黒夜行

>>本の中身は(2017年)

不屈の棋士(大川慎太郎)

人工知能によって、人間の仕事がどんどんなくなっていく、という話は、ちょっと前からじゃんじゃん出始めている。どんな仕事がなくなっていくのかというリストさえ、色んなところで目にするようになった。しかしどうだろう。実際の生活の中で、「人工知能によって、今の自分の仕事がなくなるかも…」と実感できる人は、まだそう多くはないだろう。

そういう意味で言えば、現代の職業の中で、最も人工知能の影響にさらされている一つに、棋士を挙げることが出来るだろう。

様々な評価の仕方があり、統一の見解こそないものの、本書を読んだ僕の印象では、既にソフトの棋力は、現役の棋士と互角かそれ以上なのだ、ということがよく分かった。

『ソフトと戦っても勝てない、と予想しています(勝又清和)』

『仲のいい棋士には、解説が終わった後に、「あれは人間が勝てるレベルじゃないよ」という話をしました(西尾明)』

こういう発言をしている棋士もいるほどだ。

『江戸時代から400年以上の歴史を有する将棋界。
言うまでもなく、棋士は常に実力最強の存在だった。棋士はその誇りを胸に競い続け、将棋ファンは尊敬と憧憬の念を抱いてきた。
将棋の強さこそ棋士最大の存在価値。それは当然の感覚であり、いちいち疑問を差し挟む者など存在しなかった。
コンピュータの将棋ソフトが驚異的な力をつけるまでは―』

そう棋士は、人工知能によって今まさに影響を受け続けている存在なのだ。

本書は、現役棋士11人に、コンピュータの将棋ソフトの捉え方や関わり方を問うたインタビューをまとめた作品だ。羽生善治・渡辺明という将棋界のスーパースターもいれば、コンピュータ将棋に造詣の深い者、コンピュータ将棋に負けた者、コンピュータ将棋を良く思っていない者など、様々な立場の棋士が、それぞれの将棋観を語っていく。

『将棋界は「強制」が少ない世界なのだ。だから自由な発想で物事を考え、それぞれが好き勝手に意見を述べることができる。これは将棋界の豊潤さの証明であり、財産だろう』

将棋連盟に所属していても、基本的に棋士は一人で活動する存在だ。だからこそ、自分の哲学に則って行動することが出来る。コンピュータ将棋との距離のとり方も様々で、それぞれの個々の哲学が密接に絡まり合っている。特に、ソフト研究を最も採り入れていると言われている若手棋士・千田翔太の将棋への取り組み方は印象的だ。

『これからは「棋力向上」を第一に目指してやっていこう、と(千田翔太)』

『公式戦で勝つよりも、純粋に棋力をつけることを第一としようと。(千田翔太)』

そしてそのために千田は、ソフト研究を採り入れる。

一般的に将棋の勉強法は、「棋譜並べ、詰将棋、実戦」だ。しかしこの勉強法を千田は、『その従来のやり方だと、個人の資質に大きく左右される。うまく人は才能がある人(千田翔太)』と判断する。そして、ソフト研究によって様々な形勢判断を自分の内側に取り入れていくことで、従来の方法よりも多くのものを吸収することが出来る、と語るのだ。

『現状、千田のソフトに対する姿勢が周囲に理解されているとはいい難い。先駆者の宿命ではあるのだが、苛立ちを感じることもあるだろう。
だが、未来は違うはずだ。これからプロになる若者の多くは、躊躇なくソフト研究を取り入れていくだろう。千田も自分の後を追ってくるであろう若者たちには大いに関心があるようだった』

ソフトをどう取り入れていくのか、というスタンスは、今まだに過渡期といえるだろう。どういう距離の取り方が正解であるのかは誰にも分からない。そういう意味で、千田翔太という棋士が10年後20年後にどうなっているのかは、とても楽しみだ。

本書には、ソフトが登場したことによるメリット・デメリットが様々に語られるが、最も印象的だったのは「怖さ」に関する話だ。

『人の頭なら相当わからない難解で長手数の詰みでも、ソフトはわかっている。この変化は詰むか詰まないかがわからないから踏み込めない、という話がソフトにはないわけでしょう。つまり人間が持つ「怖さ」という感覚が存在しない。それはちょっと違いますよね。強いんだろうけど、別物というか(渡辺明)』

同じ話を、さらに将棋を鑑賞することまで含めた議論に持ち込んでいる発言もある。

『将棋というのは人間同士の勝負で、お互いに答えを知らない中でやるものじゃないですか。怖さはあるけど、それに打ち勝つことも大事なわけです。ファンにもそこを楽しんでもらっている部分があると思う。もちろんソフトの手だって全部が正解ではない。でも、ソフトを使うと怖さを取り除くとまでは言わないけど、薄めているのは間違いない。勝負としてのおもしろさが減ってしまったら、スポンサーやファンがどう思うでしょうか。そういう状況が続けば今後、棋士全体が対局だけで食べていくのは大変でしょう。本当の上位棋士しか生き残れなくなる気がします。
―勝負というのはお互いに怖さを持つ中でやる。これが山崎さんの信念ですね。
そこが一番おもしろいところだと思います。答えがわからない中で、自分が正解と信じている手を指していく。その中で自分ができる工夫をしていくことが大事なんです。ただソフトを使うと、自分を信じる部分が薄れてきますよね。自分より強い、自分にはない発想に頼るようになると、それまでの局面認識や経験を元に培った判断が変わってくる。それはどうなのか(山崎隆之)』

この話が一番面白いと感じた。そう、問題は、棋士とソフトどっちが強いか、ということではないのだ。そうではなくて、将棋という勝負やゲームがちゃんと生き残っていくのか、ということだ。ソフト研究によって「怖さ」を失ってしまえば、対局から面白さが削られてしまう、という部分は、人工知能が将棋界に与える一番クリティカルな問題なのではないか、という風に感じました。

『たとえば詰将棋に関しては昔からコンピュータの方が解答が速いって知ってるけど、コンピュータの計算競争なんて誰も見ないでしょう。それと同じ。人間が暗算の競争をやるから見るんですよ。どっちが先にミスるんだ、っていう(渡辺明)』

『人間の勝負とはまったく別物ですから。トップ棋士同士とはいえ、やはり人間の将棋はミスありきなんです(渡辺明)』

『人間にしか指せない将棋とかそういうことではなく、人同士がやるからゲームとして楽しめるんです(渡辺明)』

渡辺明のこれらの発言は、棋士だけではなく見る側にも重要な問題だろう。トップ棋士でももうソフトに勝てないんだろ、と言って将棋を見ることから離れてしまった人もいるだろうが、やはり、人間同士が知力を尽くして闘うからこそ将棋は面白いのだ、という感覚が皆どこかにあるはずだ。そこに、ソフト研究という形でコンピュータが入り込むことで将棋がどう変わっていくのか。それらについても後で触れるつもりだが、まずは別の棋士の似たような発言を引こう。

『車がいくら早くても、人間が100メートル走で10秒を切ったらすごいでしょう。それと同じように、「人間の頭脳でここまで指せるんだ」と見守っていただきたいです(勝又清和)』

さて、実際にソフトを使うことで棋士としての力がどうなるのか、という部分についても、印象的な指摘があった。

『ソフトの示した手がプラス評価(※ソフトが盤面をどう捉えているかという評価値の話)だとしますよね。「じゃあ優勢なのかな」と思って実戦で採用する。その局面が仮にプラス300点だとして、その後の手順が自分が経験したことのないギリギリの攻め筋なんです。だからその後の指し方がわからないというか、間違えてしまう。コンピュータ的にはいけるのかもしれないけど、針の穴を通すような際どい攻めは自分の技術では導き出せない。だからソフトの評価値を重要視するあまり、自分のスタイルを見失っている部分はあるかもしれません(村山慈明)』

この指摘は非常に重要だろう。これは、棋力を上達させるには、答えではなくプロセスを学ぶ必要がある、という話だ。

『学ぶことは結局、プロセスが見えないとわからないのです。問題があって、過程があって、答えがある。ただ答えだけ出されても、過程が見えないと本質的な部分はわからない。だからソフトがドンドン強くなって、すごい答えを出す。でもプロセスがわからないと学びようがないという気がするのです(羽生善治)』

確かにその通りだ。先の村山慈明の指摘は、まさにこのことを言っている。

ソフトは、盤面を数字で評価してくれる。しかしその評価は、「俺(ソフト自身のこと)がミス無く指すって前提でこの点数ね」ということでしかない。ソフトがどう指すつもりでいるのかは、ただ評価値を見ているだけでは分からない。ソフトはいくらでも先の展開を読めるし、ミスもしない。だから、無謀な手筋でも押し通せる。しかし人間にはそれが出来ない。だから、プロセスを理解しないまま評価値だけを受け入れてしまうことの怖さがある。

これは恐らく、今後将棋界以外でも問題となっていくだろう。人工知能は、恐らく何らかの答えを出してくれる。人工知能が処理まで実行してくれるなら問題ない。しかし、人工知能に答えだけ教えてもらって、その上で人間が実行する、という状況があるとして、その場合人間にはプロセスは理解できないかもしれない。そういうことは、人工知能と共存していかなければならない過程でいくらでも起こりうるだろう。

『実力がつかないうちにソフト研究を取り入れるのは本当に怖いと思います(村山慈明)』

『―棋力が定まっていない人がソフトを使うのはよくないと思いますか?
まずいでしょうね。棋力が定まっている人間でもうかつに使うとまずい。ソフトとずっと指し続けると感覚がおかしくなって、自分の将棋が崩れます(糸谷哲郎)』

確かに、こういう指摘については納得できるし、将棋以外の場でも認識しておかなければならないだろう。

他にもソフトがもたらすデメリットとしては、

『いままでは、本来ダメなはずの新手もみんなわからないから2年くらい持っていたのが、(ソフト研究によって)即ダメになる。だからスパンがすごく短くなるけど、そもそも戦法の数がそんなにないので、後手番で戦える戦法がドンドン少なくなっていく(笑)(渡辺明)』

『今後は新手を指しても本当に自分で発見した手かどうか証明できませんから(行方尚史)』

など色々挙げられている。

とはいえ、もちろん良い点もある。一番のメリットについては、多くの棋士が指摘している。

『コンピュータのおかげでセオリーや常識にとらわれない指し手が増えてきました。プロ棋士もまだまだ将棋のことをわかっていなかったんだな、ということがわかってきました。こんなことはやっちゃいけない、というタブーもなくなってきた。この先、古い価値観はどんどん廃れていくでしょう。いまの将棋に合った新しい価値観も生まれるんだからそれでいいと思います(勝又清和)』

『将棋の枠組みが広がって、タブーが減った。不安が取り除かれてやりたいことがやれるようになった。(山崎隆之)』

『だからソフトの登場によって、過去の定跡が覆る可能性があるんです(村山慈明)』

『20年間主流だった矢倉の4六銀戦法も指されなくなったように、常識となっていたことがソフトに覆されるようなことも出てきた(行方尚史)』

人間の思考力では、長い長い歴史や積み重ねを経ても到達出来なかった部分に、ソフトはどんどん突き進んでいる。そうやって、ソフトが将棋の新しい常識や価値観をどんどん生み出しているのだ、という指摘が非常に多かった。

また、こんな指摘をする者もいる。

『だから全体的に終盤に時間を残そうとしている人が増えていますね。あとはみんなよく粘るようになりました。相手が間違えることが前提であれば、それは頑張りますよね。これは間違いなくソフトの効果で、将棋の進歩に役立っていると言えるでしょう(糸谷哲郎)』

糸谷哲郎は、『いつの日か棋士という存在がいらなくなる可能性を除けば、メリットばかりだと思っています』とさえ発言しているほどだ。もちろん、ソフトの存在に警鐘を鳴らす者もいる。ソフトの存在をどう評価するかは、まだまだ様々な価値観が入り乱れているのだ。

また、ソフトの登場と直接的な関係があるのかと言われればちょっと疑問符がつくかもしれないが、こんな指摘をする棋士もいる。

『開発者は純粋にソフトを強くしたいと思っている方々ですし、技術に対する意欲が強い。棋士以上にまじめだと思いますよ。そもそも棋士がどれぐらいまじめに将棋をやっているのか、私には疑問です。たとえば一部のベテラン棋士には、「真剣に取り組んでいるのかな」と思うような人がいますからね。それと比べると、開発者の方がよっぽど熱意があると思います(千田翔太)』

『もちろん将棋界にも問題はあります。プロが負ける姿を世の中におもしろおかしく見られてしまうのは、いままで将棋界が胡座をかいていたせいでもあるので。
―胡座をかいていたというのは?
“産児制限”を設ける、つまりプロ棋士になれる人間を厳しく限定して、その代わりにプロになってしまえばある程度は生活を保障する、という互助会的な制度だったことは否定できません。勝負の世界なのに、活躍できなくてもなんだかんだと食べていけたわけです。それは将棋界の甘いところだし、守られていたところだったでしょう。プロ棋士って本当に強いの? と訊かれて胸を張れる人は何人いるのか。だからいまは、将棋界の根本的なところに対して、ソフトというナイフを突きつけられているんです(行方尚史)』

棋士自身から、将棋界全体に対する問題提起がなされる。これもまた、「強制」の少ない将棋界ならではのことかもしれない。「胡座をかいていた」棋士もいるという中で、ソフトの存在がどう将棋界を変えていくのか。こういう問題意識を持つ人間がいるという事実が、将棋界の明るい未来を示唆している、と考えるのは、楽観的に過ぎるだろうか。

大川慎太郎「不屈の棋士」

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ひこばえに咲く(玉岡かおる)

ただしたいからする、というのは、僕にとっては「文章を書くこと」だろうか、と思う。

何故だが、文章は書きたくなる。これは、「誰かに何かを伝えたい」とか「文章を書く練習をしたい」というような動機ではない。それらがまったくない、とは言わないが、そういうものよりももっと、ただ「書きたい」という気持ちになる。

自分でも、良く分からない。

僕は、なんだかんだこうして文章を書き続けてきたお陰で、「文章を書くこと」が仕事に役立てられるようになった。それは、とても運が良かった。文章を書くことが出来る、というのは有用性が高くて、色んな範囲で役に立つ。自分でも、文章を書くことを続けてきて良かったなぁ、と思っている。

ただしたいからする、という欲求は、どんな風に生み出されるのだろう、と思う。僕は、元々理系の人間だ。国語は大嫌いだった。本は読んでいたが、いわゆる本が好きな子どもが読むような本は読まなかった。特別文章が上手い子どもでもなかった。

僕がちゃんと文章を意識して書くようになったのは、たぶん20歳くらいからではないか。初めは、書きたくて書いていたわけではない。初めは、本を一冊読んだらその本の感想を必ず書く、というルールを決めて、無理やり書いていた。正直、文章の書き方なんて知らないし、その当時は長く文章を書くなんて全然出来なかった。

いつから、無理やり書く、から、書きたい、に変わったのだろう?

今でも、そう決めたから書きたくないけど書いてる文章もある。書く文章のすべてが、書きたくて書かれたものではない(これは、文章を書くことが仕事に活かせるようになった弊害と言えば弊害である)。とはいえ、やはり僕が文章を書き続けているのは、書きたい、と思うからだ。過去を振り返ってみて、「本を読む度に感想を書くことに決めて、粛々と書き続けた」という経験以外、文章を書くことに親しむ経験なんてほとんどないのに、どうして自分の内側からそんな欲求が湧き上がってくるのか、よく分からない。

『描くためだけの絵もあるんでねえか』

僕には到底、ケンの気持ちは分からない。画家であるケンは、『人が、食べたら排泄しないと死んじまうように、描かなきゃどこか胸の一部が詰まって死んじまうやつだっているべ?』と語る。僕には、そこまでの感覚はさすがにない。けれど、なんとなくは分かるつもりだ。僕は、感想を書くところまで含めて読書だ、と考えている。今では、読んだ本に関して感想を書かないことが気持ち悪く思えてしまう。

ケンの『描くためだけの絵もあるんでねえか』というのは、お金に換えるなんてことのために絵を描く以外のやり方もあるのではないか、という主張だ。これだけ聞くと、芸術家を気取った若者の理想論のようにも聞こえてしまうかもしれない。

しかしケンは90歳になるまで、ほとんど青森から出ることなく、150枚以上の絵を描き、納屋に押し込めていた。誰から評価されることも、まして誰かに絵を見てもらうことすら望まないまま、ひたすら魅惑的な絵を書き続けたのだ。

『描くためだけの絵もあるんでねえか』

そんな男の言葉だと思って聞くと、全然違った風に聞こえるはずだ。

『「あのですね。―誰に見せるつもりがないなら、百五十枚ものこの作品、いったいどういうつもりで描きためたのですか?」
眼鏡の下で、困ったような目がさまよう。香魚子は重ねて聴いた。
「こんなところに押し込むしかない絵を、どうして一生懸命、描いてるんですか?」
何が訊きたいか、今度はわかってくれたか、という目でケンを睨む。
だが、ケンの答えは香魚子の予想を超えていた。
「そりゃあ絵描きは絵を描くだろ。船頭が船をこぐようなもんだ」』

理由を考える理由さえ思いつかないまま、ケンはひたすらに絵を描き続ける。
特殊な環境があったとは言え、こんな風に生きられるとしたらいいな、と思える一生だった。

内容に入ろうと思います。
若瀧香魚子は、父が始めた銀座の骨董店で働いていたが、父がその骨董店の閉店を決断し、自らの身の振り方を考えなければならなくなった。既に50代。素晴らしいものを見る目と、人を惹きつける能力に長けた父に庇護の元不自由なく育ったが、自分の才覚で何かをやるという決断のなかなか出来ない年代だ。パリには、3年ほど付き合っている恋人がいる。黒岩俊紀は妻子ある身だが、日本とパリとで離れて暮らしているが故に、家族との関わりは薄い。ついぞ結婚しなかった女と、結婚しているがパリで一旗上げようと起業した男。男の事業が右肩下がりで下降している現実を前に、二人の恋の灯火も危ういものになっている。
骨董店の閉店準備を進め、また俊紀との関係がどうにもどん詰まりに陥っていたある日、まったくの偶然に、香魚子はある無名の画家の画集を目にすることになった。上羽研(ケン)というその画家の絵に、香魚子は魅入られた。ひと目この絵を見たい。思いつきで、ケンの住む青森まで言った香魚子は驚いた。
画集に載っていた、見る者の心を揺さぶる絵が、納屋に押し込められるようにしてひと目に触れない場所にしまわれていた。
この絵を多くの人に見て欲しい。そういう思いに駆られた香魚子は、閉店した骨董店の跡地をギャラリーに変え、その第一弾として上羽研展を行うことに決めた。俊紀の事業が下降するのに反比例するかのように香魚子の事業はトントン拍子に進み、それもまた、二人の関係に少なくない影響を及ぼす。
また、口数の少ないケンに変わって渉外すべてを担当する馬力のある70代の緒方芙久(フク)は、ケンのことを「オヤブン」と呼び、若い頃から慕ってきた。彼らには、絵画を介した長い長い歴史があり…。
というような話です。

かなり素晴らしい作品でした。香魚子と俊紀の現代の話と、ケンとフクの過去の話が折り重なるようにして進んでいき、時代時代の苦難を乗り越えながら「生きていく」ということを考えさせる物語だなと感じました。

何よりも、ケンが素晴らしいですね。ケンは、実在のモデルがいるらしいです。巻末に載っている参考文献の書名に、恐らくこの人物なんだろう、と思う名前がありますが、一応ここでは書かないことにしておきましょう。

ケンが実在した人物だ、という事前情報は、この作品を読む上で非常に重要だと僕は思っています。というのも、ケンという存在は、いやーそんな奴おらんやろ、と思ってしまうような非実在感を抱かせるものがあります。一流の批評家をもうならせる絵を描きながら、青森からほとんど出ることもなく、誰に見せるでもない絵を描き続ける。それは、実在の人物がいた、という情報があるからこそリアルに感じられる側面はどうしてもあると思います。

ケンのように生きられたら、と多くの人が思ってしまうのではないだろうか。何も望まず、何にも囚われず、目の前にあるもので、自分に今出来ることで満足する、という生き方。それは、出来るかもしれないことを、手に入るかもしれないものを諦めるような生き方に見えるかもしれないけど、たぶんそうじゃない。うまく説明できないけど、望まないことが結局、望んだ場合以上の何かを生み出すことがある、と僕自身が思っているからそんな風に感じるのかもしれない。

僕も、何の目的もなく、ただ書きたいというだけで文章を書き続けてきたけど、そのお陰で、自分が望んでもいなかったような現実がやってきた(詳しくは書かないが)。ケンも、もしかしたら同じなのではないか。何のため、ということもなく、ただ絵を描き続ける。そのことが、作品の質を高め、さらに物語を生み、死の間際に盛大な評価を得るに至ったのではないか。望むことで、その望んだものが手に入りにくくなる、ということは、起こりうるのではないか。そんな風にも感じた。

とにかく、ケンの存在感(ほとんど喋らないのだけど)に溢れた物語だった。

フクもまた良い。ケンを「オヤブン」と慕い、ケンを世に出すために奔走し続けてきた女。香魚子と出会ってからは、ケンの展覧会を成功させるために出来る限りのことをやった女。そんな彼女もまた、厳しい時代を生き抜いてきたのだった。東北の、厳しい貧しさの中で育ったケンとフクが、何故絵を描くことと出会い、二人がどこで出会い、日々どんな風に生きてきたのか。後半のメインとなるその辺りの物語も、実に読み応えがある。

物語を動かしていく香魚子は、恐らく最も読者に近い立ち位置の人物だろう。不自由なく育ったが、始末に負えない妻帯者との恋や、奔放な父が突然止めると言った骨董店の後始末など、どうにもならない現実に絡め取られながら生きている。その悲哀が、作品の隅々から漂ってくる。泰然自若としたケンや、何事にも前向きなフクの有り様には、正直遠さを感じる人もいるのではないか。境遇こそ様々に違えど、香魚子のような、くたびれ感とでも言うような生き方に共感できる人は多いのではないかと思う。

特に、俊紀との恋の物語は、大人の恋愛だからこそのややこしさみたいなものが非常に色濃く描かれていて面白い。妻子がいたり、パリと日本との距離だったり、俊紀の事業が傾きかけていたりと、様々な要因が絡まり合う中で、好きだとか嫌いだとかでは制御出来ない何かに翻弄される様は、読んでいて滑稽でもあり、切実さを感じもする。

時代背景や境遇などはまったく違うが、読者からすると、香魚子の人生と、ケンとフクの人生とか、様々な場面で共鳴していく。絵を介して出会った三人の人生が、時間を超えたところで折り重なっていく構成は、見事だなと感じる。

生きていくということの切実さや覚悟みたいなものに溢れた作品だ。若さを超え、人生の先が見えてきた者たちが咲かせた美しい花。奇跡的な邂逅から生まれたその花の行く末を読んでみて欲しい。

玉岡かおる「ひこばえに咲く」

ちょうかい 未犯調査室1(仁木英之)

内容に入ろうと思います。
通島武志は、身内が犯したとある事件により警察を去ることになってもおかしくなかったが、新たな辞令が下り、キャリアでありながらおっちょこちょいな女の子にしか見えない枝田千秋と共に警察庁へと向かっている。
そこで知らされたのは、これまでに蓄積された犯罪情報を元に、犯罪を未然に防ぐ任務に就く、ということだ。表向き彼らは、警察庁の外郭団体である犯罪史編纂室に所属していることになっている。しかし実際は、「繭」と呼ばれる謎めいた機器を千秋が操作することで、データマイニングの技術によって犯罪が起こりやすそうな状況を探り出し、そしてその発生を未然に防ぐ、という任務を行うのだ。
何がなんだかよく分からないまま、武志は、叩き上げの刑事の中では伝説的な存在となっている魚住桂樹、パソコンオタクである木内亮介、「繭」のナビゲーターである金田りえらと共に、一人の少年と、大規模な落書き事件から始まる混迷に身を投じることになるのだが…。
というような話です。

非常に面白そうな設定と展開ではある。物語がどうなるのか、という興味は確かにある。しかし僕には、まず「繭」がなんなのかまったく理解できなかったので、その時点でかなり挫折してしまいました。

「繭」というのは、ゲームセンターにあるような、体ごと入る筺体みたいなものがある(というのが僕のイメージ)で、その中に千秋は入ってるようだ。でも、武志と桂樹も入っている感じもする。
それで、その「繭」の中で彼らが何を見ているのかが、全然想像できない。ドラえもんでタイムマシンに乗ってる時に彼らがいるような空間みたいな、現実とは違うデータによって組み上げられた空間にいるんだろう、みたいなイメージなんだけど、でもどうも現実の映像(と言っていいのか)も映るようだ。「繭」の中で、千秋が一体何をしているのかも不明だ。恐らくそれは、物語の核心と関わりがあるだろうから分からなくて当然なのかもしれないけど、しかし登場人物の中に、読者と同じ困惑を体験してくれる人物がどうもいなくて(武志も桂樹も、まったく戸惑っていないわけではないが、千秋が何をしているのかという部分への違和感がどうも見えてこない)、僕は置き去りにされているような感じがした。

「繭」の中で、現実と変わらない映像を見ることが出来る、と思いながら読んでいる僕としては、千秋や武志や桂樹が「今いる場所」が、「繭から見た光景」なのか、「彼らが現実にその場にいる」のか分からなくなる場面もあった。「繭」から見てるんだろうなぁ、と思いながら読んでたらそうではなかったということがあった。

「繭」そのものの描写もなかなか理解し難かったのだけど、「繭」によって彼らが何をしようとしているのかもイマイチ分からなかった。彼らの目的が、犯罪を未然に防ぐことだ、ということはきちんと理解している。しかしそうではなくて、「繭」を使って彼らが何をしたいのかが分からない。「繭」が「犯罪を未然に防ぐこと」とどう関わっているのかが、僕にはイマイチ見えてこないのだ。武志と桂樹は、元々現場の刑事だから、足を使って情報を集めてくる。亮介は常軌を逸したパソコンオタクだから、街中の防犯カメラや他人の携帯電話なんかにも侵入して勝手に情報を取ってくることが出来る。彼らがやっていることは、やっていることと成果が結びつきやすい。しかし、「繭」がどう絡んでいるのか。千秋が「繭」で何をして、それが「情報を取る」という点においてどんな役割を果たしているのかという点が、どうにもうまく掴めなかった。

「繭」の存在を除けば、千秋のキャラクターも面白いし、武志が陥っている状況のジレンマも凄まじいし、少年と落書きから始まった物語が壮大な展開を見せる流れも面白いと思う。しかし、「繭」だ。「繭」のことが、僕にはどうにも理解できなかった。

「繭」のことをもう少し伝わりやすく書いてくれるか、あるいは「繭」という設定を丸ごと取り除いてもらえたら、面白く読めるような気がしました。

仁木英之「ちょうかい 未犯調査室1」

月の満ち欠け(佐藤正午)

物理学には、「ひも理論」という理論がある。これは、原子というのは、ひも状のものが振動することで異なる性質を持っているのだ、というようなところからスタートする理論だ(詳しくは知らない)。ひも理論は、理論としてとても美しいようだ。その美しさを、僕自身は理解することは出来ないが、そういう記述を頻繁に見かける。もしこの理論が正しいとしたら、世界のあり方を説明するのにぴったりな美しさだ、と。

しかし、一つだけ問題がある。それは、問題となる「ひも」があまりにも小さいため、現在の技術では観測することが不可能なことだ。もしひも理論が正しいとしたら、今よりも遥かに小さなものが見える顕微鏡を開発しなければならないが、それは技術的に不可能なのではないか、という意見もあるようだ。

さてこの場合、ひも理論の扱いはどうなるのだろうか?

科学の世界では、証明できない理論は、たとえその理論がどれだけ整合性のとれた素晴らしいものであっても意味をなさない。あくまでも、証明できることが大事なのだ。ひも理論は、「ひも」を観測することが出来ない。よくは知らないが、ひも理論が予測する何らかの効果を測定することも、きっと難しいのだろう。

とはいえ、証明できないからひも理論は成り立たない、ということでもない。実際に、僕らが生きているこの世界は、ひも理論によって成り立っているのかもしれない。けれど、僕らはそれを確認する方法を持たない。そういうことだ。

さて、生まれ変わりというものについて考えてみよう。これは、証明できるだろうか?

前世の記憶がある、知っているはずのない知識を喋った、クセが同じだ…というようなデータを取ることは出来るだろう。しかしそこから、「生まれ変わり」という現象を証明することは難しい。

例えば、知っているはずのない知識を喋ったとか、前世の記憶があるとかいう話には、こんな理屈をつけることだってできる。

「脳」と「記憶」が、「鍵」と「鍵穴」のような関係なのだとしよう。そして「記憶」というのは、脳内にただ留まっているわけではなく、常時空気中に放出されているとしよう。通常、「脳」と「記憶」は、形状が一致しなければ認識しない。Aさんの「脳」とAさんの「記憶」は形状が一致するので、AさんはAさんの「記憶」を脳内で再生できるが、Bさんの「脳」とAさんの「記憶」は形状が一致しないので再生できない。

しかし、極稀に、他人なのに「脳」と「記憶」の形状が同じ人がいる、とする。その場合、空気中に漂っている、まったく知らない誰かの「記憶」が、自分の「脳」で再生されることになる。

これが、前世の記憶や知らない知識の混入の説明である、と主張することも出来る。無理矢理考えれば、何故そんな仕組みが人類に採用されているのかも説明できる。人間は、突然死ぬ可能性がある。その場合、その人の思考は失われてしまう。しかし、「脳」と「記憶」がこういう仕組みになっていれば、いずれ誰かがその思考を拾う可能性がある。知識や思考という、人間を人間足らしめている要素を無益にしないための仕組みなのだ。もしそうなら、突然インスピレーションが湧くとか、今まで考えたこともなかった発想が浮かぶ、なんていう状況の説明も出来るかもしれない。

なにも、僕自身がこんな話を信じているわけではない。しかし、仮に「生まれ変わり」という仮説を信じるのであれば、僕が提唱した「脳・記憶仮説」を否定する理由もないはずだ。科学では扱えない理論であり、証明できないという点で両者は等価なのだから。

与えられた条件を満たす仮説など、恐らくいくらでも思いつけるはずだ。その中で「生まれ変わり」という仮説だけが特別な理由はない。あるとすれば、その仮説が僕らにとって受け入れやすく馴染みやすい、というぐらいなものだ。しかし、物理や化学の世界を少し知っていれば、僕らが生きているこの世界が、あまりにも僕らの日常感覚からかけ離れた理屈で動いていることを知ることが出来るだろう。受け入れやすいからと言って正しいとは限らないのだ。

だから、僕にとって「生まれ変わり」という現象は、科学的に証明する手立てがないのだから議論する価値はない、となる。もちろん、いずれ証明できる日が来るかもしれない。それはひも理論も同じだ。しかし、少なくとも今は証明できない。それは結局、いくらでもありえる仮説の一つに過ぎない、ということだ。

内容に入ろうと思います。
小山内堅は、八戸から東京までやってきた。ある少女に会うためだ。緑坂るりという7歳の少女は、会ったこともない小山内のことを「知っていた」。
何故なら彼女は、14年前に事故死した小山内の娘・瑠璃の生まれ変わりだ、というのだ。
小山内は、瑠璃のことを思い出す。ある時妻の梢が、瑠璃がおかしい、という。謎の高熱にうなされた後のことだ。ぬいぐるみに、「アキラ」という名前をつけている、という。小山内には、それのどこがおかしいのか分からない。しかし妻は重ねて言う。瑠璃は、黛ジュンの歌を口ずさんでいたんですって。デュポンのライターを見分けたんですって。ママ友や先生から聞いた話を小山内に聞かせる。小山内は、大したことじゃないだろう、と考えていた。その後、瑠璃は突然失踪した。彼らが住む千葉から高田馬場まで、小学生の身で一人で行ったという。その行動の意味はよく分からないが、小山内はそれでも瑠璃を特別おかしいと思うことはなかった。
事故で妻と娘を一遍に亡くした小山内は、長い時を経て、三角哲彦と名乗る一人の男性の訪問を受ける。14年前の妻と娘の葬儀にも顔を出してくれたらしいが、小山内は覚えていない。非の打ち所のない三角の経歴に、一点だけ曇りがある。大学を5年掛けて卒業しているのだ。
その空白の一年の話を、三角は語る。レンタルビデオ屋でアルバイトしている時に出会った、一人の女性の話を…。
というような話です。

評価の難しい作品だ。個人的には、さほどグッと来なかった、という感じだ。

偉そうな評価になるが、よく出来ている、とは感じる。生まれ変わりという、まあ言ってしまえば胡散臭い題材を、うまく物語に落とし込んでいる。様々な人物が登場するが、物語があまり複雑にならないようにうまく調整しているようにも感じられる。

ただ、僕の感触としては、リアルに寄せすぎたが故に中途半端になってるような気がしてしまった。

「生まれ変わり」という非現実的な題材ならば、その設定をフルに活かしてもっと空想の羽根を広げてもいいんじゃないか、という気がした。「生まれ変わり」という題材をリアルに描き出そうとするが故に、物語の広がりみたいなものが限定的になってしまっているように感じられる。巨人が狭い箱の中で伸びをしようとしているような作品に感じられた。

生まれ変わっているのかどうか、という点が、ミステリのような形で後に後に引き伸ばされているように感じられるのも、個人的には難しいのかもしれないと感じた。冒頭で書いたように、「生まれ変わり」という現象は絶対に証明出来ない。物語の中であれば、読者にそう錯覚させる風に描き出すことは出来るはずなのだが、本書ではそれを最後の最後までしない。「本当に生まれ変わっているのかどうか」という点を、謎のように引っ張っているように感じられてしまった。もちろん、それが作者の意図であるのかもしれない。しかし僕には、その部分で物語を引っ張っていくのは厳しいのではないか、と感じてしまった。何らかの形で、物語の早い段階で、「生まれ変わっているのだ」ということを打ち出してしまって、それを前提として物語が進んでいく方が、個人的には好きになれるような気がする。

生まれ変わっているかどうかで物語を引っ張っているように感じられるのは、生まれ変わっている本人たち視点で物語が進んでいかない、という部分も大きい。基本的には、生まれ変わっている者の周囲の人間たちの視点で物語が進んでいく。だからこそ、生まれ変わっている者たちの内面がなかなか見えてこない。生まれ変わっているのかもしれない、という葛藤を抱える周囲の人間の苦悩みたいなものを描く、という点ではこの物語は成功している。しかし読みながら僕は、生まれ変わっている者たちが何をどう感じているのか、という部分に関心が向いた。もちろん、それはこの物語で著者が書きたかったことではないのだろうし、読者に想像してもらいたい部分なのだろう。ただ、僕の好みではないなぁ、と思ってしまった。

この物語の中で僕が面白いと感じたのは、三角哲彦の大学時代のパートだ。この部分だけが、この物語の中で唯一「当人同士の物語」だと言えるかもしれない。そこに、切実さを感じることが出来る。彼らの物語には生まれ変わっている「かもしれない」、の部分がないので、スッと受け入れることが出来るのだ。

僕としては、もう少し違う形で物語が進んでくれたら良かったな、と感じられる作品だった。

佐藤正午「月の満ち欠け」

哲学的な何か、あと科学とか(飲茶)

久々に、ド級に面白い作品を読んだ。
自分の趣味のど真ん中、ということももちろんあるが、面白かった理由はそれだけではない。

正直なところ、本書に書かれている事柄は、ほとんど別の本で読んで知っていることばかりだった。そういう観点から本書を捉えれば、面白い本ではなかった、という感想になってもおかしくはない。

けど、そうはならなかった。
何故か。
それは、本書が「科学のびっくりする話を集めてみました」というような造りの本ではないからだ。
本書にはきちんと、「科学とはどういう営みなのか?」を伝えたいという、強い意志が込められているのだ。

『などなど、哲学的な視点で「科学的な正しさ」を問いかけていくと、実はそれがかなり危ういものだと気づかされるだろう。いままで確かだと思っていた景色がガラガラと崩れる瞬間は、怖いけども、ちょっぴり楽しかったりもする。』

本書は、主に科学のエピソードを様々に取り上げながら、「科学とは何か?」を伝えようとする。そういう意味で本書は、日常を生きる僕たちが読んでおくべき一冊だと感じるのだ。

何故なら、僕たちの日常は「科学的なもの」に取り囲まれているにもかかわらず、僕たち自身の手や目でその「科学的なもの」を確認することが出来ないほど複雑になってしまっているからだ。

たとえば。築地移転において豊洲の土壌汚染の問題が発覚した。多くの国民は、築地市場は既に耐震性や衛生面で問題を抱えているというのに、豊洲の土壌汚染の方を重視し、豊洲への移転を「安全ではない」と判断しているような印象がある。そしてそういう中で、土壌汚染を調査している科学者のチームにマスコミの人が「安全かどうか」を問うている場面をテレビで見かけて、それは科学者に向ける問いではないなぁ、と僕は感じてしまうのだ。

人は「科学」と聞くと、現実をはっきりと理解し、物事を明確に判断するものだという印象を受けるようだ。どんな仕組みかは分からないが、「科学」というブラックボックスを通せば、世の中のあらゆることに白黒つけることが出来る、と思っているようだ。だからこそ、豊洲の問題についても、科学者に対して「安全かどうか」を問う、という行動が生まれるのだ。

しかし、「科学」というのはそういう営みではない。本書を最初から最後まで読めば実感できるだろうが、「科学」というものを通せば通すほど、余計に目の前の現実が分からなくなっていくのだ。「科学」というのは、物事をくっきりさせるどころか、より深い混沌へと導くものでもあるのだ。

本書を読み、「科学」というのがどんな営みなのかを理解すれば、「科学」というブラックボックスに放り込めば何でも分かる、なんていう幻想は消え去るだろう。

科学者は、「科学」の限界をきちんと認識している。認識しているからこそ、「科学」という「道具」を使って、有益な成果を生み出すことが出来るのだ。本書は、その限界の一端を垣間見せてくれる作品だ。「科学」に出来ることと出来ないことをきちんと見極めることで、「科学的に正しい」という言葉が何を意味しているのかきちんと理解できるようになるだろう。驚くかもしれないが、「科学的に正しい」というのは必ずしも、「現実がそのようになっている」ことを保証しないのだ。

『そもそも、科学の役割とは、「矛盾なく説明でき、実験結果を予測できる理論を作ること」である。
だから、ぶっちゃけ、「観測する前は波!観測されると粒子に大変身!」ということが、「本当に起きているかどうか」なんてことは、科学にとって、どうでもいいことなのだ』

この発言の背景を少しだけ説明しよう。量子力学という物理の分野に、二重スリット実験という有名な実験がある。詳細は省くが、その二重スリット実験によって、「光は波でもあり、同時に粒子でもある」と考えなければ説明がつかない実験結果が得られたのだ。これは、僕たちの日常感覚からすれば到底受け入れることが出来る考え方ではない。そもそも、波でもあり粒子でもある状態、なんて誰も想像出来ない(これは、そう主張している科学者にしても同じことだ)。

しかし、「光は波でもあり粒子でもある」と考えると、目の前の実験を矛盾なく説明でき、また何らかの実験をした場合の結果を予測出来るのだ。

だったら、とりあえずそう考えようぜ、というのが「科学」という営みのスタンスなのだ。

『だから、決して科学は、「コペンハーゲン解釈(注:光は波でもあり粒子でもある、という考え方)が説明するとおりに、現実もホントウにそうなっている」とは述べていないことに注意してほしい』

恐らくこれは、あなたが抱いていた「科学」というものに対するイメージを大きく変えるのではないかと僕は思う。「科学」というのは、目の前で起こっている現象をきちんと理解した上で理論を組み立てるのだ、と思っていたのではないだろうか。でも、そうではないのだ。目の前で何が起こっているのかはまったく分からないが、とりあえずこう考えると矛盾しない理論が作れるし結果の予測も出来るから、じゃあそういうことが起こっていることにしようぜとりあえず、と考えるのが「科学」なのである。

『だから…。
この世界は、ホントウはどうなっているの!?世界は、いったい、どのような仕組みで成り立っているの?
という、古くから科学が追い求めてきた「世界のホントウの姿を解き明かす」という探求の旅は、科学史のうえでは、すでに終わっているのである。
科学は、世界について、ホントウのことを知ることはできない。
「ホントウのことがわからない」のだから、科学は、「より便利なものを」という基準で理論を選ぶしかないのだ』

信じられないかもしれないが、これが現在の「科学」が行き着いた到達点である。科学者は、この限界についてきちんと理解をしている。だから、「科学」の範囲で出来ることを探し、日々新たな成果を生み出している。しかし、科学者ではない者は未だに、「科学」というものを万能であるかのように感じてしまう。「科学」というブラックボックスに放り込んだものは真実の姿を見せるのだ、と思ってしまう。

ここに、大きなギャップがある。このギャップは、科学者にとっても科学者でない者にとっても不幸しか生まない。このギャップを埋めることが、「科学」が人類にとって有用であり続けるために最も重要なポイントだと言ってもいいだろう。

ここまで読んで、なーんだ「科学」って役立たずじゃん、と思った方がいたとすれば、それは違うと僕は言いたい。確かに、「科学」では「世界のホントウの姿」を明らかに出来ないかもしれない。しかし、「科学」が人類に様々な恩恵や成果を与え続けてきたし、これからも与え続けるのだということだけは間違いない。結局のところ、「科学」に何を求めるかの問題なのだ。「科学」に幻滅したとすれば、それはあなたが「科学」に対して望んでいるものは的外れだ、ということに過ぎない、ということが、本書を読むと理解できるだろう。「科学」という営みが人類全体にとって有益であるためには、「科学」によって出来ることは何で、出来ないことは何なのかということについて、社会全体で共通の認識を持つことだろう、と僕は思う。

そういう意味で、本書はむしろ、「科学」が苦手だったり嫌いだったりする人に読んで欲しいのだ。あなたが思い込んでいる「科学」の姿を打ち砕き、「科学」に何を求めるべきなのかをきちんと理解してもらうために、本書を読んで欲しい。

さてここまでで僕は、「科学とは何か?」というものを、「科学が担うべき役割」という側面から描いてきた。本書の中では、また別の側面から「科学とは何か?」を描き出す。それが、「科学でないものとは何なのか?」という側面だ。

よく「エセ科学」や「ニセ科学」という言葉を見かけることがあるだろう。これらはもちろん、「科学ではない」という意味で使われているのだが、それでは「科学ではない」とは一体どういう意味だろうか?

これも、きちんと理解しておくべきだろう。日常の中には「エセ科学」が溢れている。目の前の事柄が「科学」なのか「エセ科学」なのかを見極めるための指標を知っておくというのは、とても大事なことではないかと思う。

「科学」と「エセ科学」を区別することは、実はとても難しい。というのも、「エセ科学」であっても、どこからどう見ても矛盾しない理論、というのはいくらでも存在するからだ。

ここで少し、「非ユークリッド幾何学」について話そう。

本書の前半で、「公理」という項目がある。「公理」というのは、「あまりにも当たり前だから証明しなくてもいいよね」という法則だ、と思ってもらえたらいい。例えば、「線分の両端は無限に延長できる」などだ。これは、どう考えても当たり前だろう。

さて、その「公理」の中に、「二つの平行線は互いに交わらない」というものがある。これも、そりゃあそうだろうよ、と思うくらい当たり前の法則だろう。数学の根本を成す「公理」は5つあり、平行線は交わらないという公理は「平行線公準」と呼ばれている。紀元前からこの「公理」をベースに数学というのは組み立てられており、5つの「公理」をベースにした数学を「ユークリッド幾何学」と呼んでいる。

1800年頃、あの天才数学者・ガウスが、この「平行線公準」を満たさないとしても、つまり「二つの平行線が互いに交わる」と考えても、矛盾のない幾何学の体系を作り出せることが分かった。それは「非ユークリッド幾何学」と呼ばれ、実は僕らが生きている現実により近いのは「ユークリッド幾何学」ではなく「非ユークリッド幾何学」であることも判明したのだ。

『このことの最大の問題点とは、
「適当に、好き勝手に、公理を決めてしまっても、無矛盾な理論体系をいくらでも作り出せる」
ということなのだ』

「非ユークリッド幾何学」の発見によって、「絶対的な真理の記述」というのが幻想であり、あらゆる学問の理論体系は、「ある一定の公理をもとに、論理的思考の蓄積で作られた構造物」と見なされるようになったのだ。

さて、話を「エセ科学」に戻そう。「適当に、好き勝手に、公理を決めてしまっても、無矛盾な理論体系をいくらでも作り出せる」ということが判明した以上、理論がそれ自体で矛盾を孕んでいるかどうかを、「科学」と「エセ科学」の境界にすることは出来なくなった。

これは困った。この問題が浮上した当時、怪しげな理論がどんどん生まれ、それらの中から「科学ではないもの」を排除する必要に迫られていたのだが、誰もその境界を示すことが出来なかったのだ。

そこで登場したのが、ウィーン学団。彼らはウィーン大学の哲学教授を中心としたグループで、「論理実証主義」によって「科学」と「エセ科学」を見極めてやる、と主張したのだ。

さて、その結果どうなったのか。なんと、「科学と擬似科学のあいだに、境界線はない。ていうか、擬似科学しか存在しない!」という結論になってしまったのだ。多くの科学者が「科学」だと考えているものまで、ウィーン学団にかかってしまえば「エセ科学」扱いされてしまったのだ。

これも困る。なんとか「科学」と「エセ科学」に境界を見つけることが出来ないだろうか。

そこで登場したのがポパーである。ポパーが提唱したのは、「反証可能性」というものだ。大雑把に言えば、「反証可能性を持つものが科学であり、反証可能性を持たないものがエセ科学だ」とポパーは主張したのだ。

では、反証可能性とは何か。噛み砕いて言えば、「その理論が間違ってると指摘される可能性」のことだ。

例を挙げて説明しよう。昔読んだ本には、こんな例があった。透視が出来る、という男がおり、とある教授が実験を行っている。実験の詳細は何でもいいのだが、とにかくその男が透視が出来たと示せるような実験を、観客の前で行うのだ。
しかしその教授は、実験の前にこんなことを言う。
「もしこの部屋の中に、この男の透視能力を疑う者が一人でもいれば、彼は透視能力を発揮できない」
さて、この状態で実験をした場合、どういうことが起こるだろうか。
透視が出来た、という結果が出れば、それはいい。問題は、透視が出来なかった、という結果が出た場合だ。この時教授は、男に透視能力がないことを認めないだろう。何故なら教授は、「透視が出来なかったのは、この部屋に彼の透視能力を疑う者がいたからであり、この結果は彼の透視能力を否定するものではない」と主張できるからだ。

さて、この実験の場合、「透視が出来る、という主張が間違っていると指摘される可能性」はあるだろうか?透視が出来た、という結果が出れば正しいことになるし、透視が出来なかった、という結果が出れば観客が疑っていたせいにする。つまり、どんな結果が出ても、「透視が出来る、という主張が間違っていると指摘される可能性」はゼロなのだ。

この状態を「反証可能性がない」と言う。つまりこれは、「科学ではない」「エセ科学」だと考えていい。

『一般に「科学」と言えば、「明らかに正しいもの」「間違っていないと確認されたもの」というイメージを持ちがちであるが、実はそうではないのだ。面白いことに、「科学」であることの前提条件とは、「間違っていると指摘されるリスクを背負っているかどうか」なのである』

これは非常に面白い観点だと思わないだろうか?この視点もまた、「科学」というものの捉え方を一変させるだろう。

もちろんこの反証可能性という考え方も、決して万能ではない。究極的には、すべての科学理論は反証不可能だと言えてしまうのだ。だから本書には、こんな風にも書かれている。

『つまり、科学理論とは、
「うるせぇんだよ!とにかくこれは絶対に正しいんだよ!」
という人間の<決断>によって成り立っており、そのような思い込みによってしか成り立たないのだ』

とはいえ、反証可能性というのは一つの指標になることは間違いない。法律でもルールでも宗教でも何でもいい、目の前に何らかの理論めいたものがあった時に、「この理論が「間違っている」と指摘できる可能性はあるだろうか?」と考えてみよう。どう考えても「間違っている」と指摘できない場合、それは怪しげな理論だ、と思っていいかもしれない。

ちなみにこの「反証可能性」は、科学には当てはまるが、数学には当てはまらない。数学の場合、「数学的に証明された理論」は、未来永劫絶対に覆ることはない。もちろん、証明そのものに欠陥があるような場合は別だが、その証明が完璧であれば、数学の理論は覆らない。これが、「数学的に正しい」と「科学的に正しい」の決定的な違いだ。「科学的に正しい」というのは、概ね「現時点ではそう考えられている」という以上の意味を持たないが、「数学的に正しい」というのは、「100%正しい」と同じ意味である。恐らく数学や科学にあまり親しんでこなかった人には、この違いをうまく捉えられていないのではないかと思う。本書を読んで、特に「科学的に正しい」というのがどういう状態を指しているのか、実感して欲しいと思う。

僕たちは、「正しい」という言葉をあまり深く考えて使うことはない。しかし、「正しい」にも様々なグラデーションが存在し、様々な種類がある。本書は、「科学」という営みを「哲学」という切り口で眺めてみることで、「科学的に正しい」ということの意味合いを探っていく本だ。

難しい本に思えるかもしれないが、いくつか引用した箇所の文章を読んでもらえれば何となくの雰囲気は恐らく伝わるだろう、とても読みやすい本だ。扱われている内容は非常に高度で複雑だ(なにせ、科学者自身でさえも理解できていないことなのだから、難しいのは当然だ)。しかし、その難しさの本質をうまく取り出し、分かりやすく易しく説明をしてくれている。本書を理系の人間が読めば、漠然としか理解できていなかった数学や科学の複雑な状況を理解し、疑問が氷解していくことだろう。そして本書を文系の人が読めば、自分が「科学」をどんな風な思いこみで見ているのかが分かり、そしてその思いこみがかなり薄まるのではないかと思う。科学や哲学が嫌いだから本書を読まない、のではなく、嫌いだからこそ本書を読んでみる、そういう風に思って欲しいなと思う。

実に素晴らしい本だった。

飲茶「哲学的な何か、あと科学とか」

不発弾(相場英雄)

もし自分がバブルの時代に生きていたら、馬鹿げた投資に足を突っ込んでいただろうか、と考える。
現代から見れば、バブルの時代がいかにイカれていたかというのは誰だって分かる。しかし、「バブル」などという名前さえ付いておらず、土地の値段や株価は上がり続けるのが当たり前だ、と誰もが思っていた時代に生きていたら、どうだっただろう、と思うことがある。

今の自分の性格であれば、きっとその時代に生きていても、きっと投資には手を出していなかったように思う。絶対、とは言い切れないが、「自分がきちんとルールを把握することが出来ない事柄に手を出すことが怖い」「周りが盛り上がれば盛り上がるほど、それから離れようと意識する」という僕自身の性格を考えれば、アホみたいな投資に手を出して借金を抱えるようなことはきっとなかったに違いない。

そんなことを考えながら、じゃあ今はどうだろう?と考える。時代には、リアルタイムで名前が付くこともあれば、その時期を過ぎてから名前が付くこともある。先程も書いたように、「バブル」というのはたぶん、「バブル」だった時期の呼称というよりは、「バブルが弾けた」というような形で、「バブル」の時期の後に名前が定着したようなイメージがある。

今僕たちが生きているこの時代も、過ぎてしまえば何らかの特徴的な名前が付くような、そんな時代であるかもしれない。その時代を生きている人には気づかない、後から振り返ってみればみんな何をしてたんだろうね、と感じるような、そんな「狂乱」の中に僕らは生きているのかもしれない。そうである可能性は、どんな時代に生きる人にもありえるのだ。

世の中がそうだと言っているからと言って、その事柄の正しさが裏付けられる、なんていうことはありえない。僕らも、知らず知らずの内に「不発弾」を抱えてしまわないように、注意しなくてはいけないと思う。

内容に入ろうと思います。
警視庁捜査二課は、経済犯や知能犯を扱う部署だ。そこで管理官を務めるキャリアの小堀は、新聞で取り上げられている三田電機に違和感を覚える。三田電機は、創業から100年以上の歴史を持つ老舗企業で、洗濯機などの白物家電や半導体製造、あるいは原子力発電所など多岐に渡る事業を手がける、日本屈指の総合電機メーカーである。その三田電機では先ごろ、1500億円を超える“不適切会計”が発覚したばかりだ。小堀は、10年間で1500億円というのは、“不適切会計”ではなく、立派な“粉飾”ではないかと感じている。年上の部下であり、捜査二課のエース捜査員でもある今井巡査部長と共に、三田電機について調べてみることにした。
その過程で掴んだのが、古賀遼という男の存在だ。何者なのかははっきりしないが、古河遼について調べ始めると、彼が関わった企業や信金などで様々なトラブルが起こっていたことが判明する。古賀は北九州の炭鉱町出身だが、その地元信金の重鎮が、「不発弾」という謎の言葉を遺して自殺していることも判明した。小堀らは、古賀を追うことに決めた。
古賀遼こと古賀良樹は、証券会社に勤めていた先輩の話を聞き状況、中堅どころの証券会社の場立ち要員となった。立会場にて手振りで売買を成立させる仕事を長く続けた。そこから縁あって別のステージへと進むことが出来た古賀は、日本経済の発展と凋落に合わせながら、その時々で企業会計の世界で汚れ仕事を引き受けてきた。
まさに古賀こそが、日本中に「不発弾」を埋め込んだ張本人と言ってもいいのだ…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。扱われているテーマはちょっと難しい部分を含んでいて、その点はやっぱり理解がかなり困難です。そもそも短い描写で説明しきれる話ではないでしょう。その難しい部分をどうしてもきちんと理解しないまま読み進めるしかない、という点が唯一難点と言えば難点ですけど、全体的に非常に面白く読ませる作品だと感じました。

本書で描かれる三田電機は、明らかに東芝がモデルになっています。1500億円という巨額の損失隠しが何故行われたのか、そしてそれが何故隠されたままで在り続けたのか、そしてなぜ「粉飾」ではなく「不適切会計」と言い換えられたのか…。もちろん本書は小説であり、現実をそのまま引き写したものではない、という点は注意しなければなりませんが、なるほど、あのニュースの背景にはこんなことがあったのか…と驚かされる思いがしました。

本書を読むと、東芝の“不適切会計”が氷山の一角であるということがよくわかります。本書のタイトル通り、「不発弾」が日本中に眠っていて、いつどこでそれが爆発するのか、ほとんどの人が知らないままでいる。細かな部分まで完全に理解できているわけではないのだけど、本書を読む限り、日本が直面している状況は非常に深刻なのではないか、と感じざるを得ません。

「金」というのは何なのだろうな、と考えさせられます。

僕はいつも、「金持ちにはなりたくない」という発言をしています。もちろん、生活に困るような状況に陥りたくはありませんが、日常の生活がほどほどに過ごせるお金があれば、それ以上のお金を強く望む気持ちは特にありません。実際僕の年収は、同世代の平均年収と比べて大分低いと思いますけど、とりあえず生活していく分には特に不満もないので、あとちょっとあると楽だな、とは思いますけど、無闇矢鱈にお金が欲しいとは思いません。何らかの仕事や成果に対する対価としてもらえるのなら、仕事や成果を評価してもらえた、という側面もプラスされるのでありがたいのだけど、何の意味もなくポンと大金が目の前に現れたら、それを喜べるのかどうか、ちょっと分かりません。

というのも、お金持ちになればなるほど、お金を奪われるリスクに対する対処をしなければならないと思ってしまうからです。その余計な心配をしたり、奪われないために様々な知識を身につけたりする労力が、お金を得るというプラスと見合うのかどうか、僕はいつも疑問に思ってしまいます。

本書で描かれる人々も、結局のところ、大金を扱うだけの知識や技量が足りない人間が多い、ということなのだと思います。古賀を含めた、盤面全体を見渡せるごく一部の人間だけがその能力を有し、それ以外の人間は踊らされているだけ。マネーゲームというのは結局そういうものなのだろうなと思ってしまいます。

金持ちになりたいという人は、なればなるほど金を奪われるリスクが高まる、ということを意識出来ていないのではないか。僕にはそんな風に思えることがあります。

それ自体は、まあいいでしょう。リスクを見なくて困った事態に陥るのが当人であるなら、問題ありません。ただ、本書で描かれているのは、リスクを無視して踏み出したことで巨額の損失を被った場合、その損失を自分以外の何かのせいにする、という企業のあり方です。こういうあり方は、改められなければならないだろうな、と感じます。

僕らが普通に生きている限り見えることのない現実を見事に切り取った作品だと思います。

相場英雄「不発弾」

ハリー・クバート事件(ジョエル・ディケール)

嘘を吐くつもりがなくても、結果的に嘘になってしまうことはある。
その時、それが嘘であるとはっきりと言うことが出来れば、世の中の色んな問題は起こらずに済んだかもしれない。
しかし、なかなかそれは勇気の要ることだ。

嘘を吐き続けるのは、とても苦しいことだ。平然と嘘を吐ける人間も世の中にはいるだろうが、大抵の人は、自分の内側に嘘を抱え続けることに耐えきれない。しかし、真実を明らかにすることは、さらなる苦痛を伴う。どちらにも進むことが出来ない状態は、とてもつらい。

嘘は、日常のあらゆる場所にある。舞台にも状況にも関係性の中にも。すべての嘘を取り除こうとすれば日常が成り立たないし、かといって些細な嘘でも積み重なれば致命的な事態を引き起こしもする。

僕は、なるべく嘘をつきたくないと思う。正確に言えば、バレるような嘘はつきたくない。嘘をつくのであれば、絶対にバレないように、一生抱えるつもりでつく。そうでない場合には、嘘にならないように努力する。

しかし…。もし僕が、この作品の舞台であるオーロラの町に住んでいたら…。まったく嘘をつかないで過ごすことが出来ただろうか、と思う。誰もが、自分が放つ些細な嘘の中に、自分にとって大切だと思える何かを忍ばせて、長い年月の間現実を歪ませてきた。

その歪みが一気に噴出する時…。最悪な形で真実が明らかにされる。

内容に入ろうと思います。
マーカス・ゴールドマンにとってハリー・クバートは人生の師と言っていい存在だ。1500万部という金字塔とも言える売り上げを記録した「悪の起源」という作品を書いた偉大な作家だからとか、彼から小説を書くための心得を教わったから、というだけの理由ではない。まさしくマーカスは、ハリーと出会ったことで、作家として、そして人間として歩むことが出来たのだ。
ハリーは長年、オーロラという小さな町の外れにある邸宅で一人で暮らしてきた。マーカスは、デビュー作が200万部の大ベストセラーとなり、一躍時代の寵児となったが、しかし二作目が書けなくて苦しんでいた。出版社とは、五作分の契約をしている。二作目以降が書けなければ、契約違反で訴えられてしまう、そんな追い詰められた状況にあった。
そこでマーカスは、オーロラに住むハリーを訪ねた。マーカスが大ベストセラー作家となってからは久しぶりのことだった。
そしてその日マーカスは、とんでもないものを見つけてしまう。「悪の起源」などという傑作を書けた理由を知りたくてハリーの書斎を漁ってしまったマーカスは、そこで、ハリーが34歳の時に15歳の少女とつき合っていた証拠となるものを見つけてしまったのだ!ハリーがつき合っていたノラ・ケラーガンという少女は、1975年の8月のある晩に失踪している。謎めいた失踪であり、2008年現在もノラの行方は分かっていない。
書斎を漁っていたことを知ったハリーは激怒し、マーカスにこのことを口止めした。しかしその数ヶ月後、信じられない出来事が起こった。
ハリーの邸宅の庭から、ノラと思われる少女の死体が発見されたのだ。死体と一緒に、なんと「悪の起源」の原稿が埋められており、その原稿には、<さようなら、いとしいノラ>と書き込みがあった。
すぐさまハリーは逮捕された。アメリカを代表するベストセラー作家の逮捕に、全米中が騒然となった。また、「悪の起源」が15歳の少女との禁断の愛が描かれた作品だと知った人々は落胆し、「悪の起源」は出版停止に追い込まれるほど評判が下がった。ハリーは、この一件ですべてを失ったかに思えた。
しかし、マーカスだけはハリーの無実を信じた。マーカスは、警察とは別で独自の捜査を続けた。33年前のあの夏、このオーロラの町で一体何が起こったのか。執念の捜査で少しずつ真相の断片を掴みはじめていったマーカスは、やがて取材によって判明した事実をデビュー2作目として発表することになるのだが…。
というような話です。

評価の難しい作品だけど、とりあえず難しいことを考えなければ、とにかく面白い作品だった!外文にしては圧倒的に読みやすかったし、これだけの分量の作品を一気読みさせる筆力はなかなかのものだ。

とはいえ、小説の構成という意味で言えば厳しい部分もある。決して悪いわけではないが、時系列も視点人物も場所もあっちこっち入り乱れて、非常に断片的に描かれる構成で、それこそ一気に読まないと物語の筋を追いにくくなるようにも思う。この作品、内容はメチャクチャ面白いんだけど、この構成が難ありかなぁ、という感じが僕はした。

ストーリーは、本当によく出来ていると思いました。物語のかなり早い段階でハリーが疑われ、ハリーが真犯人だと考える以外にないような状況が提示される。しかしそこから地道な捜査を続けていくことで、オーロラという町に住む住民たちの様々な“秘密”が明らかになっていく。そして幾重にも重なったそれらの“秘密”をかいくぐった先に、事件の真相がある。

真実は少しずつしか明らかにならないのだけど、物語の中に色んな要素が詰め込まれているので、謎が少しずつしか明らかにならなくても読まされてしまう。決して謎だけで引っ張るタイプの作品ではないのだ。

何よりも本書の一番の魅力は、ノラという少女だろう。ノラは基本的には、人々の回想の中にしか登場しない。しかし、様々な人間が語るノラの姿を知る度に、どんどんノラという少女のことが気になってくる。色んな面を見せる少女だが、ハリーへの愛、という点で非常に真っ直ぐ貫かれたものがある。ハリーのことを心の底から愛している、という点がブレないまま、それを貫くためにどう行動すべきかが表に出る。その表に出た行動だけ見ると、ノラという少女は非常にチグハグな存在に思えるのだけど、ブレない想いがあるという前提でノラの行動を見れば、ノラという少女の純真さが非常に良く伝わってくる。

また、ハリーとマーカスの師弟関係もとても良い。ハリーはマーカスをきちんとした作家にすべく様々なことを教え、マーカスは“できるやつ”と思われながらも自分の虚飾に気づいていた人生を払拭すべく、ハリーの教えを忠実にこなそうとする。二人は、年こそ離れているが、固い友情で結ばれており、だからこそマーカスはハリーへの疑惑を払拭しようと奔走する。しかし、この関係にも、物語の中で様々な転換が存在し、特にハリーの苦悩が明らかにされるラストは、どうすれば良かったのだろうと考えさせられてしまうようなものだった。

また、オーロラの住民たちも、一癖も二癖もあって面白い。彼らは、何らかの“秘密”を抱えていたり、あるいは無害だったりと様々な立ち位置を取るが、様々な条件が重ならなければノラが命を落とすことはなかったし、それはオーロラだから起こったことだと言うことも出来る。オーロラという町に隠されていた“秘密”はあまりにも根深く、もちろんネタバレするつもりもないのでここでは書けないが、それぞれの“秘密”が、ただノラの事件と関係するというだけではなく、それぞれの住民たちの中で一つの物語となっている、という点が非常に良いと思う。それぞれの“秘密”ごとに一遍の短編小説が書けるのではないか、と思えるような密度があり、ノラの事件に設定として必要だから、というような理由で描かれているわけではない点が好感が持てると感じた。

正直なところ、読んで何かが残るような作品ではなく、とにかく一気読みして「面白かった!」と思うようなエンタメ作品です。でも、エンタメ作品として本書は非常に読みやすく面白く良く出来ているな、と感じます。この作品に何を求めるかで作品の評価が大きく変わりそうな気がしますが、とにかくエンタメ作品なんだと思って読めば、凄く楽しめる作品だと思います。

ジョエル・ディケール「ハリー・クバート事件」



松ノ内家の居候(瀧羽麻子)

時々テレビで、歴史上の有名人物の末裔、みたいな人が出てくる。
そういう人や、そういう番組自体には強い関心はないが、もし自分がそういう末裔だったら、と思うと、なんとなくちょっと楽しい。
いやきっと、実際に末裔だったらめんどくさいだろうから、実際には末裔にはなりたくない。だから、ちょっとした想像だ。歴史の教科書にこう載っているけど、実は違うんだぞ…、みたいな言い伝えが色々あったりするだろう。なんかそういうのは、ちょっとだけワクワクする。

けど、実際にそういう可能性はとても低い。けど、そういう歴史上の有名人物に関わっていた家系、ということであれば、もうちょっと可能性は広がるかもしれない。関わっていた、というレベルだと、そのことが後世にきちんと伝わっていない可能性もある。どこかで情報が途切れてしまえば、末裔たちはそのことを知らないままだ。

けど、ふとした瞬間に、それが判明するかもしれない。自分が、あの人物と関わりのある家系だったのだ、と分かる日が来るかもしれない。そんなことを考えると、本書の主人公の一人、娘の琴美の興奮も、ちょっとは分かるような気がする。

しかも、未だに見つかっていない重大なモノが、屋敷に残されているかもしれない、なんて知らされたら…。

内容に入ろうと思います。
松ノ内一家は、松ノ内家当主である貞夫の祖父が創業した、松ノ内商会という商社を代々引き継いで経営している。四代目である現社長・孝之は、自分で進めた計画が頓挫したために会社内での発言権が弱く、会社は実質的に副社長が仕切っている。引退してはいるが、未だに貞夫の影響力も残っている。
貞夫は、庭付きの豪邸で毎日を過ごしている。時折散歩には出るが、あまり出かけることはない。長年連れ添った妻・雪江を喪い、今松ノ内家を回しているのは孝之の妻である郁子だ。雪江と郁子は仲がよく、雪江亡き後も、郁子は松ノ内家の一員として切り盛りしてくれている。彼らの一人娘である琴美は、中学生ながら聡明で、他人を見下しているのではないかとさえ感じるほどだが、琴美からすれば同学年の面々は退屈な人間ばかりで、琴美は論理的で聡明な祖父・貞夫に関わるのが好きである。
そんなある日、松ノ内家にとある美しい青年がやってきた。西島と名乗ったその青年は、楢崎の孫だと言った。家族のほとんどは楢崎の名にピンと来なかったが、貞夫はすぐに分かった。
楢崎春一郎。私小説を多く書いた文豪で、主要な文学賞を受賞、ノーベル賞の有力候補とまで目されていたという、日本を代表する作家だ。小説家として名高いが、女関係もまたすごく、何度も結婚し、愛人も常にいたような男だったという。西島は、楢崎春一郎は、今年が生誕100年、没後10年の記念の年なのだ、と語った。
西島は何のために松ノ内家を訪れたのか。それは、楢崎がある時期、この松ノ内家に居候していたことがあることと関係がある。その事実さえ、貞夫以外の面々は初耳だったのだが、楢崎春一郎の名すら知らなかった孝之を始め、それ自体はそこまで大きな衝撃ではない。より重要なことは、楢崎が松ノ内家に居候をしていた一年間だけ作品を書いていない、という事実なのだ。研究者の間では、空白の一年、と呼ばれているそうだ。
しかし西島は、その時期にも小説を書いていたことを示す記録があった、と言った。そして、もしかしたらこの屋敷のどこかに、楢崎の未発表原稿があるかもしれないのだ、と言ったのだ。
それに反応したのが、現社長である孝之だ。楢崎の名も知らなかったくせに、未発表原稿が見つかればかなりの大金が転がり込むかもしれない、という風に目が眩んでいる。郁子にはうまく状況が理解できないが、貞夫が西島の存在や申し出を良く感じていないことが気にかかっている。琴美は、自分がそういう特別な家系にいるのだ、ということにちょっと興奮している。
あるのかないのかさえ分からない未発表原稿を巡って、松ノ内家は俄に慌ただしくなる。貞夫・孝之・郁子・琴美という松ノ内家の四人、そして闖入者である西島を加えた五人の思惑が絡まり合い、松ノ内家の歴史を総ざらいするような騒動に発展していくが…。
というような話です。

これ、面白かったなぁ。あんまり期待してなかったんだけど、かなり良く出来た作品だと思いました。

まず、楢崎春一郎の設定が良い。明らかに谷崎潤一郎をベースにして作られている作家で、谷崎潤一郎らしさをうまく作品に活かしている。僕は別に谷崎潤一郎について詳しいわけではないんだけど、それでも「私小説を多く書いた」「女性関係が色々あった」ぐらいの知識はある。この二点が、本作でも非常に重要なキーワードになっていって、作品の核の部分と密接に関わり合っていく。楢崎春一郎、という作家をリアルな存在として立ち上げた、という部分が一つ、本書の成功の要因だろうな、という感じがします。

そして、西島という部外者の登場によって、あるのかないのかさえ判然としない未発表原稿の存在が明らかになるのだけど、本書は、ただその未発表原稿があるとかないとかでわーわーするだけの話ではない。それだけだったらこんなに面白くはなかっただろう。本書の肝は、この未発表原稿の存在が、松ノ内家をより強い「家族」にした、という部分だろう。

これは本書の面白さの肝だと思うのであまり書きすぎないようにするつもりだが、これが抜群に上手いと僕は感じた。貞夫・孝之・郁子・琴美は、楢崎の未発表原稿に対してそれぞれ違った思惑を持っている。その方向性は、基本的にはバラバラなのだ。何故バラバラなのかというのは、もちろん家族であっても他人だから当然ではあるのだけど、しかし別の見方をすれば、家族としての大きなまとまりが失われている、という風にも受け取れる。松ノ内家には特段目に見えるような大きな問題は存在しないが、それは浮き彫りになっていないというだけで、決してないわけではない。その、実はあった問題を、未発表原稿の存在が浮き彫りにする。未発表原稿に対するそれぞれの思惑が、松ノ内家という家族が実はバラバラの方向を向いているということを明確にするのだ。

そして、同じ未発表原稿が、今度は家族を一つにまとめる働きもする。これが良く出来ていると感じる。楢崎の未発表原稿は、家族の問題を浮き彫りにさせるのと同時に、その状態の家族を一つにまとめるための役割も果たすのだ。あるんだかないんだか分からない未発表原稿が家族をどんな風に結びつけていくのか、その過程を是非楽しんで欲しい。

松ノ内家にとって楢崎の未発表原稿が脅威なのは、楢崎の「私小説を多く書いた」「女性関係が色々あった」という点に関係がある。つまり、もし松ノ内家に居候している間に楢崎が何か原稿を書いているならば、それは松ノ内家の人間と不倫関係にあったことを示す描写があるのではないか…。彼らはそういう想定をしている。それに対する反応も家族の間で様々なのだが、この点が、谷崎潤一郎をモデルにした楢崎春一郎を作中に登場させた一番の面白い点だと思う。楢崎の未発表原稿は、ただの原稿ではない。松ノ内家の「恥」を明らかにするかもしれない存在なのだ。文豪の未発表原稿を探すというミステリのようでありながら、それは決して物語の核ではない。楢崎の未発表原稿が、家族の「恥」を掘り起こすことになるのではないか、という懸念が、松ノ内家を揺るがし、またバラバラにしていくのだ。

物語がどんな風に展開し閉じていくのか、それは是非読んで感じて欲しい。作品だけではなく作家が愛されるというのはこういうことなのだ、という風に感じることも出来るし、家族というものが一つの大きな存在としてどうあるべきなのかということも示唆する、なかなかどっしりとした、それでいて読みやすい作品だ。

瀧羽麻子「松ノ内家の居候」


生きてゆく力(宮尾登美子)

内容に入ろうと思います。
本書は、宮尾登美子が、主に作家になる前の、家族や住んでいた地域の思い出を描いたエッセイです。

僕は宮尾登美子の小説は読んだことがないんですけど、このエッセイはなかなか面白かったです。
宮尾登美子は、生家が芸妓を斡旋する仕事をしていたようで、その頃芸妓の卵のような子たちと一緒に生活をしていた。その当時の、貧しいけれど豊かさを感じさせる日々。また、戦時中満州へと移り住み、戦後死ぬような思いを幾度もしながら日本へと戻ってきた話。結核を患いながらも農家の嫁として働いていた日々。子供の頃にあった、奇妙だけどなくなってしまえば懐かしさを感じさせる様々な習俗。そういった様々を、著者は丁寧に掬い取っていく。

それらは当然、僕が経験したこともない生活なのだけど、著者の記憶力が子細に渡っているからか、あるいは誰しもが自分のどこかにそういう古き良き時代への郷愁みたいなものがあるからなのか、とても面白く読める。現代とはまた違う理屈で、家族や人生や社会というものが成り立っていた時代の、物質的には決して豊かではないのだけど、どこか豊かさを感じてしまうような、そういうあり方はいいなと思いました。

宮尾登美子の小説を読んだことがないから勝手な想像だけど、このエッセイに書かれているような日常が、著者の作品の背景を支えているのだろうな、ということは強く感じました。

宮尾登美子「生きてゆく力」

仁術先生(渡辺淳一)

内容に入ろうと思います。
本書は、大学病院で講師として医局の中心的立場にありながら、突然下町の診療所に移ってしまった円乗寺優先生の、下町での診療を描いた作品です。

「梅寿司の夫婦」
円乗寺先生のいるK診療所に、ある青年がこそこそとやってくる。最初何かと思ったが、梅毒なのだという。であればその態度も分からなくもない。この時代は、梅毒であるとなれば忌避されてしまう恐れもあった。そんな青年と、寿司屋で会った。寿司屋の職人なのである。やがて円乗寺先生に気を許すようになった青年はある悩みを打ち明けるが…。

「特効薬」
戸浪さんの奥さんが倒れたというので自宅まで診療に向かう円乗寺先生。旦那は慌てふためいている。奥さんは身をよじりながら、衣服をはだけさせながら苦しがるが、円乗寺先生は一向に何もしない。注射の一本も打たない円乗寺先生に旦那はキレてしまうのだが…。

「健保ききません」
結婚したものの奥さんとうまくセックスが出来ないとやってきた大石という青年。イチモツは立派なのだが、いざという時にどうもうまくいかないのだとか。円乗寺先生は、保険はきかないけどいいか、と言って、看護婦と共にとある治療をするのだが…。

「不定愁訴」
K診療所に新たにやってきた若手医師に、円乗寺先生は教訓を伝えようとしている。円乗寺先生は、「女を見たら…と聞かれてどう答えるか?」と若手医師に問いかける。そしてそこから、円乗寺先生がかつて経験した、村石という女性患者の苦い診療の記憶を語り始める…。

「腰抜けの二人」
これは、円乗寺先生の話ではない。
ある医師の元に、毎年「中津川三郎」という男から年賀状が届く。そこには「腰抜け男」と書かれている。これは、二人の間だけで通用する符丁だ。
手術も碌に出来ない新人でありながら、北海道の炭鉱近くの診療所へ行かされることになった医師は、一人でなんでもこなさなくてはならない不安を抱えつつ、比較的穏やかな日々を過ごしていた。しかしある日、炭鉱落盤事故があり、患者が運び込まれてくることになったのだが…。

というような話です。
なかなか面白かったです。「医療ミステリー」というようなガチガチっとしたものではなくて、病院のおっちゃんと下町風情がうまく絡み合って、すすすっと読める感じに仕上がっています。

医師というのは、知識や技能がまず連想されるけど、なによりもコミュニケーションが大事なんだろうなと改めて感じさせてくれる作品でした。どの話も、知識や技能はさほど必要とされないけど、患者とどう接し、どうコミュニケーションを取っていくのかという部分はとても重要になってくる話が多かったなと思います。そこに、下町の人情がうまく混ざり込んで、良い話にまとまっているという感じです。

渡辺淳一「仁術先生」

か「」く「」し「」ご「」と「(住野よる)

人の気持ちを知ることが出来たらなぁ…なんて、別に考えたことはない。
そんなの、ただめんどくさいだけだ。

けど、世の中は、そうではないらしい。自分が良いと思う相手のことを、何でも知りたいらしい。いつどこで何をしていて、どんなことを考えているのか知りたいようだ。

けれど、基本的には知ることは出来ない。相手の気持ちは、相手の言葉や態度から推測するしかないのだけど、言葉や態度は嘘をつくことが出来る。気持ちや感情と連動させないことが出来る。知りたいけど、はっきりとは分からない。けれど知りたい。世の中的には、そういうもののようだ。

知ってどうするのだろう?と僕は思ってしまう。

僕は、自分が良いなと思う相手、好きだなと思う相手であればあるほど、全部は知りたくはない。いつまでも、よく分からない部分が残っていて欲しい。いつまでも予想外の反応が返ってきて欲しいし、いつまでもなんだかよく分からないことを言っていて欲しい。真意とか本心とかが全然掴めなくて、行動原理が全然読めないような、そんな存在であって欲しいと思う。

その方が面白い。

気持ちまで含めた相手のことを全部知るというのは、結局、自分の思った通りでいて欲しい、ということでしかない、と僕は思ってしまう。あなたの望んだ通りに動き、あなたの望んだ通りに考え、あなたの望んだ通りに感じる人。

そんなのの、何が面白いのだろう?

結局、相手のことなんか分からないから面白いと思うのだ。分からないから知りたくなる。知りたくなるのに知ることが出来ないから面白い。人間関係って、きっとそんな風に成り立っているんだ、と思う。

だから「読点」とか「トランプの柄」とか「バロメーター」とか、そんなのが見えちゃうようなのは、嫌だなと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、5編の短編が収録された連作短編集です。

「か、く。し!ご?と」
大塚には、人の上に記号が見える。ハテナとか読点とか。その人の感情に連動した記号が見えてしまう。
大塚は、クラスメートのミッキーに恋をしている。ミッキーは情熱溢れる女の子で、どんなことにでも心を動かすことが出来る良い奴だ。大塚はミッキーと話そうとすると動揺して変になってしまうが、大塚の友人でありクラスの人気者であるヅカはミッキーと子どもの頃から仲が良くて、仲が良い者同士にしか醸し出せないやり取りを日々している。
ある時から大塚は、ミッキーのシャンプーが変わったことに気づいた。そんなことに気づいたことに気づかれたら気持ち悪いと思われるだろうから指摘しなかった。同じ頃、ミッキーは何故かヅカに、「私何か変わった?」と聞くようになった。ヅカはどうも、シャンプーが変わったことに気づいていないようだ。とはいえ、横から口を出すわけにもいかない。いつもヅカはミッキーからボロクソに言われることになる。
大塚は、隣の席に思いを馳せる。宮里さんはゴールデンウィークが始まった頃から二ヶ月、学校に来ていない。理由は誰も知らないようだが、自分のせいだったらと不安になる。

「か/く\し=ご*と」
ミッキーには、他人の心臓のところにシーソーのようなバーが見える。それがプラスに傾いたりマイナスに傾いたりするのを見て、ミッキーは相手の感情を理解する。大体の人はプラスかマイナスに傾いているのに、パラというぶっ飛んだ友人だけは、そのバーがいつもくるくる回転している。
文化祭でヒーローショーをやることになった。理由は、パラが提案したのだ。自分の進路のために、という理由を隠しもせずに堂々と話、脚本まで用意していた。みんなやる気をみなぎらせた。衣装や照明も自分たちでやる。パラをリーダーとして、クラス一丸となってのチャレンジだ。昔からヒーローに憧れていたミッキーは、ヒーローショーのヒーロー役をやることになった。
ちょっとしたトラブルもありながら、無事ショー当日を迎えた。けれど、「三木は舞い上がってるとあぶなっかしいからなぁ」という先生の忠告を、もうちょっとちゃんと聞いておけばよかった…。

「か1く2し3ご4と」
パラには、他人の心のリズムが見える。早くなったり遅くなったり。その変動を知ることが出来る。パラはある時から、他人の鼓動を強めるためにぶっ飛んだ行動をするようになった。それがキャラクターとして定着した。本当は、ただ冷酷なだけの人間だ。
パラは、ヅカの本性を知っている。ヅカは、誰に対しても良いやつで、ポジティブな感情を露わにし、クラスのムードメーカーだが、実際にはどんな状況であってもヅカの心音が変化することはない。フラットなのだ。
修学旅行だ。修学旅行中に鈴を渡すとずっと一緒にいられる、というおまじないがある。ヅカは、修学旅行の朝に鈴を持っていた。既にもらったものなのか、あるいはこれから誰かに渡すものなのか…。パラはある計画のために、修学旅行中、基本的にずっとヅカを「王子様」と呼んでべったりしていたが…。

「か♠く◇し♣ご♡と」
ヅカは、人の感情を反映したトランプの4つの柄が見える。スペードは「喜」、◇は「怒」、クローバーは「哀」、ハートは「楽」だ。ヅカは自分で自分のことを、相手との関係をフラットに見すぎてしまう、と思っている。自分の意思より相手の意思を尊重してしまうのだ。
そんなヅカが気になるのは、エルの「哀しみ」だ。頭の上にいつも大きなクローバーがある。ちょっと前から、おかしいのだ。仲良しだったはずの隣の席の京と何やらうまく行っていないようだし、ヅカがミッキーについて言及するとクローバーが大きくなるような感じがする。誰も相談されていないみたいだし、京もまったく原因が分からないという。
いつもの5人で花見に出かけた時、ちょっとした出来事が起き…。

「か↓く←し↑ご→と」
エルには、他人の好意が矢印になって見える。誰かが誰かのことを好きだということが、矢印ではっきり分かるのだ。だから、ミッキーと京が両思いなのも、もちろん分かっていた。
けどこの二人、全然進展しない。周りがあの手この手でくっつけようとしているのに、まるでダメだ。京は私と同じで臆病で、自分なんか、と思ってしまうようなところがある。そしてミッキーは恐ろしいほど鈍感なのだ。どうにもならない。
受験勉強が始まって、将来のことについて考えるようになった頃。タイムカプセルを埋めようという話になった。未来の自分に手紙を、という話のはずだったのだけど、パラの提案で、他のメンバーへの手紙にしよう、と決めた。ここで京とミッキーにお互いの気持ちをはっきり書かせて強くさせよう、という魂胆だった。
しかし…。

というような話です。

相変わらず住野よるは良い小説を書くなぁ。僕は、住野よるの作品は何を読んでも「君の膵臓を食べたい」を越えられないんだけど(僕の中で「キミスイ」はちょっと別格なのです)、この作品も凄く良いと思いました。

まず、設定が非常に秀逸だ。5人が5人とも、何らかの形で他人の感情を見ることが出来る。この設定が、非常に上手い。他人の感情が見えたところで、その原因まで分かるわけではないから、何もかも分かるわけじゃない。けれども、感情の一端は分かる。分かった上で、能力で分かったわけではない、という風を装いながらその感情と関わっていくのだ。

誰もが、こんな能力を持っているのは自分だけだ、と思っている。だから、自分が能力を使って相手の感情を読み取っているという事実は悟られないようにしなければならない。でも、知ってしまった感情に対して、何もしないではいられない。哀しんでいるならその哀しみを取り除いてあげたい。好き合っている者がいるならくっつけてあげたい。そんな風に思うのは当然だ。

だからこそこの5人の関係性は、誰もが皆、「誰か」を一番に考えている。自分のことを一番に考える者はいない。これが、この作品における、感情が見えすぎることによる一番大きな効果だろうと思う。

そしてその過程で、とても面白いことが分かる。それは、全員が、自分よりも他の全員の方が他人を思いやっていると思っていることだ。いや、全員というのはちょっと言い過ぎたかもしれないが、自分は他人に対して冷たい人間だ、と考えている人間が多い。

読者の視点からすれば、5人は全員、「誰か」のことを一番に考える良い奴だ。でも、5人はそれぞれ、自分自身のことをそんな風には捉えない。自分は冷たい人間だけど、他の4人はそうじゃない、というような捉え方をする。これもきっと、感情が見えすぎている効果なのだろう。彼らは皆、「相手の感情が見えているのに、自分は見えているが故の行動を取らない。他の4人は感情なんか見えていないはずなのに、相手のことを思いやった行動が取れていて素晴らしい」みたいな風に考えているのだろう。自分以外の4人も皆、感情が見えるのだ、なんて想定できないだろうからこういう発想が生まれる。この状況も実に面白い。

他人の感情が見える、なんていう設定は、安易に思いつくことが出来るだろう。しかし、そういう状況設定の中でどういうことが起こり得るかまできちんと考えられている作品はそう多くはないだろう。本書の場合、感情が見えすぎることが、彼らのパーソナリティに少なくない影響を及ぼし、さらにそれが5人全体の関係性にまで波及していく。非常に繊細だ。

その繊細さは、エルの感情の見え方にも現れている。エルというのは、本当に些細なことでも気にしてしまう自己評価の低い女の子だが、そのエルに見えるのは、相手の感情の中でも「誰が誰を好きか」という好意のみだ。感情全体が見えるわけではない。この設定は、エルというキャラクターには実にしっくりくる。エルが他の4人のように感情全体が見える設定であれば、エルはもっと違うキャラクターになっていただろうし、そうであればこの作品が成り立たなかった可能性がある。エルの感情の見え方を知った時、上手い、と改めて思った。

そしてその上で、ここのキャラクターがとてもいい。

全員好きだが、特に好きなのがパラだ。本書で描かれるパラは、僕にとってはとても素晴らしい。

僕には、かなりパラに似ている部分がある。

(本書を読んでいない人は、これ以降の記述を読まない方がいいかもしれない。二編目でのパラと三編目でのパラの落差を感じた方が面白いし、ここで暴露するパラの本当の姿だけ読んでも、きっと面白くないだろうから)

『君は面白いと思ってくれてるかもしれない、私の発言は、私がこう言ったら面白いと思われるだろうと、計算して言っているものだし。君が面白いと思ってくれてるかもしれない、私の行動は、私がこうやったら驚かれるだろうと狙ってやっているものなんだ』

パラの言動はあまりにもぶっ飛びすぎていて、言動で比較する場合、僕とパラは全然似ていないだろう。しかし、行動原理を比べれば、僕とパラはそっくりだと思う。

僕も、パラとまったく同じ発想で行動している。僕は、自分が変だと思われるように行動するように意識している。それは、本来の自分からかけ離れているわけでは決してないが、本来の自分ではない。僕は計算で自分の行動をデザインしている。

『そうじゃないんだよ。本当は私だってそういう人間になりたいよ。損得なんて考えない人間になりたいし、やりたいことだけ迷いなくやれる人間になりたい。でも、実際の私はそうじゃない。私の言葉や、行動は、私がなりたい私に過ぎない。本当に私じゃ、ないの』

「そういう人間」というのは、ミッキーに近いキャラクターだ。どんな状況でも熱くなれて、やりたいことを迷いなく出来る。パラは、周りからそういう風に見られるように行動しているけど、自分がそういう人間でないことをちゃんと知っている。

『冷静さを長所だと言う人間もいるだろう。だが、違う。ただ、冷たい人間というだけだ。』

パラのこの自覚も、僕にはよく分かる。僕も、自分の冷たさをきちんと自覚している。

先程から書いているように、パラの言動はあまりにもぶっ飛んでいるので、単純に比較は出来ないが、パラのこの落差を知ると、世の中で楽しそうに生きている人にもきっと、こういう内面を抱えている人はいるのだろうな、と感じる。実際僕は、そういう人に何度か会ったことがある。表向き、凄く楽しそうにワイワイと人と絡んでいるのに、ちょっとその内側を覗き込んでみると、みんなの中にいる時からは想像も出来ないような内面を見つけることが出来るような人が。僕はなんとなく、そういう人に惹かれることが多い。自分もそういうタイプだから気になる、ということもきっとあるのだろうけど、わざわざ楽しそうに振る舞わなくてはならないその感じに、どことなく哀愁を感じるのだろうなと思う。

京(大塚)やエル(宮里)もとても良い。この二人にも、僕自身の欠片を感じ取ることが出来る。自分に自信がなくて、自分が世間の主流を歩いてはいけないと思っていて、いつでも自分の気持ちに蓋をしてしまうような二人のあり方は、昔の自分を見ているようだ。5人の間に発生する問題(と書くとネガティブな騒動という感じだが、そこまでネガティブでもない)のほとんどが、京とエルに関わるものだ。彼らの性格のマイナス思考の部分が、結果的に状況を引っ掻き回してしまうことが多い。

パラとミッキーという、どんな行動を取るのか分からない女二人に、京とエルという後ろ向きな二人、そして人気者でありながらその実、心の中はフラットというバランス感覚を持ったヅカという5人組が、いつだって自分以外の「誰か」を思いやりながら行動する。そうやって築き上げられていった関係性が、なんだかとても羨ましく思えてくる。普段、良い人ばっかりの物語にはどことなく嫌悪感を抱いてしまうことが多いのだけど、この物語は、基本的に皆良い人なのに、自分の中の嫌悪カウンターが反応しない。それもまた、他人の感情が見えすぎるという設定をうまく使った効果なのだろう、と思う。

誰だって“厄介な自分”を生きている。そんな風に思わせてくれる作品だ。

住野よる「か「」く「」し「」ご「」と「」

蜜蜂と遠雷(恩田陸)

「学ぶ」というのは「枠」を知る、ということだ。

僕たちは基本的に、「知の暗闇」の中で生きている。知らないことだらけだ。しかし、少しずつ「学ぶ」ことで、明るい部分が増えていく。明るくなると、そこに何かが見える。それは大抵、仕切りのようなものだ。「こちら」と「あちら」を区別する仕切り。明るくなった場所に浮かぶそれらの仕切りを確認しながら、僕たちは色んな概念を学んでいく。ある言葉の意味、誰かの感情、雲の形から予想される雨、数百年後に地球に接近する彗星。僕たちは、「枠」を捉えることで、物事や感覚を捉えていく。

しかしその「枠」は、誰かが決めたものだ。誰が決めたのか、ということは問題ではない。iPS細胞のように発見者が明確なものもあれば、古代の誰かが発見しいつの間にか広まっていることもある。誰でもいい。とにかく、「枠」というのは、誰かが決めたものに過ぎない。

「枠」を知ることは重要だ。「知の暗闇」の中では、僕らは歩くこともままならない。真っ暗な中を手探りで歩き続けるのは、怖いし危険だ。これ以上進んではいけない場所、「こちら」と「あちら」とで区切られている場所、そういうものをきちんと確認しながら歩いていきたい。それはある種の、人間の本能と言ってもいいだろう。

しかし、時に「枠」は、人間の行動を制約する邪魔ものに変わる。「枠」が見えれば、そこから出てはいけないと咄嗟に感じる。「こちら」と「あちら」は連続していないのだ、と思ってしまう。

そういう躊躇の積み重ねが、人間を臆病にしていく。

時々いる。「知の暗闇」の中を、真っ暗なまま歩ける者が。彼には「枠」が見えない代わりに、「枠」を越えてはいけないという発想もない。もちろん、「枠」が見えないが故に、色んなものにぶつかりながら歩いて行くことになるだろう。しかしその過程で、普通の人だったら絶対に越えられない「こちら」と「あちら」の境界をあっさり飛び越えてしまったりもする。

そういう人を、僕らは「天才」と呼びたいのだと思う。

「天才」にも、様々なタイプがいる。大量にこなせる者。超スピードでこなせる者。誰も真似出来ない技術を使える者。そういう者も、「天才」と呼ばれ得る。しかし、僕は、概念をしなやかに飛び越えることが出来る人間こそ、「天才」の名に相応しい、と思いたい。

「◯◯はこうでなければならない」という「枠」は、「◯◯」という伝統や文化を守っているように見せかけながら、実はそういう発言をしている人の地位やキャリアを守っている、ということが多いのではないだろうか。その「枠」を押し付けることで、「枠」の内側に入れていない人間を疎外することが出来る。その「枠」の内側に入ってこなければ認められないと振りかざすことが出来る。

『近年、演奏家は作曲者の思いをいかに正確に伝えるかということが至上命題になった感があり、いかに譜面を読みこみ作曲当時の時代や個人的背景をイメージするか、ということに重きが置かれるようになっている。演奏家の自由な解釈、自由な演奏はあまり歓迎されない風潮があるのだ』

「枠」の内側に入っていないものはダメだ、と判断するのは、簡単だ。しかしそれは、ある意味で思考停止と言ってしまっていい。「枠」を設けたのは一体誰なのか?個人を特定したい、という話ではない。結局「枠」を設けているのは、批評家だ。

『よく言われることだが、審査員は審査するほうでありながら、審査されている。審査することによって、その人の音楽性や音楽に対する姿勢を露呈してしまうのだ』

『そして、審査員たちも薄々気付いている。
ホフマンの罠の狡猾さと恐ろしさに。
風間塵を本選に残せるか否かが、自分の音楽家としての立ち位置を示すことになるのだということを。』

「評価」や「批評」というのは、「枠」があるからこそ成立する。複数ある内のどの「枠」を選択するか、という自由度はあるにしても、何らかの「枠」を設定した上でなければ「評価」も「批評」も出来ないのは確かだろう。

そういう意味で、「評価」も「批評」も出来ないようなものにこそ、そのジャンルを粉砕させるような力がある、と言っていいだろう。

『よし、塵、おまえが連れ出してやれ。
少年はきょとんとした。
先生は、底の見えない淵のような、恐ろしい目で少年を見た。
ただし、とても難しいぞ。本当の意味で、音楽を外へ連れ出すのはとても難しい。私が言っていることは分かるな?音楽を閉じこめているのは、ホールや教会じゃない。人々の意識だ。綺麗な景色の屋外に連れ出した程度では、「本当に」音を連れ出したことにはならない。解放したことにはならない。』

音楽が「音楽」を超える瞬間を、この作品は感じさせてくれる。たぶんこれは、そういう物語なのだ。

内容に入ろうと思います。
事件は、パリで起こった。
3年毎に開かれ、今年で6回目を数える「芳ヶ江国際ピアノコンクール」。そのオーディションがモスクワ・パリ・ミラノ・ニューヨーク・日本の芳ヶ江の5箇所で行われている。パリでの審査員を務める嵯峨三枝子、アラン・シモン、セルゲイ・スミノフの三人は、退屈な演奏が続くオーディションの中で、その少年と出会った。
風間塵。
異例づくしの候補者だった。履歴書はほぼ真っ白。学歴もコンクール歴もなく、日本の小学校を出て渡仏したことぐらいしか分からない。後で風間塵と接触したスタッフに聞くと、オーディションギリギリのタイミングで会場にやってきた風間の手は泥で汚れていたという。風間の父親が養蜂家であると知ったのは後のことだ。
そして、何よりも最大級の衝撃は、その少年が、あのユウジ・フォン=ホフマンに5歳から師事し、彼の推薦状を持っているという事実だった。
信じられない。
ホフマンは、あらゆる音楽家に愛されながら今年亡くなった、伝説的な音楽家だ。弟子を取らないことでも有名だった。あのホフマンが、弟子を…。
『僕は爆弾をセットしておいたよ。僕がいなくなったら、ちゃんと爆発するはずさ。世にも美しい爆弾がね』
死の間際、ホフマンは周囲の人間にそう漏らしていたという。
まさか、あの少年が「爆弾」なのだろうか…。
その通りだった。風間塵の演奏は、常軌を逸していた。三枝子は初め、拒絶した。ホフマンに対する冒涜だと思った。しかし結局、他二人との議論の末、風間塵を合格とした。
そして、第6回芳ヶ江国際ピアノコンクールの日を迎える。
栄伝亜夜は、天才少女と呼ばれながらも、母の死をきっかけにして「取り出すべき音楽がない」と感じられるようになり、7年前にとあるコンサートから逃げ出して以来、正規の音楽教育からは遠ざかっていた。ある時、浜崎という男性が家にやってきて、亜夜の演奏を聞きたがった。そして、その男性の推薦により、音楽学校への入学が決まった。学長だったのだ。そして、その学長の後押しもあり、亜夜はこのコンクールに出場することになった。
マサル・カルロス・レヴィ・アナトールは、僅かな期間日本に住んでいた頃、子供の頃にたまたま出会った少女に誘われて顔を出したピアノ教室で、その才能を見出された。フランスへ行くことになったマサルに少女は、ピアノを習ってねと言い、マサルはそのお願いを聞き入れ、ピアノの練習に励んだ。彼は圧倒的な才能を持ち、僅かな期間で驚くべき飛躍を遂げた。長身に甘いルックスであることもあって、舞台映えするマサルは、スターの予感を漂わせている。
高島明石は、コンクール出場者の中でもかなり高齢の28歳だ。楽器店で働くサラリーマンであり、妻と子供もいる。他の参加者がもっと若く、一流の指導者の元で練習に励んでいるのに対して、明石は仕事の合間を縫って、睡眠時間を削るようにしてこのコンクールのための調整を続けてきた。「生活者の音楽」という持論を持ち、音楽は音楽だけを生業とする者だけのものではない、という想いから、コンクール出場を決意したのだ。高校時代の同級生である仁科雅美が、ドキュメンタリーのためにカメラを回している、というのも非日常だ。
様々な背景を持つトップクラスのピアニストが、コンクールという場で互いの全力を出して闘う物語だ。

実に濃密な物語だった。冒頭では、風間塵の生き様やスタンスを切り取ってあれこれ書いてみた。それも、本書の主要なテーマの一つだ。しかし、本書の主役は決して風間塵だけではない。風間塵という超絶的な天才が物語の中心にいることは間違いないのだけど、ただそれだけの物語ではない。

亜夜・マサル・明石・塵。彼らの音楽に対する葛藤や生き様が、コンクールという場で発散し、溶け合って、絡まり合う。その混沌の中に、「音楽」というジャンルを掬い上げるような希望の光が生まれる。そんな神々しさを感じるような作品だ。

亜夜は、音楽に対する態度を決めきれないでいる。

『しかし、意外にも、亜夜自身に挫折感はなかった。
彼女の中では、コンサートのドタキャンは筋が通っていたからである。
取り出すべき音楽がピアノの中に見つからないのに、なぜステージに立つ必要などあるだろうか。』

そもそも彼女は、ピアノを必要とする人間ではない。

『彼女は、元々ピアノなど必要としていなかった。
子供の頃、トタン屋根の雨音に馬たちのギャロップを聴いていた時から、彼女はあらゆるものに音楽を聴き、それを楽しむことができたからである』

彼女には、ピアノに戻るための必然性のようなものはなかった。彼女がコンクールに出場することを決めたのは、自分を推薦し入学させてくれた学長の面子を潰さないためだ。そして、入学以来亜夜のことをずっと気にかけてくれた学長の次女の奏の熱心な説得があったからだ。

自らの意志によってステージに戻ってきたわけではない亜夜は、しかしこのコンクールの場で様々な感情に奔流され、自分でも思ってみなかった場所へと流れ着く。

『決して、自分はあの時コンサートピアニストから身を引いたことを後悔していないし、挫折感も持っていない。音楽を深く愛しているし、音楽から離れようと思ったことは一度もない。それを、ずっと舞台に戻りたいと思っていたとか、やっと立ち直ったとか思われるのは耐えがたいものがある。』

コンクール期間中も、ずっと気持ちが定まらないまま、どこか他人事のようにピアノを弾いていた亜夜。しかし、風間塵やマサルとの出会いが、亜夜を大きく変えていく。

マサルにもマサルの物語がある。しかし、それについてはここでは触れないでおこう。マサルにとっては結果的に、権威ある国際コンクールに出場する、という以上の価値をもたらした。コンクールの審査員も務めている彼の師匠も絶賛する、間違いなく未来のスター候補であるマサルがこのコンクールの出場によって得たものとはなんであったのか。それは是非読んで欲しい。

明石のスタンスはとても好きだ。

『俺はいつも不思議に思っていた―孤高の音楽家だけが正しいのか?音楽のみに生きる者だけが尊敬に値するのか?と。
生活者の音楽は、音楽だけを生業とする者より劣るのだろうか、と。』

『音楽を生活の中で楽しめる、まっとうな耳を持っている人は、祖母のように、普通のところにいるのだ。演奏者もまた、普通のところにいてよいのではないだろうか』

クラシック音楽という、ともすれば一般人には馴染みのない音楽を、生活する者として聴かせることは出来ないか―。そんな明石のスタンスは、演奏にも人柄にも現れる。と同時に明石は、こんな相反する想いも抱いている。

『もし自分が抜きん出た才能を持っていたら迷わずプロの音楽家の道を選んだだろうし、それ以外の職に就くことなど考えもしなかっただろう。そして、そちら側にいたならば就職して所帯を持ち、「生活者の音楽」などと嘯いている者をきっと軽んじていたに違いないのだ』

圧倒的な才能と煌めきを放つコンテスタントたちの演奏を聴きながら、才能を持って生きるということや、才能があっても決してうまく行くわけではない現実について明石は考える。そして、音楽という業の深い人生について、生活者の立場から読者に近い感覚を見せてくれるのだ。

本書は、物語そのものの濃密さもさることながら、まるで「文字」という楽器で音楽を奏でているかのような描写力が凄まじい作品でもある。僕は、音楽に対する素養がないので、そもそも描かれている曲が頭に浮かぶことはない(恐らく知っている曲もあるのだろうけど、曲名では判断できない)。しかし、それらの曲がどんな雰囲気を持ち、演奏者によってどんな部分が異なり、何が凄まじいのかというような部分は、恩田陸の「文字」という楽器によって鮮やかに示される。僕は、音楽というものを文字で解釈しようとしたことがないので、その圧力に圧倒されるような思いだった。小説という、聴かせることが出来ないメディアで、これほど「音楽」を感じさせる作品はそうそうないのではないかと思う。

しかし何にしても、才能を持つ者というのは羨ましいものだ。

『世界中にたった一人しかいなくても、野原にピアノが転がっていたら、いつまでも弾き続けていたいくらい好きだなあ』

そんなものに出会うことが出来た人間は、幸福なのだろうと思う。

恩田陸「蜜蜂と遠雷」

桜疎水(大石直紀)

内容に入ろうと思います。
本書は、6編の短編が収録された短編集です。

「おばあちゃんといっしょ」
竹田美代子は「常世神」宗教団体を立ち上げて詐欺をしている。45歳のホームレスの佐原芳雄という男を教祖に仕立て上げ、もっともらしい来歴ともっともらしい教義を作り上げて、信者から大金をまきあげていた。最も、佐原は最近言うことを聞かなくなってきた。祈祷の最中居眠りをするし、家に誰もいれるなと言っているのに女を連れ込んでいる。そろそろ大きな仕事をして、佐原を切る時期だろうか。
美代子は、赤木静子という大金を持っていそうな老女を見つけ、この仕事が終わったら佐原を切ろうと考える…。

「お地蔵様に見られてる」
京都には二度と住まないと誓って、京都に支社も営業所もない東京本社のアパレルメーカーに就職したさやかは、今年になって京都に支社を立ち上げるとかで、まさかの京都住まいになってしまった。
真如堂の参道で倒れた女性が、泰宏の母親だった。変わり果てた姿になっているが、間違いない。恐ろしくなってさやかは逃げ出した。
大学時代、達朗と泰宏の三人で過ごした日々を思い返す。あんなことにさえならなければ…。

「二十年目の桜疎水」
スウェーデンに移り住んで20年。日本に帰ったのはほんの数度だ。しかし、母が危篤と聞いて、正春は久々に日本へと帰った。死の間際、母は正春に懺悔した。私のせいで辛い思いをさせてしまった、と。
雅子の話だ。母は雅子に手紙を出したことがあるという。なんの話だそれは?
その話がどうにも気になって、正春は京都へと向かった。そうする間、雅子とのことを思い返していた。
雅子とは会ってすぐに気が合い、つきあい始め、結婚の約束もしていた。その後、あんなことにならなければ…。

「おみくじ占いにご用心」
ヘルパーの後をつけ、ターゲットにする老人を選ぶ、というやり方で大金をせしめてきた横道と上宮は、今回も同じやり方で一人の老女に狙いを定めた。ヘルパーの来ない日に、介護ステーションの職員を装って侵入し相手をうまく丸め込むのだ。今回も問題なくうまくいくだろう。
しかし、“仕事”の前に引いたおみくじが「凶」だった。今までこんなことはなかった。もう一度引いて「大吉」を当てたが、なんだか嫌な気分だ。拭えない違和感はその後も頻発するが…。

「仏像は二度笑う」
片山正隆は子供の頃から手先が器用で、中学の頃に両親を無理矢理説き伏せて仏師の修行に励んだ。25歳を過ぎる頃には一人で仕事を任されるほどの上達ぶりで周囲を驚かせたが、しかしギャンブルで身を持ち崩した。師匠から見限られた正隆は、自分で作った仏像を骨董屋に売りに行くが…。
一方津久見は、馴染みの料理屋でいつものように飯を食っていた。骨董関係の人間が集まるのでちょっとした情報を仕入れやすくて重宝している。その日、店主の相原が、客から上物の九谷焼を買い取っていた。明らかに安い値段で。それを持ち込んだ男の父親が仏像専門と聞いて津久見は色めき立つ…。

「おじいちゃんを探せ」
ある日沙和は、両親が自分に内緒でおじいちゃんの話をしているのを聞いてしまう。それは、おばあちゃんが内緒でおじいちゃんと年賀状のやり取りをしていた、という他愛もない話だ。祖父母は沙和が幼い頃に離婚しており、沙和はおじいちゃんの顔を知らない。ミステリ好きな血が騒いで、両親が一体何を隠しているのか探ろうと決意する。
しかし、大したことではない風を装って母親におじいちゃんの話を振ると、母親の顔が固まった。おじいちゃんの話は、沙和が想像しているよりもタブーなようだ…。

というような話です。

なかなかよく出来た作品でした。冒頭の「おばあちゃんといっしょ」が日本推理作家協会賞短編部門を受賞したようですけど、確かによく出来た作品でした。他の作品も、粒ぞろいという感じがします。

やはり一番出来がいいのは、「おばあちゃんといっしょ」かなと思います。導入の物語があってからの、「常世神」の宗教の話になっていくのだけど、なるほどと思わせる構成でした。

同じようによく出来た構成だと感じたのは、「おみくじ占いにご用心」と「仏像は二度笑う」の2つ。「おばあちゃんといっしょ」を合わせた3作品が、詐欺をモチーフにした作品です。「仏像は二度笑う」は、3つの中でもまた大分タイプが違っていて、「詐欺」というモチーフでありながら読後感の良い作品という感じがしました。

「二十年目の桜疎水」は、雅子のある決断が物語の肝になってきます。悩んだ末、今の状態で未来を生きていくためにした雅子の決断。その決断の真意を二十年目にして初めて知ることになる主人公。二人の新しい未来を予感させるような展開がなかなか良かったです。

「おじいちゃんを探せ」は、またちょっと違ったタイプの話。家族の秘密を巡る物語ですが、想定していなかった展開がお見事という感じでしょうか。両親のひそひそ話をちょっと耳に挟んでしまったことから展開される物語としては、なかなかハードでしたけど。

「お地蔵様に見られてる」だけは、正直良くわからなかったんですよね。作品全体のトーンと、何となく合わないような気がしました。大学時代に起こった出来事は興味深いですけど、全体としてはイマイチよく分からなかったです。すっきりしない終わり方だったような気がしました。

全体としては、なかなか良くできた短編集だと思います。

大石直紀「桜疎水」

むすびや(穂高明)

内容に入ろうと思います。
本書は、商店街に店を構えるおむすび専門店「むすびや」を舞台に、商店街の面々との関わりや人生に様々な葛藤を抱える人々の交錯を描き出す作品です。

結は「ゆい」と読むが男だ。昔はこの名前で散々からかわれた。そして、名前のせいだとは思いたくないが…、就職活動ですべての会社に落ち、結は仕方なく実家の「むすびや」を手伝うことにした。
毎朝エプロンをつける度に敗北感がある。自分は何も出来ない人間なのだという悔しさみたいなものが、ずっと残っている。それでも、毎朝起きて両親を手伝わなくてはいけない。まだおむすびは握らせてもらえないけど。
同じ商店街には、親が自営業をしているかつての同級生がたくさんいる。俊次は実家の八百屋を継ぎ、佳子も夢を諦める形で実家の酒屋に戻ってきた。実家の魚屋が潰れ、今は安さだけがウリの回転寿司店の店長として殺人的な残業をこなしている者もいる。みんなそれぞれに色んなものを抱えながら、「むすびや」を交点として繋がっていく。どうにもならない人生を受け入れながら、どうにか目の前の現実に馴染もうとする者たちの物語だ。

さらっと読める作品です。商店街という、人と人とが日常的に関わり合う中で、色んな人が様々な葛藤を抱えている。特に結は、就職活動に全敗するという挫折を味わいながら、色んな人と関わる中で自分の人生をまた違った形で受け入れていく。両親を見下しているつもりはないが、どうしても高卒の両親が自営業としてスタートさせた店に素直に馴染むことが出来なかった。子供の頃からの葛藤もあり、余計に難しい。

しかし、両親がおむすび作りをいかに丹精込めてやっているのか。どれだけ細かな部分まで気を配って様々なものを生み出しているのか。そういうことを理解していくにつれて、結の考えは少しずつ変わっていく。劇的な変化はないが、少しずつ現実を受け入れていく過程がゆったりとさせてくれる作品だ。

穂高明「むすびや」

ハリネズミの願い(トーン・テレヘン)

内容に入ろうと思います。
本書は、オランダで絶大な支持を集め、国内外の様々な賞を受賞している作家の作品です。
主人公は、一匹のハリネズミだ。彼はひとりぼっちで、家に誰も来たことがない。ハリネズミは考えた。よし、誰かを招待しよう、と。そうして、招待状を書き始める。

『親愛なるどうぶつたちへ
ぼくの家にあそびに来るよう、
キミたちみんなを招待します。』

しかしハリネズミは、自分のトゲが嫌いで、みんなと仲良く出来ないと考えている。だから、招待状の最後にこう付け足した。

『でも、だれも来なくてもだいじょうぶです。』

そうしてハリネズミはさらに悩みはじめてしまう。この招待状を出すべきかどうかを。
この招待状を出すべきだろうか。考えなくちゃ。そう、例えば、招待状を出したとして、誰か来てくれた時のことを想像してみればいい。クマは?ゾウは?カメは?コウモリは?…。ハリネズミは、色んな動物が来てくれることを想像するのだけど、どうにもうまくいかない。来ても楽しそうにしてくれなかったり、来たら家を壊されちゃったり、来ようと思っているのにハリネズミの家までたどり着けなかったり…。
ハリネズミの想像は次々と続いていき…。
というような話です。

設定は絶妙な面白さだなと思いました。ホントにこの作品は、最初から最後まで、ほぼハリネズミの妄想だけで終わります。招待状を出すべきか、出したら誰が来てくれるか、来てくれたらどうなるのか…みたいなことを、ひたすら延々と考え続けます。

しかもそれが、結構マイナス思考なのだ。そういう意味で、ハリネズミというセレクトはなかなか絶妙だ。ゾウのような長い鼻とか、キリンみたいな長い首とか、クマみたいな強さみたいな、分かりやすい良さみたいなものがなく、さらにその上で、ハリなんていう、周りの人を傷つけちゃうようなものを持っているハリネズミだからこそ、この葛藤が生きる。ハリネズミの妄想は、ちょっと荒唐無稽というか、考え過ぎというか、空想すぎというか、そういう部分もあるんだけど、その考え方のベースに、「自分なんて…」という発想があるというのが、共感を集めやすいように思う。

ハリネズミの妄想は、時々不可解で、読み取ろうと思えば哲学的な何かを読み取れるだろう。アリと「フクザツさ」について議論する部分も、ミーアキャットと「<訪問>とは結局なんのか」を議論する部分も、なかなか面白い。深い意味があるんだかないんだか分からないような描写は、何らかの輪郭のはっきりした問題を抱えている人が読めば何らかの答えのように感じられるかもしれない。あるいは、それらを始点(あるいは問い)として、新しい思索へと乗り出すことが出来るかもしれない。

読む人次第でいかようにでも読める、という意味でも、<寓話>と呼びたくなる作品だ。

トーン・テレヘン「ハリネズミの願い」

サイレント・ブレス(南杏子)

死ぬ、ということについて、普段考えることはほとんどない。今僕は33歳。長生きなんてしたくないなぁ、と思いつつも、なんだかんだ、死ぬのはまだまだ先だろうなぁ、と思っていたりもする。

時々こんな風に、小説を読んで、自分が死ぬ時のことを考えてみる。

僕は、出来るだけ抵抗しないで死にたいな、と思う。

医学が進歩して、薬や手術などでほぼ確実に治る病気というのは増えた。そういう、ほぼ確実に治る病気については、医学の力を借りて治していこうと思う。けど、薬や手術などで治る可能性の低い病気に罹ったり、あるいは、完治という状態がなく永遠に付き合っていかなくてはならない病気に罹ったりした場合には、治療を継続しないという選択肢を取りたいなと、今の僕は思っている。

そこまで無理して生きる必要なんてないんじゃないか、と思ってしまう自分がいる。

医学と言うのは、進歩しすぎているのではないか、と思うことがある。確かに、少しでも長く生きたい、というのは、大昔から人類が抱き続けてきた夢であり、その実現のために様々な努力が積み重ねられた結果としての現代の医学なのだろうから、仕方ない部分もあるのだろう。とはいえ、医学の進歩によって、「自然に死んでいく」というのがとても難しい世の中になってしまった。

「生きる」というのはただ、心臓と脳が動いていればいい、というものではないはずだ。それぞれ人には、「生きる」ということの形があって、その形が満たされていれば生きたい、となるのではないか。しかし医学は、心臓と脳が、時には心臓だけが動いていさえすれば良し、としてしまうような乱暴さがあるような気がする。もちろん、医学の側からすれば、まだ途中なのだ、と主張することだろう。完全な医療を実現する途上であり、だからそういう中途半端さは仕方ないのだ、と。まあそうなのかもしれない。

けど、心臓と脳が動いているからと言って「生きている」といえるかというと、僕は微妙だと思う。自分にとっての「生きる」形を満たしていなければ、それは死を受け入れろということなのではないか。なんとなく僕には、そんな風に感じられてしまうのだ。

そもそも僕には、今の段階で、どうしても生きたいという強い感覚がない。昔からそうだった。あまり、生きるということに対する執着がない。どうしても生きていたいということはないし、長生きしたいとも思えない。だからそんな風にも思うのだろう。

『―こんなんじゃ、生きていても仕方がない。天井を、見ているだけの毎日なんて…』

ある登場人物がそう呟く場面がある。僕は、自分がそう感じてしまうような最期だけは避けたい。どれだけ生きる選択肢があろうとも、「こんなんじゃ、生きていても仕方がない」と思えるような状況に陥る可能性があるなら、その選択を僕はしたくない。

死について考えることは、生きるを考えることだ。とてもありきたりな言葉ではあるのだけど、本書を読んで、強くそう感じた。

内容に入ろうと思います。
水戸倫子は、新宿医科大学病院に勤める医師だ。総合診療科という、トータルな診療を行う科で外来患者を診ている。患者としっかりと向き合うが故に、診療が遅くなることが多く、そのせいでかつて大事な面接に遅れたことさえあった。しかし倫子には、そんなやり方しか出来ない。
そういうやり方は、同僚からは嫌われても、病院全体からは評価されていると思っていた。しかし、そうではなかったようだ。大河内仁教授に呼び出され、関連病院に出されることになった。
しかも、むさし訪問クリニックという、訪問医療を行う、病院ですらないクリニックだ。明らかに左遷ではないか…。
落胆しながらクリニックに足を運んだ倫子は、武田康介という若い看護師と共に、患者の自宅まで出向いて診療するようになったが…。

「スピリチュアル・ペイン」
訪問看護で最初にぶち当たった難しい患者は、知守綾子という、45歳の末期の乳がん患者だ。著名なジャーナリストだという。治療をする気はないけど、死んだ時に警察を呼ばれても困るから訪問医療を頼んでいる、と言い放ち、まともに治療をする意志がない。煙草を吸い、謎の男と密会している様は、末期がん患者とも思えない。倫子はそんな知守の態度に戸惑うが…。

「イノバン」
倫子は、22歳の筋ジストロフィー患者である天野保を担当することになった。どうしても病院が嫌いで、自宅での治療を希望しているという。徐々に筋肉が衰えていくこの病気は、呼吸器がちょっと外れただけでも致命傷になるので倫子は当初断ったが、大河内教授に押し切られた。
保は活発で明るく、特に生活に問題なさそうだった。一人で電車に乗ってコンサートに行ったりもするようだ。そういうことに驚きながらも、一抹の不安もあった。保の母親だ。介護放棄のように思える状況が不安に感じられるが…。

「エンバーミング」
倫子は古賀芙美江を担当することになった。娘の妙子が献身的に介護するが、芙美江はリハビリや食事を断るなどなかなか言うことを聞いてくれない。無理に生かされたくない、という本人の希望を出来るだけ叶えてあげようと倫子は考える。
しかし状況は一変する。普段家にいない、芙美江の長男である純一郎が、強硬に母の治療を主張したのだ。老化は治せない、と倫子が説明しても聞く耳を持たない。治療する努力をしないのはおかしい、と言い募る。
結局、本来患者本人が望んでいなかった治療をすることになるのだが…。

「ケシャンビョウ」
医学部の同期生である糸瀬英人から、ある女の子を診てもらえないかと頼まれた。高尾花子と名付けられた女の子は、高尾山の麓の土産物屋の夫婦が発見した。発見されてから一度も発語せず、また病院に運び込まれた時には歩行障害もあった。しばらく治療したことで歩行障害は解消されたが、言葉を発しないのは相変わらずだ。土産物屋の夫婦が引き取るつもりで育てているが、機甲もあるという…。

「ロングターム・サバイバー」
新宿医科大学病院の名誉教授であり、消化器癌の権威としてメディアにも取り上げられた権堂勲を担当することになった。末期の膵臓がんである権堂は一切の治療を拒否し、自宅療養するのだと言う。患者に対しては諦めず全力を尽くした凄腕の医師が、自分の癌には治療を拒絶する。倫子は、権堂のその決断をただ受け入れるだけでいいのか悩む…。

「サイレント・ブレス」
倫子には、長いこと植物状態にある父がいる。母は、意識の一切ない父親の看病に励み、様々な刺激を日々与えようと奮闘している。回復の見込みはない、ということをそれとなく倫子が伝えても、その死をまだ受け入れられないようだ。
しかし倫子は、訪問医療に従事するようになって、父親が置かれた状況をなんとかしようと決意した。どう死ぬかを考えることの大切さを身にしみて理解した倫子は、父を安らかに看取ろうと決断するが…。

というような話です。
なかなか良い物語だったと思います。ミステリと言われればミステリだなと思う程度の、ちょっとした謎がある。大河内教授が探偵役みたいな形でその謎が解かれていくのだけど、あくまでもそれは物語のメインではない。物語のメインは、いかに死と向き合うのか、という様々な実例だ。

倫子が扱う患者は、多岐にわたる。年齢も境遇もバラバラだが、ほとんどが避けられない死に囚われているという点で共通している(高尾花子の話だけは例外だが)。死を前に、その人は何を考え、どう行動するのか。そして周りの人間は何を考え、どう行動するのか。そこに焦点が当てられていく。

『自然な死を見守る医療は、どこか頼りない。果たすべき治療をやりきっていないのではないかという迷いとも背中合わせだ。』

倫子は長く大学病院にいて、「病気を治すための治療」をずっと続けてきた。『大学病院では、初期治療については濃厚に行うが、集中的な治療を終了した時点で、患者を退院させる。その後、彼らが自宅に戻り、後遺症に苦しんだり、リハビリに取り組んだりしながらどんなふうに生きているのか、ほとんど知らなかったのだ』と感じるように、治せる状況まで持っていくのが倫子の仕事であり、そこから先のことは想像していなかったのだ。

しかし、訪問医療で、死にゆくものの治療をするようになって、倫子はそれまで感じたことのない戸惑いを感じるようになっていった。煙草を吸っている末期がん患者がいた。健康に悪い、と言っても、そもそもがんで余命幾ばくもないのだ。そこで煙草を吸うなということにどういう意味があるのか。あるいは、胃ろうという、胃に直接栄養を流し込む手術についても考える。倫子は、自分の父に対して胃ろうを施した。しかし、胃ろうによって口からものを食べなくなると急速に衰えることも知っていた。そうまでして生かさなければならない理由がどこにあるのか。

治すための医療とは全然違う葛藤が、倫子が出向く現場には常に転がっている。

そんな倫子に対して大河内教授が掛けた言葉がなかなか良い。

『死ぬ人をね、愛してあげようよ。治すことしか考えない医師は、治らないと知った瞬間、その患者に関心を失う。だけど患者を放り出す訳にもいかないから、ずるずると中途半端に治療を続けて、結局、病院のベッドで苦しめるばかりになる。これって、患者にとっても家族にとっても、本当に不幸なことだよね』

ホスピスなどが代表例なのだろうが、死ぬ者にだって必要な治療は存在する。治すだけではない治療の必要性は、より広く認識されるべきだし、より必要性を増していくだろうと思う。

『水戸君、もう一度言っておくよ。死は負けじゃない。安らかに看取れないことこそ、僕たちの敗北だからね』

どう死ぬか、それはまさに、どう生きるかを問うものだ。死なない人はいない。本書を読むと、いかに死ぬかで、それまでの人生に対する意味合いが変わってきてしまうようにも感じられた。どう死ぬかを、生きている間にちゃんと考えておきたいものだ。

南杏子「サイレント・ブレス」

悪医(久坂部羊)

これは凄い物語だった。大げさではなく、全国民が読むべき本だろう。

『いや、医療の本質は医学に忠実であることだ。医療が患者のご機嫌取りになったら、お終いだ』

僕ももし自分が医者だったら、こういう立場に立ちたいと思う。実際に立てるかどうかは別として。

『実際、抗がん剤は一般の人が思うよりはるかに効かない』

『さらに森川が疑問に思うのは、抗がん剤ではがんは治らないという事実を、ほとんどの医師が口にしないことだ(中略)
しかし、大半の患者は、抗がん剤はがんを治すための治療だと思っているだろう。治らないとわかって薬をのむ人はいない。この誤解を放置しているのは、ある種の詐欺ではないか』

がんについて、あまり考えたことはない。なんとなくのイメージで、抗がん剤ですべてのがんが治るわけではない、という程度の認識はあった。ただ、どの程度治るのかについての知識はなかった。本書によれば、抗がん剤はほとんど効かないし、そもそも抗がん剤ではがんは治らないという。これには驚いた。

冒頭の引用は、「治療不可能ながんに対してそれ以上の治療をすべきではない」という、医学に忠実な立場を取りたい、という表明だ。

しかし、現実はそううまくいかない。

『もうつらい治療を受けなくてもいいということです。残念ですが、余命はおそらく三ヶ月ほどでしょう。あとは好きなことをして、時間を有意義に使ってください』

医師は患者に対してこう言う。医師には、『副作用で命を縮めるより、残された時間を悔いのないように使ったほうがいい』という、患者のためを思う気持ちがある。

しかしそれに対して患者はこう答える。

『先生は、私に死ねと言うんですか』

この患者は、『先生。私は完全にがんを治したいんです。がんが消える薬に替えてください。そのためなら、どんなつらい副作用にも音を上げませんから。お願いします。この通りです』と懇願する。

両者の溝は深い。

医師には、選択肢がない。医学の見地に照らして、処置不能と判断せざるを得ないのだ。だから、もう治療は出来ない、という。この「出来ない」には、「その方があなたのためになる」という気持ちが込められている。確かに死んでしまうことは避けられないのだけど、同じ避けられない死なら、有意義な時間を過ごしてその死を迎えるのがいいでしょう、という優しい気持ちがあるのだ。医師は、『よかれと思って言ってるのに、なぜわかってくれないのか』と頭を抱える。

患者は、まったく違う風に受け取る。治療「出来ない」と言われることを、治療「放棄」と捉える。そこには、「がんは抗がん剤で、あるいは他の何らかの方法で治るはずだ」という信念がある。ネットやメディアでそういう事例をたくさんやっている。奇跡が起こったという話はいくらでもある。それなのに、ここでお終い?治療を止めてしまったら、起こるはずの奇跡も起こらないではないか。そうやって絶望する。

『できるだけのことをやって、悔いを残したくない』

『命が縮まってもかまいません』

『副作用より、何も治療しないでいることのほうがつらい』

患者はそう医師に訴え、治療の継続を熱望する。

『患者が闇雲に治療を求めるのは、薬の実態を知らないからだよ。患者が望む遠いに治療すればいいのなら、専門知識は何のためにあるんだ』

確かにその通りだ、と僕は感じる。なにせ、治療をすることで状態が一気に悪化することはほぼ間違いないのだ。

『がんの治療はある段階を越えたら、何もしないほうが長生きするんだ』

『それはだな、患者は「治療」イコール「病気を治すこと」と思い込んでるが、医療者は「治療」イコール「やりすぎるとたいへんなことになる」ってことを知ってるからさ』

医師も患者も、最善を尽くそうと必死になる。しかし、お互いの認識があまりにもかけ離れているために、お互いに最善とは程遠い場所に行き着いてしまうのだ。

医師は、妻とも議論をする。

『「患者さんが治療に執着するのは、当たり前じゃない。だれだって病気を直したいもの」
「でも、そうやって治療にすがることが時間を無駄にするんだよ。残された時間は限られてるんだから、気持ちを切り換えて有意義に過ごしたほうがいいだろう」』

そしてこの後に妻が言うことが、本作全体のある意味でボトルネックとなる。

『やっぱり無駄じゃないわよ。効果がなくても、治療をしている間は希望が持てるもの。希望は生きていく支えでしょ。それなしに時間を有意義に過ごせないわ。だって、好きなことをするといっても、絶望してたらだめでしょう』

この視点は正しいように感じられる。しかし現状では、この状況を作り出す仕組みが存在しない。抗がん剤を使えば副作用が出る。しかし、じゃあ抗がん剤ではない、例えば整腸剤などを抗がん剤と偽って処方すればいいのか。いや、ダメだ。もしバレたら大問題になる。結局、「効果がなくても、治療をしている」を実現するためには、副作用のある抗がん剤を処方するしかない。しかしそれは、「効果がない」どころか、逆に悪化させるのだ。

『どんなに苦しい人生でもいいから生きたい。どんなに不幸でも、死にたくはない』

患者が持つ、この取り除けない執着と、医療の限界の間で、医師も患者も苦しむ。答えは、一体どこにあるのだろうか?

内容に入ろうと思います。
35歳、外科医、森川良生。
52歳、胃がん患者、小仲辰郎。
この二人の視点が交互に繰り返される構成で物語が進んでいく。
森川は2年前、小仲の胃がんを早期に発見、手術をした。しかし11ヶ月後に再発、肝臓への転移が見つかった。森川は効く可能性のある抗がん剤をいくつか試すが、どれも効果なし。結局小仲に、これ以上の治療は出来ないと告げることになった。
そこで小仲から返ってきた言葉が、「先生は、私に死ねと言うんですか」だった。
小仲は森川の態度に不信感を持ち、病院を飛び出す。治療出来ないなんて嘘だ、まだ何か手はあるはずなのにあのクソ医師は放棄したのだ。世の中にはきっとどこかに、俺のがんを治してくれる医者がいるはずだ…。小仲は情報を集め、治療をしてくれる病院を探すが…。
一方の森川は、「死ねと言うんですか」と言われたことをずっと考え続けていた。あの状況で自分がどうすべきだったのか、分からない。自分としては最善の提案をしたはずだ。しかし患者は激昂してしまった。患者の言うように治療を続けることは、医師としての誠意に欠ける。それはしたくない。しかし、治療をしないと伝えることが相手を激昂させることになる。
森川は、その後も多くの患者を診察し、また妻や同僚や上司に話を聞き、がん患者との関わり方について考え続けるが…。
というような話です。

これは凄い作品でした。冒頭でも書きましたが、全国民が読むべき本だと思います。“正しい患者”になるためには必須でしょう。もちろん、医療技術や薬はどんどん進歩していくでしょう。10年後20年後も、この作品で描かれたのと同じ状況であるかは分かりません。しかし、少なくとも2017年現在は、本書で描かれていることが真実なのだろうと思います。

まずこの真実を知ることが一番大切でしょう。

その上で、自分がどう行動するか。それは、あなたが決めればいいことです。

この現実を知った上で、それでも治療をする、というのであれば、それはそれで構わないかもしれません。もちろんそれは、自分の身体に負担を掛けるだけではなく、医療側にも迷惑を掛ける行為です。すべきでない治療を継続することによるそういうマイナスすべてを理解した上で、それでも治療を望む、というなら、それはそれでいいかもしれません。

ただ、本書を読めば、医師の言う「治療が出来ない」ということを受け入れるのが最善の選択なのだということが分かるでしょう。

もちろん、自分の気持ちをどうコントロールするのか、という別の問題は残り続けます。治療をしない、ということは、死を受け入れることと同じです。その決断をする気持ちのコントロールが出来るのかどうか。これは、医学の領分ではないのだろうと僕は感じます。「医学を全うする者」としての医師と、「患者とコミュニケーションを取る者」としての医師をもしうまく分離することが出来れば、問題が少しは解消されるのかもしれない、と思ったりもします。

自分だったらどうだろう、とやはり考えてしまいます。

今の僕は、「死」というものを殊更に恐れていない、と思っている。いや、これはもう少し説明が必要だ。

僕は、「死ぬ」と思ってから実際に死ぬまでの時間が短ければ短いほどいい、と思っている。だから、脳卒中とか事故死なんかで、「死ぬ」と思った瞬間にはもう死んでいるような、そういう死に方をしたい。

これには、二つの側面があると思う。

一つは、「死」という現象を恐れていない、というものだ。「死ぬこと」そのものを恐れていない、という表現も出来る。

しかし一方で、「死に向かっているという状態」に耐えられない、という側面もある。死ぬのはいいが、死に向かっている状態は嫌だから、出来るだけその状態が短い方がいい、という気持ちがある。

もちろん、自分が実際に死に直面したらどう思うのか、それはその時になってみないと分からない。あくまでも、今の自分がどう思うかという判断に過ぎない。そういう、今の僕の考え方で言えば、「治療出来ない」と宣告されることは、ある種の解放に感じられるように思う。

なにせ、治療をしていようがしていなかろうが、自分が「死に向かっている」という事実は変わらない。確かに治療をしている方が、「死から逃れる可能性がある」と思える分、「死に向かっている」という感覚も薄れるのかもしれないけど、僕は悲観的な人間だから、そういう部分に関しては楽観視出来ない。とすれば、「治療が出来ない」と宣告されれば、もう諦めるしかない。その方が、楽になれるような気もしている。

まあ、実際どうなるかは、分からないけどね。

本書を読んで、「死ぬこと」の難しさを改めて感じさせられた。どんな病気になるのか、ならないのか、事故や災害に遭うのか遭わないのか。そういうのはもうすべて運だ。自分でどうにか出来るようなものではない。その無力感と、自分が置かれた状況を受け入れる困難さみたいなものが、「死」というものには否応なしにつきまとうのだな、と感じた。自分は、あまりジタバタしないで死にたいな、と思うのだけど、ちゃんとそんな風に死ねるだろうか。

久坂部羊「悪医」

蚊がいる(穂村弘)

穂村弘、やっぱり好きなんだよなぁ。

そもそも僕は、世界にうまく馴染めない人が好きだ。
もちろん、馴染めない人にも色んなタイプの人がいる。挙動不審だったり、対人関係が極度に無理だったりと、見た目ですぐに、あぁ馴染めないんだな、と分かる人もいる。確かにそういう人も、決して嫌いではない。嫌いではないけど、しかし実生活ではあまり出会わないし、ちょっと関わり合うのがめんどくさそうだなという気持ちも持ってしまう。

僕が好きなのは、世界に馴染んでいる風で全然馴染めていない人だ。表向き、友達もたくさんいるし、誰とでも話せるし、明るくてハキハキしてるし何でも楽しそうにやるんだけど、いざ話を聞いてみるとどうも馴染めていないような人、というのがいる。僕は人生で何人かそういう人に会ったことがある。

こういう人は、本当に魅力的だ(少なくとも僕にとっては)。そういう人は、やはり昔から馴染めなさを感じているから、自分の馴染めなさを自分なりに説明するために、言葉が巧みであることが多い。何故自分がそう思うのか、そして何故自分がそんな風に思わないのか。そういうことをきちんと説明できるのだ。

それは、馴染めてしまう人にはなかなか持ち得ない性質だ。本書の巻末には穂村弘と又吉直樹の対談が載っていて、そこで穂村弘が又吉直樹に、

『(サッカー部に入っていた又吉直樹に対して)僕はそこが謎で。たとえば運動ができないとなぜできないかを考えると思うんです、言葉で。できるヤツは言葉要らないんですよ、できるから。モテるヤツ、運動できるヤツ、楽器弾けるヤツはそえでコミュニケーションできるから言葉を必要としない。だから意外で、サッカーができたのに、なぜ本を読む必要があったんだろうって』

と聞いていて、確かにその通りだと僕も思った。そう、世界に馴染めてしまう人は、言葉を必要としないのだ(普通は)。僕はそれが不満で、世界に馴染めてしまう人には、あまり魅力を感じない。

欠損や歪みがあって、その欠損や歪みをきちんと捉えて自分の言葉で説明できる人。そういう人はやっぱり素晴らしいなぁ、と思ってしまうのだ。

そして、穂村弘という人は、まさにそういう人である。

本書はエッセイ集であり、それぞれのエッセイ毎に話は全然違う。けれど、あるエッセイの中で書かれていたある文章が、穂村弘のその欠損部分をうまく表現しているように感じられたので、そこを抜き出してみようと思います。

『文化祭でもキャンプでも大掃除でも会社の仕事でも、いつも同じことが起きる。全ての「場」の根本にある何かが私には掴めないのだ。現実世界に張り巡らされた蜘蛛の巣のようなルールがみえない。何のための穴なのかよくわからないままに、どこまでも掘ってしまう。だが、わかっていないということは熱心さではカバーできないのだ』

何故穴を掘っているのか、という点は是非本書を読んでほしいが、穂村弘のこの感覚は僕も凄くよく分かるし、そうそう、って感じになる。

僕は、世界に対するアプローチの仕方が、穂村弘ととても似ているように感じられる。自分の中に確信がない。確信を得ようと周囲を観察するのだけど、ルールらしきものが分からない。自分にはルールが分かっていないのに、どうも周りの人は特に説明もされないままルールを把握しているようで、その場に馴染んだ振る舞いをしている。色々と考えて、これかな、という行動をしてみる。でも、どうも違う。いや、はっきりとは分からないが、違うような感じがする。そういう雰囲気だ。でもじゃあどうすればいいのだろう?

というような葛藤は、僕の根っこにある。今の僕はもう、世界から外れることをあまり恐れなくなった。自分がその場で浮いていても構わない。むしろ浮いていることが当然であるような立ち位置を作ってやろう、と思って普段から生活をしている。そういう意識に切り替えて、前よりは楽になった。

そういう意味で、僕は日常の中で、穂村弘が感じているようなことをあまり感じなくなった、ような気がする。でも、まったくというわけではないし、このエッセイを読みながら、穂村弘の行動原理にとても共感している自分がいる。

だから、やっぱり穂村弘って好きなんだよなぁ。

本書は、穂村弘が日常の中で感じたあれこれについて書くエッセイだ。一遍一遍はとても短い。だいたい文庫本で2ページくらいだ。一気に読んでもいいし、ちょっとずつ読んでもいい。

2ページの文章の中で話をうまく完結させるから、一部だけ抜き出して面白い箇所というのは実は少ない。話全体の中で面白さを醸し出すスタイルなのだ。一遍全体で面白いエッセイというのは本書の中にたくさんある。その中で、これは抜き出しても面白い、と思える箇所を抜き出してみる。

『最近、五十肩になってしまって「家庭の医学」的な本を買った。そこに「アイロンを使った振り子運動」というものが紹介されていた。家庭でできる運動療法らしい。
ふと見ると、図解の端っこに注意書きがある。「アイロンがない場合は、ダンベルなどの代替用品でもかまいません」。えっ、と思う。そもそもアイロンの方が代替用品なんじゃ…、でも、自信がない。全てがよくわからない。』

思わず吹き出してしまった。穂村弘は、こういうのをよく見つけるのだ。「漁師プリン」の話も面白い。別になんてことのない話なんだけど、穂村弘の手に掛かると、面白い話になっちゃうんだよなぁ。

「周りの人も、みんな本当に日常の中で大変さを味わうことがあるのか?」という疑問に囚われた穂村弘の、こんな妄想も面白い。

『お天気お姉さんが腋の下から体温計をしゅっと抜き出して「今日の体温は三十八度八分、ふらふらです。でも、仕事だから頑張ります。もしも、あたしが倒れたら、明日のお天気はあなたが自分で空を見上げて予想してね」と云ったら、どんなにときめくことだろう』

なんか分かるような気がする。本書の「蚊がいる」というタイトルにも込められていることだが、テレビや雑誌ではもっと色んな人がしゅっと生きているような気がする。テレビや雑誌の世界には、蚊なんていないのだ。でも、現実にはいる。この落差は一体なんだろう?というような疑問から、こんな妄想が生まれてくるのだ。

世界は一つかもしれないが(複数あっても特に問題はない)、世界の見方はそれこそ山ほど存在する。その視点をたくさん持っていればいるほど、色んな世界の中で生きることが出来る、といえるかもしれない。穂村弘は、世界に馴染むのが苦手だが、馴染むのが苦手というだけで、色んな世界を見ることが出来る。穂村弘は、そんな自分で見た世界を、時に短歌で、時にエッセイで切り取っていく。穂村弘には、色んな世界が見えてしまい、ただでさえ世界に馴染むのが苦手なのに、余計に苦手になっていく。でも、その困惑みたいなものが、見ている方としては楽しい。

自分も世界にうまく馴染めないんだよなぁ、という自覚がある人の方が、きっと読んでいて面白いだろう。馴染めてしまう人からすれば、この人は一体何をそんなに悩んでいるんだろう、となるのかもしれない。分からない。とにかく、僕にとっては、とても楽しいエッセイだった。

穂村弘「蚊がいる」

アイデア大全 想像力とブレイクスルーを生み出す42のツール(読書猿)

非常に面白い本だ。
本書はタイトルの通り、「どうやったらアイデアを生み出せるのかの方法を示す本」だ。分かりやすく言えば、How To本だ。しかし、ただそれだけの本ではない。著者のまえがきから引用しよう。

『本書は、<新しい考え>を生み出す方法を集めた道具箱であり、発送法と呼ばれるテクニックが知的営為の中でどんな位置を占めるかを示した案内書である。
このために、本書は実用書であると同時に人文書であることを目指している。』

なるほど、非常に面白い切り口だ、と感じた。著者は、文学から数学・科学、哲学や宗教など、かなり博覧強記の人物だ。その知識をもって、「いかにしてアイデアは生まれるのか」を、一つの学問として縱橫に様々なジャンルを横断しようと企んでいる。

『これまでにない新しい考え(アイデア)を必要としている人は、できるのはわずかであったとしても現状を、大げさに言えば世界を変える必要に迫られている。そのために世界に対する自身のアプローチを変える必要にも直面している。
この場合、必要なのは、ただ<どのようにすべきか>についての手順だけでなく、そのやり方が<どこに位置づけられ、何に向かっているのか>を教える案内図であろう。それゆえに本書は、発送法(アイデアを生む方法)のノウハウだけでなく、その底にある心理プロセスや、方法が生まれてきた歴史あるいは思想的背景にまで踏み込んでいる』

本書を読んで、この点についてなるほどと感じた。何故その考え方が生まれたのか、という背景を一緒に知ることで、他の発想法との共通点も見えやすくなり、考える上で特にどの点に着目しなければならないのかという焦点を合わせやすいように感じられた。また、古来から様々な形で伝えられてきた方法なのか、近代になって生まれた方法なのか、というようなことを知ることで、それまで「発想法」という括りと捉えていなかったもの(例えば「占い」)などが、実は「発想法」の文脈で捉えることが出来るのだ、ということを学んだりもした。

著者は「人文学」というものを、こんな風に捉えている。

『この人文学を支えるのは、人間についての次のような強い確信である。すなわち、人の営みや信じるもの、社会の成り立ちがどれだけ変わろうとも、人が人である限り何か変わらぬものがある、という確信の上に人文学は成立する。
この確信があるからこそ、たとえば何百年も昔の人が書き残した古典にも真剣に向かい合うことができ、何かしら価値のあるものを受け取るかもしれないと期待することができる』

「人が人であるかぎり変わらぬものがある、という確信」というのは、人がいかに発想するか、という点においても同じだ。古今東西様々な人間が様々なことを考えてきた。その過程で少しずつ、「いかに考えるか」という知見も蓄積されていった。僕たちもまた、かつての人間と同じような形で何かを考えている。そこに学ぶ、という姿勢を持つことが、人文書でもある本書を読む上での一つの姿勢になるのではないかと思う。

著者は、本書を読む上での注意点を、こんな風に書いている。

『発想法とは、新しい考え(アイデア)を生み出す方法であるが、アイデアを評価するにはあらかじめ用意しておいた正解と比較する方法がとれない。というのも正解をあらかじめ用意しておけるのであれば、新しいとはいえず、アイデアでなくなってしまうからだ。
このことは、文章理解や問題解決に比べて、発想法の実験的研究が遅れをとった原因でもある。
アイデアとそれを生み出す技術の評価は、結局のところ、実際にアイデアを生み出し実践に投じてみて、うまくいくかどうかではかるしかない。』

本書では42の方法が紹介されているが、僕は実際にそのいくつかを試そうと思う。アイデアを考えなければならない対象は常時いくつかあり、それらについて実践してみるつもりだ。

本書で扱われている42の方法についてはここでは触れない。実践が難しそうだと感じられる方法もあるが、難易度が5段階で表示されているので分かりやすい。42それぞれの方法について、「具体的な手法」と「その手法を使った例」が提示され、さらにその後でその手法の背景が説明される、という流れで構成されている。縦横無尽に様々なジャンルを駆け巡りながら、「アイデアを生む」というのを実に広く捉え、可能な限りの手法を提示している。

その多くに共通しているのが、「自分が持っている先入観をどう乗り越えるか」という考え方だ。発想するためには、先入観を乗り越えなければならない。強制的に乗り越える方法や、無意識的に乗り越える環境を整える方法など、具体的なやり方は様々だが、先入観を乗り越えるために何をするか、という観点で本書で扱われている手法を捉えても面白いと思う。

本書とはまるで関係ないが、「発想法」に関して僕なりの考え方を書いて終わりにしようと思う。

「アイデア」にしても「発想」にしても、最終的にそれは何らかの形あるものとして出力される。「言葉」だったり「絵」だったり「デザイン」だったりだ。そして僕が常に思っていることは、どれだけ発想法を磨こうとも、その出力機能である「言葉」「絵」「デザイン」の能力が低ければ、何も出力出来ないだろう、ということだ。

だからこそ、発想法を磨く以前にまず、自分が出力したいと思う形を徹底的に磨くしかないと思う。企画を考えるなら「言葉」を、曲を作るなら「音楽」を、写真を撮るなら「写真」を磨かなければならない。

発想法と出力形は両輪だ。どちらかだけ欠けていてもダメだ。僕は、文章を書き、また企画を考える上で、「言葉」の力を大事にしてきた。僕は今、自分の内側にあるものを「言葉」という形で出力する能力には長けていると自覚している。そこに「発想法」という考え方を乗せて、自分の内側に何かが生まれる環境を整えれば、何かが出力されてくるだろう。

あくまでも僕の考えだが、発想法だけではなく出力形を磨く意識は持つべきだろうと思う。

読書猿「アイデア大全 想像力とブレイクスルーを生み出す42のツール」

イノセント・デイズ(早見和真)

33年間生きてきて日々実感することは、「幸せ」は自分で決めるしかない、という真理だ。

人は誰しも「幸せ」を追い求めて生きている。たぶん、世の中のほとんどの人がそうなんだろうと思う。でも、その「幸せ」の中身は人それぞれ違う。

…ということに気がつくのに、人生の中で無駄な時間を使ってしまうような気がする。

子供の頃のことは記憶にないのだけど、たぶん僕も、世間一般で言われるような幸せを「幸せ」だと思っていたと思う。きちんと正社員になって、結婚して、子供をもうけて、家を立てて…というような、よくある幸せの形だ。それで、僕はきっとそういう生き方は出来ないだろうと中学生の頃には思っていたような漠然とした記憶があるので、今後の人生は不幸しかない、というような悲観的な考え方を持っていただろうと思う。

自分基準で色々と辛いこともあって、それなりのことを乗り越えてきた今は、なんでそんなことで悩んでいたんだろう、という気持ちになっている。結局僕の悩みは、「他人基準の幸せに行き着けないこと」でしかなかったし、そのことを不幸だと感じていただけだった。僕が考えなければならなかったのは、「僕自身は何を幸せだと思うのか」ということだ。

この問いに、もっと早く気づくことが出来ていれば、無駄な苦労をせずに済んだのかなぁ、という感じがする。

僕は、周囲との軋轢や様々な場からの逃亡など、周りに色んな迷惑を掛けながら、自分が何を幸せだと感じ、何を不幸だと感じるのかを確かめていった。いや、確かめるという意識で臨んでいたわけでは決してないのだけど、結果的にごく一般的な幸せの基準には馴染めないという感覚が募っていく中で、少しずつ意識が変わっていった。

時々他人の悩みを聞くことがあるが、その多くは、「自分なりの幸せの基準を持てば解決するな」と感じることが多い。そういう人は、誰かが決めた幸せの基準が正解だと思い込んでいて、そうじゃなければ幸せだと感じられないと信じているのだ。あるいはそもそも、「他人から幸せだと思われることが私の幸せだ」というタイプの人もいる。こういう人は、ある意味で「自分なりの幸せの基準」を持っていると言えなくもないが、そのほとんどを他人に依存しているせいで、幸せを感じることが出来ない。

自分の幸せが、世間一般の幸せの基準と合致していると感じられるなら、全力でそれを突き進めばいい。全力で向かっていって、それでも幸せを掴めないなら、それはある意味では仕方ないし、諦めるしかない。けど、すべての人間がそうであるはずがないし、他者基準の幸せを手放すことが出来れば楽になれる人は世の中に相当いるのではないかと思っている。全力を出す方向を間違っているだけなのでは?という問いかけは、常に持ち続けるべきだと思う。

『それが半生のキーワードであるかのように、彼女の日記には「必要とされたい」という言葉が散見された』

『人はだれからも必要とされないと死ぬんだとさ』

「幸せ」を自分で決めることが出来れば、彼らは死なずに済んだのかもしれない。自分が思い込んでいる「幸せ」を一旦手放してみる。その勇気を持てるかどうかが、結果的に幸せにたどり着けるきっかけなのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
本書は、連作短編集のような趣を持つ長編小説です。
物語は、ある女性に死刑判決が下されるところから始まる。
3月30日午前1時頃に、JR横浜線・中山駅近くのアパートで火事が起こった。二階の角部屋から井上美香と1歳の双子の姉妹・蓮音と彩音の遺体が見つかった。一人残された双子の父親である井上敬介は、老人ホームの夜勤中で難を逃れた。
警察はすぐに、自宅で自殺を図っていた田中幸乃を任意同行する。目を覚ました直後に彼女は罪を認め、逮捕された。敬介は美香と結婚する前に幸乃と付き合っており、別れを切り出された幸乃はストーカーに変貌した。明らかに放火であることや動機があること、そして本人が自白していることなどから幸乃の犯行であることは疑いようもなく、死刑適用の判断基準となっている「永山基準」から、死刑は免れないと思われていた。
幸乃は犯行こそ認めたものの反省を口にすることはなかった。死刑判決後、法廷で「う、生まれてきて、す、す、すみませんでした」と口にした幸乃の姿は異様だった。
物語は、田中幸乃が逮捕されるまでの人生で彼女と関わった様々な人物の回想や述懐などで組み立てられている。幸乃の母である田中ヒカルが彼女を産んだ時の話、小学生の頃の「丘の探検隊」の一員だった頃の話、中学時代唯一幸乃と関わりのあった同級生の話、幸乃がストーカー行為を働いた井上敬介の話…。
どの時代の幸乃からも、納得と違和感を感じ取れる。これだけの鬱屈と不幸を抱えていれば、放火して3人を殺すなんていうことをしでかしてもおかしくないかもしれない、という納得と、どれだけ辛いことがあっても屈せずに生き続けてきたのに死刑に抗しないのかという違和感を。
田中幸乃とは、どんな女性なのか。それぞれの時代で何を感じ、どう生きていたのか。若くして死刑を宣告された一人の女性が辿ってきた苦難の人生を追いかけながら、人生や幸せの意味を問いかける作品。

非常に面白かったし、考えさせられた。殺人事件や裁判が扱われる作品だが、ミステリーではない。死刑を宣告されながら、彼女と関わったことがある人間には違和感でしかない振る舞いをする田中幸乃という女性を様々な人間の目を通して描き出すことで、田中幸乃だけではなく、彼女と関わった人間の内側にある深淵を覗き込む。そんな作品だ。

田中幸乃との関わり方は様々だ。

丹下健生は、赤ん坊の田中幸乃を取り上げた産婦人科医だ。母である田中ヒカルとの関わりがメインだが、ここで、田中ヒカル自身が結果的に幸乃と同じ境遇であったことが明らかになる。

『私自身が必要とされない子だったから、私は誰よりも子どもが欲しがるものを知ってます』

誰からも必要とされていないと思い続けていた田中幸乃は、しかし望まれて生まれてきた子だった。そんな彼女が何故、「必要とされたい」とノートに書くほどに追い詰められていくのか。その過程は、どんな人間も無関係とは言えないと思う。どんな人であっても、予期せぬ出来事によって、あっという間に困窮する。そんな世の中に、僕らは生きているのだと思う。田中幸乃のような人生を歩まずに済んだというのは、幸運だったということに過ぎない。

倉田陽子は、幸乃の姉だ。ふとした瞬間に失神してしまうという、母から受け継いだ病気を持つ幸乃を姉として支えながら、翔・慎一という頼れる仲間と「丘の探検隊」を組んでいた。

『誰かが悲しい思いをしたら、みんなで助けてやること。これ、丘の探検隊の約束な』

ここでも幸乃は必要とされている。もちろんこれは、幸せな時代もあった、ということに過ぎない。結局この時期、幸乃の人生を大きく左右するような変化があり、そのことが幸乃の人生に暗い陰を落とすことになる。しかし、幸乃の人生を経験していないからこんなことが言えるのだろうけど、必要とされていた頃の経験や記憶を信じて生きていくことも、幸乃の選択次第では出来たのではないか、と思いたくなってしまう。

小曽根理子は、中学時代の幸乃の唯一の友達だ。宝町というドヤ街に住み、学校でもいつも陰気な雰囲気を漂わせる幸乃は学校中から疎まれる存在だったが、海外の古典文学を読んでいる、という繋がりから理子は幸乃に声を掛け、友達になった。しかし、普段つるんでいる山本皐月らが幸乃に良い感情を抱いていないと分かると、理子は幸乃に、学校では話しかけないでと頼んだ。それでも、二人は電話で話したり、理子の家に呼んだりと、親しい関係を続けていく。

理子が語る物語が、一番苦しく感じられる。理子は、強く望んでいるわけではないが、孤立したくないという理由で皐月らと関わる。その関係性の中で、理子は傷つくことになる。しかし、皐月らとの関係はやめられない。

それはある意味では幸乃がずっと感じてきたことと同じだ。「必要とされたい」。理子は、皐月から必要とされていると感じてしまうが故に、皐月から離れることが出来ない。一方で理子にとって、幸乃の存在も大事さを増していく。

『私には幸乃が必要なんだ。背伸びしないでいられるから。私を認めてくれるから。幸乃がホントに必要なの』

皐月に対しては「必要とされたい」と無理してしまう皐月も、幸乃の前では自然体でいられた。そんな理子に対して、幸乃も徐々に心を開いていく。お互いにとってお互いが唯一無二の存在になる。二人の関係は、まさにそういうものだった。

だからこそ…。彼女たちの人生に訪れたある出来事が悲しくて仕方がない。様々な条件が絡み合って起こった出来事だ。それぞれに悪い人間はいるが、しかしその悪を幸乃はすべて被ることになる。そしてそのことに対して幸乃は、こんな風に思うのだ。

『自分のことなんかで苦しんでほしくない』

この出来事が、幸乃に決定打を与えたように思えてならない。自分という人間の存在価値についての拭えない汚点みたいなものが、この時に染み付いてしまったのではないかと感じる。それまでも色々あったし、それからも色々あった。でも、もしこの出来事がなかったら…。幸乃の人生はもう少し違っていたのではないか。そんな風に思いたい自分がいる。

そういう経験を経て、幸乃は、井上敬介と出会うことになるのだ。

幸乃は、結果的に、自分なりの幸せの基準を掴むことが出来なかった。努力しなかったわけではない。幸乃は、人生の様々な場面で、彼女なりに勇気を振り絞り、彼女なりに努力をし、自分なりの幸せの形を掴もうと手を伸ばした。でも、その度にうまくいかなかった。もうこれは、不運だったとしか言いようがない。手を伸ばしても伸ばしても、いつも弾かれる。これが私の幸せだ、と信じた先に何もない、という絶望を何度も繰り返した彼女が、生きることを諦めてしまっても仕方がないようにも思う。

この物語が皮肉なのは、幸乃は最終的に、自分なりの幸せを見つけ、手を伸ばし、掴んで離さなかった、ということだ。どういうことなのかは本書を読んでほしいが、一般的ではない「幸せ」を掴み、これが最後だと信じて離さなかった彼女の意志の強さみたいなものが、逆に周囲に違和感を与え続ける。その違和感に答えを見出そうとして右往左往する人々が描かれるのだ。

この物語を読むと、ニュースの向こう側を知りたい気分になる。

『田中幸乃死刑囚は横浜市出身の三十歳。かつてつき合っていた恋人から別れを告げられたことに激昂し、元恋人の家族が住むアパートに火を放ち、妻と幼児二人の三人を焼死させた。二〇一〇年の秋に横浜地方裁判所で死刑判決を受けたあとは罪を悔やみ、拘置所では静かにそのときを待っていたという―』

彼女はそんな風にニュースで報道される。
この報道は、確かに田中幸乃という女性の犯した罪と人生の「要約」かもしれない。しかし、「要約」する過程で削ぎ落とされたものが多く、またねじ曲がって伝わっている部分もある。結果このニュースは、田中幸乃という人物をまったく捉えていないものになる。

僕らが普段触れるニュースも、きっと同じなのだろうと思う。日々様々な事件が起き、様々なニュースが流れる。僕らはマスコミを通じてしか、そういう事実を知ることはない。取材するマスコミの人間が何らかの予断を持っていれば、間違った印象や出来事が伝わることになる。しかし、そのことを確かめる術もない。手元に届いた情報を、そうなんだ、と受け取ることしか出来ない。

そのこと自体は、仕方がない。僕らの努力で変えられることではない。ただ、そうやって届いた情報を「すべて正しいことなんだ」と思うことは、今すぐにでも止められる。

『なんかいかにもだなってさ、私も間違いなくそう思ってたんだ。何も知らないくせに。自分勝手に決めつけて』

他人のことなんて、分からない。直接会って話してたって、分からないのだ。僕は普段から、分かったような気分にならないように気をつけている。見えているのは、ほんの一部。そのほんの一部から、本質を捉えたような気になるのは止めよう、と。自分が相手をどう見ているか、という表明をすることは自由だが、それが正しいことだと押し付けるのは間違いだろう。そんなようなことを、普段から意識している。

ニュースは、分かりやすい構図に全体を押し込めようとする。その方が注目されるし、分かりやすいからだ。けれど、分かりやすい構図に当てはめられる状況なんて、ほとんどない。正確な正三角形がこの世の中に存在しないのと同じように、誰もが捉えやすい構図にピッタリ嵌まる事象なんてないはずなのだ。

この物語は、ニュースの奥にあるかもしれない現実を描き出してくれる。事件の背後にある現実を暴き出してくれる。
この作品は物語だ。しかし、これと同じことが、いつどこで起こっていてもおかしくはない。日々流れるニュースの裏側には、そのニュースでは絶対に描き出せない様々な人間模様がある。そこに目を向けてみたい。そんな風に思わせてくれる作品だ。

早見和真「イノセント・デイズ」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)