黒夜行

>>本の中身は(2017年)

秀吉の活(木下昌輝)

いやー!実に面白かった!

僕は、今の性格のまま自分が戦国時代に生まれたら、何も出来なかっただろうなぁ、と思う。何も目指すものがないからだ。

平時と乱世では、生き方はまったく変わってくる。平時ならば、慎重で野心がなく平凡な人間でも、それなりに役割はきちんとある。しかし、乱世であれば、そんな人間は碌に使えもしないだろう。僕はきっと、特に何をするでもなく死んだことだろう。今だって何かを成しているわけでは全然ないんだけど、でも、乱世に生まれなくて良かったと思う。

僕は歴史が苦手なので、元々歴史に対してはぼんやりとしたイメージしか持っていない。縄文時代は狩りだなとか、弥生時代は稲作だなとか、江戸時代は鎖国だな、みたいな。そういう意味で言うと、戦国時代は、イケイケの、今で言うマイルドヤンキーみたいな人たちが、イケイケな感じでやりあってた、という感じだ。織田信長は、まあそんな感じだろう。織田信長がマイルドヤンキーかどうかはともかくとして、イケイケのオラオラの感じだっただろう。もし戦国時代にSNSがあったとしても、きっと織田信長は使ってなかっただろうけど、周りにいる人が「信長様すげー」「信長様サイコー」みたいなツイートを日々するんじゃないかと思うような、なんかそんなイメージがある。いや、本書を読む限り、織田信長、人心掌握的に相当優秀っぽいけど。

豊臣秀吉が農民の出だ、ということはなんとなく知っていた。そこから天下統一を成し遂げたことがもちろん凄まじいことだ、ということももちろん分かっている。でも、じゃあその間がどうなっているのか、っていうのは、イマイチよく分からない。これは、歴史をちゃんと学んだ人はイメージ出来るもんなんだろうか?少なくとも、僕にはイメージできなかった。

本書は、そこを補完してくれる作品だ。

藤吉郎という、名字すらない農民が、いかにして天下統一を果たし、関白にまで成り上がったのか。本書ではその過程が活き活きと描かれていく。

本書を読んで凄いなと感じるのが、秀吉はその生涯を通じてほぼずっと「凡人」だった、ということだ。後半は策士的な一面も垣間見せるが、途中までは、力はない、武器も使えない、かといって算盤が出来るわけでもなく、農民の出のくせに畑仕事も碌に出来ない、という体たらくだった。

秀吉は、自身でもそのことを認識していた。だからある時、信長にこう問うた。

『おいらは何を極めればいいのですか』

それに対する信長の返答はさすがだ。

『貴様には、何の才もない』

これだけで終わってしまえばただの悪口だが、ちゃんとこの後も続く。それはここでは書かないことにするが、なるほど、さすが人の扱いに長けた男だ、と思わされる、信長の人心掌握術である。

秀吉は、とにかくひたすら凡人だった。とはいえ、ちゃんと持っているものもあった。それが、上に行こうとする意欲である。

印象的な場面がある。手柄が欲しいと信長に直訴した秀吉は、何の説明もなくある場所へ行くように言われた。そこで始まったのが、ある城を攻め落とす作戦会議だ。しかし秀吉は城攻めなどしたことがない。そもそも、城の各所の名称すら分からないのだから話にならない。なので、隅っこで黙っていろ、と言われて当然なのだが、そこで秀吉はこう返す。

『いやです。おいらも役に立ちたいです。隅っこで話聞いてるだけじゃ、手柄は立てられません』

この辺りが秀吉の面白いところだ。自分には特に出来ることはない、という認識はきちんとある。あるのだが、しかしそれでも手柄は欲しい。何かやってやるぞ、という気持ちはある。その気持ちが、最終的に秀吉を頂点にまで押し上げたのかもしれない。

「秀吉の活」というタイトルの「活」とは、「活きる」の「活」である。

『生きると活きるは、全く違う。たくさん考えて、他人に気配りして、一生懸命働くのが、活きるということだ』

秀吉のこの言葉は、随所に発揮される。秀吉は、自分が手柄を立ててやる、という気持ちを強く持つ一方で、他人を思いやる気持ちを持っている。誰かを犠牲にしてまで何事かを成したくはない、という気持ちを持っている。この気持ちもまた、物語全体を面白くする要素だ。決して自分だけのために突き進んでいかない、という姿に、共感させられてしまうのである。

自分が「活きる」だけではなく、他人をどう「活かす」かまで考える―。秀吉の振る舞いは、信長とはまた違った意味で、現在でも意味を持つような人心掌握術ではないかと思う。

内容に入ろうと思います。
とはいえ、今回は内容紹介はほとんどしません。歴史の知識がないので正確に書けない、ということもありますが、「農民・藤吉郎が、関白・豊臣秀吉になるまでの生涯を描く」という要約以外にやりようがない、ということもあります。
とはいえ、内容を少しはイメージしやすくするために、各章題だけ抜き出してみます。

天下人の就活
天下人の婚活
天下人の昇活
天下人の凡活
天下人の勤活
天下人の転活
天下人の天活
天下人の朝活
天下人の妊活
天下人の終活

こんな感じで「活」で統一されています。
「就活」では、農民出の藤吉郎がいかに侍になるかが、「婚活」では寧々とどう再会し結婚に至ったのかが、「昇活」では秀吉の指示を聞かない足軽たちを従わせる成果をいかに戦場で掴むかが、「凡活」では平凡な自分の非凡さをどこに見出すかが、「勤活」では侍を辞めようとした秀吉を信長の勤勉な下僕へと戻らせたきっかけが、「転活」では侍を辞めた後の転職に思索を巡らせる様が、「天活」では織田信長に代わっていかに天下統一を成し遂げたかが、「朝活」では朝早くからどれだけ動けるかが勝負の公家の世界の話が、「妊活」では跡取りを儲けるまでに苦闘が、そして「終活」では自分が死んだ後のことをどうするかに思いを巡らせる様が描かれていきます。

まず本書は、圧倒的に読みやすいです。僕はこの著者のデビュー作である「宇喜多の捨嫁」という作品を読んだことがあります。内容はもの凄く面白かったんですけど、歴史が不得意な僕には読みにくい部分も結構ありました。

本書は、歴史のことなんてまったく分からない僕でもスイスイ読めてしまうぐらい読みやすかったです。ビックリしました。作中に出てくる登場人物たちは、教科書なんかで字面ぐらいは見たことがありますけど、何をした人なのかほとんど分かりません。前田利家とか、黒田官兵衛とか、石田三成とか色々出てくるんですけど、僕にはさっぱり。それでも、全然読めてしまう。この読みやすさは、本当に魅力だと思います。僕は元々理系で、ホントに歴史がまったく分からないんですけど、そんな僕がこれだけスイスイ読めるんだから、誰でも読めちゃうと思います。

また、全体的な雰囲気がコミカルな感じです。いや、そう書くと語弊があるかな。先程話に挙げた「宇喜多の捨嫁」が結構クールな感じの作品で、それと対比してしまう部分もあると思います。とにかく本書は、秀吉を滑稽に描き出すことで親しみやすさも読みやすさも演出していると思います。また織田信長がかなりかっこよく描かれているんで、その対比もあって、余計に秀吉がへなちょこに見えてくるという部分もあります。

500ページ以上あるなかなかの大著なんですけど、そんな長さを全然感じさせないような作品でした。ホントに、一気読み!って感じでした。

好きな描写は多々あるんだけど、やっぱり寧々と前田利家に関わる部分では良いシーンが多かったなぁ。

寧々は、秀吉を尻に敷くような勢いであれこれ口を出す女なんだけど、でも芯がちゃんとあってしっかりしている。寧々と秀吉とはかなり幼い頃から関わりがあったんだけど、本当にそこから結婚に至るまでは色んなことがあって、この二人の結婚までの話はなかなか波乱万丈です。寧々のような女性はいいなぁ。

前田利家との話も実に良かったです。秀吉と前田利家も古くからの付き合いで、悪友と呼んでいいような関係です。秀吉の人生の随所随所で関わりを持ってくる男で、その度に色んなことが起こるんだけど、やっぱり一番好きな場面は、天下統一を成す直前のある戦における二人の関係ですね。これは良い。本書全体の中で一番好きな場面です。秀吉と前田利家の関係性の集大成がここにあるという感じで、見事でした。秀吉、前田利家、双方がどういう判断をし、二人の関係性がどうなったのかについては、是非本書を読んで欲しいと思います。

実に見事な作品でした。一気読みです!

木下昌輝「秀吉の活」

構造素子(樋口恭介)

昔、こんなことを考えたことがある。

科学の研究などで、細菌や微生物を実験対象とするということはあるだろう。細菌や微生物に対して、薬品を振りかけたり真空状態に置いたりと、様々なことをやって反応を見るような実験は想定できる。

さて、ここでこんな想像をしてみる。もしも細菌や微生物に「意識」があったら、その実験はどういう風に感じられるか、と。「意識」の定義は難しいが、なんとなく、人間と同じようなものを想像してほしい。

そういう想像をした場合、彼らにとって薬品を振りかけられたり真空状態に置かれたりすることは、僕ら人間にとっての「自然災害」のようなものではないか、と思うのだ。自分たちの意志とは関係ないところで、周囲の環境から暴力的にやってくる変化、という意味で、それほど遠いイメージではないと思っている。

さて、ここでさらに想像してみる。ならば、僕らが「災害」だと思っている現象も、実はさらに上位の世界の者たちによる何らかの「実験」なのではないか、と。もちろんこれは、永遠に証明することが出来ないただの空想ではあるが、可能性という意味では否定し切ることは難しいだろう。山も川も雲も太陽もすべて人工物…ではなくて<上位の存在>工物であり、それらが一定の条件下で作動することでその中で生きる人類に対する負荷を長い時間を掛けて観察しているのかもしれない―そういう想像も、可能だ。

そしてこの発想には、世界には「階層構造」があり、自分たちが住む世界に対して上位・下位の世界を想定することが出来る、ということでもある。

本書はその階層構造を、「物語」を扱うことで生み出している。

僕らが生きているこの世界には、「物語」を書く人間が多くいる。そうやって生み出された「物語」は一つの世界であり、僕らよりも一つ下位の世界では「現実」そのものとして振る舞う。さらに、僕らの世界の作家が生みだした「物語」の中にも「物語」を生み出す登場人物がおり、その人物が生み出す「物語」はさらに下位の「現実」として存在する。

そしてそれはつまり、僕たちが生きているこの「現実」も、より上位の世界の誰かが生みだした「物語」なのではないか、と想像出来ることになる。

そうだとしても、僕たちの生活は特に何も変わらない。僕らは、僕らの自由意志によって行動していると思っているが、実際にはそれは上位の世界の小説家(あるいは小説家に限らない)が生みだした行動要請なのかもしれない。しかし、仮にそうだとしても、僕たちが僕たち自身で、自由意志によって行動していると思えるのであれば何も問題はない。

僕たちは、殺人や大災害や貧困などの世界を、様々な物語の形で描くことが出来る。そうやって生み出された物語は、下位の世界では「現実」そのものとなり、恐らくそこで生きる人々は苦しみを味わうことだろう。しかし僕らは、それらの苦しみを「物語」として受け取ることはあっても、それを「現実」だと認識することはない。それらは僕らにとっては「現実」の苦しみではない。

科学の世界には、「オッカムの剃刀」という考え方がある。これは、科学理論は、目の前の物事を可能な限りシンプルに表現できるものであるはずだ、という考え方だ。例えば「雨が降る」という現象は、雲や大気や重力などによって説明できる。しかしそれを、「3億五千万年前に地球にやってきた宇宙人が遺した、地球上には本来存在しなかった化合物があり、それらは空気よりも軽いため常に大気圏に留まっている。そしてそれらが空気中の窒素とある一定の条件下で反応することで雨が発生する」みたいな説明をすることも(もちろん出来ないのだが)出来るかもしれない。しかしこれは、雲や大気や重力をベースとする説明よりも冗長だ。だから恐らくこれは間違っているだろう、というような判断の根拠として「オッカムの剃刀」は用いられることがある。

物語が階層化している、という世界の捉え方も同じだ。世界を冗長に捉えようとする試みであり、正しくない可能性の方が高い。しかし、可能性や希望を抱くことは、誰にとっても自由だ。

内容に入ろうと思います。
が、僕には難しすぎて本書の内容はとてもじゃないけど説明できないので、なんとなく分かった気になっている部分だけざっと書いてみます。

物語は、エドガーの父・ダニエルが死ぬところから始まる。エドガーは母・ラブレスから、父が遺したという小説の草稿を受け取る。そこでは、ダニエルとラブレスが「オートリックス・ポイント・システム」と呼ばれるシステムを開発した。言葉で記述することで世界を生み出す仕組みだ。エドガー001と名付けられたそのシステムは、大量の物語を生み出し、それらは「エドガー・シリーズ」と呼ばれた。しかしやがてある出来事が起こり、人類は絶滅してしまう。
人類が絶滅した後も、エドガー001は残り、誰もいなくなった惑星で一人物語を生み出し続ける。そして、有機体を持たないそれらの「エドガー・シリーズ」は、第二の人類の自らを称することになる。
一方で、オートリックス・ポイント・システムは、その内部に、その内部にはあり得ないはずの記憶をベースとした構造素子が生まれていることに気づく。それは、ディファランス・エンジンという、オートリックス・ポイント・システムとはまったく違う仕組みによって社会が成り立っている世界であり、エドガー001の流れを汲むウィリアム・ウィルソン004はそんな構造素子をバグと決めつけて排除しようとするが…。
というような話…かどうかは分かりませんが、僕がなんとなく理解したところだとこんな感じです。

新人のデビュー作らしいが、いやはや、ちょっとこれは僕にはハードルが高すぎた。使われている用語が、恐らくコンピュータやプログラミングの世界で使われているものをベースにしていて、基本的にそっちの方面に疎い僕には、使われている用語からしてちょっと理解の上限を越えた、という感じだった。なんとなく、どういう設定の物語なのかは漠然と分かったつもりではある。僕が理解できたことは、さっき書いたみたいな、「作中作やさらにその作中作というのは、世界を生み出すための構造なのだ」というような漠然とした理解で、とりあえず、「言葉で物語を生み出すことで世界を現出させる」という考えが基本にあることは分かったつもり。しかしそれ以上の理解は、僕には出来なかったなぁ。

つまらなかったわけではありません。基本的に全然理解できないながらも、ところどころ面白い記述があったし、ところどころ面白い場面があった。とはいえ、やはり僕にはちょっと歯が立たない作品だった。たぶん、プログラマーとか、あるいはコンピュータのシステムとか構造とか、そういうのを仕事にしている人であれば、本書で使われている用語や概念を恐らくすんなり理解できるでしょうから、そういう人には凄く面白く読める作品かもしれない、と思います。そうじゃない人には、とにかく用語と概念を理解するハードルがとにかく高い小説だと言っておきます。

樋口恭介「構造素子」

彼方の友へ(伊吹有喜)

戦争、という言葉を使うと、一気に遠くなる。
砲弾の衝撃とか、銃声のやかましさとか、血の匂いとか、死体の惨たらしさとか…そういうものを、僕たちは知らない。戦争という言葉を使ってしまうと、だから一気に、遠い世界の出来事に思えてしまう。そこに、リアルを感じることが出来なくなる。

戦争、という言葉を使うのを止めてみればいい。例えば、日常の喪失、ならどうだろうか?

色んな日常を生きている人がいる。辛い日常を生きている人もたくさんいるだろうけど、しかし辛いことしかない、という人はそう多くはないはずだ。子育てをしている人、youtubeをいつも見ている人、アイドルや野球球団を応援している人、花を育てている人、絵を描いている人、旅をしている人、恋をしている人…。戦争というのは結局のところ、そういう日常を失わせるものなのだ。そう考えると、一気に戦争が身近なものに思えてはこないだろうか?

僕らの日常は、実に不確かな足場の上に構築されている。それは、「今自分たちがいるこの場所は日常なのだ」という思い込みの集積でしかない。僕らの目の前に、まるで無限に続くかのように思える形で存在しているように思える日常というのは、あるいは、二枚の鏡の間に立っているだけのようなものかもしれない。ちょっと前後どちらかに進んだら、鏡にぶつかってそれ以上進めなくなってしまうような。

『(雑誌の付録の)小道具の外国趣味もほどほどに。現実から目をそむけて、叙情的なものに溺れるのは読者の心を脆弱にする』

『ねえ、間違っていてよ。あなた方の誰も、お父様やお兄様が戦地に行っていないの?恥ずかしいと思わなくって?自分の身を飾ることばかり考えて』

雑誌の付録か華美だろうが、自分の身を飾ろうが、今の世の中では問題ではない。日本が戦争に突入する前も、そうだった。しかし、戦争が始まると、人々の考え方が変わる。ちょっと前まで「日常」であったものが、はっきりとした変化の兆しに気づけ無いまま、いつの間にか「日常」から排斥する力が生まれてくるのだ。

『どれほど現実が冷たくとも、誌面を眺めるひとときだけは温かい夢を。
そうした思いが許されない時代が来たのかもしれない。』

あなたの日常の中で、これがあるから頑張れる、というものを思い浮かべて見てほしい。そして、あなたの原動力になっているそれについて、「今の時代では不謹慎だ」と言って奪われてしまうことを想像してみてほしい―。

その想像の中にこそ、僕は「戦争の本質」があるのだと思う。

『希望です。新しい靴や服がなくても、ひもじくても、そこに読み物や絵があれば、少しは気持ちもなぐさめられる。明日へ向かう元気もわいてきます。』

本書は、戦争の足音を聞きながら、少女に向けた雑誌を作り続けている人々の物語だ。雑誌や物語に関心を持つ人にはそれだけで興味深いだろう。しかし、本書をただそれだけの物語として捉えるのはあまりにも狭量だ。本書では、「少女向けの雑誌」は「日常を彩るもの」として描かれる。そしてその「日常を彩るもの」を生み出すのにどれだけの情熱を注いでいるか、また、「日常を彩るもの」がいかに奪われうるかということを描き出していくのだ。

『子どもから大人になるわずかな期間、美しい夢や理想の世界に心を遊ばせる。やがて清濁併せ呑まねばならぬ大人になったとき、その美しい思い出はどれほど心をなぐさめ、気持ちを支えることだろうか。そうした思いをもとにこの雑誌は続いてきたはずだ』

『「だけど僕らは切腹も殉死もしない。生き残ることを選ぶ。なぜならこの雑誌は少女、乙女の友だからだ。たとえ荒廃した大地に置かれようと、女性はそれに絶望して死にはしない。一粒の麦、一握の希望、わずかな希望でもそこに命脈がある限り…女たちはそれをはぐくみ、つなげていく。」
はいつくばろう、ぶざまであろうと、有賀がつぶやいた。
「未来へつなげていくことに光を見出す。それが女性たちの力だ。僕らは男だけれど、女性にはそうした力があることを今だから声を大にして伝えなければいけない。なぜなら彼女たちの声は今はあまりに小さく、あまりにか細い。この時代のなかで簡単に潰されてしまうから」』

「日常」は、いつだってあっさり奪われ得る。そのことを、僕たちは「日常」の中にいると忘れてしまう。本書は、「日常」は決して「当たり前」と同義ではないと意識させてくれる作品なのだ。

内容に入ろうと思います。

佐倉波津子は、本名は「ハツ」だが、その名前が嫌で自分で書く時は「佐倉波津子」と書く。今は老人施設で寝起きする日々だ。夢と現実のあわいで生きているような、何が現実で何が過去の出来事なのか区別がつかないような日々だ。
来客は断って欲しい、とお願いしているが、たまに誰かが来たことを報告してくれる。ある日佐倉は、「フローラ・ゲーム」の限定バージョンを受け取った。それがきっかけで、17歳の頃から自分の人生がパーっと思い出された。
昭和12年。かつて裕福だった佐倉家は、父が帰って来なくなったのを機に生活が厳しくなり、佐倉は進学を諦めた。椎名音楽学院の内弟子として働きながら、時々マダムに歌の稽古をつけてもらう日々だが、マダムは戦争が終わるまで関西の田舎にひきこもることにしたとかで、佐倉は行き場を失ってしまう。
辛い日々を支えてくれたのは、印刷所の息子であり幼馴染である春山慎が時々こっそりくれる、試し印刷をした少女雑誌「乙女の友」だ。画家の長谷川純司と、主筆である詩人である有賀憲一郎のコンビが大好きで、いつも心をときめかせている。
そんな佐倉は、ひょんなことから、大和之興行社で働くことになった。「乙女の友」を発行している雑誌社だ。なんと、主筆である有賀氏の下で働けるのだという。とはいえ、働き始めた佐倉は、自分がお荷物であることに日々気付かされる。少年の働き手が欲しかった有賀氏の思惑が外れ、佐倉は何を任されるでもなく、時々雑用を頼まれたりしながら、会社の端っこにいた。
それでも、憧れの有賀憲一郎と長谷川純司の近くにいられることは、佐倉の心をときめかせた。
戦争の気配が色濃くなっていき、社員や友人が徴兵されたり、連載を持っていた作家さんが突然逮捕され原稿を落としたりするようなことが起こるようになった。佐倉は、そういう状況の中で、少しずつ自分の存在意義を見出し、誌面づくりでも活躍できるようになっていく。
周りは皆女性も含めて大学出ばかりの職場で、小学校しか出ていない佐倉は常に引け目を感じていたが、モノ作りに真摯に取り組む人々の中で揉まれながら、佐倉は次第に強くなっていく…。
というような話です。

これは良い作品だったなぁ。戦争を背景にした作品でありながら、作品全体からとてもキラキラした雰囲気を感じる。少女雑誌という、戦時中においてはいの一番に「不要」と判断されそうなものを、全身全霊を以って作り続ける者たちの心意気が見事に描かれている作品で、何かを生み出し届けるという、あらゆる仕事において不可欠な事柄の大事さみたいなものを改めて実感させてくれる作品でした。

冒頭でも触れたように、本書は、砲弾や銃声はほとんど描かれないながらも、それでいて「戦争の悲惨さ」を如実に描き出す作品だな、と感じました。戦場や兵士たちを直接的に描くことによっても「戦争の悲惨さ」を描き出すことは出来る。しかしやはりそれは、どこか遠い世界の話に感じられてしまう。本書は、戦時下ではいかに「日常」がジワジワと奪われていくのか、ということが丁寧に描かれていく。誰もが、自分が正しいと思っている。平時であれば、複数の正しさは共存できるのだけど、戦時下においてはそれが不可能になる。戦時下では、人々の思考や価値観がある方向に自然と集約されていくし、その流れに逆らうことはたぶん出来ない。その怖さを、本書は描き出しているなと感じます。

とはいえ、こういう捉え方は読者次第だと言える。そんなことを考えなければ、純粋に美しいもの、心をときめかすものへの愛情に溢れたものたちのキラキラした日常を描いた作品として読むことが出来る(ラスト付近はどうしても戦争を意識せざるを得ないけど)。

自分たちが作っているものを待ってくれる人がいる。ネットのない時代、そう信じることはなかなか勇気がいることだろう。特に戦時下においては。雑誌を一冊買ったところで、お腹が膨れるわけでもなければ、明日の支払いの役に立つわけでもない。しかしそれでも、ある人達にとっては、この雑誌の存在がどうしても必要であり、だからこそ自分たちも作り続けるのだ―。これはもはや、信仰に近いものがある。しかし、信じる力が強ければ強いほど、それは事実となる。仮にその事実が、ごく狭い範囲でしか成り立たない事実であったとしても、その世界の中では紛れもない事実だ。そういうものを自分たちが生み出しているということの自負と責任を、彼らはきちんと意識している。そこにプロフェッショナルを感じるのだ。

佐倉は、かなり個性豊かな面々と共に働くことになる。有賀憲一郎と長谷川純司も、共にユーモラスで有能で尊敬に値する人物だが、他にもいる。科学をベースに空想小説を書く空井量太郎、憲一郎の従姉妹で編集部で働いている佐藤史絵里、有能だが少女雑誌にはさほど興味はない編集長の上里善啓、読者からの人気の高い「翻訳詩人」である霧島美蘭…。他にも多数いるが、そういう個性的な面々と一緒に雑誌作りをしている。そういう中にあって、佐倉には誇れるものはない。唯一あるとしたら、「乙女の友」をずっと好きで、敬愛と言っていいほど愛している、ということだ。その愛情の深さが、佐倉を悩ませもするし、前に進ませもする。仕事、という側面から見ても、本書は実に面白い。

人間関係もまた豊かだ。色恋は扱わない、という方針の「乙女の友」だが、雑誌作りに励む面々の間では様々な思いが交錯することになる。創作の熱意と恋心が入り混じり、本人でさえその境界を区別することが出来なくなっていく者たちの苦しさみたいなものが描かれていてとても良い。

『この雑誌の読者は、この雑誌を毎月買える裕福な家の子女だけかい?大人の庇護を受けている子女だけが友なのか。僕はそうは思わない。美しい物が好きならば、男も女も、年も身分も国籍も関係ない。』

こういう台詞に、羨ましさを感じる自分もいる。何故なら、この時代は、戦争という巨大なものが迫りつつあったが、同時に、良い物を作ればきちんと売れる時代でもあったからだ。だからこそ作り手は、いかにして良い物を作るか、という点だけに神経を注げば良かった(というのはまあ書きすぎかもしれないが)。本書においても、「いかに売るか」という議論は出てこない。「いかに良い物を作るか」が重要なのだ。

今の時代は、そうはいかない。どれだけ良い物であっても、売れないことはある。逆に、大したことがないものでも、ひょんなことから売れてしまうこともある。僕は日々、「いかに売るか」に汲々としている人間だ。何か物を生み出すような仕事をしているわけではないから、彼らと同列に論じるのは間違っているとは思う。しかしそれでも、不謹慎なのかもしれないが、ある意味で良い時代だったなと感じてしまうのだ。

本書の舞台となる「大和之興行社」のモデルは、本書の出版社である「実業之日本社」であるという。「乙女の友」という雑誌のモデルは、同社が出していた伝説の雑誌「少女の友」だという。本書で描かれていることが、どれだけ現実や時代の雰囲気を切り取ったものなのか、僕には判断が出来ない。しかし、「少女の友」を出版した出版社から本書が出る、ということから考えてみても、かなり当時の雰囲気を醸し出せている可能性は高いのではないかと思いたくなる。そうか、こういう時代が、本当にかつてあったのか、という嬉しさみたいなものが、湧き上がってくるような気がするのだ。

伊吹有喜「彼方の友へ」

開幕ベルは華やかに(有吉佐和子)

もの凄く面白かった!
期待値が低かった、ということもあるのかもしれないけど、いやはや、べらぼうに面白い。30年以上前、それこそ僕が生まれたのとほぼ同じ年に出版されたとは思えないほど古さを感じさせないし、演劇を舞台に脅迫電話から始まる事件を描いているのに、事件じゃないところが滅法面白いというのも凄い。有吉佐和子、凄いな。

内容に入ろうと思います。
推理作家の渡紳一郎は、うまく入眠できないという問題を長年抱えていた。今は、必要な量の薬を的確な時間に飲み、生活全体を穏やかにすることできちんと睡眠を確保できるサイクルを生み出している。しかし、そんなサイクルを邪魔する電話が掛かってきた。しかも、とんでもない電話だった。
元妻である小野寺ハルからの電話は、常軌を逸したものだった。演劇界にその名を馳せる加藤梅三という脚本家が、開幕を一ヶ月後に控えて降りてしまったという。その演劇は、川島芳子を主人公に据えたもので、松宝の看板である八重垣光子と中村勘十郎を東竹が借りて行う一大プロジェクトだった。しかし、脚本がないんじゃどうにもならない。そこで小野寺ハルにお鉢が回ってきた、ということらしい。それだけなら渡には何の関係もない話だ。しかしこの元妻は、依頼を引き受けるに当たって一つ条件を出したという。それが、演出は渡紳一郎でお願いします、というものだった。
かつて渡は演劇界にいた。しかし、あまりのストレスにより入眠できない日々が続き、二度と演劇界には戻らないと決意して、渡は推理作家へと転身したのだ。それをこの女はぶち壊しにしようとする…。
とはいえ、渡はその話を引き受けた。そして、すったもんだありながら、どうにか初日を迎えることが出来た。そのすったもんだの中には、渡の処女作に主演した花村紅子の死去も含まれている。舞台の幕が開く、まさにその前日に、花村紅粉の葬儀が行われるのだ。
初日から、関係者を慌てさせる色んなことが起こるも、観客は大喝采。連日超満員の大評判となった。帝劇側も、補助席を目一杯出して詰め込む作戦である。
そんなある日、帝劇の貴賓室の電話が鳴った。おかしい。この電話がなることなど、ほとんどないのだ。支配人の大島ですら、この番号を知らないほどだ。不審に思いながら出てみると、男の声で、「二億円用意しろ。でないと大詰めで女優を殺す」と言われる。なんてことだ、今日はただでさえ混雑が予測されるのに、その上脅迫電話か…。八重垣光子には敵が多く、彼女を守る必要などないという意見も出たり、そもそも光子自身も、舞台で死ねるなら本望、と言ってのけるし、中村勘十郎にしてからも、もう十分生きただろう、光子を守る協力などはしない、などと言い張る始末。その内、誰も予想していなかった展開が次々起こり…。
というような話です。

面白い作品だったなぁ。繰り返すけど、古さをまったく感じさせない作品だし、最初から最後まで一気に読ませる。最後、真犯人が明らかになる辺りの展開は、本格ミステリ的ではない(具体的には書かないけど)感じで、それはちょっとなぁ、と思う部分はないでもない。とはいえ、別に本書は本格ミステリとして書かれたわけでもないし、全体的にはもの凄く面白い作品だから、さほど気にならなかった。

一番凄いと思ったのは、本書の構成だ。なんと、脅迫電話が掛かって来るまでに200ページ掛かる。全部で430ページ程の作品だから、ほぼ中間地点から事件が始まる、と言っていい。じゃあ、事件が起こるまで面白くないのかと言えば、それは逆で、むしろ冒頭200ページが滅法面白いのだ。これが凄いと思う。

最初の200ページでは、渡とハルが演出と脚本を引き受け奮闘する話や稽古の様子、また初日からしばらくの間の演劇の内容が描かれていく。こう書くとさほど面白くなさそうに思えるだろうが、さにあらず。とにかく、八重垣光子と中村勘十郎が凄すぎて、この二人が織りなすやり取りがとにかく面白い。

二人共、看板俳優でありながら、セリフを全然覚えてこない。じゃあどうするのかと言えば、舞台上に隠れている「プロンプ」と呼ばれる、台本を持って役者にセリフを教える係というのがいるのだ。彼らが良いタイミングで役者にセリフを伝える。もちろん口頭で伝えるわけだが、「プロンプ」の声は役者にだけ届くように調整されるので、観客席からは聞こえない。

で、この二人は、セリフを覚えないという理由もあるんだろう、元のセリフとは全然違うことを喋ったり、台本にないような演技をバンバンしてくる。即興でセリフを作り上げては、相手とのやり取りを成立させていく。もちろん本書は小説だから何でも出来てしまうのだが、本書の解説によれば、八重垣光子にも中村勘十郎にも実在のモデルがいるという。その実在のモデルの方にしても、どこまでそういう即興でのセリフ回しをしていたのか分からないのだけど、そういうことは演劇界では往々にしてあることなのだろう。それがリアルに描かれていた。

台本になりセリフをやり合うことで、お互いの力試しや力関係を示す意図があり、だから八重垣光子と中村勘十郎はバチバチなのだ。実際には、八重垣光子は何を考えているんだかよく分からないのだが、中村勘十郎は光子のことを「殺してやる」と思っているぐらいムカついている。しかし困ったことに、八重垣光子の演技は、それはそれは観客を魅了するのだ。演技があまりに天才的であるが故に、誰も光子に口出しが出来ない。八重垣光子という超天才に周りが振り回されている、という構図が歴然とあるのだ。この状況を、舞台上での演技だけではなく、舞台裏での振る舞い、松宝や東竹の上層部の反応、付き人たちの証言などから明らかにしていく。もちろんその状況が、物語全体を左右することにもなるわけで、冒頭200ページでその辺りのことを掘り下げるのはとても重要なのだ。

事件が起こる前、彼らが彼らにとっての日常である「演劇」の世界を普通に生きているだけで、物語としてはもう十分スリリングなのだ。著者は演劇にも造詣が深かったようで、だからこそ演劇の世界を掘り下げて描くことが出来るのだろう。そのことが、物語を厚みのあるものにしている。

そして、事件のきっかけとなる脅迫電話が掛かってきてからも、基本的には演劇主体で物語が進んでいく。というのも、脅迫犯がどう出て来るのか、そしてどこの誰なのか、みたいなことがほとんど掴めないからだ。だから事件の方で物語を牽引していくことはなかなか難しい。

そんなわけで、事件が起こってからも、やはり八重垣光子と中村勘十郎の演劇が物語全体を引っ張っていくことになるのだ。脅迫電話が掛かってきてからは、ギアが一段上がったかのようにテンポが一層スピーディーとなり、てんやわんやの様相を呈することになる。そうした中で、一体誰がどんな目的で事件を引き起こしたのか…。もちろんこの点も面白く読ませるのだ。

なんとなく文学的な作品をイメージしていましたが、超ドエンタメ作品でした。ちょっと長いですけど、一気読みの一冊なので、是非読んでみてください。

有吉佐和子「開幕ベルは華やかに」

ロボット・イン・ザ・ハウス(デボラ・インストール)



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難しいことなど一切考えずとも面白く読める小説だが、本書には、異なる価値観を持つ存在とどう関わっていくのかという一つの解答がある。

昔がどうだったのか、具体的には知らないので、あくまでも印象の比較ではあるが、現代は以前と比べて、他人の価値観を受け入れる余地が狭い人間が多いように感じられる。

もちろん、時代の差はある。かつては、インターネットがなかったこともあり、個人の価値観が距離を飛び越えた他者にまで届くことはほとんどなかった。物理的に距離の近い者同士の間での価値観しか問題にならなかった時代だろう。また、そういう時代だからこそ、世間一般の価値観を作り出すのは、テレビや新聞や雑誌などのいわゆるマスメディアが中心だったはずだ。だからこそ、マスメディアから届く様々な価値観をベースにしながら、皆自分の考えを組み立てていったはずだ。ベースが同じだからこそ、そこまで大きな違いが認識されなかった、という側面はあるだろう。そういう時代の方が良かった、などというつもりはないが、そういう今とは違う環境があったことは確かだろう。

現代では、インターネットの登場により、個人の価値観が様々な形で表に出てくるようになった。個人が自らの価値観を社会に染み出させることが出来る仕組みのお陰で、人々の考え方のベースとなるような大きなもの(かつてはマスメディアが作り出していたもの)がどんどんと薄れていった。それ故に、どんどんと価値観は多様化し、細分化していくことになる。そのこと自体は、とても良いことだと思う。多様な価値観が混在するからこそ、世の中が豊かになっていくのだと僕は思っているからだ。しかし、多様性というのは、間違った方向に進んでしまうと、異なる価値観を持つ者を排除するような方向に行ってしまう。まさに僕らは今、そういう時代に生きているのだと僕は思う。

ニュースやネットを通じて、世の中で起こっている様々な出来事を見聞きすると、もう少し他者の価値観を受け入れる余裕を持てば大体のことは起こり得なかったのではないか、と感じるような事件やトラブルを見かけることがある。もちろん、昔はなかった、などというつもりはない。というか、昔の方が、全共闘を始め、対立が社会問題化するような時代だっただろう。しかしそれでも、現代の方が、価値観が多様化しすぎているが故に、対立の構造が遥かに複雑になっているような印象を受ける。

僕は、自分と価値観の合わない人間と遭遇すると、チャンスだ、と感じる。多数派の意見には興味を持てないことが多いのだけど、少数派同士でも意見が合わないことはよくある。その意見の合わない少数派と出会うと、自分とどこが合わないのか知りたくなる。知ることで、自分の価値観の境界線がはっきりしてくるように感じられるからだ。

また、相手の土俵の上で議論を進めていくことも好きだ。議論をする場合には、お互いにある程度前提を共有しなければならないが、そのことを理解しないで議論をしている人を見かけると、なんて不毛な議論なんだ、と感じる。僕は、お互いの前提をすり合わせて共通する部分を見つける、みたいな作業がめんどくさいので、相手の土俵に立って、相手の価値観の論理を使って議論を進めていく、みたいなことをやることもある。相手は、僕が根拠としているのが相手自身の価値観をベースにしたものであるので、なかなか反論しにくくなる。

自分と異なる価値観を理解し受け入れることは、コミュニケーションの基本だと僕は思っている。しかし、そこを放棄してしまう人が多いような印象を持っている。コミュニケーションには、価値観の異なる者と関わる、という側面もあるのだということに気づかない振りをして、価値観の合う者ばかりを探しては、「ヤバイ!」の一言で続いてしまう会話をする。

なんとなく僕はそういう現状を、怖いなと感じることがある。

価値観の異なる者との関係性を排除できてしまう社会インフラが様々に整うようになってきて、益々気が合う者とだけ関わればいいような日常が構築されようとしている。人間関係がオンライン中心だという人は多いだろうし、やがて本当に物理的に他者と合わなくても生きていけるような世の中がやってくるかもしれない。

そうなった時、きっと、人類は滅びるんじゃないかな、と思う。異なる価値観の接点・接地面にしか生まれないモノが、人類の歴史を作り上げてきたのだと、僕は思いたいのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
本書は、前作「ロボットイン・ザ・ガーデン」の続編です。正直に言って、僕は前作の内容をほとんど思い出せないまま本書を読み始めたので、前作の内容はリンク先で読んでください。

本書は、“ジャスミン”という名の新たなロボットが、ベンとエイミーの夫婦(ではないのがややこしいのだけど、ここでは「夫婦」と表記する)の元にやってきたことから始まる。ベンはかつて、自宅の庭に迷い込んできた旧式のオンボロロボット(「タング」という名を付けた)と共に長い長い旅をし、タングを生みだした天才ロボット工学者であるボリンジャーの元までたどり着いたことがある。ジャスミンは、そのボリンジャーの元から派遣されてきた新たなロボットなのだ。
ジャスミンの任務はシンプルだ。タングのいる地点の位置情報をボリンジャーに送信すること。タングの所有権は自分にあるので、取り返しに来る、というのだ。しかしボリンジャーは政府から監視される対象、どんな通信手段も使えない状況だ。そんな中でジャスミンがどんな連絡方法を有しているのか謎だが、ともかくもジャスミンに位置情報を送信されるのは困る。
何故ならベンとエイミーは、タングのことを家族の一員と捉え、大切にしているからだ。
この時代、掃除や料理などに特化した、いわゆる「アンドロイド」と呼ばれるタイプの人工知能は急速に発展している。しかし、何らかの機能を全うするのではなく、ただ幼稚な言語でお喋りをするだけの旧式のロボットには興味を持たない。ロボットは全般的に厳しく管理され、チップに埋め込まれた情報から所有者などの情報が判明する仕組みになっているのだが、タングは盗品であるが故にメンテナンスや保障に問題が生じている。さらに、盗品であることが発覚すれば、ベンとエイミーはタングを手放さなければならなくなるかもしれないのだ。彼らはジャスミンをどうにか処分しようと試みるが、宙に浮き、庭にじっとしているジャスミンを排除することは出来なかった。
彼らの間にはボニーという娘がいる。彼らは幼い娘とロボット二台を抱えながら、研修医と解雇されそうな弁護士という苦しい立場に立たされている。
彼らは、法律上は彼らの持ち物ではないタングらとの様々な日常風景を描きながら、様々な成長を描き出す作品だ。

なかなか面白い作品でした。冒頭でも書いたように、僕は前作「ロボットイン・ザ・ガーデン」の内容をほぼ忘れていました。それでも十分面白く読めますが、やはり前作は読んでおいた方がいいでしょう。

前作は、ベンとタングが旅をし、その旅先ごとで色んなことが起こるという、ある種の冒険譚だった。本書の場合は前作とがらりと変わって、物語はほぼ家の中で進んでいく。だからこそ、という側面もきっとあるだろう、本書は日常における価値観の対立をうまく描き出している、と感じました。

相手がロボットである、という点も、本書を面白くする。例えばボニーのような人間の子どもであれば、言葉が通じる年齢になれば、「同じ種族である」という前提があるために、価値観のすり合わせは同じ種族ではない場合に比べたら圧倒的に楽だろう。

本書では、タング、そしてジャスミンが、自ら意志を持ち、会話をする。彼らが世の中をどう捉えているのか、どんな場面でどう感じているのかを知ることは実に面白い。人間と会話する場合には「大前提」にしてしまう様々な事柄を持っていないタングに対して、新たな価値観をどう伝え、また適切な価値観を元に行動することの大事さを伝えることは、なかなか難しいことだった。しかし、ベンとエイミーはそれをやり遂げたから今の生活がある。ベンとエイミーがロボットたちとどう関わっていくのか。一つの読みどころである。

また、ベンとエイミーの関係性も注目だ。前作の流れを忘れたので、何故ベンとエイミーが離婚しているのか、という理由を忘れてしまったが、彼らは、よりを戻したい気もするし、でもそこには高い壁があるとも感じられて、モヤモヤしてた状態を持続させている。ベンとエイミーの関係が、新たなロボットの登場によってどう変化したのか。その点も読みどころだと言えるだろう。

彼らの日常は、「家に意志を持ったロボットがいる」という点を除けば、至ってありきたりのものだ。しかしだからこそ、彼らの異質さが浮かび上がってくる。タングとジャスミンを受け入れる生活には、なかなか普通は踏み出すことが出来ないはずだ。異なる意志、というよりも、人間と同じような意志を持っているとは想定難い存在を前にして、0から人間の価値観を植え込んでいく過程は、読んでいる分には面白いが、相当大変だろう。しかし、その苦労を乗り越えてでもタングと一緒にいたいというベンとエイミーの強い意志を感じることが出来るし、実際に彼らは、タングやジャスミンがいたお陰で関係性に変化をもたらすことが出来たと言っていいだろう。

自分が当たり前だと思っていることほど、言語化しないまま疑問を感じることなく脳内にしまいこんでいる。しかし、タングのような存在がいると、自分の中の常識がひっくり返っていく。「ペットって何?」のような単純な質問だからこそ、それが如実に現れてくるのだ。本書は、ほんわかした読み物としてももちろん十分楽しめるのだが、コミュニケーションの本質を垣間見せてくれるという意味でも面白い作品だ。

デボラ・インストール「ロボット・イン・ザ・ハウス」

晴れても雪でも キミコのダンゴ虫的日常(北大路公子)



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内容に入ろうと思います。
本書は、エッセイストの北大路公子が、1年間雑誌に連載し続けたエッセイが掲載されている作品です。1月1日から12月31日まで、ところどころ抜けている日付もあるけど、概ね毎日書いています。日毎の分量はまちまちですけど。

僕は北大路公子のことを「プロの無職」だと思っているんだけど、とにかく何もしていない。いや、北海道に住んでいるので、仕方なく雪かきはしているようだが、雪かきする以外は大体酒を飲んでいる。よくもまあそんなに飲んでられるな、というぐらい飲んでいる。アル中を疑えるレベルで飲んでいるのだけど、大丈夫なんだろうか?

副題の「ダンゴ虫的」の通り、北大路公子は大体家から出ない。そして出る時は、時々あるサイン会か、あとは酒を飲むためである。これほどまでに「飲むために生きる」を体現している人もなかなかいないだろう。

酒を飲みながら、色んな人と話をする。その話もアホみたいな話ばっかりで面白い。例えば、会話というわけではないが、本書には「ストーブ祭り」というのが登場する。

『夜は、毎年この時期(※3月末)に開かれるストーブ祭りに参加するため、Mっちととともにハマユウさん宅へ。ストーブ祭りとは、「ハマユウさんがこの冬に買った灯油を消費しきるまで、皆でひたすらストーブを燃やしつつ酒を飲む」という天下の奇祭である』

アホである。これが毎年行われるというのだからアホである。

また、著者の独特の思考も面白い。いくつか抜いてみよう。

『もし私に息子がいて箱根駅伝の選手にでもなったら応援に行かなくちゃいけなくなるから、本当に息子がいなくてよかったと思う』

『天気予報を観ながら、「アレ」の呼び名について考える。代名詞のままだと不便だし、「雪」と呼ぶにはあまりに忌々しいので、思い切って「希望」と呼ぶことにするのはどうだろう。「あたり一面希望にふれている!」などと声に出すと、くさくさした気持ちも少しは晴れるのではという、健気な乙女心である。予報によると、明日の朝も希望が積もっているらしい』

『ついこの間までは、お正月に神棚に供えたスルメを「太る成分は神様が全部食べたから」という理屈で毎晩食べ続けていた』

アホだなぁ。しかし、よくもまあこんなアホみたいなことをポンポン思いつくものだと感心する。そのほとんどが、「目の前の現実を見なかったことにしたい」「めんどくさいことをやらないで済ませたい」という後ろ向きな発想から生まれているというのもまた凄い。

そして、日記であるのに、「生活感」というものをほとんど感じさせないところも凄まじい。「生活感」的な部分は、もちろん書いていないだけなんだろうけど、日々奇妙なこと、おかしなこと、笑えることが起こっているので、本当にこれが日常なのか、という気がしてくる。酒も飲みすぎだ。もしかしたら、この本は「ある一年」の記録ではないのかもしれない。例えば、「1月1日」は「2015年」のこと、「7月1日」は「2000年」のことなど、色んな年代のその日その日を継ぎ接ぎしているのではないか…なんてめんどくさいことを北大路公子がするはずもないので、もちろんそんなことはあり得ないだろうが、そんなふうにも感じさせられる作品だったりもするのである。

読んでも一切役に立たないし、人生を豊かにもしないが、「あぁ、人間というのは、どこmでも頑張らなくてもなんとかなる人はなんとかなるのだなぁ」としみじみさせられる、読んでいて楽しい作品です。

北大路公子「晴れても雪でも キミコのダンゴ虫的日常」

たまうら~玉占~(星乃あかり)



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内容に入ろうと思います。
本書は、5編の短編を収録した連作短編集です。
まずは全体の設定から。
舞台は江戸。橋のたもとに時折現れる謎の老婆とたぬきのようにでかい白猫がいる。「玉占」という行灯があるので、占い師であるようだ。老婆は、悩みを抱えていると思しき者を呼び止めては、白い壺から玉を引かせる。その玉はその者の今の状態に近い性質を持つものとなる。「みれん玉」「やっかい玉」「びびり玉」「忘れ玉」「よくばり玉」 そしてその後で、壺に頭から顔を突っ込んだ白猫が咥えて取り出すのが、その者に今必要な玉だ。持っているだけで、今抱えている悩みが解決する―。そんな触れ込みで、1日8文で貸し出している。

「みれん玉」
おみつは、三味線の稽古場で出会った京さんに惹かれている。そんな京さんからもらったかんざしをなくしてしまった。今まさに必要なものなのに…。占い師にもらった「えにし玉」は、取り戻したいものを頭に浮かべるとそれが手元に戻ってくるのだという。病気で倒れた母の待つ家へと向かい、さっそく枕の下に「えにし玉」を入れてかんざしを思い浮かべると…。

「やっかい玉」
おこうは、お種の営む一膳飯屋・亀屋で働いている。他の若い娘がどんどん結婚していなくなっていく中、おこうだけはそんな話もない。人生で、誰かに関心を持たれたことなどない。そんなおこうを片付けようと思ったか、お種はおこうを占い師の元へと連れて行こうとするが、期せずしておこうは橋のたもとで占い師に出会う。そこで「すかれ玉」を借りたおこうは、翌日から自分に誰も彼もが関心を持ち始める状況に戸惑うようになる…。

「びびり玉」
俵兵衛は、無理難題を押し付けられて弱っている。若殿が見初めた娘がいるのだが、その娘には許嫁がいて、若殿の求婚を受け入れない。しかし、欲しいものは何をしても手に入れようとする若殿は、俵兵衛に、凄腕の占い師がいるらしいから相談してこいと命じられたのだ。そこで彼は「肝っ玉」を借りた。それを持って、若殿が見初めた娘の実家まで談判に向かうが…。

「忘れ玉」
正太は小間物屋の一人息子で、家を継ぐつもりではいるが、しかし記憶力があまりにも貧弱で、お客さんの顔やお得意さんの家までの行き方など何もかも全部忘れてしまう。まさに今配達中で道に迷い困っている正太の前に老婆が現れ、「覚え玉」を借りた。その日以来、一度見ただけでどんなことも記憶出来るようになった正太だったが…。

「よくばり玉」
団子屋で働きながら倹しい生活をしているトメは、ある日占い師から「あきあき玉」を借りた。なんでも、持っているだけで飽き飽きするほど金が入り込んでくるという。団子屋で働くだけの私にどうやって?と思ったが、確かに色んなとこから金が入り込んでくる。使えば使うほど入ってくると言われて散財するトメだったが…。

というような話です。

江戸を舞台にしているけど、会話や描写などはかなり現代物に近くて、時代物を読み慣れない人にも読みやすい作品でしょう。占い師の元にやってくる者たちの悩みも、非常に身近なもので、共感しやすいと思います。

この物語は、玉の力で悩みが消えたり望みが叶ったりするわけなんだけど、大事なのは、玉は自分のものになるわけじゃなくて、お金を払って借りているのだ、ということ。金を払えなくなれば手放すしかない。未来永劫その状況が続くわけではない、というのが一つの肝だ。

結局のところ、玉の力では物事は解決しないのだ、ということが分かる。相談に来た者たちの去就は話ごとに様々だけど、自分が望んだ通りにならなかったとしても、結果的に良い状況に落ち着いている、という展開になる。問題を捉え間違えていたり、理想としていた状況が実はさほど望ましいものではないのだと気づいたりすることで、現実に何らかの変化がある。その展開を楽しむ作品です。

さらさらと読める、読みやすい作品です。

星乃あかり「たまうら~玉占~」

水曜の朝、午前三時(蓮見圭一)



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僕らは、これまで歩んできた人生すべてを「思い出す」ことは出来ない。もしかしたら人によっては、これまでの人生すべてを「記憶している」人はいるかもしれない。ただ、それでもすべてを「思い出す」ことは出来ないだろう。何故なら、すべてを思い出すためには、これまで歩んできた人生と同じだけの時間が掛かるからだ。

だからこそ僕らは、自分の人生を振り返って「思い出す」時、思い出すことを限定しなければならないはずだ。

僕らは、どんなことを「思い出す」ことが多いだろう?

僕は、過去を振り返ることがほとんどない。そもそも覚えていない、ということもあるのだが、昔のことなんか振り返っても仕方ない、という感覚もある。その過去が、現在やあるいは未来に何らかの関係を持ちそうなのであれば、振り返ってみることはあるかもしれない。しかし、少なくとも僕の場合は、どこかの時点でピリオドが打たれた出来事については思い出す機会はほとんどない。

そんなことを書きながら、僕は、世の中の人のスマホの中に入っている写真のことを連想した。人によっては、料理を食べる前に写真を撮ったりする。あの写真は、その後見られる機会があるのだろうか?と僕はいつも思ってしまう。もちろん、食べ歩きを生業や趣味にしている人や料理人、あるいはダイエットをしている人なんかは、必要があってそういう写真を見返す機会もあるかもしれない。しかし、記念日でも特別な料理でもない、ただ毎日同じように食べている料理の写真を、その日インスタに上げた後、一度でも見る機会があるのだろうか、と思ってしまう。

僕たちはきっと、そういう料理の写真のことは思い出さない。現在や未来に繋がらない、ピリオドが打たれてしまったものだからだ。

ただ、そう考えながら、僕はこんな風にも思う。僕たちの人生の輪郭を形作っているのは、むしろそういうピリオドが打たれたものなのではないか、と。記念日に食べる料理や見たことのない料理なんかは「特別」なもので、「特別」であるが故に思い出される可能性も高まる。しかし、そういう「特別」は、僕らの人生の中では例外に近いものがある。僕たちの人生の輪郭を作り出すのは、そういう「特別」ではなく、むしろ、撮ったら忘れてしまうような毎日の料理の方だろう。

話はいきなり飛ぶが、ビジネス書や自己啓発本などを読んで違和感を覚えることがある。いわゆる「成功者」たちが書くことの多いジャンルの本であり、そういう「成功者」たちは、自分が成功した「要因」を、自分の人生の中から取り出してみせる。

確かに、彼らが挙げた「要因」は、成功の一角を成しているかもしれない。しかし、それは、振り返ってみて思い出せる、という点でやはり「特別」なのだと僕は感じる。そうではなくて、振り返っても思い出せないような「特別」から外れたものの方にこそ、本質的な成功の「要因」があるのではないか―。僕はそんな風に感じてしまう。

話をダイエットに置き換えると、もう少し分かりやすいかもしれない。ある人が2ヶ月で10キロ痩せた、それは毎朝リンゴを食べ続けたからです、と主張したとしよう。しかし、実際は、毎朝リンゴを食べるようになったのと同時に、それまで10年間毎朝食べ続けていたゆで卵を止めたからかもしれない。そういうことはいくらでもあり得る。

思い出せることは、自分の人生の輪郭にはならなかったのではないか―。この主張は極論だと理解してはいるが、時々こういうことを考えて、自分を形作ったかもしれない、今の僕には思い出すことが出来ないものについてふと考えてみる。

内容に入ろうと思います。
僕は、妻・葉子の母・四条直美が、病室で吹き込んだテープの存在を知っている。
直美は、1992年の年明けに脳腫瘍の告知を受けがんセンターに入院、その年の秋に45歳で死んだ。彼女は翻訳家であり、かつ少しは名の知れた詩人だった。僕と葉子とは小学校からの同級生であり、それもあって僕は、子どもの頃から直美のことを知っていた。
僕は直美のことが好きだった。
直美は、自らの死を意識してこのテープを残した。テープは、ニューヨークに留学していた葉子の元へと送られた。そしてその内容は、直美が家族に秘していた過去のある出来事についてだった。葉子は子どもの頃から、時々母親が京都に行くことを訝しんでいた。どうやらこのテープは、そのことと関係あるようだ。
A級戦犯を祖父に持つ直美は、許嫁がおり、大学を出て就職をしたら、早い段階で結婚して家庭に入ることを両親から望まれていた。直美は、そんな生き方は嫌だった。せめて先送りにしたいと、直美は大阪万博でのコンパニオンの仕事を見つけてきた。両親を無理矢理説得して大阪に向かった直美は、そこで人生を揺さぶる出会いを経験する…。
というような話です。

丁寧な物語だな、という印象でした。人物の造形や情景の細部がきっちりと描かれていて、人間や物語が立ち上がっているという感じがする。翻訳家であり詩人でもあった女性の語り、という設定に負けないように、言葉や思考がシャープな感じで、印象的な文章が多かった感じがします。

本書の特徴は、母親が娘に語った物語だ、ということ。普通の小説であれば、物語は「作者→読者」という形で届きますが、この物語は「母親→娘」を覗き見している、というような形で届きます。だから、直美の語りのあらゆる部分で、「何故彼女は娘にこれを語っているのか」と問うことが出来る。そういう問いかけに作品が耐えきれているのか、という点は各自で判断して欲しいのだけど、自分だったら同じ状況で何を語るだろうか、という想像も含めて、物語を受け取れそうだなと感じました。

個人的には、物語そのものにはさほど興味は持てなかったのだけど、場面場面での直美の思考や、直美が捉える時代観、その時代を生きる人たちの価値観や行動原理みたいなものが面白いなと感じました。特に直美の、両親や、あるいは大阪万博で一緒に働いていたコンパニオンなどを観察し言葉で捉える力みたいなものが結構好きでした。辛辣に、直截に、でも拒絶するわけではないという、なかなか絶妙なバランスで他人を捉えるスタンスが、いいなぁ、と思いました。

たぶん、僕も直美に直接会う機会があったら、好きになりそうな気がします。

蓮見圭一「水曜の朝、午前三時」

ぐうたら旅日記 恐山・知床をゆく



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内容に入ろうと思います。
本書は、エッセイストであり、「プロの無職」(という表現が適切に思える人なのだ)でもある著者が描く旅日記です。基本的に旅は嫌いらしいんだけど、嫌いなのは準備したり手配したりすること。それらをすべて免除され、自由気ままに好きなように行動し、いつでも酒を飲みまくる著者は、なかなか楽しく旅をしている感じがします。

本書の内容をざっくり紹介するとすれば、著者の文庫版あとがきを引用するのが適切でしょう。

『自分で言うのもなんだが、「勇気あふれる書」だと思う。
土地の風景や人との出会いや食べ物など、いわゆる旅の醍醐味についてほとんど書いてはいないくせに、堂々「旅日記」と称する勇気。
せっかく遠く離れた地へ出向いても、家にいる時と同じようにテレビを観ながらビールを飲んで過ごす勇気。
黙っときゃいいのに、わざわざ「あとがき」で「続編」に触れる勇気。
この本は勇気にあふれている』

まあ、そういうことである。

副題に「恐山・知床をゆく」と書いてあるが、本書を読んでも恐山や知床のことはよく分からない。よく分かるのは、著者やその仲間たちがいかにアホアホしいか、ごく僅かにいる有能な幹事役にいかに支えられた旅であるか、著者の妄想がいかに自由奔放か、ということぐらいである。

まあしかし、面白いのはさすが北大路公子という感じである。碌でもない旅だし、読んでて得られるものは特に何もないが、それでも、これほど気を抜いて読める本も珍しいというぐらい、力を入れずに読める。この力の入れ無さ具合はなかなか驚異的である。

しかし、ちょっと真面目なことを言えば、要するに、目の前にある光景から何を切り取るのか、ということが表現(の一つ)なのであって、それを言葉や絵や音楽で行う。著者は、目の前にある光景から、誰もが切り取りたくなるようなものはほぼ排除し、誰も拾わなそうなもので文章を書く。これは非常に高度な技量が必要だと言えるだろう。

さらにそこに著者は、謎の妄想を混ぜ込む。この妄想がなかなか良くできていて、秀逸だ。本書には、三つのお題から物語を作る、というルールで作られた短い小説が5編載っているが(何故載っているかは不明)、この小説を読んで、この著者の想像力は並外れているなと感じたものだ。僕はこの5編の小説を、どんなお題を元に作ったのか想像しながら読んだが(お題は、各小説の最後に載っている)、予想はことごとく外れた。「そんなお題からこの物語を考えたのか!」という驚きが楽しめる作品たちだった。

話を戻すが、著者の妄想力はなかなかのものだ。酒を飲みすぎて、現実と空想の区別がつかなくなってしまっているのかもしれない。そう考えると、著者が「妄想ではない」という体で書いている部分も怪しい。実はそこもすべて、著者の妄想なのではないだろうか?というか、コパパーゲ氏とかみわっちとかハマユウさんとかは本当に実在するのか?ってか、著者は本当に旅に行ったのか?みたいなところまで疑おうと思えば疑えてしまうのです。秀逸な想像力を見せつけることが、現実の描写も不安定にさせる、という凄技である。

などと書いてはいるが、こういうのはすべてただの曲解であり、著者はただ著者なりの旅を素直に書き記しているだけなのだろう。「オッカムの剃刀」を持ち出す必要はないのである。

まあ色んなことを書いてはみたが、とにかく脱力系のエッセイであり、こんな風に生きられるのって才能だよなと思わされるような、なんとも面白くて羨ましい旅日記であり人生なのである。

北大路公子「ぐうたら旅日記 恐山・知床をゆく」

ふたご(藤崎彩織)



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僕には持論がある。
辛い境遇にいる者ほど、言葉が豊かなのだ、と。
言葉に惹かれる僕は、だからそういう人に惹かれる。

『愛や恋。私の中でそれらは、突然の豪雨みたいなものかもしれない。予期せぬ雨の中で、降り注ぐ感情の中で、私はいつもびしょ濡れになってしまう。身を守る屋根を見つけなくてはならなくて、それが私にとっては言葉なのだ』

『ピアノに向かうのが苦しかった時、自分と月島の関係に悩んだ時、私が迷子にならないように助けてくれたのは、いつも言葉だった』

辛い境遇にいる時、僕たちは孤立してしまうことが多い。誰かとの関係がうまくいかなかったり、ある状況で失敗してしまったりする中で、僕らは突然に、あるいは少しずつ孤立していく。

まず、自分が置かれたそういう状況を認識するために、言葉が必要とされる。言語学の世界では、言葉というのは、区別する必要が生じた際に生まれるという説があるらしい。犬が一匹いるだけなら、その犬を指して「あれ」というだけで事足りる。しかし、目の前に犬と猫がいる場合には、それらを区別するために名前が必要になる。これは、価値観や概念でも同じことだ。だから、周囲と相容れない状況に陥るということは、その時点で言葉を多く獲得できる可能性が高まる。

さらに、どうにかして「みんな」の輪の中に入ろうとする場合、「みんな」のルールと自分のルールを言葉で認識しなければならない。「みんな」同士は、言葉なんか使わなくても集団のルールが理解できているみたいだけど、自分は違う。だからそれを理解するために、言葉でそれを捉えなくてはならない。

こういう経験を日々積み重ねていくことで、言葉というのは豊かになっていくのだと僕は思っている。また、辛い境遇にいる時、自分にピッタリくる感情や考えを探すために、たくさんの言葉(本でも音楽でも映画でも)を取り込みたくなるだろう。そんな風にして、言葉によって自分を支えていくのだ。

先入観を与えるようで申し訳ないが、本書は、「SEKAI NO OWARI」のピアニストである著者と、ボーカルの深瀬慧の実際の話を元に書かれているようだ(著者本人がそう明言しているわけではないようですが)。つまり、本書の中でずっと苦しんで苦しんで苦しんでいる主人公・西山夏子は、著者自身ということなのだろう。

この作品は、言葉の力がとても強い。これだけの言葉は、傷ついて傷ついて傷ついて来た者だからこそ獲得し得たものだと僕には感じられる。だからこそ西山夏子が著者自身であると、僕にはすんなり信じることが出来るのだ。

「ふたご」というタイトルは、西山夏子と月山悠介の関係を象徴するものだ。

『彼は、私のことを「ふたごのようだと思っている」と言った』

そんな一文から始まる本書は、人と人とが同じ時間を過ごすことの、絶望的な孤独を描き出している。

『もしこれ以上、二人がひとつの感情を共有してしまえば、私たちは、もう一緒にいられなくなるかもしれない。一緒に悲しんで、一緒に泣いて、お互いを舐め合うような関係に、未来なんてない』

二人はずっと、名前の付かない関係のままでいた。最初は、中学生の先輩・後輩として出会った。しかし出会った時からもう、先輩・後輩という関係は存在しなかった。ただの友達でもない、恋人なわけでもない、もちろん家族でもない。しかし二人は、長い時間を共有し、お互いの価値観をぶつけ合い、その存在を必要とし、不可欠なものとみなした。まるで「ふたご」のように。

『どうしてなのか、大切にしようと思えば思う程、私たちはお互いを蝕んでいってしまう』

西山は月島のことが好きだった。振り向いて欲しかった。女として見て欲しかった。でも、月山はそんな風に自分のことを扱ってはくれない。月山のことを一番理解し、一番濃密な時間を過ごし、月山にとって必要な人間であるはず、という風には思える。しかしそれでも、西山は月山の「特別」になれないでいる。

『自分が誰かの特別になりたくて仕方がないことを、私は「悲しい」と呼んでいた。誰かの特別になりたくて、けれども誰の特別になれない自分の惨めさを、「悲しい」と呼んでいた』

西山は、自分が何を求めているのかだんだん分からなくなっていく。少なくとも、物理的にはずっと一番近くにいられる。自分が月山のことを特等席で見ることは出来る。でも、月山は自分の方を見ていない。見ていないと感じられてしまう。
でも、じゃあ自分を見てくれたら満足出来るのか。女として扱ってくれたら嬉しいのか。そこがもうグチャグチャになってしまう。

『女としての生活を捨てたからこそ、私はここにいられる。そう信じていた。その確信が私の自信だった』

西山のグチャグチャした葛藤は、まったく同じものではないだろうけど、僕にも分かるような気がする。僕は、自分が恋愛に向いていないという自覚があるが、何故そう思うかと言えば、僕自身の中に相反する二つの感覚があるからだ。それは、「好きになった人に関心を持ってもらいたい」という気持ちと、「好きになった人に関心を持ってもらいたくない」という気持ちだ。自分の中で、この二つのまったく異なる感情が同時に存在している。そしていつも、自分のことがよくわからなくなる。

きっと西山も、同じような感じで、自分のことがよく分からなくなっていっただろう。

『たとえ他の女の子の話だとしても、月島に話を聞いているのが、楽しかった。異性としての好意が自分に向けられていなくても、結局自分のところに帰ってきて、いつまでも話をしている月島のことが好きだった』

分かるなぁ、こういう感覚、凄く。

『いっそのこと、本当にふたごのようであったら、こんな風にいつまでも一緒にはいなかったのだと思う。いや、はっきり言おう。私たちがふたごのようであったら、絶対に、一緒にいることは出来なかった。
確かに、私は人生の大半を彼のそばで送ってきた。晴れた日も雨の日も、健やかな日も病める日も、富めるときも貧しきときも、確かに、私は彼のそばにいた。
そしてその大半は、メチャクチャに振り回された記憶ばかりだ。』

西山を振り回す月島の考え方には、賛同できてしまうことが多い。

西山と月島はよく、言葉の意味を考えるゲームをする。「ルール」「恋」「正解」など、色んな言葉について考えていることを語り合う。西山はいつも、月島の物事の捉え方に感心する。西山は、西山一人でいる時には「普通」とか「当たり前」を乗り越えられない。物事を、常識的な範囲で考えてしまいがちだ。しかし月島は、全然違う。ひらりと、軽々と、「普通」「当たり前」を飛び越えていく。月島は、自分にとっての大事さによって物事を判断しようとする。

『でも俺はまず、こんな気持で学校に行ってどうするんだよって思った。今高校を止めることよりも、学校にこのまま二年も行くほうが、ずっと絶望的だと思った。』

『明日もあさっても、こんな場所で何の目的もないままに生きて行くなんて、考えただけでゾッとするんだよ』

問題は、月島には、自分にとって何が大事なのかが全然分からなかった、ということだ。自分にとって大事ではないものはすぐに分かる。けれど、何が大事なのかは分からない。だから月島は、常に無気力な青年に見えた。やりたくないと駄々をこねているだけの若者に見えてしまった。

月島のこの感覚は、僕にも分かる。僕もずーっと、自分が生きている原動力みたいなものをうまく掴めないままいる。生きている理由なんて、別にない。ないんだけど、自分を前に進ませるためには、何か原動力がないと無理だ。でも、それが何なのか、自分でもよくわかっていない。時々、そのことに絶望する。特に、平均年齢から考えれば、自分はまだその折り返し地点にさえたどり着いていないのだ、と思うような時にはなおさらである。

『頑張れた方が良いに決まってるじゃないか』

ホントそうだよなぁ、と思う。
僕も、気を抜くとすぐに頑張れなくなってしまう、と思っている。だから、気をつけている。どう気をつけているのかというと、継続する、というやり方をしている。やるぞ、と決めたことはとりあえず継続する。「継続すると決めた自分」に嘘をつかないために、僕は毎日なんとか前に進んでいるんだろうと思う。

それは、西山のこんな感覚に近いものがある。

『実際、ピアノを練習したいと思って練習するのは、三日に一度ぐらいあればいい方だ。ほとんどの日は、遊びに生きたいと思いながら、弟とテレビを見たいと思いながら、自室にこもってピアノを弾く。どうしても弾く気分になれない日は、ただ自室にこもっているだけの時もあるけれど、やりたくないからと言って、ピアノから逃げ出すことは考えられない』

そんな西山に、月島はこう返す。

『逃げることにだって、勇気は要るんだよ』

うん、分かる。分かるよ、月島。

『自分の世界の中で何かが、変わった。完璧に変わった。それがありありと分かってしまった。あたりを見渡すと、周りには誰もいない。私は実感した。月島は、もういない』

月島の不在に対して、西山はこう感じる。

『離れることは出来ないのかもしれない。それでも、近づきすぎてしまえば絡まり合ってしまうことを分かっている。その苦しみを、もう充分に分かっている。
私たちは、これ以上近づいてはいけないのだ』

月島との距離感について、西山はこう感じる。

『もしそうなれば名前のつかない私たちの関係に、遂に名前がつくことになる。でも、バンドメンバーという名前は、本当に私たちの関係にふさわしい名前なのだろうか?』

月島との関係性について、西山はこう感じる。

『頭では分かっていた。それなのに月島が私のことを恋人と呼ぶとき、その言葉を胸の中に大切にしまってしまう』

月島と関わることの痛みを、西山はこう表現する。

『お前はいつも、正しいことが正解だと思い過ぎなんだよ』

かつて月島からそう言われた少女は、月島に出会い、憧れ、後ろをついていき、同志となり、性別を越え、痛みを内在させ、思考がグチャグチャになり、どこにも辿り着けず、
それでも月島の隣にいた。

本書は、その壮絶な記録なのである。

内容に入ろうと思います。
14歳の少女・西山夏子は、学校の吹き抜けの階段でその少年をよく見かけた。一学年先輩の、月島悠介。気づいたら声を掛けていて、それから西山は、よく月島と一緒にいるようになった。
何をするでもない。レンタルビデオ屋に行って何も借りずに帰ってきたり、電話で言葉の意味を考えるゲームをしたりする。友達でも恋人でも家族でもないような距離感のまま、でも西山はずっと月島への恋心を抱き続ける。
学校に行かず、やりたいこともない、無気力にしか思えない月島に苛立ちを隠せなくなることもあった。やがて月島の環境が大きく変わることになり、月島の喪失に備えて西山も準備をする。
結果的にその変化が、月島を追い詰めることになったのかもしれない。月島は、壊れてしまった。
長く苦しい月島の“リハビリ”期間をギリギリの忍耐で耐え続けた西山は、ある日自分が月島の変な計画に組み込まれていることを知る。バンドをやる―そう決めた月島は、無謀とも思える形で、後にメジャーデビューすることになるバンドを形作っていくことになるが…。
というような話です。

ホントに良い小説だったなぁ。正直、他人から「良いらしいよ」という評価を聞かなければ読まなかっただろう。芸能人が書いた本だし、という先入観を持ってしまってたな。これはホントに、新人のデビュー作という意味でも、芸能人が書いた本という意味でもずば抜けているし、純文学寄りの中堅作家の作品と言われても全然通用するような作品だと思います。

ストーリーに関しては、正直うまく評価できない。ここで描かれている内容がどこまで藤崎彩織・深瀬慧の話と同一なのか、それにもよる。基本的な事実をそのまま物語のベースにしているとすれば、著者は物語を生み出したわけではないだろう。ある程度以上創作が入っているというのであれば、また評価は変わる。この点は、僕が持っている知識量ではうまく評価は出来ない。

ただ、事実ベースであれ創作ベースであれ、どのみち凄い展開であることは間違いない。これが事実ベースなのだとしたら、ちょっとイカれてると感じるほどだ。前半の、西山と月島の関係性については、まあまだいい。こういう表現は好きではないが、いわゆる「共依存」的な関係性なのだろうし、日本全国どこかを探せば、現在進行系でも起こりうることではあるだろう。しかし後半の、バンド結成からの展開は、ちょっとムチャクチャだと思う。そして、ムチャクチャだと思うからこそ、恐らくこの部分はかなり事実ベースなのだろうと思う。成功するかどうか分からないバンドに、これだけのお金と時間と情熱を投資出来るというのは、奇跡に近いのではないかと思う。

本書は、物語は一旦置いておくにしても、観察眼や表現力が素晴らしいので、その部分だけでも充分読ませてくれる。西山は、普通に生きていれば感じない感情や、直面しない状況に度々襲われることになる。そしてそれらは、僕らにとって非日常であるが故に、伝えることがとても難しいはずだ。しかし著者は、その優れた観察眼と表現力で、あまりの非日常を、読者にも想像できる形に変換する。この力がとても高いと僕には感じられる。

特に、人間を捉える眼差しが素敵だ。西山夏子=藤崎彩織なのだとすれば、著者は深瀬慧(=月島悠介)を日々観察することで、何を考えているのか、自分をどう見ているのか、何をしたいのか、ということを読み取ろうとしていただろう。いなくなれば自分の世界が崩れるほどの存在感があり、女として見られていなくても近くにいたいと思える存在でありながら、どれだけ近くで見ていても全然理解できない男を観察し続ける経験が、人間を捉える眼差しを強くしたのだろうと思う。

西山は、自分のふがいなさや自分に対する嫌悪感を隠そうとしない。人間を捉える眼差しの強さは同時に、自分自身を暴き立て、責め立てる力にもなる。西山は、自分の内側からいとも簡単に悪意や嫉妬や後悔を探し出してみせる。そうやって、月島に近づくための何かを見つけようとする。あるいは、月島との適切な距離を保つ方法を見つけようとする。でも、全然うまくいかないし、傷ついてばかりだ。

『みんなから嫌われてるやつのこと、俺、嫌いじゃないよ』

月島は西山にそう言う。これも、分かる。僕も、同じだ。西山は月島から、自分のことしか考えていないから嫌われるんだ、と言われる。そうなのかもしれない。西山には自覚はなかったけど、でも考えずにはいられないのだから仕方ない。自分のことを考え続けないと前に進んでいけないのだから仕方ない。僕にも、そういう時期はあった。その時期は、辛かったな。

『お前は自分で選んだ人生を生きているのか?』

西山は月島の言葉からそんな質問を読み取る。そんな月島こそが、西山を縛り付けているのだから、皮肉なものだ。

『ふたごのようにずっと隣で時間を共にしてきた月島は、私のことをひとりぼっちにもしたけれど、ずっと一緒に夢を見ていられる友達を作ってくれた。
帰る、と言うことの出来る居場所を作ってくれた』

本書を読んで強く感じた。著者はこれを「書かなければならなかったのだ」と。きっかけは深瀬慧の一言だったという。小説でも書いてみれば、という一言。しかし、そうやって書き始めた小説は、きっと、少しずつ藤崎彩織を縛り付けていたものを溶かしたことだろう。「書く」ということは、不正確かもしれないけど一番近い言葉を選び続けることだ。そして、頭の中にある、まだ言葉になっていないものたちは、言葉になることで、僅かに正確さを失いながらも、輪郭がはっきりとする。「書く」ことで、自分の気持ちが露わになる。そういう経験は、僕もしたことがある。

結果的に著者は、言葉の人だった。西山夏子を通して、彼女はこう書いている。

『曲を作りたいと、心から思ったことは一度もない。
燃えるような恋心を歌に乗せたいと思ったこともないし、オーディエンスに大合唱されるメロディを自分が作れるとも思えなかった』

彼女にとって、自分の内側にある“コレ”を表現する手段は歌ではなかった。それは、絵でもダンスでもなかったのだろう。彼女は、言葉の人だった。だから彼女は“コレ”を小説の形にした。

勝手な意味合いを押し付ける必然性はいささかもないのだが、しかし本書を書くことは、彼女にとってある種の鎮魂だったのだ、と捉えることで、僕にとってこの小説は、より深い意味合いを持つことになる。

『ここで生きて行くには、走るしかない』

僕も走ろう。

藤崎彩織「ふたご」

スケートボーイズ(碧野圭)



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内容に入ろうと思います。
大学四年生の伏見和馬は、久々に柏木豊コーチの元に戻ってきた。大学二年の12月、フィギュアスケートの全日本選手権の直前の追い込み練習で軽い怪我をした。コーチなどから焦るなと言われたが、焦ったがために今度は大怪我をしてしまった。1年以上もリンクから離れ、合コンに行ったり就活をしたりしていたが、どうにも気持ちの整理がつかず、また戻ってきた。
幼馴染の川瀬光流とまた滑りたい―そんな気持ちもあった。共に柏木コーチの元で教わったが、今では川瀬はアメリカを拠点に活動するトップスケーターだ。今では、それまで絶対王者と言われ続けてきた神代琢也を追い越す勢いだ。川瀬も出場する全日本選手権に間に合わせたい―それまでになんとか、四回転ジャンプを。
井出将人は、和馬と同じ大学の新聞部員だ。もう四年生であり、就活もあって土日の潰れる取材には出たくないのだが、まだ後輩が育っていないからと頼まれている。一人で複数のスポーツを担当しなければならないルールで、井出はフィギュアスケートも担当していた。
今日は、大学に入ってからフィギュアスケートを始めた鍋島佳澄と、復帰した伏見和馬の取材が目的だ。伏見の復活は、周囲にとってはなかなかの驚きだった。あの怪我だ、あのまま引退するものだとみんな思っていた。まだ本調子ではないようだが、さすが伏見だ、華のある滑りを見せる。
選手生命が短く、若い時でなければ活躍できないフィギュアスケートで、1年もブランクのある和馬の復帰を軸に、彼の周囲の人間模様を浮かび上がらせていく物語。

なかなか面白い作品でした。僕個人としては、フィギュアスケートにはまったく興味はないけど(とはいえ、羽生結弦とか宇野昌磨とかは凄いと思う)、そんな超ド素人が読んでも十分面白く読める作品でした。

ストーリー的には、王道のスポーツ物語という感じで、特別何かがあるというわけではありません。ライバルがいて、でもいろいろわだかまりもあって、挫折があって、そこからの復活、そして大舞台―というような感じです。

とはいえ、扱われているスポーツが、フィギュアスケートという、あまり小説として描かれることがないスポーツである、という点が、本書を面白くしている一つの要因だろうとは思います。

スポーツ小説で描かれるのは、チームスポーツであることが多いけど、フィギュアスケートは個人戦だし、練習場所が「スケートリンク」しかないという非常に大きな制約があるので、学校に所属していても、練習場所のスケートリンクでの繋がりの方が強い。技術だけではなくて「表現」までもが採点に反映されるというのは、小説で描かれるスポーツとしてはなかなか珍しいでしょう。また、フィギュアスケートの不可思議さの指摘で最も面白いと思ったのが、「プロよりもアマチュアの方が技術がある」ということ。確かにその通りだけど、そんな風に見たことはなかったので驚きました。

野球やサッカーと言った、よく小説の題材となるスポーツと違った特徴を持つフィギュアスケートが描かれているという点が、本書をただの王道スポーツ小説にしていないな、という感じがしました。描こうとしてもチームの一体感は描けないし、技術力ではない部分はお金の掛け方によって大分差が出てしまいもする。そういう条件の中では、むしろ「王道スポーツ小説」を描く、ということがなかなか難しいという側面もあるかもしれません。

物語のメインとなるのは、和馬と光流と柏木コーチの関係だ。この三人がどのようにこれまで練習を積み重ねてきて、そしてどんな理由によりバラバラになったのか。そこが物語を支える核になっている。和馬にとって光流は、幼馴染でもあり、かつてのライバルでもあり、そして信頼するコーチがわだかまりを解消できないでいる相手でもある。そういう複雑え絡み合った感情の中で、和馬は純粋に光流ともう一度滑ることを望む。本書では光流についての描写はあまり多くはないが、光流がどんな人間であるのかちゃんと分かっているからこその複雑な葛藤みたいなものもあって、勝負の世界で生きていくことの難しさみたいなものを感じさせてくれる。

また一方で、1年間フィギュアスケートから離れていた和馬には、フィギュアスケートの外の友人というのも少しは出来た。そこのかかわり合いみたいなものも多少描かれる。和馬にとって彼らとの関係は、「フィギュアスケートを外側から見る」という経験になった。ある意味ではその経験があったからこそ、和馬はリンクに戻る決断をした、とも言えるかもしれない。

また、競技者である和馬だけではなく、取材者である井出も、フィギュアスケートを外から見る人物として魅力的に描かれる。特別フィギュアスケートが好きなわけではない井出は、フィギュアスケートという競技を非常に奇妙なスポーツだと捉えている。井出が抱く違和感は、フィギュアスケートが特別好きなわけではない人間の視点に寄り添うものなので、井出の感覚には共感できる部分が多い。それでいて、取材者としてはまっとうでありたいという気持ちを持つ井出の熱意や振る舞いみたいなものからは、人間としての魅力が滲み出る。競技に真剣に取り組むものとどう関わっていくべきか―その真剣さが感じ取れるからこそ、井出の存在感はとても大きい。

物語の本筋とはあまり関係ないが、興味深いと思ったのは、フィギュアスケートが以前と比べて格段に人気スポーツになったが故のひずみみたいなものが描かれる部分だ。世間の認識と競技者側の認識のズレがかなり大きく、その差みたいなものに和馬が違和感を覚えるような箇所がいくつかある。(もちろん僕を含めた)世間は、それがどんな物事であれ、ごくごく一部だけを見てあれこれ言う。その背後にどんな広がりがあるのか想像してみる機会はあまりない。仕方ないとはいえ、その辺りの感覚の差にどうしても落胆してしまう部分はあるだろうなぁ、と感じた。

全体的にとても読みやすく、また、ニュースで大きく取り上げられるけど実のところよくは知らないフィギュアスケートの世界をざっと教えてくれる、なかなか面白い作品でした。

碧野圭「スケートボーイズ」

最後の証人(柚月裕子)



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正義の物語である。
そして、正義はいくつも同時に存在しうることを示す物語でもある。

正しいこと、というのは決して一つではない。
何故なら「正しさ」というのは、ある「軸」に対しての評価でしかないからだ。同じ物事であっても、違う「軸」で評価すれば、「正しさ」は変わる。

正しい行動が、常に正しさを導くわけではない。より正確に言えば、自分の「軸」にとって正しい行動が、誰の「軸」にとっても正しいなどということはあり得ない。

「正しさ」は常に複数あるからこそ、法律という「軸」を決め、その「軸」に則って「正しさ」を判断するというやり方を、人間は社会の中で採用するようになった。それが、裁判だ。

このやり方は、理想的に実行されれば、社会を運営していく上で間違いのない方法だと僕には感じられる。あらかじめ「軸」を定めておく。そして、その「軸」に沿って常に正確に善悪を判断する。人によって「正しさ」が違う、という前提を受け入れれば、そういう異なる「正しさ」を持つ者同士で社会を作るとすれば、こういうやり方しかあり得ないだろう。

しかし問題は、理想的に実行されているのかどうか、という点だ。どれほど素晴らしい仕組みであっても、きちんとした運用がなされなければ無用の長物だ。

これは、原発の議論に似ている。僕は、原発についての賛否を聞かれたら、こう答える。「技術には賛成だが、運用する人間には反対だ」と。原発を支える科学技術は、理想的に使われるなら有用のはずだ。どんな技術であっても危険性はゼロにはならないし、起こりうる悪影響も起こる前にはっきりと捉えることは難しい。危険なものであればあるほど、科学技術はその安全を確保するための何かを導き出すし、理想的に使われるのであれば、危険性はかなり低く抑えることが出来るはずだ。

しかし、いくら科学技術が優れていても、それを利用する人間がお粗末では意味がない。福島第一原発事故を僕は、技術の敗北とは捉えていない。そうではなくて、人間の愚かさが引き起こしたものだと思う。特に原発の運用には、政治が絡んでくる。科学で制御出来るかもしれないものが、政治の介入によって制御不可能になる、という想定は容易い。

法律や裁判も、理想的に実行されれば素晴らしい仕組みだが、しかし理想的でない使い方をする者が必ず出てくるからこそ、正義であるはずのものから不正義が生まれることになるのだ。

不正義と直面した時、僕らはどうするべきだろうか?

理想的な「正しさ」で言えば、僕らは正義の側に立ち続けてその不正義を糾弾し続けなければならないだろう。そのことを否定するつもりは毛頭ない。しかし、不正義は時に、正義を貫くべき者によっても生み出される。そして正義を貫くべき者が不正義を起こした場合、その不正義は隠匿される可能性が高い。

そういう場合、僕らに出来ることはあるだろうか?

それでも正義を貫くべきだ、と言葉で言うことは簡単だ。誰にだって出来る。しかし、そうはいられないからこそ、様々な悲しみが生み出されるのだ。

本書には、「正義を貫くべきだ」と考える3組の面々が登場する。彼らは、それぞれ立場も状況も違う中で、ある場所で垣間見えることになる。それぞれが、それぞれなりの正義の貫き方をぶつけ合い、そうすることで始めて、闇に葬られたかに思えた真実に光が射すことになる。

やはり「正義」や「正しさ」は難しい…と、本書を読んで改めて感じらせられるのだった。

内容に入ろうと思います。

中野に事務所を構える佐方貞人は、都内から新幹線で二時間ほど離れた地方都市である米崎市のホテルで起こった事件の弁護を担当することとなった。被害者は胸にナイフが突き刺さった状態で発見された。被害者には防御創があり、爪からは依頼人の皮膚が検出された。脱ぎ捨てられたバスローブには、被害者の血がついており、また内側からは依頼人の汗などが検出された。
現場の状況は、不倫関係にあった男女の間で諍いが起こり、依頼人が被害者をナイフで刺してしまった―そのことに疑いの余地はないと思われた。
佐方は、弁護を引き受けた。金銭の多寡ではなく、事件が面白いかどうかで弁護するかどうかを決める佐方には、この事件には惹かれるものがあった。確かに現場の状況は明らかに依頼人に不利だ。普通なら、裁判に勝てるはずがない。しかし―佐方の嗅覚は、この事件から何かを嗅ぎ取った。
一方で、ある夫婦の過去が描かれていく。高瀬光治・美津子夫妻は、幸せな日々を過ごしていた。光治は、周りから反対されながらも勤務医を若くして辞め独立、自身のクリニックが順調に進んでいる。美津子は家庭をしっかりと守ってくれるし、一人息子の卓にも恵まれた。幸せを体現している家族だ。
しかしそんな彼らに不幸が訪れる。事故で卓を喪ってしまうのだ。悲しみにくれる二人。しかし、どん底に突き落とされるのはまだこれからだった。卓と一緒に塾から帰っていた友人が、「運転手は信号無視をし、さらに酒臭かった」と証言したにも関わらず、卓を轢き殺した男は不起訴となった。どう考えてもおかしい。光治は、犯人が公安委員長であったことを突き止め、警察が仲間をかばうために不正を働いたと判断したが…。
というような話です。

これは面白い作品だったなぁ。ただの法廷ミステリではなく、ミステリの枠組みを使ってどこまで深く人間を描けるかにチャレンジしているような、そんな印象を抱かせる作品でした。

冒頭から、「これは何かあるぞ」と思わせる書きぶりや設定でした。詳しくは書かないけど、この作品は「何かやろうとしているな」(変な表現ですけど)という感じが凄くしてくるんです。もしかしたら、どこかのタイミングで分かる方もいるかもしれません。でも僕は、なるほどそういうことか!と最後まで読んで思いました。

正義を追い求める人間が3組登場する、という話を書いた。この3組について詳細に書いてしまうと、ネタバレを避けることが出来なくなるので止めるけど、その内の一人が正義に対してどういう感覚を持っているのか、という部分だけ抜き出してみたいと思います。

『自分が味わった理不尽な苦しみを、誰にも与えたくない。どのような理由であれ、罪を犯した人間は裁かれるべきだ。それが平等ということだ。それが社会の秩序を守り、ひいてはわが身を守ることになる、そう強く思った』

他の2組についても、置かれている状況は様々に違うが、彼らなりに正義を希求する気持ちを持ち、それをベースに行動している。正義を追及する、と言ってもなかなか難しい。いくつかの正義がぶつかり合い、正しさを主張する時、どれかの正義しか存続できないような気がしてしまう。

しかし、本書で描かれるのは、正義同士の戦いではない。物語上そう見えるのだが、実は違うということが後々理解できる。正義を問うための「正しい問い」を見つける戦い、と表現すればいいだろうか。

あまり物語に詳しく触れるとネタバレになってしまう、というのがなかなか難しくてモヤモヤした書き方をするしかないのだが、本書はミステリという物語の枠組みを借りることで、人間はどれほど絶望出来るのか、人間はどこまで正義を貫けるのか、人間はどこまでズルくなれるのか、人間はどれほど確信を持つことが出来るのか…など、様々な側面から人間を描き出そうとしている、と感じます。そこがこの物語の最大の魅力だと僕は感じました。

本書は、佐方という元検事の弁護士が物語の中心にいるはずなのだが(僕の知識が正しければ、本書は佐方を主人公とするシリーズの第一作目だと思う)、本書において佐方はほとんど出てこない。最後の最後、目の前の裁判をひっくり返すところでの出番はもちろん多いが、それまではあまり出番はない。それもなかなか珍しいタイプの小説だろうと思います。

そんな佐方が、時折口にする言葉が結構好きです。

『罪は代替できるものじゃない。その人間が犯した罪で裁かれなければ意味がない』

『誰でも過ちは犯す。しかし、一度ならば過ちだが、二度は違う。二度目に犯した過ちはその人間の生き方だ』

彼らの物語を通して、「正しく生きていく」とはどういうことか、そしてそれがいかに難しいのかを感じさせてくれる、そんな深みを持つ作品です。

柚月裕子「最後の証人」

おめでたい女(鈴木マキ子)



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『今からあの人を心配しない練習をするのだ。そう決めた時から、心の中で離婚が始まりました』

自由に生きて行く、というのはなかなか難しいことだ。

僕はなんとなく、自由に生きるためには、大前提として二つのことが重要だと思っている。

1. 人に迷惑を掛けないこと
2. 自由であることを望むこと

前者は分かりやすいでしょう。どれだけ自由を追い求めようとも、それが他人の迷惑や実害になったりするのであれば、それは世の中から受け入れられる生き方にはならないでしょう。自由であるということは、他人の自由も尊重する、という前提に立たなければ成り立たない、と僕は思っています。

問題は後者です。自由に生きたいと思っている人が、本当に自由に生きることを望んでいるのか。これは案外難しい問題だろうなぁ、と思います。

自由というのは、近づいてみればみるほど理解しやすくなりますが、案外不自由なものです。矛盾するようですけど、そう思います。世の中には、縛られている自由、制約されている自由、というのも確実にあって、何かに囚われたままの自分でいる方が結果的に楽、ということもあり得ます。自由を求めているつもりでも、何かに囚われた生活に慣れている人は、自分を縛り付けるものの外側に出ていくことを本能的に恐れるのではないか―そんな風に感じることがあります。

『今ならわかる。やめてもいいことは、やめればいいだけです。それを選んだ時の自分は馬鹿だった、と認めれば済む。そして、この先も、馬鹿でいるのは嫌だと決めればいいのです。やっと自分の馬鹿に気が付いたのに、その馬鹿を直さないのが一番の馬鹿で怠け者です。わたしは預金通帳の残高を、九百二十三円にされたところで、そう思えたのでした。全く高くついたものです』

客観的に見れば、その状況はおかしいんじゃないか、そこから離れた方がいいんじゃないか、と感じられる環境にあっても、そこから逃れることはなかなか難しい。そしてそういう状況に置かれている人は、結構多いのではないかと思う。

DV、いじめ、虐待など、日常の隙間に隠されているような悲惨な状況下に置かれている人は、その環境から逃れる手段がない(あるいはないように思える)が故にその状況に甘んじるしかない。そうしてそこに居続けることで、そこから逃れられないという状態が当たり前のものになってしまうのだろう。

自由を求める人の多くは、「今ここではないどこか」を求めているのであって、それは「自由」でなくてもいいのだろうと思います。ただ、自分が今いる状況以外の「今ここではないどこか」をリアルに想像出来ないからこそ、「自由」という、漠然とした、しかし明らかに「今ここではないどこか」であろう場所を望むのだろうな、と思います。

本書の主人公は決して、「自由」を望んでいたわけではありません。破天荒(と一言で要約出来ない人物ですが)な夫との生活の中で様々な辛いことがありながら、主人公はなお夫との生活を続けたい、と考えます。明らかにそれは、「自由」でも、「今ここではないどこか」でさえもありません。そういう意味で、ここまでで「自由」についてあーだこーだ書いてきたことはある意味では的外れでもあります。しかし、僕は本書を、「自由」に気づくまでの物語、だと感じるのです。求めていたわけではない「自由」にたどり着くまで、そしてたどり着いてからを描く小説です。

主人公は、子どもの頃は母親から「あんたなんか産まなきゃ良かった」と言われ、酔った父親からは殴られました。そして、17歳年上の破天荒な映画監督と出会い一緒に生活するようになってからは、お金のことも含めてあり得ない程のしんどい状況に何度も直面することになりました。ある意味で、自由に生きることを理解できないままずっと生きてきたと言えるかもしれません。ずっと暗闇の中にいた人が急に陽の光の元に出てきたように、自由を知る由もなかった人が自由と出会った時、それまでの人生を振り返ってどう感じるのか。それをおさらいしていくような小説なんだろう、と感じました。

僕はこの物語が、実話を基にしていることを知っている。どこまで事実なのか分からないが、細部はともかく物語の大筋は恐らく事実を基にしているだろう。だからこそ、主人公の感覚がリアルなものなのだと、余計に感じることが出来る。

内容に入ろうと思います。
五十嵐豊子は、映画監督の夫と離婚して、娘の宝子と二人暮らし。長男の昇太は、父親についていった。
才能ある映画監督として評価されている夫は、しかし人間としてはダメだった。少なくとも、夫としては。特にお金のことは大変だ。豊子は、映画監督という仕事はお金が入ってこない時期もあることは理解していたし、そもそも養ってもらおうという意識がないから生活はすべて自分で稼いだお金で成り立たせていた。それだけなら全然良かった。しかし夫は、金策に困ると泣きついてきて、その度に百万円単位のお金を要求した。豊子が離婚を決意したのは、マンションを買った残りの197万円、子どもの養育費や生活費のために取っておいたそのお金をすべて無断で飲み食いに使ってしまったことだった。勝手に使っておきながら悪びれもしない。もう無理だと思った。
夫の仕事のことは尊敬しているし、散々酷い目に遭わされても夫のことを完全に嫌いになることは出来ない。しかし、『わたしは、この人の妻であることが心底恥ずかしかった』という気持ちは拭えなかった。だから離婚を決めた。
とはいえ、離婚を決めてからも、ちゃんと離婚した後も、やっぱり夫は迷惑で愛すべき存在なのだった…。
というような話です。

僕自身は、本書で書かれていることが実話を基にしているんだということを知っているので、書かれていることを受け取ることが出来る。しかし僕は思う。本書を、実話を基にしているわけではない、純粋な小説として読んだ場合、どんな風に読まれるんだろう、と。そこが僕にはちょっと想像が出来ない。

豊子の判断や行動は、少なくとも傍から見れば非常に不合理で、何でそんなことしてるんだろう?と思えてしまうようなものだ。それは、豊子自身も自覚している。自覚していて、でもそうしてしまうのは、やはり夫に対するひとかたならぬ感情があるからだ。

『わたしは、夫には、なんとしてでも勝って欲しかった。このまま終わっていい人ではないからです』

『わたしは、あの人が困っているのを見るのが嫌でした。困っているから助けたかった。ただそれだけです』

『わたしは、あの人に買物をするのが好きでした。シャツや小物も変わった物、癖のある物を見つけると「似合うだろうな、喜ぶだろうな」と思って買うのが楽しかった。そして、実際よく似合うのでした』

この感情にどう名前を付けたらいいのか、本書を読んだ人はなかなか悩むだろうと思います。とても広い意味での「愛」と呼ぶことは出来るのだけど、純粋な愛情なのかと言うとそうではない。ここでは具体的には書かないけど、本書の中で主人公は、夫に対してこれでもかと罵詈雑言を繰り出します。しかし、そう思う一方で、夫に対する親愛の気持ちもあるのです。ありきたりですけど、やはりこれは「情」と呼ぶようなものなのかなと思いました。

この主人公の感覚を、どこまでリアルなものとして捉えることが出来るのか。そこのイメージがなかなか掴めないなと思います。主人公と似たような状況に置かれている人、置かれた経験のある人であれば凄く共感できるでしょう。しかし、そうではない場合、この主人公の言動にどこまで理解が及ぶのだろう、と考えさせられてしまいました。

主人公が色んなことをスパスパっと切り取っていく様は面白いと思います。主人公は、主人公なりの論理で、世の中の普通や当たり前を斬り、乗り越えていきます。価値判断を他者や集団ではなく、自分はどうか、という部分で判断していくというのは、なかなか出来ることではありません。主人公は、「普通の家族」や「当たり前の日常」みたいなものからいつの間にか逸脱してしまったわけで、その環境で生きて行く中で、その日常を肯定するために、普通や当たり前の方を変えていくしかなかったんだろうと思います。本書を読むと、僕らが普段当たり前だと思っていることが、案外当たり前のことでもないのだ、ということが理解できるでしょう。

本書の中でもう一つ興味深い話がありました。

『夢を持つということは、人間にとっていいことなのかどうか、わたしにはわかりません。夢なんてなくても人は、ちゃんと生きていけるのです。派手な夢がかなった人だけ、「夢は必ずかなう」と言いますが、わたしは夢がかなわなかった人を、たくさん知っています。夢より大事なことは、生きていくのに必要なお金を自分で稼ぐこと、やらなければならないことを一生懸命することだと思っています』

夢を持つことが、逆に生き方を制約するのだ、というのは僕も昔からずっと考えていました。夢が叶わなかった場合の人生までまるごと許容できるなら夢を追ってもいいでしょうけど、そうでもないなら、一つのことに自分の行く道を集中させない方がいいだろうと思います。また、夢を持つことで、夢が叶わなかったら不幸だ、という考えが生まれてしまうことにもなるでしょう。そんなものない方が、全体的には幸せになれるのではないかと持っています。

本書では、主人公の夫の周りに、俳優になりたいという夢を持った人が大勢集まります。彼らは、そんな夢を持ってしまったが故に、「夫の世話をする」という不毛な時間を過ごさざるを得なくなります。他人の善意を一片の呵責もなく受け取れる人間に対して奉仕することの無意味さみたいなものを、感じ取ることが出来る作品でもあります。持っている夢を捨てろとまでは思わないけど、夢なんか追わなくても生きていけるという考えを持つことは大事だろうなとは思います。

一人の女性が「自由」までたどり着き、しかし「自由」に生きることの難しさを体感する物語です。彼女ほど極端ではないにせよ、僕を含め多くの人が何かに囚われながら生きていることでしょう。そこからいかにして逃れるのか、そしてそもそも逃れることが正解なのか―そういうことを考えさせる物語だと感じました。

鈴木マキ子「おめでたい女」

重力波は歌う アインシュタイン最後の宿題に挑んだ科学者たち(ジャンナ・レヴィン)



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物理学という学問は、大きく二つに分けることが出来る。一つは、理論物理学、もう一つは実験物理学である。名前の通り、前者は理論を考える、そして後者は実験して証明するのだ。両方やる物理学者もきっといるんだろうけど、大体はどちらかがメインになってくる。

そして本書は、実験物理学者たちの奮闘の物語だ。だから、「重力波」に関する学問的な説明や、何故そういう予測が生み出されたのか、という背景的な話はほとんど出てこない。本書は、「レーザー干渉計重力波観測所(LIGO)」という超巨大施設が重力波を観測するまでの、実験物理学者たちの人間模様が描かれる作品だ。そういう意味で本書は、文系の人でも読める本だ(ところどころ、難しい話はあるし、イメージ出来ない実験施設の話が続くが)。

個人的には、理論がどう生まれたのか、という話の方が好きなので、そういう意味で僕の中ではちょっと劣る作品ではありました。けど、物理学の実験規模の変遷を考えた場合、こういうゴタゴタした人間模様は不可避なんだろうなということが感じられて面白いと思いました。かつて物理学の実験は、一人で自作出来るレベルのものだったのだけど、今では多数の科学者が寄り集まって協力して一つの成果を追い求めなければならなくなった。少し前に話題になった「ヒッグス粒子」も、そういう多数の科学者の協力の元で発見されたものだ。物理学者に限らず、科学に携わる人間は、その圧倒的な才能と比例するようにして個性の強い者も多い。そういう人間をいかに統合し、統合しようとして出来ず、あらゆる衝突や論争を繰り返しながら、それでも科学に携わる者として真実を掴み取る成果は得たいという共通認識がなんとか彼らを一つにしていく過程みたいなものが面白いと思いました。

本書で書かれている流れにざっと触れてみましょう。

まず、本書の副題にもあるように、「重力波」という概念はアインシュタインによって生み出されました。彼が発表した相対性理論の帰結として、「重力波」という存在をアインシュタインは予測したのです。説明は難しい(僕もちゃんと理解していない)ですが、僕はこんなイメージで捉えています(正しいかは分かりません)。大きな布をピーンを張った状態を想像してください。四隅の角を持って引っ張ってるイメージです。でその布に、屋上から大きな鉄球を落とす。すると、鉄球は布の上を何度かバウンドしながらやがて止まります。そのバウンドしている間、布は上下に揺さぶられます。この上下の揺れを「波」と捉えたものが「重力波」です。

このイメージを使うと二つのことが理解できます。一つは、鉄球が大きければ波も大きく、小さければ波も小さいということ。つまり、大きなエネルギーを持っているものがそのエネルギーを放出するような現象の際に、「重力波」は大きく発生するということです。またもう一つは、鉄球が落ちた場所から遠ければ遠いほど波は小さいということ。つまり、地球から遠く離れた現象であればあるほど、地球に届くまでに「重力波」は小さくなる、ということです。

さて、実際にはどれぐらいの大きさのエネルギーの現象の時に、地球にやってくる「重力波」はどういう挙動をするでしょうか。

まず、二つのブラックホールが衝突する場合のことを考えてみます。この時に放出されるエネルギーは、『太陽10億個分の一兆倍を上回る』そうです。では、そんな天体現象から発生した「重力波」が地球に届いたらどんなことが起こるのか。こちらの説明としては、「LIGO」がどれぐらいの精度で測定が出来るのか、という記述を引用してみます。『(L字の)片方の移動距離がたとえば陽子の大きさの一万分の一長いか短いかすると、移動時間に一兆分の一の一兆分の一の一〇〇〇分の一秒(10の27乗分の一秒)の差が出る』 「重力波」が、どれほど検出しにくいか、イメージしてもらえるでしょうか?

アインシュタインは、理論的に「重力波」は予測できるが、あまりにも小さすぎて測定することは不可能だろう、と言ったそうです。結局これが、相対性理論に関してアインシュタインが残した最後の予測ということになりました。

この「重力波」に、様々な人間が様々な形で関わります。その代表的な人物が、ライナー・ワイス、キップ・ソーン、ロン・ドレーヴァーの三人です。ワイスは「重力波」を検出するための「俳句のようなシンプルな干渉計」を思いつき、ソーンは「重力波」を理論的な側面から攻め、ドレーヴァーはお金の掛からない独創的で天才的な実験を次々に生み出していました。彼らは、「重力波」どころか、ブラックホールすらまだ実在が懐疑的とされていた時代に、いかにして「重力波」を検出するかをそれぞれ独自にアプローチしていきます。しかし、「重力波」がもし存在するとしても、あまりの小ささに規模の小さな実験施設では検出は不可能であると判断し、ワイス、ソーン、ドレーヴァーの三人は「手を組む」ことにします。しかし、この三人のチームワークは最悪だった。とにかく色んな人間関係のゴタゴタが起こったが、辞めさせられたり辞めたり新しく引っ張ってきたりというような形で、不本意な形で「LIGO」から手を引かざるを得なくなる者も出てきた。

そうやって「LIGO」は超巨大プロジェクトとしてなんとか体裁を整えていくのだけど、しかしこの「重力波」プロジェクトには忘れられがちな先駆者がいる。ジョー・ウェーバーである。ウェーバーは、かなり不遇の研究者人生を送ってきた。世紀の大発見にあと一歩のところまで近づきながら逃した、という経験を何度もしているのである。研究者としては非常に優秀だったが、運に恵まれていなかった。
そんなウェーバーは、独自に「重力波」の研究を進め、なんと「LIGO」の建設が始まる遥か以前に「重力波」を検出した、と発表したのだ。しかしこの成果は、すぐさま物理学の世界で受け入れられなかったどころか、非難が集中することになった。実際のところ、ウェーバーが観測したものが何だったのか、今となっては確かめようがない。しかし、「重力波」である可能性は低かったのではないか、と考えている者が多いようだ。僕も、そう考えるのが妥当な気がする。2億ドル以上のお金を掛け、1000人以上の科学者が関わる実験装置(LIGOのことだ)でようやく検出出来たものが、それがどれほど秀逸なものであっても、たった一人で組み立てた実験装置で検出出来たと考えるのはなかなか難しい。

ウェーバーが「重力波」を検出した、と発表したことは、実は「LIGO」の建設にも支障を来すこととなった。「LIGO」はあまりにもお金の掛かるプロジェクトであるが故に、予算を獲得するために政治と関わらざるを得なかった。しかし、ウェーバーの発表は、物理界のみならず、政界においても「重力波」への不信感を増すこととなった。「LIGO」建設には、こういう様々な障害が待ち構えていた。科学者が真理を求めて実験する、というだけではどうにもならないような、あらゆる種類の戦いに挑まなくてはならなかったのだ。

しかし、その成果は報われた。2015年、アインシュタインの相対性理論が発表された1915年からちょうど100年後に、「重力波」は検出された。これによって、今までは間接的にしかその存在が証明されていなかったブラックホールも実在が証明されることとなった。

「重力波」がこれから天文学をどう変えていくのか。新しく生まれる「重力波天文学」では、これまでは見ることが出来なかった宇宙の姿を見ることが出来るかもしれない。これまでは、「光」によって宇宙を捉えていた。望遠鏡などの観測装置は、すべて「光」を捉える仕組みである。しかし、ブラックホールなど、光では捉えられない天体も存在する。宇宙の全質量の94%は、「ダークマター」「ダークエネルギー」という「光では捉えられないもの」だという話もある。「重力波」は、「光」が通り抜けることが出来ない場所もすり抜けることが出来るので、「重力波」を使うことで僕らは新たな「目」を手に入れることが出来ると期待されているのだ。

こういう奮闘が、僕たちの世界を押し広げていくのだ。「重力波」が何に役に立つのか、という問いは愚問だ。例えば、アインシュタインの相対性理論だって、相対性理論に並ぶ重要性を持つ量子論だって、生まれた当初は現実の役に立つものではなかった。しかしやがて、相対性理論はカーナビの技術に、量子論はテレビの技術に不可欠なものだと分かってきた。数学の世界で言えば、誰もが学校で習うあの因数分解が、僕らの日常を支える暗号技術に応用されているのだ。「重力波」も、今はまだその真価を理解できないかもしれないが、いつか僕らの生活にも関わってくる日が来るのではないかと思う。

ジャンナ・レヴィン「重力波は歌う アインシュタイン最後の宿題に挑んだ科学者たち」

奇跡の人(原田マハ)



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常々僕は、「伝える」ということは「変換」だと思っている。当たり前だ、と思う人もいるかもしれないが、世の中を見ていると、そのことが理解できていないように思える人を結構見かける。

僕には、「伝える」を「頭の中のものを言語化する」ということだと思っている人が多いように感じられる。もちろん、その側面はある。というか、頭の中にあるものを言語化しなければ、何も伝わらないのは事実だ。しかし、それでは絶対的に足りない。

「伝える」というのは、相手の関心や知識不足に応じて、「頭の中のものを言語化して、さらに変換することだ」と。

例えば、子どもに勉強をさせたいと思っている親がいるとする。親は、自分の頭の中に「勉強をさせたい」という思いがあるから、それをそのまま「勉強しなさい」という風に言語化する。しかし、これでは相手には届かない。子どもが勉強しないのは、勉強したくないからであって、そんな子どもに「勉強しなさい」とだけ言って勉強するようになるはずもない。

さて、もしその子どもがゲームが大好きで、将来ゲームを作る人になりたい、と思っているとしよう。もしそうであれば、僕はその子に「数学」と「英語」に関心を持ってもらえるような話が出来るかもしれない。

以前ネットで、恐らく世界的に有名なプログラマーなのだろう人が、「プログラマーになるにはどんな勉強をしたらいいか?」という問いに答える記事を見かけたことがある。そのプログラマーは、「何を措いても数学と英語を勉強しろ」と回答していた。何故か。

まず、最先端のプログラミングには、確実に数学的な知識が必要になってくる。プログラミング言語は扱えるけど数学は不得意、というのは、例えていうなら、人物を描くのは得意だけど背景を描くのは苦手、みたいな感じだろうが。マンガであればその辺りは分業でやる仕組みが整っているが、プログラミングは限りなく個人的なものなので、独力で完成させることが多い。その時、自分の内側に数学的な知識がなければ、トップを狙うようなプログラミングは組めない、ということだった。

英語については、もっと話はシンプルだ。プログラミング言語というのは日進月歩で、日々新しいものが生まれる。それらは日本で誕生することもあるが、これまで生まれたプログラミング言語もほとんどは欧米で生まれている。となれば、プログラミング言語に関する最新の情報を手に入れるためには、英語が読めなければ話にならない、という理由だ。

子どもにこういう説明をして、「一流のプログラマーになるには、何が何でも数学と英語が出来ないとダメだ」と伝えれば、もしかしたら子どもは勉強をするようになるかもしれない。

僕は、これを「伝える」ことだと思っている。

僕は日々仕事で、「伝える」ことを意識しなければならない状況にいる。もちろんこれは、広い意味で捉えれば、働いている人の多くがそういう状況にいることだろう。上司への報告、部下への指示、クライアントへの説明、顧客へのアピール…。「伝える」ことが求められる状況というのは多岐に渡る。

その時に、「変換」という意識があるかないかで大きく結果が変わってくるだろう。「自分が何を伝えたいのか」を意識することはもちろん大事だ。しかしそれ以上に、「それを伝えるためにどう変換しなければならないか」ということが最も大事なのだ。

そして、それをするために、相手のことを知り、想像する意識を持たなければならない。

相手に自分の言いたいことが伝わらない時、相手の理解力のせいにしたがる人がいる。しかし、ほとんどの場合、それは言いがかりだ。100%とは言わないが、ほとんどの場合は、伝える側の能力に問題がある。

読みながら、そんなことを考えさせられる作品だった。

内容に入ろうと思います。
「重要無形文化財」の制定前夜、文部省の役人二人は猛吹雪の中青森にいた。重要無形文化財の制定のために尽力した男が、その人のためにこの法整備をしようと思い立ったのだ、と熱弁を振るう三味線弾きがいる。キワという老婆は、しかし彼らの前で三味線を弾こうとしない。もう自分は弾くのをやめたのだ、と。しかし一人が、“あの人”が望んでいるとしたら?と耳打ちする。途端、キワの反応が変わる。
“あの人”―「奇跡の人」と称された、三重苦を背負ったれんである。
去場安は、明治4年の岩倉使節団の留学生として、9歳でアメリカに渡った。日本初の女子留学生である。幼い頃から弱視であった安を心配した父が、アメリカで教育を身につけることで安の将来を照らそうとしたのだ。22歳で帰国した安は、自分が学んだすべてを日本の女子に学んで欲しい、そのためには人生を捧げてもいい、と考えていたが、日本では未だ「女はしょせん子供を産み育てるために存在するもの」と捉えられており、安の理想を実現できるような場はどこにもなかった。
そんな折、父が安を留学生として推挙した伊藤博文から、安の元へと手紙が届いた。そこには、青森県に住む一人の少女のことが綴られていた。その少女は、目が見えず、耳も聞こえず、口も利けないのだという。こんな少女の教育に、興味がおありですか?
伊藤博文からのそんな申し出に、安はすぐに飛びついた。そして6日掛けて青森までやってきたのだ。
青森でも有数の富豪である介良家は、当主・貞彦を筆頭に大きな屋敷住まいである。そこに、れんはいた。奥の座敷に幽閉されるようにして、獣のような扱いを受けていたのだ。
れんを救ってみせる―。安は、途方もない道のりを予感しながら、れんの教育へと身を投じていく…。
というような話です。

これは素晴らしい小説だったなぁ。いや、一点、捉え方の難しい問題があるのだけど、そこを気にしなければ凄く良い物語だと思いました。

その問題について先に触れておきましょう。本書は、「去場安」「介良れん」という名前からも分かるように、あきらかに「サリバン先生」「ヘレン・ケラー」をモデルにした小説です。そして僕が感じる難しさというのは、本書の素晴らしさというのは結局、ヘレン・ケラーの素晴らしさなのであって、小説としての素晴らしさではないのではないか、という点です。

ここは正直、読む人によって評価は分かれそうな気もします。僕は正直、ヘレン・ケラーの話はあまり詳しく知らないので、本書を通じて、いかに「三重苦」と呼ばれた困難を乗り越えていったのかを知った、というところがあります。だから、純粋に楽しめました。しかし、ヘレン・ケラーの生涯について比較的知識を持っている人からすれば、ヘレン・ケラーは確かに凄いけど、その生涯を舞台を日本に変えて書いただけでしょう、と思うかもしれません。これはあくまでも僕の予想でしかないので、実際にヘレン・ケラーを詳しく知っている人がどう反応するのかは不明ですが、その点はもしかしたら違和感を覚えてしまう人もいるかもしれない、と感じました。

しかし、僕としては凄く良い小説だなと思いました。ヘレン・ケラーがどんな環境で育ったのか僕は知りませんが、本書ではれんが非常に厳しい環境に置かれています。1歳になる直前に高熱で生死の境を彷徨ったれんは、その時を境に三重苦を抱えてしまう。以来、物を壊したり暴れたりを繰り返し、ついには蔵に押し込められ、いないものとして扱われてしまう。とはいえ、人の口に戸は立てられないもの。れんの存在が障害となり、長男の縁談がことごとく破談になってしまう、ということを繰り返していた。そういう意味でも、れんは厄介者でしかなかったのだ。

そんなところに、安はやってきた。安にとっては、れんとの関わりは試練の連続だった。もちろん、れん自身にも手を焼かされた。初めは、暴れ、噛みつき、ひっかき、というようなことを繰り返した。安も生傷の絶えない日々を過ごした。しかし、そのことには安は落胆しなかった。れんは、見えない聴こえない喋れないという真っ暗闇の状態の中で、女中からいじめを受けながらもなんとかここまで生き延びてきたのだ。9歳で一人でアメリカに生かされた安でさえ、耐えられるとは思えないような状況であり、そんな状況に置かれたれんが粗暴な振る舞いをしてしまうのも仕方ない、と思ったからだ。

安を絶望させたのは、介良家の面々である。れんに酷い振る舞いをしていた女中たちのみならず、当主の貞彦は、れんがあの高熱で死んでしまえば良かったというような発言をし、また、れんが長男の縁談の邪魔にならないような振る舞いをさせてくれさえすればいいのだ、という、安の目標からすればとてつもない低い期待しかしていないのだ。屋敷で働く女中たちには派閥があり、自身も弱視である安自身も嫌がらせを受けることがあった。れんの母・よしに対してさえ、安は憤りを抱く場面がある。

三重苦を抱える少女の教育というだけでもとてつもない労力なのに、屋敷の人間が協力的でないということがさらに安を苦しめていく。この辺りの描写は、当時の日本ならではという感じだろう。安は、アメリカで教育を受け、「自由」という言葉を理解して使える女性だ。しかし、当時の日本はまだ家父長制が強く、また青森という地方においては古い因習も捨てきれない。そういう土地で、安のようなしがらみのなく理想を追求しようとする女性は、とてつもない窮屈を味わうことになるのだ。

しかし安は、どれほど状況が厳しくても諦めなかった。それは、れんのことを信じていたからだ。教育を始めた当初から、安はれんの聡明さを感じ取っていた。彼女は、見えない聴こえない喋れないだけで、人間として持っているべき当然の能力は持ち合わせているのだ、と。であれば、あとは彼女に、三重苦であるが故に自然には身につかない様々な事柄を根気よく教えていきさえすればいい。先に希望が見えていたからこそ、安は諦めることがなかったのだ。

物語的に良いなと感じる場面はいくつもあったが、やはり一番印象的だったのは、長男の縁談の関係で、名家の家長が屋敷にやってきた時の話だ。この時に何が起こったのか、詳しいことはここでは書かないが、幾人もの人間が持つ暖かさみたいなものがすべて良い方向に作用し、類まれな結果を生み出した場面だった。素晴らしいと思います。

そして大事なことは、本書は超特殊な事例を扱った小説ではあるのだけど、「伝える」という観点からすれば誰にでも有用だろうと思われる知見を自然と与えてくれる作品だということだ。冒頭で書いたように、「伝える」というのは「変換」だ。安は、どう変換すればれんに伝わるのかを考え続けた。そして、その努力の積み重ねが奇跡を生み出した。「伝える」ことの難しさに行き詰まっている人は、そういう観点からも楽しめる作品ではないかと思う。

原田マハ「奇跡の人」

警視庁特別取締官(六道慧)



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内容に入ろうと思います。
星野美咲は、ある理不尽な理由から警視庁捜査一課から交番勤務へと格下げされた。捜査一課にいた頃は「謎解きマイスター」と呼ばれていたにも関わらずだ。その後また捜査の現場に戻ってくることが出来た。
しかしそれは、美咲と、年若い上司二人のみの、「警視庁分室特別取締班」という小さな所帯だ。上司で鷹木晴人は、生物学者兼獣医という警視であり、警視庁の屋上に設けられたオフィスは半分が温室である。「プレハブ造りの天空捜査室」の他の住人は、キナコとサスケという二匹の猫たちである。
特別捜査官である二人は、『世の中の、すべての悪を取り締まる!』をモットーに、主に動物虐待などの方面から犯罪を掬い上げていくのを目的としている。
ある日、通報があった。住人から、隣家のインターホンを押しても応答がない、何かあったのではないかというものだ。通報者の佐竹絹江は、隣家の寺西家とは懇意にしているとのこと。猫を多頭飼いしているということで、彼らに話が回ってきた。
寺西家の中は悲惨といっていい状況だった。猫の糞などがあちこちに付着し、片付けもまったくされていない。そしてその中で、主の幸輔氏が倒れており、そしてその妻・真梨子氏が亡くなっていた。
状況に不審なものを感じた美咲は、真梨子の司法解剖を依頼、また独自に捜査を進めていくことにした。そしてその過程で、幸輔・真梨子の息子である寺西英輔と出会う。英輔氏は大麻所持の現行犯で逮捕された。英輔には、妻・小雪との間に子どもがおり、それでいて夫婦ともに働いている気配がない。生活保護や育児手当などで生活しているようだが…。
というような話です。

全体的には、まずまず面白い、と言ったところです。とても読みやすいので、スイスイ読める感じはします。

しかし、本書を読みながら一番困惑したのは、謎の中心となっているものが何なのかうまく捉えきれなかった、ということです。というか、美咲が一体何に不審さを感じて捜査を続けているのか、イマイチ掴めなかった、という感じです。

上記の内容紹介では、幸輔・真梨子夫妻の家での不審な状況から物語がスタートします。しかし、あくまでもここは、謎の起点でしかありません。本当の謎は、英輔・小雪夫妻にあります。しかし、なかなかそこにたどり着かない。物語の構造は、

「① 幸輔・真梨子夫妻の家で変な状況がある」

「② その後、色々ある」

「③ 英輔・小雪夫妻の謎がなんとなく明らかになる」

という過程を経るのだけど、まず①から③にたどり着くのに時間が掛かる。さらに最終的に③について物語を展開させたいのは分かるのだけど、①②の段階で英輔・小雪に疑惑の目を向ける積極的な理由がないように思えてしまう。さらに、①と③が正直あんまり関係がないから、③を描きたかったのは分かるんだけど、①を起点にする意味あった?と感じてしまいました。

この辺りのことは、気にならない人は全然気にならないかもしれないけど、僕はちょっと気になってしまいました。なんかちょっと違うんだよなぁ、という感覚を拭えないまま読み終わりました。

とはいえ、全体的に面白く読めたのは、一つには鷹木晴人の造形がなかなか秀逸だったということがあります。生物学者兼獣医で警視という、正直意味不明な設定なのだけど、その意味不明さを物語の中にうまく取り込んでいる。美咲と晴人がコンビを組んでいるからこそこじ開けることが出来る扉というのがいくつもあって、特異すぎて物語に絡ませるのが難しそうな晴人の設定を実にうまく取り込んでいるなと感じました。

また、美咲の過去の事実を知ると、なんとなく美咲を応援せざるを得なくなっていく。正直に言って許しがたいだろう状況に美咲は置かれているはずだが、そんな自分の境遇を過大に嘆くでもなく、自分がやるべき眼の前のことに注力していく様は、なかなか良い。晴人と美咲のキャラクターで読ませる小説だなと感じました。

正直、ストーリー的にはちょっと難ありという感じではあるが、設定や人物描写がなかなか秀逸だと思ったので、トータルではなかなか面白く読める作品だったなと思います。

六道慧「警視庁特別取締官」

満天のゴール(藤岡陽子)



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誰かが死ぬことについて、そして、自分が死ぬことについて、特に何も感じることが出来ない。ずっと。たぶん僕の内側にある何かが壊れているんだろう、と思っている。

多少なりとも、身近な人間の死を経験したことがある。その度に、自分の心がぴくりとも動かなくて焦った。「誰かが死んで悲しい」とか「誰かが死んで辛い」というような感情を自分が持つことがあるのか、今でも疑問に思っている。

自分が死ぬということにも、あまり何も感じることがない。僕は時々、自分が癌になったらどうするかを考える。癌が判明した年齢に関わらず、僕は治療や手術をしないのではないか、と思う。昔、自殺しようとして出来なかったことがあった。自分で自分の命を断つのは無理だな、とそれ以来思っている。しかし、癌を放置することは、ある意味で「緩やかな自殺」みたいなもので、そんな風に死んでいくのはアリなのではないか、とよく思う。

自分が死ぬということについて今の僕が関心があるのは、いざ死に直面した際に、今抱いているこの考えが変わるかどうか、だけだ。変わるかもしれないが、あまり期待は出来ない。

人生は死を迎えるまでの長い長い暇つぶし、というようなことを誰かが言っていた(松尾スズキだったかな?)。僕も、人生をそんな風に捉えている。暇つぶしをこれ以上しなくて済む、という意味で、死を迎えることは悪くないような気がしてしまう。

だからだろう。「死」というものをどうも、真剣には捉えられない。

時代によって、「死」の捉えられ方は変わっている。「死」が当たり前の時代もあった。「死」を再生と捉える宗教観もある。その時代時代の「死」の捉えられ方が、当然文学にも反映される。

僕は、周りの人間がよく「長生きはしたくない」と言うのを耳にする。僕も同感だからこそ、そういう声が集まってくる、という可能性もあるが、恐らく一昔前よりも、「長く生きること」に価値を置かない人が増えてきているように思う。そういう世の中で描かれる文学を、先取りして読みたい気持ちになることはある。

内容に入ろうと思います。
川岸奈緒は、10歳になる息子・涼介を連れて、京都の海辺にある実家に戻ってきた。母が亡くなって実家を飛び出して以来、二度と戻ってこないつもりだったのに。奈緒は、ちょっとしたきっかけで夫・寛之の浮気を知ってしまった。問い詰めると、結婚するつもりだから別れてくれと開き直られた。対抗するために、涼介を連れて実家に身を寄せたのだ。
実家には、年老いた父が一人で暮らしていた。父には離婚の危機であることは言わず、涼介の夏休みの間、少し寛之を困らせるだけの滞在のつもりだったが、着いて早々状況が変わる。父が事故に遭い入院することになったのだ。比較的近くに住んでいる兄夫婦も来られないと分かり、奈緒は結果的にしばらく実家に腰を据えることになってしまった。
父の事故の際に助けてくれた海生病院の医師・三上と、実家の近くに一人暮らしをしている老女・早川と知り合いになった。結局離婚を決意することになった奈緒は、かつてとって看護師資格を活かして海生病院で働くことにした。そこで奈緒は、三上が過疎地域で地域医療に奮闘している姿を知る。また、度々体調を崩して倒れる早川は、これまでも、そしてこれからも特に何もない人生を歩むことへの諦念みたいなものを会話の中ににじませる。
奈緒・涼介・三上・早川。この四人の関わりが深まった時、一つの奇跡が起こる…。
というような話です。

冒頭で書いたように、どうにも僕には「死」というものをうまく捉えられない性質があるので、「死」をテーマにした小説というものに何かを感じることがなかなか難しい。前提として「死ぬことが悲しいことだ」と思っていないし、前提として「死ねるなら早く死にたい」と思っているので、一般的な感覚でこういう小説を受け取ることがなかなか難しい。

もちろんこの作品は、決して「死」だけを扱った作品ではない。しかし、冒頭の奈緒の離婚のドタバタは置いておくとして、本書はやはり最初の方から、「死」の匂いをまとったもので物語を牽引していく。それ以外にも何か物語の原動力があればまた読み方は変わったかもしれないが、あまり強くはその要素を感じることが出来なかった。

個人的には、奈緒と寛之の離婚のドタバタの方が気になった。寛之というのはかなり自己中心的な男で、開き直っておきながら自分の正当性を主張して離婚を迫ろうとする。専業主婦で、財布の紐も握られていた奈緒には、為す術もない、という状況だ。結果的には奈緒は比較的早く離婚する決断をして、寛之は物語から退場してしまうのだけど、そちらの話も継続して物語に関わってくれたら良かったな、と思いました。

僕の本書に対する感じ方がまともだとは思っていません。普通は、「死ぬことは悲しいこと」だと思っているでしょうし、「出来るだけ長く生きたい」と思っているでしょう。そういう前提を持った人が読めば、彼ら4人を中心とした物語は胸に迫ってくるものがあるのだと思います。僕にはどうしてもそういう感じ方が出来ないので、こういう物語をうまく消化できないのが残念だなと思います。

こういう物語をちゃんと受け止められる人間に生まれたかったな、と思います。

藤岡陽子「満天のゴール」

自信 心を強くするのは、それほど難しくない(加藤諦三)



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ちょっと不思議な本だった。
というのは、凄く読みにくい本だったからだ。

加藤諦三氏の本は初めて読んだが、なんとなく読む前のイメージでは、読みやすい文章を書く人なのだと思っていた。というのも、この著者は出す本が軒並みベストセラーみたいな人だからだ。

けど読んでいて、どうにもスイスイ読めないと思った。僕の受け取り方的には、「文章が下手だなぁ」という感じだった。もうちょっとどうにかならんもんかな、と。

本書は、「自信」「不安」「依存」と言ったようなことについてあれこれ掘り下げている本だ。6つの章があり、それぞれの章の中でも小見出しで記述が分かれているのだけど、とにかく記述にまとまりがない。個人的な印象では、もっと構成をすっきり変えられるはずだ。例えば、

「自信を持てない人が生み出される環境にはどういうものがあり、そこでどういうやり取りが行われているかを、「友人」「家族」「会社」など具体的な環境毎に分けて書く」

「そういう環境に置かれている、自信の持てない人が、具体的にどんな思考で物事を捉えているのかをさらに掘り下げる」

「自信がないがそのことを認められない人への対処法、自信がなくそのことを認識できている人への対処法、そして自信がない人が周りにいる人への対処法などに分けて対処法を書く」

みたいに内容を分けて、本書の中でバラバラにあちこちに書かれている事柄を再編させれば、もっとすっきりするのではないかと思う。

とにかく読んでいて、著者が今から何の話をしようとしているのかが全然分からないので、ついていけない。さらに、説明していない用語がポーンと出てきたり、ある事柄とある事柄を繋ぐ理屈がすっ飛んでるように思える箇所もあって、読者が共有出来ていない前提を踏まえないで書いてしまっているように感じた。

書かれている内容には共感できる部分が多かったので、なおのこと、この読みにくさは不思議で仕方なかった。

中身としては、あちこちに色んなことが書かれているのでちょっとうまくまとめられないが、大雑把にこんな風に要約できるだろう。

「自信のない人は、依存性の強い人に操作されてしまう。自信がないからこそ操作され、操作されるから自信を無くす、という悪循環が生まれる。そしてその原因は、自己主張をしない、あるいは封じられてきたからだ」

こういうようなことについてあれこれ書いている。

本書に書かれているような人には、思い当たるフシがある。本書では「自信のない人」を二種類捉えている。一つは「自信がなく、表向きもそう見える人」、そしてもう一つは「自信はないが、それを隠すために攻撃的になる人」だ。どちらも、現実世界で当てはまる人を思い浮かべられる。

僕としては、前者の方が、自身の抱えている問題を認識しやすいはずなので、まだ対処のしようがある。「自信がなく、自信がなさそうに見える人」というのは、「自信がない」という自分の状態を受け入れているので、その原因を指摘されたりしても感情的にならない可能性が高い。

でも後者のような人は、自信がないということを認識できていないから難しい。そういう人に、自信のなさの原因を指摘しても、受け入れないだけじゃなくきっとキレるだろう。こっちのタイプの人の方が、対処が困難だ。

本書では、自信がない人に向けて、「逃げない」「自己主張する」「自分を偽らない」など色んなアドバイスをするのだけど、正直現実的じゃないよなぁ、という気はする。そんなことが出来る人なら、今のような状態になってないだろ、と思ってしまう。ちょっとモヤモヤする。

あと、もう一つモヤモヤするのは、推測が多すぎるということ。著者は心理学者で、恐らく自分が関わったケースについては守秘義務的なことがあって具体的なことが書けなかったりするのだろうが、それにしても「~だろう」という表現がメチャクチャ多い。心理学者ならもう少し根拠を示してくれてもいいのになぁ、と。あと、根拠がなくても推測にならない話としては、自分自身のことというのもあるが、自分自身の話も少なかったので、結局他者に対する推測ばかりになってしまう。この点も、ちょっとなぁ、という感じがしました。

良いことが書いてあると思うので、ちゃんと再編集して出し直したらいいと思うんだけどなぁ。

加藤諦三「自信 心を強くするのは、それほど難しくない」

屍人荘の殺人(今村昌弘)



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新人のデビュー作とは思えない、かなりレベルの高い作品だった。
鮎川哲也賞は、去年の「ジェリーフィッシュ~」も相当レベルが高かった。
賞全体のレベルが上がっているのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
神紅大学に入学した葉村譲は、ミステリ研究会に入ろうとしたが、所属しているメンバーが古典的なミステリ作品を全然読んでおらず断念。そんな折に知り合ったのが、ミステリ愛好会の会長である明智恭介だ。会長と言っても部員は彼だけ、しかしミス研なんかとは比べ物にならない知識量であり、葉村はミステリ愛好会に入ることになった。そこで、勝手に学食にいる生徒の昼食を推理する、などという無益なことをしている。
明智は、謎解きに魅入られているようなところがあって、空気も読まずにあちこち首を突っ込んでは探偵役を張り切っている。とはいえ、大した活躍はしていない。そんな明智が、映画研究部の夏合宿の話を聞き及んできた。何でもOBの親が持つペンションをただで開放してくれるとのこと。事件の匂いがするから是非参加したいと言って聞かないのだが、映画研究部の部長である進藤に何度頼んでも断られている。
そんなある日、喫茶店でお茶をしていると、美女が二人の元にやってきた。剣崎比留子と名乗った彼女は、是非とも映画研究部の合宿に潜り込みたい、自分と一緒ならOKしてもらえるはずだから、という奇妙な話を持ちかけてきた。すぐさま明智はその話に乗り、葉村と剣崎の三人で合宿へと向かった。
ペンションに集まった男女は、どことなく歪な感じであった。部長の進藤が美しい彼女を連れてやってきたのはいいとして、それ以外の女性メンバーも、タイプこそ違うが美女揃いだ。一方で、OBとその友人だという三人は、なんとも嫌な雰囲気を醸し出していた。去年の合宿でトラブルがあったらしい、という話を葉村たちは聞いている。きっとこのOBたちに関係しているのだろう。
ともかく合宿は始まった。ショートフィルムの撮影、バーベキュー、そして肝試しと進んだところで、とんでもない事態が勃発した。誰もが予想だにしなかったある状況により、彼らはペンション内部に隔離されるような形になってしまったのだ。
今すぐというわけではないが、確実に命の危険にさらされている彼らは、なんとかこの状況を生き延びるために協力することにした。恐怖から自室に立てこもってしまったペンションオーナーの息子である七宮はともかくとして、どうにか生き残った葉村たち、部員たち、管理人の面々は、長い長い夜を過ごしていた。
翌朝、事態はさらに急展開を迎える。なんと部長の進藤が部屋で何者かに殺されていたのだ。これは奴らの仕業なのか…。しかしそう考えるのにも不自然だ。ではペンション内部の人間の仕業なのか…。しかしそれもおかしい。
彼らは、究極的なクローズドサークルの中で、不可能な殺人を犯す者と共に生き残りを掛けたサバイバルを行うが…。
というような話です。

これはよく出来たミステリだな、と思いました。これから読む人のために、彼らが何故「クローズドサークル」にいる状況に陥ってしまったのか、その理由はここでは書かないのだけど、ここで書けないことが残念なくらい、ちょっとぶっ飛んだ状況が描かれます。

しかも、大抵のミステリで描かれる「クローズドサークル」というのは、警察の介入を防ぐための役割しか担っていないことが多いです。しかし本書では、この「クローズドサークル」下でなければ起こり得ない殺人が描かれていくわけです。これがとても上手い。ただ単に「クローズドサークル」を作り出すためにこれだけのモチーフを持ち出してきたのであればさすがにそれはやり過ぎというか、必然性がなさすぎるでしょう。しかし本書の場合は、「クローズドサークル」の原因が殺人と見事に結びついている、という点が見事だと思いました。

物語の作り方的には、西澤保彦の作品群に近いものがあります。人格が転移するとか、時間を繰り返してしまうなど、西澤保彦の作品にはそういうメチャクチャな状況下で起こる事件が描かれます。それらを、その世界の論理に沿って謎解きしていく、という形。本書も構造としてはそれに近いのだけど、しかし大きく違うのは、SF的な設定に逃げていない、ということです。いや、本書もSFと言われればSFかもしれないのだけど、起こりうるかどうかで言えば、起こりうると思えてしまうものです。少なくとも、西澤保彦の作品よりは格段に起こりうるといえるでしょう。ほぼあり得ないが、現実世界で絶対に起こらないとも言い切れない状況を作り出すことで、作品にリアリティが生み出されているように感じました。

ペンション内部でどんなことが起こるのかは、是非本書を読んで欲しい。「クローズドサークル内における殺人」というミステリの定型を微妙に外してくるような設定とか、外的要因があまりにも異常過ぎて、「殺人」という状況にあまり過敏に反応できていない様子などは面白く描かれていると思います。探偵役の体質とか、葉村と剣崎のやり取りとか、葉村の吐いた嘘とか、そういう要素も全体的に凄くよく描けているなぁ、という感じがしました。

全体的に凄く良かったのだけど、とてもとても細かなところでちょっと残念だったところがあります。ミステリの場合、最終的に犯人や犯行状況を絞り込むために色んな設定が必要になってくるんだけど、それらの一部がちょっとこなれていない感じがしました。一例を挙げると、「七宮は潔癖症」という情報が比較的最初の方で出て来るんだけど、これは後々、ある状況を排除するための条件として使われます。なるほど、ここで絞込みをするために、七宮には潔癖症という設定が必要だったのか、と思えてしまったのが残念でした。仕方ないとはいえ、そういう描写が多少目につくと、「物語にとっての駒」みたいな見え方になってしまうように思うので、そこだけちょっともったいないかなという感じがしました。

とはいえ、まあこんなのは難癖レベルの些細な話で、全体の完成度はとても高かったと思います。何よりも、繰り返しになるけど、「クローズドサークル」の原因がペンションで起こる殺人と密接に関わってくる、という状況設定が見事でした。そして、決して設定の妙だけで押し切るような作品ではなく、状況や人間の描き方もとても上手かったと思います。読んで満足できる一冊です。

今村昌弘「屍人荘の殺人」

デーモンロード・ニュービー~VRMMO世界の生産職魔王~(山和平)



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内容に入る前に、僕自身のことを。
僕は、ゲームというゲームをほとんどやったことがない。
僕が自分の中で「プレイしたことあるなぁ」と思うゲームは、「マリオカート」「パワフルプロ野球」「ストリートファイターのどれか」「64のマリオ」「ゲームボーイのマリオ」ぐらいではないだろうか?「ポケモン」も「ファイナルファンタジー」も「ドラゴンクエスト」も、やったことがないどころかソフトに触ったこともプレイ画面を見たこともない。「RPGっていうのは、なんで攻略本を見てやるような人間がいるんだろうか?それ、面白いのか?」みたいに思っちゃうような人間で、とかくゲームとは縁がない。

そんなわけで、そもそも本書の副題にある「MMO」ってのがなんなのか分からない。なんとなく僕が捉えたイメージを書いてみよう。「RPG」っていうのが、基本的なストーリーがあるゲームで、「MMO」の方は基本的なストーリーはなく設定だけがあり、禁止されていること以外であればそのゲーム内でどう遊んでもいい、というもの、という感じだ。合ってるだろうか?

そんな僕が、ちょっとした理由があって本書を読んでみたのだけど、結論から言うと、なかなか面白かった。僕のような、筋金入りの「ゲーム初心者(というかゲーム未経験者かな)」が読んでも、分からない部分はそれなりにあったものの、全体的には面白く読めた。僕は、実際のゲームをやることなく、本書を通じていわゆる「ネットのRPGゲーム」の理解をしたつもりでいるんだけど、本書を読む限り、なるほど、きっと面白いのだろう、というイメージが出来た。どんな遊び方をしてもいい、というのは、「RPGを攻略本を読んでプレイすることに違和感を覚える」僕には、面白い発想だなぁ、と思いました。まあ、きっと実際にプレイする機会はないと思いますけどね(どう考えても、楽しむには時間がかかりすぎる、というのが最大の難点)。

本書の場合は「VRMMO」、つまりバーチャルリアリティによって自分がその世界の中にいるような感じでプレイできるゲーム、という設定になっている。恐らく、そこまでのゲームはまだ現実には存在しないだろうが、バーチャルリアリティが少しずつ世の中に出始めている以上、いずれ登場するのでしょう。確かにそれは面白くなりそうだなぁ、と思いました。

内容に入ろうと思います(上述した通り、ゲームについてはまったく分からないので、不正確な表現があっても許してください)。

主人公である高校生の「俺」は、ハードゲーマーの妹・里緒奈と二人で生活している。仕事で両親は離れて暮らしているため、中学生の妹と二人暮らしなのだ。
すべての始まりは、エアコンが壊れたこと。福引券を大量にもらった兄妹は、「鬼ヅモ」を持つ兄にすべてを託した。結果、引き当てたのは「VR型MMORPG対応の個人用マシン」だ。「ダブルワールド・オーバークロス(WWOX)」というゲームで、第一次生産が予約でパンクするほどの人気だという。ベータ版でプレイしていたという妹は、当たったマシンで兄にもゲームをやってもらい、一緒にプレイしたい、と言ってきたのだ。妹の頼みなら断れない。
「WWOX」の一番の特徴は、10人の魔王が一般プレーヤーから選ばれること。抽選なのかランダムなのか運営の意志なのか、はっきりはしないが、とにかく登録した者の中から10名が自動的に魔王としてプレイすることになる。兄妹は、妹の得意なプレイスタイルに合わせて、兄がそれを保管するような形で登録を済ませた。
そしていざ正式オープンの日。驚くべきことに俺は魔王に選ばれたのだった!さすが「鬼ヅモ」。しかもそれだけではない。基本的に性別を変えたプレイは出来ないはずの「WWOX」で、何故か俺は女性の格好をしていた。しかも、衣装の露出が激しすぎる!まったく理解できなかったがとりあえずその混沌とした状況を受け入れた俺は、10人いる他の魔王の一部と知り合いとなった。

鍛冶系魔王 オギレウス(フルフェイスの鎧)
建築系魔王 エマ・グレコ(魔女風のマーメイドラインのドレス)
魔法系魔王 ミュミュ(踊り子のような衣装のツインテール)
戦闘系魔王 シゲン(二足歩行の人型竜)

ちなみに俺は、農業系の魔王で、アキカという名前である。
彼らは、それぞれの特色を活かしながら魔王としてプレイしていく。オギレウスとエマはベータ版からの経験者だが、アキカ・ミュミュ・シゲンは正式オープンからの参加者。それぞれゲームに対するスタンスが違うが、とにかくお互いに足りないものを補いながら、情報を交換し合いながら、プレイを進めていく。
妹は、兄と一緒にプレイ出来なくなったことを嘆くが、しかしその一方で気合も入っている。
皆が近い内に、「魔王討伐イベント」が起こると予想していたのだ…。

というような話です。

繰り返しますが、なかなか面白かったです。ストーリー展開は、たぶん読み始めれば誰でもこうなるんだろうと予測できる感じで、だからこそ物語の(というかゲームの)細部の設定を楽しむ、というのがこの小説の読み方なんだろうと思います。専門用語(と表現するのも違うのかもだけど)を織り交ぜながらの説明は、理解できない部分もありましたけど、ゲームが様々な調整によってバランスが保たれていることや、あまりに自由度が高いためにプレイスタイルが独特になる場合もあること、そしてゲーム内のルールは「運営」という人間が作っている以上シンプルであり、それ故に現実世界以上にルールの裏をかいて暗躍することが出来る、というようなことを理解することが出来ました。

僕が本当に驚いたのは、自由なプレイスタイルの部分です。ゲームをクリアすることだけが目的ではなくて、色んな目的を持ったプレイスタイルを取ることが出来る。こういう自由度が、今現実に存在するゲームでどれぐらい組み込まれているのか分からないのだけど、恐らく組み込まれているのでしょう。そもそも主人公の俺がゲームをやろうと思った理由は、ゲーム内なら大規模農場が作れるから、というものでした。そんな理由が成立するぐらいの自由度は、なかなか魅力的な感じがしました。

兄と妹の関係は、「ザ・ラノベ」という感じではありましたけど、面白く読めました。本書は、岩手県の食べ物が色々出てくるんですけど、あとがきによると「一つだけフィクションのメニューがある」そうです。岩手県の人ならすぐ分かるんでしょうけど、それを探しながら読んでみるのも面白いかもしれません(僕的には、二つぐらい怪しいかなというのがありました)。

ゲームをやったことのない人には理解できない記述もそれなりにはありますけど、全体的に文章が読みやすくて説明が平易なので、ゲーム未経験者でもそこまで辛いということはないと思います。むしろ、ハードゲーマーは本書をどう読むんだろうなぁ。本書の記述の内のどの程度が「ハードゲーマーにとって当たり前のこと」なのかが僕には掴めないから、その辺りの判断は出来ないな、と思いました。なかなか面白く読めました。

山和平「デーモンロード・ニュービー~VRMMO世界の生産職魔王~」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)