黒夜行

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「追憶」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
25年前、3人の少年は、ある罪を犯した。大好きな人を助けるために、横暴な男を殺すことに決めたのだ。その結果、男は死に、大好きな人とは離れ離れになり、三人も散り散りになった。
刑事になった四方篤は、好きな男が出来ると息子を捨てて出奔してしまう老いた母から金の無心を受け、また自身は結婚がうまくいかず、離婚こそしていないものの一緒には暮らしていない。東京でガラス店を営む家に婿養子に入った川端悟は、なかなか経営がうまく行かず、金策のため地元である富山に向かう。古い友人に金を借りに行くのだ。その友人が、輪島市で父親の土建業を受け継いだ田所啓太だ。身重の妻がおり、また家を建てる土地を買うなど、順調な生活を送っている。
篤はある日ラーメン屋で悟と再会する。実に25年ぶりだ。明日啓太の元へ金策に行くという話はそこで聞いた。そして翌日、悟が死体となって発見された。
篤は悟の死体を目にしながら、知っている人間であると捜査会議で告げなかった。それどころか、捜査本部が金策の相手を探している中、啓太の存在も明かさなかった。
25年前のあの出来事が今、彼らを刑事・被害者・容疑者として結びつけていく…。
というような話です。

これは僕の好みの問題ですが、出て来る人間が基本まっすぐな人間が多くて、そういう意味で僕にはあまり合わなかったかなという感じがしました。僕は、歪んでいたりねじ曲がっていたりするような方向性の方が好きで、それとは正反対にある作品だという感じがしました。

ストーリー的にはさほどこれという部分がないような気がする作品でしたけど、役者の演技で色んな部分をかなり際立たせているような、そんな映画に感じました。役者の存在感で、ストーリーを成り立たせているような、そんな印象でした。

映画は100分弱と、普通の映画より少し短いように思いました。個人的には、全体の尺が長すぎるならともかく、まだ余裕があるので、まだ描こうと思えば描ける部分があったような気もしました。特に、四方篤の母や妻との話をもう少し膨らませて、篤の孤独をより切り取っていくとか、最後の真相に絡めた描写をもう少し入れ込むとか、なんか出来るような感じもしました。もちろん、そうしない方が作品としての完成度が高まる、という判断だったんでしょうから、僕があーだこーだ言うような話でもないんですけど。

安藤サクラが実に良い雰囲気を醸し出しているな、と思いました。

「追憶」を観に行ってきました

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「メッセージ」を観に行ってきました

僕が好きな話がある。
フランス語には、「蝶」と「蛾」を区別する言葉はない、というものだ。
どちらも同じ単語(「バタフライ」なのかな?)で表現されるのだと言う。

最近知った話もある。
数学には、「ユークリッド幾何学」と呼ばれるものがある。これは本来、紀元前の時代から、ただ「幾何学」とだけ呼ばれていた。「ユークリッド幾何学」という名前が付くようになったのは、ごく最近のことだ。
では何故そう呼ばれるようになったのか。
それは、「ユークリッド幾何学(幾何学)」が成り立たない、新たな幾何学が発見されたからだ。数学者はそれに、「非ユークリッド幾何学」という名前をつけた。それと同時に、「幾何学」も、「ユークリッド幾何学」と呼ばれるようになったのだ。

この話から何が分かるのか。
それは、「言語」が生まれる瞬間についてだ。

モノや概念があれば言語が生まれるのではない。
言語は、モノや概念同士を「区別する」必要に迫られた時に生まれるのだ。

僕はこのことを、かつて何かの本で読んだ。
ウィトゲンシュタインの言語ゲームの話やソシュール言語学の話の流れで読んだ記憶があるのだけど、ちゃんとは覚えていない。
フランスでは、「蝶」と「蛾」を区別する必要に迫られることはなかった。
だから両者は、同じ単語で呼ばれることになっているのだ。
逆に、外国語を学ぶと良く出て来る「男性名詞」「女性名詞」という区別には、日本語にはない。
名詞を男性・女性で区別する必要がなかった、ということなのだろう。

今ここに挙げた例だけから敷衍するのはちょっと無理があるのだが、
言語というのは思考や認識に影響を与える。
そのことについて触れた、「サピア・ウォーフの仮説」が、映画の中でちょっと登場する場面があった。

どんな言語体系を採用しているかで、モノの見え方や感じ方が変わるのだという。
例えば、日本人にはおなじみの「肩こり」という言葉が、アジア以外の国には「肩こり」という単語が存在しないようだ。
だからそういう国には、「肩こり」は存在しない。
しかし、「肩こり」という概念を彼らに教えると、途端に「肩こり」が発生する。

似たような話を思い出した。
UFOに連れ去られた、という記憶を思い出す人々のことだ(彼らには何か固有の名前がついているはずなのだけど、覚えていない)。
ある時から、UFOに連れ去られ人体実験をされた、という証言が世界中で現れ始めた。そうなると、そういう証言がますます大量に現れるようになってくる。これは、UFOを目撃した、という話でも同じだ。UFOという単語が登場したことで、UFOを目撃する人が大量に現れたのだ。

ちょっと前に、「虐殺器官」という映画を観た。この中でも、似たような話が扱われている。言語体系が内包するある文法と、脳内に存在するある器官が結びつくことで起こる未来を描く物語だ。言語体系がいかに人間の行動や思考を変えうるのかを、明確な形で示す作品だ。

言語がなければ、僕たちは現実を認識することは出来ない。例えば、目の前にリンゴがあれば、僕たちはそれを「リンゴ」という言葉で捉える。これは、分かりやすい。しかし、じゃあ人類はいつから「空気」というものを認識したのだろうか?僕たちは普段、空気を意識しない。目に見えないからだ。僕たちはもちろん、「空気」という言葉を知っているし意識すれば「空気」というものを捉えることが出来る。しかし、「空気」という言葉がまだ存在しなかった人には、空気は存在しないものだっただろう。

かつては「マイナスの数」というのは存在しなかった。「-1」のような数字は、存在しないものとして扱われていたのだ。今では、存在するかどうかはともかく、2乗して-1になるような「i」という数字さえ僕たちは認識することが出来る。しかしこれも、言葉がなければ認識することは出来ないのだ。

この映画で示されるとある結論は、僕にははっきりとイメージ出来たわけではなかった。しかし、言語が認識にどれだけ影響を与えているのか、という想像をしてみれば、あながちあり得ないことでもないのかもしれない、とも思うのだ。

内容に入ろうと思います。

言語学の第一人者であるバンクス博士は、ある日軍の招集を受けた。それは、数日前から地球上の12の地点に突如現れた謎の飛行体に関わるものだった。
アメリカ、ロシア、中国、日本など、全世界12の箇所に現れた、通称“殻”は、全長450メートルもある巨大な飛行体だ。出現目的は不明で、“殻”の出現により、世界中で暴動や株の暴落などが発生している。アメリカでは軍がただちに派遣され、“殻”の内部に入っていた。そこには、7本脚の謎の生命体が二体いた。鳴き声らしきものは採取出来たが、それが言葉なのかどうか、判然としない。
当初軍は、音声だけを聞かせてバンクス博士に解読させようとしたが、それは不可能だと断った。それにより、バンクス博士は“殻”のある現場まで招集されることになったのだ。
バンクス博士は、理論物理学者であるイアンと共に、後に“ヘプタポッド”と名付けられる謎の生命体とのコミュニケーションを図ろうとする。音声によるコミュニケーションはやはり意味不明だったが、バンクス博士が文字を見せたことで事態は展開する。「HUMAN」という文字を見せたことで、“ヘプタポッド”から文字らしき反応が返ってきたのだ。バンクス博士は、彼らに文字を教え込みながら意思の疎通を図ろうとする。
彼らは一体、なんのために地球にやってきたのか…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。正直、うまく捉えきれない部分もあって、全体像を把握するのはちょっと難しいと感じましたが、「未知の生命体との遭遇」という部分だけでも十分に面白い作品だと思います。

映画の中で軍の人間がバンクス博士に、「文字を教え込むなんて時間が掛かりすぎないか?」とか、最初に教え込む単語について「なんでこんな簡単な単語を?」などと問いかける場面があります。それに対するバンクス博士の回答を聞いて、なるほど、未知の言語を持つ存在とのコミュニケーションにはこういう問題があるのか、と感じました。

軍が最も聞きたい質問は、「何故地球にやってきたか?」です。そしてこの質問を問うためには、様々な前提を理解しなくてはならない、とバンクス博士は言います。例えば、この問いでは「目的」を聞いているのだから、まずは「目的」という概念があるのかを確認しなければならない。あるいは「意志」。もし彼らが、ただ本能に従っているだけであれば、「目的」を聞いても意味がない。そこに「意志」があるのかどうか確認しなければならない。また、「個の意識」があるのかどうか。“ヘプタポッド”は二体いるが、それぞれが個として識別される存在なのか、あるいは総体として一つの存在なのか。その辺りのことをきちんと理解してからでないと、「何故地球にやってきたか?」という問いを発して、その答えが返ってきたとしても、意味のある情報にならない、というのです。なるほど、確かにそれはその通りだなと思いました。

僕は理系なので、どうしても理系的には、未知の生命体とのコミュニケーションは「素数」や「フィボナッチ数列」などで知性があるのかどうかを確かめる、的な方向に言ってしまいます。実際に、そういう調査も同時に行われていたようです。“ヘプタポッド”は、代数学を理解できないのに複雑な数学を理解したと驚く場面がありました。

けれど、知性のあるなしもそうだけど、コミュニケーションを取っていくためには、まず相手がどんな前提に立っているのか、ということをきちんと理解しなければならない、というのは、なるほどなと感じました。

彼らが地球にやってきた目的については、正直、はっきりとは捉えきれませんでした。ここは、ちょっと難しいと思いました。ただ、言語と認識が密接に結びついているのだ、ということが大前提となっている話で、はっきりと想像することは難しいんだけど、方向性としてなんとなくのイメージは出来ないことはないかもしれない、と思いました。

いや、もしこの作品の中で示唆されていることが、言語によって本当に可能なんだとしたら、それは凄く面白いなと思います。もしそうであれば、僕たちの認識が言語に影響を与え、言語が僕たちの認識に影響を与えることで、どんな言語を使っていようが僕らが当然だと考えているとある大前提を覆すことが出来るかもしれない…。そういう可能性の話は、ちょっと考えてみると面白いなと思いました。

「メッセージ」を観に行ってきました

「バーニング・オーシャン」を観に行ってきました

人の命が掛かっている時は、リスクは常に過大に捉えておかなければならない、と思う。そういうことを、僕たちは福島第一原発事故で学んだはずだ。

アメリカ人も、この最悪の石油事故から学んだだろうか。

人間のやることに絶対はないが、安全な状態が長いこと続いてしまうとどうしても、このまま何も起こらないのではないか、と思いたくなってしまう。その気持ちは分かる。しかし、結局そう思うことで、僕たちはリスクを見ないようにしているだけだ。

『俺のじいさんと同じだ。虫歯が見つかるのを恐れて歯医者に行かなかった』

リスクを過小評価すべきではない、と考える現場の人間が、上層部にそう突っかかる場面がある。上層部は、あるテストをやらない、と決めた。それを、問題が発覚するのを恐れているだけだ、と指摘したのだ。

『希望的観測はしない』

同じく、機械の不備を指摘する現場の人間も、上層部に現状についてどう思うかと問われて、そう答える。

そういう人間がいたにも関わらず、事故は起こってしまう。

常に最悪の事態を考慮しなければならない。
福島第一原発事故を経験した僕たちも、きっとそのことを忘れがちだ。
だから、こういう映画を見ると、気が引き締まる。

内容に入ろうと思います。
ルイジアナ南東部78キロの場所に位置する、半潜水海洋資源掘削装置「ディープウォーター・ホライゾン」は、石油の掘削場所まで移動可能な“船”であり、126名が勤務する、海に浮かぶ要塞のような施設だ。チーフ技師のマイクと全体の安全管理を請け負うジミーは、着いて早々問題が起こっていることを知る。BP社がセメントを150m注入したのだが、その安全性を確かめるセメント・テストの担当者を帰した、というのだ。上層部は、既に作業が43日も遅れている事実を指摘し、テストなしでの掘削を指示するが、ジミーは、最低でも負圧テストはやると主張。そしてその負圧テストの結果、何かおかしな状況を予感させる数値が出たが、上層部は「ブラダー・エフェクト」という、そのおかしな数値を説明する理屈を持ち出し、掘削を進めるよう要求。ジミーとマイクは、「ブラダー・エフェクト」の説明に理が通っていることを認めながらも、釈然としない想いを抱えていた。しかし、最終的にジミーは、上からの圧力に屈するような形でGOサインを出した。
結果的には、その判断は間違いだった。
掘削作業前に、パイプから余分な泥水を排出する作業中にそれは起こった。圧力異常を検知し、泥水の排出を停止したのだが、圧力は一向に下がらず、ついにパイプから泥水が噴出してしまった。警告音が鳴り響く中、さらに大爆発も起こり…。
というような話です。

2010年に実際に起こった出来事をベースにした映画です。

前半は、事故に至るまでの人間模様が描かれてきます。観ている側は、これから事故が起こることを知っているから、上層部の態度にイライラすることになりますが、とはいえ、なかなか難しい判断だったとは思います。何せ、スタッフの安全を何よりも第一に優先するジミーが、渋々ながらもGOサインを出したのですから。もちろんそれ以前に、セメント・テストが行われていなかったこと自体が問題であり、ジミーに非があるとは思っていませんが、与えられた条件の元で正確な判断をすることが難しかっただろう、と思われる状況でした。

『BPの坑井 BPの石油 俺たちは雇われ』

ジミーがそんな風に言う場面があります。負圧テストの結果に納得が行っていないけれども、スケジュールの遅れを指摘され掘削を続行しろと言われている場面でのことです。ジミーら現場の人間は雇われの身であり、この“船”や石油はBP社のものだ。だから上の指示に従わないわけにはいかない、ということなのだが、ジミーにとっても難しい判断だっただろう。

後半は、事故が起こってからの、言い方は悪いがスペクタクルな映像が展開される。誰が見ても手の施しようがない、というような大惨事だが、それでもどうにか、被害を最小限に食い止めようと、救命ボートに乗ろうとせずに奮闘する面々の姿も描かれていく。

『私は祈った。妻や娘に、最善を尽くしたのだと思われるように』

映画の最後に、恐らく実際にあの事故から生還したマイクの言葉として紹介されたものだ。なるほど、この言葉を聞くと、逃げずに船内で奮闘した者たちが何故そんな勇敢な行動をすることが出来たのか、ということが腑に落ちる。我先に逃げた人間を非難する意図はないが、でも確かに、もし自分が我先に逃げ出していたとしたら、生き残ったとしても大きな後悔に囚われるだろうと思う。死者が出ているのだからなおさらそうだ。残った面々は、職業的な使命感ももちろんあったろうが、今ここで出来ることをやらなければ、生き残ったとしても後悔すると思って、無謀な闘いに挑んだのではないかと感じた。

実際に起こった出来事なのだと思うと壮絶なのだが、映画として観た場合、物足りなさもある。いや、これはこの映画だけの問題ではなく、実話をベースにしている映画すべてに当てはまる問題ではある。実話ではあるが故に、フィクションのような展開にはならない。もちろん、それこそがリアルなのだが、どうしても、物語のような展開を求めてしまう自分もいる。実際に起こった出来事を、「これが実際に起こったことです」と提示する映画は潔いし必要だとも思うのだけど、そうであるが故の物足りなさみたいなものはどうしてもつきまとってしまう、とも思う。

「これが実際に起こったことです」を少しだけ越えて、「この時、ではどうすれば良かったのか?」を、観ている者一人一人が問いかけることが出来るような、そんな映画であればより良かった、と感じられる。

「バーニング・オーシャン」を観に行ってきました

「ムーンライト」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
ヤクの売人が跋扈する“ヤバイ地区”で、同級生に追い回されていた少年を助けたフアン。彼は、この地区の売人を束ねるボスであり、何故だかその少年に手を差し伸べた。しかし少年は、昼飯をおごってもらっても、フアンの恋人に話しかけられても、何も答えない。やっと、シャロンという名であることは答えたが、家を教えず、その日はフアンの家に泊まることになった。
時折フアンはシャロンと関わることになるが、次第にシャロンの置かれている状況を理解するようになる。母親がヤク中で、ロクに愛情を注がない。とはいえ、自分が母親であるということに異様に執着心がある。シャロンは学校でいじめられている。オカマ、と呼ばれてからかわれているのだ。
成長し、高校に通うようになっても、その状況は変わらない。幼い頃からの親友であるケヴィンとは関わりが続いているが…。

というような話です。

うーん、正直僕には、良さの分からない映画だったなぁ。
小説で例えると、純文学、というタイプの作品だと感じました。
観る側が自分から作品の中に深く入っていかないと、良さを掴み取れないタイプの映画かな、と。

全編で、余白がとても多いので、その余白をどう埋めるのかで作品の評価が変わるのだろうと思います。
そしてそれは、もしかしたら、ちょっと日本人には難しいのかもしれません。

この作品は、ほぼ全編黒人の話です。アメリカにおける黒人の立場、低い立場に置かれているだろう黒人間でもいじめがあるという現実、底辺で生きるが故に犯罪と関わらなければなかなか生きていけない状況。そうしたものを、ある程度はリアルに捉えることが出来る人には、この作品の余白を埋めやすいんだろうと思います。ただ日本人には、なかなかこういう状況を想像することが難しい、という部分はあると思います。セリフも音楽も情景描写も非常に限られていて、そこを絞りに絞っている作品だからこそ、読み取る側がどう隙間を埋めていくかが重要になってくるな、と思いました。

しかし、シャロンの変貌ぶりには驚いた(笑)

「ムーンライト」を観に行ってきました

「パッセンジャー」を観に行ってきました 

いつもならこんなことは書かないのだけど、今回はあらかじめこのことをお伝えしておく。
もしこの映画に関心があって、見るつもりでいるなら、僕の文章は先に読まないで欲しい。
いつものように、自分なりにネタバレをしない範囲で文章を書くつもりではいるが、この映画に関していえば、どうしても限界がある。
僕はこの映画を、ほとんど何も知らない状態で観ることが出来て、とても良かったと思っている。僕の文章は、今回に限らずいつだってそうだが、今回に限って言えば特に余計な先入観を与えることになると思う。
だから、まだ観ていない人は、僕の文章を読まないで欲しい。
凄く良い映画だった。

(普段はこんな風にはしないけど、続きが読みたい方は、「続き」とか「MORE」とか、何か表示されていると思うので、それをクリックしてください。)

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「3月のライオン 後編」を観に行ってきました

闘う理由がなければ、強くなることは難しいのかもしれない。
何故強くなりたいのか、という支えがないと、強さには到達出来ないのかもしれない。

『正義なんかどうでもいいから、逃げて欲しかった』

純粋な強さを目指して目指して、しかしそうすればするほど、目指すべき強さから遠ざかることに気づかされるのかもしれない。

『宗谷と闘った者には、よくあることだ。自分を一度バラバラに分解して、再構築が必要になる』

誰かを守るために、人は強くなることが出来る。

『でも、後悔なんてしない。しちゃダメだ。だって私がしたこと、絶対間違ってなんかない』

怖くても、闘いの場に立つことは出来る。

『宗谷と闘うと、真実を暴かれる。自分が気づかなかった心の弱さや自信のなさ、恐怖心を突きつけられる。自分の本当の姿に容赦なく向き合わされる』

そうやってボロボロになって、うなだれて、でも、弱いからこそ、強さを目指すことが出来る。

『自分の弱さを他人のせいにして生きられるような人間じゃない』

弱い者同士が、補い合いながら、次の一歩を歩み続けることが出来る。

『読みきれなかったのは、自分を信じていなかったからだ。』

闘い続ける意志は、強くなりたい理由によって生み出される。

『少しでも、力になりたいんです』

そうやって、僕たちは強さを目指すことが出来る。

『ずーっと、元気でいてね~』

闘う者たちの、物語だ。
桐山は新人王で優勝し、7冠達成の偉業を成し遂げた棋界のスーパースター・宗谷との対局が実現する。桐山が幼い頃から、その異次元の強さで圧倒していた宗谷と対局することに、実感が湧かない。しかし次第に桐山は、自分が恐怖を抱いていることに気付く。
生みの親が事故で他界し、育ての家族とも様々な理由から疎遠になっている桐山は、一人暮らしの中で出会った川本家の面々と親しくなる。川本家には両親がおらず、三姉妹と祖父母で生活をしている。長女のあかりは、母親代わりとなって川本家を支えるが、次女のひなこが抱えている問題に直面し、自分の不甲斐なさを思い知らされる。
育ての父親が入院し、その見舞いに行った先の病院で、桐山はA級棋士の後藤の姿を見かける。桐山にとっては姉のような存在である、育ての父親の娘の不倫相手だ。宗谷への挑戦権を掛けた獅子王戦では、順調に行けば桐山は後藤と当たることになる。
川本家では、新たな問題が発生していた。誰も予期していなかったその問題に、桐山は川本家を守るために立ち上がる決意をするのだが…。
というような話です。

前編も良かったけど、後編も良かったなぁ。あまり映画を見て泣くことはないんだけど、前後編ともに、随所で泣かされてしまいました。

様々な登場人物たちの物語がうまく絡まり合っていくのだが、後編の全体的なテーマは、「何のために闘うのか」だと僕は感じた。

桐山は、当然そのことを常に突きつけられている。
桐山にとって将棋というのは、生きる手段でしかなかった。家族を一遍に失った桐山が、生きていくためにせざるを得ない選択だった、というだけの話だ。そのことは、ずっと桐山の中でくすぶっている。

『ずっと暗闇の中だった。今まで暗すぎて気づかなかった』

桐山には、生きるため、という理由があった。でも桐山は、一人だ。自分一人が生きていくために強くなる―。そのことに対して桐山は、自分の身を投じることが出来ないのだろうと僕は感じた。桐山には、常に躊躇がある。他者を蹴落としてまで自分が強くなっていくことの意味をずっと問い続けてきた男だからこそ、桐山は常に、勝つ理由を見失いがちだ。

『もう将棋しかないから』

度々桐山がこんな風に自分を追い詰めるのも、そうしなければ強さに邁進出来ないからだ。自分の内側から湧き出るようには、強さへの欲求を見つけ出すことが出来ない。

そこに、川本家が関わってくる。単純に言えば、川本家の存在が桐山にとって「勝つ理由」になるのだ。

川本家も、闘っている。三姉妹で暮らすことになった経緯が紐解かれていきながら、強くなければ乗り越えられない状況が次々とやってくる。

強さとは、最終的には自分の内側で生み出すしかない。どんな武器があっても、どんな盾があっても、自分自身が強くならなければ乗り越えられない状況というのはある。

『ごめん、何の役にも立てなかった』

桐山は、川本家に武器や盾になろうとした。結果的にそれは、うまくいかなかった。けれど、桐山の行動は、川本家の面々の内側に強さを生み出す役に立った。そこに、桐山の大きな存在意義がある。桐山と川本家は、お互いによって支え合いながら、なんとか目の前の現実と闘っていく。

後藤も、闘っている。後藤の物語は、なかなか難しい。何故難しいのかと言えば、後藤が何と闘っているのか、はっきりとは見えないからだ。明確な対象が見えにくい。しかし、強さへの貪欲さは、誰よりも感じられる。何故強くなりたいのか―。その背景が見えにくいから、後藤の物語は難しい。

『私を大切にしないからだよ』

ある場面で発せられたこの言葉は、後藤の強さと弱さと関わっている。後藤がこの言葉をどんな風に理解するかで、後藤という人間像が変わってくるなと思う。

桐山の育ての家族である幸田家も、闘いの最中にいる。桐山が共に幼少期を過ごした香子と歩は、桐山が将棋で成功していくのと反比例するかのようにダメになっていく。

『ウチは将棋に呪われてるのよ』

香子は妻子ある男と不倫関係にあり、歩は部屋に篭ってゲームばかりしている。桐山は、幸田家のそういう状況を折りに触れ見聞きすることになる。桐山の強さへの躊躇は、この幸田家から生み出されもする。自分が強くなったことが、幸田家をメチャクチャにした要因の一端なのだ、と桐山は思っている。

『将棋は誰からも何も奪いはしない。だから最後まで諦めるな』

みんな、誰かと、何かと闘っている。闘い続ける者もいる。闘い方を変える者もいる。闘えずに逃げる者もいる。闘いに直面した人間たちの弱さ、葛藤、絶望、希望、そうしたものを、映画の中でうまく描き出している。

前編の感想でも書いたが、対局のシーンの描き方がやはりうまい。心の声もないまま、無言でただ駒を動かしているだけのシーンに、結構な時間を使う。その贅沢な時間の使い方が、対局シーンの重厚さをうまく出している。また、あまり詳しくは書かないが、桐山と後藤の対局シーンの描き方は見事だったと思う。

実に良い映画だった。

「3月のライオン 後編」を観に行ってきました

「夜は短し歩けよ乙女」を観に行ってきました

いやー、面白かったなぁ。
映画見てて、久々にテンションが上がった。
良い映画だなぁ、と思うことはそれなりにあるけど、テンションが上がる映画ってあんまりないから、僕にとってはとても良い映画だった。

アニメだということを最大限活かした映画だったなぁ、と思います。

森見登美彦の原作は元々読んでましたけど、すっかり内容は忘れてました。けど、森見登美彦の描く世界観が、荒唐無稽だったなという記憶はちゃんとありました。その荒唐無稽感がべらぼうに面白いわけですけど、仮に実写でやったとしたら、その荒唐無稽感をどこまで生み出せたかというのは疑問だなと思います。

というのは、実写で撮る場合、背景をフルCGとかでもしない限り、どうしてもそこには、僕らが生きている世界の現実感みたいなものが入り込んでしまうと思うからです(すべてセットを組んで撮る、とかならまだ可能性はあるかもですけど)。

森見登美彦が描く世界には、現実感が欠片もないからいいのだ、と僕は感じます。森見登美彦は、京都という、ちょっと特殊な雰囲気を持つ街のイメージを最大限に利用して、京都から現実感だけを取り去って、京都が身にまとう妖しい雰囲気だけを煮詰めるようにして増幅させていきます。そして、今回のアニメ映画では、その妖しい雰囲気を、アニメという手法で非常に見事に描き出していると感じました。

そこには、絵のタッチも関係しているなと思います。

この映画の監督は、僕は知りませんでしたが、「奇才」と紹介されていたので、知る人には知られている方なんでしょう。恐らくこの映画全体の絵の雰囲気を決めたのも、監督なんだろうと思います。絵のことを言葉で表現する経験をあまりしていないので上手く説明できる自信はありませんけど、シンプルな線で描きながら、誇張すべき部分を分かりやすく誇張する、という絵のタッチが、映画全体に独特の味を生み出していると感じました。

人物については特にそうでしたが、シンプルな線で描き出すことで、個々の個性が際立つ感じがしました。個性が際立たたないキャラクターはモブとして注目する必要はなく、何らかの形で誇張されている人物に目が行きます。シンプルであるが故に、乙女の赤い服や先輩の寝癖、樋口君のアゴや羽貫さんの服の着方など、それぞれの特長たる部分がズバッと視界に入ってくるわけです。

背景の描き方は様々で、古本市で本の背表紙をリアルに描いてみたり、川沿いに咲く桜の木をアートっぽく描いてみたりと、場面ごとに雰囲気がまったく違って面白いです。背景の描き方によって、その場面毎の重要度やシリアスさなどが瞬時に伝わってきて、これが物語を絵や言葉で過剰に説明しなくても、森見登美彦の謎めいた世界観にスッと入っていける工夫なんだろうなと思いました。また、回想シーンのタッチがまた独特で、これも場面ごとの転換という意味では非常に効果的だったなと思います。

人物はシンプルに描き出し特長を分かりやすく押し出す、背景は場面ごとの役割に応じてタッチを目まぐるしく変えていく、というやり方が、物語自体ではなく絵自体で語る部分を生み出し、より作品全体に厚みをもたらす結果になっている、そんな印象を受けました。

僕の記憶では、原作は4作を収録した連作短編集だったと思うんだけど、映画の中ではそれらをうまく繋げて一つの物語に仕立てていました。原作では確か、ある一定期間にまたがった話だったように思うんですけど、映画ではたった一夜の物語という風にまとめられていて、そのぎゅっと凝縮した感じが、物語の面白さをより引き出しているように感じられました。

また、映像ならではの物語の処理の仕方も素晴らしかったです。原作では恐らく、「主人公の脳内のグルグル」として描かれているだろう場面を、映像できちんと見せてくるんですね。特にラストの、理性と本能のバトルは見ごたえがありました。状況説明としてはまるで役に立たないですけど(笑)、主人公の先輩の慌てふためき振りが非常によく映像化されていて、テンションで押し切った!みたいな映像処理が良かったなと思います。

原作も素晴らしかったですけど、アニメならではの描き出し方で、原作の魅力をより引き出しているなと思える映画でした。

難しいですけど、内容の紹介をしてみます。
先輩(主人公)は、1年前知り合った後輩の黒髪の乙女に魂を鷲掴みにされ、以来「ナカメ作戦」を遂行してきた。「ナカメ作戦」とは、「なるべく彼女の目にとまる作戦」の略であり、様々な場面でさも偶然であるかのように彼女と遭遇する、ということをやり続けてきた。友人である学園祭事務局長に、外堀ばかり埋めているんじゃないと言われながらも、同じく友人のパンツ総番長から、思いを伝えるべきだと促されながらも、先輩はひたすら外堀を埋め続ける日々を過ごしてる。
先輩も黒髪の乙女も招待されたとある結婚式の夜、先輩は二次会に流れるだろう黒髪の乙女と同じ席に座る決意をしていた。しかし黒髪の乙女は二次会には流れず、先斗町で今彼女が求めて止まない酒を所望し続ける。とあるバーで春画コレクターに胸を触られおともだちパンチを繰り出し、知り合った樋口君と羽貫さんと一緒に先斗町で飲み歩き、幻と呼ばれる偽電気ブランに思いを馳せる。酒豪ぶりを認められた彼女は、三階建の電車でやってくるという李白さんと飲み比べを打診される始末だ。
一方の先輩は、黒髪の乙女を見失い、パンツを奪われ、鯉を飼っていたオジサンに絡まれ、やっと黒髪の乙女を見つけるも、どこにいても主役になってしまう彼女のいる場で、ただの脇役に甘んじるしかない。
チャンスを求めて、先輩はその後、古本市・学園祭と奮闘するのだが…。
というような話です。

原作を読んだ時も思いましたけど、まず何よりも黒髪の乙女がやっぱり最高ですね。こういう女性は、凄く好きだなぁ、と思います。

自分が関心を持ったことに正直で、でも視野が狭いわけでもなく、飛び込んできた状況にすぐに馴染んでしまう。一人で行動することが普通で、でも誰とでも仲良くなれてしまうし、何をするでもないのに場の主役に躍り出てしまう。当たり前に囚われたり、行動を躊躇したりすることなく、強い決心をするでもなく普通ではない状況をするりと乗り越えてしまう。自分に向けられた関心に無頓着で、かと言って冷たいとかではなく、自分なりの関心を他人に向ける。僕の中での黒髪の乙女のイメージはこんな感じだ。言葉にすると余計に、素晴らしい女性だなぁ、と思えてくるのですね。先輩が黒髪の乙女に惚れるのも当たり前だなと思います。

物語は、最初から最後まで奇妙奇天烈摩訶不思議な感じで展開されていくのだけど、独特の絵のタッチと畳み掛けるような展開で、いつの間にやらその世界観に引きずり込まれてしまう。明らかにおかしな状況なのに、登場人物たちのほとんどはその状況を奇妙がらないし、色んな話が絶妙に絡まり合っていくから、そういうもんなんだなぁ、と思いながら引き込まれてしまう。そういう魔力を持った作品で、まさに森見登美彦らしさを忠実に再現しているなぁ、と感じさせる映画でした。

映画を見ながら、僕はずっとニヤニヤしてたと思いました。ニヤニヤが止まらない映画でした。ほとんど声を上げて笑っている場面もあったと思います。純粋に、凄く面白かったなぁ、と思える、とてもいい映画でした。

「夜は短し歩けよ乙女」を観に行ってきました

「LION/ライオン~25年目のただいま~」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
インドのカンドワという町に住む少年のサルーは、兄のグドゥの仕事をよく手伝っていた。石炭を積んだ列車から石炭を盗み出すのもお手の物だ。石運びをしている母親を楽させようと、妹であるシェキラの面倒もちゃんと見る。
ある日グドゥが一週間ほど仕事をしに家を離れるという時、サルーも一緒に行きたがった。夜間の仕事だからサルーにはまだ無理だ、という兄の言葉を聞き入れず、サルーは兄についていく。しかしやはりまだ子どものサルーは、途中の駅で睡魔に襲われてしまう。兄は、駅のベンチでうとうとするサルーに、ここで待ってろよ、と言って仕事を探しに行く。
目覚めて兄がいないことに気づいたサルーは、辺りをうろうろする。停車中だった列車に乗り込んで兄を探すも、やはりいない。そこでサルーはまた眠り込んでしまう。
気づいたら、列車は動いていた。回送列車らしく、2,3日止まること無く走り続けた。
たどり着いたのは、カンドワから東に1600キロも離れたカルカッタ。ヒンディー語だったカンドワとは違い、ベンガル語であるカルカッタでは言葉も通じない。サルーはそこで2ヶ月ほど野宿でやり過ごした後、施設に保護される。
その施設で彼は、サルーを引き取りたいと思っている家族がオーストラリアにいると知らされる。サルーはオーストラリアへと移り住み、20年の時が経った…。
というような話です。

実話を元にした映画です。映画のラストには、実際の映像で、オーストラリアの育ての母と、インドの生みの母が会うシーンが挿入されます。なるほど、実際にこういう出来事があったんだな、と思うと、感慨深いものがあります。

とはいえ、映画としてはどうなのかというと、僕は良いとは思えなかったなぁ。実話を元にしているから仕方ないとはいえ、そうなるんだろうなぁ、というような展開が続いていくような映画だな、と思ってしまいました。

大人になったサルーが、突然インドの家族のことに執着し始め、色んなことを投げ打って故郷を探そうとする、というのも、僕の中ではうまく理解できなかったな、と。まあ、人間なんてそんなもんだと言われればそうなんですけど。一応ストーリーの中では、グーグルアースで探す、という手段があるのだと気づいてから故郷探しにのめり込んでいくことになる、という流れだから、分からないわけでもないんだけど、それまでも故郷のことを気にしていたんだ、というような描写は特になかったので、唐突に思えてしまいました。

この映画の中で一番興味深かったのは、サルーの育ての家族であるジョンとスーの夫婦です。彼らが何故養子を引き受けることになったのか、という理由は、映画の結構後半で明かされるので、あまり書きすぎてはいけないと思うけど、『自分の子を産んで、世界が変わる?』というセリフには、グッときました。

こういう展開を評価する人もいると思うので好みの問題だと思いますけど、僕としては、もう少し何かあって欲しい、そんな風に感じた映画でした。

「LION/ライオン~25年目のただいま~」を観に行ってきました

「ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命」を観に行ってきました

たぶん疲れていたんだろう。
映画の前半部、断続的に寝てしまった。
だから、ちゃんと見れたのは後半だけ。
ちょっと楽しみにしていた映画だったから、もう少しちゃんと見れれば良かった、と後悔している。

物語は基本的に、ジャッキーの愛称で親しまれたケネディ元大統領の妻が、夫が暗殺された直後に受けたインタビューと、そのインタビューで語りながら回想する場面で構成されていく。彼女は記者に、「メモはすべてチェックさせてもらう」と告げてから記者を家の中に通した。そして彼女は、時々「これは書いてはいけない」と告げながら、暗殺されたまさにその時の状況を、そしてケネディ大統領との日々を語っていく。

僕には知識としてそもそもないが、ケネディ大統領はアメリカではかなり良い風に捉えられているようだ。この映画の最後で、「誰もがキャメロットを信じている」とジャッキーが語る場面があるが、ネットで調べるとこの「キャメロット」というのはケネディ家を指す言葉であり、栄華を古代の都市の名から取られているのだという。ジャッキーが、夫の死を伝説にするために「キャメロット」という名前を付け、発信したのだという。そんな風にして夫を伝説にするためにジャッキーが何をしたのか、というのがこの作品のメインとなる部分なのだと思います。

「ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命」を観に行ってきました

「3月のライオン 前編」を観に行ってきました

勝つことは、誰かを傷つけることと同じだ。
勝つことは、孤独だ。

『あんたが帰れば、あの家に。
おめでとう。父さんに勝ったんでしょ?』

強さは、生きるための武器になる。
そして強さは、自分を傷つけるための刃にもなる。

『得意げな顔してんじゃないわよ』

強いことは、弱さを蹴散らすことだ。
強いことは、自分の中の何かをどんどんと弱くしていく。

『負け犬でも見るような目しやがって』

弱いことからは、逃げることが出来る。
強いことからは、逃げられない。

『なんだよ、その目は。俺が途中で投げたって言いたいのかよ』

勝つことは、強くなることでもあり、弱くなることでもある。

『みんな俺のせいかよ!
ふざけんなよ!
どうすりゃ良かったんだよ!
他になんにもねぇってぐらい、将棋しかねぇんだよ…』

生きることと勝つことは、基本的にはイコールにならない。
勝とうと努力するかどうかは、ほとんどの場合、本人の意志次第だ。
しかし、そうではない環境も、時には存在する。
勝つことが、生きることと直結してしまうような、そういう環境が存在する。
勝たなければ、生きていけないのだと思わされるような、そういう環境が存在する。

勝つことは、生き抜くための手段だった。
しかし、そのことが誰かを傷つける。
そして、自分自身をも傷つける。

『その家族を壊したのは、どこの誰?』

傷つけることが分かっていても、勝つことから逃げることは出来ない。
自分が傷つくことが分かっていても、強くなることから逃げることは出来ない。
そうしなければ、生きてこれなかったからだ。
そうしなければ、これまでの自分の人生すべてを否定することになるからだ。

だから彼は、努力をする。
自分の中の何かを削り取りながら勝つための努力をする。
誰もが勝つための努力をしている世界の中で、勝つためでもあり、生きるためでもある努力を、彼は重ね続ける。

その軌跡しか、彼は「人生」と名付けられるものを持たないのだから。

内容に入ろうと思います。
桐山零は、中学生でプロ棋士になった史上5人目の天才棋士としてデビューした。しかし、9歳の時交通事故で両親と妹をいっぺんに喪った彼は、父の友人だった棋士の幸田に引き取られ、内弟子として育てられた厳しい過去を持っている。17歳、高校に通う零は、今は幸田の家を出て一人暮らし。家族も友人もなく、ただひたすら将棋と向き合う日々を送っている。
そんなある日、酒に酔って潰れている零を見かねた川本あかりは、零を自宅まで連れ帰る。あかり・ひなた・モモという三姉妹に気に入られた零は度々川本家に足を運ぶようになる。家族団らんという、長らく経験したことのない時間に心が浮き立つが、ここは自分がいる場所ではない、という思いも芽生える。
師匠の幸田の長女であり、弟の歩と共にプロ棋士を目指していた香子は、妻のいるプロ棋士である後藤と微妙な関係を続けている。香子は度々、幸田家を壊したのは零だとして零に辛く当たる。零は香子の行動を諌めるが、香子は後藤との関係を終わりにしようとしない。川本家で年越しをした零は、初詣の折に香子と一緒にいる後藤と出くわす。聞く耳を持たない後藤に、獅子王戦トーナメントで後藤を倒したら香子を家に戻せと詰め寄る。しかし後藤にたどり着くには、後藤と同じA級に所属する島田を倒さねばならないが…。
獅子王戦と同じくして、新人戦のトーナメントも進んでおり、幼い頃からライバルとして一方的に桐山に絡んでくる二階堂との対戦も実現間近だったが…。
というような話です。

凄く好きな映画でした。とにかくセリフが極端に少ない映画で、表情や仕草(それも非常に抑制されているのだけど)によって感情を伝えようとする映画だなと思いました。原作はマンガなので、マンガのやり方に近いと言えば近いですけど、ただマンガにはセリフだけではなく内面を描くような心の声も文字で書かれている。映画の方では、それも非常に抑えられていて、その場面場面で観る者がそこに何を観るかを問われているような、そういう映画だと感じました。

零を中心とした棋士の世界は、まさにそういうあり方を体現している。もちろん棋士の中にも、例えば二階堂のような騒がしい者もいる。しかし、この映画の中で描かれる棋士は皆、内に何かを秘めているような佇まいを見せる。その内面が、はっきりと描かれる場面は少ない。何を考えているのか分からないような、表情もあまり動かないような場面が非常に多くある。

それは、棋士らしい世界を表現しているなと感じる。棋士にとっての言語は、将棋であり、駒の動かし方を記した棋譜だ。彼らは、棋譜を読み込むことで、他の棋士と対話をする。実際に対局をしている時の駒の動かし方でも、対話が生まれる。実際に言葉を交わさなくても、彼らには伝わるものがある。そういう棋士ならではのあり方を、映画という手法の中でうまく描き出しているように感じました。

零を中心とした棋士の世界が「静」であるとすれば、棋士・桐山零の外側にある世界は「動」だ。
学校での零には、友達がいない。しかし彼には、担任の教師という強い味方がいる。零のことを応援してくれる存在だ。映画の中では目立つ存在ではないが、要所要所で零にとって重要なポジションを取る。零は、そのままにしておけば自分から動く人間ではない。そんな零のことを、「動」の世界にいる誰かが押し出していく。

「動」の世界にいるのは、川本家も同じだ。川本家の女たちは、零が何者なのか知る前から、零をあっさりと受け入れる。そして、やはり自分では物事を切り開いていかない零の世界に良い感じに入り込んでいって、零を動かしていく。

この物語は、「居場所」の物語でもある。

「静」の世界には、零の居場所はある。そこが、心地よい居場所であるかどうかはまた別の問題だが、零は「史上五人目の中学生プロ棋士」であり、「将来を嘱望される新人棋士」として関係者からも世間からも注目されている。そこは、勝ち続けなければならない厳しい勝負の世界であり、気の休まる時はないが、しかし零にとって居場所であることは間違いないだろう。

しかし、「動」の世界には、零が居場所だと思える場所はない。

『あんたの居場所なんて、この世のどこにもないんだからね』

幸田家からは、出て行くしかなかった。零が幸田家にいることが、諸悪の根源のような状況に陥ってしまったからだ。結局零は、幸田家の面々とは家族になりきれないまま、幸田家を離れることになった。

学校にも居場所はない。常に屋上で一人で飯を食い、担任の教師以外に話す相手はいない。

川本家は零にとって居場所になりうる場所だった。しかし零は、川本家を居場所だと思うことに抵抗を感じてしまう。

『今度はこの人たちなんだ。
得意だもんね。不幸ぶって他人の家族メチャメチャにするの』

零には、幸田家での苦い記憶がある。生きるために選択せざるを得なかった、将棋で勝つという道。しかしそのことが結局、零を幸田家から追いやる結果となった。
川本家は、棋士・桐山零を求めているわけではない。そのことは、零にもきちんとわかっているはずだ。あの人たちは、零が何者であろうときっと受け入れてくれる。とても素晴らしい人たちだ。
でも、だからこそ、自分という異分子が入り込むことで、川本家がバラバラになるようなことがあってはいけない。そんな可能性が少しでもあってはいけない。
そこまで踏み込んで描かれることはないが、零が積極的に川本家に足を向けないのには、そういう理由があるはずだろうと思う。

『家族を大事にできない人間は、サイテーです』

後藤に向けて放ったこの言葉は、零にとってどんな意味を持つ言葉なのだろうか?9歳の時に家族を喪い、その後他人の家で育てられてきた零は、自分が家族を大切にしてこれなかったという後悔を抱えているのだろうか?大切にした家族を持つことを望んでいるのに自分にはそういう存在がいないことを哀しんでいるのだろうか?あるいは、家族という存在を強く捉えすぎるが故に川本家に深入り出来ない自分を悔いているのだろうか?

『僕ならどこに行っても心配する人はいない』

「動」の世界では勝つことを常に宿命付けられ、「静」の世界では居場所を見つけることが出来ない桐山零。彼がどんな風に未来に向けて進んでいくのか、楽しみだ。

「3月のライオン 前編」を観に行ってきました

「ラ・ラ・ランド」を観に行ってきました

うーん、と思ってしまった。
正直、この映画に関して書けることは、特に何もない。
少なくとも僕にとっては、全然面白さの分からない映画だった。

そもそも恋愛的なストーリーに興味がないとか、そもそもミュージカルが好きじゃないとか、色んな理由があると思う。正直、元々観るつもりのない映画だった。あまりにも世間の評判が高いから、それならと観に行くことにしたのだ。そういうわけで、元々自分には合わないだろうなという予感はあった。そういう意味で、「期待通り」ではあったと言える。

しかしこれほどまでに、何故この映画が受け入れられているのか分からないのも珍しいと思った。多くの人にとって、この映画はどこが「刺さる」のだろう?欧米人であれば、「ミュージカル」という形式が元から受け入れられているだろうから、そういう部分での評価もきっとあるのだろうとは思う。しかしきっと日本人の多くの人にとっては、この作品の「ミュージカル」的な部分はそこまで評価していないのではないか。後は、恋愛的なストーリーがグッと来る、ぐらいしか思いつかない。他にどんな要因が、この映画の評判を押し上げているのだろう?

自分に受け入れられなかったからと言ってすべてを否定するつもりはないが、久々に自分と世間のズレを感じる作品だった。

「ラ・ラ・ランド」を観に行ってきました

「スノーデン」を観に行ってきました

僕は、スノーデンを正しいと思う自分でありたい。

(一応先に書いておく。この映画はフィクションだが、事実に基づいている。だから、この映画の中のすべての発言を、事実として扱ってこの感想を書く)

スノーデンは、NSAというアメリカの諜報機関のスタッフであり、そこから盗み出した超極秘機密を世界中に暴露した。それは、「アメリカは、世界中の通信を傍受している」というものを含む、驚くべきものだった。

スノーデンはアメリカからスパイとして告訴され、パスポートを失効させられた。スノーデンは現在も、モスクワに住んでいる。

スノーデンは、CIA時代の彼の指導教官だったコービン・オブライアンと議論をする。アメリカは、世界中を覗き見している。それは正しいことなのか、と。コービンはそんなスノーデンからの問いに、こんな風に答える。

『大多数の米国人は、自由よりも安全を望んでいる。
安全に遊びたかったら、“入場料”を払って当然だ』

コービンは、米国人の安全を確保する代わりに、「自由を手放す」という代償があるのは当然だ、と答える。スノーデンは、国民はそのことに納得しているわけではない、と返すと、コービンは、たった一人にでも知られたら敵にも知られる、と言って議論を終わらせる。

また、こんなふうにも言う。

『第二次世界大戦から60年。未だに第三次世界大戦は起こっていない。何故かわかるか?我々が世界のために尽力してきたからだ』

確かにそうなのかもしれない。この点については僕は判断できないが、そういう一面があることも事実なのだろうとは思う。

コービンは、CIAに入りたてだった者たち(スノーデンを含む)に、こんなことを言う。

『また9.11が起きたら、君らの責任だ。
前回は私たちの責任だった。そう感じて生きるのは辛いぞ。』

コービンが国を想う気持ちに、きっと嘘はないのだろう。彼は、自分がしていることが、アメリカを、そして世界中を救う行為だと信じているのだ。

この映画で描かれる“傍受”は、僕らの想像を遥かに超える。例えば、起動していないパソコンのカメラだけを起動させ、室内を見ることが出来る。非公開にしているSNSや世界中の通話も、エックスキースコアと呼ばれるシステムで収集出来る。スノーデンは、その事実に愕然とする。

まだある。スノーデンは、日本でも働いていたことがある。その際、送電網やダムにトラップを仕掛けたという。

『もしも日本が同盟国でなくなったら、日本は終わりだ』

これらは決して、過去の話ではない。つい最近ニュースで、アメリカ(確かCIAだったと思う)が、盗聴などの技術を1000以上開発していたという情報がウィキリークスを通じて暴露されたという。スマートテレビの電源がOFFになっていると見せかけて起動させ室内の音を拾う、というような技術が、実際に使われているかどうかはともかく、既に開発されているという。

スノーデンは、それらの事実を知り、大いに悩む。一度は、CIAを退職したほどだ。

これらを、「テロの脅威に対抗するため」という理由で、僕らは許容することが出来るだろうか?

スノーデンの素晴らしいと感じた点は、自分自身で善悪を判断しなかった点だ。スノーデンは、高給や愛する人や家族をすべて捨て、アメリカが行っていることを暴露する決意をした。スノーデンと接触したジャーナリストの一人は、『これまで多くの偉人に会ってきた。しかし君は…』と言って声を詰まらせた。それらの行為をひっくるめて「素晴らしい」と称してもいい。僕の中にも、そういう気持ちはある。しかしもう一方から見れば、彼は情報を盗んだ犯罪人だ。その視点も、決して忘れてはいけない。彼の行動そのものをどう評価するかというのは、なかなか難しい問題だ。

しかし僕は、彼のスタンスは賞賛してもいい、と感じている。スノーデンは、機密を暴露した理由をこう話しているのだ。

『議論を深める情報がなければ、僕らは迷子です』

彼は、「アメリカによる監視は悪だ」と主張するため機密を盗み出したのではない。彼は、そのことを知らない世界中の人に、このことを議論してもらうために機密を暴露したのだ。

『その上で、僕が間違っているのか世間が間違っているのか判断して欲しい』

『それより、国民に監視の是非を判断して欲しい』

このスタンスは、賞賛に値すると思う。彼の行為の是非は、どの側面から見るかによって判断が分かれるだろうから、一面から切り取って彼を手放しで賞賛することは難しいかもしれない。僕は、スノーデンの行為も正しいと思いたいが、そう思わない人がいることも理解する。しかし、彼のスタンスは手放しで賞賛できるのではないか。自分の正しさやアメリカの間違いを主張するのではなく、情報は渡すから皆さんで判断して欲しい、というスタンスは素晴らしいと感じた。

『自分の国を非難したくない』

ブッシュ大統領に対するデモが行われている中を恋人と歩いている時、スノーデンは恋人に対してそう言う。

『他人の命を背負う気持ちが君に分かるのか?』

情報機関でテロとの闘いに明け暮れ、心身ともに疲労しているスノーデンが恋人にそう声を荒げてしまう。

スノーデンは、国を良くしたい、守りたいという気持ちを強く持つ男だ。恐らくスノーデンにとって、機密を世界中に暴露するという決断は苦渋のものだっただろう。しかし、彼は決断した。彼は、それがアメリカを良くすることに繋がるはずだと信じたのだ。

『私は、明日を心配せずに済む自由を手に入れたのです。
心の声に従ったから』

モスクワからスノーデンはそう言葉を発する。ロシアから一人では出国できない身分になりながらも、スノーデンはそこに「自由」を見る。世界中のありとあらゆる情報にアクセスできる時には感じられなかった「自由」を。

内容に入ろうと思います。
2013年6月3日。スノーデンは香港にいた。ローラ・ポイトラスとグレン・グリーンウォルドという二人のジャーナリストと接触するためだ。スノーデンは29歳。直前の身分は、NSAの契約スタッフだ。
彼は、NSAから盗み出した膨大なデータを世間に公表するために彼らと接触した。
軍隊での過酷な訓練により、足を粉砕骨折したスノーデンは、別の形で国に奉仕しろと言われてCIAを志望する。スノーデンの趣味は、インターネットだ。スノーデンを面接したコービンは、平時であれば不合格だが、有事(9.11のテロが起こった後だ)の今は君のような人間の力がいる、と言ってスノーデンにチャンスを与えた。
「ザ・ヒル」という名の訓練校で、スノーデンは抜群の成績を示す。5時間以内にやれと言われた課題をたった38分でやり終えた。その後、ジュネーブや日本など様々な地で仕事をするが、そこで目にする事実に、スノーデンは悩み心を痛める。恋人のリンゼイに、アメリカがあらゆることを監視していると伝えたいが、それを言えばリンゼイを巻き込むことになり言えない。スノーデンが抱えている最大の悩みを、最も近くにいる恋人にも伝えることが出来ない辛さの中で、それでもスノーデンは、自分の仕事が国を守ることに繋がっているのだと信じて、体調を崩しながらも無理を続ける。
しかし徐々に、スノーデンはこの現状を許容できなくなっていく…。
というような話です。

非常に面白かった。僕はこの映画を見る前に、「シチズンフォー スノーデンの暴露」という映画を見ている。ローラ・ポイトラスが実際に撮った映像を元にしたドキュメンタリー映画だ。ドキュメンタリー映画だから、臨場感はやはり凄かった。しかし、「映画」として見た場合、魅力があるかと言われれば答えに窮するという感じもあった。

「スノーデン」の方は、実話を元にしたフィクションだ。だから、臨場感という点ではやはりドキュメンタリー映画には及ばない。しかし、どちらの方がより真に迫っていたかと聞かれれば、おかしな話ではあるが、フィクションである「スノーデン」の方だったかもしれない、という気がした。

それはやはり、スノーデン自身が暴露するために捨ててきたものも、「スノーデン」の方では描かれているからだろうと思う。

ドキュメンタリー映画では、スノーデン自身が喋っていることと、当時のニュース映像などで構成されている。だからこそ、映画全体がスノーデンからしか描かれていない印象を受けた。しかし、フィクションの「スノーデン」では、恋人であるリンゼイとの関わりや、彼が一緒に働いている情報機関のスタッフとの関わりなど、彼が機密を暴露することで失ってしまうものも描かれている。そこが一番の違いだったと感じた。

『僕の暴露がどう評価されてもいい。しかし、ハワイでの恵まれた生活や高給、愛する人や家族など、僕はすべてを失いました。何のためにすべてを捨てると思いますか?』

スノーデンは、カメラに向かってそう問いかける。その通りだ。彼には、現状を知った上でそのまま生きるという選択肢もあった。しかし彼は、すべてを捨てる覚悟をして暴露した。彼が失うものは、あまりにも膨大だ。その膨大な、失われてしまうものが、「スノーデン」では描かれていた。そこがより、スノーデンの決断の凄さを際立たせていると感じた。

僕たちは、自分がどういう世界に生きているのか、もう一度見つめ直さなければならないだろう。

僕は、SNSの類を使っていない。LINEも、ごく限られた形でしか使っていない。しかし、Gmailはメインのメーラーとして使っている。ヤフーやグーグルの検索も使っている。クレジットカードも頻度は低いが使っている。電話も頻繁にではないが使う。名前を出してはいないが、ブログもやっている。それらから、漏れ出る情報は当然あるだろう。映画を見終わった僕は、とりあえず、自分のパソコンのカメラ部分を、ガムテープで覆ってみた。知られて困るような情報などないが、「見られているかもしれない」という感覚は、やはり嫌なものだ。

少し前、「虐殺器官」という映画を見た。スノーデンが暴露したのとはまた違った形でだが、「虐殺器官」の中でも、先進国の人びとが「安全」に「便利」に生きることが出来るように、他者の「安全」や「便利さ」を脅かす構造が描かれていた。僕たちは本当に、今僕らが享受している、“過剰”とも思える「安全」や「便利さ」を必要としているだろうか?それらを享受することで、どこかの誰かが命を落としているかもしれないと考える時、どう感じるか?

個人で立ち向かえるレベルの話ではない。しかし僕は、そういう事柄に対して、鈍感にはならないように生きたいものだ、と感じる。

「スノーデン」を観に行ってきました

「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」を観に行ってきました

問いが間違っている、というのは明白だ。
それは、問うべきではない問いなのだ。
その問いに答えなければならない状況が存在することそのものが間違っているのだ。
そのことは、間違いない。

しかし、問いが間違っていても、答えを出さなければならないことは、世の中にはたくさんある。

5人を救うために1人を殺してもいいか―。
僕がこの問いに出会ったのは、「これからの正義の話をしよう」という本の中でだ。
この中で、暴走する列車を例に出し、その列車に5人が轢かれる状況を回避するために1人を殺す選択をしていいか、という問いが投げかけられるのだ。
その本の中で、どんな議論が展開され、どんな結論が出たのか、僕は覚えていない。しかし、問い自体が間違っているのだ、という感覚は、今でも残っている。

この映画でも、同じ問いがなされる。
80人以上の人間が死ぬ可能性がある状況を回避するために、1人の少女を殺してもいいのか―。
冒頭で書いたように、明らかに問いが間違っているのだし、この問いに答えを出さなければならない状況自体が間違っているのだ。
しかし、この問いを突きつけられ、答えを出さなければならないとしたら、あなたならどうするだろうか?

自分が、どの立場にいるのかによって、きっと答えは変わる。これは、「これからの正義の話をしよう」の中でも指摘されていた。レールを切り替えることで5人いる方から1人いる方に列車を進ませるという選択であれば、1人を殺すことに抵抗を感じない人はそれなりに多かった。しかし、自分の手でその1人の背中を押して暴走列車にぶつけて止める、という選択の場合、躊躇する人が多かった。自分が直接手を下すか否か―これが、状況判断に大きく影響する。

先程の80人の問いに戻る。この場合、状況を単純化すれば、「決断する人間」と「ミサイルのボタンを押す人間」で判断は大きく変わると思う。

もし僕が「決断する人間」であれば、80人を救うために1人の少女を殺す決断を、仕方ない判断だとして決定してしまうだろうと思う。少女が死なない可能性もある、という状況であればなおさらだ。

しかし、もし自分が「ミサイルのボタンを押す人間」だったら、すんなりと同じ決断が出来るかは分からない。ミサイルのボタンを押す自分にとっては、80人を殺すのは別の人間だが、1人の少女を殺すのは自分だ。この状況の違いはとても大きい。確かに、80人の命を救いたい。しかし、自らの手で1人の少女の命を奪いたくもない。

この葛藤から逃れることは、とても難しい。

さらに状況を難しくしているのは、「自分の命はどんな選択をしても安全だ」という状況だ。

例えば、人対人の銃撃戦であれば、自分の命も危険にさらされている。相手を殺す、という判断には、自分が死にたくない、という願望も含まれる。もちろん、人を殺すことは良くない。良くないが、しかし自分が死ぬよりはマシだ。そういう判断が葛藤を消す可能性はあるだろう。

しかしこの映画で描かれている状況では、自分が死ぬことはありえない。

「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ」というのは有名なセリフだが、こと現代の戦争に限っていえば、「現場」と「会議室」が同一のものになっている。無人偵察機が上空2万フィートから「現場」を偵察し続けることで、「会議室」でも状況をリアルタイムに知ることが出来る。同じく、「会議室」から無人偵察機でミサイルを発射すれば、「現場」を壊滅させることが出来る。現代の戦争はまさに、「会議室で起こっている」のだ。

自分の身が危険に陥るわけではない状況で、人を殺す決断をしなければならない。誰かが80人を殺すのか、自分が1人を殺すのか―。難しすぎる問いだ。

正しさ、というのは、どんな評価軸を選ぶかによって変わる。どんな評価軸に照らしても正しい、なんていうことはほとんどない。正しさは、状況や時代によっても大きく変わる。その中でどんな選択を積み重ねることが出来るのか―。結局僕らに問われていることは、そういうことだ。

内容に入ろうと思います。
イギリス軍のパウエル大佐は、ケニアのナイロビで、アル・シャルブというイスラム系過激派組織に属する最重要人物を捉えた。6年間追跡して、ここまで接近できたのは初めてだ。当初の計画では、彼らのアジトに捕らえるべき人物が全員揃ったところで、ケニア軍の地上部隊が突入、全員を捕獲するという作戦だった。
しかし状況が変わる。イギリス国籍の女が到着するのを待っていたのだが、その女と思しき人物が建物内部から出てきた。しかも彼らは別の場所に移動するようだ。その女がターゲットであると確認できなければ作戦の決行は出来ない。しかし彼らは、アル・シャルブの支配地域にある民家に移動してしまった。仲間である現地の男にその民家に接近させ、<虫>と呼ばれる小型カメラで建物内部を撮影することで女の身元は判明した。ここでパウエル大佐は、無人偵察機<リーパー>に搭載しているヘルファイアで民家を爆撃すべきと提言するが、計画はあくまでも殺害ではなく捕獲だったはずだと、<コブラ>と称される内閣府のメンバーに反対される。
しかし、状況がさらに変化する。<虫>は、建物内部で自爆テロの準備が進行していることを知らせてくる。彼らが自爆テロに及べば、少なくとも80名以上の一般市民が犠牲になる。一刻も早く爆撃の決断をしなくては。しかし<コブラ>では議論が割れる。決定権を持つはずの閣外大臣も、より上位の立場の人間からの許可を得るべきと判断を保留する。ジリジリしながら決断を待つパウエル大佐。<コブラ>では果てるとも尽きない議論が繰り返される。
ようやく決断が出た頃、さらに状況が変化する。なんと、攻撃目標である民家の前で、少女がパンを売り始めたのだ…。
というような話です。

非常に緊迫感のある物語であり、さらに難しい問いを投げかける作品だと感じた。

彼らがどんな葛藤の中に置かれているのか、ということは冒頭で触れた。ここでは、そうではない部分に触れていこう。

まず感じたことは、決断を下すものの優柔不断さだ。
何も僕は、爆撃の決断をもっと早く下すべきだ、と言いたいわけではない。爆撃しないという決断でも構わない。いずれにしても、決断をするのが遅すぎる。確かに難しい決断ではある。しかし、状況は明白なのだ。少なくとも、交戦規定という、戦争における法律(もちろんこれも、強者が作った法律だろうが、とりあえずその議論はここではしない)の問題はクリアされている。少なくとも、目の前の状況で爆撃をしても、交戦規定に違反したという判断はなされないだろう、という判断は、既になされている。

残されたのは結局、人道的な問題だけだ。そしてこれは、冒頭でも書いたように、問いが間違っているのだ。誰からも文句の出ない正解など存在しない問いなのだ。そのことも、その場にいる人間は全員分かっていたはずだ。

しかし彼らは、誰からも文句の出ない正解がないかと判断を遅らせる。もちろん、その可能性があるならば、保留して状況を精査すべきだろう。しかし、僕の判断では、この状況における、誰からも文句の出ない正解など存在しない。繰り返すように、問い自体が間違っているからだ。

だから、文句が出てくる可能性を受け入れながら、何らかの決断をしなければならない、と思う。僕には、そんな決断は出来ない。しかし彼らは、そうすべき立場にいる。そういう決断をしなければならない可能性を知った上で、その立場にいるはずなのだ。だからこそ彼らは、もっと早く決断をしなければならなかった、と僕は思う(もちろんこれは映画だから、早く決断したらそこで物語が終わってしまうから、そこに文句をつけても仕方ないのはわかっているのだけど)。

こんなセリフがあった。

『政府が戦争を始める。闘うのは軍だ』

これは、政治家の判断の遅さによって作戦を台無しにしないでくれ、という意味が込められている。彼らの決断が正しかったのか、僕には分からない。というか、正しい決断などない。そういう中でどう行動しなければならないのか。そういう意味で、この判断をする上で、政治家は役に立たないのだなと感じた。

またこの映画では、ヘルファイアのボタンを押す者の葛藤も描かれる。
彼は確かに軍人ではあるが、「奨学金返済のため、4年の勤務が保障される」という理由で軍に入った若者だ。これまで、偵察任務しか行ったことがない。軍人としての経験が豊富なわけでもない。そんな彼に、実に困難な状況でミサイルを撃つように命令が下る。

彼の葛藤は、相当なものだろう。しかし、良くは知らないが、軍というのは上官からの命令は絶対だろう。そういう中で、彼がどんな決断をするのかというのは、見ている者にとっても迫るものがある。

パウエル大佐に対しては、相反する気持ちがある。一つは、自らの「爆撃すべき」という決断のブレなさに感心するものだ。パウエル大佐は、少なくとも悩んでいるそぶりは見せない。彼女にとっては、爆撃は、絶対的に不可欠な選択なのだ。上官として指示を出すべき人間として、この決断力とブレなさは賞賛すべきかもしれない、という風に感じる。

しかしその一方で、この絶対的な自信が危うい、と感じる自分もいる。自分の行動が、もしかしたら間違っているのではないか、という躊躇みたいなものは、どんな場面でも必要だろう。絶対的な正しさなど、世の中には存在しない。これが絶対正しいのだ、と強引に主張し行動することが大事な場面ももちろんあるだろう。しかし、パウエル大佐の立っている状況は、人間の命が関わっているのだ。そういう状況で、あの自信は、怖いなという風にも感じるのだ。

何度でも繰り返すが、問い自体が間違っている以上、正しい答など存在しない。人の命が絡むかどうかはともかく、こういう、それ自体が間違っている問いに答えを出さなければならない状況に、誰しもが立たされる可能性があるだろう。そういう時、自分は何を評価軸にして決断をするのか。そういうことを考えながら見てほしい。

「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」を観に行ってきました

「The NET 網に囚われた男」を観に行ってきました

正しいこと、というのはいつだって難しい。
というのは、皆が「正しい」と思って行動しても、最終的に良い結果が得られない、ということは良くあることだからだ。

この話はよく、ゲーム理論で登場する。ゲーム理論の最も簡単な話は、二人の囚人が登場するものだ。お互い別の部屋に入れられ、やり取りができない。2人の囚人にはそれぞれ、2通りの選択肢が与えられ、全体で4通りの可能性がある。お互いがベストな行動を取れれば両方にとってメリットがあるのだが、疑心暗鬼もあり、自分なりに「正しい」と思う行動をし、結果的に二人共デメリットを被ってしまう、というものだ。

「正しさ」には、常に評価軸が必要だ。何に対して正しいのか、という軸を意識しなくては、「正しさ」が判断できない。そして、その評価軸が対立する場合、両者の「正しさ」も対立することになってしまうのだ。

船の故障で、北朝鮮から期せずして韓国にやってきてしまった男。
独裁国家である北朝鮮から一人でも多くの人を「救う」ことが使命の韓国の組織。

両者の「正しさ」が、真っ向から対立する。

北朝鮮の男は、祖国に家族を残している。祖国ももちろん大事だが、何よりも家族が大事だ。男はスパイ扱いされ、尋問される。あるいは、独裁国家から「救う」ためとして、韓国への亡命を勧められる。男は北朝鮮に帰るのだと、強硬に主張する。しかし、スパイかもしれないと扱いの中、北朝鮮に帰れる見込みは薄い。

組織にいる多くの人は、北朝鮮に住む人間を「可哀想」だと考えている。独裁国家で自由がなく、資本主義ではないために豊かでもない。しかも、洗脳されているが故に、物事の「良し悪し」も判断できなくなっている。そんなところに住む人間は、同じ韓半島民として「救う」必要がある。北朝鮮から来た男も、あの手この手で「救う」手立てを講じるが、男は韓国への亡命を認めない。

この場合、どちらもきっと間違っているわけではない。北朝鮮の男は、祖国に帰ることが正しいと信じており、家族がおり祖国を裏切ることは出来ないというその理由は、少なくとも彼のこれまで生きてきた理屈の中では正しいだろう。一方で、北朝鮮を「可哀想」な国とみなし、そこから一人でも多くの人を「救う」という姿勢も、決して間違ってはいないはずだ。少なくとも、外側から北朝鮮を見ている者からすれば、北朝鮮に住んでいる者を「救う」という発想は、自然だといえるだろう。

この映画では、その「正しさ」の対立を描きながら、さらに難しい要素を加えていく。

北朝鮮の男は、韓国の街を歩く。資本主義によって成長した、きらびやかな街だ。そこには、北朝鮮に存在しないありとあらゆるモノが存在する。しかし男は、また別の側面を見る。まだ食べられる食べ物やまだ使えるモノが街に捨てられている。また、豊かなはずの街で、金を得るために身体を売らなければならない女にも出会う。

男は問う。「この豊かな国で、なぜそんな苦労を?」と。
それに対して、組織に属するある男は、「自由が幸せとは限らない」と返す。

一方で、北朝鮮に対してもまた、ある視点が挿入される。これは物語のラストに直結してくるのでここでは詳しく書かないが、祖国に戻る、と強硬に主張し続けた男の信念を揺るがせるような描写があり、問題の難しさをさらに押し広げることになる。

世の中が複雑になりすぎて、何が正しいのか分からない出来事が頻繁に起こるようになった。その度毎に、それぞれの側の「正しさ」が声高に主張される。もし、選択的に一方の「正しさ」しか見なければ、あなたはその「正しさ」を信じることになるだろう。トランプ大統領が誕生した背景にも、そういう一方の「正しさ」しか見ないという、現代的な情報の受け取り方があったのだろうと考えている。

「正しさ」は複数存在し、お互い正しいままで対立する。そのことを常に意識しておかないと、僕たちは物事を見誤ることになるだろう。そんなことを改めて実感させてくれる映画だった。

内容に入ろうと思います。
北朝鮮で妻と娘と穏やかな暮らしを営んでいたナム・チョルは、漁師として日々川に船を出していた。韓国との国境付近であるその川岸には国境警備の兵士がおり、常に許可を得て漁に出る。ある日チョルは兵士から、これは仮定の話だが、もし船が故障して国境を越えそうになったら、お前は船を捨てるか?と問われる。男は、船は全財産なので、と答えをはぐらかす。
まさにその日、兵士が言った通りのことが起こった。スクリューに網が絡まったままエンジンを掛けたために船が故障。男はそのまま国境を越えてしまった。国境警備兵が、脱北なのか船の故障なのか判断つきかねている間の出来事だった。
韓国警察に移送されたチョルは、そこでスパイ容疑を掛けられ、尋問されることになる。尋問を担当する男は、朝鮮戦争で家族を失った怒りをぶつけるかのように、スパイ容疑を掛けられた北朝鮮の者たちに容赦なく当たる。明らかに過剰な、暴力を伴った尋問を行うが、それでもチョルは、スパイであるとは言わないし、亡命にも首を縦に振らない。
チョルの警護役についたオ・ジムは、チョルがスパイではないと直感する。尋問担当の男とことある毎に対立し、もしチョルがスパイだったら警察を辞めるとまで啖呵を切る。チョルが厳しい状況に置かれていることに心を痛め、出来る範囲で力になろうとするが、しかし組織の人間であるが故に意に染まない命令に従わざるを得ないこともある。
尋問は繰り返され、また亡命や転向をするようにと説得される。亡命を受け入れさせるために、あくまでも韓国の街を見ないと外にいる間ずっと目を瞑ったままだったチョルを韓国の街中に放置することまでやった。
不屈の精神で北朝鮮に戻ることを訴え続けるチョルは、一体どうなるのか…。
というような話です。

良い映画でした。ストーリーは実にシンプルですが、北朝鮮と韓国という南北の分断が、いかに人々の心を引き裂いていくのか、そして、北朝鮮と韓国という国家同士のいがみ合いの後ろ側で、そこに生きる個人同士は手を取り合うことが出来る可能性があるのか、ということを、全編で強く訴えかけてくる映画だと感じました。

メインどころの頂上人物たちの立ち位置が実にはっきりしているので、物語が非常に分かりやすいし、誰が何で対立しているのかということもよく分かる。

チョルが北朝鮮に帰りたいと強く訴えているということは書いたが、韓国警察内部の面々もそれぞれに立場が違う。

尋問担当の男は、疑わしきは罰するという精神で、とにかくあらゆる手を使ってチョルをスパイだと断定しようとする。イ・サンテク事件の後遺症、という表現がよく出てくるが、どうやら警察を酷く手こずらせたスパイが過去にいたらしい。それもあって、僅かでも疑いがあれば苛烈な取り調べが始まる。

警護担当のジムは逆に、チョルを信頼する。スパイではないと確信し、チョルに寄り添おうとする。しかしその一方で、ジムはチョルを北朝鮮に帰すべきだ、という考えを持っている。本人の意志が尊重されるべきだ、と。しかし韓国警察の使命は、独裁国家から一人でも多くの人を「救う」ことだ。彼はこの点で上司と対立する。

そして彼らの上司は、一番韓国警察らしさを体現する。尋問担当の男を、無理矢理スパイに仕立て上げるなと諌める。そしてジムには、韓国警察の使命を思い出させようとする。

それぞれの人間がそれぞれの立場で「正しい」行動を取ろうとする。それらが、ことある毎に対立してしまう。チョルはスパイであるのかどうなのか、そしてチョルがスパイであるかどうかに関わらずチョルの処遇をどうするか。最後の最後まで、彼らの折り合いはつかない。

そういう物語の進展や対立も面白いが、チョルとジムの関わり合いも物語の中で非常に重要な要素になる。厳しく辛い要素が多いこの映画の中で、二人の関係性は清涼剤のような印象を与える。

もちろん、そこにも葛藤はある。ジムには尋問の領域は関知できないし、組織の一員として辛い命令にも従わなければならない。それでも、チョルを信頼することに組織の一員として特にメリットのないジムは、チョルに出来る限りのことをする。二人の信頼関係がどのように生み出されていくかという過程も見どころだ。

北と南、あまりにも違う価値観によって成り立っている国同士が、お互いの尊厳を掛けていがみ合う。チョルはジムにある場面で、「朝鮮に帰ったら、統一後に会おう」と言う。僕にはそれは、二度と再会できない者同士の挨拶に聞こえた。南北が統一する日は来るのだろうか。この映画を見る限り、その日はまだまだ遠いと考えざるを得ない。

「The NET 網に囚われた男」を観に行ってきました

「ヒッチコック/トリュフォー」を観に行ってきました

眠ってしまった。
面白そうだなと思って見たんだけど、睡魔に勝てませんでした。

映画は、サスペンスの巨匠と呼ばれるヒッチコックを様々な角度から追うものです。デビット・フィンチャーやマーティン・スコセッシなど著名な映画監督が多数登場し、ヒッチコックについて語ります。

また、映画のタイトルにもなっているトリュフォーという映画監督も出てきます。彼は、ヒッチコックの映画を分析し、映画監督にとってのバイブルと呼ばれる「ヒッチコック/トリュフォー」という本を執筆しました。1週間、毎日7・8時間ヒッチコックと話をした録音テープも映画の中で使われています。

ヒッチコックの映画の映像も使いながら、ヒッチコックの映画監督としての姿を切り取っていく、というような映画です。

断片的に寝てしまったので、うまく評価できませんが、ヒッチコックの映画を見たことがあったり、ヒッチコックについてちょっとは知っている方が楽しめるのかもしれない、と思いました。僕は、ヒッチコックの映画も見たことがないし、ヒッチコックについてもよく知らないで観に行ったので。



「サバイバルファミリー」を観に行ってきました

面白い映画だったなぁ。
純粋に物語としても面白かったんだけど、色々考えさせられる映画だった。

僕は「依存する」という行為が好きではない。好きではない、というか、ほとんど恐怖に近い感覚を持っている。
もちろん、僕らの生活は今様々なものに依存していることは分かっている。電気・ガス・水道、インターネットなどのインフラはもちろん、どんどん便利になる電化製品、スマホであらゆる事が完結できてしまうような環境などが、当たり前のように僕らの生活を支えている。

この変化を悪いと感じているわけではない。

昔は、「生活する」ということだけで毎日が終わっていたのだろう。火を熾し、薪を割り、洗濯物を手洗いし、農作物を収穫する。生活だけで日常が終わってしまった世の中よりは、現代の方がずっと良い。そういう感覚は当然僕の中にもある。「生活する」ということの不自由さが様々な形で解消され、それによって浮き上がった時間を僕らは様々なことに使っている。それらの活動が、新たな発見を生み、新たな技術を生み、人間は益々大きな存在になっていく。そんな風にして出来た環境を丸ごと否定したいわけではない。

けれど、それでいいんだろうかと、僕はふと立ち止まりたくなる瞬間がある。そうやって、便利さを突き進む方向に向かっていって、本当にいいんだろうかという感覚は、僕の中にずっとあるのだ。

確かに、「生活する」ことを便利にする様々なツールは、僕らの生活を豊かにしてきた。ここで言う「豊か」とは、生活に割く時間を別の活動に当てることで、考えたり、学んだり、身体を動かしたりと言った「自分を前進させる活動」にエネルギーと時間を向けることを指している。つまり、人類の便利さの希求は、ある時期までは「生活する時間」を「自分を前進させる時間」に変換するという機能を持っていたはずだと思う。

しかし、生活の便利さは、もうほとんど解消されてしまっただろうと思う。それでも人類は、便利さへの希求を止めない。今僕らが突き進んでいる道は、これまでの「生活する時間から自分を前進させる時間への変換」とは違う。僕の感覚では今は、「自分を前進させる時間」を節約し「怠ける時間」を増やそうとしている。そんな風に思えて仕方がないのだ。

もちろん、「怠ける」という言葉はちょっと強すぎるし、すべての人に当てはまるわけではない。けれど、感覚的には分かってもらえるのではないかと思う。僕が言いたいことは、学んだり考えたりする時間を削って娯楽のための時間を生み出す、そのために様々な便利さが消費されているのではないか、ということだ。

もちろん、娯楽のための時間を生み出すことを豊かさの一つの指標と見ることだって出来る。別に、娯楽を否定するわけでもない。ただ、便利さの希求が向かう先が変わっているのではないか、という意識を持つことは大事ではないかと思うのだ。

「便利だから」という理由で様々なことが受け入れられる世の中だが、結局その便利さは人間の能力を奪っているだけではないのか?様々なテクノロジーのお陰で、僕らは「自分を前進させる時間」を殊更に持たなくてもある一定の知識の保有や思考が出来るようになった。けれども結局それらは、自分の内側にあるのではなくテクノロジーの内側にある。そのことに、怖さを感じないか?

それが何のための便利さで、その便利さに手を伸ばすことで自分の中から何が失われるのか。僕はそのことをいつも考えてしまう。この映画を見て、やはり強くそう思った。

結局人間は、最後には自分の内側にあるものを頼りにして生きていくしかないのだ、と。

自分の内側にあるものというのは、知識や経験と言ったようなものだ。それらは、自分の外側の様々なものが失われても奪われることはない。誰もあなたの頭や手足から、知識や経験を奪うことは出来ないのだ。

便利さは、確実にあなたから何かを奪っている。便利さに奪われても困らないものもある。しかし、便利さに寄りかかることで取り返すことが出来ないものを失うこともある。

生まれた時から圧倒的な便利さの中で暮らしていた世代は、失ったという感覚もないまま出来ないことが増えていく。もちろん、それまでには出来なかったこともたくさん出来るようになるのだが、便利であればあるほど、その「出来ること」は便利さに依存しなければ発揮できなくなる。

便利さが未来永劫失われないなら、何の問題もない。でも、本当にそう信じていいのだろうか?

物語は、実に単純だ。三行でまとめるとこうなる。

突然、電池も含めたあらゆる電気が使えなくなる
当たり前の日常が崩壊し、生存が危ぶまれる。
東京から実家のある鹿児島まで自転車で向かう。

しかしこの単純な物語の中に、様々なことを考えさせる要素が詰め込まれている。

一家は、どこにでもいる普通の家族だ。父親はサラリーマンで、会社ではちょっと偉ぶっていて、家では何もしない。母は、実家の父から送られてきた魚が捌けず、また無農薬の野菜についている虫を嫌悪する。娘は一日中スマホを触って生きている。息子は爆音で音楽を聞きながら、パソコンで色んなことをしている。
ある朝起きると、停電になっていた。会社のビルの自動ドアが開かないから割って入る。電車も動いておらず、会社にも学校にも辿り着けない者が多数。マンションのエレベーターも使えないから、ゴミ出しのついでに買い物を、と思って財布を忘れてきたことに気づいてため息をつく。
原因は一切不明。一週間経っても状況に変化はなし。電気が一切使えないから、ちょっと先の情報さえまるで入ってこない。食料も水もろうそくも尽きかけている。
家族は決断した。鹿児島まで行く、と。羽田空港まで自転車で行けば、きっと飛行機は飛んでる。
その予想は、辛くも打ち砕かれた。
一家は、自転車で鹿児島を目指すという非情な決断をし、道中様々な苦難を乗り越えながら鹿児島を目指すが…。
というような話です。

凄く面白い作品でした。正直そこまで期待しないで観に行ったんですけど、観て良かったなぁ。

まず、「電気が使えなくなった世界」での様々なシミュレーションが面白い。

最初の方は、割と想定できるようなことが描かれる。ガスも水道もダメ。スーパーはほとんど商品がない。信号が消え、車は放置され、ゴミが散乱する。そういう、まあそうだよねぇ、と思うようなところから入っていって、段々、おーなるほど確かにそうなるかもなぁ、と感心させられるような描写が現れてくる。

これから観る人の興を削がないように具体的に書きすぎないようにするけど、僕が感心したのは「トンネル」と「大阪での海産物の炊き出し」だ。

この両者は、「電気が使えなくなった世界」では確かに起こりうると思う展開なんだけど、僕の頭の中にはまったく存在しないものでした。特に「トンネル」の方は、「電気が使えなくなることで、こんなことが商売になるのか」と凄く感心させられました。大規模停電が起こった時の想定というのは国や地方自治体や研究者がやってるんだろうけど、そういうのは基本的なインフラとかがメインになっていくような印象があります。この映画で描かれているのはそういうものではなくて、もっと個人目線のものです。恐らく観る人によっては、なるほどこんな想定したことない!という場面が様々に変わるでしょう。このリアルなシミュレーションが非常に魅力的な作品だと思います。

しかし、撮影大変だっただろうなぁ。電気が使えないという設定だから、画面に電気的なものが映り込んではいけないし、「街中にゴミが散乱してる」とか「高速道路を人が歩いたり自転車が走ったりしてる」という状況を作り出さないといけないわけです。かなり後半で、家族が野犬に襲われるんだけど、そんな一家を結果的に救う形になったある存在も、撮影のために引っ張り出してくるのはなかなか難しかったんじゃないかと思わせるものでした。

そして映画を観ながら、冒頭で書いたようなことをあれこれと考えさせられました。この映画では「電気がなかったら」を描き出していますが、決して電気に限りません。僕らの生活は、ありとあらゆる「あって当たり前のもの」に支えられていて、僕らは普段そのことをあまり意識しない。例えば、「電気」ではなく「インターネット」がなくなっただけでも、世界中は大混乱に陥るでしょう。「文字」「お金」「法律や道徳」「太陽」など、僕らの生活を成り立たせている「あって当たり前のもの」は様々です。これらがなくなったら…、と想像してみるのは、非常に面白いなと思いました。

また、これはこの映画に限らず色んなところで描かれるでしょうが、危機においてはやっぱり女性の方が強いだろうな、と思いました。父親は、「俺についてくれば大丈夫だ」と威勢の良いことは言いますが、結局何が出来るわけでもない。一方で母親は、様々な場面で状況を進展させたり後退させないようにする行動を取る。もちろん、すべての男女がそうではないだろう。実際にこの映画でも、「停電になっていることを楽しむ一家」というのが登場する。その雰囲気は、両親が共に作り上げているものだ。主人公一家とは大違いで、その対比も面白い。

「◯◯がもしなくなったら…」なんていうことは、普段あまり考えずに生きていられる。けれど、自分の生活がどんな「あって当たり前のもの」に支えられているのかは、考えてみた方がいいかもしれない。この映画のような、原因が分からないまま電気が使えなくなる、という状況はまあまず起こらないでしょう。しかし、様々な自然災害によって近い状況が生み出される可能性は常にあるし、今後日本が戦争に巻き込まれないとも限らない。そうなった時に、自分がどんなものを失ってきたのか分かるのでは遅いかもしれない。自分が今どんな便利さの中にいて、その便利さが何を奪っているのか。それを把握することは、人生を強固にする上で大事なことかもしれません。

「サバイバルファミリー」を観に行ってきました

「虐殺器官」を観に行ってきました

「無関心」の物語だ。
この作品はそれを、「社会」と「人間の機能」の両面から描き出す。

『人間は、見たいものしか見ない』

これはこの作品の中で、繰り返し語られる。自分の関心の範囲しか見ようとしない。見たくないものは見ない。そういう社会が明確に構築されている。

それは、僕らが生きているこの現代社会でも、程度はともかくとして既に存在する。

作品で描かれる世界では、それがより誇張される。9.11のテロによって、人々のテロに対する意識は大きく変容した。人々は、プライバシーをある程度以上捨てることを受け入れることで、テロによる脅威を排除する選択をした。そういう社会が舞台だ。

そういう社会では、人々は様々なデバイスと接続している。それは、紙幣を排除するような便利さを生み出しもするが、同時に、どこで誰と何をしているのかを常に監視される生活でもある。人々は、監視されていることが当たり前である世の中を生きる。社会インフラが、既にそのように整備されているのだ。

そしてそんな社会の中で人々は、便利さを徹底的に享受する。レジでお金を出したり、外国語を勉強したりしなくても済む社会の中で、人々はその便利さによって浮き上がった時間を“有意義”に過ごす。アメフトを見ながらピザを食べ、爆音の中でダンスをする。

それが当たり前だからだ。

人々にとって便利さは、水道の水のようなものだ。ひねれば、出てくる。あって当たり前。水道の水がどれほどの手間を掛けて家庭まで届くのかを想像する必要などまったくなく、いつでも安全な水を手に入れることが出来る。人々の、便利さに対する欲求はいつの世も変わらない。僕らの社会も、より便利さを追求する方向に突き進んでいる。

そして、便利になればなるほど、その便利さがどう生み出されているのかという関心が失われていく。

どれだけ科学技術が発達しようとも、最終的にその便利さを生み出しているのは人間だ。Amazonが最速で荷物を届けることが出来るのは、配送業者の努力のお陰だ。様々な製品が安価で手に入るのは、低賃金で働かされている発展途上国の人たちの労働のお陰だ。光り輝くダイヤモンドも、それが高貴な人の手に収まるまでに大量の血が流れているのだ。

僕らに、その現実は見えない。何故なら、見たくないものは見なくて済むように社会が出来ているからだ。僕らが「便利さ」と呼ぶものの中には、そういう都合の良さも組み込まれている。

新聞やテレビは、何らかの形で収益を上げなければならない。その一番の方法は、受け手の関心の高い情報を届けることだ。受け手は、自分たちの生活がどんな苦労の上に成り立っているのかなど知りたくない。だから、新聞もテレビもあまりそれらを報じない。

ネットがあるじゃないか、と思うだろう。その通り。ネットには素晴らしいくらい様々な情報がある。しかし、じゃあどうやってその情報にたどり着くのか?結局それは、あなたの「関心」からスタートするしかない。あなたが関心を持たなければ、その情報はあなたの元には届かない。情報の拡散のされ方も、結局は人々の関心の総和次第だ。

僕らは便利さを目指す中で、もしかしたら無意識の内に罪悪感を抱いているのかもしれない。自分が享受している便利さは、世界中すべての人が得られるものではないことは分かっている。この便利さが、どこにでも当たり前に存在するものではないことを知っている。それはある種の罪悪感となって自分の内側に溜まる。無意識の内に、便利さを支える構造を知りたくないと感じる。その、僕ら自身には感知出来ない無意識の衝動が積もりに積もって、この無関心な社会が生まれているのかもしれない。

この作品には、そんな社会の無関心さをある意味で逆手に取った男が登場する。物語のキーパーソンだ。彼は研究によって、ある発見をした。人間の脳には、ある機能が備わっていることを発見し、その機能を発露させる方法を見いだしたのだ。

その機能は、人間を無関心にするわけではない。しかし、無関心にするという機能を内包しなければ成立しないだろう、とも感じる。人間が生まれながらに持つとされるその機能が、人間社会全体の無関心さと結びつくことで、社会全体がどんな状態に陥るのか。この作品は、その可能性を描き出している。

人間は、自由や便利さや快楽を追い求めるためにどこまで残虐になることが出来るのか。ある意味でそれが問われる作品だ。人間の残虐性は、様々な発露を取る。しかし、もしかしたら人間の最大の残虐性は、「無関心」という形で発露されるのではないか。そして、「便利さ」と「無関心」は否応なしに対を成すが故に、僕らが今生きている社会も、そしてこれから目指すことになる社会も、この作品が示唆するような残虐性を発露するようになるのではないか。そんな風に思わされた。

物語のメインの舞台は、2020年のグルジアから始まる。アメリカ情報軍特殊検索軍i分遣隊に所属するクラヴィス・シェパードは、ある暗殺ミッションのために派遣された。グルジアでの内戦を指揮したとされる首相と、その日会う予定になっていたアメリカ人。アメリカ軍の目的はその人物だった。ジョン・ポール。彼は結局その場に現れず、それどこころか、PTSDを発症しないようにと調整されたプログラムが齟齬を起こし、仲間の一人がPTSDを発症。緊急避難的にクラヴィスは、仲間を撃ち殺すことになった。通常彼らは暗殺の際、「感覚適応調整」や「痛覚マスキング」などを施されることで、戦闘に適した心理状態を維持したり、状況に応じた的確な判断が出来るようになっている。いわば「戦闘マシーン」とでも言うような状態で、彼らは心を乱されることなく、仕事として戦闘に従事する。
暗殺ミッションに失敗した彼らには、ジョン・ポールについての情報が知らされる。元々はMITで学んだ言語学者だったが、その後、国家などをクライアントとしてイメージ戦略を提案するインターメディアグループに入社し頭角を表す。担当する国で様々な成果を生み出し、国家の補佐官に就任するも、彼が関わった国では常に内戦や虐殺が発生するという事態が浮上した。国防総省とも仕事をしていたジョンの存在はアメリカ政府にとっても悩みの種であり、一刻も早く拘束する必要があったのだが、CIAがその任務に失敗したためにクラヴィスらに回ってきたのだ。
彼らは、ジョンが最後に目撃されたというプラハで潜入捜査を開始する。そこには、ルツィア・スクロープバという、チェコ語を外国人に教えることで生計を立てている女性が暮らしている。ジョンが最後に目撃されたのは、そのルツィアの部屋だ。5年前、サラエボで起こった手製の核爆弾によるテロ。ジョンはそのテロで妻子を失ったが、その時ジョンはルツィアと不倫の真っ最中だった。
クラヴィスはルツィアと接触し、ジョンに繋がる情報を得ようとするが、その過程で彼はルツィアに心惹かれるようになり…。
というような話です。

面白かったし、カッコ良かった。
僕は正直、原作を読んだ時は、ストーリーそのものが理解できないくらい、全然読めなかった。とにかく、難しかったという記憶しかない。SF的な世界観を理解することがそもそもとても苦手だった、ということも要因として間違いなくあるのだけど、作品が持つ思索的な部分に、恐らくまったくついていけなかったのだと思う。その後も伊藤計劃の作品は読むが、本は難しくて歯が立たない、という印象をずっと抱いていた。

この映画は、原作がまるでお手上げだったそんな僕でも十分に理解出来、楽しめるような作品だった。

基本的には、戦争の物語なのだ。クラヴィスは様々な戦場に派遣されては、治安維持のために戦闘を繰り返す。普段はアメリカで便利さを享受する身だが、仕事となれば内戦や虐殺の頻発する途上国で危険な任務につく。慎重に感情が調整されるので、戦争に従事しているという事実は、クラヴィス自身には深刻な影響を及ぼさない。アメリカで便利さを享受するクラヴィスと、途上国で戦争に従事するクラヴィスは、基本的に切り離されている。

戦争が葛藤を生み出さない、という意味で、戦争を扱った作品とは一線を画すだろう。この作品の中では、「戦争」というのは、ある種の背景でしかない。クラヴィスらにとっては、「職場」と表現してもよいものだ。「戦争」が舞台でありながら、「戦争」そのものは背景でしかないという構造は、それそのものが「無関心」を浮き彫りにする枠組みである。

クラヴィスが葛藤にさいなまれるのは結局のところ、自らの無関心が何を引き起こしているのか、その現実を認識することによってだ。結果として耐え難い現実が引き起こされている。それがどういう理屈でどのようにして生み出されたのも理解した。しかし、結局のところその土壌となっているのは、自らの無関心なのだ。恐らくクラヴィスの葛藤は、こういう部分に端を発している。

『君たちは心に覆いをすることで無感覚になることを許容する。それは、子供を殺すことそのものより残虐だ』

ポールがクラヴィスにそう言う場面がある。これこそが、この作品の底に流れる本質的な部分であり、クラヴィスが自らが属する社会に疑問を抱くきっかけとなった部分なのだろうと思う。

なにせクラヴィスらは、テロを撲滅するのに必要だからという理由で、暗殺などに従事しているのだ。しかし、その自分たちが享受している便利さ、そしてそれが生み出す無関心こそが遠因となってテロが引き起こされているのだ、と知ることは衝撃だろう。クラヴィスはジョンを非難したい。しかしジョンと喋れば喋るほど、自分たちがしていることとジョンがしていることの境目が分からなくなっていく。やり方が違うだけで、結局同じことをしているのではないか?クラヴィスの葛藤は、観客にもそういう問いを突きつけることになる。

ジョンがあることに全精力を傾けている動機は、まさに今(というのは、トランプ大統領が就任した直後の混乱した社会の中で生きている今、ということ)、全世界的に声が上がるようになった発想と非常に近いものがあるだろう。彼らの過激な発言は、どう見るかによって見え方がだいぶ変わる。良い風に見ようとする人が多いからこそトランプ大統領が誕生したのだろう。そう考えると、ジョンの動機に賛同する人は、思いの外多いのかもしれないとも感じる。

ジョンの動機が許容される世界は、僕は受け入れたくない。これは生理的な理由だ、としか言いようがない。正しい正しくないの議論は成立しないだろう。「愛する人を守るためなんだ」という、その動機の背景にある思いは、人の心を強く揺さぶるからだ。

それでも、僕は生理的に、ジョンの動機を拒絶する。

一方で、ジョンに対する嫌悪感は、思った以上にはない。それは恐らく、ジョンが自覚的だからだ。自らの「残虐性」を、きちんと自覚した上で行動しているからだ。

無自覚なまま「残虐性」を発揮される方が怖い。そしてそういう人は、世界中に存在する。僕も、片足を突っ込んでいるのかもしれない。それも怖い。自分の行動が、どんな悲劇を生み出しているのか、それがわからないことが怖い。

『仕事だから仕方ない。その言葉がこれまで、凡庸な人間からどれだけ残虐さを引き出してきたか』

僕たちは、とても便利な世の中に生きている。その便利さが何によって生み出されているのかなどまるで考えることなく、その便利さを手軽に享受することが出来る世の中に生きている。しかしその便利さは、必ず誰かの犠牲の上に成り立っている。そしてその歪みは、様々な形で現れる。しかし僕らは、便利さの膜に包まれているが故に、その歪みの発露を目にせずに済む。この作品が描き出す現実はそういうものだし、まさにそれは僕らが生きている現実に連なる世界だ。

トランプ大統領が生み出した、自分たちさえ良ければいいという風潮は、決して世界を豊かにしない。そう分かっていても、一度手にした便利さを手放すことも出来ない。僕らは、ただ生きているだけで、遠くのどこかにいる誰かを苦しめている。せめてそれぐらいの事実は意識して生きていきたいと思う。

「虐殺器官」を観に行ってきました

「赤目四十八滝心中未遂」を観ました

意志を持たないように生きるようにしてきた。
昔から、こうしたい、ああなりたい、というような感覚があまりなかった。時々そう感情になると、なんだかうまくいかないことが多かった。別に、したいことがあっても、どうしてもしたいわけでもなかった。だから、そういう感情を持つのをやめるようになった。

そういう人生に、特に不満はない。ある程度、僕を押し流してくれる環境があるから、ということもある。僕にはあまり意志はないのだけど、僕をこういう方向に動かしたい、と思ってくれる人が、時々周りに現れる。そういう人に押し流されるようにしていきてきた。自分で意志を持つよりも楽だし、与えられたもの、求められたことを少しずつこなしていく生き方は、性に合っているのだと思う。

ただやっぱり時々、自分の意志を強く持って前に進める人を羨ましく感じることもある。そうやって、自分の足でしっかり地に立っている人を見ると、いいなと思う。僕にはそういう生き方は出来ないことが分かっているから、強く憧れるなんてことはもうないけど。

内容に入ろうと思います。
生島与一は、釜ヶ崎から流れて尼崎にやってきた。中退とは言え大学に行ったことがあるという経歴は、釜ヶ崎では特異な経歴で、尼崎で生島の世話を頼まれた勢子は彼に、焼き鳥の串刺しの仕事を与える。ボロアパートの一室で、生島は日々臓物を切り、串に刺していく。
そのアパートには、様々な人間が出入りする。娼婦、彫師、少年。彼らは余所者である生島と一定の距離感を保ちながら、余所者である彼に時折頼み事をする。生島はそれらを、特に問いただすことなく受け入れる。こうしたい、という意志を持たずに、生島の周辺を通っていく様々な人間に流されるようにして、尼崎での生島の日常は進んでいく。
尼崎を去る日はいずれくるのだろう、と思いながら。
というような話です。

不思議な映画だったな、というのが一番の印象です。
この映画は、詳細がほとんど描かれない。2時間40分という、普通の映画よりも長い印象なのだけど、舞台や人物の詳細がほとんど描かれない。何故生島が釜ヶ崎に、そして尼崎に流れ着いたのか、勢子は生島を何故受け入れたのか、彫眉が生島に預けたものにはどんな意味があったのか、ほんの僅か明らかにされる生島の過去の詳細はなんなのか、何故尼崎の多くの人が生島に「あんたはここでは生きていかれへん」と言うのか、何故生島はいずれ尼崎を去る日が来ると直感しているのか…。
そういった背景や詳細は、ほとんど描かれない。だから、生島についても、生島の周囲の人間についても、ほとんど謎しかない。

そういう状況の中で何が描かれるのか。それは、「意志を持たない生島」と、「意志を持たない生島を動かす周囲の人間」という関係性だ。この映画の核は、物語でもセリフでも映像美でもなく、その関係性ただ一つだと僕は感じた。

主人公であるはずの生島は、基本的にはただの傍観者だ。自分の生活をどうするかという関心や、自分の生活を動かしていくための行動をほとんどしない。彼は、自分の周囲で起こることに、積極的に関わる意志を持たないまま観察をしている。それが生島のスタンスだ。

そんな生島に、様々な人間が「動機」を与える。生島が行動するための動機だ。それらはどれも、微かに犯罪の香りを漂わせるのだけど、生島は殊更に疑問をぶつけるでもなく、それらの行動を実行する。何故周囲の人間が生島にそれをさせたいのか、そして生島が何故それを引き受けるのか。そういうことは一切描かれないまま、動かす周囲と動く生島の関係性だけが淡々と描かれていく。

特に物語らしい物語もないまま(背後で何かは起こっている気配は感じるのだけど、その詳細は観客には知らされない)、その関係性だけを描くことで映画は展開されていく。それが非常に奇妙だなと僕は感じた。普通はそんな映画は成り立たないと思う。何故それらが描かれているのか全然理解できないまま、頼む側の理由も頼まれる側の動機も分からないままで彼らの関係性だけを見せられるのは、苦痛だと感じられてもおかしくない。ただこの作品が映画として成立しているのは、人物の存在感にあるのだろうと感じた。生島はともかくとして、彼の周りにいる人間の存在感はとてつもなく濃い。喋らなくても、その佇まいで何かを発している。だからこそ、この奇妙な映画を観続けることが出来る。

半分以上過ぎてから、物語は大きく動き始める。とある事情で生島が尼崎を離れることになるのだ。どうしてそういう展開になるのかはここでは書かないが、結局生島は誰かの意志によって動かされ続けることになる。というか、生島がそういう人間だからこそ、生島は選ばれたのだろう。

その後の展開も、スッと受け取れるようなものではない。現実と妄想が入り組んだような場面が展開されたり、二人の行動原理をきちんと汲み取れなかったりと、なかなか捉え方が難しい。ただ、何らかの形で追い詰められた人間のもがきや葛藤みたいなものが随所に現れ出ている感じがした。追い詰められた人間の理屈に合わなさ、意味の分からなさみたいなものが切実に描かれているように感じられた。

個人的には、「新明解国語辞典」が出てきたのが面白かった。非常に個人的な理由で、なるほど、と思った。

「赤目四十八滝心中未遂」を観ました

「ドントプリーズ」を観に行ってきました

いやー、メチャクチャ怖かった!
映画館の座席の上で、何度飛び上がったことか!

セキュリティ会社勤務の父(もしかしたら経営者なのかもだけど正確には分からない)を持つアレックスは、想いを寄せているロッキーと、その彼氏であるマネーの三人で、強盗を繰り返している。アレックスが父の書斎から盗み出す鍵を使って安全に侵入し、事を成し遂げるのだ。
マネーは、盗品の売却相手から耳寄りな情報を聞く。陸軍の退役軍人が一人で住んでいる家があるのだが、そこに大金がある、というのだ。かつてその家の娘が交通事故で亡くなった。加害者が金持ちの娘だったために、示談金としてかなりの額をもらった、というのだ。調べてみると、確かに情報は正しいようだ。近隣の家は空き家。しかもその退役軍人は盲目だ。仕事は楽勝に思えた。
しかし…。
いくつもの鍵がつけられ、窓には鉄格子が嵌められた要塞のような屋敷には、凶暴さを見せる犬まで飼われていた。彼らはなんとか侵入に成功し、大金が入っていそうな金庫にたどり着く。マネーが銃を取り出したのを見てアレックスは自分は降りると宣言して帰ってしまう。その後、ロッキーとマネーは家主に見つかってしまう。
銃を奪われたマネーは、そのまま撃ち殺されてしまう。クローゼットに隠れたロッキーと、銃声を心配して戻ってきたアレックスは、盲目の老人相手に生死を掛けた大脱出劇を繰り広げることになる。
生きて出たければ、音を立てるな。
というような話です。

観ながら、「とにかく早く終わってくれ」とずっと思っていました。ホントに怖い。冒頭でも書いたけど、何度も座席の上で飛び上がりました。大げさではなく。隣の席の人にも気づかれてる気がして恥ずかしい…。

強盗二人と老人の闘いは、「まだ先があるのか!」と思うような壮絶な攻防です。詳しいことは書きませんが、ここで映画は終わったな、メチャクチャな映画だったな、と思った後も話が続くんです。もうこれで絶対死んだわ、と思うところで生き延びたり、あーこれでやっと生き延びたね!っていうところからどん底に突き落とされたりと、とにかく予想外の連続すぎて疲れました(笑)。ホントに、もういいから早く終わってくれ、ってずっと思ってました。

しかしこの映画はホント、設定が絶妙だったな、と思います。盲目の退役軍人と要塞のような屋敷、という取り合わせで、ここまでスリリングな展開を生み出せるのか、と感心しました。目は見えてないから、銃を持った老人と強盗が同じ空間にいる、という場面も多々あるわけです。この緊迫感は凄まじかったです。老人は、人を殺すことにはためらいはないので、音を立てたら絶体絶命です。しかも、目が見えないとはいえ、フィールドは長年住んでいる自宅。二人いて目が見えるとはいえ、今日内部構造を知ったばかりの強盗たちとはなかなかいい勝負です。

しかも、途中で物語に新たな要素が加わります。これについても言えませんが、この要素も彼らの闘いを描く上で非常に重要なパーツになっていきます。というのも、この新たな要素が加わることで、「強盗が大金を盗む」という単純な構図から逸れ、老人・強盗双方にいくつかの選択肢が生まれるからです。ただ金を奪って生き延びる、というだけではない要素が加わることで、生死を掛けた闘いの中で彼らが悩む場面が出てくる。それも、物語全体を盛り上げる上で非常に重要になってくる。一つ要素を加えるだけでガラッと状況が変わるので、うまく考えたなと思いました。

物語全体はとにかくスリリングで面白かったんだけど、とにかくアレックスが可哀想だったなぁ。アレックスは当初、この計画に乗り気じゃなかったわけです。それなのにやることになって、しかもこんなムチャクチャな状況に放り込まれて、あぁ憐れである。

「ドントプリーズ」を観に行ってきました

「沈黙」を観に行ってきました

僕に信仰心がないからだろうか。
僕には、日本のやっていることが正しく感じられる。

もちろん、人の命を奪ったり、拷問に掛けたりすることを是としているわけでは決してない。
それらの行為は、最低だと思うし、認めてはならないと思う。そこまで是としているわけではない。
ただ、日本側の「態度」という意味で言えば、圧倒的に正しいように見える。
それは、僕が宗教を信じておらず、かつ日本人だから、なのだろうか?

この作品の中で登場する「日本」は、「キリスト教」を決して否定しているわけではない。
キリスト教が存在することは許容しているし、ポルトガルでは正しい考え方だ、ときちんと認めている。
キリスト教を絶対的な悪とみなしているのではなく、日本にとっては危険だ、と断じているだけだ。

この態度は、とても真っ当だろうと僕は感じる。
僕は、実はこの映画でイメージを覆された。キリシタンを弾圧していた頃の日本は、キリスト教を絶対的な悪と捉えていたのだろう、と考えていた。キリスト教という宗教そのものを憎み、それを信じるものを人ではないものとして扱って弾圧していたのだろう、と。しかし、この作品を信じる限り、そうではなかったようだ。日本は、キリスト教をきちんと認め、尊重し、理解していた。その上で、ただ日本から排除しようとしていただけだ。

しかし、この作品の中で登場する「キリスト教」は、違うスタンスを持っている。彼らはキリスト教を、「絶対的に正しいもの」と捉えている。

「日本」が「キリスト教」に、「あなたがたの宗教は認めるが、しかし今の日本には合わないだけだ」と言う場面がある。そこで神父(パードレ)の一人は、こう反論する。

『我々は真理をもたらした。真理とは、普遍的なものだ。どの国でも、どの時代でも正しい。もしこの国で正しくないというのであれば、それは普遍ではない』

僕が強烈な違和感を抱き、この作品に登場するキリスト教を受け入れることが決定的に出来なくなったのは、まさにこのセリフを聞いてからだ。日本がキリスト教を排除しようとしたことも仕方ないと思える。

作中で、通訳と神父が仏教とキリスト教について議論する場面がある。通訳は、「日本にも仏教という宗教がある。キリスト教は仏陀を低くみているようだが、同じようなものだ」というような主張をする。しかしそれに対して神父は、「仏陀は人間だが神は創造主だ。全然違う」と受け入れない。

ここに、決定的な差を感じることが出来る。

日本は、いくつもの考え方を受け入れることが出来る。日本は、キリスト教の考え方を受け入れている。しかし、日本という国全体を考えた時、キリスト教の考えが広まることは危険だから排除する、という考え方だ。しかしキリスト教は、キリスト教こそが唯一の真理であり、それ以外はすべて間違っているのだから、皆キリスト教を信じるべきだ、という態度を見せる。

その考え方は間違っている、と僕は感じる。

『人の心に干渉してはならん』

その通りだと思う。もちろん、「キリスト教を棄教しろ」とキリシタンに迫る日本も、「人の心に干渉している」という点では同じだ。そういう非難は受け入れるしかない。しかし、日本がやろうとしていることの本質は、百姓たちの心を改宗させることではない。キリスト教を否定することでもない。キリスト教に絡む各国の日本における勢力を排除したいだけだ。

作中で、奉行が殿様と四人の側室の話をする場面がある。四人の側室は皆美しかったが、その四人は争いが絶えなかった。そこで殿様は、四人の側室全員を追い出してしまった。この話についてどう感じるか問われた神父は、「殿様は賢い」と答える。
そしてその上で奉行は、殿様が日本で、四人の側室がポルトガルを始めとするキリスト教の国なのだ、と語る。その四カ国が、日本を舞台に争っている。その影響を排除したい。日本の目的はそこにある。

日本が取る手段の是非はともかくとして、日本がやろうとしていることの本質は「人の心に干渉する」ことではないと分かるだろう。そういうスタンスを感じられるからこそ、僕は、日本がキリシタンを拷問したり殺したりするのを目にしても、日本の態度を許容したくなる。

キリスト教は違う。キリスト教は、自分たちが「唯一」正しいと信じていて、その唯一正しいことを信じていない者の心を変えようとする。それそのものが、彼らの目的なのだ。

そういう態度を、僕は許容することは出来ない。だから彼らに対して、違和感を覚える。

『我々の宗教は、この国には根付かない』

この言葉も、実に興味深い。日本には当時、キリスト教を信じるキリシタンが多く存在した。しかし作中のある人物は、彼らが信じているのは、我々が信じているキリスト教ではないのだ、と語る。神父自身も、日本にやってきて様々な場面でキリシタンの現実を見る中で、その違和感を掴み取っていたはずだ。信仰ではなく形あるものを求める態度や、天国の解釈などに、そういう違和感を覚えたはずだ。しかし彼は見ないふりをした。日本にはキリシタンがおり、そのキリシタンは自分たちと同じキリスト教を信じているのだと信じた。

しかしそうではない。奉行も断言する。『あなた方がこの国にもたらした宗教は、別のものに変わったのだ』と。

『彼らは自然の内側にしか神を見出さない』

違いを知り、それを認めることこそ、異文化を理解する上で最も大事なことだろう。日本はそういう態度を持っている。しかしキリスト教はそういう態度を持っていない。正しさは自分たちの側にある、と信じている。

僕には、理解が出来ない。

内容に入ろうと思います。
17世紀。ロドリゴとガルペは、宣教師の師であるフェレイラが、日本で棄教したという噂を耳にする。キリスト教弾圧下の長崎で、キリスト教を捨て、日本名を持ち暮らしている、と。高名な宣教師であった師匠の棄教を受け入れられない二人は、強く申し出て日本へ向かう許可をもらう。フェレイラを探し、師の魂を救うために。
マカオにただ一人いると教わった日本人、キチジローを案内役に選び、二人は日本へとたどり着いた。キチジローの案内で彼らは、トモギ村という隠れキリシタンの村へと案内される。二人はパードレ(神父)と呼ばれ、次々と断罪され不在となった神父を務め、隠れキリシタンから慕われた。しかし、弾圧下の日本での生活は厳しく、日中は山奥の小屋から一步も出られない生活を強いられた。フェレイラの行方も当然分からない。特にガルペに苛立ちは募っていく。
キチジローの案内で五島に向かうことになったロドリゴは、そこでも信仰の強さを知り、自分の存在価値を改めて認識する。しかし、トモギ村の「じいさま」が隠れキリシタンであるとして捕らえられた。そして結果的に、ロドリゴとガルペが村にやってきたことでお上に目をつけられた村人数人が、見世物的に処刑されることとなった。ロドリゴとガルペは別行動することを決断し、ロドリゴは五島へと戻るのだが…。
というような話です。

色々と考えさせられる重厚な作品だった。冒頭で書いたようなことに加えて、僕が映画を見ながらずっと感じていたことは、「祈る者が弱く見える」ということだ。

キリスト教の教えを、僕は知らない。「祈ること」にどんな意味や効果があると教わるのか、僕は知らない。けれどきっと、祈ることは、キリスト教(に限らず多くの宗教でそうなのだろうが)では非常に重要なことなのだろう。そして祈っている者は、祈ることで強くなれると信じているのではないかと感じる。

確かに、そういう側面はあるだろう。
世の中の多くのことは、祈ることで解決できるかもしれない。というのは、世の中の多くの事柄は、自分の気持ち一つで大きく変わるからだ。同じ状況を前にしていても、心を強く持っている者とそうでない者では、前者の方がよりその状況に対処出来るだろう。他人や状況を変えようとするよりも、自分が変わるほうが遥かに楽だし実現性は高い。祈るというのは結果的に、そういう効果をもたらすだろう。

しかし当然のことながら、祈ることでは解決できない事柄もある。そして、そういう事柄に対して「祈ること」は、一切無力だ。

そして、そういう状況に直面した時、祈る者は普通の人より弱く見えてしまうのだと思う。

祈ることで物事に対処してきた人間は、どんな場面でも祈れば解決すると考えがちだ。しかし、当然そんなことはない。祈るメンタリティのない人間は、自分の気持ち一つでは対処できない状況に直面すれば、実際的な行動に移そうという発想に至るだろう。しかし祈る者は、自分の気持ち一つでは対処出来ない状況に直面しても、祈れば解決すると考えて、それ以外の具体的な行動を取らない傾向が強いのではないか。

祈ることでは解決できないことに対して祈るのは、無意味だ。そして、そのことに気づかない、あるいは気付こうとしない姿が、客観的に見て弱さを感じさせるのではないか。僕は映画を見ながらそんなことを考えていた。

だから、キチジローは強いのだと、僕は感じてしまう。

キチジローは、8年前に踏み絵を踏んだ。他の家族は全員踏まずに殺された。トモギ村でも、マリア像に唾を吐けと言われて、キチジローだけがそうした。他の者は殺された。

祈ることでは解決出来ない状況に対して、実際的な行動を起こしたキチジローは、僕の価値判断からすれば強い。キチジローは、自分が弱い生き物だと悩み苦しむが、僕はそうは思わない(まあ、人を裏切る行動を取る、という行為の是非はまた別だけど)。彼は、状況に対応するための正しい行動を取っただけだ。

一方で、踏み絵を踏んだり唾を吐けなかった者は、そのまま殺された。彼らは強いと言えるのだろうか?信仰を守ったという強さを讃えたい人はいるだろう。しかし、状況に対処するための行動を取れずに祈ることしか出来なかった、という意味では、僕は弱いとしか感じられなかった。

『私も神に祈った。しかし役に立たん。神は沈黙するが、お前は?』

ロドリゴ神父はある場面でこう問われる。この問いこそ、まさに本質だと感じた。祈ることは、役に立つこともあれば立たないこともある。祈ることが役に立たない時、お前はどうするのだ?その問いに、ロドリゴは沈黙してしまう。

『これほど苦しむ彼らに、神の沈黙をどう説明する?』

ロドリゴ神父自身も、こういう問いを内在させた。しかし、そこから思考を進めることが出来なかった。僕には、そういう部分にキリスト教の弱さを感じてしまった。もちろん、世の中に完璧なものなどない。しかし、自らの不完全さをきちんと認識した上で進んでいくことは出来るはずだ。僕は宗教全般に詳しくないが、仏教なんかは割とそんな性格がありそうな気がする。キリスト教にも、宗派によってはあったりするのかもしれない。この映画の中のキリスト教には、なかったようだ。

この映画を日本人はどう見るのだろう?そして、キリスト教徒はどう見るのだろう?その点に非常に関心がある。宗教を信仰しているという意識のない日本人は、この映画を見て僕のような感じ方をするのではないかと思うがどうだろう。キリスト教徒はこの映画を見て何を感じるか。僕が感じたような違和感を理解するだろうか。あるいは、キリスト教の正しさを感じるだろうか。時代が全然違うから、この映画で描かれる問題が今自分が信じているキリスト教と関わると感じないだろうか。

何かを信じることの難しさについて考えさせてくれる作品だった。

「沈黙」を観に行ってきました

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)