黒夜行

>>本の中身は(2017年)

まぼろしのパン屋(松宮宏)

これまで読んできた松宮宏の作品群とは、ちょっと違うタイプの作品という感じがした。
これまでは、それが奇想であれ、あるいは日常のドタバタであれ、まずは大風呂敷を広げたところから物語が展開していくようなイメージがあった。ぶっ飛んだ発想を、リアルさを支える様々な現実的な描写で組み上げながら、リーダビリティを生み出す物語を紡いでいくようなイメージだ。

本作は、そういうタイプの作品とはちょっと違った。日常を飛び越える展開も登場するのだが、基本的にはどこにでもありそうな日常を舞台にして話が進んでいく。もちろんそこには、松宮宏らしさみたいなものを感じさせる。こぶりながらよくまとまった作品だという印象である。

内容に入ろうと思います。
本書は、3編の短編が収録された短編集です。

「まぼろしのパン屋」
茨城沼に、開発の波が押し寄せている。地元選出で国土交通大臣になった亀井高雄の悲願だったが、あまりの規模に資金繰りがつかなかった。そこに手を差し伸べたのが大東京電鉄グループの総帥である設楽昇である。茨城沼には、その開発に反対して「サンカノゴイの家」と名付けられた小屋に立てこもっているジャーナリストらがいるが、開発業者は彼らに農薬を撒くなどして徹底抗戦している。
その大東京電鉄で働く高橋は、課長程度で終わるはずだった人生が、玉突き事故のような形で大きく変わった。会社の資産を預かる財務部長に指名されたのだ。自分が優秀だなどと思ってはいない。何かあったら切られる尻尾であると自覚している。最近、妻の久里子がカルチャーセンターのパン職人の講座にハマッている。まあ、結構なことだ。
サラリーマンの常として、日々満員電車での戦いを繰り広げている高橋は、休日出勤しなければならない朝、いつもと違ってガラガラの車内で不思議なおばあさんに会った。何故かそのおばあさんからパンを受け取った。そのことで彼の人生は大きく変わっていくことになるのだが…。

「ホルモンと薔薇」
花隈病院の大腸外科医である村岡久雄は、仕事も休日も腸にまみれている。普段は、日本で三本の指に入ると言われる大腸外科医として、その美しさに感動し、また仕事終わりや休日も何かと腸が絡んでくるのだ。
仕事終わりで「吉田酒店」で飲んでいると、父の久二雄がやってきた。今日は焼肉の会だ。久二雄が主催する焼肉パーティーにはプロの焼肉店さえ店を休んでやってくるほどの人気だ。久雄もその準備のため牛の解体を手伝った。
そこに加奈がやってくる。ひったくりに遭ったのだという。皆で憤るが、どうなるものでもない。とりあえず皆で話を聞き慰めていたが、その後予想もしなかった展開となり…。

「こころの帰る場所」
華井中の荒井と言えば知らぬものはいないヤンキーだった荒井は、はみ出した生き方をしていたが、性根が腐っていたわけではない。人生の都度都度で、生き方を改めようと思ったことはあった。しかし、一度貼られたレッテルはなかなか剥がすことができない。真面目になろうとしたり、でもなりきれなかったりというゆらゆらした人生を続けていた。
一念発起してJRの試験を受け、車掌として真面目に働き始めるが、昔の仲間との縁はそうそう切れるものではなく…。

というような話です。

どの話も、凄く地味ではあるんですけど、スイスイと流れに乗った語りに読まされてしまうし、じわじわと染み込んでくるような物語がとても良い。物語の中で特別な出来事が起こることはなくて、悪い言い方をすればダラダラと話が展開していくんだけど、それでも読ませる力はさすが松宮宏だと思う。

最初の「まぼろしのパン屋」こそ、ちょっと非日常的な部分が出て来るのだけど、その点を除けば、全体的に日常ベースで物語が進んでいく。とはいえ、松宮宏である。普通の話にはならない。登場人物たちが非常に個性的で、わいわいがやがやしているだけなのだけど、なんだかほっこりさせられてしまうのだ。相変わらず不思議な物語を書く作家だ。

どの話にも食べ物が絡んでくるが、より重要なのは、どの話も働く者たちの話だということではないかと思う。特に「まぼろしのパン屋」はそうだ。本書をお仕事小説、と捉えるのは難しいだろうが、働く者の悲哀や哀愁みたいなものも感じ取れる作品なのではないかと思う。

松宮宏「まぼろしのパン屋」

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命のまもりびと 秋田の自殺を半減させた男(中村智志)

僕も昔、自殺しようと思ったことがある。住んでいた建物の屋上から飛び降りようと思ったのだけど、結局は出来なかった。その経験以来僕は、「僕に自殺をする勇気はないな」と判断し、人生の選択肢から「自殺」を消した。「死ぬ気になれば何でも出来る」というが、いざ死のうとした時に死ねないのでは「死ぬ気」にもなれない。だから、自分を追い込むような状況にならないよう、注意して生きるようになった。

死にたいと思っていた頃の自分のことを思い出すと、自力ではあの状態から抜け出せなかったな、と思う。とにかく、まともな思考が出来なかった。何か考えようとしても、すべてが悪い風にしか思えなかったし、何をどう考えても結局「死ぬ」という結論に行き着いてしまう。
キツかったなぁ、と思う。

自分がいる状況が変われば、思考も変わってくる。僕は、比較的強制的に環境を変えさせられたので、結果的にはそれが良かったのだと思う。悩んでいる時のまま状況が変わらなければ、恐らくずっとそのままだっただろう。自分がどれだけ理性的できちんとした思考が出来る人間だと思っていても、悩みや不安に冒されている時はそういう自分ではいられないのだと思っておいた方がいい。少なくとも、僕はそうだった。

「死にたい」と思った時、誰かに助けを求めることはとても難しい。周りにいる人間は、「言ってくれさえすれば助けたのに」と感じるだろう。その気持ちは凄くよく分かる。分かるが、しかしそれは簡単ではない。そこには、様々なフェーズがある。

何より一番難しいことは、自分が何に悩んでいるのかを正確に伝えることだ。大抵、死にたいと思うぐらいまで追い詰められている時は、いくつかの複合的な要素が関係している。悩んでいる当人は、もうまともな思考が出来ないので、自分がどんな不安に冒されているのかをきちんと言語化出来ない。言語化出来ていても、それが問題の本質かどうか、自分の中できちんと分析できているか分からない。原因が分かれば対処のしようもあるだろうが、そもそも何が原因なのか悩んでいる本人がきちんと理解することが出来ないのだから、死にたいと思っていると言っても伝わらないだろうと思ってしまう。

また、死にたい理由をきちんと捉えることが出来ていても、「そんなことで悩んでるなんて」と言われることを恐れる気持ちがある。僕にも、この不安はあった。普通の人が当たり前に出来ることが、僕には出来ないという感覚がずっとあった。それを普通の人に話をしても、「そんなことで不安がってないでやってみれば大丈夫だって」みたいなことを言われてお終いだろう、と思った。悩んでいる人間にとっては、そのことはとても重大で深刻な問題なのだけど、その深刻さを理解してもらうことがとても難しいだろうと思えてしまうのだ。

もちろん、「死にたいと思っている人間」として見られることへの抵抗感もある。注目を集めたいだけなんじゃないかという過剰な心配や、あるいは逆に、自分が望む以上の優しさや親切を相手に強いてしまうのではないか、という怖さもある。相談するとすれば自分の周りにいる人間になるだろうが、そういう人からそれまでと同じような見られ方をされなくなってしまうだろう、という怖さがどうしても付きまとう。

他にも周りの人間に相談するのをためらわせる理由は様々に存在するだろうが、そう言った理由から、死にたいと思っていることを周囲に告げることが出来ない人が多くいることには、とても共感できる。

だからこそ、本書で中心的に描かれる佐藤久男のような人物がとても重要になってくるのだ。

『(秋田県の自殺が減ったのは)もちろん、佐藤一人の力ではない。秋田県庁も危機感を抱き、2000年から対策を取りはじめていた。秋田大学の研究者たちも研究と実践をつなぐことに力を注いでいる。県下に続々と生まれた民間団体は、横のつながりを保ちながら、それぞれの場で活動している。そして、「民」「学」「官」の連携。それが秋田の強みであり、「秋田モデル」と呼ばれる。
秋田モデルは自殺者を減らした成功例としてよく知られており、日本の自殺対策を語るうえでは欠かせない。その秋田モデルの中核に、佐藤がいるのだ。』

日本の自殺者はとても多い。1998年に自殺者が初めて3万人を越えた。この数は、東日本大震災と阪神・淡路大震災の犠牲者を合わせた数よりも多いという。どんな死であってもそれは不幸に違いないが、自ら命を断つ者が甚大な被害をもたらした自然災害による犠牲者よりも多いというのは、ちょっと異常ではないかと思う。

そんな中、自身も会社を倒産させ自殺を考えたという佐藤が、地元秋田の地で、主に中小企業の経営者向けの自殺対策を行う「蜘蛛の糸」というNPO法人を立ち上げ、後に「秋田モデル」と呼ばれるようになるスタイルを作り上げていく。

佐藤がしていることは、ある意味では誰でも出来ることだ。何時間でも相手の話をじっくりと聞く。何度でも聞く。そして多くの場合、次の約束をして別れる。時には、経営者だった経験からアドバイスもするが、まずは相手の話を聞くことからだ。

『十年間経って九百社ぐらいの相談を受けてきましたが、私は素人なんですね。でも、プロになろうとは思いません。私は、誰でもやれる平凡な自殺予防、って言うんです。隣のじっちゃんばっちゃんが困ったときに「何したあ。ちょっと話を聞かせてもらえねえか」と手を差し伸ばす活動だからね。みんなでやりましょうって』

確かに「誰にでもやれる平凡な自殺予防」という表現は、決して誇張ではなく、そういう側面はあると思う。ただ、誰にでもできることと、誰にでもできることをやり続けることは、全然違う。それに、誰にでもできることではあるが、誰にでもできるからと言って洗練させなくて良いということにはならない。佐藤は様々な経験をしてきたことで、誰にでもできることを磨いてきた。その積み重ねが、自殺者を減らすという成果に繋がっているのだ。

また佐藤は、中小企業の経営者向け、というスタイルを崩さない。自分がアドバイス出来ること周辺にしか手を伸ばすまい、と決めているのだ。「子どもいじめ相談は受けないのか?」と著者が佐藤に問うた時の反応は、著者をして違和感を覚えたと言わせるほどのものであり、受け取り方に賛否分かれるかもしれないが、それだけ誠意を持って活動を続けているとも取れる。

『もっとも怖いのはね、自分がわからないのに間口を広げて、相手に迷惑をかける相談なんだよね。それなら、やらねえほうがいい』

それでなくても佐藤のスタイルは、時間無制限で話を聞く、というものだ。NPOで、報酬をもらっているわけでもない。じっくり相手に向き合う、という意味で、間口を広げない方がいいということもあるだろう。佐藤一人が多くの人を見るのではなく、佐藤のような人間をたくさん生み出して、彼らに様々な得意分野を見てもらうようにする、という方が自然だ。

佐藤は、決して自殺を否定しているわけではない。

『人間には、自分の命を守る自由と共に、自分で命を絶つ自由もある。俺は、自殺を否定するわけでもないし、自殺がダメだという価値観には立たねえんだ。あくまで個人の命は個人のもの、人間っていうのは死ぬもんだという価値観だから。三島由紀夫のような死は食い止められねえし、死ぬことで評価が定まる人もいる。自殺者が誰もいない社会なんて息苦しいし、小説の半分がなくなっちゃうよ。自殺をゼロにできると考えるのは、不遜なよ、傲慢な人間だと思っている。自分に問いかけてるわけでうよ。あなたは何者なのか、あなたはそんな立派な人間なのか、と。ただ、食い止められる死、避けられる死がいっぱいある。それを防ぎたいと思うわけさ』

このスタンスは、僕は好きだなと思う。僕も、死ぬ自由はあると考えたい人間だ。死ぬ自由を感じられない社会は、窮屈だと思う。けれど、死ぬ必要もないようなことで死にたくなってしまう瞬間というのは必ずある。そういう瞬間は、出来るだけ取り除けるに越したことはない、という考えも共感できる。

本書は、佐藤久男の生い立ちや人となりと合わせて、佐藤がこれまで相談を聞いてきた人たちの人生にも深く触れられていく。

『佐藤はふだん、相談者が立ち直ると、会わなくなる。道ですれ違っても、相手が挨拶をしなければ素知らぬ振りをする。苦悩の日々が「忘れたい過去」になっている場合があるからだ。病気が治ったら患者は医者を必要としない。佐藤は、相談者と自分との関係をそうなぞらえていた。
だから、私が印象深かった過去の相談相手に会いたいと頼んでも、紹介できる人は自ずと限られた。』

それでも本書には、佐藤が関わった事例が様々な形で取り上げられている。

その過程で佐藤は、様々なことを経験し、考えさせられた。うまく行かなかったこともあるし、その後の佐藤の活動の柱となっていったような経験もあった。自分のやっていることに意味などないのではないかと感じられることもあった。しかし佐藤は、ある経験からこんな風に感じる。

『「蜘蛛の糸」の目的な自殺予防である。それなら、相手が生き続けていれば、相談は役に立っているのではないか。直接的に何かをしてあげられなくてもかまわないのではないか。』

そんな様々な葛藤を乗り越え、佐藤は自分にできることを少しずつ積み重ねていった。行動原理に哲学があり、前に進む意志があれば、個人でも大きな壁を壊すことが出来る。そんな実例を目の当たりさせられた作品だった。

中村智志「命のまもりびと 秋田の自殺を半減させた男」

くすぶり亦蔵 秘剣こいわらい(松宮宏)

本当に松宮宏は、どこから物語を創造するんだろうなぁ、と毎回不思議に思わされる。

本作は、「路上喫煙が禁止されているマンハッタンでタバコを吸い、何度も逮捕される無口な日本人」を描く小説だ。何だそりゃ?という感じだろう。でも、要約するとこうなるのだ。

ほとんど、たったこれだけの舞台設定で物語を成立させてしまう。もちろん、その外側では色んなことが起こる。その色んなことが面白いのだが、しかし、物語の中心は「タバコを吸って逮捕されるオッサン」だ。そこにしか中心がない。

普通、たったそれだけの核で、長編一遍を成立させられるなどと考える作家はいないだろう。そういう意味で、松宮宏は頭がイカれているのだと思う。もちろん、良い意味でだ。

松宮宏が描く物語は、「奇想」に支えられていることが多いが、しかしその奇想は、ファンタジーやSFという方向とはちょっと違う。どちらかと言えば、「バカバカしすぎて誰も真剣に考えたことのない発想」という意味での奇想だろう。松宮宏の小説には、そういう意味での奇想がバンバン登場するのだが、しかし松宮宏の広範な知識と描写力によって、あたかもそういうことが実際にあってもおかしくないような錯覚を与える物語に仕上がっている、と僕は感じる。明らかにバカバカしいし、実際には起こり得ないだろう出来事なんだけど、松宮宏の小説からは妙なリアリティを感じるのだ。そういう、物語の成立のさせ方にも、独特なものを感じる。

毎回、どんな作品を生み出してくるのか、実に楽しみな作家である。

内容に入ろうと思います。
樺沢亦蔵は、尋常ではないチェーンスモーカーだ。
『朝起きてすぐに吸い、朝飯の間吸い続ける。
服を着替えながらも吸い、靴を履きながらも吸う。
亦蔵の家から田園都市線溝の口の駅まで、せいぜい歩いて十分であるが、その間に最初のひと箱がなくなる。
それだけ吸うということは、もう、無理やり吸っているとしか言いようがない。
そんな吸い方だ』
そんな男である。
当然、周囲からは顰蹙を買いまくっている。しかし亦蔵は、何を言われても表情一つ変えず、平然としている。無口な男なのである。赤ら顔で毛が濃いが故に、「毛蟹」と呼ばれている。青山通りにある真新しいイメージの会社で現金出納係として働いているのだが、とにかく青山という土地に似合わない男である。
タバコにまつわるトラブルは絶えないが、亦蔵にはこれほどまでにタバコを吸うようになったきっかけがきちんとある。とはいえ、そんなことは周りには関係ないし、そもそも無口な亦蔵は何も喋らないので、周りとしてはただ迷惑なだけの男である。
一方、アメリカでは、タバコ産業が壊滅的な状況に追いやられていた。1998年に、巨大タバコ四社が四十六の州政府に対して、医療保険が喫煙関連の疾患治療のためにこれまでに負担してきた合計二千六十億ドル(約二十五兆円)の医療費を支払うという合意に至った。タバコを争点にした裁判で軒並み敗訴を喫し、喫煙者が社会的にかなり追い詰められている。全米タバコ産業親交協会会長であるデイモン・チェンバレンと、タバコ産業から多大な献金を受け取ってきたアーノルド・グリムショー下院議員(共和党の元締めである)の二人は、事態を静観することぐらいしか出来ないでいる。
亦蔵はたまたま、そんなアメリカの喫煙事情を特集する番組を見た。今や多くの州では自宅以外では喫煙出来ず、都市部では路上喫煙をすると逮捕されるのだという。それを知って亦蔵は決意した。会社を辞めて、アメリカに行こう。
どこでもいいから、とチケットカウンターで言い、ニューヨーク行きのファーストクラスに乗ることになった亦蔵は、テレビで見たプラザホテル前でタバコを吸うことに決めるが…。
刑務所から出る度にタバコを吸い再度逮捕される亦蔵に多くの輩が群がっていく。亦蔵ブームによって息を吹き返したタバコ産業、亦蔵に自社の服や靴を着せようとするファッションブランドなどが亦蔵の登場を歓喜と共に迎え入れ、ほぼ何も喋らない亦蔵は一躍アメリカの寵児に祭り上げられることになる。そこに、21歳の暇な女子大生・和邇メグルはどう絡んでくるのか…。
というような話です。

いやー、今回も面白かったなぁ。冒頭でも書いたけど、松宮宏は本当に奇想が凄い。どっからこんな話思いつくんだ、っていうような舞台設定や構成が本当に凄いんだよなぁ。

とはいえ、今回の作品は、物語の着想はわかりやすいと言えばわかりやすい。どう考えても、「マンハッタンで路上喫煙を繰り返して逮捕される日本人がいたらどうだろう?」という着想から物語を組み立てていったはずだ。だとしても、その日本人である樺沢亦蔵の造型や、亦蔵の振る舞いがニューヨークでどんな反応を引き起こすことになるのか、さらにはこの物語に和邇メグルがどう絡んでくるのか、というような部分まで含めて一つの物語に収めるのは本当に凄いなと思いました。

特に本書では、アメリカの政界の話がかなり描かれている。もちろん、僕はアメリカの政界には全然詳しくないので、本書の記述がリアリティを無視した荒唐無稽なものであるかもしれないのだけど、僕が読む限り、リアリティを感じました。政治の力学みたいなものがどう働くのか、という部分がリアルさを感じさせます。亦蔵という、ただタバコを吸って逮捕されるだけの男に、アメリカの政界が右往左往させられる様子は痛快で、でもその痛快さを演出するためには、アメリカの政界事情をリアルに描かなければならないわけで、その点も実に見事にクリアしていると思いました。

他の作品でも、例えばビジネスの話に精通していたり、食通なのかと感じさせるような記述があったりと、とにかく描像出来る範囲がとても広い。深い知識と描像力に支えられているからこそ、バカバカしいほどの奇想が、ただの荒唐無稽な設定ではなく、リアリティを伴ったバカバカしさを生み出しているのだという感じがします。

どの作品の読んでてもそうなんだけど、松宮宏の作品は、正直なところ、読み終わっても何も残らない。読者に何かを考えさせたり、何か教えを与えたりと言ったようなものとは無縁だ。しかし、その圧倒的な面白さ故に、「こんなに面白い本があるぞ!」と誰かに言い聞かせたくなるような、そんな作品です。超ドストレートなエンタメ作品です。そんじょそこらの小説にはない、ノンストップな奇想が物語を一気に牽引していく作品です。

松宮宏「くすぶり亦蔵 秘剣こいわらい」

ルドヴィカがいる(平山瑞穂)

平山瑞穂、やっぱり好きだなぁ。
作家本人はどうか知らないけど、作品に異様な捻れを感じることはそうそうあるもんじゃない。

言葉に対する感覚が鋭敏であるかどうか、というのは、人間を評価する際に僕にとってとても大事な要素になってくる。言葉を雑に扱う人間は、あまり好きではない。

大げさに言えば、世界は言葉で出来ているのだ、と言っていい。もちろん、言葉なんかなくたって太陽や空気は存在している。そういう観点からすれば、「世界は言葉で出来ている」という捉え方は間違っているだろう。

では、太陽が東から昇り西に沈む、ということについて考えてみよう。もし、言葉というものが存在しない場合、その光景はどう映るだろうか?なかなか想像するのが難しいが、その光景は認識されないのではないか、とも思う。言葉がないということは、概念がないということだ。つまり、「空」「太陽」「東」「西」「昇る」「沈む」と言ったようなことすべてが、分離したものとして捉えられないということではないか。一枚の抽象画を見ているかのように、その絵の中に区別すべき何かを見いだせない、という状態にあるのではないか。

言葉がなければ、目の前にどんな存在があっても抽象画のように見えてしまうとしたら、それは「世界が存在しない」ことと同じなのではないか。大げさかもしれないが、そうなるのではないかと思う。僕たちは、言葉を知っているから、目の前の光景を抽象的なものとしてではなく、個々の意味のある物質や概念の総体として捉えることが出来る。そんな風に、物質や概念の総体として世界が立ち上がることになる。ということは、言葉こそが世界を立ち上げているということになりはしないか?

僕が好きな話がある。このブログでも様々なところで書いた記憶があるが、フランス語では「蛾」と「蝶」を区別せずに、どちらも「パピヨン」と呼ぶ。つまり、フランス語を喋る人間には「パピヨン」として見えているものを、僕ら日本人は「蛾」と「蝶」という別々のものとして捉えることになる。虹の色は、日本では七色だが、外国では国ごとにまちまちだ。まったく同じものを見ているはずなのに、言葉が目の前にある存在の捉え方を変えている、ということがこれらの例から分かるだろう。「パピヨン」とまとめて捉えようが、「蛾」と「蝶」として区別して捉えようが、世界の立ち上がり方は大きく変わりはしないが、世界の捉え方が大きく変わる言葉もある。例えば、「空気」という言葉が生まれるまで、人間は自分たちが「空気」の中にいることに気づかなかったはずだ。「空気」という言葉が生まれたことで、僕たちは初めて「空気」の存在に気付くことが出来る。「空気」という言葉が出来る前に「空気」の存在に気付くことが出来た者(ラボアジェっていう科学者だった気がする。それは「酸素」かな?)は、本当に凄いと思う。

最近、「メッセージ」という映画を見た。この話も、言語を扱う物語だった。ネタバレになるようなことは書かないが、とある特殊な言語体系を持つ異星人の存在が、物語に大きく関係してくる。言語が世界そのものを変える力を持ちうるのだ、ということが鮮やかに示される物語だった。

言葉によって世界が立ち上がるとすれば、言葉に対する感覚が鋭敏であればあるほど、世界をよりクリアに見ることが出来る、ということだろうと思う。言葉に対する感覚が鈍い者も、日常生活に支障を来すことはないだろう。視力の悪い人間が、それでも日常生活を送れてしまうのと同じだ。しかしそういう視力の悪い人間がある日、眼鏡を掛けたら驚くだろう。今まで自分が見ていた世界がなんてぼやけていたのか、ということが一瞬で理解出来ることだろう。同じことが、言葉の鋭敏さについても言えるはずだ。言葉の鋭敏さは、眼鏡を掛けるようには一瞬では強くはならないだろうが、もしそんな魔法のような状況が存在すれば、自分がいかにぼやけた世界の中で生きていたのかが分かるだろう。

言葉の鋭敏さを持ち、世界をクリアに認識出来るようになればなるほど、僕にとっての人間的な魅力は増す。僕には、そういう感覚がある。言葉の鋭敏さの強い人は、やはり普段から見ているものが全然違う。それは、言葉に対する感覚の鈍い人とは、本当に雲泥の差があると感じられる。フランス人を悪く言う意図はまったくないが、言語に対する感覚が鈍い人は、「蛾」と「蝶」が同じに見えるフランス人のようなものだろう(たまたま今回の例ではこうだっただけで、フランス語の方が日本語より捉え方が細分化されているという事例も当然あるだろう)。同じものを見ていても、言語の鋭敏さの程度によって世界は違う捉えられ方をする。そしてそのことは、ある程度以上言葉の鋭敏さを有している人間でないとなかなか気づけないのだ。

平山瑞穂は、言葉の鋭敏さが非常に強い人だと感じる。本書の主人公は、伊豆浜という小説家であり、そんな伊豆浜が蒼井という編集者との会話で多大な違和感を表明する場面があるが、本書の中で蒼井こそが、言葉の鋭敏さが弱い人間として描かれる。そして、そんな蒼井に対する伊豆浜の苛立ちが、僕にはよく理解できる。小説の登場人物と作者を安易に重ねるべきではないと思うのだが、恐らく伊豆浜の蒼井に対する感覚は、著者の平山瑞穂自身の感覚でもあるのではないか、と思う。

言葉の鋭敏さが強いことは、決して良いことばかりではない。見える必要がないものまで見えてしまうこともある。通常紫外線や赤外線は目には見えないが、言葉の鋭敏さが強くなればなるほど、そういう見えないはずのものが見えてくるようになる、ということでもあるのだ(まあ、どれだけ言葉の鋭敏さが強くなっても、紫外線や赤外線は見えないと思うけど)。

本書は、「言葉」というものが一つ大きな要素となっている。不可思議な日本語を操る人物が登場するのだが、言語によって世界の見え方が変わるとすれば、彼らにはどんな風に目の前の物事が見えているのか、非常に興味深い。

内容に入ろうと思います。
小説家の伊豆浜亮平は、ここ5年間ヒットに恵まれることもなく、世間から忘れ去られているばかりか、担当編集者からも新作が特に期待されていないと思われる、そんな小説家だ。もちろん、それでは生きていけないので、伊豆浜は濱田出雲という別のペンネームでフリーライターの仕事も請け負っている。「週刊レディー」という女性週刊誌の仕事で、芸能ネタと、「作家にアタック!」という小説家を取り上げるコーナーだけは勘弁してもらっているが、それ以外ならどんな仕事も引き受けてきた。小説を書く際には、言葉に対する細部のこだわり、小説を生み出す際の緻密な思考があるのだが、フリーライターとしては、求められている文章を求められているように完成させるという職人に徹することにしている。
ある日、書き下ろしの小説の原稿に行き詰まっている時(大体常に行き詰まっているのだが)、「週刊レディー」の担当編集者である蒼井から、「鍵盤王子」と呼ばれている美貌の男性ピアニスト・荻須晶の取材を依頼された。海外を拠点に活動をしており、日本での知名度はほとんどなかったが、何年か前に出た携帯電話のCMで大ブレイクし、女性週刊誌ではよく取り上げられる存在になった。もちろん伊豆浜は荻須には全然詳しくなかったが、通り一遍の情報だけさらって取材に出向いた。
荻須は、インタビューから受ける印象とはまるで違っていた。「王子」と呼ばれるような存在ではなく、父親をけなしたり、ピアノを教えてくれた人をこきおろしたりと散々な言い草だった。しかしそれも、露悪的に振る舞っているというわけではなく、思ったことを素直に口に出しているだけだと見受けられた。外国暮らしが長かったからだろうか、社交辞令的なやり取りはほとんど通じず、言葉にしたことがすべて、というような人物だった。普通なら失礼に感じるようなやり取りもあったが、伊豆浜は何故かこの荻須という男に惹かれる部分を感じていた。
そんな荻須から、別荘に誘われた。確かにインタビューの後の食事の際、そんな話が出た。しかし伊豆浜としては当然、社交辞令的な返答だった。荻須からすれば、伊豆浜が別荘にやってくることは規定事項だったようで、とはいえそういう場は得意ではない。伊豆浜は、以前から付き合いがあり、恋人と呼んでいいのかわからないが時折体の関係もある白石もえを伴って、荻須の別荘を訪れたのだった。
しかしそこで伊豆浜は、奇妙な喋り方をする女性と出会う。
「社宅にヒきに行っている人とその恋人の方ですね。ラクゴはミています」
さっぱり理解できなかった。そして、この女性との邂逅が、伊豆浜を奇妙な現実へと引きずり出して行くことになるのだが…。
というような話です。

面白かったなぁ。実にヘンな物語で、グイグイ惹き込まれた。

物語の冒頭からしばらくは、ごくごく普通に進んでいく。とある作家が、ピアニストのインタビューを担当し、そのピアニストに別荘に誘われるぐらいまでは、ごく普通だ。伊豆浜亮平という人物が、物事や言葉の細部にちょっと厳しくて、それによって伊豆浜のレンズを通した世界の見え方はちょっとずつ歪んでいくんだけど、とはいえそれは、そこまで大きな違和感としては認識されない。物語は、ある程度普通の領域で展開されていく。

しかし、荻須晶の姉の登場により、徐々に違和感は増していく。一気に、畳み掛けるようにして違和感が増大するわけではない。あくまでも、少しずつ少しずつ違和感がましていく。読者は、自分がいつこんな深みに嵌まったのか理解できないまま、いつしか大きな穴に落ち込んでいるのである。

そして、その穴に嵌まり込んでみると、平山瑞穂が少しずつ積み上げてきた物語の世界観が、非常に緻密に作りあげられてきたのだということが分かる。

その一つの効果として見事に機能しているのが、作中作である「さなぎの宿」である。伊豆浜が書き下ろしの小説として書き進めている作品で、不倫関係を指摘された女が失踪し、その女を探す過程で男が奇妙な世界へと足を踏み入れていく、という物語だ。伊豆浜は、荻須のインタビューから向こう、様々な経験をするが、その間中、暇さえあればこの「さなぎの宿」の原稿を書いている。そしてその原稿の一部が、「ルドヴィカがいる」の中にも引用されるような形で登場するのだ。

初め、この二つの物語は、まったく別物として登場する。しかし、作中作が登場する常であるように、この作中作は本編と絡まり合っていく。しかし、この絡まり合い方が実に奇妙で、そこが本書の読みどころの一つでもある。陳腐な例だが、まるでウロボロスの蛇であるかのように、いつの間にか自分自身が呑み込まれてしまっているというような、そういう不可思議な展開になっていくのだ。伊豆浜が生みだした「現実」と、平山瑞穂が生みだした「現実」が干渉し合い、まるで伊豆浜にも平山瑞穂にも制御不能になっているかのような、そんな不可思議な錯覚を抱かせる作品でもある。

僕は、作品のタイプにもよるが、出来るだけ物語は合理的に閉じてほしいと思ってしまうタイプの人間だ。SFやファンタジーならともかく、そういう超越的な世界観を前提としない世界では、出来るだけ物語全体は合理的に閉じて欲しいというのが基本的な願望だ(100%ではないが)。普段の僕であれば、この作品にもそういう合理的な結末を望んだだろう。物語の始まりからしばらくの間は、そういう超越的な設定を必要としない世界観で話が進んでいくのだから。しかし、本作を読み終えて今、僕には特に不快感はないし、実に清々しい。合理的、とはとても言えない終わり方をするにも関わらず、それが至極当然の結末であるかのように受け入れている。平山瑞穂が構築する世界観が強固だからだろう、と僕は考えている。

平山瑞穂の作品は、どうもその良さをうまく言葉で伝えにくいものが多い。デビュー作の「ラス・マンチャス通信」などはその最たるもので、あの妖しげな魅惑はなかなか伝えられるものではない。本作にも、そういう妖しさがちょっと漂っている。そういう雰囲気の似合う作家なのである。

平山瑞穂「ルドヴィカがいる」

ふたつのしるし(宮下奈都)

やっぱり宮下奈都はいいなぁ。
素晴らしい。

昔の僕は、きちんと生きているように見える人のことを、羨ましいとずっと思っていた。みんなに好かれ、何事も努力し、分け隔てなく人と接する。そこまで聖人君子みたいな人でなくても、あぁきちんと生きてるなぁ、と感じられる人というのはどこにでもいて、そういう人を見ると、なんで自分はあんな風にいられないんだろう、なんて思っていた。

でも、大人になるに連れて、そういう人も色んなものを抱えているんだなぁ、ということが分かってくるようになる。きちんと生きているように見えても、それは水面上の白鳥の姿のようなもので、水面下では足をばたつかせながら生きているんだ、みたいなことが分かるようになってきた。

そういうことを、もっと子どもの頃に気づけていたら、色んなことがもっと楽だったんだろうなぁ、という感じはする。

『ぜんぜんちがう。思っていた中学生活とぜんぜんちがう。もっとほんとうのことに近づいてもいいんだと思っていた。うれしいことにも、悲しいことにも、いっぱい揺さぶられながら生きていくんだと思っていた。できるだけ揺さぶられないように、揺さぶられてもそれを気取られないように、縮こまって縮こまって息をしている。
誰がこの空気をつくっているの?誰がこの空気を打ち破ってくれるの?誰が私をここから掬い上げてくれるの?
遥名は口に出さずにそう思った。学校にいると息苦しい。卒業するまでこんな日々がずっと続くんだろうか』

僕も、学生時代はずっと息苦しかった。周りに合わせなきゃ、とずっと思っていて、でも何に合わせたらいいんだか全然掴めなかった。歌人の穂村弘も、エッセイの中で同じことを書いていた。自分には分からないルールが、他の人には当然のものとして理解されているようだ、というような違和感をどこでも覚えてしまうらしい。わかる。僕も、その通りだ。そうやって、その場のルールを違和感なく察知出来る人間が、日常を動かしていくんだなぁ、という感じだ。

『遥名も型が欲しい。今必要なものがどの型か、ひと目でわかればどんなに助かるだろう』

結局、色んなことがよく分からないまんま生きていくしかない。そして、大事なことは、実はほとんどの人がそういう苦しさみたいなものを感じている、ということなんだろうと思うのだ。その場のルールが分かっているように思える人であっても、その大半はよく分からないまま振る舞っているのではないか。僕は、そんな風に感じるようになった。ごくごく一部の、その場のルールを支配している人間がいるだけで、後の人は何がなんだかよく分かっていないのではないかと。

今の僕から考えると、昔の僕がそういうなんだかよく分からないものに振り回されていたのは、馬鹿らしく思える。もし、今の脳みそのまま小学生に戻ることが出来たら、僕はハルに近い振る舞いが出来るのではないかと思う。

『ハルの心は常にそのへんを漂っていて、たまにカチッとピントが合ったときにだけ身体に返ってくる』

ハルの振る舞いは、今の僕には凄く羨ましく感じられる。ハルにとっては、自分の周りの世界や、その世界に根ざしているルールなどどうでもいい。そこに関わらなければならない、という理解がない。自分を動かす衝動が、自分自身の内側からしか湧いてこない、という生き方は、周囲との怖ろしいまでの摩擦を生む。しかし、とても自由だ。

自分の行動を自由にするために自分の心に制約を加えるか、自分の心を自由にするために自分の行動に制約を加えるか。まったく対象的な生き方をしてきた二人を対比的に描き出しながら、立ち止まりながら生きていくことの大事さを描き出す筆力はさすがだ。

内容に入ろうと思います。
柏木温之(ハル)は、幼稚園から「来ないで欲しい」と言われるぐらい、協調性の欠片もない不器用な子どもだった。自分がその場にいること、そしてその場の様々な暗黙の了解に従わなければならないことが理解できなかった。自分に向けられた言葉も、自分に向けられた視線も、ハルにとっては何の意味も持たないものだった。だからずっと、自分が何故怒鳴られたり怒られたりするのか、理解出来ないでいた。
学校には通った。でも、自分が学校にいる意味はよく分からなかった。勉強は、全然出来なかった。ハルの振る舞いに凄みを感じた同級生の健太がハルの宿題を勝手にやってあげたら、そのせいでハルが怒られたこともあった。健太は、自分がこれほどに高く評価しているハルが怒られているのを見るのが苦痛だった。
母親の死をきっかけにして、ハルは家を出た。目的はなかった。どうするつもりもなかった。地図が好きだったから、行けるところまで行こうと考えていた。ふとした出会いから、ハルは錨を見つけたかのようにそこに人生の根を下ろすようになる。
大野遥名は人生をそつなくこなしてきた。頭は良かったが、学校では馬鹿っぽく振る舞った。当たり障りのない反応を返し、その場の雰囲気を瞬時に察して自分の行動を決めた。息苦しさを感じていたけど、そうやって生きていく以外、自分に選択肢はないと思っていた。
地方から勢いをつけて東京の大学に出てきたつもりだった。東京に出さえすれば、翼でも生えるのではないかと思っていた。そんなことはなかった。結局、どこにいても、自分がうまく馴染めないでいることを確認するような毎日でしかなかった。
出会いもあるにはあった。心はときめくが、ときめくばかりもいられない出会いだ。そういう経験を積み重ねた果てに、
二人はあの日を迎える。
というような話です。

やっぱり宮下奈都は上手いと思う。とにかく、人間の輪郭をとても丁寧に描き出していく。よく宮下奈都の小説を読むと、「ストーリーらしいストーリーはないのに読まされてしまう」と感じる。本作も同じだった。確かに、ハルや遥名の人生には、ところどころ大きな出来事が起こりはする。しかし、物語の大半は、自分の半径5メートルぐらいの間の範囲内で、普通に起こってもおかしくはないような、そういう平凡な日常で組み立てられている。それなのに、味わい深く読ませる。いつも思うが、これは宮下奈都のマジックだなと思う。

ハルも遥名も、いちいち色んなことに引っかかりながら生きている。世の中にはたぶん、そんな引っ掛かりを感じずに生きていける人もいるのだろうとは思う。周囲の振る舞いへの違和感だとか、自分の存在への納得できない感じとか、そういうことをまったく感じないままいられる人もいるのだろう。

けれども、多くの人はたぶんそうじゃない。何らかの違和感を覚えてしまう。しかし、それを言語化出来る人もそう多くはないのだ。自分が何らかの違和感を持っていることは気付いているが、それが何なのかをはっきり説明するには、高度な言語化力が必要だ。それは、ある種の才能である。

ハルも遥名も、その言語化力を持っている。というか、宮下奈都の小説の主人公は大体そういう言語化力を持っている。そして、そういう言語化力があるからこそ悩むのだ。

『かわいいとか、すごいとか、素敵だとか、そのひとことで済ませてしまうのは思考停止だと遥名は思う』

凄く共感できる一文だが、でも、正直なところ、こんなこと考えなければもう少し楽にいられるのだ。別に誰かから、「かわいい、なんて使うの、考えてない証拠だよ」なんて言われるわけでもない。ただ自分でそう律しているだけなのだ。でも、そういう言語化力のある人間には、そういう思考を止めることが難しい。宮下奈都の小説に出てくる人物は、こういう思考にぐるぐると絡め取られながら、日常の中で踏ん張っていきている印象がある。

ハルと遥名の人生は、ほとんどすれ違うことがない。まったく別の人生を歩んでいるのだ。しかしある日、唐突に交わる。恐らく、普通なら交わることのなかった線が、あり得ない瞬間に交わった。遥名は学生の頃、「矢がどこへ飛んでいくかは、弓から放たれた瞬間に決まってしまっている」と言われた。あるいは、こうなることは、あらかじめ決まっていたのかもしれない。

後半、どんな風に物語が展開するのかあまり触れたくないので、ぼやぼやっと書くのだけど、最終章が実に良い。タイトルの意味も、最終章でより開けていく感じがするし、親友について語る健太の眼差しがとてもいい。まさか、物語の初めで出てきたあの話が最後に繋がるとは思っていなかったし、最後の「生い立ちの記」の文章も書き手の才気も素晴らしい。

本当に、良い物語を読んだなぁ、という気分に浸れる小説なのだ。

宮下奈都「ふたつのしるし」

さくらんぼ同盟(松宮宏)

ホントに、この松宮宏って作家は何者なんだろうなぁ。
出す本出す本、全部面白い。
正直言って、物語に中身があるのかっていうと、全然ない。最初から最後まで馬鹿馬鹿しさ全開の作品なのだ。
ただ、だからと言って侮ってはいけない。
馬鹿馬鹿しい物語で、いかに読者を引っ張るのが難しいのかということが、僕は分かっているつもりだから、そういう意味で本当に驚かされる。

この小説も、「腋から謎の物質が摘出される奇病が板橋で頻発するんだけど、その謎の物質が超絶美味で、“さくらんぼ”と名付けられ、日本中を大混乱に陥れる」っていうだけの話なんです。たぶん、この紹介だけ読んでも、意味不明だろうと思います。いや、正直、読んだって、意味不明なんです。なんで腋から“さくらんぼ”が出て来るのか、そしてそれが何故超絶美味なのか、ということが一切不明のまま、そんなこと当たり前のことでしょ?とでも言わんばかりにスイスイと物語が展開していってしまう。よくわかんねーなー、とか思いながら、でも場面場面の描写が絶妙に面白いんだよなぁ、だからうっかり読まされてしまう。ずーっとそんな感じで、最後まで読まされてしまうんだよなぁ。

とにかく、物語の展開のさせかたがべらぼうにうまい。ホントにこの著者は何者なんだ!って読みながらずっと考えてしまうような、そんなぶっ飛んだ小説です。

内容に入ろうと思います。

日本中を大混乱に陥れた“さくらんぼ”の発端は、死体が生き返ったという衝撃的な出来事から始まる。
板橋総合医療センターに、一人の患者が救急搬送されてきた。いや、搬送される前、その患者は死んでいた。同病院の心臓外科医である土居医師が死亡を確認したのだ。間違えるはずがない。しかし今患者は、体中を跳ね上がらせて大暴れしている。原因は不明だが、とにかく腋を痛がっているようだ。担当した整形外科医の永積惇史が全身麻酔をして切ってみると、壮絶な悪臭と共に、プリッとした弾力のある異物が腋から摘出された。その見た目から“さくらんぼ”と名付けられた異物を取り出したら、患者は急に元気になった。よくわからないが、とりあえず一件落着である。
しかし、またも同じような症状の患者が板橋病院に運び込まれてきた。幸か不幸か、またも惇史が担当することになった。やはり“さくらんぼ”が摘出されたのだが、前回と違ったのは、その“さくらんぼ”を、看護師の渡辺が食べてしまったのだ。
渡辺が“さくらんぼ”を「この世のものとは思えない味わい」と評したお陰で、世界中が熱狂することになった。その熱狂を受けて、“さくらんぼ”の売買を仲介すると宣言する弁護士が登場、彼の音頭で始まった“さくらんぼ”争奪戦には、なんと3億円という大金が投じられることになった。仲介料を除き、次に“さくらんぼ”を体内に宿した者は2億4000万円が手に入ることが確実になったのだ。このことが世間を熱狂させることになる。
この“さくらんぼ”騒動に関わることになる人物は多々いるが、二人紹介しよう。一人は、<うちでの小槌>という消費者金融で大成功を収め、現在は若者向けのエンジェル投資家である薮内久世治郎。もう一人は、警視庁を定年で退職した後、生来の人の良さから近所の揉め事を解決する探偵事務所を開設することになった小渕岩男だ。久世治郎は、金に糸目をつけない美食家であり、またその内側に狂気を宿すサイコパスでもある。一方で岩男は、キャリアである警視庁の刑事部長と今でも昵懇の仲であり、警察が処理しきれない重大案件を任されることになる。
彼らは一体、どんな大騒動に巻き込まれることになるのか…。
というような話です。

この内容紹介を読むだけでも、相当にぶっ飛んだ小説だということは分かるだろうと思います。ただ、読めば、もっと驚くでしょう。それぐらい、先の展開がまるで予測できない物語です。

松宮宏が凄いのは、物語全体の展開はアホアホしいのに、登場人物の来歴や背景なんかは実に緻密に描き出すところです。どこからそんな知識を引っ張ってくるんだってぐらい、登場人物を描き出す際の知識が多様で面白い。登場人物の来歴や背景も、びっくりするくらい無茶苦茶で、例えば一例を挙げると、「たとえ微量でも赤外線に触れると失神してしまう女性」なんてのが出てきます。いや、正直、あり得ないでしょう、そんなこと。だけど、そんな背景を持つ人間が、結構わんさか出て来る。それでリアリティなんて生み出せるのか?と思うかもしれないけど、松宮宏の描写にはなんというか、妙なリアリティがあるんだよなぁ。松宮宏は、起こり得ないことを、妙なリアリティを持って描き出すことで、独特の雰囲気を小説に与えることに成功していると思います。

正直、“さくらんぼ”がどんな奇病だろうが、“さくらんぼ”がどれほど美味だろうが、久世治郎や岩男がどんな目的で動いているのか、なんてことは、どうでもいいっちゃどうでもいいんです。別に、それらを追うことで、世界の問題が解決するわけでも、人間の悩みが解消されるわけでもないんです。ただ、単純に純粋にべらぼうに面白い、というだけなんです。物語に深い意味合いや高尚性みたいなものを付属させずに、純粋に「面白さ」だけを追求した作品って、本当に久しぶりに読んだような気がします。

読んでも正直、何も残らないでしょう。けど、読んでいる間、無茶苦茶面白いです。荒唐無稽さを、リアリティたっぷりの筆致で描き出す、なんとも言えない妙な雰囲気を醸し出すこの作品を、是非読んでみてください。ホントに面白い!

松宮宏「さくらんぼ同盟」

ビートルズを呼んだ男(野地秩嘉)

内容に入ろうと思います。
本書は、ビートルズの初の日本公演の開催を実現させ、日本のみならず海外の音楽業界で絶大な信頼を得ている永島達司を中心に、日本の戦後や音楽業界の変遷、ビートルズ来日の際の混乱ぶり、永島以外の呼び屋など、様々なことが描かれていく作品だ。
著者は、この本の執筆のために、ロンドンに住むポール・マッカトニーにも取材を行っている。

『其の都市の春に長年連れ添った妻、リンダを亡くしたポールは、一切の仕事を止めロンドン郊外の自宅に引きこもった。散歩することすら稀で、一日のほとんどの時間を家の中で過ごしていた。もちろん、沈黙を守りインタビューを受けることもない』

著者がポール・マッカトニーを訪れた時の状況は、そういうものだった。

『ところが「永島達司とビートルズ来日公演について話を聞きたい」という私のFAXには「OK」の返事が来た
「タツ(永島達司のニックネーム)のためならいくらでも質問に答えよう」
彼はインタビューに何の条件もつけず、会う場所と時間だけを知らせてきた。
妻を亡くした悲しみのため友人との面会さえ拒んでいるポール・マッカトニーがそこまで信頼し、敬愛する男、永島達司は音楽プロモーターである』

このエピソードだけで、永島達司という男がどれほどの信頼を勝ち得ているか分かろうというものだ。

永島は、親の仕事の都合で幼い頃から海外で過ごし、『タツの英語はエリザベス女王みたいだ』と評されるほど完璧で上品な英語を話したという。その英語力を見込まれ、第二次世界大戦後、永島は進駐軍の将校クラブの支配人になった。そこから、海外ミュージシャンを日本へと呼ぶ仕事をするようになり、やがて「呼び屋」と呼ばれるようになっていくのだ。

『この用に永島が嫌気が差す理由はいくつかあったのだが、もっとも大きな問題はみずら化の職業に自信が持てないことだった。彼にとって興行とはあくまでも怪しくてうさん臭い人間のやることだった。そのため、他人に職業を尋ねられても、堂々と名乗ることができなかった。』

『当時の二大人気歌手を抱えたプロダクションの社長なのに、彼は「これは男子一生のしごとではない」という思いに取りつかれていた。父親は三菱銀行の重役として日本の戦後復興に力を尽くしていた。早稲田大学の友人たちもそれぞれの持ち場で日本の人々のために外貨を稼いでいた。それに比べて収入こそ多いものの、自分の仕事は国家の発展に直接、寄与しているものではない。永島は芸能の仕事に対するコンプレックスを取り払うことができなかった』

ビートルズを呼ぶ以前から、永島の評判は音楽業界では知れ渡っていた。それは国内のみならず、である。永島と同時代には、他にも神彰や樋口玖など名を馳せた「呼び屋」がいた。自己顕示欲の強かった彼らとは違い、永島は自分の名前がなるべく表に出ないように気を配っていたので、一般にはあまり知られていないが、やはり同時代の「呼び屋」の中では圧倒的な存在感だったようだ。

後年、こんなことがあったという。モハメド・アリを呼んだ康芳夫という呼び屋が、イギリスのトップシンガーであるトム・ジョーンズの招聘を目指すことにした。しかし、呼び屋に変わってプロモーターの仕事をするようになった広告代理店には、康の存在が気に食わない。

『広告代理店のやつらはみんな僕のことが嫌いらしくて、トム・ジョーンズを呼ぶとぶちあげたとたんに「康をつぶせ」と圧力をかけてきたんだ。その時だよ。永島さんが出てきて、「康さんがやるならいいじゃないか」と説得してくれたのは。永島さんのひとことでぴたっと嫌がらせが止まった。彼だって競合してたはずなんだけど、譲ってくれた。僕は永島さんに一対一でお目にかからなかったんだが、あの時どうして僕を守ってくれたのかがよくわからない。しかし、偉い人だな、と敬意を払ってる』

永島が「世界一のプロモーター」と評したジェリー・ペレンチオは、『ギャラを値切らない男といえばこの世界ではタツ・ナガシマのことを指すんだ』と言い、著者は永島の仕事を『永島達司が一生かかってやってきたこととは、立派な日本人の姿を世界に示すことだった』と評している。他の呼び屋と一線を画す、本当にアーティストのことを考えて仕事をした男でした。「呼び屋」という自分の仕事に対する違和感は拭えないままだったが、日本に来て良かった、また来たいと思ってもらえるようにもてなす精神は素晴らしいと思う。

そんな永島は、ビートルズをどのように呼んだのか。これは、ちょっと想像していなかったような展開でした。

『樋口、康にかぎらず、当時の呼び屋の大半はビートルズの来日公演を夢に見ていた。しかし、ひとり永島だけは競争に加わるつもりもなかった。彼は大物狙いなど考えず、若者たちが聴きたがっているミュージシャンを調べ、それを呼ぶという単純な仕事に徹するようになっていたのだった。』

永島は、ビートルズを積極的に呼ぼうとは考えていなかった。しかし、1966年3月14日の電話がすべてを変える。ビートルズのツアーマネージャーであるビック・ルイスから電話が掛かってきたのだ。

『実はビートルズが日本に行きたいと言っている。コンサートをやってくれないか。俺が知ってる日本人はお前しかない。どうだ、お前、やってくれないか?』

ビック・ルイスと永島達司は、小学校の同級生だったのだ。それが、ビートルズを呼ぶという歴史的な仕事に繋がることになる。

しかし、電話を受けた永島の心中はこうだった。

『できればやりたくない』

どこまでも、他の呼び屋とは違いすぎる男の生涯である。

なかなか面白い作品でした。本書のタイトルは「ビートルズを呼んだ男」となっていて、確かに永島達司という人物が物語の中心にいるんだけど、決してそれだけの物語ではない。その時代を、音楽というキーワードで切り取った作品という感じがしました。

僕自身は、音楽はほとんど聞かないし、特別興味もない。ライブに行ったこともないし、何かに熱狂した経験もないので、ビートルズの何が良くて、どう凄いのかよく分からないし、作中に登場するビートルズ以外のアーティストの名前の大半を聞いたことがない。そういう意味では、僕からは遠い物語ではある。とはいえ、広告代理店ではなく一介の個人が「呼び屋」として海外からアーティストを引っ張ってこれたり、芸能と暴力団が不可分だったりというような、色んなことがまだ洗練されていなかった時代のゴタゴタした感じというのは結構好きで、そういう部分は面白かった。

本書で描かれているエピソードだけでも、ビートルズがどれだけの狂熱を生みだしたのかということが分かる。

『脚の一本くらい折れてもいいから客席から飛び降りて舞台に行ってキスしたい』

『なかのひとりがすーっと近寄ってきて、おじさんの名前と住所を教えてくれ、おじさんの言うことを何でも聞くからビートルズが触ったものをひとつ持ってきてくれ』

『そして、彼らの車が通り過ぎて規制を解くでしょう、すると、うわっと女の子たちが車道に走り出してきて、道路に残った車のわだちに一斉にキスし始めるんだ』

凄まじいですね。警察や消防は、とんでもない人数を借り出して武道館の警備を敷いたのだが、これほどの警備計画は後にも先にもなかったようです。

時代を一変させた「ビートルズ」というアーティスト。そして彼を日本に呼ぶきっかけを作り出した永島達司。現代では通用しないだろう形での信頼関係で結ばれた彼らの関わりを描き出していく作品だ。スケールのでかい男である。

野地秩嘉「ビートルズを呼んだ男」

スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか(池谷孝司)

『教師の仕事は好きでした。でも、根本的なところで間違っていました。自分が権力を持っているなんて考えもしませんでした』

小学4年生の生徒へのセクハラで執行猶予付きの判決を下された元教師が、そう語る場面があった。本書の中で、僕が一番驚いた発想だ。

『「私は生徒の目線に立って指導しています」と言う先生は多い。「でも、あなたに権力があるのは歴然としている」と私(※本書に登場する、スクールセクハラの解決に専門的に取り組むNPO代表の亀井さん)は指摘します。進学のための内申書を付け、部活動の選手を選ぶのだから、と。そう言われて初めて自分の権力に気付く人が多いんです』

これには、本当に驚かされた。自分に権力がある、という発想がなければ、そりゃあわいせつやセクハラや体罰はなくならないわな、と物凄く納得した。

とはいえ、そう言っている僕にしても、自分が持つ権力みたいなものに気づけたのは、偶然によるところが大きい(ちなみに、僕は教師ではない。ここで言う権力というのは、先輩後輩のような上下関係が発生しうるすべての場で存在しうるものだ)。

僕は小売店で働いているが、その中には大雑把に分けて「社員」と「アルバイト」がいる。そしてそのアルバイトも、入った順番で先輩・後輩がある。あまり上とか下とかいう表現は好きではないのだけど、僕は、自分より下の立場の人間と関わる時、「自分が恐れられている可能性」を常に考慮に入れている。立場に差があるからだ。

昔から、そういう発想を持てていたわけではない。僕がそういう風に考えるようになったのは、女子会に混じるようになってからだ。

僕は何故か、大勢の女子に僕一人だけ男、という飲み会によく呼ばれることがあった。僕はそういう場で男扱いされないので、女子会のように(男の僕がいるから完全には女子会にならないにせよ)女子たちは話をする。その中で、僕は何度も驚かされることになった。女子たちが、同じ職場で働いている自分よりも立場が上の男たちを、ボロクソに罵っていたのだ。驚いたのは、罵っているという事実に対してではない。普段の振る舞いを見る限りでは、彼らは非常に仲良さげに見えていたからだ。少なくとも僕の目には、彼らの間のわだかまりを、彼らのやり取りから感じることは出来なかった。だからこそ、陰でボロクソに罵っているのを聞いて驚いたのだ。

僕は、女子会に紛れ込むことで、そういう経験を何度もした。恐らく、僕もどこかでそんな風に罵られていることがあるだろう、と想像した。僕自身に対する女性の振る舞いだけからは、自分に対する嫌悪には気づけないだろう、と判断した。

そうやって僕は、立場が下の女性が、上の人間に対して表向きどう振る舞い、裏でどう振る舞っているのかを理解していった。そして、女性がそういう振る舞いをしなければならないのには、立場の差による権力の存在があるのだ、ということを理解できるようになっていった。

女子会に紛れ込む経験をしていなければ、もしかしたら今も気づいていなかったかもしれない。自分に権力があるなどとは微塵も考えずに、相手の振る舞いをそのまま真に受けて、相手が嫌悪する行動を無自覚の内にとってしまっていたかもしれない。

そんな風にしてイメージしていくと、冒頭に挙げた教師の言葉も、まったく理解できないものではなくなってくるようにも思う。

『二十五年の教師生活で誰も教えてくれませんでした。他の教師はみんな分かっているのかというと、そんなことはないと思います』

自分が持つ権力に気づいた今の僕の頭では、この教師の言っていることは言い訳じみて聞こえるが、自分が持つ権力に気づけなかった可能性のことを考えると、単純にこの教師を責めるのも酷に思える。もちろん、彼がしたことは許されるべきではないが、本書でもそう書かれているように、スクールセクハラは個人の問題ではなく組織の構造的な問題なのだろう、と感じる。

『裁判で鈴木(※仮名です)が一番ショックだったのは「教師の権力を使って教え子を思い通りにした」と言われたことだという。学校で教師が権力を持つ存在だという意識はまるでなかった』

もちろん、悪いたくらみを持って教師になる者もいるだろう。そういう人間を採用の段階で排除する仕組みを作るのは非常に困難だし、なかなか防ぎようはないだろう。しかしもし、真面目に教育する意志を持って教師になったのに、「自分が権力者である自覚がないこと」によってスクールセクハラの加害者になってしまっている者も多いのだとすれば、それは教師への教育で改善出来る可能性があるはずだ。『自分が意識していなくても、教師と子どもは権力関係にあることを大学でも研修でもきちんと教えるべきです』という指摘は、最もすぎるほど最もだ。

僕は、自分が権力を持っていることを普段から自覚し、それが関係性においてなるべく障害にならないような振る舞いをしようと心がけている。自分のやっていることがうまくいっているのかどうかは永久に確認しようがないのだが(女性の表向きの振る舞いからでは自分に対する悪意を感じ取ることは不可能、という前提なので)、権力を持っているものの発言がどう受け取られる可能性があるか、ということは常に自覚的でありたい、と思っている。

内容に入ろうと思います。
本書は、共同通信の記者である著者が、「スクールセクハラ」と名付けた学校におけるわいせつ被害を深く取材し、それを「届かない悲鳴―学校だから起きたこと」という題で全国の新聞社に配信した連載企画に大幅加筆して書籍化した作品だ。

本書では、随所に著者の「スクールセクハラ」に対する問題意識が描かれている。

『文部科学省によると、1990年度にわいせつ行為で懲戒免職になった公立小中学校の教師はわずか3人だった。ところが、過去最悪となった2012年度には、なんと40倍の119人に達している。(中略)急に教師の質が落ちるはずはなく、見過ごされてきたのが厳しく処分されるようになっただけだ』

『性暴力は「魂の殺人」といわれる』と書く著者は、被害者の取材を通じて、スクールセクハラが許容されていいはずがない、と憤る。そんな著者の憤りが、様々な困難のある取材に邁進させるのだ。

難しい点の一つは、被害者が表に出たがらないことだ。被害者の多くは、親にもそのことを話せていない。そんな話を、男である著者が聞き出さなければならない。よほどの信頼関係がなければ難しいだろう。後でも触れるだろうが、スクールセクハラには二次被害が付き物だ。そうやって、二重三重に傷ついてきた者の心を開かせ、詳しい話を聞き出すという難しさがある。

また、さらに難しいのは、加害者側の話を聞きだすことだ。スクールセクハラは、ほとんどの場合密室で行われる。目撃者も証拠もない中で、加害者側の自白がどうしても必要とされる。被害者が勇気を振り絞って告発しても、学校の体質と、証拠が存在しないことで、被害者側が嘘つきにされるケースも少なくないのだ。

『高校時代の教師の性被害に遭った横山智子さん(※仮名です)の取材を進めながら、教師から教え子へのわいせつ問題を考える時、どうしても加害者への深い取材が必要だと私は考えるようになっていった。被害者の声を聞くことはなにより大切だ。耳を傾けることで被害者の心が癒される場合もある。ただ、最終的に問題解決や再発防止を考えるには、加害者側の状況を知る必要があった』

先程挙げた鈴木(※仮名)は、贖罪の気持ちから素直に取材を受けてくれたが、そうではない者もたくさんいる。そういう輩とどうやり取りをし、自白を引き出していくのか。著者は、使命感から、その困難な取材に立ち向かっていくのだ。

本書では、スクールセクハラは組織の問題であると指摘される。

『教師から教え子へのわいせつ行為に、教育関係者はよく「一部の不心得者が」と口にする。「大半の先生は真面目なのに」というわけだ。だが、亀井さんは「学校の構造的な問題」だと考えている』

本書を読むと、そのことがよく理解できる。そもそもが、「教師に権力があると感じていない者が多い」ということ自体も組織の問題だが、スクールセクハラの問題が浮上した際の学校の対応の酷さにも問題がある。それらを総称して「二次被害」と呼んでいる。

例えば、こんな信じがたいやり取りが載っている。

『抗議する親たちを前に、校長が三人の女子生徒に聞いた。
「君たちは先生にどうしてもらいたいんだ?」
「私たちの前から消えてほしいんです」
「先生にも奥さんや子どもがいる。辞めさせられたら、家族はどうする」
あまりに無責任な対応に、三人が一斉に叫んだ。
「それは私たちには関係ないことです」』

呆れて物が言えないとはこのことだ。何を言ってるんだ、という感じだろう。悪いことをしたから糾弾しているのだ。それなのに、悪いことをした側に立って、辞めさせられたら家族が困るだろう、などと言ってのける校長がいるとは。

こんな例もある。

『全国大会に出たような学校の指導者が問題を起こすと、保護者が応援団になってかばうケースは多い。「恩をあだで返すのか」「輝かしい実績に泥を塗るのか」。親たちは繰り返した。』

教師だけではなく、自分の子どもが被害に遭っていたかもしれない保護者までもが、悪質な教師を守るのだ。問題の根はとても深い。

『なぜ学校ではこうした二次被害が起きやすいのか。亀井さんはこう解説する。
「『あってはならないこと』だから『ない方がいい』。それが『なかったことにしよう』になってしまう。加害者が否定したら、学校や関係者の利害も一致して『先生が正しい。生徒が嘘をついた』とされやすいからです。いじめ自殺で、学校関係者が保身のために事実を隠すのと同じ構造です」』

悪意を持ってセクハラをする悪質な教師ももちろんいるだろうし、そういう人間に対しては個人の問題だと言っていいかもしれない。しかし、権力を行使している自覚のない者がセクハラと認定される行為をしてしまうことは組織の問題だし、さらに隠蔽体質になってしまうのも組織の問題だ。これは、個人で解決出来る問題ではない。スクールセクハラは、『あってはならないこと』という共通認識は共有出来るはずだ。であれば、そこからどうそれを実現していくのかを組織全体で真剣に考えなければならない。

『国連で1989年に採択された「子どもの権利条約」が、日本ではなかなか批准されなかった歴史がある。94年までずれ込み、日本は158番目の批准国になった。その背景を亀井さんが説明する。
「学校や大人に『子どもの権利』を守る意識が乏しいんです。権利ばかり主張して義務を果たさない人間になると困る、という本音が背景にあります」』

これは組織に限らず、社会全体の問題だと言えるだろう。大人が「子どもの権利」を守る意識がないという雰囲気は、学校だけでなく家庭でも醸成されるはずだ。解説を書いた小島慶子は、自身も子どもの頃、担任教師からセクハラを受けたと書き、自分の子どもたちには、自分の身は自分で守れるように意識してもらえるように常に言葉を掛けていると書く。日本人は、教師を絶対視しすぎるようにも感じられる。学校は教育の場ではあるが、やはり家庭こそが教育の中心地なのだ、ということを、改めて認識し直さなくてはいけないのではないか、とも思わされる作品だった。

池谷孝司「スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか」

オシムの言葉(木村元彦)

僕は、人の上に立つような人間にはなりたくないが、それでも、そういう立ち位置にならざるを得なくなったら、こうなりたいという理想はある。そして、イビツァ・オシムというサッカー監督は、僕のあらゆる理想を体現している人物だと感じる。

『監督に、最後の佐藤のシュートが残念でしたね、と聞いたんだよ。そうしたら、「シュートは外れる時もある。それよりもあの時間帯に、ボランチがあそこまで走っていたことをなぜ褒めてあげないのか」と言われたよ』

『2004年の仙台戦で勇人が2ゴールを決めた時、そのことについて会見で記者が質問すると、オシムは、
「ユウトが点を取ったのではなく、ジェフというチームが点を取ったのです」と切り返した。』

物事をどう捉え、評価するかという視点が非常にフラットだ。自分なりの軸がきちんとあり、それを揺るがせにしない。どんな立場の誰に対しても、自分の中にある基準に沿って対する。だから、かつてジェフ市原の得点王だったチェ・ヨンスに対しても、オシムは『守備をしないと、お前は使わない』と言うのだ。

『ただ、それより重要なのは、ミスをして叱っても使い続けるということだ』

『ミスした選手を使わないと、彼らは怖がってリスクを冒さなくなってしまう』

僕はマイナス思考の人間だから、これはとても良くわかる。ミスするというのは大体、チャレンジした結果であることが多い(日常生活でのことならともかく、本書で描かれているのはプロサッカー選手の話なのだから、余計そうだろう)。であれば、ミスしたことよりも、チャレンジしたことを褒めなければ、誰もチャレンジなどしないだろう。

『試合前、オシムはこう言って選手を送り出していた。
「守備路はJの中でナンバーワンのチーム。だから、そこに負けても恥ずかしいことはない。まずは、自分たちのサッカーを思い切ってやろう。負けてもいいから」
負けてもいい。
厳格な監督がホッと漏らしたその言葉が「優勝」という未体験の領域に挑もうとする選手を呪縛から解き放った』

技術や練習方法を教えるのだけが、リーダーの仕事ではない。リーダーとは、自分が見ている者達の能力を、いかにして最大限引き出すのか、という点にこそ意味がある。そういう意味でオシムは、選手たちの気持ちを自在にコントロールする術に長けていた。

『常に考えているのは、選手たちの「勝ちたい」、「克ちたい」という強い気持ちを目覚めさせることなんだ。なぜ、勝ちたいのか。その問いに対する答えは11人いたら11人違うかもしれない。だからこそ選手を観察する必要がある。その上で、対戦相手のことを洞察し、まず、相手が何に長けていて何に劣っているのかを考えさせる。そして自分たちが何をすべきなのか、何をしてはいけないのかを言っていく』

オシムは、『サッカーにおいて最も大切なものもアイデアだ』と言う。走り込みを徹底させて身体を作らせる一方で、選手たちにひたすら考えさせた。ミスのないプレーでも、考えていないと見抜かれたら叱責される。1対1の練習をしろと言われたのに、一方が押されていると、なんで誰も助けに行かないんだ、と怒る。1対1をやれ、と言われてただ漫然とやっているだけでは駄目なのだ。『理解さえできていれば、やってはいけないことは何もなかった』というのがオシムのサッカーだった。

『何も言うことはないだろう。10分で代えただけで十分だ。水本自身があの10分で代えた意味が分からないようだったら意味がない。大事なのは言葉ではなく、自分でその意味を感じているか。前も話したが、時としては何も言わないほうが、100万語を費やすよりも伝わる場合がある』

『モチベーションを上げるのに大事だと思っているのは、選手たちが自分たちで物事を考えようとするのを助けてやることだ』

どういう行動を取ったら自分の意図が相手に伝わるのか、どうすれば選手たちが自分たちで考え始めるのか。そういう環境をいかに整えていくのかが自分の仕事であると、オシムははっきり認識していた。

『システムは、もっとできるはずの選手から自由を奪う。システムが選手を作るんじゃなくて、選手がシステムを作っていくべきだと考えている。チームでこのシステムをしたいと考えて当てはめる。でもできる選手がいない。じゃあ、外から買ってくるというのは本末転倒だ。チームが一番効率よく力が発揮できるシステムを、選手が探していくべきだ』

『無数にあるシステムそれ自体を語ることに、いったいどんな意味があるというのか。大切なことは、まずどういう選手がいるか把握すること。個性を活かすシステムでなければ意味がない。システムが人間の上に君臨することは許されないのだ』

オシムは、与えられた状況の中で最大の成果をどう引き出すかを考える。最大の成果を出すのにこれが足りない、などとは考えない。徹底的な観察と、数学の大学教授への道もありえたほどの明晰な頭脳で、オシムは、目の前にある要素をどう組み合わせて、あり得る最も大きな成果を生み出していくのかを真剣に考える。

そんなオシムは、勝ちにもこだわるが、しかしもっとずっと先を見ている監督でもある。

『私が思考するのは、観客やサポーターはいったい何を望んでいるのか、そして何が目的なのかということです。サッカーとは攻撃と守備から成り立っているもの。その要素の中でいろいろな方法をとることができるが、私としては、いる選手がやれる最大限のことをして、魅力的なサッカーを展開したいと考えている。そういうサッカーを目指すにはリスクが付きものです。しかし(中略)。観客が満足するようなことに挑戦することこそが、大切なことだと私は思っている』

オシムは、日本サッカーをいかに発展させるかと考えている。そのためには、スタジアムにもっとサポーターに来てもらう必要があるし、彼らが来たいと思うような試合をしなければならない、と考えているのだ。

サラエボでオシムのことを聞くなら彼が適任、と言われるほどの人物が、オシムのことをこう評している。

『指導を受けていた我々はイビツァ(オシム)をこう呼んでいたよ。「天国から来た人間」と。コーチであると同時に教育者だった。彼の教えのおかげで私は世界選抜に選ばれたと思っている』

もし何らかの指導者になるような機会があるとすれば、オシムのような人間でありたいと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、ユーゴスラビアの崩壊という現代史の混乱の真っ只中にいながら、信念に基づきサッカーチームを指揮し、また日本では弱小チームを再生し優勝へと導き、また日本代表をも率いた名将、イビツァ・オシムの生涯を描き出した作品だ。

僕は、サッカーにはほとんど興味はない。サッカー選手の名前もメジャーな選手を何人か知っているぐらいだし、サッカーの試合をまともに90分間通して見たこともない。だから、本書のサッカーに関する記述は、よく分からない部分もあった。とはいえ、それでも十分に楽しめる作品だ。何故なら、それほどまでに、オシムの言葉が強く、サッカー以外の場面でも響くからだ。

「オシム語録」とも呼ばれた、ユーモアとウィットに富んだ哲学的な発言は、様々な形で広がりを見せた。オシムは、言葉をとても大事なものと捉えていて、こんな発言をしている。

『実は発言に気をつけていることがある。今の世の中、真実そのものを言うことは往々にして危険だ。サッカーも政治も日常生活も、世の真実には辛いことが多すぎる。だから真実に近いこと、大体真実であろうと思われることを言うようにしているのだ』

『言葉は極めて重要だ。そして銃器のように危険でもある。私は記者を観察している。このメディアは正しい質問をしているのか。ジェフを応援しているのか。そうでないのか。新聞記者は戦争を始めることができる。意図を持てば世の中を危険な方向に導けるのだから。ユーゴの戦争だってそこから始まった部分がある』

そんなオシムが、通訳とどんなやり取りをしているのかという話も本書では触れられていて、それも実に面白いのだが、ここでは割愛しよう。

彼を世界最高の指揮官に足らしめた背景には、間違いなくユーゴスラビアの崩壊という激震があった。オシムはそのことを、こんな表現で曖昧に肯定している。

『確かにそういう所から影響を受けたかもしれないが…。ただ、言葉にする時は影響は受けていないと言ったほうがいいだろう。そういうものから学べたとするのなら、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が…』

オシムは、1941年5月6日にサラエボで生まれた。そのちょうど一ヶ月前には、ドイツ軍がユーゴスラビアに侵攻している。そういう時代だった。ボスニアは、過半数を占める同一の民族が存在しない多民族地域であり、ユーゴスラビアの中で民族名を冠しない唯一の共和国だった。中でも首都サラエボは、セルビア・クロアチア・ムスリムの3民族が融和する多元主義精神の極めて発達した都市だった。そんなサラエボで生まれ育ったことは、間違いなくオシムの人格形成に大きな影響を与えている。

後にオシムはユーゴスラビアの代表監督に就任するが、試合を行う地域をホームとする選手を優先的に起用するようにという圧力をよく受けていた。しかしオシムは、どんな状況であれ、選手の実力だけで起用を決断した。どんな場面においても、フラットに、自分の信念に沿って決断をする。だからこそオシムは、どんな立場の人間からも支持された。

『私はユーゴスラビア崩壊後、すべての共和国のサッカーシーンを取材して来たが、驚くべきことにどの地域の関係者からも、オシムこそが最高の監督であったと聞き及んでいる。そう、バルカンの火薬庫と言われたコソボですら、である。分離独立した後の各共和国が、自民族ではない指揮官の名前を挙げる、それはある意味で国家の正史から外れる行為であり、タブーとすら言える。すべての民族と平等に接していたオシムが如何に求心力を持っていたかの証左である』

『オシムは、あの頃、サラエボの星だった。食料はなくなるし、狙撃を恐れて街を歩けなかった。寒くて、凍えて…。誰が誰にレイプされたとか…。信じられず、仲が良かった友人が、密告し合う…。想像を絶する暮らしが私たちを待っていた。そんな中で、オシムが我々に向けて言った言葉、「辞任は、私がサラエボのためにできる唯一のこと。思い出して欲しい。私はサラエボの人間だ」…そしてその後の彼の活躍を、皆が見ていた。間違いなく…、わが国で…、一番…、好かれている人物です』

オシムは、国内リーグの試合のハーフタイム中に、故郷ボスニアで戦争が始まったことを知る。試合に入り込んだら、何があっても90分間絶対に集中力は途切れないと言われていたオシムは、その日ばかりはピッチから気持ちが離れていた。結果的に、妻とは二年半も会うことが出来なかった。彼が指揮を取るパルチザンは、サラエボに攻めている人民軍のクラブなのだ。難しい決断だった。オシムはそれでも、一つの区切りまでは監督としての責務を果たし、そしてそれから、サラエボのために監督を辞めたのだ。

『オシムは内戦時に自分がサラエボにいなかったことを、強烈な負い目として感じている。心から愛して止まなかった故郷で人が殺されている時、別の場所にいたことを「一生かかっても消えない自分にとっての障害だ」とまで言い切る』

歴史の教科書に載るほどの現代史の渦に巻き込まれながら、自身はプロフェッショナルとして監督の仕事を全うし、同時に故郷を思う者としても何が出来るかと考える。そういう経験が、オシムという異次元の指導者を生みだした。本書の中には、オシムを讃える言葉がこれでもかと登場する。特にそれは、オシムと直接関わった者から発せられることが多い。厳しいが良い監督だ、という評価を、彼の指導を受けた多くの選手が口にする。そして、彼らの薫陶を受けた者たちが、その教えをさらに広めていく。

『現在のサッカーの常識になっていることを、ヨーロッパは百年かけて作りあげました。それを日本はたった十数年で身につけたかに見える。しかし、残念ながらそれらの常識は、まだ日本人の血肉となっているわけではないのです』

そんな、日本サッカー過渡期に強烈なインパクトを残したオシムは、その膨大な「オシム語録」がによって多くの者を鼓舞し続けている。凄い男である。

木村元彦「オシムの言葉」

チェインドッグ(櫛木理宇)

思考停止は、楽だ。
考えなくていい、というのは、容易だ。
万物は、楽な方向へと流れていく。物理法則もそう規定するし、人の気持ちもそういう風になっている。
だからこそ、それに抵抗する意志を持たなければならないと思うのだ。

考えない人間を操作することは、たぶん簡単だろう。
操作されていることに気づきもしないまま、相手の望む行動を取ってしまうだろう。
そうなってしまえば、ただの容れ物でしかなくなる。
そうはなりたくないものだ。

通常であれば、考えない状態で生きていても、酷くマズイことにはならないだろう。
近くに、シリアルキラーでもいない限り…。

内容に入ろうと思います。
筧井雅也は、かつては神童と呼ばれるほど一目置かれる存在だったが、今ではFランクの私立大学に通う落ちこぼれだ。しかし、昔の感覚を捨てきることが出来ず、周囲の人間を見下しながら、大学生活に馴染むことなく日々一人で行動している。
そんな雅也の元に、一通の封書が届いた。榛村大和、42歳。24件以上の殺人容疑で逮捕されたのが5年前。結局警察が立件できたのは9件。16歳から23歳までの男女を監禁し、拷問して殺すという残忍な手口だ。
雅也は、拘置所にいる大和を訪ねた。俳優と言われても信じるくらいの美男子であり、かつて雅也がよく通っていたパン屋の主人でもある。
アクリル板を挟んで向かい合った二人。雅也に対して大和は、予想もしていなかったことを口にする。
「9件の内、最後の1件だけは冤罪だ。それを証明してくれないか?」
大和は、9件目が無実だと証明されても、自分が死刑になるという事実は理解している。しかし、やってもいない罪を被せられるのは不本意なのだ、と語る。葛藤の末、雅也はこの調査をやってみることにした。
大和の担当弁護士の協力もあって、大和の過去に関わる人への聞き取り調査は比較的スムーズに行うことが出来た。様々な人間に話を聞いた。その度に、大和の印象が変転する。大和に悪い印象を抱けない者もいれば、大和をこき下ろす者もいる。悲惨な生い立ちを背景に持つ大和について、母親や養母との関係、少年刑務所に入れられた経緯、ボランティア活動での様子など、雅也は様々な情報を仕入れていく。
しかしその過程で、雅也が予想もしなかった繋がりが見つかり…。
というような話です。

全体的には、嫌いではない、という感じの作品でした。物語の設定は実に魅力的に、この物語がどう着地するのかという関心で読まされましたが、途中から、むむむ…という感じになってきました。想定した通りに物語が進んでいかないこと自体は良いことなのですが、その新たな方向性が、ちょっとしっくり来なかったなぁ、という感じです。

榛村大和の造型は、実に魅力的です。もちろん僕は、シリアルキラーにお目にかかったことはないのだけど、こういう人物はどこかにいてもおかしくないと思えるような強さを感じました。彼は拘置所の内側から出ることは出来ないわけですけど、手出しの出来ないその内側から、言葉だけを使って雅也を動かしていく。また、雅也が掘り出していく過去の大和も、もちろん悪いことをしているし、許容出来る話ではないのだけど、しかし物語であるからこそ安心して大和の悪事を受け入れることが出来るし、様々な経験を持つ大和がどのように形成されていったのか、という流れもなかなか興味深かった。

酷い境遇で生まれたからって人殺しになっていいのか、と口にする人物がいて、それは確かにその通り、正論だなと思うわけです。しかし、やはりその境遇がなければ何か違ったのではないか、という思いも拭うことは難しい。悪影響は連鎖し、なかなかそれを止めることも難しい。そういう現実を、うまく切り取っていると感じました。

雅也の造型もなかなか面白い。今の自分を受け入れる事ができずに、他人を見下してしまう。自分はもっと出来るはずという思いと、結局この程度の人間だったのかという諦念がまぜこぜになって、日常が穏やかにならない。大和の調査を始めることで、雅也は大きく変わっていくのだけど、しかしその変わっていく過程もちょっと普通ではない。とはいえ、雅也が変化していく過程に全然違和感を覚えなかったか、と聞かれると、ちょっと返答に困るが。

大和と雅也のやり取りが、大和を中心と人間関係を掘り返すことになり、やがてそれは雅也の予期せぬ蓋まで開けることになる。その辺りの展開はなかなか面白いと思うのだけど、どうしても、物語の閉じ方がぼやっとしている感じがして、ちょっとなぁ、と思ってしまう。

全体的な雰囲気は結構好きなのだけど、どことなく煮え切らない感じがある。冒頭でバーンと提示した謎と、物語を包み込む設定が非常に魅力的だったので、もう少しわかりやすい着地点に行き着く物語の方が良かったのではないか、と思う。

櫛木理宇「チェインドッグ」

AI経営で会社は甦る(冨山和彦)

メチャクチャ面白い作品だった。けどこの作品、タイトルが実によろしくない。
この「AI経営で会社は甦る」というタイトルは、ぱっと見ると経営者向けの本にしか見えないだろう。いや、実際に確かにそういう側面もある。どんな風に会社の舵取りをしていくべきかという有益な助言を得ることが出来るだろう。

しかし、ただそれだけの本ではない。本書は、AI技術が世界中を激変させる世の中で、会社だけではなく、個人はどう生き残っていくべきなのか、ということについてもかなり触れている作品だ。

冒頭にはこうある。

『今回のブームにおいては、企業が、経営者が、個人が、まずはその表層的な減少に惑わされずに変化の本質をとらえ、生き残っていくために、そして願わくはそれが産業的、経済的に生み出す色々な意味での「稼ぐ力」を獲得していくために、何が問われているのか。それを提示することが本書の目的である』

そう、本書で最も重要な点は、「AIが社会構造をどう変化させるのか」という点だ。これは、いわゆる未来予測ではない。未来予測というのは、科学的な知見に基づいて技術がどう発展していくのかを予測するものだと思うが、本書は、その土台を「経営」という観点に置いている。技術がどう発展するかよりは、その技術が経済的にどんな利益をもたらすのか、そしてその可能性を企業はどう掴んでいくべきなのか、という点について徹底的に考えることで、「経営」をベースにした未来の社会のあり方を予測する作品だ。そしてその上で、その予測通りの世界がやってきた時、個人はどんな風に生きていくべきなのか、という提言までするのだ。こう書くと、タイトルがちょっと合っていないということが伝わるだろうか。

本書を読んで連想した本が二冊ある。一つは、倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ」、もう一冊は落合陽一「これからの世界をつくる仲間たちへ」だ。どちらの本も、それまでの価値観が通用しなくなった世の中で、生き方の選択や世代などによって大きな分断がある人たちの間をどう融和させていくか、ということが書かれている本だ。本書もまた、そういう性格を持つ本だ。AIという、それまでの常識を一変させるテクノロジーが登場し、しかしそれまでの価値観にしがみつきたい人もいる。そういう両者の間をどう取り持ち、お互いに良い結果をもたらしていくのか。その答えが本書には描かれていると思う。

本書には非常に面白い話がたくさん出てくるのだが、僕が面白いと感じた5つのキーワードで本書の中身を説明したいと思う。
その5つを挙げてみると、

「C(カジュアル)の世界からS(シリアス)の世界へ」
「差別化要因をどう捉えるか」
「AI開発において日本が優位な理由」
「スマイルカーブ」
「G(グローバル)の世界とL(ローカル)の世界」

となる。
順番に行こう。

まず「C(カジュアル)の世界からS(シリアス)の世界へ」だ。これは、AIに限らない「デジタル革命」全般の話になるのだが、これまでCの世界で閉じていたものがSの世界に滲み出していくことで何が起こるのか、という話だ。

これまでのデジタル革命は、基本的にすべてがネット上で完結していた。ゲームでもSNSでも検索でもなんでもそうだ。これを「Cの世界」と呼ぶ。

『他方、個別ビジネスの単位で考えると、(Cの世界では)限界費用がゼロということは、参入障壁が低いことを意味する。参入が容易ということは、経済学が教える通り、競争激化によって価格はほとんど限界費用付近まで下がっていくので、サービスは実質的に無料化しやすい』

概ねこれまでのデジタル革命で起こってきたことを考えれば納得してもらえるだろう。

またCの世界ではこんなことも起こりうる。

『基本アルゴリズムは数式の世界なので、たった一人の天才が世界を一変させてしまうことがある』

グーグルのラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグのような天才が世界を変えたという物語が可能だったのは、それがバーチャルな世界で完結していたからだ。

しかし、Sの世界ではそうはいかない。Sの世界というのは、例えば自動運転であったり遠隔操作による手術だったりする。AIの技術がSの世界に滲み出るということは、人の命を左右することになる、ということだ。

『しかし、デジタル技術が本当にリアルに滲み出してくると、物理的な不可に対する耐久性が最大のチャレンジになってくる』

そしてこの現実があるからこそ、今起こっているAI革命においては、リアルのモノづくりにおける蓄積がある企業にこそ価値が生まれうるのだ、と著者は主張する。

例えば、自動運転技術はグーグルがかなり開発をしているが、著者の見立てでは、グーグルによる自動運転は恐らくうまく行かないだろう、と考えている。ソフトの部分を作る力がいくらあっても、ハードを作るノウハウがない。しかもAI革命というのは、大量の情報をディープラーニングで処理して学習させる過程が必要になるので、それには大量の入力情報が必要になる。自動車メーカーではないグーグルには、その情報を手に入れる方法がないのだ。これまでは、脳みそだけ作れば勝てていた勝負だったが、今始まっているのは、脳みそだけではなく手足も作り、さらに脳と手足をミスなく連動させなくてはならないという勝負なのだ。そういう意味で、日本の電機メーカーが軒並みやられていってそれまでのデジタル革命とは意味合いが大きく違うという。この指摘は、なるほどなと感じさせられた。

しかし、モノづくりのノウハウがあるだけでは、やはりこの競争に勝つことは難しい。では何が必要かといえば、次の「差別化要因をどう捉えるか」である。

『AIは今ブームになっているから、AI自体が差別化要因になると思い込んでいる人が多いが、実は、そんなことはあまりなくて、本当の競争領域は、もとから持っているハードウェアのアナログなノウハウな部分であることが多い』

AIを開発することで勝負に勝てるわけではない、ということだ。何故なら、AI革命において最も重要な問いは、「AIを使って何をするか、どう稼ぐか」というものだ。AIを開発しておしまい、などということはありえないわけだ。だったら、道具であるAIは誰かが開発したものを拝借すればいい、という発想になる。

また、トップクラスのAI研究者は、非常に流動性が高いマーケットになるので、特定企業に囲い込むのが難しい、というより実際的な問題がある。特定企業にそういう天才を囲い込むことが出来れば、その技術はその企業の独占として使えるかもしれないが、なかなかそうはいかない。だからこそ、特定企業に囲い込むことが出来ないAIの部分は差別化要因にはならないのだ。

『AI技術そのものの世界で、米国や欧州の企業や研究機関に遅れを取っていることを悲観視する声を聞くが、AI研究は優れた個人が国境や企業の壁を越えてコラボするスタイルになっていて、その基盤となっている人材の流動性は高い。また、アルゴリズムを軸とした要素技術体系もオープンソースになっていく流れを考えると、こうした開発成果は、特定の企業がクローズドに囲い込むことは難しくなるし、それを半導体チップのような世界に閉じ込めても、おそらくインテルのCPUと同じく、一般に外販される可能性が高い。さらにはアルゴリズムの数式自体も公開されて、どの企業でもアクセスできるようになり、まったくもって競争領域ではなくなってしまう可能性さえ高い。
(中略)
現時点での出遅れ感は、経営論的にはまったくもって致命的ではないのだ』

しかし、日本企業は、こういう現状が苦手であるようだ。なんでも自社で開発しなければならないと思ってしまうのだという(しかもそれが出来る技術力がある)。だから、日本企業は「捨てる」ことをしなければならない。

『そうなると、今、日本企業に問われているのは、割り切れるかどうか、(捨てるべきものを)捨てられるかどうか、そう、日本企業が伝統的にもっとも苦手としてきた「捨てる」経営ができるかどうかなのである。
よそから持ってくれば済むものは、自社開発をやめて外部から調達すると割り切れるかどうか。買収したり、ライセンスを買ってきたり、人材を引き抜いたり、そうした技術を取り込むやり方は様々だ』

日本や日本企業が、今起こっているAI革命の中で真に成果を出していくためにしなければならないことについては本書で様々に触れられている。苦手な部分と得意な部分をうまく住み分けて、日本が得意とする部分にきちんと注力すれば、AI革命の波に乗れる可能性は高い、と主張する。

さらにその上で著者は、「AI開発において日本が優位な理由」も挙げている。

『もう一つ大きいのは、少子高齢化という問題と、日本が結果的に移民政策に消極的なことが重なり、ローカル経済圏(サービス産業を中心とする労働集約的な地域密着型産業群)が人手不足に陥っているからだ』

ここが欧米とは大きく違う点だ。トランプが大統領になり、国内に雇用を増やす、というようなことを日々言っているが、何故そう主張する必要があるかと言えば、アメリカでは移民などにより雇用が足りない状態だからだ。だから、そんな状況の中で、さらに雇用を奪いかねないAI技術は、技術開発の段階では障害がなくても、社会実装段階でつまづく可能性が高いという。

しかし日本では、人手が圧倒的に足りていない。農業や介護などの分野で人手が足りていない現状は多くの人が認識しているだろう。そういう状況だからこそ、AIによって労働の生産性を上げるという発想が、欧米諸国に比べれば圧倒的に受け入れやすい状況にあるのだ。

また、こんな要素もある。

『(日本ではドラえもんや鉄腕アトムが人気なのに対して)欧米では心のあるロボット研究をするのは、宗教的なタブーに触れるおそれもあり、映画などでもヒューマノイド(ヒト型ロボット)というのは、まずは気持ち悪いものとして登場する。映画『ターミネーター』などはその典型だ。だから日本以外でヒト型ロボット開発にここまで熱心な国はあまりないし、AI開発においても、日本の人工知能学者の多くは人間の脳の真理に迫ることに血道を上げがちである』

実はこの文章は、「そういうことを日本の研究者はやってしまうリスクがあるよね」という警鐘を鳴らす一文ではあるのだが、見方を変えれば、AIの開発において社会的な嫌悪感が実に低いとも考えられるし、うまくやればそれは日本のアドバンテージになることだろう。

『それもあって、日本では誰に遠慮することもなく、AIやIoTやロボティクスのテクノロジーをガンガン入れて、ガンガン生産性を上げていける土壌ができつつある。ローカル経済圏から政治的な突き上げを食らっている欧米先進国では考えられない状況で、ほとんど唯一の存在ではないか。発展途上国では人を使ったほうが安いし、新興国でもまだ自動化に対するニーズはそこまで高くない。世界で唯一、日本だけが国の総意としてAIやIoTに積極的にチャレンジできる。だから、チャンスなのだ』

さて、そんな風に、惨敗続きだったこれまでのデジタル革命における日本企業が、これからは主導権を握ることが出来る可能性があると本書は指摘する。しかし、その際にきちんと押さえておかなければならないのが「スマイルカーブ」だ。

『スマイルカーブとは、ある製品のバリューチェーン全体を見たときに、川上(企画・設計・部品)と川下(販売・メンテナンス)側の利幅が厚くなる一方、真ん中の製造工程(組み立て)はほとんど利幅が取れなくなる現象を指す』

AI革命はモジュラー化(交換可能な部品でシステム全体を構成すること)の流れを呼び込むので、結果的に組立自体は誰でも出来るようになる。そこが差別化要因にならないので、利幅がどんどんと減っていく。だからこそ、川上か川下のどちらかを押さえなければならない、ということだ。本書の中では、重機メーカーのコマツの名前がよく登場するが、コマツは川上も川下もどちらもきちんと押さえ、真ん中の部分はあまり手を出さないというスタイルを早くから確立したようで、著者は非常に高く評価している。

さて、そんな風にして、AI革命は企業の経営のあり方を大きく変えていく。では、それが個人の生活をどう変えていくのか。ここで重要なキーワードになるのが「G(グローバル)の世界とL(ローカル)の世界」だ。

『自分の生き方のゴールをどこに設定するのかがすごく大事になってきた。業種や職種による違いもあるが、もう一つ大きな軸として、グローバルなゴールを目指すのか、ローカルな世界の中に生きがいを見出すのか。自分なりに考えて決める必要がある。
ローカルな世界で生きていくと決めてしまえば、高いお金を払ってベルリッツに通う必要はなくなる』

本書の中で僕が最も重要な指摘だと感じるのはこの部分だ。AI革命によって、実はローカルな世界が強くなっていく可能性がある、と著者は指摘する。それは、先程のスマイルカーブの話からもイメージ出来るかもしれない。川上側にいるのが、世の中の一部の超天才が占めるグローバルな世界、そして川下側にいるのがローカルな世界で生きる多くの一般人。AI革命によって、川下側にある無数の中小企業の重要性が増していくという。

『ここ数十年、「グローバル化」がキーワードになってから、この国の教育や人材育成は、「グローバル人材」になれないと生き残れない、あるいは二流の人生しか送れないかのような強迫観念に追い立てられてきた感がある。私もかつては同じような思い込みに取りつかれている部分があった。
しかし、産業再生機構時代に地域のバス会社、物流会社、旅館、スーパーマーケットなど、ローカルな経済圏で活動している企業の再生やそこに生きる人々と深いかかわりをもつようになって、この強迫観念に大きな疑問を持つようになった。ローカルな世界にはローカルな価値観があり、ローカルな一流があり、生きがいや幸福がある。どの国に行っても、いわゆるグローバル化が進展しても、生身の人間は地域に住み、日常の生活基盤はローカルな経済社会圏である。そして、前にも触れたように、先進国ほどローカル型の産業、企業で働いている人はむしろどんどん増えている』

こんな風にも指摘している。

『それぞれの地域でリアルな問題を抱えている産業群にいけば、自分が役に立っている実感を持つことができるだろう。逆に、メガバンクのような巨大組織で働いていて、自分が世の中の役に立っている感を持つのは困難だ』

AI革命は、様々な不安や憶測(20年後には仕事の大半がなくなる、など)が渦巻くが、「経営」という観点からAI革命を捉えた時に、現実的にどんなことが起こりうるのか、について指摘する本書は、AIによって激変するだろう未来をどう生きていくのか、という問いに対して意味のある答えをもたらしてくれる作品だと思う。タイトルのせいで、本書を読むべき人のところまできちんと届かない感じになっているような気がするのがもったいないが、本書は経営者だけではなく、未来を生きるすべての人が読むべき作品だと思う。

冨山和彦「AI経営で会社は甦る」

雲は湧き、光あふれて(須賀しのぶ)

甲子園に限らないが、どんなものにも、それを支える人間がいる。
甲子園は、球児たちのものだろう。全力でバットを振り、全力でボールを追いかける球児たちのためにある。しかし、そういう風な立場ではなくても、甲子園と関わる者たちはいる。彼らにしても、彼らの中での甲子園の戦いというのはある。しかし、なかなかそれは表に出ることはない。

甲子園という舞台で迷いなく全力でプレーできる選手以外の人たちを描き出す物語だ。ライト系の小説が出版されるレーベルから出ているのだが、芯のしっかりした、ライト系という括りには収まらない作品だと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、3編の短編が収録された短編集です。

「ピンチランナー」
武蔵高校の須藤は、代走専門で試合に出場する。他の代走選手を差し置いてスタメン入りしてはいるのだが、試合では、今この場面で俺必要か?と思えるような場面で投入される。とはいえ、監督が行けというなら行かないわけにはいかない。
去年まで、武蔵高校は、甲子園に行けるかもしれない、と盛り上がっていた。益岡がいたからだ。エースで四番。その凄さは知れ渡っていた。そんな益岡が、強豪の私立校の誘いを断って公立校の武蔵高校なんかにやってきたのも驚いた。益岡のお陰で、去年の県大会はベスト4まで行った。今年こそは、と誰もが思っていた。
益岡が腰を痛めるまでは。
医者からは、これ以上野球をやったら歩けなくなる、と言われているほどだという。益岡は、もう野球が出来ない。そんな雰囲気の中で、去年のようなテンションを維持することは難しい。
しかし、思いもかけないような展開になった。監督に呼ばれた須藤は、お前は益岡専門の代走(ピンチランナー)にする、と。益岡は、試合で1打席だけ立つ。そこで必ずヒットを打つ。なんとか一塁まではたどり着くから、後は須藤に任せる、ということらしい。しかし、そんな作戦そのものよりも、益岡の態度が気になる須藤は…。

「甲子園への道」
スポーツ専門の蒼天新聞関東局編集部の高校野球班をまとめる松崎キャップから、泉は翌日取材に向かう球場を指示されて驚いた。Aシードの東明学園の初戦が第一試合にあるのだ。注目の木暮投手を始め、戦力に厚みのある、県下で圧倒的な強さを誇る高校だ。そんな試合を任され、泉は気合を入れると共に気鬱にもなった。というのも松崎から、木暮のLINEを聞き出せという、どう考えても不可能なミッションを与えられたからだ。とはいえ、5人いる新人の中で甲子園記者として選ばれるのはただ一人。5人の内で唯一野球経験のない泉は、がむしゃらにやるしかない。
その東明学園の第一試合は、波乱の幕開けとなった。対戦相手は三ツ木高校。毎年初戦敗退を喫する、何の特徴もない弱小公立校だと、同期に成瀬は言っていた。部員は11名、試合前のシートノックも、東明学園と比べなくても明らかにレベルが落ちる。
しかし、そんな三ツ木高校は、東明学園と途中まで互角の戦いを見せたのだ。
その立役者が、二年生投手の月谷悠悟だ。特に球威のあるわけではない彼の球を、東明学園の選手たちは何故か打ち返すことが出来なかった。バッター自身も、首を傾げている。何故打てないのか…。試合が終わってすぐ、泉は東明学園ではなく、三ツ木高校の月谷の取材へと向かった…。

「『雲は湧き、光あふれて』」
日本が第二次世界大戦へと突入していく、そのちょっと前、昭和15年頃のお話。
鈴木雄太は、地元では強いと評判の普川商業の野球部に入部して三年、初めて先発を任された。対戦相手は、同じく名門の佐川中。しかし雄太の調子は上がらない。良いところがないまま、滝山と後退させられた。
雄太は、出来るだけ滝山の投球を見たくない。何故なら、見ると頭の中の「神様」が遠のいてしまうからだ。昭和9年に行われた日米野球、そのマウンドに立った少年がいた。沢村栄治。彼の神様だ。しかし、「沢村みたい」と評される速球を持つ滝山の投球を見ていると、頭の中の沢村栄治が薄れてしまうのだ。
やがて雄太は、キャッチャーに転向させられた。滝山とバッテリーを組むことになるのだが、滝山は雄太のサインなんて一切無視する。どうせ自分の球なんか、どこに投げたって誰も打てない、という傲慢さがそうさせるのであり、事実その通りなので雄太も何も言えないでいる。ピッチャーを辞めてまで野球部に残り続ける意味はあったのか…。バッテリーと呼べないような関係を続けながら雄太は思う。
そうこうしている内に、日本を取り巻く状況はいよいよ怪しくなっていき、次第に適性国のスポーツである野球をやっていられないような雰囲気になっていき…。

というような話です。

結構好きな作品でした。野球にはさほど興味はないし、甲子園にも特別な思い入れはないんだけど、まっすぐに甲子園を目指すみたいな小説ではなくて、甲子園とのちょっと変わった関わり方を描く作品で、その切り取り方が面白いなと思いました。

一番初めの「ピンチランナー」は、よくこんな面白い設定を考えるなぁ、と思いました。普通の野球小説ではまず成立しない「ピンチヒッター」と「ピンチランナー」の関係が、実によく描かれていると思いました。腰を痛めた強打者と、盗塁のセンスだけは抜群の男が、二人で力を合わせることで試合の鍵を握る存在になる、という設定も秀逸なのだけど、その二人の関係が一筋縄ではいかない、という点も面白いと思いました。かたや、怪我をして戦線離脱しながら対戦相手の研究に余念がない、かたや、スタメン入り出来るというのにただ走るだけの自分の存在に違和感を覚えている。どちらも、真っ当な形で野球と向き合うことが出来ないが故の葛藤やぶつかり合いみたいなものを内に抱えていて、そんな二人が自分たちのちからをどう試合で活かしていくのか、という展開は面白いと思いました。

また、お互いの関係性という意味では「『雲は湧き、光あふれて』」も良かったですね。戦争直前という、およそ野球をするのに良いとは言えない環境の中で、それぞれがそれぞれの立場の中で野球をしている。日本を取り巻く状況が厳しくなっているが故に、才能があるだけでは、野球に対する情熱があるだけではどうにもならない現実に直面せざるを得ない中で、傲慢で自分のことしか考えていない豪腕ピッチャー・滝山と、投手志望でありながらキャッチャーに転向させられた雄太の、どちらにもあるやりきれなさみたいなものがうまく描かれていると思いました。

ただ、僕が一番好きな話は、二話目の「甲子園への道」でした。野球の部分の話も実に面白かったですが、この話が一番好きなのは、「伝えること」の難しさを描いている部分です。

強豪校である東明学園と、弱小校である三ツ木高校の対戦は、観客の予想を遥かに裏切る非常に面白いゲームで、さらに、泉が取材に行った三ツ木高校のエース・月谷のキャラクターも実に面白い。泉の質問に、予想の斜め上を行くような回答を返してくる月谷には、多くの人が魅力を感じるのではないだろうか。「

そういう野球の部分も、実に面白い作品だ。しかし、本書で僕が一番面白いと感じたのは、泉がキャップに出した原稿がどうなったのか、という部分だ。なるべく具体的なことを書かずに僕が面白いと思った部分に触れようと思う。キャップは泉の原稿に対して何かをした。その何かは、泉を落胆させた。その記事は、泉が初めて書名入りで載った記事であり、それ自体は誇らしいことだったが、しかし泉は素直に喜ぶことが出来ない。キャップがしたことを割り切って捉えることが出来なかったのだ。

しかしその後泉は、思いがけない反応に直面することになる。そしてそれは、キャップが手を加えた記事によって生まれた反応だったのだ。そのことの意味を、泉はきちんと捉えようとする。キャップからぶつけられただけの言葉は泉の内側に入り込んでいかなかったが、その反応を知った後、ようやく泉はキャップの言葉を理解できるようになる。

具体的なことを伏せたので非常にぼんやりした言い方になったが、この部分が、「伝えること」の難しさを描いていて、非常に面白いと思いました。

甲子園をテーマに、様々な切り取り方を見せる作品で、野球をあまり詳しく知らない人にも、よくある野球小説には飽きている人にも、どちらにも楽しめる作品だと思います。

須賀しのぶ「雲は湧き、光あふれて」

秘剣こいわらい(松宮宏)

いやー、これは面白い!
バカバカしさ全開なんだけど、グイグイ読まされてしまうし、妙に設定がリアルだったりもする。何なんだこの話は!と思わされている内に一気に読み終えてしまう、超絶なエンターテインメント作品だ。

内容に入ろうと思います。
主人公の和邇メグルは、京都女子大学に通う20歳の学生だ。和邇家は、かつては衣笠山を背にしたお屋敷に住んでおり、大変お金持ちだったのであるが、メグルが19歳になった頃、両親が交通事故で死亡、その事故の影響でメグルも小脳の機能が破壊されるという大怪我を負った。奇跡的に回復したメグルだったが、和邇家は壊滅的な様相を呈していた。とんでもない額の借金があったようで、和邇家は破産していたのだ。500年続く和邇家はこうして、メグルと5歳の弟のサンジだけになった。
ところでメグルは、幼い頃からある棒を操っていた。あまりにも手に馴染んだその棒は、悪漢を撃退するのにも役立った。意識せずとも勝手に棒が動き、メグルを襲おうとした男の顎を砕いたのだ。祖父は、和邇家に伝わるという「こいわらい」という秘剣について教えてくれた。20代ぐらい前のご先祖様が編み出した不敗の術だという。祖父はメグルに「この家を守れ」と言ったが、基本的にはボケ老人なので、その真意は不明だ。
サンジとの二人暮らしが始まったが、何にせよ金がない。そこでメグルは、弟を隣のお豆腐屋さんに預けてアルバイトをすることになった。
バイトは、大学の学生課に張り出されていた「用心棒」である。月給50万円、というのに惹かれたわけだが、相手方とちょっと話をしたらすぐに100万円に増額された。意味が分からない。
依頼主は、「ジャスト電器」というディスカウントの電器チェーンの元締めである「京都宮内庁」という会社だ。そこの会長である田上源助は、ちびで出っ歯ではげで猫背なのだが、遊び上手の芸達者で、商才も凄まじいのだという。そんな田上は、毎晩多額の現金を持ち歩きながら近寄ってくるヤクザたちをおちょくるという意味不明な悪癖があり、メグルはそんな田上の用心棒をすることになったのだ。どう考えてもそんな夜回りを止めればいいだけなのだが、田上は止めない。仕方なくメグルは、あの棒を使って、ヤクザたちをばっさばっさとなぎ倒していく。全戦負け無しのこてんぱんである。
一方で、五郎という男は、師匠と仰ぐ川又という男から、日々意味不明な修行をさせられている。浮浪者の格好をしてドーナツ屋の店員からスムーズにドーナツを受け取れとか、川べりを走っているランナーにフリスビーをぶち当てろ、などである。正直本当になんのこっちゃ分からないのだが、しかし川又の力の凄さをその目で直に見ている五郎は、いくら川又の指示が意味不明でもなんとか食らいついていく。
そんなある日、川又にやらされている謎の修行の最中に、五郎はメグルと再会する。二人は中学の同級生だ。色々あってお互い距離が隔たってしまったが、お互いに気になっている存在でもあるのだ。
そんな二人が出会うことで、より物事は展開していく。田上の酔狂なアルバイトが、やがて和邇家の知られざる歴史へと繋がっていくのだ…。
というような話です。

ホントに、これはべらぼうに面白い物語だったなぁ。読む前は、ここまでの作品だとは思っていなかったので、ちょっとビビりました。重厚感はまったくなく、かるーい感じで話がじゃんじゃん進んでいくんだけど、でもだからと言ってライトな物語なわけじゃない。深刻さを全然感じさせない、新喜劇でも見ているような登場人物たちの振る舞いと、彼らが実際に直面している現実のギャップがあまりにも激しくて、そのギャップがなんか凄く面白く感じられるんですよね。この人たち、こんな余裕ぶってる場合じゃないでしょう、みたいな。

ストーリーの中には、「いやいや、さすがにそんなんアリえんやろ!」みたいな話もバンバン出てきて(特に後半メチャクチャ多い 笑)、おいおいって感じなんだけど、でもそれが全然不快じゃない。まあ、この人たちの話なら、これぐらい目つぶってやるわ、という感じになっちゃうんだよなぁ。凄く不思議。一方、そういうテンションで書かれている物語なのに、歴史とか来歴とかの話になると、妙にリアリティが漂ってくる。全体的にホント、色んな部分でアンバランスなんですよね。

森見登美彦とか万城目学とか好きな人なら絶対好きだろうな、っていう感じの作品で、京都という街を舞台にして、歴史と街の景観の中に、大嘘を大量に混ぜ込みながら破天荒な世界観を作り上げていく手腕は見事です。しかも、解説の大森望によれば、本書の原型がとある新人賞に送られてきた時点では、まだ森見登美彦も万城目学もデビューしていなかった、とのことです。森見登美彦や万城目学の作風からインスパイアした世界観ではなく、著者オリジナルのものなんだそうで、いやお見事という感じでした。

もう、まず何よりもメグルのキャラクターが最高ですね。普通なら、「そこで一旦立ち止まるっしょ」というところでも、特に立ち止まることなくずいずい進んでいく。かといって、特別度胸があるというようなことでもなく、ただちょっとズレているのだ。子どもの頃から棒を操り、その棒で悪漢を打ちのめしてきただけのことはある、という感じで、世間一般の女子大生とは感覚が全然違う。普通の人物を主人公に据えたらこの物語は恐らく成立しないだろうというぐらい、ストーリーには破綻しかけている部分が多々あると思うのだけど、このメグルの造型がギリギリで物語の破綻を防いでいる。そういう意味でも、本書にとってなくてはならない存在だと言える。

田上を始めとする京都宮内庁の面々も無茶苦茶だ。あまりネタバレになるようなことを書きたくはないが、これだけは書いてしまおう。田上たちは、和邇家に伝わる「こいわらい」という秘剣が、どうしても見たい者たちなのだ。見たくて見たくてしょうがない。それが、彼らの行動の根底にある。はっきり言って、めちゃくちゃだ。どうめちゃくちゃなのは、やはり読んでもらわないといけないが、よくもまあそんな動機だけでメグルにそんなことさせるな、と思うような、とにかく無茶苦茶な連中なのである。とはいえ、割れ鍋に綴じ蓋とでも言おうか、雨降って地固まるとでも言おうか、結果的には田上らの行動が、和邇家を救う形になっている。超絶的な結果オーライという感じがするが、最終的にはすべて丸く収まるのだから良しとしよう。

冒頭から一気にぐわっと惹き込まれて、でも物語がどう展開するんだかさっぱりわからなくて、なんだかわからないままぐいぐいっと読まされちゃって、読み終えたら大満足、みたいな、なんか凄く楽しい小説でした。

松宮宏「秘剣こいわらい」

コルトM1851残月(月村了衛)

実に面白い物語だった。
普段時代小説はあまり読まず、時代小説はあまり得意ではないのだが、本書は、「時代小説」というジャンルに括るには規格外と言える作品だった。

内容に入ろうと思います。
残月の郎次――彼は江戸の暗黒街でそう呼ばれている。昼間は三多加屋という廻船問屋の番頭という顔を持っているが、実際は商人の顔をした極道、江戸の裏金融を牛耳る祝屋儀平一味の大幹部という顔を持っている。複雑な事情から儀平に拾われた郎次は、儀平の期待に応え続ける以外、生きる術がなかった。儀平の<商い>というのは「抜荷」だ。抜荷というのは、貿易相手や貿易額が厳しく制限されていた時代に行っていた、いわゆる密貿易のことだ。そして、この抜荷のルートをゼロから切り開き、今でもすべてを取り仕切っているのが郎次なのだ。周囲から郎次は、祝屋儀平の跡目だと持ち上げられることも多い。江戸の暗黒街に、絶対的な力を持つ男なのだ。
そんな郎次にはもう一つ、絶対的な力の源泉がある。それが「コルトM1851」という六連式の回転式ベルトピストルだ。誰も郎次が、そんな拳銃を持っていることを知らない。郎次は徹底的にそのことを隠している。
郎次は、儀平一味の商いの邪魔になるものを消し去る差配もしているが、儀平一味は皆、郎次がどんな<筋>と繋がりを持っているのか知らないでいる。儀平一味は皆、郎次が有力な<筋>と関わりを持っており、その者たちを自在に動かして人の始末をさせているのだ、と考えている。しかし、実際は違う。郎次は、その「コルト」を使って、自ら始末しているのだ。自分が有力な<筋>と繋がっているのだ、と思わせることが、何よりも重要なことだ。
郎次の日常は、順調そのものだった。しかし、ほんの些細なきっかけから、郎次の完璧なはずの未来予想図が、一気に崩壊することになる。
木挽町に、<賀筒>という店がある。三多加屋が運ぶ荷を売りさばく小売荷主だ。その女将であるおしまのことを、郎次は毛嫌いしている。三多加屋は、<太い>客が多い。しかしこの<賀筒>は、商いの規模が小さいのに郎次の商売に食い込んでくる。しかも、値上げの話をすればうるさいばかりだ。ただ面倒なだけの相手なのだが、無下に出来ない人物と繋がっていることもあって簡単に切り捨てることも出来ない。
しかしある日郎次は、おしまの裏切りを見抜く。メンツを潰されれば商売に関わるので、落とし前をつけるために<向島>と呼ばれている、祝屋の中核を担う大物が集まる場で議題に上げるが、何故かおしまは無罪放免ということになった。ならば自分で落とし前をつけるしかない、と判断した郎次だったが…。
というような話です。

これはなかなか凄い小説だったなと思います。時代小説なんだけど、僕がイメージする時代小説と全然違う。舞台が江戸時代、というだけで現代風だし(そういう意味では、京極夏彦を連想させる)、江戸時代でありながら拳銃が登場するという設定は非常に斬新だ。

解説で馳星周は、本書で登場する拳銃について、「当時の武器としては殺傷能力はとても高いが、弾を込めるのに時間が掛かった。だから拳銃があるからと言って最強なわけではない」というようなことを書いている。確かに、このバランスは、この物語を成立させる上で非常に重要だ。刀と拳銃では、単純な比較では拳銃に圧倒的な軍配があがる。しかしこの当時の拳銃は、6発の弾を装弾するのに、訓練を重ねた郎次であっても210秒(3分半)掛かった。郎次は、腕っ節自体は強くはない。拳銃がなければ、戦いの場に出てこられるような男ではない。殺傷能力は刀と比べて圧倒的だが装弾のための時間がネックになる、という設定が、この物語を実に絶妙なバランスで展開させる要素となっている。

郎次というのは、基本的には極悪人だ。生い立ちを踏まえて考えれば同情できる部分もあるのだけど、基本的に、金は稼いだ者勝ち、その過程でどれだけ人を傷つけようが関係ない、というような男だ。裏社会でも、そして表社会でも評価が高く、飛ぶ鳥を落とす勢いという感じだが、人間的に共感できるかというと、そういう要素はとても薄いと言わざるを得ないだろう。

しかし、この感覚は、読み進めていくにつれて変化していくのではないかと思う。

ある時から、郎次はそれまで自分が積み上げてきた地位や立場を一瞬にして失うことになる。それはあまりにも突然で、慎重に事を進めてきたはずの郎次にもまるで想定できていなかった事態だった。郎次からすれば、あっけにとられた、というような感覚だろう。そしてそこから、郎次の新しい戦いが始まる。

そして、郎次が挑むことになるこの戦いが、ある意味で郎次をヒーローのように見せていくのではないか、と僕は感じるのだ。具体的には触れないが、郎次が失墜するきっかけとなった背景には、郎次が知らされていなかったある商いがある。その商いのあまりの非道さに、それまで郎次に肩入れすることが出来ないでいた読者も、一転、郎次を応援する側に回るのではないかと思う。さらに郎次は、ほぼ時を同じくして、金以外の戦う理由を見出すようになる。それまでの郎次には、いかに金を稼ぐか、いかに邪魔者を排除するかという戦いしか存在しなかったが、ある時から郎次は、誰かを守るために戦いに挑むようになる。この転換が実に自然であり、また、それまでとは違う、戦いに挑む凄みみたいなものが滲み出もするのだ。

後半の戦いは、いやーそれはちょっと無茶でしょう!と言いたくなるような展開のオンパレードで、ある意味ではマンガっぽい感じもする。とはいえ、冒頭から抑制の利いた筆致で描かれる物語は、マンガのようなハチャメチャな展開でも軽くならずに、重厚感を保っている。ラストの圧巻のバトルは読み応え抜群だ。

<灰>と呼ばれる男とのエピソードもなかなか印象的だ。<灰>は郎次にコルトの使い方を教えた男だ。しかしそういうことよりも、暗黒の底で生きてきた者同士が醸し出す雰囲気とか、お互いが何を与え合うのかというような描写が興味深かった。特に、「おつな」と呼ばれる女とのエピソードなどは、ギリギリのところで結ばれている関係性という雰囲気を強く出していて、面白いと思った。

現代物の作品であれば「ノアール」というジャンルで括られるだろう雰囲気の作品だが、「ノアール」という枠にもすんなり収まる作品ではないと感じる。コルトM1851という拳銃の存在が非常に重要なピースとなって、ジャンルの枠にはまらない作品になっている。時代小説はちょっと…と思って手に取らないでいるとしたら是非読んで欲しいし、こういう風にしか生きられなかった男の悲哀を感じて欲しいと思う。

月村了衛「コルトM1851残月」

コードネーム・ヴェリティ(エリザベス・ウェイン)

内容に入ろうと思います。
第二次世界大戦中、イギリス特殊作戦執行部員の女性がスパイとしてナチスの捕虜になった。彼女は親衛隊大尉に、尋問をやめる代わりに、イギリスに関する情報を書くように強制される。そこには、親友である女性飛行士マディの戦場での日々が、まるで小説であるかのように綴られていた。彼女は一体、何故物語風に手記を書いたのか…。
というような話です。

この本は帯に、こう書いてあります。

【「謎」の第1部。
「驚愕」の第2部。
そして、「慟哭」の結末。】

この帯で面白そうだな、と思ったんですね。
でも、僕には何が「謎」で、何が「驚愕」で、何が「慟哭」なのか、よく分かりませんでした。なんか驚くような仕掛けがあるらしいんですけど、僕にはイマイチそれが何なのか分からないまま読み終えてしまいました。残念です。

僕的には、とにかく第一部の手記が、退屈に感じられました。読む人が読めば、戦時中における女性の友情の物語として面白く読めるんだろうけど、僕にはそういう部分への関心は薄かったし、第一部を「謎の前フリ」的な扱いでしか捉えていなかったので、面白くないなと思いながらもなんとか読んでいました。

けど、第二部に入っても、僕的には、何かが明らかになっていくような感じは全然しなかったんですね。結局、最後までよく分からないまま読み終えてしまいました。

個人的には、本書の何が「驚くようなこと」なのか、教えて欲しいなぁ、と思います。

エリザベス・ウェイン「コードネーム・ヴェリティ」

さよなら、ムッシュ(片岡翔)

内容に入ろうと思います。
森星太郎は、ろば書林という小さな出版社で唯一の校正係だ。日々、文字と格闘しながら間違いを探していく。27年間生きてきて、恋愛の経験はない。父親は元々おらず、母親は7歳の時に死んだ。星太郎は今、ずっとムッシュと一緒に暮らしている。
ムッシュは、コアラのぬいぐるみだ。母親が作ってくれたぬいぐるみで、母親が死んだその日から喋るようになった。周囲には、ムッシュが喋れることはもちろんひた隠しにしている。あれから20年間、星太郎はムッシュと共に生きてきた。
ある日星太郎はしゃっくりが止まらなくなってしまった。ムッシュも会社の人も、みんなで星太郎のしゃっくりを止めようと色んなことをしてくれるが、なかなか止まらない。休みの日、病院に行った星太郎は医者から、膠芽腫と診断された。母と同じ病気だ。
余命半年。
星太郎は、ムッシュと一緒に、死ぬまでにやりたいことをリストアップして、少しずつそれをやっていく…。
というような話です。

実際に僕は、死を突きつけられたことがないし、死を突きつけられた時にどう反応するのかは人それぞれだろう。僕は星太郎のように、そこまで大きく取り乱すこともなく、淡々と日常を過ごしていく感じは好きだ。僕も、実際にそうできるかはともかく、そうありたいと思う。

ムッシュという存在が、星太郎が死を迎えるまでの日々を支えていく、という過程はなるほど、という感じがした。ムッシュがいなかったら、星太郎はもっとずっと違った死の迎え方をしたことだろう。お互いに支え合っている存在がいるからこそ、死を突きつけられた時にただ崩れ落ちるだけにならなかったのだろう。

個人的には、「物語である」と主張するにはちょっと弱さを感じる作品だった。実際に、物語的にはさほど何か起こるわけでもないのに面白い作品、というのは存在するが、そういう作品は、文章や描写や思考が鋭かったりする。この作品は、そういう下支えするような何かがないまま、物語らしい物語がないまま終わってしまう、そういう印象を受ける作品だった。著者は映画監督らしいが、確かに映像でなら成立するかもしれない。綺麗な描写や印象的なカットを散りばめれば、美しい世界観として成立するような印象はある。

片岡翔「さよなら、ムッシュ」

でんでら国(平谷美樹)

『でんでら国の爺婆たちは、生き生きと生き、そして生き生きと死んでいく』

これは理想的だな、と思う。
もう少し具体的に書けば、「死の直前まで、自分に役割がきちんとある」ということが、人生の理想ではないか、と思う。

金があって時間があれば楽しい、なんて思ったことは、たぶん一度もない。金があって時間があっても、退屈なだけだ。金があって時間があるというのは、なんでもやりたいことが出来るということだが、同時にそれは、やらなくてはならないことが何もない、ということでもある。

そんな人生、面白くないだろうなぁ、という感じがする。

いくら金と時間があっても、自分がそこにいる意味を感じられなければ、どれだけ外面的に豊かな生活をしていようが、たぶん退屈だと思う。

とはいえ、そんなことは豊かになったから言えることでもある。食べるものを作り出すので精一杯だったような時代には、そもそも「自分がそこにいる意味」が云々などという話はまるで意味をなさないだろう。そんなことを考えている余裕なんてない、というのが正解のはずだ。

だからこそ、「でんでら国」の存在が、より一層凄みをもって感じられるのだ。

「でんでら国」には、爺婆しかいない。しかし彼らには、「自分がそこにいる意味」がきちんと理解されている。全員ではないが、少なくとも一つの共同体として共通の考え方が共有されていて、それが隅々にまで浸透しているのだ。

だからこそ、「生き生きと生き、そして生き生きと死んでいく」などということが実現されるのだ。

人生の最後に、自分がどんな役割を担うことが出来るか、あるいは自分に担える役割などないのか、それは晩年になってみるまで普通は分からない。しかし、「でんでら国」を有する大平村では、60歳になれば必ず「でんでら国」へと行き、そこで大事な役割を担うことが決まっている。それは、人生に張りを与える素晴らしい仕組みだなと思う。

「でんでら国」は、お上を欺くためという、後ろ向きな動機から生まれたものであることは間違いない。しかし、そうやって出来た「でんでら国」は、ある意味で桃源郷、理想郷としての性格を備えることになった。どれほどの理想がそこにあるのか―、それは本書を最後まで読むと理解できる。ある男のまさかの行動が、「でんでら国」がいかに素晴らしい環境であるのかを十分に理解させるのだ。

現代日本は、世界に先駆けて、超高齢化社会への道を進み続けている。そういう社会にあって、この「でんでら国」のような共同体のあり方は、何か可能性を示唆するものとして捉えられるべきではないかと思った。

内容に入ろうと思います。
幕末の東北、陸奥国八戸藩と南部藩に挟まれた大平村には、60歳を迎えた者は皆、すべての役職を解かれ、御山参りをする習わしがあった。御山参りとは、山へと分け入っていって二度と郷へは戻ってきてはいけない、というものだ。大平村のこの慣習は、姥捨てだとして近隣の村から嫌われていた。親の面倒を見なければ罰せられるという法律があったこともあるが、しかし近隣の村では飢饉になると、子どもを殺すのだ。そういう時代である。
善兵衛は、60歳となり、<知恵者>としての役割も終え、御山参りへと向かうことに決めた。<知恵者>とは、「あっち」と呼ばれている「でんでら国」の問題を解決するための役職であり、善兵衛は若い頃から「でんでら国」の秘密を知っていた。大平村の者は、60歳を超えると山に入るが、姥捨てとはまったく違い、山奥にある「でんでら国」で新しい生活が始まるのだ。そこでは開墾された土地で米が作られており、飢饉の折には大平村を助けたりもしている。
一方、外館藩の別段廻役(犯罪人を捕らえる役人)である船越平太郎は、代官の田代から内密に頼みたいことがあると言われた。それが穏田探しだ。事情はこうだ。外館藩は南部藩から内々に御用金の調達を命じられた。しかし、そんな金はない。そこで穏田だ。申告せずに開梱した田んぼで米を作っていれば死罪、という時代だ。穏田を見つけ、税を取り立てて御用金に充てようというのだ。
しかし穏田があるという確信があるわけではない。しかし田代には、気になっていることがある。5年前の大飢饉の際の大平村の振る舞いだ。他の村が損耗を届け出たのに対し、大平村だけはすべてきっちりと支払っているのだ。いくら棄老しているとはいえ、それだけでは説明の付かない額だ。
大平村には穏田があるはずだ。それを探し出せ…。平太郎に課せられたのは、そんな任務だった。
穏田を隠し持つ大平村、そして「でんでら国」と、穏田を見つけ早急に金を作らねばならぬお上との知恵比べが始まる!
というような話です。

これは面白い話だったなぁ!全然期待しないで読んだんですけど、時代小説が苦手な僕でもスイスイ読めたし、最後まで話がどう展開していくのか分からないワクワク感みたいなものが続きました。

しかし、まずは設定が実によく出来ている作品だなと思いました。実際に「でんでら国」みたいな共同体があったのか、つまり、本書で描かれていることが史実を元にしているのかどうか、僕には分からないのだけど、こういうことがあってもおかしくはない、と思いました。棄老をしていると疎まれている村が、実はあらゆる工夫をして全員がいかに幸せに生き死んでいくかを考えている、という舞台設定は、実に魅力的です。冒頭でも書いたけど、恐らく当初は、村を健全に存続させるための苦肉の策だったのだろうと思うのだけど、それが結果的に理想郷を生み出すことになった、という流れも、よく出来ているなと思います。

普通にしていればその存在すら気づかれなかったはずの「でんでら国」が何故気づかれたのか。それが、郷を救うために「ちょっとやりすぎてしまった」から、というのも面白い。他の村が年貢を払いきれないのに、大平村だけは満額払う。棄老しているからだ、という説明で納得しなかった慧眼の持ち主によって見抜かれてしまった、という流れはいいですね。

そして何よりも、「でんでら国」の面々と別段廻役たちとのバトルは、素晴らしい!という感じでした。お互いが知恵比べのような形でやり合うんだけど、普通に考えればどう考えても農民側が不利です。この当時、農民の地位はとても低く、お上に楯突くなど持っての他という時代。お上の権力が圧倒的に強いために勝負にならないようにも思うのだけど、これがそうでもない。互角の勝負を繰り広げるんですね。このパワーバランスも実によく考えられていて良いと思います。どちらも、ギリギリのラインまで知恵や力を振り絞って、それで互角、というこの戦いぶりがとても良くできている。

権力ではお上の方が圧倒的に強いのだけど、「でんでら国」の強みは、「でんでら国」を長い間気づかれずに運営してきた歴史と知恵にある。あらゆる可能性をあらかじめ考えておいて、それぞれに対してきちんと準備をしている。だからこそ、不可能とも思える戦いに善戦することが出来るのだ。

また、「でんでら国」の面々は、自分たちのことを「一度死んだ人間」だと捉えている。彼らは60歳になって山に入った時点で死人となっているのだ。一度捨てた命なのだから、という感覚が、彼らの内側にずっとある。だから楽天的でいられるし、世間の常識を無視することも出来る。新しい「当たり前」の中で生きることが出来るのだ。

お上と農民の戦いは、時を経れば経るほど予想もつかない展開になっていき、最後はンなアホな!っていう流れになっていくんだけど、それが周到に準備された計画だったということが非常に面白いと思う。お上を敵に回す農民が使える武器は「知恵」しかない。その知恵を最大限振り絞ってやれるだけのことはやりきる、という姿勢が面白い。

冒頭でも書いたように、「でんでら国」に住む面々には、そこにいる意味がある。死の間際まで、その意味を感じながら暮らすことが出来る。金銭的な意味でも確かに豊かな共同体なのだけど、それ以上に、彼らが得た豊かさというのは、簡単には生み出すことが出来ない、歴史のいたずらが生み出したものなのだろうな、と思う。

平谷美樹「でんでら国」



隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働(ルトガー・ブレグマン)

『初めに少しばかり歴史の授業を。
そう、昔は、すべてが今より悪かった。
ほんのつい最近まで、ほとんどの人は貧しくて飢えており、不潔で、不安で、愚かで、病を抱え、醜かった、というのが世界の歴史の真実である』

そんな一文から本書は始まっている。本書には、様々なデータが載っており、過去と現在との比較によって、現在がいかに豊かになったのか、ということが明らかにされる。
しかし、そんな豊かな時代に、足りないものがある。

『ここでは、足りないものはただ一つ、朝ベッドから起き出す理由だ』

『わたしたちは有り余るほど豊かな時代に生きているが、それは何とつまらないことだろう。フクヤマの言葉を借りれば、そこには「芸術も哲学もない」。残っているのは、「歴史の遺物をただ管理し続けること」なのだ』

あぁ、分かる、と感じる人は多いだろう。様々な指標から、現代人は豊かだと示されている。しかし、まさにその世界に生きる僕ら現代人には、その計り知れない豊かさに感動を覚えない。GDPが増えているので景気は上向いています、と言われても、大半の国民がそれを実感できない、というのと同じような話だろうか。違うだろうか。
ともかくも、僕たちは、豊かではあるのだけど、幸せだという実感が持てないでいる。
ユートピアを思い描くことが、出来ないのだ。

『ユートピアがなければ、わたしたちは進むべき道を見失う。今の時代が悪いと言っているのではない。むしろその逆だ。けれども、より良い暮らしへの希望が持てない世界は、あまりにも寂しい』

『この時代の、そしてわたしたち世代の真の危機は、現状があまり良くないとか、先々暮らしぶりが悪くなるといったことではない。
それは、より良い暮らしを思い描けなくなっていることなのだ』

そこで本書では、豊かになりすぎた現代人に、僕らの未来にあるはずのユートピアを描き出す。それが本書の最大の目的だ。

『そもそも、このアイデアを世間に真剣に受け止めてもらうことからして非常に難しいのだ。わたし自身、それを痛感した。この三年間、わたしはユニバーサル・ベーシックインカム、労働時間の短縮、貧困の撲滅について訴えてきたが、幾度となく、非現実的だ、負担が大きすぎると批判され、あるいは露骨に無視された』

著者が提唱することは、確かに無謀に思える。現代に生きる僕たちには、無理なんじゃないか?と思えてしまうようなものだ。しかし、巻末の解説の文章が僕らに、著者の提案が現実のものになる可能性を与えてくれるのではないかと思う。

『「週十五時間労働、ベーシックインカム、そして国境のない世界」。いずれも、夢物語としか聞こえないという批判と無視と沈黙の中で、ブレグマンは言う。
奴隷制度の廃止、女性参政権、同性婚…。いずれも、当時主張する人々は狂人と見られていた、と。何度も、何度も失敗しながらも、偉大なアイデアは必ず社会を変えるのだ、と』

確かに、本書は、その可能性を与えてくれる一冊だ。
アイデアは、アイデアだけでは現実に影響を与えることはないし、何も変えはしない。アイデアに賛同する者がどれだけいて、さらにそのアイデアに沿った行動をする者がどれだけいるかが重要になってくる。そういう意味で、本書で描かれていることを「ユートピア」だと感じられる人にとっては、本書を読むことはその実現を加速させる一助になる、と言えるだろう。読んでその実現を信じることが、新しい世界の扉を開く鍵となるだろう。何よりもまず、荒唐無稽だと思わずに著者の主張に耳を傾けるべきである。

著者が主張していることは、大きく分けて三つある。

◯ユニバーサル・ベーシックインカム
◯労働時間の削減
◯国境の解放

そしてこれらに絡めて、他の話題も登場する。例えば、労働時間の削減は、積極的な施策としても有効だが、今まさにAIによって人間の仕事が奪われているという状況があり、外的要因からそうならざるを得ない、という状況でもあるのだという話。また、上記3つは人間生活に豊かさをもたらすのだ、ということが様々な実験などで証明されているのだが、じゃあそもそもその「豊かさ」とはどう図られるのか、GDPの正体は一体何なのだ、という話。あるいは、ベーシックインカムや労働時間の削減によって、人類は過剰な余暇を手にすることになる。その余暇にどう向き合うのかというのが、今後人間が向き合うべき最大の危機なのだ、という話。そういう様々な方向に話が繋がっていく。しかしここでは、この3つをメインで取り上げていこうと思う。

ユニバーサル・ベーシックインカムというのは、簡潔に言えば、「すべての人に一定の金額を直接渡す」というものだ。全国民に、例えばひと月に10万円なりを無条件で支給する、という仕組みだ。使い道を限定しないフリーマネーを、アルコール中毒の人やニートにもあげる、というものだ。

ベーシックインカムの議論は前からあるが、僕はその細かな内容を知らなかった。ベーシックインカム、と聞く度に、そんな膨大なお金がどこから生まれるのだろう?という疑問が先に生まれ、それ以上思考してみることがなかった。

しかし様々な実験によって、フリーマネーを与えることが貧困の撲滅にとても有効な手段であることが明らかになっていった。

『すでに研究によって、フリーマネーの支給が犯罪、小児死亡率、栄養失調、十代の妊娠、無断欠席の減少につながり、学校の成績の向上、経済成長、男女平等の改善をもたらすことがわかっている』

これは僕たちの直感に反する結論に思える。
これまで様々な社会実験が行われてきた。その多くは、貧困層を対象としたものだ。貧困層に、なんの目的で使ってもいいお金を渡したら、酒やギャンブルなんかに使ってしまうのではないか…。

『貧しい人々がフリーマネーで買わなかった一群の商品がある。それは、アルコールとタバコだ。実のところ、世界銀行が行った大規模な研究によると、アフリカ、南アメリカ、アジアで調査された全事例の82%で、アルコールとタバコの消費量は減少した。
さらに驚くべき結果が出た。リベリアで、最下層の人々に200ドルを与える実験が行われた。アルコール中毒者、麻薬中毒者、軽犯罪者がスラムから集められた。三年後、彼らはそのお金を何に使っていただろう?食料、衣服、内服薬、小規模ビジネスだ。「この男たちがフリーマネーを無駄に使わないのだとしたら」、研究者の一人は首をかしげた。「いったいだれが無駄に使うだろう?」』

僕たちの直感には、「貧しい人々は怠惰だ」という思い込みが横たわっている。日本でもよく起こる議論だ。ホームレスや生活保護受給者は怠けている、というような。当然、そういう人間もいるだろう。しかし、少なくとも、これまでに行われてきた様々な実験は、「貧しい人々は怠惰だ」という思い込みを覆す結果を導きだしてきた。

『貧しい人々は、フリーマネーを受け取ると、総じて以前より仕事に精を出すようになる』

他にもこのベーシックインカムには、様々な懐疑の目が向けられるのだが、過去繰り返されてきた実験からは、概ね良い傾向しか見られないようだ。

貧しい人々に対してはこれまで、教育や現物支給などという形で、膨大なお金を費やした様々な支援が行われてきた。しかし、それらがうまく効果を生み出さないのは、大きく二つの理由がある。

一つは、貧しい人々は、貧しいという理由でまともではいられない、という理由だ。

『貧困とは、基本的には現金がないことだ。愚かだから貧困になったわけではない』

『(他の様々な教育や施策が効力を持つためには)まずは、彼らが貧困線を越えなければならないのだ』

『では、具体的に、貧困はどのくらい人を愚かにするのだろう。
「その影響は、IQが13から14ポイント下がるのに相当した」とシャファーは言う。「これは、一晩眠れないことやアルコール依存症の影響に匹敵する」』

貧困であるが故に尽きない悩みに思考が取られ、長期的な視野が持てなくなってしまうことを「精神的バンドウィズ」と呼ぶようだ。貧しい人々にどんな教育を与えようが、まずはこの「精神的バンドウィズ」を越えなければどんな支援も意味をなさないということなのだ。

そしてもう一つは、もっとシンプルだ。

『「それに、実を言えば、貧しい人々が何を必要としているかが、ぼくにはよくわからなかった」。フェイは人々に魚を与えたわけではなく、魚の獲り方を教えたわけでもない。彼は、貧しい人々が何を必要としているかを本当に理解しているのは、貧しい人々自身だという信念のもと、彼らに現金を与えたのだ』

これを読んで、祖父母からのプレゼントを連想した。僕自身は、祖父母からどんなものをもらったのかという記憶はあまりないのだが、祖父母が孫に何かプレゼントをするという時に、相手側の需要を理解しきれずに結果的に不要なものを与える、という状況はよく起こるだろう。それよりは、お金をもらって好きなものを買った方がいい。まあ、プレゼントの場合は気持ちが大事だから、お金で、というのは身も蓋もないわけだが、支援なら、より効果のある方法を選択すべきだろう。

さてここまででベーシックインカムについてあれこれ書いてきた。しかし、おや?と思った方もいるだろう。今僕が書いてきたことは、貧困をベーシックインカムによって改善出来る、という話ではないか、と。ユニバーサル(すべての人への)ベーシックインカム、と言っておきながら、すべての人にどんな恩恵がもたらされるのか分からないじゃないか、と。

まあそれはその通り。しかしそれはある意味で仕方ないことだ。なぜなら、無条件ですべての人にベーシックインカムを与える、などという実験は、人類史上行われていないのだから、それを実現した時に何が起こるのかという話は、予想の域を出ない。

しかし、だからと言ってここまでの話が無駄になるわけではない。何故なら、研究によってこういうことが証明されているからだ。

『しかし、おそらく最も興味をそそられる発見はs,不平等が大きくなり過ぎると、裕福な人々さえ苦しむことになることだ。彼らも気分が塞いだり、疑い深くなったり、その他の無数の社会的問題を背負いやすくなるのだ』

『(オランダが行った、すべてのホームレスに家を無償で提供するという実験について)これは大成功を収めた。ほんの数年で、大都市の路上生活者の問題は65%解消した。薬物使用は半減した。恩恵を受けた人々の精神面と身体面の健康は著しく改善し、公園のベンチはついに空っぽになった。2008年10月1日までに、約6500人のホームレスが路上からいなくなった。そして、なによりも、(無償で家を与える施策を行い、これまで行ってきた路上生活者に対する様々な対策を講じる必要がなくなったことによって)社会が得た経済的利益は、投入した金額の2倍にのぼった』

僕たちは、自分たちが「貧しい人々」でなかったとしても、社会の中に「貧しい人々」がいることによって、何らかの形でマイナスの影響を受けている。直接的な影響もあるだろうし、間接的には、「貧しい人々」に何らかの対策をするための費用が税金から賄われている、という部分もある。様々な実験によって、「貧しい人々」に何らかの対策を施す費用よりも、直接お金を渡す方が、遥かに安上がりだ、ということが分かってきている。貧困を解消することは、貧困層にいない人にも良い影響を与えるのだ。

しかし、

『スティーンズランドに言わせれば、今日、すべてのアメリカ人へのベーシックインカムという考えは、「過去において、女性の参政権や人種的マイノリティの平等を求めるのが非常識とされたように」、到底考えられないことと見なされている』

らしい。これには、ニクソン大統領の影響も大きく関わっている。ニクソン大統領は1969年に、すべての貧困家庭に無条件に収入を保障する法律を成立させようとしていた。しかしその過程で、様々な行き違いがあり、結果ニクソン大統領の言動が、ベーシックインカムへの嫌悪感を植え付けることになったのだ。

この本を読めば、ベーシックインカムへの考え方が大きく変わるのではないかと思う。

さて次は、「働く」ということについて著者が何を言っているのかを見ていこう。このテーマに関しては、いかに労働時間を減らすか、労働時間を減らすと生産性が上がる、労働時間の減少による余暇の増大への対処など、様々な切り口があるのだが、僕が面白いと思ったのは、価値を生み出さない職業についての話だ。

『奇妙なことに、最も高額の給料を得ているのは、富を移転するだけで、有形の価値をほとんど生み出さない職業の人々だ。実に不思議で、逆説的な状況である。社会の繁栄を支えている教師や警察官や看護師が安月給に耐えているのに、社会にとって重要でも必要でもなく、破壊的ですらある富の移転者が富み栄えるというようなことが、なぜ起こり得るのだろう?』

『富の移転者』として著者が挙げているのは、ロビイスト・ソーシャルメディアのコンサルタント・テレマーケター・高頻度トレーダーなどである。銀行業務の一部も、富の移転でしかない、と著者は言う。

この「価値の創造」と「富の移転」の対照的な話として、ニューヨークのゴミ収集作業員とアイルランドの銀行員の話が出てくる。

ニューヨークのゴミ収集作業員は1968年に一斉にストライキを行った。ニューヨークの全市で、ゴミの回収がストップしたのだ。二日後、街はすでに膝の高さまでゴミに埋もれていた。ストライキから9日目、ついに市長は折れた。積み上がったゴミは10万トンにも上った。このストライキのお陰なのかどうか、本書でははっきりとは書かれていないが、現在ではニューヨークのゴミ収集作業員は人もうらやむ報酬をもらう、誰もがなりたがる職業になっているという。

一方、アイルランドの銀行員は1970年にストライキを行った。一夜にして、国内の支払準備金の85%が動かせなくなった。学者たちは、『アイルランドでの生活は行き詰まると予測した。まず現金の供給が枯渇し、商業が停滞し、ついには失業が爆発的に増える』という風に見ていた。しかし、結果的には、何も起こらなかった。銀行は半年間ストライキを続けたが、日々の生活にほとんど悪い影響はなかった、というのだ。

実に印象的なエピソードだと思った。

そして、こういう仕事の違いを踏まえた上で、著者はこんな風に問いかける。

『(高給だが富を移転するだけの職に就く)これらすべての才能が、富の移動ではなく、富の創造に投資されていたらどうだろう。わたしたちはとうの昔に、ジェットバック(背負ったジェット噴射で飛ぶ器具)を作り、海底都市を築き、がんを治療できていたかもしれない』

なるほど!と感じる指摘だった。確かにその通りかもしれない。有能な人材が、価値を生み出すのではなく、富を移転させるだけの仕事しかしていないから、思ったほど世の中は変わっていないのかもしれない。

『銀行が1ドル儲けるごとに経済の連鎖のどこかで60セントが失われている計算になる。しかし、研究者が1ドル儲けると、5ドルから、往々にしてそれを遥かに上回る額が、経済に還元されるのだ。(中略)
簡単に言えば、税金を高くすれば、有益な仕事をする人が増えるのだ』

有能な人間は、有能であるが故にどんな仕事にでも高い適性を示すだろう。であれば、より給料の高い職業に就くのが当然と言えば当然だ。しかし今の世の中では、「価値の創造」をする者より、「富の移転」をする者の方が給料が高い。であれば、有能な人材が「富の移転」に流れていくのは当然だといえるだろう。著者の、『税金を高くすれば、有益な仕事をする人が増えるのだ』というのは要するに、給料が高くてもその分税金も多く持って行かれるのだとすれば、「価値の創造」に流れる人が増えると期待できる、という意味だ。

著者は、教育にも目を向ける。現在の教育現場を著者こう見ている。

『すべての中心にあるのは、以下の疑問だ。―明日の求人市場、つまり2030年の市場で雇用されるために、今日の学生はどのような知識とスキルを身につけるべきか?
だが、それは、まさしく誤った問いなのだ。』

日本でも、産業界の要請によって、大学が職業訓練校のような立ち位置に成り下がっている、というような指摘がなされることがある。社会に出て即戦力となるような教育を産業界は大学側に求めているのだ。そして大学側も、就職率を高めるために、産業界からのそういう要請に応えようとする。
しかし、それはまさしく誤った考え方だと言えるだろう。

『そうならないために、わたしたちはまったく異なる問いを提示しなければならない。それは、2030年に、自分の子どもに備えていてほしい知識とスキルとは何か、というものだ。(中略)あれやこれやのくだらない仕事で生計を立てるために何をなすべきかではなく、どうやって生計を立てたいかを考えるのだ』

そして、その問いに答えることは、結局、どう生きるかを考える、ということなのだ。

『今世紀のうちに全ての人がより豊かになることを望むなら、すべての仕事に意味があるという信条を捨てるべきだ。合わせて、給料が高ければその仕事の社会的価値も高いという誤った考えを捨てようではないか』

この指摘は、自分の働き方を考えるきっかけになるのではないかと思う。

最後に、移民の問題について触れて終わろう。

トランプが大統領になって以降、自国ファースト、移民排斥の流れがより強くなったと感じられるようになった。移民を受け入れることは、自国民の仕事を奪うことに他ならないし、テロなどの無用なリスクも抱え込むことになる、という考え方がどんどんと広まっている。しかしこれに関しても様々な実験や検証が行われており、移民に対する様々なマイナスイメージは杞憂であり、移民を受け入れることで結果的に自国が豊かになる、ということが分かってきているのだという。

例えば、移民は仕事を奪うと思われているが、実際には雇用は増えるのだという。移民が増えることで消費も需要も増え、結果的に仕事の数が増えるからだ、と言う。移民により国内労働者の収入は微増するし、国境を開くことで移民は逆に母国へ帰還するようになるという。国境警備に大金を費やすより、積極的に移民を受け入れるべきだ、と著者は主張する。

『先進国全てがほんの3%多く移民を受け入れれば、世界の貧者が使えるお金は3050億ドル多くなると、世界銀行の科学者は予測する。その数字は、開発支援総額の3倍だ』

もちろん、良い事づくしというわけには行かないだろうが、どんな選択にもメリットとデメリットがある。移民を受け入れないという選択にも当然デメリットはあり、その比較によって判断されるべきだ。少なくとも本書は、移民受け入れのメリットと多少のデメリットを提示している。移民受け入れを反対する側は、同じようにして反論しなければ説得力を持たないだろう。

『誤解しないでいただきたい。豊穣の地の門を開いたのが資本主義であるのは確かだ。だが、資本主義だけでは、豊穣の地を維持することはできないのだ。進歩は経済的繁栄と同義になったが、21世紀に生きるわたしたちは、生活の質を上げる別の道を見つけなければならない。』

お金、労働、貧困、国境など、様々な問題に対して世界中の人間が考えなければならない問いを著者は突きつけ、著者なりの考え方を示した。あなたは著者が提示する問いに、どんな答えを頭に浮かべるだろうか?

ルトガー・ブレグマン「隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働」

食堂のおばちゃん(山口恵以子)

内容に入ろうと思います。
本書は、5作の短編が収録された連作短編集です。
まずは全体の設定から。
佃の大通りに面した「はじめ食堂」は、昼は定食屋、夜は居酒屋を兼ねる、下町の店だ。今店を切り盛りするのは、この店を始めた一(にのまえ)孝蔵の妻である一子(いちこ)だ。創業当初は本格的な洋食屋だったが、孝蔵が亡くなったのを期に、彼らの息子である高と一子が家庭料理を出す店に切り換えた。高は商社で働いていたが辞め、定食屋のオヤジになったのだ。
そんな高と結婚したのが、デパートで衣料品のバイヤーとして頭角を表していた二三(ふみ)だ。最初は店主と客という関係だったのだが、家庭料理を出す店の雰囲気に惹かれた二三の方から嫁になると立候補したのだった。
その後、高が若くして亡くなり、それを期に二三は仕事を辞め、「はじめ食堂」で働くことになった。今では一子と二三の二人が店を切り盛りしている。

「三丁目のカレー」
佃は高層マンションが立つ土地柄でもあり、金持ちが多い。「はじめ食堂」の常連は、基本的にはこの土地に古くから住む者が多いが、高層マンションに住んでいるだろう住人も時々やってくる。
藤代誠一もそんな一人だ。IT企業のオーナーであり、何故か頻繁に「はじめ食堂」で食事をしていく。また、モデルだろうと思われる美人(火曜によく来るので「かよ子」と呼ばれている)が、落ち込んだような顔をしてやってくることもある…。

「おかあさんの白和え」
常連の後藤さんの姿がしばらく見えないと、ちょっとした騒動になる。後藤輝明は警察を定年退職した後、警備会社に再就職したが、去年奥さんを亡くした後で退職し、今は一人暮らし。出不精でほとんど家から出ないはずなのに、郵便受けに郵便物が溜まっているというのだ。もしかして家で倒れているんじゃ…。

「オヤジの焼き鳥」
「はじめ食堂」の近くにある、こちらも古くからやっている「鳥千」という焼き鳥屋は、ちょっとした問題を抱えている。息子の進一は、料理学校を卒業後海外で修行し、青山のイタリア料理店の料理長に就任した。しかし、オーナーが事業に失敗し閉店、父親が経営する焼き鳥屋に戻ってきたのだが、この店を小洒落たリストランテにしたい、と言っては親と揉めているらしい…。

「恋の冷やしナスうどん」
一子が怪我をし、常連客であり仕事が長続きしない赤目万里を雇ってみることにした。これが大正解で、居酒屋でのアルバイト経験があることもあって、なんでも器用にこなしていく。
一方で、少し前に店にやってきた大食い青年に、二三の娘である要が入れあげているという。二三は、かつて自分も同じ状態になったことを思い出し、要が入れあげている男への恋心が不毛であることを悟っているが…。

「幻のビーフシチュー」
かつて、孝蔵に大変世話になったと語る不動産会社の経営者である平大吉は、かつて食べた孝蔵のビーフシチューをもう一度食べたいと言ってやってきた。しかし、既に往時の店はなく、ビーフシチューも「はじめ食堂」のメニューからは無くなっている。それでも一子は、亡き夫のレシピを見ながら再現してみると誓うが…。

というような話です。

なかなか面白く読ませる作品でした。
ストーリーそのものはそこまで大したことはないんだけど、常連を含めた「はじめ食堂」の雰囲気みたいなものがなかなか良かったですね。料理が美味しそうなのかどうか、食に興味のない僕にはイマイチ判断が出来ないんだけど、細々とでも長く続けていくための細かな工夫は面白いなと思うし、何よりも、ご飯を食べさせることが好きなんだろうな、と感じさせる一子と二三の雰囲気もいいなと思いました。

高級なお店もいいけど、ミシュランで星がつくわけでも、行列が出来るわけでもないけど、そこで生活している人にとってなくてはならない場所である、ということは大事なことなんだろうな、と思いました。目立たないけど、大事な役割を果たしているんだな、と。

僕にはなかなかそういう場所がないけど、あったらいいなと思いました。

山口恵以子「食堂のおばちゃん」

三つの悪夢と階段室の女王(増田忠則)

人はそれぞれ違うから面白い、と僕は思う。
自分が考えていること、思っていることが、誰かにそのまま伝わる、というのは、あまり面白くないと思ってしまう。
食い違いがあり、分かり合えず、共感できない部分がある。そういう他人がいるからこそ人生は面白いし、そういう多様性が社会を生み出している、と思っている。

多様性がきちんと社会の中で機能していた時代は、過去のものになってしまった、という風に最近思う。
今でも、多様性そのものは存在している。人間同士に差があり、おのおのが違いを持っていることは同じだ。しかし現代は、ネットのお陰で、より近い者同士が簡単に出会うことが出来るようになってしまった。人間同士に差があり、その差が多様性を生むはずなのだが、似たような人間が簡単に集まれるようになってしまったことで、小規模な集団の中での多様性は恐ろしいほど消えている、と僕は感じている。小規模な集団同士は、それぞれがほとんど孤立しているような状況で、関わり合いが薄い。社会全体で見れば多様性が存在しているはずなのに、似たような者同士が小規模な集団を作って固まっているが故に、多様性が社会の中できちんと機能しなくなってしまっていると思うのだ。

だからこそ、本書のような物語が成立し得るのだ、と僕は思う。

一昔前であれば、本書のような物語はそもそも成り立たなかっただろう。社会の中で多様性が機能しない、というのはつまり、人間同士にあって当然の差や違いが、許容されにくくなっている、ということを意味している。小規模な集団の中では差や違いが極端に平坦化されてしまっているが故に、自分たちとちょっとでも違う存在を許容する度合いが低くなってしまっているのだ。だからこそ、他人の行動を簡単に排除したり無関心でいたりすることが出来る。そういう前提が、この物語には横たわっているのだと僕には感じられる。

自分(そして自分と価値観を同じくする者たち)以外の人間はすべて異質なもの。異質だから無関係だし、どうでもいい。そういう力の強さを、きっと多くの人が感じ取りながら、時にそれを利用し、時にそれに呑み込まれながら日々を過ごしているのだと思う。そういう人たちには、もしかしたらこの物語の「怖さ」は、本当には理解されないのかもしれない、という風にも思う。

冒頭の「マグノリア通り、曇り」に登場する野次馬たち。彼らは、人が死ぬかもしれないという現実を目の前にして、自分(そして自分と価値観を同じくする者たち)には無関係だと思えるから、まるで虫でも殺すかのように無感情に暴言を吐く。それはとても恐ろしいことなのだ、という感覚が、もしかしたら通じない世の中になっているのかもしれない、という風にも思う。もしそうだとしたら、その現実の方こそが、この物語以上に恐ろしく感じられてしまう。

内容に入ろうと思います。
本書は、4編の短編を収録した短編集です。

「マグノリア通り、曇り」
斉木は、娘の理央が帰ってこないという妻から連絡の直後、知らない男からの電話を受け取った。間宮、と名乗ったその男は娘を預かったと言い、斉木をS駅前のマグノリア通りへと向かわせた。斉木は男からの電話で三ヶ月前の出来事を思い返していた。屋上から飛び降りようとしていた男と、その男に暴言を吐き続けた野次馬たち。そして、自分がした行動…。間宮と名乗る男は言った。少々恐怖を味わっていただきます、と…。

「夜にめざめて」

タカハシはパン工場の夜勤アルバイトをしている。弁護士を目指し大学受験をしたが失敗。浪人したが、無意味さを覚えて結局進学しなかった。ニートだった時期を経て、やっと一念発起し、アルバイトを始めた。そのタカハシの元に、刑事がやってきた。今市内で頻発している通り魔に関してだ。タカハシは、自分が疑われているのだ、と察した。
理由はなんとなく分かっている。同じ団地に住む、あの親子だ。些細なことが積み重なって、その親子からタカハシは嫌悪されている。タカハシは決して悪いことはしていないのだが、その親子が悪口を言いふらしているようだ。ニートだった時期がある、というのも、思った以上にマイナスであるようだ。何もしていないのだから気にすることはないのだが、今度は、通り魔事件をきっかけに生まれたという、市民による自警団からの監視も始まり…。

「復讐の花は枯れない」
バイクに載っていた沢井は、道に張られたロープに気づいて速度を落とした。沢井の首を狙っているかのような高さだ。息子の涼介に始まって、妻、そして自分と不審な出来事が続いている。沢井はここに至ってようやく、自分とその家族が狙われているのだ、と認識する。
沢井には心当たりがあった。あったが、しかしそれが現実のものとも思えない。25年前、高校生だった頃の話だ。まさか、という思いもある。しかし、あの時のあの男が、あの時言ったことをそのまま実行しているのだとしたら…。

「階段室の女王」
私は18階建てのマンションの12階から階段で下に降りている。レンタルショップに行くためだ。そして、8階と9階の間で、倒れている女性を発見した。救急車を呼ぶのはめんどくさい、と思った。なんとか見なかったことに出来ないか―。そうあれこれ画策している最中に、倒れている女性が誰なのか分かった。同じ階に住む女だ。その女は、いつも着飾っていて、野暮ったいダサい格好をいつもしている私を嫌っている。あの女か。じゃあなおさら救急車を呼ぶ必要はないか。
そう思いかけた時、階上から音が聞こえた。誰か来る。とりあえず、階段は使わなかった、という状況をうまく作り出すために私は動き始めるが…。

というような話です。

なかなか面白い作品でした。悪意全開、という感じの作品で、冒頭でもあれこれ書いたように、非常に現代的だなと感じました。悪意の発露のされ方が、ということです。もちろん、人間は昔からこんな風に悪意を表に出していたと思うけど、他人への無関心さ、みたいなものがより多大に入り混じっていくことで、一昔前だったら受け入れられなそうな物語が成立している、という風に感じました。

現代は、靴を踏まれたから、みたいな理由で人が殺されたりする時代でだ。行為者にはそれぞれの論理があるのだろうけど、その論理が共有できない、という感覚は、様々な形で日常的に感じている。この作品は、さすがに物語である以上、理解不能な行動原理、というところまで踏み込んで書くことは難しいのだろうけど、とはいえ、自分の内側にその感覚はない、と感じるような行動や価値観が出てくる場面も多いのではないかと思う。そういう違和感を与える行動や価値観を、なんとか上手いこと物語の中に落とし込んで読み物に仕上げている、という部分は、新人作家ながらなかなかの豪腕、という感じがしました。

とはいえ、個人的には不満もある。
この物語は、どの話も、物語が閉じた後にこそ、本当の物語があるように感じられてしまうということだ。つまり、僕の感覚としては、どの短編も「中途半端なところで終わっている」という感じがする。

もちろんそれは、著者が意図的にやったことなのかもしれないが、そこで物語が終わったような気がしない、というのはちょっともったいない気もする。物語はどれも、誰かが一線を越えてしまった直後に終わる、という感じだ。そこで物語を切るからこそ、後味の悪さみたいなものが倍加する、と考えることも出来るが、僕としては、長編小説の冒頭部分だけを読んだ、という感覚の方が強く出た。どの話も、物語としての本当の結末はもう少し先にあるのではないか、そういう物足りなさを拭えないままどの話も読み終えた。この物語の閉じ方が正解なのかどうかは、難しい判断ではないかなという気がする。

もう一つ。これは完全に僕の勘違いで、作品そのものに非があるわけではないのだが、タイトルから僕は一つの予想をしていた。本書のタイトルは「三つの悪夢と階段室の女王」だが、僕はこのタイトルから、最初の三つの話が、最後の「階段室の女王」という作品によって繋がる構成なのだ、と勝手に思ってしまった。前述した通り、どの短編も、僕の感覚では「中途半端なところで終わっている」と感じられたのも、その思いつきを補強した。最初の三つの短編は、物語としてはきっとまだ閉じていなくて、最後の「階段室の女王」で、三つの物語の繋がりが示唆され、本当に物語として閉じるのだろう、と。しかし、結果的にはそういう構成ではなかったので、勝手に予想をしていただけなので言いがかりなのだが、ちょっとがっかりした部分があった。

些細な悪意がちょっとしたすれ違いからどんどんと巨大になっていき、最終的に予想もしなかった帰結を導く、という話はよく出来ていると思ったし、ある種の読後感の悪さも、この作品の良さになっているのだと思う。

増田忠則「三つの悪夢と階段室の女王」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)