黒夜行

>>2006年02月

推理小説(秦建日子)

アンフェアとリアリティについて書こう。リアリティについて、これだけ真正面から書ける小説は珍しいので、その点は嬉しい。
まずアンフェアについて。ミステリをあまり読まない人のために説明すると、アンフェアというのは、まあもちろんフェアじゃないという意味で、読者に対して親切ではない、という意味で使われる言葉だ。
ミステリというのはお約束の多いジャンルで、犯人は最初から登場しなくてはいけないとか、読者が与えられた伏線から犯人を推理できるようにしなくてはいけないとか、解決シーンで犯人は嘘をついてはいけないとか様々。大昔には、『ノックスの十戒』や『ヴァン・ダインの二十則』などが出され、ミステリとはこれらを守らなければならない
、と言われてきたぐらい、保守的な分野なのである。
つまり、犯人がそれまで登場してもいなかったような誰だかわからない人間だったり、読者の知らなかった情報を元に探偵が推理をしたり、クライマックスで犯人が嘘をついたりとかしてしまうと、ミステリの読者は、『なんてアンフェアな作品だ!』『最悪だ』『フェアじゃない!』と騒ぎ立てるのである。
それでいてミステリの読者は、今まで読んだこともない大どんでん返しを期待するわけで、ミステリというのはなかなか難しい分野なのである。
さて、僕自身の意見だけど、ミステリ作品がアンフェアに仕上がっているからと言ってうだうだ言うのはおかしいと思っている。別に文句をつけるようなことではないだろう、と思うのだ。しかし、やっぱりアンフェアな作品は面白くない、とも思う。文句をつけたいとは別に思わないけど、単純にアンフェアな作品はつまらない。それはやはり、ミステリというのがそういう文化の上に成り立ってきたジャンルだからだし、それに、伏線が一つに集約して、誰も考えつかなかった真相を導き出すあの醍醐味こそが、やはりミステリの一つの魅力だと思うからだ。
その昔、アガサ・クリスティーの「アクロイド殺し」という作品が、アンフェアだと非難されたことがある(らしい)。僕はその作品を読んだことはないけど、どんな点がアンフェアだと言われているのかなんとなく知っている。今でもフェア・アンフェア議論は続いているらしいけれども、しかし今ではクリスティーの名作の一つに数えられている。そういうこともある、という話である。
さてもう一つ。リアリティの話。
僕のこの感想のサイトを結構読んでくれている人ならば、僕がいろんな感想でこう書いているのを知っているかもしれない。
『僕は、リアリティという言葉が好きではないけど』
『僕は、書評家のリアリティがないという評価が嫌いだけど』
リアリティって何なんだ、って僕は思う。
例えば僕は、非常に不謹慎な話だけど、人を殺した動機を聞かれた時に、「わかりません」と答えることは、非常にリアリティのあることだと思う。僕はそれを、森博嗣の小説を読んでよりそう感じるようになったのだけど、とにかく、人を殺した理由を、何らかの形で説明できる方が非常に不自然だと思う。
しかし、ミステリにしてもミステリじゃないにしても、小説の中ではその理由が語られる。それは本当に、リアリティがあるということなのか?
僕らは、あまりに記号化されすぎているんだと思う。ドラマの影響なのかわからないけど、僕らは、こんな時にはこうだろう、みたいな先入観がまずあって、さらに驚くべきことに、その先入観に沿って実際に行動してしまう。
つまり、これぞリアリティという価値観がまずあって、それを現実に引き写してしまう。悲しい時は泣くのがリアリティだから泣こう、死体を見つけたら悲鳴をあげるのがリアリティだから悲鳴をあげよう、家族が死んだら悲しむのがリアリティだから悲しもう…。僕らはそうやってあらゆることを記号化して、その記号化に則って生きている。
リアリティなんて、そんなもんじゃないだろうか?
僕は、リアリティがないと酷評される作品ほどリアリティがあると感じる。そして、この作家・作品はリアリティがあると言われるものほど、リアリティを感じない。
よく小説を読んだ感想で、『こんなことありえない』とか言う人がいるけど、何をもってありえないと決め付けているのか、僕はそれを聞きたい。ありえないのはあなたのその想像力で、現実には何でも起こるよ、と。現実的じゃない、というあなたの思考こそ現実的じゃないですよ、と。
僕は、小説の中の世界のすべてをとりあえず一旦受け入れて小説を読む。その上で、その世界のルールに則って、僕は評価を下す。
例えば、殺人が起きているのに最後まで警察を呼ばずにすべてを処理してしまうミステリを読んだことがある。普通の読者なら、『警察を呼ばないなんて現実的じゃない』と思うのかもしれない。しかし僕は、登場人物たちが警察を呼ばないという判断を一旦は受け入れる。それが現実的ではないとは思わない。現実にあるかもしれないと受け入れる。その上で僕は、警察を呼ばなかったという判断に納得いかない、という評価をする。
同じことを言っているように聞こえるかもしれないけど全然違う。普通の人は、警察を呼ばないというその点をもって『現実的ではない』と決め付けて評価を下してしまう。僕は、登場人物たちが警察を呼ばないという判断したことには不満はない。そういう人もいるかもしれない、と思う。その上で、『自分だったら、このストーリーで警察を呼ばないという判断はしないだろう』という風に考えて、警察を呼ばない点を納得できないものとして評価する。
リアリティがない、という言葉は僕は嫌いだ。現実に起きていることの方がリアリティなんか全然ない。ツインタワーに飛行機は突っ込むし、光の速度は一定だし、東北にありえないぐらいの雪が降ったりする。現実のどこがリアルだと。小説の方が全然リアリティがあるじゃないか、と。
リアリティという言葉は、『小説作品は大体この範囲の世界に収まってくださいね』という、ある種のお約束のようなものだ。その『世界』と現実世界はかけ離れた存在だ。誰もが、現実世界と比べてリアリティだなんて言ってない。その『世界』と比べてリアリティがどうのと言っているのだ。
馬鹿らしいではないか。
だから僕は、リアリティが云々と言っている書評家を信用しないし、リアリティがないと言って酷評されている作品を敬遠したりもしない。
とまあそんな話である。
内容に入ります。
殺人事件が起こる。会社員、高校生、編集者…。被害者同士の繋がりが、ミステリ用語で言えば『ミッシングリンク』が見つからない。共通点はただ一つ。
『アンフェアなのは、誰か』
そう書かれた栞が現場周辺から発見されること。
無差別殺人だろうか?
有名な推理小説作家、ある大学のミステリ研に所属していた行方不明の学生、ゴーストライター、出版社の編集者…。そうした人間が、事件となんらかの形で関わっていく。
警察も捜査を続ける。
雪平夏見。30代後半、女性、子持ち、大酒のみで部屋が死ぬほど汚い、検挙率ナンバーワンで無駄に美人。そんな刑事と相棒の安藤が事件を追う。
その内、警察と出版社に犯人から原稿が届く。『推理小説 上』と題された、事件を詳細に小説にしたもの。警察しか知り得ない内容も書かれていて、犯人からのものであるとほぼ断定される。
そしてある要求も届く。
『次の殺人は一週間後。
最低入札価格一億円。
命を救いたければ
私の「推理小説」を落札せよ!』
犯人は、何を望んでいるのだろうか…。
そんな感じの作品です。
うーん、という感じですね。
内容はまあぼちぼち、という感じです。雪平というキャラクターが面白いし、ストーリーの流れも、まあ平凡だけど読めなくはないという感じ。
でも何よりも僕としては、その構成がちょっときつい。
場面展開が速すぎるのだ。見開きで3・4回場面展開するようなところもあって、ドラマ的だよな、と思ってしまった。
というのもこの秦建日子という著者は、そもそもドラマの脚本家でかなり有名な人だそうで、まあ手がけたドラマで僕の聞いたことあるものもそこそこある感じで、まあそんな人なのだけど、やっぱり小説を書いてもドラマ的になってしまうんだろうな、とそんなことを思いました。
一つの場面で一人の視点というのは守られているけど、でもそれにしてもこの場面展開の多さはちょっとうんざりするな、という感じで、もっと落ち着いて小説を読みたいなという感じになりました。
本作は、「アンフェア」というタイトルで今ドラマ化されているようで、なるほど雪平というキャラに篠原涼子はなかなか適役だなと思ったけど、うーん、そんなに興味はないですね。
今本作は、各書店のベストセラーランキングの10位以内に食い込むぐらい売れている作品なんですが、僕にはそこまで魅力のある作品だとは思えません。読んでみてもいいけど、期待しないほうがいいかと思います。

秦建日子「推理小説」



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コールドゲーム(荻原浩)

なんだかんだ言ったって、いじめがなくなるわけじゃない。
僕は、やる側としてもされる側としても、いじめと深く関わったことはないと思っている。自分の思い込みなので、やったこともされたこともあるのかもしれないけど、でも、少なくとも僕が思い出せる限りでは、そうしたことは僕の人生にはほとんどなかったと思う。
運がよかったな、と本当に思う。
いじめなんて飛行機事故みたいなもので、たまたま乗り合わせた飛行機がたまたま偶然事故を起こして墜落してしまうように、たまたま一緒になったクラスでたまたま標的にされてたまたまいじめられてしまうのだ。
こんなことを書くと、いじめられている人やその家族の人に、軽々しく言うなとか、いじめをなくすことを諦めるなとか思われてしまうかもしれない。
でも、仕方ないことを認めるしかない、と僕は思う。
本当にいじめなんて事故みたいなもので、もちろん飛行機事故みたいに、どこどこが壊れてましたとか、どこどこの接触が云々とか、そういう原因はあるけど、じゃあなんで自分がその事故に遭う飛行機に乗り合わせたのかなんてことに原因なんてない。それと同じで、いじめにはささいなきっかけや原因を見出そうと思えばできるけど、でも結局、なんで自分がいじめられるクラスに入ってしまったのか、そんなことに原因なんてない。
いじめが起こる原因を考えたり、その原因に対して対策を講じたりしてるんだろうけど、絶対無駄だ。結局、何をどうしたところでいじめがなくなることはない。僕はそう思っている。
じゃあどうすればいいのか、という話である。
僕は、いじめが起こることをまず前提として考えるべきだ、とこれまでに書いてきた。
さらにその上で僕は、ある『勇気』を持つべきではないかと思うのだ。
それは、『学校に行かない』という『勇気』。
僕は思う。僕らは子供の頃から、『階段を上らなくてはならない』という価値観を植付けられて育てられていく。いい学校にいって、いい会社に入って、偉くなって、お金を稼ぎなさい。僕らはそういう『階段』を上ることが一番いいことだ、と学んで生きていく。
いや、それは確かにそうかもしれない。そうやって一歩一歩『階段』を着実に上がって生きていくことが、最も幸せなのかもしれない。
しかし同時にその価値観は、『階段』を降りることを決して許さない価値観でもある。僕らは、一度上り始めた『階段』を、そうやすやすと降りることはできない。上り始めたら最後、どこまでも上り続けなくてはいけないのである。
この価値観に支配されているからこそ、いじめられ続けても、学校に行かない、という判断ができなくなってしまうのだ。
無茶苦茶なことを言っているだろうか?
僕は、『階段』から無理矢理落ちた人間である。このまま『階段』を上り続ける人生に限界を感じて、僕はある時、『階段』を落ちることに決めた。そうして僕は、『二度と階段を上らない』という『勇気』を持つことにした。
それだって、間違った生き方じゃないと思う。
僕らは、『階段』を上る価値観が正しいことで、それ以外の価値観はない、みたいな育てられ方をする。特に今はそうかもしれない。
でも、子供に、『階段』を上がっていく以外の人生の価値というものを与えることが、本当の教育ではないかと思うのだ。
僕らは、『学歴』というレールから外れた生き方を教わらない。僕は、子供にそれを選ぶ権利を与えるべきではないかと思うのだ。『階段』を上る人生と上らない人生。どっちの価値観も教えて、その上で子供に、どちらかを選ばせるべきではないか、と。
もちろん理想論である。万が一僕が父親になったとして、そんなことができるかはわからない。
それでも、いじめという問題に限らず、『階段』を上る人生が本当に幸せなのか、問い掛けてみることが大事ではないだろうか?
なんだかかなり偉そうなことを書いてみたけど、内容に入ろうと思います。
今は夏休み。高校三年生の渡辺光也は、甲子園を目指した野球部を去り、進学するかどうかも宙ぶらりんのまま、何でもない夏休みを過ごしていた。
そんなある日、近くに住む中学時代の友人である亮太に呼び出された。至急、だそうだ。どうせ大した用事じゃないだろうなと思っていたら、驚くようなことを聞かされる。
どうやら、中学二年の時のクラスメイトが、次々に不審な出来事に遭っているようなのだ。
脳天を殴られて鎖骨を骨折した奴、小指をカッターで切られた奴、中傷ビラを撒かれた奴、犬を殺された奴…。
トロ吉しかいねぇよ。
初めは亮太が何を言っているのかわからなかった。トロ吉。その名前と共に、苦い思い出が蘇ってくる。
同じクラスだった廣吉、あだ名はトロ吉。クラスでのいじめられっ子。主犯格は亮太。他のクラスメイトは、自発的だったり、脅されてやったり、あるいは見てみぬフリをしたり…。誰も何も関わってないなんて言えない。
復讐だよ。
そう言い切る亮太は、トロ吉を探し出すことに決める。巻き込まれる形で協力することになった光也。初めこそ探偵気取りのお遊びだったのだが、次第にそうも言ってられなくなってきた。トロ吉は本気だ。本気で復讐を遂げようとしている…。
というような話です。
ストーリー自体は、地味ですね。
いや、巻末の石田衣良の解説のように、確かに安定感がある。そういう表現で評価することもできる。でもやっぱり、ちょっと地味かな、って気がする。どこがどう地味なのかなんとも説明しようがないけど、結局最後の結末が、僕的にそこまでヒットしなかったってことかもしれないけど。なんていうか、異常は異常なんだけど、その異常さがちょっと普通だったかな、と。なんとなくわかてくれますでしょうか。
でも、キャラクターの描き方はなかなかのもので、かつてのクラスメイトが沢山出てくるのだけど、みんなキャラが立っている。少年少女を描き分けるのは結構難しいと思うのだけど、みんなキャラクターがはっきりしていてわかりやすいし、個性が際立っているしそれがストーリーにもよく合っているから、そういう点ではなかなかだと思う。特に、主要に出てくる、光也・亮太・美咲・ドカ・清水なんかのキャラクターは結構良いですね。
でも、他にはどうも触れるべき点が特にない小説で、全体的にまあ普通の小説かな、という感じです。
荻原浩の作品を初めて読んだけれども、まあ別の作品を読んでみてもいいかな、というぐらいにはいます。特に評価の高い「明日の記憶」あたりを読んでみようかな、と。まあどんなもんでしょうか。
特にオススメはしないけど、読んでみてもまあ悪くはない、と言ったぐらいの小説です。はい、そんな感じです。

荻原浩「コールドゲーム」



さくら(西加奈子)

僕は、壊れやすいものをなるべく持たずに生きていたい、と思っている。
しかし、それと同じくらい、矛盾することはわかっているけれども、壊れやすいものをなるべく持っていたいと思っている。
僕らの世界は、壊れやすいものでできている。何もかもが、刹那的だ。
例えば、今から10年経って、自分の周りにあるもので何が残っているか、想像できるだろうか?機械類は大抵買い換えるだろうし、服だって本だって、残ってないかもしれない。
しかし、僕が言いたいことは、そうした物質的なことではない。
僕らの人生を形作っているものは、そうした物質的なものだけではなくて、もっと目に見えない、わかりずらい、それでいてなくては困るもの、だと思う。
曖昧で、時には言葉にすることもできないようなものだし、輪郭も重さもわかりずらいような、そんなものだけど、でも僕らの人生に何でか強く結びついているし、なくてはならない。
そして、壊れやすい。
例えば人間関係もその一つだ。
大切だし、無くてはならないけど、壊れやすい。
例えば10年後、今の友達が自分の周りに残ってくれているかどうか、僕としてはなるべく考えたくはない。
そうした、すぐにでも壊れてしまうもので、僕らの人生は溢れている。
僕は、出来ることならば、すぐに壊れるとわかっているものを持っていたくはない、と思っている。どんなにそれに愛着を持っても、どれだけそれが信頼出来ても、近いうちに壊れてしまうことがわかっているなら、欲しくない。
これは、ペットで考えてみるとわかりやすいかもしれない。僕はペットは苦手だけど、でも好きで飼っている人の気持ちはわからないではない。なんだかんだで寂しいから、その寂しさを埋めてくれるものとして欲しているわけだ。しかし、ペットは、どんなに望んでも、すぐに死んでしまう。いつか失われることが分かっているから飼いたくない、という人もいるだろう。
なるべく、何も所有したくない、ということだ。世の中に溢れたあらゆるものは壊れやすいもので、そうでないものがあったとしても、僕には手に入らないものだろう。所有して失うことで、心が乱されたり気持ちが揺さぶられたりするくらいなら、初めから所有しないでいたい、と思う。
ただ、壊れやすいものを所有することで、自分の心を守る、というやり方をいつの間にかしている自分に気づくこともある。
僕は、恥ずかしい言い方だけど、自分の心はかなり壊れやすいものだと思っている。触れればすぐに粉々になってしまうような、やわな心の持ち主だ。でも僕は、その心を守って生きていかなければならない。壊されるようなことがあったら、僕はまともではいられないからだ。
僕は、この壊れやすい心を持ちながらなんとかちゃんと生きていくために少しは努力した。僕は、常識だとか価値観だとか言葉だとか、そうした壊れやすいものを沢山所有して心の周りに配置して、外からの刺激にまずそれらが壊れるようにした。心を壊そうとする外因を、その周囲に置かれた壊れやすいものを壊すことで相殺する、というようなことをやってきたつもりだ。そのお陰で今は、少しは楽に生きていけるようになったと思う。
大切なものほど壊れやすいと思う。大切に思う気持ちが強いが故に過保護にしてしまい、結局刺激に対する抵抗をもてなくなってしまうのかもしれない。
壊れやすいものは持ちたくない。でも、壊れやすいものを出来る限り持ちたい。僕はこうした矛盾の中で、なるべく何も壊さないように、壊すとしてもできるだけ大切ではないものを壊すように、そうして頑張って生きている。
内容に入ろうと思います。
主人公の薫は大学生だ。年末を彼女と過ごす予定があったけど、チラシの裏に書きなぐった父からの手紙が、彼の気持ちを変えた。
「年末、家に帰ります。   おとうさん」
薫も年末を実家で過ごす事に決めた。サクラにも会いたいし。
実家に帰った薫を迎えたのは、老いさらばえた老犬サクラと、でっぷりと太った母だった。へたくそにペディキュアを塗った妹ミキと、やせ細ったち父もいた。再会の食卓は鍋だった。
今は四人だけど、昔は五人家族だった。薫の一つ上の兄、一がいた。
兄ちゃんは、どこへ行っても人気者だった。どこへ行っても注目の的だった。妹のミキも子供の頃から可愛くていろんな意味で注目を集めていた。薫だけが、ある意味で普通だった。
五人家族と一匹の犬は、あらゆる時間を共有し、あらゆる愛を共有した。何があっても、どこへ行っても、いつもそこに家族があり、家族がいた。どこまでも大きな愛に包まれた家族は、満ち足りた日常の中で、それでも綻びを生み出していった。時間とともに、過ごしてきた日々と、埋められない時間と、忘れてきた何かが、ものすごい勢いで形になって、家族に襲い掛かっていった。
過ごしてきた家族の形。流れてきた家族の時間。ありもままでまっすぐな愛の軌跡。
そんな感じの話です。
まず書いておくと、基本的に僕は『こうゆう小説』が苦手だったりします。『こうゆう小説』というのは、例えば、ある道をあるいていて、ふと振り返ってみると、ああこの道は上り坂だったんだ、と気づくような、そんな緩やかでほんわりとした小説のことで、要するに、『どこにでもありそうで実はなかったりするゆったりとした日常を描いた小説』のことです。僕としてはやはり、山アリ谷アリの、スペクタクルでダイナミックなわくわくする小説を読みたいわけです。
でも、本作はなかなかよかったです。こういう、そう『家族小説』が苦手な僕でも、全然楽しめる小説でした。
やっぱり理由は、出てくる人間が魅力的だってうことでしょう。
兄ちゃんは、昔から何でもできてなんでも全力な少年で、そこだけ春が訪れたような輝きを周囲に放っているようで、周りの人は皆そんな兄ちゃんに惹かれていってしまいます。兄弟も、常に兄ちゃん兄ちゃんと言って付きまとうような兄ちゃん子で、兄弟にとっての精神的支柱だったりします。そのどっしりとした存在感が、周囲に安心を与えていました。
妹のミキは、すごく可愛らしいのに奇行の目立つ子で、兄弟でも手を焼くようなそんな子です。とにかく気に入らないと殴る。売られた喧嘩は買う。数多告白されたけど、首を傾げるくらいの反応しかしない。ものを投げる。とにかくそんな、全然女の子らしくない子です。僕はこういう、『全然女らしくない人』というのが好きで、それが最強に際立った存在なので、僕の妹と同じ名前だというのは気にいらないけど、このミキというキャラクターはかなり好きでした。
他にも、いつも笑ってその存在が周囲に笑みをもたらすような母親や、物静かでひっそりとチェスをやっているような父親、弱弱しいけど賢いサクラ、また他に出てくる様々なキャラクターが、本当に面白くて興味深くて、例えば主人公の薫と同じ名前の女の子がミキの友達として出てくるけど、このキャラクターもなかなかよかったし、あと『フェラーリ』って人間が出てきて、僕が子供の頃にも、近くに『フェラーリ』って呼ばれている変な人がいて、いたいたなんて思ってみたり、とにかく出てくる人がかなり魅力的に描かれていました。
内容としてはほとんど回想録のようなもので、断片的な思い出を時系列に沿って並べているような感じでした。一つ一つのエピソードが、どれもキャラクターの良さや家族や兄弟の愛なんかを描いていて、僕もこんな家族がいたらな、なんて思ってしまいました。
僕は、ここでは何度も書いているけど家族が嫌いで、もちろん僕の性格や接し方や価値観なんかも問題だったんだろうけど、それでも、もう少し何かが違っていれば、僕もこうした家族に出会えたんじゃないかって思ってしまって、僕は人間関係の中に過剰に何かを求めないつもりだけど、でもこんな家族がもしいたとしたら、僕は家族をかけがえのないものとして思うことが出来たかもしれないし、家族を愛することができたかもしれない、と思ったりします。きっと、僕の中の寂しい部分が、敏感に反応してしまうのだろうと思います。
小説を読むと時々、家族っていいかもな、と思ってしまうことがあります。僕は、自分の中では家族を捨てたと思っていて、そこに愛や期待や希望は持っていないけど、でも、様々にある家族の形を見てしまうと、羨ましくなってしまう自分をちょっと隠せないでいます。本作も僕を、何か羨ましいな、という感じにさせてくれました。
ストーリーと言ったものはあるようでなくて、一番わかりやすい表現は、誰か知らない人のアルバムを眺めているような小説です。読んでいると、何だかほんわりしてくる小説で、何度か読み返してもいいかもしれない、と思うような作品でした。言葉の一つ一つが、心の乾いた部分にしみこんでいくような感じで、泣きはしなかったけど、どこか深いところまで何かが届くような、そんな感じがしました。
ほんわりとなれる小説です。文章のリズムというか雰囲気というか、そういったものもかなり好きな作品で、オススメです。読んでみてください。


西加奈子「さくら」




野ブタ。をプロデュース(白岩玄)

ついさっきまでめちゃイケを見ていた。思うところがある。
僕らの世代の若者は、人との距離のとり方に関して繊細である。常にそれを考えている、と言っても間違ってはいないと思う。
いかに踏み込まないか、いかに遠ざけないか。
少なくても、僕はそうしているという自覚がある。
僕は、自分を演じているという自覚がある。僕自身は、誰かとうまくちゃんと距離を取ることができない人間だ。そういう絶妙な場所に自分を置くことが苦手で、でもその、僕らの世代では一級の重要事項を脇に置いて人間関係を成立させることは不可能である。だから僕は、本当の自分を巧妙に隠し、周囲の人間との悪くない距離を作り上げる『僕』という人格を、なるべく意識的に演じているという自覚がある。これは、より付き合いの長い(気の置ける)友達であればそんな演技は必要ないのだが、必ずしも全員が全員望んだ形で出会うわけではない場所(職場とか)なんかでは、これまでもずっとそうしてきた。
親との関係も、まさにこれで説明ができる。
僕はある時から、親に対して僕を封印し、『僕』を見せるようにしてきた。ある時期から僕は、親のことを徹底的に嫌いになり、しかし表立って波風を立てるのはめんどくさいしかったるいので、親のことを嫌いな僕には隠れてもらって、そうではないそれまで同様優秀で真面目な『僕』に後を引き継いだわけだ。
これはずっと続いた。ある時僕が引きこもりになり、その関係で親がこっちに来た時に、その事実を初めて明らかにした。恐らく、二人が受けた衝撃はなかなかのものだっただろう。今まで見せられていた『僕』が実は作られたものだったなんて、彼らは想像もしなかっただろう。
こんな風にして僕は、本当の僕とは違う、周囲にどう認識されるかを出来る限り正確に考え抜いた『僕』という人格を作り出して今まで生きてきた。
理由は、めんどくさいからである。
結局、踏み込まれたくないということだ。僕の深いところには触れられたくはない。僕を理解されたくないし、理解したなんて思われたくはない。僕は誰からも干渉を受けず、誰からも束縛されず、誰にも影響されず、そういう場所にいたいのだ。
この気持ちは、僕らの世代にはわかってもらえるだろう。
濃い人間関係とか、真剣な付き合いとかは、苦手なのだ。僕らはポストイットみたいなもので、張って剥せるお手軽な人間関係を求めているのである。
僕らの世代にはわかってもらえると信じているのだが。
しかし、今日みためちゃイケでぐらっと来た。山本と岡村の1000本ノックだ。二人がそうすることになった事情はまあどうでもいいとして、山本は、岡村を許すという理由のために1000本ノックをマジでやる。
僕らの世代には、あんなノリはもはや絶滅していると言わざる終えないだろう。あそこまで熱くなれないし、ああいう熱さを恥ずかしいものだと思っているし、そういう風にしている人をみると苦笑してみたりすらするのだ。それが僕らの世代だ。
でも、僕もそうだが、結局はああいう関係を望んでいるのだと思う。これまで書いてきたことと矛盾すると思われるかもしれないが、そうだと思う。僕らは、そんなものはもう手に入れられないと端から諦めているだけなのだ。深いところで繋がる人間関係は、それができるなら欲しい。でも、みんなそんなこと望んでないだろうし、そうなるまでがめんどくさい。結局手に入れられないなら、初めから諦めちゃおう。
僕らはそうして、希薄な人間関係の中に、自分を埋没させていきながら、窒息しないように精一杯努力をしているのだ。
たぶん昔に比べて、人間関係は希薄になってきている。それが、携帯電話などのツールの進化とともにもたらされたというのはある意味正しいのかもしれない。しかし、僕らに目指すべき方向を与えてくれるような存在はなかなかないし、あったとしても、そこにどうやって行けばいいかわからなくて結局諦めてしまうだろう。
僕は、人生は暇つぶしであると思っている人で、やりたいことも成したいことも目指したいものも何もない。ただ死ぬまで、そこそこそつなく生きていければいいや、と思っている。
ある意味で、僕ほど極端ではないにしろ、そういう人間が増えてきているのではないかと思うのだ。なんでもそつなく。対立を求めるでも刺激を求めるでもなく、ただ日々空いていく穴をふさいでいくような、広がっていく隙間を必死で埋めていくような、そんな人生を進んでいる人が増えてきているのかもしれないと思うのだ。
僕は、希薄さの中に自分を埋没させるしかないだろうな、と思っている一人である。しかし、やはり深い関係で結ばれた人間関係というものにも憧れてしまう。結局手に入らない幻想だとしても、僕らがそれを望む限り、せめて幻想としてでも僕らの目の前に、存在し続けてくれるだろうか?
というわけで、内容に入ろうと思います。
本作はある高校が舞台で、主人公は桐谷修二。クラスや学年では結構人気者で、誰からも話し掛けられ、笑いも取れるし、なんでもそつなくこなせる男だ。しかし実際は、『桐谷修二』を演じているだけで、内心では、踏み込まない、遠すぎない、というぬるい関係を求めている。
高校での生活は、『桐谷修二』を演じなくてはならないめんどくささはあるが、しかしそれなりに退屈ながら、それなりの生活である。学年で一番人気の女子と昼飯を食べる、仲のいい友達と馬鹿話をする、退屈を紛らわす一人遊びを愉しむ。そうやって、限りなく暇つぶしの日常を、なるべく努力して最高の暇つぶしにして生きている。
そんな修二のクラスにある日、転校生がやってくる。
誰しもが抱く転校生に対する期待が、一瞬で、まるで音をたてて崩れるかのような、そんな見事な転校生だった。
とにかく太っている。ブタだ。しかもワカメヘアがキモイ。眼鏡だし、おどおどしてるし、首ないし、とにかくなんかキモイ!名前は、小谷信太…って野ブタ!
そんな転校生の行く末は目に見えているわけで、誰からも相手にされないまま過ぎていく日々が、そこに何も存在していないかのように扱われる日々が、周囲の人間にとっては自然に、小谷にとっては地獄のように過ぎていった。
しかし、何がどうなったか知らないが、修二が小谷のプロデュースをすることになった。文字通り、プロデュース。現状で、最低最悪のキモイ転校生を、学年で最高の人気者にする。自分には、『桐谷修二』を演じきるだけの力がある。プロデュースは成功間違いなしだ!
そうして、修二と小谷による、人気者大作戦が始まることになるのだが…。
という話です。
まず僕は、この桐谷修二という人間に、激しくシンパシーを感じました。『桐谷修二』を演じているという点で、非常に似ている。というか、こうやって生きている人の方が多いだろうと思うから、誰もがこの桐谷修二には、おお俺もそうだよ大変だよな、みたいな感情を抱くんではないかと思います。
桐谷修二の生き方は、それが理解できない人からすれば、なんでそんなめんどくさいことをしているんだ、という感じに映るかもしれないけど、こういう処世術は全然間違っていないと思うし、寧ろ正しいと思うし、僕は、桐谷修二を全面的に応援するし賛成します。
なんてことはまあどうでもいいとして。
本作には、とにかく若者の、なんていうのか、退廃的?そんな感じの雰囲気がメチャクチャよく出ています。もちろんそれは、桐谷修二の視点から描かれる世界なわけだけど、僕らの世代の生き方というか感じ方というか考え方を、すごくわかりやすく、すごく共感できる形で描かれていると思います。僕はもう高校を卒業して何年もなるけど、まだこういう感覚に近い立場で共感できるな、と思います。
何にしても、こういう作品を評価するのが、結構年いった人なわけで、そういう人にもこういう雰囲気は伝わるんだな、と思いました。
文章は非常に軽快で、表現も結構面白いなと僕は思いました。リアリティという言葉は好きじゃないけど、でもほんと、リアリティのある世界観を作り上げているなという気がしました。ただ、会話文の中の『(笑)』はいらないと思ったけど。なんかそれを書かなくても、笑っている雰囲気を文章で出すのが作家ではないかな、と偉そうに思ってしまいました。
本作はドラマになって知名度が上がった作品ですが、本作を読んで、『彰って誰よ?』と思いました。僕はドラマを見ていなかったけど、『修二と彰』という二人は知っているし、何度も有線で歌が流れたからその主題歌も歌えてしまうけど、とにかく読み始める前は、『修二と彰とう二人が主人公なんだろうな』と思っていたら、なんと彰は出てこず、ドラマだけの設定だったのだな、と思いました。ドラマはどうだったか知らないけど、原作は非常に面白い作品になっています。分量も少ないし、非常に読みやすいです。是非読んでみてはどうでしょうか?

白岩玄「野ブタ。をプロデュース」


野ブタ。をプロデュースハード

野ブタ。をプロデュースハード

臨機応答・変問自在(森博嗣)

思い返してみて欲しい。僕らの人生は常に、『何かに答える』道のりだったではなかっただろうか?
僕らは、常に何かの答えを求めて生きてきたように思う。学校ではテストの解答を求め、友達とは何か面白い遊びを求め、恋愛では成功法則を求め、といった具合に、常にどこかに答えがないか、と探し回るような人生だったはずだ。もちろん、今でもそうである可能性は十分にあるだろう。
僕らの前には常に、何か問題が与えられていた。望むと望まないとに限らず、いつでも問題がつきまとった。それらの問題の波のなかを、答えを求め続けるという形で泳ぎ続ける。僕らはそうやって生きてきた。
しかし、振り返ってみてほしい。誰かに、あるいは何かに、問いかけをしてみたことはあるだろうか?
質問力という言葉がある。斉藤孝の「質問力」という本も出ているし、他にも質問力に関する本は様々出ているから、書店でも見かけたことはあるかもしれない。
何を質問するかで、その人の資質がわかってしまう。それが質問力である。
僕らはいつの頃からか、問いかけをしなくなってくる。声に出すという意味ではない。あらゆる意味で、何かに問い掛けるということを忘れている。
本作の冒頭にもこんな言葉がある。
『問題を解くことに没頭するあまり、人々は自ら問いかけることを忘れがちである』
子供というのは好奇心旺盛なものだけれども、彼らが感じる不思議さの視点というのは非常に面白い。僕らも昔は、いろんなことに不思議を感じていたし、いろんなことに何故だろう、と思っていたはずである。なんで飛行機は飛ぶんだろう?何でイルカは哺乳類なのに海にいるんだろう?UFOはどこから来るんだろう?などなど。
大人になるにつれて、僕らはこうした疑問をどんどんと失っていく。相変わらず、なんで飛行機が飛ぶのか説明できるわけではない。僕らは、『飛行機が飛ぶのは当たり前だ』と考えることで思考を停止し、疑問も不思議も持たないようになっていってしまう。周りにあるものが、何でもあって当たり前という状態になってしまい、どんどん不思議なことがなくなっていく感じがしてくる。
うまく生きていくために、自分をマヒさせるのだ。
こんなエピソードを読んだことがある。アインシュタインの話だが、子供の頃は学校で問題児だったそうだ。例えば数学の先生にこんなことをいう。
『なんで1+1は2何ですか?ほらこうやって、粘土の固まりをくっつければ一つですよ』
もちろん、イメージ的にその理屈を否定することはできる。なんとなく違う。でも、真剣にこの問いに対して否定することができるだろうか?ちゃんと、若き日のアインシュタインを納得させる説明ができるだろうか?
なぜ1+1=2なのか。僕らは、それを当たり前のことだと思っている。1と1を足すんだから2に決まっている。でも、それでは結局ダメではないか、と思うのだ。実際僕は、「リーマン博士の大予想」という本の中で、『1+1=2であることの証明』を見た。これが、素人には理解できない記号が沢山ならんだ、意味不明な証明だった。
なぜ1+1=2なのか?
その問いを発した人を頭が悪いということは簡単だ。しかし、疑問を抱かないそうした人の方が、やはり頭が悪いということになてしまうのだろう。
疑問を発する、問題を作る。こうしたことを僕らは日常でしない。学生だろうが社会人だろうが、結局与えられた問題をいかに解くか、ということが日常になってしまう。
疑問を発する、問題を作る。それがいかに難しいかは、やってみればわかる。
例えば僕は一時期、『パズラー』というパズル雑誌にはまり、パズル投稿欄に自作のパズルを投稿したことがあるほどだけど、その時に、問題を作ることが、問題を解くことに比べてこんなにも難しいことなのか、と感じたものだ。
目の前にある問題を解くことももちろん大事なことだ。しかし、少し努力して、その問題そのものを作り出す人間になってみてはいかがだろうか?きっと、人々はそれを問われているし、時代はそれを求めている。
というわけで本作の紹介です。
森博嗣という作家は、作家でありながら某国公立大学の助教授で(逆かな。というか今現在は違うかもしれないけど)、つまり大学の研究室と講義を持っている。森博嗣は試験を行わないという方針をずっと取って来て、では代わりに何で評価をするのかというと、講義の最後に学生に質問を出させて、その質問の内容で評価する、というスタイルを取っている。この質問には、森博嗣自身が短い解答を与えてプリントにし、次回の講義で配るのだという。
質問を提出させる形式にした理由は、次の二点にある。
・問題を与えられてそれを解くよりも、遥かに能力を見ることができるため
・質問を考えるために講義を積極的に聞く姿勢が若干見られること
僕はこれは、かなり合理的ですばらしいやり方だな、と思いました。寧ろ、こういう発想が主流ではないことが残念でなりません。僕も、質問を考えて提出するというスタイルの授業なり講義なりを受けてみたかった、と思います。特に、二点目の理由は、なるほど説得力があります。
森博嗣は、長いことこれを続けてきて、その膨大なデータを保存していた。それを、集英社のある編集者にまるごと渡して出来上がったのが本作である。つまり、森博嗣がしたことはデータを与えただけで(もちろんそれに注がれてきた労力は並のものではないし、素晴らしく評価されるべき点である)、本作を作ったのは編集者である。恐らく森博嗣は、どの質問を採用するか、というような判断にも参加していないだろうと思われる。
さて質問の内容だが、これがかなり多岐に渡る。文章的におかしいもの、そんなこともわからないの?というもの、自分で考えてというもの、それを本当に知りたいの?というもの。とにかく、苦し紛れだったり逆に素晴らしかったりと、色んな質問が並んでいる。
面白いのは、森博嗣とのやり取りである。森博嗣が与える短い解答が、的を射ているというか、なるほどというか、とにかく答え方にセンスがある。どうしようもない質問にも、それなりの解答を与えている辺りがすごい。
しかも、知識が豊富で(どこから得ている知識なのか不明だが、そんなことまで知っているのか?という風に感じる。いや、常識なのかもしれないけど)、とにかく聞かれたことには必ず何らかの解答が与えられている。
質問力ということについて少し書いたが、本作を読んで、自分を振り返ってみるのがいいだろう。森博嗣があらゆる形で指摘しているように、ちゃんとした質問をしている方がむしろ稀で、ほとんど何かがおかしいという感じである。質問力がいかにないか、という風に感じるし、恐らく自分もそうだろうときっと実感することだろう。
最近本作についている帯にはこんなことが書いてある。(うろ覚えだけど)。
『外見はスーツできめた。
中身はどうだ?』
就活の話だけれども、いや確かに、就活をしている人にはいい本かもしれない(いや僕は就活なんかしたことないから想像だけど)。面接でいろいろ聞かれたり聞かなければならなくなったりするのだろうけど、その際気をつけるべきことを、本作を読んで学ぶことができるかもしれない。もちろん就活に関係ない人にもお勧めです。読んでみてください。
というわけで、気になった質問と答えを抜き出してみます。

『負けず嫌いという日本語はおかしいと思いませんか?負けないことが嫌い、つまり「勝つことが嫌い」になるのでは?』
『これは面白い問題で、一分ほど考えました。「食わず嫌い」という言葉から推察できるように、「負けず嫌い」とは、負けるのが嫌なので、勝負をしない人のこと、という意味では。』

『自分の目で見ている世界は他人にも同じように見えているのでしょうか?たとえば赤という色は他人には(自分にとっての)緑に見えているとしても、それを「あか」という言葉で表現しているので、確認する方法が思いつきません』
『それは常識です。そのとおり、全員が違うものを見ている。目が見えない人は音で世界を見る。我々が見ているものに近いものを見ている。』

『今、地球のまわりには、どのくらいの衛星がありますか?』
『月が一つ。ひょっとして、人工衛星のこと?』

『建築分野において、計画→構造→材料→生産と発展した歴史のその先には何が来るのでしょうか?あるいは何を持ってくるべきでしょうか?』
『これは良い質問。こういうのを大学生の質問という。このように問題提起したことが既に答えといえる。おそらく歴史は繰り返すでしょう。』

『木と鉄骨は同じくらい火に弱いらしいですが、木と鉄で同じものを作ったとき、どちらが地震に対して強いのですか?』
『同じものはつくれない。同じものを作ったとしたら、鉄は木よりも八から十倍重いので、大変なことになる。つまり、こういった比較は無意味。』

『一宮にあるタワーは私もみたことがあるのですが、あれはやはりちゃんとしたデザイナがデザインしたものなのでしょうか?私にはまったく良さがわからないのですが。』
『人それぞれです。しかし、万人が受け入れるものはつまらないものかもね。良いデザインとは、何かを拒絶するものだ、とも思う。』

『先生、生きてて何になるんですか?』
『それを知るために生きています。何にもならないことを認識するのが学問かもしれない。数学は数学の中で足りているわけで、何の役に立つのかと問うことは大切だが、役に立たないことで、自身や学問を否定することは人間の存在を否定することに等しい』

『遅刻して来ました。質問、人生とは?その目的とは?』
『死ぬまでにする思考のこと。もっとわかりやすく言うと、「人生とはなんだろう」と考える瞬間にだけ、現れる概念。人生に目的はない。目的がないということが重要なことだと思います。』

『僕のある友人が最近繰返しの毎日に気づき、そんな生活に不安と不満を持ち始め、自分の存在価値と目標を見失いがちなのですが、先生はその友人を知らないので無茶な質問なのはわかりますが、どうすれば良いと思いますか?また何か気分転換などはありませんか?先生もそういう時期がありましたか?こういうことをきくのは馬鹿馬鹿しいですか?』
『後ろから答えましょう。馬鹿馬鹿しくはない。誰にもそういう経験はあると思う。森の経験則では、次のことが言えます。「何かに悩んでいる人は、解決策を知らないのではなく、最良の解決策を面倒でしたくないだけだ」。その友人には、まず、自分の部屋の片付けをすすめましょう。』

『先生の大学生に対する教育方針はなんですか?』
『教育方針などありません。しいていえば、教育しないことが方針。教育するという動詞は存在しないと思う。教育を受けるとは、人の生き方を観る、ということだ。』

『一級建築士の試験ってどのくらい難しいの?』
『勉強しなければ絶対受からない。今、森が何も勉強せずに受けにいったら確実に落ちるでしょう』

『今回、何故あのような計算問題を出したんですか?』
『以前、「今週の言葉」で、「貧乏とは、他人に支配されることだ」と書いた。あれをわかってもらうためです。日頃、自分でもうまくコントロールできない頭が、「単位をやろう」と言われただけで、眠気がとんでしまうのは、まさしく貧乏です。』

『僕の姉は「庸子」といいます。人の名前はいろいろな漢字と読み仮名がありますが、森先生は自分の名前が好きですか?』
『すきでも嫌いでもしかたがありません。人間は「名前」のために生きているようなものかも。』

『お子さんを躰で叱るのを三歳で切り上げるのは素晴らしいと思います。ところで生まれて何ヶ月から叱り始めたのですか?ちっちゃいとかわいそうな気がするのですが。』
『一歳くらいから。言葉が通じるようになれば、叩く必要はない。叱っても泣かない年齢になったら、叱る意味はない(というより手遅れです)。』

『先生は「叱っても泣かない年齢になったら叱る意味はない」とおっしゃいましたが、では、叱る必要がしょうじたときどうなさるんですか?得策はあるのですか?』
『こちらの意見として伝えるだけ。叱る必要は生じない。意見が聞き入れられなければ、その人間とつき合うのをやめる。』

『先生が今までにやった最高の贅沢はどんなことですか?』
『今の奥さんと結婚したことかな。

森博嗣「臨機応答・変問自在」



美女と野球(リリー・フランキー)

類は友を呼ぶ、という言葉がある。まあ似た者は似た者同士集まる、というようなことだ。
僕のことを考えてみると、うーん、どうだろうと思う。いや、確かに大学時代に入っていたサークルはそんな感じがした。いろいろと変なサークルだったのだけど、あまりにも異常なところがありすぎて、それについていけない人がどんどんと淘汰されていき、結局最後まで残ったのは、まあ似たようなというか大雑把に言えば同じ括りに入れられるようなそんな人間ばかりだった。類は友を呼ぶ、というのは、こういう環境による自然淘汰のことを指していることが多いのかもしれない。
しかしだ、僕は基本的に内向的で後ろ向きな半ひきこもりなわけです。類は友を呼ぶ、といっても、ひきこもりは人間関係を広げようとしないので、ひきこもり同士でまとまるというような機会がなかなかないわけで、そういう意味ではなかなか当てはまらないな、とそんな感じがします。
でも、そんなには多くないけど、自分と近い価値観を持っているな、という人には、ごーくたまーにだけど出会うことがある。
価値観というのは本当に千差万別で、DNAや指紋以上に、誰もが違う。定量化も規格化もできないだけで、その違いは明白すぎるほどに明確である。
僕は、誰もが違う価値観の中で生きていることは前提だと思っているけど、中にはそうではない人もいる。例えばわかりやすいのは宗教で、あれはとにかく、価値観を自主的にあるいは無理矢理に変えてしまおうというようなもので、それが必要だという人を否定するつもりはまったくないけど、しかし僕には不必要だなと思う。わざわざ何で他人と価値観を一緒にせにゃならんのだ。
また、自分の価値観がいつでもどこでも誰にでも通用すると思っているような人もいて、こういう人は空気が読めない人だったり社会的に法律的に問題を起こすような人だったりするわけだけど、そういう人も困る。本屋で働いていて、たまにクレーム的なものもあるのだけど、店側の主張とお客さんの価値観が食い違うとめんどくさい。その場合、どうやっても相手が折れるわけがないのだからこちらが折れるしかないのだが、しかしなぁ…と思うことはよくある。
さてそんなわけで価値観の話だが、一人一人違うからこそ面白い。へー、そんな風に思ってるんだ、なるほどそれは面白い、確かにそれはありかも、というような価値観に出会いたいものだ、と思っている。
しかし、最近どうも(昔からそうなのかもしれないけど)、どうもみんな、ある一定の価値観に縛られすぎではないかと思ってしまう。
まあ、ブームというか流行というかそういうものなんだけど。
僕には、流行の先端を見たいとか知りたいとか体験したいみたいな欲求がまったくなくて、だから表参道ヒルズが出来たからとりあえず行ってみようとか、韓流がブームだからヨン様キャーとか、とりあえずそういったことが理解できない。なんでみんな同じものを求めようとするのだろう?不思議で仕方がない。
たぶん、世の中には、価値観に関する大きな流れを生み出す存在というのが間違いなく存在していて(例えば僕が聞いたことがあるのは、何年か先のファッションの流行色をこれにしよう、と決める会議だかなんだかが存在するみたいなことだけど)、でみんなその大きな流れに結局流されちゃうんだろうな、ということだ。いや別に、自分の本心から間違いなくそれが好きで、流行が去ってもブームが終わっても私はずっと好き、みたいな人ならいいけど、そうでない人はちょっと僕には理解しかねるし、そうはなりたくないよな、と思う。
僕は、人とは結構違う価値観を持っていると思っているけど(いい意味にしても悪い意味にしても)、それは常に周囲を見て、こうはなりたくないよなー、というものを見つけて反面教師にしているからで、人のフリ見て我がフリ直せ、を実践しているつもりだからだと思います。
さて僕が何を言いたいのかと言えば、リリー・フランキーも恐らくそういう人だ、ということです。常に、人のフリ見て我がフリ直せ、と考えて周囲を見ている。なんだかそんな姿勢が、リリー・フランキーの価値観どうこうではなく、好ましく映るのだと思います。
そんなわけで内容を紹介しようと思います。
本作はリリー・フランキーのエッセイ集で、本作に収録されたエッセイのほとんどは、音楽雑誌「クロスビート」に載っていたものです。
このエッセイを大まかに分類すると、三つに分けられると思います。それは、『変な人』『変な状況』『自分の価値観』という三つです。どの話も、基本的に上のどれか、あるいはいくつか組み合わせた内容になっていて、とにかく馬鹿馬鹿しいリリー・フランキーの日常、というか非日常が、無駄に生々しく描かれていて、非常に面白い内容になっています。
タイトルは「美女と野球」になっていますが、野球の話は大して出てきません。美女、というか性の話は頻繁に出てきて、この人はファンキーな人生を送っているんだな、とつくづく思います。僕は、必要以上に性的なものにあまり興味がない人で、リリー・フランキーのような、ある意味でかなり奔放な性生活を羨ましいと思うことはないけど、しかし、刺激的という点ではかなり興味を惹かれます。これだけ刺激的でダイナミックな日々を送れたら、それは面白いだろうな、と。
また、とにかく変な人がわんさか出てきます。道端やそこらで見かける変な人の話もあるのだけど、しかしほとんどが、リリー・フランキーの周囲にいる変な人で、しかもその変度がずば抜けていて、リリー・フランキーの周囲だけで人種のカタログが出来てしまうかもしれないというぐらい飛びぬけた人が、飛びぬけたことをしでかしてくれます。ほんと、こんな馬鹿馬鹿しい人たちに囲まれていたら、退屈しないだろうなと思います。
でも読んでいて思いました。結局友達だな、と。
僕は最近ふと、『幸せ』の定義を思いつきました。それをとりあえず書いてみます。
『幸せ』とは、『今もしも自分が無一文の財産なしになった時、そうでなかった時と比べて失うものが少ない状態』ではないかと。
もちろんかなり後ろ向きな定義だけど、これを思いついた時これだ!って思いましたね。
でリリー・フランキーの話だけど、まさにリリー・フランキーはこの幸せの定義にばっちり当てはまっていますね。リリー・フランキーは、今は「東京タワー」の印税で結構お金持ちだろうけど、大体常にビンボーで、でもそれでも周囲にはいつでも沢山友達がいて、たとえどんなにビンボーになろうと友達はいなくならないだろうし、絶対に生きていけるだろうな、と読んでいて思いました。無茶苦茶な人生だけど、ある意味ですごく羨ましい人生なんではないかと。
リリー・フランキーのイメージは、「水10!」と「東京タワー」しかなかったけど、このエッセイでまた新しいリリー・フランキーの姿を見ることが出来ました。馬鹿馬鹿しいけど無茶苦茶面白いエッセイです。「東京タワー」に通じるママンキーとの話も少し載っています。是非読んでみてください。

リリー・フランキー「美女と野球」



意識とはなにか―<私>を生成する脳(茂木健一郎)

意識とはなにか?
まさにタイトル通りの問いだが、これに答えることは難しい。
脳というのは物質である。物質であるが故に、あらゆる物理法則に従う存在でもある。しかし、そんな物質である脳から、何故意識というものが生まれるのか?
心脳問題と呼ばれる、こうした脳科学の問題は、今行き詰まっていると言ってもいいだろう。
著者が本作の中で、現在の脳科学の状況をわかりやすくこう喩えていた。かつて、錬金術というものが真剣に研究された時代があった。その時代は、物質が分子だの原子だのから成り立っていることがまだわかっていなく、どうにかすれば別の物質から金を作り出すことができないだろうか、と研究されていたわけだ。今の僕らからすれば馬鹿げた研究にしか見えないが、今の脳科学の現状もこのかつての錬金術の研究のような状態に、いわば錬心術とでも呼ぶ状態ではないかと著者は言っている。今は、心と脳を繋ぐ基本的なことがあまりにもわかっていないがために、暗礁に乗り上げているのだろう、と。
『クオリア』という言葉を耳にしたことがあるだろうか?
この言葉は、10年ほど前から脳科学の研究で使われ始め、今や人間の意識や心脳問題とは切っても切り離せない存在だと認められている。
『クオリア』とは、例えば赤いものを見たときに感じる<赤いという感じ>、柔らかいものを触ったときの<柔らかい感じ>など、人間のありとあらゆる認識に対して立ち現れるもののことである。視覚や触覚などの五感に関わるものはイメージしやすいと思うが、この『クオリア』というものは、2という数字を見たときの<2という感じ>など、ありとあらゆるものに対して現れる。僕らは世界を直接に認識しているわけではなく、世界をあらゆる感覚器官が捉え、それらの情報が脳へと届き、そこから『クオリア』を脳が生み出し、その『クオリア』を感じることで僕らは世界を認識している。そういう存在である。
脳科学では一体どういうことが問題になっているのかを書いてみようと思う。
「なぜ、脳という物質のふるまいに伴って、私たちの意識が生まれるのか?」
「一体、世界の中にあるさまざまな物質のふるまいのうち、どのようなものに意識が宿るのか?」
「意識の中で、<あるもの>が<あるもの>として感じられるのはいかにしてか?」
「すべてを感じる存在としての<私>は、どのようにして生まれるのか?」
「<私>は、生まれる前は。どこにいたのか?」
「そして、<私>の存在は、死んでしまった後はどうなってしまうのか?」
本文からそのまま写したが、こういう点が脳科学での研究対象になっているのだそうだ。こうした問題を解く鍵として『クオリア』という概念が密接に関わってくるのだが、さて上の問題を読んでこう感じはしないだろうか?
『それは問題として本当に存在するのか?』
例えば、数学の世界ではこういう議論があるらしい。数学というものは、人間が作ったものなのか、あるいは神様が作ったものを人間が発見しているのか。
前者は、人間が作ってきたあらゆるルールの中でしか存在しなく、後者は、神様が数学というものを用意してくれたという立場である。別にどちらでもまったく構わないが、こういう話がある。
さてこれを踏まえて先ほどの問題を見てみると、上記で書いた問題は、問題としてあらかじめ存在していたものなのか、あるいは人間が作り上げた問題なのかがわからなくなってはこないだろうか?
例えば、「何故リンゴは落ちるのに月は落ちてこないのか?」と考えて万有引力を発見したのはニュートンだけど、この場合、問題は人間が考えたものではなく、間違いなく存在している。しかし、脳科学で問題にされているものは、例えば「意識の中で、<あるもの>が<あるもの>として感じられるのはいかにしてか?」という問題は、そうなっているからだと前提にしてしまえば済んでしまうような話である。実際に、これまでの科学の範疇から超えた脳科学は、これまでの科学の中では理解されないということもあるらしい。人間の意識という、どうやっても主観的な部分が残ってしまうものを研究することが可能なのか、という声もあるようだ。
さて、何を書きたいかわからなくなってきているし、全然まとまらないけど、でも書きたいことがあるのでもう少し書こう。
記号着地問題という問題が、主に人工知能関係の分野にある。これは、ロボットを人間に近づける際に問題になるもので、瀬名秀明の「デカルトの密室」を読んでその問題については知った。
うろ覚えだけど記号着地問題について説明すると、例えば今テーブルの上に本物の花と絵に書いた花があるとしよう。ここで人間に、『そこの花を花瓶に差しておいて』と言えば、問題なく本物の花を花瓶に差すだろう。しかしそれがロボットの場合、本物の花と絵に書かれた花という二つのものを、自発的に二つの記号にすることができない。自ら記号化ができないので、例えば先のセリフを言われた時に、どっちの花を花瓶に差すのか判断できない。文脈を理解できない、という説明でもいいかもしれない。とにかく、ロボットを人間に近づけるには、世の中のありとあらゆるものを記号化しておかなくてはならず、それは不可能だ、というような問題が、記号着地問題である。
本作で『クオリア』という存在をちゃんと知って、なるほど記号着地問題がクリアできないのは、ロボットが『クオリア』を生み出すことができないからではないか、という風に思いました。つまり人間の場合は、<本物の花という感じ>と<絵に書かれた花という感じ>という二つの『クオリア』が間違いなく別物であると感じられるのに対して、ロボットには『クオリア』を生み出すことができないのだから、二つの花を区別することができないのだろう、とそういう風に理解することができた。そう考えると、意識というものも『クオリア』というものと間違いなく結びついているのだろうな、という気がしてくる。
さてまた別の話だが、舞城王太郎という作家がいる。かなり独特の文章を書く人だけれども、僕は本作を読んで思ったことがある。舞城王太郎という作家は、自らの(あるいは登場人物の)『クオリア』を出来る限りリアルに言葉にしようとしている作家なのではないだろうか、と。変な擬音語や疾走して行く文章が特徴の作家だけれども、なるほどそういう解釈なら、あの文体というか存在感というか、無茶苦茶だけどなんかすっと入ってくるというか、言葉で『クオリア』を共有しようと無意識に文章を書いている作家なんではないかな、と思いました。
さて最後にもう一つ。この『クオリア』というものは、人間関係においても面白い働きをします。
例えばAさんがBさんを見ているとしましょう。この時、AさんはBさんそのものを見ているつもりでも、<Bさんという感じ>というB'とでもいうものを見ているわけで、決してBさんそのものを見ているわけではありません。これは逆も同じです。
さてこの時、AさんはB'を、BさんはA'を見ていることになるけど、じゃあ本当にAやBは存在するのか、というよな問題提起を著者はしています。AやBなどというものは実際には存在せず、人間関係という枠組みの中で初めてA'やB'が生まれるだけなのではないか、と。
うまく説明できていないけど、それはそうだろうなと思いました。僕らが、人やものの本当の姿を見ているというのは、やはりありえないだろうな、と。
まあそんな感じです。
というわけで、本当に脈絡のないどうしようもない文章を書き連ねてみましたが、少しだけ内容を書きます。
本作は、「世界一受けたい授業」などに出演して知名度を上げている、世界的な脳の研究者である茂木健一郎が書いた、脳科学の世界の一端です。
著者は、身近な例で『クオリア』やそれに伴う様々な心脳問題について説明をし、脳科学の現状をありのままに綴っています。何らかの革新的な結論があるわけではもちろんないけど、今まで深く考えることはなかった(あるいは避けていた)脳という問題について、その入口を簡単に異界できる内容になっています。まあ最後の方はちょっとなんだか難しくなって、微妙に読み飛ばしながらという感じになりましたが。
脳というものの不思議に迫れるないようです。著者も最近話題の人だし、読んでみてはどうでしょう。しかし、今日の感想はちょっと酷いな。


茂木健一郎「意識とは何か―<私>を生成する脳」



愚者のエンドロール(米澤穂信)

人間の能力には様々あって、一概にどんな能力をもった人が一番すごいかなんてことは言えないけれども、僕が尊敬できると思う人種というのがいる。
それは、人を使うことが出来る人。
もちろん、他にも尊敬できるタイプの人間はいるけれども、とりあえずここでは、人を使うことが出来る人の話を。
アルバイトではあるけれども僕も仕事をしていて、社会的な身分は低いけど、僕が働いている本屋では結構重要な役回りを僕はしているつもりです。職場というのはどこもそうかもしれないけど、結局有能か無能かに分かれて、その差というのは結局、人をどこまで使うことができるか、という点ではないかと思います。
僕は仕事をするに当たって、周囲に対してこう思っています。
『もし自分よりもうまく仕事をこなしたり、自分にはできないことをしている人には従うけれども、そうでない人は俺の駒であって欲しい』
つまり、有能な人には従い、無能な人は自分の駒として使いたい、と考えているわけです。
僕は、自分が有能かどうかは別として、人を使う人間です。常に、戦略的に自分ひとりではどうにもならない仕事を抱え、それを周囲の人間に振っていくことで効率を上げようと考えている人間です。
今働いている本屋には、どうも僕の思う有能な人は多くなくて、つまりそれは人を動かせていないということなのだけど、結構疲れますね。
上に立つ人間がしなければいけないのは、管理することと責任を取ることだけだ、とはよく言ったもので、それはつまるところ、いかに人を使う・操る・動かすことができるか、ということでしょう。
大学時代入っていたサークルには、かなり有能な人間が集まっていて、そういう場で仕事ができると、なかなかやりがいが出てきますが、そうでないとなかなか楽しんで仕事をすることが難しくなります。今の仕事自体に不満はないけど、もう少し有能な人間の多い場所で働きたかった、という風には思いますね。
いつものことだけど、結局書きたいことがわからなくなってきたのでそろそろ止めます。まあこの話は、本作に関係なくもないけど、すごく関係あるわけでもないし。どうも、結構ミステリしている作品というのは、この前段階で書くことがなかなか無くて困りますね。いや、別にそれもどうでもいいですね。
というわけで早速内容に入ろうと思います。
<古典部>シリーズ第二弾として出された本作は、前作「氷菓」と主要メンバーは同じです。すなわち、知識豊富で自らをデータベースと呼ぶ里志、漫画研究会にも所属する完璧主義者の図書館員伊原、好奇心が旺盛すぎて抑えきることができずに事件を呼び込むお嬢様千反田、そして省エネ主義でやらなくていいことには手を出さない探偵役奉太郎、という<古典部>の面々である。
今は夏休み。彼らは何をしているかというと、文化祭で出す予定の文集「氷菓」作りのために日々集まっているのだ。
そんな折、常に好奇心が先行する千反田が、ビデオ映画の試写会に行きましょう、と話を持ってくる。なんでも、あるクラスが文化祭でビデオ映画を製作することになり、それを見てもらいたい、ということらしい。
それぞれ積極性には違いがあるものの、四人はビデオ映画の試写会に行くことにする。
しかし、そのビデオ映画は、結末がなかった。
筋はミステリであり、近くに実際にある廃墟で撮影が行われた。クラスのメンバーで廃墟を訪れたという設定で、しかしそこで殺人事件が起きる。腕を切断された死体。現場は密室。さて犯人はどうやって殺人を行ったのか…。
というところでビデオは切れている。
どうやら事情があるらしい。何でも、脚本を書いている人間が精神的に追い詰められてダウン、結末が宙ぶらりんのままではどうにも寒いということで、詰まるところこの話の続きを推理してくれ、ということらしい。
四人の中で探偵としての素質を周囲に認められている奉太郎は、しかし断った。自分にはそんな才能はない、と。
ただそれでは相手も引かないので、妥協点として、そのクラスの人が考えた推理を聞き、その完成度の判断をしてほしい、ということで話はまとまった。
翌日から、クラスメイトが考えた推理を拝聴することになるのだが…。
さてここでズバッと言っておきますが、本作はメチャクチャ面白いですね。
まず設定がいい。現実の事件ではなく、架空の物語として作られたビデオ映画の続きを考える、という点。現実の事件を考える際には考慮する必要のない様々な要素(脚本を担当した人間のミステリ習熟度やカメラワークなど)すらも謎を解く要素として入り込み、リアルに起こっている事件を解くよりも面白い設定だと僕は思う。
さらに、著者自らが「毒入りチョコレート事件」へのオマージュだと言っているように(僕はその作品を読んだことはないけど、同じくその作品をモチーフに書かれた、貫井徳郎の「プリズム」は読んだことがある)、確定要素のなかなか少ない事件に対していくつもの仮説が出てきて、中でも奉太郎の考え出した『解答』はまさにお見事!というもので(実際これで物語が終わっても問題ないくらいに)、その『解答』をさらに前振りとしているというこの贅沢さ、なかなか出来ません。
とにかく、ミステリとしての完成度がかなり高い作品だと思います。前作「氷菓」は、悪くはないけど僕的に消化不良の点があったのだけど、本作はそんなことはなく、いい作品だと思います。
米澤穂信という作家は、人間、というかキャラクターを書くのが非常にうまくて、結構短い話なのに、主要登場人物である<古典部>の四人はもちろんのこと、そうではない脇役達までキャラクターとして見事に描いていて、この作家はなかなかやるなという感じです。
語彙もかなり豊富で知識が深く、また文章のテンポがいいのでスラスラと読めます。本筋とは関係ないところで細かい伏線を用意してみたりと、なかなかエンターテイメントとして抜群の作品を書く作家ですね。
本年度このミスで、かなりページを割いて著者の紹介が載るほど注目の作家です。短いし読みやすいし面白いで言うことはありません。是非読んでみてください。
しかし…画像が違うんだな、これが…。何故かこれしかないんだなー。

米澤穂信「愚者のエンドロール」



まだ見ぬ冬の悲しみも(山本弘)

人間の想像力というものは、計り知れないものがある。
僕らはある意味で、想像することによって生きているし、想像力が人間の本質の一つであるかもしれない。
身近なところで言えば、人間関係はすべて想像力の賜物だと言えるだろう。相手が何を考えているのか、どう感じているのか、何を伝えたいのか。それらはすべて、受け取る側が想像して初めて成り立つものだ。人間に想像力がなかったら、人間関係はまるで成立しないだろう。まあ最近は、相手のことを考えたりどう感じるかがわからないような人が結構増えてきているみたいだけど。想像力の欠如した人とは、なるべく関わりたくないものだ。
学問というものもある意味で想像力の賜物かもしれない。学校で習うようなものはそうではないが、一線の研究者には想像力が必要だろう。もしもこれがこうだったらどうなるだろう、という発想が理系の発見を導くだろうし、きっとこれはこういうことだったんだろう、という発想が文学や歴史への理解を深めていく。
『人間は考える葦である』という有名な言葉があるが、これは思考というものももちろん含むだろうが、想像というようなことも含むのではないだろうか?
さて、SF小説というものも、まさに想像力がすべてと言わんばかりのものである。小説はすべて想像だと思うけれども、その中でもSFほど想像力の要求されるジャンルはないだろう。
何をもってSFと定義するのか僕はちゃんと知らないし、決まっているのかどうかもわからないけど、でも、『もしもこうだったらどうなるだろう?』という発想で描かれる作品がSFだと言ってもいいだろう。
SFと言えば何でもアリの世界だと考える人がいるかもしれないけど、そんなことはまったくないと思う。寧ろ、SFこそ、あらゆる縛りにかんじがらめにされているだろう。
つまりどういうことかと言えば、SFの作品は、『ありえそうに見せる』ということが最も重要である。しかしこれは、『もしもこうだったらどうなるだろう?』というSFの発想の基本となかなか折り合いが悪い。現実にはありえない『もしも』の発想を、いかに『ありえそうに見せる』か。つまりそれを考えると、根幹の『もしも』の発想に、すべてを合わせなければいけない。一つだけパラメータを動かし、それ以外はそのパラメータの変化に連動させるようにして変化させなければならない。だからSFというのは、本格ミステリ並に制約の多い小説だと思う。
それは、想像と妄想の違いに似ているかもしれない。妄想の場合はもう何でもありだ。人間がそらを飛んでいようが、ウサギが言葉を喋ろうが、蛙の子が蛇でも、とにかくなんでもいい。すべての条件が自由で、選択肢が無限にある。
しかし想像というのはそうではない気がする。もしある一つの条件がこうだったらどうなっただろう、というような発想が想像だと思う。まあどうでもいいけど。
何を書いているのかよくわからなくなったけど、とにかく想像するということは素晴らしいということですね(そんな話だっただろうか?)
というわけで内容に入ります。本作は、あの大作「神は沈黙せず」の著者山本弘の、最新短編集です。まさにSFというような話のオンパレードです。

「奥歯のスイッチを入れろ」
事故により体の機能の大半を失った男が、脳のデータを完全にコピーし、肉体は機械であるというSSS(ソニック・スピード・ソルジャー)の被験者になることを決意する。意識は元の自分なのに身体は機械であるという状態に慣れないながらも、彼は新しい生活に馴染んでいく。
SSSは兵器として開発されたもので、『加速モード』という機能がついている。これは、時間を400倍に引き延ばすというような機能で、つまり普通の人の1秒が彼にとっては7分近く(400秒)に引き伸ばされる、というような機能だ。
ある時、同じような性能のSSSを保有する強大なテロ組織が研究所に襲撃を仕掛けてきた。彼と送り込まれた敵側のSSSが、400倍に引き伸ばされた時間の中で、奇妙な戦闘を繰り広げていく…。

400倍に引き伸ばされた時間における物理法則の考察というものが素晴らしくて、その世界で物理法則がどう働くかを完全に把握して小説を書いています。この点は他の作品でも同じなのだけど、その完成度の高さには驚きます。400倍に引き伸ばされた時間での闘いは、普段とは勝手が全然違うので面白いです。ライフルをまさかあんな使いかたをするとは…と僕は感動しました。

「バイオシップ・ハンター」
ここのところ、地球の宇宙船が、バイオシップと呼ばれる生物でありながら宇宙船という存在に襲撃されるという事件が多発している。そのバイオシップを乗りこなす種族は、イ・ムロッフと呼ばれる種族だけなのだが、彼らは関与を否定している。
イ・ムロッフからバイオシップへの乗船を依頼されたあるジャーナリスト。イ・ムロッフ達は、バイオシップによる攻撃の調査をするのだが、私たちの報告を地球人は信用しないだろう。ということで乗船し、その報告をするということで乗船となった。
バイオシップ内でのイ・ムロッフとの穏やかな生活が続くも、また地球の宇宙船の襲撃が発生し、現場へと急行する。追跡し、襲撃者たちの棲みかに行き着くことが出来たのだが…。

この作品が、本作の中で一番普通の作品でしょうか。面白さもまあまあと言ったところで、特に特徴があるわけではないですね。もちろん、宇宙空間の物理法則の描写は相変わらずすごいですけど。

「メデューサの呪文」
ある男の手記である。書き手は、あることを尋問されていて、しかしそれに対する答えを口に出すことができない。猶予をもらい、この手記を書くことで真実を明らかにする、と告げている。書き手に要求されているのは、ある宇宙船で大勢の人名が失われた事件に対する原因の解明だ。
男は詩人で、宇宙船内でメンテナンスの仕事をしながら詩を書いていた。その宇宙船はある惑星の周囲を周回している。その惑星には、インチワームという尺取虫ににた生命が存在しているのだが、過去には超高度な文明が存在していたにも関わらず、今では見る影もない。その原因を明らかにしようと調査をしているのである。
言語学者や人類学者がインチワームとの会話に当たっているが、インチワームはほとんど何も明かすことなく、ただ詩人を呼べと言ってきた。それで彼がインチワームとの会話をすることになったのだが…。

この発想は非常に面白いですね。SF小説に、言語をモチーフにしたものはそれなりにあるみたいだけど(森岡浩之の短編にもあった)、本作は単純な発想から見事な物語を紡いでいると思います。何故高度な文明がなくなってしまったのか…。これは面白いですね。

「まだ見ぬ冬の悲しみも」
限定的な条件はつくが、タイムマシンが開発された。それは、素粒子の対象性を利用した、エントロピー増大の法則を破ることのない、まったく新しい形のタイムマシン、時間的同一性交換である。
それにより過去に行くことになった男。今の世界では無残に振られたある女性に、過去に戻ってやりなおしをかけようと意気込んでいる。今現在、未来からやってきたもう一人の<俺>がいてややこしいが、とにかく過去に戻ってしまえばすべては大丈夫だ…。

このタイムマシンの設定は、ちゃんと理解できているとは言いがたいけど、見事なものがありますね。高速を超えることは出来ないから過去に行くことはできない、という点を冒すことなく、情報を、情報量を保存することにより交換するという発想は、ちょっとびっくりしました。話としてはそこまで大したことはないんだけど、このタイムマシンの設定は素晴らしいです。

「シュレディンガーのチョコパフェ」
オタク系の趣味がばっちし合うカップル。その男の方は今、ある悩みを抱えている。アメリカで、ノーベル賞ものの発見をしたかつての友人が苦境に立たされ、しかももしかしたら、世界を崩壊させることをしでかすかもしれないのだ。
その友人が発見したこととは、電波の位相がプラスになる点が存在することを数学的に証明した、ということだ。この電波の位相がプラスになる点からは、先進波と呼ばれる波が放射される。通常の電波(遅延波と呼ばれる)は発信された後で受信されるのに対して(まあ当たり前だが)、この先進波は、受信された後に発信されるのである(なんだそりゃ)。この先進波は、マクスウェルが自身の発見した方程式で予言していたが、存在が証明されたことはなかった。
友人は、この先進波で世界を崩壊させようとしている。
シュレディンガーの猫のように、世界はあらゆる状態を常時にとっているのが通常で、僕らの世界は、何らかの原因によって、先進波がほとんど存在しない、時間がある一方にしか流れない世界が生まれて、それが僕らの現実であって、それを僕の現実の世界で先進波を流すことでバランスを崩して世界を壊そう…(理解できなくても問題ありません)。

本作中もっとも難しいでしょう。少なくても、少しでも物理を齧ってないと、ストーリーにまったくついていけないことは間違いありません。物理的な話がストーリーと密接に結びついているので、文系の人にはかなり厳しいと思います。この短編を読んで、小林泰三のある短編を思い出しました(タイトルは忘れたけど)。

「闇からの衝動」
ある少女が、自宅の地下にある奇妙な部屋の奇妙な円盤で遭遇することになるある出来事。それからしばらく時が経ち、SF小説家としてデビューすることになった女性の元を訪れた、ファンでもありデビュー直後の新人作家でもある男とのやり取り。彼らが導き出すことになる、SF作家の秘められたある秘密とは…。

ノーマルなSF小説という感じがしますね。でも、面白いストーリーだと思います。最後の土壇場で、ああそうだったのか、という感じが好きですね。

とにかく、ある設定を決めたら、その設定の元で世界はどうなるだろうか、という点が徹底的に考え尽くされていて、特に物理的な考察が素晴らしくて、レベルの高いSF小説だと思います。物理的な知識がなくても大丈夫だとは思うけど(「シュレディンガーのチョコパフェ」はちょっと無理でしょうが)、物理なんか見るのも聞くのも厭!という人にはちょっとお勧めできないですね。
SFは今売れないと言われています。ただ、SFの可能性を充分に感じさせてくれる作品だと思いました。是非読んでみてください。

山本弘「まだ見ぬ冬の悲しみも」



NHKにようこそ!(滝本竜彦)

ひきこもりってまじでちょっとリアルだなー。
いや、最近ニートとかって言葉が結構アリで、なんか一つの存在?(フリーターって言葉がかなり認知されてるみたいに?)って感じで、だからなんか、ニートって一つの存在でアリなんでは?みたいな幻想が結構あったりするけど、でもそれってやっぱりただの引きこもりだよな。
いや、僕は半分ぐらい現在進行形で引きこもりで、過去にはまっしぐらに全身全霊で引きこもりだったわけで、身に染みるというか、無視できないというか、共感というかなんたるか、とにかくそんな感慨深げな感じになってしまう。
何を言っているのか。閑話休題(になるかどうか)。
僕はこのサイトで、いろんな感想で断片的に自分の過去の引きこもりの話を書いているけども、本作はまさに引きこもりど真ん中ストライクの作品なわけで、さすがにここで自分の話を書かないわけにはまあいかないだろうということで、このサイトを結構読んでくれている人にはそれなりにお馴染みかもしれない僕の引きこもり話です。
とは言ってもまあ、結構軽めの引きこもりだただろうと思うし、ってか全然面白い話でも何でもないんですけど。
それまでごくごく普通に高校生まで実家で過ごし(いやいやもちろんそれは表面上でのことで、内面としてはいろいろと内紛というか外紛というかまあいろいろあったんですけど)、晴れて大学生になりまして状況、ごくごく普通の、いや普通以上に真面目な大学生としてわたくし過ごしておりましたとさ。
サークル活動なんかにも励んでみたり、勉強も頑張ってみたり、恋には縁がなかったけど、まあ順風というか満帆というか、そういう平凡でごくごくありふれた、吹けば飛ぶような何処にでもあるような、そんな生活だったんですけど…。
何だかある時からですね、言葉にはなかなかしがたい、不安?焦燥?なんだろう、とにかくそういうわけのわからないものに襲われましてね。
いやつまるところそれはですね、それまでの人生で逃げ続けてきたことが、その瞬間解放されたというかのしかかってきたというか、そういうことだったわけですね。自分はこのままじゃダメだよなー、なんて思いながらも、でもとりあえずより簡単で安心で手っ取り早い方法で自分の人生を虚構に確立しようなんて思ってみたりして、しかも器用だったのかなんなのかそれが驚くべきことにぴったりうまくいっちゃったもんだから、あれこのまま行けちゃうんかな?みたいなそんな、明らかに現実逃避で幻想の中に逃げ込んでいた…つまりそんな逃げの自分の過去の負債みたいなものが、一気に押し寄せてきなすったわけですね。
要するにありきたりで簡単に言ってしまえば、将来の不安的なものというか。
たぶんこのまま今の道を進んで行っても、俺はどこかで絶対に限界を迎えるなということが明々白々で、だからといってじゃあどうするって、道を踏み外せばいいのか、我慢して真っ直ぐ進めばいいのか、んなことすぐわかるわけないし、どーしよー、考えたくねーな、逃げよう逃げよう、そうだよまさしくこれは逃げるしか手はないというやつではないですか!というような感じで、半ば必然的に引きこもりに突入ー、といった感じですね。
大学の講義にいかなくなり、
部屋から出なくなり、
友人からの音信に不通を決め込み、
訪れる友人をさらりと無視し、
一日中テレビを見るか本を読むかで、
何もせず、
できるだけ何も考えず、
もしかしたらこのまま引きこもりのまま、例えばすんげー災害とか起こって抱えていた問題がすべて問題なくなって、よくわかんないけど一からスタートできたりしちゃうんじゃないか、みたいな意味不明な願望に縋りながら、
日がな一日部屋で過ごしてみました。
どこからどう見ても、正真正銘の引きこもりの出来上がり、というやつです。
いや、まあ大学は辞めましたけど今はわたくし、少なくてもニートではなくフリーター兼引きこもりというやつですし、いや部屋から出ないとかそういうことではなく精神的引きこもりみたいな感じなわけで、まあ一時の状態よりは遥かに好転したと言えたりするわけで。
あらゆる人に迷惑を掛けまして、今も掛け続けているわけで。
でもとりあえず、死のうとかあんまり考えなくなったし、別にすごい前向きになったわけでも、生きてくの楽しーとか思ってるわけでも全然ないけど、でも最悪の状態を脱しているし、とりあえずは大丈夫かな、なんて。
僕の引きこもりの話はこんな感じですね。
本作中にはこんなことが書いてあります。
『僕はねぇ。あーゆー感じのドラマに心底憧れているんです。テレビドラマの中には、真実がありますからね。起承転結があり、感情の爆発があり、結論がありますからね。…なのに一方、僕らの生活は、いつまでもいついつまでも、薄らぼんやりな不安に満たされているだけで、わかりやすいドラマとか、わかりやすい事件とか、わかりやすい対決とか、そーゆーものが一切ありません。―それはねぇ、ちょっと不合理な話でしょう?(後略)』

もう一つ。

『…僕はずうっとずうっと考えていたんです。僕らには何かが足りない。僕らには、何かがぽっかりと欠けている。胸に、大きな穴が空いている。それを埋めてくれるものが欲しい。満たして欲しい。―そう。昨日の宗教見学も、見事に僕の思考を裏付けていた。皆、不安なんだ。ワケが分からない世の中を、誰かにすっきりと整理整頓して欲しいんだ。だからこそ彼らは神様を作った。(後略)』

この二つの文章は、引きこもりの、いや言ってしまえば若者全体の特質とでもいうものを、分かりやすく説明しているのではないかと思う。
世界がわかりずらくて、すごい複雑で、自分の存在なんてちっぽけなもので、何をしてもうまくいかなくて、自分も全然ダメで、どうしていいかわからなくて、ドラマみたいなことも起こらないし…。
だから、誰かに世界を、『世界はこうでこうでこーなってるんだよー』なんて説明してもらって、そーか!なんて思ってそれを信じていけたら最高なんだ!
僕らの世代は、程度の差こそあれ、皆近いことを考えていると思う。
僕らよりも上の世代は、それを甘えているというだろう。いや、それはわかっている。わかりすぎるほどにわかっているし、客観的に見ればそうなのだと僕だって理解できる。
しかし、きっと言い訳にしか聞こえないだろうけど、あなた方の時代と、僕らの時代では、きっといろいろ違うはずなのだ。あなた方の時代のことをちゃんと知っているとは言えないし、あなた方の時代もそれは大変なことはあったのだろうけど、でも時代が違うことを前提に話をしたいし聞いて欲しいのだ。
僕は思う。僕らの時代は、自由が溢れすぎているのだ。
それは、自由というものにうまくはまれる人には最高の環境だろう。何をしてもいい。未来は開けている。僕は自由だ。何もかもが自由なんだ!そう思える人には最高の時代だ。
しかし、自由すぎることが、選択肢がありすぎるということが、逆に苦痛である人だってものすごく沢山いると思うのだ。何でも選んでいいんだよ、何をしてもいいんだよ、あなたは自由ですよ、あなたを繋ぐものなど何一つないんですよ、とか言われて、じゃあ一体何をすればいいわけさ?
僕らよりも上の世代って、自由が本当に少なかったんだろうと思うのだ。選択肢がなくて、考えるまでもなく未来が狭まっていって、それに仕方なく恭順していくというか。だから、あーだこーだうーだあーだ悩んでいるひまがそもそもなかったんだろう、甘えている暇なんかこれっぽっちもなかったんだろうと思う。
だから、僕らと僕らより上の世代は理解し合えないんじゃないか、って僕は勝手にそう思っている。
引きこもりはもういやだ。あの、暗く最悪な状況にはもう戻りたくない。でも、僕にとって社会ってものすごく遠くて高いし、すごい負けそうだし、頑張れないし、生きていてもそこまで面白くないし、自由すぎて逆に未来は狭まっていくし、結局どーしよーもない。
フルスイングで人生を投げ出したい。それができたらすっごい楽だろうな。
でも、今はとりあえずそうはしない。まだ何とかできる。まだね。

『嘘じゃない。俺は世界最強のひきこもりだ。ひとりでも生きていける。苦しいことなんか、何もない。だから岬ちゃんも、人に頼るのはやめなさい。結局みんな、ひとりなんだ。ひとりでいるのが一番いいんだ。だってそうだろう?最後は絶対、ひとりになる。ひとりでいるのが自然なことだ。そうしていれば、嫌な事なんてなんにもない。だからひきこもるんだ。六畳一間のアパートに―』

結局人間はひとりだって、僕のそう思う。悲しいけど。寂しいけど。
さて、そろそろこんなグダグダジメジメの文書は終わらせて、スカッと内容の紹介に行きますか…。
って、内容がまったくスカッとするもんじゃないからどーにもならないけど。
主人公の佐藤は、通っていた大学をあっさりと辞め、両親をなだめすかし騙しながら、一人暮らしかつひきこもりという生活を続けて早四年。半年近く人と会話をせず、週1回しか部屋からでない。最強の引きこもりだ。
合法ドラッグでトリップした状態で佐藤は悟った。そうだ!すべてはNHKのせいだ。自分がひきこもりなのはすべてNHK(日本ひきこもり協会)の陰謀なんだ!と気付いてしまった。うむ、打倒NHKだぁー!
…こんな状態から抜け出さなくてはいけないことは充分に分かっているけど、大学中退でひきこもりの生年を雇ってくれる会社があるはずもないし…。
と悶々として日々を過ごす佐藤だが、隣人が実は知り合いだということに気付いてから、より最悪な現実逃避への道をひた走ることになる。エロゲーの製作だ。隣人の山崎の趣味に感化されロリコンになってしまった佐藤は、自分が最低最悪のダメ人間であると自覚し、悲観する。
そんなある日、佐藤の元に、清楚な美少女岬ちゃんが現れた。
「あなたは私のプロジェクトに大抜擢されました」って一体何よ?可憐で清楚で、ちょっとおかしな岬ちゃんに引きずられ、隣人の変態山崎に引きずられ、佐藤の生活は結局何も変わることなく、あーでも、俺は一体どーしたらいいんだ。誰かぁー、助けてくださーい!
日本の小説界に燦然と輝きを放つ、ほぼ唯一にして最高のひきこもり小説、ここに現る!
とまあそんな感じです。
文章のテンションというかテンポは常に高いのに、内容的にはどこまでも後ろ向きという、文章と内容がまったくかみ合っていない小説ですが、でもそのギャップがなんとも言えない面白さをかもし出しています。
タイトルを見た時は、悪の組織NHK(日本ひきこもり協会)と全面的にバトル話しかと思っていたんですが、全然そんなことはなく、トップクラスのひきこもりの日常を、トップクラスの変な状況が襲う、まあある意味で青春小説的な感じ…なんでしょう。読んだことはないけど、大半のライトノベルはこんな感じなんではないかと思います。
僕の場合とにかくひきこもり歴があるわけで、書いてあることにことごとく共感できてしまい、やべーこれリアルだよ、なんて思って読んでいましたが、普通の人がこれを読んでどう思うのかはかなり未知数だと思います。
著者の滝本竜彦がまさにひきこもりだそうで、リアルに、引きこもりが高じて大学を中退し(僕と似てますね)、輝かしい青春のひとときをフルスイングでドブに投げ捨てたようで、つまりこれは小説でありながら、著者の私小説とも言える作品でしょう。
僕は非常に楽しく読みましたが、でも僕としては「ネガティブハッピーチェーンソーエッヂ」の方が面白いと思うしおすすめです。でも本作を読めば、少なくともひきこもりがどんなことを考えているのかなんとなくわかるんで、ひきこもりに興味がある人は是非読んでみるといいと思います。本作も充分に面白いですよ、馬鹿馬鹿しいけど。

滝本竜彦「NHKにようこそ!」



夫の浮わ気(黒木瞳)

結婚って、僕には無縁のものだと思っている。少なくとも今は。
僕は、他人のルールの中で生きることが難しいんだな、と最近思う。僕は自分で、社会にうまく適応出来ない人だと思っていて(周りからどう見られているかは知らないけど)、それはやっぱり、自分以外が作るルールに従わなくてはならない、という束縛が、僕を苦しめるのだと思う。
ならば、自分でルールを作るのならいいのか、と言えば、半分は正解である。僕は、仕事の上でなら、自分でルールを作り、それを人に押し付けたら守ってもらったりすることができる。実際、今働いている本屋では、僕が決めたことがかなりあるし、僕が管理していることも結構ある。少なくても自分ではそう思っている。
しかし、プライベートとなると、僕は誰かに何かを強制したり、誰かを束縛したりする、ということがまったく出来ない。出来ないというよりもしたくないだけなのだが。
そういうわけで僕は、プライベートにおいては、誰かの決めたルールの中で生きることも、自分の決めたルールに従わせることもできない。
それはつまり、誰かと一緒に生活することがほぼ不可能だということである。
少なくとも今の僕はそうだし、僕が何らかの形で変わらない限り、結婚というものに関わってくることはきっとないだろうと思う。
ただ、ずっと結婚しないでこのまま一人で生きていくというのも、随分と寂しい話だな、とも思う。僕は、結構引きこもりだし、人見知りなので、人間関係はまったく広がっていかない。これから、減ることはあっても増えることはないだろう。そんな中、まあ本があるとは言え、結婚もせずに、ずっと一人でいるというのも、想像するだけで、なんだかぞっとするというか、嫌だなという気もするのだ。
だったらどうすれればいいのか、なんてことはもちろんわからないのだが。
ただ、本作を読んで、自分とものすごく合う人を見つければ、結婚も結構アリなんではないかと思った。なんだか読んでいて、この夫婦のあり方というか絆というかそういうものに、素直にいいなって思えたし、もちろんいろいろ大変なことはあるんだろうけど、場合によっては結婚も悪くないのかもしれない、なんて思ってしまった。
さてもう一つ。浮気について。本作では『浮わ気』と表現されているけど。
僕は、自分が浮気をするかどうかについては、正直よくわからない。基本的にめんどくさがり屋なので、浮気とかめんどくさいことはしなさそうな気はするけど、でも絶対にしないと言い切れるほど自信があるわけでもないんですね。
でもこれだけは断言できるんですけど、例えば僕に恋人がたとしましょう。その恋人が浮気をしたとしても、僕は全然なんとも思わないだろう、ということです。
僕は、誰かを好きでいる時に、別の誰かを好きになってはいけない、とかって結構おかしなことなんじゃないか、って思っているわけです。なんか、一人の人だけ好き、なんていう状況はもちろん最高だけど、でもそんな状態の方が稀だろう、と。こんな考えは間違ってるかな?
いや、もちろん、好きな人がいるのに別の人を好きになった時に、恋人が不愉快になる、っていうことはわかりますよ。その心理が理解できないわけではないんです。僕が言いたいのは、誰か一人だけを好きだという状態こそ不自然だ、ということだけであって、そのことによって誰かが不快になることを理解できないと言っているわけではありません。それが理解できるからこそ、僕は、断言こそできないけど、浮気はしないだろうな、と思うわけです。
そもそも、恋愛をしている状態ってけっこう不自然な状態のような気がして、いや、大多数の人がそれを自然なkとおだと認めているので全然問題はないんですけど、お互いがお互いのことを好きだ、なんていう状況、なんかちょっとおかしいと思いませんか?なんか不自然じゃないかなんて思ったりしませんか?
いやだから、そんなわけで僕は、自分がするかどうかは別として、浮気というものは結構許容する人間だと思います。僕としては、それが普通です。
しかも、誰かを束縛したり強制したりすることがどうしても嫌だという、僕の基本的な面もあって、恋人が浮気をしたからといって、僕の心は凪の状態を保ち続けるだろうと思います。
これって変ですかね?
流れで本作の内容の紹介をしちゃいますけど、本作では黒木瞳が、夫の微妙な怪しげな行動や態度を見て、まさか浮気してるんじゃないの?とあれこれ妄想するエッセイなわけです。
後でもう少しちゃんと内容については書くけど、とにかく黒木瞳が(あの黒木瞳がですよ!)、夫の本当に些細な変化を見つけて、もしやあーでこーで、でこれがこうなって、あー浮気してるのかなー、なんてことに耽るんですけど、僕からすれば、よくもまあこんなことを考えますわ、というような感じなのです。もしかして、女性は大体常に、こんなような不安というか妄想を抱えて生きているんですかね?なんかすごい疲れそうな気がします。
浮気って、僕は言うほど目くじらを立てるようなものではないと思っているんですけど、どう思いますか?別に浮気する男を擁護しようなんて気はまったくないけど、やっぱこれって、我儘な男の意見って奴なんでしょうか?難しいですね、男女の差は。
というわけで本作の内容をちゃんと書きます。
本作は、あの、あの女優黒木瞳が、世界で一番愛する人と断言する夫(羨ましいですな)との日常の中で起こる、些細で素朴な不穏な空気を、面白おかしく文章にまとめたエッセイです。
本作によると、黒木瞳は93年に33歳で結婚したようです。本作は、96年に単行本として発行されたもので、結婚してから3年という、割りと新婚ほやほやの時期から、そろそろアツアツではなくなるような時期(って勝手に思ってるけど違うかな)を書いた話ですね。
とにかく黒木瞳は、夫のことが大好きのようです。本当に羨ましい限りですが、しかし、黒木瞳の目から見て、夫が時々奇妙に見える時があります。朝食を普段まったく食べないくせに、明日の朝ハムサンドを食べたいと言ったり、常連ではないフリをしてちゃんこ鍋屋に連れて行ったり、携帯を欲しがったり…。本当にそういう些細なことから、ものすごい妄想力で、もしかしたら夫は浮気をしているのかもしれないわ…、と不安になるのです。もちろんそれは、夫を愛するが故のことなのでしょうが、僕から見ると(もしかしたら世の男性から見ると)、黒木瞳が抱く心配は、どうも的外れというか、気にしすぎというか、そんな気がしてしまいます。いやもちろん、冒頭の変な女性からいたずら電話が掛かってきたり、使い道のよくわからないお金があるとかいう話になるとまあ疑惑を抱かれても仕方ないかなという気はしますが、それにしても気にしすぎじゃないかな、と思ってしまいます。まあ、かなり誇張してエッセイにしているのだろうとは思うんですけど。
黒木瞳という人は、文章がなかなか面白くて、テンポがいいというか、とにかくリズム感ある文章で、ポンポンポンと読めてしまいます。例えばある部分を抜き出して書いてみるけど、面白いですよ。

『うちの夫は鍵っ子だ。
妻の帰りが遅いので、家の鍵を常時持ち歩く。だから、「ただいまあ、帰ったぞお、飯!いや飯の前に風呂!飯食ったら寝る!」なんていう男の古代三大文句”メシ、フロ、ネル”を、夫は未だかつて口にしたことがない。
仕事が終わったら適当に夕食をとって、家に帰ってくる。ズボンのポッケから鍵をとり出して、自分で家の鍵を開ける。夫の帰りを待っているのは妻ではなく、三匹の猫たちだけだ。
それじゃあ夫があまりにもかわいそすぎるので、三匹の猫たちの名前をいっそ”メシ””フロ””ネル”に変えるのもいいかもしれない。夫は私が帰宅するまでの数時間、
「おい、メシ!」
とか、
「フロ!」
とか、
「ネル!」
とか言って、亭主関白気分を味わうことができるのだ。
この素敵なアイディアは夫にあっけなく却下された。
<ユーモアのない人だわ>
夫に否定された妻は、内容がどうであれ、膨れっ面をするものである。せっかく夫に善かれと思って考えたことなのに、せめて、「ありがと」くらいは言って欲しいものだわ。』

こんな調子である。いやはやなかなか、軽快な文章が、呼んでいて非常に楽しい。本当に大したことを書いていない場面でも、クスリと笑えるような場面に早変わりしているのだ。文章のセンスはかなりいいと思う。
黒木瞳というのは、女優の顔しかしらないし、そのイメージは「淑女」というような感じで、つまり落ち着いていてクールでという感じなわけだけど、本作でエッセイスト黒木瞳の姿を垣間見たわけだけど、なんか全然違うんだなという感じがした。もちろんこのエッセイで見せている自分も、本当の自分ではないだろうけど、でも女優の顔よりも近いだろうと思う。
結婚している人もしていない人も、予定がある人も無い人も、恋人がいる人もいない人も、いたことがない人も、とにかく誰でも楽しめる作品ではないかな、と思います。女優黒木瞳の別の顔を知ることができるし、結婚や浮気について考えることもできます。夫婦が二人で読んでみたりするのもいいかもしれません。
かなりお勧めです。本当にさらりと読めます。どうぞ読んでみてください。

黒木瞳「夫の浮わ気」




的を射る言葉(森博嗣)

以前、何で見たのか覚えていないが、「人類史上最も素晴らしい発明は何か」というようなものを目にしたことがある。確か、ネットか何かの企画だったように思う。あるいは僕が目にしたのは、それが書籍化されたものだったかもしれないが。覚えているのは、一般の人の投票ではなく、なんらかの分野の研究者のような人に聞いている、という点だ。
答えには様々あった。覚えているものは少ないが、「火」「コンピュータ」「宗教」など、ありとあらゆる解答があり、なるほど面白いなと思ってみていた気がする。
さて、その中の一つにもちろんあったが、僕が人類史上最大の発明だと思っているものは、やはり『言葉』である。
僕は、『言葉』こそが、人間のありとあらゆるものの土台ではないかと思うのだ。なぜならば、人間というのはどういう場合であれ、人間関係の中に生きるしかなく、その人間関係は、どんな形であれ、『言葉』を介さずには成り立たないものだからだ。
反論があるかもしれない。
例えば、自分は動物と関係性を築くことができている、と主張する人がいるかもしれない。動物は『言葉』を喋らない。それでも関係性を築けるのだから間違っているのではないか、と。
さてそれに対する僕の答えは、『言葉』という定義の違いだ、ということだ。『言葉』と聞くと、話し言葉や文字のことを浮かべるだろうが、僕が言っていることはさらに、概念そのものも含む。
例えば、ペットの犬がしっぽを振っているとしよう。大抵の場合これは、犬の機嫌がいい時だとされるが、このやり取りにも『言葉』は関わっている。僕らは、『犬がしっぽを振る』という概念と『犬の機嫌がいい』という概念を持っている。そしてそれらの二つの概念を繋いでいるものが『言葉』である。もし僕らが『言葉』という概念を持たなければ、しっぽを振っている犬を見ても、機嫌がいいという発想を導き出すことはできないだろう。僕は、その飛躍こそが、『言葉』の本質だと思うし役割だと思うのだ。
とまあ、よくわからない話になったけれども、そういうわけで僕は『言葉』というものが素晴らしい発明だと思うし、だからこそ好きだと思う。
昔から本を読んできたけれども、文章そのものに惹かれたことというのはあまりないと思う。文章というのは、連続した流れというかリズムというか、そういうものが本質だと思うけど、そういったものにはあまり興味はなかった。
しかし、文章を構成する『言葉』には、かなり敏感だったのではないかなと思う。それは、森博嗣と西尾維新という作家に出会ってから、さらに鋭敏になったかもしれないと思う。この二人の作家は、『言葉』というものに対する感度というものがかなり優れていて、その作品を読んでいると、あらゆるページで気になる『言葉』を見つけることになった。今でも、この二人の作家ほど『言葉』の感度の高い作家はいないと思う。
『言葉』というものは曖昧で、はっきりと輪郭を持ったものではない。受け取り方も千差万別で、ある意味で不自由なツールかもしれない。しかし僕は逆に、その曖昧さが自由さに感じられる。普段結びつかない言葉を組み合わせることであらたな意味が生まれ、いくつもの概念を一つの『言葉』で括ってしまう。そうした曖昧さが僕は好きだし、『言葉』の魅力の一つだと思う。
そんな、ある種の力を持った『言葉』を縦横無断に操る作家、森博嗣。そんな森博嗣が生み出す、本質を突くメッセージ。それが、本作である。
本作の成り立ちは、以前森博嗣がやっていたHP(今現在更新している「MORI LOG ACADEMY」ではない)の冒頭で、「本日の一言」というコーナがあったのだが、そこに森博嗣が書き溜めたものの中から、出版社の編集者が厳選し並べたものである。つまり、コンテンツそのものは森博嗣の創作だが、本作を構成したのは出版社である、という点だ。森博嗣の著作の中には、こうしたものが少なからずあるが、他の作家では珍しいだろうな、と思う。
これらの『言葉』は、日々のなんらかの出来事となんらかの形で結びついていたものが多く、その言葉だけを取り出すと意味がわからなくなるものがあるが、『言葉』の中小性を試すいい機会だと思った、とあとがきで森博嗣は述べている。確かにそうした、元の状況が不明で抽象的な言葉というものは多いが、しかし『言葉』には敷衍性(こんな言葉はあるだろうか?)がある。一つの状況に留まらずに、様々な状況に有機的に結びつこうとする。まるで、生息地を広げようとするタンポポの綿毛のように、『言葉』の一つ一つが、ふとしたところに落ち着いて、そこに何か意味のある花を咲かせるようなこともある。
『言葉』には、文章にはないある種の力がある。日本で俳句や短歌が栄えたように、日本人は、短い『言葉』の中に意味を凝縮し、またそれを取り出すことができる文化を持っている。森博嗣が与える『言葉』たちも、どこか本質的で、どこか不敵で、どこか不真面目で、どこか魅力的で、そうした何かをどこかに持っている。なるほど、という感想を抱く『言葉』たちが沢山ある。是非読んで、自分なりに解釈し、何かに気付いて欲しいなと思います。
さてものすごくどうでもいいことなのだけど、本作は「108のメッセージ」が収録されている(実際は108カテゴリーでメッセージはもっと多いけど)。こういう本の場合、いくつ、というのが結構パターンとしてあるが、108も結構ある。人間の煩悩の数と同じだけ、ということなのだろうが、だからなんだというのだろう?ちょうど区切りよく100とかにすればいいのに、とか思う。他にも時々、99という数字を見るが、だったら100にすればいいのに、とか思う。298円という数字を見て、だったら300円にすればいいのに、と思うのと似ている。
さて、いつも通り気になった『言葉』を抜き出して書こうと思うのだが、今回はそれをやっていいのか少しだけまよった。小説から『言葉』を抜き出すのと、本作から『言葉』を抜き出すのは、明らかに意味が違うと思ったからだが、まあいいやと結局は思ってしまった。
さてその前に。僕が一つ考えたメッセージを書いてから、抜き出しを始めようと思う。
『感情は小数だが、言葉は整数である。
感情を言葉で表すのに、何らかの近似が常に必要である』
どうだろうか?

『「多くの意見」ではなく、
「正しい意見」を求めよう。
「自分の意見」があればそれができる。』

『「生きる」ことなど、「躰」に任せておけば良い。』

『グアムがどこにあるのか知りません。というか、どこにあっても良いです。』

『楽な仕事を見つけて逃避する人は、
本当に仕事熱心な人よりも、
ずっと仕事熱心に見える。』

『生きているうちは楽観視なさい
悲観は死んでからでも遅くない』

『影響を受けるつもりで聞かなければ、
「意見を聞く」ことはできない。』

『新しい価値観を持つことは、
古い価値観を捨てることではない。』

『テレビがつまらない理由は、
観るのが無料だからです。』

『「思ったことの半分も言えない」よりも
「言っていることの半分も思ってない」の方が圧倒的多数』

『人は見たいように見る。聞きたいように聞く。
しかし、言いたいようには言えない。』

『「強さ」と「美しさ」は似ている。
「強い」とは
自分の「弱さ」を知っていることであり、
「美しい」とは、
自分の「醜さ」を知っていることである。』

『最も期待値の大きいギャンブルは、勉強である。(その次は、仕事)』

『「どうしてこちらが誤らなくてはいけないのだ?」の答えは、
「君の方が賢いから」。』

『何が得られたかではなく、
それを得るために何が失われたか、
が「評価」である。』

『「する」「しない」の差に比べれば、
「好き」「嫌い」の差はないに等しい。』

『遊ぶのも仕事をするのも、目的は、安心するため。』

森博嗣「的を射る言葉」



ヒストリアン The Historian(エリザベス・コストヴァ)

歴史は沈黙を許容しない。これは、歴史は一瞬たりともその姿を固定せず、常に変容し続けている、という意味であると同時に、歴史に立ち向かう人々を黙らせはしない、ということでもある。
僕らは、歴史という流れの中で生きている。僕らは、誰からもそのやり方を教わることなく、歴史を紡ぐことになる。歴史の中で生きている、ということそのものが歴史に変わっていく。歴史は、何もかもを飲み込んでいく。
歴史の本質とは一体何だろうか?
ありきたりの答えになるが、それはまさしく人間そのものである。
本作中に、こんなセリフが出てくる。
『人間の本性は悪だと、この上ない悪だと、歴史は説いている。善は完全なものにはなり得ないが、悪はなり得る。』
このセリフは、歴史というものが、人間の本性は悪であると証明している、ということを言っているが、僕は、人間の本性である悪こそが、歴史というものに本質を与えるのではないか、とそう思うのだ。
例えば、僕ら一人一人の人生を振り返るような機会があるとしよう。その際に思い出されるものは、楽しかったことや嬉しかったことが多いかもしれない。自分にとってよくなかったことは、意識的に封印するか、思い出しても黙認するか、どちらかを選択しがちになるかもしれない。
それは、広い意味では歴史だが、普通思い出と呼ばれる。この例だけでこんなことを言うのは明らかに間違っているとは思うが、そこに何らかの人間の悪が含まれるものが、研究対象としての歴史と呼ばれるのではないか。人間の本性を垣間見ようという、ある意味で卑しい気持ちが、歴史という幻想を生み出しているのではないか。
それは、現代でもある意味で通じるものがある。例えば、ある著名人のおめでたいニュースがあったとしよう。それは、一瞬ニュースにはなるが、そこから何か掘り下げようと思う人は少ない。しかし、著名人のスキャンダルが表ざたになった時はこの限りではない。人々は(その大半はマスコミと呼ばれる人々ではあるが、マスコミは大衆の興味を汲み取って動くものなので、一概にマスコミだけを非難することはできない)、その著名人に関するありとあらゆることを、初めに明らかにされたスキャンダルとはまるで無関係なものまで無理矢理掘り下げてはニュースにする。そうしたことにうんざりする人も多いだろうとは思うが、それでも廃れないところを見ると、興味がある人の方がまだまだ多いということだろう。
つまり、歴史や史実として僕らに残されているものは、言い方を変えればスキャンダルと言うことも出来るだろう。歴史というものは、人間の悪意がそこに根付いている限り調べられ残されるが、そうでないものに関しては、忘れ去られるか、そうでなくとも、ほとんど興味をもたれることはないのではないかとそう思う。
これが、歴史の本質は人間であり、人間の悪意そのものである、とそう思う理由である。
もう一つ、僕が歴史に対して感じることを書こうと思う。
その前に、ある一つの定義をする。『生命』に関しての定義である。
『生命』というものが今現在どういう定義がされているかわからないが、恐らく遺伝子やらなんやらという話なのだろう。僕はそうではない定義をしたい。『生命』とは、名前が与えられ、その内に正の時間性が内包されているもの、であると。僕がここでいう正の時間性というのは、つまり時間と共に成長の方向へと進んでいく性質のことである。例えば負の時間性の方を説明する方がわかりやすいかもしれない。負の時間性の例は、身の周りにある様々な無機物であり、例えば椅子やテレビなどであるが、そうしたものは、時間とともに壊れる方向にしか時間性を持たない。これが僕のいう負の時間性であり、正の時間性はこの逆である。
この定義に沿えば、経済も社会も、『生命』だと定義することが出来るだろう。どちらも、もちろん瞬間的な崩壊との間で揺れはあるだろうが、決して壊れ続けるだけの概念ではなく、常に時間とともに何らかの変容がある。
そして、もちろん歴史も『生命』だと言っていいだろう。
経済や社会の場合は、まさに僕らのような現代に生きている人間や他の『生命』によって、正の時間性が与えられるが、歴史の場合それだけではない。つまり、過去からの未発見の情報によっても常に変容していく。
そして、『生命』はどんな形であれ、その内に『意志』を持つだろう。僕は、経済や社会といったものを、人間が作り出し、未だに人間が支配できている、と考えるのは難しいだろうと思っている。経済にも社会にもそれぞれ『意志』があり、それに則って『生きて』いるのだろうと思うのだ。それは、最近読んだ、池永永一の「シャングリ・ラ」でも感じたことだ。『生命』は何らかの形で『意志』を持ち、本当の意味で、『生命』そのものを理解したり支配したりはできないのだと。
歴史もまさに同じだ。僕らは、僕ら人間の生き方そのものが歴史を作り出していると感じるだろうが、時々、歴史という概念がもともとあって、僕らはそれに乗せられて動いているだけではないか、ということがある。例えばの話だが、数学や物理の世界では、同じ発見が同時期になされるということがよくある。ある意味で、それまでの期間で誰かが見つけていてもおかしくなかった発見を、短い期間の間で、まったく別々の地域の人間が発見するということがある。こういう話を知るたびに、歴史という名の『生命』が、僕ら人間の生き方そのものに影響を与えていて、まるで釈迦の手の上の孫悟空のように、僕らは歴史の上で踊らされているだけなのではないかと思ってしまうのだ。
歴史は、その全貌を現すこともなければ、常に形を保っているわけではない。自然のように、歯向かったり立ち向かったりするには、明らかに分の悪い相手である。
そんな歴史に、真っ向から対峙しようというのが、歴史学者、ヒストリアンである。彼らは、そのあまりに強大な存在を相手に、その存在の輪郭を明らかにしようと躍起になっている。
僕は、正直に言って歴史にはまったく興味がなく、学生時代も、歴史を勉強したくないがために、地理や政経の授業を選択したような人間なのだが、これには言いたいことがあって、やはり学校教育で与えられる歴史というものは面白みがないと感じるのだ。結局、試験のために年号や人名を覚えなければいけない。僕としては、何かを見れば分かることを何故わざわざ覚えなくてはならないのかまるで理解できなかったので、歴史の授業というものには関心がまったくなかった。
しかし、歴史学者が歴史にのめりこんでいくその理由はわからないではない。
僕は、数学や物理が好きだけれども、ある意味で研究者が目指そうとしていることは同じことだと思う。だからこそ理解できるということなのだけど。
物理は、世界の法則を説明できる唯一の法則があるはずだ、という物理学者の信念に基づいて、あらゆる人が研究を続けている。数学の場合なら、神様が作ったはずの、ありとあらゆる美しい数に関する真理を知りたい、という欲求で満たされている。
歴史学者も同じで、一時も姿を安定させず、その全貌も定かではない歴史という存在そのもの、その輪郭を何とか見極めたいと思って日々研究を続けているのだろう。物理学者追い求める世界の法則と、数学者が追い求める美しい心理と、それらと同じものを歴史学者は追い求めている。
さらに歴史が魅力的な点は、それが人間に関わるものだということだ。物理学者は世界を、数学者は数を相手にしているのに対して、歴史学者は人間を相手にしている。それも、もはや現在には存在していない、神の上の記録でしかその存在を確認することができない人間達の行動や思考を、まるで目の前で再現せんとばかりの正確さで追い求めているのである。そこには、時間とは無関係に、人間そのものが、時には今とは違う形で、時には今とまったく変わらない形で、生々しく残されている。歴史という大きな存在を相手にすると同時に、過去に生きた人々に語りかけ理解し微笑む、そうした学問なのである。
ただし、相手が人間であるからこそ、歴史というものはさらに厄介なのである。例えば、今現在若者がスプレーで壁に色々なデザイン的な絵を残している。そうしたものが、今から1000年後に何らかの形で発掘されたとしよう。その時にそれを発見した歴史学者が、その書かれた絵や文字に、どんな重要な意味を見出すだろうか?
これと同じようなことが今も起きていないとは言えないだろうと思う。過去のある人物が、ある偽りの記録を残したとする。それは、他のありとあらゆる資料や史実と矛盾することなく存在するということになったら、その偽りの記録は真実として残ることになってしまうのだ。
物理や数学の世界ではそんなことは起こらない。彼らが追い求めているものは、ある意味で神が成した成果であり、人間の所業ではない。歴史学者の苦労は大きいだろうと想像する。
僕らは、自分自身の過去というものについても、どれだけの正確さをもって記述することができるか疑問だろう。それを、過去の人間が残した資料を元に、そこにありとあらゆる推測や想像を交えながら、まるで遺跡を発掘するかのような慎重さで真実を明らかにしていく。僕は、歴史の授業で与えられる歴史にはまるで興味が持てなかったが、今ならあるいは、歴史という壮大なミステリーに、少しは興味が持てるような気がしている。
さて、長々と書いているけれどももう一つの話題を登場させようと思う。
ドラキュラである。
僕らが知っているドラキュラは、吸血鬼である。若い女性の生き血を吸い、十字架とニンニクを嫌い、夜に行動する、黒いマントを羽織ったあの吸血鬼である。
吸血鬼ドラキュラは、ブラム・ストーカーが作り出した架空のキャラクターだ。ハリウッドで映画化され、そのイメージが世界中に定着したわけで、ある意味でサンタクロースのようなものだ(サンタクロースは元々赤い服を着ていたわけではなかったが、コカ・コーラ社がサンタクロースを自社のキャラクターにした際に、自社のイメージカラーである赤をサンタクロースにも与えたという話は有名だろう)。そう、現実にドラキュラは存在したのだが、彼は吸血鬼ではなかっただろう、少なくともこれまでに歴史学者が明かした真実を元にすれば。
ドラキュラというのは、15世紀、オスマン帝国時代のワラキア(現ルーマニア)の君主であったヴラドⅢ世の別名である。ドラキュラというのは、ドラゴンの息子という意味で、その名に相応しいかどうかはわからないが、とにかく残忍な君主として知られている。串刺し公という呼び名が有名で、敵であれ部下であれ、彼の気に入らない人間は串刺しになれ殺された。それ意外にもありとあらゆる残虐な行為を数々繰り返した暴君であり、吸血鬼ドラキュラの話が広まる前から、ドラキュラの名は東欧では恐れられていたわけである。
このドラキュラ伯爵、ヴラドⅢ世は、その残虐の限りを尽くした悪行で有名ではあるが、もう一つ奇妙な伝説を残している。それは彼の死後の話である。彼は、いくつかのストーリーがあるものの何らかの事情で殺され、首をはねられた。その死体は、ルーマニアのスナゴフ湖にある島の修道院に埋葬されたことになっているのだが、その墓はもぬけのからで、未だに、首なしの死体がどこにあるのかわかっていないのである。
歴史にはこうしたミステリーは随所にあるのだろうが、本作で著者エリザベス・コストヴァは、このドラキュラ伯爵の墓の問題を題材に選んだ。歴史が与えたミステリーに、フィクションとは言え何らかの解答をもたらそうというのが、本作の物語の核である。
というわけで、そろそろ内容の紹介に入ろうと思う。
本作は、三つの層に分かれていると言える。それぞれの層の係わり合いなどを説明しながら内容を紹介しようと思う。
まず第一の層は、2008年イギリスである。本作「ヒストリアン」は、登場人物である『私』(恐らくどこかで名前は出てきたと思うが、ほとんど『私』という一人称である)が、本作のストーリーの本筋である一連の出来事から36年が経った今、その当時のことを思い出して書き記した自叙伝のようなもの、という設定であり、これが第一の層である。この第一の層の設定(つまり2008年の『私』ということだが)は、ほとんどストーリーの中には出てこない。たまに、『この当時の私にはわからなかったが…』というような文面の時に現れるぐらいであり、そこまで気にするようなことではない。
さて第二の層だが、これは36年前、つまり1972年の、オランダ・アムステルダムである。この当時、『私』は16歳の高校生(という表現が向こうの教育システムと合致しているかはわからないけど)であり、『父』(こちらも名前は出てくるが、この第二の層ではほとんど『父』と呼ばれるし、第三の層ではほとんど『ぼく』という一人称である)との二人暮しである。母親がいない理由はよくわからないのだが、父親はそのことをあまりはなしたがらないので深く追及することは避けている。『父』はアムステルダムに本部を置く財団を設立していて、外交官として日々各国を忙しく回っているが、昔は歴史学者だったようだ。その辺りの事情も『父』は詳しく話してはくれない。
ある日『私』は、『父』の書斎にあった本の中から、一通の手紙を発見してしまう。全文とはいかないが少しだけ引用しよう。
『親愛なる、そして不運なわが後継者へ
 きみが誰なのかは知らないが、私がここに書き記す話を読んでいるかと思うと、残念でならない。その嘆きは自分自身に向けたものである―なぜならば、この手紙がきみの手元にあるとすれば、私がトラブルに巻き込まれているのは確かだろうし、悪くすれば死んでいるか、ひょっとするともっとひどいことになっているかもしれないからだ。だが、見知らぬ友よ、私が残念なのはきみのことでもある。この手紙は、こんな不快きわまりない情報を必要とする人物だけが読むことになっているからだ。文字通り私のあとを引き継ぐわけではなくても、きみはじきに私の相続人となる―(後略)』
それが挟んであった本も奇妙なものだった。古い本で、本の中ほどに竜の挿絵が一つある以外文章も何も書かれていないものだった。
『私』はその件について『父』に問いただしたが、『父』はその話はあまりしたくないという顔をする。外交官である父に連れ添って旅に出る折に少しずつ話を聞きだすのだが、それは、竜の挿絵がある本が導く、ドラキュラについての壮大な物語であった。かつて『父』とその指導教授を襲った不幸と災難、そしてそれにまつわる調査と研究。『父』はそうしてぽつぽつと話をしてくれるのだが、ある日突然に『私』の前から姿を消してしまう。なんとか『父』を探そうと無謀な旅を決意する『私』。『父』は何故『私』の元からいなくなったのか?待ち受ける運命は?
さて、第三の層です。この層は、1930年代と1950年代の二つの時期をまたいぐ、東欧全般に渡る物語です。これは、『父』がしぶしぶ『私』に語ることになった、指導教授と『父』自身についての物語です。第三層では『父』の一人称は『ぼく』となります。
『ぼく』は、ある時期のオランダ商人を研究対象とする、ごく普通の大学院生だった。ある日図書館で調べ物をしている時、『ぼく』は奇妙な本を見つけた。それは、竜の挿絵がある以外文章も何もない奇妙な本で、不思議に思った『ぼく』は、指導教授であるロッシの元へ持ち込んだ。すると彼は、驚くべきことに似たような本を所有していた。彼は、1930年代、その本を所有することになった経緯から、その後の奇妙な出来事について『ぼく』に語り、こう加えた。
『ドラキュラは―ヴラド・ツェペシュは―いまも生きている』
その奇妙な話を終えたロッシは、突然に失踪してしまう。『ぼく』は、ドラキュラの足跡を辿ることでロッシを見つけ出すことができるはずだ、それしか手はないと考え、1950年代、冷戦下の緊張状態にあるヨーロッパ、とりわけ東欧を中心に、ドラキュラの足跡を、そしてドラキュラの墓を、そして何よりもロッシを追い求めて奔走する。何故ロッシは失踪したのか?ドラキュラが生きているというのはどういうことなのか?ドラキュラはどこに埋葬されたのか?
と、大体こういうようなストーリーですね。
さてここで、本作について明らかにしたことがありまして、それは何かというと、本作はまだ発売されていない本だ、ということです。本作の発売日は、2006年2月24日であり、今週の金曜日ですが、まだ発売日は先ですね。僕は、ある状況に巡り合って本作を発売日よりも前に入手して読むことができたわけで、嬉しい限りです。
本作は、歴史ミステリとして売り出されるようですが、『歴史』と『ミステリ』の割合は8:2ぐらいだと言えるでしょう。それぐらい歴史に関する考察やデータの多い作品です。
かと言って難しいかというとそんなことはありません。僕は本当に歴史は苦手で、年号や人物名を覚えるのは本当に嫌いなのですが、本作で描かれる歴史は、何度も同じことを色々な場面で繰り返すし、僕からすれば結構易しく歴史について書かれているので、読みにくいということはありませんでした。そうですね、例を挙げるとするなら、京極夏彦の作品のようだ、と言えるでしょうか。もちろん、京極夏彦が描く歴史というか民族的な描写や知識はなかなか難しいものがありますが、それでも、全部を理解することができるわけではないけれども、物語を一気読みしてしまうぐらいには読むことができる。本作の歴史に関する記述もそんな印象があって、いやもちろん京極夏彦が苦手だという人はいるかもしれないけど、そんな感じだということであって、僕が歴史を苦手とする割には結構すんなり読めたというのはなかなかだと思います。長さ的にも、京極夏彦的と言えるかもしれませんね。
また、外国の作品を読むのも僕は苦手で、それは偏に登場人物の名前を覚えることができないという点に尽きるのだけど、本作では、外国の作品としては恐らく珍しい部類ではないかと思うけど、『私』と『ぼく』という一人称が採用されていて、しかも、出来る限りにおいて人間関係で名前を表す(父や叔母といった感じ)ので、登場人物の名前をそこまで覚える必要がなく、また人間関係も複雑ではなかったので、すんなりと読むことができました。もしかしたら、訳者の腕がいいのかもしれないけど、それがどう貢献しているのか僕にはなかなか分かりません。
さて、問題点も挙げておくことにしましょう。
まず、何度か都合のいい偶然が起こることです。小説に偶然性は必然だけど、そういう都合のいい偶然が結構頻繁に起こってしまうのが、僕は難点に思いました。「ミステリ」として売り出す作品なわけで、当然ミステリをよく読む人も読むだろうけど、そういう人というのは、『小説の中のあらゆることには伏線と理由があるはずだ』と考える傾向にあって、それはまあ僕もそうなのですが、だから必然性のない偶然というのを結構嫌ったりするんではないかな、と思ってしまいました。
あと、本作の中に出てくる資料についてです。どこまでが本当に存在する資料で、どこまでが創作されたものなのかわからないので、どこまでが正確に史実なのかわからないという点です。例えば、登場人物の一人が出版した本、というものが登場するのだけど、もちろんこれは創作でしょうが、じゃあどこまでが創作なのかと言われるとなかなかわかりません。
僕が知っている歴史ミステリというのは鯨統一郎の作品ぐらいで、「邪馬台国はどこですか?」なんかが有名ですが、僕が読んできたそういう作品は、既存の資料やデータを基に、解釈や視点を変えることによって新たな真実を提示する、という手法のものだったのだけど、本作は解釈の変化による真実の提供ではなく、資料を創作して紡ぐ壮大な偽りの真実なわけで、これは僕の『歴史ミステリ』というものに対する捉え方がおかしいだけなのかもしれないけど、それでもちょっとなぁ、と思いました。
しかし、そうした点はむしろ瑣末だと言えるでしょう。壮大で深遠な物語であるということに間違いはありません。正直、起伏の少ない物語であるという風に感じたけど、それはある意味で丁寧な描写によるものだろうし、歴史というのもが与える魅力を十分に引き出しながら、現実とフィクションをうまく融合させ、これだけの壮大で長い物語を書き上げたことは見事だと思います。
本作はなんと著者のデビュー作で、執筆と取材に10年をかけたそうです。少し前に読んだ本で、映画にもなった「さゆり」という小説がありますが、これも確か執筆と取材に10年近く掛けた作品だったような気がしますが、いや正直、よくもまあそれだけ長い時間費やすことができるな、と感心してしまいます。
それだけの時間を費やしたからかどうなのか、本作はアメリカで発売されるや、18週連続でトップ10入りし、既に100万部を売り上げている化け物のような作品です。同じ歴史ミステリとして第二の「ダヴィンチコード」と言われるような作品で、日本でもNHK出版が、専用のHPを設けるくらいに積極的なプロモーションを仕掛けている作品です。世界33ヵ国で出版が決定しているし、「ダヴィンチコード」と同じソニーピクチャーズが既に映画化の権利を取得している、話題になること間違いなしの作品だと言えるでしょう。
さて最後に僕が気になった点を一点。本作は、ミシガン大学が主催する『ホップウッド賞』という賞を受賞しているのですが、この『ホップウッド賞』というのはなんと、執筆中の作品に対して与えられる賞なのだそうです。執筆中の作品にどうやって評価を与えるのかはわからないけど、これを知った時、アメリカの出版事情を少しだけ思い出しました。
アメリカでは本を出すときに、エージェントと組まなくてはいけないようで、それは、少し前に読んだ、スティーヴン・キングの「小説作法」にも書いてあったし、どこかで読んだ、村上春樹がアメリカで本を出版する話にも書かれていたと思います。日本は、各種新人賞が充実していて、作家志望は賞に応募すればいいわけだけど、アメリカではそうもいかないのだろうな、と思いました。だから、執筆中の作品に対して賞を与え、エージェントの注目を集めるようにするシステムが出来上がっているのだろうな、とそんなことを考えました。
今年間違いなく話題作となるだろう作品です。歴史の奥深さと、その奥に隠された人間の正体を知ると共に、歴史を研究しながら現在に生きる人々の苦悩や努力、歓喜や決意などを活き活きと感じることのできる作品です。歴史学者になった気持ちで、歴史の奥深くへと、誘われてみてはどうでしょうか?

エリザベス・コストヴァ「ヒストリアン」






パプリカ(筒井康隆)

夢はあまり見ない。見たとても、ほとんど覚えていない。
なんだかそれは、非常にもったいない気がするのだ。うん、非常に。
僕の場合、夜寝ている時はもう全然と言っていいほど夢は見ない。それが熟睡を意味するのかどうかよくわからないけど、とにかく見ていないことはたぶん確かだと思う。
それよりも、うたた寝をしている時は、恐らく夢を見ているだろうと思う。僕は、本を読みながらよくうたた寝をしてしまうのだけれど(寝ながら本を読んでいるので)、そのうたた寝の時は、どうも夢を見ている気がする。気がする、というのは、夢の内容をちゃんと覚えていないからで(目覚めた時はなんとなく覚えているんだけど)、夢を見てたなという感覚しか残らない。
最近毎日見ている、「MORI LOG ACADEMY」というサイトがあって、これは作家森博嗣の日々の日記を書いたHPなのだけど(3月に第一弾の文庫が出ますよ。大体3ヵ月おきに文庫で発売されるようです)、そこで森博嗣が、自分は夢を見ていると自覚した時に、その続きが知りたくてしばらく寝ていることができる、というようなことを書いていたのを読みました。森博嗣という人は、周囲にどう評価されるか、という点に関してまるで興味のない人で、つまりそんな人だから、ユーモア以外の点で嘘をつく理由がまったくない人なのでそれは本当のことなのだろうけど、しかしそんなことができるものなのか、と僕は驚きました。夢を制御して自在に見ることができるなんて。森博嗣という人は、あらゆる点で多才な人だけれども(評価を求めない人なので、その成果というか才能というか、そうしたものはなかなか表には出てこないのだけど、断片的に知ることができる範囲だけでも、普通の人の数倍才能があるだろうと思う。数倍、の基準が不明だけど)、夢までも操れるとはもはや尋常じゃないなと思いました。
でも確かに友達にも、見たいと思う夢の続きを見ることができるというような人がいて、まあそれが本当がどうかはよくわからないけど、できるなら羨ましいものだ、と思います。せめて、見た夢の内容ぐらいちゃんと覚えておきたいものです。
夢をいうのは、僕が知っている限りの知識では、睡眠中に脳が記憶を整理する過程で現れるものだ、というものです。つまり、自分の見たものや経験したこと、過去の記憶や感情、そうしたものを写した一枚一枚の写真があるとして、その写真を整理する過程でものすごい変な並びになってしまい、それを映像として見ている、ということですね。だから、光景自体は自分の記憶にあるものなのに、ストーリーは支離滅裂ということになるわけで、なるほどうまい説明だなと思ったものです。しかし、現実にありうるかどうかは別として、予知夢という夢の存在も否定はできないわけで、そうなると上記の説明はうまくいかないことになるし、まあ脳のことだし、ちゃんとは分かっていないということでしょうけど。
さてその夢を、精神病患者の治療に利用してしまおう、というのが本作の発想なわけですが、まあ精神病に関しても少しだけ。
僕は、ものすごい広い範囲の定義をすれば、一時期精神病的な状態になっていたと言えなくもないだろうと思います(精神病というのは精神科医が作り出す『虚病』ではないかというのが僕の考えで、精神病として分類されるほとんどはそのまま性格と言い換えることができると僕は思っているけれども、とにかく今の精神病の概念に則ってみれば、僕は一時期そうした状態にあったでしょう、というような意味です)。不安神経症の一種、とでも言えたでしょうか。とにかく、原因のはっきりとしない不安が、あらゆる方向から僕に襲い掛かってきて、本気で自殺を考えたほどです。僕は、本当にありとあらゆる人に迷惑を掛けながら何とか回復し(もともと病気ではなかったとは思うけど)今に至っていますが、あの時あの状態から脱することができなかったらどうなっていただろうか、とちょっと怖くなります。
不安というものは、ある意味で人間にはつきもので、常にマイナスとして人間の中に存在していると思います。普段は、それを打ち消すだけのプラスの感情の影響で、不安による効果が表には出てこないけれども、そのプラスの感情が減少していくにつれて、不安の効果が現れてくるのだろうと思います。プラスの感情は減少するのに、マイナスの感情は減る(という表現はおかしいかもしれないけど、0の方向へ向かうということ)はなくて、常にどこかしらに不安を抱えていて、プラスの感情によってそれを相殺しているだけ。それが人間の基本的なあり方なのだと思います。
何故そう思うかと言えば、不安や恐怖と言ったものによって、人間の文化や社会や技術と言ったものが進化してきたと思うからです。不安や恐怖が人間からまったくない、あるいはまったくないような状態が存在しうるとしたら、これほどの繁栄はありえなかったと思います。逆に言えば、これほどの繁栄と引き換えに、不安を常に内在するはめになった、と表現することもできるかもしれないけど。
僕は今、目立った不安感を感じることなく日々の生活を送ることが出来ています。仕事が楽しいのと、本を沢山読んでいられるのとで、プラスの感情が発生しているのだろうと思います。しかし、『いつまたあの不安な状態になってしまうだろうか』というような不安は、常にないでもありません。あの状態にだけは戻りたくないし、戻ったら今度はどうすればいいかやっぱりわからないだろうと思います。
もし本作のような、パプリカによる救助が得られるなら、まあいいかなとも思うのだけど。
というわけで、本作の内容に入ろうと思います。
主な舞台は、日本で一番権威のある精神病研究所です。そこで働く千葉敦子が主人公。敦子と、共同研究者である時田浩作は、夢に入り込んで精神病の治癒をする、という功績により、ノーベル賞の候補に推されている段階で、それを妬んだ研究所内の人間との諍いに巻き込まれることになります。理事会に根回しをしたり、協力者を増やしたりと、敵側の嫌がらせは進行していくのですが、同時に、浩作が開発した夢に入り込む機械(PT機器)を使用した研究者が発狂するような状況が何度もあり、次第にそれが、敵側の策略であることに気付いた敦子は対策を考えるようになる。
一方で敦子は、パプリカというコードネームを持つセラピストでもある。パプリカというのは、精神科への通院がばれるとまずい著名な要人を専門とした秘密裏のセラピストであるが、事情があってしばらくパプリカを表に出さないことにしていた。しかし、研究所の所長の島の強引な頼みもあって、久しぶりにパプリカを出すことになり、研究所での権力争いと共に、敦子の負担となっていく。
やがて、同じく時田が開発した、PT機器の超小型版(DCミニ)によって、事態は悪化の一途を辿っていく。DCミニの与える影響は酷く、次第に、夢と現実の境界が虚ろになっていき…。
というような話ですね。SFホラーとでもいうような内容です。
筒井康隆の小説をはじめて読みましたが、文章に特に面白みはないのだけど、展開や発想については素晴らしいものがあると思いました。本作について言えば、あらゆる人の夢の内容を文章で記述しているのだけど、夢のあの夢らしさたる、ストーリーの奇妙奇天烈さというものを、完璧に再現できているように思えて、夢という果てしなく『非現実的』なものを、『非現実的なもの』としてリアリティーを与えていて、凄いな、と思いました。
また、夢の中に入って、というようなストーリーはまあ結構あるのだろうけど(あまり読んだことはないけど)、その発想の転がし方とでもいうのか、一発の発想で終わっていない辺りが、熟練した作家のなせる技だろうか、と思いました。
でも僕的には、夢と現実の境界が薄れてくる辺りから、ちょっとこれはやりすぎかな、と興ざめする感じになったりして、最後の辺りがちょっと僕的にはどうかな、という感じでした。その点については、『非現実』なものを、『非現実的なもの』としてリアリティーを与えられていない、と感じました。
以前深夜のテレビ番組で、「お厚いのがお好き」というのをやっていて見ていたのだけど、その中で筒井康隆のある作品(タイトルは覚えていない)が紹介されていて(その番組は、大抵大昔の外国の作家の作品を取り上げていたので、現代の日本人作家を紹介していたという点で結構覚えている)、その中で紹介されていた作品が、少し前にブームになったドラマ「24」のはしりのような作品で、1ページを2分として物語を描写していくとかいうもので、それを見た時、この筒井康隆という作家は結構やばい作家なんではないかと思ったのだけど(やばい作家、といって僕の頭に浮かぶのは、「ドグラマグラ」の作者なのだけど)、でも本作は、まあぶっ飛んだ文学作品ではない割りとまともなSFチックな作品で、まあその点は結構安心しました。
そういえば、本作とはまったく関係ない話なんだけど、古本屋で買った『パプリカ』のハードカバー版(中央公論社)の中に、集英社文庫の新刊案内が入っていて、しかもその表紙がすごい昔の(1994年)内田有紀で、別に内田有紀のファンでもなんでもないけど、これはもしかしたら貴重ではないかしらん、と思ったりしています。
僕としては、特に強くお勧めするような作品ではないのだけど、しっかりと作りこまれた熟練の作品だな、という感じはします。読んで損はないだろうと思います。

筒井康隆「パプリカ」



銀河ヒッチハイク・ガイド(ダグラス・アダムズ)

コミックやドラマや映画なんかでは、ドタバタ系のコメディというのは結構あるのに、小説に限って言えばなかなかない。というか全然まったくないと言ってもおおげさではない。
やっぱり小説ではなかなか難しいということだろう。
僕が知っている限り、お笑い系の小説というのは、東野圭吾の「毒笑小説」「快笑小説」「黒笑小説」「名探偵の掟」「超殺人事件」、京極夏彦の「どすこい」、蘇部健一の「六枚のとんかつ」、奥田英朗の「インザプール」「空中ブランコ」ぐらいだろうか。本当に少ないと思う。
やはり、お笑い的なものは結局、視覚的な面白さが要求されるのだろう。少なくとも今は。
昔なら、落語とか漫才とかは、ほとんど喋りだけで笑いを取るもので、これは小説で笑いをやることに近いかもしれない。しかし今では、視覚的な動きやリアクションといったもので笑いを取るような芸人が多くて、すなわちそれが求められているということだろうし、そういう点が、映像やコミックでコメディが広がっていく一因なんだろうと思う。
「毒笑小説」か「快笑小説」のどっちかの文庫の巻末で、東野圭吾と京極夏彦の対談があって、そこで、お笑い的な小説は簡単に書けるみたいに思われるかもしれないけど、普通の小説を書くよりも遥かに大変だ。しかも、テンションのある時に一気に書かないと続かないから、どうしても枚数は短くなる、つまり短編しか書けない、とそういうようなことが書いてあった。
そう、上記で挙げた、僕が知っているお笑い系の小説は、すべて短編集なのである。
そう考えてみると、本作のすごさがなんとなくわかる。本作は、ばかばかしいストーリーが続くドタバタ系の小説で、かつなんと長編なのである。
ダグラス・アダムズという作家はイギリスの人で、最近亡くなったようなのだけど、天才だと言われていたようである。本作はシリーズ作でラジオドラマの脚本として書かれたものを小説にしたもので、ベストセラーになったらしい。
まあそれ以上のことはわからないんだけど。
とにかく、僕が今まで読んできた中で初の、ドタバタ系長編作というわけですね。
書くこともあまりないので内容に入りたいと思います。
ある日の朝、アーサー・デントは、家の外にブルドーザーが停まっていることに気付く。そうだ、そういえば昨日誰かが変なことを言っていたな…。
そうだ!あのブルドーザーはうちを壊しに来たんだ!
なんでも、新しいバイパス建設のために、どうしても壊さなければならないのだとか。そうはさせるか、とブルドーザーの前に横たわり抗議するアーサー。
さて一方、アーサーの友人であるフォードは、なんとなんと実は宇宙人であり、『銀河ヒッチハイク・ガイド』という、銀河をヒッチハイクで旅する人のためのガイドブック製作の取材のために地球に来たところ何故か置き去りにされたのだとか。
そのフォードが、ブルドーザーの前に横たわるアーサーを呼び出してこう告げる。
地球はもうすぐ滅びるんだ。
なんと、銀河規模のバイパス建設のために、地球が破壊されることに決まったらしい!
ヒッチハイカーでもあるフォードに付き従って、ごくごく平凡な一英国人だったアーサーは、銀河を旅することに、そして奇妙な出来事に巻き込まれ続けることに…。
というような話ですね。
どこをとってもばかばかしい話で、そのばかばかしさの一貫性はなかなかのものです。発想が奇抜で、よくそんなことを思いつくな、という感じです。
さて、本作のユーモア的な部分なんですが、面白い部分はめちゃくちゃ面白い。思わず笑ってしまいます。でも、『きっとここは面白い部分なんだろうな』という部分で、何が面白いんだろうか、と思ってしまうようなところも結構あったりします。多分、文化の違いとか言語の違いとか、とにかく『何を面白いと感じるか』という点が違うようで、その面白さのすべてを体感することは出来ませんでした。
また、宇宙空間や移動技術など、とにかく設定が細かくて、うまく理解できない部分もあったけど、たぶん物理的な知識も結構ある人なんだろうなと思いました。
本作で、ああそうかと思ったことがあります。前にヤフーのニュースで、『電卓計算機能がついて、しかもこんな計算の答えも出します』みたいなのがあって、それが、
『生命、宇宙、その他もろもろの答え=42』
というものでした。多分これで検索すれば今も出ると思いますが。
それを見た時、なんで42なんだろうと思ったけど、本作でその話が出てきて、これを踏まえているのか、と思ったりしました。
なんというか、たぶん本作の本当の面白さみたいなものを丸ごと堪能することはできなかたような気がするけど、ドタバタ的な展開はなかなかだと思うし、まあ何も考えずにさらさらと読める話ではないかな、と思います。
まあ、気が向いたら読んでみてください、という感じです。どうやら、河出文庫の訳よりも、既に絶版になった新潮文庫の訳の方がいい、とamazonでは評価されていましたが。

ダグラス・アダムズ「銀河ヒッチハイク・ガイド」



ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで―(スティーヴン・W・ホーキング)

物理学という学問は、様々な分野で様々な形で発展し続けた分野であるが、今やその大局的な目標は一つに絞られたと言ってもいい。
それは、アインシュタインが提唱した一般性相対性理論と、20世紀最大の物理学的発見であり、アインシュタインが死ぬまで認めなかったことで有名な量子力学(アインシュタインが認めなかったのは、不確定性原理と呼ばれるもので、「神はサイコロを振らない」という言葉が有名)を統合することにある。
少しだけこの二つの理論について説明しよう。
一般性相対性理論は、アインシュタイン20代の若さでが提唱した驚くべき理論で、発表当時その理論を理解できたのは、世界中でも2人しかいなかったと言われるほどである。ニュートン物理学が厳密には間違っていたことを示した理論でもあり、物理学界に大きな波紋をもたらした。
さてそんな一般性相対性理論について簡単に説明することは難しいが(そもそも僕自身、全然理解できていないのだが)、その奇抜さが分かりやすいものについて紹介しようと思う。
アインシュタインは、どんな状態にある観測者から見ても、光の速度は一定である、ということを示した。これは、僕らの日常の生活から考えれば、非常に奇妙なことだとわかるだろう。
例えば車に乗っているとしよう。自分の乗っている車が時速100キロである時、隣を走っている車が時速100キロで走っているならとまって見えるし、時速100キロ以下なら遅れて見えるし、時速100キロ以上なら進んで見える。これは日常的に想像しやすい。
では、ちょうど光の速度で飛んでいる宇宙船に乗っていると想像しよう(現実にはありえないが)。この宇宙船の窓から光を観測した場合、上記の車の例で考えれば、光は止まって見えるはずである。しかし、アインシュタインは、このような場合でも、光はある一定の速度で観測される、と提唱したのである。これは、ニュートンによって作られた古典物理学を大きく否定するものだった。
アインシュタインはこのことを、『もし自分が高速で動いていると仮定しよう。その時、自分の目の前に鏡があったら、その鏡に自分の顔は映るだろうか?』という発想から導き出したと言われている。そんな想像をすること自体がまずすごいと思うが、そこからこんなことを考え出してしまうこともすごい。
さてもう一つの、量子力学の方の説明をしよう。こちらも、簡単に説明することはかなり困難で、もちろん僕自身もちゃんと理解しているとは言えないので、最も有名で理解しやすいだろうと思われる、不確定性原理について書こうと思う。
不確定性原理というものは、観測に関して言及したものであり、観測によってある粒子の位置と速度を同時に知ることはできないということを示したものである。
観測する、ということは、なんらかの光を対象に当てる、という風に考えることができる。光というものは波の性質も持つが、同時に粒子としての性質も持ち、この光の粒子が、観測する対象である粒子に衝突することで観測が行われるわけだが、衝突によって観測する対象の位置や速度に影響を与えてしまい、光の粒子を当てる以前の位置や速度を正確に知ることはできない。
この考え方も、物理学に大きな波紋をもたらした。それまでは、あらゆる物理学の法則を用いれば、あらゆる状況の観測データを知ることによって、別の状態を計算によって知ることが出来ると考えられていた。例えば、サイコロの振る舞いは、サイコロが地面に当たる角度や空気抵抗、地面との摩擦や初速度などによって支配されており、そうした条件を精密に一致することが可能なら、同じ目を毎回出すことができる、と考えられていたわけである。
しかし、不確定性原理は、例えどれだけデータを精密にしても、観測結果が同じとは限らないことを示してしまった。この不確定性原理の登場によって量子力学の道が開かれたわけである。
さて、この二つを統合するということだが、一方は宇宙に関する理論であり、一方は量子に関する理論である。一体何故この二つを統合しなければならないのか…。
それが、宇宙の始まりに関わっているからである。
宇宙の始まりは、ビッグバンと呼ばれる、言ってみれば超爆発のようなものだという考えが今は支配的である。そのビッグバンの時点で宇宙は、極小の大きさを持ち、無限大の質量を持つ物質であるとされる。今、宇宙におけるほとんどすべての現象は、一般相対性理論によって説明できるが、このビッグバンの、無限大の質量を持つ状態については何も記述することが出来ない。しかし、小さな物質の振る舞いを記述する量子力学の考えを相対性理論に組み込むことができれば、宇宙の始まりを、そして宇宙のすべてを記述する完璧な理論ができるかもしれない。
物理学にも様々な分野があるが、大局的にはこの一般相対性理論と量子力学の統合に力が注がれているというのは、そういうことなのである。
その最先端を行く物理学者が、本作の著者、ホーキングである。宇宙の始まりを研究し続け、ニュートンと同じ椅子に座り、アインシュタイン並の評価と業績を手にするのではないかと言われている天才物理学者は、しかし別の形で有名であるかもしれない。
車椅子の物理学者として。
ホーキングは21歳の時、筋萎縮性側索硬化症と呼ばれる、筋肉が脂肪に変わってしまい機能しなくなるという難病に冒され、余命1、2年と宣告された。しかし、身体全体のほんのわずかな部位の筋肉しか動かすことができないにも関わらず、60歳を超えた今でも、宇宙の始まりについて思索を続けている。業績的にもそうだが、その知名度という点でも20世紀最大の物理学者だと言っても過言ではないだろう。
さて、そんな世界屈指の物理学者が、一般向けに物理の本を書こうと思い立って出版まで至ったのが本作である。驚くべきは本作の売れ行きで、89年6月に初版が発行され、90年の10月に既に34版まで重ねている。一年間で34回の重版、しかもハードカバーでさらにそれが物理の本だということを考え合わせれば、本作はあまりにも驚異的なセールスを見せたのだろうと思われる。確かな記憶ではないが、最近また本作(あるいは本作の続編のようなものだたかもしれないが)がまた注目を集めているようで、書店に回ってくる(どこから来るのかはよく知らないが)メールでそんなことが書いてあった。それにしても、物理学の本でここまでのセールスを重ねた本は、他に数えるほどしかないだろう。
というわけで本作への僕の評価だが、その圧倒的なセールスについて疑問に思うほど、本作はちょっと難しい、と思った。一般向けに書いたのだろうし、冒頭で数式は一切入れないと宣言しているほどなのだけど、それでも、物理を結構勉強している人でないとちゃんと理解するのは難しい内容ではないかな、と思う。僕は大学まで理系で通した人間で、物理もかなり好きな部類だけど、それでもちょっと難しくて、よくわからない部分を流し読みする形で本作を読んでしまうほどだった。
僕が最近読んだ、「リーマン博士の大予想」という、リーマン予想と呼ばれる数学の難問についての本があるけれども、あの本は非常に易しく書かれていて、恐らく文系の人にも十分理解できる内容だと思うけど、本作は恐らく、文系の人には読み通すのが難しいだろうな、という内容でした。
さらに残念なのは、著者がホーキング自身だという点もあるのだろうけど、ホーキングの物理学における功績のようなものが一体どういった点なのかということが非常にわかりずらいです。僕としては、ホーキングが考える宇宙というものを非常に分かりやすい形で書く一方で、ホーキング自身がどのような形で物理学に貢献していったのかという体系的な話も期待していたので、ちょっと残念かなという感じがしました。
恐らく本作は名著に数えられるのだろうけど、僕としては本作を読むよりは、例えば雑誌のニュートンを読んだ方がよりわかりやすく理解できるのではないだろうか、という気がします。やはり、専門化が自分の専門分野について書いた本というのは、どんなに易しく書いたつもりでも、難しく思えてしまうものだろうと思います。
というわけで、残念ながらちょっと難しいかな、という気がします。

スティーヴン・W・ホーキング「ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで―」



ブルー・スカイ(桜庭一樹)

僕らの世代は、『繋がっている』ことが何よりも大事だったりする。誰かと『繋がっている』ことを日々確認できるかどうかが、安心に繋がったり、不安へ導いたりする指標となる。
世界が広がると共に、僕らは孤独に包まれるようになっていく。
少し前の時代までなら、触れることのできる世界は極限られた範囲のものだった。自分の足で行ける場所、自分の声や耳の届く場所、目の前にいる相手。そうしたものが世界のすべてだった。そうした時代では、その限られた世界の中で濃密な関係性を求め築き、そうして世界は狭いけど孤独とは無縁の生活を行っていた。
しかし、幸か不幸か、僕らの世代が触れることのできる世界はあまりにも広い。広すぎる。自分の足で行けない場所、声も耳も届かない場所、目の前にいない相手、そうした、今までは『自分の世界』の外側にあったありとあらゆるものが、今では『自分の世界』の内側に『入りうる』。そうして引き伸ばされた世界や時間の中では、物理的な距離やスケールが意味をなさなくなる。物理的に『近い』人との『繋がり』が消えてしまったとしても、まだ『繋がれる』場所は残されている。そうした発想が、僕らから濃い人間関係を奪い、孤独を押し付けられる結果になっている。
僕らは、時としてそれを便利だと感じる。物理的な距離やスケールを一瞬にして消去してしまう関係性は、少なくともビジネスの世界では有効に機能した。それまで、アナログで埋めていた距離を考えなくてもよくなり、また、時間というものの意味をある範囲で無効にすることができるようになった。そうしたテクノロジーが、ビジネスに与えた影響は大きいだろう。
しかし、ノーマルな人間関係の中では、果たしていい機能をしていると言えるだろうか?
いやある意味でそれは、僕に言わせれば非常に『いい』機能を果たしている。しかし、それは逃げるためのいいわけに有効だというだけであり、前向きな思考ではない。面と向かって言いづらいことでもメールでなら言える。現実的に人間関係を広く展開できないからネットに求める。
僕には、今の『世界を広げるテクノロジー』は、人々に逃げ道を与えるものでしかないような気がするのだ。
例えば携帯がなければ、パソコンでネットが出来なければ、僕らは否応にも外に出なければいけないし、直接人と会わなければならなくなるだろう。そうしたことが、人間関係だけでなく、社会的にある一定の効果を上げていたはずだ。
しかし、携帯やネットのお陰で、『やりたくない』と思うことを一部やらなくても済むようになってしまった。それが当たり前だと思うようにもなってしまった。僕らは明らかに便利になりすぎたし、便利に頼りすぎた。
僕らの世界は、テクノロジーによって広げられてしまった。それは、ある人々には非常にいいことだっただろう。つまり、積極的で外交的で、自らの世界を自らで広げたいと思うような人々だ。しかし、僕のような、消極的で内向的で、少し前の時代のような、極狭い範囲の世界だけで生きていければいいと思っている人間には、世界が無駄に広すぎるように思えてしまう。
しかし、それでも世界は広がってしまった。だから僕らは、日々薄くなっていくように感じられる人間関係に、『繋がり』を求めてしまう。孤独を恐れるあまりに、孤独でないことを確認したいがために、『繋がる』ことを必要以上に希求している。
ある意味で病気だろう、これは。しかし仕方がない。何でも病気にしてしまう精神病の医師のようにはなりたくないけど、それでも、この『繋がり』を求める人々のあり方は、社会とテクノロジーが生み出した、一つの病気の形だろうと思うのだ。
そこからもし抜け出すことになったら、僕らにはどんな背活が待っているだろうか。『繋がり』を求めるまでもなく自然と『繋がっている』ような生活にめぐり合えるのだろうか?
僕もやっぱり、この今の世界で生きている限り、誰かと『繋がっていたい』とそう思う。
そろそろ内容に入ろうと思うけど、ちょっとだけ『箱庭』について。
なるほど、『箱庭』ですか、と思った。
僕は昔からこんなことを考えていた。世界は複層的に織り成していて、それぞれの階層にそれぞれの世界があるのだろう、と。
僕の中のイメージでは、開けても開けても箱の中にそれよりも一回り小さな箱がある、というような感じで、それぞれの世界は、それより一つ小さな世界を『箱庭』として内側に抱えていて、それよりも一回り小さな世界に『箱庭』として囲われている。そんなイメージを持っていた。
僕がそんなことを考えたきっかけはたぶん二つある。
一つは、昔時々読んでいた、『世界超常現象』みたいな本で、人間が何もない空間にふっと消える、みたいなのがあった。本の説明だと、そこには四次元空間の切れ目があって、そこに吸い込まれた、みたいなことが書いてあったけど、僕はなんとなく、一つ上か一つ下のレベルの世界に行ってしまったんではないか、とか思っていた。
もう一つは、ある物理系の本を読んでいた時に書いてあった、『多世界解釈』というものだ。これは、たぶんちゃんとした物理学者が提唱している説で、要するに世界には沢山のパラレルワールド(平行世界)があるっていう話なんだけど、確か電子の二重性(粒子としての振る舞いと波としての振る舞いの二種類の性質を持つということ)を説明するのに持ち出された解釈だったような気がする。そういうこともあるだろうな、と思った。
本作の構成がなんとなく『箱庭』っていう感じで、まあそれは帯にも書いてあるんだけど、なんとなくなるほどな、って思ったりもした。
そんなわけで内容ですが、本作は、三つの『箱庭』とそれぞれに生きる三人の『少女』についての物語、という感じだけど、『少女』という点に関して本作は結構深いと思う。この桜庭一樹という作家に『少女』を描かせたら日本一かもしれない、と思い始めてきている。ちょうど、少年と中年を描かせたら日本一の重松清のように。
一つ目の舞台。西暦1627年のドイツ。城壁に囲まれた静かで慎ましやかなレンスという町に、静かな足音を立てながら魔女狩りの嵐が吹こうとしている。そこに住む一人の少女マリー。出自に関してはよくわからないが、一人の大柄な老婆と共にこのレンスの町にやってきて、生活を始めた。老婆との静かな生活。よそ者でありながら、町から人々からのけ者にされない慎ましい生活。少女である弱い自分の存在を確かめるようにして、老婆に懐いて日々を過ごす。
そんな穏やかな生活を奪うかのように突然始まる魔女狩り。そうして出会うことになる、以後<アンチ・キリスト>と呼ぶことにした奇妙な少女。翻弄されるマリーの人生…。
二つ目の舞台。西暦2022年のシンガポール。大きな発展を遂げたシンガポールで、グラフィックデザイナーとして働くディッキー。プロモーションのCGを製作したり、ゲームの世界を創ったりしている。
シンガポリアンは、内面が子供のまま一向に大人になりきれない男と、大柄で力強くて性欲に溢れたたくましい女で出来ている。そこにはもう、『少女』というものはいないはずだった。しかしディッキーは、ある日突然現れた『少女』に一時振り回される。彼女は一体何なんだ…。
三つ目の舞台。西暦2007年鹿児島。桜島の噴火の絶えない街で、一人の女子高校生が、携帯電話を手に、今日も退屈で変化のない一日を過ごしているはずだったのだけれども…。
僕は、桜庭一樹という作家をかなり評価しているけれども、本作は今まで読んだ中でも一番いい作品ではないかと思います。
最終的に知ることになる、本作の核となるようなアイデアは、実はそんなに大したことはない、と言えるでしょう。まあそういう設定を許容できるかどうかの話で、僕はまあ別に全然オーケーです。ちょっと陳腐な感じがしたけど、全然オーケーですね。
そうではなくこの作家のすごいところは、何も物語が展開しない(あるいはしていないように見える)にも関わらず、読ませるという点です。要するに、その世界の中における日常といったものを、魅力的に描き出すのに長けた作家だと言えると思います。
特に、一番初めのドイツの話は、もちろん歴史的に見たら何か矛盾があったりするのかもしれないけど、その活き活きとした町の様子が見て取れるような、少女マリーの生活の息吹がここまで伝わってくるような、そういう精緻さがあって、さらに物語の転がし方もなかなか面白かったりするので、実に面白かったです。
桜庭一樹という作家は、常に『少女』というものを題材にして小説を書いているけれども、本作でもそれが如実に現れています。
特に、二番目のシンガポールの物語は、なかなかに示唆的ですね。『少女』という存在を象徴的に捉えて、その存在が絶滅した世界を、淡白と言ってもいい子供のような青年の視点から描かれていて、捉え方の妙というか、なるほどなって感じです。
三番目の話は、まさに著者のフィールドとでも言うような、まさにドンピシャ女子高校生を描いていて、やっぱりうまいよな、と思ったりします。こういう若い感性は、やはり年齢的に近くないと書けないだろうと思うので、本作の著者は大分若いと思っているのですが(色んな出版社から本を出しているけど、そのプロフィール欄には生年が載っていません、何歳なんでしょう?)、それにしては文章力というか構成力というか、大したものだなと思っています。
きっと僕は、著者の大人気シリーズである『Gosick』シリーズも読むことでしょう。似たような題材を扱いながら、一作ごとに違う印象を与える桜庭一樹という作家、やはり注目です。是非読んでみてください。

桜庭一樹「ブルー・スカイ」




アフターダーク(村上春樹)

出来れば何も『奪い』たくはないし、出来れば誰からも『奪われ』たくはない。でも僕らは、ある意味で仕方なく、本質的に不可分に、僕らは『奪い』『奪われ』ながら生きている。
例えば僕の話をしよう。僕は、どうも日々時間を奪われているという気になっている。比喩的な意味ではなく、実際的な意味として。
僕は、アルバイトではあるけれども、本屋で働いている。どこで働いているかということは特に関係ないのだけど、とにかく僕の仕事は本屋で、大抵の仕事はそうだと思うけど、誰もがやれるあるいはやるべき『共有的な仕事』と、自分ひとりで処理すべき『固有的な仕事』に分かれる。僕らは、協力的な意志を見せて『共有的な仕事』を分担してこなし、一方では『固有的な仕事』を、長い時間軸に沿って計画的にこなしていく。そうあるべきだろうと思う。
しかし、誰しもがそうであるわけではない。僕の周りには、どうにも仕事の遅い人がいる(僕には、意図的にそうしている風にしか思えないのだが、とりあえず今その点は議論する意味はない)。『固有的な仕事』について仕事が遅いことはまあ特に何とも思わないが(しかし、そのお陰で影響を受けることもないではないのだが)、『共有的な仕事』までのんびりやられると、他の人の負担が増える。もちろん、その他の人の中には僕もいて、僕は『固有的な仕事』に充てたいと思っている時間を、『共有的な仕事』に割かなくてはならなくなる。これはある意味で、比喩的ではなく、時間を奪われていると言っていいだろうと思うのだ。
しかし、長々とこんな説明をしてみたけれども、僕が言いたい『奪われる』ことについての本質はそうしたことではない。そうしたことではない、ということを説明するのに上記の話を書いたと解釈していただきたい。なぜならば、本来話したい本質的な『奪われる』ことについては、うまく説明することが難しいからだ。
ある意味でそれは、僕らの気付かないところで行われる。別のレベルの視点から、あるいは、メタなレベルの視点から、僕らへの介入が行われる。僕らは、その原因となる存在や状況を知ることも、相手側から何かを『奪い』返すこともできない。それはひっそりと、まるで鳥の観察でも行うかのように静かに行われるのだ。
こういう例えでどうだろうか。
僕が先ほど出した仕事場での『奪われる』例は、形が損なわれることに近い。僕らが持っている有限の時間というものの形から、ある一部分が損なわれる。それが、僕らの世界で起こっている『奪い』『奪われる』ことの本質であり、人間は、相手の何かを『奪う』ことで自らの欠損を埋め、またある時は何ものかに自分の何かを『奪われて』、形を損なうことになる。
しかし、そういうのとは違う『奪われる』システムというものが、僕らの気付かないところで存在しているような気がする。それは、形を変えないまま、全体の大きさだけを一回り小さくしてしまうような『奪われ』方なのである。『奪われた』後でも、形は相似形なので、なかなか『奪われた』ことに気付かない。一回り小さくなるだけの『奪われ』方にどんな意味があるのかわからないが、とにかく、形を変えずに損なわれている。全体を薄く剥ぎ取るように『奪われ』ていく。
そうしたシステムの中に、僕らはきっと組み込まれているのではないかと思う。確信はないが予感はある。人間が年齢と共に少しずつ変わっていくのは、環境や経験なんかの影響ではもしかしたらないのかもしれない。生まれてから、灰色一色の壁で囲まれた建物の中で生き続ける人がいるとして、そういう人にも、時間と共に現れる何らかの変化が認められるのではないだろうか。それはもしかしたら、メタなレベルから行われる、異なるシステムを持った『奪われる』という行為によるものかもしれない。なんだか、そんな風に感じた。
さて、内容に入ろうと思うのだけど、その前にここまでの話について書こうと思う。ここまで、『奪われる』ということについて書いてきたけど、それは僕が僕なりに本作を読んだときに、ふと感じたキーワードが『奪われる』ということだったからです。もしかしたら、本作のテーマ的なものはまるで違うところにあるのかもしれない。それでも僕が、深いところで(あるいは深いと僕が感じているところで)感じたものは、僕らは得体の知れない何かによって『奪われ』ているんだろうな、ということでした。特に本作に関係して言えば、ある少女が、実はメタなレベルにいて、そこからあらゆる人からあるものを『奪い』続けているが故にある状態にあるのではないか、という風に感じた、とそういうことです。
本作は、深夜12時のほんのわずか手前から7時ちょっと前までの7時間を、ある大きな都市(僕が思い浮かべたのは渋谷です。なぜなら、「日吉」という地名が出てきて、その近くの大きな都市と言えばやっぱり渋谷だからです。横浜かもしれないけど)を舞台に描かれた小説です。
まず本作の視点について説明しましょう。一言で言えば、非常にカメラ的です。作品全体も、カメラで映像として撮ったものを、カット割して編集したようなそんな印象を与えるものになっています。文中で、『世界とは関わりを持たない無機物としての視点』みたいな存在を説明するような箇所が結構あって、しかもその視点から、説明なく登場人物の視点に移ったりしているような感じで、まあ視点がちょっと変な作品だということですね。
舞台は、非常に大雑把に言って二つに分けられる。
一つは、少女マリのいる世界。マリは、深夜12を過ぎたファミレスで小説を読んでいる。ちょっとした知り合いに偶然出会って少し変な話をしたり、ラブホでの面倒ごとに関わったり、またマリが関わらない部分でも進行する状況がいくつか描かれたりして、時間経過とともに移ろう都市の姿をそこに定着させようとする。ある深夜の巨大な都市に含まれる人々の中から無作為に数人の人物を取り上げ、その人間を通して深夜の巨大都市の在り様とでもいうものを浮かび上がらせようとでもいうような、そんな描かれ方で時間が進行していく。
もう一つは、マリの姉エリのいる部屋という世界。エリは、時間が静止したかのように平坦で暴力的な眠りの中にいる。『私たち』はその部屋の高みに視点をとって、その世界に影響を与えないという条件の元でその部屋を覗いている。電源の抜かれているテレビが突然映像を映し出す。エリは眠りから覚めることはない。突然の覚醒と困惑。そうして帰還。どこまでも終わることがないかに見える。ある意味で理不尽なループ。エリは、そんな中に押し込まれてしまった一人の貧弱な存在である。
この二つの世界が、適度に交互に描かれる。少なくとも明確な関連性を見出すことのできないこの二つの世界。時計の針は、物語とは無関係に、あるいは物語と連動して、その針を静かに進めていく…。
とまあそんな感じです。
さて、感想をさらりと書くと、微妙だな、という感じですね。うーん、と唸ってしまうような話で、よくわからないというのが正直な感想です。
村上春樹の作品には『よくわからなさ』がつきものだと思うけど、本作は他の作品の『よくわからなさ』とは違うような気がします。そもそも、『村上春樹らしさ』とでも呼ぶべきものが希薄な気がして、それまでとは別の方向に向かおうとしているのかもしれないけど、どうなんだろう、という感じがしました。ちょうど、伊坂幸太郎の『魔王』を読んだときのような感じ、と言えばわかってくれる人はわかってくれるのではないでしょうか。いや、伊坂幸太郎の『魔王』は悪くはないんだけど。
しかし、世界観というか方向性はどうあれ、そこに生きる人やその会話は結構楽しめます。僕はふと、村上春樹の作品の中なら、もう少しまともに生きられるかもしれない、と思いました。僕は、この現実世界で生きていくには、結構欠陥とか欠点とか矛盾とか気後れみたいなものが詰まった人間なんだけども、村上春樹の作品の中なら、そうした現実世界では欠点にしかならないものが、より本質的な人間らしさというものに生まれ変わるのではないだろうか、という気がしてくるのです。いやもちろん現実逃避ですけど、村上春樹の作品の中なら僕は、何も飾ることのない素の自分のまま、まったく無理も我慢もしないで、慎ましく生きていけそうな気がしてきました。いやほんと、現実逃避ですけどね。
お勧めはしないです。僕としては、村上春樹の他の作品を読むことをお勧めします。

村上春樹「アフターダーク」



ボロボロになった人へ(リリー・フランキー)

人間は皆『醜さ』を抱えて生きている。それを隠そうと努力し、抑えようと踏ん張って、なんとか生きている。
ある意味で、その『醜さ』こそが、人間の本質に一番近いものなのかもしれない。『醜さ』を抱え込んでいくことで人間らしさを獲得していく。逆に、『醜さ』を拒否し続けると、生きづらくなるかもしれない。きっと、そういう社会に僕らは生きている。
子供は純真だと言われる。いつまでを子供と呼ぶかはまあ議論があるとして、僕も基本的にその意見には賛成です。生まれながらに『醜さ』を抱えている人はいない。人は、生まれ育った環境の中で、生きていくというどうしようもない過程の中で、『醜さ』を身に付けていき、生きていくことを覚え、生きつづけていく力に変える。
『醜さ』を飼っている、という表現がぴったりくるかもしれない。その『醜さ』という名の生き物は、僕らの中に棲みついている。焦燥・悲観・困惑・絶望といった感情を食べながら、どんどんと大きくなっていく。僕らは、自分の中で勝手に大きくなっていく『醜さ』を、何とか飼いならそうとして葛藤し、その過程で人間性や社会性といったものを獲得していく。
ほとんどの人の場合、自分がどんな『醜さ』を抱えているのか理解し、その抑え方も熟知しているわけだけど、時として、それは本人の意思とは無関係である場合が多いのだろうけど、自分が『飼いならしている』はずの『醜さ』が、自分の外側に出てしまうような場合がある。普段は出すことのない、『醜さ』を存分に纏ったその厭わしい姿を晒してしまう様なことがある。
僕も、ないとは言えないかな。
僕は、それはまだほんの一部だったかもしれないけど、自分の中の『醜さ』をなんとなく確認したのが中学生の頃だったと思う。自分はきっと本当はこういう人間なんだろうな、という漠然としたものだったかもしれないけど、何にせよ僕は中学生の頃に、『自分は世界中の人間から嫌われている』と考えることに決めたのだ。これは、自分の『醜さ』をきちんと認識したが故の判断だっただろうと思う。この考えは今の僕にもきちんと受け継がれていて、長い間付き合っている考え方だけど、それなりの成果を上げていると思う。
最近は、今まではきっとこうなんだろうなという予想でしかなかった自分の『醜さ』を、実際に確認するような機会が多くて、やっぱ俺ってこういう人間だったんだなみたいな、やっぱ自分のこと好きになれないよな、みたいな。
僕が自分の『醜さ』を表に出したのは(これはある意味で意図的な行為だったのでこういう書き方をしました)、大学時代に一時期引きこもりになった辺りだろう。思い出すのも嫌だというような記憶ではないので回想してみると、まあいろいろあったなと思うような時期でした。周囲の人間にありえないぐらいの迷惑を掛けて、あの時の僕の周囲にいてくれた人がまあ僕を救ってくれたなと思っていたりします。まあ口に出していったりはしないですけど。
まあそんなわけで『醜さ』を抱えて生きている人間は、それ自体は罪ではないでしょう。罪だというならば社会の方にあるでしょう。僕らが『醜さ』を抱えて生きていかなければならないのは、ある意味で今の社会のありように関係していると思うからです。『醜さ』は、多大な努力をもって人目に触れないように気を配っていると思うけど、そんなことをしなくてもいいような社会になったらいいな、なんて思ったりもします。
と、いつものように何を書いているのかわからなくなったので、そろそろ内容に入ります。
本作は、『東京タワー』で一躍ベストセラー作家に仲間入りしたリリー・フランキーの初小説です。短編集なのですが、僕が本作から感じた全体的な印象が、『人間の醜さをデフォルメしてストーリー仕立てにした作品だな』ということです。色んな話がありますが、どの話も、シュールと言えばシュール、グロテスクと言えばグロテスク、と言った感じで、なんとなく桐野夏生の作品っぽい気がしました(グロテスク、からの発想だけど、意外に共通点がありそうな気がしました)。
というわけでそれぞれの内容を紹介しようと思います。

「大麻農家の花嫁」
タイトル通り、あるきっかけから、大麻農家へ嫁ぐごうかと考えている女性の話です。その女性は、相手の家を農家だと考えていて、まさか大麻を栽培しているとは思っていません。農道を走る高級車、日本人の苗字を付けられた外国人の出稼ぎ労働者、頑固そうな父親…。なんだか普通の農家ではないのかもしれないと思いつつも、私を必要としてくれているここが私にとって求めていた場所なのかもしれないとも…。

タイトルからしてなんだかメチャクチャですが、内容的には本作の中で一番まともと言えるかもしれません。この作品なんかまさに、桐野夏生のい『グロテスク』だと思うんですがどうでしょうか。

「死刑」
未来の日本。法改正がなされ、どんな軽犯罪でも法律を犯したら死刑、ということになった。裁判は行われるが、そこでは『どんな死刑の方法を勝ち取るか』という争いになる。
ある犯罪を犯した少年の弁護につくことになった弁護人。少年との、今の僕らからすればあまりにもシュールな会話を通して、死ぬことについて考える…。

発想がなかなか面白いですね。死に方を選ぶために裁判をするなんて。人間は何にでも慣れるというようなセリフがあって、まあそれはその通りだなと。こんな将来は嫌だけど、そう思うこと自体なんか間違っているようなそんな気になってきますがどうでしょうか?

「ねぎぼうず」
ある日、職場である保育園からの帰り、見知らぬ男に声を掛けられた。男は興信所の者だといい、ある男があなたを探していると告げ、彼女の痴態が写った写真を見せた。夫に知られないためにも、この男と話をし、何が目的なのかはっきりさせなければ…。

これも、なんとなく『グロテスク』を連想させるんだよな。というか、女性の倦怠みたいなものを書くのがうまいのかもしれない。くたびれた女性っていうか、そういう哀愁漂う女性っていうか。グロテスク度の高い作品です。

「おさびし島」
何もかも陳腐に感じられて、今すぐにすべてを捨ててどこかに行ってしまおう。そう決めたある男。あるだけの金を持って、行けるだけ南を目指して、おさびし島という島に辿り着く。島自体がけだるさを持っているような異様な島で、ある意味で異様な女性と出会い…。

これもグロテスク度の高い作品ですね。なんかそんな話ばっかです。何もかも捨てられるとか、何もかもから逃げられるというのは、きっと幻想なんでしょうね。

「Little baby nothing」
何をするでもなく、目的も何もなく生きているだけの若者三人が、ある日ゴミ捨て場に捨てられたかのように横たわる、超絶的な美人を発見する。三人はその女性を、一番近くの家に運び込む。まるで起きない。我慢できない。そしてなんだか、三人の生活が変わっていく…。

僕はこの話がなんなのか、正直わかりませんでした。超絶的な美人がゴミ捨て場にいて、それを拾って部屋に連れ込むみたいなところはよかったんだけど、その後は一体何…?みたいな。前半で出てきた超絶美人が、後半どう関わっていたのかよくわかりませんでした。まあよくわからないと言えば、この作品はどうも、『asayan』という雑誌に連載されていたらしいけど、連載期間が『1997年8月号~98年6月号』ってなってて、その『asayan』って雑誌がどれぐらいのペースで出てた雑誌なのかしれないけど、90Pくらいの作品を(しかも本作は普通の本と比べて字が大きい)を、そんなに長い期間連載してたってどうよ?ってな感じです。

「ボロボロになった人へ」
ショートショート。戦争が起きている中で、足の爪が割れたそうです。

いや、別に悪く書こうと思っているわけじゃなくて、本作の紹介をしようと思ったらそれぐらいしか書きようがないんです。まあ内容はよくわかりませんでしたけど。そんな感じです。

まあ総合して言えることは、本作を読むよりは、『東京タワー』を読めよ、って感じですね。本作は、別に悪くはないけど、そこまでキラリって感じでもなくて、リリー・フランキーじゃなくてもいいかな、と。
さて最後に。本作の装丁はなんとリリー・フランキー自身で、さすが多彩な人だけある。文章も書けて、デザインもできて、本ぐらい一人で作れちゃいますよ、みたいな。
まあ、本作をもちろん読んでもらってももちろんいいんですけど、まずは『東京タワー』を読みましょう。そんな感じです。

リリー・フランキー「ボロボロになった人へ」




文学賞メッタ斬り!(豊崎由美+大森望)

江戸川乱歩賞と直木賞は一体何が違うのか、あなたはわかりますか?
とりあえず、この違いがわからない人が本作を読んでも何も面白くないんじゃないかな、と思う。本作は、結構一杯本を読んでいる人のための本なわけです。
ちなみに上記の答えを書いておくと、江戸川乱歩賞は「一般公募の新人賞」であり、一般からの応募原稿の中から、この人はデビューさせよう、という風に決める賞。直木賞は、「既に出版されている作品の中から受賞作を選ぶ賞」であり、既に作家になった人の作品の中から候補作を絞り、受賞作を決定する。その他、日本推理作家協会賞・日本ホラー小説大賞・芥川賞・メフィスト賞・吉川英司文学新人賞・吉川英司文学賞など、小説に関する賞は腐るほどあって、とにかくそういうことや受賞作に関するあれこれが書いてある作品なわけです。小説に興味がない人にはまったく不必要な作品なのですが、既に重版が5回掛かった作品みたいで、それなりに需要はあるんだな、と思いました。
さて僕も数年前まではそうしたことについてはまるで知りませんでした。高校までは、ある特定の作家の作品ばかりを読んでいて、小学生の頃は「ズッコケ三人組シリーズ」、中学生の頃は「ぼくらのシリーズ」、高校生の頃はシドニー・シェルダンという形で僕の読書は推移していって、一般の、それこそ賞に関わるような作家の作品や、まあいわゆる普通の小説ですね、そういうものをまるで読んでいませんでした。
大学に入ってしばらくしてから、自分でもどんなきっかけがあったのか覚えてないんだけど、とにかくいろんな本を読もうと決めて、一般の作家に関する知識はまるでないままブックオフへ行きました。その時に買った中にあったのが「白夜行」で、ハードカバーだったんですが、100円コーナーにあったのと(今考えて見ると、あの当時まだ「白夜行」は結構出版されてそんなに経っていなかったはずなのに100円コーナーにあったことは僥倖でした。もちろん当時はラッキーなことだとはわかりませんでしたが)表紙が綺麗なのとで買ったわけですけど、それから江戸川乱歩賞受賞作に手を出し、このミスの存在を知ってこのミスランクイン作に手を出し、その内様々な公募系新人賞受賞作品を読むようになり、最近ではほぼノンジャンルであらゆる作品を読み、本屋で働くようにもなって、そして今に至るので、僕は過去に読んだ小説の内容を本当にすぐ忘れてしまうのですが、著者の略歴とか受賞歴とかなんとか、そういう知識的なものはどんどんたまっていって、まあ本屋での仕事にもそれなりに役立っているかな、と思ったりしています。
さて、ざっと本作の内容を紹介しましょう。
二人の、書評家と言えばいいのでしょうか、とにかく本を読みまくって批評しまくっている、結構強気な書評家二人が、日本に存在するありとあらゆる文学賞について、まさにタイトル通りに「メッタ斬り!」する作品で、文壇や出版社の裏事情なんかがボロボロ出てきて、本を読むのが好きな人には本当に楽しい内容だと思います。
本作は、「公募系新人賞攻略」みたいな、「傾向と対策」とかいうような内容ではまったくなく、そういうこれから作家になろうとしている人向けではなくて、純粋に、本を読むのが好きな人のための内容になっていますね。
しかしこれを読むと、直木賞や芥川賞がいかに適当かがわかりますね。二人が、選考委員をボロクソに言っていて、この人たちはこんなことを言って(書いて)、これから大丈夫なんだろうか、と気がかりになってしまうくらいです。選評をクソミソにけなし、選考委員のあり方を非難し、とにかく読んでいると、選考委員がこれだけ適当なら(本作に書いてある通りだとすればですが)、直木賞とか芥川賞とか大したことないんだなと(これは、取った作家を大したことないと言いたいわけではなく、とれなくても大したことない、という意味です)思ったりしました。それくらい、この人たちは本当に真剣に賞を選考しようというような意識があるのだろうか、と思ってしまうくらいのあり方です。
また、賞が設立された裏事情とか、ジャンル別の文壇事情とか、公募系新人賞の比較とか、角川春樹の直感とか、とにかく『少しでも文学賞に関わる文壇事情なら何でも詰め込んでみました』的な作りになっていて、別に腹を抱えて笑うような作品ではないけど、そーなんだー、みたいなそんな感じで楽しめる作品だと思います。
豊崎由美という人は、日本にある文学賞の内、読み続けていきたいのは「メフィスト賞」「日本ファンタジーノベル大賞」「谷崎潤一郎賞」「泉鏡花賞」ぐらいだ、と書いていますね。なるほど本作を読んで、確かに文学賞はあまりあてにしない方がいいだろうな、という気はします。僕の中でも、本当に注目すべき文学賞はそんなに多くはないと思っていて、公募系の新人賞ならやはりダントツで「メフィスト賞」、公募以外の一般の賞なら「本格ミステリ大賞」とか、最近出来た「本屋大賞」、あと舞城王太郎の「阿修羅ガール」が受賞したという理由だけで「三島由紀夫賞」ぐらいかな。本作を読んで、「谷崎潤一郎賞」と「泉鏡花賞」にももっと注目しようと思いましたけど。
でもやっぱり書店員ということで、僕個人的には興味がなくても、やはり文学賞を気にかけないわけにはいかないですね。つまらないわけではないけど飛びぬけて面白い作品が少ない「江戸川乱歩賞」は、公募系の新人賞受賞作の中ではダントツに売れるし、直木賞・芥川賞を受賞した作品は知名度アップが計り知れないので売上に貢献してくれます。僕は、文庫・新書の担当で、文芸書の担当ではないので、文学賞受賞作品とリアルタイムで接することはないのだけど、やはり文庫になったりしても、そういった知名度の高い賞の受賞作品は売れますね。
僕としては、そんな作品よりももっと面白い作品が一杯あるのに、と思って頑張って売ろうとしても、なかなか難しいものがありますね。僕は常に自分なりのフェアやお勧め作品を売り場に並べるようにしていますが、あまりうまくいかないです。いい作品だからと言って売れるとは限らないというのが悲しいところですね。
文学賞ってなんか今、あんまり機能していないような気がしますね(商業的には成功していますけど、いい作品を発掘するという方面では全然)。だから、書店員の投票による「本屋大賞」や、一切の制限のない(賞金もないけど)公募形の新人賞「メフィスト賞」なんかが出てきて、そういう今までとは違う形の文学賞が、何か大きな流れを作り出してくれないだろうか、と思ったりしています。
本好きにはかなり面白い作品ではないかと思います。昔の、このミス座談会ほどではないかもしれないけど、充分楽しめるのではないかと思います。読んでみてください。
しかし、本作とはあんまり関係ないんだけど、鈴木成一って本の装丁やりすぎだよな、と思う。僕は以前、鈴木成一が装丁を手がけた文庫だけで組んだフェアをやったことがあって(全然売れなかったけど)、それ以来なんとなく誰が装丁を手がけているのか気になったりするわけだけど、鈴木成一の名前を目にすることが本当に多いですね。何かの番組で、年間600冊は装丁を手がけているとか言っていたけど、それって可能なんだろうか、なんて思ったり。すごいな、って純粋に思ったりします。

豊崎由美+大森望「文学賞メッタ斬り!」



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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)