黒夜行

>>本の中身は(2017年)

ルビンの壺が割れた(宿野かほる)

内容に入ろうと思います。
本書は、フェイスブックのメッセージのみで構成された異色の小説です。
水谷一馬という男が、ある日送った一通のメッセージ。そこからすべては始まる。水谷は、歌舞伎関係のサイトでたまたま「未帆子」という名前を見つけた、と書き、そこから「結城未帆子」という女性のフェイスブックページにたどり着く。水谷には、この「結城未帆子」が、あの女性であるという確信が最初からあったわけではない。けれど、彼女であって欲しい、という気持ちから、そのページから分かる限りの情報を手に入れようとした。そして、恐らく彼女であろう、という確信を得てから、メッセージを送るのだ。
当初、返信はなかった。水谷は、それを当然のことだと受け止めつつ、何度かメッセージを送る。やがて、「未帆子」を名乗る女性から返事が返ってくるようになる。
水谷は、結婚式の日に何故式場に現れなかったのか、今でも理由が分からない、と書く。そして、それを殊更に追及するでもなく、かつて同じ大学の演劇部で演出家と役者という関係だった過去について語る。自身に生い立ちや許嫁についても話していく。「未帆子」もまた、かつて付き合っていた頃には明かさなかった話をいくつか水谷に披瀝する。
そうしてやがて、ルビンの壺が割れる。
というような話です。

なかなか評価の難しい作品だと感じました。
僕が本書を読み終えて、一番最初に感じたことは、「何か足りないな」ということです。正直、何が足りないのか、はっきりと指摘できるわけではないのだけど、どうも何か足りない感じがする。これは、物足りない、というのとはちょっと違う。物語としてはうまくまとまっていると思うし、一定以上の面白さはあると思う。ただ、何か足りない。

無理やりその足りなさに理屈をつけるとすれば、「未帆子」が何故返信したのか、という点に絡んでくるのではないか、という気がする。この点については、この感想の中で詳しくは触れないが、非常に重要なポイントではないかと感じるのだ。最後まで読み終えた者には、この疑問はなんとなく理解できるだろうと思う。

いや、まったく分からない、というつもりはない。「未帆子」の意図は、分からないでもないのだ。けれど、そうしなければならない必然性が、「未帆子」にあったのかと考えると、どうだろうか、と思えてしまう。そこは、やはりちょっと弱いのではないか。であれば、「フェイスブックのメッセージのみで構成する」という部分を捨てて、そのやり取りをしている水谷と「未帆子」を描く、という選択肢もあったのではないか、という気もする。もちろん、本書の「フェイスブックのメッセージのみで構成する」という試みは、一定の驚きとインパクトを与えていると思うので、成功していると言えると思うが、何故返信したのか、という部分を説明する上ではなかなか難しくなってくるように思う。

そこにリアリティが感じられないと、二人のやり取りが絵空事のように感じられてしまいそうで、ちょっともったいない気がする。かつて付き合っていた頃の話とか、許嫁の話とか、演劇時代の話、「未帆子」が秘密にしていたことなどは、本書を読む読者にとっては必要な情報であり、楽しむべき物語ではあるのだが、それらをこの二人が今やり取りしている、ということの意味がぼやけてしまう。少なくとも、「未帆子」の側にはそんなやり取りをする必然性はないのだ。最後まで読めば、水谷が「未帆子」にメッセージを送った理由は明白に理解できる。しかし「未帆子」が水谷に返信した理由は、あくまで想像することしかできない。ちょっとそこがもったいないように思う。

しかし、その点の違和感さえ気にしなければ、確かによく出来た小説だと思う。「ルビンの壺が割れた」というのは、水谷と「未帆子」がかつてやって演劇のタイトルだが、本書全体を表すものとしても秀逸だ。確かに、物語のラストで、ルビンの壺が割れる。そして、そこに至るまでのやり取りの運び方がなかなか良くできていると思う。

「未帆子」が演劇部で並み居る先輩を押しのけて主役を勝ち取った話や、水谷の許嫁にまつわる話など、どう考えてもただの昔話や言わずにいた懺悔でしかない話が、物語全体に絡んでくる。ラストの展開を知ってから彼らのやり取りを読み返してみると、ある種の闘いのような緊迫感を感じられるかもしれません。

たぶんこの感想を読んでも、どんな話なのか全然想像出来ないでしょうが、細かな部分を気にしなければかなり面白く読めるのではないかと思います。

宿野かほる「ルビンの壺が割れた」

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十三階の女(吉川英梨)

「共謀罪(テロ等準備罪)」が審議されていた頃、「この法律が通れば、日本は監視社会になってしまう」という批判が出ることが度々あった。しかしそれに対して、「共謀罪が成立しようがしまいが、既に日本は監視社会なのだ」と反論する人もいた。

僕は、具体的な実態こそ知っているわけではないが、後者、つまり既に日本は監視社会なのだ、という意見の方が正しいのだろう、と思っている。だからと言って、共謀罪に賛成というわけではないのだが。

公安警察という存在は、以前から小説を読んで知っていた。彼らがどんなことをしているのかも、小説で描かれる範囲のことならなんとなく知っていた。あるいは、CIAやMI6やKGBなど他国の諜報機関の実際の話や小説などを読むこともあった。

表に出てくるそういう話のどこまでが現実を反映しているのか分からないが、そこで描かれていることが現実をまったく反映していない、と考えるのも難しい。

元CIAの職員で、「CIAが世界中の通信を傍受している」という機密情報を暴露して世間を騒がせたスノーデンの映画も見たことがある。「スノーデン」と「シチズンフォー スノーデンの暴露」という映画だ。スマホやパソコンで何らかの通信をしていれば、世界中どこにいてもアメリカの監視対象になり得る―。僕たちはそういう社会に生きていることを自覚する必要がある。

ここで僕自身の、「未然に防ぐべきとされている犯罪(テロなど)」に対する考えを書いておこう。

僕は、そういう犯罪を未然に防ぐことは、諦めるしかないのではないか、と考えている。もちろんそれによって多数の死者が出る。社会に大きな影響を与える。しかし、それを「人間がやったことである」と捉えるから憤りを感じるわけで、同じだけの影響を自然災害が与えたとしても、同じような憤りを感じることはないだろう。結局、それが人間による行為なのか自然による脅威なのかという違いだけで、僕たちはいつだって命を落としてもおかしくない世の中で生きているのだ、と思うしかない、と思うのだ。

もちろんこの態度は冷たいし、人為的なものと自然災害を同列に並べることの無意味さを指摘されもするだろう。それは僕も十分に分かっている。しかし、そういう犯罪を防ぐためにどれだけの犠牲が払われているのか、ということを思う時、簡単に「テロは防がなければならない」とは言えない。

本書で描かれていることはまさにそういうことだ。起こるかもしれないテロを防ぐために、国家に忠誠を誓った(誓わされた?)者たちが、自らを犠牲にしてまで国家を守ろうとする。その功績は表に出ることはない(何故なら、捜査の過程で違法な行為を数々行っているからだ)。「共謀罪」は既に成立したが、この法律が運用されるようになったところで、盗聴や監視に対する国民の嫌悪感はすぐには薄まらないだろうし、恐らく永遠に消えることはないだろう。であれば、仮に「共謀罪」の成立によって、今まで違法とされていた行為が合法だということになっても、国民感情を考えた時に、やはりその行動は表に出せないという判断が下るだろう。結局彼らの功績が表に出ることはない。

重大事件を未然に防ぐ、ということの背景にはそういう、職務として個人を犠牲にして国家を守ろうとする者たちの想像を絶する奮闘がある(はずだ)と思う。

僕たちは、自然災害を起こらないようにするための努力はしない。もちろん、起こってしまった時の被害を最小限にするために努力や工夫は日々行われているが、自然災害を起こらないようにすることなど出来るわけないのだから、そこに注力することはない。テロなどの犯罪は、事前に努力すれば防げる可能性はもちろんある。しかし、そのために膨大な労力が必要とされるし、その過程で様々な個人が犠牲になる。その犠牲は、表向きなかったことにされる。テロを防ぐことで目に見える犠牲者を減らすことは出来るが、テロを防ごうとする過程で目に見えない犠牲者が数多く生まれる。その不均衡さを僕たちは無条件で許容して良いものなのだろうか、と僕は考えてしまう。

未然に防ぐべき重大な犯罪があるし、それらや防がれるべきだ、と考え方は分からないでもない。しかし僕たちは、それを実現するために膨大な犠牲が生まれるのだということを自覚しながらそう求め続けなければならないのだ、と本書を読んで改めて感じさせられた。

内容に入ろうと思います。
黒江律子、28歳。警視庁公安部公安一課三係三班所属の巡査部長だ、表向きは。実際の“奉公先”は公安部ではなく、「十三階」だ。
「十三階」は、警視庁直轄の諜報組織であり、全国都道府県警察に所属する公安警察官たちの中でも、ほんの一握りの優秀な者だけが呼ばれる特別な講習を経て、この部隊の構成員となる。末端作業員たちの活動内容は限りなく非合法に近く、時に完全なる非合法活動も厭わない。黒江は、万が一の時には性を売る覚悟で作業に臨んでいる。
その日も、作業玉(情報提供者)に女として迫り、重要テロ情報をさらりと手に入れる―予定だった。当初の作戦行動通りに行かず、事態は最悪の形で終結する。やがて黒江は、自分が防げたかもしれないテロの発生を知り、しばらくして「十三階」の現場から離れた。
身内に起こったある出来事をきっかけとして、「十三階」に黒江を引き入れたかつての上司・古池慎一から、「十三階」に戻ってこないかとアプローチされる。古池は黒江の才能をいち早く見抜き、「十三階」のメンバーとして黒江を育て上げてきたが、一方で古池・黒江はお互いに複雑な感情をもつれさせる関係でもあり、時にそれが作業に影響を及ぼすこともある。
黒江は、自分が防げなかったテロを起こした「名もなき戦士団」を追い詰めるために「十三階」に戻ってくる。黒江はかつてのテロ映像を分析し、やがてそこに一人の女の姿を見出す。後に「スノウ・ホワイト」と呼ばれる、恐らくテロの首謀者と思われる美しい女を、黒江は執念で追い詰めるが…。
というような話です。

これはかなり面白い作品でした。公安警察を扱った作品はあるし、「十三階」の前身とされる「チヨダ」や「ゼロ」を扱った作品もあります。そういう中で本書がずば抜けているのか、それは僕にはうまく判断できませんが、小説としてのリーダビリティは相当なものだと思います。

本書の主人公を女性に据えたことが、まず一つ大きな特徴でしょう。公安警察を扱った小説で女性が描かれないということはないでしょうが、警察全体でも女性警官は9%、公安警察となるとその数がさらに激減すると言われる中で、女性をメインに据えた作品というのはもしかしたら珍しいのかもしれません。その中でこの黒江という主人公は、女性性を前面に押し出しながら作業に当たる。女性であることを武器にする、という意味では、決して対男性だけに限らず、対女性の場面であっても自分の女性性をフル活用する。本書の読みどころの一つは、その「えげつなさ」だろう。

僕が本書を読んで感じたのは、恐らくこの「えげつなさ」は公安警察の実態として恐らく事実なのだろうし、そしてこういう「えげつなさ」を前面に押し出していかなければテロを未然に防ぐことが出来ない、ということなのだ。読みながら、こういう犠牲を強いてまでテロを防ぐべきだと、僕たちは本当に主張できるのか、ということだ。

また、作業以外の部分でも、黒江の女性性は描かれていく。主に、上司である古池との関わりにおいてだ。黒江は古池に対して恋心のような感情を抱いていることを自覚しているし、古池の方にもまったくそれはないということはない。しかし古池にとって黒江は、「十三階」の任務にとって非常に重要な存在であり、「十三階」としての黒江を手放すことが出来ない。それが分かっていながら、自分の内側の部分から古池に惹かれている自覚のある黒江は、上司との関わりで右往左往させられることになる。

『国家を守る、体制の擁護者としての最たる組織「十三階」の捜査員に、「個」はない。「十三階」に所属するための壮絶な警備専科教養講習の過程で、少しずつ「個」を消されていく』

そうやって「個」を失っていくのだが、しかし古池に対する感情だけはなかなか消せないでいる。作業における葛藤とは別に、黒江の一人の女としての葛藤もまた描かれており、それらが複雑に入り混じって混沌としていく。

女であるが故に、男以上に残酷にならざるを得なかったからこその葛藤。国を守るという壮絶な使命と、個人としてどう生きるのかという想いがごちゃごちゃになりながら、それでも自分にしか出来ない役割を全うしようと奮闘する女性と、彼女と共に国を守るために危ない橋を渡り続ける者たちを描く、非常にスリリングな物語だ。

吉川英梨「十三階の女」

つぼみ(宮下奈都)

昔より、あれこれ悩まなくなったと思う。

『私は今でもときどき、いろいろなことがよくわからないまま大人になってしまったような気がすることがある。』

大人になると、何か変わるんだろう、と漠然と思っていた時期はあった。たぶん、中学とか高校ぐらいのことだろう。大人が近づいてきていて、でもまだちょっと時間があるような頃。大人になれば、たぶん自動的に、そう自動的に何かが変わるんじゃないか、と。子供でいるからこそ、色んなことが出来ないのだ、と思いたかったのだろう。大人になれば、大人であるというだけの理由で、きっと色んなことが出来るようになる。そうじゃなきゃ、自分がちゃんと大人になれるような気がしなかったのだ。

『逃げていたのは私のほうだ。力がなければ自由だと、何もない自分から逃げていた。』

あぁ、その通りだ。僕は、ずっと逃げていた。何も出来ないのは子供だからだ、と逃げていた。自分に何もないのは子供だからだと思っていた。

でも、大人がもっと近づくにつれて、そうじゃないことに気付くようになってきた。もう大学生にもなれば十分大人かもしれないが、まだ学生だという猶予期間があった。しかし、学生でなくなってしまえば、もう大人になるしかない。けど、今のまま大人になって、本当に、色んなことが急に出来るようになるのだろうか?そんな訳ない、と思った。そんな訳ない。

だから、大人になるのが怖かった。大人になったら、ちゃんとしなくちゃいけないと思い込んでいた。ちゃんとすることは出来ないと思っていた。大人になれるほど、ちゃんとは出来ない、と。

『みんながやることなら自分がやらなくてもいいと思ってしまう』

僕も同じだ。でも大人になれば、大人がやることは、何故だかやらなきゃいけないようになる。そうであることが求められる。

『型があるから自由になれるんだ』

言葉としては理解できるけど、僕にはなかなか実感できない。

どうにか大人として見られないように、逃げまくってきた。ちゃんとした大人のようには生きられない。それは今でもそう思っている。だから、大人だと思われないようにするしかない。そこまできちんと言語化できていたかどうか分からないけど、きっと僕はそんな風に考えていた。

そうやって、なんとか今日までやってきた。今僕があまり悩まずに住んでいるのは、「大人」という名前のソフトをアンインストールしてきたからだ。インストールするように要求されても無視してきたからだ。「大人」というソフトがインストールされているからこそ、それと自分との差に悩む。だったら、アンインストールすればいい。

『うまくいかなくても、丸くは収まらなくても、そのままの形で残すことも大事なんじゃないか。』

宮下奈都の小説群を要約すれば、まさにこの言葉に収縮していくのではないかと思う。誰もが、色んな価値観や感情を持っている。それらは本来は一つ一つ違う。みんなが同じ容器に収まるなんてことはあり得ない。でも、「同じ容器に収まるべき」という流れが強ければ、個々人は自分の価値観や感情をその容器に収まるように変形させてしまう。

それはダメだ。

宮下奈都の小説を読むと、いつもそんな風に感じる。今自分が抱いているその価値観や感情は、はっきりと名前が付くような、スパッとどこかの領域に収まるようなものではない。それを、単純に明快に表現してしようとすれば、細部を削り取るしかない。宮下奈都はそれを是とせず、何かに収まらなかったとしても細部まできちんとそのままであることが大事なのではないか、といつも訴えかけているように感じられる。

言語化してしまえば、そのままの形では存在できないような、そんな捉えがたい何かを、それでも言語によって捕まえようとする。そういう困難さの中で宮下奈都は、そうそうそんな表現だとぴったり来る、と読む者に感じさせるような描き方を、見事にやってのけるのだ。

内容に入ろうと思います。
6編の短編が収録された短編集です。内3編は、宮下奈都の出世作である「スコーレNo.4」のスピンオフのような内容になっています。

「手を挙げて」
和歌子は、姉の里子と共に住宅展示場へと足を運んだ。姉は、まるで骨董のような家に嫁いだ。姉は昔からなんでもできた。お茶もお花もなんでも。でもそれらは辞めてしまった。結婚してしまえばすべてご破算ではないか、と和歌子は思う。和歌子には、何もない。何もないことが自由だと思っていたけど、どうやらそれは思い違いだったようだ。住宅展示場の人から、一つだけ欠点があるんですよ、と言われて、和歌子は史生のことを思い出す。正確には、彼の母親のことを。コーヒーカップで紅茶を飲ませたことでウダウダ言ってくる史生の母親のことを。

「あのひとの娘」
美奈子のジュニア向けの生け花教室に、あのひとの娘がやってきた。津川紗英。いつかこんな日が来ると思っていた。
津川くんを意識し始めたのは高校生の頃。森太(森崎太郎)から話を聞くまでは、同じクラスにいたのに顔と名前が一致していなかった。森太は、テニス部に入った初心者の中で、唯一卵型のラケットを買った変な奴がいる、と津川のことを話したのだ。それからだ。津川くんを知りたい欲が高まって、ついに付き合うことになったけど、長くは続かなかった。
紗英には、生け花のセンスがあった。あのひとの娘、というだけで、色眼鏡で見てしまっているかもしれない。

「まだまだ、」
紗英は朝倉くんの生け花に魅入られている。同じ中学で、野球部にいると思っていたのに、生け花の教室にいた。そして、凄く上手い。朝倉くんに、一気に興味が湧いた。
紗英は昔から「お豆さん」と呼ばれていた。なんでも姉二人が引き受けてくれて、紗英はのほほんと育った。のほほんと見られることが多いけど、そうじゃない部分もある。そういう部分を出すと、「サエコらしくない」と言われる。いつの頃からか、「サエ」ではなく「サエコ」と呼ばれるようになった。

「晴れた日に生まれたこども」
晴子と晴彦。晴れの日に生まれたから。そんな単純な名前をつけられた姉弟は、「コー」「彦」とお互いを呼び合う。彦は勉強も運動も出来ない方じゃなかったのに、それ以前にどこか足りなかった。高校を辞めて働き始めた会社もすぐやめ、アルバイトもあまり長続きせず、フラフラしている。そんな彦が、私を呼び出して町をうろうろする。寂れた喫茶店に入って、うまくもないジュースを買う。何か話があるらしいが、よく分からない。彦はいつだって、ふわふわしたようなことを言う。

「なつかしいひと」
母さんが死に、父さんと僕と妹は、母の実家のある町へと引っ越した。母の実家に身を寄せることにしたのだ。頑張れば、そのままの土地で生活し続けることが出来たかもしれない。でもみんな、頑張り方を忘れてしまった。母さんがいない家で、頑張れる気がしなかった。知らない土地で、クラスに馴染むわけでもない僕は浮いていた。町を歩いていると、商店街の中に本屋を見つけた。そこで、セーラー服を着た女の子に出会った。自分が好きだという本を、いくつか紹介してくれる。

「ヒロミの旦那のやさおとこ」
ヒロミの家の近くに、古い車が停まっていた。中には一人、やさおとこ。家に帰って母に、見かけない男がいたと言うと、ヒロミの旦那でしょう、と言う。そんなバカな、と思ったけど、ヒロミの旦那はどうやらあのやさおとこのようだ。そのヒロミとは、ずっと連絡を取っていない。どうしているのかも分からない。昔はヒロミとみよっちゃんと私(美波)の三人でずっと一緒にいた。三人の世界の中に、男の会話が入り込む余地はなかった。だからだろうか。ヒロミもみよっちゃんも、結婚する直前まで私にその話をしなかった。ある日そのやさおとこから、思いがけない話を聞かされる。

というような話です。

宮下奈都らしい、モヤモヤした何かを丁寧に掬い取る作品だと思いました。

宮下奈都の小説の内容紹介をする時は、いつも困る。物語らしい物語がないからだ。

いや、それは語弊だ。物語は、ちゃんとある。しかし、決してそれが全体の中心にはない。宮下奈都の作品の中では、物語ではないものが常に真ん中にある。じゃあそれは何なのか。僕なりの表現をすれば、「名前の付けられない何か」だ。だから困るのだ。なかなか言葉では捉えられないものを作品の真ん中に持ってくるから、何を書いてもその作品の要約を掴めたような気分にはなれない。

言葉では捉えきれないものを切り取るために物語があるのだ、というのは、一つの存在理由として間違いないだろう。しかし、それが実現出来ている物語というのは、決して多いわけではないと思う。厳しい言い方をすれば、辞書に載っているような単語の組み合わせで表現できてしまうような価値観や感情を描こうとする物語も、たくさん存在する。宮下奈都は、いつもそれを回避しようとしているように僕には感じられる。辞書に載っている単語の組み合わせで表現できる程度のことであれば、物語を紡ぐ必要はない。そんな風に思っているように感じられる。

どの物語にも、誰かにとっての「モヤモヤ」が横たわっている。そのモヤモヤは、はっきりこうと表現できるような分かりやすいものではない。だからこそ当然、そのモヤモヤが完全にすっきり晴らされることもない。理解しやすいモヤモヤを、完全にすっきり晴らす物語の方が、容易に書けるのではないか。現に、そういう物語は、決して少なくない印象を持っている。しかし、宮下奈都はそれをよしとしない。

既に引用したが、まさに、

『うまくいかなくても、丸くは収まらなくても、そのままの形で残すことも大事なんじゃないか。』

という感覚が、宮下奈都自身の内側にも根付いているのだろうと思う。

作中で描かれるモヤモヤは、解消することよりも、その存在を認識し、可能な限りその輪郭を捉えようとする方に力点が置かれる。完全には捕まえられないかもしれないが、近づく努力だけはしてみよう、ということだ。解消するために物語が存在するのではなく、存在に気付くために物語が存在する。

それは、僕たちなりの日常を生きる上でも非常に大事な視点だろうと思う。何かモヤモヤを感じた時に、「どう解消するか」というやり方ばかりが強調されるきらいがあるように感じられるが、そうではなく、「モヤモヤの正体を出来るだけ掴んでみる」というやり方もあるだろう。掴めさえすれば、解消する方法は自然に見つかる、こともある。

初めの3編は「スコーレNo.4」のスピンオフ的な作品であり、後の3編はそうではない。個人的には、初めの3編の方が好きだな、と思う。決して「スコーレNo.4」を読んでいないと理解できない作品ではない。「スコーレNo.4」では端役だった人物や、「スコーレNo.4」には出てこない人物が主人公なので、「スコーレNo.4」にどっぷり、というような作品ではない。知っていればより奥行きが広がる、という感じだ。

初めの3編には「生け花」という共通項がある。恐らくこの生け花というモチーフの存在も、僕が初めの3編を好きな理由になっているだろうと思う。生け花という長い歴史と伝統があり、美しいモノを見るための力と表現するための力を要する芸能に登場人物たちを関わらせることで、彼らの悩みや葛藤により深みを感じることが出来る。生け花を通して悩み、生け花を通して新しい世界を知る、という描き方の中に、人間らしさみたいなものを盛り込んでいくことが出来るのだ。

「なつかしいひと」は僕の中でさほど印象の強くない作品だが、「晴れた日に生まれたこども」と「ヒロミの旦那のやさおとこ」はちょっと変な話で、結構気に入っている。前者では晴彦が、後者ではヒロミの旦那が実に良い味を出していて、興味深い魅力を放っている。後者の主人公は作中で、『ひとりなんだなあと美波はつくづく思い知らされている』と思うのだが、僕はこの二つの物語を読んで、やっぱり世界は広いよなぁ、と感じた。

宮下奈都らしい、優しさと美しい毒に満ちた魅力的な短編集だと思います。

宮下奈都「つぼみ」

鼻/外套/査察官(ゴーゴリ)

この本を読んだ理由は他でもない、乃木坂46の齋藤飛鳥にある。好きな本について聞かれる度に、ゴーゴリの「外套」を挙げていたのだ。

齋藤飛鳥は読書家で知られているし、遠藤周作や貫井徳郎など読んでいるという。人の悪意を描くような、気持ちが沈むような作品が好きだ、とも良く言っていたから、「外套」もそういう方向性の作品なのかと思っていた。

が、そうではなかった。

ある雑誌で「外套」について齋藤飛鳥は、『「真面目な人は損をする」とはこういうことかと思いました』と書いている。なるほど、そういう見方をしているとすれば、齋藤飛鳥らしい、という気もする。物事を真っ直ぐではなく斜めから見るような視点をよく取る齋藤飛鳥にとっては、ゴーゴリが描くこの不条理で滑稽な物語が、教訓めいた話に受け取れるのかもしれない。

しかし「外套」かぁ、と僕は思った。齋藤飛鳥がどの本で「外套」という作品に触れたのか、それは分からない。僕が読んだのは光文社古典新訳文庫版で、「鼻」「外套」「査察官」という3作品が載っている。で、この3作品の中で言えば、僕は「鼻」が好きだ。

冒頭から、何なんだこの話は、という展開が実に面白い。

何せ、焼きたてのパンを切ったら鼻が出てくる、というところから物語が始まるのだ。意味不明だ。その後、鼻を失った人物が右往左往しながら鼻を探す、という展開になるのだけど、その鼻が金の刺繍の入った制服を着て街を闊歩しているのだ。呼び止めた男は鼻に向かって、「あなたはぼくの鼻なんですよ!」と叫ぶ。シュール過ぎる…。何かを風刺したりするような背景的な当時の社会風潮などがあるのかもしれないけど、ただ読めばシュールで不条理で意味不明な物語だ。でも、なかなか面白い。

「外套」は、それまで慎ましやかな生活をしていた男が、擦り切れてボロボロになった外套を仕立て直してもらうのだが、それがきっかけで命を落とし、死後幽霊となって他人の外套を奪う、という、こちらも何だそりゃ、という話なのだが、「鼻」と比べれば全然現実よりだし、理解可能な範疇にある。

「外套」を読んでて感じた凄さは、要約すればさっき僕が書いたように2行程度で書けてしまうような、別に大した内容でもないのに、それを一つの短編にまで膨らませてしまうゴーゴリの想像力だろうか。本書の解説には「四次元的想像力」という言葉があり、『ゴーゴリの描く「現実」は現実を越えて「四次元」に突き抜けているのだ』と書かれている。それは「鼻」のような明らかに現実を超越したような作品に対しての表現なのかもしれないが、より現実に軸足を置いているように感じられる「外套」であっても、一人の男の慎ましやかな生活をここまで細かく描くのか、外套を盗まれた男がお役所などをたらい回しにされる様をこの短い話の中でここまで細かく描くのか、というような部分に現実を超越したような想像力を感じる。

とはいえ、これはある程度仕方ないことだが、「齋藤飛鳥が面白いと言っているから、僕も「外套」を面白く読みたい」という気持ちが僕の中にあることは確かだ。もし、齋藤飛鳥が「外套」を好きでいるという事実を知らずに本書を読んだとしたら、「外套」という作品に注目していたかは分からない。なので、ここで僕が書いたことが、「外套」に対する純粋な僕の評価なのかと言われると、なかなか難しいところはある。

何故齋藤飛鳥が「外套」を読もうと思ったのか。そこに一番関心がある。僕は、恐らく齋藤飛鳥が好きだと言っていなければ、一生読まなかっただろう。そのお陰で、本書のような読みやすい(解説で訳者が、本書を落語調に訳した、と書いている)古典作品もあるのだ、と知れたことは良かったことだ。齋藤飛鳥は一体いつどこで「外套」と出会い、それを読もうと思ったのだろうか。

聞く機会があれば、その辺りのことを聞いてみたいな、という感じもする。

内容紹介については、「鼻」と「外套」については、ここまでの文章の中で書いた要約以上に付け足す点はあまりない。少なくとも本書に収録されている3作品は、ストーリー展開がどうのというような話ではなく、読んでみてその不可思議さを感じるような作品なので、外形上の物語について触れてみても、あまり面白さは伝わらないのだ。

「査察官」についても、ざっと内容を書いておこう。こちらは、戯曲だ。ある町の市長が、ペテルブルクからお忍びで査察官がやってくる、という情報を耳にする。その内に町の地主である二人が、宿に金を払わない男がずっといる、あいつが査察官に違いない、と言って町は大わらわになる。しかし実はその男は、金遣いの荒いただの旅行者で…。というような話だ。こちらもスイスイ読めて、バカバカしい喜劇が展開されていく様がなかなかにシュールで面白い。

恐らく、齋藤飛鳥が「良い」と思っているほどには「外套」を良いと感じられなかったのが残念ではあるが、まあ読書というのはそういうものだ。読む本の趣味は、合わない方が当然だと思うので、なんということはない。読んでみて、「何故齋藤飛鳥は「外套」を読もうと思ったか」「「外套」のどこに齋藤飛鳥は惹かれたか」により関心が強まった、ということは確かである。
あと、これは昔からどうにもならない僕の性質だが、古典作品を読むと猛烈な睡魔に襲われるのをどうにかしたい。どうにもならないのだが。

ゴーゴリ「鼻/外套/査察官」

八月十五日に吹く風(松岡圭祐)

戦争を扱った小説に対して、こんな感想を抱くのはあまり良くないのかもしれないが、率直にこう思った。
メチャクチャテンションが上がる!と。

『だがここには、日本人なら誰でも抱いたことがあるはずの素朴な疑問が存在する。アメリカは原爆を落とす無慈悲をしめしながら、なぜ直後に比較的平和な占領政策をとるに至ったのか。』

本書の内容を一言で説明すれば、「この問いに答える物語だ」となるだろう。

確かにその通りだ。僕は学校であまりきちんと歴史を学んでこなかったし、歴史について考える機会もあまりないので、僕個人はこういう疑問を抱いたことがないのだが、言われてみれば、確かにその通りだと思える。実際に、イラク戦争など、僕たちがリアルタイムで知っている戦争では、戦勝国が苛烈な占領政策で支配している姿を見ている。歴史上、多くの戦争でも、そのような経過を辿ってきているはずだ。

何故日本は、平穏な終戦を迎えることができたのか。

もちろん、色んな理由があるのだろう。でもそれは、なかなか両方を同時に説明するものではないのではないか、と思う。「平和な占領政策をとった理由」だけであれば、色んな可能性を考えうる。しかし、「直前に原爆を落としていたにも関わらず、平和な占領政策をとった理由」となると、なかなか難しい。

まず、何故原爆が落とされたのか、という理由からいこう。いや、正確に表現しよう。「何故原爆を落とすことに躊躇することがなかったのか」の理由だ。

当時ホワイトハウスは、シンクタンクに日本の分析をさせていた。その中で、日本人はこんな風に描かれている。

「日本人は自他の生命への執着が薄弱であり、だからこそ一億玉砕にも呼応する。であれば、本土決戦になれば婦女子を含めた非戦闘員が戦闘員になりうる」

この報告書に対して、本書の登場人物の一人はこう思考を巡らせる。

『恣意的な誘導だと筒井は思った。一億総特攻を拒否しないからには、民間人も非戦闘員ではなく、したがって原爆の標的にしても国際法違反にあたらない。そう暗に示すのが目的だろう』

そう、当時アメリカ人は、日本人を「生命を尊重するなどありえない民族」だと捉えていた。これは、相当根強く信じられていた考えだったようだ。特攻やバンザイアタック、玉砕と言ったアメリカ人には理解できない戦闘行動に対して、「日本人は生命を重んじないのだ」とする見方がいつの間にか広まっていたという。そういう背景があったからこそ、アメリカ人は原爆投下を躊躇せずに行ったのだ。

つまりこうも言える。原爆投下まではアメリカ人は、日本人を野蛮な民族だと思っていたのだ、と。であれば、やはり冒頭の疑問が蘇ってくることになる。
ならば何故、その直後に平穏な占領政策を取ることができたのだろうか、と。

実際、(物語ではあるが)本書では、1945年8月15日の米軍内の会議で、こんな発言がなされている。

『(占領に際して)今後も非戦闘員による個人単位での玉砕、あるいは村や隣組など小自治体単位での反乱が起こりうる、注意警戒事項にそうある。根拠は、日本人に根付いた国家主義が、人命の尊重に優先するという、彼ら固有の意識構造にある』

『本土決戦、一億玉砕、一億総特攻、神風。軍部の呼びかけに国民から強く反発する声もなく、むしろ積極的に応じているとの報告が多々ある。それらに基づいた分析だ。どの戦線でも、日本の軍司令部は玉砕を強いて、無慈悲に兵を見捨ててばかりだ。なのに遺族は、訃報をきいても感謝を捧げている。復讐心もより強まるかもしれん。われわれが日本の占領にあたり、警戒するのは当然だろう』

1945年8月15日時点でも、アメリカ人はこう考えていたのだ。そのままであれば、苛烈な占領政策が行われていてもおかしくはなかっただろう。

この流れは一体、何によって変わったのか。

それが、「1943年8月15日の出来事」と「一人のアメリカ人の進言」なのだ。
本書は、この二つを軸にしながら、日本の終戦、そして戦後のあり方を形作った大きな流れを描き出そうとする。

先に挙げた「一人のアメリカ人」は、本書の中では「ロナルド・リーン」の名前で登場する。若き頃、タイムズスクエアの一角にある古本屋で見つけた「源氏物語」の翻訳に魅せられ、極東の島国に憧れるようになった。後に日本に帰化し、ある新聞社の客員編集委員となった人物である。もちろん、分かる人には分かるだろう。あの人物だ。

あの人物がいなければ、日本は今とはまったく違った国になっていたかもしれない。そう考える時、大げさに言えば、僕たちは「源氏物語」という一冊の古典によって救われたと言えるのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
ロシアとアラスカに挟まれたベーリング海に浮かぶアリューシャン列島。その中に、戦時中、日本軍がアメリカ軍の領土を占領した島が二つある。アッツ島(熱田島)とキスカ島(鳴神島)だ。
熱田島に着任した山崎保代大佐は、この島が現在置かれている状況を振り返った。極北の寒地荒原(ツンドラ)であり、動植物はほとんど存在しない。島外からの供給は長く途絶え、増援部隊を送るという連絡があってから9日が経つ。完全な孤立状態だ。アメリカ軍に対しては徹底抗戦を敷いているが、どこまで持つか分からない。そこへ、山崎を熱田島へと送った樋口司令官から打電が届く。全員、玉砕せよ、と。熱田島では2638名の日本人が死を迎えた。
同じ頃、隣の鳴神島にも、5000人を超える兵がいた。彼らも熱田島と同様、孤立状態にありながらアメリカ軍に対して凄まじい抵抗をし続けていた。そこに、玉砕を促すような平文と同時に、ガダルカナル島での撤退作戦の通称であるケ号作戦の内容が暗号文で送られてきた。彼らは考えた。これは、救出作戦の知らせなのではないか?
しかし、鳴神島の救出作戦は、現実的に不可能なものだった。アメリカ領の孤島に置き去りになった5000人を超える兵を、米艦隊がひしめきあう海域を突破して救助に向かわなければならない。艦隊を損失するわけにはいかない大本営も難色を示すが、しかし樋口司令官は諦めない。あらゆる手を尽くし、この任務を了承させ、艦長も探し出した。海軍少将、木村昌福だ。
木村は、気象専門士官である橋本恭一少尉と共に、誰もが不可能だと思っている救出作戦に乗り出していく…。
一方、20歳のロナルド・リーンは、日本軍ほぼ全員が玉砕したアッツ島に派遣された。残された日本語文書から、重要な機密を探し出すためだ。「源氏物語」から日本に関心を持ったリーンには、理解できなかった。何故あれだけ繊細な情愛の念が民族の根底にあって、バンザイアタックという発送に行き着くのか、と。彼は、『自殺の欲望に憑かれ、自他ともに生命を果てしなく軽んずる、いわば狂気といえる国民性の発露』と日本人を捉えている多くのアメリカ人とは違い、彼らの国民性や行動原理を可能な限り正しく理解しようと奮闘する…。
というような話です。

本当に、素晴らしい物語だった。

僕は正直なところ、本書で描かれていることがどの程度まで真実なのか、全然判断できない。どこまでが創作で(明らかに、米軍内での会議の様子などは、想像によって描かれているのではないか、と思うのだがどうだろう?)、どこまでが史実なのか、分からない。とはいえ、本書の冒頭に、

『この小説は史実に基づく
登場人物は全員実在する(一部仮名を含む)』

とあるので、僕はとりあえず、本書で描かれていることは基本的に事実なのだ、と捉えて感想を書いています。

キスカ島、という名前は聞いたことがあった。というか、見覚え、というべきか。キスカ島の名がタイトルに入る本を目にしたことがあるのだ。しかし、それがどんな本なのか知らなかったし、ましてやキスカ島で、ハリウッド映画なのか?と思いたくなるような壮絶な救出作戦が展開されていたなんて、まったく知らなかった。

そしてもちろん、このキスカ島での救出作戦が、ちょうど2年後の終戦に大きく関わっているなどということももちろん知らなかった。

冒頭でも書いたが、本当にこれが真実なのだとすれば、僕たちはある意味で「源氏物語」によって救われた国民だと言えるだろう。それぐらい、ロナルド・リーンの果たした役割は大きいし、ロナルド・リーンが日本人の国民性を見出したキスカ島での救出作戦に関わった者たちも素晴らしい。

本書では、アッツ島やキスカ島で壮絶な毎日を送らざるを得ない兵士たちや、司令官である樋口の奮闘、またアメリカ軍側の動きなど様々なことが描かれていくのだが、何よりもやはり、キスカ島での救出作戦の詳細が物語としてはスリリングであり、出来すぎているというぐらい奇跡的だと感じる。

キスカ島での救出作戦は、普通に考えて誰もが不可能だと感じるだろうと思う。本書のP86には、アリューシャン列島の地図が載っているのだが、日本列島から、日本列島の長さぐらい離れた場所にキスカ島はあり、しかもその周囲はアメリカ軍に囲まれているのだ。しかも残っている兵は5000人以上。その兵士たちを1時間以内に収容しキスカ島から撤退しなければならないのだ。

無理でしょ、と普通は思う。

しかし、艦長である木村は、誰も考えつかないようなアイデアを次々に繰り出し、計画を前に進めていく。時に木村の指示は、その意図がさっぱり分からない。例えば、三本ある内の真ん中の煙突を白く塗れ、と指示する。この指示は、その意図を誰も理解できなかった。しかしある場面でその理由がはっきりと分かる。これには本当に驚かされた。

他にも、常識では考えがたいアイデアと決断で、木村は不可能を可能にしていく。

木村は、5000人以上の兵を救った。しかし、間接的には、日本人全員を救ったと言っていいだろう。もちろんその背景には、キスカ島の救出作戦を実現させようと奮闘した樋口司令官など、様々な人間の想いが込められている。それらを、リーンが的確に汲み取り、適切な場面で進言をした。どれか一つでも欠けていれば、事態は全然違ったものとなっただろう。

『こう思ってほしい。救える者から救っていると。救うことが許される者から、あるいは容認される者から、そういうべきかもしれん。私にはいまのところ、それしかできんのだよ』

樋口がそう語る場面がある。樋口もまた信念の男であり、結果的に彼は、自らの信念を貫き続ける人生を突っ走ったお陰で救われた。もちろん、すべての人間がそんな風に振る舞えるわけでもないし、信念を貫き通せば何もかもうまく行くわけでもない。とはいえ、こういう生き方をした人がいた、ということを知れるのは、とても勇気づけられることだと思う。

『若い兵士たちは、天皇陛下のため命を捧げるべき、そう信じている。敗北はむろんのこと、敵の捕虜になるのも恥と考える。だが、こんな時代をつくりだしてしまった自分たちこそ、恥を知らねばならない』

これも樋口の考えだ。実際に樋口(あるは樋口のモデルとなった人物)がこんなことを考えていたかは分からないが、しかし、少なくとも本書で描かれる樋口の様々な言動は、こういう下地となる考えなしにはなかなか実現されないだろう。僕たちも、上の世代が作り上げた価値観をただ盲信していないかどうか、そして下の世代にこれが当たり前だという考えを押し付けていないか、常に振り返り続けなければならないだろう。

『戦争のなかにあっては、正しい答えは否定されます。でも正しいものは正しいんです』

本書の中で重要な役割を果たす、同盟通信社外信部の菊地雄介の言葉だ。戦争の影が様々な場面でちらつく現代。僕たちはこのことを改めて認識しなければならないし、その中にあっても正しさを貫ける人間でありたいと僕は思う。

松岡圭祐「八月十五日に吹く風」

成功者の告白 5年間の起業のノウハウを3時間で学べる物語(神田昌典)

正直に言おう。
胡散臭い本なのだと思っていた。

僕は本書を、とある理由から読むことにした。
その理由はここでは書かないが、別に起業しようとか成功者になろうと思って読んだわけではない。読む必要があったから読んだのだ。

だから、自分の中には、本書を読むためのそこまでの積極性はなかった。噛みくだいて言えば、しょーがねーから読むか、というぐらいのスタンスだったのだ。

けれど、冒頭から、本書は面白いかもしれないぞ、という予感を漂わせていたのだ。

『成功に向かう道には、いくつもの地雷が埋まっている。成功が現実のものとなるに応じて、それと等価の困難や障害が用意されていたのだ』

『大きな成功を実現していく過程では、確実に障害が降りかかる。成功だけを持ち逃げできない。私は単なる戒めとしていっているのではない。これは事実なのだ。私が確信できる理由は、短期間に急成長する会社経営者の多くの事例を見てきたからである。』

プロローグに、こんなことが書かれていた。なるほど、これはちょっとよくある自己啓発本とは違うような気がするぞ、と思ったのだ。

しかしとはいえ、まだまだ警戒心を解いたわけではなかった。というのも、「(ビジネス的に)成功すれば、等価の困難や障害がもたらされる」というのは、運不運やバイオリズムの話として説明されてしまうのではないか、という懸念があったからだ。そういう話であれば、面白くもなんともない。しかし、僕のその懸念は、良い意味で裏切られるのだ。

プロローグには、こんなことも書いてある。

『これからあなたに伝えたいことは、地雷を踏むことを回避する方法ではない。残念ながら困難や障害を避けることはできない。しかし上手に乗り越えることはできる』

『根底に流れるテーマは、ビジネスと家庭のバランスを撮りながら、いかに会社をスムーズに成長させるか、ということである』

ビジネス書をそこまで読んでいるわけではないが、ビジネス書という括られる本を読んで、「家庭」の話が出てきたことは、少なくとも僕の経験ではなかったと思う。非常に面白い切り口だと感じた。

そして、こう書かれている。

『物語ではあるが、作り話ではない。特定の人物や会社がモデルになっているわけではないが、この物語は、私に起こった出来事を含め、複数の実話を下敷きにしている。何人もの成功した経営者に出会ってみると、驚くほど似たようなパターンが生じているので、そのパターンから不純物を殺ぎ落としてきた結果、生まれた物語といっていいだろう』

本書は、青島タクという男が、会社を辞め起業し成功するも、その後様々な障害に襲われる、という展開の物語だ。ここで描かれる物語が、本当に色んな成功者が経験した「驚くほど似たようなパターン」であるのかどうか、それは著者の主張を信じるほかないが、これが事実をベースにしていようがいなかろうが、「起業」に関する様々なことを学べる物語だということは間違いないだろう。現代は、生涯同じ会社でサラリーマンとして働き続けることが困難になりつつある世の中と言っていいだろう。そういう世の中だからこそ、自分の人生を見つめ直すためにも、起業する予定などなくても、とりあえず読んでみるのはアリだと思う。

内容に入ろうと思います。
青島タクは、銀行員である父から「安定」を叩き込まれたために大手メーカーに就職したが、その安定から逃げ出したいと思うようになった。そこで、デジウィルというベンチャー企業へと転職した。デジウィルは数ヶ月前まで、その急成長ぶりがマスコミの話題となるほどの注目企業であり、転職したタクは周囲から羨ましがられた。
しかし半年後。タクは転籍(子会社に移り、本社に帰れる予定はなく、給料も減る)させられることになった。生まれてまだ三ヶ月の子どもがいる。どうしたらいいのか…。
転籍させられることを、妻のユキコに話をした。同時にタクは、独立して会社を作る計画を話す。ユキコは、そんなタクの決意を後押ししてくれた。そこからタクは独立へ向けて考え始める。
昼食を食べていると、かつて働いていた大手メーカーで上司だった神崎ヒロシに声を掛けられた。今は独立し、会計事務所とコンサルティング会社を経営している。やり手だ。タクは神埼に、独立する計画があることを話、相談に乗ってもらうことにした。神崎のアドバイスは的確で、タクが有望なビジネスのアイデアを思いついたこともあって、タクの会社は急成長を遂げることになる。
しかし、本題はここからだ。タクは、順調に成長しているはずの会社で、様々なトラブルがあることに気付く。ユキコとの関係もうまくいかない。それを神崎に相談しようとすると、まるで神崎はタクの会社や家庭の内情でも知っているかのように、きっとタクは今こうなっているんだろうね、と指摘する。一体神崎は、何故タクの会社や家庭のトラブルを予測することが出来るのか…。
というような話です。

なんとなくミステリっぽい内容紹介になっちゃいましたけど、別にそういうわけではありません。ただ、物語の展開のさせ方こそミステリ的ではありませんが、神崎が何故タクの会社や家庭のトラブルを予測出来たのか、という話は、まるでミステリの解決編を読んでいるかのような感覚になりました。

そう、タクが経験するトラブルは、きちんと原因や理由があるものであり、それは会社の成長と共に必然的に起こりうるものなのだ、ということを本書では指摘するわけです。

例えば、著者自身が経験したトラブルには、こんなものがある。

・長男が奇病に罹る
・長女が腸閉塞になる
・家に帰ったら妻がおらず、離婚届がポストにある
・社員が立て続けにメニエール病で倒れる
・同志のコンサルタントがうつ病になり、その後自殺

そしてこれらのいくつかは、青島タクが経験したこととして物語の中でも描かれる。

著者はこれらを、起業の成功による副作用のようなものとして原因追求する。もちろん、科学的に立証できるようなものではないが、本書の中で神崎の口を借りて語られるそれらの原因は、非常に納得感がある。なるほど、そういう説明であれば、100%ではないにせよ理解できる、というような説明をするのだ。

その過程で神崎は、「起業」というものをかなり詳細に分割して捉えてみせる。成長する過程で必要な役割、時期ごとの会社のあり得べき状態、起業家の精神状態などなど。そういったことを細かく捉えた上で、その過程のどんな要素がどんなトラブルに繋がっているのか、という説明をしていく。

先程も書いたが、もちろんこれは科学ではない。本書で描かれる説明が、必ずしも合っているとは限らない。しかしその点は、あまり問題にはならない、と僕は感じた。何故なら、起業家の状態や行動(=「行動」と呼ぶ)が「原因」となって「トラブル」が起こると推測しているわけだが、仮にその「行動」が「トラブル」の「原因」でなかったとしても、その「行動」は避けるべきだと感じられるように本書では描かれているからだ。

もう少し具体的に書こう。本書では、「長男が奇病に罹ったこと」(=「トラブル」)の「原因」が、青島タクの「行き過ぎたプラス思考」(=「行動」)にある、と捉えている。もしかしたら、この捉え方は不正解かもしれない。しかし、それは問題ではないのだ。本書を読めば、「行き過ぎたプラス思考」が「長男が奇病に罹ったこと」の「原因」でなかったとしても、「行き過ぎたプラス思考」を抑えるべきだ、と感じられるようになる、ということだ。仮にそれが直接の原因でなかったとしても、それは悪いものであると認識させられる。そこに本書の大きな意味があるのではないかと思う。

だから、「トラブル」の「原因」として指摘した「行動」が理屈に合わない、と仮に感じたとしても、そのことのみによって本書で書かれていることを単純に切り捨てるのはもったいないと思う。僕は理系の人間なので、やはり科学的に証明できないものに全力で寄りかかるのか怖いと思うし、本書で描かれる「原因」の指摘には、そこの関連性は弱い気がするなぁ、と感じるものもあった。それでも、その点をもって本書を非難する気にはならない。因果関係が仮に証明できなかったとしても、「原因」として指摘された「行動」を取るべきではない理由が伝わると思うからだ。

本書を読むと、「そういう視点から起業という行動や会社という存在を見るのか」と感心させられることが何度もある。今まで「起業」など考えたこともなかったし、「会社」というものも真剣に捉えたことがなかったのだけど、様々な形で「起業」や「会社」を単純化して捉えることで、その本質を捉えようとする視点が面白いと感じた。

本書は、「どうビジネスを軌道に乗せるか?」に対する直接的なヒントも様々に散りばめられている。それらのアドバイスも、実に面白い。「どうお客さんを集めるのか」「少数の大手のクライアントに頼るのは危険」「お客さんの声にこそヒントがある」など、ある意味では当たり前かもしれないのだけど、タクが軌道に乗せようとしている実際のビジネスのアイデアの実例と共にそれらが語られることもあって、非常に分かりやすい。

しかしそういう「どうビジネスを軌道に乗せるか?」という話は、恐らく本書でなくても学べるだろう。やはり本書は、「起業すること」や「会社という存在」の捉え方や、それらをどう活かしてトラブルを回避するのか、という点にこそ主眼がある。

『タク、仕事のために、家庭があるんじゃないんだぞ。家庭が幸せになるために、仕事があるんだ。履き違えるんじゃない』

恐らく多くの人が、「そんなこと分かってる」と思いながら起業するのだろう。しかし、分かっていないのだ。行く先にどんな落とし穴が待ち受けているのか、知らないから「分かってる」などと言えるのだ。

「分かっていないのだ」と思って、謙虚に学ぶことが大事なのだろう。本書は、そのスタートラインに立たせてくれる一冊だと思う。

神田昌典「成功者の告白 5年間の起業のノウハウを3時間で学べる物語」

廃校先生(浜口倫太郎)

学校の先生とは、あんまり相性が良くなかったなぁ、と思う。今振り返ってみれば、その理由ははっきり分かる。

僕は今でも、決められたこととかルールみたいなものが嫌いだ。自分の中でしっくり来るような内容であっても、それが「ルール」として定められているということに対してイライラしてしまうことさえある。

そして、まさに学校というのはルールの宝庫だ。「しなければならないこと」も山ほどあるが、「してはならないこと」も山ほどある。

そういう環境が、僕には窮屈だったなぁ、と思う。

子供の頃は表向きとても優等生だったので、ルールに対してさほど抵抗するようなことはなかったような気がする。ただやはり内側では、おかしいと思っていたし、時々どうにも我慢が出来なくなって爆発することもあった。

ルール、というのとはちょっと違うのだが、未だに覚えていることがある。

確か中学の合唱コンクールだったと思う。その時の担任の教師は、僕の中で「先生がなんでも決めてしまう」という見え方をしていた。それに対する反発があったのだろう。教師が、合唱コンクールで歌う歌はこれです、と勝手に決めてきた時に、それはおかしい、と言って反発したことがある。

正直僕にとっては、合唱コンクールで歌う曲なんかなんでも良かったのだけど、やはり「勝手に決められている」ということが凄く嫌だった。それで、選曲を一からやり直すことにしたのだ(まあ、結局、クラス全員で決めた結果、教師が最初に提示した曲に決まったのだけど 笑)。

そういうルールに対する嫌悪感は、やはり教師に向いてしまう。今なら、教師だって「やらされている」のだということは分かる。教育現場のことは詳しく知らないが、恐らく「こうしなければならない」「こうしてはならない」という様々な規則でがんじがらめにされているのだろう。教師にもよるだろうが、必ずしも生徒に押し付けているルールに賛同しているとは限らない。

とはいえ、その辺りのことは子供の頃はよく理解できていなかったのだと思う。ルールを押し付けてくる人=教師、と図式ですべての物事を見ていたのだと思う。だからどうしても、教師という存在を受け入れることが難しかった。時々、この先生はいいな、と思える教師もいたのだけど、数は決して多くはない。

その後僕の人生には、教師の側から子供を見る、などという経験はなかったわけだけど、教師を主人公にした物語を読むことで、少なくとも子供の頃よりは教師のことが理解できるようになったと思う。そうなった今思うことは、やはり教師も迷いながら教えているのだろうなぁ、ということだ。

『やっぱり先生って情熱持った人しかなったらあかん仕事やと俺は思うぞ』

作中にそんなセリフが出て来る。

教師になる理由には様々なものがあるはずだ。全員が、教育に対する情熱を持ち合わせているわけでもないだろう。とはいえ、そういう見られ方をされる、というのもまた一面の事実ではある。特に、子どもを預けている親はそう願ってしまうだろう。自分の教師としてのあり方と、教師の見られ方のギャップに、多くの人は苦労するのではないかと思う。

とはいえ、教え導くことに喜びを見いだせるのなら、天職なのだろう。本書の「よし太」のように。

内容に入ろうと思います。
里田香澄は、面積の96%が山林という、奈良県の十津川村にある谷川小学校の新米教師だ。創立143年の歴史を持つこの学校は、しかし今年度で廃校が決定している。2年生2人、4年生2人、6年生3人に教師が4人という非常にこじんまりした学校だが、生徒への目が行き届き、地域で学校を中心に行事を盛り上げる、という形が悪くないと思っている。しかし一方で香澄は、自分が教師に向いているのかどうか分からないという悩みをずっと抱えている。
香澄は4年生を受け持つが、同僚の仲村よし太が受け持つ6年生の副担任もやっている。地域の代表者であり、よし太の同級生でもある古坂一護の息子で絵の上手い十夢。曾祖母、母の女三人で暮らしながら、アイドル(NMB)に入ることを夢見る美少女愛梨。災害で母を亡くし、家具職人である父と二人で暮らしながら、中学受験を目指している優作。廃校の決定した小学校において、彼らのスタンスはばらばらだ。十夢は、この素晴らしい校舎、そして学校が無くなってしまうなんてあり得ないと考えている。しかし愛梨と優作はそうでもない。どちらも、スカウトされて、受験に受かって、この村を出て行くことを第一の目標としている。
よし太は教師で、当然大人だが、大人とは思えないほどアホだ。子供たちだけで遊んでいるといつも仲間に入りたがるし、いつも鼻をほじっている。勉強だって特別出来るわけでもないから、中学受験を目指している優作には不満だ。香澄にとっても、なんでこんな人が教師をやっているんだろう?と思うような人だったが、しかし子供たちからは絶大な人気がある。
ある意味で地域の中核を成す存在である谷川小学校が無くなることが決定している中で、そこに住む者たちの想い、そこを出たいと思う気持ち、誰かを思って行動する勇気などが丁寧に描かれていく作品。

これは良い物語だったなぁ。スイスイ読めてしまうような結構軽いタッチで描かれている作品なのに、中身はそこまで軽々しくはない。重厚なわけではないけど、穏やかな日常の物語の中に、小学校を中心とした人々の人生が屹立し、どっしりと張られた根っこのたくましさみたいなものをじっと眺めるような、そんな力強さを感じさせる作品だなと思いました。

物語の中心になっていくのは、やはりよし太です。彼はこの物語のキーパーソンだと言っていいでしょう。よし太がいるのといないのとでは、本書はまったく別の物語になってしまうだろうと思います。それぐらい、物語の根幹に関わってくるキャラクターです。

とはいえ、アホであることには変わりありません(笑)。作中でほぼずっと、よし太はアホなことばっかりやっています。まったく教師らしくないですし、教師らしく見せようという気も本人にはないでしょう。

それでも、よし太がやっていることは、まさに「教育」なんだろう、という感じがしました。

本書では、対比の意味を込めてでしょう、香澄が東京の小学校に研修に行く、という場面が描かれる。全校生徒が7人しかいない学校から、生徒数1000人以上の小学校に研修に行くのだ。そのギャップたるや。しかし、その現場は疲弊していた。そこに「教育」と呼べるものがあるのかどうか、判断は難しい。何を持って「教育」とするのか、というのは人それぞれではあるのだろうが、多くの人が最終的に求めてしまう「教育」というのは、よし太が実践するようなものなのではないか、と僕は思うのだ。

よし太の教師としてのあり方を真似するのはかなり難しいだろう。鼻をほじればいいのか、子供にバカにされるような振る舞いをすればいいのか、というとそれは全然違う。形だけ真似してもダメなのだ。そこには、よし太なりの想いと情熱がある。よし太は、それがとても強いのだ。想いや情熱だけでは乗り越えられないものもたくさんある。実際によし太は、教員免許は持っているが教員試験には何度チャレンジしてもダメで、講師という立場で教師をやっている。それでも、想いや情熱で届けることが出来るものもあるのだ、とよし太を見ていると思わされるのだ。

メインで描かれる3人の6年生も実に良い。三者三様であり、村での生活や学校への思い入れなど様々な部分で違っている。関係性がうまく行かなくなってしまうこともあるし、お互いのことが理解できなくなってしまうこともある。それでも、たった3人しかいない同級生との関わり、そしてあらゆるものがない村での生活は、彼らに良くも悪くも様々な経験を与えることになるのだ。

彼らを取り巻く大人たちも良い。大人たちにも物語があり、その多くは「何故十津川村での生活を選択したのか」だ。子供たちには、村での生活に不満がある。しかも親たちは、村での生活から離れられる機会があった、ということさえ知ることもある。じゃあ何故ここでの生活を選んだのか―。それぞれの家族のそれぞれの物語は、「生きる」ということについて大事な何かを伝えてくれるように感じられるのだ。

不覚にも、随所で泣きそうになってしまった。物語の展開としては、かなりベタではある。何度も、先の展開を予測出来た。しかしそれでも、予測通りの展開であることが分かって泣けてくる、という状況さえあった。正直、優しい人間が出て来る優しい物語はそこまで好きではないのだけど、本書はそういう部分に対する抵抗をほとんど感じることなく読むことが出来たし、ベタな展開であっても読ませる力には感心させられた。

こんな学校も、こんな生き方もいいかもしれないな、と思わせてくれる作品だと思います。

浜口倫太郎「廃校先生」

君を一人にしないための歌(佐藤青南)

内容に入ろうと思います。
本書は、一風変わったバンド小説です。何せ、楽器を弾くことも歌を歌うこともなく物語が終わるからです!この小説のテーマは、「バンドメンバー探し」です。
まずは全体の設定から。
中学の頃、ブラスバンド部でドラムを担当していた森尊(通称:モリソン)は、三年間の集大成となるコンクールでドラムスティックを放り投げてしまい、すべてを台無しにしてしまった。そのことがトラウマとなってドラムから遠ざかっていたが、ある日いきなり状況が変わる。同じ学年の見知らぬ少女が、突然モリソンのクラスにやってきて、「おめでとう」と言うのだ。
「選ばれたから。あたしのバンドのメンバーに」
台風のようにやってきて唐突にモリソンをバンドメンバーに引き入れたのは、石塚七海。このバンドのボーカルでありリーダーだ。他に、ベースギターを担当する緒方凛がメンバーとして決まっている。凛のロックに関する知識はかなり深いが、何故かリーダーの七海は、ロックのロの字も知らないようなド素人。何故バンドをやろうと思ったのかもよく分からない。
しかし、とにかくバンド活動を始めるには、あとギタリストを探さなければならない。彼らは、あの手この手でギタリストを探そうとするが、その度に「人助け」のような状況に巻き込まれることになり…。

「Track.1」
インターネットのバンドメンバー募集掲示板で勝手に七海がギタリスト募集を掛けていた。それを見てやってきたのが「ショーン」、本名「宮前匠音(ショーン)」という高校一年生だ。彼は、前のバンドを追い出されそうになっていることに気づいて自分から辞めてやった、と話をした。聞くと、前のバンドのメンバーがこそこそと集まり、別のバンドのギタリストと接触しているのを目撃してしまったのだという。確かにそれは怪しい。とはいえ、彼が本当に辞めさせられるところだったのだとすれば、何か彼に問題があると言うことも出来る。その辺りの事情を彼らは探ろうとするが…。

「Track.2」
応募してきたのは、高校生の志度道康。シド・ヴィシャスのようなパンクロッカーの格好をして、見た目こそバンドマンっぽいが、ギターは最近始めたばかりだという。しかし七海は、技術よりも魂の叫びが大事なんだ、とか、ついさっき凛が講釈した言葉を使って志度を加入させようとする。しかし、志度の加入にはモリソンがまったを掛けた。実はモリソンは、志度のことを小学生の頃から知っている。昔はあんなパンクロッカーみたいな格好はしていなかったし、もっと大人しい奴だった。すると、志度から驚くようなことを聞かされる。もうギターは弾けない、というのだ!

「Track.3」
小林さんは、27歳。高校生バンドに応募してくるにはちょっと年齢が高すぎるが、60万円もしたというヴィンテージギターをいじる手つきは流石で、いっきにバンドのレベルが上がったような感じだ。顔合わせを済ませ、今日は初めて音合わせをする日。入念に音を作る小林さんのこだわりにじれながらも、彼らは待つ。しかし、驚いたことに、トイレに行ってくると言ったきり、小林さんは戻ってこなかったのだ!なんでそんなことをしたのか…。

「Track.4」
初めて女の子の応募だぞ―。七海がそう言った時、誰も予想していなかった。ユウコちゃん(栄村由布子さん)が、まさか42歳のオバサンだなどとは。栄村さんが奢ってくれるというスイーツに釣られている七海と凛を横目に、モリソンは一人栄村さんの話を聞く。なんでも、これまでも高校生バンドに応募しては、断られてきているのだという。探せば同年代のバンドなどいくらでも見つかるだろうに、何故高校生バンドにこだわるのか…。さらに話を聞いていくと、どうも別居することになってしまった娘との関係修復を願ってのことだったようだが…。

「Track.5」
応募してきたのは、一つ年上の倉戸絵理。絵理がやってくる前、七海とモリソンはバンド名で揉めていた。自分の名前から取った「セブンシーズ」で押し切ろうとする七海と、4人を目指しているのに3人しかいない状況を模した「メヌエット」という名前にこだわるモリソンが険悪な雰囲気になっていた。絵理のロックに対する知識が深いために、凛と話が合うのが助かった。七海はいつもとは違って、絵理に対して敵意を剥き出しにするかのような態度を取っていた。音合わせにクラプトンの「いとしのレイラ」を選んだ絵理。その真意は、絵理から一人連絡をもらったモリソンはすぐに知るところとなったが…。

というような話です。

これはなかなか面白い作品でした。大粒な小説なわけではないですが、小粒ながらキラリと光る部分があるという感じの小説で、全体的にとてもうまくまとまっているような印象を受けました。

まず、全体の設定が面白いですね。バンドに限らずですが、スポーツ小説なんかでも、仲間を集めるところから話が始まっていくものは結構あると思います。でも本書の場合は、最後の最後まで、仲間を集めるだけで終わってしまう、というところがなかなか斬新だなと思いました。

連作短編集であり、全編バンドメンバー探しを貫くためには、毎回バンドメンバー探しに失敗しなければなりません。その点をミステリにする、という発想は、非常に面白いと思いました。募集を見てやってくる面々は、何かしら抱えている。彼ら三人は、自分たちのバンドのメンバーを探したいという気持ちは常にあるものの、しかしその一方で、相手の懸念を払拭してあげたい、という思いにも駆られてしまいます。そこがミステリになっていく。

やってくる人たちは、その人なりの理由があって彼らのバンドに応募してくる。小林さんのように、「ギターを弾かずに帰ってしまう」というのであれば話にならないのだけど、そうでもなければ、とりあえずバンドメンバーが決まったということでバンド活動をどんどん進めちゃえばいい。しかし彼らはそうしない。彼らは、その人たちが何故自分たちのバンドに応募することになったのか、ということが何だか気になってしまう。だから、その人たちが抱えている懸念を掘り下げ、あまつさえ解決に乗り出してしまう。しかしそうすることで、その人たちが彼らのバンドに応募してきた理由までなくなってしまうのだから、結局バンドメンバーが決まっていない状態に後戻りしてしまう、ということになる。この物語の構造が、うまく出来てるなぁ、と思いました。

何故彼らは、その人たちの事情を気にしてしまうのか。その詳しい理由は是非本書を読んでほしいのだけど、大きく言えば、彼らもまた傷ついてきた者たちだからだ、と言えるでしょう。モリソンの傷は、冒頭ですぐに描かれる。しかし、七海や凛もまた、それぞれ傷を抱えている。しかもそれが、物語の中でうまいこと絡んでくるのだ。実によく出来ている。七海の傍若無人さも、七海の背景を知れば多少は理解できるようになる…かもしれません(笑)

個人的に好きなのは、やはり「Track.4」と「Track.5」。この二つで、凛や七海の過去の話が明らかにされ、それが物語全体の骨格となっていく。全体的にだが、それぞれの個別の物語が何か突出して良いということはない。登場人物たちのそれぞれの問題は、有り体に言えばよくある話ではある。しかし、その組み合わせ方がなかなか上手いなと思う。

傷ついてきた者たち同士だからこその物語はとても優しい。僕が一番好きなセリフはこれだ(一応誰の誰に対する発言可伏せておく方がまだネタバレにはならないかなと思うので、セリフ中に出てくる名前は伏せてみます)。

『◯◯は私たちにすべてを話すことこそが誠意と思っているのかもしれませんが、それは違います。すべてを告白して相手に判断を委ねることは、相手に負担を強いるということです。私たちは◯◯を好きでいたいのです。だから、そのために必要な情報を与えてくだされば、それでいいのです』

これは凄く好きだなぁ、と思いました。僕の中にも、これに近い感覚があります。
僕の中では、「謝る」というのは、相手に「許容」を強要する行為だな、という感覚があります。謝ってしまえば、状況や相手との関係性にもよりますが、相手は許すしかなくなってしまう。許したくない、と思っていても、表向き許したことにしないわけにはいかない状況に追い込むことになる。だから僕は、どうも「謝る」というのが苦手だ。たぶんこのセリフも、感覚的にはそれに近いことを言っているのではないかと感じる。

傷ついてきた者たちだからこそ他人に優しく出来る。他人に優しく出来るからこそ、自分たちの現状を脇に置いて相手のために行動できる。しかもその優しさは、決して善意の押し売りのようには見えない(七海が傍若無人に振る舞うからこそ、彼らの優しさが100%純粋な優しさに見えない)。そこが良いと思う。

音楽やバンドのことに詳しくなくても、必要な情報は凛が詳しく説明してくれるし、たぶん読者以上に何も知らない七海をベースに物語が展開していくので、誰でも安心して読めます。バンドメンバー探しとミステリをうまく組み合わせた、なかなか読ませる作品だと感じました。

佐藤青南「君を一人にしないための歌」

脳を鍛えるには運動しかない 最新科学でわかった脳細胞の増やし方(ジョン・J・レイティ)

僕はこの本で、変わった読書体験をすることになった。まずその話を書こう。

本書のタイトルは、「脳を鍛えるには運動しかない 最新科学でわかった脳細胞の増やし方」だ。このタイトルから僕は、この本は「運動」についての本なのだ、と思った。これは、突飛な発想ではないだろう。色々あって僕は本書を、自分の興味関心から手に取ったわけではない、という事情も絡んでいる。中身をちら見することもなく、「運動」についての本なんだろう、という思い込みだけで読み始めた。

読み始めると、やけに「脳」についての話が多い。まあ、確かに、「運動」によって「脳」を鍛える、という話なのだから、「脳」について触れないはずもないか。しかし…。などと思いながら読んでいた。そして途中で気付いたのだ。

なるほどこの本は、「脳」についての本なのか、と。

それに気付いたところから、「脳」についての本だと頭を切り替えて読めれば良かったのだけど、どうもそううまくは行かなかった。「運動」についての本だと思いながらかなりのページ数読んでいたこともあって、なんとなく自分の中でこの本を読むモチベーションの糸が切れちゃったように感じたのだ。「脳」についての本だと気づいてからは、読みながら、なんだかなぁ、という感覚をずっと拭えないままいた。

僕は理系の人間だったので、脳科学の話も当然大好きだ。これまでも、脳科学についての本は結構読んできたので、「脳」に関する記述が難しいとか、興味がないとか、そういう理由でモチベーションが切れてしまったわけではないはずだ。恐らくだが、脳科学の本だと思って読み始めていれば、また違った読み方が出来たはずだと思う。

少なくとも僕が見る限り、タイトルや帯には、本書が脳科学の本だとはっきり伝えるような表記はないと思う。タイトルなどからは、「どう運動すれば脳が鍛えられるのか」について書かれた本に見えるのに、中身は「運動することでどう脳が鍛えられるのか」についての本だったので、僕は結構戸惑ってしまった。

そういう意味で、タイトルや帯で何を伝えようとするのか、という点は本当に大事だなと思った。

内容に入ろうと思います。
本書は、先程書いたように、「運動することでどう脳が鍛えられるのか」についての本です。かなり硬派な脳科学の本だと思った方がいいでしょう。もちろん、脳科学の知見そのものを伝えることが本書の目的ではありません。あくまでも本書は、運動をすることの良さを伝えることが目的です。その点は間違いありません。本書を読むと、病気や障害や加齢など様々な問題に対して運動がとても有効であるということが伝わるでしょう。しかしそのために脳科学の知見を通らなければならない、というのがちょっとハードルになるようにも感じます。

本書では、運動がどういう事柄に影響を及ぼすとされているのか、ざっと列記してみようと思います。

◯ 学習
◯ ストレス・不安
◯ うつ・注意欠陥障害
◯ 依存症
◯ ホルモンバランス
◯ 加齢

本書ではこれらの事柄について、様々な研究結果、学校や病院での活動実績、著者自身が診た患者の経緯などを交えながら書いていきます。

著者は正直で、確実に立証されているわけではない研究については、そう付け加えた上で記述していきます(当たり前のことなんですが、こういうことが出来ていない本もあるので)。どういう運動をどのくらいやればいいのか、についても、定量的な研究がなされているわけではないからはっきりとしたことは言えないとしながらも、様々な研究結果から、少なくとも、運動をすることで良い風に脳が変化する、ということは間違いないと言えそうです。「良い風」というのが科学的ではありませんが、別にそういう表現が本書で使われているわけではなく、僕が勝手に書いているだけです。

運動によって脳がどう反応し変化するのか、という部分についてかなり詳細にその仕組みを説明していますが、「これから運動したい」「運動したいけどどんなことをすればいいのか分からない」という目的で本書を手に取った人には、求めていることが書かれていなくてなかなかイライラするかもしれません。正直なところ、興味がない人はそういう脳科学的な部分はすっ飛ばしていけばいいんじゃないかと思います。最低限、「どんな具体的な実例があったのか」と「運動の激しさや頻度が効果にどんな影響を及ぼすか」について書かれている部分を読めば、目的は達せられるのではないかと思います。

むしろ僕は、本書は、これまでずっと運動をしてきたけど、それによって色んなことがうまく行っているような気がする、という人が読むといいのかもしれない、という気もします。これから運動したい、という人にとっては本書は不必要な情報が多い本に思えるかもしれませんが、既に運動を習慣に出来ている人には、自分の身体に起こっている変化を知るという好奇心によって、脳科学的な記述も読めてしまうかもしれない、という風に思います。

思っていた以上に学術的な内容で、実用書だと思って手に取った人は面食らうでしょう。書かれていることは興味深いし、なるほどと思わせることも多かったのだけど、「学術書」を「実用書」だと思わせてしまうタイトルや表紙(意図したものかどうかはともかく)が、読者のミスマッチを引き起こしそうな本だなぁ、とも感じました。

ジョン・J・レイティ「脳を鍛えるには運動しかない 最新科学でわかった脳細胞の増やし方」

どこの家にも怖いものはいる(三津田信三)

内容に入ろうと思います。
本書は、著者の三津田信三が、作中の登場人物として出て来る作品です。
小説家の三津田信三は、河漢社の三間坂秋蔵と定期的に会っている。仕事の打ち合わせではない。河漢社は専門書の出版社であり、小説を書いている彼が知らなくても当然の出版社だった。
三間坂はかねてより三津田信三のファンだったと言い、是非お会いして話がしたい、と言われ、仕事の打ち合わせだろうかと思いながら出向いていった、というところから、彼ら二人の会合<頭三会>はスタートした。
三間坂は、無類の三津田信三フリークであった。会う度に、お互いの個人的な話はそっちのけで、三津田信三の作品について語りに語った。やがて取り上げるべき作品が尽きてきた頃、三間坂は彼に、怪談は好きですよね?と問うてきた。
作品の多くが実話怪談をベースにしたものであり、またかつて怪談の蒐集をしていた時期もある三津田信三は、もちろん怪談が好きだが、三間坂のそれもまた凄まじいものだった。特に、語りの技術が抜群だった。聞けば、三間坂自身はそういう経験をすることはないという。怪談が集まってきやすい体質、とでも言うしかないだろう。
怪談の話をこれでもかとした後で、三間坂が変なことを言い出した。
「まったく別の二つの話なのに、どこか妙に似ている気がして仕方がない…といううす君の悪い感覚に囚われた経験が、先生にはありませんか」
そう言って三間坂が出してきたのは、二つの話である。一つはとある女性の日記であり、書き手である主婦の家で起こった不可解な出来事について触れている。そして二つ目は、少年の語りを書き記したもの。隣村の外れにある大きな屋敷に期せずして入り込んでしまった少年の体験を綴ったものだ。
時代も経験もまったく違う二つの話に、どことなく奇妙なものを感じた三津田信三は、その違和感を辿ってみることにするが…。
というような話です。

作品としてはそこまで良いとは感じませんでしたけど、短編集の見せ方としてなかなか面白い構成の作品だなと感じました。

本書には、5つの短編に序章・終章がつく、というような構成です。序章は、三津田信三がその5つの物語を読むことになった経緯が、そして終章ではミステリ的に言えば「解答編」が書かれている、という感じの構成です。

5つの短編は、何らかの形で素人が書き記した文章、という体裁を取っています。日記・聞き書き・ネット上の文章・応募されてきた小説のある章・自費出版された本のある章、という形です。だから、文体も雰囲気もバラバラで、そういう雰囲気の設定はうまいと思いました。本当っぽさ、みたいなものをうまく醸し出しているな、と。

三間坂と三津田信三が見つけ出してきた、来歴のバラバラな文章を並べて、それらに共通する違和感を取り出し、何故そんな違和感を醸し出すのかを議論する、という構成はなかなか斬新で、物語全体の構成としてはなかなか良くできている、と感じました。

ただ、僕が怪談的なものにさほど関心がないからでしょう、5つの物語にはどれもそこまで関心を惹かれなかったな、という感じでした。それは、僕が文章を読んでて頭に映像が浮かばないこととも関係があるかもしれません。怖ろしい描写がなされているんでしょうけど、僕にはこの作品で描かれている「異形の者」のイメージが頭の中にさっぱり浮かばない、という部分もあるかもしれません。

あと、「5つの怪談の共通項を探す」という設定は非常に面白いと思いましたが、一応設定としてこの作品は「三津田信三が実際に経験したこと」という体裁を取っているので、であればちょっと作為的に過ぎるなぁ、と思ってしまいました。もちろん、実際には本書は小説なので、僕のこの評価は厳しいかもしれませんが、ただ本書と同じ構成は、「三津田信三が実際に経験したこと」という体裁を取らずとも書けたはずだ、と思います。著者自身を登場させず、あくまでフィクションだ、という体裁で書けば、僕が抱いたような違和感はなかったでしょう。しかし、実話だ、という体裁を取っている以上、ちょっと色んなことが物語に都合よく描かれすぎている、と感じてしまいました。

とはいえ、なかなか良くできた作品だとは思いました。

三津田信三「どこの家にも怖いものはいる」

天盆(王城夕紀)

恩田陸「蜜蜂と遠雷」という小説を読んだ時は驚いた。
何故か。
この小説は、言葉で表現するのは不可能なのではないかと思える「音楽(しかもクラシック音楽)」を、言葉だけの力で描ききっている作品だったからだ。
誰もが知っているわけではない曲を、言葉の力だけで「聴かせる」。このことがどれだけ大変なことか、想像することはなかなか難しい。しかも「聴かせる」だけではない。「蜜蜂と遠雷」はクラシックのコンクールの話だったが、言葉の力だけで読者を、そのコンクールの「観客」に仕立て上げるのだ。その場にいて、その場で音楽を聴いているかのような感覚に、読者を引きずり込んでいく。凄まじい小説だったのだ。

本書も、ちょっと違うのだが、「蜜蜂と遠雷」を読んだ時に近いような感覚を味わった。

タイトルにもなっている「天盆」というのは、蓋という国固有の盤戯、つまりボードゲームである。将棋のルールを知っている人が読めば、概ね将棋に近いルールなのだろう、と想像は付く。しかし本書の中では、明確には「天盆」のルールは説明されない。

つまり読者は、ルールのはっきり分からない「天盆」というゲームについての小説を読むことになるのだ。

もちろん、そこにはプラスの効果もある。将棋ではなく、将棋に似た「天盆」という架空のゲームを設定したことで、「ゲームのルールそのものを知らなくてもこの作品は読めますよ」というメッセージを発することが出来る。「天盆」のルールを明確に設定しなかったのも、そういう意図からだろうと思う。

しかし、いくら将棋に似ているからと言って、ルールのはっきり分からないゲームについて描写することはなかなか困難だろうと思う。将棋のルールを知っている人に向けて将棋の対局を描写するのだってそう簡単なことではないはずだ。ルールを明示しないゲームの対局を描写することはより困難だろう。

しかし著者は、デビュー作にしてその困難をさらりと乗り越えている。確かに「天盆」のルールは分からないし、彼らがどう駒を動かしたのか、そうすることで盤面がどうなったのかなどの状況は分からない。それでも、対局中の熱気や対局に賭ける想い、一手指す毎に変化する観客の様子や息遣いなんかを、実にうまく描き出していく。

ルールを明示しない架空の「天盆」というゲームを設定したことで、「将棋は知らないから…」と尻込みされる可能性を排除出来た。そして、ルールを明示しないゲームの描写を、その筆力によってきっちりと描き出すことで、「天盆」を設定したマイナス部分を見事に補って見せた。その力量に、僕は驚かされたのだ。

内容に入ろうと思います。
蓋の国には、「天盆」と呼ばれる盤戯が昔から親しまれている。国を興した者たちが興じていたことがきっかけだったらしいが、今では天盆の才のあるなしが立身に影響を与えるほど、蓋の国では重要なものとなっている。
蓋の東端に住む少勇は、大工ではあるがあまり仕事をせず、賭け天盆などで日銭を稼ぐ毎日。その妻・静が中心となって「百楽門食堂」を切り盛りして、なんとか生計を立てている。
彼らには、12人の子どもがいる。そしてまさに今日、一人子が増えた。12人の子は皆、12×12のマスで行う天盆にちなんで、1から12までの数字の含んだ名前となっている。しかし13は天盆にはないので、仕方なく「凡天」という名前をつけた。
様々な個性を持つ、5人の兄、7人の姉たちに囲まれながらすくすくと育った凡天。やがて天盆を習うようになるが、天盆とは相性が良かったのだろう、凡天はめきめきと強くなり、やがて「天盆士」を目指して塾に通っている二秀を除いて、兄弟の誰も凡天に勝てなくなってしまった。
夏街祭で行われる天盆の大会に凡天を出すことにしたが、そこで類稀な強さを見せつけたことで、凡天とその家族はちょっとした窮地に陥ることになる。食堂で使う食材を仕入れるのにも事欠くようになっていったが、家族総出で助け合いながらどうにか取り繕う。そんな中でも凡天は、何かに取り憑かれたかのように天盆をし続けるのだが…。
というような話です。

デビュー作とは思えないほどの力強さを持った作品で、冒頭でも書いたように、ルールを明示しない「天盆」をベースにしながら、一人の少年の奮闘を描ききった意欲作だと感じました。

まずはやはり、「天盆」に関する描写が素晴らしいですね。ルールこそ示されないのだけど、蓋の国において天盆がどんな存在であるのか、どんな歴史を持っているのか、天盆が強いとどうなるのか、強い天盆打ちたちがどんなことを考えているのか、というようなことまで深掘りされていきます。日本における「将棋」とは、ルールこそ近いですが、存在としては大分違っていて、蓋の国にとっての天盆は、かつての中国にあった「科挙」と呼ばれる試験のような、そこに才を見出されれば登用される可能性があるというような、そういう重要な存在として描かれていきます。

そういう存在として天盆を描き出すことで、電子デバイスが普及しているわけではないという設定や、民が政治に対してどう感じているかという内実など、実に多くのことを自然に物語の中に登場させている、と感じました。この設定が上手いなと感じました。

前半は、ただ天盆を異常に好きなだけの凡天を中心に描かれる作品ですが、後半になればなるほど、天盆を中心とした蓋の国の歪みみたいなものが浮き彫りになっていく展開になります。架空の国の輪郭を、天盆と呼ばれる架空の盤戯を通じて描き出すことで、蓋という国がリアルに立ち上がってくるような、そんな印象を受けました。

そして、凡天を含めた登場人物たちが実に活き活きと描かれているのも素晴らしい。それほど長くない物語ではあるのだけど、本書は登場人物がメチャクチャ多い。凡天の兄弟からして12人もいて、さらに町の人間、天盆を通じて関わる者、蓋の国を司る者たちなどなど、実に多くの人物が描かれていく。これだけの登場人物を描き分けるのは非常に困難なはずだが、著者は彼らを躍動感溢れる描き方で登場させる。

特に、少勇を中心とする一家の面々は魅力的だ。全員の名前を出すのは面倒なのでやらないが、12人それぞれが家族の中で役割を担い、支え合いながら生きている。天盆ばかりに興じている凡天と、未だに天盆士の夢を諦めずに凡天と共に天盆を指し続ける二秀が、一家の中で稼ぎをもたらさないある意味で穀潰しなのだ。しかし、色んなことが起こりながらも、そんな二人も家族として彼らは受け入れる。

本書は、天盆という盤戯から蓋という国の歴史を描き出す物語ではあるのだが、もう一つ、家族の物語という側面がある。本書は最初から最後まで、「家族とは何か?」と猛烈に問い続ける作品でもあるのだ。13人の兄弟にどんな過去があるのか、ということについてはこの感想の中では触れないが、「家族」であるために彼らがどう振る舞ってきたのか、「家族」というものをどう捉えることでまとまりを成してきたのか、などが随所に描かれていく。「家族」である、ということが決して当たり前ではない環境の中で、それでも「家族」だ、と力強く言う覚悟みたいなものを、兄弟たちがどう気づき身につけていくのか。少勇と静という二人の男女が、いかにして「家族」という輪郭を維持し続けてきたのか。そのことが、強烈に描かれていく作品だ。

「家族」について静が放った言葉には、ハッとさせられる者も多いだろう。

凡天は、ただ無心に、強くなりたい、勝ちたいという想いだけで天盆を指し続けるが、しかしそのことが彼ら家族を結果的に追い詰める場面が頻繁に出てくる。天盆が才あるものを登用するための入り口として用いられている蓋の国ならではだろう。そういう状況の中で、彼ら家族のあり方が問われていく。凡天は、確かに滅法強かった。10歳にして、誰も到達出来ないのではないかと思われるような圧倒的な高みに手を伸ばせる位置にいる。しかし、凡天がその力を最大限に発揮出来たのは、家族がいたお陰だ。凡天は、一人では決して闘えなかった。

本書の中で非常に印象的なセリフがある。

『誰かのために戦う奴に勝てるわけがない』

その通りだと僕も思う。しかし凡天は、さらにその上を行くと僕は思う。凡天は、自分のためでも他人のためでもなく戦う。純粋に、戦うことの高揚を、勝つことの喜びだけを追い求めて戦うのだ。それは、無心であるが故に、圧倒的に強いだろうと思う。

『この期に及んで、この童は、楽しいのか。
何の制約もない。
何の掟もない。
己のすべてを解き放って、ただ、駒を打つだけ』

そして凡天にそれを許容したのが、彼の家族たちだ。凡天は決して、家族のために戦わったわけではなかった。むしろ、家族と共に戦ったという方が正しいだろう。凡天という異能を受け入れ、のびのびと生きさせた。そのことで、奇跡を呼び起こしたのだ。

物語が終盤どう展開するのか、具体的には触れないが、凡天の戦いと同時並行でとある戦いが描かれ、両者が呼応していく。凡天の快進撃は、蓋の国に一つの伝説を打ち立てようとしている。蓋の国ではもう長い間、天盆の実力者にしかなることが出来ない「征陣者」が平民から出ていない。もし凡天が天盆陣で勝ち進めば、平民から「征陣者」が出るという奇跡が生まれることになるのだ。その予感を孕んだ空気が、人々を熱狂させる。そして、凡天と共に別の戦いを挑む者たちもまた、その熱狂の中にいる。

ここでは触れないが、本書の最後の一文は、まさにその熱狂の渦の中にいた者たちを描写したものだ。物語を閉じるのに、これほど素敵な一文はないだろうと思われるほど、この物語に相応しいラストだと思う。

物語全体は、勘の良い人間なら先の展開が読めてしまうかもしれないぐらい、まさに王道と呼べるようなものだ。王道を臆せずに真正面から堂々と描ききる筆力と物語力に溢れた一冊だ。

王城夕紀「天盆」

改革者 蘇我入鹿(町井登志夫)

歴史は勝者の記録だ、というのはよく言われることだ。だから歴史が嫌いだ、などと言うつもりはない。僕は歴史が嫌いだが、嫌いな理由は勝者の記録だからではない。歴史の授業で、「これこれこういうことが起こった」と説明されることが腹立たしかっただけだ。実際にそれが起こったかどうか、分からないではないか。事実、歴史の教科書に乗っている「事実」はどんどん変わっている。歴史の授業で、「こういうことが起こった可能性がある」とか「歴史は物語のようなものだ」みたいに教えてくれたら、こんなに歴史を嫌いにならなかったかもしれない。

まあそれはともかくとして、僕が「歴史」というものを考えるとき、自分では確かめる手段はないが興味深いことがある。それは、「インターネット」というものが出現して以降の「歴史」というのは、どのように記述されるのか、ということだ。

インターネットが誕生してまだ数十年。それは、教科書に載るような過去の出来事ではない。しかし時が経てば、今僕たちが生きているこの時代も、やがて教科書に載るようになるのだろう。

その時、「歴史」はどう記述されるだろうか?

これまでは、「物理的に書き記された記録」だけが歴史を記述する際のほぼ唯一と言っていい物証だった。だからこそ、「歴史」を「勝者の記録」とすることが出来たのだ。

しかし、インターネットが出現して以降は、「電子的に書き記された記録」も登場する。というか、そちらの情報の方が圧倒的に多いだろう。誰が勝者なのかも分からないような戦いがあちこちで繰り広げられ、また敗者であっても電子的な記録を誰でも残せる時代。相反する様々な情報が乱れ飛ぶ中で、一体どれを「正史」として歴史の教科書に載せるのか。

それを、誰が決めるのか?

これまで歴史家と呼ばれる人たちは、発掘したり古文書や古い資料なんかを当たったりして、歴史を紐解こうとしてきた。それには専門的な知識が必要で、そういう一部の人たちが何らかの協議なり議論なりをして、いわゆる「正史」と呼ばれるものが作られてきたのだと思う。

しかしこれからはどうだろう。現実のフィールドでの作業がなくなることはないだろうが、電子データを隅々まで漁ることも、歴史家に要求されるようになるのではないか。そうなった時、「歴史家」と呼ばれるためには何が出来る必要があるのだろうか?

そんなことをつらつら考えながら読んでいた。

内容に入ろうと思います。
西暦645年、飛鳥京大極殿にて蘇我入鹿が殺された。中大兄皇子と中臣鎌足によるこの事件は、「大化の改新」として知られる、歴史に疎い僕でも知っている程有名な歴史的事実である。歴史に疎い僕はそれ以上のことを知らないが、どうやら蘇我入鹿は、「謀反者」として斬り殺されたようだ。そうだったのか。とにかく、勝者(中大兄皇子、中臣鎌足)による記録では、そうなっているようだ。
しかし著者は、そうではないのではないか、と異を唱える。謀反者として斬り殺された蘇我入鹿こそが、倭国の将来を憂え、民のために尽くした権力者だったのではないか―。それが本書の主題である。
大化の改新の17年前、西暦628年。推古天皇が崩御した。問題は後継者だ。推古天皇は、後継者に田村皇子を指名したとされている。しかし、遺言で次の天皇が決まったなどという先例はなく、また様々な条件から本来相応しいのは、あの聖徳太子の息子である山背大兄王だろうということで、揉めているというのだ。蘇我入鹿には下らない、どうでもいい争いにしか思えなかったが、それぐらい世の中が穏やかになっているということだ。かつては大陸の脅威を常に意識し、摂政・聖徳太子、大臣・蘇我馬子、そして推古天皇という三人が完璧な布陣を敷き、大陸への備えを欠かさなかったものだが、今は皆がだれきっている。
そんな中蘇我入鹿は、父の命により、大陸(唐)を見聞してくることとなった。隋はあっけなく滅びたが、唐はどうか、その目で確かめてこい、ということだ。大陸に足を踏み入れた蘇我入鹿は、唐という国の恐るべき底力を目の当たりにする。皇帝である李世民を筆頭に、皆で国を作るのだという若い熱意に満ちあふれている。その途上で出会った高表仁とは敵味方というような単純には割り切れないような関係をその後も続けていくことになる。
幾度も死地を脱しながら唐から戻ってきた蘇我入鹿は、唐の脅威をまざまざと見せつけられ、倭国としてどう振る舞うべきか考え始める。韓半島の三国が緩衝地帯となっており、特に高句麗が落ちなければ倭国は安全だと思うが、しかし…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。しかし、同著者の「爆撃聖徳太子」と比較すると、どうしても差を感じてしまう部分もありました。以降は、「爆撃聖徳太子」との比較の中で本書を捉えてみたいと思います。

本書も「爆撃聖徳太子」もどちらも、歴史をそれまでとは違った捉え方をするという意味では同系統の作品です。本書では、謀反者だとされていた蘇我入鹿が実は改革者だったのではないかと。そして「爆撃聖徳太子」では、聖徳太子が実は奇人変人(しかしきちんと国を憂えた行動をしている)だったのではないかと捉えています。そもそも歴史が得意ではない僕は、蘇我入鹿にしても聖徳太子にしても、本来どう描かれているのかということをほとんど知らないので、実は意外性を感じるのが難しいのですが、しかし「爆撃聖徳太子」という作品はその点をするりと乗り越えたのでした。

何故なら、「爆撃聖徳太子」で描かれる聖徳太子は、本当に「ヤバイ奴」だったからです。聖徳太子がどんなことをしたのか知らない人でも、聖徳太子は「凄い人」「偉い人」という印象は持っているでしょう。僕も同じです。しかしそのイメージを完全に覆す描き方をしていました。聖徳太子について詳しく知らない人でも、「爆撃聖徳太子」を読めば誰でもギャップを感じられる、そういう内容でした。

しかし本書の場合は違います。僕は、蘇我入鹿がそもそもどういう人なのかという歴史的な描かれ方を知らずに本書を読みましたけど、本書で描かれる蘇我入鹿のどの辺りまでが教科書通りで、どの辺りが教科書から外れているのか、ということが(作品のせいではなく完全に僕のせいではあるんですが)分かりませんでした。だからこそ、本書を読んだだけでは、蘇我入鹿に対してギャップを感じることが難しい、ということになってしまいます。その点が、この作品を楽しむ上で障害になったな、と感じました。

また、そういうギャップを感じるかどうかという点を仮に除いたとしても、「爆撃聖徳太子」で描かれる聖徳太子と、本書で描かれる蘇我入鹿は、キャラクターとしての魅力度が圧倒的に違います。「爆撃聖徳太子」で描かれる聖徳太子は、仮にそれが聖徳太子でなくても(という表現は変ですが)、その振る舞い全体で魅力を放つ奇人変人だと思います。しかし蘇我入鹿の方は、基本的には実に真面目な性格で、そういう部分も蘇我入鹿に魅力を感じにくい要因かなぁ、と思いました。

また、「爆撃聖徳太子」では、視点人物が小野妹子だった、という点も非常に重要だったと思います。聖徳太子目線ではなく、聖徳太子にパシリとして使われる小野妹子視点で物語が進むことで、聖徳太子の異常さや、小野妹子のパシラれっぷりが、小説としての魅力を引き立てていると感じました。しかし本書の場合は、視点人物は蘇我入鹿本人。振り回されるような人物がいるわけでもなく、しかも蘇我入鹿の実直で真面目。そこに、小説としての魅力を感じるのは難しかったなと思います。

もちろん、だから本書がダメだ、というわけではありません。「爆撃聖徳太子」という作品があまりにも面白すぎるために、本書が一段低く見えてしまうのです。読む順番が違っていたら感じ方もまた変わっていたかもしれません。

「爆撃聖徳太子」でもそうでしたが、本書も「日本書紀」や「三国史記」の記述をかなり正確に取り入れているようです。とはいえ、そのほとんどが著者の想像の産物でしょうが、1500年近く前の時代の話を、まるで見てきたかのように活き活きと描く様は本当に見事で、歴史にまったく興味のない僕でも惹きつけられるものがありました。特に、大陸に渡った蘇我入鹿が経験する様々な戦闘は、スケールの大きなものから小競り合いまで様々で、面白いと思いました。

大陸の若さと強さを見た蘇我入鹿は、ひとり大陸を脅威に感じるのに対して、倭国の中で小競り合いを繰り広げる輩はもう緩みきっていて、蘇我入鹿が感じている深刻さに共感できない。その気持ちの差が、言動の差に繋がり、結果として価値観の致命的な断絶に繋がっていく。その過程が実に丁寧に描かれる作品で、エンターテインメント小説としてはどうしても「爆撃聖徳太子」に劣るものの、読み物としてはなかなか読ませる作品だと感じました。

町井登志夫「改革者 蘇我入鹿」

真夏の島に咲く花は(垣根涼介)

『楽園は、周りの人間と作り上げていくものだよ。場所なんかじゃない。そしてその人間関係がもたらす心の風景だ、と』

この文章はとても良いなぁ、と感じた。

本書を読むと、「幸せな人生って何だろう?」と考えさせられる。
僕は昔から、金持ちにはなりたくない、と思っていた。金持ちになることで自分が幸せになれるイメージがどうしても出来なかったのだ。
もちろん、お金があることで、日常生活に不自由はなくなるし、何か大きなトラブルが起こった時にも対処しやすくなるし、やりたいことが出来るようになるだろうし…と、色々良い点はあるはずだ。けれど僕には、マイナス面の方が大きいように感じられてしまう。

それは、失うことの恐怖だ。

もともと持っていなければ、失う恐怖を感じることはない。もちろん、どんな人生でも多少なりとも何かしら持っているだろうが、それが小さなものであればあるほど、失う恐怖も小さくて済む。

しかし、大金や大金に付随してまとわりついてくる様々なものは、とても大きなものだし、その大きなものを一度手にしてしまった時、それが失われる恐怖はとても大きなものに感じられてしまうだろうなぁ、と僕はずっとそんな風に感じている。

『何千キロ、何万キロも離れた南の島にやって来ても、仕事のことや、将来のことや、家族のことなどをついあれこれと考え、物思いに沈んでいる。そしてときおり憂鬱そうな表情を垣間見せる。せっかくすべてを忘れて楽しむためにこの島にやって来ているのに、母国に置いてきたはずの日常に引き摺られている。
見ているこちらが、寂しい気分になった。
彼らの心は、どんなところに行っても、常に今ある生活の心配から自由にはなれないのだろう。この島で生まれ育ったフィジー人よりもはるかに裕福で、いろんな物も持っているのに、チョネが生まれ育ったここの住人のようには無邪気に笑えない』

「今ある生活の心配」というのは、僕の言葉で言い直せば「失う恐怖」ということだろう。今自分が手にしているものを失わないために努力し続けなければならない。その努力が出来なくなれば、それはあっさりと自分の手からこぼれ落ちてしまう。そういう恐怖を、みんな抱いているのだろう。

そういう恐怖に自覚的だった僕は、お金に限らず出来るだけ「手放せない何か」を持ちたくない、と思ってこれまで生きてきた。そういう生き方は、ある意味で寂しいものではあるが、プラスの事柄よりもマイナスの事柄の方をより過大に評価してしまう僕には、そういう生き方が合っていると思った。

『勤勉であること。約束を守ること。お互いに助け合うこと。
それらの根底にある思想は、飢えへの恐怖だ。(中略)
つまり、これらの美徳は、植えの回避という要因から発した後天的なものに過ぎない。だが、働かなくても道を歩けば食べ物はいくらでも転がっている社会では、勤勉さや約束遵守の精神はそれほど求められない。』

それ以外の価値観を知らない状態で生きられるなら、そういう「働かなくても道を歩けば食べ物はいくらでも転がっている社会」で生きることが何よりも幸せに繋がるのだろう。そういう中で育むことが出来る人間関係の中にこそ、楽園は存在するのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
物語は、南国の楽園であるフィジーが舞台だ。雑多な人種が暮らすフィジーでは、陽気でおしゃべり好きで働くことにはあまり向かないフィジー人を筆頭に、かつて奴隷として連れてこられたインド人を祖先に持つ者や、日本人・中国人などが暮らしている。
織田良昭(ヨシ)は、親から受け継いだ日本食レストラン「織田」のオーナーであり、フィジーに根ざして生活をしている。学生時代に同級生だったフィジー人のチョネとは、学力や性格の違いを越えて仲が良かったし、父親が観光客向けの土産物屋を営んでいるインド系のサティーとは今交際中だ。ガソリンスタンドで働くチョネには、就労ビザでフィジーに滞在している観光ガイドの塩田茜という彼女がいる。茜は、容姿も条件も良かったインド系のパイロットと付き合うのを蹴って、貧乏なフィジー人であるチョネと付き合っている。日本の文具会社を辞めフィジーにやってきた彼女は、フィジーという国が持つ、茜を惹きつけて止まない魅力が何であるのかを見極めたくて、フィジーに留まっている。
観光で成り立っているフィジーでの生活は、元々貨幣経済に組み込まれていなかったフィジー人にとってはなかなか厳しいが(時給2ドルの仕事ばかりする羽目になる)、勤勉で努力家なインド人や日本人にとっては、きちんとやっていればちゃんと成功できる国だ。ただ、かつて奴隷だったにも関わらず今は成功しているインド人と、フィジーは自分たちの国だという意識が強いフィジー人の間には、長いこと民族的な対立があり、両者がお互いに対して根強い嫌悪感を抱き続けている。
その対立が決定的な形で表に出てしまった。
ジョージ・スペイと名乗る先住民系武装グループが国会議事堂を占拠し、閣僚たちを監禁するという事件が発生した。首都スパで起こった事件は、ヨシやチョネたちが住む町には直接的な影響をもたらさないが、観光客の激減や、最悪な形で露わになった民族的対立が、徐々に彼らの生活に微細なヒビを入れ始め…。
というような話です。

一度読んだ記憶があるんだけどすっかり忘れてて読み直してみましたけど、なかなか面白い作品だと感じました。遠くフィジーを舞台にすることで、日本人にはちょっと遠い景色に見えてしまう可能性もあるのだけど、冒頭でも少し触れたように、フィジーを舞台にすることで、「幸せな人生」とは何か、という問いを追求しやすくなった、ということが出来ると思います。

物質的、金銭的に満たされることをどうしても追い求めてしまう風潮があるのだけど、でも僕は、そういうベクトルの先には幸せはないんじゃないかなぁ、と思ってしまいます。でも、生まれた時から資本主義が程よく成熟した社会に生きている僕らには、それに変わるシステムや努力の仕方というのがなかなかイメージ出来ません。しかし、フィジーという、本質的には働かなくても生きていける国を舞台にすることで、本当の幸せについて考えやすくなるように思います。

またそこに、民族的な対立というのが加わってきます。日本に生きていると、なかなかこういう対立について意識することはないですが、フィジーにおけるフィジー人とインド人の対立というのは、宗教や歴史を背景にしたものというよりは、「どう生きるか」というスタンスの差異から生まれているように僕には感じられました。その点が、お互いにあまりにも食い違っているために、同じ国で生活していながら、日常の中で相容れない部分が出てきてしまいます。フィジー人はそうする必要性をあまり感じないからあまり熱心には働かないし、インド人はそれが当然だと思うから勤勉に働く。その結果当然、フィジー人は貧乏だしインド人は裕福になるのだけど、フィジー人は自分たちの土地に後からやってきたのに裕福になるインド人に苛立ちを隠せないし、インド人は自分たちのお陰で経済が成り立っているのに不満ばかり言うフィジー人に苛立ちを募らせていく。その辺りの描写が実にうまいなと感じました。

そしてそんなフィジー人とインド人の間に、ヨシや茜のような日本人が絡んでいく。日本人としては、性格的には勤勉なインド人に近いが、フィジーまでやってきて働こうと思うような日本人からすれば、陽気でいつも楽しそうなフィジー人に好意を抱く部分もある。なかなか難しい立ち位置の中で、なんとか楽しく生きていくために日々を過ごしている。

貨幣経済だの民族的対立だの難しいことを書いてみたが、小説としてはそんな小難しさを感じる内容ではない。様々な人種の登場人物が、フィジーという国の論理をベースに生活をしている様が実に活き活きと描かれていく。彼らの日常を丁寧に描きながら、遠い首都で起こった出来事がじわりじわりと彼らの生活を侵していく様を上手く描いていく。「楽園というのは場所なんかじゃない」ということが、読み進めていく中で強く実感されるだろう。楽園は場所ではない。人間関係の中にある、というのも正しいが、結局は、そこを楽園にしようという個々人の努力の積み重ねでしかないのだろうと思う。

垣根涼介「真夏の島に咲く花は」

潔白(青木俊)

殺人犯はそこにいる」という作品がある。去年、「文庫X」として注目を集めた作品だ。この作品は、その「殺人犯はそこにいる」を下敷きにしている、と言っても良い作品だ。「殺人犯はそこにいる」で取り上げられたある事件の「その後」という「if」を描いている作品、という風に言える。

この点は、本書の利点でもあるし、欠点でもある。

本書では、「冤罪死刑」を取り上げた作品だ。死刑判決が下され、実際に死刑が執行されながら、それが冤罪である可能性について描く作品だ。本書のベースとなる事件は、実際に存在する。現実には、「冤罪死刑」を追及するような流れは生まれていない。再審の壁は、あまりにも高いからだ。本書では、そのあまりにも高い壁をもし乗り越えることが出来たとしたら、そこにどんな現実が展開する可能性があるのか、という予想を示している。

そして、「殺人犯はそこにいる」を読んだ者であれば、本書で提示された予想が、恐らくほぼ現実のものとなるだろうと感じることが出来るだろう。

『冤罪死刑が認められれば、日本の法曹界は、それこそ天地をひっくり返したような騒ぎになる。法務大臣、最高裁長官、検事総長らのクビが飛ぶ。死刑制度の見直しはもちろん、警察、検察の捜査のあり方、証拠の扱い、裁判の進め方、冤罪の防止策など、刑訴法の改正に話が進む。日本の硬直した司法制度に風穴が開く。その意味はあまりに大きい』

これは、弁護側の述懐だ。その通り。本書で描かれる冤罪死刑が認められれば、司法制度が大きく変わる。それは、普通の感覚で考えれば、とても良いことだ。正しいことが正しい形で通りにくかったこれまでの司法のあり方を変え、正しいことが正しいこととして認められるような、そんな道を進むことが出来るはずだ。

しかし、検察側はそうは考えない。

『いまの検察のあり方には、若手の検事を中心に疑問の声が強い。大阪地検の証拠改竄や裏金問題は、組織への不信として、いまも庁内に澱のように沈殿している。強引な国策捜査への批判は強いし、逆に首相側近の大臣や、東電、東芝といった大企業を不起訴にした姿勢にも、不満が燻っている。
そうした声には高瀬も共感する。しかし、だからといって、検察の威信が傷つき、力が失われてよしという訳では決してない。何といっても、検察庁はこの国の法治の要だ。
冤罪死刑を認めることは、検察を貶め、法治の危機を招来する。
自分も検察の一員なのだ。その権威と権限は、何を置いても守り抜かねばならない』

この感覚を、僕はとても怖いと感じる。

本書は小説だ。だから、上記のような考えを、一般の(あるいは一部の)検察官が実際に持っているのか、それは分からない。しかし、「殺人犯はそこにいる」というノンフィクションを読む限り、そう考えている検察官が多いのだろうという推察は合理的ではないかと思う。

そしてもしそうだとした場合、とても厄介だ。

僕はまだ、検察官が、個人の保身を目的に不正を働く方がマシだと思える。少なくともそれは、自分が悪いこと、間違ったことをしているという認識を持っているはずだからだ。しかし、先に引用したような、「検察という組織の権威を守るために不正を働かなければならない」という論理を違和感なく抱いているとすれば、自分が悪いこと、間違ったことをしているという感覚を持っていない可能性さえあると僕には感じられる。それは、とても怖ろしいことだと思う。

先に引用した内容は、一般的な感覚からすれば承服出来ないだろう。「検察庁はこの国の法治の要だ」という点には、恐らく多くの人が賛同するだろう。しかし、「だからこそ冤罪死刑を認めず、それによって権威を維持すべき」という価値観はおかしい。「だからこそ冤罪死刑を認め、誤りを浄化し、過ちが起きないように対策を取る」というのが正しいだろう。それが最終的に、組織を守るということに繋がるはずなのだ。しかし、どうもそういう発想は持てないようだ。

本書の中で検察は、冤罪死刑を認めさせないために、これでもかというほど汚い手を使う。権力を持つ人間が、その権力を最大限利用すれば、大抵のことはねじ伏せることが出来てしまう、ということをまざまざと見せつけられるような作品だ。そして、「殺人犯はそこにいる」を読んでいる者には、本書で描かれる検察の動きが、恐らくそうなるだろうと思わせるような振る舞いなのだ。司法というものへの深い絶望を抱かせるのに十分な作品だ。

さて、本書が「殺人犯はそこにいる」を下敷きにしているが故の欠点にも触れよう。それは、「殺人犯はそこにいる」を読んでいないと、この作品単体では不十分に感じられるだろう、という部分だ。

本書は、260ページぐらいの小説だ。長編小説としては短い部類に入るだろう。その中で、これまで日本で議論されたことのない「冤罪死刑」をリアルの遡上に載せようとする作品なのだ。そのことを考えると、ページ数があまりにも少なすぎると僕は感じる。恐らく意図的にそうしたのだろうと思うが、本書は、読者が「殺人犯はそこにいる」を読んでいるということをある程度以上前提に置いて作品を書いていると思う。そうでなければ、「足利事件」や「MCT118」や「再審請求」などについて、作中でもう少し詳しく触れるのではないかと思うのだ。また、検察や裁判所がどんな風に動くのかという具体性について、それをよりリアルに感じさせるような描写がもっと入ってくると思うのだ。

僕は「殺人犯はそこにいる」を読んでいるから、本書を読んで特に違和感を覚える部分はなかった。しかし読みながら、「殺人犯はそこにいる」を読んでいない人間が本書だけを読んだ時に、この物語にリアリティを感じることが出来るだろうか、と感じてしまった。それは、ちょっと難しいのではないかと思うのだ。それぐらい、本書で描かれている検察や裁判所の動きは、常識的には考えにくい、常軌を逸したものなのだ。

本書の欠点は、まさにこの点にある。「殺人犯はそこにいる」を読んでいない人間に対して親切ではないと僕は思う。本書だけでは、独立した作品と呼ぶことが、ちょっと難しいような気がしてしまうのだ。もちろん、僕はそういう本作りを、意図的なものだと思っている。そういう欠陥が生まれることを理解した上で、こういう造りにしたのだろうと考えている。そういう意味では、戦略とも言えるような欠陥であり、とやかく言うようなことではないのかもしれないが、やはりこの点は指摘しておくべきだろうかと思い書いてみた。

内容に入ろうと思います。
1989年7月に発生した「三村事件」と呼ばれる殺人事件がある。小樽市にあるスナック「美鈴」で経営者の野村鈴子と小学生の娘・優子が絞殺死体で発見された。捜査はなかなか進まなかったが、事件発生から一年八ヶ月後に、同市内で工務店を営む三村孝雄が逮捕された。様々な状況証拠があったのだが、最終的には「MCT118」と呼ばれる、当時の最先端技術を駆使したと喧伝されたDNA鑑定によってDNA型が一致、それにより死刑判決が下された。通常死刑が執行されるまでには判決から10年以上かかる。しかも三村は再審請求の準備を進めていた。再審請求者の処刑は見送られるのが慣例なのだが、三村の場合は何故間、判決からわずか2年での死刑執行となった。
その判決に、納得しない者がいた。三村の娘・ひかりだ。小学生だったひかりは、犯行があったその日の夜、ひかりの部屋で父と二人でずっと一緒にいた。だから、父が犯行を行えたはずがないのだ。そのことを、誰よりもひかりがよく知っている。しかし、身内の証言ということで聞き入れられることはなかった。
ひかりは、父に死刑判決が下って以降、父の冤罪を証明することに人生のすべてを捧げることにした。あらゆる手を尽くしたが、「開かずの扉」と呼ばれる再審への道を切り開くだけの有力な証拠を見つけることは出来ないでいた。
しかし、「足利事件」の冤罪が証明され、事態は少し前進した。「足利事件」でDNA型の鑑定が行われたのは、三村事件と同じ「MCT118」という手法だったのだ。その手法について詳しい、と評される弁護士事務所で森田と出会い、ひかりは一筋の光を求めて再審への道を進んでいくことになるが…。
というような話です。

冒頭でも書いたように、「殺人犯はそこにいる」というノンフィクションを大分下敷きにして書かれた作品です。本書で描かれる「三村事件」のモデルとなっているだろう事件は、福岡県で起こった「飯塚事件」だ。無実を訴えながら死刑判決が下され、2年で死刑執行された、という点が共通している。「殺人犯はそこにいる」では、「足利事件」を含む5件の連続幼女誘拐殺人事件の真犯人が、判明しているのに何故逮捕されないのかの理由として、「MCT118」という鑑定法が間違っていたと認定したくないからであり、では何故認定したくないかと言えば、「飯塚事件」でも同じ鑑定法を用いており、「MCT118」の真偽が揺らぐと「飯塚事件」において「冤罪死刑」の問題が取り沙汰されるからだ、と指摘している。

そしてまさに本書は、その「飯塚事件」(本書の中では「三村事件」)における「冤罪死刑」が議論の遡上に乗せられた時、検察や弁護側や世間はどう動くか、ということをリアルに描き出す作品なのだ。

読みながら、「検察や裁判所はこれぐらいのことはやるだろう」と思った。それは、最近読んだ「裁判所の正体」という作品の影響も大きい。元エリート裁判官である瀬木比呂志氏が、裁判所の実態を清水潔に語るような対談本である。「裁判所の正体」の場合、メインで描かれるのは裁判所であるが、ほとんど検察や権力と一体化している現実が描かれている。

『日本人は、裁判官と言えば、大岡越前や遠山の金さんをイメージするがね、大いなる誤解だな。ちなみに、アメリカとも大違いで、アメリカの裁判長は市民の代表、日本の裁判長は公務員、お上の手先…』

と本書「潔白」の中で書かれているが、まさにその通りなのだ。検察も同じだ。

『なるさ。三村事件の再審は、検察量が総がかりで潰すマターです。』

『多くの検事が“割る”ことが、被疑者更生の第一歩だと信じており、“割れる”検事が有能とみなされる。そして“割った”からには、たとえ証拠が完全でなくとも、果敢に“立てる”。』(割る=自白させる、立てる=起訴する)

『有罪率99.9%。
検察は、自分たちの主張が丸呑みされなかった判決を「問題判決」と呼び、猛烈に嫌う』

こういう世界なのだ。

本書は、小説だ。実際に「冤罪死刑」が俎上に載った際、どんな展開が待ち受けているのか、それは誰にも分からない。しかし、「殺人犯はそこにいる」や「裁判長の正体」を読んだ者にしてみれば、本書で描かれる検察・裁判所のあり方にはさほど驚かされないだろう。確かに、そういう振る舞いをするだろうな、と冷製に捉えることが出来るはずだ。それぐらい検察や裁判所は、荒唐無稽であり得ないことを平気でやってくるところなのだ。「法治の要」と言って組織を守る、まさにその組織こそが最も法治から遠い場所にあるという、皮肉な現実を如実に描き出す作品だ。

青木俊「潔白」

ひきこもりの弟だった

生きていたくないなぁと、昔はよく思っていた。今も、まったく思わないわけではないけど、昔よりは大分マシになった。

「俺は普通の人みたいに、普通のことができない」

あぁ、凄くよく分かる。僕もずっと、今でもそう思いながら生きている。

当たり前に出来ることだとされていることを、何の疑問もなく出来る人は、昔は羨ましかった。別に、大したことではない。誰かに良い事が起これば喜び、誰かに哀しいことがあれば哀しみ、家族や友だちを大切にする…みたいなことが、僕にはうまく出来なかった。いや、表向きは、たぶん出来ていたと思う。問題は、僕の心だ。心の中では、ずっと、違和感ばかり募っていた。周りのみんなが何の疑問も持たずにやっている多くのことが、僕には、なんでそんなことをしなきゃいけないのか全然理解できないようなものだった。

大人になる過程で、そういう当たり前から、ちょっとずつ抜け出してみることが出来るようになった。周りの人が当たり前にやっていることを、どうにかしてやらずに人間社会の中で溶け込めるように努力するようになった。そんな風にして、今の僕が出来上がった。昔の自分のことは結構嫌いだったけど、今の自分のことはそれほど嫌いではない。

どうしようもなく生きていることが辛い場合、僕たちはどうすればいいんだろう?
そういう感覚になったことがない人には、そのしんどさはなかなか理解できないだろう。ただ生きていることが辛い、ということが理解できないことだろう。しかし僕は分かる。ただ生きていることが辛いという感覚が。何か酷いことをされたとか、何か具体的に不安なことがあるとか、そういうこととは関係なく、ただ生きていることが辛いという感覚が。

そこから自力で抜け出すのは、本当に大変だ。何せ、生きていることが辛いというのは、具体的な原因があるわけではないからだ。原因があるなら、それを取り除けばいい。しかし、生きていることが辛い、ということの原因を敢えて探すとするなら、それは「生きていること」だ。それを取り除くためには、死ぬしかない。

だから、ひきこもりである兄の気持ちが、まったく分からないわけではない。もちろん、兄の振る舞いには様々な問題がある。そういうすべてを許容するつもりはない。しかし、生きていることが辛くてどうしようもない、という感覚は分かるし、それが絶望的なまでに他人と共有できない感覚だ、という絶望も理解できる。その状態で生きていかざるを得ない中で、言動がねじ曲がっていってしまうことは、ある程度は仕方ないと思う。とはいえ、そういう存在と対峙せざるを得ない人間にとっては、迷惑以外のなにものでもないのだが。

主人公である弟の方にも、理解できる部分が多々ある。

主人公は、ひょんなことから、絶対に無理だと思っていた結婚をすることになった。彼が、自分には結婚は無理だ、と考えていた理由の一部は、僕にも理解できる。例えばそれは、こんな文章から分かる。

『一生を一人でやり過ごすのはやるせない。でも“運命の人”なんか信じない。となると、誰かと一緒になるためには多くの場合、あなたを愛しています、という一定期間の実績なり演技なりが必要だ。』

そういうのがめんどくさい、という感覚は僕の中にもある。本書で主人公がする結婚に至る経緯は、ある意味で僕の理想にとても近い(別に僕は結婚願望はないが、万が一するとしたらこういう形がいいと思う)。まあ、実際にはこんな展開はあり得ないだろうから、そういう意味で僕の人生に結婚なんてものが関係してくることはあり得ないのだけど、もしそういうことが起こったら?という仮定の話は、少なくとも僕にとってはリアルなものに感じられた。

僕の感覚では、いわゆる「イマドキの若者」には、結婚というものに対する絶対的な価値観が薄れているのではないか、と思う。かつては結婚は、しなければおかしいと思われるようなものだった。しかし徐々に、結婚はしたければすればいいししなくてもいい、という風に、さらに、結婚なんかしたって良いことない、という風に変わってきているように感じられる。そういう中でこの物語はどんな風に受け取られ得るのか。

内容に入ろうと思います。
公園で行き倒れのように眠っていた掛橋啓太は、二人組の女性に起こされた。正確には、その内の一方の女性にだ。彼女は啓太に宇都宮のオススメの餃子店を質問した後で、唐突にこう切り出した。
「質問が三つあります」
その三つの質問に答えた啓太は、彼女と結婚することになっていた。妻の名は、大野千草と言う。
二人は、お互いのことなどほとんど知らないまま、お互いの両親にもまともに報告しないまま一緒に住み始めた。その生活は、非常に心地よかった。啓太は、自分が欲しいと望んでいた環境を、通過したくないと思っていた面倒な手続きを経ずに手に入れることが出来て、非常に満足していた。
そんな啓太は、子どもの頃から、ひきこもりの兄の存在に悩まされていた。
小学校の頃からすでに不登校だった兄のことを、まだ小さな頃はおかしいとは思っていなかった。しかし次第に周りから、何故兄は学校に行っていないのかと聞かれるようになり、啓太も疑問を持つようになった。母は完全に兄の味方だった。兄を甘やかすことは兄のためにはならない、と何度力説しても、まだ時期じゃない、と取り合わなかった。やがて啓太は、父親のいない、母と兄の三人での生活の中で、自分の居場所がなくなっていると感じられるようになっていった。
ひきこもりの兄に悩まされる弟として、そしてひょんなことから結婚した夫として、掛橋啓太は過去と現在と未来に思い悩まされる…。
というような話です。

なかなか面白い作品だったと思います。正直なところ、物語的には何が起こるというわけでもなく淡々と話が進んでいくんだけど、出て来る人物が曲者揃いで、現実にいそうな感じがする。こんな奴が周りにいたらしんどいだろうなぁ、と思ってしまうような人間が何人も登場し、主人公である啓太を苦しめていく。そのリアルさみたいなものが惹きつけるんだろうなぁ、という感じがします。

例えば、啓太の会社の同僚である坂巻という男は、本当にろくでなしだ。こんな人間が会社にいたら本当に最悪で仕方ないが、啓太自身でどうにか出来る問題でもない。同じ部署にいる限り関わらなければならないが、どう関わっても自分が損する、という相手は、どこかの会社にそのままいそうな人物だな、と思わせるリアリティがあるなと感じました。

啓太と千草の結婚に至る過程は、逆に非常にリアリティがない。しかしこのリアリティの無さは、現実に起こる可能性が低いというだけで、こうなったらいいなという願望を持つ者は、実は多いのではないかという気がする(さすがにそれは僕の世の中の捉え方が間違ってるでしょうか?)

最近若い人と喋っていると、(僕自身もそうだが)「恋愛」というところに行き着かない人が多い気がする。「出来ない」のではなく「しない」という選択をしている人が多いように思う。「しない」と考えている理由には様々あるだろうが、「他人にさほど興味がない」とか「人と一緒にいるのが苦痛」とか、色々と聞いたことがある。僕も今は恋愛を「しない」という選択をしているが、その理由は説明がめんどくさいし、共感してもらえる可能性は低いのでここでは書かない。

僕は恋愛の先に結婚があるべきだとは考えていないが、しかし多くの場合そういう流れを取る以上、恋愛に行き着かなければ結婚にもなかなか行き着かないということになるだろう。

だから本書で描かれる結婚の経緯は、実際に起こる可能性はほとんどないが、ある種の理想、ある種の願望として、多くの人が共有可能なものなのではないか。僕はそんな風に感じている。

だからこそ、彼ら夫婦がどんな生活をし、どんな展開を迎えるのかを読ませる本作は、ある意味で現代人の期待に応えたものになっているのではないか、という気がするのだ。

彼ら夫婦がどんな生活をし、どんな葛藤を抱え、どんな展開を迎えるのかは、ここでは詳しくは書かない。しかし、彼らは真剣なのだ、ということは、読みながら感じて欲しいように思う。彼らが、「きちんとした結婚」を忌避するのには理由があり、その理由に僕は共感できてしまう。彼らが恐れていることを、同じように恐れる気持ちを持っている。そんな彼らの恐怖を、理解できなかったとしても排除しないで欲しい。そういう苦しみや葛藤と共にしか、「家族」というものと関われない人間がいるのだ、ということを理解して欲しいなと思う。

彼らの様々な選択が正解だったのかどうか、それは読んだ人が決めることだ。分かりやすい正解などない、と認めることでしか、僕たちは現実と対峙することが出来ないのだ。

この本は、帯のコメントが秀逸だ。

『この本を読んで何も感じなかったとしたら、それはある意味で、とても幸せなことだと思う』

僕も、そう思う。

葦舟ナツ「ひきこもりの弟だった」

二千七百の夏と冬(荻原浩)

内容に入ろうと思います。
まさに、「荻原浩にしか書けないだろう」という作品です。
メインとなるのは、縄文時代。ピナイと呼ばれる谷の村に住むウルクという少年が主人公だ。
ピナイに住む者は、典型的な狩猟民族、後の分類では縄文人である。カンジェ・ツチィという長を中心に、男は狩りをし、女は編み物をしたり魚を取ったりする。川の下流の村と交流があり、時々婚姻関係を結んだり、年に一度来る「魚喰い」と彼らが呼ぶ、海の近くで漁をする者たちと交易をすることもある。しかし基本的には、山に入り、獲物を狙い、そうして撃った獲物を神からの贈り物として食べ、暮らしている。
ウルクは、長の娘であり幼馴染であるパナに惚れている。自分の存在をアピールしたいところだが、狩りでも重要な役割はさせてもらえず(それ故分け前も少ない)、またパナがまだ幼い故にウルクのアピールが通じないということもある。それでもウルクは、パナのいる前でははりきってしまう。
幼い頃に父を亡くし、その父を「臆病者」呼ばわりされながら生きてきたウルク。何故父が「臆病者」なのか分からないままだった。一方でウルクは、山に一人で入った時(小さな獲物なら一人で狩りに言ってもいいことになっている)、四つん這いの状態でウルクの背丈ほどもあるクムゥ(※クマのこと)を目撃するが、そんなクムゥいるはずがないと笑われてしまう。
そんな風に、ウルクを中心にして、二千七百年前の、僕ら日本人の祖先の日常を描き出していく。
その一方で、時折2011年の物語が挿入される。東日本大震災からまだそう日が浅くなく、震災に絡めた記事を求められる中で取材を続けなければならないジレンマと戦いながら日々取材に追われる地方支局の新聞記者である佐藤香椰は、ある日縄文人の人骨の発掘現場にいた。入社三年目、記者として満足の行く仕事が出来ているとは言い難い香椰は、なんでも震災に絡めなければ、と感じてしまう自分に嫌気が差していることもあって、この縄文人の発掘を記事に出来ないかと考えている。なかなか簡単には行かなそうだが、しかしやがて驚くべきことが判明する。縄文人男性の人骨の隣に、まるで手を繋いでいるかのように見える、弥生人女性の人骨があることが判明したのだ…。
というような話です。

まず、作品としては、さすが荻原浩、という感じでした。これはまさに、荻原浩にしか書けないだろう作品だと感じました。

僕が感じる、荻原浩の作家としての凄さは、「視点人物の感覚で世の中を捉える」ということです。例えば、子ども目線の時は、子どもの日常に溢れているモノや考え方で世界を切り取る。それを、お年寄り、サラリーマン、主婦などなど、どんな立ち位置の人でもやってのけてしまう、というのが、荻原浩の作家としての凄みだと僕は日々感じています。

そして、本書はまさにその荻原浩らしさが全開に発揮された作品だと僕は感じるのです。今回の視点は、「縄文人」。並大抵の想像力では描けないでしょう。しかし荻原浩はそれを成し遂げるわけです。

『ウルクは頭の中が春の日だまりになってしまい、』

『日から近いはずの山の上のほうが寒いのは、ピナイの知恵者たちも首をかしげる不思議のひとつだ。』

こういう表現はまさに、「縄文人」の視点から世の中を切り取るものだし、そういう表現が随所に存在する。縄文時代にも存在していてもおかしくない概念や価値観のみを使い、彼ら縄文人の思考をトレースするかのような描写を組み上げることで、作品を成り立たせている。縄文時代を舞台にした小説を書ける作家というのは存在するだろうと思う。しかし荻原浩ほど、縄文人の思考をトレースするかのようなやり方で縄文人を描ける作家というのは、まず存在しないだろうと思う。その点は素直に驚きだったし、作品として賞賛に値すると感じる。

とはいえ、だからと言って作品が面白いのかというと、ちょっとそこは違ったりする。これがなかなか難しいところだ。
縄文人の思考をトレースするかのような描写は驚きに満ちているが、しかし同時に、彼らのような物事の捉え方は、現代とはあまりにもかけ離れているために、すんなりと受け入れることが難しい。どうしても読みながら、つっかえてしまう。これは、僕がSF小説やファンタジー小説を読むのが苦手なのとちょっと似ている。物語全体の設定を読みながら頭の中で組み上げていかなければならないので、そういうタイプの小説が苦手な僕にはちょっと辛い部分があった。彼らの日常の物語をスイスイと読んでいくためには、彼らが世の中をどう見ているのかという視点を自分の頭の中にインストールするみたいな意識が必要で、やはり「本を読む」という行為の中ではちょっとレベルが上がる感じがする。難しい。

恐らく、僕が元々SF小説やファンタジー小説を好んで読むようなタイプであれば、この作品での描き方や世界観の作り込み方にもっと衝撃を受け、もっと感じることが多々あっただろうと思う。しかし、僕の好みの問題でそうはならなかった。そういう意味では、ちょっと残念だった。作品の問題というよりは、僕の個人的な趣味の問題なので、気になる方は是非読んでみてください。凄い作品であることは間違いありません。

荻原浩「二千七百の夏と冬」



蒼のファンファーレ(古内一絵)

色んな理由で、僕たちははみ出していく。
「こういうもんだ」と何となく決められているような感じのする人生のレールから、いつの間にか外れている。
僕もずっと、当たり前からはみ出しながら生きていた。
そんな僕自身の感覚からすると、はみ出してしまう人は、ただ当たり前には馴染めなかった人、というだけなのだ。

僕たちは、色んな問題や悩みを抱えながら生きていく。
でも、それらの問題や悩みの多くは、自分自身に接着しているとは限らない。
自分自身と自分がいる環境の間にこびりついているだけであって、自分がその環境から離れれば消えてなくなるものである場合も多いはずだ。
問題は、自分自身に接着しているものなのか、自分自身と環境の間にあるものなのかをはっきり区別することはなかなか難しいということだ。

僕は、人生の色んなことから逃げて逃げて逃げて生きてきた。逃げるという選択肢は常に僕の中にあって、自分の中でどうにもならないと感じられる時は、悩みながらその環境と距離を置いた。そういう行動を取っている頃はまだ、僕が抱えている問題が自分の環境の間にあるものなのだ、ということには気づいていなかった。自分自身に接着しているものだと思っていた。だから、逃げることは、ただの現実逃避みたいなものだった。逃げることで解決すると思っていたわけではないし、ただ嫌なことに蓋をして見ないようにしたいというだけの行動だった。

ただ逃げてみて感じたことは、逃げてしまえば自分が悩んでいた問題の多くは解決する、ということだ。もちろん、逃げたことによって新たな問題が発生することはある。それは避けられないのだが、しかし逃げる経験を何度か繰り返したことで、自分が抱えている問題がどこにあるのか、つまり、自分自身に接着しているのか環境との間にあるのかが、なんとなく分かるようになってきた。

それに気づけるようになると、なんとなく気が楽になってくる。

人間には、居場所がどうしても必要だ。自分はここにいても大丈夫だ、と思える場所が、絶対に必要だ。しかし、そういう居場所をどうしたら見つけられるかについては、簡単な方法はない、としか言いようがないだろう。運良く自分に最適な場所に労せずにいられる人もいるだろうが、ほとんどそれは期待できない。ネット上では気の合う仲間を見つけやすいだろうし、ネット上の関係だけであってもそれを居場所だと感じられる人も昔に比べたら増えているだろうけど、やはりリアルの世界に居場所はあって欲しい。しかしその場合、自分が関われる、あるいはその存在を知ることが出来る場に限りがあるが故に、選択肢は非常に狭い。どんな場所で生まれ、どんな家庭に育ち、どんな才能を持っているかなどによって、関われる場は絞られていく。その狭い選択肢の中から、自分に合う居場所を見つけ出さなければならない。これはなかなか難しい。

だからこそ多くの人が、人間関係で悩み、苦しんでいるのだろう。

その悩みは、自分自身の問題ではなく、自分がいる場との相性の問題なのではないか―。そういう発想を持つことはとても大事なことだ。自分が今いる場所が悪いのだ、という発想は、自分自身を顧みないただの現実逃避である可能性ももちろんあるが、その悩みを解消する糸口が見当たらない場合、逃げるという選択肢を真剣に考えてみてもいいのではないかとも思う。

本書で登場する緑川厩舎の面々は皆、人生で様々な問題を抱え、流れ着いて来た者たちだ。傷つき、傷つけ、やりきれない思いを抱えながら、それでもなんとか必死に生き続けてきた果てに、緑川厩舎にたどり着いた。「藻屑の漂流先」と揶揄されることもある厩舎だが、傷ついた者たちが寄り集まったこの厩舎はまた、傷ついた者たちをお互いに癒やす厩舎でもある。ここでしか生きられない面々が、馬という言葉の通じない動物と共に、中央競馬とは何もかも違う地方競馬の現実に日々直面しながらも奮闘していく物語には、勇気を与えられるのではないかと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、「風のムコウへ駆け抜けろ」に続く、シリーズ第二弾です。
広島県にある鈴田競馬場でもっとも規模の小さな厩舎、それが緑川厩舎だ。そこは「藻屑の漂流先」と言われるぐらい、様々な過去や傷を背負った者たちが流れ着く場所だ。
芦原瑞穂は、地方競馬教養センターを卒業し、請われて鈴田競馬場にやってきたものの、女性騎手の珍しさを広告塔にしようという目論見しか感じられなかった。父が馬の世話をしていたお陰で、本能的に馬と関わる方法を知っている瑞穂は、騎手として評価されたいと願いながらも、女が馬に競走馬に触るなんて不吉だ、という競馬界の男優位の不文律が様々な場面で立ちはだかり、苦杯をなめてきた。
そんな瑞穂が乗る馬が、フィッシュアイズだ。規模の小ささ故に強い馬を持つことが出来ない緑川厩舎が、必死の思いで見つけてきた馬だ。魚目という虹彩の青白い馬であり、元の馬主が不吉だからと言って手放し、その後GI場を育成するための当て馬として限界まで酷使された過去を持つフィッシュアイズは、人間に対する深い絶望を抱いていた。そんな馬を見つけ出して、緑川厩舎は中央への挑戦権を手にした過去もある。
そんなフィッシュアイズを、騎手を乗せられるほどに面倒を見たのが木原誠だ。彼は、幼少期に母親と母親の交際相手から酷い扱いを受けたために、ある時からずっと施設で生活をしており、また心因性失声症に陥っている。そんな誠は、施設で行われていたホースセラピーをきっかけに馬に関心を持ち、今ではフィッシュアイズを落ち着かせることが出来る唯一の厩務員としての重責を担っている。
緑川厩舎のトップである緑川光司は、かつては中央でも活躍した騎手だった。しかし、強い後ろ盾を持たないまま実力だけで上り詰めた男はまた、転落も早かった。八百長に絡んだという不名誉な理由で騎手を続けられなくなり、流れ流れて、父親が経営していた緑川厩舎を引き継ぐことになった。
他にも緑川厩舎に関わる面々は、なかなか難しい人生を背負っている。しかし、前作「風の向こうへ駆け抜けろ」の中で、瑞穂は実力のある騎手として緑川厩舎に受け入れられ、フィッシュアイズはどうにか競走馬としての風格を持てるようになり、さらにGIへの挑戦権も得ることが出来た。経営の厳しい地方競馬を何とか維持していこうと、緑川厩舎として出来ることは何でもやってきた。
さて、ここからが本作の内容である。
緑川厩舎に新しい変化をもたらしたのは、イケメン風水師として人気を博しているワン・ユーティンだ。彼は、ここ数年のGIを総なめにしている種牡馬を親に持つ、鈴田競馬場では絶対にお目にかかれない超良血馬であるティエレンの馬主である。ティエレンは中央のデビュー戦での一勝の後なぜか勝ち星を上げることが出来ず、それでワンは何故か、ティエレンを緑川厩舎に預けると決めたという。ワンの説明によれば、風水で決めた、とのことだったが、意味がわからない。
ティエレンに乗ることになった瑞穂だったが、ティエレンには致命的な欠点があった。それが、手を抜く、ということだ。ティエレンは恐ろしく頭の良い馬だ。恐らくティエレンは、デビュー戦で勝った後急に調教がきつくなったことに気づき、勝てる試合でも勝とうとしなくなったのではないか、と瑞穂は考えた。フィッシュアイズも厄介な馬だったが、力がありながら手を抜くティエレンをどう走らせたらいいのか、瑞穂には見当もつかなかった。
ワンは何故か、フィッシュアイズのことを殊更に気にしている。フィッシュアイズとティエレンを対戦させたがっているようだが、普通に考えればクラスの違う両者が同じレースで走る可能性はない。しかしワンは、預言者のようにそんなレースが近い内に実現すると口にし、実際にそれが実現した。
それが、鈴田市競馬事業局の職員である大泉が企画した、「全日本女性ジョッキー招待競争 アマテラス杯」である。全国にほとんどいない女性騎手を集めてレースを行おうというのだ。そこで、ティエレンとフィッシュアイズは競い合うことになった。
アマテラス杯の企画書を読んだ光司は驚いた。参加騎手の一人に、長らく騎乗していない、「中央競馬の都市伝説」と呼ばれている二階堂冴香の名前が上がっているのだ…。
というような話です。

やっぱり好きな作品だなと思います。シリーズの第二作であり、登場人物たちの様々な過去はシリーズ一作目の「風の向こうへ駆け抜けろ」で描かれているので、是非そちらから読んで下さい。「藻屑の漂流先」と呼ばれる、色んな部分に問題を抱えている面々が、チームとして一つになって勝ちを狙って奮闘する物語は、物語全体の構造こそよくあるスポーツ小説と同じものかもしれないけど、入れ物を「地方競馬」「女性騎手」「手懐けられない暴れ馬」などにしたことで、よくあるスポーツ小説とはまた趣の異なる作品に仕上がっていると思います。

競馬という舞台設定が、まず絶妙だなと思います。
概ねスポーツというのは、男女でそもそも別れている。別れているからこそ、「男社会」「女社会」なんていう話も普通は出てこない。ただ競馬の場合は、男騎手も女騎手も同じステージで戦う。そういう中にあって、古くから競馬の世界は「男社会」なのであって、「女は不吉だから競走馬に触るな」というような考え方がまかりとおっていたりする。

この状況が、主人公である女性騎手・瑞穂の物語をドラマティックに見せる背景として非常によく機能している。純粋に馬が好きで、純粋に勝ちたいと思って厳しい訓練を重ねてきたのに、いざ騎手になれば「女だからって理由で名前を覚えてもらえていいな」「人寄せパンダの女ジョッキー」などと揶揄されて、実力で評価してもらえない。瑞穂がどんな思いで馬と向き合っているかに関わらず、「女である」という事実が瑞穂にとっての足かせになっていくのだ。

しかし瑞穂としても、そういう自分の「女であることの価値」をまったく無視することも出来ない。何せ、中央はともかく、地方競馬はどこも厳しいからだ。騎手として評価されたいと願っても、現実的に勝てなければその思いは空を切るだけだ。そんな時、女としての自分に役割があるのなら…、という葛藤と戦わざるを得なくなる。

また競馬というのは、金が絡むという意味でも特殊だ。多くのスポーツでは、テレビなどの放映料、あるいはスポーツ賭博などでは大金が動くかもしれないが、あくまでもスポーツの勝ち負けが観客のお金と何か直結することはない。しかし競馬は、見ている者の大金が絡んでくる勝負だ。だからこそ、見る方も乗る方も、純粋な勝負に挑む緊迫感だけではないプレッシャーみたいなものを背負うことになる。純粋な勝負とはまた違った形での真剣勝負が繰り広げられる、という意味でも、競馬は面白い題材だ。

シリーズ二作目である本書では、登場人物たちの過去がより掘り下げられていく。一作目では触れられなかったそれらの過去が、物語をより厚くしていく。

光司は、アマテラス杯で二階堂冴香と再会する。一作目で冴香が出てきたのか、僕はもうちゃんとは覚えていないが、彼らは過去恋愛関係にあった。とはいえ、光司が中央の騎手として有名になるにつれて、光司は冴香を顧みなくなる。その後、騎手として没落した光司は、冴香と連絡を取ることも出来ないでいた。光司にとっては苦い過去だが、冴香を想い気持ちは残っている。

二人の久々の再会は、お互いに新たな感情をもたらすことになるが、決してそれだけには留まらない影響も生んだ。詳しくは書かないが、冴香の登場は、様々な意味で波乱を生むことになる。

また、光司に関して言えばもう一点、過去と向き合わなければならないことがあった。こちらに関しては詳しく書かないことにするが、冴香のこと以上に、光司の中にはわだかまりとして残っていることだ。誰が悪いとかそういう次元とは違う部分で受け入れることが出来ない過去と直面せざるを得ない中で、光司は揺れる。しかしある意味でそれは、緑川厩舎全体にとっては、とても良かったことだと言える。

一方で、緑川厩舎全体にとってとても良くない出来事も起こる。誠に関してだ。こちらも詳しくは書かないが、やはり過去を振り切れないでいることが悪循環を生んでしまっている。誠は、緑川厩舎にとって不可欠な存在だ。誠が揺れれば、馬に直接的な影響がある。誰もが辛い過去を持つ緑川厩舎では、傷ついた者に優しい。そんな環境だからこそ、誠はまた立ち上がる意志を持つことが出来る。だからこそだろうか。後半、誠は大きな一歩を踏み出すことになる。

満足の行く環境とはとても言えない中で、ある意味で羽根をもがれた者たちが寄り集まっている。一人ひとりの力は満足の行くものではないかもしれないけど、それでもお互いに足りない部分を補い合いながら奮闘する、その姿がグッとくる作品です。

古内一絵「蒼のファンファーレ」

オーマイ・ゴットファーザー(岡根芳樹)

本書で描かれる父親の考え方に、僕は凄く共感する。

僕自身は、本書の父親のような考え方(それは今の僕を形作っているものとかなり近い)に自力でたどり着いた。人生の色んな場面で違和感を覚え、周りとうまくやっていくことが出来ず、普通の人が普通に出来るはずのことが出来ず、自分の中でかなり苦労しながら生きてきた。そういう自分をなんとか自立させていくために、僕は自分の力で考えなければならなかった。自分が何を良いと感じ、何を悪いと感じるのか。何に喜びを感じ、何に苦痛を感じるのか。そういう様々なデータを収集しながら(別にそういう意識でやっていたわけではないが)、自分がどんな価値観を持っていて、どんな物事に対してどう感じるのかということを少しずつ理解していった。その過程は、世の中の「普通」から外れていく過程でもあったのだけど、でも外れれば外れるほど、僕は生きやすくなっていくのを感じていた。

本書で父親は、子どもたちに対して、様々な形で「あれをするな」「これをしろ」と言う。これだけ聞くと、自分の考えている方向に無理やり誘導しようとする教育に思えるだろう。しかし、本書を読んでみれば分かるが、それはまったくの誤解だ。逆にこの父親は、子どもたちを自由にするために「あれをするな」「これをしろ」と言う。

『しかし真と良樹は進んだ道こそ違いはあるが、どちらも誰かに選ばされた人生ではなく、自分で選んだ人生だから本人たちに悔いはないのだ。たとえ道に迷おうが失敗しようが自分で何とかするしかないし、なんともならなかったとしてもそれはそれでいいのだ。人生はある程度、適当であることが必要である』

僕たちは、何も考えないで生きていると、世間の「常識」とか「当たり前」みたいなものに自然と絡め取られて生きていくことになる。この父親は、それに抵抗する意識と手段を与えるための子育てをしているのだ。「あれをするな」「これをしろ」というのは、確かに何かの方向に誘導しようとしているような感じがするが、そうではなく、そのままにしていたら「常識」とか「当たり前」の方向に流されていってしまうのに抵抗する方向に力を向けることを教え込もうとしているのだ。

『良樹、人生はな、面白いかどうかが大事やぞ。どんな結果であってもやな、面白ければ人生は大成功なんや。
人生で最優先すべきことは、成功でも儲かることでもない。むしろ人生は失敗したほうが面白いんやぞ。変な人と言われることは光栄に思え。
ええか、「変なことをするな」って大人が子どもによく言うやろ。そんな言葉繰り返し聞かされ続けとったら、子どもたちは変なことができんようになるやろ。それはとんでもないことやぞ。
「平凡な人生が一番いい」なんて言う奴がおるが、世の中すべて平凡な人間しかおらんかったらこんなに人類は発展しとらんぞ』

僕は、こういうような発想に、大人になってから自力でたどり着いた。25歳は過ぎていただろう。もしもっと子どもの頃に、こういう考え方を知ることが出来ていたら、僕の人生は大きく変わっていたに違いない。今より良い人生になっていたかどうか、それは分からないが、少なくとも、無駄な苦労はせずに生きられただろう(必要な苦労はした方がいいが)。そういう意味で、子どもの頃どんな教育を受けるかということは、本当に大事だ。

『ずいぶん後で聞いた話だが、あの時比沙子は毎日貧しい食事をして、たまにとんでもない贅沢をするという岡根家の風習が無性に悲しくなり、貧乏ならば無理しないでもっと「普通」の生活がしたかったそうだ』

もちろん、この父親のような教育は、ある意味で劇薬だ。悪い方に作用する可能性もゼロではない。

『この本に含まれた毒は、希望が持てない不安な時代にこそ必要な価値観であり、いつしか精神を鍛え育てる術を無くしてしまった現代の日本の教育に必要な、健全なる哲学である。
その毒は、無難に収まろうとする人生に疑問を投げかけ、奇人変人と呼ばれようが異端児と言われようが、自分というかけがえのない個性に誇りを持って生きるための一つの道標となるだろう』

そう、その通りだと僕も思う。まさに今、「普通」では生きられない時代に突入しているように僕には感じられる。しかし、今の親世代は、子どもに「普通」を与える以外の教育が出来ないだろう。自分たちが、「世間から外れない普通の生き方をしていれば普通の幸せを手に入れられる」という価値観の中で育ってきたからだ。しかし、時代は変わった。あらゆる意味で生きにくい時代になった今、「普通」からどれだけはみ出せるかで人生が大きく変わっていく、そんな時代になっているのだと思う。そういう時代の変化を捉え、これからの世界を生きていく子どもたちに何を教えるべきなのか。それを本書から学ぶことが出来るのではないかと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、著者が自身の父親とのエピソードを書いた「小説」だ。「小説」とカッコで括ったのには理由がある。

『この物語は事実に基づいたフィクションである。フィクションを取り入れたのは、実際には父が酒を飲んだ時以外はあまりに無口だったため物語としては成立しそうにもないからだ。だから実在する岡根徹和の価値観と精神を引き継いだ「岡根哲和」なる架空の登場人物から、本人に代わって大いに教育という観点から物申してもらおう』

だそうである。ちなみに本書には「良樹」という人物が出て来るが、恐らくこれが著者である岡根芳樹氏だろうと思う。フィクションだということで、著者自身も別名で登場する。

本書は冒頭で、

『この物語はそんな「変」な父のでたらめで型破りな子育ての物語である』

と書かれている。まさにその通り、本書で描かれる父親は、ちょっとぶっ飛び過ぎている。
父親のぶっ飛んだ話として、本書の中で最もインパクトがあるのが、良樹が仲間と共にアルバイト先のファミレスに深夜忍び込み食べ物などを勝手に食べていたことがバレた時の話だ。父親は良樹と共に店まで行った。誰もが謝るものだと思ったはずだが、その予想は大きく外れた。父親は、こう言ってのけたのだ。

『お前が経営者か、俺の息子が何したか知らんが、警察に通報して退学でも何でも勝手にしろ!その代わりええか、未成年を夜十時行こう働かせた罪で訴えてこの店潰してやる!』

著者自身、『もちろん百パーセント良樹が悪く、哲和の言っていることは屁理屈であり、社会的にも決して許されることではないだろう』と書いている。そりゃそうだ。ただ、良樹はこの父親の姿を見て、『この人は、社会的とか世間体とかどうでもいいのだ。善も悪も損も得も関係ない。この人は、ただ命懸けで家族を守ろうとしているのだ』と感じ、さらに、『その哲和の強い思いに完全に打ちのめされ、良樹は自分のやった愚かな行動を心から強烈に反省した』と書いている。

こんな風に、この父親の言動は、決して手放しで褒められるようなものではない。しかし、父親の価値観を支えるベースとなる考え方は、厳しい子供時代をなんとか独力で乗り越えてきた父親ならではのシンプルで力強いものであり、完全に同じように子育てするのは無理にせよ、取り入れることが出来る部分はあるのではないかと思う。

僕は結婚するつもりがないが、もし自分に子どもが出来たら、この父親と同じようにしようと思っていることがある。それが、

『子どもを子ども扱いしていないということだ』

という父親のスタンスである。これは、子育てする上で一番重要なスタンスなのではないかと僕は考えている。子どもを一個の人格と認め、「子どもだから甘やかす」「子どもだから怒る」というのではなく、他の大人にするのと同じ判断基準によって子どもへの態度を決めるというのは、とても大事だと思うのだ。

また、

『岡根哲和は、まったく子どもに無関心な男である』

というのも示唆に富むスタンスだ。

『少なくとも関心を持たれなかった岡根家の子どもたちは、変なプレッシャーを受けることもなく、親の被害者になることもなく、のびのびと真直ぐに育つのであった』

『子どもに期待しない』

『親の期待に応えるために人生があるんじゃない』

哲和は、実際には子どもに無関心なわけではない。本書でも、それを示唆するエピソードが載っている。ただ彼は、意識的に関心を持たないようにしていた。自分が関心を持つことで、子どもが進むべき方向性に影響を与えてしまうからだ。それを何よりも恐れていたのだろう。だからこその、無関心なのだ。

また、これは子どもの頃に誰かに教わりたかったと感じたことがある。

『せやから人間の心には、光も大事やけど同じように闇も必要なんや』

これは、僕は本当にもっと早く知りたかったと思う。確かに、その通りなのだ。今ならそのことがよく分かる。でも僕は子どもの頃は、闇を抱えながら、それは捨てたり手放したりしなければならないものなのだ、と思っていた。自分のマイナスな部分を、ダメだと感じてしまっていた。それで、無用な苦しみを抱えることになった。今では本当に思う。人間には、闇が必要なのだ、と。闇だけでは人生は成り立たないが、同時に、光だけでも人生はうまくいかないのだ。

『そんなクジラのようにや、ある時期は好きなだけ引きこもっとってもええやないか。いや、むしろそんな時間が誰にでも必要なんちゃうか。
無理に急いで闇から引きずり出すよりも、闇の中の面白さやら、遊び方やら、光の世界に戻ってくる方法やら、そんなことを子どもに教えてやることの方が重要なんちゃうか』

あぁ、本当にその通りだと思う。特に、「光の世界に戻ってくる方法」を教えるべき、という話には物凄く頷いてしまった。自分が闇に囚われている時、そこから出られるのかどうか、僕はずっと不安だった。光と闇は行き来できるんだ、片道切符ではないんだ、ということを教えてくれる大人がいたら、もっと楽に生きることが出来たのではないかと思う。

他にも、

『ええか、人間は好きなことばかりやっとったらあかん。』

『ええか良樹。勉強でもスポーツでも何かを成し遂げるためにはやな、やせ我慢が必要やぞ。自己責任において何かを犠牲にすることが交換条件ちゅうことや』

『そうやない。(本は)わかるために読むんやない。わからんようになるために読むんや』

など、含蓄に富んだメッセージが次々に放たれていく。今の僕は、これらの考え方をすんなり受け入れることが出来る。でも、子どもの頃、誰かからこういう意見だけを聞いて、「はいそうですね」と言って受け入れることが出来たかどうかは分からない。しかし岡根家では、父が口で言うばかりではなく、態度や行動や環境などによって、口で言ったことが実行されるような状況を可能な限り作り上げている。そこが凄いところだ。例えば岡根家は、つっかい棒が必要なほどのボロ屋だったそうだが、

『しかしそんなハイオク同然の岡根家の茶の間の薄汚れた壁には、カレンダーや画集を切り取ったものではあったが、ゴッホやシャガールやモディリアーニといった有名画家の作品が飾られ、ちょっとした美術館のようであり、いくつもの本棚には百科事典や図鑑や、少年探偵団シリーズ、怪盗ルパンシリーズ、芥川龍之介、夏目漱石、遠藤周作から世界名作分学習、さらにはドストエフスキーやニーチェに至るまで揃っていて、さならが小民間の図書室のようだった。
またステレオの棚んはクラシックやシャンソンやポルトガル民謡やフォルクローレのレコードがずらりと並んでいたり、おまけになぜか顕微鏡や天体望遠鏡まであり、さらには中古だがピアノまであった。
ピアノはいらないから、せめてつっかい棒がない家に住んだ方がいいのではないかと思うのだが、すべて主である哲和の「必需品より嗜好品を優先させる」というこだわりだった』

というように、ある意味では充実した環境を整えていた。父親の凄い点はまさにここで、決して言うだけではなく、それが実行できる状況を作り上げる点にある。それには相当の覚悟と努力が必要となるだろうが、うまく行けば子どもたちに最高の教育を与えることが出来るだろう。

そんな哲和の妻はどうかと言えば、こちらもなかなかぶっ飛んでいる。さすが、哲和と結婚するような女性である。一番好きなエピソードは、哲和が働いていた従兄の会社が倒産し、翌日差し押さえが来るという夜のことである。妻は、「家電まで取り上げられたらかなわん」と考え、一計を案じる。子どもたちにマジックを渡し(子どもたちは倒産のことなど何も知らない)、『今から落書き大会をやるよ!机でもテレビでも箪笥でも好きなだけ落書きしな!』と言ったのだ。これによって、倒産による陰鬱な時間となるはずだった夜は、子どもたちにとってとても印象深い楽しい夜になった。この夫にしてこの妻、という感じである。

本書は、自分の考えなしにただ形だけ真似しても火傷するような、ある種危険な子育ての考え方が描かれている作品だ。しかし、こういう教育こそが、生きづらい世の中を生き抜く子どもを育てることになるのではないかと思う。哲和のように振る舞うことはとても困難だろうが、本書で描かれている考え方を理解した上で、取り入れられそうなものは取り入れてみてはどうだろうか。

岡根芳樹「オーマイ・ゴットファーザー」

土漠の花(月村了衛)

内容に入ろうと思います。
ソマリアでの海賊対処行動に従事するジブチの自衛隊活動拠点に、墜落したCMF(有志連合海上部隊)連絡ヘリの捜索救助要請が入った。活動拠点から70キロの距離だが、ジブチ・ソマリア・エチオピアの三国が至近に接する国境地帯だ。海上自衛隊と共に派遣海賊対処行動航空隊を構成する陸上自衛隊第1空挺団は、ただちに捜索救助隊を編成し、現場へと向かわせた。現場では状況から、3人の乗組員は全員死亡と判断、遺体の回収は明朝ということになった。三台の車輛内で仮眠を取り、翌日に備えることになった。
とそこへ、複数の足音が近付く音。こんな場所で、こんな時間に何が…。やがて、英語で助けを求める女性の声が届く。ビヨマール・カダン氏族のスルタン(氏族長)の娘アスキラ・エルミとその縁者の女性二人は、ワーズデーン小氏族に追われていると話、保護を求めてきた。吉松隊長は、彼女らを避難民として保護することを決めたが、すぐさま襲撃を受け、多数の仲間が命を落とした。僥倖もあり、アスキラと共にその場を逃げ出すことが出来たものは、必死に走った。どうにか敵の追尾をまくことが出来たが、ここはソマリアだ。このままではどうにもならない。なんとか活動拠点まで戻らねば…。
<未だかつて戦ったことのない軍隊>である自衛隊が、ソマリアの氏族間の抗争に巻き込まれ、甚大な被害を負いながらも、不屈の精神で帰還を目指す物語。
というような話です。

これはスケールの大きな作品だったなぁ。実に面白い作品だった。戦闘シーンなんかは正直理解できない部分も多くて、その辺りはちょっと厳しいなと思ったけど、ストーリーが面白いので読まされてしまいました。

本書の読みどころは、とにかく、どう考えてもその状況はもうクリア出来ないでしょう、という状況を、多少の運もありながら、なんとか潜り抜けていく、という展開です。救助活動をするはずだった地点から逃げた彼らにどんな試練が待ち構えているのかは、ここで書いてしまうと面白くないので伏せるのだけど、次から次へとやってくる困難にどうにか立ち向かっていく姿は非常に読ませる。

本書で描かれる困難さの一つは、彼らが自衛隊である、という部分が関わっている。

『我々の任務は海賊対処行動であり、遭難機の捜索救助です。未承認国家の小氏族とは家、他国の紛争に介入することは許されていないはずです』

『我々に許されているのはジブチ国内の拠点警衛任務のみだ。それは海賊対処法でも明記されている。勝手に国境を超えるなど問題外だ。』

ここで、自衛隊の存在の是非なんかについてあーだこーだ書くつもりはない。色々思う所はないではないが、ここでは止めておこう。

代わりに、昔読んだ「アフガン、たった一人の生還」という本について触れよう。この本は、世界最強とも謳われる<米国海軍SEAL部隊>に所属する4人が、アフガニスタンでの作戦従事中にタリバンの兵士に襲われ、4人対数百人という壮絶な死闘の末、内1人だけがアメリカに生きて帰ることが出来た実話だ。

この本では、<交戦規則>というものが繰り返し描かれる。これは、「民間人は殺してはいけない」というアメリカ軍が定めたルールだ。彼ら4人は、一人の羊飼いを見逃したために、数百人のタリバン兵に襲われることになった。羊飼いは民間人だ。しかし彼らは、この羊飼いを見逃せば、羊飼いから話が漏れ自分たちが窮地に陥ることが分かっていた。しかし、<交戦規則>に縛られ、彼らは羊飼いを殺すことができなかった。そのために、世界最強のSEAL隊員の内3名が命を落とすことになったのだ。

そもそも「戦争」というものがいけないのだ、という意見は当然だと思う。しかし、人間の歴史を振り返って見た時に、世界のどこにも戦争がなかった時代の方が珍しいのだ。であれば、ルールに則って戦争をすべし、という発想になるのはやむを得ないことなのだろう。しかし、ルールというのは、現場感覚と基本的にはズレる。国際的に非難されないためにルールに則って戦争を行うのだが、しかしそれによってルールを守る者の命を危うくする。しかし、そのルールを破れば、国際的に非難される。その歪を、現場が丸ごと背負わされているのだ。

これは、自衛隊にしても同じだろう、と感じる。ルールを守らなければならないのは分かる。しかし、ルール通りにやれば自分たちの命さえ危うくなる状況など、戦場では山ほどあるだろう。そうなった時、どう行動すべきなのか。法律や規則は教えてくれない。あくまでも現場で判断し、現場の責任で動かなければならないのだ。その窮屈さは半端なものではないだろうと感じる。その辺りのしがらみも感じながら読んでみるといい。

本書の巻末に参考文献として挙げられているが、僕は以前「謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア」という本を読んだことがある。国家として国際的には認められていない「ソマリランド」に入っていき、その驚異的な国家(ではないのだが)運営を調べ尽くす本なのだが、この本を読んでいたから、ソマリアという遠く離れたアフリカの国にはなんとなく親しみがあった。いくつもの「氏族」と呼ばれるグループが群雄割拠する、まさに日本の戦国時代のような国だったりするのだが、その一方で、長老同士の話し合いによってありとあらゆる紛争が解決されてきた歴史を持つ国でもあり、ソマリランドを取材した高野秀行は、「これこそ究極の民主主義なのではないか」というようなことを書いていたような記憶がある。どちらから読んでもいいが、「土漠の花」を読んでソマリランドに興味を持った方は読んでみても良いと思う。ノンフィクションとしてべらぼうに面白い作品だ。本書の背景には、先進国がアフリカなどの発展途上国を蹂躙し、そこに住む者たちを混乱に陥れている現実が横たわっている。先進国に生きる人間として、ここで描かれている悲劇は、決して無関係ではないのだ。

本書は、物語としてはひたすら逃げて闘ってという話なのだが、その中で、自衛隊員同士の軋轢みたいなものも描かれていく。こちらも、本書の読みどころの一つと言えるだろう。

様々な人間に視点が切り替わる形で物語が進んでいくが、それぞれが生死を分かつような危機的状況にいながら、同時に、個人的な問題や葛藤と闘っている。生き抜くためには、生き残った者たちで力を合わせなければならないが、なかなか難しい。

友永芳彦曹長は、同い年で同じ階級の新開譲曹長に、自分でも言語化出来ないようなわだかまりを覚えている。優れた曹(下士官)を養成するための教育機関である工科学校をトップに近い成績で卒業した新開に対する僻みみたいなものがある。しかし、決してそれだけではない。ジブチ市街で物売りに対して「貧乏人が」と吐き捨てるように呟いた新開の姿を蘇らせる。他の言動も、友永にはどうにも許容出来ないものがある。吉松隊長亡き後、隊の指揮は友永か新開のどちらかが取らねばならないが、自信満々な新開に対して、臆してしまう部分のある友永は、新開のように振る舞えない自分の嫌気が差す部分もある。

友永は、由利和馬1曹と梶谷伸次郎士長の間にわだかまりがあることに気付いている。由利は、生涯安定していると言われる警務隊を自ら途中で辞め、第1空挺団にやってきた変わり者だ。何があったかは知らないが、口数は少なく、周りと打ち解ける雰囲気は感じられなかった。梶谷は機械全般に対する知識が豊富で、状況判断に長けている。この二人に一体何があったというのだろうか。

津久田宗一2曹は、射撃の上級検定で準特級という、警衛隊の中でもトップクラスの射撃の名手として知られていたが、いざ戦場に立つと、銃をまったく撃つことが出来なかった。空挺は活動拠点の警護と管理のために派遣されているだけであり、海賊との戦闘が想定されている海自とは違って、戦闘は想定外だ。しかしそれでも多くの者は、自分の身を守るため、あるいは仲間の身を守るために引き金を引いた。しかし津久田は出来なかった。自分が殺人者になることが、耐えられなかったのだ。津久田が撃っていれば仲間を救うことが出来たはずの場面がある。津久田は、そういう状況でも撃つことが出来ず、自責の念にも駆られる。津久田は、この戦闘中ひたすら自分自身と闘うことになる。

朝比奈満雄1曹や一ノ瀬浩太1士は、これまで挙げた者ほどの葛藤を抱くことはないが、彼らと共に逃げるアスキラの扱いをどうするかは、常に大きな問題だった。アスキラは早い段階で、彼らに隠し事をしていたことが明らかになってしまう。アスキラを信用しても良いのか…そういう葛藤は、隊の面々の中にしこりのようにずっと残っていた。何せ、すべての災厄を引き連れてきた、と言っていいのはアスキラだ。アスキラだって襲撃されて逃げてきた身であり、災厄などと呼ぶべきではないが、しかし彼らの仲間が無残に殺されたのはやはりアスキラがやってきたからだ。その中で、人間としてアスキラを救うべきだという気持ちと、規則として、あるいは自分たち隊員が生き残る確率を高めるためにアスキラを手放してしまいたいという気持ちとで揺れることになる。

こういう様々な思惑が絡み合って、彼らの物語は進んでいく。ソマリアという異国の地で、ほとんど武器を持ち出せずに逃げ出した彼らの決死の闘い、そして戦闘に従事する中で変化していく彼らの人間関係。それらが実にうまく入り混じり、極上のエンターテインメント小説に仕上がっていると感じました。

月村了衛「土漠の花」

鏡の迷宮(E・O・キロヴィッツ)

内容に入ろうと思います。
物語は、三部構成になっている。その内、第一部と、第二部の冒頭だけを紹介しようと思う。
ブロンソン&マターズ社の文芸エージェントを務めるピーター・カッツは、ある日メールの中から、興味深い原稿を発見した。リチャード・フリンという名の男からのもので、その小説は、自分が過去に経験したとある事件の真相に関わるものであるらしい。
1987年に、全米が注目したある殺人事件が起こった。ジョーゼフ・ウィーダーという、プリンストン大学の中でも特に著名な教授が殺害されたのだ。犯罪者の精神鑑定も行う人物であり、恨みを覚えた犯罪者による報復かとも考えられたが、結局犯人が分からないまま迷宮入りした事件だ。フリンという男は、まさにウィーダーが殺される直前まで、彼の蔵書整理を手伝っていたようで、ローラ・ベインズという女性を含めた3人の当時の出来事を、3ヶ月前にあったとある出来事をきっかけにして次々と思い出したために、こうして物語にしたのだ、という。彼は、物語の冒頭だけをカッツに送った。残りはいつでも送付できる、とメールには記されていた。
1987年、フリンはローラという女性と唐突に同居することになった。ローラは、ウィーダーと研究を通じた繋がりがあるようで、フリンのことを紹介したいという。そんな風にフリンは、ローラとウィーダーと知り合うことになった。やがてフリンはローラと恋仲になっていき、またウィーダーの蔵書整理を手伝うことになった。時に彼らは一緒に食事をし、学術的な話やそうでない話をした。ウィーダーは、デレク・シモンズという元患者を手伝いとして雇っていた。デレクの珍しい症例も、彼らの会話の端に上ることがあった。
そんなある日、ウィーダーが死体となって発見された。明らかに、誰かに殴り殺されていた。デレクやフリンは、容疑者として疑われた。ローラは、ウィーダーが殺された翌朝、さよならも告げずにフリンの元を去った。
原稿を読んだカッツは、フリンと連絡を取ろうとしたが、果たせなかった。その理由は、フリンの住所を訪ねてみて分かった。オルセンと名乗ったフリンの妻は、五日前にフリンが死んだことをカッツに告げた。カッツは彼女に、原稿の残りの在り処を知らないかと訪ねたが、知らないという返答だった。
そこでカッツは、この原稿を世に出す可能性を追求するために、友人であるジョン・ケラーに連絡を取った。カッツは、売れない作家であるジョンにフリンの原稿を渡した上で、ウィーダー殺害事件について調べるように言った。そして、フリンが見つからない原稿の中で書いただろう結末を推理し、未完原稿を完成させろ、と…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。
設定がなかなか魅力的だと思います。とある原稿があり、その中には20年前の殺人事件の真相が書かれている、と謳われている。しかし存在する原稿は冒頭部分だけであり、書いた本人は死亡、あるはずの残りの原稿は見つからない。じゃあ、推理して見つからない部分を埋めよう、というのが本書の大きな枠組みである。これは、なかなか読み手を惹きつける魅力を持った設定だなと思いました。

普通に考えれば、20年も前の未解決事件の謎を解き明かすなんて不可能である。確かに、登場人物たちはそれを目指して行動するのだけど、この物語の面白さは、その調査の過程そのものではない、と僕は思う。この物語がどう閉じるのか、それはもちろん読んでもらうとして、どう閉じるかが物語の核ではないのだ、と思う。そうではなくて、何故多くの人間がこの謎に惹かれてしまうのか、という部分に面白さがあるように思う。

ウィーダー殺害事件は、こういう表現は適切ではないかもしれないが、20年前に刑事としてこの事件を普通に捜査している立場としては、さほど面白みのある事件とは言えないだろうと思う。犯人こそ分からなかったものの、大きな謎があるわけでも、不可思議な状況にあるわけでもない。よくある、と言ったら語弊があるだろうが、よくある殺人事件だ。被害者がとても有名だった、という点を除けば。

しかし、フリンの原稿に端を発し、ウィーダー殺害事件を調べ始める人間は、20年経ち、またフリンの原稿をスタート地点にしているが故の強い関心を持つことになる。20年の時が経過しているということは、当事者たちの記憶も曖昧になっていておかしくはない、ということだ。また、フリンの原稿を調査のスタートにしているということは、「フリンはどこまで本当のことを書いているのか」という疑念を常に念頭に置きながら調べを進めていかなくてはいかなくなる。フリンの原稿と矛盾する証言があった場合、証言者が嘘をついている、とは単純に判断出来ない。フリンが嘘をついていたり、覚え間違っていたりすることもあるだろう。また、フリンの原稿に登場するローラやウィーダーが、一筋縄ではいかないキャラクターであることも、捜査を難しくする。彼らがどんな人物であり、どんな行動原理で動いていたのか、というところまできちんと精査しなければ、当時の真相にはたどり着けないだろう。

そして、それだけ入念な調査をしたところで、辿り着いた結論が真実であると判断できる可能性は非常に低いのだ。直接的な関係者は、既に死んでいるか、事件に深く関わっていると疑われる人物だ。つまり、死人に口なしか、本当のことを言うとは限らない人物しかいない。どれだけ筋の通った推理であっても、それが真実であるかを確かめる術はない。

そういう状況であるにも関わらず、ウィーダー殺害事件にのめり込んでしまう人間がいる。この事件にはそういう魅力があるのだ、ということが、読んでいるとなんとなく感じられるようになってくる。あの時、一体誰が何をしたのか。そういう関心は最後まで持続しつつ、何故か、この事件を追う者たちの情熱みたいなものに面白さを感じるようになっていくような気がする。

とはいえ、凄く面白かったのかというと、そういうわけでもない。これは趣味の問題だけど、描写がくどいなと感じられる部分が多々あった。恐らく、文化の違いもあるだろう。小説の描写に求めるものが日本人と違うように思えることがある。そもそも外国人作家の作品はあまり得意ではない、というのも、きっとそういう側面があるはずだ。外国人作家全般の特徴かどうかは、僕自身があまり読まないので分からないが、本書には、僕にとってはさほど興味のない余計な描写が多いような気がした。とはいえ、まあこれは好みの問題だろう。

まったく同じ設定の物語を、例えば京極夏彦や森博嗣が書いてくれたりしたら、たぶんずっとずっと好きな物語になっただろう、と思う。そういう意味では残念だったなという感じはする。物語自体は、なかなか魅力的だと思う。

E・O・キロヴィッツ「鏡の迷宮」

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Author:通りすがり
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著者名で記事を分けています

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乃木坂46関係の記事をまとめました
(「Nogizaka Journal」様に記事を掲載させていただいています)

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2014の短歌まとめ



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本をたくさん読みます。
映画もたまに見ます。
短歌をやってた時期もあります。
資格を取りまくったこともあります。
英語を勉強してます。













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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)