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「ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命」を観に行ってきました

正しいことをしたい、といつも思っている。

もちろん、正しいことだけでは生きていけないし、意識的に悪いことをすることだってある。ただ、いつも思っていることは、後から後悔するかもしれないような行動はしたくない、ということだ。

後悔をしたくないが故にチャレンジを避けるような生き方は、それはそれで嫌なものだが、あの時ああしておけば良かった、ああしなければ良かった、などと後から思うような行動は取りたくない、と思っている。

そういう時、いつも想像するのは、戦争のことだ。

僕は、戦争というものを直接的に体験したことはない。それがどんなもので、どれほど悲惨なものなのか、僕は想像すら出来ていないだろう。そんな僕が何を言っても、それは砂上の楼閣以上のなにものでもない。

とはいえ、イメージの中で僕は、戦争という時代の圧力に屈したくない、という気持ちを持っていたい、といつも思っている。戦争というのは人びとに、それまでとは真逆の価値観を押し付けるものだ。一変してしまった価値観に、屈さざるを得ないこともあるだろう。

それでも僕は、なんとかして、自分が正しいと感じる生き方を貫けたら、と思っている。

周りの価値観に従って流されて生きていく方が、もちろん簡単だ。しかし、そういう自分をなかなか許容できない性格であることももちろん理解している。信念、なんていうカッコイイ言葉を使うつもりはないのだけど、自分が正しいと思うことをする、あるいは間違っていると思うことをしない、という矜持は、出来るだけ持ち続けておきたいなと思っている。

内容に入ろうと思います。
ポーランド・ワルシャワで、動物園を営んでいたジャビンスキー夫妻は、広大な敷地で数多くの動物を飼育し、市民に親しまれていた。しかしワルシャワに、戦争の影が忍び寄る。ドイツ軍がポーランドを制圧したのだ。
空爆により壊滅的な被害を被った動物園は、ヒトラー直属の動物学者であるヘックの指示により、希少動物のみドイツ軍が引き取り、後は処分されることになった。悲しみに暮れるアントニーナとヤン。
彼らにはもう一つ、大きな問題があった。友人であり、ユダヤ人である女性の行き場がなかったのだ。アントニーナは、夫の反対を押し切って動物園内に彼女を匿うことを決断する。動物園はドイツ軍によって監視されているけど、一人くらいなら匿えるだろう。
しかしその後夫のヤンが、驚くべき話を持ってくる。ワルシャワでユダヤ人を救う活動をしているグループと接触したらしく、ユダヤ人たちが新たな隠れ家に行くまでの間だけ彼らを匿うことに決めたというのだ。アントニーナは、友人一人を匿うのとは訳が違うと言って反対したが、救える命は救いたいという想いを共有することとなった。
彼らは、ドイツ軍から“丸見え”状態である動物園にユダヤ人を連れてきて匿うために、巧妙な作戦を考えた。彼らは日々、ゲットーからユダヤ人を数人連れてきては地下に匿うという、長く続くことになる危険な活動をやり続けた…。
というような話です。

色んな映画を観ますけど、やはり「実話(というか、実話に基づいた話)」の強さにいつも打たれます。僕が冒頭で書いたように、彼女たちも「正しいことをしたい」という想いがあって、その中で様々な葛藤を繰り広げていくことになります。

『正しいことをしたい。その思いだけなのに、自分が嫌でたまらない』

ある場面でアントニーナはそう吐露します。

具体的な内容には触れませんが、アントニーナは、自分たちがやっているこの危険な活動のリスクを少しでも減らすために、とある行動を取ります。しかしその行動は、夫のヤンにとっては不快なものでした。アントニーナの言っていることも、ヤンの言っていることも、分からなくはありません。どちらが正しいとか間違っているとかではなくて、やはり戦争という状況が間違っているのだ、としか思えません。平時であれば、アントニーナはそんな行動を取る必要がないし、ヤンも存在しない行動を不快に感じることもありません。

映画の中で描かれる葛藤以外にも、様々な葛藤が彼らを襲ったことでしょう。彼らは結局その活動を、3~4年ぐらい続けたことになるはずです。延べ300人以上のユダヤ人が彼らの元で匿われ、ごく稀な例外を除き、全員の命が助かったようです。

戦争という辛い状況の中では、そうでありたいと思っていても正しい行動が取れなかった人もたくさんいることでしょう。そういう人たちを責めるつもりなど僕にはないし、そんな権利も当然ないと思っています。ただやはり、この夫妻のような、危険を冒してでも、自分たちに出来る限りの努力で正しさを貫いていく、という生き方は称賛したいと思うし、そういう事実をもっと知りたいと思います。

彼らは後に、「諸国民の中の正義の人」としてイスラエルからヤド・ヴァシェム賞を受賞したとのこと。終戦後、ワルシャワの人口は6%を切ったそうですが、彼らはまた動物園を再開し、現在でも営業を続けているとのことです。

難しいこともありますが、日々の生活の中でなんとか折り合いをつけながら、自分なりに正しい行動をし続けたいと、この映画を観て改めて感じました。

「ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命」を観に行ってきました

「スナッチ」を観ました

内容に入ろうと思います。
いくつかの物語が交錯して展開するのでなかなか紹介が難しいですが、大雑把に二つの物語が展開される。
一つは、裏社会を牛耳る男がやっている裏ボクシングの話。そこにボクサーを送り込むはずだった二人組は、ちょっとした手違いからボクサーが負傷、出られなくなってしまった。そのボクサーは、パイキーと呼ばれる集団の一人で素手ボクシングのチャンピオンである男にボコボコにされたのだけど、二人組はそのパイキーを裏ボクシングに出させようと画策する。しかし、賭け事である以上直前の変更は許されないと裏社会のボスから言われる。その流れで二人は、パイキーに4ラウンドで倒れろと、つまり八百長を指示してきた。
一方、銀行から盗まれた86カラットのダイヤを巡る物語も同時に進行していく。そのダイヤの売買を任された男が大の掛け狂いで、そこを突かれてダイヤを奪われてしまう。しかしそのダイヤは、色んな事情からいくつかの組織が追いかけていて、持ち主がコロコロと変わっていく。チンケな銀行強盗たち、元KGB、宝石商などが、ダイヤの行方を追うが…。
というような話です。

なかなかおもしろい話でした。登場人物が多くて、最初は状況の把握がかなり困難でしたが、大雑把に状況が理解できた後は、スピーディーな展開でトントンと進んでいく物語はなかなか面白く見ることが出来ました。

裏社会の話で、基本的にみんな(程度の差こそあれ)悪い奴らなんですけど、残虐なシーンもありつつ、かなりポップに描かれている感じがあって、残虐さが強調されているという印象はありませんでした。エンタメって感じの作品で、気楽に見るには良い映画だと思います。

「スナッチ」を観ました

「夜間もやってる保育園」を観に行ってきました

僕は結婚もしてないし子どもももちろんいないし、何らかの形で子育てに携わったこともないし、子どもはそもそも好きじゃないし、そんなわけで全然子育てについて語るのに相応しい人間ではない。ないんだけど、自分なりに世間の情報を見聞きしたり、時々子育てをしている人の話を聞いたりしながら考えることはある。

子育てにおける日本の困難さの根本原因は、子育てを取り巻く空気にある、と僕は感じている。

『生まれたばっかりですぐに子どもを預けてしまうのは、罪悪感がありました』

『やっぱり言われましたよ。子どもの一緒にいる時間が少なくなるのは可哀想だって、結構周りの人に』

映画の中で、夜間保育園に子どもを預けている親がそんな風に語る場面がちらほらある。実際に、僕が子育てをしている母親から話を聞いた時も、そんなようなことを言っていた。

また、ネットの記事なのでどこまでホントか分からないが、日本が保育園などに力を入れたがらないのは、政治家(高齢の男性)が、子育ては家でするものだ、という幻想を捨てられないからだ、と主張している人もいた。

こういう空気が、僕は日本での子育てを困難にしているのだと感じる。

僕は個人的には、保育園に子どもを預けることは良いことだと思っている。それは、共働きだろうがそうじゃなかろうが、夜働いていようがそうでなかろうが関係なしに、保育園という仕組みがそもそも子育てに必要ではないか、という立場だ。

何故なら、一昔前と違って、子どもが他者と接する機会が減ってきていると思うからだ。

昔は、兄弟が多かったり、三世代同居だったり、あるいは近所のコミュニティがちゃんとあったりで、家で子育てをしていても、両親以外の他者と自然と関わる機会があったはずだ、と僕は思っている(データがあるわけじゃないから、あくまでもイメージだけど)。そういう時代であれば、「他者と関わる場としての保育園」は不要だろう。

しかし現代は状況が大きく変わっている。核家族が進み、子どもも一人という家庭が多いのではないか。近所付き合いも濃密ではなくなり、それ故に、子どもが日常的に接するのが親だけ、という状況が生まれているのだと思っている。

そしてその状況は、子どもにとってとても悪いものだと思っている。確かに、母親と接する時間は大事だと思う。しかし、母親以外の他者と関わる時間だって同じくらい大事だ、と僕は思う。社会状況の変化によって、家庭での子育てのみでは他者との関わりが少なくなってしまった現代ならば、「他者と関わる場としての保育園」は非常に必要性が高いのではないか、と僕は考えている。

実際映画の中でも、そういう趣旨の発言をする人がいた。

『(農家なので)周りに同世代の子どもがなかなかいない。いれば保育園に預ける必要はないかなって思うんですけど、やっぱり他の子どもと触れ合う時間も大事だと思うので』

『遅くまで子どもを預けるなんて可哀想、ってやっぱり言われましたよ。でも、子どもの側から見たら、ここが生活の一部だし、友達もいるし、いつも楽しそうにしてる。卒園してからも、ここで働きたいなんて言うぐらいですから』

そうだろうなぁ、と思う。もちろん、保育園の環境にも依るだろうし、この映画で扱われている保育園は、全体の中でも恐らく「良い部類」の保育園だろうから、単純に捉えることは出来ないにせよ、やはり映画の中で映っていた子どもたちはみんな楽しそうだったし(そういう場面ばっかり切り取っているのだ、という可能性はあるにせよ)、同年代の子たちと関わっている姿は、家庭だけの子育てではなかなか得られにくいだろう、とも感じた。

空気、という意味で言えば、もう一つ感じることがある。それを的確に表現してくれていたのが、映画に登場した内閣官房統括官の方だ。この方は、自らの出身である地方の村での子育てにおける状況を語った後で、こんな風に言った。

『子どもを育てるということへの敬意が薄くなっているように感じることがあります』

それは、ニュースなんかを見ていても感じることだ。電車にベビーカーで来るなとか、幼稚園を近所に作るな、みたいな話が結構出てくる。そりゃあ、実際に迷惑を被っている人からすれば大変な状況ではあるんだろうけど、でもそういうのって、子どもを育てることに対する敬意がちゃんとあれば、まあしょうがないかという形で収まる話なんじゃないか、という気もします。子どもを育てることへの敬意が、一昔前はあったのかどうか僕には分からないけど(内閣官房統括官の方はあくまでも、自分の出身の村の昔の状況と、現在の日本の大雑把な状況を比較している)、現代ではそれが薄い、ということは間違いないだろうと思う。

そういう世の中にあって、保育園という存在は益々重要になってくるだろう。映画の中でも、「この保育園がなかったら、二人目は考えられなかった」と語る親もいた。子どもは欲しいけど、育てられるか分からないからという理由で躊躇してしまう人だっているだろう。そうなればなるほど、色んなことが苦しくなってくるだろうなぁ、と思う。

現在(確かデータは2016年のものと表記されてた気がする)、保育園(これが無認可も含むのか忘れてしまった)は2万ヶ所ぐらいあるのに対して、認可夜間保育園は80ヶ所しかないという。一方で、無認可のいわゆる「ベビーホテル」と呼ばれるところは全国で1749ヶ所あるという。

この映画では、そんなベビーホテルも取り上げられていた。必要性があるからこそ、1749ヶ所も存在するのだけど、認可がないから補助金はない。ベビーホテルの方の話だと、認可保育園だとキャバクラで働いている人は落とされてしまうという。そういう意味でも、ベビーホテルのような存在は必要とされている。

ニュースを見ていると、認可保育園でも問題があったりと、保育園を巡る様々な問題が取り上げられる。あるいは先日ネットで、「実は認可保育園に落ちたい母親が潜在的に多くいる」という記事を見かけて驚いたことがある。その記事によれば、認可保育園に落ちたという証明があれば、育休が伸ばせたりするらしい。だから、認可保育園に落ちたという証明をもらうために、敢えて入るつもりのない認可保育園に応募する親もいるらしい。そんなわけで、子育てを巡る問題や解決は、単純なものではなく、社会全体の色んな部分をひっくるめて考えなければならないことなんだと思うのだけど、こういう映画を見ると、そういう問題に目が向くようになって良いと思う。

この映画では、「エイビイシイ保育園(新宿)」「玉の子夜間保育園(沖縄)」「すいせい保育所(北海道)」「エンジェル児童療育保育園(新潟)」などが取り上げられる。それぞれが問題意識や使命感を持って夜間保育を担っていて、そこで働く人や、そこに預けている人の話を積み上げていきながら、現代の子育ての問題を浮き彫りにしようとする。

使命感ややりがいは大事だし、そういう人は素晴らしいと思う。けど、使命感ややりがいなど高いハードルを越えないと出来ないことは、なかなか広がっていかない。夜間保育も含め、子育てというものが、社会全体の努力によって、今よりももう少しハードルの低いものになればいいと、映画を見ながら感じた。

「夜間もやってる保育園」を観に行ってきました

「密偵」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
日本統治下にある朝鮮で、イ・ジョンチュルは通訳上がりの日本警察の警務として働いていた。当時、朝鮮の独立を掲げた抗日武装秘密結社である義烈団の活動が秘密裏に行われており、日本警察としては義烈団の動きを抑え、団長であるチョン・チュサンを捕らえることを至上命令としていた。
東部長の元で働いていたイ・ジョンチュルは、その語学力と独自の情報網を駆使して、義烈団のメンバーを追うが、なかなか決定的に捕まえることが出来ない。
ある時部長から、“橋本”(日本名ではあるが、朝鮮人)の男を組むように命じられる。お互いの情報は共有するように、と指示されたが、イも橋本もお互いを信用しない。互いのやり口を牽制し、それぞれが自らの正しさで捜査を進めようとする。
一方、義烈団の隊長を務めていたキム・ウジンは、商人として町に溶け込みながら、革命のための準備や情報戦の最前線にいた。情報漏れや資金難など課題は山積だが、メンバーの士気は高く、なんとか朝鮮の独立をと意気込んで活動に邁進している。
ある日イが、キムの営む写真店を訪れた。互いに牽制しながら、キムはイを「アニキ」と呼び、仲の良さをアピールするようになる。イも、キムが義烈団のメンバーであると認識しながら、それを知らせず、キムを動かして組織の壊滅を目論もうとする。
そんなある日、イにとって青天の霹靂とでも言うべき事態が起こり…。
というような話です。

全体的にはなかなか面白かったんですけど、とにかく最初の内は設定を理解するのが大変でした。調べると「義烈団」というのは実在したようです(歴史にはまったく詳しくないので、もしかしたら普通は学校で習うことなのかもですけど知りませんでした)。韓国では義烈団というのは恐らく誰もが知っている存在なのでしょう。この映画は韓国映画であるが故に、その辺りの詳細があまり詳しく描かれないまま話が展開されていきます。義烈団が何なのか、そもそもそこから知らない僕は、義烈団というのはどういう組織で、何と何が対立していて、誰がどちらの陣営なのか、みたいなことを理解しながら観るのにかなり苦労しました。

その辺りを大体理解できたら、後はスピーディーに展開する物語を楽しめるようになりました。そうなってくると、主人公のイ・ジョンチュルの葛藤が様々な形で浮き彫りになってきます。

内容を明かすことになってしまうので詳しくは書きませんが、イは様々な葛藤の中で目まぐるしく立場が入れ替わり、悩みながら行動していくことになります。義烈団、日本警察、そして朝鮮人という出自。どれもが彼の行動を制約し、苦しめる結果になります。イ自身は、恐らく善良な人間でしょう。というか、善良でありたいと願っている人間だと感じます。ただ、社会情勢や出自が、ただ善良であり続けることを許さない。その時その時で自分に与えられた役割をまっとうしながら、一人絶望的なまでの葛藤を飲み込んでいく姿は、なかなか迫ってくるものがありました。

だからこそ、イの最後の行動は、なんというか、個人的には受け入れてあげたい、という感じがしてしまいます。そう思うことは間違っているんでしょうけど。彼の最後の行動は、正しいか正しくないか、という判断基準ではなく、そうすべきか否か、という基準で選ばれたのだろうな、と思います。で、やるべきだ、と判断した。その決断をさせたものがなんだったのか、それは正直分かりません。分かりませんが、だからと言って納得感がないわけではありません。イの行動は、正しいかどうかではなく、すべきかどうかという観点から見れば、すべきだったと結論してしまっても仕方ないものに感じられます。いや、観る人によって感覚は変わるかもしれませんが、僕にはそう感じられました。

結局のところ、憎しみは何も生み出さないのだと感じる。憎しみを捨てきれないことは多々あるし、何も生み出さないと分かっていながらせざるを得ないこともあるのだろうけど、憎み合い続けることの不毛さみたいなものを感じました。この映画で描かれている状況は、日本側が憎み合いの口火を切っているわけで、「憎み合い続けることの不毛さ」などと言えるような立場ではないとは思うのだけど。

「密偵」を観に行ってきました

「ブロークバック・マウンテン」を見ました

内容に入ろうと思います。
1963年、仕事を得に来たジャック・ツイストとイニス・デルマーの二人は、共に森林局が管理する野営地で放牧されている羊を管理する仕事に就いた。ずっと山で過ごし、羊と共に眠る。彼らは、豆ばかりの食事に不平を言い、時に凍えながら眠り、喧嘩することもありながら仕事を続けていく。
ある夜。ジャックがイニスの手を握ったのをきっかけに、二人はセックスをする。お互いに惹かれ合っていることに気づいていながらも、男同士の恋愛など認められない時代、気づかないフリでやり過ごすしかなかった二人の関係が、そのことで一歩前進してしまった。
二人は時折体を重ねながらも、山での生活を終えた。山を降りる少し前殴り合いの喧嘩をしてしまった二人は、このまま二度と会わない可能性もあった。
イニスは予定通り、付き合っていたアルマと結婚、子どもをもうけた。ジャックは、ロデオで賞金稼ぎをしながら、バーで出会った女とセックスをし、子どもが出来て結婚した。
二人の人生はその後、4年間も交わらなかった。お互い、それぞれの結婚生活を送り、それなりに不満を抱えながら、それでもこの人生しかないのだと納得しながら日々を過ごしていた。
ある日、ジャックから手紙が届くまでは…。
というような話です。

全体的に静かに展開していく映画で、ここ!というような盛り上がりがあるわけではありません。淡々と、熾火のように静かに燃え続ける恋情みたいなものをベースにしながら、ままならない人生を描いていく映画です。

この映画は、ある程度時代背景的なものを抑えておかないと受け取るのが難しいかな、と思ったりしました。

1960年代のアメリカにおいて、同性愛というのがどういう扱いだったのか、という漠然とした知識は要るような気がします。映画の中での描写としても、まあ普通には認められない、あり得ないことだという受け取られ方をしているんだろうという感じはしたんだけど、映画全体はジャックとイニスの描写がメインだったので、社会的に同性愛がどう扱われていたのかということはハッキリとは分かりませんでした。

日本においては、同性愛っていうのは、またちょっと違う歴史があると思うんです。衆道と呼ばれている時代もあったし、明治時代とかに同性愛が当たり前に存在していたみたいな本も読んだことがあります。もちろん、昭和に入ってから一転嫌悪されるようになったんでしょうけど、またBLというような形で同性愛が(現実的なものとしてではないだろうけど)受け入れられつつあるでしょう。アメリカでは、同性愛というのがどんな歴史を辿っているのか、そういう方面の知識には明るくないので、その辺りのことをちょっとでも知ってる方が、見方は変わって来るんだろうなと思いました。

ジャックとイニスは、言葉でのやり取りがあまり多くないので、彼らの言動や感情の変化が捉えにくいなと感じる部分もありました。そもそも、何故セックスに至ったのかも唐突だなと思ったし(まあそういうものなのかもしれないし、それがリアルっぽさを生み出しているということもあるでしょうが)、何故殴り合いの喧嘩に至ったのかもよく分かりませんでした。

僕らは人生を一つしか選べないから、選ばなかった人生がどうなっていたのかは、永遠に想像の内側に閉じ込められることになります。ジャックにしてもイニスにしても、一つ一つの決断が正しかったのか、どこかで別の決断をしていたらどうなっていたのか、様々に考えただろうと思います。静かに展開されていく物語の中で、そういう葛藤が時々ポンと浮かび上がってくるところは、良かったなと思います。

「ブロークバック・マウンテン」を見ました

「スリー・ビルボード」を観に行ってきました

面白い映画だったなぁ!

「正しさ」というのは、常に対立しうる。それを「法律」とか「正義」とか「ルール」とか言い換えても同じで、いつどんな時代どんな場所でも絶対的に揺るがない「正しさ」なんて、たぶんない。「人を殺しちゃいけない」っていうのは、絶対に揺るがない「正しさ」に思えるかもだけど、戦争になれば違う。洗浄では、人を殺すことが正しくなる。今の世の中で通用しているどんな「正しさ」も、100年後200年後も正しいとは限らないし、国境や民族が変われば容易に「正しさ」は変わりうる。

常に、誰かと誰かの「正しさ」は対立しうる。そういう社会の中に生きている僕たちは、仮に「正しさ」が対立した場合、その国(や集団など)の法律によって決着をつける、という仕組みを、長い闘争の歴史の果てに手に入れた。「正しさ」が対立する部分には、大抵の場合何らかの法律が用意されていて、それに沿って判断を下す、という条件を、僕らは(特に承認した記憶はないのだけど)受け入れて生活をしている。

ただ時には、「正しさ」が対立しているのに、その衝突点に必要な法律が存在しない場合もある。法律というのは、その時その時の社会の要請によって生まれるもので、例えばインターネットの存在を前提にしていない法律では、インターネット上で特有に発生する対立は判断できない。そうやって法律は、現実を反映させながら変わっていく。

だからこそ法律は、常に最新の現実には対応出来ない箇所が残ったまま存在する、ということになる。

この映画が面白いのは、まさにそんなエアポケットのような衝突点を描き出しているからだ。この映画で描かれたようなことが現実にあった場合(この映画が現実を元にしているのかどうかは知らない)、両者の「正しさ」を解消出来るだけの法律は存在しない(少なくともこの映画の舞台であるミズーリ州ではそのようだ。しかし恐らく、アメリカ全体でも、日本でも、この対立を解消できる法律はきっと存在しないだろう)。

実際には、そういうケースというのは日常の様々な場所で起こっているのだろう。僕がこの文章を書いているまさに今も、きっとどこかで、法律では解消出来ない「正しさ」の対立に巻き込まれている人がいるはずだ。

そういう人たちにとってはもちろん、僕ら皆がこの映画には無関心ではいられないだろう。いつ自分がそういう立場に立たされるか分からない。法律があれば、感情的な部分はともかくとして、「とりあえずこうしなさい」という決定が出され、社会的にはそれに従わざるを得ない。しかし、法律が存在しない場合、その決着はつかない。対立している者や集団のどちらかが諦めるのを待つしかない。

しかしその間に、当人同士だけではなく、当人たちの周囲の人間にも莫大な影響が及ぶことになる。

この映画の最も面白い点を、僕はその点だと感じた。いやもう少し説明しよう。この映画では、対立している者同士は、実は心情的には対立していない。しかし、対立しているように見える者たちの周囲の人間が、代理戦争のようにして事態を悪化させていく。そして次第に、当人同士が置き去りにされ、問題が別のフェーズとして独り歩きしていくのだ。

この点が、非常に現代的だな、と感じた。僕らが生きているこの社会でも、似たようなことはよく起こる。特にネット上では、当人たちとは関係のない「善意の第三者」みたいな人たちが、「あんなことを言うなんて可哀想」「あんなことをするなんて信じられない」みたいな、当人同士が“望んでいるかどうかも分からない加勢”をしてくる。

この映画では、3枚の立て看板という実にアナログなツールを使って、主にネット上で散見される、前述したような奇妙な現象をうまく描き出している。この点が、僕は非常に見事な設定と構成だなと感じた。

内容に入ろうと思います。
ミズーリ州のエビングという町に住むミルドレッド・ヘイズは、ある日碌に車も通らない(しかし家に帰るのにその道を毎日通る)にある、朽ち果てた3枚の立て看板に目を留める。管理会社に出向くと、最後に看板が設置されたのは1986年だとか。彼女は3枚分の看板料を支払い、看板を設置させた。
3枚には、こんな風に書かれている。
「なぜ、ウィロビー署長」
「犯人逮捕はまだ?」
「レイプされて死亡」
そう、彼女は、この町で起こった悲惨なレイプ事件の被害者であるアンジェラ・ヘイズの母親なのだ。
設置された看板は、即座に町の噂となった。エビング署は、看板の管理会社に出向くが、法律違反ではないと突っぱねられる。実際に、この看板を法律に違反していると排除することは出来ない。署長はミルドレッドの元へと出向き、説明をする。職務怠慢ではない。現実に、手がかりのまったくない事件というのも存在するのだ。申し訳ないが、打つ手がない。そしてさらにウィロビーは彼女に、自分がガンで余命数ヶ月なのだと告げる。言外に、だからあの看板を外してもらえないかと込めながら。しかし彼女の答えは「知っている」だった。「死んだ後じゃ、意味ないでしょ?」と。
息子は学校で悪口を言われ、町の神父が彼女の元を訪れ、住民が反対していると告げる。彼女に賛同してくれる者もいるが、当然反対する者も多い。なにせウィロビー署長は、人格者として通っているからだ。
それでもミルドレッドは、自分の信念を曲げることはない。あらゆる抵抗を跳ね除けたり無視したりし、時には暴力的な手段に訴えながら、娘の事件の捜査の進展を願う…。
というような話です。

実に面白い映画だった。冒頭でも書いた通り、アナログなツールを使って、現代のネット社会を皮肉るような構成も見事だし、ミルドレッドとウィロビー署長の関係性も素晴らしい。たった3枚の看板を設置しただけで町がざわつき、その余波が様々な部分に押し寄せていく展開は面白かったし、何よりも主人公であるミルドレッドがなまなかな共感を寄せ付けないキャラクターであるにも関わらず、決して嫌悪することは出来ないという絶妙な立ち位置であるという点が、役者の演技も含めて見事だったと思う。

まずやっぱり印象的なのは、ミルドレッドとウィロビー署長の関係性だ。この二人は、ミルドレッドが設置した看板のせいで対立しているはずだ。しかし実際のところ、ミルドレッドとウィロビーはある意味では理解者同士だ。ミルドレッドは署長がガンだと知った上で行動しているし、またそもそも署長自身が悪いとは思っていないはずだ。何故そう思うのか。ミルドレッドは看板を設置した後、警察官に「ウィロビー署長の名前を出す必要があったか?」と聞かれ、「誰かが責任を取らないといけないから」と答える。ミルドレッドはテレビの取材に対し、「地元警察は黒人いじめに忙しい」と皮肉を語っているが、それは決して署長を指しての言葉ではないだろう。ミルドレッドとしては、エビング署の対応には不満がある、しかしそれは署長に向いているのではなくもっと末端の人間に対してだ。とはいえ、問題に対しては誰かが責任を取る必要がある。それは署長しかいない。恐らくそういう理屈を持っているはずだ。

ウィロビー署長の方もまた、ミルドレッドを理解している。後半の方で署長がミルドレッドに掛けた言葉がまさにそれを直接的に証明しているが、前半部分でも、署長自身はアンジェラの事件を解決したいと考えていることが伝わってくるし、ミルドレッドに対する態度にも、あんたの気持ちは分かっている、というような気持ちが滲む。

そう、この映画では、本来的に対立しているはずの二人の間に、実は対立関係は存在しない、という点が、一つ大きな根っこになるのだ。しかし残念ながら、彼らの周囲にいる人間はそのことに気づけないでいる。署長は住民に好かれている。もちろん多くの住民が、アンジェラの事件ではミルドレッドに味方しているが、しかし看板の件では署長の味方をする。ミルドレッドの味方もいるにはいるが、基本的には「善人・ウィロビー署長VS悪人・ミルドレッド」という対立構造がいつの間にか作り上げられている。

この辺りが、まさに当事者を置き去りにして論争やトラブルに発展していくネットの有り様を見事に描き出していると感じられる。

自然発生的に生み出されたその対立構造に沿って、多くの人間が行動をする。これもまたネットのようだ。どちらの意見でもなかったものが、多数派が決まった時点で多数派に乗っかって突然意見を言い始める、ということもネットではよくあることだ。そういう行動をする人は、多数派の考えに沿っているのだから安全だ、という思考でしか動いていない。それが結果的に正しかったとしても、自分で考え決断をしていない時点で、そういう人たちの言動に価値が生まれることはない、と僕は考えてしまう。

別に僕は、ミルドレッドの行動が正しいと言いたいわけではない。最終手段として看板を設置する、というのはアリかもしれないけど、個人的にはそこに至るまでのいくつかのステップをすっ飛ばしているような感じがして、違和感はある。しかし、ミルドレッドの行動が完全に間違っているともやはり言えはしない。個人の力で大きな組織や現実を動かしていくことは本当に困難だ。看板の設置というのが、その一つの選択肢だったことは間違いないし、ミルドレッドはその看板の設置がどういう事態を引き起こすのかある程度予測し覚悟していただろうから(もちろん、あまりの想定外の出来事もあったが)、その上での行動なら仕方ないとも感じられる。

とはいえ、ミルドレッドの最後の決断(というか、決断は迷っているのだけど)は、ムチャクチャだなと思います。ああいう決断を知ってしまうと、見ている側としても迷いますよね。本当にミルドレッドの言動を許容してしまっていいんだろうか、と。そう感じる場面は作中に多々あって、だからミルドレッドに単純に共感も出来ないし単純に拒絶も出来ない。その複雑さみたいなものもまた、人間らしいと言えば言えるし、モヤモヤさせるような言動や決断が多々ありながらも、それでもある種スッキリしたような感覚を残す映画だと思うので、全体としては本当に見事な映画だなと感じました。

「正しさ」の対立の衝突点に、いつ立たざるを得なくなるかは誰にも分からない。もし自分がそういう立場にならざるを得なくなったら、この映画のことを思い出そうと思う。

「スリー・ビルボード」を観に行ってきました

「ビジランテ」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
とある田舎町。市議会議員を務める神藤二郎の父で、かつて土地の有力者の一人だった男が死んだ。かつて男は、毎晩のように三兄弟を殴っていた。それに耐えきれなくなり、兄である一郎は子どもの頃に家を飛び出した。それから姿を見ていない。三郎は父とは関わらず、地元でデリヘルの店長をしている。
父の死が、ある問題を引き起こした。
父が所有していた膨大な土地の内、下ノ橋地区の土地を含む敷地に、アウトレットモールを誘致する計画が持ち上がっている。二郎は議会の有力者から、その土地の相続だけはちゃんとやれ、と言われていた。しかし、30年ぶりに戻ってきた兄・一郎が、なんと公正証書を持っていた。つまり、遺産の相続権は一郎にあるということになる。
大々的な計画として動き出しているアウトレットモール誘致の計画のためには、なんとしてもその土地が必要だ。しかし一郎は、頑としてその土地の権利を手放さない。土地の相続などに興味のない三郎も、この騒動に巻き込まれ、様々な勢力が蠢く中、三兄弟を取り巻く状況が激変していく…。
というような話です。

いわゆる、ノアールと呼ばれるような世界観で、もちろんそういう作品だと思って観に行ったんだけど、やっぱりちょっと合わなかったかなぁ。どうしても物事に理屈を求めてしまうから、色んな人間の行動原理が捉えにくいとすっきりしない。もちろん、現実の世界というのはむしろそうで、なんだかよく分からないまま日々色んなことが起こっているんだけど、せめて物語の中でぐらいは、ある程度は理屈が欲しいと思う。この映画では、何故一郎が下ノ橋地区の土地に固執したのかとか、二郎の妻は一体何をしているのかとか、三郎は三兄弟で集まって一体なんの話をしようとしていたのかとか、他にも色々あるんだけど、そういうことが少なくとも僕にはイマイチ理解できなかった。もちろん漠然と想像出来る部分もあるけど、まったく分からないものもある。個人的には、何故一郎があの土地に固執したのかという部分が一番謎だった(映画から読み取れるのかなぁ、この点って)。

個人的に気になったのは、本編ではなくエンドロール。最初は意識してなかったんだけど、後から思い返すと、エンドロールには役者の名前しか表記されてなかった。つまり、作中の役名が一切記載されていなかった。そんなエンドロール、正直見た記憶がないから、印象的だった。

そう考えると、三兄弟の名前が一郎・二郎・三郎だったことも意味があるのかもしれない。ほとんど個性を感じさせない名前をつけることで、「名前をつけること」「名前を持つこと」全般に対しての意味のなさみたいなものを出そうとしているのかなぁ、とか。ただそれが、映画全体に対してどんな役割があるのか、そういう分析は僕には出来ないのだけど。

三兄弟役のそれぞれの役者の演技は、やっぱり迫力があって、雰囲気が出てて凄いなと思いました。そんなアホみたいな感想しか書けないのが残念ですが。

「ビジランテ」を観に行ってきました

「チェイサー」を観ました

内容に入ろうと思います。
元刑事で、今はデリヘルの元締めを兄弟でやっているジュンホは、自分のところのデリヘル嬢が次々と「消える」ことに不審感を抱いていた。手付金を受け取ったままとんずらしたと考えて、いなくなったデリヘル嬢を探し回るが、その内に、イカれた男が売り飛ばしているのではないか、という疑惑が持ち上がった。いなくなったデリヘル嬢の携帯電話が車内に残っており、その履歴に末尾が「4885」という、なんとなく見覚えのある番号があった。調べてみると、今日まさにその男からデリヘル嬢の派遣の依頼があったという。その男の元へ向かったのは、風邪気味で休もうとしていたのをジュンホが無理やり引っ張りだしてきたミジンだった。ジュンホはすぐさまミジンに連絡をし、男の家に着いたら住所を覚えてすぐにメールしろ、と指示した。
ミジンは言われた通りにしようとしたが、男の家の電波が悪くて果たせず、結局そのまま浴室で縛り上げられ、金槌とノミで男に襲われてしまう。
一方ジュンホは、ミジンからの連絡を待つも一向に来ない。状況が悪化していると知り、周辺をあれこれ探し回るも、男の家は判明しない。そんな折、ある男の車と接触してしまう。保険会社に連絡しろとジュンホが伝えても、大丈夫だとその場から立ち去ろうとする。男の服には血痕。怪しいと睨み「4885」の番号に電話すると、まさに目の前の男の携帯電話が鳴った。
そこからすったもんだあった挙句、ジュンホとヨンミンと名乗った男は警察に拘束された。ヨンミンは警察署で、女をたくさん殺したと自供するのだが…。
というような話です。

韓国で実際に起こった連続殺人事件をモデルにした作品だそうです。
どこまで現実の事件をなぞっているのか分からないのだけど、この映画の救いの無さはちょっと凄かったです。

観ている側は、ヨンミンが連続殺人犯だということはわかっている。しかし、ジュンホも警察も、ヨンミンが殺人犯だと確信出来ているわけではない。ジュンホは、ヨンミンの「女たちを殺した」という供述を、異常者のフリをしているだけだと言って、あくまでもヨンミンが女を売り飛ばしたのだと思い込んでいる。また警察が当初理解していることは、ジュンホがヨンミンをボコボコに殴っているということだけであり、むしろジュンホの方が加害者に見えている。

韓国の法律では、逮捕状なしで逮捕した場合、12時間以内に検事に引き渡す(だったか逮捕状を請求するか)しないと、容疑者を釈放しなければならないというルールがある。ヨンミンは、殺人の状況などについての供述はするのだが、何度聞いても自宅の住所を言わない。死体をどこに埋めているのかも判然とせず、あるのはヨンミンの供述のみ。その状況から、ヨンミンを逮捕するための何らかの証拠を12時間以内に見つけ出さなければならないのだ。

一方でジュンホは、警察を頼りにせず、ミジンを独自に探し出そうとする。ヨンミンが、ミジンはまだ生きている、と証言したのだ。しかし、ヨンミンの自宅がまったく分からない。ジュンホの手元には、ヨンミンの車の中に残っていた鍵の束がある。この鍵の束で開く物件を虱潰しに探せと弟に命じて、なんとかミジンを見つけ出そうとする。

そして、ミジンは実際にまだ生きている。両手両足を縛られているが、どうにかこうにかヨンミンの家から脱出しようと奮闘する。

これらの時間軸が折り重なって物語が進んでいく。

現実にこの通りのことが起こったわけではないだろう。この映画の構成は、映画を盛り上げるために設定されたものに違いない。とはいえ、連続殺人犯の異常な造型は、たぶん現実のものをベースにしているんだろうと思います。

こういう異常さって、結局回避出来ないよなぁ、と思います。デリヘルという仕事が相手の家に行くこともある以上、リスクがあることは大前提でしょうが、とはいえこれほどのリスクを想定しないといけないとしたらちょっと辛いものがあるでしょう。

この映画を見て、警察が酷いと感じる人もいるかもだけど、しかしこれも仕方ない部分はあるよなぁ、と思います。もちろん、結果から見て、なんであの時釈放したんだ、と警察を責め立てるのは簡単です。けど、そんな易しい問題ではないでしょう。確かにヨンミンは怪しい人物だったし、殺したという証言もしている。しかし、ただそれだけの理由で逮捕・拘束し続けることはなかなか難しいだろうと思います。万が一ヨンミンが無実の人だった場合のことは、やはり考えないではいられません。もちろん、結果としてヨンミンは釈放されるべきではなかったのですが、じゃあヨンミンの釈放の前に間違いのない自信を持ってヨンミン釈放を阻止出来る人物がいるかと言えば、まあいないでしょう。

個人的にモヤモヤしてしまうのは、ジュンホの扱われ方です。ジュンホは、元刑事という立場を利用する時もあるし、暴力に訴え出ることもあるわけで、正直印象の良くない人物ではあります。ただ、ミジンを探し出したいという意思は本物だろうし、ミジンの娘を守ろうという気持ちも強い。どんな手を使ってもミジンを探すんだ、という意気込みが空回りしてしまうことで、ジュンホ自身の扱われ方がどんどん悪くなっていく。もちろんこれも結果論だが、ジュンホの言っていることをもう少し早く聞いていれば状況は変わったかもしれないよなぁ、と思ったりもします。

ヨンミンのような人間は、社会のどこかに今も潜んでいるでしょう。あんな人間は存在しない、などと思っていては、また同じ悲劇が繰り返されるだけでしょう。だからと言ってじゃあどうすればいいのかという結論はないのだけど、個人の狂気による被害と、個人の権利やプライバシーの両立をどうしたらいいかは、社会の構成員である僕らが考え続けなければならないんだろうと思います

「チェイサー」を観ました

「羊の木」を観に行ってきました

これは面白かったなぁ。

何かの本で読んだ話で、印象に残っているものがある。アメリカの話だ。
「銃」と「プール」はどっちの方が危険か?という話なのだけど、これだけでは分からないだろう。正確な問いはこうだ。「銃」のある家と「プール」のある家では、どちらが死亡率が高いか?さて、あなたはどう思うだろうか?

瞬間的な印象で言えば、「銃」の方が危険だし恐いと思うだろう。しかし実際には(少なくともアメリカでは)「プール」がある家の方が死亡率が高い。子どもが溺れて死亡する事故が多いからだ。

これと同じような話ではないか、と僕は感じるのだ。

「一度も殺人を犯したことがない人(非殺人者)」と「過去に殺人を犯したことがある人(殺人者)」だったら、どちらが危険だろうか?瞬間的な印象であれば、「殺人者」の方が危険だろう。しかし、本当にそうだろうか?「

ここからの議論は、あくまでも僕の個人的な意見だが、僕はこんな風に考えている。

まずそもそも、殺人を犯して捕まる人間の大半は「非殺人者」のはずだ。もちろん、正確なデータは知らないが、例えば殺人で捕まった人間を100人集めてきたら、98人ぐらいが「非殺人者」で2人ぐらいが「殺人者」ではないかと僕はイメージしている。

まあ、そりゃあそうだろう。現実には、刑務所を出た後また殺人を犯す者もいるだろう。もちろん、ゼロではない。しかし、その割合は、普通に考えればかなり低いはずだ。何故なら、もしも本当にそんなことが頻発しているのであれば、ニュースでバンバン報道されるはずだからだ。過去に殺人の前科がある者が殺人を犯したことが判明すれば、報道されないはずがない。

もちろん、被疑者が分からないまま迷宮入りする殺人事件も存在するだろうし、そういう中に、殺人の前科者による犯行もあるだろう。しかし、ごくごく一般的に考えてみれば、その可能性はかなり低いはずだ。

それよりも、どう考えてみたって、「非殺人者」が殺人を犯す可能性の方が高い。何故なら、僕のイメージが正しければ、殺人を犯して捕まる者の内98%が「非殺人者」なのだから。ニュースで報じられる殺人のほとんどが、「非殺人者」によるものだ、ということを思い返してみても、そのことが理解できるはずだ。

もちろん、こういう不安はあるだろう。「殺人者」の方が、殺人を犯すことへの抵抗が薄いはずだから、確率としては低いのかもしれないけど、危険視すべきであることには変わりない、と。

しかし、本当にそうだろうか?

ここで、殺人を犯す者を「理由なき殺人犯」と「理由のある殺人犯」に分類しよう。殺人を犯した者が「理由なき殺人犯」であれば、確かにかなり危険だとは思う。「理由なき殺人犯」は、理解できない理由で人を殺しうるからだ。

しかし「理由のある殺人犯」の人はどうだろう。殺人事件にはもちろん色んな動機がある。どうしようもない理由があれば殺人が肯定される、というわけではもちろんないが、夫のDVから逃れるためとか、壮絶な介護に疲れた果てにとか、そういう殺人だって世の中にはたくさんある。そういう人たちは、目の前にあるどうにもしようがない現実を打破するために、不幸にも殺人という選択をしてしまった人たちだと言えるだろう。

もちろん、「理由のある殺人犯」の人たちにも、ストーカーの末に殺してしまったとかというような身勝手な理由もありうる。だから、理由があるという分類でひとまとめには出来ない。ただ僕の感覚では、身勝手な理由での殺人というのは報道されやすく、だから頻発しているように感じやすい。あくまでも個人的な感触だが、切実な理由によってどうしようもなく人を殺めてしまう人の方が多いのではないかと思う。

さて、「理由なき殺人犯」と「理由のある殺人犯」は、どちらの方が多いだろうか?これも僕の感触だが、圧倒的に後者、つまり「理由のある殺人犯」の方が多いだろう。

ここまでの議論で何を示したかと言えば、殺人を犯した者の大半は、止むにやまれぬ事情によって人を殺してしまったのであって、そういう理由さえなければ人を殺すという行動を取らないだろう、ということだ。

もちろん、人を殺した者の中には「理由のある殺人犯」も混じっているし、外形でそれを判断するのは不可能だと言っていいだろう。だから、殺人を犯した者をひっくるめて怖がったり排除したりする、という姿勢を取ってしまうのも分からなくはない。ただ、もしそういう判断をするのであれば、僕らの周りにいる普通の人たちに対しても同じ態度を取るべきだ。何故なら、僕らの周りにいるごくごく普通の人の中にも、将来的に殺人を犯す人間はいるかもしれないし、その中には「理由なき殺人犯」もいるはずだからだ。だから、外形から「理由なき殺人犯」を区別出来ないから、かつて殺人を犯した者全員を排除する、という論理が成り立つのであれば、世の中に存在するすべての人の外形から「理由なき殺人犯」を区別できないから、世の中のすべての人を排除する、という論理も同時に成り立つはずだ。

僕はこんな風に考えているから、かつて殺人を犯した者だからと言って、ただそれだけの理由でその人を怖がることはないのではないか、と自分では思っている。

そもそも、これも当たり前の話だが、僕らが普通に生きている社会のどこかにも、かつて殺人を犯した者が普通に生活しているはずだ。刑期が終わればいずれ刑務所から出てくるわけで、そういう人だってどうにかして生きていかなければならないんだから、僕らが生きているすぐそばで生活している可能性はいつどこにいたってあり得る。知らないだけで、元殺人犯と日常的に接しているかもしれないのだから、知ったから怖がるという態度を僕は取りたくないなと思ってしまう、という部分もある。

本書で描かれるのは、過疎の町に素性を伏せて元殺人犯を受け入れるという国家プロジェクトを背景にした人びとの話だ。こんなプロジェクト、当然現実には行われてはいないだろうが、しかし完全には否定できないだろう。個人的には、フィクションとは言え、非常によく出来た設定だと思っている。僕らが知らされていないところで、このような極秘プロジェクトがどこかで行われているかもしれない。そのことは、誰にも否定できないだろう。

内容に入ろうと思います。
富山県魚深市の市役所で働く月末は、ある日上司から、この町に引っ越してくる6名の受け入れを担当してくれと命じられる。事情を知らずに、新幹線や飛行機でやってくる男女6名を迎えに行く月末だったが、久しぶりに食べるかのようにラーメンを勢い良く食べたり、預かっていてもらっていたから服がカビ臭いと発言したりと、なんとなく不穏な雰囲気を感じている。そのことを上司に問いただすと、彼らは全員犯罪者だと告げられたのだ。
刑務所の経費削減を国としては進めていきたいが、そのためには大きなハードルがある。仮釈放には、身元引受人が必要なのだ。しかし新しく、自治体が住居と雇用を確保すれば、仮釈放に必要な身元引受人になることが出来る、と決まった。そういう仮釈放者は、受け入れる自治体に10年住むことが義務付けられており、過疎対策にもなると、市長肝いりで始まったプロジェクトだと言うのだ。
月末は当初、彼らがどんな罪を犯したのか知らなかったのだが、秘密を知るはずのない同僚の一人が上司のパソコンを覗き見たとかで、彼ら全員が元殺人犯であることが分かったのだ。
月末は、彼らの受け入れ担当として、先入観を持たずフラットに接しようとする。しかし、彼らを受け入れた直後、港で変死体が見つかるなど、胸中穏やかではない。狭い町のことであり、月末自身、あるいは月末の父親とも深く関わるようになっていくが…。
というような話です。

とにかく、設定が見事な物語だな、と感じました。いやー、面白かった。先がどうなるのか分からないというサスペンスフルな部分もあり、また社会的な深いテーマも隠されている。非常に見応えのある映画だった。

社会的なテーマということで言えば、この映画で描かれる元殺人犯の受け入れというのは、原発の問題に近いものがある。原発を稼働すると核のゴミが出るが、その廃棄場所は未だに決まっていない。日本で生み出されたゴミである以上、日本のどこかで処分するしかないが、その処分地の受け入れをどこの自治体もやりたがらないからだ。

刑務所を出た人間をどう扱うか、というのも、近いものがある。核のゴミと同じ扱いをするのも悪いとは思うが、彼らも生きる以上日本のどこかに住まなければならない。しかし、積極的にそれを受け入れたいと考える自治体は存在しないだろう。この映画では、そういう設定が描かれているわけだが、実際には描かれてはいないものの、このプロジェクトを引き受けるにあたって、莫大な補助金などが出るだろう(出なければ、自治体側にメリットはほぼないはずだ)。刑務所から出てくる人間の身元引受人の成り手というのは、今後益々減っていくだろうから(昔は、家族だから仕方ない、という感覚はあっただろうけど、今ではそういう感覚は昔よりは薄れているだろう)、現実的にこの映画で描かれるような方策が必要とされる日が来るかもしれない。

物語という点で言えば、本当に何がどうなっていくのか予測出来なかった。表向きには普通の住民が増えたというだけのことだし、市役所の月末にしても、彼らとは可能な限りフラットに接しようとしている。やってきた6人は、自分と同じような立場の人間が同じ町にあと5人いるなどということは知らない。彼らには家と仕事があり、仕事も真面目にやっている。

普通に考えれば、そのまま何も起こらなくてもおかしくはないのだ。実際、不穏な雰囲気は常にありながらも、物語の冒頭から中盤に掛けては、特別何か起こるというわけでもない。ただ、設定からして、何も起こらないということはあり得ない。だから、これから一体何がどうなるんだ、という気分をずっと持ちながら見ていた。

冒頭で僕は、殺人を犯した者だからと言って怖がることはない、と書いた。しかし、もし自分が月島と同じ立場に立たされていたとしたら、様々な判断に迷ってしまうだろう、と感じた。

いや、それは、市役所の人間としてではない。魚深市に住む、一人の人間としてだ。

月末は、6人の内2人と、かなり深く関わることになる。いや、内1人は関わらざるを得なくなったというべきだろうか。彼らが元殺人犯でなければ何の問題もないはずなのに、彼らが過去に人を殺しているという事実があるが故に葛藤させられてしまう部分というのが月末にはかなりある。

その中で、あぁこれはやっちまったなと誰もが感じるだろう場面がある。月末がベースで参加しているバンドの練習の時のことだ。観客も、月末の気持ちは分かるだろう。あそこでああ言ってしまいたくなる気持ちを、自分は絶対に持ってはいない、と断言できる人はいないはずだ。でも、あの発言はやっぱりダメだった。いや、結果から見れば決して悪くはなかったかもしれないけど、でもやっぱりダメだろう。

これは、実に難しい問題だ。確かに、人を殺したことは悪いことだ。しかし、人間の感情の部分はとりあえず置いておくとして、法律上は懲役刑を経ることで罪は償ったということになる。過去は決して消せはしないが、しかし罪は償ったのだからやり直すチャンスはあって然るべきだ。もちろんその通りだ。しかしその人が、自分の生活に深く深く入り込んで来るとしたら、やはりそれは話が変わってきてしまうだろう。僕も、過去に殺人を犯した者を、ただそれだけの理由で排除するつもりはないが、しかしそれは決して、他の人と同じレベルで受け入れるということとは違う。月末は、かなり頑張ったと言えるだろう。僕が月末と同じ立場だったら、月末と同じように振る舞えるかは、ちょっと分からないなぁ。

月末と同じレベルで振る舞えるかは分からないけど、せめて僕は、クリーニング店の店主の女性程度には振る舞える自分でありたいと思う。

「羊の木」を観に行ってきました

「勝手にふるえてろ」を観に行ってきました

うぉーーーー!!!
超良かった!
メチャクチャ良かった!
松岡茉優も良かったし、江藤良香も良かった!
メッチャ良かった!
テンション上がる~~

(注 僕は、この映画を見る前から松岡茉優が好きだし、本書の主人公である江藤良香みたいなこじらせ系の女性が好きなので、正直、この映画を客観的に捉えられているとは思いません)

『私ごときが求め過ぎちゃダメなんですよね。手の届かないものばっかり欲しがって。本能のままに生きるなんて野蛮』

こういうことを書くと、うわぁって思われるような気もするんだけど、僕は、普通っぽく見えるのに、っていうかむしろ平均的な女性よりもスペック(この単語は好きじゃないけど、他に適切な単語が見当たらない)が高そうなのに、何故か自己評価が低い女性に興味がある。

そういう女性は、普通の仮面もちゃんと被って生きていられるので、その仮面に気づかない相手に対してはごくごく一般的な接し方が出来る。明るいし、楽しく話すし、友だちたくさんいるリア充です、みたいな雰囲気さえ出すことが出来る。だから、一般の人たちは、自分の周囲にそういう女性がいることに気づかないままであることが多い。

僕は、比較的にそういう女性が仮面を脱いで接してくれる関係になることが出来た(と思っている)。僕は普段から、どんな話をされても何でも受け入れますよ感を周囲に出している(つもり)なので、仮面を脱いだ姿を出しやすいという部分はあるかもしれない。もちろん僕自身も、そういうタイプの女性に関心があるということを、会話の流れの中で発言したりもするので、そういうこともあって、一般的な人にはきっと見せないのだろう、仮面を脱いだ姿で接することが出来る女性が時々現れる。

そういう人の話を聞くのは、本当に楽しい。

『そう初めてあの時自分から話しかけちゃったんですよ。あぁ本能側の人間に成り下がっちゃったって』

自分に自信を持つことが出来ない理由を、少なくとも僕は外形からは捉えられない。そういう人は、容姿も整っていたり、誰とでも喋れるコミュ力があったり、友だちも多そうなんだけど、何故だか自信が持てないでいる。相手の反応をことごとく悪い風に捉えるし、自分なんかが…という発想を捨てきれないでいる。僕は、どうしてそういう感覚に陥ってしまうのかを、その人の会話からなんとなく想像してみたいと思うんだけど、ちゃんとは捉えきれない。僕自身も、どちらかと言えば自信がない側だから、もちろん共感できる部分もたくさんあるんだけど、でも、そこまで自分のことを悪く考える必要はないんじゃないの?と感じてしまう部分もあって、とても不思議な感じがするし、こういう言い方は良くないのかもだけど、興味は尽きない。

彼女たちも、自分が普段隠しているそういう部分を表に出すことが良い結果を生まない、ということはちゃんと理解している。だから、仮面で隠しているのだ。平均よりもスペックが高い(と少なくとも僕は思っている)から、自分のマイナス面を出すと、「持っている者の贅沢な悩み」みたいな受け取られ方をされてしまうんだろうと思う。そういう経験を経てきているから、皆仮面で覆って見えないように頑張っているのだ。

ある女性は、僕とよく「死にたい」というような話をしていた。お互いに遺書を書いたことがあるという話で盛り上がったりしていたのだけど、ある時その女性は、「他の人にはこんな話が出来ない」と漏らしていた。「死にたい」みたいな話をすると、「えっ、何があったの?」「大丈夫、相談に乗るよ」「ダメだよ、死んじゃ!」みたいな反応が返ってきてしまう。別にそういう反応を求めていない(と僕はわかっているので、そういう反応を返さないのだけど)のに、なんか大事になっちゃうからそういう話は出来ない、というようなことを言っていた。そうだよなぁ、そういう難しさもあるよなぁ、と思った記憶がある。

また、今でも強烈なインパクトを憶えている、こんな印象的なことを言っていた女性もいた。その女性も自己評価が低かった(とはいえ、口調や言い方なんかだけ見ると、強そうな女性っぽいのだけど)。何かの時に、告白されたことがあるか?みたいな会話になったのだけど、その時にその女性は、「私は自分のことが好きじゃない。クソみたいな人間だ。で、そんなクソみたいな人間を好きだと言っている人間は頭がおかしいんだから、そんな人間の好きになれるはずがない」と言っていた。先日、あることで長年悩んでいるという女性にこのエピソードを話したら、「それは私が7年掛けてたどり着いた結論だ!」と非常に強く共感された。

そんなわけで僕は、これまでに、良香みたいな女性には、結構会ってきたと思っている。だから、良香のような女性を、非常にリアルなものとして捉えることが出来るのだ。

この映画を見る上で、良香のような女性の実在を大前提として受け入れることが出来るのかという点は、非常に大きなポイントだろうと思う。

この映画の原作で、主人公の江藤良香がどんな設定として描かれているのか分からないが、少なくともこの映画では、松岡茉優を起用している時点で江藤良香は「地味ではあるが容姿は良い女性」と受け取られるだろう。で、良香のような女性の実在を受け入れられない人(特に男に多いのではないか、と想像しているのだけど)は、「なんであんなにキレイなのに、あんなに捻くれてるんだ?あんなヤツいるわけない」と感じてしまうのではないか、と勝手に思っている。そうなってしまうと、この映画そのものを受け入れにくくなってしまうだろう。

僕の感覚で言えば、良香のような女性はどこにでもいる。普段はそうは見えないから、見破るのは難しいし、僕も近くにいるすべての女性の仮面の奥を覗けるわけではないから、そう考えると、僕が今まで出会ってきた以上にそういう女性が周りにいるということになる。10年間も脳内彼氏がいる、という設定にどこまで共感できるのかは分からないが(しかし、二次元キャラにリアルに恋をする女性も多いし、受け入れられやすい時代だろうとは思う)、少なくとも良香の性格的な部分に強く共感してしまう女性は、結構多いんじゃないかなぁ、と思っている。

内容に入ろうと思います。
経理として働く24歳のOLであるヨシカは、中学の頃から好きな「イチ」という「脳内彼氏」がいる。24年間、実際に彼氏がいたことはないが、中学の頃の「イチ」を何度も何度も脳内に召喚しては、その妄想に耽っている。とはいえ、中学時代も、「イチ」と深く関わっていたわけではない。ヨシカが編み出した「視野見」という、目の端で「イチ」を捉えることで「イチ」に見ていることに気づかれないようにする、というやり方で、ほとんど接触がないままだった。しかし、ごく僅かに存在する印象的だった出来事は、何度も何度も思い出してはキュンキュンしている。
ヨシカはインドア派で、絶滅した動物が好き。好きが高じて博物館払い下げのアンモナイトの化石を買ってしまうぐらいだ。職場と家の往復で、特に何があるわけでもない。
会社では、机を並べて仕事をしているクルミと仲が良く、日々くだらない話をしながら、お互いに相談事をしたりもしている。ある日、営業との飲み会があるとクルミに誘われたが、全然乗り気になれないヨシカはパスしようとするが、クルミに押し切られて行くことに。とはいえ、飲み会で発生する浮ついたノリに、予想通り嫌悪感を抱く。その飲み会で、普段仕事でちょくちょく関わっている、「ニ」という渾名で呼んでいる男と連絡先を交換することになった。「ニ」はヨシカと積極的に関わろうとするが、脳内彼氏である「イチ」がいるヨシカにすれば、「ニ」のことなど関心はない。
しかし、そんな「ニ」からある日突然告白され、ヨシカは脳内彼氏である「イチ」と、現実の「ニ」のどちらかを選ばなければならなくなり…。
というような話です。

いやー、面白かったなぁ。冒頭でも書いたけど、僕はそもそも松岡茉優が好きだし、江藤良香のような女性も好きなので、とにかくサイコーの映画でした。何よりも、江藤良香を演じる松岡茉優のハマりっぷりと言ったら、見事!って感じでした。これは、僕が元々、「松岡茉優は明るくてリア充側の人に見えるのに、実は結構ヤバイくらいの陰がある」ということを知っているからこそ感じるのかもしれません。松岡茉優も学生時代全然友だちがいなかったようで、あまりに話し相手がいないので、ヘッドセットを付けてパソコンに向かって話しかけていたそうです。そう、松岡茉優自身も、結構そっち側の人なわけです。だからだろうなぁ、松岡茉優(ってか江藤良香)の言動が、全然演技に見えないっていうか、松岡茉優と江藤良香の境界線が分からなくなるっていうか、ってかもはや同一人物なんじゃないかみたいな、そんな風に思いながら映画を見ていました。

もう、とにかく「妄想」で出来上がっている映画だと言っていいでしょう。詳しいことは書かないけど、ラストの方で(いや、見ながら、もしかしたらなーとは思っていたけど)ある事実が明らかになる構成は、いやー見事だなーと思いました。こういう構成にすることで、前後半での落差もより大きく打ち出すことが出来るし、映画自体も凄く楽しいものに仕上がっているので、上手いなぁーと思いました(原作がどうなってるのかは分からないんですけど)。

「ニ」がある場面でヨシカに向かって、「思考回路が悪魔的」って言うんですけど、後半、まさにそんな感じの状況になっていきます。こじらせているにもほどがあるだろ!っていう、ちょっとヤバさすら感じる展開には、度肝を抜かれますね。前半は、ふわっと笑わせるような小ネタが随所にあったりしてなんか楽しい感じなのに、後半では一転、狂気すら感じるような場面がぞくぞくと出てきます。ダンボール箱にモノを詰めているシーンでのヨシカの言動は、マジでヤバすぎますからね。常軌を逸している。そしてそれを、松岡茉優がまた実に良い感じに演じるんだよなぁ。この場面は、台詞が強いから、たぶんうまくやらないと「恐い」みたいな雰囲気に仕上がっちゃうと思うんだけど、それを松岡茉優はちゃんと「狂気」を打ち出せる演技でシーンを作っているので素晴らしいなって思いました。

個人的にはヨシカの言動で一つだけうまく納得出来ない部分がありました。これも詳しくは書きませんが、ベランダで急に態度が変わってしまう場面です。いや、分かる、分かるよ、ヨシカが感じたショックは。でも、それはさー、お互いの感情が非対称だからしょうがないっていうか、そこ求めるのはちょっとしんどいっていうか、っていうかそこさえ気にしなければ全然超うまく行ってたじゃん、みたいな感じがしちゃって、あそこだけ僕的には受け入れがたかったかなぁ。っていうか、アレでダメになっちゃうって、男的にもキツすぎっしょ、って感じがするんですけど、あの場面、女性の皆さんとしては共感できるものなんでしょうか?

いやーしかし、松岡茉優と江藤良香の両方を堪能出来る、超俺得な映画で、しかもストーリーも素晴らしいし、クスッと笑えるし、良いことづくめの映画でした。素晴らしかったー!

「勝手にふるえてろ」を観に行ってきました

「Ryuichi Sakamoto:CODA」を観に行ってきました

印象的だったのは、ピアノという楽器について語ったこの言葉だ。

『ピアノって、工業技術によって作られているんですよね。木を鋳型に嵌めて成型したり、弦だって全部合わせれば2トンぐらいの力が掛かってる。そのピアノを人間が自然だと思うように調律している。でもそれは、人間にとっては自然でも、自然にとっては不自然な状態で、そういうものに対する違和感みたいなものが自分の中にあるんでしょうね』

冒頭で、3.11の津波で水を被ってしまった、宮城農業高等学校のピアノが登場する。そしてそのピアノは、津波によってバーンと自然に戻されたから、だからこそ今の自分にはあの津波ピアノの音は良い風に聞こえるのだ、という発言もしている。

映画全編を通じて、音楽や音というものに対する探究心の強さみたいなものを感じさせられた。見慣れぬ楽器を扱ってみたり、雨の音を録音してみたり、バケツを頭から被った状態で雨に打たれたりする。時には北極に行き、そこで太古の昔の雪が溶けて流れる音を「釣る」こともしている。

かつて僕は「すばらしき映画音楽たち」という映画を見たことがある。映画音楽に携わる人間は、古今東西ありとあらゆる楽器、あるいは日常的なものが発する音などを組み合わせながら、映画にピッタリ合う独特の音を生み出していく。

坂本龍一も、映画音楽を手がけている。「映画音楽は制約があるから不自由だ。でも、その不自由さが刺激にもなる」と語っている。ガンを患っていることが判明し、作曲活動を一旦休止している時、「レヴェナント」の監督から音楽を頼まれ断りきれなかったという話も出てくる。

映画音楽では、相当苦労した経験があるようだ。「ラストエンペラー」という映画では、当初役者としてのオファーだった。しかし役者として現地に行った後、突然作曲を頼まれたという。また、その後NYで仕事をし、ホテルを出ようとしたまさにそのタイミングでレセプションから電話があり、同じ監督から曲を作ってくれと言われたという。1週間で45曲作り、ロンドンに着いた翌日にレコーディングだったとか。

別の映画では、今からまさにオーケストラの収録をする、というその直前に監督から、このイントロは好きじゃないから直してくれと言われて、オーケストラに30分待ってもらって書き直したという。

1992年頃から、環境問題などに注目するようになったという。「ミュージシャンやアーティストは、いわば炭鉱のカナリアみたいなものですからね」と、何がどうマズイのか分からないが何かしなければならない感覚をそう表現した。それまでは政治的・社会的問題について曲を作ることを意識的に封印してきたというが、次第にそういう活動もするようになっていく。

そして、3.11を経て、原発の再稼働には明確に反対している。

個人的には、この映画にはもう少し真っ直ぐな核みたいなものがあるのかな、と思っていた。それこそ僕は、冒頭で登場した「津波ピアノ」がメインになるのだと勝手に思っていた。しかしこの映画からは、「坂本龍一という人物を切り取る」以上のテーマ性を僕は感じることが出来なかった。見る人が見れば、何か核となるものを掴めるのかもしれないが、僕には、これまでの坂本龍一の活動の断面図の積分、というような印象しかなかった。

坂本龍一自身の言葉は、一つ一つ興味深いものが多かったし、坂本龍一が関係する過去の様々な映像(坂本龍一が映画音楽を手掛けた、その映画本編の映像も挿入される)も面白いと思った。けど、映画全体としては、うーんちょっとなぁ、という印象を抱いてしまった。

もちろん、天才(と軽々しく称していいのかは分からないが)を捉えるのは難しい。それに「音楽」という、「映像」というメディアでは捉えられない(そもそも音楽は目では見えないので)芸術を生み出す者の有り様を、映像で切り取るというのはそもそも無謀なのかもしれないとも思う。あるいは、僕自身が音楽というものをそこまでちゃんと受け取れる人間でもないので、映画自体の問題ではなく僕のレベルの低さの問題ということもあるだろう(実際ネットでの評判は良い)。

やはり印象に残ったのは、65歳(だったと思う)にして、未だに創作し続けようという意欲を保ち続けている、その力強さだ。

「Ryuichi Sakamoto:CODA」を観に行ってきました

「あゝ、荒野 後編」を観に行ってきました

不思議な映画だった。

そもそも、前後編合わせて5時間もある。非常に長い映画だ。だから、ストーリー部分以外の余白がかなりあるような印象だった。ジグソーパズルの中に、不必要なピースがたくさん紛れ込んでいるような感じ。完成させるまで、どれが要らないピースなのか分からない。でも、確実に不要なピースはある。この映画でも、観ている段階では、どのシーンが浮いているのかは分からない。分からないけど、ストーリー部分に直接関係なさそうなシーンも結構出てくる。それらをどう消化するのかで、この映画の捉え方が変わるような気がする。

様々な人間の人生が交錯する。物語だから、線が重なりすぎているのは、ある程度仕方がない。不幸な生い立ち、人生の転機、震災、若者を徴兵しようとする法案、自殺者を食い止めようとする活動をする大学生、親族の死の真相―そういう様々な人間の人生が、海洋闘拳ボクシングジムを中心に交わっていく。

しかし、そのそれぞれに対して、明確な答えは用意されない。映画の中で、彼らの多くは決断をしない。まったくしないわけではないが、はっきりとこうだと分かるような、物語によくあるスパッとした決断はあまり出てこない。それが、人間らしいなと思う。ある決断をしたようでいて、突き進められない。決断を曖昧にする。決断をしないという決断をする。皆、様々な形で、クソッタレな現実を乗り切ろうとする。

そう、彼らを取り囲んでいる現実が、どうにもクソッタレなのだ。舞台は2022年。東京オリンピックが終わり、日本はいよいよ衰退期に差し掛かっている。国会では、学生の奨学金の返済を一部肩代わりする代わりに、学生を介護現場か自衛隊に押し込む「社会奉仕プログラム法」が制定され、さらに今、任意制であるはずのその法律を義務制にする議論が始まっている。自殺者は急増し、新宿でテロが発生する。登場人物の一人がこんなことを言う。「今は生きることより、死ぬことの方がお金になるんです」 風俗が介護施設となり、結婚式場が葬儀場へと変わる。何が、というハッキリとした原因が明確にあるわけではなく、ジワジワと首を絞められるようにして誰もが追いつめられていく。

そんな中で、拳一つだけでのし上がっていくボクシングは、ある種の希望として描かれているように感じられる。誰もが鬱屈している。事業はうまく行かないし、ジムの存続は危ぶまれているし、異性の気持ちがうまく理解できない。はっきりとした原因があるなら、それを叩き潰せばいい。でも、そういう分かりやすい何かがないまま、みんな追いつめられていく。闘いたくても、誰と、あるいは何と戦えばいいのかが分からない。

そんな世の中で、戦う理由がなんであれ、拳一つで相手をリングに沈めるために戦い続ける者が、何か現実に真っ向から抗ってでもいるかのような、そんな風にも見えてくる。

『何のために私たち、生きてるんですかね?』

印象的だったのが、主演の一人を務める菅田将暉の「目」だ。ボクシングをしている時の彼の目は、輝いているように見える。闘争心の塊のような、何か放射されてでもいるかのような、ギラギラした目だ。しかし、前編の菅田将暉の登場シーンや、あるいは後編でのある箇所などで、彼は死んだ魚のような目をする。生気が宿っていないような、魂が抜けてしまっているかのような、そんなおよそ生きている人間の目とは思えないような目をしている。

その目はある意味で、「何のために私たち、生きてるんですかね?」に対する一つの答えなのだと思う。答えというか、問いそのものを無効にするような現実、とでも言えばいいか。

そして、戦うというのがもう一つの答えだ。殺伐とした荒野において、戦うことを答えに据えるような生き方を選択した者たちの物語なのだ。

内容に入ろうと思います。
プロデビューした「新宿新次」と「カミソリ建二」は、海洋闘拳ボクシングジムで練習を続けている。社会は益々きな臭くなり、「社会奉仕プログラム法」の義務化が検討されている。
新次はある時、「アニキ」と慕う建二について新たな事実を知ってしまう。しかし、そのことは建二との関わりにおいて影響を及ぼさないと、新次自身確認する。
かつての仲間と気まずい再会したり、恋人の芳子の母親について聞いたりしながら、新次は、そいつとリング上で戦うためにボクシングを始めた山本との試合が決定する。
建二は、書店で助けた妊婦と関わることになり、また、ボクシングジムの運営と絡んで、建二自身大きな決断を迫られることになる。
新次も建二も、社会の動きとは関係なく、強くなるため、相手を倒すために戦い続けるが、しかしそんな彼らを中心にして、様々な人間の人生が交錯していくことになる…。
というような話です。

うまく消化できてはいないのだけど、個人的には面白い映画でした。前篇から、想像していたのとは全然違った映画で、そのことに戸惑いがありつつも、時代背景とボクシングに打ち込む男二人の成長物語を捻るようにして描き出す物語の構成は、とても良いと思いました。

前述した通り、狭い人間関係の中で人生が重なり合うことがちょっと多すぎるので、さすがにやり過ぎ感を抱いてしまう部分はあるんですが、まあそれは物語上仕方ないかなと思います。その折り重なり合う人間関係を、決して分かりやすく描くのではなく、うまく着地させることなくそれぞれの物語を閉じていく感じが、僕は結構好きでした。そういう意味で、分かりやすい決着を求める人にはあんまり向かない映画かもしれません。

色んな人生が描かれるので、どれに肩入れして見るかは人によって様々でしょうけど、僕は結構芳子のことが好きです。新次の恋人ですね。新次と出会い、関わるようになり、付き合い、繋がり続けていくその在り方が、結構いいなぁって思うんだよなぁ。

全体的な雰囲気が凄く好きな映画でした。

「あゝ、荒野 後編」を観に行ってきました

「あゝ、荒野 前編」を観に行ってきました

寺山修司の原作は、読んだことがない。
だから、この映画がどこまで原作の内容を含んでいるのか、それは判断できない。
ただ、原作そのままを映画かしているわけではない、ということは分かる。
何故ならこの映画は、2021年が舞台だからだ。

冒頭で、2021年の新宿であることが明かされる。
初め僕はそれを、特別意味のある設定だと思っていなかった。
しかし、映画が始まってすぐ、新宿・歌舞伎町で爆破事件が発生する。
なんだこれは?と僕は思った。

僕がこの映画に抱いていたイメージは、「弱者がボクシングを通じて這い上がる物語」というものだ。
確かに、それは本筋ではある。菅田将暉と、もう一人韓国人の俳優(役柄的には、日本人と韓国人のハーフ)が、弱小ボクシングジムから強くなっていく物語だ。
しかし、決してそれだけの映画ではない。

2021年。それは、東京オリンピック後の日本だ。
その日本は、今以上に社会情勢が不安定になっている(とこの映画では描いている)。
国会では、ある法案が審議されている。
それは、学生の奨学金の支払いを一部免除し、その代わり、介護業務あるいは国際平和貢献プログラムに参加させよう、というものだ。国際平和貢献プログラムは、世間では“徴兵”と呼ばれている。表向き、自然災害などへの派遣と謳われているが、実質的に自衛隊への入隊者を募っているだけだ、と見られている。
新宿では学生らが、これは経済徴兵だと言って、反対活動を繰り広げている。

また、自殺者も増えている。
この映画では、ボクシングの話の合間合間に、西山大学の学生の話が挟み込まれていく。彼らは、親族や友人を自殺によって喪った者たちだ。彼らは、自殺のような“無意味な死”を無くすべく活動をしている。街中で様々な人に「自殺したいと思ったことがあるか?」と問いかけ、映像に記録する。また、「自殺防止フェス」を企画し、そのための準備を進めている。

前編では、ボクシングの話と、社会情勢の不安定化や自殺の話がどう繋がっていくのか、はっきりとは見えてこない。一つはっきりとした繋がりは見えるのだけど、しかしその繋がりがどう物語と関係してくるのか、全然分からない。

確かに、ボクシングを通じて這い上がろうとしている二人はどちらも、これまで碌でもない人生を歩んできた。「弱者」側だと言っていい。そして一方で、奨学金の返済猶予による徴兵や自殺なども、「弱者」側の問題だ。単純に考えれば、そういう方向で両者の物語が繋がっていくと考えるのが自然だろうか、と思う。

しかし映画を見ている限り、どちらも「新宿」という空間で起こっている以上の関わり方が見いだせそうにない。

この、まったく混じり合わなそうな二つの物語が同時に進行していくというスタイルは、原作にもあるのだろうか?寺山修司が原作となる小説をいつ書いたのか知らないが、その当時の社会情勢を物語に組み込んだ、という可能性はあるだろう。後編でどんな展開になっていくのか分からないが、ボクシングだけではない物語の軸があり、その両者がどう融合するのかという点が非常に楽しみだし、何よりも、原作小説をちょっと読んでみたいという気持ちになった。

内容に入ろうと思います。
少年院から3年ぶりにシャバに戻ってきた新次は、かつての振り込め詐欺仲間と連絡を取るが、皆足を洗ってまともになっている。老人に金を出させるマニュアルを作り上げた一人である新次はまったく面白くないが、シャバに戻ったらまた振り込め詐欺で稼ぐつもりでいたアテが外れどうしたもんかと思っている。
理髪店で働く健二は、韓国人と日本人のハーフだが、吃音のためにどちらの言葉でもどもってうまく話すことが出来ない。理髪店の店長は良くしてくれるが、どもってうまく話せない自分をなんとかしたいという気持ちをずっと持っている。
二人は同じタイミングで、新宿の有名ボクシングジムの前で男からビラを受け取る。堀口という名の男は、海洋闘拳ジムという小さなボクシングジムを経営しており、人が集まらずに別のボクシングジムの前でビラ配りをしていたのだ。新次も健二も、すぐには興味を示さなかったが、新次はとある理由から全財産がなくなり、健二は父親との関係の問題から、共に堀口のボクシングジムに入ることになった。
母親に捨てられ、施設で出会った男と組んで振り込め詐欺をやっていた新次は、新次らを裏切り大人数でボコボコにした山本を壮絶に恨んでいる。山本は、堀口がビラ配りをしていたボクシングジムに所属する、プロのボクサーだ。リングの上なら殺しても許される―だから新次は強くなるための努力を惜しまない。
健二は、碌でなしの父親からの暴力に対抗したい気持ちもあって強くなろうとする。健二は、堀口も驚くほどの良いパンチを持っているのだが、試合となるとどうしても目を瞑ってしまい、実力を発揮することが出来ない。
ボクシングと出会って、碌でもない人生から足を洗う決断をした者たちの、全力を描く物語だ。

そしてこの合間合間に、冒頭で書いたような自殺防止のための活動をする学生たちの物語が挟み込まれていく。

前編を観終わった時点なので、物語がどう展開していくのかは全然分からないのだけど、とにかく現時点での満足度は非常に高い。

何が良いのかと考えてみると、作り物っぽくないように感じられるところが良いような気がする。

これは、前後編に分けたということも関わってくるかもしれない。前篇だけで2時間半もあるかなり長い映画で、だからこそ、普通の映画だったら切ってしまうような「無駄に感じられるシーン」も随所にある。それが、「物語感」をすごく薄めているように思える。彼らが新宿にいて、ちゃんと生きているような、そんな感じがするのだ。

また、やはり菅田将暉の演技の凄さみたいなものもあるのだろうと思う。この映画は全編に渡って作り物感は薄いと思うのだけど、特に菅田将暉が出ている場面はそれを強く感じる。どの映画を見ても思うけど、菅田将暉のその場に馴染む感は、やっぱり凄いなと思う。どんな役をやっていても、「そこにいる人感」が凄く出る。どこにいても、違和感がない。

あと、ユースケ・サンタマリアも実にハマり役だったと思う。ユースケ・サンタマリアの地というのか素というのか、ちょっと軽薄で浮ついてるみたいな感じが、堀口という役柄にピッタリで、映画を見ながら時々、あぁこの雰囲気はユースケ・サンタマリアにしか出せない気がするなぁ、と感じる場面があった。二人のリングネームを決める場面なんか、一番強くそれを感じた。

ボクシングの方のストーリーは、非常に王道だなという感じがする。ボクシングというのは、碌でもない人間をスターにする装置としてうってつけだ。特に新次の方は酷い人生だったが、それを払拭するようにしてボクシングに邁進する。スポーツなんかやってられるか、と思っていた新次だったが、山本をぶっ殺すためという強い動機があり、物語的にも非常に分かりやすい。

しかし、冒頭で触れた自殺防止の活動の話はそれとは逆で、まったく捉えどころがない。リーダー的な人間が何を考えているのか見えてこないし、そもそも2021年の日本の姿が様々な場面の中で断片的に描かれるだけで、全体を把握しにくい。前編での彼らの活動は、なかなか衝撃的な形に行き着くのだけど、あの後彼らがどうしていくのかも分からない。

分かりやすい縦軸に、分かりにくい横軸を組み合わせ、全体で何かを織り上げようとしている。どんな物語に織り上がっていくのか楽しみだ。

あと個人的には、音楽がほとんどなかったのが良かった。音楽が流れている場面もあったかもしれないけど、そうだとしても全然気づかないぐらい自然だった。音楽があまりなかったことも、作り物感を薄める要因だったかもしれない。

「あゝ、荒野 前編」を観に行ってきました

「光」を観に行ってきました

「大事なもの」を持たないようにしている。なるべく。

「大事なもの」があると、自分の感情が揺さぶられる。守らなければ、と思う。でも、もし守れなかったら、絶望か後悔か、そう言った何かに襲われる。ずっとあって欲しいと思う。でも、その保証はない。何かの拍子に失われてしまうかもしれない、という怯えを捨て去ることは出来ない。「大事なもの」が傷付けられたら自分も傷付く。「大事なもの」が悲しい時は自分も悲しくなる。

もちろん、その逆もある。「大事なもの」があるからこそのプラスもあるだろう。でも、少なくとも僕は、その両者を足し合わせた時に、マイナスの方が勝つ。だったら「大事なもの」なんか要らないと思う。

『暴力に暴力で返した者は、人間の世界にいられないのかもしれない』

生得的に「暴力」が好きという人間ももちろんいるだろう。しかし「暴力」は、「大事なもの」を守るためにも発動される。「大事なもの」が自分自身であれ、誰か他の人であれ、何かのモノであれ、最終的には「暴力」で返すしか守れないものというのも、残念ながらある。

『人間のフリをするのが難しい』

「人間でありたい」と強く願うわけではない。別に人間である必要はない。でも、人間のカタチをしている以上、中身も人間である方が生きやすい。

「人間であること」を諦めざるを得なくなった時、その目に何が映るだろうか?

『死んだ方がマシって人生だってあるだろ』

内容に入ろうと思います。
東京の離島である美浜島で、中学生の信之と美花、そして小学生の輔は暮らしている。信之は、美しい美花と付き合っており、時々神社でセックスをしている。信之にとって美花はすべてだった。輔は父親から虐待を受けており、いつも傷だらけだ。そんな輔は信之を慕って、いつもくっついている。
ある日、美花と待ち合わせの場所に向かうと、そこで美花が男に犯されているのを目撃してしまう。信之は美花に頼まれ、その男を殺す。
そしてその夜。巨大な地震の後でやってきた津波で、美浜島は壊滅的な被害を被った。
25年の時が経った。市役所で働く信之は、美しい妻と5歳の娘と共に平凡な生活をしている。妻は、団地周辺での不審な出来事にちょっと神経質になっており、信之に引っ越しを検討してくれるよう頼むが、信之は意にも介さない。そんな妻は、電車に乗ってある男の部屋へと向かう。小汚いアパートにいるのは輔だ。輔は信之の妻と不倫関係にある。鉄くずの解体工場で働き、カツカツの生活をしている。
信之はリビングでテレビを見ている時、篠浦美喜という女優の特集を見かけた。美花だった。美花は、過去がほとんど明かされていない、ミステリアスな女優として紹介されていた…。
というような話です。

分かりやすい映画ではありません。小説は、エンタメと純文学なんていう区分がされることがあるけど、この映画をどちらかに区分するとしたら、純文学の方になるでしょう。信之、輔、美花の心の動きは、ほとんど明確には読み取れないまま、物語は展開されていく。何が起こっても無表情な信之、日常的に狂気に満ちた笑い声を発する輔、何を考えているのか分からない美花。彼らは、各々の人生を生きながら、同時に、25年前の出来事に囚われていく。

外から見れば、公務員であり家族もいる信之は幸せに映るだろう。しかし、信之自身はあの日以来ずっと、死んだように生きてきた。

『美花と会えなくなってから、幸も不幸もない。ただ生きてただけだ』

25年経った今も、信之の中には美花がいる。いや、美花しかいない。どれだけ恵まれた境遇にいようと、信之は何も感じない。信之の日常に、美花がいないからだ。満たされないし、意味を感じることが出来ない。

そのことは、輔から脅された信之の反応からもすぐに分かる。詳しくは書かないが、ある時まで輔の脅迫に無反応だった信之の態度が一転する。自分が生活の基盤を築いている日常に自分の軸足を置かないという狂気が、信之の在り方から染み出してくる。それは、妻との関わりの中からも感じ取ることが出来る。

輔は、単純な男に見える。楽して大金をせしめよう、という行動原理だけで動いているように思える。しかし、実際はそうではない。輔は今でも、信之に認められたい。子どもの頃、輔は信之を慕っていたが、信之は美花ばかり見て輔はかまってもらえなかった。輔はもちろん金も欲しい。しかし金のためだけだったら動かなかっただろう。相手が信之だったからこんなことをしたのだ。そういう気持ちは、ある場面で輔が呟く言葉に集約されるようにも感じられた。

『こうなれば良いと思ってたよ』

映画は信之と輔の関係性がメインであり、美花の出番は少ない。そういう意味でも、美花は捉えるのが難しい。しかし、子どもの頃はともかくとして、25年後の今、美花の中に信之がいない、ということは確かだろう。

輔が信之を想い、信之が美花を想い、美花は誰の方も向いていない。そういう構造が、彼らの、理不尽で不合理で理解不能な言動へと繋がっていく。

映画を観ながら、やはり一番の狂気は信之の中にある、と感じた。それを一番実感したのが、映画のほぼラスト、信之が「ただいま」というシーンだ。詳しくは書かないけど、それ以外に選択肢はなかったのかもしれないが、しかしそれでも、そう行動出来る信之は狂気に満ちているなと感じた。

この映画は、音楽が実に印象的だ。この映画の予告編を観ている時、「音楽 ジェフ・ミルズ」と大々的に映し出されていたので、有名な人なのだろう(僕は知らなかったけど)。

うまく説明できないが、この映画においては、映像と音楽が不協和音を奏でていたような印象が強かった。別にそれは悪いわけではない。恐らく、意図的なものだろう。普通の映画の場合、映像と音楽は合っているなと感じるのだけど、この映画では、音楽が流れると違和感を覚える。しかも、非常に強い違和感だ。音楽が主張しすぎているという感じだった。信之も輔も美花も、演技を観ているだけだと感情がないように感じられてしまうから、そういう映画全体の雰囲気をさらに誇張するという意味で、この音楽は合っていると言えるとは思う。しかし、正直もの凄い違和感だったので、よくこの音楽でGOが出たなという感じだった。正直、この映画の音楽をちゃんとは評価できないけど、全体としては成功しているのだと思う。

「光」を観に行ってきました

「彼女がその名を知らない鳥たち」を観に行ってきました

実にざわざわさせられる映画だった。


僕は、何かの存在に依存するということに怖さを感じる人間だ。人でもモノでも概念(宗教など)でもなんでもいい。それがないと生きていけない、困る、苦しい…そういう存在を出来るだけ減らしたいと思ってしまう。

極端な話をすれば、「家族」というものへの嫌悪感みたいなものも、この「依存」の話で説明できてしまう。家族というのは、子供が生まれたり離婚したり誰かが死んだりすることで、どんどんと変化していく。家に帰ってくれば当たり前にいるはずの存在が、時間や状況の変化によっていなくなってしまう。たぶん僕は、そういうことが怖いんだろうなと思う。

世の中には、何かに依存しないと生きていけない人がいる。僕の周りにはそういう人はあまりいなかったけど、あまり深く関わらないながらも、近くにそういう人がいたことはある。恋愛体質だと自分で言っていて、恋愛をしていないとダメ、という女性だった。あるいは、「マザコン」みたいなのも、依存と呼んでいいだろう。

この映画の主人公である北原十和子も、そういうタイプの女性だと思う。個人的には、苦手なタイプだ。誰かの善意や好意に寄りかかりながら生きている。別に、関わっている人に迷惑を掛けていないのであれば問題ないんだろうけど、なんとなく受け入れがたい。

この映画を観てざわざわさせられたのは、佐野陣治という男の存在が大きい。陣治と十和子は一緒に暮らしている。結婚しているわけではないようだ。陣治は働き、そのお金で十和子はフラフラと遊んで暮らしている。姉から「そんなの、人間のクズじゃない」と言われながらも、陣治が優しく十和子をかばっている。

僕は、人間同士の関係に名前が付く必要はないと思っているし、むしろ名前が付かない関係の方が良いと思うタイプなのだけど、陣治と十和子の関係はなかなか難しい。十和子は陣治のことを「同居人」と呼ぶが、その釣り合わなさはなかなかのものだ。二人の年齢差は15歳、陣治は50代だ。外出する時はキレイに着飾る十和子に対して、建設現場で働く陣治は、色黒で全体的に薄汚くみすぼらしい。そんな二人が、仲睦まじいわけでもなく、陣治が一方的に十和子に好意を寄せるような形で同居が成立している。

その関係に説明がなされるでもなく、映画はどんどんと進んでいく。二人の関係性はずーっと宙ぶらりんのまま話が進んでいくのだ。

その点が、観ながらずーっと僕をざわざわさせていた。当然、二人の関係性に物語上何かあることは誰でも分かるだろうけど、それがずーっと明かされることがないから、物語をどんな立ち位置で観ていいのか分からなくなる。これは、不満ではない。その不安定感が、良かったと思う。

「あなたはこれを、愛と呼べるか」

僕の記憶が確かなら、この映画の予告でこんなフレーズがあったと思う。確かに、映画を最後まで観ると、この二人は一体なんだったんだろう、と考えてしまう。もちろん、映画を最後まで観れば、二人の関係性は分かる。分かるが、しかしだからと言ってスッキリするわけではない。これが愛なのかどうか、それは観る人によって変わるだろうが、僕は愛ではないと感じた。愛を超えてるんじゃないかなぁ、と。

自分が陣治と同じ立場だったらどうだろう、と考える。ここまで踏み込むとネタバレになりそうなのであまり詳しくは触れないが、行動が伴うかはともかく、気持ちだけは陣治と近いものを持てるかもしれない、と思った。

内容に入ろうと思います。
マンションの一室に住む十和子と陣治。十和子は、特に何もなければ一日中テレビの前に座っているような生活で、陣治と一緒に暮らしながらも、陣治のことを毛嫌いしている。十和子は陣治がマッサージしてくれる時だけ褒めるが、その理由を「陣治の顔が見えないからや」と言ってのけるほどだ。そんな扱いをされても、陣治は十和子のために何でもしてあげる。俺は十和子のためだったら何でもできるといつも言っているのだ。
十和子は今、デパートの時計売り場と時計の修理の件で揉めている。その対応のために、責任者である水島が十和子の家まで来ることになった。泣いている十和子に水島がキスをしたことで関係が始まり、十和子は水島に惹かれるようになっていく。
帰りの遅い十和子を心配した陣治が、十和子の姉であるみすずに連絡し、十和子はみすずから問い詰められることに。みすずは、十和子は黒崎とヨリを戻したのだと勝手に勘違いして憤っている。黒崎というのは、十和子がかつて付き合っていた男で、8年前に別れた。別れる際暴力を振るわれ、顔と肋骨の骨を折る重傷を負いながら、十和子は未だに黒崎への想いを消すことが出来ないでいる。
黒崎からの電話を待ち続けながら何の音沙汰もないことに悲しむ十和子は、ある日衝動的に黒崎の携帯に電話をしてしまうが…。
というような話です。

なかなか面白い映画でした。
正直に言って、クソみたいな人間ばっかり出てくるので(笑)、共感ベースで観れる物語ではないような気がする。物語の序盤から、登場人物の誰かに感情移入できる人は、ほとんどいないんじゃないかな。十和子は人の金で遊んで暮らしながら、他の男とも寝ているし、陣治はまるで奴隷のように十和子に尽くしているし、水島は既婚者なのに十和子と関係を持つし、黒崎は暴力を振るうような男だ。なんなんだこいつらは、と思いながら僕は映画を観ていた。

とはいえ、不快なのかというとそうでもない。それは、十和子のキャラクターに拠るところが大きいと思う。陣治も水島も黒崎もロクデナシなのだけど、十和子も同じくらいロクデナシなので、ロクデナシ同士がわちゃわちゃしている、という捉え方になる。ロクデナシが真っ当に生きている人間に対して何かしているのであれば、それは不快感をもたらすかもしれないのだけど、全員ロクデナシだから、普通こみ上げてくるだろう不快感がこの映画では抑えられているように思う。だから、感情移入出来るわけでもないし、ロクデナシばっかり登場するんだけど、でも不快なわけではない、という不思議な感覚のまま物語を追っていく感じになる。

物語は、先程もチラッとふれたけど、結局は十和子と陣治の関係がメインになっていく。十和子と陣治の関係性は、冒頭ではほぼ情報がないままスタートする。しかし、周囲の変化や新たに知る情報などによって状況がどんどんと変化していき、それによって少しずつ十和子と陣治の関係性のベールが剥がれていくことになる。その過程を楽しむ映画だ。一体この二人はなんなのか。何がこの二人を繋いでいるのか。十和子や陣治の振る舞いの裏側には、一体何があるのか。それらをジワジワと染み出させるようにして描き出す構成は見事だと思う。

この映画の原作は女性が書いているが、映画の監督は男性だ(脚本が男性だったか女性だったかは覚えていない)。だから、この映画にどの程度女性視点が組み込まれているのか判断は難しいのだけど、しかし映画を観ながら思った。全員ではないにせよ、やっぱり女性というのは、水島とか黒崎みたいな、ロクデナシなんだけど優しい風、イケてる風の男がいいんかねぇ、ということだ。男から見れば、水島も黒崎もロクデナシだなと思うんだけど、女性はそうとは気づけないのだろうか。それとも気づいてて、それでも良いと思ってしまうのだろうか。

まあでもこういうのは、女性側も男に対して思っているだろう。女性からすればどう観てもロクデナシな女が男からモテるというようなケースはいくらでもあるのだろう。その辺りのすれ違いが不幸を生むよなぁ、と感じたりもしました。

「彼女がその名を知らない鳥たち」を観に行ってきました

「女神の見えざる手」を観に行ってきました

僕は映画を映画館で観るようにしてるんだけど、この映画を観ている最中、観客の一人が、「すげぇ」って呟いていました。

気持ちは超分かる。

すげぇ映画でした。



この映画を観て、「あぁ僕は勝てなくていいや」と思ってしまった。

そもそも僕は、勝ち負けにさほど執着がない。どうしても勝ちたい!と思うことがないので、将棋は好きだけど強くなれないし、ギャンブルもやらない方がいいだろうと思って手を出していない。競争心を煽られてもやる気が出るタイプではないし、負けて悔しいと感じることもあまりない。

だから、そもそも「勝てなくていいや」と思っているのだけど、しかしそういうレベルとはまたちょっと違った点で「勝てなくていいや」と感じた。それは、「ここまでやらないと勝てないなら勝てなくていいや」という感情だ。

主人公のミス・スローンは、勝つために手段を選ばない。その手段を選ばないっぷりは凄まじいものがある。使える人、使える状況、使えるモノは何でも使う。こんな台詞もあった。

『あなたの感情や人生に対して私は義務を負っていない。勝つための手段を利用しないのは、義務の放棄よ』

この台詞単体でも、なかなか凄いことを言っていると感じてもらえるでしょうが、この台詞がどの場面で出てきたのかということも併せて考えると、より凄まじさを感じてもらえるのではないかと思います。

『ロビー活動とは、予見すること。敵が切り札を見せた後で、自分の札を出す』

この映画は、こんな台詞から始まる。まさにその通りだ。彼女は、強大な敵を相手に、圧倒的な不利な状況にあるにも関わらず、先々を見通し、出来ることをすべてやり、仲間や時には自分自身さえも犠牲にしながら前進しようとする。

世の中にこんな人間がいるのだとすれば、僕は勝てなくていいや、と思ってしまう。彼女に勝つためには、彼女と同程度かそれ以上のことをしなければならない。そうしなければ勝利をもぎ取れないのであれば、勝てなくていい。とにかく映画を観ながら、そのことを強く実感させられた。

内容に入ろうと思います。
コール・クラヴィッツ=ウォーターマンという、様々なロビー活動を行う業界最大手とも言える会社で働くスローンは、その中でもやり手とされる凄腕だ。「信念のロビイスト」と呼ばれている。税と自由企業への過剰干渉を専門とし、今はインドネシアの油に対して過剰な税金を掛けようとする政府に対抗するためにロビー活動をしている。
ある日スローンは会社の重役に呼ばれ、サンフォードという人物と会うことになる。彼は、全米に影響力を持つ銃賛成派閥団体のトップで、スローンに、女性を銃賛成派に転向させて欲しいと依頼する。しかしスローンは一笑に付した上で、サンフォードの申し出を蹴る。先ごろ提出された銃規制化法案に彼女は賛成であり、個人的な信念から銃はもっと規制されるべきだと考えているからだ。
しかしその態度に怒った重役は、サンフォード氏の提案に乗らないのなら君はこの会社に要らない、と宣告されてしまう。彼女は悩んだ末、銃規制のためのロビー活動をしているピーターソン=Wへと移ることに決める。チームのメンバー全員の椅子を確保したと宣言し、私と一緒に行く者を募ると、チームは半々に分かれたが、スローンの右腕として2年間働いていた女性がスローンについていかないと決断したことで一悶着ある。しかし彼女の決断は揺るがず、スローンは右腕を欠いた状態で移籍することに。
アメリカにおける銃賛成派は強大な力を持っており、普通に考えれば銃規制化法案を議会で通すことは不可能だ。しかしスローンは、あの手この手で様々な策を仕掛け、不可能としか思えないようなロビー活動を進めていくが…。
というような話です。

正直この映画については、あまり語りたくはない。スローンの凄さについては、冒頭に書いた通りだし、映画全体の流れは是非実際に観て体感して欲しいからだ。観客の一人が「すげぇ」と呟いたその理由を、実際に映画を観て体感して欲しいからだ。だからこれ以上、この映画のメインパートに関しては書かないことにする。

僕がここで書きたいのは、アメリカにおける銃の扱いについてだ。

ニュースでも時々目にするが、アメリカでは銃乱射事件が頻発し(映画の中で、「去年1年で銃乱射事件は374件(件数はうろ覚え)あった」とニュース映像の中で言っていた場面があったと思う)、その度に銃規制のうねりが起こる。しかし、詳しいことは知らないが、憲法に銃の所持に関しての規定があるようで、銃賛成派はそれを根拠に、銃の所持を正当化しようとする。

しかし僕には、銃賛成派の議論は、破綻しているようにしか感じられない。

テレビ番組での公開討論の様子が映画の中で描かれるのだけど、銃賛成派の主張の根拠は「憲法に書いてある」ぐらいしかないな、と感じた。一方、銃規制派の主張は、「運転免許でもお金と時間を掛けて取得するのに、銃はなんの規制もなく5分で買える」「憲法に書いてある権利を侵すつもりはなく、運転免許と同じように所持するためのルールが必要」「銃を規制すると言っても銃を既に所持している人から取り上げるのではなく、犯罪者が銃を買いにくくするだけ」と、いたって真っ当に感じられる。映画の中では、世論も銃規制を望む声が多い、と描いている。

しかしそれでも、アメリカでは銃が簡単に買える。9.11以降、テロリストを排除するためにあらゆることをやっているのに、それでも、犯罪者でも簡単に銃を買えてしまう国であることは止めない。

米国憲法に銃の所持についての記載があるのは、アメリカという国を建国した当時はまだ社会情勢が物騒だったからではないか。現代はむしろ、銃の所持によって国民の安全が脅かされている。銃賛成派は、「銃があるから身の危険を守れるのだ」と主張するが、しかしそもそも銃がなければ、身を守るべき危険も減るだろう。普通に理屈で考えれば銃は規制されるべきなはずだが、その理屈をはねのけるほど銃賛成派の勢力が強いということだろう。難儀な国である。

この映画の凄さは、現実を舞台に、現実に存在する議論をベースに物語を組み立てた点だろう。相手を騙したり出し抜いたりしてスリリングな展開をもたらす物語は、特にマンガなどに多く存在するだろう。映像化もされた「ライアーゲーム」などは、まさにそういう物語の典型だろうと思う。しかし本書では、扱っている事柄がすべて現実だ。現実のルールに則って、壮絶なゲームをしている。もちろん、この映画のようなことが日常茶飯事とは思えないが、しかし程度の差こそあれ、このようなゲームは現実世界で行われているのだろう。

久々にのめり込んで観た映画でした。

「女神の見えざる手」を観に行ってきました

「プラネタリウム」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
が、正直、よく分からない映画でした。

アメリカで「有名な降霊術師」として活躍していたバーロウ姉妹は、パリへとやってきた。快活で周囲を取り仕切るのがうまい姉・ローラと、降霊術を実際に行い、「人が見たいと思うものを見せる力」を持つ妹・ケイトは、ショー的なステージや私的な降霊術などでお金を稼いでいた。
ある日行ったショーに後、ポケットの一枚の名刺が入っているのに気づいた。姉妹でお宅まで伺ってみると、そこで降霊術をやることとなった。後日、その男から、映画を撮りたいという話がやってくる。男はコルベンという名の映画プロデューサーであり、「世界初の心霊現象を撮影する」という目標に取り憑かれてしまう。しかし、姉妹をカメラの前に立たせた映画監督は、妹が陰気すぎると切り捨て、姉のローラを主演とした映画を撮ることに決める。
コルベンの「心霊現象の撮影」という情熱を周囲はまるで理解できない。一方、バーロウ姉妹も揺れる。ローラは映画の撮影で撮影地を飛び回り、ケイトはコルベンと共に屋敷にいる。ローラは恋をし、ケイトはコルベンと共に降霊術を繰り返す。姉妹の間にやがて溝が生まれるようになり…。
というような話です。

うーん…という感じでした。途中何度かうとうとしちゃったのもあって、話を理解していない可能性もあるんだけど、全体的に、何を描いているのかイマイチよく分からないなぁ、という感じの映画でした。

予告編を見た時点でのイメージは、「バーロウ姉妹の降霊術は本物なのか?」に物語の焦点があるんだと思っていました。でも観ていく内にどんどん違う展開になっていきます。違う展開になっていくこと自体は全然いいんだけど、その方向が僕にはちょっとなぁ、という感じでした。

映像がキレイとか、役者がいい、みたいな評価をネット上で見かけますけど、僕はさほどその辺りには関心がないので、全体的な満足度は低いかなぁ。

ただ、姉・ローラ役のナタリー・ポートマンも、実に雰囲気のある存在感を出してましたけど、妹・ケイト役の女優(名前は知らない)も結構好きでした。天真爛漫というのか、悪い言い方をすればちょっと知恵遅れ的な演技が、彼女自身が醸し出す雰囲気と凄く合っていたと思いました。

「プラネタリウム」を観に行ってきました

「オン・ザ・ミルキー・ロード」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
隣国と戦争中の架空の国が舞台。銃弾の飛び交うこの村で、右肩にハヤブサを乗せたコスタは、ロバに乗って日々ミルクの配達のために前線を渡っている。村の人気者で、ミルク売りをしているミレナにコスタは雇われているが、コスタに惹かれているミレナはある計画を胸にいだいている。戦争が終われば、兵士で英雄の兄・ジャガが村に戻ってくる。兄は、この家に花嫁として迎える女性と結婚する予定だ。その兄と同じ日に、コスタと結婚式を挙げようというのだ。しかし、ミレナからの求婚を、コスタははぐらかしてばかり。
そんなある日、ジャガの花嫁になる予定の女性が村にやってくる。ローマからセルビア人の父を探しにきて戦争に巻き込まれたという絶世の美女だ。
花嫁とコスタは、ひと目会った時からお互いに惹かれ合っていた。しかし、花嫁はジャガと、コスタはミレナと結婚する予定になっている。運命は、どうにもしようがない。
やがて唐突に、休戦の知らせがやってくる。ジャガが戻ってくる―そうなれば結婚だ。浮かれるミレナをよそに、村人が知らないところである計画が進行しており…。
というような話です。

さて、この監督は「巨匠」と呼ばれる人のようで、色んな映画祭でグランプリ的なのを獲っているということでした。だから期待した、ということはないですけど、うーむよくわからんなぁ、という感じでした。

いやこれは、映画が悪いというのとはちょっと違います。なんというのかなぁ、この監督の作風をあらかじめ知っていれば、また違った受け取り方をしただろうなと思います。

どこに焦点を当てながら観ればいいのか、ということが、映画を観始めてしばらくの間、ずっと分かりませんでした。恐らくこれは、この監督の映画を観慣れている人なら戸惑うことはないんだと思います。ただ僕は初めてだったので、ストーリーに注目すればいいのか、映像の注目すればいいのか、はたまた別の何かに注目すればいいのか、ということがよくわからなかったんですね。

結果的には、ストーリーで見せる映画ではなくて、全体の雰囲気を感じてくれ、というような映画なんだろう、と受け取りましたが、そういうモードに入るまでにちょっと時間掛かったなぁ、という感じでした。

戦争が起こっているのに、陽気でわちゃわちゃした感じの日常を描く前半部分は、そのわちゃわちゃした感じがなかなか良かったです。シリアスさを一切見せずに、コメディみたいな感じで戦時中の日常を描くタッチは良いなと思いました。

それと対比して、後半はなかなかシリアスな展開になっていきます。いや、この場合のシリアスさはストーリー的にという感じで、映像的にはさほどシリアスさを感じさせない作りになっています。それもまた奇妙な雰囲気を醸し出していて良かったです。

特に、ある時点を境に登場人物が極端に減ってしまって、前半のわちゃわちゃ感は一切消えてしまいますけど、後半の、守るべき存在と共にひたすら逃避行する展開は、いやいやそれ無茶やろー、というような部分も含めて、なかなか面白かったです。

ネットで調べると、この監督は動物を物語に取り込むことが多いようで、この映画でも、CGを使っているのは一箇所、後はすべて本物の動物を使って撮影しているとのこと。それを知った上で観ると、ちょっと驚くようなシーンもたくさんあります。

ちょっと、この映画の雰囲気にチャンネルを合わせるのに時間が掛かってしまったので、全体的にはちょっとなぁ、という感覚が拭えませんが、ストーリーの展開とか、シリアスさとコメディのバランスとか、映像の綺麗さとか、良い映画だと思います。

「オン・ザ・ミルキー・ロード」を観に行ってきました

「ゲット・アウト」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
黒人のクリスは、白人の彼女・ローズと付き合って5ヶ月、ローズの実家であるアーミテージ家に行くことになった。彼氏が黒人であることを両親に伝えていない、と言うローズに、クリスは不安を吐露するが、両親は差別主義者じゃない、とローズは優しく諌める。
ローズの運転で実家へと向かう途中、鹿を撥ね飛ばすというアクシデントがありつつも、笑顔の両親に迎えられ、クリスは屋敷の中を案内される。
クリスはその過程で、アーミテージ家に雇われている黒人の管理人や家政婦に、言いようのない違和感を覚える。
翌日、ローズも知らされていなかったようだが、白人のお偉いさんを集めた「親睦会」という名のパーティーが開かれた。そこでもクリスは居心地の悪い思いをすることになる。
何かがおかしい…。そう思うクリスだったが…。
というような話です。

前半は、かなり面白かったです。とにかく、この設定、この展開で、このあとどうなっていくんだろう、という興味が凄く駆り立てられました。

とにかく、なんだかよく分からないけど凄く不穏な感じが漂っていて、なんだなんだ、どうなるんだ感が凄かったです。ところどころ、ホラー映画か!っていうぐらいびっくりさせられるシーンもあって、座席から飛び上がりそうになることがありました。

ただ後半、アーミテージ家の不穏さの背景が明らかになってからは、うーん…と思ってしまいました。僕が感じたことをそのまま書くと、「こんな展開がアリなら、なんでもアリじゃね?」ということでした。

後半の展開が、悪いとは言いません。ただ、全体の構成として、あまりに唐突でよく分からない、というのが正直なところでした。前半では、「アーミテージ家には何かあるぞ」という不穏さはひたすら強調されますが、でも、後半の展開に繋がるような、いわゆる伏線めいたものはほとんど感じられませんでした。

前半で、後半の展開に繋がるような伏線がもう少し出てくれば、納得感はあったかもしれません。ただ、前半でほぼ何も描かず、後半でいきなりあれを出されたら、いやーちょっとそれは急展開過ぎでしょ、と思いました。

下手な喩えですけど、こんなのを考えてみました。例えばよく行くデパートが、「◯日から何かやるよ。何するかは当日まで秘密だけどね」的な宣伝をこれでもかとしているとしましょう。普通なら買い物客は、バーゲンでもやるのかな、あるいは大物芸能人でも呼んでイベントでもやるのかな、と思うでしょう。で、◯日当日デパートに行ったら、いきなりデパートの建物が取り壊されてた…。みたいな肩透かし感がありました。えー、それはちょっと違うっしょ、と。

とはいえ、やはりそういう僕のような受け取り方は、浅いようです。あまり映画の評判をネットで調べたりはしませんが、この映画について調べてみると、序盤から伏線のオンパレードだったという分析を書いているサイトを見つけました。
http://www.club-typhoon.com/archives/18823993.html
(サイトの中でも注意喚起されていますが、映画を観る前には読まない方がいいと思います)

これを読むと、なるほど言われてみれば確かにそういう部分が伏線だったかー、と思えるんですけど、いや、ちょっとこれ、一回観ただけどころか、何回観ても僕は気づかないだろうなぁ…。

というわけで、物語の細部まで含めて色々汲み取れる人には、とても面白い映画だと思います。ちょっと僕には、レベルが高すぎたなぁ

「ゲット・アウト」を観に行ってきました

「ラストレシピ 麒麟の舌の記憶」を観に行ってきました

一人でいることが、好きだ。
別に、誰かといることが嫌い、というわけではない。でも、ずっと誰かと一緒にいるのは、無理だと思う。ずっと一人でいることはどうか。なんとなく、出来るような気がする。少なくとも、ずっと誰かと一緒にいるよりは、抵抗なく出来そうだ。そういう意味で、僕は一人でいることが好きなんだと思う。

ただ、「一人でいる」というのは、幻想なんだとも思う。捉え方次第ではあるが、人は一人では生きられない。

単純な話で言えば、例えばコンビニで何かを買うにしても、それを作る人、売る人がいなければ生きてはいけない。本当に「一人でいる」ということなど、現実には不可能だろう。

僕らは生きている以上、無数の「誰か」の支えと共にいる。もちろん、自分の存在も、直接的にせよ間接的にせよ、誰かの支えになっている。なっているはずだ。

でも、そういうことを、うっかり忘れてしまいがちだ。どれだけ孤独が好きだといきがっていても、それは本当に一人なわけではない。

僕も、一人でいることは好きだ。でも結局それは、誰かの存在なしには成り立たない状況だ。そういうことを忘れてはいけないと、これはちゃんと意識しておかなければ、するっと忘れてしまうことだ。

なんというのか、そういうことを改めて感じさせてくれる作品だった。

内容に入ろうと思います。
すずらん園という、恵まれない子供たちを引き取る施設の園長が亡くなり、葬儀が行われた。しかしそこに、絶対に来いと呼んだ男が来ない。かつて彼と同じ店で料理人をやっていた仲間は、電話越しにその男を罵倒するが、男は意にも介さない。
最後の料理人。
佐々木充は、そう呼ばれている。一度食べた料理は絶対に忘れない舌を持ち、思い出の味を再現しては100万円を請求する、孤高の料理人となっていた。かつて経営していた料理店は、彼の料理に対するこだわりが強すぎて、それ故に閉店、多額の借金が残った。充は、15歳の時に飛び出してから一度もすずらん園に戻ることもなく、仲間も信頼せずに、一人で生きている。
そんな充の元に、奇妙な依頼が飛び込んできた。待ち合わせは北京だという。北京ではその名を知らぬ者はいないと言われる料理人・楊清明から、手付金300万円、成功報酬5000万円で奇っ怪な依頼をされることになる。
かつて満州軍が作り上げた「大日本帝国食菜全席」という宝物のようなレシピを探し出し、その味を再現して欲しい、というのだ。楊清明は、かつて天皇の料理番だったという山形直太朗と共にそのレシピを作り上げたというのだが、今そのレシピは手元にないのだ、という。
わけのわからん胡散臭い依頼だと思いながら、充は山形直太朗の足跡を辿るようにしてレシピ探しを開始することになる。それは、満州建国を世界に宣言するために陸軍から依頼された、途方もないプロジェクトだった…。
というような話です。

なかなか面白かったです。思っていた以上によく出来たストーリーで、なるほどなぁ、という感じがしました。満州で、世界を仰天させるようなレシピ作りが行われていた、というのは、恐らく史実ではないんでしょうけど(分かりませんが)、こんなことがあってもおかしくはないのかもしれない、と思わせるぐらい全体的に物語がうまく構成されていて、料理やレシピ探しがこんな展開になるんだ、とちょっとびっくりさせられました。

もちろん、人によっては物語の展開が分かるかもしれませんが、僕はあまり物語の先を予想しないタイプなので、ほぉなるほど、そんな風になるのね、という感じで見てました。面白かったです。

物語の性質上、詳しい内容にはなかなか触れにくいのだけど、戦時中という、何をするにも純粋な気持ちが踏みにじられがちな時代にあって、意志を貫き通そうとする男の姿と、己の力だけを頼みにした結果借金ばかり背負ってしまう現状の中で生きている男の姿とが、様々な場面で重なり合っていく構成は、なかなか良かったと思います。

映画を見ながら、理想が見えてしまう人間の不幸みたいなものを感じました。目指すべき場所が見えてしまっているからこそ、今自分がいる場所がまだまだだと思う。それだけならいいけど、他の人も同じ理想が見えているはずだと勘違いして、無理矢理にでもみんなをそこに行かせようとしてしまう。恐らく本人に、悪気はないだろう。理想へと進んでいくその道を、どうやって登っていくのかを考えているに過ぎないだろう。しかし、だからこそ厄介なのだ。

山形直太朗と佐々木充は、共にその宿命の中で生きている。それにどう向き合い、どう立ち向かっていくのかという姿が、重なる部分もあり、対照的な部分もあり面白い。

佐々木充の印象的なセリフがある。充は、山形直太朗の話を聞いて、「結局、料理は愛情ってやつに逃げちゃったんですよ」と吐き捨てる。

『ホンモノって、孤独の中で自分を追い詰めてこそ、初めて出来るものだと、僕は思いますけどね』

もちろん、その意見にも一理あるだろう。しかし充は、そういうやり方をした結果、どこにもたどり着くことが出来なかった。それ故に、たった一人で思い出の味を再現する料理人になった。一人ならば、いくらでも追い詰めることが出来るからだ。

しかし充は、山形直太朗を追いかけていく中で、そうではないベクトルも知っていくことになる。そうやってようやくたどり着いた先にあったレシピが、一体何を彼に伝えることになったのか。その辺りの展開は非常に面白い。

あと、映画の序盤では結構謎だった色んな人の言動が、最終的には、あぁなるほどそういうことか、と解きほぐされていく感じも面白いと思いました。

「ラストレシピ 麒麟の舌の記憶」を観に行ってきました

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)