黒夜行

>>本の中身は(2017年)

崩れる脳を抱きしめて(知念実希人)

内容に入ろうと思います。
神奈川の葉山にある富裕層向けの超高級病院で研修を行うことになった碓氷蒼馬は、28歳にしてグリオブラストーマという最悪の脳腫瘍を患った女性を担当することになった。名字ではなくユカリと呼んで、と語るその女性は、もはや手術が不可能であり、脳内に爆弾を抱えたままいつ破裂するか分からない状態で病室にいる。
蒼馬は、浮気して出奔した父のせいで極貧の生活を余儀なくされた。まだ借金も多く残っており、それもあって、アメリカで心臓外科医になることを目標にしていた。とにかく、稼げるようにならなければならない。そのために寸暇を惜しまずに勉強していたのだが、あてがわれた部屋の室外機が殊の外うるさく、ひょんなことからユカリさんの病室で勉強をすることになった。
これまでほとんど誰にも話したことのない父の話などをユカリさんに話す内に、二人は次第に打ち解けていく。とある事情により病室から出られないと思っているユカリさんと、父と金という呪縛から逃れられない蒼馬。二人は患者と医師という関係を越えて、お互いの存在に惹かれ合っていく。
二人は心を通わせながら、少しずつお互いを溶かしていく。ユカリさんは外に出られないという思い込みを捨て、蒼馬は父の出奔の原因を探る勇気を得た。
やがて蒼馬の研修期間が終わり、別れの時を迎えるが…。
というような話です。

全体的には、悪くはないなぁ、という感じの作品でした。ただ、どうもイマイチのめり込めない。何でだろうなぁ、と考えている中で、こんなことを考えた。

この物語は、あるべき答えに向かって進んでいるんだろうなぁ、と感じてしまったからではないか、と。
これはちょっと説明が難しい。

別にこれは、ラストどうなるのか早い段階で分かった、という意味ではない。そういう話をするのであれば、確かにところどころ不自然さを感じる部分があり、なんとなくそういう感じなのかな、と思いながら読んではいたのだけど、しかしそれがイマイチな理由ではない。

僕の中で、物語を読んでいる時は比較的、その描写が行われている『今』だけに焦点を当てている。先がどうなるのか、みたいなことはあまり考えずに、今その場面がどうなっているのか、という部分をメインで捉えている。

ただ本書の場合、『今』ではなく、物語が進んでいく『レール』に焦点が当たってしまったような、そんな印象がある。説明しにくいのだけど、例えば「電車」という存在を知らない人が、ふと目覚めたら電車の中にいた、ということを想像してみてほしい。電車に乗っている間は、線路が見えるだろう。先々までは見えないから、その線路の行き着く先までは見通せないのだけど、線路は見える。その時きっと僕らは、電車というものが何か知らなくても、「この乗り物は、この線路の上をずーっと進んでいくんだろうなぁ」と感じるだろう。

僕が本書を読みながら感じていたことも、それに近い。どこに行き着くのか、正確には分からない。けど、今自分が何かのレールの上にいることは分かるし、ここから外れることはないのだろう、という風に感じたのだ。

それは、普段僕が物語を読みながら『今』に焦点を当てている読み方とはちょっと違う。『今』に焦点を当てる読み方は、ふと目覚めたら大草原で車に載っている、というのに近い。大草原だから、道らしい道はない。自分が乗っている車(誰か別の人が運転している)がどこに向かうのか、予測することは困難だろう。必然的に、今自分がどこにいるのか、ということに焦点が当たるだろう。

この感覚の差が、何によって生まれたのか、それは定かではないのだけど、伏線の張り方とかなのかなぁ、という感じはする。もうちょっとうまくやってくれれば、レールの存在を気にせずに読めたかもしれないけど、なかなかそうは行かなかった。繰り返すけど、どこに行き着くのかは分からないけど、この線路の上を進んでいくんだなぁ、という感覚が、ちょっと好きになれなかった、というのが本書の僕の読後感です。

とはいえ、決して悪い作品ではないと思います。死を目前にした人の厭世観や、そういう人とどう向き合っていくのか、という部分は、やはり現役医師ならでは、という感じはするし、ユカリさんと蒼馬がお互いがお互いの存在によって変化していく過程はなかなか良いと思います。また、ミステリでは良く「謎だとは認識していなかった事柄が解決する」みたいなパターンってありますけど、本書もちょっとそういう側面がある気がしました。後半、明らかに解かれるべき謎の他に、なるほどそれも解決するんだ、と感じた箇所がありました。

さらっと読むにはなかなか良い作品かもしれません。

知念実希人「崩れる脳を抱きしめて」

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お金がずっと増え続ける投資のメソッド―アイドルの私でも。(高山一実+奥山泰全)

本を読んだ後の感想としては実に変だけど、僕は「乃木坂46を好きになって良かった」と思った。
何故なら、この本を読めたから。
本書は、乃木坂46の高山一実が共著の一人だ。ただそれだけの理由で、本書を手にとって読んでみた。
でもこれ、マジで凄い本でした。
読みながら、乃木坂46がどうとか関係なく、メチャクチャ良い本に出会ったな、と思いました。
それぐらい凄いです。

どう凄いのか。
本書には、「ほぼ確実に負けない投資法」が書かれているから凄いのです。
…なんて書くと、「胡散臭い」「騙されてるんじゃないか」みたいに思われるだろうな、と思います。
本書で書かれている「ほぼ確実に負けない投資法」には、一つ条件があります。
それは、「根気よく何年も毎日同じことを繰り返すこと」です。
つまり本書では、「根気よく何年も毎日同じことを繰り返しさえすれば、ほぼ確実に負けない投資法」が書かれている、となります。

たぶん人によっては、「根気よく何年も毎日同じことを繰り返すこと」って難しいんだろうと思います。僕は、結構自信ありますけど。とにかく本書に書かれている投資法を実践するには、根気が必要です。最初にある程度まとまった軍資金も必要なんですが、それさえ用意出来るなら、あと必要なものは根気だけです。でも、根気さえあれば、ほぼ負けません。そういう意味で、凄い投資法だなと僕は感じました。

やることは単純です。具体的な手法ではなく、抽象的な表現になるのだけど、本書に書かれていることをそのまま抜き出してみます。

『安くなればなるほど少しずつ買い足していく。
高くなればなるほど少しずつ売っていく。
安いときほどたくさん持っていて、高いときほど少ししか持っていないようにすればいい。』

これだけじゃ何も分かりませんけど、本書で書かれている投資の基本はたったこれだけです。これをベースに、本書では、実際に何をしたら良いのかを具体的に書いています。さらに、なぜこのやり方でお金を増やすことが出来るのかも。

本書を読み終わった今、僕はたぶんまだ完全には理解しきれていません。お金が増えていく仕組みは、なんとなくわかったような気になっているんですけど、他人に説明できるほどは理解できていません。なにせ、お金が増える仕組みを読んでいると、凄く不思議なんです。なんでこれの繰り返しでお金が増えていくのか…。分かるような分からないような、凄く不思議な気分になります。ただ、具体的にしなければならないことがあまりにも単純で分かりやすいので、「とにかくやってみよう」と思えます。その点でも本書は、投資の初心者が読むべき本だなと思います。

この感想では、本書で描かれている投資法を具体的には説明しません。それは、先程書いたように、僕がまだ完全には理解していない、ということもあります。しかしそれ以上に、本書で説明されているよりも簡単に説明することは無理だろうなと思うからです。なので、具体的なやり方を知りたい人は是非本書を読んで下さい。

ここで奥山泰全氏についてちょっと書いておきましょうか。著者は現在、とある投資系の会社の代表取締役社長という立場です。本書の中で高山一実が投資を実際に行うサイトも、奥山氏に会社が作っているものです。個人投資家時代に、8年で資金を400倍にしたことで「伝説の相場師」と呼ばれ、日経平均に投資出来るシステムを最初に作ったのも奥山氏だそう。なかなか凄そうな人ですね。

そんな著者は、高山一実に聞かれて、「何故投資法を色んな人に教えるのか」という質問に答えます。

『僕が投資について教える理由、日本人がもっとお金について勉強するべきだと思う理由はそこにあります。「お金よりも大事なものがある」「お金がすべてではない」と言えるために、もっとお金について学ぶべきだと思うのです。』

僕も、お金の勉強はしたいな、と思いながらなかなかできません。なかなかきっかけがないんですよね。投資のやり方を教わっていないから、投資=ギャンブルにしか思えないし、自分のお金を動かさないで紙の上だけで勉強しても、なかなかお金のことって分からない。けど、本書に書かれているやり方なら、とりあえず始めることが出来る。もちろんやっていく中で、本書に書かれていない問題やトラブルなんかが出てくるでしょう。でも、そこでまた勉強すればいい。とりあえず、一旦始めてみる、という意味で本書はそのハードルをかなり下げてくれる本だなと思います。

Amazonのレビューをちら見してみたら、「税金などの投資に掛かるその他コストに触れられていない」みたいな話があって、確かにそうだな、と。僕はファイナンシャルプランニング技能士の勉強をした時にその辺の話を一通り勉強したんだけど(あんまり覚えていないけど)、確かに投資したら何らかの形で税金が掛かるはずです。そういう点だけ取ってみても、本書は完璧な本ではないでしょう。でも、繰り返しますが、とりあえず始めてみるというスタートのハードルを下げるという意味では凄く良い本だなと思うわけです。

投資はやってみたいし、勉強もしてみたいんだけど、何から始めたらいいか分からない、という人は読んでみてください。ある程度まとまった軍資金が用意できることが前提になっているので、その前提をクリア出来ない人にはなかなか厳しい本ですが(僕もそこは頑張らないと)、そこさえクリア出来れば根気さえあれば誰でも出来る方法です。本書に書かれていない問題に直面したら、その都度勉強していきましょう。そういう感じで、とにかく投資を実際にスタートさせてみる、という意味で非常にオススメできる本です!僕も真剣に、本書に書かれていることをベースに投資をしてみたいなと思います。

高山一実+奥山泰全「お金がずっと増え続ける投資のメソッド―アイドルの私でも。」

賢く生きるより辛抱強いバカになれ(稲盛和夫+山中伸弥)

本書の中で、一番印象的で共感できて、そして多くの場面で役に立つのではないかという発言がある。

山中伸弥「私自身には独創性はあまりないんですね。何か独創的な実験をしてくださいと言われても、たぶん世界中で10人は考えているようなことしか出てこない。ただ、結果的に独創的だと言われる実験ができたのは、独創的でない実験をして、予想していなかった独創的な結果が出てきたときに、そこでやめてしまわずに、独創的な結果のほうの研究をやりだしてしまう。そうやって研究テーマがころころ変わってしまったのですが」

本書は、「京セラ」「第二電電(現KDDI)」などを創業し、「JAL」の再建にも携わった経営者・稲盛和夫氏と、iPS細胞の発見によりノーベル賞を受賞し、生物学研究の世界的トップランナーとして活躍する研究者・山中伸弥氏の対談だ。

二人の縁は、稲盛氏が創設した「京都賞」を山中氏が受賞したことにある。実際にはその6年前、山中氏が稲盛財団から研究助成金を受けた時に関わりが出来たのだが、実質的には京都賞からだ。京都賞は、「人のため、世のために役立つことをなすことが、人間として最高の行為である」という考えの元、優れた研究者や芸術家を顕彰する賞であり、現在ではノーベル賞の登竜門となる国際賞のひとつとして認知されている。山中氏を初め、京都賞を受賞した後にノーベル賞を受賞した研究者は6名もいるという。

そんな二人が、様々なテーマについて語り合う。本書のタイトル「賢く生きるより辛抱強いバカになれ」は非常に秀逸だと僕は感じる。決してそういう内容の話ばかりしているわけではないのだが、この対談全体を通じて感じることは、まさにこのタイトル通りのことだ。冒頭の引用も、その一つだ。

「独創的ではない実験で独創的な結果を得て研究テーマが変わる」というのは、山中氏がiPS細胞を発見した経緯にある。

山中「私の場合はiPS細胞を発見するまで紆余曲折がありました。というのも、血中コレステロールの研究をしていたら癌派生に関係する遺伝子を見つけてしまい、この癌に関係する遺伝子を研究していたときに発見した新しい遺伝子がじつは万能細胞であるES細胞の重要な遺伝子だったことがわかりました。このような予想外な結果に興味を持ってしまって、そのまま追いかけていったら、最終的にiPS細胞にたどり着いたという流れなんです」

ごく普通の研究者であれば、自分が行った実験が自分の研究テーマに沿わない結果を生んだ時、止めてしまうことも多いそうだ。あくまでも、テーマに固執し、そのテーマに関係する実験を新しく考えてやる。しかし山中氏は、テーマの方を捨てることにした。山中氏は自身のことを「独創性がない」と表現し、それはある側面では正しいのかもしれないが、「独創的な結果を追うためにテーマを捨てる」という選択は、研究者にとってはなかなか独創的な選択だったのだろうと思う。

iPS細胞の発見には、山中氏が共に研究をしていた高橋和利氏が大きな貢献をした。彼の面白いアイデアによって、iPS細胞に必要な4つの遺伝子を絞り込むことが出来たのだけど、山中氏の研究室にやってきた高橋氏は正直、学校の成績が高くない、決して優秀とは言えない生徒だったという。しかも彼は、工学部出身。分子生物学の知識はほとんどない、という状態だった。けど、結果的にはそれが良かった。先入観なく実験結果を見ることが出来たから。

著者は当初この実験を、別のメンバーにやってもらっていたらしい。そのメンバーと高橋氏を比較したこんな発言も、まさに本書のタイトルを象徴するようなエピソードだろうと思う。

『実際、このプロジェクトを奈良先端大のラボで始めたとき、もっと経験のある他のメンバーにやってもらったんです。でも彼はものすごく頭が良かったのですが、手が動かないんです。このプロジェクトはうまいこといくわけないからと、気がつくと違うことをやっている。それで京大に移ることになったときに話し合って、彼は留学することになったので、代わりに高橋君にやってくれるかと。そのとき、私が高橋君にこっそり言ったのは、このプロジェクトはたぶんうまいこといかないと思う。でも人に言うなよと。これで結果が出なかったから、僕はもう研究者ではいられなくなると思うし、君も当然いられなくなる。しかし大丈夫だと。僕には一応医師免許があるから、どこかで小さなクリニックでもやって高橋君を受付として雇うから心配はいらないと。』

この発言に対し高橋氏は、『ほんとうに僕がやってもいいんですか』と喜んだという。頭の良し悪しでは判断できない部分に能力や適正がある、という話だ。

これは、稲盛氏も同じようなことを言っている。自身が創業した京セラも、幹部は『辛抱強いバカばっかりが残ったな』と稲盛氏が評するような、一流大学卒ではない者ばかり。能力だけある人間はさっさと転職していったという。また、JALの再建に際しても、一流大学卒の優秀な幹部たちの意識を変えることが大変だったと語る。『80前のじいさんが何を言ってるんだ』と顔に書いてある面々に対して懇々と自身の哲学を説き続け、改革をしていったという。

稲盛氏は、『人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力』と捉えていると語る。並び順は、重要度であり、つまり「能力」は最も重要度が低い。「熱意」と「能力」は「0点~100点」、そして「考え方」は「-100点~100点」で判断する。そして、仮に「能力」が低くても、「考え方」と「熱意」があれば、「能力」だけ高い人間よりも優れた成果を残すことが出来るのだ、という方程式だ。僕の感覚としてもこれは分かる。地頭の良さが得意な範囲というのは、確かにあるのだけどそう広いわけではない。「能力」以外に何が必要なのかというのは色んな意見があっていいと思うけど、「能力」だけでは決して成果を生み出すことは出来ないだろうな、という感じはする。

稲盛氏の言葉も、非常に力強いし響くものがあるんだけど、冷静に考えると「自分には無理だよなぁ」と思えてしまう。ちょっとハードルが高い。例えば稲盛氏は、『やると決めたら悩まない』と発言する。そしてそこには明確な理由がある。

稲盛『私心は不純物ですから、いくら大義はあっても、そこに私心があればうまくいかない。私心がなく動機が善であれば結果は気にしなくても自ずとついてくる。私はそう信じています』

著者は、大義があればどんな困難にも立ち向かえる、と語る。第二電電(KDDI)の創立も、JALの再建も、周囲が「絶対に無理だ」というほどの高いハードルだった。しかし著者は、そこに大義を見出し、さらに、自分の中に私心がないことを繰り返し確認する。決断する前にそういう過程を経ているからこそ、一度決断して進み始めたら悩まないのだ、という。

凄いなぁ、と思うのだけど、これは真似出来ないなぁ、と思ってしまう。本書の中で稲盛氏は、京セラや第二電電という会社が生まれた過程や、JALの再建のために何をしたのか、という具体的な話をし、さらにそれに邁進出来る自身の哲学みたいなものも語るのだけど、そのどれもがハードルの高さを感じさせてしまうものだった。そういう意味で言えば、山中氏の言葉の方がより親しみを感じることが出来ると思う。

本書では山中氏が、研究の楽しさと厳しさを語る。臨床医から研究者になった山中氏は、マニュアル通りにやらなければならなかった臨床医とは違い、何をやっても良い自由度がある研究者という仕事に楽しみを見出した。しかし、「苦しんでいる人を救いたい」という気持ちから臨床医になった著者としては、研究者として日々自分が少しずつ積み重ねている成果が果たして患者さんを救うことになるのか、と思い悩んだ日々もあったという。そういう経験を踏まえ、山中氏は今、『研究者や職員たちがモチベーションを維持しやすくすること、それが今自分がするべき仕事だと考えています』と語る。かつては自身もトップランナーとして研究していたが、現在は一歩引いた立場で、チームの監督として全体を見回し、自分が走るのではなく他人を走らせる役割を担おうと考えている。

また、日本の研究者の地位の低さや、有期労働契約に縛られ安定的な雇用が望めないなど、環境面での厳しさも語る。日本の研究者のレベルは間違いなく世界トップクラスだが、研究職に魅力を感じて身を投じてくれる若い人がいなくなれば先細りになる。そういう危機感を山中氏だけではなく、多くの研究者が感じているという。

本書は、経営者と研究者という立場の違いはありながらも、どちらも世界のトップランナーとして走り続け偉業を成し遂げてきた者が様々なテーマで語り尽くす。本書から何を感じ取るかは読む人次第だろうが、経営者でも研究者でもない人にも意味のある対談だろうと思う。本書は、究極的には「人としてどう生きるか」を問う内容になっていると思うからだ。

稲盛和夫+山中伸弥「賢く生きるより辛抱強いバカになれ」

銀河鉄道の父(門井慶喜)

内容に入ろうと思います。
本書は、宮沢賢治の生涯を、宮沢賢治の父である宮沢政次郎視点から描く物語です。
宮沢家は、祖父・喜助が興した質屋で堅実な商売を続ける地元の名士であった。弱き農民から金をまきあげているかの如く言われることもあるが、宮沢家は家業に誇りを持っている。今は政次郎の代となり、幼い頃から優秀ではあったが、「質屋に学問は必要ない」と言われ、妻・イチと共に家業を堅実に盛り立ててきた。
彼らの間に生まれたのが、長男の賢治だ。時は明治。父親は家族の中で威厳ある存在でなければならぬ、とされていた時代であり、政次郎は賢治をあやしたい気持ちを、『家長たるもの、家族の前で生をさらすわけにはまいらぬ。つねに威厳をたもち、笑顔を見せず、きらわれ者たるを引き受けなければならぬのだ』とこらえて律する。
政次郎の心づもりでは当然、長男である賢治に家業である質屋を継がせるつもりでいた。血筋なのか、賢治も秀才ぶりを発揮していたが、かつて喜助から言われていたように、賢治も小学校を卒業したら家業をやらせるつもりでいた。
しかし、政次郎は自覚している。自分は、賢治のことを父親として愛しすぎている、と。政次郎自身がどうさせたいかではなく、賢治自身がどうしたいかを汲み取ってしまうのだ、と。

『理解ある父になりたいのか、息子の壁でありたいのか。』

政次郎はあらゆる場面で思い悩む。自分は一体父親として、どう振る舞うべきだろうか、と。賢治のことを想うが故に、どうしたらいいか分からなくなっていく父親の葛藤から、宮沢賢治を描き出していく。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。
先に書いておくと、僕は宮沢賢治の作品を一作も読んだことがないと思います。教科書には何か載っていたのかもしれないけど、国語の授業は嫌いで、基本的に教科書は読みたくなかったので、読んだ記憶がありません。「雨ニモ負ケズ」みたいな有名なフレーズを多少知っているぐらいで、宮沢賢治のことはほとんど知りません。

だから、本書で描かれている宮沢賢治像がどこまで事実に沿っているのか、そういうことも僕には判断できません。そういう僕の知識量から見た場合、本書で描かれる「宮沢賢治」はちょっと意外でした。なんとなくイメージでは、貧しい者のために生きた高潔な人、っていう感じでしたけど、本書を読む限りでは決してそういうだけの人間ではなかったみたいです。っていうか、結構ダメ人間じゃん、と思いました。今でいう、パラサイトシングルみたいな感じの人みたいですね(笑)。

宮沢賢治像ということで言うと、本書には、創作をする者としての宮沢賢治はほとんど描かれません。童話や詩を書くような描写は、ラスト近くになってからで、それまでは創作とは縁遠い生活をしていたようです。本書は、宮沢賢治を父親視点で描く物語ということで、ある程度宮沢賢治のことを知っていないといけないような気になるでしょうが、「創作者・宮沢賢治」ではなく「生活者・宮沢賢治」を描く物語なので、基本的に宮沢賢治の著作を読んでいなくても全然問題ないな、という感じがします。

本書の主眼は、タイトルにある通り「父」です。死後に高く評価された天才的な国民作家を、「父」としてどう育てどう接していったのか。物語の核はまさにその点にあります。

政次郎の、非常に面白く、また本書全体を貫くだろう実感が書かれている箇所があるので引用してみます。

『ため息をついた。われながら、愛情をがまんできない。父親になることがこんなに弱い人間になることとは、若いころには夢にも思わなかった』

この点こそが、父・政次郎の葛藤の根幹なわけです。

政次郎は、「どうあるべきか」と「どうありたいか」の狭間で葛藤する。現代では、過程での「父」の役割は以前と比べて大分低迷しただろうが、この時代は家父長制度(があったのか、その名残が残っていたのか知らないけど)によって、一家の長である「父」の力がとても強かった。強いが故に制約もあり、「どうあるべきか」という要請に抗うことはなかなか難しい。しかし一方で、初めての子である賢治のことを、慣用句を使えば「目に入れても痛くない」ほどに感じている。息子に対して「どうありたいか」という気持ちが、あらゆる場面で浮かび上がってくる。

この「どうあるべきか」と「どうありたいか」の葛藤というのは、なかなか現代の小説では描きにくいものではないだろうか。現代では未だに、「母親はどうあるべきか」という根強い思い込みみたいなものが残っている印象はあるが、「父親はどうあるべきか」についてのコンセンサスみたいなものはほとんどないと言っていいだろう。「どうあるべきか」と「どうありたいか」の葛藤を現代小説で描くとすれば、母親目線にするしかない。本書は、父親目線でそれを描き出した、という点が非常に斬新で面白い、と僕は感じる。

政次郎の振る舞いは、彼の内面を知った上で見ると非常に滑稽だ。「こうあるべき」という父親像に引き摺られて、思うようには行動できない。現代の目からすれば、別にいいじゃん、と思ってしまうようなことも、当時は家長である父がすべきではない、と思われていたのだ。そういう中で政次郎が場面場面においてどういう選択をしてきたのか。そういう読み方をすると面白く読めるだろう。

『この子はこの家に生まれて幸せだとつくづく思った。自分ほど理解がある父親がどこにあるか。子供の意を汲み、正しい選択をし、その選択のために金も環境もおしみなく与えてやれる父親がどこにあるか。』

賢治と接する中で、政次郎自身が変化していく。それはもちろん、時代の流れや要請による部分もあるのだろうが、賢治という、その時代の規格に収まりきらない息子と接することによる影響というのももちろん多分にあるだろう。かなり破天荒だったと言わざるを得ない「生活者・宮沢賢治」と生涯関わり続けた政次郎が、父子の関わりの中で何に気づき何を得ていったのか。確かに本書は宮沢賢治の話ではあるが、より普遍的な父子の物語として捉えられるべきだろう。

『お前は、父でありすぎる』

喜助からそう言われた政次郎の「父」としての有り様を読んでみてください。

門井慶喜「銀河鉄道の父」

持たない幸福論(pha)

本書の中で、僕にとって最も重要な部分をまずは抜き出してみよう。

『大切なのは、周りに流されずに「自分にとって本当に必要なのは何か」「自分は何によって一番幸せになるか」という自分なりの価値基準をはっきり持つことだ』

人生にとって最も大事なことはこれぐらいだろう、と僕も思う。

昔は僕も、生きているのがしんどいなと思っていた。今でもまったく思わないではないんだけど、ほとんどそう感じることはなくなった。自分の考え方を、長い時間を掛けて変化させてきたからだ。
そう、「幸せ」というのは案外、考え方の変化によって単純に手に入る。

著者は、

『今の日本は物質的にも豊かで文化も充実していて治安もいいのに、こんなに生きるのがつらそうな人が多いのはちょっと変じゃないだろうか』

と問題提起する。僕もそう思う。実におかしい。とはいえ、僕も昔はそういう人の中にいたので、気持ちは分かる。そう、生きるのは辛い。何よりも辛かったのは、自分が何故生きづらさを感じているのかがよく分からなかったからだ。

生きづらさを感じる理由を、著者はこう書く。

『要は、多くの人が普通にこなせないものを「普通の理想像」としてしまっているから、みんなその理想とギャップで苦しむのだ』

これも、まさにその通り。僕は徐々にそのことに気づくことが出来た。自分を苦しめているものの正体を見極めることが出来た。だからそこから逃げ出して、自分なりの生き方をゼロから組み立てることが出来るようになったのだ。

多くの人が「普通の理想像」として抱いている、普通にはこなせないものを挙げてみよう。

「正社員になる」「結婚する」「子どもを育てる」「子どもに良い教育をさせる」「老後の蓄えをする」「家を買う」「病気にならない」…などなど。

こういうものを皆、「自分の人生で出来て当たり前だ」と感じている。しかし、こうやって挙げたものすべてを実現できる人って、人口の何%ぐらいいるだろう?分からないけど、間違いなく半分以下だろうし、もしかしたら1/4以下かもしれない。

僕たちは、そういう「多くの人が実現できない未来」を「当たり前にやってくるはずの理想」と捉えている。何故なら、一昔前はそれが当たり前だったからだ。しかし、時代は凄まじい勢いで変化する。僕らは、親世代とはまったく違う社会を生きている。そういう中で、過去の価値観にしがみついて自分の人生を設計することは危険すぎるのだ。

まず僕たちは、そういう認識を持たなくちゃいけない。僕も、時間は掛かったけど、どうにか自力でそういう考えにたどり着く事ができた。

そして、その地点に立つことさえ出来れば、現代というは過去どんな時代よりも自由に満ちあふれていると感じる。

『今は、そうした「人を包括的に支える大きなメインシステム」は崩れて、何を頼ればいいかはっきり分からない時代になった。それは不安定でどう生きていったらいいかが分かりにくいということでもあるけれど、いろいろと試行錯誤しながらたくさんある選択肢の中から選ぶことができるようになったということでもある。不安定だけどそこには自由さがある。だから基本的に僕は今が今までで一番良い時代だと思っている』

凄くよく分かる。理解してもらうために、もう少し整理しよう。

一昔前は、先程挙げたような「普通の理想像」が、特に苦労しなくても実現できる時代だった。しかし同時に、その「普通の理想像」から外れた生き方はなかなか許容されにくい世の中でもあった。結婚しないと一人前ではないと思われていたはずだし、家も買うべきものだと捉えられていただろう。一昔前というのは、そういう「人を包括的に支えるメインシステム」に沿っていれば安定した人生を送ることは可能だったが、しかしそれ以外の生き方をする場合の抵抗力がもの凄く高い時代でもあった。

一方で現代は、「普通の理想像」は簡単には実現できない。一部の人にとっての特権的なものになっている。そういう意味ではとても厳しい時代だ。しかし一方で、「普通の理想像」が崩壊しているという感覚が徐々に共有されていくことで、「普通の理想像」ではない生き方をする流れが出てきた。頑張っても理想に辿り着けないなら、そんなの目指さないで好きにやるわ、というような人が少しずつ出てきたのだ。そうすることで、「普通の理想像」から外れた生き方をする抵抗力が低くなった。つまり、自分にとって快適で落ち着ける生き方を自分でデザイン出来る時代、ということなのだ。

そういう意味で現代は、非常に自由な時代だな、と僕は感じるのだ。

一昔前の当たり前だった「普通の理想像」が、今は手の届かない高い理想になっている、だからそこを無理して目指さない方が充実した人生を送れる可能性が高い、ということに気づくことが出来さえすれば、そこがスタート地点になる。そしてそこから、自分にとってどの方向が快適であるのかということを自問自答しながら、自分で道を作っていくようにして進んでいけば、自分にとって生きやすい人生を選びとることが出来る。

これが、冒頭で引用した、

『大切なのは、周りに流されずに「自分にとって本当に必要なのは何か」「自分は何によって一番幸せになるか」という自分なりの価値基準をはっきり持つことだ』

ということの意味だ。

『ただ、「こんな生き方やこんな考え方もありなんだ」という選択肢の多さを紹介することで、この社会に漂っている「人間はこう生きるべきだ」という規範意識のプレッシャーを少し弱らせて、みんなが自分自身の生き方にも他人の生き方にも少しだけ寛容になって、生きることの窮屈さが少しマシになればいいなと思いこの本を書いた。』

著者がまえがきで書いているように、本書は「こんな風に生きたらいいよ」という、読者が進むべき方向性を示してくれる作品ではない。そうではなく、「そんな風に生きない方がいいよ」ということを示すことによって、今まで読者の視界に入っていなかった様々な価値観や考え方に目を向けさせるための本なのだ。

だから、本書を読んでも、読んだ人間がどう生きるべきかは分からない。当たり前だ。「自分なりの価値基準」を持たなければならないのだし、そのためには自分で考える時間が絶対に必要だ。本書は、そうやって自分なりの生き方を考える動機や、どんな風に考えたらいいのかという指針を与えてくれる。

著者は、こうも書いている。

『僕が何故本やブログを書いているかというと「知識は人を自由にする」と思っているからだ』

『本というのは「自分がぼんやりと気づきかけていることをはっきりと言葉にして教えてくれるもの」だ。本を読んで知識を得ることで、頭の中が整理されたり、考え方の選択肢を増やすことができたり、自分の周りの世界で当たり前とされていることを相対化して観ることができるようになったりする。本を読むことで僕は生きるのが楽になった』

僕も、似たようなことを考えている。僕は、「知識」もだが、「考える力」も人を自由にすると思っている。「知識」と「考える力」というのは関係があって、僕の中では、「考える力」の土台や材料となっているものが「知識」だ。「知識」だけでは考えられないが、「知識」がなければ考えられない。本を読み、考えるということを繰り返してきたこれまでの膨大な時間が、僕を色んなしがらみから解放してくれたなと本当に実感する。

本書では様々な考え方が描かれる。「働かない」「家族を作らない」「お金に縛られない」の三つをベースとしながら、著者なりの考え方が書かれていく。本書を読む上で重要なのは、そういう著者自身の考え方そのものに共感できなくても構わない、ということだ。本書は、「読者が囚われている理想を目指す必要がない」ということを説く内容だ。決して、著者自身の考えに読者を誘導しようという本ではない。仮に著者の考え方に共感できなくても、本書を読めば、自分が今理想だと考えている生き方以外にも道はあるのだ、ということを体感できるだろう。そのことが、何よりも大事なのだ。

比較的自由に生きている僕の目から見ても、著者は自由すぎる(笑)。それで生きていられるのだから凄いと感じるけど、著者と同じことは出来ないしやりたくないなと思う。しかし、それで全然いい。むしろ、「著者がこう書いているんだから、自分もまったく同じことを実践しよう」と考える方が怖い。それは結局、「社会が要請する理想」ではなく「著者が提示する理想」を盲信すると決めたというだけの話であって、「自分なりの価値基準」はそこに存在しない。いかに「自分なりの価値基準」を持つか。本書を読んで、そのことの大事さを実感してほしいと思う。

pha「持たない幸福論」

幻の黒船カレーを追え(水野仁輔)

タイトルから想像出来るように、本書は「カレー」についてのノンフィクションだ。基本的に本書に書かれていることは、「カレー」のことだけである。しかし本書を読んで僕はまず、「カレー」ではない事柄に触れたい。

それは「情熱」についてだ。

僕は正直、「情熱」のない人間だ。身体の内側から湧き上がってくるような、抑えようもないような、そういう「情熱」を感じたことがない。

たぶん僕の内側にも、アクセルはあるはずだと思う。でも僕は、アクセルを踏むと同時にブレーキも踏んでいる。ブレーキを踏まずにアクセルだけ踏む自分、というのが想像できない。常に未来に対して悪いことを想像し、あらゆることについてうまく行かない可能性を考えてしまう。そんな人間が、アクセルだけを全開に踏めるはずがない。結果、ブレーキで押さえられた後の熱量しか意識されないので、自分には「情熱」がない、と感じられるのだろう。

著者は、カレーのルーツを探るために会社を辞めた。妻も子どももいるのに、である。それを許容する妻も凄いと思うが、やはり会社を辞めてまで調べたい、知りたいことがあるという「情熱」を身体の内側に抱え持っている著者にこそ、僕は凄みを感じてしまう。

本書を読むと、作品の隅々から、著者の「情熱」を感じることが出来る。もちろん著者にも、「カレー」以外のことをしている時間だってあるはずだ。家族もいて、働いてもいて(調査の期間中、ずっと無職だったわけではない)、その隙間を縫って「カレー」について調べているのだ。本書での記述は、そうして縫い上げた時間を凝縮しているに過ぎない。本書の記述を丸々受け取って、「この人は四六時中ずっとカレーのことしか考えていないんだ」と捉えるのは間違っている。しかし、自分が自由に使えると判断した時間すべては「カレー」に費やしている、と言っても言い過ぎではないだろう。それぐらい、「カレー」のことしか頭にないようだ。

著者にしても、子どもの頃から「カレー」バカだったわけではない。著者がカレーにハマったきっかけは、社会人になって間もない頃に始めた、週末に公園でカレーを作って食べる集いだ。それはどんどん規模が大きくなり、やがて「東京カリ~番長」というグループを作り、カレーを作るために各地に出張していたら、いつの間にかカレーにのめり込んでいた、というのだ。

子どもの頃からずっと、というならまだしも、大人になってから、しかも社会人として働きはじめてから、そこまで猛烈にのめり込めるものに出会える、ということが僕にはとてもうらやましく感じられる。

しかも、こう言ってはなんだが、著者の抱いた疑問は、世の中的にはどうでもいいものだ。これが「数学の歴史を変える定理を見つける」とか、「時効になってからも殺人事件を追い続ける」みたいな話であれば、世の中的に価値を見いだせる可能性がある。しかし、「カレーのルーツを探る」というのは、あまりにも世の中的に意味がない。だからこそ、それを追い求めることの純粋さが強調されもするし、そんなまったく社会に貢献しないことに時間とお金と労力を掛けられる「情熱」の強さ、みたいなものが際立つということもある。

そういう人の生き方を見ていると、今の自分には絶対に無理だし、積極的にそうなりたいわけでもないけど、でもやっぱり憧れる部分はあるなぁ、と思ってしまう。

内容に入ろうと思います。
本書は、先程も書いたように「カレーのルーツを探る」ことに取り憑かれた著者が、会社を辞めてまで真実を追い続けるノンフィクションです。
まず、日本のカレーの来歴をざっとおさらいしておきましょう。
日本のカレーは、インドからイギリスを経由してやってきた(これは、カレー関係者には常識だが、一般にはさほど知られていない)。イギリスから日本にカレーがやってきたのは1870年代前半。そして、インドからイギリスにカレーがやってきたのは1770年代前半だ。
さて、僕らは今でもインドに行けば、インドカレーを食べることが出来る。つまり、インドからイギリスに伝わったカレーは、現存するのだ。では、イギリスから日本に伝わったカレーはどうだろう?ここが著者の疑問だ。著者は、約150年前にイギリスから日本にやってきたカレーを「黒船カレー」と命名し、その黒船カレーを必死に追い求めるのだ。黒船カレーがどんな味だったのか、それをどうしても知りたい。
日本のカレーは、インドのカレーとは別物なのだ。例えば、以下のような調理過程は、日本のカレーでしか重視されていないという。

◯ 長時間煮込んでブイヨンをひく
◯ スパイスを30~40種類混ぜわせる
◯ 隠し味をいれる
◯ 一晩寝かせる
◯ 玉ねぎをあめ色になるまで炒める

黒船カレーがどんなカレーだったかを知ることが出来れば、これらの調理法がどこで生まれたのかが分かる。つまり、黒船カレーの時点でそういう調理法がなされていたのか、あるいは日本にカレーがやってきてからこれらの調理法が発明されたのか。
著者は、仕事の合間を縫って、まずは国内で調査を開始する。文明開化の折、黒船が日本にやってきた場所はただ一つ、当然「港」である。そこで著者は、商用に開港した「函館・新潟・横浜・神戸・長崎」と、海軍用に開港した「室蘭・横須賀・舞鶴・呉・佐世保」の10個の港であらゆることを調べ回った。
日本で出来る限りのことをやり尽くした後は、もうイギリスに行く以外の選択肢はなくなった。しかし著者は勤め人、まとまった休みなど取れるはずもない。そんなことをぼやいていた著者に、妻から衝撃の一言が。
『そんなに探したいものがあるなら、いますぐ会社を辞めて、3ヶ月ぐらい言ってきたらいいじゃない』
妻の男気溢れる一言に背中を押された著者は、本当に会社を辞め、3ヶ月ロンドンに滞在し、まさに日本のカレーの中継地であるイギリスでの調査を開始するのだが…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。正直に言えば、調査の間中、めぼしい発見はほぼありません。著者は繰り返し、『見つからないことを見つけに行く旅』というような表現を使うのだけど、著者は明らかに何もないだろうと思うところにまで、「ないことを確認するため」に行く。あらゆる場所に調査に向かうが、本当にほぼ空振りである。調査取材、という意味で言えば、本書で描かれているほぼすべての描写が「失敗」だと言えるだろう。

しかしそれでも、作品全体としては面白い。それは、著者の物事の捉え方がちょっと面白いからだと思う。そしてそれを、上手く文章に変換できている。調査取材という意味ではほぼ何も起こらないのに、それでも著者が自身の旅を語る内容はなかなか面白い。こんな奇妙な読後感をもたらすノンフィクションは、高野秀行以来かもしれない。高野秀行のノンフィクションの中にも、高野秀行自身にはほぼ何も起こらないまま調査取材が終わる、というものがあった(ウモッカという幻の魚を探しに行く話だったと思う)。

そしてやはり冒頭でも書いたように、著者の「情熱」の凄まじさに圧倒される部分もある。正直に言ってしまえば、よくもまあこれほど「どうでもいいこと」にのめり込めるものだ、と感じる。しかし、彼の「情熱」は、実に多くの人を動かす。確かに、『僕が真面目に日本のカレーのルーツに対して語れば語るほど、周囲の反応は冷ややかになっていく』という反応もあるのだが、しかしやはり著者の「情熱」に感化される者もいる。著者の妻だって、いつも間近で夫の「情熱」を見ていなければ、会社辞めばなんて提案をするはずがないだろう。その「情熱」の強さが、作中のあちこちら鬱陶しいぐらいほとばしっているので、そこもやはり読みどころだと感じる。

本書を「ノンフィクション」と捉えてしまうと、もしかしたら肩透かしを食らうかもしれない。というのも、これは書いてしまうが、本書は「日本のカレーのルーツの調査はまだまだ続く」という、「to be continued」的な終わり方をするのだ。「ノンフィクション」としては、ちょっとあり得ないかもしれない。本書は「エッセイ」として読んだ方がいいだろうし、一時期流行った「エンタメノンフ」という括りでもいいかもしれない。とにかく、凄まじい情熱をまるで無駄な方向に費やし続ける男の物語である。しかし、こういう人がいるからこそ、人類の叡智ってのは蓄積されるし広がっていくんだよなぁ、とも思わされるのである。

水野仁輔「幻の黒船カレーを追え」

木洩れ日に泳ぐ魚(恩田陸)

物語全体に大きく関わると言えば関わるし、関わらないと言えば関わらない部分なのだが、本書の主人公の一人である「ヒロ」の自己認識に、共感できてしまう部分がある。

『だが、更に嫌らしいことに、僕は今感じている自己嫌悪が単なるアリバイ作りに過ぎないこともちゃんと分かっているのだった。僕の計算高い部分が、ここで自己嫌悪を感じておくべきだと判断しているので、僕は自己嫌悪を感じているふりをしているだけなのだ。そうすることで、世間や他人に対する免罪符を手に入れたと安堵しているに過ぎない。
本当の僕は、罪悪感も自己嫌悪も感じていない。
何も感じていない―そう、何も。たぶん。』

この文章は、僕には凄く強烈だった。メチャクチャ理解できると思った。そう、そのとおり。僕はその時々の計算で、自分をどう見せるべきかを調整している自覚がある。悪いと思っていないことでも、ずっとそう感じていたかのように見せることが出来てしまう。たぶん。うまく繕えていると、自分では思っているに過ぎないのだけど。

他にもある。

『酷薄なら酷薄になりきれればそれなりに筋が通るものを、どこかに弱さがある。自分一人の胸にしまっておけなくて、ぎりぎりまではなんとか持ちこたえられるものの、最後の詰めが甘い。あと少しのところで他人に決断を丸投げしてしまい、結局は人のせいにする。僕はそういう奴だ。』

これも、僕自身のことを言っているのかと思った。その通り。酷い人間である自覚があるなら、それを貫き通すべきなのだけど、それをどうにもやりきれない。それで行き詰まると、あらゆる理屈を駆使してなんとか相手のせいにしてやろう、と思うのだ。まあ、こういう部分は、ある年齢ぐらいからちゃんと自覚出来るようになって、最近では自分なりにある程度抑制できていると思ってはいるのだけど、さてどうだろう。

『自分は将来、実沙子を傷つけるだろう。実沙子が知らなかった僕の醜い部分でさんざん彼女を傷つけ、やがては彼女を泣かせ、萎縮させて彼女の人生を台無しにするのだ。
そんな暗い直感が、それこそ『こころ』の一節のように全身を貫いた。
しかも、まずいことに、その直感が正しいであろうことを、僕はこの瞬間痛いくらいに確信していたのだ』

これも、僕の感覚の中にある。僕は、他人との距離が近くなればなるほど、普段自分が抑えている(と思っている)醜い部分が表に出てくるようになる。そうなってからの僕は、相手をただ傷つけるマシーンのような存在になってしまう(まあ、ちょっと誇張したけど)。それを自覚しているから、なるべく他人との距離を縮めようとしないように意識している。

主人公の一人がこういう性格だったから、こういう物語が成立した、という捉え方は出来る。そういう意味で、今引用したような文章、そしてそこから類推される「ヒロ」の人格などは物語全体に関わってくる。しかし、この部分が、ストーリー展開に直接関係あるわけではない。だから本書を読む人にとっては瑣末な部分であると思うのだが、僕は「ヒロ」の人格の部分にちょっと引っかかってしまった。うん、凄く理解できる。僕の中には間違いなく「ヒロ」がいるなぁ。

内容に入ろうと思います。
とはいえ、本書についてはあまり多くを書くことは出来ない。
引越し業者がやってくるのを翌日に控えたとある晩、一組の男女がガランとした部屋の中にいる。彼らにとっては、最後の夜だ。今日を境に、別々の道を生きていく。部屋にあるものや、日常生活の中での細々としたことは、少しずつ整理してきた。そうやって今日を迎えた。しかし、一つだけ二人の間で解消されていないことがある。
あの男の死に関わっているのだろうか?
お互いがお互いに対して、そういう疑惑を抱きながら、彼らは最後の夜を過ごしている。明日、別れる前までに、ずっと拭いきれなかったこの疑問を相手にぶつけることが出来るだろうか?
というような話です。

最小限の内容紹介に留めた理由は、本書を読めば理解してもらえると思います。どんな本もすべからくそうだと言えますが、本書の場合は特に、物語についてほとんど何も知らないまま読み始める方がいいでしょう。彼らの会話や回想を通じて少しずつ、彼らの関係性や過去が明らかになっていく。その過程そのものを楽しんでいく作品だと僕は感じます。

今、「過程そのものを楽しんでいく作品」と書きましたが、まさにそうで、過度などんでん返しみたいなものを期待しないで読むのがいいんじゃないかなと思います。どこに物語が着地するのか、という部分も確かに本書の読みどころではあるのだけど、どのようにその着地点まで向かうのかという過程に注目する方がより楽しめるのではないか、という感じがしました。

個人的な意見ですが、恩田陸は「風呂敷を畳まない系の作品」が多いと感じます。恩田陸の作品は、「夜のピクニック」と「チョコレートコスモス」と「蜜蜂と遠雷」がもの凄く好きで、凄い作品を書く作家だと思ってかなり色々読んでみたんですけど、先に挙げた三作以外は比較的、物語が上手く着地していないというか、広げた風呂敷を畳みきれていないような印象を持っていました。

そういう意味で言うと本書は、ちゃんと風呂敷が畳まれているタイプの作品だと思うので、安心して読んでもらっていいと思います。

物語がどう展開し、彼らがどんな過去を抱えているのかという部分ももちろん面白いですが、それらに対して彼らがどう思考し、どう感じ、どう対処しようとしているのかという心理的な部分も面白いと思うので、そういう部分もチェックしてみてください。

恩田陸「木洩れ日に泳ぐ魚」

機龍警察(月村了衛)

凄まじい作品だった。
これがデビュー作とは…。月村了衛、恐るべしである。


『世界中で戦争をしているんじゃない、世界中が戦場なのだ、と。
それがテロという名の憎悪が拡散した現在の戦争だ。いや、違う。戦争の現在形だ。』

「傭兵代理店」という単語を目にしたことがある。確か、小説のタイトルだ。詳しくは知らないが、要するに戦場に派遣する傭兵を調達する代理店なのだろう。

そう、戦争は今や、フリーの契約で動く「傭兵」によって成り立っている。その方面のノンフィクションをあまり読んだことがないので、聞きかじった情報でしかないが、恐らく間違いない。

かつて戦争は、何らかの意見や価値観の対立を持つ集団同士で起こっていたはずだ。その根底にあるのが宗教なのか、経済なのか、政治なのかは様々だろうが、戦争によって対立している集団は、その集団の中で同一の価値観を有している(あるいはそうみなされる)というのが大前提だったはずだ。

しかしいつの頃からか、その前提は大きく崩れてしまった。

現在の戦争も恐らく、戦争を始めるごく少数の者たちは、かつてと同じように何らかの意見や価値観の対立でまとまる集団なのだと思う。しかし戦争が始まってしまえば、後はビジネスとなる。どんな思想を持っているかによらず(完全に関係ないとは言えないだろうが)、強い兵士を金で引っ張ってきて戦わせる。今では、戦争によって対立している集団内で、戦争のきっかけとなった事柄に関する価値観が共有されているわけではない。彼らは、ただ契約に則って、ビジネスライクに戦争をするのだ。

『変わったのは法律だけじゃない、世の中です。世の中の犯罪と人の心です』

そんな世の中に生きていれば、人の在り方は大きく変わっていくだろう。幸いにも、日本はまだ具体的な「テロ」や「戦争」に巻き込まれてはいない。かつては国内で、全共闘運動に代表されるような思想の対立があり、「テロ」と呼ぶべき争いも多々あっただろうが、恐らく日本では、「地下鉄サリン事件」以降、「テロ」と呼ぶべき事態は起こっていないのではないかと思う。

しかし、もし「テロ」が日常茶飯事の世界に生きなければならないとしたら…。

僕達は、生活スタイルや人生に対する考え方を大幅に変える必要に迫られることだろう。

本書で描かれるのは、そうした世の中になる一歩手前の日本だ。「テロ」の危険性は常にあるし、実際「テロ」も起こる。しかし頻発しているわけではない。

その状況で、国を守る責務を負う警察は、どう立ち回るべきか。

本書では、僕らが近いうちに迎えるかもしれない、現在よりもさらに殺伐とした世界における「警察」の存在意義みたいなものを突きつけてくる作品だ。そういう意味で本書は、既存の警察小説とは一線を画する作品だ。

『警察内で孤立する特捜部の専従捜査員は、皆筆舌に尽くし難い苦労を強いられている。彼らは全国の警察から引き抜かれた刑事だが、元の同僚からしてみれば、裏切り者以外の何者でもない。それでなくても特捜部は警察内部の異分子と見なされている。偏狭な体質を持つ警察組織が、特捜部に滅多なことでは情報を渡そうとしないのも当然と言えた。
それだけではない。時には悪意に基づく情報を意図的に伝えてくることがある。明白な嫌がらせであり、捜査妨害である。特に公安部にその傾向が顕著であった。』

本書の設定では、警視庁に新たに「特捜部」という部署が出来たということになっている(ありそうな部署名だが、現在は存在しないという)。その「特捜部」は、既存の警察組織では不可能な組織運営と機動力を有しており、「今のままの警察組織ではマズイ」という考えを共有している。「特捜部」の存在や捜査手法を手放しで受け入れてもいいのか、そこは様々な議論があるだろうが、本書で描かれている社会まで世の中が進んでいってしまっているのならば、やむを得ないのではないか、という感じもする。

変革は、時代によらず、様々な場面で常に起こっている。問題は、変革の最中は、それが未来を良くするものであるのかどうか、誰にも判断できないということだ。だから多くの人は、それまでのやり方にしがみつこうとする。しかし、そういう在り方ではもう、国境など関係なく繋がってしまった世界の中で、スピード感のある変化には対応しきれない。時に「特捜部」のような、変革の最中には批判を浴びるようなやり方こそ、未来を切り拓いていく可能性を持つのだ。

本書は、「警察組織」という、世の中の組織の中でも最上級にお固い組織を舞台に、それを内側からぶち壊すかのような「特捜部」という設定を組み込むことで、変革と変革に付き物の抵抗を描き出す、そんな一面も持っている作品だ。

内容に入ろうと思います。
警察法、刑事訴訟法、警察官職務執行法の改正によって、警視庁内に特殊部局が設置されることになった。「特捜部」あるいは「SIPD(Special Investigators, Police Dragoon)」と呼ばれる、刑事部・公安部などいずれの部署にも属さない特殊セクションだ。「機龍警察」とも呼ばれている。日本警察の悪夢とも称される「狛江事件」により、警察内部の抵抗勢力は封じられ、通常ではありえないセクションが誕生することになった。
その特捜部を率いるのは、元外務省の官僚である沖津旬一郎だ。彼は全国の警察から優秀な、しかも特捜部の理念に共感する者を集めると同時に、警察外部の人間もリクルートしている。

姿俊之:その世界では非常に有名な、金で契約をして戦争に従事する傭兵
ユーリ・オズノフ:元モスクワ警察の刑事。かつて指名手配されていた経歴を持つ。
ライザ・ラードナー:最悪のテロ組織と名高いIRFに所属していた元テロリスト

警察組織が雇うにはあまりに拒絶反応が高そうな彼らの経歴は程よく隠されている。とはいえ、そもそも警察組織が外部の人間をリクルートする、ということそのものに拒絶反応を示す者も多い。警察内部では、特捜部は同じ警察組織の人間とは見なされず、探偵に毛嫌いされているのが現状だ。
ある朝、住民からの通報によりパトカーが向かった廃工場から、人体を模して設計された全高3.5メートル以上に及ぶ二足歩行型軍用有人兵器「機甲兵装」3機が現れた。後に「ホッブゴブリン(第二種機甲兵装「ゴブリン」の密造コピー)」であると判明した3機は街中を逃走。人々を混乱に陥れながら、地下鉄有楽町新線千田駅構内で、ちょうど到着した列車の車内にいた人間を人質にしながら立てこもった。警察は、SATの出動を決定。SATが所有する9機の機甲兵装で鎮圧する計画を立てた。特捜部は、SATの後方支援を命じられた。機能で言えば、機甲兵装よりも遥かに性能の高い「機龍兵」を所有する特捜部は、機龍兵搭乗要員である姿・ユーリ・ライザの三人に指示を出し、計画の進展を見守る。
しかし…事態は思いがけず最悪の展開を見せた。甚大な被害を被った警察は捜査を開始、特捜部も独自に情報を収集する。
千田駅で起こった最悪のテロ。その背後では巨大な組織がうごめいているが…。
というような話です。

凄い物語でした。月村了衛の作品は2作ほど既に読んでいて、そのレベルの高さを知っていたんですけど、デビュー作である本書からこれほどのクオリティだったのかと、改めて驚かされました。

著者がどういう経緯でデビューしたのかは知らないが(少なくとも経歴を読む限り、新人賞を受賞してのデビューではないようだ)、本書は最初からシリーズ化することが想定されて書かれている。かと言って、単体の作品として劣るかというとそんなことはない。本書は、シリーズ作品の1作目としても、単体の作品としてもレベルの高い作品だ。まずそのことに驚かされる。

作品は、近未来を舞台に、これまでの警察小説とはちょっと違う描き方をする物語だ。ロボットと組織の対立という意味で言えば、『エヴァンゲリオン』×『踊る大捜査線』みたいな作品、と言えるかもしれない。様々な登場人物の過去が、世界観や物語に複雑な影響を与えている、という意味でも、『エヴァンゲリオン』の雰囲気を感じさせもする。

解説によれば、著者は、【警察が傭兵(しかも一人はテロリスト)を雇う、という状況をリアルなものにするために、機甲兵装という設定を考えだした】と語っているという。ロボットが登場する警察小説を書きたかったわけではなく、警察が傭兵を雇う物語を書きたかった、ということだ。その設計思想一つ取ってみても、本書の凄さが分かろうというものだ。普通は、「警察小説にロボットを登場させよう」と発想するだろう。

警察が傭兵を雇う物語を描きたかった、というだけあって、「特捜部」という特殊セクションの設定や、「特捜部」がいかに警察全体から嫌悪されているのかという、「特捜部」を取り巻く環境の描写は見事だ。「特捜部」の面々は、自分たちのやり方でなければ対処不可能な犯罪が目の前にあり、だからそれに全力で取り組むべきだと考える。しかし旧来の警察組織は、体面や前例などを重んじ、組織のあらゆる常識から逸脱する「特捜部」を排除しようとする。どちらが正しいか、などという議論をするつもりはないが、個人的には「特捜部」に肩入れしたくなる。

「特捜部」がそういう厳しい環境に置かれているからこそ、「特捜部」に属する面々の人間性がより色濃く浮かび上がってくる。警察組織全体から疎まれながらも、志願して「特捜部」入りした面々は、自分たちの行動が未来の日本を良くすると信じている。もちろんそう思っているのは、「特捜部」以外の警察の面々もきっと同じだろう。とはいえ、迫害されているからこそ、その意思がより強固に発揮され、小さな集団の中で連帯感が生まれていく、ということはあるだろう。

しかし、かといって「特捜部」は、完全には一枚岩にはなれない。何故なら、「特捜部」内でも、外部から招聘した傭兵に対する考え方は様々だからだ。しかも、「特捜部」の切り札である「機龍兵」は、「特捜部」の創設と同時に存在していた。つまり、「機龍兵」を誰がどのように作ったのか、ということを知る者がほとんどいないのだ。「特捜部」内でも情報が秘されているという事実は、組織を一枚岩にしようとする上で大きな障害となるだろう。

先程も書いたが、本書はシリーズの第一作目だ。本書で出てくる様々な伏線は、本書内で回収されるとは限らない。姿・ユーリ・ライザの三人を始め、登場人物たちの様々な過去が描かれていく。例えば、「機龍兵」の整備責任者である鈴石緑は、彼らの内の一人と浅からぬ因縁がある。姿が所属していたという「ディアボロス」という奇跡と賞賛される組織についても謎だ。そもそも、何故沖津が外務省の官僚から「特捜部」の部長になったのかも不明だし、「フォン・コーポレーション」という、香港財閥系企業のCEOが何を狙っているのかも不明だ。そもそも、千田駅でのテロ事件の真相は、本書では明らかにならない。本書のメインであるはずの事件を解決に導かない、なんてことをデビュー作からやってのけてしまう、ということが、やはり凄まじいなと感じるのだ。

本書ではないが、本シリーズは「日本SF大賞」と「吉川英治文学新人賞」を受賞している。同一シリーズで、SFの賞とミステリの賞を受賞した例というのは、あまり多くないのではないか。ジャンルの区分けなどまるで意味をなさないほど縦横無尽に様々な要素が組み込まれる本作は、小説の新たな未来を切り拓いていく力を持つ作品なのではないかとも思わされた。

月村了衛「機龍警察」

読者(ぼく)と主人公(かのじょ)と二人のこれから(岬鷺宮)

物語の登場人物が現実に現れたら…というのは、誰しもが抱いたことがある妄想かもしれない。自分が物語の世界に入り込む、というパターンもあるだろうけど、そっちはなんかかなりハードルが高そうな気がする。けど、登場人物の一人だけでもいいからこの世界のどこかにいる―そんな風に妄想するのは、イメージしやすいかもしれない。

僕は子どもの頃からマンガはあまり読まないし、ゲームもしない。小説はそこそこ読んでいたけど、小説を読んで頭に映像が浮かばない人間なので(今でもそうだ)、特定の誰かに憧れた、という経験があまりない。

けど、振り返ってみて、「エヴァンゲリオン」の綾波レイは一時凄く好きだったな、と思う。

綾波レイが目の前に現れたら、テンション上がるだろうなぁ。「エヴァンゲリオン」を見たのは大分前でちゃんと覚えていないから、そんな事態になるなら見返しておかないといけないけど、それを予測出来るなら、綾波レイについて情報を得て、どんな話をしようか、とか考えるんだろうなぁ。

みたいなことが、現実に起こってしまった高校生男子を主人公とした物語なわけです。SFでもファンタジーでもなくこの設定を作り上げているので、これは、規模の大小はあれど、僕たちにも起こりうる話なのだ。

最近ネットのニュースで、「日本に一度も来たことがない外国人が、渋谷の写真を見て『懐かしい』と言うのは何故か」というような記事を見た。これは、海外での多くプレーされているゲームの舞台が渋谷であることが多く、その再現レベルが実際の渋谷の風景にかなり忠実であるが故にそういう状況が生まれるのだそうです。

ある意味で本書も、それに近いと言えなくはないかな、という感じはしました。

内容に入ろうと思います。
都立宮前高校一年の細野晃は、中学時代のある時から他人に心を閉ざすようになり、本ばかり読んで過ごしている。他人と関わることで、相手を傷つけてしまう―そのことを恐れているのだ。彼は、「十四歳」という小説を愛読していた。十四歳の少女の日常を綴っただけの物語なのだが、『自分と同じことを考えている「誰か」が、ページの向こうにいる―』と感じられるほど、主人公の「トキコ」に共感できてしまう。折りに触れ読み返していたために、表紙がボロボロになっている。
クラスで自己紹介が始まる。自分の前に座っていた女の子が壇上に上がり自己紹介をした時、心臓が止まるかと思うほど驚いた。
「トキコ」だ。「トキコ」がいる。
柊時子と名乗ったその少女は、立ち居振る舞いや言動のすべてが、「十四歳」に出てくる「トキコ」そのものだった。そんなまさか。小説の主人公が目の前に現れるなんて―。
その疑問は、しばらくして氷解することになる。なんと「十四歳」は、時子の姉が時子をモデルに描いた小説だ、というのだ。
やっぱり間違いなかった。「トキコ」だったのだ。
僕は、なかなか周囲の会話に入れない時子のサポートらしきことを続けていた。それを感じ取った時子は、これからもそうしてもらえると嬉しい、と僕のやり方を受け入れてくれた。
こうして、他人を拒絶し続けてきた少年と、小説から抜け出してきた少女は、細野の旧友である須藤伊津佐と広尾修司も巻き込みながらお互いの存在を強く意識するようになっていくが…。
というような話です。

いわゆるライトノベルと呼ばれる作品ですが、ライトノベルを普段読まない人にも面白く読める作品だと思いました。異世界や魔法やロボットなんかは一切出てこず、純粋な学園小説という感じです。もちろん、ライトノベルの特性上若い世代にもわかりやすく書かれているので、小説としてはちょっと甘い部分はあるかな、という感じはします。もどかしいなぁ、という感じのするラブストーリーなので、そういう話が苦手な人にも合わないかもしれません。でも、ライトノベルだという偏見を除けば、かなり読める作品じゃないかなと思います。

細野の臆病さがもうちょっとちゃんと描かれていると良かったな、という点が残念ではありますが(うまく説明できないんだけど、本書における細野の臆病さの描写は、ちょっとわざとらしいというか、もうちょっと上手く書けるよなぁ、という感じがします)、時子が必死に周囲に溶け込もうとする感じや、憧れの小説の登場人物と出会えた細野の喜び、また須藤や広尾の関わり方など、全般的に良かったなという感じがします。特に、須藤と広尾は、細野とは違ってコミュ力がとても高いのだけど、そんな二人が細野に対して「何故他人と関わるのか」を語る場面は、かなり良かったなという感じがしました。

また本書では、「時子が小説の主人公である」という部分が障害になっていく、という点も描かれていて良かったなと思います。憧れと現実が入り混じった時にどういう変化が起こり、どういう選択を迫られるのか、という部分の描写は、本書においてはやはり重要な部分で、そこがラスト付近で大きな意味を持ってくる、という展開は良かったなと思います。

ネット上ならともかく、リアルでは距離を詰めるのが苦手な人が多くなっているように感じられる時代には、彼らのもどかしい振る舞いは共感してもらえる部分があるのではないかと感じた。

岬鷺宮「読者(ぼく)と主人公(かのじょ)と二人のこれから」

QJKJQ(佐藤究)

久々に興奮させられる作品だった。
これが新人のデビュー作とは、信じがたい。


『「正当な物理的暴力行使の独占を要求する共同体」市野桐清はわたしにかまわず話し続ける。「それは何のことか?国家のことだ。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーの言葉だ」』

そう、僕たちは「国家」という幻想を共有している。
普段、あまりそういうことを意識することはない。「国家」などというものについて考えることはないからだ。考えなくても生きていける。

しかし、実際には「国家」などというものは存在しない。

それは、「国境線」などというものが実際には存在しないのと同じような意味だ。ここが国境だ、というような場所に言っても、僕らはそこに実際の「線」を見るわけではない。線でなくてもいい。何か、国と国とを分かつようなもの(それこそ、トランプ大統領が作ろうとしている国境の壁のようなもの)があるわけではない。「国境線」というのは、僕らの頭の中にしかないのだ。

それは、つまり妄想、ということだ。しかしそれが妄想であったとしても、大多数の人間がそれを承認していれば、それは「現実」と呼ばれる。

「国家」も同じようなものだ。「リンゴ」のように何か実体を持つわけではない。もちろん、実体の有無で存在非存在を判断するのはおかしい。例えば、「虹」は実体があるとは言えないだろう。しかし、現象としては確実に存在するといえるだろう。

では、存在非存在を分ける要素は何なのか?何故「国家」は存在しないと言えるのか?

これは僕なりの定義だが、僕は、「人間がいなくてもそこにあるもの」は「存在している」と言っていいと思う。「リンゴ」も「虹」も、人間がいるかどうかに関わらず、そこにあるだろう。

では、「国家」は?「国家」は、人間がいなくても存在しうるだろうか?

いや、しないだろう。人間がいなくなれば、「国家」など簡単に消滅してしまう。それは、太平洋に浮かぶ細長い島が「日本」でなくなるとか、そういう話ではない。「国家」という概念そのものが消滅してしまうということだ。

つまり、「国家」というのは、人間の幻想によって支えられている、ということだ。

こういうものは、他にもある。有名なのは「貨幣」だ。「貨幣」には硬貨や紙幣といった実体がある。しかし、実体があっても、「貨幣」は人間の想像の産物なのだ。何故か。こんな風に考えてみればいい。タイムマシンが存在するとして、僕らが使っている千円札を持って江戸時代に行って買い物できるかやってみよう。まず無理だろう。実体100%に対して価値があるならば、千円札は江戸時代でも使えるはずだ。使えないのは、「貨幣」というのが実体だけではなく、人間の幻想によっても成り立っているものだからだ。皆がそれに価値がある、と思い込んでいるからこそ、「貨幣」は「貨幣」としての価値を持ちうるのだ。

普段「国家」や「貨幣」などについて考えることはないが、考えてみるとそれが幻想であることが分かる。となれば、僕らが普段真剣に考えていない様々な事柄が、実は幻想であってもおかしくはない。僕だって、「国家」や「貨幣」が幻想によって成り立っているなどと、自分の思考によってたどり着いたのではないと思う。何か本を読むなりして、なるほど言われてみれば確かにそうだな、と思ったということだ。

また、幻想によって生み出される現実は、人間という共同体すべてにおける大多数である必要はない。ある集団における大多数によっても生み出され得ると思う。

例えば宇宙論の世界ではかつて、「エーテル」という物質の実在が信じられていた。これは、宇宙空間すべてを満たしている物質、として考えられていた。当時、光は何もない空間(=真空)を進むことは出来ないと考えられていた。だから、真空に思える宇宙にも、きっと何かで満たされているはずだ、と物理学者は考えた。それは観測されてはいなかったが、実在するはずだ、という多数の物理学者の幻想によって、「エーテル」という物質が仮定されたのだ。

結局、エーテルは実在しないことが証明された。それを証明した実験は、物理の教科書に載るほど有名だし、また「何もないはずの空間を何故光は進めるのか」という疑問の答えを見出したのは、あのアインシュタインである。

さて、僕は何が言いたいのか。仮にエーテルの不在が実験によって証明されていなかったとしよう。そうしたら僕らは、物理学者たちがそう考えている、という理由によって、エーテルという物質の存在を信じることになるだろう。エーテルは誰も観測したことがない物質だが、エーテルは実在するはずだ、という物理学者たちの幻想がその実在を強く意識させることになった。そして、エーテルが実在することを前提に、科学が進んでいた可能性はゼロではない。その場合ロケットや人工衛星の設計は今とは違ったものになったのではないか。

地球上の全人口に対する物理学者の数は非常に少ないだろうが、その少ない人数が幻想を抱くことによっても、現実に大きな影響を及ぼす可能性があるのだ。

そういうことが、僕らの現実に起こっていないとは、誰にも言い切れないだろう。

この作品は、ある「もしも」を描き出す。もしも、ある少数の人間たちが抱く幻想によって、僕らの生きる現実が「改変」されているとしたら…。いや、これでは表現として正確ではない。僕らの生きる現実の「意味合い」が「改変」されているとしたら…。

恐らく、本書で描かれていることは、現実にはあり得ないだろう。でも、もしかしたら…という僅かな可能性を捨てきれない。それぐらい、あり得そうに感じさせるのだ。

現実が解体されていくかのような経験を味わった者たちの物語である。

内容に入ろうと思います。
市野亜李亜。高校生。17歳。普段からスマホの電源はつけず、防犯カメラから身を隠すようにして生活している。何故か。殺人鬼だからだ。人気のない寂しい路地で声を掛けてきた男。男の車に乗ってドライブ。キスを受け入れて、ベストの内ポケットから取り出したペーパーナイフで男を切り裂く。家に帰ると、母に言われる。「どうして部屋でやらなかったの?」と。
家には<専用部屋>がある。人を殺す専用の部屋だ。母はそこに若い男を連れ込んで、シャフトで殴って殺す。兄は若い女性を連れ込んで、あごの力で喉を噛み切る。父が人を殺している姿は、一度しか見たことがない。しかし、その光景はあまりに衝撃的なものだった。抜いた血を口から飲ませて殺していたのだ。
そう、私の家族は全員猟奇殺人鬼だ。そういう秘密を抱えながら、普通の家族のように生活している。
ある日、驚きの光景を見つけてしまう。さらに、理解できない状況。父親の視線の変化から、長い間気づかずにいた秘密を知るや、父親を問い詰めた。答えは、理解できないものだった。
『誰でも目の前のものを見ずに生きている。現実を他人に教えられても信じない。それで結局、自分で向き合うこととなる』
家から離れ、現実を知ろうとする。しかし、その第一歩で早速つまづいてしまう。自分の住民票の写しを見ることが出来ない…。
というような話です。

凄い物語でした!久々にこんなとんでもない物語を読んだな、という感じです。しかも、これが新人のデビュー作というのは、ちょっと破格過ぎるだろう、と思います。びっくりしました。

正直、本書を読んだ人間なら誰でも感じるだろうけど、本書の内容については詳しく触れたくない。1/3を過ぎた辺りからの果てしない混沌、混沌を分け入って少しずつ集める情報、そして認めたくない現実。これらの衝撃的な展開を是非味わって欲しいなと思うからです。

だから、この感想の冒頭で書く話も、僕なりにはかなり気を遣ったつもりです。読み終わった人なら、僕が際どい部分を避けながらなんとかこの作品の本質的な部分を拾い上げようとしているのを感じ取ってくれるかもしれません。

もちろん僕は、本書の「現実が解体されていく感じ」も凄く好きなんですけど、それ以上に感心したのが、本書の中で「アカデミー」と呼ばれているものについてです。詳しくは書かないのだけど、僕はこの実在を100%否定出来ないなと思います。もちろん、理性的に考えれば、あり得ません。ただ、本書で繰り出される「アカデミー」の存在理由については、理解できるとは言わないまでも、そういう論理的には成り立つと思うし、賛同する人がいても不思議ではない、と感じます。もしそれを理念として掲げる人物がどこかの時代に存在したとすれば、後は様々な現実的な要素を照らし合わせながら可能か否かという話になるでしょう。人間が人類史の中で行ってきた様々な事柄を考え合わせれば、決して不可能ではないように僕には感じられます。だからこそ、あり得ないと思いつつ、完全には否定できないなと思えてしまいます。

もちろん、現実の世界で「アカデミー」が実在するのかどうか、という論点と同時に、物語の中に「アカデミー」を登場させていいのか、という問題も、また別の問いとして存在しうるとは思います。どういうことなのか、というのは本書を読めば(あるいは巻末の選評を読めば)きっと理解できると思うのでここでは書かないのだけど、僕はあまりその点は気になりませんでした。「アカデミー」を登場させるかどうかの是非よりも、登場させて場合にどう料理するかの部分が大事だと思うし、その調理法は非常に見事なものだったと思うからです。これが下手な料理人によるものであれば感じ方も変わったでしょうが、作者の「アカデミー」を取り扱う様が絶妙だったと僕は感じるので、全体としてよくまとまっていたな、と感じました。

巻末に載っていた江戸川乱歩賞の選評も読みましたけど、僕は辻村深月の評が好きだ。本作が持つ魅力と欠点を、実に巧く描き出していると思う。もちろん、応募時点での原稿から手が加わっているだろうから、辻村深月の指摘が本書に対してどこまで的確であるのか、本書しか読んでいない僕らには分からないのだけど、なるほどと感じさせる評でした。

実は僕は、この著者の二作目である「Ank」という作品から先に読みました。こちらもまた常軌を逸した素晴らしさを持つ作品です。是非読んでみてください。しかしホントに、凄い新人作家が現れたものだよなぁ、と思います。

佐藤究「QJKJQ」

響きの科学 名曲の秘密から絶対音感まで(ジョン・パウエル)

内容に入ろうと思います。
本書は、「音楽」というものを科学的に捉え、しかも数式やグラフや楽譜などを基本的に使わずに説明する、という作品です。音楽を「科学する」というのが、恐らくイマイチ想像出来ないんじゃないかと思いますけど、例えば冒頭に、本書はこんな疑問を解き明かします、と出てきたものを書いてみます。

『音楽の音と雑音のちがいは何なのか』
『なぜバイオリン十台の音の大きさが、一台の音の二倍しかないのか』

この疑問は、なるほど、と感じさせられました。確かに、「音楽」と「雑音」の差って、説明しろと言われてもなかなか出来ません。また、面白いと思ったのは後半の疑問で、確かにそうかもな、と。僕はバイオリン十台の音なんて聞いたことないですけど、でもオーケストラとかでバイオリンがたくさん並んでいるのを見ることはあります。想像してみる時、バイオリンが十台あった時、それがバイオリン一台の時の10倍の音だとしたら、想像を絶する大きさでしょう。でも、たぶんそんなことにはならない。オーケストラの人たちが力強くバイオリンを弾いているように見えても、10倍の音にはならないだろうな、と思います。それは何でだろう?そういう、「音楽」というものを取り巻く色んな理論や状況や不思議を、科学の視点から解説していく、という作品です。

また本書は、音楽の歴史的な話もちょくちょく出てきます。個人的に意外だったのは、ピアノの歴史です。

『ピアノは1709年にバルトロメオ・クリストフォリという流麗な名前をもつイタリア人楽器製作家によって発明され、その後100年以上もかけて改良が続けられた。』

何が意外だったかというと、ピアノってもっと歴史が古いものだと思っていたんです。それこそ500年とか1000年くらいの歴史があるんだと思ってました。まだ300年ぐらいの歴史しかないんですね。それがホントに意外でした。

また、楽譜に書かれている音が時代によって違う、という話も面白かったです。その事実は、別の本でも読んだような記憶があるんですけど、より具体的に書かれていて面白かったです。

『こうした歴史上の事情があるために、世の音楽学者たちは頭を悩ましている。学者の典型的な見解に、モーツァルトの音楽は、書かれたとおりに演奏すべきだというものがある。もうひとつ、モーツァルトの音楽は、楽譜に書いたときに彼の頭のなかで聞こえていたとおりに演奏しなければならないという、これもまたもっともな見解もある』

これは一体どういうことか。かつては国ごとに、あるいは町ごとに、楽器の音は異なっていた。同じ「ド」でも、違う音だったのだ。ここまではなんとなく僕も知っていた。

じゃあ、いつ音は統一されたのか。これが結構意外だった。

『専門的な議論(口論とたいして変わらない)が何度ももたれた後、1939年のロンドンでの会合で、今日使われている音が決定された。それで現在、世界中で、フルートをはじめ、バイオリンやクラリネット、ギター、ピアノ、木琴などの西洋楽器には、標準的な音の集まりがあるのだ』

これもびっくりでした。むしろ、1939年まで音が統一されていなかった、ということに驚きました。1939年以前の音については、色んなところで当時音楽家が使っていたメトロノームが見つかっているために、今の音とは違うということがわかっているそうです。であれば、モーツァルトが「聞いていた」通りに演奏するべきだろうと思うんだけど、そうなると楽譜を書き換えないといけなくて大変なんでしょうね。

歴史の話で言えばもう一つ面白いと思った話があります。
現在音楽には「長調」と「短調」という音階方式がありますが、紀元前から続く音楽の歴史の中では、様々な音階方式が生まれては消えていったそうです。そこからどんな風にして「長調」と「短調」の二つに収斂していったのか。

『西ローマ帝国皇帝のカール大帝は、教会旋法を広く普及させようとして、これらを使わないと死罪に処すと聖職者たちを脅かした。そうして教会旋法はあまねく行き渡った。
教会旋法は数百年にわたり広く用いられたが、そのなかでも流行り廃りはあった。最終的に、十八世紀に入るころには、もとの七つの旋法のうち二つしか使われなくなっており、この二つが長調と短調として広まっていった』

やっぱりキリスト教の教会ってのはホントに色んなところに出てくるな、と思わされました。しかし、教会旋法を使わなかったら死罪って、メチャクチャだよなぁ。教会、怖っ。

科学の話で言えば、こちらも興味深い話はいくつかあります。ただ、一部を抜き出して説明するのがなかなか難しいですね。

たとえば、ギターの弦をはじく場合。ギターを弾いた経験のある人はもちろんわかっているでしょうけど、弦の中央をはじいた場合と弦の端の方をはじいた場合では音が違う。実は、どちらの場合でも、音の基本周波数は同じなのだ。しかしそれでも、音は変わる。その理由を非常にわかりやすく説明してくれている。

また、実際にはスピーカーから出ていない音を人間の耳に聞こえさせる方法も非常に面白い。例えば、90Hz以下の周波数にはあまり強くないスピーカーがあるとする。このスピーカーから55Hzの周波数の音を出したい。普通に考えればはっきりした音は出ないのだけど、方法がある。実は、55Hzの倍音の周波数、つまり110Hz・165Hz・220Hz・275Hzをスピーカーに送り込めば、55Hzがはっきりと聞こえてくる。実際にスピーカーには55Hzの周波数の音は送り込まれていないのに、である。

また、現在の西洋の音階方式の基本である「等分平均律」の話もなかなか面白い。
我々が使っている音階というのは、基本的にこういう発想で作られている。
「オクターブを12段階に分割し、その内の7つの音を使う」
僕は正直うまくイメージ出来ていないのだけど、1オクターブをまず12個の音に分割するらしい(何故12なのかは不明。書いてあったのかもしれないけど)。で、その12個の音の中から7個を選んで、それに「ドレミファソラシ」と名前をつければ、僕らが使っている音階になる、というわけだ。

1オクターブというのは、例えば弦の話で言えば、弦の長さが半分になることを意味する。つまり、1mの長さの弦をはじいた時に「ド」の音が出るとすれば、そのちょうど半分である50cmの弦をはじけば1オクターブ上の「ド」の音が出る、ということだ。つまり、1m-50cm=50cmの長さを12に分割することが求められている。その12の音それぞれが他の音と何らかの関係性を持つようにすると、音同士がうまく調和するのだという。

その理想的な形は「純正律」と呼ばれる。しかし純正律は、実は使いにくいのだという。バイオリンやチェロなど「音が固定されていない楽器」のみであれば純正律でもハーモニーを生み出せるらしいのだけど、ピアノやフルートなど「音が固定された楽器」と合わせようとすると、純正律だと不調和な音が生まれてしまうのだという。

そこで妥協の産物として等分平均律が生まれた。これは、先の例で言えば、弦の長さ50cmをそれぞれの音が同じ間隔で配置されるように12に分割するものだ。一見すると簡単そうだが、これがなかなか難しかったのだという。このやり方にたどり着いたのは、ガリレオ・ガリレイの父であるヴィンチェンツォ・ガリレイ(1581年発見)と、中国の学者である朱載◯(◯は土偏に育)(1580年発見)の二人だが、どちらも音楽界からは無視され、1800年代に入るまで普及しなかったという。可哀想やねぇ。

科学の話とはちょっと違うけど、音の大きさを測る「デシベル」の話も面白かった。デシベルという単位について全然詳しくなかったのだけど、これは「絶対的な音の大きさ」を測るものではなくて「相対的な音の大きさ」を測るものだそうです。知らなかった。

デシベルという単位は、例えば「二つの音の差が10デシベルなら、大きい方の音は小さい方の音の2倍大きい」ということらしい。だから、20デシベルは10デシベルの2倍の大きさだし、93デシベルは83デシベルの2倍の大きさだそうだ。変な単位だ。その不便さを解消するために、人間にどう聞こえるかという主観的な音の大きさを基準とする「ホン」という単位があるそうだが、デシベルがあまりにも広く使われているために「ホン」が普及しないのだという。本書の説明を読むと、「ホン」という単位の方がメチャクチャ使いやすいんだけどなぁ。

あと、著者が断言してて面白いと思ったのが、「調は特定の気分を持つ」という音楽家の意見は思い込みだ、というものだ。例えば「イ長調」は「明るく陽気」、「ハ長調」は「中間的で純粋」というような、調による気分を多くの音楽家が感じているのだという。しかし著者曰く、科学的にはそれらに違いはない、ということだそうだ。あくまでも、調の変化が重要なのだという。また、調に気分があると信じる音楽家が、それぞれの調に「合う」と感じる楽曲を多く作るから、余計その思い込みが助長されるのだ、というような説明もしていた。

とまあこんな感じで、音楽を題材に様々な事柄が描かれている作品です。難しかったりややこしかったりする記述がまったくないとは言わないけど、概ね面白く読めるんじゃないかなと思います。

ジョン・パウエル「響きの科学 名曲の秘密から絶対音感まで」

さぎ師たちの空(那須正幹)

内容に入ろうと思います。
物語は、広島から家出してきた少年が、大阪にたどり着いたところから始まります。地元の不良中学生グループ・友和会から抜け出した島田太一は、警察から職務質問を受け、スポーツバッグと現金10万円を置いて逃げた。仕方ない、食い逃げでもするか、と思って入ったラーメン屋で、先程の警官に出くわしたのだ。いや、警官ではなかった。ただのおっさんだった。つまり太一は、騙されて10万円を奪われた、ということだ。金とバッグは返す、というおっさんを見返してやりたいと思って、食い逃げするためにとある仕込みをしたのだが、そのせいで店主らからボコボコにされてしまった。結局、おっさんに連れて行かれることになった。
おっさんは、アンポという名前らしい。状況はイマイチよくわからないが、どうやら太一の怪我を利用して、ラーメン屋から金をふんだくる算段をしているらしい。要するに、詐欺師の集団だ。太一は、成り行きから彼らの詐欺に関わることになり、その後も、大掛かりな仕掛けを用意する彼らの騙しの現場に加わることにした。政治家に似た男を利用して大金をふんだくる詐欺、ホテルに幽霊が出るという噂を流して金を取ろうとする詐欺、そしてついにはヤクザまで…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。詐欺、という犯罪を扱う作品なんですけど、全体的に凄くユーモラスに話が展開していきます。こういう物語の場合、詐欺という犯罪を正当化するために、詐欺を働く相手は悪人、つまり「清水の次郎長」みたいな感じの設定になることも多いと思うんだけど、本書では別にそんなこともなく、ただ金になりそうな案件を見つけたら、みんなで楽しそうに計画を練るわけです。なんだか、学園祭の準備でもしているような雰囲気で、みんな楽しそうです。

個人的にちょっと思うのは、何故アンポが詐欺をしているのか、という部分がイマイチよく分からなかったということです。いや、恐らく、著者的にはちゃんと理由を書いているつもりなんだと思うんです。本書では、アンポが「共産党宣言」という本を教材に、周辺住民に共産主義について勉強会をしているシーンが描かれます。そして、アンポの発言として、「金持ちから金を奪って分配するんだ」みたいなのもありました。恐らくアンポは、共産主義的な世界を実現する手段として詐欺という手法を選んでいるんだ、というような描き方なんだろうな、と思います。

ただ、そう描くには、さっきもちょっと書きましたけど、詐欺を働くターゲットの選別が甘いと思うんです。もし、富める者から貧しいものへの分配、というのが詐欺のテーマであるなら、あくどいことをして儲けている金持ちのみをターゲットにした方がいいと思うんですよね。その方が、その詐欺のテーマがはっきりと描き出せると思うんです。でも本書は、そういう感じではない。あくまでも、詐欺で金がふんだくれそうなターゲットが現れたら即座に反応する、というような感じでターゲットが決まっている、という印象を受けました。そこが弱いなぁ、と。そして、もし分配が詐欺のテーマでないとするならば、アンポが詐欺に注力する理由は明確には描かれていない、ということになります。個人的には、物語をうまくまとめるにはその辺りの描写が欲しかったかな、という感じはしました。

詐欺の中身は、なかなか面白いです。もちろん、実際にこんなにポンポンうまく行くのか、という疑問はあるだろうけど、どの詐欺も一手二手先まで周到に考えられています。しかも、「金をふんだくる」みたいな感じではなくて(最初のラーメン屋に対する詐欺は、ちょっとそういうテイストですけど)、あくまでも金を相手が自発的に出すように仕向ける、というようなやり方で仕掛けを進めていきます。特に、政治家に似た男を登場させる仕掛けでは、鮮やかだったなぁ、という感じがします。まさに、自発的に金を出させる、というのが上手くはまっているな、と。

詐欺は犯罪だけど、彼らと一緒なら、ちょっと面白そうだし、混ざって一緒にやりたいな、と思わされてしまう作品でした。

那須正幹「さぎ師たちの空」

少女キネマ 或は暴想王と屋根裏姫の物語(一肇)

向こう側に行けてしまう人間に、憧れることがある。
程度は、あまり問わない。しかも、主観的だ。あくまでも、「僕が壁を感じていること」を「容易く乗り越えているように見える人」のことを指している。

時々、そういう人間と出会うことがある。勉強でも芸術でも遊びでも人間関係でも仕事でも何でもいい。普通越えられないように感じられるハードルを、難なく乗り越えてしまう。

そういう時、自分の小ささを感じさせられる。

僕自身は、理性で自分を抑えつけてしまうことが多い。常に、自分を含めた物事を客観的に見てしまう癖がある。自分ではない自分が、いつでも自分を監視しているようなイメージだ。そして、そのもう一人の自分が見ていて「恥ずかしい」と感じてしまうようなことが、なかなか出来ない。

『圧倒的な才能というのは、他者すべてをいち観客にしてしまう。そこには嫉妬も何もない』

そういうものが欲しかった、と思う。僕は、生まれ変わったら数学者か将棋指しになりたいと思っている。しかも、圧倒的な才能を持つ数学者か将棋指しだ。誰も捉えたことのないような数学世界を数式で構築したり、誰も見たことがないような神の一手を指したりしたい―切実にそう感じてしまうことは、やはり時々ある。

ただやはり、「欲しかった」というような態度では、そもそもダメなのだろう。

『天才という言葉は、天才と呼ばれる人々に対する最大の侮辱なのです』

そう、そのことは、頭では理解できる。

天才と呼ばれる人たちは、それこそ圧倒的な努力をしているのだ。何も努力せず、天賦の才のみで圧倒的な成果を出し続けられる人はいないだろう。確かアインシュタインだったと思うが、「才能とは、努力できる天才のことである」というようなことを言ったという。確かにそうなのだ。「才能」という贈り物が外部から挿入されるのではない。努力し続けるその動きの過程そのものが「才能」と呼ばれる、ということなのだ。

『カメラには、努力だけでは行けない領域がある』

もちろん、これも一面の事実ではある。努力だけではどうにもならない。自分の内側に何かの可能性を見出すこと、そしてその可能性を大きく広げるだけの努力をし続けられること、その可能性が生み出す成果を形にし世に問い続けられること―。そうしたすべてが才能であり、才能を生むための努力なのだ。

『確かに僕は、才条三紀彦の放つ光の強さに引かれた人間のひとりである。その為に高校時代のほぼすべてをやつに侵食され、やつの使い走りとなり、やつの映画の手伝いをひたすらさせられた。それについて恨むことはない。楽しかったし、出来上がった作品も素晴らしいものであった。むしろその充実した日々には感謝したいほどである。
だが、やつは東京へと消えた。凡人たる僕に正体不明の熱を宿し、僕の人生に軌道を曲げたあげく、唐突にこの世からも消え失せてしまった。』

才能がいつ開花するか、それは分からない。だから、自分の内側に才能はないと諦めてしまうのは、いつであっても早い。早いがしかし、自分の内側の才能が見つからない以上、どう生きるかを考えなければならない。どんな生き方もあり得る。しかし、圧倒的な才能を持つ者の側で、その煌めくような光を浴び続けながら生きる―というのも、生き方としては悪いものではないのだろう。

そんな風に思わせてくれる小説だ。

内容に入ろうと思います。
十倉和成は、武蔵野にある中堅の私立大学である星香大学に通う一年生だ。熊本で二浪してまでもこの大学に入りたい切実な理由があった―ということだけを同宿である亜門次介に話してしまっていたようで、その理由を問い詰められる機会は何度もあったが、十倉はその理由を話さなかった。しかし、その切実さは実は、十倉が入学する時点で失われてしまっていたのだ。それ故十倉は、自分が思い詰めて必死の受験勉強の末に入学した大学であるというのに、日々凡庸とした日々を送っている。
彼が住んでいる友楼館は、かつて大学のあるサークルの部室であった。その名も、キネマ研究部。映画の撮影に情熱を燃やす者たちによる、ある意味吹き溜まりのようなサークルだ。
古い建物であり、建物中の音が伝わってしまうこの部屋にあって、十倉は最近大きな問題を抱えている。部屋の中のモノが無くなるのだ。「温子」と名付けた次姉が編んでくれたマフラーや、「武蔵」と名付けた100円ショップで買ったハサミが消え、ついには「どん兵衛」が盗まれた。「誰かいるのか―」誰もいるはずがないと思ってした誰何に、なんと押入れの真上の天袋のスペースから声が返ってきた。
黒坂さちと名乗った高校生のその少女は、なんと5年もその天袋に住んでいるのだという。今までよく気づかれなかったものだ。体調を崩し、「温子」と「武蔵」と「どん兵衛」を盗んだことを彼女は認めたが、十倉としてはもはやそんなことはどうでも良かった。このおかっぱの黒髪の美少女に魅せられていたのだ。
それからしばらく、十倉とさちの奇妙な共同生活は続くこととなった。さちの生活を心配した十倉が、高校生にも出来るアルバイトを探す―そんなきっかけから、二人の運命は流転していくことになる。
同じく友楼館に住んでいる久世一麿が、自分が撮る映画の主演をしてくれないかとさちにバイトを持ちかけた。そして一方で、十倉は、自分がこの星香大学に来た本当の理由を直視するようになっていく。
十倉が大学に入学する前、構内の建物から落下して命を落とした、高校時代十倉を映画撮影のために振り回し続けた才条三紀彦が最後に撮っていた映画のフィルムを見たことで、止まっていた十倉の時間が動き始めた…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。ザ・青春小説、という感じの作品で、言い回しやキャラクターの感じが森見登美彦を彷彿とさせる、と言えば、大体どんな作品かイメージはつくでしょう。映像にしたら面白そうな感じの作品です。

外枠は、よくある青春小説みたいな感じですが、中身はなかなか骨太です。本書で描かれているのは、「芸術に人生を捧げることについて」と言ってもいいと思います。学生の分際で人生を捧げるなどとは大げさ、という感じもするでしょうが、確かに彼らは、「映画を撮る」ということに人生を捧げている、あるいは捧げようとしているなと思います。

芸術というのは全般的に、向こう側に行ってしまった人間が、こちら側の表現方法で向こう側を描き出す、そんな側面があるような気がします。だから、本当に歴史に残り、人々の琴線に触れるような作品を生み出すためには、向こう側に行くしかないのだと思います。しかしそれは、努力だけではどうにもならない。努力なしではたどり着けないだろうが、ただ努力するだけでは無理なのだ。たどり着ける者とたどり着けない者がいる。

作中で才条三紀彦は、たどり着けた者として描かれます。彼の遺作となった、未完の映画「少女キネマ」は、観る者を皆震えさせるような衝撃を伴うような映画だったわけです。

だからこそ、多くの者は、特に十倉は「何故?」と思う。才条の死は自殺か事故なのか判然としなかったが、とにかく、何故これほどの映画を撮りながら死んでしまったのか、と誰もが思うのだ。

物語の大きな軸は、才条の死と「少女キネマ」という未完の映画に関わるものだ。まさにここでは、芸術とは何か、芸術に身を捧げるとはどういうことか、というようなことが、決して小難しくなく、エンタメの皮をうまく被りながら描かれていく。

そしてもう一つの軸は、黒坂さちだろう。天袋に住み続けているという謎の少女だ。十倉は彼女に惚れ込んでいるが、父の「女は魔性だ」という言葉が刻まれているが故に、思い切った行動が取れない。とはいえ、心温まるようなささやかなやり取りは日常の中であり、その積み重ねの中で十倉の想いはふつふつと膨れ上がっていく。

さちとの邂逅と、才条が遺した「少女キネマ」が、十倉の人生を大きく動かしていくことになる。それまで十倉の人生は、ほぼ止まったままだったと言っていいだろう。本書のラスト付近まで読み進めれば、よりそう実感出来ることだろう。止まったままの人生を、彼は周りにいる個性的な面々と関わることで過ごしていく。その生き方も、決して悪くはない。しかし十倉は、才条という男の存在を知ってしまっている。普通であれば覗き見ることが出来ない世界の入り口に立った男のことを知ってしまっている。やはり、その魅力に抗うことは難しい。

この物語は、十倉が重い重い腰を上げるまでを描く物語だ。映画が嫌いだ、と公言していた十倉が、その発言を撤回するかのような行動を取るまでに、どんな葛藤があり、どんな後押しがあったのか。その過程で様々なことが描かれるが、僕が好きなのはベスパというバイクの話だ。壊れたベスパをただひたすら修理する、というだけの無為な時間を小説で描き続けるのだけど、それが十倉の人生にとってはなかなか重要な転機となる。重要なモチーフや出来事を、そうとは感じさせないように登場させながら、ただの日常として描いていく、みたいなテイストは結構いいなと思う。

若さが全開にほとばしる、疾走する青春小説、と言った感じの作品です。

一肇「少女キネマ 或は暴想王と屋根裏姫の物語」

あなたの人生の科学(デイヴィッド・ブルックス)

本書を一言で説明しろ、と言われたら、たぶん僕は断るだろう。それは不可能だからだ。しかし、どうしてもと言われれば「脳科学の本だ」と答えるかもしれない。もう少し踏み込んで、「無意識についての本だ」と答える場合もあるだろう。

しかし、そういう説明では、本書の大半はこぼれ落ちてしまう。

別の説明をしてみよう。本書は、一つの大きな物語である。本の分類としては、間違いなく「理系ノンフィクション」というような括りになるだろう。書店でも、そういう売り場に置かれるに違いない。しかし本書は、間違いなく物語でもあるのだ。

まずはその辺りのことから書いていこう。

『だが、この本で語られる成功や幸福は、もっと深いものだ。問題とされるのは、心の奥底の部分である。無意識の感情や直感、偏見、自分でも気づいていない願望、その人の心が生まれつき持つ癖、社会からの影響など。これらはみな、私たちが日頃、「性格」と呼んでいるものに大きく関係している。そして、深い意味で人生に成功するためには、その性格がとても大事なのである。他人とうまく関わっていける性格かどうか、それが鍵となる』

ある意味で本書は、「人生の成功法則」が書かれている本であるとも言える。しかし、「人生の成功法則」と聞いて一般的にイメージするような本ではない。本書には、具体的にこうした方がいいというような提言はあまりない。あるにはあるが、それが作品のメインにはならない。また、テーマが容易にはコントロールできない「無意識」に関係する以上、分かりやすい行動を提示できない。

『心の中で、私たちが自分で意識している部分は実はほんのわずかしかなく、大部分は意識の下にある。そして、思考や意思決定の多くも、この意識下の心でなされている。幸福な人生を送れるかどうかも、多くは意識下の心のはたらきで決まるのである』

このことを、僕は他の本を読んで知っていた。「あなたの知らない脳 意識は傍観者である」という本だ。非常に刺激的で、人間に対する認識を大きく変容させる本なので、是非読んでみて欲しい。

僕たちは普段、様々なことを「自分」、つまり「意識」によって決めていると思って生きているはずだ。夕食に何を食べるのか、誰と旅行に行くか、結婚式場をどこにするか、何色の靴下を履くか…などなど、日常は決断の連続だ。そして僕たちは、自分の「意識」によってそれらの決定をしていると思って生きている。

しかし、脳科学の研究が進めば進むほど、実はそうではないのだということが明らかになってきた。

『意識は、無意識のした仕事の結果を私たちに伝えるために物語を作り上げるという、それだけが意識の仕事だというのだ』

実際に、ほとんどの決定は「無意識」によってなされている。これは、ここ最近の脳科学の研究によってかなり明確に明らかになってきた事実だ。僕たちが「意識」によって決定を下していると思っている様々な事柄は、実は僕たちの「意識」に上るずっと以前に「無意識」によって決められてしまっている。「意識」は、「無意識」の決定を「僕たち」に伝えるための役割を担っているに過ぎない、というのだ。

『ただ、長年、勉強を続ける間、私は何度も繰り返し同じことを思っていた。それは、脳や心の研究者たちが人間というものについて驚くべき洞察をしているにもかかわらず、彼らの研究結果は世の中一般に有意な影響を与えていない、ということだ』

本書を執筆した著者の問題意識は、まずここにあった。それぐらい、脳に関する最近の知見は驚くべきものであり、そしてそれらが驚くほど僕らに伝わっていないのだ。

『これまで、無意識は不当に低い地位に置かれてきたと思う。その状況を変えたいという気持ちもある。人類の歴史の中で、多くの人が知っているのは「意識の歴史」である。意識だけが自らの歴史を文章に残すことができたからだ。内側の無意識の世界で何が起きていたのか、それはまったく知らないまま、意識は自らを主役であると信じて疑わなかった。実際にはまったくそうではないのに、あらゆることは意識の力で制御できるはずと思い込んでいたのだ。自らが理解できることだけを重視し、それ以外は無視する、それが意識の世界観だった』

「無意識」の役割について知るようになれば、「意識の歴史」がいかに薄いものであるのかが理解できるようになるだろう。僕たちは、自由意志(これをどう定義するかは難しいが)によって生きてきたはずなのに、実は「無意識」という操り糸によって動かされるだけの存在だったというのだ。僕は、先に挙げた「あなたの知らない脳 意識は傍観者である」という本を読んでその事実をあらかじめ知っていたので驚きは少なかったが、それを初めて知った時には本当に驚かされたものだ。

『私がこの本を書いた最大の目的は、読者に無意識の役割を知ってもらうことである。人間が幸福になる上で、無意識がいかに重要な役割を果たすか、それを知ってもらいたいのだ。私たちの日々の行動は、無意識の世界で生じる愛情や嫌悪などの感情によってかなりの部分が決められてしまう。つまり、この無意識の感情の扱い方によって、私たちが幸福になるかどうかがほぼ決まってしまうと言ってもいいのだ』

ここまで言われてしまったら気にならない人はいないだろう。そして本書を読めば、「無意識」というものがどれだけ人生に大きく影響を与えるのか、実感することが出来るだろう。

そして、そういう実感を与えられるように、本書は物語の形式で提示されるのだ。

『私は、この本をあえて物語という形で書いた。それは、無意識の世界があまりに多面的なためだ。無意識については、様々な分野の多数の研究者が調べている。分野が違うので、それぞれが、無意識という暗い洞窟の違った場所に光を当てている。どうしても理解が断片的なものになりがちだ。しかも、その成果の多くは、学問の世界の外にいる一般の世界の人には知らされない。私は、そうしたばらばらの研究成果を何とか統合し、一般の人にもわかりやすくしたいと思った。そのための手段として物語が有効だったのだ』

本書には、ハロルドとエリカという男女が登場する。彼らは生まれ、子ども時代を過ごし、大人になり、出会い、結婚し、成功し、引退し、死を迎える。両親がどんな人物であったのか、生まれた土地柄はどうだったのか、学校で出会った友人はどうだったか、どんなコミュニティに属していてそこでどんな振る舞いをしていたのか…。本書では、そうした様々な細々した事柄を描き出す。そしてその過程で、彼らの人生を題材としながら、最新の研究結果を挟み込んでいくのだ。

『危険な試みであることは言うまでもない。脳や心についての研究はまだ初期段階にあり、その成果には異論も多い。しかも、私は研究者ではなくジャーナリストである。(中略)
それでも、私はこれを十分に取り組む価値のある仕事だと考えている。神経科学者や心理学者たちの過去三〇年間の洞察は本当に重要だからだ。政治や社会、経済、そして私たち一人一人の人生を大きく変える力を持っていると言えるだろう。私は、それをできる限り科学的妥当性を損なわないように気をつけて書いた。同時に、多少異論のあること(まったくないことは珍しいが)に関しても、思い切って、ある程度断定的に書いている』

著者は、自身の限界をきちんと理解している。研究者ではないが故に、踏み込んだ記述をしない。しかしその代わりに、ジャーナリストであり研究者ではないというある種の開き直り(と書くと語弊があるかもしれないが)によって、研究者であれば断定できないようなことを断定的にも書いている。もちろん、こういう書き方には賛否両論あるだろう。とはいえ、物語という形式を採用した時点で、一般的な理系ノンフィクションの枠組みを外れている。かっちりとした研究成果を読みたければ、個別に追うことは出来る。しかし本書は、人間の一生に影響を与える様々な事柄について一冊の本で描ききるために可能な選択をした、と捉えるべきだろう。そういう意味で、面白い試みだと思ったし、有意義な本ではないかと感じた。

本書の内容について、これ以上書くことは難しい。ハロルドとエリカの人生は、誕生から旅立ちまで、かなり細かく描かれていく。その合間合間に、最新の知見が挟み込まれる。どこかを切り出して提示する、ということがなかなか難しい本である。

しかし一つだけ書きたいことがある。「無意識」の凄さを実感してもらえるだろう話だ。

「盲視」と呼ばれる現象があるという。

『無意識の知覚の中でも特に驚くべきなのは、おそらく「盲視」という現象だろう。(多くは脳卒中が原因で)脳の視覚野を損傷した人は、意識の上ではまったく目が見えなくなる。(中略 そういう人に対する実験の詳細が描かれる) 色々な図形が描かれたカードを次々に見せ、どの図形かを当ててもらうという実験もその一つだ。見えていないはずなのに、かなり高い確率で図形を当てることができる。意識の視覚は失われたが、どうやら無意識がその後を引き継いでいるらしいのだ』

本書には、こういう様々な研究結果が、ハロルドとエリカの人生に並走するようにして描かれていくのだ。

本書は僕たちに、人生において何を重視すべきなのかを教えてくれる。具体的にどうすればいいのか、という研究こそまだ追いついてはいないのだが、結局僕たちが幸福になるためには「無意識」を良い方向に育てていくしかない、という結論になる。そう考えることで、日常的な様々な行動が変わっていくのではないかと思う。

デイヴィッド・ブルックス「あなたの人生の科学」



Ank:a mirroring ape(佐藤究)

言語というのは不思議だ、と思う。

物事にはたぶん、大体「始まりの瞬間」というのがあるはずだ。宇宙の誕生で考えれば、それは「ビッグバン」ということになっている。少なくとも今のところは。ビッグバンが「始まりの瞬間」であるが故に、それ以前がどうだったのかについて、考える余地はあるが、調べる手段は(たぶん)ない。そんな風にあらゆる物事は、何らかの「始まりの瞬間」からスタートしているはずだ、と僕は思っている。

では、言語の場合はどうなのか?ごくありきたりの考え方をすれば、こうなる。ある時突然、言語を獲得した存在が現れたのだ、と。それが「始まりの瞬間」のはずだ。

しかし、ちょっと考えてみれば、この発想はおかしいということが分かる。何故なら、僕はこう考えているからだ。言語というのは最初は、コミュニケーションのために生まれたものだ、と。

僕は、この考え方が当然だ、と思っていた。言語の「始まりの瞬間」には、それほど高度な単語や言語体系はないだろう。僕らは普段言語を、コミュニケーションだけではなく思考に対しても用いるが、「始まりの瞬間」においては言語は思考に使えるほど高度なものではなかっただろう、と思うのだ。だからこそ、コミュニケーションのために生まれたのだ、と思っている。

しかしだとすると、言語を獲得した存在が「偶然」にも同時に二つ以上生まれた、と考えざるを得なくなる。そんなことが、あり得るだろうか?地球上には人間(現生人類)以外に言語を獲得した種はいない、とされている(僕は、これに対しても「本当だろうか?」と考えているが、とりあえずそれは置いておこう)。生命が誕生してから恐ろしく長い時間が経っているにも関わらず、言語を獲得した種は人間だけ。それほど低い事象であるのに、「始まりの瞬間」に言語を獲得した存在が二つ以上生まれたなどと、考えられるだろうか?

ここまで具体的に言語化していたわけではないが、人間が言語を獲得したこと、について僕が考える時、すぐさまこういう行き詰まりにたどり着いてしまう。僕には、コミュニケーションの手段として言語が生まれた、という発想しか出来なかったので、これ以上の考察はなかなかしようがない。

本書を読んで驚いた。本書は、現生人類がいかにして言語を獲得したのかについての(恐らく著者オリジナルだろう)仮説をベースに物語が展開していく。それがどんな仮説なのかは、物語の後半で明かされる、この物語の肝となる部分なのでここでは触れない。とにかくその仮説は、「あり得る」という感覚を抱かせるに十分な説得力を持っている(本物の研究者が読んだらどう感じるのか分からないが)。

本書の登場人物の一人もそうだが、「人工知能にいかに言語を獲得させるか」という研究はずっと行われている。「機械が意識を持つ」ということは、ほとんど「機械が言語を獲得する」というのと同じであり、人工知能をさらなる高みに押し上げるには、いかに意識・言語を獲得するか、という研究に進んでいくのは当然だ。

本書で提示される仮説が仮に正しいとして、じゃあ人工知能に言語が獲得できるようになるのか、と聞かれたら、分からないと答えるしかない。本書で提示される仮説は、自己言及のようなある種の無限ループの果てに言語が生まれた、とするものだ。恐らく機械にも、その無限ループを実現することは出来るだろう。しかし、人類の祖先がその無限ループの果てに変化させたのは塩基配列だ。人工知能の場合、無限ループの果てに変化させられる可能性があるものはプログラムしかないはずで、しかし本書の仮説が要求する変化は、無限ループによる自己言及を経ずとも、人間の手でプログラム出来るものなのではないか、という気もする。しかしそうだとすれば、無限ループを経て言語を獲得した、という仮説が成り立たなくなるわけで、どうなるのだろうか?

そういう疑問はともかく、本書の仮説がもう一つ魅力的なのは、人類の進化に関するもう一つの謎も解決している、という点だ。
それは、何故地球上に存在する「ヒト」は、「現生人類」のみなのか、という謎だ。例えば犬であれば、土佐犬もいればゴールデンレトリバーもいる。犬は人間による交配によってその種を増やしているという事情もあるから特殊かもしれないが、しかしゾウにしろペンギンにしろ、それぞれの種には複数の属が存在する(学術的に用語の使い方を間違っているかもしれないけど、意味は通じるでしょう)。
しかし「ヒト」の場合は「現生人類(ホモ・サピエンス)」しかいない。

我々は我々自身のことを「ホモ・サピエンス」と呼んでいる。ラテン語で「ホモ」というのは「ヒト」という意味だ。何故僕らは僕ら自身のことを、ただ「ヒト」とだけ呼称しないのか。

それは、「ホモ・サピエンス」以外にも「ヒト」がいた証拠があるからだ。「ホモ・エレクトゥス」や「ホモ・ルドルフエンシス」など、我々と非常に似た者たちがいた。しかし、今はもう存在しない。「ヒト」という種には「ホモ・サピエンス」しか残っていないのだ。

何故か。この理由は未だに明らかになっていない。そして本書の仮説は、この謎にも明快に解を与えるのだ。

つまりこういうことだ。「現生人類」以外の「ヒト」は、言語を獲得するための過程において姿を消さざるを得ず、「現生人類」のみがその過程を生き延び言語を獲得したのだ。

非常に刺激的な仮説だ。しかし、恐らくこの仮説が仮に正しかったとしても、実験によって証明することはかなり困難だろう。物理学には「ひも理論」と呼ばれる、理論だけなら非常に美しく精緻な理論が存在する。しかしこの「ひも理論」、物質に関してあまりにも微小な前提を設けているが故に、現在の、そして恐らく未来の技術でも「ひも理論」が要求するレベルの微小さを観察出来ず、仮に「ひも理論」が正しいとしても現実の世界でその正しさを実証する実験を行うことは不可能だろう、とされている。本書で提示される仮説も、似たような宿命を持っているのかもしれない。仮に正しいとしても、現実の世界での検証は不可能。

そう思えばこそ、この物語で提示される「フィクション」が、現実世界では絶対に行うことの出来ない実験の「シミュレーション」のように思えて、ただの「物語」ではない感じを抱かせるのだ。

内容に入ろうと思います。
2026年10月26日。後に「京都暴動」と呼ばれるようになる信じがたい事象が発生した。突如人々が凶暴化し、近くにいる人間と命尽きるまで素手で殴り合うのだ。しばらくすると彼らは正気を取り戻すが、正気を取り戻す前に命を落とす者が大半だ。しかも仮に生き残っていたとしても、自身が暴徒化していた時の記憶は失われており、何が起こっているのかを証言できる者は皆無。「京都暴動」は京都のあちこちで散発的に発生しながら、京都以外の場所でも惨劇を引き起こすことになった。動画サイトで共有された映像により、「AZ(Almost Zombie ほとんどゾンビ)」と呼称されたり、病原菌や化学物質の蔓延によるものではないかという噂が世界中を駆け巡ることになる。しかし、最終的にその原因が人々の公表されることはなかった。
京都大学で研究を続けていた鈴木望は、ある日を境に人生が大きく変わった。今では、京都に莫大な敷地を有する施設を持つ、KMWP(京都ムーンウォッチャーズ・プロジェクト)の総責任者として、世界中の優秀な研究者のトップに立つ存在だ。2年前までは、そしてある意味では今でも、ほとんど無名に近い研究者であったにも関わらず、だ。
望をKMWPのリーダーに据えたのは、天才的なAI研究者だったダニエル・キュイだ。シンガポール人であり、北米ビジネス誌が選ぶ<世界で最も影響力のある100人>にも選出されたことがある。巨額の資産を有するIT企業の最高経営責任者であり、また人間と遜色のない会話をこなすAI用言語プログラムを開発した天才研究者でもある。しかし彼は今AI研究の第一線から退き、望をトップに据えたKMWPの出資者になっている。
望が研究しているのはチンパンジーだ。KMWPを京都に設置する案を提示したのは望であり、それは<京都大学霊長類研究所>が連綿と積み上げてきた研究風土が、京都を世界の霊長類研究のトップの地へと押し上げたからだ。KMWPでは、チンパンジー・ボノボ・ゴリラ・オランウータンの四種しか存在しない大型類人猿の研究を通じて、「人類が、どうして人類たりえているのか」を追い求めようとしているのだ。KMWPはマスコミ向けに研究施設を公開する予定であり、その取材のためにやってきたサイエンスライターであるケイティ・メレンデスは、その公開前に望の独占インタビューを取ることに成功する。ケイティは長くダニエル・キュイを追いかけており、その関心の延長線上にKMWPがあったのだ。
南スーダンに派遣されているUNMISS(国際連合南スーダン派遣団)は、検問所を通過しかけた貨物トラックを止めた。先頭グループが資金源確保のために人身売買を行っているという情報が届いていたからだ。そのトラックから見つかったのは、しかし人間ではなく一匹のチンパンジーだった。ウガンダ野生生物局で、施設許容量の限界から受け入れを断られたUNMISSは、廻り巡ってKMWPにチンパンジーを預け入れることとなった。そのチンパンジーに望が付けた名前は「アンク」。
この「アンク」が、人類進化の謎を解く「鍵」となるのだが…。
というような話です。

これはホントにとんでもない物語でした!メチャクチャ面白い!「虐殺器官」や「ジェノサイド」に匹敵する傑作というのは、大風呂敷ではないと感じました。

物語は基本的に、鈴木望という研究者を中心に進んでいく。鈴木望にインタビューをする女性記者・ケイティ、鈴木望に投資したダニエル、鈴木望の配下にいる様々な研究者、そして鈴木望自身の来歴や思考。こうしたものが物語の冒頭から中盤を動かしていく。もちろんそこには、「京都暴動」と呼ばれる謎の事象の断片が差し込まれるわけだけど、その段階では「京都暴動」で何が起こりどう状況が展開したのかはほとんど分からない。

鈴木望の物語に、「アンク」と名付けられた一匹のチンパンジーが紛れ込むことによって、事態は大きく展開することになる。「アンク」の存在が、鈴木望と「京都暴動」を結びつけることになる。とはいえ、その結びつきが理解できたところで、「アンク」が何を引き起こしたのかということは分からないままだ。

そこには、本書の核となるとある仮説が横たわっている。いかにしてこの仮説を「真実らしく」見せるのか―。この作品で描かれる様々な要素が、その一点のために存在すると言っても言い過ぎではないだろう。とてもではないが、一般人には予測することの出来る仮説ではなく、しかし提示された仮説は、難しい点もないではないが、理屈としては比較的すんなり受け入れられるように感じられる。「何故言語を獲得したのか」という非常に大きな難問に対して、非常にそれらしい説明がつけられている。見事だ、と感じた。いくつかの科学的な事実を巧みに結びつけて、一つの大きな「虚構」(証明されていない段階では、すべての仮説は虚構と呼んでいいだろう)を生み出す手腕は素晴らしいと言う他ない。特に、僕が「言語の獲得」に対して考えていた、「他者とのコミュニケーション」という大前提をまったく介在させずに「言語の獲得」を説明する仮説はとても魅力的だ。

「言語の獲得」と「京都暴動」がどう結びつくのか、それは是非とも読んでみて欲しい。「ヒト」が本能の奥底に持っている「はず」の衝動を呼び覚ますことで生まれるものによって「京都暴動」は引き起こされている、ということになっている。凄まじい想像力に惚れ惚れする。

本書では、ほぼすべての人間が、とある条件下では「京都暴動」を引き起こす加害者(暴徒者)になるのだが、その条件下でも暴徒者にならずに済む者もいる。何故暴徒者にならずに済むのか―、そのまったく別々の理由を複数用意しているところも非常に面白い。特に物語の後半で登場するある少年の存在は興味深い。とある症例により、「京都暴動」を引き起こす条件を逃れられているのだが、その症例を僕は聞いたことがなかった。調べてはいないが、恐らく実際に存在する症例だろうと思う。最も根源的な理由によって、「京都暴動」を引き起こす条件を免れているこの少年の存在感は非常に強く、インパクトがあった。

真実に近づけば近づくほど、世界は奇妙な振る舞いをする。ビッグバン直後の宇宙の想像を絶する環境や、微視的な物質の常識では捉えられない振る舞いなどはその一例だろう。数学でも、「無限」というものはうまく扱うことが出来ない存在だ。それが真実に近ければ近いほど、僕らの常識では測ることが出来ない状況が現出する、ということであれば、本書で描かれる虚構もまた、真実に近づいていると言えるのかもしれない。いかに言語を獲得したのか、という真実を追求する過程で不可避的に引き起こされることになった「京都暴動」の存在は、神や人間そのものと言ったある種の「タブー」に、科学が接近しすぎることを抑制するようなインパクトも持ちうると感じるのは、僕の考え過ぎだろうか。

佐藤究「Ank:a mirroring ape」

ルビンの壺が割れた(宿野かほる)

内容に入ろうと思います。
本書は、フェイスブックのメッセージのみで構成された異色の小説です。
水谷一馬という男が、ある日送った一通のメッセージ。そこからすべては始まる。水谷は、歌舞伎関係のサイトでたまたま「未帆子」という名前を見つけた、と書き、そこから「結城未帆子」という女性のフェイスブックページにたどり着く。水谷には、この「結城未帆子」が、あの女性であるという確信が最初からあったわけではない。けれど、彼女であって欲しい、という気持ちから、そのページから分かる限りの情報を手に入れようとした。そして、恐らく彼女であろう、という確信を得てから、メッセージを送るのだ。
当初、返信はなかった。水谷は、それを当然のことだと受け止めつつ、何度かメッセージを送る。やがて、「未帆子」を名乗る女性から返事が返ってくるようになる。
水谷は、結婚式の日に何故式場に現れなかったのか、今でも理由が分からない、と書く。そして、それを殊更に追及するでもなく、かつて同じ大学の演劇部で演出家と役者という関係だった過去について語る。自身に生い立ちや許嫁についても話していく。「未帆子」もまた、かつて付き合っていた頃には明かさなかった話をいくつか水谷に披瀝する。
そうしてやがて、ルビンの壺が割れる。
というような話です。

なかなか評価の難しい作品だと感じました。
僕が本書を読み終えて、一番最初に感じたことは、「何か足りないな」ということです。正直、何が足りないのか、はっきりと指摘できるわけではないのだけど、どうも何か足りない感じがする。これは、物足りない、というのとはちょっと違う。物語としてはうまくまとまっていると思うし、一定以上の面白さはあると思う。ただ、何か足りない。

無理やりその足りなさに理屈をつけるとすれば、「未帆子」が何故返信したのか、という点に絡んでくるのではないか、という気がする。この点については、この感想の中で詳しくは触れないが、非常に重要なポイントではないかと感じるのだ。最後まで読み終えた者には、この疑問はなんとなく理解できるだろうと思う。

いや、まったく分からない、というつもりはない。「未帆子」の意図は、分からないでもないのだ。けれど、そうしなければならない必然性が、「未帆子」にあったのかと考えると、どうだろうか、と思えてしまう。そこは、やはりちょっと弱いのではないか。であれば、「フェイスブックのメッセージのみで構成する」という部分を捨てて、そのやり取りをしている水谷と「未帆子」を描く、という選択肢もあったのではないか、という気もする。もちろん、本書の「フェイスブックのメッセージのみで構成する」という試みは、一定の驚きとインパクトを与えていると思うので、成功していると言えると思うが、何故返信したのか、という部分を説明する上ではなかなか難しくなってくるように思う。

そこにリアリティが感じられないと、二人のやり取りが絵空事のように感じられてしまいそうで、ちょっともったいない気がする。かつて付き合っていた頃の話とか、許嫁の話とか、演劇時代の話、「未帆子」が秘密にしていたことなどは、本書を読む読者にとっては必要な情報であり、楽しむべき物語ではあるのだが、それらをこの二人が今やり取りしている、ということの意味がぼやけてしまう。少なくとも、「未帆子」の側にはそんなやり取りをする必然性はないのだ。最後まで読めば、水谷が「未帆子」にメッセージを送った理由は明白に理解できる。しかし「未帆子」が水谷に返信した理由は、あくまで想像することしかできない。ちょっとそこがもったいないように思う。

しかし、その点の違和感さえ気にしなければ、確かによく出来た小説だと思う。「ルビンの壺が割れた」というのは、水谷と「未帆子」がかつてやって演劇のタイトルだが、本書全体を表すものとしても秀逸だ。確かに、物語のラストで、ルビンの壺が割れる。そして、そこに至るまでのやり取りの運び方がなかなか良くできていると思う。

「未帆子」が演劇部で並み居る先輩を押しのけて主役を勝ち取った話や、水谷の許嫁にまつわる話など、どう考えてもただの昔話や言わずにいた懺悔でしかない話が、物語全体に絡んでくる。ラストの展開を知ってから彼らのやり取りを読み返してみると、ある種の闘いのような緊迫感を感じられるかもしれません。

たぶんこの感想を読んでも、どんな話なのか全然想像出来ないでしょうが、細かな部分を気にしなければかなり面白く読めるのではないかと思います。

宿野かほる「ルビンの壺が割れた」

十三階の女(吉川英梨)

「共謀罪(テロ等準備罪)」が審議されていた頃、「この法律が通れば、日本は監視社会になってしまう」という批判が出ることが度々あった。しかしそれに対して、「共謀罪が成立しようがしまいが、既に日本は監視社会なのだ」と反論する人もいた。

僕は、具体的な実態こそ知っているわけではないが、後者、つまり既に日本は監視社会なのだ、という意見の方が正しいのだろう、と思っている。だからと言って、共謀罪に賛成というわけではないのだが。

公安警察という存在は、以前から小説を読んで知っていた。彼らがどんなことをしているのかも、小説で描かれる範囲のことならなんとなく知っていた。あるいは、CIAやMI6やKGBなど他国の諜報機関の実際の話や小説などを読むこともあった。

表に出てくるそういう話のどこまでが現実を反映しているのか分からないが、そこで描かれていることが現実をまったく反映していない、と考えるのも難しい。

元CIAの職員で、「CIAが世界中の通信を傍受している」という機密情報を暴露して世間を騒がせたスノーデンの映画も見たことがある。「スノーデン」と「シチズンフォー スノーデンの暴露」という映画だ。スマホやパソコンで何らかの通信をしていれば、世界中どこにいてもアメリカの監視対象になり得る―。僕たちはそういう社会に生きていることを自覚する必要がある。

ここで僕自身の、「未然に防ぐべきとされている犯罪(テロなど)」に対する考えを書いておこう。

僕は、そういう犯罪を未然に防ぐことは、諦めるしかないのではないか、と考えている。もちろんそれによって多数の死者が出る。社会に大きな影響を与える。しかし、それを「人間がやったことである」と捉えるから憤りを感じるわけで、同じだけの影響を自然災害が与えたとしても、同じような憤りを感じることはないだろう。結局、それが人間による行為なのか自然による脅威なのかという違いだけで、僕たちはいつだって命を落としてもおかしくない世の中で生きているのだ、と思うしかない、と思うのだ。

もちろんこの態度は冷たいし、人為的なものと自然災害を同列に並べることの無意味さを指摘されもするだろう。それは僕も十分に分かっている。しかし、そういう犯罪を防ぐためにどれだけの犠牲が払われているのか、ということを思う時、簡単に「テロは防がなければならない」とは言えない。

本書で描かれていることはまさにそういうことだ。起こるかもしれないテロを防ぐために、国家に忠誠を誓った(誓わされた?)者たちが、自らを犠牲にしてまで国家を守ろうとする。その功績は表に出ることはない(何故なら、捜査の過程で違法な行為を数々行っているからだ)。「共謀罪」は既に成立したが、この法律が運用されるようになったところで、盗聴や監視に対する国民の嫌悪感はすぐには薄まらないだろうし、恐らく永遠に消えることはないだろう。であれば、仮に「共謀罪」の成立によって、今まで違法とされていた行為が合法だということになっても、国民感情を考えた時に、やはりその行動は表に出せないという判断が下るだろう。結局彼らの功績が表に出ることはない。

重大事件を未然に防ぐ、ということの背景にはそういう、職務として個人を犠牲にして国家を守ろうとする者たちの想像を絶する奮闘がある(はずだ)と思う。

僕たちは、自然災害を起こらないようにするための努力はしない。もちろん、起こってしまった時の被害を最小限にするために努力や工夫は日々行われているが、自然災害を起こらないようにすることなど出来るわけないのだから、そこに注力することはない。テロなどの犯罪は、事前に努力すれば防げる可能性はもちろんある。しかし、そのために膨大な労力が必要とされるし、その過程で様々な個人が犠牲になる。その犠牲は、表向きなかったことにされる。テロを防ぐことで目に見える犠牲者を減らすことは出来るが、テロを防ごうとする過程で目に見えない犠牲者が数多く生まれる。その不均衡さを僕たちは無条件で許容して良いものなのだろうか、と僕は考えてしまう。

未然に防ぐべき重大な犯罪があるし、それらや防がれるべきだ、と考え方は分からないでもない。しかし僕たちは、それを実現するために膨大な犠牲が生まれるのだということを自覚しながらそう求め続けなければならないのだ、と本書を読んで改めて感じさせられた。

内容に入ろうと思います。
黒江律子、28歳。警視庁公安部公安一課三係三班所属の巡査部長だ、表向きは。実際の“奉公先”は公安部ではなく、「十三階」だ。
「十三階」は、警視庁直轄の諜報組織であり、全国都道府県警察に所属する公安警察官たちの中でも、ほんの一握りの優秀な者だけが呼ばれる特別な講習を経て、この部隊の構成員となる。末端作業員たちの活動内容は限りなく非合法に近く、時に完全なる非合法活動も厭わない。黒江は、万が一の時には性を売る覚悟で作業に臨んでいる。
その日も、作業玉(情報提供者)に女として迫り、重要テロ情報をさらりと手に入れる―予定だった。当初の作戦行動通りに行かず、事態は最悪の形で終結する。やがて黒江は、自分が防げたかもしれないテロの発生を知り、しばらくして「十三階」の現場から離れた。
身内に起こったある出来事をきっかけとして、「十三階」に黒江を引き入れたかつての上司・古池慎一から、「十三階」に戻ってこないかとアプローチされる。古池は黒江の才能をいち早く見抜き、「十三階」のメンバーとして黒江を育て上げてきたが、一方で古池・黒江はお互いに複雑な感情をもつれさせる関係でもあり、時にそれが作業に影響を及ぼすこともある。
黒江は、自分が防げなかったテロを起こした「名もなき戦士団」を追い詰めるために「十三階」に戻ってくる。黒江はかつてのテロ映像を分析し、やがてそこに一人の女の姿を見出す。後に「スノウ・ホワイト」と呼ばれる、恐らくテロの首謀者と思われる美しい女を、黒江は執念で追い詰めるが…。
というような話です。

これはかなり面白い作品でした。公安警察を扱った作品はあるし、「十三階」の前身とされる「チヨダ」や「ゼロ」を扱った作品もあります。そういう中で本書がずば抜けているのか、それは僕にはうまく判断できませんが、小説としてのリーダビリティは相当なものだと思います。

本書の主人公を女性に据えたことが、まず一つ大きな特徴でしょう。公安警察を扱った小説で女性が描かれないということはないでしょうが、警察全体でも女性警官は9%、公安警察となるとその数がさらに激減すると言われる中で、女性をメインに据えた作品というのはもしかしたら珍しいのかもしれません。その中でこの黒江という主人公は、女性性を前面に押し出しながら作業に当たる。女性であることを武器にする、という意味では、決して対男性だけに限らず、対女性の場面であっても自分の女性性をフル活用する。本書の読みどころの一つは、その「えげつなさ」だろう。

僕が本書を読んで感じたのは、恐らくこの「えげつなさ」は公安警察の実態として恐らく事実なのだろうし、そしてこういう「えげつなさ」を前面に押し出していかなければテロを未然に防ぐことが出来ない、ということなのだ。読みながら、こういう犠牲を強いてまでテロを防ぐべきだと、僕たちは本当に主張できるのか、ということだ。

また、作業以外の部分でも、黒江の女性性は描かれていく。主に、上司である古池との関わりにおいてだ。黒江は古池に対して恋心のような感情を抱いていることを自覚しているし、古池の方にもまったくそれはないということはない。しかし古池にとって黒江は、「十三階」の任務にとって非常に重要な存在であり、「十三階」としての黒江を手放すことが出来ない。それが分かっていながら、自分の内側の部分から古池に惹かれている自覚のある黒江は、上司との関わりで右往左往させられることになる。

『国家を守る、体制の擁護者としての最たる組織「十三階」の捜査員に、「個」はない。「十三階」に所属するための壮絶な警備専科教養講習の過程で、少しずつ「個」を消されていく』

そうやって「個」を失っていくのだが、しかし古池に対する感情だけはなかなか消せないでいる。作業における葛藤とは別に、黒江の一人の女としての葛藤もまた描かれており、それらが複雑に入り混じって混沌としていく。

女であるが故に、男以上に残酷にならざるを得なかったからこその葛藤。国を守るという壮絶な使命と、個人としてどう生きるのかという想いがごちゃごちゃになりながら、それでも自分にしか出来ない役割を全うしようと奮闘する女性と、彼女と共に国を守るために危ない橋を渡り続ける者たちを描く、非常にスリリングな物語だ。

吉川英梨「十三階の女」

つぼみ(宮下奈都)

昔より、あれこれ悩まなくなったと思う。

『私は今でもときどき、いろいろなことがよくわからないまま大人になってしまったような気がすることがある。』

大人になると、何か変わるんだろう、と漠然と思っていた時期はあった。たぶん、中学とか高校ぐらいのことだろう。大人が近づいてきていて、でもまだちょっと時間があるような頃。大人になれば、たぶん自動的に、そう自動的に何かが変わるんじゃないか、と。子供でいるからこそ、色んなことが出来ないのだ、と思いたかったのだろう。大人になれば、大人であるというだけの理由で、きっと色んなことが出来るようになる。そうじゃなきゃ、自分がちゃんと大人になれるような気がしなかったのだ。

『逃げていたのは私のほうだ。力がなければ自由だと、何もない自分から逃げていた。』

あぁ、その通りだ。僕は、ずっと逃げていた。何も出来ないのは子供だからだ、と逃げていた。自分に何もないのは子供だからだと思っていた。

でも、大人がもっと近づくにつれて、そうじゃないことに気付くようになってきた。もう大学生にもなれば十分大人かもしれないが、まだ学生だという猶予期間があった。しかし、学生でなくなってしまえば、もう大人になるしかない。けど、今のまま大人になって、本当に、色んなことが急に出来るようになるのだろうか?そんな訳ない、と思った。そんな訳ない。

だから、大人になるのが怖かった。大人になったら、ちゃんとしなくちゃいけないと思い込んでいた。ちゃんとすることは出来ないと思っていた。大人になれるほど、ちゃんとは出来ない、と。

『みんながやることなら自分がやらなくてもいいと思ってしまう』

僕も同じだ。でも大人になれば、大人がやることは、何故だかやらなきゃいけないようになる。そうであることが求められる。

『型があるから自由になれるんだ』

言葉としては理解できるけど、僕にはなかなか実感できない。

どうにか大人として見られないように、逃げまくってきた。ちゃんとした大人のようには生きられない。それは今でもそう思っている。だから、大人だと思われないようにするしかない。そこまできちんと言語化できていたかどうか分からないけど、きっと僕はそんな風に考えていた。

そうやって、なんとか今日までやってきた。今僕があまり悩まずに住んでいるのは、「大人」という名前のソフトをアンインストールしてきたからだ。インストールするように要求されても無視してきたからだ。「大人」というソフトがインストールされているからこそ、それと自分との差に悩む。だったら、アンインストールすればいい。

『うまくいかなくても、丸くは収まらなくても、そのままの形で残すことも大事なんじゃないか。』

宮下奈都の小説群を要約すれば、まさにこの言葉に収縮していくのではないかと思う。誰もが、色んな価値観や感情を持っている。それらは本来は一つ一つ違う。みんなが同じ容器に収まるなんてことはあり得ない。でも、「同じ容器に収まるべき」という流れが強ければ、個々人は自分の価値観や感情をその容器に収まるように変形させてしまう。

それはダメだ。

宮下奈都の小説を読むと、いつもそんな風に感じる。今自分が抱いているその価値観や感情は、はっきりと名前が付くような、スパッとどこかの領域に収まるようなものではない。それを、単純に明快に表現してしようとすれば、細部を削り取るしかない。宮下奈都はそれを是とせず、何かに収まらなかったとしても細部まできちんとそのままであることが大事なのではないか、といつも訴えかけているように感じられる。

言語化してしまえば、そのままの形では存在できないような、そんな捉えがたい何かを、それでも言語によって捕まえようとする。そういう困難さの中で宮下奈都は、そうそうそんな表現だとぴったり来る、と読む者に感じさせるような描き方を、見事にやってのけるのだ。

内容に入ろうと思います。
6編の短編が収録された短編集です。内3編は、宮下奈都の出世作である「スコーレNo.4」のスピンオフのような内容になっています。

「手を挙げて」
和歌子は、姉の里子と共に住宅展示場へと足を運んだ。姉は、まるで骨董のような家に嫁いだ。姉は昔からなんでもできた。お茶もお花もなんでも。でもそれらは辞めてしまった。結婚してしまえばすべてご破算ではないか、と和歌子は思う。和歌子には、何もない。何もないことが自由だと思っていたけど、どうやらそれは思い違いだったようだ。住宅展示場の人から、一つだけ欠点があるんですよ、と言われて、和歌子は史生のことを思い出す。正確には、彼の母親のことを。コーヒーカップで紅茶を飲ませたことでウダウダ言ってくる史生の母親のことを。

「あのひとの娘」
美奈子のジュニア向けの生け花教室に、あのひとの娘がやってきた。津川紗英。いつかこんな日が来ると思っていた。
津川くんを意識し始めたのは高校生の頃。森太(森崎太郎)から話を聞くまでは、同じクラスにいたのに顔と名前が一致していなかった。森太は、テニス部に入った初心者の中で、唯一卵型のラケットを買った変な奴がいる、と津川のことを話したのだ。それからだ。津川くんを知りたい欲が高まって、ついに付き合うことになったけど、長くは続かなかった。
紗英には、生け花のセンスがあった。あのひとの娘、というだけで、色眼鏡で見てしまっているかもしれない。

「まだまだ、」
紗英は朝倉くんの生け花に魅入られている。同じ中学で、野球部にいると思っていたのに、生け花の教室にいた。そして、凄く上手い。朝倉くんに、一気に興味が湧いた。
紗英は昔から「お豆さん」と呼ばれていた。なんでも姉二人が引き受けてくれて、紗英はのほほんと育った。のほほんと見られることが多いけど、そうじゃない部分もある。そういう部分を出すと、「サエコらしくない」と言われる。いつの頃からか、「サエ」ではなく「サエコ」と呼ばれるようになった。

「晴れた日に生まれたこども」
晴子と晴彦。晴れの日に生まれたから。そんな単純な名前をつけられた姉弟は、「コー」「彦」とお互いを呼び合う。彦は勉強も運動も出来ない方じゃなかったのに、それ以前にどこか足りなかった。高校を辞めて働き始めた会社もすぐやめ、アルバイトもあまり長続きせず、フラフラしている。そんな彦が、私を呼び出して町をうろうろする。寂れた喫茶店に入って、うまくもないジュースを買う。何か話があるらしいが、よく分からない。彦はいつだって、ふわふわしたようなことを言う。

「なつかしいひと」
母さんが死に、父さんと僕と妹は、母の実家のある町へと引っ越した。母の実家に身を寄せることにしたのだ。頑張れば、そのままの土地で生活し続けることが出来たかもしれない。でもみんな、頑張り方を忘れてしまった。母さんがいない家で、頑張れる気がしなかった。知らない土地で、クラスに馴染むわけでもない僕は浮いていた。町を歩いていると、商店街の中に本屋を見つけた。そこで、セーラー服を着た女の子に出会った。自分が好きだという本を、いくつか紹介してくれる。

「ヒロミの旦那のやさおとこ」
ヒロミの家の近くに、古い車が停まっていた。中には一人、やさおとこ。家に帰って母に、見かけない男がいたと言うと、ヒロミの旦那でしょう、と言う。そんなバカな、と思ったけど、ヒロミの旦那はどうやらあのやさおとこのようだ。そのヒロミとは、ずっと連絡を取っていない。どうしているのかも分からない。昔はヒロミとみよっちゃんと私(美波)の三人でずっと一緒にいた。三人の世界の中に、男の会話が入り込む余地はなかった。だからだろうか。ヒロミもみよっちゃんも、結婚する直前まで私にその話をしなかった。ある日そのやさおとこから、思いがけない話を聞かされる。

というような話です。

宮下奈都らしい、モヤモヤした何かを丁寧に掬い取る作品だと思いました。

宮下奈都の小説の内容紹介をする時は、いつも困る。物語らしい物語がないからだ。

いや、それは語弊だ。物語は、ちゃんとある。しかし、決してそれが全体の中心にはない。宮下奈都の作品の中では、物語ではないものが常に真ん中にある。じゃあそれは何なのか。僕なりの表現をすれば、「名前の付けられない何か」だ。だから困るのだ。なかなか言葉では捉えられないものを作品の真ん中に持ってくるから、何を書いてもその作品の要約を掴めたような気分にはなれない。

言葉では捉えきれないものを切り取るために物語があるのだ、というのは、一つの存在理由として間違いないだろう。しかし、それが実現出来ている物語というのは、決して多いわけではないと思う。厳しい言い方をすれば、辞書に載っているような単語の組み合わせで表現できてしまうような価値観や感情を描こうとする物語も、たくさん存在する。宮下奈都は、いつもそれを回避しようとしているように僕には感じられる。辞書に載っている単語の組み合わせで表現できる程度のことであれば、物語を紡ぐ必要はない。そんな風に思っているように感じられる。

どの物語にも、誰かにとっての「モヤモヤ」が横たわっている。そのモヤモヤは、はっきりこうと表現できるような分かりやすいものではない。だからこそ当然、そのモヤモヤが完全にすっきり晴らされることもない。理解しやすいモヤモヤを、完全にすっきり晴らす物語の方が、容易に書けるのではないか。現に、そういう物語は、決して少なくない印象を持っている。しかし、宮下奈都はそれをよしとしない。

既に引用したが、まさに、

『うまくいかなくても、丸くは収まらなくても、そのままの形で残すことも大事なんじゃないか。』

という感覚が、宮下奈都自身の内側にも根付いているのだろうと思う。

作中で描かれるモヤモヤは、解消することよりも、その存在を認識し、可能な限りその輪郭を捉えようとする方に力点が置かれる。完全には捕まえられないかもしれないが、近づく努力だけはしてみよう、ということだ。解消するために物語が存在するのではなく、存在に気付くために物語が存在する。

それは、僕たちなりの日常を生きる上でも非常に大事な視点だろうと思う。何かモヤモヤを感じた時に、「どう解消するか」というやり方ばかりが強調されるきらいがあるように感じられるが、そうではなく、「モヤモヤの正体を出来るだけ掴んでみる」というやり方もあるだろう。掴めさえすれば、解消する方法は自然に見つかる、こともある。

初めの3編は「スコーレNo.4」のスピンオフ的な作品であり、後の3編はそうではない。個人的には、初めの3編の方が好きだな、と思う。決して「スコーレNo.4」を読んでいないと理解できない作品ではない。「スコーレNo.4」では端役だった人物や、「スコーレNo.4」には出てこない人物が主人公なので、「スコーレNo.4」にどっぷり、というような作品ではない。知っていればより奥行きが広がる、という感じだ。

初めの3編には「生け花」という共通項がある。恐らくこの生け花というモチーフの存在も、僕が初めの3編を好きな理由になっているだろうと思う。生け花という長い歴史と伝統があり、美しいモノを見るための力と表現するための力を要する芸能に登場人物たちを関わらせることで、彼らの悩みや葛藤により深みを感じることが出来る。生け花を通して悩み、生け花を通して新しい世界を知る、という描き方の中に、人間らしさみたいなものを盛り込んでいくことが出来るのだ。

「なつかしいひと」は僕の中でさほど印象の強くない作品だが、「晴れた日に生まれたこども」と「ヒロミの旦那のやさおとこ」はちょっと変な話で、結構気に入っている。前者では晴彦が、後者ではヒロミの旦那が実に良い味を出していて、興味深い魅力を放っている。後者の主人公は作中で、『ひとりなんだなあと美波はつくづく思い知らされている』と思うのだが、僕はこの二つの物語を読んで、やっぱり世界は広いよなぁ、と感じた。

宮下奈都らしい、優しさと美しい毒に満ちた魅力的な短編集だと思います。

宮下奈都「つぼみ」

鼻/外套/査察官(ゴーゴリ)

この本を読んだ理由は他でもない、乃木坂46の齋藤飛鳥にある。好きな本について聞かれる度に、ゴーゴリの「外套」を挙げていたのだ。

齋藤飛鳥は読書家で知られているし、遠藤周作や貫井徳郎など読んでいるという。人の悪意を描くような、気持ちが沈むような作品が好きだ、とも良く言っていたから、「外套」もそういう方向性の作品なのかと思っていた。

が、そうではなかった。

ある雑誌で「外套」について齋藤飛鳥は、『「真面目な人は損をする」とはこういうことかと思いました』と書いている。なるほど、そういう見方をしているとすれば、齋藤飛鳥らしい、という気もする。物事を真っ直ぐではなく斜めから見るような視点をよく取る齋藤飛鳥にとっては、ゴーゴリが描くこの不条理で滑稽な物語が、教訓めいた話に受け取れるのかもしれない。

しかし「外套」かぁ、と僕は思った。齋藤飛鳥がどの本で「外套」という作品に触れたのか、それは分からない。僕が読んだのは光文社古典新訳文庫版で、「鼻」「外套」「査察官」という3作品が載っている。で、この3作品の中で言えば、僕は「鼻」が好きだ。

冒頭から、何なんだこの話は、という展開が実に面白い。

何せ、焼きたてのパンを切ったら鼻が出てくる、というところから物語が始まるのだ。意味不明だ。その後、鼻を失った人物が右往左往しながら鼻を探す、という展開になるのだけど、その鼻が金の刺繍の入った制服を着て街を闊歩しているのだ。呼び止めた男は鼻に向かって、「あなたはぼくの鼻なんですよ!」と叫ぶ。シュール過ぎる…。何かを風刺したりするような背景的な当時の社会風潮などがあるのかもしれないけど、ただ読めばシュールで不条理で意味不明な物語だ。でも、なかなか面白い。

「外套」は、それまで慎ましやかな生活をしていた男が、擦り切れてボロボロになった外套を仕立て直してもらうのだが、それがきっかけで命を落とし、死後幽霊となって他人の外套を奪う、という、こちらも何だそりゃ、という話なのだが、「鼻」と比べれば全然現実よりだし、理解可能な範疇にある。

「外套」を読んでて感じた凄さは、要約すればさっき僕が書いたように2行程度で書けてしまうような、別に大した内容でもないのに、それを一つの短編にまで膨らませてしまうゴーゴリの想像力だろうか。本書の解説には「四次元的想像力」という言葉があり、『ゴーゴリの描く「現実」は現実を越えて「四次元」に突き抜けているのだ』と書かれている。それは「鼻」のような明らかに現実を超越したような作品に対しての表現なのかもしれないが、より現実に軸足を置いているように感じられる「外套」であっても、一人の男の慎ましやかな生活をここまで細かく描くのか、外套を盗まれた男がお役所などをたらい回しにされる様をこの短い話の中でここまで細かく描くのか、というような部分に現実を超越したような想像力を感じる。

とはいえ、これはある程度仕方ないことだが、「齋藤飛鳥が面白いと言っているから、僕も「外套」を面白く読みたい」という気持ちが僕の中にあることは確かだ。もし、齋藤飛鳥が「外套」を好きでいるという事実を知らずに本書を読んだとしたら、「外套」という作品に注目していたかは分からない。なので、ここで僕が書いたことが、「外套」に対する純粋な僕の評価なのかと言われると、なかなか難しいところはある。

何故齋藤飛鳥が「外套」を読もうと思ったのか。そこに一番関心がある。僕は、恐らく齋藤飛鳥が好きだと言っていなければ、一生読まなかっただろう。そのお陰で、本書のような読みやすい(解説で訳者が、本書を落語調に訳した、と書いている)古典作品もあるのだ、と知れたことは良かったことだ。齋藤飛鳥は一体いつどこで「外套」と出会い、それを読もうと思ったのだろうか。

聞く機会があれば、その辺りのことを聞いてみたいな、という感じもする。

内容紹介については、「鼻」と「外套」については、ここまでの文章の中で書いた要約以上に付け足す点はあまりない。少なくとも本書に収録されている3作品は、ストーリー展開がどうのというような話ではなく、読んでみてその不可思議さを感じるような作品なので、外形上の物語について触れてみても、あまり面白さは伝わらないのだ。

「査察官」についても、ざっと内容を書いておこう。こちらは、戯曲だ。ある町の市長が、ペテルブルクからお忍びで査察官がやってくる、という情報を耳にする。その内に町の地主である二人が、宿に金を払わない男がずっといる、あいつが査察官に違いない、と言って町は大わらわになる。しかし実はその男は、金遣いの荒いただの旅行者で…。というような話だ。こちらもスイスイ読めて、バカバカしい喜劇が展開されていく様がなかなかにシュールで面白い。

恐らく、齋藤飛鳥が「良い」と思っているほどには「外套」を良いと感じられなかったのが残念ではあるが、まあ読書というのはそういうものだ。読む本の趣味は、合わない方が当然だと思うので、なんということはない。読んでみて、「何故齋藤飛鳥は「外套」を読もうと思ったか」「「外套」のどこに齋藤飛鳥は惹かれたか」により関心が強まった、ということは確かである。
あと、これは昔からどうにもならない僕の性質だが、古典作品を読むと猛烈な睡魔に襲われるのをどうにかしたい。どうにもならないのだが。

ゴーゴリ「鼻/外套/査察官」

八月十五日に吹く風(松岡圭祐)

戦争を扱った小説に対して、こんな感想を抱くのはあまり良くないのかもしれないが、率直にこう思った。
メチャクチャテンションが上がる!と。

『だがここには、日本人なら誰でも抱いたことがあるはずの素朴な疑問が存在する。アメリカは原爆を落とす無慈悲をしめしながら、なぜ直後に比較的平和な占領政策をとるに至ったのか。』

本書の内容を一言で説明すれば、「この問いに答える物語だ」となるだろう。

確かにその通りだ。僕は学校であまりきちんと歴史を学んでこなかったし、歴史について考える機会もあまりないので、僕個人はこういう疑問を抱いたことがないのだが、言われてみれば、確かにその通りだと思える。実際に、イラク戦争など、僕たちがリアルタイムで知っている戦争では、戦勝国が苛烈な占領政策で支配している姿を見ている。歴史上、多くの戦争でも、そのような経過を辿ってきているはずだ。

何故日本は、平穏な終戦を迎えることができたのか。

もちろん、色んな理由があるのだろう。でもそれは、なかなか両方を同時に説明するものではないのではないか、と思う。「平和な占領政策をとった理由」だけであれば、色んな可能性を考えうる。しかし、「直前に原爆を落としていたにも関わらず、平和な占領政策をとった理由」となると、なかなか難しい。

まず、何故原爆が落とされたのか、という理由からいこう。いや、正確に表現しよう。「何故原爆を落とすことに躊躇することがなかったのか」の理由だ。

当時ホワイトハウスは、シンクタンクに日本の分析をさせていた。その中で、日本人はこんな風に描かれている。

「日本人は自他の生命への執着が薄弱であり、だからこそ一億玉砕にも呼応する。であれば、本土決戦になれば婦女子を含めた非戦闘員が戦闘員になりうる」

この報告書に対して、本書の登場人物の一人はこう思考を巡らせる。

『恣意的な誘導だと筒井は思った。一億総特攻を拒否しないからには、民間人も非戦闘員ではなく、したがって原爆の標的にしても国際法違反にあたらない。そう暗に示すのが目的だろう』

そう、当時アメリカ人は、日本人を「生命を尊重するなどありえない民族」だと捉えていた。これは、相当根強く信じられていた考えだったようだ。特攻やバンザイアタック、玉砕と言ったアメリカ人には理解できない戦闘行動に対して、「日本人は生命を重んじないのだ」とする見方がいつの間にか広まっていたという。そういう背景があったからこそ、アメリカ人は原爆投下を躊躇せずに行ったのだ。

つまりこうも言える。原爆投下まではアメリカ人は、日本人を野蛮な民族だと思っていたのだ、と。であれば、やはり冒頭の疑問が蘇ってくることになる。
ならば何故、その直後に平穏な占領政策を取ることができたのだろうか、と。

実際、(物語ではあるが)本書では、1945年8月15日の米軍内の会議で、こんな発言がなされている。

『(占領に際して)今後も非戦闘員による個人単位での玉砕、あるいは村や隣組など小自治体単位での反乱が起こりうる、注意警戒事項にそうある。根拠は、日本人に根付いた国家主義が、人命の尊重に優先するという、彼ら固有の意識構造にある』

『本土決戦、一億玉砕、一億総特攻、神風。軍部の呼びかけに国民から強く反発する声もなく、むしろ積極的に応じているとの報告が多々ある。それらに基づいた分析だ。どの戦線でも、日本の軍司令部は玉砕を強いて、無慈悲に兵を見捨ててばかりだ。なのに遺族は、訃報をきいても感謝を捧げている。復讐心もより強まるかもしれん。われわれが日本の占領にあたり、警戒するのは当然だろう』

1945年8月15日時点でも、アメリカ人はこう考えていたのだ。そのままであれば、苛烈な占領政策が行われていてもおかしくはなかっただろう。

この流れは一体、何によって変わったのか。

それが、「1943年8月15日の出来事」と「一人のアメリカ人の進言」なのだ。
本書は、この二つを軸にしながら、日本の終戦、そして戦後のあり方を形作った大きな流れを描き出そうとする。

先に挙げた「一人のアメリカ人」は、本書の中では「ロナルド・リーン」の名前で登場する。若き頃、タイムズスクエアの一角にある古本屋で見つけた「源氏物語」の翻訳に魅せられ、極東の島国に憧れるようになった。後に日本に帰化し、ある新聞社の客員編集委員となった人物である。もちろん、分かる人には分かるだろう。あの人物だ。

あの人物がいなければ、日本は今とはまったく違った国になっていたかもしれない。そう考える時、大げさに言えば、僕たちは「源氏物語」という一冊の古典によって救われたと言えるのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
ロシアとアラスカに挟まれたベーリング海に浮かぶアリューシャン列島。その中に、戦時中、日本軍がアメリカ軍の領土を占領した島が二つある。アッツ島(熱田島)とキスカ島(鳴神島)だ。
熱田島に着任した山崎保代大佐は、この島が現在置かれている状況を振り返った。極北の寒地荒原(ツンドラ)であり、動植物はほとんど存在しない。島外からの供給は長く途絶え、増援部隊を送るという連絡があってから9日が経つ。完全な孤立状態だ。アメリカ軍に対しては徹底抗戦を敷いているが、どこまで持つか分からない。そこへ、山崎を熱田島へと送った樋口司令官から打電が届く。全員、玉砕せよ、と。熱田島では2638名の日本人が死を迎えた。
同じ頃、隣の鳴神島にも、5000人を超える兵がいた。彼らも熱田島と同様、孤立状態にありながらアメリカ軍に対して凄まじい抵抗をし続けていた。そこに、玉砕を促すような平文と同時に、ガダルカナル島での撤退作戦の通称であるケ号作戦の内容が暗号文で送られてきた。彼らは考えた。これは、救出作戦の知らせなのではないか?
しかし、鳴神島の救出作戦は、現実的に不可能なものだった。アメリカ領の孤島に置き去りになった5000人を超える兵を、米艦隊がひしめきあう海域を突破して救助に向かわなければならない。艦隊を損失するわけにはいかない大本営も難色を示すが、しかし樋口司令官は諦めない。あらゆる手を尽くし、この任務を了承させ、艦長も探し出した。海軍少将、木村昌福だ。
木村は、気象専門士官である橋本恭一少尉と共に、誰もが不可能だと思っている救出作戦に乗り出していく…。
一方、20歳のロナルド・リーンは、日本軍ほぼ全員が玉砕したアッツ島に派遣された。残された日本語文書から、重要な機密を探し出すためだ。「源氏物語」から日本に関心を持ったリーンには、理解できなかった。何故あれだけ繊細な情愛の念が民族の根底にあって、バンザイアタックという発送に行き着くのか、と。彼は、『自殺の欲望に憑かれ、自他ともに生命を果てしなく軽んずる、いわば狂気といえる国民性の発露』と日本人を捉えている多くのアメリカ人とは違い、彼らの国民性や行動原理を可能な限り正しく理解しようと奮闘する…。
というような話です。

本当に、素晴らしい物語だった。

僕は正直なところ、本書で描かれていることがどの程度まで真実なのか、全然判断できない。どこまでが創作で(明らかに、米軍内での会議の様子などは、想像によって描かれているのではないか、と思うのだがどうだろう?)、どこまでが史実なのか、分からない。とはいえ、本書の冒頭に、

『この小説は史実に基づく
登場人物は全員実在する(一部仮名を含む)』

とあるので、僕はとりあえず、本書で描かれていることは基本的に事実なのだ、と捉えて感想を書いています。

キスカ島、という名前は聞いたことがあった。というか、見覚え、というべきか。キスカ島の名がタイトルに入る本を目にしたことがあるのだ。しかし、それがどんな本なのか知らなかったし、ましてやキスカ島で、ハリウッド映画なのか?と思いたくなるような壮絶な救出作戦が展開されていたなんて、まったく知らなかった。

そしてもちろん、このキスカ島での救出作戦が、ちょうど2年後の終戦に大きく関わっているなどということももちろん知らなかった。

冒頭でも書いたが、本当にこれが真実なのだとすれば、僕たちはある意味で「源氏物語」によって救われた国民だと言えるだろう。それぐらい、ロナルド・リーンの果たした役割は大きいし、ロナルド・リーンが日本人の国民性を見出したキスカ島での救出作戦に関わった者たちも素晴らしい。

本書では、アッツ島やキスカ島で壮絶な毎日を送らざるを得ない兵士たちや、司令官である樋口の奮闘、またアメリカ軍側の動きなど様々なことが描かれていくのだが、何よりもやはり、キスカ島での救出作戦の詳細が物語としてはスリリングであり、出来すぎているというぐらい奇跡的だと感じる。

キスカ島での救出作戦は、普通に考えて誰もが不可能だと感じるだろうと思う。本書のP86には、アリューシャン列島の地図が載っているのだが、日本列島から、日本列島の長さぐらい離れた場所にキスカ島はあり、しかもその周囲はアメリカ軍に囲まれているのだ。しかも残っている兵は5000人以上。その兵士たちを1時間以内に収容しキスカ島から撤退しなければならないのだ。

無理でしょ、と普通は思う。

しかし、艦長である木村は、誰も考えつかないようなアイデアを次々に繰り出し、計画を前に進めていく。時に木村の指示は、その意図がさっぱり分からない。例えば、三本ある内の真ん中の煙突を白く塗れ、と指示する。この指示は、その意図を誰も理解できなかった。しかしある場面でその理由がはっきりと分かる。これには本当に驚かされた。

他にも、常識では考えがたいアイデアと決断で、木村は不可能を可能にしていく。

木村は、5000人以上の兵を救った。しかし、間接的には、日本人全員を救ったと言っていいだろう。もちろんその背景には、キスカ島の救出作戦を実現させようと奮闘した樋口司令官など、様々な人間の想いが込められている。それらを、リーンが的確に汲み取り、適切な場面で進言をした。どれか一つでも欠けていれば、事態は全然違ったものとなっただろう。

『こう思ってほしい。救える者から救っていると。救うことが許される者から、あるいは容認される者から、そういうべきかもしれん。私にはいまのところ、それしかできんのだよ』

樋口がそう語る場面がある。樋口もまた信念の男であり、結果的に彼は、自らの信念を貫き続ける人生を突っ走ったお陰で救われた。もちろん、すべての人間がそんな風に振る舞えるわけでもないし、信念を貫き通せば何もかもうまく行くわけでもない。とはいえ、こういう生き方をした人がいた、ということを知れるのは、とても勇気づけられることだと思う。

『若い兵士たちは、天皇陛下のため命を捧げるべき、そう信じている。敗北はむろんのこと、敵の捕虜になるのも恥と考える。だが、こんな時代をつくりだしてしまった自分たちこそ、恥を知らねばならない』

これも樋口の考えだ。実際に樋口(あるは樋口のモデルとなった人物)がこんなことを考えていたかは分からないが、しかし、少なくとも本書で描かれる樋口の様々な言動は、こういう下地となる考えなしにはなかなか実現されないだろう。僕たちも、上の世代が作り上げた価値観をただ盲信していないかどうか、そして下の世代にこれが当たり前だという考えを押し付けていないか、常に振り返り続けなければならないだろう。

『戦争のなかにあっては、正しい答えは否定されます。でも正しいものは正しいんです』

本書の中で重要な役割を果たす、同盟通信社外信部の菊地雄介の言葉だ。戦争の影が様々な場面でちらつく現代。僕たちはこのことを改めて認識しなければならないし、その中にあっても正しさを貫ける人間でありたいと僕は思う。

松岡圭祐「八月十五日に吹く風」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)