黒夜行

>>2005年08月

チルドレン(伊坂幸太郎)

大抵の人はみんな結局、「普通」に収まろうとしてしまうものだと思う。
僕は、自分が人とは違う、なんて思ってないし、思うために行動しているつもりも特にはない。自分は選ばれた人間で、将来必ず成功するはずだ、とか、人には真似できない何かを持っているぞ、とか、別に全然そんなことを思ったりしない。
僕が思うに、世の中にはそういう、「自分は特別な人間なはずだ」と思って生きている人が多いような気がする。もちろん僕だって、自分では意識していないけど、周りから見ればそう見られている一人なのかもしれないけど。
みんな、気持ちの上では、人とは違うように、誰かの真似にならないように、とそう思って生きている。着る服も、歌う歌も、悩み方も、間違え方も、誰とも同じにならないように、ってそればっかり考えて生きている人は、間違いなくいる。言ってしまえば、「誰かと同じ」ってのが「かっこ悪い」って思ってるんだろう。
でも、みんなそう思って生きていても、結局「普通」に行き着いてしまう。正確に言えば、何種類かのパターンに分類できてしまうような、そんな生き方をみんなしてしまうのだ。
ファッションにしたって、一番初めにそれをやった人だけが「オリジナル」なわけで、それ以降の人は結局みんな真似をしているか、アレンジをしているだけだ。そもそも、その「オリジナル」だって何かのアレンジであることは間違いないのだし。
よく言われることだけど、誰もが個性を出そうとしていても、その流れは何種類しかなく、結局誰もが似通ってしまい、個性を出そうとしていない人が、「無個性」という個性を獲得するようになってしまう。みな髪を茶色に染めて、黒髪の人の方が珍しくなる、みたいな現象と同じだ。
誰もが、自分なりの「オリジナル」を求めながらも、結局は何かの「アレンジ」や「トレース」に終始してしまって、結局、個性を出そうとしたことが平均化されてしまう。
本当に個性のある人なんているのだろうか?
そもそも、個性ってなんだろう?
なんだか、個性って言葉が、同化って言葉と同じ意味に使われているような気がして、みんなそんなジレンマを抱えながらも、でも仕方なく自分を騙してますみたいな、ほんとは見えてるけど見えません、って意地張っているみたいな、なんだかそんな感じがする。
個性って結局、間違いに気付かないこと、なんじゃないかと思う。誰もが、正しいことをしようとしているから、逆に個性が剥がれ落ちていく。自分では正しいと思い込みながら間違った方向に進む。そうすると、個性が備わる。なんだか、そんな気がしませんか?
なんでこんなことを書いているかと言えば、本作に強烈な個性を持つ男が出てくるからだ。
彼は、間違いなく間違っている。もうそれは見事にあっけらかんと間違っている。だけれども、それが故に、強烈な個性を獲得しているのである。なんだか、友達に欲しいような欲しくないような…。結局、個性は迷惑と紙一重、ってことなんだろう。
そろそろ内容に入ろうと思う。
本作は短編集であるけれども、登場人物はある程度固定されているので、その辺の紹介を先にしようと思う。
まず作品によって、時代が二種類ある。一つは、陣内が大学時代の話。もう一つは、陣内が家裁調査官になってからの話である。
そう、この陣内という男こそが、諸悪の根元というか、まあそんなことはないのだけれども、とにかく周囲をひっかきまわして平然としているような、そんな強烈な個性の持ち主なのである。
まず、陣内が大学時代の話の方から。主に出てくるのは、鴨居・永瀬・優子の三人だ。
鴨居は、陣内の友人である。なんだかそれだけで終わってしまうけど、いつもなんだか陣内に振り回されている。まあ、陣内が変な人間だってことを知っていて付き合っているのだから、まあ自業自得と言えないこともない。陣内とは違って、至って常識人である。
永瀬は、生まれた時から目が見えない。ベスという盲導犬と生活している。陣内と鴨居とは、あることがきっかけで知り合い、それから付き合いが始まった。目が見えないとは思えない身のこなしや言動で、冷静で頭が切れる。落ち着いていて、陣内とはまるで正反対の男である。
優子は永瀬の彼女であり、永瀬の目の代わりをしている。ベスに対して時折嫉妬心を抱くが、永瀬との相性はいい。
さて一方の、陣内が家裁調査官になってからの話には、武藤という男が主に出てくる。同じく家裁調査官であり、陣内の後輩。言動にばらつきがあり、そもそも理解できず、それでいて犯罪を犯し更生した少年らに人気のある、よくわからないそんな陣内に振り回され、それでもなんだかんだ抱えている問題は解決してしまう、とそんな感じだ。武藤自身は、至って常識人。
さて、ではここで、そんな陣内について紹介しよう。
とにかく、その言動に理解ができない。自分に絶対的な自信を持っていて、理屈に屁理屈で返して相手を打ち負かす。立ち向かうことが生きるモットーで、父親のことを心底嫌っている。ギターをやり、歌もうまい。なんだか、迷惑ばかり被るけど、でも憎めない、そんな男である。
そんな面々が、仙台を舞台にひちゃかめっちゃかな話を繰り広げる、そんなストーリーです。
それでは、それぞれの短編の内容を紹介しようと思います。
「バンク」
閉店間際の銀行に滑り込んだ鴨居と陣内は、そこで銀行強盗に遭遇する。両手両足を縛られ、縁日で売っているようなお面をつけさせられる。でも、陣内はひるまない。何度か銀行強盗と対峙しては、状況を変化させた。二人はその銀行内で、同じ人質仲間として、盲目の永瀬と出会った。永瀬は、目は見えないが、なんだかこの銀行強盗の真相に気付いたみたいだ…

「チルドレン」
家裁調査官の話。武藤は、陣内に見せられた新聞記事で、半年前に担当した万引き少年が、誘拐されていたことを知る。その少年との面談は、どうにも奇妙だった。親の同席が必要な面談の場で、少年と父親はどうにもおかしかった。なんか、険悪というか緊迫というか、なんかちぐはぐだった。その面談の最後に、陣内から手渡された芥川龍之介の文庫を手渡して帰したのだけれども、数日後街中で偶然その少年と会うと、なんかこの前とは全然違うし…どうなってるわけ?

「レトリーバー」
陣内は、レンタルビデオ屋の女の子に告白することに決め、その野次馬として永瀬と優子を呼び出した。見事に振られたわけだけれども、駅前で三人で話していると、陣内がどうも奇妙なことをいう。
「失恋した俺のために、今この場は時間が止まっている」
あっけにとられた二人だったが、確かに周囲には、二時間変化のない何人かの人々が…。何それ、ほんとに時間が止まっちゃったわけ?

「チルドレンⅡ」
家裁調査官の話。武藤は、少年犯罪の担当から、家事事件担当になった。平たく言えば、離婚調停なんかだ。
さて、一件離婚調停のうまくいかない夫婦がある。旦那は離婚歴二回。共に浮気相手と再婚していて、それぞれと子供が一人ずつ、計三人いる。前二回は親権を放棄しているのに、今回は親権を譲らない、という。大学教授なのに、なんだか奔放な男だ。
妻の方も親権を譲らない、と言っていて、話が進まない。
という話を、陣内が今試験観察にしている明という少年の勤める居酒屋で、陣内にした。すると彼はこんなことを言う。
「その男を俺のライブに連れて来いよ。明も来い。そしてお前もだ。」
なんのこっちゃ?その男と明をライブに連れて行って、一体どうなるわけさ…と、もちろん武藤は聞けない。

「イン」
陣内がどうやらデパートの屋上で働いている、という噂を聞きつけ、永瀬と優子は今屋上にいる。ジュースを買いに行った優子がいないうちに、見知らぬ女の子が近づいてくるわ、なんだかよくわからないけど普段とは違う様子の陣内も現れるし、目の見えない永瀬には、わかることもあればわからないこともちゃんとある。なんか、陣内は興奮してるし…

とにかくどの話も、ほんわかしているけど、終わってみれば鋭くきっちりとミステリで、もちろんあったかい。不可思議な状況も、陣内という男の存在の前には、ちょっと霞んで見えてしまうのだけれども。
とにかく、伊坂幸太郎の作品はどれもそうだけれども、登場人物がとにかくいい。特に、目の見えない永瀬と、自信家の陣内はいい。きっとこんな人はいないんだろうな、という思いと、どこかにいてくれたらいいな、という思いが、その二人をよりよく見せているのだろうと思う。
中でも、陣内について最も素晴らしい描かれ方があって、ちゃんとは書かないけど、「レトリーバー」に描かれているエピソードだ。「ずるい」っていう言葉が、あれだけ清々しく響くとは、ちょっと驚きだった。
どの話も好きです。ばかばかしい話だけど、読むと心が洗われるような、溜め込んだ何かを捨てることができるような、そんな爽快なストーリーです。是非読んで欲しいと思います。

伊坂幸太郎「チルドレン」


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世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(村上春樹)

僕が見ている世界が、他の人に同じように見えている、かどうかは正確にはわからない。というか、確かめようがない。
色一つとってもそうだ。僕たちは、誰もが同じ色彩の世界に住んでいる、と多くの人は思っていることだろう。しかし、それは「言葉」というものを介して同じだと認識しているわけで、もしかしたら、違う色を同じ言葉で認識しているかもしれない。僕には赤色に見えている色は、別の人には青色に見えていて、しかし二人ともその色を「黄色」という言葉で認識している。そんなことだって、全然普通にありえる。
僕は、こんな風に思うことがある。誰もが、誰かの物語の世界で生きているのではないか、と。
世の中にこれだけ物語があって、僕らはそれを読む。その中には、その中なりの生活やら世界があって、それは、僕らが本を読み始める瞬間から始まり、読み終えた瞬間に完結している、と思っているけど、実は違うのかもしれない。作家が物語を思い浮かべた時点で、その物語の舞台となる世界がどこかにぽっと現れ、世界が運行していく。作家は、自分の頭の中で世界の細部を規定しながら、その世界の一部と、その時間の一部だけを切り取って物語にしているだけで、物語の数だけ世界があってもおかしくはないと思う。
だから、僕らが生きているこの世界だって、僕らとは別次元の作家が作り出した物語の世界で、物語として発表された部分はとうに過ぎ、作家からも読者からもその存在を忘れ去られた世界なのかもしれない。覚えてくれる人が減れば減るほど、世界は崩壊する、というわけだ。
こんなことも考える。ABCという三人に、それぞれ別に実験をする。
実験には、ボールと、そのボールが入るくらいの箱が使われる。
Aには、まずボールと箱を見せ、そして箱の中にボールを入れるまでの過程を見てもらう。当然Aは、箱の中にボールが入っていると認識するし、事実もその通りだ。
Bには、まずボールと箱を見せ、そしてその段階で目隠しをする。しばらくして目隠しをとった段階で、Bの目の前には箱だけしかない。この場合、Bは高い確率で、きっと箱の中にボールが入ったのだろう、と思うだろう。ボールだけどこかに持って行ってしまったとか、始めにみたボールが幻覚だったとか、可能性はいろいろあるけれども。
さてCだが、Cには、箱しか見せない。この場合、Cはどう思うだろうか?
Cには、箱の中にボールが入っているかもしれない、と思う余地はどこにもない。実際に箱の中にボールが入っていても、Cはそのことを認識することは絶対にできない。
ここまでで一体僕が何を言いたかったのか。それは、「事実」と「真実」は違う、ということだ。これは僕がいつも思っていることでもある。
「事実」を「認識」する過程で「真実」が生まれる。「認識」できる範囲に限界があるからこそ、「事実」と「真実」は必ずしも一致はしない。
僕らは、主に視覚に頼りながら、あらゆる器官をを使って世界を「認識」している。しかし、「認識」できたものが世界の全てなわけでは決してない。誰にも、自分の外側を、もちろん自分の内側だって完全に理解し「認識」することはできないし、自分の「認識」を誰かと共有することすらできない。
だから、世界は、自分の外側は、一体どんな形をしているのか。僕は、時々それが気になる。自分に「認識」できることを全て捨て去って、世界の核のようなものを探りあてて、それを「認識」することなく自分の内側に取り込むこと。それができれば素敵だけれども、きっと哲学だって科学だって宗教だって、同じことを別なアプローチでやろうとして、まだそこに行き着いていないはずだ。
村上春樹は、世界の形を、自分の外側の輪郭をつかもうとして小説を書いているのではないか、と感じる。
村上春樹自身だって、現実の世界の形を知ることができているわけではないと思う。しかし、小説という媒体を借りることでそれをやろうとしている。
三次元に住む僕たちは、四次元の世界を理解することができない。その世界をイメージで理解するためにどうするかと言えば、二次元に住む生物が三次元の世界に触れたらどうなるか、という発想をするのだ。
村上春樹も、同じ手法でアプローチをしているように思う。現実の世界の形、というのは認識できない。しかし、自分でその形を設定し、その上で世界のあり方を定めた、村上春樹なりの「世界」を小説の中で作り出す。その「世界」の中に人を住まわせ、その人物にその「世界」の形を探らせ読み取らせようとする。あくまでも村上春樹が作り出した「世界」だけれども、そこから現実世界との繋がりを感じられるように、物語が描かれているような気がする。
もしかしたら、全然的外れかもしれないけれども。
本作は、とても面白い構造になっている。「世界の終わり」と「ハードボイルド・ワンダーランド」という二つの話が交互に織りあがっている。それぞれの世界は、話の進行とともに繋がっていく。
「世界の終わり」は、「僕」の物語である。周りを高い壁に囲まれ、一度入ったら二度と出ることのできない、そんな「世界の終わり」に何故か行くことになった僕。その事情は全然思い出せない。それまでの記憶が思い出せないのだ。彼は門で影を切り取られ、図書館で夢読みの仕事をするようになる。悪意や憎しみのない、穏やかでゆったりとした生活。行動に意味を付与されず、目的のないままに行動のできる純粋で完結した世界での生活。一角獣の頭骨から古い夢を読み、図書館の女性と親しくなり、チェスをする大佐に出会い、地図を作り、影に会う。そんな、「世界の終わり」での、僕の生活を描く物語。
「ハードボイルド・ワンダーランド」は、「私」の物語。彼は計算士であり、クライアントの依頼により、大事な情報をその自身の脳で乱数化し、情報を守る、という仕事をしている。彼は「組織」というところに属しており、そこは、情報を解読して奪おうとする「工場」というところと対立している。
彼はある依頼人に呼ばれ、エレベータ・長い廊下・暗闇と川・滝なんてものを乗り越えながら、ある研究所へ向かう。そこは、ダヴィンチのように一つの分野に留まらず様々な研究をしている博士がいて、そこで彼は計算士としての仕事をし、家でする分の仕事を残して部屋に戻る。プレゼントとしてもらった箱の中には、どうやら一角獣らしい頭骨が入っていて、それを調べるために寄った図書館のリファレンスの女性と仲良くなる。
彼はそのまま、まるで鵜飼の鵜のように、主体性をまったく失ったまま、よくわからない世界に、よくわからない事情で放り込まれていく。意識の核に思考回路を組み込まれた「私」と、それを仕組んだ老博士、そしてその周囲を巻き込んだ物語。
まず感想は、よくこんな話を思いつくものだ、ということです。一見、論理的でない、無秩序な世界の物語のように思うのだけれども、見事に整合性が取れているように見えました。無駄はあるかもしれないけど、矛盾も無理もない、と思いました。どんなにありえなさそうなことでも、村上春樹の文章で読むと、あるかもしれないと思わされてしまうのです。
もちろん、一回読んで何もかもわかった、なんてことは言いません。正直わからない部分は多いです。特に「世界の終わり」の方で出てくる様々な物事や現象は、一体何を象徴しているのか、うまくわかったと言える自信はありません。
それでも僕は、読んでよかったな、と思っているし、いつかまた読み直そうか、とも思っています。結構好きな話でした。描写が緻密すぎてうんざりしてしまうような部分も結構あるのだけれども、それは村上春樹の特徴として踏まえておけばいいだけの話です。
本作を読んで、普遍性、ということを考えました。村上春樹の作品には、普遍性、というものが備わっているような気がします。それは、昔の文豪達が残した作品にもきっとあるはずのもので、間違いなく村上春樹は、後世まで名を残す作家になるでしょう。
本作では特に、登場人物に名前がありませんでした。それだけが全てではないけれども、きっとそれも、普遍性を備えるための一つの条件なのだろうと思いました。
僕は、登場人物の中では、図書館のリファレンスの女性がいいなと思いました。村上春樹の作品にはこういう、状況の変化に特に驚くことなくついていくことができ、頭がよくて知識があって発想の面白い女性がよくでてきて、結構そういう人は好きだったりします。
「世界の終わり」のような世界は、たとえ僕らに「認識」できなくても、きっとあるのだろうと思います。永久機関のように、完全だけれども間違っている世界。そんな場所に逃げてしまえるなら、それでもいいかもしれない、と正直思いました。なんだか、現実よりもよく映るのは、やっぱ僕自身が疲れているからでしょうかね…
きっと、一読しただけでは掴みきれない大きな作品です。もちろん一読でも、ぼんやりと何かを掴むことはできるだろうと思います。うまく説明できないけど、いい作品だと思います。読んで欲しいと思います。

村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」





容疑者Xの献身(東野圭吾)

数学、という学問は結構好きだ。
そもそも、論理、というものが好きだ。美しく織りあがった、まるで芸術のような織物のように、精緻に組みあがった論理というものはまた、芸術のように美しい、と僕は思う。
もちろん、学生の時は理科系の学問が好きだった。物理や数学は特に好きで、テストを受けるのにワクワクしたり、問題を解いている時に興奮したり、そういうことは多かった。
でも、学生として学校の授業で接することのできる数学というものは、本当の数学ではないことに気付く。本当の、という言い方がおかしければ、美しさの欠けた、と言ってもいいけれども。
例えば、一般書などで数学の本を読んだりすると、そこにはとても面白いことが書いてある。連綿と続く数学者の歴史の中で発見された、美しい証明や発見。有名なので知っている人も多いとは思うけど、「フェルマーの最終定理」という、確か既に証明された大昔からの難問の証明までの本を読んだ時には、その証明のために費やされた数学者達の人生と、その過程で発見され一つの分野になっていったものまで様々なことが書かれていて、正直その証明の過程はさっぱり理解できないのだけれども、とても楽しかった。
また、数学オリンピックの問題などを見たこともある。数学オリンピックというのは、世界単位で開催される催しで、世界各国の数学自慢(しかも中学生や高校生)などが、普通の人には問題すら理解することのできない難問を喜々として解き、その勝敗を争うもので、確かそこでの日本人の成績は結構よかった気がする。もちろん僕も、問題すら理解できないくちだけれども、答えを見て時々理解できる問題があって、そういうのはとにかく美しい答えだな、と思ったりする。
数学が苦手だったり嫌いだったりする人は多いようだ。その気持ちは確かにわからないでもない。そもそも、学校で触れることのできる数学に美しさは期待できないし、数学の美しさは、ある程度数学を理解できてからでないと実感できないからだ。学校で数学の面白さや美しさを体感できないし、日常生活では数学を実感できない。昔の生活は、数学がなくては生活できなくて、必要に迫られて数学という学問ができたのに、今では数学というものが、様々な機械や、一部の数学者の中にしまい込まれてしまって、どうにも生活の中で数学に触れることができない。
なんだかそれは悲しいよな、って思う。
僕はパズルが好きで、それもクロスワードパズルとかではない、論理性を重視したパズルをだ。あるいは、数学を背景にしたクイズや問題も好きだ。そうしたところで数学の論理性に触れてくれたらいいのにな、と思う。
あるいは、良質なミステリを読んでその見事な論理性を感じて欲しいと思うのだけれども…。
というわけで、本作もそんな、見事な論理性に彩られたミステリです。
50年か100年に一度の天才…大学在学中の教授にそう言わしめ、数学に関しては他の追随を許さなかった石神は、今は高校で数学教師をしている。しかし、在野で数学の研究は続けている。感情が顔に出ない男で、また頭の回転が速く、言動はひどく論理的な男である。
石神は、隣の部屋に住んでいる靖子という女性に好意を抱いている。毎朝、彼女の勤める弁当屋で弁当を買うぐらいで、普段ほとんど交流はない。
靖子は元ホステスで、その時に知り合った富樫という男と結婚し、美里という娘をもうけた。しかし、事情により離婚し、それを機にホステスも辞め、新しい生活を始めた。
しかしある日、彼女の勤める弁当屋に富樫が現れた。やり直そう。富樫はそう復縁を迫ったが、靖子にはそんな気はない。しかし部屋にまで現れ、そこで彼女は、富樫を殺してしまう。
自首するしかない…そう決意を固めた靖子の元に一本の電話が。石神から。
「女性だけで死体を始末するのは無理ですよ」
石神は、彼女が人を殺したことを知っているようだ。そうして彼がそんな申し出をしてくれるのかわからないが、もしなんとかしてくれるなら…
その瞬間から石神は、それまで数学に費やされていた純粋な頭脳を、犯罪の隠匿という穢れたものへと費やすことになった。どうすれば、靖子親子に負担をかけず、彼女に疑いを掛けずに済むか…
そうした物語です。
まず本作には、シリーズキャラクターが出てきます。「探偵ガリレオ」と「予知夢」という作品に出てくる、湯川という物理学者と草薙という刑事のコンビだ。湯川は、石神の大学時代の同期で、今でもその大学で助教授をやっている。草薙という刑事も同じ大学の同期で、湯川の友人。草薙は、難解で理解できない事件を湯川に持ち込んでは、その湯川の洞察力で解決してもらっていた。つまり湯川は、安楽椅子探偵といったところである。石神とも、お互いの能力を認め合った関係である。
本作は、そんな湯川と石神という二人の天才同士の知恵の絞りあい、といった作品である。
正直、石神の仕掛けたトリックには驚きました。確かに本作は、帯に書いてあるように、「純愛」だな、と最後の最後に思いました。
また、天才というのが僕は好きです。西尾維新の小説に出てくるようなぶっ飛んだ天才も好きですが、現実に根付き、現実に存在しえる、それでいて異形の天才というのもまた好きです。もちろんそこには羨ましいな、という思いがあるわけですが、天才であるが故に抱えなければいけないこともきっとあるはずで、そういう葛藤なんかも好きです。
また、本当に少ししかありませんが、湯川と石神の間で交わされる数学の話が、やっぱり面白かったです。
昨今純愛がブームだと思いますが、僕には今ブームの純愛はどうにも合いません。本作は、ミステリで、しかもまさにそのミステリ的な部分の根幹で純愛をやっているので、素晴らしいと思います。僕が、新刊で(つまり古本屋ではなく普通の書店でということだけど)本を買うのはかなり珍しいけど、やはり東野圭吾の新刊は買おう、と思えるような作品でした。是非どうぞ。ただ、タイトルにセンスはないかな、と思ったけど。そこだけちょっと不満かな。

東野圭吾「容疑者Xの献身」



図書室の海(恩田陸)

どうにも、恩田陸とは相性が悪い。
僕は、あんまり得意ではない作家の作品でも、読む順番の程度の違いこそあるけれども、差別しないで読む。苦手だな、とわかっていても、そして予想通り自分には合わない作品でもまあ仕方ないか、と思っている。自分の好きそう本ばっかり読んでいても世界は広がらないし。
恩田陸の作品も、合わないとはわかっているけど何作も読んでいる。本作で9作目。それなりに注目はしているということだろう。ミステリランキングでもかなりの作品がランクインするし、今年は本屋大賞も受賞して乗っていることもある。
しかし、どうしても相性がよろしくない。
一応なんでだろう、と考えてみる。いまくはいえないけど、「論理的でない幻想さ」に彩られた作品が多いような気がして、恐らくそれが恩田陸の作品のいいところなのだろうし、ファンの気に入っているところなのだろうけど、僕にはきっとその点がダメなのだろうと思う。
僕は、「答えがわからない」あるいは「答えが曖昧である」という作品は嫌いではない。最たるものは森博嗣の作品であり、氏の作品はその全てを理解することはまず無理だろうけど、それでも僕は好きだ。
ただ、「何を問われているのかわからない」作品は苦手なのだろうと思う。何らかの問いかけを見出すことができて、それに対しての答えがわからない、というのであれば、そこには考える余地がある。しかし、何を問われているのか、を考えるだけの余裕が僕にはきっと足りない。
幻想的な作品は決して嫌いではない。しかし、そこにはある程度の論理性と何らかの答えが潜んでいて欲しい、と思ってしまう。だからこそ恩田陸の作品を苦手とするのだろうと思う。
本作は、ノンシリーズの短編集(つまり連作短編集ではないということ)である。10話収録されているのだけれども、なんだかしっくりくる作品はあまりない。長編として出している作品の番外編みたいな作品もあって、それを読んでいなかったり、あるいは読んでいても忘れてしまっているので、なかなかその世界に入り込めなかった。
その中でも結構いいなと思った作品が二つだけある。その二つだけ内容を紹介しようと思う。

「国境の南」
ある喫茶店の物語。接客が好きそうな人当たりのいいウェイトレスがいて、灰皿をこまめに取り替えたり、水がなくなったらすぐに注いだりと、仕事熱心だった。もう潰れてしまい、今は別の喫茶店となっているその店内で、昔を思い出す一人の男の回顧録。

なんだか、身近にホラーを感じてしまうような、ちょっとぞっとする話です。

「オデュッセイア」
ココロコという、その上部が集落となっている山の話。ココロコは、自分に意識があることに、そして動けることにしばらくして気付き、人々の生活を乗せたまま、時にゆっくりと、時にスピーディに移動しながら、長い年月と共に人々の生活に潤いを与えてきた。そんな、ココロコの物語。

この作品を読めたことでまあ元は取れたかな、と思える、本作の中では抜群の作品でした。結構好きです。イメージしたのは、ハウルの動く城です。

僕としては、わざわざ買ってまで読むものではないと思います。まあ特に読むこともないと思いますが。そんな感じです。

恩田陸「図書室の海」




メロス・レヴェル(黒武洋)

本来ならここで、太宰治の「走れメロス」について何か書くのがベストなんだろうけど、僕は残念ながら「走れメロス」をちゃんと読んだ記憶がない。どこかの時代の国語の授業で読んだ記憶もあるような気がするけど、どうにも定かではない。
それでも、本作中に載っていた「走れメロス」のあらすじを読むと、まあこういう話のようだ。
家族友人を殺した王に忠告するために乗り込んだメロスは、捕らわれ磔にされる。しかし、妹の結婚式に出たいと我儘をいう。戻ってくるとは信じられない王は、メロスの親友のセリヌンティウスを人質として差し出す、という話らしい。
昔の話だ、と言って切り捨てることは簡単だけれども、僕は思う。「走れメロス」が書かれたまさにその時代にだって、もはやこんな関係というか感情というか、そうしたものは失われていただろうと。寧ろ、失われていたからこそその時代の小説となり、今でも失われたままであるからこそ文学として残っている。僕はそんな風に思う。
「友達」と呼べる人はいる。「友達」って言葉は苦手だし、正直高校ぐらいまではまともに使えなかったけど、今なら、ちょっと怖い感じもまだあるけど、でも「友達」と呼んでも大丈夫だよな、と思える人はいる。
でも、「親友」とまでいくと、これはなかなか難しい。「友達」という関係だってそうだけど、こちらが一方的に思っているだけでは成立し得ない。「親友」と呼べるような関係ともなると、それはより深く大きく関わってくるだろう。
「親友」と呼べる人がいるか、と聞かれたら、やっぱり答えに詰まるし、考えた末にいないって答えると思う。僕のことを「親友」だと思ってくれる人がいれば、それはとても嬉しいことだけれども。
人間関係というのは、時代や環境によって大きく複雑に変容を遂げるものだけれども、今はリアルなというか直接的なというか、そういう人間関係が希薄になっていると思うし、どうしたってこれからのことを考えると、よりその傾向が進んでいく方向になるだろうと思う。インターネットや携帯電話などの技術の進歩とともに、気軽な「友達」は簡単に見つけ出せるようになってきているけど、反面「親友」という関係を築くのには難しくなっている。
「絆」という言葉が、現実に表出するようなことは、どんどん減っていくことだろうと思う。引きこもりの僕がいうのもなんだけど、それはそれで少し悲しいかな、って思う。
本作は、「走れメロス」を現実にやってしまおう。簡単に言えばそういう話である。
時代は、正確にはわからないけど、少し先だと思われる未来。「パンドラの火花」との関連で考えるならば、西暦2040年よりも少し前、という当たりがだとうだろうと思う(黒武洋の小説の世界は、出版社の枠を越え、どうやらリンクしているらしい)。恐らく、というかまあ間違いなく日本だけれども、そこは今の日本とは大きく違っている。個人のライフスタイルというものが確立され、家族であってもお互いをほとんど知らないというのが普通だ。授業や仕事も自宅で、という社会。また、地球環境は悪化し、オゾン層の破壊されたために、何の対策もせずに外出するのは自殺行為だ。そんな、殺伐、という言葉の似合う、乾いた社会。
そんな現状を憂えた政府は、毎月の第二日曜日をファミリーデーとして、家族が揃って同じ時間を過ごさなくてはならない、というファミリー法を制定する。家族を持つものは、19時に全員揃って自宅で本人確認(個別IDによる識別)を受け、その後音の出る機器の使用を一切禁止される。もちろん、家族内での会話を促そうという意図である。
そんな社会にあって、政府はさらにある企画を立案し、大々的に宣伝をした。それが「メロス・ステージ」と呼ばれるものである。メロスとセリヌンティウスに分かれ、メロスがなんらかの勝負に挑む。優勝すれば最低でも50億の賞金、しかし負ければセリヌンティウスの身体機能の一部あるいはその生命を奪われる。まさに「走れメロス」を体現するような、しかしその他の情報はまったくなく、開催までその全貌はまったくわからない謎のイベント。そんなイベントに参加することになった十組の参加者を描く物語。
とにかく感想は、つまらなかった、に尽きる。
まず設定がひどい。政府の主催のイベントで、その主旨がいかに公明で盛大で素晴らしいものでも、負ければ身体機能の一部か生命を奪う、というそのペナルティの設定がメチャクチャだと思う。さすがにその段階で、ちょっとという気がした。
前に、清涼院流水の「エルじゃんけんトーナメント」とかいう作品を読んだことがあって、それは、ひたすらじゃんけんだけで勝負をして勝ち進んでいくトーナメントの話だったけど、それを読んだときは、よくそれだけの設定で一本小説が書けるもんだ、と思ったけど、本作でも同じような感想を持った。
しかし、「エル~」はギャグ的というか、おふざけ半分といった、よく言えばエンターテイメント的な書き方をしていたからまだそれなりに許せたけど、本作はこんな無茶苦茶な設定をごく真面目にまるで文学でも書いているかのように描いているので、なんだかものすごくちぐはぐだった。
視点もあっちこっちに移りまくって、舞台だかの脚本も書いているみたいだからそうなるのかもしれないけど、全然落ち着かなくて、読んでいて疲れた。恩田陸の「ドミノ」でも視点はかなり動いたけど、きっとうまく処理していたのだろう、特に違和感を感じることはなかったように思う。堅い文章と移り変わりの激しい視点に、どうにも最後までついていけなかった。
「走れメロス」をモチーフにしているから仕方ないのかもしれないけど、どうにも理想論的な考え方や思想が多くて、ダメだった。
とにかく、いいところが特になくて、残念だった。まったくお勧めできない作品です。

黒武洋「メロス・レヴェル」



パンドラの火花(黒武洋)

「過去」という時間が、「現在」よりも以前にあったことは間違いないだろうと思う。ただ、「過去」に起こったこと、つまり「歴史」は、本当に存在していたことだろうか、と思うことはある。
僕らの歴史は、僕ら自身が持つ記憶と、写真や文書などの物質的な記録媒体によって成り立っている、といっていい。その二種類の存在があるからこそ、僕らは「過去」にあった「歴史」を知ったり信じたりできる。
しかし、冷静に考えてみれば、記憶というのは多分に曖昧なものである。少なくとも僕は、昨日の夕飯何を食べたか思い出せないことだってあるし(それはあまりにも変化のない食事をしているからでもあるのだけど)、高校を含めたそれ以前の記憶だってほとんどない(単に思い出せないだけで消滅しているわけではないとおもうが)。だから、過去にこうした、という記憶があっても、もしかしたら違うかもしれない。
それに、物質的な記録は、偽造が可能だ。
そう考えると、僕らの「歴史」の存在を保証してくれるものは、ひどく不安定だと感じる。
そんな「過去」という時間の中に存在したはずの「歴史」に対して、「現在」を生きる僕らにできることはまずない。
だからこそ、後悔する。
過去に自分がしたことで、しなければよかった、と思うようなことは誰にでもあるだろうと思う。それでも僕らには、その歴史を動かすことはできないし、どれだけ曖昧であろうとも、残された記憶や記録が僕らを苦しめる。
僕の場合なんだろう、と考えてみる。過去に対して、どうしても変えたいと思うほど激しく後悔していること、というと何だろう。
親との関係だろうか?
僕はある時期引きこもりになり、それから大学を辞めて今はフリーターだ。その時々でかなりの苦労や苦しみはあったつもりだけど、今は全然いい感じだ。仕事も楽しいし、人間関係も良好だと思う。
それでも、こう思うことはないではない。そのまま大学を卒業し、どこかに就職してサラリーマンになっていたら、どんな人生だっただろうか、と。
僕なりに、昔の昔まで遡って原因を探ってみると、僕が親を嫌いになったそのことが全ての原因ではないだろうか、と思っている。そのことが、巡り巡って今の僕に繋がっているのだと。
だから、後悔とは少し違うかもしれないけど、別の人生もあったかもしれないな、と思う程度には考えている。
僕のケースなんかよりも、遥かに後悔をしている人はいるだろう。例えば、人を殺してしまった人など。自らの手で、もう二度と取り戻すことのできない生命を奪ってしまう。その行為に対する後悔を僕は容易に想像することはできない。
過去の自分を説得して思いとどまらせる。
激しい後悔にさいなまれる中、あなたがもしそんなチャンスを手にすることができるとしたら、あなたはどうしますか?
要するに本作はそういう話です。
西暦2040年。刑法が変わり、無期刑と死刑の差を是正するために、特別無期刑と終身刑が制定され、17年前に実質的に死刑が廃止された日本。しかしそこで、必然的な問題が発生する。
死刑廃止以前に死刑が確定した死刑囚の存在。
今さら死刑の判決を覆すわけにもいかず、それでいて秘密裏に死刑を行うわけにもいかなくなった政府は、ある技術の完成をもって、一つの解決策を提示した。
その技術というのが、時空移動システム、いわゆるタイムマシンである。
更生プログラムの結果や、年齢や体力や健康面などから選抜された一部の死刑確定者は、ある二者択一を迫られる。
過去に戻って自らを説得し、犯罪を犯させないようにするか。
あるいは今すぐに、死刑に処されるか。
過去に戻ることに決めた死刑確定者は、名前がなく、呼び名が番号である付添人とともに、3日間、72時間の猶予の中で、過去の自分を説得する。説得に成功すれば現在に戻ってきた時に犯罪者ではなくなり、失敗すればそのまま死刑となる。
本作は、死刑確定者・過去の死刑確定者自身・付添人の三人の視点で、三つの別々のパターンが描かれる。誰もがそれぞれ複雑な胸の内を抱えながら、それでも与えられた使命をまっとうしようとする。そうした話です。
設定はかなり奇抜で面白い、と思いました。タイムトラベルの話は結構ありますが、それを死刑確定者自身の説得という形で作られた物語は、なかなか新鮮でした。
時間を遡って過去の自分に会いに行く旅は、抱えるものの大きさや質の違いによってそれぞれに大きく変わり、さらに元犯罪者であるという点が、物語に抑揚をうまくつけていたな、と思います。
ただ、設定をうまく活かし切れていないのではないか、という感想も抱きました。三つの別の死刑確定者の話が描かれるのですが、過程はなかなかいいのですが、どれも中途半端という感じがして、ちょっともったいないな、という感じがしました。
それに、最後の最後の終わらせ方がどうにもしっくりこなくて、読み終わったときは、ちょっと微妙かな、という感想でした。
家族を殺して、なお逃亡してまで殺人を繰り返してきた横尾、ゲームのようにペットや人を殺していくようになる三日月、会社への恨みから爆弾で爆発させてしまった氏家。それぞれに抱えているものや、長かった後悔の日々、過去の自分への心からの言葉。そうしたものはなかなか緻密に描かれていいなという感じだったので、全体としてそこまで悪いという印象ではないですが。
それにしても、戦国自衛隊でもそうだったけど、タイムトリップの制限時間は、どうして72時間でしょうか?
軽く読んでみるのもいいのではないか、という感じの本です。

黒武洋「パンドラの火花」




鎮火報(日明恩)

人の死に日常的に直面する、なんてことはまあない。しかも、その命を助ける、なんてこともなかなかない。
安易な想像しかできないけど、消防士というのは、大変だろう。
自らの危険を顧みずに、自分とは関係のない誰かを救う。なかなかできることじゃない。火事を消す、だけではない、多方面に渡る消防士の活動の恩恵を僕たちは受けているはずなのに、やはりそのことを忘れがちである。正直僕も、普段から頻繁に消防士のことを思い出すことはない。困った時は119、という程度のものだし、むしろそうであるほうが平和だ、ということでもあるのだけれど。
横山秀夫の「震度0」の感想の中で、警察という職業を何が楽しくてやっているのか理解できない、というようなことを書いた。
消防士の方は、まだ目に見える成果やわかりやすい目標がある。だからやりがいを見つけやすいことはわからないでもない。でも、やはりその危険に見合うだけの何かを得ているのか、と考えると、やはりそこには何かしらの思い入れが必要だろうと思う。
生きていて欲しい、という思いを繋ぎとめるため。本作を読んで、人を助けるという職全般についていえる思い入れというのは、そうしたものなのではないだろうか、と思った。
日本では、生きる権利は多分に保証されている。本作でも取り上げられるように、あくまでも日本人、日本国籍を保有するだけではなく、周囲から違和感なく日本人だと認められる人、にはほぼ間違いなく保証されている。
ただ、死ぬ権利がそれぞれにあるか、という点については議論を挟むだろうと思う。
僕は、死ぬ権利はそれぞれの人にあると思う。それは、本作での基本的な考え方とも一致している。生きていくだけの気力がなくなった人間に、生きろ、と、生きていればいいことは必ずある、というのは酷だろう。僕はそう思う。
それでも、本作ではこうも伝えている。
「どうしても生きていて欲しい、と望む人がきっといるんだよ」
僕にはいるだろうか、と考えた。正直、わからない。この人がそう望んでいてくれたらいいな、というのはある。でも確信はやはり持てない。
生きていて欲しい。そうした、きっと誰にも向けられているはずの思いを、その誰かからの思いを途切れさせないために、途切れさせてたまるかという思いで、きっと彼等は人を救っているのだろう。そう思った。
誰かの人生を背負って生きる。それはきっと辛い。誰かが代わりに支えてあげなくちゃいけない。人が死ぬということは、誰かが何かを背負うってことだ。死んでいった人を軽くしてあげるために。
誰かの人生を背負って生きる。その大きさと深さを知らされた気がする。
主人公は大山雄大。名前の通りがたいもでかいし、顔もごつい。赤羽台消防出張所に配属されてまだ半年の新人だ。隊は家族だといって連帯を強めようとする隊長のオヤジや、元暴走族で今では現場まで最速でたどり着けるように消防車をすっ飛ばす兄貴、口うるさくどやしつける富田、元自衛隊員という星野といったメンバーに囲まれ、日々訓練と消火活動などに励んでいる。
といって、雄大が責任感の強い、ましてややる気のある消防員かと言えばそんなことはない。父親が消防員だったこともあるが、雄大の望みはただ一つ。さっさと現場から上がって、内勤の9時5時の仕事で福利厚生もばっちりで楽して得してやる、とそんな貧相な理由で消防員になった男なのである。だから、体はちゃんと動かすけど、内心めんどくせー、と思いながら日々を過ごしている。
いつものように出動指令が出て現場に向かってみると、雄大の体験したことのないような大火事。しかも、狭い路地を通らないとたどり着けないような場所で、消防車も近くまでいけない。木造のアパートで、周囲も大差ないから延焼も免れそうにない。なんだか最悪な条件。
それでもポンプ隊員の雄大は、ホースを持って賢明に消化に当たる。
でも、なんだか変だ。水を掛けたら炎が広がった…っておかしくない?
中に人が残っている、と聞き捜索に出掛ける。雄大が見つけ救助したが、結局息絶えてしまった。
どうやらその火災現場は、入国管理局による摘発直後だったらしい。アパート自体が不法労働者の住処になっていた。
そこで雄大は、小坂という入局管理官と出会う。また、昔からの腐れ縁で、雄大が消防員になったのと無関係でない仁籐にも会う。しかしよりにもよって仁籐とは…
この火事をきっかけに、雄大はなんだかめんどくさいことに巻き込まれていく。相次ぐ不自然な火災。仁籐と小坂。不法労働者の摘発。
雄大は、30も40も年上の友人で、豪邸からほぼ出ることなく、ハイテクを駆使して世の中の情報なら何でも集められる、黒ずくめの守や、クールでリアリスト、昔からの友人でいまでも付き合いのある裕二なんかもしばしば巻き込みながら、そして不本意ながら、事件にどんどんと巻き込まれていく。俺はこんなことするために消防員になったんじゃないっつーの。そんな思いを常に抱えながらも、なぜか状況に流され、ついには大きなものを背負ってしまうことになる。
消防員の苦労や仕事を、消防員の活動に否定的な眼差しの主人公に描かせつつ、一方で緻密な人間関係と複雑な背景をしっかりと描いた素晴らしい作品。
まず、雄大の口調をそのまま文字にしたような、軽妙な語り口がとても面白い。やる気もやりがいも見出せない雄大を主人公にすることで、一歩引いた視点から消防員を描いたところもとても面白いと思った。
まだこの著者の作品は二作しか読んでないけど、登場人物がやたらといい。みんな、もちろん一癖も二癖もあるけど、基本的にはいいやつで、それでいていい人過ぎない。適度なリアルさを保ちながら(もちろん、守のような、リアリティをはなから無視したような人物もいるけど)、細かい描写で深く描くその人物造型は、なかなかのものだと思う。
ストーリーは、前作よりも単純で、割とミステリ的な要素は薄くなったけど、でもぐいぐいと引っ張る魅力ある人物とスピード感ある語り口で一気に読んでしまった。単純に面白い。
「どうしても生きていて欲しい、と望む人がきっといるんだよ」
この言葉がすっと入ってくる、結構いい話です。是非読んでみてください。

日明恩「鎮火報」



震度0(横山秀夫)

警察小説と呼ばれる作品を読むと、いつも思うことがある。
何が楽しくて、警察という組織で働いているのだろう、と。
こんなことを書くと、使命感に燃え頑張っている警察官や刑事に申し訳なく思うけど、でも正直そう思う。
警察という組織は、あまりに複雑で、しかも地位が絶対的な力を持つ場所だ。組織体系を単純に書けばこうなる。
まず、国家試験Ⅰ種を通って警察に入ったかどうかでまず違う。合格したらキャリア、そうでなければノンキャリアと呼ばれ、両者の差は果てしなく歴然としている。キャリアは出世も早く、トップに立つための教育を受けるが、ノンキャリアは現場や事務などに専念し、ノンキャリアで上がれる階級も上限がある。
ノンキャリアの場合、まず交番勤務から始まり、その時点では巡査である。何度かの試験を受け階級は変わり、それと実績を踏まえて出世する。交番勤務から所轄、都道府県警へと移り、そこからコースによっては署長としてまた所轄に戻ったり、都道府県警内で出世したりもする。
キャリアであれば、一気に警部からスタートし、そこから地方などでキャリア指定の席に座って実績を上げ、それから本庁に戻る、というような形になる。
交番勤務は、まだわかる。地域密着で人の役に立っているという実感も得られるだろう。実績を焦って無理矢理なことをする人もいるかもしれないが、現場の最前線で、小さいながらもやりがいのある仕事、だと思えなくもない。
しかし、刑事になるともはや共感は難しい。事件を解決する、というやりがいはもてるかもしれないけど、僕が小説などで読む限り、大半の刑事はただの使いっ走りだ。聞き込みや見張りなど、一つ一つは大切なことだけれども、どうも人の役に立っているという実感に乏しいだろうと思う。上の人間だけが思考し、下の人間は手足として酷使される。その上、事件が長引けば休めないし、秘密保持のために、家族がいても事件の話はできないし、そもそも家に帰れないし、事件があれば休日でも呼び出され、炎天下の中靴を減らして歩き回り、それでも事件の多くは解決できなくて、頑張っていてもマスコミには叩かれる。僕の受ける刑事の印象はこんなもので、正直よくやってくれているなと感謝も抱くけれども(僕は、マスコミが叩くほど警察には失望していなくて、それはいろいろ問題はあるだろうし、結果として現れていないかもしれないけど、でもできる以上の力で頑張っているような気がしている)、でもそれでも僕には、刑事になろうなんて気にはなれないし、何が楽しくて続けていられるのかわからない。
そして、本作を読んでよりその思いを強くした。
本作は、普通の小説に出てくる刑事よりも、階級で言えば遥かに格上、部長クラスの人間が登場人物として描かれている。
その中には、キャリアもノンキャリアもいるけれども、ほぼ誰もが、出世・保身・野心、そうしたもののために存在している。
僕は常々思う。とにかく偉くなったり金持ちになったり、そんな風にはなりたくないな、と。地位も名誉も有り余る金も、僕はいらない。
その最大の理由は、そうなると、捨てられないものを多く抱えることになるからである。より多くのものに縛られて生きなくてはいけない、と言ってもいい。
贅肉は、一度つくとなかなか落とせないように、地位や名誉や金を手にしてしまうと、それを手放すことは、そう努力してもなかなか難しくなってしまう。自分の意志だけでなく、周囲との様々な関係が絡んでくるからである。そうなると、地位や名誉や金を守るために、多くのことを犠牲にしながら、一方で捨てられない多くのものをどんどんと抱え込むことになる。
権力や力に抗うことは難しい。目の前に見える、あるいは一度手にしてしまったものを、なかなか手放すことはできない。人よりもさらに出世を、という欲までもがどんどんと膨らんでいく。
一旦反応を始めた原子力発電所のようなものかもしれない。完璧に制御しなければ暴走してしまうプルトニウムのように、欲望は留まるところをしらない。
そんな、トップに近いが故に捨てられないものを抱えすぎた男達の、哀れな物語である。
もう一つ。阪神大震災のついて書いておこうと思う。
本作は、阪神大震災の起きた当日から事件が始まっている。
あれからもう10年が経った。
最近日本全国で地震が相次いでいる。昨日だかも新潟の方で地震があったようだ。
その中でも、阪神大震災は強烈な印象を残し続けている。
全てを無に帰すような圧倒的な破壊力を前に、人間は成す術もなかった。失われたものは、形あるモノだけでは決してなく、それだけでない数多くのものを消し去っただろう。
僕は、地震に対してかなり甘い考えをもっている。だから防災の備えなんか何もしていないし、そもそも阪神大震災のような地震は起きないだろうと、その発生を誰もが恐れる東海大地震が起こりうる地域に住んでいながら、そんな風に考えている。
でも、やはり阪神大震災の教訓だけは忘れてはいけない。遠く離れた場所で起きた、実感しにくいものだったけれども、誰もがああなる可能性を秘めている、ということを忘れてはいけないんだな、と思った。
さて、内容に移ろうと思う。
とはいうものの、本作の内容を紹介することはとても難しい。物語の冒頭で、様々な糸が絡み合った塊が提示され、それが一部ではどんどんほぐれながら、一方で別の場所ではどんどんと絡みあっていきながら、物語は進んでいく。その糸一本一本をばらばらにして書くこともできるけど、そうするとネタばれになってしまう。
ということで、本当の始めの、さわりの部分だけを書くに留めようと思う。
まず、主要な登場人物の紹介をしておこう。
椎野勝巳。46歳。N県警本部長でキャリア。いうまでもなく、N県警のトップである。
冬木優一。35歳。N県警警務部長でキャリア。警務課というのは、警察官の不正や犯罪を捜査する課である。また人事も担当する。将来の長官候補の名前に必ず名前の上がる、キャリアの中でもトップクラス。N県警ナンバー2。
堀川公雄。51歳。警備部長で準キャリア。警備部はテロなどからの要人警護や災害対策などを担当する課である。
藤巻昭宣。58歳。刑事部長。ノンキャリアがたどり着ける最高ポストであり、叩き上げの刑事からのし上がった。現場主義が強く、キャリアと対立する。
倉本忠。57歳。生活安全部長。実直で真面目で寡黙、という印象が大半を占める男である。
間宮民男。57歳。交通部長。丸々太った男で、上に媚を売る。
このN県警の幹部6人が繰り広げる物語である。
阪神大震災が発生した朝、そこから700キロ離れたN県でそれは起きた。ある一人の県警幹部がいなくなった。不破という警務課長であり、キャリア二人からの覚えもよかった。不破の妻に連絡を取ると、前日から返ってきていない、という返事だった。
大変なことになった。幹部がその話を聞いたときの感想だ。金と人事を司る警務課の、その課長がいなくなったのだ。発覚すれば、N県警始まって以来の騒ぎになる。それこそ、阪神大震災にも負けない「激震」に襲われるかもしれない…。
蒸発なのか?事件に巻き込まれたのか?誰にも皆目理由がわからない。
そのうちに、実直で真面目だと思われていた不破に、様々な面があることがわかってくる。それは、色んな事件や思惑と絡み合い、保身や出世のためのパワーゲームや情報の隠匿が始まり、幹部の疑心暗鬼がどんどんと広がっていく。
たった一人の幹部の失踪から始まる、幹部達の醜い争い。誰もがこの件を自分の有利に働くように、あるいは不利にならないようにやっきで、誰も不破自身の心配をしていない。
一体不破はどうしていなくなったのか?そして不破の失踪によってN県警はどうばらばらになっていくのか…
そうした話です。
帯にこう書いてあります。
「警察小説はここまで進化した!」
本当に、その通りだと思います。そしてこうも思いました。本作は、横山秀夫にしか書けないだろうな、と。
幹部6人はほぼ全員が醜く、しかし誰もが出世や保身抜きならばいい人間なんだろうけど、とも思います。守るべきものを履き違えてしまった人々の醜悪な面を前面に描き出しています。
本作は幹部達の話ですので、捜査の話などは出てきません。上がってきた情報をどう処理するか。誰もがそれに頭を使っています。
事件を解決するためにできた組織が、逆にその事件解決の邪魔になっている、という構造が、よりくっきりとわかりやすい形で描かれていると思います。
これが警察の真の姿なのか、僕には判断できませんが、そうだとしたらとても悲しく思います。何せ、未曾有の大災害である阪神大震災ですら、彼等の中では優先されない出来事になってしまっているのだから。
警察をよくない風に描いている作品を読むと、きっと頑張っている人もいるはずなのに、と少し悲しい気分になります。その頑張りを踏みにじらないような組織であることを祈るしかありません。
やはり横山秀夫は素晴らしい作品を書きます。ほんの数日話を、濃密に深く描いていて、そこに出てくる人間模様も余すところなく書き込んでいます。もちろん、警察という組織の描かれ方が見事であることも言うまでもありません。
是非とも読んでください。男も女も、皆醜い話ですが、素晴らしい作品です。

横山秀夫「震度0」



愛をください(辻仁成)

生と死、ということについて、一時期とにかく考えた。今考えて見てもその時期は、僕の中でもどん底のどん底で、最低だった。生きていくのにまったく前向きになれず、とにかく、自分が生きていなくてもいい理由、死んでもいい理由を考え続けた。
死ぬことばかり考えていた。自分の中で、どれだけ本気だったのか今では言葉にして言うことは難しいけど、何度も死のうと試みたこともあった。
死、と向き合うというのは、とても辛い。
僕は、望んでというわけでは決してないけど、でも自分で考えて、死というものに対峙していた。死というものの扱いがまったくわからず、乗り越えればいいのか、踏み潰せばいいのか、消してしまえばいいのか、見なければいいのか。色んな選択肢がある、という錯覚の中で僕は本当の答えからずっと逃げ続けていたように思う。
死はそこにあるものなんだ、と。
死に対して僕らがどれだけの行動を取ろうとも無意味で、僕らが何をしても、どんな状態であろうとも、死はそこにある。見えるわけでもなく、そこにあることがわかる。そうした存在なんだろうと思う。
僕は、現実から逃げるために、現実ではないと思い込んでいた死と相対することで、現実逃避を成功させようとした。しかし、死こそまさに現実そのものであり、逃げたと思った場所にまさに現実があったのである。そのことに気付かず、あるいは気付かないふりをして、僕は必死で逃げ続けようとし、死の意味を変えようと奮闘し、結果自らの心を削ることになったのだろうと思う。
まあなんというか、結構大変だった。
いつの間にか、死に絡め取られてしまう人もいる。突然に、何の前触れもなく、そこにあったはずの死が僕らの内側にするりと入り込んで、僕らをすっかり変えてしまう。目で見える形で死が現れるというのは恐怖だ。
今でこそ僕は、生だとか死だとかということについて、うだうだ考えなくなった。そうしたことについて考えることは決して悪いことではないけど、捉われてはいけない。麻薬のように、悪いものだとわかっていても、抜け出せなくなってしまうのが、死という概念なのだから。
さて、生とか死とかの話を書いたところでもう一つ。恋愛小説についてのあれこれ。
僕は、ちょっと前にも書いたけど、とにかく恋愛小説というジャンルが苦手で仕方がない。抽象的に言えば、愛だとか恋だとかってのは、切り取ってつなげ合わせて元の形を維持できるものじゃない、っていうことだと思う。そういったものは、その過程、存在、感情、人間、そうした全てをきっちり組み合わせてもまだ欠損がある、そうした常に存在として不確定なもので、それを、あれこれうまくやって、完璧なものに見せよう、とするようなところもダメなのかもしれない。
それに、男と女で違う、というところも大きいように思う。生だとか死だとかは、環境や条件が違っても、誰にでも同じように訪れる。しかし、愛だとか恋だとかいうものは、どうやったって男と女で違う。男は男の恋愛しか、女は女の恋愛しか経験できないし、だからなんか違うって思うのかもしれない。
とにかくいろいろ理屈をつけて見るけど、僕にはどうしたって恋愛小説はダメすぎて仕方がない。
というわけで本作は、ばっちり恋愛小説である。
まず構成から。本作はなかなか特殊な構成で、最初から最後まで全編手紙でのやり取りである。地の文と会話文に分かれた作品ではなく、手紙を順序良く並べたような作品である。
東京の養護施設で育ち、自殺未遂を繰り返していた高校生の李理香。彼女の元に突然、函館に住むという、まったく知らない男性から手紙が届いた。李理香は戸惑う。養護施設ですら教師から虐待に遭い、もはや人を信じたり愛したりなんてことができないでいた彼女には、見知らぬ、しかも優しそうに自分を心配するような手紙に、どうしても素直になれなかったのである。しかし彼女は、自分でも説明のつかない気持ちの中で返信を書いた。
返ってきた手紙の中で、手紙の相手基次郎は、彼女のいる養護施設の先生から、彼女が自殺未遂を繰り返していること、同じような経験を持つあなたに支えになってもらいたい、と言われたのだ、という経緯を書く。そして、嘘のない、本当のことしか書かないという文通相手にならないか、と言ってきた。
そこから二人の長い長い文通が始まる。二人はお互いの近況を書きあった。お互いに、恋と名前をつけていいのかわからない状況を抱え、それらはより複雑になり、それぞれの人生を深く侵していく。その、雪の中で固まってしまったかのようなお互いの心を溶かすかのように、二人は励ましあい、アドバイスをして、決して会わないと約束した、文通のみの関係を続けていくのだが…
読んでて思った印象は、余りにも澄み切っていて、嘘っぽいな、ということでした。雑音がまったくないラジオを聞いているようなクリアさで二人の関係が描かれ、天井を見上げたらライトが埋め尽くしている撮影現場のセットのような不自然さというか欠落を感じました。
確かに、綺麗な水の中にしか生きることのできない生き物はいるし、綺麗な環境でしか育たない植物もあるでしょう。しかし、人間の愛だの恋だのは、これは僕の持論ですが、綺麗なところでこそ育たないような気がします。少なくとも僕には、それは嘘らしく見えてしまうと思います。
純愛、という言葉が無闇に使われていますが、向こう側が透けてその存在を忘れてしまうような磨き込まれたガラスのような恋愛は、純愛とは呼べないような気がしています。時折雲って、いつも手を掛けて拭いてあげないといけないような、でもそのお陰でいつでもその存在を意識できるような、そんなガラスのような恋愛こそ、純愛ではないだろうか、などと思ってしまいます。
確かに、彼等はそれぞれに苦しい状況を抱えていて、決して幸せだとも豊かだともいえないだろうと思います。しかし、二人の関係だけ見れば、あまりに綺麗過ぎて、綺麗過ぎるが故に夢の中のような印象になっているような気がします。
とにかくやっぱり僕には受け入れられない作品でした。悪い、という印象はあんまりないけど、別にどうということもない作品です。

辻仁成「愛をください」




ぼくは勉強ができない(山田詠美)

ぼくは、全然自慢でもなんでもないけど。勉強ができた。もちろん過去形で、今はきっと中学生レベルの問題でも苦労するだろうけど。
学生時代、と呼ばれる時期は、結構勉強ができた方だと思う。校内テストでもいつも結構上位にいたし、友達に勉強だって教えていたわけで。まあ、その当時は頭おかしいぐらい勉強してたから、まあその結果として当然といえば当然ではあったけど。
と、とりあえず本作のタイトルについてグダグダ書いてみたけど、本作は高校生の話である。
僕は、昔のことが本当に思い出せなくて、小中学校の頃のことはもはやまったく、高校の頃の話もかなりうろ覚え、といった有様です。だから、成人式の時に地元に戻ったけど、高校の同級生の顔と名前がかなり一致しなかった。
時々人と話していて、中学校の担任の先生は~とか、高校の頃のクラスメイトに~とかいう話を聞くと、よくそんなこと覚えてるな、と正直感心する。僕には、人に話せるほどのことなんかまるで覚えていない。せいぜいその頃どんな趣味があって、修学旅行にはどこに行ったか、部活は何をしてたか、といったかなり大まかでアバウトなことしか思い出せない。
やっぱ、あほみたいに勉強ばっかしてたからかもしれない。別に勉強以外に何もしてなかったわけじゃないはずだけど、言葉にできるほど鮮明な記憶はなかったりする。
僕にとって、勉強をして、いい成績を取る、ということが小学校の頃から当たり前だったから(ちなみに言っておくと、僕は両親に勉強しろといわれたことは一度もない。やらされていたわけでも、将来特別に行きたい大学があったわけでもなく、無目的でひたすら勉強していた。今考えれば多少もったいない時間の使い方だったかな、という気もしないではない)、そうじゃない学校生活とかよくわからない。特に過去に対して後悔はないけど、勉強のできない自分だったらどうだっただろうな、とちょっと思った。
さて、本作である。とりあえず僕の感想は、つまんなかったなぁ、というものだ。
先に内容を。
高校生の時田秀美(男)は、父親のいない母子家庭で、おじいちゃんを含めた三人で生活している。母親は出版社に勤めているけど、派手な衣装に派手な化粧をし、女らしさを最大限に出しまくっている。おじいちゃんもおじいちゃんで、年下の女性(といったって50歳60歳ぐらいの女性だけど)を追いかけているような、ちょっと普通じゃない。でも家族の中はいいし、秀美も母親・おじいちゃんともに大好きだ。家での居心地はとてもいい。
でも、学校は好きじゃない。母子家庭だってことで意味不明な偏見をもたれるし、秀美自身の普通の価値観で生活しているとなぜか怒られたり注意されたりすることが多いのだ。僕は間違っているの?みんな変じゃない?
秀美には、ショットバーで働く年上の彼女がいる。学校の女子と違って、繕いがなくて、自然過ぎなくていい。
そんな秀美の、家庭と学校と恋愛の話を描いた短編集。
普段は短編それぞれの内容と感想を書くのだけど、本作で短編ごとに何かを感じたこともないし、そもそもつまんなかったから、今回は割愛。
登場人物はいいと思う。主人公の秀美をはじめとして、秀美の母親とおじいちゃんの描かれ方は特にいい。ステレオタイプ的な教師の描き方だって、まあ悪くない。
普通、登場人物が魅力的なら、多少内容が面白くなくても面白く感じるはずなのに、本作は全然だめだった。
何が言いたいのか正直よくわからない。秀美が考えていることはまあ分かるし僕が考えていることに近いような気がするけど、だから何?っていう感じがずっとして、僕にはわからなかった。
それに、やっぱり恋愛小説っぽいところ的な部分もやっぱりだめなのかもしれない。僕は、もうそれは様々な種類の小説を読んできているつもりだけど、恋愛小説というやつとはとにかく相性が悪くて、全然何がいいのか、何が面白いのかさっぱりわからない。
という感じで、僕は全然お勧めしません。女性向きなのかもしれないけど、よくわかりません。そんな感じです。

山田詠美「ぼくは勉強ができない」



きよしこ(重松清)





ちょっと、まじに何度も泣きそうになった。近くに人がいなければ間違いなく泣いていたと思う。それぐらい、もうぎりぎりで涙を止めるぐらいの必死の努力が必要だった。こんなに素晴らしい作品に出会えて、僕はとても嬉しい。でも、どうやったらこの感動を文字にして伝えることができるか…。いい作品を読んだときのジレンマが今僕を襲っている。
僕は、自分からあまり喋る人間ではない。言いたいことは、もしかしたらどこかに眠っているのかもしれないが、言葉になる前に意識に上らない。それほどまでに主張したい、聞いて欲しいことなんてない。少なくとも今は。
昔から人見知りをする子供だった。誰かと仲良くなるまでに時間が掛かったし、自分から話し掛けられないから、話し掛けてもらえるように努力した。そうやって、人見知りでもなんとか今までやってきた。
そういう風にして、僕は自分のことをあまり喋らないようにして生きてきたし、言いたかったはずの言葉をどこかに飲み込んで、そうやっていくうちに、言いたいこと自体がどんどん少なくなっていったのだろう。
なんとなく、本当に言いたい言葉ほど、僕の口を通らずに言葉になっているような気がする。
今は、メールも手書きでなく文章を出力することも昔より簡単に出来る。言いたいことがあって、でも口に出せなくたって、なんとかしようと思えば、全然なんとかなる。
そう、「きよし」が今の時代に生きていたら、きっともう少し違っていたと思うのに。違う問題を様々に抱えることだろうけど、少なくとも本作のような感じにはなっていないだろうと、なんとなく思う。
吃音、という障害(と呼んでいいのかはよくわからないけど)を知っているだろうか?どもってしまうことで、程度は人それぞれだけど、ある特定の音を発するときにつっかえてしまう。
何か言いたいことがあるけど、絶対につっかえてしまう言葉を少年は飲み込む。言えない言葉を別の言える言葉に置き換える。どもったら、笑われる。言いたいことがどんどん言えずに溜まっていく。
それはきっと、悲しいことだろう。出口を無くしてしまった言葉たちは、彼の中で表現しがたい何かに変わり、そのまま大きくなり、やがては破裂してしまうかもしれない。小さな体にはきっと酷だろう。少年はやがて大人になり、こうして物語を紡ぐ、口ではなく文字で言葉を語る職業になったことは、彼の中の行き場のない言葉たちに出口を与えるだけではなくて、それ以上にきっと何かよかっただろう。
そう、本作は、作家重松清の少年時代の経験が元になっている。いや、たぶんだけど、きっとそうだ。私小説にきっと近い。
この小説の誕生の影には、ある一枚の葉書があるらしい。そこからしてフィクションだということはないと思うが、物語の始めにそのことが書いてある。
重松清の出演している番組を見て彼の元に葉書を送ったある母親がいる。彼女は、重松氏のどもりに気付き、同じくどもってしまう息子のために、何か励ますような手紙を書いてくれないか、という内容だった。
重松氏は、返事を出さなかった。
「でも、ぼくはぼくで、君は君だ。君を励ましたり支えたりするものは、君自身の中にしかない。」理由として、そんな風に書いている。
僕も、その意見には賛成だ。ついさいきん、同じようなことを思った。誰にも頼らずに生きていくことは出来ない。でも、誰かに頼ったその部分は、その人のものにはならない。誰だって、何かを自分のものにするには、自分で何かをするしかないんだ。そんな感じだ。
だけど重松氏は、返事を出す代わりに、雑誌のスペースを確保した。本作「きよしこ」の短編を載せるためだ。
そうして、この物語はできた。だから、本作は、重松氏の私小説にかなり近いもの、のはずだ。
主人公は「きよし」。人称は「少年」。小学一年生から大学入試までを描いている。
父親の都合で引越しばかりしていた少年は、何度も転校した。その度に憂鬱だったのが、最初の自己紹介だ。
どもってしまうから、である。
時期によって違うけど、少年は始めの言葉が「カ行」と「タ行」が苦手だ。だから、「きよし」という名前を言おうとすると、「き」の部分でどもってしまう。どもると笑われる。それが嫌だったけど、仕方ない。
そんな少年の少年時代を、鮮やかに見事にリアルにそしてちょっぴり悲しく描いた、素晴らしい作品である。
短編それぞれの内容については後で書くことにして、とにかく感想めいたものを書こうと思う。
まず、少年の描き方が素晴らしい。きよしはかっこいい。どもってしまうし、言いたいことは言えない寡黙な子供だけど、でもだからって全然ダメじゃない。強いとかふんばってるとか耐えているとか、出来ればそんな言葉は使いたくなくて、そうじゃなくてきよしはかっこいい。転校ばっかで、ろくに友達もできなくて、それがどんなに悲しくて辛くても、泣いていてもどもっていても、とにかくきよしはかっこいい。
少年の世界を描くのも抜群だ。いじめとか学校とか、著者にはかなりの得意分野だけど、その中でも群を抜いていると思う。やっぱり、自分の経験が元になっている、ということもきっとあるだろう。ほんのわずか、数行や時には一文の記述が、色彩を一瞬で変えるように書かれていて、どの話も短くて、作品全体としても短いけど、でもその作品の中に、少年時代のリアルが、少年時代そのものが収められている気がする。
そして、引越しの度に出会う人がまたいい。学校で友達ができないときも、できても変な友達だったということもあるけど、どの時代でも少年は誰かと出会い、その誰かとの話が物語になっている。
「それがほんとうに伝えたいことだったら…伝わるよ、きっと」著者自身が、それをテーマにして本作を書いた、ということがわかる作品である。どの章でも、出会った誰かに、言葉では、ましてや少年のどもってしまう言葉ではなかなか伝わりにくいことを、でも言葉だけじゃない何かで必死に伝えている。出会う誰もがいい人、というわけではないけど、でも誰もが読者に、強烈な印象を残すことは間違いないと思う。
こうやってどんなに言葉を尽くしても、なかなかこの感動は伝わりづらいんだろうな、と思うと、別に吃音だってなくたって、情報以外の何かを伝えることは難しいんだな、とそう思った。
それぞれの内容を書こうと思う。

「きよしこ」
「きよしこの夜」の歌詞を完全に間違って理解していた少年は、一年生の二学期の途中で転校してきた。やっぱり自己紹介でどもって、からかわれるようになった。
「きよしこ」がどこかにきっといる、と少年は思う。彼と話すときだけは、言葉が滑らかにすらすらと出てくる、そんな「きよしこ」という存在を少年は信じた。
嫌な思い出になったクリスマス会の後で、少年は「きよしこ」と出会った…

しょっぱなから泣きそうになってかなり困りました。欲しいものを、どもってしまうせいで言えない少年の、悲しさというかくやしさというか、そうした感情が胸に痛いです。ラストで泣いてしまいそうになりました。

「乗り換え案内」
また転校した少年は、夏休みを利用して「おしゃべりサマーセミナー」という、どもりを強制するプログラムに参加することになった。初めて出会った、同じような子供達。自分はまだ軽いほうなんだと知る。
そこで出会った、かなり重度のどもりの男の子。少年とは違い、ほとんど全ての言葉をどもってしまうから、ほとんど喋らない。そのプログラムにももう三年も通っている。その男の子は少年にいたずらを仕掛けてきてくる。楽しんでいるようでもある。苗字も名前も、どもってしまう音だから呼んであげることのできない、その男の子との夏のお話。

どもることをよくないことだ、という風に捉われたり言われたりして、治さなきゃいけないと思っているのは確かだけど、悪いとか言われるとちょっとよくない。そんな複雑な感じの時期です。ちょっかいを出す男の子も、好きな子をいじめてしまうようなそんな心理だと思うし、なんだか子供って難しいかったんだな、とそんなことを思いました。

「どんぐりココロ」
また引越しをした少年は、初日で失敗してしまった。前に住んでいたところよりも田舎に移り住んだ少年は、クラスメイトにここはどうだと聞かれて、田舎臭い、と答えてしまった。友達は、いない。
友達と野球の練習をすると親に嘘をついて、神社にいく。そこには、昼間からお酒を飲んで酔っ払っているおじさんがいた。バットとグローブを持って、ボールがないまま一人で野球ごっこをしていた少年と、どんぐりなんかの植物に詳しいおじさんは、友達になった。
おじさんと過ごした時間と、やがて疎遠になって分かれてしまうまでの物語。

「それがどないしてん。ボクはどどをくくる子ォで、そんなん、もう…なんちゅうか、ええやんけ」そんな風に言うおじさんが僕は好きです。それまでの少年の世界にはいなかった、どもってもいいと言ってくれる、治そうとかじゃなくて、そこまで含めて一人の人間として認めてくれる、そんなおじさんは、アル中だけど、いいなと思いました。

「北風ぴゅう太」
また転校してきた少年は、卒業式の前日に行う「お別れ会」で行う劇の、お話を作るように先生に言われた。条件はただ一つ。全員にセリフを用意すること。いや、二つ。元気がでる話にすること。
先生は、冗談ばっかりいう明るくて陽気な先生だけど、クラスのみんなが知っている。先生は時々休む。心臓が悪い娘がいるからで、もうすぐ手術を控えている。
少年はお話を考えた。毎年読書感想文で金賞を取ってるんだから当然だ、とそれが理由だった。
そんな、小学校卒業までの物語。

この話でも泣きそうになった。かなりやばかった。いろいろ思ったことはあるけど、やっぱり学校時代っていうのはどれだけいい先生に出会えるかで決まるだろうな、なんてそんなことを思った。

「ゲルマ」
ゲルマとギンショウと少年の物語である。
少年はまた引越しをした。中学二年生の一学期。いきなり「親友にしちゃる」と言われたのが、ゲルマだった。ゲルマは、無神経で鈍感で、人がどう感じているかなんて全然気にしないで、毎日を明るく楽しく生きている、そこまで悪い人間じゃないけど、それなりにうっとうしい、そんな感じの子供だった。
ゲルマの「親友」に、ギンショウというのがいた。今はクラスにいない。万引きをして、施設に送られたのだ。
ギンショウが帰ってくる。めちゃくちゃ怖い兄貴と絶交したゲルマと、帰ってきてより悪くなったギンショウと、ギンショウの親友になるようにゲルマに言われた少年の物語。

ゲルマみたいな人間は、実際に本当にいるからびっくりする。どうしてわかんないかな、という言葉を何度も飲み込んで、もう諦めるしかない。でも、通過点としての学生時代に、ちょっとめんどくさいけどこんな子と出会っていてもよかったかもしれない。ゲルマは、基本的にいい奴だし。

「交差点」
中学に入学する時に引っ越してきて三年。こんなに長く一つの町に住んでいたことのない少年は、転校することのなかった中学時代を野球部で過ごす。今は三年生。レギュラーだ。
大野、という転校生が野球部にいる。野球がうまくて、転校してきたとたんレギュラーになった。それまでサードを守っていたマサは不満を隠せない。一年から野球部にいたのに、三年になって転校生にレギュラーを取られた…
同じく一年から一緒にやってきた仲間と、転校生だった自分を重ねてみてしまう大野との間に立たされて、でも少年は頑張る。大野とは帰る方向が同じだ。いつも曲がるはずの交差点をやり過ごして、もっと話をしてみよう…
野球部での少しギクシャクした関係を描く物語。

大野は自分のことを、ヒーローに倒される怪獣に例えていた。転校生なのにレギュラーを奪って、きっとでもヒーローに倒されちゃう。少年は、大野をかばう。かばうけど、ちょっと複雑。それでも、大野には伝えたいことがある。そんな、友情的な話。

「東京」
高校三年生の少年は、大学受験の時期。共通一次の試験が終わった。
少年は、会場となった大学に通う女子大生と付き合っている。勉強していた図書館で出会った。福祉に興味があるみたいで、少年の言えない言葉を先回りして理解してくれる。
少年は、志望校について、かなり省略して彼女に話した。地元の、彼女と同じ大学。本当は、東京の大学にいってみたい、という思いは、「東京」の「と」がどもりそうで言えなかった。
少年のことを理解してくれる彼女の存在と、はっきり形にはできない東京への憧れの狭間で揺れる少年の最後の物語。

少年の言いたいことを先回りで理解してあげるのはいいけど、でも時には間違ってる。誰かに頼って生きていくことはできるけど、それは自分のものにはならない。どもり癖は一向に治らないまま、教師を目指す少年は揺れる。

とにかく、どれもが素晴らしい作品で、最高です。陳腐な褒め言葉しか思いつけない自分が情けなくなるくらいです。どうぞ、是非読んでみてください。

重松清「きよしこ」




ライオンハート(恩田陸)

記憶とは一体なんだろう、と思う。
僕ら人間は、記憶に頼って生きている、と言っても過言ではない。記憶があるからこそ、時間があり、過去があり、人生があり、人の存在があると言っていい。誤解のないように書いておくと、病気で短期記憶を留めておくことが出来ない人がいて、でもそういう人の存在を、記憶できないから否定するわけではない。僕がいいたいのは、最終的に誰かが誰かの何かの記憶を持っている、ということだ。
タイムトラベルという発想がある。SF的な小説ではよく使われるけれども、その定義を広義にすれば、こういうことだって言えると思う。
20才の青年がいるとする。彼に、自分が80才までの記憶を植え付ける、そんな技術が開発されたとすれば、彼は肉体的には20才の年齢を保ったまま、80年間生きた、という記憶を持つことになる。現実に時間を移動しているわけではないけど、これだって立派にタイムトラベルといえるだろうと思う。
僕は全然見ないし、見ているのだとしても全然覚えていないけど、夢を見る人はいると思う。夢というのは、睡眠中に、脳が情報の整理をしている際の混線が原因で見るのだ、と言われているのだと思う。
でも、記憶自体とても曖昧なもので、恐らく覚え違いや脳の処理ミスによって、実際とは違う記憶が残る、なんてことも珍しくないだろうと思う。そんな記憶を元に夢を見るのだとすれば、どんな夢を見たって確かにおかしくないな、とは思う。
例えば、知っているはずのない光景や人の記憶がある、なんてこと、経験がありますか?
ちょっと、自分でも書いていることがよくわからなくなってきたので、ここらで内容に入ります。
本作は、極めて特殊な奇妙な話で、とても説明が難しいのだけれども、できるだけ頑張ろうと思います。
あっけなく、簡単に言ってしまえば、時や空間を超えて、決して結ばれることのない男と女が、何度も出会う、という話です。まあ意味不明でしょう。
エドワードという、大学の教授の失踪から始まる物語は、とたんに奇妙な方向へと進んでいきます。
様々な時代、様々な場所での出来事が描かれます。17世紀のロンドン、19世紀のシェルプール、20世紀のバハマ・フロリダ…それぞれの場所では、人生の中で一瞬だけ出会うことのできる、初めて会うのだけれども相手のことを間違いなく知っていて、会う度に、ああ、あなたに会えてよかった、会った瞬間に世界が金色に弾けるような喜びを覚える女性を男が待っている。あるいは待っていることにすら気付いてない場合もあるのだけれども。
そんな、時の狭間の中で何度も出会い別れを繰り返す男女の物語。
と、自分で書いていて、意味不明です。本作の内容を紹介するのはほぼ不可能なような気がします。
結論から言えば、僕にはよくわからない話でした。確かに異色ではあるけれども、ラブストーリーであるという点がまずダメだったのかもしれないけど、それ以上に、状況や話の流れについていくことものめりこむこともまったくできませんでした。
恩田陸の作品は、当たり外れが激しいし、そもそも僕とあまり相性はよくないのですが、その中でも最もよくない作品だったような気がします。
それぞれの舞台に応じて章が分かれているのだけれども、「春」という章はそれなりによかったかなという気がします。
始めのうちこそなんとか話についていけたけど、どんどんついていけなくなっていきました。難しいわけではないのだけれども、どうも世界観が理解できません。
僕の中では、まったくお勧めではない作品です。

恩田陸「ライオンハート」


ライオンハート文庫

ライオンハート文庫

真夜中の五分前 side-A side-B(本多孝好)

自分のことが嫌いだ、という感覚は、いつまで経ってもなくならないし、むしろ、時と共に強くなっている気がする。
自分のことが好きだ、と言える人や、口に出さなくてもそう見える人がいる。単純に羨ましいと思う。どうしてそんな風に思えるのか、僕には全然わからない。
僕の場合は、こう考えてしまう。もしも、僕が今の僕ではなく、今の僕が別の僕として僕の前に現れたとしたら、きっと僕はその僕を好きにはならないだろうな、とそういう感覚。自分と同じ人間がもう一人いたとしたら、絶対にそいつのことを嫌いになるだろうな、とそういう感覚。
あまりいいものではないけど、かなり長いこと身について来た考え方で、もう外すことはできない。なかなかに不便だ。
自分って一体なんだろう、と思うようなこともある。
誰かにとっての自分、というのはそれなりに設定できる。親にとっての息子、教師にとっての生徒、上司に取っての部下。そうした、関係性の中でなら、僕は僕というものをそれなりに規定できる。
でも、それは寧ろ、関係性を抜きに個人を語ることはできないことを示しているのだろうとも思う。
誰かにとっての僕ではなく、僕にとっての僕でもなく、そうした相対的な対象を必要としない、絶対とした個人としての僕、というのは、どこにあるのだろうか?それを掴み取るために生きている、と誰かはいいそうだけれども、どんなに時間を掛けて何かを溜め込んだり排除していっても、個人は社会を抜け出せないだろう、と思う。
自分の存在の不確かさや不明確さを、時として感じる。
僕は、ある名前を保有する一個人だけど、それは記号でしかない。名前のために僕はいるわけではなく、そこに実体はない。じゃあ僕の実体はどこにあるのか、と言われれば、僕にはわからない。
今ほど、個人が曖昧になったことはきっと過去にはなかっただろう。大昔、江戸時代とかにはきっと、ある町の住人は、それぞれ名前で識別される個人であっただろうし、名前の下に実体があったはずだ。しかし今は、隣に住んでいる人は、例え表札などで名前を知っていても、あくまでそれはただの隣の人、でしかないし、急速に広まったネットの世界では、名前と個人が切り離されているのはもはや当然である。
僕らは、時間の流れや特に必要でもない様々な進歩のお陰で、名前と実体が切り離されてしまった存在に違いない。
なんというか、僕が僕であることが、難しいし理解しづらい。我思う、ゆえに我あり、とはいうけど、きっと、思ったところにすら、自分は存在していないことだろう。
さて、遅筆で知られる著者の、待望の新作である。
僕は、そこまで大手ではない広告代理店に勤めるサラリーマン。転属願いが最も多く出され、配属されると同情されるような部署に配属された。その唯一にして最たる原因は、その部署の上司である小金井という女性にあって、誰もが音を上げるような上司であった。しかし、相性がいいのか無頓着なのか、僕はその上司と、なんだかんだとうまくやっている。
会社絡みで何人かの女性と付き合ってきたけど、今の恋愛もどうも雲行きが怪しい。まあそれでもいいか、と思っている。基本的に僕は、よく言えばクールだし、悪く言えば残酷な人間だ。そのことを彼自身が知ったのは、大学時代に付き合っていて、付き合っている最中に交通事故で死んでしまった彼女の、その死に際してのことだったかもしれない。彼女は、部屋の時計を五分だけ遅らせるようにしていて、その習慣が未だに僕にも残っている。
そこまで順調とはいえないけど困るほどでもない仕事や、それよりは少しだけ面倒な会社での立場、あるいは付き合っていた女性との別れなどが、静かに、風で僅かに波打つ水面のように過ぎていき、そんな中で僕は、市営プールで、一卵性双生児の片割れのかすみと出会う。
かすみは、一卵性双生児であるが故の、いささか複雑な悩みを抱えていた。まったく同じ遺伝子を持つ存在のことを思い、自分の存在の不確かさを確かめる。かすみの心に深く空いた穴を閉じるように僕は彼女に接し、その中で彼女と親しくなっていく…
本作は、side-A side-Bと二編に分かれていて、上記の内容はside-Aのものです。side-Bは、side-Aから二年の月日が経ったところから始まる物語になります。まあ正直に言うと、何故本作が二編に分かれているのか、よくわからなかったのですが。
本多孝好の作品の特徴は、先ほども書いたように、よく言えばクール、悪く言えば冷酷な登場人物達の描き方にあります。特に主人公は、魔法を掛けられたかのように、心が凍っているように思えます。現実にいたら、かなりの確率でまともには生きていけなさそうな、そんな社会に対しての順応性の低い人物を、それでも現実的に描けているところがいいと思います。
また、そうした登場人物を通しての、著者のものの見方(登場人物へのものの見せ方)がかなり変わっているように思います。人とは45度くらい傾いたところから物事を眺めているような、そんな視点が好きだったりします。
僕の友達にも、この人はいつだって変なところから物事を見ているな、という人がいて、羨ましく思っています。もちろん、それを言葉に換言できることがさらに素晴らしいところですけど。
双子というモチーフが出てきます。記憶力には自信はありませんが、僕は今まで双子という存在には会ったことがないと思います。だから、そもそも双子というものがわかりませんが、確かにアイデンティティについては考えさせられるのだろうな、と思います。名前にまつわるエピソードは、笑い飛ばそうと思えばできますが、かなり悲しくもあります。
基本的に恋愛小説は苦手ですが、本作はそれなりにいいなと思いました。恋愛だけに焦点が当てられているわけではないし、主人公の男が僕に似ているな、と思えたからでもあるでしょう。しかしそれ以上に、自分や個人や存在そのものについて激しく問い掛けてくる作品で、そこに惹かれたのだろうと思います。
最後に。正直、side-Bで僕が勤めることになる会社はかなりいいな、と。特にそこのバイトが羨ましいな、と。そんな感じです。
特別お勧めというわけでもないけど、読んでみてください。

本多孝好「真夜中の五分前」





臨場(横山秀夫)

横山秀夫は、やっぱりいいミステリーを書く。
横山秀夫のミステリーは、他の作家が書くミステリーとはかなり異なっている、という印象を受けます。それを、「ホームズ」「ワトソン」的な典型的なミステリーと比較して考えてみようかと思います。
ミステリーの王道中の王道と言えば、やはり「ホームズ」「ワトソン」的な、つまり探偵と記述者(視点人物)という関係のものだろう。これまでも、様々な作家が様々な「ホームズ」と「ワトソン」を生み出してきた。現在のミステリー隆盛も、綾辻行人の「ホームズ」「ワトソン」的な王道作に端を発したのは間違いないことである。
そうした作品の特長は、「探偵」と「事件」との関係を描くことだ。当たり前のことだけど、探偵は事件を解くために存在する。探偵がいるから事件が起こるのだ、というようなジレンマ的な部分や時期というのもあったみたいだけど、とにかく探偵は事件を解くために存在するし、事件は探偵に解かれるために存在する。
横山秀夫の作品は、こういったものとは違う。
「ホームズ」のようなまさしく探偵、といったような存在は出てこないけど、探偵役は出てくる。そして、もちろん事件も存在する。ミステリーの王道を形作る要素は存在しているのだけれども、それぞれの役割が違う。
横山秀夫の作品は、「探偵役」と「その周囲の誰か」の関係を描く。「探偵役」は、「事件」を解くためには存在せず、「事件」はただ「探偵役」に解かれるだけにあるわけではない。「探偵役」と「その周囲の誰か」の間にあったものがたまたま「事件」であったというだけであって、「探偵役」と「事件」との関わりを描くものではない。
こういう形のミステリーは、なかなかなかったように思う。もちろん、ミステリーの幅というのはかなり広がってきていると思う。ただ、読者にも同じように手掛かりが与えられ、その上で探偵役が事件を解く、という形のミステリーで、かつ横山秀夫のようなスタイルというのは、読んだことがないような気がする。
「事件」を間に挟んで描かれる人間関係は、緊張感に包まれながらもどこか暖かい。そんな極上の短編集である。
横山秀夫のスタイルについてもう少しだけ書こうと思う。
横山秀夫は、僕らが普通一般に一括りにまとめる「警察」という組織を主に描いている。しかし、他の作家はその「警察」という組織を、「刑事」や「公安」といった描くのに対し、横山秀夫はまったく別のところから切り取ってみせる。事務的な仕事をする人であったり、女性似顔絵捜査官だったり、本作では鑑識の検視官だ。もちろん刑事を描いた作品もある。そうした「警察」という組織に対する知識や幅の広さが、横山秀夫という作家の魅力であると思う。
普段ほとんど知ることのない「警察」という組織のなかの、さらに一般にはほぼ知られることのない部分を描く横山秀夫の作品は、ただそれだけで面白いし、もちろんそれだけでなく面白い。
さて、内容というか本作の設定を書こうと思う。
まず「探偵役」と言えるのが、検視官である倉石だ。タイトルとなっている「臨場」は、検視官が現場に臨み、初動捜査をすることを指すようである。
倉石は、L県警内でもかなり異端の存在である。「終身検視官」「クライシス・クライシ」などとも呼ばれる、検視のプロだ。他の誰もが持ち得ないような「目」で事件現場と死体を「視」て、自殺・事故と思われていたものを殺人に、殺人と思われていたものを自殺・事故と覆してきた。上からは疎まれているが、下には慕っているものが多く、一部には倉石を「校長」と呼ぶものもいるくらいである。
槍のように細い体を持ち、やくざのような見た目や口調。上司にも態度や物言いを変えず、我を貫く姿勢はなかなかのものがある。同じポストには5年以上就けない、という内規を軽く通り越して既に9年近く検視官としてやっている。倉石の見立ては百発百中間違いがない。
そんなある種伝説的な男を中心に据え、その周囲との人間関係や、倉石が拾い上げる死者の最後の言葉を描く、ミステリーである。
ほんとうにどの話も見事としかいいようがなくて、まさに短編作家の本領発揮という作品です。
それでは、それぞれの作品の紹介をしようと思います。

「赤い名刺」
一ノ瀬は倉石の下で検視の勉強をする調査官心得。そんな彼の元に、臨場要請の一報が。ほぼ自殺で決まりの若い女性の事案。倉石の手を煩わせることもない。すぐにかたがつくだろうと思っていたが、倉石も行くという。
ファックスで届いた被害者の名前を見て一ノ瀬は氷ついた。
ゆかり。家庭持ちの身で付き合っていた女性。別れたとはいえ、自殺でないとしたならば、自分が疑われる…そしてもちろん、倉石が見立てを誤るわけがない…
複雑な想いを胸に臨場する一ノ瀬。彼は検視を始めるけれど…

細かいところまでよく考えられていて、短い作品ながら見事です。

「眼前の密室」
相澤靖之は新聞記者。同僚の妻を借りて、ラブホテルの裏で、老婆殺しを担当している大信田警部の帰還を待つ。
待つ間、同僚の妻の智子は、老婆殺しについての自分の考えを披露する。なるほど、新聞屋の誰もが考えていなかったもので、なるほど同僚が何度も賞を取っているのも、この妻あってのことか、と思う。
警部宅には何度かの他者新聞社の訪問があった。そして、警部が帰還した。
智子の説をぶつけた。とにかく家に上がるようにと連れ添って部屋に向かうが、そこには警部の奥さんの無残な死体が…。
相澤達が張り込んでいたために密室になったその殺人事件の真相は…。

本作にはほとんど倉石はでてこないけど、でもなかなかの作品です。

「鉢植えの女」
一ノ瀬は、心中自殺に見える現場に臨場した。一ノ瀬は警察庁への出向を打診され、この現場が「倉石学校」の卒業試験のつもりで挑んだ。検視の結果も最初の印象通り。しかし、倉石はやり直しを命じた。
別の現場に倉石は呼ばれる。そこでは、倉石を嫌っている上司の一人で、鑑識で検視の経験もある高嶋捜査一課長が既にいた。臨場の順序が逆になったこのチャンスを生かして、高嶋は倉石を試そうと考えている。所轄の刑事課員までもが殺しと判断した、しかし高嶋の見立てでは自殺であるこの現場で。
倉石の見立ては?そして一ノ瀬の卒業試験は?

本作は素晴らしい出来です。特に、倉石の見立ての見事さには舌を巻かれます。現場と死体という、止まってしまったものを見て、過去の情景を鮮やかに描き出す、「終身検視官」の本領発揮という作品です。

「餞(はなむけ)」
小松崎周一は、3月31日を持って退官を迎える、刑事一筋から刑事部の最高ポストである刑事部長にのし上がった、たたき上げの刑事である。引越しのために休暇をもらった小松崎は、最後の一日を賀状の整理に充てようと思っていた。退官後に挨拶状を送付しなければいけないために住所録を作る目的もあるが、他にも目的があった。
気になる賀状がある。去年で途絶えた、「霧山郡」とだけ書かれた、送り主不明の葉書。
一体誰なのだろうか?
そんな思いを破るかのように、事件の一報。解決せねば、未決事案を抱えたままの退官部長と、後々まで語り継がれるだろうが、あっさりと倉石が解決した。
やはり倉石か…。
この辺で死んだ人間は、完全に自然死でなければ、かならずこの倉石が視る。霧山郡で死んだ、この葉書の主も知っているかもしれない。そう思い、倉石に話をして見ると…。

無骨で、決して人当たりのいいとは言えない倉石の優しさの一端が垣間見えるいい作品です。

「声」
大学に公演にきた講師に憧れた梨緒。内容についてレポートを送ったら、正月にうちにこないかと誘われた。嬉しくて喜んでいったのに…
それからかなりの年月を経て。梨緒は短大を中退し四年生の大学に入り直し、働きながら司法試験の勉強をし、28才で合格し、三ヶ月前に、実務修習生としてL地検にきていた。裁判所と弁護士事務所の研修は終えていたから、地検であと一ヶ月研修すれば法曹界の仲間入りになるはずだったその梨緒が自殺したとの訃報を、三沢は聞いた。運転手に浮島事務官を配して現場に向かう。
重い沈黙。二人は、梨緒に惚れていた。
男二人による、醜い責任の擦り付け合い。自殺の理由の推測。後悔。そうしたものを一緒に運びながら、車は現場へとついた。
そこは自殺現場には見えなかった。ただそこには倉石がいて、倉石が自殺と見立てた…

ちょっとこの話は、よくわからなかったです。

「真夜中の調書」
佐倉は事件を解決し、刑事の集うスナック「猫」へ足を向けた。事件というのは教諭殺し。団地の一室で高校教諭が殺された。犯人は、元ホテルマンの男で、現場から逃走するのを目撃され、袋小路に潜んでいるのを見つかって、すぐに逮捕された。
が、黙秘を通し続けていた。しかし現場から出たDNAが一致し、その事実を告げると、落ちた。落としたのが佐倉で、スナックのママもそんな佐倉を褒めた。
DNA鑑定で世話になった科捜研の北沢を呼んで打ち上げのつもりが、その北沢が来ない。やっと来たと思ったら、妙なことをいう。あの倉石が、DNAをちゃんとやれ、と言ってきたのだという。つまり、元ホテルマンが犯人だとは思っていない、ということだ。倉石以外の人間の言葉なら信じなかったが、佐倉は倉石に話を聞こうと探し回った。倉石がたどり着いた結論とは…

これも見事としかいいようがありません。自分の見立てに絶対の自信がある倉石だからこその行動力だし、傲慢さだろうと思いました。真相は、なかなか悲しいものです。

「黒星」
小坂留美はL県警の婦警。かつて同僚の婦警3人で、同じ一人の機動隊員を取り合ったその一人、元婦警が、排ガスを車に引き込んで自殺した。
間違いなく自殺だった。それでも倉石はこういった。
他殺だ。聞き込みに100人出せ。
誰もが自殺だとわかっていて、それでも捜査を止めなかった。倉石は報告を上げさせ続けた。ようやく捜査の打ち切りを伝え、9年間の検視官人生で初の黒星という形になってまで、何故倉石は自殺を他殺だといい、捜査を続けさせたのか…

いい話です。倉石が、ただクライシスなだけの存在ではないことがよくわかる、深い作品です。この短編の終わり方が結構好きです。

「十七年蝉」
アメリカの話で、蝉は17年に一度大量発生するらしい…
検視官を退き、署長に納まれとの打診を突っぱねる時に倉石はこう言った。上司の高嶋には意味がわからなかった。
永嶋は、時期外れの移動を命じられた。特に「畑」、つまり専門があるわけでもなかった永嶋は、なぜか倉石の下で、調査官心得になることに。倉石の運転手を勤めながら、検視について学ぶのだ。それこそ数多くの死体を目にして永嶋は疲れ切っていた。
そんな時、公園で銃殺死体が発見された。倉石は珍しく感情的になり、永嶋にも意味不明な命令をする。十七年蝉の意味がようやく伝わった高嶋にも妄想だと言われた、倉石の言う「十七年蝉」とは…。

この作品も実はよくわからなかったけど、でも倉石の執念が伝わる作品でした。

とにかく素晴らしい作品集です。是非本作も、そして本作以外の横山秀夫作品も、是非とも読んでください。

横山秀夫「臨場」



スローグッドバイ(石田衣良)

小説にはいろんな分類の仕方があるとは思うけど、かなりおおまかに、僕は小説には二種類あると思う。
一つは、行動や視覚情報などを中心とした、言わば映像的な作品。映像では、ナレーションなどで登場人物の気持ちや考えが表れることはあるけど、基本的には、目で見て伝わるものに主眼を置いているし、小説の中にも、そうした映像的な作品がある。
もう一つは、それとはまったく逆で、登場人物(大抵は主人公の一人称であることが多いけど)が何を考えてどう感じているのかを中心とした作品。思考をそのまま文字に落とし込んだような作品で、何的とは言えないけど、そうした作品がある。
僕は大別して、小説にはこの二種類があるだろうと思っている。
どちらが好きかと言われたら、断然後者だ。例えば僕には、これはこれこれのブランドで、どんな香水をつけて、家具はどうで、建物はこれこれで、なんていうのがとても苦手だ。そういったことが文字で書かれていても、全然イメージできない。基本的にそうしたことにまったく興味がないし、いわゆる「外観」だとか「外見」の描写では、何かを判断したり思い起こしたりなんてことができない。それに、そうした視覚的な情報については、どう考えても映像の方がまさっているのだし、わざわざ文字でどうこうしなければいけないことでもないように、僕は思う。
一方で、思考中心の作品は、まずそのままに映像にはできない。思考を視覚的に見せる方法がないからだ。そういう、映像にできない、という点でも好きだし、それ以上にやっぱり、その物語の中にいる人が何を考えているのか、それをとにかく知りたくて本を読んでいると言っても過言ではないと思う。
さて、なんでこんなことを書いたかといえば、本作ががちがちの映像的な作品だからだ。つまり、僕が苦手とする種類の作品である。
本作は短編集で、池袋~の連作短編集を除けば、著者初の短編集らしい。恋愛をモチーフにした作品で、文庫担当の僕から見てもかなり売れている。
でも僕にはどうにも馴染めなかった。やっぱり、どれそれのブランドがどうで、みたいなことが書いてあるし、登場人物が皆クールで、別にクールな人は嫌いじゃないけど、小説に落とし込むと、しかも三人称的に描かれると、何を考えているのかがなかなか表に出てこない。きっと恋愛小説というものは、そういう「文字にならない思考や感情」を文脈や行間から読み取るような作品なんだろうけど、というかだからこそきっと、僕は恋愛小説が苦手なのかもしれない。
とりあえず内容を書いてみます。

「泣かない」
新しい彼女が出来たから別れよう、というプレーボーイと、合鍵を返そうとするその別れを告げられた元彼女と双方との友人の男。三人での待ち合わせに来なかったプレーボーイの家に二人は合鍵で入ることに…。

「十五分」
性欲のとにかく強かった彼女とそんな彼女と出会った男の、セックスを追及したひと夏の物語。

「You look good to me」
「わたしは醜いから」が口癖の女性。「アヒルの子」というハンドルネームの彼女とネットの掲示板で知り合った男。その掲示板の皆と、オフ会が計画され…。

「フリフリ」
恋人のいない男女に友人を紹介する善意の塊のようなカップルの犠牲に甘んじていた男女。そのカップルからの紹介を食い止めるために、その男女は付き合っているフリをし始めた。そんな二人の話。

これは結構よかったかも。

「真珠のコップ」
気まぐれに呼んでみたコールガールと、毎週土曜に客として会い、それから食事をするような仲になった。二人にとってもなかなかいい距離感であった関係は次第に…。

「夢のキャッチャー」
シナリオライターを目指す彼女と同棲している男。プロポーズも、何か結果が出るまでは、と断られる。どんどんと高みに行ってしまう彼女の、せめて安全ネットでいようと思う、複雑な男の心境。

「ローマンホリデイ」
「わたしと『ローマの休日』をしませんか?」という掲示板の書き込みに返信すると、返事が返ってきた。会うことになったのだけど…。

これも結構好きかな。

「ハートレス」
同棲しているのに三ヶ月もセックスレスな女性。確かに彼の仕事は忙しいけど…。なんとかして彼とセックスしたいな、と奮闘する女性の話。

「線のよろこび」
才能のある人にしか惹かれない女性が、駅の壁面に直に書かれた広告イラストを見て興味を惹かれる。アポをとって、パーティーにも呼んで…。

「スローグッドバイ」
ちょっと前まで同棲してた彼女と別れることになった。今日は学生時代に流行った「さよならデート」の日。思い出の場所でいつものように過ごす二人…。

恋愛小説についてはほんとうにわからないけど、もしかしたらいい人にはいい作品なのかもです。僕にはわかりませんが、売れているので読んでみてもいいかもしれません。

石田衣良「スローグッドバイ」


阿修羅ガール(舞城王太郎)

かなり大げさに聞こえるかもしれないけど、僕はこう言いたい。
舞城王太郎は、第二の村上春樹かもしれない、と。
基本的に僕の認識では、小説というのはストーリーを語るもの、だと思っている。ミステリーから読書に入っていったし、今は様々な種類の作品を読んでいるけれど、やはりストーリー重視で本を読んでいる。登場人物が魅力的だったり、舞台設定が斬新だったり、そういう楽しみ方もあるけれども、それだけに特化して見事な作品というのはなかなかないと思う。
ただ、作家の中には時々、世界を語る人がいる。
世界を語る、というのは別に、僕らのいるこの世界とは別の世界を創造する、とかいうようなSF的な発想でも、あるいはこの世界がどう成り立っているのかを説明するようなものでもなく、その作家にしか見えていない世界を、僕らも見ようと思えば見れるし、触れようと思えば触れられるのだけど、でもなかなか見ることのできない「世界」といったものを語る、ということだ。つまり、創られた世界ということではなく、今あるこの世界を、どこから見るかに特化した作品、とでも言えばいいだろうか。
そういった作品は、説明するのは難しいけど、他の作品とはまるで違う。普通の作家の作品は、真っ白なキャンバスの上に、まず下地の色は何にするか、背景には何を描き、主題を何にするか、とそういうことを考えながら絵を描くようなものだろうと思う。つまり、キャンバスという世界の上で物語を描くということだ。
しかし、世界を語る作家の作品は、何もない空間に突然色彩が浮かび、それが様々に形を変えながら次第にまとまり、やがて一つの絵にまとまっていく。それは、真四角なキャンバスとは違い、絵の範囲は複雑な立体のように広がっている。つまり、物語を描くことで世界を規定するということだ。
今までいろんな作品を読んできたけど、やっぱり書きたい物語を書くためにキャンバスの下地を決めているような、つまり物語に都合のいい舞台を設定しているだけで、世界そのものを語るような作品はほとんどなくて、村上春樹ぐらいだと思う。村上春樹の作品は、その世界を語るという性質にまだ僕が気付く前に読み始めたので、その読み始めの頃は全然よくわからない作品だったけれど、今では結構受け入れられてきている。
そして、きっと村上春樹を読んでいたからこそ、舞城王太郎の作品を受け入れられているのではないか、と思うぐらい、僕の中でこの二作家は共通項がある。文体も物語もまったく似ていないのに、その根本にある核というか性質というか、そうしたものが酷似しているような気がする。
きっとこれからも、今までの作家にはない作品を書いてくれるだろうし、その過程で、村上春樹並に評価されることは間違いない、と僕は思っています。
さて本作ですが、一体内容をどう書けばいいのか、途方に暮れているところです。
アイコは金田陽治のことがメチャクチャ好きで好きで部屋に連れ込んでやっちゃいたいぐらいなんだけど、何でか佐野とかいう、ただ同じクラスの人というだけの友達でもない奴と、好きでもないのにやってしまった。それもこれも、佐野はチビチンででもテクは最高だとかなんとかって噂が悪いんだ…と人のせいにしようとしても激ヘコミ。とにかく佐野をホテルに置き去りにして部屋に戻る。
翌日。休もうかとも思っていた学校に行ってみると、突然友達に呼び出し。あれ、アタシ今からトイレでシメられちゃうのなんでどうしてわかんない!とにかくよくわかんないうちに一人を血だらけにして理由を問い詰めて、いつのまにか陽治が助けにきてくれて、でもぞこでびっくりなことを聞いちゃう。佐野が失踪?殺された?指を送りつけられた?誘拐?何それわけわかんない。
んで佐野でも探してやろうか本当はそれにかこつけて陽治とやりたいだけだけどでもまあ考えてみようと思うんだけど、街はなんだかカオスのオンパレードで、グルグル魔人は暴れているし子供達はアルマゲドンを始めて危険だし、ってあれアタシなんだか変なとこにいないかしらん?
アイコが、現実の世界で恋だの魔人だのアルマゲドンだのに巻き込まれ、魔界でもグッチだのきもいデブだの妖しい森だのに囲まれながら、自分や周りのことを見つめたり突き放したりしながら、さて一体何を見つけたのかしら…
というような話です。まあきっと意味不明でしょうけど。
舞城王太郎に見えている世界は、なんだかどこまでも比喩的で、でも見えないものが繋がっているということがわかります。なんか説明が難しいけど、僕らに見えている世界や、他の作家が描く世界が、なんだか綺麗過ぎて見えてしまうような、実際はきっとこんなに汚くて大変ででも救いがまったくないわけでもない世界なのに、きっと僕らは違うものを見させられているか、あるいは幻覚を見ているのだろう、とそんな風に感じます。
舞城王太郎と言えば、あの圧巻の文体ですが、今回はその点はかなり抑えられている感じがします。だからと言って物足りないこともないし、悪くなったという印象もりません。前までの作品は、かなり暴力的残虐的なものが多くて、そういうものにはあの文体は完全にマッチしていたけど、今回の作品はそこまで暴力色が強いわけでもなくて、寧ろ恋愛的な話のような気がするから、この文体のセレクトというか制限というか、そうした点はいいなと思います。
本作は、三島由紀夫賞受賞作品です。本作が賞を受賞したということが、文学界の懐の広さを思わせて僕としては嬉しいです。いい作品だけれども、ちゃんとした評価は受けられないような印象を読んで受けたので、こういう作品が評価される土台があることがわかってよかったです。
これからも僕の中では注目の作家です。是非読んでみてください。でも、好き嫌いがはっきりわかれそうな作品ですが。

舞城王太郎「阿修羅ガール」



定年ゴジラ(重松清)

しかし重松清の作品を読むといつも思う。
いい作品だよな、って。
なんの掛け値もなくそう思える自分がいて、なんだか嬉しい。
老後、という言葉の持つ響きは、やっぱりあんまり好きじゃない。
定年、という言葉のとげとげしさも、余生、という言葉のよそよそしさも、どうにも心地いいものではない。少なくとも今は。
なんといったって、今の僕には、そんな言葉で表されるような時代を、全然まったく想像できないのだから。
今の僕は、まったくサラリーマンじゃなくて、まあただのフリーターなわけで、定年というものはそもそもないし、もし天文学的な確率で作家になれたとしても、それは変わらない。
それでも、このまま何事もなく生きていれば、やがて老後はやってくるし、余生を過ごさなければいけなくなるときが、それがどんな状況であれ、やってくることだろう。今はその足音が小さすぎて、近づいていることに気付けていないだけだ。ゴジラのように、巨大な足音を立てて近づいてきてくれれば、まだ覚悟もできるだろうに…なんて。
僕は、まだ、なんて言葉をつけても全然違和感のない年齢だ。22歳。人生80年としても(最も僕はそんなに長く生きているつもりなんてないんだけど)、まだ4分の1しか過ごしていない。
親だって、よくは知らないけど、まだ老後と呼ばれるような世代じゃない。不肖な息子で、親の年齢すら満足に言えないけど、それでも、まだ定年までには猶予があったはずだ。
おじいちゃんやおばあちゃんの姿は、そう多くないにしても目にしてきた。まだ両親のその両親4人とも健在である。最近はめっきり顔を出さなくなったけど、やっぱちょっとぐらい顔を出したほうがいいのかな、なんて珍しくそんな殊勝なことを考えてもみた。
家族っていうのは、やっぱり難しい。
きっと恐らく大多数の人が、望んで家族をもうけようとするのだろうけど、でも自分の思い通りに家庭や人生が進むことなんか、やっぱない。
僕も、両親にはかなり迷惑を掛けている。それは、ちゃんと輪郭をもって実感できていないかもしれないけど、でもそう思うように心がけようとはしているつもりである。でも、だからといって、今からいい関係をもう一度、なんてそんなことは無理だ。近い存在だからこそ、ちょっとしたことで物凄く遠くまで離れることが出来てしまう。
もし僕に、将来を添い遂げてもいいと思える女性が現れたりでもしたら。
目に入れても痛くないと思えてしまうような子供をもうけたら。
守るべき家族の存在が日常になるような日がきたら。
その時僕は、ちゃんと夫であり父親でありそして僕という個人を、ちゃんとうまくこなすことなどできるのだろうか?そんな、ちょっと口に出すのも恥ずかしいような理由もあって、もちろんそれだけじゃないけど、僕は結婚なんかしたくないな、と思う。
でも、本作を読んで、老後に一人きりってのも、それはそれで怖いな、なんて…なんてね。
序文が長いけどもう一つ。
後でも書くけど、重松清の作品を読むとこうも思う。
街ってやっぱ、生き物なんだな、って。
山崎さんは、長年勤め上げた丸の内銀行を定年退職した。第二の人生を…と考えていた山崎さんだけども、さーて、何しよう…。
マイホームを夢見て、多額のローンを組んで買った一軒屋。分譲のニュータウンで、勤務地の新宿まで電車で往復4時間。娯楽も飲み屋もほとんどないような、まさに住宅地。毎日足をすり減らし、クタクタになって帰るような生活を続けてきた山崎さんは、娘二人の子育てにもそんなに関わらず、これといった趣味もないまま、二人も娘が出て行き、妻と二人だけになった家で、なんだか退屈な毎日を過ごすしかなかった。
日課らしい日課は散歩。そうして、散歩仲間ができた。
定年先輩の町内会長さん、単身赴任ばかりで息子との会話の代わりに各地の方言を身につけてきたノムさん、そしてそのニュータウンの開発に携わったフーさん。別に決まって待ち合わせをするわけでもなく、会えば会ったで一緒に散歩する。たまに飲んでみたりする。なんだか、余生を過ごすのに、いい感じかもしれない。
くぬぎ台という名前のニュータウンを舞台にして、山崎さんとその散歩仲間、また山崎さんの奥さんや娘家族なんかの日常が描かれる。散歩仲間達の定年後の生活の不安や活力などを、ニュータウンの抱える様々な問題を、子供だと思っていた娘が大人になっていく様子を、今までちゃんと過ごすことのなかった夫婦二人の時間を、重松清らしい、細かい部分まで配慮の行き届いた細やかな文章で描かれる。誰もが行き着く「老い」という現実から逃げることなく、それでも悲観するのでもなく、最後は前向きにちゃんと生きていこうとする、オヤジを超えた定年ゴジラ他達の物語である。
重松清の作品は、やっぱり人がいい。細かい部分まで描きこまれた人物は、本当に、すぐそこのニュータウンに行ったら会えるのではないか、と思えるほどの現実感がある。
リアルさだけでなく、人の良さを描き出すのもうまい。誰もがいろんなものを抱え、抱えきれないものを誰かに話したりすることで溶かそうとしたり、それでもどうにもならなかったり、なんだかそうした葛藤を抱えた者と、それと対峙する人の距離や態度が、ホントかっこいい。
そして、やっぱり街が生きている。
街を人のように描く、と言ったほうが正しいかもしれない。そこには、性格があって、意思があって、老いがある。老いたニュータウンに住む定年ゴジラ達はきっと、そのニュータウン自身すら、自分たちの仲間のように思っていることだろう。
こんな風な言葉が本作中のどこかに書いてあった。
「余生って、余った人生ってことだろ。どうせなら、その余った時間を、これまでの時間に上乗せしたかったよな。そうしたら、もっと家庭のことだって目を掛けられたのに」
言い訳ではある。でも確かにそう思う気持ちはわかる。それぐらい、定年前と後では、時間の流れ方が違うということだろう。
いつか迎える老後という人生。「未来」という言葉に希望を持てるように、きっと今の僕がしっかり頑張らなきゃいけない。
後になって後悔したって、過ぎてしまった時間は取り戻せないのだから…。

重松清「定年ゴジラ」




殺竜事件(上遠野浩平)

ファンタジーというものを僕はあまり読まない。
特に苦手な意識があるわけでもないのだけれども、なんとなく、日本人作家の手によるファンタジー作品の絶対数が少ないせいだろうか、とも思っている。
ファンタジーの場合、世界設定や常識や認識が、僕らの世界とはまるで違う、という点が物語の全てだと言ってもいいぐらいだろうと思う。そして時々僕は思う。今僕らがこうして生きている世界の法則すら、物理や哲学を以ってしても未だに明かされないのに、まったく別の世界の設定や法則などを、精密に定めて物語を書くことに、どういった意味があるのだろう、と。
そこまで難しいことを考えているつもりはないし、別にファンタジーを貶しているわけでも全然ないんだけれど、そんな風に思ってしまう。
現実の世界には、科学を以ってしてもわからないこと、というのがしっかり存在する。しかしそれは僕らにとっては、理屈なんかわからなくても間違いなく存在しているものだし、そこに疑問を挟む余地はない。
しかし、世界設定か一から作るファンタジーの場合、その世界を司る法則なりルールなりが規定され、現象がどうしても明確に説明できてしまうような、そんな印象があって、リアリティという言葉は好きではないけれども、そういう現実世界には存在する曖昧さや不確定さがどうにも欠けるな、と思う。
もちろん、わかりやすくしなければいけないという点で仕方のないことだとわかってはいるけれども。
本作も、そうした異世界での話である。
本作での世界は、魔法や呪文といったものが広く認知され使用されている世界であり、力の大小こそあれ、誰もがそうした力を使用することができる。そういう世界での話である。
ロミアザルスという小さな都市がある。そこは、村といってもおかしくはないぐらいの小さな地域であり、山岳の狭間にある。大国の境でもあり、両国の貿易の利権などを一手にしている。そんな、他国からの侵略を受けてもおかしくないような土地ではあるのだが、そこはそれを許さない土地でもある。
竜が存在するのである。
世界に数頭はいるという強大にして最強の存在。有り余る力を保有しながらそれで世界を手にしようとは考えておらず、寧ろ人々が戦闘をすることを嫌う。だからこそ、竜のいる土地は戦争終結の話し合いの場によく指定されるのである。
レーゼ・リスカッセは、戦争とは無関係なカッタータから送られてきた第三者的な立会人である。そこで、かねてからの知人であり、巷では「風の騎士」として名を知られたヒースロゥ・クリストフ少佐の出迎えを受ける。そして二人は、ヒースの友人でもあり、世界に名を轟かせる七海連合の中でも伝説的な存在である戦地調停士の一人であるエドワード・シーズワークス・マークウィッスル、通称EDと会う。彼は、今起きている戦争を終結させるために七海連合から派遣されている。
これからこの土地は多少殺気立った雰囲気になりますが、それは争いを止めるためなのです。そう竜にお伺いを立てるために、その三人は揃って竜との面会へと向かうことにする。
しかし、そこでありえない光景に出くわす。
ありとあらゆる存在よりも強大で絶対的な存在である竜が、鉄の棒を突き立てられて死んでいたのである。
ここで三人は苦境に立たされることになる。
竜の死を報告した三人は、いきり立った村人から非難を受ける。竜がいなくなったのだから、この土地での戦争終結の話し合いの話も無効だ、と突きつけてくる。それに対してEDはこう言う。
戦争終結の話し合いまでの一ヶ月の間に、竜を殺した犯人を探し出しましょう、と。
EDは、一ヵ月後にこの地に戻らなければ死んでしまう魔術を掛けられた。そうして三人は、この一年以内に竜との面会をした6人の人間との面会を果たすために、三人は旅をすることになる。
一体誰が何の目的で竜を殺害したのか?そして戦争終結のための話し合いを始めることはできるのだろうか?
というような話です。
本作は、竜殺害の謎を解くミステリー仕立てではあるけれども、内容のほとんどは旅の物語です。僕らのいる世界とは丸ごと違った世界を、たった6人の人間に会うためだけに強行軍の行程を進んでいきます。
それぞれの場所での状況や設定や人間はそれぞれなかなかのものだと思います。竜の事件を解く以外の様々な枝葉がそこかしこにあって、それなりに楽しめるのではないかとは思います。
しかし、如何せん物語が短すぎるような気が過ぎます。もっと読みたかったとかいうことではなく、世界設定についてもう少し触れて、世界の構造自体の厚みが欲しかったような気がします。僕はそれが、ファンタジーという小説に与えられた唯一の条件だと思っています。
ただ、主人公の三人はよく描かれていると思います。レーゼの背景は少ないような気もしたけれども、ヒースとEDの、その世界における役割とか存在価値とか、あるいは二人の関係だとか、そうしたものはしっかりとわかってよかったです。
もう一つ。ミステリ的な盛り上げ方はいいと思ったけれども、解決は今ひとつかな、という気がします。よくあることだけど、盛り上げるだけ盛り上げておいてしぼんでしまうありがちなミステリのような感じです。本作は、そのミステリ的な部分だけの魅力で通していないのでまだ救われていますが。
ライトノベル出身の割りに(ライトノベルが好きな人には申し訳ないし、僕はちゃんとしたライトノベルをまだ読んだことはないのだけど)ちゃんとした作品だったとは思うけど、まあまあだったかなという感じの作品でした。

上遠野浩平「殺竜事件」



それでも、警官は微笑う(日明恩)

僕のブログを頻繁に見てくれている人ならば、僕の感想の文章の構成が大体わかってきているのではないか、と少し期待しています。
まずは、その作品のテーマなり状況なり設定から何か主要なものを抜き出して、それについてグダグダと駄文を垂れる序文。次に本の内容を紹介し、その後で自分なりの感想や付記を載せる。森博嗣の作品ならば、いいと思った文章を書き出す。例外もあるけれども、大体はそういう構成をしてきています。
さて、今回読んだ作品は、いつものやり方でいえば、警察や組織や銃犯罪といったものを抜き出し、序文を書くのが僕の中で普通です。しかし、本作は紛れもなく警察小説であるにも関わらず、序文ではそれには触れずに、人の出自に関して駄文を垂れようと思います。
人は生まれながらに皆平等などではなくて、良くも悪くも様々な面で差があります。容姿がよかったり、親が著名だったり、天才的な頭脳を持って生まれたりとか言う風にいい運命を持っている人もいれば、貧しい家に生まれたり、犯罪者を親に持ってしまったりと、自分にはどうにもすることが出来ない不幸な運命を生まれながらに抱えてしまう人もいます。
ただ、そういう先天的ともいうべき人の性質について、いい悪いは一体どう判断すべきなのか、ということを僕は考えたことがあるし、本作を読んで再度考えさせられました。
確かに、不幸な運命の元に生まれてしまった人は、やはりどういい風に考えてもそれは不幸だろうと思います。しかし、人から羨ましがられる境遇に生まれながらも、本人はとてもそう感じられない、ということはよくあるのではないかと思います。
例えば、僕は昔こんなことを思ったことがあるし、実際にそういう人も世の中にはいるとは思いますが、容姿の綺麗な人がバリバリ仕事をしている場合、それがどんなに本人の努力であっても、周りには容姿のお陰だと思われるのではないだろうか、ということです。
こういうような場合、容姿良く生まれたことは幸運だと言えるのか?僕にはそこが分かりません。
いくら努力しても、その努力による結果を先天的な境遇によるものだとする視線は、やはりあるのだろうと思います。
さらに不幸なことに、そうした場合にそのことを相談しようにも、結局それが妬みを買ったり、ただの愚痴程度にしか取られないだろう、ということです。
先天的な幸運は、それを活かせる境遇に自分がいなければ意味がないし、そう考えると、結局その幸運が活かせる境遇に自ら進もうとしてしまうのではないだろうか、と思いました。
やはりついでなので、警察、というか日本の警察小説についても少し触れようかと思います。
本作には、著者が恐らく好きなのだろう、日本の小説作品の話題が時折出てきます。その中に、高村薫作品の合田刑事、大沢在昌作品の鮫島刑事、柴田よしき作品の緑子など、日本の警察小説の話題も出てきます。
中でも、日本で男臭い警察組織を描かせれば右に出るものはいないのではないかと思える高村薫(この人女性なんですよね)の作品は僕も好きですし、型破りで無茶苦茶な鮫島刑事の出てくる新宿鮫シリーズも好きだったりします。もちろん、横山秀夫の描く、ちょっと変わった警察小説も好きなんですけど。
警察のイメージと言えば、男臭いし、煙草もくもくで、靴は磨り減って、いかつい顔で、なんてイメージが浮かぶし、しかも一般人には透明度の低い世界で、さらに複雑な組織体系を持つ巨大な世界であり、描く人によって様々な作品が生み出されるわけだ、と思いました。
どうも、今回の序文は、自分で書いていてもダメだな、と思います。
というわけで、内容にうつります。
まず刑事の紹介から。
武本は池袋署の巡査部長。無骨な顔でまったく融通が利かず、芯が強いばかりに組織からははみ出してしまうような、まさに合田刑事や鮫島刑事のような、警察小説の王道をいくような、警察小説には必要不可欠なごついキャラです。いつしかつけられたあだ名は「キチク」。その名前も相まって、なかなか名前の知られた刑事である。
もう一人は潮崎警部補。武本の上司である。といっても、武本よりも若い。しかしだからといってキャリアではなく、スタートは武本と同じである。要するに、なかなか優秀な人間なのだ。
出自がなかなかすごい。親はお茶の家元で、その生徒には、角界の著名人やその夫人などがごろごろいて、もちろん警察のお偉さんの身内にも生徒は多い。突然刑事になると言い張った潮崎は、家族が止めるのも無視して警察に入ったが、警察に対しての親からの要求が多く、かなり特例的な扱いがされていて、それゆえお荷物的な存在になっている。本人はいたって明るく、時折場を読めないような言動もあるが、そうではないということがそのうちにわかる。
武本は、ここ数年で押収されるようになったある銃を追っていた。それは、刻印がないため明らかに違法なものなのだが、それにしては造りが精巧で、間違いなく大きな組織が関係しているのだが、未だ手掛かりは得られていない。
一方で、宮田という麻薬捜査官は、ある事情から一人の麻薬中毒者を追っていた。学者の道を捨ててまで麻薬捜査官になるほどに、それは宮田にとって重要な事件の捜査であった。
その武本と宮田の線が交差する。二人や潮崎、そして彼等の上司などは、様々に複雑な事情から、隠れて密かに捜査を続けることになる。状況はどんどん彼等に不利に働くようになり、どんどんと孤立した捜査になっていく。
誰もがそれぞれに抱える葛藤に苦しみながらも、それでも前向きに進んでいく。誰もが誰かに助けられ、誰かを助け、そうしていく中で絆のようなものも深まっていく。
一体誰が何の目的で銃を広めているのか。そして宮田の追う事件の解決は?
無骨な武本と陽気な潮崎という凸凹コンビが、宮田や周囲を巻き込んで捜査を繰り広げる、素晴らしい警察小説。
まず、本作は本当に素晴らしい。警察小説だからどうとか、メフィスト賞だからどうとかいうことはなくて、本当に見事な作品である。
まず素晴らしいのは人間の描き方。中でも、潮崎という刑事の描かれ方は抜群といっていい。彼の抱える。外からでは容易にわからない様々な葛藤が、捜査の過程で何度も現れ、その度に、どんどんと始めの印象から潮崎が遠ざかっていく。ちょっとうるっと来る場面も何回かあった。
もちろん、警察小説ではありきたりのキャラだからこそ逆に書くのが難しい武本のような男も、凸凹コンビを抱えそれでもなお自らの責任の元で二人を自由に動かせる安住という上司も、学者の道を捨ててまで麻薬捜査官になった執念の男宮田も、誰も彼もが魅力的に描かれていて、躍動感があって、素晴らしい。
ストーリー自体は、まあ警察小説ではよくあるような感じで、別に面白くないわけじゃ全然ないけどまあ普通かな、っていう感じなんだけれど、その魅力的な登場人物達のお陰で、ストーリー以上の面白さを獲得している。
それに、本作で提示される、何故日本で、しかも一般人に銃を広めようとしているのか、という点については、現に今行われていてもおかしくないのではないか、という感じすらして、いいと思いました。
なんとなく、踊る大捜査線を思い出させるような作品です。スピード感溢れるストーリー展開と魅力に溢れる登場人物。読んでみて損することはないと思います。お勧めです。
ちなみに、著者の名前読めますか?
「たちもり・めぐみ」
だそうです。

日明恩「それでも、警官は微笑う」



ウォーレスの人魚(岩井俊二)

さてまず、僕が以前に考えたというか夢想した、小説の構想を書こうかなと思います。
イルカと人間は同じ生き物だ、という話です。
寝ている時も起きているみたいだし、起きている時も寝ているみたいな感じのする、不眠症とは明らかに性質の違う症状を持つ患者が、ある時から急激に増加する、というようなところから物語は始まります。
それは人間がイルカに戻ろうとしている兆候で、何かの本で、イルカは右脳と左脳を交互に休ませながら寝る、というものを読んでの発想だと思います。
何故人間がイルカに戻ろうとしているのか…。それは、地球温暖化により陸地の大半が水没することを本能的に予測したためだ、というような感じです。
さらに、聖書の話なども持ち出して、ノアの方舟で船に乗れなかった人間が、生き残るためにイルカに姿を変え、その後その一部がまた人間になったのだ、というような、そんな壮大な話を考えていたことがあります。
だからどう、というようなことは特にないのですが、本作を読んでそれを思い出しました。
人魚の物語です。
確かUMA(未確認生物の呼称)と呼ばれる生き物が、その存在を確認されないままでいると思います。ネッシーは嘘だと確か発表されたたし、フライングフィッシュも存在しない生物だとほぼ確認されたと思いますが、イエティとかチュパカブラとかつちのことか、そうしたいるのかいないのかわからない生物の話は未だに根強く残っているものです。
人魚もそうした存在と大差ない形で認識されているだろうと思います。
ただ、僕の印象で言わせていただければ、人魚はいてもおかしくないかもしれない、とまあ今までもそれなりに思っていたし、本作を読んでよりそう思うようになりました。
というのも、生物のあまりの多様さとあまりの適応力の高さを、これまでも様々な形で目にしてきたからです。
人間は、進化の途中で一旦海で生活するようになった、とするホモ・アクアリウムとかいう説があるようです。体毛がないのも、背骨が伸び二足歩行を獲得したのも、火や衣服などを獲得したのも、その他人間の進化の様々な謎を、海で生活していた時期があると考えることでうまく説明がついてしまうそうです。もちろんまだ証明などがされているわけではありませんが、もしこの仮説が正しければ、その過程で海に留まることを決断した種族、が存在しても別段不思議ではないと思います。
日本で人魚といえば、名前は覚えていませんが、800年近く生きたとかいう話があります。その肉を食べると長寿になるとか、歌声で人を惑わすだとか、そうした話もあります。昔の人のささやかな創造だと言ってしまえばそれまでですが、その存在を信じてもいいのではないかという気が少しだけします。
内容にいきます。
恐らく実在した(というのも、もしかしたら全て岩井俊二の創作なのではないか、という疑念も多少ある)博物学者であり進化論者であるウォーレスという学者がいた。あの「種の起源」のダーウィンとほぼ時を同じくして同じような論文を発表したのだが、ダーウィンの功名心のせいで歴史の表舞台に名前が残らなかった人物である。
ただ、名前が残らなかったのにはもう一つ理由があるかもしれない。
それが、ウォーレスの遺作となった「香港人魚録」という本にある。
この「香港人魚録」は、ウォーレスが香港で人魚を見つけ、それを引き取り調査し、やがて人魚と人間の子供が生まれる、というようなことを克明に記した作品であり、奇書とされている。もちろん、到底信じられないような内容であり、ウォーレス自身それなりの学者だと思われていただけに、その意図が誰にも掴めない本なのである。
というのが前置きである。
物語は、オーストラリアのセント・マリア島に、生物系の雑誌記者が取材にやってくるところから始まる。その島では、ライアンという研究者が、イルカの言語にかんする研究をしているところで、人には聞こえない高周域の音を録音し解析する、というようなことをしている。
いつものように海へ行き、餌付けに成功したイルカを呼び寄せ音の採取をしていると、彼等を奇妙な現象が襲った。発した声が何故か繰り返して聞こえたり、いるはずのない深海魚の大群を目撃したり、錯乱状態に陥ったり、というようなことである。
この奇妙な現象、そして録音されたさらに輪を掛けて奇妙な音の分析に取り付かれた一行は、しばらくして遭難船の救助に駆り出される。そしてその現場で、前と同じ現象が起きているのである。
策を講じて船内に入ると、そこには人には見えない、でも人魚と一般的に認識されているようなものでもない、得体の知れない生物がいた。音の発信源を見つけ、恐らく人魚に違いないと、興奮する彼等だが、話は世界規模で人を巻き込んでいく…
というような感じです。
かなり綿密な取材と飛躍的な想像力によって描かれた作品だな、と思いました。出てくる分野は多岐に渡り、さらに、誰も知らない人魚に関する生態をここまで見事に想像できる力は、なかなかのものだと思います。
特に、恐らく実在したであろう「香港人魚録」という書物をスタートにした作品であり、フィクションだとわかっていても、もしかしたら、という思いに駆られるのではないかと思います。
本作を読んで思ったことは、研究というものの難しさだなと思いました。
研究する、という行為には間違いなく何らかの犠牲が伴います。大雑把に言えば、人間のすることで犠牲の伴わない行為などないとは思いますが、研究というものは多少別格のような気がします。
それは、研究者の性質に拠るところが大きいような気がします。
知りたい、という知的好奇心と、名前を残したい、という功名心をいかに強く持てるか。結局はそれが一流の研究者かどうかを決めるような気がするし、その二つはどう考えても何らかの犠牲を生み出してしまうと思います。
本作でも、人魚を調査する過程で、様々な問題や軋轢が生じます。研究者一人一人のモラルに任せるしかないのでしょうが、研究という行為による恩恵ももちろんあるわけで、難しいものだと思います。
人魚という、イメージや概念でしかない存在を、文字という形だけど具現したなかなか見事な作品です。もし人魚が発見されたとして(あるいはどこかでもう発見されていてなんらかの理由で公表されていないだけかもしれませんが)、僕らは人魚と共存することができるだろうか、と考えました。読んでみて欲しいと思います。

岩井俊二「ウォーレスの人魚」



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小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)