黒夜行

>>本の中身は(2017年)

楽園(花房観音)

「◯◯であること」に対して、必須となる要素が何なのか、それはものによって大きく変わってくる。

「親であること」であれば「子どもへの愛情」が、「日本人であること」であれば「日本語や日本の文化や国籍」が、「ヒーローであること」であれば「正義感」など、それぞれ違ってくる。

では、「女であること」に対しては、どんな要素が当てはまるだろうか?ここにどうしても「性」が絡んでくるような気がしてしまうのは、僕が男だからだろうか。「

いや、そうではない。まさに本書は、「女であること」と「性」の分かちがたい結びつきを描き出す本なのだから。

「男として見られる」と「女として見られる」というのは、「男」と「女」を入れ替えただけの文章だが、その意味は大きく変わる。「男として見られる」というのは、もちろん様々な捉え方が出来るが、「男らしさを感じる」というような、やや広いニュアンスを感じ取ることが出来ると僕は思う。しかし、「女として見られる」という文章になると一転、これは何故か「セックスの対象として見られる」という意味が強くなる、と僕には感じられる。

あなたはどう感じるだろうか?

僕の感じ方を前提に話を進めていくと、「女として見られる」という文章が「セックスの対象として見られる」という要素を大部分含むというこの事実が、「女であること」の要素が「性」であることをうまく示す例ではないかと思うのだ。

何故そういうことになるのだろう?

これは僕が男だからかもしれないが、「男であること」にはあまり「性」の要素が絡まないように感じる。大分薄れたとはいえ、男の社会的な役割が「働くこと」「家族を養うこと」にあるという昔からの共通認識が、「男であること」に「性」の要素を感じさせないのだろう。

しかし「女であること」の場合には、社会がどんな風に変わろうとも、「子どもを生む」という要素が切り離されることはない。「子どもを生む」ためには「セックス」が必要であり、その結果、「女であること」には「性」の要素が分かちがたく含まれてしまうことになる。

女たちは様々な形で、「女であること」の悦びや不条理を胸に抱く。

『セックスは生殖や欲望のためだけのものではない。孤独を知る人間が、人肌の温かさを手に入れ、生きていることを思い出すためのものでもある』

『女に生まれて、女でよかったと、自分を愛することができる。
男たちを愛することで、私は私は愛するようになれた。』

「セックス」によって「女であること」を確認できた女は、年齢に関わらず、そこに悦びを見る。それは、どれだけ料理を褒められようが、どれだけ子育てを褒められようが満たされない。「妻であること」でも「母であること」でもなく、「女であること」を確認するためには、「性」に触れる以外ないのだ。

『このまま自分は、男と寝ることなく死んでいく。
それでいいはずだったのに、何故こんなに胸が苦しくなるのだろう。』

『不公平だ。自分より年上の夫は、まだセックスを楽しんでいるようなのに、自分はどうして「女として終わった」と思い込もうとしているのだろう。』

『ひとりで死ぬことがこわいと考えるたび、性欲が強まっていくのは、きっと寂しいからだ。何も残さず、誰とも人生を分かち合えず、死んでこの世からいなくなり忘れ去られるなんて、生まれてきた価値がないに等しいじゃないか。』

『いつまで自分は「女という商品」でいられるのだろうかと、ふと楽園を歩きながら考えた。もう夫にすら触れられなくなった女でも、商品になるのだろうか、と。』

「女であること」を確かめることが出来ないでいる女たちは、一様に不安定になる。それは、「明らかに綺麗になった隣人」の存在故だ。自分と同じぐらいの年齢の、しかもつい先日夫を亡くしたばかりの中年女が、恐るべき美しさを手にしている。明らかに、「女であること」を確かめることが出来る環境がそうさせている。田中みつ子というその女が、女たちの心をざわつかせる。

『朝乃は、みつ子の変貌を目の当たりにする度に感じる不安の正体をはじめて理解した。
楽しそうなみつ子を見ていると、自分自身が信じている「幸せ」が揺らぐのだ。』

何故田中みつ子にそれが出来て、自分たちには出来ないのか。いや、そもそもそういうことではない。自分たちの年齢であれば、もう「女であること」に囚われずに生きていられてもおかしくはないのに、何故ここまで振り回されるのか。

『どんなに逃げても年をとることは避けられないこと、大きな波に逆らうように手足をばたつかせる姿が無様であることぐらい、わかっています。けれどもそうせざるをえなかったんです。途中で、「女を降りる」ことが怖くてできませんでした。』

女は、いつまでもは女ではいられない。明確な理由はないが、女たちはそのことを理解している。
ならば、いつまでなら女でいられるのか。何故女でいることに固執してしまうのか。女であることを諦めることは駄目なのか。女であることを諦めきれない場合どうすべきなのか。

女たちは、かつても今も、「楽園」という名で呼ばれる場所で、おのおのの葛藤に身悶えする。

内容に入ろうと思います。
本書は、序章と最終章を除けば6編の短編が収録された連作短編集です。
まず大枠の設定から書きましょう。

京都の鴨川のほとりに、かつて「お茶屋」があった。そこは、男が女を買う、特殊な地域だった。高級料亭と見間違えるような建物の中で、少し年齢を重ねた女性たちが、寂しさ故にやってくる男たちを癒やし、女たちもまた癒やされていた。ここはかつて、「楽園」と呼ばれていた。
3年ほど前、「楽園」は閉鎖され、その跡地に「楽園ハイツ」という名の2階建てのアパートが建てられた。その建物に住む6人の女性が、本書の語り部たちだ。

「温井朝乃 47歳」
同じアパートに住む田中みつ子が、明らかに綺麗になった。そのことに、朝乃は心がざわつく。自分はもう、長いことセックスをしていない。夫は外で風俗に行っているようだ。自分には「妻」という居場所しかないのだから、この居場所を手放さないように文句も言えない。近くで「楽園」という喫茶店を営む、鏡林吾という偽名のような名前の男も、妖しい雰囲気を醸し出す。端的に、セックスの匂いがするのだ。
このままセックスをしないで死んでいく。それは当たり前だと思っていたのに、何故心がざわつくのだろう。

「唐沢マキ 38歳」
世の夫婦は、セックスレスが当たり前のようだけど、女はそれで耐えられるのだろうか?世の中の夫たちは、妻の性欲に無頓着過ぎる。
当時大学生だった小早川鉄矢と出会い、体の関係になってもうそれなりの時間が断つ。いつもマキの部屋にやってきてセックスをして、時々お金をせびってくる。返ってきたことはない。田中みつ子が素人投稿雑誌に載っていると教えてくれたのも鉄矢だ。
自分は性欲が強いのだろうか。お金で鉄矢とのセックスを買っているのだろうか。

「寺嶋蘭子 42歳」
蘭子は、誰からも美しいと言われる容姿を持っている。けれど、セックスが怖い。かつての夫に「セックスが下手だ」と言われたことが、未だに心に傷として残っている。
セックスに対する怯えを誰かに消し去って欲しい。自分から男を求めることなどできないから、求められたい。そう思っているのに、自分が望んだようにはいかない。蘭子の孤独は、セックスを恐れていることから生まれているはずだ。それさえなければ、もっと幸せな生き方が出来るはずなのに…。

「和田伊佐子 44歳」
伊佐子はかつて4年ほど、「楽園」で働いていたことがあった。あれほど喜ばれる仕事をしたことは、これまでに一度もない。蔑まれる職業であることは知っているが、哀れまれるのは違う、と感じた。伊佐子にとって「楽園」での日々は、楽しかった。
いつの間にか保証人になっていたことで背負わされた借金を返すために飛び込んだ「楽園」は、借金返済の目処が立ったことと、恋人が出来たことをきっかけに去った。その後、妻子ある男性と付き合い、略奪する形で結婚し、穏やかな日々を過ごしていたが、夫が退職を迫られ、生活は大きく変わった。今日も夫は、ハローワークにも行かず、家でゴロゴロしている。

「田中芽以奈 17歳」
父親が死んだばかりだというのに、誰かに依存していなければ生きていけない母親は、媚びる男を見つけ出してきては自分を着飾っている。醜悪だ。自分の年令を受け入れられない姿ほど醜いものはないということを、本当に分かっていないのだろうか?
芽以奈は30歳までに死にたい、と思っている。若さを失った女が生きていくには、日本という国はあまりにも生きづらいことを理解してしまっているからだ。芽以奈は今、元カレの斡旋で売春をしている。父親が死に、母親が自分のことしか考えていない現状、自分でなんとか稼いで生きていくしかない。

「田中みつ子 45歳」
この内容は紹介しないことにします。

というような話です。

非常に面白い作品でした。僕が男である以上、ここで書かれていることを安易に「分かる」というわけにはいかないが、女たちの葛藤が凄くリアルだと感じた。何よりもこの作品で描かれる葛藤は、普通表に出てこないものだ。女性同士でさえ、本書に登場する女性たちが持つ悩みや葛藤を打ち明けるようなことはほとんどないだろう。自分の内側に秘めたまま、どうにもしようのないモヤモヤを抱えたまま自分がとりあえず納得できる仮の答えにしがみついておくしかない。

若い時には、自分が「女であること」など考える必要もないほど当たり前のことだろう。しかし年を重ねるにつれて、それが当たり前ではないのだという現実が、徐々に忍び寄ってくる。「女であること」が少しずつ遠ざかっていく音が聞こえていく中で、それを為す術無く見守るしかない現実が、足音を響かせながらやってくる。

そうなった時、どうするか。彼女たちの振る舞いは様々だ。「女であること」に固執し、自分の年齢でも「セックス」が受け入れられる場を追い求める者。「女であること」を手放さざるを得ないことを理解しながら諦めきれずに思い悩む者。「女であること」を容赦なく突きつけてくる環境にいた過去を持つことで、その葛藤にあまり囚われずにいられる者。同じアパートに住む彼女たちが、かつて「楽園」だった場所で、「女であること」の自覚に揺れながら過ごす様を描き出す、という設定が、とても面白い。

この作品では、男が女を買う場所を、女にとっても癒やしの場なのだ、という風に描き出していく。

『こういう場所を非難する人たちや、私たちを侮蔑したり、逆に見当違いの同情をよせる人たちがたくさんいることはもちろん知っている。
どれもこれも、違うのだ。法律とか理屈とか常識とか、そういうもので判断されるのではなく、ただ溢れる欲望を抱く人間が生きていくために、この場所が男には必要で、そこでしか生きられない女たちもいる、それだけの話だ。』

体を売ることで、女は「女であること」を確認することが出来る。そして、「女であること」が男を癒すことが出来ることを知り、自分の存在価値を知ることが出来る。そういう形でしか自分の存在価値を認められない女もいるし、そういう人にとってこういう場はなくてはならない。決して男だけのためのものではないのだ、という視点は、この作品全体を貫く一つの思想みたいなもので、それに貫かれているところがこの作品の潔さだと感じられる。

こんな文章も印象的だった。

『煙草もだめ、売春もだめ、不倫もだめ、あれもこれもだめ、何もかもだめばっかりの世の中だけど、それで実際に綺麗になるんだろうか、人も、世界も。欲望を受け止めるものをどんどん禁じていったら、人間が歪んでしまうってことをわかってないやつらが多すぎて、うんざりする』

つい先日見たテレビで、水族館の珊瑚の水槽を綺麗にしているものは珊瑚の死骸だ、という事実を知った。水槽の水を、珊瑚の死骸を入れたプールと循環させることで、常に水を綺麗に保ち続けることが出来るという。珊瑚だけでは、水は濁る。

僕たちは、あらゆる「汚いもの」に「だめ」と言うことで、水を綺麗にしてくれるはずの「珊瑚の死骸」を排除してしまっているのかもしれない。綺麗にしようと思ってした行為が、逆に水を濁らせている結果を引き寄せてしまっているのかもしれない。

女たちの葛藤は「珊瑚」だろうか。あるいは「珊瑚の死骸」だろうか。「女であること」の葛藤を描ききった一冊だ。

花房観音「楽園」

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しつけ屋美月の事件手帖 ~その飼い主、取扱い注意!?~(相戸結衣)

少し前、国が騒音に関する指針を発表した中に「風鈴」という項目が入っていたというニュースを見かけた。日本では今、風鈴の音が騒音だと捉えられてしまうらしい。世知辛い世の中だと思う。

生活環境をどこまで自分にとって快適なものに保つか、というのは多くの人にとって重大な問題だろう。しかし、ちょっと度が過ぎる、と感じることは多い。他人が住む街中で暮らしている以上、多少の不都合は仕方ない。そういうことをすべて排除したいなら、山奥にでも住むしかない。

とはいえ、当然だが、限度もある。その辺りの線引が難しいのだけど、ペットが多大な迷惑を掛けるということも当然あるだろう。だからこそ、ペットの躾は大事だなと、本書を読んで改めて感じた。

僕自身はペットという存在には興味がない。犬にも猫にも特に関心はない。だからペットに思い入れを持つ人の気持ちはよく分からないが、社会の中でペットと人間が共生出来るように奮闘する人々には、頑張ってほしいと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、4編の短編が収録された連作短編集です。
天野美月は、「愛犬しつけ教室STELLA」で、飼い犬を躾ける訓練を行っている。オーナーの須寺は著名な動物行動学の専門家であり、老後の道楽的なスタンスで経営を続けている。美月は、幼馴染であり獣医でもある糸川宙と共に、日夜地域のペット問題に関わり合っている。

「第一章」
二階堂という高齢夫婦が勝っているゴールデン・レトリバーが薬を誤飲し、糸川が働く「スバル動物病院」に運び込まれてきた。大事には至らなかったが、問題はその体重だ。オスの標準体重が35キロ程度であるのに、そのゴールデン・レトリバーは50キロもあったという。飼い主への教育が必要かもしれない、とのことで、美月に話が回ってきた。
しかし二階堂氏は、自分が正しいと信じて疑わない人物。少しでも否定するようなことを言えばすぐに関係が途絶えてしまうだろう。金も時間もある彼らは、飼い犬のことも大事に思っているので、餌をあげすぎてしまう、というのがどうにも解せないのだが…

「第二章」
通勤途中、愛犬であるスピカに挨拶をしていく眼鏡屋の少年から、美月はある日手紙を受け取った。夜8時、北瀬川沿いのドッグランまで来てもらえないか、と書かれていた。行ってみるとそこには、三条文哉と名乗る眼鏡屋の店主と、一匹の迷子犬らしいチワワがいた。店の前に捨てられていたのだ、という事情を聞いた美月は、飼い主を探し出す手はずを整えつつ、その間三条家でそのチワワを預かってもらう態勢を整えた。
しかし、おかしい。少年も店主も、何故かチワワを飼うつもりでいる。飼い主が見つかったら手放さなければならないのに。それに少年は、あの日ドッグランにはやってこなかった。何がどうなっているのか…

「第三章」
美月の高校時代の友人である美少女・一ノ瀬ミラは、重大な問題に直面していた。12年連れ添ってきた柴犬の北斗を取るか、彼氏と結婚するか、だ。彼氏は、犬が苦手なのだという。一緒に住むのはどうしても難しい。そう言われているらしい。相談を受けた美月は、難しい問題だと思いながらも、なんとか打開策を見出すが…。

「第四章」
きっかけは、五島陽華とその友人のケンタが「STELLA」にやってきたことだった。陽華が飼っている「ソラ」というトイプードルが連れ去られた、というのだ。陽華の友人である八木沼ユキナの母親が大の犬嫌いで、テレビにも出る代議士の妻であるその母親の扇動で、町内の犬規制を強めようという動きがここ最近活発になっている。ソラがいなくなった事件は、その流れをさらに加速させる結果となり…。

というような話です。

なかなか面白い作品でした。美月は犬の訓練士として働くが、犬を訓練するというのは同時に、飼い主を訓練するということでもある。必然的にカウンセラーみたいなこともする立ち位置になり、そこからトラブル解決という流れになっていく。

犬に限らず、ペットに愛情を注ぐ人の中には、怖いなと感じるほどの愛情を見せる人もいる。本書のプロローグで登場するドーベルマンの飼い主などはその典型だろう。自分の飼い犬さえ良ければいい、悪いのはすべて周り、というような歪んだ発想を持たれると、怖いなと感じてしまう。

美月は普段から、そういうタイプの人とも関わっていくわけで、対人対処能力は高いだろう。相手の立場に立ってどうすべきか、ということを常に考えている。本書は、犬を取り巻く物語ではあるが、飼い主とも対処する美月の存在が、ただそれだけの物語にはしない。

僕自身は犬にはさほど興味は持てないが、そんな人間でも犬の習性やふるまいの意味などに多少は関心が持てるように描写がされている。物語が小粒でちょっと派手さに欠ける部分がアピールのしにくさに繋がってしまうが、読みやすくてほどよく面白いという意味では手に取りやすい小説だ。

幼馴染である美月と糸川の関係もなかなか面白いのだけど、個人的にはこの二人の関係性の話がもう少しあってもいいような気がした。四話目の最後の方の美月のセリフはなかなか良かったけど、それまでの二人に何か進展なり変化なり軋轢なりがないので、ちょっと唐突だなぁ、という感じもしてしまった。

使命感を持って働く面々と、犬との様々な接し方を見せる者たちが関わり合う中で、犬を含めた家族との関わり方を問いかけていく物語だ。

相戸結衣「しつけ屋美月の事件手帖 ~その飼い主、取扱い注意!?~」

桜のような僕の恋人(宇山佳佑)

論文を書く話だったか、歌詞を作る話だったか、「予想外の価値観は3割程度に抑えろ」というような記述を何かの本で読んだことがある。7割は世間一般の価値観を、そして残りの3割の部分に想定外を入れ込む。そうすると全体のバランスが良くなる、というような話だったと思う。

物語も同じだろう。割合が7:3なのかどうかは作品ごとにもちろん違うだろうが、一般的に受け入れられる価値観を多目にして、そこにどれだけ「えっ!」と思わせられる感覚を入れ込んでいくのか。そういうバランスを調整しながら物語を作っていくんじゃないかと思う。

そういう意味で言うと本書は、10:0で一般的な価値観のみで書かれた作品だな、と感じられる。

その状況で主人公がどう反応するのか、そこからどう物語が展開していくのか。基本的に大筋でほぼ予想出来てしまう。想定外がほぼない。たぶんこうなるだろうなと思っていたことが展開されていく。個人的にはそれは面白くないなと感じる。

映画監督のヒッチコックは、例えば何か怖がらせるような場面の前に、「今から怖いことが起こりますよ」ということを暗示させる映像を組み込んでよりその恐怖心を高めた、というようなことを本で読んだ記憶がある。これは、演出効果を狙ってのものだ。しかしこの作品の場合、「たぶんこうなるんだろうな」という展開を予想させようとしているわけではない。それでも、先の展開が分かってしまう。そういう意味でこれは演出とは呼べないだろうなと感じる。

とはいえ、こう感じることもある。今の若い世代の人たちは、「物語がどう展開するのか読める」ことに価値を置いているのかもしれない、と。僕はとても驚いたが、以前の職場に「小説のラストを先に読んで、自分にとって嫌な終わり方ではないことを確認してから小説を読み始める」という人がいた。その時にそういう価値観を初めて知ったが、その後ネットなどでも同じような価値観を見かけることがあった。

水戸黄門なら理解できる。予定調和な展開は、見ているお年寄り層にとっては安心できるだろう。しかし、刺激を求める気持ちが強いだろう若い世代に予定調和が受け入れられているとすれば、僕にはそれは驚きだ。

僕の仮説が正しいとすれば、この物語は、そういう若い世代には受け入れられる可能性はある、と思う。

内容に入ろうと思います。
朝倉晴人は、美容師の有明美咲に恋をした。月に一度髪を切ってもらいにいくが、まともに話し掛ける勇気すら出せない。しかしある日、ちょっとした手違いで美咲に耳たぶを切られてしまった晴人は、その場の勢いを借りて美咲にデートを申し込む。こんなタイミングでデートを申し込むなんて卑怯だ、と感じる美咲だったが、次第に晴人の優しさに惹かれていき、やがて二人は付き合うようになる。
美咲にカメラマンだと嘘をついていた晴人は、美咲に押される形でまたカメラマンの夢を追うことにした。カメラマンと美容師。二人は共に、自分の夢を追いかけていた。
そんなある日、美咲は信じられない事実を知らされることになる。なんと美咲は、他の人よりも数十倍のスピードで老化してしまう「早老症」に冒されているというのだ…。
というような話です。

先程も書いたように、基本的に誰がどういう状況でどう感じるのかが予想できてしまうので、個人的には面白い作品とは思えなかった。あと、「早老症」という超特殊な病気を持ち出すなら、もう少しリアリティがほしいと思う。僕が気になったのは、「早老症」だと診断される部分。体調が優れない、という理由で病院に行っただけなのに、世界でもほんのわずかな症例しか報告されていない「早老症」だと診断出来るものなのか?それに、たまたま受診した病院に「早老症」の権威が勤めていた、というのも厳しいと思う。こういう部分は作品のメインではないから目くじらを立てるようなものではないのかもしれないけど、「早老症」という特殊な病気を持ち出す以上、そこにリアリティを与えるのは作家の責任じゃないかなぁ、と僕は感じてしまう。

宇山佳佑「桜のような僕の恋人」

圏外同士(富士本由紀)

昔の僕は、自分が世界のどこかにいられないことを苦しく思っていたと思う。自分の居場所がない、という事実が、とても哀しいことだと思っていたと思う。
その気持ちは、結局今でもそこまで変わらないのかもしれない。ただ、人生の時間を少しずつ消費してく中で、理解できたことがある。それは、たとえ居場所があっても苦しくて哀しい、ということだ。

居場所があるというのは、なんとなく認められたような気持ちになれる。安心感がある。そこにいていいんだと許されたような気持ちになれる。でも、結局そういうのは錯覚だ。そんな気分になれる、というだけのことにすぎない。別に認められていないし、そこにいていいと許されたわけでもない。自分が勝手に思うだけだ。

だから、何かがちょっとずれただけで、その居場所は居場所でなくなる。そのずれは、本当に僅かなものかもしれない。他の人はそのずれに気づかないし、自分でも大したことないはずだと思うようなものだ。でもそんなずれが、あなたの居場所を居場所でないものに変えてしまう。

そういう時僕らは、居場所というのが錯覚だったのだと気づく。

それを気付かされる方が、居場所がないことより辛いかもしれない。居場所がないというのは、色んなことを諦められる。自分が何も持っていないこと、自分が何も出来ないこと、そういうことをまざまざと見せつけてくる。それは辛いけど、でも後からそういうことを思い知らされるより、マシかもしれない。

この物語をもの凄く簡単に説明しようとすれば、こうなるだろう。
「居場所があると思っていた男がないことに気づき、居場所がないと思っていた女があることに気づく物語」

内容に入ろうと思います。
これは、蕪木秀一郎と夏日乃絵の物語だ。
秀一郎は、一人娘を育て上げ、妻と二人暮らし。しかし「同居人」と言っていいほど干渉がない。
鶴目食品という食品メーカーの本社から、社員たった20名ほどの子会社の社長に3年前の55歳のこと。本社勤務時代、上司の言うことをひたすら聞く完璧な忍従によってのみ出世した男だ。現在の勤務先である「鶴目セントラル・サービス」は、本社や工場の業務に必要なあらゆる物品を手配する会社だが、そこで秀一郎がすることはほとんどない。秀一郎は、お気に入りの社員には楽な仕事を、嫌いな社員にはキツイ仕事をさせており、しかし自分はきちんとした有能な管理職だと思っている。陰で散々こき下ろされていることも知らずに。
乃絵は、服飾デザインの専門学校を卒業し、名の通った国内のファッションブランドに就職した。順風満帆だと思った。しかしそこでは、先輩たちの雑用をやらされたり、トップデザイナーであり社長の修正により原型を留めないデザインに変更させられたりと、思うような仕事は出来なかった。
専門学校時代の同期と偶然再会した乃絵は、彼と“Tip Top”というブランドを始めることにした。会社を辞めて独立した乃絵は、服作りに励み、ショーにも参加しと努力を続けたがなかなかうまくいかない。そんな時、ニューヨークで一旗揚げようと決心し赴くも、そこで乃絵自身予想もしなかった事態となり、結局デザイナーという夢を諦めて日本に戻ってきた。以来まともに仕事をしていない。
二人は、ビアバーでたまたま会った。いや、会ったのは秀一郎の方だけ、と言うべきだろうか。秀一郎は店内で乃絵に目を止めたが、乃絵は秀一郎の視線には気づかなかった。ファッション誌から抜け出してきたような容姿に打たれた秀一郎は、その日乃絵を尾行し、自宅の場所を知った。その後、偶然乃絵を見かけた秀一郎は、偶然を装って話しかけ食事に誘い、仕事をしていないという彼女を「自分が社長を務める会社」に誘った。色んな事情があり、乃絵はその誘いを受け入れた。
秀一郎と乃絵の人生は、こうして交錯した。しかし、すぐにまた離れて行ってしまう…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。
「圏外同士」というタイトルがなかなか作品に合っていていいです。色んな捉え方が出来るだろうけど、自分が今いる場所が色んなものが届かない「圏外」であるという風にも読めるし、秀一郎と乃絵の世界がうまく混じり合わない様子を「圏外」と表現しているのかもしれない。

秀一郎と乃絵はそれぞれ違った形で世界とうまく接続できていない。
秀一郎は、自分がただの腰巾着でありながら、年長者であり社長であるのだからもっと敬意を払われたい、と考えている。それが、言動ににじみ出てしまう。本人は、威厳のある、社長らしい振る舞いをしているつもりなのだけど、周囲からはどうしようもないおっさんだと思われている。その認識のギャップが、秀一郎の世界と接続できていない様だ。秀一郎自身は、自分はきちんと世界と接続できている、という思いこみがあるから、秀一郎は自分にきちんと「居場所」があると考えている。あるいは、仮にないとしてもいつでもそんなものは作り出せる、と考えている。しかし物語が進んでいくにつれて、端から自分には「居場所」なんてものはなかったし、いつでも作り出せるという考えもただの思いこみだったことに気づかされる。その哀れな様が非常に滑稽で面白い。

乃絵は、自分が世界ときちんと接続できていないという自覚がある。若気の至りで仕事を辞めて独立するもうまく行かず、今は精神科に通う無職。デザイナーになるという夢はあるが、しかし何から手をつけていいのかわからないぐらい、そんな華やかな世界からは遠ざかってしまっている。生きていくのが精一杯だ。夢を追う、というような積極的な気持ちが失われ、昔だったら絶対に拒絶していたような環境に順応していく中で、徐々に乃絵の中で新しい感情が芽生えていくことになる。それが、「このままでいいんだろうか」という気持ちだ。特に、成り行きで秀一郎から「与えられた」環境は、徐々に酷くなっていく。あまりの忙しさに、精神科に通わなければならないような症状は吹き飛んだのだけど、今のままでいいはずがないという思いはどんどん膨らんでいく。それが、彼女を新しい世界へと押し上げていくことになる。

二人は、ビアバーで出会うまではまったくの他人だったし、秀一郎の会社に乃絵が就職した後、色々あって二人の関わりは極端に減ってしまうことなるので、秀一郎と乃絵がきちんと関わりを持っていた時間というのはほとんどない。他人から一瞬知り合いになって、それからまた他人になる。二人の関係はそんな風に表現できる。しかし結局、二人はお互いと出会ったことで運命が変転していく。秀一郎は、乃絵を会社に引き入れたことで、日常のあらゆることがうまく回らなくなっていく。そして乃絵は、秀一郎の口利きを受け入れたことで、結果的に人生が好転していくことになる。結局ほとんど他人の関係のまま、お互いの人生に影響を与えていく、という構成が実に面白いと思った。

しかしそれにしても、秀一郎の造型は見事なまでに醜い。こういうオジサンに出会ったことはあまりないのだけど、世の中にはたくさんいるのだろうと思わされる。自尊心が高く、自分の好みで人を動かし、自分が敬意を持って使われることを当然と考え、そうしない人間に怒りを覚えて報復するというような、典型的な古いタイプのオジサンだ。

ある場面(これもなかなか急展開というか、そんな展開が待ってますか!というような場面なんだけど)で、秀一郎の妻がこんなことを言う。

『あなたって、本当にご自分のことばっかりねえ。古いのね。本当に古いっていうのは、ご自分の考え以外は、もう何一つ受け入れることの出来ない頭のことだと思いますわ』

そして、こう言われた秀一郎は頭の中でこう思う。

『まともな自分と、まともでない妻がいた』

まさに妻の言う通り、「ご自分の考え以外は、もう何一つ受け入れることの出来ない頭」なのだなと思う。

そんな秀一郎が乃絵に対してする言動は、本当に醜いなと思う。秀一郎は乃絵との駆け引きを楽しんでいるつもりだが、そもそも乃絵は秀一郎と同じ土俵に上がっているという意識がない。この認識の差が、哀しいすれ違いを引き起こす(というか、そのすれ違いは秀一郎のただの妄想なのだけど)。秀一郎の側が本気だ、というのが滑稽だしとても惨めさを感じさせる。

乃絵にとっては、結果的には良かったと言える。秀一郎の会社で働くことで、兎にも角にも収入が得られるようになったし、また「こんなところにはいたくないと思わせる最低の環境」を経験できたことで、未来へと目と手足を向ける意識が生まれた。秀一郎の誘いに乗らないままだったら、この変化は生まれなかっただろう。案ずるより産むが易し、というところだろうか。

まさに「圏外同士」というタイトルに相応しい、「居場所」を巡る物語だ。ネット上での関係性が増えたことで、「居場所」だと思っていた場所がある日あっさり消えていた、なんていうことだって起こりうる時代だろう。いつだって誰だって、自分が「圏外」にいると気付かされてしまうかもしれない。「居場所」は、あった方がいいかもしれないがなくてもいい。そんな風に思える作品ではないかと思う。

富士本由紀「圏外同士」

完全版 下山事件 最後の証言(柴田哲孝)

読むのは二度目だ。一度目は、単行本で読んだ(感想はこちら→「下山事件(柴田哲孝)」)。単行本で読んだ時の記憶がちゃんとあるわけではないけど、文庫化で中身は結構変わっているような印象だ。著者は冒頭で、こんな風に書いている。

『2005年7月―。
私は「下山事件 最後の証言」を発表し、事件の真相に迫った。
その反響は予想を遥かに越えるものだった。あえて「最後の~」としたのは事件から56年を経過し、生の証言を得られるのはこれが最後だと考えたからだ。だが、私の予想はいい意味で外れることになった』

単行本発売後の反響も含め、「完全版」として出したということだろう。

さて、ここでは、下山事件の詳細については踏み込まない。ざっくりとした概要は、前回の感想で書いたし、ネットで調べればいくらでも出てくるだろう。そして、本書で「真相」とされていることは、とても短く説明できるようなものではない。下山事件は、国鉄総裁だった下山定則氏が列車に轢かれて死亡しているのが発見された、という事件だ。警察はなんと、自殺か他殺かも判明しない、として捜査を打ち切った。その後様々な仮説が生み出されたが、決定打となるものはなかなか出ない。本書が決定打になるのか、それは僕には判断が出来ない。

下山事件は、一人の男が殺された、という単純な見方が出来る事件ではない。法医学者が自殺か他殺かの見解を闘わせ、警察が証言を捏造したと思しき矛盾があり、GHQや時の政権やアンダーグラウンドな勢力までもが一斉に関わった、まさに昭和史のごった煮のような事件だ。下山事件を掘り下げることで、占領下における日本の状況が、そして現在まで続くアメリカによる日本の支配が、まざまざと浮かび上がるのだ。

とある理由(後述する。まさにこの点が本書の肝なのだ)により、著者は「亜細亜産業」という会社が下山事件に関わっていることを知る。そして著者は、「亜細亜産業」の総帥だった矢板玄に会うことが出来た。彼らは下山事件だけではなく様々な話をするが、矢板玄が下山事件に関して著者にこんな風に言う場面がある。


『(―それならやはり、アメリカの謀略ですか?)
そうは言っていない。ウィロビーは事件を利用しただけだ。ドッジ・ラインとは何だったのか。ハリー・カーンは何をやろうとしていたのか。それを考えるんだ。アメリカは日本の同盟国だ。東西が対立する世界情勢の中で、日本は常にアメリカと同じ側に立っている。過去も、現在も、これからもだ。もしアメリカじゃなくてソビエトに占領されていたら、どうなっていたと思う。日本は東ドイツや北朝鮮のようになっていたかもしれないんだぞ。それをくい止めたのが、マッカーサーやおれたちなんだ。日米安保条約は何のためにある。アメリカの不利になるようなことは言うべきではない』

繰り返すが、これが、下山事件について問われた矢板玄の回答だ。国鉄総裁が殺されたという事件が、「ドッジ・ライン」や「世界情勢」と関わりを持っている。そう、それぐらい壮大な話なのだ。正直僕は、本書の「真相」をきちんと理解できたとはいえない。誰と誰が対立していて、誰にどんな利益があり、どの情報が捏造で、どの情報に信憑性があり、誰が何のために動いていたのか。そういうことを把握することは、とても困難だ。途中で、戦時中に細菌兵器などの開発をしていた731部隊に所属していたという人物の証言も登場する。下山事件という、昭和最大の謎とも呼ばれる事件の闇の深さが窺える。

というように、下山事件という底なしの沼のような事件を把握するのはとても難しいので、下山事件の話はここで終わりにする。

さて、ここまで書かずにいたが、本書は、「何故著者が下山事件を追っているのか?」という動機が、明確過ぎるほど明確に存在する。

それは、「敬愛する祖父が下山事件に関わっていたかもしれない」という理由だ。

発端は、祖父・柴田宏の23回忌に当たる法要だった。その席には、祖父の妹であり、著者にとっては大叔母である飯島寿恵子もいた。そして寿恵子が、こんなことを言ったのだ。

『あの事件(=下山事件)をやったのはね、もしかしたら、兄さんかもしれない…』

この瞬間から、著者の長きに渡る下山事件の取材がスタートした。その対象は、まず大叔母の寿恵子と、母の菱子だった。彼女らは、共に同じ会社で働いていた。それが、先程の「亜細亜産業」だ。祖父ももちろん、同じ会社にいた。寿恵子と菱子は、亜細亜産業に出入りしていた人間や取引先の会社などを克明に覚えていた。著者はそれらの話を拾い集めながら、それまでとはまったく違う下山事件の仮説を追い始める。これまで亜細亜産業に着目した仮説はない。著者は、祖父が亜細亜産業に関わっていたからこそそこに辿り着けたのだ。そして調べれば調べるほど、下山事件に繋がる様々な要素が浮かび上がってくる。

もちろん、下山事件の真相が少しずつ明らかになっていく過程もスリリングだ。身内から聞いた事実と、取材によって知り得た事実が様々な形で結びつき、線となっていく。身内の何気ない記憶が、重要な鍵を握る場面もある。亜細亜産業に関わる身内がいたという、まさに著者の境遇だからこそ実現できた取材により、まったく新しい方向から下山事件に光が当てられていく様は、物語であるかのようにスリリングだ。

しかし、僕が一番気にかかったのは、著者の内面だ。それはほとんど描かれることはない。ただ、時折こんな文章が出てくる。

『以後、私は急速に下山事件の謎に没頭していった。といっても、その興味の対象が事件そのものに集約されていたわけではなかった。むしろ私を駆り立てたのは、祖父柴田宏に対する愛着と好奇心だったような気がする』

著者は祖父のことを、『あの頃の私にとって、祖父は自分の世界の大半を占める大きな存在だった』と表現する。ただ身内であるというだけではなく、著者にとってはかけがえのない存在だと言っていいほどの人物だったのだ。著者は、下山事件の取材をすることで、そんな祖父に「下山事件の首謀者」というレッテルを貼ることになるかもしれない。その葛藤が、時折見え隠れするのだ。

『私は、祖父を信じたかった。その一方で、下山事件の謎を解くことに使命感を燃やす自分がいる。それは、もしかしたら、尊敬する祖父の秘密を暴くことにもなりかねないと予感しながら。』

また一方で著者は、母親に対してもこんな感情を抱く。

『だが、いずれにしても、私の行為は少なからず年老いた母を傷つけることになる。
ある日、下山事件の話をした後で、母が泣いている姿を見た。ただ黙って俯きながら、涙をこぼしていた。』

著者は、寿恵子や菱子から話を聞くことで、彼女らを追い詰めることになる。著者以上に「身内の恥」という感覚が強い世代だ。祖父の行為が明らかになればなるほど、彼女らを辛い立場に追い詰めることになる。
しかし著者は、真実を追うことを諦めることが出来なかった。

『膝の上で組む手の上に、涙が落ちた。それを見た時、心の中で何かが切れたような気がした。
もうやめた。下山事件なんかどうでもいい。いまさら犯人をつきとめたって、何になるというのだ。
だが、できなかった。私にはどうしても、心の衝動を抑えることができない。気が付くとまた私は下山事件の資料を開き、その迷宮に足を踏み入れていた』

本書は、基本的には下山事件の本だ。下山事件をいかに掘り下げていくかという本だ。しかしその一方で、本書は「柴田家の本」であることから逃れられない。少なくとも著者はそれまで、柴田家に「不穏な歴史」が眠っているなどとは想像もしなかった。しかし、平穏でしかない、ごくありきたりな家族だと思っていた自分に連なる歴史に、昭和史の謎を解き明かす秘密が眠っていた。その衝撃と興奮、そして掘り下げることで迷惑を掛けることへの悔恨。それらが入り交じった著者の筆致は、普通のノンフィクションでは醸し出せないものだ。ノンフィクションを書く人にはそれぞれ、そのテーマを選び取った理由があるだろう。それらはそれぞれの著者にとっては、何物にも代えがたい衝動なのだろうと思う。しかし、どれだけの衝動があろうと、本書の著者の衝動に敵う者はそうそういないだろう。「祖父が実行犯かもしれない」というのは、それほどの状況なのだ。

寿恵子はある時、著者にこんなことを言う。

『あんた、これをどこかに書くつもりなんだろう。それ、まずいのよ。亜細亜産業は、絶対に身内からしか事務員を雇わなかったのよ。わかるでしょう?私も入る時、業務内容に関しては他言しないって念書入れてるの。あの会社は下山さんだけじゃない。他にも殺されたとか、消されたとか、そんな噂はいくらでもあった。私、怖いのよ…』

個人史と昭和史の交差点で苦悩する人がいる。また、その交差点で真実を探し出そうとする人がいる。そして、そこに歴史が生まれる。

本書を読んで強く感じたことがある。それは、事実が歴史を作るのではなく、誰かが信じたことが歴史になる、ということだ。つまりそれは、あなたが歴史だと思っていることは、事実であるとは限らない、ということも意味する。

いずれ、僕らが生きている現実も、歴史と呼ばれるようになる。その時僕らは、きちんとした歴史の証言者になれるだろうか?そのためには何が必要か、本書を読んで感じ取って欲しいと思う。

柴田哲孝「完全版 下山事件 最後の証言<再読>」

爆走社長の天国と地獄 大分トリニータVS溝畑宏(木村元彦)

溝畑宏とは何者か?

『溝畑宏が行ったのはビルド・アンド・スクラップであった。グラウンドもクラブハウスも選手もいないところからチームを立ち上げ、高級官僚の座を投げ捨て、社長に就任。15年で日本一(2008年ナビスコカップ優勝)に導いた。』

凄い男である。
しかしそんな溝畑宏は、世間からこんな風に見られているのだという。

『自らの放漫経営で、チームが6億円もの借金(公式試合安定開催基金)をJリーグから借り受ける事態に追い込み、Jリーグ全体に多大なる迷惑をかけ、某サッカー誌によれば「選手や職員の生活をメチャクチャにしながら、自分はさっさと社長職を辞めて観光庁の長官に大栄転した男」』

とんでもない言われようである。本書には、こんな記述もある。

『現在もトリニータサポーターにおける溝畑の評判は最悪のようだ。流言飛語が飛び交い、中には「前の社長がカネを私的に使い込んだのでクラブがつぶれた」と信じている方もいる』

溝畑宏は、特に大分県ではもの凄く評判が悪い。
しかし溝畑宏の近くにいた人間の見方は大分違う。溝畑が大分トリニータの社長を「解任」させられたことを知った当時の監督は選手に向かって、『いいか、社長を絶対に戻すぞ!』と言ったという。大分の経済界の長老は、『私に言わせれば、一番かわいそうなんは溝畑なんや。「俺がおまえの親なら泣くぞ」って、ようあれに言ったもんや』と発言している。

溝畑宏とは何者か?


人を評価することは、とても難しい。そして、人から評価されることも、とても難しい。

世の中には、様々な人間がいる。その中には、「やっているように見せるのが上手い人間」というのもいる。特に何もしていないのに、功績だけかっさらって威張っているような人間。

僕はこういう人間が嫌いだ。好きだ、という人は多くないだろう。しかし、特に現代は、こういう人間がどんどん表に出てきて、どんどん階段を駆け上がっていく。SNSなどにより、個人による発信力が格段に高まったこと、そして話題性のある情報が拡散されるスピードが驚異的に早くなったことによって、「見せ方」さえ整えてしまえば名前を売ることが出来てしまう世の中になってしまった。

もちろんそういう人間も、中身が伴わなければ長続きはしない。そこは、昔と変わらないだろう。しかし、そういう「見せ方」の上手い人間による情報戦略に反射で反応してしまう世の中にあっては、本当に汗をかき、実直に物事を進めている人間に、光が当たりにくくなっている、ということもまた事実だろう。

そんな世の中だから、軽薄で、賞味期限が短そうなものばかり表に出てきて、長く価値を見いだせそうな事柄がうまく軌道に載せられなくなっていく。短い期間で少ない労力で成功しているような事例を日々目にすることで、長い期間に多大な労力を掛けて成し遂げる事柄への興味が益々薄れていく。

それでいいのだろうか、と立ち止まる隙さえ与えずに、ただ闇雲に前に進んでいく世の中に対して、強く違和感を覚えることは多い。

文化も伝統も教養も知見も、長い年月の積み重ねによって洗練され、その土台の上に新たな発見を見出すことが出来るようなものだ。それらは必然的に、長い期間と多大な労力を必要とする。しかし、時代がそれを評価しなくなった。評価できなくなった、というべきなのかもしれない。それは必然的に、それらに携わる人間を評価しなくなることでもあり、結果的に文化も伝統も教養も知見も廃れさせる。結局残るものは、明日なくなってしまっても誰も困らないような、単純で分かりやすく脊髄反射的なものばかりだ。

それでいいとは思えない。

その状況をどうにかするには、「評価者」を育てなければならない。

『この10年、行政によって作られた政治的なトリニータをウォッチし続けて、ブレなくその公益性を指摘したのは、皮肉なことに県庁にとっては天敵であったオンブズマンの永井であった。政治から離れて屹立していた人物のみが、そのあり方をしっかりと相対化できたのではないだろうか。教員不正採用事件やキャノンの工場誘致問題で徹底的に県政に切り込んだ永井が「トリニータには公的支援をすべきだ」と、発言することは極めて興味深い』

溝畑宏にとっての最大の不幸は、彼の行動を適切に評価してくれる有力者がいなかったことだろう。大分の発展のためにゼロからクラブチームを作り上げた男は、しかし大分の政財界やサポーターから嫌われ続けた。彼らも、本書に書かれていることを知れば、恐らく考えを改めることだろう。溝畑宏という人間を、正しく評価できるに違いない。しかし、溝畑の性格や様々な組織の軋轢など、様々な要因が絡まりあって、結局溝畑は正しく評価されないまま、不本意に大分トリニータを去ることになってしまった。

どれだけ凄いことをやってのけても、それを正しく評価できる人間がいなければ物事は回っていかないし、歴史が歪んで伝わってしまう。僕は、常に問いかけるようにしている。人や物事を、他人の意見だけで判断してしまっていないか、と。人や物事に対する自分の評価は、自分の内側にある考えによって構成されたものなのか、と。他人がどう言っていても、自分が直接見たり聞いたりするまでは判断を保留にしろよ、と自戒している。

それぐらい意識しなければ、正しく判断することは出来ないと思っているのだ。

内容に入ろうと思います。
本書は先述した通り、W杯を大分県に誘致するためにゼロからクラブチームを作り上げ、スポンサー探しに奔走しながら、県リーグから出発してチャンピオンに導くというJリーグ史上初の快挙を成し遂げながらも、間違った現状認識によって失墜させられた「暴走社長」である溝畑宏を描いた作品だ。

著者は自身のスタンスをこんな風に書いている。

『ことわっておくが溝畑の擁護をする気はさらさらない。私はむしろ長い間、アンチ溝畑の書き手であった』

著者は雑誌上などで、アンチ溝畑の論調の記事を書いていたという。しかし、大分トリニータの内情を調べていく中で、どうも溝畑宏という人物像が違って見えてきた。監督や選手から信頼され、常にお金に苦労しながら給料の遅配は一度もなく、スポンサーを速攻で口説き落とすほどの夢を語り、その夢を現実のものとし、私費を投じ離婚までして大分トリニータに人生を捧げてきた男。溝畑宏という男のイメージが変わっていった。

本書では、溝畑宏が自治省に入省した頃の話からスタートする。官僚とは思えない型破りな存在感を放ち続けていた男は、著名な数学者である父の一言がきっかけでサッカーにのめり込むことになる。大分トリニータというクラブチームを、作り上げた溝畑宏の視点から、そして溝畑宏を支え続けた者たちの視点から、そして県庁を含む大分県の視点から描き分け、「大分トリニータを壊した男」という溝畑宏のイメージがどのように作り上げられていったのかを丹念に追っていく。サッカーのクラブチームの話ではあるのだが、話はむしろ会社経営の話であり、地方政治の話である。サッカーに詳しくなくても(僕は全然詳しくない)、面白く読めるだろう。

溝畑宏の存在感は圧倒的だ。夢を語る力、その夢を実現に導く力、一緒に夢を見る相手を見つけ出し口説き落とす力、官僚でありながらプライドの欠片も持たずに奉仕できる力、現状を認識して必要なものを差配し、特には非情な決断を下して必要ないものを排除する力。それらすべての力が圧倒していた。その手腕は、J2という下部リーグにいたチームが、大分とは無関係の企業から何度も大金を引っ張ってくる、という事実だけ見ても理解できるだろう。民意によって生まれたわけではなく、地元政財界もまったく協力的でなかったクラブチームを何年も存続させ、さらに優勝にまで導くのは、並大抵の努力ではなしえない。

『溝畑のファイン・プレーは本人が講演で語る「ゼロから日本一のチームをつくった」ことではなく、叩かれても嫌われても全部自分でのみ込んだ愚直な献身にあった』

著者は本書の最後で、溝畑をそんな風に評している。『努力して、究極の努力をしてできないなら私は納得します』とは溝畑自身の言葉だが、その言葉に見合った、常軌を逸した努力をし続けた溝畑という男の凄さは、本書を読んで何度も実感することだろうと思う。

そんな溝畑を支援し続けた者たちもまた魅力的だ。トリニータの初期を支えた、朝日ソーラーの創業者である林は、大分から全国へと快進撃を続ける精鋭の営業部隊を育て、あのトヨタと対等のパートナーシップ契約をした男だ。中興の祖であるペイントハウスの創業者である星野も、中卒でありながらリフォーム業界を16兆円規模の市場に引き上げた。パチンコチェーンの「マルハン」の創業者である林は、朝鮮人でありながら日本国籍を持ち、パチンコチェーンのイメージ回復のために、どんな超優良企業よりも透明度の高い経営をすると決心して、パチンコ業界のイメージ回復に貢献した傑物だ。彼らは皆、溝畑が語る夢に共鳴して、広告の宣伝効果という意味合いを超えたところで大分トリニータに大金を投じた者たちだ。他にも、スポンサーや溝畑の周りの人間など、溝畑の夢を支え伴走した者たちの奮闘があって初めて溝畑の無謀な挑戦は形になった。溝畑の、人を巻き込み、金を引っ張り、結果を出し続けるという手腕を認め、評価し、頼りにしていた者たちの数多くの証言から、巷間知られているのとは違う溝畑像がジワジワと浮かび上がってくる過程は読みどころ満載だ(とはいえ僕は、そもそも溝畑宏という男を本書を読むまで知らなかったのだけど)。

そして、最後の最後まで溝畑とは敵対的な位置を占めていた大分の政財界の様子も、非常に興味深い。本書はサッカーのクラブチームの経営の物語だが、ここで描かれていることは、地方がなんらかのブランディングをする際に非常に重要な事柄が描かれていると感じた。ブランディングの仕方によって、地方同士にも多大な格差が生まれ始め、自分が住む地をどうアピールしていくのかを常に問われ続けている現状に対して問いを投げかける作品でもあるのだ。

著者は取材を続けていく中で、「溝畑憎し」の感情の源泉にたどり着く。そしてそれは、溝畑宏という男の問題ではなく、地方政治の問題であったのだ。大分の政財界が何故溝畑に非協力的だったのか。その原因を明らかにせずに、溝畑一人にすべての責任を被せて知らん顔を決め込んでいる面々に、著者は厳しく迫る。

また、大分トリニータの、民意によるものではないという成立過程の不幸さは、地方が地方主導で何らかのブランディングをする際には確実につきまとってくる問題だろう。大分トリニータは、他のクラブチームとは違い、地元民が望んで出来たチームではなかった。W杯のために必要だったから作ったわけで、大分にクラブチームが存在していることが重要だった。それは特殊なことではなく、地方行政が何かを始めようとする際、同じようなケースはそこかしこに存在するだろう。その場合、どうやって民意を取り込んでいくのか。

『2000年に大分市内で乗ったタクシー運転手にトリニータの話題を振ると、初老のドライバーは「あれは知事と県の官僚がやっているだけですよ」と首を振った』

民意が盛り上がらない状況を打破するために溝畑がしたのは、勝つことだ。勝てるチームを作ることだ。溝畑のその方向性は、正しかっただろう。実際に大分トリニータは強くなった。溝畑がトリニータを解任される直前などは、『Jリーグで一番いいサッカーをしているのは大分です』と評されるほどのチームだった。大分のサポーターもどんどん増え、盛り上がりを見せていた。
しかし結局、溝畑に不備がなかったとはもちろん言わないが、地方行政の不手際と判断ミスにより、民意をうまく取り込むことができなかった。本書を読み込むことで、ブランディングの際に地方行政が必要とされる役割が何であるのかが捉えられるのではないかと思う。

溝畑宏というとんでもない存在感を放ち続けた毀誉褒貶の男と、Jリーグ最高と言われたチームを擁しながら生かしきれなかった地方行政という二つの柱を描き出す作品で、サッカーという枠組みを超えて読まれてよい作品だと思う。

木村元彦「爆走社長の天国と地獄 大分トリニータVS溝畑宏」

ルポ虐待 大阪二児置き去り死事件(杉山春)

『だが、大人たちの厳しい意見の前で、自己主張ができなくなるのが、自尊感情が弱まっている若者の特徴だ』

昔の僕もそうだった。だから僕は、自分の経験としてこう言いたい。

助けを求めることは、とても難しいのだ、と。

本書で、二児を置き去りにして死なせた母親として登場する「芽衣さん(仮名)」と僕とでは境遇はまるで違う。正直芽衣さんと比べれば、僕が置かれた状況など大したことはない。だから単純に比較は出来ないにせよ、自分ではどうにも出来ないと感じている現実が目の前にあったこと、自分ではどうにも出来ないと思っていながら助けを求めることが出来なかったこと、自分ではそんなこと全然望んでいないのにそうする以外に仕方なく酷い状況が現出してしまったこと。そういうことは僕も同じだった。

芽衣さんと僕の差は、もしかしたらほとんどなかったかもしれない。昔の僕が芽衣さんと同じ立場に立たされていたら、かなり近い行動をしてしまっていたかもしれない。まったく同じ状況にはきっとならなかっただろうが、芽衣さんの行動を否定できない自分がいる。

自分がそういう状況に置かれると、まともな思考が働かなくなる。僕もそうだった。一日中テレビを見ながら、頭の中がひたすらグルグルしていた。自分では何か意味のあることを考えているつもりでいるのだが、それはただどこにもたどり着かない袋小路でウロウロしているだけだ。そういうことにすら気づかないし、自分が何を考えればいいのか、何をすべきなのかなども、ちゃんとは分からなくなっていく。

だから、そういう人間が助けを求めることが出来なかったとしても、それは仕方がないことなのだと僕は感じてしまう。

だからと言って僕は、周りの人間がもっと気づいてあげるべきだ、などと言いたいわけでもない。それも無理だ。確かに、何かおかしくなっているという兆候は見えることがあるかもしれない。でも、はっきりと分かることは少ないだろう。僕も、自分の頭がどれだけグルグルしていても、外側にはそれなりに真っ当な自分を見せていたような記憶がある。

『良い奥さんだと見られることが大事だった。困難で惨めな自分の姿を認めることができない』

どれだけ自分がダメになっていても、そのダメな感じを知られたくない、という気持ちは残る。だから、他人に自分の状況を悟らせないように行動してしまう。だから、周囲が気づかなくても仕方ない。確かに、明らかな兆候が見えるなら、何か出来ることがあるかもしれないと思って欲しい気持ちもある。けど、大抵の場合、困っている人間の困窮度を周りの人間が推し量ることは困難だろう。

『芽衣さんは、離婚の話し合いの場で、「私は一人では子どもは育てられない」と伝えることができれば、子どもたちは無残に死なずにすんだ。その後も、あらゆる場所で、私は一人では子育てができないと語る力があれば、つまり、彼女が信じる「母なるもの」から降りることができれば、子どもたちは死なずにすんだのではないか。そう、問うのは酷だろうか。だが、子どもの幸せを考える時、母親が子育てから降りられるということもまた、大切だ。少なくとも、母親だけが子育ての責任を負わなくていいということが当たり前になれば、大勢の子どもたちが幸せになる』

今の僕は、降りることに成功した。だから、昔の僕とは違って、今ならたぶん他人に助けを求めることが出来るような気がする。ダメな自分を見せることが出来るのではないかという気がする。僕も、「ちゃんとした自分」というものに囚われていて、そこから降りることが凄く難しかった。そこから降りられなかったことが、色んなことの原因だったのだなと、後から振りかえってそう思えるようになった。

今では、降りることが出来たから気が楽だ。でも現代社会には、降りられなくなっている人が山ほどいるのではないかと思う。

『母親になることを願った芽衣さんは、妻の地位を失った時、アイデンティティの基盤を失う。就労を可能にする教育を受けられなかった者として、自尊心をつなぎ止めるのは「男性に選ばれる私」しかいない。「男性と関係がある私」という商品となる。
SNSはいわばそんな芽衣さんのショーウィンドウだ』

『本当に子育てをしているかが重要ではなく、「メディア」を通じてみせること。それが現実となる』

『他者から拒否され、嫌われることへの怯え。人が「選別されるべき存在」となった現代社会で、社会の一員になり切れないと感じる若者たちが当たり前に抱える感情を芽衣さんもまた深く抱えていた』

芽衣さんについて書かれたこれらの文章が当てはまる人は、現代社会にはとても多いのではなだろうか。他者から認められることが重要であるという価値観があり、他者から認められなければ自分の存在を肯定できない。そして、その肯定を得られなかったが故に行き着いてしまったのが、この事件の結末なのだ。

だから、この事件は、決して他人事ではない。確かに芽衣さんは、解離性の人格障害を抱えていたらしい(裁判では認められなかったようだが)。それ故に、通常以上に酷い結果を引き寄せてしまったという部分もあるだろう。でも、程度の大小はともかくとして、芽衣さんのような状況に陥る人は、僕も含めてだったけど、決して少ないわけではないはずだ。

『本当に大切だった。命よりも大切だった。それなのに亡くしてしまった』

二人の子どもを最後まで愛していたと主張する芽衣さんは、殺意を否定する。しかし裁判では殺意が認定され、児童虐待死事件としては異例の懲役30年を言い渡される。しかし、事件の推移や芽衣さんを取り巻く環境などを踏まえて考えると、芽衣さんにすべての罪を着せて事件を終結させるのは間違っているという感覚を得るのではないかと思う。

芽衣さんは現実ときちんと向き合う心の強さを持てない人ではあったが、少なくとも子どもに対して最も責任を感じ、その責任を果たそうと意志を持っていた人間だった、と言うことは出来る。母親なんだから当たり前じゃないか、という人間がいればそれはちょっと古すぎる考え方だし、だからと言って芽衣さんの行為は許されるものではないと言う人間がいれば、芽衣さんの周りの人間の無関心さを知らない。芽衣さんの両親も、芽衣さんの元夫も、元夫の両親も、誰も芽衣さんとその二人の子どものことを真剣に考えようとしなかった。突き放したり、無関心だったりという態度を取る。それでいて、裁判では、元夫やその両親が、「遺族」として芽衣さんに厳しい処罰を望む発言をしている。正直、彼らには芽衣さんを糾弾する資格はないように思える。あなた方は、芽衣さんにもっと手を差し伸べるべき人だったのではないか、という思いは拭えない。

『子どもたちが安全に、守られて暮らすためには、どれほど母親の安全と安心が必要か』

母親の安全と安心がどんどんと奪われている現代社会。その中で僕たちはきっと、知らず知らずの内にそれらを奪い去ることに加担しているに違いない。加担する側にも、そして奪い去られる側にもならないように、本書を読んで現実をきちんと認識しておくことは大事かもしれない。

内容に入ろうと思います。
2010年7月30日、大阪ミナミの繁華街近くにあるワンルームマンションの一室で、三歳の女の子と一歳八ヶ月の男の子が変わり果てた姿で見つかった。子どもたちはクーラーのついていない部屋に閉じ込められた。外からガムテープで塞ぎ、南京錠を掛けて部屋の外に出られないようにしていた。引っ越し以来一度も捨てられなかったという堆積されたゴミの中で、服を脱ぎ折り重なるようにして亡くなっていた。内蔵の一部は蒸発し、身体は腐敗し、一部は白骨化していたという。
母親である芽衣(仮名)さんは、50日間も子どもを放置して男と遊んでいた。その様子をSNSに投稿していた。それでも彼女は、子どもを愛していたし、どうしてこんなことになってしまったのか分からない、と語っている。

著者は、そんな芽衣さんの言動を理解しようとして、芽衣さんの周囲の人間に取材を続ける。そして、「自分勝手で子どもに愛情を持たない母親が身勝手にわが子を放置し死に至らしめた」という事件の見方を変えさせた。僕は本書を読んで、確かに芽衣さんのしたことは許されることではないが、芽衣さんこそ一番の被害者だったのではないか、と感じられてならない。そして、誰しもが芽衣さんと同じ場所に立つ可能性があるのだ、と。

僕はそもそも子どもに興味がないし、結婚にも関心がないから、結婚も子育ても恐らくはすることはないだろう。そしてその判断には、自分が子どもを育てたら、どこかで必ず子どもに不幸を与えるようなことをするはずだ、という自分の感覚がある。それが暴力なのか、無視なのか、金銭面でのことなのか、それは分からないけど、ただ僕が子育てをすると子どもは不幸だ、という感覚が僕の中にはある。ただの思いこみだと言われるかもしれないし、実際その通りだと言われればそうなのだけど、僕はこの点において自分を信じることが出来ない。

『芽衣さんは自分を守る力を持っていたのかどうか。周囲の期待を敢えて無視すること。それは、時にはわが子を守ることでもある』

僕は自分が芽衣さん側の人間だという自覚がある。この自覚は、とても大事だと思う。結婚や子育ての良い部分だけを夢見て憧れて結婚する人は多いだろうが、その結果、離婚や虐待は増えている。そもそも結婚に向かない人、そもそも子育てに向かない人というのは絶対にいると思うし、そういう自覚をどこかで受け入れることが大事ではないかと思う。しかしきっと多くの人は、そういう自分の存在に気づくことなく結婚や出産を経験する。その結果、痛ましい事件が起こる。

もちろん、結婚や子育てを通じてしか分からないこともある。最初から諦める姿勢を気に食わないと感じる人もいるだろう。しかし、大人がきちんと考えずに行動するせいで、何の罪もない子どもが苦労するというのは、僕は嫌だなと感じる。

本書を読むと、本当に様々なところに、「ちゃんとしていないことを糾弾される場面」が見え隠れすることが分かる。僕たちは、どんな場でも完璧を求められるような、とても窮屈な世の中に生きている。世の中の風潮が、もっと「失敗した人間」「間違った人間」に寛容であれば、みんなもう少し生きやすくなるだろう。しかし、世の中はどんどん、「失敗した人間」「間違った人間」に厳しくなっていく。そのせいで、社会にうまく馴染むことが出来ない人たちが無用の苦労をさせられることになる。

『価値がないものとして扱われている自分自身を受け入れることは、この上もなく困難なことだ』

この本は、芽衣さんという、傍目に見れば残虐な行為をした極悪非道の人間を追った作品であるように思えるだろう。しかし実際はそうではないと僕は思う。本書は、芽衣さんという一人の人間の人生を追うことで、社会全体を、そして本書を読んでいる僕ら一人ひとりに刃を突き立てる作品なのだ。

『精一杯の勇気が届かない。芽衣さんは社会への信頼をもはや持てない』

僕は、社会全体がもう少し寛容であってほしい、と思っている。先程も書いたが、社会が窮屈だからこそ、社会からはみ出してしまう人間の行き場がなくなり、SOSが届かなくなるのだ。そんな風に思っているから、僕自身は、出来るだけ、他人に寛容であろうという意識は持っている。少しのミスで怒ったりイライラしたり、そういうことをしないように意識している。そういう意識が、最後には自分のところにきちんと返ってくる。僕はそんな風に考えている。

『子どもの幸せを考える時、母親が子育てから降りられるということもまた、大切だ。少なくとも、母親だけが子育ての責任を負わなくていいということが当たり前になれば、大勢の子どもたちが幸せになる』

こういう世の中を実現できるように、僕ら一人ひとりの行動を変えていくべきだと僕は思う。 

杉山春「ルポ虐待 大阪二児置き去り死事件」

神様の裏の顔(藤崎翔)

これは面白い作品だなぁ。
いつものように考えたことをあーだこーだ書くような感想にはならないんだけど、物語として本当によく出来ている小説だと思います。

内容に入ろうと思います。
物語はすべて、ある人物の葬儀で完結する。
その人物とは、神様のような清廉潔白な教師・坪井誠造だ。死の直前はもう教師を退職し、貧困家庭や不登校の子どもを支援するNPOに参加していたが、それ以前は中学校の校長をしていた。校長室を開放し、不登校気味の生徒を気軽に通わせる試みが話題を呼び、見学者も相次いだ。どんな人からも慕われ、こんなに素晴らしい教師は他にいない、と絶賛されるような、人間の鑑のような人物だった。
その坪井先生が亡くなった。
葬儀には、多くの参列者が集まった。葬儀社員はこの光景を異様なものと見た。普通参列者の多い葬儀は、個人にゆかりのない人間も動員が掛けられていることが多い、泣いている人間の割合は多くない。しかしこの葬儀は、参列者の8割方が泣いている。しかも、子どもも多い。子どもたちも号泣している。こんな葬儀見たことないと感じるほどの光景だった。
その葬儀の場で出会った面々がいる。彼らは生前何らかの形で坪井先生と関わっており、その死を悼んで葬儀にやってきたのだ。
坪井誠造の娘で、父の背中を追って小学校の教師になった晴美。そして、晴美の妹で、売れない女優の友美。坪井先生の教え子で、晴美と同級生だった斎木直光。坪井先生の元同僚で、厳しい指導で生徒から嫌われまくっていた体育教師の根岸義法。坪井家の隣に住む、認知症を患った夫の介護に奔走していた主婦の香村広子。坪井先生の教え子であり、また坪井誠造が大家である「メゾンモンブラン」の住人であるギャルの鮎川茉希。同じく「メゾンモンブラン」の住人で売れない芸人である寺島悠。
この面々が、ほんのちょっとした聞き間違いをきっかけに、葬儀の場で偶然に集まることになる。そしてそこで驚愕の展開が待ち受けているのだ。
…もしかしたら坪井先生は、極悪人だったのではないか。そんな疑惑が浮上したのだ…。
というような話です。

これは面白い作品だったなぁ。とにかく、最初から最後までよく出来ている。全体の構成や設定が見事なのはもちろんのこと、元芸人という著者の経歴からだろうか、登場人物のキャラクターが非常に面白く描かれている。葬儀が舞台になっているのに、クスッと笑わせにくるような描写や展開があちこちに待ち構えていて、読んでて楽しい。色んな人物の語りに入れ替わっていく多視点の物語で、そういう視点の移動が苦手という人もいるかもしれないけど、たぶんこの作品は大丈夫だろう。それぞれが非常に個性的だし、それぞれにエピソードがしっかりとあるので、人物を混乱することもないし、視点の切り替えに違和感を抱くこともきっとないと思う。

登場人物の魅力については、ちょっと読んでもらわないと分からないのでここではあまり触れないので、別の話をしよう。
とにかく、よくこんな物語考えたもんだなぁ、と思います。
先程も書いたけど、とにかく全体の構成が見事です。基本的にはミステリなので、ネタを明かしすぎないようにあまり深入りはしないけど、幾つもの「疑惑」を並べて、それらが色んな人間と関わるように描き、さらにそれぞれの「疑惑」に対してそれ以降の展開を考える、というなかなかアクロバティックなことをやっているんです。もちろん、じっくり読めば細部に色々と無理があったりするのかもしれないけど、そんなこと気にならないぐらいよく出来ている。本書のようなスタイルのミステリを、他にパッと思いつかないなぁ。本書のような展開のさせ方をする「疑惑」をいくつも考えるのは相当難しいだろうし、それをややこしくないように、誰でも理解できるように書くのもまた技術が必要でしょう。さらにそれらの「疑惑」が、登場人物たちの人生の過去を様々な形であぶり出していくことにもなるわけで、いやホントに、よく出来てるとしか言いようがない作品です。

タイトルから、ストーリーがどんな風に展開していくのか、その大きな流れはたぶん分かると思います。でも、その展開のさせ方までは想像出来ないでしょう。僕も、それぞれの「疑惑」が、ここからどうなるんだろうなぁ、と思いながら読んでました。ホント、うまいことやるんですよね。しかもそれで終わらない、というのがこの物語の凄いところで、どこまで「裏」があるんだって思っちゃいました。

それぞれの登場人物のエピソードもそれぞれ面白いんだけど、どうしても「疑惑」とか物語の大事な部分に関わっちゃう感じがするんで、あまり書けないんだよなぁ。それに、何も知らないで読むほうが絶対に面白いと思います。

個人的には、彼らが集まって議論をするきっかけになった「聞き間違い」が凄くよく出来ていると思いました。あの「聞き間違い」さえなければあの議論にならなかったのか、と思うと凄く重要な場面です。そんなバカな!というようなところから話が芋づる式に展開していって、ついには「疑惑」大会が開かれちゃうという流れは、これもやはり元芸人の成せる技というんでしょうかね、見事だと思いました。

ほとんど物語に触れられないのでこんなモヤモヤした書き方しか出来ないのだけど、様々な伏線を綺麗に回収し、テンポよく物語を進め、登場人物を魅力的に描き出し、物語を実にうまく展開させる、見事な小説だと感じました。

藤崎翔「神様の裏の顔」

はじめて考えるときのように(野矢茂樹)

「考える」というのを、僕らは割と当たり前にやっている。
やっているつもりだ。
でも、本当に「考える」ということをしているのか、どうやって確かめたらいいだろう?
そう聞かれると、とても困るのではないか。
何故なら、改めて考えてみると(「考える」を使っちゃった)、「考える」というのがどういうことなのか、ちゃんと考えたことがないからだ。

勉強をしている時は考えてるよ、と言うかもしれない。でも、暗記したり計算したりしている時、あなたは考えていると言えるだろうか?それは、「暗記する」「計算する」ということでしかなくて、「考える」というのとはまた違うのではないか。

企画のアイデアをいつも考えてるよ、と言うかもしれない。確かにそれは「考える」という行為かもしれない。でも、企画のアイデアを考えている時、あなたは一体何をしているだろう?「考える」ことをしてるんだよ、というかもしれない。でも、それがどういう状態なのか、どういう手順で行っていることなのか、誰かに説明できるだろうか?

そう考えてみると、「考える」というのは確かに捉えにくい。僕も、「考える」というのがどういうことなのか、「考える」ことをしている時自分が何をしているのか、うまく説明できない。

本書は、そういう事柄に説明を与えようとする作品だ。

なーんだ面白くなさそう、と思う人もいるかもしれない。しかし、こう考えて欲しい。本書は、あなたが「考える」ということをするのに必要なものを与えてくれる本なのだ、と。

「考える」ことが苦手、と感じている人がいるとしよう。ハウツー本を読んだり、ちょっと難しいことを考えてみたり色々やってみるんだけど、どうもうまく「考える」ことが出来ていないような気がする。そういう人は結構多いんじゃないだろうか。

一体何が問題なのだろう?(こういう問いかけも、まさに「考える」ことだ) それをスパッと理解することは難しい。でも、こんな例を間に挟んでみたらどうだろうか?

例えばあなたが料理をするとする。けれどあなたは、「包丁(に限らず、何かを切るための道具全般)」の存在を知らない、としよう。「包丁」の存在は知っているけど手近にない、のではない。「包丁」の存在を知らないのだ。

さて、野菜を切りたい。「包丁」を知らないあなたはどうするだろう?キャベツぐらいなら手でちぎれるかもしれない。でも、ジャガイモの皮はどう剥く?大根はどう切る?トマトをどうスライスする?あなたは、指や爪、しゃもじやお玉など、色んな道具を使って野菜と格闘するだろう。

そしてこう思う。

「あー、料理って難しい」

さて、この感想をどう思うだろうか?もちろん料理には色んな手順があるが、今あなたが苦労しているのは野菜を切る工程だ。そしてこの工程は、「包丁」さえあれば困難さはグンと減る。

あなたの料理の風景を、「包丁」の存在を知っている人が見れば、「包丁を使えばもっと楽なのに…」と思うだろう。

さて、「考える」に戻ろう。
「料理」にとって「包丁」が大事なように、「考える」にとって「◯◯」が大事だ。そして本書は、その「◯◯」を教えてくれる作品なのだ。「考える」ことが得意な人は、「考えるのって難しい」って思っている人を見て、「◯◯」があればもっと楽なのに、と思う。けど、「考えるのって難しい」と思ってる人は「◯◯」の存在を知らないから、いつまで経っても「考える」ことがうまくならない。

そして本書は、そんな「◯◯」を教えてくれる作品なのだ。

「◯◯」ってなんなんだよ、と思うかもしれない。けど、これは一言では表せないのだ。だから本書がある。「考える」ことに必要なものが「包丁」みたいに簡単に表現できるなら本書は要らない。本書を読むと、「◯◯」が何なのかはうまく説明できないけど、でも「◯◯」を手に入れることが出来る。そして、その「◯◯」を使って、あなたは「考える」ことをそれまでよりは楽に出来るようになるのだ。

なんとなく、本書がどんな本なのか分かってもらえただろうか?

「料理」は、自然にするようにはならない。誰かが料理をしているのを見たり、誰かから料理を教わったりしながら、徐々に出来るようになっていく。でも僕たちは、いつから出来るようになったのか覚えていないくらい、いつの間にか「考える」ということをしている。誰かが「考える」のを見たわけでも、誰かから「考える」ことを教わったわけでもなく、いつの間にか気づいたら「考える」ことをしていたという人がほとんどだろう。そういう、あまりにも当たり前の行為だから、逆に「考える」ということがイマイチ分からない。「料理」は、初めは分からないところからスタートする。やっていく内に徐々に分からないことが少なくなっていく。でも「考える」ことは、別に分からないことはない。「考える」ことを始めた時から、特に「考える」ことに対して疑問を感じない。こうやって、「考えるってどういうこと?」という問いかけをされて初めて、「考える」ことが分からないことだらけだということに気づく。

「考える」ことは自然に出来るようになっていたから、何が重要で、何に気をつけなくてはいけなくて、何を手放してはいけないのかも、実は分かっていない。本書は、そういうことを丁寧に説明し、また一緒に考えていきながら、「考える」ということに不可欠なもの(これを「◯◯」と呼んでいる)を読者に伝えようとする。

だから本書は、「考える」ことが苦手だという人にも、「考える」ことが得意だという人にも読んで欲しい。「考える」ことが苦手だという人は、「考える」ことそのものについて考え、その上で「◯◯」を手に入れて欲しい。「考える」ことが得意だという人は、本書を読んで、自分がちゃんと「◯◯」を持っているのか、確かめて欲しい。

内容に入ろうと思います。
が、本書がどんな本なのかは、ここまで書いたことで大体説明しちゃったんだよなぁ。「哲学」と書いてあるけど、「哲学の知識」の本ではない。哲学の考え方を使って、「考える」について分析して、「考える」に必要な「◯◯」を垣間見せてくれる作品、という感じです。

横書きだし、イラストもついているし、語り口調も難しくない。とてもとっつきやすい本だ。書いてある文章をさささっと読んでしまうことは出来る。でも、書かれていることをきちんと吟味しようとすると、本書の骨太さが実感できる。「考える」ことはみんなが当たり前にやっていることだから、それを言葉で説明したり、その不思議さを理解させたりすることは、なかなか難しい。でも著者は、平易な言葉で、出来るだけ出来るだけ簡単に、「考える」ということの本質を見せようとしてくれる。

本書の中で書かれていることの一部を切り取って見せることはとても難しいから、切り取って伝えやすい部分だけちょっと紹介してみよう。

『無知や無秩序から問題が生じるんじゃないということ。むしろまったく無知だったり無秩序だったりしたら問題は生まれようもない。いろんな知識をもち、いろんな理論を引き受けるからこそ、問題は生じる。だから、別に奇をてらった言い方ではなく、学べば学ぶほど、よりたくさんのことが鋭くより深く問えるようになる。そういうこと。』

無知だったら問題は生まれない、というのは、まさに「考える」に対しても同じだ。僕らは、「考える」ということに無知だ。だから、「考える」ということに疑問を感じない。

本書の中には、「惑星」のエピソードがある。「惑星」というのはその名の通り、「惑う星」だ。昔の人は「惑星」を「さまようもの」として捉えたのだ。
何故か。

『いまの惑星の場合だと、惑星が「さまよう星」として問題になったのは、「たいていの星は円運動をする」ということが認められたからだった。つまり、規格はずれのものごとが問題として姿を現すわけだけど、そのためにはまず規格がなければならない。だから、長い時間がかかる』

これはなるほどと思っていただける分かりやすい例だ。本書では、「考えることは、問題をきちんと捉えることだ」というようなことが繰り返し語られるのだけど、問題をきちんと捉えるためには、まずその背景にある規格を捉えなければならないのだ。

また問題については、こんなことも書かれている。

『問われて、それに答えるために何をすればいいのかわかっている問題は、答えるのに考える必要はない』

例えば、「この王冠の重さは?」と聞かれれば秤で重さを測ればいい。ここに「考える」ことは必要ない。けど、「この王冠の体積は?」と聞かれたらどうか?大学の研究室にあるような機械であれば測れるかもしれないが、そういうものがなければどうしたらいいだろう?(この王冠の話は、アルキメデスの有名なエピソードだ)

「この王冠の体積は?」という問題は、問われた時に何をすればいいか分からない。この問題を解決するには工夫がいる。こういう時に「考える」ことが必要になるのだ。

さらにこんな文章もある。

『試験などでも、教師は答えを知っているから、問題をうまく作れる。逆に、答えを知らず、答えの方向もわからない人には、うまく問題が立てられない。だけど問題がうまく立てられないと、うまく答えることもできない。
じゃあ、答えがわかる前に、どうやって問題を立てればいいのか』

これもなかなか難しい問いだ。

こんな風に、様々な問いかけや思考実験をすることで、「考える」ことがどういうことなのかを明らかにしていく。

引用が長くなるのでここでは詳しく紹介しないが、「R2D1」の話も非常に面白い。これは、人工知能につきまとう「フレーム問題」に関わる話だ。人間と同じことを人工知能にやらせようとすると、必ずこの「フレーム問題」がつきまとうことになる。こういう思考実験を知ると、人間がいかに奇妙なことを普段からしているのかということがよく分かる。

最後に、現代社会に痛打を与えるような文章を引用して終わろう。

『その意味では、共感よりも違和感や反感の方がだいじだ。
変なひとと出会う。変なものと出会う。そして、変な本と出会う。この本が、もしきみとって、ささやかでもそんな出会いのひとつになってくれたら、ぼくはすごくうれしいと思う』

僕も普段から、「共感からは何も生まれない」と思っているのだが、その考え方を補強してくれるような文章だった。
共感によって人とつながることが一番大事であるかのような風潮のある現代社会を一度見直してみることは大事なことではないかと僕は思うのだ。

野矢茂樹「はじめて考えるときのように」

白い衝動(呉勝浩)

色んなことを考えた。

僕は昔からこんな疑問をいだき続けている。
「何故人は、夕日を美しいと感じるのか?」

調べたわけではないが、人間は誰しも夕日を見て美しいと感じるのではないかと思う。夕日を見て不快だと感じる人の話は聞いたことがないし、なんとも思わないという人も少ないのではないか。夕日を見ると、何故か人は美しいと感じるのだろうと僕は思っている。

何故だろう、と思うのだ。

物事に対する美醜というのは、バラツキが出るのが当然だと思う。人の顔でも、絵でも、服でもなんでも、誰しもが美しいと感じるものなどそうそうないと思う。しかし、夕日に限っていえば、夕日を美しくないと感じる人間を想像するのがちょっと難しいくらい、全人類的な感覚ではないかと僕は思う。そして、何故そんなことになっているのか、と思うのだ。

この感覚が後天的に身につくものだとはちょっと考えられない。生まれた時には誰もが夕日というものに対してフラットな感覚でいるのだけど、成長していく過程で夕日を美しいものだと認識するような流れは不自然だろう。そういう流れであれば、夕日を美しいとは思わない、という人間が一定数出てきてもおかしくないはずだ、と思えてしまう。

だから僕は、夕日を美しいと感じるこの感覚は、遺伝子レベルに刻まれた衝動なのだろう、と考えている。恐らく太古の昔から、何らかの理由があって、夕日を美しいと感じる人間が生き残ってきた、ということなのだろう。そういう感覚が、今も脈々と受け継がれているのだろうと思う。

だから僕は、「何らかの理由で生まれながらにセットされた抗いがたい衝動」の存在を許容することが出来る。



別の話をしよう。
僕は、恋愛が長続きしない。恋愛を始めてから数ヶ月で、とある衝動に襲われる。それは、「もう終わりにしたい」という衝動だ。どうしてもこの関係を続けていけないぞ、という強い衝動が湧き上がってくる。僕の中でこの衝動をどうにも抑えきれなくて、僕は恋愛というものを諦めることにした。

自分の中でこの衝動を何とかしようともがいていた時期がある。恋愛経験がそこまであるわけではないが、この衝動を押さえ込もうと、自分なりに出来る範囲で対策を取ろうとした。また、恋愛ではない人間関係を観察することで、恋愛と恋愛ではないのとで何が違うのかを見極めようとした。そういう試行錯誤を色々と繰り返すことで、僕は自分の内側から湧き出てくる「もう終わりにしたい」という強い衝動を、一応それなりに理屈で説明できるようにはなった。

どうにも抑えられない衝動、というのは存在するのだと思う。しかし、その衝動に何らかの説明がつけば、多少は落ち着く。僕の場合、その衝動は、「何かをしたい」というものではなく「何かを止めたい」というものだったから、単純に比較は難しい。「何かをしたい」という強い衝動が、何らかの理屈がつくだけで収まるのか、不明な部分は多い。それでも、誰かが説明をつけてあげることは大事なことなのだと思う。



今10万円もらうのと、1年後に11万円もらうのとではどちらがいいか、と問うような心理学の実験がある。多くの人が、今10万円欲しい、と答えるのだそうだ。

僕にはイマイチこのことが理解できない。僕は、1年後に11万円もらう方を選ぶ。もちろん、これは状況にもよる。借金まみれで返済に追われているとか、常に金欠だというような状況なら答えも変わるだろう。しかしこの質問は、「純粋に、今の10万円と1年後の11万円のどちらに価値を感じるか」という意図を持った問いなのだから、生活が逼迫するような財政状況を思い描く必要はないだろう。そういう、生活をすることは出来る、という状況でなら、僕は1年後の11万円を選ぶ。

アメリカでの話だが、プールと銃、どちらが危険かという問いがある。子供のいる家庭でなされた質問のようだ。多くの人は、銃だと答える。しかし、子供の死亡事故は、銃のある家よりプールのある家の方が圧倒的に多い。子供がプールに落ちて溺れてしまうからだ。しかしそれでも、人々は銃の方が怖いと感じてしまう。

飛行機の死亡事故と車の死亡事故を比較したら、圧倒的に車の死亡事故の方が多いだろう。しかし多くの人は恐らく、飛行機の方が危険な乗り物だ、と感じるだろう。飛行機事故の悲惨なイメージは、多くの人に鮮烈な印象を残すのだ。

何が言いたいのか。僕はこう問いたい。一度殺人を犯した者と、一度も殺人を犯していない者とではどちらが危険だろうか、と。

もちろん多くの人は、殺人者を危険だと考えるだろう。それは、当然の思考だと思う。先程の銃や飛行機と同じだ。さらに今回の例では、「殺人者」と「非殺人者」の違いは明白だ。「殺人者」は、既に一度殺人を行っている、という点が圧倒的に重い事実になる。この点が、銃や飛行機との明白な違いとなる。

しかし僕は、どちらが危険かという問いに、大差はないだろう、と答えたい。僕は、本当にそう思っている。何故なら、常に「非殺人者」の間からも「殺人者」が生まれているのだから、「非殺人者」を殊更に信頼する理由がない、と感じるからだ。

新たな殺人者は、常に「非殺人者」から生まれてくる。もちろん、かつての「殺人者」が再び殺人を犯すケースだってあるだろうが、殺人事件の大半は「非殺人者」が殺人を犯すケースだろう。恐らく厳密な調査をすれば、銃や飛行機の時と同じように、「殺人者」が再び殺人を犯すよりも「非殺人者」が殺人を犯す方が可能性が高い、という結論になるのではないかと僕は思っている。

けれど、人はやはり「殺人者」を拒絶する。
何故か。
それは、理解できないからだ。理解したくないからだ。

人が「非殺人者」を受け入れるのは、理解できるからだ。その人物が、これから殺人を犯すかもしれないのに、それでも受け入れられるのは、これまでに殺人を犯したことがないからだ。殺人という、普通受け入れられないような行動を起こしたことがない人間だからだ。「殺人者」を受け入れることが出来ないのは、今がどうあれ、過去に殺人という、絶対に許容できないような行為をしたためだ。

そんな風にして僕らは、「殺人者」を拒否していく。

僕は想像してみる。自分の近くに「殺人者」が住んでいる状況を。その人物が、過去に殺人を犯した人間だと知らなければ、知らないのだから平穏に過ごせるだろう。そしてそれを何らかの形で知った場合は、気をつけることが出来ると思う。想像力が貧困なだけかもしれないが、「殺人者」であることが分かっているなら、その人物と出来るだけ関わらないようにしたり、避けたり、誰かに注意したりということが出来る。

それは、ある日突然「非殺人者」が殺人を犯すという状況と比べたら、とても安全なのではないか、と思う。「非殺人者」が殺人を犯す場合、気をつけようがない。自分がいつ何時被害者になるか分からない。僕はそっちの方が怖いのではないか、と感じる。繰り返すが、僕の想像力が貧困な可能性はある。現実は、そうはいかないかもしれない。近くに「殺人者」が住んでいることが分かったら、僕も動揺するかもしれない。しかしその動揺は、「殺人者」がもたらすのではなく、「「殺人者」に動揺する周囲の人間」によってもたらされるのだ、と僕は信じたいのかもしれない。

今の10万円と1年後の11万円。銃とプール。飛行機と車。これらの問いは僕らに、僕らはイメージによって物事を判断しているに過ぎない、という現実を突きつける。実際の価値や危険ではなく、イメージの価値や危険に囚われているのだ、と。そういう視点で「殺人者」と「非殺人者」を捉えなおしてみる。ある物事に対して感じてしまう感覚を裏切ることは難しいが、そう感じてしまうという感覚を脇において物事を見る視点が求められる機会は多くあるだろう。自戒の念も込めて、僕はその重要性を伝えたいと感じる。

内容に入ろうと思います。
スクールカウンセラーの奥貫千早は、「人を殺したいという衝動を抑えられない」という高校生・野津秋成と出会う。
天錠学園は、私立でありながら、県が進める都市開発事業の一環として創設された学校であるという公的な性格を帯びているために、スクールカウンセラーが常駐しているという珍しい学校だ。千早は週に3日、敷地中央の森のなかにある「Cルーム」と呼ばれる場所で生徒を待っている。友人との関係がこじれてめんどくさいと悩み相談を持ちかける、中等部二年の桜木加奈を始め、ちょっとした相談から大きなものまで色んな話をしにやってくる。最近では、ゲンシロウという名の山羊の足の腱が鋭利な刃物で傷つけられるという事件があり、それと前後して「シロアタマ」というバットを振り回す怪物の噂も出回り始め、不安を感じた生徒がやってくることもある。
秋成は、ある日Cルームにやってきた。物腰は丁寧で、明瞭な物言いで、緊張もないように見えた。知性が高く、「正常と異常の定義」や「普通とは何か」という会話に対して的確な問いを挟んでくる。そしてしばらくして告白したのだ。人を殺したい衝動があるのだ、と。
どうしたものか千早は悩む。千早は「絶対悪」という概念を認めていない。「包摂」というのが彼女の研究の根底にあり、罪を犯した人間であっても社会は罪を償ったその人物を受け入れるべきだ、と考えている。そう考える以上、「絶対悪」という考えを認めるわけにはいかない。殺人にしても、純粋に殺人を犯したいのだという衝動の存在を認めない。殺人には、かならずそれ以外の理由がある、というのが千早の信念だ。だから秋成の主張を鵜呑みにすることは出来なかった。しかし、かと言って何もしないままでいいのか。千早は、もう一人いるスクールカウンセラーである大草登美子とも相談しながら、様子を見ることにした。
地元ラジオの局アナをしている夫の紀文が、ある情報を仕入れてくる。彼らが住んでいる箱坂町に、入壱要が住んでいるというのだ。16年前に、いわゆる「関東連続一家監禁事件」を犯した男だ。殺人は犯さなかったので出所も早く、親族の元に身を寄せているのだという。
やがて入壱の存在が、この町を混乱に陥れることになる…。
というような話です。

色々考えさせられる話でしたし、面白かった。物語の後半の展開や閉じ方には不満もあるのだけど、全編を通じて訴えかけてくる即答し難い問いかけに、自分だったらどんな答えを返すだろうか、と考えながら読んでいくのはとても楽しかった。

この物語は、犯罪者と社会、あるいは犯罪を犯すかもしれないと訴える個人の戦いなどが核となっていて、人によっては身近に感じることが出来ないテーマに思えるかもしれない。しかし決してそうではないと思う。

この物語は、究極的には、人間は人間を理解することが出来るのか、という問いかけだ。そしてその問いかけは、すべての人間が生きていく上で避けては通れないものだろう。

物語に、入壱要という男が登場する。かつて異常な事件を犯した男だ。人々は、彼のことを理解できないと強く訴え、排除しようとする。
気持ちは分かる。守るものがある人であればなおさら、そういう行動に出るだろう。

しかし僕は、一定の理解をしながらも同時に、怖さも感じた。人々は入壱要に対して「理解できない」と怒鳴る。しかし僕はその背後に「俺達は理解し合っている」という無垢な信頼が見えてしまう。その信頼が、僕には怖く感じられる。

他人のことを理解することなど出来ない。僕にとってそれは、生きていく上での大前提だ。理解できた、と思った時には、いつも立ち止まるようにしている。そして、そんなわけがない、と自分を落ち着かせる。

『自分の理解を超えた他人を信じることが、耐えられないのだよ。そもそも本質的に、理解できる他人などあり得ない。だからこそ我々は、まるで理解可能であるかのような振る舞いを日々積み重ねる必要がある。それを怠った者を、人は容易に受け入れない』

千早の学生時代の指導教授だった寺兼英輔は、人間が生きていく上で構築する人間関係の本質を、こうズバッと説明する。僕もその通りだと思う。そして多くの人は、「理解可能であるような振る舞い」を見て「理解可能だ」と思う。そう思いたいのだ。思いたい気持ちは分かる。分かるが、しかしそれはただの思いこみだ。

そういう思いこみを捨てられないからこそ、「理解できない」という理由で入壱要を排斥する動きが生まれる。「理解できない」他人などそこらじゅうにいるのに、その事実には目をつぶって、分かりやすく「理解できない」人間だけを排除しようとする。

僕は普段、意識的に「理解できない」行動を取るようにしている。そうすることで、「理解できる」という無言の圧力・囲い込みから脱することが出来ると信じているからだ。「こいつは理解できない、でも排除するほどでもない」という立ち位置をきちんと確保することが、僕が新しい集団に入り込む時の基本スタンスだ。この立ち位置をきちんと確保できないと、その後の人間関係が色々と厳しくなる。

「理解できる」と思われれば思われるほど、そこから外れる行動を取ることは難しくなる。僕はそれを肌感覚と言葉で分かっているから、「理解できる」病に囚われた人々と距離をおくことが出来る。「理解できる」病から脱することさえ出来れば、入壱要は問題ではなくなる。入壱要は、他の多くの他人と同じく、ただ「理解できない」人間だ、というだけに過ぎなくなるのだから。

僕にとって問題なのは、むしろ野津秋成の方だ。

野津秋成のことを考えると、僕は思考停止に陥るしかない。
僕が野津秋成と同じ立場だったら、一体どうするだろうか?いくら考えても、ある一定のところから先へと進めなくなってしまう。

野津秋成にも、そのことは理解できている。

彼は、自分の内側の「人を殺したいという衝動」を、どうしようもないものだと捉えている。それは、美味しいものを食べたい、とか、歌いたい、というようなものと同じくらい、本人には消しようのない衝動なのだ。もちろん彼は理性的な人間だから、殺人を犯したらどうなるのか理解している。家族に多大な迷惑を掛けてしまうことを、絶望的なこととして捉えている。しかしその理性は、殺人衝動を押しとどめる役には立たない。そのこともまた、彼は理解してしまっている。

彼は、まだ殺人を犯していない。そして、別に精神的に異常があるというわけでもない。秋成を診断する千早は、彼がどんな障害も有していないことが分かってしまう。至って正常だ。ただ、殺人衝動が抑えられないだけだ。

そんな人間はどうやって生きていけばいいのだろう?

これは決して殺人に限らないだろう。どうしても買い物が止められない、どうしてもパチンコが止められない、どうしてもゲームが止められない…。もちろんそれらは「依存症」という名前がつくだろうし、れっきとした病気だろう。秋成のケースと同列に比較は出来ないに違いない。しかし、物語を受け取る、という意味では、そこまで厳密になる必要はない。自分の中のどうしても消すことが出来ない衝動。それに囚われたまま生き続けなければならない人。そういう人には秋成の切実さは理解できてしまうだろう。

正直に言って僕には、そういう衝動はない。何もない。しかしそれでも、秋成が気になる。どうしようもない殺人衝動を抱えたまま生きていくという、自分ではどうにもならない十字架を背負った人間がどう生きていくのか。そのことを考えると、なんだかザワザワする。自分がもし秋成と同じ立場だったらどうしよう、という思考をふと続けてしまう。

この物語は、展開と共に様々な問いが放たれる。千早は様々な状況に直面することで揺れ動く。その葛藤と共に、即答できない問いが投げかけられる。「殺人者」を受け入れるという状況は、そうそうあるものじゃない。しかし、「理解できない(ように見える)」人を組織や社会の中に受け入れる、という状況なら日々起こりうるだろう。そういう時、自分がどういう態度を取るか。取っているか。取るべきか。

『入壱要や野津秋成のような人間と折り合いをつけられる社会を求めるのは、回り回って、それはあなたのためなんだ。あなたが、何かの拍子に人を殺してしまったり、心を病んでしまった時に、それでも幸福を諦めなくてもいいように』

祈りにも似た千早のこの想いが、少しでも広まればいいと、僕は思う。

呉勝浩「白い衝動」

あなたの知らない脳 意識は傍観者である(ディヴィッド・イーグルマン)

人間はこれまで、「人間」や「自分という存在」を理解するために色んなことをしてきた。哲学を生み出したり、自分探しの旅に出たり、宗教を生み出したりした。

しかし、最も有効な手立ては恐らく、「脳」を知ることだろう。

当たり前ではないか、と思うかもしれない。しかし、そんな反応をする方は、是非本書を読んだ方がいい。「脳」を知る、ということがどういうことなのか、あなたの想像を超える現実に驚くことだろう。

また、こんな反応もあるかもしれない。哲学というのは思考のことであり、それは脳から生まれるのだから、哲学をすることは脳を知ることでもあるのではないか、と。しかし、それについてははっきりとNoと伝えておこう。本書で描かれている「脳」は、あなたがイメージしているものとはちょっと違うのだ。

本書の冒頭に、こんな文章がある。

『自分たちの回路を研究してまっさきに学ぶのは単純なことだ。すなわち、私たちがやること、考えること、そして感じることの大半は、私たちの意識の支配下にはない、ということである。ニューロンの広大なジャングルは、独自のプログラムを実行している。意識のあるあなた―朝目覚めたときにぱっと息づく私―は、あなたの脳内で生じているもののほんの小さなかけらにすぎない。人の内面は脳の機能に左右されるが、脳は独自に事を仕切っている。その営みの大部分に意識はアクセス権をもっていない。私は入る権利がないのだ』

本書は、「脳」というものを「意識」と「意識以外のもの」に分けて捉えている。「意識」というのは、僕たちがまさに「自分である」と感じているような、痛いとか楽しいとか朝だなとかお腹すいたとか、そういうことを考えるものだ。そして、本書が明確に明らかにすることは、「意識」は「脳」全体の中でもの凄くちっぽけな存在であり、「意識以外のもの」が何をしているのか、ほとんど知ることが出来ない、ということだ。

それは、ホテルと僕の関係に近いかもしれない。あるホテルに泊まるとする。僕は、ロビーやトイレや食堂などは使うことが出来る。しかし、自分の部屋以外の他のすべての部屋には入ることが出来ない。それらの部屋の内部で何が行われているのか、知る術はない。ホテルが「脳」全体であり、僕が「意識」だと捉えれば、「脳」の中で起こっていることがイメージしやすいかもしれない。

『二〇世紀半ばまでに思想家たちは、人は自分のことをほとんど知らないという正しい認識に到達した。私たちは自分自身の中心ではなく、銀河系のなかの地球や、宇宙の中の銀河系と同じように、遠いはずれのほうにいて、起こっていることをほとんど知らないのだ』

そんなバカな、と感じるかもしれない。私は、自分で飲みたいと思ってコーラを飲み、走りたいと思って走り、哀しいと思ったら泣いている。私は、自分の「意識」で自分の肉体を動かし司っているのであって、「意識以外のもの」なんかのことは知らん。
そんな風に思う人もいるかもしれない。

しかし、本書を読めば分かる。その認識が、間違っているということを。それは、例えばこんな例でもなんとなく捉えることが出来る。車を運転しているとして、目の前に突然子供が飛び出してきたら、あなたはブレーキを踏むだろう。その時あなたは、どう行動するだろうか?「子供が飛び出してきたぞ、危ない!」と「意識」が捉えてからブレーキを踏むだろうか?残念ながら、実際にはそれでは間に合わないだろう。あなたがブレーキをふもうと意識するよりも早くブレーキを踏んでいるはずだ。
そのブレーキを踏んだのは、一体「誰」だろう?

もっと身近な例を出そう。こんな実験がある。自分の選んだタイミングで指を上げるように被験者は指示される。被験者の脳に電極をつけて、指を動かそうという「衝動を感じた」瞬間の針の位置を報告するように指示する。
結果はこうだ。被験者は、実際に動く四分の一秒前に動こうという衝動を自覚する。しかし驚くべきはここからだ。彼らは被験者の脳波を同時に測定していた。そこから彼らは、動こうという衝動を感じる前に脳内活動が生じることを発見した。

つまりこういうことだ。本人が衝動を意識的に経験するよりかなり前に、脳の一部が意思決定をしていた。自分が「指を上げよう」と思う大分以前に、既に脳のどこかが「指を上げる」ことを決断しているというのだ。

信じられないだろうか?しかし、信じてもらうしかない。この実験が正しい場合(まあ正しいのだろうけど)、「指を上げる」と決断したのは一体「誰」だろう?少なくともそれは、「あなた」、つまり「あなたの意識」ではない。「あなたの意識」が「指を上げよう」と思う以前に指を上げることが決定しているのだから。その決断をしているのが「意識以外のもの」なのだ。

本書は、「脳」の中にある「意識以外のもの」がどんな風に働いているのか、「意識」は「脳」の中でどんな存在意義があるのか、「脳」と「意識」の関係を踏まえた上で人間はどう振る舞うべきか、などについて書かれている作品だ。

べらぼうに面白い。以前「錯覚の科学」という本を読んだことがある。人間が物事を認知する上でどんな間違いを犯すのかなどについて最近の研究を踏まえて書かれた作品だ。「錯覚の科学」を読んだ時にも、これはみんな読むべき本だ、と感じたのだけど、本書もまたみんな読むべき本だと感じる。哲学や思想は、人間や社会を捉える枠組みを与えてくれるという意味で重要だし好きなんだけど、本書は、人間が物事を捉える際にどんな大前提を持っているのか、どんな色眼鏡を掛けているのかを明らかにする、という点で非常に重要な作品だと思う。

僕らは普段「意識」しか意識できない(変な日本語だけど)。まあそれは当たり前のことだ。意識できるからこそ「意識」と呼ばれているのだろうし。しかし、「脳」の中には、「意識」では意識できない膨大な領域があるということが分かってきた。そして、その領域こそが、人間という存在にとって決定的に大事だということが明らかになってきたのだ。

『あなたの内面で起こることのほとんどがあなたの意識の支配下にはない。そして実際のところ、そのほうが良いのだ。意識は手柄をほしいままにできるが、脳のなかで始動する意思決定に関しては、大部分を防寒しているのがベストだ。わかっていない細かいことに意識が干渉すると、活動の効率が落ちる。ピアノの鍵盤のどこに指が跳ぼうとしているのか、じっくり考え始めると、曲をうまく弾けなくなってしまう』

『これらのプログラムにアクセスできないのは、それが重要ではないからではなく、きわめて重要だからである。意識が干渉しても何も良くならない』

本書の中に、人工知能の話が少し出てくる。人工知能が何故壁にぶつかったかと言えば、人間が意識しなくてもできるとても簡単なこと、たとえば「カフェテリアがどこにあるか思い出す」「小さな二つの足で丈のある体のバランスをとる」「友達を見分ける」と言ったようなことを実行することが極めて難しいことが分かってきたからだという。人間は意識しなくてもこれらのことを簡単に出来る。しかし何故簡単に出来るかといえば、「意識以外のもの」がそれらを自動的に行えるよう複雑なプログラムを組み上げてくれているからだ。「意識」はそのプログラムの詳細は知らない。知ろうとして「意識」すると、逆にうまくいかなくなる。自転車に乗るには最初かなり練習が必要だが、慣れれば自分がどんな風に身体を動かしているのか意識しなくても自転車に乗れる。それは、「意識以外のもの」が自転車に乗るという複雑なプログラムを自動化出来たということだ。

本書に載っている非常に興味深い例は、ヒヨコ雌雄鑑別士の訓練の話だ。ヒヨコの雌雄判別に関しては、日本人が「肛門鑑別法」という手法を開発し、世界中がその技法を学んだ。
しかし、とても奇妙なことだが、この「肛門鑑別法」を「教える」ことが出来る人はいないのだという。プロの雌雄鑑別士は、その手がかりが何なのか伝えられないという。その代わり、ヒヨコの肛門を見れば分かる、というのだ。

だから、教え方も特殊だ。コツを伝えられないのだから、実践でやるしかない。指導者は実習生の側に立ち、実習生に雌雄鑑別をやらせる。指導者が正解か不正解を判別する。この実習を何週間もやると、実習生は次第に雌雄の判別が出来るようになってくる、というのだ。

これは実に興味深い話だ。「意識」は、ヒヨコの雌雄をどこで見分けているのか伝えられない。伝えられないほど僅かな差なのだ。言葉でコツを伝えることが出来ないのだから、実習生は何がなんだか分からないまま雌雄の鑑別をすることになる。しかしそれでも、次第に雌雄が判別できるようになるらしいのだ。これはまさに「意識以外のもの」が学んでいるとしか考えられないだろう。

こんな風に本書は、様々な実例を提示して、「意識」がいかにちっぽけな存在で、「意識以外のもの」に僕らが制約されているのか、ということを提示していく。本書には様々に印象的なエピソードが登場するが、次に紹介するのはその中でもかなり奇妙でインパクトが強かった。

著者はG婦人という、脳のある箇所に損傷を負った女性を診ていた。G婦人に鏡の前に座ってもらい、両目を閉じるように指示する。G婦人は、片目を閉じ、もう一方は閉じなかった。以下は、それ以降の会話である。

『「両方の目を閉じていますか?」
「はい」
「ご自分が見えますか?」
「はい」
私は穏やかに言った。「両目を閉じている場合、鏡のなかの自分が見えると思いますか?」
沈黙。結論は出ない。
「あなたは片目を閉じているように見えますか、それとも両目を閉じているように見えますか?」
沈黙。結論は出ない。』

彼女の脳では、通常の人の脳内では機能するとある仲裁システムが働いていない。通常であれば、いくつかの矛盾する情報を脳内で処理し、なんらかの矛盾しない説明が選び取られる。しかしG婦人は、「両目を閉じている(と自分では思い込んでいる)」という事実と「鏡の中の自分が見える」という矛盾する事実を処理する仲裁システムが機能せず、沈黙してしまう。G婦人は決して嘘をついているわけではない。通常であれば「意識」ではない場所で働いているプログラムが正常に作動していない、というだけなのだ。こういう例をとっても、「意識以外のもの」がバックグラウンドでどれだけの仕事をしているのかということが分かる。

本書の大雑把な流れを書くと、まず「意識以外のもの」がどのように研究対象をして認識されるようになったのかという歴史認識が簡単に描かれ、そこから、通常の人でも起こる「錯視」や、あるいは脳機能に障害を負った様々な実例などを挙げながら、「意識」では意識することが出来ない「意識以外のもの」がどれだけの存在感を有しているのか、ということを明らかにしていく。

それから本書は、「犯罪者をどう扱うか」という、非常に実際的で議論百出だろう話に移る。ここに至るまでの話は「科学エッセイ」という感じで、読み物として非常に楽しく刺激的なものなのだけど、この犯罪者の扱い方に関するパートからは非常に社会派の雰囲気が漂うようになる。

様々な特異な犯罪の実例や、再犯率の調査や犯罪に関係する遺伝要因など様々な話を登場させ、「脳」という生体の変化によって人間の行動や欲求や決断は簡単に変わってしまうのだ、ということを示した上で、著者はこんな風に書く。

『私が言いたいのは、どんな場合も犯罪者は、ほかの行動をとることができなかったものとして扱われるべきである、ということだ。現在測定可能な問題を指摘できるかどうかに関係なく、犯罪行為そのものが脳の異常性の証拠と見なされるべきだ』

現在でも、「責任能力なし」として、犯罪行為があっても無罪になることがある。「現在測定可能な問題を指摘できるかどうか」というのは、そういうことについて指摘している。現在測定可能なレベルで「責任能力のあるなし」を判断しても、結局「測定可能なレベル」というのは時代のよってどんどん変化していくのだし、であれば、最終的に測定出来るかどうかに限らず、犯罪行為というのは何らかの脳の異常の結果だと捉えるべきではないか、と著者は言う。

『したがって、有責性を問うのはまちがっていると思われる。
正しい問いはこうだ。前に進んで、私たちは告訴された犯罪者をどうするのか?
裁判官席の前に引き出された脳には複雑きわまりない過去があるかsもしれないが、最終的に私たちが知りたいのは、人が将来どういう行動をとる可能性があるか、それだけだ』

観点は非常に面白い。著者の提言が実現するなら、犯罪と犯罪者をどう評価するか、という点についての新たなパラダイムとなるだろうと思う。もちろん、現実にはなかなか難しい部分もあるだろう。科学的な困難さも当然あるが、著者も指摘しているように、市民感情がどうなるかというのも難しいポイントだ。犯罪者に対しては報復感情が湧き上がってしまうのはある意味自然なことだ。しかし、結局犯罪者を隔離し罰を与えるだけでは問題は何も解決しない、それならば適切な形で矯正する方法を考えるべきではないか、という著者の提言は非常に面白いし、「脳科学」という学問を現実に影響させる非常に面白いアプローチだなとも感じました。

『生まれか育ちのことをいえば、重要なのは、私たちはどちらも選んでいないという点だ。私たちはそれぞれ遺伝子の青写真からつくられ、ある環境の世界に生まれてくるが、いちばん成長する年齢には環境を選択できない。遺伝子と環境が複雑に相互作用するということは、この社会に属する市民がもつ視点は多種多様で、性格は異なり、意思決定能力もさまざまであるということだ。これらは市民にとって自由意志の選択ではない。配られた持ち札なのだ』

「配られた持ち札なのだ」という著者の捉え方は、一面では哀しいだろう。僕らは「自由意志」によって行動を決めているのではなく、遺伝子や環境など様々な要因によって定まった「脳(特に、意識以外のもの)」が行動を決めているのだ、という考えを否定したい人も多いだろう。「配られた持ち札」なんとしたら、人生の逆転みたいなのはないんじゃないか、と哀しくもなるかもしれない。

しかし、本書を読むと、人間が「意識」の関わる領域を少なくし、「意識以外のもの」に行動や選択のほとんどを委ねるシステムにしたお陰で、人間が人間らしい営みを行うことが出来るのだ、と感じられるようになる。それに、自由意志があろうがなかろうが、「意識」以外のことには意識出来ないわけだから、それを自分の意志であると錯覚してもなんの差支えもない。

本書は「脳」という不可思議な生体が持つ不可思議な性質を明らかにすることで、人間をより深く理解すると同時に、人間をより謎めいた存在に拡散させもする作品だ。科学エッセイとして刺激的で面白く、また「脳科学」という切り口で社会システムに影響を与えようとする作品でもある。「人間とは何か?」という問いはこれまで哲学の領域のものだったはずだが、科学が進歩することによって科学が扱える問いになってきた。その最新の研究成果を知って、人間の奥深さを是非知ってほしい。べらぼうに面白い作品です。

ディヴィッド・イーグルマン「あなたの知らない脳 意識は傍観者である」

嘘つき女さくらちゃんの告白(青木祐子)

僕は嘘は好きではないけど、絶対にダメだとも思っていない。誰かを救う嘘だってあるし、誰かを守る嘘だってある。嘘だ、という理由ですべてを斬り捨てるつもりは、僕にはない。

けれど、嘘をつく者には、義務があるとも考えている。嘘をつき続けるという義務、その嘘を本当であるかのように成り立たせ続ける義務があると思っている。嘘をつくというのは、それがどれだけ相手を救い、守るにせよ、やはり良くない行為だと思う。だからこそ、嘘をつく側に、その嘘を突き通すという覚悟がなければならないと僕は感じる。

だから、すぐバレる嘘をつく人、雑に嘘をつく人のことが、僕は嫌いだ。

仮に誰かの嘘に気づくことがあったとしても、その嘘をついた本人が隠し通そうと努力しているのが分かれば、気づかなかったフリも出来る。内容や状況にもよるが、嘘をついてくれてありがたい、と思うこともあるだろう。自分で嘘をつく場合にも、これはいつも意識している。すぐバレる嘘は、誰も幸せにしない。ただ現実に、微妙な跡を残すだけだ。ささくれのように、時折かすかな痛みを与えるような、微妙な跡を。

雑な嘘をつく人の中には、「自分が嘘をついているという自覚」がない人がいる。僕にとっては、とても恐ろしい人種だ。身近にそういう人がいるのだが、本当に、何故そんな嘘をつくのか、全然理解できないことがある。次第に、これは本人が「嘘をついている自覚」がないのだな、と判断するようになった。

そういう人間は、理想と現実の捉え方が異なるのだ。普通の人間は、理想は理想として、目の前にある現実をきちんと捉える。理想は、目の前にある現実との差という形で意識される。しかし、嘘をついている自覚がない人は、自分の中にある理想を「現実」と捉えるのだ。当然その理想は、目の前の現実とは大きくかけ離れている。しかし、そういうタイプの人は、自分が「現実」だと捉えている理想に合わないものはどんどん斬り捨てていく。そして、あらゆる力を駆使して、自分が見ている「現実」こそが目の前にある現実なのだと周囲に錯覚させようとする。

見ていて、いつも凄いなと感じる。基本的には破綻しているのだけど、破綻しているように見えないように振る舞うのが上手い。ある意味で天才なんだなと感じるが、「現実」と目の前の現実のギャップを埋めざるを得ない者にとっては、迷惑な人だ。

理想に対する想いが、とても強いのだろう。本書の主役であるsacraも同じ人種だ。理想に対する憧れが強い。自分はこうなっているべきだ、という想いが先行し、あらゆる手段を使ってその理想を現実にしようとする。苦手なタイプだ。

しかし、sacraの話を読みながら、同時にこんなことも考えた。美人であることの苦悩についてだ。

本書でsacraは、恐ろしいほどの美少女として登場する。そして、美少女であるが故に、皆sacraの中身に関心を持とうとしない。

…と断言してしまうのも少し違うと思うので、この作品はなかなか難しいのだが、とりあえずそういうことにして話を進めよう。

圧倒的に外見が良いと、外側しか見られなくなる。もちろん外見は、興味を持ってもらう入り口として良い役割を果たすだろう。それに中身に関心を持ってもらうことに興味がなければ、外側だけ良ければ十分だ。しかし、すべての美人がそういうわけではない。外見はともかくとして中身を見てほしいのだ、と感じる人もいるだろう。

僕は昔からずっと、こういう部分に美人の苦悩はあるよな、と感じていた。

僕は変人が好きで、自分の変人センサーに引っかかる人と関わりを持とうとすることが多いのだけど、僕がこれまで関わってきた変人は、美人が多い。これには色んな要因があるだろう。僕が外見の良い人しか視界に入れないから、そもそも美人ではない変人がいても気づかないという可能性ももちろんあるだろう(僕はそうではないと思っているけど、それを納得してもらうことは難しい)。けど、とりあえずそういうことを措いて、仮に「変人には美人が多い」というのが正しいとすれば、それは美人であることの苦悩故なのではないか、と思っている。

自分の中身にまで到達して欲しいけれど、外見がもの凄く良い人がいるとして、その人は、いつも自分の外見ばかりに注目が集まることに不満がある。だから、外見以上に内側から出る「変さ」みたいなものを表に出していけば、とりあえず外見にだけ注目が集まる状況を変えられるのではないか…。みたいなことを無意識に感じていないだろうか。もちろん。「変さ」を内側から出しても大丈夫、と判断できるのは外見が良いからという側面もあるわけで、どのみち外見の良さという呪縛から逃れることは出来ないのだけど。

こういうことを、割と普段から僕は考えている。
では、sacraはどうだろうか?

sacraは、「外見ではなく中身を見てほしい」と単純に思っているタイプではない。完全に、外見の良さを一つの手段として使っている。しかしそれは、中学の頃からだ。sacraが物語の中できちんと描かれるようになるのは、中学の頃からなのだ。だからそれ以前に、「外見ではなく中身を見てほしい」と思った可能性はゼロではない。

…ゼロではないが、やはり違う気はする。sacraはとても捉えにくい。sacraが何故嘘ばかりつき続けたのか、何故虚構ではなく自分の内側から出てくるもので生きようとしなかったのか、イマイチ捉えきれない。その理由を、圧倒的な外見に求めて理解しようとするのだけど、それも上手くいかない。

ただ一つ言えることは、sacraが圧倒的な美少女でなければ、sacraのこの生き方は間違いなく成立しなかった、ということだ。sacraがもし美しくなく生まれていたら、sacraはどんな人生を歩んでいただろう。ただの凡人として生きるしかなかっただろうが、その状況に耐えられたのか。美しさを武器に出来なくても、何か手を打ったのか。そのことに、とても関心がある。

内容に入ろうと思います。

sacraという、美人イラストレーターが失踪した。テレビに出たり、個展が大盛況だったりと人気を集めていた彼女だったが、彼女には盗作・経歴詐称・結婚詐欺などの疑惑が次々と持ち上がっていた。
彼女は一体何者なのか?
sacraの中学時代の同級生であり、現在はフリーラーターである朝倉美羽は、失踪したsacraとこれまで何らかの形で関わりがあった人間に取材を試みていた。同級生、絵画教室の先生、漫画家、芸術家…。彼ら彼女らは、自分たちが見たそれぞれの「sacra」を語っていく。
あらゆる場面で、息を吸うようにして嘘をつき続けたsacra。他人の好意を利用し、他人のエピソードを拝借し、他人の作品を剽窃し、他人の成果でステップアップする。sacraは全身、他人から奪ったもので出来ていた。sacra自身に属するものは、その恐ろしいまでの容姿の美しさだけだ。
容姿と嘘以外何も持たぬまま徒手空拳で世間を渡り歩き、自分では一切何も生み出さないまま人気美人イラストレーターとしての地位を確立したsacra。彼女は一体何がしたいのか?何故失踪したのか?その素顔とは?
嘘だけで塗り固められたモンスターのような少女の軌跡を、大勢の人の証言によって追う物語。

これは面白い作品だったなぁ。メチャクチャ面白かった。

とにかく本書は、sacraという少女の造型が素晴らしい。このキャラクターを生み出し、血肉を与え、作品の中で自由自在に躍動させたことがこの作品の勝利だ。sacraは、どこかにいそうな気もするし、どこにもいなさそうな気もする。そのギリギリのラインにちょうど立っているような感じがするのだ。これ以上エキセントリックだとリアル感が失われるし、これより大人しいと魅力に欠ける。実際的な存在感を保ちながら、ギリギリのラインまでエキセントリックさを追求している点が素晴らしいと思う。

この作品を読まずに、ちらっと聞いた内容だけで判断した場合、「美人っていうんだから男ばっかり騙されてるんだろう」と思うだろう。しかしそうではない。もしそうだったとしたら、この作品はもっとつまらなくなっていただろう。sacraは、男女だけではなく、全年齢的に、様々な人間に嘘をつき、信頼させ、自分のために利用した(とはいえやはり、sacraの嘘に気づいて離れていくのは、女性の方が多いのだけど)。

『断ったら終わりだってことはわかってました。さくらは深追いはしませんから。
それをつまらなく感じてしまった。さくらを失いたくなかったんですね。
さくらといると、面白いんですよ。ジェットコースターに乗っているみたいなの。上がったり降りたり。次はどうなるんだろうってわくわくするんです』

少なくない人が、sacraのおかしさに気づいていた。特に女性はそうだ。sacraが嘘をついていて、その嘘を駆使して様々な状況を打破しているということに、結構気づいていた。読者も、そうだろうなと感じるだろう。何故ならsacraの嘘は、雑だから。隠そう、という意志はほとんどない。というか、冒頭でも触れたように、嘘をついているという意識がないのだ。自分が口から発していることが真実だと思い込めるからこそ、sacraは様々な発言や行動の整合性を取ろうとしない。その美貌と、様々な苦労を連想させる経歴(それらもほとんど嘘なのだが)のせいで、ちょっと違和感があっても気にしなかったり、逆に信じたいと思う者もいる(特に男に多い)。sacraは、個々の嘘に真実味を持たせるのではなく、「sacra」という存在に真実味を持たせることで、嘘をつくことで生じる様々なズレに目がいかないようにした。もちろんそれは、sacraの超越した美貌があってこそ成せる業ではあるのだけど、とはいえそれだけでは女性も騙されているという事実が説明出来ないだろう。天性の勘とセンスの良さで、「sacra」という存在の真実味を押し広げていったのだろう。

朝倉美羽からインタビューを受けているその時点においても、まだsacraのことを信じている者もいる。人は自分が信じたいと思うものを信じるのだ、というのは、作中にも出てきたし、巷間よく言われることでもあるのだけど、まさにその通りだなと感じた。皆、sacraのことを信じたがった。sacraといると楽しいからという者もいれば、sacraに嫌われたくないと思う者もいただろう。守ってあげたいのだ、飾りにしたいのだ、褒められたいのだ…。皆、様々な理由からsacraを信じたがった。

sacraは、皆のそういう気持ちを、実に見事に利用し続けた。それはもう、見事というべきものだ。sacraは本当に、自分では何も生み出さなかった。sacraが生み出したとされる様々なものは、どれも誰かのものだった。

『わたしが欲しいのは才能だよ、由香さん。わたしは自分を人に認められたいの。わたしは、誰かの奥さんとしてではなくて、自分の名前で生きていくの』

彼女は「才能」という言葉を、果たしてどんな意味で使っていたのだろうか。sacraには、間違いなく才能がある。それは、良いものを見抜く嗅覚と、人たらしの能力だ。そしてこれらを駆使すれば、プロデューサーやキュレーターという立場で、自分の名前で生きていくことは十分可能だっただろう。
何故彼女は、そういう生き方を選択できなかったのか。
sacraは最後まで、「自分で作品を生み出すこと」、もっと言えば、「自分で作品を生み出しているように見えること」にこだわり続けた。彼女にとって「才能」とは、何かを、sacraにとってそれは絵だったのだけど、とにかく何かを自分の内側から生み出す能力のことだけを指していたようだ。
何故なんだろう。何故彼女は、プロデューサーやキュレーターでは満足出来なかったのか。

その理由となり得る要素も、作中では描かれている。古くから活躍する著名な漫画家の存在や、中学生時代の美術教師とのエピソードなどだ。絵はsacraにとって、ある種の成功体験と言えるのだろう。それを再現したい、という気持ちが、大人になる過程で一向に衰えることがなかった、ということなのだろうと思う。

とにかくsacraという女性の描写は圧倒的だ。近くにいたら、僕も間違いなく騙されてしまうような気がする。たぶん、すぐに胡散臭さには気づくだろう。でも、気づいたとしても、「sacraといると楽しいから」という理由で、その嘘に気づかないフリをしてしまうかもしれない。だから、作中に登場する「sacraに騙された人達」のことを責められない。

「sacraに騙された人達」の話は、とても面白い。様々な人間が断片的なsacraの姿を語っていくのだけど、ある人物の語りの中で謎だった部分が、別の人間の語りの中で明らかになっていく。そういうエピソードがもの凄くたくさんあるのだ。インタビューをしている朝倉美羽と読者だけは、複数の人間の話を総合的に聞いているから、sacraの嘘の悪質さがより理解できる。しかし、自分が見たsacraの姿しか知らない面々は、自分が見聞きした情報だけでsacraを判断してしまうから、sacraを疑いきれないし、信じたくなる。

この点がこの作品の構成の非常に面白い部分だと思う。みんなの話を聞いてる俺たちだけはちゃんとsacraの嘘が分かってるんだぞ、という謎の優越感もあるし、思いもしなかったところで様々な人間の話が繋がっていく展開も非常に魅力的だ。複数の話を突き合わせてやっと分かるsacraの嘘の真意もあるし、すぐバレてもおかしくない嘘をつきながら圧倒的な対応力で現実をねじ伏せてしまうsacraの力強さも体感できる。sacraの魅力には到底及ばないものの、「sacraに騙された人達」もそれぞれに一癖も二癖もある人間たちで、彼らの考え方や価値観にも興味が持てる。全体的に魅力溢れる人物ばかり登場する小説という印象だった。

最後の最後までsacraらしさが炸裂する物語で、ラストの展開には読者も唖然とするだろう。結局最後まで、そうまでしてsacraが追い求めたものが何だったのかは、はっきりとは掴めない。このモヤモヤ感も、この作品らしくてとても良いと思うのだ。最後までsacraの謎めいた魅力に振り回され続ける作品だ。

青木祐子「嘘つき女さくらちゃんの告白」

くじ(シャーリイ・ジャクスン)

評価が高い作品だと知って読む場合、自分の感覚が揺らぐことがある。作品の良さをまったく理解できなかった場合、自分の読解力の無さを突きつけられ、どうしていいか分からないような気分になってしまう。

久々に、どこが面白いのか、素晴らしいのか、まるで理解できない作品だった。

22編の短編が収録された短編集なのだけど、読めども読めども面白くない。元々外国人作家の作品を読むのは苦手なのだけど、そういうことを抜きにしても、それぞれの短編の何がいいのか全然理解できない。

本書は、表題作である「くじ」が伝説的な作品である、という紹介のされ方をしているのだけど、その「くじ」も、別に良い作品だとは思えなかった。何故この作品が人々の衝撃を与え、伝説的な作品となっているのか、僕には理解できなかった。

こういう作品を読むと、自分の読解力の無さを感じるのだけど、ホントにこれは僕の読解力の無さが原因なんだろうか…と感じてしまうぐらい、良さがまったく理解できない作品だった。

シャーリイ・ジャクスン「くじ」

崖っぷち町役場(川崎草志)

僕は、田舎で生まれ、いっとき都会で過ごし、また別の田舎に住むことになった。今住んでいるのは、「田舎」というほど田舎ではないが、「大都市」ではない、地方の一都市だ。

本書の面白さは、「地方に生きる」という事象を、「日本全体における戦争の一地点」とみなしたという点だろう。

『「そりゃあやるさ。南予町が生きるか死ぬかのゲームの真っ最中だからね」
「生きるか死ぬ?なんだか大げさな言い方ですね」
「何が大げさなものか。首都も、大都市も、地方都市も、農村も、全部、互いの生存をかけた戦争に突入しているんだ」』

一応誤解がないように先に書いておくが、本書は、タイトルの響きや表紙の雰囲気から想像できるような、地方を舞台にしたライトミステリと言った感じの作品だ。堅苦しいなんてことはまったくないし、難しいことも何もない。ただ本書は、ベースとして、「地方の生き残り」を「戦争」だと捉えるような視点がある、ということだ。

少し長いが、南予町を、そして恐らく全国の過疎が進んだ自治体に共通するだろう問題がぎゅっとまとまった箇所があるので、引用してみたい。

『子どもを産もうとする。しかし、近くに産婦人科の病院はない。子どもが生まれる。子どもはしょっちゅう熱なんか出すが、近くに救急病院はない。さらに、子どもが進学する時にはまた問題が起こる。地元の学校に進学、そして、ここで就職というのなら別だが、大学に行こうとするとそれなりの進学校に入れる必要がある。だが、この町にそんなものはない。それで子供は、この町から出ていく。もし子供が大学に進学したら、その専門知識を生かせるような職場はここにはない。つまり、子供は帰ってこない。沢井さんは、老後は都会に戻るか、田舎で孤独に暮らすかの選択を迫られる。その時期には、再び、医療の問題が出る。衰えた体に病気が出始める。しかし、この町には大きな病院がない。重い病気になれば、八幡浜か宇和島の病院に頼らざるを得ない。さらに重い病気になった人は、松山まで搬送される。都市部に治療に通うとなると、莫大な費用がかかる。その時に収入は年金だけだ』

この発言をしているのは、本書で“名探偵役”を担う、町役場職員の一ツ木だ。彼は南予町とはまるで関係ない余所者でありながら、恩ある人物からの引きでこの町にやってきた。そして、その優秀過ぎる頭脳を生かして、日本中が巻き込まれている生き残り戦争に勝とうと奮闘している男だ。

本書の面白さは、まさにここにある。通常、「探偵役が謎を解く動機」は曖昧にされることが多い。謎を解くことが趣味だから、叔父さんが刑事だからなどなど、色んな設定が存在するものだが、「謎を解く動機」がはっきりしているケースは少ないように思う。

本書は、それが明快だ。一ツ木は、「南予町に人を残し、また人が入ってくるようにするため」に謎を解くのだ。そもそも謎解きなどという面倒なことには関心がない一ツ木は、その目的のために重い腰を上げる。

謎自体は複雑なものではないし、解決策も含めてライトな作品だ。しかし、「何故謎を解くのか」という理由が明快で、しかもその理由が「町を存続させるため」という、今日本中の自治体が直面している現実をベースにしている、というのが、ミステリを非常に現代的な切り口で描いたな、と感じた。

読めば分かるが、本書で登場する謎は、地味だし、解かれてしまえば大したものではないのだが、しかし、「元から住んでいるが故の思いこみ」や「新しく移住した人間だからこその身勝手さ」など、どの地方でも起こっているだろう些細な軋轢をベースにしているというのもとても上手いと思う。そしてだからこそ本書は、「地方に人を呼び、定住させるには何をしなくてはならないのか?」という問いの答えを拾うという読み方も出来ると思う。なかなか良くできたミステリだなと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、愛媛県南予町を舞台にした、7編の短編が収録された連作短編集です。
まずは全体の設定から。
松山の出身だが、祖母が昔から住んでいる南予町へと移り住み、南予町役場で働き始めて2年目を迎えようという沢井結衣は、今日も元気にスクーターで役場まで通勤している。何夜長は、三方を山に囲まれ、一方は海に面し、主な産業は農業・林業・漁業・公務員業という、典型的な過疎の町だ。
結衣は新年度から「推進課」に異動になる。町民から全幅の信頼を集めていた前町長が創設したものだが、突発的な心臓発作により亡くなってしまった。現町長の本倉市は、企業勤めから市長になった人で、町おこし案をひっさげて当選するも、的はずれなアイデアばかりで、役場の人間はうんざりし始めている。
「推進課」が何をする部署か分からないまま向かうと、あと数年で定年を迎える、推進課室長である北耕太郎と、変人と噂が先行する一ツ木幸士の二人が将棋を指していた。一ツ木に至っては、何語なのかも分からない難しい本を読みながら、盤面も見ずに将棋を指していた。
…大丈夫か、推進課…?

「見えない古道」
推進課に、「戦時中に山道を歩いてたどり着いた民家にお世話になったからその場所を探してほしい」というお爺ちゃんがやってきた。探しますよ、と安請け合いをする一ツ木。さらに町長が、「町おこしのために夜に知られていない古道を探せ」と命じてきた。これも安請け合いする一ツ木。しかし一ツ木は、天気予報を見るばかりで、家や古道を探しに行くどころか、推進課から出ようともしない…。

「雨中の自転車乗り」
採算が合わないということで民間バス会社が撤退したために、前市長の時代に町営バスを走らせた南予町。しかし現町長が、誰も乗っていないバスを見かけた、利用状況を調査せよ、と言ってきた。誰も乗っていないバスは、高校からの帰りで使われる路線でよく見られるらしい。高校に通う三人の内一人は、雨の中自転車を飛ばす姿を度々目撃されていて…。

「巫女が、四人」
旧住民と新々住民のトラブルが絶えない。新々住民というのは、現町長が呼び寄せた人たちのことだ。消防団協力費など払わないと言って消防団員と揉め、消防団員の一人が殴られたために訴えると息巻いているらしい。その殴られた消防団員が結衣の幼馴染の菊田君だった。結衣はもう少し待ってほしいと抑える。一方で消防団員は、室町時代から続く秋祭りの神楽で舞う巫女が、練習の時3人のはずなのに4人いた、と言って聞かない。状況が分からないなりにその謎も調べることになったが…。

「至る道」
認知症を患っている吉川のお爺ちゃんがまた行方不明だと放送で流れている。最近多いな。しかしここしばらく南予町には、徘徊している高齢者を見つけるといい事が、家まで連れて行くとさらに幸運が、という噂が流れているからすぐに見つかる。吉川のお爺ちゃんがよくじっと立っている場所は、一ツ木の友人がやっている会社の敷地内にあるのだが、一ツ木の推理で吉川のお爺ちゃんが何故ここにやってくるのかが明らかにされ、ある状況を利用して吉川のお爺ちゃんの徘徊を減らせるアイデアを実行に移す…

「南の雪女」
温暖な南予町に7センチの積雪の予報が。事態を予測し対処しろという町長だが、彼は市長に「自衛隊を要請するかもしれない」と連絡をしていて不興を買う。結衣は何故か雪にざわついた気持ちになる。特に、幼馴染の菊池君の敷地の付近を歩くと感じるのだ。南予町にはかつて、雪の降る日に失踪した女性の話が秘密裏に伝承されていて…。

「空き家の灯り」
植林のイベントを企画した一ツ木だが、このイベントは長く続けられないかも、という。移住促進策だと一ツ木は言うが、実際結衣も、何故植林が移住促進と結びつくのか分かっていない。町議会議員の山崎さんは、そんな植林を含めた移住促進策全般に不満を持っている。余所者が増えること自体を歓迎していないのだ。その狭量な考え方に鼻白む一ツ木。その一方で、空き家に灯りがついているのを不審に思ってその集落まで向かった結衣と一ツ木だったが…。

「夜、歩く者」
前町長が、町外の人に向けた貸し農園を整備したが、現町長がその利用規約を甘々に変えてしまったがためにトラブルが起こっている。敷地内に小屋を建ててはいけない、というルールを取り払ったために、小屋を建てて棲みついている者がいる。一ツ木は、住民票を移しているわけではない人間が住んでいる状況が許せないようだ。一方で、夜一人暮らしの老人が倒れ救急車で搬送されたが、誰が救急車を呼んだのかという謎が残り…。

というような話です。

短編ごとに出来不出来は感じましたが、全体的にはとてもうまくまとまった、よく出来た作品だと思いました。

個人的に好きなのは、「巫女が、四人」「至る道」「空き家の灯り」かな。

「巫女が、四人」は、物語の中心がどこにあるのかが、謎が解かれた後でないと分からない、という物語の構成がとても面白いと思いました。読み進めながら、この話の何が「謎」なのかは全然掴みきれませんでした。殴られた、というのは被害者も加害者も分かっている話だし、「巫女が四人いた」という話にしたって、ただそれだけなら大した話じゃないでしょう。普通なら「見間違い」で終わる話です。しかしやがて「地方に移住することの辛さや悲しみ」みたいなものが明らかになっていくという展開で、うまく出来てるなぁ、と感じました。

「至る道」は、問題の解決の仕方が面白い話でした。推進課は比較的、同時に二つの問題を抱え込むことが多くて、ほとんどの話では、その二つの問題が一つのことを根っこにして同時に解決される、という話なんだけど、この話は、片方の問題を上手く利用してもう一つの問題を解決する、という流れになっています。一方の問題を解決策として使うことで、両方の問題を解決するというなかなかアクロバティックなことをやっている話で
もちろんそうなるように物語の設定を組み立てたんだろうけど、上手いなと思いました。

「空き家の灯り」は、「地方で生きるために大事なこと」の核心の核心みたいなものを感じさせてくれる作品で、その核心を鮮明に描き出すための舞台設定がとても上手い作品だなと感じました。その核心こそまさに、「何故植林イベントをしているのか?」という問いに対する答えなわけなんだけど、結衣を含め多くの人間がその答えをなかなか想像出来ないでしょう。しかしこれこそまさに、「ずっと住んでいるから当たり前すぎて気づかないこと」であり、「移住してきたから気づけるけどその重要さを伝えられないこと」であるという意味で、地方における問題の本質を捉えている話なのかなと感じました。ある意味でこれは、余所者である一ツ木だからこそ捉えることが出来る核心であるとも言えるかもしれなくて、一ツ木が余所者であるという設定も上手く生かされた話なのかなと感じました。

愛媛県でもトップクラスに美人だろうと言われる秘書課の三崎紗奈が一ツ木のことを好きなんだけど、一ツ木があまりにも鈍感で人間に関心がないから全然進展しないとか、「北室長が言うならやりますよ」と従順に従う北室長と一ツ木の関係とか、謎の多い一ツ木の過去みたいな、全編を通じて散りばめられる人間模様もあって面白い。サラッと読める作品ではあるのだけど、考えさせられる作品でもあって、今読んでおいて損はない作品だという感じがします。

川崎草志「崖っぷち町役場」

夫のちんぽが入らない(こだま)

「夫のちんぽが入らない」
斬新すぎるタイトルである。
内容も、まさにタイトル通りだ。恋愛し結婚した男女が、ちんぽを挿入することが出来ない、という謎の状況に陥る。主人公である妻も、夫も、お互い以外が相手であれば普通にセックスは出来る。しかし、何故か夫のちんぽだけが入らない。
そういう、不可思議な小説である。

しかし読み進めていく内に、この「夫のちんぽが入らない」という設定は、実によく出来ている、と感じるようになった。

現実を切り取って何かを伝える時、現実をそのまま引き写しにすると生々しくなることはよくあるだろう。ノンフィクションであれば、ジャンルとしてそうすることが必要とされるが、フィクションであれば、その生々しさは時に、読む上での障害となる。自分や周囲の人間に類する人がいればなおさらだろう。

この「夫のちんぽが入らない」という設定は、その生々しさを絶妙に回避するために優れた手段だと感じるのだ。

世の中には、不妊や、あるいはガンで子宮を切除した方がいる。意志はあるのに、機能的に子どもを妊娠することが難しい人たちだ。「女性は子どもを産んで一人前」みたいな考え方は、一昔前にはあっただろうが、今はもう古いと思っている人は多いはずだ。しかし、そう思っている人が多いはずであるのに、まだ世の中にはそういう雰囲気がしつこく残っている。一人前、とまでは言わなくても、女性だったら子どもを産んで当然、みたいな雰囲気は、未だに様々な場面で見聞きするなと思う。

そして、そういう風潮に苦しめられている女性も、当然たくさんいるのだ。

『女として生まれ、ベルトコンベアに乗せられた私は、最後の最後の検品で「不可」の箱へ弾かれたような思いがした。絶望した。』

『私は失敗作としてこの世に生まれてきたのだと思った。』

本人の意志として、子どもが産みたくて産みたくて仕方ないのに妊娠できない、というのももちろん辛いだろう。しかし、本書で描かれているのはそういう部分ではない。主人公は、特に子どもを欲しいとは思っていない。しかしそれでも主人公は悩む。それは、女性として「不可」「失敗作」の烙印を押されたように感じるからなのだ。子どもを産むか産まないか、妊娠するかしないかによって、女性としてどうなのか、ということが判断されてしまう。

自分の努力で自分の見られ方をコントロール出来るようなことであればいい。自分があまり良い見られ方をしていなくても、自分の努力が足りなかったのだ、と思うことが出来る。しかし、妊娠はそうじゃない。努力云々の話ではないはずだ。自分の力でどうにか出来るようなことではない。

しかし妊娠に対しても、努力というものが問われてしまう。いや、そうではないか。自分に対して押されようとしている「不可」「失敗作」という烙印を心理的に回避するために、努力という言葉を持ち出すしかないのだろう。私は「不可」「失敗作」なんかじゃない。努力していなかったから妊娠出来なかっただけなのだ。努力さえすれば私だって妊娠出来た。だから私は「不可」「失敗作」なんかじゃない…。というように。

『自分が不完全ではないと証明したかったのかもしれない』

夫のちんぽが入らないというファンタジーを導入することで、主人公のような女性の葛藤を直視出来るような形で描き出すことが出来る。不妊や子宮がんを直接描けばどうしても重く生々しくなってしまうところを、どことなく滑稽さを残しながら描き出す本書は、見たくないものにどんどん蓋をする風潮が広がる現代において、苦しんでいる人がたくさんいる現実の見せ方として非常に優れているのではないか、と僕は感じる。

そして本書は、読み方を変えると、妊娠できない女性の問題とはまた違った風に読むことが出来る。

人間はどうしても一人で生きていくことは難しい。必ず誰か、あるいはどこかと繋がりを持ちながら生活をしている。そこには様々な関係性が生まれ、評価が生まれていくことになる。

そして人間が集団の中でどう評価されるのか。本書は、その現実の一つを丁寧に切り取って見せることで、どんな場であれ人が評価される上での理不尽さや不合理さみたいなものを滲ませているのだと思う。

どんな場であっても、本書の主人公が直面するような理不尽な捉えられ方や、本書の主人公が抱くような無用な劣等感は存在するだろう。決して、妊娠に悩む女性だけの問題ではない。そういう場で、どう振る舞い、どう生きるのか。本書は読者に、そういう問いかけもしているのではないかと感じる。

内容に入ろうと思います。

大学進学のためにど田舎の集落から出てきた主人公。夜はヤンキーや熊に支配され、そもそも常に母親の無神経な言動に怯えていた少女は、それらの呪縛から解放されたが、しかし他人と関わることが苦手であることには変わりはないままだった。双葉荘という名の安いアパートに住むことになった主人公は、そこで後に夫となる男と出会う。後の夫は、主人公が絶句して身動きが取れなくなるくらい急速に距離を詰め、しかしそれを不快に感じさせない男だった。兄妹のような関係を続けながら、二人はやがて結婚する。
お互いに一緒にいて居心地がいい相手であり、伴侶として申し分ないのだが、一つだけ彼らの関係に大きく横たわる問題があった。
夫のちんぽが入らない。
夫のちんぽが、何か壁にせき止められているかのようにまったく入っていかない。ローションなどを使い多少入るが、しかし血まみれと激痛という大惨事を引き起こす。
『私たちはこんな犠牲を払い、滑稽な真似までして、繋がらなければいけないのだろうか』
一緒に生きるということと、セックスをするということを切り離して生きざるを得ない夫婦の、葛藤の物語だ。

タイトルだけ見るとキワモノっぽく思えるが、中身は非常に真っ当な物語だ。他はすべてぴったりなのに、セックスだけが出来ない。些細な、と呼ぶことは出来ない事柄だけれども、しかしそれ以外がすべて順調であるのに、セックスが出来ないという一点が様々な状況を壊していく過程が丁寧に描かれていく。

冒頭では、女性としての評価の話に触れたが、決してそれだけではない。たとえば、直接的な関係があるわけではないにせよ、主人公は仕事で躓く。あくまでも勝手な予測でしかないが、もし夫のちんぽが入り、精神的に安定した状態を保つことが出来ていたら、仕事の方での関わり方、行動の仕方も変わったかもしれない。決してそれだけではないとはいえ、仕事でうまくいかなくなった原因の一端はそこにあると言っていいのではないか。

また、夫のちんぽが入らないことで、夫との関係も様々に変化していく。兄妹のようだ、と言われるような、起伏こそないが穏やかで静やかな関係性は、好きになってくれた人を好きになる、という形であまりいい恋愛をしてこなかった主人公にとってはとてもいいものだった。しかし、セックスだけがどうにも出来ない。それ以外の部分にはなんの不満もないが、セックスが出来ないことで、主人公は罪悪感を抱き、また主人公は知らなくていい夫の一面を知ることになってしまう。言いたくても言えないことが積もっていき、少しずつ関係性がおかしくなっていく。

『私たちは性交で繋がったり、子を産み育てたり、世の中の夫婦がふつうにできていることが叶わない。けれど、その産むという道を選択しなかったことによって、産むことに対して長いあいだ向き合わされている。果たしてこれでいいのか、間違っていないだろうかと、行ったり来たりしながら常に考えさせられている』

この一文が、この夫婦のあり方を見事に表現していると言えるだろう。選択しなかったことで向き合わされている。「ふつう」にできれば立ち止まったり悩んだりすることなく通り過ぎていっていくものと、彼らは向き合い続けている。夫婦のその足踏みを描くことで本書は、「ふつう」というのは一体何なのかを問いかけ続けるのである。

『私たちのあいだで「その件」以外のすべてが順調に進んでいた。まるで、ちんぽを人質にして願いを叶えてもらったかのようだ。残酷なことをする神様だと思う』

人は、自分が持っていないことの不幸に目を向けてしまう生き物だ、という話を聞いたことがある。そういう人は多いだろう。私にはあれがないから不幸だ、と。「その件」以外のすべてが順調だとしても、夫のちんぽが入らないことがすべてを凌駕するのか否か。当事者にしか判断は出来ないが、僕は状況が許す限り、持っているものに目を向ける生き方が出来ればと思う。

本書は、文学フリマで販売された同人誌(という表現で合ってるだろうか?)の書籍化らしい。デビュー作なのかどうかは知らないが、無名の新人、という表現をしてしまっていいだろう。しかし、文章がとても巧い。無名の新人とは思えない巧さである。

『私の新生活は、前の持ち主の暮らしをなぞるようにして始まるのだ』
『ただ寝るだけの、おしまいの時間でしかなかった夜がいま意味を持ってきらめいている』
『退職を決めてからは胸の上に積まれた石が一個ずつ取り除かれてゆくように呼吸がしやすくなった』

こういう繊細で物事をすーっと捉えるような表現が随所にあり、才能の高さを感じさせる。分量は多くない小説だが、濃密さを感じさせる佇まいだ。これからも書き続けて欲しいと思える作家である。

こだま「夫のちんぽが入らない」

キッドのもと(浅草キッド)

振りかえってみて、面白かったよなぁ、と思えるような人生を生きたい。
そんな風に、強く思っている。
でもそれは比較的、リアルタイムの目の前の現実はいつも厳しいという意味でもある。

最近ちょっとしたことがあって、自分の人生について聞かれる機会が増えてきた。ありがたいことだ。聞かれるままにペラペラ喋っているのだけど、人生を普通に順調に歩んできた人とはちょっと違うルートを辿ってここまで辿り着いている。どこにいても馴染めない感覚が拭えないまま、表面ばかり取り繕う術は身についた、大学は辞めた。就職活動も転職活動もしたことがない。社会に出て働けると思ってはいなかった。色んなことから逃げまくった。色んな人間に迷惑を掛けまくった。そんな人生だった。

振りかえってみて思うのは、今ではそういう来歴は、ネタとして面白おかしく喋れて得だ、ということだ。僕の辿ってきた人生にはいくつもの汚点が転がっているし、恥ずかしいことや思い出したくないことも色々あった。それでも、それらを通り抜けた今となっては、そういう自分の過去のことを懐かしくも思う。そして、そういう過去がなかったら、今の自分は間違いなく存在しないだろう、という確信がある。

しかし同時に、やっぱり僕は覚えている。苦しかった時の、苦しかった気持ちを。働くことが嫌でバイトを幾度もバックれて、その度に親に尻拭いしてもらったこと。引きこもって日がな一日テレビを見ながらうだうだと将来について悩んでいた時のこと。死のうと思って屋上の縁で片足立ちした時のこと。実家で生きていくことを諦めて、仕事も住む家もないままに東京に逃げた時のこと。その時々の気持ちを正確に思い出せるわけではないのだけど、今でも、あの時は辛かったな、と振り返ることができる、印象深い記憶たちだ。

過去を振りかえってみて思う。どうも僕は、楽しかった記憶はあまり覚えていないのだな、と。辛かったこと、大変だったこと、失敗したこと。そういうことばかり覚えている。そして、大人になることで、そういうしんどい記憶が、振り返った時には懐かしく印象的なものとして思い出されるのだと知った。もちろん、僕が辿ってきた人生が、あまりにも酷すぎるものではなかった、ということも大事だろう。その時その時の自分なりには辛い経験だったが、絶対評価をすればそこまで大したことではない。だからこそ、懐かしく思い出せるのだ。

『今振り返っても、フランス座に行かなきゃよかったとは微塵も思わない。
むしろ、あそこに行ってなかったら、ボクは、とうの昔に芸人を辞めていただろう』

『世の中の大半の人間は、金がたっぷりと張られた黄金の湯船に浸かってのぼせているような状況だった。
そんなお祭りのような空気が日本全土を覆い尽くしていた時に、オレと博士は、自ら望んで草木も生えてない浅草フランス座に行ったんだ』

浅草キッドは、僕なんかと比べるのは申し訳ないくらい凄絶な環境から這い上がってきた人たちだ。

『フランス座で得たものは、サバイバル感、嘘のような本当の“下層”現実、どん底の体験がすべてだった。
おかげで、「人生に期待しないこと」や、「どこへ行ったって、ここよりはマシ」と現実に足ることを知り、どんな境遇にも身を投じる覚悟、芸人の匂いが刷り込まれた』

特に水道橋博士は、『高校一年の時にダブリ、学校に馴染めず、うつらうつらと生きていても死んでいるような、ただただ寝て起きて時が過ぎていくだけの日常は、重く、息苦しい日々だった』と書くように、思春期の頃からどん底だった。そんな人生を支える背骨を、彼らはどう勝ち得て行ったのか。そしてその経験が、その後の人生にどんな影響を与えているのか。

そういったことが、彼らの口から語られるのだ。

本書は、浅草キッドの二人、水道橋博士と玉袋筋太郎が、
【「少年時代」のもと】
【「浅草キッド」のもと】
【「芸」のもと】
【「家族」のもと】
の4つに分けて、彼らの来歴や思考を交代で書き綴っていくエッセイだ。

なかなか面白い。特に、やはり文筆業にも力を入れている水道橋博士のパートは、僕はとても好きだ。

水道橋博士と玉袋筋太郎の文章には、明確な違いがある。水道橋博士は、思考を書く。そして玉袋筋太郎はあったことを書く。この違いだ。世の中の多くの人が「文章を書け」と言われた時、あったこと、つまり玉袋筋太郎のような文章を書く。インタビューなどでも基本的には同じだ。僕は、あまりそういう文章には惹かれない。水道橋博士は、思考を書く。もちろん、思考だけではなく、言動や起こったことも書く。しかし、思考を書ける人間は、言動や起こったことも、思考という側面から捉えて書くことが出来るのだ。その客観性と描写性が抜群だと僕は感じる。

水道橋博士は、内気でシャイで人見知りで、それでも「ビートたけしのオールナイトニッポン」に救われた。勇気を振り絞ってたけし軍団に入った彼は、そこから辛酸を舐め尽くすことになるが、結果的にその経験が「水道橋博士」という芸人を作り上げた。その過程を、冷静に客観的に慎重に描き出す水道橋博士の筆致は好きだ。

冗談みたいな人生を過ごす中で、誰にも奪い取ることが出来ない財産が備わった。その強さが、彼らを芸能界という世界で生かしている。彼らと同じ努力や生き方は出来ないだろうが、未来に繋がる意味のある努力(それがなんであるのかを見つけ出すのが困難ではあるのだが)こそが、人生を切り開く可能性なのだ、ということがよく伝わってくる。

玉袋筋太郎の文章は、とても軽妙だ。深い思索を感じ取れるような文章では決してないが、きちんとした芯を感じさせる。生き方の中に、真っすぐな軸がきちんとあり、そこから外れないでいることに忠実、という印象だ。その軸は、世間の人が持っている軸とは大分かけ離れているかもしれないが、間違っているわけではないし、常識だからと言って丸呑みしないその姿勢には共感する。

水道橋博士の話にも家族の話は出てくるし、家族を想う気持ちは当然あるのだが、どちらかと言えば玉袋筋太郎の方が家族の話が多い。自分が存在している、という事実は、親の存在によって成り立っているのだ、ということをナチュラルに思い口に出せる人だ。その衒いのなさみたいなものがかっこよく映ることもある。

二人が共通して書いている、こんな考え方がある。

『舞台の上だけは、何をやっても先輩から叱られることのない自由の場であり、どんなに非常識なことを口にしようと、客にウケれば「勝」の世界だ』

『日々の生活には自分たちの時間はないけど、舞台の上で漫才をやっている時だけは、誰にも絶対に邪魔されないオレたち二人だけの時間なんだ―ただひとつ、その想いがあっただけで、どんなに辛いことにも乗り切ることができた』

二人は、フランス座の壮絶な修行だけではなく、たけし軍団という超体育会系の集団の中で付き人もやっていた。先輩の命令には逆らえないという環境の中で、それでも寝る間を惜しんで漫才を作り続けた。「舞台の上だけは自由」という環境にいたからこそ、辛い環境でも芸を磨き続けることができたのだろう。

玉袋筋太郎がこんなことを書いている。

『こっちは寒くても、博士が暖かければ、それはそれで良かったなぁって思えるのが、オレの考えるコンビの意気なんだ。普通のコンビだったら、とっくに解散だよ』

コンビ芸人は仲が悪いというまことしやかな噂を耳にすることは多いし、実際にそうだと彼らは本書で書いている。それぞれピンで仕事をしている二人ではあるが、それでも「浅草キッド」というのが彼らの帰る場所なんだ、ということがしんみりと伝わってくる。そんな作品だ。

浅草キッド「キッドのもと」

骨を彩る(彩瀬まる)

どうにも、うまく掴めなかった。
こういう小説を読むと、やっぱり女性のことは全然理解できていないんだな、と感じる。
見ているもの、感じているもの、そういったものがまるで違うのだろう、と思う。

まったく分からないわけではない。けれど、どうも捉えきれない。彼女たちが何を求めているのかを。何を掴もうとしているのかを。何を手放そうとしているのかを。うまく捉えきれない。

女性と比べると、男は「1たす1が2」となるような分かりやすい世界で生きているように感じられる。女性の場合、同じ四則演算の記号を使っているのに、条件次第で違う規則が付け加わるような、ちょっと複雑な四則演算をしているような、そんな気持ちにもなる。

なんとなく、見えないけれど自分の人生を支配する「何か」を「骨」と呼んでいるのではないか。そんな印象だけは受けた。それぞれの短編には、何らかの形で「骨」と関わる記述がある。タイトルの「骨を彩る」というのは、板も壁も紙もないただの空間に色を乗せるような、虚しい響きを感じる。

何らかの形で欠損を抱えた女性たちは、その欠損を埋めようとして、その欠損から目を反らそうとして、その欠損を受け入れようとして、日常の中で些細な抵抗をする。

「指のたより」
妻の朝子は、10年前に大腸がんで死んだ。29歳の若さだった。津村は男手一つで娘の小春を育てている。夢に度々、朝子が出てくる。朝子が夢に出る度に、彼女の指が1本ずつ欠損していることに気づく。

「古生代のバームロール」
高校時代の恩師である柿崎先生が亡くなった。身寄りがないという先生の葬儀を、教え子が集まって執り行うことになった。かつての友人と、久しぶりの会話をする。
光恵が磯貝真紀子と再会したのは偶然だった。特別だと言われて赴いたサロンで、高宮リサという名前で登場したのだ。真紀子だと気づくと追い返された。光恵は真紀子に、柿崎先生が亡くなったこと、葬儀をみんなでやることを伝えた。真紀子は、柿崎先生のファンだった。

「ばらばら」
玲子は仙台に向かっている。夫が、たまには一人で気晴らしに旅行にでもどうだ、と言ったからだ。バスで隣り合った少女と何気ない会話を交わす。特に目的もない旅をしながら、玲子は昔のことを思い出す。苗字が頻繁に変わったこと、いじめられていたこと、新しい父親に対する拭えない違和感を覚えていたこと。
息子がいじめられているようだ。でも、その息子から、何よりもおかあさんが怖い、と言われてしまう。

「ハライソ」
不動産屋で働く浩太郎は、ネットゲームで知り合った女の子とは気兼ねなく話すことが出来る。毎週決まった時間に待ち合わせて、チャットをしながらゲームをする。付き合っている彼女がいる。凄く可愛い。でも、微妙な違和感が日々降り積もっていく。

「やわらかい骨」
小春は、転校生である葵の扱いに悩む。葵はご飯の時、お祈りをする。その瞬間、クラスの中での立ち位置は決まった。葵は小春と同じバスケ部に入る。もの凄く上手い。そんな葵と距離を縮めたくなる小春。しかし、お祈りの頑なさが、小春を躊躇させる…。

というような話です。

ストーリーだけ取り出せば、どうということのない物語だろうが、些細なことを切り取ることでハッとさせる描写を生み出す力は抜群だ、と思う。女性の小説だ、と思う。観察力の鋭い女性が、際立った表現力を持つ時、こういう小説が生まれる。

どの話にも、何らかの形で「不幸」や「悪」の影がちらつくものの、全体的には日常の範囲内にとどまっている物語だ。小さな違和感に焦点を当て、見ないようにすれば見ないで済んでしまうのかもしれない欠損に囚われる者たちの物語だ。深く入り込むことは難しかったものの、彼女たちがささやかに抵抗したりもがいたりする姿を切り取る目線がいいと思った。

著者が本書の中で描く男性には、どうしても違和感を覚えてしまう。男が見ていること、感じていることとは違う目線で描かれているように思えてしまう。女性と同じように男を描いている、という印象を受ける。こういう感覚はきっと、男性作家が描く女性に対して女性が感じることでもあるのだろうなと思う。

個人的にはうまく捉えきれなかった作品なのだけど、女性には受け入れやすい作品なのかもしれないとも思う。

彩瀬まる「骨を彩る」

Happy Box(伊坂幸太郎他)

内容に入ろうと思います。
本書は、著者名に「幸」という漢字が入る作家による、「幸せ」をテーマにしたアンソロジーです。

伊坂幸太郎「Weather」
大友は、学生時代からの友人で同僚でもある清水に振り回されてきた。清水はモテる男で、これまであちこちの女性と関わりを持ってきたが、それがバレないようにうまく辻褄を合わせる役割をずっと負わされてきたのだ。そんな清水が結婚するという。相沢明香里という女性で、なんと彼女は、大友の元カノでもある(清水には内緒だ)。二人は結婚式の準備中だが、清水の様子がおかしいという明香里に頼まれて、大友は清水のスパイをすることになるのだが…。

山本幸久「天使」
福子は77歳。この道66年になる掏摸師だ。日々鍛錬を怠らず、他人様の財布を掏っては生計を立てている。ある日、親子の同業者を見かけた福子は、逆にその男の財布を掏ってやった。浪川隆夫は気づいていないようだったが、息子だろうと思われる男の子が福子のところにやってきた。
師匠である一つ目金治に出会った頃の自分を思い出した。ガキの集団で、技術もないまま掏摸を続けていた頃のことを。情が湧いたのだろうか。男の子の姉の万引きがバレないように助けてやり…。

中山智幸「ふりだしにすすむ」
多喜田りりこはある日、60歳は越えているだろう老人から話しかけられた。僕はきみの生まれ変わりなんだ、と。頭がおかしい老人なんだと思ったが、子どもの頃に読んだ絵本の中のあるフレーズを叫ばれて、なんだか白旗をあげることになった。その老人は、あなたが大庭かおるという女性に会ってくれないと、わしら夫婦が再会出来なくてこまるのだ、という相変わらずよく分からないことを言ってりりこを動かそうとして…。

真梨幸子「ハッピーエンドの掟」
アイコの家に、カラーテレビがやってきた。クラスの子のほとんどがまだ持ってないはずだ。全自動の洗濯機があって、カルピスを濃く作っても怒られない。部屋はオンボロだし、ママとの二人暮らしだけど、アイコは十分満足している。ママはキャバレーで働いてるから夜は一人で留守番だけど、別に嫌ってほどでもない。けど学校の先生は、そんなアイコのことが心配みたいだ。お父さんがいないと不幸だ、っていうのが、よく分からなくって困る。
夏休みの自由研究で出した、人魚姫を下敷きにした絵本が、アイコの予想に反して全然評価されなくて、アイコは「幸せ」がなんなのかわからなくなる…。

小路幸也「幸せな死神」
ある日榎本帆奈は「死神」と知り合いになった。それは偶然が重なることで起こった奇跡なんだという。その「死神」は、こんな風に人間の姿で過ごすのは初めてだ、という。ちょっとずつ話す中で帆奈は、「死神」がどんな存在であるのかを知っていく。「死神」というのは、ただ死を看取る、死んでいることを確認するためだけに存在するのだという。基本的には「死」というものが存在する場所にしかいない。
ある日「死神」が辛そうなのを見かねて話を聞いてみると…。

というような話です。
なかなか面白い作品でした。「幸せ」というテーマの解釈に個性が出るのが面白いですね。

やっぱりというかなんというか、伊坂幸太郎の作品がダントツで面白いなと思います。こうやって他の作家と読み比べるアンソロジーだから余計に感じますけど、伊坂幸太郎が書く文章は、なんでこんなに「ウキウキ感」があるんだろうと思います。別に楽しいことばかり書いているわけではないのに、伊坂幸太郎の文章はなんとなくいつも弾んでいる気がする。そのテンポで、お話をスルッと読ませてしまうんですよね。

ストーリーも、分かる人は先が読めるのかもしれないけど、僕はなかなか良くできた話だなと思いました。この話、着地点だけ見れば全然意外な話ではないんですけど、キャラクターの設定や話の展開のさせ方によって、ありきたりに思えてしまうラストを意外性のある終わらせ方に見せているんです。面白いなと思いました。

真梨幸子の話も、なるほどという感じの切り口でした。真梨幸子と言えば「イヤミス」で、「幸せ」とは対極にありそうな作家ですが、「幸せって何だろう?」という問いかけを、ある女のコの視点から投げかけるというストーリーはなかなか面白いと思いました。「幸せ」というのは人の数だけ存在するのだ、というような当たり前の事実を逆説的に描いているという感じで、「幸せ」というテーマの捉え方がいいなと思いました。話の展開やオチだけを単独で捉えれば「幸せ」とはかけ離れているように思える作品なのに、作品全体としてはテーマに沿っているというような切り取り方が面白い作品でした。

小路幸也の作品も、発想は嫌いじゃないんですけど、もう少し掘り下げられるような気もしてしまいました。なんとなく、ここで描かれている話だけだと、想定内という感じに思えてしまいました。惜しい、という感じでしょうか。

山本幸久の作品は、主人公こそ掏摸師ですが、「幸せ」というテーマに直球で挑んだというような作品だと感じました。特に好きでも嫌いでもないですけど、良い話だなと思います。

中山智幸の作品は、正直ちょっとピンと来ませんでした。短編にしては、設定の部分でちょっと説明的な要素が多かったというのもあるんだけど、なんとなく感覚的にスッと受け入れられないような印象を持ちました。老人がやりたかったことはなんとなく分かるし、それが「幸せ」というテーマに合ってるんだろうということも分かるんだけど、なんでかなぁ、うまく受け取れない作品だなと感じちゃいました。

アンソロジー作品全体の趣向としては、なかなか面白くまとまっている作品だと思いました。

伊坂幸太郎他「Happy Box」

自分の考えを「5分でまとめ」「3分で伝える」技術(和田秀樹)

内容に入ろうと思います。
本書は、まあタイトル通り本であると、とりあえず言うことは出来ます。

本書では「まとめる力」という言葉が多用されます。長い文章や誰かとの会話、本や資料の内容などを要約して言葉にする、というような力のことを指しています。

日本人は、この「まとめる力」が身についていない人が多い、と著者は言います。その理由を、国語教育に求めます。

『ただ、日本の国語教育においては読解力というと、登場人物の心情を理解する「心情読解」のことと考えられていたので、それを身につけるのはとてもむずかしかったし、結果としてきちんと「まとめる力」のトレーニングを受けてこなかったことになります』

この指摘は、なるほどという感じがしました。僕も確かに、子供の頃は、あまりちゃんと文章が書けなかった記憶があります。このブログは2003年に始まりましたが、2003年頃の記事を読むと、今とは全然違って驚きます。今とは比べ物にならないくらい文章を書く力がなかったし、それはつまり「まとめる力」がなかったということだと思います。

欧米での国語教育についても触れています。

『一方、外国では、長い文章や論文を読んで「内容をまとめなさい」という教育になります。「まとめる力」をしっかり身につけさせようとします。そうしなければ「読解力」が育たないと考えられているからです』

まあ、どちらが良い悪いというのは難しい部分もあるでしょう。僕はそもそも日本の国語教育は嫌いですが、それは「主人公の心情」に正解があるように教えられるからです。試験をしなければいけないので仕方ないのですが、僕には納得が出来ません。ただ、「主人公の心情」を問うことそのものは悪くないと思っています。そういう問いかけをし、その問いかけに答える経験によって、豊かな情緒みたいなものが育まれる、ということだってあるでしょう。だから、一概に日本のやり方を否定するつもりはありません。

とはいえ、その一方で、「まとめる力」は絶対的に必要です。外国にように国語の授業で訓練できるなら別ですが、そうではないのだからなんとか身につける方法を考えなければいけません。その指針になる、と言ってもいい作品だとは思います。

ただ…僕が本書を読んで思うことは、「この作品はもっとまとめられなかったのか」ということです。全体を読んで、本書の内容なら1/3ぐらいに圧縮出来そうだな、と僕は感じました。

タイトルに「技術」と入っているのだから、「どうすれば「まとめる力」が身につくのか」ということが書かれていることを期待したいところですけど、実際の中身は少し違います。本書は、「あなたが別に原因があると捉えている問題は、実は「まとめる力」不足が原因なんですよ」という事例をたくさん載せている本、という感じです。口下手、話が面白くない、長い文章が書けない、的確な指示が出せない…。それ、全部「まとめる力」不足なんですよ!ということが書かれている本です。

「技術」ということで言えば、「メモを取る」「結論から話す」「話し方の型を持つ」「本はこう読む」みたいなことが、それぞれのページにそこそこ散りばめられている、という感じでしょうか。正直、本書を読むだけでは、「まとめる力」を身につけるためのトレーニングをスタートさせるのは難しそうな気がしてしまいました。

とはいえ、本書にも利点はあります。それは、「問題を問題と捉えることが出来る」という点です。

誰の言葉だったか忘れましたが、「問題は、それが問題であると認識した時点で7割解決している」というようなことを言った人がいたはずです。なるほど、確かにその通りだな、と思います。問題を抱えている人でも、自分ではそれを問題だと認識出来ていない人がいます。あるいは、問題だとは思っているのだけどその原因をまるで捉え間違っているという場合もあるでしょう。

そういう人が本書を読むと、著者が挙げた様々な事例に対して、「なるほど、これに当てはまっている自分は「まとめる力」不足なのだな」と認識出来るのではないか、という感じがします。これは、苦手克服の大きな一步と言えるでしょう。そういう意味で本書は役に立つと言えるかもしれません。

本書では色々書いていますが、僕は、「まとめる力」を身につけたければまとめてみるしかない、と思っています。僕はこのブログにひたすら文章を書き続けたことで、今ではすいすい文章が書けるようになりました。情報を取り込んで自分の頭の中でまとめて、それを文字にしてアウトプットするというのは結構出来る方だと思います。僕も、最初は文章なんて全然書けませんでした。それでも、無理矢理でもいいから書き続ければその内身につくと思います。

あるいは、自分で文章を書くのが苦手なら、誰かの文章を写してみるというのもいいんだろうと思います。「天声人語」を書き写す、みたいな話ってよくありますけど、あんなイメージです。前に何かで読みましたけど、「天声人語」をまず写して、それからその内容を半分の文字数で要約してみる、あるいは2倍の文字数に増やしてみる、という訓練をしたらいい、と書いている人がいました。「天声人語」に限らず、新聞記事(ネットでも拾えるでしょうし)で同じことをやってみればいい訓練になるのではないかと思います。

もっと日常的に出来るかもしれないことだと、メールやLINEで絵文字やスタンプを使わないことにしてみる、というのは面白いと思います。絵文字やスタンプに載せた気持ちや感情を、言葉だけで表現するとしたらどうするか。有名ブロガーであるちきりんは、「(笑)という表現さえ自分は使わない。(笑)で表現していることこそ、文字にしなければ表現力は鍛えられない」というような趣旨のことを書いていたように思います。

問題を認識する、という意味では役立つ本ではないかと思います。

和田秀樹「自分の考えを「5分でまとめ」「3分で伝える」技術」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)