黒夜行

>>2005年07月

オルファクトグラム(井上夢人)

匂いについて、日常意識することはあまりないのではないだろうか。
例えば僕が匂いを意識するような場合を挙げて見ると、夏に汗臭いなとか、カレーのように匂いのきつい食べものを口にするとか、あまり経験はないけど女性の香水を嗅いだりとか、まあそんなことぐらいだろう。どちらかといえば、いいことに嗅覚が使われることは少なくて、もっぱら、臭いとか、何か危険な匂いがするとか、そうした時に意識するものだろうと思う。
確かに、春の訪れの香りがするとかいう文章を紡ぐ作家とか、ワインの香りを嗅ぐようなソムリエとか、そうした匂いに特殊な環境というのもきっとあるだろうけど、そこまで日常ではない。
僕たちが日常生活を送る上で重要な感覚は、ほぼ視覚である。視覚による情報に頼って生きていると言っても過言ではない。匂いは、こう言ってはなんだけど、人間にとってはついでの機能でしかないのかもしれない。
人間にとっては、と言ったのには理由があって、昆虫の世界では匂いは人間の言葉に当たるような使われ方をされている、のだそうだ。本作に出てくる例を挙げてみても、アリが匂いで仲間をえさのあるところまで誘導したり、蜂にも仲間が危険に晒されたときに出す警戒フェロモンがあるとかで、とかく重要な機能になっている。
僕たちは、視覚さえ正常に働いていれば、嗅覚がなくなってもそこまで不便には感じていない。それぞれの生物にあった外界認識の手段というものがちゃんと確立されているということだろう。
匂いには、人に伝えるための言葉がない、という文章があって、それが印象的だった。確かに、バラの匂いとか汗の匂いとか、そうした呼び方はするけれども、それらは人によって違う。色は、「周波数がこれこれの光」という感じで明確に定義できるし、楽器にみるように、音も正確に定義されている。しかし、こと匂いに関しては、何かのイメージと結びつけて伝えるしかなく、匂いそのものに固有名詞はないのである。確かに言われてみばその通りだ。
イヌは、人間の数万倍の嗅覚を持っている、といわれている。彼等がいる世界というのは、一体どういうものなのだろうか?という疑問は、まあ一度ぐらい持ったことがあるのではないでしょうか?
本作は、まさにその嗅覚をとことんまでに突き詰めミステリーに仕立てた作品です。
冒頭ではまず、主人公の片桐稔の双子の弟のエピソードが紹介される。7歳で死んでしまった弟トオルは、死ぬ間際に超能力のような才能を見せた。見てもいないことをさも見たかのように、まるで予言か何かのように言い当ててしまう。当時、誰もがどうしてそんなことになっているのかわからなかった。風がきれいだ、とそうつぶやいた弟のことを理解してやれなかった。
そうして時は経て今。大学を止め、親元を離れ、フリーターでバイトをしながらもバンド活動に明け暮れている稔は、出来上がったインディーズCDを姉に聞かせようと、結婚して旦那と暮らしている家へと向かった。
鍵が開いていて、呼んでも出てこない。不審に思った稔が二階へ上がると、部屋のベッドの上で全裸にされ、皮のベルトで両手足を固定された、痣だらけになった姉を見つける。助けようと近づいたそのとき、後ろから殴られた。
気付いたら病院だった。何かおかしい。夢と現実を同時に見ているような感覚に支配された稔は、やがて気付くことになる。
僕は匂いを見ているのか…
姉が殺されたことを知り、退院した稔は、バンド仲間の一人がいなくなったことを知る。自らの嗅覚を使って探し出そうとするも、途中で残念せざる負えなくなった。
その後、自らの嗅覚の力を最大限に利用して、バンド仲間の行方と姉を殺した犯人を探し出そうとする…
という内容です。
まずここで挙げなくてはならないだろうな、と思うのは、似たような作品についてのことです。浅暮三文の「カニスの血を嗣ぐ」という作品がまさに本作と同じで、嗅覚をモチーフにしたものでした。どちらが先行作品なのかはわからないけど、でも作品の出来は、本作の方が遥かに優れている、ということを書いておこうと思います。
嗅覚の世界、というものについての描写がなされるわけだけれども、もちろ想像しにくいけども、かなり魅力的に描かれています。様々な色と形を持つ粒子が、まるでクラゲのように空中を漂っている、という感じのようです。それが、視覚と混じることなく見えている、らしい。
匂いからわかる情報、というものも多岐に渡ります。これについては、「カニスの血を嗣ぐ」を読んだときも思ったけど、物凄い想像力だなと思いました。どういう状況だと匂いはどう残って、どう伝わるのか、ということが徹底的に考えられています。また、どうして稔がそういう状況になったのか、ということについての仮説が、なかなか説得力のあるもので、なるほどそういうこともありえるかもしれないな、と思いました。
そして、もちろん嗅覚についての部分だけでなく、作品として充分に面白いです。かなり分厚くて、読み始めるのに抵抗があるかもしれないけど、読んでみてほしいと思います。

井上夢人「オルファクトグラム」








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模倣の殺意(中町信)

久しぶりに、ミステリミステリした作品を読んだな、という印象です。
ミステリというのは、言ってしまえば中身を楽しむ作品だと思います。小説全般は、基本的に器、つまり文章を楽しむのが基本ではないか、と思いますが、ことミステリに限って言えば、もちろん文章が素晴らしい作品もあるけれども、どいらかといえば中身、つまり構成や内容を楽しむ作品だ、といえるでしょう。
ミステリでは、あらゆる形態のトリックが数々開発されてきたわけですが、その中の一つに叙述トリック、というものがあります。
さて、普段僕はここの感想の文章で、叙述トリックであるか否か、というネタばれはしないのですが、本作はいくつかの事情により、そんなネタばれをしてもいいのでは、と思ったので、書いてしまいます。
本作は、叙述トリックを使ったミステリーです。
理由としてはまず、本作の裏表紙に鮎川哲也氏のコメントが載っていて、それを読めば、ある程度ミステリを読んでいる人ならば、本作は叙述トリックを使っている、とすぐにわかるものだからです。
もう一つ。著者紹介の欄に、叙述トリックを得意とし…とあったからです。
というわけで、この感想を読んでから本作を読み始める人がいたら、どう叙述トリックなのか見破って欲しい、と思います。
内容に入ります。
坂井正夫という作家を巡る物語です。7月7日の7時、作家坂井正夫が毒を飲んで死亡した。警察では自殺と判断せざる負えない状況であったが、出版社に勤め、坂井と交際のあった中田秋子は、その死に不信を抱き、その影に一人の女性がいたことを思い出し、その線を辿って、坂井の死を解明しようとする。
一方で同じく坂井正夫の死に不信を抱いたルポライターの津久見伸助は、坂井の作品を没にし続けたある編集者に疑いを抱くようになり、調べを進めていく。
それぞれによる捜査が終結した時に明らかになる真実とは…
という感じです。
本作はそもそも、30年近くも前の作品です。乱歩賞に応募し最終候補まで残ったものの落選し、その後ある雑誌に短期連載され、その後いくつかの出版社から発売され幻の作品、となったという経歴を持つ、なかなか複雑な作品です。タイトルもその度に変わったそうです。
30年も前の作品だからといって作品自体の質が悪くなることはありませんが、ミステリに限って言えば、似たようなトリックの作品がやはり次々に出てくるので、本作での叙述トリックに似た作品も読んでしまっていて、当時としてはかなり衝撃的だったかもしれないけど、今の僕にはそこまでの驚きはありませんでした。
やはり叙述トリックを得意とすると似てくるのか、折原一と印象がそっくりです。
僕としては、そこまでお勧めはしませんが、ミステリをあまり読みなれていない人にはいいのかもしれません。

中町信「模倣の殺意」



りかさん(梨木香歩)

人形、というのは不思議な存在だ。
今ではフィギュアという呼ばれ方をし、精巧に象ったものが大量生産されているけれども、そういったものではなく、日本人形やビスクドールなどと呼ばれる、今ではアンティークの趣のある人形のことだ。
僕は男だから、子供の頃に盛んに人形遊びをしていた、という記憶はないけれども、いつの世も、女の子に絶大な人気を誇り、一方で、怪談には欠かせないアイテムとなっている人形というのは、一体どんな存在なのだろうか?
人間は、人の形をした存在に対して様々な感情を抱くのだろうと思う。親しみや恐怖などを抱くのも、人形が人の形をしているからに他ならない。
恐らく、形に何かが宿る、という考え方が、昔からずっと染み付いているのだろうと思う。
優しさを受けた人形は優しさを蓄え、虐げられた人形は怨念を溜め込む。そういった幻想を人間が抱くことによって、人形に宿った何かが、目に見えない仕組みで人間に影響を与えているのだろう。
本作は、そんな人形にまつわる物語である。
リカちゃん人形が欲しい、とおばあちゃんに頼んだようこ。しかし、送られて来たのは黒髪の市松人形だった。おばあちゃん曰く、名前がりかなのだそうだ。初めこそがっかりしたものの、おばあちゃんによる説明書を見ながら、ようこはリカちゃんならぬりかさんを大切に扱うようになる。
しばらく接していたある日突然、ようこはりかさんと会話ができるようになり、と同時に、りかさんを通じて他の人形の言葉や気持ちなども伝わってくるようになってきた。
ようこの友達に、登美子ちゃんという子がいる。その子の家には人形が数多くあるのだけれども、りかさんを連れてその家に行ったとき、そこにいる人形達が抱える想いや心を知ることになる。積み重ねられた時間を全てその体に溜め込みながら、何かを訴えかけようとする人形達の言葉をようこは聞き、おばあちゃんにも相談しながら、それぞれを解消してあげようと思い立つ…
というような話です。
人形が喋りかけるとか、人形が意志を持つ、といった話はそれほど珍しいわけでもないと思うけど、人形に積み重ねられた歴史や業をしっかりと描いている作品です。前半部では、それらがぐちゃぐちゃと描かれてよくわからない部分もあったけど、後半はなかなかすっきりしていたと思います。
おばあちゃん、という人がなかなかいい人物で、言葉にしっかりと重みがあります。梨木香歩の作品には、娘と祖母という設定がよく出てきて、そういう関係の描き方はちゃんとしているな、という感じです。
でもまあ、こんなもんかな、というのが感想です。
文庫化にあたり、「ミケルの庭」という短編が併録されているけれども、この作品はちょっとよくわからなくて、なんだろう、という感じです。
まあ、悪いとは言わないけど、そこまでお勧めはしない作品です。

梨木香歩「りかさん」



センセイの鞄(川上弘美)

アルバムを見るのは、どんな時でしょうか?
僕は、ちらっと思い出してみようと思ったのですが、特に記憶に残ってはいません。以前は写真を撮る事が趣味だったので、写真自体は数多く持っているのですが、それを振り返って見る、という機会は、そう多くはないように思います。もちろん、アルバムを見る、という行為があまりに普通すぎて、鮮明に記憶に残っていない、というだけのことかもしれませんが。
アルバムには、確かに写真しか載っていません。アルバムを見る、という行為自体は、結局写真を眺める、という行為に過ぎません。
しかし、写真を見ることで、それがたった一枚の写真であっても、その当時のなにがしかを鮮明に思い出すことができます。人によっては、その時の匂い、温度、心臓の鼓動、そういった些細なことまで思い出せるのかもしれません。
写真という、言ってしまえばインクのドットが作り出す記録情報は、物理的に記録できる情報以上のものを蓄積したまま、失わずにいることができるのだろうと思います。
本作は、文字のアルバム、と言ってもいいような、そんな作品です。
主人公が、アルバムを捲りながら、その時の情景、言葉、その状況に至るまでの過程、結果、そうしたものをつぶさに思い出し、その余韻に浸っているまさにその頭の中を、著者が文字にしているような、そんな印象です。
ツキコさんは、駅前の居酒屋で高校の先生と十数年ぶりに再会しました。国語の先生だったけれど、恩師、というほどでもなく、咄嗟に名前を思い出すことができなかったツキコさんは、「センセイ」と呼びかけます。それから、「先生」でも「せんせい」でもなく、呼び名は「センセイ」になりました。
再会した、と言っても十数年ぶりですから、すぐに意気投合、という風にも行きません。別に待ち合わせたり電話をしたりするわけでもなく、居酒屋に寄ってみて、会えば話をする、というような関係が始まりました。
さざ波のような静かな関係でしたが、歳の差を越えた二人の付き合いは、居酒屋でのやりとりや、時折出掛ける先での出来事であったり、そうした穏やかな空間と時間とに育まれていく。
ツキコさんとセンセイの、彩りに溢れた世界を描いた作品です。
僕が本作を、アルバムを見ているようだと書いた理由の一つに、本作にはツキコの、センセイを中心とした人間関係しか描かれない、という点があります。ツキコがどんな仕事をしていて、センセイと会っていないときは何をしているのか、といった点がまったく描かれません。「センセイ」と題の付いたアルバムだと思います。
ツキコさんとセンセイのキャラクターもなかなか映えていて、短い作品ながらもかなり印象の強い人物でした。ツキコさんやセンセイの日常が描かれないからこその不思議さも醸し出されていて、いい雰囲気の作品でした。
文体も、なんというか丸っこくて、ぽわぽわとした感じとでもいいましょうか、なんともそんな感じです。他の文章や言葉よりも、それ自体の重さが心持ち軽いような、そんな印象です。
とまあ確かに悪くない作品ですが、これは僕の好みの問題で、どうにも恋愛小説というのにまだまだ明るくなくて、多少の苦手意識があります。楽しみ方がわからない、とでもいいましょうか。だから、作品自体の質は決して悪くないと思いますが、僕の評価はそんなに高くありません。
僕から強くお勧めです、ということは言いませんが、読んでみて悪い感想を抱くような本ではないと思います。読んでみてもいいと思います。

川上弘美「センセイの鞄」



迷宮百年の睡魔(森博嗣)

人間の存在の境界を、強烈に問うてくる。
あらゆる定義が膠着し、あらゆる認識が沸騰する。
「人間」も、「存在」も、「生」も、「死」も、言葉としても実体としても、どこまでも変質しうる。
その全てに答えを与えた時点で世界は凍結するだろう。すなわち、希望というものは、結論の出ない問題をどれだけ抱えているか、ということに依存しているのではないかと思う。
人間とは、一体なんだろうか?
何が満たされていれば、人間として定義することができるのだろうか?
生も死も、つまり人間という存在の定義に依存している。人間という存在が規定されて始めて、人間は生きることも死ぬこともできる。
本作には、ウォーカロン(恐らく「walk alone」つまり、それ自身独立で物理的な運動機能を有する存在、というような意味だろう)という存在が出てくる。
どんな呼び方でも構わない。他にも、クローンだとか、AIだとか、つまり「限りなく人間に近い、あるいは将来的にそうなる可能性の高い存在」というものが、既に現在ですら、技術的に不可能でない段階だろうと思う。
人間という存在を定義するに当たって、結局そうした「近い存在との違い」という形での思考が妥当だろうと思う。
意識があることだろうか?
思考することだろうか?
感情を保有していることだろうか?
いずれにしろ、そう遠くない将来、脳以外の人間のパーツ、機能、性質を、機械で完全に再現することは、技術的に可能になってくることだろう。つまり、外面的には人間も人間に近い存在も、見分けがつかなくなる日がきっとくる。
そうなれば、人間の存在はイコール、脳の存在だ、ということになるのだろうか?恐らく人工的に再現することのできない脳という組織を保有し、その脳がもたらすさまざまな機能を保有している存在が、「人間」なのだろうか?
しかし…
本作では、そういった点を、まさにその点を、鋭く問い掛ける。一体、何が人間を人間足らしめているのか…と。きっと、時間だけが解決できる問題では、ない。
本作は、シリーズ二作目である。「女王の百年密室」の続きである。<女王>シリーズなのか、あるいは<百年>シリーズなのかはわからないけれども。
まず、その世界設定から説明することにしよう。
時代は、現代から凡そ百年後の未来。二つの要因により、世界は恐らく国という単位を放棄し、小規模なコミュニティに分かれて生活している。要因の一つは、エネルギィ革命により、人類がほとんど仕事をする必要のないくらいエネルギィが確保できたことと、もう一点は、人口が格段に減少したことだ。
どのようなルールでコミュニティが形成され、その全てをどのように管理しているのかは不明だけれども、森博嗣の設定した百年後は、そうした未来である。
さて、本作の舞台となるのは、イル・サン・ジャックというコミュニティ。そこは、一夜にして森が消失し、周囲が海になったという伝説を持つ土地で、百年間外部との接触を一切拒絶していた迷宮の孤島である。そこは、モン・ロゼと呼ばれる宮殿とシビと呼ばれる町とで形成されたコミュニティであり、王や女王が存在している。
完全に孤立したコミュニティに、何故か取材の許可を得たエンジニアリング・ライターであるミチルは、パートナーであり、ウォーカロンでもあるロイディとともにイル・サン・ジャックを訪れた。彼の仕事は、小規模にまとまったコミュニティの形成や維持などを、エンジニアリングの観点から観察しレポートを書く、というものだ。
複雑に入り組んだ町並み、ロイディの位置認識の誤認、美しすぎる女王、カジュアルな王、よそよそしいと感じる住民の態度。どうにも不可解な点に出会いながらも、ミチルとロイディはイル・サン・ジャックを巡り、慣れていく。
王との謁見の後、事件は起こる。
僧侶長であり、砂で曼荼羅を描いていた男が、自ら描いていた曼荼羅の中で、首を切断された状態で発見された。一体誰が何のために彼を殺し、首を切り持ち去ったのか…
という物語です。
印象を一言で書けばこうなります。
首を切断する理由のために、世界をまるごと一つ作ってしまった。
いつもながら森ミステリィの切れ味は素晴らしいものがあります。そう、体の末端から痺れ、段々と麻痺していくような感覚に近いかもしれません。先に書いた、人間の存在の境界とミステリィが、見事に融合しています。
これまでも、様々な作家が首切りの理由を創造してきたわけで、僕もその中の恐らくわずか少数の作品をよんだことがありますが、どれにも増して素敵で狂気な理由です。
本シリーズで僕が好きなのは、ミチルとロイディの会話です。ロイディはウォーカロンであり、つまりは機械です。ある一定の容量の中で、最初にプログラムされたテキストに従って行動する存在に過ぎません。
しかし、ロイディはウォーカロンにしては珍しく、ミチルとの意見交換をよく行います。人との直の対話により回路が進化するようで、その機械らしさと人間らしさの混在した、判断は冷静で時として冷徹だけれども、ミチルとの関係性に於いては明るく暖かいといったような、そうしたバランスがとても面白いです。人と対話する機械、というのは現在ではまだまだ進化の途上にあるものですが、将来的にロイディのような機械が実現するのなら、ちょっと楽しみでもあります。それまで生きていられるかはわからないけれども。
そして、やはり文章が美しい。この<女王>シリーズと、戦闘機乗りのシリーズであるシリーズは、設定や人格がかなり現実から遊離していて、そこにあいまった森博嗣の美しい文章というものが、見事にはまっています。キレのあるというか、やはり洗練されている、という印象です。
恐らく、本作に抵抗感を持つ人は結構いるとは思います。それでも僕は本作は素晴らしい作品だと思います。是非、この一つ前のシリーズ一作目から、是非読んでみてください。
それではいつものを。

(前略)
僕の前に落ちている影は、いつだって歪んで斜めだ。
(後略)

(前略)
ロイディは機械だ。二人だけのときには、それをすっかり忘れてしまえるのに、こうして第三者がいると、それを思い出さなければならない。どうして、人間の関係って、こんなに排他的なのだろうか?
(後略)

(前略)
毎日、昨日とは違う風を感じたい、と思う。
それだけだ。
(後略)

(前略)地球上に存在するのは自分たちだけだ、と思い込めれば、なおさら効果的だろう。
(後略)

(前略)
「何事も仕事ですし、何事も邪魔です」(後略)

(前略)
会いたいのではない。
愛されたいのだ。
(後略)

「(前略)変化するのは常に外側だけ、自分の周囲の、ほんの僅かな範囲のことだ。そう、うん、人間だってそうだろう?」
「人間が?」
「中身に全然変わりはない。周りばかりが歳をとる」(後略)

(前略)
「そう、彼女は変わらない。つまり、内側なんだな」
「内側?」
「変化するのは、いつも外側だ」
(後略)

(前略)けれど、新しいものさえ知らなければ、何も古くなったりはしない。(後略)

(前略)
「きっと、教えないことに価値があるからです」
(後略)

「(前略)何だろう?何故、そんなに肉体を諦めている?生きることと、思考することを、切り離そうとしているのは、どうしてだ?(後略)」

(前略)
「何だ?希望とは。希望の実態とは、何だ?」
「わかりません」ロイディは首をふる。「おそらく、それを言葉として口にすることが、未来に影響するという認識を人間が持っているためと考えられます」
(後略)

(前略)
いつかは、存在しなくなる。
宇宙のように。
それだけが、望みではないか?
その終末を信じているからこそ、我慢ができる。
死ぬから、
いつかは死ぬから、
生きていられるんだ。
だから、
悲しいことも、苦しいことも、すべて、
待ってもらえる。
死ぬまで、待てもらって、
全部、死んでから、泣けばいい。
それだけのこと。
(後略)

(前略)
生きているものは、どうしたって急いでいる。死ぬまでに何かをしようと急いでいる。だから、自然のように繰り返すことを嫌い、常に新しいものを作り、古いものを壊そうとする。ときには、自分さえも、作り替え、壊してしまいたくなるのだ。
(後略)

(前略)
「生きているのと、そうでないのと、両者の違いはどこにありますか?」僕はきき直した。
「そうね…」メグツシュカは横を向いたまま静かに答える。「あなたが生きていれば、あなた以外の誰かが、あなたに会いたいと思う。他人に、そう思わせるキーワードが、生きているということかしら」
「キーワード?」
「呪文といっても良いわ」
「呪文?」
「そう。離れている人に、魔法をかける。その人に会えるためのキーワードです」
(後略)

森博嗣「迷宮百年の睡魔」



流星ワゴン(重松清)

いつものように、先に書いておこう。
本作は素晴らしい。是非多くの人に、というか全ての人に読んで欲しい。父親も母親も息子も娘も祖父も祖母もそうでない誰であっても、関係なく読んで欲しい。
僕にとって、親というのは何にも増して不可解な存在である。
それと同じように、親にとっての僕、というのも、不可解に過ぎる息子だろうと思う。
家族、という形が、常に幸せをもたらすとは限らない。
というよりも、最近では、そうではないことの方がむしろ普通になってきてしまっているような雰囲気さえある。
親子というのは、不思議な関係である。
年齢も、生きてきた環境も、常識も、時には性別すら違うのに、他人ではない。「親だから」とか、「子供だから」といった、何の理屈もないような理由がまかり通ってしまうのも、不思議な関係性故だろう。
ただ僕は思うのだが、「他人ではない」ことと、「近しい存在である」ことは表裏一体ではないだろう、ということだ。親子は、スタートの時点で間違いなく「他人ではない」。しかしだからと言って、親子になったその瞬間から「近しい存在」になるわけではないはずだ。関係性というものは、それがどんなものであっても時間と忍耐によって形勢されるだろうし、されるべきものであるはずで、そこのところを理解できない親が多いような印象を僕は受ける。
もちろん、僕には「親」の経験なんか、麻雀ぐらいでしかないけれども。
僕は両親のことがどうしても受け入れられなくて、今でもそれは変わらなくて、しっかりとした関係性を築けていない。どうしてとか何でとか、もはやそうした段階はとっくに過ぎてしまっていて、何故できてしまったかわからない溝を前に、僕にはもう、その溝を埋めよう、という感情が湧き上がってこない。
ただ、親の方の視点から見れば、そうも言ってられないだろうな、とそれはそう感じる。今は、時間が経てば…という楽観をきっと持っているはずだけれども、いずれ諦めなければならないときがくるだろうし、それはきっとすぐに後悔に変わることだろう。何が悪かったのか、どうすればよかったのか、あの時何ができたのか。答えの出ない問いを常に探し自らにぶつけ破片を拾い集めるようにして答えを探すような日がきっと来ることだろう。そして、こう願うかもしれない。
もし、あのときに戻って、運命を変えることができたら…
人には、その時にはわからない、それでも後から考えればとてつもなく重要だった、ある種の分岐点のようなものがたくさんあるのだろうと思う。その時の決断で、未来を大きく左右するような瞬間。後から気付いてみたところで、遅い。
もし、そんな瞬間瞬間に戻ることができたら…
大雑把にいって、本作はそういう話である。
三組の親子が出てくる。まずその親子の紹介からしよう。
まず一組目。橋本義明・健太親子。物語の時点での5年前、免許取立てで、うかれるようにして息子をドライブに誘った不器用な父親義明は、案の定というか事故を起こし、息子健太共に命を落としてしまった。新聞に小さく記事が載っただけだった。
二組目。永田一雄・広樹親子。一雄は本作の主人公で、彼は惨憺たる現実を生きている。受験に失敗した息子は荒れ、妻は誰ともわからない男と関係を持ち、一雄自身リストラされてしまう。
三組目。永田忠雄・一雄親子。忠雄は、九州でいろんな事業に手広く進出したやり手の社長だが、今現在はガンで余命いくばくもない体である。お互いがお互いを嫌っていて、いい親子とはいえない。
さて物語は、一雄が駅のロータリーで一台のオデッセイを見つけるところから始まる。その頃一雄は、もう死んじゃってもいいかな、といった心境で、そんな心境を見透かしたかのように車は近づいてきた。そこに乗っていたのは、
死んだはずの、というか紛れもなく死んでいるんだけれども、その幽霊というかなんというか、そうしたこの世の存在ではない、橋本義明・健太親子だった。彼等は、事故を起こした車で今でもドライブをしており、時折こうして、死にたいと思っている人を乗せる、のだそうだ。
状況を把握できない一雄に、義明はこう言う。これから、人生の大切な場面へと送ります、と。わけもわからないまま、雑踏の新宿へと場面は変わる。
1年前、ここで妻が、知らない男と歩いているのを見かけたのだ。あの時は見間違いだと思ってやり過ごしたが…
そしてそこへ、実際は病院で危篤に陥っているはずの父忠雄が現れた。しかも、一雄と同い年、38歳の父が。
未来を知っている一雄は、未来を変えようと抵抗を試みる。しかし、そううまくはいかない。様々な後悔を再び経験し、へとへとになってワゴンに戻る、という旅。
自分の家族との関係だけでなく、橋本さん親子の抱える問題や困難、あるいは父忠雄との関係改善。不思議な世界の中で不思議な体験をする一雄は、幾度もの後悔と、幾度もの無駄な抵抗を繰り返していくうちに、そして同い年の父親との邂逅によって、強く大きく変わっていく。
未来を変えようと努力するその辛く厳しいその旅は、確かに何かを一雄やその周囲に残していく…
というような物語です。
親子という関係の描き方が、抜群に見事です。三組の親子が出てきますが、それぞれにそれぞれの問題を抱えています。その問題がそれぞれにきちんと描かれていて、しかもそれぞれが有機的に結びついているような感じで、素晴らしいです。
もちろん、抱えている問題だけでなく、親子の現状での関係やその変化も見事に捕らえていて、隠し撮りしたビデオを何度もくり返し見ながら文章を書いているような、そんな圧倒的なリアルさが、わずかなしぐさやセリフから伝わってきます。
それぞれに、あまり直視したくない問題を抱えた三組の親子だけれども、でもこんな親子だったらいいな、と思える部分が必ずあって、いい描き方がされていると思います。
それに、設定が見事だと思います。ある意味で三組の家族はそれぞれ、「未来がない」家族です。橋本さん親子はもう死んでしまっているし、一雄・広樹は未来に何も期待できないほど家庭が崩壊してしまっているし、忠雄はまさに死を待つばかりの身です。三様に未来を閉ざされている中で、唯一切り開くことのできる未来を持つのは一雄です。過去の岐路まで戻り、運命にさからおうという努力は、ある種滑稽ですが、人生のやり直し、という壮大な話を、ワゴン一台で実現させてしまう手腕は、見事という他ないでしょう。
何度か泣きそうになりました。ホームドラマ、に出てくるような在り来たりの家族像ではなく、それぞれにしっかりとした個性のある家族のあり方は、なかなかいいものでした。
嘘でしか語れない真実がある、という言葉通り実践しているような作品で、素晴らしいと思いました。是非皆さん読んで下さい。

重松清「流星ワゴン」



僕のなかの壊れていない部分(白石一文)

もしも僕が、もう少しだけ自分の考えや思想について言葉にすることに吝かではなく、かつもう少し多様な人間関係を保持していたとしたら、本作の主人公のような人間になっていることだろう。
とてもよく似ていると思う。どこがどう、ということについて細かく指摘することはなかなか難しいけれども、物事に対する考え方、評価、在り方なんかに、非常に近い物を感じた。
きっと、「感情」をどこかに置き忘れてしまった人種なのだろうと思う。僕の言う「感情」というのは、意識せずとも湧きあがってくるような何か、というようなことであって、別に人間らしさとか温かさといったような意味は含んでいない。
意識せずに湧きあがる「感情」を持たない人間は、凡そ二種類に分かれるのではないかと僕は思う。一つは、「感情」を「思考」によって導き出すもので、あらゆることをパターン化し、様々なデータを蓄積し、他人の「感情」の発露などを学び、そうすることで、経験から思考によって「感情」を生み出す、というようなやり方である。
もう一つは、諦める、というものだ。「感情」がないことを受け入れ、あがくことをせずに、それをそのまま諦める。
僕と本作の主人公は、「感情」がないという点で似ているけれども、上記の点で違っていると思う。僕は、前者の方で、本作の主人公は、恐らく後者だろう。
別にだからといってどうということはないけれども。
本作は、生と死を思考する物語である。
出版社に勤める「僕」は、三人の女性と同時に交際をしている。仕事での関係のあった、ファッション系の仕事をしている女性。子供を持ち、飲み屋を切り盛りしている女性。金持ちの夫人で、後腐れのないセックスを求めている女性。「僕」は、この三者三様の女性と、それぞれの付き合いをしている。
さらに「僕」は、自宅の鍵を掛けず、そこに、行き場のない若者二人を住まわせている。
「生きてこなければよかった」。そうした諦念というか絶望というか、そうしたものを常に抱き続け、女性との付き合いに様々疑問や不満や憤慨を感じながらも、何にも満たされないまま、どこへも行き場がないまま、淡々とした心境で、まるで水を飲むように日々を消化している。
何故僕は自殺しないのだろう?
そうした問いかけを、「僕」はやめることができない。生きていることとは?死ぬこととは?様々な著名人や担当している作家や過去に出会った人の言葉を引用しながら、「僕」は、生と死について思考する。
時と共に移ろいゆくそれぞれの人間関係や自分の出自などから、あふれ出る思考を言葉にした作品。
僕は、舞城王太郎という作家が、その著作の中で書いた、「嘘でしか語れない真実がある」という言葉を忘れることができない。
小説というのは、いくら誰かの体験を元にしたものであっても、かならず大半は嘘なわけだけれども、上記の言葉はそうしたことをいいたいわけではない。僕の解釈では、「現実感を剥ぎ取ったところに真実は隠れている」あるいは「目に見えないところに真実は潜んでいる」ということだ。
とかくリアリティがどうのこうのと言われることが多いような気がするけど、僕はそのリアリティという言葉が嫌いだ。
現実に見たり聞いたり思考したり、あるいは現実の素材である程度想像できることなんて、言葉に文章に小説にした段階でそれは嘘になってしまうと思う。そうじゃなくて、小説にしかできないことがあるからこそ、小説や物語というのは存在しうるのだろうと思う。
例えが大げさになるけれども、聖書だってあれは全て嘘でしかない。もしかしたら信じている人もいるかもしれないし、確かに真偽についてはとやかく言えないけれども。でも重要なことは、その、僕には嘘にしか思えないその物語をこれだけ多くの人が読み(僕は読んだことはないけれど)、そしてその中から、なにがしかの真実を探ろうとしているということだ。
別に、現実に見事に則った作品というのが悪いわけでは決してないけれども、僕は、本作の、余りに「嘘のなさすぎる」物語を、どうしても好きになれない。
本作は、真っ直ぐに生と死を問うているところが評価されているようだけれども、でも僕としては、だからこそ好きになれない。そうした、根源的で重要で大切な物事は、どうしたって、「嘘なくして」語ることなんかできるわけがない、と僕は思うのだ。
登場人物は、それぞれにそれなりに魅力があると思うし、しっかりと描かれていると思うけど、でも僕には本作はダメだ。
僕にとっては600冊目となるキリのいい本だけれど、でもちょっと外れでした。
結構評価されている作家だし、読んで悪いことはきっとないんだろうけど、僕としてはお勧めしません。

白石一文「僕のなかの壊れていない部分」


僕のなかの壊れていない部分文庫

僕のなかの壊れていない部分文庫

疾走(重松清)

人の死、というのは、いくつかの議論はあるだろうけども、大体心臓が停止した時、ということでいいだろうと思う。
しかし、「人生」の死というのは一体いつ始まりいつ終わるのだろうか?
心臓の停止と同時に「人生」が死ぬわけでは決してないと思う。「人生」というやつはちゃんと生きていて、人の肉体が滅びなくても死ぬことはある。
きっと、前に明日に未来に向かって疾走できなくなった瞬間。その瞬間にきっと「人生」は死ぬのだろう。
肉体的な話ではない。つまりそれは、生きる気力のようなものだ。今日とは違う明日を思い描き、その明日に希望を抱き、少しでも前に進む。どんなにありえなそうでも、未来に対して夢を持ち、それを叶えようと努力する。それが出来なくなれば、生ける屍として、人としては生きながら、死んだ人生を歩まなくてはならない。
救いの道はほとんどない。
世界は不平等にできている。確かに誰もがあらゆる意味で平等であれば、こんなにたくさんの人が生きている必然性はなくなるだろう。まったく同じ個人がたくさんいるなら、一人でも別に同じだ。違いがあるからこそ、これだけたくさんの人間が存在するわけで、違いがあるならば、平等でないことも仕方がないだろうと思う。
本作には神父が出てきてその神父は言う。人間は平等ではないけれども公平だ、と。誰もがいつかは死ぬ。つまり僕の言葉で言えば、「人生」は平等ではないけど、「人」は公平だ、ということだろうか。
世の中にはいろんな人、いや、「にんげん」がいる。漢字でもカタカナでもない「にんげん」。自分なりの幸せの形を追い求めているだけなのに、どこかで踏み外してしまう「にんげん」。いつしか心がぽきっと折れてしまう「にんげん」。弱さを隠せなかったり、隠そうともしない哀れな「にんげん」。巨悪な力になす術もない「にんげん」。誰かのために、どこまでも不幸に陥ってしまう「にんげん」。
救われない人々が、救われない土地で、救われない運命を嘆きながら、それでもどうにか救われようともがきあえぎあがく物語である。
まずは本作の舞台となる土地の話をしよう。
水平線の広がる海に面した町。「沖」と呼ばれる、少し前まで海だった干拓地と、元からの土地「浜」。以前から住み続けていた「浜」の住人と、乗り込んでやってきた「沖」の住人は仲が悪い。それぞれにある小学校から、町に一つの中学校へとあがると、何かしら問題が起こるほどだ。
見渡す限り田んぼとあぜ道と住宅しかない、長閑と言えば長閑で、単調といえば単調に過ぎるこの土地に、突然リゾート開発の話が持ち上がる。
干拓地である「沖」の土地を、暴力団も絡んで買収が始まる。「沖」の住人は立退き料をたんまりもらって引越していくが、そううまく土地の買収が進むわけもない。様々なごたごたがあるも、結局工事は始まっていく。そんな土地が物語の舞台である。
主人公である中学生のシュウジは、寡黙な父、兄を自慢に思う気弱な母、地元有数の進学校に通う兄の四人家族だ。家族の主は兄で、家族は皆兄の顔色を窺うように生活をしている。勉強はできるが神経質で、ちょっとしたことでもすぐに怒り、弟のシュウジに手を出したりもする。それでも家族は、兄に逆らうこともなく、そんな生活を受け入れる。
シュウジの日常は、「沖」と「浜」が交じる中学に通い、陸上部で汗を流し、小学校からの友達でいじめられっ子の徹夫と遊んだりするようなものだ。
ある時徹夫の誘いで、「沖」に出来た教会に行くことになる。そこの神父は、人殺しだという噂があった。そこで出会った同級生のエリ。「沖」の住人であるエリとは、それだけの理由ではなく話すこともなかったが、陸上部でも期待の星であり、気になる存在だった。
人生に切り替えスイッチのようなものがあるとすれば、シュウジにとってのそれは、兄の変化だった。兄が壊れていく。全ては、それさえなければきっと起こらなかっただろう。
学校での成績の低迷に比例するように、兄はどんどん壊れていった。それでも家族は皆、家族としての最低限のまとまりを保とうとなんとか踏ん張るものの、兄が一線を超えてしまうと同時に、家族もまたその一線を踏み越えてしまうはめになる。
兄が犯した犯罪。それが致命的だった。
以降、中学生のシュウジが背負うことになる、余りにも重く大きなもの。時間に耐え土地に耐え「にんげん」に耐え運命に耐え、それでもなんとかそれら全てを疾走していこうとするシュウジ。「人生」の死から逃げるように疾走するシュウジの、過酷過ぎる運命を描いた黙示録。
読んでいて、気持ちが沈んでしまうような作品である。決して悪いなんてことはなくて、その沈ませかたがまた見事で圧巻でもある。
ただのノアールではない。確かに設定や展開は、馳星周の作品のような感じではある。しかし、そういった普通のノアールでは決してない。
重松清の、人物の描き方が並ではない、ということだろう。
とにかく、シュウジを始めとする登場人物達の厚みがすごい。短いエピソードや細かい断片を際限なく組み合わせていくことで、その人間の成長や崩壊などを間近に見ているような錯覚にさせる。
しかも、子供の描き方が尋常ではない。よくもまあここまで、最近の子供の心情やらあり方を、見事に描き出せているな、という感じだ。様々な刺激にさらされ、見えなかったものが見えるようになり、知識が増え、大きく変化していく過程のそのまさに真っ最中の少年を、そしてその暗闇を、見事に正確に言葉に写し取っている。
背景の緻密さも素晴らしい。舞台となる土地の設定というか歴史というか状況というか、とにかく細かいところまで手を抜かずに考えられている。「沖」と「浜」、リゾート計画、教会、学校、暴力団。人だけでなく、舞台もきちんと描けていて、隙がない。
そして、それでいてものすごく重い。
重松清の作品(そこまで多く読んでいるわけではないけど)は、何か厳しい状況に陥った少年少女を、家族という視点で捉えるというものが多いような気がするけど、本作で描かれる状況は、厳しいどころの話ではない。一文字読むごとに何かを載せられたように体が重くなっていくような気がして、シュウジという、まともだった人間が壊れていくまでの人生を追うのが辛くなっていく。
もし自分が同じ状況に陥ったら、なんて考えたくもない。
とにかく素晴らしい作品です。タイトルの通り、かなりの疾走感のある作品で、読んでいて重いけどページを捲る手は止まらない、という感じです。是非読んでみてください。

重松清「疾走」





どきどきフェノメノン(森博嗣)

日常生活の中で「どきどき」を経験することはなかなかないのではないか。きっと鱗のない魚ぐらいないだろう。鱗がなければ魚ではないのかもしれないけど、膨らませすぎて破裂したガム風船みたいにどうでもいいことだ。
なかなか「どきどき」を経験できなくてまあそんなに困る、というほどのことでもないわけで、あるいはそんなことで困っている状況が既に「どきどき」だったりするかもしれない、とそれは過言か。
何に対して「どきどき」を感じるか、というのも人によりけりニシキヘビだろうけど、少なくともヘビ全般には特に「どきどき」ではない。あっ、でも恐怖の「どきどき」という意味ではあるかもしれないな。
恐い「どきどき」とか期待の「どきどき」とかまあいろいろあるけれど、とにかく「どきどき」できる状況に満ち溢れているという人はなかなか羨ましいし、それなら人生薔薇色かもしれない。しかし薔薇色って何色だろうか?青い薔薇だって開発されたことだし、ブルーなかん状表現としても成立しうるのではないだろうか?と分析してみる。
例えば一般に、白黒のしまうまぐらい当たり前だけど、恋愛とかは「どきどき」するもんなんだろうけど、でもでも世の中にはきっと色んな「どきどき」に満ち溢れていて、それをうまいことちゃっかりこそっと拾い集めていけば、きっと面白い人生になったりするんだろう。
とここまで、本作の文体をなるべく頑張って真似て書いてみたけど、どうにも難しい。読んでいるうちはなんか書けそうな気がするんだけど、いざ書くとなるとかなり難しい文体だ。というような考察はもう少し後回しにしておいて。
本作はとにかくいっぱい書いたように、「どきどき」満載の物語である。
窪井佳那という女性が主人公。24歳、大学院のドクターコースに在籍中のバリバリの理系ウーマンである。趣味は「どきどき」の探求であり、その探求たるやなかなか堂にいっている。あらゆる場面で、それが例え危機的状況であっても、自分なりにうまくどきどきに変換してしまう、というなかなかのつわもの。
ただしかし、ないとは言えない欠点の中でも最大級の欠点は、なんと言ってもときおり起こる、飲酒時の記憶喪失。本人は七不思議と称しているが、結局残りの六不思議は明かされなかった。毎回ではなく、酒の量にも関係なく、どんな要素が絡んでいるのかまるで不明であって、改善しようにも対処のしようがない、という代物である。
佳那の周りには、いろんな男がいて、といっても別に彼氏とか遊び友達とかいいうのではなく、純粋にただの男だ。講座の後輩である爽やかでなかなかかっこいい青年鷹野、同じく後輩で人形オタクだが秀才の水谷、指導教官である相澤助教授、そして謎の坊さんで時折佳那宅に食事にやってくる巨漢武蔵坊。
こうしたメンツに囲まれ、さらに何人かの男女が出てくるが、とにかく彼女は「どきどき」を探求し続ける。
飲酒時失われてしまった記憶を推理するという点や、「どきどき」の探求の末出会うことになる謎なんかを解くミステリーでもありながら、もちろん佳那の「どきどき」探求記でもあり、そしてなにやらラブストーリー的なこともあったりでなかなか満載の物語である。
とは言っても、内容的にそこまで満足しているわけではない。別につまらなかったわけではないけど、森博嗣にはやはり、S&Mシリーズのような魅惑溢れる謎と魅力零れる登場人物達、あるいは「スカイクロラ」を始めとするシリーズのように、詩的で美しい幻想世界を描く物語や、連綿と続くシリーズのトリを飾る四季シリーズのような、圧倒的な緻密性と緊迫感で物語を畳み掛け収束させるような圧巻さのような、とにかくそうしたものを求めてしまうわけで、あまり使いたくない言葉だし、そこからの脱却によって新たな道が開けるのだろうけど、なんだか森博嗣らしさに欠ける。
とまあ森博嗣にだって書きたい物語や、なんやの事情や、抜け出したい先入観なんかがあるのかもしれないから、まあいいんだけど。
前にも少し書いたけど、文体に関してはかなり特徴的で、「墜ちていく僕たち」にも少し似ているけど、発想の飛ばし方や文章のつなげ方や笑いのひねり方なんかが絶妙で、内容とかではなく文章だけでなんども笑ってしまった。さっきも書いたけど、なんか真似しやすそうだし誰にも書けそうなんだけど、いざ書こうとするとかなり難しい。文体的に勢いよくノンストップで書き続けなければならない感じだけど、スピードを出して書けるほど発想が出てこない。書く際はゆっくりと書き、それでいて読者にはものすごいスピード感を感じさせる文章を書くのは難しい。あるいは森博嗣なら、この文章をテンポよく書くことができるのかもしれないが。
森博嗣の作品は大抵シリーズ化されるから本作も続きが出るのかもしれない。たぶん買わないことはないけど、まあそこまで期待はしないでおこうと思います。
また、本作は連載です。小説以外の連載(Web連載)の例は何度もあるけど、小説で連載、というのはなかなか珍しいのではないかと思います(短編の連載はあるけど)。そういう点でも珍しい気がします。
ものすごくお勧め、ということはないけど、この文体を読むだけの価値はあると思います。ふざけたような文章だけど、読んでいるとツボにはまって笑ってしまうと思います。
というわけでいつものを。あんまり多くはないけど。

(前略)人の話には適当に合わせることができる。そんなことはとても簡単なことで、子供のときから、そうして話しを合わせていれば友達ができることも知っていた。それは、電車に乗るには切符が必要なことと同じだ。切符が買いたくて電車に乗っているのではない。
(後略)

(前略)川から流れてきた大きな桃に、なんの躊躇いもなく包丁をいれる軽率な老夫婦と同様に、人々は、ボーイフレンドやガールフレンドに対して、一種不思議な無防備状態にあって、迷いもなく甘いイメージを抱こうとするのだ、実態を無視して。(後略)

(前略)そもそも、恋愛の対象が他人でなくてはならない点が、実に不愉快だ。
(後略)

(前略)こうやって歌にしなければならないほど、愛とか恋とかというものは、つまらないものなのかもしれない。本当に楽しいものだったら、歌っている場合ではないだろう。失恋が本当に苦しいものならば、歌っている場合ではないだろう。違うか?(後略)

(前略)どうも、自分はそういった見かけを取り繕うというのか、体裁を整えることができない性分らしい。装飾的なことが本質だとは思えないし、そんな上っ面のことで嫌われるくらいならば嫌われてもしかたがない、という考えなのである。これは、実に真っ当なポリシィのはずなのに、どうして、みんなはそうしないのか。自分の方が変わっているのだろうか。
(後略)

森博嗣「どきどきフェノメノン」



零崎双識の人間試験(西尾維新)

いささか場違いな発言でで、僅かほどの自慢も含まないけれど、僕は人を殺したことなんか一度もない。あくまでそれは、肉体的物理的身体的という話であって、精神的な殺人あるいは破壊ということであれば、そうされた当人はどう判断しているかは不明瞭だけど、僕の認識では経験がないでもない。でもまあとりあえず、そうした認識するにも不明確で、確定するにも不鮮明な殺人あるいは破壊はおいておいて、純粋に、肉塊的な破滅による人間の殺人行為について話しをしようと思う。
日本という国は、まだ比較的まともな法治国家であり、故に、このページを見ている人の中にも、人を殺した経験がある人は少ないだろう、という判断はできる。もちろん、法治国家であるが故に、殺人者を永久に幽閉することは叶わないし、そもそも、発覚しない殺人、犯人の見つからない殺人というのも多数存在するわけで正確なところは不明だが、正しく殺人者というのはマイノリティだろうと思う。
少なくとも、安全で快適で悪くない状況に僕たちはいる。
殺し屋、という言葉は、印象として仕事で人を殺す人を指しているように思うけど、そういう人は厳密にいないとは言い切れないだろう。これだけの人がひしめいていていれば、消滅して欲しい個人などそこら中にいるだろうし、需要があればどこからともなく供給というのは発生するのが資本主義社会の基本である。
まあそこまではいい。
けれど、生粋の殺人狂あるいは殺人鬼となると、もはやリアリティを持って現実に存在することはないだろう。
もちろん、突発的に殺人狂や殺人鬼になる人はいるだろう。よくわからない不安定な理由で人を殺し、人を恐怖させる存在。しかしそうした存在も、この世界では、囚われ裁かれ罰せられる。戦争やテロでもない限り、個人が一生で数十人も人を殺す、なんてのは難しい。
しかしもしも、殺人狂として殺人鬼として生まれてしまったら、それは一体どう処理すればいいのだろうか?
存在として人を殺す、という概念はなかなか想像しにくい。生きている限り人を殺したくなるという感情は理解に難しい。
そもそも、人を殺すということは一体どういうことだろうか?
何故人を殺してはいけないのか?というどうしようもなくくだらない質問がある。少なくとも僕の中での答えは、「そういうルールを人間が作ったから」というものであり、ただの多数決でしかない。本質的に概念的に人を殺してはいけない、ということは決してないはずだ。
それは、神様はいるか?という質問と同じで、いると決めたのが宗教であり、いないと決めたのが科学である。どちらが正しいとか、善悪の基準とか、そうしたものとは一切無関係に、決められたことであるからというだけの理由でしかない。
人を殺すということは、結局何でもないことだ。ただの行為であり、好意ではないにしろ、悪意ですらない。そこに理由や理屈を見出そうとするのは、あくまで殺人がしてはいけないと決められたことだからであり、そうでなければ結局、人を殺すなんてことは普通で自然なことでしかない、と僕は思う。
本作は、戦闘と流血に彩られた物語である。殺人鬼と殺人狂と殺し屋が、そこまでも殺しあう物語である。
「欠陥製品」に「人間失格」と評される、零崎一賊の極端にして生まれながらの零崎である零崎人識。その兄であり、「自殺志願」という名の鋏状の凶器を武器とする「二十人目の地獄」零崎双識。兄である双識が、弟である人識を探している。状況はそうした単純明快な言葉で省略できるものである。
一方で、目の前にクラスメイトの死体が転がっていて震える無桐伊織。正当防衛とはいえ、見事な手際でやったこともない殺人をやってのけてしまった彼女は、しかし大した緊迫感も持てないまま、さて警察に自首したほうがいいだろうか、ととりあえず考えている。
双識と伊織は、まさにその殺人の現場で邂逅する。
零崎の誕生を目にし、稀代の殺人鬼になると予測される伊織に対し双識はいくつかの忠告らしきことを言うが、伊織の認識は当然普通の高校生というものであったし、双識の言葉へ理解ができない。一悶着あって伊織が逃走に成功すると、見届けていたように「人形」達が現れ、双識にもはっきりとはわからないものの不信感を感じ取ることができるようになる。そう、そこには、「匂宮」の分家である「早蕨」の影が付きまとう。
双識は三つの課題、つまり、
弟探し。
伊織の保護。
早蕨の始末。
という課題を抱えながら、とにかくあらゆる戦闘を繰り返す。
様々なことが時間と共に一点に収束されていき、多く流された血と共に、閉塞されていく…
という物語です。
「零崎双識の人間試験」というタイトル通り、本作は双識があらゆる人間に対し試験と称する見極めをし、合格不合格を判断する物語でもあります。
双識というのは、零崎一賊にあって、人識には及ばないまでもかなりの異端であり、殺人鬼にして平和博愛主義であり、自らの死を望むような、変わった人間です。合格不合格の基準は多少よくわかりませんが、わかりやすい基準なんか、物事の見極めの出来ない阿呆のために用意されたシステムなわけで、そんなものは不必要です。
何故人間を試験するのか、合格不合格を決して何をするのかも不明ですが、とにかくそういう物語です。
とりあえず、登場人物のほぼ全てが、殺人鬼か殺人狂か殺し屋です。一人として、普通あるいはまともな人間は出てきません。
それでも、それぞれ人を殺すことに対する主義というのか考え方が違います。画一化されない思想がいくつかの派閥を生み、勢力の均衡を一応保って世界が安定している、そういう世界です。
双識も人識も伊織も刃渡も薙真も請負人も決して悪い人ではありません。存在自体が悪かもしれないけれど、総体で悪人ではないという感じです。それぞれにいろいろあり、様々あって彼等が存在するわけで、善悪など簡単に決められない、というだけのことかもしれないけれど、殺人鬼で殺人狂で殺し屋なのに、僕はそれぞれの人が大体好きです。つまり、人を殺そうが殺すまいが、結局本質的に何も違いはない、ということではないでしょうか?
僕らの日常生活には割りと無関係だけど、血が流されることや、人が殺されることや、人を殺すことなんかが一体どういうことなのか、を考える機会にはなると思います。僕たちが今まで人を殺さないでこれたのは、たまたま殺すような機会がなかっただけであって、人は等しく誰もが殺人狂なのかもしれない、というのもまた仮説です。もし自分が殺人狂になったときのために(?)、まあそんな心積もりをするつもりがなくても、是非読んでみてください。

西尾維新「零崎双識の人間試験」



海辺のカフカ(村上春樹)

まずこれだけは書いておこう。
本作は素晴らしい。どんなことがあっても絶対に読むべき作品だと思う。僕が読んだことのある村上春樹のどの作品よりも素晴らしく、そして僕が読んできたかなりの数の作品の中でもかなり上位になる作品だ。
是非とも読んで欲しい。
僕等が、実体として世界に存在している、というのは一体どういうことだろうか?
僕たちは、生きているということに対して比較的疑問を持つことが少ないだろうと思う。歩き物を食べ排泄し睡眠を取り息を吸う。そうした一連の、身体的な機能維持を生きている状態と呼ぶし、考え悩み嘆き喜びといった精神的な活動を生きている価値とみなして、そのことに基本的な信頼を置きながら生きているのだろうと思う。
でも、世界はそんなに安定したものではないように思う。
こうだって考えられる。この世界は誰かの妄想、あるいは夢の中であって、その夢を見ている主体以外の存在は全て、その主体の作り出した幻想だ、と。
あるいはそれは、自分自身が見ている夢かも知れないけれども。
どこにも絶対などないし、自分の存在を確固たるものとして保証してもくれない。ただ僕たちは、ある意味暴力的にこの世に生み出され、境界の曖昧な善悪に満ちた世界の中で、生きていることの正確な意味や価値を知ることもなく生き続け、そうしてあるとき、また暴力的な死にその人生を掬い上げられていく。
そんな、迷宮のような人生を、皆誰もが、大方疑問なく、ある意味仕方なく、こなしている。
生まれる前に誰かが教えてくれたっていい。
子供のうちに誰かが与えてくれたっていい。
大人になる前に誰かが押し付けてくれたっていい。
きっと、そうした運のいい人だっていることだろう。だけど、そうでない人がたくさんいるからこそ、宗教だってはびこるし、哲学だって深まるし、科学は先へと進むし、人間は多様化する。
結局善悪は曖昧だ。
15歳の少年にとって、そんな世界は、そんな人生はどう映るだろう?
僕も15歳だってことはある。その時のことをちゃんと覚えているわけじゃないけど、でも僕なりにいろいろあって大変だった。生きている限りほぼ間違いなく仕方なしに属さなければならない環境に僕は馴染むことも浮き出ることもできずに、毎日必死で、自分と世界との帳尻をなんとかうまく合わせながら、騙し騙し精一杯頑張っていたと思う。
家出をしようと思ったことも何度かある。
僕はタフな15歳の少年ではなかったから、実際に家出という形に落ち着くことはなかったけど、未遂という形で何度か考え半分実行した。
今から考えればということだけど、あの頃の世界は僕には歪に見えた。世界と世界の繋がりで自分をうまく切り替えなければならないような、そんな不連続感があったような気がする。逃げ出すことも前進することも、あるいは目に付く全ての「進むべき道」から消えてしまうことも出来ずに、ただ「前進しているように見せかける術」を自力で学ぶだけの時期だった。
いろんな15歳がいる。
僕のような15歳もいただろうし、全然違う15歳もいたはずだ。そして、本作に出てくるような、タフな15歳も。
内容についてどこまで書こうか、村上春樹の作品の場合いつも悩む。
どこか一部を切り取って全体に見せかける、というようなあらすじを、村上春樹の作品の場合書くことはほぼできない。全体は細部につながり、細部は全体に繋がっている。無関係という関係ですら結ばれた様々な事象を、うまく切り離して文字に出来るようなきりとりせんを、残念ながら見つけることができない。
だから、内容の紹介がひどく簡潔になる。
本作は、15歳の少年田村カフカと、文字の読めない老人ナカタさんの物語である。
田村カフカは、故あって15歳の誕生日の日に家出をすることに決めた。とにかくここにはいられない。そう思っての家出であり、彼はそのうち、図書館に寝泊りすることになる。
ナカタさんは、ある事件を境に文字が読めなくなり、記憶もなくなった。猫と喋れるという能力のお陰で猫探しを頼まれるようになるが、そのお陰で奇妙な旅路へと足を勧めることになる。
これぐらいにしておこう。
この後何を書いていいのかわからないが、僕は本作中で、好きな登場人物が結構いる。なるべく話の筋がばれないように、登場人物について語りたいと思う。
まずは田村カフカだろう。彼は、世界で一番タフな15歳になるために家出をする。彼の行動はどこまでも的確で、とても15歳とは思えない。そして、彼が抱えているものも、そこらの15歳にはなかなかないものだろうと思う。
彼には、家を出れさえすれば基本的には後はどうなってもよかったはずだ。しかし、様々な人と出会い、助けられながらも、皆少しずつずれていて、一つ一つの些細なズレが、彼をとんでもないところまで導くことになる。
生きることや自らの存在について疑問を持ち、そして彼のいう呪いというものに取り付かれながら、彼は常に出来る限り真っ直ぐに生きようと努力し続ける。その姿勢は、なかなかに素晴らしい。
ナカタさんという老人もかなり素晴らしい。文字が読めなく、喋り方がちょっと特殊で、誰にも言っていないけど猫と話せる老人。中野区からはほとんど外に出ないように生活をし、補助と猫探しのお礼で生活している。
ナカタさんというのは、本作でもかなり重要な人物だ。そして僕はかなり好きだ。彼の生き方は、確かに不幸に満ちてはいるが、ナカタさんという存在はいつでも同じ形で存在している。邪推や悪意というものがなく、それが相手にも伝わる。記憶も何も空っぽでも、誰かに何かを与えることができる。
存在自体がかなり現実離れしてくることになるけれども、ナカタさんは同じ形で存在しているし、素晴らしい。
大島さんという、図書館に勤める人もなかなかいい。地面に対して垂直に立っている、という印象がある。自分なりの考えをかなりちゃんと持っていて、それをゆるがせない。善悪の基準を外に設けるのではなく、内に設ける、つまりちゃんと自分自身の判断で決断できる。
現実感の薄れていく物語の中で、この人はちゃんと世界と繋がっていると思わせる。碇のようなもので、なかなか心強い。
佐伯さんというのが図書館の館長だ。いつも部屋に籠って何か書き物をしていて、火曜日に希望者を募って図書館の案内をする。美しいけど謎めいている。
人生というものを考えたとき、佐伯さんという存在は、水で薄めたコーヒーのような感じがする。どこまで薄めても完全に透明にはならないし、コーヒーとしての価値は下がり続ける。ここからはもはやコーヒーとは呼べない。そんな瞬間を過ぎてなお生きてしまった存在のようで、悲しい。
ホシノさんというのが、途中からナカタさんと旅を共にする青年だ。ホシノさんもナカタさんも、共にそんなに頭のいいほうではないけど、でも彼等の間の会話は常に、何らかの示唆に満ちている。
ホシノさんという青年は、ナカタさんと旅をすることで悉く何かが変わっていく。いい青年であるし、ナカタさんにとってはいなくてはならない存在である。
もっと主要な人物がいたような気もするけど、それほど多くないことに気付く。それで、これだけの、壮大で素晴らしい物語を書いてしまうのだから、やっぱり村上春樹は凄いのだと思う。
村上春樹の文章は前から好きだ。本作での文章も、村上流とでもいうような独特のもので、その文章だけで異世界へ連れていかれるような気がする。やはり時折、僕には理解の及ばない文章も出てくるけれども、それはそれで仕方ない。
もう一度言おうと思うけど、素晴らしい作品だ。僕なんかが言わなくても誰もがわかっていることかもしれないけど、それでもまだ読んでいない人だって結構いると思うし、そういう人に是非読んで欲しい。世界でも評価が高い、というのもわかる気がする。
読むだけで何かが変わるような気がします。僕はきっといつか本作を読み返すことでしょう。是非とも、手にとって読んで欲しい一冊です。

村上春樹「海辺のカフカ」





ウエハースの椅子(江國香織)

僕等の日常をそのまま言葉にしたって、物語にはならない。いや、物語にはなるけど、人を惹きつけるものにはどうしたってならない。
どうしてだろうか?
僕が思うに、小説と現実との最大の違いは、そこに生きる人々の生き方の差だろうと思う。
現実に生きている人は、物語るために生きているわけではないから、脈絡のなさや不合理さも、別に問題なく日常に持ち込める。本筋がどこなのかももちろんわからないし、自分が主人公なのかもわからない。物語るために生きていない、という点は大きい。
一方で物語の中に生きる人々は、どうしたって物語るために生きている。なんらかの本筋があり、その本筋を辿りながら日常を生きている彼等は、どれほどリアリティにこだわったって、現実に生きている人と同等にはなりはしない。
だから作家は普通、現実世界を舞台にしながらも(もちろんそうでない作品も多いけど)、そこに生きる人々は、物語るために存在させる。現実に生きる人に近づけようとしても、限界がある。
けれども、本作からはどうも違う印象を受けた。
本作は、ストーリーがない、と言っていいだろうと思う。だからなのかもしれない。作品の中で生きている人々は何も物語らないし、だからこそその存在は、現実に生きている人のように感じられた。
確かに、本作に出てくる人のように生きることは不可能だろう。
それでも、他のどの作品とも違って、本作の登場人物は、みんな現実に生きているような感じがした。
不思議なものだ。
ストーリーはない、と書いた。それは間違いない。でも、軽く内容に触れます。
38歳の女性、私。恋人がいて、私は彼のことが好きで仕方ない。彼の体は私を信じられないくらい幸福にしてくれる。
私は画家。母と同じ職で生きている。結婚はしていない。部屋に来るのは、恋人と宅配の人と猫とそして妹。
恋人と会い、絵を書き、散歩に出るような毎日。
子供の頃の一瞬を切り取ったようなエピソードが随所に描かれる。
絶望が時々私を訪ねてくる。
一人の女性の、周囲との、摩擦のような人間関係を、そして過去の自分との重ねあわせを描いた作品。
解説の人も書いていたけど、僕は読み出しでこう思った。諸事情あって急いで読もうと思っていたのだけれど、読み始めてすぐそう感じた。
これはかみ締めるようにして読むべきだ。
言葉に引きずりこまれるような感じだった。出だしの文章であれほどぐぐっと掴まれたのは、かなり珍しい敬虔だと思う。
江國の作品は、読んだものについては全てそう思うけど、言葉の選び方使い方が驚異的に見事だと思う。意図的にひらがなで表記しているのだろう、と思わせる箇所や、聞きなれない、でも新鮮でぴったりの、擬音語に似た感覚表現など、この雰囲気は江國にしかだせないだろうな、というものだった。
また、本作は過去や現在の小さなエピソードを連ねるようにして成立している作品だけれども、その一つ一つのエピソードが素晴らしいと思う。よくもまあそんな視点から物事を見、そして的確に表現できるものだな、と思った。それぞれのエピソードがどうしてそういう順番で並んでいるのか、という点については明確な意図を感じ取ることができなかったけど、それぞれのエピソードが、まるで主人公を包み込むようにして厚みを増していくのに対し、一方で主人公の纏う皮を静かに剥いでいくような、そんな印象も受ける。何にしても、絶妙だ。
もちろん、ストーリーのない作品は基本的に苦手だし、恋愛小説も得意じゃない。でも、絶賛というわけでもないけど、ストーリーのない恋愛小説という点から見れば、俺にしたら素晴らしくいい作品だと思う。
相変わらずの透明感は素晴らしいし、言葉も見事だ。うまく表現できない何かが、この作品をよくしているように思う。
恐らく遠い将来、僕は本作を読み返すだろうと思う。その時には、こういった作品を素直に読めるようになっているかもしれない。きっとそういうのを成長というのだろう。
僕等はだから本を読む。

江國香織「ウエハースの椅子」




赤・黒―池袋ウエストゲートパーク外伝―(石田衣良)

ギャンブルの何が一体いいのか、僕には基本的にさっぱりわからない。
一度だけ、パチンコをしたことがある。3000円ぐらいしか使わなかったけど、うーん、って感じだった。ただ玉が踊り狂っているだけで金が入る、というのはまあいいのかもしれないけど、でも逆に言えば、ただ玉の動きを見ているだけのものだ。動的に面白い要素はない。
それでも、世の中には、中毒と名が付くぐらいのめり込んでいる人が多くいる。僕の身近にも、さすがに中毒とはいかないまでもギャンブルにはまっている人はそこそこいるし、そういう人はやはりやめられないようだ。
ひりひりとするような緊張感、というのはわからないけでもない。
カイジという漫画を読んだことがあって、今でも読んでいるけど、あれは素晴らしい。実際に自分でギャンブルをやっているわけではないのに、ゾクゾクとするようなあの緊迫感は、確かにやっている者にとっては代えがたいものなのだろう。
背負っているものが大きい、というのもあるだろう。のめりこめばいくほど、莫大なお金が絡んでくる。やばい、と思いながらもその背徳感に酔っている、のかもしれない。
頭で想像してそれなりに理解することは不可能じゃないけど、でも僕はギャンブルにははまらない、と思う。
大抵、ギャンブルにはまってしまった者は墜ちていく。墜ちていきながらも、それでもなおギャンブルで一発当てる、まあそれはギャンブル系の小説の王道だろう。
本作も基本的にはそんな物語である。
映像ディレクターの小峰は、バカラを通じて知り合った村瀬という男に、ある狂言強盗の話を持ちかけられる。カジノの店長平山と、どこかで見つけてきた銃撃役の男の四人で実行した計画は次のようなものだ。
店長平山は、毎週末に店の売り上げを運ぶ。その途中で強盗に遭った、と装う。平山は形だけ銃で撃たれ、犯人像については外国人だという。もともとは違法な賭博で儲けた金。盗まれたそのままの金額で被害届が出せるわけがない。思いつくかぎり完璧な計画だった。
数分の仕事を終えた翌日、金の分配のために集まった男達は、予想もしない出来事に巻き込まれる。銃撃役だった鈴木という男が、村瀬に銃を向け、全額金を寄越せ、と迫ったのだ。悪いことが重なって村瀬を殺してしまった鈴木は逃亡。小峰も恐る恐る現場を離れ自宅へと戻るが、そこで待っていたのは明らかに筋者の3人の男だった。
小峰は抗う余裕もなく連れて行かれた。氷高組というその組事務所で、小峰は計画が漏れていたことを知る。五千万の借用書にサインをし、一生氷高組に奉仕する人生が目前と迫った中、小峰はある取引を持ちかけた。
銃撃役を見つけ、金を回収できたらチャラにしてくれ。
それから小峰と、氷高組のサルという若い男とで、銃撃役を探す探偵の真似事が始まったが…
とそんな感じです。
まず、池袋ウエストゲートパーク外伝と言っているぐらいで、本編との繋がりがちらほらと出てきます。基本的には別の作品だけど、舞台は池袋~の世界と同じです。共通する登場人物で一番多く顔を出すのはサルだけど、他にもちょこちょこでてきます。
石田衣良の作品は、池袋というごみごみしてアンダーグラウンドを抱えたブラックな街を描いているにも関わらず、どこかスタイリッシュという言葉が似合います。背景は常に密集した建物郡であるにも関わらず、汚い場所を歩いている、という雰囲気を出させません。それでいて、池袋という街の雰囲気を描き出せていないかと言えばそんなこともないので不思議なものです。
登場人物も皆、地下で日々を生きているような人々で、そこにはたくましさがあります。安全にただ日々を虚ろに生きている表の人間とは違い、様々なものを抱えながらも、それでも歩きだそうとする力強さがあります。決していい人ばかりではないけど、悪い人だって悪いばかりではない、というのが石田衣良の作品の特徴だと思います。
本編とは少しだけ違う趣の本作。読んでみるのはいかがでしょうか?

石田衣良「赤・黒―池袋ウエストゲートパーク外伝―」



ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ(滝本竜彦)

世の中って奴は、馬鹿馬鹿しくって嫌になっちゃうくらい複雑だ。そんな感じのことを、登場人物の一人は言う。
まあ、そりゃあそうだ。こんだけわんさか人が生きていて、しかもそれぞれ考えてることが違うていうなら、そりゃあ複雑にならないわけがない。歩いてて鳩のフンを食らっても、通りすがりにいきなりナイフをつきたてられても、あるいは突然ミサイルが飛んできたって、まあしょうがねぇよな、って思ってしまうぐらい、世の中ってのは複雑に出来ている。
だからなんだ、ってことはないけど、複雑になればなるほど、どんどん生きにくいよな、ってのはまあ間違いないわけで。
人生に選択肢がある、とかってのはもはや幻想で、いや幻想のはずで、誰だってなんかの大きな流れとかうねりとか、とにかくそうした何かに巻き込まれながら、それでも、いや俺は私はこの道を必死で自分で選択して努力してしがみついて獲得して完璧ではないにしてもそこそこ満足でいい選択だったよ、なんて意味不明な自慢を胸に生きていくしかないんだろうけど、でもそんなのは幻想だ。
強いものはいつだって勝つし、弱いものはいつだって負けるしかない。強いものが弱くなったり、弱いものが強くなったりすることはあるけど、でもそんなの個人の努力じゃどうにもならないし、時代とか常識とか経済とか政治とかそうしたなんだか手の届かないわけわかんないものが、いろんなものの強弱を決めたりとかしているわけだ。
だから、結局どうしたって、なるようにしかならない。
今の若者は覇気がないとかやる気がないとかだれているとか、そうしたことをしたり顔で言う大人がきっとどこかにいるんだろうけど、それはきっと、馬鹿じゃないからで、世の中の仕組みって奴をちゃんと理解していて、確かにがむしゃらに頑張れば一段も二段も上にいけるんだろうけど、でも行ったところでまだ上はあるんだし、だったらちょっと上がったぐらいで幸せになんかなれるのか?みたいな、そうした悲観的な先読みの能力ばっかりが先行しちゃって、だから努力とか堅実とか根性とかいう言葉をデリートして、なんもかんも諦めて生きてくのがやっぱいいんじゃん、なんて結論に達しているだけであって、それは全然、若者だけのせいじゃないはずだ。
彼等にだって、戦う理由と戦う相手さえいれば、バブル期のサラリーマンにも引けを取らないがんばりっぷりをみせるはずなんだけど、でも、そのどちらも今の世の中って奴から見出せない、ってことだきっと。
そう、戦う理由とその相手。
本作は、戦う高校生の物語なのである。
高校二年生で、特に不良でも優等生でもなく、特徴や特技があるわけでもないただの平凡な山本は、ダラダラとした毎日を特に何をするわけでもなく適当に過ごしている普通の高校生である。
そんなある日、まさに偶然に、戦う美少女と遭遇する。彼女が戦っているのはなんと、ブンブンとチェーンソーを振り回す怪人で、なんとナイフが心臓に刺さってもしないない化け物なのだ。
山下は、美少女の危機を救おうと加勢するも邪魔にしかならないわけだが、彼には、どうみたって悪人であるその分かり易すぎる敵チェーンソー男との戦闘に惹かれ、毎夜繰り返される美少女とチェーンソー男との戦闘に首を突っ込むことになる。
謎の美少女は、近くの高校に通う高校一年生雪崎。俊敏な動きと、細い体からは想像もできないパワーを秘め、さらにはナイフを自在に操る彼女は、当然というべきか山本の介入を拒むが、山本は自転車での送迎役を買って出て、毎夜彼女と共にすることに。
だがしかし、何のために戦っているのかわからない。彼女もだが、何故自分がこんな戦闘に首を突っ込んでいるのだろうか。平凡な高校生で、これからもありきたりでわかりやすい人生を歩むしかない自分を、少しでも脱線させたいっていうことなのか?
もちろん、毎夜会うことになる雪崎とは、あれやこれやとありながらもそれなりにいい関係になっていくのだが、何気ない高校での生活と、チェーンソー男の戦闘とのギャップや、相変わらず目的のわからない戦闘に首を突っ込んでいる疑問なんかを全部うっちゃって、青春を戦闘に消費していく…
とまあそんな感じです。
設定や登場人物なんかは、ありきたりなライトノベル的(とはいうものの読んだことはないけど)だけれども、でも浅くはない。それは、チェーンソー男という、あまりにも分かり易すぎる敵が、一体何を象徴しているのか、という点にあるのだろうと思う。
誰だって、戦う理由と戦う相手がいれば、戦うだろう。そんなもんだ。それが、どんな結末を導こうと、どんな影響を与えようと、どれほど不本意で不条理でも、そんなもんだ。それは、過去の戦争のことを少しでも知ればわかることだろう。
今の世の中、何に向かって戦いを挑めばいいのかわからない。善悪、という分かりやすい二元論の通用しない世の中なのだ。誰しもが、形のないわかりずらいいやらしい敵と、それが何なのかもちゃんとわからないまま、戦わざる負えない状況なのだろうと思う。
チェーンソー男は、結局は誘惑だ。完全で分かり易すぎるくらい悪い存在だけれども、人を惹きつける。現実逃避のできる存在なのである。
若者は、そうした何かを常に求めている。大人がちゃんと与えてくれない、与えようと思っても与えることのできないそうした存在を、若者は必死で探しながら、戦ったり戦い続けたりしながら生きている。
誰だって幸せになりたい。でも、結局幸せなんて、個人が勝手に決めるものなのだ。戦い続けることがいかに消極的だって、それが幸せなら仕方がない。
そんな、若者の悩みとか苦しみとか葛藤とかを、そんな言葉一切を全部チェーンソー男の存在に押し付けて描かれた作品であって、結構僕は好きです。
乙一や西尾維新的な共通項を見出せそうな作品であり作家です。割と一部では注目されていると思うけど、もっともっと注目してもいいと思います。

滝本竜彦「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」




空中ブランコ(奥田英朗)

人は誰だって悩むものだ。意識があり、思考し、記憶が残る以上それは仕方ない。悩まない人間なんかいない、とは言い過ぎかもしれないけど、悩まない人間を僕は人間と認めないから、あながち間違ってもいないだろうと思う。
いろんなことで人は悩む。それはそれは様々な悩みがあることだろう。人の数だけ悩みがあると言っても過言ではないだろうと思う。もはや、個性と同じだろう。
そして、人によって解決の仕方もそれぞれだ。原因を見つけられればそれを取り除けばいいし、そのために誰かに協力してもらうかもしれない。原因がわからず誰かに相談したり、誰にも相談できずに死を選んでしまう人だっているだろう。
僕も、少し前まで最低の状態で、本気で死ぬことだって考えたし、それだけが原因でないにしろ大学だって辞めた。考えることに疲れ、でも誰かに相談することはなかなかできなくて、自分の中に閉じこもり、あらゆることから逃げて、現実を直視せずに、ひたすら後ろ向きだった。
そんな僕も、色んな人の協力や、さまざまな出来事を境に徐々に回復し、今ではなんとか正常を取り戻しているとは思うけれども、またいつあんな感じになるかと思うと、少しだけ恐い。
そんな最低の状態の時に、伊良部と出会っていたら…と想像すると、少しおかしい。
本作は、「イン・ザ・プール」の続編で、トンデモ精神科医の伊良部という男の奇行が描かれている作品なのである。
首が見当たらないほどの二重顎で、巨漢。子供のように無邪気で、常識が通じないのはもちろん、会話すらまともに立ち行かない。医学界ではかなり有力な立場にいる父のお陰で、父を院長とする病院の精神科の医師としていられている。患者に注射をするのが大好きで、その様をじっと見ている。とにかく、どんな患者にもとりあえずビタミン注射をする。注射をするのは、ミニスカナース服でFカップの美人看護婦なのだが、この看護婦も、無口でなかなか一筋縄ではいかない曲者である。
とまあ、とにかく変態の精神科医伊良部が、様々な悩みを抱える人々に対して、診療という名の無邪気なじゃれ合いをする物語である。すごいのは、じゃれあっているだけなのに、患者の悩みはいつしか消えている、という点だが。
もし、伊良部のような、ノーテンキで馬鹿な人間に、あの当時出会っていたら、もう少し別の道があったかもしれないな、と思うと少しおかしい。
患者が抱える悩みというのは、ほぼなんらかの強迫症である。何かが気になって気になって仕方なくて、という神経症であり、皆カウンセリングを目的に伊良部の元を訪れるのだが、伊良部は一向にカウンセリングなんかしないのである。
伊良部、という、果てしなく強烈なキャラクターを中心にした、ある意味ギャグ的な作品ではあるけれども、そこには、人間の闇が、笑いに交えてしっかりと描かれている。賞を取ったからどう、とかいうつもりはないけれども、本作は直木賞を受賞している。確かに、ギャグ的でふざけている感じは受けるけれども、一歩間違えれば人ごとではないし、もしかしたら伊良部のような「治療」が、一番有効なのかもしれないとも思う。
僕は思う。きっと、道端で擦れ違う誰もが、外からはわからないけれども、なんらかの闇を抱えているはずだ、と。みんな、それを何らかの形で処理しながら、ちゃんと生きているんだと。こんなことに悩む患者がいて、そんな患者よりもさらに壊れた精神科医がいたって、別におかしくなんかない、となんだかそんな気分にさせられます。
正確な情報ではないかもしれないけど、本作か、あるいは前作「イン・ザ・プール」が、ドラマだか映画になるようです。伊良部役が確か松尾スズキだったような。ちょっとだけ、興味があったりします。
それでは、それぞれの短編を紹介しようと思います。

「空中ブランコ」
サーカス団のエース団員山下は、ある時期を境に空中ブランコに失敗するようになった。それは、キャッチャーである相方が、内田という男に代わってからだ。山下は考える、きっと、内田が嫌がらせをしているんだ。なんてことだ…と。上司や妻に、精神科へ行くことを勧められ渋々行くことにしたが、そこで出会った伊良部が、何故かサーカス団で空中ブランコの練習をすることに…。人間不信の山下と、誰にでもすぐに取り入ることのできる伊良部の物語。

しかしまあ、自分のことは自分が一番わかっている、なんてきっと嘘ですね。

「ハリネズミ」
尖ったものを見るとじわっと汗が滲みでて、気分が悪くなる…そんな先端恐怖症になってしまった、やくざの若頭猪野。つまようじも箸もダメで、同棲している水商売の女にも呆れられている。周りにはなんとしても知られるわけにはいかないが、治さないわけにもいかないと、伊良部の元を訪れる。先端恐怖症なのに注射をされ、やくざの看板が効かない世界に戸惑う猪野。やがて、血判を送るという話になる。それはつまり、親指をナイフで切らなければいけないということ。一体どうすればいいのだろう…

譲れないものを持つことは大事だけれど、それだけが全てではないでしょう。

「義父のヅラ」
学部長の娘と結婚した池山。精神科医である彼は、最近ある衝動にかられるようになる。周囲を困らせたいという衝動で、並んだグラスをなぎ倒したり、非常ベルを鳴らす、といった誘惑といつも戦っている。何よりも一番困るのは、義父である学部長のヅラを、衆人の前で取ってしまいたい、という衝動だ。同業である伊良部の元を訪れると、破壊衝動を代償行為ではらせてやればいい、ということになって…

しかしまあ、伊良部というのは、留まることをしらない。

「ホットコーナー」
一塁への送球がまったく定まらなくなってしまった三塁手坂東。肩の故障ということにして調整をしているが、原因がまったくわからずに途方にくれている。友人には打ち明け、精神科へ行くことを勧められたが、伊良部はキャッチボールをしようというだけで、特に治療らしいことは何もしない。そのうち、キャッチボールも制球が定まらなくなっていき、坂東は焦っていく。アイドル並の人気を得つつある、坂東の代わりの三塁手である鈴木の存在が気になるところだけれども…

「君は一体どうやって歩いているの?」と問われたムカデが、歩けなくなってしまった話を思い出しました。

「女流作家」
締め切りに追われる、恋愛小説作家星山。彼女は、今書いている小説の設定を、過去にも書いているのではないか、という強迫観念に囚われている。そう思い込んだら、かつての著作に目を通さずにはいられない。嘔吐を繰り返すようになり伊良部の元を訪れたのだが、伊良部は作家デビューをしたい、とわけのわからないことをいい、星山に呆れられる。編集者や、同業の作家などとの関係や、彼女がかつて書いた、売れなかった大作の存在が、彼女にのしかかる…

やはり作家というのは大変なんだろう。きっと、奥田氏自身の経験も含まれているのだろうか。

どの作品も、爆笑間違いなしの銘品です。是非読んでみてください。

奥田英朗「空中ブランコ」



頭蓋骨の中の楽園 LOCKED PARADISE(浦賀和宏)

侮れない作家ではある。
彼の作品の感想を書く前には、やはり、彼の経歴については書かないわけにはいかないと思う。
19才でデビュー。
最近は若い作家など割りと目新しくないが、作品のスタイルという点においては、他のどの作家とも交わらない、と思う。
彼の、英語の副題がついている、講談社ノベルスの作品は、基本的に繋がっている。というと、ただのシリーズ作で、登場人物が同じなだけだろう、と思うかもしれないが、彼の作品はそうではない。
前の作品を読んでいないと、次の作品に繋がらない。登場人物の設定がわからないとかそういうレベルではなく、内容的に見事に連結されていて、どの作品も、後に書かれる作品の前フリなのではないか、とも思わせる。
その、世界構築のスタイルはすごい。デビュー当時からジャンル分け不可能な作品を生み出す著者だが、今回の作品は、比較的普通のミステリである。
デビュー作「記憶の果て」で主人公だった安藤直樹が探偵役である。彼は表情が失われていて、決して笑わない。
穂波は安藤と同じ大学に通っている。周囲から、ほぼ唯一の安藤の友人と認識されている。菅野という女性に憧れている。
穂波や菅野や安藤やその友人達との日常が描かれていくが、ある日突然、菅野の首なし死体が構内で発見される。
その後、首なし死体は続けて見つかるようになる。しかも、穂波たちの割と近い人間関係の範囲でだ。
さらに、菅野の死が、それ以前に発売された小説の中で予告されていたのでは?という疑惑も持ち上がる。以前に自殺した二人の作家の存在や、殺された菅野の兄の事件も結びついていく。
一体誰が何のために、というミステリお約束のラインは確保しつつも、自世界を完全に展開していく物語。最後に安藤が微笑む時、真実は崩壊する。
恐らく、がちがちのミステリ好きには合わないだろうと思います。というのも、安藤という男は、最後に事件の説明をする探偵役であるにも関わらず、探偵らしいことは特にしません。かといって周りの人間に情報を集めさせて安楽椅子探偵を気取っているわけでもありません。安藤は、小説内では描かれていないどこかの場面で独自に勝手に情報を集め、それを元に推理を組み立てていくのです。その情報は、読者にももちろん与えられますが、探偵の行動とともに知っていく、というようなスタイルではないからです。
本作は、僕にはちょっと…、という感じでした。登場人物がどうにも記号的で、あまり魅力的ではなかったからです。文章がちょっとな、というのは前の作品でもそうだったわけですが、内容的に前に比べたら地味になっていて、アクロバティックさが足りないかな、という風に感じました。
確かに、かなりの才能のある作家だと思います。少なくとも、物語の内容と構成力は第一線の作家にも引けを取らないだろうと思います。それでも、エンターテイメントであるからには、やっぱり魅力的な文章と登場人物が必要だと思います。それが加わればかなりすごい作家になるだろう、と偉そうなことを言って感想は終わりにします。

浦賀和宏「頭蓋骨の中の楽園」



巷説百物語(京極夏彦)

真実は作られる。
真実、というのは、誰にとっても共通だと思っている人が多いような気がするけど、絶対にそんなことはないと思う。
「起こったこと」を認識して「事実」となり、その事実を解釈することで「真実」ができあがる。
だから、人の数だけ「真実」がある。ちなみに、最も大多数を占める、あるいは占めるべき「真実」が「常識」と呼ばれる。
いつの世も、真実は作られてきた。
分かりやすい例を出そうと思う。
昔、ネッシーという巨大生物の存在は、かなり多くの人の中で「真実」だったし、また、いるのかもしれない、と思っていた人は結構いたことだろう。
しかし、あれは紛れもなく、「作られた真実」だった。
いつのことだったか忘れたが、あれはラジコン模型を改造して作ったものを浮かべて撮った写真だ、ということが明かされた。
そういう特殊な例ではなくても、普段から真実は作られている。新聞やテレビのニュースは、いつだって「真実」を捏造している。別にウソを書いているとかいうわけではなく、意図した方向に考え方を誘導する、というやり方は日常茶飯事だろうと思う。
宗教やニュースや何にしろ、何かを信じるということは、誰かの「真実」を信じるということでしかないし、どこかに、「絶対の真実」とやらが鎮座しているわけでもない。
そういうことを、忘れて生きていく。きっとそうすることが楽に生きていくコツなのかもしれない。
本作は、「真実」を作り出す有象無象の物語である。
京極夏彦の作品は、とりわけ京極どうの出てくるものは、基本的にそういう話ではあると思う。不確定なものを言葉で紡ぎ、最も周囲を納得させやすい強力な「真実」を作る、というわけだ。しかし、「起こったこと」には京極堂の作為はなく、起きてしまった「事実」を組み立てて「真実」を作り出す。
本作で違うのは、「起こったこと」に既に作為があるということである。あらゆる仕掛けを用いて都合のいい「事実」を並べ立て、その作為のたっぷり詰まった「事実」を元にして、最終的な目的を達成できる「真実」を作り出す。そんな話です。
早い話、嘘偽りで相手を謀り、誰かからの無理難題をなんとか解決する裏稼業達の物語なわけです。
本作は短編集なんですが、いきなり解決編のような感じのする物語です。解決編のはずなのに、何を解決するのかわからず、解決策自体が謎、という奇妙奇天烈さです。
「真実」を作る、という言葉そのままの物語で、やはり京極夏彦は見事だな、と思いました。
どの依頼もかなりの難題で、普通にやってはどうにもならないものばかりだけれど、小股潜りの二つ名を持つ口の達者な又市を始めとする集団が、ものの見事に解決する手腕は素晴らしいです。
というわけで、それぞれの短編を紹介しようと思います。

「小豆洗い」
雨に降られ、ある小屋で雨宿りすることにした僧。その小屋には結構な数の人々がいて、止まない雨を背後に、百物語でも、ということに。全国行脚で不思議な話を仕入れている百介はこれ幸いと話を聞くが、どうにも様子がおかしい…

語りのみで謀る見事さが圧巻です。

「白蔵主」
狐を殺して皮を売っていた猟師が、狐を奉ったと言われる祠の前である女に出会う。奇妙なその邂逅を人に話せば、そりゃあ狐に騙されたんだ、とこう言う。百介が話す狐の話を聞いてその猟師は…

実はちょっとあまり印象に残っていない…どんな仕掛けだったか…

「舞首」
怪力に任せて女を浚って陵辱する大男、人と見れば斬りたくなる侍、極道の頭で非道なことを繰り返していた男。この三人が、又市等の仕掛けで吸い寄せられるように一所に…そこで一体何が…

あまり想像したくない最期です。なんだか、あまりにシュール過ぎて現実感が失われそうな気がします。

「芝右衛門狸」
人に化けたる狸がいる、と評判になった屋敷。その主人は完全にそれを信じ、家人もまあそうなのかと思っている。周囲も、あの主人がいうなら…という感じ。一方で、人形遣い一座に身を寄せることになった一人の侍。暴れてかなり困り者で手に余るが、藩主からの依頼であるため断れない。この二つが交じるとき…

全作品中、もっとも見事だと思いました。又市が抱えた難題を、確かに唯一解決しうる奇策だな、と。

「塩の長司」
塩で財を成した先代の娘婿となり、馬でさらに財を増やした二代目。ある時盗賊の襲撃に遭い家族を失い、一人生き残った二代目は、その日以来おかしくなった。人前に出なくなり凶暴になった二代目は病に倒れ…

呑馬術、というのがどうもイメージできないのだけれど…

「柳女」
ある宿屋の中庭には、それはそれは巨大な柳が聳えている。祟りありとまで言われる柳だか、実際に祟りらしきことが起きてしまった。今の代の主人の子供の首が柳に絡まり死んだという。その後も不幸は続き、それ以上の凶事を防ぐため、又市が乗り出す…

今回は、仕掛けというほどの仕掛けはまあないけど、かなり異常な真相です。

「帷子辻」
帷子辻、と呼ばれる辻で、腐乱死体が見つかるという事件が相次いだ。そこにずっと置かれていたわけではなく、腐乱してから捨てられた死体。遺体になってから盗まれたり、自殺死体もあったりで、誰が何のためにしているのかまったく不明。又市の仕掛けが事件を暴く…

これもまた見事な手腕で、そして先に負けず劣らず異常です。「嗤う伊右衛門」との関わりも少し。

どれも、京極夏彦ならではの絶品です。是非どうぞ。

京極夏彦「巷説百物語」




ダウン・ツ・ヘヴン(森博嗣)

地上は汚い。
美しいものなど淘汰され、
腐ったものだけでできている。
きっと、
汚いものは、
重たいのだろう。
綺麗なものは、
空にしか、
残ることはできない。
地上は汚い。
でも、
その地上に足をつけなければ、
僕たちは生きることはできない。
例えどんなに優秀なパイロットでも、
空の上で寝るわけにはいかないし、
時にはシャワーだって浴びたいものだ。
汚いものに囲まれて、
その中で必死に自分を確保しながら、
一瞬の空を追う。
その素晴らしい一瞬のために、
腐ったものを飲み込む。
それが、
生きている、ということ。
空を飛ぶ、という意味は、
飛んでいる人間と、
飛ばない人間では、
まるで違う。
戦う、という意味も、
戦っている人間と、
戦っていない人間とでは、
まったく違う。
生きているということ。
その意味だって、
生きている人間と、
生きていない人間とでは、
全然違う。
「ダウン・ツ・ヘヴン」
「Down to Heaven」
死ぬことを意識できる者だけが、
生きている。
死ぬことが全てだ、とわかっている者だけが、
死んでいない。
天国はいつだって、
僕たちのいる、
ほんの少し上にある。
それは、
地上にいたって、
空にいたって、
同じこと。
その、ほんの僅かな距離を、
いつも意識し、
触れようと手を伸ばす。
生きるって、
きっとそういうこと。
墜ちていく先が、
天国なのではない。
天国だと、
意識した場所に墜ちていくこと。
死ぬって、
そういうこと。
そんな人生が、
静かに描かれている。
内容に入ろうと思う。
僕は、戦闘中に被弾した。相手の力量と、僕自身の僅かな油断が招いたミスだった。地上に戻った僕はそのまま入院させられることになった。飛べないことへの不満はあったが、ある意味命令であり、仕方なく従った。
その病院で、一人の少年と出会う。函南と名乗る少年は、どうも記憶が不確かなようだ。かつて戦闘機乗りだった気がするようだが、定かではない。函南は僕に、自分の見る夢の話をした。
僕はその後、立場が大幅に変わっていく。記者の前に連れ出されるほど、どうやら自分には人気があるようだ。よくわからないが、会社にとって自分が重要な存在になってきているようだ。問題は、戦闘業務から遠ざかっているということ。空を飛べない不満と、広告塔にされているという状況自体に、僕は少し安定を欠いている。
講習のために、お遊戯のような飛行をするような生活m終わり、また別の場所へと移動になる。そこで言い渡された新たな指令。命を賭してもいい、そう思えることだったはずなのに…
汚れた地上の世界をうまく消化できずに、それでも、飛ぶために、また戦うために生きるしかない僕の、成長の物語。
僕のおかれた状況は、確かに不合理だと思う。切に望み、馴染もうと努力した状況から、努力すればするほど引き離されていく。生きていくことにつきまとう様々な不愉快さを、努力と栄誉と共に引き連れてしまっている。
生き方に責任が伴うかどうかはわからないけど、少なくとも、生きていることは全てから自由だと思う。生きるために最適な生き方を選択しなければいけないのだから、生き方だって自由であってほしい。
でも、やはりそうはうまくはいかない。生き方をどんどん押し付けられる格好になった僕は、なんとか処理しようと努力する。汚いものを飲み込む努力を続ける。
確かに、そうしたことは、どの世界でも必要だろう。でも、飛行機に乗りさえすれば誰よりも高くいられるのに、地上では、みんな同じ高さにいるのに、人には上下がある。地上で人を見下ろすには、偉くならなければならない。そんなの、不合理だと思う。
だから、悲しい。このシリーズは、どこまでも悲しい。それは、戦闘で人が死ぬからとか、キルドレという存在そのものとか、そういう悲しさでは決してない。生きている、ということに付きまとう悲しさを全部集めて凝縮したような、そんな悲しさだ。
自分よりも、ほんの少し上にある天国に、どうにかして墜ちていく。それを望んだ飛行機乗りの、悲しい生き方が描かれているように、僕には思えます。
やっぱりいい作品です。森博嗣の様々なシリーズの中でかなり好きな三つの内の一つになりました。S&Mシリーズ・四季シリーズ、そして本シリーズです。是非、読んで欲しいと思います。
それではいつものを。

(前略)
そもそも、人間って、空から墜ちてきたのかもしれない。
それが生まれるということ。
墜ちるのが恐いのは、もう生まれたくないって、思うから?
それじゃあ、死んだら、上がっていく?
どこへ?
(後略)

(前略)空に上がれば、靴の紐なんて無関係だろうけれど、でも、結び直すことは難しい。これが、地上にいる、ということのシンボルだろう。毎朝ベッドから出るたびに、僕は地上にいる、という確認をする。何度も、この紐を結んだ。この紐を結んでから、地上を離れる。
(後略)

(前略)
「武装さえすべて外せば、とんでもなく軽い飛行機になる。ボディを全部プラスティックにするよりも、ずっと軽くなるんじゃないかな」
「だけど、何のために飛ぶのかってことになるよね」
「そうそう」笹倉は顔を歪ませる。「そこんとこは、まあ、人間と同じだ」
「え、どうして?」
「仕事をしないでぶらぶらしていられるなら、誰だって、シンプルで善良な人生が送れるってこと」
(後略)

(前略)
あの鳥だって、誰の役にも立ってない。空を飛ぶってことは、そもそもそういうことでしかないのだ。
自由って、役に立たないものだ。
(後略)

(前略)能力をすべて人に教えるなんて、そんなぎりぎりのことはしたくない。それを学んだのも学校だった。そう、周囲のみんなは、自分の能力をより大きく見せようとやっきになっていた。いつも背伸びをして、こんなに自分は凄いのだ、とアピールしようとする。先生に認められて、良い内申を取りたかったのだろう。それはつまり、周囲のみんなが味方だと信じている証拠だ。僕は、幸いにもそんなお人好しではなかった。周囲の連中には、わざと手抜きをして、無能な自分を見せるようにしていた。そうでなければ、いざというときに困るだろう。違うか?
(後略)

(前略)一度生まれてしまったら、人間だって乗り換えることはできないのだから。
(後略)

(前略)
「撃つ瞬間はどこを見ていますか?」
「次の敵」
(後略)

(前略)
「予感です」そう答えたけれど、それは二番目に思いついた言葉だった。本当のところは、「諦め」だと思える。
(後略)

(前略)
死ぬことなど、なんでもない。
死ぬために、生きているのだ。
(後略)

(前略)
死んでいる者たちは、綺麗に死ぬことができないからだ。
(後略)

(前略)言葉をどんなに尽くしても、絶対に本当のところは伝わらないだろう。なにしろ、理解よりもまえに、嫌悪や懐疑、あるいは同情が入り交じる。そういった余計な感情が理解を妨げるのだ。あるところまで話すと、もう言葉の意味を受け入れてもらえなくなる。そうにきまっている。いつもそうなのだ。
(後略)

(前略)
もしかしたら、そちらが上かもしれないな。
僕の上に、地球が浮かんでいるんだ。
(後略)

(前略)
「いい?悔しかったら、人より高いところへ上がるしかないのよ。見下してやるしかないのよ。雲の上まで行ったことがあるのなら、わかるでしょう?」
(後略)

(前略)
誰のための涙でもない。彼女は自分のために涙を浮かべたのだ。それだけが、本当の涙だ。
(後略)

森博嗣「ダウン・ツ・ヘヴン」



ナ・バ・テア(森博嗣)

空を飛ぶ。
何かにとりつかれるようにして、
人はある時から空を目指した。
鳥になりたかったわけではないだろう。
鳥にもなりたかったのだ。
自分よりも能力の高い存在を、
人間は許容できないのかもしれない。
だから、
あらゆる知恵と技術を集めて、
その差を埋めようとする。
傲慢であると同時に、
それは美しさも備えている。
空を飛びたい。
そんな純真な思いを、
美しいと呼ばないでなんと呼べばいいだろう。
空を手にいれる。
確かに、地面の上で、
ありとあらゆるものを失ってしまっても、
まだ価値のあることかもしれない。
生まれながらにして、
戦闘することを、
人を殺すことを宿命付けられた存在。
人は、
時代や場所を問わず、
絶えず戦っている。
何かを守るためにきっと戦っているのだろう。
ただ、
守るものが大きくなればなるほど、
個人にとって、
守る価値は薄れていく。
何故戦闘するのか。
何故人を殺すのか。
戦闘機に乗り、
敵機と戦闘し、
時には人を殺す。
生まれながらにしてそう宿命付けられた、
キルドレという子供たちの物語である。
「ナ・バ・テア」
「None But Air」
「それでも空には何もない」ぐらいの意味だろうか。
そんな何もない空に、
生きている内の濃密な一瞬を、
解き放つように、
また空へと向かっていく。
僕と笹倉は、基地を異動することになった。新しい基地には、ティーチャと呼ばれる、戦闘機乗りの天才がいて、少なからず僕の気は高ぶる。
彼との初フライトをこなす。ティーチャの存在は、僕の中で少しずつ大きくなっていく。
戦闘の日々。偵察任務に出掛け、敵機に出会えば戦う毎日。他人との接触を好まない僕は、笹倉以外とはあまり接触を持たない。
僕はキルドレだ。戦闘機に乗るために生まれてきた子供で、今だって子供だ。そのことについて考えないことはないけれど、考えても仕方がないことだとも思っている。
基地では、戦闘の被害に応じて、人の入れ替わりがある。僕自身は、成績が優秀であるために、新しい未来が拓けそうな感じになっている。ティーチャとの関係は…
空を愛し、戦闘機に乗り、仕事で戦闘をする子供。そんな僕の物語。
前作「スカイ・クロラ」の続きの物語である。とはいっても、主人公は共通ではない。誰が主人公かは、もしかしたら書かないほうがいいだろうか。ただ、読み終えてしばらくして思ったことだけど(きっとそれは遅いのだろう)、「スカイ・クロラ」よりも、時間的には前の話ではないか?と思う。
まず、この戦闘機乗りのシリーズは、ずば抜けて文章が卓越している。文章を読んで美しいと感じることなど、本当に稀だと思う。なんというか、格調が高いという感じ。
舞台は、今よりもう少し先の未来である。恐らく日本で、戦闘状態に置かれている。何と何が対立している戦闘なのかはわからない。それは、戦闘機に乗っている人達もわかっていないだろうと思う。
彼らは仕事で戦闘機に乗り、敵機を倒す。何故敵なのか、を考えることはしない。
読者としたら、そうした背景が描かれていないことで物足りなさを感じる人もいるかもしれないが、僕としてはそうした余分なものを全て取り払ってできているのがこの作品だと思っているから、むしろいいと思った。
本作では、生き方が示唆されているんだと思う。空を飛ぶこと、戦闘すること、人を殺すこと、仲間が死ぬこと。そうしたことを通じて、何らかの生き方を示す。そんな気がする。
いい作品だと思う。
表紙がまた抜群に綺麗でびっくりする。文章の美しさがそのまま表紙になっているような気がする。
是非読んで欲しい、と思います。
というわけで、いつものを。

(前略)優しいものって、どうしてどれも止まろうとするものか。手を広げて、さあここへおいで、と微笑む手は、何故みんな止まっているのだろう
(後略)

(前略)
これだけ願っているものが手に入らないはずはない。
(後略)

(前略)地上では、笑えない。
(後略)

(前略)
自分以外に誰かがいると、そいつとの関係を考えなくてはならなくなる。その苦労に人間はずっと取り憑かれている。
したがって、そういった対比の基準を外側に求めることは、実に面倒だと僕は感じる。
外側には、あまり面白い対象がない。
好きになれるものが少ない。
何故か僕の場合はそうなのだ。
(後略)

(前略)
地上にいると、後ろを見なくて良い。
誰も撃ってこない。
(後略)

(前略)
僕は、空で生きているわけではない。
空の底に沈んでいる。
ここで生きているんだ。
(後略)

(前略)客観的に見れば大差がないことなのに、ある一線から善になる。そういうのが、大人の社会の常識なのだ。
(後略)

(前略)
どうして、普通のものを決めるのだろう。普通を決めるから、普通じゃないものができてしまう。理不尽な話ではないか。何をもって普通なのか。意味はないのに。そういう確固とした理由もないところで境界を無理に作ろうとする姿勢が、普通という馬鹿なやつの正体だ。
(後略)

(前略)大人がおかしいんだ。大人たちが、すべてをこんなにつまらないものに変えてしまった。どうせ自分たちはすぐ死ぬのだから、というやけっぱちで、こんな風にしてしまったのだ。人生は切ないものだから、すべてをさみしくしてやろうと考えたのだ。そんな魂胆だったのだろう。
(後略)

(前略)
「意味がなかったら、それこそ、墜ちていった人たちが、可哀相です。」
(後略)

(前略)
みんな、立派だ。
みんな、立派に生きている。
誰も、死にたくはないし、
誰も、可哀相になんか、なりたくない、
そうならないように、一所懸命生きているのに。
(後略)

(前略)
「何も気にすることはない。昨日や一昨日は、もう来ない。来るのは明日ばかりだ」
(後略)

(前略)
そこには、何もない。
何もないのに…。
支えになるものも、
褒めてくれるものも、
愛してくれるものも、
何もないのに。
けれど、
邪魔なものも。
遮るものも、
僕のことを馬鹿にするものも、
何もないのだ。
躰が軽い、と感じる。
この軽さが、僕のすべて。
愛するために生まれてきたのではない。
愛されるために生まれて来たのでもない。
ただ、軽く…、
飛ぶために、生まれてきたのだ。
(後略)

森博嗣「ナ・バ・テア」



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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)