黒夜行

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「関ヶ原」を観に行ってきました

僕にはハードルの高い映画だったなぁ。
というのも、歴史の知識がなさすぎたからです。

僕が「関ヶ原の戦い」について知っている知識は、「1600年にあった」ということだけで、映画を観るまで「石田三成と徳川家康の戦いだ」ということも知りませんでした。そんな状態で観てたら、そりゃあ話も分かりませんよね。というわけで、これは僕の問題。基本的にいつ何が起こっているのか、イマイチよく分からないまま観てました。

あと、これは結構厳しかったなぁと思うのは、セリフの大半が聞き取れなかったこと。これは、僕に知識がないせいもあるんだけど、台詞回しがかなり早口だったことや、方言もバンバン使うセリフだったことがプラスの要因としてあるな、と思います。どちらも、当時の雰囲気を出すのには重要だろうし、そのやり方で良かったんだと思うんだけど、個人的には映画を観ながらずっと、字幕が欲しいと思ってました。

あと、合戦シーンは迫力があったなぁとか、撮影しているお寺とかはたぶん重要文化財だったりするだろうから、撮影中ロウソクの炎が倒れたらやばそうだなぁ、みたいなことを考えながら映画を観ておりました。まあそんなことぐらいしか書けないんだよなぁ。

「関ヶ原」を観に行ってきました
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「ダンケルク」を観に行ってきました

この映画を観るには、知識が必要なのだと思う。
しかしそれは、歴史の知識ではない。
クリストファー・ノーランという監督についての知識だ。

この映画は、凄まじい映像の連続だ。
第二次世界大戦中のヨーロッパが舞台であり、陸海空での死と隣り合わせの現実を切り取っていく。

しかし。何の知識もないままこの映画を観た人は、きっとこう感じるだろう。
なるほど、こんな映像、普通には撮れないから、ほとんどCGなんだろうな、と。

そうではない。
むしろこの映画では、ほとんどCGが使われていないという。

英国戦闘機・スピットファイア3機の内、2機は本物を飛ばし、もう1機は5億円を掛けて制作されたレプリカ。
博物館に収蔵されていた「マイレ・ブレゼ」という本物の駆逐艦を借り、撮影を行う。

そんな風にして、可能な限りCGを用いずに撮影された映画なのだ。
そういう事実を知った上で観ると、同じ映像でもまったく違った風に見えることだろう。この迫力ある、まるで本物の戦場としか思えない映像をCGなしで撮影したという驚異が、映画を観る者の感覚に大きなプラスとなっていくと思う。

とはいえ、知らなければ、特に調べることもなく、CGなんだろうと判断されてしまうだろう。そういう意味で僕は、この映画を観るには知識が必要だ、と書いた。

とにかく、映像で訴えかけてくる、力強い映画だ。

内容に入ろうと思います。
1940年。フランスとイギリスの連合軍は、ヒトラー率いるドイツ軍に追い詰められ、ドーバー海峡に面したフランスの港町であるダンケルクに追い詰められた。その数40万人。絶体絶命、侵攻してくるドイツ軍に蹂躙されるのを待つばかりである彼らに対する救出作戦が始まった。
陸では、救助のためにやってきた駆逐艦が、少しずつ兵士たちを乗せていく。しかしその間にもドイツ軍の戦闘機による爆撃が頻発、船は座礁し、桟橋も破壊される。兵士たちは、ことごとく海に投げ出されていく。
海では、民間船の徴用が始まっていた。ダンケルクに取り残された兵士たちを救助するためにイギリス軍が行っているのだが、「この船の船長は私しかいない」と言って自らの判断でダンケルクまで救助に向かう民間船の船長がいた。実際に900隻もの民間船が、自らの意思でダンケルクまで救助に向かったという。
そして空では、スピットファイア3機がこの救出作戦の援護をしていた。次々と仲間が撃ち落とされていく中、最後に残った1機が燃料の限界まで奮闘する。
絶体絶命からの撤退戦、その史実を描き出す作品。

個人的にはちょっとこの映画の評価は難しい。

まず、「ダンケルクの戦い」という、本作で描かれている救出作戦が存在していたことは知らなかったので、そういう意味で新しいことを知ることが出来た、という感覚はある。とはいえ、内容としては「いかに撤退するか」という映画である。その点を悪く言うつもりはないが、少なくとも「史実から新たな真実を引っ張り出す」というような作品ではない。

史実を基にしている、という点を強く意識しているのだと思うのだが、この映画は物語性という点は弱いように感じる。もちろん、物語性が薄いという点が直接欠点になるわけではないが、撤退戦をリアルに描くという意識の強さが、物語的な弱さにはつながっているように思う。

また、物語性という意味で言えば、「レヴェナント」という映画を観た時と同じ感想を抱く部分があった。「レヴェナント」は、アメリカでは良く知られているらしい実話を基にした映画だ。そして僕は、(主な観客である)アメリカ人がよく知っている実話をベースにしているからこそ、物語性を省略して映像美で見せる映画に仕上げたのだろう、と感じた。

「ダンケルク」でも、同じことが言えるのではないかと感じた。この「ダンケルクの戦い」がどれぐらい欧米人の間で知られているのか、僕は知らないが、知られているという前提で物語性を薄めている、という部分もあるのではないかと感じた。

そう考えた時、この映画の凄みはやはり映像の迫力にあると感じる。僕自身は、クリストファー・ノーランがCGを使わない人だ、という事前知識を持っていたので、映画を観ながらその凄さを感じ取ることは出来た。だから僕自身には不満はないが、クリストファー・ノーランという監督のことを良く知らないで観た人には、この映像の強さみたいなものはうまく届きにくいかもしれない。少なくとも、CGを使っていないで撮影しているのだ、と知って観るのとは見方が全然変わるだろう。

事前知識があるか否かで評価が変わりうる、という部分が、僕にはこの映画の一番の欠点に思えてしまった。もちろん、CGを使っていないと分かっていても迫力のある映像なのは間違いないのだが、それがCGで生み出されているのだろう、と感じてしまえば凄みはやはり半減してしまう。

史実を基にしている点、そしてCGを使わずに撮影している点、そして映像の迫力などは素晴らしいと思いました。しかしそれでも、何も知らないで観た場合の評価が辛くなりそうな映画だ、と感じました。

「ダンケルク」を観に行ってきました

「散歩する侵略者」を観に行ってきました

「狂気」の物語ではない。
「狂気」を受け入れる『狂気』の物語だ。

ごく普通にイメージした場合、物語の中で「狂気」が描かれる時は、その「狂気」が「普通」といかに対立し、いかに狂乱を引き起こすのか、という点が物語の核になるはずだ、と思う。
しかしこの映画は、そういう風には作られていない。「狂気」が目の前に現れた時、その「狂気」を受け入れていく『狂気』を描き出すのだ。もちろん、「狂気」がいかに混乱を巻き起こすのか、という部分も描かれはする。しかしそれは、物語の背景でしかない。

どの本に書いてあったのか忘れてしまったので正確には記述できないが、かつてこんな話を読んだことがある。とある女性が、世界の終末のサインを受け取った、助かりたい人は皆で祈りを捧げましょう、というようなことを言い始めた。それに賛同する人が増え始めたことを知ったとある心理学者が、人間の認知の変化を知る興味深い実例だとしてその会に潜り込んだ。心理学者は、彼らの教えを信じているフリをして観察を続けた。その心理学者の興味はただ一点。女性が唱えた終末の日に世界が滅亡しなかった場合、その話を信じていた人たちはその状況をどう捉えるのか、である。
女性が指定した時刻が過ぎた。何も起こらない。するとその場にいた人たちは口々に、「自分たちの祈りが通じたのだ」と解釈した。自分たちの祈りのお陰で、終末を回避できたのだ、と。人間は、自分が信じるモノを信じる状況を生み出すために解釈や認知の方に改変を加えることがあるのだ、という実例として取り上げられていた記憶がある。

鳴海と桜井。この二人の目の前にも、「狂気」が現れた。人間の形をした「狂気」が。彼らは、その「狂気」と対立することも出来た。「普通」側にいる自分と遠く離れたモノとして受け取ることも出来た。立場としてはそうだ。しかし彼らはどちらも、その「狂気」を受け入れることにした。

その理由は、それぞれ違う。週刊誌の記者である桜井は、初めは興味本位から「狂気」を受け入れた。その「狂気」がホンモノであるのかという検証をし続けながら、「狂気」と関わり続け、取材をし続ける。そういうスタンスだった。しかし、少しずつ彼は変化していくように見える。どう変化したのか、それはなかなか捉えがたい。しかしその変化は、「狂気」と関わる理由そのものと関係してくるはずだ。外側からでは桜井の内面の変化を追うことは難しいが、「狂気」がもたらす未来に興味を持ってしまった、ということかもしれない。

鳴海はまったく別の理由で「狂気」を受け入れる。いや、彼女は最初、「狂気」を受け入れてはいなかった。正確に言えば、最後の最後まで「狂気」を受け入れなかったかもしれない。彼女が受け入れたのは、「狂気」ではなく「夫」だ、とも言える。愛する夫、いや、愛していたはずの夫、という方が正確だろうか。
難しいのは、「狂気」と「夫」がイコールであることだ。どちらかだけを受け入れることは出来ない。どちらも受け入れるか、どちらも排除するか。鳴海には、その二択しか存在しなかった。そして彼女は、「狂気」ごと「夫」を受け入れるという選択へと傾いていく。

物語の中で「狂気」が選ばれる場合、普通は「狂気」と対立する展開になる、ということは書いた。この映画ではそれとは対極的に、「狂気」を受け入れる(その『狂気』を描く)展開になる。そして、「狂気」と対峙するもう一つのスタンスがある。それが、無視するという在り方だ。

本書が異質であるのは、「狂気」を目にしているはずの人々の姿だ。彼らは、そこに「狂気」など存在していないかのように振る舞う。「狂気」を認識して対立したり逃げ惑ったりするのではなく、目の前にある「狂気」がなんでもないものであるかのように振る舞っている。そう感じさせるシーンが結構ある。

そしてそのことが、妙なリアルさを生み出してもいる。現代人は、「異質なもの」に慣れていない。共感をベースにした同質性の高い人たちとすぐに繋がれる世の中になってしまったが故に、自分たちと価値観の違う人たちと関わり合いを持たなくとも生きていける世の中になってしまった。だからこそ、「異質なもの」に対する反応速度が鈍くなっていると僕は感じる。あまりにも「異質なもの」を排除できてしまうために、自分の周りに「異質なもの」があるのだ、という前提を知らず知らずの内に手放してしまえる。だから、「異質なもの」と直面した時の反応が遅れるのだと思う。

この映画を見ていると、現代人のそういう在り方がうまく切り取られているように感じられた。「狂気」を受け入れる、という選択をした鳴海と桜井は、むしろ感度が高いと言えるだろう。それは、異常な事態に対しての反応が鈍い者たちが背景に描かれるからこそ、余計強調されるように感じられる。

また、作中の人々が「狂気」に対して反応が遅れてしまうもう一つの理由がある。「狂気」が人間の形をしている、ということだ。
「狂気」がもっと違う形で目の前に現れれば、もっと機敏に反応できるだろう。しかし、人間の形をしているが故に、躊躇する。目の前の存在が「狂気」であると認めることに怖気づく。

この映画で描かれているのとまったく同じことが起こる可能性はほとんどないだろう。しかし、人間の形をしているから、あるいは別の理由でもいいが、そういう分かりやすい理由によって受容・拒絶を判断することの怖さをこの映画は伝えているのだと思う。ちょっと違うから排除する、見た目が同じだから受け入れる―そういうやり方ではたどり着けない地点にあるもの。そういうものを、この映画では描き出しているのだ、と感じる。

例えば、「愛」とか。

内容に入ろうと思います。
イラストレーターの加瀬鳴海は、変わり果てた夫真治の姿に呆然とする。会話がまともに通じず、それどころかちゃんと立って歩けもしない。記憶もどうやら失われてる部分が多いらしい。真治の不倫疑惑を追求しても、何を言われているのか分からない、というような表情をする。状況が理解できないまま、あちこち歩きまわったり、謎めいた言動を取る真治に、鳴海はイライラを募らせていく。
ある街で、残虐な一家殺人事件が起こる。生き残ったのは、立花あきらという女子高生のみのようだが、現在行方は分からなくなっている。その事件の取材をすることになった、週刊誌記者の桜井は、現場付近で不思議な男と出会う。天野と名乗ったその男は、自分が宇宙人で地球を侵略しにきた、と語る。そして桜井に、立花あきらを一緒に探し、同時に自分のガイドになってくれ、と頼む。成り行きに任せるようにして、桜井はその話を受け入れる。
半信半疑のまま天野に付き従う桜井だが、次第に彼らの実態が明らかになっていく。どうやら彼らは、人類の「概念」を集めているのだ、という。言葉に便りすぎる人類から、言葉に依存しない、概念を下支えするイメージのようなものを吸い取る。すると吸い取られた者は、その概念を失ってしまう。所有の概念を奪われた者はすべてを手放し、自分と他人の概念を奪われた者は世の中すべての人間を私だと思い込む。
彼らの侵略の計画を聞きながら、彼らの手伝いに従事する桜井。そして、夫の変化に苛立ちながら、自分が愛した人をなんとか取り戻したいと願う鳴海。動機はまるで違うが、結果的に侵略者という「狂気」を受け入れる『狂気』に浸ることになった彼らの奮闘と絶望が描かれる。
というような話です。

個人的には結構好きな作品でした。全体的には、ある種のシュールさみたいなものが漂うし、状況がイマイチ理解できない部分があったりするしと、するっと受け入れられる映画ではないのだけど、「狂気」を受け入れる『狂気』、というものに焦点が当てられることで人間の葛藤が引き出される、という展開は面白いと思いました。

何よりも、鳴海(長澤まさみ)が非常に良かった。鳴海の行動原理は、当初上手く掴めないでいた。それは、真治が侵略者となる以前の夫婦の話がまったく描かれないからだ。彼女たちがどんな夫婦であったのか、判断する材料はない。そういう意味で僕ら観客は、侵略者として戻ってきた真治と同じ視点から鳴海を見ている、とも言えるだろうと思う。

鳴海は、真治に「夫婦だろ」と言われて、「そんなのとっくに終わってるよ」と返す。彼らの関係は基本的には破綻していたのだ。その原因は、真治がしたらしい不倫にあるのだろう。真治に対する鳴海の態度は、やはり不信感混じりのものとなる。とはいえ、夫を呼ぶ呼び方は「しんちゃん」であるし、真治の様々な奇行に対しても手を差し伸べていく。そこには、同じ家に住んでいるから、という理由ではない何かが見えるような気がする。

そして次第に気づくようになっていく。鳴海が、夫のことを未だに愛しているのだ、ということを。そしてそのことが、物語を支える一つのベースとなっていく。鳴海が持つその感情が、「狂気」を受け入れる背景にも、事態の展開を左右する要素にもなっていく。この点が、物語的に凄く良く出来ているな、と感じました。

地球を侵略するためにやってくる宇宙人たちの振る舞いも、実に面白いと思いました。姿形は人類そのものなのだけど、中身が乗っ取られていて別人格のようになっている。そんな彼らは人類の持つ概念を集めるために動き回るのだけど、そうやって概念を集めても、掴みきれないことがある。例えば、彼ら宇宙人は恐らく人類の肉体に当たるものを持っていないのだと思う。だからこそ、人類の身体の脆さみたいなものはなかなか実感できない。そういう、人類社会に対する知識が欠如しているが故の様々なズレた言動みたいなものがうまく表現されているような感じがして面白かった。

桜井(長谷川博己)も、「狂気」を受け入れる側の人間だが、捉えきれない謎めいた雰囲気が滲み出ていたのが良かったと思う。桜井の言動は正直、普通には理解しがたいと思う。どう見ても「宇宙人側」の立場として行動しているようにしか思えないからだ。桜井自身にも、自分が何をしようとしているのかよくわかっていないのかもしれない。いずれにしても、桜井という捉えがたい言動をする人物を、そのよく分からなさを滲ませながら演じている部分も良かったと思う。

細かな部分まで理解できているわけではないが(例えば、途中から桜井らを追いかけ始める組織が何者なのか、ちゃんとは分からない)、それも物語全体の不穏さを高める要素だと思うし、「狂気」を受け入れる『狂気』という、一段レベルの高い『狂気』が描かれていながらも、それが僕らの日常からかけ離れたものであると感じさせないのは、役者の高い演技の賜物なのかな、と思う。この映画を見て何を感じるのかは様々だろうが、全編に通じるこの不穏さみたいなものは、非常に独特で印象的ではないかと思う。

「散歩する侵略者」を観に行ってきました

「三度目の殺人」を観に行ってきました

人間は、他人のことを理解したい生き物だ。
それはつまり、他人のことを理解することが、自分の安心に繋がる、という意味だ。

僕の中には、あまりそういう感情はない。
むしろ、出来るだけ他人は、理解できない存在でいて欲しい。

いや、これはもう少し説明が必要だ。
僕にとってどうでもいい他人は、理解できる存在であって欲しい。あまり深入りしたくないから、簡単に理解できて、簡単に扱える人であってほしい、と感じる。
しかし、僕にとってどうでもよくない他人、自分が深く関わりたいと思える他人は、出来るだけ理解できない存在でいて欲しい。理解できない存在であればあるほど、僕の興味は持続する。その人を理解したい、という気持ちこそが、僕の他人に対する関心の根源であって、だからこそ、理解できてしまっては困る。いつまでも「理解したい」という気持ちを持ち続けるために、その人には永遠に理解できない存在であってほしいのだ。

だから、人間のことが分からない、という状況は、僕にとって特別不安定なものではない。それが当たり前だと思っているし、理解できたという状況の方が幻想であり現実逃避でしかない、と考えているからだ。

ただ、他人を理解できない状況は、実害をもたらす場合もある。例えば、どんな動機であれ、「殺人」という犯罪はすべて、他人を理解できないことによって生じるだろう。理解できていればきっと怨恨などは生まれないし、金目的やその他理解しがたい動機の殺人も、「そういう人間がいるのだ」ということを芯から理解できていれば防げる可能性は高まる。しかし、頭の片隅でそう思っていても、僕らは「他人を理解できる」という前提を持って生きていたい人間だから、「そういう人間がいるのだ」という感覚を自分の内側にきちんと定着させるのが難しい。

実害が及ぶことは望んでいないから、僕自身も、普段は理解されるような振る舞いをし、他人を理解しているような振る舞いをする。そうすることで、お互いに実害を回避しやすいことを、長い経験で理解しているからだ。

また、「他人を理解できる」という前提を共有したい人が多い世の中だ。SNSの普及は、人間のそういう感覚がベースにあるはずなのだ。そういう世の中では、「他人なんて理解できない」という前提を前面に出しながら生きていくのは摩擦を生むばかりだ。だから、理解出来ている風を装う。

けど、他人のことなんて基本的には理解できないはずだ。有名な話だが、「僕が見ている赤色と、あなたが見ている赤色が、同じ色だとは限らない」というものがある。まったく別の色を「赤色」と呼んでいても、会話上齟齬は生じないのだ。同じことが、人間同士のありとあらゆることについても言える。言葉、価値観、感情、記憶…そうしたものを「同じだ」と捉えることは、結局のところ幻想以外の何物でもないのだ。

そのことを忘れていられる社会の中で、僕らは生きている。いや、そういうことを忘れていなければ、僕らは生きていけないのだ。

『色んなことを見て見ぬふりをしなきゃ生きていけないんだから』

他人を理解できないことは、敗北ではなく始点なのだ。この映画はそのことを、潔く突きつけてくる。

内容に入ろうと思います。
かつて殺人を犯した者が、また殺人の容疑で逮捕された。強盗殺人で、自白しているという。なら、間違いなく死刑だ。三隅は、工場長に解雇された腹いせに河川敷で殺害、財布を奪った上で火をつけた。自白以外の客観的な証拠はない。
弁護士の重盛は、同期の別の弁護士から三隅の弁護を頼まれた。供述がコロコロ変わるんだよ…。最初から担当したかったと感じる重盛だったが、強盗殺人を殺人と窃盗に落とすことで減刑を狙う方針を立てる。重盛の父は元裁判官であり、かつて北海道の留萌で三隅が起こした殺人事件を裁いた者でもある。
『理解とか共感とかそんなもの弁護するのに要らないよ。友達になるわけじゃないんだから』
『そんなのは依頼人の利益になることしかないだろ。どっちがホントかなんて分かんないんだから』
裁判という勝負に勝つことにこだわる重盛は、真実の追求ではなく、法廷での勝利のために事件を調べ始める。厳しいだろうが、この方向で弁護するしかないと決まった後で、週刊誌に驚きの記事が載る。なんと三隅は、工場長の妻である美津江に頼まれて殺したと証言したのだ。確かに三隅には事件前50万円の振込があった。メールのやり取りも、決定的な文言こそないものの、殺人をほのめかすような内容だった。供述内容の変更に憤る重盛らだったが、美津江を主犯とする共同共謀正犯である方が勝ち目があると判断、弁護方針を切り替える。
しかしその後、調べを進める中で、美津江の娘である咲江が三隅と何らかの関わりがあったらしいという事実を掴み…。
というような話です。

「真実」の周りを、様々な人間がうろうろし、翻弄される、そんな映画でした。見ている間、ずっと様々な問いを突きつけられているような感じのする作品で、その緊張感が、答えのない、分かりやすい落とし所のない映画を見せる力を生み出しているのだと感じた。

「真実」の中心にいるのは、刑務所の中の三隅だ。殺人を自白している三隅の周囲に、何らかの「真実」がある。しかし、三隅の証言によって、その「真実」の姿は煙幕を張られたかのように見えなくなる。三隅の言葉は、「真実」を覆い隠す。それを三隅が意図的にやっているのかいないのか、それすら判然としない。

真実など勝つためにはどうでもいい、と考えていた重盛だったが、三隅と関わる中でその気持ちが変化していくように見える。三隅の言葉の奥にある「真実」の姿を見極めたくなる。

三隅の得体の知れなさは、様々な部分から分かる。かつて三隅を裁いた重盛の父、留萌での三隅に関する証言、咲江の三隅に対する捉え方、そして三隅自身による証言…。これらがすべて、バラバラの像を描き出していく。皆が三隅について話をしているのに、話せば話すほど三隅という人物から遠ざかっていくかのようだ。三隅が生きていく中で残し続けてきたその様々な違和感が、重盛らの手によって集められ、それによって余計に増殖したかのような不気味さを生み出す。

『生まれてこない方が良かった人間ってのはいるんですよ』

三隅のその言葉が、誰のことを指しているのか。何がそう思わせたのか。三隅と関われば関わるほど、三隅という人物像が拡散していく。

三隅の発言は、どれが真実なのか誰にも判断できない。しかし、これは本心だったのではないかと僕が感じたい発言がある。「刑務所の方がマシだ」という内容のものだ。何故これを本心だと感じたいのかと言えば、僕が三隅と同じ状況にいたとしたら、僕もきっとそう実感するだろう、と思えるようなものだったからだ。

三隅が本当は何をして何をしなかったのか、それは誰にも分からない。そして僕らはそれを、三隅という狂気がそうさせたのだ、と思いたいだろう。しかし、僕はそうは思わない。この映画で訴えかけたいことも、そうではないだろう。あの三隅の姿は、僕ら自身の姿なのだ、ということをこの映画は伝えようとしているのだ、と思う。僕らは幸せなことに、「刑務所の方がマシだ」と思えるような追い詰められ方をしていない。だからこそ、三隅のような狂気を放たずに済んでいるのだ。しかし、自分を取り巻く状況が変われば、僕らはいつだって三隅のようになることができる。いとも、簡単に。自分は三隅のようにならない、と思うことは、三隅を狂人の枠に嵌め込んで、自分から遠ざけているに過ぎない。

僕らは皆、わけの分からない部分を内側に抱えている。普段それは、意識せず生きていられる。だから自分がそんなものを持っているとも思わずに済む。しかし、だからと言って持っていないわけではない。持っているのに、気づいていないだけなのだ。

そのことを重盛は、自分の娘との関わりの中でも気付かされる。妻と離婚調停の最中であり、娘とは一緒に暮らしていない。その娘が、重盛にとって得体の知れない存在になっていく。その恐怖みたいなものを、三隅の在り方とダブらせたのだろう。三隅を理解しようとした背景には、娘の存在があったはずだと思う。

僕らは、自身の得体の知れなさに気づいていない。それに気づき、コントロールしようとしている、という意味においては、僕らよりも三隅の方が高い位置にいるのかもしれない。それをコントロールせざるを得ない人格や環境に生まれ、必死で葛藤し続けた男と、その存在に未だに気づかないでいる者では勝負にならない。初めから重盛には勝ち目はなかった、ということだろう。

三隅を排除して遠ざけてはならない。三隅が抱える得体の知れなさを自分も抱えているかもしれない―そういう認識を与えてくれる作品だからこそ、観る者をこれほどザワザワさせるのである。

「三度目の殺人」を観に行ってきました

「新感染 ファイナル・エクスプレス」を観に行ってきました

自分だったらどうするだろう、という場面が多々あった。
正しい判断が出来ただろうか?
選択の、連続だ。正しさを判断している余裕は、実際のところない。
というか、「誰にとっての正しさ」を追求すればいいのか分からない。

そう、この映画で問われていたことは、まさにその点なのだと思う。
危機的状況に陥った時、「誰にとっての正しさ」で物事を判断すればいいのか。

どんな言動も、正しさの軸を定めてしまえば、それに沿って正しい/間違いの判断が出来る。
いくら誰かを救う行為であっても、それは大切な人を傷つける結果に繋がるかもしれない。
いくら誰かを傷つける行為であっても、それは大切な人を守る結果に繋がるかもしれない。

『パパは自分のことしか考えてない』

ある場面で主人公は、娘にそう言われる。

確かに主人公の言動には賛否あるだろう。しかしそれも、正しさの軸をどこに設定するかによって判断が変わる、というだけに過ぎない。娘の視点からは、パパは非道な決断をしているように見える。しかし主人公は、最も大事な人をいかに守るかという問いの最善解を導き出しているに過ぎない。正しさの軸は、状況や場面によって常に変化する。確かに主人公の言動は、平時においては残酷で非人道的に思えるかもしれない。しかし有時においては選択肢の一つとして許容されてもいいのではないかと思える。

他人の犠牲にしてまで生きたいのか、という問いに対する答えは様々だろうし、積極的に他人を犠牲にする行為は、たとえそれが有時であっても許されるべきではないと思う(この映画の中にも、そういう人物が登場する)。しかし、仕方ない犠牲もあるはずだし、そうであれば、その犠牲を見込んで何か前に進むための一手を打つことが仕方ない状況もあるだろう。

自分がこの映画の登場人物の一人だったらどうするだろう、と色んな場面で考えた。きっと、決断に迷って大した行動は出来ないだろう。たぶん僕は、モブ側の人間だ。何も出来ないまま、すぐ死んじゃうタイプだろうなぁ。ヒーローにはなれないかぁ。

内容に入ろうと思います。
ファンドマネージャーをしているソグは、そのあまりの忙しさと、他人を顧みない冷徹さが仇となり、妻に家を出ていかれてしまった。母親と、娘のスアンと三人で暮らすが、ソグはスアンを構ってやれず、スアンは誕生日に自分の母親が住むソウルに一人で行くと言って聞かない。ソグは、なんとか仕事のやりくりをつけて、スアンと一緒にKTX(韓国の新幹線みたいなもの)に乗った。
発車直前に乗り込んできた一人の血まみれの女性。皆彼女に異変に気づかないが、やがて事態は勃発する。その女性が乗務員の一人に噛み付いたのだ。それはまさに<パンデミック(爆発的感染)>の始まりだった。時速300キロで走る車内で、「感染者に噛まれると感染する」という謎の感染症が蔓延。乗客は生き残りをかけて、必死で逃げ惑う。
一眠りして起きた時、スアンの姿が見えなかったため探しに出たソグは、その途中でその<パンデミック>の事態に遭遇した。乗客たちと力を合わせながら、なんとか感染しないように逃げ続けるが…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。正直、画的には相当ギャグっぽい感じの映画です。感染者たちが異常に増殖し、車内を徘徊したり、人に襲いかかったりする様は、怖いというよりも思わず笑っちゃうような雰囲気を感じさせました。それぐらい「感染者」役の人たちが振り切りまくった演技をしていたのは良かったですけども。

画的にはギャグなんですけど、全体的にはかなり人間ドラマの要素の強い作品でした。物語の主軸としては、冷徹で他人のことを考えない主人公が、周囲に助けられながらスアンと共に逃げられている状況が続く中で、自分も人を助ける意識が芽生えていく、というような部分なんですが、それ以外にも車内で展開される人間ドラマは色々あります。妊婦を連れ添った男や、野球部の集団と応援団長(女)、何があっても自分だけは生き残ろうと他人を切り捨てる男などです。極限状況の中、彼らは数々の決断に迫られる。それはほとんどが、それまで一緒に協力して逃げ続けてきた誰かを切り捨てるようなもの。そうしなければ他の者たちの命も危うい、というギリギリの状況で、彼らはなんとか決断を積み重ねていく。そういう、極限状況に置かれた人間たちの究極の選択が手に汗握る展開を生み出しているな、と思います。

「感染」あるいは「感染者」に関する設定は、かなりシンプルです。まず、かなり早い段階で分かることはこういう感じです。

◯ 「感染者」に噛まれると100%感染する
◯ 「感染者」はドアの開け方を知らない(だから閉めさえすれば、鍵を掛けなくても大丈夫)
◯ 「感染者」は人が視界に入ると襲ってくる

さらに、あと一つか二つぐらい特徴的な性質が描かれるんだけど、本当にそれぐらいです。原因は何なのか、感染を防ぐ方法はないのか、みたいなことは描かれません。そういう部分を一切物語に組み込まず、ひたすら「逃げる」という部分に物語を特化したのが良かったんだろうと思います。

とにかく、一難去ってまた一難、どころの話ではありません。難難難難難難難難難難難難難難難難難難難難難難難難難難難難…って感じで、ずーーっとヤバイ状況が続きます。しかも、乗客たちには分かりやすい希望も特に与えられません。「◯◯にたどり着ければ助かる」みたいなのが何かあれば、そこまではどうにか生きよう、という風に思えるかもしれないけど、乗客たちは基本的に、どこに行けば自分たちが助かるのか分からないまま、ただ迫りくる「感染者」たちから逃げなければならないんです。これはかなり辛いだろうな、と思いました。

見ていて、あぁ、人間だなぁ、と思った場面がありました。詳しくは書きませんが、車内が二つに分裂して対立した直後の場面です。嫌な予感はありました。で、やっぱりそうなるかー、って感じになりました。その時のその人物の行動が、うまく説明できないけど、あぁ人間っぽいな、と思ったんですね。あの場面は、結構好きです。

設定と大雑把な展開は非常に単純ながら、なかなか惹きつけられる映画でした。個人的には、この映画の後が知りたいなぁ。こんなこと起こったら、韓国崩壊なんじゃないか、と。日本みたいに島国だったらともかく、韓国は陸続きだから、何がなんでも韓国で事態を終息させないと国際問題にも発展するだろうし。いやー、この後の韓国、どうなるのか気になる。「シン・ゴジラ」のその後が気になる、みたいなのに近いですね。

「新感染 ファイナル・エクスプレス」を観に行ってきました

「パーソナル・ショッパー」を観に行ってきました

正直、どこに焦点が当てっているのか、僕には分からない映画だった。

観ている時は、凄くワクワクした。僕には、今何が起こっているのか掴みにくい映画で、だからこそ、この物語がどこに着地するのか凄く興味があった。いくつもの要素が現れて消えていった。それらが最終的に一つの何かに収斂していくんだと思っていた。それを凄く期待しながら観ていた。

しかしどうやらそういう映画ではなかったようだ。少なくとも僕の主観で語れば、物語はどこにも着地しなかった。いや、恐らくしたにはしたんだろうが、僕が思い描いていたような、それまで出てきた謎めいた要素をすべて説明してくれるようなはっきりした着地ではなかった。

つまり、ある程度物語に対する読解力がないと、この映画は面白さが分からないのだろう、と思う。

正直僕にはこの映画をうまく受けとることが出来なかったから、内容については書きすぎないようにしようと思う。というのは、予告を観てイメージしていた内容と本編に大分差があったからだ。冒頭からして、かなり予想外の展開だった。役者が予告で観た通りの人だったから勘違いはしなかったが、もし主人公以外の人物が登場していたら、観る映画を間違えたと勘違いしたかもしれない。

というわけでここでは、本編の内容紹介ではなく、僕がなんとなく記憶している予告の映像から分かることのみで、本編の雰囲気を伝えようと思う。恐らくその方が、この作品をよりフラットに観ることが出来ると思うから。

主人公のモウリーンは、キーラという著名人(恐らく女優か実業家だと思う)の「パーソナル・ショッパー」を務めている。仕事は、忙しいボスの代わりに、ショップブランドから服を調達してくることだ。キーラがパーティなどで着る服をモウリーンがセレクトして届ける、そういう仕事だ。
キーラは厳しく、モウリーンが調達してきた服をモウリーンが着ることを禁じている。モウリーン自身は、いつも同じようなセーターを着て、疲れきったような表情でパリ中の、時にはロンドンのショップを周り、服を手に入れる。
ある時デザイナー(orショップオーナー)から、キーラ用の服を着てみないかと提案される。禁じられているから、と拒むモウリーン。しかしやはり誘惑には勝てず、絶対に口外しないと約束させて着てしまう。
モウリーンの、別人になりたい願望が刺激される。
パーソナル・ショッパーとして他人の服を調達し続けるだけの日々。時にMacの設定を頼まれたりと、雑用も多い。やりたいことがやれないストレスが溜まるも、他の仕事だってクソみたいであることは変わりないとも思っている。遠くの国でシステムエンジニアの仕事に従事している恋人と電話をしていても、なかなか理解し合えない。
そんな日々を過ごしていたある時、モウリーンは殺人事件に巻き込まれることになり…。
というような話です。

繰り返しますが、ここで書いた内容紹介は、予告で伝えようとしていた雰囲気のみを伝えるために、本編の内容から部分部分をセレクトして書いたものです。本編の中で、パーソナル・ショッパーとしてだけでなく、彼女はもう一つ重要な役割を担うことになるのだけど、それに関しては一切触れていない。予告では、そんな雰囲気を一切感じさせなかったからだ。実際はどんな映画なのかは自分で確かめて欲しい。

「パーソナル・ショッパー」を観に行ってきました

「君の膵臓をたべたい」を観に行ってきました

もし原作を読んでいなかったらボロ泣きしていたかもしれない―。
そんな風に思わされる映画だった。

原作の感想も載せておこう(こちら)。
僕はこの作品について、これ以上の文章が書けるとは思わないので、こちらでは、映画としてどうだったのか、という点をメインに文章を書いていこうと思う。


「日常」を生み出すものは何か―。
普段、当たり前のように「日常」の中にいる僕らは、そんなことを考えない。
海で泳いでいる魚が「海」について考えないように、僕らが普段生きている中で「空気」に意識を向けないように、僕たちは「日常」というものに殊更注意を向けない。

しかし、「日常」はあっさりと崩れていく。
たぶん、土台も基礎も何もないまま建っている建物みたいなものなんだろうと思う。普段僕たちは、建物の下に土台や基礎があるかどうかなんて気にしてない。建物が建ってるんだから土台もあるだろう、と思っているぐらいだろう。しかし、いざちょっとしたことで崩れた時、そうか土台なかったんだ、と気づくのだ。

「日常」も同じ。僕たちはそこに、土台があると思い込んでいる。あって欲しいと思っている。そんなに簡単に崩れて欲しくないし、なくなったら困る。だから土台はあるはず。僕たちはそういう思い込みの中で生きている。

でも、実際はそうじゃない。「日常」は実にあっさりと奪われていく。そういう実例を僕たちは日々ニュースなどで目にする。でも、それらを見ながらも思う。あれはテレビの向こう側の話。私の「日常」には関係ない話だ、と。

いつの間にか「日常」が壊れてしまった時、僕たちはどんな風に振る舞うことが出来るだろうか?

『君はただ一人、私に普通の毎日を与えてくれるんだから』

「日常」が奪われた少女は、「日常」に接しないと決めた少年と出会うことで、かりそめの「日常」を維持していく。それが、この作品の大雑把な要約だ。少女には「未来」がない。そして少年には「関係」がない。近いうちに確実に奪われてしまう「未来」に絶望しながらそれでも「日常」を生きようとする少女と、他人との「関係」に無関心でありながらそれでも他人の「日常」を支えようとする少年が出会い、その時その場でしか生まれ得なかった「日常」が生み出されていく。その「日常」は、僕らが普段生きている「日常」とは違う。彼らが作り上げた「日常」は、近い将来確実に崩れ去ってしまうことがわかっている「日常」だ。土台も基礎も、固い地盤もないことが、最初から分かっている。そんなところに二人は、なんとか建物を建てようとする。テントみたいな一時しのぎのものではなくて、堅牢で暖かさを感じさせるような建物を。

『君がくれる日常が、私にとっての宝物なんだ』

その「日常」は、彼らにしか生み出せなかった。残り僅かな命ながら明るく懸命に病から逃げずに生きようとする少女は、崩壊の予兆を感じさせる「日常」を拒み、病気のことは周囲に伏せた。しかし、一人だけ、崩壊の予兆を感じさせない「日常」を生み出してくれそうな人がいた。その少年は、『僕はただ、向き合おうとしていないだけだよ』と自分を卑下する。でも少女にとってその少年は、ある種の希望だった。自分の人生が、未来が、希望がもしかしたら奪われないかもしれない―そんな予感を僅かでも感じさせてくれる人だったからだ。それは、少女にとって逃避ではない。多くの人は、少女にとって避けられない悲しい未来ばかり見る。でも、その少年だけは、少女の今を見てくれる。今そこに、こうして立って笑って泣いて怒っている少女を見てくれる。その視線が、少女の崩れ去る未来の予感を塗りつぶすほどの強さを持っていたということだ。

『一番辛いはずの当人が涙を見せないのに、他の誰かが辛そうにするのはお門違いだから』

少年は、自分が他人との関係の中にいることが想像出来なかった。まったく望まなかったなどということはないかもしれない。でも、得るものより失うものの方が大きいと思って避けていた。他人との関係の中で生まれるものに、価値を見出すことが出来ていなかった。でも少年は少女と出会った。そこで知った。関係の中でしか生まれないものがあるのだ、ということを。少年には、少女のことが理解できなかった。何故自分なんかと関わりを持とうとするのか、クラスの中で最も地味な自分と一緒にいて楽しいのだろうか。でも少年は少女から、自分にも誰かに何かを与えられることを知った。そして自分も、誰かに与えられたもので涙することが出来るのだと知った。

僕はこの二人の関係を、とても陳腐な表現だが、奇跡、と言ってしまいたい。

大雑把な内容は、原作の方の感想を読んで下さい。
ただ映画は、原作とかなり違う部分があります。その点を中心に書いていきましょう。

原作は基本的に、少年と少女の学生時代の話だけでほぼ完結していました。少年がいかに少女と出会い、関わりを持ち、その死に接するのか、という部分だけに焦点が当てられていました。

映画では、少年の12年後の姿が描かれる。これは原作にない設定。教師となった少年は、去年、自分が通っていた高校に赴任することになった。少女と濃密な時間を過ごした、あの高校だ。そこで少年は、長い伝統を持つ図書館の閉鎖に伴って蔵書の整理を任されることとなった。実は、図書館の膨大な蔵書に整理番号を貼り仕分けたのは、12年前図書委員だった少年と少女だったのだ。

少年は、現図書委員の男子高生がやっている蔵書の整理を手伝いながら、少女との思い出を回想していく。少年には一つ、答えを出さなければならない問題がある。かつてのクラスメートから届いた結婚式の招待状に返事を書かなければならないのだ。出席すべきかしないべきか―。少年は、判断を保留したまま、蔵書の整理を続け、少女との回想に耽る。

原作にないこのオリジナルの設定は、素晴らしいと思いました。原作の雰囲気を壊すことなく、その世界観を未来にまで延長しています。12年という時間の重みを映画の中に組み込むことで、映画のラストで現れるとある展開の深みが変わってきます。12年という時間の流れの末にその展開があるからこそ、より彼らの経験や感情がどわっと押し寄せてくる、という構成は見事だなと思いました。

また、この映画で僕が個人的に良かったと感じたのは、高校時代を演じる役者さんたちが(少なくとも僕には)全然知らない人だと思えたことです。もしかしたら彼らは、役者の世界では期待されている若手のホープたちなのかもしれませんが、僕は全然知りませんでした。アイドルとか知名度の高い若手俳優を起用するんじゃなくて、(恐らく)一般的にもさほどメジャーではないだろう若手俳優を起用することで、作品をフラットに見ることが出来たなと思います。俳優のセレクトが違ったら、映画を見た感想も大きく違っていたかもしれません。

もしかしたら、原作と映画で設定が変わっていたのも、その辺りに理由があるのかもしれない、と思いました。これは完全な邪推で根拠はありませんが、アイドルとかを起用しないでくれというのは原作者の希望だったのではないかな、と。なるべく色の付いていない俳優にしてほしい、と。しかしそれだと、興行的には厳しくなる可能性がある。だから、大人になった時代の話も組み込んで、小栗旬や北川景子などの人気俳優を登場させた、ということなのかな、と思ってしまいました。仮にそうだとしても、映画に対する評価はまったく変わりませんが。

主演の女の子は凄く良かったです。この作品で求められるのは、「誰からも人気のあるクラスの中心人物で、誰にも分け隔てなく話し、辛い病気と闘いながら前向きで、それでいて哀しさが表にまったく出ないわけではない」という、なかなか難しい女の子像だと僕は思っています。そして主演の女の子はこの難しい役をかなり見事に演じていたように僕は感じました。凄く明るいんだけど、その明るさはヒマワリみたいなピカーンみたいな感じじゃなくて、スミレとかそういう大人しめの花のような感じ。だから、普段元気に振る舞っていても、ちょっとした瞬間に些細な仕草や表情で哀しみも表すことが出来る。そこが凄く良かったな、と思いました。

映画を見ながら、どの瞬間に、ということもなく、いつの間にか涙がせり上がってくるのを感じました。原作を読んでいて、その後の展開が分かっていたので、それもあって泣く所まではいかなかったのだけど、本当に原作を読んでいなかったら泣いていたと思います。原作がバカ売れした作品の映画化って、勝手ながら大コケするようなイメージがあったんだけど、この映画に関しては映画化は完璧だったと思います。原作ファンの方も、是非見てほしいなと思います。

「君の膵臓をたべたい」を観に行ってきました

「GOLD」を観に行ってきました

『カネには興味はない。金(ゴールド)に執着してた』

これは、分かるなぁ、と思った。

お金にまったく興味がないと言えば、それは嘘になるけど、人並み以下の興味しかないと自分では思っている。とりあえず僕は、衣食住にさほど興味がなく、日常的な生活にさほどお金が掛からない。お金の掛かる娯楽にも手を出していない。結婚もしていない。僕としては、お金がないせいで今の生活が維持できない、というような状況にさえならなければ、それ以上お金に関して特別望むことはない。

それよりも、お金では手に入らないものの方にやはり価値を感じる。

そんなもの、今の世の中にあるのか?と思う人もいるかもしれない。でも、僕はそれをイメージ出来る。

例えば「冒険」だ。確かに冒険をするためには、ある程度のお金がいることは確かだ。しかし、お金があれば冒険になるわけではない。このさきにはもう進めないかもしれないという判断や自然の変化を読み解く力、困難な状況を乗り越える勇気などがなければ、冒険にはならない。冒険は、お金で買えないものだと思う。

僕は、人間の能力も、お金では買えないと思っている。もちろん、大金を費やすことで能力を得やすい環境を手に入れることは出来るかもしれない。でも、僕が欲しい能力は、たぶんお金ではどうにもならない。僕は生まれ変わったら数学者か将棋指しになりたいと思っている。数学史上に残る難問を解く力や、大逆転をもたらす一手を導く力などは、どれだけ億万長者になろうとも手に入れることは出来ないだろう。

どれだけ資本主義が発達しようとも、お金では絶対に手に入れることが出来ないものというのは存在する。お金で手に入る、ということは、裏を返せば、頑張れば手に入る、という意味だ。しかし、お金で手に入れることが出来ないものというのは、無理な人にはどう頑張っても手に入れることが出来ないものだ。どちらにより大きな価値があるのかは明白だろう。

お金というのは結局、既に誰かが知っている世界を手に入れるための手段でしかない。お金で交換できる価値というのは、つまりはそういうことだ。交換レートが設定され、交換する場が既に存在している、ということだ。お金というのは結局、そういうものとの交換の役にしか立たないのだ。誰も知らない価値を手に入れようとしたら、お金は無力だ。

まあこんなことを言うと、貧乏人の負け惜しみにしか思われないんだろうけどなぁ。

内容に入ろうと思います。
ケニーは、祖父が興し、父が大きくしたワショー社を受け継いだ。鉱山を見つけ発掘するのを生業とする会社だ。しかしワショー社は廃業寸前まで追い込まれる。株価は4セントまで下がり、ケニーが語る儲け話に乗る人間はほとんどいない。ケニーは完全に追い詰められていた。
ケニーが思い出したのは、マイク・アコスタという男の名前だ。マイクはかつて、自ら打ち立てた理論によって銅山を発見した。彼女にプレゼントした金の腕時計を質屋に入れて旅費を作ると、ケニーはマイクに会いに飛んだ。
業界では彼の理論はほら話だと受け取られている、と語るマイクの話を聞きもせず、ケニーは自らの熱量をマイクにぶつける。掘りたい場所があるなら掘れ。金は俺が用意する。
こうして、インドネシアでの金鉱発掘のプロジェクトが立ち上がるのだが…。
というような話です。

「170億円(億ドルだったかな?)が一瞬で消えた」みたいなコピーがポスターにあって、面白そうだなと思って見てみました。あ、実話を基にした話だそうです。でも、なかなか予想外の展開になって、すげぇなこれが実話なのか、という感じで見ていました。

たぶんストーリーの展開が映画の肝なので、あまり詳しく書きすぎないようにしようと思うのだけど、とにかくアップダウンを繰り返す、なかなかの波乱万丈記という感じです。ケニーはどん底まで追い詰められるも、マイクを仲間に引き入れ一発当てようと目論みます。『俺達が売るのは儲け話、つまりあんただ』とマイクに言うように、かつて銅山を当てたマイクに対する期待の高さから金を集めるケニーは、心底からマイクの力を信じてすべてを託します。

しかし、発掘はなかなかうまく行かない。理由の一つは金が尽きかけているからですが、もう一つ、現地労働者が去ってしまう、というトラブルもありました。この状況をどう脱するか―そこでマイクが取った行動は、なかなか良かったなと思います。必要なものを必要な場所に届ける、ということの大事さを感じさせられたエピソードでした。

その後の狂乱は、ここでは書かないでおくことにしましょう。ケニーは、非常に分かりやすい成功を収めるけど…というような展開になっていきます。なかなか壮大な話で、もう一度書くけど、これが実話なんだなぁ、という感じで見ていました。

あまり深さはないけど、エンタメ作品としてはなかなか面白い映画だったかなと思います。

「GOLD」を観に行ってきました

「人生タクシー」を観に行ってきました

そこまでつまらなかった、というわけではないのだけど、結果的に途中で寝てしまった。だから、映画全体をちゃんと見れていない。

この映画は、イランの有名(らしい)なパナヒという映画監督による作品です。「作品です」と書いたのは、これがフィクションなのかドキュメンタリーなのか、僕にはイマイチ判断できなかったからです。

まずは全体の設定を書いておきましょう。
パナヒ自身がイランで、タクシードライバーをしている。町中で色んな人を乗せ、下ろす。その様子を、車内に取り付けた何台かのカメラで切り取っていく。という映画です。

なんでそんなやり方で映画を撮ろうとしたのか。それは、パナヒがイラン当局から映画撮影を禁じられているから、だそうです。どうして禁じられたのかは、映画を見ている分には分かりませんでしたが、作中に登場するパナヒの姪が、「イランで上映可能な映画の条件」について語っている場面がありました。「女性はスカーフを巻いている」「男女が交わらない」などなど色んなルールがあり、恐らくパナヒはそのいずれかに抵触したのでしょう。

これだけであれば、なるほどルールの網をかいくぐって面白いやり方でドキュメンタリーを撮ったのだろう、と思うでしょう。しかし作品を観ていると、単純にそうとも思えないのです。

というのも、作品の中で色んなことが起こりすぎるからです。

基本的にこの作品は、とある一日の情景として切り取られます。まず最初に、ちょっと強面の男性とスカーフを巻いた女性を乗せ、二人が「軽い罪で死刑にしたがる現状」について議論します。そこから色んな人を乗せながら話が展開していくんですけど、ホントにこれ実際に起こった話なのかな、と思ってしまうような展開もあります。

その最たるものが、交通事故にあった男性を病院まで搬送する場面です。まあもちろん、そういうこともあり得るでしょうけど、パナヒという映画監督が運転しているタクシーにたまたまそんなことが起こるもんだろうか、と思ってしまいました。

その後やってきた、金魚を抱えた二人組の女性もおかしかったし、そんなことを言ったら冒頭に出てきた強面の男性もちょっと変です。これが、何日かに渡って起こった出来事を編集で繋いだ映像なら、全然理解できるんです。でもこの作品は明らかに、一日に起こった出来事として記録されています。だから、「人生タクシー」の中で起こる出来事にはすべて脚本があって、つまりフィクションである、という考え方も出来るだろうな、と思います。

この映画について何か調べたりはしていないので、実際のところどうなのか分からないのだけど、フィクションであるにせよドキュメンタリーであるにせよ、試みとしてはとても面白いと思いました。

作品の中で、学校で短編映画を撮らないといけない、と語る男が出てきます。有名な古典映画はほぼ観たし、今は映画や本を読んで題材を探しているのだけどなかなか見つからない、という話をパナヒにします。それに対して彼はこう答えます。

『映画はすでに撮られ、本はすでに書かれている。他を探した方がいい』

これは、短いながらも実に的確で示唆に富むアドバイスだな、と思いました。確かにその通りだなと思いました。またこれは、映画撮影をまさに今禁じられている自分自身の体験から来るものだろう、という感じもしました。「映画を撮る」という枠組みを外れたところでしか映画を作れない身として何が出来るのか―その思考の果てに、タクシードライバーになる、という形を思いついたのではないか、と思うので、彼自身の実感のこもった言葉として聞くことが出来ました。

さて最後に。この映画の冒頭(という表現は正しくないですが)にはちょっとびっくりしました。突然、日本人による映像が流れ始めたんです。正直、何が始まったのか、さっぱり理解できませんでした。

最初は、とある映像編集会社にカメラを持った映画監督(最後に、森達也だと分かります)が入っていきます。カメラを持った映画監督は、どうも映画撮影を禁じられているそう。そこで彼は、「映画を撮る」のではなく「映像を編集する」という抜け道を探ります。つまり、過去に撮った映像を編集するのであれば、「映画を撮る」からは外れられるのではないか―「映画」と「映像」の論争をするような、ショートフィルムという感じでした。

そしてその後、また監督は代わります(名前は忘れました)。彼は、「もし自分が映画の撮影を禁じられたとして、それでも撮りたいと思うものは何か?」と考え、「息子しか思いつかなかった」と語ります。そして、生後1年ほどの息子を撮影した映像がしばらく続いていきます。

そしてその後に「人生タクシー」が始まる、という構成だったんですけど、イマイチ冒頭の二つの短い作品の存在意義が理解できなかったなぁ、と思いました。

「人生タクシー」を観に行ってきました

「光」を観に行ってきました

喪失は、持っているからこそ感じる。
持っていないものを、失うことは出来ない。

『消えてなくなってしまうものにこそ美しさがある』

確かにその通りなのだろうとは思う。でもそれを「美しい」と感じられるのは、それが元々自分のものではない場合だけだろう。

自分のものであれば「消える」とはなかなか表現しない。「失う」となるだろう。「消える」と表現できるものは、元々自分のものではなかったのだ。だから「美しさ」を感じることが出来る。

あるいは、失ったものにも、「美しさ」を感じることは出来るものだろうか?

失いたくないから、何も持ちたくないと思ってしまう。
どうも昔からそう思うことが僕にとっては普通だった。
モノも人も概念も、あまり持ちたくない。
いずれそれらは、失われてしまうと思っているから。
その喪失に、自分が耐えられる気がしないから。

目が見えない人にも、色んな方がいる。
生まれた時から見えなかった人もいれば、途中から見えなくなった人もいる。
僕にはどちらの気持ちも分からない。
恐らく、両方の気持ちを同時に理解できる人はまずいないだろう。
その上で、こんなことを考えてしまう。
どっちの方が、よりダメージは少ないだろうか、と。

「喪失」という意味で言えば、生まれた時から見えなかった人は何も失っていないかもしれない。初めから持っていなかったのだから。
けれど、最初から見えない場合、「想像する」というのはどういう行為になるのか。
見えていた記憶がある人は、過去に見たものや見たものからの類推で「想像する」ことは出来るかもしれない。
しかし「見た」という記憶がない人は、一体何を想像しているのだろうか?

何に「美しさ」を感じるのだろうか?

内容に入ろうと思います。
視覚障害者向けに、映画の音声ガイドの文章を作る仕事をしている尾崎美佐子は、日々目に映るものを音声ガイドのように切り取っていく。モニター会で自分の考えたガイド文を映画に当てはめながら朗読する。そのモニターの中に、中森雅哉がいた。モニター会で、美佐子に厳しい意見を言った人だ。上司に見せてもらった写真集で、中森がかつて名の知られた写真家だったことを知る。
中森は、僅かに視野が残っている。公園で彼を見かけた時、美佐子は中森の手に二眼レフカメラを認めた。今もまだ、カメラを手放さないでいるらしい。
届け物をしたことをきっかけに中森の部屋に上がることになった美佐子。少しずつ、中森雅哉という人物の内側に触れていく。
美佐子には年老いた母がいる。認知症だ。面倒を見てくれる人がいて、すべてその人に任せきりにしてしまっている。時々顔を見せに行くが、母が何を見ているのか、美佐子には分からない。
中森は久々に、かつてのカメラマン仲間と飲みに出かける。「もう撮らないんですか―」そんな言葉にも、笑って返答する。その帰り道、吐瀉物に滑って転んだ中森は、地面に転がった二眼レフカメラが誰かに持ち去られたことに気付く…。
というような話です。

なかなか素敵な映画でした。たぶん色んな見方が出来る映画で、見る人によってどこに感じ入るかが変わってくるんだろう、という感じがしました。

僕はやはり、冒頭でも書いた「喪失」という部分に一番惹かれました。視力を失った写真家がどう生きるのか。

『一番大事なものを捨てなきゃいけないなんて辛すぎる』

という言葉は、想像するだけでも辛い現実を切り取るものだと思います。

また「喪失」は、記憶の喪失という形でも出てきます。美佐子の母もそうですが、美佐子が音声ガイドを付ける短編映画でも、認知症を患った妻とそれを介護する夫の物語となっている。この短編映画は、「光」本編のエンドロールの後に流れる。こちらの映画も、「光」以上に文学的という感じで、「喪失」とそれに抗うことを止めた者の緩やかな時間が描かれていると感じました。

『映画の音声ガイドは、彼ら(視覚障害者)の想像力を理解すること』

なるほど、と思うと同時に、それは激しく困難だ、とも感じました。目の見える人間が、目の見えない人間の想像力を想像する。そんなことが出来るのだろうか?

ただ、なるほどと思わされるセリフがあった。

『私たちは映画を観ている時、いつの間にか映画の中にいる』

僕たちにとって「映画を観る」というのは、「スクリーンを見る」というのと同じだろう。しかし視覚障害者にとっては、「映画の世界の中に入っている状態」なのだという。

『映画は私たちにとって、とても大きな世界なの。その大きな世界を言葉で小さくしてしまうこと程、残念なことはない』

なかなか厳しい言い方だが、非常に的確で分かりやすい表現だと感じた。

映画を観ていて感じたことは、登場人物たちが「セリフを喋っている」ような感じが全然しなかったことだ。主演の永瀬正敏と水崎綾女の二人はともかくとして、そうじゃない人たちは皆、映画の撮影などということとは関係なしに、普通に喋っているように見えた。特にそれを感じたのが、モニター会のシーンだ。本当に、実在するモニター会を見ているような感じがした。あのモニター会にいた人たちが本物の役者なのか、あるいはそうでないのか僕には分からなかったが、あの雰囲気を「演技」によって生み出しているとしたら、ちょっと凄まじいな、と感じた。

ちゃんと映画全体を捉えきれたか自信はないけど、なかなか素敵な映画だったと思います。

「光」を観に行ってきました

「銀魂」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
江戸末期、「天人(あまんと)」と呼ばれる宇宙人の侵略により衰退の一途を辿る町では、廃刀令の影響もあり侍の生きづらい世の中になった。かぶき町で「万事屋銀ちゃん」を営む坂田銀時は、志村新八と神楽と共に、泰平の世を穏やかに過ごしている。町の治安を取り締まる新撰組の面々も、将軍のペットであるカブトムシを探すのに駆り出されるほど平和な日々だ。
しかし最近、夜毎辻斬りが現れるという噂が立つ。そんな折、かつて銀時と共に最後まで「天人」に抵抗した攘夷志士である桂小太郎の行方がわからなくなる。同じタイミングで銀時は鍛冶屋から、紅桜という名の妖刀に関する依頼を受ける。その二つが、同じくかつての仲間である高杉晋助の挙兵と関わりがあると分かり…。
というような話です。

原作をまったく読んだことがないですけど、概ね面白く観れたかな、という感じはします。全体のストーリーはともかく、ちょいちょい挟まれるギャグっぽい感じの要素は、なかなかチャレンジングなものが多くて面白かったです。「新撰組に、お任せあ~れ」っていう、何かのCMをパクったようなやつとか、「CDTV」モロパクリのやつとか、大丈夫かな?っていうのもぶっこんできてて、チャレンジングだなと。一番凄いなと思ったのは、日本人なら誰もが知っているあのアニメを彷彿とさせるネタでしたけど。いや、チャレンジングだなぁ。

あと個人的には、菅田将暉がやっぱ凄いなと思いました。菅田将暉が出てる、っていう情報をあらかじめ聞いてたので、ホントだ菅田将暉だ、って思えましたけど、もし知らないで観てたら、冒頭の喫茶店のレジ打ちをしていたのが菅田将暉だって、まず気づかなかったでしょうね。菅田将暉については、何かの映画を観た時にひとしきり論じた記憶がありますけど、本当に溶け込むというか、「菅田将暉という存在感」を見事に消すな、と思います。木村拓哉が何の役をやっても木村拓哉にしか見えない、というのと真逆のパターンですね。何の役をやってても菅田将暉に見えない、という凄さが、菅田将暉にはあるなと感じます。それでいて、名脇役みたいな役者ではなくて、主役だって張れる人なわけで、そこが凄いと思います。なんであんなに、菅田将暉としての存在感を消せるんだろう。不思議。

原作ファン曰く、配役がイメージ通りらしく、きっと原作ファンにはもっと楽しめる要素が満載なんだろうなと思います。

「銀魂」を観に行ってきました

「ライフ」を観に行ってきました

確かにそういうこともあり得るよな、と思った。
地球外生命体とのコンタクトを扱ったSF作品はきっと多いだろう。僕自身はそこまでそういう小説を読んだり映画を見たりすることはないが、様々な物語がそういう題材を取り上げているはずだ。
そして、僕の勝手なイメージでは、そういう作品は、「いかにコンタクトを取るか」、つまり「いかにコミュニケーションを取るか」がメインで描かれているようなイメージがある。

ただこの作品は、そうではない。地球外生命体に意志やコミュニケーション能力などがあるかどうかに関わらず、それと相対する羽目になる者たちを描く。

確かに、それはあり得る話だと思う。

地球外生命体を「コミュニケーションを取ることが出来る相手だ」という前提を持って接することは、科学者の態度としては恐らくあり得ないだろうが、僕ら一般人の感覚としては十分にありえる。地球外生命体も、姿形は地球人と違うかもしれないが、そこまで大きくかけ離れた姿はしておらず(いわゆる「火星人」としてよくイメージで登場する姿も、全体としては「ヒト」の形に似ている)、言語体系もまるで違うだろうが何らかの形でコミュニケーションが取れるはずだ、と思いたくなってしまうだろう。

しかし、そうである保証はどこにもない。

それが「敵意」であるかどうかは別として、その地球外生命体が地球人とのコミュニケーションを拒絶する可能性は常にある。物凄く簡単に言えば、地球外生命体から見て地球人が「食料」に見えてしまえば、コミュニケーションなど成り立つはずはないだろう。

そうであった場合、地球人はどう行動すべきか。
この映画では、まさにその点が問われているのだ。

内容に入ろうと思います。
ISS(国際宇宙ステーション)を拠点に、火星ピルグリム7計画に従事する6人の宇宙飛行士は、宇宙ゴミの衝突というトラブルに直面しつつも、当初のミッションである<火星から物質を持ち帰る>というミッションを成功させた。
その中に、ミドリムシのような、顕微鏡でしか見られない大きさの生命体を発見した。当初死んでいると思われたが、ラボで環境の変化を与えることで蘇生、初の<地球外生命体>の発見となった。地球では大ニュースとして報じられ、やがて<カルビン>と名付けられたその生命体を、宇宙生物学者であるヒューは実に可愛がっていた。
やがて成長し、肉眼でも見られる大きさになったが、ヒューのミスによってラボの酸素濃度が低下、それがきっかけで<カルビン>は動かなくなってしまった。冬眠に入ったと仮説を立て、なんとか起こそうと手を尽くしたところ、電気ショックを与えることで動き出した。しかし、ラボにいるヒューの様子がおかしい。どうやら<カルビン>がヒューの手に巻き付き、さらに怖ろしい力で締め上げているようだ。助けに行こうとする航宙エンジニアであるローリーを、検疫官のミランダが止める。彼女の任務は「隔離」。最悪の事態を常に想定し、謎の地球外生命体を「隔離」する環境を維持することが仕事だ。状況の変化を見て取ったローリーがラボに入りヒューを救うが、逆にローリーが囚われ、命を落とすことになった。
そのままラボ内に隔離できるはずだったが、想定外の状況変化により<カルビン>はラボから脱出、船内のどこかに潜んでいる。船長のキャット、システムエンジニアのショウ、ISSに長期滞在している医師であるデビッドを含めた乗組員で、この未曾有の危機に対応しようとするが…。
というような話です。

いやはや、凄い話だったなぁ。とにかく途中から、ビクビクしっぱなしでした。そんなに怖いもの耐性がない人間ではないと思うんだけど、この映画はメチャクチャ怖かったです。あぁ、もうとにかく止めて、ってずっと思ってました。宇宙空間でも生存出来る最強の地球外生命体が、脱出不可能な船内にいる、という状況が、当事者じゃないのにメチャクチャ怖かったです。

こういう映画って、セオリーで考えれば、最終的に「何らかの倒す方法」があって、どうにか対処する、っていうのが多い気がするんだけど、この映画では最初から、<カルビン>の弱点みたいなものは描かれません。宇宙物理学者であるヒューでさえその生態が理解できないのだから、弱点もそもそも理解できていないだけという状況なのだけど、映画の文法で言えば、登場しない「弱点」を衝いて倒す、という流れはあり得ないわけで、だからこの映画は、<カルビン>を倒す方向には進んでいかないんだろう、と予想できました。

じゃあどうすべきなのか。これは、予告の段階である程度出ていたから書いてもいいと思うんだけど、「いかに地球に<カルビン>を連れて行かないか」ということが大きなミッションになっていきます。彼らはほぼ全員が、自分たちが助かることはないと理解しているだろうと思います。なにせ、何をやったって死なないのだし、状況から船内への侵入口をすべて封鎖することも出来ない。正直言って、為す術がないわけです(まったくないわけではなさそうだけど、殺せるわけではない)。ただ、<カルビン>を地球から引き離すことはまだ可能性が残っている。そのために何が出来るのかを全員が考える。

その状況がとにかく壮絶だなと思います。宇宙飛行士を志願している時点で当然、何らかの形で命を落とす可能性を覚悟しているはずだろうけど、しかしあまりにも予想外過ぎる危機でしょう。命を落とす覚悟を持っていたとしても、あの化物に殺されるのは嫌だよなぁと思います。

そしてラスト。はー、そうなりますかー、という感じで、衝撃的でした。あまり詳しく書けないのが残念ですが。

深く何かを示唆するような映画では全然ないのだけど、パニックモノの映画としては物凄く恐怖を駆り立てる、非常に印象的な映画でした。

「ライフ」を観に行ってきました

「ハクソー・リッジ」を観に行ってきました

今まで観た戦争映画で、二番目に酷かった。
映画の出来ではなく、戦争の悲惨さの描き方が。

一番酷いと感じたのは、「野火」だ。「野火」では、日本兵は敵に撃たれて死ぬのではない。飢餓、自殺で死ぬ。そこには、戦場における圧倒的な「虚しさ」があった。戦場を描かずに、これほど戦争の悲惨さを描き出せるものなのかと驚嘆した。

「ハクソー・リッジ」では、第二次世界大戦で最も過酷な戦場の一つと言われた、沖縄の前田高地が舞台だ。米軍はここを「ハクソー・リッジ(のこぎり崖)」と呼んだ。
ここでの戦闘は、悲惨としか言いようがない。もちろん僕は、戦場を体験したことがない。「ハクソー・リッジ」での戦いがどれだけ悲惨だったのか、比較する対象を持っていない。けれど、これだけの接近戦で、敵味方が入り混じり、あっさりと人が死んでいく様は、あまりに悲惨としか言いようがない。

そんな酸鼻を極める戦場で、人は自らの信念をこうも貫けるものだろうか。

『でも、信念を曲げたら、僕は生きていけない』

その気持ちは、分かるような気がする。僕自身も、どちらかと言えば、自分が「No」と感じたことに対する態度は貫きたいと考える方だ。

例えば、経験はないし、この映画で描かれる現実と比較するのに相応しくない話なのだが、信念を貫くという意味で、僕は痴漢の冤罪を連想する。

自分が痴漢をしているのであれば、相応の罰を受けるのは当然で甘受するしかない。しかし、自分が痴漢をしていない場合、やはりそれを認めるわけにはいかない。しかし、現実はなかなか厳しい。仮に痴漢を行っていなかったとしても、それを現場あるいは警察署で証明できなければ、いくら無罪を主張してもほとんど裁判に掛けられる。そして裁判になれば、ほぼ有罪だ。判決が出る前から、会社をクビになったり、世間から非難されたりする。痴漢冤罪を立証する手立てはほぼない(まったくないわけではないが、怖ろしい手間と労力と期間が掛かるし、確実に立証できるわけでもない)。

一方で、痴漢をしていなくてもしたと認めれば、若干の罰金だけで解放される。前科が付くわけでもない(たぶん)だし、痴漢(の冤罪)で拘束されていたことを知られることもほとんどない(身元引受人を指定しなければいけないだろうから、まったく知られないということはないだろうが)。結果だけ見れば、痴漢をしていなくてもしたと認めてしまう方が、実害は少ない。

しかしそれでも僕は、自分が痴漢をしていないのであれば、してないと言い張りたいと思う。

繰り返すが、これはこの映画の現実と比較してあまりにも小さな話だが(痴漢冤罪で苦しんでいる人を貶める意図はない)、信念を貫くという意味では共通するものがある。これは、自分がどう生きるかという話であり、何を守るのかという話である。

『人の信念を変えることなど、戦争にだって出来やしない』

信念を貫くことは、困難だ。特にその信念が、時代の流れと大きく異なる場合には。それでも、不可能なわけではない。そして何よりも凄まじいことは、彼が信念を貫くことで、奇跡を成し遂げたということだ。

『痩せっぽっちの臆病者だと思ってた。でも、誰にも出来ないことをやってのけたな。人生最大の勘違いだった。俺を許して欲しい』

武器を持たずに戦場を駆け回った男が、武器を持って戦った男からこう声を掛けられる。それがどれほど凄まじいことか。

『お前なしでは戦えない』

武器を持たない彼なしでは戦えない。それだけの成果を、彼は成し得たのだ。

『でも、お前の信念は本物だと信じている』

信念を貫くことで、命を落としたり不遇の人生を歩んだ者も数多くいるだろう。そういう人間の話は、あまり表に出てこないかもしれない。だから、殊更に「信念を貫くこと」の凄さを訴えるだけではダメだろうという気持ちはある。しかし、たとえ信念を貫くことで何かを失ったとしても、信念を貫くことでしか成し得ないこともある。そう信じさせてくれる映画であることは間違いないと思う。

内容に入ろうと思います。
デズモンドは、信心深いキリスト教徒の家で育った。「第六戒 汝、殺すなかれ」というのが最も大事な戒律だと教え込まれた。デズモンドは、病院で知り合ったドロシーに惹かれ、付き合うようになるが、親の反対を押し切って入隊する決意を固めたデズモンドに対し、怒りを見せながらも、プロポーズしないつもり?と詰め寄った。
入隊したデズモンドは、早速訓練をすることになるが、銃を撃つ訓練で問題が起こった。デズモンドは、「銃を持つことが出来ないのです」と言って、上官の命令を断ったのだ。入隊時デズモンドは、銃を持つことが出来ないという話をし、「良心的兵役拒否者」とされていた。しかし上官は、「ここにいる限り俺の命令に従え」というスタンス。隊全体でも、規則としてデズモンドに無理やり銃を持たせることは出来ないが、しかしそれでは隊全体の規律が乱れるし、お互いの命にとっても危ないからと、デズモンドを除隊させようとする。しかしデズモンドは、人を殺すためではなく人を救うために自ら志願したのだ、という強い気持ちを捨てず、あらゆる状況に耐え続けた。
そして、様々な人間の尽力もあって、デズモンドは武器を持たずに衛生兵として戦場に行くことを認められたのだ。
ハクソー・リッジ。切り立った崖に設置されたロープを這い上がり、その上で死闘が繰り広げられる。武器を持たないまま、勇敢に戦場を駆け回るデズモンド。負傷者は次から次へと現れる。もう無理だ、という状況で米軍は撤退を余儀なくされるが…。
というような話です。

凄まじかった。今年観た映画では、「パッセンジャー」を超えるものはないと思っていたけど、匹敵する映画が現れた。正直、まったくタイプの違う映画で、単純には比較出来ないのだけど、とにかく凄まじかった。

まずは、やはりこれが実話であるということの衝撃がハンパではない。デズモンドの最も凄まじい功績は、内容紹介では触れなかった。この感想の中では、触れるつもりはない。映画を観て、その凄さを感じて欲しいからだ。

映画を観ながらずっと、「いや、ありえないだろ」と思い続けていた。そんなこと出来る人間がいるのか、と。

『「正気なら、武器を持って戦え」
「なら正気じゃなくていい」』

戦場である兵士と交わした会話だが、この言葉通り、デズモンドは明らかに正気ではない。武器を持たずに戦場を駆け回る、というだけでも常軌を逸しているのに、それどころの騒ぎではない。はっきり言って、「よく生きてたな」という感じなのだ。既に引用したが、『誰にも出来ないことをやってのけたな』という言葉は、まさに言葉通りだ。信じられない。

前半では、デズモンドが仲間の兵士や上官から散々な扱われ方をする場面が描かれていく。デズモンドの功績を仮に知らなかったとしても、彼らの行いはちょっと酷すぎる。とはいえ、彼らがデズモンドをどうにか除隊させようとした気持ちは、理解できなくもない。

軍隊にいた経験はないが、自分の命を仲間や上官に預けるようなことをしなければならないのだ。全員が同じルールの中で、信頼し合える関係を作らなければ、他人に命を預けることなど怖くて出来ない。上官もデズモンドに、ここにいる者たち全員の命の問題なのだ、と語りかける。確かにその通りだ。後にデズモンドが成し遂げた功績を知る前であれば、彼らの行いはともかく、彼らの判断が間違っていたとは思いにくい。

しかし、そんな風に扱っていた彼らが全員、最後の戦闘でデズモンドを待った。デズモンドの信念を本物だと認め、彼がそうしなければならないと信じることをするための時間を、全員が許容したのだ。素晴らしいシーンだった。

あと、詳しくは書かないが、デズモンドの父の行動も実に良かった。ダメな親父になっていたが、彼にも、貫くべき信念があり、それをデズモンドが引き出した、というところが見事だった。

映画の話で言えば、戦闘シーンが凄かった。もちろん僕は、本物の戦場なんて知らないのだけど、本当に自分がその場にいるかのような感覚を何度も味わわされた。絶対に自分に銃弾が飛んでこないことが分かっていても、怖すぎるのだ。そんな中、もちろん銃を持って戦っている者も凄いと思うが、銃も持たずに負傷兵を救い続けるデズモンドの勇気には、改めて感動させられる。

確かにこの映画は、戦争の悲惨さを見事に描き出す戦争映画だ。しかし、ただそれだけの作品として見るのはダメだ。ダメだ、という強い言葉を使ったが、ダメなのだ。そうではなく、どんな状況でも信念を貫き通すことの意味を教えてくれる作品なのだ。真の勇気とは何か、真の成果とは何か。そういうことを見失いがちな世の中を生きる僕たちを、忘れるな、と諭してくれる作品だ。

「ハクソー・リッジ」を観に行ってきました

「アンチポルノ」を観に行ってきました

園子温の映画はなるべく見ようと思っているので観た。
園子温の映画、全部好きというわけでもないし、むしろよく分からない作品の方が多いのだけど、なんとなく。

今回は、よく分からない方の映画だった。なんだこりゃ?という感じだった。狂気が永遠に連続していく映画で、その狂気の感じは嫌いじゃないんだけど、いかんせん物語の輪郭がまるで掴めなかった。歌詞には共感できるけど曲についていけない音楽、みたいな感じだろうか。

別に映画だかたと言って、主張やテーマや物語がなきゃダメだ、なんて思っているわけでは決してないんだけど、とにかくこの映画は、よくわからなかったとしか言いようがないなぁ。

「アンチポルノ」を観に行ってきました

「スプリット」を観に行ってきました

「解離性同一性障害(DID)」というのは、本当に不思議だ。映画の中では、ある人格の時だけコレステロール値が上がり糖尿病の症状が出る。またある人格の時だけ蜂アレルギーが発症する、という。映画の中で言っていただけだから、実際にどうかは分からないのだけど、昔読んだ本の中にもそういう類の記述があったような記憶がある。

映画の中では、解離性同一性障害患者を診るフレッチャー医師が、自らの主張、つまり、解離性同一性障害という症状が実在するのだという主張が学会で認められない、という状況が描かれる。その方面には詳しくないから、医学界の中で解離性同一性障害がどういう扱いをされているのか分からないのだけど、その実在を疑う者もいるのだろう。

とりあえず、この感想の中では、解離性同一性障害が実在する、ということを前提にしながら文章を書いていこうと思う。

何故解離性同一性障害が発症するのかは、多くの場合、幼少期の虐待にあるだろう。虐待を受けているのは自分ではない、という逃避によって、主人格とは違う人格が生まれる。やがて、それらの人格を統合したり、人格同士の争いから別の人格が生まれたりという形で、どんどん人格が増えていくのだろう(この辺りのことは、この映画では特に描かれない。僕が昔読んだ本の知識から、恐らくそうだろうというようなことを書いただけだ)。

しかし、人格が変わると糖尿病を発症する、というのが本当であれば、一体どういうことになるのだろうか?「人格の変化」が、「脳内の電流の変化」であるとするならば、「脳内の電流の変化」が「各臓器の機能の変化」をもたらしているということになるだろう。であった場合、「各臓器の機能」というのはただの「反応」であって、臓器そのものに依存するわけではない、ということになるのだろうか。

もしこの、「各臓器の機能が臓器そのものに依存しない」という解釈が正しければ、一つ面白い捉え方が出来る。それは、各臓器の機能(つまり「反応」)をすべて最大限に引き上げる人格、というものを想定することが出来る、ということだ。各臓器の機能が脳の変化、つまり人格の変化に依存するのであれば、各臓器の機能をすべて最大値まで引き上げる人格、というものを考えることが出来る。

「火事場のクソ力」という言葉がある。危機に瀕した時、普段の自分からは想像も出来ないような力が出せることを言う。つまりこれは、人間は普段、自分の臓器(人間のすべてのパーツ)の機能を最大限に使っているわけではない、ということを意味する。普段は色んなパーツの機能を50%程度に使っていて、何かあった時にはその機能を高めることが出来る、というようになっているのだろう。

つまり、人間の各パーツには、機能的にまだのびしろがあるということになる。

そののびしろを、普段から出力することが出来れば…。

なるほど、この発想は実に面白いと僕には感じられた。

内容に入ろうと思います。
クレアとその友人は、学校で問題ばかり起こしているケイシーに声を掛け、父親の車で家まで送ってあげることにした。しかし、父親は何者かに眠らされ、謎の男が三人の少女を連れ去った。
男は地下室に三人を押し込め、その内の一人に乱暴しようとしたが、なんとか抵抗した。クレアは三人で力を合わせてあの男を倒そうと持ちかけるが、冷静なケイシーはその提案を蹴る。状況も目的も分からない。情報が圧倒的に足りないからだ。
その後彼女たちは驚くべき光景を目にする。自分たちを誘拐した男が、まったく別の声色(一方は女性の声)で会話をしていたのだ。その後も、9歳だと主張する男の子が出てきたりする。
どうやら彼は、多重人格のようだ。ケイシーは、その状況を冷静に見極め、脱出に必要な計算を咄嗟にするが、なかなかうまく行かない。
一方で、バリー(誘拐犯の人格の一つ)から「すぐに話したい」と頻繁に連絡をもらう、彼ら(主人格をケビンとする23の人格)を診るフレッチャー医師は、バリーだと言って自分のところにやってくる彼に違和感を覚える。彼はきっとバリーではなく、別人格がばりーを名乗っているのだ、と。フレッチャー医師は、彼らの間に何が起こっているのかを知ろうとするが…。
というような話です。

これほど、どんな風に展開するのか想像出来ない映画は久しぶりでした。「多重人格者が女性三人を誘拐した」という事実は早々に分かるものの、それ以外の状況がまるで理解できない。それは、誘拐されてきた彼女たちにしても同じだ。入れ替わり立ち代わり別人としか思えない人格で接してきて、しかも「ビーストがやってくる」などと意味不明なことを口にする。彼女たちを乱暴に扱ったのは最初だけで、以降は彼女たちが反抗的な態度を取らない限りは乱暴はしなかった。彼女たちを「聖なる食料」にするのだというが、その意味も分からない。

意味が分からないのは、フレッチャー医師も同じだ。バリーを名乗る人格が、何をしようとしているのか、まるで分からない。フレッチャー医師はこれまでの経験から、ケビンに現れたすべての人格が、ケビンを守るために生まれたのだと信じている。バリーだと偽る人格も、きっとケビンのためなのだと思いたいが、しかしあまりにも状況が不穏で、真実を探り出そうとする。

基本的な物語は、監禁された少女たちが逃げようとして失敗したり、いくつもの謎めいた人格が理解不能なことを彼女たちに言う、というようなことで展開していく。何が何だか分からないが、何かが起こりそうな予感はずっとあって、否が応でも緊張が高まっていく。監禁されていること自体にも、監禁されている目的が分からないことにも不安を感じている彼女たちの絶望が観客にも感染し、ひたすらに不穏な雰囲気が持続していく。

そして、ラスト近くになって、いきなり物語が別次元に展開される。これは、本当に驚いた。先がどうなるのかさっぱり予測できないと思いながら見ていた映画だから、どんな展開であっても予想外であることには変わりないのだけど、それにしても驚いた。その展開によって、彼が言っていた「ビースト」や「聖なる食料」の意味がようやく理解できるようになる。加えて、冒頭の方でフレッチャー医師がスカイプで参加していた学会で、「解離性同一性障害は脳の潜在能力を高める結果になっているのではないか?」と発言していたが、その意味も理解できるようになる。

正直言って、ある意味で超展開の物語ではあるんだけど、でも合理性がある。恐らくありえないだろう、と思いつつも、可能性を感じさせる展開で、僕はこういう合理性のある展開は好きだ。「ビースト」を呼び覚ましたものがなんだったのかなど、イマイチ理解できない部分もあったのだけど、それでも、解離性同一性障害という要素を使って可能な限りあり得る展開を提示できているように感じられるので、僕は面白いと思った。

しかし、後半になればなるほど、なんというか恐怖映画タッチになっていって、しかも、「目に見える恐怖」というよりは、「目に見えない恐怖」の方が強いという意味で、日本の心霊映画っぽい不穏さを感じた。実際には、その恐怖は視認できるものなんだけど、目に見えているものだけが恐怖の実態なのではない。恐怖の源泉は、実は、目に見えない部分から湧き上がっているはずだ、という思いが、この映画に怖さを生み出しているのだと思う。そういう部分も、とても良かった。

あと、これはどうでもいい話なんだけど、ケイシー役の女の子が凄く良かった。僕は普段、あんまり「この顔が好き」というのはないんだけど、ケイシー役の女の子の顔、メッチャ好きだなと思いました。感情をあまり表に出さないキャラクターだったことも、良かったのでしょう、恐怖を表に出さずに無表情でいる様が、僕には凄く素敵に映りました。

「スプリット」を観に行ってきました

「ジムノペディに乱れる」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
かつては、有名な映画祭に出品するほどの映画を撮りながら、今は映画を撮るチャンスもほとんどない映画監督・古谷慎二。久々に撮れるはずだった映画は、女優が脱ぐ脱がないで揉めて降板、撮影はなくなった。撮るべき映画がなくなった古谷は、ふらふらと彷徨いながら、色んな女とセックスをする。昔から関係のある人妻の娼婦。映画の専門学校の生徒。降板した女優。特に何をするでもなく、女と関わることでトラブルも引き寄せながら、あてのない放浪を続ける。ある日、妻が入院する病院から電話が掛かってくるが…。
というような話です。

「ロマンポルノリブートプロジェクト」という、5人の映画監督による企画の一つです。配給が日活で、昔の日活ポルノを現代的にしたような映画、なんでしょうか?(日活ポルノってのを見たことがないのでわかんないですけど)。

全体的に、よく分からないなあ、という感じでした。何故そこでセックスに至るのか分からない、というのはまあ別にいいんですけど、古谷という男がどんな人物で、周りにいる女性がどんな女性なのかというのが、イマイチよくわからなかったかなぁ、という感じがしました。

個人的には、「火曜日の女の子」(この映画は、月曜から土曜までのある一週間が描かれます)が良かったなぁ。全体の雰囲気や振る舞いがいいなと思いました。

あと、余談ですが、映画の中に一人知っている人が出てました。大学時代の友人が自主制作映画を撮っていて、その手伝いを一回したことがあるんだけど、その時に役者として出ていた人でした。エンドロール見るまでは、もしかしたら、ぐらいにしか思ってなかったですけど、やっぱり本人でした。

「ジムノペディに乱れる」を観に行ってきました

「お嬢さん」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
スッキという少女は、侍女としてある屋敷で働くことになる。そこは、和洋中が混然と入り混じった大邸宅であり、日本人になりたくて「上月」という名の日本の没落貴族と結婚した男が、大量の蔵書に囲まれて生活をしている。その姪である秀子が、この屋敷では「お嬢様」として扱われているが、実際のところは叔父に幽閉されているような生活を強いられている。スッキは、そんな秀子のお世話をする者としてあてがわれた。
スッキは実は、詐欺師一家に育てられた女だ。侍女として秀子に仕えるのも、自らを「伯爵」と名乗り、秀子が相続する莫大な財産を狙っている詐欺師の計画の一部なのだ。秀子に「伯爵」を好きにならせ、そのまま結婚、日本に逃亡するという筋書きだ。
スッキは計画の一部として秀子に仕えながら、徐々に秀子に惹かれていく。莫大な敷地を持つ屋敷に閉じこめられ、また幼くして親を失った秀子の境遇に同情し、また秀子が見せる優しさや女性としての美しさに、女性であるスッキもいつしか惹かれていってしまっている。
秀子への愛情は、次第に詐欺の計画に支障を来たしていくことになるが…。
というような話です。

これはなかなか面白い映画でした。
ストーリーについては正直、あまり触れられません。原作が「茨の城」という小説で、この作品は「このミステリーがすごい!1位」になっているので、作品全体がミステリ的なテイストなんだろうな、というぐらいの予想はしていましたけど、観ながら、なるほどなぁ、という感じでした。正直なところ、映画の冒頭の方では何がどうなっているのか分からず、展開がバタバタと早いなぁ、と思っていました。舞台の基本的な設定をうまく理解できない内に物語がどんどん進んでいってしまうので、冒頭ではその辺りの理解が結構大変でした。原作は、文庫本で上下の作品なので、かなり分量があるといえます。その物語を映画にするのに、大分省略しなければいけなかったでしょう。その辺りの苦労が、バタバタと進んでいく冒頭の部分に出てしまったのかな、という感じはしました。また、後半の方でも、ここはもうちょっと詳しく描いて欲しかったなぁ、と思う部分があったんですけど(ある人物がある場所に収容された後の展開はもうちょっとちゃんと知りたかった)、これも物語の分量的に削らないといけなかったんだろうなと思いました。

というわけで、ストーリーがどう展開していくのかについては、是非映画を見てください。なかなか良くできた物語だと思います。物語が転調する部分では、爽快感さえ味わえるかもしれません。

この映画の大きな特徴は「エロス」だと思います。「R18」の指定があって、そこまでしなきゃいけない程のエロさなのかは僕にはよく分からなかったけど(まあ、エロ以外にも成人指定をしなきゃいけない理由があったのかもですけど)、映画全体の中でとても良い要素になっていると感じました。

そもそもこのエロさが、物語全体をカムフラージュしている部分というのもあると思います。エロいな、と思ってみていたシーンが、後々重要なシーンだったことが分かる、というようなことは何度もありました。

ただ、そういうカムフラージュのためだけにエロさが多用されているわけでもないでしょう。この作品では、「天涯孤独で屋敷から出られない女」と「詐欺目的で近づいてきた女」が出会い、お互いが持っている思惑を表面に出しながら惹かれ合う気持ちが醸造されていく、という展開を濃密に描き出すために、エロスが存在しているのだと思います。

秀子は、5歳の頃から屋敷に幽閉されているのですけど、そこで叔父に何をさせられているのかというと、「朗読」です。何の朗読なのか、という部分はちょっと伏せることにしますが、秀子はこの朗読によってのみ「性の世界」を知ることが出来るわけです。それ以外の「性の世界」を彼女は知らない。だからこそ、スッキとの妖しい関係性が非常に重要になってくるし、そこに必然性が生まれてくるのだと思う。

物語全体を覆う妖しさが、映画全体の雰囲気をとても印象的なものにしている。1939年の朝鮮半島を舞台にした作品であり、まだまだ大時代的な絢爛さみたいなものが残っている大富豪の屋敷内部の世界観も独特で面白いし、時空が歪んでいるかのような世界の中で少しずつ育まれていく二人の女性の関係性も非常に見どころがある。

また、日本の観客にとって非常に印象的だろう点がある。それが、韓国人の俳優が日本語で演技をしている、という点だ。日本語と韓国語を半々で話す人物が大半で、映画全体のセリフの半分が日本語なのではないかと思う。日本以外の国の観客であれば、彼らの喋り方に違和感を覚えることはないだろうが、日本人が彼らの喋り方を聞くと、やはり違和感はある。秀子は日本人という設定なので、若干その辺りで違和感を覚える部分は出てくるだろう。まあ、こういうものなんだな、と思えば、映画を見ている内にさほど気にならなくなってくるのだけど。僕は字幕で見たけど、日本語吹替版を作るなら、秀子の日本語の部分だけは日本人にやらせた方がいいかもしれない。

物語に詳しく触れられないので、あまり多くを語ることは出来ないが、全体としてなかなか良い映画だったと思う。冒頭でも書いたけど、原作にある程度のボリュームがあるので、たぶん削った部分がたくさんあるだろうと思う。ところどころ、描き方が足りないとか請求な展開だと感じる部分はあった。スピード感と濃密さのバランスが非常に重要な映画なので、まあこれぐらいの分量が映画としては良かったのかな、と思う。妖艶な雰囲気と予想外の展開が魅力的な作品だ。

「お嬢さん」を観に行ってきました

「パトリオット・デイ」を観に行ってきました

「テロ等準備罪」、いわゆる「共謀罪」が審議されている。この記事を書いているタイミングでは、あと僅かで可決を目指そうという流れのようだ。個人的な意見では、「テロ等準備罪」には賛成できないが、とはいえ、テロを防ぐべきだという考え方は当然理解できる。

日本では、地下鉄サリン事件という、世界中を震撼させたテロが起こったことがあるが、ここ最近ではテロと呼べるような事件は起こっていないだろう。恐らくそれは、日本という国の特殊性がある。海に囲まれた島国であり、外から入ってくる人を水際で食い止めることが出来る。また、概ね単一民族で構成され、価値観や思想が近い者同士で生活をしている。そういう環境だからこそ、テロによって自分の主張を伝えよう、何かを破壊してやろう、という気持ちに向きにくい、という面はあるだろう。

とはいえ、状況はどんどんと変化している。日本は観光立国を標榜し、世界中から観光客を呼び寄せようとしている。2020年には東京オリンピックも控えている。また、移民が仕事を奪う、という世界の潮流に反し、日本では人手不足が深刻化している。一時期企業が、アルバイトを社員に切り替えるという流れがあったが、あれも人材の流動化を防ぎ人材不足に陥らないようにするためだ。そのために、特に介護などの分野で外国からの働き手をより受け入れなければならない、と言われている。

外国人がやってくるからと言ってテロが起こるわけではない。とはいえ、先程挙げた「外から入ってくる人を水際で食い止める」「概ね単一民族で構成されている」という日本の特殊性が、状況の変化によって崩れてきているのは間違いないだろう。それに、世界中でテロが頻発している。日本が標的にならない、と考える理由はどこにもない。

だから、テロが起こることを前提に、僕たちは様々なことを考えていかなければならない、ということは十分に理解できる。

昨日、「橋本×羽鳥の番組」というテレビ番組の中で、「テロ等準備罪」が取り上げられていた。様々な議論が展開されていたが、パネリストたちの主張は概ね似たような方向を向いていたと思う。それは、

「テロ対策は必要だ。そのためには、捜査権限の拡大が必要だ。しかし政府は、それをやらないと嘘をついている。そんな信用できない政府が権限を拡大することには納得がいかない」

この主張は、凄くよく分かると感じた。

「捜査権限の拡大」というのは、つまり通信傍受などの監視だ。それが強化される、ということだ。心情的には嫌だし、監視されていると思いながら生活をすることには嫌悪感がある。しかし、もし本当に準備段階でテロを摘発するのであれば監視は必要だし、それで被害を未然に防ぐことが出来るなら許容してもいいかもしれない、という気持ちもないではない。

しかしそのためには、その権限を有する存在に対する信頼が絶対的に必要だ。プライバシーと引き換えに、あなた方に監視する権利を与えます、というのは、信頼関係が構築されているところでしか成り立たない。そして、政府に対して不信感を募らせるような様々な出来事が日々ニュースで取り上げられている現状の中で、そんな信頼関係が構築されるはずもない。政府は、本当に「テロ等準備罪」をその趣旨通りに機能させるつもりであるならば、信頼感を高めるように振る舞わなければならない、と思うのだ。

そして、そういう振る舞いが見られないからこそ、「テロ等準備罪」は、テロを事前に防ぐという本来の目的のためではなく、もっと違う思惑のために成立させようとしているのではないか、と勘ぐられてしまうのだ。

「テロ等準備罪」に関わらず、何らかの法律や制度を作れば、テロを未然に防ぐことは出来るだろうか?
僕は、無理だと思う。何故なら、テロは一人でも出来る(つまり、通信を使わずに計画出来る)し、「監視されている」ことが前提となれば、その監視の目を掻い潜りながら計画を立てる方法は必ず発見されるだろうと思うからだ(例えば、手紙を使ってやり取りすれば計画を事前に知ることは不可能なのではないか)。AIとのが進化すれば、より高度なテロも登場することになるだろう(自爆テロロボットなどを開発されたら、手も足も出ないのではないだろうか)。

だったらどうすればいいのか、ということは分からない。テロで命を落とすことは、本当に不幸であり避けなければならない。とはいえ、それを完全に防ぐ方法があるとも、僕には思えない。テロがなるべく起こりにくい世の中を世界中で目指しながら、どうしても起こってしまうテロは自然災害のようなものとして諦めるしかないのではないか。僕は残念ながら、そんな悲観的な結論しか持つことが出来ない。

内容に入ろうと思います。

2013年4月15日。「愛国者の日(パトリオット・デイ)」に行われるのがボストンマラソンだ。アメリカで最も古い歴史を持つマラソン大会であり、50万人もの観客が詰めかける一代イベントだ。ボストン警察巡査部長であるトミーは、何かをしでかしたために今は謹慎中のような扱いだ。翌日に迫ったボストンマラソンで警備を担当すれば、晴れてお仕置きは終了、通常業務に戻れるはずだった。
しかしその日は、普通には終わらなかった。二人組の若者が、観覧車がひしめきあう歩道上に爆弾を置き爆発させたのだ。
現場は大混乱に陥った。負傷者を必死に運び出している間にFBIがやってきて、テロと断定。FBIの指揮の元大規模な捜査が行われることになった。
爆発から犯人逮捕まで僅か102時間。その間に、一体何があったのかを緻密に描き出していく物語だ。

非常に真に迫る映画だった。そう感じたのには、この映画の構成にもある。場面場面で、当時の実際のニュース映像などが流され、虚構と現実が入り混じっていく。さらに映画の最後では、その映画に登場した人物のモデルとなった人たちがインタビューを受けていた。警官、FBI、被害に遭った者など、彼らがそこで何をし、何を感じたのかが語られる。全体的にはフィクションなのだが、ノンフィクションの要素を多分に取り込んだ映画だった。

またこの映画では、町を愛する者たちの強い気持ちみたいなものが随所で描かれていく。FBIが捜査の主導権を握るのだが、地元ボストンの警察は、自分たちの生まれ育った土地でこんなバカげた事件が起こったことに怒りを感じている。この事件は、自分たちの手で何とかしなければ気が済まない。そういう強い思いが彼らを動かしていく。

捜査やその後の展開は、ホントにこんなことが現実に起こったのか…と疑いたくなるようなものだ。メチャクチャとしか言いようがない。主義主張があればテロが許されるなどということはあり得ないが、しかしテロを起こした二人には真っ当な主義主張があるようにも感じられない。それなのに、ただ逃げるためだけにあれだけの抵抗をするというのは、ちょっと信じられない思いだった。

捜査の過程で、容疑者の顔写真を公開するかどうかが議論になる場面がある。激論が交わされたが、結局事態の急変によってある決断がなされることになる。僕はそれを見ながら、結果的にその行為が状況を混乱させることになってしまったのではないか、と感じた。確かに難しい決断だったことは分かるし、色んな人の感情的な部分も理解できる。とはいえ、やはりあれは間違いだったのではないか、という気がした。

決して多くはないが、被害に遭った者たちにもきちんと目が向けられていく。彼らがその後、自分がテロに遭ったという事実をどう受け止めていったのか、最後の本人たちのインタビューでそれは明らかになっていく。もちろん、彼らほどタフにはいられなかった者も多いはずだろう。被害を受けた人がきちんと前を向いて進んでいけるように祈っている。

「パトリオット・デイ」を観に行ってきました

「哭声/コクソン」を観に行ってきました

この映画の感想を、どう書いたらいいのか、僕にはイマイチ分からない。
あまりにも分からなくて、こんなことは普段しないのだけど、感想を書く前に、他の人がこの映画について書いた感想をいくつか見てみた。
それを読んで、僕が今感じているモヤモヤは、そう感じられて正しいモヤモヤなのだ、ということだけは理解した。

映画を見ながらずっと、「なんだこれは」「どうなるんだ」と思っていた。物凄く惹き込まれる映画だった。それだけは間違いない。一瞬も見逃してはいけないような気分になった映画は、久しぶりだ。画面に釘付けになったし、これから何が起こるんだという不穏な空気がずーっと続いていて、目が話せなかった。

ただ、物語は、全然理解できなかった。そこをどう評価するかが、この映画の捉え方の難しさだ。

僕は、出来るだけ物事を合理的に考えたい、と思ってしまう。科学が好きで、霊魂や呪いと言った存在を、基本的には信じていない。もちろん、物語に対してそんな厳しいことを言うつもりはない。SFだって好きだし、突拍子もないことが起こる物語も好きだ。

ただ、この映画は、映画全編で漂う不穏な雰囲気と合わせて、「この物語はどう着地するんだ」という関心で観客を引っ張っていると僕は感じる。少なくとも、僕にとってはそうだった。僕は、どうしても合理的な展開を望むので、この物語が何か合理的な結末を迎えて欲しい、という期待をずっと持ってしまっていた。霊魂や呪いと言ったような非科学的なものを持ち出さなくても、この物語をきちんと捉えきれる、そういう期待を持ってずっと見てしまった。

とはいえ、この映画は、そのように見る映画ではなかったようだ。少なくとも、いくつかのレビューを読んだ限りでは、そう判断できる。この映画は、合理的な解釈を求めるのではなく、非科学的なものを受け入れながら捉えるべきなのだ、と。合理的な解決を望んだ僕のスタンスが、この映画に対する落胆に繋がっている、ということは言える。

もちろん、非科学的な解釈を受け入れた方が、この映画の捉え方の幅は一気に広がる。その方が、全体としては面白いと言えるだろう。しかし、この映画では、はっきりとそれを打ち出さない。合理的な解決もあり得ると、最後の最後まで信じてもいいような、そういう雰囲気も醸し出しているのだ。

解釈の余地が広い、という意味で非常に面白いと思うし、他者のレビューで読んだ、「現実とは何かを揺さぶるような映画」という捉え方も非常に面白いと思う。すべてをはっきりとは描かないからこそ、可能な捉え方は非常に広くなる。映画を見ながら、合理的な解決を無意識的に捨てることが出来るかどうか。この映画を楽しめるかどうかは、その点に掛かっているように思う。僕は、この映画の不穏な雰囲気に呑み込まれ圧倒されながらも、合理的な解決の可能性を捨てきることが出来なかった。その点が、少し残念ではあった。

内容に入ろうと思います。
韓国のある村で、殺人事件が頻発している。犯人はいずれも身内で、その場で逮捕される。しかし、錯乱状態に陥っていたり、虚脱した状態だったりと、不可解な姿で発見される。この事件の捜査を担当するジョング巡査部長は、ある日本人の噂を耳にする。山を越えたところにたった一人で暮らしている男で、その男が来てから村で殺人事件が起こるようになったと言う。ジョングは仲間を連れ、その日本人の家に向かうが、男が何者なのか分からないままだ。
ジョングにはヒョジンという一人娘がいる。とても可愛がっているが、ある時からおかしな言動を見せるようになる。身体には、赤い湿疹。これは、村で頻発している殺人事件の犯人にも起こっている症状だ。病院に連れていくが、原因は分からない。
様々なことが起こり、ジョングは一連の事件が謎の日本人の仕業であると確信を深めていく。同時に、ヒョジンの状態がさらに悪化し、高名な祈祷師を呼ぶことになったのだが…。
というような話です。

正直、こんな内容紹介は無意味であって、この映画の凄さは、先程も触れたように、映画全編で放たれる不穏な雰囲気だ。ほんの少し先の展開すら、まったく想像がつかないような物語だ。ジョングの周辺で不可思議なことが頻発していく。ジョングを始め周囲の人間は、誰の何を信じればいいのかまるで分からない状態に陥っていく。謎の日本人も、祈祷師も、そしてある事件を目撃したと語る女も、この物語にどう関係しているのか、全然分からない。最後の最後まで、彼らが何者であるのかはっきり分からないまま物語は閉じる。解釈は、見た人が考えてくれ、という終わらせ方だ。

ストーリーはともかくとして、映画に引き込む力は本当に凄いと思った。冒頭でも書いたが、スクリーンから片時も目が離せないような雰囲気を放っていた。様々な思惑が絡み合っているはずなのだけど、誰が中心で、どの方向に誰のどんな思惑が放たれているのか、まるで分からない。一応、ジョングを主人公とした物語なのだが、ジョングは状況の進展と共にどんどん錯乱し、平静を失っていく。ジョングの、「何を信じたらいいのか分からない」という葛藤に、観客自身も同化していくような、そんな体験をした。

映画全体の不穏さは、雨や血や散乱した部屋など、常にじめっとした雰囲気の中で物語が進行していくという部分もあるが、役者の演技が醸し出す分も間違いなくあると思った。祈祷師も謎の女も、何者か分からないというような不穏さを出していたが、やはり日本人としては、謎の日本人役で登場した國村隼の演技が印象的だ。ほとんどセリフはないのだが、佇まいだけで醸し出す何かがある。森の中を走り回ったり、滝行をしたりと、かなり身体を張った演技を見せている。演技については詳しくないが、彼らの演技力がこの映画の不穏さをさらに倍化させていることは間違いないだろう。

正直、僕がもっと物語をうまく捉えられる人間であれば、面白い解釈を打ち出せたかもしれない。僕にはそういう才能はないと分かっているので、この映画をうまく捉えきれなかったが、解釈の幅が非常に広い作品なので、自分ならどう捉えるのかという見方をしても面白いだろう。繰り返すが、引き込む力は圧倒的な映画だ。

「哭声/コクソン」を観に行ってきました

「人生フルーツ」を観に行ってきました

良い人生だ。
そして、カッコイイ。

僕たちは、どうしても問うてしまう。
「何故?」と。
「何故?」と問い、その問いに答え続けることで、人間は進化してきたはずだし、また様々な知見を蓄積することにもなった。

とはいえ、時々、正しくない「何故?」もあるのだろう、と感じることがある。
大前提となる事柄に対しての「何故?」だ。

数学には、「ユークリッド幾何学」と呼ばれる分野がある。僕たちが学校で習う算数や数学は、基本的にこの「ユークリッド幾何学」に基づいている。これは、5つの基本的な「公理」と呼ばれるものを大前提としている。例えば、「直線の両端は無限に延長できる」「ある点と長さが与えられた時、その点を中心とし長さを半径とする円を描くことができる」などだ。誰もが、まあ当たり前だよね、と思うことだろう。「ユークリッド幾何学」は、そういう当たり前な5つの公理から成り立っている。これらの公理に対して「何故?」と問うことは、概ね正しくないと言えるだろう。

生きることも、同じようなものなのかもしれない、と思う。

何故生きるのか?と問うことで、哲学などの学問分野で様々な進展や発見があったはずだ。だから、そういう問いかけは決して無駄なものではない。とはいえ、実際に現実を生きる僕らにとっては、「何故?」と問うことはあまり意味をもたないのかもしれないと、この映画を見て思った。僕たちは、生きている理由を求めて、働いたりお金を使ったり何かを信じたりする。しかし、そういうものが何もなくても、「ただ生きる」ということに意味を見出すことが出来る。彼らの生活からは、そんなことを感じさせられる。

先程の「ユークリッド幾何学」の話には、続きがある。5つの公理の中には、「平行線公準」と呼ばれるものがある。「平行な2直線は交わらない」というものだ。これも、誰もが当たり前だと思うだろう。しかしある数学者が、この「平行線公準」を公理に含めない新しい幾何学を生みだした。それは「非ユークリッド幾何学」と呼ばれている。どれほど当たり前に思えるものでも、「何故?」と問うことの大事さを感じさせる話だろう。

「何故?」という問いに、決して囚われすぎてはいけない。問う対象が大前提に近いものであればあるほど、そこに答えを見出すことは難しくなる。しかし、「何故?」を完全に忘れてしまえば、見失ってしまうものも多い。

『自分でやれることを見つけて、時間は掛かるけれども自分でやると、何か見えてくるものがあるから』

この夫婦は、「生きること」についてではなく、「どう生きるか」について「何故?」を問いかけ続けた。答えを追い求めるための問いではなく、自分たちがどう行動すべきかを考えるための問いだ。その積み重ねが、彼らの生活を作り上げたと言っていいだろう。

だから、僕には彼らの生き方が、カッコよく見えるのだ。

内容に入ろうと思います。
愛知県春日井市に、「高蔵寺ニュータウン」と呼ばれる一角がある。このマスタープランに関わったのが、この映画の主人公である津端修一だ。映画の撮影時、90歳。87歳の妻・英子さんと一緒に、高蔵寺ニュータウン内に買った300坪の土地に住んでいる。広大な敷地には、雑木林があり、果樹があり、畑がある。二人は日々、農作業や庭仕事をして、自宅で採れた野菜を使って料理やお菓子作りなどをする。作れるものは自分たちで作る、出来ることは自分たちで出来るだけやる。そうやって、子どもを送り出した後も二人で生活してきた。
90歳にして修一はマウンテンバイクに乗り、梯子で屋根に上る。英子も、忙しく立ち振舞いながら夫のサポートをし、また農作業をする。毎日身体を動かしながらやることがあり、それでも時間に追われるわけでもなく、やりがいと穏やかさを両立させながら、お互いを思いやる生活を続けてきた。
修一が高蔵寺ニュータウンの設計に携わったのは弱冠30歳の頃。既に東京で18の団地の設計に携わってきた。高蔵寺ニュータウンの計画の発端は、伊勢湾台風にあった。5mの高潮が平地を襲い、5000人もの人命が奪われた。伊勢湾台風は、「人間はどこに住んだらいいのか」という根本的な問いかけをもたらすものだった。高蔵寺ニュータウンの計画は、高地移転に挑んだ究極のプロジェクトだったのだ。
修一は、山の尾根筋に住宅を建て、ここにこんな山があったのだという名残を残す設計を作り上げた。しかし時代は経済優先。8万戸もの住宅を作らねばならぬ大規模な計画へと変転し、結局修一のプラン通りに作られることはなかった。
その後修一は、高蔵寺ニュータウン内に300坪の土地を買い、ある挑戦を始める。

『平らになった土地に、もう一度里山を復活させるにはどうしたらいいか。新しい緑のストックを作りながら、一人ひとりでも、里山の一部を復活できるという実験だった』

自身の計画を否定された修一は、都市計画や建築の世界から距離を置き、高蔵寺ニュータウン内でのその実験に力を注いだ。その挑戦が、今に至る彼らの人生そのものだ。

『私がお父さんに反対することはない。やりたいことは何でもやって、って感じで』

『私が自由に喋れるようになったのは、結婚してから。あの人にやりたいことを言うと、「それは良いことだからやりなさい」なんて言われて。それからかな、自由に何でも言えるようになったのは』

給料が4万円の時代に70万円のヨットを買いたいと言われても、どうやって家計を回そうかしらと考えて反対しない妻。結婚した時からお金がなく、200年続く造り酒屋の娘だった英子さんが質屋に通う日々だったというが、それでも二人は幸せそうだ。
台湾で、二人の本の出版記念イベントが行われた。その際のインタビューの中で、修一はこう語っていた。

『彼女は僕にとって最高のガールフレンドです』

良い夫婦だ。

特に何が起こるわけでもない、日常の風景をベースにした映画である。しかし、特に飽きることもなく最後まで見続けることができた。二人の生活が、細部に渡って興味深いのだ。

そこには、僕なりの偏見が関係しているのだと思う。僕の中には、お年寄りになればなるほど頭が固くなって融通が利かなくなるという勝手な印象がある。それまで自分が抱え続けてきた価値観にしがみつき、それを手放さないというようなイメージがある。しかし、この老夫婦からは、そんな感じが微塵も見られなかった。若い頃から、信念を持って自分たちの生活を構築してきたからだろう。それを継続的にやり続けてきたからこそ、彼らの生活は魅力的なものになっている。変化が大きくないように思えるのに、飽きることのない生活に見える。凄く不思議だ。

また、やっぱり、自分で何かを作ることが出来る人や環境というのは羨ましいと感じる。農作物もそうだが、修一は建築を仕事にしていただけあって、工作も得意だ。孫のために作った三階建てのドールハウスは圧巻だった。自分で作れるものが多ければ多いほど、生活の自由度が増すような印象がある。大学時代、演劇の小道具を作っていたことがあったので、映画を見ながら、またああいうことをやりたいと思ってしまった。

映画を見ながら、森博嗣を連想した。作家の森博嗣も、かつては建築を専門にする大学教授であったし、今は大学を辞め、広大な敷地を持つ家の庭に線路を引いて鉄道を走らせたりしている。森博嗣はきっと、自宅にカメラを入れることはないだろうが(笑)、修一と近い雰囲気を感じた。

こんな風に年老いたいものだ、と感じさせられる作品だった。

「人生フルーツ」を観に行ってきました

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)