黒夜行

>>2006年03月

東京タワー(江國香織)

しかし、感想を書くのは難しいな…。

僕なんかが恋愛を語っていいものだろうか、と思う。思うが、でもいろいろと書いてみようと思う。

『恋はするものじゃなく、おちるものだ。』

夫のいる女性と付き合っている大学生、透の言葉である。
こんなこと、恥ずかしいから出来れば書きたくないけど、でも、わかるなぁ、と思う。
『恋はするものじゃなく、おちるものだ。』
そしてこう続く。
『いったんおちたが最後、浮上が困難だということも。』
僕は、人が人を好き合うというのは、本当に奇跡的なことなんじゃないかと思う。
好きになる、ではなく、好き合う、ということが奇跡的だと。
誰かを好きになることは、ある意味ですごく簡単だ。全部、自分の中で処理できる。好きだ、と思うだけでいい。程度の問題ではなく、誰でも人を好きになることが出来るし、それは普通のことだし、当たり前で自然なことである。
しかし、好き合うことは難しい。
無限の鍵と、無限のドアが存在しているようなものだろう。
鍵はそれ自身で開くドアを求める。ドアはそれ自身を開けてくれるドアを求める。別に性的なことを書こうとしているわけではなくて、恋愛というのはそういうことだろう。
ぴったりはまるお互いを見つけるのはすごく難しいことだ。無限に組み合わせがあって、しかも出会えない組み合わせの方が多い。だから、ほとんど合いそう、という相手を見つけて、あとは自分自身の形をどうやってか変えることで、ぴったりな関係にする。そういう恋愛なら、世の中に溢れているだろう、きっと。
しかし、出会った瞬間から、間違いなくぴったりな相手だ、と確信が持ててしまったら、そこからはおちるしかない。おちておちておちて、どこまでもおちて、先のことも自分達以外の誰かのことも一切考えないで、いつかどこかにぶつかってしまうかもしれないということも忘れて、ただいつまでもおちていければいい、とそう願うしかない。
そんな恋愛ができたら、素敵だと思う。例えそれが許されない恋であっても、ぴったりの関係の前には、すべてが霞んでしまうだろうし、それは仕方のないことだと思う。
ぴったりな人とどこまでもおちていける。それは、時間も空間も世界も何もかもが、まったく別の何かに変わってしまうということだろう。どこにいても何をしていても誰といても、その特別な人との距離はどこまでもゼロで、時間的にも空間的にも、その二人は周囲から切り取られてしまっている。二人でいるということがどこまでも絶対的で、何もかもすべてが確信に満ち溢れた世界が、どこまでも広がっているように感じられる。それは、今までは想像もできなかったような場所にあって、その時には既に、絶対に失ってはならないものだと感じられるようになってしまう。すべての価値観を、これまでの人生を否定してでも、守らなければならない世界だと思えてしまうようになる。
甘美な世界だ。おちると言っても、溺れると言ってもいい。何にしても、世界は二人だけを取り囲んでいるのだから、どんな言葉も意味をなさないし、どんな言葉でも通じてしまうと言ってもいいだろう。
本作にこんな言葉がある。

『子供のころ―。
透は不思議な気持ちで考える。あのころは、一人があたりまえだった。一人でも平気だった。何と強靭で鈍感だったことだろう。』

なるほどと思った。というか、はっとした、という感じかもしれない。たしかに子供の頃は、一人が普通だった。友達がいなかったとかそういうことではない。誰かと寄り添っていないと、誰かが側にいないと、というようなそんな発想は確かにまったくなかった。世界をみんなと共有していたし、誰もが自分の世界など持ってはいなかったし、出会う誰しもが、あくまでもどこまでも他人だった。
いつからなんだろう。生きていくには、寄り添ってくれる誰かが必要な時もある、と気付いたのは。隣を一緒に並んで歩いてくれる人がいるということが幸せなことだって気付いたのは。
そのことに気付いてしまうと、満たされていない自分に気付かされることになる。今までは全然平気だったことが、平気でなくなってしまう。強靭で鈍感だったんだろう、本当に。まさか人間が、これほどまでに「人を好きになること」に振り回される生き物だったとは、人間に生まれてきて迂闊だったかもしれない。
きっと、大人になることで、人間の何かが広くなってしまうのだ。空間ばかり広くなるくせに、中身は変わらない。それで、満ち足りないと感じさせられる。そして、そこを満たすのは、「人を好きになること」でしかない、ということに何故か気付いてしまうのだ。人間って、厄介な生き物なのである。

『「知ってる?でも私はあなたの未来に嫉妬しているのよ」』

透が付き合っている、年上の女性詩史の言葉。
透は、若かった頃の詩史を羨む。その頃に出会えていなかったことを残念がる。その頃の詩史に出会えたすべての男に嫉妬する。
そんな透に詩史はこんなことをいうのである。
もちろん、夫がいるという失望も、透の気持ちには籠っているのだろう。しかしやはり、それを抜きにしても、時間の残酷さを思わないではいられない。
時間はいつだって無慈悲で冷たい。優しさのかけらも見せてはくれない。
結局、過去は「取り戻すことのできないもの」でしかないし、未来は「奪うことのできないもの」でしかない。分け与えることも、誰かからもらうことも、平均することも、遡ることも突き進むことも、何もできない。ただ、「今」という時間の檻の中に閉じ込められるだけで、いつまでもそこから抜け出すことが出来ない。
取り戻せないなら過去なんていらないし、奪えないなら未来なんていらない。そんな風に思えたら楽なのかもしれない。できたかもしれないことに思いを馳せることも、できるはずだったのに出来なくなったことに未練を残すこともなくなる。誰もが平等で均等な「今」の中で生きて、「今」以外のどんな時間も存在しない世界でならば、透も詩史も、相手をすこしだけ削り取るような、そんな悲しい言葉を口に出すこともなかっただろう。
世の中には、自分とぴったりの人がいるのかもしれない。僕は、それは信じてもいいと思っている。しかし、その人に生きているうちに出会うことが出来るかどうかはわからない。既に出会っているのに気付かないのかもしれないし、出会えないのかもしれない。すべては、時間ってやつの采配次第だ。僕には、いいカードが回ってきますように。ご機嫌取りをするほど熱心にはなれないけども。
東京タワーのように、美しくそして儚く、日々表情を変え、近くにあるように見えてどこまでも遠く、手を伸ばしても全部は触れられず、熱心に見ても全部はわからない、そんな女性とぴったりであればいいなと思ったりします。
そろそろこんなことを書いているのが恥ずかしくなってきたりもしたので、内容に入ろうと思います。
二人の男を中心に据えた、年上の女性との恋愛を巡る物語である。
母親と一緒に二人暮しの大学生透。あるきっかけで出会った、母親の友達の年上の女性。詩史という名のその女性と、透はおちていってしまう。
それは、よくある不倫とかでは全然ない。僕たちにしかわからない、そんな純粋で美しい関係だ。夫がいることは知っている。母親の友達だってことも知っている。でも、どうしようもないじゃないか。
詩史は、セレクトショップのオーナーでもある。海外に買い付けに行ったりとなかなか忙しい。なかなか会えない。
透は、行動的な男ではない。あまり外には出ないし、呼ばれれば行くという感じ。詩史と付き合うようになってからは、電話を待つ意味も含めて、家にいることが増えた。詩史が好きだという作家の本を読みながら、今日も透は、詩史からの連絡を待つ。
医者の父親を持つ、割と裕福な家庭に育った大学生の耕二。それでも耕二は日々バイトに明け暮れている。親に無駄な金を使わせたくねーじゃん。そういう奴なのである。
忙しいバイトの合間を縫うようにして、耕二は積極的に女性と会う。
付き合っている彼女由利。由利は耕二のことが大好きである。耕二としても、悪くないと思っている。セックスはちょっと物足りないけど、でも良好な関係を保っている。
耕二には、もう一つの顔がある。年上の女性と付き合う、ということである。
透が詩史と付き合っていることを知って、耕二は自ら積極的に年上の女性に声をかけるようになった。同級生の母親と寝たこともある。
今付き合っているのは、あらゆるスクールに通い、自分は良妻だといってはばからない喜美子だ。セックスだけの関係と言っていいが、お金のやりとりはない。純粋に、セックスの相性が悪魔的にいいのだ。
喜美子とのセックスは、耕二をおかしくさせる。とにかく、良すぎるのだ。ケモノのように、お互いに乱れていく。昼間の情事というやつだ。罪悪感はそれほどない。
ある時を境に、耕二の周囲がおかしくなっていく。あらゆることが瓦解していくような、そんな夏がやってくる。どこを直していいのかわからない、それだけが問題なんだ…。
というような内容です。
素晴らしい小説です。いい作品を読んだな、と思います。僕は、読んで楽しかった小説は結構あるのだけど、そういう小説の場合、こうやって感想を書く段階になると、何を書こうかなと少しだけ悩むことが多い。無理矢理いろんなことを引っ張り出して文章を書いていく。しかし、いい作品を読むと、書きたいことが多すぎて逆に大変になる。本作についても、書きたいことが沢たくさんある。
まず、何をおいても、文章が素晴らしくいい。これは、説明がすごく難しいのだけど、とにかくいい。非常に平易な言葉を使った簡単な文章で作られた小説である。しかし、その簡単な文章が、すっと入ってくる。どこにも引っかかりがないまま、ストンと落ちていく感じである。読んでいて気持ちがいいし、満ち足りた気分になるし、爽快である。こういう、簡単な文章で、しかし素晴らしい文章を書く作家というのはなかなかいない。村上春樹、森博嗣、伊坂幸太郎。すぐに思いつくのはこれぐらいだろうか。素晴らしいものである。
淡々としたテンポというのも非常にいい。どんな場面になっても、文章が揺らがない。例えばセックスのシーンだったら、もっと文章がみだらになったりしてもまあおかしくはないだろうと思うし、感情的な喧嘩の場面ではもっと激しくなってもおかしくはないと思う。しかし、全編どんな場面でも、文章が揺らぐことがない。水墨画のように、色は黒しかないけどその濃淡で何かを表現しよう、というようなそんな潔さが感じられて、すごくよかった。何にしても、淡々とした文章は好きなのである。淡々とした物語は好きになれないけど…ってそれは当たり前ですね。
また僕は、「江國の描く男目線」というのがすごく好きなんです。ちょっと前に「間宮兄弟」を読んで、それも兄弟二人の男目線だったのだけど、すごくよかった。
全然正確に言い表せていない表現だと思うけど、「江國の描く男目線」というのは、全然男らしくない(かといってもちろん女らしいわけでもない)。男臭くないとでも言えばいいだろうか。考え方や行動なんかは、あぁ普通の男だな、という風に思えるのだけど、でもその芯みたいなものがどうにも男臭くない。見た目はコーラなんだけど、飲んでみたらコーヒーだったみたいな、そんな違和感がある。
でもその違和感が何故か心地いいのである。男というキャラクターを全然描けていないと言いたいわけでは全然ない。そうではなくて、こういう男がもっといてもいいのにな、という風に思うのだ。確かに、現実に多くはない感じの男かもしれないけど、でもこんな男がもっといたらいいだろうな、と思わせるような人間なのである。そこが、なんだかいい。
僕は勝手に、透はちょっと自分と似てるな、なんて思ったりしながら読んでいたんですけど。行動力がない、つめたい、部屋からあまりでない、孤独というわけでもないけど解けこもうとするわけでもない、世界が狭い。まあそんなところが結構似ているなと思ったりしました。
僕は、自分のことは嫌いなんだけど、自分に似たキャラクターというのは、哀れみの意味も込めて結構好きになったりします。俺みたいなのがいるな、可哀相だな、とまあそんな感じですね。だから、透には結構好感を持ちました。
透は、詩史以外の人と喋っている時、会話と思考がかみ合っていないことが多くて、そういう場面を読んでいると、結構面白いなと思ったりします。会話と会話の間の地の文って、普通は次の会話に続ける行動だったり思考だったりを書くと思うけど、透の場合はそこに、その場とはまったく関係のない思考が突然に現れてきて、そういうところも結構好きだったりします。そこだけ、ページから会話が浮き出しているような、そんな感じです。
男と女が、きちんと違った風に描かれているのもいいなと思ったし、これについては、さすがだなと思ったりもしました。
僕は、男は論理的で、女は感情的だという風に思っています(女性の方、すいません。悪い意味で言っているつもりはないんですが、いい印象を与えないだろうなとも思うので)。よく小説でもドラマでも、女性がどうして怒っているのかわからない、みたいな男のセリフがあったりして、それは僕もすごくよくわかることだったりするんだけど、本作では、そういう男と女の違いみたいな部分が、お互いにお互いのことはわからないというようなことが、うまく書かれていて、さすが江國だなと思ったりするわけです。僕は、女性が男性を完璧に描くことは可能だと思っているけど、男性が女性を完璧に描くことはかなり不可能だろうなと思っています。それほど、感情的である女性のことは、男にはわからないものです。相手が英語で喋っているのに、こっちは日本語で返そうとしているような、そんな隔たりがあるような気がします。
女性が嘘をつくのがうまいのも、こういう点に違いがあるのだろうと思います。
男の場合、論理的に思考するので、矛盾を許容することが出来ないわけです。男なんていつだって矛盾した言動をしているじゃないか、という女性からの反論がありそうですが、違うんです。男というのは、何かがあった時、常に自分なりにそのことに対して、論理的な理由付けをしているわけです。しかしそれは、論理的には矛盾していないというだけで、間違った考えなわけです。だから、女性からみたら矛盾しているように見える、というだけです。男の中では常に、あらゆることについて論理的な説明がついているものです。
しかし、女性はそういうわけではありません。論理的に思考しないので(常にそうと言いたいわけではありません。主に恋愛のことについて書いています)、矛盾を許容できるのです。矛盾していることを、矛盾したまま放り投げることが出来るからこそ、女性というのは嘘がうまいのだと思います。
こんな説明をしてみようと思います。
例えば、履いているズボンに穴が空いたとしましょう。男の場合どうするかというと、あて布でその部分を覆う、というやり方をするわけです。穴が空いたから何かで塞ぐ。非常に論理的なやり方ですね。でも、女性からすればバレバレなわけです。そんな生地の違う布で継ぎはぎなんかして、バレないとでも思っているのかしら、なんてものです。
さて女性の場合どうするか。女性の場合は、穴の空いた部分から下を切り落としてハーフパンツにしてしまいます。そのためにもちろん、穴の空いていない方も切ってしまうわけです。穴の空いた部分を隠すために、穴の空いていない方も切る。これは、全然論理的な発想ではありません。しかし、女性はそうした矛盾を全然平気で飲み込むことが出来るわけで、だから、穴が空いたなんてことを相手に悟られることがまったくないわけです。だから嘘をつくのが女性はうまい、というわけです。
僕も、それなりに嘘をつくのはうまいと思っていますが、やはりそれでも女性には勝てないんでしょう、きっと。女性というのは恐ろしい生き物です、ホント。お手柔らかに、と願うしかありません。
さて、ようやく最後です。最後に、すごく些細なことなんだけど、僕が本作で気に入っている点を書こうと思います。
それは、固有名詞が少ない、ということです。
人物名とかいうことではなくて、モノの固有名詞が少ないということです。
本作に、あの床屋の三色のグルグルが出てくるシーンがあって、たぶんそれにもちゃんとした名前がついているのだろうけど、でも本作では、「三色のグルグル」みたいな感じで書かれています。その場面を読んだとき、あぁそういえば江國の書く小説には固有名詞が少ないかもしれない、と思いました。
僕は、例えば街の説明なんかでも、何とか通りをいくつ進んで、そこを左に入ったところにあるなんとかビル、とかいうような説明がすごく嫌いで、別にそんなこと書かなくてもいいんじゃないかと思ってしまうわけです。なんか、その固有名詞を書くことで、著者が一体何をしたいのかがわからないことが多すぎるように僕には思います。
恐らく、取材をしたというや知識があるんだということをアピールしたいということなのだと思うけど、それにしても不要な固有名詞は極力なくして欲しいと僕は思います。
まあ逆に、例えば花の名前なんかは書いてもいいと思いますけどね。僕は、どんな花の名前を書かれてもまったく想像できないけど、でもそれによって想像が膨らむという人もいるだろうし、そういうのは必要な固有名詞だと思います。
江國の作品では、モノに与えられた名前で呼ぶのではなく、自分の言葉でそのモノを説明するのよ、というような意思があるように感じられて、些細なことだけどそういうところも非常に好感が持ててよかったなと思います。
すごくいい作品でした。最近江國香織の作品が大分好きになり始めています。まだまだ全然読めてないから、これからいろいろ読んでみようかと思っています。本作は、是非とも読んでください。最近文庫になったのだけど、僕としてはハードカバーの表紙の方が綺麗でいいなと思うのですけど、どうでしょうか?
オススメです。どうぞ読んでみてください。

江國香織「東京タワー」




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全死大戦(元長柾木)

しっかし、つまんねー作品だなぁ、というのがとにかく本作を読んだ感想です。
無謀なことに、西尾維新と比較してみましょう。
本作は明らかに、西尾維新の影響を何らかの形で受けている作品、少なくとも著者は西尾維新の作品を読んだことがあり、少なからずその作品に傾倒しているだろう、と思われます。そんな雰囲気を作品が出しているし、西尾維新の作品で出てくるようなセリフも時折覗かせたりしています。
しかし、全然ダメですね、本作は。
何がダメかって、言葉にするのは難しいところだけど、リズムが悪いとでも言えばいいでしょうか。
西尾維新の作品は、その世界観やキャラクターの面白さもさることながら、文章のリズムが圧倒的に素晴らしい、という特徴があります。イメージとしては、ずーっと波に乗り続けられているサーファーのような感じで、すーっと流れるように文章が続いていきます。
でも本作は、どうにもリズムが悪くて、何度も波から落ちては、また戻って波に乗りなおすというようなサーファーというイメージですね。小学生が、つっかえつっかえ国語の教科書を朗読しているような感じのイメージで、読んでてすごく疲れたし、なんだかんだ読むのに時間が掛かりました。
まあ問題は文章だけではないんですけど。
そもそも、ストーリーがあまりにも意味不明すぎて、なんなんだこれは、と僕はずっと思っていました。大きく三つくらい事件が起こるのだけど、
①そもそも何が一体事件なのか不明
②そして、その起こっているのかどうか不明な事件を、解決できているのかも不明
③さらに解決できているのだとしても、その解決に至る論証というか過程が不明
という、ミステリー(一応本作はミステリーという形で紹介されています)としてはまったくどうしようもない作品で、はぁ?って感じでずっと読んでました。
始終意味不明でした。
飛鳥井全死というキャラクターはかなり変な人で、僕は基本的に変な人は大好きなんだけど、このキャラクターはどうにも理解できなくて、それは、言っていることやっていること考えていることがすべて意味不明という、理解する隙を与えないキャラクターだからですね。少し前に「チーム・バチスタの栄光」という小説を読んで、その中に白鳥というキャラクターが出てきたのだけど、このキャラクターも、基本的に言っていることやっていること考えていることは意味不明なんだけど、最終的には繋がるというか明かされるというか論理的だったんだと納得できるというか、そういうキャラクターだったのですごくよかったのだけど、飛鳥井全死は、最後まで読んでも意味不明の継続で、ダメだ、これほどの変人は僕には許容できない、と諦めました。
その他にもキャラクターはそれなりに出てくるし、まあ嫌いではないキャラクターもいないではないけど、ほとんどが面白くないキャラクターで、つまらなかったです。
というわけで、ボロクソに言ってますね。でも、本当にそんな感じです。
というわけで、ざっと内容に入ろうと思います。
飛鳥井全死というのは、メタテキストだかを読む能力を持った変人で、傍若無人と厚顔無恥を掛けて100乗したくらいの女です。もう一人、香織甲介というのがいて、これは習慣で殺人をする優等生である。
この二人はどんな関係かというと、飛鳥井全死はどこからか人殺しの依頼を持ってきて、それを甲介に依頼する。甲介は、完全に安全な状態で殺人を冒すことができ、飛鳥井は依頼人の依頼に応えることができる。まあそういう関係である。
さてまあそういう関係を理解した上で、事件が三つくらいある。

「愛の敗北」
電車の中で見つけた女子中学生をどうにか自分のものにしようと考える飛鳥井全死。でもその女子中学生は、なにやら革命がどうとか言っている少女で…

「自由への道程」
甲介のかつての同級生だった女を自分のものにしようと決めた飛鳥井全死だが、その女の元へと向かうと、遊園地に行くことになって…

「恋の魔法」
メイド刑事と子供みたいな医者と心臓の弱い子供の出てくる話です。

内容紹介も適当ですね。まあ仕方ないところではありますが。内容がほとんど理解できなかったもので。
というわけで、まったく面白くない作品です。絶対に読まない方が賢明かと思います。本作の著者は、ギャルゲーのシナリオとかを書く人のようなんですが、僕は別にそういう偏見からこんなことを言っているわけではまったくなくて、純粋に内容がメチャクチャつまらないのでこんなことを言っているわけです。というわけで、読まないことをオススメします。

元長柾木「飛鳥井全死は間違えない」





ララピポ(奥田英朗)

最近は全然見ないのだけど、ドラマとか見ていると思うことがある。
んなわきゃねーだろ、と。
別にフィクションなんだからまあ別に何をしてくれてもいいわけだけど、でもドラマってのは、あまりにも多くのことを隠しすぎるような気がする。すべてを綺麗ごとで済ませて、汚い部分とか醜い部分とかも、最終的には全部帳消しにしてしまうというような、そんな印象がある。
まあ、別にドラマに何かを期待しているわけでもないからいいんだけど。
僕らの生活っていうのは、どんな生活であれ、毎日がドラマチックになるなんてことはありえない。ドラマチックなのは、ある一定の期間、ある一瞬だけであって、その他の部分は、ひどく退屈だったり、ひどくつまらなかったり、ひどく醜かったりするわけで、でもそういう部分っていうのは、当人以外には見えなかったりする。
人間っていうのは、どんな環境でも慣れる生き物で、どんなに退屈でもつまらなくても醜くても、慣れてしまえばそれが日常になる。不安や焦燥や悩みがあっても、それらに対する感覚を鈍らせて、生きていくことができる。
誰もが勝ち組になれるわけではない。
大多数の負け組の上に、勝ち組というのは成り立っているわけである。
僕らは普段、勝ち組の生き方ばかり見せられる。テレビでもドラマでもなんでも、勝ち組みはすごいよ、最高だよ、みんなも勝ち組を目指そうよ、とかやっている。
しかし、みんなが勝ち組になれるわけなんかまずない。それだけはありえない。
最近「とるこ日記」という本を読んで、その中に、「アリの法則」とかいいう、経済か何かの分野の言葉があって、なるほどな、と思った。
「アリの法則」というのは、うろ覚えな記憶で書くとこういうことだ。
「アリの集団は、みんなが一生懸命に働いているように見えるが、実際は、よく働くアリ2割、普通のアリ6割、働かないアリ2割、という構成になっている。その、よく働く2割のアリだけを抜く出してみても、次第にその集団は、2:6:2の集団になってしまう。集団の中には、必ず仕事をしない人間が出てくる、という法則」
これは、勝ち組負け組にも適応できる考えだろう。例えば今いるのとは別の世界に、この世界の勝ち組の人間を連れて行くことにしよう。そうしたらその別の世界で、全員が勝ち組になることはやはりない。ある程度の分布で、勝ち組と負け組が出来てしまうはずだ。
負け組の生き方というのは、僕らは積極的に知ろうとは思わない。出来るだけ目に触れないように生きようとする。
でも、負け組の人間だって、ちゃんと生きている。頑張っているとは言えないかもしれないけど、でも存在していることは確かだ。
僕だって負け組だし、認められないのは仕方ないとしても、無視されるのは悲しいなと思う。
だから何だってこともないけど、本作は、負け組の人間が頑張って生きている様子を描く小説である。たまには負け組の生き方を覗いてみるのもいいんではないでしょうか?
というわけで、内容に入ろうと思います。
本作は、6編の短編を収録した、連作短編集になっています。それぞれの短編が、微妙に関係する構成になっていて、それがまた面白いわけです。

「WHAT A FOOL BELIEVES」
ある時期から、対人恐怖症になってしまったフリーライター。パンフレットを要約するだけの誰でも簡単に出来る記事を書いてなんとか生活をしている。
欠陥住宅で音がよく響くマンションに住んでいるが、その階上に新たな住人がやってきた。どうも、毎晩女を連れ込んでいるようだ。羨ましい。欠陥住宅のお陰か、声も聞こえてきたりする。こんな僥倖はない!とばかりに、オナニーにふける日々。
そのうち、オナニーでは満足できなくなってしまったのだが、しかし俺はどうすればいいんだろう…。

「GET UP,STAND UP」
AVや風俗専門のスカウトマン。日々路上で、女の子に声を掛けまくっている。受け持ちの女の子のケアをしつつ、自宅に連れ込んでセックスをする日々。おとなしそうな女の子にハードな風俗を紹介したり、先輩に押し付けられた主婦とセックスさせられたり…。
よくわかんないけど、俺の生活こんなんでいいのかな…。

「LIGHT MY FIRE」
AV女優にスカウトされた専業主婦。普段は、家事などろくにしない。部屋はゴミだらけで異臭もする。芳香剤を投げるだけでよしとする。夫と娘とはほとんど顔すら合わさない。何をしているのかも知らない。
今では、時々依頼の来るAV出演と、その影響で始めたオナニー、そして昔から続けている真向かいの家の郵便物を覗くこと、これぐらいしか楽しみがない。
その真向かいの家に、「犬の鳴き声がうるさい。どうにかしろ」という苦情の葉書が何通も届くようになる。どうなるんだろう、と人事だからこそ楽しい。
今日も芳香剤を投げて、オナニーをして、郵便物を開けて、時々セックスをするだけの毎日…。

「GIMMIE SHELTER」
NOと言えないカラオケ定員。ゲロの掃除をさせられたり、フリーターだからシフトは不定とか、満足とはいえないけど仕方ない。訪問販売や新聞の勧誘も断れないし、隣の家のテレビの音がうるさいけど仕方ない。
でも、近くの家の犬の鳴き声だけはうるさくて許せない。
働いているカラオケボックスは大変なことになっている。ちょっとしたことからつけいられ、女子高生の援助交際の溜まり場になりつつあった。店長にばれたら大変なことになると思いながらも、自分も世話になった手前何とも言えない。
でも、どう考えてもやばいよなぁ…。

「I SHALL BE RELEASED」
文芸コンプレックスを抱く官能小説家。口述でテープに吹き込む形で、日々官能小説を執筆している。それなりに売れているし、収入も結構あるからいいのだが、しかし官能小説は正当に評価されていない、と感じている。
彼はある日、ぽん引きの誘いで、女子高生の手コキとやらを体験する。しかもカラオケボックスでだ。彼は、これまで味わったことにない快感を感じ、病み付きになってしまった。カラオケボックスの店員に顔を覚えられているが、まあそれももはやどうでもいい。
最高だ。女子高生というのは、最高だなぁ…。

「GOOD VIBRATIONS」
デブ専裏DVD女優のテープリライター。テープで送られてくる官能小説を原稿に起こす仕事をしている。ちょっと小太りで、自分の容姿が一般受けしないことはちゃんと知っている。だけど、官能小説をテープ起こしていると、どうしても体が熱くなってくる。
いつものように、図書館で男を引っ掛けるか…。イケメンは無理だが、醜男に絞って声をかければ、結構外れないものなのだ。
今日引っかかったのは、図書館でさぼっていた郵便局員。部屋に連れ込んでベッドでセックス。郵便局員が帰っていくと、部屋の片隅にある撮影機材に歩み寄り、今日も撮れたとほくそえむ。
でも、いいのかなこんな生活で…。

帯にはこんなことが書いてある。
『紳氏淑女のみなさまにはお薦めできません。(作者)』
なるほど、それは結構正しい。
また、こんなことも書いてある。
『「しあわせ」って何だっけ?
選りすぐりの負け犬たち、
ここの集合!』
そう、幸せってなんだっけ?っていうのが、本作の重要なポイントかもしれない。
本作の登場人物は、結構底辺にいる。日々を惰性で生きるしかないような、そんなつまらない日々を送っている。
幸せを求めない生き方というか、幸せになりきれない悲しさというのか、そういうものが染み付いてしまっている。
彼らも、幸せになりたくないわけでは決してない。
しかし、努力が足りないこともあるかもしれないけど、でも、生まれつき何かが足りなかったり、何かの糸が切れてしまったりとか、そういう不幸のために、どうにもならない生き方に甘んじている。
日本の底辺に近い部分が、本作では描かれていると思う。もちろん、もっと底辺は沢山あるだろう。しかし、これ以上の底辺になると、非日常の世界になってしまう。本作で描かれる底辺は、ギリギリ日常の範囲内の底辺を描いているので、身近に感じやすいし、ある意味で怖いし、落とし穴はどこにあるかわからないよな、と思う。
例えば日本の底辺といえば、援助交際的なことをする女子高生が本作に出てくる。もはや今の日本では、こんなことは普通なのだろうけど、しかしそれはまずいだろ、と思わないでもない。
また、簡単にスカウトで風俗業界に入ってしまう女性と、簡単に犯罪に手を染めてしまう若者だとか、とにかくそんなんじゃダメだろ、という気がしてくる。
日本って、安全で豊かだけど、ある意味で危険で貧しいな、と思い知らされる感じもあります。
まあ別に、そんなに社会派な作品ってこともないんだけど。
ちなみに、タイトルの「ララピポ」ってなんだろう、って誰もが思うと思うけど、これも読んでれば謎は解けます。意味を知ると、何となく奥が深いタイトルに思えてきます。
帯にはこんなことも書いてあります。
『いや~ん、お下劣。』
いや、まさにその通りの作品です。お下劣満載満開です。結構ディープで底辺な世界だけど、笑い飛ばせる作品です。読んでみてください。やっぱり、奥田英朗は面白いですね。

奥田英朗「ララピポ」




失踪日記(吾妻ひでお)

僕も一時期、ちゃんとした住まいのない状態で生活をしたことがある。もちろん、完全なホームレスというわけではなく、屋根もフロもある環境だったわけだけど、でもその時の生活は僕にとっては最悪なものだった。
僕は、まあこれは色々なところで書いているけど、引きこもりになって大学を中退した。それで、ギリギリまで、大学のある近くの部屋に引きこもっていたのだけど、まあ当然の如く実家に強制的に戻されることになり、しばらく実家で生活をすることになったわけです。
さてまずは、僕が大学時代に住んでいた部屋について書こうと思います。ここは、大学から歩いてすぐのところにある、男子オンリーのところで、ロビーやら浴場やら卓球場やら売店やら食堂やらコインランドリーやら、そうした学生の生活に必要なあれこれが揃いも揃った環境で、部屋が以上に狭いこと、部屋に炊事場もトイレもフロもないこと(すべて共同)であるという点を除けば(まあそれらに耐えられないという人は結構いるかもしれないけど)、結構最高の環境で、僕にとっては、大学も近いし、何でも揃ってるし、とにかく住みやすいことこの上ない環境だったわけです。
さて、そんな最高の環境から追い出されるようにして実家に戻った僕は、そこで家族とほぼまったく会話をすることなく、一日中何をするわけでもなく、ただどうしようもなく怠惰でグダグダな生活を続けたのだけど、でも実家での生活にどうしても耐えられなくなった僕は、両親に黙って家出をするということを何度も繰り返した。
なんというバカな息子だろうという感じだっただろうが、僕にとっては実家というのは、それほどに窮屈な場所だった。
何度か友達の家に泊めてもらっていたりしたのだが、それも悪いなと思うようになって、ある時から、その前に住んでいたところのロビーで寝泊りすることにした。
さっきも書いたように、そこにはフロもあって、ロビーで椅子を並べれば寝れるし、テレビもあったりして、まあ普通に生活するだけなら問題ないくらいの環境で、僕はそこで、確か二週間くらいかな、生活をしていたんではないかと思う。
結局、その管理人みたいな人に注意されて追い出されることになり、そこから怒涛の勢いで住処とバイトを決めて今に至るという感じだったのだけど、しかし、家がないというのがこれほどに辛いことなのか、ということをその当時学んだ。
いくら最低限の生活が出来ようとも、自分の落ち着くことのできる家がないというのはかなり辛い。屋根やフロがあるだけましだったが、気分は浮浪者と同じで、日々ものすごく悲しい気分になった。その当時、大学ノートに日記のようなものをつけていて、たぶん探せばどこかにあるけども、そこにも、読んだら暗い気分になるようなことばかり書いていたような気がする。
とにかく、その時期を含む一年間くらいは最低の時期で、今では笑い話にできるけれども、当時はかなり辛かった。
帰る場所がない、という生活は嫌だなと思う。家以外の生活環境がどれだけ充実していても、家がなければ人間は不安になる。それを身に染みて知ってしまったからには、そういう生活はしたくないな、と思う。
しかしところで話は変わって、僕は年金をまったく払っていない。出来れば長生きしたくないし、50代くらいで死にたいと思っているのだけど、でももし万が一にも長生きすることになってしまったら、僕は将来的に浮浪者になるかもしれないな、という不安もあったりする。
それは嫌だな。かなり。
僕は別に、今さえ良ければいいやということでお金をバシバシ使っているから年金を払えないというようなことでもないので、別に払えばいいのだけど、なんか嫌だなという感じなのです。かといって、浮浪者もいやだなと思うので、微妙です。
僕の働いている本屋に、明らかに浮浪者という常連が二人くらいいます。暇なので本屋に来ているのでしょう。一人はまあすごく普通の人っぽいんですけど、一人は明らかに臭くてたまりません。嫌だなぁと思うし、あぁはなりたくないなとも思います。
怖いですね、いやホント。
まあそんなわけで、それなりに貯金はしているわけですけど、まあ焼け石に水ってところでしょうかね。まあ、出来れば早く死にたいところです。
というわけで本作の内容に入ろうと思います。
本作は、まさにタイトルの通り、失踪した時期のことを絵で綴った日記です。
失踪したのは、本作の著者でもある吾妻ひでお。といっても僕はよくしりません。ギャグ・エロ・SF系の漫画を書き、一部で熱狂的なファンがいる漫画家だそうです。
この漫画家、ある時期から仕事が忙しくなり、かつ自分の書きたい漫画が描けなくなったというのもあるかもですが、突然に失踪してしまいます(タバコ買ってきます、と言って失踪したらしい)。
本作は大まかに言って三部構成になっていて、「夜を歩く」「街を歩く」「アル中病棟」となっています。
「夜を歩く」は、一回目の失踪当時の話で、仕事が嫌になって死のうと思ったけど死ねなくて、しょうがなくホームレス生活に突入。初めての経験で勝手がまったくわからない中で、いろいろ生活の知恵を身に付けてホームレスらしく生活ができるようになったけど、ある日警官に職務質問されて、失踪届が出ていることが判明し、家に戻されるまでの話になっています。
「街を歩く」は、仕事復帰したにも関わらずまた失踪してしまった著者が、初めは前回同様ホームレスしていたけども、なんとなく仕事を紹介されて配管工になり、資格も取ったりして順調に仕事をこなしていたけど、もらった自転車が盗難車だと判明した際に、警官に連れて行かれ、また失踪届が出ていることが判明して家に連れ戻されるも、しばらく配管工の仕事を続け、かと思うと突然辞めてまた漫画家の仕事に戻る、みたいな話になっています。
「アル中病棟」は、まさにタイトルそのままで、いつの間にかアル中になっていた著者が、アル中治療のために精神科のある総合病院に入院することになり、そこで出会った様々な変な人を描いていくという感じの内容になっています。
しかし、とにかくすごい話ですね。壮絶って感じです。しかもそれを、結構コミカルに漫画にしてしまうところがまたすごいなと思ったりします。
とにかく、当時のことは思い出すのも辛いものだそうで、出来るだけ辛いことは描かないで面白そうなところだけを描いていたみたいだけど(描いていることはすべて事実だそうです)、それだけ見てもすごい生活だなと思ったりします。もしかしたら本作を読んで、ホームレスってのも結構いけるじゃんとか思う人がいたら、それはかなり想像力がない人だと思います。本当に、漫画で描かれている通りの楽観的な生活であったはずがありません。とにかく、すごい話ですね。
それで、そんな辛い生活だったにも関わらず、著者は自分から家に帰りはしなかったというところもまたすごいですね。二度とも、警官に見つかって家に戻されるという経緯だったわけで、かなり頑張ったんだろうなと思います(まあ誉められるようなことではないですけど)。
まあ、ホームレスになった時の生活の知恵本、みたいな感じとしても読めるかもしれませんね(本気にしないでください)。
また、カバーの裏面にインタビューが載っていて(気付いていない人はそれなりにいるかもしれない)、やっぱり大変だったんだというようなことが書いてありました。なんていうか、お疲れ様って感じです。
さらにアル中って、なんだか救いようのない人生だっていう感じがしますけど、今は克服したようで、それもよかったなと思います。酒って、ホントに怖いんだなと改めて思いました。
漫画なんでサクサクって読めて、しかも悲惨なストーリーは極力削られているし、描かれていても面白く描いてあるので読みやすいです。ブルーになるような内容ではありません。すごくいい作品っていうことはないですけど、暇つぶしに読むにはいいと思います。

吾妻ひでお「失踪日記」


流(窪塚洋介)

スタイルのある生き方というのに、僕は憧れる。そのスタイルが正しいかどうかということは全然問題ではなくて、まずはスタイルのある生き方を求めるということ。その姿勢が、羨ましい。
僕は、スタイルの欠片もない。
僕の生き方は常に、誰かに何かに流されるようにというものだった。芯も軸も核も何も持たないままで、周囲の作り出す環境にいかに適応するかだけを考えて、ぴったりはまるような隙間を見つけ出しては、そこに安住し、動かず考えず、ひたすら逃げるような生き方だった。
それは今でも全然変わらない。何かに誰かに流されるように生きて、自分を持たず、何も考えず何も追わず、常に逃げるだけの生き方。僕にはそんな生き方が既に染み付いてしまっている。
軸があればぶれないのに、と思う。
芯があれば壊れないのに、と思う。
核があれば流されないのに、と思う。
そうやって僕は、自分にはない、そして、手に入るはずのないものを、追いかけるでもなく、ただひたすら諦めて生きてきた。
間違っててもいいから、スタイルがあればよかったのにな、とそう思う。
スタイルを持っている人というのは、かっこいいと思う。何にも誰にも流されないで、常に自分を押し通すことができる。周りがどうではなく、自分はどうという視点でものを考えることができる。自分を信じることができるし、自分を好きになることができる。
そういう生き方は、時には周囲との軋轢を生む。自分勝手だと言われることもあるだろう。日本という国では特に合わない生き方かもしれない。出る杭は打たれるというし。
でも、スタイルのある生き方をしながら、周囲と協調することだって不可能ではないと思う。多少自分を曲げなくてはいけない場面になっても、スタイルさえしっかりしていれば、そんな自分すらも受け入れることができるはずだと思う。
我慢ができない人というのがいて、最近の若者にすごく多いような気がするけど、そういう人は、スタイルというのを間違って捉えているのだろうと思う。自分を曲げないで生きることがスタイルだとそう思っているのだろう。曲げたら負けだとか、そんなちっぽけなプライドしか持っていない。
そうじゃないと思う。スタイルを持つということはもちろん、一貫しているということだけど、それは、言動が変わらないということでは決してない。自分の中で、曲げることが出来ない思想というものがあって、それを一貫させればいい。自分の思考や言動を一部曲げるようなことがあっても、中心の思想さえ裏切らなければいいはずだ。
スタイルを貫くということは難しい。特に、スタイルを貫きながら、社会の中で生きるということは難しい。しかし、それでも僕は、何かスタイルを持てればよかったなと思う。
学校では教えてくれない。
親も社会も教えてくれない。
結局、自分で掴み取るしかない、生き方のスタイル。
掴み取れない人もいる。
というか、掴み取れない人の方が多いだろう。
何者でもない者にはなりたくないと思いながら、
スタイルを見つけ出すことができなくて、
何者でもない者になるしかない人々。
自分を騙しながら、
自分を好きになれないまま、
それでも何かにしがみつく人々。
幸せだってことに気付かずに、
自由だってことに気付かずに、
幸せで自由な環境を放り出して、
何かも失ってしまう人々。
僕らはどうしても生きていなくてはいけなくて、
でもどうしようもなく不器用で、
どこに向かっているのかも、
何を目指しているのかも、
向かう先に何があるのかも、
誰が待っているのかも、
一切合切何にもわからないけど、
でも歩き続けるしかない旅人で、
だったら、ちゃんとした道の上を歩きたい。
太陽に照らされていたい。
一緒に歩く友も欲しい。
スタイルのある生き方は、
人生を楽にはしないかもしれないけど、
歩くことを楽にしてくれるかもしれない。
だから僕らは、
今からでもいい、
どんな形でもいい、
何をパクってもいい、
何かスタイルを見つけようではないですか。
そんな感じで(よくわかりませんがノリで変なことを書いてみました)、内容に入ろうと思います。
内容といっても、本作は詩集のような感じなので、内容紹介できるものはあんまりないんですけど。
本作は、窪塚洋介が過去に発表した本「20」「聖邪の行進」「GO」という作品に、「地球維新」という書き下ろし作品を加えた内容になっています。というか、窪塚洋介がそんなに本を出していることを、初めて知ったんですけど。
「20」の部分は、完全に詩集、という感じですね。1ページに大体一つ作品が載っているという感じ。この「20」の部分が、全体の半分以上を占めています。
「20」の作品の中から、結構いいなと思ったものをいくつか抜き出してみようと思います。

『「ミスプリント」

教科書に
生きるために必要なのは
水 空気 太陽と書いてあった
一番大切なのが抜けている
そこに僕がいないのなら
水も空気も太陽も意味がない』

『「自信」

「才能とは
自分自身を
自分の力を信じる能力である」
何処で見ただろうか
何処で聞いただろうか
もう忘れてしまったけれど
どれほど支えてもらっただろう』

『「美術展」

僕が駆け抜けたあの街の
全ての景色に
額縁をかけたい』

「20」の部分は、全般的に大体こんな感じですね。
「聖邪の行進」の部分は、愛する人への想いを綴ったような、詩のようなテンポを持つ短編小説、という感じでしょうか。恋人と別れたか何かして島で暮らしている男のストーリーです。
「GO」の部分は、なんていえばいいでしょうね、エッセイ的な文章といえばいいでしょうか。語りかけるような文章で、日本という国や自分という存在について語っています。
そして書き下ろしの「日本維新」は、いい意味で宗教的な思想を含めたメッセージ文という感じですかね。人とのつながりやなんかについて書いています。
僕は、物語というのは、言葉と論理で読者に伝わると思っています。だから、著者についての情報や背景について知る必要は特にないと思っています。
しかし、詩やメッセージ集というのは違うと思います。そうした作品集は、著者がどんな存在でどんな生き方をしているのか、少しは知っていて、読者の方に少しはイメージがないと、なかなか伝わらないものだと僕は思っています。
だから僕は、昔の人の文学作品や詩や短歌や俳句なんてのは全然理解できません。書いている人の背景をまったく知らないし、興味がないからです。
窪塚洋介のイメージは、ドラマの「漂流教室~ラストレター~(確かこんなタイトルだったはず)」しか浮かんでこないけど、でも結構好きです。いろいろとニュースとかでも断片が伝えられたりしてるけど、スタイルのある生き方をしているんだろうなと想像できるし、かっこいいなとも思います。
だから、全部ではないにせよ、本作に書かれたメッセージは、少しは僕に届きます。なるほどと思うようなところも、そうかなぁと思うところもあるけれど、でも著者についてのイメージがなんとなくあるからこそ、僕にはなんとなく受け取れるものがあります。まあ俳句や詩なんかを好む人には、想像力がないなんて言われるかもしれないけど。
でもやっぱり、メッセージ集としては、森博嗣の作品の方がぐっときますね。窪塚洋介の言葉は、かなりストレートで直接的なのに対して、森博嗣のメッセージは奥が深いというか底が見えないというか、そういう魅力があって、僕は好きだったりします。
というわけで、まあそこまでぐっと来る作品ではないけど、まあ手にとって見てもいいかなと思います。
最後に、本作とはまるで関係ない話ですが、古本屋の話をしようと思います。
僕は、基本的に本を古本屋で買うんですけど(本屋で働いているくせにです)、古本屋ってやっぱりいいですね。安く買えるという点ももちろんだけど、普通の書店にはなさそうなものも置いているというのが魅力的だと思います。
本作も、少なくても僕の働いている本屋にはないし(僕が置いてないだけだけど)、同規模の他の本屋にも置いてないと思います。メチャメチャ広い本屋だったらわからないけど、普通の本屋ではなかなか手に入らないでしょう。そんなものも置いているというのが古本屋のもうひとつの魅力だったりします。
作家の人は、印税が入らないからということで古本屋を嫌っている人が多いようですが、そういう面もあるので多めに見てやってください…って、僕は一体誰にアピールしてるんでしょうか…。そんな感じです。

窪塚洋介「流」



マドンナ(奥田英朗)

サラリーマン、という生き方を、僕はどうにも受け入れられそうにありません。
僕は今ばっちりフリーターで、どこかに就職したりするなんて予定も計画もまったく何もありませんが、理由はいろいろあるけども、その根底には、サラリーマンってちょっと俺には無理だよな、という考えが常にあるわけです。
もちろん、これから書く話は、会社によって違うだろうとは思います。あくまでも、僕のイメージのサラリーマンというものについてあれこれ書こうと思います。
まず僕の中にあるのが、お金ってそんなに重要か?ということです。最近何かのニュースで、仕事に一番求めるものは、という質問を新入社員に聞いたら、お金がトップになったというのがあって、僕はそれを見て、給料さえ高ければなんでもいいのだろうか?と疑問に思ったけど、ちょっと僕にはそういうところが理解できません。
友人にもサラリーマンは多数いるけども、どうも彼らの話を聞くと、お金のために仕事をしている、というようなことを言っています。
いや、もちろん仕事っていうのはお金を稼ぐためにやることなんで別に全然いいことなんですけど、でも彼らの言い方だと、そのお金を稼ぐためにかなり無理をしている、というような感じなのです。僕なんかは、そこまですることはないんじゃないか、と思ってしまいます。
僕は、すごくお金があっても使い道がない人間です。もちろんお金というのは、使うだけではなくて、安心や将来性なんかも与えるものなんだろうけども、それでも、お金が必要以上にあるという生活に憧れたりは全然しません。まあそれなりにお金があって、それなりに生きていければいいんではないか、と思ってしまいます。
だから、お金をもらうためにかなり無理をしなければならないサラリーマンというのが、まず第一に苦手なんでしょう。
そしてさらに、その無理している部分というのも、僕の嫌いなものが結構あるんだと思います。
会社での付き合いとか、出世争いだとか、理屈に合わない会社の論理だとか。
人間関係の苦手な僕としては、会社の付き合いみたいなものはすごく嫌だろうなという気がしてて、初めてあった人に取り入ったり、面白くもない話を聞かされたり、ゴルフに行かされたり、まあ全部イメージだけど、そういうのって嫌だな、と思います。
出世争いとかも嫌ですね。僕は、基本的に出世とか全然興味がないのでいいんですけど、でもその出世争いに自ら乗らないだけなのに、周りからは無能だとかと言う風に評価されてしまったり、あの人は変な人だと思われたりとかするのが嫌ですね。
会社の論理というのも、なんだか時代錯誤なものが多そうで怖いですね。古いというか体育会系というか、そういう世界というのは僕は苦手です。
そして何にしても、一生その会社にい続けなければならないというのが大変じゃないですか。もちろん、転職とか出来るような人ならいいですけど、僕は出来れば環境を変えたくない人間なので、恐らく最初に入った会社にずっとい続けるでしょう。しかし、そこがなんか嫌なとこだったら、仕事があまりにもつまらなかったら、そこにい続けなければならないということ自体が苦痛になりそうな気がします。
ある意味で、ちゃんとサラリーマンをやっていけるような性格だったらよかったのにな、と思うことはたまにあります。僕は、サラリーマンとして生きていくには結構大変な人間で、だからそこから逃げ出したわけなんだけど、ちゃんとサラリーマンに馴染むような性格で生まれた来たり、あるいはそうなるように性格を変える努力をしてきたほうがよかったかな、とも思います。
なんだかんだ言っても、人生安定がそれなりに重要って気もするし。
僕は、自分の今の選択が間違っていたとは全然思わないけど、でもちゃんとした別の生き方もあってもよかったとも思います。
でも、結局誰の話を聞いても、どんな小説を読んでも思うことは一緒です。
サラリーマンって大変なんだな、と。
内容に入ろうと思います。
本作は、会社勤めの課長職の人たちを主人公にした、5編の短編からなる短編集です。

「マドンナ」
春彦は営業三課の課長。その営業三課に、人事異動で一人の女性が入ってきた。倉田知美。入社四年目の彼女は、素直で有能、そしてまずいことに、春彦の好みのタイプだった。妻もいるし子供もいる。恋をしちゃいけないと思いながら、妄想の中で知美との恋愛を繰り広げてしまっている。ああ、俺は一体どうしたいんだろうか…。

結婚をしていても恋をすることはある、という妻の言葉がなかなかいいとこついてるな、と思いました。こういう奥さんだったら、ちょっと気が楽だなっていう気がします。課長のおじさんがはまってしまうちょっとした恋の話、なかなか面白いです。

「ダンス」
出世コースに乗っている、第一営業部の四人の課長。芳雄は四課の課長である。第一営業部は五課まである。五課の課長の浅野は、出世には興味がないらしく、周囲との協調も取ろうとしない。はっきり言って、浮いている。
また、芳雄の息子が、将来ダンサーになると言って大学に行かないと言い出したらしい。妻がそう言っていた。なんだ、ダンサーだと。芳雄は、息子の夢を馬鹿らしいと思っている。
浅野と息子よ。もっといろいろと考えてみようよ…

同期で出世コースからは完全に外れて、悪ければ自分の部下になってしまうかもしれない浅野と、将来の夢をダンサーに決めたらしい息子との、どちらも自分の価値観では推し量ることのできない珍獣を相手に、芳雄は頑張ります。頑張って出世を目指して、家族にも不自由させないでやってきた俺のサラリーマンとしての生き方は間違ってたのか?という芳雄の自問の声が聞こえてきそうな作品です。

「総務は女房」
入社以来営業畑を歩いてきた博史は、二年間総務部第四課課長の椅子に座ることになる。事務方部署への異動は出世コースであり、いよいよ博史にも、局長の椅子が見えてきた。
さてその総務部第四課。営業を渡り歩いてきた博史には、どうしてもおかしいと思える。やる気のない社員、出入りの業者との癒着、何なんだここは…。俺達が必死になってモノを売っていた時にこいつらは…。
博史は、総務部第四課を改革すべく、あらゆる方針を打ち出す。しかし、そうすればそうするほど、どんどん上からの横槍が入る。会社って一体なんなんだろう…。

この作品で出てくる、博史も認めることが出来ない会社の論理。こういうものに対して僕も、なんというか認めがたいというか、そういう気分になります。間違っていることが沢山あっても、何故か変えられない。正論が通らない。今僕が働いているところも似たようなことはありますが、僕は結構諦めてしまいました。

「ボス」
前任の課長の移動が決まったとき、次は俺だと思った茂徳。しかし、課長になったのは、浜名陽子という他部署から引き抜いてきた女性だった。茂徳は、鉄鋼製品部第一課課長兼部次長、という肩書きになった。
よりにもよって女か…と思った。男の世界だった鉄鋼製品部だったが、その牙城が崩されてしまう思いだった。
さらに、それに輪を掛けるように、陽子はあらゆる改革を推し進めていった。ノー残業デー、カジュアルフライデー、休日の接待ゴルフの禁止などなど…。その度に茂徳らは反対の意を唱えるのだが、結局実行に移される。次第に陽子のやり方に賛成する人も増えてくる。
なんだよ、これは。なんか、やってられないよな…。

僕は、効率よく仕事をすることが大事だと思っているし、そうすることが好きなんだけど、でも多少の遊びの部分というかそういうのは必要だとも思っています。効率重視はいいけど、効率のみはダメだろうと。この陽子という課長は、とにかく効率と杓子定規優先の人で、正しいとは思うけど、ここで働かなくてはいけない人にはちょっと大変だろうな、という気もしました。

「パティオ」
オフィスのある七階から見える、パティオという名の中庭。人はいなく閑散といている。
倉庫街だった埋立地を開発して、「職」「遊」「住」を実現しようとした巨大プロジェクトだったが、「遊」を実現するはずだったパティオがうまくいかない。テナントは多数あるが、それらはすべて会社の従業員だけをあてにした営業だ。観光客や主婦なんかは来ない。今会社では、これが頭痛のタネである。
そんなパティオをなんとかせよということで作られた営業推進部第一課の、信久は課長になった。
信久は、パティオでいつも本を読んでいる一人の老人が気になっている。ここが静かだからいいのだろう。
一方で、実家の檀家の寺がうるさくいってくる、ということで妻があれこれいう。連れ合いをなくして弱くなっているだろう父親も気に掛かる。一度実家に帰ってみようか…。

四十代は責任の年だ、というような文章があって、やっぱり結婚とかは嫌だな、と思ったりしました。何よりも、相手の家族と関わりが出来るというのがめんどくさいところですね。あと、今全然交流がないとは言え、自分の両親の老後ってのは、考えるだけで嫌だな、とも思いました。

解説で、作家の酒井順子がこんなことを書いていました。
『この本に収められている五本の作品の中には、色々な「二つの世界」のことが、書いてあるのでした。会社と家。男と女。中年と若者。都会と田舎。人は、自分のすぐ隣にある違うせきあのことを知っているつもりでいるのだけれど、ふとした瞬間に「自分はあちら側のことを、全く知らないのだ」ということに、気づかされるものです。この本で描かれているのは、そのことに気付いた後に、戸惑いながらも何とかその溝を飛び越えようとしてみたり、向こう側の人に手をさしのべてみたり、はたまた溝に思いっきり落ちてみたりする人々の悲喜、というもの。』
この文章は、本作を非常によく表しているなと思ったので、思いっきり引用してみました。まさにその通りで、すぐ身近にあったはずの世界にまったく気付いていなかった自分というものがいて、そこからじゃあどうするかというような話が主体となっていて、それをサラリーマンという世界で描いているというところがよりリアルで面白いのだろうな、と思いました。
また解説の酒井順子さん曰く、本作で描かれる女性像というのがまた鋭い、とのことでした。著者は男なのに、どうしてここまで女の世界のことがわかるの、というようなことも書いていました。僕は男なので、細かいところはわからないけど、でも確かに言わんとしていることはなんとなくわかります。出てくる女性が、上司にしても部下にしても妻にしても、皆ちゃんと「女の世界」の中に生きている、というのがなんとなくわかります。
また本作は、まさに今サラリーマンで課長職だという人にも、まだ新人サラリーマンだけどこれからもずっとサラリーマンでいるという人や、もう退職したけどかつては中間管理職だったというような人には、ぐっと来る作品なんではないかと思います。サラリーマンとは無縁の僕が読んでも、きっとそうなんだろうなと共感できることが沢山あるので、それは間違いないだろうと思います。
本作を読んで僕は、やっぱりサラリーマンはいいや、と思いましたけど。僕にはやはり、向かない世界だろうなと思います。
奥田英朗の作品を結構読んできたけど、本当にどれもいい作品ばかりだな、と思います。「インザプール」「空中ブランコ」の伊良部の馬鹿話もいいし、最近読んだ「サウスバウンド」はかなり傑作だと思うし、「最悪」はちょっと苦手だったけど、「邪魔」は結構よかったし、本作もすごく共感できる繊細な作品で、奥田英朗というのはかなりレベルの高い作家だな、と思います。ミステリーらしいミステリーは書かないのでこの形容は間違っているのかもしれないけど、東野圭吾並の引き出しの多さではないかと個人的には思っています。奥田英朗の「ララピポ」も近いうちに読むつもりなので楽しみです。
本作はほんと、老若男女問わず、誰が読んでも楽しめるし共感できる作品ではないかなと思います(中高生辺りには難しいかもだけど、父親という存在とだぶらせればまた別の読み方ができるかもしれません)。表紙裏の紹介欄にもこう書いてあります。
『上司の事、お父さんの事、夫の事を知りたいあなたにもぴったりのい一冊です。』
まさにその通りの作品です。自分が上司・お父さん・夫であるという人にももちろんオススメです。是非とも読んでみてください。そして、奥田英朗の作品をみんな読みましょう!「インザプール」が最近文庫になったんで、まずはその辺りからでもどうでしょうか?

奥田英朗「マドンナ」




とるこ日記(乙一+定金伸治+松原真琴)

僕の友人に、こんなことを言っていた人間がいる。結論だけ簡略化して書けばこうだ。
『旅行になんか行く意味はまったくない』
僕はこの意見に基本的に賛成である。その友人が、どんな理屈でその結論を導き出していたのか忘れてしまったが、僕は僕なりの理屈で、この『旅行無意味説』を証明してみせよう、というのが今回の目的である。
さて、まずは立場の違いを明確にしておこう。
その友人の主張は確か、
『旅行になんか何の意味もないのだから、行く意味はないし、行かなくていい』
という感じのものだった。
それに対して僕の主張はこうである。
『旅行になんか何の意味もないのだから、行く意味はないが、行ってもいい』
微妙に違うのである。
その友人の場合、うろ覚えだから微妙だけど、確か『行く意味なんかないんだから、人々よ旅行に行くことなかれ』という感じだったけど、僕の場合、『いやいや無意味だということには賛成だけど、いやむしろ無意味だからこそ行くんではないか』という立場だったりします。
時々こんなことを言う人がいます。
『旅行をすることで世界を広げたい』
みんながみんなそんな理由で旅行をするわけではないでしょうが、こう思って旅行をしている人は間違いなくいるだろうと思います。いろいろな文化を見たり、いろいろな国の人と話したりすることで、見識を広めたい、ということなのでしょう。
でも、それは違うだろう、と僕は思うわけです。
旅行をすることで世界が広がる、というのは明らかに幻想でしょう。いや確かに、旅行でも世界は広がるかもしれないけど、別に旅行をしなくたって同じだけの効果を得ることはできると思うのです。写真を見たり映像を見たり、日本で外国人と喋ってみたり。そうしたことと、本質的には変わらないだろう、と。
人は言うかもしれない。そこに行くことに意味があるのだ、と。
しかし僕は言いたい。その場にいて体験しなければ広がらないような世界なら、そもそも先が知れているのではないか、と。
僕は、自分は想像力が欠けている方だと思うのだけど、でも人間には想像力というものがあるのです。人間は、ある経験をすることと同じくらいの体験を、想像力というもので得ることが出来るのです。
実際僕にはわからないのです。例えば、モナリザの絵を見にルーブル美術館に行くのと、写真でモナリザの絵を見るのと、どれほどの差があるというのでしょうか?
どうして、何かを実際に見に行ったということが、自慢できたりする対象になるのか、ちょっとよくわかりません。
僕は、人々がする旅行というのは、既知のものを追いかけているだけのものでしかないと思うのです。そこで出会う情報はすべて、自宅にいながらにして得ることが出来るものばかりだと僕は想像します。だって、既知のものなんですから。旅行として価値があるのは、未開の土地なんかに挑む探検家ぐらいのものではないでしょうか?
ただ僕は、旅行に行くことに意味はないと思っているけど、旅行に行く意味がないと言っているわけではないんです。
つまり僕が言いたいのは、旅行というのは、麻雀や読書やなんかと別に何も変わることがない、ただ無駄を積み重ねているだけの行為であるということです。僕らは、無駄なことをすることを娯楽と読んでいるわけなので、別に旅行をすることはいいんです。でも、旅行をすることに何か特別な意味を見出していたり、旅行をすることで人間が大きくなるという幻想を持ったりするのは間違っているんではないか、ということです。
よくわかりませんが、これがまあ僕の旅行論というか、そんな感じです。ちゃんと無駄に娯楽しているんだ!と思っているなら、旅行はドンドンバシバシ行ってくれて問題ないですね、はい。
というわけでそろそろ内容の紹介に入ろうと思います。
本作は、結構ネガティブな引きこもり作家三人が、何故かトルコに旅行に行くという、その珍道中を本にしたものです。まあ実際は、WEB連載を経て書籍化に至る、という感じなのだけど。
さてそれではまず、三人の紹介を簡単に。この三作家の共通項は、全員「j-books」という、ジャンプ系の小説賞を受賞してデビューした作家、ということです。
乙一。言わずとしれた超有名作家。わたくしとあることからサインをもらうという僥倖に恵まれる。神様仏様乙一様、という感じである。結構ネガティブで引きこもり。
定金伸治。「ジハード」という小説でデビューしたらしい。知らない。歴史小説なのにライトノベルレーベルでも本を出しているらしい。大阪出身。乙一と仲がいいらしい。こちらもネガティブ。
松原真琴。「そして龍太はニャーと鳴く」でデビュー。知らない。女性だったりする。身長が低いらしい。ジャージが好きらしい。猫が好きらしい。絵がうまいらしい。二人よりは社交的。でもそれなりにネガティブ。
なんなんだこの三人は、という感じです。そろいもそろったり、という感じでしょうか。いろいろな縁で出会い、そしてよくつるむ三人だそうで、本当に成り行きで、完全にプライベートでお遊びでトルコに行くつもりだったのに、そんな声を聞きつけた集英社が、お金を出すから旅行記を書いてくださいよ~ってなもんで、最終的にこんな形で本になることになったらしい。そんな経緯以上に適当な本で、その適当さ加減がメチャクチャ面白くて笑える。
そもそも、結構リアルに引きこもりの人間が、わざわざ外国まで旅行に行こう、という時点で、既にメチャクチャ面白いではないか。
本作は、まあそんなトルコへの旅行記という感じの本ではあるのだが、言ってしまえば、これを書くのにトルコに行く必要はあったのか?という感じの本だったりもします。帯にはそれぞれの著者が、こんな風に書いています。

乙一:耳寄り情報や参考になるような文章は、まったく何も一切合切書いておりません。

定金:旅行記的な発見の言葉はまるでない

松原:お二人から学んだことは、いかにダメに生きるかということでした。

これからでも、どれだけ本作が、旅行記というものからほど遠いか分かっていただけるだろう。本作をより正確に形容するなら、
『乙一・定金・松原という面白三人組のキャラクターをよく知ろう!その舞台は、豪華にもトルコにしてみました』という感じです。ホントです。
さて本作は、構成でもかなり奇妙な形を取っています。説明しにくいのだけど、ページの左半分のメインの文章を定金が書き、ページの右半分で左半分の内容に対してツッコミを入れる、というそういう形式になっています。それなりに読みづらいところもあるんだけど、面白い構成だなと思いました。読んだ人はわかるかもしれないけど、構成は「小生物語」に近い感じがします。
さて、なんでそんな奇妙な構成になったのか。そこには、乙一に仕掛けられた壮大な罠が存在していたからで、なんと乙一は本作に、書き下ろしのショートショートを載せているのです。本作を本にまとめ上げるための合宿のその初日に言われて、三日で書かなければならないという無茶苦茶なスケジュールが乙一に与えられたため、乙一の余裕がなくなり、仕方なく定金だメインの文章を書く、という経緯があったようです。
しかもその書き下ろしの小説は、旅行中にポロっと言ったある一言のために書かされるはめになるという悲しい経緯もあるわけで、ある意味で乙一は災難だったなという感じです。でも、乙一のショートショートがおまけでついてくるというのは、本作のかなりの魅力的な部分だったりもします。
彼らは、トルコという異文化においてもやはり結構な引きこもりだったようで、そういうネガティブな旅行記というのも面白いものです。椎名誠の探検シリーズのような旅行記にしたかったようだけど、まあそうはいかないでしょう。
本作を読んで、彼らが結局なんでトルコに行ったのかも、トルコで何が面白かったのかも、よくわからないままだし、そもそも、本作を読んだからと言って、トルコに行きてー、とかまあならないというような代物だけど、さすがに作家だけあって(引きこもりだけあって?)、適当に書いている(だろう)文章でもすごく面白い。乙一の文章は、本当に「小生物語」のような感じで、相変わらず面白い。くだらなさ全開のところが最高に楽しい。文章で言えば、定金という人も乙一と似たような感じの文章で、おお面白いではないかと思ったし、松原という人も、この人も変な人なんだなと思ったりして、誰の文章も結構面白かったりします。変な三人組です。
さて、書き下ろしのショートショートについても触れましょう。これは旅の途中で、乙一がこんなことを言ってしまったがために実現したものです。
『(ライトノベルの人気シリーズに、「撲殺天使ドクロちゃん」という作品があるのだけど)僕は日本に戻ったら、「毒殺天使ドクロちゃん」という作品を書くよ。』
こんなことを、もちろん冗談で言ったのだけど、言ってしまったがためにショートショートを書かされるはめに。本作のショートショートのタイトルは、「毒殺天使」です。
内容を書くほど長い話でもないので内容紹介はやめるけど、まあまあという感じですかね。ストーリーも何もない状態で、タイトルだけ決まっている中で、三日でこれなら頑張った方ではないか、という感じはします。あんまり誉めてはないですね、僕。まあ、そこまで期待はしないでください、という感じです。それよりも、旅行記の方がかなり面白いので損した気分にはならないと思うので大丈夫です。
さてまだまだツッコミどころ満載の本作だけど、実はカバーが双六になっていたりします。乙一が何気なく提案してみたら採用されたというものらしい。編集者も揃って馬鹿馬鹿しい仕事をしてくれているので、相乗効果でより面白い本になっている。
しかし難点なのはこの双六、裏面にも印刷がされているということだ。複数人でやっていて、誰かが一番乗りで裏面に行ってしまったら、一体そこからどうやってゲームを続行すればいいのか僕には正直わからないところである…。
そんなわけで、変な本です。馬鹿馬鹿しくてどうしようもない本です。でも、最高に楽しいです。馬鹿馬鹿しさに爆笑です。こいつらアホだなー、って笑えます。最高です。是非買って読んださい。借りてもいいです。何でもいいので読んでみてください。馬鹿馬鹿しさは保証します。

乙一+定金伸治+松原真琴「とるこ日記」




長恨歌―不夜城完結編―(馳星周)

僕が最も苦手なのは、縛られることだ。
ちょっと考えるだけでもいろいろある。人間関係、時間、規則、社会、病気…。僕はとにかく、そういったもろもろのことに縛られることに対して、人並みならぬ嫌悪感を抱いてしまう。
あらゆる束縛から逃げるための人生だった、と言っても言いすぎじゃないかもしれない。
今の僕は、かなりいろんな束縛から解放されている。それはある意味で、責任を果たしていないと言い換えることもできる。人間として、まあ間違った生き方なのかもしれないとも思う。それでも今の僕は安定している。あらゆる束縛が僕の元を離れて、かりそめでも偽りでも、とりあえず自由を手にすることが出来たと思う。
例えば仕事においても僕は、なるべく自由でいられるように常に努力をしている。仕事において、規則や人間関係などは結構めんどくさいものだけど、僕はそれらに対して優位に立つ(優位に立っているように見せかける)ことで、束縛から逃れることができていると思っている。人よりも多く仕事をして(しているように見せて)、そうすることで僕は、あらゆる意味でかなり自由でいられる立場を手に入れることができていると思っている。
病気に束縛されない、というのは本当に幸運なことだと思う。僕は、子どもの頃は体が弱かったけど、次第に病気をしなくなった。虫歯にもなったことがない。
今までで一番大変だったのは、親との関わり合いだろう。いかにして、親の束縛から逃げるか。それにかなりの神経を使ってきた。
僕は実家にいた頃、とにかく両親の存在をどうしても受け入れられないようになっていった。僕の中で、両親に対する違和感というか、とにかくそういうものがどんどん膨らんでいった。勉強をしまくるという方法で、騙し騙し親からの干渉を極力受けないようにしてはいたのだけど、それでも親の存在が嫌だった。
詳しくは書かないけど、ありとあらゆる迷惑を周囲にかけ、ありとあらゆる心配を周囲にばらまきながら、僕は無理矢理親との関係を希薄にすることに成功した。今では、数ヶ月に一回、父親からメールが来るぐらいだ。日常の中で、ほとんど思い出しもしない。ひどいことをしたなとは思うけれども、親と良好な関係を築こうとはまったく思わない。
僕に言わせれば、世の中の人間は、よくそれだけ束縛された環境の中で生きていられるものだ、と思ってしまう。というか、自ら束縛されたがっているようにも見える。もちろん、人間関係という点に限れば、それは孤独への恐怖からそうさせるのかもしれない、と納得もできる。しかし、時間や規則や社会に対して、人々が束縛されたがっているように見えて仕方がない。
例えば僕は、サラリーマンという生き方は絶対に向いていないと思っているのだけど、サラリーマンというのはとにかく束縛されるだけの存在ではないだろうか?会社に、組織に、お金に、時間に、規則に、そうしたものに常に縛られている。もちろん、サラリーマンとして生きている人間の大半が、その現状に満足しているわけではないのだろう。できればそこから脱出したいと願っているはずだ。しかしそれでも、結局は自ら望んで束縛されに会社に行くのだから不思議で仕方がない。僕の友達に、就職した会社を辞めてフリーターのようなものになった人がいるけど、僕はそういう判断が出来る人の方が遥かに正しいと思っている。
束縛というのは、うまく機能すればいいシステムだと思うけど、大抵は停滞を生むものだと僕は思っている。束縛する/されることで、思考を停止し、判断を保留し、決断を先延ばしにする。そのうちに束縛のロープはどんどんと増えていき、いつしかそこから身動きが取れなくなってしまう。
大人になればなるほど、人は束縛を求めるようになっているように思える。恐らく何らかの不安が、逃げ場のない檻のような場所に溜まっていき、それを誰かにも共有してもらいたくて束縛をしたり束縛されたりということになるのだろう。
僕は、出来る限りあらゆることから束縛されずに生きていたい。たとえそれが、単なる責任逃れに映ったとしても、なるべくその方針を貫きたい。というか、そうしないと僕は割りと生きていけない。
何にも縛られずに生きていくことはできない。人間は、社会や常識の枠から外れて生きていくには困難な生き物になってしまったのである。しかし、自分に降りかかる束縛を出来る限り減らすことはできなくはない。僕はこれからも、束縛されることから逃げながら、同時に誰かを束縛することも極力しないで生きていこうと思う。
というわけで内容に入ろうと思います。
本作は、当時文芸業界の話題を一挙にさらっていった「不夜城」の完結編です。
不夜城シリーズは、「不夜城」「鎮魂歌」ときて「長恨歌」で完結になるシリーズなんですが、もはや「不夜城」も「鎮魂歌」も内容をさっぱり覚えていないという始末で…。
しかし、「不夜城」を読んだときは、これはすごい!と思った記憶があります。デビュー作にして、あらゆるランキングの1位を取り、賞も二つぐらい受賞するというもう無茶苦茶なデビュー作だったのだけど、それまで「不夜城」のような激しいノアール作品というのがなかったためか、もうものすごく評価されました。その後、「不夜城」に触発されるようにして、新人賞の応募にノアール的な作品が増えたということですが、それでもやはり日本では、馳星周を越えるノアール作品はないんではないか、という気はします。
まあそんなわけで、前二作の内容をさっぱり覚えていないまま本作を読みましたが、たぶんそれでもまあ何とか読める作品だったと思います。
主人公は武基裕。戸籍は日本人で、残留孤児だと周囲には言っているのだが、実は生粋の中国人、という偽りの経歴を持っている。勤めていた会社が倒産したために仕事を失い、『中国語を喋ることのできる日本人』という利を活かして、歌舞伎町で黒い仕事に手を染めるようになっていく。
武の人生の歯車が大きく変わったのは、ある事件を境にしてだ。彼のいたグループのリーダー的存在が、ファミレスでショットガンで銃殺されるというド派手な事件が起こり、歌舞伎町は大混乱に陥った。彼のいたグループは、中国からドラッグの密売をしており、手を組んでいた日本のヤクザに、襲撃を企てた人間を探し出せと命じられる。
一方で武は、麻取の犬という一面も持っていて、矢島という麻取に弱みを握られて、情報を横流しするように命じられてもいた。
武は、矢島に教えてもらった、劉健一という情報屋と接触し、襲撃した人間を探し出そうとするのだが…。
という、歌舞伎町のごたごたを描いたノアールです。
僕の評価としては、つまらなかったですね。というか、やっぱりもう馳星周はいいや、という感じになっています。
僕はそれでも、馳星周の作品は結構読んでいるんですが、読んで面白かったと思えるのは、「不夜城」と「漂流街」だけでした。それ以外は、どれも似たり寄ったりだし、お腹一杯だなという感じなのです。
本作も、普通の本の二倍ぐらい読むのに時間が掛かっていて、つまらなかった証拠だなと自分では思っています。
結局つまらなさの原因は、歌舞伎町を初めとする外国人が支配する街の論理をちゃんと汲み取れない(興味がない)ということだろうと思います。たぶん僕自身が、歌舞伎町という街(歌舞伎町を含んだ世界)に興味を持てないのだと思います。そうした、ヤクザだとか抗争だとか裏切りだとかそういうことに興味があるという人ならそれなりに面白く読めるのだろうけど。
確か僕の記憶だと、「不夜城」では主人公が劉健一で、「鎮魂歌」では違う人になったのだった気がするけど、やっぱ劉健一がもっと出てきて欲しいな、と不夜城シリーズを読むと思います。「鎮魂歌」の時も、劉健一を表に出さずにストーリーを描くことが主眼だったのかもしれないけど、それでも劉健一をもっと出して欲しかったと思ったような気がします。本作も同じです。
キャラクターとしてはやはり、劉健一というのが一番いいですね。作中にも書いてあったけど、別の世界で生きているような存在で、孤独でも孤立でもなく孤高という表現が非常によく合う人物で、かなりいいなと思います。
他の登場人物はそんなに惹かれる人がいなくて、主人公の武はちょっと中途半端だしなぁとか思いながら読んでました。冒頭で束縛の話を書いたのは、この武という人物が、とにかくありとあらゆることにがんじがらめになっている人で、こういうのは嫌だなと思ったから書いてみました。
まあそんなわけで僕的には大した作品ではないと思います。「不夜城」は読んでみてもいいけど、以降二作はまあ読まなくていいだろう、とそんな感じです。

馳星周「長恨歌―不夜城完結編―」



コッペリア(加納朋子)

人形は、死なないか?
死ぬだろう、きっと。
人形を殺すのは、人間だ。人間の視線が人形に生を与え、その視線がなくなれば人形は死ぬ。
人形は生命だと言っても間違ってはいないだろう、きっと。
突き詰めれば、『生きているとはどういうことか?』という話になってしまうのでそれは避けようと思うのだけど、例えばこう考えてみるのは面白いかもしれない。
僕らの周りにいる『人間』が、実は『人形』だったとしたら。
そもそも僕らは、外からしか『人間』を見ることができない。逆に言えば、外見さえ整えられれば、『人形』だって『人間』に見えるかもしれない。
話は飛ぶけど、カーナビというのは、軍事衛星のシステムを一般用に質を落としたものである。質を落としている理由は、悪用されることを防ぐためである。
ならば、こう考えるのも不自然ではないかもしれない。つまり、外観だけは人間とそっくりの『人形』を作る技術がどこかに存在する。悪用されないために、その存在は秘密にされているのだ、と。
人間のような質感を持ち、人間のように動き、人間のように喋ったりする、外見だけは『人間』そっくりの『人形』。もしそうだとしたら、会っただけではそうと判断できないかもしれない。
これは、荒唐無稽な話だけど、でも絶対に100%ないとも言えない、否定しきれない話だろうとまあそうも思っている。
何の話だっけ?
えーと話を戻すと、そう、だから『人形』が生きているという風に考えても、全然おかしくはないのではないか、ということ。僕らが普段『人形』として見ているものは、軍事衛星の質を落としたカーナビのように、『人間』の質を落として作られたものだと考えても、まあいいんじゃないか、と思うのだ。
いやまあ、そんな話をしたかったわけではないんだけどな…。閑話休題。
何故人は人形を作るのだろう?
最近は、フィギュアという形で、オタクと呼ばれる人たちを中心に人形が広まっている。また、ぬいぐるみなんかは昔からずっと人気だし、キャラクターの人形のようなものも沢山出ている。
僕は、そういうキャラクターの形を象った人形というのは、ちょっと違うな、という気がする。そういうものを可愛いと思ったりする気持ちはわかるし、売れるから作るというのも全然間違ってないと思う。でも、キャラクターを人形にするということは、あくまでもただキャラクターを身近に置いておきたいというだけのことだと僕は思う。キャラクターの代替品ということである。
しかし、人間を精巧に模した人形というのは、人間の代替品という側面からだけでは語れないだろうと思うのだ。
もちろん、歴史の上で見れば、人間を模した人形というのは、初めは人間の身代わりとして生まれたのだろうと思う。人間に降りかかる不幸を、人間と同じ形をしたものに引き受けてもらおう、という発想だったのだろうと思う。昔はそういう観念が存在したし、有効に機能していただろうとも思う。
しかし、今はそんなことはない。人形はただの愛玩物以上の意味はなく、特別になんらかの記号が与えられるようなことはない。人形に、存在としての価値が与えられるようなこともない。
それでも、人形は生み出されていく。
人間は、自分と同じ形をした存在に、一体何を見出すのだろうか?
僕は思う。人間は、人形の中の『死』を見つけることで、自分自身の『生』を確認しているのだろう、と。動かない、自分とは違う存在としての人形を見て、その違いの一つ一つに、自分が生きているということを確認するのではないか、と思うのだ。
だから、あくまでも僕らは人形に『死』を強要する。自らの意思では動かない、自らの意思では喋らない、自らの意思では考えない。そうしたことを、無意識のうちに人形に強要している。
最近、人形もどんどん進化し、ハイテクロボットがどんどん登場するようになった。近い将来、鉄腕アトムのような、人間に限りなく近い人形(ロボット)が生み出されるかもしれない。しかし人間はそこに、本能的に恐怖を感じるだろう。『死』を体現するべき存在である人形に、『生』が宿っているように感じられるのだから。これを書いていて今、そういえば瀬名秀明の「デカルトの密室」という作品の中で、人間型のロボットが一般に発売されるというような設定があって、似たようなことを書いていたような気がするな、とふと思いました。
冒頭で僕は、人形は生きている、というようなことを書きました。それが、『死』を体現するというのは矛盾ではないか、と思うかもしれません。でも僕にはこう思えるのです。人形たちというのは、生きながらにして時間を止められてしまった存在なのではないか、と。生きていることは生きているのだけど、時間が止まってしまっているから、それはある意味で死でもある。そういう存在なのではないか、と。
僕は、人形を怖いと思う。人間に似ていれば似ているほど怖いと思う。同じように感じる人は多いだろう。
しかしそれはある意味で、人形が生きているかもしれない、ということを認めているのと同じことだと僕は思う。例えば僕らは、テレビを怖がったりはしない。自分から動いたり喋ったりしないし、死んでいることが明らかだからだ。しかし、幽霊を怖いと思う人は多いと思う。それは、生きているかもしれない存在だからだと僕は思う。人間は、生きているかもしれないものに恐怖を感じるし、人間らしければらしいほど、人形にもそうした感情を抱くだろう。
僕はまあ、生きている間に人形を作ることはないだろう。しかし、もし万が一そんな機会がもしあれば、やはりそこには絶対的な死のイメージを込めてしまうだろう。人形とはそうした存在だし、だからこそ人を惹き付けるし、それでいて人を遠ざけるのである。
正直書いていることがよくわからなくなってきたので、この辺で内容に入ろうと思います。そういえば、森博嗣の「人形式モナリザ」でも人形について色々書いたような気がしてきました。なんとなく、そっちの方が出来がよさそうな気がするんだなぁ。
本作は、人形に彩られた物語である。
如月まゆらという女性が生み出すドール。それが、物語の始まりでもあり、物語のすべてでもあり、物語の終わりでもある。
了は、両親を幼くして亡くし、親戚の養父母も不幸な事故で失った。多額の賠償金と遺産で生活をしている大学生である。
了はある日、自宅近くの細い通り沿いの家の窓から、人形が放り投げ出されているのを見つける。その人形は、決して可愛いと言える様なものではなかったが、この世のものとは思えないほどで、彼はその人形に恋をしてしまった。作り手なのだろう家主を訪ねて人形を譲ってもらおうとしたが、欲しかった人形を目の前で叩き壊されてしまう。何とか修復を試みようと日々を過ごす了の前に、なんと人形を同じ顔をした女性が現れる…。
聖はアングラ劇場の舞台女優。本名は聖子だが、父親がつけたその名前が嫌で、聖と名乗っている。
彼女はある日、自分と同じ顔を持つ人形を見つけて驚くことになる。なんでこんなものがあるのだろう、と。
彼女の周りにはストーカーがうろうろし、パトロンである素敵なオジサマが守ってくれている。コッペリアという舞台を成功させるために日々稽古をしているのだけど、いろいろとなんだかおかしなことが起こる…。
まず本作を読んで驚いたことが、加納朋子という作家のこれまでの作風とは明らかに違っている、ということである。
加納朋子と言えば、「ななつのこ」でデビューして以降、日常の謎を優しいふんわりとした文体で綴る作品で評価されてきた作家だけど、本作はこれまでのそんなテイストとはまるで違う。これまでの作品がカスタードクリームだとすれば、本作は氷水というぐりあの違いがある。それぐらい、文章は硬質で冷たく突き放したような感じで、登場人物もクールで冷淡な人間が多い。僕としては、こういう作風やそういう登場人物は好きなのでよかったのだけど、これまでのような作風を期待していた読者にとっては、かなりびっくりするというか、もしかしたら期待外れの作品ということになるのかもしれないです。
結局僕は、人間らしくないというか、冷たいというか冷淡というか、感情が乏しいとか、そういう人間になんとなく惹かれてしまうわけで(これは難しいところで、現実世界で実際にそういう人にあったとしたら、またどうなるかはわかりません。でも、少なくても小説の中では、そういう登場人物は最高です)、考えてみればそれはある意味、人形に近い人間を僕は求めているということなのだろうか、という風にも考えてみました。そういう意味では、僕は了のことをおかしいという風には言えないのかもしれません。
まあ人形に恋をするというのは、ギリシャ神話だかなんだかでそういう話があるそうですが、僕には理解できませんけどね。特に、オタクというような人たちが、お気に入りのキャラクターのフィギュアなんかを愛しているようなのには、ちょっとついていけないですね…。
また、構成がなかなか面白い作品で、多視点で視点があれこれ入れ替わるのに初めは慣れなかったけど、読んでみて、なるほどという感じで、なかなかいい構成だなと思いました。
人形というモチーフも面白いですね。さっきも書いたけど、森博嗣の「人形式モナリザ」という作品でも人形が扱われていて、人形と人間の関係について作中であれこれ考察的なことが書かれていて、本作も同じく、人形という存在についていろいろ考察的なことが書いてあって、そういうのを読むと、人形ってのもなかなか面白い存在だな、と思ったりします。奥が深いな、と。
本作は、ミステリーと言えるのかどうか難しいところで、本当にこれまでの著者の作品とはまったく違うものになっています。本作に一番近いのは、「一番はじめにあった海」でしょうか?ミステリーなんだけどミステリーではない加納朋子の不思議な作品。180度くらいまったく傾向が変わっている、言ってしまえばらしくない作品です。加納朋子のファンという人には、出来れば読んで欲しいなと思います。それで、この変化というか作風の違いをどう感じるのかを知りたいなと思います。加納朋子の作品を一作も読んだことがないという人には、僕はオススメしません。これが加納朋子の普段の作風だと思われてしまうのもなんだかなぁとおもうので。加納朋子の作品を読んだことがない人は、まず「ななつのこ」や「ガラスの麒麟」「沙羅は和子の名を呼ぶ」あたりを読んで欲しいなと思います。
僕としては本作は結構好きです。読んでみてください。

加納朋子「コッペリア」



むかしのはなし(三浦しをん)

独白という形で、昔を語るようなことはほとんどないだろう。
独白、なんて、なかなか現実的な行為じゃない。
ただ、無性に何かを語りたい、と思うことはあるかもしれない。無性に、何かを残したいと望む瞬間があるかもしれない。ただ語るという行為が、何かを生み出したり繋ぎとめたりするかもしれない。
僕の周りにはいないけど、昔を語りたがる人というのは結構いるかもしれない。昔の自分はどうだった、すごかった、など。年をとればとるほど、そんな傾向が強いような気がする。
過去にしがみつくことがいいことだとは思わないけど、語るべき過去があるというのはある意味で羨ましいことなのかもしれない。僕の場合、わざわざ人に話すほどの過去なんて特別にない。しがみつくほどの過去もどこにもない。
なんだか、それはつまらない気がする。
昔から語り継がれる物語、というものがある。創作なのか、あるいはほとんどが事実なのか、その辺りのことはわからないけれども、ただ、そこには、語り継がれるべき価値がちゃんとある。だからこそ長く残る。
人の人生も物語のようなものだ。人の数だけ物語は存在するが、その中で残る物語なんてほんの僅かしかない。
ほとんどの人間の物語は残らないだろう。しかし、一人の人間の独白を聞いてくれる存在があれば、どこか救われることがあるかもしれない。残るはずもないどうでもいい物語を、語るような価値も見出せないような物語を、ただ聞いて受け入れてくれる存在というものがあるのなら、少しは救われる気がする。
何を書いているのかまったくわからなくなってきたので、ちょっと別の話をしようと思う。
もし、あと少しで死ぬことがわかったら、あなたは一体何をしますか?
これは最近何かの感想で書いたような気もするのだけど、まあ一応。
僕は、100%自分が死ぬことが確実であっても、生活を変えたくないな、と思う。普段どおり生きていたい。
大半の人やはりそう考えるのではないか、と僕は思ってしまう。どうせ死ぬんだから、という発想で何か犯罪めいたことをするというのは、むしろ少数なのではないかと。
本作にもこんなような感じのセリフがあった。
『そういう奴らは、「どうせ死ぬんだから」と言ってそういうことをするわけだろ。でも、死ぬことは、生まれた時から決まってたじゃないか。』
なるほどですね。そう、結局は人間は死ぬ、ということを、どこか人間は忘れようとして生きているのですね、きっと。
もしも間近に死が迫っていても、僕はそれまでの僕と変わらない自分でいたい。そんな風に思ったりします。
ちょっと今回は感想を書くのが難しいです。というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、なかなか面白いというか、変な試みがなされています。
短編集なのですが、それぞれの短編が、あの「むかしむかしあるところに…」で始まる昔話に対応している、という形式なのです。僕にはその対応関係がよくわからない作品もありましたが、なるほどなと思えるような話もありました。
そして、これはすべての短編に共通というわけではないのだけど、三ヵ月後に地球に隕石が衝突するという背景を持った短編が沢山あります。その三ヶ月という短い期間を人々がどう過ごすか、という話でもあります。
とりあえずそれぞれの内容を紹介しようと思います。タイトルの横に書いてあるのが、その対応する昔話です。

「ラブレス」かぐや姫
ヤクザに追われて倉庫に隠れている男が、最後にメールでする独白。男はホストで、割と成功を収めていた。しかし、短命な家系の血のせいか、27歳の誕生日を境にどんどんと運が尽きてきて…。

「ロケットの思い出」花咲か爺
犯罪で捕まった男がする独白。ロケットという、昔飼っていた犬との思い出から始まり、高校での犬山との出会い、そして何故今ここに至ったのか…。

「ディスタンス」天衣の羽衣
自分の恋についての独白。14歳年上の叔父さんを好きになった少女は、誰にも内緒で付き合っていたのだけど…。

「入江は緑」浦島太郎
入江に住む男の日記。幼馴染が、綺麗な女性を連れて帰ってきた。どうやら両親ともめているらしい。船に乗りたいといった女性と三人で海に出ている間に、世間ではある重大発表がなされ…

「たどりつくまで」鉢かつぎ
深夜を流すタクシー運転手の日記。ある奇妙なお客さんを乗せた。女性で、顔の半分を包帯で巻いている。そして、コートの下は全裸なのだという。地球に隕石が衝突するのに整形なんかする私はおかしいかしら…。

「花」猿婿入り
知らない間に結婚させられていた女性の独白。新種の花について研究している男と、あれよあれよという間に、よくわからないうちに結婚するはめになった。こんな遠くにきてしまって、私は一体どうすればいいの…。

「懐かしき川べりの町の物語せよ」桃太郎
「モモちゃん」との思い出の独白。陰で「モモちゃん」と呼ばれている、数々の伝説を持った高校生がいた。珍獣のような生態で、なかなか誰も近づけない。僕は、出来れば近づきたいなと思っていたのだけど、思いがけず話をするようになって…。

本作は、ちょっとなんとも言えない作品集である。それぞれの短編がものすごく際立っているという風にも思わないし、全体として素晴らしくまとまっているという感じも受けない。だからと言ってダメな作品かというとそういう気もしなくて、読んでいてすんなり入ってくるストーリーだったりはします。
なかなか評価のしずらい作品です。
それぞれの短編は、互いにほとんど関係はしないのだけど、時々関わりを見せます。そういう作りは結構好きなのだけど、でもちょっと中途半端な気もしないでもありません。
また、昔話との対応関係も、ちょっとどうなのかな、というものが結構あって、その発想はすごく面白いなと思ったけど、これも中途半端な気がします。
しかし、独白という形式で全編書いているというのは、これは非常に面白いなと思いました。印象としては、マジックミラーの向こう側に独白をしている誰かがいて、それを僕らはマジックミラーの裏側から覗いているような、そんな感覚になります。これは、読者が物語に接する形としては、結構珍しいのではないかという気がするし、面白い試みだなと思いました。本作の登場人物がする独白も、そのほとんどが相手がいなかったり相手からの反応を期待出来ないような状況での独白ばかりで、そういう設定も、マジックミラー越しに見ているという感覚を強くするのだろうと思います。
本作に収録されたストーリーがどうなのか、僕にはなかなか評価は難しいところだけど(平凡で退屈だという気もするけど、そうは言い切れない何かがあるような気もする)、独白という形式が与える不思議さというものがなかなか面白くて、僕は本作をそれなりに面白く読んだのだろうと思います。
あと、ちょっと装丁にはびっくりしますね。これは、デザインなのか、それとも本当に汚れているのか、いやもちろんわかるけど、でもちょっとびっくりって感じです。面白いですね。
オススメかどうかと聞かれれば、オススメはしません。ちょっと、人に勧められるだけの面白さがあるとはちょっと思えません。でも、独白という形式が生み出す不思議さは、ちょっと味わって欲しかったりするかな、とも思います。そんな感じです。

三浦しをん「むかしのはなし」



しょっぱいドライブ(大道珠貴)

うーん、なんにも書くことがない。
ってーか、何を書けばいいというのだろう?
本作は、芥川賞受賞作が収録されているのだけど、なんだこりゃ、って感じだった。
前から、芥川賞と直木賞には当たり外れが酷いなと思っていたけど、最近読んだ「メッタ斬り!文学賞」という本で、さらに芥川賞と直木賞が大した賞ではないということがわかったので、まあ今さら落胆はないけども。
芥川賞作家や直木賞作家にいい作家は沢山いるけれども、でも、芥川賞受賞作や直木賞受賞作がいい作品かというとそんなことは決してないと思う。まあ本作も、そんなダメな方の作品だったんだけど。
本作はすごく短い作品で、文庫だと(僕が読んだのはハードカバー)すごい薄っぺらいんだけど、それでも読むのにすごい時間が掛かって、退屈すぎるから読んでる途中に何度も寝ちゃうくらいで、何度読むのを止めようかと思ったけど、まあこれぐらいの薄さの本を諦めるのもなんだと思ったのでなんとか読み通しました。
というわけで内容に入りましょうか。
短編集なので、それぞれの内容をざっと。

「しょっぱいドライブ」
九十九さんというおじさんと、デートなのかなんなのかドライブをする話。

「富士額」
お相撲さんと中学生があれこれする話。

「タンポポと流星」
主従関係がいつまでも切れない女性二人の話。

内容紹介もすこぶる適当ですね。
僕の本作に対する感想は、お経、あるいは、ダラダラ、という感じです。
なんか、きゅっと締めても水がぽたぽた落ちてくる蛇口みたいなもので、締りがない。ダラダラしてて、どこが始まりで何が終わりで、っていうか何の話なんだ、という感じがずっとしてた。意味がわからない。
主人公の女性がどれも似たような感じで、優柔不断というかなあなあというかダラダラというか、そういう締りのない女性で、どれを読んでも、うーん、だからなんなのさ、と結局思ってしまいました。
何が面白いのかさっぱりわからない作品でした。僕としては、決して読まないことをオススメいたします。

大道珠貴「しょっぱいドライブ」




チーム・バチスタの栄光(海堂尊)

養老孟司の著作に「死の壁」というものがある。その帯に、こんな言葉が書かれている。
『人間の死亡率は、100%です。』
これを見たとき、すごく当たり前のことなんだけど、なるほどな、と思った。僕らは、いつか絶対に死ぬということを頭のどこかでわかっていながら、それを意識してはいないんだな、と思わされた。
という話から、人間の死について書こうと思ったのだけど、最近「探偵伯爵と僕」の感想で、人を殺すことについてあれこれ書いたような記憶があって、なんとなく書こうとすることがかぶりそうな気がするし、まあ死についての話は小説でもよく取り上げられるし、どこかの感想でもまた書くだろうから、今回はいいかな、と思った。
ただ、一つだけ書いておきたいことがある。
人間は、『何故死ぬんだろう?』という風には考える。人に死に直面した時、不治の病に冒された時、小説や映画を見た時。そういう時、僕らは『何故死ぬんだろう?』と考えるだろう。普段死について意識していないくせに、この思考は割と一般的な志向だろうと思う。
しかし、『人間は何故生きているんだろう?』と考える人は本当に少ないのではないか、と僕は思う。僕らは、人間が生きていること自体は前提だと捉えたがるのに、人間が死ぬことについては前提と捉えることができないのだ。それは何だか面白いと思った。
僕は寧ろ、死に方を選択できるだけ、死の方にこそ自由度があるだろう、と思っている。やろうと思えば僕らは、いつだってどうやったって死ねる。しかし僕らは、どう望んでも、生まれたい時に生まれたい環境で生まれることは出来ないではないか。
そんな風に考えると、死というものは全然特別ではないだろうな、寧ろ生きていることそのものの方が不思議だ、とは思えてこないだろうか?
さて、閑話休題。
僕は、アウェーが好きな人間だ。アウェーという言い方はちょっと違うかもしれないけど。
昨日僕は飲み会があったんだけど、僕は飲み会の場で席を一歩も動かない。初めに座った場所から、僕は全然動かないのである。たとえ別の場所で盛り上がっているところがあろうとも、僕はそっちに動いたりしない。
昨日は、そういうアウェー的な性格を持つ人間がいて、まあ僕は長いことそいつがアウェー的な人間だってことは知らなかったんだけど(向こうもそうだったらしい)、まあとにかくそんなわけで、「俺等はアウェーだよな」とか言いながら、座った席から動くことなく飲み続けていた。
僕は例えば、知り合いが沢山いる場所っていうのはすごく苦手である。苦手というか、そういう場所だととにかく僕は『無』でいようと努力してしまう。喋らないし何もしない。わざわざ自分が喋ったり何かしたりすることはないだろう、という風に考えてしまうし、まあこんだけ人がいればまあ何とでもなるだろう、という風に考えて何もしなくなってしまう。
『知り合いが沢山』という書き方をしたけど、僕はそもそも三人以上の人がいると、まあいいかと思ってしまう。自分を含めて人間が三人いるなら、自分以外の二人で喋ったり何かしてくれればいい、という考えになってしまう。その代わり、二人だけという環境だと、まあ僕は喋ったり何かしたりすることが多い、かな。
けど、人ごみが嫌いか、というとそうでもない。僕は、あの渋谷の交差点並の人ごみは大好きである。何故なら、その周囲にいる人間が、全員ほぼ間違いなく他人だからである。自分のまったく知らない人間に、無意味に囲まれているという状況は、なんか非常に安心できる。そこでは僕は、『プラス』でも『マイナス』でも『ゼロ』でも『無』でも何でもいいのである。周りは他人なので、僕がどんな状態であろうと別に気にしないだろうし、何をやってもいい。そういう状態というのは、非常に安心できる。
ここまで読んで、僕のアウェー感を何となく理解できる人もいるかもしれない。まあそういう人は、僕と同類の人だろう。しかし、わからない人の多そうな気がするのでもう少し。
椅子取りゲームのことを考えてもらえばいいかもしれない。
僕は、参加者に対して椅子が多いような場合なら(というかこの場合椅子取りゲームにはならないけど)、じゃあまあ余っているなら座ってやるか、という発想になる。しかし、参加者に対して椅子が少ない場合は、まあいいか、と思って椅子に座ることを放棄してしまうのである(もちろん、実際に椅子取りゲームをやるってことになれば真剣にやるけど、僕の人生のやり過ごし方の比喩として椅子取りゲームを出しました)。これがまあ僕のアウェー感です。なんとなくわかるでしょうか?
人生はほとんど、参加者に対して椅子が少ないようなものばかりである。みんな、競い合って椅子を勝ち取ろうと頑張って生きているわけです。時には座っている人をどかしてでも座ってやろう、というような人がいっぱいいるわけです。
しかし、僕にはどうしてもそんな生き方はできません。競争心や闘争心がないとか、欲がないとか、まあそういうことなんだけど、でも、わざわざ競い合って相手を蹴落としてまで求めるその椅子が、僕にはどうしてもそこまでするほど魅力的には見えないんですね。本当に普段から、なんでみんなそんなに椅子が欲しいんだろう、と僕は不思議に思いながら生きています。
僕は、昔はこんな考え方ではなかった、と思います。昔は、まあ普通の人のように、椅子取りゲームの人生の参加者に一人として自分を養成しようと頑張っていました。しかし、何となくその生き方に齟齬を感じ始めたのが、大学時代でした。当時は、その違和感を言葉でちゃんと表せるほど明確にわかっていたわけではなかったのですが、今ならなんとなく分かります。僕は、椅子自体に魅力を感じていないのに椅子取りゲームに参加しなくてはいけないことを、苦痛に感じていたのだと思います。そして、あらゆる手段をつかってその生き方から脱却するように努力したのだと思います。
僕は、正真正銘のフリーターで、大学中退のおまけつきというダメ人間ですが、少なくても今の生活には非常に満足しています。僕には、今の生活以上に求めるものがあまり多くはありません。周囲の人間からはそうは見えないかもしれないけど。
自分がアウェーが好きであるということに気づき、そしてアウェーとして生きていこうと決断できたことが、僕にとってはかなり正しい生き方だったな、と今は思います。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、病院が舞台の医療ミステリーです。
主人公は田口という医者。しかしこの田口は、僕と同じくかなりアウェーな人間で、勤め先の病院でも、かなり特殊な位置にいます。
その名も、『愚痴外来』。正確な名称は『不定愁訴外来』というのだけど、『田口外来』をもじった『愚痴外来』という名前が通称になっています。
この『愚痴外来』、一体どんなところかと言えば、器質的な問題は一切ない、つまり病気は完治していると判断されるのに、それでもまだ痛みやなんかを訴える患者の『愚痴』をただ聞くだけという、そういう変な外来なのです。もちろん出世コースでも何でもないわけだけど、病院として一定の役割を持っているし、ある程度その意義も認められていて、かつ田口本人としてもそれなりに満足しているという、そういうどうみても順風満帆だった田口にある日、病院長から奇妙な以来が舞い込んできました。
『ある手術が医療ミスかどうか調査をして欲しい』
田口が勤める東城大学医学部付属病院には、『チーム・バチスタ』と呼ばれる、バチスタ手術のプロフェッショナル集団がいました。バチスタ手術というのは、肥大した心臓を切り取って小さくして、元の機能を取り戻すというような、かなり難易度の高い手術で、その手術で世界中でも指折りの技術を持つ桐生医師が中心となっているチームです。チーム・バチスタの手術は、成功率100%を誇る驚異的なものだったにも関わらず、最近術死(手術中の死)が相次ぎ、自分のミスとは思えない桐生本人が病院長に調査を求めた、という経緯がある。
その依頼が、何故リスクマネージメント委員会ではなく、万年講師でしかも外科の知識にはほとほと乏しい田口なんかに回ってきたのかは病院長からの説明でもまだ謎だったが、とにかく田口は、過去のカルテを見たり関係者に聞き取りをしたりして調査を開始する。
しかし、何も出てこない。医療ミスらしい痕跡はないし、無論殺人のやれる隙間などどこにもない。一体これは不運な事故なのか?それとも誰も気づいていない医療ミスなのか?それとも、悪意が引き起こす悲惨な殺人なのか?
という話です。
新人とは思えない、というのが率直な感想です。
巻末の選評にも書いてあるけど、プロットは確かに地味です。何でかわからないけど手術中に人が死ぬ、というのも、ミステリーの謎としては非常に魅力に乏しいと言わざるおえないかもしれません。
しかし、それでも読ませます。骨格は地味なんだけど、装飾がかなり派手とでも言えばいいんでしょうか。時々、『医者の世界の論理』というものについていけなくなるときはあるけど、でもそれ以外には、病院の設定やチーム・バチスタという存在など、物語を覆い尽くさんばかりの設定の面白さが、ページをめくらせます。
そしてなんと言っても、登場人物が面白すぎます。僕としては何よりも、自分と同じアウェー感を持っている田口という医師が好きなんだけど、それ以外にも、出てくる人間の誰もがどっしりとした存在感を持っていて、決して誰もが目立つというわけではないのだけど、くっきり輪郭がわかるような、そういう明確な存在感があったりします。
まあ、他の登場人物があまり目立っていないというのは、目立ちまくっている強烈なキャラクターが一人いるせいなんだけど。
第二章から突然現れる白鳥という男。このキャラクターは破格で、僕が大好きな『変人』で、もう最高でしたね。
一応肩書きは、厚生労働省の役人なんだけど、厚生労働省での奇抜なエピソードと、そこからの今までの流れ、厚顔無恥で取り繕うことのない性格、棘のある言動、意味不明な言動など、とにかく常識というものを悉くどこかに置き忘れてしまったような人間です。
まさしく僕の大好きな『変人』で、これまでいろんな小説で『変人』を読んできたけど、結構トップクラスに入り込む『変人』で、読んでてもう楽しかったですね。
とにかく、言っていることがほとんど意味不明で、田口も振り回されっぱなしなんだけど、でも結局最後は、なんだかんだ白鳥のお陰でいろんなことがうまく収まるみたいなところがあって、これは白鳥というキャラクターをシリーズ化して欲しいものだ、と本当に思いますね。
また僕としては、ミステリー部分が終わった後の話というのがかなりいいなと思いました。ミステリーというのは、犯人を指摘して、それなりにエピローグ的なものをつけて終わってしまう作品が多いのに、本作は、犯人が指摘された後も結構物語が続き、しかもそこでもいろいろと面白い展開が続いていきます。僕としては、犯人指摘後のストーリーにも目を配ることの出来る著者の度量というかそうしたものを高く評価したいと思います。
ミステリーとしてみれば、確かに地味な作品なのかもしれません。謎も流れも解決も、ミステリーとしてみると、確かに大した話ではありません。しかし、本作を傑作足らしめているのは、登場人物の魅力なんかを含めた装飾の部分にあります。これが滅法面白い。抜群の面白さを誇っています。新人の作品としては本当に破格だと言ってもいいでしょう。
今結構売れている作品なので読んだ人も多いかもしれないけど、でも是非とも読んでください。これはちょっと必読かもしれないですよ。最強のエンターテイメントです。

海堂尊「チーム・バチスタの栄光」






過ぎ行く風はみどり色(倉知淳)

僕は、幽霊はまあいてもいいんじゃないかと思う。でも、共有することはできないだろうな、と思う。
僕は、まあいわば理系の人間で、だからってこともないんだろうけど、そういう超常現象とか幽霊だとかあの世だとか、そういう話をそのまま信じるってことはない。例えば、ポルターガイストを自分が経験したとしても、これは幽霊のしわざだとか思うんじゃなくて、まだ知られてはいないなんらかの物理的な現象によってこういうことが起きてるんだろうな、と考えるだろうと思う。
僕らのような普通の人間は結構、科学は進歩したんだし結構いろんなことが判明してたりするのに、でもポルターガイストがまだ解明されてないなんておかしい。やっぱり霊のしわざだ、とか思うかもしれない(思わないかもしれないけど)。でも、科学で解明できていないことなんて、まだまだ山ほどあるのだ。例えば、人間の脳に何故意識が宿るのか、宇宙の始まりはどうだったのか、全然わかってない。
最近新書で、「99.9%は仮説」っていう本が出たけど、その本の帯には面白いことが書いてあった。
『何故飛行機が飛ぶのか、まだ解明されていない』
不思議に思うことだろう。飛行機がどうして飛ぶのかぐらい、ちゃんと科学は説明してくれているはずだ、と思っていたはずだ(もちろん僕だって)。しかし、恐らくこんな理由で飛行機は飛んでいるんだろう、という仮説はあっても、それが絶対に正しいなんてことはわかってない、ということだ。
まだまだ世の中にはわからないことが山ほどある。超常現象や霊のことが解明されていなくても全然おかしくもなんともないではないか、と思うのである。
そもそもどうして人間は、理屈で説明できないことを霊やなんかのせいにしようとするのか。
やっぱり、人間はわかりやすい説明というもものを常に求めているわけである。わからない、という状態が一番苦手で、矛盾はあっても一応説明になっていればそれを信じるのが楽な生き方というものである。それを否定するつもりはまったくないし、むしろそういう些細なことに頭を使わずに済むわけだから、効率のいい生き方だとも言えるかもしれない。
さて、僕も幽霊の類を『見た』ことがある。大分昔のことなのでちゃんとは覚えていないのだが、幼稚園の肝試しの時に火の玉を見たのと、いつの頃かは覚えてないけどトンネルで全身が緑色に光った女の人を見たことがある。
まあもちろん、火の玉は何らかの方法で幼稚園の先生が仕掛けたものかもしれないし、トンネルの女性は本当にただの女性で、何らかの理由で緑色に見えていただけなのかもしれない。いや、まあ99.9%それで間違いないだろう。
しかし、こういう風にも考えられないこともない。今から僕が説明することで、ありとあらゆる霊現象というものは説明できてしまうだろうと思うのだ。と、何だかすごいことを書くような雰囲気だけど、いやそうじゃなくて、要するにすべて『錯覚』だということである。
その説明をする前に、別の話をしようと思う。色の話である。
例えば今目の前にりんごがあるとしよう。これは『赤色』である。しかし、Aさんには何故か『緑色』に見えている、としよう。しかしAさんは、『緑色』を赤色だと認識している。つまりAさんに、「あそこにあるりんごは何色ですか?」と聞けば、『緑色』に見えているけれどもそれを赤色だと思っているわけで、赤色だと答えるだろう。そうすると質問者も、ああこの人もりんごの色は『赤色』に見えているのだな、と思う。
こういうことを考えたことはないだろうか?
つまり僕が言いたいことは、誰もが同じものを見ているとは限らない、ということである。
僕ら人間は、一人一人違う景色を見ているかもしれない。しかし、言葉は共通しているわけで、会話をしていてもわからない。僕に見えている『赤色』と、僕以外の人が見ている『赤色』が、同じ色だという保証はどこにもないのである。
さてそのことを踏まえると話は簡単である。僕ら人間は、ほぼ『同じ』世界を見ている(ここでの「同じ」の意味は、言葉で会話を交わす限り破綻しない、という意味である)。しかし、ほんの僅かだけ見ているものに違いがある。例えば、道端に落ちている石の数が、僕には100個に見えているけど、Aさんには101個に見えている、というようなそういう差があるかもしれない。とすると、幽霊というのも、そういう見ているものの差なのではないか、という気がするのだ。ある人が、『幽霊を見た』と言っても、それはその人にしか見えない世界であって、他の人は見ることができない。
言っていることはわかるだろうか?
つまりこれが、僕が『幽霊はいるかもしれないけど共有できない』と言った理由です。人間が皆、同じ世界を見ていると考えるからこそ、幽霊だの超常現象だのが不思議なものに見えてしまうわけです。僕ら一人一人は、僅かに違う世界を見ているのだと考えれば、不思議なことは何もなくなるんじゃないか、と思います。
どうでしょうか?納得いかないですかね?
だから、例えばUFOとかも、見えている人には見えているんだと思います。それは別に嘘とかではなく。まあ嘘もあるんだろうけど。でも、映像とかには撮れないわけです。映像ってのはきっと、人間全員が共通して見ることができるものしか映してくれないんです、たぶん。
まあ僕はこんな風に考えているわけです。事実は一つだけかもしれないけど、真実は人の数だけある、ってわけです。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
さて、久しぶりに読んだ、殺人の起きる本格推理小説でした。いや~、本当に久しぶりだった気がします。
親父がどうもおかしくなった、という母の話を聞いて、10年も戻っていなかった実家に戻ることに決めた成一。祖父が一代で築き上げた財産のお陰で、実家は広く割合豪勢な生活をしているのだけど、成一はそこを出て会社に就職し、普通のサラリーマンになったわけです。
成一が実家に戻ったまさにその日、第一の事件が起こります。
成一が戻ってみると、実家には二組の客がいました。一つは霊媒師、もう一つは超心理学研究の学者。何でも、今まで苦労を掛けっ放しだった亡き妻にどうしても謝罪したい、という祖父の願いを叶えるために霊媒師が呼ばれ、それを胡散臭く思った家族が超心理学の学者を呼んだ、とこういうことらしい。確かに母が言った通り、変なことになっているようだ。
さてその日、事件は夕刻に起きた。離れで隠居生活をしている祖父が、その離れで殺された。玄関以外の場所からの出入りは絶対になく、かつ、玄関の出入りは成一によって偶然にも見張られるという状況だったため、奇妙な密室状態での殺人ということになった。警察もお手上げである。
その数日後。祖父が死んだというのに、叔父の音頭で交霊会が開かれることになった。その交霊会の場で、誰もが自由を制限された状況下で、またも殺人が起きてしまった。本当に幽霊の仕業だとでもいうのだろうか?
成一の学生時代の先輩で、面白そうなことになら何でも首を突っ込みたがる変人である猫丸先輩にこの話をすると、一も二もなく食いついて、推理を巡らすのだけれど…。
という感じですね。
いや、なかなかの作品でした。
まず、猫丸先輩というキャラがなかなかいい。働いている気配はなく、どうやって生計を立てているのか不明。30過ぎなのに童顔で、余計な知識にはめっぽう強い。かつ、厚顔無恥のもほどがあるほどの厚かましさを発揮する、まさしく変人なのである。しかしこの変人は、今まで何度か事件を解決したことがあるという人で、やる時はやる、という感じである。
とにかく僕は変な人が好きで、っていうかまあ普通の人が嫌いなんだけど、変であればあるほどいい。僕の中で『変な人』というのはほとんど最上級に近い誉め言葉なんだけど、まあそれについては理解されないだろうと思うからあまり口にしないようにしているけど。
小説を読んでても、変な人が出てくるとうきうきしてしまう。例えば伊坂幸太郎の作品なんか変な人の世界大会ってぐらい変な人のオンパレードで、読んでいて楽しくなってしまう。あと西尾維新とか森博嗣とか、とにかく変な人がわさわさ出てきてくれると、もうそれだけで楽しくて満足出来てしまう人間なのである。僕としては、事件に関わる部分の話が多くて、猫丸先輩との絡みとかが少ないような気がしてちょっと残念だったけど、とにかく変な人が出てきてくれたのでかなり嬉しかったわけです。
まあ僕は、実は猫丸先輩とは初対面ではないわけで、競作として出版された「五十円玉二十枚の謎」という本の中で、まだデビューする前の倉知淳が別名で書いた短編小説のキャラクターとして登場しているのが、恐らく猫丸先輩のデビューで、それは大分前に読んで知っていたんだけど、久しぶりだということもあって猫丸先輩がどんな人かも忘れてたし、面白かったです。
トリックに関わる部分も、なかなかうまく出来ているな、と思いました。そうくるか!って感じで、なるほどって感じですね(トリックのある作品は、そのトリック自体を書けないので、どうしてもこういう曖昧な表現になってしまうな)。
全体的に『幽霊』をキーワードにしていて、幽霊的な飾りつけがいろいろと出てくるのだけど、それがいちいち合理的に説明されるので、読んでいると、やっぱ幽霊とかが存在してるんじゃなくて、トリックとか錯覚とかなんだろうな、と思います。
結構長い作品なんですけど、スラスラ読めます。特別オススメってこともないし、倉知淳の作品なら「壷中の天国」や「星降り山荘の殺人」なんかの方がオススメなんだけど、でも本作もなかなかアリだと思います。気が向いたらどうぞ。

倉知淳「過ぎ行く風はみどり色」




アイソパラメトリック(森博嗣)

物語というのは論理で出来ていると思っている。というか、思っていた。
どんな作品でも、そこには底流というか前提がある。物語そのものの基礎とでもいうものだ。それが論理だろうと僕は思っていた。
文学だろうがミステリだろうがなんだろうが、論理の呪縛からは逃れられない。論理がなくては、物語そのものの伝達に支障をきたすだろうし、物語としても成立しないだろう。
そう思っていた。
しかし、本作には『論理』がない。もちろん『論理』がないのだから、『論理の飛躍』すらない。そこには、ただひたすら『飛躍』があるのみである。
もちろん議論としては、本作が物語でない、という可能性に言及しないわけにはいかないだろう。『論理』が存在しないならば、物語ではそもそもないかもしれないではないか、と。
そう自分に問いかけてみて、初めて触れた感触がある。それは、物語というものは与えられるものではなく、自ら見つけ出すものなんだ、という発見である。
僕らは、小説や映画という形で物語を与えられる。というか、それが自然だと思っている。物語は与えられるものだ、と。
しかし僕らは同時に、普段から物語を自ら見出すようなこともやっているのである。
例えばステレオタイプ的なことを書けば、喫茶店で向き合って深刻そうな会話をしているカップルがいるとする。彼らにとってはそれがデフォルトで、特に喧嘩をしているわけでもなんでもないのだが、その喫茶店にいた別の人はそのカップルを見て、あれは別れ話をしているに違いない、とストーリーを作り出す。
例えば、ある日から女物のハンカチをスーツのポケットに入れることにしたサラリーマンがいるとしよう。彼にとってはゲン担ぎの一種であり、他に意味はない。しかし、それを見つけた奥さんは、浮気をしているのかもしれない、とストーリーを作り出す。
こうやって僕らは普段、与えられた素材からストーリーを作り出すということをやっている(例があまり日常的なものではなかったかもしれないけど)。ものすごく日常的に。
しかし、小説の場合は、物語が与えられるという先入観があるために、なかなか物語を見つけ出そうという発想にならない人が多いだろうと思う。中には、ストーリーでは触れられていないある登場人物の過去を想像してみる、なんていうやり方で物語をより楽しむ人もいるかもしれないが、少数ではないかと僕は思う。
僕らは、物語という形を目にすると、自動的に受動的になってしまう。
しかし本作は、物語という形を取りながら、決して物語は与えられない。形式は物語なのに、そこには論理が与えられず、ひたすら飛躍のみがあり、僕ら読者は、受動的ではいられなくなってしまう。
素材だけが与えられている、と考えれば分かりやすいだろう。僕らは、そこからどんな物語を見出しても構わない。そういう自由度が、本作には存在するように思える。
なかなか稀有な作品だと思う。
本作には、森博嗣自らが撮った写真も載っている。前にも、確か「僕の夢君の思考」の感想でも書いたような気がするけど、森博嗣の写真というには孤独が感じられる。対象そのものではなく、対象と撮影者との関係そのものを写真に収めているようで、しかもその関係というのが突き放したような孤独感に支配されているので、どうしても時間が止まったような、既に壊れてしまっているような、そんな印象を与える。
そう、既に壊れてしまっているような印象、である。それは、本作の写真だけではなく、物語にも共通する印象かもしれない。
既に壊れてしまった言葉たちによって構成された物語、なのかもしれない。だからこそ、論理が存在しない。
例えば、壊れてしまった電化製品があるとする。もう動かないものだ。ただのゴミである。いろんなものが失われてしまった、記号的な物質である。
しかし、想像して欲しい。そういう壊れた電化製品、壊れた工業製品が山のように積み重なっているゴミ処理処分場を。それは、ある意味で美しくはないだろうか?
一つ一つは壊れてしまって既に使いようもないゴミである。しかし、それらを積み重ね、境界がわからなくなるほどに一体化させてしまえば、それは見るものに美しさを与えるかもしれない。
そこには理由はない。論理もない。ただ、何故か美しいのである。
本作の文章や写真には、そういう印象がある。既に壊れてしまった言葉たちが、まるで最後の抵抗をするかのように、無邪気に物語を成す。その無邪気さが、論理を吹き飛ばし、物語に美しさを与えているのかもしれない、と。
どこかにあった物語でも、どこかにあるかもしれない物語でも、今後どこかに生まれうる物語でもない。どこまでも独立していて、何もかもが失われて壊れてしまった言葉たちが、その存在を賭けて何かを生み出そうとしている。そんな無邪気さと緊迫感の狭間のような空白が、アイソパラメトリックという奇妙なタイトルと共に、僕らを不思議な世界に連れて行ってくれるのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
まえがきで著者は、本作の成立過程を簡単に記しています。ある日突然、超短編を書きなさいという天啓を受けた、と書いています。森博嗣にしては、なんだか無秩序でらしくない感じもしますが、そんな説明が書かれています。たぶん嘘だと思いますが。そんな理由で森博嗣は創作をしない、と僕は勝手に思っています(思い込みでしょうか?)。
森博嗣は本作を、『神懸り的な本である』、あるいは『天国への階段の踊り場みたいな本』とも。要するにすごいということである。
またまえがきには、著者の小説を創り出すスタンスのようなものが書かれている。一機の飛行機の模型を作っているようなものだ、と。なるほどわかりやすい。そう説明されれば、S&Mのシリーズはもう書かれないのだろう、と納得せざるおえない。しかし、森博嗣が追い求める(求めてはいないかもしれないが)その『最終的な形』というものが、飛行機模型のようにわかりやすくはないだろう、ということはわかる。そこが、凡人の僕としては残念なところだ。
まえがきでは40作の超短編を書いたと書いているのだが、本作に収録されているのは25作だ。残りの15作はどこへ行ってしまったんだろう、というところも気になる。
本作は、見開きに写真と超短編が一つずつ載り、さらに写真だけのページが何ページかある、という構成になっている。
とりあえず、25作のタイトルだけ列挙しようと思う。
「魔法瓶」「誘拐」「穴」「動機」「学識経験者」「ロボット」「読書」「連鎖反応」「潜水艦」「大陸間弾道弾」「ささやき」「対決」「天秤」「浮力」「卒業」「貯金箱」「大きさ」「時計」「アンテナ」「大学教授」「階段」「夢」「蜂蜜」「プロペラ」「船乗り」
僕の好きな作品を列挙しようと思う。
「魔法瓶」「読書」「連鎖反応」「大陸間弾道弾」「天秤」「浮力」「大学教授」「階段」「夢」「プロペラ」
中でも、「魔法瓶」「天秤」「階段」はかなりいい。「魔法瓶」はほんわかしてて意味不明だし、「天秤」は何か意味ありげだし、「階段」はおっと思わせてくれる。あと、「浮力」はまったく掴み所のない作品で、逆にこんな文章を書けるというところがすごいなと思った。
巻末に、「森都馬の日常」、と題して、森博嗣の愛犬である都馬(トーマ)の写真が載っている。そこに一枚、森博嗣(だろう、恐らく)が写っている写真がある。恐らく森博嗣の顔を見たのはこれが初めてだろうと思う。そういう意味でも、本作には価値がある、と僕は勝手に思っている。
本作は、2001年に新書として出版されたものである。限定だったようで、なんだか付録てきなものがついていたようだ。2001年というとたぶん僕はまだ森博嗣に出会っていなかった。出会っていたら、新書版の「アイソパラメトリック」をなんとかして手に入れようと努力しただろう。その新書版のものは、定価がいくらか忘れたが、今では大変なプレミアがついている。確か、1万円ぐらいの値段になっているのではなかったか。惜しいことをしたな、と思う。しかし、内容がこうして読めるのだからまあいいか、とも思う。
森博嗣を好きではない人は、とりあえずこれから手に取るのはやめて欲しいかな、と僕は思います。森博嗣という作品の世界を充分に堪能してから、それからこの「アイソパラメトリック」の世界に入ってほしいなと思います。森博嗣のファンなら絶対に買いです。これほど奇妙な作品集はなかなかないだろうし、そういう点でも非常に面白い作品です。その内容に触れて、不思議な雰囲気というか空間というか、そういう世界を味わって欲しいものだと思います。

森博嗣「アイソパラメトリック」



クローズド・ノート(雫井脩介)

恋愛というのは、なかなか難しい。
多くの人にとってどうでもいいだろうけど、自分の恋愛観みたいなものを書いてみようかと思う。『観』と言えるほど立派なものじゃないけど。
僕の中で、理想の恋愛の形、というものがある。それをまずは抽象的に、二つの図形を比較することで説明してみようと思う。
一つ目の図形。二つの円を重ならないように描き、その中心同士を一本の直線で結んだもの。
二つ目の図形。二つの円を重ならないように描き、その中心からそれぞれ、もう一方の円に向かって一本接線を引く。
なんとなく僕が何を言いたいかわかってもらえるだろうか?
僕は、大抵の人は一つ目の図形のような恋愛を最終的に望んでいるような気がする。つまり、お互いに芯から相手のことを想い、それを芯から受け止める。相手のすべてを理解し、思いやる。喧嘩や仲直りなんかを経ながら、最終的にそういった形に落ち着こうとしているように思える。
でも僕の場合、それはちょっと疲れてしまう。なんか、お互いに命綱を結びつけて岸壁を登っているような感じがしないだろうか?どちらか一方が落ちそうになれば助けるし、どちらか一方が落ちればもう一方も落ちる。そういう関係は美しいのかもしれないけど、でも密すぎるというか濃すぎるというか、とにかく僕にはそれはちょっと辛い。
僕としては、二つ目の図形のような形がすごくいい。
この場合、相手のことを芯から考えているし想ってもいる。でも、それを相手の中心まで届けさそうとは思わない。相手の方を向いているよ、ぐらいな感じで、表面をなでるような感じがいい。
ニュアンスは伝わるだろうか?
僕は、自分の気持ちだとか感情だとかを表に出すことが本当に苦手な人間である。わかりずらいと結構言われる。僕としてはこういう感情を出しているつもりなのに、それが相手に伝わらないことなんてしょっちゅうだし、まあ同じく相手が何を考えてるとかもまあわかんないんだけど。
なんか、ストレートに感情を表現したり表に出したりするのって、すごく恥ずかしいというか、僕にはできない。
でも、一つ目の図形を求めるということは、相手からもそういうことが求められるということだ。ストーレートに感情を表現して、気持ちを伝えたりしなくちゃいけない。相手の言葉を全身で受け止めて、それに応えなきゃいけない。
そういうのって、出来る人は出来るし、っていうか大抵の人は出来るのかもしれないけど、僕にはなかなか出来ない。出来ないと思っているだけかもしれないし、やりたくないと思っているだけかもしれないけど。
なんか、誰かに依存したくない、という風に考えてしまうのだろうな、と僕は思っている。
例えば僕らが、壁とかに寄りかかっていられるのは、その壁が絶対に倒れたりなくなったりしないことがわかっているから、だろう。今にも倒れそうな壁には寄りかかったりしないし、壁のないところではそもそも寄りかかれない。
僕は、人間関係にもそういうところがあって、人は皆、いかに寄りかかることのできる関係を見つけ出せるか、ということに頑張っているんじゃないかと思っている。
でも僕は、人間関係に寄りかかれるなんて思っていない。人間関係は脆いし、すぐに壊れてしまうと思う。僕は、どうしてもその脆弱な人間関係に寄りかかることができない。
寄りかかっている時に壁がなくなると、自分も倒れてしまう。僕は、誰かに依存して、その誰かがもしいなくなってしまった時に、自分が倒れるのがめちゃくちゃ嫌なんだと思う。だから僕は、なるべく誰かに依存したくはないと思っている。
同じく、出来ればだけど、相手にも依存されたくないと思う。依存されたくないっていうと大げさだけど、なんていうか、例えばの話だけど、『俺がいないと生きていけない』とかいう風に言われるようなのって、重いじゃないですか、そういう感じの依存はやっぱり嫌だし、まあそんなことを俺にいう人間はいないとは思うけど、まあとにかくそういうのは嫌だな、と。
僕は、恋愛をするならすごく穏やかな感じがいい。波はなくても全然いいんじゃないかと思う。穏やかに日々を過ごして、喧嘩もなく(我慢しちゃいけないと思うけど、我慢しないで喧嘩もないというのがいい)、徐々にマンネリになっていって、会話もなんか少なくなって、でもそれでも一緒にいると穏やかでいられるような、そんな感じがいいなと思う。
僕にとって、恋愛関係だけでなくすべての人間関係の中で、一緒の場にいて会話がなくても気まずくない、というのが最高の人間関係だと思っていて、悪い意味じゃなくて言い意味で、空気みたいない存在って素敵だと思う。
恋愛経験の非常に少ない僕の勝手な主観によれば、大抵の女性というのは、僕の求める方向とは逆の方向へと向かうことを希望しているように思える。僕の行きたくない方向にばかり行こうとするような女性が多いんではないか、と勝手に思っている。
もちろん、僕のような考えがめちゃくちゃマイナーだろうとはわかっているけど、でも、こういう変な僕の考えに合う女性は、どこかにいないものかしらん、と思う。
うーん、一体何を書いているのやら、という感じですね。なんなんだお前は、と突っ込んでしまいたくなるので、とうか書いている内容が意味不明なのでこの辺でやめて、内容に入ろうと思います。
堀井香恵は大学生。吹奏楽のサークルでマンドリンを吹いている。一人暮らしで、近くの文房具店でアルバイトをしている。父親に買ってもらったのを機に万年筆に結構興味を持っている。ちょっと天然。
彼女の住んでいる部屋には、ちょっとした置き土産がある。クローゼットの片隅に忘れ去られたノートである。前の住人が忘れていったものらしい。どうしたものか考えあぐねているうちに時は過ぎていく。
その間に、彼女を取り巻く環境は変わっていく。親友だった葉菜がアメリカに留学することになり、しかも、葉菜の年上の彼氏が、どうやら自分にアプローチをかけているようなのだ。一方で、アルバイト先で万年筆を選びにきたある青年のことが、ちょっと気になる。穏やかな感じで、いいなって思える。
いろいろごちゃごちゃしてきたせいもあって、今まで見ることを封印していたそのクローゼットの中のノートを覗き見してしまうようになる。
ある先生の日記らしい。生徒だろう子ども達からもらったらしい様々な手紙とともに、そのノートはあった。
真野伊吹という名の女性の先生。その日記には、学校での大変だけど充実感に満ち溢れた生活が描かれている。本当に楽しそうな感じだ。
でも、プライベートでは順風満帆とはいえない。学生時代以来再会した想い人。なんとかして振り向かせたいけど、うまくいかない。そんなやるせない一面も覗かせる。
すっかり伊吹先生の虜になった香恵は、そのノートから力を得たかのように、現実でも行動をしていくのだけど…。
恋愛小説、らしい。
しかし僕は、本作の恋愛小説的な面はそんなに大したことはないだろうと思っている。正直、恋愛小説をどう評価したらいいのかよくわからないのでなんとも言えないのだけど、恋の予感的なものがあって、障害的なものもあって、いろいろ乗り越えてみたりして云々かんぬん、とまあそうう感じで、そういうところはまあ普通なんじゃないかな、と思います。まあそういう恋愛的なところはよくわかりません。
僕が本作ですごいなと思ったのは、真野伊吹という先生のリアリティです。日記や生徒の親との手紙のやりとりなんかが書かれているんだけど、本当にリアルで、読んでいて、本当に『真野伊吹』という先生が実在するような感じになりました。まあこれはあながち間違いでもないのだけど、とにかく、『真野伊吹先生ののこしたノート』に関して、僕の評価は非常に高いです。
後はラストシーンですね。このラストシーンはなかなかいいな、と思いました。なんというか、香恵の天然っぷりに、ちょっと鈍感すぎないか?と思ったりもするんだけど、でもまあ僕としては、ラストのまとめ方が悪くなかったのでまあいいかな、という感じです。
恋愛小説としては平凡な気がするし、恋愛小説が苦手な僕としてはよくわからないところなのだけど、でも読んでて飽きない作品ではありました。伊吹先生のノートの記述が時折挟まれてこれはかなりよかったし、また、文房具店の可奈子さんという女性のキャラクターも大分よかったし(後半出番が少なくなったのは残念)、香恵が気になり出すイラストレータの青年もなかなかいいキャラクターで、恋愛小説としてどうかと聞かれたらよくわからないと答えるけど、小説としてどうかと聞かれたら結構よかったと答えるでしょう。キャラクターが自然で、結構いいんですね、たぶん。
帯で絶賛されていて買ってしまったんだけど、そこまで絶賛するような作品ではないと思います。でも、読んでみて損するような作品でもありません。オススメはしませんが、読んでみてもいいのではないかと思います。

雫井脩介「クローズド・ノート」



俺たちの宝島(渡辺球)

勝ち負けがやけにはっきりしてきている。
「下流社会」という本が最近出て話題になっているけども、『一億総中流』の時代は終わり、『一部の勝ち組と多数の負け組』という、大きく二分された経済格差がはっきりと現れている。
最近のアンケートで、経済格差が広がっているか、という問いに対して、80%以上の人がイエスと答えた、というニュースがあった。
明らかな格差が存在する。
僕は、間違いなく『負け組』である。大学を辞めてフリーター、なんて『負け組』街道まっしぐらである。
大抵、勝ち負けというのは、いかにカネを持っているかで判断される。カネを持っていれば勝ち組(今変換したら「家畜身」と変換されて、なかなか面白いなと思った)だし、カネを持っていなければ負け組である。
しかし僕は、自分のことを、負け組だとは思うけど、負けているとは思わない。カネがないという意味では負け組だけど、でも人生が貧しかったり余裕がなかったり満足できていなかったり、なんてことは特にない。
あまりにも、カネに執着しすぎていないだろうか?
僕は、本当にカネにあんまり価値を感じない。もちろん、あればあるに越したことはないだろうと思っている。でも、ないならないでなんとかなる、とも思う。実際僕は、まあフリーターなんでそんなに収入があるわけでもないけど、でも支出は普通の人よりも大分少ないと思うし、貯金もまあそれなりにあるし、年金を払っていないから将来的な不安はまあばっちりあるけど、でも当分全然大丈夫だろうと僕は思っているし、カネに困っているなんてことはまったくない。
ただ、周りの人間を見ていると、やはりそうではないようだ。
なんだ常に、カネがない、と言っている。僕には、一体何に使えばそんなにすぐにカネがなくなるんだ?と思ってしまうのだが、世の中には、あるだけカネを使ってしまうというような、かつての江戸っ子のような人間が沢山いるらしい。カネが貯まらない、カネが欲しい、カネ持ちになりたい、とやはり誰もがそう思っているようだ。
なんだか僕には、それは間違った方向なんじゃないかな、と思えてしまう。
極端な話をすれば、僕らは社会に組み込まれているからこそ、カネが必要なのである。今現代の世の中で生きていくには、社会もカネもい必要なものだと思う。しかし、理想を言えば、本来人間が生きていくのに、これほど大きな社会や、社会の中で通用するカネなんてものは、不要だと思うのだ。
極論だとは思うし、社会もカネも捨てた生活なんてまず不可能だとわかっているけど、でもそう思う。
ただ僕らは、カネカネ言い過ぎて、本当に大切なものをどんどんと失っているような気がするのだ。
『カネさえあれば幸せになれる』という幻想を押し付けられたことで、日本は驚異的な経済成長を遂げたのかもしれない。確かにそれで、物質的な貧しさは解消されただろう。しかし一方で、物質では決して埋めることのできないものを、ごっそりと失ってしまったのだと思う。僕らはその欠落を、物質で埋められると信じて、必死で働いてカネを沢山得ようとする。しかし、物質で埋まらない欠落は、カネではどうにもならない。
もはやこの流れを止める手立てはない。最近は、まあどうやっても勝ち組にはなれないだろう、と若いうちに判断して、フリーターとかになってしまう人もいるようで、悲観的な意味でカネカネという考えが失われつつあるのかもしれないけど、それでもしばらくカネ至上主義というのが続いていくだろう。
カネは生きていく上では重要であることには違いない。しかしそれだけでは本当の満足は得られないのだということを、僕らは気づくべきではないだろうか?
内容に入ろうと思います。
本作は、連作中篇集と言った感じの小説です。3編収録されていて、それぞれ設定や世界は同じなんだけど、視点人物だけが毎回変わる、という感じになっています。
大まかに話を書けば、ゴミの廃棄場所で生まれ育った若者たちが、外のカネにあくせくしている世界とは隔絶した小規模な世界の中で、たくましく生きていく、というような小説です。

「俺たちの宝島」
東京湾のある一角にある、ゴミの廃棄場所。そこは島になっていて、連絡橋を渡ってきたダンプカーが日々大量のゴミを捨てていく。
そこで生活をしている人間がいる。鉄夫を始め、チャボ・ネズミ・六郎・七郎・佐治・キオミといったような面々である。彼らは、ここで生まれて育った子ども達で、外の世界をまるで知らない。彼らの生活は、ゴミ山の中から売れそうな『お宝』を拾い集めてきては、買い付け人とやり取りして食料品などを得るというものだ。
自由でかつ平等な関係でお宝集めをしている鉄夫たちとは違って、組織を成し、階級で人を支配し搾取する、犬井という男を中心にしたグループがあった。あるやり取りから、犬井のグループと対立することになった鉄夫らは、ゴミ山という特殊な環境の中で、見えない何かと闘っていく…。

「煙の山」
何となく就職しに言った先で、不法投棄の片棒を担がされるはめになった青年は、ケムリ山と呼ばれる不法投棄の温床となった場所で、鉄夫たちに出会う。『イヌ派』と『サル派』が対立しているらしい。鉄夫らは『サル派』で、青年をもてなし、青年も面白い連中だなと思い、関係が始まる。
ある日青年は、彼らからもらった『お宝』を骨董屋のようなところに見せに行くと、あれよあれよという間に、そのゴミ山に住む人に会わせろという話になった。骨董屋は、彼らの社会に経済を導入させ、ゴミ山からお宝を探させてぼろ儲けをたくらむのだが…。

「千年も、万年も」
『イヌ派』のリーダーであるノラは、ある日突然、ケムリ山の外の世界に出ることに決めた。本物のカネを稼いでみよう、と思ったのである。何故か一緒についてくることになったハチ公と共に、不法投棄をする青年のトラックにのって街へと出た。
初めて見る外の世界は驚きの連続だった。人のいい老夫婦に面倒を見てもらいながら、いかに金を稼ぐかをノラは必死で考える。すべてがカネを持っているかどうかで決まるこの世界は、ある意味で俺に合っているのかもしれない…。

これは帯にも書いてあるのだが、本作中にこんなセリフが出てくる。

「どうしても欲しい物とか、どうしても足りない物があるときは、どうするの?」
「どうしても足りない物、というものはない。ない物はなくて、ある物だけがある。そう考えれば、別に困ることはない」
「もしも食べ物がなくなったら?」
「その時は、命がないと考える。[ない物]の中に命が加わるだけだ」

物質に囲まれての生活に慣れてしまった僕らは、さすがに僕でさえも、ここまで達観することはできません。しかし、こういう考え方は面白いし大事なんではないか、と思います。
僕らの周りには、モノが溢れています。本来生きていくためには特に必要ではないモノばかり、と言っていいでしょう。極端なことを言えば、機械が何一つなかった頃から、人間は生きていたのですから。
しかし僕らは既に、便利さを享受してしまっています。これからも、誰もが便利さを求めて、新しいモノが生み出されていくでしょうし、誰もがそれを欲しいと感じて追い求めていくのでしょう。手の届く範囲にモノがあるなら、それを欲しいと思ってしまうのは仕方のないことだと思います。
物質的にはどんどん豊かになっていく反面、僕らの心はどんどんと貧しくなっていっている。そんな気がしてなりません。
本作では、ホームレスというか、社会からはみ出たものが描かれます。彼らの生活は、一見すると非常に貧しく見えます。僕も、積極的にこういう生活をしたいとは確かに思いません。
しかし一方で、ある意味で理想を体現した生活だなとも思います。ゴミに囲まれているということを除けば、カネも社会も必要とせずに、必要なものはそれなりに手に入り、しかも穏やかな生活を送ることができる。心の貧しさから解放されるような生活に見えてしまうことも確かです。
非常にファンタジーチックに描かれていて、著者のデビュー作の「象の棲む街」とやっぱり雰囲気が似ているな、と思うのだけど、本作の方が現実的だろうなとも思います。社会の縮図というべきものが、このゴミ山を中心とした世界に見える気がします。
今のカネ至上主義が決して衰えることはないとわかっていながらも、それでも本作で訴えるような考え方を受け入れる土壌が少しでも広がっていけばいいな、とも思ってしまいます。
別に社会派という内容の小説じゃないし、全然エンターテイメントです。強くオススメすることはないけど、読んで失敗ということにはならないだろうと思います。まあ僕としては、「象の棲む街」の方がよかったかなと思うけど。そんな感じです。

渡辺球「俺たちの宝島」



探偵伯爵と僕(森博嗣)

あなたは、人を殺しますか?
僕は、自分がどうかと考えた時に、やはり人は殺さないだろうな、と思う。しかし、その理由を考えた時はこうなる。
めんどくさいから。
僕はとにかくめんどくさいことが嫌いで仕方がない。ご飯を食べるのがめんどくさいから極力食べないし、嘘をついてそれを取り繕うのがめんどくさいから嘘もあまりつかない。この前は、5分で選んで靴を買った。選ぶのがめんどくさいのである。
とにかくめんどくさいことが嫌いな僕は、人を殺すことで付いて回るめんどくさいこと諸々が嫌なのである。人を殺したら、まずは死体を隠さなければならない。なぜなら、捕まったら余計にめんどくさいことが増えるからだ。見つからないように慎重に死体を隠さなくてはならない。
さらに、人を殺したことを誰にも言わないで過ごさなくてはならない。僕は別に、人に何かを自慢して悦に入るような人間ではないけど、でも、『俺は人を殺したんだ』ということを誰にも言えないというのはストレスだろうと思う。
それに、やはり警察に怯えて生きていかなくてはいかないし、もし万が一死体が発見されたら、穏やかな気持ちではいられないだろう。
それに、捕まってしまったりしたら最悪だ。警察の取調べはめんどくさいだろうし、裁判もめんどくさい。刑務所でずっと本を読んでいられるならいいかもしれないけど、でもそう穏やかな生活環境ではないだろうし、いろいろ規則や縛りも多いだろう。
そんなわけで、僕は絶対に人を殺さないだろうなと思う。
しかし、ここまで書いてきたことで分かるだろうと思うけど、僕はもしかしたら、法律さえなければ人を殺してしまうかもしれない、と思う。
どうだろうか。
僕にはイメージができないのだ。人を殺すことによる嫌悪感とか、人を殺すことで悲しむ人間の姿とか、僕にはそうしたイメージが希薄だという印象がある。人間が死んだ時のその顔や状態を想像することは、経験のない人には難しいし、ある一人の人間の後ろに、どれだけ悲しむ人がいるのかもどうもわからない。
僕に、動機と凶器と、ほんの僅かな狂気があれば、僕は人を殺すことを躊躇わないのかもしれない。
それはそれで、非常に怖いことだと思う。法律のお陰で僕は人を殺さないで済んでいられるのだ。法律に感謝しなくてはいけないだろう。
最近、藤原正彦の「国家の品格」という本を読んだ。その中にこんなエピソードが書かれていた。
著名な学者も揃った、あるセミナーみたいな会合が開かれた。そこで、ある高校生がこんな質問をした。
『どうして人を殺してはいけないのですか?』
その質問に対して、その場にいた誰もが、論理的な回答を提示することができなかった。後日新聞か何かに、その主催者だかなんだかのコメントとして、
『何故人を殺してはいけないのか、という問いに対する論理的な回答をパンフレットに準備中である』
というのが載ったそうだ。
著者の藤原正彦はこのエピソードを、論理というものは限界がある、という文脈で語っていた。著者は同著の中で、
『人を殺すことが悪くないという論理的な理由なら、1時間もあれば50は挙げることができる。人を殺すことが悪い論理的な理由でも同じことだ』
あるいは、
『人を殺すことは、論理的に悪いのではなく、悪いから悪いのである』
というような事を書いている。
また、本作の中でもこんな文章がある。
『人が人を殺すことは、悪いことというよりは、嫌なことだ。
悪いことだからしないのではなくて、嫌なことだからしたくないのだ。』
つまり、勉強と同じものだ、という捉え方と同じだと思う。大多数の子供にとって、勉強は嫌なものだ。悪いからではなく、嫌だからしたくない。しかし、中には勉強が好きな子供もいる。
人を殺すことも同じことだ。悪いことではないけど、大多数の人はそれが嫌いだからしない。ただ、中にはそれを好きになってしまう人もいるだろう。
結局、そういうことだ。
しかし、人を殺すことと勉強との最大の違いは、人に対する影響である。勉強は、してもしなくても周囲の人間には大して影響を及ぼさない。しかし、人を殺すことは、やることで人に大きな影響を及ぼす。
だから誰もが、人を殺すことは悪いことだと言う。そう決めてしまうことで、自分が殺されることから守っているのである。それ自体は悪いことではない。というよりも、人を殺すことだって、僕は充分に悪いことだと思っている。
しかし、仕方ないとも思ってしまうのだ。親しい人を殺された人を殺された人に対しては酷な言い分になるけれども、防ぎようがないしどうにもならない。自分の子供が勉強が出来るか出来ないかというのと同じレベルで、世の中には人を殺してしまう人と殺さない人がいる、というだけのことである。理解できなくても納得できなくても、僕らはそれを許容して生きていくしかないのである。
あなたは、人を殺しますか?
僕はきっと殺さないでしょうが、法律がなかったら、どうなるかはわかりません。
内容に入ろうと思います。
本作は、設定として日記という形式で語られるものです。主人公である馬場新太が、学校の課題として出された日記に対して、夏休みに起こった出来事を書いている、という設定である。字を書くことが嫌いで苦手らしく、最近父親のお下がりでもらったワープロで文章を書いている。
馬場新太(僕)はある日、なんだか変な人に出会う。学校帰りに横断する公園のブランコに乗った、黒っぽいマントのような服装の、髭を生やしたおじさんである。全身白尽くめの女性と何やら言い合いをしているようだが、おじさんの方は耳を傾けている風ではない。
女の人が僕に気づいて去っていった。僕はおじさんに近づいていった。
おじさんは、僕の帽子についたバッヂに興味を示した。一つなくなっていることを指摘されて、おじさんの推理のお陰でそのバッヂは見つかった。
おじさんは、伯爵で探偵でアールという名前らしい。どう見ても日本人なのに、アールなんておかしくはないだろうか、と僕は思った。
そうして僕は、伯爵と友達になった。
伯爵は探偵で、何かを調査しているらしいけど、それは秘密だと言われた。それでいて、あの白尽くめの女の人に追われてもいるようだ。なんだか変な人だ。でも、クイズを出してくれるし、変だけどなんだか面白い。
でも、夏休みだからと言ってうかれてもいられない事態になった。なんと、お祭りの日に友達の一人が失踪してしまったのだ。警察も出てくるような事件になって大騒ぎだ。そうだ、伯爵は探偵なのだから、相談すれば推理してくれるのではないだろうか…。
さてここで、ある超有名な編集者について書こうと思う。
その宇山という名のその編集者は、いくつもの伝説とともに語られる存在である。
学生時代だかに、中井英夫の「虚無への供物」という作品を読んで、絶版だった(確か)その作品を、どうしても文庫にしたいと思った。それで講談社に入社し(単行本の「虚無への供物」が講談社刊かどうかは知らない)、ついに念願だった「虚無への供物」文庫化を実現させた。
宇山という編集者の伝説はここから始まる。
僕はその他の伝説を詳しくは知らないけど、もう一つ知っているものはある。それは、あの綾辻行人をデビューさせ、『新本格』というブームを作り上げた立役者だということだ。ある一つの小説界のブームが、十数年という長きに亘って続いたのは、宇山編集者が立ち上げたこの『新本格』ブームだけだ、とどこかに書かれていた(確かファウストだったと思う)。
宇山編集者の名は、あらゆる作家のエッセイや、時には小説の中にも出てくるほどで、他にそういう編集者は、同じく講談社で、今は文芸誌「ファウスト」の編集長をしている太田克史ぐらいしかいないだろう。
さて、何でこんな話をしているかと言えば、本作を含む「ミステリーランド」という叢書を立ち上げたのが、その宇山編集者なのである。これは、宇山編集者の名前も含めて本作にはどこにも書かれていないけど、いろんな本(エッセイやファウストやそういうもの)を読んでいる中で知ったことで、今回その「ミステリーランド」という叢書の作品を始めて読んだということになる。
この「ミステリーランド」というのは、『かつて子供だったあなたと少年少女のためのミステリーランド』というキャッチフレーズで世に出されているもので、主に子供向けの作品だと考えていい。というのは、漢字にルビが振ってあって、子供でも読めるような配慮がなされているからである。
この「ミステリーランド」は、予告されているだけでもかなり豪華な執筆陣が勢ぞろいしている。巻末に書かれている執筆予定の作家の名前を少しだけ抜き出してみよう。
『綾辻行人・歌野晶午・小野不由美・恩田陸・京極夏彦・島田荘司・殊能将之・麻耶雄嵩・森博嗣』などである。その他にも一般に知られた作家が揃っているし、もっと増える可能性もある。
さらに、子供向けと言っても大人でも充分に通用する作品になっている。その証拠と言えるかどうかはわからないけど、麻耶雄嵩の「神様ゲーム」という作品が、2006年度版のこのミスの5位にランクインしている。体裁は子供向けであっても、『かつて子供だったあなた』にも充分に通用する作品なのである。
本作ももちろん、大人が読んでも充分に楽しめる作品になっている。しかも、子供でも読める作品を、という注文が恐らく作家になされているのだろう、馬鹿みたいに読みやすい。これなら、普段小説を読まないような人にもうってつけである。
本作では、探偵伯爵と僕との交流も非常に面白いのだけれども、彼らが巻き込まれる事件を通して、『人を殺すこと』について考えさせられるという点がいい。
本作で提示される事件は、普段の森博嗣の作品のように、動機がまったく明らかではない。何故犯人がそんなことをしたのか、ということが、明確な言葉や論理で明かされることがない。
子どもが読んだら恐らく戸惑うのではないか、と想像する。そして親に聞くのだ。どうしてこの犯人はこんなことをしたの?と。そうして親は、人を殺すということについて子どもに話す。
なんというか、そういう親子の間のクッションとして、本作は存在しうるんではないか、と僕は考えています。
人を殺す人間にも、人を殺すことにも、人を殺すのが悪いことにも理由なんてない。理由なんてないということを、理由抜きに理解することが大事ではないかと思えてきます。
最後に。森博嗣というのは本当に緻密な作家だな、と思いました。本作は、日記という体裁を取っているので、言葉に対して書き手が色々と鋭敏になっている。書く、という行為をしている人間にが発想するだろう、ということが文章に書かれていて、さすがだな、と思いました。
是非にとは言わないけど(そもそもこの「ミステリーランド」の作品って、あんまり本屋に置いてない気がします。うちの店にもないし)、読んでみるのもいいかなと思います。最後にあっと言わせる感じもいいし、雰囲気が結構いいです。色鉛筆で書いたような不思議なイラストも結構マッチしていたし、探偵伯爵というキャラクターもかなりいけてます。森博嗣が好きなら、やはり買いましょう。そうでない人は、やはり「すべてがFになる」や「スカイクロラ」をまず読みましょう。

森博嗣「探偵伯爵と僕」



レヴォリューションNo.3(金城一紀)

闘いに必要なのは、ペンか剣か。
昔のある偉い人は、『ペンは剣よりも強し』という言葉を遺した。誰が言ったかは知らないけど。これはつまり、闘いにおいては権力がものを言う、ということを言いたいのだろう、と思う。いくら剣を振り回して力を誇示しても、権力者の操るペンから生み出される法律や規則やルールやなんかには勝てないのだ、と。
まあ、ある意味では正しいんだろう。
僕らの世界も、強者に搾取される仕組みになっている。どれだけ喧嘩が強かろうが、どれだけお金を持っていようが、どれだけ知識を持っていようが関係ない。権力を持っているものがすべてを搾取して富み、権力を持たざるものは搾取されることに甘んじるしかない。そういう仕組みである。まあ、別にそれに文句を言おうというわけでもないのだけど。
僕はだからこう思う。『ペンは剣よりも強し』というこの言葉は、強者の論理なのだと。
強者として生きている人間同士の争いならば、ペンを持たざるものはペンを持つものに屈するしかない、というそういう論理である。
ならば、弱者の論理とは何か。
弱者にとって、闘いに必要なものはなんだろうか。
ペンでも剣でもない。そのどちらも持つことができないのが弱者なのだから。
弱者が闘いに必要なものが、絆、だと言ったら、人は僕を青臭いと笑うだろうか?
弱者は、力というその一点に関しては、強者と比べてひどく欠陥がある。決して人間として劣っているわけではないが、力は劣っている。
しかし、弱者が欠陥を補う者同士として集まれば、強者と対抗できる。というか、そうするしか術はないと言ってもいいだろう。
僕は、自分を弱者だろうと思う。群れなければ闘うことのできない人間である。しかしだからと言って僕は、強者になりたいとは思わない。
強者は、一人で闘わなくてはならないという点で、ひどく孤独である。
強者は、強者になる過程で敵を増やさざるおえない運命だし、だとすれば、強者になればなるほど、闘いには一人で臨まなければならなくなる。周りから、仲間がどんどんといなくなっていく。
一人で闘い抜くには、人生は余りにも長く辛くはないだろうか?
生きるということと闘うということは同義である。弱者はペンも剣も持てないし、僕は、そのどちらも持ちたいとは思わない。それでも、僕らは闘わなくてはならない。仲間がいると信じて。絆が存在すると祈って。信頼を裏切らないと誓って。
闘いに必要なのは、ペンでも剣でもなく、絆である。
というわけで内容に入ろうと思います。
本作は、『ゾンビーズシリーズ』というシリーズの第一弾の作品だそうで、僕はそのシリーズ第二弾の「フライ、ダディ、フライ」を先に読んでいたわけだけど、『ゾンビーズシリーズ』というシリーズだとはまったく知らなかったです。
さてまずは、『ゾンビーズ』ってのはなんだろう、というところからですね。
主人公は高校生で、優秀な高校のひしめく新宿区にあって、一校だけ唯一偏差値の低い学校として存在する高校に通っている。
そこに通う高校生は、いつしか『ゾンビ』と呼ばれるようになった。理由は二つ。偏差値が脳死と判定されてもおかしくないくらいの血糖値しかないこと、そしてもう一つ。
『殺してもしななそうだから』。
さて、『ゾンビーズ』誕生にはもう少し話がある。それには、ある生物の教師が授業中にした話がきっかけだった。
詳しいことは読んで欲しいので割愛するが、結局その生物教師の結論はこうだった。
『お前等は、優秀な女の遺伝子をゲットしろ』
それに感化された連中が、『ある計画』を中心に集まった。その『ある計画』に乗った人間が48人いて、自分達が『ゾンビ』と呼ばれていることから、『ザ・ゾンビーズ』という名前をつけた、というわけだ。この『ザ・ゾンビーズ』は、リーダーのいないまったく平等な関係であり、偶然にも皆、携帯電話とカラオケと巨人軍が嫌いだった。
その『ザ・ゾンビーズ』の面々があれやこれや活躍する、というのが本作の話で、3話を収録した連作短編集となっている。
『ザ・ゾンビーズ』のメンバーについて少し書いておこう。
まずは、南方。これは視点人物で、ほとんど『僕』という一人称で出てくる。この南方というのが、『ザ・ゾンビーズ』のいろんな問題の計画を練る人間で、リーダーではないけど指示は出す、みたいなそんな人間だ。
舜臣というのが、在日朝鮮人2世みたいな感じなのかな、とにかくそういう感じの出生で、身体を鍛えまくってて喧嘩もメチャクチャ強い上に、勉強もすこぶるできる。難しそうな本をいつも読んでいて、割と無口だが、ものすごくいい奴である。
山下。最強の引きの弱さを誇る男で、とにかく『運が悪い』の一言で済ますにはあまりにも哀れな体質の人間。何故か動物は、山下を見ると興奮して襲い掛かってくる。
他にもいろいろいるが、『ザ・ゾンビーズ』のメンバーではないが重要人物を。アギーと呼ばれている男は、いろんな国の遺伝子が取り混ざり、奇跡的な美しさを持った男で、高校生でありながら金持ちマダムの若いツバメをやることで金を稼ぎ、また一匹狼でそれをやるためにあらゆる知識を詰め込んだ男で、女関係はおろか、法律やあらゆる便利ごとまで、有料だがなんでもやってくれる、という便利屋である。
さてそんなわけで、それぞれの内容を紹介しようと思います。

「レヴォリューションNo.3」
先ほど書いた『ある計画』を実行するという話。『ある計画』とは、近くにある超頭のいい女子高の学園祭に乗り込んで、あわよくば彼女をゲットしよう、という作戦である。しかしこの女子高の学園祭は敷居が高い。完全チケット性になっていて、普通の輩では校舎内に入り込むことがまずできないのだ。
1年目2年目と、考えた作戦を実行したがなかなかうまくいかない。今年でラストチャンス。一体どうするか…。
一方で、リーダーのいない『ザ・ゾンビーズ』にあって、リーダー的な信頼を得ていたヒロシが、かなり重症な病気のために入院してしまっている。なんとかならないか、なんとか…。

しょっぱなから爆笑させてもらいました。『ええじゃないか作戦』は、ほんともう大笑いって感じで、僕はその部分を読んでいた時マックにいたのだけど、周囲の人間におかしな人間だと思われないように必死で笑うのを我慢していたんだけど、大変でした。

「ラン、ボーイズ、ラン」
ヒロシが死んでしまった。沖縄に墓参りに行こう、という計画が『ザ・ゾンビーズ』の中で沸き起こって、じゃあみんなバイトな、ってことになる。お金もたんまりたまって、よし予約でもするかなんて話になった時に、事件は起きる。
きっかけは、山下の親戚だかが旅行会社に勤めているだかで、割引に出来るよ、と持ちかけたことだった。条件は一つ。そのお金を全部山下が預かっていくというものだ。金融関係に就職先が決まっていた山下は、ここでお金の管理をばっちりして幸先いいスタートにしたかったのだ。
しかし、もう予想通りというか、山下は不良連中にカツアゲに遭い、100万以上の大金を持っていかれた。ならば『ザ・ゾンビーズ』としては、金を取り戻すまで…。

山下というキャラクターが本当にいいですね。要するに、このキャラクターを『ザ・ゾンビーズ』が許容しているというところが、なんだかものすごく微笑ましいというかなんというか。

「異教徒たちの踊り」
時間としては、「レヴォリューションNo.3」よりも前の話。まだ広しが入院する前の元気だった頃の話。
南方の元へと電話が掛かる。夏休み初日。井上という『ザ・ゾンビーズ』のメンバーの一人が、南方にこう言った。
『美女が命を狙われてる。助けてやってくれ』
話を聞くと、どうやらストーカー的な変態がある女性の元につきまとっている、という感じらしい。なんだそんなことか、と初めこそ高を括っていた南方だが、そんなことを言ってもいられない事態になり…。

この話こそ、上で僕が書いた、『闘いに必要なのはペンでも剣でもなく絆である』というのを体現していますね。まあ、「ラン、ボーイズ、ラン」もそれに近いけど。

僕は結局、名前の見えない人間関係こそが素晴らしいのではないか、と思うのです。
例えば、親子なんだけど全然親子に見えないとか、兄弟なんだけど兄弟に見えないんだけど、仲間なんだけど仲間に見えない、というような、そういう既存の名前を超越している人間関係というのがいいな、と思うのだ。
本作に出てくる『ザ・ゾンビーズ』のメンバーというのは、本当にそんな関係を体現できている関係で、ものすごく羨ましいと思う。ものすごく言葉にしにくいけど、誰もが誰かのことを考えて大切に思っているのに、でも無関心みたいな、そんな感じがする。お互いに相手を信頼しているから、キツイことを言われても、何か理由があるんだろうな、と思って引き下がれる。そういう馴れ合いではない距離感というのが、清々しくて見ていて羨ましくなる。
また、彼らが交わす会話もかなり高級だ。センスがある。
一例を挙げることにしよう。「異教徒の踊り」の中で変態のストーカー野郎が、女性の家に毎晩正確に9時に電話をするんだけど、『ザ・ゾンビーズ』のメンバーがその変態男を見つけた時の、張り込みをしている人間と南方との会話がこうである。

『(前略)ねえ、賭けをしない?』
『どんな?』
『奴が九時少し前にロビーの脇にある公衆電話ボックスに入って、吉村さんのところに電話をかけるかどうか』
『オーケー、俺はかけないほうに四人分の晩飯を賭けるよ。なにが食べたいか、みんなに訊いといてくれ』
『サンキュー』

説明するのは野暮だろうけど、これはつまり、
『俺等頑張ったでしょ。なんか報酬は?』
『わかった。飯でもおごるよ』
っていう意味の会話で、でもこうやって賭けの話にすると、すごく高級というかセンスがいいというか、そんな会話になる気がしませんか?彼らが交わす会話には、本当にこういうものが多くて、いいなって思います。
また、メンバーが抱えているそれぞれの思想ってのも面白いです。48人全員分の思想がわかるわけじゃないけど、主要な登場人物のものは大体分かる。その中で、南方がストーカーに狙われた女性に、なんで私の問題に首を突っ込むことに決めたの?って聞かれた際の返答を抜き出してみようと思います。

『例えば、僕たちの育った時代に、ベトナム戦争とか学生運動みたいに分かりやすいことがあったら、わざわざ理由なんて説明しなくても済むんですけどね。とりあえずニヒルに笑っとけば、相手が勝手に物語を成立させてくれるでしょ。でも、僕たちの時代にはなんにもないですからね。そんなわけで、僕たちは自分たちで物語を作るために、色々なことに首を突っ込まなくちゃならないんです』

言いたいことがちゃんと理解できているかはわからないけど、でもこんなセリフなかなか言えたもんじゃないってことぐらいはわかりますね。なんか、かっこいいじゃないですか。
そんなわけで、ものすごく面白い作品です。ものすごく幸せな気分になれる小説です。読んで楽しくなる小説です。なんとなくですが、宗田治の『ぼくらのシリーズ』に出てくるあの高校生達(でしたよね、確か)を思い出しました。そんな愉快なメンバーが揃っています。
是非とも読んでみてほしいなと思います。

金城一紀「レヴォリューションNo.3」




私が語りはじめた彼は(三浦しをん)

僕は、浮気はアリだと思っている。
なんてことを書くと、「これだから男は!」などと女性からひんしゅくを買ってしまうだろう。女性の敵、というやつだ。「浮気は男の甲斐性」なんて言葉もあるが、そんなことを言える女性は、どこかに広大な余裕がある人だけだろう。「男は浮気をする生き物だ」などと罵られるのがオチだろうか。
いやしかしだ、僕が言いたいことはそういうことではない。というわけで続けてこう書こう。
僕は、僕自身が浮気をするかどうかは置いといて(まあ一応こう書いておこう)、自分の彼女が浮気をすることについて、何の問題もないと思っている。
さて、これならば僕に対する印象は、良くはなりはしないだろうけど、少なくとも悪くなることはないだろう。
まあ初めに自分のことを書いておくと、浮気するかどうかはまあやっぱりわからない。まあ、しないとは言い切れない、ということだけど。でも僕の場合、人類最強のめんどくさがり屋を自認しているので、出来るだけめんどくさいことを避けたいと思うだろう。とすれば、浮気をばれないようにうまく立ち回るなんてのは明らかにめんどくさいことだから、まあしないだろうな、と思うのだ。そもそも、浮気が出来るほど僕はモテないのだけど。
さてそれで、彼女の浮気の話だけど、僕は全然問題に思わない。
僕は、『一人の人間がある一定の時間にたった一人の人間しか好きにならない』というのは、割と不自然なことなんではないか、と思うのだ。いや、それが純愛だのということになるんだろうけど、この不自然さを感じるのは僕だけだろうか?
僕らは、世界中の人に出会えるわけではない。ある、ごくごく限られた人間にしか出会うことはできない。もちろん、生涯出会う人間の中で、心から好きになり、心から愛することが出来る人の数というのが、そう多いとは思えない。根拠はないけど、50人に一人とか、100人に一人とか、そういうレベルだろうと思う。
しかしそれと同時にこうも思う。その、数少ない心から好きになる人と、同時期に出会ってしまうことだってあってもおかしくはないだろう、と。
いや、全然おかしくないと僕は思う。
こう考えるのは不自然でおかしいことでしょうか?
運悪く(運良く?)同時期に、同じくらい猛烈に好きな人に出会ってしまったら、じゃあ一体どうすればいいんだと。浮気するしかないじゃあないか、と僕は思うんだけど、論理的じゃないですかね?
いや、わかってますよ。恋愛なんて、論理的かどうかなんてことがまったく関係ない、ってことくらい。はい。
また僕はこうも思う。『ある一人の人間が、ある別の一人の人間の存在だけで完結あるいは満足できるはずがない』ということ。
例えば、ジグソーパズルのピースっていうのは、あらかじめすべてがぴったりはまる、ということが前提となっている。そりゃあそうだろう。ぴったり合わないジグソーパズルのピースなんて、ぞっとしない。
でも、一人一人の人間が、ジグソーパズルのピースみたいにぴったりはまるようにできている、そういうぴったりはまる人間に出会える、なんてことが前提になっているとは思えないんです。絶対に、余ったり足りなくなったりする部分が出てくるわけで、じゃあそれをどうするかって言った時に、別のピースを探す、というのは正しいんじゃないかな、と思うんです。
納得できないですかね?
少なくても僕は、例えばつきあっている女性がいたとして、その女性を、すべての面で満足させることが出来るなんて、まさかそんなこと思えません。自分にすごく自信がある男性ならそう思い込むこともできるかもしれませんが。絶対に、相手に不満も与えるし、それを解消できないということにもなるだろうと思う。その不満を、その不満を解消できる別の男性に満足させてもらう、という発想は、うーん間違っているかな…。
たぶん人はこんな風に考えるんじゃないかな、と思うんです。『恋人が浮気をしているなら、私のことは50%しか愛していないんだ』と。だから嫌なんでしょう。100%で私のことを愛してよ、ってなもんです。
でも僕は、たとえ何股していようが、そのすべての人を100%で愛することだって、別に不可能じゃないと思うんですよね。いやわかっていますよ、浮気をしている方がどれだけ100%で恋人を愛していても、その恋人の方は相手の愛情を100%だと感じられない、というところが問題なんだ、ということはわかっています。
僕がこうやって、恋人の浮気はアリだ、なんて言っても、誰にも理解してもらえないだろうし、何を言ってるんだこいつは、ってなもんなんだろうけど、僕はずっとこんな風に思ってきました。
もちろんここで書いたことは、僕が浮気をするかどうかとは無関係ですよ。あくまで、恋人が浮気をすることについて書いているつもりで、自分が浮気をした時の言い訳にするつもりはまったくないんですけど。
僕は、恋人が浮気をしているなら、それを知りたいですね。よく、浮気はばれないようにやってくれればいい、なんてことを聞きますけど、なんかそっちの方が嫌じゃないですか?僕だったら、『今度の日曜日空いてる?』『ごめん、その日はあっちの彼氏とデート』『そっかどこ行くの?』『さあ、どーだろ』『じゃあまたその話聞かせて』『うぃー』なんて会話をする方が断然楽しいと思うんだけど、ダメかな。まあ、賛同は得られないだろうな…。
僕としては、浮気を認めるということは、恋人を愛していないというわけではないんですね。嫉妬されないことが、イコール愛されていないと感じる女性がいることは理解できなくもないけど、実感としては何とも言えないというか。
僕は、基本的に人間を束縛したくない、と常々思っています。精神も肉体もその人間個人のものであって、誰もがそれを束縛すべきではない、と。こんな風に思うのは、僕がそうされるのがいや、束縛されるのがいや、ということなんだけど、だから僕は、周囲の人間にもそうあろうと日々思っているわけです。
浮気ぐらいいいんじゃないですかね…と僕は思うし、だから、浮気でごたごたしたり振り回されたり悩んだり病んだりするなんてことが、想像できなくも理解できなくもないけどでも実感できないわけで、あー僕が恋愛小説が苦手なのも、基本的にこんな風に考えているからかもしれないな、なんてことも思いました。
賛同を得られないことは承知の上ですが、皆さん僕のこの意見、どう思いますでしょうか?
というわけで内容に入ろうと思います。
本作は連作短編集という形式を取っていて、その全編に関わるのは、「村川」という一人の男です。
村川は、有名大学の歴史の教授。権威と呼ばれるような、その世界では有名な人間で、顔も広い。学者として充分に評価されている。
しかし一方で、妻子ある身でありながら、奔放に女性と関係を結ぶ手癖の悪い男でもあった。
全編、この村川に振り回されることになった人間の物語が紡がれる。一人の、女性への手癖の悪い男。そのたった一人の男が、様々な人間に影響を与え、狂わせていく。
本作はそんな物語である。
というわけで、それぞれの短編の内容を、村川との関係に特に絞って簡単に書こうと思う。なんというか、本作の短編は内容の紹介がしずらいので、簡単になるかと。

「結晶」
村川の助手として村川を慕う男と、村川の妻であり長く闘争を続けた女性との話。男は、ある調査のために女性宅を訪れた。マスコミや大学に届いた、村川の女性問題を糾弾する怪文書を、一体誰が書いたのかを突き止めるためだ。うだるような暑さの中で、向かい合う男女は、村川という男を間に挟んで対峙する…

「残骸」
村川が講師を勤める一般向けのセミナーの受講者である妻と、その夫の物語。会社の社長の家に婿として入った夫は、それなりに出来た妻と可愛い娘、そして仕事における立場と、特に不自由のない生活をしてきた。しかし、高速道路の建設問題が持ち上がってから、何かと気苦労が耐えない日々…。

「予言」
村川の息子の物語。父親であったはずの村川は、ある日突然に家を出て行くことになった。離婚するのだそうだ。なんだよ、それ。自分の名義で貯めていたというお金を受け取り、そのお金でバイクを買った。村川が住んでいる家まで言ってみた。てっきり一人暮らしをしているものだと思ったら、再婚して連れ子だろうが子供もいるようだ…。なんだよ、それ。

「水葬」
村川が再婚した妻の連れ子である女と、その女の生活を見張る男の物語。女は大学生で、毎日息が詰まってしまうようなつまらない生活を送っている。そんな生活を監視している男。仕事とはいえ、つまらない。が、なんなんだ、この女…。

「冷血」
村川の実子である女と、その婚約者である男の物語。女は、なんだか結婚に気分が乗らなくなった、と言った。話を聞くと、村川の再婚相手の連れ子の一人が、どうやら死んだらしい、ということだった。なんか、変な噂もあるみたいなの。そんなので気分がちょっと乗らなくて…。調べてみてくれない?男はその頼みを聞いて調べることに…。

「家路」
かつて村川の助手だった男と、その妻の物語。村川が死んだらしいと訃報欄で知った。縁がないでもないし、葬式に出ることにしよう。妻との関係も、一時期は危うかったが、今ではある意味で落ち着いている。そうか、村川が死んだか…。

女性というのはすごいな、と僕は思うんです。女としてのプライド、というものがものすごく大切なんだな、って思います。なんだか、昔の武士みたいじゃないかな、と思ったりしますけど。女は、それが自分のために一切ならないことを分かっていながら、それでも、プライドを守るために行動をする。ちょっと怖いよ。いや、ある意味すごいけど、僕は女じゃないし真似できないな…。
本作には、何故か村川に惹かれてしまう女性というのが沢山出てくるのだけど、その攻防というか、そういうのが怖いですね。女は怖いですよ、やっぱり。執念というか、そういうものがすさまじいですね。いやもちろん、そうでない人もいるんだろうけど。
村川という男もなんだか不思議ですね。別にルックスがいいわけでもないし、まあ教授だからそれなりにお金はあるかもしれないけど、そういうところに惹かれるのではないらしい。誰もが、何であんな男に惹かれるんだろう、と思いながらも惹かれてしまうらしい。不思議ですね。何が不思議って、現実の世界でもそういうことがあるだろうなっていうところが不思議ですね。例えば最近、すごい数の女性と一緒に生活して、一定の期間ですべての女性と結婚・離婚の手続きをしていた男がニュースになっていたけど、あの男も一体どこがいいのかよくわからないけど、でもそういう男というのはいるものです。不思議なものですね。
本作は、ちょっと読みずらかったというか、文章がなかなか入ってこなくて、僕としてはちょっと苦戦しました。全然短い小説なのに、結構読むのに時間が掛かった印象があります。
正直にいって、ここに描かれている感情や機微と言ったものについて、僕はなかなか理解できません。浮気を、心の底から悪いものだと思えないからでしょうか。何にしても、実感の湧かない世界ですね。だから文章がなかなか入ってこなかったのかもしれません。
でも、この小説は、どこか僕を惹き付けます。何なんでしょうか。それが何なのかよくわからないのですが、苦手な小説だしどこがいいのかもよくわからないし文章もなかなか入ってこなかったのに、それでも僕は、この小説を悪く評価することが出来ないというか、この小説を拒絶することができないんですね。
何ででしょう。よくわかりません。
僕は、本作のどこがいいのか自分では分かっていませんが、でも読んでみるのもいいんではないかと思う作品です。帯には、あの金原瑞人(この人って、あの芥川賞の金原ひとみの父親なんですよね、確か)がこう書いています。
『ベタ褒めするしかない作品が生まれた』
積極的にオススメできないのがもどかしいですが、読んでみてもいいかと思います。

三浦しをん「私が語りはじめた彼は」



春期限定いちごタルト事件(米澤穂信)

問題を解く能力、というのはもちろん重要である。しかしそれ以上に、問題を見つけ出す能力の方が、遥かに重要だと言えるだろう。
僕は、昔からずっとこういう考えを持っていたわけではない。僕は、自分で言うのもなんだけど昔はかなり勉強が出来た人間で、結構成績もよかったりしました。かなり勉強したし、テストとかも頑張ったし、とにかく頑張っていました。
しかし結局、学校で試されるというか学校で教え込まれるのは、いかに問題を解くか、というその一点だけなわけです。僕はずっと、そんな問題を解くことに邁進するような時間を過ごしていました。割と今の学生(とくに受験生)は同じようなものでしょう。
問題を解く、ということはつまり、問題は既に与えられている、ということです。バカでもわかる当たり前のことを書きましたが、しかしここはある意味で盲点です。
僕らは学校教育のお陰で、問題を与えられさえすればそれをどうにかして解くという力を、程度の問題はあれ誰もが見につけることができます。しかしそれは逆に、問題が与えられなければ何もできない、ということでもあるのです。
試験の場合はそれで何の問題もありません。問題は常に与えられるものだし、学生はそれを必死に解くだけでバッチリです。しかし、現実の日常においては、問題が与えられていることの方が遥かに少ないです。
それは、仕事において、恐らく顕著ではないかと思います。
僕は、また自慢話になりますが(すいません)、仕事において問題を見つけ出すことが結構出来たりします。僕は本屋でバイトをしているのですが、いろいろなシステムの穴というか問題点を見つけ、そしてそれに対して対策を考えるということを、結構大きなもので3つほど、細かいことを挙げればそれこそかなり実現してきました。それで状況がよくなったのか、と言われると評価は難しいですが、まあ悪くはなっていないだろうと思います。
しかし、周囲のスタッフにはなかなかそういう人間がいません。『指示待ち人間』という言葉があるかはわかりませんが、そういう人間が本当に多いです。特に僕よりも若い世代の人間はその傾向が強くて、自分で何をすればいいのか見つけることができなくて、指示を出されないと動けない人がかなり増えています。
しかし問題なのは、そうした若い世代のことではなく寧ろ社員ですね。社員はもちろん僕より年上ですが、問題を見つけ出すことに長けている人がいるとは思えません。彼らこそ周囲のスタッフに指示を出さなくてはいけない立場なのに、習慣となっている行動しかしない、というのが現状です。なかなか優秀な人間というのはいないものです。
さて、なんとなく脱線してしまった気分になりますが、とにかくそんなわけで、仕事の場においては、問題を見つけ出す能力がないと話にならないと僕は思っています。しかし僕の希望とはうらはらに、『指示待ち人間』が増えてきているのだろう、と実感します。
僕がこの、問題を見つけ出す能力という点についてちゃんと考えたのは、やはり、森博嗣の「臨機応答・変問自在」を読んでからだと思います。
森博嗣というのは、ある国立大の助教授でしたが(しかし、たぶんですが今はもう大学を辞していると思われます。たぶんですけど)、そこでもちろん講義も持っていました。しかし森博嗣は、試験を一切行いません。ではいかにして評価をするかというと、毎回授業の最後に学生に、講義に関する質問を一つ提出させます。その質問の質によって評価を決める、というスタイルを続けていました。
こちらは、質問を考えるということですが、これは問題を見つけ出すこととほとんど同じだと言っていいと思います。問題を自ら見つけ出し、そしてそれについて質問をする、ということのはずなので。
この森博嗣のスタイルを知った時、なるほど素晴らしいやり方だと思いましたし、質問あるいは問題を見出すということが何よりも一番大事なのだな、と実感したものでした。
僕は高校時代に、パズルにはまっていまして、世界文化社から出ていた『パズラー』という雑誌を毎月買っていました。そこに、自分で作ったパズルを投稿するコーナがあって、僕も何度か投稿したことがあります。一度だけ採用されましたけど。
その時に、自らルールを決め、問題を作り、唯一解であることを確かめ、なんてことをひたすらやっていましたが、その時に、問題を作るのは、なかなか楽しい作業だけどでもものすごく難しいことだな、と思いました。
現実で生み出すべき問題は、パズルのように簡単なものではありませんが、でも自分に問い掛けてみてはどうでしょうか。自分は、何か問題を見つけ出すような生き方をしているだろうか、と。
僕たちは、学校教育によって、問題を解くことについては結構出来ます。学力は下がっていますが、それでも、問題を与えられたら解くという姿勢はもちろんなくなるはずがありません。しかし、その学校教育のまさに弊害として、問題を生み出すことが疎かになりつつあります。
試験では問題が与えられ、しかも解けるようになっていますが、現実世界では、問題が与えられないどころか、自分で見つけ出した問題が解けないようなことすら日常茶飯事です。重要なことは解くことではありません。問題を作り出すことです。なんでもいいです、日々何か問題を見つけ出せるような、そんな生活を意識してはみませんか?
というわけで内容に入ります。
本作はシリーズものの短編集です。というわけで、全体の設定をまずは書きます。
主人公は小嶋君と小山内さん。共に難関と言われる高校に合格し、晴れて入学となった身である。
この二人、なんだか常に一緒にいるように見えるし、周囲からは恋人関係だと思われているらしいけど、しかしそんなことはない。恋愛関係にも依存関係にもないが、互恵関係にある二人、である。彼らが目指しているもの、それは『小市民』である。常に小市民たれ。それが二人の合言葉だ。その精神に則れば、何か事件が起きたとしても、自ら進んで推理して解決に導くようなことはしない。そう、それが小山内さんとの約束で、二人の契約。しかし、なんだかかんだといいながら、結局推理毎に巻き込まれる破目に…。
というような設定ですね。
それではそれぞれの短編を紹介しようと思います。

「羊の着ぐるみ」
小学校時代の同級生だった堂島と高校で再会。すると日を置かないうちに、力を貸してくれ、とのこと。何でもクラスメイトのポーチが盗まれたらしく、とりあえず警察に届ける前に一旦校舎内を隈なく探してみよう、ということらしい。推理をするんじゃない、そう自分に言い聞かせてみる小嶋君。捜索の甲斐なくポーチは見つからないのだが、不審な行動をとる男が一人。結局なんだかんだ、小山内さんと共に、ポーチの場所を推理する破目に…。

なかなかうまいですね。この段階では、どうして彼らが小市民を目指そうとしているのか、そして小嶋君はどうして推理を出来るだけ避けようとするのかが説明されないので、読んでてあれれって感じはしますが、後で説明されるので大丈夫です。

「For your eyes only」
ポーチの事件をなんとか無事収めた小嶋君だが、また堂島に付き合わされることになる。新聞部に入ったという堂島は、美術部の取材の件で気になることがあるから知恵を貸してくれ、と言ってきた。美術部には、かつて日展を狙うと公言するような油絵を描く学生がいて、その学生が残した奇妙な絵が残っている。その絵は、輪郭がはっきり描かれ、色もまるで塗りつぶしたようなベタ塗りという、うまいのかなんなのかよくわからない絵なのである。しかも似たようなものがもう一つ。それにつけられたタイトルが、『三つの君に六つの謎を』…。この絵一体何?

これ、謎はかなり魅力的なんだけど、解決がなんかな、という感じです。いや、論理的には見事なところに落ち着けたという印象はあるんだけど、でもなんだかなぁという感じを拭えない作品です。

「おいしいココアの作り方」
それまで知恵を貸してくれたお礼を兼ねて、堂島が小山内さんと共に小嶋君を家へと招待した。そこで堂島が作った『おいしいココア』のためにちょっとした騒動に。カップに粉を入れ、初めは少しだけミルクを入れてよくかき混ぜ、それからさらにミルクを足す、というやり方で『おいしいココア』は入れられるのだけど、シンクが乾いている(つまり洗い物をしていない)のに三人分のカップ以外の入れ物が使われた形跡がないのだ。一体堂島はどうやって『おいしいココア』を入れたのか…。

これは面白いですね。たかがココアを作るだけの話なんだけど、いろんな仮説が出ては否定されていきます。よくできていると思いました。お見事です。

「はらふくるるわざ」
小山内さんが、あまりにも美味しくて食べ過ぎてしまう、という理由で行くことを封印したケーキや『ハンプティ・ダンプティ』。そこに呼び出された小嶋君は、小山内さんが受けたテスト中に起きた、ドリンクのガラスが割れるという事件の話を聞いた。それ以上小山内さんは何も言わないけど、僕は小山内さんの意図を汲んで無人の教室へと赴く…。

これ、結末はまあそんなに大したことないんだけど、でもそこに至るまでの過程、そして解いた後のやり取り、そうしたものが結構よくて、小市民精神に基づいた息詰まる攻防が繰り広げられます…って大げさですけど。

「孤狼の心」
これは、まあ内容は書かないでおきましょう。

僕が冒頭で、問題を見出すことが重要だと書いたのは、この作品のことがあったからです。この話の中で、恐らく小山内さんは危険な立場に立たされている、と小嶋君は思うのですが、しかしどんな危険にさらされようとしているのかは漠然としていてわからない。そこで推理するという話で、つまりこの話は、問題を推理によって明らかにする、という、ミステリの中でも稀有なストーリーになっていて、僕としてはこれはかなりお見事な作品なんではないか、と思いました。何も起こっていない状態から、今のままだとこんなことが起きるかもしれない、現在進行形でもしかしたらこんなことが起きているのかもしれない、という推理の方向性で、そういう作品は珍しいと思います。

これは解説でも書いてあったけど、全体的に感情や内面といったものがかなりドライに描かれていて、僕としてはそういう立場というかスタイルは大好きなので、そういう点でもかなり好感の持てる作品でした。
まったく殺人の起きない、いわゆる『日常の謎』という分野の小説ですけど、本多孝好・加納朋子を初め『日常の謎』系の作家は数多く出てきましたが、しかしきた村薫二世というべき作家はなかなかいなかったように思います。しかしこの米澤穂信、北村薫二世の称号を与えてもいいのではないかというくらいの見事さでミステリを作っている、と僕はかなり感心しました。
著者の知識は豊富だし、小市民を目指すなんていうなかなかない設定もそうだし、米澤穂信という作家はかなり侮れないし、これからどんどん注目の作家になっていくだろうと思われます。
一つ疑問なのが、米澤穂信という作家が、ライトノベルの系列で語られるということです。解説でも、そのような立場を解説氏はとっていました。まあ、ライトノベルで評価が高いと商業的にはかなり売れるんでまあいいんでしょうが、米澤穂信のミステリーは、十分に質の高いミステリーで、決してライトノベルと混同してはいけない、と僕は思っています。ちょっとそこだけ不満です。
米澤穂信、注目の作家です。是非読んでみてください。

米澤穂信「春期限定いちごタルト事件」



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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)