黒夜行

>>2005年10月

魔王(伊坂幸太郎)

僕らは、世界を正しく認識できていない。恐らくそれは間違いない。誰かがそれを阻む。何かがそれを邪魔をする。
僕らは、世界の入口に立つことはできない。いつも、塀越しに、窓越しに、ちょっとした隙間から、あるいは些細な音や匂いから、世界をなんとなく判断しているに過ぎない。
世界の中に僕らは含まれているはずなのに、僕らは常に世界の外側にいる。
いや、本当は世界の外側にいるのに、内側にいると思い込んでいるだけなのかもしれない。だとしたら、僕らにとって世界とは、どんな意味を持つ概念だろうか?
僕たちは、自分のことは自分で決めている、そう思って生きていると思う。今日の昼飯は何を食べようか、明日の休みはどう過ごそうか、親の誕生日に何をプレゼントしようか…。
でも本当だろうか?
僕は、なんだか自信がなくなってきている。
僕という存在が、世界とは溶け合わない、独立した存在だという風に思えなくなっている。寧ろ、世界を構成するただの一つの部品であり、世界の内側とか外側とか、そんな場所に僕らはいないのかもしれない。世界そのものであり、個人個人なんてものはそもそも、どこにも存在しないのかもしれない。
ブロークンウィンドウ理論、というものを知っているだろうか?
これは、あのニューヨークが生まれ変わる際に、どこかの誰かが(あるいは当時のニューヨーク市長だったかもしれないが)提唱した理論である。
街中に車が一台ある、と思っていただきたい。普通の状態でそのまま置かれていれば、通りかかる人は別段何もしない。
しかし、その車の窓を故意に割っておくと、状況は一変する。通りかかる人は、その窓の割れた車をさらに壊し、部品を盗み、見るも無残な姿に変える。これは実際の実験の結果である。
これがブロークンウィンドウ理論である。これを元にニューヨークは、まず落書きや軽犯罪を徹底的に減らし取り締まることを強化することに決めた。大きな犯罪(車を徹底的に壊されること)を防ぐには、まず小さな犯罪(車の窓を割ること)を防ぐべきだ、という考え方である。これによりニューヨークは生まれ変わったし、同じやり方を導入した北海道も、犯罪率が低下したらしい。
なんだか世界はこの、ブロークンウィンドウ理論に支配されているのかもしれないな、とそんな風に感じた。
きっかけがなければ、個人はそれぞれ個別な存在だ。別々の方向を向いて、別々のことをしている。
しかし、いざ何らかのきっかけがぽんと提示されると、それがどんなに些細なことであっても、周囲の人は、示し合わせたわけでもないのに一つの方向を向き、同じ行動をとる。掛け声を掛けたわけでもないのに、そこには大きな流れができる。
最近は、インターネットがその役割を大きく買っている。
最近の例では、のまねこ騒動があった。2ちゃんねるの書き込みが高じて、エイベックスの社長への殺害予告までに発展した。
誰もが、インターネットを、世界の入口だと勘違いしている。インターネットを覗けば世界を見れると思い込んでいる。そんな人間ばかりが、世界の部品として世界に取り込まれている。
この国は危ない。本作が、エンターテイメントを装いながら、この国に警鐘を鳴らしている。
本作で、素晴らしい文章があったので、ここで書き出してみよう。

(前略)
おまえ達のやっていることは検索で、思索ではない(後略)。

その通りかもしれない。僕らの生活は、検索に満ちている。それを思索と思い込むことで、僕らはなんとか踏みとどまっているのかもしれない。
本作は、章が二つに分かれている。「魔王」と「呼吸」だ。
「魔王」の主人公は安藤だ。普通のサラリーマンだが、ある日自分の奇妙な能力に気付いてしまう。相手の体の中に入り込むイメージをすれば、その相手に思い通りの言葉を喋らせることができる、という能力だ。
その時代、未来党の犬養という党首が注目を集めていた。まだ野党で、しかも党員も20人ほどしかいない小さな政党だが、党首の犬養にカリスマ的なオーラがある。この男なら日本を変えてくれるかもしれない。そんな風に安藤の周囲も、国民全体としても感じ始めている。そんな状況だ。
安藤は学生時代、「考察魔」と呼ばれたほど考えに考える男だった。久しぶりに会った友人にもそう言われた。その安藤は、今の流れに対して大きな疑問を持っている。これでは、ムッソリーニやヒットラーと同じではないか?ファシズムが台頭するのではないだろうか?安藤は一人危惧している。
安藤には潤也という弟がいて、その彼女の詩織ともよく会う。そもそも両親を事故で亡くし、兄弟だけで生きている今、その三人での生活は大事なものだ。
考えすぎる兄と、どこかのんびりしてはいるが実は鋭い弟が、少しずつ不穏な空気に満ちていく世の中で何かが変わり、何かを失っていく物語である。
「呼吸」は、主人公が詩織に代わる。潤也と結婚して、仙台に移り住むことになった。今は派遣社員として、事務の仕事をしている。潤也は、猛禽類の定点観測という、いささか想像しにくい仕事をしている。
ある時から新聞もテレビも遮断してきた二人は、犬養が首相になっていたことも、憲法改正の国民投票があることも知らなかった。今は、あちこちで議論がされている。
潤也には、奇妙な能力がついた。決してじゃんけんに負けない、という能力。特に何が浮かぶわけでもないが、適当に出していると決して負けないのだ。
穏やかさに満ちているような生活の中に、ひたひたと静かに異物が入り込むような、奇妙な物語である。
まず本作は、今までの伊坂幸太郎の作品とは毛並みが違う。一線を画すると言ってもいいかもしれない。今までは、どれだけ悪人が出てきても不思議といい印象を残すような描き方だったし、作品全体の雰囲気もかなり明るくほのぼのとした感じだったが、本作は、悪人は悪人だし、全体の雰囲気もかなり不穏で暗い。
だから本作から伊坂幸太郎に入る、という人には、伊坂幸太郎という人を誤解して欲しくないし、できれば他の作品を何か読んでからこの作品を読んで欲しいと思う。
ただ、メッセージ色はかなり強い。今までのどの作品と比べても、この作品には、伝えたいことがかなり盛り込まれているようなそんな印象を受ける。人それぞれもちろん印象は違うだろうけど、今までの作品からでは感じることのなかった何らかのメッセージを、無意識的に読み取ろうとするような、そんな読み方になるのではないだろうか。
エンターテイメントには間違いないが、楽しんで読めるという作品では決してない。
それでも僕は、今までの作品の評価よりも劣るけど、この作品も嫌いではない。
やはり登場人物は魅力的だ。書評家が使うのとは意味が違うかもしれないが、人が書けているという風に感じる。伊坂幸太郎の作品の登場人物は、こんな人は現実にはいないだろう、という人が多い。でもそれは、敢えて多少大げさにしているだけで、実はその辺にいるのではないか、というラインにちゃんといる、というのがいい。
政治の話がモチーフとして使われているが、あとがきにもあるようにそれはテーマではない。ただ、この政治についてのあれこれも、テーマではないとはいえ、いろいろ思うところは人それぞれあるだろうな、と思う。
犬養のような人間が出てきたら、僕は流されてしまうだろうか?
それとも、スカートを直すことのできる、勇気ある民衆の一人になることはできるだろうか?
そのことを考える。考えろ考えろ、マクガイバー。

「でたらめでもいいから、自分の考えを信じて、対決していけば、世界が変わる」

このセリフはとてもいい。「これを信じろ」ではなく、「自分を信じろ」というのがいい。世界は余りに大きい。一人の力ではどうにもならないように思える。それでも、何かすれば、何かを信じれば、世界は変わるのかもしれない。
僕は、世界の入口が小説であってもいいと思う。少なくとも、インターネットよりはいい。インターネットよりも嘘が少なそうだし、もし多いとしても、小説なら嘘だと承知で読める。
本を読むことは検索ではない。思索に近いはずだ。みんな、世界の一端を覗くために、小説を読もうではないか。
では。

伊坂幸太郎「魔王」


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工学部・水柿助教授の逡巡(森博嗣)

ミステリファンというのは、なるほど確かに奇妙な存在だな、と思った。
僕はかなり読書が好きで、もうこれでもかというぐらい読んでいる。読み始めた最初の頃はミステリばっかり読んでいて、今でももちろんミステリは好きだ。まあかなり傾向の違う作品もかなり読むようになってきているけど。
それでも僕は、厳密にはミステリファンではないだろうな、と思う。
コアなミステリファンというのは、本当にかなり奇妙な存在なのである。
まず、トリックや犯人を解き明かしたいのか、それともわからないまま作者に騙されたいのかがわからない。トリックや犯人がわかってしまうのはそれはそれでダメなのだという。そんな、自分にもわかるようなあっさりしたものでは満足できないのだ。かといって、難しすぎてもいけない。こんなこと考えてもわかるか(大抵どんな謎でも、作者が頭をひねるだけあって考えてもわからないのだが、そのことはとりあえず脇に置いてミステリファンは叫ぶのだ)、と憤懣やるかたないのである(憤懣やるかたないなんて普通使わないか)。
だから、あと一歩で届きそうなかなりスレスレの謎で、かつ大胆不敵・前代未聞・空前絶後、弘法も筆を誤るような、小判を持つ猫のような、孫の手も借りたいような、そんな謎で、しかし一方では自分では解き明かせなく、かつ解き明かせなくても納得できるような、でもやっぱり解けなくてくやしい、みたいなそんな風な、とにかくミステリファンとはこんなものである。
しかも、SFやハリウッド映画のような大げさな展開は好まないのだそうだ。リアリティというものを大事にする人種らしい。こんなことありえない!こんなのをミステリに持ち込むなんて許せない!なんてひどい汚いありえない馬鹿にした厳かな食らいつく殺伐とした作品なんだ!とこれまた憤懣やるかたないのである(二度目である)。
しかしそれでいて、探偵の存在は、リアリティの問題からは外しているようだ。探偵の存在こそ、真っ先に否定すべき現実的でない存在にも関わらず、ミステリファンは、臭いものに蓋をするように、味ポンと醤油を間違えるように、かけうどんにしょうがを入れるようにして、探偵という存在が、えっ、現実に存在しないのですか探偵様は、とでもいうように振舞うのだ(高級で先進的なジョークだが、ついて来れまい。ついて行きたいと思わせないところが高級なのだ)。
しかも、前代未聞のトリックを求める割に、ミステリにはいくつものお約束があり、それが破られるとこれまた憤懣やるかたないんでありますの(さすがに三度目なので、とりあえず口調だけでも変えてみた)。例えば主なものとして、地の文に嘘があってはいけないというルールがある。死んでいるように見えるが実は気絶しているだけの人がいる部屋を、<死体のある部屋>と書くのはアンフェアである。そういうことであり、なんだかかなりいろいろルールがあるのである。なんたらの十戒という、昔々のどこかの国のミステリ作家が決めた、ミステリのお約束についての十か条なんてのもあるくらいなのだ。
かようにして(この言葉もなかなか使わないか)、ミステリファンというのは、かなり奇妙な存在なのだ。何故ミステリファンだけがここまで奇妙な性質を持つようになったか、は考察に値する謎であるし、これをモチーフにしてミステリを一編書き上げようと思っている今日この頃である(もちろん嘘だ。これはミステリではないので、地の文で嘘があってもまるで問題ない。そもそも会話文が存在しないのだから、地の文がどうのこうのという問題でもあるまい)。
僕の場合、まずミステリを読んでも、謎を解き明かそうとか思わない。とにかく文章の通りに読み、探偵が解決してくれるのをじっと待つのである。それに、リアリティとかいうものも別にどうでもいい。ミステリにSF的な発想があろうが、なんでも受け入れる。探偵の存在は、やっぱ現実的じゃないよなと思うし、ミステリのルールも、まあ別にこだわらなくてもいいんじゃない、という感じだ。
だから僕は、れっきとしたミステリファンではない(とこれは自慢だろうか?わざわざ披瀝するようなもんだいでもあるまい)。
とまあここまで、ミステリファンというものについてかように(二度目)語って来たわけだけど(蚊立って来た、ではない。というか、どんな状況だろうかそれは)、この話は本作とはまあそこまで関係はない。本作のある一部分に、森博嗣が(実際は登場人物である水柿君が、であるが。いや、きっとそれは逆で、実際は森博嗣が、だろうか…?)ミステリファンについてささきすばる(実際は須摩子さんが、であるが。いやきっとそれは…(以下略))と語る場面があり、そこがなるほどちょっと面白いかなと思ったから書いてみただけのことである。
ある意味で叙述トリックと言えるだろうか。しかしこの叙述トリックは、このブログをかなり頻繁に見に来てくれている人にしか通じないし、というか寧ろ、そういう人にもわかりずらいだろう。
いつものことながら前置きが長い。その点だけは本作とかなり共通していると言えるかもしれない。僕も思いも掛けなかった効果である。成せば成る、ということか。違うだろうか…。
閑話休題(ということにしておこう)。
本作は、小説である、ということだ。しかしどうだろうか。僕にはどう読んでも小説とは思えないのだが。森博嗣の呟きを間近で聞いているような作品、という表現が一番ぴったりくるような作品である。
本作は、前作「工学部~の日常」の続編、第二弾であり、恐らく森博嗣そのものであろう水柿助教授と、恐らくささきすばるそのものであろう須摩子夫人との、何でもないように見えて実は奥深い、かと思えばやはり何でもなかった、というような、奇妙にして怪奇的な作品なのである。
何故これが小説なのか?
とそれはまさしく、森博嗣が(あるいは水柿君が)ことある毎に「これは小説である」と書いているからであり、もはやそれだけの理由でしかなく、僕もその記述に行きあたるまで本作をずっとエッセイのようにして読むし、「これは小説である」の記述で、本当だろうか?これは何らかのトリックなのではないだろうか?小説と見せかけて実はエッセイであるというトリックか、あるいはそう見せかけて実はやはり小説であって、森博嗣とささきすばるは、本作の水柿君と須摩子さんとは似ても似つかないような人格であり、森博嗣はそんな二人の人格や性格を読者に誤認させんがために本作を書いたのだろうか?とそこまで深読みしてみる(不可読みではない。これはどういう意味だろうか?)。それほど本作に書かれている話は、僕が知っている情報を繋ぎ合わせた森博嗣像に合致しているし、ささきすばる氏のことはまったくよく知らないけど、類推できっとこんな人なんだろうなと思うような、そんな作品である。僕の中では本作はエッセイであるが、森博嗣の日常を隠匿するための伏線(というか伏本)なのではないか、という可能性も一応残しておいている、とまあそんな感じだ。
内容をまったく紹介していない。
まずは相変わらず長い章のタイトルを書き出してみようか(とこうやって文字数を稼ぐわけだが、残念ながら僕は作家ではないので、文字数を稼いだところで、時間だけが無駄に奪われる結果になることが、重ね重ねも残念だ。何と重ねているのかは知らないが)。

「『まだ続くのか?』『命ある限り(高笑)』的な悪ふざけからいかにしてミステリィに手を染めたのか着メロを鳴らす」

「いよいよやってきた人生の転機を脳天気に乗り越えるやいなやラットのごとく駆けだしてだからそれは脱兎でしょうが」

「小説家として世界に羽ばたくといって本当に羽ばたいていたら変な人になってしまうこの不思議な業界の提供でお送りします」

「サインコサインタンジェントマッドサイエンティストサンタクロースコモエスタアカサカサントワマミー」

「たまには短いタイトルにしたいと昨夜から寝ないで考えているうちに面白い夢を見てしまった。ああ、そろそろ秋だなあ。そこで一句。短めにタイトルつけたら秋かもね」

言っておくが、書き間違いは一箇所もない。「能天気」ではなく、「脳天気」で正解である。誤植ではない。
まあ相変わらずのタイトルで、内容はというと、水柿君がついに作家になる、というお話ですね。
なかなか凄まじい。ジョークに交えて淡々と、なかなか凄まじいことを書いているのだ、実にあっさりと。
僕の中では既に、「水柿君=森博嗣」であり、「水柿君に関する記述=森博嗣の日常」であるので、もはや水柿君のことを森博嗣として捉えている。須磨子さんについても同様である。
しかし、読めば読むほど森博嗣というのは奇妙な人だ。小説について知らない、その業界についても知らない、トリックのストックもないのに二週間で一作書き上げる、作品を書くのを控えているのにも関わらず、作家になって数年で著作は100冊を超える、一体どこにそんな時間があるのだ、考え方は人とはかなり違うし、興味の嗜好性もかなり偏っているし、大学助教授だし、そもそも一介の大学助教授が漫画家のささきすばると結婚している時点でもはやミステリではないか。なんとも不思議な人格である。
まあそれは須磨子さん=ささきすばる氏にも当てはまることで、こういう女性はかなりいい。須摩子さんのような女性は間違いなく一般的ではないし、一般受けしなさそうだし(なんとも申し訳ないが他意はない。というか他意ではなくそのものの意が問題なのだろうが)、全体に占める割合も少なそうだけど、でもこういう人はいい。喧嘩をしなきゃいけないのはめんどくさいけど、こういう人なら結婚してもいいかもしれない(言いすぎだろうか)。
まあそういうわけで、あらゆる点で森博嗣は羨ましい。
なんたって、数億の買い物をキャッシュでしてしまうのだ。尋常ではない。
しかもそれでいてクールだ。
読み返してみれば(と書いては見るものの実際読み返したわけではないが)、今回の文章は本作とはあまり関係のないところで進行しているようで、まあそれも本作風と言えばまあ言えるわけで、いいかなとも思う。
僕的にはそこまで好きだと言えるシリーズではないのだけれども、でも前作よりは面白かったかもしれない。出版業界の裏側をちらちら見ることが出来たからだろうか。
まあでも、森博嗣も本作中で書いているし、東野圭吾や京極夏彦がどこかで書いているのを読んだこともあるけど、こういう、ある種お笑い的な、表現が悪いかもしれないけどまあ文章で笑わせてやろうて的な(あまり変わってないか)作品の方が、実は書くのは難しいようである。まあそれはそうだろう。本作ではこんな比喩で語られていた。お笑い芸人はかなり努力して笑わせているだろうけど、田村正和は明らかに素だろうから簡単だ、と。確かにその通りである。
確かそういえば、本作を読んで森博嗣にはまったという人がいたような気がする。バイト先にも一人いるし、確か「工学部~の日常」の感想に書き込みをしてくれた人もそうだったような気がする。まあそれだけでも、本作の価値はあるというものか。
というわけで、軽妙な文章はまあなかなか面白いものです。是非にとは言わないけど、入口としてはまあいいのかもしれません。森博嗣を結構知っているという人にはお勧めです。

森博嗣「工学部・水柿助教授の逡巡」



さよならの代わりに(貫井徳郎)

僕らが生きている世界は四次元だけど、その目に見えない四つ目が時間だ。縦横高さの三つの方向に、時間の方向を加えた四つで成り立っている世界。
時間の方向というけど、どっち?って言いたくなる。縦横高さ以外のどっち?
なんかそんな見えないものに支配されているのが、ちょっと不思議だ。
時間ってのは不思議なものだ。初めからあったか、と言えばそんなことはない。人間が、この長さを1秒って決めて(確かおぼろげだけど、何かの原子の崩壊だか半減だかの時間の何分の何とかいう定義のされ方だったと思う)、それに則って流れている。決して初めからあったわけではなく、人間が定義したものだ。
ちょっと違うような気もするけどまあいいか。
時間を測ることは出来る。でも僕らは、その時間から出ることはできない。決まった規則で流れ、決まったスピードで送られるその中からどうしても抜け出すことはできない。
いわゆるタイムスリップの話である。
タイムマシンはSFの世界での話だ、というのはどうもそうでもないらしい。現実的に可能か(つまりそれに必要なエネルギーを作り出せるか)は置いておいて、相対性理論を使えば、タイムトラベルは可能らしい。ただし過去にしか行けないけど(確か)。
ちょっと憧れる。タイムトラベルという響き。なんかいい。現実的でないし、実際に起こったらめちゃくちゃ困るだろうけど、でも憧れる。
なんか、支配から逃れた、みたいな。そんな感じ。
なんかものすごく適当になってきた。だからこの辺で内容へと。
本作は、基本的にはSFではなく、ミステリーである。
和希という名の劇団員が主人公である。<うさぎの眼>という劇団に所属している貧乏役者である。新城という芸能人が主催している劇団で、皆新城に憧れて入ってきたような人ばかりだ。
今現在、新しい公演を間近に控えて稽古をしている。いつもながら新城は、人を惹き付ける演技をする。
稽古が終わって飲み会に合流しようとした和希は、偶然ある女性と知り合うことになる。祐里という名の女性で、<うさぎの眼>のファンだという。いろいろと知りたいらしく、質問をしてくる。
ただ、なんだかんだで付き合っているうちに、そのうち変なことを言い出すようになった。
公演の最終日、どうしてもある人の控え室から目を離さないで、と。
なんのことやらわからない和希は、どうにかその約束を守ろうとしたが、結局起きてしまった。
殺人事件。
祐里が見張っていてと頼んだその控え室を使っていた女優が、公演の最中に殺されてしまったのだ。
それから和希はわけもわからない状況に巻き込まれる。よりにもよって祐里は、タイムトラベルで現在に来た、と言い張る。どこまで信じていいのやらわからないが、どうやら祐里の祖父が新城らしい。未来では新城は捕まってしまうことになっている。それを防ぐために頑張っているのだと…。
そういう話です。
タイムトラベルを扱う作品は、そう多くはないけどいくつか読んだと思います。宮部みゆきの「蒲生邸殺人事件」や、東野圭吾の「時生」なんかはそうだと言えるでしょう。アクロバット的なアイデアだけど、ミステリーではやってやれないことはない、という感じです。
しかし、本作ではちょっとな、という感じもします。いや、確かにタイムトラベル的な部分はばっちり全体に関わってくるんだけど、でもそれに比して作品全体がしょぼいというか、そのアイデア使った割りにこじんまりしている、みたいなそんな印象を受けました。
そもそも、ミステリの部分がちゃちいですね。設定や登場人物は、まあ評価しようと思えばできるけど、その部分が最大にダメです。
祐里という人間は、読んでいて面白く切なく描かれていて、まあよかったなと思います。和希のようにお人よしで、騙されやすいだけなのかもしれないけど。確かに、女性への免疫力は低いけど。
まあどうかな。帯には、何故か長谷川京子、いわゆるハセキョーの推薦文が載っているけど、へんっ、ってな感じですね。特にどうということもありません。古本で買う割りに高い本だったので、ちょっと損したかな、という気にすらなってます。
まあ、貫井ファンならいざしらず、それ以外の普通の読書家やミステリファンは、特に読む必要はないのではないかと思います。

貫井徳郎「さよならの代わりに」



山ん中の獅見朋成雄(舞城王太郎)

人間というのはどう定義されるか?
大分脈絡はないけど、僕は最近考えたことがある。「自由を定義することと、男女を定義すること」について考えた。もしかしたら夢の中でのことだったかもしれない。僕が夢の内容を覚えているとは思えないけど、この脈絡のなさは夢なのかもしれない。
ともかく僕は、「自由を定義することは難しいけど、男女の定義ならそこそこ出来るのではないか」と考えた。まあそうだろう。
だからなんだと言われても困るけど、そこで最初の問い、人間の定義だ。
そもそも定義なんて、認識を統一するために存在するわけであって、じゃあそもそもわざわざ認識を統一しなきゃいけないのは何でとか聞かれても僕にはまったく答えられない。誰かが必要だってまあきっと考えたんだろう。自由や男女や人間の定義が、それぞれの人によってどう変わっていようが、まあ別にいいんじゃあねえか、とまあ思う。
人間を定義することは結構難しい。
例えば他の動物と比較することで、違いを見出すことはできる。他の動物とはこれこれこれこれこれこれこれこれの点で違うのが人間、とかやれば定義はできる。
うん、簡単だ。
しかし、もしもそのこれこれこれこれ(以下略)を完璧に保有するロボットや宇宙人が現れたとしたら、それは人間なんだろうか?
定義することに意味を見出すことの出来る人だけが定義をすればいい。
それが人それぞれ違ってたって別にどうということもないし、統一する必要もない。
定義することによって世界は定着するけど、逆にいえば硬直する。
だからどうということはない。
人として生きているということがどういうことなのか。
それを問うことにどんな意味があるのか。
問われた方は何をどう思考すればいいのか。
なんだか戯言だ。
だからもう止める。
内容に入ります。
本作の主人公は、タイトルにばっちり名前が入っているように、獅見朋成雄。「シミトモナルオ」と読むわけで。福井県の西暁市(この市が実在するかは知らない)に住む中学生だ。
この成雄の最大の特徴は、背中にみしりと生え広がる豊で美しい毛。馬の鬣(たてがみ)を思わせる立派なものである。祖父、父とも同じものを持ち、その背中を見続けてきた成雄にも、やがて二人と同じような鬣が生えてきた。
成雄はとにかく足が速い。100mを10秒4という記録。たぶんすごい。というか、末次並かそれ以上ってことじゃないのか?とにかく化け物だ。オリンピックの何たらさんも何度も足を運んで、オリンピックに行こうで行こうでと言ってくれるが、成雄はあっさり断る。
モヒ寛というおっさんと相撲をしなければいけないからである。
このモヒ寛というおっさんは、本名を杉美圃大寛という。有名な書家であり、茶もやる。西暁市の山の奥の奥に住んでいる変わり者で、若い頃に何故かモヒカン頭にして、以来名前をモヒ寛に変えたという変人だ。自宅に土俵があり、いつも一人で相撲をしている。
まあとにかくそのモヒ寛と相撲をとるためにあっさりオリンピックを諦め、モヒ寛と相撲を取ったり茶を楽しんだり、書を習ったりする毎日を過ごしていた頃、なんだかとんでもないことに巻き込まれる。
馬、である。
諸事情によりモヒ寛から逃げるようにして山に入った成雄は、日本の山にはいるはずのない馬を見かける。
紛れもなく実体のある本物の馬である。
好奇心からその馬の後を追ってみると、なんと馬は消え、そこにはまわし一丁で頭から血をだらだら流して今にも死にそうなモヒ寛が倒れていた…。
その日から、成雄は山にいたはずの馬を捜すために山を巡り巡りする。その内に、なんだか異界っていうか変なところに紛れ込んでいき…。
という感じです。
相変わらず意味不明だし、あらすじにするともっと意味不明です。
とりあえず本作の僕の評価は、あんまりだな、という感じです。最近僕の中で、「阿修羅ガール」と「好き好き~」を読んだせいもあるけど、舞城王太郎の評価がめちゃ高くて、だから本作も期待して読んだんだけど、でもどうということもなかった。残念。
舞城王太郎の作品というのは、読んでて訴えかけるものがないと、ほんと陳腐という言葉がよく似合う作品になってしまう。読んで何をどう感じるかはその人次第だろうけど、舞城王太郎の作品を読んで特に感銘を受けなかった作品は、本当にただのよくわからない文章の羅列でしかないな、という風に思った。
なんか言いすぎな気もするけど、割と事実。
今回の作品の中には、僕が読み取ることのできる何かは存在しなかった。あらゆる文章や描写やキャラクターや設定や感情や比喩が僕には何も訴えてこなかった。
残念。
まあでも、本作のせいで舞城王太郎の評価が下がることはない。今でも僕の中で素晴らしい位置にいる。これからも舞城王太郎の作品を期待して読み続けるだろうと思う。
舞城王太郎がこのサイトを見ているわけは絶対にないけど、でも期待してます、舞城さん。これからも読み続けますから、素晴らしいと割りと多くの人が思えるような作品をバンバンジャリジャリ書きまくっちゃってください。
という感じです。

舞城王太郎「山ん中の獅見朋成雄」



続巷説百物語(京極夏彦)

多くの人は、現実を「一つのもの」として捉えているのではないだろうか、と思う。
どういうことかというと、誰にとっても現実というものが等価で同等な存在である、と認識しているということだ。
一枚の絵を思い浮かべればいいだろうか。一枚のキャンバスに絵の具を塗りつけて描かれる絵画。誰がどんな視点からみても、その解釈に多様性はあっても、見えているものはみな同じ。そういう風に現実を捉えているのかもしれない。
でもきっとそれは違うのだろうと思う。
僕の解釈する現実は、一昔前のアニメのようなものである。今のアニメがどう製作されているのかは知らないけど(恐らく大半が最終的にはコンピュータで処理されているのだろうけど)、昔のアニメはなんだか見ていて不自然な場面があった。背景とキャラクターの色とか質感が全然違う場面が多かったように思う。きっと、背景は紙に書き、キャラクターをフィルムというのだろうか、透明なものに書いて重ね合わせて作っていたのだろうと思う。
現実というやつも、その一昔前のアニメのように、いくつかの層に分かれているのだろうと思う。それらが重なり、僕らはそのどこかにいて、現実を見ている。
だから、人によって、その人がどの層にいるかによって、見えてくる現実は違うものになる。
なんだかそんな風に思う。
例えば、マジシャンという存在は、マジシャンとして人々の前に現れる場合、僕らより一段高い層にいる、と言っていいかもしれない。僕らのいる層の常識では理解できない現象を次々に生み出す。しかしそれは、一つ上の層では普通のことなのだ。
そして、マジックも見せ方を変えれば、宗教にも怪異にも妖怪にもなる。
妖怪というものは、僕らに見えている現実の常識では処理できなくなった様々な現象を、一つ上の層に押し上げるための方便だ、と僕は理解している。もちろん、そういう理解にたどり着くことが出来たのは、今まで読んできた京極夏彦の作品群のお陰であるのだけれども。
自分達には理解できないことを妖怪に押し付ける。妖怪が存在するかどうかは別として、妖怪の存在を確認することができないのはこのためだ。僕らの現実の一つ上の層にいるのだから。時折断片が見えるにすぎない。
なるほど、うまい仕組みだと思う。
今ではこの妖怪というシステムは機能しない。なぜなら、人々が妖怪の存在を信じないからだ。理解できない不思議なことがどんどんと減ってしまっているからかもしれない。もしかしたら今の世の中では、「科学」というものが「妖怪」というものにとって変わったのかもしれない。科学だって、ちゃんと理解していない人にとっては、一つ上の層のことだろうと思う。
最近こんなニュースがあったと思う。癌を患った少女を完治させようと、インターネットであちこち調べ、癌を完全に治す薬を開発した、というところで治療を受けて、結局亡くなってしまった、というような事件。
これも、「科学」という名の妖怪の仕業なのかもしれない。いつの世も、形を変えて仕組みは残る、ということだろうか。
本作では、層の狭間で生き迷っている人が様々に出てくる。現実に生きる人々の世界に、妖怪が不自然に、不用意に、不穏に混じり込んでしまっていると言ってもいいかもしれない。そんな混沌とした世の中を、言葉一つで巧みにまとめ上げてしまう輩がいる。
小股潜りの又市。
小股潜りとは、言葉巧みに相手を言いくるめる、というような意味。余りいい呼び名ではないが、この又市という男、決して善人というわけではないが、悪人でもない。最終的に金儲けのためとはいえ、もてる限りの力と言葉と策と仲間とを使って、普通にはどうにもならない無理難題を、言葉巧みに妖怪の仕業に仕立て上げ、八方うまく治めてしまう、という離れ業をやってのける人間なのである。又市の仕事を手伝う仲間も方々にいるが、どいつもこいつも一癖も二癖もある、一筋縄ではいかない御人ばかりである。
主人公は山岡百介という、戯作者志望の男である。名のある商家に出されたものの、後を継ぐでもなく、細々と書き物をしながら居候並の現状であるが、家人にはいい扱いをうけている。諸国を旅し、不思議な話を収集しては、百物語を書き出版することを目指しているのである。
その百介は、ふとしたことから又市らと知り合うことになる(これは前作「巷説百物語」での話)。以来、又市らが仕掛ける仕掛けの手伝いをするようになっていった、という関係。
ただどの事案でも、百介にはまず、解決しなければならない問題が何なのか、がはっきりわかっていない。いろいろな現状を見たり聞いたりするにつけ、これはまずいなとは思うものの、状況がどうなっているのかまるでわからない。そのわからない状態のままで、いつの間にやら又市らの仕掛けは始まっており、いつしか全てはまるく収まっている、とこういうことなのである。
しかし京極夏彦は、面白い構造を考えたものだと思う。読者にも、結局何が問題だったのか、何がどうなっているのか、解決するまでわからないことがほとんどだ。問題がわからないままで又市らは仕掛けを施し、全てが終わった後で、問題ともども一緒に謎解きがされる、とこいう仕組みになっている。これはかなり新しい形のミステリーだろうと思う。
そんなわけで、それぞれの話を紹介しようと思う。

「野鉄砲」
百介は、兄軍八郎に呼ばれて行ってみると、額に石の礫が突き刺さった奇妙な死体を見せられる。人の仕業だというなら下手人を挙げなくてはいけないが、どうにも人の仕業とも思えない。かといって妖怪の類の仕業あんおだろうか?その手の不思議な話に強い百介が呼ばれたのは、その辺りの事情からだったようだ。
よくわからないままに百介は江戸に戻り、偶然会った又市らにその話をすると、予言めいたことを言ってどこかに出掛けてしまった。一体どんな仕掛けが、というよりもまず、何が起こっているのやら…。

仕掛けも謎も、本作の中ではわかりやすい方ですな。短いし。又市らの仕事がよくわかる話です。

「狐者異」
百介は、行きたくもない刑場へと向かっている。そこには晒し首があるはずだ。捕まった極悪人の首が置かれているのだ。それだけなら、残酷なのが嫌いな百介は行かないが、その極悪人にはよからぬ噂がついて回っているのである。
何度首を切っても生き返る。
既に二度生き返り、首を切られたのは今回で三度目。そうした不思議な話があればいかないわけにはいかない百介は刑場へと向かっているのである。
しかしその途中、又市の仲間猫廻しのおぎんと出会う。おぎんは晒し首を見ると、「まだ生きるつもりかえ」と呟くのだが…。

妖怪の類を利用するのは、何も又市らだけではない、ということですね。それにしても、実際この時代がどうだったかは知らないけど、なんだかひどい話ですね。ちょっと複雑です。

「飛縁魔」
貸本屋の平八が、百介にある頼みごとをした。それは、百介の後ろにいる又市らのことを見込んでの頼みごとだたのだが。簡単に言えば人探し。しかしこれがなかなかに簡単じゃない。
大金を持って、花嫁衣裳のまま倒れていた女と結婚しようとした金持ちがいて、しかし祝言の間際にふいと消えてしまったのだという。以来、実直だったその男は腑抜けになり、商いもうまくいかなくなるほど。しばらくしてその家の者が、その白菊という女を江戸で見た、という報告をするや、主人は狂ったかのようにある建物を立て、準備は整ったから帰ってきてくれ、と祈っているのだそうだ。
その白菊という女性を探してくれ、という命。又市の耳にいれるとなんやか動き出す。悲しい女性の生涯を辿るような切ない物語。

男と女というのは、まあいつの世もそううまくはいかないということでしょうか。これもちょっと複雑です。団々長くなっているし。

「船幽霊」
前作「巷説百物語」での狸の仕掛けの後、わけあって土佐に行くことになった百介とおぎん。追われているような気配を感じて、追っ手らしき人を撒こうと思ったが、どうにも囲まれて、危ういところを助けられた。
助けてくれた侍は、東雲右近といい、ある藩の命を受けて人探しをしている途中だという。その藩では今、辻斬りが横行していてひどい状況らしい。その下手人の当て推量をした家老が、その人物を探してくれと頼み、土佐くんだりまでやってきたという。
右近を含めた三人はそこで、川久保という集団に絡んで様々に大変な目に遭う。おぎんの隠された用事も明かされ、もはや命もこれまでというような場面もあったりする。

どんどん話が長くなる。輪を掛けて話が複雑になっていく。ただ、本作を通じて、おぎんという人のあれこれがいろいろ明かされて、それも結構面白い。

「死神 或は七人みさき」
又市の仲間の事触れの治平の元に、東雲右近がやってきた。人探しの命を受け、辻斬りが横行しているという藩に戻ったが、子を宿した妻が殺され、あまつさえ殺した疑いを掛けられて、江戸くんだりまで逃げてきたのだという。
それをきっかけに、その藩を巡る壮大な仕掛けが施される。複雑に絡み合った関係や利害を取り壊し、様々な人の想いを組んで、しかも藩を存続させようという、壮大にして無謀な仕掛けを、又市らは苦労して実行する。

「船幽霊」とセットになったような話で、二つあわせれば、本作の半分以上を占める壮大な物語。本当に複雑だけど、又市らの仕掛けの見事さはなかなか。

「老人火」
「死神」の事件から6年。百介はその時から又市らにあっていない。風の噂で時折耳にするだけだ、百介はその間に、物語作家として多少有名になっていた。
そんな百介の元に、あの藩から侍がやってきた。どうも、藩建て直しの功労者とも言える家老が、ちょっとおかしくなっているのだという。出来れば又市と取り次いで欲しいということだったが、なにぶん百介にも行方はしれない。
とにかくその藩へと行くことに決めた百介だったが、そこで又市らの姿を見ることになるが…。

このシリーズ、終わってしまうのか…、というような話です。どうなるのかわからないけど、終わってしまうのはちょっと悲しいですね。またどこかに出てきてほしいです。

最後に。解説で恩田陸が、在野の研究者についてのことに触れています。要するに京極夏彦は、完全に在野の趣味の範囲での妖怪研究者ではあるけれども、でもその解釈の方がよほど面白いし素晴らしい、ということでした。確かに、京極夏彦のどの作品を読んでいても、妖怪研究がどうなされていてどう落ち着こうとしているかは知らないけど、なんか普通じゃないし、きっと研究者は誰もこんな風には考えてないんだろうなというようなことが書いてあるような気がして、やはり京極夏彦はすごいものだ、と思ったりもします。
作家としても面白いし、妖怪の研究者としても、在野ではあるけれども一級とくればいうことなしです。羨ましい。
というわけで、いい作品です。相変わらず長いけど、是非前作「巷説百物語」から読むことをお勧めします。

京極夏彦「続巷説百物語」




I LOVE YOU(伊坂幸太郎他)

「恋愛」に、色や形があるとしたら、僕の目にはどう見えるだろう?
あなたの目にはどう見えるだろうか?
僕らが見ているものは、同じものだろうか?
僕だったらそうだな、なんとなくまん丸って気がする。つるつるで、シャボン玉みたいに、透明だけど透明じゃないまん丸。なんとなくだから、何でとか言われても答えられない。
なんだか心理テストみたいだけど、どこにも答えがあるわけでもないし、分析できるわけでもないので、その話はここまで。
恋愛って、結局いつもこうして物語になる。舞城王太郎という作家は、「過去について祈る」と「物語」ができる、と言った。今のこの世界は、どこかの誰かが祈った過去、なのかもしれない。だからどう、ということはないけど。
恋愛、はあらゆる分野で描かれてきた。芸術に含まれる、必然的な要素の一つなのかもしれない(他に思いつくのは、宗教と死だけだ)。あらゆる芸術・表現は、完成された時点で、何らかの「恋愛」的要素を内包してしまうものなのかもしれない。
いつの時代も、どの国でも語られてきた恋愛というテーマ。尽きることのないその物語は、様々な形に姿を変えて、読む人の心の中に入り込んでいく。心の隙間に、うまくかっちりと嵌まるような、そんな破片が、ぐさりと飛んでくるかもしれない。
どこにでもある(もっと言えば転がっている)が故に、答えもゴールも真実も理由もない「恋愛」という行為に、人はどうにも惹かれるものらしい。誘蛾灯に集まってしまう蛾のように、「恋愛」という何かの元へと、人は集められるように出来ているらしい。
なんだか、少しだけ馬鹿らしい。
「恋愛」=「誘蛾灯」だと思うと、なんだか切ない。
動物の「恋愛」というか「求愛」は単純でいいな、とたまに思う。鳴き声がいい、色が綺麗、喧嘩が強いなどなど。動物の雄雌の間にある基準は、どれもが分かりやすい。それはしかし、その方向への進化を促す要因にはなるけど、明白な階級というか色分けというか、そうしたものがはっきりしてしまう、という点もある。
人間は複雑だ。どこをとっても複雑だけど、恋愛も充分に複雑だ。
人間の、異性を好むポイントは様々にある。全然わかりやすくない。きっとそのお陰で、人間のような多様性が生まれたような気もするけど、でもちょっと複雑すぎて、僕には追いつけていない感じがする。
恋愛って難しい。
でも、だから誰もが求めるのかもしれない。
あー、書いててよくわからなくなってしまった。内容に移ります。
本作は、6人の作家によるアンソロジー作品。作家名を羅列すると、伊坂幸太郎・石田衣良・市川拓司・中田永一・中村航・本多孝好。かなりの作家陣による作品だ。
いつも書くことだけど、恋愛というテーマは僕にはちと難しい。なんか、届かない感じがする。そこまでいけない気分を味わう感じで、正直好きじゃない。
でも最近思ったのは、男が書く恋愛小説は、まだいけるんじゃないか、ということ。やっぱり、恋愛というのは、視点が大事なのかもしれない。作家と同じ性でなければ、同じ視点を持つことができないものなのかもしれない。
わからないけど。
本作は、全員男性作家による恋愛小説である。だからかもしれない。そこまで抵抗なく読めた気がする。もちろん、素晴らしいという感じにはいかないけど、届かないという感じは受けなかったし、むしろ落ち着いて物語に接することが出来たような気がする。
とりあえず、それぞれの内容を紹介しようと思う。

伊坂幸太郎「透明ポーラーベア」
恋多き女だった姉の、最後の元彼氏と、動物園でのデート中に再会した。向こうも彼女を連れていた。姉は失踪し、その元彼氏との関係はほとんど切れ掛かっていたにも関わらず、再会した。
僕は、一ヶ月後に転勤することが決まっていて、付き合っている彼女との関係について悩んでいた。偶然ながら四人で動物園を回る。姉の好きだった白熊にも出会う。
そんな、四人のデートのお話。

やっぱり伊坂だ、と思える作品。ほとんどこのために本作を買ったと言ってもいい。相変わらず素晴らしい。恋愛小説なんだろうけど、僕はそうは読まなかった。やっぱミステリーだよ、この人は。
伊坂らしさ全開の、いい話です。

石田衣良「魔法のボタン」
ぼくの通っていた幼稚園では、「魔法のボタン」という他愛もない遊びが流行っていた。右肩を押すと透明人間になる。左肩を押すと石になる。ただそれだけのことだった。
大人になったぼくは、付き合っていた彼女から別れを切り出された。落ち込んだぼくは、友人と呼んでいいのか、女らしくもない女友達を呼んで、話を聞いてもらうことにした。男っ気のない女で、でもその日以来、デートをするようになる。
「魔法のボタン」が押される時、心のどこかが静かに開く。

こういうテイストの恋愛小説というのが、やっぱりちょっとダメですね。苦手な感じです。ストレートに恋愛って感じで。ガラス一枚隔てたところにありそうで。届きそうで届かない、見えるのに触れられない。そんな距離が、やっぱり苦手ですね。

市川拓司「卒業写真」
スターバックスで名前を呼ばれた。昔の知り合いのはずなのに、顔も名前もよく思い出せない。渡辺です。そう名乗られてようやく、昔の記憶と今の顔と名前が一致した。
渡辺くん。結構仲がよくてよく喋ってた相手だ。なんだか、似たような境遇みたいだし、ちょっと懐かしいし…。
でも、あれ、おかしいな。おかしいよ、ちょっと。もしかして…。

なるほど、ちょっと面白いと思ってしまった。「いま、会いにいきます」の作者だから(と言って読んでないけど)、こてこての純愛かと思いきや、違った。結構好きかも。場面展開なしで、舞台も人も変わらずに物語が振興するところも、なかなかうまいな、と感じました。

中田永一「百瀬、こっちを向いて」
僕は、人間レベル2のどうしようもない高校生。女の子なんかと一生付き合うことはないはずの男。
かたや、学校一の美男美女、人間レベル90以上の二人が付き合っているらしい。美男の方は、僕が兄的な存在として慕っている先輩だ。
その先輩からある頼まれ事をされる。今二股していて、美女の方にバレかかっている、と。だから、俺のもう一人の彼女とお前が付き合っていることにして、疑惑を晴らしてくれ、と。
その日以来、人間レベル2の僕が、演技とは言え、女の子と付き合うことになる。過去の回想として語られる場面と現在の場面が行き来する物語。

ああ、俺っぽいな、と思いながら読んでみました。僕も人間レベル2ぐらいだと思うんで。なんというか、二股の疑惑を晴らすために、好きでもない男と付き合っている演技をする女の子の心理が僕には理解できないのですが、女性的にはそれなりに受け入れられる状況なんでしょうか?わかりません。これだから恋愛は難しい、と思うわけで。

中村航「突き抜けろ」
僕は、スケジュールの決まった恋愛なんてのを今している。いつ電話して、いつデートして。全部決まっている。彼女との話し合いで決まったことだ。特に不満があるわけでもない。
その代わり、友達と会う機会が増えた。同級生の女の子が好きでその子の話ばっかりする友達だ。その友達に連れられて、ある男の部屋へといく。かなり奇矯な性格の人間だけど、なんだかどんどん引き込まれていってしまう。
友達が好きな女の子に彼氏が出来たらしい、という話を耳にしてしまう。奇矯な男を含めた三人は、それをきっかけに、何かを突き抜けようとするかのように、どこかの方向へと進んでいく。

これがもっとも恋愛小説らしくないです。だからかもしれないけど、まあ結構楽しめたような気もします。奇矯な男が結構好きだったりします。ただ、恋愛小説ではないと思うんだな…。

本多孝好「Sidewalk Talk」
もう離婚だ、という夫婦が、最後に食事をする、そのワンシーンの物語。昔の恋愛を振り返りながら、離婚がすぐそこまで迫った二人が、向き合って食事をする。
過ぎ去った時間を取り戻すことはできない。何がダメだったのかわからないけど、終わってしまった時間が確かに存在する。
そして最後に届く、彼女からのメッセージ…。

なるほど、という感じもするけど、ちょっと難しいです。なんとなく僕は、夫婦というのはかなり特殊な関係なんではないかと思っていて、それが破綻する状況もまた特殊なんだろうと。きっと、誰にもはっきりとはわからない、些細な些細な何かが二人の間をすり抜けていって、それに気付けるかどうかが、ある種結婚というものの勝負なのかもしれない、とも感じました。

それぞれに個性的な作品でありながら、全体としても案外一つにまとまっているような気もする作品。伊坂幸太郎と本多孝好の作品を目当てで買ったけど、それ以外の作品も、恋愛をテーマにしている割にはなかなか悪くはないな、とそんな感じです。
まあでも、文庫になってから買うでも遅くはないかな、という感じに勧めておくことにします。

伊坂幸太郎他「I LOVE YOU」



県庁の星(桂望実)

陳腐な評価になってしまうことは充分にわかった上で、本作の評価を表現してみようと思う。本作は、スーパーメチャクチャウルトラハイパースペシャルミラクルアンビリーバボーに面白かった!!!!!!!
実に陳腐な表現になったが、言っていることに嘘偽りは一切ない。本当に、めちゃくちゃ面白くて、ちょっとどうしようかと思ったくらい。
でもそれはもしかしたら、僕、だからなのかもしれない、とも思う。というのも、僕の今の状況は、本作の状況とかなり似ている、と言えるわけで…
この作品の舞台が、自分の働いている本屋とダブった。だからこそ、普通以上に面白く感じられたのかもしれない。
僕は、本屋でバイトをしている人です。一応文庫・新書担当なんかやってます。入って一年半ぐらいですが、店内の仕事はほとんどわかる、とまあそんな感じでしょうか。
ただ、いろいろな部分が酷すぎる。もう、なんでこんなこともできないのか、なんでこんなことも言えないのか、なんでこんなこともやらないのか…。もはや、あげればきりがないほど、うちの本屋はあちこちがひどいんです。
でも、まあそこそこ売上がいいのと、出来る数人のスタッフがひたこらと頑張っているお陰で、今のところなんとかなっているわけで…。
ってこのサイト、うちの店長も見てたりするんだな。まあ、いっかな。
とにかく、仕事のできないスタッフ、仕事をやらないスタッフが多すぎて、それを社員が改善しようとせず(というか寧ろ、社員の能力が低くて、仕事ができてないから、周囲の管理なんて目がいかない、という状況だけど)という感じ。つい最近、オープン当初からいた、ものすごくできるスタッフ(この人は社員だったけど)が退職して、それ以来店内の状況は益々最悪になってきた。
僕はほんと、本作に出てくる二宮さんみたいに、社員でもないのに、めちゃくちゃ頑張って、売り場を管理しようとしている。ほんと、疲れる。
そろそろなんとかしないとやばい、と本気で思っていて、実際にいろいろ動き出していたりする。僕の考えに賛同してくれる人も結構いたりして、でもそう簡単にうまくはいかないだろう、とも思う。ずっとぬるま湯に浸かっていた人間は、冷水や熱湯になった時、すぐに対応できないのだ。
最近は、ほんと細々としたことにも腹が立って、イライラしっぱなし。もうホント、どうにもならなかったら辞めちゃうしかないよな、ってまあそんな感じ。
以上、今の僕の現状でした。
組織(これは規模に関わらず、ある程度の同一の目的を持つ(はずの)集団により構成されるものを指すものとする)を変革するのは、本当に難しい、と改めて思う。僕は、大学時代に、かなり奇妙なサークル(実際は部活なんだけど)に入っていて、そこである時期かなり中心的な仕事をやっていたりした。その組織は、本当にあらゆることが厳格に論理的にかっちりと決まっているようなところで、僕らの代で変えようと努力したのだけど(まあ僕はあんまり頑張らなかったんだけど)、結局うまくいった、とは言えないような成果に終わったと思う。
組織は、時間と共にどんどんと硬直していく。それは、骨折をギブスで固めているような状況かもしれない。うまいことギブスで固定された状態で硬直するなら別にいい。でも、ギブスの巻き方に不備があって、そのままだと骨が正常に繋がらない、というような状況で硬直していく。それが、組織というものに課せられた宿命なのかもしれない。
硬直しきる前に何らかの処置を施せば、あるいはなんとかしようがあるのかもしれない。しかし、間違ったまま繋がってしまった骨は、そう簡単には元には戻らない。
ただ、不可能ではない。
有効な準備と、完璧な論理、そして認められた実績や隙のない行動などによって、かなり難しいけど不可能ではない。そして今僕は、それに挑もうとしている。かなり道のりは険しいけど、本屋というのが結構好きだから、なんとかしてみたいと思う。
まあそんな、自分に対する決意表明も兼ねながら…。
内容の紹介に移ろうと思います。
本作はまず、県庁である企画が立ち上がるところから始まる。それは、県庁の星(エリート)を民間企業に出向させ、そこで民間の手腕を学び、役人の仕事に役立てよう。そういう企画である。その栄えある第一回目の6人に選ばれた一人が、本作の主人公の一人、野村聡である。
聡は、あるスーパーに行くことになった。さて、やるぞと気合を入れて乗り込んだものの、店長に言われたのは、そのスーパーの長とでも言うべきパートの女性に仕事を教えてもらいなさい、ということ。その女性こそ、本作のもう一人の主人公、二宮泰子である。
二人のかみ合わなさは、月とすっぽんの喩えを軽く吹き飛ばすほどのものがある。やることなすことかみ合わない。聡は、役人的な発想の元に判断・行動をするのだが、それがいちいち二宮の気に障る。やることなすこと見当違いで、すっかり呆れた様子で聡と接する二宮。まあ最悪のコンビネーションと言えるだろう。
しかしこの二人、なんだかんだ言いながら、時と共にお互いを好きあうような関係になって…
というような恋愛ストーリーではまったくないが、でも二人の関係は徐々に変わっていく。聡は、自分に相応しい仕事を求め、あらゆる改善点を指摘し、店をよくしようと努力するが、周囲の協力を得られずにうまくいかない。「ケンチョウさん」と呼ばれ続けるように、役人的な発想から抜け切ることができない。二宮は二宮で、相変わらずぐうたらな社員に呆れ怒りながらも、そして聡の相変わらずのアホな仕事ぶりに呆れ怒りながらも、それでも一生懸命に仕事をしていく。
そんな二人の関係が変わっていく、というのだからすごい。
次第に聡は考えを改めるようになる。役人的な視点ではない、新たな視点を獲得し、その視点で様々な判断・行動をするようになる。元々頭はいいのだから、そのほんの少しの転換で、聡は周囲を動かしていく。そんな姿を見た二宮も、この店を変えるなら今しかない、と二宮なりの作戦で周囲を動かしていく。
そうして迎えるラスト。あなたはきっと感動し、ともすれば涙すら流してしまうかもしれません。
圧倒的なスピード感でストーリーを疾走させ、内容は抱腹絶倒、ラストは大感動、という、本当に素晴らしい作品なのでありました。
予想よりも遥かにいい作品で、びっくりしました。役所と民間ではここまで考え方に差が出るものなのか、という驚きもあるし、現実にスーパーってこんな感じなのかな、という驚きもあるし、こんなにも面白いなんて、という驚きもあった。かなり、読んで満足な作品だった。
僕は本当に今、二宮と同じような状況にいる。聡のような手腕も持っていると思っている。なんとなく読んでて励まされた。頑張ればなんとかなるぞ、って。よっしゃ、俺もいっちょ頑張ってみるか、ってそんな感じになった。
本作は映画化が決定だそうです。いつ誰がということは知りませんが。とても面白い作品になると思います。見るかどうかは別として、期待したいと思います。
是非書店で見かけたら手にとってください。数ページでもいいので読んでみてください。そして是非買ってください。いい一冊に出会えました。

桂望実「県庁の星」




好き好き大好き超愛してる。(舞城王太郎)

祈り、とは何だろうか?
少なくとも僕は、普段の生活の中では祈らない。神様仏様なんとやらに、これこれあれこれでどうなってほしいとか言わないし、他のどんなものに向けても僕は、祈りらしきものを発しない。あるとしても、儀式としての反射的な行為ですらある、神社などでのお参りぐらいだろうか。
祈り、とは何だろうか?
イスラムだかなんだかの人は、1日に何度も、アーメンだかコーランだかメッカだかの方向を向いて祈る。ただひたすらに祈る、彼等が何に対して、どんなことを祈っているのか僕にはわからないし、むしろそうしたありきたりの祈りとは次元が違うものなのかもしれないけど、でも彼等は祈る。
あなたは、誰かに、何かに、祈りを捧げるだろうか?
本作の内容とは大分無関係だけど、本作には、祈り、について面白い記述がいくつかある。まずそれを抜き出してみようと思う。

(前略)
祈りは言葉でできている。言葉というものは全てをつくる。言葉はまさしく神で、奇跡でを起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕達が祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。過去について祈るとき、言葉は物語になる。
(後略)

「過去について祈るとき、言葉は物語になる。」この文章はかっこいいと僕は思う。物語を文章で紡ぐ作家だけではない。記憶として思い出を保有している僕らだって、祈りは物語に変わるし代わる。

(前略)祈りとは、ただ、何かを求めていると、それをくれるわけではない誰かに、あるいは誰でもないものに、訴えかける行為なのだ。
(後略)

祈りを捧げる対象が、願いを叶えてくれるわけではない。そう思うことが祈りの第一歩なのだろう。そうして初めて、祈りとなった言葉が価値を生む。

(前略)
無駄と知りながらも言うべき言葉は、一つの祈りだ。
(後略)

願いを叶えるためだけではない。自分の願望が現生してくれることを望むわけでもない。ただ純粋に、わけもなく、素直に、ありのままに、祈るために祈ること。祈ることが世界に何の影響も与えないという中で、それでも口をついて出るべき言葉。祈りは、とても美しさに満ちている。

舞城王太郎の作品は、僕に「解放」を言う言葉を与える。
小説を読む、という行為は、僕にとって「解放」とは大局の位置にあるものだ。作家の訴えたいこと、伝えたいこと、残したいこと。大層な哲学や思想でなくてもいい。作家の自己満や傲慢さであってもいい。とにかく作品の中から、その作家からしか、その作品からしか読み取ることのできない限定的な何かを、文章や単語や文字に至るまで読み尽くして手に入れる。大げさに言えば僕にとって読書というものはそういうものだ。
特にミステリーというジャンルを読んでいるとそうなる。あれでもない、これでもない、と様々な可能性を否定され、どんどんと思考も視野も限定されていく。もちろん、作家がそう仕組んでいるわけだけど、どうしても収束された何かを見出そうとしてしまう。
しかし、舞城王太郎は僕に、解放を与える。
脳のどこかの栓がボゴッと抜けてしまい、そこから、僕自身にも何なのかわからないありとあらゆるものが流れ出ていく。脳から溢れ出るものが、僕の外側に広がっていき、その分だけ僕の脳が外側にどんどん広がり、ついには世界全体を僕の脳にしてしまっていつの間にか僕の内側に取り込んでしまうような、そんな感じだろうか。
決して収束しない何かがある。それは物語的にというだけのことでは決してない。物語自体も、もちろんどんどん拡張していく。本という物理的な制限をあっさりと突破し、境界を打ち破ってどんどんとこの世界に入り込んでくる。
それだけでなく、物語だけでなく、終わらない何かがずっと続いている。それは時間かもしれないし、思想かもしれないし、文章かもしれないし、舞城王太郎そのものかもしれない。あるいはそれらは全て幻想で、幻想であるが故にどんどんと広がっていくだけなのかもしれない。
とにかく、舞城王太郎の作品は、僕を解放させる。名前だけはある、しかしどこへでもない場所へ僕を連れ去っていくような気がする。そのままそのい場所へ行ってしまいたいというのは、もしかしたら現実逃避なのかもしれないが、もしかしたらその場所こそが現実なのかもしれないじゃないか、という気にすらさせる。
解放されるがゆえに、僕の頭の中には文章がどんどんと浮かぶ。脳が、世界が広がっていく。
その心地よさにきっと負けているのだろう。その魅力に、僕は舞城王太郎の作品を読むことを止められない。
本作は、「恋愛」と「小説」の物語である。「恋愛小説」なんだろうけど、でもたぶん違う。たぶんだけど、舞城王太郎にとって、「恋愛」であるかどうかなんてどうでもいいのだ。「小説」であるかどうかもどうでもいいはずだ。
本作はまず、三つの作品に分かれている。一つは「好き好き大好き超愛してる。」。二つ目は、舞城王太郎自身によるイラスト集「ILLUST GALLERY」。そして三つ目が、「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」である。
「好き好き大好き超愛してる。」は、さらにその中がいくつものストーリーに分かれている。それぞれの作品には、女性の名前がタイトルとしてついていて、その女性と男との恋愛、という形で一応ストーリーは綴られる。舞城王太郎の作品は、紹介するのが果てしなく大変だし、あらすじを全部書こうと思ったら本編よりも長くなりそうなそんな気もするから、ざあっと、こんなだよってことを書き連ねてみようと思う。
体の中に虫が入り込んで手術しなくちゃいけなくなったり、使われなくなった公園の公衆トイレの天井に花壇があったり、ガールフレンドを癌で亡くした作家がいたり、らくだのこぶに乗ってサーフィンしたり、夢を直すキャプテンフックに出会ったり、死んだ彼女から手紙が届いたり、神と戦うためにアダムがイブを操縦したり、秘密を作り出すことで自分を永遠にしたりする。「恋愛」「小説」なのに、ここに書いてあるのだけ見ると、SFすら既に通り越えてしまっているような感じだ。
ただ、ここにはどこまでも愛が描かれている。誰にもどこにでも、愛があることが描かれている。死や戦いなど、圧倒的な重圧の何かを目の前にして、それでも言葉や想いや幻想や触れ合いや気持ちや願いや存在や肉体が、全て愛に変わるのか描こうとしている気がする。何もかもが愛なんだ。暴力的に、ぶっきらぼうに、無造作に、そう伝えようとしているような気がする。
とにかく、愛がある限り、人は苦しむし、それでも愛はなくならない。永遠があるとすれば、それは時間の中でも、言葉の中でも、祈りの中でもなく、愛の中にあるんだ。違うか?
「ILLUST GALLERY」は、その通り舞城王太郎が書いたイラストがそのまま載っている。「好き好き~」と「ドリルホール~」をイメージして描いた作品のようだ。絵のことはちゃんとはわからないけど、力強いし圧倒される。文章だけでなく、絵にも圧力がある。
「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」は一つの作品だ。主人公の俺は、馬鹿な母親が宮館とかいうアホと不倫なんかしたせいで、あれやこれやあって、その宮館に、プラスドライバーを頭に突き刺されてしまった。俺には、あるはずのない幻想が見える。真っ白な花に囲まれ、カップラーメンの集合体となった姉に心配されながら、両目のない熊を着ぐるみした少女に、突き刺さったプラスドライバーをねじられて、チャンネルを変えるようにして、俺は村野誠になる。
村野誠はその世界の中で、世界を救うヒーローだ。調布市の中だけでは全能で、調布市に集まってくる敵をやっつけながら世界を守っている。調布には、調布タワーと呼ばれるタワーがあって、それは俺の頭の中に突き刺さったプラスドライバーで、だからこの世界は俺の頭の中で、俺の頭の中で俺は村野誠として存在している。
村野誠は、額に角を持つユニコーンであるあかなのことが好きだ。その角を村野誠の頭に空いている穴に突き刺してセックスをする。気持ちがよすぎて痺れる。たまらない。
だがそんな生活も、なんだかあっさり崩れていく。なんだかあっさり。あかなが自らの腎臓を取り出して失踪し、俺はその世界に俺がいるのかどうか確かめるために福井に行く。そんな感じ。
相変わらず強烈なストーリー。どこにも収束しないというのはどの作品でも共通で、終わると同時に何かが、しかも別の何かが始まるような、そんな感じさえする。ぞうきんを絞っても絞っても、いざどこかを拭こうとすると、ぞうきんがぐしょぐしょに濡れていることに気付くような感じかな。
どちらの作品も、そしてイラストも、僕にはちゃんと理解することができない。もしかしたら、どこにも着地点を作ってないのかもしれない。みんな、自分の好きなところで世界から切り離される物語なのかもしれない。
きっと何度読んでも理解できないだろう。ただそれでもいい。理解できることだけが、本を読むことの全てではない。読む本全て理解できなくなったら苦痛だろうけど、たまにならいい。そのたまにが舞城王太郎ならなおさらいい。不思議な気分にさせてくれる作家だ。
僕としては、是非にとお勧めしようと思う。しかし、合うかどうかは保証しません。万人向けの作品ではないことは確かだろうと思います。それでも、一度でいいから、何か試しに読んで欲しい。そう思います。

舞城王太郎「好き好き大好き超愛してる。」



99%の誘拐(岡嶋二人)

さて、初めに書いておこうと思うけど、本作は今現在、めちゃくちゃ売れている。もう、ありえないぐらい売れているのである。書店員で、文庫担当の僕の立場から言わせてもらえば、本作は、「置きさえすれば売れる」という、そうは出てこない奇特な一冊である。作品自体はもう大分前のものなのに、今の新刊よりも遥かに売れる。どの書店でも、軒並みランキングの上位に入っている。まったく、化け物としかいいようのない作品である。
何故ここまで売れるようになったかというと、どうもあるランキング誌の影響であるらしい。ここ30年のミステリベスト、というアンケートで、本作は1位になったらしく、どうやらその影響で売れているらしい。
とにかく売れ方だけ見れば、文庫化された村上春樹の「海辺のカフカ」にも引けを取らないような、そんな作品の紹介です。
ミステリにおける「誘拐」の位置というものは、あるいみで「密室」と同じぐらい、既にかなり確立されてしまったテーマである。硬直してしまっている、と言ってもいいかもしれない。
イメージだけでいうなら、携帯電話みたいなものだろうか。「携帯電話」というものの登場はかなり革新的だったけれど、でも以降、どんな機能を搭載しようと、他のものと比べて画期的に差別化することが出来るような分野でもない。単純に言えばそんな感じである。
しかし、だからこそミステリ作家は、そういう使い古されたテーマに惹かれるのかもしれない。まだ誰も書いていない形で描いてやる、といった意気込みなのだろう。
これまでも、結構いろんな誘拐もののミステリを読んで来たけど、使い古されて、もうないだろうと思えるようなテーマなのにも関わらず、今でもどんどんと素晴らしい作品というものは生まれてくる。
現実の世界では、ミステリで描かれるような、ある意味で荒唐無稽な犯罪というものは、皆無だといってもいいくらいだ。「密室」だとかいうものは、現実にはほとんど出てこない。その中にあって、「誘拐」というのは、現実的にもありえるもので、だからこそ、犯罪者になったような気分で、作家は誘拐ものを書くのかもしれない、とも思う。
誘拐という犯罪は、その存在が公表された段階では既に進行が止まっている、という、犯罪の中でも捜査が極端に違うものだ。犯罪と同時進行で捜査が展開されていく唯一の犯罪かもしれない。
だからこそ、警察の力というものがとても有効になる。だから、呼ぶなと言われても呼んでしまう。まあ仕方ない。
しかし、僕にはどうしても、誘拐捜査に携わる警察というものの存在(というか、誘拐ものに描かれる警察のあり方)というものが、どうも苦手である。なんというか、うまく説明できないけど、それは違うんではないかな、というようなシーンがよくあったりする。まあ、小説の中の警察が、大抵犯人に出し抜かれてしまうからかもしれないけど。現実には、誘拐犯は金の受け渡しを成功させることはほぼ出来ないようで、まあ日本の警察は優秀なんでしょう。
まあそんな感じで、内容に入ろうと思う。
本作は大まかに二つに分けられる。
一つは、ある男の手記である。癌に冒され、もはや死を待つばかりという生駒洋一郎という男が、死の間際まで書き続けた手記である。
その手記は、息子慎吾に宛てられたものであり、内容は、当時5歳の彼が誘拐された際の、事細かな詳細が描かれている。
息子を誘拐された洋一郎は、当時ある会社の社長をやっていた。ICを日本で先進的に開発していた、今でいうベンチャーのような会社であった。当初は順調な滑り出しを見せていたが、様々な事情で金策が必要になり、洋一郎が集められるだけの私財5000万円を従業員に見せ、これで立て直そう、と鼓舞していた矢先のことだった。
誘拐犯からの身代金提示額は5000万円。洋一郎は、息子と引き換えに、会社の建て直しを諦めざる負えなくなったのである。
散々に振り回された結果、息子が戻ってくる。そこまでが描かれた手記がまず冒頭にくる。
二つ目は、その誘拐から20年後に起きる、ある誘拐事件だ。この二つ目の誘拐は面白い趣向であり、初めから誰が犯人なのかが分かっている。完全にコンピューターによって制御されたその計画で、どこまで警察や警察でない人々を欺くことができるのか。そうした物語だ。
要求金額は10億円。誘拐犯は、あらゆるハイテクを駆使しながら、完璧に組み上げられた計画を実行していく…
という感じです。
誘拐自体については、もうこれは確かに完璧だといわざる負えないでしょう。技術的な判断はできないけど、しかしもし、技術的に可能であり、かつここまでの準備をするだけの価値がある誘拐なら、本当に成功するのではないか、という感じさえします。本作は、1988年にハードカバーが出版されたのですが、その当時、ここまでの技術を駆使して誘拐を描くのは、かなり画期的だったのではないか、という気はします。
しかしなんというか、それだけ、という感じがします。確かに、誘拐の手順だとか計画だとかは見事だと思うけど、それだけ。なんだか、誰かが書いた「誘拐計画書」を読んでいるような、そんな感じで、決してつまらないわけではないけど、ふーん、という感じで終わってしまうと思います。
まあそもそも僕には、何が99%なのかわからないんですけど。
とにかく、売れ方は化け物ですが、作品自体は特にそこまで見るべき点はないように思います。買って損することはないとは思うけど、本作を買うぐらいなら、僕がよりお勧めの本を紹介しますよ、という感じです。

岡嶋二人「99%の誘拐」



本朝妖怪盛哀録 豆腐小僧双六道中ふりだし(京極夏彦)

「妖怪」というものに興味がおありだろうか?
いや、僕ももちろん、妖怪の種類だとか歴史だとか性格だとか特徴だとか来歴だとか、とにかくそうした妖怪個々のあれこれについては特別に興味はないわけで。それはもはや、学生時代の歴史を覚えるようなもので、僕にはどうしてもついていけない、という印象ですが。
しかし、「妖怪」という存在の、機能というかシステムというか意義というか、そうした妖怪というものの全体に対する論理、というものは、京極夏彦という作家に触れるまではまるで知らなかったし、知らないが故にまるで興味もなかったのだが、しかしこれが、たかが「妖怪」となめていられるようなものでもない、のでありますな。
「妖怪」と聞いて思い浮かべることができるのは、例えば「ゲゲゲのキタロウ(「キタロウ」の表記が判然としないけど)」のようなものだろうか。一反もめんとかぬりかべとか猫娘とかねずみ男とか、懐かしい。
あの中で「妖怪」は確か、現実に存在するものとして描かれていた、と思う。まあマンガなわけで、そこまで「妖怪」という存在をきちんと書かなければならないようなものでもないのだろうけど、でもそれは、常識的に考えれば当たり前だけど違う。「妖怪」というものは、現実に存在するモノではない。
しかし、存在しないけど存在するモノなのである。
これを説明するのに京極夏彦は、数字というものを説明に使った。確かこれは、「姑獲鳥の夏」の冒頭付近でも使われていた説明だったように思うけど、とにかくわかりやすい。
数字の1というものは、概念としては存在するけど、1というモノは存在しませんな。
「妖怪」とは即ち、その数字の1のような概念だ、というのである。
もちろん、「妖怪」というもののシステムについては、本作を読むのが最も分かりやすいと思うけど、それでも僕の文章でもう少し説明をしてみようと思う。
「妖怪」というのは、様々な種類に分かれるけれども、その多くは、ある某かの現象に対する説明、という機能を持つ。
例えば。
家がぎしぎしなるような現象がありますな。今でこそこの現象は、ラップ現象として解明されているわけだけど、昔の人にはそんなことわかりません。何も起こっていないはずなのに家が鳴る。さてどうしてだろうか…
ということで、その「何もないはずなのに家がなる」という現象に対しての説明としての性格を付与された存在が、「鳴屋」という妖怪なのである。
おわかり頂けましたかな?
これはかなり簡単な妖怪の説明なわけだけど、これを知っただけでも僕は、「妖怪」というものは奥が深いのだなと、そして「妖怪」を扱う(「妖怪」だけではないけど)民俗学という学問があることの理由を知ることができた、という風に思います。
「妖怪」というものは、昔の人の世迷い言でも、単なる御伽噺でもなく、解体していけば、充分論理的に整合性のある、緻密な概念なわけです。なめてはいかんですね。
というわけで本作の内容に移ろうと思います。
まず主人公ですが、豆腐小僧という妖怪です。この妖怪、盆に載せた豆腐をただ持っているだけ、という無意味の極地のような、何の説明も与えられていない妖怪です。この豆腐小僧は、なんらかの怪異の説明として現れたわけではなく、都の絵師などが、物語などに絵だけで勝手に登場させたキャラクター妖怪とでもいうべき存在なわけで、他の妖怪のような特徴はないわけです。
しかしこの豆腐小僧、愛嬌はあるのですがとにかく馬鹿です。一つ覚えると一つ忘れるくらいのトリ頭で、思考も覚束ないです。頭でっかちに笠を被り、舌をちょろちょろと出し、豆腐を載せた盆をひたすら離すことのない、そんな妖怪です。
本作では、とにかく色んな妖怪が出てきますが、豆腐小僧を除いては皆、「妖怪」とは何たるか、つまり概念であり実体はなく、人間が想起した時にだけ立ち現れるもの、ということをちゃんと認識しているわけです。
さて、そんな豆腐小僧。ある元豆腐屋だという廃屋に突然現れます。その廃屋で、「鳴屋」という妖怪に出会って以降、豆腐小僧は様々な妖怪に出会い、いろいろ学び、何かを追いかけたり、問題に巻き込まれたりしながら、最後の最後で妖怪大集結で一見落着、といったような内容です。
なんだかうっちゃったような説明だけど、そんな感じですね。どうもストーリーをきちんと説明するのが難しいタイプの作品です。連作短編のような形式で物語が進むからでしょうか?
ストーリーも結構嫌いではありません。豆腐小僧という馬鹿が、馬鹿なりにいろいろ考えながら行動し、面倒を抱え込むけど解決していくというストーリーは、まあなんというかほのぼのしてますね。妖怪お出てくるストーリーに対しての評価には似つかわしくないけど。
しかしなんと言っても本作の最大の評価点は、「妖怪」というものについて圧倒的なわかりやすさを誇る、という点です。
京極夏彦は、これまでも自著の中で(特に京極堂のシリーズ)で、「妖怪」というものの説明をしてきたわけだけど、いかんせん京極堂の説明は難しい部分も多々あったように思う。作品の内容自体から大きく逸脱したような説明部分(しかもかなり膨大)に、読んでいて疲れてしまう向きもあったと思います。
しかし、本作は本当にわかりやすいです。簡潔にして具体的とでもいいましょうか。妖怪について特に興味がなくても十分すぎるほど面白い内容や説明だし、これ一冊で、「妖怪」の持つ機能は、人に説明できるぐらい理解できるのではないかと思います。「妖怪」の機能についいては、多分に論理構造を含むので、理系の人間や理系的な思考が好きな人間ほど、面白いと感じるような気もしますが。
とにかく妖怪ばっかり出てきます。同じく妖怪が主人公だというシリーズを一つ僕は知っていますが(高里なんとかの薬屋なんとか)、もちろん比べ物になりません。「妖怪」についての歴史なんかがばーっと語られるシーンはちょっときついですが。
そう、何よりも本作がわかりやすい点は、地の文の視点が現在にあることです。会話はその当時の(時代についてはどこかに記述があったかもしれませんが、覚えていません)視点からのものですが、地の文ではポルターガイストだとかテレビだとか、そうしたものを例えに使ったりしているし、文章も昔風ではなく、おどけているような感じでとても読みやすいです。
ほぼ真四角に近い形の、かなり変わった本ですが、読んでみる価値はあると思います。是非どうぞ。

京極夏彦「豆腐小僧双六道中ふりだし」




デカルトの密室(瀬名秀明)

手に負えない、という感覚を時々味わう。数学の難問を目の前にした時、超絶的な美人を目にした時、ありえない現象を目にした時。この、余り味わうことのない感覚は、「負」という漢字を使っているが、僕の中では敗北だとは認識されずに、興奮に変わる。
小説を読んでいてもそういう感覚に陥ることがある。本作も、そんな作品の一つである。
僕はこれからいつものように、作品の内容に移る前に、いろいろとあれこれと文章を連ねることだろう。しかし、僕が書けることは、既にどこかでなされているだろう議論の無意識的な模倣でしかないだろうし、そもそも自分の意見を文章によって完結させることが出来るか、という自信もない。それでも、僕は書いてみようと思う。
人間、という存在は、宇宙の歴史に比すれば大したことはないが、それでももうかなりの年月、その身を地球という空間にさらしてきた。人間の好奇心というものは、ありとあらゆるものを解明し、その過程でまたありとあらゆる謎を見つけ、日々世界を理解しようと前進している。
しかし、その人間自身が、人間のことをよくわかっていない。それが現状である。
これまで、哲学や心理学など様々な分野で、人間そのものを研究として扱ってきた。その問題は大きく言ってしまえばこういうことになる。
人間とは一体何なのか?
人間と他の動物との違いは?人間を人間足らしめているものは一体何なのか?人間とロボットの違いとは?
人間には、<自我>や<意識>が存在している。それが人間というものだ。長い間多くの人にそう考えられてきた。あの有名な、「我思う、故にわれあり」という言葉も、考えるからこそ人間なのだ、ということを伝えている。人である限り、考えることから逃れることはできない、と。こう述べたのは、本作のタイトルにもある、哲学者デカルトである。
「デカルトの密室」について説明しようと思う。デカルトという人は、心身二元論を提唱した人で、人間の体というものを機械だとみなしていたようである。その機械の中に、意識が存在する。それが人間なのだと。
デカルトは、意識についてこう考えた。人間の脳の中では、外部からの情報が一つに集約され、それがスクリーンに投影されている。それを、ホムンクルス(小人)が見ている。そのホムンクルスこそが、人間の意識なのだと。
しかし、これだと意識は無限退行の中に押し込められる。そのホムンクルスの脳の中にもホムンクルスがいる、という風に考えてしまえば、意識は密室の中に閉じ込められてしまう。これが「デカルトの密室」であり、人はこの「デカルトの密室」から抜け出すことができるのか、というのが、どこかの分野での問題にもなっている。
こういった、人間の本質や、自我や意識といった問題は、これまでは特に実生活に大きく影響を与えるような問題ではなかった。せいぜいが、哲学者が、言葉によって世界を記述し理解しようと、そうすることで哲学というものを深めようと、そうした意図の元で必死に考察していた。ただそれだけの問題だったはずである。
しかし、本作の物語の中では、既にそういう段階を越えてしまっているし、恐らく僕らが生きているこの世界だって、いずれはそうした事態に直面することになるだろう。
それが、ロボットが蔓延する時代の到来、ということだ。
ロボット全体、という意味では、僕らの生活は随分と昔からロボットに席捲されている。工業用機械などがその主だといえるだろう。
問題なのは、限りなく人間に近いロボット、ヒューマノイドという存在だ。
ヒューマノイドに<自我>は存在するのか?
その問題に直面しなくてはいけない時代になった。ヒューマノイドについて考えることで、僕らは今一度、僕ら自身、人間自身についての<自我>というものを見直さなければならない必要性に迫られた。
人間とロボットをどこで区別するのか?
例えばデカルトは、どんなに精巧なヒューマノイドを作っても、人間とヒューマノイドを区別する方法が二つはあるはずだ、と書いている。一つは忘れてしまったが、もう一つは言語によるコミュニケーションだということだ。
しかし、AIは現実に、人間と会話をすることが可能になってきている。現在のレベルではまだ幼稚だが、技術の進歩により、ほぼ人間と同じような会話・仕草・形状、そうしたものを獲得することができるかもしれない。
そうなった時、僕らは本当にロボットと人間を区別することができるだろうか?ロボットが氾濫する世の中に直面してみて、ほとんどの人間は初めて人間というものについて考えることだろう。人間と区別することの出来ない、外面を破壊して機械的な内部を覗かない限り検証不可能なロボットが登場してきた時、僕らはその存在をどう扱い、自分自身をどう捉え直すだろうか?その共存に前向きに取り組むことができるだろうか?
本作では、ロボットという存在を鋭利に突きつけることによって、人間というものの存在を大きく揺さぶろうとしている。地球という、僕ら一般の人間にとっては宇宙そのものとも言える空間に、新たな論理を、倫理を、道徳を突きつけようとしている。その刃物のような鋭利さに、未来への憧憬を一旦打ち切るだけの大きな力が存在するように思う。
そろそろ本作の内容に移ろうと思う。やはり、自分の考えをきちんと文章にするのは難しい。あるいは、自分の意見というものをきちんと持っていない、ということの証なのかもしれないが。
まず本作の表紙折り返しの内容紹介を書き写そうと思う。

「世界的な人工知能コンテストに参加するためメルボルンを訪れていた尾形裕輔は、プログラム開発者の中に、10年前に夭逝したはずの天才科学者・フランシーヌ・オハラの名前を発見する。

本物なのか?同姓同名の別人か?訝る裕輔の前に現れたのは、紛れもなく裕輔の知るフランシーヌその人、そして彼女の姿をそっくり真似て作られた、究極のアンドロイド「人形(ドリー)」だった。

混乱する裕輔に、彼女はとあるゲームを提案する。瞑想するゲームの果て、裕輔は密室に幽閉され、フランシーヌは裕輔の作ったロボット・ケンイチに射殺されてしまう―。」

これを読んだときには、本作は多少トリッキーな演出はしているけれども、ミステリーには違いない、と思った。「ロボットは何故人を殺したのか?そこに<自我>はあったのか?あるいは誰かのプログラムによるものなのか?」結局は、そうしたことをテーマにしたわかりやすいミステリーだろう、と想像した。
しかし僕の想像は、読み進めるにしたがって、大きく間違っていたことを知らされることになる。
上記のあらすじでも充分かもしれないが(というより、あらすじを書いたぐらいでは、本作の内容を少しでも伝えることは困難だということだが)、僕なりに本作の内容を紹介しようと思う。
尾形裕輔は、ロボット研究者である。ケンイチという名の、完全自律型の(つまり外部からの指示やプログラムなしに、自分の判断で行動することの出来る)ロボットを製作し、共同で生活していく中で、ロボットに<自我>を与えよう、というような研究をしている。現在はケンイチは、一ノ瀬玲奈という心理学の研究者と共に生活をしている。
裕輔は、毎年開かれる人工知能のコンテストに今年も参加する。そのためにメルボルンを訪れているが、編集者も同行している。というのも、裕輔は研究者でありながら作家でもあり、ケンイチと共に巻き込まれた事件を小説にしているのである。
人工知能のコンテストというのは、見た目は派手ではない。人間と人工知能(この場合ロボットに搭載されているわけではなく、プログラムそのものということだけど)が、質問者から様々な質問を受ける。その答え方で、ロボットがどれだけ人間らしい受け答えができるか、という評価をしよう、というコンテストである。この評価方法は、チューリングという数学者が提唱したものを参考にしているらしい。
その会場で、裕輔はフランシーヌ・オハラと出会うことになる。まったく同じ相貌をしたアンドロイドに車椅子を押される形で。事故で亡くなった、という噂は嘘だったようだ。
人間とはとても思えない真っ白な肌や完璧な骨格。平板だが、しかしとても力強い言葉で周囲を圧倒し、オハラは裕輔たちを相手にあるゲームを仕掛ける。
それは、人工知能の評価方法をそのまま採用する形で、しかし「いかに機械らしいか」を評価する、というものだった。
ゲームも終わり、よくわからないままに会場を後にしようとしていた一行を悲劇が襲う。裕輔は、逆さめがねという、すべてがあべこべに見えるめがねをつけられたまま、どこかの密室に閉じ込められてしまう。裕輔は、その部屋にあるパソコンで自分が閉じ込められていると伝えようとするが、そのパソコンは、人工知能の評価システムと繋がっているようで、相手は裕輔の必死の訴えを真実と受け止めない。編集者の奥山はオハラに誘導され、あるいはケンイチもオハラに郵送される形で一時行方がわからなくなる。一行がケンイチを発見した後、ケンイチは何故か所有していた拳銃で、会場に残っていたオハラを撃ち殺してしまう…。
以降、ロボットと人間の自我や、その存在そのものについての議論を常に背景に据えながら、世界はあらゆる局面でフランシーヌ・オハラに侵略されていくことになる。あらゆる密室からの解放を願った故の行動は、次第にケンイチや裕輔を追い詰めていく…。
そうした感じのストーリーです。
正直な感想を言えば、僕にはちゃんと理解できている自身がありません。折り重ねるようにして問われる様々な問題と、複層的に進行していく視点やストーリー、観念的に収束していく議論や背景。そうした一つ一つの全てのものが、僕には難しく感じられ、うまく理解することができませんでした。
しかし、著者が何を考え、何を伝えようと思っていたのか、そのことは確かにうまく理解できなかったかもしれないけど、本作でなされる様々な問題的に対し、少しでも自分なりの解答を見つけ出そうとする、その姿勢を本作には与えられたような気がします。その意味で、本作は決して悪くはない、と思います。
少なくとも、「BRAIN VARREY」よりは、物語としてmとまっているし、破綻はない、という風に思います。
余り褒めていないような感じを受けるかもしれないけど、確かに素晴らしいと言える作品ではないけど、でもこれほどに難しい諸問題をあちこちに織り込みながら、冒頭で提示した魅力的な謎も追いかけつつ、著者なりの解釈を提示する(それ自体を僕は理解できなかったけど)その手腕は、大したものだと思いました。
本作では、「密室」という言葉がよく使われます。それぞれの章のタイトルも、「機械の密室」「脳の密室」「宇宙の密室」といった具合です。
「密室」という言葉には、どこか閉じ込められている、という印象を受けますが、必ずしもそうではないのかもしれません。デカルトは自著の中でこういった内容のことを書いていたようです。
「密室の存在を忘れてしまえば、人は自由である」
つまり、たとえそれが牢獄だろうとなんだろうと、密室にいるという感覚さえなくすことができれば、人は自由だ、ということです。
また、ロボットであるケンイチが面白いことを言っていた。フランシーヌ・オハラ側の人間に、お前は子供部屋に閉じ込められている、といった意味のことを言われるシーンがある。子供部屋というのは比喩で、ロボット製作者が、そのロボットを、箱庭のようなある限られた世界の中だけで育てようとする、と言った意味の批判である。その時のケンイチの思考は、こう結論する。
「ぼくは、閉じ込められているのではなく、自分でここにいるって決めたんだ」
これもある意味で、デカルトと同じことを言っているのかもしれない。
このケンイチというロボットの描かれ方は、実に面白い。その思考や発言や動作一つ一つに触れる度に、僕らが普段意識することのない、人間の様々な能力を知ることができる。例えば、人間が掴んだボールを円運動させるとする。ロボットにその機能を与えれば、ロボットは視覚でそのボールの軌道を追うことができる。
しかし、その円運動の軌道の一部を何かで隠してしまうと、普通のロボットには軌道を追うことができなくなってしまう。隠れた部分の軌道を、推測によって補うことができないからだ。ケンイチというロボットを見ることによって、人間という存在そのものについてより深く知ることができる、という経験はなかなか面白いな、と思った。
本作では、メタ的な視点が登場する。これは、「八月の博物館」でも試みたものだ。「八月の博物館」ほどメタ的な視点があるわけではないが、そこでやろうとしている試みは似ている。
瀬名秀明という作家は、科学者でありながら、作家という職を通じてなのか、「物語」というものに強い意識を持っているように思う。「物語」と「作者」の関係を、「実存の世界」と「神」との関係に敷衍しようとしているように思える。あるいは、その間を、メタ的な視点により行き来することに、何らかの意味を感じているのかもしれない。
本作でのメタ的な試みが、作品全体にどう影響を与えているのか、僕にははっきりとはわからなかったけど、作者のそうした姿勢には、悪くないという風に思える。
本作は、評価がかなり難しい作品ではあるが、一つだけこれはな、と思える箇所がある。それは警察の描き方である。なんというのか、ロボットや哲学についての見識が深すぎるような気がするのだ。刑事という存在を馬鹿にしているわけでは決してない。僕は思うのだが、本作に出てくる裕輔や玲奈のような科学者とちゃんとした議論を交わすのは、理系の大学生やテクノロジー系の企業の研究者でも結構困難なものだろうと思う。それを、本作に出てくる刑事は簡単にやってのけるのだ。もちろん、物語のテンポというものを優先したのだろうとは思うけど、その辺は少し違和感を持った。
本作は、「Timebook Town」というところに連載された作品である。「Timebook Town」というのは、電子書籍を配信するサイトである(一定期間作品をデータ上で貸し、その期間が過ぎるとデータが消える、という形で運営している。確か)。本作が書籍として発売されたことに、僕としては嬉しさを感じる。それは、やはり紙媒体はなくならないだろうな、という感想を持ったからだ。やはり、本という形態が、僕にとっては一番いい。
いい悪いを評価することがとても難しい作品だけど、書かれている内容について理解できなくても、読んでみる価値はあると思います。すぐそこまで迫っているだろうロボット時代に対する心がまえを持つ意味でも。少なくとも、ロボットというものと対峙したとき、相応の心がまえを用意することができるようにはなるのではないかと思います。

瀬名秀明「デカルトの密室」




ルパンの消息(横山秀夫)

いつの時代も、犯罪は絶えることがない。「犯罪」という形で認識されるようになったのがいつの時代からかはわからないけど、昔から存在していたし、これからも変わることなく存在し続けるだろう。
犯罪を犯してしまうに至る心理というものは、様々にあるだろう。僕の場合、キセルや万引きなんか経験はあるけど、それはなんと言うか、娯楽と言ったら何かの存在に対して失礼かもしれないけど、そんな気分でやっていたように思う。もちろん、やむにやまれず、という場合もあるだろうし、なかなか犯罪というものは難しいし、それを裁くのも難しい。
完全犯罪、なんていう言葉がある。本来的には、犯罪であることが発覚しない犯罪、という意味なのだろうけど、実質的には、犯行が明らかになっても犯人が逃げおおせた事件、という意味で使われる場合が多いように思う。
僕は、不謹慎な感情だと理解しているけど、この完全犯罪、というものに多少憧れる。犯罪が起こったことは明らかになる。しかし、手段も犯人も、何一つ明らかにすることができないまま、時効を迎える。そんな、鮮やかで魅力的で、欲を出すならば誰一人傷つけることのない(捜査に当たる警察には、徒労を与えるわけだけど)、そんな犯罪を今現実に実行することができればな、と甚だ現実離れしたことを、それでも時々夢想する。
ルパンという犯罪者がいる。実際に存在したわけではないけど、もはやホームズと並んで、実在の存在なのではないか、と思えるほどの完璧さがどことなくある存在だ。
僕は、より知っているのは三世の方で、本家ルパンの話はあまり知らないのだけれども、それでもかっこいいという印象がある。犯罪者でありながら紳士で、時には人助けもし、声や顔は変幻自在、どんなものにも成りすますことができる大犯罪者。完全犯罪という言葉が相応しい、なんかそんな存在である。余談ではあるけど、著者モーリス・ルブランは、友人に頼まれ一話限りという約束でルパンの話を書いた。その際に、ルパンは警察に捕まってしまう、という結末なのだが、その友人が、反響がいいので続きを書いてくれ、と言ったために脱獄させなくてはならなくなり、そういう経緯でルパンの形が出来上がっていったのだという。なかなか面白いエピソードだと思う(さらに余談だが、モーリス・ルブランから、「名探偵コナン」の毛利蘭の名前はとられている)。
日本の犯罪史にも、完全犯罪と呼ばれるに相応しいある事件が存在する。
俗に言う、「三億円事件」である。
余りにも有名なその事件は、大量の証拠物とモンタージュ写真を残し、時効までの長い時間を浪費して、未解決のまま幕を下ろした。
現在のような科学的な捜査がまだ進歩していなかった時代だとはいえ、その手口は鮮やかだった。大量の足のつかない証拠を残し、それらの捜査に警察が時間を費やしているうちに、本当に残してしまった痕跡を消す、というやり方は、今聞いてもかなり斬新で見事だな、という風に僕は感じる。しかも、恐らく誰も傷ついていないだろう(銀行のお金だって、保険が下りるはずだ)。
不謹慎なのは承知の上で敢えてまた言うけど、完全犯罪を成し遂げたいな、と今でも思う。
さて本作の内容に移ろうと思う。
本作は、横山秀夫が今から15年前に書いたまさしく処女作であり、作家デビューの7年前に書き、今は無きサントリーミステリー大賞の佳作に選ばれたが、その後現在まで発表されることなく眠り続けた、紛れも無い横山秀夫の原点である。
舞台は、現在(平成2年)と、その15年前の二つを行き来する。
発端は、年末の、事件記者と警察との懇親のための飲み会の場でもたらされたある情報だった。記者の目をかいくぐるようにして刑事らに渡されたメモには、15年前自殺として処理されたある女教師の死が、実は殺しだった、という確度の高い情報が入った、という内容だった。奇しくもその日は、その事件からちょうど15年目、時効まであと一日という日だった。
早速捜査は開始された。15年前の当時、「ルパン作戦」という名のもとに行われた、期末テスト奪取計画。その実行犯である三人のつっぱりの一人、喜多がまず取調室に呼ばれた。
そうして喜多は、自分達が計画した「ルパン作戦」について語っていく。喜多が語っている、という形で15年前の様子が描かれる。
喜多・竜見・橘の三人は、高校生であるが、ほとんど学校には顔を出さない不良組。「サンオクさん」と呼ばれているマスターがやっている「ルパン」という名の喫茶店で三人はよくだべっている。何でも、あの三億円事件の際のモンタージュ写真に、マスターが偉く似ているという理由でのあだ名である。
そこで喜多が、期末テストの問題を盗もう、と提案する。もとより成績の悪い三人は、今さらテストでいい点をとったところで、という感じなのだが、その面白さに惹かれて、必死でアイデアを練る。
あれやこれやといろんなことがあり、そしてついに決行ということになったのだが、その過程で三人は、後に自殺として処理されることになる女教師の死体を発見してしまう。
様々な人間関係が絡み合い、事情があって謎を解こうとする三人も、情報が集まるだけで真相には手が届かない。やがて三人は卒業。別々の道を歩み今に至るのだが…
たった一日しかない捜査の時間。難航する取調べ。そんななか、最後の最後、細い一本の糸を手繰り寄せ、事件は予想もつかない解決を見せることになる。
本作は、今の横山秀夫らしい作品ではありません。今の横山秀夫は、基本的には警察ミステリーという形で認識されていて、既存のミステリーとはかなり違う作品を生み出していますが、本作は、骨格だけ見ればまあ普通のミステリーです。
しかし、本作はかなり面白いです。骨格は普通のミステリーでも、肉付けが本当に面いです。
時効直前という事件、三人の不良のやり取りやその時代の雰囲気、真面目さとは程遠い「ルパン作戦」の内容とその実行、錯綜し複雑になっていく人間関係。どれをとってもいい味を出しています。
特に、人間関係については見事なものがあると思います。意外な繋がりや関係、という奴がそこら中に転がっていて、それだけとってみてもなかなか面白いです。
さらに、三億円事件との絡みもあります。時代的に合うかどうかはわからないけど、横山秀夫自身も記者として三億円事件を取材した経験があるのかもしれません。「クライマーズハイ」では、日航機事故を新聞記者の視点で描いているけど、本作では三億円事件を、警察の目から見ている、とまあそういうことなのかもしれません。
難をつけるとするならば、視点が余りにもあちこち動きすぎる、という点でしょうか。出版に当たって改稿をしたのだろうけど、初めて書いた作品なわけで、まあ仕方ないのかもしれませんが。そんなに疲れるというわけではないけど、徒に視点が動きすぎかな、という気がしました。
タイトルに「ルパン」とつきますが、ルパンは出てきません。純粋にミステリーを楽しめる良作だと思います。分量も結構少なめですぐ読めると思うので、是非読んでみてください。

横山秀夫「ルパンの消息」



キノの旅Ⅴ(時雨沢恵一)

境界、という概念を、僕らは理解できないわけではないけど、しかし実際的に意識することはほとんどないように思う。それは、あらゆる場面でよく使われる理由ではあるけど、僕らが島国日本で生きていることと、無関係ではないようにも思う。
僕らが普段意識することが可能な境界と言えば、県境であるとか、家の内外であるとか、そういう、見た目にもそれほど大仰ではなく、現実的にそこまで重要とも思えないものばかりでしかない。
国同士の境、というものを、陸続きのものとして意識することのない民族にとっては、境界というものはなかなか馴染みの薄いものだろう。
本作では、城壁というものがよくでてくる。世界の中に数多存在する国は、大抵高い城壁を保有している。イメージとしては、古代のヨーロッパ辺りの国であろうか。
国と国同士を隔てる城壁である場合ももちろんあるのだけれども、国と国ではない土地とを隔てる城壁というもの方がより普通のようだ。
城壁を保有するに当たって様々な理由があるのだろうけど、僕にはどこか、レベルの低さを感じてしまう。物理的に外界を遮断してしまう方法以外に、つまり法や常識などの概念によって何かを制限することができない、未熟な国だとそんな風に感じられてしまう。
しかし、社会が全体性を破棄し、より少数による国家を作り出すような世界になったとしたら、そうなるのかもしれないな、とも漠然と思う。交流を断ち、内と外を明確に定義し、入るものを制限し、完結的な環境の中で生活する。それはあるいは、未来的な思考なのかもしれない。
さてシリーズ5作目。本作もちょっとどうかな、という話が多かった。キノという旅人が、喋る二輪車に乗って旅を続ける話。シリーズを通じて、登場人物や設定や構成に特に変化はないので割愛。
それぞれの章の内容を紹介しようと思う。

「あの時のこと」
よくわからない、超短い話。

「人を殺すことができる国」
人を殺すことが禁止されていない国での物語。

「店の話」
ほとんど客の来ることのない店の店長が書く日誌上の物語。

「英雄達の国」
国に入ると突然キノが7人の男たちに襲われる話。

「英雄達の国」
一つ前の作品と対になったお話。

「のどかな国」
シバ様と犬の陸の話。あるのどかな国での話。

「予言の国」
世界が終わる、という予言を持つ国での話。

「用心棒」
キノとキノの師匠の話。あるトレーラーの輸送中の用心棒を行う話。

「塩の平原の話」
一面塩だらけの平原での話。

「病気の国」
建物の中から一歩もでることなく生活することのできる、とても清潔な国での物語。

今回多少なりとも評価できる作品は、「用心棒」と「病気の国」かな。この二つもそこまでという感じではなく、ほかの作品はよりよろしくない。
今回は、人のあさましさや悲しさが描かれている作品が多いような気がします。
とりあえず5巻まで読みました。以降の作品を読むかどうかはわからないけど、ちょっと望み薄かな、という気はします。
人気シリーズのようですが、何故人気なのかイマイチよくわからなかったシリーズでした。

時雨沢恵一「キノの旅Ⅴ」



キノの旅Ⅳ(時雨沢恵一)

仕事とは何か?と聞かれたら、あなたはどう答えるだろうか?
生きている限り、ほぼ全ての人は何らかの仕事をしているだろうと思う。そうでnない人は、仕事をしなくてもいい身分か、仕事がないか、就学者か、とまあそんなところではないだろうか。
日々僕たちは、仕事をすることによって何かの価値を生み出し、そしてその対価として何らかの報酬を得ている。それは、生きていくために必要な行為であるし、社会全体にとっても必要なものでもある。
ただ、仕事とは何か?という問いには、なかなか答えることができないのではないだろうか。物理的な定義を持ち出せば、仕事というものは明確に定義することができるけれども、そうではなく、もっと社会的な、一般的な範囲内での仕事というものの定義を、どう明確にすることができるだろうか。
今ここに、まるで仕事をしなくてもいい、という社会があるとしよう。機械化が進行したために、あるいは、観念的な世界のやりとりのみで世界が運行するようなために、生きている全ての人が、労働というものから解放されたとしたら。
安易な想像では、なんて素晴らしい世界なんだろう、と発想するだろうと思います。仕事をしない、働かなくていい、労働がない。ただその一点のみを評価する方向に視点が向かってしまうだろう思います。
しかし、よくよく考えてみれば、そうではないのかもしれません。
本作では、仕事をしなくてもよくなった世界での物語、というものが出てきます。それを読んで、なるほどその通りかもしれない、と思い、そして、そもそも仕事って何だろう、という疑問を持つに至ったので、こういう前書きをしました。
そろそろ内容に入ります。
設定や登場人物や構成などは、シリーズを通じて一定ですので、省略します。キノという旅人が、喋る二輪車エルメスに乗って、様々な国を旅する話です。
本作はシリーズ4作目ですが、4作目にしてようやく僕の中でヒットです。どういう変化(それは作品自身の変化なのか、あるいは僕自身の変化なのかわかりませんが)なのかわかりませんが、本作はなかなかいい物語が豊富に揃っているように思います。
なかでも、前書きでも書いたように、仕事をしなくてもいい国での物語は、発想としてはごく単純なものですが、なかなか深いものがあるな、という風に思いました。仕事から解放された人々がしなければならない<仕事>とは何か、そして何故それをしなくてはならないのか。結構気に入りました。
それぞれの章の内容を紹介しようと思います。

「像のある国」
なんのこっちゃわからない、超短い話です。

「×××××」
同じくよくわからない、超短い話です。

「二人の国」
結婚を奨励し、配偶者に対しては何をしても罪にはならない世界での、ある夫婦を中心とした話です。

割とこういう皮肉な話は嫌いではありません。ちょっと単純ですが。

「伝統」
伝統的に猫耳をつけている、という国での物語。

これもなかなか悪くないです。最後のオチも結構いいですね。

「仕事をしなくていい国」
仕事をしなくてよくなった国での物語。仕事をしなくていいはずなのにしなければならない<仕事>とは一体?

今まで読んだシリーズの中で一番いいと思いました。発想は単純ですが、考えさせられます。

「分かれている国」
南北に分かれ、お互いを罵り合っている国の両方ともに滞在した話。

これも結構皮肉っている話で、でもちょっと単純すぎかな。

「ぶどう」
何故タイトルが「ぶどう」なのかさっぱり理解不能な、短い話です。

「認めている国」
年に一度、自分にとって必要な人を書いて投票する祭りが行われる国での話。誰にも必要だと思われていない人は殺されてしまうことになっているけど、毎年そんなことはないようで…

これは現実にあったらやだな、という感じです。

「たかられた話」
珍しく、シズ様と犬の陸の物語。盗賊に食料を奪われてしまう世界にやってきたシズが大立ち回りをする話。

シズの性格が、キノとまったく対称的であるところが、とても面白いところです。

「橋の話」
誰にもほとんど使われることのない壮大な橋にまつわる物語。

乙一の作品のような雰囲気を醸し出す作品で、嫌いではありません。シュールで冷淡な視点が結構いいです。

「塔の話」
いつか崩れる塔を長い年月をかけて作り続ける国での物語。

生き甲斐というものは、なかなか素直に顔を出さない、ということでしょうかね。

シリーズを読んできて、初めての当たりです。これでもう少し読んでみようという気になりました。
そんな感じです。

時雨沢恵一「キノの旅Ⅳ」



キノの旅Ⅲ(時雨沢恵一)

人には、それなりにある程度、比較的自由に、生き方を決める権利がある。どこでどんな風に誰とどうやって生きるか。完全にというわけにはいかないけど、ある程度自由になる。
生き方にそこまでこだわる、というのは、しかし逆に難しかったりもする。ある程度の自由はあるとは言え、有限な選択肢の中から、さらに制限の加わった条件で、何かを選択しなければならない。
それはやはり、ある程度大きな社会というものが存在するからである。
もしも、かなり生き方に自由を求めたいのであれば、今ある社会を、もっと言えば国という単位を、さらに細分化する必要があるだろう。かなり少人数で構成され、一つ一つ明確に特色の分かれたいくつもの小さな国がひしめき合う世界。そうなれば、かなり自由な生き方ができる。まあそうであろう。
本作では、そうした小規模な国というのが数多く出てきます。キノと呼ばれる旅人は、それらの国をエルメスという喋る二輪車で移動しながら旅を続けるわけですが、どことなく問題や価値観の相違や崩壊が、そうした小規模な国でさえも起きてしまう。どうやらそんなものらしいです。
本作は小説でフィクションですが、もしかしたらどこまで細分化しても、人間に真の自由は与えられないような仕組みになっているのかもしれません。
さて、設定も状況も前2作と同様です。それぞれの章の内容を紹介しようと思います。

「愛と平和の国」
戦争を考えない国と、戦争のことしか考えない国の物語。

「城壁のない国」
移動式テントに暮らす、遊牧民の話。

「説得力」
キノに銃を教え込む老婆との物語。

「同じ顔の国」
国民が皆同じ顔を持つ国の物語。

「機械人形の話」
機械人形と人間との生活の物語。

「差別を許さない国」
外の世界と比較することのない、完結的な国の物語。

「終わってしまった話」
海賊になろうとしていた頃のある少女の回想。

まあまあ評価できる作品は、「城壁のない国」でしょうかね。まあまあです。
僕の中での評価は相変わらずです。多層的で、時系列に沿わないというこの連作短編のスタイルはかなり評価できますが、ストーリー自体は、かなり退屈に思います。
とりあえずあと2作なので、頑張ります。

時雨沢恵一「キノの旅Ⅲ」




キノの旅Ⅱ(時雨沢恵一)

価値観というのは、様々な場所に、様々な人ごとに、様々に存在する。人の数だけ世界があり、人の数だけ価値観が存在するだろう。
似たような価値観を持つ人同士で、集落や国、あるいは宗教を作ることで、人間は進化したり、生存してきたりしてきた。価値観が似ている、ということは、社会というものの構成に、そしてその中で生きる人々にとって、とても重要なことだろうと思う。
今まで触れることのなかった価値観に触れる、という経験は、世界を広げる上で、何かを作り出す上で、とても重要なことになる。
本作での主人公キノは、旅というものを通じて、様々な価値観に触れている。キノ自身には明確な目的はないものの、それはキノの中に、何かしらの新たな世界を作り出しているだろうし、あらゆる方向へと成長を促すものでもあるだろう。
本作は、そんな旅を通じた、キノの成長が描かれている、と言って言えなくもない、そんな作品である。
基本的な設定や構成は、Ⅰと同じなので書く必要はないだろう。キノという旅人が、エルメスという喋る二輪車に乗って旅を続ける話である。
まずはそれぞれの章の内容を紹介しようと思う。

「狙撃兵の話」
キノの師匠に当たるような人が出てくる。

「人を喰った話」
空腹で死にそうな人を助ける話。

「過保護」
一瞬で終わる、メチャクチャ短い話。

「魔法使いの話」
空を飛ぶ機械を作るが、周囲に信じてもらえない女性の話。

「自由報道の話」
ほぼ新聞記事の内容で占められた作品。

「絵の話」
戦車を書く絵描きの話。

「帰郷」
国に帰ってくる話。

「本の国」
本を読むことが好きな国の話。

「優しい国」
旅人に優しい国の話。

どうにも薄っぺらくて、底の浅い物語にしか僕には思えなくて、面白さというものを感じることができないでいます。本作である程度評価できるのは、「自由報道の話」「帰郷」「優しい国」ぐらいでしょうか。
ライトノベルというものを初めて読むわけですが(西尾維新は僕の中ではライトノベルではありません)、これぐらいの内容というか物語で満足できてしまうような読者ばかりなのか?と、貶すつもりはまったくないのですが、そんな感想を抱いてしまいました。
少なくとも今も僕には、本作の面白さはわかりません。5巻まではとりあえず読むつもりだけど、あまり期待できませんね。

時雨沢恵一「キノの旅Ⅱ」



キノの旅Ⅰ(時雨沢恵一)

旅をするには、大抵目的がある。何かを見つけるとか、異国の言葉を覚えるとか、そういう明確なものでなくても、ゆったりしたいとか、知らない世界を覗いて見たいとか、とにかく、そうした曖昧なものでもいいから、旅には大抵目的があると言っていいだろう。
その旅という響きからは、何か新鮮なものを感じ取ることができる。普段していない何かをしている、という非日常性が、どことなく潜んでいる。
ただ、何かの目的になることはほとんどないだろう。それ自体を目的とした旅、旅をすること自体に某かの目的を付与するような、そうした旅はなかなか現実にはないように思う。あるとすれば、遊牧民のような、生きながらに旅(というか移動)を義務付けられたような、そんな人々ぐらいであろうか。それにしても、「生きる」という目的のために「旅」をしているわけで、違うのかもしれないが。
本作では、目的としての旅、を実行しているある一人の人間を描いている、と言えるだろう。旅の目的があるわけではなく、旅をすること自体に何か特別な意味や価値がある。そんな、現実的にはなかなか存在し得ない形の旅を、主人公は行っている。
キノという名の主人公は、エルメスという喋る二輪車に乗って、様々な国を旅している。どんな事情かはわからないが、わけあって帰る国を持たない身のようで、旅の道中で見つける珍しいものを売って、なんとかお金を稼いでいるようである。
細長い体躯、ぼさぼさの髪、茶色のコート、飛行帽のような帽子、身に付けた二丁の銃。まだ年若いキノは、そうした容貌をしている。
一つの国に滞在するのは三日、と決めているようで、そのルールを守りながら、あらゆる国を訪れては、未知の世界、未知の価値観に触れていく。
そうした物語である。
本シリーズは、連作短編集の形を取っていて、時系列通りに話が進行しない。そのため、どの巻から、どの章からストーリーを読み始めても、まったく問題ない作りになっている。その点は、かなり面白いし、評価できる点だと思う。
しかし、一つの話が余りにも短すぎるのと、ありきたりすぎるストーリーに、どうにも入り込むことができない。それぞれの国で様々な体験をするのだが、だから何?と言いたくなってしまうような話ばかりで、かなり人気のシリーズらしいが、面白いのかな?と思ってしまうものが多い。
一応5巻まで持っているので、そこまではちゃんと読もうと思っているけど、ちょっと今の時点では、あまり期待できない作品です。
それぞれの章の内容を紹介しようと思います。

「人の痛みがわかる国」
他人の痛みがわかってしまう国での物語。

「多数決の国」
多数決で全てが決まるようになった国の物語。

「レールの上の三人の男」
旅の途中で通った、あるレール上で出会う、三人の男の物語。

「コロシアム」
入国と共に戦う権利を勝手に与えられる国で、キノが戦う物語。

「大人の国」
大人になるための手術を受ける直前の女の子の物語。

「平和な国」
特殊な戦争の形を持つ国の、平和な物語。

ほぼタイトル通りの内容になっています。まあそれなりに評価できるのは、「大人の国」ですか。ちょっと、なるほど、と思わされました。
今後に期待できるか、多少不安なシリーズです。

時雨沢恵一「キノの旅Ⅰ」




となり町戦争(三崎亜記)

僕にとって、「戦争」という二文字から思い浮かぶものは、苦味を想起させる悲惨な映像だ。飛び交う戦闘機。迫り来る空襲。キノコ雲。逃げ惑う人々と、切実な貧困。差し込むはずのない光明を祈って日々を倹しく過ごす人々。実際に体験したことはないが、記録映像や映画、あるいは文字からの想像によって作り出された、この「戦争」というもののイメージは、そう簡単に覆ることはない。
僕が一瞬でも触れることのなかった、この国の悲惨な戦争という時代。そこには、想像で語るのもおこがましさを抱いてしまうほど、「悲惨」という言葉が色あせてしまうほどの強烈さがあり、紛れもない「非日常性」が存在していたことだろうと思う。
今でも、どこかの国のどこかの地域で、何を目的としているのか僕には恐らく理解することのできない戦争が、静かではない規模で行われていることだろうと思う。目的のために始めたはずの戦争が、いつしか手段と目的が入れ替わり、終わりを見出すことも出来ぬまま、無意味な犠牲を次々に生み出すような、そんな戦争が。
しかし、こんな言い方はひどく不謹慎だと思うが、僕らが知っている戦争は、形が、輪郭が、全貌が、ある程度とは言え、見ることが、知ることが、感じることができる。どんな被害があり、大体の戦況はどうで、何が失われ、何を獲得し、少し先の未来や、やるせない現状など、それがいいことか悪いことかは別として、知ることができる。
戦争というのはつまり、そうした「見せる部分」が必ずあるものだろうと思う。「見せる」ために戦争をしている、と言ってもいいだろう。戦争をしていない第三国へ、意図的にある部分を見せ付けることが、戦争の機能の一部に組み込まれているはずだし、そうすることで、戦況や情勢になんらかの優勢をもたらそうとするものだろう。
しかし例えば、表向きまったく「戦争」を感じられない、静かで穏やかで何も感じることのできない「戦争」というものが存在するとしたらどうだろうか?無機質なデータのみで戦況を伝え、それ以外に、実感を伴うような何ものの感じ取ることのできない「戦争」の形があるとすれば、僕らはその中でその「戦争」をどう解釈することができるだろうか?
「日常」のその先に、連続して「戦争」が存在する、という感覚を、僕らは理解することができないはずだ。「戦争」とは僕らの意識の中で、いや無意識のうちに否定したいはずのものであり、それ故、「日常」からはかけ離れた「非日常」という性格を、「戦争」というものに与えているだろうから。どこか遠くで起こっている戦争も、ブラウン管の向こうから届く「非日常」の一つであり、そこに同情や悲哀を感じることがあっても、明日から僕らの「日常」の中で「戦争」が起こるわけがない、という無自覚な断定が誰しもの中に潜んでいる。
僕を含め、既に国民の大半がリアルに感じられなくなっている「戦争」という存在。現実に、この国の過去の大戦に参加した人でさえも、「死」というものの強烈さや、血なまぐささの残る戦場の様子、あるいはどこまでも果てることのない虚無感を意識することはあったにせよ、「戦争」というそのものを実感することはできなかったのかもしれない。目に見える被害や凄惨な状況には違いがあったとしても、もしかしたら「戦争」の本質とは、「目に見えるもの」を辿ることによっては理解することができない場所にあるのかもしれない。誰もが、その本質の手の届かない場所にいるという安心感が、「戦争」というものを存在させるのかもしれない。
本作は、そんな「目に見えない戦争」を、そのまるでリアルさに欠ける戦争を、見事に「リアル」に描いた作品である。
仕事の通勤の都合で舞阪市に住む僕。通勤に便利だという理由で住み始めただけで、舞阪市とはまるで関係ない人間だ。毎月1日と15日発行で、一日遅れで郵便ポストに届く<広報まいさか>に何気なく目を通すと、そこには9月1日より、となり町と戦争が始まる旨が記載されていた。となり町と、どういった理由で、何を目的に、どういった戦争が行われるのか、まるで想像することのできなかった僕は、その来る戦争に対して、実際的な準備も、心の準備もできないままに、9月1日を迎えることになった。
戦争開始日当日。大事をとって早めに家を出た僕が目にしたものは、いつもとまるで変わることのない、ありきたりの「日常」の姿だった。銃声も悲鳴も聞こえるわけでもなく、「戦争」の影というものをまったく見ることのできなかった僕は、早々に戦争が終結したか、あるいは僕の知らない概念的な戦争なのだろう、と曖昧な理解のまま放置していた。
しかし、月に二回届く<広報まいさか>には、<町勢概況>として、<戦死者>の数が記載されていた。この、それまでの「日常」と地続きのような世界の中で、間違いなく人の生死を問うような戦闘が繰り広げられていることを、僕は実感することになる。
奇妙だった。「戦争」はその影をまったく見せることなく、しかし確実に僕の生活に食い込んできているのだった。
無機質さをまとった一通の封書により、その影響は確実に僕の元へと忍び寄ってくる。「舞阪町役場総務課となり町戦争係」から届いたその封書には、「戦時特別偵察業務従事者の任命について」と書かれた紙が1枚。どうやら、となり町を偵察する任務を仰せつかったらしい。戦争の影を微塵も感じることのできなかった僕は、それにより少しでも戦争を実感できるかもしれないと、任命を受け入れることにする。
以後、となり町戦争係の香坂さんとともに、となり町との戦争における偵察業務をこなしていくことになる。相変わらず、戦争の影も、その意義も意味もわからないでいる僕と、戦争を行政の業務として事務的に取り仕切り、あらゆる感情的なものを排除してその任を遂行しようとする香坂さんが、感情的になるでもなく、淡々と、幾ばくかの不満や不安を抱えながらも、この「見えざる戦争」に従事していく。そんな物語です。
「戦争」という、特異であるはずの状況を描いているとは思えない淡々とした文章。いっそシュールと言ってしまってもいいぐらいに奇妙な世界。本作は、現実の世界とは違う「異世界」での「戦争」を描きながら、いつのまにか、深い意味でのリアルを醸し出している、実に不可思議な物語です。
この世界における「戦争」というものが、最後の最後までわからないで終わることになります。まるで、行政の工事と同じレベルで「戦争」が語られ、皮肉なぐらいに行政的、杓子定規的な発想で繰り広げられる「戦争」は、登場人物の僕が抱くのと同じ困惑を、最後まで読者に残すことでしょう。
しかし、皮肉にもという表現が正しいかはわかりませんが、ここで描かれる「戦争」の形が、ある意味で本質をついているのではないか、という風にも感じてしまうのです。未来の視点で過去の戦争を見る。そうした、外から戦争を見る、という視点からわかることが、いざ内側から見ようと思っても見ることができない。自らが誰かに与えている影響を、リアルに実感することができない。実際に、どの時代、どの場所で行われた戦争も、外から、あるいは後から見ることによって明確な部分が、実はその当時戦争に十字していた人にはまるで見えていなかった。戦争とは、もしかしたらそういうものなのかもしれません。
それと同時に本作では、こんな問題提起すらなされます。これほどまでに「日常」と「戦争」が同化しているのならば、その差はどこにあるのか。普段僕らが生きている「日常」の中でも、僕らは、自分が誰かに与えている様々な影響を知ることは決してできていないという事実が、本作を読むことで重くのしかかってきます。
「戦争」とは、「特異な非日常」ではなく、「自然な日常」なのかもしれない。そんな、認めたくもないような考えを、本作を読むことで受け入れそうになる自分がいます。もしかしたら、平和だと思って生きているこの「日常」でさえも、どこかの「戦争の一部」なのではないのか、とも。
本作では、香坂さんという行政の人間が出てきます。とても行政的な考え方をする人で、どんな細かいことにも手続きを踏んでから、という生真面目さを持っています。僕の印象では、行政に勤めている人でも、ここまでの生真面目さを備えた人はいないだろう、という風に思います。もしかしたら、こういう人が役所の中で増えることで、行政はよくなっていくのではないか。なんとなくそんな気がして、僕は、戦争に対する香坂さんの考えには最後まで理解することができなかったけれど、結構香坂さんを応援するような気持ちで本作を読んでいました。なんとなくだけど、著者はある程度、こうした行政的な何かに携わっていたのではないか、という風に感じました。それほどに、本作は、手続きや規則に則って全てが進行しています。
本作は、今年度の小説すばる新人賞受賞作だそうです。この賞がどんな賞かはあまり知りませんが、とにかく本作が第一作目、ということです。新人も新人です。それでいて、ものすごく評価されています。ある書評家は、「こんな完璧に近い作品は、新人でなくても一年に一つあるかないか」と評しているし、テレビ・新聞・雑誌の各書評でも絶賛されているようです。
確かに僕も本作にはそれだけの魅力があると感じました。うまく言葉にすることができなくてもどかしいのですが、今までに感じることのなかった未知の感覚を、小説という形で新たに開拓してくれた。そんな印象です。
どう素晴らしいのか、ちゃんと言葉にして説明できないところが微妙ですが、でも本作は是非読んで欲しい本です。この本を読んで、どんな感想なり評価なりを得るのか、それを知りたいという方が正しいかもしれません。恐らく、千差万別の評価が与えられる革新的な作品だとは思うけど、是非多くの人に読んで欲しい、と今は思います。

三崎亜記「となり町戦争」



東京タワー―オカンとボクと、時々、オトン―(リリー・フランキー)

「家族」というものを考える機会が、今の僕にはそもそもない。大学入学と同時に上京し、人暮らしをするようになったせいもあり、家族に触れることなく生活するようになったからかもしれないが、決してそのせいだけではないことを僕は知っている。
「家族」というものを考える時に僕の中で浮かぶものは、遠い世界で起こっている戦争について考える時のような、圧倒的な距離感である。
人によって、家族のあり方やその意味なんかは違うことだろう。支えあって生きている家族もあれば、反目しあったままの家族もあるだろう。そのあり方の絶対的な正しさの基準など知るよしもなく、誰もが手探りのままで家族を持ち、家庭を作ろうとする。押し付けられたり、当たり前のように存在するそれぞれの価値観が、うまくまとまればいいが、少なくとも僕の場合、そううまくいくことはなかった。
僕は、もう何年も両親と会っていない。声を聞いたこともほぼないだろう。携帯のメールで、極たまに連絡を取るぐらい、しかも事務的な用件ばかりである。そんな状態で、「家族」というものを意識することはほとんどない。
両親にとって、僕がどういう存在なのか、昔も今も知る由はないが、僕にとっての両親の位置付けは、大分昔から固定され、今でもほとんど変化することなく来ている。僕にとって両親というのは、常に手錠のような存在でしかなかった。
僕は正直言って、両親に怒られたり何かを強制させられたりしたことはない。至って真面目な面だけを両親に見せていたせいもあり、その中で両親の中での僕の印象は、よく出来た息子、というわかりやすい評価で固定されていたことだろうと思う。
しかし、僕はある時期を境に、緩やかにではあるが確実に両親を嫌悪するようになった。原因を一つに絞ることはできない。敢えて曖昧に、しかし大局的な表現をするなら、「価値観が合わなかった」とまあそういうことになるだろう。
特に母親とはまったくダメだった。僕は、表面上は母親といい関係を保ちながらも、その一方では常にその関係からの脱却を求めていた。草の根一本残らないようにして、母親との関係性を根こそぎ断ち切りたい、と常々そう考えていた。
いくつかのきっかけと、僕の不器用な訴えと、どうしようもなくなった現状にかこつけて、僕はようやく、ほぼその理想を得ることができた。長いこと夢見ていた状況だ。なんの不自由もない。僕は、今の状況に満足している。
母親の方としては、まったくそうではないだろう。それは充分にわかっているつもりだ。しかし僕は、自分のことをかなりひどい人間だと認識できている。だから、何の問題もない。
本作では、母親のことを「オカン」と呼んでいる。僕は母親のことを、昔は「オカア」と呼んでいた。今だったら、こうして他人に対しては「母親」と、本人に対しては「あのさ」ぐらいになるだろう。とてもではないが、「オカン」とも「オカア」とも呼べない。
もう僕には、そのことを悲しいと感じる神経すら残っていない。もうどこにも。
ただそれでも、母親が死んだとき僕は悲しむのだろうか?もしそうだとするなら、僕にとって母親というのは一体どんな存在だというのだろうか?考えたくないが、本作を読んで、ほんの少しだけ考えさせられた。
本作は、リリーフランキー本人を「ボク」として、そしてその母親と父親をそれぞれ「オカン」「オトン」として描いた、自伝と言っていい内容である。
その人生は、「波乱」という言葉では到底収まりきらないものがある。人の数だけ人生がある、とはいうけれども、リリーは数人分の人生を一気に背負ったような、そんな壮絶な人生を歩んできている。
もちろん、人生をそれぞれ比較することはできないけど、リリーよりも辛い人生を送ったという人だっているだろう。しかし、その人生を、ここまで文章に、しかも素晴らしい文章の中に収めることができる人はなかなかいないと思う。
ボクは九州で生まれた。オトンは何の仕事をしているのかよくわからない人で、時々暴れて帰ってきた。どんな事情があったのかは知らないが、ある時からオトンとオカンは別居するようになり、ボクは以後、オカンと一緒に過ごすことになる。副題の、「オカンとボクと、時々オトン」というのは、そういう背景があってのことだ。
ボクの様々な年代の様子が描かれる。九州での子供時代、高校からの一人暮らし、東京の大学へと行き、その学生時代とその卒業後の人生。そのどの時代にも、ボクはオカンを想い、オカンを見ている。
複雑な家庭環境や、決して裕福とは言えない経済状況。そんな中で、オカンの姿がとても眩しく描かれている。
どんな時でも明るく楽しく生きようとし、自分のことよりも常に息子のことを優先した。我慢強く、まさに九州の女という女性だが、最後の最後で病気にやられてしまう。まさに、オカンとボクの二人三脚とも言うべき二人の長い長い人生を、細かいエピソードをふんだんに盛り込み、またオカンへの感謝を常に描きながらも、淡々とした文章で綴る、リリー・フランキーの初の長編にして究極の自伝である。
本作を読む人は誰もがそうなのかもしれないが、僕は読みながら、自分の母親のことを考えていた。比較していたと言ってもいいかもしれない。
母親というのは、生まれた時から母親なわけではないし、万全の覚悟を持って母親になるわけでもない。不安に潰されそうになりながらも、期待に胸を膨らませるようにして、一人の女性から一人の母親になるその存在に、過剰な期待をするのは酷なのかもしれない。僕は実際に母親に甘えていただけで、過剰な期待ばかりを掛けすぎていたのかもしれない。
それでも、生まれてくる子供は母親を選ぶことはできない。母親にとっては残酷な物言いかもしれないけど、子供にとっては重大な問題だ。どの母親の息子として生まれてくるか。
僕は、自分の母親にものすごく失礼だとは思いながらも、このオカンが母親だったら、とそう思い続けながら本作を読んだ。「隣の芝は青く見える」という言葉もあるし、実際に本作中でボクが苦しんでいたようなことも味わうかもしれないけども、それでもこのオカンは、まさしく生まれた時から母親だったのではないか、とそんな気にさせてくれるような人なのだ。そこには、何かしら強い信念が感じられるし、信じてもいいと思わせる何かがどことなくある。実際どうなのか知らないけど、本作を読んでこう思った。男は、母親によって決まるのだろう、と。
オカンが、様々な事情から、東京へやってきてボクと一緒に住むようになった。オカンは、癌の摘出手術をしたばかりで、体調が万全とは言いがたかったが、それでも東京へやってきた。
東京タワーのある街へ。
本作冒頭にこんな文章がある。
「この話は、かつて、それを目指すために上京し、弾き飛ばされ故郷に戻っていったボクの父親と、同じようにやって来て、帰る場所を失くしてしまったボクと、そして、一度もそんな幻想を抱いたこともなかったのに東京に連れて来られて、戻ることも、帰ることもできず、東京タワーの麓で眠りについた、ボクの母親のちいさな話です。」
三者三様、それぞれに抱いた東京タワーへの想い。天に突き刺さる赤い橋のような東京タワーに導かれるようにしてやってきたオカンの生活は、羨ましいぐらいに楽しそうに思えた。誰からも愛され、家には始終誰かがいて、オカンはだれかれ構わず料理を振舞った。年齢を超えた付き合いの中で、仲間と呼ぶに相応しい関係を沢山持てたオカンの最期は、決して悪いものではなかったことだろう。
そう、オカンは癌で死んでしまう。
葬式にどれだけ来てくれるかで人の価値は決まる、というようなことを聞いたことがあるけど、それは確かにそうだろう。しかしそれ以上に、こうも思った。葬式の準備をどれだけ手伝い、かつ葬式をどれだけ盛り上げてくれる仲間がいるか。オカンは、本当にそうした人に恵まれた人生だった。東京という、まるで見知らぬ土地で出会った、誰もが一度はオカンの料理を食べたことがある仲間に囲まれて、オカンは静かに息を引き取った。
僕は最近、とても大切人を失って、失うまでその大切さに気付かなかったことに自分でも馬鹿だと思う。二度と会えないという関係ではないけど、失って初めてその存在感に気付くということはある。
だから本作の、オカンが死んだシーンには、多少ながら感情移入してしまった。普段小説を読んでも、登場人物に感情移入などしないような僕がである。いくつかのエピソードで泣きそうになったけど、葬式のシーンではもう少しで泣くところだった。
葬式を前にしてリリーに掛かって来た電話に、怒りを感じもした。その瞬間にリリーが味わった、それまでの自分を全否定したくなるような気持ちは、全てとはもちろん言わないが、少しはわかるような気がした。
本作は、ある一人の中年男が、自分の母親を想い描いた回想録とでもいうものであり、家族のあり方を考えさせるようなテーマで描かれた小説ではない。しかし、その実話に基づいて描かれたのだろう様々なエピソードを読むにつれて、「家族とはなんだろう?」という根元的な問い掛けをされているように感じる。もっと隅々まで穴が空くほどに読んで、自分の目から抜け落ちた大事な何かを必死で探さなくては。そんな気にさせる一冊である。
僕にとってリリー・フランキーというのは、バラエティ番組「ミラクルタイプ」に出てくるイメージでしかなかった。得体の知れない存在感と、謎めいたその風貌に、胡散臭い人間だという印象を拭えないでいたけど、本作を読んでその印象が大分変わった。相変わらず、何をしている人なのかはよくわからないけど、注目するに値する存在だ、と思い直している。
五月にある人は言った。
是非本作を読んでみてください、と。

リリー・フランキー「東京タワー」



アヒルと鴨のコインロッカー(伊坂幸太郎)

残念なことに僕は、ブータンという国がどこにあるのか知らない。地図を広げて指を指せと言われてみても、ごまかすようにしてどこかの島を指差すくらいしかできないだろう。
だけど、ブータンってちょっといいな、って思った。本作の最後に、「小説内のブータン人につきましても、一度だけ訪れたことのあるブータンの記憶や、彼らへの憧憬、物語上の要請から出来上がった、架空のものだと思っていただけると幸いです。」というあとがきがあるけど、でもブータン人は素敵だと思ったし、これからブータンに行ってそれが覆されることがない限り、そう思い続けようと思う。
僕等は世界が狭くって、どう頑張ってみても普通に生きていたら、世界の全てを回ることなんかできやしないし、回れたとしても、それぞれについて意味のあるレポートを書き上げるくらいにその国について知ることができるわけでもないだろう。
こうして、本の中だけでも外国というものに触れると、そのことを少しだけ残念に思う。村上春樹の「遠い太鼓」を読んだ時にも感じたことだけれども、世界は思った以上に遠いし広い。
日本にも、外国人は沢山いるだろうと思う。正確なデータを持っているわけではないけど、たぶん沢山いる。日本でペットとして飼われている亀、くらいはいるのではないだろうか(表現が不適切かもしれないけど)。ニュースなんかでは、外国人による犯罪がよく報道されるし、恐らく実際的なデータでも、外国人による犯罪というのは増えているのだろうけども、ただ僕等が普通に接する可能性のある外国人はやはり、まあ普通の、犯罪者ではないという意味で普通の外国人だろうと思う。
しかし、日常的に外国人と接する機会がある、という生活をしていないせいか、やはり外国人との接し方には戸惑うだろうと思う。日本は島国だから、といういい訳を都合よく使うけど、本作中のブータン人に、「それをいうのは卑怯だよ」と言われてしまうだろう。
例えば街中で外国人に道を聞かれたらどうするだろうか、と考える。相手がまったく英語を喋ることができなかったら、「英語は喋れませんし、そもそも聞きとれません」ということをなんとか伝えて引き取ってもらうことは可能だろうけど、少しでも日本語を喋ることのできる人だったらどうだろうか、と考えてしまう。
実際、道を聞かれたわけではないけど、最近、少しだけ日本語を喋ることのできる外国人と会話をする機会があった。僕は書店で働いていて、本の注文をして欲しいという風に尋ねられた。確かに多少やり取りに時間は掛かるけど、でもなんとか意志の疎通をすることはできた。だがもしも、書店員という立場で仕事としてではなくて、普通の一般人という立場でそういう人と出会ったら、僕はどうするだろうか。
逆のことを考えた場合、つまり僕が外国に行き、拙い英語で喋りかけ、それですげなくされたら、やはりそれは悲しいだろう。それは間違いないけど、それを考えて実際的な行動ができるかはわからない。
僕はそもそもが排他的な人間だけど、日本人というのがそもそも排他的だという風に思う。文化的なものは外からどんどん取り入れるくせに、外から来た人、というのはなかなか受け入れない傾向にあるように思う。なんだか悲しいけど、少しずつ変わっていけばいいなと思うし、機会があれば僕も変われればいい、とそう思う。
ブータンの話を少しだけしようと思う。宗教というのは国それぞれ、人それぞれだと思うけど、ブータンでは生まれ変わりというのが普通に信じられているらしい。長い長い人生のうちで、今は人間として生きている、とそういう風に考えるらしい。本作に出てくるブータン人の、「死んでも生まれ変わるだけだって」という言葉が、あまりにさらりとしていて清々しい。死ぬことから逃れようとして医療や哲学を始め様々な分野で進歩があったのだろうと思うけど、でも死ぬということをことさら大きく扱わないで生きていけるなら、それはそれでとても羨ましい、とそんな風に思いました。
本作は、二つの流れが交互に語られる形式でストーリーが進んで行きます。
一つ目は「現在」のパート。主人公である椎名は、大学入学と共に引っ越してきた。アパートの住人に挨拶をしようと、呼び鈴を鳴らすが不在。しかしその後すぐに、河崎と名乗る隣人と遭遇する。椎名がボブ・ディランを口ずさんでいる時だ。悪魔のような黒ずくめの男は、出会うなり早々にこう言い放った。
「一緒に本屋を襲わないか」
椎名は、訪問販売の口車に乗せられて、危うく数十万円の教材を買いそうになった実績があるが、しかしそれでも本屋を襲う計画に加担するわけにはいかない。どうやら、隣の隣に住む外国人が、日本語の勉強のために広辞苑を欲しがっているから、それを奪おう、というのだ。なんだそれは。買ってあげればいいではないか、という椎名の反論はことごとくかわされる。
しかし結局椎名は、モデルガンを持って、書店の裏口に立ってしまっていた。「椎名がやることは難しくないんだ」。そう言われた通り、やることは大して難しくない。ボブ・ディランを10回歌う。2回ごとにドアを蹴ること。それだけだ。なんだそりゃ?
二つ目は二年前。主人公はペットショップに勤める琴美。少し前まで、河崎という美男子にして最低の男と付き合っていたが別れ、今はブータンからの留学生であるドルジと同棲している。琴美は、ペットショップで、商品から仲間に格下げされた可哀相な黒い柴犬の「クロシバ」をドルジと一緒に探ている。いつの間にかいなくなってしまったのだ。その途中で、車に轢かれた猫を見つけてしまい、どこかに埋めようと公園にやってきた二人はそこで、今近くで頻発しているペット殺しの犯人らしき三人組と遭遇することになる。
それ以降、琴美の周囲では、常に何らかの形でペット殺しがついて回る。ペットショップの店長で、現実のものとは思えないくらい肌の白い麗子さんや、琴美の元恋人河崎なども絡みながら、ペット殺しやその他もろもろが展開されていく。
一つ一つが短い章が交互に組み込まれた本作の構成は、本当に美しいと感じさせるものがある。章ごとの関係性や、流れるような見事なテンポが、この短い章の組み合わせによって見事に出ていて、それが作品全体をとてもいい仕上がりにしている。
ミステリ的な面は、やはり伊坂というべきで、見事としかいいようがない。特に毎度のことながら、伏線の見事さには、本当に素晴らしいものがある。普通のミステリ作家は、伏線を伏線として目立たせないようにするあまり、作品全体の中でもあまり目立たない存在にしてしまうことが多いように感じるけれども、伊坂の作品の伏線は、それ自体が作品の中で印象的であり、例えそれが伏線でなくても作品の中で充分に意味があり存在感がある。そうした印象を読者に与えるのだと思う。だからこそ、伊坂の作品の伏線は、他のどの作品のものとも違って印象的で素晴らしく感じるのだろうと思う。
キャラクターは相変わらず素晴らしい存在感を放っていて、それぞれに無意識的なのか意識的なのか、独特の価値観があるのがとてもいい。誰しもがそれぞれに、ルールというかしきたりというか判断基準というか、とにかくそうしたものを持っていて、それをなるべく崩さないぞ、という姿勢が好ましく映るのだろうと思う。伊坂の作品の登場人物は、たとえそれが犯罪者であっても悪人であっても、どこか憎めないように描かれていて、罪を憎んで人を憎まずとは、伊坂の作品の登場人物にこそぴったりだな、とよく思います。また、こんな人が身近にいたら、めんどうだけど面白いだろうな、という人もよくでてきて、やはり物語でよくからだろうけど、そうしたキャラクターはとても面白いです。
また、伊坂の作品は、作品毎に少しずつ繋がりがあって、それはちょっとしたお遊びみたいなものだろうけど、本作でもある作品との繋がりがちょこっとだけ出ていて、そういうところも伊坂作品を読む上で楽しいところだったりします。
文章も、「軽妙」、という言葉は伊坂のために存在するのだろうと思うぐらい、いつ読んでも読者を楽しい気分にさせてくれると思います。現実の世界からどこか浮き上がった世界というものを、その文章で見事に描き出しています。リアリティがない、という小説に対する評価が僕は大嫌いだけど、そうした評価を下す書評家が、本作を読んでそう評価するのか、僕は知りたかったりします。
最後、終わらせかたがいい。というかいつもいい。伊坂作品は、物語の展開も、文章も、キャラクターも全て素晴らしいけど、何よりも最後の終わらせ方がいい。今までの中で一番最高だった終わらせ方は、「陽気なギャングが地球を回す」だけど、本作のもかなり好きだった。
著者が音楽と犬が好きだ、というのはいろんな作品を読んでいればわかることで、本作でもそのいずれもが出てきます。常に、重要なアイテムとして出てくるわけではないけど、脇役として常にいい感じを出しています。
とにかく褒めちぎりすぎに感じるかもしれないけど、伊坂の作品にはこれでもまだ足りないぐらいだ、と僕は感じます。読んでみれば、今までの読書体験が吹き飛ぶような体験が出来ることだろうと思います。騙されたと思って、本作だけでなくどれでもいいです、とにかく一作読んで欲しいと思います。その瞬間から、伊坂幸太郎の世界から抜け出せなくなることを請け負います。是非読んでみてください。

伊坂幸太郎「アヒルと鴨のコインロッカー」


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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)