黒夜行

>>2006年01月

オンリー・ミー 私だけを(三谷幸喜)

「THE 有頂天ホテル」という映画が最近公開されて、観てないけど観てもいいかなとも思うし、三谷幸喜だし面白そうだな、と思う。 「笑いの大学」とか「ラジヲの時間」とかも確か三谷幸喜だよな、でもまあ観たことないけども。面白いって噂だけどな。 でもやっぱり僕にとっては、「古畑任三郎」なわけで。 テレビでの露出がそこまで多いわけではないけど(最近はどうか知らないけど)、なんか変な人だなって印象はある どこからの印象かよく覚えてないけど、なんかこの人はおかしい、ってイメージがまああって。 まあそれは本作を読んで、より強化されたというか。 三谷幸喜は自らのことを、これほど普通な人間はいないとまで言っているけれども、うーん、そうか?と疑問である。 そもそも、「シャイ」なのに「目立ちたがり」というのがそもそもどうなんだ、という感じである。 人と話すのに割りと緊張するのに、場を盛り上げなくてはと思ってそれを実行に移せてしまう。すごいのかバカなのかよくわからないわけである。 ただまあ、面白い話を書く、という点では間違いのない人なんだろう。 僕は、映像的なものをほとんど日常から廃しているので、三谷幸喜作品として観たことがあるのは「古畑」ぐらいだけど、でも巷間の評判を聞くに、やはり面白いのだろうな、と思う。 「THE 有頂天ホテル」は、メチャクチャ豪華なキャストと、秒単位で設定された緻密なストーリーってことでメチャクチャ面白そうで、まあ機会があれば観てもいいかなと。 けどまあ本作を読んで、ほんとギリギリの仕事をしてるんだな、というところに驚いてしまう。 元々三谷幸喜は、「東京サンシャインボーイ」という劇団の脚本を書いていたわけで、テレビの仕事の方が後ということになるのだが。まあ、劇団の脚本が全然上がらない、という話はとく聞くところだけれども、稽古初日に1枚も書けてないとか、全部書きあがったのが初日の10日前とか、そんな話を聞くと、よくそれで今までやってこれたものだと感心するのである。 とにかく仕事を断れない人のようで、さらに面白そうな仕事が入ると、スケジュールがキツキツでも引き受けてしまう。まあなんというか、それでもなんとか仕事をこなせていることをすごいと見るか、それほどまでに人に迷惑を掛けていることを悪と見るか、というところはなかなか人によるところが大きいだろう。 というわけで三谷幸喜という人は、すこぶる変な人なわけである。 そんな三谷幸喜が、今は押しも押されぬ人気脚本家となった三谷幸喜の、まだ名前がそこまで売れていない時期に、「とらばーゆ」という雑誌に連載していたエッセイを纏めたものである。ハードカバーで出版されたのが93年で、文庫になったのが97年という、結構古い時期のものなわけで、まあ僕としては、「とらばーゆ」って雑誌はそんなに昔からあったんだ、という驚きが少しあったりして(あの銭湯でのCMみたいなのがあった時が創刊だと思っていました)。 内容は、とにかく三谷幸喜の日常という日常を、無駄な装飾なくそれでいて面白く書かれています。ホテルに缶詰にされたり、パンツを履かないで外に出てみたり、過去の失敗談だったり、一日店長をしてみたりと、三谷幸喜という人間の面白みというものが凝縮しているな、という感じがします。なんというか、活字で読むとこの人はとても面白い人なんではないかと思うけど、でも実際にあったら普通の人なんではないか、という気もなんとなくしてくるから不思議なものです。 僕は基本的に、小説なんかを読んでいてもそうなんだけど、とことん変な人が好きなので、読んでいてなかなか面白かったです。あっという間に読めました。でも、つい最近読んだ、乙一の日記「小生物語」の方がやっぱり面白いかな、と思います。あの「小生物語」を超えるエッセイや日記はないのではないか、と思ってしまうほどの面白さで、さすがの三谷幸喜も及ばない、という感じです。 「THE 有頂天ホテル」が公開となって、きっと三谷幸喜も話題になるだろう、と思って、三谷幸喜の出している文庫(今のところ四作品あります)をバイト先の本屋に出しています。まあぼちぼち売れている、という感じです。ただ、その四作品の中でも、本作はどうもダントツで売れている感じです。奥付けを見ると、2年前の段階で既に32版(32回重版したということ)で、一回の重版で5000部刷ったとしても、既に15万部売れていることになります。最近見た帯には、40万部突破、と書いてあったような気がします。40万部突破ってこれ、なかなか凄いです。たぶんですが、中堅どころの作家の人気作か、大人気作家のそこまで売れていない作品ぐらいの売れ方ではないかと思います(想像つきますか?)。 というわけで、何かと話題の三谷幸喜ですが、まあもちろん映画や舞台より面白いなんてことはないんだろうけど、でもやっぱり面白いエッセイ集です。話題の人の作品を読んでみる、というのも、まあ悪いことではありません。書店で見かけたら買ってみてはどうでしょうか? 三谷幸喜「オンリー・ミー 私だけを」
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だぁれも知らない(中谷美紀)

中谷美紀という女優がいる。有名だし、きれいなお姉さんがし、まあ普通は知っているでしょう。
僕は、この中谷美紀が結構好きだったりするわけで。もちろん、出演作を全部チェックするとかそういうことはまるでしてなくて(最後に見たのは、「女医」というドラマに出てた中谷美紀かな)、まあ別にそういうファンではなくて、なんか生き方というか(知らないけど)、存在というか(知らないけど)、とにかくああいう女性はいいんじゃないか、と思ったりするわけで。
最近よく、自分の好きなタイプの女性の話を感想で書いたりするけど、中谷美紀はかなりそのタイプに合っている感じなわけです。
冷たそうじゃないですか、なんとなく。
僕は、まあここでは長いこと説明しないけど、冷たそうな女性が好きなんです。キリっとしているというか、ロシアの残酷なまでの冷たさとかじゃなくて、日本の冬の朝の、あの頬が引き締まるような感じの冷たさっていうか、そんな感じの女性がいいですね。
最近見たCMで、小西真奈美がすごい冷たい女性の役で、「手料理、ありえなぃ~」って言ってるCMがあったんですが、その小西真奈美は最高ですね、笑顔の小西真奈美よりも断然いいですね。
とにかくまあそんなわけで、中谷美紀が好きなわけで、古本屋で、中谷美紀の絵本を偶然見つけてしまったわけで、こういうのはほんと、見つけた瞬間に買わないと二度と出会わなさそうな本で、だから買ってみました。
内容はだからまあ、まあまあってことで。
絵本ってことになっているけど、載っているのは絵ではないですね。クレヨンで四角を塗りつぶしたようなデザインというか模様が載っていて、それがまあ文章の心情とまあ合っている、ということなんでしょう。その絵というかまあそういうものと文章を共に中谷美紀が書いたそうです。
ある町にいる、だれからも見向きもされないあるおばあさんの話です。いわゆる、ホームレスということです。
誰からも興味をもたれず、寧ろ嫌悪され、毎日365日同じ場所にいて、異臭を放っている。
少女は、そのおばあさんを怖がっている。
ある日、そのおばあさんが死んだように転がっているのを見つけてしまって…。
という感じです。
僕は幸いにも、世界に見捨てられたという感覚を味わったことはありません。でも、それでもやはり、生きているということは孤独と近いものがあって、日常の中でふと、ああなんか孤独かな、ってよく思ったりまします。孤独にまみれているということはないですが、孤独に冒されているという感覚をたまに感じます。
これはきっと時と共に深くなっていく感覚でしょう。
そして、誰もが感じるようなものなのかもしれません。
僕は、死ぬときは消えるように死ねたらいいと思っています。ただそれは、死ぬ直前までは誰かにとって存在感がある、という前提の元であって、やっぱり長いこと、誰からも見捨てられるって嫌だな、と思うわけです。
もうなんか、まあそんな感じですね。
結構適当になったけど、まあいいかな、と。まあ、わざわざ買って読むほどでもないだろうな、と。
そんな感じですね。中谷美紀が好きなことにはまあ変わりませんけど。

中谷美紀「だぁれも知らない」



西尾維新クロニクル(西尾維新)

西尾維新という作家は、僕にとって強烈で印象的で、読書人生の中でもかなり特異な位置を占めている作家である。
例えば、無人島に一冊だけ本を持っていくとしたら何をもっていくか、という割りと定番の質問があるけども、その『一冊』というのを『一シリーズ』と拡大解釈させてもらってもいいならば、森博嗣の「S&Mシリーズ」か、あるいは西尾維新の「戯言シリーズ」か、どちらか迷うだろう、というぐらいの作家である。
世界を作り出す作家と物語を作り出す作家がいる、という話はどこかの感想に確か書いたような気がする。
僕は、世にいるほとんどの作家というのは、物語を作り出す作家だと思っている。例えば音楽でいうならば、五線譜に音符を載せていく、というのに近い。ストーリーという流れを、紙の上に、言葉という記号で体現しようという行為であり、まあ作家として普通の部類だろうと思う。
しかし時々、世界を作り出す作家に出会う。これはいうなれば、五線譜に描かれた音符の群れを、ピアノで弾くような行為であって、物語を作り出す作家とは根本的に違うものがあると思う。
二次元の絵画と、三次元の映像ぐらいの差が、そこにはある。
そこには、背景も奥行きもあって、あらゆる方向へと思考や行動が広がっていく。物語すら要素の一つであって、物語を取り込むようにして世界を編み上げる、とでも言うのだろうか、異才であり、異彩を放っている。
思いつくだけで、森博嗣、西尾維新、舞城王太郎、村上春樹ぐらいだろうか。森博嗣や西尾維新は、シリーズを通じて世界を作り上げるのに対して、舞城王太郎や村上春樹は一作の中で世界を作り出すという違いこそあるが、普通の作家とは大きく違うということだけは間違いないだろうと思う。
僕は、一度読んだ本を読み返すようなことはほとんどないのだが、何度も読み返したくなるような作品というものもいくつかある。やはりそれは、物語に主眼を置いた作品ではなく、世界に主眼を置いた作品である。
まあ僕は、一度読んだ本のことはすぐに忘れてしまうので、一度読んだ本をもう一度読んでも全然楽しめるだろうと思う。物語そのものを完全に忘れているので、初読のような感じで読めてしまう。
しかしそういうこととは関係ない。いくら僕が、読んだ小説の内容をすぐに忘れるからと言って、何度も読んでいればさすがに覚えてしまうだろう。物語というのは、節目となる点さえ覚えてしまえば、そこに線を引くことは比較的容易なので、覚えやすいともいえるだろう。
しかし、僕が西尾維新や森博嗣の作品を読み返したいと思うのは、物語をもう一度楽しみたいということではなく(もちろんそういう理由もあるけれども)、その世界の中にいつづけたい、という理由である。これは、世界を描かない作品には到底もち得ない発想である。
彼らが作り出す世界は、登場人物の些細な言動や思考によって作り出されていると言ってもいい。そういう部分は、何度読み返しても新鮮さを失うことはないだろうし、読むたびに感化されていくことだろうと思う。何にしても僕はいつか、本作に収録された短編「ある果実」のようにとは言わないけれども、読書に限界を感じたような時、あるいはそういう状況でなくても、西尾維新の作品を読み返すことだろう。その世界に浸り、浸りきってふやけるぐらいまで読み尽くすことだろう。「戯言シリーズ」の世界が終わってしまって、あれほど楽しかった「戯言シリーズ」が完結してしまって、悲しいし残念ではあるけれども、とにかく、西尾維新という作家にこれからももちろん注目していくし、とにかく、西尾維新という作家を全人類に体感してほしい、と願うばかりである。
とまあそんな駄文を書き連ねていますが、本作の紹介をしようと思います。
本作は、西尾維新ファンの西尾維新ファンによる西尾維新ファンのための一冊であって、まじりっけなしの100%ファンブックです。
というわけで、少なくとも「戯言シリーズ」を読みきっていない人は買わない方がいいでしょう。買ってもネタバレばかりなので読めないので。まあ、買っておいてシリーズを読破したら読む、という姿勢ならいいですけど。
いろいろ分析とかキャラクター紹介とか作品紹介とか戯言シリーズのコアな問題とかいろいろありますけど、まあまあっていうところでしょうね。シリーズを読んだ人にはまあわかっていることというか、いや確かにコアなマニアック問題はなかなか面白かったけど、でもまあそういう感じで、普通かなっていう感じがしました。寧ろ、森博嗣のファンブック「森博嗣本」という方が、S&Mシリーズを深く分析していて、そういう点では評価できたなと思いました。
対談が2本載っていて、その荒木飛呂彦の方を読んで、やっぱ「ジョジョ」は読むべきだろうか、と思ったりもしました。他にもあるのかもしれないけど、僕は西尾維新の対談というのを初めて読んで、そういう意味では作家西尾維新を少し知ることができて満足という感じです。
まあなんと言っても西尾維新のファンブックなわけで、ファンなら買わないわけにはいかないでしょう。
なんと言っても書き下ろしの短編が載っているし。
「ある果実」と題された短編小説は、読書好きな少年の本にまつわる話です。
ある一冊のつまらない本があるのだが、それを今でもちゃんと取って置いている。実は作品のすべてを読みきっていないわけでその評価が妥当なのかなんとも言えないところだが。
その、何故読みきってもいないつまらない小説を未だに取っておいているのか、というまあそういう話です。
本を読むことがいずれつまらなくなる、というような話があって、それはもしかすると本当かもしれないな、と最近感じていたりします。
というのも、古本屋で本を買うのですが、以前ならば読みたい本ばかりで、買う量を制限しなくてはいけないくらいだったのに、最近は行っても、以前ほどに読みたいと思える本に出くわしません。なかなか困りの種だったりします。もしかしてこのまま時間が経って、読みたいと思える本がどんどんなくなっていってしまったら、一体僕はどうなるのだろう、とちょっと不安になりました。まあ、それでも僕は本を読むことを止めないだろうな、という予感はありますが。
僕は西尾維新のファンと言ってもまあいいぐらいの人間でして、西尾維新カレンダーなるものの予約もしてしまいましたし(実は前にも出ていたようで、それは恐らく「クビキリサイクル」を読む前だったので知らなかったと思うのですが)、春頃に出るだろうという限定のBOXも恐らく買ってしまうだろうと思うのですが、とにかく本作はファンのために一冊です。西尾維新のファンだと思う人は、買ってみてください。

西尾維新「西尾維新クロニクル」



氷菓(米澤穂信)

昨日の「龍時」の感想でも書いたことだけど、最近こんなことを考えた。
『定義する』というのは『削る』ことと同じことだ、と。
出来るだけ簡単に説明しようと思う。ここに、ある概念がある。集合といってもいいが、それは丸い形をしている、ということにしよう。その概念あるいは集合を、言葉というツールで『定義し』ようと、その概念あるいは集合にぴったり合いそうな言葉を捜すことにする。しかし、大抵の場合、その概念あるいは集合をぴったり収める言葉は見つからない(丸い形をした概念あるいは集合にぴったり合う丸い形の言葉がない、ということ)。だから、それにもっとも近いと思われる、四角い形をした言葉で『定義する』ことにする。しかしその場合、丸と四角を重ね合わせた図を思い浮かべて欲しいのだが、四角い言葉から丸い概念あるいは集合がはみ出す形になる(逆の場合もあるが、一応説明しやすいようにそういうことにしておく)。つまりそれが『削る』ということである。『定義する』ことと『削る』ことが同じとはそういう意味だ。
何でこんな話をするのか、というと、名前というものが持つイメージによって多くのことが決められている、と思うからだ。
「オレオレ詐欺」や「痴呆症」という名称が最近、「振り込め詐欺」や「認知症」に変わったことは記憶に新しいと思う。これらは、元もとの名前が持つイメージによって、実際の現象や現実が歪められている、それによって不利益を得る人がいる、という判断からの変更なわけで、それほど名前が与えるイメージというものは大きい。
僕の好きな作家に森博嗣という人がいるが、ある著作で氏は、最終的に残るのは名前だ、と言っている。つまり、実績でも名声でもお金でもなく、最後に残るのは名前だと。これは、氏が助教授として勤めていたある大学において、「建築」と名の付く学科がなくなってしまったことを嘆く文章で書かれたもので(建築を扱う学科がなくなったわけではない。そういう学科には、環境や社会などそういう別の名前がついているらしい)、それを読んだときなるほどそうかもしれないな、と思った。アインシュタインという人の実績や名声やそうしたものは残っているけれども、しかしそういう漠然とした一般にはアピールしないものではなくて、結局残っているのは、「アインシュタイン」という名前だけかもしれない、とも思う。
要するに、名前が人に与える影響というのはそれほどに大きいものなのである。最近あるサイトで、実際に子供につけられたおかしな名前、というものがあって見てみたのだけど、親の神経を疑いました。別に、画数がなんとかそういうことは関係ないと思うけど、その名前によって相手に与えてしまうイメージだけは考えてしかるべきだろうと思いました。
と長々とこんなことを書いてみましたが、なんのためにこんなことを書いているかというと、本作が「ライトノベル」という名称を与えられている、という点に関わってきます。
「ライトノベル」という言葉は、小説の一ジャンルを指す言葉ですが、正確な定義がされているわけではどうもないようです。ただ、漠然と大枠で捉えた、一般の人がどう感じているかということを言葉で表すと、「イラストがついている軽い感じの小説で、中高生向き。最近は萌え系の要素がかなり多い」というような感じの小説、と言えるかもしれません。
さて本作ですが、まずイラストはありません。高校を舞台にした小説なので中高生に向いていると言えばそうかもしれませんが、中高生限定というようなものでもありません。萌え的な要素もないと言っていいでしょう。
では何故本作はライトノベルと呼ばれるのか。
それは、本作の出自にあるわけです。角川学園小説大賞、というものを受賞してデビューに至った作品なのですが、この賞の応募要項が「ザスニーカー」という雑誌に載っているわけです。「ザスニーカー」という雑誌は、角川書店が持っている文庫「角川スニーカー文庫」にいずれ収録されるような作品を掲載している雑誌であって、つまりはライトノベルを専門に扱った文芸誌なわけです。よういう出自を以って、本作はライトノベルだと言われるわけです。
しかし、ライトノベルという名前は、ある特定の人にはアピールするかもしれませんが、一般にはアピールしないと言えるでしょう。ライトノベルと聞いて敬遠する向きもあるのではないかと思います。
なんというか、そういう誤解をもって欲しくないものだ、と思ってこういう文章を書いて見ました。最近桜庭一樹という作家の著作を読んで、この人もライトノベルじゃないな、と思ったりして、一般にライトノベルと呼ばれている作品にもちょっと手を出したりしていますが、なんというか、ライトノベルという名前は、もうちょっと内容に合う形で付けて欲しいなと思いました。確かにライトノベルということで売り出せば売れることも事実なんですが…。
とにかくそんなわけで、ライトノベル出身ということで米澤穂信を敬遠するようなことがないようにしてほしいなと思います。
というわけでようやく内容に入ります。
折木奉太郎は高校一年生。『省エネ』をモットーとする、どちらかといえば無気力な少年。無駄なことは極力しない、という精神で日々を生きるものの、しかしいつの間にやら『省エネ』ではない日常に巻き込まれることになる。
世界を放浪している姉から手紙が届く。奉太郎と同じ高校だった姉はかつて、今現在廃部寸前にまで追い込まれた古典部の一員だったようで、奉太郎にも入るように勧める。姉に背くことこと『省エネ』精神から遠ざかると体感している奉太郎は、姉の進言どおり、廃部寸前の古典部に入部する。
部員一人で部室を使い放題ではないかと、こちらも別の意味で変わった友人福部里志に言われ、まあそうかと部室へ赴いて見ると、そこには古典部に入部したという少女の姿が…。
千反田える、という名のその少女と、もう一人図書委員で奉太郎の小学生の頃からの悪友伊原摩耶花の四人で古典部が再生することになる。
いつのまにか密室になった教室。毎週借り出される本。あるはずの文集をないと言い張る少年。そして、『氷菓』という題名に秘められた三十三年前の真実―。
表紙裏のあらすじをそのまま書いてみたけど、それらの謎に古典部が何故か関わり、そして何故か奉太郎が解き明かすことになる。『省エネ』の奉太郎を、好奇心旺盛なお嬢様千反田えるが振り回す学園ミステリ。
まず、奉太郎というキャラガいいですね。『省エネ』という表現を、人間の性格に使った例を初めてみたような気がするけど、なるほどと思うし、自分もそうだな、と思います。なんか、割りと自分に近いキャラクターが出てくる小説を最近結構読んでいるな、という気がします。もちろん偶然ですけど。
ミステリとしてはなかなかよく出来た作品だと思います。伏線の出し方やその処理の仕方なんかは、結構うまい作品だな、と思います。
ただ、初めの方で解き明かされる軽い謎とその謎解きは結構いいなと思ったんだけど、最後の文集『氷菓』に関係する謎がちょっと微妙かな、って感じがしました。もう少し魅力的な謎と解決が欲しかったかな、と。
キャラクターは面白く描けているので、「古典部」シリーズと名前がついている「愚者のエンドロール」もそれなりに楽しみにしていたりします。
面白いなと思ったのが、奉太郎と里志の掛け合いという会話で、なんとなく西尾維新にも通じるような雰囲気があって、まあそれはもちろん過大評価だけど、でもシニカルとでもいうのか、会話の応酬は結構面白かったです。
米澤穂信という作家は、今年「犬はどこだ」という作品でこのミス8位にランクインし、特集も組まれた作家で、これから注目の作家になるのではないかと思います。本作がデビュー作です。物足りないという感じは残るけど、読んでみてはいかがでしょうか?

米澤穂信「氷菓」



龍時 01-02(野沢尚)

勝負とは、残酷だからこそ価値があると言える。
僕らは、ある意味で日々闘っていると言える。何に対してどんな風に闘っているのか、言葉にできなくても実感できなくても、僕らはこの現実という舞台の上で、何かを相手に必死で闘っている。それが生きている意味だし、価値だとも思う。
ただ、勝負をしているか、と言われると、迷わず頷ける人は多くはないはずだ。
最近僕はこんなことを考えた。『定義する』ということと『削る』ことは、本質的に同じだろうと。
例えば、ある概念がある。それを言葉によって『定義』しようとした時に、どうしても限界が生じる。概念自体をまるごと言葉に置き換えることができない。例えば、『夜道で揺れる白くふわふわとしたもの』という概念は、言葉で定義すると、「幽霊」にも「洗濯物」にもなるかもしれない。極端な例だけど、とにかくそんな風にして、『定義する』ことによって概念が『削られ』ていく。そんな風に考えた。
『勝負する』ということも、同じことではないか、となんとなくだけど思った。
自分という存在を賭けて勝負をする。その時に削られていくものは人によって違うかもしれない。信頼・友情・魂・意志・努力。何かはわからないが、その人にとってはとても大切なものが、『勝負する』ことによって『削られ』ていく。
あるいは、その『削られ』ていくことに耐えることも、『勝負する』ことの一部なのかもしれない。
本作を読んで、勝負するということをちょっと考えた結果だ。
人生を『勝負し』ている人は沢山いるだろう。最近話題だから何度も名前を出すけど、ホリエモンだって人生を『勝負し』てきた男だ。逮捕されたこととは関係なく、『勝負する』人生を選んだ彼が、どうしても失わなければならなかったもの、あれだけの金と名声(こちらは一時だが)を得て、それでも失わなければならなかったものが、必ずあるはずなのだ。
僕は、人生を闘っているとは言えるかもしれないが、勝負しているとは決して言えない。ある意味で、既に放棄した、という方が正しいのかもしれない。削れるものが何も自分の中に残っていない、という言い方もできる。お金がないのにギャンブルはできない、ということだ。ただそれだけではなく、削るものがもし自分の中に残っていたとしても、僕は勝負を諦める人生を選ぶだろうな、とそう思う。
だからこそ、勝負することのできる強さを持てる人に、ある意味で羨ましさを感じることもある。何かを得る快感よりも、何かを失う恐怖の方が僕の中では強い。勝負することで、既に失われてしまったものが、なお失われるようなことになったら、恐ろしいなと思う。
あなたは、勝負のできる強さを持っていますか?勝負することで削られるべきものを持っていますか?削られる覚悟はできていますか?
そもそもあなたの目の前には、勝負するステージが、可能性が、僅かでも用意されていますか?
もう一つ別の話。
好きなことを仕事にする、ということをどう思うだろうか?もちろんこれは、サッカーが好きな少年がサッカーを職業として選択する話だからこその話題なのだけど。
僕は読書が好きで好きで仕方なくて、だからという理由がほとんどで今本屋で働いている。働いていると言ってもただのバイトだけど、仕事自体はとにかく面白くてしかたがない。自分が読んで面白いと思った本を、誰から何も言われることもなく、自由に仕入れて売ることができる。一般には売れてないけど、うちでは売れている僕のお勧めの本、というのが何点かあって、そういう本が売れるたびに一喜一憂している。なんの将来もないただのフリーターだけど、お金を稼いだり使ったりすることに興味の持てない人間に、今の仕事はぴったりだ。
ただもちろん、これとサッカー選手の話を同列にできるとは思っていない。
好きなことを突き詰めることによって、それを職業として選択するまでに、どれほどの決意と覚悟が必要なのか、僕にはわからない。
例えば、また小説の話だけれども、たまに、作家になるために会社を辞めて執筆に専念し、新人賞に応募して受賞する、みたいなケースがある。今年の江戸川乱歩賞受賞作「天使のナイフ」の著者薬丸岳も確かそうで、会社を辞めて小説書きの世界に飛び込んだ人だったはずだ。
どこからそこまでの決意が生まれるのか、僕にはわからない。僕も、作家になれたら御の字、という至って消極的な作家希望を持っているのだけど、今やっている仕事を辞めるという選択肢は、例えそれがバイトであってもちょっと怖いなと思う。
夢は見るものではなく叶えるものだと思うけど、でも見ないことには叶えられない。夢を持つ多くの若者が、それだけ挫折しどれだけ成功しているかわからないけど、そうした人々は絶えることはないだろうし、寧ろ増えていくのではないかな、と勝手に思っている。
夢とは残酷だ。針の穴にラクダを通すような努力、砂漠に雪が降るぐらいの奇跡、誰もが認める飛びぬけた才能。どうした何かがないとどうにもならない。
夢を目指す人々には、常に焦りがあるはずだ。バイト先に、歌手を目指していた人がいて、でも最近その夢を諦めたらしい。そういう話を直接にしないので詳しいことはわからないけど、先の見えない焦りがあったのだろう、と勝手に想像している。偶然にもその人は、今熱烈なサッカーファンである。
自分の好きなことを、夢として持つことはいいことだ。一生のうちのある時期を、闇雲にその夢へと向けてもいいと思う。ただ、夢が持つ残酷さを、刃のような鋭さで何かを壊してくその残酷さを、僕らはどこかで知らなくてはならないのだろう。
内容に入ろうと思う。
主人公のリュウジは、変わった父親に教えられたサッカーに生きてきた。いつしか周囲に認められ、いくつかの幸運もあって、リュウジはU-17のスペイン戦に、無名の高校生ながら出場することになった。
そこでリュウジは、自らのうちに抱えきることのできない違和感を感じてしまう。
自分は、この日本という国で、組織プレーを重んじる保守的なやり方のサッカーで、これから満足できるのか?スペインという、相手に殺意を向けるような、攻撃的でダイナミックなサッカーをやりたいのではないか?
答えの出ない自問を繰り返しているうちに、リュウジの元にある知らせが舞い込んで来る。それは、あのスペイン戦を観戦していたスペインリーグチームのオーナーが、リュウジのプレーに惚れこんで、是非うちに来てくれ、という話だった。
よく考えるように言う指導者の話もろくに聞かずに、リュウジはスペイン行きを決意する。逃げるのはない。新たな自分に、新たなサッカーに挑戦するために、俺はスペインへ行くのだ…。
僕は、サッカーに限らずスポーツというスポーツにまったく興味がない。やる分には、バスケやバトミントンなんかは嫌いではないけど、見る方はまったくお手上げで、見てても退屈してしまう。野球中継が押すせいで、お気に入りの番組の放送が遅くなることに憤慨するタイプの人間である。
だから、本作で描かれているサッカープレーの表現なんかが、どれほどまでにうまいのかちゃんとわからない。サッカーに詳しくないとかそういうレベルではなく、スポーツを見ることによる感動を得ることのできない人間の、スポーツ全体を覆うような緊張感やリアルさってものをまったく知らないというレベルで、僕は本作に描かれたサッカーの場面がわからない。
ただ、サッカーが好きな人ならかなり共感できるような感じなのかもしれないな、という風には思った。戦術や動きやテクニックなんかはもちろんわからないけど、ピッチの上で、一瞬よりもさらに短い時間でいくつもの判断をし体を動かさなければならない選手の、そういう心の動き的なものは、ちゃんと掴めるのかもしれない、と思った。
僕は、これはいろんな感想で書いているけど、『人間が描けている(あるいはいない)』という評価が大嫌いで(もう一つ嫌いなのが、『リアリティがある(あるいはない)』というもの)、僕なんかはそんなものどうでもいいだろう、と思ってしまう。僕の印象では、一般の人や書評家が『人間が描けている』と評価するキャラクターにあまり魅力を感じない。どちらかといえば、『人間が描けていない』と言われるキャラクターの方が好きだったりすることすらある。だから何をもって『人間が描けている』というのかよくわからないのだけど、とにかくそういう評価が嫌いだったりします。
その上で敢えて書くけど、本作では人間がよく描かれている、という風に思います。特徴のあるキャラクターというのがそんなにいるわけではないのだけど、リュウジというキャラクターが、場面場面において丁寧に描かれていて、その描き方に結構好感が持てます。勝負という厳しい世界に身を置くことに決めた主人公が、ありとあらゆる場面で感じることになる様々な感情を、うまく言葉にしているな、という感じがしました。
スポーツ自体にあまり興味がないせいか、素直に面白かったと言えないのだけど、でもかなりレベルの高い作品だと思います。スポーツに(それがサッカーでなくても)少しでも興味のある人はかなり楽しめる作品だと思うし、サッカー好きはかなりツボな作品かな、と思います。
勝負に生きる男の物語の第1部です。続編がありますが、読むかどうかはどうでしょうか。もう一度いいますが、僕の中でそれほど評価が高くないのは、スポーツ自体に興味がないからで、作品のせいではないと思います。amazonなんかのレビューを見ると、やはりサッカー経験者には絶賛の作品のようです。「日本初の本格サッカー小説」とも呼ばれているくらいです。是非読んでみてほしいなと思います。

野沢尚「龍時 01-02」




プレーンソング(保坂和志)

昔だったらこういう小説は苦手だっただろうな、と思う。
「こういう小説」っていうのは、「割りと平凡な日常を、なんとなく切り取って編集してみました、みたいな小説」である。
僕は、大学の二年のある時期から本を読み始めるようになって(という表現は実は間違っていて、本は小学生の頃から読んでいたのだけれども、昔はある特定の作家の作品ばかり読んでいたけど、その大学二年の頃から、ありとあらゆる作家の作品を、異常なハイペースで読むというのを始めた、というような意味合いです)、僕の記憶では、東野圭吾の「白夜行」という作品を最初に読んだということになっている。というのも、最初の記憶はどうにも曖昧なのだけど、その大学二年のある時、ブックオフで大量に本を買った時に間違いなく「白夜行」は買っているし、その「白夜行」の印象があまりにも強すぎたから、まあこれを最初に読んだということでいいのではないか、という記憶の作られ方をしているわけだけど。
というわけで以降、東野圭吾作品から江戸川乱歩賞作品、そして各ミステリー系賞受賞作品から各ミステリー系新人賞、ミステリー系ランキングに入った作品、ととにかくミステリーを読破に次ぐ読破という感じで読み倒していき、そうやってミステリーだけではなんか幅が狭くなって、いろいろ読むに至った、というような読書人生なわけです。
大分話は逸れましたが、そういう、とにかくミステリーばっかり読んでいる時期にも、「こういう小説」ってのはたまに読んでいたんだけど、しかし、何が面白いんだかさっぱりわからない、という感想を常に抱いていました。
ミステリーというのは、とにかくある結末に至るようにすべてが構成されていて、その結末がとにかく評価の対象なわけだけど、とにかく読んでいて安心する。つまり、舗装された道路を歩いているような感覚で、ここを歩いていれば必ずやどこかには辿り着く、という安心感を持って読める小説なわけです。
でも、「こういう小説」の場合は、物語自体がどこにも行き着かない、というようなケースがあまりにも多いです。もちろん、小説なのだから、初めと終わりはちゃんとあるのだけど、でも「こういう小説」の場合は、初めの前にも終わりの後にも物語があるような感じで、まさに何かを切り取ったというような印象で、だからどこにも辿り着かないまま終わっちゃうところがどうにも苦手なわけでした。例えばそれは、土剥き出しの道路で、路肩には畑とか民家とかそうしたものしかなくて、このまま真っ直ぐ歩いて行ってもただ道が続いているだけで、どこにも辿り着かないんじゃないか、と不安にさせられるのです。
いつの頃からかわからないけど、「こういう小説」も段々読めるようになってきました。それは、どこにも辿り着かない小説が結構ある、というか、ミステリーじゃない作品は大抵そうなわけで、じゃあ初めからどこにも辿り着かないことを前提に読もうではないか、という意識に切り替わったからだろうな、と思います。言ってみれば、今までは旅行に行くのに、事前に計画を立てて、あそこに行きたいここに行こうと決めてから出ないと旅行に行けなかったのに、無計画で体一つで旅行に行くのも面白いのかもしれない、と思うようになった、みたいなことかもしれません。
というわけで、本作はなかなか楽しめました。しかしそれは、「こういう小説」を克服した、という点だけではなくて、本作の特徴的な部分も大きく貢献しているのだけれども、それはまた後で書きます。
内容に入ろうと思います。
主人公はサラリーマン。主人公自身は、特にどうということもない、平均的でありきたりな男なのだけども、周囲にいる人間が個性的で、それに巻き込まれるようにして話が進んでいく。そういえば、主人公には名前がついていないと思う。
事情により住まいを替えた主人公は、今まであまり自分の人生に関わってこなかった猫と、結構関わりを持つようになる。のら猫だが、たまに部屋にやってくる。警戒心が強くてなつかないが、あの手この手で近づこうとする。
主人公の周囲の人間には、自主制作で映画を撮っているような連中がいて、その中にアキラと島田というのがいる。アキラは、別に映画を撮っているとかいうわけではないのだが、いつの間にかその集団に出入りしている若者で、自称中卒というように、知識なんかは全然ない。よく喋り、かなり厚かましいのだが、憎めないところがあって、割りと可愛がられている。
島田というのは、その集団の一人が撮った自主制作の映画に感動して東京にやってきて、しかし映画を撮るでもなく、今はどこかの会社で働いているような、そんな奴である。
その二人と、アキラが連れてきたよう子という彼女の三人が、いつしか主人公の部屋に住むようになる。奇妙な共同生活の始まりである。
主人公の周りには他にも、電話で時々近況を語る考え方の変わった女性ゆみ子、競馬仲間とでもいう石上、同じく競馬仲間だが会社の後輩でもある三谷、なんていうような人間がいて、猫や居候の三人、あるいは競馬なんかの日常の中で、四人は海に出掛けていく。
というような感じでしょうか。
まず僕が面白いなと思ったのは、この文章です。独特といえば独特で、こんな文章は今までたぶん読んだことがないと思います。
さらっと言ってしまえば、だらだらした文章です。なのに愛嬌がある。なんか優柔不断な人がレストランでメニューを決められなくてあれこれ口にしているような感じの文章なのだけど、それが全然不快じゃなくて、逆に何故かすっと入ってくる。
すごい贅肉なんだけど、でも愛嬌だけは抜群の、デブキャラタレントみたいなものかもしれない。「そんなわけで」「とにかく」「したりして」みたいな、小説としては余分じゃないか、というような表現が一杯あるのに、それでも全然アリで、石塚とか松村みたいな、デブキャラの印象を受けてしまうのは僕だけだろうか?
また、キャラクターの描き方がとても面白い。主人公は本当に平凡で、周囲の状況や言動に常に受身なんだけど、周りにいるキャラクターが強烈だから全然おかしくない。おかしな人間ばかりが集まって、まあそれなりにおかしな言動をして日々過ぎていくわけだけど、それが普通なりに普通じゃなくて、変な人間をうまく小説の中で生きさせているな、となんとなく思う。
また、そんな受動的な主人公(というか著者)のものの見方というのがなかなか面白くて、分析するというところまではいかないのだけど、周りのそういう変な人間の本質というか内部というかそういうものを、曖昧だけどイメージしやすい言葉で表現するものだから、より周りの人間のキャラクターが浮き出ていて面白いな、と思った。
「こういう小説」の話に戻るけど、その代表的で僕が未だに苦手なのが白石一文で、あの作家は未だに何が面白いのか、何が評価されているのかわからない。「一瞬の光」「僕の中の壊れていない部分」とか読んだけど、まさに「こういう小説」の代名詞で、かつ最強につまらない。その点、本作は「こういう小説」だけれども面白い。こういうのもなかなかいいな、と。保坂和志の他の作品を積極的に読むか、という気分にまではなってないけど、でも100円で売ってたらとりあえずは買うだろうな、と思う。
どうやら猫が好きなようで、方向性的にも村上春樹にちょっと近いけど、解説にも書いてあるけど、両者はまるで違ったりする。その説明はうまくできないけど、でもまあいいだろう。読んでみて損はないかな、と思います。
しかし、ここからは本作とは関係ない感想だけど、こうやってほぼ毎日感想を書いている生活って異常だな、と改めて思います。明らかに睡眠時間が削られているけど、でもまあ頑張ろうと思います。見てくれている皆様、これからもよろしくお願いします。と突然こんなことを書いてみる。

保坂和志「プレーンソング」




GOOD LUCK(アレックス・ロビラ+フェルナンド・トリアス・デ・ベス)

ある目標に対する道筋は一つではない。これはまあ当然だ。
しかし、ある道筋に対する目標も、決して一つではないのだろう、と本作を読んで感じた。
ある目的地があって、そこへの移動手段がいくつもある、という方はイメージしやすいだろう。例えば、東京から大阪へ行くことになったとして、新幹線・電車・バス・タクシー・自家用車・徒歩・ヒッチハイク、など様々だし、さらにそれぞれの中でも選択肢が無数にある。
しかし、ある同じ経路を進むことになった人間が、別々の場所に辿り着いてしまう、というのはうまく想像できないかもしれない。これは、同じ新幹線に乗っているのに、大阪に辿り着ける人もいれば辿り着けない人もいる、ということなのだ。
しかし、それでも現実にそれはありうる。それを左右するのが、運と幸運だ、とそれが本作の結論だと僕は思う。
運と幸運は違うものらしい。
本作の冒頭でそう書かれていて、僕はすぐにはその違いに思い至ることができなかった。同じ物ではないか、と登場人物の一人と同様に考えた。
しかし、この運と幸運の作用によって、同じ経路に立っていても、別々の場所に辿り着いてしまう、という奇妙な結果は起こる。
運と幸運は何が違うのか。
運は勝手にやってくるものだが、幸運は自ら引き寄せるもの。
なんとなくわかるだろうか?
本作はつまり、この運と幸運の違いを、ある物語を軸に浮かび上がらせよう、という作品である。
マックスとジムは、54年ぶりに再会した。マックスはそれなりの成功を収めたが、ジムは反対に大変な人生を送ってきたようだ。
そんなジムにマックスは、祖父に聞かされたという「魅惑の森」についての物語を語って聞かせる。
その「魅惑の森」の物語はこうだ。
昔、マーリンという徳の高い魔術師がいた。マーリンのお陰で国は平和だったが、兵士達は自分の腕試しが出来ないと、そのことに多少の不満を覚えていた。そんな兵士達の不満を知ったマーリンは、兵士達を一堂に集め、こう宣言した。
「今日から七日目の朝、魅惑の森に魔法のクローバーが生えるという。限りない幸福をもたらすと言われているクローバーだ。それを探しにいこうというやつはいないか」
魅惑の森はあまりにも広い。そんな中を探すのは無理だとほとんどの兵士は諦めたが、黒いマントの騎士サー・ノットと、白いマントのサー・シドが挑むことになった。
二人はいかにアプローチをし、いかに魔法のクローバー探しに挑むのか…。
そんな感じです。
二人は、本当にほとんど同じ経路を辿りながら魔法のクローバー探しを続けます。しかし、二人の差はどんどんと広がっていくばかりです。この二人の対比が、運と幸運の対比なのです。
本作は、非常に薄くて文字も大きくて、言ってしまえば文章的にはかなり短い作品だけど、でも教訓はかなりいろいろなところから見出すことができるのではないかと思います。
著者の二人は、結構有名なマーケティングコンサルタント的な人みたいだけど、この話は経済だけにとどまらず、人々が抱えるあらゆる問題に対して、その意識を変えうる作品だと思います。自分が、なんだかうまく行ってないな、と感じる問題を抱えていると認識しているのならば、あるいはちょっとこれからうまくいきそうにない問題を抱えそうだなと思っているならば、とりあえず本作を読んでみる、というのはいいかもしれません。今まで凝り固まっていた考え方をゆるりと溶かし、新たな気持ちで物事に取り組むことが出来るのではないかと思います。
僕はある意味で、こういう啓蒙的な内容を、「短い」「物語」という形式で発表したことはかなり正解だったと思います。「物語」という形式によって、読んだ人自らが想像力であらゆる教訓を見つけ出せるようになっていると思うし、「短い」おかげで、後々本を読み返すことなく内容を思い出すことができるからです。
著者はあとがきで、執筆には8時間しかかからなかったが、構想には3年かかった、と書いている。あなたはこのことをどう思うだろうか?
この作品はある時期、とてつもない勢いで売れた作品です。世界50ヵ国で翻訳されるそうだし、奥付けを見て驚きましたが、初版を出版してからわずか2日で重版になっていました。最終的に何版までいったのかわかりませんが、そうと売れたことは間違いないですね。売れる作品がいい作品かというとそんなことはないのでしょうが、確かに本作は売れてもおかしくはないかなと思いました。
この分量で1000円という価格を高いと見るかは人それぞれでしょうが、高くはない買い物かもしれないと評価します(まあ僕は古本屋で300円で買いましたが)。特に、今何か問題を抱えている人、抱えそうな人、是非とも読んでみることをお勧めします。

アレックス・ロビラ+フェルナンド・トリアス・デ・ベス「GOOD LUCK」



砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない(桜庭一樹)

生き残って大人になる。
きっとこれが真実だ。
僕らはこの真実を、いつの間にか忘れてしまったのではないだろうか?闘わず、争わず、競わず、みんな平等だからね、足並み揃えていきましょう、なんて教育や育てられ方をして、だから、今僕らは生き残っているんだ、だから大人になったんだ、なんて感覚を持っている人はいないだろう。
別に僕は回顧主義(過去を振り返って、昔はよかった、という感じの意味で使ってみたけど、こんな言葉あるかな?)ではないけれども、でも昔は生き残ったものが大人になる、という感覚が普通だったはずだ。寿命そのものが短い中で、力や運やそういった何かに選ばれた人だけが大人になっていった。そういう時代だった。
生きていることに感謝しろ、というような話では決してない。少なくとも僕は、感謝しているとはちょっと言いがたいし。
そうではなくて、自分は生き残っているからこうして生きているんだ、という感覚がだんだんなくなってくることで、同時に何かを失っていったのではないか、ということだ。
何か大事なものを。
もはや失ったものが何であるかしらわからない世代になっているのかもしれない。僕も少し考えてみたけど、うまく思い浮かばない。それでもこうは思う。
僕らは、本当に大人になりたかったんだろうか、と。
本当に実弾を撃つようになりたかったのか、と。
ずっと砂糖菓子の弾丸を撃ちつづけるような生活を求めているのではないか、と。
恐らく、大人になりたくない、という感覚こそが、生き残ったという感覚の欠如による功罪なのだろう。
相変わらず何を書いているのかわからなくなってきたけど、人魚の話でもしようかな。
といって書くことはない。
しかし、例えばの話だけれども、友達が何か酒の席でもいいや、告白したいことがあるの、なんて切り出して、実は私人魚なの、とか言ったら…
ひく、よな。
何を言っているんだこいつは、と。
別に人魚は人魚で存在してくれても別に僕としては問題ないけど、でも何でお前が人魚である必要があるんだ、と。
まあ当然だ。
本作にはなんと、そんな女の子が登場してしまったりする。
山田なぎさ、13歳。中学二年生。引きこもりの兄(という形容はまるで当てはまらない感じなのだけど)と母親の三人で暮らしている、それなりに平凡な女の子。友達もそれなりにいるし。
でも日々実弾について考えることに思考を切り替えた、らしい。
実弾、っていうのは要するに、生きていくのに必要なこと、みたいな感じ。引きこもりの兄とパートで生活を支える母を持って、どう生きていくか、とそればかり考えている。だから、他のどうでもいいような瑣末事には目がいかない。
そんな中、なぎさのクラスに転校生がやってきた。
名前は、海野藻屑。ひどい名前だ。父親は、かつて有名だったミュージシャン。美貌の母親を持って、藻屑も容姿はいい。
藻屑は、クラスでの自己紹介でいきなり、「ぼくは人魚なんだ。人間がいかにくずかを知るために人間界にやってきたんだ」と宣言する。唖然とするクラスメイト。
藻屑は、藻屑に対して全く興味を示さないなぎさになぜか興味を抱く。つきまとう、と言ってもいいかもしれない。
そうやって始まる、奇妙な一ヶ月。海野藻屑が、殺されてバラバラにされて山に捨てられるまでに、どんな日常を生きてきたのか。
どこにも行き場のない二人の少女を包むようにして、砂糖菓子の弾丸は降り注ぐ…。
という感じでしょうか。
桜庭一樹は、ちょっとレベル高いぞ、と思い始めてきた。少なくても本作は、ライトノベルである必要はないだろう、と。
僕は、ライトノベルの類はまったく読まなくて、バイト先で勧められた「キノの旅」を5巻まで読んだことがあるぐらいだけど、その「キノ」が全然面白くなくて、「キノ」は結構人気があるのにこの程度か…、と思って、やっぱライトノベルはいいや、と思っていました。
しかし、桜庭一樹はちょっとレベルが高い。
最近桜庭一樹は、ライトノベルレーベルではない、東京創元社という出版社から作品を発表しました。先にそっちを読んで、「砂糖菓子~」を読もうと思ったわけですが、その二作を読んで、この人はライトノベル以外でも全然いけるな、と感じました。
本作も、イラストや挿絵なんかがついて、ライトノベルっぽくなっているけど、この表紙なんかをちゃんと普通にして、普通の小説として出しても全然大丈夫な感じの(それが売れるかどうかはわからないけど)、そんな作品でした。
ちょっと、桜庭一樹はレベルが高いかもしれない。たぶん僕は、「Gosick」シリーズを読んでしまうことでしょう。はまることはないし、ずば抜けていいわけでもないけど、注目するに値する作家だと思います。
本作で出てくる海野藻屑というキャラクターは、憎めるようでいてどこか憎めないという、いい感じのキャラです。好きにはなれないし、周りにいたら嫌だけど、でもなんか憎めない感じです。
山田なぎさというキャラも結構いけてます。実弾のことしか考えないというストイックさも素敵です。また、兄を許容しているところとか、母親の手伝いをしているところとか、藻屑を見捨てられないところとか、割りとよかったりします。
まあミステリーか、と聞かれたらミステリーじゃないと思うけど、読んで損することはない作品だと思います。
本作中に、正解したらヤバイクイズ、というのが出てきます。答えは書きませんが、問題だけ載せてみようと思います。

<ある男が死んだ。つまらない事故でね。男には妻と子供がいた。葬式に男の同僚が参列した。同僚と妻はこんなときになんだけどいい雰囲気になった。まぁ、惹かれあうってやつだ。ところがその夜、なんと男の忘れ形見である子供が殺された。犯人は妻だった。自分の子供をとつぜん殺したんだ。さて、なぜでしょう?>

僕は、問題を読んだ時点ではもちろんわからなかったし(よかった正常だ)、答えを読んでも説明を読むまでわからなかった(よかった正常だ)。史上5人しか正解を出していないと言われるこの問題。あなたは答えられますか?
本作は、ライトノベルでありますので、当然表紙がちょっと外で堂々と読むにはなかなか勇気がいる本です。まあ僕は勇気があるので全然大丈夫ですけど。っていうか話を逸らしますが、僕には本にカバーを掛けている人っていうのが許せないんですよ。そりゃあね、汚したくないっていう理由でならまあまだ許せないことはないですよ。けど、自分が読んでいる本を人に知られたくないからカバーを掛けるなんて言語道断ですよ。最悪ですよ。もっと堂々と読みましょうよ。皆に、わたくしはこんな本を読んでおりますのよ、と見せびらかしましょうよ。それの何がダメだっていうんですか。
とまあそういうわけで僕は全然カバーなしでも大丈夫なんですけど、きつい人はいるでしょう(また話を逸らすけど、この女の子二人の絵、目が黒目しかないってどういうことですか。しかもロリロリすぎて、なんか読んでいてイメージに合わないんですけど)。でもまあ、騙されたと思ってチャレンジしてみてください。まあ本作に限って言えば、カバーを掛けることを許しましょう。だから、ちょっと読んでみてください。ちょっと注目の作家だと僕は思います(まあライトノベルを読む人はもとから注目していたんでしょうけど)。あらゆるジャンルの本を読んで見ましょう、みなさん。

桜庭一樹「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」



砂漠(伊坂幸太郎)

砂漠か…。
砂漠、が例える範囲は割りと広い。というか、あらゆるものが砂漠に例えられるだろう。きっとちょっと考えてみれば、自分の周りにも砂漠に例えられるものは結構あるんじゃないだろうか。理不尽な社会とか、良好ではない人間関係とか、銀行の預金残高とか、冷蔵庫の中身とか、まあとにかく、割りと何でも砂漠に例えられるだろう。
そこに雪を降らせてみないだろうか?
なんというか、別にそういうテーマの作品ってわけでもないんだけど、この言葉やけにいい。砂漠に雪を降らせてみせよう。なんだか、言う人が言えば、出来てしまうんじゃないか、ってそんな感じもしてくる。頑張ろうって感じに。
伊坂幸太郎の作品は、同じ高さに浮遊し続ける風船みたいなものだと思う。
風船は、中に空気が詰まっていれば下に落ちるし、何とかガスが入っていればそのまま空高くまで飛んでいく。中にどんな気体が入っていても、何かで固定したりしないかぎり、同じ高さに留まることはないはずだ。
だから、同じ高さに浮遊し続ける風船ってのは、めちゃくちゃ不自然な存在なのだ。現実からズレている、っていうか。
ようするに伊坂幸太郎の作品っていうのは、その現実からの浮遊感ってのと、現実からのズレっていうのが、見事に融合した作品なわけです。
しかも、それが不自然に見えない。
これは、例えば子どもの視点だと考えればいいかもしれない。大人は、同じ高さに浮遊し続ける風船を見れば、これはおかしな存在だ、と思う。多少理科的な知識さえあれば、むむむおかしいぞ、となる。しかし、理科的な知識を持たない子どもなら、その風船の存在をいとも簡単に受け入れてしまうだろう。こういう風船もまああるんだろうな、なんて風に。
僕らが伊坂幸太郎の作品に触れるときは、大抵そういう視点になっている。目の前に不自然な風船が浮かんでいるのに、それを不自然だと思わずに見ている、という感覚で読んでいる。
何とも不思議な作品だし作家である。こういう系統の作品も作家も、本当に他に思いつけない。デビュー当時から、かなり独自の路線を走っている作家なのである。
伊坂幸太郎は、対談みたいなものなんかでも自ら、ズレは大事だ、みたいな風に言っている。その理由まで書いてあったかは覚えてないけど、僕にはなんとなくわかる。現実をそのまま引き写したような小説なんて、つまらないじゃないか、とそういうことだろう。共感です。現実なんて、生きているだけでも大変なのに、何でわざわざ小説を読んでまでさらに現実を経験しなければいけないんですか。そんなのおかしくないですか?
とにかくそんなわけで、常にどこかしらズレた世界観を見事に描き出す作家の、待望の新作である。
本作は、五人の大学生を描いた青春小説的な作品である。僅かにミステリタッチだけど、基本的にはミステリじゃない。前作「魔王」に次いで、伊坂幸太郎はまた新しいステージへと進んでいるようだ。
本作は、「春」「夏」「秋」「冬」「春」と五部構成にんなっている。それぞれの時期にその五人の周囲でいろいろ起こってわいわいやっている、という小説である。
入学直後のクラス飲みの場で、奇抜な頭髪をした鳥井と喋るようになった主人公の北村。そのクラス飲みには、あまりの美貌のために男に囲まれている無愛想な東堂、偶然にも群馬出身の鳥井と中学時代の同級生で、しかも超能力があったりするほんわかした女性南、そして遅れてやってきて、周囲の困惑も顧みずに戦争を仕掛けるアメリカとそれに無関心で居続ける若者を非難する演説をぶち、最後に、「その気になればね、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ」と言い切った西嶋という男がいて、あるきっかけなのかどうなのかよくわからないきっかけによって、その鳥井・南・東堂・西嶋・そして北村の五人は仲良くなり、よく集まるようにもなる。
その後のストーリーは、非常にまあ説明しづらいのだけど、麻雀とか合コンとか恋愛とか、お決まりの大学生の日常をそれとなく描きながら、「大統領か?」と聞いて殴る通り魔プレジデントマンとか、金持ちの留守宅を狙う空き巣とかが、何故か彼ら五人の人生に大きく関わってきたりもして、そんなこんなで、五人が肩を並べるようにして、悲しみとか喜びとかを共有したりしながら成長したりしていくような話なわけです。
相変わらず面白いですね。
ミステリじゃないので、伊坂幸太郎の作品なのに基本的に何が起こるというわけでもないんですね。それなのに、どのページを読んでも面白い。本当に伊坂幸太郎の作品というのは、外で読むには適さないですね。僕はまあどこででも読みますけど、それでも始終ニヤニヤしっぱなしで、僕のことを万が一観察しているような人がいたとするならば、あいつはおかしいんじゃないか、とレッテルを貼られかねないくらいですね。それぐらいニヤニヤしてました。
とにかく、西嶋というキャラクターが面白すぎるんですよー。こんな奴はほんとに周りにはいないし、正直いなくてよかったなと思わないでもないけど(本作のようにいろいろとトラブルが起きて、みたいな人生ならば西嶋みたいなのがいてもいいけど、普通の人生には西嶋は少し余分に過ぎるかな、と)、それでも言動がとにかくズレてて面白い。例えば、西嶋が服を買うことに決めて、予算は10万だというわけです。バイトで稼いだ金なのか、と北村が聞くと、いや麻雀の負け分だ、とこういうわけです。負け分?と北村が聞き返すと、麻雀で負けた分を払うくらいなら服を買いますよ、とこういうことらしい。こういうズレた発想をする男なわけです。でも、基本的に発想が変な人というのは結構好きで、なるほどそんな風に物事を見るのか、という驚きというか新鮮さを味わえるので、読む分には西嶋というキャラクターは最高でした。
伊坂幸太郎という作家は、こういう西嶋みたいな変な人間を書くのが本当に得意なようで、他の著作で印象的なのは、「死神の精度」の死神とか、「チルドレン」の家裁調査員とか(名前は忘れた)、「重力ピエロ」の春とか、「オーデュボンの祈り」のほとんどのキャラクターとか、「グラスホッパー」の三人の殺し屋とか、「陽気なギャングは地球を回す」の演説を打つ響野とか、「アヒルと鴨のコインロッカー」の隣人とか、「ラッシュライフ」はちょっと覚えてないけど、とにかく変な人間をちゃんと描ききるし、魅力的だし、読んでて楽しい。これほどまでに魅力的なキャラクターを次々に生み出せる作家もまた珍しいと思う。西尾維新とか森博嗣とか、それぐらいしか思い浮かばない。
東堂という女性が出てくるのだけど、このキャラがとてもいい。前に、「扉は閉ざされたまま」の感想で、僕の好きな女性についてあれこれ書いたわけだけど、それにぴったりの感じで、かなり萌えますね。無愛想でクールで冷たいけど、仲間を大事にするし思いやりもある(しかしそれらは表面には現れない)。どうもこの東堂というキャラクターは超絶的な美貌のようだけど、そうでなくてもそのキャラだけで最高だと思う。もちろん、超絶的な美貌ならなおいいけど(何を言っているんだ俺は)。
北村というのがまあ一応主人公なわけだけど、僕に似ている。自分に似ているな、というキャラクターにはなかなか出会わないものだけど、西尾維新の作品以外で初めてかもしれない。判断基準が、俺でもそう考えるかもしれない、というものが多かった。冷血漢、と呼ばれるようなシーンがあるが、それは僕の自覚とも一致している。ただ、少しは丸い部分もあるわけで、そういうところも似ていたりもする。
鳥井と南というキャラクターは、本作の中では普通に分類されるだろう。鳥井という男は、外見のイメージはチャラチャラしている感じだけど、読んでいくにつれてどんどんとイメージがよくなっていく。南も読んでいくうちにキャラがどんどん変わっていって面白い。南は超能力を使えるわけだけど、僕は、南のような人間がやっていたら信じるあろうな、と思う。というか、南のようなキャラでトリック使って騙していたとしても、まあいやと思えてしまうだろう。
とにかく五人ともキャラクターが本当にいい。僕もつい最近まで大学生だったわけで、その時に出会った友人とは今でも付き合いはあるけれども、かなりいい人間と出会ったな、と思っている。僕には分不相応ではないか、と言えるぐらいだ。できればこれからも付き合いが途切れないでいてくれたらいいな、と思うところだがどうだろう。ちょっと不安でもある。
本作を読んで、また大学時代のバカやっていた時代に戻りたいな、と少しだけ思う。あの頃は、それは大変なことも山ほどあったけど、でもなんだかんだ振り返ってみると面白かったよな、と。なんて言っているようだと、本作に出てくる学長に、甘いとか言われそうだけど。懐かしがってもいいが、過去をオアシスのように思って逃げるなよ、と。
突然ライブドアの話だけど、堀江社長は、とにかく錬金術を組み合わせて、とにかく金儲けのことしか考えてなくて、だからこそ今大変なことになっているわけだけど、本作を読んで思ったのは、とにかく一番価値のあるものは人間関係だ、ということだ。お金でも地位でも名誉でも、付き合った女性の数でも持っている車の数でも100点をとった試験の数でも、超能力でも砂漠に雪を降らすなんていう自信でも冷静な判断力でもなくて、いつだって一番価値のあるものは、自分が尊敬できる友人を、いかに多く持ち、いかに長く関係を続けることができるか、ということに尽きるだろう。それを本作を読んで強く感じた。友人を大事にしよう、と。困っていたらできるだけ助けるように頑張ろう、と。自分が悩んでいることがあればできるだけ相談してみよう、と。間違ったことをしていたらできるだけ咎めてあげよう、と。一度ぐらいの過ちは許してあげよう、と。
いつまで続くかわからない関係だけど、僕は自分のできる範囲で友人を大事にしていこう、と決意して、本作の感想を終えたいと思います。今までのミステリ色の強い作品に慣れてしまった読者(割りと僕もそうですが)にはちょっと物足りないかもしれないけど、でもいい作品であることには間違いありません。どこを読んでも面白いです。是非読んでみてください。

伊坂幸太郎「砂漠」


夢の樹が接げたなら(森岡浩之)

ルールというものはしかし、どうしたって穴があるものだな、と思う。
最近何かと話題のホリエモン。今では社長から容疑者に転身を図ったわけですが、彼はルールの穴を巧妙につくようにして金儲けをしてきた、と言えるでしょう。ちゃんとしたことはわからないけど、当初から、違法ではないがかなり強引でグレーゾーン的な手法はしていたようだし、そういうのがうまい人だったのだろう。
自然界に存在するルールは、極めて美しい。物理も数学も、何かの存在が恣意的に決めたとしか思えないような、美しい規則性を有している。そこには、穴はないし、埋められそうにない穴が今現在あったとしても、いずれ埋められるはずだ、と信じられている。
しかし、人間が作るルールには、限界がある。作る側があらかじめあらゆる可能性を網羅することは不可能だろうし、そもそも、作る側の都合のいいように作られるのはもはや仕方ないことだ。
その最たるものが法律だろう。
今ここで法律の不備についてあれこれ書くことはしないけど、そもそも元になっているのが、戦後すぐに決められたものなわけで、時代がこれだけ違っているのだから、新しく作り直せばいいじゃないか、と思ったりもするが、間違いなくそういう方向には向かわないだろう。
法律は人を守らない。どうやらそれだけでなく、法律は人に牙を向くことだってあるらしい。
ここまで書いた文章は、本作の「スパイス」という作品を念頭に書いているけど、まあまた後で。
もう一つ。
言語というものはとても面白いものだ、と本作を読んで感じた。
僕は外国語というものに興味はないし、覚えて外国人と喋りたいとかもまったく思わない。英語とドイツ語を少しだけ勉強したことはあるけど、もはやすっかりぶっとんでいるし、まるで覚えていない。
しかしそれでも言語は面白い。言語の多様性という面ではなく、その構造というかそういった面が面白い。
ちょっと説明しずらいな。
少し考えてみたけど、言語そのものというよりも、脳がそれをいかに処理するのか、という点の方が面白いのかもしれない。即ち、言語だけでなく、音や匂いなど、脳が処理するあらゆる情報というものに多少興味があるのだろうと思う。
言語とはちょっと離れるけれども、ちょっと不謹慎な例を出そうと思う。例えば、物を見たときに、その右半分だけしか認識できない人がいる。花を見せて絵を書かせたりすると、右半分しか描けない。人の顔を区別することが出来ない人もいるし、右手と左手が逆の動きをしてしまう人もいる。言語の例を出せば、これは障害ではないけれども、人が言った文章を、まるきり逆さまにして言い返すことが出来る人もいる。
こういうことに対して面白いと言ってはいけないのだろうけど、でも、こういう通常ではない脳の処理というのは、僕にとっては結構興味深かったりする。
ちょっと今日は、何を書いているのかわからなくなってきたので、この辺で諦めて内容に入ります。
本作は、森岡浩之のデビュー短編を含む、8編の短編集です。長さもテイストもまちまちな短編集ですが、なかなか面白いです。
それではそれぞれの紹介を。

「夢の樹が接げたなら」
ある小規模の集団にのみ有効な言語、というものが流行する世界。会社や家族単位で、他の人とは通じない個人言語を持つことがブームになる世界。その世界には、言語デザイナーという職種があり、主人公もその一人。
主人公は言語オタクだが、その恋人は真逆。主人公は、完成された個人言語を、簡単な手術と睡眠学習のような手法で習得するシステムを作り上げたけれども、恋人はそれにさえ不信感を抱いている。
その恋人が主人公に、弟の話をする。ある言語を習得してから、おかしくなってしまったのよ、という。そんなことありえないと思いながらも一人調べ始める主人公が辿り着いた真実は?

言語というものを題材にして、なかなか面白くストーリーを作っています。著者の実質的なデビュー作だそうです。ただ、ある特殊な言語が出てくるのですが、そのイメージがなかなか難しいところです。僕個人的な意見としては、個人言語の氾濫する世界は嫌です。

「普通の子ども」
なんらかのシステムによって、あらゆる年代の姿に成り代わり、あらゆる年代に移動できるシステムが出来上がった世界。学校の中で唯一の「普通の子ども」である主人公は、新しいお友達についていくようにして教室を出て行って…。

途中までまったく設定を掴めなくて困りました。本作にはいくつかそうした作品があります。ちょっと微妙かな、という感じです。

「スパイス」
生命工学の技術が飛躍的に高まった世界。株の売買から初め、ある企業を買収、社長に落ち着いて研究の指示を出す。そうやって不動の地位を築いてきた男が突然トップニュースを飾ることになる。
社の技術で開発した、外見も知性も人間そっくりな、それでいて法律上では人間と定義されることのない存在。男はその存在を「アレ」「自社の工業製品」などと呼ぶ、見た目は愛らしい少女を、いたぶって食べると宣言したのだ。
その男の単独取材に指名されたあるアナウンサーは、その少女に接触し、絶対に助け出そうと男を追い詰めようとするのだが…。

これは最高です。この作品のために本作を買ってもいい、というぐらいの作品ですね。かなり現実に近い設定の中で、これほど奇妙で残酷で、しかも違法ではないことをやってのけるという発想は脱帽です。法律というものがいかに無力であるかということがわかります。最後の展開も、なるほどうまいなと思いました。

「無限のコイン」
電子マネー的な貨幣しか存在しない世界。その世界で突然、すべての人の電子マネー残高が無限になった。人々は狂喜して買い物をし始めるが、働かなくていいことに気付いた人々は店を閉め、次第に物資が少なくなっていく…。

電子マネーが無限になることによって展開されていく話はいいんだけど、最後がよくわかりません。この話は、一体どういう話なんでしょうか?

「個人的な理想郷」
かなり個人的なニュースばかりが放映されている。ある個人の生活、ある個人の近況、自分の趣味にあった映画、なんとなく知りたいニュース。テレビという存在そのものが変わってしまった世界での、ある男の死。

発想は好きですね。ストーリーはまあまあといったところでしょうか。

「代官」
僕はこの作品を読むのを諦めました。ほぼ流し読みで済ませました。時代小説っぽい感じで、僕にはまるでついていけなかったので、内容もわかりません。

「ズーク」
これは是非とも内容を知らないままで読んで欲しい作品ですね。冒頭ではかなり戸惑いましたが、読んでいるうちになんとなくわかってきます。この作品は、かなりユニークで独創的で面白いのではないかと僕は思っています。というわけで紹介はなしです。

「夜明けのテロリスト」
メディットという、人間のように思考する機械が氾濫する世界。メディットによって、クリエイティブな仕事はすべて機械に奪われてしまった。主人公は元コピーライターで、そんな事情で仕事を追われ、今は慣れない営業職に就いている。
バーで出会った男に、メディット反対の組織に誘われるが断る。その後、メディット開発会社から接触があり、奇妙な以来をされるのだが…。

ちょっと難しいし、ストーリー自体がそれほど面白くないのですが、発想の根幹というか、最後にファーストという名のメディットが明かす真実というのが面白いですね。なるほどそうだとしたら、人間なんて対したことはないな。偶然の産物じゃないか。そう思えてきます。

どの話も、現実とは何かが大きく違った世界を舞台にして、その論理の範囲内で物語を進行させて行きます。こういう作品が、本格的なSFなんだろうな、と思います。
全部が全部いい作品ではないですが、「夢の樹を接げたなら」「スパイス」「ズーク」の三作品を読むためだけに本作を買うのでも悪くはない、という感じです。特に僕的には「スペース」がお気に入りだし、「ズーク」はちょっといろんな人に読んで欲しいと思いますね。
森岡浩之とう作家は、「星界の~」シリーズで有名みたいですが、読んでみてもいかな、とちょっと思いました。読むかどうかはわかりませんが。
そんな感じです。

森岡浩之「夢の樹が接げたなら」



少女には向かない職業(桜庭一樹)

閉塞しているな、と感じる。
若者は割りと閉塞しているんだろうな、と思う。若者、の中にまだ自分も入ると思っているけど、そろそろギリギリだろうか。
無気力だとか無関心だとかゲーム脳だとか突発的だとかなんだとか。とにかく若者の評価は、プラスでもマイナスでもなく、距離としての「0」ではなく、存在としての「0」として語られるようになってきた。
その原因は、凡そ閉塞にあるのではないだろうか、と感じた。
引きこもったり、演技したり、隠したり、悩んだり悩んだふりをしたり、近づいたり遠ざかったり、そんなことをしているうちに、若者はどんどんと閉塞していく。
確かに疲れる。
疲れを感じる。
なんとか理由をひねり出してみよう。
昔の人は、何もない状態から、あるいは何かが足りない状態から始まった、とそう思う。文化的にそもそも未成熟だったり、社会としての欠陥があったり、時代における雰囲気だったり、あるいは戦争だったりするものが、ある種の欠損や欠乏を導いていたはずだ。
そうした欠損や欠乏は、ある方向を作り出す。豊潤へと目指す、不文律が出来上がる。誰しもが、まだ見ぬ先にあると信じる豊潤を目指して、相談するでもなく手を取り合って、同じ方向を目指す。
しかし、現代はどうだろう。
すべてが豊潤からスタートしてしまっている。現代を生きる若者は、そもそも欠損や欠乏を、そこからどうしても抜け出さなければというような切実な欠損や欠乏を、どうしても抱えることがない。例え抱えることがあってもそれは個人的な事情によるところが大きく、時代として一つの大きな底流を支えるような、皆の方向を形作るようなものではありはしない。
そんな中で生まれた若者は、一体どんな方向を目指せばいいというのだろうか。
大人たちは、選択肢が増えたと言って若者をどこかへと促すかもしれない。ほら、君達はどこへでも行けるんだ。私たちが子供の頃は、どこへも行けなかった。とるべき方向は一つしかなかったんだ。君達は恵まれているんだよ。そう説くかもしれない。
しかし、欠損も欠乏もないままに、方向が決まることはないのだ。僕たちは、ある意味で満たされすぎていて、逆に欠損や欠乏を自ら捜し求めるようにして、本来はなかったはずの欠損や欠乏に無理矢理光を当てるようにして、どうにか方向を持とうともがいているのだ。
それが閉塞。若者が必死に戦っている閉塞の正体ではないかと思うのだ。
閉塞に陥った若者は苦しむだろう。無限にあると言われる方向を、その僅かに生きた年月の経験だけの範囲内で、無限を一つにしなければいけないのだ。誰しもが、自らにもっとも会う方向を探し求め、その探し求める行為にいつしか疲れ果ててしまう。選択肢が多すぎて、ありうる未来像が多すぎて、逆に疲れてしまう。選択肢は無限にあるはずなのに、疲れすぎてしまって、めんどくさいから友達と一緒でいいや、ということになる。
無個性、無関心、無気力。
こうして現代の若者が形成されていく。
いつの世にも、世代間の擦れ違いというものはあるだろう。しかし、現代の若者ほど、世代から取り残された存在はないだろう。とにかく理解されない。大人達には理解不能な存在になってしまっている。若者からすれば至極当然な判断や行動を、いかにも理解できないという風に扱うのだ。
そうして若者は益々閉塞する。自分達を理解しない世代を外に追いやって、若者だけの世界に閉塞する。
閉塞スパイラルだな、こりゃ。
だから、若者は大変なのだ。大人の皆さん、少しは若者を理解しましょう。結局こんな結論か。
もう一つ別の話題。
ライトノベルとは一体なんだろう、という話。
ライトノベル、という言葉はちゃんと定義されて使われてはいないだろうけど、大体、中高生をターゲットにした、挿絵のふんだんにある小説、のことをそう読んでいたはずだ。
しかし、ライトノベルも最近変わっているように思う。特に、売る立場から見るとそう思える。
僕は本屋で働いてまだ一年半ぐらいだけど、その間にまず、エロ系、萌系が明らかに増えた。これは時代の流れだからまあ仕方ないだろう。それに伴って、これは前からかもしれないけど、おじさん的な人がよく買っていくようになった。
また、新しいレーベル(出版社)が増えた。既存のレーベルだけでなく、各社ともにライトノベルのレーベルを持つようになってきた。
西尾維新や滝本竜彦のような、ライトノベルレーベル以外で、ライトノベル的な作品を発表する人も出てきた。
そしてライトノベルレーベル出身の人が、一般の小説界に進出するようにもなってきた。
本作の著者、桜庭一樹もその一人である。
著者は、ライトノベルでも結構有名なレーベルで様々な作品を発表している人だけれども、本作がそのライトノベルレーベル以外で発表した初めての長編である。
ライトノベルというと、なんとなく一段低いレベルの小説というイメージがあった。都合のいい展開やお決まりの設定といった、そうしたステレオタイプ的な小説ばかりだと思っていた。でも最近はこうして一般の小説界に出てくる作家もいるわけだし、とにかくライトノベルの世界もどんどんと変わってきている。ライトノベルのレーベルから出版しているというだけであって、内容的には普通の小説とレベルが変わらないものも数多く出ていることだろう。
ライトノベルで読んだことがあるのは「キノの旅」の5巻までだ。しかしあの作品はどうにも好きになれなかった。よく売れるのだけれども、ちょっとその理由が僕にはわからなかったりする。それ以来ライトノベルにはさらに偏見があったのだけれども、勇気を出して本作を買ってみた。
内容を紹介しようと思う。
山口県下関市の沖合いにある比較的大きな島に住む、中学二年生の大西葵。彼女は学校ではお笑い担当の明るいキャラで、友達もいる。ゲーセンで一緒に遊ぶ、ちょっと気になる男子もいる。そんな普通の女の子。
ただ、家ではちょっと違う。怪我をして船に乗れなくなり、酒を飲んだくれて日がな一日家にいる義父と、漁港でのパートで家計を担う母親の三人暮らし。なんか、そこまで明るい家庭とは言いがたい。
夏休みに入って、クラスの図書委員宮乃下静香と遊ぶようになる。学校ではおかっぱで眼鏡の、どちらかと言えば目立たない子なのに、制服じゃない彼女はゴスロリちっくなファッションで葵はびっくりする。彼女と話しているうちに、義父への悪口になり、なら殺しちゃおう、なんて話になったりする。
「用意するものはすりこぎと菜種油です、と静香は言った」
そして義父は死んだ。
「あたし、大西葵13歳は、中学2年の1年間で、人をふたり殺した」
大西葵と宮乃下静香。二人の少女の慟哭の一年間。
まず、文章がしっかりしていて、かつ中学二年という少女達をあまりにも鮮やかに描き切っているので、この人はライトノベルじゃなくても全然やっていける人だな、と普通に思いました。とにかく、少女たちの行動や判断や距離感が自然で、なるほどうまいなと思いました。
距離感について少し書いておきましょう。僕の勝手なイメージでは、今の中高生というのは、仲のいい友達であっても、そこに複雑な距離感があるんだと思っています。親友は疲れるし、友達がいないのは寂しい。くっつきすぎず、離れすぎない。そういう微妙な距離感を、日々間合いを計るようにしながら生きているのが、現代の中高生だという勝手な認識が僕にはあります。
そして、その微妙な距離感が、本当にうまく描けているな、と僕には思えます。僕の勝手なイメージ通りの距離感が描かれていて、やっぱそうだよな、若者は大変だよな、と素直に思えたりします。
ストーリー自体は、そうですね、まあ普通ぐらいと言った感じですかね。多少期待過剰気味だったっていうのはあるかもしれないけど。拍子抜けというほどではないけど、もっと何かあるかな、って思ってしまいました。決して悪い作品ではないけど、多少の物足りなさはあるかな、という感じです。
話の中で原始人の話が出てくるのですが、なるほどなと思いました。僕もまあそんな風にして生きている代表のようなものなので、よくわかりました。やっぱ若者は大変なんだよ、そういうことを伝えるための小説ではないはずなのに、何度もそんな風に感じます。やっぱ生きてるのとか人間関係って大変だよな、って。
強くはお勧めしませんが、僕はこの人の評価の高いライトノベル作品「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」を読んでみようかな、と思います。それからこの作家の評価を決めたいと思います。その「砂糖菓子~」がよければ、きっと「Gosick」シリーズも読むことでしょう。

桜庭一樹「少女には向かない職業」




象られた力(飛浩隆)

本質があって形が決まるのか。あるいは、形があって本質が寄り添うのか。
例えば人間についての話をしよう。
人間は基本的に二足歩行の生き物だ。しかし、それは不自然な形だとも言える。自然界に二足歩行で生きる生命は思いつく限りいないだろうし(二足歩行が可能な生命は存在しても、二足歩行を基本として生きているわけではない)、体、特に腰にも負担が掛かっている。骨格的に最適な形はどう考えても四足歩行のような形態であるのに、何故人間は進化の過程で二足歩行に切り替えたのか。進化の研究で問題になっている点でもあったはずだ。
これが問題になるということは、「自然界に存在するものは、環境に最適化された形態をとる」という前提があるのだろう。即ち、「本質が決まってから形が決まる」ということだ。だから、二足歩行という「形」に決まった理由を探したがる。
しかし、逆に考えれば、つまり「形が決まってから本質が寄り添う」のだとすれば、問題はなくなるように思う。
人間は、二足歩行として生まれるべきだったし、そういう運命にあったのだ、とそう考えたらどうだろうか。まず、人間の二足歩行という「形」が決まっていた。その「形」に合うように人間の本質が作られていった。そう考えれば先ほどの問題はなくなる。
他にも似たような関係がある。例えば言語の場合、意味があって言葉(文字)が決まるのか、あるいは言葉(文字)があって意味が決まるのか。
僕らは普段言葉の成り立ちについて考えたりはしない。言葉がどのように作られてきたか考えることはない。
考えてみるとすぐわかるだろう。意味という概念がまずあって、それに見合う言葉(文字)が作り出される、ということの不自然さが。象形文字というものがかつてあったように、まずは形があったはずだ。人々は様々な形に意味を与えコミュニケーションを図ってきた。文字は、その形を最適化し記号化し覚えやすいように処理した結果にすぎない。まず形ありき、ということが容易にイメージできるだろう。
また感情と言葉の関係も似たようなものかもしれない。僕らは普段、自分の感情をそれなりに違和感なく言葉に変換する。感情がまずあって、それに見合った言葉を探している、という感覚だろう。
しかし僕らの感情は、ある意味で言葉に引きずられているとも言えるだろう。例えば、孤独という感情は、それを言葉として形にした時にふと感じられる、ということはないだろうか?孤独な状況をまず感じてそれから孤独という言葉に変換しているのではなく、孤独という言葉がまず浮かび、その後でああ自分は孤独なんだと感じる、という方が、感覚的に近いのではないだろうか。
形が本質を作り出している。まず形が存在して、その後で本質が寄り添う。この考えは決して、突拍子もないものではないだろうと思う。
ただ、以上の考え方にはある一つの前提が存在する。それは、「形」という容れ物の中に、「本質」が閉じ込められている、という前提だ。もしかしたら、その前提自体が間違っている可能性はある。「形」というのは容れ物なんかでは決してなく、「本質」も何かに収まるようなものではないかもしれない。例えば、「本質」が時間に対して見せる変化の過程が、「形」という現象を引き起こしている。そういう解釈だって、しようと思えばできるのだろう。
その前提の真偽についてはなんともいえないけれども、僕は、「形」に「本質」が寄り添う、とそう考えている。
さて別の話。
僕は、本格的なSFを初めて読んだかもしれない。
今SFという言葉は、「現実にはありえない設定」というような意味合いで使われることが多いと思う。タイムトラベルや宇宙人など、そういう現実的でない設定を持ち込んだ作品なんかをSFと呼ぶことが多いと思う(これを現SFと呼ぶことにしよう)。
ただ、SFとはもともとそういう分野ではなかったと思う。
本格的なSFとは、定義するなら、「現実の世界とは論理の異なる世界観」ということだと思う。
僕はちゃんと見たことはないのだけれども、ガンダムのようなイメージだ。あの作品に流れる論理がどんなものかまるで知らないけれども、少なくとも今僕らが生きている理屈では動いていないはずだ。
現SF作品の場合、舞台は現実の世界で、その現実の世界の中で、現実的ではない現象が起こる。本格的なSFの場合、舞台そのものが現実とは違うコードで進行する。そういう違いがあるだろうと思う。
今本格的なSFは売れないらしい。確かに売る側から見ても、本格的なSF作品はあまり出版されていないように思う。早川書房や東京創元社など、外国作品の翻訳で名のある出版社が、日本人作家の本格的なSF作品を多少発表するぐらいで、その他メジャーな出版社はあまり出したがらない。作家がSFを書こうと思っても、売り方を考えましょう、という感じで、遠回しに否定的な立場に回る、というような話も聞いたことがある。
その代わり、ライトノベルのレーベルから出版される本格SFは売れる。とにかく、ライトノベルであれば何でも売れるというご時世だけれども、何とも極端だなと感じるものだ。
とにかく本作が、僕の本格SFでデビューとなりました。
そんなところで内容の紹介をしようと思います。
本作は、四編の中篇からなる中篇集です。まずはそれぞれを紹介します。

「デュオ」
事故でその才能を失い、調律師に転進した男に、ある天才的なピアニストが紹介される。音の悪いテープで聞いてもその才能の際立ちがはっきりするほどの才能で、請われるまでもなくその調律師は、そのピアニストの専属になることに決めた。
ただ、そのピアニストはどうにも問題を抱えているらしい。「根本的な問題は一つだけ。いや一つだけではないことが問題だとも言えるが」。そんな意味深な説明をされた調律師が見たのは、確かにその言葉通りのピアニストだった。
「そうです、私がかれをころしました。」そんな一文で始まる、あるピアニストを「殺す」までの一人の男の物語。

「呪界のほとり」
奇妙な法則によって空間が歪められてしまった宇宙。回廊によって繋がれ、竜のお供によってその宇宙を移動する旅人は、ある時何かの手違いでその呪界と呼ばれる宇宙からはじき出されてしまう。運良く拾われた旅人は、命の恩人である老人と語らう。
突然現れた刺客に翻弄されながらも、呪界への憧れを隠そうともしない老人と共に、長い夜はふけていく。

「夜と泥の」
いいものを見せてやる。20年会っていないかつての友人にそう誘われた男は、友人の移住した星へと足を運んだ。その星は、地球化を目指してプロジェクトは進行している星で、友人もそれに関わっている。いいものが見れるという沼地に潜む二人は、途切れることのない戦闘と一人の少女の姿を目にする。

「象られた力」
何らかの力により、星一つがまるごと破壊されてしまった百合洋という惑星には、ある奇妙な文化が育っていた。複数の複雑な文様を組み合わせることによって、いくつもの連想を呼び起こす、言語にも似た文化体系。ありとあらゆる図形に彩られたその中に、「見えない図形」があるはずだ。それを是非とも見つけ出して欲しいと依頼されたイコノグラファー。汚染するようにしてその図形群は惑星を支配し、あちこちに散見されるようになっていた。百合洋の子孫達も巻き込んで、「見えない図形」を捜し求めるイコノグラファーは、次第にある核心へと迫っていく。

物語的にそれなりに面白いのは、「デュオ」と「呪界のほとり」の二作でしょう。この二つはまあそれなりに楽しめるのではないでしょうか。「夜と泥の」は僕にはまったく理解できませんでした。「象られた力」は、物語としては全然面白くないのだけれども、そこに描かれたテーマのようなものは結構好きです。それが、冒頭で書いた「形」と「本質」の話です。著者が描いたものとは違う風に感じたかもしれないけども、テーマ的には魅力的な作品でした。
飛浩隆というのはまるで聞き覚えのない作家でしたが、どうやらSFの世界では「知る人ぞ知る」「伝説的な」作家のようです。ある時期沈黙していたものの、最近新作を発表したようでもあります。
本格SFという分野をうまく受け入れられるかはわからないけれども、少なくとも本作にはそこまでの嫌悪感は抱きませんでした。本格SFはなんとなく苦手だと思っていただけに、そんなに悪くはないなと思いました。もちろんいいわけではないですが。
まあ、触れてみてもいい作家であり作品であるかもしれないな、という程度です。そこまでお勧めはしません。

飛浩隆「象られた力」



フライダディフライ FLY,DADDY,FLY(金城一紀)

現実は痛い。生きている僕たちにあまりにもむごい。
現実はどこまでも広がっている。僕らが目にするすべて、耳にするすべて、感じるすべて、それが僕らの現実だ。隅々まで現実に支配されているし、現実から逃れることはなかなか難しい。
現実的ではない、という言葉がある。ただ、現実的ではないという表現自体は現実だし、それを思考し発する人間も現実だし、それを発する対象も現実だ。
だから、なんとなく憂鬱だ。
現実から飛び去る羽があればいいんだろうなと思う。僕らを現実とは違う、あらゆる現実から隔離された世界へと連れて行ってくれるものがあれば。それは、妄想による逃避でもなく、否定による遁走でもない。
それは小説だ。小説に限らないが、物語だ。
現実をベースにしていても、どこかそこから浮き上がっているような小説がある。僕にとってその代表は伊坂幸太郎の作品である。地面からほんの僅か浮き上がっている。現実っぽくて、ちっとも現実ではない。そんな小説。
本作も、まさにそんな小説である。現実から少しだけ浮き上がった世界が、僕に優しい。
また現実の話だが、現実は僕には辛い。逃げ出したいと思うこともしばしばだ。最近はそうでもないけど。
だからこそ、その現実に真っ直ぐ立っている人はかっこいいと思う。
僕らは現実に対してどんな風に立っているだろうか?
背筋を曲げている人、片足に重心を乗せている人、四つんばいになっている人、片足立ちしている人、いろいろいるかもしれない。
僕の場合はそうだな、立つことを諦めて座ってしまっているかもしれない。
立ち方によって生き方が変わる。見える世界も変わる。他人との関わりも変わる。
そんな中で、真っ直ぐに、背筋をぴんと張って、仁王立ちとも言える姿で立てる人は羨ましい。
そういう人は、自分の中に信じるべきものを持っている。それが何であるにせよ、それにさえ背かなければ真っ直ぐでいられるという何かを持っている。だから強いし闘える。生きている人間の中で、誰かと真っ向から戦えるのは、真っ直ぐに立っている人だけだろう。
僕はもはや座ったままでいる自に諦めている。でも本作を読んで、できることなら立ち上がりたいと思った。朴舜臣がいればなんとかなるかもしれないな。
空を飛びたいというのは、ある意味誰しもがもちうる夢だ。それが、言葉通り大空を飛翔するという意味でなくなったとしても、僕らは空を飛ぶことを目指し続ける。飛べたらいいな、と思い続けていたい。
本作は、そんな空を飛ぼうとするような無謀な挑戦をすることになった、ある一人のサラリーマンの話である。
妻一人娘一人を持つサラリーマン鈴木一。成しえてきた事は特にないが、家族を愛する気持ちだけは誰にも負けないという自負がある。
ある日帰宅すると家に誰もいない。妻からは、娘が運ばれた病院にいると留守電が。急いで病院に向かうと、娘を殴った少年と、その少年をかばおうとする大人達と、言葉のない妻と、顔に怪我を負った痛ましい娘の姿があった。
娘を殴った石原という少年は、ボクシングのチャンピオンだ。石原に復讐をするつもりで乗り込んだ高校で、鈴木は包丁を振り回して石原を呼ぶように言った。だが彼は大きな間違いを犯していた。その高校は石原の通う高校ではなく、その高校と目と鼻の先にある別の高校だった。
その高校で、包丁を振り回してしまった相手、南方、板良敷、山下、萱野、そして朴舜臣という五人の高校生が、彼の運命を大きく変えることになる。
彼らは鈴木の話を聞くと、復讐の舞台を用意するから、と言った。だからあなたは体を鍛えてください、と。師匠は朴舜臣だ。
それ以降、鈴木は会社を一ヵ月半も有給で休み、日々朴俊臣とのトレーニングに費やしていく。石原に復讐するために…。
という感じです。
とにかく言っておきますが、本作はめちゃくちゃ最高です。最近涙腺が結構緩めの僕ですが(前は小説や映画なんかを見ても泣いたり泣きそうになったりすることなんkほとんどなかったのに)、本作を読んで何度か泣きそうになりました。泣きそうになったからいい小説なのかと言われればその通りですが、それだけじゃなくとにかくかっこいいし暖かいし優しいし、もう最高なわけです。
とにかく最高なのが、朴舜臣という高校生です。この朴のセリフに僕は何度やられたことか。
僕が本作を最高だと感じたのは、朴のあるセリフからです。

「俺は理想のないやつには教えられないよ。おっさんはどう勝ちたいんだよ。石原をどうしたいんだよ」

このセリフが出てくるのが、講談社版の62P(というのはこの「フライダディフライ」という作品は、講談社版と角川書店版があるんです。映画になった際に角川書店から、映画公開記念みたいな形で別表紙のものが出されました)なんだけど、このセリフを読んだ時点で僕は、この朴という登場人物は間違いなく最高だと思ったし、本作も最後まで間違いなく面白いと確信しました。
とにかく朴という男からは、哲学が感じられます。確かに戦闘的に強い男ですが、筋肉バカではなく、行き方というものがきちんとあります。多くは語らないし、その背景も見せようとはしないけれども、まさに一挙手一投足から何かがにじみ出てくるような、そんな感じなのです。またその口から出てくる言葉の深いこと深いこと。
僕は普段、いい文章やいいセリフを見つけると、この感想の場に書くことが多いです。でも今回は書きません。理由は、出来るだけ独り占めしたいなと思ったからです。そうしたセリフの多くは、朴と鈴木の間で交わされるものですが、孤独な戦いに臨もうとする鈴木に対して、朴が気負うことなく自然に掛けた言葉がほとんどです。このセリフは、孤独に打ち込む男とそれを見守る男の間にのみ存在すべき言葉なのです。だから、ここで公開するような愚は犯しません。是非本作で読んでください。
また、鈴木というサラリーマンもいいです。高校生の誘いに乗っちゃうし、高校生の朴にしてやられるし(体力的にだけではなく生き方的にも)、結構ダメ男なんだけれども、それでも家族のために、仲間のために、そして何より自分のために、というある意味で優しさというものが、端々ににじみ出ていていいです。
この鈴木というキャラクター、映画では堤真一がやっていたと思うけど、ほんとうのはまり役だろうなと思います。大分前のドラマで、タイトルは覚えてないけど、松嶋奈々子(漢字違うかも)がスチュワーデスで、堤真一が魚屋で、よくわかんないけどその二人が最終的にくっついたりする、そういえば矢田亜希子(漢字違うかも)とかも出てたドラマがあったと思うけど、その時の堤真一を見て著者が鈴木を書いたんではないかというぐらいはまっています。鈴木は朴に何度も、「テヘッて笑うなよ気持ち悪い」って言われるんだけど、そのテヘッて笑う感じが、堤真一の顔で容易に想像できてしまって、笑ってしまいました。そういえば恐らく朴役は岡田潤一(漢字違うかも)なんだろうけど、それはちょっとイメージに合わない感じだったりします。
それと、彼の舞台を用意する四人の高校生、南方、萱野、板良敷、山下の四人も、本当にいい高校生です。学校の中ではどうやら落ちこぼれなようだけど、そんなの全然どうでもよくなるぐらいの清々しさです。この四人の高校生の存在が、本作を現実から少し浮き上がらせている要因だろうなと思います。こんな高校生のことを、僕は現実世界の中で存在すると思えないし、思えないけど居たらいいなと思うようなそんな存在で、この四人を読んでいるのも本当に楽しかったです。特に山下というキャラクターは本当に際立っていて、爆笑必死です。
この金城一紀という人の作品は「GO」を読んだことがあって、それも結構よかったんだけど、本作は少しそれとは傾向が違ってものすごくほんわかな感じで、さらにものすごくいい作品でした。まだ一月も半ばだけど、今年のベスト10に入ってもおかしくないかもしれないし、ベスト20には間違いなく入るだろうと思います。
本当に是非読んで欲しいと思います。

金城一紀「FLY,DADDY,FLY」




新本格魔法少女りすか2(西尾維新)

普段何かに共感するってことがなかなかにない。
何をしてても、何を見ても、何を聞いても、全部自分の外側だという感じがしてしまう。いうなれば、舞台を見ている観客の気分である。舞台との空間的な隔たりはない。それこそ、飛び込んでいこうと思えば飛び込める、けれどもそうしない。僕にとってあらゆる世界、あらゆる事象、あらゆる人が、とにかくその舞台上にあって、僕はその舞台にはいないで観客で、何の障害があるわけでもないのに一向にその距離が縮まらないような、そんな感じだ。
だから、舞台にいる役者が感じていること、見ていること、知っていること、考えたこと、そうしたことすべてが、僕とは関係ない世界にあって、僕には届かない、そんな感じがする。
よく、「主人公に感情移入できない」という言葉を、小説を読んでいる人や映画を見ている人なんかは言うけれども、僕にはその意味がどうしてもわからない。物語を、登場人物の誰かに感情移入して楽しむという感覚がない。僕にとっては物語とは総じて僕の外側の事象で、物語が僕を包みこむことも、逆に僕が自ら物語の世界に包まれていくことも決してない。その物語の世界にいる登場人物に自分を重ね合わせて、その上で物語を受け入れるなんてやりかたは、だから僕には不自然極まりない。
しかし、あまりにも僕と本質的に同じすぎて、共感どころか同体してしまうほどのキャラクターというのがいる。
それが、戯言遣いいーちゃんと、本作の登場人物供犠創貴の二人である。
共に西尾維新の小説の主人公的な人物である。
この二人の物語を読む度に、僕は自分を見ているような不思議な感覚を覚える。物語自体が鏡となって僕をいつのまにか写し取り、写し取られたことに気付いていない僕が、自らの物語を誰かの小説として読んでいるような、そんな感じすらする。
もちろんすべてが同じなわけがない。違うところも沢山ある。しかし、その違いがすべて吹き飛んでしまうぐらい、本質的に僕は二人にそっくりだ。その行動、その判断、そのあり方、そのすべてが、僕らしいし僕としてありうる。同じ状況にいたら、同じ物語になるのではないかと思うくらいの相似形なのである。
その本質は何か。
それは、自分と自分以外(人やものだけでなく社会や規律などといった概念も含める)との距離のとり方ではないだろうか、と思う。
うまくいえないけれども、こうしたものとはこれぐらいの距離を保とう、という判断が均一なのだ。そもそも、そういう判断をすること自体が共通項ではあるのだけれども。普通の人は、無意識的にはどうかわからないけど、意識的にあらゆるものとの距離を明確に規定するなんてことはやっていないのではないかと思うのだが。
そしてもう一つの共通項は、何かを完膚なきまでの破壊するだけの力を持っているということ。
この場合、力というのは能力ではなく意志ということ。つまり、何かを壊すという明確な意志を持つことができるし、持つからこそ生きているという側面もあるということだ。
いーちゃんも創貴も、積極消極を考えなければ常に何かと戦い何かを壊している。壊すべきものを周囲から見つけ出し、壊すべきという明確な意志を持ち、そして最速で有効な手法で完膚なきまでに壊す。
僕も、ある意味では常に壊すものを探し続けてきた人生だったかもしれない。壊すという明確な意志を持つことで生きてきたのかもしれない。一時期、その壊すという意志が自分自身に対して向いてしまったがために、『自分自身を壊すという目的のために生きる』というパラドックスに陥ったこともあるが、それは三人の共通項という観点から見ればごく僅かな誤差といえると思う。
とにかく、僕ら三人はあまりにも似ている。僕を知っている人がこの二人を主人公とする小説を読んだとするなら、間違いなく僕を思い浮かべるのではないだろうかと思う。少なくとも僕の本質を知っている人ならば。
だからこそ僕は、西尾維新の小説を読むのが楽しみだし、ある意味で逆説的に読むのが怖い。普通の人が感じるような、登場人物への共感とはかなり違うのかもしれないけど、こういうシンクロは、なかなか他の作品ではなしえないのである。が故に本作は僕にとって特殊である。
もう一つ別の話をしよう。
『ジョジョの奇妙な冒険』というコミックがある。実際僕は読んだことはない。しかし、『奇妙な特殊能力を持った者どもが、その能力を如何なくフルに活用することで相手を打破する』という大雑把な話の構成は知っている。
本作「りすか」シリーズは、まさにジョジョだと言ってもいい。
ある限定的な能力を持った双方が、その能力を最大限に使い尽くして相手を翻弄し打破する。つまりはそういう物語である。
あるいは、福本伸行の傑作『カイジ』の『限定じゃんけん』のようだとも言えるかもしれない。
世界観や物語の雰囲気などは違うのだろうが、どれも似たような底流を持っている。その『ジョジョ』か『カイジ』に感銘を受けたという人には是非読んで欲しいものである。
さて、そろそろ内容に入ろうと思う。
本作「りすか」シリーズは連作短編集である。それぞれの内容の前に、まずおおまかな概要だけ説明しておこう。
供犠創貴は小学五年生。あらゆる人を愚民として認識し、駒として扱うことを憚らない、まるで小学生らしくない少年。彼のクラスメイトである水倉りすかは、『魔法の国』である長崎県からやってきた魔法少女であり、時間や空間の『省略』という特殊な能力を備えている。
この二人、完全に同じとは言いがたい(たぶん)が同じような目的の元である行動をしている。彼らがしているのは『魔法狩り』で、その名の通り、魔法使いを駆逐しているのである。それは、水倉りすかの父親にして、魔法使いの中でも最強最悪である水倉神檎に近づくためである。彼らは、魔法使いとの戦闘の中で水倉神檎に関する情報を集め、さらに日々戦闘に身を置く毎日を送っている…。
これが大体の舞台設定である。それでは、それぞれの内容を。

「敵の敵は天敵!」
以前の魔法狩りで出会った、称号をいくつも持つ魔法使いでありながら少女専門の誘拐犯である影谷蛇之との戦闘の際に、りすかが聞き出した情報を元に、彼ら二人は山奥の廃墟と化した病院跡へと繰り出した。りすかは影谷から、『ディスク』の存在を聞き出す。それがどんな意味を持つのかはわからないが、少なくとも影谷ともう一人の魔法使いで守るだけの価値があるものらしい。というわけで向かった先で、彼らは予想外の展開に出くわすことになる。りすかの天敵に出会った彼らは、絶望的な状況を如何にして脱するのか…。

この戦闘で創貴が実行する作戦というのが強烈で、その非情さに見え隠れする一縷の優しさと、決して諦めることのない不屈さが、僕は大好きだったりします。

「魔法少女は目で殺す!」
繋場いたちという風変わりな転校生がやってきてからしばらくして、創貴は城門管理委員会の秘書と名乗る女性に遭遇する。要求はやはりというか、創貴らが入手した『ディスク』の引渡しだった。解析の結果何もなかったことを知っている創貴は、穏便にことを済ませようと『ディスク』の受け渡しを了承するのだが、その場に繋場いたちがあらわれ、さらに城門を抜けたといわれる『六人の魔法使い』の一人『魔眼使い』が現れるに至って事態は深刻。恭順か戦闘かの選択の中、繋場と創貴は極限の不可能状況を打破すべく力を合わせる。

この話の中で創貴が繰り出すある理屈というか推理があって、それがもう、最近読んだどのミステリーよりもキレがあって見事すぎるほどの見事さで際立っている、超絶的なもので、そのあまりの観察力と推察力に、あますところなく脱帽です。

「出征!」
創貴出征の日。彼は回想している。四番目の母親のこと。魔法使いだとのたまった母親のこと。自分と家族であろうとした母親のこと。なぜだかわからない。
佐賀県警幹部であるという創貴の父親創嗣が出てくる。息子の出征に際し余興でもやろうという腹らしい。トランプを使ったありふれた運試し。
そして創貴は、二人の魔法少女と共に、恐らく長く苦しいだろう戦闘の旅へと出征していく。

今後を予感させる終わり方です。すこぶる楽しみで仕方ありません。やはり西尾維新は面白すぎです。

その作品すべてにおいて僕を完全に魅了してやまない西尾維新。これからどうなっていくのかまるでわからないけれども、どこまでもついていこうと思います。戯言シリーズも終わってしまい、また新たなシリーズが待ち遠しいところですし、りすかシリーズももちろん楽しみでなりません。皆さんも是非、西尾維新を体感してみてください。きっと虜になることでしょう。

西尾維新「新本格魔法少女りすか2」



ららら科學の子(矢作俊彦)

なんてつまらない小説なんだろう。もうどうしようかとおもうような感じで、何度も途中で読むのを止めようと思ったほどだった。そうしなかったのは、もしかしたら何か最後にものすごいことが起こるんじゃないか、と期待してしまうからだ。あの、乾くるみの「イニシエーションラブ」のように。これが、ミステリを読む人間の悪い癖である。結局何も起こらないまま、結局何なんだという思いだけを残して、小説は終わりました。
しかし、こうも連続してつまらなさすぎる作品に出会うと、ちょっとへこみます。まあ次に読むのが、西尾維新のりすかで、間違いなく100%面白いことが保証されているのでいいんですけど。
内容は超あっさり説明できます。
殺人未遂で指名手配されていた男は、逃げるように中国へ渡った。以来農民として30年を過ごし、その時を経て今日本に戻ってきた。さしたる目的があるわけではないが、強いて言うなら妹を探すために…。
最後まで、これ以上のことは何一つとして起こらない、一体何がしたいのかまるでわからない小説である。
はっきり言って、というか既にはっきり言っているが、つまらなさすぎて驚く。
本作は三島由紀夫賞を受賞しているらしい。どういった作品に与えられる賞なのかは知らないが(舞城王太郎の「阿修羅ガール」も同賞を受賞している。この作品はめちゃくちゃ面白い)、賞を受賞するような作品とはとても思えない。
僕の読書人生の中で、唯一最後まで読みきらずに放り投げた作品が一冊だけある。鳴海章の「Neo Zero」という小説で、これは途中で何のことだかさっぱりわからなくなって、泣く泣く読むのを諦めた。どんなにつまらなくても最後まで読むことに決めているのにである。だから少なくともその作品よりは悪くはない、ということだ。
とにかくつまらなかった。全然面白くない。読む価値ははっきりいってないでしょう。無駄な時間と金を消費してしまったと思います。ですので、是非とも読まないでください。

矢作俊彦「ららら科學の子」



ねじの回転(恩田陸)

時間だとかタイムトラベルだとかについてあれこれ書くことはできるけれども、それは他の多くの作品の感想でもやっているし、本作とはちょっと合わなそうだし、先に言っておくと本作はちょーーーーーつまんなかったから、とにかく感想を長くしたくないってことで、恩田陸という作家について書こうと思う。
恩田陸という作家は、一般には広く評価されている作家らしい。
僕は本屋で働いているので、小説に関係する話題には結構近いのだけれども、恩田陸は、このミスのランキングにも入るし、本屋大賞も受賞するし、今年の新潮社の読みたい文庫1位に「ライオンハート」が決まるなど、とにかく話題が尽きない。平積みにしたりすると、結構売れるわけだ。
しかしだ、僕にはさっぱりどこがいいのかまるでわからない。
先に出した「ライオンハート」にしても、俺に言わせれば意味不明の作品でしかない。なんだこれは、という感じで、読み終えた時呆然としてしまったぐらいだ。僕の中で、恩田陸の作品で評価できるのは、「象と耳鳴り」と「ドミノ」ぐらいだろう。何度読んでもダメだと思うのに、一般に結構受けているからつい読んでしまう作家で、いつも読んだ後で後悔するはめになってしまうわけだ。
恩田陸の一体どこが魅力なのか、僕にはさっぱりわからないので割愛するとして。
ほんと、そろそろ内容に入りたいと思います。
本作は、SFで、タイムトラベル的な内容なわけです。
しかしまず言っておくと、僕にはその設定からして意味がわからずに、うまく内容を書く自信がありません。
とにかく、タイムトラベル的な技術を持った国連が、歴史に介入したがために引き起こされたと思われるある深刻な病気を根絶するために、介入する以前の歴史を確定するために時間旅行をする、みたいな感じです。
介入ポイントに選ばれたのは、あの2.26事件で、それを正史通りに確定するというのが、ミッションの内容です。
まあそんな感じの話です。
僕にはそもそも、タイムトラベル的な部分の設定がまったくわかりませんでした。「シンデレラの靴」「額縁」「正規残存時間」「ピリオド保持者」「懐中連絡機」などわけのわからない語句を説明なしに使われるので、最後までどんな原理なのか、どんな設定なのか、結局よくわからないままでした。後半、タイムトラベル的な物語にはよくありがちな、時間のパラドクス的な展開になったりするんだけど、その部分も、元の設定がまったく把握できていないので、全然意味不明でした。解説の人は、そうした独自の語句を使うことで、七面倒な説明を省いて分かりやすくした、みたいな風に書いてあって、こいつは一体何を言っているんだろうか、と思いました。
とにかく、最後まで意味不明でした。結局国連の連中が何をするために2.26事件に介入したのか、シンデレラの靴はどんな原理なのか、最終的に物語はどう落ち着いたのか、意味わかりません。
とにかく、僕としては読まないことをお勧めします。というか、読んで理解できたかた、どうか僕に懇切丁寧に設定やら結末やらを教えていただけたらなと思います。
ほんとにこの物語を理解できてる人なんかいるんでしょうか?疑問です。
そんなわけで、読まないことをお勧めします。

恩田陸「ねじの回転」






4TEEN(石田衣良)

僕は、諦めというのは一つの能力ではないかと思っている。
時々、努力すればなんでもできる、と思っている人に出会うことがある。もちろんそれは、テレビの中に出てくる人に対して感じる場合も含めるのだが、何を言っているんだろうか、と思ってしまうのだ。
努力が無駄なのだと言いたいわけではない。努力しなければ何も成しえないのは事実である。しかし、努力だけではどうにもならないことばかりで、この世の中は出来ている。その中で、果たして努力がどれほどの意味を持つだろうか。僕はそう考えてしまう。
僕は昔から、あらゆることを一瞬で諦めるようにしてきた。そういう風に訓練してきた、と言ってもいいだろう。何かを諦めても大丈夫なように世界を構築し、その中から出ない生き方をしてきた。
しかし、僕が言いたい諦めというのは、そういうこととも少し違う。そうではなくて、何かを諦めたところからスタートする、諦めるということを前提として持っている。そういうことである。
書き始めたものの、説明が難しい。
諦めたところからスタートすることが、本当の努力ではないだろうか?
例えばこういう説明でどうだろうか。人間は必ず死ぬ。これはもう努力でなんとかなるレベルではない。つまり、人間は皆、自分が将来死んでしまう、ということに関しては、まず間違いなく諦めていると思うのだ。
しかし例えば、不老不死を目指すような人が、歴史上にもいたし、今もいるかもしれない。僕は、これは想像でしかないが、そういう人々こそ、まっさきに自分が死ぬことを正確に諦めているのではないかと思う。自分が死んでしまうという未来を、避けがたく認識している。しかし、その諦めた状態からも、彼らは何かあるのではないか、という努力をしている。僕にはそう思えるのだ。死ぬことを諦めていない人が、どうして不老不死を目指そうと思うだろうか?
僕のいう諦めとはそういう意味である。行動や思考を停止してしまうようなものではなく、行動の原動力になりえるような諦めというものが存在すると思うし、それはある種の能力だと僕は感じるのだ。
例えばある有名なビジネスの話でさらに説明をしよう。
靴を履く習慣のないある国に、靴の営業に言った二人の男の話である。一方はその国の靴事情を見て、「この国では靴を履く習慣がない。だからこの国では靴は売れない」と諦めた。しかしもう一方は、「この国では靴を履く習慣がない。これはなんて大きな市場なんだ」と思った。そういう話である。
この話も、発想の転換によってビジネスチャンスが生まれる、というような話だと思うけど、僕は、後者のビジネスマンも、一旦は靴を売ることを諦めているはずだ、と思うのだ。しかし、その諦めた状態から彼は、努力によって発想を転換する。この国で靴は売れない、と一旦思うことなく、どうして靴を売ってやろうという意欲が出てくるだろうか?
さて、何でこんな諦めの話をしているかというと、僕は本作の4人の登場人物から、こういう諦めを感じるからだ。もしかすると、著者自身もそんな風に描いたつもりはないかもしれないし、他の読者もそんな風には思わないかもしれないけど、でも僕は、この4人の前向きで強い少年たちが、深い部分で、あらゆることに対して諦めているように感じられてしまうのだ。
僕には、その諦めは心地よく感じられる。少なくとも、諦めを経ることなしに、努力だけで何でもなんとかなると考えている人よりは、遥かにいいと思う。そして僕は、本作に出てくる4人と同年代の少年たちは、同じような諦めを常に抱いているような、なんとなくそんな印象を受けるのだ。それが、残念なことに、悲惨な少年犯罪や荒んだ性生活なんかに影響していると考えるのは、飛躍のし過ぎだろうか?
もう一つ別の話題。
本作の一つ前に読んだ小説が、森博嗣の「レタスフライ」という短編集である。この二つの短編集を続けて読むことで持った印象がある。
それは、本作は装飾が多いということ。
「レタスフライ」の感想の中で僕は、森博嗣の短編は、本質と装飾のバランスが長編の相似形ではなく、長編と同量の本質と、長編よりも遥かに量を減らした装飾によって構成されている、というような意味のことを書いた。僕にとってそうして作られた短編は、非常に興味深く面白いものです。
しかし本作は、装飾の方が長編と同量で、本質のバランスが全体的に薄められているような印象があります。
しかも僕にとって石田衣良の小説の装飾は、若者がじゃらじゃらとつけるアクセサリの類と同類であって、文章を読んでいると、ピアスやネックレスや指輪のような装飾がじゃらじゃらと見つかります。僕はファッションの装飾は、自分のためにつけているのであれば全然いいと思っているのですが、石田衣良の装飾は、人に見せるための装飾のような感じで、正直僕にはあまり馴染めないものです。森博嗣の短編が格調高いのに対して、石田衣良の短編は着飾っているという風に感じられてしまいます。清楚なお嬢様とコギャルぐらいの差があります。
まあそんな感じで、本作の内容に入ろうと思います。本作は、特殊な病気に罹ったナオト、太ったダイ、秀才のジュン、そして視点人物であり特に特徴のないテツローの4人の中学二年生が、東京の月島を舞台にいろんな経験をし成長していくという、青春ストーリーである。

「びっくりプレゼント」
ウェルナー症候群という、人よりも3倍近く老化が早い病気に罹ったナオトを見舞いに、残りの三人が病院へと向かった。誕生日の近いナオトに何かプレゼントをあげようと知恵を絞った三人は、女の子を一人プレゼントすることに決めた。ナオトの相手をしてくれる女の子を探しにいくが…。

この冒頭の作品は僕はそんなに好きじゃないです。

「月の草」
登校拒否になったクラスメイトにプリントを渡さなくちゃいけなくなったテツローは、何度か目に部屋まで来てくれと電話で言われる。入った部屋には人の気配はなく、テーブルにはケーキが置いてある。隣の部屋にいる彼女はドアから出ることなく、二人は携帯電話越しに奇妙な会話をするようになっていく。次第に心を許すようになった少女が部屋から出ると、そこにはガリガリにやせ細った少女の姿があった…。

結構いい話だと思います。言葉ではない優しさというものがあると思います。

「飛ぶ少年」
クラスの放送委員。クラスの男子の中では、扱いにくいと暗黙のうちに意見が一致している男子である。よくわからないきっかけで彼に話し掛けられたテツローは、今度の放送で一緒に歌を歌おうと誘ってきた。テツローは断ったが、彼が企画したという放送はあまりに酷かった。その後もよくわからない企画を立てては実行していく少年は、一体何を求めていたのだろう?

なんか、走り出した自転車が止まらない、というような印象の話です。そこまでいい話だとは思わないけど、なんとなくわかります。

「十四歳の情事」
ジュンの様子がおかしい。携帯をこまめにチェックしているし、お喋りもいつもと違う。遊びの途中に、家に呼び出されたから帰るなんて嘘をついてどこに行くんだ?ってことで尾行開始。ジュンは、ナオトも住んでいるある超高層マンションへと消えていく。ジュンの口から知らされる事実の重さに、誰もがどうしていいのかわからなくて…。

この話では、ジュンという少年がとてもいいです。「僕はあなたを認めない」というセリフは、彼が14歳でなくてもかっこいいでしょう。14歳だからこそ言えた、ということもできるかもしれないけど。

「大華火の夜に」
年に一度の大華火大会。去年見つけたS級の特等席があって、今年もそこで見ようと決めた4人。しばらくぶりだから偵察に行こうってことになるんだけど、そこにいたのは一人の病人。街中に張り紙がしてある尋ね人その人で、病院から抜け出した重病人。もうあと僅かの命だそうだ。その病人は4人にある頼みごとをする。私がここにいることを黙っていてくれないか。お礼はちゃんとするから…。

これは難しい問題です。その場に僕もいたら、どう判断すべきなのか、何を認め何を認めないべきなのか、困惑してしまうでしょう。責任を持ってある決断をした少年の勇気に、賛否両論あるかもしれないけど、僕は賛成です。

「ぼくたちがセックスについて考えること」
いつもの4人で帰ろうとした時、クラスメイトの男子が一緒に帰ってもいいかな、と声を掛けてきた。女子のようなファッションで、ホモなんじゃないかって噂がある奴だ。ホモかどうかは別にして、どうもみんなそんなに乗り気じゃない。けど断る理由もなくてとりあえず一緒に帰る。
しばらくしてある事件が起こる。クラス一の美人がその少年に衆目の前で告白したのだ。誰もが息をのむ中で、少年はその美少女の告白を断ってしまうのだ…。

これも難しいが、なんともいえない。ただ、少年の行動に間違いはないと思うし、4人組もいい判断をした、と僕は思う。これも、その場にいたらどうしていいかわからないだろう。

「空色の自転車」
ダイの父親が死んだ。ダイと弟が警察に拘留されている。そんな衝撃的なニュースが飛び交った。3人は皆、ダイを信じた。無関心な教師や近寄るマスコミにいらつきながらも、彼らは4人の友情をゆるがせない。ダイに手紙を書いたが返事はこない。不起訴で学校に通いだしても3人を避けるようにしている。ダイはどうしてしまったんだろう…。

父親を殺す、という重いテーマでありながら、石田衣良はその重さを感じさせない。軽いという意味では決してなく、真剣に描きながらも重さを与えないのだ。そのバランスがいい。ダイの判断や行動も、正しくはないのだろうが、間違ってもいないと思える。それは、次の「十五歳への旅」を読むとよりそう思える。しかし、病人のナオトまで殴るのは間違っているんではないか、と思うのだが。

「十五歳への旅」
自転車で千葉にキャンプをしに行く、と親には嘘をついて、4人は自転車で新宿を目指し、公園でテントを張って数日遊ぶという計画を立てた。刺激的な体験やちょっと大人の世界を覗く旅だったが、あるクラブで出会った二人の女性が、何だか面倒なことを持ち込んできて…。

ダイがものすごくよく描かれています。中学生に残っているはずの純真さが言わせたことかもしれないけど、あんなセリフをきちんと言える人はなかなかいないでしょう。ちょっとかっこいいなと思いました。覚悟というのは年齢とは関係なのだ、と。

本作では、大人でもないけど決して子供でもないという、微妙で複雑な中学生という世界を、中学生の目から見ているような雰囲気できちんと写し取っていて、好感が持てる作品です。爽やかさも相まって、スピード感のある物語が、まるで生きているように迫ってきます。
また石田衣良は、描く世界にあった言葉を使い分けて作品を描くのでいいなと思います。池袋シリーズのようなちょっと悪い若者や、恋愛小説のようなしっとりとした世界、そして本作のような爽やかで元気で悩ましい中学生の少年と、その世界にあった文体や言葉遣いを選択しているので、世界観が崩れなくていいなと思います。
本作では、中学生にしては結構ディープな世界が結構扱われていて、それに直面した少年たちがどう判断し行動するかが描かれています。その判断や行動が、中学生らしい若々しさとともに、中学生とは思えない大人っぽさも含んでいて、僕のイメージの今の中学生らしいなと感じるし、リアルかな、という風にも思ったりします。中学生から見た世界は、本作のように映っているのかもしれません。
僕は実は、本作にはあまり期待していませんでした。それに特に理由はありませんが、石田衣良という作家になんとなく限界を感じていたからかもしれません。それは、本作の一番初めの短編を読んだ時まで続きました。ちょっとこれは面白くないのではなかろうか、と。しかし、後半に行くにつれてどんどん面白くなっていって、最後にはこの4人の話をもっと読みたいと思うようにすらなりました。
その理由は、著者自らのあとがきに書かれていました。本作で書かれた短編は、第一作をデビューしたての頃に書き、以降出版社からの半年や一年というサイクルの依頼に合わせて書いていったもので、結局短編集に纏めるまでに5年掛かっているようです。その間に著者の筆力がどんどんと上がっていったということなのでしょう。
本作を読むと、那須正幹のズッコケ三人組シリーズや、宗田治のぼくらのシリーズを思い出しました。小学生や中学生の頃にはまったこれらのシリーズをなんとなくほうふつとさせる作品でもあります。結構お勧めです。どうぞ読んでみてください。

石田衣良「4TEEN」



レタス・フライ LETTUCE FRY(森博嗣)






実は森博嗣の短編は、結構苦手な部類に入る。
以前に森博嗣は、どこかでこんなことを書いていた。
「自分の作品の中で、もっとも自分らしいものは、「まどろみ消去」だ。この作品が合わない人は、僕の作品を読まない方がいいだろう」
しかし僕には、「まどろみ消去」という、これは短編集なのだが、この作品はどうしても合わなかった。どんな作品が収録されていたのか、もはや思い出せないけれども、なんだかもやもやとして、切れないガムテープみたいな違和感が残ったことを覚えている。
濃密過ぎるのだ、と今なら分析することができる。
小説に限らず多くの物事は、大部分が装飾で出来ていると言っても過言ではないだろう。人間の本質は何か、というのは難しい問いだが、人間本来のあり方としての本質ということなら、人間の体そのものを本質と言ってもいいかもしれない。その本質を、ファッションという装飾で隠すことによって、人間は成り立っている。同じように、本質と、それを覆う装飾がセットになっているものは多い。
小説というものはまさにその典型で、読者に与えたいもの、残したいもの、伝えたいもの、そういう本質を、物語や論理という装飾によって覆い隠している、そううメディアである。
森博嗣の長編も、森博嗣の伝えようとする本質の中身が大きく異なっているだけであって、基本的な構造は変わることはない。
しかし、森博嗣の短編というのはそうではないのだ。
僕のイメージというか考えでは、短編というのは長編の縮尺だと思っていた。本質も装飾も同じだけ減らして、長編と同じ構造を持った、長さだけが異なる存在、それが僕にとっての短編だった。今まで読んできたほとんどの作品は、こういう考えで説明をつけることができる。
しかし、森博嗣の場合、本質をまったく減らさない、という作りをしているように思う。本質を減らさない分を、装飾を大幅に削ることでまかなう。そういう作り方をしているとしか思えないのである。
これは、構想を一切持たずに書き始めるという、森博嗣のスタイルと何か関係があるだろうか?
僕が森博嗣の短編を苦手にしていたのも、長編の縮尺として短編を捉えることができないという、その違和感がほとんどだっただろうと思う。本質と装飾のバランスを無視した、本質ばかりが濃すぎるその物語に、抵抗があったのではなく、どう受け入れていいかわからなかっただけなのだろうと思う。
短編集としての前作「虚空の逆マトリクス」までは、ちょっとダメだったけど、本作「レタスフライ」は結構よかった。
「スカイクロラ」シリーズを読んだことも大きいだろう。あのシリーズは、長編の中でかなり本質の濃い作品だ。僕はあの世界観が大好きで、それが森博嗣の短編集を受け入れる土壌になったのではないか、と勝手に考えている。
とにかく僕にとって本作は、短編集で初めていい評価のできる作品になった、と思う。
内容に入ろうと思う。本作は、5編のショートショートを含む、計9編の短編集である。

「ラジオの似合う夜」
職場を辞める代わりに訪れることになったある国。そこは、以前同じ職場の後輩だった女性の出身国で、彼女は今はそこで働いている。ホテルにずっといる生活。彼女が忙しい合間を縫っていろいろと案内してくれる。彼女から聞いたいくつかの不思議な事件の話。そして、彼自身が実際に遭遇することになった、美術館での奇妙な事件。すべてがわかっても、後の祭り。

話に出てくる事件自体はそれなりに微妙だけれども、結構いい雰囲気の出ている作品で、普通ぐらいに好きである。主人公が誰なのか途中まで気付かなかった私は鈍感でしょうか?

「檻とプリズム」
子供の頃はずっと檻に入れられていた少年。そこに違和感を感じることはない。檻に守られているとさえ感じはじめる。学校に通うようになり、友達ができる。その友達と仲良くなろうとして僕に接触してきた少女がいる。彼女は、巷間を騒がせている殺人事件に興味があるようだ。檻にいた少年と、プリズムの瞳を持つ少女。

これが、本作中で最も難しい作品です。書かれている概念というか、説明しにくいけど世界観というのはかなり好きです。しかし、焦点がないというか、結局のところどこに落ち着く話なのか、ちょっとわかりませんでした。以前はこういう作品はダメだったのですが、大丈夫になってきているようです。

「証明可能な煙突掃除人」
町一番の煙突掃除人だった父の跡を継いで煙突掃除人になった青年。父が落ちて死んだおばけ煙突に登るために。そしてついにその時がやってきた…。

ショートショートです。何を言いたいのかわからないけど、なんとなく好きという、なんとも奇妙な作品です。特に、最後のセリフは、何なんでしょうか?

「皇帝の夢」
私は、ある皇帝の墓に続く、幅の広い階段を上っている。ある不思議な夢が、私をここまで連れてきた。上から降りてきた女性に、その奇妙な夢の話を聞かせると…。

ショートショート。ありがちな作品という感じはしますが、まあまあではないでしょうか。

「私を失望させて」
語りで最後まで続いていく作品。あの、桃太郎、森博嗣の手に掛かって現代的なお話に変わります。

ショートショート。これは、森博嗣らしい手法と言える作品。最後まで読んで、なるほどね、ってなって、ああ森博嗣だな、って思うような、そんな作品です。

「麗しき黒髪に種を」
子供の頃の遠足、アルバイト先の遊園地。そこで奇しくも起こる、髪の長い女性への悲劇。謝るべき過去が、謝る対象を失ってなお、その種が麗しき黒髪に届くように願う…。

ショートショート。ちょっとなんとも言えない作品ではあるが、それでも読んでいる分には不思議と引き込まれる、そんな作品です。

「コシジ君のこと」
小学校の同級生だったコシジ君。今は、夢の中にしか出てこないコシジ君。夢の中でコシジ君は、相変わらずドジなことをしている。気まぐれに出ることになった同窓会で…。

これはいい作品ですね。そういう経験はありませんが、どこか共感できてしまう、そんな感じです。

「砂の街」
故郷に戻ると、街が砂に埋まっていた。一体これはどうしたことだろうか?実家に立ち寄るが、誰も出てこない。裏側へと回ると、近所のおじさんに捕まり、何故か姪だという女性と会うことになってしまうのだが…。

本作中一番面白かった作品かもしれません。結局最後どうなったのか、どういう結末なのかちゃんとわからないのですが、でも全然面白かったです。

「刀之津診療所の怪」
加部谷・矢吹・海月のGシリーズでお馴染みの三人が、矢吹の実家の旅館があるという島へ行くことに。西之園萌絵も来る予定だが、なんと偶然にも叔母の佐々木睦子の別荘が同じ島にあって、まあある意味ついでという感じになった。
その島には、刀之津診療所という、奇妙な噂の立つ診療所があった。祟りで病気になる子供、着物姿の女性の幽霊、刀らしきものを持ってやってくる男、その刀の不自然な挙動。西之園たちは、全体の一部の理解にまでは及んだのだが…。

初め読み終わった時は、何がどう決着したのかまったくわからなかったけど、しばらくして少しだけわかりました。あの二人がどんな関係だったのかはまったく思い出せないし、最後のセリフもなんのことかさっぱりわかりませんが、大体満足です。森博嗣は、短編集でもシリーズキャラクターをどんどん登場させ、しかも複雑に絡み合わせてくるので大変です。もし、森博嗣が断筆宣言するようなことがあれば、もう一回講談社から出ている作品を一気に読み倒そう、と心に誓いました。とにかく、びっくりしました。

森博嗣の短編集は、格調高いという表現がよく当てはまります。前に、重松清の「その日のまえに」の感想で、重松清は、曖昧なものを曖昧なまま伝えるのが得意だ、みたいなことを書いたけど、森博嗣にも同じことが言えそうです。森博嗣の短編を読んで伝わったことは、曖昧すぎて言葉に表すのは難しいのだけど、でも何か大切なものが届いている感覚はばっちり残すという感じで、雪の上をどんな動物が歩いたかはわからないけど足跡は残っているみたいな感じです。
さっぱりわからないのは、本作のタイトルです。一体、「レタス・フライ」というのはどういうことでしょうか?ネットを見る限り、多くの人が「let us fly」だと考えたようで(それが思いつくことが凄いと思うけど)、スカイクロラシリーズの一環だろうと思われていたのに、レタスはそのままlettuceだそうで、まったくわかりません。誰か分かる人は教えてください。
とにかく、本作は楽しめました。過去の森博嗣の短編集を今読んだら、もしかしたら楽しめるかもしれません。本作是非読んでみてください。
それでは、気になった文章なんかを。

(前略)常に、予感はあるにに、予想しないようにしている。何故だろうか?たぶん、きっと、これしか自分を防衛する手段を知らないからだろう。私はなにも言わない。なにも主張しない。なにも求めないし、なにも拒まない。(後略)

(前略)何をどう言葉にしても、悪い方にとらえる、棘があるように聞こえてしまう、彼女は必ずそう感じ取るだろう。すべての解釈を一瞬で思いつく。敏感すぎるのだ。
(後略)

(前略)
僕はきっと将来、この世界を僕の外側に探しにいくいちがいない。(後略)

「(前略)僕は、まだ動物たちの枝や幹がどこかにあると考えている。簡単になくなるようなものではないはずだ」
(後略)

(前略)
生まれれば、きっと落ち着ける。そして、死ぬことだってできる。
(後略)

(前略)
「ふうん」
「何ですか?ふうんって」
「漢字変換するまえ」
(後略)

森博嗣「レタスフライ」



歪んだ創世記(積木鏡介)

本当に書くことがないので、メフィスト賞について書こう。
本作は、メフィスト賞という、一般応募系の新人賞受賞作品である。
メフィスト賞というのは、かなり特異な賞であって、それゆえになかなか面白い。
きっかけは、今では超ベストセラー作家となった京極夏彦である。彼が、講談社に原稿(これはデビュー作の姑獲鳥の夏である)を持ち込んだ際(通常持ち込み原稿を出版社は断る)、こんなにも面白い作家・作品がまだあるんだ、と思い、もっと広く作品を募集する形態を模索するようになったわけである。
それでできたのがメフィスト賞だ。
メフィスト賞というのは、メフィストという名前の小説連載雑誌に由来してつけられたものである。一般の公募系の新人賞の場合、ほとんどの作品を下読みと呼ばれる人々に読ませて候補作を何点か選び、その候補作を名のある作家が選評委員になり最終的な受賞作を決める、というのが普通だが、このメフィスト賞は、メフィストの編集者がその作品をすべて読み、編集者の一存で賞が決定するという、かなり異端な賞なのである。
それゆえ、普通の新人賞ならば受賞しないような作品も数多く受賞となっているし、第一回目の受賞者が森博嗣という、結構新しい賞にも関わらず、メフィスト賞受賞作家はかなりミステリー界で活躍しているという、ある意味で注目すべき賞でもある。ネットか何かで、メフィスト賞受賞作家一覧か何かを見てみればわかると思うけど、本を読む人ならば結構知っている人がぞろぞろいるんではないかと思います。
また、普通なら受賞しないような作品も、と書いたけど、ある意味で駄作だけどでも何かが編集者にひっかかって、とりあえず出してみるか的な、そういうやっつけ具合もなかなかのものだ。蘇部健一の「六枚のとんかつ」や、清涼院流水の「コズミック」なんかはその最たるもので、ある意味でこれが出版されたことが脅威だな、という感じです。
メフィスト賞は、枚数の制限も期限も一切ありません。メフィスト編集者が、これだと思った作品があれば年何回でも受賞作が出るし、めちゃ長い作品から短い作品までなんでもあります。ただ賞金はありません。
メフィスト賞受賞作家、是非とも注目してみてください。
というわけで本作ですが、かなり駄作の部類に入るものです。正直言って、まあそもそも何だか眠いというのはあったのですが、それにさらに輪をかけて眠くさせるような作品で、正直読むのを諦めようかと思ったぐらいです。先に言っておきますが、本作は読まなくていいです。
舞台は、九州のどこかの孤島で、そこでそこで男女合わせて5人の他殺死体が発見される、という新聞記事から物語は始まります。
さてその後、記憶を一切失った男女二人が、ある部屋の中で目覚める、というところから、本格的に物語はスタートします。ここは一体どこで、私たちは一体誰なのか?同じ屋敷の中に死体があったり、その死体が消えたり、死んだはずの人が蘇ったりしたり、まあでも一応ミステリだったりします。
構造的に大きな仕掛けがあるのですが、それがうまく生かされているのかちょっと判断ができません。こういう発想は誰しもが思いつく類ではないかと思うけど、形にするのは非常に難しいだろうと思います。
文章や物語の運び方が、折原一にちょっと似ている気がします。会話の下手さなんかもかなり似ています。僕は、折原一は結構好きです。いくら会話が下手で文章が月並みでも、尋常じゃない発想と奇想を常に提供してくれるからです。しかし本作は、消化しきれていない未熟な発想と月並み以下な文章によって、読む気が失せます。
とにかく、読まない方が正解だと思います。

積木鏡介「歪んだ創世記」



ダーリンの頭ん中(小栗左多里+トニー・ラズロ)

外国語というのは本当に難しい。
僕は、普通の人のような感じの英語教育を受けてきて、大学では人よりも英語に接するようなサークルに身を置き、第二外国語としてドイツ語を選択したわけだけど、今現在、英語とドイツごの知識なんかほぼないと言っていい。
困ったものだ。
英語は、やっぱ喋れたら面白いのかな、という気はする。しかしよくよく考えてみると、自分は引きこもりだってことに気付く。たとえこの先外国に旅行するようなことがあっても、外国人と話したいとは思わないだろう。日本人の他人と話したいと思わないのに、外国人の他人と話したいわけがない。会話は、生活するのに必要な事務的なものがなんとかなればいいし、それぐらいの量なら、筆談でなんとかできなくもない気がするし、正確さなんてそこまでたいしたことではないだろう。
と考えると、外国人とのコミュニケーションのために英語に興味があったわけではない、と思う。やはり、英語ができるという能力というか資格というか、そういう観点に目が行っていたのだと思う。
しかしそれではきっと、英語は上達しないのだろう。
語学というのは、否応なく文化と結びついている。その国独自の文化を背景に持ち、その国に生きる人々によってやり取りされることで、言語というものは息づく。
つまり、その国・文化・人に関心を持つことなく、言語をコミュニケーションの手段として身につけることは不可能だと言っていいだろう。万事に無関心なわたくしには、そもそも不可能な壁だと言っていい。
というわけで、コミュニケーションの手段としての語学習得はすでに諦めている。もちろん、資格としての英語にもまるで興味がない。
しかし、コミュニケーションという観点から語学を知るのはとても面白い。しかもそういうものは、ネイティブには(僕ら日本人は日本語のネイティブ)わかりずらいものだ。外国語と比較することで、ネイティブも気付かないようなことが沢山わかってくる。
本作はそんな言語に関する面白話を、あの「ダーリンは外国人」でお馴染みの、漫画家小栗左多里と言語オタクとニー・ラズロの国際結婚夫婦が、面白おかしく紹介する、「ダーリンは外国人」の姉妹本です。
書かれている内容は、日本語と英語を比較した時の違いや違和感と言ったものを集めたようなものです。
僕らが学生時代に習ったような、「母音の前のtheはジと発音」とか、「Vは唇を噛んで発音する」とかいうことを、英語ネイティブであるトニーが考え、逆に日本語の発音だって難しいものがあると指摘する。トニーにとって難しい日本語の曖昧さや、逆に漢字の素晴らしさについて語ったりもする。
とにかく読んでいて、ああそうかそういわれてみれば、という日本語にかんするあれこれが結構ある。
やはり読んでいて一番思ったのは、さっきも書いた「漢字は素晴らしい」ということだ。日本語の場合、その単語事態を知らなくても漢字の連なりでなんとなく意味を類推できる。しかし英語の場合、それぞれに語源の別な単語がつけられてしまっているために、ネイティブでもわからない状況も沢山あるのだという(病院で病名を言われてもわからない、とか)。漢字のある国に生まれてよかったな、と思います。
あとこれはよく言われることだけど、日本語の曖昧さについても書いてありました。動詞を最後に持って来れるから、最後の最後で文章の意味を逆にできたり、「と」を使うことで文章を曖昧に繋げることができたり、とそんなことが書かれています。
英語についてのなるほども沢山ありますが、僕ら日本語ネイティブが普段気付かないようなことが指摘されていて、面白いです。例えば、「卍」とか「淵」の書き順知ってますか?
髭もじゃで口のないトニーと顔がまん丸の小栗のイラストが楽しいし、その二人のやりとりが、実際のものではなく漫画上のものだったとしても、ものすごく面白いです。僕は本作を読んで、「ダーリンは外国人」の方も読みたくなりました。是非読んでみてください。なるほど、というトリビア的な感想と、面白いという感想を同時に持つだろうと思います。お勧めです。

小栗左多里+トニー・ラズロ「ダーリンの頭ン中」




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1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)