黒夜行

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「ゆれる人魚」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
時代は、テレビがカラーになる前。舞台は、恐らくポーランド。ナイトクラブでステージをこなす一家は、ある日川辺で奇妙な二人の少女を見つける。彼女たちは、裸のまま、水中で歌っていた。
彼らはその二人の少女をナイトクラブのボスに引き合わせた。酒とストリップを提供するナイトクラブのボスは、二人の少女に服を脱ぐよう命じる。下半身に、穴が一つもない。見ててください、と言いながら男が二人の少女に水を掛けると、彼女たちの下半身は魚の尻尾になった。人魚なのだ。
彼女たちはナイトクラブで人気を博すようになるが、姉のシルバーは人間に恋をし、妹のゴールデンは人間を襲って食べてしまう。シルバーは人間になるべく手段を模索し、ゴールデンは気ままに人間を襲い続ける…。
というような話です。

正直、よく分からない映画だったなぁ、という感じでした。読んだことはないんだけど、恐らくアンデルセンの「人魚姫」がベースになっているんだろうと思います。どうにかすると海の泡になってしまうとか、声が出なくなるとか、確か「人魚姫」にもそういう設定があったなぁ、という感じなので。

よく分からなかった原因の一つは、この映画がミュージカル仕立てだったこともあるかもしれません。設定や状況説明を担う存在がほぼいなくて、歌で物語が展開されていくんだけど、正直僕はそういう、歌で展開されていく物語にうまくついていけないところがあって、話を捉えきれませんでした。僕の目からは、ほぼほぼ状況が説明されないまま、唐突に状況が変化しており、(何があったんだろう???)と思っている内にまた状況が変わっていく、ということの連続で、ついていけなかったなぁ。

1時間半ぐらいの映画だったんだけど、もう少し長くして、もう少し説明的な部分を増やして、もう少しわかりやすくしてくれたら、映像とか雰囲気は結構好きだったから、もう少し好印象で捉えられたかもなぁ、と思ったりします。あと、予告でも使われてた、早いテンポで「♪ズチャズチャズチャズチャ~」って流れてる音楽は、なんか凄く不穏なインパクトがあって好きです。

「ゆれる人魚」を観に行ってきました

「ラブレス」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
舞台はロシア、あるいはその周辺の国。ボリスとジェーニャは離婚を考えていて、マンションを売却しようとしている。彼らには、アレクセイという12歳の息子がいて、しかしどちらも離婚後、引き取る意志がない。何故なら、どちらも既に恋人がおり、ボリスに至っては彼女を妊娠させている。お互いに新しい生活に踏み出すのに、息子の存在は邪魔なのだ。
深夜、息子をどちらが引き取るかで幾度となく繰り返された喧嘩をする。寝ていると思っていたアレクセイはこっそりその喧嘩を聞いていて、声を上げずに泣いている。
ボリスは、身ごもった彼女とセックスをし、ジェーニャも年上の彼氏とセックスをする。お互い、家にも碌に帰らず、それぞれの生活をしている。
ジェーニャが家に帰ると、担任の教師から、息子が2日も学校に来ていない、と連絡があった。ジェーニャはボリスに相談するも、楽観的な意見を述べる夫にキレ、警察に連絡する。しかし、警察もまともには取り合ってはくれない。彼らは、行方不明者の捜索をしてくれるボランティアグループの力を借りて、アレクセイの捜索をするが…。
というような話です。

観る人次第で様々な受け取り方が出来そうな映画ではありましたけど、個人的にはあまり面白いとは感じられない映画でした。読み取られるべき、示唆的な設定や描写は色々あるように感じたんですけど、それらを自分の中でうまく消化できなかったなぁ、という感じです。

いくつか挙げてみましょう。

まず、ボリスの会社は、原則的に離婚を禁じている、という設定が出てくる。敬虔なクリスチャンであり、離婚がバレるとクビ、という噂がある。

また、彼らが住んでいる国では、マヤ暦から読み取った滅亡の予言みたいなものが流布しているようで、それを取り上げたテレビ番組などが恐怖を煽っているという。

さらに、ウクライナの国内情勢が悪化しており、戦争に近いような状態になりつつある、というような状況がある。

彼らを取り巻く、ちょっと特殊な事情にはこういうものがあるのだけど、しかしこれらが、映画全体の中でどういう役割をしているのか、僕にはイマイチ理解できなかった。

基本的には、自分の都合しか考えていない夫婦のエゴが全開に描かれていく。彼らが気にしているのは、離婚後の生活と体面だけ。いなくなった息子に対する感情は、映画の中で切実には読み取れない。アレクセイの捜索を主導してくれるボランティアグループが一番熱心で、ボリスもジェーニャも、僕が見ている限り、息子の捜索に感情が宿っているようには見えない。「息子が行方不明になった夫婦が取るべき行動」を取っている。ただそれだけに思える。

そういう意味で言えば、西川美和の「永い言い訳」という映画を連想させる。「永い言い訳」では、妻を亡くした小説家が主人公だが、その主人公はバス事故で妻が亡くなった時、浮気の真っ最中だった。そして、妻を喪ってなお、その小説家は悲しみを感じられないでいる。そういう状況から物語が展開されていく。

スタートは似ているが、物語的には大きく違う。「ラブレス」では、結局物語の最初と最後で、目立った変化はない。もちろん、アレクセイが行方不明、という状況は大きな変化なのだが、その変化があってなお、他の変化が誘発されない、というところに異常さがある。いや、もちろん変化はあったのかもしれない。しかし、それは映画の中ではほとんど描かれることがない。観客が何を読み取っても自由だろうが、少なくとも映画全体から明確な変化を見つけ出すことは難しいだろう。

そういう描き方によって、何を伝えたかったのか。それは僕にはうまく捉えきれなかったが、この映画から何か揺さぶられるものを感じ取る人は、いるだろうという気もする。

「ラブレス」を観に行ってきました

「羊と鋼の森」を観に行ってきました

これは、僕の言い訳だ。
音楽が付いて、分からなくなってしまった。

僕は、音楽にあまり興味はない。子供の頃から、どんな種類の音楽も聞く機会がなかったし、今だって乃木坂46の曲ぐらいしか聞かない。もちろん、音楽的素養もない。

音楽的素養が必要な映画だ、などというつもりはない。ただ僕は、この映画に原作があることを知っている。原作小説では、当たり前だが、すべての事柄が文字で描かれる。音楽も、音も、すべて。僕にとっては、文字の方が馴染み深い。だから、音楽や音を言葉で説明してもらえていた時の方が、スッと入ってきたのだと思う。

急に話は飛ぶが、最近ニュースを見ると泣けてしまう事件がある。5歳の少女が両親に虐待を受けて死んでしまった事件だ。

僕は普段、人が殺される事件であろうと、ニュースを見て悲しいと感じることはない。たぶんそれは、映像だからなのだと思う。昔から映画を見ていたわけではないし、今だってyoutubeなどはほとんど見ない。まあもちろん、昔からテレビは見ていたけれども。

僕なりに分析するに、その少女の虐待事件で泣けてきてしまうのは、それが文字だからだ。

少女は両親から、朝4時に起きてひらがなの書き取りをさせていたという。その少女が、ひらがなだけで書き残した文章が読み上げられる度に、僕は、涙腺がヤバくなる。そんな経験をニュースを見ていてすることがほとんどなかったので、僕の中でこれは、非常にインパクトのある出来事だった。

多くの人にとっては、文字で描かれていたものがきちんと音を獲得することで、より深みを増すことになるのだろうと思う。でも、たぶん僕はそうではない。ピアノから実際に音が聴こえるよりも、ピアノから流れているだろう音が文字で描かれている方が馴染みやすい。

映画を見ながら、そんな風に感じていた。

内容に入ろうと思います。
戸村は高校時代、ふとしたきっかけからピアノの音に強く惹かれた。ピアノどころか、周りには山と森しかないような場所で育った男だ。何故、ピアノの音に惹かれたのか分からない。でも、確かにその音に、森を感じたのだ。
戸村は2年間、東京の調律学校に通い、卒業後、地元の楽器店「江藤楽器」に就職した。戸村が調律師を目指すきっかけとなった、板鳥さんのいる会社だ。
戸村は、柳という先輩にくっついて、調律師としての仕事を覚える。非常に難しい仕事だ。技術だけあってもダメ。知識だけあってもダメ。大事なのは、お客さんがどんな音を望んでいるのかを、きちんと捉えること。戸村は、先輩のアドバイスや、板鳥さんからの金言を手帳にメモしながら、少しずつ仕事を覚えていく。
そんな中で出会ったのが、佐倉姉妹だ。姉も妹も、共にピアノを引く。姉は奔放で、妹は大人しい。ピアノの弾き方も、全然違う。一台のピアノを、そんな対照的な二人に合わせなければならない。
調律師というのは、常に脇役だ。ピアニストを陰で支える役目。だから、調律師が目立っても仕方がない。それでも、調律師にだって目指すべき何かはあるはず―。誰もが、正解のない世界の中で、自分が信じる道を進んでいく。
というような物語です。

原作を読んだのはもう数年前なのできちんとは覚えていないが、原作をかなり忠実に映像化しているように感じた。原作の中で、僕が一番印象的だった部分は映画では描かれなかったが(50ccのバイクにしか乗れない人に、ハーレーダビッドソンのような調律をするのが正解なのか、という話)、主人公が調律という世界と出会い、才能のなさに打ちひしがれながらも、どうやっても離れられない世界にしがみつくために奮闘する様を、丁寧に描いていく。

『才能っていうのは、ものすごく好きっていう気持ちのことなんじゃないか』

僕なりにこの言葉をもう少し言い換えてみると、こうなる。

「才能っていうのは、ずっと続けられるということなんじゃないか」

それがどんなことであれ、ずっと続けることが出来ているものには、才能があると思う。どれだけ記憶力が良くても、どれだけ絵がうまくても、どれだけ楽器がうまく弾けても、それは「道具の性能が良い」というのとほとんど変わらない。その「道具」を使って何をするのか、ということが大事なのだ。だから、仮に道具の性能が低くても、ずっとずっと続けられることであれば、それは才能だと思っていい、と僕は思う。どんな状況であれ、やり続ける行為の先にしか、何かを生み出したり残したりという営みは、あり得ないと思うから。

そういう意味で、戸村には間違いなく才能がある。才能のカタマリだ。どれほど技術がなくても、どれほど知識がなくても、彼は調律という世界から離れることが出来ない。その事実だけで、才能のカタマリだ、と思う。

僕も、文章だけはずっと書き続けている。まあ、そういう意味では、才能があるといえるだろう。だからこそ、「自分には才能がない」と感じてしまう、戸村の気持ちも、なんか凄くよく分かるのだ。

「羊と鋼の森」を観に行ってきました

「しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス」を観に行ってきました

女性が強い、というのは、良いことだと僕は思っている。

歴史の大きな流れで見れば、男性と女性は以前に比べたら平等に近づきつつあるだろうが、やはりまだまだ社会の中で女性の権利というのはうまく確保されていない。歴史を遡れば遡るほど、その傾向が強くなっていく。

そういう社会の中では、女性はなかなか強く振る舞うことが出来ない。強く振る舞えないから、余計に権利が確保されない。そういう悪循環に陥ってしまう。

本当に、男性と女性が平等な社会が実現されているのであれば、別に女性が強くある必要はない。性差に関係なく、強い人は強ければいいし、弱い人は弱ければいい。ただ、まだまだ世の中は男性優位だ。だからこそ僕は、女性が強くあって欲しい。男性優位の社会の一パーツである僕がそんなことを言う権利はないだろうけど、主張し、行動し、闘う女性というのは、世の中にたくさんいて欲しい、と思うのだ。

今若い世代の人と喋っていると、自分をうまく認められないと感じている人が多いように思う。もちろん、それは世代によらず、どんな世代にも一定数いるのだろう。僕も、まあそういう人間だった。でもなんとなく、僕より下の世代は、よりそういう傾向が強いように感じられる。自己肯定感が、非常に低いような気がするのだ。

自分にどんな価値があるのかを自分で判断することは、とても難しい。それは、その人個人の判断ではあり得ないからだ。どんな時代のどんな社会の中に生きているのかによって、充実しているものや足りないものは変わってくるし、そういう中で、自分の内側から出せるものが、世の中にとって足りないものであると、そこに価値が見出されることになる。何をするかではなく、それが世の中の不足を補うのかどうか、ということに、自身の価値は大きく左右されてしまうのだ。

だから、生きている間には評価されなかったことが死後評価される、などということも起こる。したことは、生前と死後で変わっていないが、世の中の不足の方が変わったのだ。

だから、自分にどんな価値があるのか、という問いに悩むのは、あまり意味がない。結局それは、自分ではどうにもならない事柄を解決策として持ってこなければならないからだ。

自分に価値があるかどうかに関係なく、自分が何をするのか、ということが大事だ。もっと言えば、自分が何をしていれば満たされると感じるか、こそが大事なのだ。

自分にとって大事なものがきちんと分かっていて、それを自分の行動によって生み出したり維持したり出来れば、それは幸せな人生だろう。自分にとって大事なものが分からなかったり、分かっていてもそれが他人の行動によってしか生み出せないものであれば、幸せだと感じ続けることは難しくなるだろう。

強さというのは結局、自分を認めるところからしか始まっていかない。僕も、その難しさを常に意識している。

内容に入ろうと思います。
モードは、リウマチにより手足に多少障害がある。兄・チャールズが母の家を売り払ってしまい、モードはアイダおばさんの家に住むことになった。チャールズがモードのためにもってきた荷物は、僅かな絵筆だけ。モードは、絵を描く人なのだ。
アイダから快く扱われていないモードは、町の雑貨店で買い物中、一人の男性を目にする。彼は、家政婦を探しているそうで、雑貨店の壁に求人票を貼っていった。モードはその紙を持ち帰り、後日その、エベレットという魚売りの元を訪ねた。
一度は追い返されたモードだったが、その後住み込みで働くことになった。モードをただの使用人のように厳しく扱うエベレット。彼はこの家の序列が、「俺→犬→ニワトリ→お前」だと伝え、モードを追い込んでいく。
モードも、啖呵を切っておばさんの家を飛び出した手間、帰る場所がない。エベレットに厳しい扱いを受けながらも奮闘するモードは、しばらくして彼の家でペンキを見つける。彼に許可を取らずに壁に絵を描くモードは…。
というような話です。

モードというのは実在した(する?)画家で、カナダで最も有名な画家、と呼ばれているそうです。この映画がどこまで事実を元にしているのか、それは分からないけど(映画を見ているとよく、「この映画は事実に基づく」みたいな表記が出てくることがあるけど、この映画にそれはなかった)、基本的に事実通りなのだとすれば、有名になってからも非常に質素な生活ぶりで、ただ絵だけ描いていられればいい、という生活だったようです。

『私は多くを望まないから、絵筆が目の前にあれば幸せなの』

しかし、映画を見る前のイメージとは大分違いました。僕は勝手に、モードというのは「弱い女性」だと思っていたのです。リウマチによって手足に障害があり、また生涯ほとんど旅行もせずに絵だけ描き続けた、というような事前情報から、障害によって気弱になり、誰かの庇護の元、絵を描き続けるしかなかった女性なのだな、という勝手なイメージを抱いていました。

この映画で描かれていたモードは、そんな僕の先入観をひっくり返す人物像でした。基本的に自分の主張をはっきりして、臆することがない。許可を取らずに色々やり、怒られてもめげない。そういう「強い女性」でした。そして、モードのその強さが、非常に気持ちよかったです。映画館で見ましたけど、観客がモードの気の強さが現れる場面で結構笑っていたのが印象的でした。確かに「痛快」と称したくなるような振る舞いで、良かったです。

モードのような生き方は、幸せだろうなと思います。もちろん、辛いことがたくさんあることは分かっています。そもそも兄やおばさんに邪険に扱われているし、エベレットにも最初はかなりきつく当たられていました。物語の終盤で明らかにあるある事実も、モードを打ちのめしたことでしょう。それでも、モードは幸せだろうなと思うんです。それはさっき書いたように、自分にとって大事なものがちゃんと分かっていて、それを自分の生活の範囲内で生み出せるからです。絵筆さえあれば幸せ、というのは恐らく誇張ではなくて、本心でしょう。あんな風に生きられたらいいだろうな、と思います。

エベレットも、なかなか魅力的な描かれ方をしていました。最初こそ、マジでこいつクソだな、と思っていましたけど、徐々に、なるほどツンデレなんだな、と思うようになってきました。エベレットは、マジでツンデレですね。どんどんと、可愛さが増していく感じがしました。

特別なことは何も起こらないけど、偶然とお互いの努力によって、交わるはずのなかった二つの人生が、撚り合ってさらに太くなり、お互いがかけがえのない存在になっていく―そういう過程が描かれていく物語で、静かで淡々とした中に、力強い佇まいを感じさせる映画だったと思います。

「しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス」を観に行ってきました

「ザ・スクエア 思いやりの聖域」を観に行ってきました

いやはや、まったく理解できない映画だった。2017年のパルムドール(確かこれ、今年是枝監督の「万引き家族」が獲ったやつだよなぁ)受賞らしいんだけど、正直、マジで、なんのこっちゃさっぱり理解できない映画だった。びっくり。

一応内容を紹介しよう。
現代美術を扱う王立美術館のチーフ・キュレーターであるクリスティアンは、「ザ・スクエア」という展示を企画した。スウェーデン人の社会学者が作ったもので、物理的な展示物としては、地面を四角で囲っただけ。そこは【信頼と思いやりの聖域です。この中では誰でも平等の権利と義務を有します】という空間だ。
その宣伝の打ち合わせの会議の朝、クリスティアンは出勤途中でスマホと財布をスられてしまう。GPSでスマホの在り処まではわかったが、集合住宅の部屋番号まで分からない。そこで部下と共に、「君が盗んだことはわかってるんだ」という脅迫状を作成し、全戸に入れることにした。
やがて彼のスマホと財布は戻ってきたが…。
というような話です。

映画を見ながら思ったのは、僕にはこの映画を見るための前提知識が欠けているんじゃないか、ということ。恐らくこの映画はスウェーデンの映画なんだと思うんだけど、北欧は人権とか平等とかの感覚が日本よりも優れている感じがするから、たぶんその辺の感覚で、北欧では(あるいは欧米では)共有されているけど、日本人が遅れている(あるいは僕が遅れている)感覚、みたいなものがちょっと前提になっているんじゃないかと思いました。そう考えないと理解できないくらい、僕には何が描かれているのか分からない映画でした。

僕に理解できたのは、「自分のことしか考えていない現代人を風刺しているんだろう」ということです。クリスティアンがまさにその筆頭ですが、この映画に出てくる人たちは、割と皆、自分のことしか考えていません。それはある意味で、現代社会らしさみたいなもので、誰もが自己愛の強い世界で生きている。「自分さえよければいい」という、トランプ大統領が掲げるような感覚を、実は無意識の内に多くの人が持っていて、自分ではそうとは気づかずに周囲に撒き散らしている。「ザ・スクエア」という展示によって「思いやり」を主張したいクリスティアン自身が、まさにそういう利己的な行動をしている、という描き方をすることで、そういう社会を風刺したいんだろう、という感じはしました。

映画を見て、昔心理学の本で読んだある事件のことを思い出しました。確かアメリカだったと思います。ある夜、住宅が密集するような地域で女性が襲われました。女性は「助けて!」と何度も叫びましたが、結局誰も助けには来ず、女性は死亡しました。後日警察が調べると、その夜30人弱(だったと思う)の人が、彼女の「助けて!」という叫び声を聞いていたことが分かりました。彼らに、何故助けに行かなかったのか、と聞くと、「誰かが助けると思った」と返したと言います。こういう集団心理みたいなものには、忘れちゃったけどちゃんとした名前がついていて、それはこの事件をきっかけにして研究がなされた、というようなことが書かれていたと思います。

この映画にも、似たような場面が出てきます。その時のクリスティアンの行動原理は、そういう「誰かが助けると思った」的なものに近いのかもしれませんけど、それにしても、ちょっと意味不明だなと思いました。

猿が出てきたり、猿っぽい人が出てきたりしましたが、それらもなんのこっちゃさっぱり理解できなかったし、他にも、断片的に色んな描写があるんですけど、それらがどう繋がっていくのか、僕にはまったく理解できませんでした。ちゃんと理解力のある人が見れば素晴らしい映画なのかもしれないけど、ちょっと僕にはさっぱり理解できない映画だったなぁ。

「ザ・スクエア 思いやりの聖域」を観に行ってきました

「友罪」を観に行ってきました

友人が過去に罪を犯していたとしたら…。ということは、実際にあり得る問いだと思う。僕たちは、結婚したりするんでなければ、知り合った人間のことをそこまで積極的に詮索しようとはしない。相手の言動に何か矛盾があれば、調べてみるという行動になることもあるかもしれないけど、大抵の場合は、相手が言っていることをそのまま信じるだろう。ネット社会であり、色んな個人の情報が蔓延している世の中だとは言え、逆に言えば、あらゆる情報がありすぎて特定の情報にたどり着きにくい社会であるとも言える。疑いを持ったなら、調べるのには便利な社会だが、疑いを持っていない相手であれば、その相手の過去の情報について、自分の視界に飛び込んでくる可能性は、決して高くはないと思う。

どこかで知り合った誰かが、過去に強盗や殺人を犯している―。日常の中で、なかなか想定しにくい状況ではあるのだけど、でも現実的には、起こり得ないと断言できるほど確率の低い話でもないだろう。

その過去を知ってしまった時、自分ならどう振る舞うだろうか、と考えてしまう。

僕が想定できるパターンは二つある。一つは、その人と知り合うのとほぼ同時に、その人の過去についても知るという状況。その場合は、まあ、積極的に関わろうという意識は持たないかもしれない。その過去を先に知った上で、その人と積極的に関係性を築くだけの必然性がない。僕はそもそも、他人にさほど関心はないので、相手が誰であろうと、積極的に関心を持って関係性を築くことは少ない。過去を先に知っているかどうかに関係なくあまり他人と関わらないのだけど、過去を知れば、その積極性がより失われるだろう、とは思う。

一方で、過去を知らないまま関係性が続いていて、ある時その過去を知る、というパターンんだ。そういう状況であれば、僕は、その人の過去よりは、その人と関わってきた時間の方を優先するだろう、と思う。

というのも、良かれ悪しかれ、人間というのは変わるものだと思うからだ。

僕は、25歳頃を境に、まったく別人になった、と感じている。だから、大学時代の友人が今の僕を見れば、まったく違った人間に見えるだろう。だから例えば、大学時代にした僕の発言などについて何か聞かれたとしたら、その時はそう思っていた、と答えるしかない、と思う。

程度の差こそあれ、人間というのは変わるものだ。良くなることもあるし、悪くなることもある。過去に罪を犯したことがある、というのは確かに大きな事実だけど、しかしそれだけを理由に人間を判断することは僕には出来ない。だったら、自分と関わってきた時間によって、その人を判断したいと思う。

そんな判断が出来るのか、と聞かれれば、出来ない、と答えるしかないだろう。当然、相手が更生しているのか、相手が真人間に生まれ変わったのか、そんなことはどれだけ関わったってわかるはずもない。

ただそれは、罪を犯したという過去を持たない人間に対しても同じことが言える。

世の中には犯罪者がたくさんいる。その犯罪者の多くは、初めて犯罪を犯した者だろう。であれば僕らは、過去に犯罪を犯したかどうかに関係なく、普段関わっている人が犯罪を犯すかどうか、という判断などまったく出来ていない、ということになる。もちろん、あいつは何かやりそうだった、という雰囲気の犯罪者もいるだろうけど、よくテレビで、「そんな人だとは思わなかった」という発言が出てくるように、まったく犯罪を犯しそうにない人間が犯罪者になることだって頻繁にある。

つまり、過去に犯罪を犯していようがいまいが、その人が犯罪を犯すかどうかなど、誰にも判断できない、ということなのだ。

だったら、その人との関わりを通じて、相手を信じるかどうか、自分が決めるしかない。過去に犯罪を犯したことがある、という理由で誰かを遠ざける人は、自分の身近にいる、一度も犯罪を犯していない人が犯罪者になる可能性をまったく考慮していないだけだと思う。

人間は、自分とは「違う」と感じる人間を排除したがる。自分と同じではなかった、ということがわかると、裏切られたと感じたくなる。その気持ちがまったく理解できないとは言わないけど、じゃあ「同じ」という判断のどこに保証があるのか、と感じてしまう。誰かを「同じ」だと感じるのは、結局、幻想に過ぎないのだ。

内容に入ろうと思います。
かつて雑誌記者だった益田は、訳あって工場で働くことになった。一緒に研修に入るのが鈴木。益田と鈴木は、清水・内海という同僚と共に、4人で同じ寮で生活をすることになった。
鈴木は、どうも周りと馴染めないでいる。でも、溶接の資格を持っているようで、仕事はちゃんとやる。一方、力仕事などほとんど経験のない益田は、なかなかすんなりとは仕事をこなせないでいる。益田は、同期ということもあり、周りから浮いている鈴木のことを気にかけている。
その近くで、小学1年生の男児が刃物で刺されて死亡しているのが見つかった。調べを進める女性記者。そして、彼女を現場まで運んだタクシー運転手。運転手は仕事の合間に、謝罪をしている。かつて彼の息子が、誰かの命を奪ったようだ。
橋の上でぼーっとしている鈴木の元に、見知らぬ女性が駆け込んでくる。彼女は、元カレに追われているようだ。そこでその元カレにボコボコに殴られたことで、鈴木は藤沢さんと知り合った。
やがて益田は知ることになる。鈴木があの、14歳で猟奇殺人を犯した、「少年A」こと青柳健太郎だ、ということに…。
というような話です。

なかなか重苦しい話ですが、重苦しいだけという話でもありません。犯罪そのものが描かれるというよりも、過去の犯罪に対して、様々な人間がどう向き合っていくのか、ということが描かれていきます。

主軸は益田と鈴木の話ですが、枝葉の部分がかなり色々あります。鈴木の恋愛の話や、鈴木の彼女である藤沢さんの話、益田の過去、「少年A」を追う女性記者、医療少年院で「少年A」の担当だった女性、息子が加害者になってしまったタクシー運転手…。様々な形で、色んな人が「過去の犯罪」と向き合っていきます。

そこに、分かりやすい結論はありません。というか、分かりやすい結論などない、ということを描くために、いくつもの物語を同時に描き出しているのでしょう。犯罪を犯した側、巻き込まれた側、どちらでもない立場…、様々な立場から「犯罪の余波」みたいなものが描かれ、それが鈍く、しかし確実に遠くへと届いていく様が、丁寧に描かれている、と感じました。

とはいえ、枝葉がちょっと多すぎるかな、という感想も持ちました。原作は読んでいませんが、かなり厚い作品です。映画化するにあたってだいぶ削ったでしょうが、しかしそれでもまだ要素が多すぎるかな、という感じがしました。様々な方向から「過去の犯罪」を描き出すことに主眼がある、ということは分かった上で、例えば医療少年院の話を削るなどした方が良かったかな、という感じもしました。

鈴木は、青柳健太郎という、14歳にして猟奇殺人を犯した、という設定の青年ですが、この男が醸し出す違和感が、映画全体を支配していたな、と感じました。鈴木という男が、どういう理屈で行動しているのか全然読めずに、ぞわぞわします。他人を拒絶しているようでいながら、他人に優しさを発揮することもあり、瞬間的な凶暴性の発露や、狂気を孕んだ自傷行為など、簡単には捉えきれないキャラクターです。その異質な様が、観客をこの映画に惹きつけるのだな、と思います。そういう意味で、鈴木(青柳健太郎)を演じた瑛太は見事だと思います。ホントに、かなりヤバイ人に見えました。社会生活がギリギリ営める程度の異質さみたいなものを絶妙に醸し出している感じが、凄く良かった、と思います。

個人的には、タクシー運転手の山内の物語に色々考えさせられました。山内とその息子は、ある理由から対立します。息子側の人物が、「罪を犯した人間は幸せになっちゃいけないんですか?」と山内に問いますが、それに対して山内はにべもなく「当然だ」というような返答をする場面があります。非常に印象的な場面でした。僕は、山内のようには考えませんが、山内には山内なりの理由があってそういう発言をするのです。

犯罪というものが、どういう事態をもたらすのか、人をどう変えていくのか、ということを強く感じさせられる物語でした。

「友罪」を観に行ってきました

「名探偵コナン ゼロの執行人」を観に行ってきました

コナンの劇場版、久々に観たけど、面白かった!
しかし、明らかに大人向けだな。絶対子供には理解できない(笑)

内容に入ろうと思います。
数日後に日本でサミットが開催されるというタイミングで、エッジオブオーシャンという商業施設がテレビで紹介されている。ここの国際会議場でサミットが開かれる予定だ。また敷地内にはカジノなども併設され、外国人観光客も見込んだ一大施設としてオープンする予定だ。
しかし、まさにサミットを数日後に控えたある日、サミット会場予定である国際会議場が謎の大爆発により崩壊した。テロなのか、事故なのか。調べを進めると、国際会議場の地下にあった調理場が爆心地であるようで、ここでガスが充満し爆破に至ったと判明した。テロであるならばサミット開催と同時に行わなければ意味がない―その判断も加わって、捜査会議は事故の方向に着地しそうだった。
しかしそこへ、公安警察の風見がやってきて、現場から黒焦げになった指紋が発見されたという。エッジオブオーシャンはまだオープン前だったため、工事関係者と、サミットの警備のために出入りしていた警察関係者しか指紋が残りようがない。そこで、その指紋を、工事関係者、そして前警察関係者のものと照合したところ、一致する人物がいた。
それがなんと、毛利小五郎だったのだ。
毛利探偵事務所はすぐに捜索が行われ、毛利小五郎のパソコンから、国際会議場内部の地図などの資料が発見され、毛利小五郎は逮捕されてしまった。
憔悴する毛利蘭。コナンは、状況を打開すべく、毛利探偵事務所の隣の喫茶店・ポアロで働く安室透の元を訪れた。彼は、毛利探偵事務所の見習いとして働いているが、その実態は、公安警察警備局の秘密組織・ZEROの捜査員だ。コナンはおっちゃんの逮捕に、公安警察の横暴を見て取るが、しかし状況を打開できるほど情報も物証もない。コナンは、おっちゃんを救うべく、謎めいた国際会議場爆破事件に挑むが…、
という話です。

先に観ていた人から、「ハリウッド映画みたい」と聞いていましたけど、まさにその通りだなと思いました。冒頭からハイスピードで事件が展開され、しかもそこに公安警察の影が見え隠れする。誰が味方で、誰が敵なのかも分からないまま事件を追うコナン。そして明らかになる事件の背景。意外な繋がり。そして、危機的状況を打開するとんでもない計画…。エンタメ的要素をこれでもか!と詰め込みましたっていう展開は、大人が見ても充分以上に耐えうる作品だし、っていうか正直、子供にはわけが分からないと思います。

この映画では、公安警察が暗躍しているんだけど、この公安警察っていうのがメチャクチャやっかいです。僕は警察小説なんかを読んで、それなりにイメージはあるのだけど、公安警察というものに何のイメージもないままこの映画を見たら、ウソでしょって思って、ここに描かれている公安警察は架空の組織なんだと思うかもしれません。まあ、実際公安警察が何をしているのか、僕も知っているわけではないんですけど、僕が本なんかを読んで理解している範囲だと、この映画で描かれている程度のことであれば、やっていても全然おかしくはないですね。

違法捜査のオンパレード、というのが公安警察のイメージなんだけど、この映画でもまさにそうで、治外法権の連発。特にラスト付近では、挙げたらキリがないくらい法律を破りまくっています(まあ、劇場版のコナンでは、そういうハチャメチャなシーンは元から多いですけどね)。特に、安室透の運転については、いやいやいやいやって感じで、死人が出ないのが不思議なくらいです。ってかまあ、そのあとコナンがしたことも、バカかお前は、って感じですけど(笑)

この映画で描かれるテロの手法は、正直充分にあり得ることで、もちろん色んな対策が取られているんでしょうけど、現実にこの映画で描かれているようなハチャメチャな状況がやってくる可能性はあるでしょう。便利になるってことは、リスクも同じくらい高まるってことだよなぁ、と改めて感じました。

最初に「はくちょう」が登場した時点で、なんとなく最後にどんな展開になるのかわかりましたけど、にしても、よくもこれだけのストーリーを展開させたな、という感じがします。僕はコナンのコミックも読んでますけど、たぶん原作を読んでない人も充分楽しめるんじゃないかな(原作を読んでないと面白くないネタはそんなになかったと思う)。

「名探偵コナン ゼロの執行人」を観に行ってきました

「GODZILLA 決戦機動増殖都市」を観に行ってきました

いやー、これは面白い!
この映画はシリーズの二作目で、一作目を見ていないとおそらくさっぱり理解できないだろうから、是非見てみてください。一作目の感想はこちら→「GODZILLA 怪獣惑星」を観に行ってきました

一作目では、ゴジラに侵略された地球を手放し、宇宙の放浪者となった者たちが、再度地球へと戻ってきて、ゴジラと戦うか否かという決断を迫られる物語でした。一作目の基本的なテーマは、「定住の場を失ったものたちの悲哀」と「ゴジラ討伐を決断して立ち向かう意志」と言ったところでしょうか。正直僕は、この映画がシリーズとして続くとは思っていなかったのですが、二作目である本作を見た今、一作目はプロローグとしても非常に秀逸だったと思います(もちろん、単体の作品としても素晴らしい)

本作でテーマとなるのは、「人として生きるとはどういうことか?」だ。まさかゴジラの物語でそんな深淵なテーマが用意されているとは思わなかったので、驚いた。

こんなテーマが成立するのは、本シリーズが三つの種族の混合によって展開されていくからだ。

具体的なことは一作目のネタバレに繋がってしまうと思うので詳しくは書かないが、このシリーズでは、元から地球に住んでいた「人類」以外にも、「ビルサルド」と「エクシフ」という、「人類」から見れば地球外生命体の三種族が一体となって物語が進んでいく。この三種族が共に同じ宇宙船で長きに渡り宇宙を放浪することになったのには色々理由があるのだけど、そういった背景そのもの以上に、種族としての考え方に差がある。

「人類」は、基本的に僕らと同じ感覚の存在として描かれている。「ビルサルド」は、非常に合理的で論理的な存在として描かれていく。そして「エクシフ」は宗教的な存在として描かれるのだ。全体を率いているのは「人類」であるサカキ大尉だが、それぞれの種族にリーダー的な存在がおり、サカキ大尉は彼らと様々に調整をしながら全体を動かしていく。

しかしやはり、ベースとなる種族における価値観の溝みたいなものは完全には払拭できない。そして本作では、その価値観の相違が如実に全面に押し出される展開になるのだ。

そしてその価値観の相違が、最終的に「人として生きるとはどういうことか?」という壮大なテーマに繋がっていくのだ。究極の決断を迫られることになったサカキ大尉の苦悩は、非常に深淵で難しく、スパッと答えを出せるものではない。

このシリーズは、どこからどう見ても僕らが生きている現実からかけ離れたSF作品ではあるが、ゴジラという圧倒的な悪の存在感や、圧倒的な敵を前にしながら共闘できない種族たちという構図は、受け取る側の見方によって、現実の様々な事柄と対応をイメージ出来るのではないかと思う。例えば、僕がこの文章を書いているまさに今は、北朝鮮とアメリカの首脳会談が延期されるかどうか、みたいな状態にある。僕らが現在直面している「核の脅威」をゴジラに置き換え、アメリカ・韓国・中国・日本など、北朝鮮の周辺でなかなか共闘できないでいる各国を三種族に置き換えてみると、このSF作品が現実にグッと近づくことになる。

いやしかしまあ、そんなことを考えずとも、とにかくエンタメ作品としてべらぼうに面白い作品なのだ。

内容に入ろうと思います。
見慣れぬ場所で目を覚ましたサカキは、自分が普通に呼吸できていることに気付いて驚く。2万年経過した地球の大気は、我々には適合しないはずなのに。外に出ようとしたところで、食事らしきものを持ってきた少女に出くわす。少女?まさか、ゴジラに侵食されたこの地に、人類の子孫が残っているというのか?
後を追うサカキだったが、その過程ではぐれた仲間たちと合流、フツワと名乗るこの地で生き延びているらしい種族(人類の子孫?)に連れられ、地底国へと行き着いた。そこでさらにはぐれていた仲間と合流し、彼らはフツワの助けを借りながら、母線と連絡を取る手段を模索することになる。
フツワとは直接の会話は成立しなかったが、双子らしき二人の少女が触媒となりテレパシーのような形で会話ができた。また双子の少女は驚異的な言語力を持っているようで、サカキたちの言葉を少しずつ覚えているようだった。
やがて母線と連絡を取ることに成功したサカキたちだったが、ビルサルドの面々がフツワの武器を見て何かに気づく。その発見が、ゴジラ討伐への新たな道を開くのだが…。
というような話です。

メチャクチャ面白かった!一作目も凄かったけど、本作も凄かった。だって、一作目のラストとか、いやいや、もうこれ続かせるの無理でしょ、って思うくらい、絶望的なところで終わってたわけです。どうすんの、こんなん?だって、やりようなくない?って誰もが思うようなところから、また凄い展開を考えたものです。人員も物資も圧倒的に不足しているという状態から、なるほどそんな風になりますか!っていう怒涛の展開を見せて、再度ゴジラと戦うという流れになっていくわけです。

しかし、冒頭でも書いたように、本作の場合は、ゴジラと戦うか否か、戦うならどう戦うのか、という部分は、正直なところ物語の本筋ではありません。ゴジラと戦うことに関しては、サカキ自身はずっと思い悩むが、隊全体としての結論は早い段階で下されるし、いかに戦うかという部分も、一作目と戦術としては同じだからです。

しかし、ゴジラとの戦い方の過程で、彼らは究極の選択を迫られることになるわけです。ここが凄い。まさかゴジラの物語で、こんな展開になるとは思ってもいませんでした。

僕はゴジラシリーズはまともに見ていなくて、ちゃんと見たのは「シン・ゴジラ」ぐらいです。なので全然詳しくはないんだけど、それでも、ゴジラが登場するシリーズは基本的に「ゴジラにいかに対処するか」という部分に焦点があるはずです。初期のゴジラシリーズなんかでは確かなんか強いやつが出てきたような気がするし、「シン・ゴジラ」では官僚たちが立ち向かうわけですが、やはり描かれるのは対処の過程です。

しかし本作は、もはやそんな次元の物語ではありません。もちろん、ゴジラをどう対処するかという部分は必須の要素ではあるのだけど、それは物語の核ではない。ゴジラというものを登場させることで、「生きるとはどういうことか?」を問いかける、そんな物語になっているわけです。

結局それは、進化や退化の話に繋がっていきます。2万年の時が経過した地球は、ゴジラを頂点とし、あらゆる生物がゴジラに奉仕するように進化しました。また、どうやら昆虫の遺伝子も取り込んでいるらしいフツワという謎の種族も登場します。さらに、ゴジラと対する者たちも、三つの種族の混合であり、それぞれ「生きる」ということに対する違った見解を持っています。そういう中で、何を「進化」と捉え、何を「退化」と捉えるのか―。そういう、僕らが生きているこの現実ではなかなか真剣には突きつけられない、しかし環境や生態系を破壊し尽くし、現在地球における6度目の絶滅期に差し掛かっていると言われている現状を考える上では、無視できないテーマだと感じました。

非常に面白い映画でした。まだ続くみたいなので、次も見ようと思います。

「GODZILLA 決戦機動増殖都市」を観に行ってきました

「孤狼の血」を観に行ってきました

現実というのは、常に目の前に存在している。
そして、前(未来)にしか進んでいかない。
この二つから僕は、現実というのは受け入れる以外にはない、と考えている。

こういう考え方は、僕が物理学のことが好き、という部分もあるかもしれない。
物理学というのは、現実に起こった現象ありきですべてが進んでいく。
どんなに素晴らしい着想も、どんなに整合性の取れた理論でも、それが現実と僅かでも合わない部分があるなら、それは正しい着想・理論ではない。
また、どれほど受け入れがたい現象であろうと、どれほど理解に苦しむ結果であろうと、それが現実であるならば受け入れるしかない。
現代物理学はどんどん、僕らの日常感覚を失わせる現実に直面し、普通には納得できないような理論や結果が様々に現れている。
しかしどれほど物理学が新たな理論を生み出そうとも、理論が現実に先行することはない。常に理論よりも先に現実があるのだ。

この物理学における現実と理論の関係は、現実と正義の関係に近いかもしれないと思う。
どれほど素晴らしい理想的な正義があっても、どれほど望ましい正義があっても、それは現実よりも先行することはない。まず、現実が存在する。そしてその現実という制約の中でどう正義を実現していくのか。そういう問いしかあり得ない。現実の存在を無視して、理想の正義、望ましい正義を追求したところで、どこにもたどり着かない。いや、辿り着く場合もあるかもしれない。恐らく歴史に詳しい人であれば、そういう事例をいくつも取り出せるのだろう。しかし、そうではないのだ。仮に正義が現実に先行するように見えたとしても、それはたまたまであり、ラッキーだったということに過ぎない。理想を追い求めた正義が、たまたまその時の現実と整合していたというだけに過ぎない。現実と整合しない理想につられるようにして、現実が劇的に変化するなどということはまずあり得ないだろう。

正義は、現実の奴隷なのだ。

理想的な正義の存在や、それを追い求める人のことを非難したいのではない。それらは、世の中にとって存在だとは思う。誰もが、理想的な正義を諦めている社会は、荒みきって悪くなる一方だろう。

しかし同時に、現実の中に可能な正義を埋め込もうとする人の存在を無視していい、ということにはならない。現実の中に埋め込める可能な正義は、時として「悪」に見えるかもしれない。しかし、それが現実の求める「解」なのであれば受け入れるしかない。

現実は、いつだって強い。だから、それに負けない正義を埋め込むためには、時には悪魔に魂を売り渡さなければならないことだってあるだろう。大事なことは、その正義を、理解してくれる人がいるかどうかだ。

内容に入ろうと思います。
昭和も終わろうとしている頃の広島・呉原には、尾谷組と加古村組という二つのヤクザ組織が覇権を争っていた。14年前に大規模な抗争から小康状態が続いてはいるものの、呉原には常に火種が燻っているような状態だ。
呉原東警察署に異動になった日岡は、みんなから「ガミさん」と呼ばれている、大上というマル暴刑事と組むことになった。大上は、メチャクチャだった。日岡に、パチンコ屋にいた組員にイチャモンをつけさせ、日岡がボコボコにされたところでネタを強請る、など朝飯前。昵懇にしている尾谷組から金を受け取り、時には放火してでも情報を取ってくる。そんな大上のやり方に、日岡はイライラを募らせていく。
呉原金融という闇金の金庫番が行方不明になっている、という情報を掴んだ大上は、この線で加古村組を壊滅させようと目論む。その失踪に、加古村組が絡んでいると見ているのだ。しかし、街中での小競り合いによって、尾谷組の組員が射殺されて死亡、尾谷組が報復しようとするのを大上がなんとか止めている―そんな一触触発の状態になってしまっていた。
三日―大上が尾谷組から与えられた猶予だ。それを過ぎれば、尾谷組は加古村組に大々的に戦争を仕掛ける。三日で加古村組を壊滅させるべく、金庫番の線を洗う大上はさらに違法なやり方で捜査を続けるが…。
というような話です。

原作も面白かったですけど、映画も面白かったです!特に映画の方が良かったのが、やはり複雑な人間関係がスパッと理解できるところですね。原作だとどうしても、◯◯組の××と名前で覚えなければならないので、人間関係を把握しきれません。しかも、どの組がどの組の傘下で、誰と誰が兄弟分で、みたいな話はややこしすぎて結構辛い。映画では、その辺りの複雑さがストーリー的にも緩和されているし、さらに、どこの誰かなんて言わなくても顔を見ればどっちの組の人かはすぐ認識できる。そういう意味でこの作品は、映画の方がより親しみやすいかもしれない、と思います。

僕は任侠映画って基本的に見たことないですけど、ちょっと古くさいタッチの映像で、たぶん昔の任侠映画を意識して撮っているんだろうな、と感じました。今の時代は、暴対法なんかがヤクザをがんじがらめにしてて、この映画で描かれているような暴力的なことをちょっとでもやれば組が壊滅、みたいなレベル(だと思う)んで、現代を舞台にしてはこういう話って成り立たないでしょうけど、昭和が終わろうとしているという時代や、広島という土地が、この作品をうまく成り立たせているな、と感じました。

しかしまあ、キャラの濃い面々ばっかりで、面白かったです。主役の一人である日岡(松坂桃李)の影の薄いこと薄いこと(笑)。みんな「じゃけえ」みたいな広島弁で喋るし、ヤクザとか警察とか夜の女性たちなど、特に肝の座っている人たちの話なんで、迫力がすごいですね。特に僕は、大上が懇意にしているクラブのママである梨子(真木よう子)が良かったなと思います。顔立ち的に、夜の女性がハマり役だなぁ、って思っちゃいました。ほとんどが男ばかりの物語の中で、ヤクザや警察とまともに張り合える唯一の女性キャラ、という点も、彼女を際立たせて見せていた部分だと思います。

しかしまあなんと言っても、主人公の大上(役所広司)の存在感は圧倒的でした。僕は俳優のことをそこまで詳しく知っているわけではないですけど、日本の俳優で大上の役が出来る人って、そう何人もいないだろうと思います。ただ「怖い」だけの存在ではなくて、硬軟使い分けられるような存在感があって、でも怖い部分はメチャクチャ怖い。ある種の狂気を宿せる人で、それに納得感を与えられるような演技が出来る人ってあんまりいないだろうし、役所広司はハマっていたと思います。

ストーリー自体は、原作を読んでいて知っていたので、ある程度先の展開がわかる形で見ていましたけど、知らないで見たら、ストーリー的にも相当引き込まれる作品だと思います。実際、原作で読んだ時は、グイグイ読まされましたからね。

男臭い映画ですけど、たぶん女性が見ても楽しめると思います(それは、呉原の常識に馴染んでいない日岡(松坂桃李)の存在が大きいと思いますが)。

「孤狼の血」を観に行ってきました

「BPM ビート・パー・ミニット」を観に行ってきました

何か変えなければならないことがある場合、「何もしない人間」と「暴力的な行動を含む活動をする人間」とでは、どちらの方がよりダメだろうか?
みたいなことを考える。

これまでも、世の中の色んなことを変えるために、戦ってきた人たちがいる。でも、僕はどうしても、そこに暴力的な行動が含まれてしまうと、ちょっと引いてしまう。仮に、その活動によって、素晴らしい達成が短い期間でなされたとしても、その過程にはやはり、暴力的な行動が含まれていてほしくない、と思ってしまう。

まあそれはきっと、あまりにも理想主義的な発想なのだとは思うのだけど。

僕は別に、異なる価値観の人間でも話し合えば必ず分かり合えると思っているわけでもないし、暴力的な行動による被害よりもそれによる達成から生まれる成果の方が圧倒的に多いのであれば、価値を認めざるを得ないと感じることもあると思う。けど、僕はやはり、恥じ入るべきだ、とは思っている。仮に暴力的な行動によって素晴らしい達成が得られたとしても、それを成した者はその成果を恥じるべきだ、と。

この映画のことを非難しているのではなく、一般論だが、やはり暴力的な行動による達成を美談にしてはいけない、と僕は感じてしまう。

内容に入ろうと思います。
「アクトアップ」とは、1989年にNYで発足したエイズ患者の権利を守るためのゲイコミュニティだ。それは世界中に広まり、パリでも生まれた。
「アクトアップ=パリ」に所属するショーンは、会の発足メンバーの一人だ。会をまとめるリーダー的存在とは頻繁に意見が対立する。「アクトアップ=パリ」は、様々な活動をしており、内部に多くの委員会を持っている。無策な政府をあげつらうような抗議行動もすれば、製薬会社との折衝もする。
「アクトアップ=パリ」に入ったナタンは、活動を通じてショーンに惹かれていく。エイズは確実にショーンの身体を蝕んでいく。エイズ患者を取り巻く環境は、遅々として進まない…。
というような話です。

調べてはいませんが、恐らくこの「アクトアップ」という団体は、実際に存在したんだろうと思います(と判断したのは、映画の中で、当時の実際の映像らしきものが流れたからです)。確かに日本でも、エイズが社会問題になってた時期があって、恐らくそれぐらいのタイミングの話なんだろう、と思いました。

映画を見ていて僕が感じたことは、やはり冒頭で書いたように、暴力的な行動によって何かを変えようとすることの難しさでした。映画自体は決して、アクトアップの活動を賛美するような内容ではなくて、時代や政治に翻弄されながらも、抗えない宿命と戦う若者たちを描いているのだけど、なんとなく僕はアクトアップのやり方に違和感を持ってしまったし、共感しにくいなぁ、と感じました。当時の社会状況の中で、エイズ患者にはあまり選択肢は多くなかったかもしれないけど(実際に映画の中でそういう発言もあった)、それでも僕は、この会には入りたくないなぁ、と思ってしまいました。

で、きっとそのアクトアップの活動になかなか共感できなかったからこそ、映画全体にもなかなかうまく入り込めなかったのかな、という感じがしました。映画の性質上、アクトアップの活動と、その中で活動する彼らの話を分離しては捉えられないので。別に僕は、共感できない作品は良くない、などと言いたいわけではないのだけど、自分の中でうまく、彼らの物語を追おう、という感覚になれなかったなと思いました。

「BPM ビート・パー・ミニット」を観に行ってきました

「ハッピーエンド」を観に行ってきました

この映画のなんとも言えない不穏さは、結構好きだ。
その最たるものが、エンドロールだった。なにせ、無音のままエンドロールが流れるのだ。そんな映画、僕の記憶ではこれまで見たことがない。
映画の中でも、音楽はほとんど使われていなかったと思う。カットバックもほとんどなく、ワンカットで撮った映像を繋いでいくような映像は、カットバックに慣れた現代人にはやはり不穏さを感じさせるのではないかと思う。しかも頻繁に、遠景のままで、何を喋っているのか、何をしているのか分からないままの映像が続く場面もある。

そもそも映画の最初から、状況や人間関係に関する説明がほぼない。今何が起こっているのか、そこにいる人間たちがどんな関係性なのかをほぼほぼ描くことなく、話が進んでいく。
その描き方が、「彼ら」の「本当の日常」に「透明なカメラ」が持ち込まれたような、そんなリアルさを感じさせる。観客に向けられた描写はほぼほぼなく、「彼ら」の日常に潜り込んでいるかのような、映画を見ているんだかなんなんだか分からないような異質さに引きずり込まれる。

肝心な描写が描かれないことも不穏さを増す。例えば、比較的最初の方で、一家の長が車で事故を起こす。しかし、それが観客に伝わる直接的な描写はない。突然、家族が不安そうな表情を見せ、バタバタした雰囲気が漂い、「彼ら」のやり取りから少しずつ、誰かが事故を起こしたのだ、ということが伝わる。

映画の様々な場面から伝わるそうした不穏さは、見ていてなんだか清々しかったし、割と好きだと感じた。しかし正直なところ、ストーリー的にはさっぱり意味不明で、ほぼ理解できなかった。そもそも、「彼ら」の関係性を把握するのも困難で、中盤過ぎてからもなかなか理解できないままだった。

たまにしかやらないが、あまりにも理解できなかったので、この映画についてはネットで色々調べた。

一番意外だったのが、この映画が「移民問題」をテーマの一つに据えている、という点だ。それは、映画を見ていて全然理解できなかった。いや、それはその通りなのだ。監督自身が、移民問題を直接的に描く意図がなかったというのだから。「移民問題」というのは要するに「現実の世界で目の前で起こっている関心を持つべき問題」の一つとして登場するのであり、そしてそれに無関心なままネットの世界に“引きこもる”人々の姿を描く、というのがこの映画のテーマの一つのようです。

ストーリーについては、自分の力では要約出来ない(というか、そもそも理解できていない)ので、ここでは書きません。ストーリーがほぼほぼ理解できず、テーマもきちんと捉えきれなかったにも関わらず、見終わった感想がそんなに悪くないというのは僕としては結構意外で、そういう意味ではなかなか稀有な映画だと思います。

「ハッピーエンド」を観に行ってきました

「ダンガル きっと、つよくなる」を観に行ってきました

この映画のポスターに、確か板垣恵介だったと思うんだけど、「予想をほぼ裏切らない展開!でもそれがいい」みたいなコメントがあって、それが、この映画をまさにピタリと言い当てているなぁ、と強く感じました。

内容に入ろうと思います。
インドの片田舎に住むマハヴィルは、かつてインドの全国代表にまでなったレスリングの選手だ。自身では果たせなかった、国際大会で金メダルを獲るという夢を自分の息子に託す―その夢を抱いて生きてきた。しかしマハヴィルの元に生まれる子供は皆女の子ばかり。四人目も女の子だったことで、マハヴィルはその夢を諦めた。
しかし、上の娘二人、ギータとバビータが、男の子との喧嘩で圧勝したのを見て、マハヴィルは彼女たちを鍛える決心をする。夢のために娘の人生を犠牲にするのか、村で笑い者になる、お金はどうするのか―そんな妻の心配をよそに、1年間だけ試しにやる、お前も一年心を葬ってくれ、と言われ、妻も引き下がるしかなかった。
朝5時に起こされ、男子でも音を上げるだろうトレーニングが始まった。あまりの辛さに不満を抱えるギータとバビータだったが、父は揺るがない。女がレスリングなんかやってと、村中から非難されたが、マハヴィルは動じなかった。
嫌々トレーニングをやらされていた二人だったが、あることをきっかけに父の愛情を理解し、自らトレーニングに精を出すようになる。やがて男子ばかりのレスリングの大会で次々優勝をかっさらうようになるのだが…。
というような話です。
なかなか面白かったです。本当に、予想外の展開というのは全然なく、きっとこうなっていくんだろうなと予想できるような王道のストーリーでしたけど、父の熱血と、娘たちの奮闘ぶり、そして立ちはだかる様々な障害など、ストーリー的に非常に良く出来ていたので、面白かったです。

まあそれはそうでしょう。映画の冒頭で、「この映画は、マハヴィルとギータとバビータの実話を脚色しており、他の登場人物はすべて架空です」という注意書きが出てきた。どこまで脚色されているのかは判断のしようがないけど、この映画のストーリー通りに物事が展開していったというわけではないのだろう。マハヴィルとギータとバビータは存在していて、彼らが国際大会で金メダルを獲った、というのは事実だし、そこに至る過程の描写にも実際に起こった出来事が多数盛り込まれているんだろうけど、それでもこの映画はフィクションだと思った方がいいんだろうな、と受け取りました。

フィクションだからこそ、これほど物語として面白い展開なのだろうな、と思います。恐らく事実はここまでドラマティックではなかったんだろうけど、ただ恐らくこの映画には、インド人たちが感じたドラマティックさが込められているんだろうなという気がしました。レスリングという競技においてインドに初めて金メダルをもたらしたギータという選手の存在感、しかもそれまでの国際大会で初戦敗退という結果を残せないでいた中(恐らくそれは事実なんだろうと思ったけど)、インド国内で行われた国際大会で優勝するという快挙を成し遂げたギータへの、インド人が感じたハイテンションが映画に込められているのではないかな、と思いました。

個人的に一番好きなシーンは、最後ギータが優勝した時に国歌が流れる場面です。あれは凄く良かったなぁ。

あともう一つ好きだったのは、決勝戦の前日、ギータが父親に翌日の試合の戦略を聞く場面。「戦略は一つしかない」と言った父親が、ギータに語った内容が、凄く良かったなと思います。

超分かりやすいどエンタメですけど、王道をひたすら突き詰める映画なので、誰が見ても面白く観れるんじゃないかなと思います。

「ダンガル きっと、つよくなる」を観に行ってきました

「娼年」を観に行ってきました

どうも僕には理解できないが、「女性にも性欲がある」ということが社会的に受け入れられていないように感じられる(あくまでも「社会的に」だ)

それを一番強く感じるのは、不倫報道だ。僕は、不倫やら浮気やらは自由にやればいい、と思っている人間で、不倫をあそこまで大々的に報道する理由がイマイチよく分からないのだけど、まあそれは本題ではない。僕が言いたいことは、男が不倫した場合より、女性が不倫した場合の方がより非難が多いように感じられることだ。

僕はネットをあまり見ないので、不倫報道があった時にネット上でどんな反応が出ているのかよく知らないが、イメージではこんな反応なのではないかと思う。男が不倫した場合は「しょうがないなぁ」となり、女性が不倫した場合は「あり得ない」というような。その、社会的な雰囲気が、ニュースや週刊誌などによる不倫報道に影響を与えているように思う。

そして僕は、女性が不倫した場合の「あり得ない」という反応(もし多くの人の反応がそうなのだとしたら、ではあるが)の背景にあるのが、「女性にも性欲があるという事実を認めない」という暗黙の了解に思えるのだ。

もちろん、女性も色々なわけで、性欲の程度も様々だ。つまり、女性にも「必ず」性欲がある、という主張をしたいわけでもない。僕はタイミングがあれば、女性に性欲の話を聞いてみるのだけど、「まったくない」という人から「凄くある」という人まで、色んなパターンを耳にしたことがある。もちろん、質問の内容が内容だし、それに男の僕が聞いているという点もあるので、相手の返答の信憑性をどこまで信じるかという問題はつきまとう。とはいえそれは、「ない」側の返答をした人に対しての話で、「ある」側の返答を疑う理由はない。そういう意味で僕は、「女性にも、好きな人とセックスをする、という以外の性欲がある人がいる」ということは、それなりには理解しているつもりだ。

だから僕にも、この映画の主人公のように、女性の性欲の奥深さとか幅広さみたいなものへの興味はある。まあ僕は残念ながら娼婦(男の場合も「婦」かな?)ではないのでそこまで深入り出来る機会は少ないのだけど、そういう機会(別に「娼婦になる機会」という意味ではないが)が降って湧いてくることがあれば、分け入ってみたい気持ちはある。

異性の性欲の話に限らないが、僕は、相手が隠したいと思っている事柄に興味がある。それは、弱さやコンプレックスや傷など、様々な呼ばれ方をするが、それらは本人の中で、積極的に誰かに話したり、表に出したりすることが出来ない領域に存在する。それを、まあこいつになら話してみてもいいか、と思ってもらえるように相手と関わるのが僕の基本的なスタンスだ。そういう意味で言えば僕は、娼婦的な生き方をしていると言えるかもしれない。

内容に入ろうと思います。
大学生の森中領は、碌に大学にも行かず、バーテンダーのアルバイトをしながら日々を無為に過ごしている。ある日、中学の同級生でホストをしている男がバーにやってきて、新しい金づるを見つけたと言ってきた。それが、後に領が深く関わることになる御堂静香との出会いだった。静香と短い会話を交わしながら、領は、「女なんてつまんないよ」とぼそぼそと喋る。
そして仕事が終わり、どこが気に入られたのか、領は静香の運転で自宅に連れて行かれた。そこで、さくらという喋れない女の子とセックスするように言われる。「セックスなんて、手順が決まった面倒な運動です」と言った領は、試験だったらしいそのセックスを経て、静香が経営するボーイズクラブ「パッション」で働くことになった。
「女の欲望の深さに圧倒されるはず」と静香に言われた通り、領が出会うことになる女性の欲望は様々だった。領は、母親が37歳で亡くなったのを一つのきっかけにして年上の女性への親愛の情が深くなっていて、それもあって「パッション」の中でグングン人気を上げていくことになるが…。
というような話です。

なかなか面白い映画でした。
正直なところ、ストーリー的にどうこうという映画ではないと思います。単純にストーリーだけ取り出してみれば、別に大したことを描いているわけではないし、特別面白いわけでもない。ただ、「松坂桃李という配役」と「気怠い諦念をまとった雰囲気」が凄く良かったと思います。

この映画の主人公の配役として、松坂桃李は絶妙だったなぁ、と思います。これは「気怠い諦念をまとった雰囲気」にも関わってくる話なんだけど、やる気がなさそうにボソボソ喋る感じとか、女性たちと関わる際の不器用なんだか大胆なんだかよく分からない感じとか、セックスをしているシーンの「観れる感」(汚くない感じ)とかが凄く絶妙だなと思いました。最初から最後までギラギラした感じは出なかったし、「探究心」みたいなところから娼婦の仕事にのめり込んでいるのだ、という設定に凄く説得力を持たせられる俳優だなと思いました。もちろん、他にも同じことが出来る人はいるのかもしれないけど、松坂桃李が凄くハマっていたので、他の人はちょっと想像出来ないなぁ。

特に、「探究心」からのめり込んでいる、と見せられるという部分は凄く大事だと思いました。ちょっと話は飛ぶけど、ちょっと前にイチローが選手兼フロントという立場になると発表した時の記者会見で、「自分を研究材料として、最低でも50歳まで選手としてやっていきたい」みたいな発言をしていました。これ、イチロー以外の野球選手が言ったとしたら、「は?」って思われそうな気がするんですよね。なんとなく、イチローだから成立する発言だと思うんです。それと同じように、松坂桃李が醸し出す雰囲気が、「探究心」からのめり込んでいるのだという設定に説得力を与えている、と感じられました。そこが凄く良かった。

映画全体の気怠さみたいなのも好きでした。どの役者も、結構気合の入らない喋り方をするんですね。まあそれはそうかもしれません。性欲という隠したい話をしているのだから。しかも、「社会的に」性欲があることを封じられている女性には、社会から外れない形で性欲を満たすことへの諦念みたいなものがあるんじゃないかと僕は思っているんですけど、この映画では、その諦念がちゃんと捉えられていた感じがしました。諦めているからこそボーイズクラブを利用している、という側面はあるんだろうし、そういう諦めをきちんと描き出しているところが、良かったなと思いました。

一箇所どうしても見れなかった場面があります。領が「何かお返しできることはないかな?」と言ってやった行為なんだけど、演技だと分かっていても、ちょっと正視に耐えなかったなぁ。まあ、そう感じさせるくらい、リアルだったということなんだろうけど。

あと、これはこの映画に限らない話で、最近映画を観ていて不思議に思うことなんだけど、日本映画の場合割と、主人公クラスの人たちの役名の漢字表記が映画の中で映されるな、と。この映画でも、パッションのオーナーである御堂静香の名刺や、主人公の森中領の学生証などが映し出されます。他の映画でも、表札とか手紙の宛名とか、とにかく色んな形で主役級の人たちの漢字表記が映し出される場面があるんだけど、なんでなんだろうなぁ。僕が想像出来るのは、SNSに書き込んでもらう用かな、ぐらい。不思議だなといつも思っています。

「娼年」を観に行ってきました

「ホース・ソルジャー」を観に行ってきました

そうだよなぁ、アメリカが日本を守ってくれるわけないよなぁ、とこの映画を観て思った。というか、戦争映画を観ると、よくそう思う。

アメリカ軍の兵士たちは、何のために戦っているのか。もちろん、いろいろあるだろう。しかし、彼らの中には、確実に何かはある。その何かは、「上官から命令されたから」だけではない、もっと個人に根ざした何かだ。

自国を守るためという大きな気持を持つ人もいるだろうし、家族のためというより個人的な理由である者もいるだろう。そういう何かがあるから、彼らは、絶望的な状況でも戦うことが出来る。はっきりと、守るべきものが見えているからこそ、彼らは戦うのだ。

ニュースなどで、日米同盟や自衛隊の話が出る。日本は、アメリカの核の傘の下にいなければならないのだ、と。まあそうなのかもしれない。そもそも日本の場合は島国だから、兵士たちが日本の地で地上戦を展開する、という展開はあまり想像しにくい。だから、この映画からの類推で日本の現状を語るのも間違っているのだろう。日本がアメリカに守られるという場合、それは長距離弾道ミサイルを撃ち落とすというような、ボタン一つで行うことが出来、アメリカ側に直接的な被害が出なさそうな状況を指すのだろうから。うん、そうであれば、アメリカも、何か日本がピンチに陥った時に助けてくれるかもしれない。

でもなぁ、と思う。確かにそれは、技術的には可能だけど、感情的にはどうなんだろう、と思う。

日本は、憲法9条を前面に出して、戦闘に関わらない国であると謳う。それは良いことだと思う。しかしそのためには、日本は、世界から戦争をなくす努力を積極的にしなければならないだろう、とも思う。それをしない、ということは、「どっかで戦争してるの知ってるけど、ウチは関わらないよ」と言っているだけになってしまう。まさに、絵に描いた餅ではないか。

もちろん、戦争というのは様々な理由で起こり、原因は複雑に絡み合っている。戦争以外の問題解決手段を模索すべきだと、恐らく世界中の多くの人が考えているはずだが、それでも戦争はなくならない。

戦争という問題解決手段は最悪手だと思う。思うが、しかし、現実にそれは起こっているのだし、誰が始めたにせよ、そこには犠牲者が多く生まれている。

そういう中で、戦いに身を置くことを選ぶ者が多くいるのがアメリカという国であるように思う。もちろん、アメリカが仕掛けたり、アメリカが原因だったりする戦争も山程あるだろう。そういう意味では自業自得とも言えるのかもしれない。しかし、手段としての善悪はともかくとして、少なくとも世界の戦争に対して、自らの身を以って立ち向かうことを選ぶ国民が、アメリカにはたくさんいる。

そういう中にあって日本は、自国民を戦争に参加させない。是非の問題ではなく、そういう態度をアメリカの国民を良いと考える理由が僕には思い浮かばない。技術的には可能でも、感情的に「日本人を助けたくない」と考える国民が多くいても、僕は不思議だとは思わない。

戦争映画を観ると、そういう気持ちが強くなる。彼らが立ち向かっている現実は、少なくとも、現代を生きる僕ら日本人には想像出来ないものだ。確かに、一昔前とは戦争のルールが大きく変わった。現代では、戦闘機や基地からピンポイントで爆撃することが出来る。彼らも、その支援は受けている。しかしそれでも彼らは、銃弾や砲弾が飛び交う中を馬に乗って全力疾走するという、戦国時代に近いような肉弾戦を繰り広げているのだ。

戦争の良し悪しの問題は置いておいて、現実に戦争というものがそこにあるのだから、なんとかするしかない。そしてその「なんとかする」に、日本人はほとんど関わることがないのだ。そのとてつもない差を、映画を観ながらずっと感じていた。

内容に入ろうと思います。
アメリカは度々、ビンラディンによるテロ攻撃にさらされてきた。そしてあの日、2001年9月11日、世界貿易センタービルに航空機が突っ込んだ。訓練中、そのテロのことを知ったネルソン大尉は、すぐさま陸軍へと戻り、現場復帰を申し出た。しかし、デスクワークを希望したのはお前だと言って却下される。しかし、ソマリアの内戦や湾岸戦争をくぐり抜けてきた歴戦の猛者が間に入り、ネルソンは仲間と共にアフガニスタンへと飛んだ。
そこで彼は、タリバンに占拠されているマザーリ(マザーリシャリーフ)を奪還する作戦を命じられる。ネルソンが率いるアメリカ陸軍特殊部隊チームODA595のメンバーは12人。彼らは北部同盟の一角を担うドスタム将軍と合流し、彼の信頼を勝ち得て作戦行動を共にするように言われる。ドスタム将軍らとタリバン兵の拠点に接近し、その座標を伝えることで航空支援によって爆撃する。そんな風にして、険しい山岳地帯を馬で移動しながら、マザーリ奪還を目指すのだ。
上官から6週間と言われたが、ネルソンは3週間でと返した。というのも、同地域で戦ったソ連軍が、冬の時期は山岳地帯の移動が困難になると何かで書いていたのを読んでいたからだ。陸軍の作戦立案者は、マザーリの奪還に2年掛かるだろうと想定していた。それを、たった3週間で。
必ず帰る、と妻と約束したネルソンは、出発前日の夜、手紙を書かないことに決める…。
というような話です。

このODA595というのは実在したようで、長らく機密扱いになっていた事実だそうです。ただ今では、世界貿易センタービルの跡地に、彼らの異形を称える銅像が立っているのだとか。

凄い話でした。実話を元にした話というのは、「実話である」という説得力しかなくて、物語としてはさほど面白くないことが多いです。まあ、それは当然と言えば当然で、現実なのだから物語のように分かりやすく起伏があったりするわけがありません。ただこの映画は、もちろん「実話である」という説得力の強さの他に、映像的な強さがあり、映画としても十分楽しめる作品でした。どこまでが事実なのか、こういう映画を観る度に判断が難しいですが、戦闘シーンの迫力や残虐さみたいなものは、当然実際の方がさらに上なのだろうと思います。

とはいえ、戦闘シーンの迫力は凄まじいものがありました。こういう戦争とか戦闘の映画を観る度に、どうやって撮ってるんだろうなぁ、と思うことが多いですが、この映画でもやはりそう感じました。僕の目には、本当に戦ってるようにしか見えなかったです。しかもその戦闘を、アフガニスタンの険しい山岳地帯でやるわけです。映像に惹き込まれてはいるんだけど、同時に、馬は本物だよなとか、これホントに中東で撮影してるのかなとか、そんなことを考えてしまいました。

とにかく物語としての要素は単純で、一歩も引かない「勇敢さ」と戦闘の「壮絶さ」がほとんどで、あとは家族との関わりとか、仲間の助け合いなんかが描かれていきます。物語としては、特にトリッキーな要素はありませんが、やはり「実話である」という説得力と、戦闘シーンの迫力でグイグイ惹き込まれていく映画だなと思いました。

僕は、戦争になったら可能な限り逃げようと思うし、誰かを殺してまで生き延びようとも思っていません。だからそんな人間が言うべきことではないわけですが、しかし映画を観てやはりこうも思いました。日本も、自国は自国で守れないとマズイんじゃないかなぁ、と。少なくとも、その意志ぐらいは持てる国民であるべきなんじゃないか、という気はしました。いや、戦争には関わりたくないし、僕は率先して逃げますけどね。

「ホース・ソルジャー」を観に行ってきました

「サバービコン 仮面を被った街」を観に行ってきました

不穏な空気は凄く良かったんだけど、えー、そんなところに話がまとまっちゃうのかー、という残念さがあった。悪くはなかったんだけど、ちょっとなぁ。

内容に入ろうと思います。
1947年に生まれた街・サバービコンは、数軒の家からスタートして12年、現在は6万人に迫る住民が住んでいる。そこに、マイヤーズ一家が引っ越してきたからさぁ大変。マイヤーズ一家は、黒人なのだ。住民たちは「隣人を選ぶ権利」を主張し、マイヤーズ家の排斥に力を入れることになる。
その隣に住むガードナーの家に強盗が入った。強盗はガードナー家の面々を縛り上げ、クロロホルムで意識を失わせた。ガードナーの一人息子であるニッキーは病院で目を覚ましたが、そこで母のマギーが亡くなったことを知る。クロロホルムを吸引しすぎたのだという。助かったのは、ガードナーとニッキー、そしてマギーの姉でありニッキーの伯母に当たるローズだ。
ニッキーは母を失った悲しみを抱えるが、その一方で、父と伯母が何かを隠していることを知る。隣家では、マイヤーズ家に対する嫌がらせが日増しに強くなっていく。
一体、何が起こってるんだろう?
というような話です。

冒頭からしばらくの間は、凄く面白かった。それは何故かというと、謎しかなかったからだ。サバービコンで起こっていることも、ガードナーの秘密も、強盗たちの行動も、何もかもが謎だった。正直、全然状況が理解できず、何だなんだ、何が起こってるんだ、というワクワクするような気持ちで観ていた。

けどしばらくして状況が少しずつ明らかになっていくと、僕の中でちょっとずつテンションが下がっていってしまった。あまり詳しくは書かないが、一つだけ書くとすれば、ガードナーの秘密と、サバービコンで起こっている出来事が、直接的には関係ないと分かるからだ。

僕は勝手に、そこはいずれ結びついてくるんだろう、と思っていた。そしてそこがどう結びつくのか、サバービコンという街は一体どんなところなのか、という興味で映画を観ていたのだ。しかし、そこが無関係だと分かってきて、サバービコンで起こっていることとガードナーが抱えている秘密が別個のものだと分かると、なーんだ、という気持ちになってしまった。どうしても個人的には、そこはリンクして欲しかったし、そのリンクのさせ方こそがこの映画の肝だと思い込んでいたから、僕の勝手な思い込みが外れたというだけで映画を低く評価するのは正当ではないかもしれないけど、なんとなくガッカリ感を味わってしまった。

映画全体の、異様な、何が起こるのかまるで想像がつかないような雰囲気は結構好きだ。さらにストーリーも好きになれたら良かったな、と思う。

「サバービコン 仮面を被った街」を観に行ってきました

「いぬやしき」を観に行ってきました

感想を一言で言うと、「これぐらいストーリー的に何もないと、逆に清々しくていいな」って感じでした。

これ、全然貶してるわけではないんです。なんというのか、この作品、「ストーリー的やお約束」みたいなのがほとんどないんですね。映画でもマンガでも小説でも、物語に触れる場合ってみんなたぶん、「次はこうなるかな」とか「この世界はこんな設定かな」とか考えてると思うんです。で、それってある程度その通りになるはずです。割とそうじゃないと、物語って成立しない。驚かされるようなこともあるんだけど、そればっかりってわけにはいかないし、基本的には、ある種の想定の範囲内の中に、違和感とか想定外とかを放り込むから面白くなるんだと思う。

でもこの物語は、割とそれが少ない。先が読めなくてハラハラする、みたいな意味の「先が読めない」みたいなことじゃなくて、なんというのかな、それこそ、主人公の一人が「人間であることを止めている」のと同じ感じで、この物語って全体が「物語であることを止めている」みたいな感じがするんです。

大体そういう物語って、あんまり面白くないなって思うことが多い気がします。僕は物語をある程度理屈で捉えている部分があるので、理屈が通っていないように感じられる物語には、あまり面白さを感じられないんだと思います。

ただ、この映画は面白かった。何でだろう。結構不思議だ。

例えばこの物語では、ある人物が殺人犯だって判明する場面とか、その人物の居場所を警察が突き止める場面とか、特に説明がないんですよ。原作のマンガの方でどうなってるのかは知らないんだけど、とにかくまったく説明されない。他にも説明されないことだらけで、正直何がなんだか分からない。理屈もクソもないし、想定しようもないから想定内も想定外もない。そんな感じ。

それでも面白かったのは、その理屈のなさみたいなものを徹底的に突き詰めたからなのかな、という感じがします。

この映画では、「家族とは」とか「正義とは」とか「人を殺すとは」とか「人を救うとは」みたいなことに対して、ほとんどありきたりの価値観を通していかない。僕らが普段生きているこの現実世界を、無条件で成り立たせている(ように見える)様々な価値観を、結構無視したまま物語が描かれていく。そしてそれを最後までやりきっている。中途半端にやらずに、徹底的にやりきったからこそ、普通には成立しなさそう物語が成り立っているのかな、と思いました。

映画を見ながらずっと、これってコミックだとどんな風に物語を引っ張ってるんだろう、と不思議に思いました。冒頭でも書いたみたいに、この話、ストーリー的にはほぼほぼ何もないと思うんです。最初の設定から戦いに至る展開まで、もちろんまったく理解不能とは言わないけど、何か意味を感じさせるような展開になってないと思うんですよね。映画だと、新宿の街を飛び回るみたいなCGがかなり大迫力だったし、映像的な面白さがあったから観れる部分もあるんだけど、マンガの場合、正直なところ、どれだけ頑張っても映像ほどの臨場感は与えられなそうな気がするんですね(あくまで「臨場感」という点に関してのみの比較)。ストーリーで引っ張れる物語ではないような気がしているから、マンガではどんな風に読者を惹き込んでるんだろうと思いながら見ていました。

内容に入ろうと思います。
会社では年下の上司に叱責され、家庭ではカースト最下層に追いやられているサラリーマン・犬屋敷は、ローンを組んで買った家に引っ越すも、妻・娘・息子から空気のように扱われる日々。迷い込んできた捨て犬を妻から捨ててこいと叱責された犬屋敷は、どこまでもついてくる犬を振り払おうと、やがて公園へとたどり着いた。そこには一人の青年がおり、そしてその夜、二人は眩しい光を浴び、犬屋敷は翌朝、レンズの取れた眼鏡を掛けた状態で公園で目を覚ました。
犬屋敷は自分の変化に驚愕した。なんと身体がロボット状になっているのだ。何が起こったかまるで理解できないながら、犬屋敷は普通の生活に戻ろうとする。
一方、同じ光を浴びた高校生の獅子神は、自らの変化を肯定的に認識し、その力を誇示しようとしていた。クラスでいじめられていたチョッコウ(あだ名)にその力を見せつけ、チョッコウをクラスに復帰させる手助けをするが、その一方で無意味な殺戮に手を染めた。
自らの力を悪のために使おうとする獅子神と、同じ力を人助けのために使おうとする犬屋敷。やがて相まみえることになる二人の、壮絶な戦いが新宿で展開される!
というような物語です。

個人的にはなかなか面白いと思った。全然すっきりするような物語ではないから、どうなんだろう、世間的に大きく受け入れられるのかどうかはなんとも判断できないんだけど。まったく理解不能の変化を遂げた二人を両極に置くことで、世の中で当たり前とされている様々な価値観を炙り出し、その是非を突きつけるような展開の物語は、見る人によって違う問いを受け取れるような、そんな物語であるような感じがします。

2時間の映画にまとめるために色々削ったんだろうから、この映画だけで原作を判断するわけにはいかないけど、どうなんだろう、この物語の中で登場する様々な人物について、コミックの方では描かれているもんなんだろうか?カツアゲされている息子とか、夢を追おうとしている娘とか、あるいは獅子神を好きなクラスメイトとか、獅子神の母親とか。そういう枝葉(この物語においては何が枝葉なのかよく分からないけど)についても、ちゃんと描かれてるのかな。個人的には、獅子神を好きでいるシオンというクラスメイトの話が気になる。

見た後、特に誰かに何かを伝えたくなるような映画ではないし、自分の中で何か思考を深められるような映画でもなかったんだけど、単純に観ていて面白かったという意味では、良い映画だったと思います。

「いぬやしき」を観に行ってきました

「ルイの9番目の人生」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
ルイは生まれてから、死にかけてばっかりだった。感電したり、食中毒はしょっちゅう、毒蜘蛛に刺されたりもした。事故多発少年なんて言われて、学校でもヘンテコ少年って呼ばれて、色々上手くいっていなかった。
「昏睡」の著者であり、TEDに登壇する著名な医師であるパスカルは、ある日奇妙な事例を耳にする。死亡が確認され、検視解剖を待っていた少年が息を吹き返した、というのだ。意識不明のままだが、生きている。その少年が、ルイだった。ルイは崖から落ちたらしく、父親は行方不明、そして美しい母親・ドラックス夫人がルイを心配そうに見つめている。
パスカルはルイの担当医師となった。昏睡状態から目覚めないルイ。パスカルは、ルイの様子を見ながら、ドラックス夫人と少しずつ距離を縮めていくことになる。結婚している身でありながら、彼女に惹かれている自分に気づく。
その後、不可解な出来事が起こり、一層謎は深まっていくが…。
というような話です。

さて、こういう物語の評価は、非常に難しい。

映画の冒頭から、とにかく惹き込まれた。中盤を過ぎても、全然ストーリーが理解出来ないし、何が起こっているのか把握できないんだけど、それでも風呂敷の広げ方が絶妙に巧い。この物語はどんな風に着地するんだ――そういう興味を存分に煽る構成になっている。

様々な事柄が、ちょっと普通では説明出来ないような感じなのだ。こういう展開を見せる物語にはいくつかのパターンがある。不可思議なまま奇妙な余韻を残して終わる場合もあれば、誰も想像もしなかったトリッキーな結末を迎えることもある。

さてこの映画の場合はどうだったのか。

実は映画を見ながら僕は、ちょっとだけ仮説を持っていた。はっきりと具体的な形になっていたわけではないんだけど、もしこの物語が真っ当な形で着地するんだとすれば、それしかあり得ないよな、という漠然としたアイデアが。

そして残念ながら、物語は僕の想像通りに進んでしまった。そういう意味で、ちょっと満足感は薄かった。それなら、謎は謎のまま奇妙な雰囲気のまま終わってくれても良かった、と思う。ルイという少年の存在感が非常に鮮烈なので、ストーリーでオチをつけなくても、ルイの印象だけで「面白い映画を見た」という感覚にさせられたかもしれない、と思う。まあ、実際にはどうかは分からない。分からないけど、少なくとも僕にとっては、ある種想定の範囲内の部分に物語が落ち着いてしまったので、残念だった。

とにかく、冒頭からずっと引き込まれることだけは間違いないと思う。現在と過去を頻繁に切り替えながら、一人の少年の人生をあぶり出していくこの映画は、どういう期待をしてこの映画を見るのかにもよるだろうけど、ルイという少年の陰のある輝きに惹かれる人は、なかなか面白く見れるんじゃないかなと思います。

「ルイの9番目の人生」を観に行ってきました

「ダウンサイズ」を観に行ってきました

もし、身体を縮小させる技術が本当に存在したら、やるかなぁ。
ちょっと考えてみた。

人によって何をメリット・デメリットと感じるかは様々だろうけど、僕にはデメリットが少ないように感じられた。
目につく大きなデメリットは、縮小化していない家族や友人との関わりが、皆無とは言わないまでもかなり減ること。これが一番だと思う。ここがクリア出来ない人はダウンサイズには手を出さない方がいいだろうけど、僕は多分クリア出来る気がする。

後は、ダウンサイズする前にある程度お金を持ってないと、ダウンサイズ後の人生のメリットが少ない、という感じか。とはいえ、他人との比較をしなければ、資産は単純に増えることになるし、お金を得るための仕事もそこまでしなくてもいいということになるだろう。

あとはあまりデメリットを感じられなかった。面白そうじゃないか、と思う。

物語ではよく、増えすぎた人口や環境の悪化などを背景に、別の居住可能な惑星を探す、という設定が描かれる。しかし、人口の増加や資源の枯渇だけであれば、確かにダウンサイズでも物事は解決する。面白い発想だなと単純に思った。恐らく現実にはこういう技術は開発されないだろうけど、とはいえ、こういう技術が開発される確率は、居住可能な惑星が見つかる可能性と同程度にはあるんじゃないか、と思う。後は、時間と資金と根気の問題だ。

人間はこれまでにも、どう考えても不可能だろうと思われることを成し遂げてきた。古代の人からすれば、人類が月の上に立つなんて想像の埒外だろう。同じように、現代の僕らには想像の埒外であるダウンサイズが、遠い未来に実現する可能性だってゼロではない。その時まで地球が持ちこたえているかどうかは不明だけど、そうなったら面白いなぁ、と思う。

内容に入ろうと思います。
ヨルゲンという研究者が、画期的な技術を開発した。有機体を細胞レベルで縮小する、というものだ。その比率は2744対1。身長180cmの人が、12.9cmになる計算だ。一部の魚介類を除いて、副作用はほぼ皆無。ヨルゲンは、自ら被験者となり、また36人の勇敢な仲間と共に、7×11メートルという小さな村で4年間暮らした後、これを世界に発表した。36人が4年間で出した燃えないゴミは、ゴミ袋半分にも満たない程度だ。これで環境問題の多くは解決する。
このダウンサイズ、社会に少しずつ広まっていった。希望すれば、ある程度のお金を支払って誰でもダウンサイズ出来る。手持ちの資産を現金化し、ダウンサイズ後の資産に換算すると、100倍近くにもなる。一気に億万長者になれるのだ。
作業療法士として働くポールは、妻のオードリーと共に物件探しに勤しむが、なかなか折り合いが付かない。ローンの審査にも、なかなか通らない。ならばと、彼らはダウンサイズを検討することにした。よくよく話を聞き、ダウンサイズ後の生活を垣間見ながら、彼らはその決断をする。
体中の体毛を剃り、入れ歯や金歯などを抜き、いざ準備完了。目覚めたポールは、妻がどこにいるのか看護師に確認するが、そこで予想外の事態が起こっていることを知り…。
というような話です。

これは面白かったなぁ。ダウンサイズなんていう、まず荒唐無稽だろう設定を、実に見事に描き出している。良いことばかりではない。例えば、ダウンサイズを控え、友人たちとお別れのパーティーをしているポール夫妻に絡んできた酔客の話は印象的だった。ダウンサイズした人間も、選挙権は同じなのか?だって消費税は安いし、所得税はない奴もいる。金と仕事を奪っていく奴らだ、と非難するのだ。ニュースでも、消費が落ち込むが故に経済的な打撃は大きい、という話が出てくる。さらに、予想外の形でダウンサイズの技術が悪用される、という事態も起こる。恐らく実際にはもっと色んなことが起こるだろう。僕は、テロなどの危険性があると思う。彼らが住んでいるのは、ダウンサイズしていない人間からすれば実に狭い空間だ。ちょっとした爆弾でコミュニティが壊滅するだろうし、水道や電気などのライフラインだけ破壊するというのならもっと簡単な気がする。ホワイトハウスなどにスパイが紛れ込んだりもするだろうし、他にも色々問題は生じるだろう。そういう部分は、この映画のメインのストーリーと関わりがないので、描かなくて正解だと思うが、突き詰めてみたらどうなるのか、ちょっと想像してみたい気もした。

ダウンサイズした後の展開は、なかなかに予想不能だ。ダウンサイズして幸せな生活を手に入れました、なんて物語では面白くないわけだから当然だけど、ここから話がどう展開するんだ?と思っていたところに、結構斜め上を行く展開が待っていて面白かった。ポールはダウンサイズ後に様々な決断を迫られることになるのだけど、それらがある種究極の選択になってしまうのはダウンサイズしたことによる特殊さであって、そういう部分もとても面白い。

特にポールが最後の最後に直面することになる決断は、なかなか考えさせられる。正しい選択、なんてのは存在しなくて、常に、選んだ道を正しいと思い込むしかないんだけど、ポールも、その決断を正しいと思えたらいい、と思う。

ポールがダウンサイズ後の生活で直面することになる世界がある。詳しくは書かないが、それを見ながら、やっぱりどこにでも“現実”ってのはあるんだなぁ、と思う。それがどれだけ理想に近いものであっても、必ず余白や染みみたいなものは出来てくるし、それを存在させないやり方って存在しないんだろうな、と思う。まあ、だから人生は面白い、とも言えるのかもしれないけど。

こんなもしもがあったら、という想像力を駆使した物語で、なかなか面白い映画でした。

「ダウンサイズ」を観に行ってきました

「ペンタゴン・ペーパーズ」を観に行ってきました

これまで、なるべく決断をしないで生きてきた。あらゆる決断から逃げてきた。今も、決断からは逃げたいと思っているし、許されるならばこれからもずっと決断しないで生きていきたいと思う。

決断することは怖い。その決断が、自分にしか関係ないことであれば、僕はあまり怖さを感じないが、自分以外の誰かも関係してくるのであれば、一気に怖くなる。

正しい決断など、決断する前には絶対に分からない。決断してみなければ分からないし、時には決断してからずっと長い時を経てからじゃないと分からないこともあるだろう。自分の決断が誰にどんな影響を与えるのかも分からない。すべて、分からないまま決断を下すしかないのだ。

未来が分かっているのなら、決断など容易だ。しかし、そんなことはあり得ない。未来がどう動くか分からないからこそ決断に迷うのだ。自分の決断に、多くの人の人生が掛かっている―そういう立場にいる人は世の中にそれなりにいるだろう。政治家や社長、あるいはもう少し小さいレベルで見れば親や学校の先生もそういう立場にいる。

正しい決断をすることは難しい。決断をする前に正しさなど絶対に分からないからだ。しかし、正しくない決断、というのは、決断をする前に分かることがある。明らかにすべきでない決断、明らかに間違った決断、というものは存在しうる。未来の不確実さがもたらす過ちではなく、未来には関係なく現時点で明らかに踏み外しているという過ちは存在しうる。

そういう決断を目の前にした時、どう決断すべきか。

この映画で描かれているのは、正しい決断のためにすべてを失うかもしれない―そういう決断に追い込まれた女性の勇気なのだ。

内容に入ろうと思います。
舞台は、ベトナム戦争真っ只中の1971年。ワシントン・ポストの社主であるグラハムは、祖父・父・そして夫と受け継がれてきたこの会社を守るべく、夫の急逝に伴って社主を引き受けた。ずっと家族経営で続けてきた新聞社だったが、役員の意見を受け入れ、グラハムは株式公開に踏み切る決断をする。優秀な記者に投資をし、質で勝負することで収益性を上げる―彼女は投資家や銀行に向けてそうスピーチをする。
銀行との交渉はなかなかうまくまとまらないが、グラハムが気になったのが、趣意書のある一文だ。「株式公開から1週間以内に緊急事態が起こった場合、契約を解除できる」 役員の一人は、契約書の決まり文句だ、となだめようとするが、グラハムはデスクである“海賊”ベンのことを思い浮かべて不安を隠せずにいる。
ベンは、自分のボスであるグラハムにも遠慮なくズバズバ物を言う。社主として立てつつも、現場への口出しが多すぎると牽制している。ベンには、「報道の自由を守る方法は報道しかない」という信念があり、ニクソン大統領の次女の披露宴をぶち壊しにした“ポスト”の記者を長女の結婚式から締め出そうとする政府のやり方にも屈するつもりがない。
そんなある日、ニューヨーク・タイムズに衝撃的な記事が出た。ベトナム戦争を分析した「マクナマラ文書」を手に入れ、それを分析することで、政府が勝てないと分かっている戦争に若者を送り込んでいるという衝撃的な実態が明らかになったのだ。ベンはすぐに記者を集め、情報を取ってこいと命じる。そして自らはグラハムの元を訪れた。
マクナマラ長官は、グラハムの古い友人だ。だからベンはグラハムに、マクナマラ文書のコピーを入手するように迫ったのだ。しかし彼女はこれを拒絶する。
やがて株式公開に踏み切った彼女だったが、ほぼ同時に記者の一人がマクナマラ文書のほぼすべてを入手した。秘密保持のために自宅に記者を呼び文書の精査と記事の作成を始めたベン。そこに弁護士を呼び、対応を協議するが…。
というような話です。

これは良い映画だったなぁ。素晴らしかった。冒頭で「決断」についての話を書いたけど、本当によくこんな決断が出来たなと感じるような物語でした。実話をベースにしているんだろうけど、ホントに凄いな。

「報道の自由」というのは、いつの時代でもどの国でも問題になることだろう。日本でも、メディアへの政権からの干渉があるとかないとかっていう話はよく出てくる。新聞や週刊誌などでも、ネタを取ってきても、様々な理由から載せられないと判断するケースもあるだろうと思う。

「マクナマラ文書」は、いわゆる「最高機密文書(ペンタゴン・ペーパーズ)」だ。だからこそ、それが新聞に載っていることが大問題になっている。何故それが機密なのかはとりあえず置いておくとして、機密である以上、流出させたり広めたりすれば罪に問われることになる。今回の件でも、この文書に関わった者の多くが、何らかの罪に問われる可能性を有している。そういう状況下での決断なのだ。

日本でも、情報を機密に出来るような法律(名前を忘れてしまった)が出来たはず。何故それが機密であるのかという理由さえ明らかにしなくていい、というような内容だったと思う。正直、そんな法律があれば、政権側のやりたい放題ではないか、と思う。

アメリカという国の潔いところは、どんな文書もある一定の年数(確か50年だったと思う)で公開されることだ。映画の中でも、ずっと機密なわけではない、国民の知る権利は当然大事だし、この文書も後世の研究のために公開されるべきだが、今じゃない、というような発言があった。

ここが日本と大きく違う点だと思う。日本の場合、情報公開を求めても、黒塗りのままほとんど何も情報が分からないというようなものしか出てこないことがある。しかも、アメリカのように期限がくれば公開するというのでもない。

この映画の舞台は1971年だ。今の話ではない。今のアメリカはどうだろう?トランプ大統領絡みのニュースを見ていると、大統領と敵対しても真実を報道しようという気概があるように思う。日本では今、外務省による文書書き換え問題が盛んに報じられている。確かあれは、朝日新聞の報道が端緒となったのだったと思う。

『古い時代は終わるべきだ。権力は見張られるべきだ。誰かがそれをやらなければならない』

全体はどうか分からないけど、少なくともまだ一部では、そういう気概が残っているのだと思いたいところだ。

この出来事に携わった者は多々いるだろうけど、この映画での主人公はやはりベンとグラハムだ。

ベンが語る、JFKとの話は、実に印象的だった。ここでは詳しく書かないけど、『友人か取材対象か、どちらかを選ばなければならない』とベンが語る場面は、記者という立場の難しさ、あるべき姿みたいなものを強く印象付けたと思う。またある意味では、この言葉が、グラハムの決断を後押ししたと言っても決して言い過ぎではないだろう。

『政府の顔色を見るというなら、もう“ポスト”は消滅したも同然だ』

ベンはゴリ押しに次ぐゴリ押しで記事をものにしようとするが、最後にそうではない一面を見ることが出来たのも良かったと思う。

グラハムは、非常に苦労を重ねてきた女性だ。その苦労が、映画の随所で描かれていく。

『社主が女性だと、投資家たちが動かない』

彼女は、望んで社主になったわけではない。誰からも優秀だと思われていた夫のフィルが死亡し、それ故に社主にならざるを得なかった。女性である、ということで色んな障害があったし、舐められるようなことも多かった。それでも彼女は“ポスト”が大好きだったし、この会社を守るために出来る限りのことをするつもりがある。

一方で彼女は、友人を大事にする人でもある。パーティーなどは頻繁に開かれるし、古くからの友人であるマクナマラ長官についても同様だ。渦中の人であっても、仕事と友人関係は別だと考えている。

しかし、ベンがマクナマラ文書を手に入れたことで、彼女は大きな決断を迫られることになる。それは彼女にしか出来ない決断だが、その決断によって多くの人の人生が左右される可能性がある。

彼女は困難な決断をする。その後、ある場面でグラハムはこんな風に声を掛けられるのだ。

『言うべきことではないですが…勝ってください』

凄く良い場面だった。

『報道が仕えるべきは国民だ。統治者ではない』

こういう発言が出来ることが、アメリカという国の強さだ、と僕は思う。

「ペンタゴン・ペーパーズ」を観に行ってきました

「トレイン・ミッション」を観に行ってきました

いやー、面白い映画だったなぁ。

内容に入ろうと思います。
刑事から保険の販売員に転職したマイケル・マコーリーは、10年間、ほぼ変わらぬ通勤風景を見続けてきた。同じ朝、同じスケジュール、同じ人…。しかしその日は違った。上司に呼ばれると、いきなり解雇を突き付けられたのだ。成果が雇用条件に見合わないと厳しい通達。60歳のマイケルは、定年まであと5年なんだ、と粘るが、どうにもならない。
その帰りの車内でも、いつもと違うことが起こった。ジョアンナと名乗る女性がマイケルの向かいに座り、奇妙な話を始めるのだ。もしも、あなたにはまったく関係ないことで、しかしそれが誰かの人生に関わるようなことを誰かに頼まれたら、あなたは引き受ける?と。いつしか仮定の話ではなくなり、マイケルは突然、奇妙な人探しをさせられることになった。
探すのは、普段この電車では見かけない人。コールド・スプリング駅で降りる。通称“プリン”―。これだけの情報から、マイケルは人探しをしなければならなくなった。
やがて彼は知る。彼が、いかに危険なゲームに参加させられているのかを…。
というような話です。

ハリウッド映画、なのかどうかは分からないけど、ハリウッド映画みたいな、とにかくノンストップでストーリーを走らせる、息をつかせない作品だなと思いました。冒頭でジョアンナという謎の女から奇妙な依頼を受けてから、とにかく立て続けに色んなことが起こる。彼には、このミッションについて、本当に最小限の情報しか与えられていない。何のためにプリンを探すのかも分からないし、プリンに関して具体的な情報はほとんどない。何せ、男か女かさえ分からないのだ。彼の強みはただ一つ。10年間、同じ電車に乗り続けたことで、「いつもの通勤客」以外の人間に気付きやすい、ということだけだ。

マイケルは、うっかり弱みを見せてしまったがためにこのミッションに引きずり込まれることになってしまったのだけど、まあ確かに、もしかしたら僕も乗っかってしまうかもしれないなぁ、という気はする。もちろん、普通の状態であれば乗らないだろうけど、マイケルは会社を解雇され、それでも家族を養っていかなきゃいけないというプレッシャーがある。息子の大学のこともある。蓄えはゼロ。妻は一家の財政について危機感を持っていない。マイケルがなんとかするしかない状況だ。そんな中で提示された条件なら、手を出してしまう可能性もあるかもしれないと思う。

しかしまあ、そうやって手を出したミッションが、まさかこれほど根深いものだったとは、という感じでした。中盤から終盤に掛けて、「助かった!」と一旦ホッとする場面があるのだけど、実はまだそこからひと山待ち構えているという感じ。そして、「最終戦」はホントに、マイケルの日常をすべて打ち壊していくような、そんな残酷で無残な展開を見せることになる。

具体的に書けることが少ないので感想が難しいですけど、とにかく物語が動き始めてからはノンストップで進んでいく、エンタメ作品としては非常に面白い作品だと思いました。

「トレイン・ミッション」を観に行ってきました

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)