黒夜行

>>本の中身は(2007年)

ピースメーカー(小路幸也)

内容に入ろうと思います。
本書は、中学校の放送部を舞台にした、6編の短編を収録した連作短編集です。
まず全体の設定から。
主人公の良平は、<二代目ピースメーカー>として、中学入学と同時に放送部に入った。初代は、良平の姉、みさき(みーちゃん)だ。
良平の通う学校は伝統的に、文化部と運動部の仲が凄く悪い。それは、文化部総合顧問の菅野先生と、運動部総合顧問の玉置先生という、二人の古株の先生の争いでもあった。他の先生達もどちらかの派閥にいなくては学内で居辛いようなそんな状況だったけど、でもそんな状況をよく思っていない先生もたくさんいた。
そんな一人である、放送部顧問のコウモリこと中山先生は、小さい頃から知っていたみーちゃんに、放送部に入って文化部と運動部の橋渡しをする<ピースメーカー>になって欲しい、と頼む。
みーちゃんの存在はもはや学校内では伝説になっていて、未だに語り継がれている。けどみーちゃんがいなくなって、放送部は廃れ、文化部と運動部もまた険悪になってしまった。
だから良平は、放送部に入って<二代目ピースメーカー>として、学校をより良い方向にもっていくために頑張るのだ。

「一九七四年の<ロミオとジュリエット>」
文化部総合顧問の菅野の息子で元バスケ部の生徒と、運動部総合顧問の玉置の娘で吹奏楽部の生徒が、なんと付き合っているという。彼らも、親にバレたら大変なことになると隠していたのだけど、ついにバレてしまった。<ピースメーカー>としてはなんとかしなくちゃいけない。

「一九七四の<サウンド・オブ・ミュージック>」
剣道部の折原と河内という、剣道部の二大エースのあまり良くない話を耳にする。近いうちに個人戦の代表選抜があるのだけど、八百長をするのではないか、という噂があるというのだ。

「一九七四の<スモーク・オン・ザ・ウォーター>」
文化祭でフォークソングのグループが演奏するというのはしばらくの伝統なのだけど、そこにロックバンドの演奏も入れられないか、という話がある。難しいのは、ロックバンドの一つのリーダーが、元サッカー部の不良だということ。文化部総合顧問の菅野先生がOKするはずがないのだ。

「一九七四の<ブートレグ>」
三浦という転校生が放送部に入ってきた直後、職員会議で、お昼の曲を流すコーナーで、ロックを流してはいけない、と決まってしまった。放送部はなんとかこれを覆そうと必死になる。

「一九七四の<愛の休日>」
部長だけど幽霊部員である沢田さんから、放送部が廃部になるかもしれない、というとんでもない話を聞かされる。良平も知らなかったとんでもない事実を知らされ、放送部最大の危機!

「一九七四の<マイ・ファニー・バレンタイン>」
沢田さんの家でパーティをしていると、書道部の部長から電話。<ピースメーカー>に折り入って話がある、という。正月に、書道部好例のイベントがあって体育館を使うのだけど、色々あって使えなくなりそうだ、という。<ピースメーカー>として頼ってきてくれた第一号として、なんとかしてやりたい。

というような話です。
なかなか楽しく読める作品でした。中学生達が、毎日楽しく放送部を運営しながら、時折舞い込んでくるトラブルに首を突っ込んで、放送部らしく解決する、という展開はなかなか面白かったです。
この、放送部らしく解決する、という部分がミソですね。なかなか巧いです。放送部だからこそ(まあ、時々、さすがにそれは反則技だろ、みたいなのもありますけど 笑)解決出来た、というような展開はうまく出来ているな、という感じがしました。
僕でも、どう解決するのか朧気に思いつく話もあった感じで、ミステリ的な要素は薄味だけど、登場人物たちがなかなか面白く立ちまわるので、スイスイと読んでしまいます。
ロックを流すのを禁止されてしまう話は、なかなか面白かったです。これも正直、ラストの展開はなんとなく読めた部分はあったんですけど、『ロックが流せないことが問題なんじゃない、禁止されたことそれ自体が問題なんだ』という問題認識の仕方はなかなかやるじゃん、という感じですね。しかも、なかなかうまいやり方でひっくり返すんですね。なんとなく、宗田理の<ぼくらの>シリーズを思い出しました(まあ、<ぼくらの>シリーズの方が遙かに過激ですけどね)。
個人的には、良平の姉のみーちゃんの話を読んでみたい感じですね。綺麗なのに性格的には天邪鬼というのは僕は本当に大好きなキャラで、みーちゃんが<ピースメーカー>だった頃の話はかなり気になります。
楽しく読める小説だと思います。中学生らしい初初しさもあるし、中学生らしくない行動力もあって、放送部ってなかなか楽しいんだなぁ、とか思えます。読んでみてください。

小路幸也「ピースメーカー」





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灰色の虹(貫井徳郎)

内容に入ろうと思います。
二つの物語の軸が交互に描かれる構成です。
一方は、江木雅文の物語。江木は顔に大きな痣があり、それが原因で内向的な性格のまま大人になってしまった。ほとんど友達もいないような人生だったのだけど、社内の同僚である由梨恵と出会ってから人生が変わった。交際を初め、江木の人生は色がついたように明るくなった。由梨恵のためなら何でも出来ると思えるくらい、由梨恵のことを愛していた。
ある日、社内でほぼ全員から嫌われている上司に江木はキレてしまった。そんなことをしたのは初めてだった。由梨恵を馬鹿にされたからだった。
翌日出社して、どれだけ上司に嫌な目に遭わされるかとビクビクしていると、とんでもない情報が入ってきた。なんとその上司が殺された、というのだ。次第に容疑は江木に掛かっていき…。
もう一方は、江木の事件に関わった様々な人間が描かれていく。
江木を逮捕した刑事、江木の事件の裁判を担当した検察官と裁判官らが、不可解な死を迎えていく。事故死や物盗りの犯行だと思われていた一つ一つの案件も、もしかしたら江木がやっているのかもしれない。
冤罪で人生を狂わされたその復讐を遂げるために…。
というような話です。
これは凄い話でした。冤罪を扱った物語は、僕はそこまでたくさんは読んでないけど、世の中には色々とあるでしょう。でもこの作品は、全体のバランスがすごく良く取れている好著だと思いました。
まず、警察官・検察官・裁判官・弁護士を描くことで、日本の司法システムの元でどうして冤罪が生み出されてしまうのか、ということが非常によくわかる。警察官・検察官・裁判官・弁護士それぞれは、皆職務に忠実で、多少問題のある輩もいるけど、基本的には『正義を守るために身を粉にして働く』という人間である。その彼らが真面目に仕事をしていても、冤罪を防ぐことが出来ない、ということがよく分かるのだ。
これを読むと、本当に恐ろしいな、と思う。冤罪は、実に容易に生み出されてしまう。実際に逮捕され、有罪判決を受け、刑務所に入っている人の中にも、かなり冤罪の人がいるのではないか、と想像できてしまう内容になっているんです。
もちろん本書は小説なので、現実がどうなっているのかはわからないわけですけど、でも現在の法システムの元では、エラーを防ぐことは出来ないし、逆にそのエラーを積極的に産み出してしまいかねない、ということは間違いないだろうと思います。
特に辛いのが、やはり組織の体面にこだわってしまう、という点ですね。裁判所はさほどでもないのかもだけど、警察と検察は、己の体面を守ることが最優先になってしまう場面というのがよくある。日本の裁判は99.9%が有罪だというのも、検察の体面の問題があるでしょう。絶対に有罪に持ち込める案件しか裁判に乗せない、つまりそれは、裁判に乗せてしまったら、何がなんでも有罪にしようとする、ということです。
警察の方も、捕まえてきた容疑者が実は犯人ではなかった、というわけにはいかない。だからこそ、引っ張ってきたらそいつを何がなんでも自白させる、ということに汲々とすることになる。そういうところは本当に怖い、と思いました。
また、先入観の問題も大きいですね。警察は、予断を持って捜査に当たる(そういう刑事もいる)。証拠を揃えるのではなく、疑わしい人間を見つけてきて、後は自白させればいい、という昔気質の刑事が厄介なのだ。
また検察にしても、警察が捜査し、しかも自白までしているのだから、と被告の訴えを真剣に聞くことはない。それは裁判官にしても近いものがあるだろう、と思う。
先入観といえば、国民の警察や司法に対する先入観も度々描かれる。『警察が間違った人間を逮捕するはずがない』『裁判で有罪になった人間が犯人に間違いない』というような僕らが持っている先入観は、それだけでも冤罪を生み出す土壌になってしまうのだ、と強く感じた。本書に出てくる『目撃者』という人物も、そういう先入観に強く冒されてしまった人間で、僕らも決して無関係ではない。
僕は本書を読んで、何があっても自分が何もやっていなければ、任意同行には同意しないぞ、と決意しました。僕の拙い発想では、物的証拠がない場合、任意同行で取り調べをして無理矢理自白させて逮捕する、という流れがやはりまだあるんだろうと思うんです。それはつまり、逮捕状を請求するだけの強い証拠が揃っていないから自白に頼るしかない、という状況だと思うので、任意同行を突っぱねればある程度は大丈夫んんではないか、と思いました。
警察の取り調べで、やってもいないのに自白をしてしまうという話を聞くけど、これはやっぱり、警察の取り調べを受けてみないとなんとも言えないんだろうな、と思うんです。僕も、正直なことを言えば、どんなに脅されても自白はしないだろう、と思っています。やってもいないことをやったと認めることは、恐らく僕には出来ないだろうな、と。でもそれは、警察の取り調べを受けていないから言えるだけであって、実際受けたらどうなるか分からない。「やった」と言わない限り終わらない苦行をずっと強いられるというのは、日常生活の中ではまず経験することがないだろうから、自分もどうなるか、正直分かりません。
とにかく本書は、冤罪について深く考えさせられます。どう考えても、冤罪を防ぐためのルールを導入するべきではないか、と思います。作中で、推定無罪の原則は、まったく適応されていない、という描写があります。疑わしきは被告人の利益に、という言葉は、ただの標語であって、現実とは程遠いようです。本当に怖いな、と思いました。
警察官や弁護士らの個別の物語も面白かったです。特に僕は、裁判官の石嶺の話がかなり好きでした。実直を絵に描いたような男の生真面目な生き方の中に、するりと入り込んできた厄介な出来事。それが最終的には、石嶺を死へと追いやってしまうことになる、という過程はなかなか読んでて面白かったなと思います。
江木が背負わされたものの重さは、到底想像できないし、軽々しく分かると言ってはいけないことだと思う。そして、実際現実に、江木のような運命を背負わされた人がいるのだろうと思うと、恐ろしさを感じるし、社会のおかしさを感じる。どこかで誰かが止めないと、この不幸の連鎖は止まらない。冤罪を食い止めるシステムを、本当に真剣に検討するべきなのではないか、と思ってしまう。
なかなか重たい物語だったけど、これは読んでおくべき価値のある物語だと思いました。人生何があるか分かりません。自分や周囲の人間が、どんな事態に巻き込まれるか分かりません(それこそ、『目撃者』のような関わり方もあるわけだし)。自分のどんな振る舞いがどんな影響を与えるのか、あるいは、現在の法システムがどうなっているのか、ということを何となくでも想像しておける作品ではないか、と思います。物語も、重い話ですが、非常に面白いです。是非読んでみてください。

貫井徳郎「灰色の虹」





学校のセンセイ(飛鳥井千砂)

内容に入ろうと思います。
本書は、「はるがいったら」でデビューした著者の作品です。
主人公は、高校の社会の教師である桐原。桐原は、教師になりたくてなった、というわけではない。塾講師をした後、ダメ元でいろんな教職員試験を受けたら、名古屋でたまたま受かったため、こうやって教師をしている。
旧友が桐原につけたあだ名が、『キングオブ面倒くさがり野郎』。そう、桐原はとにかくあらゆることがめんどくさい。『めんどくさいことをいかにして避けるか』というのが、桐原の行動原理のすべてだ、と言ってもいい。それでも、外面や体面は器用に取り繕えてしまう性格のため、深い付き合いでないとなかなか桐原のそのめんどくさがりの部分は分からない。そうやって、要領よくと言えば要領よく生きてきたのだ。
高校でも桐原は変わらない。空気は読めるし、口は達者だから、周りから白い目で見られたり、問題を犯したりなんてことは間違ってもしないし、どちらかと言えば人目のあるところでは至って真面目な人間(を装っている)のだけど、人目がなくなると(あるいは気を許せる人だけしかいない場所でなら)すぐにめんどくさがり屋モードになる。生徒を心配する『フリ』も、友人を心配する『フリ』も、同僚教師を心配する『フリ』も得意だけど、それは全部『フリ』だけで、本当は心の中ではめんどくせーって思ってる。
そんな桐原も、教師二年目。なんだかんだとうまくやっている。問題のある生徒への対処も、自分に好意を寄せてくる生徒への対処も、自分で何でも抱え込んでしまう同僚教師への対処も、複雑な恋愛をしている友人への対処も、もう板についたようなものだ。
ある時桐原が、名古屋で唯一友人と言っていい中川と一緒に飲んでいる時、店内でとんでもなく奇抜なファッションをしている女性を見かけた。実に印象に残る出来事もあって、なんとなく気になっていた桐原だったが、ひょんなことから桐原は彼女と知り合うことになり…。
というような話です。
いやー、これは傑作でした!素晴らしいよやっぱり、飛鳥井千砂は。まだ、「はるがいったら」と本書の二作しか読んでないんだけど、これはホント凄い作家だわ。
でも、初めに書いておくけど、飛鳥井千砂の作品の魅力を文章にするのって、ホント難しいんです。「はるがいったら」の時POPを作ってもらったんだけど、その時も文章考えるの相当苦労したからなぁ。ホントに文字通り、言葉に出来ない魅力に溢れていると思う。いや、そこを言葉にしてくれよ、と言われるかもですけど。
まず何よりも驚いた点は、桐原の性格がまったくもって僕と同じだった、ということ。これはビビった。シンクロ率95%ぐらいじゃないか、と思う。ほぼすべての場面で、行動原理が同じ。桐原の内心の呟きが、あー俺もその場面だったらまったく同じこと考えるわ、っていうくらいドンピシャだったもののあって、驚いたなんてもんじゃない。マジで俺の生活が覗かれてて、それを元に書いたんじゃないかと思ってしまったわ。
でもどうなんだろう。僕だけに限らず、今の時代って本書の桐原のような人間って結構多いんじゃないかと思う。色んなことにやる気はない、でもいろいろ器用だから外面は取り繕えてしまう。いやだなーとか思うことがあってもそれなりにうまいこと対処出来ちゃうし、周りの空気も読めるから周囲に気を遣うような言動も得意なんだけど、でも実はあんまり心はこもってない、的な。まあ他の人はともかく、僕はあまりにもドンピシャでちょっとびっくりしてしまいました。
例えば、あるシーンに、桐原のこんな内心の呟きがある。

『説教するんだ。優しいな、偉いな、そいつら。俺は、他人は他人の主義だから、そんなに人と重く関わりたくないんだよな。自分の言った言葉が誰かに影響を与えるなんて面倒くさいじゃん。だから説教なんてしないだけだよ。』

わかるわー、って感じ。メチャメチャわかる。そう、やっぱり、人を叱るとかっていうのは、趣味でやってるような人ももちろんいるだろうけど、基本相手のためを思ってやるのよね。俺は、そういうのできないんだよなぁ。ヒントぐらいは示唆してもいいんだけど、そのものズバリは指摘したり説教したりは、基本的にはしないだろうな。相手との関係性にもよるだろうけど。
こういう、キングオブ面倒くさがり野郎が教師なわけで、学校でのあれこれも色々と面白い。どこの学校にもいそうな(僕の高校時代はいなかったけど)悪ぶった生徒の問題ある言動への対処とか、副担任である桐原が担任である先輩教師に抱える鬱陶しさとか、桐原のことをずっと好きだってことがモロバレなある女性ととのやり取りとか、マジで重い相談をしてきたある生徒に感じた劣等感とか、そういう、学校の中では特別大した話ではないんだけど、キングオブ面倒くさがり野郎である桐原の視点を通すとまた新鮮に見えてくるような、そういう描写がうまいな、と感じました。
でも正直本書は、学校の話がメイン、というわけでもないんですね。学校を離れた、プライベートでの場面も多い。『学校の話』というよりむしろ、『教師・桐原の話』という感じです。
プライベートの方でまず筆頭に挙げなくてはいけないのは、超奇抜ファッションを着こなすガリガリの女性。飲み屋で衝撃的なその姿を目撃してから、色々とあって、桐原は彼女と知り合いになるわけなんだけど、この奇抜ファッションとのやり取りが結構面白い。恋愛に発展するんだかなんなんだか判然としない微妙な距離感といい、そもそも桐原が奇抜ファッションに対してどう感じているのかもうまく言語化出来ないところとか、色々話していく内に何かが桐原の中で変わっていく過程とか、かなりいいです。特に、キングオブ面倒くさがり野郎の桐原が、本書ではまあいろいろなことを経験するわけだけど、でも結局、奇抜ファッションと出会ったことが変化への大きな後押しとなった部分はあります。もちろん、それ以外の要素もありますけど、読み始めた時は、この奇抜ファッションがストーリーにどう絡んでくるんだかまるで想像できなかったことを考えると、なかなか驚嘆すべき展開ではないかと思いました。
また、桐原の名古屋での唯一と言っていい友人の中川もなかなかいい味出してます。正直、こんな女友達欲しい、と思いました。ただし、通常モードの中川の方だけ(笑)。中川には「通常モード」と「恋愛モード」があって、通常モードの時は一人の女友達として言いたいことも言える実に気楽な間柄なのだけど、「恋愛モード」の時は、中川が陥っている何だか厄介な恋愛の愚痴をあーだこーだと聞かされる羽目になるので、桐原的には勘弁して欲しい、という感じなのだ。とはいえ、そこさえ多少我慢すれば、中川ってかなりいいよなぁ、と思っちゃいました。
あとは、いろいろあって知り合う別の高校に通う涼とか、桐原の高校時代からの腐れ縁で薬剤師の浅見とかのやり取りも、キャラクターがしっかり活きていて面白いです。何よりも、著者が女性だとは思えないほど、男視点の描写が凄くうまくて、女性作家が男主人公を書いてる、という感じが全然しなかったのが凄かったです。
ただ時々、女性が女性に感じるようなことを桐原に呟かせたりしてる場面が出てきたりします。僕の感覚では、正直男はそこまで考えないし、感じ取れないだろみたいなところまで踏み込んでくることがあるんですね。それが自覚的なのかどうか分からないんだけど、これが全然不自然じゃないんですね。女性が女性に向けた場合凄く刺々しくなってしまうことを、男に言わせることで凄く丸く感じさせることが出来るという点で、これは面白いなと思いました。小説だからこそ出来ることなんだと思うんだけど、やっぱり小説って面白いな、と思いましたね。
そんなわけで、これは傑作です!メチャメチャ面白い!作家としての力量がありまくります。文章もキャラクタ-も設定も構成も展開も全部素敵です。是非是非読んでみてください!

飛鳥井千砂「学校のセンセイ」




ふがいない僕は空を見た(窪美澄)

「だから?」
 志保は、男の言いたいことが分かりながらも、弱気な部分を見せたくなくて、強がってそう言った。
「たぶん、雨が降る」
「当たり前でしょ」
 男は黙って志保のことを見続けていた。何を考えているのか分からない目をしていた。怖い、という感情は今日も沸き起こらなかった。志保の内側にあったのは怒りの感情だけで、その怒りが自分の身体をどんどん大きくしていくような気がした。気分としては、目の前にいるガタイのいい男よりもずっと身体が大きくなっているような感じだった。今なら男を倒せるんじゃないかと、祈りにも近い思いを抱いたりもした。
「志保、お前は」
「私の名前を呼ばないで!」
 志保は絶叫した。自分にこんなに大きな声が出せるんだと驚くくらい大きな声だった。風に乗って男の元に届いたその声は、もし質量があれば男の身体を倒すことが出来たのではないかと思えるほどだった。
「お前は間違っている」
 志保の声に気圧された男は、弱々しい声でそう言った。

「失踪シャベル 18-3」

内容に入ろうと思います。
本書は、本書収録の「ミクマリ」で、「女による女のためのR-18文学賞」を受賞した著者による、連作短編集です。本書がデビュー作です。
普段ならそれぞれの短編を紹介するんですが、本書は全体の繋がりが見事で一つの長編作品として読めること、また短編をバラバラに紹介しても全体の雰囲気をうまく説明できないと判断したので、長編のように内容を紹介しようと思います。
一応各短編のタイトルだけ下に書いてきます。

「ミクマリ」
「世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸」
「2035年のオーガズム」
「セイタカアワダチソウの空」
「花粉・受粉」

物語の中心には、高校一年生の斎藤卓巳がいます。自宅で助産婦をしている母親に育てられた卓巳は、子供の頃からお産の手伝いをするような優しい男の子。父親がいないという環境でもきちんと育っていました。
しかしある時から卓巳の生活は一変することになります。友人に連れ出されて行ったコミケで出会った変態主婦・あんずと、日常的にセックスをするような関係になったのだ。とはいえそれは、コスプレをし、あんずの作った台本通りに展開していくという奇妙なセックス。とはいえ卓巳は、ずっと好きだったクラスメート・松永に告白されたのに、頭の中はあんずのことで一杯だったのだ。
そのあんずはというと、ずっといじめられてきた過去を持ち、特に好きだというわけでもない男と結婚をし、子供が出来ないまま今に至っている。二人共特に子供が欲しいというわけではないのに、旦那の母親がどうしても孫が欲しいようで、大金をつぎ込んであんずに不妊治療を受けさせている。
卓巳に告白をした松永は、高校生になったら胸がもう少し大きくなるはずなのに、と思っていた女の子。夏の間に卓巳とセックスをしているはずだったのに、全然そんな風になってない。しかも卓巳のあんな噂を耳にしてしまい…。
卓巳の親友である福田は、母親がいなくなり限界まで最低限の生活をしている。なんとかこの境遇から抜け出したいと思う一方で、やり場のない鬱屈をある行動に向けたりしてしまう…。
というような感じで、高校生の斎藤卓巳を中心に、複雑な人間模様を描いた作品です。
いやー、これは素晴らしい作品だなと思いました。新人のデビュー作とは思えないほどの質で、正直驚きました。でも正直、この作品の良さをうまく言葉で表現できる自信はちょっとないんですよね。
全編にわたって、非常に女性的な感性に溢れた作品です。僕は、かなり女性向けの作品がイケる人間なんですけど、もしかしたら男性にはあまり向かない作品かもしれないとは思います。女性から見たセックスや、出産・不妊治療・嫉妬と言ったものが描かれていて、その生々しさが凄いと思いました。
「ミクマリ」は凄く短い話で、何でこんな話がこれほど気になるんだろうというような、ストーリー的にはさほどどうってこともない話なんですけど、これはもの凄く吸引力のある物語だと思いました。その後に続く物語の世界観の導入としては見事だし、短い話なのに初めと終わりの落差がかなりある。危ういバランスで成り立っている人間関係の微妙さを良く描いていると思ったし、斎藤卓巳にしてもあんずにしても、なんかそれちょっとどうなのよと思えるようなそこまで共感を誘う物語でもないはずなのに、読まされてしまう。ホントに、冒頭から引張られるような物語でした。
「世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸」も凄いです。この作品は、メインで出てくる人が4人しかいないのに、実に濃密です。特に不妊治療を無理矢理やらせる義母の存在が恐ろしいなと思いました。いじめられ続け、好きでもない男と結婚し、さらに子供が出来ないと言って責められる女性の心理を重苦しくなく描いていていいと思います。とにかく、世界のどうにもならなさ、世界に対する自分の無力さみたいなものがにじみ出ている作品で凄いと思います。
「2035年のオーガズム」は一転、女子高生が主人公の話。作品全体のトーンを崩すことなく、鬱屈した主婦と思春期真っ只中の女子高生を両方共きちんと描いているというのがいいですね。松永にしたら、全部何もかもうまく行くはずだったのに、それとは真逆で何もかもうまくいかないという状況の中、それでも卓巳が好きだ、ということを確認する物語。松永の兄の話もなかなか強烈でインパクトがあります。
「花粉・受粉」は、助産婦である卓巳の母親の話。セックスから始まった物語が、子供を産むという物語で終わるというのが実に象徴的だと思いました。卓巳もあんずも松永も、結局セックスってすべてここにたどり着くんだよ、みたいな感じに僕は受け取りました。
しかし何よりも個人的に一番グッときた話が、「セイタカアワダチソウの空」です。この短編は凄いな、と思いました。昔、是枝裕和監督の「誰も知らない」という作品を見て衝撃を受けた記憶がありますが、この「セイタカアワダチソウの空」という短編は「誰も知らない」と似た雰囲気を感じさせるな、と思いました。様々に事情があって、最底辺に近いところでの生活を余儀なくされている福田。その厳しい日常生活と積もっていく鬱屈。理由など付けられないだろうけど、つい加担してしまったある悪事。
そんなマイナスの連鎖からなんとか抜け出したい福田は、バイト先にいる人から勉強を教わることにする。超有名大学を卒業したらしいのだがコンビニでアルバイトをしているという謎めいた存在だけど、福田や友達に親切にしてくれるのだ。しかし…という感じで、どうやっても割り切れない、割り切りたくもない、でも現実にこういう子供だって世の中にたくさんいるんだろう、と思わされるような話でした。この作品は、全体としてはかなり女性向けの作品だろうと思うのだけど、この「セイタカアワダチソウの空」だけは男女共にいけると思います。例えば冒頭の話を読んで、なんかなーと思った男性がいたら、とりあえず全部すっとばして「セイタカアワダチソウの空」を読んでみて欲しいなと思います。
この作品ももちろん素晴らしい傑作だと思うのですけど、僕は本書を読んで、この作家はいつか超大傑作を物すのではないか、という予感を抱いて、その予感にやられました。凄い作家になるのではないか、なんて期待しすぎると作家さんにプレッシャーかもですけど(とはいえ、著者さんがこのサイトを見ることもないでしょうけど)、これからかなり期待大の作家だなと思いました。皆さんも是非注目してみてください。凄い新人が現れた、という感じです。是非読んでみてください。

窪美澄「ふがいない僕は空を見た」





たまたま 日常に潜む「偶然」を科学する(レナード・ムロディナウ)

それからは、今後の生活の話がメインになった。叔父さんとしてはむしろ、こちらの方が本題だったのではないかという印象を受けた。
 敬叔父さんには今、学費の負担をしてもらっている。決して安くはない額だ。大学での勉強にやる気を失いつつある志保は、ただでさえ申し訳ない気持ちを抱えているのに、さらに叔父さんは、生活費と家賃全般を負担してくれるという。志保は、今やっているアルバイトをもう少し増やせば、少しは生活費の足しに出来るし、どうせ一人暮らしをしなくてはいけないのなら、今住んでいる2LDKのマンションではなくて、もっと家賃の安いところに移ると言ったのだけれど、敬叔父さんはそんなことは考えなくていいんだと、相変わらずの穏やかな声で言ってくれた。アルバイトを増やすことで勉強に支障を来たしては本末転倒だし、もしかしたらお母さんがひょっこり帰ってくることだってあるかもしれないんだから、その内引っ越さなくてはいけなくなるにしても、しばらくは今の家に住んでいて構わない、というのだ。だったら、今やっているアルバイトを辞めて敬叔父さんの会社で働かせて欲しいと言うと、志保ちゃんを従業員の一人として見るのはちょっと難しいなぁと言ってやんわり断られてしまった。でもその言葉に、何か甘い響きを感じ取ることが出来たので、悪い気持ちはしなかった。

「失踪シャベル 7-10」

内容に入ろうと思います。
本書は、「偶然」という、科学ではなかなか扱えそうにない分野を、確率や統計学、大数の法則や標準偏差など様々な知識をふんだんに盛り込みながら扱った作品です。
本書では、様々な具体例を挙げながら、いかに人間の直感が確率や統計と言った科学的な知見からズレているのか、という話を扱うわけなんですけど、その中でもかなり印象的な二つの例をまず挙げましょう。
一つ目は、ロジャー・マリスという野球選手が、当時のホームランの記録であるベーブ・ルースの記録を打ち破った時の話です。
マリスという打者は、通常であれば年間40本ほどしかホームランを打たないんですが、その年61本のホームランを打ってベーブ・ルースの記録を抜きました。しかしその後、やはりまた40本代の記録に戻ったようで、アメリカ人にとって神聖な存在であるベーブ・ルースの記録をそんな選手に追い抜かれたということで、マリスは非難を浴びるようになったようです。
著者は、何故マリスはホームラン王になることが出来たのか、を考えます。ここで重要なのが、確率の考え方です。
例えば、1961年にマリスという普段はそこそこのホームランしか打てない選手がベーブ・ルースの記録を打ち破る確率を考えた場合、それはとんでもなく低い数字になるでしょう。しかし著者は次のようなことを考えます。
ベーブ・ルースが記録を打ち立てて以降の70年間(何故70年かというと、ステロイド使用によりホームランが量産されるまで、ということらしいです)に、マリスと同程度の実力を持つある野球選手が、偶然だけでベーブ・ルースの記録を超える確率はどのくらいだろうか、と。実際の野球のいろいろなデータを参考にしながら確率を出すと、そういう確率はなんと50%を少し上回るんだそうです。
つまり、1961年にマリスがベーブ・ルースの記録を打ち破ったことだけを見ればそれは奇跡的な偉業のように見えるかもしれないけど、70年という年月の間にマリスのような技量の選手がたまたまベーブ・ルースの記録を破る確率は50%以上と、かなりありえる数字になるわけです。この話は実に興味深いなと思いました。
さてもう一つ。これは、「モンティ・ホール問題」として、確率の世界ではとにかくやたら有名な問題です。これは、世界最高のIQの持ち主としてギネスにも載っているマリリン・ヴォス・サヴァントという女性が、ニュース雑誌「パレード」の中で様々な質問に答えるというコーナーを担当していたのだけど、そこで投じられた問題の一つでした。
問題自体はこうです。
『テレビのゲーム番組で、競技者が三つのドアの選択権を与えられるとします。一つのドアの後ろには車が、残りのドアの後ろにはヤギがいます。競技者が一つのドアを選択したあと、すべてのドアの後ろに何があるかを知っている司会者が、選ばれなかった二つのドアのうちの一つを開けます。そして競技者にこう言います。「開いていないもう一つのドアに選択を買えますか?」選択を変更することは競技者にとって得策でしょうか?』
何故この問題がそれほどまでに有名になったかと言えば、マリリンの答えが世界中の数学者の答えと違っていたからです。
ごく普通に考えれば、ドアが一つ開こうがなんだろうが、既に残っているドアは2つしかない。だからこそどちらのドアを選んでも確率は1/2のはずだ。世界中の数学者も同じように考えました。
しかしマリリンは、選択を変えるべきだ、という答えを示したのです。実際にマリリンは正解で、選択を変えた場合の当たる確率は2/3なのですけど、マリリンがその答えを示すと、世界中の数学者から、あなたは間違っている訂正しなさい、という意見が出てきたわけです。
20世紀の重要な数学者の一人であるエルディシュ(僕はこの人について書かれた本を読んだことがありますけど、確かに相当重要で天才的な数学者です)は、マリリンの答えを聞いて「ありえない」と言ったそうです。その後、正解に対する厳密的な証明を見せられても納得せず、その後、ある同僚が用意したコンピュータ・シミュレーションを見て、ようやく納得した、と伝えられているようです。
この問題はこう考えるべきだそうです。まず二つに場合わけします。一つは、初めの選択が正解だった場合、つまりドアの向こうに車がある場合。この確率は1/3です。その場合、残りの二つのドアの後ろにはどちらにもヤギがいるわけで、選択を変える価値はありません。
さてもう一方は、初めの選択が不正解、つまり自分が選んだドアの向こうにヤギがいる場合です。この確率は2/3です。その場合、残りの二つのドアのどちらかに車が、どちらかにヤギがいます。ここで司会者は後ろに何があるのか知っているわけで、間違いなくヤギがいる方のドアを開けます。この場合、自分が選んでいない方のドアの向こうには間違いなく車があるわけで、選択を変えるのが正解です。
前者の場合より、後者の場合の方が2倍も確率が高い。すなわち、ドアを変える方が正しい、という結論になるわけです。問題自体も面白いですけど、世界中の数学者が間違えた、というエピソードが実に楽しいですね。
いや、しかし本書はなかなか難しい。物理の分野に量子論というのがあって、それも理解するのがなかなか難しいけど、それは理論が直感に反するからです。本書でも、直感に反する具体例がとにかく沢山出てきます。学生時代、確率はとにかく苦手だった僕には、すごく興味深い内容ですけど、どうしても直感に反するので受け入れるのが難しいですね。
たとえばこんな話もあります。条件付き確率についての話で、こんな確率について考えます。
『子供が二人いる家族の問題において、<二人の子供のうちの一人が女児である場合>、二人とも女児である確率はいくらか』
具体的な解き方は書くのがめんどくさいから省略するけど、これは1/3になります。
さて、ここでこういう問題を考えます。
『子供が二人いる家族で、<子供の一人がフロリダという名の女児である場合>、子供が二人とも女児である確率はどれだけか』
先程の問題とほぼ同じで、条件に女児の一人の名前が出てきたに過ぎません。でもこちらの場合、確率は1/2になっちゃうんですね。これもまあ不思議な話ですけど、読んでいればなるほどという感じです。
本書では、前半から中盤に掛けては、確率や統計と言った科学的手法が生まれた背景なんかも描きながら、標準偏差やベイズ推定など結構専門的なことも交えながら進んでいきます。確かに難しいけど、それは理論自体の難しさというよりは、僕らの思い込みというか日常からの隔たりみたいなものが邪魔をして、なかなか理解しづらいというだけですね。条件付き確率なんてホント難しいです。Aが起こる時にBが起こる確率と、Bが起こる時にAが起こる確率はまったく別物なのに、世の中ではそれを取り違えているケースが多すぎるなんていう具体例では、なるほどと思いながらも、やっぱり自分の直感の方を信じたくなってしまうのには困るなと思いました。五番目にnがくる六文字の英単語と、ingで終わる六文字の英単語だったら、なんとなくingで終わる六文字の英単語の方が多そうな気がしますよね。でも冷静に考えれば、ingで終わる六文字の英単語はすべて五番目にnが来る英単語でもあるので、前者の方が多いのは明らかです。可用性バイアスというそうです。他にも、戦闘機パイロットの教官の『見事な操縦は褒めるけど、すると次回は決まって悪くなる。一方で、下手な操縦の時には怒鳴るけど、その次はおしなべて改善される』という経験則は、怒鳴ったり褒めたりということとは無関係に、平均回帰という現象で説明がつくと言った話も、なるほどなと思いました。「アンネの日記」や「ハリー・ポッター」が出版前多くの出版社に拒否されたなんていう話から、何がベストセラーになるかわからないという話は、書店員として確かにそうだよなぁと思いました。
後半はどんな感じの話かというと、確率的な知識のなさがどのような不合理な判断を生んでいるかというような話になります。この部分はかなり面白くて、後半だけでもいいから人類は全員読んだ方がいいんじゃないかなと思いました。
例えばiPodの話。iPodにはランダム再生機能というのがあるけど、本当のランダムネスというのは同じ曲の繰り返しを生み出す。でも同じ曲が繰り返されるのを聞いたユーザーが、シャッフルはランダムではないと感じたために、スティーブ・ジョブズは、「ランダムな感じにするために少しランダムではなくした」と言ったそうです。ランダムであることとランダムに見えることは違うということですね。
また人間というのはパターンを見つける生き物で、何らかのパターンを見つけるとそこには何らかの意味があると感じてしまうけど、実際それはランダムな結果であっても同じなんだそうです。人間はランダムな結果に何らかの意味を与え、それを必然だと感じてしまう生き物だそうです。成功者の金持ちは能力があるように見えるし、優秀な成績を上げているファンドマネージャーは今後も優秀な成績を上げるように感じてしまう。でもそういったことも、ランダムな結果であるとしてもほとんど変わらない現象ばかりであることが分かっているんだそうです。
確証バイアスの話も面白いなと思いました。人間は、何か新しい考えを抱いたときは、それが間違いであることを証明する方法を探るのではなくて、それが正しいことを証明しようとしてしまう心の動きのことを指すようです。死刑について様々な考えを持つ人を集め、その人たちに、死刑について様々な立場を取るいくつかの論文を読ませた。その後論文を読んだことでどう変わったかを聞くと、どの被験者にも同じ論文を読ませたにも関わらず、自分が元々持っていた考え方に近い研究に対して高い評価を与えるという傾向があったそうです。
またこんな実験もあったようです。様々な種類の人が別々の病院に行き、そこで奇妙な声が聞こえると訴えた。彼らは、変な声が聞こえるという症状と嘘の名前と嘘の職業を言った以外は、自分の生活について包み隠さず話した。彼らの普段の生活は特に異常な点はないわけで、被験者たちは自分たちが精神障害を装っているとすぐに気づかれてしまう、と思っていたようです。しかし、一人を除いて全員が統合失調症の診断で入院することになりました。しかも、入院した直後、元々の指示通り、全員が異常の症状を装うのを止め、病院スタッフが彼らが狂ってなどいないことに気づくのをまったが、まったく気づかれなかったという。逆に医者たちは、彼らのどんな行動でも、精神障害と結びつけて見たという。
まあそんなわけで、僕たちは、実際は「偶然」の出来事であるのに、それに何らかの意味を与えてしまう生き物のようで、結果そういうことに振り回されることになるんですけど、本書を読めば、少なくともそういう自分を自覚する一歩手前までこれるのではないかと思います。書店でメディアで紹介されたからという理由で本を買う人は、そういうバイアスに捕まっているんだな、と思います。そういう自分も、きっと何らかのバイアスに捕まっていることでしょう。
確率というのは本当に難しいですけど、本書はそんな難しい確率について、多少踏み込んだところまで描きながらも、具体例を山ほど盛り込むことで非常に読みやすく面白く仕上げています。科学的な本だし、ビジネスやその他いろんなことに活かせる本だろうけど、何よりも自分の生き方を見直すことが出来る本ではないかなと思います。科学的でありながら、非常に実用的な本なので、自分がどんなバイアスに囚われながら生きているのか見直すいい機会になるのではないかなと思います。科学書にしてはかなり読みやすい本なので、是非読んでみてください。

レナード・ムロディナウ「たまたま 日常に潜む「偶然」を科学する」



密閉教室(法月綸太郎)

今日はこんなニュースから。

http://www.venturenow.jp/news/2009/09/28/2359_007129.html

アーカムという会社が、中古本の査定機能を持つASPサービス「買取28号」β版を10/1から無償配布を始める、という記事です。
僕が知らないだけで、ブックオフみたいな大きな中古本チェーンではもしかしたらもう似たようなものが存在するのかもしれないけど、僕はこれは凄いなと思いました。
凄いなと思った点の一つが、無償配布というところ。最終的に機能を追加して有償での提供をするらしいんで、とりあえず使ってもらって良さをわかってもらおうということなんでしょうけど、とりあえずしばらく無料で使えるというのがいいですね。
さらに凄いなと思った点は、このシステムを新刊書店を中心に広めていくつもりだという点です。
最近新刊書店でも中古本を扱うところが増えてきました。買い取りまでやってるかどうかは知らないけど、新刊書店の中の一角に中古本のスペースがあるという店はチラホラあるんじゃないかなと思います。
また僕もかつて、新刊本を3冊買うと中古本が1冊おまけでもらえるというキャンペーンをやったら面白いんじゃないかというアイデアを書いたことがあります。まあ現実にやるのはいろいろ難しそうですけど、一番難しいなと思っていたのがやっぱり買い取りの仕組みですね。あまり人手を割かずに、しかも誰でも出来るようなやり方で買い取りが出来ないとメリットがかなり低くなってしまいます。
この「買取28号」は、中古本を扱い始めている新刊書店には結構いいんじゃないかなと思います。もし僕がさっきのアイデアを現実に移す時が来た場合でも使えるシステムだなと思います。
しかしまあ、新刊書店でも中古本を扱わないと残っていけないというなら、さらに中小の書店は厳しくなるでしょうね。大きな書店チェーンなら、中古本を買い取って、それを自社内のいろんな店舗で在庫の調整が出来るけど、中小の書店ではそうはいかない。こういう流れが進むことで、結局のところ書店の体力勝負みたいな感じになっていくのがちょっと悲しいなぁと思ったりします。
この「買取28号」の仕組みにはもう一つ面白い点があります。それは、正規版に移行してからの話になるんだけど、「買取28号」の月額費用9800円の中から2000円を「作家応援金」として確保し、作家に還元しようという仕組みです。最終的には、売られる中古本一冊一冊の金額に応じて作家に還元できる仕組みを目指すということですけど、当面はその2000円を関連団体に還元する方法でいくんだそうです。中古本によって作家の利益が損なわれてるという議論はよくあるし、以前ブックオフが関連団体に100万円だかそれぐらいを寄付(?)したみたいな記事もみたことがあるような気がします。ちゃんと覚えていませんが。中古本業界も、なるべく作家とうまくやっていきたい、という風に考えているということでしょうね。
「買取28号」は新刊書店でうまく機能するでしょうか?続報があれば注目したいと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、作家・法月綸太郎のデビュー作です。初めて出版されたのが今から20年以上も前になりますが、最近新装版が出ました。
舞台はとある高校。朝教室にやってきた女子生徒は、教室のドアが何故か開かなくなっていることに気づく。ちょうどやってきた担任教師がドアをこじ開けると、そこには血しぶきをまき散らしたクラスメイトの死体があった。
おかしいのは、教室にあったはずの48の机と椅子がすべて消えてしまっていたこと。そして窓もすべて施錠されており密室状態であったこと。
探偵小説マニアである工藤順也は、この不可解ななどに挑むことになるのだが…。
というような話です。
文庫自体に書かれている内容紹介には、『本格ミステリの甘美な果実にして、瑞々しい青春小説。法月綸太郎のデビュー作にして、不朽の名作。』とあるんですけど、そんなに大げさな評価が与えられるような作品なのかなぁ、と思いました。
最後に明らかになるトリックなんかはかなりよかったと思います。何故机と椅子が消えていたのか、何故密室だったのか、何故殺されたのか、というような部分についてはかなりよかったんではないかなと思います。現実的かどうかは別として(本格ミステリに現実的かどうかという視点を持ち込んではいけない。でも本書は割と現実的な作品ではないかと思います)、すべてが論理的に繋がっていて、そういう本格ミステリ的な部分については結構よかったんじゃないかなと思います。
ただ僕がダメだったのは、主人公のハードボイルドっぽいところ。うまく説明できないけど、なんかハードボイルドを気取ってるようなキャラクターなんです。それが実に鬱陶しい。愚にもつかないような思考をだらだらと垂れ流している感じです。それは教師の大神にしてもそうで、この二人の何とも言えない哲学的な会話なんてもうついていけなかったんだけど、僕にはとにかくそこがちょっと微妙でした。別に読めないことはないし、すごくキツいというほどではないんだけど、本格ミステリを楽しみたいと思っているのにどうも余計なものが多いなという感じがしました。
青春小説としては僕には合わないけど、本格ミステリとしてなら悪くないと思います。積極的にオススメはしませんが。

法月綸太郎「密閉教室」



リヴァイアサン(ポール・オースター)

さて今日は、眠いのと26時間テレビのさんまと中居と紳助のやつを見たいというのがあって、ちょっと本屋の話は手短にしたいと思います。
今日の話は、僕がよく見ているサイトで紹介されていたあるサイトについてです。
さいと自体はこちら。

http://q.hatena.ne.jp/1248099050

はてな、というサイトについてはよくわかんないんですけど、ようするにはてなのメンバーに質問をするようなところがあるんでしょうね。質問の内容は、『紙の本が電子書籍より優れている点は何か?』というもの。
これは結構長いんで全部は読んでないんですけど、なかなか面白い企画ですね。これを読んでると、まだまだ紙の本も大丈夫かもしれない、と思えてきます。
大体主要な意見を挙げるとこんな感じでしょうか。

・書き込みが出来る。
・所有欲を満たせる
・貸し借りがしやすい
・電子書籍は読みにくいし目が疲れる
・装丁なども気に入ってる
・デバイスがなくてもいつでも読める

などなど。
最近では、amazonのkindleみたいな電子書籍が流行してるみたいですけど、日本ではどうでしょうね。最近ではBLコミックなんかが携帯で見れたりするのが大きな市場になったりしてるらしいですけど、まだまだ日本では電子書籍は広まる気配がないような気がします。あっても、すでに版権が切れた古典作品が電子化されているぐらいで、現役で流通している作品が電子化されているというのはなかなかないですね。作家が携帯サイトで作品を連載したり、timebooktownとかいうサイト(今もあるのかどうか知らないけど)のような作家の作品をネット上で連載しているようなところもあるけど、あくまでそれは連載で、最終的には書籍化することが前提になっているような気がします。
僕としては、このまま電子書籍が流行らず、紙の本がいつまでも残っていってくれればいいなと思うんですけど、どうでしょうかね。
何かブレイクスルーみたいな出来事があって電子書籍が大きく広まる可能性はあるかもしれないけど、とりあえず今のまま紙の本が残ってくれるといいなぁ、というのが僕の個人的な希望です。
そろそろ内容に入ろうと思います。
さて、外国人作家があんまり得意ではない僕が結構気に入っている作家、ポール・オースターの作品です。
本書は、ピーターという作家が、友人であるサックスという男について、その出会いから最後爆死するまでの関係を小説にした、という設定の作品です。
ある日ピーターは、男が爆死したというニュースを新聞で読んだ。その男は、アメリカ全土を巻き込んだ自由の女神像爆破テロ犯ではないか、と目されていた。その爆弾を作っている間に誤爆したのだ、と。
ピーターはその記事を読んだ時、それがかつて友人だったサックスであると分かった。
数日後、FBIがピーターの元にやってきた。ピーターは彼らに情報は明かさず、知らぬ存ぜぬで通した。
そしてそれからピーターは、サックスとの出会いからのすべてを小説に記録することに決めた。
サックスとの出会いは、記録的な大雪のために中止になった朗読会でのことだった。二人は意気投合し、それから間もなく無二の親友になった。
二人の関係は様々な紆余曲折を経て、そしてささいなすれ違いやちょっとした出会い、そして不運な偶然によって絶望的にズレてしまっていく。そしてサックスの物語は同時にピーターの物語でもあり、そしてさらに様々な多くの人々の物語でもある。
例えばピーターはこんな風に語っている。
『ディーリア・ボンドとの結婚が崩壊しなかったら、私がマリア・ターナーに出会うこともなかったろうし、マリア・ターナーに出会っていなかったらリリアン・スターンについて知ることもなかったろうし、リリアン・スターンについて知ることがなかったら、今こうして本を書いてはいないだろう。』
サックスの人生には、ピーターの人生が大いに関わっているし、そのピーターの人生には何人かの女性が深く関わっている。いくつかの捻じれがなければ、恐らくサックスは爆死することはなかっただろう。
ピーターの知る限りの情報をすべて盛り込み、かつてお互いを完全に理解し合っていた親友がいかにして爆死するに至ったのかを丹念に描いた作品。
いやはや面白い作品でした。ポール・オースターの作品はかなりどれも好きなんだけど、その中でもかなり好きな作品だなと思います。
面白かったなぁ。とにかく凄かったです。冒頭で、親友だったサックスが爆死するという情報が明かされるんだけど、それ以外の情報は少しずつしか明らかにされないんです。出会った当初からしばらくは、どこにも問題のないような人生が描かれることになります。もちろん、そこで出会った人々、起こった出来事が後々の出来事に関わってくるわけなんだけど、読んでいても、どういう方向に話が進んでいくんだか分かんないんです。
僕は通常なら、そういうどういう方向に進むのか分からないストーリーというのは苦手なんですけど、でも本書の場合は、最終目的地はすでに提示されているわけです。サックスが自由の女神像を爆破するテロリストになり、爆死するという最後は既に明かされているわけです。だから、どうやってそこに繋がるのかさっぱり分からないまま、それでも不安にならずにストーリーを読み進めることが出来るわけです。
初めのウチは普通だったのに、それが本当に些細なことからどんどんとズレて行くことになります。それが、実に丁寧に描かれていくし、しかも自然な流れで進んでいくんですね。崩壊の音が、少しずつ近づいてくるわけなんです。これがうまい。
なかなか本書の良さをうまく説明できないんだけど、これは傑作だと思います。ミステリ-としてもエンターテイメントとしても素晴らしい。ポール・オースターは現代アメリカ文学の旗手みたいな感じで語られるんだけど、文学的にどうなのかっていうのはよく分からないですね。でもとにかく面白い。面白いですよ。
書評家とかだったら、こういう作品をうまいこと解説したり面白さを短く言葉に出来たりするのかもしれないですけどね。僕には無理なんで、面白いですよ、と繰り返すだけに留めてみます。
アメリカ文学だと思うとちょっとハードルが上がるかもしれないけど、エンターテイメントとしてすごく上質な作品だと思います。ぜひ読んでみてください。ポール・オースターはいいですよ。

ポール・オースター「リヴァイアサン」



晩夏に捧ぐ 成風堂書店事件メモ(出張編)(大崎梢)

さてというわけで、今年の読書を振り返ってみようかと思います。
何で唐突にそうなるかといえば、今年恐らくこれで読む本が最後になるだろうからです。
でさらに、この一冊で、僕としてはある記念に達するわけで、まあそういう意味でも1年を振り返ってみようかと。
その記念というのは、この感想で僕がブログに書いてきた感想がちょうど1000になるわけです。いやはや頑張ってきたものだなぁ、とまあ思います。
このブログを始めて4年になりますが、4年で1000冊というのはなかなか頑張ったかな、と。記録を見ると、2004年は8月から始まってるわけですけど、そこから62冊、2005年は1年で243冊、2006年は1年で311冊読み、そして今年2007年はこの作品をもって382冊という数字になります。
年々読む冊数が増えていますが、しかし今年の382冊というのはちょっと以上だなと思います。1年は365日しかないわけで、1日1冊以上という無茶ぶりです。特に今年は、あと少し頑張れば感想が1000に届くというわけで、12月はそうとう無理をしました。12月で37冊です。さすがに無理がありすぎました…。
一応年々読書数は増えてますが、さすがに来年はそれは無理でしょう。というより、来年はちょっと意識的に読む冊数を減らそうかと。ちょっと人間的な生活じゃないなぁ、と思うので、まあせめて1年で300冊ぐらいに抑えようかと考えています。
あと今年1年常々思っていたことは、感想の前書きで書いていることが同じようなものばっかりだな、ということです。始めのうちはそれなりにいろんなことを書けていたとは思うのだけど(まあ内容はつまらないとしても)、最近は昔書いたようなことを何回も繰り返しているだけで、ちょっと自分でもダメだなぁ、と思っているのだけど、何か書かないとなぁ、というわけのわからない強迫観念みたいなものもあって(笑)、同じようなことを書いたなと思いながらも繰り返してしまいました。森博嗣という作家が毎日ブログを更新していますが、比較的毎日違ったことを書いています。やっぱすごいものだなぁ、と思います。
というわけで来年はどうしようかと思っているんですけど、今漠然と考えているのは、今まで前書きを書いていたところに小説もどきでも書いてみようかな、というものです。いや、無謀なのは正直百も承知なんですけど、これまでと同じことをしててもしょうがないわけで、まあ無謀でも何か新しいことでもやってみようかなと思っているわけです。
小説と言っても長いものではなく、ショートショートみたいなものを考えています。文字数にして1000文字から2000文字ぐらい、文庫のページ数でいえば11ページ強から3ページ弱ぐらいの短いやつという感じです。もちろん小説らしくなるわけもなく、適当に文章を重ねただけの無茶苦茶なものになるでしょうけど、とりあえず最低でも一ヶ月ぐらいはなんとか頑張ってみようかと思ったりしています。
なんてここに宣言しちゃうとやらないわけにはいかないですね。まあそうやってちょっと自分を追い込んでみようかなと思うわけですけど。何故追い込まなくてはいけないのか、というのはよくわからないんですけどね。
しかし、ショートショートのアイデアがあるわけでは全然ないんですよね。いつもノープランのところから無理矢理書こうと考えてるんですけど…、やっぱ無謀でしょうか。まあなんとか頑張ってみますけど。
たぶん非常に読み苦しいものになると思いますので、読み飛ばすあるいは読まないなどいろいろ対策を立てていただければと思います。
さてそんなわけで来年の無謀な決意を書いてみましたが、感想1000というのはなかなかすごいわけです。前にも書きましたけど、1回の感想に大体3000字から4000字書いてるんですよね。計算しやすいように4000字ということにすると、感想1000個で400万字になって、原稿用紙換算で1万字。小説1冊が大体原稿用紙で500枚とすると、20冊ぐらいの分量になります。
だからどうってことはないんですけど、小説20冊分ぐらいの文章を無駄に書き続けてるってなかなかすごいな、と。そんだけ無駄な文章書いてるくらいならちゃんと小説でも書いたらいいんでしょうけどね。
さてさて、まあ今年はこれで読み納めと言った感じになるでしょうけど、これからも本はバリバリ読んでいきたいものですね。年間で382冊と言うとすごい読んでるようですけど、これでも読みたい本がまだまだ山ほどあるわけです。まあ結局どれだけ読んでも読みたい本ってなくならないんだと思うけど、キリがないよなぁ、とも思います。
来年の目標としては、まあいつも思っていることだけど、苦手なジャンルに手を出したいものだなと思います。外国人作家とか時代小説とか、あとは長い巻数もののやつとか。まあいろいろチャレンジしてみたいなと思います。本屋の仕事の方も、まあまだまだやれていなことがたくさんあるので、なんとかいろいろ手をつけて楽しい感じに出来ればなと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「配達あかずきん」で鮮烈なデビューを果たした著者のデビュー二作目であり、初の長編作品となります。
舞台は「配達あかずきん」と同じく成風堂書店。とはいえ、今回はその書店そのものが舞台ではありません。その書店に勤める杏子と多絵が、信州にある書店にある騒動を解決にし行くという話です。
元成風堂書店のスタッフで、現在は信州にある老舗書店に勤める美保から杏子は手紙を受け取った。それは、今彼女が勤めている書店でちょっとした騒動が持ち上がっているからそれを是非解決してほしい、というものだった。
その騒動というのが、本屋に幽霊が出るというものだった。何人ものスタッフがそれを目撃しており、さらにそれには噂がついていた。27年前に起きたある作家の殺人事件の犯人の霊であるという噂で持ちきりなのである。書店の店主もその幽霊には何か思うところがあるらしく、何やら塞ぎこんでいるらしい。このままでは本当に書店の存続にも関わるということで、杏子と多絵には大いに期待が掛けられているという。
杏子としては事件の解決はなかなか難しいだろうと思いつつ、期待がかけられている状況にちょっと気が重い。しかし多絵はと言えば、自分が必ずこの謎を解くと言い切るのだが…。
というような話です。
この作品はこの作品でまあそれなりに面白い作品だと思いました。ただやっぱり前作の「配達あかずきん」の方が遥かに面白かったです。やっぱり、もっと書店にまつわるミステリを読みたいなぁ、と思ってしまいますね。
ストーリーはなかなか悪くないです。幽霊騒動から27年前の殺人事件が関わって来て、既に時効を迎えている殺人事件の謎も一緒に解いてしまおうという話です。途中ストーリーがあまり進まず停滞するようなところもありますけど、まあ概ね悪くなかったかなという感じです。
作中で書店の描写が出てきて、やっぱりその部分は気になったいましたね。老舗書店の濃密な棚構成なんかが羨ましいなぁ、と思ったりしました。
というわけで全体的に悪くない作品なんですけど、やっぱり何度も言いますが、「配達あかずきん」の方がいいですね。是非また、書店ミステリを書いてほしいものです。

というわけで今年も黒夜行をありがとうございました。
いつも無駄に長くてつまらない文章を読んでいただいて嬉しく思っております。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

大崎梢「晩夏に捧ぐ 成風堂書店事件メモ(出張編)」




撲殺天使ドクロちゃん(おかゆまさき)

まあなんというか、特に書くこともないようなというか。
なんともいえないんでさっさと内容紹介に入ろうかなと思います。
草壁桜は中学生で、彼の元にある日突然、天使と名乗るドクロちゃんという超可愛い女の子がやってきた。あの某アニメのキャラクターみたに、机の引き出しから出てきて、未来からやってきたと言う。頭の上には天使の輪っか。
で、そのドクロちゃんに彼は何度も殺されてしまう。エスカリボルグというそのバットみたいな凶器は、それで相手を殺しても何度でも生き返らせてしまう、まあそんな凶器なんです。
彼の生活はドクロちゃんがやってきてからもう大変。ありとあらゆることがてんやわんやになって…。
というような話です。
まあなんというか、なんとも言えないような作品でしたね。萌え系ギャグマンガをノベライズしてみました、みたいな話のような気がします。まあ読んでて笑っちゃったりすることもあるし楽しくないわけでもないんですけど、小説としてはやっぱダメでしょうね。
しかし、昨日読んだ「狼と香辛料」とは全然違う出来ですね。同じレーベルでここまで差が出るか、と思うくらいの違いです。僕はやっぱ、「狼と香辛料」みたいなストーリーのちゃんとしたライトノベルならいいけど、本作みたいにテンションだけで乗り切ろうとしてる作品はあんまり好きにはなれないですね。
もちろん二巻目以降を読むことはないでしょう。僕はオススメはしません。

おかゆまさき「撲殺天使ドクロちゃん」




狼と香辛料(支倉凍砂)

神は細部に宿る、らしい。誰の言葉だか忘れたけど。
本当にいるなら会ってみたいよな、と思う。どんな姿をしているのか、何を考えているのか、本当にこの世の中を作ったのか、普段何をしているのか。聞いてみたいものである。
まあそんな機会が来ることはないだろう。
神が実在するかどうか議論をするつもりは特にない。僕は特定の宗教を信仰しているわけでもないし、神というもののついて普段から考えていたりするわけでもない。何か困った状況になったら、神様になんとなくお願いでもしてみたりするけど、それだって特定の誰かを思い描いているわけではない。
だから神が実在するかどうかということは僕にとってどうでもいい問題なのだけど、神の姿を目にすることはありえないだろうな、ということぐらいは確信出来る。
古来、神というのはありとあらゆる形で語られてきたのだろう。何を考えているのかは分からないし、こちらの願いを常に叶えてくれるというわけでもないけど、でも信じなくてはいけない対象だったわけで、そこに様々な理屈をつけて神の存在を示していたのだろうと思う。つまり、神が不在であるということ、神が目に見えないことこそが、神の実在である、というような理屈である。
まあよく分からないが、僕からすれば、目に見えないのに存在すると信じることはなかなか難しい。人生のうち一回でもいいし、何なら写真に写っているのを見るだけでもいいけど、とにかく何らかの形で神を目にする機会があれば、まあ信じてみてもいいかもしれないとは思う。でも、神はどうしたって人前には現れない。誰かの妄想が結実して、その人にだけ見える神というのはありえるかもしれないけど、万人の前に、これこそ神であるという形で神が現れたことはかつてないだろう。
いや別に、宗教を信じている人をバカにしたいわけではない。そもそも神を信じるという形態ではない宗教もあるのだろうけど、とにかく神の不在を主張することと宗教を貶すことは僕の中ではイコールではない。神の実在は、哲学や科学の世界でも時折耳にする話である。僕は一応、そういう系統の話をしているつもりである。
かつて物理学では、「エーテル」というものの存在を信じていたことがあった。
エーテルというのは何かといえば、宇宙空間を充填している物質であると考えられていた。当時、と言ってもまだほんの少し前のことだが(このエーテルの存在を完全に打ち崩したのが、あのアインシュタインである。確か)、光というのが何を通って伝わってくるのかが問題になり、その説明として生み出されたのがエーテルである。
音や光や電波などは、すべて波として扱われるものであるが、通常波というのは何か媒介するものがなければ伝わることはない。例えば音波は、空気や水などの媒介するもののないところでは伝わらない。だから、例えば真空中に人間が生身の状態で存在できるとして、しかしその中では会話を交わすことが出来ないのである。それは電波にしても同じで、何か媒介するものが必要となる。
光も同じく波であり、であれば同じく何か媒介するものがなくては伝播しないと考えられた。光というのは宇宙空間でさえも伝播する。宇宙空間は真空であると考えられていたが、しかし真空であれば光が伝播するはずがない。そうして考えられたのが、エーテルという物質である。
要するに物理学は、宇宙空間にはエーテルという物質で充たされていると考えることで、この矛盾を解消しようとしたのだ。これは当時の一部の物理学者が唱えていたわけではなく、物理学での常識と言ってもいい考え方であった。
しかしその後、宇宙空間にエーテルが充填しているとしたら都合の悪い実験結果がたくさん出てくるようになる。しかし、物理学はそのエーテルという考えをなかなか放棄することが出来ない。そしてようやく、アインシュタインという天才物理学者が、宇宙空間というのはそもそも光を伝播する性質を持つのだ、という考え方を披露し、このエーテル問題は決着を見ることになった。
僕にとって、神というのはこのエーテルに似たようなものでしかない。観測することも出来ないし、現実のデータと矛盾することも多々あるのだけど、しかしその存在を多くの人に認められているもの。そういう意味で、神とエーテルは非常に近いものがある。
結局エーテルは存在しなかった。エーテルが存在していないことは100%間違いなく、疑いようがない。科学というのは、こうして何かを決定付けることが出来るから僕は好きだ。
神も、まず間違いなく存在しないだろう。まさにエーテルと同じである。しかし問題は、その不在を証明することは絶対に出来ないということだ。同時にその存在の証明も決して出来ないのだけど、このどちらの証明も決して出来ないという点が、神の実在がここまで信じられるようになった要因だろうと思う。
別に誰が何を信じようが僕には関係ないが、しかし少なくとも、神は存在しないというところからスタートした方がいいんじゃないかな、と僕なんかは思ったりします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
行商人であるロレンスは、山の奥地での取引を終え、麦の産地である村を通り過ぎ、また別の取引に向かおうとしていた。川に差し掛かり、今日はここで一休みしようと思ったところで、荷馬車に人の気配を感じた。
素っ裸の美しい少女だった。
彼女は自らを、ホロと名乗った。ホロと言えばロレンスには一つしか思い浮かばない。麦の産地である村で信仰されている、豊作を司るとされる神の名前だ。実際彼女が豊作の神であるのかロレンスは半信半疑であったのだが、北に帰りたい、その前に諸国を旅したい、というホロと一緒に旅をすることになったのだ。
ロレンスはそれからしばらくして、ある奇妙な話を耳にする。近い内にある銀貨が値上がりするという話で、それに乗れば大金を得られるような儲け話だった。しかし、そううまい話があるはずもない。ロレンスは、これまた半信半疑ながらも、とりあえずその話に乗ってみることにするのだが…。
というような話です。
僕は時々ライトノベルを読んでみたりするんですけど、これは結構いいなと思いました。近々アニメ化するようで、なかなか人気のあるシリーズなんですけど、結構面白い作品です。
とにかくホロのキャラクターがかなりいいですね。まさにロレンスを手玉に取ると言った感じで、緩急自在という印象です。ツンデレというのとはまた違って、時々姉キャラなんだけど、時々妹キャラみたいな、そんな不思議なキャラクターでした。僕もホロには結構振り回されてしまいました。
話もきちんとしていて、僕はそこまでライトノベルを読んでいるわけではないんですけど、ライトノベルっぽくない話だと思いました。普通のファンタジー小説と言われても充分通用するくらいで、面白く読めました。ライトノベルらしくなく挿絵もそこまで多くはなくて、やっぱり電撃文庫はジャンルも豊富でレベルも高いのかなとか思ったりしました。
しかしまあ、とにかくホロのキャラクターが全開に楽しい作品です。ホロとだったらちょっと旅に出てみてもいいなぁ、とか思ったりします。まあロレンスのように頭が切れる男ではないんで、すぐ愛想をつかされてしまうかもしれませんけどね(笑)
僕はライトノベルを読むと、二巻目はもういいかなと思うようなことが結構多いんですけど、これはシリーズで読んでみてもいいかなと思える作品でした。なかなか面白いです。機会があったら二巻目を読んでみようと思います。
そういえば全然関係ないですけど、この作品はちょっと記念すべき作品で、それは、これまで読んだ作家数がこの作品でちょうど500人になりました。なかなかたくさん読んでるものです。これからも、まあ頑張ります。

支倉凍砂「狼と香辛料」



もえない(森博嗣)

森博嗣の小説は、何だか小説らしくないという印象を受ける。
これは決して悪い評価ではない。むしろいい評価であると言える。その辺りのことをちょっと説明してみたいと思うのだ。
小説というのは、まあ様々なジャンルがあるものだけど、何だかんだと言ってストーリーを伝えるための器だと僕は思っているのだ。小説の中には、人間もいれば自然もある。感情もあれば論理もある。そういった様々なものが含まれて小説と呼ばれるようになるのだけど、しかし常に求められることは、それがストーリーを伝えているということだと僕は思う。それが、小説の本質とは言えないかもしれないけど、少なくとも骨格にはなりえる。
もともと小説というのは、いつの間にか小説として存在していた、それを発表してみた、というような形態だったはずだと僕は思うのだ。もっと昔、まだ小説家なんていう存在が全然なかったような頃を想像してみると、どこかに発表したりそれでお金を儲けたりといったような意思なく小説が生み出され、それが人に読まれたりするようなのが始まりだったのではないかと思うのだ。始まりという言い方はおかしいけど。
だからこそ、まず小説という器があって、そこにストーリーを盛るという流れで小説というものを生み出せたのだと思う。少なくとも、ちょっと前まではそうだったはず。
しかし最近は違うように思える。最近では、とにかく小説というのは一つの道具になった。表現ではなく道具だ。書きたいことがあるから小説を書くのではなく、作家になりたいから小説を書いたり、あるいは小説を書き続けなくてはいけないから小説を書いたりといったような状況になっている。
そんな状況の中では、まずストーリーが優先されるのだ。ストーリーがあり、その後で器である小説の形にする。そんな小説が多いような気がする。
さてその場合小説というのはどうなるかと言えば、ありとあらゆる要素がそのストーリーのために存在するようになってしまうのだ。僕が言っていることが分かるだろうか?
イメージとしては、中心がある、ということになる。円みたいなイメージだ。人間も自然も感情も論理も、小説の中に含まれるありとあらゆる要素が、ストーリーという中心に向かって注ぎ込まれていく。もっと言えば、ストーリーに関係のある要素だけが残され、ストーリーに無関係な要素はどんどんと殺ぎ落とされていく。そんな感じである。
だから最近の小説というのはすごくすっきりしている。分かりやすい。それは当然で、ストーリーに関係のない余分なものは省かれてしまっているからだ。まさにそれはデザインそのものであり、車になんとなく近い。昔の車は、余分なものが多くすっきりとしていなく効率なんかも悪かったけど、しかしそれがいいという人もいる。最近の車は余分なものはないしすっきりしているし効率もいい。それがいいという人もいる。まさに小説も、車のようなデザインのされ方をしているように思える。
ただ、そういう小説の難点は、やはりどうしても現実からは遊離するということだ。ぼんやりと小説を読んでいる時は気づかないのだが、ストーリーに余分なものを削っている分、小説の中にノイズがなくなってくる。僕らは普段生きている中で、まさにノイズとしか呼べないような行動や感情を有している。理由もなく行動したり、理不尽な感情を抱いたりといったような積み重ねで日常というものが成り立っていく。そのことはあまり意識されないので、ノイズを取り払った小説を読んでも違和感を感じなくなっているのだけど、よくよく考えてみると、そのノイズのなさが小説を現実から遊離させているように思えてくる。
森博嗣の小説には、最近省かれてしまっているノイズが意識的に残されているように僕には思う。ストーリー全体からしたら余分で、まるで不要なピースの紛れ込んだジグソーパズルでもしているような感じなのだけど、それが逆に現実っぽさをかもし出しているように思う。特に会話にそれが現れているように思う。小説の中の会話は、読者に情報を伝達する手段として存在することが多い。特にミステリではそうだ。しかし僕らが日常にする会話のほとんどは伝達を意図したものではない。お互いの隙間を埋めるような、そんな目的で喋っていることが多い。そういう雰囲気を、森博嗣の小説を読むと感じることが出来るのだ。
ノイズが多い小説は、中心を生み出しにくい。それは小説全体の分かり難さを高めるということにもなるだろうと思う。誰だって、パッと見で名前を思いつけないような複雑な図形より、円とか平行四辺形みたいな単純な図形を見たいものだろう。
それは、本を読むということがどんどん受身になってきたその歴史を物語ってるのだと思う。たぶん昔は、本を読むという行為はもっと能動的なものだったはずだ。既に僕には、能動的な読書というのがどういうものかイメージできないのだけど、そんな気がする。だからこそ、名前のつけようもない複雑な図形を見せられても大丈夫だったのだ。
僕らは、本を読むという行為に受動性を求めているために、目の前に現れるものがより単純で美しくあればいい、と考えてしまう。恐らく忙しすぎるのだろうと思うのだけど、じっくりと一冊の本を読むような余裕がないのだろう。だからこそ、円や平行四辺形みたいな雰囲気の小説ばかり求めるし、読者がそれを求めるから、作家もなるべくノイズのない作品を書こうとする。そうして今のような状況になったのだろうなと漠然と想像する。
別にノイズがあればいいというわけでもないだろう。僕だって、やはりどちらかと言えばノイズのない小説の方が読みやすいと感じてしまうだろう。しかし、時々こうしてノイズの残っている作品を読むと新鮮に感じられていい。そんなことを思った。
そろそろ内容に入ろうと思います。
特に親しかったわけでもないクラスメートの杉山が死んだ。なんとなく葬儀にも出た。退屈だった。皆出るものだと思ったけど、葬儀に参加したのは僕を含めて数人だった。
親友の姫野と話している内に、去年だったか杉山からもらった手紙のことを思い出した。封を開けた記憶がなかった。家に帰って探してみると、やはり未開封のままで見つかった。そこには、なんとも奇妙なことが書かれていた。
「友人の姫野に、山岸小夜子という女と関わらないように伝えてほしい」
結局杉山は死んでしまったわけで、その真意は分からない。
学校に杉山の父親がやってきた。僕の名前が掘り込まれたプレートを持っていた。棺に何冊か本を入れていたのだけど、恐らくそこに挟まっていたのだろう、とその父親は言った。僕にはまったく見覚えはなかった。結局そのプレートはもらうことになった。
それから、なんだかぼんやりと日々を過ごした。杉山のことが気になっているのかというと、そうではない気がする。何だか分からない。分からないけど、何かがどうしても気になるのだ…。
というような話です。
まあ全体的には普通ぐらいの作品ですね。森博嗣の作品は新刊が出るたびすぐ買って読むんですけど、最近そこまで当たりと感じられる作品には出会わないですね。ここ最近では、「ZOKUDAM」は傑作だったなと感じたのだけど。
本作のような雰囲気は結構好きですね。森博嗣の作品らしい、静謐というかクールというか、そんな感じの雰囲気の作品です。「記憶と殺人をめぐるビルドゥングスロマン」と書いてあって、ビルドゥングスロマンってのが何かさっぱり分からないのだけど。
タイトルは恐らく、「萌えない」と「燃えない」を掛けてるんだろうな、と思います。「萌えない」の方は「萌え~」とかの萌えるじゃなくて、植物が生えるという意味の萌えるです。森博嗣はタイトルを考えるのに半年以上掛かるという話を日記に書いていますけど、確かに森博嗣の小説のタイトルはかなりセンスのいいものばかりだなと思います。
まあ、オススメするほどの作品ではないけど、読んで損することもないだろうと思います。まあそんな感じの作品です。

PS:この感想を書いている途中で、もう後から考えれば考えるほど面白いような出来事があって、さすがにブログに書いたらまずそうなんで書かないですけど、いやぁ、年の瀬に大いに笑わせてもらいました。

森博嗣「もえない」



ハッピーエンドにさよならを(歌野晶午)

結末って何やねん、という感じである。
いや、ちょっと考えてみましょうよ。
『小説の結末』
『映画の結末』
『ドラマの結末』
こういう言葉は別に不自然ではないですよね。でもこれはどうでしょう。
『人生の結末』
ほら、これって、結局『死』と同じですよね?『人生の結末』=『死』。ですよね?
そう、『人生』という言葉には、『結末』という言葉は合わないんです。そもそも比べることがおかしいという意見もあるかもしれないけど、そもそもその点が、物語と人生の大きな違いだろうなと思うわけです。
物語というのは、何らかの始まりから始まって、何らかの結末で終わります。そりゃあ当たり前ですけど、じゃあ人生はどうかっていうと、誕生という決まった始まりから始まって、死という決まった結末で終わるわけです。物語には始まりも結末も多様性があるのに、人生の場合、それがどんな人であっても、始まりと結末は変わることがありません。
人間の人生を描いたもの、あるいはその縮図が物語であるはずなのだし、僕らもそう思って読んでいるはずなのだけど、でもやっぱり根本的には大きく違うわけです。
物語の場合、結末の続きが気になるということがよくあります。物語には、それがどんな終わり方であれ、必ずどこかに結末があります。未完のまま作者が死んだりしない限り、物語には必ず結末があります。
しかし、その先というのはどこにもないのだろうか、と思ってしまうわけですよね。まあこれは誰しもが考えるんではないかと思いますけど。
要するに物語というのは、それが存在する世界の一部だけを切り取ったものであるのか、あるいはそれで全部なのかということです。
前者であれば、物語の前後にも話が存在することになります。物語の都合上、どこかで区切らざる終えなかったというだけの話であり、その前後にもきちんと物語が存在することになります。
しかし、もしそうでないなら、即ち物語というのはそれが書かれた部分の世界しか存在しないというのであれば、結末の終わりはないことになってしまいます。
例えばよくミステリなんかでは、最後に犯人が指摘されたりします。で、犯人が動機やら言い訳やらをあれこれ吐き出して、はいそこでおしまい、ということになります。じゃあこの犯人はその後どうなったのか、捕まって刑務所にいるのか、精神鑑定の結果罪には問われなかったのか、ひっそりと死んでたりするのか。その犯人の家族はどうなっているのか。などなど。ちゃんと想像するようなことはないですけど、そういう結末の向こう側というのが気になることはたまにあったりします。
だから考えてみると、ハッピーエンドとかアンハッピーエンドとかっていうのは、結局のところ物語にしか使えないよな、ということです。あれ、ちょっと飛躍しすぎたか。
人生の各場面でも、ハッピーエンドとかアンハッピーエンドとかって言葉を使うことがあります。それは、人生の中のいくつかの区切りで見た時に、その終わり方がよかったかどうかを評価しているわけだけど、しかし人生というのは結局死ぬまで終わらないわけで、いい終わり方だったのかどうかというのは分からないものです。
物語というのは、結末の向こう側の世界があろうがなかろうが、結局そこで終わっているわけです。その時点で、良かったかどうかという判断が出来る。なんか僕も、物語のような世界での生き方ができればいいのにな、とか思ったりしますね。
というわけですいません。寝起きなんで(いつの間にか寝ていて、ついさっき起きました)、何を書いているんだか自分でもよくわかりません。そんなのいつものことじゃん、とか突っ込まれそうですけど。はい、それは正解です。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作はいくつかのショートショートといくつかの短編が収録された短編集となっています。

「おねえちゃん」
親はあたしにだけ厳しい。お姉ちゃんにはすごく甘いくせに、あたしにだけはとにかく厳しい。ねえ、どうして?あたし、いろいろ考えたんだよね。わたしが悪いんだとか、わたしの反応の仕方が気に障るんだとか、わたしは拾われっ子なんだとか。でもでも、全部違ったんだね。なるほどなるほど、そういうことだったのかぁ。そこで、ちょっと一発相談があるんだけど…。
高校生の理奈が叔母である美保子に相談を持ちかける話。

「サクラチル」
真向かいの家に常盤さんが越してきたのは、桜の終わりの春のことでした。
常盤さんの奥さんというのは出来た人で、とにかくよくお顔を拝見します。それは様々な仕事場にいる姿を見かけるということなんですけど、足を引きずりながらいろんな仕事を掛け持ちしているのは大変だろうと思います。
それもこれも、ご主人がすべていけないんでしょう。年がら年中家にいて、働くわけでもなく、奥さんに怒鳴り散らす日々。その中で、まさかあんなことになるなんて…。

「天国の兄に一筆啓上」
兄の死から15年。それを偲んでちょっとした手紙を書いてみるショートショート。

「消された15番」
沼田紀美恵は、それはそれは大変な人生を歩んでまいりました。顔は綺麗でしたけどちょっと暗かったせいかいじめられたりしていたのですが、ある時恋に落ちまして、そのまま駆け落ちをしてしまったわけです。
しかし、世の中うまく行きません。
すぐ旦那が事故で死んでしまいました。それからというもの、紀美恵は一人息子と二人でそれはもう一生懸命生きてきたわけですけど…。
そうです。息子が甲子園にベンチ入りする。そんな夏のことでした…。

「死面」
夏休みの度に母の実家へと遊びにいった。毎年それが楽しみだったのだけど、その実家には入ってはいけない部屋というのがあった。特に疑問を持つこともなくこれまで入ったことなどなかったのだけど、反抗的だったある時期、その部屋に入ってしまった。特にどうということもない部屋だったのだけど、その部屋にはちょっとリアルすぎる人面があるのでした…。

「防疫」
水内真知子は、世間一般にいう教育ママというやつだった。一人娘である由佳里をとにかく日々鍛えている。
当初は教育ママになる要素なんて全然なかったのだ。それが、子育てで関わったいろんな関係により、真知子はれっきとした教育ママになった。娘のためと思い込みながら、到底教育とは言いがたい感じで娘に接する真知子。もはやそれは教育でもなんでもなく、躾のレベルも大きく超えていた…。

「玉川上死」
玉川上水を死体が流れてる…、という通報があり警官が駆けつけて見るが、しかしそれは死体ではなくれっきとした人間だった。
ちょっとした賭けだったのだそうだ。
玉川上水約4キロを、酸素ボンベを巧妙に隠しつけた状態で流れていき、警察に通報されたらアウト、されなかったらセーフ、という遊びである。まったく人騒がせな。
しかし、計画を進めていた仲間二人と連絡が取れなくなり、まもなくその二人の死体が発見される…。

「殺人休暇」
合コンで知り合ったある男と、特に理由はないのだけど関係を持ってしまったわたし。しかしそれは大きな間違いだった。
その男は、私を美しくするためと言って様々な要求を出してきた。ブランド物のプレゼントをくれるのはありがたいのだけど、あれこれうるさい。とうとうある時、もうあんたなんかとは会えないと啖呵を切るのだけど…。

「永遠の契り」
好きだったあの子がうちに来る!さてさて、どうなるどうなる…、というショートショート。

「in the lap of mother」
パチンコをしている間車に子どもを放置して死亡させる。そんなニュースが後を断たない。世の母親は何をしてるんだ、と思う。バカなんじゃないのか、と。
わたしは違う。とにかく完璧だ。あれこれ対策を立てて、子どもを連れてパチンコをしているのだ。子どもからは絶対に目を離してはいけないのだ…。

「尊厳、死」
ムラノは、いわゆるホームレスだった。仕事がないというのでもなかったが、とにかく働く気力がなかった。かといって死ぬこともできなかった。生きていく積極的な理由があるわけでもない。というわけでホームレスだった。
つい最近まで駅の地下通路にいたのだが、安全と引き換えに人間関係が煩わしくなりそこを出た。今では一人で公園に住んでいるが、しかしこんどは危険と隣り合わせである。中学生が襲撃しに来たり、親切そうなおばさんがお節介を焼きに来たり…。

というような話です。
これはかなり面白い短編集でした。タイトル通り、全部ハッピーエンドじゃない話ばっかりで、とにかく救われないんですけど、歌野晶午らしくどんでん返しのうまく利いた作品が多くて、読み応えがあります。
個人的にこれは傑作だと思ったのが、「おねえちゃん」「サクラチル」「防疫」「玉川上死」「殺人休暇」「in the lap of mother」「尊厳、死」です。って結構多いですね。
「おねえちゃん」は最後にうまくひっくり返した作品で、しかも完全に救いのない話です。これは本作中の中でもトップクラスの出来栄えだと思います。理奈の語る状況がすべて正しいように思えるのだけど、実は真相は他にあったわけで、いや~救われないっすねぇ。
「サクラチル」も、まあよくあるパターンと言えばそうかもしれないけど、結構うまく出来ています。しかしとにかく、常盤さんの奥さんというのは大変です。あぁいう苦労を背負わせるくらいなら、結婚なんかしちゃいけないですね。
「防疫」はかなり怖い話だと思いました。世の中の教育ママというのはこうしてできあがるのか、と。僕は、作中ちょっとだけ登場するご主人に全面的に賛成です。子どもの内から勉強だ教育だなんてすることはないと思います。しかし、本作の真知子のように受験なんかに取り憑かれている人は結構いるんでしょうね。いやはや、これはホント恐ろしいです。
「玉川上死」も作中のレベルとしては結構トップレベルだと思いました。玉川上水を死体のフリをして流れるイベント、という始まりから、まさかあんな風に終わるとは思いませんでした。これもいろんなことが一気にひっくり返る、どんでん返しの鮮やかな作品です。
「殺人休暇」は、とにかく狂気に取り付かれた男の描写が面白かったです。世に言うストーカーというのとは微妙に違うスタンスで、しかも想像すればするほど怖い。実害がある方がまだ安心できるというような、なるほど新しいパターンのストーカーなのかもしれません。妙に律儀ですけどね。
「in the lap of mother」はちょっと笑ってしまいました。短い話なんですけどよく出来てます。アホはどっちじゃ!と突っ込みたくなります。
「尊厳、死」も、まあよくあるパターンではありますが、やっぱり巧く出来ています。最後一瞬でどんでん返しが決まる作品です。
どれもこれもかなりレベルの高い作品だと思います。かなり面白いですよ。もし立ち読みするなら「おねえちゃん」「玉川上死」「in the lap of mother」辺りがいいですね。その辺を読んで買うかどうか決めるのはアリだと思います。歌野晶午は「葉桜」だけじゃないぞ、と思わせる作品でした。

歌野晶午「ハッピーエンドにさよならを」



エスケイプ/アブセント(絲山秋子)

逃げることにかけては結構得意である。僕の人生をひと言で言い表すとすれば「逃避」とか「逃亡」とか、あるいは「逃」って1文字でもいいけど、とにかくそんな言葉になると思う。今でも現在進行形で逃げ続けているのだ。逃げて逃げて逃げて。
何から逃げているかと言われると、まあそれはひと言ではいえないんだけど、現実とか社会とか常識とかリアルとかまっとうとか正しさとかイメージとか、まあそういういろんなものの集合体みたいなものから必死で僕は逃げているのだ。幸い今では、そういうものは後ろを振り返っても視界に入らないくらい引き離したと自分では思っているので、まあ比較的安定していると言えば安定している。しかしその安定というのも、ちょっと揺れたらすぐ崩れてしまうようなやわなもので、だか安心は決して出来ない。ドラマのセットのようなもので、その安定は、リアルな現実と、あるいはリアルな恐怖と陸続きになっているので、俳優がセットの中にいることを自覚しないように、今自分が逃げているということを自覚しないようにして、何とかその安定を保っているように僕は思う。
でも、最近思うのだ。
逃げるって、そういうことじゃないんじゃなかろうか、と。
僕はずっと、逃げるというのは、前進するのではなく、後ろ向きに走っていくことだ、と思っていた。つまり、前進を否定し、後退を許容したところに逃避というものが生まれるのだと思っていたのだ。
でも違うのかもしれない。
逃げるということは、留まり続けることを言うのではないか、と思うようになってきた。
何故そう思うようになったのかということに理由はないのだけど、漠然と、後退しているという状態も、即ち足を動かして動いていることには変わりないのだよな、とふと思ったのではないかと思う。つまりその動的なイメージは、逃避という言葉のイメージからはちょっと外れてるような、そんな感じがしたのではないかと思う。
しかし、また別にこうも思う。留まり続けるというのもまた動いていることになるのではないか、と。
何故なら、世界というのは静止してはいないからだ。世界というのは、絶えずどこかの方向へ向かって動いている。その世界の中である場所に留まり続けているということは、即ち世界の歩みに合わせて動いているということになると僕は思う。
何だかよくわからなくなってきた。
逃げるというのは、世界に対してどう接することを言うのだろう。僕はずっと自分が逃避し続けてきたのだと思ってきたけど、それは違っていたのかもしれないのだろうか。僕がしてきたのは、逃避とはまた別の何かだったりするのかもしれない。
まあだとしても、僕の意思は特に変わらない。要するに、これが逃避であろうがなかろうが、これまで通りに僕は逃げ続けるだけだ。目の前に立ちはだかる障壁から逃げ、目の前の目標から逃げ、将来から逃げる。アキレスと亀のパラドックスのように、いつまでも追いつかれなければいいのだけど。
僕が見る限り、多くの人は逃げられない世界の中で逃げられないくらいグルグル巻きにされているように見える。自由とか不自由の話ではないんだけど、すごく窮屈そうに見える。いろんなものがまとわりついている感じで、さらにそれを振り払うことがなかなか難しいように思える。服を着たまま泳いでいるみたいに。
さらに僕には不思議なことに、皆その束縛を、自らの意思で進んで求めているように見えることだ。何だろうか、皆なにかに囚われたいという願望でも持っているのかと不思議に思うくらいだ。
だから僕は逃げる。それはある種、宗教団体との距離感にも似ている。宗教というのは、外から見ればおかしいことがすぐに分かるのに、中にいるとそれが見えなくなってしまうことがある。僕には、僕だけが外にいて、周りの人間が皆そういう宗教団体みたいなものに囚われているように見えてしまう。周りがどれだけその信者になろうとも、僕は取り込まれない。逃げる。逃げる。逃げる。そうやって、いろんなものとの距離を取ってきた。
まあ実際は、僕の方が閉じ込められているのだろう。僕の方がすごく狭いところにいて、でもそこで自分がいるところは広いぞって虚勢を張っているんだろう。少なくとも、周囲にはそう見えているんだろう。なんか悔しい。でも、まあしょうがないか。
取り込まれないように、僕は逃げるよ。その内世界を見失うだろうけど。
そろそろ内容に入ろうと思います。
革命家として、闘争と潜伏に明け暮れた20年。おれは20年を軽々とドブに捨ててしまっていた。時代は革命を求めていなかったし、革命は自分を求めていなかった。そうして革命家だったおれは終わった。
でも、革命家を辞めたおれは何をすればいいのだろう。まだ40歳。まだまだ生きる時間は残ってたりするわけだ。でも若くない。って、どうしろっていうわけさ。
とりあえず、進む方向は決まっている。妹と、そして託児所だ。妹が、ついに念願かなって託児所を開くことに。んで、おれはそこで働く、と。分かりやすい。向かうべき道は分かりやすいよ。
ってなわけでとりあえずどっか行くか。旅っていうんでもないんだけどね。ってそこでさ、京都なんだな。何でかって、そこにはかつておれの亡霊がいたからさ。なんちて。
ってなわけで京都に降り立ったおれ。バンジャマンとかいう胡散臭い西洋坊主と出会って、京都をブラブラする。もう一回言うぞ。京都をブラブラしてるんだ…。
というような内容です。
絲山秋子って結構すごい作家だなと僕は思っているんですけど、この作品もそんな凄さを感じさせる内容でした。
正直、ストーリーがどうこうというような話ではないです。ストーリー自体に物語はない、って言う言い方はおかしいけど、そんな感じなんです。ホント、ただ革命家だったおれが京都をブラブラするだけの話で、ストーリー展開上何か起きるというわけでも決してなく、だからストーリーじゃないんです。
じゃあ何なんだっていうと、これがうまく説明できないんですね。確かに文章は独特で、絲山秋子の世界観を生み出すのに大いに役立っているのだけど、しかし文章だけかというとそうでもないのだ。
なんだろう。これはホントうまいこと説明できないんだなぁ。
例えば糊で紙と紙を接着させるみたいなことを考えてみましょう。この場合、どれだけきっちりと紙同士をくっつけても、それが二枚の紙を貼り合わせたものだというのはやっぱり分かりますよね。手触りでちょっと厚いなとか、見た目的にちょっと違うぞとか。
でも本作を読んで感じたのは、二枚の紙を糊で貼り合わせたはずなのに、その貼り合わせた紙はもともと一枚だったようにしか感じられない、みたいなそんな感じです。意味分かりますか?自分でもちゃんと分かってて言っているわけじゃないんですけど、読んでてそういう感覚があります。
だからうまく説明できないんですけど、なんか普通の小説にはない突き抜けた感じがするんですよね。頭では紙が二枚貼り付いていることを知ってても、感覚が一枚だと告げたら、やっぱりビックリしますよね。そんなビックリなんです。実際と感覚がかみ合ってないぞ、みたいな。
やっぱりうまく説明できなくてもどかしいですけど、要するになんかすごいってことです。
全体的にすごくザラザラした感じがあって、でもすごくあっさりしてる部分もあったりで、すっごい濃厚に見えるスープなんだけど飲んでみるとあっさり味のラーメンみたいな、また意味不明なこと言ってますけど、そんな作品だなと思います。重さと軽さのバランスが絶妙なんでしょうね、きっと。
結局うまく説明できなかったですけど、作品全体を理解することが出来たかと言われると自信がないですけど、読んでるとなんかすごいと感じられるような作品です。短いしテンポのいい文章なのですごく読みやすいと思います。是非読んでみてください。
絲山秋子の作品は結構読んできましたけど、芥川賞を取った「沖で待つ」以外のどの作品も素晴らしいと思いました。何故「沖で待つ」で芥川賞だったのか…。謎です。

絲山秋子「エスケイプ/アブセント」



皇帝のかぎ煙草入れ(ディクスン・カー)

古典で名作と言われているものは、長い間残り続ける。
これが文学作品であれば問題はない。文学作品にしても、時代背景をしっていなければ、あるいはその当時の言葉遣いをしっていなければ読むのに苦労する作品というのはたくさんあるが、しかし文学の古典作品というのは普遍性を持ちうる。それは、人間を描いているからであり、人間の本質を描いているからだろうと僕は思う。
人間の本質というのは、時代が変わっても変わらない部分というのは必ずある。あるいは、その時代背景とセットで受け入れることの出来る場合もあるだろう。そうやって、文学の古典作品というのは、その作品に普遍性さえあれば、いつまでも残り続け、いつまで新鮮なまま読み継がれて行くだろうと思う。
しかし、これがミステリとなるとなかなか難しくなってくる。
ミステリにももちろん、古典的な名作と呼ばれるものはたくさんある。大抵海外の作家の作品になるが、日本でも江戸川乱歩や横溝正史と言ったような大家がいる。そういう作家の作品は今でも古典的な名作として残っているし、今でもミステリベストなんて企画をやると上位に来るものもあったりする。
しかし、ミステリの古典作品というのは普遍性を獲得するのがどうしても難しいと僕は思っている。その理由が、ミステリというのは人よりもまずトリックを描くジャンルであるからである。
ミステリというのは基本的に、トリックやあるいは意外な犯人といったような部分がメインになる。古典的な名作と言われる作品も、そういうトリックが優れていたり、あるいはこれまでにない手法で読者を騙したりといったようなことが話題になり、今も読み継がれているのである。
しかし、トリックというのは残念ながら古びてしまうのだ。
ミステリというジャンルは、先人の仕事をいかに乗り越えるか、という重圧を必然的に背負ってしまったジャンルである。先人が生み出したトリックと同じものを出しても仕方がない。読者を驚かせるためには、先人の仕事以上のことをやらなくてはいけない。そういう宿命にあるジャンルであるから、どうしても先人の仕事というのは古びて見えてしまうものだ。
忍者が大木を飛び越す、という話がある。まず忍者は、木の苗木を買って来てそれを植える。そして、その苗木の状態の木を毎日欠かさず飛び越すようにするのだ。木の生長というのは早いものではない。即ち、昨日と今日ではほとんど差がないということになる。昨日飛べたのであれば、今日も飛べるはずである。一方で木は着実にその高さを増していくことになる。それを続けていけば、いずれ忍者は大木でさえも飛び越せるようになる、という話である。
ミステリというジャンルは、まさにこの話に似ていると思う。ミステリというジャンルが生まれた時は、まだほんの小さな苗木の状態だった。それを、時代を超え多くの人が飛び越してきた。もちろん、ミステリという苗木はどんどんと成長しその背を伸ばしていく。今では自分の背の高さ以上の木を飛び越せる忍者が、かつて自分が飛び越したことのある背の低い状態の木を見て、昔はこんな高さの木でも必死だったのだなぁ、と回想するようなものである。
分かりづらい話をしたが、要するにそういうことだ。ミステリの古典作品というのは、やはりどう比べても現代のミステリよりは驚きに劣る。それは、先人の仕事が劣っていたということでは決してない。その時育っていたミステリという名の木の最も高い部分を飛び越した作品であることは間違いないのだ。しかし、今ではその木はもっと生長し高さを増してしまっている。現代の読者は、その高さの木を飛び越えるだけの素養を既に見に付けてしまっている。とすれば、かつての高さの木を飛び越すような作品を読んでも、やはり新鮮さに欠けるというのは否めないだろうと僕は思うのだ。
ミステリの古典作品を読むことはあまりないのだが、時々気まぐれに読んでみたりするといつも同じことを思う。それは、なるほどこれが当時驚きをもって迎えられた作品なのだな、ということだ。確かに、かつての読者を驚かせることは出来たかもしれない。しかし、より複雑なミステリを読みなれた現代の読者には、なかなかその驚きを再現することは難しいだろうなと思うのである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ディクスン・カーという、不可能犯罪の作家、そして密室の大家と言われたミステリ界の大物の作品である。割と有名な作品だと思うのだけど、どれぐらい有名なのかは僕はよく知らない。
イヴ・ニールは夫であるネッド・アトウッドと離婚し、一人身になった。それからしばらくして、真向かいの家に住む、トビイ・ロウズという青年に惹かれ、またその家族にも受け入れられ、婚約するところまで話が進んだ。
そんなある日のこと。
突然前夫であるネッドがイヴの家に忍び込んできた。帰るように言うのだがなかなか立ち去らない。そんな時、ネッドが驚くようなことを口にする。なんと、真向かいに住むトビイの父親が死んでいるというのである。それによってさらに焦った彼女は、ネッドを無理矢理追い出すようにして立ち去らせた。
これでようやく一安心と思ったが、しかし事態はとんでもない方向に進んでいるのだった。なんと、様々な状況証拠から、イヴが殺人の容疑者と考えられていたのである!前夫が部屋に来ていたとはなかなか言いづらい彼女は、身の証を立てることが出来ない。絶体絶命だが、そこへ心理学者だというダーモット・キンロス博士がやってきて…。
というような話です。
まあ現代のミステリを読みなれている人からすればありがちな話だろうなと思います。当時としては驚きの作品だったのかもだけど、まあ今の読者を驚かすことはなかなか難しいのではないかと思います。
まあでも、外国人作家でかつ古典作品という僕の苦手な二つの要素があったにしては、それなりにスラスラ読めた作品だったなと思います。会話が古臭かったり、あるいは時代の背景的なことがよく分からなかったりしましたけど、まあ普通に読めました。
本作みたいに、気になっているミステリの古典作品というのは結構あるんですよね。「アクロイド殺人事件」とか「黄色い部屋の謎」とか「Xの悲劇」とか「モルグ街の殺人」とかですけど、でもどうなんだろうなとか思ってしまいます。やっぱりこういうミステリの古典作品を読むと、やっぱ現代ミステリの方が驚きがたくさんあって面白いな、とか思ってしまうわけです。そりゃあ歴史的には価値のある作品なのかもしれないけど、だからと言って面白いとは限らないだろうな、なんて。だからいつも二の足を踏んでしまうんですよね。
まあそれでもたまには読んでみようかなと思ったりしますけど。とりあえず「黄色い部屋の謎」を読んでみたいかな。

ディクスン・カー「皇帝のかぎ煙草入れ」



リオ 警視庁強行犯係・樋口顕(今野敏)

時代が人を作るのか、人が時代を作るのか。
人々のありようというのは時代によって大きく変わるものなのだろう。僕は世代論というものをよく知らないし、僕が生まれる以前の世代にどんな特徴があるのかちゃんとは知らないのだけど、どの時代に生まれたかによって人々の生き方や考え方みたいなものに大きな違いが出てくるのだろうと思う。
本作の主人公である樋口顕は、団塊の世代と呼ばれるような全共闘時代を生きた人々のちょっと後の生まれで、全共闘時代の人々の尻拭いをしながら生きてきた、という感覚を持っている。全共闘にのめり込むことが出来たわけでも、その後すぐにやってくる新しい文化的なものを取り入れることが出来たわけでもない、何とも中途半端な時代に生まれたのだ、と述懐している。
別にそのことに対して特に不満がっているというのでもないが、しかしその少し上の全共闘時代の人々には、複雑な感情を持っている。特に、その世代の人々が自由というものを主張しすぎて抑制が利かなくなり、そのために親の世代になって離婚なんかを繰り返したために、子供に悪影響を与えている、と考えているようである。その話がどこまで的を射ているのか僕には分からないけど、なるほどそういう見方もあるのか、という風に思ったりもした。全共闘というのは、僕には機動隊と学生がワラワラやってる映像というイメージでしか認識できないけど、確かにその世代とそうでない世代だったら、価値観や生き方に大きな差が生まれるかもしれないなぁ、とは思う。
さらに時代は進み、どんどんと価値観も変遷していく。女性が社会に進出していくようになり、それまでも存在はしていたけど表面化しなかったいじめや不登校と言ったものが大きく取り上げられるようになった。性に関してはどんどん解放されていき、晩婚化や未婚の選択など、結婚というスタイルにも多様性が出てきた。集団よりも個人を優先するようになり、若者は未来に希望を託さなくなり、経済的な格差がどんどん広がり、政治にはどんどん無関心になっていった。
僕が気になるのは、こうした変化は時代という風潮が生み出すものなのか、あるいはその時代を生きている人々の変化の積み重ねなのか、ということだ。
僕が不思議に思うのは、誰かが扇動したり先導したりしているわけでもないのに、何故一つの時代は一つのある大きな方向へ向かって進んでいくのだろう、ということだ。それが、個人の価値観の積分によって生み出されているとはどうも考え難いのだ。それよりも、時代というのが潮の流れみたいな存在であり、その時代の流れに沿って僕らが流されているだけなのではないか、と思うのだ。
その場合、時代というのはそこに生きる人の有り様とは無関係に存在するということになる。あたかも、時代というものが一つの意思を持った生き物であるかのように。
これは都市伝説みたいなものだと僕は思っているのだけど、昔こんなことを聞いたことがある。ファッションの世界には流行色と呼ばれるものが毎年言われるけれども、あれは世界のどこかの誰か(あるいは集団)が毎年決めているのだ、という噂である。そこかそういうファッションのトップ機関(?)みたいなところがあって、そこが毎年、今年の流行色は何色にしよう、というような感じで決めている、というのだ。
時代というのもその流行色のようなものであるように思えてくる。本当に世界を牛耳っているような存在(あるいは集団)がいて、その集団が、これからはこういう時代にしよう、と考えているのではないか、と。これはただの妄想に過ぎないけど、でもそういえばそんな話が松岡圭祐の小説にあったなぁ、なんて思ったり。確か、心理学やコンサルティングの手法を複雑に組み合わせることで、世界の流れをコントロールする組織があって、歴史的な重大事件(パッとは思いつかないけど、天安門事件とか)も、彼らがそれを引き起こさせるように人々を動かしたからこそ起こりえたのだ、とかなんとかそういうような設定の話だった気がします。まあなんとも壮大な話ですが、でも実際にないとは言い切れないと思います。少なくとも、まったく別々の価値観を持っているはずの人々が、何故一つの特徴ある時代を生み出してしまうのか、という説明にはなるのではないかと思います。
鶏が先か卵が先かという話みたいなもので、時代が人を生み出すのか人が時代を生み出すのかというのは何とも言えない問題だろうとは思います。しかし、そこに明確な方向を持った時代というものが存在し、その中に人々が生きているということだけは確かです。僕は時代の流れに追従するような生き方はしたくないと思っていますが、しかしそれでもその大きな流れから逃れることは不可能でしょう。何故かどんな人であってもその時代を構成する要素に含まれてしまう。まあ不思議なものです。
そろそろ内容に入ろうと思います。
警視庁捜査一課強行犯第三係の班長を務める樋口顕は、警察組織の中では非常に珍しい謙虚で控えめな男である。普通警察組織の中では、押し出しに欠ける男はなめられてしまう。しかし樋口の場合、その謙虚さn救われた。実直に組織のために力を尽くす彼は、いつしか周囲の信頼を勝ち取るようになり、樋口に任せておけば大丈夫だ、という評価を得るまでになった。
しかし当の本人としては、それは過剰な評価であると思っている。常に人の目が気になる彼は、自分が評価されすぎているのではないか、と思い不安になる。捜査においても刑事同士との人間関係ばかりが気になってしまう。どうにも自分に自信が持てないのである。
さてそんな樋口が関わることになった事件がある。第一の事件は、あるアパートで起こった。新聞配達員とマンションの住人が死体を発見するのだが、現場から立ち去る美少女が目撃される。当初そのリオと呼ばれる美少女は参考人として行方を追われるだけだったが、第二第三の事件が起こり、そのどちらの現場でも同じ少女が目撃されるに至って、彼女の扱いは容疑者に切り替わった。
しかし、樋口はどうも違和感を感じる。リオが犯人であるようには思えないのだ。彼にしては珍しく、捜査本部の方針に逆らって自分で捜査をすることになるが…。
というような話です。
最近今野敏の作品を結構読んでいますが、この作家はなかなかいいですね。何でこれまでこの作家の作品を全然読んでこなかったのだろう、と思うくらいです。なんとなく多作の作家(赤川次郎、西村京太郎、内田康夫、梓林太郎、と言ったような作家)はどうも手を出しづらくて、今野敏も既に著作が130作を超えるようで、だから避けていたんだと思います。
本作は、STシリーズと同じく警察小説ですが、雰囲気としては結構違います。STシリーズの方は、マンガのようなキャラクターの魅力をふんだんに出しながら割と面白い感じで進んでいく話ですけど、このシリーズは結構真面目な感じの警察小説になっています。
面白いのが、これは解説氏も書いていますが、主人公である樋口顕の設定ですね。警察小説と言えば通常、自分の仕事にプライドを持った自信たっぷりなやり手の刑事が主人公になることが多いですけど、本作の主人公はそんなイメージからは程遠い感じです。自分に自信がなく、周囲の目が気になる。そんな気弱と言ってもいい主人公を中心にした警察小説というのは、結構新鮮で面白いなと思いました。
今野敏の警察小説というのは、割と事件自体は平凡であることが多いです。事件やストーリーそのものに何か特色があるわけではありません。ともすれば退屈といわれかねないそんなストーリーを、今野敏は面白く読ませます。それはやはり、キャラクターの造型の巧さ・面白さによるのだろうなと思いました。
本作では世代論というのも結構なウェイトを占めます。自分の生き方、先輩刑事のあり方、また社会の問題まで、樋口顕は結構そういうものを世代論で括って話をすることが多いです。だから、樋口顕が言っているような全共闘時代やそのちょっと後の時代のことを知っているという人はより面白く読めるんではないかなと思ったりします。
僕の中で割と評価が高くなりつつある作家です。重厚さはないですけど、スラスラと軽く読ませて、かつ面白いという感じの作風です。とりあえずいろいろ読んでみようと思っています。皆さんも、とりあえず何か一作読んでみることをオススメします。

今野敏「リオ 警視庁強行犯係・樋口顕」



怪しいシンドバッド(高野秀行)

外国について考える時、不思議なことが二つある。いや、これから書く話は全然不思議でも何でもない話なんだけど、なんとなく不思議な気分になるというか、そういうような漠然とした話である。
一つは時間である。
僕が行ったことのある外国というのはエジプトだけだけど、やはり外国というのは日本とは何もかもが違う。人も雰囲気も、言葉も文化も、背景も空気も、常識も社会も、そこにあるすべてのものが日本とは違っている。似ている部分があってもそれはまるで違うもので、親しみを感じてもそこには大きな断絶があったりする。
しかし、流れる時間だけは同じなのだ。
僕は普段から腕時計をしているのだけど、この時計の進み方はどこへ行っても変わることはない。もちろん、主観的な時間の流れ方みたいなものは変化するだろうと思う。インドに行けば時間の流れは遅く感じられるだろうし、ニューヨークに行けば逆に早く感じられることだろう。
しかしそれでも、客観的な時間の進み方はどこへ行っても変わることはない。まあ物理学的な正確さを期すならば、厳密には地面からの高さによって時間の進み方が変わったりするのだけど、まあそれは時計の進み方に大きく影響を与えるものではないから無視していいだろう。
外国というのは何もかもすべてが違うと言っても言い過ぎではないのに、そこを流れる時間だけが常に一定であるというのが何だか不思議な気がするのだ。もちろん、時間なんていうのは先進国が一方的に基準を定めただけのもので、そういう意味ではどこでも一定であることは当然であるのだけど、ありとあらゆるものが異なる中で唯一同じものがあるというのは何だか不思議である気がする。
もう一つは、世界中のどこにでも人が住んでいる、ということである。
一枚の世界地図が目の前にあったとして、そこに向かってダーツの矢を投げるとしよう(確かそんなことをやっているテレビ番組があったなぁ)。ダーツの矢が海に刺さったのでない限り、その矢の刺さったところのほぼすべてに人が住んでいると言っていいだろう。
考えてみれば普通のことなのだけど、それってちょっとすごいなと僕は思ったりするのだ。確かに局所的に見れば人が住んでいない地域というのは存在するかもしれないが、大雑把な視点で見ればありとあらゆる場所に人が住んでいると言える。どんなに極寒の地でも、どんなに灼熱の地でも、あるいはどんな環境であろうとも、そこに適応した人間がそこに適したやり方で生活を営んでいる。日本という狭い国にいてはなかなかうまく想像することは出来ないが、世界というのはあまりにも広いのだなと思ったりするのである。
とはいえ、こんなことを書いてはいるが、僕はやはりそこまで外国というものに興味がない。まあいろんなことに興味がない僕なので外国に興味がなくてもどうということはないと思うけど、外国というのは僕の中で、比較的積極的に興味がないことだったりする。
うまく説明できないのだけど、要するに日本にいても引きこもっているばかりの人間が、海外に出たぐらいで開放的になれるかよ、という感じがするのである。なんとなく分かってもらえるだろうか?
これは日本における英語教育の問題点にもある種似ていると思う。
日本では最近、早期英語教育に踏み切るべきかというような議論が存在する(あるいはその論争にはもう終止符が打たれているかもだけど、よく知らない)。いろんな意見があるのだろうが、僕は早期の英語教育はやらない方がいいのではないか、という意見に賛成だ。それは、藤原正彦著「国家の品格」の中に書かれていた文章に納得したからである。
「国家の品格」の中で著者は、「英語が喋れても、喋る中身のない人間だったら意味がない。それよりもまず国語教育に力を入れ、また日本の歴史なんかにも理解を深めるようにし、きちんと外国人に話せる内容を持つことが先決だ」というようなことを書いていた。確かにその通りだと思う。
最近の日本人は、英語の発音だけは滅法いいが、内容のない話しか出来ないということで外国人から相手にされない、というような話を聞いたことがある。英語は話せるけど、自国の歴史や文化や政治についてまったく知らないのでは話すことがない、というわけである。それよりは、発音や語彙などはどれだけ適当でもいいから、自国の歴史や文化や政治について話せる方がよっぽどいい、というわけである。なるほど、それは当然だ、と思った。
ちょっと牽強付会に過ぎるが、僕が外国というものに積極的な無関心を持っているのも、これに近いとは言えないだろうか。そもそも日本という国において外に向けての関心が薄いのである。それなのに、外国に出た途端外への関心が急激に増すということはやはりありえないのだ。
外国というのは、確かに漠然とイメージするだけなら面白そうであると思う。しかし僕の中でのそのイメージは、京都という街が漠然と面白そうであると思うのと似ている。僕は京都という街は好きだけど、やはり僕一人ではその街をちゃんと楽しむことは出来ない。何故なら、外側に関心がなかなか持てない人間だからだ。であれば、外国に行っても似たようなものだろう。これが、僕が外国に対して積極的な無関心を持っている理由である。
まあそれでもエジプトはなかなか面白かったと思う。一生に一度は入ってもいい場所かなと思ったものだ。かといってそれで他の地域への関心が湧いてくるというようなことにはならないわけで、ほとほと自分の無関心さには呆れるばかりである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、著者が19歳から20代の後半に掛けて旅して歩いた各地での話をまとめた作品になっています。どこか特定の地域についてではなく、いろんな場所のいろんな話を載せているという点で、短編集みたいなものだと思ってもらえればいいと思います。
場所としては、インド・アフリカ・東南アジア・中国・南米と多岐に渡り、また内容も、騙されて無一文になった話、人間の胎盤を食べる話、幻の幻覚剤を求めて超危険な南米の奥地へと入り込む話、ウンコの話、野人探しの話と多岐に渡っており、とにかく著者の興味の赴くままにあちこち放浪してはそこで出会い見聞きしたものについて書くという感じです。
相変わらず無茶苦茶なことをしている人で、よく生きてるよなぁ、と思います。また、人の懐に入り込んでいくのが異常に巧く、現地の言葉をなるべく習得してから行くようにしているというのもあるかもしれないけど、物怖じせずに誰とでも関わることが出来るその人間性が、半分羨ましかったりするけど、半分ちょっとなぁと思ったりもします。
いつも思うけどこの人の文章というのはどことなくユーモアがあって面白いです。面白い体験をしてたり面白い人に出会っているというのもあるかもしれないけど、それをさらりと面白いタッチで表現できてしまうその文章もなかなか洗練されているように僕には思えます。特別すごいことが起こっているわけではない話でも、なんとなくスイスイ読んでしまうような文章で、しかも言ってしまえばいつも同じようなことをしているとも言えなくもないのに、どの作品もいつも新鮮に面白く読めるわけで、なかなか不思議な作家だなぁ、と思ったりします。
個人的にはやっぱり中国の話が面白かったですね。中国というのはやっぱり変な国だなぁ、と改めて思いました。最近では中国がいろんなものを勝手にコピーしているという問題が取り上げられたりしていますが、そんなの屁でもないようなことが日常的に起こっているわけで、ちょっと中国では生きていけないだろうな、と思ったりしました。
まあそんなわけで、相変わらずこの著者の作品は面白いです。どの作品も、誰もが憧れない(?)ぶっとんだ青春を味あわせてくれると思います。本作も、自由で羨ましいなぁ、と思う一方で、こんな生き方はちょっと無理だよなぁ、と思わせる作品で、ただ読者として読んでいる立場であればすごく楽しい、そんな感じです。是非読んでみてください。

高野秀行「怪しいシンドバッド」


怪しいシンドバッド文庫

怪しいシンドバッド文庫

ホームドラマ(新堂冬樹)

仮面を被って生きていかなくてはいけない人がいる。
僕もその一人である。普段周囲に見せている僕の姿はほとんど偽りであると言ってもいいすぎではないと思う。僕には、表には出てこないもう一人の自分というのが内側にあって、それを隠しながら生きているのである。
何故内側に別の自分を隠しているかと言えば、それは内側の自分が周囲とは馴染まないことを知っているからである。僕の本性はかなり酷い人間で、冷酷で無慈悲な人間味のない男である。しかし、その性格のまま社会の中で生きていくことはなかなか難しい。人付き合いや仕事をする上でも、その性格は損にこそなれ、得になるようなことは決してない。だからこそ僕は、その本当の自分というものを内側に押し込め、表面上にもう一人別の自分を作り出しているのである。
これは昔からそうだった。
僕は子供の頃からずっと、優等生を演じ続けてきた。親に対しても学校の先生に対しても、常にというわけではなかったがほとんどの場面で優等生としての自分を見せてきた。
それは、優等生でいる方が自分としては生きやすいということに気づいたからだ。家でも学校でも、優等生であることを全面に押し出して生活をしていた。それは、確かに窮屈でめんどくさい生き方だったけれども、しかし本当の自分を表に出した場合に比べたら穏やかに生きることが出来るだろうということは間違いないと思ったのだ。少なくとも、内側の自分をそのまま出してしまえば、周囲との軋轢が常に起こり、よりめんどくさい状況に陥っていたことだろう。それを回避するためには、優等生であり続けるしかなかった。
しかし、優等生である自分というのは、本来の自分とは大きくかけ離れていた。僕は全然真面目でもないしきちんとしてもいないし正しくもないのだけど、常にどんな場面でも優等生的な判断を求められた。自分でそうなるように仕向けていたのだから文句を言っても仕方ないのだけど、やっぱりその生き方は結構めんどくさいなと思うようになった。
ある時期から、親に対しては優等生としての自分の仮面を脱ぐことにした。これまでの自分が偽りであったことを伝え、親に対しては本来的な自分をメインに出すことにした。少しだけ気が楽になった。まあ親としては辛いものを押し付けられたようなものだろうけど、まあ僕としては関係ないかなと思う。
今でも僕は、それなりに真面目な人間の仮面を被って生きている。やっぱり、そうやっている方が生きやすい。本来の自分を全面に出せば、恐らく社会でまともにやっていくことは不可能だろうと思う。まあ今でもまともじゃないけど、まあ自分の中で許容できる範囲には収まっているかなと思う。
世の中には、仮面を被らないでも生きていける人がいるのだと思う。そういう人を羨ましく思うこともあるけど、一方でちょっとおかしくないかなと思うこともある。
仮面を被らずに生きていける人は、集団の中でも強い立場にいることが多い。自分の意見や思ってることをそのまま伝えても、周囲から反発や不満が出ないような、そんな人望を持っていたりする。そういう人は自分を偽る必要がない。
しかし、そうでないような人の方が圧倒的ではないかと僕は思う。
日本人は空気を読むということが求められる人種だと思う。周囲と和を持って合わせることこそが美徳とされ、集団の中からはみ出さないことこそが大事であるとされる。
集団の中で強い意見を持つことが出来る人はいい。しかしそうでない人は、その集団の総意みたいなものに合わせていかなくてはいけない。自分の主張よりも、集団としての意見を優先しなくてはいけないのだ。そこで、自分を抑えることになる。そうやって、徐々に仮面の形を明確にしていって、また仮面の数がどんどん多くなっていったりする。
正直仮面をつけたまま生きていくのはめんどくさい。めんどくさいことから逃れるために仮面をつけているのに、その仮面をつけていること自体が今度はめんどくさくなっていく。結局、楽に生きる方法などないということか。
人と関われば関わるほど、仮面の数は増えて行く。増えていけばいくほどどんどん窮屈になっていく。本当の自分を見失ってしまうことにもなりかねない。だけど、いつまでも僕は仮面を外すことはないだろう。周囲の求める<僕>像に合わせた自分を、見事に演じて見せようではないか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、四編の短編が収録された短編集になっています。

「団欒」
ちゃぶ台を囲んだ家族の団欒。それが僕の恐怖だ。婿養子という立場が、家庭の中での安寧を許さない。義母も義父も、義弟も義妹も、妻や息子や猫でさえ、僕をくつろがせてはくれない。家族の誰もが笑顔を咲かせ、笑い声を響かせるあの団欒が、今日もやってくる…。

「賢母」
夫は私のことなど考えてくれたこともないだろう。いつも自分勝手で我がままな夫を、影ながらずっと支えてきたのだ。他の家族も、私のことをちゃんとした「日本の母親」という目で見ている。もちろんそうだろう。だって私は、そういう役割を完璧に演じているのだから。
今日も私は、母親という役割を完璧にこなしきった。そんな私の最近の楽しみは…、出会い系。隠し持っている携帯電話で、若い男の子とメールをしているのだ…。

「邪」
取引先で年下の部長と面白くもない話をした後で、社長からの電話。相変わらず、根性が足りない、気合が足りないと精神論ばかり振りかざす筋肉バカ。何故だか知らないが、さっきの取引先の年下の部長に謝りに行けという。今夜は楽しみにしているドラマがあるのに…。そのドラマを予約して欲しいと妻に頼もうとすると、妻の勝手な都合を振りかざし、今日は早く帰ってきてという。くそ、何だと思ってるんだ!
とにかく次の取引先へ急ぐことに。その途中、屋上からまさに飛び降りようとしているサラリーマンが騒動になっている。どうもその光景から目を離すことができない…。

「嫉」
妻は美人だし一人娘は反抗期もなく学校のことを包み隠さず話してくれる。私も、とにかく理想の父親というものを日々演じている。完璧な家庭だ。申し分ない。この素晴らしい家庭がこのまま続いてくれるはず…だったのに。
一人の男の登場で、それが崩れようとしている。
娘の家庭教師としてやってきた大学生だ。ラグビーをやってるとかでかなりいい体格をしている。それはいい。問題は…。
妻がその家庭教師に惹かれているのではないか、ということだ。
どうしてもその妄想が頭から離れない。ほんの些細なことでも、すぐそのことと結びつけて考えてしまう。本当のこところはどうなんだ。妻は、あの家庭教師の男と関係を持っているのか…。

というような話です。
いやはや、面白い話でした。直接ネタバレになることはここには書かないつもりですけど、とにかく「団欒」と「賢母」が最高でしたね。日本人ならば誰もが知っているある家族がモチーフになっていて(ってこれはネタバレですかね 笑)、いやもしかしたらこんなことを思っているのかもしれない、と笑えてしまいました。この本を読んだ今、改めてその家族を見たらかなり印象が変わってしまうかもしれないな、と思います。
「団欒」では婿養子が、「賢母」では一家の母がそれぞれ主人公なのだけど、あっちでは描かれていない裏側ではこんなことになっていたら…と思うとぞっとしますね。本当に、ストーリー自体はなんでもない日常なのに、ホント怖いと思わせる作品です。
後半では、「嫉」が秀逸ですね。妻の不倫を夫が疑ってあれこれ気を回す話なんですけど、恐らくそういう展開になるんだろうなと思っていても充分楽しめる作品でした。とにかく、妄想に囚われた夫の常軌を逸した行動がなかなか読み応えがあります。
「邪」の方はちょっとあんまり面白くないかなと思いました。でも、とにかくサラリーマンは大変だぞ、ということがよく伝わる作品です。サラリーマンの呪詛みたいなものが作品から溢れ出そうになっている、そんな作品です。
黒新堂っぷりがなかなか発揮された作品だと思います。とにかく、「団欒」と「賢母」は是非読んで欲しいですね。あまりのくだらなさに笑うしかないと思います。同じ感じでいろんな話を書いて欲しいなぁ、と思います。

新堂冬樹「ホームドラマ」



エミリー(嶽本野ばら)

世界とは、どうも相容れない。
なんてことばっかり言っているのだ。それが言い訳だっていうことを僕はもう知っているけど、それでもそういい続けたい。
世界とは、どうも相容れない。
世界が僕を拒絶しているのか、あるいは僕が世界を拒絶しているのか。恐らく、世界が個人を拒絶するようなことなどないのだろう。そう感じられたとしたらそれは錯覚で、あくまでも僕が世界を拒絶しているというのが正しい見方なんだろうと僕は思う。
思うけど、それはあんまり自分では認めたくない。
世界というのは僕にはどうしても窮屈に思える。それは洋服みたいなもので、サイズがきちんと決まっているんだと思う。その世界のサイズにすっぽりと収まる人にとっては、世界というのは窮屈でも何でもなく、逆に楽しめる場所なんだと思う。ぶかぶかだったりするようなことはあるかもしれないけど、でもそれでも窮屈よりはマシだと思う。
たぶん僕は、その世界のサイズに適さない大きさなんだと思う。別に僕の存在が大きいとかそんなことを言いたいわけじゃない。世界の形と僕の形が合わないぐらいの意味である。僕が世界を着ようとすると、どこかキツイ。完全に着ることができない。でも、裸で歩くわけにはいかない。僕は世界を着るしかない。でもやっぱり窮屈だから、出来れば着ていたくない。
だから、なるべく世界を着なくていい場所に引きこもって、どうしても着なくちゃいけない時だけ着ることにしよう。そう決めた。
頑張って世界を着続ければ、いつか自分に合うようになるかもしれない。あるいは、世界を着こなせるように、自分の体型を変化させたりすればいいのかもしれない。
でも、そうやって努力することに、やっぱり意味を感じることが出来ない。どうしてだろう。世界をちゃんと着て外を歩く方が正しいことである気がするのに。
世界を着こなして、アクセサリーなんかをつけて着飾って、そうやって正しく歩ける人が羨ましい。世界に認められていて、世界を着て歩くことが不自然じゃなくて、世界に受け入れられている人というのは羨ましい。
それは本当に服みたいなものだと思う。僕はファッションには興味はないけど、自分にどんなファッションが似合わないかぐらいはわかっていると思う。知識がないのでどういうブランドという形で名前を挙げることは出来ないけど、そもそも僕が着ることを「認められていない」ブランドというのが山のように存在するように思う。
世界との対峙も似たようなもので、世界に認められている人とそうでない人がいる。認められている人はそれを着ても構わないのだけど、認められていない人が着ると不自然だったり違和感があったりする。もちろん、世界に生きている限り世界を着ないわけにはいかないので、そうやって不自然さや違和感を自覚しながらそれでも着続けるしかないのだけど、やっぱりおかしいと自分では思っている。思っているからこそ、すぐに脱ぎたくなるし、そこから離れていたいと思う。そうやって、世界からどんどんと離れていくことになる。
世界は広い。確かに広い。それは、様々な価値観に満ち溢れているということである。価値観の多様性は、多くの人を寛容に受け入れるように思えるけど、でも僕は逆だと思う。価値観が多様にありすぎるが故に、何かを選ぶことが出来なくなっている人がたくさんいるのだ。そういう人が、世界からどんどんとあぶれていく。選択肢が少なければ自分の意思でいろいろと選べたかもしれないのに、選択肢が無限にありすぎるが故に、逆に選べなくなってしまう。世界が広いということを知ってしまっているからこそ、逆にその世界の窮屈さを自覚することになってしまう。大は小を兼ねるかもしれない。しかし、世界は広ければ広い方がいいということには決してならない。
居場所という言葉がある。世界には、僕の居場所はないように思える。それだって、ただ逃げているだけの、ただ逃げたいだけの言葉だけど、でも実感としてそれは正しい。世界には僕の居場所があるようには思えないし、僕の存在が許容される場所があるとも思えない。世界は僕を否定し、僕は世界を否定し、そうやって僕らは、互いに離れ合っていく。
それでもこうして、醜くも僕は世界の片隅で生きている。正しいことではないと自覚しながら、それでも世界の一部を占めている。間違っているのなら正せばいい。それなのに、言い訳ばかり繰り返して、正しさから目を逸らしている。正しいものを見ると、自分の醜さをより実感する。世界からあぶれた自分の存在を一層悲しくさせる。だから僕は逃げ続けるし、逃げ続けるために世界を否定する。
世界とは、どうも相容れない。これまでも、恐らくこれからもずっと。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、1編のショートショートと2編の短編を収録した短編集になっています。

「レディメイド」
クールでミステリアスな男性に惚れてしまった女性の話。レディメイドという、芸術と呼んでいいのか悩ましい作品を作り続けた芸術家をこよなく愛するその男性を。

「コルセット」
僕は死のうと思った。細々とイラストレーターの仕事を続けているだけで他には何もない僕は、生きている理由も特にない。それに、昔知り合ったある女性が自殺したというのも理由になるだろう。
その女性の自殺を知ってから、僕の体調はおかしくなり、神経科に通うことにしました。薬をもらうことももちろんですが、その神経科に通い続けた第一の目的は、受付に座っていた君に逢うためでした。
挨拶程度の会話しかしないのだけど、僕は君を遠くから見ているだけで幸せだった。そんな状態が三年ほど続いた頃、突然仕事が打ち切りになった。僕は、今こそ死ぬチャンスだと思った。身辺を整理し、やりたいと思っていたことをやり、最後に、あの受付に座っている女性をデートに誘ってみようか、と思った。どうせ死ぬのだから、断られたってどうということはない。
果たして僕は、彼女とデートをすることになったのだけど…。

「エミリー」
私にはどこにも居場所がありませんでした。唯一私の居場所といえば、原宿ラフォーレの植え込みだけでした。学校が終わるとロリータファッションに身を包み、閉店時刻までその植え込みでボーっとしているのが私の日課でした。
そんなある日、貴方が話し掛けてきました。男性と分かれば常に逃げていた私が、貴方だけは大丈夫でした。同じ学校に通っているということ、そして学校では共にいじめられたり無視されたりする存在であることが分かり、親近感を抱くようになりました。
私も貴方も、お互いに抱えているものが大きすぎました。二人でそれを抱えあおうとしても、お互いの有り様は酷く歪なものでした。それでも、私には貴方が必要なのです…。

というような話です。
嶽本野ばらのかなりオーソドックスな感じの作品だなと思いました。大抵、世間と馴染めなかったり世界から爪弾きにされているような登場人物が、運命的なあるいは偶発的な出会いを経て、お互いを大切な存在であると認識するようになる、というような感じの話です。嶽本野ばらの作品は僕の中でかなり当たり外れがあるんですけど、この作品は結構当たりかなと思います。
作品全体に流れる退廃的というか虚無的な雰囲気は結構好きだし、ストーリーも嶽本野ばらの作品としてはよくありがちなものだけど、まあ結構いいかなと思いました。相変わらず洋服に関しての講釈がいろいろあって、洋服に関心のない僕としては退屈な部分なんですけど、まあ全体的には悪くないと思いました。
三島由紀夫賞候補にもなったという「エミリー」がやっぱり一番いいでしょうか。少女と少年が受ける辛い仕打ちの描写もなかなかのものだし、それを受けてなお前に進もうとする二人はなかなか健気であるようにも思えます。純粋に、生きるということの美しさを結晶化したみたいな、そんな作品であるように思いました。
「コルセット」もいいですね。死のうとしたという始まり方がベタかなという風に思いましたけど、受付の女性がなかなかいいキャラクターで、儚げという言葉がよく似合う感じでした。しかしラストは一転、これまで見えなかった一面が垣間見える感じで、その落差みたいなものが結構面白いですね。
「レディメイド」はショートショートなんですけど、これは正直よく分かりませんでしたね。芸術の話がほとんどで、よくわからない感じでした。
なかなかいい作品だと思います。解説で綿矢りさが、自分もロリータファッションを着てみたかったと書いているのが非常に印象的でした。

嶽本野ばら「エミリー」




思考の整理学(外山滋比古)

答えのない問題を前にすると、結構途方に暮れてしまう。これは現代人の一般的な傾向ではないかと僕は思う。
そもそも学校が悪いのだ、とすべて学校のせいにしてみる。何故なら学校では、常に答えのある問題しか扱われなかったからである。
例えば数学。数学という学問は、ちょっとしたイメージからだと、すべて答えが一つに決まるようなそんなイメージがある。しかし、数学にしてもそうではない。一流の数学者が扱うような難問を別にしても、答えが一つに決まらない、あるいは答えがそもそも存在しない問題というのもある。確かに学校の試験なんかでは、答えが「不定」であるような問題も出てくるのだけど、しかしそれは、「不定」という答えを持つかもしれないと予測できる問題であるのだ。
公文式だかのCMで、前にこんなのがあったような気がする。
日本の算数の教科書には、
6+4=□
4×6=□
と言ったような問題ばかりが載っている。しかし、どこだか忘れたけどある国の教科書には、
□+□=8
□×□=9
というような問題がたくさん載っているのだそうだ。前者の日本のやり方では、一つに決まる答えだけを求めさせる問題であるのに対して、後者の場合だとその答えになるようなたくさんの問題を導き出させるようになっている。なるほど、これは面白いなと思ったし、外国では算数や数学と言った扱いがそもそも全然違うのかもしれないとも思った。
まあそれでも、数学や物理や化学など理系科目といわれるような教科であれば、まだ答えが決まってしまうことは仕方がないとは思う。大学なんかにいけば、自らテーマを見つけそのテーマについて研究するようなことになるだろうけど、それには設備やなんかが充実していなくては難しい。高校までの勉強では、答えの決まった問題をいかに解かせるかに収束してしまうのは分からないでもない。
しかし、やっぱり僕には納得がいかなかったのが国語である。
僕の中では国語というのは、一人一人の解釈を伸ばす教科だと思っている。ある文章があり、それに対して何をどう感じるのか、その個性を伸ばしていく場であるべきだという風に思う。
しかし、実際はそうはなっていない。教師は、教科書の手引きに書かれた通りの解釈を生徒に求める。この文章はこういうことを言っているのだ、この背景にはこんなことがあったのだ、ということを押し付ける。僕らは、とりあえず考えることなしにそれを覚える。国語という、答えが一つに決まるはずのないものさえ、学校教育は答えを一つに決めてしまうのだ。
僕らはこうした、答えが決まった問題を解くという訓練しかしてこなかった。勉強の場というのが基本的に学校だけであり、その学校が答えの決まった問題しか提示しないのだから仕方ないことである。例えば、宇宙の始まりはどうなっているのかというようなことは学校では扱われることがない。それはまだ答えが決まっていないからだ。そうやって、答えの決まっていないものを生徒の前からどんどん隠していく。
答えの決まった問題しか扱わないことは二つの大きな弊害を生む。
一つは、好奇心が育たなくなってしまうということだ。学生は皆、その決まった一つの答えに向かって進むことを余儀なくされる。もちろん、若干の幅はある。例えばある数学の問題があったとして、その答えに至る道筋は何通りかあったりする。そのどれを選択しても構わないが、しかし最終的には一つの答えに向かわされる。数学ならまだいいが、歴史や国語など個人の解釈でいかようにでもなる分野であっても、学校というのは一つのある答えに向かって向かわせる。別の解釈を提示しても、それは答えと合わないからと言って切り捨てられる。
そうなると、好奇心は育たない。学生は、求められた答えにいち早く辿り着くことだけを考え、自分の価値観で学問というものを見なくなってしまう。もちろん、そうした教育の中でも好奇心を持つ者は出てくるだろう。しかし、決して多くはない。答えを一つに向かわせる教育は、好奇心を奪う。
そしてもう一つの弊害が、問題解決能力を失わせることである。僕らは学生時代ずっと、答えが決まっている問題と向かい合っていた。するとその内、世の中のすべての問題には決まった答えがあるはずだ、という錯覚に囚われてしまう。
実際はそんなことはない。世の中に転がっているほとんどの問題は、決まりきった答えなどないと言っていい。どうしたら営業成績を伸ばすことが出来るか、どうしたら売れる絵を描くことができるか、どうしたら人望を得ることが出来るか。とにかくそういう、答えのない問題に常にさらされ続けることになる。
そうなった時、僕らは弱い。僕らはずっと、答えがあると分かっている問題ばかりを解き続けていたので、答えがないかもしれない問題に対峙した時にどうしたらいいのかわからないのだ。そして結局、自分には解けそうにないと思って諦めてしまう。
そう考えてみると、例えば試験問題なんかにも解けない問題を出してみたらいいのではないかと思う。時々大学入試の問題やセンター試験なんかで、例えば数学の問題である条件が不足していたために解けない問題になっていた、というような訂正が出ることがある。そしてそれは、批判されることが多い。
しかしどうだろう。それは、「これこれこういう条件が不足しているために答えは一つに定まらない」というような解答を提示すればいいのではないだろうか。そして、そういう答えを導くことが出来ない試験問題というのを意図的に組み込んでしまうというのもいいのではないかと思う。
僕らは試験問題を見ると、無意識の内にその問題には必ず正解があると信じ込む。正解が存在するという前提の元で試行錯誤をし問題を解くようなことがある。
しかし、試験問題として提示されているけど正解がないかもしれないとなったらどうだろうか。それは問題解決能力を高める一つの方法になるのではないか、と僕は思ったりします。
僕は本屋でバイトをしているのだけど、いつもこの答えの出ない問題に直面します。最終的には、「どうしたら売上を上げることが出来るか」というところに収束するわけだけど、どんな本を置くべきか、どう並べるべきか、棚の配置はこれでいいのか、POPはつけるべきかどうか、などなど答えが確定的ではない様々な問題が上がってくる。それらについて、時には経験的に、時には山勘で判断している。自分のした判断が正しかったのかどうかを検証することは大事だが、なかなかそれも難しい。やった場合とやらなかった場合というのはどうしても比較できないからだ。
今僕が見ている書店員ブログで、コミックのシュリンクをしたほうがいいかしないほうがいいかという論争がある。これについては長いこと議論があったようだけど、結局のところ答えは未だにない。その最たる要因は、シュリンクをした場合としなかった場合を同じ店の中で比較することが困難だからである。現状ではシュリンクをする方が主流だが、僕はしない方が売上は上がるのではないかと思っていたりする。やっぱり中を確認出来ない状態でコミックを買うというのはハードルが高い気がするからだ。しかしだからと言ってどちらが正しいか検証することは難しい。
こうやって答えのない問題に囲まれていると、やっぱり学校教育というのは間違っているんだろうなぁ、と思ったりするものである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、御茶ノ水大学の名誉教授である著者が、思考というものに的を絞って書いたエッセイと言った感じです。著者は、専攻である英文学だけでなく、レトリックや読書論、エディターシップと言った様々な分野について独創的な仕事をしている人だそうです。
本作は、6Pぐらいの短いページ数で一つのテーマについて話すというようなスタイルになっています。それぞれのテーマが重なっていたり、同じことを何度も繰り返したりはしてますが、決して冗長と言った感じにはなっていないと思います。
まあ思考の整理に関していろんなことが書いてあるわけですけど、割とページ数が割かれていて、内容的に僕が気になったものが三つあります。それが、「朝思考すること」「メモを取ること」「忘れること」の三つです。三つともまあ比較的当たり前のことを書いてるんですけど、著者自身の具体的な例も一緒に載っているので分かりやすいです。
「朝思考する」というのはそのままで、要するにずっと考え続けているよりも一旦寝たほうがいいよ、ということです。寝ている間に考えていることが整理されて、起きた時から考える方が物事がすっきりする、と。またこの寝かせておくというのは別の意味もあって、ある疑問やテーマがあった時にすぐにそれについて考えるのではなく、一旦寝かせて熟成させておきましょうというようなことも言っています。お酒を造るように、その内醗酵剤となるようなものが見つかって、うまい具合に思考が発展していく、とのことです。
「メモを取ること」もまあそのまんまですけど、その具体的なやり方も書いてあります。まず思いついたことを何でもいいから書くメモ帳。それから、その何でも書くメモ帳から後々読み返してみてこれはと思えるようなものを書き写すメモ帳。さらにそのメモ帳の内容をいろいろくっつけたりして有機的に情報を結びつけるために書くメモ帳。この習慣を著者は既に20数年やっているようで、それはそれは膨大なメモ帳が出来上がっているのだそうです。わが思考、このメモ帳にあり、だそうです。
「忘れること」については結構なページ数を割いていろいろと書いています。とにかく、忘れることは重要だ、と。学校教育では、忘れることは悪いことだと教え、それを受けて僕らも物事を忘れないように意識してしまうが、意識して忘れる努力をしないといけない、と言います。そのためにどうしたらいいか、ということがいろいろ書いてありますが、それは本書を読んでください。
他にもまあいろんなことが書いてあるんですけど、比較的どれもすぐに実行できそうなことが載っています。僕も、ここに書かれていることを本屋で実行するにはどうしたらいいかななんてことを考えながら読んでみました。やっぱりメモを取るというのが一番大事かなぁ、という気がしましたが。
本作は、
「”もっと若いときに読んでいれば…”そう思わずにはいられませんでした」
という帯でものすごく売れるようになった本です。僕も今結構売っています。確かに内容的には、大学生とか高校生辺りが読んだりすると、すぐ実践に移せるのかな、というようなものが多いですね。特に論文を書かなくてはいけないような学生にはなかなか実用的なことがあれこれ載っているのではないかなと思います。とりあえず、実行に移せるかどうかは置いておいて、まず読んでみたらいいんじゃないかなと思うような本でした。

外山滋比古「思考の整理学」



府抜けども、悲しみの愛を見せろ(本谷有希子)

自分が特別な人間だと思ったことなど、たぶん一度もないだろうと思う。もちろん僕は生まれてこのかたずっと平凡な人間で、何か特別なことができたなんていうことはない。自分に自信が持てるようなことも全然ない。
自分はもしかしたら結構勉強が出来るんじゃないだろうか、と勘違いした時期は少しだけあったかもしれない。それもただ井の中の蛙だったというだけのはなしで、全然そんなことはなかった。生まれ持った才能や、人を惹き付けるような何かや、突出した能力なんていうものは全然持っていないし、またそれを持っていると錯覚したことだってまあなかっただろうなと思う。
もちろん、世の中には僕のような人間もたくさんいることだろう。自分が平凡であることをきちんと自覚していて、特に何が出来るわけでもなく、普通のことを普通にこなしていこうと考えるような人間が。
しかし中には、自分がすごい人間であると確信を持っているような人もたくさんいるのだろうと思う。
世の中で羨ましがられる地位にいるような人というのは大抵そうなのではないか、と僕は勝手に思っている。自分に何が出来るのか、人より何が優れているのかを自覚していて、そしてそれを元に行動することが出来る。会社の社長や芸能人みたいな人達は、まず自分に自信を持つというようなところから始めないと恐らくなれないのだろうな、と思う。
うろ覚えなのだけど、前にソフトバンクの孫社長の話をどこかで耳にしたことがある。孫社長は、会社が軌道に乗る遥か前から、10年で1000億円の企業にする(数字は全然違うかもだけどそんな感じ)というようなかなり具体的な目標を持っていたようだ。僕からすれば、何をどうすればそんな具体的な目標を思い描けるのかそもそもそこが分からないのだけど、実際その目標通りに進んでいって今に至るというのだからすごいものだと思う。
芸能人にしても、自分は才能があるのだ!という思い込みがまずなければ恐らくやっていけない世界だろうと思う。どんどん新しい才能が入ってきて、次々に人が入れ替わっていく世界の中で、自分の確たる位置を守り抜くには、自分は出来る人間だとプラスに考えていくしかないだろう。それだけで、僕には絶対向かない世界だなぁ、と思うのだけど。
それで、僕が気になるのは、そういう人が羨ましがるような世界を目指して努力していたけどそれを諦めなくてはいけなくなった人たちのことである。何も社長や芸能人に限らず、漫画家やカメラマンなんかでもいいのだけど、とにかく何か目指していたものを諦めなくてはいけなくなった人というのは一体どこに行くのだろうか。
そういう世界を目指している人というのは、恐らく実際そういう世界にいる人と同じくらい自分に自信があるのだろうと思う。絶対にその世界で有名になってやる、自分にはそうなれるだけの才能がある、と心の底から信じることが出来なければ、夢なんか追っかけていることは出来ないと思う。
しかし、結局その夢を実現することが出来なかった時、その人の自信はどこに行くのだろう。恐らく世の中には、夢を叶える人より、叶えられなかった人の方が遥かに多いのだろうと思う。そういう夢を失った人達の自信というのはどうなるのだろう。
消えてしまうのが一番健全なんだろうなとは思う。自分にはやっぱり才能がなかったんだ、と思って諦めることが出来れば一番いい。自分の持っていた自信は幻想だったのだと思えれば、それが一番安全であるように思う。
しかし、自分には本当は才能があったはずなのに、と思うようになったら目も当てられない。才能があったはずなのにそれを発揮することが出来なかった、才能があったはずなのにそれを見抜く人がいなかった、というように、自分に才能があったということをいつまで経っても肯定し続けるようになってしまえば、ちょっと怖いなと思う。
僕は別に何か夢を追いかけているというわけでもないので、正直そういう人の気持ちはよく分からない。恐らくそういう人々は、自分が夢を叶えられないかもしれない、などと一瞬も考えたりしないのだろう。そういう風に考えてしまうような人は夢を追いかけることなどきっと出来ないのだ。
しかし、夢を叶えられないかもしれない可能性についてまったく考えないが故に、夢を追いかけ続けている間、自分自身への才能への過信というのはどんどん強まっていくかもしれない。自分に才能がないから認められないという現実を見たくないがために、自分には才能があるはずだという妄想がどんどん強くなってしまうかもしれない。夢を追うというのは本当にリスキーだなぁ、と思う。
僕のバイト先にも昔、歌手を目指している女性がいた。既に過去形で喋っているのは、もう彼女は夢を諦め地元に帰っていったからである。彼女の場合、割と潔かったなという感じがある。もちろん、内心ではどうだったか全然知らないのだけど、少なくとも表面上はあっさりしていたように思う。僕は個人的には、諦めるというのは一つの才能だと思っているので、去り際は悪くなかったなぁ、と感じたのだ。
夢を追いかけるのは辛い。しかし、夢を追いかける人がいなくなれば世の中はつまらなくなってしまうだろう。たくさんの犠牲の上に華やかな世界が成り立っている。自信の数と成功者の数は、決して一致することはない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
両親が交通事故で死に、その葬式のために兄弟三人が久々に集まった。姉の澄伽は女優になるために上京し、劇団に所属して稽古する毎日を過ごしていた。自分は女優になるべく才能があるという絶対的な自信を持っているのだが、その才能を発揮できない原因を妹のせいにしている。久々に妹に会った澄伽は、彼女にかつての恨みを晴らすべく復讐をするのだが…。
妹の清深は、両親の死に打ちひしがれていた。日がな一日ボーっとして、何もかもやる気がない。高校時代のことを思い出す。あの、姉の生活を盗み見ていたあの時期のことを…。
宍道は後妻の連れ子だった。だから澄伽や清深とは血は繋がっていないが、本当の兄弟のように接していたつもりだった。
しかしある時期からそれは大きく変わった。宍道と澄伽の関係がである。よかれと思ってやってことが、恐ろしく間違った方向へと進んでしまった。今では待子という妻を持つ立場だが、しかし…。
というような話です。
なかなかブラックなストーリーです。本谷有希子の小説を読んだのは二作目ですけど、こういうグチャグチャとした人間関係を描くのが巧いなぁ、と思いました。
なんとなく、羽田圭介の「黒冷水」という作品を思い出しました。まあもちろん本作の方が出来はいいですけど。姉妹間(「黒冷水」では兄弟間)で嫌がらせをするという部分だけですが、まあ雰囲気的にも少し近いかな、と。本作ではそれにまたいろいろくっついてくるんですけど。
とにかく僕が気になったのは待子という女の存在ですね。小説のキャラクターとしてなら笑って読めるけど、もし近くにこんな人がいたらちょっとイラっとするんではないかと思わせるような女性でした。とにかく、どんな理不尽なことにも耐え忍び、反抗しない。また、よかれと思ってしたことで墓穴を掘る。なんというか、決して悪い人ではないのだけど一緒にはいたくないというようなキャラクターでした。
この待子が夫の宍道からとんでもない命令をされるのだけど、それを実行してしまうんですね。ちょっと信じがたいです。まあもちろん小説なんですけど、現実にもいそうだから怖いです。まあここまで突き抜けていると逆に愛しくなったりしますけどね。
澄伽もなかなか強烈でした。とにかく、自分は才能があるという自信に満ち溢れていて、自分が女優になれないのは過去にあんな出来事を引き起こした妹のせいだという考えに支配されています。とにかく自分は絶対的に正しく、自分が女優になれないのはすべて周りのせいだという風に考えます。ここまで自分に自信が持てるのも羨ましい限りですけど、でもそれはある意味でバブルみたいなもので、いつか弾けてしまうものでもあるわけです。だからやっぱりこの澄伽のような人とも関わりたくないなと思いました。
妹の清深もある意味で怖い存在で、執拗で粘着質という感じがします。しかしその本質的な部分はどうも掴み所がなくて、暗い底の見えない穴の中をのぞきこんでいるようなそんな感じです。
一番まともと言えるのは宍道かもしれないけど、しかしその宍道も待子に無茶苦茶なことを言ったり、あるいはある状況を避け切れなかったりとなかなかまともではいられません。
とにかく本作に出てくるメインのキャラクターはみな壊れていて、その壊れ方がそれぞれに違っているというのが特長ですね。僕は、こういう関係というのは家族だからこそありえる形であると思うし、だからこそ家族というのは怖いなと思ったりもします。
なかなかダークな作品です。桐野夏生なんかが好きだったら結構合いそうですね。映画にもなったみたいです。僕は見てないですけど、興味のある方はそっちもどうぞ。

本谷有希子「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」


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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)