは宗教観の違いでしょう。キリスト教を信じている人や、キリスト教が身近にある人にとって、ここで扱われる問題は非常に重大なものなのだろうと思います。しかし、僕のような、キリスト教とはまるで無縁の人間には、それがどれだけ重大なことなのか、なかなか実感できません。
実際、キリスト教が何世紀も隠し続けてきたその秘密が、証拠と共に公にされた場合、一体どんな不利益が生じるのかがわからないんですね。教会の信用が失墜するみたいな感じで書かれていたけど、ふーんそうだろうかなぁ、って感じですね。別に、キリスト教に関する知識がなくても全然面白い作品だと思うけど、やっぱあった方がわかりやすいでしょう。
しかし、本作を読むと、キリスト教の歴史というのがいかに無茶苦茶なものかがわかりますね。本作中に、ナポレオンの言葉の引用として、こんな言葉があります。
『歴史とは、合意の上に成り立つ作り話にほかならない』
確かに、歴史というのは、それを作る側、つまり勝者の都合のいいように語られるわけで、伝わる歴史そのものを信じるべきかどうか、そこがまず問題になるだろうと思います。それに、高校までの記憶一辺倒の歴史教育のために、僕は歴史が嫌いになったし(ってまあそれは関係ないとして)。
宗教もまったく同じだと思いました。勢力を持った側が、何もかも都合の言いように書き換えていく。例えば、これまでキリスト教を信じていた人は別として、今までキリスト教を信じていなかった人が本作を読んだとしたら、キリスト教を信じようなんて気にはまずならないだろうと思います。それはもちろんキリストの責任ではなく教会の責任だけど、それにしてもひどい歴史だと思いました。
本作でたびたび登場し、タイトルにもなっているレオナルド・ダ・ヴィンチだけど、この天才の生涯みたいなドキュメンタリーも見たことがあります。モナリザや最後の晩餐に秘められた秘密や、鏡文字やその他様々な発明、解剖における偉大な功績など、レオナルド・ダ・ヴィンチが与えた影響は計り知れないものがあります。僕は天才が大好きなので、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じ時代同じ場所で生きてみたかったな、なんて風に思います。
あと、本作にディズニーの話題が出てきたことが意外でしたね。なるほど、ディズニーまでも陰謀に関わるか、と感心してしまいました。
世の中にはいろんな陰謀説があるけれども、本作で扱われている話は恐らく真実なのだろうなと思います。シオン修道会という存在や、それにまつわる伝説、そういった話は、やっぱ面白いですね。
あと、本作は絶対に文庫で読むべきだと思います。何故なら、巻頭にカラー写真が載っているからですね。バイト先の人で、ハードカバーで本作を読んだ人の感想で、いろいろな絵画や寺院の話が出てくるけど、それらがどんなものなのかわからなかった、というのがありました。本作では、モナリザや最後の晩餐を初め、いくつかの主要なモチーフがカラー写真で載っていて、わかりやすい感じになっています。
わかりやすいと言えば、本作は登場人物が非常に少なかったので、僕としてはすごく読みやすかったですね。外国人作家の小説を読むときはいつも、外国人の名前が覚えられなくて苦戦するんだけど、本作は、<主な登場人物>をして挙げられている登場人物が本当にほとんど主要と言った感じで、それが計11人。この11人でほとんど物語が進んでいると言って間違いありません。だから、すごくわかりやすくて助かりました。
僕としては、本作よりも面白い作品をたくさん知っているので、この作品があまりにも異常な売上を記録していることが少しだけ不満ですが、それでも本作は、なるほどまあこれだけ売れるのもわからないでもない、という面白い作品です。歴史ミステリーというのは日本ではあまり馴染みはないはずですが、歴史のみに傾注しているわけではなく、小説としての面白さも充分に備えています。僕がこんなことを言わなくてもみんな読むだろうけど、まあ読んでみてください。少なくとも、読んで後悔するようなことにはならないだろうと思います。映画も、もし原作に忠実に作っているならたぶん面白い作品になるだろうし、実際ちょっと見てみたいかもとも思います。ベストセラーには、何でこれはベストセラーになっているんだろうという作品も多いですが(最近では、「人は見た目が9割」という作品は、もう最低最悪の悪本で、何で売れてるのかさっぱり意味不明という代物だったけど)、本作はまあ売れるだけの理由がある作品だと思います。

ダン・ブラウン「ダヴィンチコード」







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LOVE(古川日出男)

運命は作られる。
偶然は生み出される。

のか?

断言できねぇ。難しい。そもそも運命とか偶然とかてなんだ?存在するもんだろうか?ある意味、幻想だろうが。
『繋がる』ということ。
僕らは、どうしても繋がることの少ない世界にいる。
リアルには。物理的には。
バーチャルの。あるいは非現実の。そうした接触は、逆に増えている/増えすぎている。目にも止まらない速さで。記憶に残らない形で。
誰もが『繋がり』を求めている。たぶん。必要だと感じている。きっと。
だが、それを実現するのはなかなか困難だ。
求めれば求めるほど失う。
失えば失うほどついてくる。
誰かと繋がれるってことが、運命/偶然だったりするんだろうか?
それとも、誰かの/何かの作為?
だったらどうする?
僕らの人生は物語の内側にある。自分の人生を外側から見ることは出来ない。僕らはどこまでいっても登場人物で、いつまでも読者にも作者にもなれない。
だから運命とか偶然とかって幻想が存在する。
僕らは、物語を外側から見たいと欲する。自分の人生ってやつの内側から何とか脱出したいって思ってる。
だから、誰かの紡ぐ物語を読む。それを自分の人生と重ねて、あたかも自分が自分の人生の外側に立ったかのような幻想を抱くようになる。
それでも、運命/偶然は消失しない。
いつまでも、僕らの中に残り続ける。
そして、物語も存在し続ける。いつまでも、どこまでも。
偶然だとか運命だとか、いいんじゃねぇ、そんなこと。
すべてに意味はあるかもしれないし。なかったらないで諦めればいい。
すべてを知ろうなんて、所詮無理なんだし。
繋がれるよ、誰とでも、どこででも。
そろそろ内容に入ろうと思います。
思いますが、今回内容紹介は放棄しようと思います。
何故か。それは、内容紹介がまったく不可能だからです。どの場面を、どの人物を、どの時間を切り取っても、まったく一向に内容紹介にならない。
大げさな例を出しましょう。ある一枚のジグソーパズルがあるとして。その完成形は、なんとも言えない抽象画。その抽象画について、言葉で表現することは無理です。もちろん、ピース一つ一つを切り取って説明するにしても、それはまったく全体を想起させることにならない。本作はまさにそんな作品です。
すべてが断片的で、
断片がそのまますべて。
そんな物語。
なので、内容紹介を完全に放棄しようと思います。
一応舞台だけ。品川区を中心とした一帯が舞台となっています。そこに集うあらゆる人種が出会い、そして別れる。そして、猫少々。そんな感じの物語です。
本作は、長編なのか短編なのかもなんとも言えないところです。僕は長編だと思って読み始めたけど、もしかしてこれは短編なのかと途中で思って、でも違うこれはもしかしたら長編なのかもしれない、とまた思い直して、最後にはどっちかわからなくなりました。後記で著者は、本作は巨大な短編だって書いていました。その表現は確かに正しいかもしれません。
というわけでどういう分類にすればいいかわからないけど、各章/各短編のタイトルだけ列挙しようかと思います。

ハート/ハーツ
ブルー/ブルース
ワード/ワーズ
キャッター/キャッターズ

そして各章/各短編の間に、品川やその周辺の紹介と猫についての短い話があります。それが以下の四つ。

秋、品川、ニーサン
冬、白金、ルナコ
春、目黒、ハイアン
夏、五反田、ミノワ

とまあこんな感じです。
さて書きたいことがいろいろあるのでバババッと書いていきましょう。
本作は、読者が物語の外部にいることを許さない作品だ、と思いました。
どういうことか?説明しましょう。
先ほど僕は、人は自分の人生を外側から見たいがために、誰かの物語を読む、というようなことを書きました。つまり、他人の物語を外側から見ることで、自分の人生を擬似的に外側から見ようという試みなわけです。
しかし本作の場合、読めば読むほど読者は、物語の内側に入り込まなければいけなくなります。読者として外側にいることを許容されないのです。
何故か?
僕は考えました。そして結論はこれです。
本作は、読まれることで完成する物語なのだ、と。
どういうことか?説明しましょう。
普通の物語/小説は、読まれる人間、つまり読者を存在がなくても物語として存在します。すると僕はおもっています。つまり、作者が物語を紡ぐ。それを読む人間が一人としていなくても、その物語は物語として存在/独立していると言えるでしょう?
なんの話をしているかわかりますか?一応物理の話になりつつあるのです。
さてでは本作。本作は、読まれるまでは未完成なのです。読者がページを捲り字を追うことで、初めて物語として完成するのです。
つまり、作者が物語を紡ぐ。その段階では物語は物語として存在/独立していません。未完成なままです。そこに読者の視点が入る。読者の視点と交錯する。そうすることによって、まるで化学反応のように、本作は物語として存在/独立するのです。
さてこれは一体何の話なのか?わかる人はわかるだろうけど、これはまさにシュレディンガーの猫なのです。箱を開けてみるまでは生きているか死んでいるか確定できないあのシュレディンガーの猫。本作も同様に、読んでみるまでは物語として完成/成立しているか誰にもわからない、そんな物語なのです。しかも猫です。本作は猫の物語でもあるのです。本作の構成と主題として、シュレディンガーの猫という呼称がどれだけ適当なことか。シュレディンガーの猫がわからないという人は、調べてください。
さてこれは一体なんの説明だったのか?読者が物語の外側にはいられないという話だったはず。そう、つまり本作は、シュレディンガーの猫が入っている箱を開けて、内側と外側を同一にしなくてはいけないのと同様に、読むという行為によって物語の内側に入らなければ、その完成形を見ることができない、とそういう物語なのだと僕は思うのです。
さて、僕は完成形を見ることができたのか?まあ、無理でしょう。僕はまだまだ、内側に入りきれていない。そんな気がします。
さて本作のというか古川日出男の作品の特徴として、視点が挙げられると思います。
普通著者というのは、著者の視点というものを消すように努力します。例えば真保裕一という作家の何かの作品の解説でこんなことが書かれていました。小説の中で、登場人物同士が自己紹介をしたとする。普段会話の中で人名は漢字で書かれているから不自然に思わないけど、でも初対面の相手の名前の漢字が何故わかるのか、というような疑問はある。そこには、著者の視点が含まれているのだ、と。真保裕一という作家は、そういう場合名前をカタカナにする。そうして、著者の視点というものを消そうと努力しているのだ。
普通の作家なら、読者に物語の世界に入っていきやすいように、著者の視点をなるべくなくそうとする。登場人物の視点にしても、三人称の視点であっても同じで、そこに著者の姿はない。
しかし、古川日出男の作品は、著者の、というか書き手の存在/視点が、常に文章の中に含まれている。僕ら読者は、著者/書き手と対話をするような形で物語を追っていくことになる。
この不思議な感覚は、読んでもらうしかない。もちろん
違和感を感じて受付けないという人もいるだろう。しかしこの新鮮さ。素晴らしいと僕は思う。これまで作家達が必死で消そうとしていた著者/書き手の存在を、ここまでおおっぴらに表に出してしまうのだから、あっぱれだと思う。そのお陰もあって、文章に力強さとスピードがある。他にはない文体になっている。
さて、もう少しだけいろいろ書こう。
前に、森博嗣の「アイソパラメトリック」の感想で、論理と物語の話をした。正確にどんなことを書いたのか覚えてないけど、普通物語には論理があるはずだけど、「アイソパラメトリック」は論理のない物語として成立している稀有な作品だ、というようなことを書いた気がする。
本作にも、論理がない。しかも、「アイソパラメトリック」と違って長編だ。これはすごいと思う。
普通物語というのは、論理を積み重ねることで成立する。そうしなければ、物語そのものの伝達が難しい。物語の中にどれだけ飛躍があっても、それは論理が存在するからの飛躍であって、論理なくしては飛躍もない。
しかし本作には論理が存在しない。
例えばそれは、こんな風に表現できるかもしれない。普通の物語というのは、プラモデルみたいなものである。部品はバラバラになっているけど、説明書(論理)がついていて、その通りに作れば(読めば)プラモデル(物語)は完成する。
しかし、論理のない物語というのは、いくつかの形のばらばらなブロックを与えられるだけ、なのである。僕らはそれを、どんな形にくっつけてもいい。作り方の説明書(論理)が存在しないのだから、どう作ってもいい。人によって完成形は異なる。しかし、それはある同じブロックから作り上げられたもので、すべてがある意味で同じものである。そういう感じだ。
これは、先ほど書いた。本作が未完成であるいうことにも符合する。内側に入って、ブロックを意識的に組み立てなければ、物語が完成しないのである。
そう、だからかもしれないが、古川日出男の作品を読むと、ものすごい疲労する。読む人間の何かをどんどん奪っていくような物語である。しかも、普通の物語よりも、読むのに時間が掛かる。それだけ、物語との関わりを密にしなければ、ついていくことが難しい。そんな物語である。
さて、ようやく最後である。
僕は、本作の表紙カバーのイラストが結構気に入っている。白黒のみで描かれた雑多なものを、無秩序に配置したような絵だけれども、どこがというのは難しいけど、すごく惹かれる。そしてこの絵からは、古川日出男っぽさもにじみ出ているように思えて、本作の表紙としてはぴったりだ、とそんな風に思う。
僕は個人的に、舞城王太郎と古川日出男は、将来的に村上春樹と同等の評価を得る作家になる、と思っている。もちろん、自分的に面白くないと感じる作品もある。しかし、総じてこの2作家は明らかにレベルが高い。本作も、その真髄に触れることが出来たとは思えないけれども、読む人間の何かを刺激しないではいられない作品であることは間違いないだろうと思う。向き不向きがあるので、絶対のオススメはできないけれども、機会があれば読んで欲しいと思います。

古川日出男「LOVE」



アマチャ・ズルチャ―柴刈天神前風土記―(深堀骨)

♪くぅだらねぇと~つぅぶやいてぇ~

さて僕は基本的に音楽というものをまったく聞かないわけで(バイト先で流れる有線とCMソングのみ)、この歌も正確には誰が歌ったものか正直わからないところだけど、うろおぼえの記憶によれば、エレファントカシマシ娘♪うちら陽気な三人娘…エレファントカシマシとかいうグループが歌っていたような気がします。
まあなんでこの歌の話が出てくるかと言えば、本作にぴったりだからです。どうぴったりかと言えば、その歌の続きの歌詞を勝手に変えて書いてみましょう。

♪くぅだらねぇと~つぅぶやいてぇ~
本のペェ~ジをめくぅろぉ

そうです。本作を読んでいる間に、僕はなんど『くぅだらねぇ~』と呟いたことか、その回数、ざっと数えても数え切れません。
もうとにかくくだらないことにかけては最強の作品です。
本作のくだらなさをちょっと頑張って表現してみましょう。
例えば、フルオーケストラで超デカいホールを貸しきって、そこで「猫ふんじゃった」を演奏するような。
例えば、国立競技場を借り切ってそのフィールドで真剣に将棋を指すような。
例えば、渋谷のスクランブル交差点でカーリングをやるような。
とまあこんあ感じで挙げていけばいくらでも思いつきそうですが、とにかく本作には、そんな感じの果てしないシュールさが生み出すそこはかとない笑いが内包されているのです!
まあ簡単に言ってしまえば、電波少年的、とでもいいましょうま。懐かしい。『進め』から『進ぬ』になった時は、やるな電波少年、と思ったし。
電波少年と言えば、言わずと知れた無謀な企画を次々に生み出しては笑いを生み出し、何故か時には感動も与えていたりする、当時としてはセンセーショナルにしてどことなく化け物的な番組でしたが、本作のイメージはまさにその電波少年というか、そんな感じです。
ちょぉぉぉぉぉぉ~~~~~~~くだらないことを、ちょぉぉぉぉぉぉぉ~~~~~~~大真面目にやるという感じで、そのシュールさに思わず笑ってしまうこと数知れず。馬鹿馬鹿しい。
これまで、くだらねえ馬鹿馬鹿しい作品として僕の中でトップを誇ってきた(?)蘇部健一の「六枚のとんかつ」ですが、これはこれで史上最強のくだらな作だとは思ったけれども(メフィスト賞受賞作なのだけど、あれを出版しようと決めた講談社は偉い。まあ、清涼院流水を世に出しただけでもすごいし、何よりも森博嗣・西尾維新・舞城王太郎を輩出しているというだけでとてつもない賞なのだけどね)、本作はそれにひけを取らないくだらな作で、ある意味すごいなと思いました。
というわけで、いかにくだらないかというところに出来るだけ焦点を当てながら、くだらねぇという呟きに乗せて内容紹介と行きたいと思います。

「バフ熱」
風邪かなと思って男は病院に行くと、なんたらっていう変な医者が変なことを言いやがる。曰く、あんたは「バフ熱」に罹っていると。これに罹ると、いつしか「バフバフ」としか喋れなくなり(くだらねぇ)、そのうち死んでしまうのだ!なんだそりゃと思いながらも、男はまだ死ねはしないと思う。何故なら男にはしなければならない使命が。それは、「食べられる洗濯バサミ」を開発することだ!(くだらねぇ)妻の一言から、イカを使っての開発に乗り出したものの(くだらねぇ)、イカ臭さが洗濯物に残ってしまうのがどうしようもない(くだらねぇ)。しかしどうしたものか…。

なんでもないことだけど、医者と男の、体温計のやり取りでまず爆笑しました。これはすごい作品なんでは、と思いました。

「蚯蚓、赤ん坊、あるいは砂糖水の沼」
普段使い慣れている駅にあるコインロッカー。どうもその方向からため息が聞こえてきた気がする(くだらねぇ)。気にはなったが何も起こさず、かといって気にはなるのだから行きつけのバーのマスターに喋ってしまう。すると同じ店にいた「国際『物の物性』研究学会日本支部長」であるレヂナルド・キンケイドという、明らかに怪しい団体の明らかに怪しい外人が寄ってきて興味を示す(くだらねぇ)。物には物性があるのだ云々云々と言い募り、そのコインロッカーを調べるだのなんだの…。

著者が生涯で初めて書いた小説だそうです。タイトルの意味は冒頭ですぐわかるのだけど、初めて書いた小説で冒頭をこんな感じで初め、しかもそれをタイトルにしてしまうなんて、この著者はよほど変人なんだろうなと思いました。

「隠密行動」
「おっさん」という、電話でのやり取りしかない人物の指令により何かをするということを仕事にする男。連絡はたまにしかなく、男はつねに酒を飲んでだらだら過ごしている。「おっさん」からユーゴスラビアとウクライナの野本立ての映画を見ろだとか言われ(くだらねぇ)、そこでふと目にした棒に襲われたり(くだらねぇ)、何故か空を飛べたり(くだらねぇ)、まあそんな感じでそんな感じ。

これは本作の中でも一番つまらなかったかも。特に感想はない。

「若松岩松教授のかくも驚くべき冒険」
とにかく茸に取り付かれた若松岩松教授。そんな教授を慕ってやまない可愛い女学生や、夫の学生とヤりまくっている教授の奥さんなんかが出てくるけど、まあそれはいいとして。教授は、新種の茸の発見でも有名で、今日も都市型茸の発見を目指して湿気の多い木造建築の多いところへと出かけていく。そこには、殺し屋から身を隠すどっかの国王がいて(くだらねぇ)、身を隠すために整形をするのだけどあまりにも有名人の顔を希望するのでそこから逃げられもせず(くだらねぇ)、しかも何故か朝起きると体中茸に覆われるという意味不明な状態で(くだらねぇ)、まあそんな場所に教授は赴くのだけど…。

ほんと、著者の頭の中はどうなってるんだろう、って感じですね。殺し屋が出てくるんですけど、アホすぎてもう、はい。

「飛び小母さん」
飛び小母さん出現!(くだらねぇ)飛び小母さんという名で一躍有名になった、その名の通り空を飛ぶ小母さんが目撃される。奇声を発し、白い前掛けのようなものをして、そしてオノ・ヨーコに似ている(くだらねぇ)。まあそれはそれとして、ダメダメの両親の元で浪人生をしている男は、いきつけのすし屋で寿司食って酒飲んでるうちにじいさんに会いたくなって、会いに行くとそこには汚いニセじいさんがいた。誰だよこいつ。んで、畑で大根を抜いているとそれがなんと飛び大根だった!(くだらねぇ)さて、じいさんの元から帰ってきてまたすし屋へとよると、そこの大将が(そういえばこの大将は外人だけどべらんめぇ口調(くだらねぇ))おろし金がなくなった、というか、飛びおろし金だった!なんてことをいう(くだらねぇ)。まあそんなわけでクライマックス、何が起こるのやら。

本作中最も面白い作品でしたね。これは傑作だと思う。もしこの本を本屋ででも古本屋ででも見つけたら、この作品だけ立ち読みして欲しいかも。これはいいですね。くだらないし馬鹿馬鹿しいしどうしようもないけど、でも結構感動作です。愛の物語です。はい。

「愛の陥穽」
「蚯蚓~」で出てきた男とバーとマスター。男がマスターにある相談をしている。物を本気で愛するなんてことはあるかいね、と。
ことはちょっと前。父親から連絡があって実家に戻ってみると、どうやら母親がやばいらしい。痴呆か…と父親は疑っている。よくよく話を聞けばこうだ。定年を迎えて夫婦水入らず。しかし無趣味を通してきたためにすることも特にない、ってなわけで夫婦で散歩だ。その途中で、マンホールの蓋に出会う(くだらねぇ)。まさに出会ってしまったわけで、どうやら母親はそのマンホールの蓋に恋をした…?らしい(くだらねぇ)。結局後日、そのマンホールの蓋をうちに持って帰り、んで今もうちにある、とのこと。おいおい、母ちゃんちょっとまじでやばいんじゃねぇの…なんて言っているうちに母ちゃん失踪…おいおい。

これもまあ結構いい話ですね。でも冒頭の書き出しには驚きますね。なんせ、上記のような内容にも関わらず、冒頭は「自我に目覚めたフクロウナギ」の話ですからね。著者、やっぱおかしい。

「トップレス獅子舞考」
トップレス獅子舞とはその名の通り、トップレスで獅子舞を踊るということ(くだらねぇ)。今では、「冬はスキー夏はトップレス獅子舞」とまで言われ、尋常ではないブームを来たしているのだけれどもしかしちょっと待てやぁコラァ!と著者は憤慨しておるのです。今のトップレス獅子舞は、本来のトップレス獅子舞にあらずや!拙者は本来のトップレス獅子舞の形態に戻すべきだと切に訴えるのじゃ!(くだらねぇ)というわけで著者が書き連ねる、トップレス獅子舞に関する考えなどなど。

これは、ある意味ですごい。なんせ、まったく存在するはずのないトップレス獅子舞というものについて、歴史を与え、しかも考察までしてしまうのだから、すごいとしかいいようがない。しかし、どっから発想したんだよ、トップレス獅子舞なんか。

「闇鍋奉行」
江戸のある時期。町奉行や寺社奉行なんどと共に、鍋奉行という奉行が存在した(くだらねぇ)。読んでの如く、「しらたきは食べる直前に入れろ」「豆腐はくずさないように」「うどんは煮すぎだな」など、江戸町民の作るありとあらゆる鍋に対してあれこれ言って回るという、ただそれだけの役職である。
さて事件は起こる。寺社奉行と勘定奉行の鍋にそれぞれ、蛙と泥亀が入れられていたらしい(くだらねぇ)。天井には「闇鍋奉行参上」の張り紙。これはお江戸の鍋を脅かす一大事である。鍋奉行の皆ども、心して闇鍋奉行を突きとめよ!(くだらねぇ)

鍋奉行っていう発想だけからここまで書いたんだろうけど、とにかく馬鹿馬鹿しいですね。はい。

そんなわけでこんな内容ですが、どうでしょうか?くだらなさが伝わりましたでしょうか?
帯にはこんな風な文句が書いてあります。

「スタージョンもラファティもすでに亡い
しかし、私たちにはまだ深堀がいる」

スタージョンもラファティも誰だか知りませんけど、まあ深堀に期待している勢力というのがあるということでしょう。
さて最後に、何故本作を手に取ってみたかという話を。僕は、毎年このミスを買っているのだけど、そのいつかの年のこのミスに、ランクインこそしなかったけど、投票した人の何人かが、この深堀骨の「アマチャ・ズルチャ」を一位にしていたのを覚えてしたからですね。だから気になっていました。まあ評価は、なんとも言えない難しいところだけど、少なくてもこういう評価は出来ます。こんな作品を書ける作家は、日本にはほとんどいないだろう、と。まあそんな感じですね。
そういえば、「アマチャ・ズルチャ」ってどういう意味なんだろう?
まあ、気になったら手に取ってみてください。

深堀骨「アマチャ・ズルチャ」



星界の紋章(森岡浩之)

僕は、宇宙というのは割合好きなんです。
昔からそもそも物理が好きで(決して得意ではないけど)、特にアインシュタインの相対性理論なんかは、よくわからないなりに、これはすごいな、なんて思いながら、雑誌「ニュートン」や講談社のブルーバックスなんかを読んでたりしました。
それでも僕は、人類が宇宙に本格的に移住するなんて可能性はかなり低いのではないか、と思ってしまいます。
少なくても僕は、地球がどれだけやばい状態になろうとも、できれば宇宙へ出てどこかの星に移住したいとは思わないでしょう。
Sfの小説の中ではよく、そうした設定が出てきます。たぶん、スペース・オペラとかいうようなジャンルなんだと思います。様々な事情から、人類は地球を捨てて他の星に移住する。それから、星同士での戦争なんかがあったりするような物語です。
僕は基本的に、リアリティとか重視する読者じゃないんで、SFのような設定も全く問題なく受け入れますが、人類が宇宙に移住するというその点だけは、違和感を感じざるおえません。
どれだけ技術が進歩しても、どれだけ地球環境が危機に瀕していても、人類は地球を手放さない、と僕は思っています。根拠は特にないのですが、無理矢理こじつけるとすれば、戦争を挙げることができるかもしれません。
人間はこれまで、様々な時代様々な場所で戦争をしてきましたが、様々な大義名分はあるにしろ、結局領土を拡大するための戦争だったと言っても間違いではないでしょう。
そう、人間というのは、戦争をしてでも領土を広げたい種族なわけです。そんな種族が、どれほど新天地に期待できようとも、これまで持っていた土地を手放すとは思えないですね。
もちろん、地球を手放さず、さらに領土を拡大する目的で宇宙に進出していくことはあるかもしれません。しかしその場合でも、地球が健全なわけで、そこまで熱心に力を入れるというようなことはないのではないか、と思ってしまいます。
余談ですが、月の土地を買うことができる、ということを知っているでしょうか?既にハリウッドの俳優なんかの金持ちから、果ては超有名ホテルまでもが土地を購入しているようです。特ダネの笠井さんも買った…んだったっけな?
面白いのが、この月の土地の販売をしている会社。アメリカの会社なんだけど、本来月の土地というのは、どっかの大国間の条約かなんかで、『どこの国の領土でもない』って決められているんだけど、その会社はその条約を超拡大解釈して、『どこの国の領土でもないならうちがもらう』とアメリカ合衆国に申請し、なんとそれが受理されたために、独占して販売しているらしい。なんとも意味不明だけど、面白い話ですね。まあ僕は、月に移住できるって言われても行きませんけど。
宇宙は果てしない。それでも、このちっぽけな地球にいるだけで様々なことがわかる。僕は、そこにロマンがあると思っている。わざわざ宇宙に進出して移住するなんて無粋なこと、まあ人類が選択することはないだろう、と勝手に思っています。
そんなわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、まさに宇宙進出・宇宙戦争的な内容の、バリバリのSFものです。
惑星マーティンの主席の息子であったジントは、ある日訪れたアーヴという名の侵略者によって、運命を大きく変えられることになる。
惑星マーティンを突然襲来したアーヴは、有無を言わせぬ降伏を迫った。主席の下した決断は、惑星の人々を困惑と怒りに満たすものだった…。
そして数年後、ジントはアーヴ帝国の帝都へと向かうために、宇宙港で戦艦を待っていた。もう何年も前に捨てることになってしまった故郷に想いを馳せる間もなく過ぎていく日々に、少し嫌気もさしていた。
そんな時ジントは、ラフィールという少女と出会う。あの青い髪は紛れもなくアーヴ。乗り込んだ戦艦が攻撃に遭い、ジントとラフィールはその戦艦から離艦させられることになるのだが…。
ある意味不運な生い立ちを持った少年ジントと、奇妙な出会いをすることになったラフィールの、宇宙をまたぐ冒険を、SFらしい設定で描く物語です。
僕としては、まあ普通の物語でした。可もなく不可もなく、と言った感じ。
とにかく本作で評価できるのは、ジントとラフィールの会話ですね。これはめちゃくちゃ面白い。ジントとラフィールが二人であれこれ冒険するくだりは、読んでて面白いなぁ、と思いました。
でも他の部分はさして大したことはなかったのではないかと思います。アーヴという種族の設定はなかなか面白いと思うし、二人の冒険に絡んで登場する人々も決して悪くはないのだけど、でも期待以上のものは特になかったですね。
最悪だったのは、一部のSF的な設定がまるで意味不明だったこと。宇宙船の移動に関する理論とか、戦闘に関する描写とか、まったく意味不明な理論と語句が乱立して、かなり流し読みしました。特に、戦闘シーンについては、何がどうなっているのか、さっぱり想像できませんでした。
一応冒頭でも書いたけど僕は割と物理が好きで、得意なわけではないけどずっと理系の人間でした。相対性理論とか量子論なんかは、個人的に好きだったので関連する本をそれなりに読んだりしましたけど、それでも本作の設定はまったく意味がわかりません。理系の人間でかなり優秀な人間ならわかるのかもしれませんが、理系でも普通の人間や文系の人間には、まったく理解できないのではないか、と思いました(まあ僕が呆れるほどバカだっていう可能性もありますけど)。
何が不思議かって、著者は文学部卒なんですね(まあ京都大学ですけど)。そもそも頭はいいんでしょうけど、いくらSFを沢山読んでいるからって、あれだけ難解な設定を、文学部の人間がどうやって捻り出せたのか、不思議で仕方ありません。
まあそんなわけで、決して物語としてつまらなくはないです。SFが好きな人には最高に楽しめる物語でしょう。でも僕には、ついていけない部分が多くて、ちょっと消化不良でした。もっと馴染みやすい物語かと思ったのだけど、なかなかそういうわけでもないみたいでした。そんな感じです。

森岡浩之「星界の紋章」


星界の紋章Ⅰ文庫

星界の紋章Ⅰ文庫


星会の紋章Ⅱ文庫

星界の紋章Ⅱ文庫


星会の紋章Ⅲ文庫

星界の紋章Ⅲ文庫

七つの黒い夢(乙一他6名のアンソロジー)

僕らは、『常識』という、目に見えないものに囚われて生きている。
僕らは、『常識』を身に付けることなく、社会で生きていくことは出来ない。社会が生まれる要件として、『常識』が共有されるということが挙げられるのかもしれない。
赤信号だったら止まる。
食事の前には手を洗う。
オヤジギャグにはとりあえず笑っておく。
まあそういう、誰しもが共有しているルールが『常識』であり、これがなければ僕らの生活は大変なことになる。
例えば赤信号。赤信号で止まるということを皆が知らなければ、信号の存在がそもそも意味をなさないし、知っている人が少数でもいるという状況でも、周囲の人間にそれを言葉で伝達しなくてはいけなくなってしまう。
『常識』が存在することで、僕らの生活がなんとスムーズに運行されているか。僕らは、普段そのことにまったく気付かないけれども、少し意識すれば、『常識』というものの存在の大きさを知ることになるだろう。
しかしである。
『常識』というのは、一方でなんとも不自由な檻ではないだろうか。
『常識』というものの性質は、目に見えないというだけではなく、時々刻々と変化するということにもある。固定されることはない。
人々は、生活の中でありとあらゆることを、『常識』というルールで塗り固めてしまおうとする。
僕は本屋で働いているのだけれども、レジでレシートと一緒にお釣りを渡そうとする時、出した手を上に引き上げる客がいる。これはつまり、『レシートはいらねぇよ』というサインなわけで、まあそれなりにレジもこなすと、そんなことはわかってくるようになる。
僕が嫌だなと思うのが、それをさも『常識』であるかのようにやるということだ。一言、『レシートは要りません』って言えばいいだけなのに、それを、手の動きをさも『常識』だと言わんばかりに示して、その言葉を省略しようとする。
なんという傲慢だろうか。
また、今の日本の受験戦争にも同じようなことが言えるように思う。日本という社会は、最近は特にだけど、常に競争し勝者のみが成功できるというという形になっていて、そのために学力が問われる。一部のそういう、エリート志向のある家庭が近くに存在すると、まるで周囲が、『受験していいところに行くのが常識なんではないか』と勘違いして、『みんなも行ってるから』という意味不明な理由で子供を塾に通わせ、『社会に出たら学歴がモノを言う』ということを、『常識』にしたてあげようとするのである。
こうして僕らの周りには、日々『常識』が増えていく。厄介なことに、目に見えないので、その変化をわかりやすい形で知る機会は少ない。『常識』という檻の中でがんじがらめにされているのに、そのことに気付かないで日々を過ごすことになる。
僕は、今使われている『常識』という言葉について考えてみた。今の日本で『常識』というのは、『モラル』と『個性』に分けて考えるべきなのではないか、とそう思う。
『モラル』としての『常識』、これは守らなくてはならない。これを守らなければ、社会がきちんと機能しないというものである。
しかし、『個性』としての『常識』には、寧ろ積極的に従わないという意思が必要なのではないかと思う。日本人というのは、誰もが個性を出そうと思っているのに、何故か画一化してしまうという不思議な民族だ。誰もが、他人とは別の個性を出したいと願いながら、結局皆似通ってしまう。やはりそこには、『みんなやってるから』『今の流行だから』という、『個性』としての『常識』に縛られた思考が存在するからだと思う。
『モラル』は守らなければいけない。しかし、人に合わせようとする、すなわち、人と違うことを恥じるという意味での『常識』の檻からは、一刻も早く抜け出すべきではないか、とそう思う。
目に見えないからと言って油断していると、そのうち僕らの世界は、『個性』としての『常識』で平坦化された、恐ろしくつまらない世界になってしまうかもしれない。
とまあそんなわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
久々にアンソロジーを読みました。まずはそれそれの短編を紹介しましょう。

乙一「この子の絵は未完成」
息子遊馬は、どうしてか常識をすぐに忘れてしまうらしい。絵を書いたら、その絵から匂いが漂う。絵からは匂いは漂わないという常識が息子にはないのだ…。どうしたらわかってくれるだろう…。

ほぼ、この乙一の短編目当てで買いました。やはり乙一らしい、これぞ乙一と言った感じの内容でした。奇妙な感じで始まり、穏やかな感じで物語が終わります。

恩田陸「赤い毬」
死んだはずの祖母に会った。母親は夢だというけど、絶対に違う。海が見えるはずの縁側から竹やぶが見えたあの日。赤い毬を追いかけた私は…。

相変わらず恩田陸とは最強に相性が悪いらしく、この短編もさっぱり意味不明でした。全体的に物語そのものが暗喩的すぎて、僕には理解できませんでした。怖い話なのか切ない話なのか、それともまったく別の話なのか、それすらわかりません。

北村薫「百物語」
飲み会の帰りに、なんだかんだで自宅に後輩の女子を連れてくることになった男。女は始発まで寝ないと言い張るので、思いつきで百物語をやることにした。消すのを蝋燭の火ではなく、部屋中の明かりに変えて…。

さすが北村薫という感じですね。これもかなりよかったです。もちろん、話を読んでいればオチは簡単にわかります。それでも、わかっていてもなお残る余韻が、さすが熟達といった感じです。なんとなく、落語的だなと感じるのは僕だけでしょうか?

誉田哲也「天使のレシート」
よくいくコンビニでレジを売っている、名札に「天使」と書かれた女性。結構憧れの女性だ。そんな彼女と、偶然ばったり会った。なんか話をする感じになった。今の悩みを打ち明けてみたりした…。

怖いという意味ではこの作品が一番怖いかもしれません。なんというか、途中まで読むと、なんとなくベタでしかもそれはないんじゃ…というような展開なんだけど、最後の落とし方は結構きまってるんじゃないかと思いました。

西澤保彦「桟敷がたり」
飲み会の翌日、二日酔いのまま空港にいる私。羽田まで帰らなくてはならないのだけど、離陸直後空港に引き返した。何?整備不良?ちょっと、どうしたっていうのよぉ…。

本作の中では割と場違いな作品ですね。全体的にホラー的な作品が集められているのに、本作はしっかりミステリやってます。まあ西澤保彦だし仕方ないですけど。まあ最後の辺りでそれなりに怖い感じでまとめてるからいいんですけど、なんかなぁって感じがします。

桜坂洋「10月はSPAMで満ちている」
今ある事務所に向かっている。これから働く新しい職場だ。そこで、魚肉ソーセージと猫をめぐる、奇妙な事件に遭遇することになる…。

ストーリーはなんだか馬鹿馬鹿しい感じがするけど、全体的な雰囲気というのが結構好きだったりします。登場人物がそれぞれ、結構際立っているというか。まあそれでも、なんなんだろうーなこの物語はって感じになるかもですけど。

岩井志麻子「哭く姉と嘲う弟」
姉さんが帰ってきた。またお話聞かせてください。昔、一緒に布団に包まって聞かせてくれた、異国の怖い物語を…。

これも僕の肌には合わない作品でしたね。時代がかってる感じの文体もそうだけど、ホラー的な思想というのが(なんかおおげさだけど)、著者とは合わないという感じですね。

さて一応、それぞれの作家がどんな作家活動をしているか、ジャンルで書いてみようと思います。

乙一;ホラー、ミステリ系
恩田陸:ファンタジー・ミステリ系等いろいろ
北村薫:ミステリ
誉田哲也:著作を読んだことないけど、デビュー作はホラー
西澤保彦:ミステリ
桜坂洋:ライトノベル
岩井志麻子:ホラー

ホラー系のアンソロジーを作るに当たって、なんでこんなメンバーになったのか多少不明ですね。それぞれ、雑誌に掲載されたものをまとめたもののようなんで、適当にいろいろかき集めただけなのかもしれないけど。最終的にこういう形で作品になることを前提に雑誌に載せたとは思えないようなラインナップですね。
アンソロジーは、割と興味のある作家目当てで買うことが多いと思うけど、そのついでで読んでみた作品が面白かったなんてことになると割と嬉しかったりします。出版社的にもそれが目的の一つなんだろうけど。
今回で言えば、桜坂洋と誉田哲也が割とそんな感じで(乙一と北村薫は初めから期待してたので除外)、他の作品を読んで見てもいいかな、という気になったりしました。
あと本作を読んで思ったのは、恩田陸ってなんであんなに人気なんだろうなぁ、ということですね。未だに僕には理解できません。まあ、売れるから著作は売り場に置きますけど。置きますけど、納得できないですね。
あと、これもまあどうでもいいけど、表紙の絵が結構好きだったりします。どこがって言われても難しいけど。
まあそんな感じです。
全体的に、まあそこまでオススメっていうことでもないのだけど、気になる作家がいるなら手に取って損はないでしょう。7人の内の誰にも興味がないという人は、まあ買わなくていいでしょう。

乙一他「七つの黒い夢」




マルドゥック・スクランブル―圧縮・燃焼・排気―(冲方丁)

生きている中で、自分が本当に必要とされている、と思えることというのは、実は少ない。
取替えの利かない、完全な個人として尊重されるということ。他の誰でもなく、どうしてもその人でなければならないということ。そういう感情を持てる人は、いい人生を送っていると思う。
僕らは普段、それぞれ名前を持つ個人として生きているけれども、社会の中ではただの数字の1である。社会の中では、ほとんどの人間は、名前を持たない存在として、等しく扱われる。
サラリーマンのなどは、それをよく感じることだろう。誰でも出来る仕事。自分でなければ出来ないことなど何一つない。すべてが取替え可能で、自分が今いなくなったとしても、多少は困るかもしれないけれども、大きな損害はない。
僕のようなフリーターだとなおそうだ。確かに僕は、今のバイト先で僕しかやらない仕事をたくさんやっている。僕がいなければ、誰もがめんどくさがってやらないだろう仕事をやっている。しかし、それでも僕がいなくなって、そこまで困る人はいないだろう。何故なら、僕がそこで働き始める前までは、その状態でなんとか機能していたはずなのだから…。
僕らはどうしようもなく数字の1なのである。
最近、「他人を見下す若者たち」というタイトルの新書が結構売れている。読んだことはないけれども、帯などの文句を見るに、今の若者は、そのどうしようもなく数字の1である状態から、特にビジョンも努力もないままに抜け出そうとする、そういう人種なのだそうだ。その、抜け出そうする感覚は、正直僕にはないものだけど、わからないでもない。数字の1より、名前のある個人である方がいいに決まっている。
数字の1ではないかもしれない、と錯覚できることもないでもない。
例えば、親からの愛情。
例えば、恋人との愛。
こういうものは、他の誰でもない、その個人でなくてはならない、という感情に支配される。そう見える。
でも、反論しようと思えばいくらでもできる。親からの愛情の場合、それが名前を持つ個人だからではなく、自分の子供だからという理由からだろう。恋人との愛の場合、自分以外にもっとぴったりの人がどこかにいるかもしれない、という疑問を拭いきれない。
僕たち人間は、弱く孤独な生き物だ。どんなに孤独に強い人でも、数字の1とみなされることに耐えられるわけではない。常に存在意義を見出し、常に周囲と戦い、そうやって僕らは、私だけが注目されている、私だけが必要とされている、そういうステージを求め、そういう錯覚を欲し、そうやって騙し騙し生きているわけだ。
僕は、強がりかもしれないけど、数字の1として生きることを選んだ。今はまだいいけど、将来的にはそのことによって、絶望的な孤独に陥るかもしれないという不安はある。しかしそれでも、数字の1からの脱却をめざして無様に悲しくあえぐよりは、潔く数字の1であることを選択した方がいいかもしれないと思ったのも事実である。
自分でなければならない。そういう自負を持って生きることも一つの生き方だと思う。また、それを目指すことも決して悪くはない。ただ、どれだけ頑張っても、人間は所詮数字の1でしかない、ということは、常に念頭に置いておくべきではないか。そんな風に思った。
そんなわけで内容に入ろうと思います。
ざっと感想ですが、非常に評価の高い作品なんですが、僕としては非常につまらない作品でした。
そして、内容の説明が結構難しいな、これ。
少女娼婦としての人生を生きるバロット。今は、賭博師のシェルという男に買われて、まさに飼われているという生活をしている。新たな身分保障を与えておきながら、それを決して調べてはならないという忠告を破ったがために、バロットはシェルに焼き殺されそうになってしまう。
全身に重度の火傷を負いながらもバロットは生還する。しかし、皮膚組織がすべて、特殊な金属繊維に替えられていたけれども。
バロットを救ったのは、委任事件担当官にしてネズミ型万能兵器のウフコックだった。そして、高度な技術により、バロットの皮膚移植をしたのが、同じく委任事件担当官であるドクターだった。二人は、特殊なケースに限り危険な技術の使用を認められる『マルドゥック・スクランブル09』を発令し、バロットの安全を保障し、バロットからの委任によって事件を捜査し、自らの有用性を示す。そういう立場の人間であった。
バロットは驚異的な回復力で、日常生活に不自由ない状態まで戻った。またバロットは、その皮膚の替わりに移植された特殊な金属繊維のお陰で、電子機器を自由に操作し、周囲を自在に感覚できる特殊な電子干渉能力を得、自らが何故殺されかけたのかを突き止めるため、またドクターやウフコックの有用性の証明に役立とうとするために、自らの能力を使って、ドクターやウフコックと協力してシェルに立ち向かっていくのだけれども…。
という感じなんですけど、まあこんな説明じゃあわかんないですね、きっと。
本作は、さっきも書いたけど、非常に一般的には評価の高い作品なんです。完全にSFなのに、このミスにもランクインするほどです。
でも、僕にはダメでしたね。確かに長い作品でしたけど、それ以上に、面白くないがために読むのに時間が掛かった気がします。
冒頭はまあミステリっぽいですね。事件があって、まあそれを解決するために動く。相手側の妨害があって命を狙われたりする。
まあそれはいいんだけど、その内に、相手側の用心棒というか、まあこいつも委任事件担当官なんだけど、ボイルドっていうやつが出てきて、こいつがまた特殊なサイボーグみたいな感じで、ほぼ不死身。だから、結構バロットとボイルドの戦闘シーンがあるんだけど、それはもはや僕には、ターミネーターしか思い浮かべられなかったですね。ほぼ不死身の二人が戦って無茶苦茶する、みたいな。
あと、本作を評価する人間が必ず書く、本作の超脱線部分のカジノシーンなんだけど、ここを評価する人も結構いるみたいなんだけど、僕にはそんなでもなかったですね。いや確かに、あれだけのブラックジャックのシーンを完璧に描ききるって言うのはなかなかできるもんじゃないと思います。でもやっぱり比較してしまうんですね、あの賭博コミックとしては最強の「カイジ」と。どれだけ素晴らしいカジノシーンでも、やっぱ展開の仕方とか賭博的な面白さでは、「カイジ」には敵わないだろうと僕は思いますね。本作のカジノシーンを素晴らしいという人は、是非「カイジ」を読んで欲しいと思います。エンターテイメントとしての面白さでは、圧倒的に「カイジ」の方が上だと思います。
あと、言葉の意味がわかんなかったり、文章の内容が理解不能だったり(まあそれを狙ってやっている文章もあったけど)、情景の描写がよくわからなかったり、そんなこともまあ結構あったりで、なかなか入り込めなかったですね。
でもまあ、ネズミ型万能兵器という設定はまあなかなか面白いと思ったけど。なんでもアリっていうところが気に食わないけど、まあウフコックという存在はなかなか面白かったかな、と。
この作品をどんな人が高く評価しているのかよく知らないけど、SFを結構好きだっていう人にはもしかしたら合うのかもしれません(僕は、SFも読むけど、やっぱ基本ミステリの方が好きな人間です)。Sfは読まないっていう人や、SFはまあ少しは読むけど、というような人は、手を出さなくていい作品だと僕は思います。
そうそう、この著者の名前読めます?僕はずっと、「おきかたてい」だと思っていました。本当は、「うぶかたとう」です。

冲方丁「マルドゥック・スクランブル―圧縮・燃焼・排気―」










日記書いてる場合じゃねぇよ(安野モヨコ)

漫画家って、どう考えても尋常な職業ではない。
はっきりいって、どうかしちゃっているのではないだろうか…。
…なんて言って漫画家&漫画家ファン&漫画ファンにボコボコにされるのも嫌なんで、早速いい訳。
仕事しすぎだろ、とわたくし思うわけです。
例えば、小説家っていうのは、まあ基本的に物語を考えて文章を書けばいいわけです。映画でも、脚本は脚本家、衣装は照明は小道具は大道具はCGは…なんてそれぞれ専門がいるわけで、分業だからまあそれほど負担もない、と。
でも漫画家って…全部やらにゃならんのですよ!
アシスタントがいらっしゃるでしょう…とかそういうレベルじゃなかでしょう。まず物語作って、んでネームだとか下絵だとか(この辺のコミック的専門用語はおらにはわからんかったのだが)まあそんなの書いて、んでペン入れ。衣装も小道具も大道具も照明もカット割りも、とにかくなんでもかんでも自分で決めて自分で描かにゃならん。んで、人気作家になると、毎週締め切りがあったりするわけで…。
いやいや、人間がやることですかそれ。もうなんていうかこんなこと言うと非難満載のような気がするけど、今の日本で漫画家になるって言ったら、本が売れなさ過ぎて漫画家を廃業して病むか、本が売れすぎて忙しすぎて人間を廃業して病むかのどっちかしか選択肢がないんじゃないだろうか…。
特に僕が思うのはコナン、というか青山剛昌。僕はミステリが好きなんで、もちろんコナンとか金田一とか好きなんだけど、あれだけ良質のミステリ(トリックだけでなく、話の持っていきかたとか解決の仕方とか、それが後々の物語と絡んでくるところとか!)を、毎週の連載でポンポン書けるなんて、あーきっと青山剛昌は人間ではないに違いないとか、同じ能力を持った青山クローンが3体ぐらいいるに違いないとかもはやそんな風に考えてしまうくらい、とにかくすごいなぁと思うわけです。人間業ですか、アレあ?それとも、漫画家ってのは、ガンダムのニュータイプみたいに(って知ってる風に書いてるけど、ガンダム見たことない)、新人類的な人たちなのですか?
すごいです。すごすぎます。
少し前までバイト先に、漫画家志望の女子がいて、その人に森博嗣の「スカイクロラ」のPOPを作ってもらったりしたのだけど(これが超キレイ!)、最近漫画家のアシスタントになったとかで、いや頑張って欲しいものだけど、僕の中の貧困な『漫画家イメージ』によると、漫画家ってのは恐ろしく悲惨な生活をしていて、締め切りギリギリに原稿を上げてくるのに、さらに超スピードで背景とか描いてとか、家に帰れなくて泊まりこみで風呂にも入れないしファッションとか化粧とか何それみたいな…まあそんなイメージなんですけど、とにかく人間廃業するのだけは、いくら仕事が楽しくても、それだけは止めて欲しいなぁ、と思ってみたり。
日本の出版物の3分の1は漫画だそうで、日本は世界に誇る(誇れるかどうかは人次第だろうけど)漫画大国なんだけど、それだけに個々人の技術が上がりすぎて、最近では新人がなかなかデビューできない(当然これくらいは持っててほしい、という技術を、新人はなかなか身に付けられないとかで)という世界らしく、新人賞が乱立して常に新人を受け入れている文芸の世界とは違うんだなぁ、と改めて厳しい世界なんだろうなと思ってみたりしました。
僕は、ちゃんと読んでる(毎回買ってる)コミックはコナン君だけで、最近バイト先の人に金田一を借りて読み、あと友達んちでカイジを読んだりするくらいだけど(しかし、カイジってメチャクチャ面白いけど、メチャクチャ絵下手だよなぁ。面白いから全然いいんだけど)、でも漫画家って、異常だけどすごい人だなって、よく知らないけど尊敬してたりしています。ジブリとか甲殻機動隊とかそういう超メジャー級の日本アニメが海外で評価されたりとかしてて、あとドラゴンボールとかドラえもんとか、もはや国民的とも言えるようなアニメも海外で人気だったりするわけだけど、これからも、とにかく底辺の広い日本の漫画業界っていうのを、盛り立てていってくれたらいいなぁ、なんて人事のように思ってみました。
そんなわけで内容に入ります。
まあ内容ったって、日記なんですけどね。
やっぱ、漫画家って尋常ぢゃないスケジュールで生きてますね。
僕も学生の頃は、徹夜とかよくしてたけど、この日記にもよく徹夜したって記述があります。もちろん、仕事をやらずに溜め込んでるのも原因なんだろうけど、そうでなくてもキツキツの過密すぎだろって突っ込みたくなるような、そんな無茶苦茶な仕事っぷりです。表紙カバーの裏っかわに、恐らく安野モヨコ本人のスケジュール表が印刷されてるんだけど、遊びの予定もたっぷりで、その中に締め切りの文字もたっぷり。いやー、精力的な生き方をしてるな、と思いました。素晴らしい。
尋常ではない仕事スケジュールという意味で森博嗣を思い出したけど(森博嗣も毎月少なくても10個くらいの締め切りがあると思う。しかもそれをすべて前倒しで終わらせてしまって、締め切り遅延は一度もないという優秀さ。素晴らしい)、漫画家ってそれ以上かもしれないと思いました。
だって日記には常に、ネーム描いた下絵描いたペン入れしたカラー描いたなんてことが書いてあるんだけど、えっ、それではあなたは、いつ物語を考えているんですか…なんて思ってみたり。描きながら考えてるのかなぁ。森博嗣は、書きながら考えるらしいけど…やっぱ、皆さん天才なのですね。羨ましい限りです。
そうそう、過密スケジュールと言えば、鈴木成一です…って知りませんよね。装丁家です。装丁家というのは、本の表紙のデザインなんかをする職業で、本作の装丁も鈴木成一なんですけど、いやこの人、ありえないですよ。年間、500冊くらい装丁やるらしいです。もちろん、仕事のレベルとしては大小あるだろうけど、500冊ですよ!しかも文芸作品だったらもちろんちゃんと読んでイメージを固めるわけです。
試しにブックオフに行って、文芸でもビジネス書でも、これ結構いい表紙ぢゃないって奴を選んで、装丁家をチェックしてみてください。かなりの確率で、装丁家・鈴木成一って書いてあると思います。この人も、信じられない仕事量です。ありえない。文庫の担当をやっていて、あと自分で本を読んでいて、常に装丁誰かなぁって気にしてるんだけど、やっぱり鈴木成一率が高い!みんな仕事するなぁ…。
そうそう、とりあえず本作の出来た経緯を。安野モヨコは漫画家で、んで時折現実逃避をしたくなる。そんな時、HPに日記を書く。それをまとめたものが本作です。
安野モヨコの経歴を少し書いてみましょう。
1971年3月26日生まれ。誕生日は僕と3日違いです(僕の誕生日は3月29日…って誰も聞いてねぇか)。
小学校3年の時、漫画家になることを決意。机を運んでる時にふとひらめいたらしい…なんだそりゃ。
高校三年で漫画家デビュー。以後、沢山コミックを発表。
スゲ―もんだな。小学校3年の時の夢なんて、ほんと野球選手とかケーキ屋とか、後から考えれば叶える気あったんかよ!って突っ込みたくなるようなものばっかだったけど(自分がどんな夢を持ってたのかさっぱり覚えてないところも突っ込みたいところだけど)、それを高校三年で叶えちゃうなんて、やっぱすごいもんですね。
さーて、なんとなく無駄な脱線が続いたので内容に話を戻しましょう。
漫画描いてる締め切りヤバイ!って話ももちろん沢山あるし、アシスタントがどうこうで、仕事場で何が流行っててなんてのも沢山書いてあるけど、それ以上に書いてあるのが、『安野モヨコのギャル道』みたいな感じで、まだまだギャルとして生きていたいのに、わたくし漫画家なので忙しいし徹夜も多いで、ギャル道から遠いわ。いや、そんなんじゃダメなのよ、エステにも行くしマニキュアもするし、ダイエットだってあのその子スタイルでびっちりよ!あーでも美味しい食べ物食べすぎだし漫画読みすぎだし運動不足だし、太るしギャルからまた遠ざかるぜ~(ため息)みたいな、そんな葛藤の日々が書かれていて、同じ年頃の働く女性が読んだら、結構面白いのかもなぁ、と思ってみました。
なんていうか内容は、ほんとタイトルの「日記書いてる場合じゃねぇよ」に集約される感じで、漫画家って大変だわさってのが、ビシビシ伝わってきます。
さて本作は、日記だけだとお楽しみいただけないかもしれないという安野モヨコの不安のお陰で、安野モヨコのイラストも沢山収録されています(書き下ろしじゃないけど。今までいろんな雑誌なんかに載った奴を集めたって感じかな)。
安野モヨコの描く女性って結構キレイだけど、特に髪がショートの女性がいいです!なんかグッとくるものがあります。
あと安野モヨコの絵の、何て言ったらいいのかなぁ、『死んでるような「生きた」目』がすごくいいですね。『死んでるような目』じゃないんです。そうじゃなくて、生きてるんだけど、でも死んでるような目。表現が難しいけど、そんな感じです。なんていうか、ビカビカ超眩しく輝く活き活きした目って、ちょっと気後れしちゃうというか、いやーん暗い僕をそんな明るさで照らさないで~、みたいなそんな気分になるんですけど、なんか底がないような安野モヨコの描く目は、見つめられてもちゃんと見据えることができそうっていうか、なんかいい感じなのです。なんとなく伝わるかしら…。
とはいえ、まあ安野モヨコのコミックを読もうとは思わないわけだけど、でもいい絵だなぁ、と思いました。
どちらかというと、やっぱり女性が読んで面白い本でしょうね。そこまでオススメというわけでもないけど、読んで見ても面白いと思います。

安野モヨコ「日記書いてる場合じゃねぇよ」



都立水商!(室積光)

僕は正直、水商売というものと関わり合いになることはないだろうと思う。
僕はただのフリーターなわけで、サラリーマンならば接待なんかでいくこともあるかもしれないけど、そういうこともまあないだろう。
また、個人的な愉しみのために行くことがあるかと考えると、まあとりあえず今のところそんなつもりはない。まあ、今後100%行かないと断言できないだろうけど、水商売というものに接する機会は、本当に少ないだろうと今は思っている。
水商売というものに対して、偏見がないかと言われたら、やはり少しはある、と答えざるおえないかもしれない。
しかし僕の中で、その偏見は差別ではない。本作中に、僕のこの偏見についてぴったりの言葉があったので、抜き出してみる。

『プライドのない所にモラルは育ちません。』

これは、都立水商第一期入学生に向けた、校長からの言葉の一部である。
なるほどな、と思った。僕の水商売に対する偏見というものは、プライドのなさだろう、とそう思ったものである。
先にこれは言っておくけど、プライドを持って水商売をしている人については、寧ろ僕は尊敬しています。その世界のことはあまり知らないけれども、一流と言われるためには、容姿だけではなく、ありとあらゆる礼儀や技術と言ったものを身に付けなければならないはずです。それがどんな努力であろうと、努力をしている人を差別しようとは思いません。
問題なのは、プライドを持たずに水商売をしている人です。
安易に、お金が簡単に稼げるから、と考えて、特に何も考えずに水商売をしている人。あるいは、悪い人間に捕まって、あるいは罠にはまって借金を背負って、いやいや水商売をしている人。そういう人々が、たぶんこの世界には大勢いるわけで、そういう人々の存在というのが、僕にはあまり好ましく思えません。
そういう、プライドを持たずに仕事をしているが故に、モラルすらも失って、ぼったくりや不当な経営なんかがはびこるのだろうと思います。
本作からまた言葉を抜き出しましょう。

『「君たちのサービスを受けた人たち、つまり、おかげでうまい酒が飲めたという人たちが、気分をリフレッシュさせて、翌日から元気に働くだろう?そこで初めて、君たちは生産に関わるわけだ。生産のないところに経済はない。君たちは直接には生産に関わらないが、誰かにサービスすることによって、間接的に生産に参加するんだ。こう考えていくと、
『お客様は神様です』
という言葉の意味がわかるだろう。君たちはサービスすることによって金銭を得る。だが金のためだけにサービスするんじゃない。サービスすることで社会に参加するんだ」』

都立水商の講師が、生徒に向けて発する言葉である。
見事、だとは思わないだろうか?
普段僕らは、何らかの形で、『水商売はよくない』『水商売はダメだ』というイメージを刷り込まれていく。ニュースや映画小説なんかでの扱われ方などで、人々はそう感じる。
しかしそれは、その世界にいる人間だけが悪いわけではないだろう、と僕は本作を読んで思った。
その世界のことを何も知らない人間が、水商売の世界に入る。出会った人が素晴らしい人であれば、まっとうな倫理観を身に付けることが出来るかもしれないが、この世界にはそうでない人もまた多いはずだ。そんな人間に出会ってしまったら、もう倫理もクソもない。
何も知らないで飛び込んでしまうからこそ、問題が起きる。そういう風にこの問題を捉えてみる価値はあるかもしれない。本作のように、『水商』という形で、水商売の世界について学ばせる学校なんかがもしあったら、それはそれで有意義なものになるかもしれない、とそう思うのである。
さて、ここまで水商売のことについて書いてきた。もちろん、水商売をテーマに扱っているわけで、それはまあいいのだけど、しかしそれだけでは物足りない。
そう、本作は『教育』というものについて、ものすごく考えさせられるわけだ。
教育は今まさに話題になっている。
例えば、小学校からの英語教育。
例えば、小中一貫教育。
今日見たヤフーのニュースには、塾に通えない家庭のために、公立の塾を設立する、なんてものがあった。
少し前は、ゆとり教育なんてのが大きな話題だった。
また、いじめや不登校なんかは、もはや恒常的な問題となっていて、解決の手立てなど打ち出せていない。
教育を取り巻く問題に、生徒・教師・保護者は
僕自身の考えを少しだけ書いておこう。
まず、小学校からの英語教育。これは、もってのほかだ。それは、「国家の品格」を読んで、より明確になった。
「国家の品格」の中で著者はこんなことを言っている。英語が喋れるかどうかではなく、英語で何を喋るかだ、と。内容がないのに、英語ばっかりペラペラ喋れる日本人が増えている。国際人を育むには、英語が喋れるかどうかではなく、何を喋るかだ。英語は拙くていい。そのためには、まず国語に力を入れるべきだ、と。
その通りだと僕も思う。付け加えることは何もない。小学校からの英語教育は、かなり現実的になってきた。誰か、止めてくれないだろうか…。
小中一貫教育について。これもあまりよくないと思う。あるニュース番組の特集でやっていたが、6年という期間でまずは区切りを作らないと、だらだらした教育になってしまう、と識者が言っていて、なるほどそうだな、と思った。
ゆとり教育なんかもう救いようのない政策だったけど、公立の塾っていうのも、何を言っているんだという感じがする。
確かに、経済的な理由で教育に差がつくのは問題だ。しかしそれならば、公立の塾を作るなんて案を出す前に、学校での教育のレベルを引き上げるように考えるべきだろう。何を考えているんだか。
教育は難しい。それはわかる。でも、日本の教育は、もっと新しい方向へと、というか正しい方向へと進むべきだ。
また、本作の文章を抜き出そう。

『今、日本の教育は変えねばならないのであります。もう猫も杓子も大学を出てホワイトカラーを目指すような教育は、考え直す時期が来ておるのです。あらゆる職業に対応して、それに従事する者を教育する受け皿としての学校を、拡充する必要があるのです。全員を一つの方向に走らせて、脱落者を捨てていくような形では、もはや教育とは呼べない。』

最後の、『全員を一つの方向に走らせて、脱落者を捨てていくような形では、もはや教育とは呼べない』というのは、本当にそうだろう。いいこと書いてあるな、と思った。エリートを養成するようなことを言っておきながら、実はそれ以上の大量の落伍者を生み出すようなシステムの中に、僕らは今いるのである。しかも、今の社会は、落伍者に厳しい。一旦階段を落ちた者に向ける視線は、厳しいし、冷たいのである。
国の教育というものは、その国のレベルをはかる一つの指標である。日本はかつて、高度経済成長に代表されるような、世界でもトップクラスの国であった。それはやはり、根底の教育がしっかりしていたからだろう。今、日本という国は、あらゆる意味で、世界的な評価が下がっていると思う。経済も犯罪も社会も、日本は年々評価が下がっている。それは、この国の教育のレベルが、どんどんと下がっていることの、一つの表れだろうと思う。
また、ある文章を抜き出そう。

『中学時代の彼らに欠けていたのは、「自信」だったのである。』

日本人に、自信を取り戻させる、そんな教育を目指して欲しい。それは、昔の日本には、どこにでもあったはずのものなのだから…。
内容に入ろうと思います。
ホント、本作を読んで僕はマジで泣きましたよ。泣かせる小説じゃないんですけど、泣いちゃいました。リリー・フランキーの「東京タワー」でも泣かなかったけど(でも「東京タワー」は傑作ですよ)、この都立水商、泣かせますねぇ。
物語は、都立水商を去ることになった教師田辺圭介が、お別れのために都立水商の校舎に立ち寄るところから始まる。
思えば、長いようで短い10年だった。
田辺は元々、都立の普通高校の教師だった。校長と教頭と、それぞれ別の理由で対立していたのだが、そのせいもあって、嫌がらせのように、都立水商への配属が決まった。
都立水商は、ある文部省の役人の思い付きから創られた、と言われている。有能だった滝川というその役人は、冗談のはずのその計画を、無理矢理ねじ込んで成立させてしまう。
田辺のように無理矢理飛ばされた者や、自ら志願した別の高校の教師、また水商売に従事している民間からの講師によって委員が結成され、そこから二年、開校のための準備に追われた。
そうやって始まった都立水商での日々。思えば、いろんなことがあった。問題もそれなりに起きたが、それでも充実の方が勝っていた。
しばらくは、入学生を確保することが難しかったほどで、第一期入学生は、中学時代問題を起こした人間達の吹き溜まりのような場所だった。
開校から10年経った今では、知る人ぞ知る都立水商になった。
実家の書店を継ぐために九州の実家に戻ることになった田辺が、準備期間も含めて計12年間携わった都立水商での思い出を、お別れと共に思い出す、そんな回想録の物語です。
もう、べらぼうに面白いです。
まず、本作はとにかく『学園モノ』に分類される小説です。熱血な教師と、やる気のある生徒が、共に手を取り合って学校ごと盛り立てていく。問題も困難も沢山あるけど、それを一緒に乗り越えていく。パターンとしてはベタな設定でしょう。
しかし、それをベタな物語にしていないのが、この水商売を教えるという、冗談のような設定です。
水商売の学園モノなんて、これまでもちろんあったはずがないわけで、その新鮮さがすごいです。これまでの学園モノにはありえなかった問題や設定なんかがゴロゴロ出てきて、すごく面白かったです。
さらに、この学校の教育方針っていうのがいいなと思いました。水商売の世界にモラルを育むために教育をする。その理念が、教師から生徒へとちゃんと伝わっている。
本作では、教えるのは水商売のあれこれですが、本当に本作には、教育というものが抱える問題を解決しうるような、そんな世界が描かれています。
もちろん、教育の現場で働いている人は、こういうかもしれません。
現場はそんなに甘くない。
本作でも、かなりの偶然やラッキーによって、学校全体がうまく機能するようになる、まあそんなストーリーではあります。しかし僕は、本作での偶然やラッキーは、水商売を教える学校という偏見を取り除くためのものであって、学校としての教育などは生徒と教師の努力の結果ではないか、とそんな風に感じてしまいます。
どの教師もまあ一風変わっているし、独自の哲学を持っている。一方で生徒の方も変わっている人間が多い。元からまあ普通の学校ではないのだけど、でもそんな中で努力をして、学校も生徒も素晴らしいものに育ててきた。
前出したけど、結局教師達が生徒達に与えたのは、自信だたのだろうな、と思います。
僕は学生時代勉強ばっかりしてきたつまらない人間で、まあ今さら後悔も何もないけど、少しもったいなかったかな、とも思います。まあ、勉強してなかったら僕が通っていた大学にも入れなかっただろうし、そこで出会った友達にも会えなかったわけだから、一概にはなんとも言えないけど。
僕は結局、自信をつけるために勉強してたんだろうな、と思うんです。基本的に何にも取り得はなかったし、そもそも人見知りだったし、面白くもなければスポーツもできなかったから、せめて勉強だけでもできればと思って頑張っていたんだと思います。
実際僕は、勉強ができなかったら、かなり落ちぶれて悪い方向に行ってしまっていてもおかしくなかったかもしれません。勉強で得られる自信がなんとか自分を押さえつけていたのだろうと思います。
人は、どんな形でもいいから自信を取り戻すと強いんだろうと思います。一つでも自信があれば、少なくても頑張ろうって思える。今の教育は、全員に同じ競争をさせていて、他の特性を見ないような気がします。学校でやることで評価されなければ意味はない、ということです。そんな狭い価値観の中に押し込まれて、やっぱ今の世代の学生は大変だろうな、と思います。
まあそんなわけで、教育についてもすごくよく考えさせられる内容です。
また、本作では、物語の後半がほとんど野球の話になるのだけど、この野球のくだりがいい。強すぎだろ、って突っ込みたくなるけど、それでもいい。
野球の部分は、まあベタはベタなんだけど、でもほんわかしてるし、水商らしいところもあって面白いし、何よりも野球を楽しんでやってるってことがすごく伝わっていい。

『スポーツに限らず、見ている人に、
「大変ですね」
って言われてるようじゃ駄目だ。
「楽しそうですね」
こう言われるぐらいでないとな』

野球部の監督の言葉である。元々弱小チーム(学校自体が開校間もないのだから仕方ない)だったが、監督の目標は、退部者を出さないというものだった。これも、社会というフィールドで勝つためだけに養成される人間を皮肉って、社会で楽しく生きて脱落しない方がいい、って言っているようで、いいなって思った。
もう一つ、こんな言葉もある。

『「いつまで野球を教育の一環とか言ってんですかね。だいたいスポーツで、スポーツ以外のことまでついでに教育しようなんて、教育する側が横着だっていうんですよ」』

これは、ある民法のテレビのキャスターが言った言葉で、後で非難が殺到したなんていうこおが書いてあるけど、でももっともだよなと思った。今は、家庭も、学校に教育を丸投げしている。家庭も学校も、教育する立場として、少し横着しすぎではないだろうか、と思う。
さて、僕は本作を読んで、本当に水商のような学校が出来たらいいなぁ、と思いました。表の理由としては、本当に水商売の世界にモラルを育むことが出来ると思うし、本作でも少し触れられていたけど、水商の存在のお陰で援助交際が減るだろうとも思います(まあそううまくはいかないだろうけど)。法律的な問題はそれは腐るほどあるだろうし、世間一般からの非難もものすごいだろうと思います。それでも、水商のような存在はいずれ必要になってくるだろう、と本気でそう思いました。
それで裏の理由だけど、いや実際男性諸君にはいい事尽くめですよ。
まず、課外実習ということで、水商の女子高生がソープとかで実際に客を相手に実習をするわけです。しかも格安。現役の女子高生、しかもかなりキレイ、と格安であんんことやこんなこ;@うr。:、m9d」1¥ができるなんて、いいですね~。
しかもそれよりも羨ましいのは、水商の男子です。
なんと、校内で男子生徒を相手にした実習があるわけで、そこでもあれやこれl@:8えf。・「@なことになるわけで…
う、うらやましすぎます…。
まあそんなわけで文部省の皆さん、水商設立しませんか?
新人でこれだけ面白い作品を書けるってのが驚きです。最近、元々文芸を扱っていなかった小学館の文芸書が、すごく面白いですね。メチャ売れした「世界の中心で愛を叫ぶ」はどうか知りませんけど、最近では「県庁の星」とかも小学館ですね。
とにかく買ってください。読んでください。そして笑って泣いて、いい気分になりましょう!

室積光「都立水商!」



女子の生きざま(リリー・フランキー)

少し前に、奥田英朗の「ガール」の感想で、女性として生きることみたいなことについて書いたけど、それこそ本作の感想にぴったりの話題だったなぁ、と思う。
まあ、似たような話になってしまうかもしれんなぁ。
女性として生きるっていうのは、これは大変なことだ。特に、女子ってのは大変だ。女子とはすなはち、大人の女性になる前の女性のことである。
女子の世界というのは、愛だの恋だのセックスだのなんだの、とにかく『女』であることを強く求められる、そういう世界のはずである。
女子の時期に、『女』足ろうとしない、つまり恋愛をしようとしない女子は、間違っているわけである。
あぁ、眠すぎて、何を書いているのか既に意味不明である。
女子の世界というのは、だから多様にして奥が深い。深すぎる。一介の男子なんかには、覗き込むことすら恐れ多い、そんな複雑な世界になっているのである。
しかも、その世界はものすごいスピードで変化していく。女子の世界は、留まることを知らず、人間の想像力すらも遥かに超えて、その形を変えていく。
そう、並の女子でもついていくのが精一杯なのである。なんて危険な世界だろうか。
そんな中、救いとなるような本が現れた!女子のバイブル足る本だ。女子の世界を、女子の今を、女子の生きざまを、余すところなく文章に仕立て上げた傑作が本作である!
…すいません。かなり適当なことを書きました。眠いのもあるけど、でも本作、結構感想書きづらいかも…苦戦中…。
えいやっ、内容に入ってしまえ。久しぶりにかなり適当な感想になるけど、仕方あるまい。諦めよう。
というわけで内容の紹介です。といってもなんとも言えない内容なのだけど。
とにかく、変態オヤジリリー・フランキーが、女子の生き方について、妄想9割観察1割で書いた、メチャクチャお気樂で適当な、女子の生きざま論、という感じでしょうか?
つまり、ちゃんとした女子を目指すためにはいかにすべし、ということが書かれているわけである…。
…いや、書かれてはいないのである。
要するに、妄想なのである。
もうメチャクチャだな、こんかいの感想。こうなったら、徹底的に適当に書いてやろうかなぁ。
最近話題の「成分解析」になぞらえて、本作の構成要素を書き出してみると、

変態 68%
妄想 30%
観察 2%

まあそんなところでしょうか?
とにかく、リリー・フランキーが頭の中で描き出す『女子像』というものがあって、それにさらに、超変態的な妄想力を加味して文章にして、女子を啓蒙するわけだけど、もはや全然啓蒙になっていない、という無茶苦茶さですね。
とにかく、セックスだとかオナニーだとか、その他書くのも躊躇われるような内容を普通に扱っているわけで、しかも本作はもともと、どこかの女性誌に連載されていた奴だとかで、もう無茶苦茶ですね。さすが変態リリー・フランキー、みたいな。
でも、時々書いてあることに、あぁなるほど、と思ったりするわけです。男から見た女子論なわけで、その内容には、男の方が共感するところは多いかもしれません。女子の生きざまというタイトルで、女子を啓蒙する内容のはずの本作ですが、男子が読んだ方がもしかしたら共感度は高い、というか共感度だけでいけば高いだろうと、そんな風に思います。あと、女子がこれを読んで啓蒙されるかどうかは微妙なところです。
本作で、リリー・フランキーが冗談で書いていたことがホントになったり、さらにその上を行く状況になったりと、女子の世界はすごいことになっています。本作は、連載されていたのがかなり昔の話なので、厚底ブーツなんかが流行る前で、でもその時点で、厚底ブーツのことを冗談で言っていたら、ホントに流行っちゃったよすげーよ女子、なんてことがあったりします。
本作を読んでいると、かなり誇張はあるものの、大筋で言えば女子の本筋をちゃんと捉えているように思えるし、その表現がまた面白いので、クスクス笑いながら、あぁそうだよなぁ、なんて思いながら読んでいました。
そう、かなり感想は適当になりましたが、本作はかなり面白いですね。ちゃんとした感想が書けなかったことが悔やまれます。ごめんよ、リリー。おいらは今回、手抜きしてしまっただ。
だから、せめて最後の部分でベタ誉めしておきましょう。リリーさん、あんた面白いよ、ホント。「東京タワー」って作品で、涙涙の感動作ってことでかなり注目されてますけど、でもホントはただの変態中年オヤジなんですよね…。「東京タワー」を読んだ人が本作を初めとするコラム集なんかを読んだら、たぶん卒倒するね。今のうちに、「東京タワー」以外の全著作をすべて回収した方がいいんじゃないかな。
…おいおい、全然ベタ誉めしてないよ。ってか、まったく誉めてない。って自分に突っ込んでみました。適当な感想にすると決めた時点で、やりたい放題です。
いやでも、ホント面白いですよ。くだらなさで言えば、ちょっと前に読んだ「美女と野球」以上だし、輪を掛けて変態的な内容なんでね。というか女子には見せられないんじゃないだろうか、この本。女子がこれを読んで啓蒙されるとも思えないし。悪い方に影響される可能性はあるかもだけど。18禁とかにしたほうがいいかもね…。
また適当なこと書いてるな。
リリー・フランキーが、そのムダに有り余る妄想力と、ムダに有り余る変態っぷりをいかんなく発揮した、超脱力系の生活にはまったく無益の、それでいて娯楽性満点爆笑必死の一冊です。薄いしさくっと読めるので、是非読んでみてください。
感想が非常に適当になったこと、お詫び申し上げます。誰にって言われると難しいけど、感想をいつも読んでくれている人とか、リリーさんとかに。感想は適当だけど、本作の内容がつまらないとかそういうことではないので、読んでくださいまし。

リリー・フランキー「女子の生きざま」




14階段―検証 新潟少女9年2ヶ月監禁事件―(窪田順生)

14段というのは、本当に意味深な数字だと思う。
日本では、死刑囚が死刑台に上がるまでに上る階段は13段なのだそうだ。
死刑台の一歩先にいる男。そんな風に呼ぶのは、いささか無理がありすぎるだろうか?

『「たった十四段なのに…どれだけ上りたかっただろう…」』

たった14段というその隔たり、死刑台の一歩手前。母親は、その距離を越えることが出来なかった。

『「たった十四段ですよ。たった十四段を上るのに二0年もかかっちゃったんですね」』

その、たった14段の階段を上ることが出来なかった母親。
その、たった14段の階段の先で自分の世界を築き上げた男。
この二人を、人は笑うかもしれない。おかしくはないか、と。
しかし、もしかしたら、この二人を笑うことの出来る人間は、日本にはいないのかもしれない。
誰しもが、同じ過ちに手を掛けてしまう、そんな隙間を持っている。
あの、新潟で起きた、9年2ヶ月という長きに渡って少女を監禁し続けた事件。その犯人を追ったノンフィクションである。
僕は、犯罪だけでなく人間の行動すべてに言えると思っているが、動機を言葉にすることなど不可能だと思っている。
それは、森博嗣の小説を読んで以来、一層強くなった。
森博嗣は、ミステリを描きながら、動機についてはほとんど触れない。探偵役である犀川という男は、動機なんてわかるわけがない、同期を言葉にして説明することができるくらいなら、犯罪なんか起こさない、そんな風に考え、そんなスタンスで事件と向き合います。
その姿勢はとても正しく感じられる。人間の行動の動機など、考えてもわからないし、そもそも言葉にできないし、本人だってわからないかもしれない。
司法制度は、それを否定する。否定するところから始まる。
警察は、動機を追求する。動機によって罪の重さも変わる。被疑者に迫り、言葉を吐き出させ、動機を文字に写し取ろうとする。
マスコミも、それを否定する。何故犯罪を起こしたのか。それは、彼らにとって、負うべきネタである。動機がわからない、動機に納得がいかない。それでは、マスコミは立ち行かない。彼らも、何らかの痕跡を追い、人々の声をかき集めて、犯人の動機を無理矢理推理しては言葉を垂れ流していく。
しかし、それは正しいだろうか?
公明正大な司法ということで言えば、動機の追及というのは致し方ないのかもしれない。裁判というのは、議論をする場所なので、そのために材料はすべて言葉にしなければいけないという理由もある。司法制度が、動機に意味付けするのは、まあ仕方ない。
しかし、それ以外の場所で、犯罪の動機というものが取りざたされることに、どれほどの意味があるだろうか?
人間は、誰しもが違うし、果てしない。底のない沼のようなものだ。誰もが、自分のことすら正確には把握しきれていない。そんな中で、誰かが犯した犯罪を、その動機を、外野が議論することに意味などあるのだろうか?
何故犯罪者の動機を知りたいのか。それには、論理的な説明がつけられている。
犯罪者の動機がわかれば、人は安心できるのである。その動機なら、自分が同じ犯罪に巻き込まれることはない、という安心。その動機なら、自分はそんな風にはまったく考えないので、自分が同じ犯罪を犯すことはない、という安心。その安心を求めるがために、人は犯罪者の動機を知りたがるのである。
動機を追及することは意味がないと思える。
ただ唯一方法があるとすれば、人々にその犯罪者についてのありとあらゆる情報を提示し、その上でそれぞれの人に考えてもらう、というやり方である。
ノンフィクションというのは、まあ基本的にそういう媒体だろう。
もちろん、著者の考えというのが基本的にある。それを伝えたいという意図のノンフィクションもあるかもしれない。しかしそうではなく、著者の考えはそれはそれでありながら、一方で、客観的に読者に情報を提示し、読者に考える余地を与えるというノンフィクションもあるだろう。
どちらかと言えば本作は、後者に近い。そんな感じがする。
もちろん、著者の推測というか考えというものもちゃんとある。しかし、情報を正確に伝えることによって、あなたはどう思いますか?という問いを発しているように思える。
動機を知ることには意味はないと思う。しかし、動機を考えることにはそれなりに意味はあるかもしれない。監禁をし続けた男が一体何を考えていたのか。その一端が、その一端の欠片が、本作には与えられていると思う。
家族とマスコミというものについても考えさせられた。
僕は、何度も書いているけれども、家族というのは苦手なのだけれども、だけど自分の家族が歪だと感じたことは特にない。多少おかしいかもしれないが、それでも歪んではいなかっただろう。
しかし、本作で出てくる監禁の犯人とその母親が作る『家族』は、紛れもなく歪なものだった。
犯人は、高校卒業後就職した会社を僅か3ヶ月で辞め、以降、その14段の階段を上った先にある部屋で引きこもりの生活を始める。母親には、二階に上がってくるなと命令し、守らないと暴力を振るった。他にも、気に入らないことがあると暴力を振るった。母親は、本当に二階に上がらなかった。いつしかその部屋には、誘拐された少女が連れ込まれたのだが、そのことにもまるで気付かなかった。
愛するということと甘やかすということを取り違えてしまった結果である。その違いがわからない親というのが、怪物を生み出す。
家族という形は、ある意味で最後の砦のようなものだ。そこが崩れると、連鎖的に何もかもが崩れていってしまう。二人の人生は、彼が引きこもりという道に進んでしまった段階で、あらゆるものが崩れていってしまったのだろうと思う。
マスコミは、やっぱり苦手だ。
著者は、元フライデーの記者で、この事件も、フライデーの記者として関わった。今振り返れば、という形で、当時の取材やマスコミのあり方について書いている。振り返って考えるとひどいものだ、ということになる。しかし、その渦中にいると、スクープしか目に入らなくなってしまう。そういうものらしい。
マスコミがいかにデタラメな情報を流しているかもよくわかる。週刊誌やスポーツ誌は、本当に適当なことをさも事実かのように書く。マスコミという職についている人のモラルというものを僕は知りたいと思う。
著者は、そういった過去の自分を反省するような文章をかなり書いている。贖罪のつもりなのかもしれない。とにかく、著者が、自分を隠さずに本作を執筆しているところに誠実さを感じた。報道とは少し違った形で事件を知ることができる。
著者は、ちょっとしたきっかけから、犯人の母親とかなり連絡を取るようになったり、時折インタビューをしたりするようになるのだが、そういう、ニュースを見ているだけではわからない部分も知ることができる。
しかし、内容は少し薄いような気がした。ちょっと考えてみたけど、それを言葉にするのはなかなか難しい。どこがどう薄いのかと聞かれてもちゃんとは答えられないが、あれだけの大事件のルポとしては、ちょっと充実さが足りないのでは、という気がした。
別にオススメというわけではないですが、あの事件を別の角度からみることができるという意味では、まあ悪くない作品です。

窪田順生「14階段―検証 新潟少女9年2ヶ月監禁事件―」




人は見た目が9割(竹内一郎)

僕は、人の顔色を窺って生きてきた。コミュニケーション能力はないけれども、場を読むことについては、それなりに訓練してきたつもりである。
僕は、確か中学生の頃だったと思うけど、ある前提を自分の中で決めた。それは、

『僕は、世界中の人間から嫌われている』

ということだ。僕は、これを前提にして生きていくことに決めたわけである。
なんでそんなことを決めたのか。まあわかる人はわかるかもしれない。
僕は、特に昔は、ずっとおどおどしてた子供だったと思う(と当時の同級生に言っても、そんなことはないと言われるだろうけど)。きっと周りからは普通に見られていただろうと思うけど、内心では日々、強い不安と闘っていた。
今の発言、変だと思われなかっただろうか?
後ろで笑ってるのは、僕のことを笑っているんだろうか?
あんなこと言われるってことは、僕はあの子に嫌われてるんだろうか?
まあとにかく、有形無形の不安を内心では抱えていて、僕はそれなりに大変だったわけである。
さて、その不安をそれなりに解消する秘策が、前述の前提を決めるということになる。
つまり、僕は世界中の人にもう既に嫌われているのだから、何も気にすることはないではないか。今僕が不安に思っていることは、すべててその通り正解で、誰もが僕のことを嫌いだから僕の発言を変だと思うし、僕を笑うし、僕の厳しい言葉を言うのだ。
こういう発想に切り替えた。
普通の人からすれば、状況が変わったようには思えないかもしれない。確かにそうだ。僕があの前提を決めたところで、僕の行動も、僕の周囲の人間の行動もまるで変わらない。
しかい、重要なのは、不安が僕の中で、事実に変わったよいうことである。
不安というのは、もしかしたらこうかもしれない、という形のもので、つまり形の定まっていないものである。僕は、その不安定さがすごく嫌だった。だったら、それが自分にとって悪いものであっても、事実だと認めてしまえばいい。そうすれば、少なくても不安定感はなくなるだろう。そういう発想である。
この前提は、僕は今でも持っている。今でも僕は、『世界中の人間から嫌われている』と思うようにしている。
この前提は、思わぬ効果をもたらして、それは、『どうせ嫌われているなら』と考えて、少しだけ積極的になった部分もある、ということだ。嬉しい誤算という奴である。既にもう嫌われているわけだから、多少積極的になってより嫌われても大差はないだろう。そう判断して積極的な行動が取れるようになって、それで人間関係が割とうまくいく、なんて風になってきた。特に最近そんな感じがある。
僕が、『僕は世界中の人間から嫌われていると思って生きているんです』とか言っても、周りからはそういう風に見えないわけで、何を言っているんだか、というような反応になる。でも、『世界中の人から嫌われている』と思うことで、逆に積極的になれるようになったわけです。自分でも、面白いこと考えたもんだ、と思います。これからも僕は、『世界中の人から嫌われている』と考えながら生きていくことでしょう。一番すごいのは何かというと、その考えを自分自身信じ込むことが出来た、ということである。
さて一方で、僕は割りとわかりずらい人間だと言われることがある。まあ面と向かってそう言われることはそうないのだけど、『底が見えない』みたいな言い方で言われたりはする。
まあ僕としては、悪くないと思っている。少なくても、『底が浅い』と思われるよりは。
たぶん周りの人間は、僕が考えていることがわからない、という意味で言っているのだろうけど、僕はそれはちょっと違うと思う。僕が考えていることが表に出ない、ということだろうと僕は思っています。
人間の考えというのは、態度や表情や動作に表れるものです。僕は、人間観察が別に趣味でも得意でもないけど、でも見ていると、ああこの人はこういう人なんだな、というのがそれなりにわかったりするものです。
最近僕は、バイト先のあるスタッフが実は絵がうまいということに気づきました。実際、その本人は何も言っていなかったし、それらしい会話をしたこともないわけです。でも仕事上の何気ない話やその態度から、ホントになんとなくそれに気付いて確認してみたら、ホントにそうだったということがあります。そういうことはあるものです。
しかし僕はと言えば、そういう見た目で判断されるような兆候のようなものを、意識的に排除している、という自覚があります。もちろん、気持ちが荒れているときやイライラしている時、悲しい時や辛い時なんかはその制御が難しい時はありますが、普通の状態の時は、なるべく自分のあらゆる行動というのを律しているという自覚がまあそれなりにあります。だから僕はわかりずらい人間だといわれるのではないかと思います。
いや本当は、制御しきれてないかもしれませんけど。
やっぱり、考えや感情が行動に出ちゃう人を見ていると、なんか恥ずかしいなって感じがして、自分はちゃんとしようって思うようになって、まあそういう感じになったんだろうと思います。
ようやく本作の内容に近づいてきましたね。
やっぱり見た目というのは重要だろうと思いますね。例えばバイト先に、常に『ごめん』って言う社員がいるんですけど、最近はそれを聞くたびにイラっとしますね。というのも、どんな場面でも、その人が特に悪いわけでもない状況でもとにかく口にするからです。別に悪いという感じが態度に出てないとかいうわけではないけど、でもあまりにも『ごめん』って言い過ぎなんで、今では、ホントにそう思ってるのか?なんて風に思ってしまって、イラっとします。
つまり、『ごめん』という言葉の内容は全然重要じゃないてことで、その言葉の内容以外の見た目がとにかく重要だということです。
さて一応本作の中での『見た目』というものを定義しておくと、『見た目』というのは、言葉以外のすべてのコミュニケーション、ということです。言葉のコミュニケーションをバーバル・コミュニケーションと言いますが、それと比して、『見た目』はノンバーバル・コミュニケーションと呼ばれます。
本作のタイトルの元になっている、ある実験結果があります。アルバート・マレービアンというアメリカの心理学者の実験で、他人から受け取る情報の割合について、こんな結果を出しています。

顔の表情 55%
声の質(高低)、大きさ、テンポ 38%
話す言葉の内容 7%

つまり、話す言葉の内容はたったの7%で、残りの93%は『見た目』が占めている、ということです。いかに言葉というものが、コミュニケーションにおいては無力であるかということがわかるでしょう。
本作ではそんな、9割を占める『見た目』をちゃんと養おう、というような内容がまあ書かれているわけです。
でもまあ正直、内容はそんなに大したことないな、と僕は思いました。心理学の本とマナーブックをコンパクトにまとめ、さらに著者のフィールドである演劇やマンガを通して見た『見た目』の世界を書いてみましたというような内容で、まあそんなに目新しいことが書いてあるとは思えないですね。ただ、『ノンバーバル・コミュニケーションを意識的に活用している最先端の領域がマンガである。』という言葉の通り、マンガを使ったノンバーバル・コミュニケーションの切り口っていうのは、まあ結構面白いなと思いましたけど。
著者について少しだけ書こうと思います。大学の助教授なんかをやった後で、物語を書く職を選び今に至る。戯曲を書いたり、演劇の演出をしたりする一方で、あの大人気麻雀コミック「哲也」の原作者でもあったりする(さいふうめいと竹内一郎が同一人物ということ)。まあそんな人です。
本作の中で、一番共感した文章はこれです。
『あなたの言うことの意味はわかるけど、あなたに言われたくない』
その通りです。言っていることは正論だけど、でもその人がいうことを受け入れたくないっていう状況はもうホント沢山あります。バイト先でも結構あります。僕は、僕自身まだ23歳ですけど、それでも『最近の若者は…』と言ってしまう人間で、それくらい最近の若者はちょっとなぁという感じなんだけど、そのちょっとなぁと感じる若者にも、同じことを思います。おまえに言われたくはない、と。
僕は、今のバイト先に入って半年くらいで文庫の担当になったわけですが、文庫の担当になって、本屋の仕事が割とわかってくるようになって初めて、周囲の人間が仕事をしていない、あるいは仕事が出来ないということに気づきました。ちょっとそれは本当に酷いレベルだったのだけど、でも初めの頃はそれを口に出しませんでした。『おまえに言われたくない』と思われてしまうくらい、僕自身大した仕事が出来るわけではなかったからです。でもそこから僕は、周囲の人間を罵倒して注意するという目的のために、仕事をかなり頑張り始めました。そうして、かなり仕事ができるようになってから、初めて周囲の人間に噛み付くようになりました。今では、僕のことをうっとおしいと思っている人はいるかもしれないけど、『おまえに言われたくはない』とは思われていないと思います。理屈では勝てない勝負で世の中は溢れている、ということです。
まあそんなわけで、本作自体はそんなに大した本ではありません。マナー本や心理学の本をちょっとかじったことのある人ならだれでも知っているようなことが書いてあります。演劇とマンガから『見た目』を分析するところはまあ悪くはないですが、それを読むために買うほどの内容でもありません。ちょっと興味があるという人は、立ち読みで済ませるのがいいかと思います(まあ立ち読みはあんまりしてほしくはないですけどね…)。

竹内一郎「人は見た目が9割」


人は見た目が9割新書

人は見た目が9割新書

SPEED(金城一紀)

目的を持って生きるっていうのは、僕からすればすごいなって思う。僕なんか、生きることにも目的を見出せないし、生きるための目的も見出せないのになぁ。
目的っていうのは、夢とか希望とかとは全然違う。ただの空想ではまったくない。それは、そこにいかに到達するかまで現実的なプランを持っている、とそういう意味も含めて、目的を持っているということになる。例えば、女優になりたいというのはただの夢だけど、小さな頃から子役のオーディションを受け、徐々に人脈を広げ、なんてことをしている人にとっては、女優になるというのが目的になる。
目的を持っている人っていうのは、階段を上っている。目的までちゃんと辿りつく階段だ。彼らはその階段を自ら作り上げ、自らの足で上る。それが普通のことだと思っている。
だから、僕のように目的を持たない人間を理解することができないだろうと思う。
僕は、目的を持って生きている人間は素晴らしいと思う。明確な目標があって、そこに辿りつくための明確な道筋を考えていて、そうやって一歩一歩確実に進んでいる人っていうのはすごいと思う。
でも、僕はそういう生き方は好きじゃない。好きとか嫌いとかの問題ではないんだけど、そういう生き方が出来ない。目的になるようなものがまったくないからだ。
本作中に、こんな言葉がある。

『「すこしまえにあることがあって、俺たちの世界はあっけなく壊れちゃったんだ。これまで俺たちは俺たちなりに世界をまともに機能させようと思って、がんばってたんだぜ。でも、わけ分かんない力が俺たちの大切なものを奪っていっちゃって、俺たちがそれまでいた世界はもう元には戻らなくなっちゃったんだ。でもって俺たちがどうyたって世界を作り直そうか途方に暮れている時に岡本さんが現れて、きっかけをくれたってわけさ」』

僕は勝手に、自分は壊れてしまった世界にいるんだ、って思っている。僕が壊したのかもしれないし、誰か別の人が壊したのかもしれないけど、まあそれは全然どうでもよくて、ただ僕の世界がしっかりと壊れてしまっているっていうことは感じているわけです。
本作で出てくるゾンビーズは、その壊れてしまった世界の中で、その世界をなんとか立て直そうと思って、事件に積極的に関わっていきます。それがある意味で目的になるのだろうと思います。
僕はどうだろう。自分の世界を修復しようなんて思っているんだろうか?

『―ねぇ、新しい世界を作り続けてる?』

継ぎはぎだらけのいびつな世界に留まっているよりは、どっか新しい世界に行っちゃった方が面白いかなぁ、なんて思っています。とりあえず僕は、特に目的もないまま、新しい世界も作ることのないまま、この壊れてしまったいびつな世界の中で、まあそれなりに生きていこう、とりあえずそんな風に思っています。
さて、本作を読むと、仲間ってものについてもちょっと考えてしまいますね。
こんなこと書くのは恥ずかしいけど、仲間っていいなぁ、って思いますね。

『「お前はもう俺たちの仲間だろ?自分のことは自分でやれよ。甘えるな」』

友達と仲間って何が違うんだろうな、って考えてみました。
目的があって集まるのが仲間で、目的がなくても集まるのが友達。
これはまあ普通の考えな気がします。ある共通の目的のために仲間ってのは集まる。別に何もなくても友達は集まる。
でも、なんか違うような気がするんですよね。なんかこれだと、友達っていう関係の方がより親密というかレベルの高い関係って感じがしちゃうんですよね。
仲間っていう響きがいいのかもしれませんね。
「お前はもう俺たちと友達だろ?」
「お前はもう俺たちの仲間だろ?」
どっちがいいかなぁ。
書いてて気付いたけど、友達の場合は「俺たちと」なんだけど、仲間の場合は「俺たちの」なんですね。友達の場合、一対一の繋がりが集まって集団になるのに対して、仲間っていうのは、ある集団が先に出来るっていう違いなのかなぁ。まあいいけど。
友達と呼べる人は、まあそれなりにいるけれども、仲間って呼べる人ってあんまりいなくないですか?友達って呼び合える関係ももちろん素敵だけど、仲間って呼び合える関係もより素敵だっていう風に思いますね。
本作で出てくるゾンビーズは、間違いなく仲間ですね。しかも、その繋がりは強力です。羨ましい。かなり羨ましい。素敵な関係です。なんだか、宗田治の「ぼくらのシリーズ」の中学生みたいな感じを思い出します。
友達ももちろんいいけど、仲間っていうのを作ってみれたらいいなぁ、なんて思いました。
そんなわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
キスシーンのあるコミックを学校に持っていったというだけで大問題になるくらいの超お嬢様女子高に通う岡本佳奈子。そんな校風のせいか、佳奈子も学校と家を往復するだけの単調な毎日を送っていた。
あの日までは。
不穏な一日は、工事現場の騒音と母親のアリアで始まったのだけど、よくわからないことが続いて、ちょっとざわめいた心を鎮めてもらおうと、今日来るはずの家庭教師の大学生上原彩子と話をしようと心待ちにしていたのだが、体調が悪いから今日はごめんなさい、と言われてしまった。残念だけど、仕方ない。
全然仕方なくなかったのだけど。
彩子さんが自殺したと聞いて、佳奈子は落ち込んだ。彩子さんは、『約束』を破るような人じゃない…自殺なんておかしい…そう思っていた矢先、佳奈子はなんと、暴漢に襲われそうになってしまう。
そこに居合わせたのが、我等がゾンビーズの四人。もちろん、圧倒的な強さで舜臣が暴漢をなぎ払い佳奈子は九死に一生を得る。流れでこれまでの経緯を話すと、佳奈子さんがいいっていうなら、僕らはその件に首を突っ込むよ、と言ってくれた。
彩子さんが自殺なんて…自殺にしてもどうして…そんな思いを抱えていた佳奈子は、ゾンビーズの四人にこの件を任せてみることにするが…。
佳奈子は知らなかった。
まさか、生まれて初めての大冒険に巻き込まれるとは…。
という感じです。
相変わらず最高潮に面白い作品です。ゾンビーズ最高です!
大まかなストーリーは、メチャクチャ平凡です。もう、小説では出尽くされているような、手垢にまみれたような、まあよくある話ねくらいの、そんなストーリーだけれども、でもそんなこと関係ないくらい面白い。例えば僕がここで、ストーリー的には、これがああでこうでこうなって、最後は大体こうだよ、みたいなことを全部喋ってしまっても、それでも全然楽しく読めると思う。
何でかって言うと、やっぱりキャラクター達が最高にいいからだ、と思いますね。ゾンビーズも佳奈子も、高校生なんだけど高校生らしくないっていうか、ずば抜けているわけでもなくて、抜けすぎているわけでもないんだけど、でもこう特異なキャラクターというか、そういう不思議な魅力に溢れる人物ばかりだからです。
一人の人物のキャラクターが特別に魅力的だっていうだけではなくて、その仲間同士の掛け合いっていうのが最高で、その場に一緒にいられたらもうずっと笑いっぱなしだろうな、ってそんな感じがします。
特に、山下と舜臣とアギーがいい感じですね。
山下は、史上最低の引きの悪さを誇る男で、山下が車に乗っていると駐車場が空いていないとか、プロレスを観戦しに行くと椅子が飛んできたり、動物園に行くと動物が山下を見て興奮したり、なんてことばっか起こる奴で、それでも周囲から愛されている、最強にいいキャラクターですね。奥田英朗の伊良部(「イン・ザ・プール」「空中ブランコ」)とか元過激派の父親一郎(「サウスバウンド」)、あるいは海堂尊の白鳥(「チーム・バチスタの栄光」)ほどの変人ってわけでもないけど、そういうのとはまた違ったベクトルの魅力をかもし出しているように思います。
舜臣は、確か北朝鮮かなんかの在日二世とかだったような気がするけど、頭がよくて喧嘩も強い。芯がしっかりしてて、大地にしっかりと足をつけて生きてるな、って感じがする。
その舜臣は本作の中でこんなことを言っています。

『「当分の間は頭で納得できても心が納得しなかったら、とりあえず闘ってみろよ。こんなもんか、なんて思って闘いから降りちまうのは、ババアになってからでいいじゃねぇか」』

舜臣だけじゃなくてゾンビーズのみんながそうなんだけど、彼らは闘うっていうことを恐れない。彼らは、形あるものだけじゃなくて、形のないもの、実体の掴めないもの、名前のつけられないもの、そういうものとも常に闘っていて、彼らは落ちこぼれ高校の落ちこぼれ生徒だけど、でもそんなレッテルが意味をなさないくらい、社会とちゃんと向き合っているな、って気がします。出自的にそもそも日本でちゃんとやっていくのは不利だって知っている舜臣も、あらゆる形で闘って、自分っていうものを、自分の世界っていうものを、取り戻したり直したりして頑張っています。その強さに、結構憧れたりしますね。
アギーっていうのは、佐藤健っていう名前なんだけど、フィリピン人のとハーフで(でも実は四カ国の血が混じっている)、見るだけで失神しそうなほどの美貌を持ち、かつ、尋常ではない下半身も備えた男である。どんな女でも落とせる男で、その能力を情報収集や金儲けに使っていたりする男である。
そんな風に書くと非道な人間っぽいけど、このアギーってのもものすごくちゃんと哲学を持った男だ。こんな風に言っている。

『「俺たちを動けないように縛っているのは信号機じゃなくて、目に見えないもんなんだよ。(中略)でも、俺とか南方とか舜臣とか萱野とか山下は、自分たちの目と頭が正しいって判断したら、赤信号でも渡るよ。で、おまえはどうするよ?」』

僕は、実際赤信号でも周囲を見て渡っちゃうけど(んー、でも車だったらやっぱり止まっちゃうか…)、人生の赤信号では止まってばっかりだなと思う。自分の頭と目で判断していない。最近は、すこしは出来るようになったかもしれないと思うけど。
あらゆる意味で、ゾンビーズの面々(そういえばアギーはゾンビーズのメンバーじゃないけど、まあいいか)はいい哲学を持っていると思う。見た目は落ちこぼれ高校生だけど、中身はちゃんとしている。やることは無茶苦茶だけど、筋は通っている。それよりも何よりも、こうやってトラブル毎にいろいろ出会えるってのは羨ましいですね。なんとなくふと今思ったのは、このゾンビーズシリーズは、石田衣良の池袋シリーズにちょっと似てるかな、って思った。そうでもないかな…。
僕のサイトをよく見てくれているという、ほんだらけのuririnさんも大絶賛のこのゾンビーズシリーズ。是非とも読んで見てください。誰しもが楽しめるはずの作品です。自信を持ってオススメします!

金城一紀「SPEED」




ガール(奥田英朗)

ごくごくたまにだけど、女に生まれたかったな、と思うことがある。あくまでも、ごくごくたまに、である。どういう時かっていうと今すぐにあんまり思い浮かばないけど、やっぱり「女だからこそ」ってものが世の中には結構あって、そういうものに触れると、女の方がいいかも、と思ったりする。
そう、例えばだけど、これは専業主婦の人に不快感を与えるかもしれないけど、専業主婦ってちょっといいなって思います。家事はもちろん大変だろうけど、外に出なくていいし、家にいてずっと本を読んでられそうだし、もちろんそんな楽なもんじゃないだろうけど、でも引きこもり気味の僕としては、専業主婦っていうのは結構理想に近い生き方なんじゃないか、と思ってしまいます。最近は主夫っていう生き方があるけど、そうじゃなきゃ男の場合、ヒモにでもなるしかないですからね。
けど、やっぱり男に生まれてよかったと僕は思いますね。女は、なんだかんだ大変だと思う。
一応言っておこうと思いますが、これから書く文章は、女性を非難したり否定したり卑下したり、とにかくそんな意図はこれっぽっちもまったくありません。基本的には、『僕が女だったら』という発想で書く文章で、『一般の女性』について悪意を持って何かを書こうというつもりはありません。そういう風に受け取られる文章があったとしたら、そんな意図はないので許してください。
と先にこうやって言い訳を施して、と。
例えばまず圧倒的にめんどくさいのが、化粧を初めとする『見た目』の手入れというやつだ。果てしなく不精な性格をした人間としては、毎日化粧をしたり、よく知らないけど肌のお手入れだとか毛抜きだとかしたり、頻繁に美容院にいったり、時にはエステにいったり、無茶なダイエットをしたり、ファッションに気を遣ったり…なんていうのは考えるだけで鳥肌が立ちますね。
もちろん男だってそういうことをしている人はいるけど、男と女だとやっぱり捉われ方に違いがありますね。男の場合、そういう手入れ的なことは『たしなみ』というか『余裕』的なものとして受け取られるのに大して、女性の場合、『やって当然』のこととして受け取られるわけで、つまり、男の場合はやってもやらなくてもいいけど、女の場合はやらないと何で?って思われる、っていうところですね。もう僕に言わせれば、それだけで窮屈でやってられないでしょう。
これと関係することでもあるけど、女の場合特に、上記のことも含めた『容姿』がものを言うというか、そういう世界な気がします。決して僕だって、容姿だけで女性を見ているわけではないけど、でもまあ、綺麗な人だったらいいなぐらいは思うわけで、社会的に見れば、男みんながそうってわけではないけど、やっぱり『容姿』が優先されてしまっているような、と思います。逆に男の場合、もちろん『容姿』だってそれなりに重要だけど、なんかそうじゃない部分での評価っていうのもそれなりに重視されている気がして(女性が『容姿』以外軽視されていると言いたいわけではないけど)、だから『容姿』に気を遣わなくてもそこそこなんとかなるんではないかと思えますね。
あとは、結婚だとか出産だとかですね。男の場合、結構年いってて結婚してなくても、しょうがねぇなぐらいの感じな気がするけど(気にするのは両親ぐらいで、周りの人間はそう気にしないような気がする)、女の場合、それなりの年で結婚してないっていうだけで、なんか腫れ物のように扱われそうな気がして(あくまでもイメージです)、でもそれっておかしいよなって思ったりします。結婚するのもしないのも自由だろう、と。けど、何でかは知らないけど、女性は皆、結婚して出産することが最高の幸せである!みたいなそんな思想が結構はびこっているような気がして、そんな風には思えない女性にはなかなか生きにくい社会なんではないか、という気がします。
結婚して出産するだけが、女の幸せだとしたら、なんだかそれは寂しくはないか、と思うわけです。
あとは、『女の社会』ってやつですね。僕は自分が女だったら、その世界の世界の中でちゃんと生きていける気がしませんね。
もう全部イメージでしかないから何とも言えないけど、『女の世界』っていうのはもうすごい怖いっていうイメージがあります。足の引っ張り合いというか、見栄の張り合いというか、なんかそんな世界だっていうイメージがあります。もちろん男の世界にだって、足の引っ張り合いも、見栄の張り合いもあるでしょう。でも男の場合、基準がはっきりしてるし(年収だとか地位だとか奥さんとの年齢差だとかそういう数字でわかるものばかり)、それにおおっぴらにそういうことをやっている(男は隠さずにやっている、隠さずにやるっていうことが男の世界の競争だって気がします)のに対して、女っていうのは、とにかく基準がまったく曖昧な勝負をして(化粧のノリとか服のブランドとか見た目の若さとか)、しかもそういうことを、内心に秘めたまま隠しながらやっているというイメージなんです。正直、『女の世界』っていうのをちゃんと見たことがないからわかんないけど、生き馬の目を抜くというか、そういう厳しい世界なんだろうな、と勝手に思ったりします。
ホント何にしても、男に生まれてよかったなぁ、と思います。僕みたいなずぼらな人間には、女をやっていく自信はありませんね。男は、女から見ればバカで鈍感でどうしようもない生き物だろうけど、でもそれでも僕としては、楽チンな男に生まれて正解だったなと心底思います。
女性の皆さん、この文章を読んで不快になったらごめんなさい。非難するつもりはまったくないんです。僕の勝手なイメージなんで、大目に見てください。それで、あぁ子の子はまだまだお子ちゃまなんだな、女の人生のよさってものをまったくわかってないわ、とか嘆いてください。
でも女性の皆さん、ホント女として生きていくの、大変だなぁとか思いませんか?僕は、女性って大変だなぁと思ってるし、だから多少特権があってもそれはいいんじゃないかって思ってます。これからも頑張って女性を生きてください。
というわけでよくわからない文章ですが、そろそろ内容に入ろうと思います。
とその前に書いておこうと思うことが一つ。
奥田英朗と、あなたは本当に男ですか?
何で男の奥田英朗が、こんなにも『女の世界』『女の人生』を見事に描けるのか、もう不思議で仕方ありません。もしかして奥田英朗っていうのは男女のコンビなんではないかとか、二重人格でさらにそのどちらの人格も作家なんではないかとか、とにかくそんな妄想を抱いてしまうくらい、女性というものをうまく描けているような気がします。もちろん女性が本作を読んだらどう感じるのかわからないけど。だから、女性の皆さんには特に読んで欲しい作品ですね。それで、どう感じるのか知りたいものです。
形式としては、短編集です。どの短編も、30代のOLを主人公にしたオフィス小説で、同じく奥田英朗の著作の「マドンナ」にかなり似ている形式です。対になると言ってもいいでしょう。「マドンナ」ではサラリーマンを主人公にしてたのに対して、本作ではOLを主人公にしている、という感じです。
彼女達はそれぞれ、結婚してたり独身だったり子持ちだったり、いろんな立場があって、同じ30代OLと言っても、悩みはそれぞれで、それでも大きな括りとしての焦燥はどれも何となく近いものを感じる、といった感じです。また、『公』の会社と、『私』のプライベートをうまく絡ませた展開の仕方は、「マドンナ」の時と同様、なかなか見事なものだと思いました。

「ヒロくん」
武田聖子は、営業部三課の課長に抜擢された。30代の管理職は珍しくないと言っても、30代の女性の管理職は異例だ。三課は、三期上の今井という男がいるが、それ以外は全員年下で、やりやすい環境を作ってくれたのだとホッとした。
ただ、その今井となかなか反りが合わない。ある仕事を任せたことで、その軋轢はさらにはっきりしたものになってきた。女の管理職だから?聖子はひとわたり悩む。
一方で、聖子は結婚しているのだが、昇進によって旦那との年収がさらに開いてしまったことにも少しだけ悩んでいる。夫よりも給料のいい妻を、夫はどう思っているのだろうか…。

僕は、女性の上司だろうが年下の上司だろうが、有能であれば全然いいと思うのだけど、やはり今井のような人間はいるのだろうなとも思います。『男のメンツ』ってのは、男の一番の恥だよなぁ、と僕なんかは思いますが、男の皆さんどうでしょうか?あと、もし僕が結婚して、奥さんが自分よりも給料がよかったとしても、まあ僕は全然気にならないんですけど、その辺もやっぱり普通の男は気になるもんですかね?

「マンション」
親友のめぐみがマンションを買った。何にも言ってくれなくて、ちょっとだけ裏切られた気がした。マンションか…。今まで考えたこともなかったけど、現実的に考えた方がいいのかなぁ…。そう思って、石原ゆかりはマンションを買うための行動を起こすようになる。
自分にとって最高の物件を見てしまったことで、ゆかりの生活は大きく変わる。その物件は、ありとあらゆる節約をしてようやく手にすることができる物件で、それでもゆかりは一目ぼれしてしまったのである。
ゆかりは総務部広報課で『石原都知事』と呼ばれるほど強気な性格だ。秘書室との調整でも、強気に口を挟むような感じだった。温厚で平和主義な男どもはダメだと思ってきた。
しかし、マンションを買おうと決意した時からゆかりは変わる。今転勤なんかさせられたら…そんな不安から、秘書室との交渉も穏やかなものになっていった。内心でははらわた煮えくり返っているけれども。
あの綺麗な夜景のマンションに、やっぱりどうしても住みたい…。

女性がマンションを躊躇うのは、結婚を諦めたと思われたくないという心理が働くからだ、というようなことが書いてあって、なるほど、やっぱり女性ってのは大変なんだなと思ってしまいました。まあ、衣食住に興味のない僕としては、マンションを買うとかなんとか、まったく関心のない話ではありますけど。

「ガール」
広告代理店に勤める滝川由紀子は、今でも『ガール』のつもりだ。30代だが、20代の頃のように遊び歩いている。ディスコにも行く。スノボーもする。服だって「CLASSY.」を参考にしてるし、まだまだ私はいける。そう思っている。
営業に、光山晴美という先輩がいる。38歳。しかし、この先輩も気持ちはまだまだ『ガール』なんである。ぶりっ子のようなこともするし、服だって「CanCan」を読んでるツワモノだ。
その光山との仕事で出会った、クライアント先の安西博子。堅物だ。やりにくい。
なんだよ、この年でまだ『ガール』気分の私たちを変な目で見るんじゃないよ…。

僕は、別に30代だから落ち着けとは思わないけど、でも若い人でも何でも、派手な人より落ち着いた人の方がいいなぁと思います。年齢を重ねることで身に付ける魅力っていう奴を、どうして女性は捨てようとするんでしょうね?

「ワーキング・マザー」
子持ちで離婚したために、会社が配慮して、残業のない総務部厚生課に配属してくれた。それから3年。息子も小学一年生になった。一人で大丈夫というわけではないけど、しっかりした子だ。昔のように営業部へと戻って仕事をしたい。
そう思って根回しを続け、平井孝子は営業部へ戻ってきた。
しかし何より、シングルマザーの社員っていうのは稀な存在だ。周りも、子どものこととか気になってしまう。つい遠慮してしまう。
孝子は、子育てを言い訳にしまいと心に誓っていた。それはみっともない、と昔から思っていた。仕事は仕事、子育ては子育てだ。周囲にも、出来るだけ遠慮しないで欲しいと伝えている。
孝子の出した企画が局長の許可が出て、孝子主導で進んでいくことになった。営業部との共同の仕事になるのだが、その会議の場にいた斉藤里佳子という営業部の女に、孝子の企画を奪われそうになる。形勢は不利なままだ。
どうしたものか…。なんとかあの、斉藤里佳子をやり込めねば…。

最後の方の展開がなかなかよくて、そんな内容じゃないはずなのに、ちょっとだけ泣きそうになりました。孝子のストイックさと後悔、そして斉藤里佳子のやり手っぷりと融和、とまあそんな感じの部分が、割とよかったなぁと思います。何にしても、シングルマザーだろうがなんだろうが、働いていようがそうでなかろうが、子育ては大変なんだろうな、と思います。すごいですね、女性は。

「ひと回り」
小坂容子は、社の伝統で、新人の指導社員を命じられた。新しく入ってくる新入社員の面倒を見る係、という奴だ。
容子の担当することになった新入社員は、それはそれはいい男だった。純真で真面目で、そしてかっこいい。容子は思った。あちゃー、ドキドキしちゃうよこりゃ。どうしよ。
思ったとおり、新入社員はありとあらゆる女性の関心の的となった。違う課の人間も、競うようにして新入社員とコンタクトを取ろうとする。
容子は、嫉妬心からそんな女性たちの猛攻を、ありとあらゆる手を尽くして阻止する。彼にどんな女も近づけたくない。私とどうこうなんてことになってくれたらいいのに…、って何考えてるんだろう?
ひと回りも違う年下の男の子なのに…私はどうしたらいいわけ?

容子が、他の女性からの魔の手(?)を阻止しようとする様が何ともいたたまれなくて、でもそれ以上に、若さで新入社員を誘惑しようとする女性たちにいたたまれなさを感じました。なんというか、女性はあくどいなぁ…と。怖いですね、はい。

本作に、こんな言葉があります。

『女は生きにくいと思った。どんな道を選んでも、ちがう道があったのではと思えてくる。』

なかなか含蓄のある言葉だとは思いませんか?女性の皆さん、どう思いますでしょうか?
とにかく、最高に面白いです。奥田英朗最高です。とにかく読んで欲しいです。特に女性に読んで欲しいところです。それで、そうそう、って思うのか、そうかな?って思うのか、その辺を知りたいところですね。男が読むと、『女の世界』はこんな感じになっているのかぁ、という風に思えてそれはそれで面白いだろうと思います。
是非とも読んでみてください。特に女性の皆さんは読んで見てください。何かしら感じることがあるのではないかと思います。かなりオススメです。奥田英朗最高です。

奥田英朗「ガール」




格闘する者に○(三浦しをん)

就職活動ね…残念ながら、したことがございません。
いや~、僕は絶対に社会人になんかなれない、とこれはもう大分前からそう思っていました。社会に出て働く?そんなこと出来ますかいな、ってなもんです。
いやでしたね、正直。こう大学生になって、初めのうちはそれでも就職とか全然関係ない感じでうだうだしてるんだけど、段々学年が上がってくると、就職とかがリアルになってきて、ずっと、逃げたい逃げたいって思って、まあホントに逃げましたけど、とにかく僕なんかが社会人になれるわけがないんです、まじで。
本作にこんなことが書いてあります。

『「覇気があって、うだつがあがってて、初対面の人とも明るく打ち解けて。そういうのを面接という限られた時間内でアピールできる、か」
「そうそう。そういうことができる人間を、社会人というのよ」』

まさにそうだよな。とにかくまず、前半の部分でもアウトな人間なのに、さらにそれを面接でアピールするなんて、逆立ちしたって出来るわけがない(そういえばこの表現ってどういうことなんだろう?逆立ちしたってできない、って、なんか考えるとよくわかんない表現だな…)。
面接なんて、考えるだけで恐怖である。
自分のことをアピールしなくてはいけないのである。バイト先で就職活動をしている人が言っていたけど、10分自己アピールをしなくてはいけないのだそうである。それをパスしたら、その後さらに、ボードを使って10分自己アピールをしなくてはいけないのである。
もはや僕にはいじめとしかいいようがありません。自己アピールなんて、30秒だってもちませんよ、絶対。
みんなすごいなぁ、とホントに思うわけです。よく、就職活動だ面接だ、出来るものですね…。羨ましい。
そもそも、まったく知らない人に、自分のことをよく見てもらおうなんて、僕には無理です。僕は、こうしばらく付き合っていく中で、まあそこそこ味が出てくるような、そんなにぼしのような人間で、だから、面接みたいに、チューブから搾り出すようにして魅力をアピールするなんて離れ業は、絶対にできっこないわけです。
いやですね…。今のところ、就職だとかなんだとかまったく考えてないけど、何らかの事情でそんなことをしなくてはならなくなったとしたら、もう憂鬱でどうしようもないでしょうね。
人を選ぶっていうことは、もちろん何か基準を設けなきゃいけないわけで、しかも割とわかりやすくて正当な基準じゃなきゃいけない。だからこそ、試験だとか面接だとかっていうことで、人間を見ようとするわけです。
そういうやり方の中で魅力を出せる人はいいけど、そうじゃない人だって世の中には沢山いると思うんですよね。僕だって、仕事はそれなりにちゃんと出来るし、人間的な付き合いもまあそれなりに出来るし、面白いことは言ったりやったりすることはできないけど、でも場を壊すようなことはしないし空気は読むし、だから割と使える人間だとは思うんだけど、でもやっぱり、面接っていう関門を超えられないわけで、今の社会じゃほぼどうしようもないわけですね。困ったもんです。まあ、あんまり社会人になってサラリーマンしたいとも思わないんですけど。
仕事はお金を稼ぐ手段に過ぎない、みたいなことを森博嗣は言ってますが、お金そのものにも、お金を稼ぐということにもそこまで興味の持てない僕は、やっぱり仕事は楽しい方がいいんじゃないかと思います。僕はただのフリーターだけど、書店での文庫担当というのは、これはもう果てしなく面白い仕事で、僕のいる店が自由すぎるっていうこともあると思うけど、売りたいものを置けるから、自分の好きな本ばっか売っているわけで、これほど楽しい仕事はないなと思います。本屋にいれば本の情報も一杯入ってくるわけで、以前よりもさらに知識が増えました。文芸関係のことなら、かなり知識が一杯になってきました。映画・音楽なんかはからきしですけど。
とにかく僕は今満足しているので全然いいし、就職活動をして面接で落ち込んだりしなくてよかった、とか思いますけど、世の中の人々はやっぱり大変だろうなって思うし、社会よ、もう少し寛大になろうよ、とも思ったりします。まあ何を言っても、負け犬の遠吠えですけどね。
そんなわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
ざっと言ってしまえば、就職活動する女子大生の物語…なんですけど、いろいろ絡んでくるんですね、これが。
藤崎可南子は大学四年で、就職活動の真っ最中…とは言うものの、まったく就職活動らしいことをしていない。義母の目を気にして、面接に行くと行って家を出ては、漫画喫茶で漫画を読み耽る日々。漫画が大好きなんだから、漫画の編集者になりたい。とりあえず、そんな希望はあったりする。しかし、周囲が情報を集めて奔走したり、面接やセミナーに忙しいのに対して、可南子とその友人二人(砂子とニキ)の三人は、何処吹く風ってなもんで余裕っぷり…。いやいや、少しは焦ろうよ。
なんとなく試験を受けに行き、面接に行こうとして古本屋に寄ってしまうなんてことをくり返し、もちろん内定はゼロ。本命である出版社の面接も始まるのだが、何なんだ…という面接に出くわしたりもする。どうしたもんかね…。
というような就職活動を縦糸にしながら、横糸が様々に絡まりある。
政治家である父親が巻き起こす嵐、年の離れた書道家とのフェティッシュな恋、旅人と呼ばれる弟とのやり取り、呑気な友人たちのささやかな悩み…などなど、可南子を取り巻く状況はなんだか慌しい。
それでも可南子は、とりあえず出版社への就職を目指し、時には妄想力をフルスロットルにしながら、青春の日々を『格闘』していくのである…。
というようなストーリーですね。
抜群、というと言いすぎだけど、これが面白い小説なんです。
ストーリー自体は、本当にただ、内定を目指して就職活動する女子大生の青春といった感じなんだけど、どこか引き込まれてしまうのだ。
なんというか、微妙なリアリティの欠如が、僕としては寧ろリアル、という感じでしょうか?
例えば、弟のことを旅人と呼んでみたり、時代がかった古風な語り口の可南子とか、おじいちゃんの書道家とフェティッシュな恋愛をしているところとか、どこかずれているところが、逆にぴったりはまっているようなそんな感じがして、まあ不思議な小説でした。
砂子とニキという二人の友人も、まあよくもそこまでのんびりできるもので、という感じで、その三人での掛け合いっていうのも面白いものでした。
正直、一体どこが魅力なのかという点をうまく指摘できない小説なんだけど、読んでみるとグイグイ引っ張られていくし、どんどん読めるし、登場人物は誰もが面白いし、特別ストーリーがあるわけでもないんだけど、でもドタバタで面白いな、とまあそんな印象が残る作品ですね。
解説もなんと重松清氏ですしね。すごいものです。
新人賞を獲っての受賞ではないという、日本では結構珍しい形のデビューだけど、デビュー作の段階でこれだけ面白かったのだから、それはデビューさせるでしょう、という感じですね。まあその辺の経緯はよく知りませんけど。
僕は就職活動も面接もしたことがないのでそれらについてよく知らないのだけど、でも本作に出てくる、K談社と集A社の面接についての描写はかなり面白いですね。全部が全部そうじゃないんだろうけど、結構面接って言うのも適当だな、と思いました。それとも、著者が女性だからというのもあるのかもしれませんけど…。タイトルの由来もなかなか最高です。
ものすごいオススメっていうことはないんですけど、でも読んだら絶対に誰もがはまるんじゃないかっていう作品です。読んでみてはどうでしょうか?

三浦しをん「格闘する者に○」




P.S.ししゃもさんへ

今日はホントにすいません。ホントに気にしないで下さいよ。話の内容とは全然関係ないんですから。僕的に、11:30までに本を読み終わらないと、感想を書くのに厳しいんですけど、今日は読み終わったのが12時なんで、大忙しですよ…、ってこんなこと言うと逆にこっちの方が気になってしまうかもしれませんけど(笑)。そんなわけで、またどうぞ。いつでもってわけにはいかないですけど。

夜回り先生(水谷修)





声ってどこまで届くんだろう?
想いってどこまで繋がるんだろう?

『受け止めてくれる誰かがいる』

そう思えるだけでも僕らは安心できる。
僕たちの言葉はどこに消えてしまうの?
僕たちの想いはどこで途切れてしまうの?
そんな心配しないでも済む。

『いいんだよ』

そう言ってくれる誰かがいるっていうこと。

『昨日までのことは、全部いいんだよ』

そう受け止めてくれる人。

『でも死ぬのだけはダメだよ』

そう強く言ってくれる人。
孤独で辛い若者たちが本当に求めているものは、どこへ行っても少ない。
孤独で辛い若者たちが本当に求めているものは、簡単に失われてしまう。
生きていることに疲れちゃうよ。
立っていることに飽きてきちゃうよ。
息を吸うだけで悲しくなっちゃうよ。

苦しいけど、誰も助けてくれないんだ…。
手を伸ばしても、誰も掴んでくれないんだ…。

水谷修。
苦しんで苦しんで、どうにもならなくなってしまった若者を、
もがいてもがいて、それでもなんとか生きようとしている若者を、
彼は助けようとする。
手を差し伸べようとする。

『いいんだよ』

そう言って。

『まずは今日から、水谷と一緒に考えよう』

そう言って。
若者の苦しみを、
現代の闇を、
その背中に背負っている教師がいる。
夜回り先生。
水谷修。

『日本で最も死に近い教師』

警察が水谷につけた呼び名だ。水谷は、暴走族の集会でも、暴力団の事務所でも、一人で乗り込んでいく。そんな無茶苦茶なやり方からついた呼び名だ。
実際、何度も危ない状況に遭っていることだろう。
その一つがこれだ。

『落とし前は、私の利き腕の指一本だった。』

水谷は、見ず知らずの若者のために、指を一本失った。

『それを思えば指一本、なかなか痛かったが、安い買い物だった。』

指一本失って、こんな言葉を口にすることができるだろうか?そもそも、自分とは関係ない誰かのために、指を失うことが出来るだろうか?

『どんなケースでもそうだ。話を突き詰めれば、子どもが悪かったためしはなく、必ず大人に原因がある。』

水谷は、まず話し合う。真正面から。嘘偽りなく。相手と向き合おうとする。
そもそも、今の若者と、正しい距離をとって向き合える大人が、どれほどいるだろうか?
親は近すぎるし、親以外の大人は遠すぎる。誰もが、若者との『ちゃんとした距離』に立つことができていない。だからこそ、話し合えば解決できることが解決できなくなってしまう。
関係ないが、イギリスの議会の話を思い出した。イギリスは確か二大政党制で、その両政党が議会に向き合って座る。その両政党の距離が、どういう基準で決められたか、という話を思い出した。
剣の届かない距離。
昔は議員と言えども剣を持っていた。お互いに、剣の届く距離にいては、話し合いをすべき議会で暴力が行われることになってしまう。だから両政党の距離は、剣の届かない距離に定められたのだ、という話だ。
大人と若者も同じようなものかもしれない。近すぎると、お互い持っている剣が触れ合ってしまう。かといって遠すぎると話し合いにならない。大人と若者が取るべき距離というのが、必ずある。
水谷は、それをちゃんと知っている。
だからこそ、若者と向き合って、話し合うことができる。

『(前略)ビルの谷間でしゃがみこんで泣いている少女を見つけた。少女はおぼえていた。声をかけると、ビルのすき間にもぐりこんでしまった。
仕方がないので、私は自分の話をした。(中略)一体どれくらい喋りつづけただろうか。朝日がのぼる頃になってようやく、少女はビルのすき間から出てきてくれた。』

こういう少女を見つけた時の大人の対処は、気付かぬふりをして立ち去るか、ビルのすき間に入っていって無理矢理連れ出すかのどちらかでしかないだろう。しかし、水谷は若者との距離の取り方を知っている。近づくことはできないが見捨てることもできない。だから話し続ける。
もちろん、そんなことわかっているという人はいるかもしれない。自分の話をし続ければ、きっといつか出てきてくれるだろうと、そんなことはわかっている、と。でも、わかっていてもどうしようもない。やるか、やらないか。水谷はやるのだ。だから、すごい。

『でも、自分でやめようと思ってもやめられなかった。私は苦しんだ。いじめもリストカットもひきこもりもみんなそうだ。失われた愛情が、再び誰かによって満たされるまで、その行為は止められない。一人の力ではどうしようもないのだ。』

水谷も、子どもの頃いじめをしていた。母の愛に飢えた結果だ。止めようと何度も思い、布団の中で毎日泣いていたのも関わらず、それでも止められなかった。そう、水谷は振り返る。
僕も、ひきこもりだったことがある。本作に出てくる人と比べれば、比べることも申し訳ないくらいのものだったけど、でもその当時の僕としては、すごい困難な時間だった。
毎日、こんな生活は止めなければ、こんな生活をいつまでも続けられるわけがない、と思っていた。どこかで止めなくては、と。でも、簡単には止められなかった。ひきこもりであるということを止められなかった。
一時、本当に死のうとも考えた。屋上の縁に立ち、目を瞑って片足立ちをしたところまではいけた。あとほんの僅か体重が前に掛かったら落ちる、そんな状況まではいけた。
でも、死ぬことはできなかった。
精神状態が落ち込んでいるから、死ねないことに対しても落ち込んでしまう。僕は、死ぬことも出来ないダメな人間なんだ、と。死ぬこともできないなんて、と。
でも、僕は必死で考えたのだ。死ぬことができないと落ち込んでいるだけではなく、何で死ねないんだろうと一生懸命考えた。
僕なりに答えは出せた。
友達に二度と会えないのは嫌だな、とそう思ったのだ。
親のことはなんとも思わないし、将来に何か希望があるわけでもない。夢もなければやりたいことも特にない。本当に何にもなかったけど、でもすごくいい友達がいた。死んじゃったら、彼らには二度と会えないんだよな、とそう考えた。
結局、友達がいなかったら僕はダメだっただろうと思う。ひきこもった僕を心配してくれ、ひきこもって復帰した僕を優しく迎え入れてくれ、何でもなかったかのように接してくれる友達がいなければ、そうして、きっとそういう風に接してくれるだろうなという期待を僕が抱くことができなければ、僕はダメだっただろうな、と思う。
僕には、あまり多くのことは語らなかったけど、でも僕のことを受け止めてくれる人がいた。本当に、感謝しています。まあ直接は言わないけど。

『彼らは非行に走るが、非行に走りたくて走るんじゃない。
望んでもいないのに孤独を強いられ、その孤独に耐える方法を知らないだけだ。』

孤独。
これは、怖い。
孤独になんて、本当に耐えられる人なんているんだろうか?僕には信じられない。
孤独を強いられる。
大人にそれを強いられる。
そんな若者が溢れている。
大人が全部悪いわけじゃないかもしれない。もちろん、若者の方だって悪いのかもしれない。でも、水谷はこういっている。

『私は絶対に生徒を叱ることができない。
なぜなら子どもたちはみんな「花の種」だと考えているからだ。
(中略)
もし花を咲かせることなく、しぼんだり枯れたりする子どもがいれば、それはまぎれもなく大人のせいであり、子どもはその被害者だ。』

若者は、大人が悪いと叫ぶ。
大人は、そんな若者を、甘えているという。
でも、甘えて何が悪いんだろう。だって、僕らを生んだのは、僕らを勝手に生んだのは、あなたたちじゃないんですか?

『この世に生まれたくて、生まれる人間はいない。
私たちは、暴力的に投げ出されるようにこの世に誕生する。』

そうやって、僕らの意思とは関係なく生んでおいて、甘えるななんて言われたって、どうしていいかわからないじゃないか…。
ちゃんと生きるって、実はすごく難しいことなんだ。出来る人は簡単に出来てしまうかもしれない。でもそれは、恵まれているだけなんだ。生まれた時から恵まれているんだ。
僕だって、本作に出てくる少年少女と比べたら、生まれつき恵まれている部類に入るだろう、間違いなく。
そうじゃない、生まれた時から苦痛に満ち溢れた人だって沢山いる。社会は、人々は、それを見ないふりをして、ないかのように扱おうとする。見えないし、存在しない。そうやって、やり過ごしている。
僕だって、きっとそうだ。
でも、水谷はまっすぐにそれを見据える。誰もが見ないようにしてきたものに、じっと視線を向ける。
ただ、若者と仲良くなりたいという、ただそれだけのために。

『結婚式にはきっと呼ばれるだろう。でも私は出席しない。
彼女にとって一番悲しい過去を思い出させてしまうだろうから。』

水谷に返ってくる見返りは、本当に少ない。日々、失うものの方が多い生活をしている。それでも水谷は、若者に声を掛け続ける。若者と仲良くなりたい、その一心で。

『「あんた変わってるよ。教師にしとくのはもったいない」』

ある件で関わった暴走族のリーダーに言われた言葉。きっと水谷は嬉しかったことだろう。若者が水谷に助けられて嬉しいように、水谷も若者に認められてきっと嬉しいはずだ。そうでなければ、こんな生活、続けていけないだろう。
本作の感想の場合、僕の言葉よりも、著者の言葉の方がより響くだろうと思って、作中から抜き出す形で、著者の言葉を多く紹介することにしました。というわけで、こんな感じの文章になりました。これ以降は、もう少し説明的な感じでいこうかな、と。
まずは著者の紹介から。
著者自身の生い立ちも本作の中で軽く触れられているので詳しくは書かないことにします。著者は、初めは擁護学校で教え、次に進学率の高い高校で教鞭をとっていました。しかしあるきっかけから、夜間学校の教師になることに決め、以来、夜の街を歩いては若者と接する、『夜回り先生』としての生活を、十数年も続けているという人です。
今までに、5000人近くの若者と関わりを持ったという著者。もちろん成功ばかりというわけではありません。直接的ではないにしろ、著者自らが関わっていた若者を殺してしまったと感じているケースもあります。そんな失敗の話も、隠すことなく本作で語られます。
すべてを背負っている。そんな風に感じられます。いろんな想いをその両肩に乗せて、その重みに耐えながらなんとか歩いている、という感じ。時折、若者にではなく、著者自身に痛々しさを感じてしまうこともあります。赤の他人に、そこまでしなくても…と。
僕は、著者のようには絶対にできません。誰かを助けることは出来るかもしれない。でも、必ず助けたいと思うことはできないし、無償で助けようとも思えないだろう。どこかに必ず綺麗ごとを挟んで、どこかに必ず逃げ道を作ってからでないと、僕は人を救うことなんてできない。
著者は、綺麗ごとなんて一切なく、逃げ道だってどこにも作ることなく、ただ全力で若者にぶつかり、全力で問題を解決しようとするだけです。
僕には、できません。
本作で語られる少年少女のエピソードは、本当に悲痛なものばかりです。若者が悪いケースだって、もちろんあります。それでも、若者だけが悪いんじゃないっていうことがほとんどです。周りにいる大人が、子どもの芽を摘み取ってしまっているのです。
僕は正直本当に、何度か泣きそうになりました。こんな辛い人生を生きている人がいて、そこからなんとかして救いたいと願っている人がいて、それなのにどうしてもこんなに不幸で悲しいんだろう…って思ってしまいます。
誰しもが平等ではないのは仕方ないと思います。ただ、せめてだれもが、安心して生きていくことが出来る社会であって欲しい。社会の一員として、僕はきっとそういうことも考えるべきなんだろうと思います。きっと、何もしないと思うし何も出来ないと思うけど、でも本作を読んで、何か出来ることがあるならやってあげたい、と少しだけ思えるようになりました。そして、とにかく向き合って話し合うっていうことがどんな場合でも大事なんだな、と思いました。
とにかく、ものすごくいい作品です。
僕は書店員なので、本屋での立ち読みはできればしてほしくないな、と思ってしまいます。でも、本作なら許します。本屋で、1時間もあれば立ち読みできてしまうな内容です。是非読んで見てください。
是非とも読んでください。きっと読んでも、何も行動には移せないと思うけど、でも読んで意識を変えるだけでも、何かが変わるんではないか、そんな風に思えてしまう一冊です。是非どうぞ。

水谷修「夜回り先生」



ブレイブ・ストーリー(宮部みゆき)

何かを変えるために行動するってのは、なかなか難しいことだと思う。
誰しもがそうではないと思うけど、でも多くの人は、事なかれ主義とでもいうのか、現状維持を一生懸命目指すような、そんな硬直した考え方を持っているんじゃないかと思う。
僕も、変化ってのはあんまり好きじゃない。
楽しいこととか驚くようなこととか、そういう変化なら全然いい。むしろ歓迎しているといってもいい。しかし、そんな変化はあんまり多くない。むしろ逆で、辛かったり悲しかったりめんどくさかったりする変化の方が、世の中には満ち溢れている。
僕は、出来るだけそういう変化とは関わりたくない。でも、もしそんな変化の中に巻き込まれてしまったら、僕はどうするだろう?
きっと、何もしないだろうな、と思う。何もしないで、ただ災厄が通り過ぎてくれるのを待つだけだ。自分から何か行動して、何かを変えようなんて、きっと絶対に思わないだろう。
僕は一時期引きこもりになっていた時期があった。その時期僕は日々、このままじゃいけないと思っていた。ずっとこうやって引きこもっていられるわけがないとちゃんとわかっていた。
でも、それでも僕は自分から何もすることができなかった。ずっと部屋に閉じこもったまま、このままじゃどうしようもないと思いながらも、それでも何の行動も起こせなかった。
僕の人生は、逃避の人生だったなと思う。いかに逃げるか、いかに問題と向き合わないか、いかに背中を向けたままで前進するか。そんなことばかり考えていた。今でもそれは大して変わらない。できるだけ変化を求めず、今のままとりあえず時間が過ぎてくれればそれでいい、と思っている。常に逃げる余裕を確保しながら前へと進んでいき、何か困ったことがあったらすぐ逃げる。
弱いな、と自分でも思う。昔は、そんな弱い自分を受け入れることが出来ずに、いろいろと自分なりに無理をしていたけど、でも今は違う。自分の弱さを受け入れることができるようになった。ある意味ではこれは成長と呼べるかもしれないな、と思う。
世の中には、変化を厭わない人や、変化に真っ向から立ち向かっていくことの出来る人がいる。僕の周りにもそういう人はいた。自分にはそんなこと出来ないなと思って、すごいなと思っていた。
今でも逃げ道を探して生きている僕とは大違いだ。羨ましいとも思う。きっと僕は、本作のワタルのようなチャンスをもらってもダメだろうと思う。
僕は、何も変えられないし、何にも立ち向かえない。
それでも僕は、その弱い僕を受け入れて、強くないなりにこの世界でやっていこうと、まあそんな風に思います。
宗教についても考えさせられる作品でした。
僕が宗教というものには、こういうことを感じてしまいます。
『神様を信じるのに、理屈や教義や教会や犠牲が必要なのか?』
僕は、神様っていう存在は全然いてくれていいと思っています。というより、僕は自分の行動を思い返すと、たぶん結構神様って奴を信じている人間だと思います。
自分が何か悪いことをしようとしている時に、ふとこんなことを思います。あぁ、きっと誰かが見てるだろうな、と。
それで、まあおかしな話なんだけど、きっと悪いことをした僕を見た神様は、僕を虫歯にしてしまうだろうな、と子供の頃思っていました。何でかっていうと、僕は昔から全然虫歯にならなくて、正直歯をあんまり磨かなくても(いやでもちゃんと磨いてますけど)虫歯にならないんです。それを何故か子供の頃僕は、『神様が僕を虫歯にしないでくれているんだ』と考えていたみたいです。だから、何か悪いことをしたら、それを見ていた神様が、僕を虫歯にしてしまうだろう、とそんなことを考えたのだろうと思います。たぶん、親とかにそんなことを言われたわけでもないので、自分でそんな風に考えたんだと思うけど、まあそんなわけで、神様ってやつはいてくれていいと思うんです。
でも、それを信じる、いや『信じている』と言い張っている人間のあり方にすごく問題があるな、と思います。
なんていうか、神様を信じるのは宗教じゃなくて個人だと思うんです。神様を信じる個人が集まって宗教になる、というならまあいいんです。でも、宗教っていうのは、布教と称して、まだ信じていない人までもその宗教に引き入れようとします。あれは絶対に間違っていると思います。同じ神様を信じる個人が集まって宗教になるのはいいけど、その宗教を維持したり拡大したりするために信者を増やすなんて、絶対におかしい。
それに、そもそも神様を信じるのに集団でなければならないのも理解できないし、信じ方に決まりがあるのも意味がわかりません。
とにかく僕は、宗教の難しいことはわからないけど、でもやっぱり、宗教のあり方っていうのは間違っていると思う。うまく言えないけど、一人の神様を信じるっていうことも、神様の教えってのが存在することも、信じることになんらかの犠牲が伴うことも、宗教によって争うことも、全部絶対に間違っている。
日本人は特定の宗教を持たないっていうことで、外国から変に見られたりおかしいと思われたりすることがあるみたいだけど、でも僕は全然間違ってないし、こういう日本の宗教に対するあり方は非常に正しいんじゃないかとすら思います。宗教に縛られることもなく、神様を縛ることもない。神様に実体を与えることもなく、その恩恵を無心するでもない日本人の宗教観は、どんなに諸外国から奇異に見られても間違ってないと思います。
少なくても、宗教で対立しないというだけでも、充分に正しいと言えるでしょう。
本作でも、様々に宗教的な問題が起こります。それらは、僕らの世界の引き写しのようなものなんだけど、改めてその構図を見ると、なんて宗教って虚しいんだろうな、とそんな風に思いました。
そんなわけで内容に入ろうと思います。
東京の下町に住む小学五年生の亘。友達がいて両親がいて、日々普通に過ごしている、どこにでもいる小学生だ。
学校である噂が広まっている。それは、近くにある建設途中のビルに、幽霊が出るという噂だった。
その噂が、何かの口火を切ったかのように、亘の周囲が慌しくなっていく。
隣のクラスに、転校生がやってきた。なんだかスゴイ奴らしい。亘の家庭もなんだかヘンだ。不穏なっていうか、とにかくなんかオカシイ…。
いつの間にか、亘の生活はメチャクチャになっていた。どうして、誰も悪いことしてないなら、どうしてこんなことになるの…。
それから亘は知ることになる。あの幽霊の出るっていうあのビル。あそこには、『幻界(ビジョン)』への入口があって、『幻界』で旅をして『運命の塔』を目指せば、亘の願いを何か一つ叶えてくれるのだと…。
亘は、理不尽に襲い掛かった運命を何とか修正すべく、『幻界』への旅へと向かうのだが…。
やっぱ俺は、宮部みゆきとは合わないんだな…と思いました。
本作は、面白くないわけでは全然ありません。小説として、ある一定水準以上の面白さは間違いなくあるでしょう。なんだかんだいって、宮部みゆきというのは、物語を紡ぐのがメチャクチャうまいですね。物語の絡ませ方とか、ファンタジーだけでミステリのような伏線の張り方とか、そういう物語の転がし方というのが手馴れていて、普通に読めばまあ普通に楽しめる作品でしょう。
ただ、言ってしまえば、ゲームのRPGとファンタジーのお約束の切り貼りのような作品、っていう感じがしました。
僕は、ゲームはほとんどやらないし、ましてRPGは人生で一度もやったことないけど、そんな僕の中にすらある『RPGのイメージ』と、僕は同じくファンタジーもほとんど読まないのだけど、そんな僕の中にすらある『ファンタジーのイメージ』から、ほんとにお約束的な部分だけをうまーく持ってきて繋げてみました的な感じの話で、正直どうなんだろう、という感じがしてしまいました。
突然話は変わるけど、僕は赤川次郎の作品はこれまで一作も読んだことがありません。でも僕の中で、赤川次郎のイメージというものはあります。うまく言葉にはできないけど、大衆に迎合した作品を書く作家、という感じのイメージです。
そのイメージを僕は、宮部みゆきにも感じてしまうのです。あぁ、この人は大衆作家なんだな、とそんな風に思ってしまうんです。消費されるだけの物語を紡いでいるとそんな風に。
例えば、同じく作品を大量に発表している東野圭吾や森博嗣といった作家がいるけど、この二人は大衆に迎合した作品なんて全然書きません。常に、大衆を置き去りにしてでも挑戦的で大胆な作品を書き続けています。大衆が求めるものではなく、あらたな世界を切り開くために物語を紡いでいるという感じです。だからこの二人は、作品を沢山出しているのに、大衆作家という感じは全然しません。
しかし宮部みゆきは、最近になればなるほど、大衆におもねる作品ばかり書いているような気がします。僕はこれまでに、本作も含めて宮部みゆきの作品を16作読んできました。その中で、僕が素晴らしいと思えたのは「模倣犯」だけです。他の作品は、決してつまらないわけではないけど、感動もないし、ただ消費するだけといった作品ばかりでした。
別に、赤川次郎や西村京太郎のような大衆作家を否定するつもりはありません。でも、少なくとも僕の読書の中にはまったく不要な存在です。僕は、読者におもねるような作品ではなく、読者を常にあらたな地平へと連れて行ってくれる、そんな刺激的な作品を読みたいと思っているわけです。たぶん、宮部みゆきにそれを期待することは出来ないのでしょう。
本作は、例えるならば、時雨沢恵一の「キノの旅」の長編版と言った感じです。とにかく『幻界』に入ってからの展開は、いろんな街に行き、そこで抱えている問題を見た亘が、自分の旅の目的を一旦おいてその問題を解決しようとする、という展開の連続で、「キノの旅」に似てるな、と思いました。あとやっぱり、ファンタジーなわけで、全体的な雰囲気は「ハリー・ポッター」に似ています。
すごく長い作品ですが、サクサク読めます。もちろん、一定以上の水準を持つ作品なので、読んで後悔することはないでしょう。ただ、わざわざ読むほどでもない、と思ってしまいます。つまらなくはないし、それなりに面白いもとは間違いないけど、でも是非とも読んで欲しいっていう感じにはどうしてもなりませんね。もちろんこれは、僕の宮部みゆきに対する感じ方のせいなのかもしれませんが。まあそんなわけで、僕としてはオススメしません。本作を読むなら、僕としては「模倣犯」を読んで欲しいなと思います。

宮部みゆき「ブレイブ・ストーリー」







私一人(大竹しのぶ)

人はみな、仮面を被って生きている。
当たり前のことだ。「素」の自分で生きていけるほど、世界は甘くない。
僕は、自分が仮面を被っていることを知っている。それは、嘘をつくというのとは少し違うと思う。
嘘をつくという行為は、全体の中の何か一部だけを変える、ということだ。「僕」という人間のどこか一部について、誰かに違う面を見せる、というのが嘘をつくということだ。
仮面を被るというのはそうではない。仮面を被るということは、全体そのものを変えてしまう。全体そのものを覆い隠すということだ。全体の中の一部を変えればそれは嘘だけど、全体を覆い隠して、別の自分を生み出すことは、嘘をつくことではないと思う。
自分を作り変えるということ。
自分を生まれ変わるということ。
仮面を被るということ。
僕は、自分が仮面を被っていることを知っている。
しかし、それを知らない人間というのも、またいるだろう。
仮面を被っていることに気付かない。もしかしたら、「厚顔無恥」というのは、顔の上に厚く仮面が覆っているのに、それに気付かない人、というところから作られた言葉なのかもしれない。
自分を演じずに生きていける人がいるとは僕には思えない。それほど、世界は優しくないと思う。誰しもが、時に自分を抑え、時に自分を解放し、時に自分を縛り、時に自分を停止しながら、そうやって自分を演じて生きている。
無意識でやっているかどうかの違いだろう。演じているという意識のないまま演じている人がいるということだろう。
しかし、そのどちらでもない人が世の中にはいる。
仮面を被っていることを知っていながら、その仮面の存在をないことに出来る人。
仮面を被っている自分を意識しながらも、その仮面の存在を完璧に忘れることの出来る人。
それが、役者という存在である。
役者というのは、誰かに勝手に仮面を与えられて、まずそれを違和感なく自分の顔につけるところから始まるのだろう。そうして徐々に、その仮面の存在を忘れていく。つけ外しが自由に出来、かつその仮面の存在を忘れるということをやってのける。
すごいなと思う。
僕なんかは、自分の仮面をつけた姿を、外から眺めてしまうような人間だ。自分がつけた仮面が、綻びはないか、ヘンな表情になってないか、なんて思いながら、観察してしまう。自分以外の人には、仮面をつけた自分を見せようとしているのに、自分自身ではそれを、何やってんだかという風に見てしまう。
だから、どんな仮面であれ、それに溶け込める人というのは素晴らしいと思うのだ。
僕らは、程度の差こそあれ、『演じる』ということは普段から普通にやっている。そうすることで僕らは、『自然な』生き方をすることができる。
僕は、役者というのは、突き詰めて考えてみれば、『演じることを忘れる』人のことだと思う。人間というのは、『演じ』ている状態が『自然』であるのに対して、役者は、『演じることを忘れる』ことによって、『自然な』人間を生み出そうとしている。僕はそんな風に思う。逆説的な感じもするけど、面白いなと思う。
『演じることを忘れる』ということは、誰にでもできることではない。役者をやっている人間でも充分に出来ているという人は、きっと多くはいないのだろう。
僕には絶対に出来ないし、考えられない世界だな、と思う。ちゃんとわかっているとは言いがたいけど、でも、役者という生き方はすごい、と素直にそんな風に思う。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、女優大竹しのぶが、デビューから30年余りが経った今、昔を振り返りながら綴ったエッセイです。ひょんなことからデビューすることになった当時の話、仕事場で出会った沢山の人々、思い出深い撮影や演劇の話、一度目の結婚と死別、二度目の結婚と離婚、子供たちとの生活、今の自分。そうしたことについて、大竹しのぶの言葉で語られるエッセイです。
さて、本作を読んだ感想を言葉にすると、こんな感じになります。
『役者は人間じゃない』
もちろん、これだけだと非常に誤解されそうなんで、もう少し正確に書くとこうです。
『「役者という存在」は人間じゃない』
たぶん失礼な言い方になると思うけど、僕は本作を読んで、一人の人間としての大竹しのぶというのは普通の人なんだな、と思ったわけです。でも、女優としては普通じゃなくて本物です。ちゃんとは知らないけど、女優大竹しのぶというのは、その世界では天才だと言われていると、どこかで聞いたような気がします。
だから僕は、一人の人間が『役者という存在』になる時、きっと人間じゃなくなるんだろうな、と思ったわけです。『役者という存在』にスイッチが切り替わった瞬間に、人間ではない別の何者かになる。そんな気がします。
それくらい、本作には普通の一人の女性としての生き方が描かれています。これは言いすぎかもしれないけど、本作の中には、女優大竹しのぶはいません。本作の中にいるのは、スイッチを切り替えれば女優大竹しのぶになる、一人の普通の女性です。
女優の仕事の部分を書いたところを読むと、これは傍から見た無責任な言い方だけど、いい仕事をして、いい出会いをしてきたんだな、という気がします。あらゆる作品の撮影で、その後の女優人生に大きな影響を与える人々に多く出会っています。その人たちと、心からぶつかり合えるクリエイティブな仕事をすることができて、女優としてはかなり幸せな道を進んでいったのだろうと思います。僕もとりあえず、みんなでまとまって頑張って一つのものを作り上げていくということが割と好きな人間なので、そういう充実した仕事が出来ていることが結構羨ましいなと思います。
プライベートな面を描いた部分は、なかなか波乱に満ちています。貧しかった子供時代、父の死、女優の仕事が忙しすぎた学生時代、一度目の結婚と死別、それでも休めない女優業、二度目の結婚と離婚。よくあることと言ってしまえばそれまでかもしれないけど、そういう割と大変だった人生を、今の視点から冷静な文章で振り返っていて、だからそこまで悲壮感はないのだけど、大変だったんだろうなという思いは残ります。
その中で、かなり救いになっているのが子供の存在です。
二千翔といまる。
親の贔屓目というのもあるのでしょうが、この二人の子供たちとの思い出が、輝くように活き活きと描かれています。読んでいてこっちも、いい子供だなぁ、と思ってしまいます。
まず二人の名前。どちらも結構変わった名前だけど、その名前の由来を聞いて、すごいいい名前だなと思いました。特に、さんまさんがつけたという、いまるという名前。この名前は、由来を聞くとすごくいいなと思えてきます。
また、二人の子供がものすごくたくましくて、しかもちゃんとしているところがすごいなと思います。二千翔さんの方は人に気遣いをしすぎてしまうけど、自分の考えもちゃんと持っている。いまるさんの方は、まさに『Noと言える日本人』という感じで、日本人というよりは英米人と言ったほうがいいくらいの性格をしているようです。子供二人と母親一人という生活が、いろいろあるのだろうけど、断片的な話を読む限り、ものすごく幸せそうな感じがしていいです。
さんまさんの話も少し書いておきましょう。テレビのイメージで、それぞれ様々な印象を持っていると思うけど、本作を読むとそのイメージが結構変わるんではないかという気がします。
まず大竹しのぶ自身が、さんまさんとの結婚を冷静に振り返って、自分も悪かったと思うというような感じで書いているところが、ある意味でさんまさんのイメージを上げているところはあるでしょう。
しかし、さんまさん自身のエピソードとしても様々いいことが書いてあって、二千翔さんの発作を治す場面では、この人は本当にすごい人だな、と改めて思ったりもしました。
帯にもこう書いてあります。

『自分のために
生きていきたい』

自分らしくという生き方はなかなか難しいものです。女優という仕事をしていれば、なおさらそれを見失いがちになってしまってもおかしくはないと思います。そんな中で、過去を振り返ることで自分を見つめ直そうとした作品です。大竹しのぶに興味がある人はもちろん、一人の女性の生き方として読んでみてもなかなか面白い作品です。そこまでオススメはしないけど、読んでみてもいいと思います。
最後に。どうでもいいけど、表紙の写真が結構好きだったりします。人間を、人間として写真に撮っていないというあたりが。一個の有機物として人間を写真に収めているあたりが。いい写真だな、と思いました。

大竹しのぶ「私一人」



復活の地(小川一水)

誰かのため』という言葉は、僕からは遠いところにある。
僕は、自分が利己的な人間であることを知ってしまっている。自己中心的な人間ではないと思う。しかし、常に自分に有利になるように行動しようとしている自分に気付く。『誰かのため』よりもまず、『自分のため』。できるだけ、周囲の人間と共有的な利益を導き出そうとしながらも、その一方で自らの功利を引き出すような性格だ。
別に悪いことだと思っているわけではない。というよりも、こういう人間の方が残念なことに一般的だろう。『誰かのため』なんて、心の底から言うことのできる人間なんて、そういるとは思えない。
だからこそ、臆面もなく『誰かのため』と口にでき、かつ実行する人間は素晴らしいと思う。

『「貴人たちを憎み、帝国民を憎み、私まで憎んで…あなたは何を守ろうとしているの?」
「弱き者を」』

セイオ・ランカベリーという男がいる。本作の実質的な主人公だ。震災に見舞われた街を、周囲の膨大な軋轢を生みながらも、自らの信念に沿ってそれを曲げることなく、あらゆる人に憎まれながらもあらゆる人を助ける。そういう男だ。
スミルという皇室の血筋で、摂政となった女性に、何を守ろうとしているかと問われ、弱き者をと答えたセイオ。その答えが、嘘偽りでも、傲慢でも高邁でもなく、セイオの本心であり、行動の原点であり、また憎しみの頂点でもあるという男。僕は、セイオという男に惚れこんで、本作を読みとおしたと言ってもいいかもしれない。

『「悔しくないんですか!」
「おれの悔しさなんかどうでもいい。泥を舐めてでも仕事をするのが公僕だ」』

公僕というのはまあ役人ということだろうけど、僕の中での役人のイメージというのは、『誰かのため』というものとはほど遠いところにある。もちろん、気持ちではそう思っている人もいるのかもしれない。しかし、役人というのは、彼ら自身ではどうにもすることのできない様々な規則に縛られ、それに飲み込まれていく内に、いつしか、『誰かのため』ではなく、『規則のため』に仕事をするようになってしまう。僕にとっての印象はそうしたものだ。
本作でも多くの役人が出てくるが、大半がイメージ通りの役人である。
硬直している。
筋を通す、規則を遵守する、越権しない、たらいまわしにする、判断しない。そうした、役人らしさのこびりついた人間が大勢出てくる。
その中にあってセイオは、まるで違う働きをする。役人らしさとはほど遠い思想で判断・行動をする。それは、役人らしさの染み付いた、もっと言えば『誰かのため』に最善に動くことを忘れてしまった世界では様々な軋轢を生むのだが、僕には、セイオのやり方というか在り方というか、そうしたものが悉く正しく見えてしまう。いや、僕は正しいと思うのだ。

『「指導者なんてこんなものだ。他人より損な役回りをするから責任者と言えるんだ。そうでない責任者が存在するほうが間違っている。そうだろう?」』

まさにその通りだ、と思えてしまう。これもまた僕の印象の話だが、世の中には責任を取らない責任者が多すぎはしないだろうか。地位が上がれば上がるほど、仕事もしないし、責任も取らないし、管理もしないという人間が多いような気がする。狭い世界の話で申し訳ないが、僕のいるバイト先の本屋でさえそうだ。管理もしないし、管理しないからこそ、責任も取りはしない。その状況を変えようとして、一人奮闘した時期もあった。そこそこ変わったとは言え、まだ納得できるようなものではない。
役人にはこの傾向がさらに強いような気がしてしまう。上にいればいるほど、責任をとらない。自らの利のためだけに立場を利用し、まずくなったら責任は下に押し付ける。そんな上司が、信頼されるわけがないし、必要だとも思えない。それでも、世の中はなんとか回っているのだから、おかしなものである。
さて、セイオという男、仕事の面ではすこぶる優秀な男である。当初こそ、というかものすごく長い期間の間、その無茶苦茶なやり方と、不遜な物言いなどが相まって、あちこちから不満や非難が殺到するという、まったく報われない立場ではあったが、最終的に彼の立場は好転する。正しい仕事をしていると評価されるようになる。本作を読んでいると、とにかくセイオという男の優秀さ、権謀中数もお手のものだが、何よりも実際的な措置というものに特化した優秀さがわかって、セイオという男はすごい男だ、という印象を持つだろうと思う。
しかし一方でこのセイオという男、愚鈍というか生真面目というか、とにかく人間として不器用なところもあるのである。
それはすべて、摂政スミルに関わる件で明らかになっていく。

『「あなたは私心のなさを最大の武器にしている。私情を殺している。本心を見せることは敗北だと思っている。違いますか?」』

スミルにそう詰問される。それほどにセイオという男は、自分を殺して仕事をしている。公人であるという自分の立場を最大限考え、最大限に活かして仕事をすることしか考えていない。私人としての自分を捨て、本心を隠し、事務能力を差配することによって、自らを覆っているようにも見える。時にそんな姿が痛々しく見えることもある。

『「もし私が傷ついたら!あなたは助けるの!?」
セイオは振り返り、きっぱりと言った。
「助ける。あなたが皇族であってもだ」』

信念を曲げないという生き方。それがどれだけ窮屈なものか、僕には想像することもできない。自分の本心の存在はちゃんと知っている。しかし、それをとりあえず忘れ、決して偽りではない、しかし本心ではない思いを胸に行動し続ける。自分に嘘をついているわけではないと言い聞かせ(実際に嘘はついていないのだろう)、しかしどこかで常に何かしらの折り合いをつけなければならない。誰かに救いを求めることもせず、どこかに八つ当たりすることもなく、まさに黙々と、自分の真に望んでいることではないことをし続ける。どのくらいの精神力があれば、そんな生き方に耐えられるのだろうか。

『「たった一人を助けられずして、帝都を救えるとお思いですか!」』

彼には、抱えているものが多すぎる。余分なものが多すぎるのだ。
微妙な立場に立たされたスミルが、街頭で一般人に襲われたという報告が入る。私人としては助けに行ってやりたいという思いだが、公人としての立場がそれを許さない。そんな葛藤を抱えていた折に、腹心の部下がやってきて、セイオを頬を殴りつけてから言った言葉だ。
何もかも、自分で抱えようとしてしまう。誰かに頼るということを知らないのだ。わかってはいても、出来ない。信頼していないのではなく、怖いのだ。誰かに重荷を肩代わりしてもらうことが、誰かに負担を押し付けてしまうことが、セイオのどこかを苦しめるのだろう。
責を負うなら自分一人で。確かに潔い考え方だし、実際そう考えることで、あらゆる無茶を通すことができてきた。
しかし、支えがない棒はいつか倒れる。倒れないにしても傾く。セイオは時間と共に変わっていくが、周囲の人間に頼ることができるようになった、というのが一番の変化かもしれない。

『「私があなたに感謝しています。…それでは、足りませんか」』

1万の人間を死なせてしまったとして、総裁の地位を降りると言ったセイオ。たった一人であっても死なせたくない。たった一人の死がどれだけ人を悲しませるかを知っているから、と。それを、スミルがたしなめた。
セイオは、どこまでも不器用な人間だ。仕事はできる有能な人間であるのに、だ。『誰かのため』という思いが強すぎるのかもしれない。ただ何にしても、僕はこのセイオという男を素晴らしいと思った。今回は、このセイオという男を紹介したかったために、冒頭でこれだけ文章を書いてみました。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
ものすごく面白い物語です。素晴らしい。とにかく、あまりの緻密さと見事さに、よくここまで書いたな、という思いを拭うことができません。
地球がなくなって、周辺惑星に住処を移すことになった人類。惑星レンカもその一つで、レンカ帝国として国土を統治していた。
そのレンカ帝国を、正確に言うならば帝都トレンカを、未曾有の災厄が襲った。
原因不明の大地震である。
もともと地震のほとんど起こらない土地であったこともあって、被害は驚くべきものとなった。死傷者数は日に日に増大し、あらゆる都市機能は完全にストップした。一堂に会していた多くの議員が、建物の下敷きとなって死亡し、指揮を執る人間がいなくなってしまう。災害救助も復興も、残された人間達の手で、多大の混乱と無用な被害を増大させながらもなんとかやっているという状況だった。
惑星レンカ内に存在する植民地ジャルーダ王国の総督府の官僚だったセイオ・ランカベリーは、亡き上司の遺志に従って、独断であらゆる方策を実行に移していく。そのやり方は周囲との軋轢を生み、セイオは非難の中、それでも国家の復興を、民衆の救助を目指して、日々ボロボロになりながらも奔走していく…。
ものすごく大雑把ですが、こういうスタートで始まる物語です。
圧巻と言っていいでしょう。
まずはその、細部にまでわたる緻密さを上げましょう。本作では、災害の発生から復興、その混乱期に起こる、政府や軍や星外国などのありとあらゆる権謀術数なんかを描いた小説だけれども、どの描写を見ても緻密さがすごい。崩壊の状況、その後に起こった混乱、セイオが受けることになる軋轢、様々な人間の思惑、民衆の行動や思い。そういった、細部にわたる想像力とでも言えばいいのだろうか、そういう点が本作はものすごい。よくそんなことに気付くな、というような描写がそこかしこにあって、著者の想像力の計り知れなさにちょっと僕は驚嘆しています。
なによりもすごいのが、本作で描かれるありとあらゆる権謀術数です。あらゆる勢力が、あらゆる思惑を持って、あらゆる行動をします。その臨場感たるや、空恐ろしいくらいです。一見いいことに思える行動が、実はある策略によるものだ、というようなことは、本作の中では日常茶飯事で、時々僕にはついていけないような政治ゲームのやり取りもあったんですけど、とにかく、政治って奥が深いな、絶対に関わりたくないな、とそんなことを思いました。
そもそも本作で描かれる世界には、紛れもない歴史があります。歴史というか、来歴や由来といったものです。普通の小説では、背景が断片的に描かれるようなことはあるかもしれないけど、その世界における統一的な歴史というものはなかなか設定されないように思います。
本作では、惑星レンカという世界が、本当に存在する世界であるかのように、歴史を保有しています。ところどころ、という言い方では生ぬるいくらい、本作のあちこちで、そういう歴史的な設定に関する描写があって、それと想像力による緻密さが相まって、本作はものすごくリアリティのある物語になっていると思います。実際にレンカ帝国という国があって、帝都トレントが存在して、そこに取材に行って歴史を調べ、街並みやそこに住んでいる人を観察して、そうして本作を書いたような、そんな印象を与えます。これがすべて想像力から紡がれた物語だと思うと、著者に恐ろしさすら感じます。
谺健二の小説に、「未明の悪夢」というものがあります。あの阪神大震災を経験した著者が描く、震災を舞台にした本格ミステリですが、そこで描かれる震災よりも、本作の方が明らかに圧倒的だという感じがしてしまうのは、僕だけでしょうか?
本作では、国家を守るか人民を守るか、というような選択が出てきます。普通の人にとっては、それは同じものでしょう。国家を守ることで人民を守り、人民を守ることで国家を守る。
しかし、ある一部の人間にとって、それは違う意味を持つものになります。言ってみれば、国家を切るか、人民を切るか、という決断を迫られるということです。
こういう発想は確か、福井晴敏の「亡国のイージス」でも出てきたように思います。あの作品でも、乗っ取られた艦隊によって狙われた東京都民の命を守るか、それとも国としてのあり方を貫いて国体を維持するか、というような判断を常に迫られていたような作品だったと思います。
しかし、なんだかそういう発想は悲しいな、と僕は思ってしまいます。まずは人民だろ、と。何故それをまっさきに考えられないのか、本作を読んで不思議に思いました。国なんてものが、そんなに大事なんだろうか?
さて、本作は災害をテーマに扱った作品ですが、ある意味で戦争を否定する内容になっていると思います。
つまり、被災した人間の状況を丹念に描くことによって、戦争によっても同じような、むしろそれよりもひどい状況が導かれるよ、というようなそんなメッセージも込められえいるような気がします。
とにかく、被災した人間というのは弱いです。とにかく弱い。本作でも、被災民の様子や、被災民の混乱が引き起こした事件なんかがよく描かれるけども、とにかく弱者である彼らは、混乱をさらに助長させ、被害をさらに拡大させ、人間としてのあり方を見失うというそんな存在になってしまいます。
本作では災害でしたが、これは戦争にも通ずる。僕らは戦争を知らない世代だけど、それだからこそ、戦争はよくないものだということを、弱者の立場にたって(つまりいつでも僕らは弱者になりうるんだという危機感を持って)考えるべきだろうな、と思いました。
まだまだ書くことがあります。でも時間がない。
本作の表紙裏の内容紹介にも書いてあるのでネタバレしますが、本作では、当初原因不明だった地震の原因がわかり、しかもそれがもう一度引き起こされるということがわかります。
あの甚大な被害がもう一度やってくる。
いかにその災害に対処するか…。
本作はそういう、リスクマネジメント小説としても読むことができます。
一度目の震災で甚大な被害を出してしまったことを悔いているセイオは、二度目の震災での被害を最小限にするために、ある驚くべき方策を実行に移します。これは、ネタバレになるかもしれないけど、でも重要なことだと思うので書こうと思います。
それは、住民の気付かないところで、植物のようにネットワークを広げ、少しずつ人々に、震災というものを意識させる、というやり方でした。
説明するのが難しいけど、とにかく、それとは気付かせない方法で人々の注意を震災へと向け、誰かに強制されたという形ではない、自発的な行動を促す、というものでした。
もちろん、本作で描かれているように、それをやれば素晴らしく機能的にすべてがうまくいく、なんてことはないでしょう。しかし、本作で提示されたこの方法は、僕らにも出来るという意味で、ものすごく価値のあるものではないかと思います。
僕らは普段、災害などというものは自分のもとにはやってこないと考えがちです。僕ももちろんそう考えています。来るなどということが想像できないのです。もちろん、来るかも知れないと考えて準備をしている人もいるでしょう。しかし、そういう人でさえ、実際に災害にあった時に有効に対処できるような万全の準備をしているとは言いがたいでしょう。
今もし東京に大地震が起きたら、本作の一度目の震災のような、果てしない被害が広がることでしょう。
しかし、本作二度目の震災の前に提示されたこの準備を、もし今人々が着実に実行していったら、被害は目に見えてぐっと減るかもしれません。
といっても、もちろん僕が何かするということはありません。僕は全然動かない人間なのです。しかし本作のように、誰かが裏で、そうと知れないようなやり方で人々を動かしてくれるのなら…。どれほどの効果が見込めるかはわからないけど、でもやってみる価値のある、意義のある方策ではないかと、僕は感心しました。
さてというわけで、時間もないことなので、最後に、僕なりにきになった登場人物に少しだけコメントを入れるという形で、人物紹介をしてみようかと思います。
セイオ・ランカベリー。本作で一番好きな登場人物です。冒頭でいろいろ書いたので読んでください。
スミル。初めは使えない摂政だったけど、時間と共に有能になっていきました。最後の方では、応援する気持ちすら出てくる、結構いいキャラでした。
ネリ・ユーダ。車椅子で人々の手伝いをする少女。彼女の考え方は、なんとなくわからないでもない。障害を持つ人への接し方の難しさを改めて考えさせられます。あと、人物紹介表の絵が可愛いと思う。
ジスカンバ・サイテン。結局首相になるのだけど、すごく嫌な奴。嫌なことは全部セイオに押し付けて、自分は何もしないで、ただ民衆に寄り添っているだけ。無能ではないはずだからこそ、余計にむかつくキャラクター。
カクト・ザグラム・レンカ帝国の、正式な軍ではない、天軍という軍隊のトップ。なんか最後まで印象が固まらなかったけど(初めと最後はものすごく軽い感じの人間だったのだけど、中盤はものすごく有能だった)、その中盤の有能さはなかなか気に入りました。
タンジ・ヘリト。新聞記者。僕は割りと、記者とかマスコミとかいう人間を好きになれないのだけど(自分は正義だと思っているところとか)、このヘリトというキャラはなかなかよかったですね。相棒も、朴訥だけど愛嬌があって悪くないです。
まあこんな感じかな。
とにかく、傑作だと思います。結構長い作品だけど、読むべき価値がある作品です。読んで思うところは人それぞれ違うだろうけど、何かしら感じることの出来る作品だと思うし、あらゆる問題提起もしています。それでいて、メチャクチャ面白い。是非とも読んでみて欲しいなと思います。

小川一水「復活の地」







ベルカ、吠えないのか?(古川日出男)

この犬の物語を読むと、人間の歴史がアダムとイブから始まったという物語も、信じてみてもいいかもしれないと思う。
壮大な物語だ。
例えば僕は、東野圭吾の「白夜行」という作品を読んだ。これは、壮大な物語だった。しかし、時間的に壮大であるということだ。
例えば僕は、池上永一の「シャングリ・ラ」という作品を読んだ。これは壮大な物語だった。しかし、設定が壮大であるということだ。
本作は、ありとあらゆる意味において壮大な物語だ。

時間:1943年から199X年まで
空間:世界中(アメリカ・ロシア(ソ連)・日本・アラスカ・ハワイ・ベトナム・メキシコ・アフガニスタン他)
設定:犬の時間を追うことで、戦争の世紀を炙り出す

こんな壮大な物語が、かつてあっただろうか。
既に、『物語』の枠を超えている。本作は、物語でありながら、既に『物語』ではない。
歴史に片足を突っ込んでいる。しかし本作は、『歴史』そのものではない。
それでは一体なんなのか?
名前の付けられない存在。そういうことだ。概念を超えたところに存在する物語/歴史。たし合わせでも掛け合わせでもない法則によって導き出された新たなフィクション。

『フィクション』

冒頭にこんな言葉がある。

『これはフィクションだってあなたたちは言うだろう。
おれもそれは認めるだろう。でも、あなたたち、
この世にフィクション以外のなにがあると思ってるんだ?』

『フィクション以外のなにがあると思ってるんだ?』
何もない。フィクション以外何もない。物語も歴史も、真実も嘘も、記録も記憶も、何もかもがすべてフィクションの産物で、フィクションの結晶だ。
真実も意味も、どこにも『存在しない』。『存在する』という幻想を人間が抱いているだけで、真実も意味も、与えているのはすべて人間だ。誰しもが、フィクションという素材を弄び、都合のいいように解釈/意味を与え、それを真実に捏ね上げる。
物語がなんだ。歴史がなんだ。
古川日出男は、何かを否定する。在り方を、存在を、意味を真実を。
そこにフィクションが生まれる。物語や歴史や真実に塗り変わる/生まれ変わる前の純白のフィクションが。
古川日出男は、それをこそ求める。純白のフィクションを。ナニモノでもないフィクションを。始まりを産むフィクションを。
純白のフィクションには、物語も歴史もない。読む人間が、それを勝手に与えればいい。何をくみとるか、どんな意味を与えるかは、読む人間次第だ。
森博嗣の「アイソパラメトリック」というショートショート集に似ているかもしれないと思う。真っ白な紙を渡されて、読者自らがそこに何らかの絵を書くような、そんな作品だ。
古川日出男は飛翔する。留まらずに飛び抜ける。その地平があらたなフィクションとなり、世界が生まれる。物語も歴史も真実も意味も生まれる。
それこそが、古川日出男の存在であり、紡がれる物語である。
イヌの話も少しだけ書こうかと思う。
忠実な生き物である。これほどまでに、人間と深い係わり合いを持つようになった生き物は、実験動物として広く使い捨てられるラットを除けば、世界で唯一の存在かもしれないと思う。
「南極物語」という物語がある。最近ディズニーがリメイクして話題になっているけども、純粋なイヌの物語だ。
「忠犬ハチ公」というイヌもかつていた。今でも渋谷に居座っている。純粋なイヌの物語だ。
僕は、イヌを飼ったことはない。イヌと過ごした時期というのも特にない。だから、イヌのことはそんなによく知らない。
しかし、イメージの中で、その忠実さに見事だと思う。
イヌは、主人を定めて、その主人の命に従う。階級というものがモノをいう世界だ。
だからこそ、利用される。仕込まれる。統制される。
二十世紀は戦争の世紀だった。しかしそれは、軍用犬の世紀でもあった。著者は本作でそう語る。
軍用犬の世紀。
人殺しの兵器として開発されたイヌたち。
イヌの忠実さが、少しだけ悲しい。
今も軍用犬が生産され続けているのか、それは知らない。知らないけど、そうでなければいいと思う。
イヌを飼ったことはないし、これからも飼うつもりはないけど、でもイヌはなかなかいいと思う。飼うなら手間のかからなそうな猫の方がいいけど、生き方としてのイヌの潔さはすごくいいと思うし好きだ。
イヌが人間の兵器だった時代があった。それだけで、戦争はもういいんじゃないか、と思えてくる。イヌまでも兵器にしてやまない戦争なんて、もういいじゃないか、と。今ではイヌは、人間のいいパートナーとなっているだろう。もちろん、不徳な飼い主というのも多い。それでも、今の方が、イヌにしたらどうかはわからないけど、僕としては断然いいと思う。
そんなわけで、内容に入ろうと思います。
といっても、本作の内容をどんな形かでも紹介することはほぼ不可能だろうと思う。
なんせ、時間は半世紀、舞台は世界中というとんでもない作品なのである。というわけで内容の紹介は、物語の始まりの物語、のみを紹介することにしようと思う。
1942年、日本軍はアメリカのある二つの小島を占領した。アッツ島とキスカ島。それぞれ日本名で、熱田島、鳴神島と名付けられる。
この二つの島の占領は、ミッドウェー攻撃から米軍の目を逸らすための陽動作戦であり、戦略的な価値はあっても実質上の価値はあまりない作品だった。それでも、越冬可能という判断により、長期滞在に方針が切り替わった。
しかし、状況が変わる。
1943年5月、熱田島/アッツ島の守備隊全滅。米軍が大挙してきて、捕虜になることを拒んだ日本兵は殉死覚悟のバンザイアタックを仕掛けたからだ。
一方の鳴神島/キスカ島。熱田島/アッツ島の惨劇を受けて撤退を決める。
しかし、撤収できたのは人間だけだった。
イヌは置き去りにされた。
4頭いた。名前をそれぞれ、「北」「勝」「正勇」「エクスプロージョン」と言った。それぞれに別々の歴史/来歴を持つ軍用犬だった。
人間のいなくなった鳴神島/キスカ島で、その4頭は生きる。主人のいなくなったその島で、4頭は特に寄り添うでもなく、別々に生きる。
そして、1943年8月。日本軍が撤退したとは知らないアメリカ軍が鳴神島/キスカ島へと乗り込んでいく。
4頭のイヌは発見される。しかし、「勝」はその島で死ぬ。
「北」「正勇」「エクスプロージョン」は死なない。アメリカ軍に回収される。
そうして以後、この3頭が、そしてこの3頭の子孫が、物語引っ張っていく。
物語は二つの流れが交互に展開していく形を取っている。ここまでで書いた「イヌの物語」がその一つである。
もう一つ。ある一人の老人を中心とした物語が存在する。
199X年シベリア。極寒のこの地に、一人の老人が住んでいる。そこに、遭難したという客人が現れる。老人はもてなす。話をし、ウォッカを飲ませ、食事を出す。しかし、客人は、老人の命を狙う。老人は、その襲撃を予知しかわす。
そうして老人の、新たな戦いが始まっていく。
そういう、「ある老人の物語」がもう一つの流になる。
構造は、村上春樹の「世界の終わりあるいはハードボイルド・ワンダーランド」に似ている。二つの異なる世界/物語が交互に描かれ、それが一つに収斂していくように見えて、でも収斂しない。重なるようで重ならず、折り合うようで折り合わない。かといって平行というわけではない。
すごい物語である。
もはや、すごいとしか言いようがない。
まずすごいのは、イヌの物語である。4頭(3頭?)のイヌから始まった物語が、次々に展開されていく。描かれるイヌのどれもが、初めの3頭と何らかの関わりがある。
イヌは世界を縦横無尽に繋ぐ。バラバラなはずの物語が、イヌという糸によって一つにまとめ上げられていく。捨てられ、利用され、重宝され、そうしてイヌは時間を空間を駆け抜けていく。
そしてイヌは次第に、その生き方によって戦争を/世界を炙り出していく。戦争の世紀であり軍用犬の世紀でもあった二十世紀。その二十世紀を、イヌは相変わらず駆け抜けていき、その中で、見えなかったはずの何かを炙り揺さぶっていく。
イヌが、だ。
3頭から始まったイヌが、だ。
何にしろ、こんな物語を書けるのは、著者をおいて他にいないだろうと思う。著作の「沈黙」の中で著者は、音楽を軸に歴史を描ききった。本作では、イヌで歴史を描いているのである。
一方で、老人を中心とする物語。
老人の目的が、初めはよくわからない(正直に言えば、今でもよくわかっていないし、こっちの流れの物語がどういう結末で終わったのか、よくわかっていない)。次第に老人は、その手腕を響かせていくことになる。何か大きな画を描いている。何かを目論んでいる。
イヌで、だ。
イヌを使って、何かを成そうとしているのだ。
ある少女が出てくる。日本のヤクザの娘で、老人によって誘拐され人質に取られた少女。
本作中の登場人物の中で一番いいキャラをしている(登場犬物を含めればそうではないかもしれないが)。著作の「サウンドトラック」に出てきた、カラスを操る少女を思い起こさせる。
古川日出男の描く少女は、「サウンドトラック」や「アビシニアン」でもそうだったと思うけど、どこか動物的だ。本能的と言ってもいいかもしれない。人間らしくない。どこか、動物に通ずるところがある。そういう描かれ方をする少女というのはなかなか見たことがない(現実にも小説にも)から、非常に新鮮で面白いと感じる。
とにかく、すごい物語だった。しかし、このミス7位にらんくされているのはよくわからないところだ。
でも、とにかくすごい、すごすぎる作品である。
最近、村上春樹がカフカ賞を受賞した。著作の「海辺のカフカ」とは関係なく、フランスだかどこだかの作家フランツ・カフカにちなんだ賞である。ここ2年、このカフカ賞を受賞した作家はノーベル文学賞も受賞しているとあって、村上春樹のステージはどこまでも広がっている。
僕は、あくまでも僕個人の意見だけども、村上春樹の後を追うことができるのは、舞城王太郎と、そして本作の著者古川日出男だけではないか、と思っている。
三人ともジャンルは違う。だから、純粋に村上春樹の作った道の後を追うという意味ではない。村上春樹のように、常に新しい道を切り開き、独創的で圧倒的な小説を生み出し、かつ世界中で評価されるような、そんなポテンシャルを持った作家は、今の日本では、舞城王太郎と古川日出男だけではないか、とそう思っているのである。
どこまでも飛翔していって欲しいものだ、と思う。物語の枠なんか、あっさり捨ててしまってもいい。読者の誰もがついていけない作品でもいい。大衆に迎合するのではなく、ついてこれるならついてくれば、というスタンスで小説を発表し続けて欲しいと思う。
そして世界よ、舞城と古川を評価してください。
何とかして、「アラビアの夜の種族」をゲットしないとな…。
とにかく、本作は読むべき作品です。合う合わないはもちろんあるでしょうし、完全に理解できる/ついていける人も少数でしょう(もちろん僕はついていけない方です)。それでも、読むべき作品です。これに今触れないで、いつ触れるというのでしょうか。
世界を切り開く作家の、新たな地平。是非とも読んでみてください。

古川日出男「ベルカ、吠えないのか?」



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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)