黒夜行

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「The NET 網に囚われた男」を観に行ってきました

正しいこと、というのはいつだって難しい。
というのは、皆が「正しい」と思って行動しても、最終的に良い結果が得られない、ということは良くあることだからだ。

この話はよく、ゲーム理論で登場する。ゲーム理論の最も簡単な話は、二人の囚人が登場するものだ。お互い別の部屋に入れられ、やり取りができない。2人の囚人にはそれぞれ、2通りの選択肢が与えられ、全体で4通りの可能性がある。お互いがベストな行動を取れれば両方にとってメリットがあるのだが、疑心暗鬼もあり、自分なりに「正しい」と思う行動をし、結果的に二人共デメリットを被ってしまう、というものだ。

「正しさ」には、常に評価軸が必要だ。何に対して正しいのか、という軸を意識しなくては、「正しさ」が判断できない。そして、その評価軸が対立する場合、両者の「正しさ」も対立することになってしまうのだ。

船の故障で、北朝鮮から期せずして韓国にやってきてしまった男。
独裁国家である北朝鮮から一人でも多くの人を「救う」ことが使命の韓国の組織。

両者の「正しさ」が、真っ向から対立する。

北朝鮮の男は、祖国に家族を残している。祖国ももちろん大事だが、何よりも家族が大事だ。男はスパイ扱いされ、尋問される。あるいは、独裁国家から「救う」ためとして、韓国への亡命を勧められる。男は北朝鮮に帰るのだと、強硬に主張する。しかし、スパイかもしれないと扱いの中、北朝鮮に帰れる見込みは薄い。

組織にいる多くの人は、北朝鮮に住む人間を「可哀想」だと考えている。独裁国家で自由がなく、資本主義ではないために豊かでもない。しかも、洗脳されているが故に、物事の「良し悪し」も判断できなくなっている。そんなところに住む人間は、同じ韓半島民として「救う」必要がある。北朝鮮から来た男も、あの手この手で「救う」手立てを講じるが、男は韓国への亡命を認めない。

この場合、どちらもきっと間違っているわけではない。北朝鮮の男は、祖国に帰ることが正しいと信じており、家族がおり祖国を裏切ることは出来ないというその理由は、少なくとも彼のこれまで生きてきた理屈の中では正しいだろう。一方で、北朝鮮を「可哀想」な国とみなし、そこから一人でも多くの人を「救う」という姿勢も、決して間違ってはいないはずだ。少なくとも、外側から北朝鮮を見ている者からすれば、北朝鮮に住んでいる者を「救う」という発想は、自然だといえるだろう。

この映画では、その「正しさ」の対立を描きながら、さらに難しい要素を加えていく。

北朝鮮の男は、韓国の街を歩く。資本主義によって成長した、きらびやかな街だ。そこには、北朝鮮に存在しないありとあらゆるモノが存在する。しかし男は、また別の側面を見る。まだ食べられる食べ物やまだ使えるモノが街に捨てられている。また、豊かなはずの街で、金を得るために身体を売らなければならない女にも出会う。

男は問う。「この豊かな国で、なぜそんな苦労を?」と。
それに対して、組織に属するある男は、「自由が幸せとは限らない」と返す。

一方で、北朝鮮に対してもまた、ある視点が挿入される。これは物語のラストに直結してくるのでここでは詳しく書かないが、祖国に戻る、と強硬に主張し続けた男の信念を揺るがせるような描写があり、問題の難しさをさらに押し広げることになる。

世の中が複雑になりすぎて、何が正しいのか分からない出来事が頻繁に起こるようになった。その度毎に、それぞれの側の「正しさ」が声高に主張される。もし、選択的に一方の「正しさ」しか見なければ、あなたはその「正しさ」を信じることになるだろう。トランプ大統領が誕生した背景にも、そういう一方の「正しさ」しか見ないという、現代的な情報の受け取り方があったのだろうと考えている。

「正しさ」は複数存在し、お互い正しいままで対立する。そのことを常に意識しておかないと、僕たちは物事を見誤ることになるだろう。そんなことを改めて実感させてくれる映画だった。

内容に入ろうと思います。
北朝鮮で妻と娘と穏やかな暮らしを営んでいたナム・チョルは、漁師として日々川に船を出していた。韓国との国境付近であるその川岸には国境警備の兵士がおり、常に許可を得て漁に出る。ある日チョルは兵士から、これは仮定の話だが、もし船が故障して国境を越えそうになったら、お前は船を捨てるか?と問われる。男は、船は全財産なので、と答えをはぐらかす。
まさにその日、兵士が言った通りのことが起こった。スクリューに網が絡まったままエンジンを掛けたために船が故障。男はそのまま国境を越えてしまった。国境警備兵が、脱北なのか船の故障なのか判断つきかねている間の出来事だった。
韓国警察に移送されたチョルは、そこでスパイ容疑を掛けられ、尋問されることになる。尋問を担当する男は、朝鮮戦争で家族を失った怒りをぶつけるかのように、スパイ容疑を掛けられた北朝鮮の者たちに容赦なく当たる。明らかに過剰な、暴力を伴った尋問を行うが、それでもチョルは、スパイであるとは言わないし、亡命にも首を縦に振らない。
チョルの警護役についたオ・ジムは、チョルがスパイではないと直感する。尋問担当の男とことある毎に対立し、もしチョルがスパイだったら警察を辞めるとまで啖呵を切る。チョルが厳しい状況に置かれていることに心を痛め、出来る範囲で力になろうとするが、しかし組織の人間であるが故に意に染まない命令に従わざるを得ないこともある。
尋問は繰り返され、また亡命や転向をするようにと説得される。亡命を受け入れさせるために、あくまでも韓国の街を見ないと外にいる間ずっと目を瞑ったままだったチョルを韓国の街中に放置することまでやった。
不屈の精神で北朝鮮に戻ることを訴え続けるチョルは、一体どうなるのか…。
というような話です。

良い映画でした。ストーリーは実にシンプルですが、北朝鮮と韓国という南北の分断が、いかに人々の心を引き裂いていくのか、そして、北朝鮮と韓国という国家同士のいがみ合いの後ろ側で、そこに生きる個人同士は手を取り合うことが出来る可能性があるのか、ということを、全編で強く訴えかけてくる映画だと感じました。

メインどころの頂上人物たちの立ち位置が実にはっきりしているので、物語が非常に分かりやすいし、誰が何で対立しているのかということもよく分かる。

チョルが北朝鮮に帰りたいと強く訴えているということは書いたが、韓国警察内部の面々もそれぞれに立場が違う。

尋問担当の男は、疑わしきは罰するという精神で、とにかくあらゆる手を使ってチョルをスパイだと断定しようとする。イ・サンテク事件の後遺症、という表現がよく出てくるが、どうやら警察を酷く手こずらせたスパイが過去にいたらしい。それもあって、僅かでも疑いがあれば苛烈な取り調べが始まる。

警護担当のジムは逆に、チョルを信頼する。スパイではないと確信し、チョルに寄り添おうとする。しかしその一方で、ジムはチョルを北朝鮮に帰すべきだ、という考えを持っている。本人の意志が尊重されるべきだ、と。しかし韓国警察の使命は、独裁国家から一人でも多くの人を「救う」ことだ。彼はこの点で上司と対立する。

そして彼らの上司は、一番韓国警察らしさを体現する。尋問担当の男を、無理矢理スパイに仕立て上げるなと諌める。そしてジムには、韓国警察の使命を思い出させようとする。

それぞれの人間がそれぞれの立場で「正しい」行動を取ろうとする。それらが、ことある毎に対立してしまう。チョルはスパイであるのかどうなのか、そしてチョルがスパイであるかどうかに関わらずチョルの処遇をどうするか。最後の最後まで、彼らの折り合いはつかない。

そういう物語の進展や対立も面白いが、チョルとジムの関わり合いも物語の中で非常に重要な要素になる。厳しく辛い要素が多いこの映画の中で、二人の関係性は清涼剤のような印象を与える。

もちろん、そこにも葛藤はある。ジムには尋問の領域は関知できないし、組織の一員として辛い命令にも従わなければならない。それでも、チョルを信頼することに組織の一員として特にメリットのないジムは、チョルに出来る限りのことをする。二人の信頼関係がどのように生み出されていくかという過程も見どころだ。

北と南、あまりにも違う価値観によって成り立っている国同士が、お互いの尊厳を掛けていがみ合う。チョルはジムにある場面で、「朝鮮に帰ったら、統一後に会おう」と言う。僕にはそれは、二度と再会できない者同士の挨拶に聞こえた。南北が統一する日は来るのだろうか。この映画を見る限り、その日はまだまだ遠いと考えざるを得ない。

「The NET 網に囚われた男」を観に行ってきました

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「ヒッチコック/トリュフォー」を観に行ってきました

眠ってしまった。
面白そうだなと思って見たんだけど、睡魔に勝てませんでした。

映画は、サスペンスの巨匠と呼ばれるヒッチコックを様々な角度から追うものです。デビット・フィンチャーやマーティン・スコセッシなど著名な映画監督が多数登場し、ヒッチコックについて語ります。

また、映画のタイトルにもなっているトリュフォーという映画監督も出てきます。彼は、ヒッチコックの映画を分析し、映画監督にとってのバイブルと呼ばれる「ヒッチコック/トリュフォー」という本を執筆しました。1週間、毎日7・8時間ヒッチコックと話をした録音テープも映画の中で使われています。

ヒッチコックの映画の映像も使いながら、ヒッチコックの映画監督としての姿を切り取っていく、というような映画です。

断片的に寝てしまったので、うまく評価できませんが、ヒッチコックの映画を見たことがあったり、ヒッチコックについてちょっとは知っている方が楽しめるのかもしれない、と思いました。僕は、ヒッチコックの映画も見たことがないし、ヒッチコックについてもよく知らないで観に行ったので。



「サバイバルファミリー」を観に行ってきました

面白い映画だったなぁ。
純粋に物語としても面白かったんだけど、色々考えさせられる映画だった。

僕は「依存する」という行為が好きではない。好きではない、というか、ほとんど恐怖に近い感覚を持っている。
もちろん、僕らの生活は今様々なものに依存していることは分かっている。電気・ガス・水道、インターネットなどのインフラはもちろん、どんどん便利になる電化製品、スマホであらゆる事が完結できてしまうような環境などが、当たり前のように僕らの生活を支えている。

この変化を悪いと感じているわけではない。

昔は、「生活する」ということだけで毎日が終わっていたのだろう。火を熾し、薪を割り、洗濯物を手洗いし、農作物を収穫する。生活だけで日常が終わってしまった世の中よりは、現代の方がずっと良い。そういう感覚は当然僕の中にもある。「生活する」ということの不自由さが様々な形で解消され、それによって浮き上がった時間を僕らは様々なことに使っている。それらの活動が、新たな発見を生み、新たな技術を生み、人間は益々大きな存在になっていく。そんな風にして出来た環境を丸ごと否定したいわけではない。

けれど、それでいいんだろうかと、僕はふと立ち止まりたくなる瞬間がある。そうやって、便利さを突き進む方向に向かっていって、本当にいいんだろうかという感覚は、僕の中にずっとあるのだ。

確かに、「生活する」ことを便利にする様々なツールは、僕らの生活を豊かにしてきた。ここで言う「豊か」とは、生活に割く時間を別の活動に当てることで、考えたり、学んだり、身体を動かしたりと言った「自分を前進させる活動」にエネルギーと時間を向けることを指している。つまり、人類の便利さの希求は、ある時期までは「生活する時間」を「自分を前進させる時間」に変換するという機能を持っていたはずだと思う。

しかし、生活の便利さは、もうほとんど解消されてしまっただろうと思う。それでも人類は、便利さへの希求を止めない。今僕らが突き進んでいる道は、これまでの「生活する時間から自分を前進させる時間への変換」とは違う。僕の感覚では今は、「自分を前進させる時間」を節約し「怠ける時間」を増やそうとしている。そんな風に思えて仕方がないのだ。

もちろん、「怠ける」という言葉はちょっと強すぎるし、すべての人に当てはまるわけではない。けれど、感覚的には分かってもらえるのではないかと思う。僕が言いたいことは、学んだり考えたりする時間を削って娯楽のための時間を生み出す、そのために様々な便利さが消費されているのではないか、ということだ。

もちろん、娯楽のための時間を生み出すことを豊かさの一つの指標と見ることだって出来る。別に、娯楽を否定するわけでもない。ただ、便利さの希求が向かう先が変わっているのではないか、という意識を持つことは大事ではないかと思うのだ。

「便利だから」という理由で様々なことが受け入れられる世の中だが、結局その便利さは人間の能力を奪っているだけではないのか?様々なテクノロジーのお陰で、僕らは「自分を前進させる時間」を殊更に持たなくてもある一定の知識の保有や思考が出来るようになった。けれども結局それらは、自分の内側にあるのではなくテクノロジーの内側にある。そのことに、怖さを感じないか?

それが何のための便利さで、その便利さに手を伸ばすことで自分の中から何が失われるのか。僕はそのことをいつも考えてしまう。この映画を見て、やはり強くそう思った。

結局人間は、最後には自分の内側にあるものを頼りにして生きていくしかないのだ、と。

自分の内側にあるものというのは、知識や経験と言ったようなものだ。それらは、自分の外側の様々なものが失われても奪われることはない。誰もあなたの頭や手足から、知識や経験を奪うことは出来ないのだ。

便利さは、確実にあなたから何かを奪っている。便利さに奪われても困らないものもある。しかし、便利さに寄りかかることで取り返すことが出来ないものを失うこともある。

生まれた時から圧倒的な便利さの中で暮らしていた世代は、失ったという感覚もないまま出来ないことが増えていく。もちろん、それまでには出来なかったこともたくさん出来るようになるのだが、便利であればあるほど、その「出来ること」は便利さに依存しなければ発揮できなくなる。

便利さが未来永劫失われないなら、何の問題もない。でも、本当にそう信じていいのだろうか?

物語は、実に単純だ。三行でまとめるとこうなる。

突然、電池も含めたあらゆる電気が使えなくなる
当たり前の日常が崩壊し、生存が危ぶまれる。
東京から実家のある鹿児島まで自転車で向かう。

しかしこの単純な物語の中に、様々なことを考えさせる要素が詰め込まれている。

一家は、どこにでもいる普通の家族だ。父親はサラリーマンで、会社ではちょっと偉ぶっていて、家では何もしない。母は、実家の父から送られてきた魚が捌けず、また無農薬の野菜についている虫を嫌悪する。娘は一日中スマホを触って生きている。息子は爆音で音楽を聞きながら、パソコンで色んなことをしている。
ある朝起きると、停電になっていた。会社のビルの自動ドアが開かないから割って入る。電車も動いておらず、会社にも学校にも辿り着けない者が多数。マンションのエレベーターも使えないから、ゴミ出しのついでに買い物を、と思って財布を忘れてきたことに気づいてため息をつく。
原因は一切不明。一週間経っても状況に変化はなし。電気が一切使えないから、ちょっと先の情報さえまるで入ってこない。食料も水もろうそくも尽きかけている。
家族は決断した。鹿児島まで行く、と。羽田空港まで自転車で行けば、きっと飛行機は飛んでる。
その予想は、辛くも打ち砕かれた。
一家は、自転車で鹿児島を目指すという非情な決断をし、道中様々な苦難を乗り越えながら鹿児島を目指すが…。
というような話です。

凄く面白い作品でした。正直そこまで期待しないで観に行ったんですけど、観て良かったなぁ。

まず、「電気が使えなくなった世界」での様々なシミュレーションが面白い。

最初の方は、割と想定できるようなことが描かれる。ガスも水道もダメ。スーパーはほとんど商品がない。信号が消え、車は放置され、ゴミが散乱する。そういう、まあそうだよねぇ、と思うようなところから入っていって、段々、おーなるほど確かにそうなるかもなぁ、と感心させられるような描写が現れてくる。

これから観る人の興を削がないように具体的に書きすぎないようにするけど、僕が感心したのは「トンネル」と「大阪での海産物の炊き出し」だ。

この両者は、「電気が使えなくなった世界」では確かに起こりうると思う展開なんだけど、僕の頭の中にはまったく存在しないものでした。特に「トンネル」の方は、「電気が使えなくなることで、こんなことが商売になるのか」と凄く感心させられました。大規模停電が起こった時の想定というのは国や地方自治体や研究者がやってるんだろうけど、そういうのは基本的なインフラとかがメインになっていくような印象があります。この映画で描かれているのはそういうものではなくて、もっと個人目線のものです。恐らく観る人によっては、なるほどこんな想定したことない!という場面が様々に変わるでしょう。このリアルなシミュレーションが非常に魅力的な作品だと思います。

しかし、撮影大変だっただろうなぁ。電気が使えないという設定だから、画面に電気的なものが映り込んではいけないし、「街中にゴミが散乱してる」とか「高速道路を人が歩いたり自転車が走ったりしてる」という状況を作り出さないといけないわけです。かなり後半で、家族が野犬に襲われるんだけど、そんな一家を結果的に救う形になったある存在も、撮影のために引っ張り出してくるのはなかなか難しかったんじゃないかと思わせるものでした。

そして映画を観ながら、冒頭で書いたようなことをあれこれと考えさせられました。この映画では「電気がなかったら」を描き出していますが、決して電気に限りません。僕らの生活は、ありとあらゆる「あって当たり前のもの」に支えられていて、僕らは普段そのことをあまり意識しない。例えば、「電気」ではなく「インターネット」がなくなっただけでも、世界中は大混乱に陥るでしょう。「文字」「お金」「法律や道徳」「太陽」など、僕らの生活を成り立たせている「あって当たり前のもの」は様々です。これらがなくなったら…、と想像してみるのは、非常に面白いなと思いました。

また、これはこの映画に限らず色んなところで描かれるでしょうが、危機においてはやっぱり女性の方が強いだろうな、と思いました。父親は、「俺についてくれば大丈夫だ」と威勢の良いことは言いますが、結局何が出来るわけでもない。一方で母親は、様々な場面で状況を進展させたり後退させないようにする行動を取る。もちろん、すべての男女がそうではないだろう。実際にこの映画でも、「停電になっていることを楽しむ一家」というのが登場する。その雰囲気は、両親が共に作り上げているものだ。主人公一家とは大違いで、その対比も面白い。

「◯◯がもしなくなったら…」なんていうことは、普段あまり考えずに生きていられる。けれど、自分の生活がどんな「あって当たり前のもの」に支えられているのかは、考えてみた方がいいかもしれない。この映画のような、原因が分からないまま電気が使えなくなる、という状況はまあまず起こらないでしょう。しかし、様々な自然災害によって近い状況が生み出される可能性は常にあるし、今後日本が戦争に巻き込まれないとも限らない。そうなった時に、自分がどんなものを失ってきたのか分かるのでは遅いかもしれない。自分が今どんな便利さの中にいて、その便利さが何を奪っているのか。それを把握することは、人生を強固にする上で大事なことかもしれません。

「サバイバルファミリー」を観に行ってきました

「虐殺器官」を観に行ってきました

「無関心」の物語だ。
この作品はそれを、「社会」と「人間の機能」の両面から描き出す。

『人間は、見たいものしか見ない』

これはこの作品の中で、繰り返し語られる。自分の関心の範囲しか見ようとしない。見たくないものは見ない。そういう社会が明確に構築されている。

それは、僕らが生きているこの現代社会でも、程度はともかくとして既に存在する。

作品で描かれる世界では、それがより誇張される。9.11のテロによって、人々のテロに対する意識は大きく変容した。人々は、プライバシーをある程度以上捨てることを受け入れることで、テロによる脅威を排除する選択をした。そういう社会が舞台だ。

そういう社会では、人々は様々なデバイスと接続している。それは、紙幣を排除するような便利さを生み出しもするが、同時に、どこで誰と何をしているのかを常に監視される生活でもある。人々は、監視されていることが当たり前である世の中を生きる。社会インフラが、既にそのように整備されているのだ。

そしてそんな社会の中で人々は、便利さを徹底的に享受する。レジでお金を出したり、外国語を勉強したりしなくても済む社会の中で、人々はその便利さによって浮き上がった時間を“有意義”に過ごす。アメフトを見ながらピザを食べ、爆音の中でダンスをする。

それが当たり前だからだ。

人々にとって便利さは、水道の水のようなものだ。ひねれば、出てくる。あって当たり前。水道の水がどれほどの手間を掛けて家庭まで届くのかを想像する必要などまったくなく、いつでも安全な水を手に入れることが出来る。人々の、便利さに対する欲求はいつの世も変わらない。僕らの社会も、より便利さを追求する方向に突き進んでいる。

そして、便利になればなるほど、その便利さがどう生み出されているのかという関心が失われていく。

どれだけ科学技術が発達しようとも、最終的にその便利さを生み出しているのは人間だ。Amazonが最速で荷物を届けることが出来るのは、配送業者の努力のお陰だ。様々な製品が安価で手に入るのは、低賃金で働かされている発展途上国の人たちの労働のお陰だ。光り輝くダイヤモンドも、それが高貴な人の手に収まるまでに大量の血が流れているのだ。

僕らに、その現実は見えない。何故なら、見たくないものは見なくて済むように社会が出来ているからだ。僕らが「便利さ」と呼ぶものの中には、そういう都合の良さも組み込まれている。

新聞やテレビは、何らかの形で収益を上げなければならない。その一番の方法は、受け手の関心の高い情報を届けることだ。受け手は、自分たちの生活がどんな苦労の上に成り立っているのかなど知りたくない。だから、新聞もテレビもあまりそれらを報じない。

ネットがあるじゃないか、と思うだろう。その通り。ネットには素晴らしいくらい様々な情報がある。しかし、じゃあどうやってその情報にたどり着くのか?結局それは、あなたの「関心」からスタートするしかない。あなたが関心を持たなければ、その情報はあなたの元には届かない。情報の拡散のされ方も、結局は人々の関心の総和次第だ。

僕らは便利さを目指す中で、もしかしたら無意識の内に罪悪感を抱いているのかもしれない。自分が享受している便利さは、世界中すべての人が得られるものではないことは分かっている。この便利さが、どこにでも当たり前に存在するものではないことを知っている。それはある種の罪悪感となって自分の内側に溜まる。無意識の内に、便利さを支える構造を知りたくないと感じる。その、僕ら自身には感知出来ない無意識の衝動が積もりに積もって、この無関心な社会が生まれているのかもしれない。

この作品には、そんな社会の無関心さをある意味で逆手に取った男が登場する。物語のキーパーソンだ。彼は研究によって、ある発見をした。人間の脳には、ある機能が備わっていることを発見し、その機能を発露させる方法を見いだしたのだ。

その機能は、人間を無関心にするわけではない。しかし、無関心にするという機能を内包しなければ成立しないだろう、とも感じる。人間が生まれながらに持つとされるその機能が、人間社会全体の無関心さと結びつくことで、社会全体がどんな状態に陥るのか。この作品は、その可能性を描き出している。

人間は、自由や便利さや快楽を追い求めるためにどこまで残虐になることが出来るのか。ある意味でそれが問われる作品だ。人間の残虐性は、様々な発露を取る。しかし、もしかしたら人間の最大の残虐性は、「無関心」という形で発露されるのではないか。そして、「便利さ」と「無関心」は否応なしに対を成すが故に、僕らが今生きている社会も、そしてこれから目指すことになる社会も、この作品が示唆するような残虐性を発露するようになるのではないか。そんな風に思わされた。

物語のメインの舞台は、2020年のグルジアから始まる。アメリカ情報軍特殊検索軍i分遣隊に所属するクラヴィス・シェパードは、ある暗殺ミッションのために派遣された。グルジアでの内戦を指揮したとされる首相と、その日会う予定になっていたアメリカ人。アメリカ軍の目的はその人物だった。ジョン・ポール。彼は結局その場に現れず、それどこころか、PTSDを発症しないようにと調整されたプログラムが齟齬を起こし、仲間の一人がPTSDを発症。緊急避難的にクラヴィスは、仲間を撃ち殺すことになった。通常彼らは暗殺の際、「感覚適応調整」や「痛覚マスキング」などを施されることで、戦闘に適した心理状態を維持したり、状況に応じた的確な判断が出来るようになっている。いわば「戦闘マシーン」とでも言うような状態で、彼らは心を乱されることなく、仕事として戦闘に従事する。
暗殺ミッションに失敗した彼らには、ジョン・ポールについての情報が知らされる。元々はMITで学んだ言語学者だったが、その後、国家などをクライアントとしてイメージ戦略を提案するインターメディアグループに入社し頭角を表す。担当する国で様々な成果を生み出し、国家の補佐官に就任するも、彼が関わった国では常に内戦や虐殺が発生するという事態が浮上した。国防総省とも仕事をしていたジョンの存在はアメリカ政府にとっても悩みの種であり、一刻も早く拘束する必要があったのだが、CIAがその任務に失敗したためにクラヴィスらに回ってきたのだ。
彼らは、ジョンが最後に目撃されたというプラハで潜入捜査を開始する。そこには、ルツィア・スクロープバという、チェコ語を外国人に教えることで生計を立てている女性が暮らしている。ジョンが最後に目撃されたのは、そのルツィアの部屋だ。5年前、サラエボで起こった手製の核爆弾によるテロ。ジョンはそのテロで妻子を失ったが、その時ジョンはルツィアと不倫の真っ最中だった。
クラヴィスはルツィアと接触し、ジョンに繋がる情報を得ようとするが、その過程で彼はルツィアに心惹かれるようになり…。
というような話です。

面白かったし、カッコ良かった。
僕は正直、原作を読んだ時は、ストーリーそのものが理解できないくらい、全然読めなかった。とにかく、難しかったという記憶しかない。SF的な世界観を理解することがそもそもとても苦手だった、ということも要因として間違いなくあるのだけど、作品が持つ思索的な部分に、恐らくまったくついていけなかったのだと思う。その後も伊藤計劃の作品は読むが、本は難しくて歯が立たない、という印象をずっと抱いていた。

この映画は、原作がまるでお手上げだったそんな僕でも十分に理解出来、楽しめるような作品だった。

基本的には、戦争の物語なのだ。クラヴィスは様々な戦場に派遣されては、治安維持のために戦闘を繰り返す。普段はアメリカで便利さを享受する身だが、仕事となれば内戦や虐殺の頻発する途上国で危険な任務につく。慎重に感情が調整されるので、戦争に従事しているという事実は、クラヴィス自身には深刻な影響を及ぼさない。アメリカで便利さを享受するクラヴィスと、途上国で戦争に従事するクラヴィスは、基本的に切り離されている。

戦争が葛藤を生み出さない、という意味で、戦争を扱った作品とは一線を画すだろう。この作品の中では、「戦争」というのは、ある種の背景でしかない。クラヴィスらにとっては、「職場」と表現してもよいものだ。「戦争」が舞台でありながら、「戦争」そのものは背景でしかないという構造は、それそのものが「無関心」を浮き彫りにする枠組みである。

クラヴィスが葛藤にさいなまれるのは結局のところ、自らの無関心が何を引き起こしているのか、その現実を認識することによってだ。結果として耐え難い現実が引き起こされている。それがどういう理屈でどのようにして生み出されたのも理解した。しかし、結局のところその土壌となっているのは、自らの無関心なのだ。恐らくクラヴィスの葛藤は、こういう部分に端を発している。

『君たちは心に覆いをすることで無感覚になることを許容する。それは、子供を殺すことそのものより残虐だ』

ポールがクラヴィスにそう言う場面がある。これこそが、この作品の底に流れる本質的な部分であり、クラヴィスが自らが属する社会に疑問を抱くきっかけとなった部分なのだろうと思う。

なにせクラヴィスらは、テロを撲滅するのに必要だからという理由で、暗殺などに従事しているのだ。しかし、その自分たちが享受している便利さ、そしてそれが生み出す無関心こそが遠因となってテロが引き起こされているのだ、と知ることは衝撃だろう。クラヴィスはジョンを非難したい。しかしジョンと喋れば喋るほど、自分たちがしていることとジョンがしていることの境目が分からなくなっていく。やり方が違うだけで、結局同じことをしているのではないか?クラヴィスの葛藤は、観客にもそういう問いを突きつけることになる。

ジョンがあることに全精力を傾けている動機は、まさに今(というのは、トランプ大統領が就任した直後の混乱した社会の中で生きている今、ということ)、全世界的に声が上がるようになった発想と非常に近いものがあるだろう。彼らの過激な発言は、どう見るかによって見え方がだいぶ変わる。良い風に見ようとする人が多いからこそトランプ大統領が誕生したのだろう。そう考えると、ジョンの動機に賛同する人は、思いの外多いのかもしれないとも感じる。

ジョンの動機が許容される世界は、僕は受け入れたくない。これは生理的な理由だ、としか言いようがない。正しい正しくないの議論は成立しないだろう。「愛する人を守るためなんだ」という、その動機の背景にある思いは、人の心を強く揺さぶるからだ。

それでも、僕は生理的に、ジョンの動機を拒絶する。

一方で、ジョンに対する嫌悪感は、思った以上にはない。それは恐らく、ジョンが自覚的だからだ。自らの「残虐性」を、きちんと自覚した上で行動しているからだ。

無自覚なまま「残虐性」を発揮される方が怖い。そしてそういう人は、世界中に存在する。僕も、片足を突っ込んでいるのかもしれない。それも怖い。自分の行動が、どんな悲劇を生み出しているのか、それがわからないことが怖い。

『仕事だから仕方ない。その言葉がこれまで、凡庸な人間からどれだけ残虐さを引き出してきたか』

僕たちは、とても便利な世の中に生きている。その便利さが何によって生み出されているのかなどまるで考えることなく、その便利さを手軽に享受することが出来る世の中に生きている。しかしその便利さは、必ず誰かの犠牲の上に成り立っている。そしてその歪みは、様々な形で現れる。しかし僕らは、便利さの膜に包まれているが故に、その歪みの発露を目にせずに済む。この作品が描き出す現実はそういうものだし、まさにそれは僕らが生きている現実に連なる世界だ。

トランプ大統領が生み出した、自分たちさえ良ければいいという風潮は、決して世界を豊かにしない。そう分かっていても、一度手にした便利さを手放すことも出来ない。僕らは、ただ生きているだけで、遠くのどこかにいる誰かを苦しめている。せめてそれぐらいの事実は意識して生きていきたいと思う。

「虐殺器官」を観に行ってきました

「赤目四十八滝心中未遂」を観ました

意志を持たないように生きるようにしてきた。
昔から、こうしたい、ああなりたい、というような感覚があまりなかった。時々そう感情になると、なんだかうまくいかないことが多かった。別に、したいことがあっても、どうしてもしたいわけでもなかった。だから、そういう感情を持つのをやめるようになった。

そういう人生に、特に不満はない。ある程度、僕を押し流してくれる環境があるから、ということもある。僕にはあまり意志はないのだけど、僕をこういう方向に動かしたい、と思ってくれる人が、時々周りに現れる。そういう人に押し流されるようにしていきてきた。自分で意志を持つよりも楽だし、与えられたもの、求められたことを少しずつこなしていく生き方は、性に合っているのだと思う。

ただやっぱり時々、自分の意志を強く持って前に進める人を羨ましく感じることもある。そうやって、自分の足でしっかり地に立っている人を見ると、いいなと思う。僕にはそういう生き方は出来ないことが分かっているから、強く憧れるなんてことはもうないけど。

内容に入ろうと思います。
生島与一は、釜ヶ崎から流れて尼崎にやってきた。中退とは言え大学に行ったことがあるという経歴は、釜ヶ崎では特異な経歴で、尼崎で生島の世話を頼まれた勢子は彼に、焼き鳥の串刺しの仕事を与える。ボロアパートの一室で、生島は日々臓物を切り、串に刺していく。
そのアパートには、様々な人間が出入りする。娼婦、彫師、少年。彼らは余所者である生島と一定の距離感を保ちながら、余所者である彼に時折頼み事をする。生島はそれらを、特に問いただすことなく受け入れる。こうしたい、という意志を持たずに、生島の周辺を通っていく様々な人間に流されるようにして、尼崎での生島の日常は進んでいく。
尼崎を去る日はいずれくるのだろう、と思いながら。
というような話です。

不思議な映画だったな、というのが一番の印象です。
この映画は、詳細がほとんど描かれない。2時間40分という、普通の映画よりも長い印象なのだけど、舞台や人物の詳細がほとんど描かれない。何故生島が釜ヶ崎に、そして尼崎に流れ着いたのか、勢子は生島を何故受け入れたのか、彫眉が生島に預けたものにはどんな意味があったのか、ほんの僅か明らかにされる生島の過去の詳細はなんなのか、何故尼崎の多くの人が生島に「あんたはここでは生きていかれへん」と言うのか、何故生島はいずれ尼崎を去る日が来ると直感しているのか…。
そういった背景や詳細は、ほとんど描かれない。だから、生島についても、生島の周囲の人間についても、ほとんど謎しかない。

そういう状況の中で何が描かれるのか。それは、「意志を持たない生島」と、「意志を持たない生島を動かす周囲の人間」という関係性だ。この映画の核は、物語でもセリフでも映像美でもなく、その関係性ただ一つだと僕は感じた。

主人公であるはずの生島は、基本的にはただの傍観者だ。自分の生活をどうするかという関心や、自分の生活を動かしていくための行動をほとんどしない。彼は、自分の周囲で起こることに、積極的に関わる意志を持たないまま観察をしている。それが生島のスタンスだ。

そんな生島に、様々な人間が「動機」を与える。生島が行動するための動機だ。それらはどれも、微かに犯罪の香りを漂わせるのだけど、生島は殊更に疑問をぶつけるでもなく、それらの行動を実行する。何故周囲の人間が生島にそれをさせたいのか、そして生島が何故それを引き受けるのか。そういうことは一切描かれないまま、動かす周囲と動く生島の関係性だけが淡々と描かれていく。

特に物語らしい物語もないまま(背後で何かは起こっている気配は感じるのだけど、その詳細は観客には知らされない)、その関係性だけを描くことで映画は展開されていく。それが非常に奇妙だなと僕は感じた。普通はそんな映画は成り立たないと思う。何故それらが描かれているのか全然理解できないまま、頼む側の理由も頼まれる側の動機も分からないままで彼らの関係性だけを見せられるのは、苦痛だと感じられてもおかしくない。ただこの作品が映画として成立しているのは、人物の存在感にあるのだろうと感じた。生島はともかくとして、彼の周りにいる人間の存在感はとてつもなく濃い。喋らなくても、その佇まいで何かを発している。だからこそ、この奇妙な映画を観続けることが出来る。

半分以上過ぎてから、物語は大きく動き始める。とある事情で生島が尼崎を離れることになるのだ。どうしてそういう展開になるのかはここでは書かないが、結局生島は誰かの意志によって動かされ続けることになる。というか、生島がそういう人間だからこそ、生島は選ばれたのだろう。

その後の展開も、スッと受け取れるようなものではない。現実と妄想が入り組んだような場面が展開されたり、二人の行動原理をきちんと汲み取れなかったりと、なかなか捉え方が難しい。ただ、何らかの形で追い詰められた人間のもがきや葛藤みたいなものが随所に現れ出ている感じがした。追い詰められた人間の理屈に合わなさ、意味の分からなさみたいなものが切実に描かれているように感じられた。

個人的には、「新明解国語辞典」が出てきたのが面白かった。非常に個人的な理由で、なるほど、と思った。

「赤目四十八滝心中未遂」を観ました

「ドントプリーズ」を観に行ってきました

いやー、メチャクチャ怖かった!
映画館の座席の上で、何度飛び上がったことか!

セキュリティ会社勤務の父(もしかしたら経営者なのかもだけど正確には分からない)を持つアレックスは、想いを寄せているロッキーと、その彼氏であるマネーの三人で、強盗を繰り返している。アレックスが父の書斎から盗み出す鍵を使って安全に侵入し、事を成し遂げるのだ。
マネーは、盗品の売却相手から耳寄りな情報を聞く。陸軍の退役軍人が一人で住んでいる家があるのだが、そこに大金がある、というのだ。かつてその家の娘が交通事故で亡くなった。加害者が金持ちの娘だったために、示談金としてかなりの額をもらった、というのだ。調べてみると、確かに情報は正しいようだ。近隣の家は空き家。しかもその退役軍人は盲目だ。仕事は楽勝に思えた。
しかし…。
いくつもの鍵がつけられ、窓には鉄格子が嵌められた要塞のような屋敷には、凶暴さを見せる犬まで飼われていた。彼らはなんとか侵入に成功し、大金が入っていそうな金庫にたどり着く。マネーが銃を取り出したのを見てアレックスは自分は降りると宣言して帰ってしまう。その後、ロッキーとマネーは家主に見つかってしまう。
銃を奪われたマネーは、そのまま撃ち殺されてしまう。クローゼットに隠れたロッキーと、銃声を心配して戻ってきたアレックスは、盲目の老人相手に生死を掛けた大脱出劇を繰り広げることになる。
生きて出たければ、音を立てるな。
というような話です。

観ながら、「とにかく早く終わってくれ」とずっと思っていました。ホントに怖い。冒頭でも書いたけど、何度も座席の上で飛び上がりました。大げさではなく。隣の席の人にも気づかれてる気がして恥ずかしい…。

強盗二人と老人の闘いは、「まだ先があるのか!」と思うような壮絶な攻防です。詳しいことは書きませんが、ここで映画は終わったな、メチャクチャな映画だったな、と思った後も話が続くんです。もうこれで絶対死んだわ、と思うところで生き延びたり、あーこれでやっと生き延びたね!っていうところからどん底に突き落とされたりと、とにかく予想外の連続すぎて疲れました(笑)。ホントに、もういいから早く終わってくれ、ってずっと思ってました。

しかしこの映画はホント、設定が絶妙だったな、と思います。盲目の退役軍人と要塞のような屋敷、という取り合わせで、ここまでスリリングな展開を生み出せるのか、と感心しました。目は見えてないから、銃を持った老人と強盗が同じ空間にいる、という場面も多々あるわけです。この緊迫感は凄まじかったです。老人は、人を殺すことにはためらいはないので、音を立てたら絶体絶命です。しかも、目が見えないとはいえ、フィールドは長年住んでいる自宅。二人いて目が見えるとはいえ、今日内部構造を知ったばかりの強盗たちとはなかなかいい勝負です。

しかも、途中で物語に新たな要素が加わります。これについても言えませんが、この要素も彼らの闘いを描く上で非常に重要なパーツになっていきます。というのも、この新たな要素が加わることで、「強盗が大金を盗む」という単純な構図から逸れ、老人・強盗双方にいくつかの選択肢が生まれるからです。ただ金を奪って生き延びる、というだけではない要素が加わることで、生死を掛けた闘いの中で彼らが悩む場面が出てくる。それも、物語全体を盛り上げる上で非常に重要になってくる。一つ要素を加えるだけでガラッと状況が変わるので、うまく考えたなと思いました。

物語全体はとにかくスリリングで面白かったんだけど、とにかくアレックスが可哀想だったなぁ。アレックスは当初、この計画に乗り気じゃなかったわけです。それなのにやることになって、しかもこんなムチャクチャな状況に放り込まれて、あぁ憐れである。

「ドントプリーズ」を観に行ってきました

「沈黙」を観に行ってきました

僕に信仰心がないからだろうか。
僕には、日本のやっていることが正しく感じられる。

もちろん、人の命を奪ったり、拷問に掛けたりすることを是としているわけでは決してない。
それらの行為は、最低だと思うし、認めてはならないと思う。そこまで是としているわけではない。
ただ、日本側の「態度」という意味で言えば、圧倒的に正しいように見える。
それは、僕が宗教を信じておらず、かつ日本人だから、なのだろうか?

この作品の中で登場する「日本」は、「キリスト教」を決して否定しているわけではない。
キリスト教が存在することは許容しているし、ポルトガルでは正しい考え方だ、ときちんと認めている。
キリスト教を絶対的な悪とみなしているのではなく、日本にとっては危険だ、と断じているだけだ。

この態度は、とても真っ当だろうと僕は感じる。
僕は、実はこの映画でイメージを覆された。キリシタンを弾圧していた頃の日本は、キリスト教を絶対的な悪と捉えていたのだろう、と考えていた。キリスト教という宗教そのものを憎み、それを信じるものを人ではないものとして扱って弾圧していたのだろう、と。しかし、この作品を信じる限り、そうではなかったようだ。日本は、キリスト教をきちんと認め、尊重し、理解していた。その上で、ただ日本から排除しようとしていただけだ。

しかし、この作品の中で登場する「キリスト教」は、違うスタンスを持っている。彼らはキリスト教を、「絶対的に正しいもの」と捉えている。

「日本」が「キリスト教」に、「あなたがたの宗教は認めるが、しかし今の日本には合わないだけだ」と言う場面がある。そこで神父(パードレ)の一人は、こう反論する。

『我々は真理をもたらした。真理とは、普遍的なものだ。どの国でも、どの時代でも正しい。もしこの国で正しくないというのであれば、それは普遍ではない』

僕が強烈な違和感を抱き、この作品に登場するキリスト教を受け入れることが決定的に出来なくなったのは、まさにこのセリフを聞いてからだ。日本がキリスト教を排除しようとしたことも仕方ないと思える。

作中で、通訳と神父が仏教とキリスト教について議論する場面がある。通訳は、「日本にも仏教という宗教がある。キリスト教は仏陀を低くみているようだが、同じようなものだ」というような主張をする。しかしそれに対して神父は、「仏陀は人間だが神は創造主だ。全然違う」と受け入れない。

ここに、決定的な差を感じることが出来る。

日本は、いくつもの考え方を受け入れることが出来る。日本は、キリスト教の考え方を受け入れている。しかし、日本という国全体を考えた時、キリスト教の考えが広まることは危険だから排除する、という考え方だ。しかしキリスト教は、キリスト教こそが唯一の真理であり、それ以外はすべて間違っているのだから、皆キリスト教を信じるべきだ、という態度を見せる。

その考え方は間違っている、と僕は感じる。

『人の心に干渉してはならん』

その通りだと思う。もちろん、「キリスト教を棄教しろ」とキリシタンに迫る日本も、「人の心に干渉している」という点では同じだ。そういう非難は受け入れるしかない。しかし、日本がやろうとしていることの本質は、百姓たちの心を改宗させることではない。キリスト教を否定することでもない。キリスト教に絡む各国の日本における勢力を排除したいだけだ。

作中で、奉行が殿様と四人の側室の話をする場面がある。四人の側室は皆美しかったが、その四人は争いが絶えなかった。そこで殿様は、四人の側室全員を追い出してしまった。この話についてどう感じるか問われた神父は、「殿様は賢い」と答える。
そしてその上で奉行は、殿様が日本で、四人の側室がポルトガルを始めとするキリスト教の国なのだ、と語る。その四カ国が、日本を舞台に争っている。その影響を排除したい。日本の目的はそこにある。

日本が取る手段の是非はともかくとして、日本がやろうとしていることの本質は「人の心に干渉する」ことではないと分かるだろう。そういうスタンスを感じられるからこそ、僕は、日本がキリシタンを拷問したり殺したりするのを目にしても、日本の態度を許容したくなる。

キリスト教は違う。キリスト教は、自分たちが「唯一」正しいと信じていて、その唯一正しいことを信じていない者の心を変えようとする。それそのものが、彼らの目的なのだ。

そういう態度を、僕は許容することは出来ない。だから彼らに対して、違和感を覚える。

『我々の宗教は、この国には根付かない』

この言葉も、実に興味深い。日本には当時、キリスト教を信じるキリシタンが多く存在した。しかし作中のある人物は、彼らが信じているのは、我々が信じているキリスト教ではないのだ、と語る。神父自身も、日本にやってきて様々な場面でキリシタンの現実を見る中で、その違和感を掴み取っていたはずだ。信仰ではなく形あるものを求める態度や、天国の解釈などに、そういう違和感を覚えたはずだ。しかし彼は見ないふりをした。日本にはキリシタンがおり、そのキリシタンは自分たちと同じキリスト教を信じているのだと信じた。

しかしそうではない。奉行も断言する。『あなた方がこの国にもたらした宗教は、別のものに変わったのだ』と。

『彼らは自然の内側にしか神を見出さない』

違いを知り、それを認めることこそ、異文化を理解する上で最も大事なことだろう。日本はそういう態度を持っている。しかしキリスト教はそういう態度を持っていない。正しさは自分たちの側にある、と信じている。

僕には、理解が出来ない。

内容に入ろうと思います。
17世紀。ロドリゴとガルペは、宣教師の師であるフェレイラが、日本で棄教したという噂を耳にする。キリスト教弾圧下の長崎で、キリスト教を捨て、日本名を持ち暮らしている、と。高名な宣教師であった師匠の棄教を受け入れられない二人は、強く申し出て日本へ向かう許可をもらう。フェレイラを探し、師の魂を救うために。
マカオにただ一人いると教わった日本人、キチジローを案内役に選び、二人は日本へとたどり着いた。キチジローの案内で彼らは、トモギ村という隠れキリシタンの村へと案内される。二人はパードレ(神父)と呼ばれ、次々と断罪され不在となった神父を務め、隠れキリシタンから慕われた。しかし、弾圧下の日本での生活は厳しく、日中は山奥の小屋から一步も出られない生活を強いられた。フェレイラの行方も当然分からない。特にガルペに苛立ちは募っていく。
キチジローの案内で五島に向かうことになったロドリゴは、そこでも信仰の強さを知り、自分の存在価値を改めて認識する。しかし、トモギ村の「じいさま」が隠れキリシタンであるとして捕らえられた。そして結果的に、ロドリゴとガルペが村にやってきたことでお上に目をつけられた村人数人が、見世物的に処刑されることとなった。ロドリゴとガルペは別行動することを決断し、ロドリゴは五島へと戻るのだが…。
というような話です。

色々と考えさせられる重厚な作品だった。冒頭で書いたようなことに加えて、僕が映画を見ながらずっと感じていたことは、「祈る者が弱く見える」ということだ。

キリスト教の教えを、僕は知らない。「祈ること」にどんな意味や効果があると教わるのか、僕は知らない。けれどきっと、祈ることは、キリスト教(に限らず多くの宗教でそうなのだろうが)では非常に重要なことなのだろう。そして祈っている者は、祈ることで強くなれると信じているのではないかと感じる。

確かに、そういう側面はあるだろう。
世の中の多くのことは、祈ることで解決できるかもしれない。というのは、世の中の多くの事柄は、自分の気持ち一つで大きく変わるからだ。同じ状況を前にしていても、心を強く持っている者とそうでない者では、前者の方がよりその状況に対処出来るだろう。他人や状況を変えようとするよりも、自分が変わるほうが遥かに楽だし実現性は高い。祈るというのは結果的に、そういう効果をもたらすだろう。

しかし当然のことながら、祈ることでは解決できない事柄もある。そして、そういう事柄に対して「祈ること」は、一切無力だ。

そして、そういう状況に直面した時、祈る者は普通の人より弱く見えてしまうのだと思う。

祈ることで物事に対処してきた人間は、どんな場面でも祈れば解決すると考えがちだ。しかし、当然そんなことはない。祈るメンタリティのない人間は、自分の気持ち一つでは対処できない状況に直面すれば、実際的な行動に移そうという発想に至るだろう。しかし祈る者は、自分の気持ち一つでは対処出来ない状況に直面しても、祈れば解決すると考えて、それ以外の具体的な行動を取らない傾向が強いのではないか。

祈ることでは解決できないことに対して祈るのは、無意味だ。そして、そのことに気づかない、あるいは気付こうとしない姿が、客観的に見て弱さを感じさせるのではないか。僕は映画を見ながらそんなことを考えていた。

だから、キチジローは強いのだと、僕は感じてしまう。

キチジローは、8年前に踏み絵を踏んだ。他の家族は全員踏まずに殺された。トモギ村でも、マリア像に唾を吐けと言われて、キチジローだけがそうした。他の者は殺された。

祈ることでは解決出来ない状況に対して、実際的な行動を起こしたキチジローは、僕の価値判断からすれば強い。キチジローは、自分が弱い生き物だと悩み苦しむが、僕はそうは思わない(まあ、人を裏切る行動を取る、という行為の是非はまた別だけど)。彼は、状況に対応するための正しい行動を取っただけだ。

一方で、踏み絵を踏んだり唾を吐けなかった者は、そのまま殺された。彼らは強いと言えるのだろうか?信仰を守ったという強さを讃えたい人はいるだろう。しかし、状況に対処するための行動を取れずに祈ることしか出来なかった、という意味では、僕は弱いとしか感じられなかった。

『私も神に祈った。しかし役に立たん。神は沈黙するが、お前は?』

ロドリゴ神父はある場面でこう問われる。この問いこそ、まさに本質だと感じた。祈ることは、役に立つこともあれば立たないこともある。祈ることが役に立たない時、お前はどうするのだ?その問いに、ロドリゴは沈黙してしまう。

『これほど苦しむ彼らに、神の沈黙をどう説明する?』

ロドリゴ神父自身も、こういう問いを内在させた。しかし、そこから思考を進めることが出来なかった。僕には、そういう部分にキリスト教の弱さを感じてしまった。もちろん、世の中に完璧なものなどない。しかし、自らの不完全さをきちんと認識した上で進んでいくことは出来るはずだ。僕は宗教全般に詳しくないが、仏教なんかは割とそんな性格がありそうな気がする。キリスト教にも、宗派によってはあったりするのかもしれない。この映画の中のキリスト教には、なかったようだ。

この映画を日本人はどう見るのだろう?そして、キリスト教徒はどう見るのだろう?その点に非常に関心がある。宗教を信仰しているという意識のない日本人は、この映画を見て僕のような感じ方をするのではないかと思うがどうだろう。キリスト教徒はこの映画を見て何を感じるか。僕が感じたような違和感を理解するだろうか。あるいは、キリスト教の正しさを感じるだろうか。時代が全然違うから、この映画で描かれる問題が今自分が信じているキリスト教と関わると感じないだろうか。

何かを信じることの難しさについて考えさせてくれる作品だった。

「沈黙」を観に行ってきました

「ヒトラーの忘れもの」を観に行ってきました

戦争は、勝っても負けても虚しい。
戦争から学べることは、それだけだ。

戦争を始めることは、きっと容易い。
戦争は国同士の争いのはずだが、戦争のきっかけを作るだけならきっと、個人でも出来てしまうのだろう。
しかし、戦争を終らせることは容易ではない。

戦争の「終わり」は、何かの儀式が境になる。
戦争を終わらせましょう、という調印をするとか、なんちゃら会談で合意しました、みたいな。
でも、それは「歴史の教科書上」の区切りにしかならない。

人それぞれ、「戦争が終わった日」というのは違うのだろう。
日本人なら、玉音放送を聞いた日、満州から帰還した日、シベリアから帰還した日、南方から帰還した日、息子の死がはっきりと分かった日…。あらゆる日が、誰かにとっての「終戦日」となり得る。人によっては、まだ戦争は終わっていない、という人もいるだろう。

東日本大震災で、福島第一原発が大変なことになった。あの時、僕はこう感じた。制御できないものを保持するべきではない、と。
僕は「科学」というものを信じている。純粋に科学的な見地のみから判断すれば、原発というのは素晴らしいエネルギーである可能性もあるだろう。しかし、科学は科学単体では存在できない。必ず人間が介在する。そして、人間という要素が加わると、原発というのは制御できない代物に変わる。

戦争も同じだ。戦争には、必ず人間が介在する。そして戦争は、容易く始められるが終わらせるのは困難だ。人間が始めたことであっても、人間が終わらせることが出来ない。そういうものに、僕らは関わってはいけないのだと思う。

戦争は、ガンのようなものだ。人間という生き物の社会でしか存在し得ないのに、戦争は人間の社会を壊す。自身が属する社会を壊滅させながら巨大化し、いつか宿主そのものと共に滅びる。

戦争が起こるかもしれない。そんな予感を抱えている人は多いのではないだろうか。戦争は、誰も望んでいなくても始まる。そして始まってしまえば、個人で止められるようなものではない。

この虚しさをきちんと理解しておくこと。そういう態度を一人でも多くの人間が持つことでしか、「戦争が始まらない社会」を継続させることは出来ないのではないだろうか。

内容に入ろうと思います。
1945年5月、デンマーク。戦争に敗れたドイツ兵がデンマーク兵に追い立てられるようにして国外へと追いやられている。戦争は終わった。しかし、終わっていないものがある。
デンマークには海岸沿いに、220万個とも言われる莫大な地雷が埋められている。埋めたのは、ナチスドイツだ。周辺の欧米諸国の合計数よりも多いと言われるこの地雷を除去するために使われたのが、ドイツの少年兵だ。
ラスムスン軍曹が指揮するのは、11名の少年兵。彼らは、4万5千個の地雷を除去するように命じられた。終わったら国に帰れる。その希望だけを胸に、彼らは死と隣合わせの危険な任務をこなす。
祖国の罪を少年兵だけが一身に背負わなければならない理不尽。死を間近に感じざるを得ない環境。軍曹に対する怒りと諦め。そして、上官からの命令で意に染まぬ任務をやり遂げなくてはならない軍曹の苦悩…。
終わっているはずの戦争の後始末をさせられる少年兵と、彼らを監督する苦悩する軍曹の関係を描く物語だ。

戦争の物語に触れる度に感じることがある。
それは、「人として真っ当な生き方を貫きたい」という感覚だ。

あくまでもこれは、戦争を知らない世代のただの妄言だ。
現実はそんなに甘くないはずだ、と思っている。
けれど、こと戦争に限って言えば、起こらないことに対する祈りもこめて、理想を保持していたい気持ちもある。

戦争中だからと言って、人間としての真っ当さを失いたくない。
平時であれば出来るはずの判断や行動を、戦争だからという理由で手放したくない。

ラスムスン軍曹の苦悩は、まさにそこにある。

ラスムスン軍曹は、「酷い」人間として登場する。とはいえ、5年間も占領されたデンマークの兵士としては、それぐらいの怒りを感じても仕方ないだろう、とも感じる。だからこそラスムスンは、ドイツの少年兵に対しても厳しく当たる。

しかし、徐々に違う側面が出てくる。彼らを思いやるような言動を見せるのだ。
そして、「子供に処理させるとは聞いてなかった」というセリフから、彼が地雷除去の命令を受けた時から、一人苦悩していたのだろう、ということが伝わってくる。

ドイツは憎い。それに、地雷はどうしたって撤去してもらわなければ困る。しかし、こいつらは少年だ。未来もある。やらせたくはない。しかしこいつらを使わなければ任務は終わらせられない。
言葉でそういうことが語られる部分はないのだが、ラスムスンの言動の端々から、彼らをどう扱うべきか、そして任務遂行のために自分がどう振る舞うべきか、という苦悩が見え隠れする。

ラスムスンを見て、戦争は勝者も虚しい、と感じるのだ。戦争に「勝つ」というのは、「100:0」ということはほとんどないだろう。「70:30」だったり、あるいは「51:49」なんていうことだってあるかもしれない。結果として勝ってはいるが、犠牲がないわけではない。ラスムスンも、結局は犠牲を被った人間と言える。彼はあの後どうなっただろう。彼のような真っ当な人間がきちんと評価される世の中であり続けることが、社会の理想だろう。

今日テレビを見ていたら、アメリカ大統領に就任したドナルド・トランプの就任演説の話題を取り上げていた。アメリカ大統領史上最も名演説だったと言われるケネディを引き合いにだし、トランプの演説は歴史に残ることはない、と断言していた。

ケネディは、「国が自分のために何をしてくれるかではなく、自分が国のために何が出来るのかを問うて欲しい」と演説したという。一方でトランプは、その真逆の発言をしたという。「国家は、個人のために何が出来るかにその存在意義がある」と。

僕は、どちらも嫌だな、と感じる。結局、「国家」というのが「実体を持つ存在」であるかのように感じられるからこそ、戦争というものが起こりうる。普通、「日本」や「アメリカ」という時、そこに何らかの実体はない。「日本」の土地や、「アメリカ」の国民一人を指差して「日本」や「アメリカ」と呼ぶことは出来ない。国家には、指を指すことが出来るような実体は存在しない。

しかし、「戦争」というのは、「国家」同士に実体があると感じられなければ起こりようがないと思う。実体のないものを実体があるように思わせるからこそ歪みが生じる。

国家は、もっと影の薄い存在でいい。魚にとっての水のように、自分の周りに常にあるのだけど意識することがない。それぐらいの存在感が理想だ。

『忘れるなよ。ナチスの罪を』

ナチスには「ヒトラー」という実体があった。余計に、質が悪い。

戦争を始めた者の名前は残る。戦争を「終わり」と決めた者の名前も残る。しかし、戦争を終わらせたものの無数の者たちの名前は残らない。彼らにも、人生があり、物語がある。僕たちは、それを知ることで、歴史の上に未来を築き上げなければならないだろう。

「ヒトラーの忘れもの」を観に行ってきました

「湯を沸かすほどの熱い愛」を観に行ってきました

メチャクチャいい映画だった。
こんなに泣きますかね、っていうぐらい泣きましたね。


死ぬ、ということが分かった時、「ああそう」とさらっと受け入れられたらいいな、と思っている。
もしかしたら人生の色んなことを、それ基準で選んでいるのかもしれない。
明日死を宣告されても、「ああそう」と言えるような生き方を、自然と選んでいるのかもしれないなぁ。
そういう自分のことを、別に寂しいなんて思うことはないんだけど。

昔飛び降りようとした時、友人のことが頭に浮かんだ。
やつらに会えなくなるんだなぁ、と思った。
たぶんそれで、僕は飛び降りることが出来なかったんだと思う。

だからきっと、死を宣告されたら、その時もきっと何かが頭に浮かぶだろう。
それが何かは、僕にはよく分からないし、何かが浮かんでしまうことを「嫌だな」と思う気持ちさえある。
けれど、結局なんだかんだ言ったところで、「死ぬのは嫌だな」と思ってしまうんだろう。
そういう自分は、嫌だなぁ。

僕の中で「死」というのは、もう少しさらっとしたものであって欲しいなという気持ちがある。
もっと気軽に普段の会話で出してもいいような、もっと軽々しい話題であって欲しいという気持ちがある。
特別なものだ、と思うからこそ、葬儀をしてお墓を建てて何周忌と言って集まる。それは決して悪いことじゃないんだろう。でももっと違う形だってあるんじゃないかと思いたい。特別なものだ、と思うことで、「死」を遠ざける結果になってはいないか。「死」を特別視することで、日常から「死」を排除出来てしまってはいないか。

僕はこの映画は全編好きだ。でも、一番素晴らしいと思ったのはラストだ。具体的には書かないが、この映画のラストは、まさに「死」を「日常」の中に組み込もうとする行為ではないかと思った。形式の中に「死」を閉じ込めるのではなく、自分たちが「日常」の中で「死」を感じられるようにする。そんな選択を彼らがしたのだと思って、僕は凄くいいなと思った。

僕も、この映画のラストのような選択(誰もが出来る選択ではないのだけど)をしてもらえるような生き方をしよう。なんか、凄くそう思った。

内容に入ろうと思います。
銭湯「幸の湯」は、1年前から休業状態。幸野双葉の夫である一浩が突然失踪したためだ。双葉はパートで生計を立て、持ち前のパワフルさで高校生の安澄を育てている。安澄は学校でいじめられているようだが、双葉は気弱な安澄に闘う勇気を持たせようと奮闘している。
ある日パート先で倒れた双葉は、ステージ4の末期がんであると診断されてしまう。余命は2ヶ月。しかし打ちひしがれてはいられない。双葉には死ぬ前にどうしてもやらなければならないことがある。
双葉は探偵に依頼して、一浩の行方を探してもらった。一浩と、その娘である小学生の鮎子と突然同居することになった安澄は驚く。双葉は、休業状態だった銭湯を再開すると宣言。全員に仕事を手伝ってもらうと言って聞かせた。
安澄の制服の紛失、鮎子の失踪など問題は山積。でも、立ち止まってはいられない。双葉は「ある目的」を持って、安澄と鮎子を連れた旅行に出かけるが…。
というような話です。

いやー、びっくりしました。
メチャクチャいい映画でした。
評判はなんとなく聞いてたけど、ここまでとは思ってなかったので驚きました。
さっきも書きましたけど、もう何回泣いたことか。
別に泣けたらいい映画だ、なんて思ってるわけじゃないんだけど。

正直なところ、内容にはあんまり触れられないんです。たぶん色んなことを知らないまま見た方がいいと思います。幸野家は、父親が失踪したということを除けば至って普通の家族に見える。しかし、実は色々ある。その一つ一つが、「家族ってなんだろうね」という問いかけを突きつけてくるものでした。

血が繋がってるのに家族になれない人もいれば、血が繋がってないのに家族になれる人もいる。その違いは色んなものが関係していて、一概には言えないんだろうけど、この映画の中にその答えの一端があるなぁ、と感じました。

幸野家は面白い。なんだか、双葉と関わる人間はみんな家族になってしまう、そんな印象がある。双葉は、外から見て分かりやすい「何か」があるわけじゃないんだけど、なんだか惹きつけられてしまう。そういう「何か」がある。それは、凄くありきたりな言葉で言ってしまえば「芯」ということになるんだろう。双葉には、「芯」がある。それは、正しいとか間違ってるとか、普通とか常識とかおかしいとか、そういう価値判断を寄せ付けないものだ。双葉の「芯」は、それ自体が基準という感じがする。分かりにくいたとえになるかもしれないけど、「光は直進する」と物理で習う。しかし実際は、「光が通った軌跡を直線と呼ぶ」が正しい。例えば、太陽など質量の大きい天体付近を通る光は、星の重力の影響を受けて「曲がる」。しかし、曲がっているように見えても、光が進んだその軌跡が「直線」と呼ばれるのだ。双葉の「芯」にも近いものを感じる。双葉の「芯」が基準となって、双葉を中心とした狭い世界のあらゆる物事は収まるところに収まっていく。

双葉ががんを患ったことは、一面では不幸なことだ。しかし、双葉のがんのお陰で家族が増えたとも言える。双葉ががんにならなくても幸野家と関わることになった人はいるだろう。しかし、双葉ががんにならなければ、探偵ともバックパッカーとも出会うことはなかっただろう。もちろん、これはフィクションだ。現実はそううまくいかない。いかないのだが、しかし誰かの死が良いことももたらしうる、という希望を抱くことは悪いことではない。そんな発想が広まれば、もっと「死」が身近なものとして語られるようになるかもしれないし。

この物語は全然ミステリではないのだけど、伏線が色んなところにあった。「ん?」と思うような箇所は、何らかの形で後から説明される。伏線という意味で一番グッときたのは、安澄が道で人助けをする場面だ。そのシーンの意味が理解できた時はボロボロ泣きましたね。

役者の演技も素晴らしかった。演技については全然詳しくないけど、特に良かったなと思うのが、二人の娘、安澄と鮎子の演技。安澄は、とにかく表情が良い。特に、哀しいのをこらえるような表情にはギュッとさせられる。これまでずっとこんな風に辛いことをやり過ごしてきたんだろうな、というようなそれまでの人生も透かし見えるような演技で、僕はとても好きだ。

鮎子は、失踪した翌日の朝食のシーンがヤバかった。あれはズルい。ここでもボロ泣きでした。こう言ってはなんだけど、なんとなく全身から「不幸そうなオーラ」を醸し出す子で、立っているだけでどことなく淋しげに見える。鮎子のシーンでもう一つ印象的だったのが、バックパッカーから「あの母親から生まれてきた君たちが羨ましい」と言われた時、顔を背ける場面。やはり、顔を背けるだけの演技なのに、もの凄く淋しげな雰囲気が伝わってきてとても良かった(しかもこの場面には別の意味もあって、それも素晴らしい)。

そして、何よりもラスト。この映画のラストは本当に素晴らしいなぁ。それまでの一連の様々な出来事があったからこそ、このラストを普通のこととして受け入れることが出来る。明白に間違っているんだけど、彼らの世界ではそれが唯一の正解であるように思えてしまうような、このラストを正常に見せるためにそれまでの物語が存在していたような、そんな感想を抱かせるような見事な終わらせ方だったなと感じました。

とにかく素晴らしい映画でした。是非見てほしいと思います。

「湯を沸かすほどの熱い愛」を観に行ってきました

「海賊とよばれた男」を観に行ってきました

生きることは、闘うことだ。
誰もが、それぞれの戦場で闘っている。
それを僕らは、生きる、と呼んでいる。

『店主の戦争が、ようやっと終わったんかもしれんなぁ』

けれど、「なんのために闘うのか」が、どんどん見えにくくなっているように思う。
そういう時代に、僕らは生きているのだと思う。

誰もがこう言うだろう。
生きるために闘っているのだ、と。
しかし、じゃあ何故生きるのか?と問われて答えられる人間は多くはないだろう。
僕も答えられない。
この問いに答えられないからこそ、多くの人が迷っているのだろう。

戦争は、明らかに悪だ。
肯定するつもりなど、さらさらない。
しかし、戦時下では、闘う理由ははっきりしている。
国のためだ。
自分が闘うことがどう国のためになるのか、明確に説明しろと言われたら困るだろうが、
誰もが国のためと思ってそれぞれの戦場で闘っていた。
国のために個人が闘うことが、良いことなのかどうか、その是非はここでは問わない。
とにかく、このために自分は闘っているのだ、という大きな存在を見つけ出せる環境は、ただその点だけを抜き出してみれば、現代よりも恵まれていると言えるかもしれない。

『忘れたのか。俺たちの店主は、企業家の皮を被った海賊やぞ』

国岡鐡造という男は、その「大きな存在」としてあり続けた。
一企業家でありながら、多くの人間にとっての「闘う理由」として存在し続けた。

『俺わぁ、店主の言ったことはやりとげたいんだよ』

国岡商店の面々は、誰もがこういう想いを抱いていた。店主がやれと言うなら、店主が行けと言うなら、店主が続けろというなら…。どれだけ困難な状況でも、不可能と思える現場でも、理不尽に怒り震える時でも、彼らは「店主のため」という想いだけで、それらを乗り越えることが出来たのだ。

これだけの男が、今世界に何人いるだろうか?

『それでもダメやったら、みんなで乞食をしよう』

国岡は、店員たちのことを「家族」と呼んだ。終戦によって60歳の国岡はすべてを失った。生き残った大勢の店員たち、そしてこれから復員してくる1000人単位の店員たち。彼らを養えるだけの蓄えも仕事も何もなかった。しかし国岡は、ただの一人も店員の首を切らないと決めた。それは、国岡を取り巻く幹部たちには、到底不可能に思える決断だった。しかし国岡は、その無茶を貫き通す。

日本の石油すべてを統制する石統に嫌われた国岡商店は、戦後石油を扱う商売をしばらくすることが出来なかった。ようやく許可を得ても、外油メジャーたちが国岡商店を潰そうとあらゆる手を使ってくる。国岡商店は、ずっとずっと苦しい闘いを強いられてきた。

しかし、それを乗り越えることが出来たのも、あの時首を切らなかった店員たちの獅子奮迅の努力のお陰だ。

『士魂商才。サムライの心で商売をする。それがどうなるのか見てみたかった。それだけだ』

意味のない慣習や圧力にさらされながらも、ルールを破るような商売の仕方は決してしなかった国岡商店。その心意気が、多くの人間を巻き込み、国岡の元へと集まっていく。

それが、国岡鐡造という男が持つ力であり、魅力である。

多くの人間にとっての「闘う理由」であった国岡鐡造。では、彼は何のために闘っていたのか。

国のためだ。もっと言えば、国の未来のためだ。

『このままだと、日本に石油が入ってこんのだ』

GHQは、石油の輸入を解禁して欲しいという石統の要望を蹴った。理由は、全国の海軍施設にあるタンクの底を浚えばまだ石油はあるじゃないか、という嫌がらせのようなものだった。タンクの底の石油は、戦時中、どうしても石油を必要としていた海軍でさえ浚うのを諦めたほどのいわくつきのものだ。そのあまりの過酷な仕事を引き受けるものなど誰もいない。
しかし石統のトップは、これまた嫌がらせのようにその仕事を国岡商店に回す。タンクの底の石油ならいくらでも売っていいぞ、と。現場の人間たちは、その作業のあまりの過酷さに音を上げた。撤退を進言した現場責任者に、国岡は続けてくれと言ったのだ。

国岡は知っていた。石統が嫌がらせでこの仕事を国岡商店に回しているということを。それを飲み込んで、国岡はこの仕事を引き受けた。何故か。

そうしなければ、日本の石油が入ってこないからだ。日本の復興にとって欠かせない石油が、ただの一滴も入ってこないからだ。

『石油は国の血液やろが!そのすべてを外油メジャーに押さえられるのは、絶対に避けねばならん!』

国内の石油会社が次々と外油メジャーと提携(という形を取った買収)をされている中、唯一の民族系石油会社として国岡商店は孤軍奮闘していた。しかし、元石統のトップは分かっていた。メジャーと闘っても勝てるわけがない、と。外油メジャーは、石統を解散させるほどの強大な力を持っている。国岡商店などひとたまりもない、と。

しかし、そう言われた国岡は、それでも買収など受け入れないと強硬姿勢を崩さない。何故か。この買収を受け入れてしまえば、日本が扱うすべての石油が外油メジャーに乗っ取られてしまうからだ。それでは、経済的に独立しているとは言えない。

『これが一流と言われる奴らのやり方ですか?恥ずかしくないんですか?』

国岡商店は外油メジャーとは長く闘いを続けてきている。満州でもそうだ。彼らは満鉄に対して、マイナス20度でも凍結しない油を開発して売り込んだ。しかし満鉄は、国岡商店との取引を蹴る。その裏で、外油メジャーが動いていたのだ。

士魂商才。まっとうな商売をし続ける決意をしていた国岡には、彼らのやり方がどうしても許せなかっただろう。国岡にとっては、彼らに乗っ取られる形で国岡商店を経営するつもりなど、まるでなかった。

国岡は、常に未来の日本を見据えていた。未来の日本が、未来の日本人が、誇りを持って生きていけるよう、国岡は信念を持って闘い続けた。その闘いを間近で見ているからこそ、国岡商店の面々は、店主に人生のすべてを捧げることが出来たのだろう。

国岡が夢を託した未来に、今僕らは生きている。僕は、この映画の原作小説を読んだ時にこう感じた。今でも覚えている。

僕たちは、国岡が望んだ未来をきちんと生きているだろうか。

国岡が、今の日本を見てどう思うのか。
最後の最後まで心休まる時のないままに突っ走り続け、未来へとそのすべてを託した国岡は、僕らを見て、微笑んでくれるだろうか。


1945年8月。物語は終戦直後から始まる。
60歳だった国岡は、大打撃を受けた国岡商店をどうするか、決断に迫られていた。一人の首も切らない、と国岡は決めていた。しかし、石油はないし、あっても扱えないし、仕事もない。国岡は、やれることはなんでもやった。GHQから頼まれたラヂオの修理も請け負った。とにかく、必死だった。
思えばこれまでも、ずっと必死だった。1912年、国岡鐡造27歳の頃。個人的な繋がりで石油の納入業者が決まっていて新規参入が困難と言われた中、国岡は後に“海賊”と呼ばれることになるあるやり方で、油を売りまくった。国岡らの真っ当な商売は、様々な場面で軋轢や対立を引き起こしたが、国岡は一步も引かず、国岡が正しいと思えるやり方を貫き通した。
国岡のそんなやり方に惹かれて人も増え、また苦しい状況もなんとか乗り切ってきた。
しかし、さすがに八方塞がりだ、という状況がやってくる。
日承丸という2万トン級のタンカーを製造した国岡商店は、これで世界中どこの石油会社とも取引が出来るようになったが、そんな国岡商店を牽制するように、外油メジャーの息が掛かった製油所から次々に取引停止の連絡が届く。ついに国岡商店は、石油の仕入先をすべて失った。
残る手は一つしかない。外油メジャーの支配下にはない製油所と取引することだ…。
というような話です。

原作は言わずもがなの傑作ですが、映画も実に良かったです。よくあれだけの分量の原作を映画一本分の長さにまとめたな、と感心しました。

映画は、原作の中から特に印象的なエピソードを抜き出して、それらを実にうまく繋ぎで作った、という印象です。原作では国岡商店についてもっと様々なエピソードが登場するが、それらを刈り込んで刈り込んで映画は作られている。出来るだけエピソードを盛り込むことよりも、一つのエピソードを丁寧に描き出していく、という作り方をしたのだろう。そしてそれはとても成功しているように感じられた。

物語の展開も時系列順ではなく(原作も確かに、冒頭こそ終戦直後からのスタートだったが、それ以降は時系列順で展開していたような記憶がある)、現代と過去を行ったり来たりさせる構成で、その構成が良く出来ていたなと感じる。現代における苦しい状況の際に、それと関わり合う過去の回想を挟み込むことで、短い時間の中で国岡商店や国岡鐡造の来歴がよく伝わるような構成になっていたと思う。

石統や外油メジャーと対する時の国岡鐡造と、店員と対する時の国岡鐡造の落差が大きく出るような演技や演出で、国岡鐡造という人物の輪郭がとても見えやすかったのも良かったなと思う。その差をはっきりと見せることで、国岡鐡造という人物が一体何を大事にしているのかということがとてもよく分かる。

印象的だったのは、国岡鐡造が常に現場に足を運んでいる、という点だ。国岡は、タンクの底を浚う現場にも自ら足を運び、還暦を超えているというのに自ら作業をしようとした。国岡には、店員たちに辛い思いをさせているという忸怩たる思いが常にある。現場まで足を運んで彼らを激励しなければ気が済まないのだ。

国岡は店員たちを前にして何度か話をする場面があるが、そこでも、店員たちの心を惹きつけ、この人のためにまた頑張ろう、と思えるような言葉を紡いでいく。それが多くの店員にとって本心だと感じられるからこそ、彼らもまた頑張れるのだろう。

映画を見た人は是非、原作も読んで欲しいなと思う。映画にするに当たって相当エピソードが削られているから、原作を読んで国岡という男の凄さを知ってほしいなと思う。

あと凄いなと思ったのはCGだ。確か、「三丁目の夕日」と同じところが「海賊とよばれた男」も作っているはずだ。「三丁目の夕日」もCGが絶賛されたはずだが(僕は見ていない)、こちらでも圧巻だった。正直、どの場エンがCGで出来ているのか全然分からなかったくらいだ。冒頭の戦闘機による先頭のシーンなんかは、明らかにCGなんだろうけど、それでも迫力満点でCGとは全然思えなかった。その後も、CGでしかこの映像は作れないだろうけど、CGだとしても凄いと感じるような場面が多々あって、驚かされた。

何故闘うのか、そして何故生きるのか。そういう真っ当さに裏打ちされた国岡鐡造という男の生涯を描き出す作品だ。実際にこんな人間がかつていたということ、そして彼が未来の日本に何かを託したこと、そして託されたのはまさに僕らであること。そういうことを実感してほしいなと思う

「海賊とよばれた男」を観に行ってきました

「この世界の片隅で」を観に行ってきました

「幸せ」は、与えられるものではない。決められるものでもない。
決めるものだ。
僕はいつもそんな風に思っている。

この映画の良さは、すずが「目の前には存在しない幸せ」を追い求めないことにある。

『お前だけはこの世界で、普通でまともであってくれ』

「普通」の連続を、僕たちは「日常」と呼んでいた。
呼んでいたはずだった。
「日常」が退屈に思えるのは、当たり前のことだ。
だってそれは「普通」がただ連続しているだけなのだから。
人間はずっと、そういうことを当たり前だと思って生きてきたはずだ。

どこかでそれが、少しずつ変わってきてしまったのだろう。
僕たちは、「日常」って退屈だ!と、声高に主張するようになってしまった。
それは、カラスって黒い、と言っているぐらい、当たり前のことなのに。
なんでそんな風に思うようになってしまったんだろう。

『ワシはいつの間にか、人間の当たり前から外れてしまったんじゃのぉ』

昨日と今日と明日が同じであることに、少しずつ人間は耐えられなくなってきている。
10年前と今と10年後が変わっていないことが、不幸だと感じるようになってしまっている。
「普通」の連続が「日常」であり、それ故に「日常」が退屈であることを、何故僕たちは忘れてしまったのだろう。

「幸せ」が与えられるものでも決められるものでもなく、決めるものであるというのは、「幸せ」というのが、「日常」の中から何を見つけ出すかという、その人の意志の積み重ねによってしか生まれないものだからだ。

『しみじみニヤニヤしとるんじゃ』

すずの強さは、そこにある。

『うちも強うなりたいよ。優しくしぶとうなりたいよ』

すずは、生活に対して強い。毎日毎日絶えることのない雑用をこなしながら、少しでも生活を良くするための工夫をこしらえる。生活の合間合間で、絵を描いたり何かを観察したりしながら、ちょっとした楽しいことを拾っていく。

『何でも使うて暮らし続けるのがうちらの闘いですけえ』

すずを取り巻く環境は、決して楽ではない。日本国民全員が等しく苦しい状況に置かれている時代だったからこそ、ふてくされずに前を向けたのかもしれない。そういう意味で、現代とは環境は全然違うだろう。
しかし、自らの意志によってある程度の生活は保障されている現代と比べれば、すずの生きた時代の方が遥かに厳しかっただろうと思う。

戦争は最悪だ。戦争を経験したことはないが、出来るだけ経験せずに死にたいと思う。しかし、戦争だから不幸だった、というのはやはり違うように思う。すずは、たまたま戦争の時代に生きた。しかし、すずのような心持ちを持つことが出来れば、どんな時代環境であっても、そこでの生活に何らかの幸せを見つけ出すことは出来るだろう。

僕たちはどうだろうか?
「幸せ」は、今自分がいるこの場所以外のどこかにあって、私はまだそれに出合えていないだけだ、と考えてしまいがちな僕らは、別の時代で生きることは出来るだろうか?

この映画は、そういう問いを投げかけているのだと僕は感じる。

『ぼーっとしたうちのままで死にたかったなぁ』

すずは、「幸せ」であるために、かつての自分を捨てた。すずは少しずつ理解していったのだ。「幸せ」は自分で決めることなのだ、と。そして、この苦しい環境から「幸せ」を取り出すために、ぼーっとしているわけにはいかないと気づいたのだ。

『お前はホンマに普通やのぉ』

それでも、すずの強さの芯は、「普通であること」にある。
当時、そういう「すず」が、日本中にいたことだろう。そういう「すず」が体現する「普通」が、戦時下の生活を成り立たせていたのだろう。
そういうことこそ、僕らは憶えておかなければいけないのだと思う。


広島市で海苔の養殖を営む一家に生まれたすずは、絵を描くのが大好きな女の子。ぼーっとしてるしおっちょこちょいだけど、ちびた鉛筆でも持たせればなんだって描いた。
決して裕福な暮らしではないけど、身近な人との関わりと日常の中のちょっとした変化を楽しみにしながら、すずもその家族も幸せに暮らしていた。
やがてすずに縁談の話が舞い込む。呉に住む北條家だ。お相手の男性の周作さんとはかつてどこかで会ったような気もするけど、ぼんやりしているすずはうまく思い出せない。
年老いた義父と足を患った義母の代わりに、北條家ですずは懸命に働く。周作さんの姉・径子さんとちょっとうまくいかなかったり、その子どもである晴美さんと仲良くなったりしながら、すずは少しずつ北條家に馴染んでいく。
自分から望んだ縁談ではないけれど、どんな風に生きていくのか、どんな風に生きていきたいのか何も考えないで大人になったすずは、ここ呉で生きていくんだという想いを、様々な経験を経ながら少しずつ固めていく。
やがて呉では、空襲が頻発するようになっていく。


例えば僕らは、現代の戦争のことをニュースで知る。
軍人が大挙し、砲弾が降り、瓦礫が山となり、片脚のない子供が地面を這う。僕たちはそういう映像を見る。
そういう映像しか、見ることが出来ない。

例えば僕らは、過去の戦争のことを教科書で知る。
「◯◯年に××」「△△年に□□」 僕たちは、そういう記述を読む。
そういう記述でしか、知ることが出来ない。

共通しているのは、その時最もインパクトがあった出来事だけが末端まで伝わる、ということだ。
現代の戦争でも過去の戦争でも、そこに何らかの形で記録者がいる。記録者は、自らの意志で目の前の戦争のどこを見てもいい。しかしその記録者は、ただそこにいるわけではない。恐らく報じるためにそこにいる。それ故、報じる価値があるもの、報じる価値があると大勢の人が信じているものを見ようとする。報じる価値がないと判断されたものは、記録者の視界に入っても、末端まで届くことはない。

ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する ジャーナリズムの現場で私が考えたこと」という作品を読んで、遠い他国の現実がどのように報じられるのかを知った。僕たちの日常ではない現実が、どんなフィルターを通って僕らの元に届くのかを知った。

メディアというフィルターを通った情報には、「生活」の匂いはない。

この映画は、メディアというフィルターを通ったらすぐに取り除かれてしまうものだけで出来ている。
「生活」の物語だ。

『すぐやってくるか思うた戦争じゃけど、今はどこでどうしとるんじゃろ』

「生活」から見た場合、戦争というのはほとんど見えない存在だ。見えるのは戦艦だったり、演習だったり、出兵する若者でしかない。それらは、戦争というものを取り巻くもので、戦争そのものではない。

戦争そのもののが見えない中で、うっすらと戦争の気配を感じるだけの日常。そこにははっきりした覚悟や明確な意志が求められる場面は少ない。軍港である呉に住みながら、すずのようなぼーっとした女の子であっても何とか生きていけてしまう、そんな日常だ。

とはいえもちろん、「生活」には大きな影響がやってくる。配給が少なくなる、砂糖の値段が高くなる、食べられる草は摘む、交換できる服は売る、少ないお米の分量を増やす工夫をする。戦争の陰で生活する者たちは、何かが「ない」状況を嘆く余裕を与えられないままに、厳しい生活を迎え入れざるを得なくなる。

しかし、彼女たちの毎日は、何故だか楽しそうだ。

『空襲もう飽きた』

彼女たち自身の目には見えない戦争は、なかなか意識されない。それよりは、モノが少ない中でどう工夫するかという前向きさがそこにはある。ないものはない。みんなない。嘆いたところで何かが変わるわけでもない。誰もがそういう気持ちを共有していたからこそ、厳しい状況でもみんなで前を向くことが出来たのだろう。

その日常を、僕らが「不幸だ」と決めつけることは出来ない。冒頭で書いたように、「幸せ」とは決めつけられるものではないからだ。

『みんなが笑ろうて暮らせりゃええのにねぇ』

もちろん辛いこともある。哀しいこともある。やりきれないこともある。でもそれは、いつのどんな時代にもある。

『あっけのう人はおらんようになる。姿が見えんようになれば、言葉は届けん』

しかしだからこそ、大事に出来るものもある。いつ失われるか分からない、いつ消えてしまうか分からない。だからこそ、未来ではなく今を大事にする。そういう生き方を自然と選択できる。

それはある意味で幸せなことだろう。

僕たちはもう、「生活」に対してあまり不安を感じずに生きられるようになった。それは、とても素晴らしいことだ。「生活」に対して不安を感じるような時代に戻りたいとは思わない。
しかし、「生活」に対して不安を感じないからこそ、人は別のことに不安を求める。おかしなことだが、何故か人間はそういうものらしい。SNSやスマホを手放せない人を見ると、僕はいつもそんな風に感じてしまう。彼らは、SNSやスマホがなくなると何を失うと考えているのだろうか?

人間は、どれだけ満たされていてもそこに不安を見つけ出すことが出来る。そういう生き物だ。だからこそ、もの凄く逆説的なことだが、「生活」に対して不安を感じるほどに、人は「生活」を大切に感じられるのではないかと思う。

衣食住が満たされた現代の僕らの不安は、大体「未来」の中にある。だから「未来」を大切にしたがる。でも「未来」はどうなるか分からない。どうなるか分からないものを不安がって、それに対処しようとする。そんな生き方をしてしまうから、なかなか「生活」から「幸せ」を取り出すことが出来ない。

改めて書くけど、決して戦争時代を良かったと言うつもりはない。そうではなくてこの映画は、どんな「生活」からでも「幸せ」を取り出すことが出来るのだ、というメッセージを感じる。僕らが生きる現実も、戦争ほどではないが、決して素晴らしいと絶賛出来るほどではない。しかしそんな人生でも、そんな人生なりの「幸せ」を手に入れることが出来る。

それを描き出すために、この作品は「戦争」を舞台にしているのだと思う。そういう意味でこの映画は、「戦争映画」では全然ない。

この映画は「居場所」の物語でもある。

『誰でもこの世界で、そうそう居場所はなくなりゃせんのよ』

すずは、慣れ親しんだ広島を離れ、呉へと嫁ぐ。知り合いもいない中、懸命に「生活」することで、少しずつ馴染んでいく。元来ぼーっとしているすずには、どこかに馴染んでいくことはさほど難しいことであるわけではない。

しかし、やはり「戦争」という環境が、すずを振り回していく。
すずは何度か、呉で生きていくことを悩む場面に遭遇する。久々に実家に帰った後で、かつての旧友が北條家まですずを訪ねて来た後で、そして右手を失った後で。
私は、ここにいていいんだろうか、と。

すずにとっての本来の居場所は、やはり生まれ育ったあの広島の家だ。ずっとそこに対する郷愁の念がある。普段意識することはない。しかし、消えることもない。北條家の人間になったつもりでいても、ふとした瞬間に「ここは自分のいる場所ではないのかもしれない」という意識が忍び寄る。

しかし、すずが「居場所」だと思っていた場所は、原爆投下により「居場所」ではなくなってしまう。

『やっぱりここへ置いてもらえますか?』

すずがそう言ったタイミングに、僕は救われた。すずにとってそれは、ギリギリのタイミングだった。もう少し遅ければ、すずは永遠に「居場所」を失っていたかもしれない。あの場面は、とてもホッとした。良かったと思った。

『呉は私が選んだ場所ですけぇ』

すずは流れるように、流されるようにずっと生きてきた。自分の意志でこうしたいと動いたことはほとんどない。それでも、戦争という厳しい環境をくぐり抜けることで、すずはこれまでの人生をひっくるめて、自分で選んできた道だ、と思えるようになった。それを「成長」と呼ぶのは少し違うのかもしれないけど、その変化が物語をグッと締めているように感じた。

『この先うちはずっと笑顔の入れ物なんです。晴美さんはいつでも笑っていたので、笑って思い出してあげようと思います』

そしてすずは、誰かの「居場所」になってあげようという決意をするようになっていく。これは「成長」と呼んでみても、いいのかもしれない。

「この世界の片隅で」を観に行ってきました

「永い言い訳」を観に行ってきました

『自分の遺伝子が怖いって、思ったことない?』

ある。
僕にはある。
自分の遺伝子が残っていく怖さ、みたいなものが。

『こんなサイテーな人間が受け継がれてくなんて』

そう。
そういう怖さが僕にもある。
自分みたいな人間が、この世界に増えることの怖さ、みたいなものが。

『そうしないと、僕みたいになるよ』

彼の後悔は、映画の中ではほぼ一点しか描かれない。
妻が死んだ時、愛人とセックスをしていた、ということだ。
しかしもちろん彼にも、それだけではない、人生の中で堆積された後悔が山ほどある。
あるはずだ。

『僕みたいに、愛していいはずの人が誰もいない人生になる』

彼の述懐は、後悔ではない。彼はきっと、後悔はしていない。恐らく、人生をやり直せるチャンスがあったとしても、彼はきっとまた同じ生き方をするだろう。
他人を受け入れず、世の中を斜めに見て、僻みを抱えてその場に留まるような、そんな人生を。

だから、遺伝子が怖いのだ。
自分で変えることが出来ないと分かっているから、怖いのだ。

『先生、私のこと抱いてるんじゃない。誰のことも抱いたことないんですよ』

彼は、妻の死の報を聞いた時、何を喪ったのか理解できていなかった。彼は、妻が死んでも、まるで哀しくなかった。妻の存在の喪失は、彼にとっての喪失ではなかった。少なくとも、妻の死の報を聞いた時には。

彼には、妻の死がもたらしたものを、うまく捉えることが出来なかった。もしかしたら、愛人に「私を抱いてるんじゃない」と言われた時、少しだけ喪失の形が見えたかもしれない。でも、たぶん少しだけだ。

彼は、喪ったものが何なのか分からないまま、日々を過ごしていく。妻を喪って哀しいわけでもなく、むしろ新たな家族との関わりを得て、以前より充実した生活を過ごすようになっていく。

しかし、その家族との関わりの中で、彼は気づく。自分が喪ったものを。

僕は、彼が喪ったのは「現実」なんだと思う。

妻が死んだ後の彼の日常は、「現実」ではなかった。葬式で、心にもない弔事を読み上げ、妻を亡くした作家を追うドキュメンタリー番組で意味のない手を合わせる。編集者からは落ちぶれた作家という扱いをされ、妻の死後まともに小説を書けているわけでもない。
そして最もファンタジックなのが、子守をすることになった兄妹との関わりだ。彼自身に子どもはいないし、恐らく子どもが好きなわけでもないが、彼は目の前に立ち現れた仕方のない事情に救いの手を差し伸べる、という体で、これまで自分の人生ではありえなかった「家族」との触れ合いを手にする。
しかしそれは、ファンタジーでしかない。

『子育てって免罪符ですよね、男にとって。自分がサイテーのバカだってこと全部忘れて、何もかも帳消しに出来る』

彼にとって、兄妹との関わりは、新たな「現実」だった。自分が生きるべき「現実」だと考えていた。しかし、その「現実」の脆さをある時彼は知る。知ってしまう。
その時彼は気づいたのではないだろうか。自分が何を喪ったのかを。妻がいたからこそ、自分の「現実」は成立していたのだ、と。

そのことに気づくまで、彼は永い永い言い訳を続ける。自分が「現実」から逃避していたこと、そして今では逃避すべき「現実」すら喪ってしまっていたこと。そういうことを彼は、言い訳をし続けることで見ないようにしていたのではないだろうか。

『自分の幸せの尺度だけでものを言わないでよ』

彼はもう、そう言うので精いっぱいだったのだ。それぐらいしか、自分を守る方法がなかったのだ。

喪ったものの大きさは、喪ってからでないと分からない。人によっては、喪ってからもしばらくは分からない。もしかしたら、一生分からないかもしれない。
それは、哀しいことだろうか?

内容に入ろうと思います。
作家の津村啓こと衣笠幸夫はその日、妻の夏子に髪を切ってもらっていた。冷え切った夫婦の会話をしながら。切り終わってすぐ夏子は高校時代の親友と旅行に出かけた。一方の幸夫は、妻の旅行にかこつけて愛人を自宅に呼びセックスをする。
翌日、警察からの電話で、夏子がバス事故で亡くなったことを知る。
悲しみの欠片もないが、カメラの前では「妻を亡くした傷心の作家」を演じる幸夫。そんな彼の元に、夏子の親友であり、夏子と一緒に死亡したゆきの夫である大宮陽一と出会う。陽一は幸夫とは対照的に、「妻を返せよ!」とバス会社の社員に怒鳴るような男で、そんな陽一のことを幸夫は、ちょっと違う人種だと思いながら見ている。
ある日、ゆきや夏子のことを話せる相手がいない、ということで陽一から連絡をもらい、陽一の二人の子供と一緒に食事に出かけることにした幸夫。その食事の席でちょっとしたトラブルがあり、長男の真平を家まで連れて帰らなければならなくなった幸夫は、真平の苦境を知る。父である陽一は長距離トラックの運転手で、母も亡くしたために、妹の灯の面倒を見なければならず、優秀でありながら勉強がまともに出来ないでいる真平は、塾も辞め受験もしない覚悟を決めていた。そんな真平を見た幸夫は、真平が塾に行く日だけ灯の面倒を見る、ということで大宮家にやってくることになったのだ。
自分ではついぞ得ることになかった暖かい家族。自分の遺伝子が関わっている子ではない、という意識もきっと後押ししたことだろう。幸夫は、妻の死によって何を喪ったのか理解しないまま、大宮家にどっぷりと馴染んでいく…
というような話です。

原作も良かったけど、映画も良かった。これはまさに、原作と監督が同じだからだろう、と思う。原作のことはあまりちゃんとは覚えていないけど、映画とは結構違う部分もあったように思う。西川美和が、小説に向くエピソードや描写、映画に向くエピソードや描写をきちんと理解しているからだろう。また、原作も映画も「物足りない」と感じさせることがなかった。これも、原作と監督が同じであるが故だろうという感じがした。乾ききった冷たい人間の生活が、家族との触れ合いで溶け出す…などと書くとありきたりの物語に聞こえるが、そういう要約ではうまく拾いきれない何かが詰まっている映画だと思う。

主人公の衣笠幸夫には共感できる部分がとても多い。僕は、外面的には衣笠幸夫ほど酷い人間ではないと思うが、内面は遠くはないはずだ。映画を見ながらそのことをひしひしと実感した。

僕が印象的だなと感じたのは、幸夫が兄妹(特に兄の真平の方)に語りかける言葉だ。幸夫は大宮家と関わっていく中で、真平が置かれている厳しい状況に対して、常に何らかの言葉を掛けていく。

しかし、僕はそれらの言葉は、自分自身に、あるいはかつての自分自身に発した言葉であるように感じられた。幸夫は、真平に様々な心情を伝えることで、ある意味で自分の人生をやり直そうとしているのではないか、と感じた。幸夫は、自分自身のことをサイテーの人間だと考えている。そしてそれは、遺伝子に刻まれた、逃れようのないものだ、とも感じている。しかしもしも、言葉によって、幸夫自身が発する言葉によって真平が変わることが出来たとすれば、人間は遺伝子ではない何かによって変わることが出来ると信じられる。幸夫の内側には、そんな衝動が見え隠れするように思える。

そしてその衝動は、別の意味でも真平に向けられることがぴったりだったのだ、と僕は感じた。

本書のもう一人の主人公は、僕は真平だと思う。これは原作小説では感じなかったことだ。

真平は様々な場面で父への不信感を露わにする。

『泣いたってお父さんに言わないで』
『僕はお葬式の時に泣かなかった。そしたら言われたんだ。お前平気なのかって』

そしてその不信感は、父親である陽一も僅かながら察している。

『今日初めて会ったくせに、幸夫くんにはそんなこと言うんすね』

この関係性は、映画の冒頭からしばらくの間は感じられないが、徐々に明らかになっていく。
そして、そういう不信感が漂う大宮家に、幸夫がやってくるのだ。
父親という遺伝子の存在を否定したい真平。それはまるで、自らの遺伝子の呪縛に囚われている幸夫のようだ。幸夫は、そんな真平に対して言葉を掛けることで、自分にも変わる可能性があったのだ、という幻想を持ちたいと願う。そしてさらに、真平に対して擬似的な父親として振る舞うことで、「妻を返してくれ」と絶叫できる、自分にはない感覚を持った陽一のことを否定したい、という気持ちも持っているのではないかと思う。

そういう思いを抱きながら大宮家に通っていたから、あの灯の誕生日の場面に結びつくのだ。擬似的な父親でいられる環境を手放さなければならない状況で、無様な姿をさらしてしまうのだ。

『(死ぬのが)お父さんの方がましだったって思ったの』

そう心情を吐露する真平。この映画は、衣笠幸夫という男の物語であると同時に、大宮真平という少年の物語でもある。父親という、自分の力ではいかんともしがたい存在に対するやりきれない気持ちに振り回されながらも、目の前の現実でどうにかふんばろうとする少年の物語だ。

家族に正解はない、といつも思う。結果的に、どんな家族も正解なんだと思うしかない。何故なら、どれだけ「不正解」な家族の中にいても、特に子供はそこから自力では抜け出せないからだ。そこから逃れられないのなら、そこが正解だと信じるしかない。恐らく真平は、その覚悟を持つことが出来たはずだ。
幸夫はどうだろう。その覚悟を持たずにこの年まで生きてきてしまった幸夫は、正解かどうかを判断する対象である「現実」そのものを既に喪ってしまった。彼の人生がこの先どんな風に続いていくのか、気になるところだ。

「永い言い訳」を観に行ってきました

「コンカッション」を観に行ってきました

正しいことがわかりにくい世の中に生きている。
最近、富にそう思うようになった。

様々な形で、真実を隠蔽するような強大な力が働く事実を見聞きしたからかもしれない。特に最近は、「殺人犯はそこにいる」「桶川ストーカー殺人事件」の二作を読んだことがとても大きい。警察や司法やマスコミが、どのようにして事実を捻じ曲げるのかという恐ろしい現実を知って、「正しい」というのがなんなのか、よく分からなくなった。

正しいことを隠そうとすれば、どこかで何かが歪む。その歪みは、歪みを生み出した側ではない場所に影響を与える。正しいことを隠した側は、隠し通せれば知らんぷり出来る。自分達に、実害はない。いつもどこかで誰かが、正しいことを隠されたことによる歪みの影響を受けている。

僕達は、そのすべてを知ることなど到底出来ない。しかし、知ろうとする意識、世界の歪みのほんの一部でもいいから知る努力をすること。歪みとは無関係な生活を送ることが出来る者たちが、ほんの僅かそういう意識や努力が出来れば、大きなうねりとなっていくのではないか。僕はそんな風に期待してしまうのだ。

だから、知ることはとても大事だ。まず知ること。その後何が出来るかは、そこから考えればいい。

内容に入ろうと思います。

ピッツバーグで監察医として働くベネット・オマルは、遺体と対話するように解剖し、死者の声を少しでも正確に拾おうとする男だ。上司から、もっと効率よくやれ、チームとうまくやれ、と言われても、自分のスタイルを崩そうとしない。
ある日彼は、マイク・ウェブスターというフットボール選手の解剖を担当することになった。彼は、フットボール史上最強のセンターと謳われた名選手であったが、ここ数年は家族の元を離れホームレス状態だった。マイク自身にも制御できないような衝動や、家族の名前も忘れてしまうほどの記憶障害に悩まされ、最終的に心臓発作で死亡した。50歳だった。
解剖を進めるオマルだったが、マイクの身体は健康そのものに見える。しかし、何か原因があるはずだ。オマルは、金が掛かりすぎるという上司の反対を押し切って、自費でマイクの脳を取り出し調べてみることにした。
驚いた。彼の脳は、とても50歳の脳とは思えないほど破壊されていた。CTスキャンには映らないこの症状を、オマルはCTE(慢性外傷性脳症)と名付けた。
オマルは、別の医師と共同で、CTEに関する論文を発表することにした。すると、NFL(ナショナル・フットボールリーグ)からの反論が待っていた。「リーグの結論は、選手たちに脳の損傷はない」と。
アフリカからやってきて、休日も遺体の解剖ばかりしていたオマルは、アメリカにおけるフットボールの人気をよく理解していなかった。2000万人が熱狂し、日曜日は教会ではなくフットボールのスタジアムへと行く。ピッツバーグの街もフットボールで成り立っているし、フットボールのファンからオマルに「フットボールを女のスポーツにするつもりか」という抗議の電話が来たりもした。
しかしオマルは、それらの抵抗に負けず、真実のために奔走する…。
事実を基にした物語だ。

僕は、この映画の原作を読んでいる。原作を読んでいる立場からすると、映画はやはりちょっと弱い。2時間の映画にまとめるにはそうするしかなかったのだろうが、映画は全体の流れしか追えていないという印象だった。どういう順序でどういうことが起こり、それらに対して誰がどういう反応をしたのか、という流れを描いた映画だという印象だった。

もちろん、オマル自身の物語はある。神父から託された女性との恋愛だ(しかしこの恋愛話は、原作にはなかったような気がする。ちゃんとは覚えていないけど)。しかし、原作にはもっとスリリングで信じられないような話がたくさん出てくる。仕方ないとはいえ、映画でそういう部分を描けなかった以上、原作を読んでいる人間には物足りなさを感じた。

しかしこういう実話を知ると、改めて権力というのは恐ろしいということが分かる。
オマルは、NFL側の人間に、CTEの危険を伝え、本格的な調査をするよう要望した。しかしその人物は、明確な返事をしなかった。その代わりに、いかにフットボールが人々の生活に関わっているのかを説くのだ。雇用も生み出しているし、貧しい人達に寄付もしている。そんなフットボールがなくなったら、多くの人間が困る。アメリカの主婦の1割が、フットボールは恐ろしいから子どもにやらせない、となれば、フットボールはなくなる。彼はそう語る。

確かに彼の言っていることは正しいのだろう。フットボールには存在意義があり、CTEはフットボールを存続させなくする恐れがある。しかしだからと言って、多くの元フットボール選手が事故や自殺で命を落とす現状を許容できるわけでもないはずだ。オマルが声を上げたことで、結果的に5000人以上の元フットボール選手がNFLを相手に訴えを起こしたという。

真実というのは、意識して見ていなければいつの間にか失われてしまう。見えないところでも、ずっとそのままの真実である保証は、どこにもないのだ。この映画で描かれる事実は、アメリカの、しかも日本にはないフットボールというスポーツの話ではあるが、真実を知ること、関わることの難しさを知るという意味では、誰が見ても何かを学べるのではないかと思う。

「コンカッション」を観に行ってきました

「聖の青春」を観に行ってきました

勝たなければ、死ねない。

僕には、そんな衝動は、ない。

『お前のどこが、命かけてたんじゃ!負け犬の遠吠えじゃあ!スッカスカの人生じゃ!』

負けて奨励会を去ることになり、吹っ切れたような清々しさを見せる友人に、村山はそんな風に突っかかる。

そんな怒りは、僕の中からは湧き出てこない。

『あなたに負けて、死にたいほど悔しい』

村山との対局で敗れた羽生善治が、村山にそう語る。

僕は、その気持ちには追い付けない。

<なぜ生きるのか?>

この映画は、全編でそう訴えかける。
この問いに囚われずに生きてこられた人は、幸せな人だろう。いじめられたり、仕事が辛くなったり、病気になったり。そういうしんどい場面で、人は<なぜ生きるのか?>と問うのだろうと思う。

村山聖は、幼い頃からその問いを抱き続けてきた。いや、違うか。彼は幼いころから、その問いに対する答えを、ずっと抱き続けてきたのだ。

将棋で勝つこと。

彼は、人生のあらゆる選択を、その目標のために選び取る。重篤な病気を抱えながら、「将棋弱くなりたくないんで、麻酔しないなら手術受けます」と言ってのけるこの男には、長く生きたいというような生の欲求はない。

『大丈夫ですよ。人間誰でもいつかは死にます。そんなことより僕たちが今考えなきゃいけないのは、目の前の一手です』

羽生善治でさえ連敗することがあり、西の怪童とも呼ばれたほどの圧倒的な強さを誇りながら、29歳という若さでこの世を去った天才棋士のをモデルにした物語だ。

羽生善治が、史上初の7冠を達成した頃、村山は大阪にいた。ネフローゼという重い病気を抱えながら、日々対局に勤しむ日々。羽生との対局で高熱を出した村山は、ある決断をする。
東京に行く。東京に行って、羽生の近くで将棋を指す。
身体はボロボロ。体調が良い日なんてない。対局中に具合が悪くなり、不戦敗を選ばざるを得ないこともあった。
それでも村山は、将棋を指し続けた。羽生善治に勝って、名人位を奪取するために。

映画を見ながら感じていたことは、この映画は「物語」だな、ということだ。それは、映画の最後にも表示された。この映画は、「聖の青春」をモチーフにしたフィクションであり、事実と異なる箇所があります、と。

そういう意味で、どうしても弱さのある映画だな、と感じてしまった。

これは、僕が原作を読んでいるからだろうとは思う。
「聖の青春」という原作は、これまで僕が読んできたノンフィクションの中でもトップクラスに心を動かされた作品だ。村山聖という人間が放つ魅力、師匠の献身的な支え、「聖の青春」の著者である大崎善生の村山を見る眼差し。そういうものすべてをひっくるめて、一人の人物と、将棋界という魔窟を描き出した、絶品のノンフィクションである。

原作があまりにも強いからこそ、この原作をベースにした「物語」が弱くなってしまうのは、ある程度は仕方ないだろう。恐らく、映画から見て原作を読む人は、とても良いだろうと思う。映画は映画で「物語」としてはなかなかよく出来ている。特に、村山と羽生の対極の場面の臨場感は、実際の将棋の対局を見たことがないにも関わらず、非常にリアルだと感じた。村山にも羽生にも、人間的魅力が溢れている。この映画を見て、原作に興味を持つ人が増えるのであれば、それはとても嬉しいことだ。

『将棋は殺し合いじゃろうが。
将棋指しの人生は、それがすべてじゃろうが』

村山の日常からはあまり窺えないが、村山は常にこういう意識を持って将棋を指している。

『「みんな勝ちたいと思ってる」
「思うだけだったらバカでも出来ます。そのために何が出来るのかを、考えて行動出来るかどうかです」』

村山には、ひりつくような熱が常に宿っている。

『僕たちは、どうして将棋を選んだんでしょうね?』

村山は、羽生にそう問いかける。

村山は、抑えようのない衝動に囚われながら生きる。自分を捉えて離さないその衝動に全力で立ち向かいながら、高みを目指していく。

『時々怖くなることがあるんですよね。深く潜りすぎて戻ってこれなくなるんじゃないかって。でも村山さんとなら一緒にいけるかもしれない。いつか一緒に行きましょう』

二人の天才が出会い、ぶつかり、誰も到達していない高みを目指す。凡人にはその高みの一端すら窺うことが出来ない。そんな二人の闘いと、村山という短い生涯を駆け抜けた男の生涯を描く映画である。

「聖の青春」を観に行ってきました

「淵に立つ」を観に行ってきました

一度何かが始まれば、それが終わる可能性をゼロには出来ないように、一度人を信じれば、裏切られる可能性をゼロにすることは出来ない。
他者と関わる時、僕はいつもそんなことを考えている。

人を裏切るような人間が元々いるのではない、と僕は思う。もちろん、そういうタイプの人間もいないわけではない。しかし基本的には、どんな人間だって人を裏切る可能性があるのだと僕は思う。

裏切りは、いつやってくるか分からない。どれほど信じた相手だろうと、どれほどの思いを持って信じようとも、裏切りというのは一瞬でやってくる。僕は、そういう事実を常に意識して生きている。僕の周りにいる誰が僕を裏切っても、まあ仕方ないだろうと考えている。それは、人を信じていないだけだ、と言われるかもしれないけど、僕の中では逆だ。「この人になら裏切られてもいいか」と思える人しか、信じることが出来ないというだけの話だ。

信じたい気持ちは、人を弱くする。裏切られたくない、という恐怖が、あなたを支配するからだ。裏切られた時の絶望を回避したいという思いが、あなたの行動を制約するからだ。

それでも、人は人を信じる。信じることでしか、他者との関係性を築くことが出来ないからだ。そんな風に、信じたいからだ。

時に、人を信じたことによる代償は大きい。
人を信じたい気持ちが、破滅を呼び込むのだ。

父親から受け継いだ金属加工工場で働く鈴岡利雄とその妻・章江。利雄は無口で、仕事や生活に関することを章江にほとんど言うことはない。娘の蛍は、オルガンのコンクールを間近に控えていて、日々練習に励んでいる。章江はプロテスタントであり、蛍と共に食事の前はお祈りを捧げている。
ある日工場に、章江の知らない男がいた。利雄の古い友人だという。利雄は章江に何も言わないまま、八坂章太郎というその男を工場で雇い、家に住まわせた。三週間だけだ、と利雄は言うが、章江にしてみればなんだか分からない男が同じ家にいるのは不快だった。
八坂は礼儀正しい男だった。蛍も八坂に懐き、オルガンを昔やっていたという八坂が蛍にある曲を教えることになった。章江も、真面目な八坂の姿を日々見る内に、当初抱いていた不快感を徐々に薄めていった。
教会への礼拝の帰り、喫茶店で八坂は章江に対し、かつて人を殺し、つい最近まで刑務所にいたことを話した…。
というような話です。

見ていてザワザワさせられる作品だった。好き嫌いは大きく分かれそうな気もするが、僕は凄く好きな映画だ。

映画の全編で、「どうしようもない気持ち」が描かれる作品だと感じた。登場人物たちの感情は、様々な理由によって覆い隠されているが、抑えきれずに溢れ出してしまう感情が時々間欠泉のようにして吹き出す。利雄・章江・蛍・八坂。誰もが、どこにもぶつけようのないやりきれない感情を内側に秘めながら、仕方なく続いていく日常を過ごしている。そういう雰囲気が絶妙に切り取られた作品だと思う。

蛍はともかくとして、僕は利雄にも章江にも八坂にも、共感できる部分があると感じた。

章江が抱えるやりきれなさは、誰しもが同じ状況に立たされたら感じるものだろう。章江に非がないとは言わないが、全体的に章江は被害者だ。章江の落ち度によって、この現実が引き寄せられたわけではない。章江はただ巻き込まれ、途轍もない現実が重くのしかかりながらも、なんとか懸命に前に進もうとする。

八坂に共感できる、とはちょっと言いにくいが、しかし分からないでもない。八坂の、このセリフは非常に印象的だ。

『なんでこの生活が俺じゃなくてお前なんだ』

八坂の衝動がなんであったのか、それは映画の中でははっきりとは描かれないが、その衝動が湧き上がるに至る手前までであれば、想像できるし理解できる。自分が置かれている状況を受け入れようとする自分と、理不尽だと感じる自分とが共存し、少しずつ積もるようにして、その衝動に至る何かが溜まっていったのだろう。八坂と同じ境遇に置かれた時、八坂と同じ感情を抱く可能性は、誰にでもあるのではないか。

利雄の気持ちも、分からないではない。彼には、そうせざるを得ない理由があった。ある意味で、すべての元凶は利雄にあると言っていいのかもしれないし、その事実をすんなりと許容していいとは思わないが、ただ、利雄の前に八坂が現れた時の衝撃に、動揺することなく対峙出来る人間はそう多くはないだろう。

この三人に、共感は出来るが、しかし許容したくない、という気持ちもある。彼らに起こった現実は、誰かが何かを諦めれば排除出来たかもしれない。三人がそれぞれ、自分自身の弱さみたいなものを隠し、否定すべきものを見ないフリをしたからこそ起こった出来事なのではないか、とも思う。

自分が同じ立場に立たされた時、彼らと同じことをしてしまうだろう、という予感もある。だからこそ、彼らのやったことを許容したくないと思うのだろう。自分がそうしたくないけどそうしてしまうかもしれない。彼らを見ていてザワザワさせられるのは、観る者が誰しも、そういう感覚に囚われるからではないかと思う。

後半は、それぞれがそれぞれのやり方で「贖罪」について考えることになる。起こってしまった出来事を、無くすことは出来ない。時間は、どんどん前に進んでいく。ただ立ち止まっているわけには行かない。進んでいく時に合わせて、どうにか自分たち自身も前に進ませなければならない。そういう中で、8年前のあの出来事が、彼らの前進を阻む重しとなっていく。8年前の出来事とゴムで繋がっているかのように、時を経れば減るほど、前進する際の抵抗は増して行く。それでも、騙し騙し前に進んでいく彼らに、予想だにしなかった出来事が起こるのだ。

「家族とは何かを考えさせられる」などというありきたりなことを書きたくはないのだが、やはりそういう映画でもある。家族である、ということは、喜びだけではなく苦しみも分かち合うものなのだろう。しかし、相手の得体の知れない様を実感してしまうが故に、相手と特に苦しみを共有することが出来なくなってしまう。
結局、どんなに家族であっても、他人のまま。家族というのは、「家族でありたいという共同幻想」につけることが許された呼称なのだろう。だからこそ、家族でなくなることは、少なくとも気持ちの上では、簡単だ。

『8年前、俺達はやっと夫婦になったんだよ』

裏切りは、いつも唐突にやってくるのだ。

「淵に立つ」を観に行ってきました

「THE BLUE HEARTS ショートフィルムセレクション」を観に行ってきました

オムニバス映画というのを見たのは、初めてなんじゃないかと思う。いや、昔、乙一(というか安達寛高)と桜井亜美がお互いの自主制作映画を同時に上映していたことがあって、それを観に行ったことがある。あるいはそれも、オムニバス映画と呼んでいいのだろうか。

観に行った映画は、ブルーハーツの曲をモチーフにしたものだ。僕は音楽には詳しくないし、ブルーハーツも、耳にしたことはあるけど歌詞をちゃんと覚えているわけではないので、歌詞と映画の内容がリンクしているのか知らないけど、歌詞からではなく、曲名や楽曲全体の雰囲気から映画を作ったのだろう、という印象だった。

「ハンマー(48億のブルース)」
「人にやさしく」
「ラブレター」
「少年の詩」
「ジョウネツノバラ」
の5作品だ。

「ハンマー(48億のブルース)」
同棲している彼氏の浮気を目撃してしまった女。その時何も出来ず、翌朝もそんな彼氏のために朝飯を作ったというその女の話を、職場の先輩と、何故かいる女子高生二人が茶化す。28歳、後がないってのに、どうしろって?女は怒りをぶつける先が、ハンマーを振り下ろす先がない。

「人にやさしく」
銀河の彼方にある刑務所惑星を目指す囚人護送船に流星群が衝突。生き残ったのは、看守一人と囚人数名。電源が落ちれば酸素の供給もなくなり、全員死ぬ。捨て鉢になった兄弟の弟の方がどうせ最後ならと女に襲いかかったのを皮切りに、船内で戦闘が始まる。その最中、囚人の中にアンドロイドが紛れ込んでいることが判明し…。

「ラブレター」
脚本家になって10年。大輔は高校時代の淡く苦しい記憶を物語にしようとしていた。デブでダサかった高校時代に憧れていたクラスメイトの彩乃。彼女にカメラ越しに何か言われたその日、彼女は工事現場から落下してきた鉄骨に当たって命を落とした。せめて物語の中では彼女を死なすまいとした大輔は、何故か高校時代にタイムスリップし…。

「少年の詩」
健の誕生日。シングルマザーの母は急遽仕事に出なければならなくなった。デパートの屋上で行われるボンバー仮面ショーの手伝いに駆り出されるのだ。ボンバー仮面が好きな健も喜ぶだろうと思って声を掛けても、健は学童に行くから行かないという。
健は、偶然聞いてしまったのだ。ショーでボンバー仮面を演じる男が、母親のことが好きらしいということを。それで母親も、喜んでショーの手伝いに出かけるんだろうと…。

「ジョウネツノバラ」
美しさを保ったまま命を落とした恋人の亡骸を棺桶から連れ出し、密かに一緒に暮らす男。同じベッドで寝て、体を洗い、豪雨の夜は抱きしめる。男は他人と関わらず、恋人の亡骸だけを見続ける。その先に、一体何を見ているのか…。

一番好きなのは「少年の詩」かな。昭和感のあるザラッとした感じの映像で、一人の少年のモヤモヤした気持ちを、セリフではなく行動や仕草で見せる感じがいいなと思う。ヒーローに憧れる気持ちと、そんな自分を幼く感じる、まさにその狭間の年齢で、それはまた、母親の恋愛を許せるか許せないかという狭間の年齢でもあるのだろう。自分がどうしたいのかはっきりとは掴めないままモヤモヤした気持ちを持て余している少年の、最後の決断と行動がなかなかいい。

「人にやさしく」も結構好きだ。彼らは囚人であるが、罪を問われた理由は様々だ。テロを画策した女や、大量に人の命を奪うことにも使える発明をした科学者など、普通の犯罪ではない理由で逮捕され刑務所送りにされる者もいる。そんな中で、アンドロイドであると告白した男の存在が、その場の空気を変える。

『ここでお前を解体しても何も変わらない。でも、お前が生き続ければ、何かが変わるかもしれない』

一度は捉えられながら、そう告げられて人間のIDを渡された彼は、人間として生きてみることにした。
しかし、自分の存在は、この世界の何かを変えることが出来たのか?
その問いかけが、一筋の希望となって船内を漂う。何かが変わるかもしれない。そんな予感を滲ませるラストだ。

映像の美しさで言えば「ジョウネツノバラ」も良い。セリフが一切ない映画で、状況はイマイチ理解しにくいが、水原希子が全編死体として登場し、死体であるのにそこに美しく存在し続ける、という映像が、とても気になる作品だった。

「ハンマー(48億のブルース)」と「ラブレター」は、どちらもそこまで好きではないが、「ハンマー(48億のブルース)」は会話のテンポが、「ラブレター」はぶっ飛んだ展開を強引に形にまとめましたという勢いが印象的だった。

ブルーハーツの楽曲で統一してオムニバス映画を作る、という発想はなかなか面白いなと思いました。個人的には、「人にやさしく」の続きが観てみたい。

「THE BLUE HEARTS ショートフィルムセレクション」を観に行ってきました

「何者」を観に行ってきました

僕は、逃げてなんとか生き延びた。

僕は、拓人の気持ちが、よく理解できる。
拓人は、観察者だ。一步引いたところから物事を捉え、分析し、言語化する。
観察者でいるのは、「観察することが好きだ」という部分も、当然ある。客観的に物事を見て、それらを凝縮するようにして言語化するのは、好きな人にとってはなかなか快感だ。僕にも、その快感は理解できる。

でも、観察者でいることのより大きなメリットは、「輪の内側にいなくてもいい」ということだ。あいつは観察者だ、という立ち位置が定まれば、輪に入らなくても場が成立するようになる。入りたい時は輪の内側に入り、出たい時は外から見る、ということが出来るようになる。

そしてそれは、「輪の内側に入ることが出来ない」という場合には、より強力に力を発揮することになる。自分が今輪の外側にいるのは、僕がこういう立ち位置が好きだからです、というポーズが出来る。入れない、のではなくて、入らないだけなんですよ、というフリが出来る。
そんな風に、自分を守ることが出来る。

この感じは、とてもよく分かるのだ。

だから僕は拓人に共感できるし、実際に自分のいつもの立ち位置がどこにあるにせよ、拓人のようなあり方が「分かってしまう人」は多くいるのではないか、と思う。
だからこそ「何者」という作品は、人の心を抉り取るのだ。

輪の外側に「居場所」が確保出来てしまうと、輪の内側に入ることが少しずつ怖くなる。何故なら、輪の内側にいる自分は、同時に、輪の外側にいる誰かから観察される存在になってしまうからだ。自分が外側から観察しているが故に、観察されることが怖くなる。観察して誰かを見下しているなら、なおさら怖くなる。
そうやって、ますます自分の「居場所」に固執するようになってしまう。「観察者である」という自分の立ち位置を手放すことが出来ず、観察される誰かになることが怖くなってしまう。

先程僕は、観察者でいることのメリットとして、「輪の内側にいなくてもいい」というのを挙げた。また、観察者という立ち位置は「居場所」だとも書いた。
しかし、これらは幻想に過ぎない。「輪の内側にいなくてもいい」なんて周りは思っちゃいないし、「居場所」だと感じているその場所は、自分の思いこみだけで成立している。

でも、観察者として居続けると、そういうことがわからなくなってくる。輪の内側があるからこそ、輪の外側が成立出来るのに、まるで自分のいる場所が確固たる場所であるように思えてくる。ドーナツの穴は、ドーナツをひとかじりすれば消えてしまう脆い存在だけど、そういうことが分からなくなっていくのだ。

さらに、この観察者問題(観察者として存在することが許容されているかのように感じられる問題)は、ネットが広がることでより顕在化しやすくなったと思う。

僕が学生時代の頃は、まだSNSなんて言うものはほとんど存在していなかったと思う。学生時代の僕はたぶん、観察者として生きていたように思うのだけど、SNSがなかったお陰でそれは酷くならなかったと思う。SNSを使うようになって(今は全部止めたけど)、しばらくして感じたのは、これが学生時代になくて本当に良かった、ということだ。

現代では、SNSを駆使することで、観察者というのが「居場所」としてより確固たるものであるかのように自分に見せかけることが出来るようになってしまっている。凄い時代だ、と思う。

SNS時代では、先程挙げた、観察者は輪の内側に入りにくくなる、という問題を簡単に乗り越えることが出来るようになる。何故なら、「輪の内側にいる自分」と「観察者」という二つの自分を所有することが出来るからだ。SNSを駆使すれば、二つと言わず色んな自分を持つことが出来る。観察者問題が顕在化するのも当然だ。

しかし、いくつもの自分を所有出来るが故に、現代人はその統合に悩む。SNSのアカウントを切り替えるようにして、場面ごとに、対人ごとに人格を微調整してしまう現代人は、当然、自分を見失いやすくなっていく。

『就活をしている人は、地図を失っているように見える』

登場人物の一人がツイートした一文だ。
僕は、就活をしたことがない。だから、就活というのがどんなものであるかというのは、想像するしかない。しかし、どうすれば内定がもらえるのかという確固たる基準が判然としないまま、日々非情な合否を突きつけられる環境にさらされれば、人は自分が持っていたはずの地図を失うことになってしまってもおかしくないように思う。その時、分離したままの、確固たる者を持てないままの自分で、荒波を乗り越えていくのは難しいのかもしれない。

僕は、就活という荒波を乗り越えることが出来ないと思っていた。SNSのない時代だったが、観察者として長く生きすぎ、輪の内側に入る怖さばかり募らせてしまった僕は、就活という流れから逃げることしか出来なかった。そのことを後悔したことは、一度もない。僕は、逃げたお陰でここまで生き延びることが出来た、と思っている。社会の中で騙し騙し働いていく中で、昔よりは観察者的な自分を薄められたような気もしている。

けれど、この映画の中でもがく拓人を見ると、やっぱり今もきっと、僕の中にこういう自分がいるんだろうなぁ、と思ってしまう。

就職活動をスタートさせた拓人。同居人であり、就活をスタートさせるためにボーカルを務めたバンドを解散し、髪を黒く染めた光太郎。拓人と光太郎の友達で、最近留学先から戻ってきた瑞月。瑞月の友人で、たまたま拓人と光太郎の一つ上の部屋に住んでいる理香。そして、交際し始めてする理香と同居を始めた隆良。
彼らは、理香の部屋を就活対策本部として、5人一緒に就職活動に立ち向かっていくことに決める。
物静かだが、常に周囲を冷静に観察して分析する拓人。誰とでもすぐに仲良くなれてしまうお調子者の光太郎。真面目で、就活のタイミングで家庭の事情も抱えることになってしまった瑞月。OB訪問など積極的に人にあって関係性を広げようとしている理香。就活はしないで自分で生きていくために人脈を広げようとしている隆良。
彼らはそれぞれ、自分なりのやり方で就活に立ち向かっていく。
内定が出た友人を素直に祝福出来なかったり、独自の道を進んでいる人間を蔑んだり、価値観の違いから言い合いになったり。彼らの関係は、常にどこかに歪みを抱えたまま続いていくことになる。
「内定」という、掴み取り方が分からない聖杯を目指しながら。

原作を読んだ時にも思ったけど、非常に今らしい映画だなと思う。現代らしい、いくつにも分離してしまった自分という存在は、日常生活の中では違和感なく継続できてしまう。毎日普通に生きている分には、分離した自分の不都合さみたいなものを感じることはない。しかしそこに、「就活」という舞台を与えてやることで、その違和感が一気に顕わになる。いくつもの自分を持つことで、あるいは観察者として振る舞うことで、普段どんな自分を隠し、どんな自分を見ないようにしているのかということが明らかになっていく。誰もが見たくない、気付きたくないような感情を抉りだすという、メンタル的にはなかなかハードな作品を、非常にポップに描き出すことで受け入れやすくしているのも、現代らしいように思う。

みんな、言動が少しずつ一致しない。言っていることとやっていることにズレが出て来る。ズレないのは瑞月ぐらいなものだろうか。意識的にせよ無意識的にせよ、他の四人は、色んなことが少しずつ掛け合わなくなっていく。

五人それぞれがそれぞれに何かを抱えているのだろうけど、この映画の中心になるのは拓人だ。拓人の振る舞いや存在の仕方が、どう壊れどう失われていくのか。何故拓人は就活がうまくいかないのか。それらが、拓人のツイートから漏れ出る内面と共に描かれていく。

拓人はたぶん、当事者意識を持つことが出来ないでいる。輪の内側に入れない、というのと同じことを言っているのだけど、観察者である拓人は、自分がやっていることも観察者として見てしまう。その視点は、自分が目の前の出来事に関わっているのだという当事者意識を薄れさせる。誰か別の人がやっていることを見ているだけのような感覚になる。

そうすることで拓人は、自分を守っている。

当事者意識を持って、それでもなお上手くいかないことに、拓人は耐えられない。目の前のことに全力で努力して、それでも失敗することに、拓人は我慢ならない。だから観察者に逃げ込んでしまう。自分の意識を、観察者の方へと比重を移してしまえば、うまくいかなくてもダメージを減らすことが出来る。そして、そんな風に考えている自分を正当化するために、拓人は頑張っている人間を「イタい」「サムい」と見下していく。

大学時代、拓人とずっと一緒に演劇をやってきた友人が、一人で新しい劇団を立ち上げて演劇の世界で挑戦している。その友人は、毎月新しい公演をやると言って日々頑張っている。拓人は、彼の劇団のネットでの評判を調べる。彼のブログを読んで、頑張っているアピールをしている様を笑う。
そうしないと、自分を保つことが出来ないのだ。

ある場面である人物は、こんな風に叫ぶ。

『自分の努力を実況中継しないと、もう立ってられないから』

みんな、自分なりのやり方で、どうにか持ちこたえている。僕は結局就活から逃げたが、就活をやっていたとしたら彼らのように何かしなければ自分を保つことが出来なかっただろうと思う。僕なら、何をしていただろうか。ちょっと、思いつかない。

具体的な引用は避けるが、ある人物が「点数さえつかないんだよ」と叫ぶ場面は、非常に印象的だ。観察者は、物事を客観的に見ているつもりなので、自分自身のことも客観的に自分で点数を付けることが出来る、と思っている。しかし、結局のところ、点数というのは他者がつけるものだ。何かを出さなければ、点数さえつかない。出してみなければ、どんな点数がつくのか誰にも分からない。つい最近僕は、それをまざまざと見せつけられる経験をした。どれだけ客観的だと思い込もうとしても、自分で自分に点数をつけることはほぼ不可能だ。

映画の中で拓人に関するあることが明らかになった後の演出がとても好きだ。どんな演出になったのかは書かないが、それは「観察する者」と「観察される者」の逆転を実に鮮やかに描き出している。拓人は、自分が「観察する者」だと思っていた。その事実を、疑うことはなかった。しかしある瞬間、自分が「観察される者」であったことに気付かされてしまう。その拓人の内面を、普通の映画でやったら違和感でしかないだろう手法で、実に巧みに見せている。映画の中でこの転換が一番好きだ。それまでのストーリーの内容とうまくつなぎ合わせる形でこの演出を組み込んでいて、とても良いなと思った。

原作のある映画では常に原作と映画を比べてしまうが、この作品にしてもやはり、原作の方が勝ると僕は感じる。

「何者」という原作小説は、言葉で内面を抉り取る物語だった。この言葉の鋭さが、原作小説の持ち味の一つだった。主人公である拓人は、会話によってではなく、観察や言語化によって世界と関わっている。そういう事実を原作小説では、言葉によって実に見事に描き出していた。しかし映画では、もちろん色々工夫はしていたけど、どうしても内面を抉るという部分で弱くなる。それは、言葉による内面描写を使えないからだ。その部分はやはり、圧倒的に原作小説の方が上だと感じる。

ただ映画は、先程も書いた「観察する者」と「観察される者」の転換の演出が実に秀逸だったし、ツイートの処理も原作小説より上手い。原作にある言葉の鋭さを演技で補うことは相当困難だと思うけど、ところどころで現れるピリッとした雰囲気の表し方みたいなのは良かったと思う。

原作小説と比べるとどうしても劣って見えてしまうけど、単独の映画として捉えた場合は、現代らしい感情が巧く描かれた映画だと思います。

「何者」を観に行ってきました

「ニュースの真実」を観に行ってきました

真実を追おうとする者は好きだし、応援したくなる。
些末な揚げ足取りをしようとする者は、嫌いだ。

東京オリンピックのエンブレム問題を思い出した。
僕はあの件に関して、自分なりの意見はない。盗作疑惑については、判断できないというのが僕の立ち位置だ。
その上で、僕は、主にネット上で大騒ぎしていた人たちのことは、どうにも好きになれないなと感じる。

僕は、あまりネットを見なくなってしまったので、エンブレム問題の時にネット上でどんな騒ぎになっていたのかは、マスコミの報道を通じて知ったに過ぎない。だから、僕の中にあるイメージは恐らく偏ったものだろう。しかし、エンブレム問題に限らず、世の中で何かが起こると、ネット上で常に似たような動きが起こり、僕はそういう動き全般に通ずる核心部分に嫌悪感を抱く。その説明をするために、エンブレム問題を代表的に取り上げてみようと思う。

エンブレム問題というのは、「盗作だったのか否か」に焦点が当てられていた。これ自体は問題なかっただろう。
しかし問題は、それをどう判断するかという判断基準にあったはずだ、と僕は思う。

ネット上の人たちは、「見た目」だけで似ているかどうかを議論していた。僕にはそんなイメージがある(もちろん、そうではない、専門的な知識を持った人の意見もあっただろうが)。並べてみて、似ている、似ていない、ということを延々とやり合っていたはずだ。

もちろん、「見た目が似ている」というのは一つの判断基準だろう。しかし、あくまでもそれは、一つの判断基準に過ぎない、と僕には感じられる。他にも、デザインの類似を判断する基準は様々にあるはずだろう。

別冊カドカワ 乃木坂46総力特集 Vol.1」という本を読んだことがある。その中に、乃木坂46のCDジャケットのタイポグラフィについて組まれている特集があり、その中にこんな言葉があった。

『デザインにおいて、「ただなんとなく」は絶対に成立しません。少なくともデザインした人はあらゆることを考えているし、クライアントに理由をプレゼンしているはずですから』

つまり、どんなデザインであっても、言葉で説明可能な理屈がある、ということだ。

これだって、デザインの類似を判断する基準の一つになるだろう。エンブレム問題の時は、発注元が国であり、デザイナーと国が繋がっていた可能性がある、みたいなニュアンスの報道もあったように思うから、あのデザイナーがデザインしたエンブレムに言葉で説明可能な理屈が確実に存在したかと言われれば難しいが、しかし職業的にずっとデザイナーとしてやってきた人であれば、デザインに言葉で理屈を与える、というのはある意味で習慣になっているのではないか、とも思える。

デザインに内包された理屈は、相応の知識がなければ扱えない。ネット上の人たちは、自分たちに分かる「見た目」だけを論じ、それ以外の判断基準を無視していたように感じられる。
そしてそれは僕には、真実を追う者として正しい姿勢ではないように感じられる。

もちろん、ネット上で騒いでいた人の中には、暇つぶしに、あるいは面白がってこの論争に加わった者もいるだろう。そういう人には、「真実を追う者である」という意識はないだろう。ただ、そういう人のことはここでは論じていない。あくまでも、自分は真実を追っているのだ、という意識でネット上の論争に参戦した人たちのことについて書いているつもりだ。

真実を追うのではあれば、その状況を細部まで理解し、証拠を揃え、確実に裏を取る、というような覚悟がなければ難しいだろう。個人には完璧にやるのは無理だとはいえ、そういう意識を持っていなければ真実を追う資格はないのではないかと思う。

この映画は、真実を追う過程でミスを犯した者たちの物語だ。しかし彼らは、確かにミスは犯したが、真実を追う者であることには間違いなかった。現代には、真実を追う者であるという土俵に上がることすら出来ていない人が、さも真実を追っているかのように振る舞っている状況が多いように感じられる。僕は、その状況は好きではない。ミスは誰にでもあるし、組織力がなければ不可能なことはある。しかし、どんな状況であれ、真実を追う者としての資格をきちんと持った上で他者を糾弾しなければならないと僕は思うのだ。

2004年。「60ミニッツ」という調査報道番組は、あるスクープを世に放った。大統領選挙真っ最中であるジョージ・W・ブッシュに、ベトナム戦争の兵役逃れの疑惑がある、と報じたのだ。取材を主導したのは、「60ミニッツ」のアンカーであるダン・ラザーの盟友であるメアリー・メイプスだ。
スクープの端緒を開いたのは、一枚の書類だった。それはコピーではあったが、当時の大佐が、ブッシュ氏が軍内に不在であり適切な評価が出来ないと記したメモだった。そのメモの筆跡を鑑定し、当時の将軍に裏取りをし、当時のブッシュ氏の周辺情報を様々に洗って矛盾しないことを確認し、ブッシュをテキサス空軍州兵に入れてやったという証言を押さえた。情報源から、コピーの入手先は明かせないと言われていたので、オリジナルの鑑定は不可能だったが、メアリーは確信を持ってそのスクープをダンに報じさせた。
しかし報道直後、スクープの端緒を開いた書類が偽造であるという疑いが浮上した。追い詰められるメアリー。再調査の過程で驚くべきことが明らかになり…。
というような、実話を元にした物語です。

この映画を、取材でミスした者たちの物語、と捉えることは簡単だ。しかし僕は、この映画が伝えたいことはそんなみみっちいことではない、と感じた。

最初の報道後、「書類が偽造ではないか」という疑惑が浮上したことで、以後焦点は、「あの書類は本物であるか偽造であるか」というところに移った。書類の信憑性について様々な報道がなされ、メアリーの側も傍証を積み上げていくことになる。

しかし、この問題の核心はそこにはない。核心は、「ジョージ・W・ブッシュが兵役逃れをしたか否か」である。しかしその焦点は、書類の真偽が話題になるにつれてぼやけていく。

メアリーは、その書類以外にも、核心的な証拠ではないにせよ、様々な傍証を積み上げている。確かに、その書類が一番大きな証拠ではあるが、メアリーの感触からすれば、たとえその書類が偽造であったとしても、ブッシュ氏が兵役逃れをした可能性は高い、と考えていたし、追加取材をしたいと考えていた。

しかし、世間や会社はそう考えなかった。映画ではそこまで描かれていないので、これはあくまでも予想だが、世間は、書類が偽造ならブッシュ氏の兵役逃れはないも等しい、と捉えようとしたのだと思う。そうでなければ、メアリーがあそこまで追い詰められることはなかったはずだ。会社は、世間のそんな反応を見て、会社が最小限のダメージで済むように幕引きを図ろうとする。会社としても、ブッシュが兵役逃れをしたかどうかよりも、書類の偽造に関して会社側に非がないことを示すことが大事なのだ。

会社を責めることはなかなか難しい。冒頭で書いたように、世間にいる個人が強い影響力を持つようになってしまった世の中にあって、それまで以上に世間の反応に敏感にならざるを得なくなっている。良いことだとは思わないが、仕方ないと思わなくもない。

あくまでも僕は、世間を問題にしたい。何かを、あるいは誰かを糾弾するのであれば、自らも真実を追う者としての資格を持たなければならないと僕は思う。この映画の場合で言えば、「書類の真偽」も重要だが、それ以上に「ブッシュ氏の疑惑」こそが重要なはずだ。世間という大きな流れが、そこに目を向けることが出来なかった、あるいは意識的に目を向けなかったことが、僕には一番悪いことに思える。

相互に検証し合う環境は理想的だ。現代は、個人もインターネットを通じて発言力や調査力を持つことが出来、マスメディアとは違う形で世の中をチェックすることが出来る時代だ。しかし、マスメディアが有している、真実を追う際の要求レベルの高さを実現しようとする個人は多くないはずだ。マスメディアにはマスメディアに出来ることが、個人には個人に出来ることがあり、両者がうまく組み合わさればいい流れが生まれるだろう。しかし、多くの場合、その両者はお互いの良さを打ち消し合うように働いているように見えてしまう。それは、とてももったいない。

この映画の中で、マスメディアが調査報道をやる限界が語られる場面がある。少なくともテレビは、お金の掛かる調査報道がなかなかやりにくくなっているはずだ。マスメディアが調査報道から手を引き、その一方で益々個人の力が高まれば、一層バランスが悪くなってしまう、と僕は思う。

そういう現代のあり方に警鐘を鳴らす。この映画には、そういうメッセージが込められているように、僕には感じられる。

「ニュースの真実」を観に行ってきました

「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」を観に行ってきました

理不尽には出来るだけ抵抗したい、といつも考えている。
それが自分を不利にする行為であっても、自分の価値観を脅かすような理不尽とは闘い続けたい、といつも考えている。

理不尽に抵抗することは、無益で労力が掛かる。
理不尽に呑み込まれてしまった方が、圧倒的に楽なはずだ。

しかし、「理不尽に呑み込まれたことがある」という事実を、自分の人生に含めたくない。
自分が、それが正しいと思ってやったことであれば、どれだけ世間から批判されようが、それを貫きたい、と思ってしまう。

しかし、実際にはなかなか難しいだろう。
身の回りの、狭い範囲の話だって困難を伴うのだ。
親、学校の先生、会社の上司、隣人。様々な人間が、それぞれの価値観に従って、何かしらの理不尽を要求する可能性を秘めている。そして僕らは、そんな小さな世界の理不尽にさえ、時として抵抗しきれずに呑み込まれてしまう。

それが、もっと大きな世界の話だったら、なおのこと難しいだろう。
この映画は、その恐ろしいほどの困難を成し遂げ、理不尽と闘い続けた男の物語だ。

ダルトン・トランボ。ハリウッドで最も高額な脚本家であり、つまりそれは世界で最も高額な脚本家であるということでもある。そして彼は、共産党員だった。
ハリウッドにも、共産党員を排除する動きが迫ってくる。「アメリカの理想を守るための映画同盟」という団体が、アメリカという国を共産主義から守るために、映画業界から共産党員を排斥しようと動き続けているのだ。
ダルトン・トランボを始め19名の映画関係者がワシントンへの召喚状を受け取り、内10名が聴聞会に足を運んだ。トランボを始めとする共産党員はその聴聞会において、議会侮辱罪で訴追されることとなった。
上訴すれば勝てる見込みが彼らにはあったが、しかし情勢の変化により、彼らは刑務所暮らしを余儀なくされる。出所後トランボは、ハリウッドのブラックリストを撲滅するために、「不可能だと思われていることをする」と、ハリウッドに奇策で反撃を仕掛けるが…。
というような話です。

非常に面白い映画でした。
ダルトン・トランボの凄さは、「ローマの休日」の脚本家である、という事実だけでも証明できるのではないだろうか。しかし彼は「ローマの休日」を別人の名前で出すしかなかった。「ローマの休日」はオスカー賞を受賞するが、生前彼は「ローマの休日」のオスカー像を手にすることはなく、彼の死後20年ほどして妻が受け取った。

それもこれも皆、時代のせいだ。

僕は冷戦当時の時代の雰囲気を知らない。だから、共産主義が危険視されていた理由も、イマイチよく分からない。映画関係者はことある毎に、「共産主義は身近な脅威だ」と語る。また時々登場人物たちが、「アメリカは偉大な国だ」という。アメリカの偉大さと共産主義の台頭がどう関係するのか僕にはよく分からないけど、時代の空気としては、偉大なアメリカを維持するのは共産主義は排除しなければならない、ということだったようだ。

しかし、トランボの口から語られる共産主義は、非常に平和的だ。

『お前は勝者として手を差し伸べろ。彼らにも稼がせてやれ』
『作るのは君たちだ。儲けは彼らが吸い取っている』

トランボは、正当に仕事をした者を正当に評価しろ、と主張しているだけだ。実に真っ当だと思う。また、娘に「私は共産主義者?」と聞かれたトランボは、こんな風に返している。

『じゃあちょっとテストをしよう。好物が入っている弁当を学校に持っていく。すると、弁当を忘れた子がいる。君はどうする?(シェアするわ)働けとは言わない?利率6%で金を貸さない?おぉ、ちっちゃな共産主義者だなぁ』

こういう考えが、当時は危険とされていたようだ。
もちろん、共産主義を危険視する人も、そういう意見を入り口をして、より過激な思想を持つことを恐れたのだろう。それぐらいは分かるが、しかしだからといって、共産主義的な考えを持つ人間すべてを排除しようとするのには理解に苦しむ。

『皆間違える権利はある』
『君たちは思考を罪とみなしているようだが、そんな権利はない』

トランボは、考え表現することの自由を脅かされていることそのものに怒っているのであって、その感覚は、少なくとも現代の視点からすると当たり前のことだ。しかしそんなトランボらは、共産主義を排除しようとする者から、『私たちが築き上げた映画業界を、彼らが汚しているのよ』などと表現されてしまうのだ。

時代が悪かった、というしかない。そして、そういう時代の空気みたいなものは、どんな時代にも存在する。現代に生きる僕らには、共産主義を殊更に排除しようとする風潮はおかしく見えるが、しかし当時の人にとってそれは比較的自然な価値観だっただろう。映画館から出てきたトランボに、問答無用でジュースを引っ掛けるような奴がいるのだから。しかし、そういう時代が囚われてる価値観というのは、僕らが生きていることの時代にも間違いなく存在する。そしてそれらは、多数派に属していればいるほど見えにくくなる。トランボがいた時代の空気に加担した者たちを非難するのは簡単だ。しかし僕らも今、何らかの空気の醸造に加担しているということを忘れてはならないだろう。

本書は、闘い方を教えてくれる作品だ。この点が一番面白かったと僕は感じる。

共産主義者として映画業界から排除されようとしているトランボだが、彼は偽名で脚本を書きまくるという闘い方を決断する。三流映画会社のクソみたいな映画の脚本を、仲間と一緒に書きまくったのだ。一日18時間、週に7日働くという、とんでもないスケジュールを、トランボはこなしていた。

仲間の一人はトランボに、やってられない、と訴える。悪いのは相手なのだから、裁判で闘おう、と主張する。しかしトランボは、その意見に耳を傾けない。トランボは、負け戦はしない。裁判をすれば、金が掛かりまくった上に、確実に負けることが、トランボには分かっていた。仲間の一人は、それでも正義のために闘うのならばいい、と主張して出ていってしまうが、トランボはトランボなりの闘い方でハリウッドを見返そうとする。

正義を貫くために正面突破したくなる気持ちも分かる。僕の中にも、そういう部分はある。正しいことなのだから、この主張が通らないのがおかしい、と主張し続けるために疲弊することも厭わないような精神が、僕の中にも少しは存在している。

しかし、そういう闘い方は、良い結果を生まないことが多いだろう。正義が必ず勝つというのは、それこそ映画の中の話だ。それがたとえ正義であろうとも、時代の大きな流れに逆らってその正義を通すことは容易ではない。

トランボは、書くことで闘った。トランボが偽名で脚本を書きまくったのは、チャンスを窺うためだ。それがどんなクソみたいな脚本でも、もしかしたら大当たりするかもしれない。今書いている脚本が大当たりしなくても、書き続けていればいつか大作を引き当てるかもしれない。一つ大作を引き当てれば、依頼は次々に舞い込んでくるだろう。

そうなれば、トランボの勝ちだ。

結局、素晴らしい作品に人は勝つことが出来ない。どんな思想も、どんな価値観も、どんな対立も、素晴らしい作品の前では無価値だ。トランボは、そのことをよく理解していた。書きまくってチャンスを窺い、ついにトランボは、「ローマの休日」に続いて再度オスカー賞を受賞することになる。「私の闘い方なら、奴らを倒せる」と言ったトランボの言葉は、現実のものとなったのだ。

トランボが、脚本協会賞みたいなものを受賞した時のスピーチは、最初から最後までとても良かった。特に好きな箇所を挙げてみる。

『ここでは、あの時代の英雄や悪者を探し出すつもりはない。英雄も悪者もいなかった。いたのはただ被害者だけだ』

『今ここに立っているのは、誰かを傷つけるためではない。傷を癒やすためなのです』

理不尽な圧力を受け、ハリウッドから追放されながらも、自らの才覚で這い上がったトランボ。彼はそれを、「私たちは名前を取り戻しだ」と表現したが、そんなしんどい人生を歩まされながらも、彼は誰かを非難したり貶めたりしない。これも、まさに共産主義的な考え方と言えるのではないか。誰もが同じで、仲間であると。お互いに痛みを分け合った者として、これからきちんとやっていこう。彼のスピーチからは、彼のこれまでの人生を貫く考え方が滲み出ているような感じがした。

トランボと家族の関わりも、とても良い。
トランボは、刑務所に入る前は穏やかで家族想いだったが、刑務所から戻ってくると、四六時中仕事に追われ、家族を怒鳴り散らし、家族にも無理やり仕事を強要するようになった。彼は、失われたものを取り戻すための闘いに挑んでいたが、しかしそのために、家族というもっと大切なものを失うところだった。

先のスピーチの中でトランボは、妻が家族をつなぎとめてくれた、と妻の苦労をねぎらった。まさにその通りで、妻の献身がなければ、トランボはとっくに家族を失っていただろう。妻がトランボに対し優しく苦言を呈すシーンと、その後に続く娘を迎えに行ったシーンは、非常に良かった。

映画のエンドロールで、実際のトランボがインタビューを受けている映像が流れていた。そこで彼が語っていた話も、家族との関わり合いを示すとてもいいものだった。
「ローマの休日」のオスカー像をもし手にしたらどうするか?と聞かれて、トランボはこう答える。

『私には13歳の娘がいる。3歳の頃に私がブラックリストをした。彼女は私が書いたすべての脚本のタイトルを知っている。しかし、今まで一つも口外しなかった。戦士だ。お父さんは何をしてるの?彼女はそう聞かれる度に危機に陥っていた。3歳の頃からだ。もし私が「ローマの休日」のオスカー像を受け取ったなら、彼女にあげるだろう』

時代の空気に背き、自らの信念を貫き通した一人の男が、仲間や家族と共にいかに闘い、名誉を取り戻していったのか。ドラマチックな人生に隠された様々な悲喜こもごもを描き出す、実に良い映画である。

「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」を観に行ってきました

「オーバーフェンス」を観に行ってきました

日常は、退屈の連続だ。

『食ってくのって、めんどくさいことだと思いません?』

何が起こるわけでもない毎日を、ただダラダラと過ごしていく。何かあるようなフリをして、楽しいことがあるかのように笑って、未来のことは考えないで目の前の今に寄り添って生きる。仕方ないんだ、なんてことさえ思わなくていいようにバカなことばっかりして毎日を埋めていって、そうやってますます毎日は退屈になっていく。

『今の内にたくさん笑っといた方がいいよ。その内楽しいことなんて何にもなくなってくるから。すぐだよ、すぐ。ただ働いて、飯食って、死んでいくだけ』

どれだけ幸せそうに見えても、どれだけ普通そうに見えても、人は人生の中に退屈を見つけ出す。キュビズムのように、あらゆる角度から自分の人生を見つめて、一枚の絵の中に、折り合わないはずの様々な視点を盛り込んでは、そこに退屈を見つけだす。

退屈に慣れてしまう人もいる。退屈と真っ向勝負を挑む人もいる。退屈に取り込まれる人もいれば、退屈に嫌われる人もいる。人生は何らかの形で、退屈との関わり合いの結果だ。

『今日から自分が変われるかもって思ってたのに。もう死んだみたいに生きなくてもいいって思ったのに』

退屈に支配された日常は、変化を求める。その変化が、退屈を取り去ってくれると信じて。自分の人生の色が少しは明るくなるんだと信じて。

そういう希望にすがるしか、僕たちは生きていくことが出来ない。

舞台は函館。東京を離れ、故郷である函館に戻ってきた白岩は、職業訓練校で大工になるための訓練を受けている。函館に戻ってきて三ヶ月。離婚し、子どもと離れ離れになっている。
職業訓練校に自転車で通い、帰りがけに弁当とビール2本を買って帰る毎日。何があるわけでもない。休日は、教官に言われた通り道具の手入れをする。
ある日、同じ科にいる代島に誘われて夜の店へ。そこで出会ったのが、聡だった。弁当屋の前でダチョウの求愛を全身で表現していた、あの女。白岩は聡と関わるようになっていくが、情緒が安定しない聡との関わり合いは、白岩には掴みどころがない。夜の遊園地で飼育されている動物のことを陽気に話していたかと思えば、情事の後で奥さんとのことについて詰問される。
自分のことを普通だと思っていた男と、必死で何かを掴もうとする女。壊す者と壊れた者が、生きていくためにもがいていく。

これは好きな映画だった。物語はほとんどないと言っていい映画なので、感想として書けることは多くはないが、ずしりと来る良い映画だったと思う。

映画が終わった瞬間、「ここで終わるんだ」と思った。これには、二つの意味がある。一つは、物語がここで閉じたとは感じられなかった、という意味。悪い意味ではない。先程も書いたが、この映画には物語らしい物語はほとんどない。人間の関係性が、「そこにある」というような形で描かれていく。人間の関係性が物語のためのパーツとしてではなく、「そこにある」というようなものとして描かれていく。始まりも終わりもない。ただ、映画である以上、どこかで区切らなければならない。そんなことを意識して見ていたわけではないのだけど、映画が終わった瞬間、なるほどここで終わるのか、と思った、

もう一つは、2時間経ったと感じられなかった、という意味だ。映画が終わった時、物語的にではなく、時間の感覚としてまだ映画は続いていくと思っていた。映画が終わった時、既に2時間経っていた、ということがとても意外だったのだ。同じ2時間の映画でも、長く感じるものもある。この映画は、とても短く感じた。まだまだ全然観ていられる、と感じた。

不思議な映画だ。映画は、実にゆったりと作られている。映画の中に、パリッとして動く人間はほとんど出てこない。大体みんな、ダラっとしている。映画の中の時間も同じようにダラっとしている。濁った水は少し重たそうに見えるものだけど、そんな風に、映画の中に流れている時間も重たくダラっとしているように感じた。時間そのものが、濁っているような雰囲気を漂わせていた。

物語の展開が早く、あっという間に2時間経った、というのとは全然違う。むしろ真逆で、時間は実にゆったりと流れているのに、時間の経過をあまり感じさせない映画なのだ。不思議な感覚だなと思う。

時間まで濁っているような世界の中で、鯉のように鮮やかに見えるのが聡だ。夜の店でドレスを来た聡は美しく、動物の行動を真似する動きは人を惹きつける。しかし聡は聡でまた、濁った部分を持っている。遊園地でジャージのような格好で働く聡からは、色彩は感じられない。

『これやらないと、身体が腐る気がして』

何かに蝕まれているかのように陽と陰を明滅させる聡。一方で、何もかもが丸く収まるようにそつなく行動してしまう白岩。二人の関係は、言葉を超えた部分で成り立ち、相手の何がどう自分を惹きつけるのかはっきりと分からないまま、お互いの存在が人生に入り込んでくる。

『お前はさ、自分のことぶっ壊れてるって言ってたけど、俺は壊す方だからさ。余計質が悪いよな』

人生に聡が入り込んでくることで、白岩は、他人と関わることの怖さを少しずつ手放していくように見える。

一皮めくれば、どす黒いもので満たされている。そんな予感を感じさせる日常を実に見事に描き出しながら、そんな日常の中でどうにか息をし続ける人たちを切り取っていく。特別に辛いことも、特別に良いこともないまま、僅かな揺らぎを観る者が勝手に増幅させるようにして物語が閉じていく。他のものでも代替可能な意味のないセリフで構成される日常から放たれる湿ったような臭いと、生と死を内側に取り込んで腐らせているような甘ったるい匂いが交じり合う世界が突然ぶつりと途切れるラストは、なかなか得られない感覚を与えてくれる。

「オーバーフェンス」を観に行ってきました

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)