黒夜行

>>2005年11月

マジシャンの少女(松岡圭祐)

権力だとか金だとかに憧れる人が世の中にはいるようだ。というか、そういう人の方が多数派なのかもしれない。
僕自身は、そういうものには全然興味が持てなくて、権力だとか地位なんて自分を縛り付けるだけだし、金はまあ生きていくのにそれなりに必要なぐらいあればまあいいかな、と思っているような人間だ。
何故人はそこまで、権力や金を追い求めるのだろう?
というような考察をまあするつもりはない。正直考えても僕にはわからないだろう。人種が違うということなのかもしれない。
金の場合はまだわからなくもない。欲しいものを満足いくぐらい充分に買いたい、という欲求も理解できないでもない。でも、本作に出てくるような四百億という金額になると、もはや使い道を想像するどころの話ではないだろう。金がそのまま権力にすらなりうる、というかなる。
そこまでのものを持ちたいという心理は、まあ僕にはわからないわけだけど、そういう人がいるということは理解できる。
ただ、やるならやるで、他人を巻き込まないでほしいな、とまあそんな感じですかね。例えば、警察を描いたドラマや小説なんかで、よくキャリアの足の引っ張り合いみたいのが描かれるけど、まあああいうのは別に身内というか内部でやっているわけだからいいけど、でもああいうものは、その家族にまで及んだりするわけで、それは止めるべきじゃないかな、とまあそんな感じなわけで。
相変わらず何を言いたいのかよくわかりませんが。
ということで早速内容に入りましょう。
先に宣言しておきますが、本作はかなり面白いですよ。いつもより感想は恐らく短くなるだろうとは思いますが、決してつまらないわけではないので。
元自衛官にしてカウンセラーの岬美由紀は、休暇で訪れた長野で、遭難者の救助に参加した折、雪崩に巻き込まれてしまう。
日本では、都知事の提唱するお台場カジノ計画をなんとか実現させようという動きがあり、法改正なども含めた上で国会議員があれこれと知恵を絞る。
強運につきまくった永幡という男は、パチンコから公営ギャンブルまで勝ちに勝ちまくって半年で10億という資産を作り上げた。
カジノで恐れられるイカサマの隙をなくすために、イカサマに詳しいという、元警部補の藍河の元を国会議員の一人が訪ね、協力を依頼する。
そうした動きの中で、建設の完了したカジノで、仮オープンの運びとなった。江戸時代を中心とした昔風の演出を施したテーマパークに、警察のトップ・国会議員などが招待され、実際に換金可能な状態での仮オープンとなった。マジシャンの里見沙希は、このカジノのショーでマジックショーを演じることになっていたし、藍河と永幡もオブザーバーとして呼ばれた。
そんな仮オープンの真っ只中、突如武装勢力が大挙してきた。彼等は、VIPたちを人質にとり、カジノ内にある四百億と原子力潜水艦を要求した。カジノ計画の裏に隠されたとてつもない陰謀とは…。
というような話です。
松岡圭祐が本作をハードカバーで出版するわずか一ヶ月前に、石原慎太郎都知事が実際にカジノ構想を打ち出す、という非常にタイムリーな作品だったようだ。そのことが、文庫版の前書きとして書かれている。その後と知事もカジノ構想を引き上げたらしいが、その際の法解釈も本作と同様だったらしい。先見の明があるとはまさにこのことだろう。
松岡圭祐が描く、岬美由紀の出てくる作品は、本作に限らずどれも面白い。本当に、一級のエンターテイメントという感じである。悪い言い方に聞こえるかもしれないけど、ものすごく出来のいい、エンターテイメントに特化したハリウッド映画を見ているような、そんな疾走感とストーリーを味わうことができる。
ただ、だからこそなのだろうけど、読んだ後に特にこれと言って残るものがない。あー、メチャクチャ面白かったな、だけで終わってしまう作品なのである。なんとも残念な話だが、まあ仕方ない。これが、本作の感想が短くなった要因である。
岬美由紀という特異中の特異なキャラクターが、いつでも魅力的に描かれる。この岬美由紀というキャラクターを創りだしたというだけで、松岡圭祐の才能が窺えるというものだろう。心理学やカウンセラーの知識を応用した場面でだけでなく、あらゆる場面で彼女は活躍する。本当に、これも変な喩えかもしれないけど、「名探偵コナン」に出てくる江戸川コナンみたいな存在で、何でも知っているし、何でも出来るというスーパーキャラクターなのである。読んでて爽快になる。
エンターテイメントとしては本当に一級品です。とにかく、千里眼シリーズ、一作目を読んでみてほしいな、といったところです。

松岡圭祐「マジシャンの少女」



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舞姫通信(重松清)

酷く寒い夜だった。
12月の中ごろ。僕は、数時間後には始発の電車に乗って、初めてのバイト先に向かわなければならないというその深夜、住んでいた部屋の屋上にいた。
柵などない、無防備な屋上。
寒空の中、僕は無防備にそこに立っていた。
実はそこにはもう、一週間ほど通い続けていた。
何があるわけでもないその屋上へ。
毎晩寒い思いをしながら。
あと一歩、というところまで近づくことは出来た。
その柵のない屋上の縁に僕は立っている。8階建てぐらいの建物だった。下を見ると、人も車も小さく見える。ここから落ちれば、敷地内のこじんまりとした駐車場。僕の体は、そこに投げ出される。
柵のないその屋上の縁に立って、
僕は静かに目を瞑った。
元から暗いはずの世界が、一層に暗くなった。やはり都会の夜はそれなりに明るい。
目を瞑っただけなのに、体が微妙に揺れる。もしかしたら、揺れているような気がしていただけかもしれない。とにかく、寒さのために震える足と、目を瞑ったために訪れた揺れが、不安定な僕を、さらに不安定にする。
それでも目は閉じたままで。
僕は、片足を上げる。
あと一歩、と心の中で叫ぶ。
あと一歩で僕は、死を掴み取ることができる。
上げた足を、一歩前に出せ。
世界をまたぐ一歩を踏み出せ。
僕は、そう強く念じた。なにか偶発的な事故が起こることも望んでいた。
それでも僕は、しばらくして足を下ろす。
それでも僕は、しばらくして目を開ける。
そして、縁から離れる。
あの瞬間。
目を瞑り、片足を上げた瞬間。
僕は確かに、人生の中で一番死に近かったといえるだろう。
自分自身で掴み取った、紛れもない死の感触だったと言えるだろう。
あの時僕は死ねなかった。
あの時僕は死ななかった。
あの時も僕は死ねなかった。
あの時も僕は死ななかった。
どれかが正しくて、
どれかが間違っているのか。
それとも、
すべて正しくて、
すべて間違っているのか。
死ぬことで、すべてを解決・清算・収束させようとしていた僕は、それまで逃げていたものからさらに逃げ、逃げられないところまで行っても道を作り出し、どこまでもどこまでも、追われていようがいまいが、壊れていようがいまいが、とにかく逃げ続けた。
死ねたかもしれない。
死んだほうがよかったのかもしれない。
それはうまく言えない。
ただ、今は悪くない。
今は死のうとは思えない。
とりあえずそれでいい。
僕は、自分では死ねないことを、あの時知ってしまったのだと思う。
これからも、自分では死ねない、という現実に、きっと苦しめられる時が来るだろう。それだけは間違いないように思う。
死にたいと思ったときに死ぬことができるのは素晴らしいかもしれない。
生きたいと願わなくても生きてしまえる世界の中で、
死ぬことに意味を見つけることができる人生があるとしたら、
それもまた羨ましい。
本作では、人はいつでも死ねる、と強く訴える。
そういう権利があるとか、嫌なら死んじゃえとか、そういうことではない。
ただ、
意味も与えられない死ではなく、
自らで意味付けした死を選び取ることも出来るよ、ということ。
生きていることと同じくらい、
死ぬことについても意識して考えてみようということ。
そんな作品だと僕は思う。
内容に移ろうと思います。
本作は、ある女子高で教鞭をとることになった、新米教師・岸田宏海が主人公です。
宏海には一卵性双生児の兄陸男がいましたが、5年前、一切事情がわからないまま、自殺しました。陸男の当時の彼女だった佐智子とは今でも連絡を取り合い会ったりもしている。
宏海が勤める高校では、もはや毎年恒例となった、ある文書の存在があります。
「舞姫通信」
そう名付けられた文書は、不定期の発行で、ある日突然全校生徒の机の中に入れられています。
舞姫というのは、その女子高で10年前に自殺したというある少女を指している。生徒に絶大な人気があり、舞姫が自殺した中庭には、節目ごとに供え物というかプレゼントが置かれる。
一方で、舞姫通信を目の敵にしている教師もいる。原島という生活指導の教師は、舞姫通信が出ると同時に回収させ、すべて焼き捨てる。
一方で、陸男の彼女だった佐智子は、ある計画を持っている。彼女は、業界でも有名なプロダクションの一人娘で、今はタレントのマネジメントをしている。
心中自殺し損なった男の子をデビューさせる。
佐智子は、不幸な境遇を持つ者を、その背景をうまく利用して売り込む、という戦略を常に持っていて、今回の計画もその延長線上にあるものだ。
城真吾。それが若者の名前だ。
やがて佐智子の計略は、日本中を巻き込んでの騒動となる。イベントとしてやっていたはずの佐智子も飲み込まれてしまうほどの力を持って、城真吾は、あらゆるところに普及していく。
人格としてではなく、機能として。
身近にも、世間的にも、自殺で彩られた世界。自殺するということは?あなたは自殺できますか?自殺を許せますか?
自殺という縦糸に、様々な横糸の絡まる、そんな物語です。
本作は、ちょっと危険です。怖いというのではなく、やっぱり危険というのがぴったり来ます。
別に、本作を読んだ若者が共感して自殺しちゃう、みたいなことを言いたいわけではありません。そうじゃあない。
ただ、紙に落としたインクのように、染み込んでいく速度はちょっと速い。それは若者だけではなく誰でも。ちょっとうまくは言えないけど、でも本作を読んだら、自殺を否定できなくなる。もしかしたらそんな気分にさせられるかもしれない。
自殺という方向への誘導をするから危険なのではなく、
自殺を否定する方向への進行を阻止する力があるから危険だ、と言えばわかるだろうか。
そういう意味で、本作は危険だ。
読んだら、絶対に自殺というものについて考えないではいられないだろう。自分でしようとした過去を持つ人、周囲で自殺してしまった誰かを持つ人、将来的に自殺はありえると思っている人。これにあてはまる人は、今の世の中結構いると思うけど、そういう人には読んでほしいと思うし、それよりも何よりも、そういう周囲の人に読んで欲しいと思う。
読んでどう感じるかは、もちろん人それぞれ違うだろう。
ただ、自殺も含めて死というものは、あまりにも大きなテーマで、どこから話をしていいのかわからない。
だから、本作を読んで、本作を通じて自殺について考えたり話し合ってみたりする。そういうことは大事なように思います。
僕はこう考えてしまいます。あの、まさに自殺を考えていた瞬間、あるいはその直前に本作を読んでいたら、僕は何か違っていただろうか、と。答えは一生でないだろうけど、考えることに価値がある問いかもしれないと思います。
話は少し変わって。
舞台とドラマは一体何が違うだろうか?唐突な質問ですが。
僕は、映像というものに対して偏見というかそういうものがあるので、僕の今からいうことはおかしいのかもしれないけど、僕はこう考えます。
ドラマや映画というのは、とにかく「見栄えのする人」「人気な人」「数字の取れそうな人」「綺麗な人」という風に、とにかく人を見せることに重点が置かれているような気がします。
それに対して舞台というのは、場所というか空間全体を見せるものだという風に思います。
さてこれが何だとお思いかもしれませんが、僕は重松清の作品の特徴がこの違いの中に隠されているような気がしています。
大抵の物語は、人、あるいは人の動きを写し取ったストーリー、を描こうとしているように僕には見えます。上記の例では、ドラマや映画です。
しかし、重松清の作品から受ける印象は違って、舞台のような感じです。空間というか世界全体を描き切っている、という感じがするわけです。
もっと変な例えをすれば、大抵の物語は、料理の質はいいけど器が安物、という感じです。ただ、重松清の作品は、料理も器も上物、という感じなのです。
さらにもう一つ。
本作が書かれたのはもう10年も前で、その時よりも格段に若者は変化しているわけですが、本作でもその片鱗というか、若者特有の理解できない一面、というものが窺えます。
僕は、自分もまだギリギリ若者だと言って言えなくもない年齢ですが、本作を読んでこんなことを思いました。
広辞苑に載っている言葉では、若者の世界を構築することはできないだろうな、と。
年代が上がるにつれて、言葉というものは定着してこそ言葉だ、というような考え方があるように思います。最近、「忘れてはならない日本語」的な本がよくでますが、きっとそういう世代の人なのでしょう。
若者というものは、僕が思うに、言葉をそもそも消費物だと認識しているように思います。というか、言葉だけではなく、ありとあらゆるものをそう認識しているのでしょう。
言葉は、その時その時で変化していき、その中にいてその言葉に触れていないと、若者の世界はわからない。外から観察して分かったふりをしていても、絶対に溶け込むことはできない。
広辞苑という存在は、言葉を定着させるというまさにそのものの存在のように思うわけで、まあ冒頭のような印象を持ったわけだけど、僕はそれを決して否定しません。
例えどんなに美しい日本語が消えようとしていても、
停滞の中に発展はないと思うのです。
上の世代が、自分達がついていけないという理由で、様々に別の理由をでっちあげて日本語を守ろうとしているけど、言葉自体は流動的である方が、僕としては全然面白いと思います。この「全然」の後に否定が続かない使い方も、何年も前から間違っていると非難されているけど、でも通じれば何でもいいと思うし、固着させることにあまり意味を感じません。
どうも本作のな内容からかなり脱線したけどそんな感じです。
皆さん、本作を読んで是非とも自殺について考えてみてください。自殺はいけない、と無条件に思い込んでいる人は、本当にいけないことなのか、今一度考えてみてください。ちょっと危険な作品ですが、読む価値はあると思います。

重松清「舞姫通信」



沈黙博物館(小川洋子)

死んだら何が残るか?
死んでまで何を残すか?
あなたは何を残したいか?
歴史に名を残す、という言葉があるように、本当の意味で残るものは、形あるものではないだろう。森博嗣という作家が、「大学の話をしましょうか?」という本の中で、「最終的に残るのは名前だけです」というようなことを書いていた(名古屋大学の学部改変により、「建築」と名の付く学部がなくなってしまった現実に対しての意見)が、確かにその通りだと思う。
名声・功績・評判・名前。どれもが形のないものである。ギリギリでお骨ぐらいだろう。お金も家も車も本も、死んだら何もかもが所有者を変える。一個たりとも、元の持ち主のものとして残るものはない。そもそも形あるものは、時間に対して有限の拘束力しかもち得ない。
あなたは、名前以外の何かを残したいと思うだろうか?
生きた証を形として残しておきたいだろうか?
それは、死んでみないと分からないし、死んだら伝えることができない。
ただ、誰かが生きた証を形として残したい、という意志を持つものはいるだろう。
形見というやつである。
死んだ人間との思い出や記憶などを、本人が使っていた何かに託してそれを保管する。その行為に、有限の意味を見出して実行している人は、少なくはないだろう。
生きた証を形見として。
死んだ人間が選ぶわけでは決してない。
死んだ人間と縁のあった者が、自らの意思で選ぶのだ。
僕が死んだら、誰か形見を残したいと思ってくれる人はいるだろうか?
その時その人は、一体何を選び取るのだろうか?
一人の人間の人生を要約するようなその行為に、何を感じるのだろうか?
ちょっと僕には想像がつかない。
僕の周りでは、人があまり死なないのだ。
だから、葬式にも過去一度しか出たことがない。
誰かの形見というものがあるわけでもない。
僕は余りにも死から遠い。
自分から近づこうとは思わない。
ただ、遠すぎて実感できないというのも、また不幸かもしれない。
内容に入ろうと思います。
本作の軸というか縦糸となるものは、言葉にしてしまえば簡単なものです。
ある一人の博物館技師が、ある老女の命を受けて、博物館作りに専念する。
これだけです。
しかし本作は、そこに様々な横糸が絡まりあいます。それにより、かなり奇妙な、そして複雑な感じになっています。
物語は、一人の博物館技師が、村にやってくるところから始まります。彼は過去にも様々な博物館を作ってきた実績があります。
依頼人の娘だという少女に案内されて、屋敷と称してもまだ足りないくらい広い邸宅に着くと、もう老女と言ってもいいぐらいの、少女の母親だという女性との面接になります。
偏屈な人だから初めは大変かもしれない。
そう少女に言われていた通り、かなり接しにくい人で、面接のあり方から、まず不合格だろうと踏んで帰り支度をしていた技師は、少女から合格の知らせを受ける。
しかし、そこからが大変だった。まず何にせよ、老女が何の博物館を作りたいのか一向に明かさないのである。雑用をこなす中で時間は過ぎ、ある日それが明かされる。
村で死んだ者の形見を集めた博物館。
老女は、11歳の時、初めて目の前で人が死ぬのを見た。その時咄嗟に、その人が身につけていたものを形見として盗み取った。以来老女は、村で人が死ぬとどんなに困難であっても形見を収集しつづけた。
その形見を収蔵した博物館を作る。
技師にとっても難題であったが、彼は仕事に取り掛かる。
村でののんびりした生活、少女とのとりとめのない日常、自ら作った暦を守り通す老女に振り回される日々、家政婦と庭師を含めて動き出す時間、村で50年ぶりに起きた殺人事件、沈黙の修行をする僧たち。そうしたもろもろ横糸と絡まりあいながらも、実に複雑に、それでいてストレートに物語は進行していく。
そんな感じです。
まず、本作に限らず、小川洋子の作品には、ある種の古さが内包されているように思う。しかもその古さは、時間に付属するものではない感じがするのだ。なんというか、空間の古さとでもいうのだろうか。その空間が固有に持つ古さ。その空間が出来上がった時(つまり物語の世界が出来上がった時)に既に含まれていた古さ。そうしたものを感じるのだ。
これと非常に近い感覚を起こさせる作家がいる。村上春樹である。村上春樹の場合、実際的に作品自体が少し昔に書かれている、ということもあるのだろうけど、だが作品世界自体に染み込んだ古さというものを強く感じる。
その古さは、時間に関わる古さとは違って、新鮮さを損なうものでは決してない。寧ろ、時間と共に蓄積されていく時間的な古さを打ち消すような、そんな感じさえする。どう言えばいいだろうか。例えば、アンティーク調で統一した家具の中に、一つだけ金属製の真新しい家具があると、初めのうちはかなり不自然だけれども、時間とともにその金属製の家具にも時間的な古さが蓄積されていき、それとともに空間と調和し、全体として一つの新鮮さを醸し出す、というような、そんな感じです。わかりずらいですね。
とにかく、そこに含まれる古さが、逆説的な意味では決してなく、作品自体を新鮮に見せているような、そんな不思議な感覚を与えてくれます。
もう一つ、小川洋子の作品に付きまとう、ある種の印象を書こうと思います。
それは、静謐な残酷さです。冷淡でも鋭いでも暴力的でもなく、静謐なそれは、小川洋子の作品の、一種のシンボルと言ってもいいかもしれません。
なんだか例えるならば、ある種の動物の毛を、静かにゆっくりと一本ずつ抜いていくような残酷さです。一本一本を抜かれる痛みはそこまで大したことはないでしょうし、余りにもゆっくりとしているが故に、そこまで急速な変化が起こりません。しかしそれでも着実に毛は抜かれていき、それとともに痛みも蓄積されていきます。そして、ある決定的な一瞬を過ぎると、それまでは間違いなく毛の生えた動物だったものが、とてもそうは見えない何かへと変化してしまったような、そんな認識の錯覚を起こすようになるでしょう。そんな残酷さを、小川洋子の作品は秘めています。
余りにも静謐すぎて、そして作品自体も静謐なので、そこに残酷さが潜んでいるとも、潜む余地があるとも思えないのです。しかし、ある一瞬を過ぎると、そこには初めから紛れもなく存在していたはずの残酷さが突然見えるようになり、その落差に身震いをしてしまうほどです。こんな印象を与える作家はちょっと他には思いつかないですね。ある意味で、森博嗣や西尾維新が近いような気もしますが。
さて、本作ですが、初めは少し退屈でした。しかし、どこからか、と言われるとちょっと難しいけれども、途中からかなり面白くなってきました。もしかしたら、殺人事件という、ミステリ的な部分が出てきたからかもしれませんが、全体としても充分に楽しめました。
上でも書いたような残酷さが本作でもかなり際立っていて、それが後半に行くに連れてどんどんと深くなっていくので、ちょっと本当に怖くなりました。下手なホラーよりも十分に怖いと感じる人もいるでしょう。
様々な読み方が出来そうな作品です。本当に、読む人によって様々な印象を残すことでしょう。小川洋子は短編も書きますが、やはり長編の方が際立っていい作品が多いような気がします(まあそこまで多く読んでいるわけではないですが)。
本作は結構お勧めです。読んでみてください。

小川洋子「沈黙博物館」




水没ピアノ―鏡創士がひきもどす犯罪―(佐藤友哉)

歪んで曲がって捩くれて。
壊れて滅んで無くなって。
哀れで惨めで蔑んで。
壊して壊して間違って。
荒れ狂う時間軸。
混沌に支配される記憶。
間違った信念。
抗った運命。
何もかもが何もかもが何もかもが、世界のありとあらゆる物事が、時間の隅の隅々までもが、
どこか全て間違ったまま。
そこから逃げるように。
どこまでも追うように。
道を突き進むように。
道を踏み外すように。
崩壊を予知したまま。
崩壊を無視したまま。
未来を絶望しつつ、
過去を忘却しつつ、
覚えていることに嫌気がさして、
記憶という魔窟に手を伸ばす。
守ろうとした存在に否定され。
抗おうとした運命に翻弄され。
自らの存在すらも希薄になり。
どこまでも独白が自白になる。
地平の彼方には何も見えず。
事象の彼方には希望もなく。
ただ貪るように。
ただ蔑むように。
虚ろに。
虚像を。
混沌と汚濁に塗れ。
隠遁と解脱は途切れ。
あてどもなく。
とまどいのみ。
記憶の彼方から立ち上がるような、
全てを不快に陥れる無垢な存在感。
裸足で原野を歩くような。
洒脱で現在を切り捨てるような。
水面で足もとを掬うような。
存在の淵を切り落とすような。
全てが曖昧で、
全てが解体で、
巻き戻すことも立ち止まることも立ち去ることも逃げることも置き去りにすることも見ないことも願うことも祈ることも守ることも壊すことも蔑むことも貶すことも悲しむことも哀れむことも忘れることも捨てることも貶めることも陥れることも、
何もかもが全て等価で、
何もかもが全て無価値。
ありえたことはただの祈りで、
起こったことはただの驕りで、
なかったことはただの謀りで、
積もったことはただの謗りで。
それら全てを飲み込むかのように、
僕らの全てを打ち壊すかのように、
時間と記憶と愛と悪意は、
ただそこに存在する。
さて、こんな感じで駄文(とさえ呼べるのか?)を連ねてきましたが、ちょっと本作の場合、何を書こうか難しかったんです。
全てが混沌に支配されているというか、揺るぎないまとまりはあるんだけど、まとまっているが故の安定感はないというか、砂浜を歩くときのような、存在感と安定感がマッチしないが故の違和感というか、そんなものがまとわりついていて、かなり感想を書くのが難しい作品です。
人は何に支配されているのか?
それを運命と定義するのか?
あるいはそれを弱さと定義するのか?
支配されるが故に崩壊するのか?
あるいは崩壊を恐れて支配されるのか?
人はどこに向かっているのか?
そこを未来と定義するのか?
あるいは行き着いた先が未来なのか?
とにかく、そんな感じのテーマらしきものが伝わるような伝わらないような、というか僕が提示したそれがまるで見当違いなのかもしれないな、というような、そんな感じのストーリーです。
内容を紹介する前に僕の感想を書きましょう。
本作は、とっても素晴らしい。傑作です。本作は、佐藤友哉の、鏡家シリーズの第三弾ですが、今までの三作の中で段違いに素晴らしいし(前作「エナメルを塗った魂の比重」もそれなりにはよかったけど)、ミステリ作品全体としてもかなり上位に数えていいのではないか、という感じです。
褒めすぎかもしれませんが。しかし、それぐらい、ちょっとびっくりしたし、びっくりしただけではなく、強さというか迫力というか存在感というか、そうしたものがビンビン存在する作品です。佐藤友哉の鏡家シリーズは、一応シリーズではあるけど、それぞれほぼ独立した作品なので、佐藤友哉の作品を読んだことがないという人は、まず本作から読んで欲しい、という風に思います。
さて、そういうわけで内容の紹介をしようと思うのですが、これまた難しい。ちょっと、あまりに繊細に構築されすぎていて、一部分を抜き出して省略してあらすじを書き出す、というのがかなり困難な作品だったりします。それは、ネタバレに直結するという意味ですが。
というわけで、かなり曖昧に大雑把に大枠を概要だけさくっと書く、という感じにしようと思います。
本作は、三つのストーリーに分かれます。
一つ目は、しがないアルバイトで生計を立てるフリーターが主人公。彼女と別れ、ネットで知り合ったまだ会ったこともない女性とメールのやり取りをし、それ以外には趣味という趣味も目的という目的もないままに時間をただ浪費するような人生を送っている、かなり後ろ向きで世界や未来に対して暗い青年のストーリー。
二つ目は、冒頭で「これは私の遺書である」と宣言されるある画家が主人公。様々な事情により脳と精神に以上を来たした姉により、屋敷に閉じ込められる形になった家族と執事とメイドの、壮絶で悲惨な環境が描かれる。一歩でも家から出ようとすると姉に狙撃されるという環境の中で、密室殺人が起こる、というようなストーリー。
三つ目は、ある少女を世の中の全ての悪意から守ろうと努力する少年が主人公。誰よりも傷つきやすく繊細なその少女は、他人や何かによって影響を受けやすく感受性が強い。そんな少女に降りかかる悪意を、何をしてでも何としてでも振り払おうとする少年が描かれるストーリー。
さてこの三つのストーリー。冒頭から読んでいくのだが、いつまで経っても一向に交わる気配を見せなくてやきもきさせられた。まさかまさか、このまま三つのストーリーは独立したままで、三編の無関係な中篇を、ただ意味もなく分割して並べただけの作品なんではないか、と疑いたくもなるような感じだったが、後半も後半、もはや終盤と呼ぶべき段階になって、物語は一気に収束する。その怒涛っぷりというか畳み掛けっぷりはもはや圧巻ですらあった。なるほど、こういう構造でここまで繊細に組み立てされた精緻な物語だったのか、と唸らされました。脱帽です。
帯にはこうあります。
「これから壊れてしまうすべての人のためのミステリー。」
また、表紙折り返しにはこんなことも書いてあります。
『主な参考資料・つい最近終わった自分の青春』
なるほど、という感じは確かにします。
確かに無茶苦茶な部分はそれなりにいくつかあるけど(まあ前作「エナメル~」ほどではないけど)、そういう作品だと思って読めばかなり面白いと思います。かなり面白いです。是非とも読んで欲しいです。僕の場合、あまり期待していなかったからこそここまでよく思えたのかもしれないですが。とにかく僕の中ではかなりお勧めです。是非ともどうぞ。

佐藤友哉「水没ピアノ」




シュガータイム(小川洋子)

人間は、欲を支配しているのか、欲に支配されているのか?
僕の個人的な印象では、僕自身は欲に支配されていないだろう、と思っている。他の普通の人よりも、あらゆる点で欲が低いというか欲張らないというか、とにかくそういう感じなのだ。欲の存在は認めるけれども、ある一定の(しかもそれなりの小ささ)に留まっているし、これから肥大するような傾向も特にはない。
誰しもがそうだとは限らない。まあそうだろう。
僕の目には、多くの人が欲に支配されているように思う。例えば軽率な例だが、ブランド物を買いあさる、買いあさるとはいかないまでも、ブランド物が欲しいと思い、出来る限り無理をして買うような人は、ちょっと欲に支配されているのだろうと思う。
人間は生きている限り、何らかの志向を持つようになる。それはいい。僕の場合で言えば、本を大量に読む、というのが志向と言えるだろうか。
しかし、その志向が、何かを越えるようになったら、ちょっと危険ではないかと思う。自分でコントロールできる範囲で留めておくべきだ。いつでも止められるけれど、でも私はこれを続けたいし浸りたい。そういう姿勢が素敵ではないかと思うのだ。
何を書いているのかわからないかもしれないが、本作の内容とそこまで遠いわけではないと思う。
もう一つ。奇妙さというものについて書きたいと思う。
ある一定の奇妙さは、僕らの日常に静かに歩み寄ってきている、という風に僕は感じる。というか、奇妙さと唐突さはちょっと相容れないというか、そんな感じだ。
例えば、ハリウッド映画なんかで、宇宙人が来たり洪水が起きたり地球に隕石が落ちそうになったりと、とにかくそういうことが頻繁に起こるわけだ。しかし、それを奇妙という風に捉えるのは少し難しい。余りにも唐突過ぎるからだ。連続していないというか、日常から乖離しすぎている。
そうではなくて、奇妙さというのは常に、日常の延長というか、日常と並走しているものではないかと思うのだ。
今僕らが進んでいる時間を、その向きからほんのわずかずれようとしてみる。そのほんのわずかな行為が、僕らを奇妙さに連れて行く。そうであるべきだと思うし、そうあってほしい。
これまた何を書いているか不明だろうが、まあいいでしょう。
内容に入ります。
主人公のかおるは、ある時突然、無性に大量の食べ物を食べたくなった。とにかく何でもいいから、食べたいのだ。その暴力的とも言える食欲が彼女を襲った。それはすぐに終わることはなく、ずっと続いていくことに。
原因はまったく不明。過食症でもどうやらなさそうだ。彼氏もいるし、友達とも順調。特にストレスらしきものもないまま、ただ圧倒的な食欲に支配されるようになる。
かおるには、航平という弟がいる。弟と言っても血は繋がっていない。両親の再婚による、連れ子同士の兄弟なのだ。
航平はある病気というのか障害を抱えていた。背が一向に伸びない、というものだ。20歳近くなった今でも、子供のような体型をしている。そんな弟のことを、母親は常に心配している。
かおるは大学に通っているが、ある下宿で一人暮らしをしている。そこは、大家さんが神道宗教の信者で、なんと弟は高校卒業後、大学に行かずにその大家さんの元で修行する、と言って実家を出た。かおると航平は近いところに住むことになる。
かおるの彼氏である吉田さんとの関係が少しおかしくなり、かおるの食欲は相変わらずのまま、航平にも変化はなく、ただそれでも、何かががらっと転がったかのように、何かが少しずつ変化していく…。
というような感じです。内容を紹介するのが難しい。
本作は、読んでいて、うーんなんの話なんだろう?と思いました。よくわかりません。当然、面白いとも思いませんでした。
小川洋子の作品は、日常の延長としての奇妙さをうまく書いているものが多いという風に思います。日常から、少しだけ外れたところにある奇妙な時間。そこをうまく切り取ったような作品です。本作もそんな作品なのかもしれませんが、よくわかりません。
異常な食欲を見せるかおると、背の伸びない弟航平という二人は確かに奇妙な存在ではあります。でも、だからといって何だろう?という感じが残りました。
ただ、航平の描かれ方はまあよかったかな、という感じはします。解説でも書いていたけど、確かに航平の描かれ方は美しいかもしれない、と。よくわからない作品だったけど、まあそこだけは評価してもいいかなと思いますね。
小川洋子の作品は、淡々とした文章でもっと残酷なことを書くか、あるいは本当に切なくて静かなことを書くかのどちらかの作品がいいですね。本作は、ちょっとどちらからも中途半端かな、という気がしました。あんまりお勧めはしません。

小川洋子「シュガータイム」




女王様と私(歌野晶午)

ヲタクというのは、今や空前のブームだと言えるだろう。
きっかけは、言うまでもなく、ネットの掲示板で火がついた、「電車男」だろう。モテないヲタクが、電車の中で助けた女性と恋に落ちる、というストーリーだが、爆発的な人気に伴って、書籍化、映画化がされた。
それまでヲタクと言えば、とにかく気持ち悪いとイメージが先行していただろうと思う。ゲームやアニメの知識はありえないぐらい豊富だが、ファッションなんかにはまるで興味がなく、社会性にも乏しい。アイドルヲタクなんか、ひどい目で見られていただろうと思う。
まあ今でもその傾向がそれほど変わっているとは思えないけど、しかし少し前よりはかなり改善されたのではないだろうか、と言う風に思う。
秋葉原という街がある。この街は最近かなり注目を集めていると言えるだろう。
元々は電気街だったのだろう。今でもそういう、老舗の電気屋とでもいうのだろうか、とにかくマニアックなものまで揃っているような街である。しかし、ある時から、ヲタクの街へと変化していった。何故だろう?
電気街には、パソコンやゲームなんかの改造のパーツなんかが豊富に揃っていたのだろう。そういった類の人たちを相手にした商売がどんどんと寄り集まっていき、次第にヲタクのための街へと変貌していったのだろう。今では、ヲタクと言えば秋葉原だし、秋葉原と言えばヲタクだといえるほどである。つい最近、秋葉原を巡るヲタクツアーなんかも行われているようだ。
それにしても秋葉原ですごいと思ったニュースは、秋葉原に新しくオープンした何とかという電気店の来店者数が、ディズニーランドを上回った、というものだ。そのニュースを見たとき、秋葉原の凄さを今一度思い知ったと言ってもいいだろう。
また、ヲタクといえば2ちゃんねる、というのももはや浸透している概念だろうと思う。2ちゃんねるというのは、巨大な掲示板のことだが、第四の権力と呼ばれる(確か)ぐらいの巨大なネットワークである。そこから発信した文化や言葉は、今やヲタクでない人も普通に使っていたりするぐらいだし、2チャンネルの書き込みが、警察沙汰になるようなことも頻繁にあったりする。
とにかく、ヲタクという存在は、エネルギーが半端ない、という風に感じる。生きるために使われるべきエネルギーも含めて、あらゆるエネルギーを一点集中で自分のp興味ある世界へと投入するのだ。しかも、そんな人間が集団で存在する。エネルギーの塊のような連中が、ある一点に向けて集中的に集うのだ。これはある意味で脅威だ。どこかの試算では、ヲタクによる経済的な利益というのかそうしたものがいくらいくらと書かれていて、それがかなりのものだったことを覚えている。
今はアイドルやアニメやそういった類の方向にのみ特化しているからいいだろう。しかし、ヲタクが集って、例えば政界なんかに打って出たらどうなるだろうか?昔、オウムが政界に出ようとしてダメだった例もあるから一概には言えないけど、例えば秋葉原市長とかだったら、ヲタクの力でなんとかなるかもしれない、と考えるのは僕だけだろうか?
そもそも、ヲタクとはどう定義される存在なのだろうか?ある意味でみんなヲタクなのかもしれない、なんてありきたりのことを言うつもりはないけど、でも誰かしらにも、そうした傾向がないとは言い切れないだろうな、と思う。例えば、ジャニーズアイドルのファンの女性たちはヲタクと呼ばれないと思うけど、それは何故だろうか?ヲタクと呼ばれるには、分野や人種があって、行為や行動そのもので区別できるようなものではないのだろうか?
まあそうしたことはよくわからないけど、しかし今の日本、ある程度ヲタクによって支えられている部分があるのもまあ否めないだろう。支えられているというのは、決して肯定的な意味だけではないけれども、ヲタクという存在が今、某かの文化を作り出そうと、本人達にはそんな意識はないかもしれないが、少なくともその足跡には、何かしらの形あるものが残るだろな、という予感はあったりします。
そんな感じで、よくわからない、ヲタク談義でした。
というわけで、本作の内容に入ろうと思います。
本作の主人公は、ある一人の男性です。高校を中退して以来、長いこと引きこもりとして存在。親の保護の元、働きもせず、ネットゲームなんかをやりながら、日々怠惰に過ごしている、そんな人間だ。まあ、ある意味でヲタクと言っていい存在だろう。
ある日、いつものような生活をしていた彼だが、突然に家を出る決意をする。歩いて100歩の駐車場へと行き、自分名義の車に、妹とともに乗り込む…。
それから彼は、いろいろあって、ある一人の少女と出会うことになる。その少女に連れられたかられるような形で、彼はデートのような時間を過ごす事になる。その少女はまさに女王様然りといった言動で彼を奴隷のように扱う。高級なレストランをおごらせ、高いチケットを取らせる。そんな少女だった。ロリコンの彼は、それでもまあ少女と会えることをそれなりに楽しみと感じていた。
しかしそんな状況はある日一変する。突然連絡が来なくなった少女と久々に会うと、彼女の様子がやけにおかしい。どうしたのかと聞いても答えない。彼女の言葉をヒントにニュースをあたってみると、どうやら彼女の友人が殺されてしまったようなのだ。
怯える彼女。彼女からの助けを受けて、彼は事件を少しずつ調べ始める。
続発する殺人事件。糸口はまるで見えてこない。その内に彼はのっぴきならない事態に追い込まれていき…
というような話です。
まずやはり、歌野晶午らしいと言えばいいのか、一筋縄ではいかない作品です。「葉桜~」ほどではないにしろ、なかなかみょうちくちんな作品です。
あんまり書いてネタバレになるのも面白くないですが、なるほどそんなことやっちゃうわけですか、というような感じですかね。僕的には全然ありですけど、この設定に納得いかない読者はまあいるかもしれません。
全然「葉桜~」のような作品ではなく、まあミステリーです。「純粋なミステリー」と書こうと思ったけど、やはり「純粋」ではないと思ったのでやめておきました。とにかく、殺人が起きて、それを推理すると言った、形式は王道のミステリーですね。
まあ、事件の部分だけ抜き出すと結構地味な作品だったりしますが、設定の部分による装飾が結構面白い作品で、僕は読んでいて結構楽しめました。
主人公が引きこもりの男性ですが、僕もまあそこまでではないにしろ、一時的に引きこもりだった時期はあるわけで、だからどうということはありませんが、なんか怖いと思いましたね。僕は、今でさえもいつ崩壊してもおかしくない生活をしていて(全然深刻ではないけど)、結構不安定な人生なので、なんとなく不安になったりもしますね。ヲタクではありませんが、逆に考えると、ヲタクではない引きこもりというのも、ある意味ではぞっとしないというか、逆にナシなんではないか、というようなそんな気がしてきました。
まあそんなことは特に関係ないですが。
少女が殺されるというような犯罪は、最近もありましたが、やはり気持ちのいいものではないですね。殺人そのものがそもそも気持ちのいいものではないけど、怨恨だとか金目当てだとかだと、例えば自分がそういう殺人に巻き込まれたとしたら、納得とまではいかないまでも、まあ仕方ないかなと思えると思います。でも、ただ自分の満足(性欲?)のためだけに殺されてしまう、というのは、ちょっといただけないだろうな、とそんな感じがするわけです。しかもそれを、年端もいかないような幼女に対して行うなんていうのは、ちょっと超えている気がしますね。
もちろん性癖はあらゆる方向があるだろうし、それに捉われてしまった人にはどうしようもないのかもしれないけど、それでも世の中には、禁煙に成功する人がいるように、あらゆる欲を自らの力で制限することぐらいできなくてはいけないだろうな、と思うわけです。まあ当たり前すぎる話ですけど。
まあそんな感じです。なんかかなり本作の感想とは離れているような気がしますが。
物語はかなり軽快に軽妙に進んでいきます。結構そのテンポは面白いと思います。余りの驚きに絶句した「葉桜~」と比べてしまうともちろん地味ですが、読んで結構楽しめる作品だと思います。読んでみてほしいと思います。

歌野晶午「女王様と私」



新・世界の七不思議(鯨統一郎)

学問というものは、発見の世界から解釈の世界へと段々移行してきているように思う。
昔は、といっても本当に昔々、学問が誕生したての頃なんかは、まず「よくわからない」ものがそこら中に転がっていたのだろう。ありとあらゆる存在・現象が不思議なものだったはずだ。それらを、宗教で片付けてしまう歴史が長く続いた後で、ようやく学問的な体系付けが始まった。
初めというのはとにかく、「よくわからないもの」「謎」と言ったものが、何らかの「発見」によって解明されていく、その過程が学問だったはずだ。その「発見」は、物質的な発見でも、誰かの電撃的な発想でも、はたまた偶発的な現象でもいい。とにかくそうした何かの「発見」によって、長らく疑問だったことが解明され、学問はそれ自身がどんどんと進化していったのだろう。
しかし、時間が経過するにつけ、必然的に「発見」というものは減少していくことだろう。
まあそれはそうだ。物質的な発見については、もはやkろえだけ世界中をなめつくしたわけで、まだ見つけていないものはかなり少ないだろうし、誰かの電撃的な発想も、これまでに数多くの人々があらゆることを考えてきた歴史の中で、電撃的と評価できるその隙間がもはや狭くなっているのも仕方ないことだろうと思う。偶発的な現象はそもそも少ないし。
それでもまだ、物理や化学、それから動植物の世界なんかでは、「発見」による発展というものがかなりあるのかもしれない。まだ誰も見つけていない現象、まだ誰も知らない生物、なんてものがまあまだどこかに隠れているだろうし、そういう方向の進展もあるだろう。
しかし、歴史となるとそうはいかないだろうと思う。
歴史という学問は、言ってみれば、「過去何が起きたのか正確に認識する」学問でしょう。過去に目が向いているが故に、時間と共に、もっとも失われていくものがまあ歴史といえるだろうと思います。
僕のイメージでは、歴史と言う学問は、「何がわかっていないのか」という点についてももはやわかっている学問、だと思っています。全てが、「確定されていること」と「確定されていないこと」に分けられてしまっていて、そこに「未知のもの」が入り込む隙がありません。
それは、歴史というものが、時間という軸に沿っているから仕方ないともいえるでしょう。とにかく、その時間軸の中で、埋まっている部分が「確定されていること」、埋まっていない部分が「確定されていないこと」となるわけです。
しかし、例えば物理などではこうはいきませんね。そもそも、軸がありません。あらゆる方向が存在します。言わば軸(線)ではなく、平面体・立体というような印象かもしれません。
とにかく歴史という学問の場合、その「確定されていないこと」をいかに確定するかが命題なわけです。しかし、それらについて、何か新しい発見があるわけでもないのです。
そうなると、あとはもう、「私はこう解釈します」というような、解釈を競い合う学問にならざる負えないのは自明でしょう。
今揃っている文献や証拠などに、いかに矛盾しない形での解釈を提示するか。矛盾しないことで確定されるわけではなく、矛盾しない仮説は数多く存在するわけで、一概にこれが真実、と提示できない。なんだか歴史という学問は、かなり頭打ちというか先行きが詰まっているというか、そんな感じに思えてしまいます。
しかし、解釈というものは時に光り輝く魅力を僕らに与えます。積年の謎を、ある方向から見直すだけで、説得力のある魅力的な解釈に生まれ変わる。
本作は、まさにそういう作品です。
歴史には、「確定されていないこと」が数多くあって、その中でも、どびきり魅力的なものは、一般にもいくつか知られていることだろうと思います。僕ももちろん、歴史オンチな人間なんで、その一般に入りますが、例えば、ピラミッドは何のために作られたか?モアイ像は何のために作られたか?アトランティス大陸はあったのか?などなど。誰もが一度は聞いたことのある、魅力的な謎ではないでしょうか。
本作は、そんな世界中に残る謎を、7つに絞って、活気的で魅力的な解釈を提示する、という痛快な歴史小説です。
舞台は、<スリーバレー>という名のうらぶれたバー。バーテンダーの松永、歴史研究家の静香、そして雑誌のライターの宮田という、この三人しか集まらないのではないか、というぐらい寂れたバーである。実際前作「邪馬台国はどこですか?」では、この同じバーで、この三人が議論を戦わせていた。
しかし本作は、四人目の登場人物が存在する。ペンシルベニア大学から、あるシンポジウムに呼ばれて来日した、ジョゼフ・ハートマン教授である。そのシンポジウムが終わり、明日から静香に京都を案内してもらおう、というその夜に、静香にこのバーに連れてこられた。
その夜を含め計7日間、ジョゼフはそのバーに結局毎晩通うことになる。静香にいろいろ都合があって、悉く京都行きがキャンセルになってしまったからである。その7日間、毎晩歴史談義がなされ、そこで世界中のあらゆる謎に新解釈が提示される。
歴史にそれなりの興味を持つバーテンダーの松永がデータを出し、歴史研究家の静香が攻撃的で悪辣な言葉で宮田の無知を指摘する。宮田は、日本の歴史にはそれなりに知識を持つが、世界の歴史はエアスポットのようで、まるで知らない。それでも、まったく知識のない状態から、そのバーで出された情報だけを元に、今まで誰も考えたことがないような解釈を提示してしまうのである。
というわけで、それぞれの内容を少しだけ。

「アトランティス大陸の不思議」
一夜にして滅んだと言われるアトランティス大陸は実在したのか?実在したのならどこにあったのか?アトランティス大陸に関する謎に宮田が挑む。

「ストーンヘンジの不思議」
三つの巨石を、「π」の形に組み上げた巨大建造物。一体誰が何のためにこんなにでかいものを作り上げたのか?ストーンヘンジに関する謎に宮田が挑む。

「ピラミッドの不思議」
王の墓として、奴隷を沢山使って作り上げられたとして認識されているピラミッド。このピラミッド、本当は一体何なのか?何故作られたのか?ピラミッドに関する謎に宮田が挑む。

「ノアの方舟の不思議」
聖書に描かれた、洪水伝説。あらゆる動植物のつがいを舟に載せるように神からお告げがあったというような物語。その方舟は実在するのか?洪水伝説とは何だったのか?ノアの方舟に関する謎に宮田が挑む。

「始皇帝の不思議」
中国全土を統一した秦の始皇帝。暴君として知られているけれども、本当の姿はどうだったのか?本当は慕われていた素晴らしい皇帝なのではなかったか?始皇帝に関する謎に宮田が挑む。

「ナスカの地上絵の不思議」
空からでしか見ることのできない、巨大な絵。環境に守られ奇跡的に現在まで残っているこの地上絵は、一体何の目的で描かれたのか?ナスカの地上絵に関する謎に宮田が挑む。

「モアイ像の不思議」
イースター島にある、巨石を切り出して作られた巨大な像。あの像は、誰が一体何のために作ったのか?モアイ像に関する謎に宮田が挑む。

僕は、どの解釈も本当に見事だと思いました。本作の冒頭に、「この作品がノンフィクションであるという保証はどこにもありません」と著者自身が書いていて、なるほどそれはその通りだな、と思いました。これが全て真実であっても、全然不自然ではないな、と感じました。歴史研究家は、この作品をどう扱っているのでしょうか?
京極夏彦の場合もそうだったけど、在野の研究家の意見を、本職がどう捉えているのかは少し気になるところです。本作の解釈も、まあ多少強引ではないかという点もあるけど、それでも考察するに充分値する内容だと僕は思います。
どの謎も、最終的に日本と関連付けていう点が素晴らしいと思います。文化は伝承する、という考え方はまあ普通だろうけど、それでも、どの謎も全て日本と関わりがあるように見せるのは、なかなかの手腕だと思います。
本作を読むと、歴史というのはまさに、解釈の学問なんだな、ということがわかります。
特に僕がいいなと思ったのは、「アトランティス」「ストーンヘンジ」「始皇帝」「ナスカの地上絵」です。この四つは、本当に説得力があると思います。なるほど、とうならされる、というか。僕はもう、この四つについては、真実であると認識してしまいそうです。と同時に、やはり教科書は嘘ばっかなんだろうな、という風にも感じました。
あと一つ。これは本作に関する感想では全然ないのだけど、こんなことを思いました。「ピラミッド」「ストーンヘンジ」「ナスカの地上絵」「モアイ像」と、かなりの人海戦術でなければ作りえなかっただろう、と思われるものが本作には登場するけれども、そうしたものの存在からこんなことを考えました。
昔の人は、一人一人はどう考えていたのかは知らないけど、不可能だとか無理だとか、そういう発想はほとんどしなかったんだろうな、と。今の感覚だと、機械もないまま、人力だけでピラミッドとか絶対作れないだろう、という発想になるけど、それは機械なんかに囲まれて、自分の力を最大限に出さなくても生きていける環境にいるからで、やろうと思えばきっと何でもできるんだろうな、という風に思ったわけです。
今僕らが何らかの壁にさしかかっていたところで、昔の人はピラミッドを作ったんだ、という風に考えることで、自分の悩みをちっぽけなものだと思える、なんてそんな感じならいいですね。まあそううまくはいかないこともわかっていますけどね。
そんな感じです。是非とも読んでほしいものです。僕のような、歴史にはまったく興味のない人でも全然楽しめます。難しい知識とか用語とかをほとんど出さないで書かれている作品だからです。あなたも、世界の謎に挑んでみたり、世界の謎の真相かもしれない解釈に浸ってみたりしませんか?

鯨統一郎「新・世界の七不思議」




ブランコのむこうで(星新一)

そういえば、夢ってあんまり見なくなったな。
ってそれは違うのかもしれないな。見ているけど覚えていないだけ、ってことかもしれない。きっとそうだろう。そういえば、あれ夢みたけどどんな内容だっけ?っていうこと、結構あったような気もするな。
そもそも、昔はよく夢を見ていたのかな?うーん、実際あんまり覚えていないんだ。どうだったんだろう?
とにかく、夢ってやつは不思議なものだ。なんだろう。ありえないストーリーが進んでいくことが、やっぱり一番不思議なんだろう。
科学的には、夢っていうのはこういう風に説明されているんだ。脳ってやつは、日々多くの情報を取り込んでいて、それを、僕らが寝ている間に整理するのだそうだ。そうだな、イメージとしては、トランプのシャッフルみたいなものかな。1日分の情報が、初めはバラバラになっているのに、切っていくうちに、なんとうまいこと整理されている、なんて感じ。とにかくそうして情報を整理している過程で、僕らは夢を見るんだって。だから、いろんなよくわからない光景や場面が、ごっちゃになって出てくるらしい。
まあそうなのかもしれないね。
でも、誰かがちゃんと確かめたこと、ってわけでもないはずなんだ。そうだよね。脳の働きなんて、まだ誰もちゃんとわかっていないんだから、もしかしたら、夢だって違う原理で起きているのかもしれないよ。
そう、例えば<夢の世界>というものが存在する、とかね。
みんな、ある一つの<夢の世界>を持っているわけ。で、寝るといつもそこにいく。そこで寝ている間いつも過ごし、だけど起きると覚えていない。
全然ありえる話だと思うんだけどな。
世の中には、自分の思い通りの夢をみれる、なんてことをいう人だっているんだよ。見たい夢の続きとかも見れたりするんだって。それは結構すごいよね。でもそれも、<夢の世界>があるってことなら、納得でしょ。
夢、見ているなら、ちゃんと覚えていたいかな。なんだか、忘れてるのって、すごいもったいない気がしてきたよ。
とまあそんな感じで書いてきたけど、この口調結構辛いんで普通に戻します。
ということで内容です。
主人公の僕(多分名前はないかな)は、ある日なんだか嫌な予感がしていた。何かが起こるんじゃないだろうか、というような予感。それは、学校帰りで現実になった。
初めは後ろ姿だけだった。けど、自分にそっくりだな、って思った。あまりにそっくりだから、その後をつけていったんだけど、なんだか見慣れないところに迷い込んでしまった。
そしてなんと、そのそっくりさんの罠に掛かって、僕は夢の世界へと放り出されてしまったのだ…。
様々な人が様々な夢を見ています。その夢の世界に紛れ込んだ僕は、あらゆる夢を転々としながらも、現実の世界に戻る方法を模索するんですけど…。
という感じです。
本作は、今年のある時期、何故か爆発的に売れた作品です。僕も、文庫担当として、よく売れるもんだな、と感心していた作品です。何故売れ始めたのかはよくわかりませんけど。
星新一という作家の作品を読むのはこれが始めてだけど、1000を越えるショートショートを生み出した第一人者です。ショートショートとは名前の通り、めちゃくちゃ短い作品で、星新一はその中でも、SF的な作品が多かったようです。
本作はショートショートではなく、一つの長編と言える作品です。恐らく、星新一の作品としては珍しい方ではないかと思います。それぞれの夢の世界でそれぞれの話が完結するので、ある意味で短編集のようなものと言えるのかもしれませんが。
それぞれの夢の世界では、なかなかに示唆に富んだ何かが描かれます。現実の何かと結び付けたくなるような何かが描かれています。うまく表現できませんが、そんな感じです。
最近、児童文学出身の作家(梨木香歩や笹生陽子など)が出てきていますが、文体や内容的にはその先駆けだろうか、という感じです。文体は、僕が冒頭で真似ようと努力した、あんな感じです。
面白いかと言われるとちょっとそんな感じではないし(主人公は結構可愛いかも)、是非とも読んでほしい、というようなものでもないけど、まあほんわかした感じになりたいような時にはいいでしょうね。肩の力を思いっきり抜いて読める本です。薄いし読みやすいので、読んでみてはいかがでしょうか?

星新一「ブランコのむこうで」



チョコレート・アンダーグラウンド(アレックス・シアラー)

つまり、本作のチョコレートは、あなたにとって何か、ということ。
何かを禁止される、ということは、まあ誰にとっても相だろうけど、僕はとても好きではない。とにかく、何かに束縛される、ということがもう果てしなく嫌悪感発露というか、そういう代物なのである。
僕は、物事は全て多面性を持っている、と思っている。つまり、そのどの面をどの方向から見るかによって、<正しさ>が変わる、ということだ。
だから、どんなものでも、禁止するのに正当に見える理由という面を持っている。禁止するのに正当に見える理由がある、ということが、禁止するべきである、とイコールにならないことを知らない人が多いのかもしれない。
あなたは、どんなものを禁止されてきただろうか?
正直に言って、僕は何かを禁止・制限・束縛されてきたようなことはない。「勉強しないさい」「早く寝なさい」「ちゃんと仕事をしなさい」「ゲームはしてはいけません」等など、そんなことは言われた経験がまったくありません。
というのも、僕は僕自身によって、僕自身を禁止・制限・束縛し続けてきたからです。
誰かに束縛されるならば、
自分で束縛したほうがいい。
そんな風に考えるような人間です。
まあどっちにしても窮屈であることには変わりありませんけどね。
僕らは、マクロ的な、あるいはミクロ的な視点で、あらゆるものに制限されながら生きています。その制限には、ある程度の納得はしていて、守りたいわけではないけどまあ仕方ないか、と言ったものが多いと思います。例えば税金とかですね。取られたくはないけど、まあ誰からも取らないわけにはいかないし、ちゃんとやってくれるならまあ仕方ない、といったところでしょうか。
しかし、納得できない制限というのもあるでしょう。例えばなんでしょうか。例えば僕なんかは、テレビがデジタル放送になることなんか、納得いかないですけど。僕は、特に高画質高機能を望んでいないのに、テレビを新しくしないとテレビそのものを見ることができない、なんて理不尽だと思いますね。そういう意味では、NHKの受信料も同じでしょうか。
まあそれでも、なんだかんだうまくやっていくものです。
それでもどうにも納得できない制限が、何故か生まれてしまったような場合、あなたはどうしますか?
言ってみれば、それが本作の根幹ではないか、と思います。
内容に移ります。
本作の舞台は、正確な記載はないけれども、恐らく現代のどこかの国(著者がイギリス人なので、イギリスを思わせる感じがするけど)です。その国はつい最近、<健全健康党>という政党が政権を取り、それにより、ある<悪法>が制定されることになりました。
その名も、<チョコレート禁止法>。
なんと、<甘いものは健全で健康な生活には不必要>との理由で、チョコレートを始めとする、砂糖類を使用した一切(もちろん砂糖そのものも)を使用することが禁止されてしまうのです。
大変なことになりました。
この国の人は、<健全健康党>の党員以外のほとんどの人は、甘いものを好んで食べます。しかし、それが突然に、正当とは思えない理由によって奪われてしまったのです。
さて、その現状に同じように嘆きながらも、勇敢に立ち向かっていく二人の少年が主人公です。
ハントリーとスマッジャーという二人の少年です。
この二人は、チョコレートが禁止されてからもチョコレートを求め、そしてある時、思いつきます。
チョコレートを密造・密売すればいいんでは…?
そうです。あのアメリカの<禁酒法>時代に密造バーがはびこったように、少年二人も、多くの人の助けを借りながらチョコレートを密造し、さらにはチョコレートバーまで開いてしまうのです。
そんな、チョコレートが禁止されるという現実的ではない世界を、愉快に、そしてほんわかと描く、そしてなかなか風刺のきいた(ように僕には思える)作品です。
さて、本作を読むと、冒頭の僕の問いかけを思い出すのではないかと思います。
あなたにとって、本作のチョコレートは何か?
訳者は最後の解説でこう書いています。
「『チョコレートが禁止されるなんて、そんなばかな』と思っている人は、この<チョコレート>を<自由>と置き換えてみてほしい。すると、ぞっとしないだろうか。」
まさにその通りです。そういうことなのです。
ストーリー自体は、まあ王道といえるでしょう。最初の数十ページを読めば、まあ結末までの大体のストーリーが見えてくるような、そんなわかりやすい物語です。
けれども、読んで損する物語でもありません。少年二人の活躍にエールを送りたくなるし、この国の状況を、なんらかの状況に重ね合わせながら読む楽しさもあります。
児童文学のような感じで、そもそも読みやすいし、誰でもすんなり読めるのではないかと思います。大いなる期待をされても困るけど、読んでみてはいかがでしょうか?

アレックス・シアラー「チョコレート・アンダーグラウンド」



エナメルを塗った魂の比重―鏡綾子ときせかえ密室―(佐藤友哉)

ドッペルゲンガー・いじめ・食人・予言・コスプレ・密室。
上記のキーワードを全て作品に取り込んで、物語を作りなさい、と言われたら、あなたはどんな物語を浮かべますか?
っていうか、
無理ですよね?
この、あまりに脈絡も繋がりも関係性も重なりも皆無のこれら全てを取り込んで、何かストーリー性を与えるなんて、無理じゃないですか?
世の中には、変なことを考える人が沢山いることは知っていますが、この作者、なかなかに壊れています。いい壊れっぷりです。
さて、それぞれのキーワードについて、思うところをちょろちょろと書いて、内容に移りましょうか。
ドッペルゲンガーは、幸いにも見たことはありませんが、自分とまったく同じ存在が、クローン以外のあり方で存在する、というのはなかなか面白いと思います。会ったら死んでしまう、といわれていますが、ならせめて、死ぬ間際にでも見てみたいものです。というかもしかしたら、死ぬ人は全てドッペルゲンガーを見ているのかもしれません。死者は語りませんから、ありえますね。
いじめは、まあいつの世も社会問題になりますが、でも絶対になくならないものの一つでしょうね。僕は、これまた幸いにもいじめた経験もいじめられた経験もありませんが、いじめられることに耐えられないだろうと思います。なくす努力をしようとまでは思いませんが、できればなくなって欲しいものの一つです。
食人については、ちょっと想像を絶しますね。しかし、確かに考えてみればただの肉ですし、共食いをする生物もいるわけですから、なんら不自然なことではないのかもしれません。同じ種族に食べられたくない、という人間の恐怖が、食べてはいけない、に切り替わったのでしょう。恐らく。
予言は、まあ基本的には信じないですね。当たらなかったらなんだかんだ理由をつける、というやり方をすれば、基本的になんだって予言になると思うからです。それに、予言できる、という人が、その能力を人に公開する理由が僕にはわかりません。もし僕に予言の能力があったら、絶対人には言わないで、その予言によってなんらかの利益を得ようとするでしょう。そっちの方が、明らかに賢明というものです。
コスプレは僕には理解できませんね。他者を被る、という発想自体は否定しないし、寧ろそれについては賛成ですが、それをコスプレという形で実践する必要はないと思います。なんにせよ、コスプレをすることで、周囲に対して目立ってしまうことがまずありえません。他者を被るためにやっているなら他の方法を模索すべきでしょう。目立つためにやっているなら、別にいいですが。
密室と言えば、もはやミステリでは定番中の定番、というやつになりました。さまざまに味付けされ世に出てきてはいますが、未だにネタが枯渇することがないというのがすごいものだと思います。ミステリの王道にして変幻自在、といったところでしょうか。
さて、そんなところで、内容に入ろうと思います。
本作は、四つの物語(視点)を交錯させることによって成り立っています。そのそれぞれを書きましょう。
まずは、食人の話。ある時から、人間の肉しか食べられなくなった少女。ある外科医の協力により、病院内で死亡した患者の肉を分けてもらえていたけれども、その医者が殺されてからは、備蓄用の肉を食いつないで生きてきたけど、もうなくなった。ああ、人を殺して食べるしかないんだどうしよう…。
次は、コスプレ少女の話。学校では果てしなく目立たなく、クラスでも影の薄い少女は、実はコスプレが趣味です。そういう集まりに行ったりして交友を広げています。転校生がやってきて、その転校生とともに密室で死んでいるクラスメイトを発見してしまうんですけど…。
次は、いじめの話。ある学校のあるクラス(上記の二人の少女も同じクラスです)では、一人の少女がいじめにあっています。クラスの力のある者が積極的にいじめをし、他の人は見て見ぬフリという典型的なパターンのいじめです。視点は、そのいじめをしている一人であるある男子生徒。結局いろんなことに巻き込まれていくんですけど。
最後に、ドッペルゲンガー。ある仕事を依頼された男は、川で全裸で浮いていた少女を救出。その少女は、私に私を奪われた、と意味不明なことを言う。ドッペルゲンガーだろうと思っていたが、その男もそのドッペルゲンガー(?)を目撃してしまうんです…。
さて、その四つの物語が、絡まりながらもつれていく、という感じです。
しかし、かなり壊れています。
かなりぶっ飛んでいます。
でもとりあえず、最後になんだかんだ強引かもしれないけど、それぞれをまとめ上げて一本にしてしまうのだから、大したものだと思いました。
とりあえず、受け入れられない人も結構いる作品だと思います。リアリティがない、と言って作品を酷評する人を僕は嫌っていますが、まあこれについてはそういう批判もまあ仕方ないかもしれないし、ご都合主義というありきたりの批判も嫌いですが、本作にそういう批判が集まってもまあ仕方ないかもしれないな、という気はします。
しかし僕は、エンターテイメントはとにかくなんでも面白ければ全然まったく問題ない、という風に思っています。
僕の中では、本作は結構面白かったです。
確かに、欠点に見える部分は多いかもしれないし、かなりあちこち無茶強引が多いかもしれないけど、でもそれでも本作は、読む人を無理矢理にでもひきつける面白さが、どこかしらあると思います。
もちろん、素晴らしいとは言わないけれども、でも悪くない作品だと思います。
とにかくサクサクっと読めてなかなかに面白い話だと思います。結末まで読んでムカツク人は多いかもしれませんが、寛大な心で最後まで読んで欲しいと思います。

佐藤友哉「エナメルを塗った魂の比重」



東京DOLL(石田衣良)

恋愛は、どこか遠い。
誰かが誰かを好きになる、というのはどういうことなんだろう?普段は考えないそうした疑問を、頭の中に一瞬過ぎる。
僕には少し難しい。
少し思うことがある。
「好きだと思うこと」と「好き」とのい間には、大きな隔たりがあるだろう、と。
本作の中に、こんな感じのセリフが出てくる。
「何で自分の心って思い通りにならないんだろう。好きなのにどんどん気持ちが離れていく」
なるほど、とそう思った。「好きだと思うこと」は結局言葉なんだな、と。
僕らは、言葉を使い始めるようになって、自分の心すらも欺けるようになった。「好き」という言葉にあらゆる意味を込めて、自分の気持ちをごまかそうとする。本当に好きではなくても、「好き」という言葉を口に出すだけで、自分を偽ることができるようになる。
じゃあ恋愛ってなんだろう?
「好き」という言葉を、自分の気持ちとはかけ離れているかもしれない言葉を、共有することで世界が広がるとでも信じている言葉を、ただ無為に交換するだけの、それだけのことなのかもしれない。
もちろん、そんなこと本気で信じているわけではない。
あくまでも、そういうこともあるかもしれない、というだけのことだ。
しかし、遍く恋愛は、全て幻想だと思う。鏡と向き合った時に生まれる、僕と僕自身の虚像の間の空間のように、ひどく非現実的な、それでいて妙にリアルな、そんな場に引き込まれていくだけのことだ。
その幻想の世界から、抜け出せなくなるのもいい。
あるいは、幻想だと気付いた上での恋愛もいい。
ただ、幻想であることに気付いたのに、気付かないフリをしてはいけない。
幻想だと気付いたからと言って、幻滅してはいけない。
常にそこにあるように見えて、
実は果てしなく遠くにあるもの。
手を伸ばせば触れられそうなのに、
実際には感触を確かめられないもの。
自分が世界の中心であるかのようでも、
実は誰もが等しく中心であるだけのもの。
恋愛ってなんだろうか?
答えを求めているわけではない。
答えを考える志向を求めているだけだ。
答えなんてなくてもいい。
目的なんか皆無でもいい。
現実なんか消し飛んでもいい。
それでも誰もが、恋愛をする。
そこに何もなくても、
何でもあるかのように錯覚できる人間だからこそ、
なんとか成り立つのだろう。
恋愛は幻想だ。
だからと言って、くだらないものでもない。
さて、相変わらず何を書いているのか見失っているので、内容に入ります。
天才的なゲームクリエーターがいる。相楽という名前で、MG(マスター・オブ・ゲーム)と呼ばれている。デジタルアーミーという、克巳というゲームプログラマーと共に作った会社で、驚異的な人気を誇るゲームのシリーズ第四弾の構想を練っている。
金は果てしなくも持っているが、使うことに大して興味を持てないMGは、ゲームの構想中はなおさら顕著になり、コンビニ弁当で済ます日々が続く。
そんなある日、普段から通っているコンビニで、レジの店員に声を掛けられた。いつもこの時間に来るんですね。ただそれだけだったが、その女性を見たMGは、瞬時に行き詰まっていたゲームの構想が開けるようだった。代利という名のその店員は、完璧なプロポーションを誇っていた。MGは迷わず、彼女をモデルとしてスカウトした。四ヶ月間、東京のあちこちで、資料としての写真を撮る。
モデルとして天性の才能を持つヨリ、MGの彼女であり婚約者でもある裕香、ヨリの彼氏であるヨシトシ、他にもデジタルアーミーの仲間や、ゲーム販売を請け負う巨大な会社。そういった、ありとあらゆる中心に立つことになるMGは、短い期間であらゆるものを得、あらゆるものを失う。
MGと、背中に天使の羽のタトゥーを持つヨリの、東京という街を舞台にした、クールで切ない恋物語。
恋愛小説は、毎度書くけど結構苦手で、なんだかなという感じになってしまう。でも今回は、そこまで悪くはなかった。悪くはなかった、という程度だけれども。
やはりそれは、ヨリという女性が丁寧に描かれていたからだろうと思う。モデルになることで、自らをMGの人形と言ったヨリ。天使の羽で東京という街を羽ばたきながら、どこか寂しげなヨリ。MGを惹き付け、デジタルアーミーの仲間を惹き付け、恐らく日本中の人が惹き付けられるだろうヨリ。その存在感が、短い話の中で躍動的に描かれていて、リアルなのかどうかはわからないけど、少なくとも普段恋愛小説を読む時に感じるような、嘘臭さというか受け入れがたさというものは感じなかったように思う。
MGという男のあり方には、間違っていることはわかっているけど、でもどこか共感できてしまう部分が多い。きっと僕も、こんな人間なのだろうと思う。
あまり深く何かを感じるような作品ではなかったけど、読んで悪いことはなかった。恋愛小説にしては、割とよかったのではないかと思う。恋愛小説を読みたい人には、どうなんだろう、まあいいんではないでしょうか?
そんな感じです。

石田衣良「東京DOLL」


北京原人の日(鯨統一郎)

歴史はミステリーそのものだ。
僕は歴史にはまったく興味はない。とにかく僕にとっては、「過去に起きたことを覚える」だけのものだったし、受験を離れてみても、ただ過去に起こった特徴的な出来事だからと言って、なんらかの興味が生まれるわけでもなかった。
僕らが今常識だと思っている歴史は、実は誰かの創作かもしれない。
僕は、あながち嘘ではないと思っている。
例えば物理などの場合、研究の材料になるものは、自然に起きている様々な事象である。そこに人為的な意図が絡む余地はもちろんあるが、そういった雑音を排除していって残ったもので理論を組み立て、世界を認識する。そういう学問である。
しかし、歴史の場合、材料は文献がほとんどだ。後は、誰かの記憶、現在まで残っている物品や建造物、ほんの僅かな(とされている)推測、といったものだ。
人為的に手を加えられるものばかりではないか。
例えばだが、ネッシーという生物が、かつては存在した。存在していると思われていた。しかしそれは、ある人の悪戯であることが後に判明した。
もちろん、悪戯でやっていた人がいるからと言って、ネッシーの存在が完全に否定されるわけでは決してない。しかし、「真実」を見定める材料も、「真実」を決定するのも、全て人間の手によってである。それが歴史というものだ。
物理でも、間違いはある。アインシュタインの相対性理論の登場によって、ニュートンが間違っていたことが証明されてしまった。しかし、その間違いは、決して人為的なものではない。ニュートンの理論は、一般に観察される事象に関しては完璧だったわけで、観察の程度が足りなかっただけだ。
歴史に関しても、同じことは言えるのかもしれない。例え間違いがあっても、それは人為的なものではないし、ただ観察が足りなかっただけだ、と。
しかし、間違った歴史を真実とすりかえることができるのもまた事実だろう。
歴史とは、完結しないミステリーのようなものだ。
いつまでも伏線や証拠が現れ続け、それらをうまく満たす解決があっても、また新たな伏線や証拠が現れ、いつまでたっても完結しない。
「地球上に今までに住んでいた全ての人」という集合が作者である、壮大なミステリー。あらゆる人があらゆる解釈を、まるで探偵のように導き出していく。
歴史ミステリーというのもその一つだ。史実を元に、現在考えられている歴史とはまるで違う、あるいは未だ解決されていない歴史上の謎を解く、そんなミステリーだ。
三億円事件のようなものかもしれない。あの事件では、犯人が意図的に残した証拠が多すぎて、一つ一つ検証していくうちに、本当にうっかり残した痕跡を風化させてしまう、というやり方をしたらしい。歴史の中にも、様々な伏線や証拠が、まとまりをもたずに点在している。だからこそ様々な解釈が出来るし、ミステリーの題材にもなる。
書いているうちによくわからなくなってきたので、この辺で内容に移ろうと思います。
達也というカメラマンは、バイクで銀座を走行中、空から降ってくる軍服の老人を目撃した。文字通り、空から降ってきたのだ。何故老人は、軍服を着たまま空から降ってきたのか…。
という点ももちろんミステリーだが、さらに怒涛の展開を見せる。その軍服の老人は、ポケットの中になんと、北京原人の化石を持っていたのだ。
これがいかにものすごいことなのか説明しよう。
北京原人の化石はなんと、太平洋戦争勃発の直前に、忽然と姿を消しているのである(これは史実です)。それから現在まで発見されていない。北京原人の化石は学術上大きな価値があるので、誰もが、どの国もが必死に探したのにも関わらず、である。
その北京原人の化石を、空から降ってきた老人が持っていたのだから、世界は騒然となった。
アメリカのロックフェラー財団が、北京原人の化石に二億円の懸賞金をかけた。
カメラマンの達也と、雑誌社で出会ったさゆりは、その二億円に釣られる形で、北京原人の化石を探し始める。そこには、戦時中の秘密部隊の謎、下山国鉄総裁轢死事件(かつての国鉄の総裁だった下山が、事故なのか殺人なのかわからない形で、轢死体として発見された、これも過去の事実)、山下奉文将軍の財宝(太平洋戦争の将軍だった山下奉文がどこかに日本軍の財宝を隠した、とこれも現在に伝わる伝説である)などの謎も絡んでくる。
誰が何の目的で北京原人の化石を隠したのか?
そしてそれを、何故老人が持っていたのか?
歴史の様々な謎に奥深く迫る、これぞ歴史ミステリー、という作品。
歴史は得意ではないけど、本作は解説にもあるように、そういう歴史の苦手な人にもそれほど抵抗なく読める作品で、わかりやすい。
それに、一つの謎ではなく、歴史上のいくつもの謎を、北京原人の化石を中心に一気に解決(解釈)している点が、なかなかすごいものだな、という風に思った。
まあ、ストーリーはかなりしっかりしています。
もちろん、こういう作品を書く人にそこまで要求するのは酷かもしれないけど、キャラクターや文章はまああまりに平凡です。まあ仕方ないのかもしれないし、そこに面白さを求めるような作品でもないのでいいのかもしれないけど。
キャラクターで一点、どうにも納得のいかない点があって、それは、主人公の一人であるカメラマンの達也が、初めは歴史にも疎いただの出来の悪い(かつての成績はよかったようだけど)若者だったのに、後半になると、ひらめきも発想も論理も、初めよりもはるかにパワーアップしていて、なんだこの進化は?という風に感じました。ちょっと、初めの設定からずれまくっているように思います。
まあ、サクサク読めるし、へーって感じもするし、お手軽に手に出来るミステリーだと思います。是非とまではいかないけど、そこまで悪くない作品ですよ。

鯨統一郎「北京原人の日」




中国行きのスロウ・ボート(村上春樹)

普通の小説は、イメージで言えば地面が先にある、ようなものだと思う。
まず地面があり、そこに芽が生える。根を伸ばし、幹を太くし、枝を蓄える。そういうようにして出来上がる小説が、ごくごく普通の一般的な、平凡にしてでも面白い典型的な小説ではないか、と僕は思う。
全てが繋がっていて、全てに道筋があって、全てが完結する、というような物語。
しかし、村上春樹の小説というのはどうにも違うような気がするのだ。
まず、枝がある。時には、幾本もの枝が存在する。その枝の、先の先から幹の方へと辿っていき、やがて根にたどり着き、そこでようやく地面ができる、時にはもしかしたら地面は出来ない、なんだかそんな小説のような気がするわけだ。
よくわからないかもしれない。それはまあ仕方ない。書いている僕だってちゃんとはわかっていない。
でも、村上春樹の作品の一部はそうして作られているような気がするし、それが生み出す単調さというものが極めて際立っているという風に感じるのだ。
単調であるということ。
村上春樹の作品に漂う雰囲気を正確に現しているのではないかと思う。
その単調さは、単調さ故に派生するさらなる単調さによって増幅され、一層単調さの輪郭を深めていくわけだ。
例えるならば、単調な映画を映画館で見ている時、その単調さが映画館全体を、ひいては観客一人一人の人生をも単調にしてしまうような、そんな雰囲気なのだ。
相変わらず何を言っているのかわからないだろう。もちろん僕にもわかっていないから大丈夫だろうと思う。
その単調さこそが物語である、と村上春樹は主張したいのではないか、という風に感じるのだ。
どこにも行き着くことなく、何にも寄り添うことなく、方向も行き先も、標識も信号も、道路も車もないままに移動し続けているみたいな、そんな感じかもしれない。
何を切り取るわけでもなく、どこを強調するでもなく、ただ世界を、一方では何かで隠しながら、一方では何かで覗き込みながら、右手で文章を書き、左手で消しているような、そんな印象かもしれない。
ますますわからなくなってきた。これは今僕が、果てしなく眠いからだ。眠くてしかたないからで、どうにかして早く寝ようと、一生懸命キーボードを打っているのである。
結論から言えば、本作は僕にはあまり面白くなかった。僕の単調さ理論から言えば、とにかく単調すぎて、もしかしたら俺はそのせいで眠いのか(そんなわけはないが)と疑いたくなるくらいだ。
世界に対して結論や意見を欲しているわけでは決してない。
しかし、結論も道筋も何もない(ように少なくとも見える)物語は、僕にはちょっときつい。
それぞれ、何の誰の物語なのかさっぱりわからなかった。
余りにも殺人的に眠いので、短編それぞれのタイトルだけ書いて終わろうと思います。ちょっと適当すぎて、あとで後悔しそうだけど、まあ今回ばかりは仕方ないですね。

「中国行きのスロウ・ボート」

「貧乏な叔母さんの話」

「ニューヨーク炭鉱の悲劇」

「カンガルー通信」

「午後の最後の芝生」

「土の中の彼女の小さな犬」

「シドニーのグリーン・ストリート」

「カンガルー通信」と「シドニーのグリーン・ストリート」はちょっとよかったかな。「午後の最後の芝生」と「土の中の彼女の小さな犬」は、雰囲気は好きだけど、話が意味不明すぎる。初めの三つは、とにかく意味不明だった。
というわけで。適当すぎる感想もここまで。以上完。

村上春樹「中国行きのスロウ・ボート」



ネコソギラジカル上(十三階段)・中(赤き制裁vs.橙なる種)・下(青色サヴァンと戯言遣い)

物語は存在だろうか、発生だろうか。
物語は顕在するだろうか、派生するだろうか。
のっけから戯言です。
物語とは。
僕らは、世界に関わっている限り生きている。
生きている限り世界とは関わり続ける。
その舞台としての世界。
その演技としての人生。
それは、物語だろうか。
あるいはそうでないのか。
僕らは、物語の世界にいるのではないか。そういう風に思ったことは何度もある。
どこかに作者がいて、
どこかに読者がいて、
僕らはただの登場人物。
あらかじめ定められたセリフを、
あらかじめ押し付けられた行動を、
あらかじめ課せられた人生を、
ただ当たり前のように消化していくだけの、
僕らはそんな存在ではないのだろうか。
誰にも判断は出来ない。
僕らが、物語の登場人物であることを確認できない。
なぜなら、
登場人物は、どうあっても作者には、読者にはなりえないからだ。
登場人物は、
思い通りの物語を紡ぐことも、
紡がれた物語のその先を読むことも、
叶わない。
ただひたすらに、
読まれるための人生を、
読者のページを捲る速度と同調しながら、
縛られた生き方をするしかない。
するしかないのだろうか?
予言というものがある。
もしも、物語が存在であるなら、
この予言というものはつまり、
登場人物が読者となって、
少し先を盗み読みをしている、ということなのかもしれない。
あるいは。
僕らは過去を知っている。
過去なにがあったのか、という歴史を保有している。
しかし、もし物語が発生であるなら、
過去というものは誰かの手によって一瞬で作り上げられたものなのかもしれない。
小説の1ページ目のように、
ある瞬間から突然始まった人生なのかもしれない。
しかしまあそんなことはどうでもいいのかもしれない。
問題は。
世界の終わり。
物語の終わり。
もしも僕らの生きている世界が物語であるならば、
そこには必ず終わりが存在するだろう。
完結しない物語はない。
例え「グインサーガ」であろうと、「宇宙英雄ローダン・シリーズ」であろうと、
いつか完結することには代わりがない。
作者が死去したとしても、
その時点で、物語は完結したと判断していいだろう。
世界の終わりが物語の終わりなら、
世界を終わらせることで物語の終わりを見ることができるなら、
物語を加速させるスイッチを見つけられたとするなら、
そのスイッチを押すための力を手に出来たとしたら、
あなたは、
世界の終わりを見たいと望むだろうか。
物語の終わりを見たいと願うだろうか。
終わらせるまでの犠牲も、
終わった先の存在も端から無視して、
あなたは、
物語を加速させることができるだろうか。
きっと僕にはできない。
登場人物が読者になれる、という点は魅力だ。
運命すらも操って、
因果すらも乗っ取って、
必然すらも乗り越えて、
偶然すらも体得して、
物語に参加するのではなく、
物語を読破することができるというなら、
魅力の一字に尽きる。
それでも僕は、
物語の終わりを見たいとは思わない。
物語を加速させようとは思わない。
なぜなら、
僕は生きているからだ。
どうしようもなく、生きてしまっているからだ。
死ぬのが厭だ、と言いたいわけではない。
確かに、死ぬことは怖いが、
しかし、嫌悪することのものではない。
物語の終わりと同時にこの身も滅ぶというなら、それはまあいいのかもしれない。
それでも。
それは僕だけのことだ。
僕の世界だけは、僕自身の権利で終わらせていい。
しかし、
僕は、他の誰かの人生を終わらせたくはない。
誰もが望んで生きているわけではないのかもしれない。
誰もが好んで生きているわけではないのかもしれない。
それでも、
生きている人は生きている。
死なない人は生き続けている。
世界は一つではないが、
物語は一つだろう。
物語を終わらせることで、
全ての世界が終わってしまうというのなら、
僕には興味がない。
例え読者になれるのだとしても、
登場人物に戻れないのなら意味はない。
誰が物語を紡いでいるにしろ、
誰が物語を読んでいるにしろ、
僕が登場人物の一人であるというのなら、
僕は登場人物であり続けたい。
ただそれだけだ。
それだけのために生きている。
それでもいいのかもしれない。
読者がいるのなら、
せめてこう伝えたい。
誰か、せめて一人でもいい、
僕のことを好きになって欲しい。
どうせ、主人公ではないにしろ、
しがない脇役にすぎないにしろ、
それでも、
誰でもいい、
僕のことを好きになってほしい。
所詮戯言だが。
届くはずのない言葉は、
伝わるはずのない祈りは、
戯言だ。
ただ、
戯言も捨てたものではないかもしれない。
さて、そんな戯言塗れの前書きですが、どうでしょうか。なるべく、西尾維新っぽい文章になるように努力したつもりではありますが、なかなか難しいものです。
というわけで、待望の、待ちに待った、待ちすぎてくたびれてしまうほど、くたびれすぎて気を失ってしまうかもしれないほど、というぐらい待ちわびた、戯言シリーズの完結編全三巻。下が出るまでは上も中も読むまいと決めてはやどれぐらいだろうか。読みたくて読みたくて仕方なかったけど、ようやくよむことが出来た、そのことがとりあえず嬉しい。
戯言シリーズが完結してしまうことはとても残念だが、
物語には潔さも必要かもしれない、とも思うわけで。
痛み分け、とでも言えばいいだろうか。誤用かもしれない。
そろそろ内容の紹介に入ります。下らない戯言にはうんざりでしょうから。
さて、本作。簡単に構図を言ってしまえば、「狐面の男vs.戯言遣い」ということですね。わかりやすいといえばわかりやすい。けど、全然分かりやすい物語ではないですね。
まずは狐面の男。因果から解放され、運命を操る、などというこの男は、物語の終わりを見る、というその一点の目的に、ある時からとりつかれた。その時から、ありとあらゆる組織・手段・人・機会・時間を駆使して、研究に没頭する。
物語の終わりを見るためにどうすればいいか。ひたすら考え続けた。
あらゆる手を試し、悉く失敗し続けた男は、なんと戯言遣いであるいーちゃんに目をつけた。
あらゆる因縁に彩られた狐面の男と戯言遣い。
運命と呼ぶには余りにも陳腐で、
必然と呼ぶには余りにも完膚で、
だからこそ狐面の男は、戯言遣いを敵とみなす。これほど自分と因果があり、かつ様々な運命を翻弄し、数々の背景を持つこの戯言遣いを、恐らく狐面の男はこう判断したのだろうと思う。
この男は、物語の主人公なのかもしれない、と。
物語の主人公に手を出せば物語は加速し、
物語の主人公をいいタイミングで終わらせれば物語も終わる。
そんな風に判断したのかもしれない。
とにかく、戯言遣いのいーちゃんは、迷惑にも狐面の男と敵対するはめになった。
狐面の男は、<十三階段>という名の集団を組織する。あらゆる特徴を保有するその面々を使用し、狐面の男は戯言遣いと相対する。
一方で戯言遣いは、これまで出会った様々な人に助けを求め、協力を依頼し、巻き込むことで、狐面の男と相対する。
多くの犠牲が出た。
大切な多くのものを失った。
世界を、物語を終わらせるつもりの狐面の男と、
何も傷つけたくないという一心で動き続ける戯言遣い。
全ての伏線を消化し、
あらゆる事象を完遂する。
戯言シリーズ最終にして最大の傑作、ここに極まる。
という感じですね。どうにも、内容紹介でも、西尾維新の文章を意識してしまう。
やはりめちゃくちゃ面白かった。これで戯言シリーズが終わってしまうのだと思うと、果てしなく悲しい。
本作は、今までのように、事件らしい事件が起こらない。事件が起きて、それを解決する、といった物語ではない。最初から最後まで、狐面の男と戯言遣いの、あるいみ静かで、ある意味激しい攻防が描かれていく。
そしてその中で、ありとあらゆる人の人生に、何らかの区切りをつけていく。最終話らしく、今まで出会った誰もが、本作で初めて出会った誰もが、何らかの帰結を迎える。
あらゆる人間関係が、少しずつ、あるいは大きく変化する。
その変化の中心に、常に戯言遣いがいる。
いーちゃんは、これまでのシリーズを通じて、余りにも大きなものを背負い続けてきた。
誰かが傷つくなら、自分が傷ついたほうがましだ。そう思い続けながら、常に周りの誰かのために、その身を削り続けてきた。
ある意味で呪縛。
ある意味で枷。
そうしたあらゆるものからも、何らかの形で解放される。
解放。
どんな形であれ、どんな評価であれ、誰もが一定の解放を迎えているような気がする。
悲しみを乗り越えながら、
辛さを飲み込みながら、
それで得た解放に意味を見出しながら。
言いたいことが多すぎて、
書きたいことが多すぎて、
全然まとまらないけど、
ありきたりだけど言えることがある。
戯言シリーズに出会えてよかった、と。
その誕生と終焉と同時に存在できてよかった、と。
物語は本作で終わる。
しかし、本作のお陰で、
物語の終わりにも、続きがあるって思えた。
世界の終わりにも、希望があるって思えた。
だから、何もかもがいいのかもしれない。
いーちゃんと玖渚。
シリーズ当初からの、ある意味不思議で、ある意味奇妙なこの関係。
この関係も、完結する。
どうなるかは、読んでのお楽しみ。
物語の終わりに立ち会う覚悟と、
シリーズの終焉を受け入れる努力と、
最高傑作を読むという高揚が、
ない交ぜになったまま読み始めた本作。
完結してしまった。
終結してしまった。
しかし、
簡潔な完結ではないし、
集結した終結である。
書きたいことは多いけど、
戯言はここまで。
終わってしまった世界に惜しみない拍手を。
始まってしまった続きに惜しみない期待を。
では。

西尾維新「ネコソギラジカル」







イリュージョン(松岡圭祐)

マジックというものに身近に触れた経験はないが、あれはやはり驚異的だ、といつ見ても思う。素晴らしい。どんなマジックにも種がある、ということがわかっていても、である。
僕が知っているマジシャンというのはそう多くない。ふじいあきらとかMr.マリックとかふじいあきらとか前田なんとかなど。それぞれに個性、つまり見せ方に様々違いはあるものの、どれを見ても驚くことには違いない。
例えば、前田なんとかというマジシャンのクロースアップマジックには、いつ見ても驚かされる。何かの番組で見たのだが、プロのマジシャンが見てもネタがわからないようなマジックもあるらしい。マジックのテクニックだけでなく、その見せ方も評価されており、マジック大国(だと思う)であるアメリカでも、かなりの評価をされている。
マジックは、何故そこまで人を魅了するのか?
一般に、人に騙されることに、人間は不快感を感じるように出来ていると思う。詐欺など大げさなことでなくても、ちょっとした約束を守らなかったりということでさえ、表に出すかどうかは別として、多少なりとも不快感を感じることだろう。
しかし、マジックは同じ騙すにしても、喝采を浴びる。
騙されることが前提である、というのが一番の違いだろう。一般に、普通に騙される時には、騙されるという覚悟がない。知らない間に騙され、騙された後に気付く。実質的な損害を被る点ももちろん大きいだろうが、やはりこの、騙される前提がないことが一番だろう。
マジックの場合は、それがマジックであることが先に示されることで、騙される覚悟を観客はするわけだ。騙されても仕方がない、という心境になる。だからこそ、見事に騙されたことに対して、拍手を送る。
僕は今、当たり前に過ぎることを書いている。それは充分にわかっている。ただ、こういうことを言いたかったのだ。
「マジック」を、「騙す前提を与えることなく」使ったら、それはやはり「詐欺」だと。当たり前すぎることではある。しかし、マジシャンはその一線を越えてはならない。
確かに何度も思ったことがある。テレビのマジックショーを見ていて、ああ、マジシャンが万引きしても、絶対にばれないだろうな、と。
ただ、そこを踏み越えてはいけない。「マジック」によって「万引き」をしてしまうと、その時点で全てが嘘になってしまう。マジシャンである自分が、嘘で塗り固められてしまう。
そうなったら、悲しいだろう。娯楽として騙すことを職業にした者が、犯罪として騙すことを覚えてしまったら…。
本作は、そういう一人の悲しい少年を描いた物語である。
主人公は椎橋彬。マジックが好きな中学生として初めは登場するが、ひどい家庭環境や孤独、マジックに逃げるしかない状況などが相まって、両親の離婚を機に家出を決意する。
そこから、椎橋の懸命な生きるための模索が始まる。偶然知った万引きGメンという存在に憧れ、万引きGメンとして次第に成功していきながらも、その裏で、絶対に露見することのない、マジックのテクニックを駆使した万引きを自ら実行する。万引きGメンと万引きという二束のわらじを履きながら、どちらの面でも椎橋は成功し、次第に地位を築いていくが…。
一方で、椎橋を追う側の存在が出てくる。前作「マジシャン」でも登場した枡城という刑事と、沙希というマジシャンを目指した少女の二人だ。二人は、防犯カメラにもその万引きの瞬間を捉えさせない見事な椎橋のやり口に翻弄されながらも、次第に椎橋を追い詰めていく…。
というような話です。
前作「マジシャン」が余りにも面白くて、それに期待して本作を読んだのですが、どうも期待しすぎたようです。前作は、マジックのテクニックを駆使した新手の詐欺の手口がいくつも編み出され、それを沙希という少女が悉く暴いていくという話だったのに対し、本作は椎橋という少年の、マジックを通じた万引き、というその一点のみを前面に出し、基本的に少年の悲哀を描くようなヒューマンな感じになっていて、ちょっと物足りないという風に感じました。
また、椎橋の両親が描かれるのですが、どうにも不自然というか、その両親の話そこまで必要?というか、なんというか違和感を残すような存在で、はっきりいってあまり必要ではないのではないかという風に感じました。
また、沙希の活躍もほとんどなく、それも残念でした。
松岡圭祐の作品は、これまで読んだどの作品もかなり面白かっただけに、ちょっと残念ですね。どうもこのシリーズには、「フィナーレ」という名の第三弾が出るようですが、読むかな?という感じです。
前作「マジシャン」の方が圧倒的に面白い作品だと思います。本作はそこまでお勧めしません。

松岡圭祐「イリュージョン」



死神の精度(伊坂幸太郎)

死というものは、それがどんなものであれ、突然、という印象を与える。老衰や病気で、もう幾ばくもない、というような状況も多分にあるだろうが、それ以上に、僕らの耳にあらゆる方向から入ってくる死に関する情報は、突然さに彩られている。
寿命、という言葉があるが、どういう意味だろうか?本作でも、少しだけそのことが描かれる。その人が死んだその時が寿命なのか、あるいはひとそれぞれ寿命というのはあって、しかしそれよりも早く死んでしまうことはあるのか?
前者の場合であれば、まあ話は簡単だろうと思う。寿命はあらかじめ決まっているわけではない。人はいつか死ぬし、死んだ時が寿命である、という考え方は、まあ潔いとも言える。
しかし後者であった場合、どうしても気になる点が一つある。それは、一体誰が寿命を決めているのか、ということだ。
最近ニュースでこんなものを見た。人の寿命は、父親の遺伝子にしか影響されない、と。よくはわからないが、父親の遺伝子の何かによって、子供の寿命は決まる、というのだ。
そのニュース自体はまあどうでもいいのだが、少なくとも医学的に、寿命というものが定義できる、ということがわかると思う。
確か何かの番組で見たのだが、医学的に寿命という場合、それはある遺伝子の複製が終了する、ということを指すらしい。人間のある遺伝子は、複製を繰り返すのだが、どういうシステムかは知らないが、その複製が終了する時期が来るらしく、それが即ち人間の寿命だというのだ。不老不死を研究している学者は、この複製の回数を伸ばすことでそれを実現させようとしている、というような番組だったと思う。
というわけで医学的に寿命というのはなんとなくわかっているが、しかし、いついつに死ぬ、ということまでわかるわけではない。
人の死は、誰かに司られているのだろうか?
そこに、人間以外の何らかの意志が介在する余地はあるのだろうか?
人はいつかは死ぬ。どれだけ不老不死が研究されても、それは間違いないだろう(もちろん、生きている、という定義にもよる。死んでなお冷凍保存され、未来に生き返ることを期待している人たちがいるが、定義次第では彼等は生きているとみなすことはできるかもしれない)。ただ、どうそれを迎えるかは、本当に人それぞれなのだろう。自ら死を選ぶのか、望まない事故や災害に巻き込まれるか、あるいは病気や老衰で天寿を全うするか。
人は生きているうちは、なるべく死から目を逸らそうとする。若いうちは、自分がいつか死ぬなんてまったく想像ができないものだ。それはまあ仕方ない。いつだって人は、死から目を逸らすために、歴史を築いてきたようなものなのだから。死とは別のゴールへと道を延ばそうとする努力が歴史の本質かもしれない。
それでも、意識しなくても少しずつ、僕らは死を意識していくことだろう。体が少しずつ死んでいるのかもしれない。精神が少しずつ削られていくのかもしれない。そうやって、少しずつ死を受け入れていく過程で、僕らは期せずして出会うかもしれない。
死神と。
さて、本作の帯からの受け売りだが、こんなのはどうだろうか?
①CDショップに異常に入りびたる
②苗字に町や市の名前がつかわれている
③受け答えが微妙にずれている
④素手で人に触ろうとしない
⑤いつも雨にたたられている
あなたの周りに、上の五つの項目を満たすような人はいませんか?もしいたら、その人は死神かもしれません。
本作は、死神の話である。しかし死神といっても、おどろおどろしい妖怪(京極夏彦のような)ではなく、死神というれっきとした職業(れっきとしているのか不明だが。そもそも「れっき」ってなんだろう)に就く存在なのだが(人ではないのだ)。
死神は一体何をするのか?
どうやら死神というのは、完全な分業制らしい。本作に出てくるのは、情報部と調査部だけだが、少なくとも実行部というような部署もあるはずだろう。
本作の主人公である死神は、調査部に所属している。調査部の死神は、情報部が集めてきた情報を元に、その対象の調査をし、その対象が本当に死ぬべきかどうかを判断する、という仕事だ。
しかし、どうやらこの調査部の仕事は、どうにも儀式的なものでしかないらしい。ほとんどの死神が「可」(つまり死なせてもよい)という判断をするらしい。対象が死ぬ(ことになっている)日の一週間前に送り込まれ、その対象の調査をし、「可」か「見送り」の判断をすることになっているのだが、判断基準はその死神に任せられているし、大抵の死神は「可」の判断をする、という何とも仕事として成立しているのか?という有様だ。もしかしたら、その死神組織を監視しているような組織があって、そこに対して、「ちゃんと調査をして死ぬべき人を判断していますよ」というポーズのためだけに、調査部は存在しているのかもしれない。考えすぎだろうか。
死神にはどういうわけか音楽(本作中ではミュージックと呼ばれるが)が好きらしく、CDショップに行けば大抵同僚に会う。不真面目な調査員は、ろくに仕事もせずに音楽ばかり聞き、一週間のぎりぎりまで粘り、結局「可」の判断を下すものが多いが、本作の主人公の死神は、一応真面目に仕事をしようとしているようだ。
毎回、調査対象に接近するのに最もよい年齢容貌が選ばれるので、容姿は一定しないが、名前は「千葉」で統一されている。とにかく人ではないので、時間の感覚も違えば、寝ず食べずでも問題ないし、もちろん死ぬこともない、という存在である。人ではなく、人については知識で知っているだけなので、受け答えが微妙にずれることも多い。また、本作の主人公が仕事をする時は(他の死神はそういうことはないらしい)、必ずと言っていいほど雨で、まだ晴れを見たことがない、と何度も言っている。また、素手で人に触ると、その相手を気絶させてしまう、という変な性質も持っているし、電波に乗った音声なら、多少離れていても聞き取ることができる、という能力もあったりする。
そんな変な死神の物語です。
短編集であり、6編収録されています。それぞれの内容を簡単に紹介します。

「死神の精度」
調査対象は、クレーム専門の電話受付嬢。電話では精一杯明るい声を出すのだが、普段はぼそぼそと暗い喋り方をする。話を聞いてみると、どうやら最近変なクレーマーがいるとのこと。やたらと彼女を指名し、変な要求をしてくるのだという。ただ、死神にそれをどうにかしてやろうという気はないのだが…。

さすが伊坂という作品です。相変わらず伏線が見事で、短い話だけどばっちり決まっています。変なクレーマーの正体が、なるほどですね。この短編は、日本推理作家協会賞を受賞しています。

「死神と藤田」
調査対象はやくざの藤田。込み入った事情があって、ある男(別のやくざのトップ)を探している。藤田は組の中でも浮いているのだが、阿久津という男は藤田に心酔している。藤田が、そのべつのやくざのトップを殺しにいく、という話にはるのだが…

死神らしい発想(という表現は変かもしれないけど)が光る作品ですね。いい話です。

「吹雪に死神」
調査対象は、雪山の別荘に旅行に来ていたある夫人。その別荘には、旅行に当選したという面々が集まっているのだが、調査対象の夫が死体で発見されてから、徐々におかしくなっていく。吹雪の中の山荘で起こる連続殺人(?)の謎とは…。

「嵐の山荘もの」という、本格ミステリを完全にパロディにしているというか、そんな感じです。伊坂が本格っぽいやつを書くとこうなるのか、という感じですね。

「恋愛で死神」
調査対象は、あるブティックで働く男。そのブティックで会った女性を好きになり、目の前のマンションに住んでいることを知って、毎朝偶然を装ってバス停で会うようにしているのだが、ある日突然「もう止めてください」と言われるのだが…。

この男は不恰好な眼鏡を掛けているのだけど、なんか大変だな、と感じました。冒頭で死ぬシーンが出てくるのだけど、なんか清々しい感じで悪くないです。

「旅路を死神」
調査対象は、ついさっき殺人を犯してきた青年。その青年と車に乗って北へと向かう。旅の目的もわからずに車を走らせるが、青年は次第に自分の過去を話し始める。青年の目指す旅の目的とは…。

結末が微妙に曖昧なところがまたいいですね。死神が全然死神らしくないのはどの話でも同じだけど、なんだか父親のような感じもしないでもないです。本作では、伊坂作品を読んでいる人なら、ああ、って思える人が出てきますよ。

「死神対老女」
調査対象は、美容院を一人で切り盛りする老女。その老女はなんと、死神が人間ではないことを素早く察知、もう自分が死ぬんだなとわかっているのである。そんな老女は死神に、ある奇妙なお願いをした。この美容院に髪を切りに来る10代後半の若者を何人か勧誘してきてよ。しかも明後日限定で。何の意味があるかはわからないし、そこまでする義務もないのだが、死神は律儀に老女との約束を果たそうとする…。

死を扱っているはずなのに、とっても爽快なストーリーで、素晴らしく和やかです。老女の変なお願いの種明かしも、なかなかいい感じです。それにこの話には、最後に結構びっくりさせられました。

どの話も本当に素敵です。特に「死神の精度」と「死神対老女」がよかったです。
主人公の死神は、無愛想であまり可愛げがあるとは思えないけど、でも伊坂の手にかかると、そんな奴でも結構いい風に描かれます。伊坂の作品に悪人が出てきても、悪人らしくない、と誰かが言っていたけど、本当にその通りで、みんな結局はいい奴、って風になります。
死神なんていう物騒な存在が暗躍する話なのに、全然暗くないし、むしろ「こんな死神ならいてもいいかも」って風にも思えるかもしれません。とにかくお勧めです。是非読んでください。

伊坂幸太郎「死神の精度」



大学の話をしましょうか(森博嗣)

「常識」というものは、マスコミから零れ落ちるのだろう、となんとなく確信している(誤用だろうか?)。
世の中には、様々な意見がある。誰かが何処からか「問題(に見えるもの)」を集めてきて、これまた誰かが、「解答(に見えるもの)」を繰り出す。まあこれは普通だと思う。どこでもどんな場でも誰の間にでも起こりうるし、起こっている。口喧嘩なんてものが、まあ日常的で分かりやすい例だろうか。
しかし、これがマスコミを通して行われると、とたんに違ったものが生み出される。マスコミは、意図的にしろ無意識的にしろ、「問題」と「解答」のやり取りを通じて、「常識」やら「通念」やらといったものを生み出してしまうのだ。
僕らは日々、自分で何かを考えているようで、実はあらゆるものに影響を受けている。「自分の考え」なんてものが、実はあらゆるものの切り貼り切り売りであることに気付いているだろうか?そんなものを振り回して、「自分の意見」に自信を持って、それで何かを主張しているような人を見ると、なんだか恥ずかしくなるのは僕だけだろうか?
そうやって、マスコミから零れてきたというか、マスコミが作り上げてきたというか、寧ろマスコミすらどこかに操られているだけで、とそんなことを言い出すともはやなんだか陰謀みたいだけど、でも本当に日本政府が流れを作っていて、自分達の都合のいい「常識」をなんとか作り出そうとしてきた歴史なのではないか、という気がしてきたぞ、書いているうちに。
いろんな「常識」があるが、一度全て疑う視点を持って見てはいかがだろうか。どこかで発表したりする必要はまったくなくて、自分の中でそう思えばいいだけだけど、そういう視点を持つことはとても大事だと思う。
さてもう一つ。「大学」について。
僕もまあ一時期大学生だったわけで(OBではなくあくまで元だが)、まあ少しは身近に感じる話題ではあるけれども、しかしじゃあ大学ってどんなところだと聞かれても、うまく答えることはできない。
学生は、勉強しているよりも遊んでいるようにしか見えないし、
先生というか教授とはほとんど接することはなかったし(これは僕の事情から)、
大学だってそもそも一つしか行っていないわけで、何とも比較のしようがないというのが事実だ。
ただなんとなくだけど、変な組織だよな、とは思っていたと思う。これは、通っていた間に実感したわけではなくて、たぶん森博嗣のS&Mシリーズを読んだせいではないかと思うのだが。
本作を読んで、まあほんの僅かなのだろうけど、やはり大学という組織は変なところなのだな、と再認識した次第。こんな組織は他にはないだろう。
それではそろそろ内容に移りますが、本作は基本的にQ&Aで進行している作品で、何とも紹介がしずらい。ということで、気になった文章を作品中から抜き出し、それについてちょくっと何か書くという形で感想を書こうかなと思っています。

「ちゃんと働いているけれど、他人に迷惑をかけている人よりは、働かないでも、周囲に迷惑をかけない人の方が、僕は良い状態だと思います。」
NEETについての話だが、その通りだと思う。仕事をしていることが上位なわけではない、という森博嗣の考え方には共感できる。

「(問題を解くという)その「学力」に関しては低下していることは事実でしょう。それは、しかし、「ゆとり教育」という謳い文句で、ずっと邁進してきた結果であって、(中略)今さら、低下していると目くじらをたてる方がどうかしているように思います。」
実際目くじらを立てているのはマスコミであって、邁進してきた政府ではない、という批判は出来ますが、どうでしょうか。それよりも、「学生が身に付けるべき学力」とは何か、について議論すべきだという意見には、なるほどなと思いました。

「(敬語は)適切に使えなくても、敬意を示そうとしていることの方が重要です。きちんとした言葉遣いをしていても、全然気持ちが籠っていないよりは、ずっと良い状況だと思います。」
確かに、細かい点を指摘してまで敬語をきちんと話させることに、あまり意味を感じませんね。

「ただ、「家庭は無条件に良いものだ。すべてを解決する愛の場だ」と考えることは、もうほとんど宗教の世界だと思います。」
森博嗣らしい意見だけど、実際僕もそう思います。

「どういうわけか、今の子供たちは、自分が観察したものよりも、人から聞いたものの方を信じる傾向にあります。テレビでやっていること、友達が言ったこと、そっちの方が正しいと思ってしまうんです。」
僕もどちらかと言えばそうだからわかるのですが、きっと誰かに責任を押し付けないと生きていけない人が多くなっているのだと思います。

「情報の正確さよりも、関連する何かを、できるだけ早く、そして多く思い浮かべられるか、ということなのですね。」
「もう少し簡単にいえば、質問に答えられることが知識だと思っている人が多いのです。」
知識についての言葉。確かに「鳴くようぐいす~」と正確な情報を覚えるよりも、これとこれ似ているな、という感性の方が大事でしょうね。それを測る尺度がないというだけで。

「人間の知的能力は、問題に答えることではなく、問題を見つけることである、というのが僕の考えです。」
これはあらゆるところで書いていますね。初めてこれを聞いたときは、なるほどなと感心しました。

「森も最近気付いたことだが、本当のところ、研究とは、何を研究したら良いのかを見つければ、峠はもう過ぎていると考えても良いくらいだ。」
ある雑誌に掲載された文章から。生まれてから、問題を与えられ続けてきた今の若者の、決定的な短所が問題を見つけることなのかもしれません。豊か過ぎる環境にあって、問題を認識しずらくなったということもあるでしょう。

「ただ、ひとついえることは、学ぶことは楽しい、という森の個人的な体験である。」
作家になって、もう働かなくても大丈夫なくらいになっている森博嗣が、それでも大学を辞めないでいる理由でしょうね。本当に、研究が好きなんだな、ってわかります。

「(論文の発表会はほとんどお祭りのようなものだ、という話の後)だから、TVなどで、「○○学会でこれこれの発表があった」なんてニュースをやっているのは、なんのつもりなのか、まったく理解に苦しみます。」
雑誌に掲載される論文の方が遥かにレベルが高いそうです。これは知らなかった。マスコミはやはり嘘ばかり、ということでしょうか。

「理学は、「虚学」、工学は「実学」というふうにいわれますが、これは、実学だから工学部が偉いという意味では全然なくて、どちらかというと、実学だから工学部の方がレベルが低い、学問というものはそもそも役に立たないものが尊い、というニュアンスで用いられています。」
これも知りませんでした。なるほど、という感じです。

「いつでもその職場を辞められる、という人が本当に優秀な人材ではないでしょうか?」
優秀な人なら辞めても次の職場はすぐに見つかるはずだ、という考えに基づいたもの。あなたはどうでしょうか?

「(息子に受ける学部について聞いたその返答)「まだ決めてないけど、少なくとも『人間』と『環境』と『情報』が付くところだけは避けたいと思ってる」」
名古屋大学は組織が変わり、工学部がそもそもなくなり大学院のような扱いになったらしく、その関係で名古屋大学からは、「建築」とつく学部はなくなってしまった、という話に関連したもの。大学は、どんどん学生から離れているような気がしますね。

「教育者としての役割とは、学生に「学びたい」と思わせることが、ほとんどすべてといっても良くて、それさえできれば、もう教えなくても、学生は自分で学びます。」
大学という場だからこその発想だが、現実はまだ遠いだろう。高校の延長でしかない大学も、そこら中にころがっていることだろうし、「学びたい」と感じることのできた学生は、まだまだ少数派だと思う。

「大学のときは全然勉強してなくても、三十代、四十代になったとき、ああ、あのとき勉強をしていたら良かったな、今からでもできるかしら、と考える、それだけでも、大学の価値はあると思います。」
森博嗣らしい意見だけど、これについては、そうだろうか、と疑問です。きっと、立っている場所というか、見ている視点が全然違うのだろうけど。

「特に若い人に多い傾向ですが、みんなあまりに具体的な計画ばかり持とうとするのです。美容師になりたいとか、(中略)。その前に、もっと抽象的な想像をしても良いのではないでしょうか。そして、その抽象的な夢を実現するためには、意外に沢山の具体的手段があるものです。具体的な夢をさきに思い描くと、あとになってイメージが異なっていると落胆することになりかねません。」
これは、いいメッセージだと思います。

「組織も人も歴史に残るのは実は「名前」だけである、と僕は考えています。どうか名前を大切にして下さい。」
ある同窓会誌に載った文章から。「建築学科」がなくなったことに絡めての話です。残るのが名前だけなら、生きているのが悲しくなりそうな気もしますが、歴史に名前が残るのが一部だと思うと、さらに悲しい気もします。

こんな感じの作品です。視点の離脱というのか、とにかく普通の場所に森博嗣はいません。自分では普通だと思っているようだけど、完全にアンチでありながら、しかし的を得ているという感じです。
本作の意見が正しいかどうかは読む人次第ということだけれども、読むことでこんな発想もあるのか、と思う部分は沢山あると思います。意見を取り入れるためだけではなく、寧ろ意見に反駁するために本作を読んでも面白いのではないかと思います。
というわけで、読んでみてください。

森博嗣「大学の話をしましょうか」



悪戯王子と猫の物語(文・森博嗣 絵・ささきすばる)

美しさ、というのは、限りなく視覚的なものだろうと思う。「現実的に存在する何か」を「視覚に入れる」ことで、その何かを「美しい」と感じる、ということだ。これがまあ基本だろう。
美しい絵、美しい景色、美しい人。大抵、存在するものに視覚的な性質を現している言葉だろうと僕は理解している。
さて、「美しい文章」と言ったような表現がある。しかしこれは、「文章」そのものの視覚的な性質を評しているわけではない。書道家のように、手書きで書かれた文章に対しては有効かもしれないが、大抵の場合文章はデジタルなものであり、その視覚的に美しさを感じるような余地はどこにもない。
それでも確かに、「美しい文章」だと評したくなるような文章に出会うことがある。
それは結局は、「その文章によってそれぞれの人が思い浮かべた何か」を「美しい」と言っているわけであり、ある意味でその美しさのプロセスは、意図的に演出することが難しい、という点で驚異的だと思う。
というのも、一般的な美しさ、存在の視覚的な性質についての評価のような場合、「これが美しい」というような基準というようなものが、ある程度決まっている。それぞれに好みや個性はあるものの、美しさの評価には、ある程度の規準や指針があり、それはある程度社会の中で組みあがってきた常識というか通念のようなものであり、だからある意味で、「どうすれば美しいと感じさせることができるか」ということを考えることが出来る。
しかし、文章のような、それぞれの人の頭の中で組みあがる何かに対する評価の場合、そのある程度の基準といったものすら共有することができない、という特徴がある。人がそれぞれ感じたものを、有効な形で他者と共有することができない以上、価値観を一致させることは不可能で、それゆえに、「どうすれば美しいと感じさせることができるか」という命題に対しても、答えが非常に出しにくいものだろうと思う。
例えばそれは、アルバムのようなものかもしれない。そのアルバムに映った人が見れば、そういえばあんなこともあったな、ということを思い出すことができる。思い出が共有されている状態だ。しかし、そのアルバムとはまるで関係ない人の場合、その写真に映っている情景だけが全てである。そこから浮かび上がるものなどない。知らない人の結婚式の写真などを見ていることを想像してもらえればいい。何が面白いのか僕には理解できない。そういうギャップがあるのではないかと僕は推測するわけである。
森博嗣の文章は美しい。とにかく、それを言いたいがためにここまでの文章を書いてきたと言ってもいいだろう。
森博嗣という作家は、数々の作品を世に出してきている。それは小説という形態に限らない。日記やエッセイはもちろん、その他普通の作家が出さないような、というか寧ろ出したくても出せないような類の本が、様々に出版されている。ここまで多彩にあらゆる方面で本を出している作家は、作家に限らずいないだろう。やはり多才なのである。
その様々な作品の中で、森博嗣の文体は様々に変化する。小説でさえ、真面目でクールなものから、おちゃらけでスピーディなものまで様々だ。エッセイになるとさらに変化する。
それらの作品の中の一部で、森博嗣という作家は、美しい文章を書いている。小説では、「S&Mシリーズ」や「スカイクロラシリーズ」などが美しいと感じるし、また「君の夢僕の思考」という作品集も美しいなと思った。
本作も、そういう系統の作品である。
初めは絵本かと思ったがそうではなく、詩集というわけでもなく、一番近い表現では、「挿絵入りのショーとショート」というような作品だろうと思う。
それでは、20編収録されたそれぞれを紹介しようと思うのだけれども、それは止めて、それぞれの作品の書き出しを引用する形で紹介をしようと思う。

「プロローグ」
優しい日だまりを知っているかい?

「ぬめぬめの玉」
濡れているような、ぽわぽわとした、
形の定まらない、ぷよぷよとした、
そういう玉が転がっていた。

「海岸を歩く」
夕暮れの浜辺の色彩はとてつもなく現実から遠い。

「夢の街のアパート」
夢の中で訪れる街は、知らないようで知っている街。

「連続ドラマ」
そのテレビドラマは、もうかれこれ35年続いている。

「泡の連絡」
「このへん、混み合っているね、躰がぶつかって泳ぎにくいよ。それに息苦しいし」

「奇遇」
若大路君は、渾名で「若様」と呼ばれている。

「ジェットコースタ」
景気が良かったときに各地で作られた遊園地が、この不況の煽りを受けて次々に潰れてしまった。
それらのジェットコースタの中古品が買い集められ、この村へやってきた。

「月の缶詰」
月面に工場が次々に建ち始めた頃、「月の缶詰」が記念品として製作された。

「僕は一所懸命走った」
褒めてもらいたかったからじゃない。
負けたくなかったからでもない。
走ると、気持ちがよかったから、僕は一所懸命に走った。

「練習」
僕が通っていたのは田舎の小学校で、1クラスの人数が15人。

「スパイ」
お祖父ちゃんが死んで、お祖母ちゃんとお婆ちゃんの猫が僕の家に来ることになった。
パパとママは、そのことで夜遅くまで小さな声で喧嘩をしている。
何故だかわからないけれど、ママは、お祖母ちゃんがスパイだって主張している。
パパは、そんなことはお前の思い過ごしだって繰り返す。僕はちょっと心配だ。

「汚染」
先生、僕はもう死のうと思います。

「美智子さんの筆入れ」
美智子さんの筆入れは、ときどき急に海辺になる。

「かぶり」
僕は、ずいぶん前に、僕を被った。それから、僕は僕になった。

「思考力」
保育園で紘樹は喧嘩をした。

「6番目の女」
僕は結婚するまでに、6人の女性とつき合った。

「冒険の船乗り」
船は大海原を滑るように走る。

「ボート・ラボ」
博士は名案を思いついた。

「クリスマスイブ」
猫は何度も生まれ変わった。

「天使のように白い」
ほとばしる夜だ。

「エピローグ」
「ほらね、みんな消えてしまった」

どうだろうか。書き出しだけでもぐっとくる作品がいくつもあったではないだろうか。
僕がいいなと思えた作品は、「海岸を歩く」「夢の街のアパート」「連続ドラマ」「泡の連絡」「スパイ」「美智子さんの筆入れ」「かぶり」「クリスマスイブ」である。半分以上だろうか。いい作品だ。中でも「かぶり」は結構いいと思う。
中には、よくわからない作品もあるし、いいなと思っている作品も、実はよくわかっていないものもある。しかし、そこに何かの理解を求める読み方をしない方が面白いのではないかと思う。確かに著者が込めた(かもしれない)メッセージを読み取ろうとすることは大事だろうと思う。しかし、それよりも、文章の美しさ、展開の見事さ、視点の大胆さなどに目を向けて本作を楽しむのがよろしいかと思う。
絵についても少し触れよう。まず僕が思うのは、描かれる人物なり生き物の絵から、表情というものが乖離しているな、ということだ。これにはかなり新鮮さを感じた。人間は、情報の8割を視界から得ているといわれるけど、だからこそ絵というツールは、様々な何かを伝える訴えるのに効果的な手法だと理解している。それなのに、本作に載せられた絵はどうだろうか。生き物を描く際に重要だろうと思われる表情がそもそも切り取られているといるのが、何かしらの不安定感をもたらす。絵が力強く男らしいからこそ、余計にそのギャップにやられてしまうような気がする。
また本作に絵には、美しさとダークさが同居しているというのも特徴だろうと思う。その表情のなさも、ダークさを引き出すのに一役買っている。
しかも、そのダークさやギャップを備えた絵が、森博嗣の絵とマッチしているのがいい。素晴らしい作品集だといえるだろう。
マッチしているのはある意味で当然で、絵を書いているささきすばるというのは、森博嗣の奥さんである。呼吸もぴったりだろう(と想像するがいかがだろうか?)。
タイトルの「悪戯王子と猫の物語」だが、本作はその悪戯王子と猫が本作を読んでいる、というような体裁になっているようだ。まあそれにしても、きっとこうだろうと僕は思う。悪戯王子は森博嗣で、猫がささきすばるだと。なんとなくだけど、そんな感じはしないだろうか?
とにかく、読んで損することはない。プレゼントとして誰かにあげることも可能な美しさも備えている。是非に手にとっていただきたい。

森博嗣「悪戯王子と猫の物語」



くつしたをかくせ!(文・乙一 絵・羽住都)

サンタクロースなんてものは、僕の人生には登場しなかったように思う。少なくとも記憶にはない。
ある時期までは信じる、という存在の、最もポピュラーなものだろう。子供というのは、それが子供らしいかどうかは別として(僕はそうは思わない)、疑うということをしない。テレビを見れば箱の中に人がいると思うだろうし、ウルトラマンは実在していると思うだろうし、太陽と月は同じ物だと思うかもしれない。そういう、間違っているけどある時期までは信じるものとして、恐らく世界的に有名なのが、このサンタクロースではないか、と思っている。
さていきなり余談だがこのサンタクロース、赤い服装に白いひげというこれは、コカコーラが決めたイメージなのだそうだ。もともと、どこかの物語だかに出てくるサンタクロースはそんな記述ではないのだが、コカコーラが宣伝に使う際に出来上がったイメージが世界中に広がったということだ。だから、サンタクロースの服は赤いのである。
今では、サンタクロースなどいないと僕は知っている。昔から信じていたのかどうかも不明だ。しかし、証明したわけではない。いるかもしれない、ということを言いたいわけではない。証明できないことをどう解釈しようが、それは人それぞれの勝手ではないだろうか、ということだ。
サンタクロースには機能がある。それは、プレゼントを渡すという機能だ。実際は別の誰かが用意したものであるけれども、何らかの理由で(驚かせたいというのが大半の理由だろうが)自分が渡したことにしたくない時、それはサンタクロースの出番ということになるわけだ。これは、京極夏彦が自著の中で語る妖怪の理屈と似たようなものがあるな、と今思った。
サンタクロースは、まあ十中八九いないだろう。しかし、そのいないはずの存在には様々な付属情報がつき、時を経るに連れて、別の意味でリアリティが増しているように思う。不思議なことだ。
サンタクロースを信じる心を失ってはいけないだろう。なんとなくだけど、そう思う。
本作は、内容的に言ってしまえばあまりに単純だ。まあ絵本だからネタバレとか気にしなくてもいいだろう。つまり、サンタクロースに悪戯されないように隠していた靴下に、何故かプレゼントが入っている、という話である。
この世界では、大人はどうもサンタクロースを恐れているらしい。僕の中では、この作品の中で一番面白い点だと思っている。大人はサンタクロースを怖がり、子供に靴下を隠すように言う。これは一体何の比喩だろうか?プレゼントを渡すことを悪戯されるという風に言い換えることに、どんな意味があるだろうか?大人が読んで考えるべき点はまさにそこだろう。絵本だからといって舐めてはいけない。
子供たちは大人に言われるがまま靴下を隠すのだが、どうして大人が悪戯を恐れるのか、どんな悪戯をされるのかはわかっていない。
まあそういう話だ。
絵本らしいというべきか、分かりやすいストーリーである。ただあとがきで乙一はこう書いている。
「神様を作品の中でどうやって表現するか、というのが今回のテーマでもありました。」
サンタクロースと神様。確かに近い存在だろう。サンタクロースを神様と読み替えることで、このストーリーはどう変わるか?「悪戯」や「プレゼント」、「大人」や「子供」は何の比喩だ?当てはまる世界は様々にあるのではないかと推測する。
絵本なんて普通は読まない。本作は、乙一が文章を書いているというので買ったし読んだ。古本屋で見つけて、この本には二度と古本屋では出会わないだろうと思ったから買った。買って読んでよかったかと言われると難しいところだが、まあいい。とりあえず、乙一の絵本を見つけて買ったということが僕の中では重要だった、ということにしておこう。
最後に絵について少し触れよう。羽住都という人は知らないけど、とても優しい絵を書く。アクリル絵の具をものすごく薄めて重ね塗りをして、透明感と濃淡を見事に両立させている、という感じだ(絵のことはわからないので適当に書いている)。
本当に、クリスマスにはぴったりの本だ。恋人にプレゼントするためでもいいかもしれない。結構綺麗な本だ。シチュエーション次第ではとってもいい本ですよ、と書いて終わることにしようか。

乙一「くつしたをかくせ!」



工作少年の日々(森博嗣)

何かを作る・工作する・作り出す・生み出す、という行為に一時期嵌まったことがある。とにかくその時期は、自分には何でも作れるのではないかと思っていたし、よっしゃどんなもんでもこいや的な感じだった。常に新たなやり方を追い求め、不可能に見えることを可能にし、それでいて作ること以外にはまるで興味を示すことなく過ぎた日々が僕にはあった。
何かを作るというのは、本当に楽しい。
僕がその作るという行為に没頭していたのは、演劇の小道具を作る機会があったからだ。といって何かの演劇部にいたとかいうわけではなく、期間限定で、年に一度だけ演劇を製作する、それ以外では演劇とは関わらない集まりにいたのである。
だから、僕が物つくりに没頭できたのは、1年の内の三ヶ月を三年だから、合わせても一年に満たないほんの僅かな時期だったといえる。
そもそも、やり始めた年は、本当に何も知らないわけで、先輩に教えてもらいながら、そしてダメなところを先輩が陰で直していたということを後々聞いたりしながら、そんな感じで過ぎていったわけだから、まあ何もしていないといってもいいのかもしれないが。
僕の人生の中でささやかな自慢と言えば、馬車を作ったことだ。それももちろん、演劇の小道具として作った(すでに小道具というレベルではなかったが)。人が二人乗れて、残念ながら人が乗った状態では動かなかったが、人が乗らなければちゃんと動くという代物だった。
設計は渡された一枚の写真から起こした。これが大変だった。何が大変って、まあもちろんパソコンをうまく使えないくて全部手書きで設計したというのも大変なところだったが、それ以上にその馬車を分解できるように設計しなければいけなかった点が苦労した。なぜなら、演劇の会場まで馬車を運ばなくてはならないが、そのためにはトラックに載せなくてはならない。どう考えても、完成形のままではトラックに入りきらず、分解するしかなかったのである。分解できるようにしつつも、かつ強度を保つためにはどうしたらいいか。結局そのアイデアを捻出する期間も含めて、設計に一ヶ月掛かった。しかし、作り出すよりもこの設計をしている時間の方が遥かに楽しかったかもしれない。それは本作を読んでいて森博嗣が書いていた文章に似たようなのがあった。

(前略)どんなものでもいえることだが、工事中が一番楽しい。工事が終わってしまうと、なんだか少し寂しくなる。工事は生産的だが、完成して出来上がったものは、もう消費するしかない、という予感からだろう。(後略)

なんか少し僕の言いたいこととずれている気がしないでもないけどまあいいか。とにかくそんなわけで、この設計をしている期間が一番楽しかったわけである。作る段階では、僕にはもう完成することがわかっているわけで、自分の思考をもう一度なぞっているだけというか、獣道がだんだんと人の通る道になっていくプロセスのようだとか、まあ全然そんなこと思ってもいないのだが、とにかくそういうわけで、作り出してからわくわくすることはあまりなかった。
当初周囲の人間は、僕が馬車を完成させるとは思っていなかったはずだ(と思うがどうだろうか?)。誰もが半信半疑、いや一信九疑ぐらいだったのではないだろうか。そのうち出来ないって諦めるだろうから、あんまり期待しないでおこうか、とまあそんな感じか(実際そうだとしたら少し寂しいが)。だんだん出来てくる設計図を見せても、小道具のチーフはまったく理解できないという顔をしていた。
というわけで、作り出してから楽しかったのは寧ろ、ほんとにこいつやりやがったよ的な、そういう周囲からの驚きを得ることが出来ていった、という点にあるだろう。
さて物つくりの話題にはぎりぎり乗っかっているものの、本作の紹介の前フリという機能はとうに失われて久しいような文章になっているけど、ここは厚顔無恥というか他に思いつかないが、とにかくそんな感じで乗り越えて、ささっと前フリらしい話題に戻してみよう。
世界は、何かを作る、という行為の連続によって、ここまで進化してきたはずだと思う。今でもどこかで何かが無尽蔵に半永久的に生産され続けている。これは本当にすごいことだ。
ただ、自分の身近で、というか、自分で何かを生産する機会は限りなく失われてしまったと言う事もできるだろう。今では、時間や物をお金で交換するシステムが出来上がってしまっている。昔なら、必要に迫られて作らざる負えなかったものも、今ではお金を出して買うことができる。
確かに、自分で何かを作る必然性はなくなったといえるだろう。
しかしだからこそ、自分で何かを作るという行為には、純粋な楽しさや面白さだけが残る、ある意味高尚な趣味として残ることになったのではないだろうか。うん、そうに違いない。よしよし、前フリらしい文章になったところでそろそろ本作の内容に移りましょう。
本作は、作家であり助教授でありその他様々な顔を持つ(怪人二十面相か)森博嗣という人間の、その原動力となっているのではないかと思うほど精力的にあらゆるものつぎ込んでいる、工作というまっとうで子供らしい(他意はない)趣味についての、純然たるエッセイである。
内容はそんなわけで、エッセイなので紹介しずらい。「小説すばる」という文芸誌に毎月掲載されたエッセイで、小説連載でエッセイを書くのは著者初とのことだ。
森博嗣の、工作における信念や情熱が覗けるし、少年だった頃からの工作好きの歴史も知れるし、今どんな生活をしているのかわかるし、奥様との関係も少し覗けるし、建設中だというガレージ(車を置くスペースではなく、工作をするスペースだ)の状況も知れるし、それらに巧みに混ぜ込み織り込みながら、教育論や哲学や常識についてそれらしいことが書かれるし、さらに時々小説についてのあれこれもさりげなく書かれたりするわけだ。森博嗣にはいろいろな形のエッセイが存在するが、工作というテーマに絞っている点がまず読みやすいし、それに森博嗣らしい考え方があちこちに散見するし、文体ももうめちゃくちゃといっていいほど読みやすいので、エッセイの中でもかなり読みやすいものではないかと思う(ただ、工作というものに蚊ほどの興味も示せない人にはお勧めできないかもしれないが)。
本作を読むと、森博嗣というのはやはり驚異的な人格だということがわかる。小説の書き方については方々で読んでいるので知っているがそれにしても驚異的だ。書きながら考え、驚異的なスピードでキーボードを叩き、締め切りよりもかなり早くに出版社に出すような作家は、世界博嗣(ジョークである)と言えども森広し(被せてみました)ぐらいだろう(読み返すと面白くないことがわかるから読み返すまい)。
また、工作にいかに情熱を傾けているかも伺える。今でこそ、超のつく大金持ちであるはずだろうから問題はないだろうけど、小説を書く前の生活ですら、工作につぎ込むお金の水準がそこまで変わらなかったのではないか、というほどで、読めば読むほど、奥様のスバル氏は、なんて我慢の人で素晴らしく耐え忍んだことだろう、と思うわけだ。世の結婚している男性諸君にはもう羨ましい限りではないだろうか(わからないが)。
しかも、子育てに関する話も度肝を抜かれる。子供が生まれて奥様が大変だという時期に、森博嗣は模型飛行機を作っては飛ばしての日々で、とにかく遊び倒していたらしい。授業参観も行ったことがなければ成績表もみたことがないという。ただ、それは子供を愛していないというわけではない。子供に愛情をわかりやすい形で示すことを止めただけだ、とこういっている。子供は、遊び倒している父親を見ることができた、とも。なるほど奥が深い。なお深いのは、奥様の懐である。奥様の森博嗣への許容は広すぎてすごい。
そういえば最近、所ジョージの事務所というのを何かの番組で見た。あれもなかなかすごかった(普通の人がガラクタと呼んでしまう数々の物で埋め尽くされていた)が、きっと森博嗣の家はあれ以上なのではないか、と想像してみて、ちょっと怖いなと思った。
とまあそんな風で、なかなかに面白いエッセイです。森博嗣を知っている人も知らない人も、読んでみる価値はあると思います。こんな人も世の中にはいるんだ、と男性なら羨ましく、女性なら嫌悪(?)するかもしれません。とにかく、破天荒な人格森博嗣がよくわかるエッセイ、是非どうぞ。

森博嗣「工作少年の日々」



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1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)