黒夜行

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「お嬢さん」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
スッキという少女は、侍女としてある屋敷で働くことになる。そこは、和洋中が混然と入り混じった大邸宅であり、日本人になりたくて「上月」という名の日本の没落貴族と結婚した男が、大量の蔵書に囲まれて生活をしている。その姪である秀子が、この屋敷では「お嬢様」として扱われているが、実際のところは叔父に幽閉されているような生活を強いられている。スッキは、そんな秀子のお世話をする者としてあてがわれた。
スッキは実は、詐欺師一家に育てられた女だ。侍女として秀子に仕えるのも、自らを「伯爵」と名乗り、秀子が相続する莫大な財産を狙っている詐欺師の計画の一部なのだ。秀子に「伯爵」を好きにならせ、そのまま結婚、日本に逃亡するという筋書きだ。
スッキは計画の一部として秀子に仕えながら、徐々に秀子に惹かれていく。莫大な敷地を持つ屋敷に閉じこめられ、また幼くして親を失った秀子の境遇に同情し、また秀子が見せる優しさや女性としての美しさに、女性であるスッキもいつしか惹かれていってしまっている。
秀子への愛情は、次第に詐欺の計画に支障を来たしていくことになるが…。
というような話です。

これはなかなか面白い映画でした。
ストーリーについては正直、あまり触れられません。原作が「茨の城」という小説で、この作品は「このミステリーがすごい!1位」になっているので、作品全体がミステリ的なテイストなんだろうな、というぐらいの予想はしていましたけど、観ながら、なるほどなぁ、という感じでした。正直なところ、映画の冒頭の方では何がどうなっているのか分からず、展開がバタバタと早いなぁ、と思っていました。舞台の基本的な設定をうまく理解できない内に物語がどんどん進んでいってしまうので、冒頭ではその辺りの理解が結構大変でした。原作は、文庫本で上下の作品なので、かなり分量があるといえます。その物語を映画にするのに、大分省略しなければいけなかったでしょう。その辺りの苦労が、バタバタと進んでいく冒頭の部分に出てしまったのかな、という感じはしました。また、後半の方でも、ここはもうちょっと詳しく描いて欲しかったなぁ、と思う部分があったんですけど(ある人物がある場所に収容された後の展開はもうちょっとちゃんと知りたかった)、これも物語の分量的に削らないといけなかったんだろうなと思いました。

というわけで、ストーリーがどう展開していくのかについては、是非映画を見てください。なかなか良くできた物語だと思います。物語が転調する部分では、爽快感さえ味わえるかもしれません。

この映画の大きな特徴は「エロス」だと思います。「R18」の指定があって、そこまでしなきゃいけない程のエロさなのかは僕にはよく分からなかったけど(まあ、エロ以外にも成人指定をしなきゃいけない理由があったのかもですけど)、映画全体の中でとても良い要素になっていると感じました。

そもそもこのエロさが、物語全体をカムフラージュしている部分というのもあると思います。エロいな、と思ってみていたシーンが、後々重要なシーンだったことが分かる、というようなことは何度もありました。

ただ、そういうカムフラージュのためだけにエロさが多用されているわけでもないでしょう。この作品では、「天涯孤独で屋敷から出られない女」と「詐欺目的で近づいてきた女」が出会い、お互いが持っている思惑を表面に出しながら惹かれ合う気持ちが醸造されていく、という展開を濃密に描き出すために、エロスが存在しているのだと思います。

秀子は、5歳の頃から屋敷に幽閉されているのですけど、そこで叔父に何をさせられているのかというと、「朗読」です。何の朗読なのか、という部分はちょっと伏せることにしますが、秀子はこの朗読によってのみ「性の世界」を知ることが出来るわけです。それ以外の「性の世界」を彼女は知らない。だからこそ、スッキとの妖しい関係性が非常に重要になってくるし、そこに必然性が生まれてくるのだと思う。

物語全体を覆う妖しさが、映画全体の雰囲気をとても印象的なものにしている。1939年の朝鮮半島を舞台にした作品であり、まだまだ大時代的な絢爛さみたいなものが残っている大富豪の屋敷内部の世界観も独特で面白いし、時空が歪んでいるかのような世界の中で少しずつ育まれていく二人の女性の関係性も非常に見どころがある。

また、日本の観客にとって非常に印象的だろう点がある。それが、韓国人の俳優が日本語で演技をしている、という点だ。日本語と韓国語を半々で話す人物が大半で、映画全体のセリフの半分が日本語なのではないかと思う。日本以外の国の観客であれば、彼らの喋り方に違和感を覚えることはないだろうが、日本人が彼らの喋り方を聞くと、やはり違和感はある。秀子は日本人という設定なので、若干その辺りで違和感を覚える部分は出てくるだろう。まあ、こういうものなんだな、と思えば、映画を見ている内にさほど気にならなくなってくるのだけど。僕は字幕で見たけど、日本語吹替版を作るなら、秀子の日本語の部分だけは日本人にやらせた方がいいかもしれない。

物語に詳しく触れられないので、あまり多くを語ることは出来ないが、全体としてなかなか良い映画だったと思う。冒頭でも書いたけど、原作にある程度のボリュームがあるので、たぶん削った部分がたくさんあるだろうと思う。ところどころ、描き方が足りないとか請求な展開だと感じる部分はあった。スピード感と濃密さのバランスが非常に重要な映画なので、まあこれぐらいの分量が映画としては良かったのかな、と思う。妖艶な雰囲気と予想外の展開が魅力的な作品だ。

「お嬢さん」を観に行ってきました

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「パトリオット・デイ」を観に行ってきました

「テロ等準備罪」、いわゆる「共謀罪」が審議されている。この記事を書いているタイミングでは、あと僅かで可決を目指そうという流れのようだ。個人的な意見では、「テロ等準備罪」には賛成できないが、とはいえ、テロを防ぐべきだという考え方は当然理解できる。

日本では、地下鉄サリン事件という、世界中を震撼させたテロが起こったことがあるが、ここ最近ではテロと呼べるような事件は起こっていないだろう。恐らくそれは、日本という国の特殊性がある。海に囲まれた島国であり、外から入ってくる人を水際で食い止めることが出来る。また、概ね単一民族で構成され、価値観や思想が近い者同士で生活をしている。そういう環境だからこそ、テロによって自分の主張を伝えよう、何かを破壊してやろう、という気持ちに向きにくい、という面はあるだろう。

とはいえ、状況はどんどんと変化している。日本は観光立国を標榜し、世界中から観光客を呼び寄せようとしている。2020年には東京オリンピックも控えている。また、移民が仕事を奪う、という世界の潮流に反し、日本では人手不足が深刻化している。一時期企業が、アルバイトを社員に切り替えるという流れがあったが、あれも人材の流動化を防ぎ人材不足に陥らないようにするためだ。そのために、特に介護などの分野で外国からの働き手をより受け入れなければならない、と言われている。

外国人がやってくるからと言ってテロが起こるわけではない。とはいえ、先程挙げた「外から入ってくる人を水際で食い止める」「概ね単一民族で構成されている」という日本の特殊性が、状況の変化によって崩れてきているのは間違いないだろう。それに、世界中でテロが頻発している。日本が標的にならない、と考える理由はどこにもない。

だから、テロが起こることを前提に、僕たちは様々なことを考えていかなければならない、ということは十分に理解できる。

昨日、「橋本×羽鳥の番組」というテレビ番組の中で、「テロ等準備罪」が取り上げられていた。様々な議論が展開されていたが、パネリストたちの主張は概ね似たような方向を向いていたと思う。それは、

「テロ対策は必要だ。そのためには、捜査権限の拡大が必要だ。しかし政府は、それをやらないと嘘をついている。そんな信用できない政府が権限を拡大することには納得がいかない」

この主張は、凄くよく分かると感じた。

「捜査権限の拡大」というのは、つまり通信傍受などの監視だ。それが強化される、ということだ。心情的には嫌だし、監視されていると思いながら生活をすることには嫌悪感がある。しかし、もし本当に準備段階でテロを摘発するのであれば監視は必要だし、それで被害を未然に防ぐことが出来るなら許容してもいいかもしれない、という気持ちもないではない。

しかしそのためには、その権限を有する存在に対する信頼が絶対的に必要だ。プライバシーと引き換えに、あなた方に監視する権利を与えます、というのは、信頼関係が構築されているところでしか成り立たない。そして、政府に対して不信感を募らせるような様々な出来事が日々ニュースで取り上げられている現状の中で、そんな信頼関係が構築されるはずもない。政府は、本当に「テロ等準備罪」をその趣旨通りに機能させるつもりであるならば、信頼感を高めるように振る舞わなければならない、と思うのだ。

そして、そういう振る舞いが見られないからこそ、「テロ等準備罪」は、テロを事前に防ぐという本来の目的のためではなく、もっと違う思惑のために成立させようとしているのではないか、と勘ぐられてしまうのだ。

「テロ等準備罪」に関わらず、何らかの法律や制度を作れば、テロを未然に防ぐことは出来るだろうか?
僕は、無理だと思う。何故なら、テロは一人でも出来る(つまり、通信を使わずに計画出来る)し、「監視されている」ことが前提となれば、その監視の目を掻い潜りながら計画を立てる方法は必ず発見されるだろうと思うからだ(例えば、手紙を使ってやり取りすれば計画を事前に知ることは不可能なのではないか)。AIとのが進化すれば、より高度なテロも登場することになるだろう(自爆テロロボットなどを開発されたら、手も足も出ないのではないだろうか)。

だったらどうすればいいのか、ということは分からない。テロで命を落とすことは、本当に不幸であり避けなければならない。とはいえ、それを完全に防ぐ方法があるとも、僕には思えない。テロがなるべく起こりにくい世の中を世界中で目指しながら、どうしても起こってしまうテロは自然災害のようなものとして諦めるしかないのではないか。僕は残念ながら、そんな悲観的な結論しか持つことが出来ない。

内容に入ろうと思います。

2013年4月15日。「愛国者の日(パトリオット・デイ)」に行われるのがボストンマラソンだ。アメリカで最も古い歴史を持つマラソン大会であり、50万人もの観客が詰めかける一代イベントだ。ボストン警察巡査部長であるトミーは、何かをしでかしたために今は謹慎中のような扱いだ。翌日に迫ったボストンマラソンで警備を担当すれば、晴れてお仕置きは終了、通常業務に戻れるはずだった。
しかしその日は、普通には終わらなかった。二人組の若者が、観覧車がひしめきあう歩道上に爆弾を置き爆発させたのだ。
現場は大混乱に陥った。負傷者を必死に運び出している間にFBIがやってきて、テロと断定。FBIの指揮の元大規模な捜査が行われることになった。
爆発から犯人逮捕まで僅か102時間。その間に、一体何があったのかを緻密に描き出していく物語だ。

非常に真に迫る映画だった。そう感じたのには、この映画の構成にもある。場面場面で、当時の実際のニュース映像などが流され、虚構と現実が入り混じっていく。さらに映画の最後では、その映画に登場した人物のモデルとなった人たちがインタビューを受けていた。警官、FBI、被害に遭った者など、彼らがそこで何をし、何を感じたのかが語られる。全体的にはフィクションなのだが、ノンフィクションの要素を多分に取り込んだ映画だった。

またこの映画では、町を愛する者たちの強い気持ちみたいなものが随所で描かれていく。FBIが捜査の主導権を握るのだが、地元ボストンの警察は、自分たちの生まれ育った土地でこんなバカげた事件が起こったことに怒りを感じている。この事件は、自分たちの手で何とかしなければ気が済まない。そういう強い思いが彼らを動かしていく。

捜査やその後の展開は、ホントにこんなことが現実に起こったのか…と疑いたくなるようなものだ。メチャクチャとしか言いようがない。主義主張があればテロが許されるなどということはあり得ないが、しかしテロを起こした二人には真っ当な主義主張があるようにも感じられない。それなのに、ただ逃げるためだけにあれだけの抵抗をするというのは、ちょっと信じられない思いだった。

捜査の過程で、容疑者の顔写真を公開するかどうかが議論になる場面がある。激論が交わされたが、結局事態の急変によってある決断がなされることになる。僕はそれを見ながら、結果的にその行為が状況を混乱させることになってしまったのではないか、と感じた。確かに難しい決断だったことは分かるし、色んな人の感情的な部分も理解できる。とはいえ、やはりあれは間違いだったのではないか、という気がした。

決して多くはないが、被害に遭った者たちにもきちんと目が向けられていく。彼らがその後、自分がテロに遭ったという事実をどう受け止めていったのか、最後の本人たちのインタビューでそれは明らかになっていく。もちろん、彼らほどタフにはいられなかった者も多いはずだろう。被害を受けた人がきちんと前を向いて進んでいけるように祈っている。

「パトリオット・デイ」を観に行ってきました

「哭声/コクソン」を観に行ってきました

この映画の感想を、どう書いたらいいのか、僕にはイマイチ分からない。
あまりにも分からなくて、こんなことは普段しないのだけど、感想を書く前に、他の人がこの映画について書いた感想をいくつか見てみた。
それを読んで、僕が今感じているモヤモヤは、そう感じられて正しいモヤモヤなのだ、ということだけは理解した。

映画を見ながらずっと、「なんだこれは」「どうなるんだ」と思っていた。物凄く惹き込まれる映画だった。それだけは間違いない。一瞬も見逃してはいけないような気分になった映画は、久しぶりだ。画面に釘付けになったし、これから何が起こるんだという不穏な空気がずーっと続いていて、目が話せなかった。

ただ、物語は、全然理解できなかった。そこをどう評価するかが、この映画の捉え方の難しさだ。

僕は、出来るだけ物事を合理的に考えたい、と思ってしまう。科学が好きで、霊魂や呪いと言った存在を、基本的には信じていない。もちろん、物語に対してそんな厳しいことを言うつもりはない。SFだって好きだし、突拍子もないことが起こる物語も好きだ。

ただ、この映画は、映画全編で漂う不穏な雰囲気と合わせて、「この物語はどう着地するんだ」という関心で観客を引っ張っていると僕は感じる。少なくとも、僕にとってはそうだった。僕は、どうしても合理的な展開を望むので、この物語が何か合理的な結末を迎えて欲しい、という期待をずっと持ってしまっていた。霊魂や呪いと言ったような非科学的なものを持ち出さなくても、この物語をきちんと捉えきれる、そういう期待を持ってずっと見てしまった。

とはいえ、この映画は、そのように見る映画ではなかったようだ。少なくとも、いくつかのレビューを読んだ限りでは、そう判断できる。この映画は、合理的な解釈を求めるのではなく、非科学的なものを受け入れながら捉えるべきなのだ、と。合理的な解決を望んだ僕のスタンスが、この映画に対する落胆に繋がっている、ということは言える。

もちろん、非科学的な解釈を受け入れた方が、この映画の捉え方の幅は一気に広がる。その方が、全体としては面白いと言えるだろう。しかし、この映画では、はっきりとそれを打ち出さない。合理的な解決もあり得ると、最後の最後まで信じてもいいような、そういう雰囲気も醸し出しているのだ。

解釈の余地が広い、という意味で非常に面白いと思うし、他者のレビューで読んだ、「現実とは何かを揺さぶるような映画」という捉え方も非常に面白いと思う。すべてをはっきりとは描かないからこそ、可能な捉え方は非常に広くなる。映画を見ながら、合理的な解決を無意識的に捨てることが出来るかどうか。この映画を楽しめるかどうかは、その点に掛かっているように思う。僕は、この映画の不穏な雰囲気に呑み込まれ圧倒されながらも、合理的な解決の可能性を捨てきることが出来なかった。その点が、少し残念ではあった。

内容に入ろうと思います。
韓国のある村で、殺人事件が頻発している。犯人はいずれも身内で、その場で逮捕される。しかし、錯乱状態に陥っていたり、虚脱した状態だったりと、不可解な姿で発見される。この事件の捜査を担当するジョング巡査部長は、ある日本人の噂を耳にする。山を越えたところにたった一人で暮らしている男で、その男が来てから村で殺人事件が起こるようになったと言う。ジョングは仲間を連れ、その日本人の家に向かうが、男が何者なのか分からないままだ。
ジョングにはヒョジンという一人娘がいる。とても可愛がっているが、ある時からおかしな言動を見せるようになる。身体には、赤い湿疹。これは、村で頻発している殺人事件の犯人にも起こっている症状だ。病院に連れていくが、原因は分からない。
様々なことが起こり、ジョングは一連の事件が謎の日本人の仕業であると確信を深めていく。同時に、ヒョジンの状態がさらに悪化し、高名な祈祷師を呼ぶことになったのだが…。
というような話です。

正直、こんな内容紹介は無意味であって、この映画の凄さは、先程も触れたように、映画全編で放たれる不穏な雰囲気だ。ほんの少し先の展開すら、まったく想像がつかないような物語だ。ジョングの周辺で不可思議なことが頻発していく。ジョングを始め周囲の人間は、誰の何を信じればいいのかまるで分からない状態に陥っていく。謎の日本人も、祈祷師も、そしてある事件を目撃したと語る女も、この物語にどう関係しているのか、全然分からない。最後の最後まで、彼らが何者であるのかはっきり分からないまま物語は閉じる。解釈は、見た人が考えてくれ、という終わらせ方だ。

ストーリーはともかくとして、映画に引き込む力は本当に凄いと思った。冒頭でも書いたが、スクリーンから片時も目が離せないような雰囲気を放っていた。様々な思惑が絡み合っているはずなのだけど、誰が中心で、どの方向に誰のどんな思惑が放たれているのか、まるで分からない。一応、ジョングを主人公とした物語なのだが、ジョングは状況の進展と共にどんどん錯乱し、平静を失っていく。ジョングの、「何を信じたらいいのか分からない」という葛藤に、観客自身も同化していくような、そんな体験をした。

映画全体の不穏さは、雨や血や散乱した部屋など、常にじめっとした雰囲気の中で物語が進行していくという部分もあるが、役者の演技が醸し出す分も間違いなくあると思った。祈祷師も謎の女も、何者か分からないというような不穏さを出していたが、やはり日本人としては、謎の日本人役で登場した國村隼の演技が印象的だ。ほとんどセリフはないのだが、佇まいだけで醸し出す何かがある。森の中を走り回ったり、滝行をしたりと、かなり身体を張った演技を見せている。演技については詳しくないが、彼らの演技力がこの映画の不穏さをさらに倍化させていることは間違いないだろう。

正直、僕がもっと物語をうまく捉えられる人間であれば、面白い解釈を打ち出せたかもしれない。僕にはそういう才能はないと分かっているので、この映画をうまく捉えきれなかったが、解釈の幅が非常に広い作品なので、自分ならどう捉えるのかという見方をしても面白いだろう。繰り返すが、引き込む力は圧倒的な映画だ。

「哭声/コクソン」を観に行ってきました

「人生フルーツ」を観に行ってきました

良い人生だ。
そして、カッコイイ。

僕たちは、どうしても問うてしまう。
「何故?」と。
「何故?」と問い、その問いに答え続けることで、人間は進化してきたはずだし、また様々な知見を蓄積することにもなった。

とはいえ、時々、正しくない「何故?」もあるのだろう、と感じることがある。
大前提となる事柄に対しての「何故?」だ。

数学には、「ユークリッド幾何学」と呼ばれる分野がある。僕たちが学校で習う算数や数学は、基本的にこの「ユークリッド幾何学」に基づいている。これは、5つの基本的な「公理」と呼ばれるものを大前提としている。例えば、「直線の両端は無限に延長できる」「ある点と長さが与えられた時、その点を中心とし長さを半径とする円を描くことができる」などだ。誰もが、まあ当たり前だよね、と思うことだろう。「ユークリッド幾何学」は、そういう当たり前な5つの公理から成り立っている。これらの公理に対して「何故?」と問うことは、概ね正しくないと言えるだろう。

生きることも、同じようなものなのかもしれない、と思う。

何故生きるのか?と問うことで、哲学などの学問分野で様々な進展や発見があったはずだ。だから、そういう問いかけは決して無駄なものではない。とはいえ、実際に現実を生きる僕らにとっては、「何故?」と問うことはあまり意味をもたないのかもしれないと、この映画を見て思った。僕たちは、生きている理由を求めて、働いたりお金を使ったり何かを信じたりする。しかし、そういうものが何もなくても、「ただ生きる」ということに意味を見出すことが出来る。彼らの生活からは、そんなことを感じさせられる。

先程の「ユークリッド幾何学」の話には、続きがある。5つの公理の中には、「平行線公準」と呼ばれるものがある。「平行な2直線は交わらない」というものだ。これも、誰もが当たり前だと思うだろう。しかしある数学者が、この「平行線公準」を公理に含めない新しい幾何学を生みだした。それは「非ユークリッド幾何学」と呼ばれている。どれほど当たり前に思えるものでも、「何故?」と問うことの大事さを感じさせる話だろう。

「何故?」という問いに、決して囚われすぎてはいけない。問う対象が大前提に近いものであればあるほど、そこに答えを見出すことは難しくなる。しかし、「何故?」を完全に忘れてしまえば、見失ってしまうものも多い。

『自分でやれることを見つけて、時間は掛かるけれども自分でやると、何か見えてくるものがあるから』

この夫婦は、「生きること」についてではなく、「どう生きるか」について「何故?」を問いかけ続けた。答えを追い求めるための問いではなく、自分たちがどう行動すべきかを考えるための問いだ。その積み重ねが、彼らの生活を作り上げたと言っていいだろう。

だから、僕には彼らの生き方が、カッコよく見えるのだ。

内容に入ろうと思います。
愛知県春日井市に、「高蔵寺ニュータウン」と呼ばれる一角がある。このマスタープランに関わったのが、この映画の主人公である津端修一だ。映画の撮影時、90歳。87歳の妻・英子さんと一緒に、高蔵寺ニュータウン内に買った300坪の土地に住んでいる。広大な敷地には、雑木林があり、果樹があり、畑がある。二人は日々、農作業や庭仕事をして、自宅で採れた野菜を使って料理やお菓子作りなどをする。作れるものは自分たちで作る、出来ることは自分たちで出来るだけやる。そうやって、子どもを送り出した後も二人で生活してきた。
90歳にして修一はマウンテンバイクに乗り、梯子で屋根に上る。英子も、忙しく立ち振舞いながら夫のサポートをし、また農作業をする。毎日身体を動かしながらやることがあり、それでも時間に追われるわけでもなく、やりがいと穏やかさを両立させながら、お互いを思いやる生活を続けてきた。
修一が高蔵寺ニュータウンの設計に携わったのは弱冠30歳の頃。既に東京で18の団地の設計に携わってきた。高蔵寺ニュータウンの計画の発端は、伊勢湾台風にあった。5mの高潮が平地を襲い、5000人もの人命が奪われた。伊勢湾台風は、「人間はどこに住んだらいいのか」という根本的な問いかけをもたらすものだった。高蔵寺ニュータウンの計画は、高地移転に挑んだ究極のプロジェクトだったのだ。
修一は、山の尾根筋に住宅を建て、ここにこんな山があったのだという名残を残す設計を作り上げた。しかし時代は経済優先。8万戸もの住宅を作らねばならぬ大規模な計画へと変転し、結局修一のプラン通りに作られることはなかった。
その後修一は、高蔵寺ニュータウン内に300坪の土地を買い、ある挑戦を始める。

『平らになった土地に、もう一度里山を復活させるにはどうしたらいいか。新しい緑のストックを作りながら、一人ひとりでも、里山の一部を復活できるという実験だった』

自身の計画を否定された修一は、都市計画や建築の世界から距離を置き、高蔵寺ニュータウン内でのその実験に力を注いだ。その挑戦が、今に至る彼らの人生そのものだ。

『私がお父さんに反対することはない。やりたいことは何でもやって、って感じで』

『私が自由に喋れるようになったのは、結婚してから。あの人にやりたいことを言うと、「それは良いことだからやりなさい」なんて言われて。それからかな、自由に何でも言えるようになったのは』

給料が4万円の時代に70万円のヨットを買いたいと言われても、どうやって家計を回そうかしらと考えて反対しない妻。結婚した時からお金がなく、200年続く造り酒屋の娘だった英子さんが質屋に通う日々だったというが、それでも二人は幸せそうだ。
台湾で、二人の本の出版記念イベントが行われた。その際のインタビューの中で、修一はこう語っていた。

『彼女は僕にとって最高のガールフレンドです』

良い夫婦だ。

特に何が起こるわけでもない、日常の風景をベースにした映画である。しかし、特に飽きることもなく最後まで見続けることができた。二人の生活が、細部に渡って興味深いのだ。

そこには、僕なりの偏見が関係しているのだと思う。僕の中には、お年寄りになればなるほど頭が固くなって融通が利かなくなるという勝手な印象がある。それまで自分が抱え続けてきた価値観にしがみつき、それを手放さないというようなイメージがある。しかし、この老夫婦からは、そんな感じが微塵も見られなかった。若い頃から、信念を持って自分たちの生活を構築してきたからだろう。それを継続的にやり続けてきたからこそ、彼らの生活は魅力的なものになっている。変化が大きくないように思えるのに、飽きることのない生活に見える。凄く不思議だ。

また、やっぱり、自分で何かを作ることが出来る人や環境というのは羨ましいと感じる。農作物もそうだが、修一は建築を仕事にしていただけあって、工作も得意だ。孫のために作った三階建てのドールハウスは圧巻だった。自分で作れるものが多ければ多いほど、生活の自由度が増すような印象がある。大学時代、演劇の小道具を作っていたことがあったので、映画を見ながら、またああいうことをやりたいと思ってしまった。

映画を見ながら、森博嗣を連想した。作家の森博嗣も、かつては建築を専門にする大学教授であったし、今は大学を辞め、広大な敷地を持つ家の庭に線路を引いて鉄道を走らせたりしている。森博嗣はきっと、自宅にカメラを入れることはないだろうが(笑)、修一と近い雰囲気を感じた。

こんな風に年老いたいものだ、と感じさせられる作品だった。

「人生フルーツ」を観に行ってきました

「美しい星」を観に行ってきました

『自然が美しいわけではない。自然を美しいと感じるんだ、人間が。しかしその人間は、自分たちを自然の中に含めない。その矛盾を解消する方法は一つしかない』

なるほど、と思いました。確かに僕たち人間は、自分を自然の一部だ、と感じることがとても少ない。

『人間は、自然の一部であるのに、自分たちは一段上に立って、自然を支配した気になっている』

確かに。
映画の中では、地球温暖化が一つ大きな問題として取り上げられている。地球温暖化については様々な仮説があるが、この映画の中では、「人為的な原因(排気ガスなど)」と「自然のサイクル」という二つの考え方が争われる。そして、「自然のサイクル」説を取る側が、

『自然の必然に対しても、人間は自分たちのせいだと罪悪感を覚える。愚かなことだ』

と吐き捨てるように言う。確かに、もし地球温暖化が自然のサイクルによって当然起こることなのであれば、人間がそこに介入する余地はない。

物理学の世界に、「人間原理」という考え方がある。これには、「弱い人間原理」と「強い人間原理」という二つの考え方があるようだけど、その辺りのことを正確に説明は出来ない。なので僕が知っている知識で説明すると、「人間原理」というのは、物凄く噛みくだいて言えば、「人間が生まれるように世界は調整されている」というものだ。

ンなアホな、と思う人もいるだろう。僕も、そう思う気持ちもある(とはいえ、僕は「多世界解釈」が結構好きで、「多世界解釈」を採用すればあまり無理なく説明が出来ると思っているのだけど)。ただ、そう考えるしか説明がつかないような事実がある。だから「人間原理」などというものが物理学の世界できちんと議論されているのだ。

宇宙には、6つの定数がある、と言われている。その一つは、光速だ。光の速度は、状況によらず一定だ。そしてそういう、状況によらず一定の値を取る定数というのが他にも5つある。その内の一つが確か、「0.006」という値だったと思う。そして、もしこの値が「0.005」でも「0.007」でも人類は生まれなかった、と考えられているという。こういう事実から、「人間原理」という考え方が生まれている。

もし「人間原理」が宇宙を支配する法則の一つであれば、人間という存在を自然から分離することは不可能ではないのかもしれない、とも思う。少なくとも、僕たち人間が生まれたこの宇宙では(今の宇宙論では、僕たちには観測は不可能だが、僕たちが生きている宇宙の外側に色んな宇宙がある、と考えられている)、人間という存在は何らかの特別さを持った存在である、と考えることが出来るのかもしれない。

などと書くと宗教っぽい話になってきてしまうし、天動説を信じていた大昔の人と同じような思考になってしまうような気もする。僕自身は別に人間を特別だと思いたいわけではないが、特別だったら面白いだろうとは思う。

宇宙人はいるのか、という問いは、よく見かける。この問いには、僕の好きな答えがある。それは、「確実にいるが、僕たち人間と同時代に存在する必然性はどこにもない」というものだ。

宇宙の歴史は138億年とも言われている。その138億年の歴史の中で、人類の歴史などほんの一瞬でしかない。138億年の歴史の中では、火星にも金星にも銀河系のどこかの星にも、知的生命体は存在したかもしれない。ただ、僕ら人類と同じ時間には生きていない、というだけで。そういう意味で、僕は宇宙人の存在を信じている。

まあ、宇宙人に会えたら面白いなって思いますけどね。

内容に入ろうと思います。
大杉重一郎は、気象予報士としてテレビに出ている。普段から空を見上げているのだが、ある時屋上で、UFOを探している若者と話をする機会があった。実は重一郎はつい最近、不思議な体験をした。愛人とホテルを出て車で帰る途中、強い光に晒され、気づいたら田んぼに車ごと埋まっていたのだ。若者は、それは宇宙人によるアブダクション(誘拐)だと言い、重一郎に関連する本を渡した。
重一郎の息子である一雄は、自転車で配達を行うメッセンジャーだ。ある日、危ない運転で一雄と接触しそうになった車を追跡したことがあった。その車に乗っていたのが、衆議院議員である鷹森紀一郎とその秘書である黒木だ。一雄はその一件の後、何故か黒木から連絡があり、鷹森事務所で働くことになった。
重一郎の妻である伊余子は、普段から一人寂しく夕飯を食べる。主婦仲間に、「美しい水」と言う、パワースポットから汲み上げた水を勧められた。会員になって、周囲に勧めていけば、自分のグレードが上がり、安く買えるようになるのだ、と言われて伊余子は100ケース発注。家中が「美しい水」だらけになった。
暁子は、美しいが友人のいない大学生。学内でも、サークルにも入らず、いつも一人で行動している。ある日路上で弾き語りをしている男に衝動的に話しかけた。金沢から来ているという。その時に買ったCDの「金星」という曲を聞いて、暁子は金沢まで彼に会いに行った。そこで彼は、自分は金星人なのだ、と語り…。
というような話です。

いやー、変な話だったなぁ。最後まで観ても、正直なんのこっちゃよく分からないんだけど、でも面白かった。よく分からなさがちゃんと面白さに結びつく、珍しい映画だなと思いました。

とにかく、ストーリー的にはハチャメチャなんです。父親は火星人(太陽系惑星連合の所属でもある)と主張し、テレビ画面を通じて奇行を繰り返す。一雄は、意味不明な成り行きから政治家の秘書のような仕事をするようになり、さらにそこで水星人を名乗る男と出会う。暁子は、金星人だというミュージシャンと一緒にUFOを呼び、さらに自身も金星人であると言うようになる。妻の伊余子だけは地球人のままであるが、しかしどう見てもネズミ講としか思えない詐欺に絶賛引っかかり中である。そしてその後援として、何故かあの人物が絡んできたりするのだ。

この映画がどことなく落ち着きがないのは、火星人や金星人という設定を、どこまで信じていいのか、観客側が最後まで理解できないからだ。これが当たり前のSF小説であれば、父親が火星人、長男が水星人、長女が金星人であることを受け入れて、そういうものとして物語を追えばいい。あるいは、現実に即した物語なんであれば、火星人や金星人という妄想に取り憑かれた人として彼らを見ればいい。しかしこの映画は、最後の最後まで、その判断をはっきりさせない。彼らが異星人であるならそれでもいいし、そうじゃないならそれでもいいのだけど、それがまったくはっきりしないから、映画を見ている間中ずっと座りの悪い感覚を味わうことになる。

とはいえ、それが不快かというと、そうでもない。火星人だ水星人だなど主張し、さらに奇行を繰り返していく様は、なんともシュールでとらえどころがないのだけど、しかし同時に、彼らの真剣さも伝わってくるのだ。父親も長男も長女もそれぞれ、自分が異星人であることを受け入れ、地球における役割を真面目に果たそうと過ごすようになる。異星人として、自分がどんな役割を果たすべきなのか、明確に分かっているわけではないのだけど、それでも彼らが何らかの抑えがたい衝動に駆られているということは分かる。その必死さを垣間見ると、彼らの行動をただシュールなものだと捉えて捨て置くわけにもいかないと思えてしまう。

それに、映画全体で伝えたいメッセージが明確にある、ということが、彼らの必死さと相まってより強いメッセージとなって観客に届くように思う。構図としてはこの映画は、とても美しい地球という星を人間が無自覚に破壊しようとしているのを異星人がなんとか留めようとする、というもので、人間にその自覚を促そうとする奮闘だ。この映画の原作は三島由紀夫であり、僕は原作を読んでいるわけではないが、三島由紀夫が「美しい星」の中で描こうとしたのは東西冷戦による核戦争への危機感のようだ。それを映画では現代的な設定に作り変えている。どちらにせよ、その作品に触れるまさにその同時代の人間が直面いている問題こそが背景になっているといえるだろう。そういう背景をベースにして、奇妙な形でではあるが訴えかけるメッセージがある。シュールさで覆い隠されているが、力強いメッセージだ。

最初からずっと、何がなんだかわけの分からない展開で、それが最後の最後まで続く。捉えどろこのなさが半端ではないのだけど、なんとなく、良い映画を見たような気分になる。不思議な映画だ。

「美しい星」を観に行ってきました

「たかが世界の終わり」を観に行ってきました

久々に、全然理解できない映画だった。
見ていて、登場人物の人間関係も、ストーリーも、会話の意味も全然分からなくて、こりゃどうしたもんか、と思ってしまった。
特に、常にキレてたあのオッサンが誰なのか、最後までよく分からなかった。
ネットで調べると、天才と言われる若手映画監督だそうだ。
難しかった。

「たかが世界の終わり」を観に行ってきました

「追憶」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
25年前、3人の少年は、ある罪を犯した。大好きな人を助けるために、横暴な男を殺すことに決めたのだ。その結果、男は死に、大好きな人とは離れ離れになり、三人も散り散りになった。
刑事になった四方篤は、好きな男が出来ると息子を捨てて出奔してしまう老いた母から金の無心を受け、また自身は結婚がうまくいかず、離婚こそしていないものの一緒には暮らしていない。東京でガラス店を営む家に婿養子に入った川端悟は、なかなか経営がうまく行かず、金策のため地元である富山に向かう。古い友人に金を借りに行くのだ。その友人が、輪島市で父親の土建業を受け継いだ田所啓太だ。身重の妻がおり、また家を建てる土地を買うなど、順調な生活を送っている。
篤はある日ラーメン屋で悟と再会する。実に25年ぶりだ。明日啓太の元へ金策に行くという話はそこで聞いた。そして翌日、悟が死体となって発見された。
篤は悟の死体を目にしながら、知っている人間であると捜査会議で告げなかった。それどころか、捜査本部が金策の相手を探している中、啓太の存在も明かさなかった。
25年前のあの出来事が今、彼らを刑事・被害者・容疑者として結びつけていく…。
というような話です。

これは僕の好みの問題ですが、出て来る人間が基本まっすぐな人間が多くて、そういう意味で僕にはあまり合わなかったかなという感じがしました。僕は、歪んでいたりねじ曲がっていたりするような方向性の方が好きで、それとは正反対にある作品だという感じがしました。

ストーリー的にはさほどこれという部分がないような気がする作品でしたけど、役者の演技で色んな部分をかなり際立たせているような、そんな映画に感じました。役者の存在感で、ストーリーを成り立たせているような、そんな印象でした。

映画は100分弱と、普通の映画より少し短いように思いました。個人的には、全体の尺が長すぎるならともかく、まだ余裕があるので、まだ描こうと思えば描ける部分があったような気もしました。特に、四方篤の母や妻との話をもう少し膨らませて、篤の孤独をより切り取っていくとか、最後の真相に絡めた描写をもう少し入れ込むとか、なんか出来るような感じもしました。もちろん、そうしない方が作品としての完成度が高まる、という判断だったんでしょうから、僕があーだこーだ言うような話でもないんですけど。

安藤サクラが実に良い雰囲気を醸し出しているな、と思いました。

「追憶」を観に行ってきました

「メッセージ」を観に行ってきました

僕が好きな話がある。
フランス語には、「蝶」と「蛾」を区別する言葉はない、というものだ。
どちらも同じ単語(「バタフライ」なのかな?)で表現されるのだと言う。

最近知った話もある。
数学には、「ユークリッド幾何学」と呼ばれるものがある。これは本来、紀元前の時代から、ただ「幾何学」とだけ呼ばれていた。「ユークリッド幾何学」という名前が付くようになったのは、ごく最近のことだ。
では何故そう呼ばれるようになったのか。
それは、「ユークリッド幾何学(幾何学)」が成り立たない、新たな幾何学が発見されたからだ。数学者はそれに、「非ユークリッド幾何学」という名前をつけた。それと同時に、「幾何学」も、「ユークリッド幾何学」と呼ばれるようになったのだ。

この話から何が分かるのか。
それは、「言語」が生まれる瞬間についてだ。

モノや概念があれば言語が生まれるのではない。
言語は、モノや概念同士を「区別する」必要に迫られた時に生まれるのだ。

僕はこのことを、かつて何かの本で読んだ。
ウィトゲンシュタインの言語ゲームの話やソシュール言語学の話の流れで読んだ記憶があるのだけど、ちゃんとは覚えていない。
フランスでは、「蝶」と「蛾」を区別する必要に迫られることはなかった。
だから両者は、同じ単語で呼ばれることになっているのだ。
逆に、外国語を学ぶと良く出て来る「男性名詞」「女性名詞」という区別には、日本語にはない。
名詞を男性・女性で区別する必要がなかった、ということなのだろう。

今ここに挙げた例だけから敷衍するのはちょっと無理があるのだが、
言語というのは思考や認識に影響を与える。
そのことについて触れた、「サピア・ウォーフの仮説」が、映画の中でちょっと登場する場面があった。

どんな言語体系を採用しているかで、モノの見え方や感じ方が変わるのだという。
例えば、日本人にはおなじみの「肩こり」という言葉が、アジア以外の国には「肩こり」という単語が存在しないようだ。
だからそういう国には、「肩こり」は存在しない。
しかし、「肩こり」という概念を彼らに教えると、途端に「肩こり」が発生する。

似たような話を思い出した。
UFOに連れ去られた、という記憶を思い出す人々のことだ(彼らには何か固有の名前がついているはずなのだけど、覚えていない)。
ある時から、UFOに連れ去られ人体実験をされた、という証言が世界中で現れ始めた。そうなると、そういう証言がますます大量に現れるようになってくる。これは、UFOを目撃した、という話でも同じだ。UFOという単語が登場したことで、UFOを目撃する人が大量に現れたのだ。

ちょっと前に、「虐殺器官」という映画を観た。この中でも、似たような話が扱われている。言語体系が内包するある文法と、脳内に存在するある器官が結びつくことで起こる未来を描く物語だ。言語体系がいかに人間の行動や思考を変えうるのかを、明確な形で示す作品だ。

言語がなければ、僕たちは現実を認識することは出来ない。例えば、目の前にリンゴがあれば、僕たちはそれを「リンゴ」という言葉で捉える。これは、分かりやすい。しかし、じゃあ人類はいつから「空気」というものを認識したのだろうか?僕たちは普段、空気を意識しない。目に見えないからだ。僕たちはもちろん、「空気」という言葉を知っているし意識すれば「空気」というものを捉えることが出来る。しかし、「空気」という言葉がまだ存在しなかった人には、空気は存在しないものだっただろう。

かつては「マイナスの数」というのは存在しなかった。「-1」のような数字は、存在しないものとして扱われていたのだ。今では、存在するかどうかはともかく、2乗して-1になるような「i」という数字さえ僕たちは認識することが出来る。しかしこれも、言葉がなければ認識することは出来ないのだ。

この映画で示されるとある結論は、僕にははっきりとイメージ出来たわけではなかった。しかし、言語が認識にどれだけ影響を与えているのか、という想像をしてみれば、あながちあり得ないことでもないのかもしれない、とも思うのだ。

内容に入ろうと思います。

言語学の第一人者であるバンクス博士は、ある日軍の招集を受けた。それは、数日前から地球上の12の地点に突如現れた謎の飛行体に関わるものだった。
アメリカ、ロシア、中国、日本など、全世界12の箇所に現れた、通称“殻”は、全長450メートルもある巨大な飛行体だ。出現目的は不明で、“殻”の出現により、世界中で暴動や株の暴落などが発生している。アメリカでは軍がただちに派遣され、“殻”の内部に入っていた。そこには、7本脚の謎の生命体が二体いた。鳴き声らしきものは採取出来たが、それが言葉なのかどうか、判然としない。
当初軍は、音声だけを聞かせてバンクス博士に解読させようとしたが、それは不可能だと断った。それにより、バンクス博士は“殻”のある現場まで招集されることになったのだ。
バンクス博士は、理論物理学者であるイアンと共に、後に“ヘプタポッド”と名付けられる謎の生命体とのコミュニケーションを図ろうとする。音声によるコミュニケーションはやはり意味不明だったが、バンクス博士が文字を見せたことで事態は展開する。「HUMAN」という文字を見せたことで、“ヘプタポッド”から文字らしき反応が返ってきたのだ。バンクス博士は、彼らに文字を教え込みながら意思の疎通を図ろうとする。
彼らは一体、なんのために地球にやってきたのか…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。正直、うまく捉えきれない部分もあって、全体像を把握するのはちょっと難しいと感じましたが、「未知の生命体との遭遇」という部分だけでも十分に面白い作品だと思います。

映画の中で軍の人間がバンクス博士に、「文字を教え込むなんて時間が掛かりすぎないか?」とか、最初に教え込む単語について「なんでこんな簡単な単語を?」などと問いかける場面があります。それに対するバンクス博士の回答を聞いて、なるほど、未知の言語を持つ存在とのコミュニケーションにはこういう問題があるのか、と感じました。

軍が最も聞きたい質問は、「何故地球にやってきたか?」です。そしてこの質問を問うためには、様々な前提を理解しなくてはならない、とバンクス博士は言います。例えば、この問いでは「目的」を聞いているのだから、まずは「目的」という概念があるのかを確認しなければならない。あるいは「意志」。もし彼らが、ただ本能に従っているだけであれば、「目的」を聞いても意味がない。そこに「意志」があるのかどうか確認しなければならない。また、「個の意識」があるのかどうか。“ヘプタポッド”は二体いるが、それぞれが個として識別される存在なのか、あるいは総体として一つの存在なのか。その辺りのことをきちんと理解してからでないと、「何故地球にやってきたか?」という問いを発して、その答えが返ってきたとしても、意味のある情報にならない、というのです。なるほど、確かにそれはその通りだなと思いました。

僕は理系なので、どうしても理系的には、未知の生命体とのコミュニケーションは「素数」や「フィボナッチ数列」などで知性があるのかどうかを確かめる、的な方向に言ってしまいます。実際に、そういう調査も同時に行われていたようです。“ヘプタポッド”は、代数学を理解できないのに複雑な数学を理解したと驚く場面がありました。

けれど、知性のあるなしもそうだけど、コミュニケーションを取っていくためには、まず相手がどんな前提に立っているのか、ということをきちんと理解しなければならない、というのは、なるほどなと感じました。

彼らが地球にやってきた目的については、正直、はっきりとは捉えきれませんでした。ここは、ちょっと難しいと思いました。ただ、言語と認識が密接に結びついているのだ、ということが大前提となっている話で、はっきりと想像することは難しいんだけど、方向性としてなんとなくのイメージは出来ないことはないかもしれない、と思いました。

いや、もしこの作品の中で示唆されていることが、言語によって本当に可能なんだとしたら、それは凄く面白いなと思います。もしそうであれば、僕たちの認識が言語に影響を与え、言語が僕たちの認識に影響を与えることで、どんな言語を使っていようが僕らが当然だと考えているとある大前提を覆すことが出来るかもしれない…。そういう可能性の話は、ちょっと考えてみると面白いなと思いました。

「メッセージ」を観に行ってきました

「バーニング・オーシャン」を観に行ってきました

人の命が掛かっている時は、リスクは常に過大に捉えておかなければならない、と思う。そういうことを、僕たちは福島第一原発事故で学んだはずだ。

アメリカ人も、この最悪の石油事故から学んだだろうか。

人間のやることに絶対はないが、安全な状態が長いこと続いてしまうとどうしても、このまま何も起こらないのではないか、と思いたくなってしまう。その気持ちは分かる。しかし、結局そう思うことで、僕たちはリスクを見ないようにしているだけだ。

『俺のじいさんと同じだ。虫歯が見つかるのを恐れて歯医者に行かなかった』

リスクを過小評価すべきではない、と考える現場の人間が、上層部にそう突っかかる場面がある。上層部は、あるテストをやらない、と決めた。それを、問題が発覚するのを恐れているだけだ、と指摘したのだ。

『希望的観測はしない』

同じく、機械の不備を指摘する現場の人間も、上層部に現状についてどう思うかと問われて、そう答える。

そういう人間がいたにも関わらず、事故は起こってしまう。

常に最悪の事態を考慮しなければならない。
福島第一原発事故を経験した僕たちも、きっとそのことを忘れがちだ。
だから、こういう映画を見ると、気が引き締まる。

内容に入ろうと思います。
ルイジアナ南東部78キロの場所に位置する、半潜水海洋資源掘削装置「ディープウォーター・ホライゾン」は、石油の掘削場所まで移動可能な“船”であり、126名が勤務する、海に浮かぶ要塞のような施設だ。チーフ技師のマイクと全体の安全管理を請け負うジミーは、着いて早々問題が起こっていることを知る。BP社がセメントを150m注入したのだが、その安全性を確かめるセメント・テストの担当者を帰した、というのだ。上層部は、既に作業が43日も遅れている事実を指摘し、テストなしでの掘削を指示するが、ジミーは、最低でも負圧テストはやると主張。そしてその負圧テストの結果、何かおかしな状況を予感させる数値が出たが、上層部は「ブラダー・エフェクト」という、そのおかしな数値を説明する理屈を持ち出し、掘削を進めるよう要求。ジミーとマイクは、「ブラダー・エフェクト」の説明に理が通っていることを認めながらも、釈然としない想いを抱えていた。しかし、最終的にジミーは、上からの圧力に屈するような形でGOサインを出した。
結果的には、その判断は間違いだった。
掘削作業前に、パイプから余分な泥水を排出する作業中にそれは起こった。圧力異常を検知し、泥水の排出を停止したのだが、圧力は一向に下がらず、ついにパイプから泥水が噴出してしまった。警告音が鳴り響く中、さらに大爆発も起こり…。
というような話です。

2010年に実際に起こった出来事をベースにした映画です。

前半は、事故に至るまでの人間模様が描かれてきます。観ている側は、これから事故が起こることを知っているから、上層部の態度にイライラすることになりますが、とはいえ、なかなか難しい判断だったとは思います。何せ、スタッフの安全を何よりも第一に優先するジミーが、渋々ながらもGOサインを出したのですから。もちろんそれ以前に、セメント・テストが行われていなかったこと自体が問題であり、ジミーに非があるとは思っていませんが、与えられた条件の元で正確な判断をすることが難しかっただろう、と思われる状況でした。

『BPの坑井 BPの石油 俺たちは雇われ』

ジミーがそんな風に言う場面があります。負圧テストの結果に納得が行っていないけれども、スケジュールの遅れを指摘され掘削を続行しろと言われている場面でのことです。ジミーら現場の人間は雇われの身であり、この“船”や石油はBP社のものだ。だから上の指示に従わないわけにはいかない、ということなのだが、ジミーにとっても難しい判断だっただろう。

後半は、事故が起こってからの、言い方は悪いがスペクタクルな映像が展開される。誰が見ても手の施しようがない、というような大惨事だが、それでもどうにか、被害を最小限に食い止めようと、救命ボートに乗ろうとせずに奮闘する面々の姿も描かれていく。

『私は祈った。妻や娘に、最善を尽くしたのだと思われるように』

映画の最後に、恐らく実際にあの事故から生還したマイクの言葉として紹介されたものだ。なるほど、この言葉を聞くと、逃げずに船内で奮闘した者たちが何故そんな勇敢な行動をすることが出来たのか、ということが腑に落ちる。我先に逃げた人間を非難する意図はないが、でも確かに、もし自分が我先に逃げ出していたとしたら、生き残ったとしても大きな後悔に囚われるだろうと思う。死者が出ているのだからなおさらそうだ。残った面々は、職業的な使命感ももちろんあったろうが、今ここで出来ることをやらなければ、生き残ったとしても後悔すると思って、無謀な闘いに挑んだのではないかと感じた。

実際に起こった出来事なのだと思うと壮絶なのだが、映画として観た場合、物足りなさもある。いや、これはこの映画だけの問題ではなく、実話をベースにしている映画すべてに当てはまる問題ではある。実話ではあるが故に、フィクションのような展開にはならない。もちろん、それこそがリアルなのだが、どうしても、物語のような展開を求めてしまう自分もいる。実際に起こった出来事を、「これが実際に起こったことです」と提示する映画は潔いし必要だとも思うのだけど、そうであるが故の物足りなさみたいなものはどうしてもつきまとってしまう、とも思う。

「これが実際に起こったことです」を少しだけ越えて、「この時、ではどうすれば良かったのか?」を、観ている者一人一人が問いかけることが出来るような、そんな映画であればより良かった、と感じられる。

「バーニング・オーシャン」を観に行ってきました

「ムーンライト」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
ヤクの売人が跋扈する“ヤバイ地区”で、同級生に追い回されていた少年を助けたフアン。彼は、この地区の売人を束ねるボスであり、何故だかその少年に手を差し伸べた。しかし少年は、昼飯をおごってもらっても、フアンの恋人に話しかけられても、何も答えない。やっと、シャロンという名であることは答えたが、家を教えず、その日はフアンの家に泊まることになった。
時折フアンはシャロンと関わることになるが、次第にシャロンの置かれている状況を理解するようになる。母親がヤク中で、ロクに愛情を注がない。とはいえ、自分が母親であるということに異様に執着心がある。シャロンは学校でいじめられている。オカマ、と呼ばれてからかわれているのだ。
成長し、高校に通うようになっても、その状況は変わらない。幼い頃からの親友であるケヴィンとは関わりが続いているが…。

というような話です。

うーん、正直僕には、良さの分からない映画だったなぁ。
小説で例えると、純文学、というタイプの作品だと感じました。
観る側が自分から作品の中に深く入っていかないと、良さを掴み取れないタイプの映画かな、と。

全編で、余白がとても多いので、その余白をどう埋めるのかで作品の評価が変わるのだろうと思います。
そしてそれは、もしかしたら、ちょっと日本人には難しいのかもしれません。

この作品は、ほぼ全編黒人の話です。アメリカにおける黒人の立場、低い立場に置かれているだろう黒人間でもいじめがあるという現実、底辺で生きるが故に犯罪と関わらなければなかなか生きていけない状況。そうしたものを、ある程度はリアルに捉えることが出来る人には、この作品の余白を埋めやすいんだろうと思います。ただ日本人には、なかなかこういう状況を想像することが難しい、という部分はあると思います。セリフも音楽も情景描写も非常に限られていて、そこを絞りに絞っている作品だからこそ、読み取る側がどう隙間を埋めていくかが重要になってくるな、と思いました。

しかし、シャロンの変貌ぶりには驚いた(笑)

「ムーンライト」を観に行ってきました

「パッセンジャー」を観に行ってきました 

いつもならこんなことは書かないのだけど、今回はあらかじめこのことをお伝えしておく。
もしこの映画に関心があって、見るつもりでいるなら、僕の文章は先に読まないで欲しい。
いつものように、自分なりにネタバレをしない範囲で文章を書くつもりではいるが、この映画に関していえば、どうしても限界がある。
僕はこの映画を、ほとんど何も知らない状態で観ることが出来て、とても良かったと思っている。僕の文章は、今回に限らずいつだってそうだが、今回に限って言えば特に余計な先入観を与えることになると思う。
だから、まだ観ていない人は、僕の文章を読まないで欲しい。
凄く良い映画だった。

(普段はこんな風にはしないけど、続きが読みたい方は、「続き」とか「MORE」とか、何か表示されていると思うので、それをクリックしてください。)

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「3月のライオン 後編」を観に行ってきました

闘う理由がなければ、強くなることは難しいのかもしれない。
何故強くなりたいのか、という支えがないと、強さには到達出来ないのかもしれない。

『正義なんかどうでもいいから、逃げて欲しかった』

純粋な強さを目指して目指して、しかしそうすればするほど、目指すべき強さから遠ざかることに気づかされるのかもしれない。

『宗谷と闘った者には、よくあることだ。自分を一度バラバラに分解して、再構築が必要になる』

誰かを守るために、人は強くなることが出来る。

『でも、後悔なんてしない。しちゃダメだ。だって私がしたこと、絶対間違ってなんかない』

怖くても、闘いの場に立つことは出来る。

『宗谷と闘うと、真実を暴かれる。自分が気づかなかった心の弱さや自信のなさ、恐怖心を突きつけられる。自分の本当の姿に容赦なく向き合わされる』

そうやってボロボロになって、うなだれて、でも、弱いからこそ、強さを目指すことが出来る。

『自分の弱さを他人のせいにして生きられるような人間じゃない』

弱い者同士が、補い合いながら、次の一歩を歩み続けることが出来る。

『読みきれなかったのは、自分を信じていなかったからだ。』

闘い続ける意志は、強くなりたい理由によって生み出される。

『少しでも、力になりたいんです』

そうやって、僕たちは強さを目指すことが出来る。

『ずーっと、元気でいてね~』

闘う者たちの、物語だ。
桐山は新人王で優勝し、7冠達成の偉業を成し遂げた棋界のスーパースター・宗谷との対局が実現する。桐山が幼い頃から、その異次元の強さで圧倒していた宗谷と対局することに、実感が湧かない。しかし次第に桐山は、自分が恐怖を抱いていることに気付く。
生みの親が事故で他界し、育ての家族とも様々な理由から疎遠になっている桐山は、一人暮らしの中で出会った川本家の面々と親しくなる。川本家には両親がおらず、三姉妹と祖父母で生活をしている。長女のあかりは、母親代わりとなって川本家を支えるが、次女のひなこが抱えている問題に直面し、自分の不甲斐なさを思い知らされる。
育ての父親が入院し、その見舞いに行った先の病院で、桐山はA級棋士の後藤の姿を見かける。桐山にとっては姉のような存在である、育ての父親の娘の不倫相手だ。宗谷への挑戦権を掛けた獅子王戦では、順調に行けば桐山は後藤と当たることになる。
川本家では、新たな問題が発生していた。誰も予期していなかったその問題に、桐山は川本家を守るために立ち上がる決意をするのだが…。
というような話です。

前編も良かったけど、後編も良かったなぁ。あまり映画を見て泣くことはないんだけど、前後編ともに、随所で泣かされてしまいました。

様々な登場人物たちの物語がうまく絡まり合っていくのだが、後編の全体的なテーマは、「何のために闘うのか」だと僕は感じた。

桐山は、当然そのことを常に突きつけられている。
桐山にとって将棋というのは、生きる手段でしかなかった。家族を一遍に失った桐山が、生きていくためにせざるを得ない選択だった、というだけの話だ。そのことは、ずっと桐山の中でくすぶっている。

『ずっと暗闇の中だった。今まで暗すぎて気づかなかった』

桐山には、生きるため、という理由があった。でも桐山は、一人だ。自分一人が生きていくために強くなる―。そのことに対して桐山は、自分の身を投じることが出来ないのだろうと僕は感じた。桐山には、常に躊躇がある。他者を蹴落としてまで自分が強くなっていくことの意味をずっと問い続けてきた男だからこそ、桐山は常に、勝つ理由を見失いがちだ。

『もう将棋しかないから』

度々桐山がこんな風に自分を追い詰めるのも、そうしなければ強さに邁進出来ないからだ。自分の内側から湧き出るようには、強さへの欲求を見つけ出すことが出来ない。

そこに、川本家が関わってくる。単純に言えば、川本家の存在が桐山にとって「勝つ理由」になるのだ。

川本家も、闘っている。三姉妹で暮らすことになった経緯が紐解かれていきながら、強くなければ乗り越えられない状況が次々とやってくる。

強さとは、最終的には自分の内側で生み出すしかない。どんな武器があっても、どんな盾があっても、自分自身が強くならなければ乗り越えられない状況というのはある。

『ごめん、何の役にも立てなかった』

桐山は、川本家に武器や盾になろうとした。結果的にそれは、うまくいかなかった。けれど、桐山の行動は、川本家の面々の内側に強さを生み出す役に立った。そこに、桐山の大きな存在意義がある。桐山と川本家は、お互いによって支え合いながら、なんとか目の前の現実と闘っていく。

後藤も、闘っている。後藤の物語は、なかなか難しい。何故難しいのかと言えば、後藤が何と闘っているのか、はっきりとは見えないからだ。明確な対象が見えにくい。しかし、強さへの貪欲さは、誰よりも感じられる。何故強くなりたいのか―。その背景が見えにくいから、後藤の物語は難しい。

『私を大切にしないからだよ』

ある場面で発せられたこの言葉は、後藤の強さと弱さと関わっている。後藤がこの言葉をどんな風に理解するかで、後藤という人間像が変わってくるなと思う。

桐山の育ての家族である幸田家も、闘いの最中にいる。桐山が共に幼少期を過ごした香子と歩は、桐山が将棋で成功していくのと反比例するかのようにダメになっていく。

『ウチは将棋に呪われてるのよ』

香子は妻子ある男と不倫関係にあり、歩は部屋に篭ってゲームばかりしている。桐山は、幸田家のそういう状況を折りに触れ見聞きすることになる。桐山の強さへの躊躇は、この幸田家から生み出されもする。自分が強くなったことが、幸田家をメチャクチャにした要因の一端なのだ、と桐山は思っている。

『将棋は誰からも何も奪いはしない。だから最後まで諦めるな』

みんな、誰かと、何かと闘っている。闘い続ける者もいる。闘い方を変える者もいる。闘えずに逃げる者もいる。闘いに直面した人間たちの弱さ、葛藤、絶望、希望、そうしたものを、映画の中でうまく描き出している。

前編の感想でも書いたが、対局のシーンの描き方がやはりうまい。心の声もないまま、無言でただ駒を動かしているだけのシーンに、結構な時間を使う。その贅沢な時間の使い方が、対局シーンの重厚さをうまく出している。また、あまり詳しくは書かないが、桐山と後藤の対局シーンの描き方は見事だったと思う。

実に良い映画だった。

「3月のライオン 後編」を観に行ってきました

「夜は短し歩けよ乙女」を観に行ってきました

いやー、面白かったなぁ。
映画見てて、久々にテンションが上がった。
良い映画だなぁ、と思うことはそれなりにあるけど、テンションが上がる映画ってあんまりないから、僕にとってはとても良い映画だった。

アニメだということを最大限活かした映画だったなぁ、と思います。

森見登美彦の原作は元々読んでましたけど、すっかり内容は忘れてました。けど、森見登美彦の描く世界観が、荒唐無稽だったなという記憶はちゃんとありました。その荒唐無稽感がべらぼうに面白いわけですけど、仮に実写でやったとしたら、その荒唐無稽感をどこまで生み出せたかというのは疑問だなと思います。

というのは、実写で撮る場合、背景をフルCGとかでもしない限り、どうしてもそこには、僕らが生きている世界の現実感みたいなものが入り込んでしまうと思うからです(すべてセットを組んで撮る、とかならまだ可能性はあるかもですけど)。

森見登美彦が描く世界には、現実感が欠片もないからいいのだ、と僕は感じます。森見登美彦は、京都という、ちょっと特殊な雰囲気を持つ街のイメージを最大限に利用して、京都から現実感だけを取り去って、京都が身にまとう妖しい雰囲気だけを煮詰めるようにして増幅させていきます。そして、今回のアニメ映画では、その妖しい雰囲気を、アニメという手法で非常に見事に描き出していると感じました。

そこには、絵のタッチも関係しているなと思います。

この映画の監督は、僕は知りませんでしたが、「奇才」と紹介されていたので、知る人には知られている方なんでしょう。恐らくこの映画全体の絵の雰囲気を決めたのも、監督なんだろうと思います。絵のことを言葉で表現する経験をあまりしていないので上手く説明できる自信はありませんけど、シンプルな線で描きながら、誇張すべき部分を分かりやすく誇張する、という絵のタッチが、映画全体に独特の味を生み出していると感じました。

人物については特にそうでしたが、シンプルな線で描き出すことで、個々の個性が際立つ感じがしました。個性が際立たたないキャラクターはモブとして注目する必要はなく、何らかの形で誇張されている人物に目が行きます。シンプルであるが故に、乙女の赤い服や先輩の寝癖、樋口君のアゴや羽貫さんの服の着方など、それぞれの特長たる部分がズバッと視界に入ってくるわけです。

背景の描き方は様々で、古本市で本の背表紙をリアルに描いてみたり、川沿いに咲く桜の木をアートっぽく描いてみたりと、場面ごとに雰囲気がまったく違って面白いです。背景の描き方によって、その場面毎の重要度やシリアスさなどが瞬時に伝わってきて、これが物語を絵や言葉で過剰に説明しなくても、森見登美彦の謎めいた世界観にスッと入っていける工夫なんだろうなと思いました。また、回想シーンのタッチがまた独特で、これも場面ごとの転換という意味では非常に効果的だったなと思います。

人物はシンプルに描き出し特長を分かりやすく押し出す、背景は場面ごとの役割に応じてタッチを目まぐるしく変えていく、というやり方が、物語自体ではなく絵自体で語る部分を生み出し、より作品全体に厚みをもたらす結果になっている、そんな印象を受けました。

僕の記憶では、原作は4作を収録した連作短編集だったと思うんだけど、映画の中ではそれらをうまく繋げて一つの物語に仕立てていました。原作では確か、ある一定期間にまたがった話だったように思うんですけど、映画ではたった一夜の物語という風にまとめられていて、そのぎゅっと凝縮した感じが、物語の面白さをより引き出しているように感じられました。

また、映像ならではの物語の処理の仕方も素晴らしかったです。原作では恐らく、「主人公の脳内のグルグル」として描かれているだろう場面を、映像できちんと見せてくるんですね。特にラストの、理性と本能のバトルは見ごたえがありました。状況説明としてはまるで役に立たないですけど(笑)、主人公の先輩の慌てふためき振りが非常によく映像化されていて、テンションで押し切った!みたいな映像処理が良かったなと思います。

原作も素晴らしかったですけど、アニメならではの描き出し方で、原作の魅力をより引き出しているなと思える映画でした。

難しいですけど、内容の紹介をしてみます。
先輩(主人公)は、1年前知り合った後輩の黒髪の乙女に魂を鷲掴みにされ、以来「ナカメ作戦」を遂行してきた。「ナカメ作戦」とは、「なるべく彼女の目にとまる作戦」の略であり、様々な場面でさも偶然であるかのように彼女と遭遇する、ということをやり続けてきた。友人である学園祭事務局長に、外堀ばかり埋めているんじゃないと言われながらも、同じく友人のパンツ総番長から、思いを伝えるべきだと促されながらも、先輩はひたすら外堀を埋め続ける日々を過ごしてる。
先輩も黒髪の乙女も招待されたとある結婚式の夜、先輩は二次会に流れるだろう黒髪の乙女と同じ席に座る決意をしていた。しかし黒髪の乙女は二次会には流れず、先斗町で今彼女が求めて止まない酒を所望し続ける。とあるバーで春画コレクターに胸を触られおともだちパンチを繰り出し、知り合った樋口君と羽貫さんと一緒に先斗町で飲み歩き、幻と呼ばれる偽電気ブランに思いを馳せる。酒豪ぶりを認められた彼女は、三階建の電車でやってくるという李白さんと飲み比べを打診される始末だ。
一方の先輩は、黒髪の乙女を見失い、パンツを奪われ、鯉を飼っていたオジサンに絡まれ、やっと黒髪の乙女を見つけるも、どこにいても主役になってしまう彼女のいる場で、ただの脇役に甘んじるしかない。
チャンスを求めて、先輩はその後、古本市・学園祭と奮闘するのだが…。
というような話です。

原作を読んだ時も思いましたけど、まず何よりも黒髪の乙女がやっぱり最高ですね。こういう女性は、凄く好きだなぁ、と思います。

自分が関心を持ったことに正直で、でも視野が狭いわけでもなく、飛び込んできた状況にすぐに馴染んでしまう。一人で行動することが普通で、でも誰とでも仲良くなれてしまうし、何をするでもないのに場の主役に躍り出てしまう。当たり前に囚われたり、行動を躊躇したりすることなく、強い決心をするでもなく普通ではない状況をするりと乗り越えてしまう。自分に向けられた関心に無頓着で、かと言って冷たいとかではなく、自分なりの関心を他人に向ける。僕の中での黒髪の乙女のイメージはこんな感じだ。言葉にすると余計に、素晴らしい女性だなぁ、と思えてくるのですね。先輩が黒髪の乙女に惚れるのも当たり前だなと思います。

物語は、最初から最後まで奇妙奇天烈摩訶不思議な感じで展開されていくのだけど、独特の絵のタッチと畳み掛けるような展開で、いつの間にやらその世界観に引きずり込まれてしまう。明らかにおかしな状況なのに、登場人物たちのほとんどはその状況を奇妙がらないし、色んな話が絶妙に絡まり合っていくから、そういうもんなんだなぁ、と思いながら引き込まれてしまう。そういう魔力を持った作品で、まさに森見登美彦らしさを忠実に再現しているなぁ、と感じさせる映画でした。

映画を見ながら、僕はずっとニヤニヤしてたと思いました。ニヤニヤが止まらない映画でした。ほとんど声を上げて笑っている場面もあったと思います。純粋に、凄く面白かったなぁ、と思える、とてもいい映画でした。

「夜は短し歩けよ乙女」を観に行ってきました

「LION/ライオン~25年目のただいま~」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
インドのカンドワという町に住む少年のサルーは、兄のグドゥの仕事をよく手伝っていた。石炭を積んだ列車から石炭を盗み出すのもお手の物だ。石運びをしている母親を楽させようと、妹であるシェキラの面倒もちゃんと見る。
ある日グドゥが一週間ほど仕事をしに家を離れるという時、サルーも一緒に行きたがった。夜間の仕事だからサルーにはまだ無理だ、という兄の言葉を聞き入れず、サルーは兄についていく。しかしやはりまだ子どものサルーは、途中の駅で睡魔に襲われてしまう。兄は、駅のベンチでうとうとするサルーに、ここで待ってろよ、と言って仕事を探しに行く。
目覚めて兄がいないことに気づいたサルーは、辺りをうろうろする。停車中だった列車に乗り込んで兄を探すも、やはりいない。そこでサルーはまた眠り込んでしまう。
気づいたら、列車は動いていた。回送列車らしく、2,3日止まること無く走り続けた。
たどり着いたのは、カンドワから東に1600キロも離れたカルカッタ。ヒンディー語だったカンドワとは違い、ベンガル語であるカルカッタでは言葉も通じない。サルーはそこで2ヶ月ほど野宿でやり過ごした後、施設に保護される。
その施設で彼は、サルーを引き取りたいと思っている家族がオーストラリアにいると知らされる。サルーはオーストラリアへと移り住み、20年の時が経った…。
というような話です。

実話を元にした映画です。映画のラストには、実際の映像で、オーストラリアの育ての母と、インドの生みの母が会うシーンが挿入されます。なるほど、実際にこういう出来事があったんだな、と思うと、感慨深いものがあります。

とはいえ、映画としてはどうなのかというと、僕は良いとは思えなかったなぁ。実話を元にしているから仕方ないとはいえ、そうなるんだろうなぁ、というような展開が続いていくような映画だな、と思ってしまいました。

大人になったサルーが、突然インドの家族のことに執着し始め、色んなことを投げ打って故郷を探そうとする、というのも、僕の中ではうまく理解できなかったな、と。まあ、人間なんてそんなもんだと言われればそうなんですけど。一応ストーリーの中では、グーグルアースで探す、という手段があるのだと気づいてから故郷探しにのめり込んでいくことになる、という流れだから、分からないわけでもないんだけど、それまでも故郷のことを気にしていたんだ、というような描写は特になかったので、唐突に思えてしまいました。

この映画の中で一番興味深かったのは、サルーの育ての家族であるジョンとスーの夫婦です。彼らが何故養子を引き受けることになったのか、という理由は、映画の結構後半で明かされるので、あまり書きすぎてはいけないと思うけど、『自分の子を産んで、世界が変わる?』というセリフには、グッときました。

こういう展開を評価する人もいると思うので好みの問題だと思いますけど、僕としては、もう少し何かあって欲しい、そんな風に感じた映画でした。

「LION/ライオン~25年目のただいま~」を観に行ってきました

「ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命」を観に行ってきました

たぶん疲れていたんだろう。
映画の前半部、断続的に寝てしまった。
だから、ちゃんと見れたのは後半だけ。
ちょっと楽しみにしていた映画だったから、もう少しちゃんと見れれば良かった、と後悔している。

物語は基本的に、ジャッキーの愛称で親しまれたケネディ元大統領の妻が、夫が暗殺された直後に受けたインタビューと、そのインタビューで語りながら回想する場面で構成されていく。彼女は記者に、「メモはすべてチェックさせてもらう」と告げてから記者を家の中に通した。そして彼女は、時々「これは書いてはいけない」と告げながら、暗殺されたまさにその時の状況を、そしてケネディ大統領との日々を語っていく。

僕には知識としてそもそもないが、ケネディ大統領はアメリカではかなり良い風に捉えられているようだ。この映画の最後で、「誰もがキャメロットを信じている」とジャッキーが語る場面があるが、ネットで調べるとこの「キャメロット」というのはケネディ家を指す言葉であり、栄華を古代の都市の名から取られているのだという。ジャッキーが、夫の死を伝説にするために「キャメロット」という名前を付け、発信したのだという。そんな風にして夫を伝説にするためにジャッキーが何をしたのか、というのがこの作品のメインとなる部分なのだと思います。

「ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命」を観に行ってきました

「3月のライオン 前編」を観に行ってきました

勝つことは、誰かを傷つけることと同じだ。
勝つことは、孤独だ。

『あんたが帰れば、あの家に。
おめでとう。父さんに勝ったんでしょ?』

強さは、生きるための武器になる。
そして強さは、自分を傷つけるための刃にもなる。

『得意げな顔してんじゃないわよ』

強いことは、弱さを蹴散らすことだ。
強いことは、自分の中の何かをどんどんと弱くしていく。

『負け犬でも見るような目しやがって』

弱いことからは、逃げることが出来る。
強いことからは、逃げられない。

『なんだよ、その目は。俺が途中で投げたって言いたいのかよ』

勝つことは、強くなることでもあり、弱くなることでもある。

『みんな俺のせいかよ!
ふざけんなよ!
どうすりゃ良かったんだよ!
他になんにもねぇってぐらい、将棋しかねぇんだよ…』

生きることと勝つことは、基本的にはイコールにならない。
勝とうと努力するかどうかは、ほとんどの場合、本人の意志次第だ。
しかし、そうではない環境も、時には存在する。
勝つことが、生きることと直結してしまうような、そういう環境が存在する。
勝たなければ、生きていけないのだと思わされるような、そういう環境が存在する。

勝つことは、生き抜くための手段だった。
しかし、そのことが誰かを傷つける。
そして、自分自身をも傷つける。

『その家族を壊したのは、どこの誰?』

傷つけることが分かっていても、勝つことから逃げることは出来ない。
自分が傷つくことが分かっていても、強くなることから逃げることは出来ない。
そうしなければ、生きてこれなかったからだ。
そうしなければ、これまでの自分の人生すべてを否定することになるからだ。

だから彼は、努力をする。
自分の中の何かを削り取りながら勝つための努力をする。
誰もが勝つための努力をしている世界の中で、勝つためでもあり、生きるためでもある努力を、彼は重ね続ける。

その軌跡しか、彼は「人生」と名付けられるものを持たないのだから。

内容に入ろうと思います。
桐山零は、中学生でプロ棋士になった史上5人目の天才棋士としてデビューした。しかし、9歳の時交通事故で両親と妹をいっぺんに喪った彼は、父の友人だった棋士の幸田に引き取られ、内弟子として育てられた厳しい過去を持っている。17歳、高校に通う零は、今は幸田の家を出て一人暮らし。家族も友人もなく、ただひたすら将棋と向き合う日々を送っている。
そんなある日、酒に酔って潰れている零を見かねた川本あかりは、零を自宅まで連れ帰る。あかり・ひなた・モモという三姉妹に気に入られた零は度々川本家に足を運ぶようになる。家族団らんという、長らく経験したことのない時間に心が浮き立つが、ここは自分がいる場所ではない、という思いも芽生える。
師匠の幸田の長女であり、弟の歩と共にプロ棋士を目指していた香子は、妻のいるプロ棋士である後藤と微妙な関係を続けている。香子は度々、幸田家を壊したのは零だとして零に辛く当たる。零は香子の行動を諌めるが、香子は後藤との関係を終わりにしようとしない。川本家で年越しをした零は、初詣の折に香子と一緒にいる後藤と出くわす。聞く耳を持たない後藤に、獅子王戦トーナメントで後藤を倒したら香子を家に戻せと詰め寄る。しかし後藤にたどり着くには、後藤と同じA級に所属する島田を倒さねばならないが…。
獅子王戦と同じくして、新人戦のトーナメントも進んでおり、幼い頃からライバルとして一方的に桐山に絡んでくる二階堂との対戦も実現間近だったが…。
というような話です。

凄く好きな映画でした。とにかくセリフが極端に少ない映画で、表情や仕草(それも非常に抑制されているのだけど)によって感情を伝えようとする映画だなと思いました。原作はマンガなので、マンガのやり方に近いと言えば近いですけど、ただマンガにはセリフだけではなく内面を描くような心の声も文字で書かれている。映画の方では、それも非常に抑えられていて、その場面場面で観る者がそこに何を観るかを問われているような、そういう映画だと感じました。

零を中心とした棋士の世界は、まさにそういうあり方を体現している。もちろん棋士の中にも、例えば二階堂のような騒がしい者もいる。しかし、この映画の中で描かれる棋士は皆、内に何かを秘めているような佇まいを見せる。その内面が、はっきりと描かれる場面は少ない。何を考えているのか分からないような、表情もあまり動かないような場面が非常に多くある。

それは、棋士らしい世界を表現しているなと感じる。棋士にとっての言語は、将棋であり、駒の動かし方を記した棋譜だ。彼らは、棋譜を読み込むことで、他の棋士と対話をする。実際に対局をしている時の駒の動かし方でも、対話が生まれる。実際に言葉を交わさなくても、彼らには伝わるものがある。そういう棋士ならではのあり方を、映画という手法の中でうまく描き出しているように感じました。

零を中心とした棋士の世界が「静」であるとすれば、棋士・桐山零の外側にある世界は「動」だ。
学校での零には、友達がいない。しかし彼には、担任の教師という強い味方がいる。零のことを応援してくれる存在だ。映画の中では目立つ存在ではないが、要所要所で零にとって重要なポジションを取る。零は、そのままにしておけば自分から動く人間ではない。そんな零のことを、「動」の世界にいる誰かが押し出していく。

「動」の世界にいるのは、川本家も同じだ。川本家の女たちは、零が何者なのか知る前から、零をあっさりと受け入れる。そして、やはり自分では物事を切り開いていかない零の世界に良い感じに入り込んでいって、零を動かしていく。

この物語は、「居場所」の物語でもある。

「静」の世界には、零の居場所はある。そこが、心地よい居場所であるかどうかはまた別の問題だが、零は「史上五人目の中学生プロ棋士」であり、「将来を嘱望される新人棋士」として関係者からも世間からも注目されている。そこは、勝ち続けなければならない厳しい勝負の世界であり、気の休まる時はないが、しかし零にとって居場所であることは間違いないだろう。

しかし、「動」の世界には、零が居場所だと思える場所はない。

『あんたの居場所なんて、この世のどこにもないんだからね』

幸田家からは、出て行くしかなかった。零が幸田家にいることが、諸悪の根源のような状況に陥ってしまったからだ。結局零は、幸田家の面々とは家族になりきれないまま、幸田家を離れることになった。

学校にも居場所はない。常に屋上で一人で飯を食い、担任の教師以外に話す相手はいない。

川本家は零にとって居場所になりうる場所だった。しかし零は、川本家を居場所だと思うことに抵抗を感じてしまう。

『今度はこの人たちなんだ。
得意だもんね。不幸ぶって他人の家族メチャメチャにするの』

零には、幸田家での苦い記憶がある。生きるために選択せざるを得なかった、将棋で勝つという道。しかしそのことが結局、零を幸田家から追いやる結果となった。
川本家は、棋士・桐山零を求めているわけではない。そのことは、零にもきちんとわかっているはずだ。あの人たちは、零が何者であろうときっと受け入れてくれる。とても素晴らしい人たちだ。
でも、だからこそ、自分という異分子が入り込むことで、川本家がバラバラになるようなことがあってはいけない。そんな可能性が少しでもあってはいけない。
そこまで踏み込んで描かれることはないが、零が積極的に川本家に足を向けないのには、そういう理由があるはずだろうと思う。

『家族を大事にできない人間は、サイテーです』

後藤に向けて放ったこの言葉は、零にとってどんな意味を持つ言葉なのだろうか?9歳の時に家族を喪い、その後他人の家で育てられてきた零は、自分が家族を大切にしてこれなかったという後悔を抱えているのだろうか?大切にした家族を持つことを望んでいるのに自分にはそういう存在がいないことを哀しんでいるのだろうか?あるいは、家族という存在を強く捉えすぎるが故に川本家に深入り出来ない自分を悔いているのだろうか?

『僕ならどこに行っても心配する人はいない』

「動」の世界では勝つことを常に宿命付けられ、「静」の世界では居場所を見つけることが出来ない桐山零。彼がどんな風に未来に向けて進んでいくのか、楽しみだ。

「3月のライオン 前編」を観に行ってきました

「ラ・ラ・ランド」を観に行ってきました

うーん、と思ってしまった。
正直、この映画に関して書けることは、特に何もない。
少なくとも僕にとっては、全然面白さの分からない映画だった。

そもそも恋愛的なストーリーに興味がないとか、そもそもミュージカルが好きじゃないとか、色んな理由があると思う。正直、元々観るつもりのない映画だった。あまりにも世間の評判が高いから、それならと観に行くことにしたのだ。そういうわけで、元々自分には合わないだろうなという予感はあった。そういう意味で、「期待通り」ではあったと言える。

しかしこれほどまでに、何故この映画が受け入れられているのか分からないのも珍しいと思った。多くの人にとって、この映画はどこが「刺さる」のだろう?欧米人であれば、「ミュージカル」という形式が元から受け入れられているだろうから、そういう部分での評価もきっとあるのだろうとは思う。しかしきっと日本人の多くの人にとっては、この作品の「ミュージカル」的な部分はそこまで評価していないのではないか。後は、恋愛的なストーリーがグッと来る、ぐらいしか思いつかない。他にどんな要因が、この映画の評判を押し上げているのだろう?

自分に受け入れられなかったからと言ってすべてを否定するつもりはないが、久々に自分と世間のズレを感じる作品だった。

「ラ・ラ・ランド」を観に行ってきました

「スノーデン」を観に行ってきました

僕は、スノーデンを正しいと思う自分でありたい。

(一応先に書いておく。この映画はフィクションだが、事実に基づいている。だから、この映画の中のすべての発言を、事実として扱ってこの感想を書く)

スノーデンは、NSAというアメリカの諜報機関のスタッフであり、そこから盗み出した超極秘機密を世界中に暴露した。それは、「アメリカは、世界中の通信を傍受している」というものを含む、驚くべきものだった。

スノーデンはアメリカからスパイとして告訴され、パスポートを失効させられた。スノーデンは現在も、モスクワに住んでいる。

スノーデンは、CIA時代の彼の指導教官だったコービン・オブライアンと議論をする。アメリカは、世界中を覗き見している。それは正しいことなのか、と。コービンはそんなスノーデンからの問いに、こんな風に答える。

『大多数の米国人は、自由よりも安全を望んでいる。
安全に遊びたかったら、“入場料”を払って当然だ』

コービンは、米国人の安全を確保する代わりに、「自由を手放す」という代償があるのは当然だ、と答える。スノーデンは、国民はそのことに納得しているわけではない、と返すと、コービンは、たった一人にでも知られたら敵にも知られる、と言って議論を終わらせる。

また、こんなふうにも言う。

『第二次世界大戦から60年。未だに第三次世界大戦は起こっていない。何故かわかるか?我々が世界のために尽力してきたからだ』

確かにそうなのかもしれない。この点については僕は判断できないが、そういう一面があることも事実なのだろうとは思う。

コービンは、CIAに入りたてだった者たち(スノーデンを含む)に、こんなことを言う。

『また9.11が起きたら、君らの責任だ。
前回は私たちの責任だった。そう感じて生きるのは辛いぞ。』

コービンが国を想う気持ちに、きっと嘘はないのだろう。彼は、自分がしていることが、アメリカを、そして世界中を救う行為だと信じているのだ。

この映画で描かれる“傍受”は、僕らの想像を遥かに超える。例えば、起動していないパソコンのカメラだけを起動させ、室内を見ることが出来る。非公開にしているSNSや世界中の通話も、エックスキースコアと呼ばれるシステムで収集出来る。スノーデンは、その事実に愕然とする。

まだある。スノーデンは、日本でも働いていたことがある。その際、送電網やダムにトラップを仕掛けたという。

『もしも日本が同盟国でなくなったら、日本は終わりだ』

これらは決して、過去の話ではない。つい最近ニュースで、アメリカ(確かCIAだったと思う)が、盗聴などの技術を1000以上開発していたという情報がウィキリークスを通じて暴露されたという。スマートテレビの電源がOFFになっていると見せかけて起動させ室内の音を拾う、というような技術が、実際に使われているかどうかはともかく、既に開発されているという。

スノーデンは、それらの事実を知り、大いに悩む。一度は、CIAを退職したほどだ。

これらを、「テロの脅威に対抗するため」という理由で、僕らは許容することが出来るだろうか?

スノーデンの素晴らしいと感じた点は、自分自身で善悪を判断しなかった点だ。スノーデンは、高給や愛する人や家族をすべて捨て、アメリカが行っていることを暴露する決意をした。スノーデンと接触したジャーナリストの一人は、『これまで多くの偉人に会ってきた。しかし君は…』と言って声を詰まらせた。それらの行為をひっくるめて「素晴らしい」と称してもいい。僕の中にも、そういう気持ちはある。しかしもう一方から見れば、彼は情報を盗んだ犯罪人だ。その視点も、決して忘れてはいけない。彼の行動そのものをどう評価するかというのは、なかなか難しい問題だ。

しかし僕は、彼のスタンスは賞賛してもいい、と感じている。スノーデンは、機密を暴露した理由をこう話しているのだ。

『議論を深める情報がなければ、僕らは迷子です』

彼は、「アメリカによる監視は悪だ」と主張するため機密を盗み出したのではない。彼は、そのことを知らない世界中の人に、このことを議論してもらうために機密を暴露したのだ。

『その上で、僕が間違っているのか世間が間違っているのか判断して欲しい』

『それより、国民に監視の是非を判断して欲しい』

このスタンスは、賞賛に値すると思う。彼の行為の是非は、どの側面から見るかによって判断が分かれるだろうから、一面から切り取って彼を手放しで賞賛することは難しいかもしれない。僕は、スノーデンの行為も正しいと思いたいが、そう思わない人がいることも理解する。しかし、彼のスタンスは手放しで賞賛できるのではないか。自分の正しさやアメリカの間違いを主張するのではなく、情報は渡すから皆さんで判断して欲しい、というスタンスは素晴らしいと感じた。

『自分の国を非難したくない』

ブッシュ大統領に対するデモが行われている中を恋人と歩いている時、スノーデンは恋人に対してそう言う。

『他人の命を背負う気持ちが君に分かるのか?』

情報機関でテロとの闘いに明け暮れ、心身ともに疲労しているスノーデンが恋人にそう声を荒げてしまう。

スノーデンは、国を良くしたい、守りたいという気持ちを強く持つ男だ。恐らくスノーデンにとって、機密を世界中に暴露するという決断は苦渋のものだっただろう。しかし、彼は決断した。彼は、それがアメリカを良くすることに繋がるはずだと信じたのだ。

『私は、明日を心配せずに済む自由を手に入れたのです。
心の声に従ったから』

モスクワからスノーデンはそう言葉を発する。ロシアから一人では出国できない身分になりながらも、スノーデンはそこに「自由」を見る。世界中のありとあらゆる情報にアクセスできる時には感じられなかった「自由」を。

内容に入ろうと思います。
2013年6月3日。スノーデンは香港にいた。ローラ・ポイトラスとグレン・グリーンウォルドという二人のジャーナリストと接触するためだ。スノーデンは29歳。直前の身分は、NSAの契約スタッフだ。
彼は、NSAから盗み出した膨大なデータを世間に公表するために彼らと接触した。
軍隊での過酷な訓練により、足を粉砕骨折したスノーデンは、別の形で国に奉仕しろと言われてCIAを志望する。スノーデンの趣味は、インターネットだ。スノーデンを面接したコービンは、平時であれば不合格だが、有事(9.11のテロが起こった後だ)の今は君のような人間の力がいる、と言ってスノーデンにチャンスを与えた。
「ザ・ヒル」という名の訓練校で、スノーデンは抜群の成績を示す。5時間以内にやれと言われた課題をたった38分でやり終えた。その後、ジュネーブや日本など様々な地で仕事をするが、そこで目にする事実に、スノーデンは悩み心を痛める。恋人のリンゼイに、アメリカがあらゆることを監視していると伝えたいが、それを言えばリンゼイを巻き込むことになり言えない。スノーデンが抱えている最大の悩みを、最も近くにいる恋人にも伝えることが出来ない辛さの中で、それでもスノーデンは、自分の仕事が国を守ることに繋がっているのだと信じて、体調を崩しながらも無理を続ける。
しかし徐々に、スノーデンはこの現状を許容できなくなっていく…。
というような話です。

非常に面白かった。僕はこの映画を見る前に、「シチズンフォー スノーデンの暴露」という映画を見ている。ローラ・ポイトラスが実際に撮った映像を元にしたドキュメンタリー映画だ。ドキュメンタリー映画だから、臨場感はやはり凄かった。しかし、「映画」として見た場合、魅力があるかと言われれば答えに窮するという感じもあった。

「スノーデン」の方は、実話を元にしたフィクションだ。だから、臨場感という点ではやはりドキュメンタリー映画には及ばない。しかし、どちらの方がより真に迫っていたかと聞かれれば、おかしな話ではあるが、フィクションである「スノーデン」の方だったかもしれない、という気がした。

それはやはり、スノーデン自身が暴露するために捨ててきたものも、「スノーデン」の方では描かれているからだろうと思う。

ドキュメンタリー映画では、スノーデン自身が喋っていることと、当時のニュース映像などで構成されている。だからこそ、映画全体がスノーデンからしか描かれていない印象を受けた。しかし、フィクションの「スノーデン」では、恋人であるリンゼイとの関わりや、彼が一緒に働いている情報機関のスタッフとの関わりなど、彼が機密を暴露することで失ってしまうものも描かれている。そこが一番の違いだったと感じた。

『僕の暴露がどう評価されてもいい。しかし、ハワイでの恵まれた生活や高給、愛する人や家族など、僕はすべてを失いました。何のためにすべてを捨てると思いますか?』

スノーデンは、カメラに向かってそう問いかける。その通りだ。彼には、現状を知った上でそのまま生きるという選択肢もあった。しかし彼は、すべてを捨てる覚悟をして暴露した。彼が失うものは、あまりにも膨大だ。その膨大な、失われてしまうものが、「スノーデン」では描かれていた。そこがより、スノーデンの決断の凄さを際立たせていると感じた。

僕たちは、自分がどういう世界に生きているのか、もう一度見つめ直さなければならないだろう。

僕は、SNSの類を使っていない。LINEも、ごく限られた形でしか使っていない。しかし、Gmailはメインのメーラーとして使っている。ヤフーやグーグルの検索も使っている。クレジットカードも頻度は低いが使っている。電話も頻繁にではないが使う。名前を出してはいないが、ブログもやっている。それらから、漏れ出る情報は当然あるだろう。映画を見終わった僕は、とりあえず、自分のパソコンのカメラ部分を、ガムテープで覆ってみた。知られて困るような情報などないが、「見られているかもしれない」という感覚は、やはり嫌なものだ。

少し前、「虐殺器官」という映画を見た。スノーデンが暴露したのとはまた違った形でだが、「虐殺器官」の中でも、先進国の人びとが「安全」に「便利」に生きることが出来るように、他者の「安全」や「便利さ」を脅かす構造が描かれていた。僕たちは本当に、今僕らが享受している、“過剰”とも思える「安全」や「便利さ」を必要としているだろうか?それらを享受することで、どこかの誰かが命を落としているかもしれないと考える時、どう感じるか?

個人で立ち向かえるレベルの話ではない。しかし僕は、そういう事柄に対して、鈍感にはならないように生きたいものだ、と感じる。

「スノーデン」を観に行ってきました

「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」を観に行ってきました

問いが間違っている、というのは明白だ。
それは、問うべきではない問いなのだ。
その問いに答えなければならない状況が存在することそのものが間違っているのだ。
そのことは、間違いない。

しかし、問いが間違っていても、答えを出さなければならないことは、世の中にはたくさんある。

5人を救うために1人を殺してもいいか―。
僕がこの問いに出会ったのは、「これからの正義の話をしよう」という本の中でだ。
この中で、暴走する列車を例に出し、その列車に5人が轢かれる状況を回避するために1人を殺す選択をしていいか、という問いが投げかけられるのだ。
その本の中で、どんな議論が展開され、どんな結論が出たのか、僕は覚えていない。しかし、問い自体が間違っているのだ、という感覚は、今でも残っている。

この映画でも、同じ問いがなされる。
80人以上の人間が死ぬ可能性がある状況を回避するために、1人の少女を殺してもいいのか―。
冒頭で書いたように、明らかに問いが間違っているのだし、この問いに答えを出さなければならない状況自体が間違っているのだ。
しかし、この問いを突きつけられ、答えを出さなければならないとしたら、あなたならどうするだろうか?

自分が、どの立場にいるのかによって、きっと答えは変わる。これは、「これからの正義の話をしよう」の中でも指摘されていた。レールを切り替えることで5人いる方から1人いる方に列車を進ませるという選択であれば、1人を殺すことに抵抗を感じない人はそれなりに多かった。しかし、自分の手でその1人の背中を押して暴走列車にぶつけて止める、という選択の場合、躊躇する人が多かった。自分が直接手を下すか否か―これが、状況判断に大きく影響する。

先程の80人の問いに戻る。この場合、状況を単純化すれば、「決断する人間」と「ミサイルのボタンを押す人間」で判断は大きく変わると思う。

もし僕が「決断する人間」であれば、80人を救うために1人の少女を殺す決断を、仕方ない判断だとして決定してしまうだろうと思う。少女が死なない可能性もある、という状況であればなおさらだ。

しかし、もし自分が「ミサイルのボタンを押す人間」だったら、すんなりと同じ決断が出来るかは分からない。ミサイルのボタンを押す自分にとっては、80人を殺すのは別の人間だが、1人の少女を殺すのは自分だ。この状況の違いはとても大きい。確かに、80人の命を救いたい。しかし、自らの手で1人の少女の命を奪いたくもない。

この葛藤から逃れることは、とても難しい。

さらに状況を難しくしているのは、「自分の命はどんな選択をしても安全だ」という状況だ。

例えば、人対人の銃撃戦であれば、自分の命も危険にさらされている。相手を殺す、という判断には、自分が死にたくない、という願望も含まれる。もちろん、人を殺すことは良くない。良くないが、しかし自分が死ぬよりはマシだ。そういう判断が葛藤を消す可能性はあるだろう。

しかしこの映画で描かれている状況では、自分が死ぬことはありえない。

「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ」というのは有名なセリフだが、こと現代の戦争に限っていえば、「現場」と「会議室」が同一のものになっている。無人偵察機が上空2万フィートから「現場」を偵察し続けることで、「会議室」でも状況をリアルタイムに知ることが出来る。同じく、「会議室」から無人偵察機でミサイルを発射すれば、「現場」を壊滅させることが出来る。現代の戦争はまさに、「会議室で起こっている」のだ。

自分の身が危険に陥るわけではない状況で、人を殺す決断をしなければならない。誰かが80人を殺すのか、自分が1人を殺すのか―。難しすぎる問いだ。

正しさ、というのは、どんな評価軸を選ぶかによって変わる。どんな評価軸に照らしても正しい、なんていうことはほとんどない。正しさは、状況や時代によっても大きく変わる。その中でどんな選択を積み重ねることが出来るのか―。結局僕らに問われていることは、そういうことだ。

内容に入ろうと思います。
イギリス軍のパウエル大佐は、ケニアのナイロビで、アル・シャルブというイスラム系過激派組織に属する最重要人物を捉えた。6年間追跡して、ここまで接近できたのは初めてだ。当初の計画では、彼らのアジトに捕らえるべき人物が全員揃ったところで、ケニア軍の地上部隊が突入、全員を捕獲するという作戦だった。
しかし状況が変わる。イギリス国籍の女が到着するのを待っていたのだが、その女と思しき人物が建物内部から出てきた。しかも彼らは別の場所に移動するようだ。その女がターゲットであると確認できなければ作戦の決行は出来ない。しかし彼らは、アル・シャルブの支配地域にある民家に移動してしまった。仲間である現地の男にその民家に接近させ、<虫>と呼ばれる小型カメラで建物内部を撮影することで女の身元は判明した。ここでパウエル大佐は、無人偵察機<リーパー>に搭載しているヘルファイアで民家を爆撃すべきと提言するが、計画はあくまでも殺害ではなく捕獲だったはずだと、<コブラ>と称される内閣府のメンバーに反対される。
しかし、状況がさらに変化する。<虫>は、建物内部で自爆テロの準備が進行していることを知らせてくる。彼らが自爆テロに及べば、少なくとも80名以上の一般市民が犠牲になる。一刻も早く爆撃の決断をしなくては。しかし<コブラ>では議論が割れる。決定権を持つはずの閣外大臣も、より上位の立場の人間からの許可を得るべきと判断を保留する。ジリジリしながら決断を待つパウエル大佐。<コブラ>では果てるとも尽きない議論が繰り返される。
ようやく決断が出た頃、さらに状況が変化する。なんと、攻撃目標である民家の前で、少女がパンを売り始めたのだ…。
というような話です。

非常に緊迫感のある物語であり、さらに難しい問いを投げかける作品だと感じた。

彼らがどんな葛藤の中に置かれているのか、ということは冒頭で触れた。ここでは、そうではない部分に触れていこう。

まず感じたことは、決断を下すものの優柔不断さだ。
何も僕は、爆撃の決断をもっと早く下すべきだ、と言いたいわけではない。爆撃しないという決断でも構わない。いずれにしても、決断をするのが遅すぎる。確かに難しい決断ではある。しかし、状況は明白なのだ。少なくとも、交戦規定という、戦争における法律(もちろんこれも、強者が作った法律だろうが、とりあえずその議論はここではしない)の問題はクリアされている。少なくとも、目の前の状況で爆撃をしても、交戦規定に違反したという判断はなされないだろう、という判断は、既になされている。

残されたのは結局、人道的な問題だけだ。そしてこれは、冒頭でも書いたように、問いが間違っているのだ。誰からも文句の出ない正解など存在しない問いなのだ。そのことも、その場にいる人間は全員分かっていたはずだ。

しかし彼らは、誰からも文句の出ない正解がないかと判断を遅らせる。もちろん、その可能性があるならば、保留して状況を精査すべきだろう。しかし、僕の判断では、この状況における、誰からも文句の出ない正解など存在しない。繰り返すように、問い自体が間違っているからだ。

だから、文句が出てくる可能性を受け入れながら、何らかの決断をしなければならない、と思う。僕には、そんな決断は出来ない。しかし彼らは、そうすべき立場にいる。そういう決断をしなければならない可能性を知った上で、その立場にいるはずなのだ。だからこそ彼らは、もっと早く決断をしなければならなかった、と僕は思う(もちろんこれは映画だから、早く決断したらそこで物語が終わってしまうから、そこに文句をつけても仕方ないのはわかっているのだけど)。

こんなセリフがあった。

『政府が戦争を始める。闘うのは軍だ』

これは、政治家の判断の遅さによって作戦を台無しにしないでくれ、という意味が込められている。彼らの決断が正しかったのか、僕には分からない。というか、正しい決断などない。そういう中でどう行動しなければならないのか。そういう意味で、この判断をする上で、政治家は役に立たないのだなと感じた。

またこの映画では、ヘルファイアのボタンを押す者の葛藤も描かれる。
彼は確かに軍人ではあるが、「奨学金返済のため、4年の勤務が保障される」という理由で軍に入った若者だ。これまで、偵察任務しか行ったことがない。軍人としての経験が豊富なわけでもない。そんな彼に、実に困難な状況でミサイルを撃つように命令が下る。

彼の葛藤は、相当なものだろう。しかし、良くは知らないが、軍というのは上官からの命令は絶対だろう。そういう中で、彼がどんな決断をするのかというのは、見ている者にとっても迫るものがある。

パウエル大佐に対しては、相反する気持ちがある。一つは、自らの「爆撃すべき」という決断のブレなさに感心するものだ。パウエル大佐は、少なくとも悩んでいるそぶりは見せない。彼女にとっては、爆撃は、絶対的に不可欠な選択なのだ。上官として指示を出すべき人間として、この決断力とブレなさは賞賛すべきかもしれない、という風に感じる。

しかしその一方で、この絶対的な自信が危うい、と感じる自分もいる。自分の行動が、もしかしたら間違っているのではないか、という躊躇みたいなものは、どんな場面でも必要だろう。絶対的な正しさなど、世の中には存在しない。これが絶対正しいのだ、と強引に主張し行動することが大事な場面ももちろんあるだろう。しかし、パウエル大佐の立っている状況は、人間の命が関わっているのだ。そういう状況で、あの自信は、怖いなという風にも感じるのだ。

何度でも繰り返すが、問い自体が間違っている以上、正しい答など存在しない。人の命が絡むかどうかはともかく、こういう、それ自体が間違っている問いに答えを出さなければならない状況に、誰しもが立たされる可能性があるだろう。そういう時、自分は何を評価軸にして決断をするのか。そういうことを考えながら見てほしい。

「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」を観に行ってきました

「The NET 網に囚われた男」を観に行ってきました

正しいこと、というのはいつだって難しい。
というのは、皆が「正しい」と思って行動しても、最終的に良い結果が得られない、ということは良くあることだからだ。

この話はよく、ゲーム理論で登場する。ゲーム理論の最も簡単な話は、二人の囚人が登場するものだ。お互い別の部屋に入れられ、やり取りができない。2人の囚人にはそれぞれ、2通りの選択肢が与えられ、全体で4通りの可能性がある。お互いがベストな行動を取れれば両方にとってメリットがあるのだが、疑心暗鬼もあり、自分なりに「正しい」と思う行動をし、結果的に二人共デメリットを被ってしまう、というものだ。

「正しさ」には、常に評価軸が必要だ。何に対して正しいのか、という軸を意識しなくては、「正しさ」が判断できない。そして、その評価軸が対立する場合、両者の「正しさ」も対立することになってしまうのだ。

船の故障で、北朝鮮から期せずして韓国にやってきてしまった男。
独裁国家である北朝鮮から一人でも多くの人を「救う」ことが使命の韓国の組織。

両者の「正しさ」が、真っ向から対立する。

北朝鮮の男は、祖国に家族を残している。祖国ももちろん大事だが、何よりも家族が大事だ。男はスパイ扱いされ、尋問される。あるいは、独裁国家から「救う」ためとして、韓国への亡命を勧められる。男は北朝鮮に帰るのだと、強硬に主張する。しかし、スパイかもしれないと扱いの中、北朝鮮に帰れる見込みは薄い。

組織にいる多くの人は、北朝鮮に住む人間を「可哀想」だと考えている。独裁国家で自由がなく、資本主義ではないために豊かでもない。しかも、洗脳されているが故に、物事の「良し悪し」も判断できなくなっている。そんなところに住む人間は、同じ韓半島民として「救う」必要がある。北朝鮮から来た男も、あの手この手で「救う」手立てを講じるが、男は韓国への亡命を認めない。

この場合、どちらもきっと間違っているわけではない。北朝鮮の男は、祖国に帰ることが正しいと信じており、家族がおり祖国を裏切ることは出来ないというその理由は、少なくとも彼のこれまで生きてきた理屈の中では正しいだろう。一方で、北朝鮮を「可哀想」な国とみなし、そこから一人でも多くの人を「救う」という姿勢も、決して間違ってはいないはずだ。少なくとも、外側から北朝鮮を見ている者からすれば、北朝鮮に住んでいる者を「救う」という発想は、自然だといえるだろう。

この映画では、その「正しさ」の対立を描きながら、さらに難しい要素を加えていく。

北朝鮮の男は、韓国の街を歩く。資本主義によって成長した、きらびやかな街だ。そこには、北朝鮮に存在しないありとあらゆるモノが存在する。しかし男は、また別の側面を見る。まだ食べられる食べ物やまだ使えるモノが街に捨てられている。また、豊かなはずの街で、金を得るために身体を売らなければならない女にも出会う。

男は問う。「この豊かな国で、なぜそんな苦労を?」と。
それに対して、組織に属するある男は、「自由が幸せとは限らない」と返す。

一方で、北朝鮮に対してもまた、ある視点が挿入される。これは物語のラストに直結してくるのでここでは詳しく書かないが、祖国に戻る、と強硬に主張し続けた男の信念を揺るがせるような描写があり、問題の難しさをさらに押し広げることになる。

世の中が複雑になりすぎて、何が正しいのか分からない出来事が頻繁に起こるようになった。その度毎に、それぞれの側の「正しさ」が声高に主張される。もし、選択的に一方の「正しさ」しか見なければ、あなたはその「正しさ」を信じることになるだろう。トランプ大統領が誕生した背景にも、そういう一方の「正しさ」しか見ないという、現代的な情報の受け取り方があったのだろうと考えている。

「正しさ」は複数存在し、お互い正しいままで対立する。そのことを常に意識しておかないと、僕たちは物事を見誤ることになるだろう。そんなことを改めて実感させてくれる映画だった。

内容に入ろうと思います。
北朝鮮で妻と娘と穏やかな暮らしを営んでいたナム・チョルは、漁師として日々川に船を出していた。韓国との国境付近であるその川岸には国境警備の兵士がおり、常に許可を得て漁に出る。ある日チョルは兵士から、これは仮定の話だが、もし船が故障して国境を越えそうになったら、お前は船を捨てるか?と問われる。男は、船は全財産なので、と答えをはぐらかす。
まさにその日、兵士が言った通りのことが起こった。スクリューに網が絡まったままエンジンを掛けたために船が故障。男はそのまま国境を越えてしまった。国境警備兵が、脱北なのか船の故障なのか判断つきかねている間の出来事だった。
韓国警察に移送されたチョルは、そこでスパイ容疑を掛けられ、尋問されることになる。尋問を担当する男は、朝鮮戦争で家族を失った怒りをぶつけるかのように、スパイ容疑を掛けられた北朝鮮の者たちに容赦なく当たる。明らかに過剰な、暴力を伴った尋問を行うが、それでもチョルは、スパイであるとは言わないし、亡命にも首を縦に振らない。
チョルの警護役についたオ・ジムは、チョルがスパイではないと直感する。尋問担当の男とことある毎に対立し、もしチョルがスパイだったら警察を辞めるとまで啖呵を切る。チョルが厳しい状況に置かれていることに心を痛め、出来る範囲で力になろうとするが、しかし組織の人間であるが故に意に染まない命令に従わざるを得ないこともある。
尋問は繰り返され、また亡命や転向をするようにと説得される。亡命を受け入れさせるために、あくまでも韓国の街を見ないと外にいる間ずっと目を瞑ったままだったチョルを韓国の街中に放置することまでやった。
不屈の精神で北朝鮮に戻ることを訴え続けるチョルは、一体どうなるのか…。
というような話です。

良い映画でした。ストーリーは実にシンプルですが、北朝鮮と韓国という南北の分断が、いかに人々の心を引き裂いていくのか、そして、北朝鮮と韓国という国家同士のいがみ合いの後ろ側で、そこに生きる個人同士は手を取り合うことが出来る可能性があるのか、ということを、全編で強く訴えかけてくる映画だと感じました。

メインどころの頂上人物たちの立ち位置が実にはっきりしているので、物語が非常に分かりやすいし、誰が何で対立しているのかということもよく分かる。

チョルが北朝鮮に帰りたいと強く訴えているということは書いたが、韓国警察内部の面々もそれぞれに立場が違う。

尋問担当の男は、疑わしきは罰するという精神で、とにかくあらゆる手を使ってチョルをスパイだと断定しようとする。イ・サンテク事件の後遺症、という表現がよく出てくるが、どうやら警察を酷く手こずらせたスパイが過去にいたらしい。それもあって、僅かでも疑いがあれば苛烈な取り調べが始まる。

警護担当のジムは逆に、チョルを信頼する。スパイではないと確信し、チョルに寄り添おうとする。しかしその一方で、ジムはチョルを北朝鮮に帰すべきだ、という考えを持っている。本人の意志が尊重されるべきだ、と。しかし韓国警察の使命は、独裁国家から一人でも多くの人を「救う」ことだ。彼はこの点で上司と対立する。

そして彼らの上司は、一番韓国警察らしさを体現する。尋問担当の男を、無理矢理スパイに仕立て上げるなと諌める。そしてジムには、韓国警察の使命を思い出させようとする。

それぞれの人間がそれぞれの立場で「正しい」行動を取ろうとする。それらが、ことある毎に対立してしまう。チョルはスパイであるのかどうなのか、そしてチョルがスパイであるかどうかに関わらずチョルの処遇をどうするか。最後の最後まで、彼らの折り合いはつかない。

そういう物語の進展や対立も面白いが、チョルとジムの関わり合いも物語の中で非常に重要な要素になる。厳しく辛い要素が多いこの映画の中で、二人の関係性は清涼剤のような印象を与える。

もちろん、そこにも葛藤はある。ジムには尋問の領域は関知できないし、組織の一員として辛い命令にも従わなければならない。それでも、チョルを信頼することに組織の一員として特にメリットのないジムは、チョルに出来る限りのことをする。二人の信頼関係がどのように生み出されていくかという過程も見どころだ。

北と南、あまりにも違う価値観によって成り立っている国同士が、お互いの尊厳を掛けていがみ合う。チョルはジムにある場面で、「朝鮮に帰ったら、統一後に会おう」と言う。僕にはそれは、二度と再会できない者同士の挨拶に聞こえた。南北が統一する日は来るのだろうか。この映画を見る限り、その日はまだまだ遠いと考えざるを得ない。

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)