だぁれも知らない(中谷美紀)
中谷美紀という女優がいる。有名だし、きれいなお姉さんがし、まあ普通は知っているでしょう。
僕は、この中谷美紀が結構好きだったりするわけで。もちろん、出演作を全部チェックするとかそういうことはまるでしてなくて(最後に見たのは、「女医」というドラマに出てた中谷美紀かな)、まあ別にそういうファンではなくて、なんか生き方というか(知らないけど)、存在というか(知らないけど)、とにかくああいう女性はいいんじゃないか、と思ったりするわけで。
最近よく、自分の好きなタイプの女性の話を感想で書いたりするけど、中谷美紀はかなりそのタイプに合っている感じなわけです。
冷たそうじゃないですか、なんとなく。
僕は、まあここでは長いこと説明しないけど、冷たそうな女性が好きなんです。キリっとしているというか、ロシアの残酷なまでの冷たさとかじゃなくて、日本の冬の朝の、あの頬が引き締まるような感じの冷たさっていうか、そんな感じの女性がいいですね。
最近見たCMで、小西真奈美がすごい冷たい女性の役で、「手料理、ありえなぃ~」って言ってるCMがあったんですが、その小西真奈美は最高ですね、笑顔の小西真奈美よりも断然いいですね。
とにかくまあそんなわけで、中谷美紀が好きなわけで、古本屋で、中谷美紀の絵本を偶然見つけてしまったわけで、こういうのはほんと、見つけた瞬間に買わないと二度と出会わなさそうな本で、だから買ってみました。
内容はだからまあ、まあまあってことで。
絵本ってことになっているけど、載っているのは絵ではないですね。クレヨンで四角を塗りつぶしたようなデザインというか模様が載っていて、それがまあ文章の心情とまあ合っている、ということなんでしょう。その絵というかまあそういうものと文章を共に中谷美紀が書いたそうです。
ある町にいる、だれからも見向きもされないあるおばあさんの話です。いわゆる、ホームレスということです。
誰からも興味をもたれず、寧ろ嫌悪され、毎日365日同じ場所にいて、異臭を放っている。
少女は、そのおばあさんを怖がっている。
ある日、そのおばあさんが死んだように転がっているのを見つけてしまって…。
という感じです。
僕は幸いにも、世界に見捨てられたという感覚を味わったことはありません。でも、それでもやはり、生きているということは孤独と近いものがあって、日常の中でふと、ああなんか孤独かな、ってよく思ったりまします。孤独にまみれているということはないですが、孤独に冒されているという感覚をたまに感じます。
これはきっと時と共に深くなっていく感覚でしょう。
そして、誰もが感じるようなものなのかもしれません。
僕は、死ぬときは消えるように死ねたらいいと思っています。ただそれは、死ぬ直前までは誰かにとって存在感がある、という前提の元であって、やっぱり長いこと、誰からも見捨てられるって嫌だな、と思うわけです。
もうなんか、まあそんな感じですね。
結構適当になったけど、まあいいかな、と。まあ、わざわざ買って読むほどでもないだろうな、と。
そんな感じですね。中谷美紀が好きなことにはまあ変わりませんけど。
中谷美紀「だぁれも知らない」
僕は、この中谷美紀が結構好きだったりするわけで。もちろん、出演作を全部チェックするとかそういうことはまるでしてなくて(最後に見たのは、「女医」というドラマに出てた中谷美紀かな)、まあ別にそういうファンではなくて、なんか生き方というか(知らないけど)、存在というか(知らないけど)、とにかくああいう女性はいいんじゃないか、と思ったりするわけで。
最近よく、自分の好きなタイプの女性の話を感想で書いたりするけど、中谷美紀はかなりそのタイプに合っている感じなわけです。
冷たそうじゃないですか、なんとなく。
僕は、まあここでは長いこと説明しないけど、冷たそうな女性が好きなんです。キリっとしているというか、ロシアの残酷なまでの冷たさとかじゃなくて、日本の冬の朝の、あの頬が引き締まるような感じの冷たさっていうか、そんな感じの女性がいいですね。
最近見たCMで、小西真奈美がすごい冷たい女性の役で、「手料理、ありえなぃ~」って言ってるCMがあったんですが、その小西真奈美は最高ですね、笑顔の小西真奈美よりも断然いいですね。
とにかくまあそんなわけで、中谷美紀が好きなわけで、古本屋で、中谷美紀の絵本を偶然見つけてしまったわけで、こういうのはほんと、見つけた瞬間に買わないと二度と出会わなさそうな本で、だから買ってみました。
内容はだからまあ、まあまあってことで。
絵本ってことになっているけど、載っているのは絵ではないですね。クレヨンで四角を塗りつぶしたようなデザインというか模様が載っていて、それがまあ文章の心情とまあ合っている、ということなんでしょう。その絵というかまあそういうものと文章を共に中谷美紀が書いたそうです。
ある町にいる、だれからも見向きもされないあるおばあさんの話です。いわゆる、ホームレスということです。
誰からも興味をもたれず、寧ろ嫌悪され、毎日365日同じ場所にいて、異臭を放っている。
少女は、そのおばあさんを怖がっている。
ある日、そのおばあさんが死んだように転がっているのを見つけてしまって…。
という感じです。
僕は幸いにも、世界に見捨てられたという感覚を味わったことはありません。でも、それでもやはり、生きているということは孤独と近いものがあって、日常の中でふと、ああなんか孤独かな、ってよく思ったりまします。孤独にまみれているということはないですが、孤独に冒されているという感覚をたまに感じます。
これはきっと時と共に深くなっていく感覚でしょう。
そして、誰もが感じるようなものなのかもしれません。
僕は、死ぬときは消えるように死ねたらいいと思っています。ただそれは、死ぬ直前までは誰かにとって存在感がある、という前提の元であって、やっぱり長いこと、誰からも見捨てられるって嫌だな、と思うわけです。
もうなんか、まあそんな感じですね。
結構適当になったけど、まあいいかな、と。まあ、わざわざ買って読むほどでもないだろうな、と。
そんな感じですね。中谷美紀が好きなことにはまあ変わりませんけど。
中谷美紀「だぁれも知らない」
西尾維新クロニクル(西尾維新)
西尾維新という作家は、僕にとって強烈で印象的で、読書人生の中でもかなり特異な位置を占めている作家である。
例えば、無人島に一冊だけ本を持っていくとしたら何をもっていくか、という割りと定番の質問があるけども、その『一冊』というのを『一シリーズ』と拡大解釈させてもらってもいいならば、森博嗣の「S&Mシリーズ」か、あるいは西尾維新の「戯言シリーズ」か、どちらか迷うだろう、というぐらいの作家である。
世界を作り出す作家と物語を作り出す作家がいる、という話はどこかの感想に確か書いたような気がする。
僕は、世にいるほとんどの作家というのは、物語を作り出す作家だと思っている。例えば音楽でいうならば、五線譜に音符を載せていく、というのに近い。ストーリーという流れを、紙の上に、言葉という記号で体現しようという行為であり、まあ作家として普通の部類だろうと思う。
しかし時々、世界を作り出す作家に出会う。これはいうなれば、五線譜に描かれた音符の群れを、ピアノで弾くような行為であって、物語を作り出す作家とは根本的に違うものがあると思う。
二次元の絵画と、三次元の映像ぐらいの差が、そこにはある。
そこには、背景も奥行きもあって、あらゆる方向へと思考や行動が広がっていく。物語すら要素の一つであって、物語を取り込むようにして世界を編み上げる、とでも言うのだろうか、異才であり、異彩を放っている。
思いつくだけで、森博嗣、西尾維新、舞城王太郎、村上春樹ぐらいだろうか。森博嗣や西尾維新は、シリーズを通じて世界を作り上げるのに対して、舞城王太郎や村上春樹は一作の中で世界を作り出すという違いこそあるが、普通の作家とは大きく違うということだけは間違いないだろうと思う。
僕は、一度読んだ本を読み返すようなことはほとんどないのだが、何度も読み返したくなるような作品というものもいくつかある。やはりそれは、物語に主眼を置いた作品ではなく、世界に主眼を置いた作品である。
まあ僕は、一度読んだ本のことはすぐに忘れてしまうので、一度読んだ本をもう一度読んでも全然楽しめるだろうと思う。物語そのものを完全に忘れているので、初読のような感じで読めてしまう。
しかしそういうこととは関係ない。いくら僕が、読んだ小説の内容をすぐに忘れるからと言って、何度も読んでいればさすがに覚えてしまうだろう。物語というのは、節目となる点さえ覚えてしまえば、そこに線を引くことは比較的容易なので、覚えやすいともいえるだろう。
しかし、僕が西尾維新や森博嗣の作品を読み返したいと思うのは、物語をもう一度楽しみたいということではなく(もちろんそういう理由もあるけれども)、その世界の中にいつづけたい、という理由である。これは、世界を描かない作品には到底もち得ない発想である。
彼らが作り出す世界は、登場人物の些細な言動や思考によって作り出されていると言ってもいい。そういう部分は、何度読み返しても新鮮さを失うことはないだろうし、読むたびに感化されていくことだろうと思う。何にしても僕はいつか、本作に収録された短編「ある果実」のようにとは言わないけれども、読書に限界を感じたような時、あるいはそういう状況でなくても、西尾維新の作品を読み返すことだろう。その世界に浸り、浸りきってふやけるぐらいまで読み尽くすことだろう。「戯言シリーズ」の世界が終わってしまって、あれほど楽しかった「戯言シリーズ」が完結してしまって、悲しいし残念ではあるけれども、とにかく、西尾維新という作家にこれからももちろん注目していくし、とにかく、西尾維新という作家を全人類に体感してほしい、と願うばかりである。
とまあそんな駄文を書き連ねていますが、本作の紹介をしようと思います。
本作は、西尾維新ファンの西尾維新ファンによる西尾維新ファンのための一冊であって、まじりっけなしの100%ファンブックです。
というわけで、少なくとも「戯言シリーズ」を読みきっていない人は買わない方がいいでしょう。買ってもネタバレばかりなので読めないので。まあ、買っておいてシリーズを読破したら読む、という姿勢ならいいですけど。
いろいろ分析とかキャラクター紹介とか作品紹介とか戯言シリーズのコアな問題とかいろいろありますけど、まあまあっていうところでしょうね。シリーズを読んだ人にはまあわかっていることというか、いや確かにコアなマニアック問題はなかなか面白かったけど、でもまあそういう感じで、普通かなっていう感じがしました。寧ろ、森博嗣のファンブック「森博嗣本」という方が、S&Mシリーズを深く分析していて、そういう点では評価できたなと思いました。
対談が2本載っていて、その荒木飛呂彦の方を読んで、やっぱ「ジョジョ」は読むべきだろうか、と思ったりもしました。他にもあるのかもしれないけど、僕は西尾維新の対談というのを初めて読んで、そういう意味では作家西尾維新を少し知ることができて満足という感じです。
まあなんと言っても西尾維新のファンブックなわけで、ファンなら買わないわけにはいかないでしょう。
なんと言っても書き下ろしの短編が載っているし。
「ある果実」と題された短編小説は、読書好きな少年の本にまつわる話です。
ある一冊のつまらない本があるのだが、それを今でもちゃんと取って置いている。実は作品のすべてを読みきっていないわけでその評価が妥当なのかなんとも言えないところだが。
その、何故読みきってもいないつまらない小説を未だに取っておいているのか、というまあそういう話です。
本を読むことがいずれつまらなくなる、というような話があって、それはもしかすると本当かもしれないな、と最近感じていたりします。
というのも、古本屋で本を買うのですが、以前ならば読みたい本ばかりで、買う量を制限しなくてはいけないくらいだったのに、最近は行っても、以前ほどに読みたいと思える本に出くわしません。なかなか困りの種だったりします。もしかしてこのまま時間が経って、読みたいと思える本がどんどんなくなっていってしまったら、一体僕はどうなるのだろう、とちょっと不安になりました。まあ、それでも僕は本を読むことを止めないだろうな、という予感はありますが。
僕は西尾維新のファンと言ってもまあいいぐらいの人間でして、西尾維新カレンダーなるものの予約もしてしまいましたし(実は前にも出ていたようで、それは恐らく「クビキリサイクル」を読む前だったので知らなかったと思うのですが)、春頃に出るだろうという限定のBOXも恐らく買ってしまうだろうと思うのですが、とにかく本作はファンのために一冊です。西尾維新のファンだと思う人は、買ってみてください。
西尾維新「西尾維新クロニクル」
例えば、無人島に一冊だけ本を持っていくとしたら何をもっていくか、という割りと定番の質問があるけども、その『一冊』というのを『一シリーズ』と拡大解釈させてもらってもいいならば、森博嗣の「S&Mシリーズ」か、あるいは西尾維新の「戯言シリーズ」か、どちらか迷うだろう、というぐらいの作家である。
世界を作り出す作家と物語を作り出す作家がいる、という話はどこかの感想に確か書いたような気がする。
僕は、世にいるほとんどの作家というのは、物語を作り出す作家だと思っている。例えば音楽でいうならば、五線譜に音符を載せていく、というのに近い。ストーリーという流れを、紙の上に、言葉という記号で体現しようという行為であり、まあ作家として普通の部類だろうと思う。
しかし時々、世界を作り出す作家に出会う。これはいうなれば、五線譜に描かれた音符の群れを、ピアノで弾くような行為であって、物語を作り出す作家とは根本的に違うものがあると思う。
二次元の絵画と、三次元の映像ぐらいの差が、そこにはある。
そこには、背景も奥行きもあって、あらゆる方向へと思考や行動が広がっていく。物語すら要素の一つであって、物語を取り込むようにして世界を編み上げる、とでも言うのだろうか、異才であり、異彩を放っている。
思いつくだけで、森博嗣、西尾維新、舞城王太郎、村上春樹ぐらいだろうか。森博嗣や西尾維新は、シリーズを通じて世界を作り上げるのに対して、舞城王太郎や村上春樹は一作の中で世界を作り出すという違いこそあるが、普通の作家とは大きく違うということだけは間違いないだろうと思う。
僕は、一度読んだ本を読み返すようなことはほとんどないのだが、何度も読み返したくなるような作品というものもいくつかある。やはりそれは、物語に主眼を置いた作品ではなく、世界に主眼を置いた作品である。
まあ僕は、一度読んだ本のことはすぐに忘れてしまうので、一度読んだ本をもう一度読んでも全然楽しめるだろうと思う。物語そのものを完全に忘れているので、初読のような感じで読めてしまう。
しかしそういうこととは関係ない。いくら僕が、読んだ小説の内容をすぐに忘れるからと言って、何度も読んでいればさすがに覚えてしまうだろう。物語というのは、節目となる点さえ覚えてしまえば、そこに線を引くことは比較的容易なので、覚えやすいともいえるだろう。
しかし、僕が西尾維新や森博嗣の作品を読み返したいと思うのは、物語をもう一度楽しみたいということではなく(もちろんそういう理由もあるけれども)、その世界の中にいつづけたい、という理由である。これは、世界を描かない作品には到底もち得ない発想である。
彼らが作り出す世界は、登場人物の些細な言動や思考によって作り出されていると言ってもいい。そういう部分は、何度読み返しても新鮮さを失うことはないだろうし、読むたびに感化されていくことだろうと思う。何にしても僕はいつか、本作に収録された短編「ある果実」のようにとは言わないけれども、読書に限界を感じたような時、あるいはそういう状況でなくても、西尾維新の作品を読み返すことだろう。その世界に浸り、浸りきってふやけるぐらいまで読み尽くすことだろう。「戯言シリーズ」の世界が終わってしまって、あれほど楽しかった「戯言シリーズ」が完結してしまって、悲しいし残念ではあるけれども、とにかく、西尾維新という作家にこれからももちろん注目していくし、とにかく、西尾維新という作家を全人類に体感してほしい、と願うばかりである。
とまあそんな駄文を書き連ねていますが、本作の紹介をしようと思います。
本作は、西尾維新ファンの西尾維新ファンによる西尾維新ファンのための一冊であって、まじりっけなしの100%ファンブックです。
というわけで、少なくとも「戯言シリーズ」を読みきっていない人は買わない方がいいでしょう。買ってもネタバレばかりなので読めないので。まあ、買っておいてシリーズを読破したら読む、という姿勢ならいいですけど。
いろいろ分析とかキャラクター紹介とか作品紹介とか戯言シリーズのコアな問題とかいろいろありますけど、まあまあっていうところでしょうね。シリーズを読んだ人にはまあわかっていることというか、いや確かにコアなマニアック問題はなかなか面白かったけど、でもまあそういう感じで、普通かなっていう感じがしました。寧ろ、森博嗣のファンブック「森博嗣本」という方が、S&Mシリーズを深く分析していて、そういう点では評価できたなと思いました。
対談が2本載っていて、その荒木飛呂彦の方を読んで、やっぱ「ジョジョ」は読むべきだろうか、と思ったりもしました。他にもあるのかもしれないけど、僕は西尾維新の対談というのを初めて読んで、そういう意味では作家西尾維新を少し知ることができて満足という感じです。
まあなんと言っても西尾維新のファンブックなわけで、ファンなら買わないわけにはいかないでしょう。
なんと言っても書き下ろしの短編が載っているし。
「ある果実」と題された短編小説は、読書好きな少年の本にまつわる話です。
ある一冊のつまらない本があるのだが、それを今でもちゃんと取って置いている。実は作品のすべてを読みきっていないわけでその評価が妥当なのかなんとも言えないところだが。
その、何故読みきってもいないつまらない小説を未だに取っておいているのか、というまあそういう話です。
本を読むことがいずれつまらなくなる、というような話があって、それはもしかすると本当かもしれないな、と最近感じていたりします。
というのも、古本屋で本を買うのですが、以前ならば読みたい本ばかりで、買う量を制限しなくてはいけないくらいだったのに、最近は行っても、以前ほどに読みたいと思える本に出くわしません。なかなか困りの種だったりします。もしかしてこのまま時間が経って、読みたいと思える本がどんどんなくなっていってしまったら、一体僕はどうなるのだろう、とちょっと不安になりました。まあ、それでも僕は本を読むことを止めないだろうな、という予感はありますが。
僕は西尾維新のファンと言ってもまあいいぐらいの人間でして、西尾維新カレンダーなるものの予約もしてしまいましたし(実は前にも出ていたようで、それは恐らく「クビキリサイクル」を読む前だったので知らなかったと思うのですが)、春頃に出るだろうという限定のBOXも恐らく買ってしまうだろうと思うのですが、とにかく本作はファンのために一冊です。西尾維新のファンだと思う人は、買ってみてください。
西尾維新「西尾維新クロニクル」
氷菓(米澤穂信)
昨日の「龍時」の感想でも書いたことだけど、最近こんなことを考えた。
『定義する』というのは『削る』ことと同じことだ、と。
出来るだけ簡単に説明しようと思う。ここに、ある概念がある。集合といってもいいが、それは丸い形をしている、ということにしよう。その概念あるいは集合を、言葉というツールで『定義し』ようと、その概念あるいは集合にぴったり合いそうな言葉を捜すことにする。しかし、大抵の場合、その概念あるいは集合をぴったり収める言葉は見つからない(丸い形をした概念あるいは集合にぴったり合う丸い形の言葉がない、ということ)。だから、それにもっとも近いと思われる、四角い形をした言葉で『定義する』ことにする。しかしその場合、丸と四角を重ね合わせた図を思い浮かべて欲しいのだが、四角い言葉から丸い概念あるいは集合がはみ出す形になる(逆の場合もあるが、一応説明しやすいようにそういうことにしておく)。つまりそれが『削る』ということである。『定義する』ことと『削る』ことが同じとはそういう意味だ。
何でこんな話をするのか、というと、名前というものが持つイメージによって多くのことが決められている、と思うからだ。
「オレオレ詐欺」や「痴呆症」という名称が最近、「振り込め詐欺」や「認知症」に変わったことは記憶に新しいと思う。これらは、元もとの名前が持つイメージによって、実際の現象や現実が歪められている、それによって不利益を得る人がいる、という判断からの変更なわけで、それほど名前が与えるイメージというものは大きい。
僕の好きな作家に森博嗣という人がいるが、ある著作で氏は、最終的に残るのは名前だ、と言っている。つまり、実績でも名声でもお金でもなく、最後に残るのは名前だと。これは、氏が助教授として勤めていたある大学において、「建築」と名の付く学科がなくなってしまったことを嘆く文章で書かれたもので(建築を扱う学科がなくなったわけではない。そういう学科には、環境や社会などそういう別の名前がついているらしい)、それを読んだときなるほどそうかもしれないな、と思った。アインシュタインという人の実績や名声やそうしたものは残っているけれども、しかしそういう漠然とした一般にはアピールしないものではなくて、結局残っているのは、「アインシュタイン」という名前だけかもしれない、とも思う。
要するに、名前が人に与える影響というのはそれほどに大きいものなのである。最近あるサイトで、実際に子供につけられたおかしな名前、というものがあって見てみたのだけど、親の神経を疑いました。別に、画数がなんとかそういうことは関係ないと思うけど、その名前によって相手に与えてしまうイメージだけは考えてしかるべきだろうと思いました。
と長々とこんなことを書いてみましたが、なんのためにこんなことを書いているかというと、本作が「ライトノベル」という名称を与えられている、という点に関わってきます。
「ライトノベル」という言葉は、小説の一ジャンルを指す言葉ですが、正確な定義がされているわけではどうもないようです。ただ、漠然と大枠で捉えた、一般の人がどう感じているかということを言葉で表すと、「イラストがついている軽い感じの小説で、中高生向き。最近は萌え系の要素がかなり多い」というような感じの小説、と言えるかもしれません。
さて本作ですが、まずイラストはありません。高校を舞台にした小説なので中高生に向いていると言えばそうかもしれませんが、中高生限定というようなものでもありません。萌え的な要素もないと言っていいでしょう。
では何故本作はライトノベルと呼ばれるのか。
それは、本作の出自にあるわけです。角川学園小説大賞、というものを受賞してデビューに至った作品なのですが、この賞の応募要項が「ザスニーカー」という雑誌に載っているわけです。「ザスニーカー」という雑誌は、角川書店が持っている文庫「角川スニーカー文庫」にいずれ収録されるような作品を掲載している雑誌であって、つまりはライトノベルを専門に扱った文芸誌なわけです。よういう出自を以って、本作はライトノベルだと言われるわけです。
しかし、ライトノベルという名前は、ある特定の人にはアピールするかもしれませんが、一般にはアピールしないと言えるでしょう。ライトノベルと聞いて敬遠する向きもあるのではないかと思います。
なんというか、そういう誤解をもって欲しくないものだ、と思ってこういう文章を書いて見ました。最近桜庭一樹という作家の著作を読んで、この人もライトノベルじゃないな、と思ったりして、一般にライトノベルと呼ばれている作品にもちょっと手を出したりしていますが、なんというか、ライトノベルという名前は、もうちょっと内容に合う形で付けて欲しいなと思いました。確かにライトノベルということで売り出せば売れることも事実なんですが…。
とにかくそんなわけで、ライトノベル出身ということで米澤穂信を敬遠するようなことがないようにしてほしいなと思います。
というわけでようやく内容に入ります。
折木奉太郎は高校一年生。『省エネ』をモットーとする、どちらかといえば無気力な少年。無駄なことは極力しない、という精神で日々を生きるものの、しかしいつの間にやら『省エネ』ではない日常に巻き込まれることになる。
世界を放浪している姉から手紙が届く。奉太郎と同じ高校だった姉はかつて、今現在廃部寸前にまで追い込まれた古典部の一員だったようで、奉太郎にも入るように勧める。姉に背くことこと『省エネ』精神から遠ざかると体感している奉太郎は、姉の進言どおり、廃部寸前の古典部に入部する。
部員一人で部室を使い放題ではないかと、こちらも別の意味で変わった友人福部里志に言われ、まあそうかと部室へ赴いて見ると、そこには古典部に入部したという少女の姿が…。
千反田える、という名のその少女と、もう一人図書委員で奉太郎の小学生の頃からの悪友伊原摩耶花の四人で古典部が再生することになる。
いつのまにか密室になった教室。毎週借り出される本。あるはずの文集をないと言い張る少年。そして、『氷菓』という題名に秘められた三十三年前の真実―。
表紙裏のあらすじをそのまま書いてみたけど、それらの謎に古典部が何故か関わり、そして何故か奉太郎が解き明かすことになる。『省エネ』の奉太郎を、好奇心旺盛なお嬢様千反田えるが振り回す学園ミステリ。
まず、奉太郎というキャラガいいですね。『省エネ』という表現を、人間の性格に使った例を初めてみたような気がするけど、なるほどと思うし、自分もそうだな、と思います。なんか、割りと自分に近いキャラクターが出てくる小説を最近結構読んでいるな、という気がします。もちろん偶然ですけど。
ミステリとしてはなかなかよく出来た作品だと思います。伏線の出し方やその処理の仕方なんかは、結構うまい作品だな、と思います。
ただ、初めの方で解き明かされる軽い謎とその謎解きは結構いいなと思ったんだけど、最後の文集『氷菓』に関係する謎がちょっと微妙かな、って感じがしました。もう少し魅力的な謎と解決が欲しかったかな、と。
キャラクターは面白く描けているので、「古典部」シリーズと名前がついている「愚者のエンドロール」もそれなりに楽しみにしていたりします。
面白いなと思ったのが、奉太郎と里志の掛け合いという会話で、なんとなく西尾維新にも通じるような雰囲気があって、まあそれはもちろん過大評価だけど、でもシニカルとでもいうのか、会話の応酬は結構面白かったです。
米澤穂信という作家は、今年「犬はどこだ」という作品でこのミス8位にランクインし、特集も組まれた作家で、これから注目の作家になるのではないかと思います。本作がデビュー作です。物足りないという感じは残るけど、読んでみてはいかがでしょうか?
米澤穂信「氷菓」
『定義する』というのは『削る』ことと同じことだ、と。
出来るだけ簡単に説明しようと思う。ここに、ある概念がある。集合といってもいいが、それは丸い形をしている、ということにしよう。その概念あるいは集合を、言葉というツールで『定義し』ようと、その概念あるいは集合にぴったり合いそうな言葉を捜すことにする。しかし、大抵の場合、その概念あるいは集合をぴったり収める言葉は見つからない(丸い形をした概念あるいは集合にぴったり合う丸い形の言葉がない、ということ)。だから、それにもっとも近いと思われる、四角い形をした言葉で『定義する』ことにする。しかしその場合、丸と四角を重ね合わせた図を思い浮かべて欲しいのだが、四角い言葉から丸い概念あるいは集合がはみ出す形になる(逆の場合もあるが、一応説明しやすいようにそういうことにしておく)。つまりそれが『削る』ということである。『定義する』ことと『削る』ことが同じとはそういう意味だ。
何でこんな話をするのか、というと、名前というものが持つイメージによって多くのことが決められている、と思うからだ。
「オレオレ詐欺」や「痴呆症」という名称が最近、「振り込め詐欺」や「認知症」に変わったことは記憶に新しいと思う。これらは、元もとの名前が持つイメージによって、実際の現象や現実が歪められている、それによって不利益を得る人がいる、という判断からの変更なわけで、それほど名前が与えるイメージというものは大きい。
僕の好きな作家に森博嗣という人がいるが、ある著作で氏は、最終的に残るのは名前だ、と言っている。つまり、実績でも名声でもお金でもなく、最後に残るのは名前だと。これは、氏が助教授として勤めていたある大学において、「建築」と名の付く学科がなくなってしまったことを嘆く文章で書かれたもので(建築を扱う学科がなくなったわけではない。そういう学科には、環境や社会などそういう別の名前がついているらしい)、それを読んだときなるほどそうかもしれないな、と思った。アインシュタインという人の実績や名声やそうしたものは残っているけれども、しかしそういう漠然とした一般にはアピールしないものではなくて、結局残っているのは、「アインシュタイン」という名前だけかもしれない、とも思う。
要するに、名前が人に与える影響というのはそれほどに大きいものなのである。最近あるサイトで、実際に子供につけられたおかしな名前、というものがあって見てみたのだけど、親の神経を疑いました。別に、画数がなんとかそういうことは関係ないと思うけど、その名前によって相手に与えてしまうイメージだけは考えてしかるべきだろうと思いました。
と長々とこんなことを書いてみましたが、なんのためにこんなことを書いているかというと、本作が「ライトノベル」という名称を与えられている、という点に関わってきます。
「ライトノベル」という言葉は、小説の一ジャンルを指す言葉ですが、正確な定義がされているわけではどうもないようです。ただ、漠然と大枠で捉えた、一般の人がどう感じているかということを言葉で表すと、「イラストがついている軽い感じの小説で、中高生向き。最近は萌え系の要素がかなり多い」というような感じの小説、と言えるかもしれません。
さて本作ですが、まずイラストはありません。高校を舞台にした小説なので中高生に向いていると言えばそうかもしれませんが、中高生限定というようなものでもありません。萌え的な要素もないと言っていいでしょう。
では何故本作はライトノベルと呼ばれるのか。
それは、本作の出自にあるわけです。角川学園小説大賞、というものを受賞してデビューに至った作品なのですが、この賞の応募要項が「ザスニーカー」という雑誌に載っているわけです。「ザスニーカー」という雑誌は、角川書店が持っている文庫「角川スニーカー文庫」にいずれ収録されるような作品を掲載している雑誌であって、つまりはライトノベルを専門に扱った文芸誌なわけです。よういう出自を以って、本作はライトノベルだと言われるわけです。
しかし、ライトノベルという名前は、ある特定の人にはアピールするかもしれませんが、一般にはアピールしないと言えるでしょう。ライトノベルと聞いて敬遠する向きもあるのではないかと思います。
なんというか、そういう誤解をもって欲しくないものだ、と思ってこういう文章を書いて見ました。最近桜庭一樹という作家の著作を読んで、この人もライトノベルじゃないな、と思ったりして、一般にライトノベルと呼ばれている作品にもちょっと手を出したりしていますが、なんというか、ライトノベルという名前は、もうちょっと内容に合う形で付けて欲しいなと思いました。確かにライトノベルということで売り出せば売れることも事実なんですが…。
とにかくそんなわけで、ライトノベル出身ということで米澤穂信を敬遠するようなことがないようにしてほしいなと思います。
というわけでようやく内容に入ります。
折木奉太郎は高校一年生。『省エネ』をモットーとする、どちらかといえば無気力な少年。無駄なことは極力しない、という精神で日々を生きるものの、しかしいつの間にやら『省エネ』ではない日常に巻き込まれることになる。
世界を放浪している姉から手紙が届く。奉太郎と同じ高校だった姉はかつて、今現在廃部寸前にまで追い込まれた古典部の一員だったようで、奉太郎にも入るように勧める。姉に背くことこと『省エネ』精神から遠ざかると体感している奉太郎は、姉の進言どおり、廃部寸前の古典部に入部する。
部員一人で部室を使い放題ではないかと、こちらも別の意味で変わった友人福部里志に言われ、まあそうかと部室へ赴いて見ると、そこには古典部に入部したという少女の姿が…。
千反田える、という名のその少女と、もう一人図書委員で奉太郎の小学生の頃からの悪友伊原摩耶花の四人で古典部が再生することになる。
いつのまにか密室になった教室。毎週借り出される本。あるはずの文集をないと言い張る少年。そして、『氷菓』という題名に秘められた三十三年前の真実―。
表紙裏のあらすじをそのまま書いてみたけど、それらの謎に古典部が何故か関わり、そして何故か奉太郎が解き明かすことになる。『省エネ』の奉太郎を、好奇心旺盛なお嬢様千反田えるが振り回す学園ミステリ。
まず、奉太郎というキャラガいいですね。『省エネ』という表現を、人間の性格に使った例を初めてみたような気がするけど、なるほどと思うし、自分もそうだな、と思います。なんか、割りと自分に近いキャラクターが出てくる小説を最近結構読んでいるな、という気がします。もちろん偶然ですけど。
ミステリとしてはなかなかよく出来た作品だと思います。伏線の出し方やその処理の仕方なんかは、結構うまい作品だな、と思います。
ただ、初めの方で解き明かされる軽い謎とその謎解きは結構いいなと思ったんだけど、最後の文集『氷菓』に関係する謎がちょっと微妙かな、って感じがしました。もう少し魅力的な謎と解決が欲しかったかな、と。
キャラクターは面白く描けているので、「古典部」シリーズと名前がついている「愚者のエンドロール」もそれなりに楽しみにしていたりします。
面白いなと思ったのが、奉太郎と里志の掛け合いという会話で、なんとなく西尾維新にも通じるような雰囲気があって、まあそれはもちろん過大評価だけど、でもシニカルとでもいうのか、会話の応酬は結構面白かったです。
米澤穂信という作家は、今年「犬はどこだ」という作品でこのミス8位にランクインし、特集も組まれた作家で、これから注目の作家になるのではないかと思います。本作がデビュー作です。物足りないという感じは残るけど、読んでみてはいかがでしょうか?
米澤穂信「氷菓」
龍時 01-02(野沢尚)
勝負とは、残酷だからこそ価値があると言える。
僕らは、ある意味で日々闘っていると言える。何に対してどんな風に闘っているのか、言葉にできなくても実感できなくても、僕らはこの現実という舞台の上で、何かを相手に必死で闘っている。それが生きている意味だし、価値だとも思う。
ただ、勝負をしているか、と言われると、迷わず頷ける人は多くはないはずだ。
最近僕はこんなことを考えた。『定義する』ということと『削る』ことは、本質的に同じだろうと。
例えば、ある概念がある。それを言葉によって『定義』しようとした時に、どうしても限界が生じる。概念自体をまるごと言葉に置き換えることができない。例えば、『夜道で揺れる白くふわふわとしたもの』という概念は、言葉で定義すると、「幽霊」にも「洗濯物」にもなるかもしれない。極端な例だけど、とにかくそんな風にして、『定義する』ことによって概念が『削られ』ていく。そんな風に考えた。
『勝負する』ということも、同じことではないか、となんとなくだけど思った。
自分という存在を賭けて勝負をする。その時に削られていくものは人によって違うかもしれない。信頼・友情・魂・意志・努力。何かはわからないが、その人にとってはとても大切なものが、『勝負する』ことによって『削られ』ていく。
あるいは、その『削られ』ていくことに耐えることも、『勝負する』ことの一部なのかもしれない。
本作を読んで、勝負するということをちょっと考えた結果だ。
人生を『勝負し』ている人は沢山いるだろう。最近話題だから何度も名前を出すけど、ホリエモンだって人生を『勝負し』てきた男だ。逮捕されたこととは関係なく、『勝負する』人生を選んだ彼が、どうしても失わなければならなかったもの、あれだけの金と名声(こちらは一時だが)を得て、それでも失わなければならなかったものが、必ずあるはずなのだ。
僕は、人生を闘っているとは言えるかもしれないが、勝負しているとは決して言えない。ある意味で、既に放棄した、という方が正しいのかもしれない。削れるものが何も自分の中に残っていない、という言い方もできる。お金がないのにギャンブルはできない、ということだ。ただそれだけではなく、削るものがもし自分の中に残っていたとしても、僕は勝負を諦める人生を選ぶだろうな、とそう思う。
だからこそ、勝負することのできる強さを持てる人に、ある意味で羨ましさを感じることもある。何かを得る快感よりも、何かを失う恐怖の方が僕の中では強い。勝負することで、既に失われてしまったものが、なお失われるようなことになったら、恐ろしいなと思う。
あなたは、勝負のできる強さを持っていますか?勝負することで削られるべきものを持っていますか?削られる覚悟はできていますか?
そもそもあなたの目の前には、勝負するステージが、可能性が、僅かでも用意されていますか?
もう一つ別の話。
好きなことを仕事にする、ということをどう思うだろうか?もちろんこれは、サッカーが好きな少年がサッカーを職業として選択する話だからこその話題なのだけど。
僕は読書が好きで好きで仕方なくて、だからという理由がほとんどで今本屋で働いている。働いていると言ってもただのバイトだけど、仕事自体はとにかく面白くてしかたがない。自分が読んで面白いと思った本を、誰から何も言われることもなく、自由に仕入れて売ることができる。一般には売れてないけど、うちでは売れている僕のお勧めの本、というのが何点かあって、そういう本が売れるたびに一喜一憂している。なんの将来もないただのフリーターだけど、お金を稼いだり使ったりすることに興味の持てない人間に、今の仕事はぴったりだ。
ただもちろん、これとサッカー選手の話を同列にできるとは思っていない。
好きなことを突き詰めることによって、それを職業として選択するまでに、どれほどの決意と覚悟が必要なのか、僕にはわからない。
例えば、また小説の話だけれども、たまに、作家になるために会社を辞めて執筆に専念し、新人賞に応募して受賞する、みたいなケースがある。今年の江戸川乱歩賞受賞作「天使のナイフ」の著者薬丸岳も確かそうで、会社を辞めて小説書きの世界に飛び込んだ人だったはずだ。
どこからそこまでの決意が生まれるのか、僕にはわからない。僕も、作家になれたら御の字、という至って消極的な作家希望を持っているのだけど、今やっている仕事を辞めるという選択肢は、例えそれがバイトであってもちょっと怖いなと思う。
夢は見るものではなく叶えるものだと思うけど、でも見ないことには叶えられない。夢を持つ多くの若者が、それだけ挫折しどれだけ成功しているかわからないけど、そうした人々は絶えることはないだろうし、寧ろ増えていくのではないかな、と勝手に思っている。
夢とは残酷だ。針の穴にラクダを通すような努力、砂漠に雪が降るぐらいの奇跡、誰もが認める飛びぬけた才能。どうした何かがないとどうにもならない。
夢を目指す人々には、常に焦りがあるはずだ。バイト先に、歌手を目指していた人がいて、でも最近その夢を諦めたらしい。そういう話を直接にしないので詳しいことはわからないけど、先の見えない焦りがあったのだろう、と勝手に想像している。偶然にもその人は、今熱烈なサッカーファンである。
自分の好きなことを、夢として持つことはいいことだ。一生のうちのある時期を、闇雲にその夢へと向けてもいいと思う。ただ、夢が持つ残酷さを、刃のような鋭さで何かを壊してくその残酷さを、僕らはどこかで知らなくてはならないのだろう。
内容に入ろうと思う。
主人公のリュウジは、変わった父親に教えられたサッカーに生きてきた。いつしか周囲に認められ、いくつかの幸運もあって、リュウジはU-17のスペイン戦に、無名の高校生ながら出場することになった。
そこでリュウジは、自らのうちに抱えきることのできない違和感を感じてしまう。
自分は、この日本という国で、組織プレーを重んじる保守的なやり方のサッカーで、これから満足できるのか?スペインという、相手に殺意を向けるような、攻撃的でダイナミックなサッカーをやりたいのではないか?
答えの出ない自問を繰り返しているうちに、リュウジの元にある知らせが舞い込んで来る。それは、あのスペイン戦を観戦していたスペインリーグチームのオーナーが、リュウジのプレーに惚れこんで、是非うちに来てくれ、という話だった。
よく考えるように言う指導者の話もろくに聞かずに、リュウジはスペイン行きを決意する。逃げるのはない。新たな自分に、新たなサッカーに挑戦するために、俺はスペインへ行くのだ…。
僕は、サッカーに限らずスポーツというスポーツにまったく興味がない。やる分には、バスケやバトミントンなんかは嫌いではないけど、見る方はまったくお手上げで、見てても退屈してしまう。野球中継が押すせいで、お気に入りの番組の放送が遅くなることに憤慨するタイプの人間である。
だから、本作で描かれているサッカープレーの表現なんかが、どれほどまでにうまいのかちゃんとわからない。サッカーに詳しくないとかそういうレベルではなく、スポーツを見ることによる感動を得ることのできない人間の、スポーツ全体を覆うような緊張感やリアルさってものをまったく知らないというレベルで、僕は本作に描かれたサッカーの場面がわからない。
ただ、サッカーが好きな人ならかなり共感できるような感じなのかもしれないな、という風には思った。戦術や動きやテクニックなんかはもちろんわからないけど、ピッチの上で、一瞬よりもさらに短い時間でいくつもの判断をし体を動かさなければならない選手の、そういう心の動き的なものは、ちゃんと掴めるのかもしれない、と思った。
僕は、これはいろんな感想で書いているけど、『人間が描けている(あるいはいない)』という評価が大嫌いで(もう一つ嫌いなのが、『リアリティがある(あるいはない)』というもの)、僕なんかはそんなものどうでもいいだろう、と思ってしまう。僕の印象では、一般の人や書評家が『人間が描けている』と評価するキャラクターにあまり魅力を感じない。どちらかといえば、『人間が描けていない』と言われるキャラクターの方が好きだったりすることすらある。だから何をもって『人間が描けている』というのかよくわからないのだけど、とにかくそういう評価が嫌いだったりします。
その上で敢えて書くけど、本作では人間がよく描かれている、という風に思います。特徴のあるキャラクターというのがそんなにいるわけではないのだけど、リュウジというキャラクターが、場面場面において丁寧に描かれていて、その描き方に結構好感が持てます。勝負という厳しい世界に身を置くことに決めた主人公が、ありとあらゆる場面で感じることになる様々な感情を、うまく言葉にしているな、という感じがしました。
スポーツ自体にあまり興味がないせいか、素直に面白かったと言えないのだけど、でもかなりレベルの高い作品だと思います。スポーツに(それがサッカーでなくても)少しでも興味のある人はかなり楽しめる作品だと思うし、サッカー好きはかなりツボな作品かな、と思います。
勝負に生きる男の物語の第1部です。続編がありますが、読むかどうかはどうでしょうか。もう一度いいますが、僕の中でそれほど評価が高くないのは、スポーツ自体に興味がないからで、作品のせいではないと思います。amazonなんかのレビューを見ると、やはりサッカー経験者には絶賛の作品のようです。「日本初の本格サッカー小説」とも呼ばれているくらいです。是非読んでみてほしいなと思います。
野沢尚「龍時 01-02」
僕らは、ある意味で日々闘っていると言える。何に対してどんな風に闘っているのか、言葉にできなくても実感できなくても、僕らはこの現実という舞台の上で、何かを相手に必死で闘っている。それが生きている意味だし、価値だとも思う。
ただ、勝負をしているか、と言われると、迷わず頷ける人は多くはないはずだ。
最近僕はこんなことを考えた。『定義する』ということと『削る』ことは、本質的に同じだろうと。
例えば、ある概念がある。それを言葉によって『定義』しようとした時に、どうしても限界が生じる。概念自体をまるごと言葉に置き換えることができない。例えば、『夜道で揺れる白くふわふわとしたもの』という概念は、言葉で定義すると、「幽霊」にも「洗濯物」にもなるかもしれない。極端な例だけど、とにかくそんな風にして、『定義する』ことによって概念が『削られ』ていく。そんな風に考えた。
『勝負する』ということも、同じことではないか、となんとなくだけど思った。
自分という存在を賭けて勝負をする。その時に削られていくものは人によって違うかもしれない。信頼・友情・魂・意志・努力。何かはわからないが、その人にとってはとても大切なものが、『勝負する』ことによって『削られ』ていく。
あるいは、その『削られ』ていくことに耐えることも、『勝負する』ことの一部なのかもしれない。
本作を読んで、勝負するということをちょっと考えた結果だ。
人生を『勝負し』ている人は沢山いるだろう。最近話題だから何度も名前を出すけど、ホリエモンだって人生を『勝負し』てきた男だ。逮捕されたこととは関係なく、『勝負する』人生を選んだ彼が、どうしても失わなければならなかったもの、あれだけの金と名声(こちらは一時だが)を得て、それでも失わなければならなかったものが、必ずあるはずなのだ。
僕は、人生を闘っているとは言えるかもしれないが、勝負しているとは決して言えない。ある意味で、既に放棄した、という方が正しいのかもしれない。削れるものが何も自分の中に残っていない、という言い方もできる。お金がないのにギャンブルはできない、ということだ。ただそれだけではなく、削るものがもし自分の中に残っていたとしても、僕は勝負を諦める人生を選ぶだろうな、とそう思う。
だからこそ、勝負することのできる強さを持てる人に、ある意味で羨ましさを感じることもある。何かを得る快感よりも、何かを失う恐怖の方が僕の中では強い。勝負することで、既に失われてしまったものが、なお失われるようなことになったら、恐ろしいなと思う。
あなたは、勝負のできる強さを持っていますか?勝負することで削られるべきものを持っていますか?削られる覚悟はできていますか?
そもそもあなたの目の前には、勝負するステージが、可能性が、僅かでも用意されていますか?
もう一つ別の話。
好きなことを仕事にする、ということをどう思うだろうか?もちろんこれは、サッカーが好きな少年がサッカーを職業として選択する話だからこその話題なのだけど。
僕は読書が好きで好きで仕方なくて、だからという理由がほとんどで今本屋で働いている。働いていると言ってもただのバイトだけど、仕事自体はとにかく面白くてしかたがない。自分が読んで面白いと思った本を、誰から何も言われることもなく、自由に仕入れて売ることができる。一般には売れてないけど、うちでは売れている僕のお勧めの本、というのが何点かあって、そういう本が売れるたびに一喜一憂している。なんの将来もないただのフリーターだけど、お金を稼いだり使ったりすることに興味の持てない人間に、今の仕事はぴったりだ。
ただもちろん、これとサッカー選手の話を同列にできるとは思っていない。
好きなことを突き詰めることによって、それを職業として選択するまでに、どれほどの決意と覚悟が必要なのか、僕にはわからない。
例えば、また小説の話だけれども、たまに、作家になるために会社を辞めて執筆に専念し、新人賞に応募して受賞する、みたいなケースがある。今年の江戸川乱歩賞受賞作「天使のナイフ」の著者薬丸岳も確かそうで、会社を辞めて小説書きの世界に飛び込んだ人だったはずだ。
どこからそこまでの決意が生まれるのか、僕にはわからない。僕も、作家になれたら御の字、という至って消極的な作家希望を持っているのだけど、今やっている仕事を辞めるという選択肢は、例えそれがバイトであってもちょっと怖いなと思う。
夢は見るものではなく叶えるものだと思うけど、でも見ないことには叶えられない。夢を持つ多くの若者が、それだけ挫折しどれだけ成功しているかわからないけど、そうした人々は絶えることはないだろうし、寧ろ増えていくのではないかな、と勝手に思っている。
夢とは残酷だ。針の穴にラクダを通すような努力、砂漠に雪が降るぐらいの奇跡、誰もが認める飛びぬけた才能。どうした何かがないとどうにもならない。
夢を目指す人々には、常に焦りがあるはずだ。バイト先に、歌手を目指していた人がいて、でも最近その夢を諦めたらしい。そういう話を直接にしないので詳しいことはわからないけど、先の見えない焦りがあったのだろう、と勝手に想像している。偶然にもその人は、今熱烈なサッカーファンである。
自分の好きなことを、夢として持つことはいいことだ。一生のうちのある時期を、闇雲にその夢へと向けてもいいと思う。ただ、夢が持つ残酷さを、刃のような鋭さで何かを壊してくその残酷さを、僕らはどこかで知らなくてはならないのだろう。
内容に入ろうと思う。
主人公のリュウジは、変わった父親に教えられたサッカーに生きてきた。いつしか周囲に認められ、いくつかの幸運もあって、リュウジはU-17のスペイン戦に、無名の高校生ながら出場することになった。
そこでリュウジは、自らのうちに抱えきることのできない違和感を感じてしまう。
自分は、この日本という国で、組織プレーを重んじる保守的なやり方のサッカーで、これから満足できるのか?スペインという、相手に殺意を向けるような、攻撃的でダイナミックなサッカーをやりたいのではないか?
答えの出ない自問を繰り返しているうちに、リュウジの元にある知らせが舞い込んで来る。それは、あのスペイン戦を観戦していたスペインリーグチームのオーナーが、リュウジのプレーに惚れこんで、是非うちに来てくれ、という話だった。
よく考えるように言う指導者の話もろくに聞かずに、リュウジはスペイン行きを決意する。逃げるのはない。新たな自分に、新たなサッカーに挑戦するために、俺はスペインへ行くのだ…。
僕は、サッカーに限らずスポーツというスポーツにまったく興味がない。やる分には、バスケやバトミントンなんかは嫌いではないけど、見る方はまったくお手上げで、見てても退屈してしまう。野球中継が押すせいで、お気に入りの番組の放送が遅くなることに憤慨するタイプの人間である。
だから、本作で描かれているサッカープレーの表現なんかが、どれほどまでにうまいのかちゃんとわからない。サッカーに詳しくないとかそういうレベルではなく、スポーツを見ることによる感動を得ることのできない人間の、スポーツ全体を覆うような緊張感やリアルさってものをまったく知らないというレベルで、僕は本作に描かれたサッカーの場面がわからない。
ただ、サッカーが好きな人ならかなり共感できるような感じなのかもしれないな、という風には思った。戦術や動きやテクニックなんかはもちろんわからないけど、ピッチの上で、一瞬よりもさらに短い時間でいくつもの判断をし体を動かさなければならない選手の、そういう心の動き的なものは、ちゃんと掴めるのかもしれない、と思った。
僕は、これはいろんな感想で書いているけど、『人間が描けている(あるいはいない)』という評価が大嫌いで(もう一つ嫌いなのが、『リアリティがある(あるいはない)』というもの)、僕なんかはそんなものどうでもいいだろう、と思ってしまう。僕の印象では、一般の人や書評家が『人間が描けている』と評価するキャラクターにあまり魅力を感じない。どちらかといえば、『人間が描けていない』と言われるキャラクターの方が好きだったりすることすらある。だから何をもって『人間が描けている』というのかよくわからないのだけど、とにかくそういう評価が嫌いだったりします。
その上で敢えて書くけど、本作では人間がよく描かれている、という風に思います。特徴のあるキャラクターというのがそんなにいるわけではないのだけど、リュウジというキャラクターが、場面場面において丁寧に描かれていて、その描き方に結構好感が持てます。勝負という厳しい世界に身を置くことに決めた主人公が、ありとあらゆる場面で感じることになる様々な感情を、うまく言葉にしているな、という感じがしました。
スポーツ自体にあまり興味がないせいか、素直に面白かったと言えないのだけど、でもかなりレベルの高い作品だと思います。スポーツに(それがサッカーでなくても)少しでも興味のある人はかなり楽しめる作品だと思うし、サッカー好きはかなりツボな作品かな、と思います。
勝負に生きる男の物語の第1部です。続編がありますが、読むかどうかはどうでしょうか。もう一度いいますが、僕の中でそれほど評価が高くないのは、スポーツ自体に興味がないからで、作品のせいではないと思います。amazonなんかのレビューを見ると、やはりサッカー経験者には絶賛の作品のようです。「日本初の本格サッカー小説」とも呼ばれているくらいです。是非読んでみてほしいなと思います。
野沢尚「龍時 01-02」