黒夜行

>>本の中身は(2017年)

松ノ内家の居候(瀧羽麻子)

時々テレビで、歴史上の有名人物の末裔、みたいな人が出てくる。
そういう人や、そういう番組自体には強い関心はないが、もし自分がそういう末裔だったら、と思うと、なんとなくちょっと楽しい。
いやきっと、実際に末裔だったらめんどくさいだろうから、実際には末裔にはなりたくない。だから、ちょっとした想像だ。歴史の教科書にこう載っているけど、実は違うんだぞ…、みたいな言い伝えが色々あったりするだろう。なんかそういうのは、ちょっとだけワクワクする。

けど、実際にそういう可能性はとても低い。けど、そういう歴史上の有名人物に関わっていた家系、ということであれば、もうちょっと可能性は広がるかもしれない。関わっていた、というレベルだと、そのことが後世にきちんと伝わっていない可能性もある。どこかで情報が途切れてしまえば、末裔たちはそのことを知らないままだ。

けど、ふとした瞬間に、それが判明するかもしれない。自分が、あの人物と関わりのある家系だったのだ、と分かる日が来るかもしれない。そんなことを考えると、本書の主人公の一人、娘の琴美の興奮も、ちょっとは分かるような気がする。

しかも、未だに見つかっていない重大なモノが、屋敷に残されているかもしれない、なんて知らされたら…。

内容に入ろうと思います。
松ノ内一家は、松ノ内家当主である貞夫の祖父が創業した、松ノ内商会という商社を代々引き継いで経営している。四代目である現社長・孝之は、自分で進めた計画が頓挫したために会社内での発言権が弱く、会社は実質的に副社長が仕切っている。引退してはいるが、未だに貞夫の影響力も残っている。
貞夫は、庭付きの豪邸で毎日を過ごしている。時折散歩には出るが、あまり出かけることはない。長年連れ添った妻・雪江を喪い、今松ノ内家を回しているのは孝之の妻である郁子だ。雪江と郁子は仲がよく、雪江亡き後も、郁子は松ノ内家の一員として切り盛りしてくれている。彼らの一人娘である琴美は、中学生ながら聡明で、他人を見下しているのではないかとさえ感じるほどだが、琴美からすれば同学年の面々は退屈な人間ばかりで、琴美は論理的で聡明な祖父・貞夫に関わるのが好きである。
そんなある日、松ノ内家にとある美しい青年がやってきた。西島と名乗ったその青年は、楢崎の孫だと言った。家族のほとんどは楢崎の名にピンと来なかったが、貞夫はすぐに分かった。
楢崎春一郎。私小説を多く書いた文豪で、主要な文学賞を受賞、ノーベル賞の有力候補とまで目されていたという、日本を代表する作家だ。小説家として名高いが、女関係もまたすごく、何度も結婚し、愛人も常にいたような男だったという。西島は、楢崎春一郎は、今年が生誕100年、没後10年の記念の年なのだ、と語った。
西島は何のために松ノ内家を訪れたのか。それは、楢崎がある時期、この松ノ内家に居候していたことがあることと関係がある。その事実さえ、貞夫以外の面々は初耳だったのだが、楢崎春一郎の名すら知らなかった孝之を始め、それ自体はそこまで大きな衝撃ではない。より重要なことは、楢崎が松ノ内家に居候をしていた一年間だけ作品を書いていない、という事実なのだ。研究者の間では、空白の一年、と呼ばれているそうだ。
しかし西島は、その時期にも小説を書いていたことを示す記録があった、と言った。そして、もしかしたらこの屋敷のどこかに、楢崎の未発表原稿があるかもしれないのだ、と言ったのだ。
それに反応したのが、現社長である孝之だ。楢崎の名も知らなかったくせに、未発表原稿が見つかればかなりの大金が転がり込むかもしれない、という風に目が眩んでいる。郁子にはうまく状況が理解できないが、貞夫が西島の存在や申し出を良く感じていないことが気にかかっている。琴美は、自分がそういう特別な家系にいるのだ、ということにちょっと興奮している。
あるのかないのかさえ分からない未発表原稿を巡って、松ノ内家は俄に慌ただしくなる。貞夫・孝之・郁子・琴美という松ノ内家の四人、そして闖入者である西島を加えた五人の思惑が絡まり合い、松ノ内家の歴史を総ざらいするような騒動に発展していくが…。
というような話です。

これ、面白かったなぁ。あんまり期待してなかったんだけど、かなり良く出来た作品だと思いました。

まず、楢崎春一郎の設定が良い。明らかに谷崎潤一郎をベースにして作られている作家で、谷崎潤一郎らしさをうまく作品に活かしている。僕は別に谷崎潤一郎について詳しいわけではないんだけど、それでも「私小説を多く書いた」「女性関係が色々あった」ぐらいの知識はある。この二点が、本作でも非常に重要なキーワードになっていって、作品の核の部分と密接に関わり合っていく。楢崎春一郎、という作家をリアルな存在として立ち上げた、という部分が一つ、本書の成功の要因だろうな、という感じがします。

そして、西島という部外者の登場によって、あるのかないのかさえ判然としない未発表原稿の存在が明らかになるのだけど、本書は、ただその未発表原稿があるとかないとかでわーわーするだけの話ではない。それだけだったらこんなに面白くはなかっただろう。本書の肝は、この未発表原稿の存在が、松ノ内家をより強い「家族」にした、という部分だろう。

これは本書の面白さの肝だと思うのであまり書きすぎないようにするつもりだが、これが抜群に上手いと僕は感じた。貞夫・孝之・郁子・琴美は、楢崎の未発表原稿に対してそれぞれ違った思惑を持っている。その方向性は、基本的にはバラバラなのだ。何故バラバラなのかというのは、もちろん家族であっても他人だから当然ではあるのだけど、しかし別の見方をすれば、家族としての大きなまとまりが失われている、という風にも受け取れる。松ノ内家には特段目に見えるような大きな問題は存在しないが、それは浮き彫りになっていないというだけで、決してないわけではない。その、実はあった問題を、未発表原稿の存在が浮き彫りにする。未発表原稿に対するそれぞれの思惑が、松ノ内家という家族が実はバラバラの方向を向いているということを明確にするのだ。

そして、同じ未発表原稿が、今度は家族を一つにまとめる働きもする。これが良く出来ていると感じる。楢崎の未発表原稿は、家族の問題を浮き彫りにさせるのと同時に、その状態の家族を一つにまとめるための役割も果たすのだ。あるんだかないんだか分からない未発表原稿が家族をどんな風に結びつけていくのか、その過程を是非楽しんで欲しい。

松ノ内家にとって楢崎の未発表原稿が脅威なのは、楢崎の「私小説を多く書いた」「女性関係が色々あった」という点に関係がある。つまり、もし松ノ内家に居候している間に楢崎が何か原稿を書いているならば、それは松ノ内家の人間と不倫関係にあったことを示す描写があるのではないか…。彼らはそういう想定をしている。それに対する反応も家族の間で様々なのだが、この点が、谷崎潤一郎をモデルにした楢崎春一郎を作中に登場させた一番の面白い点だと思う。楢崎の未発表原稿は、ただの原稿ではない。松ノ内家の「恥」を明らかにするかもしれない存在なのだ。文豪の未発表原稿を探すというミステリのようでありながら、それは決して物語の核ではない。楢崎の未発表原稿が、家族の「恥」を掘り起こすことになるのではないか、という懸念が、松ノ内家を揺るがし、またバラバラにしていくのだ。

物語がどんな風に展開し閉じていくのか、それは是非読んで感じて欲しい。作品だけではなく作家が愛されるというのはこういうことなのだ、という風に感じることも出来るし、家族というものが一つの大きな存在としてどうあるべきなのかということも示唆する、なかなかどっしりとした、それでいて読みやすい作品だ。

瀧羽麻子「松ノ内家の居候」


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生きてゆく力(宮尾登美子)

内容に入ろうと思います。
本書は、宮尾登美子が、主に作家になる前の、家族や住んでいた地域の思い出を描いたエッセイです。

僕は宮尾登美子の小説は読んだことがないんですけど、このエッセイはなかなか面白かったです。
宮尾登美子は、生家が芸妓を斡旋する仕事をしていたようで、その頃芸妓の卵のような子たちと一緒に生活をしていた。その当時の、貧しいけれど豊かさを感じさせる日々。また、戦時中満州へと移り住み、戦後死ぬような思いを幾度もしながら日本へと戻ってきた話。結核を患いながらも農家の嫁として働いていた日々。子供の頃にあった、奇妙だけどなくなってしまえば懐かしさを感じさせる様々な習俗。そういった様々を、著者は丁寧に掬い取っていく。

それらは当然、僕が経験したこともない生活なのだけど、著者の記憶力が子細に渡っているからか、あるいは誰しもが自分のどこかにそういう古き良き時代への郷愁みたいなものがあるからなのか、とても面白く読める。現代とはまた違う理屈で、家族や人生や社会というものが成り立っていた時代の、物質的には決して豊かではないのだけど、どこか豊かさを感じてしまうような、そういうあり方はいいなと思いました。

宮尾登美子の小説を読んだことがないから勝手な想像だけど、このエッセイに書かれているような日常が、著者の作品の背景を支えているのだろうな、ということは強く感じました。

宮尾登美子「生きてゆく力」

仁術先生(渡辺淳一)

内容に入ろうと思います。
本書は、大学病院で講師として医局の中心的立場にありながら、突然下町の診療所に移ってしまった円乗寺優先生の、下町での診療を描いた作品です。

「梅寿司の夫婦」
円乗寺先生のいるK診療所に、ある青年がこそこそとやってくる。最初何かと思ったが、梅毒なのだという。であればその態度も分からなくもない。この時代は、梅毒であるとなれば忌避されてしまう恐れもあった。そんな青年と、寿司屋で会った。寿司屋の職人なのである。やがて円乗寺先生に気を許すようになった青年はある悩みを打ち明けるが…。

「特効薬」
戸浪さんの奥さんが倒れたというので自宅まで診療に向かう円乗寺先生。旦那は慌てふためいている。奥さんは身をよじりながら、衣服をはだけさせながら苦しがるが、円乗寺先生は一向に何もしない。注射の一本も打たない円乗寺先生に旦那はキレてしまうのだが…。

「健保ききません」
結婚したものの奥さんとうまくセックスが出来ないとやってきた大石という青年。イチモツは立派なのだが、いざという時にどうもうまくいかないのだとか。円乗寺先生は、保険はきかないけどいいか、と言って、看護婦と共にとある治療をするのだが…。

「不定愁訴」
K診療所に新たにやってきた若手医師に、円乗寺先生は教訓を伝えようとしている。円乗寺先生は、「女を見たら…と聞かれてどう答えるか?」と若手医師に問いかける。そしてそこから、円乗寺先生がかつて経験した、村石という女性患者の苦い診療の記憶を語り始める…。

「腰抜けの二人」
これは、円乗寺先生の話ではない。
ある医師の元に、毎年「中津川三郎」という男から年賀状が届く。そこには「腰抜け男」と書かれている。これは、二人の間だけで通用する符丁だ。
手術も碌に出来ない新人でありながら、北海道の炭鉱近くの診療所へ行かされることになった医師は、一人でなんでもこなさなくてはならない不安を抱えつつ、比較的穏やかな日々を過ごしていた。しかしある日、炭鉱落盤事故があり、患者が運び込まれてくることになったのだが…。

というような話です。
なかなか面白かったです。「医療ミステリー」というようなガチガチっとしたものではなくて、病院のおっちゃんと下町風情がうまく絡み合って、すすすっと読める感じに仕上がっています。

医師というのは、知識や技能がまず連想されるけど、なによりもコミュニケーションが大事なんだろうなと改めて感じさせてくれる作品でした。どの話も、知識や技能はさほど必要とされないけど、患者とどう接し、どうコミュニケーションを取っていくのかという部分はとても重要になってくる話が多かったなと思います。そこに、下町の人情がうまく混ざり込んで、良い話にまとまっているという感じです。

渡辺淳一「仁術先生」

か「」く「」し「」ご「」と「(住野よる)

人の気持ちを知ることが出来たらなぁ…なんて、別に考えたことはない。
そんなの、ただめんどくさいだけだ。

けど、世の中は、そうではないらしい。自分が良いと思う相手のことを、何でも知りたいらしい。いつどこで何をしていて、どんなことを考えているのか知りたいようだ。

けれど、基本的には知ることは出来ない。相手の気持ちは、相手の言葉や態度から推測するしかないのだけど、言葉や態度は嘘をつくことが出来る。気持ちや感情と連動させないことが出来る。知りたいけど、はっきりとは分からない。けれど知りたい。世の中的には、そういうもののようだ。

知ってどうするのだろう?と僕は思ってしまう。

僕は、自分が良いなと思う相手、好きだなと思う相手であればあるほど、全部は知りたくはない。いつまでも、よく分からない部分が残っていて欲しい。いつまでも予想外の反応が返ってきて欲しいし、いつまでもなんだかよく分からないことを言っていて欲しい。真意とか本心とかが全然掴めなくて、行動原理が全然読めないような、そんな存在であって欲しいと思う。

その方が面白い。

気持ちまで含めた相手のことを全部知るというのは、結局、自分の思った通りでいて欲しい、ということでしかない、と僕は思ってしまう。あなたの望んだ通りに動き、あなたの望んだ通りに考え、あなたの望んだ通りに感じる人。

そんなのの、何が面白いのだろう?

結局、相手のことなんか分からないから面白いと思うのだ。分からないから知りたくなる。知りたくなるのに知ることが出来ないから面白い。人間関係って、きっとそんな風に成り立っているんだ、と思う。

だから「読点」とか「トランプの柄」とか「バロメーター」とか、そんなのが見えちゃうようなのは、嫌だなと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、5編の短編が収録された連作短編集です。

「か、く。し!ご?と」
大塚には、人の上に記号が見える。ハテナとか読点とか。その人の感情に連動した記号が見えてしまう。
大塚は、クラスメートのミッキーに恋をしている。ミッキーは情熱溢れる女の子で、どんなことにでも心を動かすことが出来る良い奴だ。大塚はミッキーと話そうとすると動揺して変になってしまうが、大塚の友人でありクラスの人気者であるヅカはミッキーと子どもの頃から仲が良くて、仲が良い者同士にしか醸し出せないやり取りを日々している。
ある時から大塚は、ミッキーのシャンプーが変わったことに気づいた。そんなことに気づいたことに気づかれたら気持ち悪いと思われるだろうから指摘しなかった。同じ頃、ミッキーは何故かヅカに、「私何か変わった?」と聞くようになった。ヅカはどうも、シャンプーが変わったことに気づいていないようだ。とはいえ、横から口を出すわけにもいかない。いつもヅカはミッキーからボロクソに言われることになる。
大塚は、隣の席に思いを馳せる。宮里さんはゴールデンウィークが始まった頃から二ヶ月、学校に来ていない。理由は誰も知らないようだが、自分のせいだったらと不安になる。

「か/く\し=ご*と」
ミッキーには、他人の心臓のところにシーソーのようなバーが見える。それがプラスに傾いたりマイナスに傾いたりするのを見て、ミッキーは相手の感情を理解する。大体の人はプラスかマイナスに傾いているのに、パラというぶっ飛んだ友人だけは、そのバーがいつもくるくる回転している。
文化祭でヒーローショーをやることになった。理由は、パラが提案したのだ。自分の進路のために、という理由を隠しもせずに堂々と話、脚本まで用意していた。みんなやる気をみなぎらせた。衣装や照明も自分たちでやる。パラをリーダーとして、クラス一丸となってのチャレンジだ。昔からヒーローに憧れていたミッキーは、ヒーローショーのヒーロー役をやることになった。
ちょっとしたトラブルもありながら、無事ショー当日を迎えた。けれど、「三木は舞い上がってるとあぶなっかしいからなぁ」という先生の忠告を、もうちょっとちゃんと聞いておけばよかった…。

「か1く2し3ご4と」
パラには、他人の心のリズムが見える。早くなったり遅くなったり。その変動を知ることが出来る。パラはある時から、他人の鼓動を強めるためにぶっ飛んだ行動をするようになった。それがキャラクターとして定着した。本当は、ただ冷酷なだけの人間だ。
パラは、ヅカの本性を知っている。ヅカは、誰に対しても良いやつで、ポジティブな感情を露わにし、クラスのムードメーカーだが、実際にはどんな状況であってもヅカの心音が変化することはない。フラットなのだ。
修学旅行だ。修学旅行中に鈴を渡すとずっと一緒にいられる、というおまじないがある。ヅカは、修学旅行の朝に鈴を持っていた。既にもらったものなのか、あるいはこれから誰かに渡すものなのか…。パラはある計画のために、修学旅行中、基本的にずっとヅカを「王子様」と呼んでべったりしていたが…。

「か♠く◇し♣ご♡と」
ヅカは、人の感情を反映したトランプの4つの柄が見える。スペードは「喜」、◇は「怒」、クローバーは「哀」、ハートは「楽」だ。ヅカは自分で自分のことを、相手との関係をフラットに見すぎてしまう、と思っている。自分の意思より相手の意思を尊重してしまうのだ。
そんなヅカが気になるのは、エルの「哀しみ」だ。頭の上にいつも大きなクローバーがある。ちょっと前から、おかしいのだ。仲良しだったはずの隣の席の京と何やらうまく行っていないようだし、ヅカがミッキーについて言及するとクローバーが大きくなるような感じがする。誰も相談されていないみたいだし、京もまったく原因が分からないという。
いつもの5人で花見に出かけた時、ちょっとした出来事が起き…。

「か↓く←し↑ご→と」
エルには、他人の好意が矢印になって見える。誰かが誰かのことを好きだということが、矢印ではっきり分かるのだ。だから、ミッキーと京が両思いなのも、もちろん分かっていた。
けどこの二人、全然進展しない。周りがあの手この手でくっつけようとしているのに、まるでダメだ。京は私と同じで臆病で、自分なんか、と思ってしまうようなところがある。そしてミッキーは恐ろしいほど鈍感なのだ。どうにもならない。
受験勉強が始まって、将来のことについて考えるようになった頃。タイムカプセルを埋めようという話になった。未来の自分に手紙を、という話のはずだったのだけど、パラの提案で、他のメンバーへの手紙にしよう、と決めた。ここで京とミッキーにお互いの気持ちをはっきり書かせて強くさせよう、という魂胆だった。
しかし…。

というような話です。

相変わらず住野よるは良い小説を書くなぁ。僕は、住野よるの作品は何を読んでも「君の膵臓を食べたい」を越えられないんだけど(僕の中で「キミスイ」はちょっと別格なのです)、この作品も凄く良いと思いました。

まず、設定が非常に秀逸だ。5人が5人とも、何らかの形で他人の感情を見ることが出来る。この設定が、非常に上手い。他人の感情が見えたところで、その原因まで分かるわけではないから、何もかも分かるわけじゃない。けれども、感情の一端は分かる。分かった上で、能力で分かったわけではない、という風を装いながらその感情と関わっていくのだ。

誰もが、こんな能力を持っているのは自分だけだ、と思っている。だから、自分が能力を使って相手の感情を読み取っているという事実は悟られないようにしなければならない。でも、知ってしまった感情に対して、何もしないではいられない。哀しんでいるならその哀しみを取り除いてあげたい。好き合っている者がいるならくっつけてあげたい。そんな風に思うのは当然だ。

だからこそこの5人の関係性は、誰もが皆、「誰か」を一番に考えている。自分のことを一番に考える者はいない。これが、この作品における、感情が見えすぎることによる一番大きな効果だろうと思う。

そしてその過程で、とても面白いことが分かる。それは、全員が、自分よりも他の全員の方が他人を思いやっていると思っていることだ。いや、全員というのはちょっと言い過ぎたかもしれないが、自分は他人に対して冷たい人間だ、と考えている人間が多い。

読者の視点からすれば、5人は全員、「誰か」のことを一番に考える良い奴だ。でも、5人はそれぞれ、自分自身のことをそんな風には捉えない。自分は冷たい人間だけど、他の4人はそうじゃない、というような捉え方をする。これもきっと、感情が見えすぎている効果なのだろう。彼らは皆、「相手の感情が見えているのに、自分は見えているが故の行動を取らない。他の4人は感情なんか見えていないはずなのに、相手のことを思いやった行動が取れていて素晴らしい」みたいな風に考えているのだろう。自分以外の4人も皆、感情が見えるのだ、なんて想定できないだろうからこういう発想が生まれる。この状況も実に面白い。

他人の感情が見える、なんていう設定は、安易に思いつくことが出来るだろう。しかし、そういう状況設定の中でどういうことが起こり得るかまできちんと考えられている作品はそう多くはないだろう。本書の場合、感情が見えすぎることが、彼らのパーソナリティに少なくない影響を及ぼし、さらにそれが5人全体の関係性にまで波及していく。非常に繊細だ。

その繊細さは、エルの感情の見え方にも現れている。エルというのは、本当に些細なことでも気にしてしまう自己評価の低い女の子だが、そのエルに見えるのは、相手の感情の中でも「誰が誰を好きか」という好意のみだ。感情全体が見えるわけではない。この設定は、エルというキャラクターには実にしっくりくる。エルが他の4人のように感情全体が見える設定であれば、エルはもっと違うキャラクターになっていただろうし、そうであればこの作品が成り立たなかった可能性がある。エルの感情の見え方を知った時、上手い、と改めて思った。

そしてその上で、ここのキャラクターがとてもいい。

全員好きだが、特に好きなのがパラだ。本書で描かれるパラは、僕にとってはとても素晴らしい。

僕には、かなりパラに似ている部分がある。

(本書を読んでいない人は、これ以降の記述を読まない方がいいかもしれない。二編目でのパラと三編目でのパラの落差を感じた方が面白いし、ここで暴露するパラの本当の姿だけ読んでも、きっと面白くないだろうから)

『君は面白いと思ってくれてるかもしれない、私の発言は、私がこう言ったら面白いと思われるだろうと、計算して言っているものだし。君が面白いと思ってくれてるかもしれない、私の行動は、私がこうやったら驚かれるだろうと狙ってやっているものなんだ』

パラの言動はあまりにもぶっ飛びすぎていて、言動で比較する場合、僕とパラは全然似ていないだろう。しかし、行動原理を比べれば、僕とパラはそっくりだと思う。

僕も、パラとまったく同じ発想で行動している。僕は、自分が変だと思われるように行動するように意識している。それは、本来の自分からかけ離れているわけでは決してないが、本来の自分ではない。僕は計算で自分の行動をデザインしている。

『そうじゃないんだよ。本当は私だってそういう人間になりたいよ。損得なんて考えない人間になりたいし、やりたいことだけ迷いなくやれる人間になりたい。でも、実際の私はそうじゃない。私の言葉や、行動は、私がなりたい私に過ぎない。本当に私じゃ、ないの』

「そういう人間」というのは、ミッキーに近いキャラクターだ。どんな状況でも熱くなれて、やりたいことを迷いなく出来る。パラは、周りからそういう風に見られるように行動しているけど、自分がそういう人間でないことをちゃんと知っている。

『冷静さを長所だと言う人間もいるだろう。だが、違う。ただ、冷たい人間というだけだ。』

パラのこの自覚も、僕にはよく分かる。僕も、自分の冷たさをきちんと自覚している。

先程から書いているように、パラの言動はあまりにもぶっ飛んでいるので、単純に比較は出来ないが、パラのこの落差を知ると、世の中で楽しそうに生きている人にもきっと、こういう内面を抱えている人はいるのだろうな、と感じる。実際僕は、そういう人に何度か会ったことがある。表向き、凄く楽しそうにワイワイと人と絡んでいるのに、ちょっとその内側を覗き込んでみると、みんなの中にいる時からは想像も出来ないような内面を見つけることが出来るような人が。僕はなんとなく、そういう人に惹かれることが多い。自分もそういうタイプだから気になる、ということもきっとあるのだろうけど、わざわざ楽しそうに振る舞わなくてはならないその感じに、どことなく哀愁を感じるのだろうなと思う。

京(大塚)やエル(宮里)もとても良い。この二人にも、僕自身の欠片を感じ取ることが出来る。自分に自信がなくて、自分が世間の主流を歩いてはいけないと思っていて、いつでも自分の気持ちに蓋をしてしまうような二人のあり方は、昔の自分を見ているようだ。5人の間に発生する問題(と書くとネガティブな騒動という感じだが、そこまでネガティブでもない)のほとんどが、京とエルに関わるものだ。彼らの性格のマイナス思考の部分が、結果的に状況を引っ掻き回してしまうことが多い。

パラとミッキーという、どんな行動を取るのか分からない女二人に、京とエルという後ろ向きな二人、そして人気者でありながらその実、心の中はフラットというバランス感覚を持ったヅカという5人組が、いつだって自分以外の「誰か」を思いやりながら行動する。そうやって築き上げられていった関係性が、なんだかとても羨ましく思えてくる。普段、良い人ばっかりの物語にはどことなく嫌悪感を抱いてしまうことが多いのだけど、この物語は、基本的に皆良い人なのに、自分の中の嫌悪カウンターが反応しない。それもまた、他人の感情が見えすぎるという設定をうまく使った効果なのだろう、と思う。

誰だって“厄介な自分”を生きている。そんな風に思わせてくれる作品だ。

住野よる「か「」く「」し「」ご「」と「」

蜜蜂と遠雷(恩田陸)

「学ぶ」というのは「枠」を知る、ということだ。

僕たちは基本的に、「知の暗闇」の中で生きている。知らないことだらけだ。しかし、少しずつ「学ぶ」ことで、明るい部分が増えていく。明るくなると、そこに何かが見える。それは大抵、仕切りのようなものだ。「こちら」と「あちら」を区別する仕切り。明るくなった場所に浮かぶそれらの仕切りを確認しながら、僕たちは色んな概念を学んでいく。ある言葉の意味、誰かの感情、雲の形から予想される雨、数百年後に地球に接近する彗星。僕たちは、「枠」を捉えることで、物事や感覚を捉えていく。

しかしその「枠」は、誰かが決めたものだ。誰が決めたのか、ということは問題ではない。iPS細胞のように発見者が明確なものもあれば、古代の誰かが発見しいつの間にか広まっていることもある。誰でもいい。とにかく、「枠」というのは、誰かが決めたものに過ぎない。

「枠」を知ることは重要だ。「知の暗闇」の中では、僕らは歩くこともままならない。真っ暗な中を手探りで歩き続けるのは、怖いし危険だ。これ以上進んではいけない場所、「こちら」と「あちら」とで区切られている場所、そういうものをきちんと確認しながら歩いていきたい。それはある種の、人間の本能と言ってもいいだろう。

しかし、時に「枠」は、人間の行動を制約する邪魔ものに変わる。「枠」が見えれば、そこから出てはいけないと咄嗟に感じる。「こちら」と「あちら」は連続していないのだ、と思ってしまう。

そういう躊躇の積み重ねが、人間を臆病にしていく。

時々いる。「知の暗闇」の中を、真っ暗なまま歩ける者が。彼には「枠」が見えない代わりに、「枠」を越えてはいけないという発想もない。もちろん、「枠」が見えないが故に、色んなものにぶつかりながら歩いて行くことになるだろう。しかしその過程で、普通の人だったら絶対に越えられない「こちら」と「あちら」の境界をあっさり飛び越えてしまったりもする。

そういう人を、僕らは「天才」と呼びたいのだと思う。

「天才」にも、様々なタイプがいる。大量にこなせる者。超スピードでこなせる者。誰も真似出来ない技術を使える者。そういう者も、「天才」と呼ばれ得る。しかし、僕は、概念をしなやかに飛び越えることが出来る人間こそ、「天才」の名に相応しい、と思いたい。

「◯◯はこうでなければならない」という「枠」は、「◯◯」という伝統や文化を守っているように見せかけながら、実はそういう発言をしている人の地位やキャリアを守っている、ということが多いのではないだろうか。その「枠」を押し付けることで、「枠」の内側に入れていない人間を疎外することが出来る。その「枠」の内側に入ってこなければ認められないと振りかざすことが出来る。

『近年、演奏家は作曲者の思いをいかに正確に伝えるかということが至上命題になった感があり、いかに譜面を読みこみ作曲当時の時代や個人的背景をイメージするか、ということに重きが置かれるようになっている。演奏家の自由な解釈、自由な演奏はあまり歓迎されない風潮があるのだ』

「枠」の内側に入っていないものはダメだ、と判断するのは、簡単だ。しかしそれは、ある意味で思考停止と言ってしまっていい。「枠」を設けたのは一体誰なのか?個人を特定したい、という話ではない。結局「枠」を設けているのは、批評家だ。

『よく言われることだが、審査員は審査するほうでありながら、審査されている。審査することによって、その人の音楽性や音楽に対する姿勢を露呈してしまうのだ』

『そして、審査員たちも薄々気付いている。
ホフマンの罠の狡猾さと恐ろしさに。
風間塵を本選に残せるか否かが、自分の音楽家としての立ち位置を示すことになるのだということを。』

「評価」や「批評」というのは、「枠」があるからこそ成立する。複数ある内のどの「枠」を選択するか、という自由度はあるにしても、何らかの「枠」を設定した上でなければ「評価」も「批評」も出来ないのは確かだろう。

そういう意味で、「評価」も「批評」も出来ないようなものにこそ、そのジャンルを粉砕させるような力がある、と言っていいだろう。

『よし、塵、おまえが連れ出してやれ。
少年はきょとんとした。
先生は、底の見えない淵のような、恐ろしい目で少年を見た。
ただし、とても難しいぞ。本当の意味で、音楽を外へ連れ出すのはとても難しい。私が言っていることは分かるな?音楽を閉じこめているのは、ホールや教会じゃない。人々の意識だ。綺麗な景色の屋外に連れ出した程度では、「本当に」音を連れ出したことにはならない。解放したことにはならない。』

音楽が「音楽」を超える瞬間を、この作品は感じさせてくれる。たぶんこれは、そういう物語なのだ。

内容に入ろうと思います。
事件は、パリで起こった。
3年毎に開かれ、今年で6回目を数える「芳ヶ江国際ピアノコンクール」。そのオーディションがモスクワ・パリ・ミラノ・ニューヨーク・日本の芳ヶ江の5箇所で行われている。パリでの審査員を務める嵯峨三枝子、アラン・シモン、セルゲイ・スミノフの三人は、退屈な演奏が続くオーディションの中で、その少年と出会った。
風間塵。
異例づくしの候補者だった。履歴書はほぼ真っ白。学歴もコンクール歴もなく、日本の小学校を出て渡仏したことぐらいしか分からない。後で風間塵と接触したスタッフに聞くと、オーディションギリギリのタイミングで会場にやってきた風間の手は泥で汚れていたという。風間の父親が養蜂家であると知ったのは後のことだ。
そして、何よりも最大級の衝撃は、その少年が、あのユウジ・フォン=ホフマンに5歳から師事し、彼の推薦状を持っているという事実だった。
信じられない。
ホフマンは、あらゆる音楽家に愛されながら今年亡くなった、伝説的な音楽家だ。弟子を取らないことでも有名だった。あのホフマンが、弟子を…。
『僕は爆弾をセットしておいたよ。僕がいなくなったら、ちゃんと爆発するはずさ。世にも美しい爆弾がね』
死の間際、ホフマンは周囲の人間にそう漏らしていたという。
まさか、あの少年が「爆弾」なのだろうか…。
その通りだった。風間塵の演奏は、常軌を逸していた。三枝子は初め、拒絶した。ホフマンに対する冒涜だと思った。しかし結局、他二人との議論の末、風間塵を合格とした。
そして、第6回芳ヶ江国際ピアノコンクールの日を迎える。
栄伝亜夜は、天才少女と呼ばれながらも、母の死をきっかけにして「取り出すべき音楽がない」と感じられるようになり、7年前にとあるコンサートから逃げ出して以来、正規の音楽教育からは遠ざかっていた。ある時、浜崎という男性が家にやってきて、亜夜の演奏を聞きたがった。そして、その男性の推薦により、音楽学校への入学が決まった。学長だったのだ。そして、その学長の後押しもあり、亜夜はこのコンクールに出場することになった。
マサル・カルロス・レヴィ・アナトールは、僅かな期間日本に住んでいた頃、子供の頃にたまたま出会った少女に誘われて顔を出したピアノ教室で、その才能を見出された。フランスへ行くことになったマサルに少女は、ピアノを習ってねと言い、マサルはそのお願いを聞き入れ、ピアノの練習に励んだ。彼は圧倒的な才能を持ち、僅かな期間で驚くべき飛躍を遂げた。長身に甘いルックスであることもあって、舞台映えするマサルは、スターの予感を漂わせている。
高島明石は、コンクール出場者の中でもかなり高齢の28歳だ。楽器店で働くサラリーマンであり、妻と子供もいる。他の参加者がもっと若く、一流の指導者の元で練習に励んでいるのに対して、明石は仕事の合間を縫って、睡眠時間を削るようにしてこのコンクールのための調整を続けてきた。「生活者の音楽」という持論を持ち、音楽は音楽だけを生業とする者だけのものではない、という想いから、コンクール出場を決意したのだ。高校時代の同級生である仁科雅美が、ドキュメンタリーのためにカメラを回している、というのも非日常だ。
様々な背景を持つトップクラスのピアニストが、コンクールという場で互いの全力を出して闘う物語だ。

実に濃密な物語だった。冒頭では、風間塵の生き様やスタンスを切り取ってあれこれ書いてみた。それも、本書の主要なテーマの一つだ。しかし、本書の主役は決して風間塵だけではない。風間塵という超絶的な天才が物語の中心にいることは間違いないのだけど、ただそれだけの物語ではない。

亜夜・マサル・明石・塵。彼らの音楽に対する葛藤や生き様が、コンクールという場で発散し、溶け合って、絡まり合う。その混沌の中に、「音楽」というジャンルを掬い上げるような希望の光が生まれる。そんな神々しさを感じるような作品だ。

亜夜は、音楽に対する態度を決めきれないでいる。

『しかし、意外にも、亜夜自身に挫折感はなかった。
彼女の中では、コンサートのドタキャンは筋が通っていたからである。
取り出すべき音楽がピアノの中に見つからないのに、なぜステージに立つ必要などあるだろうか。』

そもそも彼女は、ピアノを必要とする人間ではない。

『彼女は、元々ピアノなど必要としていなかった。
子供の頃、トタン屋根の雨音に馬たちのギャロップを聴いていた時から、彼女はあらゆるものに音楽を聴き、それを楽しむことができたからである』

彼女には、ピアノに戻るための必然性のようなものはなかった。彼女がコンクールに出場することを決めたのは、自分を推薦し入学させてくれた学長の面子を潰さないためだ。そして、入学以来亜夜のことをずっと気にかけてくれた学長の次女の奏の熱心な説得があったからだ。

自らの意志によってステージに戻ってきたわけではない亜夜は、しかしこのコンクールの場で様々な感情に奔流され、自分でも思ってみなかった場所へと流れ着く。

『決して、自分はあの時コンサートピアニストから身を引いたことを後悔していないし、挫折感も持っていない。音楽を深く愛しているし、音楽から離れようと思ったことは一度もない。それを、ずっと舞台に戻りたいと思っていたとか、やっと立ち直ったとか思われるのは耐えがたいものがある。』

コンクール期間中も、ずっと気持ちが定まらないまま、どこか他人事のようにピアノを弾いていた亜夜。しかし、風間塵やマサルとの出会いが、亜夜を大きく変えていく。

マサルにもマサルの物語がある。しかし、それについてはここでは触れないでおこう。マサルにとっては結果的に、権威ある国際コンクールに出場する、という以上の価値をもたらした。コンクールの審査員も務めている彼の師匠も絶賛する、間違いなく未来のスター候補であるマサルがこのコンクールの出場によって得たものとはなんであったのか。それは是非読んで欲しい。

明石のスタンスはとても好きだ。

『俺はいつも不思議に思っていた―孤高の音楽家だけが正しいのか?音楽のみに生きる者だけが尊敬に値するのか?と。
生活者の音楽は、音楽だけを生業とする者より劣るのだろうか、と。』

『音楽を生活の中で楽しめる、まっとうな耳を持っている人は、祖母のように、普通のところにいるのだ。演奏者もまた、普通のところにいてよいのではないだろうか』

クラシック音楽という、ともすれば一般人には馴染みのない音楽を、生活する者として聴かせることは出来ないか―。そんな明石のスタンスは、演奏にも人柄にも現れる。と同時に明石は、こんな相反する想いも抱いている。

『もし自分が抜きん出た才能を持っていたら迷わずプロの音楽家の道を選んだだろうし、それ以外の職に就くことなど考えもしなかっただろう。そして、そちら側にいたならば就職して所帯を持ち、「生活者の音楽」などと嘯いている者をきっと軽んじていたに違いないのだ』

圧倒的な才能と煌めきを放つコンテスタントたちの演奏を聴きながら、才能を持って生きるということや、才能があっても決してうまく行くわけではない現実について明石は考える。そして、音楽という業の深い人生について、生活者の立場から読者に近い感覚を見せてくれるのだ。

本書は、物語そのものの濃密さもさることながら、まるで「文字」という楽器で音楽を奏でているかのような描写力が凄まじい作品でもある。僕は、音楽に対する素養がないので、そもそも描かれている曲が頭に浮かぶことはない(恐らく知っている曲もあるのだろうけど、曲名では判断できない)。しかし、それらの曲がどんな雰囲気を持ち、演奏者によってどんな部分が異なり、何が凄まじいのかというような部分は、恩田陸の「文字」という楽器によって鮮やかに示される。僕は、音楽というものを文字で解釈しようとしたことがないので、その圧力に圧倒されるような思いだった。小説という、聴かせることが出来ないメディアで、これほど「音楽」を感じさせる作品はそうそうないのではないかと思う。

しかし何にしても、才能を持つ者というのは羨ましいものだ。

『世界中にたった一人しかいなくても、野原にピアノが転がっていたら、いつまでも弾き続けていたいくらい好きだなあ』

そんなものに出会うことが出来た人間は、幸福なのだろうと思う。

恩田陸「蜜蜂と遠雷」

桜疎水(大石直紀)

内容に入ろうと思います。
本書は、6編の短編が収録された短編集です。

「おばあちゃんといっしょ」
竹田美代子は「常世神」宗教団体を立ち上げて詐欺をしている。45歳のホームレスの佐原芳雄という男を教祖に仕立て上げ、もっともらしい来歴ともっともらしい教義を作り上げて、信者から大金をまきあげていた。最も、佐原は最近言うことを聞かなくなってきた。祈祷の最中居眠りをするし、家に誰もいれるなと言っているのに女を連れ込んでいる。そろそろ大きな仕事をして、佐原を切る時期だろうか。
美代子は、赤木静子という大金を持っていそうな老女を見つけ、この仕事が終わったら佐原を切ろうと考える…。

「お地蔵様に見られてる」
京都には二度と住まないと誓って、京都に支社も営業所もない東京本社のアパレルメーカーに就職したさやかは、今年になって京都に支社を立ち上げるとかで、まさかの京都住まいになってしまった。
真如堂の参道で倒れた女性が、泰宏の母親だった。変わり果てた姿になっているが、間違いない。恐ろしくなってさやかは逃げ出した。
大学時代、達朗と泰宏の三人で過ごした日々を思い返す。あんなことにさえならなければ…。

「二十年目の桜疎水」
スウェーデンに移り住んで20年。日本に帰ったのはほんの数度だ。しかし、母が危篤と聞いて、正春は久々に日本へと帰った。死の間際、母は正春に懺悔した。私のせいで辛い思いをさせてしまった、と。
雅子の話だ。母は雅子に手紙を出したことがあるという。なんの話だそれは?
その話がどうにも気になって、正春は京都へと向かった。そうする間、雅子とのことを思い返していた。
雅子とは会ってすぐに気が合い、つきあい始め、結婚の約束もしていた。その後、あんなことにならなければ…。

「おみくじ占いにご用心」
ヘルパーの後をつけ、ターゲットにする老人を選ぶ、というやり方で大金をせしめてきた横道と上宮は、今回も同じやり方で一人の老女に狙いを定めた。ヘルパーの来ない日に、介護ステーションの職員を装って侵入し相手をうまく丸め込むのだ。今回も問題なくうまくいくだろう。
しかし、“仕事”の前に引いたおみくじが「凶」だった。今までこんなことはなかった。もう一度引いて「大吉」を当てたが、なんだか嫌な気分だ。拭えない違和感はその後も頻発するが…。

「仏像は二度笑う」
片山正隆は子供の頃から手先が器用で、中学の頃に両親を無理矢理説き伏せて仏師の修行に励んだ。25歳を過ぎる頃には一人で仕事を任されるほどの上達ぶりで周囲を驚かせたが、しかしギャンブルで身を持ち崩した。師匠から見限られた正隆は、自分で作った仏像を骨董屋に売りに行くが…。
一方津久見は、馴染みの料理屋でいつものように飯を食っていた。骨董関係の人間が集まるのでちょっとした情報を仕入れやすくて重宝している。その日、店主の相原が、客から上物の九谷焼を買い取っていた。明らかに安い値段で。それを持ち込んだ男の父親が仏像専門と聞いて津久見は色めき立つ…。

「おじいちゃんを探せ」
ある日沙和は、両親が自分に内緒でおじいちゃんの話をしているのを聞いてしまう。それは、おばあちゃんが内緒でおじいちゃんと年賀状のやり取りをしていた、という他愛もない話だ。祖父母は沙和が幼い頃に離婚しており、沙和はおじいちゃんの顔を知らない。ミステリ好きな血が騒いで、両親が一体何を隠しているのか探ろうと決意する。
しかし、大したことではない風を装って母親におじいちゃんの話を振ると、母親の顔が固まった。おじいちゃんの話は、沙和が想像しているよりもタブーなようだ…。

というような話です。

なかなかよく出来た作品でした。冒頭の「おばあちゃんといっしょ」が日本推理作家協会賞短編部門を受賞したようですけど、確かによく出来た作品でした。他の作品も、粒ぞろいという感じがします。

やはり一番出来がいいのは、「おばあちゃんといっしょ」かなと思います。導入の物語があってからの、「常世神」の宗教の話になっていくのだけど、なるほどと思わせる構成でした。

同じようによく出来た構成だと感じたのは、「おみくじ占いにご用心」と「仏像は二度笑う」の2つ。「おばあちゃんといっしょ」を合わせた3作品が、詐欺をモチーフにした作品です。「仏像は二度笑う」は、3つの中でもまた大分タイプが違っていて、「詐欺」というモチーフでありながら読後感の良い作品という感じがしました。

「二十年目の桜疎水」は、雅子のある決断が物語の肝になってきます。悩んだ末、今の状態で未来を生きていくためにした雅子の決断。その決断の真意を二十年目にして初めて知ることになる主人公。二人の新しい未来を予感させるような展開がなかなか良かったです。

「おじいちゃんを探せ」は、またちょっと違ったタイプの話。家族の秘密を巡る物語ですが、想定していなかった展開がお見事という感じでしょうか。両親のひそひそ話をちょっと耳に挟んでしまったことから展開される物語としては、なかなかハードでしたけど。

「お地蔵様に見られてる」だけは、正直良くわからなかったんですよね。作品全体のトーンと、何となく合わないような気がしました。大学時代に起こった出来事は興味深いですけど、全体としてはイマイチよく分からなかったです。すっきりしない終わり方だったような気がしました。

全体としては、なかなか良くできた短編集だと思います。

大石直紀「桜疎水」

むすびや(穂高明)

内容に入ろうと思います。
本書は、商店街に店を構えるおむすび専門店「むすびや」を舞台に、商店街の面々との関わりや人生に様々な葛藤を抱える人々の交錯を描き出す作品です。

結は「ゆい」と読むが男だ。昔はこの名前で散々からかわれた。そして、名前のせいだとは思いたくないが…、就職活動ですべての会社に落ち、結は仕方なく実家の「むすびや」を手伝うことにした。
毎朝エプロンをつける度に敗北感がある。自分は何も出来ない人間なのだという悔しさみたいなものが、ずっと残っている。それでも、毎朝起きて両親を手伝わなくてはいけない。まだおむすびは握らせてもらえないけど。
同じ商店街には、親が自営業をしているかつての同級生がたくさんいる。俊次は実家の八百屋を継ぎ、佳子も夢を諦める形で実家の酒屋に戻ってきた。実家の魚屋が潰れ、今は安さだけがウリの回転寿司店の店長として殺人的な残業をこなしている者もいる。みんなそれぞれに色んなものを抱えながら、「むすびや」を交点として繋がっていく。どうにもならない人生を受け入れながら、どうにか目の前の現実に馴染もうとする者たちの物語だ。

さらっと読める作品です。商店街という、人と人とが日常的に関わり合う中で、色んな人が様々な葛藤を抱えている。特に結は、就職活動に全敗するという挫折を味わいながら、色んな人と関わる中で自分の人生をまた違った形で受け入れていく。両親を見下しているつもりはないが、どうしても高卒の両親が自営業としてスタートさせた店に素直に馴染むことが出来なかった。子供の頃からの葛藤もあり、余計に難しい。

しかし、両親がおむすび作りをいかに丹精込めてやっているのか。どれだけ細かな部分まで気を配って様々なものを生み出しているのか。そういうことを理解していくにつれて、結の考えは少しずつ変わっていく。劇的な変化はないが、少しずつ現実を受け入れていく過程がゆったりとさせてくれる作品だ。

穂高明「むすびや」

ハリネズミの願い(トーン・テレヘン)

内容に入ろうと思います。
本書は、オランダで絶大な支持を集め、国内外の様々な賞を受賞している作家の作品です。
主人公は、一匹のハリネズミだ。彼はひとりぼっちで、家に誰も来たことがない。ハリネズミは考えた。よし、誰かを招待しよう、と。そうして、招待状を書き始める。

『親愛なるどうぶつたちへ
ぼくの家にあそびに来るよう、
キミたちみんなを招待します。』

しかしハリネズミは、自分のトゲが嫌いで、みんなと仲良く出来ないと考えている。だから、招待状の最後にこう付け足した。

『でも、だれも来なくてもだいじょうぶです。』

そうしてハリネズミはさらに悩みはじめてしまう。この招待状を出すべきかどうかを。
この招待状を出すべきだろうか。考えなくちゃ。そう、例えば、招待状を出したとして、誰か来てくれた時のことを想像してみればいい。クマは?ゾウは?カメは?コウモリは?…。ハリネズミは、色んな動物が来てくれることを想像するのだけど、どうにもうまくいかない。来ても楽しそうにしてくれなかったり、来たら家を壊されちゃったり、来ようと思っているのにハリネズミの家までたどり着けなかったり…。
ハリネズミの想像は次々と続いていき…。
というような話です。

設定は絶妙な面白さだなと思いました。ホントにこの作品は、最初から最後まで、ほぼハリネズミの妄想だけで終わります。招待状を出すべきか、出したら誰が来てくれるか、来てくれたらどうなるのか…みたいなことを、ひたすら延々と考え続けます。

しかもそれが、結構マイナス思考なのだ。そういう意味で、ハリネズミというセレクトはなかなか絶妙だ。ゾウのような長い鼻とか、キリンみたいな長い首とか、クマみたいな強さみたいな、分かりやすい良さみたいなものがなく、さらにその上で、ハリなんていう、周りの人を傷つけちゃうようなものを持っているハリネズミだからこそ、この葛藤が生きる。ハリネズミの妄想は、ちょっと荒唐無稽というか、考え過ぎというか、空想すぎというか、そういう部分もあるんだけど、その考え方のベースに、「自分なんて…」という発想があるというのが、共感を集めやすいように思う。

ハリネズミの妄想は、時々不可解で、読み取ろうと思えば哲学的な何かを読み取れるだろう。アリと「フクザツさ」について議論する部分も、ミーアキャットと「<訪問>とは結局なんのか」を議論する部分も、なかなか面白い。深い意味があるんだかないんだか分からないような描写は、何らかの輪郭のはっきりした問題を抱えている人が読めば何らかの答えのように感じられるかもしれない。あるいは、それらを始点(あるいは問い)として、新しい思索へと乗り出すことが出来るかもしれない。

読む人次第でいかようにでも読める、という意味でも、<寓話>と呼びたくなる作品だ。

トーン・テレヘン「ハリネズミの願い」

サイレント・ブレス(南杏子)

死ぬ、ということについて、普段考えることはほとんどない。今僕は33歳。長生きなんてしたくないなぁ、と思いつつも、なんだかんだ、死ぬのはまだまだ先だろうなぁ、と思っていたりもする。

時々こんな風に、小説を読んで、自分が死ぬ時のことを考えてみる。

僕は、出来るだけ抵抗しないで死にたいな、と思う。

医学が進歩して、薬や手術などでほぼ確実に治る病気というのは増えた。そういう、ほぼ確実に治る病気については、医学の力を借りて治していこうと思う。けど、薬や手術などで治る可能性の低い病気に罹ったり、あるいは、完治という状態がなく永遠に付き合っていかなくてはならない病気に罹ったりした場合には、治療を継続しないという選択肢を取りたいなと、今の僕は思っている。

そこまで無理して生きる必要なんてないんじゃないか、と思ってしまう自分がいる。

医学と言うのは、進歩しすぎているのではないか、と思うことがある。確かに、少しでも長く生きたい、というのは、大昔から人類が抱き続けてきた夢であり、その実現のために様々な努力が積み重ねられた結果としての現代の医学なのだろうから、仕方ない部分もあるのだろう。とはいえ、医学の進歩によって、「自然に死んでいく」というのがとても難しい世の中になってしまった。

「生きる」というのはただ、心臓と脳が動いていればいい、というものではないはずだ。それぞれ人には、「生きる」ということの形があって、その形が満たされていれば生きたい、となるのではないか。しかし医学は、心臓と脳が、時には心臓だけが動いていさえすれば良し、としてしまうような乱暴さがあるような気がする。もちろん、医学の側からすれば、まだ途中なのだ、と主張することだろう。完全な医療を実現する途上であり、だからそういう中途半端さは仕方ないのだ、と。まあそうなのかもしれない。

けど、心臓と脳が動いているからと言って「生きている」といえるかというと、僕は微妙だと思う。自分にとっての「生きる」形を満たしていなければ、それは死を受け入れろということなのではないか。なんとなく僕には、そんな風に感じられてしまうのだ。

そもそも僕には、今の段階で、どうしても生きたいという強い感覚がない。昔からそうだった。あまり、生きるということに対する執着がない。どうしても生きていたいということはないし、長生きしたいとも思えない。だからそんな風にも思うのだろう。

『―こんなんじゃ、生きていても仕方がない。天井を、見ているだけの毎日なんて…』

ある登場人物がそう呟く場面がある。僕は、自分がそう感じてしまうような最期だけは避けたい。どれだけ生きる選択肢があろうとも、「こんなんじゃ、生きていても仕方がない」と思えるような状況に陥る可能性があるなら、その選択を僕はしたくない。

死について考えることは、生きるを考えることだ。とてもありきたりな言葉ではあるのだけど、本書を読んで、強くそう感じた。

内容に入ろうと思います。
水戸倫子は、新宿医科大学病院に勤める医師だ。総合診療科という、トータルな診療を行う科で外来患者を診ている。患者としっかりと向き合うが故に、診療が遅くなることが多く、そのせいでかつて大事な面接に遅れたことさえあった。しかし倫子には、そんなやり方しか出来ない。
そういうやり方は、同僚からは嫌われても、病院全体からは評価されていると思っていた。しかし、そうではなかったようだ。大河内仁教授に呼び出され、関連病院に出されることになった。
しかも、むさし訪問クリニックという、訪問医療を行う、病院ですらないクリニックだ。明らかに左遷ではないか…。
落胆しながらクリニックに足を運んだ倫子は、武田康介という若い看護師と共に、患者の自宅まで出向いて診療するようになったが…。

「スピリチュアル・ペイン」
訪問看護で最初にぶち当たった難しい患者は、知守綾子という、45歳の末期の乳がん患者だ。著名なジャーナリストだという。治療をする気はないけど、死んだ時に警察を呼ばれても困るから訪問医療を頼んでいる、と言い放ち、まともに治療をする意志がない。煙草を吸い、謎の男と密会している様は、末期がん患者とも思えない。倫子はそんな知守の態度に戸惑うが…。

「イノバン」
倫子は、22歳の筋ジストロフィー患者である天野保を担当することになった。どうしても病院が嫌いで、自宅での治療を希望しているという。徐々に筋肉が衰えていくこの病気は、呼吸器がちょっと外れただけでも致命傷になるので倫子は当初断ったが、大河内教授に押し切られた。
保は活発で明るく、特に生活に問題なさそうだった。一人で電車に乗ってコンサートに行ったりもするようだ。そういうことに驚きながらも、一抹の不安もあった。保の母親だ。介護放棄のように思える状況が不安に感じられるが…。

「エンバーミング」
倫子は古賀芙美江を担当することになった。娘の妙子が献身的に介護するが、芙美江はリハビリや食事を断るなどなかなか言うことを聞いてくれない。無理に生かされたくない、という本人の希望を出来るだけ叶えてあげようと倫子は考える。
しかし状況は一変する。普段家にいない、芙美江の長男である純一郎が、強硬に母の治療を主張したのだ。老化は治せない、と倫子が説明しても聞く耳を持たない。治療する努力をしないのはおかしい、と言い募る。
結局、本来患者本人が望んでいなかった治療をすることになるのだが…。

「ケシャンビョウ」
医学部の同期生である糸瀬英人から、ある女の子を診てもらえないかと頼まれた。高尾花子と名付けられた女の子は、高尾山の麓の土産物屋の夫婦が発見した。発見されてから一度も発語せず、また病院に運び込まれた時には歩行障害もあった。しばらく治療したことで歩行障害は解消されたが、言葉を発しないのは相変わらずだ。土産物屋の夫婦が引き取るつもりで育てているが、機甲もあるという…。

「ロングターム・サバイバー」
新宿医科大学病院の名誉教授であり、消化器癌の権威としてメディアにも取り上げられた権堂勲を担当することになった。末期の膵臓がんである権堂は一切の治療を拒否し、自宅療養するのだと言う。患者に対しては諦めず全力を尽くした凄腕の医師が、自分の癌には治療を拒絶する。倫子は、権堂のその決断をただ受け入れるだけでいいのか悩む…。

「サイレント・ブレス」
倫子には、長いこと植物状態にある父がいる。母は、意識の一切ない父親の看病に励み、様々な刺激を日々与えようと奮闘している。回復の見込みはない、ということをそれとなく倫子が伝えても、その死をまだ受け入れられないようだ。
しかし倫子は、訪問医療に従事するようになって、父親が置かれた状況をなんとかしようと決意した。どう死ぬかを考えることの大切さを身にしみて理解した倫子は、父を安らかに看取ろうと決断するが…。

というような話です。
なかなか良い物語だったと思います。ミステリと言われればミステリだなと思う程度の、ちょっとした謎がある。大河内教授が探偵役みたいな形でその謎が解かれていくのだけど、あくまでもそれは物語のメインではない。物語のメインは、いかに死と向き合うのか、という様々な実例だ。

倫子が扱う患者は、多岐にわたる。年齢も境遇もバラバラだが、ほとんどが避けられない死に囚われているという点で共通している(高尾花子の話だけは例外だが)。死を前に、その人は何を考え、どう行動するのか。そして周りの人間は何を考え、どう行動するのか。そこに焦点が当てられていく。

『自然な死を見守る医療は、どこか頼りない。果たすべき治療をやりきっていないのではないかという迷いとも背中合わせだ。』

倫子は長く大学病院にいて、「病気を治すための治療」をずっと続けてきた。『大学病院では、初期治療については濃厚に行うが、集中的な治療を終了した時点で、患者を退院させる。その後、彼らが自宅に戻り、後遺症に苦しんだり、リハビリに取り組んだりしながらどんなふうに生きているのか、ほとんど知らなかったのだ』と感じるように、治せる状況まで持っていくのが倫子の仕事であり、そこから先のことは想像していなかったのだ。

しかし、訪問医療で、死にゆくものの治療をするようになって、倫子はそれまで感じたことのない戸惑いを感じるようになっていった。煙草を吸っている末期がん患者がいた。健康に悪い、と言っても、そもそもがんで余命幾ばくもないのだ。そこで煙草を吸うなということにどういう意味があるのか。あるいは、胃ろうという、胃に直接栄養を流し込む手術についても考える。倫子は、自分の父に対して胃ろうを施した。しかし、胃ろうによって口からものを食べなくなると急速に衰えることも知っていた。そうまでして生かさなければならない理由がどこにあるのか。

治すための医療とは全然違う葛藤が、倫子が出向く現場には常に転がっている。

そんな倫子に対して大河内教授が掛けた言葉がなかなか良い。

『死ぬ人をね、愛してあげようよ。治すことしか考えない医師は、治らないと知った瞬間、その患者に関心を失う。だけど患者を放り出す訳にもいかないから、ずるずると中途半端に治療を続けて、結局、病院のベッドで苦しめるばかりになる。これって、患者にとっても家族にとっても、本当に不幸なことだよね』

ホスピスなどが代表例なのだろうが、死ぬ者にだって必要な治療は存在する。治すだけではない治療の必要性は、より広く認識されるべきだし、より必要性を増していくだろうと思う。

『水戸君、もう一度言っておくよ。死は負けじゃない。安らかに看取れないことこそ、僕たちの敗北だからね』

どう死ぬか、それはまさに、どう生きるかを問うものだ。死なない人はいない。本書を読むと、いかに死ぬかで、それまでの人生に対する意味合いが変わってきてしまうようにも感じられた。どう死ぬかを、生きている間にちゃんと考えておきたいものだ。

南杏子「サイレント・ブレス」

悪医(久坂部羊)

これは凄い物語だった。大げさではなく、全国民が読むべき本だろう。

『いや、医療の本質は医学に忠実であることだ。医療が患者のご機嫌取りになったら、お終いだ』

僕ももし自分が医者だったら、こういう立場に立ちたいと思う。実際に立てるかどうかは別として。

『実際、抗がん剤は一般の人が思うよりはるかに効かない』

『さらに森川が疑問に思うのは、抗がん剤ではがんは治らないという事実を、ほとんどの医師が口にしないことだ(中略)
しかし、大半の患者は、抗がん剤はがんを治すための治療だと思っているだろう。治らないとわかって薬をのむ人はいない。この誤解を放置しているのは、ある種の詐欺ではないか』

がんについて、あまり考えたことはない。なんとなくのイメージで、抗がん剤ですべてのがんが治るわけではない、という程度の認識はあった。ただ、どの程度治るのかについての知識はなかった。本書によれば、抗がん剤はほとんど効かないし、そもそも抗がん剤ではがんは治らないという。これには驚いた。

冒頭の引用は、「治療不可能ながんに対してそれ以上の治療をすべきではない」という、医学に忠実な立場を取りたい、という表明だ。

しかし、現実はそううまくいかない。

『もうつらい治療を受けなくてもいいということです。残念ですが、余命はおそらく三ヶ月ほどでしょう。あとは好きなことをして、時間を有意義に使ってください』

医師は患者に対してこう言う。医師には、『副作用で命を縮めるより、残された時間を悔いのないように使ったほうがいい』という、患者のためを思う気持ちがある。

しかしそれに対して患者はこう答える。

『先生は、私に死ねと言うんですか』

この患者は、『先生。私は完全にがんを治したいんです。がんが消える薬に替えてください。そのためなら、どんなつらい副作用にも音を上げませんから。お願いします。この通りです』と懇願する。

両者の溝は深い。

医師には、選択肢がない。医学の見地に照らして、処置不能と判断せざるを得ないのだ。だから、もう治療は出来ない、という。この「出来ない」には、「その方があなたのためになる」という気持ちが込められている。確かに死んでしまうことは避けられないのだけど、同じ避けられない死なら、有意義な時間を過ごしてその死を迎えるのがいいでしょう、という優しい気持ちがあるのだ。医師は、『よかれと思って言ってるのに、なぜわかってくれないのか』と頭を抱える。

患者は、まったく違う風に受け取る。治療「出来ない」と言われることを、治療「放棄」と捉える。そこには、「がんは抗がん剤で、あるいは他の何らかの方法で治るはずだ」という信念がある。ネットやメディアでそういう事例をたくさんやっている。奇跡が起こったという話はいくらでもある。それなのに、ここでお終い?治療を止めてしまったら、起こるはずの奇跡も起こらないではないか。そうやって絶望する。

『できるだけのことをやって、悔いを残したくない』

『命が縮まってもかまいません』

『副作用より、何も治療しないでいることのほうがつらい』

患者はそう医師に訴え、治療の継続を熱望する。

『患者が闇雲に治療を求めるのは、薬の実態を知らないからだよ。患者が望む遠いに治療すればいいのなら、専門知識は何のためにあるんだ』

確かにその通りだ、と僕は感じる。なにせ、治療をすることで状態が一気に悪化することはほぼ間違いないのだ。

『がんの治療はある段階を越えたら、何もしないほうが長生きするんだ』

『それはだな、患者は「治療」イコール「病気を治すこと」と思い込んでるが、医療者は「治療」イコール「やりすぎるとたいへんなことになる」ってことを知ってるからさ』

医師も患者も、最善を尽くそうと必死になる。しかし、お互いの認識があまりにもかけ離れているために、お互いに最善とは程遠い場所に行き着いてしまうのだ。

医師は、妻とも議論をする。

『「患者さんが治療に執着するのは、当たり前じゃない。だれだって病気を直したいもの」
「でも、そうやって治療にすがることが時間を無駄にするんだよ。残された時間は限られてるんだから、気持ちを切り換えて有意義に過ごしたほうがいいだろう」』

そしてこの後に妻が言うことが、本作全体のある意味でボトルネックとなる。

『やっぱり無駄じゃないわよ。効果がなくても、治療をしている間は希望が持てるもの。希望は生きていく支えでしょ。それなしに時間を有意義に過ごせないわ。だって、好きなことをするといっても、絶望してたらだめでしょう』

この視点は正しいように感じられる。しかし現状では、この状況を作り出す仕組みが存在しない。抗がん剤を使えば副作用が出る。しかし、じゃあ抗がん剤ではない、例えば整腸剤などを抗がん剤と偽って処方すればいいのか。いや、ダメだ。もしバレたら大問題になる。結局、「効果がなくても、治療をしている」を実現するためには、副作用のある抗がん剤を処方するしかない。しかしそれは、「効果がない」どころか、逆に悪化させるのだ。

『どんなに苦しい人生でもいいから生きたい。どんなに不幸でも、死にたくはない』

患者が持つ、この取り除けない執着と、医療の限界の間で、医師も患者も苦しむ。答えは、一体どこにあるのだろうか?

内容に入ろうと思います。
35歳、外科医、森川良生。
52歳、胃がん患者、小仲辰郎。
この二人の視点が交互に繰り返される構成で物語が進んでいく。
森川は2年前、小仲の胃がんを早期に発見、手術をした。しかし11ヶ月後に再発、肝臓への転移が見つかった。森川は効く可能性のある抗がん剤をいくつか試すが、どれも効果なし。結局小仲に、これ以上の治療は出来ないと告げることになった。
そこで小仲から返ってきた言葉が、「先生は、私に死ねと言うんですか」だった。
小仲は森川の態度に不信感を持ち、病院を飛び出す。治療出来ないなんて嘘だ、まだ何か手はあるはずなのにあのクソ医師は放棄したのだ。世の中にはきっとどこかに、俺のがんを治してくれる医者がいるはずだ…。小仲は情報を集め、治療をしてくれる病院を探すが…。
一方の森川は、「死ねと言うんですか」と言われたことをずっと考え続けていた。あの状況で自分がどうすべきだったのか、分からない。自分としては最善の提案をしたはずだ。しかし患者は激昂してしまった。患者の言うように治療を続けることは、医師としての誠意に欠ける。それはしたくない。しかし、治療をしないと伝えることが相手を激昂させることになる。
森川は、その後も多くの患者を診察し、また妻や同僚や上司に話を聞き、がん患者との関わり方について考え続けるが…。
というような話です。

これは凄い作品でした。冒頭でも書きましたが、全国民が読むべき本だと思います。“正しい患者”になるためには必須でしょう。もちろん、医療技術や薬はどんどん進歩していくでしょう。10年後20年後も、この作品で描かれたのと同じ状況であるかは分かりません。しかし、少なくとも2017年現在は、本書で描かれていることが真実なのだろうと思います。

まずこの真実を知ることが一番大切でしょう。

その上で、自分がどう行動するか。それは、あなたが決めればいいことです。

この現実を知った上で、それでも治療をする、というのであれば、それはそれで構わないかもしれません。もちろんそれは、自分の身体に負担を掛けるだけではなく、医療側にも迷惑を掛ける行為です。すべきでない治療を継続することによるそういうマイナスすべてを理解した上で、それでも治療を望む、というなら、それはそれでいいかもしれません。

ただ、本書を読めば、医師の言う「治療が出来ない」ということを受け入れるのが最善の選択なのだということが分かるでしょう。

もちろん、自分の気持ちをどうコントロールするのか、という別の問題は残り続けます。治療をしない、ということは、死を受け入れることと同じです。その決断をする気持ちのコントロールが出来るのかどうか。これは、医学の領分ではないのだろうと僕は感じます。「医学を全うする者」としての医師と、「患者とコミュニケーションを取る者」としての医師をもしうまく分離することが出来れば、問題が少しは解消されるのかもしれない、と思ったりもします。

自分だったらどうだろう、とやはり考えてしまいます。

今の僕は、「死」というものを殊更に恐れていない、と思っている。いや、これはもう少し説明が必要だ。

僕は、「死ぬ」と思ってから実際に死ぬまでの時間が短ければ短いほどいい、と思っている。だから、脳卒中とか事故死なんかで、「死ぬ」と思った瞬間にはもう死んでいるような、そういう死に方をしたい。

これには、二つの側面があると思う。

一つは、「死」という現象を恐れていない、というものだ。「死ぬこと」そのものを恐れていない、という表現も出来る。

しかし一方で、「死に向かっているという状態」に耐えられない、という側面もある。死ぬのはいいが、死に向かっている状態は嫌だから、出来るだけその状態が短い方がいい、という気持ちがある。

もちろん、自分が実際に死に直面したらどう思うのか、それはその時になってみないと分からない。あくまでも、今の自分がどう思うかという判断に過ぎない。そういう、今の僕の考え方で言えば、「治療出来ない」と宣告されることは、ある種の解放に感じられるように思う。

なにせ、治療をしていようがしていなかろうが、自分が「死に向かっている」という事実は変わらない。確かに治療をしている方が、「死から逃れる可能性がある」と思える分、「死に向かっている」という感覚も薄れるのかもしれないけど、僕は悲観的な人間だから、そういう部分に関しては楽観視出来ない。とすれば、「治療が出来ない」と宣告されれば、もう諦めるしかない。その方が、楽になれるような気もしている。

まあ、実際どうなるかは、分からないけどね。

本書を読んで、「死ぬこと」の難しさを改めて感じさせられた。どんな病気になるのか、ならないのか、事故や災害に遭うのか遭わないのか。そういうのはもうすべて運だ。自分でどうにか出来るようなものではない。その無力感と、自分が置かれた状況を受け入れる困難さみたいなものが、「死」というものには否応なしにつきまとうのだな、と感じた。自分は、あまりジタバタしないで死にたいな、と思うのだけど、ちゃんとそんな風に死ねるだろうか。

久坂部羊「悪医」

蚊がいる(穂村弘)

穂村弘、やっぱり好きなんだよなぁ。

そもそも僕は、世界にうまく馴染めない人が好きだ。
もちろん、馴染めない人にも色んなタイプの人がいる。挙動不審だったり、対人関係が極度に無理だったりと、見た目ですぐに、あぁ馴染めないんだな、と分かる人もいる。確かにそういう人も、決して嫌いではない。嫌いではないけど、しかし実生活ではあまり出会わないし、ちょっと関わり合うのがめんどくさそうだなという気持ちも持ってしまう。

僕が好きなのは、世界に馴染んでいる風で全然馴染めていない人だ。表向き、友達もたくさんいるし、誰とでも話せるし、明るくてハキハキしてるし何でも楽しそうにやるんだけど、いざ話を聞いてみるとどうも馴染めていないような人、というのがいる。僕は人生で何人かそういう人に会ったことがある。

こういう人は、本当に魅力的だ(少なくとも僕にとっては)。そういう人は、やはり昔から馴染めなさを感じているから、自分の馴染めなさを自分なりに説明するために、言葉が巧みであることが多い。何故自分がそう思うのか、そして何故自分がそんな風に思わないのか。そういうことをきちんと説明できるのだ。

それは、馴染めてしまう人にはなかなか持ち得ない性質だ。本書の巻末には穂村弘と又吉直樹の対談が載っていて、そこで穂村弘が又吉直樹に、

『(サッカー部に入っていた又吉直樹に対して)僕はそこが謎で。たとえば運動ができないとなぜできないかを考えると思うんです、言葉で。できるヤツは言葉要らないんですよ、できるから。モテるヤツ、運動できるヤツ、楽器弾けるヤツはそえでコミュニケーションできるから言葉を必要としない。だから意外で、サッカーができたのに、なぜ本を読む必要があったんだろうって』

と聞いていて、確かにその通りだと僕も思った。そう、世界に馴染めてしまう人は、言葉を必要としないのだ(普通は)。僕はそれが不満で、世界に馴染めてしまう人には、あまり魅力を感じない。

欠損や歪みがあって、その欠損や歪みをきちんと捉えて自分の言葉で説明できる人。そういう人はやっぱり素晴らしいなぁ、と思ってしまうのだ。

そして、穂村弘という人は、まさにそういう人である。

本書はエッセイ集であり、それぞれのエッセイ毎に話は全然違う。けれど、あるエッセイの中で書かれていたある文章が、穂村弘のその欠損部分をうまく表現しているように感じられたので、そこを抜き出してみようと思います。

『文化祭でもキャンプでも大掃除でも会社の仕事でも、いつも同じことが起きる。全ての「場」の根本にある何かが私には掴めないのだ。現実世界に張り巡らされた蜘蛛の巣のようなルールがみえない。何のための穴なのかよくわからないままに、どこまでも掘ってしまう。だが、わかっていないということは熱心さではカバーできないのだ』

何故穴を掘っているのか、という点は是非本書を読んでほしいが、穂村弘のこの感覚は僕も凄くよく分かるし、そうそう、って感じになる。

僕は、世界に対するアプローチの仕方が、穂村弘ととても似ているように感じられる。自分の中に確信がない。確信を得ようと周囲を観察するのだけど、ルールらしきものが分からない。自分にはルールが分かっていないのに、どうも周りの人は特に説明もされないままルールを把握しているようで、その場に馴染んだ振る舞いをしている。色々と考えて、これかな、という行動をしてみる。でも、どうも違う。いや、はっきりとは分からないが、違うような感じがする。そういう雰囲気だ。でもじゃあどうすればいいのだろう?

というような葛藤は、僕の根っこにある。今の僕はもう、世界から外れることをあまり恐れなくなった。自分がその場で浮いていても構わない。むしろ浮いていることが当然であるような立ち位置を作ってやろう、と思って普段から生活をしている。そういう意識に切り替えて、前よりは楽になった。

そういう意味で、僕は日常の中で、穂村弘が感じているようなことをあまり感じなくなった、ような気がする。でも、まったくというわけではないし、このエッセイを読みながら、穂村弘の行動原理にとても共感している自分がいる。

だから、やっぱり穂村弘って好きなんだよなぁ。

本書は、穂村弘が日常の中で感じたあれこれについて書くエッセイだ。一遍一遍はとても短い。だいたい文庫本で2ページくらいだ。一気に読んでもいいし、ちょっとずつ読んでもいい。

2ページの文章の中で話をうまく完結させるから、一部だけ抜き出して面白い箇所というのは実は少ない。話全体の中で面白さを醸し出すスタイルなのだ。一遍全体で面白いエッセイというのは本書の中にたくさんある。その中で、これは抜き出しても面白い、と思える箇所を抜き出してみる。

『最近、五十肩になってしまって「家庭の医学」的な本を買った。そこに「アイロンを使った振り子運動」というものが紹介されていた。家庭でできる運動療法らしい。
ふと見ると、図解の端っこに注意書きがある。「アイロンがない場合は、ダンベルなどの代替用品でもかまいません」。えっ、と思う。そもそもアイロンの方が代替用品なんじゃ…、でも、自信がない。全てがよくわからない。』

思わず吹き出してしまった。穂村弘は、こういうのをよく見つけるのだ。「漁師プリン」の話も面白い。別になんてことのない話なんだけど、穂村弘の手に掛かると、面白い話になっちゃうんだよなぁ。

「周りの人も、みんな本当に日常の中で大変さを味わうことがあるのか?」という疑問に囚われた穂村弘の、こんな妄想も面白い。

『お天気お姉さんが腋の下から体温計をしゅっと抜き出して「今日の体温は三十八度八分、ふらふらです。でも、仕事だから頑張ります。もしも、あたしが倒れたら、明日のお天気はあなたが自分で空を見上げて予想してね」と云ったら、どんなにときめくことだろう』

なんか分かるような気がする。本書の「蚊がいる」というタイトルにも込められていることだが、テレビや雑誌ではもっと色んな人がしゅっと生きているような気がする。テレビや雑誌の世界には、蚊なんていないのだ。でも、現実にはいる。この落差は一体なんだろう?というような疑問から、こんな妄想が生まれてくるのだ。

世界は一つかもしれないが(複数あっても特に問題はない)、世界の見方はそれこそ山ほど存在する。その視点をたくさん持っていればいるほど、色んな世界の中で生きることが出来る、といえるかもしれない。穂村弘は、世界に馴染むのが苦手だが、馴染むのが苦手というだけで、色んな世界を見ることが出来る。穂村弘は、そんな自分で見た世界を、時に短歌で、時にエッセイで切り取っていく。穂村弘には、色んな世界が見えてしまい、ただでさえ世界に馴染むのが苦手なのに、余計に苦手になっていく。でも、その困惑みたいなものが、見ている方としては楽しい。

自分も世界にうまく馴染めないんだよなぁ、という自覚がある人の方が、きっと読んでいて面白いだろう。馴染めてしまう人からすれば、この人は一体何をそんなに悩んでいるんだろう、となるのかもしれない。分からない。とにかく、僕にとっては、とても楽しいエッセイだった。

穂村弘「蚊がいる」

アイデア大全 想像力とブレイクスルーを生み出す42のツール(読書猿)

非常に面白い本だ。
本書はタイトルの通り、「どうやったらアイデアを生み出せるのかの方法を示す本」だ。分かりやすく言えば、How To本だ。しかし、ただそれだけの本ではない。著者のまえがきから引用しよう。

『本書は、<新しい考え>を生み出す方法を集めた道具箱であり、発送法と呼ばれるテクニックが知的営為の中でどんな位置を占めるかを示した案内書である。
このために、本書は実用書であると同時に人文書であることを目指している。』

なるほど、非常に面白い切り口だ、と感じた。著者は、文学から数学・科学、哲学や宗教など、かなり博覧強記の人物だ。その知識をもって、「いかにしてアイデアは生まれるのか」を、一つの学問として縱橫に様々なジャンルを横断しようと企んでいる。

『これまでにない新しい考え(アイデア)を必要としている人は、できるのはわずかであったとしても現状を、大げさに言えば世界を変える必要に迫られている。そのために世界に対する自身のアプローチを変える必要にも直面している。
この場合、必要なのは、ただ<どのようにすべきか>についての手順だけでなく、そのやり方が<どこに位置づけられ、何に向かっているのか>を教える案内図であろう。それゆえに本書は、発送法(アイデアを生む方法)のノウハウだけでなく、その底にある心理プロセスや、方法が生まれてきた歴史あるいは思想的背景にまで踏み込んでいる』

本書を読んで、この点についてなるほどと感じた。何故その考え方が生まれたのか、という背景を一緒に知ることで、他の発想法との共通点も見えやすくなり、考える上で特にどの点に着目しなければならないのかという焦点を合わせやすいように感じられた。また、古来から様々な形で伝えられてきた方法なのか、近代になって生まれた方法なのか、というようなことを知ることで、それまで「発想法」という括りと捉えていなかったもの(例えば「占い」)などが、実は「発想法」の文脈で捉えることが出来るのだ、ということを学んだりもした。

著者は「人文学」というものを、こんな風に捉えている。

『この人文学を支えるのは、人間についての次のような強い確信である。すなわち、人の営みや信じるもの、社会の成り立ちがどれだけ変わろうとも、人が人である限り何か変わらぬものがある、という確信の上に人文学は成立する。
この確信があるからこそ、たとえば何百年も昔の人が書き残した古典にも真剣に向かい合うことができ、何かしら価値のあるものを受け取るかもしれないと期待することができる』

「人が人であるかぎり変わらぬものがある、という確信」というのは、人がいかに発想するか、という点においても同じだ。古今東西様々な人間が様々なことを考えてきた。その過程で少しずつ、「いかに考えるか」という知見も蓄積されていった。僕たちもまた、かつての人間と同じような形で何かを考えている。そこに学ぶ、という姿勢を持つことが、人文書でもある本書を読む上での一つの姿勢になるのではないかと思う。

著者は、本書を読む上での注意点を、こんな風に書いている。

『発想法とは、新しい考え(アイデア)を生み出す方法であるが、アイデアを評価するにはあらかじめ用意しておいた正解と比較する方法がとれない。というのも正解をあらかじめ用意しておけるのであれば、新しいとはいえず、アイデアでなくなってしまうからだ。
このことは、文章理解や問題解決に比べて、発想法の実験的研究が遅れをとった原因でもある。
アイデアとそれを生み出す技術の評価は、結局のところ、実際にアイデアを生み出し実践に投じてみて、うまくいくかどうかではかるしかない。』

本書では42の方法が紹介されているが、僕は実際にそのいくつかを試そうと思う。アイデアを考えなければならない対象は常時いくつかあり、それらについて実践してみるつもりだ。

本書で扱われている42の方法についてはここでは触れない。実践が難しそうだと感じられる方法もあるが、難易度が5段階で表示されているので分かりやすい。42それぞれの方法について、「具体的な手法」と「その手法を使った例」が提示され、さらにその後でその手法の背景が説明される、という流れで構成されている。縦横無尽に様々なジャンルを駆け巡りながら、「アイデアを生む」というのを実に広く捉え、可能な限りの手法を提示している。

その多くに共通しているのが、「自分が持っている先入観をどう乗り越えるか」という考え方だ。発想するためには、先入観を乗り越えなければならない。強制的に乗り越える方法や、無意識的に乗り越える環境を整える方法など、具体的なやり方は様々だが、先入観を乗り越えるために何をするか、という観点で本書で扱われている手法を捉えても面白いと思う。

本書とはまるで関係ないが、「発想法」に関して僕なりの考え方を書いて終わりにしようと思う。

「アイデア」にしても「発想」にしても、最終的にそれは何らかの形あるものとして出力される。「言葉」だったり「絵」だったり「デザイン」だったりだ。そして僕が常に思っていることは、どれだけ発想法を磨こうとも、その出力機能である「言葉」「絵」「デザイン」の能力が低ければ、何も出力出来ないだろう、ということだ。

だからこそ、発想法を磨く以前にまず、自分が出力したいと思う形を徹底的に磨くしかないと思う。企画を考えるなら「言葉」を、曲を作るなら「音楽」を、写真を撮るなら「写真」を磨かなければならない。

発想法と出力形は両輪だ。どちらかだけ欠けていてもダメだ。僕は、文章を書き、また企画を考える上で、「言葉」の力を大事にしてきた。僕は今、自分の内側にあるものを「言葉」という形で出力する能力には長けていると自覚している。そこに「発想法」という考え方を乗せて、自分の内側に何かが生まれる環境を整えれば、何かが出力されてくるだろう。

あくまでも僕の考えだが、発想法だけではなく出力形を磨く意識は持つべきだろうと思う。

読書猿「アイデア大全 想像力とブレイクスルーを生み出す42のツール」

イノセント・デイズ(早見和真)

33年間生きてきて日々実感することは、「幸せ」は自分で決めるしかない、という真理だ。

人は誰しも「幸せ」を追い求めて生きている。たぶん、世の中のほとんどの人がそうなんだろうと思う。でも、その「幸せ」の中身は人それぞれ違う。

…ということに気がつくのに、人生の中で無駄な時間を使ってしまうような気がする。

子供の頃のことは記憶にないのだけど、たぶん僕も、世間一般で言われるような幸せを「幸せ」だと思っていたと思う。きちんと正社員になって、結婚して、子供をもうけて、家を立てて…というような、よくある幸せの形だ。それで、僕はきっとそういう生き方は出来ないだろうと中学生の頃には思っていたような漠然とした記憶があるので、今後の人生は不幸しかない、というような悲観的な考え方を持っていただろうと思う。

自分基準で色々と辛いこともあって、それなりのことを乗り越えてきた今は、なんでそんなことで悩んでいたんだろう、という気持ちになっている。結局僕の悩みは、「他人基準の幸せに行き着けないこと」でしかなかったし、そのことを不幸だと感じていただけだった。僕が考えなければならなかったのは、「僕自身は何を幸せだと思うのか」ということだ。

この問いに、もっと早く気づくことが出来ていれば、無駄な苦労をせずに済んだのかなぁ、という感じがする。

僕は、周囲との軋轢や様々な場からの逃亡など、周りに色んな迷惑を掛けながら、自分が何を幸せだと感じ、何を不幸だと感じるのかを確かめていった。いや、確かめるという意識で臨んでいたわけでは決してないのだけど、結果的にごく一般的な幸せの基準には馴染めないという感覚が募っていく中で、少しずつ意識が変わっていった。

時々他人の悩みを聞くことがあるが、その多くは、「自分なりの幸せの基準を持てば解決するな」と感じることが多い。そういう人は、誰かが決めた幸せの基準が正解だと思い込んでいて、そうじゃなければ幸せだと感じられないと信じているのだ。あるいはそもそも、「他人から幸せだと思われることが私の幸せだ」というタイプの人もいる。こういう人は、ある意味で「自分なりの幸せの基準」を持っていると言えなくもないが、そのほとんどを他人に依存しているせいで、幸せを感じることが出来ない。

自分の幸せが、世間一般の幸せの基準と合致していると感じられるなら、全力でそれを突き進めばいい。全力で向かっていって、それでも幸せを掴めないなら、それはある意味では仕方ないし、諦めるしかない。けど、すべての人間がそうであるはずがないし、他者基準の幸せを手放すことが出来れば楽になれる人は世の中に相当いるのではないかと思っている。全力を出す方向を間違っているだけなのでは?という問いかけは、常に持ち続けるべきだと思う。

『それが半生のキーワードであるかのように、彼女の日記には「必要とされたい」という言葉が散見された』

『人はだれからも必要とされないと死ぬんだとさ』

「幸せ」を自分で決めることが出来れば、彼らは死なずに済んだのかもしれない。自分が思い込んでいる「幸せ」を一旦手放してみる。その勇気を持てるかどうかが、結果的に幸せにたどり着けるきっかけなのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
本書は、連作短編集のような趣を持つ長編小説です。
物語は、ある女性に死刑判決が下されるところから始まる。
3月30日午前1時頃に、JR横浜線・中山駅近くのアパートで火事が起こった。二階の角部屋から井上美香と1歳の双子の姉妹・蓮音と彩音の遺体が見つかった。一人残された双子の父親である井上敬介は、老人ホームの夜勤中で難を逃れた。
警察はすぐに、自宅で自殺を図っていた田中幸乃を任意同行する。目を覚ました直後に彼女は罪を認め、逮捕された。敬介は美香と結婚する前に幸乃と付き合っており、別れを切り出された幸乃はストーカーに変貌した。明らかに放火であることや動機があること、そして本人が自白していることなどから幸乃の犯行であることは疑いようもなく、死刑適用の判断基準となっている「永山基準」から、死刑は免れないと思われていた。
幸乃は犯行こそ認めたものの反省を口にすることはなかった。死刑判決後、法廷で「う、生まれてきて、す、す、すみませんでした」と口にした幸乃の姿は異様だった。
物語は、田中幸乃が逮捕されるまでの人生で彼女と関わった様々な人物の回想や述懐などで組み立てられている。幸乃の母である田中ヒカルが彼女を産んだ時の話、小学生の頃の「丘の探検隊」の一員だった頃の話、中学時代唯一幸乃と関わりのあった同級生の話、幸乃がストーカー行為を働いた井上敬介の話…。
どの時代の幸乃からも、納得と違和感を感じ取れる。これだけの鬱屈と不幸を抱えていれば、放火して3人を殺すなんていうことをしでかしてもおかしくないかもしれない、という納得と、どれだけ辛いことがあっても屈せずに生き続けてきたのに死刑に抗しないのかという違和感を。
田中幸乃とは、どんな女性なのか。それぞれの時代で何を感じ、どう生きていたのか。若くして死刑を宣告された一人の女性が辿ってきた苦難の人生を追いかけながら、人生や幸せの意味を問いかける作品。

非常に面白かったし、考えさせられた。殺人事件や裁判が扱われる作品だが、ミステリーではない。死刑を宣告されながら、彼女と関わったことがある人間には違和感でしかない振る舞いをする田中幸乃という女性を様々な人間の目を通して描き出すことで、田中幸乃だけではなく、彼女と関わった人間の内側にある深淵を覗き込む。そんな作品だ。

田中幸乃との関わり方は様々だ。

丹下健生は、赤ん坊の田中幸乃を取り上げた産婦人科医だ。母である田中ヒカルとの関わりがメインだが、ここで、田中ヒカル自身が結果的に幸乃と同じ境遇であったことが明らかになる。

『私自身が必要とされない子だったから、私は誰よりも子どもが欲しがるものを知ってます』

誰からも必要とされていないと思い続けていた田中幸乃は、しかし望まれて生まれてきた子だった。そんな彼女が何故、「必要とされたい」とノートに書くほどに追い詰められていくのか。その過程は、どんな人間も無関係とは言えないと思う。どんな人であっても、予期せぬ出来事によって、あっという間に困窮する。そんな世の中に、僕らは生きているのだと思う。田中幸乃のような人生を歩まずに済んだというのは、幸運だったということに過ぎない。

倉田陽子は、幸乃の姉だ。ふとした瞬間に失神してしまうという、母から受け継いだ病気を持つ幸乃を姉として支えながら、翔・慎一という頼れる仲間と「丘の探検隊」を組んでいた。

『誰かが悲しい思いをしたら、みんなで助けてやること。これ、丘の探検隊の約束な』

ここでも幸乃は必要とされている。もちろんこれは、幸せな時代もあった、ということに過ぎない。結局この時期、幸乃の人生を大きく左右するような変化があり、そのことが幸乃の人生に暗い陰を落とすことになる。しかし、幸乃の人生を経験していないからこんなことが言えるのだろうけど、必要とされていた頃の経験や記憶を信じて生きていくことも、幸乃の選択次第では出来たのではないか、と思いたくなってしまう。

小曽根理子は、中学時代の幸乃の唯一の友達だ。宝町というドヤ街に住み、学校でもいつも陰気な雰囲気を漂わせる幸乃は学校中から疎まれる存在だったが、海外の古典文学を読んでいる、という繋がりから理子は幸乃に声を掛け、友達になった。しかし、普段つるんでいる山本皐月らが幸乃に良い感情を抱いていないと分かると、理子は幸乃に、学校では話しかけないでと頼んだ。それでも、二人は電話で話したり、理子の家に呼んだりと、親しい関係を続けていく。

理子が語る物語が、一番苦しく感じられる。理子は、強く望んでいるわけではないが、孤立したくないという理由で皐月らと関わる。その関係性の中で、理子は傷つくことになる。しかし、皐月らとの関係はやめられない。

それはある意味では幸乃がずっと感じてきたことと同じだ。「必要とされたい」。理子は、皐月から必要とされていると感じてしまうが故に、皐月から離れることが出来ない。一方で理子にとって、幸乃の存在も大事さを増していく。

『私には幸乃が必要なんだ。背伸びしないでいられるから。私を認めてくれるから。幸乃がホントに必要なの』

皐月に対しては「必要とされたい」と無理してしまう皐月も、幸乃の前では自然体でいられた。そんな理子に対して、幸乃も徐々に心を開いていく。お互いにとってお互いが唯一無二の存在になる。二人の関係は、まさにそういうものだった。

だからこそ…。彼女たちの人生に訪れたある出来事が悲しくて仕方がない。様々な条件が絡み合って起こった出来事だ。それぞれに悪い人間はいるが、しかしその悪を幸乃はすべて被ることになる。そしてそのことに対して幸乃は、こんな風に思うのだ。

『自分のことなんかで苦しんでほしくない』

この出来事が、幸乃に決定打を与えたように思えてならない。自分という人間の存在価値についての拭えない汚点みたいなものが、この時に染み付いてしまったのではないかと感じる。それまでも色々あったし、それからも色々あった。でも、もしこの出来事がなかったら…。幸乃の人生はもう少し違っていたのではないか。そんな風に思いたい自分がいる。

そういう経験を経て、幸乃は、井上敬介と出会うことになるのだ。

幸乃は、結果的に、自分なりの幸せの基準を掴むことが出来なかった。努力しなかったわけではない。幸乃は、人生の様々な場面で、彼女なりに勇気を振り絞り、彼女なりに努力をし、自分なりの幸せの形を掴もうと手を伸ばした。でも、その度にうまくいかなかった。もうこれは、不運だったとしか言いようがない。手を伸ばしても伸ばしても、いつも弾かれる。これが私の幸せだ、と信じた先に何もない、という絶望を何度も繰り返した彼女が、生きることを諦めてしまっても仕方がないようにも思う。

この物語が皮肉なのは、幸乃は最終的に、自分なりの幸せを見つけ、手を伸ばし、掴んで離さなかった、ということだ。どういうことなのかは本書を読んでほしいが、一般的ではない「幸せ」を掴み、これが最後だと信じて離さなかった彼女の意志の強さみたいなものが、逆に周囲に違和感を与え続ける。その違和感に答えを見出そうとして右往左往する人々が描かれるのだ。

この物語を読むと、ニュースの向こう側を知りたい気分になる。

『田中幸乃死刑囚は横浜市出身の三十歳。かつてつき合っていた恋人から別れを告げられたことに激昂し、元恋人の家族が住むアパートに火を放ち、妻と幼児二人の三人を焼死させた。二〇一〇年の秋に横浜地方裁判所で死刑判決を受けたあとは罪を悔やみ、拘置所では静かにそのときを待っていたという―』

彼女はそんな風にニュースで報道される。
この報道は、確かに田中幸乃という女性の犯した罪と人生の「要約」かもしれない。しかし、「要約」する過程で削ぎ落とされたものが多く、またねじ曲がって伝わっている部分もある。結果このニュースは、田中幸乃という人物をまったく捉えていないものになる。

僕らが普段触れるニュースも、きっと同じなのだろうと思う。日々様々な事件が起き、様々なニュースが流れる。僕らはマスコミを通じてしか、そういう事実を知ることはない。取材するマスコミの人間が何らかの予断を持っていれば、間違った印象や出来事が伝わることになる。しかし、そのことを確かめる術もない。手元に届いた情報を、そうなんだ、と受け取ることしか出来ない。

そのこと自体は、仕方がない。僕らの努力で変えられることではない。ただ、そうやって届いた情報を「すべて正しいことなんだ」と思うことは、今すぐにでも止められる。

『なんかいかにもだなってさ、私も間違いなくそう思ってたんだ。何も知らないくせに。自分勝手に決めつけて』

他人のことなんて、分からない。直接会って話してたって、分からないのだ。僕は普段から、分かったような気分にならないように気をつけている。見えているのは、ほんの一部。そのほんの一部から、本質を捉えたような気になるのは止めよう、と。自分が相手をどう見ているか、という表明をすることは自由だが、それが正しいことだと押し付けるのは間違いだろう。そんなようなことを、普段から意識している。

ニュースは、分かりやすい構図に全体を押し込めようとする。その方が注目されるし、分かりやすいからだ。けれど、分かりやすい構図に当てはめられる状況なんて、ほとんどない。正確な正三角形がこの世の中に存在しないのと同じように、誰もが捉えやすい構図にピッタリ嵌まる事象なんてないはずなのだ。

この物語は、ニュースの奥にあるかもしれない現実を描き出してくれる。事件の背後にある現実を暴き出してくれる。
この作品は物語だ。しかし、これと同じことが、いつどこで起こっていてもおかしくはない。日々流れるニュースの裏側には、そのニュースでは絶対に描き出せない様々な人間模様がある。そこに目を向けてみたい。そんな風に思わせてくれる作品だ。

早見和真「イノセント・デイズ」

絶叫(葉真中顕)

誰もが、幸せになりたいと思って、日々の様々な選択をしているはずだ。そうではない人生というのも、想定は出来るけど、特殊な状況を思い浮かべないと難しい。基本的に人は皆、生きている限り、幸せを追い求めたい生き物のはずだ。

誰もがその時々で最善だと思える選択をする。もちろん、知識がないが故に誤った選択をしてしまうこともある。ダメかもしれないと思いながら誘惑に負けてしまうことだってあるだろう。それでも、全体の方向性としては、全体の意識としては、それぞれの場面で皆、最善に近い選択を続けているはずなのだ。

それでも、なかなか良い結果にはたどり着けない。

良い結果がどんなものなのか、それは人それぞれ様々だろう。しかし、悪い結果というのは概ね方向性が決まっている。そして皆、何故か、良い結果を目指して選択をするのに、悪い結果に引きずり込まれて行ってしまう。

現代は、一度悪い結果に引きずり込まれてしまえば、そこから這い上がるのはかなり困難であるように出来上がっている。いつの間にか、そんな世の中に生きることになってしまった。失敗すれば、間違えれば、ミスを犯せば、あなたはすぐに今いる場所から転落し、元いた場所に戻るだけでもハンパではない労力を必要とする。

だから余計に転落するわけにはいかない。

そうやって皆、慎重になっているのに、それでもうまくいかない。普通のことを望んでいるだけなのに。普通に仕事をしてお金をもらい、時々好きなものを買い、愛した人から愛されるというような、ありきたりの人生を望んでいるだけなのに、それすらも簡単には手に入れることが出来ない。

社会に、大きな大きな穴が空いているとしか思えない。僕らの日常は、見えない落とし穴がそこら中に張り巡らされた環境の中にある。何も悪いことをしていなくても、ただ前進しているというだけの理由で穴に落ちることがある。

そうなった時、僕らはどんな風に生きていくべきだろうか。

『「自分ら、棄てられてんねん。表から見えんようにされ、いないことにされとる、見えざる棄民やねん」
捨てられた―、神代に言葉を与えられ、あなたは自分の身体の中心にある感覚に気づいた。
確かに、そうだ。
それが神代の言うように「社会」なのかどうかは分からない。けれど、何か大きなものに棄てられた、という感覚が確かにある。』

僕たちは、自分たちがそういう立場に陥るまで、自分がそういう人背を送る可能性があることなど考えない。自分が、社会から、あるいは何か大きなものから「棄てられる」可能性など微塵も考えない。だから、いつの間にか自分が棄てられていることに気づかされた時、呆然とし、その現実を受け入れることが出来ないだろう。

悪い選択は、きっとどこかにあったのだろう。しかしその悪さは、そんな穴に落ち込んでしまうほどの悪さではないはずだ。何故自分がこんなことに、とどうしても考えてしまう。

そして結局、その穴の中で生き抜くために、あなたは自分の中の何かを捨て、誰かを傷つけなければならなくなる。

社会の何かがおかしいことは間違いない。でもそれは、ちょっと見て分かるような単純なおかしさではない。色んなことが複雑に絡まりすぎて、どこから手をつけていいのか分からないまま、誰もが放置するしかないのだ。

僕たちは、こんな社会の中で生きているという自覚を持つしかない。自覚を持ったところで、穴に落ちることを確実に防げるわけではない。しかし、いつか穴に落ちるかもしれない、と警戒しておけば、最悪の事態は避けられるかもしれない。

希望を持ちにくい世の中だ。未来はいつだって見通せないが、僕らが生きる社会の未来はあまりにも濁っていて、未来があるのかどうかすら怪しく思えてしまう。

この物語を読んで、強く生きなければならない、と思う。でも、その感想は間違っているのではないかとも思う。強くなくても生きていける社会を作らなければならないのではないか、と思う。僕は、強くなくても生きていける社会に住みたい。それが、豊かさということなのではないかと信じたい。

内容に入ろうと思います。
本書は、二つの話が交互に語られる形で展開されていく。
一つは、奥貫綾乃という刑事の物語だ。
国分寺駅の「ウィルパレス国分寺」で住民が死んでいると通報があった。女性の一人暮らしで、状況からは孤独死であると考えられた。遺体は、ほとんど原型を留めていなかった。発見時かなり時間が経過していたこともあるが、室内にいた猫が死体を食べたために損壊されたという部分もあるようだ。その部屋の住民は鈴木陽子という名前だった。事件性は感じられないが、一応被害者である鈴木陽子について、戸籍を辿るなどの方法で調べることになった。
そこで綾乃は、鈴木陽子の戸籍に不審を持った。何度か結婚しているのはいい。しかしその度に本籍まで変えている。綾乃は、鈴木陽子の足取りを追うようにして戸籍を辿るが、不審な点は次々に現れてくる。
もしかしたら、単純な孤独死ではないのかもしれない…。
もう一つは、鈴木陽子の物語だ。
「あなた」と呼びかけをしながら鈴木陽子について語られる。自分ではなく病弱で優秀な弟ばかりに関心を向ける母とのわだかまりやから始まって、鈴木陽子という女性の人生を形作ったエピソードが語られていく。鈴木陽子の人生には、確かに色んなことが起こった。しかしそれらは、時代の流れの中では、起こってもおかしくはない不幸だった。
鈴木陽子は、とあるきっかけから一人で暮らし始める。自分のそれまでの碌でもなかった人生を立て直そうと、自分なりに必死になって努力した。しかし、平凡な幸せを手にしたはずが、それがいつの間にかするりと手から抜け落ちていく。彼女自身にも悪い選択はあった。けれど、彼女がたどり着いた場所は、彼女がしてきた選択に比べたらあまりにも不幸だった。
彼女は、底辺の底辺にいる時に、ある計画を思いつき、行動に移す。
というような話です。

凄い作品でした。
本書は、一応ミステリという括りに入れられるのだろう。冒頭で事件が起こり、それが謎の起点となって物語が展開していくのだから、ミステリと言えばミステリだ。しかし本書は、ミステリという型を借りているだけで、実際は人間を深く描き出している。さらに、鈴木陽子という一人の女性を、表からも裏からも描き出すことによって、僕らが生きている社会の欠陥さえも浮き彫りにする。

あなたはこの物語を読んで、どう感じただろうか?

自分とは無関係の物語だ、と感じたとしたら、あなたはある意味で幸せなのだろう。自分がどんな社会に生きているのかという現実に目を向けずに生きていられる人だ。あるいは、その現実を直視した上でそれを絶対に避けることが出来るという確信を持てる強い人なのだろうか?

僕には、誰しもが鈴木陽子になりうる、と感じられた。もちろん、鈴木陽子とまったく同じ人生を歩むことはないだろう。しかし、自分の出来る範囲の努力をして、きちんと普通の幸せを掴みに行ったのに、自分が気づかない内に社会に空いた穴にはまり込んで出られなくなってしまっている、という意味で、鈴木陽子と同じ人生を歩む可能性は、誰にだってあるだろう。そうではない生き方を出来た人というのは、本当に、ただ幸運だっただけなのだ。

『だから、何一つ選べない。どんなふうに生まれるか、どんなふうに生きて、どんなふうに死ぬか。人は髪の毛一本の行く末さえ、自分で選ぶことなんてできない』

これがどんな文脈の中で登場するのかは是非本書を読んで欲しいが、本書を読むと、そうだよな、としみじみさせられる。努力で変えられる部分がまったくない、とは僕も思わない。けれど、人生のほとんどは、ただそうであるように流れていくしかないのだろうな、とも思う。未来が決まっているのか、それは確かめようがないし、そう信じているわけでもない。けれど、抗いようもない流れ、みたいなものはあるはずだと思うし、その流れに絡め取られてしまったら最後、行き着く場所は限られているのだろうな、という風にも思う。

「絶叫」というタイトルは、主語も述語もないから面白い。誰が「絶叫」するのか、誰に「絶叫」されるのか。「絶叫」というものを広く捉えれば、本書に登場する主要な面々は皆、それぞれの「絶叫」を抱えていると言えるだろう。また、僕たちが生きている社会そのものもまた、その中で生きる僕らの様々な動きを感じ取りながら「絶叫」を内包しているのかもしれないという風にも思う。

本書の帯には、「ラスト4行目に驚愕」と書かれている。通常僕は、こういう表記が嫌いだ。最後の最後に驚きが待っている、ということを知った上で本など読みたくない、と思ってしまう。何も知らないまま驚かせて欲しい、と思うのだ。

でも、この作品に関して言えば、書いていてくれて良かった。書いてくれていなかったら、僕はこの物語のラストが秘めるある重要な要素に気づかなかったかもしれない。

生きていくということの残酷さを、そしてそんな残酷な世の中でどうやって生きていくのかという強さを知らしめてくれる作品だ。犯罪を扱った作品であるのに、ある種の清々しさの残る終わり方は、僕は好きだ。

葉真中顕「絶叫」

楽園(花房観音)

「◯◯であること」に対して、必須となる要素が何なのか、それはものによって大きく変わってくる。

「親であること」であれば「子どもへの愛情」が、「日本人であること」であれば「日本語や日本の文化や国籍」が、「ヒーローであること」であれば「正義感」など、それぞれ違ってくる。

では、「女であること」に対しては、どんな要素が当てはまるだろうか?ここにどうしても「性」が絡んでくるような気がしてしまうのは、僕が男だからだろうか。「

いや、そうではない。まさに本書は、「女であること」と「性」の分かちがたい結びつきを描き出す本なのだから。

「男として見られる」と「女として見られる」というのは、「男」と「女」を入れ替えただけの文章だが、その意味は大きく変わる。「男として見られる」というのは、もちろん様々な捉え方が出来るが、「男らしさを感じる」というような、やや広いニュアンスを感じ取ることが出来ると僕は思う。しかし、「女として見られる」という文章になると一転、これは何故か「セックスの対象として見られる」という意味が強くなる、と僕には感じられる。

あなたはどう感じるだろうか?

僕の感じ方を前提に話を進めていくと、「女として見られる」という文章が「セックスの対象として見られる」という要素を大部分含むというこの事実が、「女であること」の要素が「性」であることをうまく示す例ではないかと思うのだ。

何故そういうことになるのだろう?

これは僕が男だからかもしれないが、「男であること」にはあまり「性」の要素が絡まないように感じる。大分薄れたとはいえ、男の社会的な役割が「働くこと」「家族を養うこと」にあるという昔からの共通認識が、「男であること」に「性」の要素を感じさせないのだろう。

しかし「女であること」の場合には、社会がどんな風に変わろうとも、「子どもを生む」という要素が切り離されることはない。「子どもを生む」ためには「セックス」が必要であり、その結果、「女であること」には「性」の要素が分かちがたく含まれてしまうことになる。

女たちは様々な形で、「女であること」の悦びや不条理を胸に抱く。

『セックスは生殖や欲望のためだけのものではない。孤独を知る人間が、人肌の温かさを手に入れ、生きていることを思い出すためのものでもある』

『女に生まれて、女でよかったと、自分を愛することができる。
男たちを愛することで、私は私は愛するようになれた。』

「セックス」によって「女であること」を確認できた女は、年齢に関わらず、そこに悦びを見る。それは、どれだけ料理を褒められようが、どれだけ子育てを褒められようが満たされない。「妻であること」でも「母であること」でもなく、「女であること」を確認するためには、「性」に触れる以外ないのだ。

『このまま自分は、男と寝ることなく死んでいく。
それでいいはずだったのに、何故こんなに胸が苦しくなるのだろう。』

『不公平だ。自分より年上の夫は、まだセックスを楽しんでいるようなのに、自分はどうして「女として終わった」と思い込もうとしているのだろう。』

『ひとりで死ぬことがこわいと考えるたび、性欲が強まっていくのは、きっと寂しいからだ。何も残さず、誰とも人生を分かち合えず、死んでこの世からいなくなり忘れ去られるなんて、生まれてきた価値がないに等しいじゃないか。』

『いつまで自分は「女という商品」でいられるのだろうかと、ふと楽園を歩きながら考えた。もう夫にすら触れられなくなった女でも、商品になるのだろうか、と。』

「女であること」を確かめることが出来ないでいる女たちは、一様に不安定になる。それは、「明らかに綺麗になった隣人」の存在故だ。自分と同じぐらいの年齢の、しかもつい先日夫を亡くしたばかりの中年女が、恐るべき美しさを手にしている。明らかに、「女であること」を確かめることが出来る環境がそうさせている。田中みつ子というその女が、女たちの心をざわつかせる。

『朝乃は、みつ子の変貌を目の当たりにする度に感じる不安の正体をはじめて理解した。
楽しそうなみつ子を見ていると、自分自身が信じている「幸せ」が揺らぐのだ。』

何故田中みつ子にそれが出来て、自分たちには出来ないのか。いや、そもそもそういうことではない。自分たちの年齢であれば、もう「女であること」に囚われずに生きていられてもおかしくはないのに、何故ここまで振り回されるのか。

『どんなに逃げても年をとることは避けられないこと、大きな波に逆らうように手足をばたつかせる姿が無様であることぐらい、わかっています。けれどもそうせざるをえなかったんです。途中で、「女を降りる」ことが怖くてできませんでした。』

女は、いつまでもは女ではいられない。明確な理由はないが、女たちはそのことを理解している。
ならば、いつまでなら女でいられるのか。何故女でいることに固執してしまうのか。女であることを諦めることは駄目なのか。女であることを諦めきれない場合どうすべきなのか。

女たちは、かつても今も、「楽園」という名で呼ばれる場所で、おのおのの葛藤に身悶えする。

内容に入ろうと思います。
本書は、序章と最終章を除けば6編の短編が収録された連作短編集です。
まず大枠の設定から書きましょう。

京都の鴨川のほとりに、かつて「お茶屋」があった。そこは、男が女を買う、特殊な地域だった。高級料亭と見間違えるような建物の中で、少し年齢を重ねた女性たちが、寂しさ故にやってくる男たちを癒やし、女たちもまた癒やされていた。ここはかつて、「楽園」と呼ばれていた。
3年ほど前、「楽園」は閉鎖され、その跡地に「楽園ハイツ」という名の2階建てのアパートが建てられた。その建物に住む6人の女性が、本書の語り部たちだ。

「温井朝乃 47歳」
同じアパートに住む田中みつ子が、明らかに綺麗になった。そのことに、朝乃は心がざわつく。自分はもう、長いことセックスをしていない。夫は外で風俗に行っているようだ。自分には「妻」という居場所しかないのだから、この居場所を手放さないように文句も言えない。近くで「楽園」という喫茶店を営む、鏡林吾という偽名のような名前の男も、妖しい雰囲気を醸し出す。端的に、セックスの匂いがするのだ。
このままセックスをしないで死んでいく。それは当たり前だと思っていたのに、何故心がざわつくのだろう。

「唐沢マキ 38歳」
世の夫婦は、セックスレスが当たり前のようだけど、女はそれで耐えられるのだろうか?世の中の夫たちは、妻の性欲に無頓着過ぎる。
当時大学生だった小早川鉄矢と出会い、体の関係になってもうそれなりの時間が断つ。いつもマキの部屋にやってきてセックスをして、時々お金をせびってくる。返ってきたことはない。田中みつ子が素人投稿雑誌に載っていると教えてくれたのも鉄矢だ。
自分は性欲が強いのだろうか。お金で鉄矢とのセックスを買っているのだろうか。

「寺嶋蘭子 42歳」
蘭子は、誰からも美しいと言われる容姿を持っている。けれど、セックスが怖い。かつての夫に「セックスが下手だ」と言われたことが、未だに心に傷として残っている。
セックスに対する怯えを誰かに消し去って欲しい。自分から男を求めることなどできないから、求められたい。そう思っているのに、自分が望んだようにはいかない。蘭子の孤独は、セックスを恐れていることから生まれているはずだ。それさえなければ、もっと幸せな生き方が出来るはずなのに…。

「和田伊佐子 44歳」
伊佐子はかつて4年ほど、「楽園」で働いていたことがあった。あれほど喜ばれる仕事をしたことは、これまでに一度もない。蔑まれる職業であることは知っているが、哀れまれるのは違う、と感じた。伊佐子にとって「楽園」での日々は、楽しかった。
いつの間にか保証人になっていたことで背負わされた借金を返すために飛び込んだ「楽園」は、借金返済の目処が立ったことと、恋人が出来たことをきっかけに去った。その後、妻子ある男性と付き合い、略奪する形で結婚し、穏やかな日々を過ごしていたが、夫が退職を迫られ、生活は大きく変わった。今日も夫は、ハローワークにも行かず、家でゴロゴロしている。

「田中芽以奈 17歳」
父親が死んだばかりだというのに、誰かに依存していなければ生きていけない母親は、媚びる男を見つけ出してきては自分を着飾っている。醜悪だ。自分の年令を受け入れられない姿ほど醜いものはないということを、本当に分かっていないのだろうか?
芽以奈は30歳までに死にたい、と思っている。若さを失った女が生きていくには、日本という国はあまりにも生きづらいことを理解してしまっているからだ。芽以奈は今、元カレの斡旋で売春をしている。父親が死に、母親が自分のことしか考えていない現状、自分でなんとか稼いで生きていくしかない。

「田中みつ子 45歳」
この内容は紹介しないことにします。

というような話です。

非常に面白い作品でした。僕が男である以上、ここで書かれていることを安易に「分かる」というわけにはいかないが、女たちの葛藤が凄くリアルだと感じた。何よりもこの作品で描かれる葛藤は、普通表に出てこないものだ。女性同士でさえ、本書に登場する女性たちが持つ悩みや葛藤を打ち明けるようなことはほとんどないだろう。自分の内側に秘めたまま、どうにもしようのないモヤモヤを抱えたまま自分がとりあえず納得できる仮の答えにしがみついておくしかない。

若い時には、自分が「女であること」など考える必要もないほど当たり前のことだろう。しかし年を重ねるにつれて、それが当たり前ではないのだという現実が、徐々に忍び寄ってくる。「女であること」が少しずつ遠ざかっていく音が聞こえていく中で、それを為す術無く見守るしかない現実が、足音を響かせながらやってくる。

そうなった時、どうするか。彼女たちの振る舞いは様々だ。「女であること」に固執し、自分の年齢でも「セックス」が受け入れられる場を追い求める者。「女であること」を手放さざるを得ないことを理解しながら諦めきれずに思い悩む者。「女であること」を容赦なく突きつけてくる環境にいた過去を持つことで、その葛藤にあまり囚われずにいられる者。同じアパートに住む彼女たちが、かつて「楽園」だった場所で、「女であること」の自覚に揺れながら過ごす様を描き出す、という設定が、とても面白い。

この作品では、男が女を買う場所を、女にとっても癒やしの場なのだ、という風に描き出していく。

『こういう場所を非難する人たちや、私たちを侮蔑したり、逆に見当違いの同情をよせる人たちがたくさんいることはもちろん知っている。
どれもこれも、違うのだ。法律とか理屈とか常識とか、そういうもので判断されるのではなく、ただ溢れる欲望を抱く人間が生きていくために、この場所が男には必要で、そこでしか生きられない女たちもいる、それだけの話だ。』

体を売ることで、女は「女であること」を確認することが出来る。そして、「女であること」が男を癒すことが出来ることを知り、自分の存在価値を知ることが出来る。そういう形でしか自分の存在価値を認められない女もいるし、そういう人にとってこういう場はなくてはならない。決して男だけのためのものではないのだ、という視点は、この作品全体を貫く一つの思想みたいなもので、それに貫かれているところがこの作品の潔さだと感じられる。

こんな文章も印象的だった。

『煙草もだめ、売春もだめ、不倫もだめ、あれもこれもだめ、何もかもだめばっかりの世の中だけど、それで実際に綺麗になるんだろうか、人も、世界も。欲望を受け止めるものをどんどん禁じていったら、人間が歪んでしまうってことをわかってないやつらが多すぎて、うんざりする』

つい先日見たテレビで、水族館の珊瑚の水槽を綺麗にしているものは珊瑚の死骸だ、という事実を知った。水槽の水を、珊瑚の死骸を入れたプールと循環させることで、常に水を綺麗に保ち続けることが出来るという。珊瑚だけでは、水は濁る。

僕たちは、あらゆる「汚いもの」に「だめ」と言うことで、水を綺麗にしてくれるはずの「珊瑚の死骸」を排除してしまっているのかもしれない。綺麗にしようと思ってした行為が、逆に水を濁らせている結果を引き寄せてしまっているのかもしれない。

女たちの葛藤は「珊瑚」だろうか。あるいは「珊瑚の死骸」だろうか。「女であること」の葛藤を描ききった一冊だ。

花房観音「楽園」

しつけ屋美月の事件手帖 ~その飼い主、取扱い注意!?~(相戸結衣)

少し前、国が騒音に関する指針を発表した中に「風鈴」という項目が入っていたというニュースを見かけた。日本では今、風鈴の音が騒音だと捉えられてしまうらしい。世知辛い世の中だと思う。

生活環境をどこまで自分にとって快適なものに保つか、というのは多くの人にとって重大な問題だろう。しかし、ちょっと度が過ぎる、と感じることは多い。他人が住む街中で暮らしている以上、多少の不都合は仕方ない。そういうことをすべて排除したいなら、山奥にでも住むしかない。

とはいえ、当然だが、限度もある。その辺りの線引が難しいのだけど、ペットが多大な迷惑を掛けるということも当然あるだろう。だからこそ、ペットの躾は大事だなと、本書を読んで改めて感じた。

僕自身はペットという存在には興味がない。犬にも猫にも特に関心はない。だからペットに思い入れを持つ人の気持ちはよく分からないが、社会の中でペットと人間が共生出来るように奮闘する人々には、頑張ってほしいと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、4編の短編が収録された連作短編集です。
天野美月は、「愛犬しつけ教室STELLA」で、飼い犬を躾ける訓練を行っている。オーナーの須寺は著名な動物行動学の専門家であり、老後の道楽的なスタンスで経営を続けている。美月は、幼馴染であり獣医でもある糸川宙と共に、日夜地域のペット問題に関わり合っている。

「第一章」
二階堂という高齢夫婦が勝っているゴールデン・レトリバーが薬を誤飲し、糸川が働く「スバル動物病院」に運び込まれてきた。大事には至らなかったが、問題はその体重だ。オスの標準体重が35キロ程度であるのに、そのゴールデン・レトリバーは50キロもあったという。飼い主への教育が必要かもしれない、とのことで、美月に話が回ってきた。
しかし二階堂氏は、自分が正しいと信じて疑わない人物。少しでも否定するようなことを言えばすぐに関係が途絶えてしまうだろう。金も時間もある彼らは、飼い犬のことも大事に思っているので、餌をあげすぎてしまう、というのがどうにも解せないのだが…

「第二章」
通勤途中、愛犬であるスピカに挨拶をしていく眼鏡屋の少年から、美月はある日手紙を受け取った。夜8時、北瀬川沿いのドッグランまで来てもらえないか、と書かれていた。行ってみるとそこには、三条文哉と名乗る眼鏡屋の店主と、一匹の迷子犬らしいチワワがいた。店の前に捨てられていたのだ、という事情を聞いた美月は、飼い主を探し出す手はずを整えつつ、その間三条家でそのチワワを預かってもらう態勢を整えた。
しかし、おかしい。少年も店主も、何故かチワワを飼うつもりでいる。飼い主が見つかったら手放さなければならないのに。それに少年は、あの日ドッグランにはやってこなかった。何がどうなっているのか…

「第三章」
美月の高校時代の友人である美少女・一ノ瀬ミラは、重大な問題に直面していた。12年連れ添ってきた柴犬の北斗を取るか、彼氏と結婚するか、だ。彼氏は、犬が苦手なのだという。一緒に住むのはどうしても難しい。そう言われているらしい。相談を受けた美月は、難しい問題だと思いながらも、なんとか打開策を見出すが…。

「第四章」
きっかけは、五島陽華とその友人のケンタが「STELLA」にやってきたことだった。陽華が飼っている「ソラ」というトイプードルが連れ去られた、というのだ。陽華の友人である八木沼ユキナの母親が大の犬嫌いで、テレビにも出る代議士の妻であるその母親の扇動で、町内の犬規制を強めようという動きがここ最近活発になっている。ソラがいなくなった事件は、その流れをさらに加速させる結果となり…。

というような話です。

なかなか面白い作品でした。美月は犬の訓練士として働くが、犬を訓練するというのは同時に、飼い主を訓練するということでもある。必然的にカウンセラーみたいなこともする立ち位置になり、そこからトラブル解決という流れになっていく。

犬に限らず、ペットに愛情を注ぐ人の中には、怖いなと感じるほどの愛情を見せる人もいる。本書のプロローグで登場するドーベルマンの飼い主などはその典型だろう。自分の飼い犬さえ良ければいい、悪いのはすべて周り、というような歪んだ発想を持たれると、怖いなと感じてしまう。

美月は普段から、そういうタイプの人とも関わっていくわけで、対人対処能力は高いだろう。相手の立場に立ってどうすべきか、ということを常に考えている。本書は、犬を取り巻く物語ではあるが、飼い主とも対処する美月の存在が、ただそれだけの物語にはしない。

僕自身は犬にはさほど興味は持てないが、そんな人間でも犬の習性やふるまいの意味などに多少は関心が持てるように描写がされている。物語が小粒でちょっと派手さに欠ける部分がアピールのしにくさに繋がってしまうが、読みやすくてほどよく面白いという意味では手に取りやすい小説だ。

幼馴染である美月と糸川の関係もなかなか面白いのだけど、個人的にはこの二人の関係性の話がもう少しあってもいいような気がした。四話目の最後の方の美月のセリフはなかなか良かったけど、それまでの二人に何か進展なり変化なり軋轢なりがないので、ちょっと唐突だなぁ、という感じもしてしまった。

使命感を持って働く面々と、犬との様々な接し方を見せる者たちが関わり合う中で、犬を含めた家族との関わり方を問いかけていく物語だ。

相戸結衣「しつけ屋美月の事件手帖 ~その飼い主、取扱い注意!?~」

桜のような僕の恋人(宇山佳佑)

論文を書く話だったか、歌詞を作る話だったか、「予想外の価値観は3割程度に抑えろ」というような記述を何かの本で読んだことがある。7割は世間一般の価値観を、そして残りの3割の部分に想定外を入れ込む。そうすると全体のバランスが良くなる、というような話だったと思う。

物語も同じだろう。割合が7:3なのかどうかは作品ごとにもちろん違うだろうが、一般的に受け入れられる価値観を多目にして、そこにどれだけ「えっ!」と思わせられる感覚を入れ込んでいくのか。そういうバランスを調整しながら物語を作っていくんじゃないかと思う。

そういう意味で言うと本書は、10:0で一般的な価値観のみで書かれた作品だな、と感じられる。

その状況で主人公がどう反応するのか、そこからどう物語が展開していくのか。基本的に大筋でほぼ予想出来てしまう。想定外がほぼない。たぶんこうなるだろうなと思っていたことが展開されていく。個人的にはそれは面白くないなと感じる。

映画監督のヒッチコックは、例えば何か怖がらせるような場面の前に、「今から怖いことが起こりますよ」ということを暗示させる映像を組み込んでよりその恐怖心を高めた、というようなことを本で読んだ記憶がある。これは、演出効果を狙ってのものだ。しかしこの作品の場合、「たぶんこうなるんだろうな」という展開を予想させようとしているわけではない。それでも、先の展開が分かってしまう。そういう意味でこれは演出とは呼べないだろうなと感じる。

とはいえ、こう感じることもある。今の若い世代の人たちは、「物語がどう展開するのか読める」ことに価値を置いているのかもしれない、と。僕はとても驚いたが、以前の職場に「小説のラストを先に読んで、自分にとって嫌な終わり方ではないことを確認してから小説を読み始める」という人がいた。その時にそういう価値観を初めて知ったが、その後ネットなどでも同じような価値観を見かけることがあった。

水戸黄門なら理解できる。予定調和な展開は、見ているお年寄り層にとっては安心できるだろう。しかし、刺激を求める気持ちが強いだろう若い世代に予定調和が受け入れられているとすれば、僕にはそれは驚きだ。

僕の仮説が正しいとすれば、この物語は、そういう若い世代には受け入れられる可能性はある、と思う。

内容に入ろうと思います。
朝倉晴人は、美容師の有明美咲に恋をした。月に一度髪を切ってもらいにいくが、まともに話し掛ける勇気すら出せない。しかしある日、ちょっとした手違いで美咲に耳たぶを切られてしまった晴人は、その場の勢いを借りて美咲にデートを申し込む。こんなタイミングでデートを申し込むなんて卑怯だ、と感じる美咲だったが、次第に晴人の優しさに惹かれていき、やがて二人は付き合うようになる。
美咲にカメラマンだと嘘をついていた晴人は、美咲に押される形でまたカメラマンの夢を追うことにした。カメラマンと美容師。二人は共に、自分の夢を追いかけていた。
そんなある日、美咲は信じられない事実を知らされることになる。なんと美咲は、他の人よりも数十倍のスピードで老化してしまう「早老症」に冒されているというのだ…。
というような話です。

先程も書いたように、基本的に誰がどういう状況でどう感じるのかが予想できてしまうので、個人的には面白い作品とは思えなかった。あと、「早老症」という超特殊な病気を持ち出すなら、もう少しリアリティがほしいと思う。僕が気になったのは、「早老症」だと診断される部分。体調が優れない、という理由で病院に行っただけなのに、世界でもほんのわずかな症例しか報告されていない「早老症」だと診断出来るものなのか?それに、たまたま受診した病院に「早老症」の権威が勤めていた、というのも厳しいと思う。こういう部分は作品のメインではないから目くじらを立てるようなものではないのかもしれないけど、「早老症」という特殊な病気を持ち出す以上、そこにリアリティを与えるのは作家の責任じゃないかなぁ、と僕は感じてしまう。

宇山佳佑「桜のような僕の恋人」

圏外同士(富士本由紀)

昔の僕は、自分が世界のどこかにいられないことを苦しく思っていたと思う。自分の居場所がない、という事実が、とても哀しいことだと思っていたと思う。
その気持ちは、結局今でもそこまで変わらないのかもしれない。ただ、人生の時間を少しずつ消費してく中で、理解できたことがある。それは、たとえ居場所があっても苦しくて哀しい、ということだ。

居場所があるというのは、なんとなく認められたような気持ちになれる。安心感がある。そこにいていいんだと許されたような気持ちになれる。でも、結局そういうのは錯覚だ。そんな気分になれる、というだけのことにすぎない。別に認められていないし、そこにいていいと許されたわけでもない。自分が勝手に思うだけだ。

だから、何かがちょっとずれただけで、その居場所は居場所でなくなる。そのずれは、本当に僅かなものかもしれない。他の人はそのずれに気づかないし、自分でも大したことないはずだと思うようなものだ。でもそんなずれが、あなたの居場所を居場所でないものに変えてしまう。

そういう時僕らは、居場所というのが錯覚だったのだと気づく。

それを気付かされる方が、居場所がないことより辛いかもしれない。居場所がないというのは、色んなことを諦められる。自分が何も持っていないこと、自分が何も出来ないこと、そういうことをまざまざと見せつけてくる。それは辛いけど、でも後からそういうことを思い知らされるより、マシかもしれない。

この物語をもの凄く簡単に説明しようとすれば、こうなるだろう。
「居場所があると思っていた男がないことに気づき、居場所がないと思っていた女があることに気づく物語」

内容に入ろうと思います。
これは、蕪木秀一郎と夏日乃絵の物語だ。
秀一郎は、一人娘を育て上げ、妻と二人暮らし。しかし「同居人」と言っていいほど干渉がない。
鶴目食品という食品メーカーの本社から、社員たった20名ほどの子会社の社長に3年前の55歳のこと。本社勤務時代、上司の言うことをひたすら聞く完璧な忍従によってのみ出世した男だ。現在の勤務先である「鶴目セントラル・サービス」は、本社や工場の業務に必要なあらゆる物品を手配する会社だが、そこで秀一郎がすることはほとんどない。秀一郎は、お気に入りの社員には楽な仕事を、嫌いな社員にはキツイ仕事をさせており、しかし自分はきちんとした有能な管理職だと思っている。陰で散々こき下ろされていることも知らずに。
乃絵は、服飾デザインの専門学校を卒業し、名の通った国内のファッションブランドに就職した。順風満帆だと思った。しかしそこでは、先輩たちの雑用をやらされたり、トップデザイナーであり社長の修正により原型を留めないデザインに変更させられたりと、思うような仕事は出来なかった。
専門学校時代の同期と偶然再会した乃絵は、彼と“Tip Top”というブランドを始めることにした。会社を辞めて独立した乃絵は、服作りに励み、ショーにも参加しと努力を続けたがなかなかうまくいかない。そんな時、ニューヨークで一旗揚げようと決心し赴くも、そこで乃絵自身予想もしなかった事態となり、結局デザイナーという夢を諦めて日本に戻ってきた。以来まともに仕事をしていない。
二人は、ビアバーでたまたま会った。いや、会ったのは秀一郎の方だけ、と言うべきだろうか。秀一郎は店内で乃絵に目を止めたが、乃絵は秀一郎の視線には気づかなかった。ファッション誌から抜け出してきたような容姿に打たれた秀一郎は、その日乃絵を尾行し、自宅の場所を知った。その後、偶然乃絵を見かけた秀一郎は、偶然を装って話しかけ食事に誘い、仕事をしていないという彼女を「自分が社長を務める会社」に誘った。色んな事情があり、乃絵はその誘いを受け入れた。
秀一郎と乃絵の人生は、こうして交錯した。しかし、すぐにまた離れて行ってしまう…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。
「圏外同士」というタイトルがなかなか作品に合っていていいです。色んな捉え方が出来るだろうけど、自分が今いる場所が色んなものが届かない「圏外」であるという風にも読めるし、秀一郎と乃絵の世界がうまく混じり合わない様子を「圏外」と表現しているのかもしれない。

秀一郎と乃絵はそれぞれ違った形で世界とうまく接続できていない。
秀一郎は、自分がただの腰巾着でありながら、年長者であり社長であるのだからもっと敬意を払われたい、と考えている。それが、言動ににじみ出てしまう。本人は、威厳のある、社長らしい振る舞いをしているつもりなのだけど、周囲からはどうしようもないおっさんだと思われている。その認識のギャップが、秀一郎の世界と接続できていない様だ。秀一郎自身は、自分はきちんと世界と接続できている、という思いこみがあるから、秀一郎は自分にきちんと「居場所」があると考えている。あるいは、仮にないとしてもいつでもそんなものは作り出せる、と考えている。しかし物語が進んでいくにつれて、端から自分には「居場所」なんてものはなかったし、いつでも作り出せるという考えもただの思いこみだったことに気づかされる。その哀れな様が非常に滑稽で面白い。

乃絵は、自分が世界ときちんと接続できていないという自覚がある。若気の至りで仕事を辞めて独立するもうまく行かず、今は精神科に通う無職。デザイナーになるという夢はあるが、しかし何から手をつけていいのかわからないぐらい、そんな華やかな世界からは遠ざかってしまっている。生きていくのが精一杯だ。夢を追う、というような積極的な気持ちが失われ、昔だったら絶対に拒絶していたような環境に順応していく中で、徐々に乃絵の中で新しい感情が芽生えていくことになる。それが、「このままでいいんだろうか」という気持ちだ。特に、成り行きで秀一郎から「与えられた」環境は、徐々に酷くなっていく。あまりの忙しさに、精神科に通わなければならないような症状は吹き飛んだのだけど、今のままでいいはずがないという思いはどんどん膨らんでいく。それが、彼女を新しい世界へと押し上げていくことになる。

二人は、ビアバーで出会うまではまったくの他人だったし、秀一郎の会社に乃絵が就職した後、色々あって二人の関わりは極端に減ってしまうことなるので、秀一郎と乃絵がきちんと関わりを持っていた時間というのはほとんどない。他人から一瞬知り合いになって、それからまた他人になる。二人の関係はそんな風に表現できる。しかし結局、二人はお互いと出会ったことで運命が変転していく。秀一郎は、乃絵を会社に引き入れたことで、日常のあらゆることがうまく回らなくなっていく。そして乃絵は、秀一郎の口利きを受け入れたことで、結果的に人生が好転していくことになる。結局ほとんど他人の関係のまま、お互いの人生に影響を与えていく、という構成が実に面白いと思った。

しかしそれにしても、秀一郎の造型は見事なまでに醜い。こういうオジサンに出会ったことはあまりないのだけど、世の中にはたくさんいるのだろうと思わされる。自尊心が高く、自分の好みで人を動かし、自分が敬意を持って使われることを当然と考え、そうしない人間に怒りを覚えて報復するというような、典型的な古いタイプのオジサンだ。

ある場面(これもなかなか急展開というか、そんな展開が待ってますか!というような場面なんだけど)で、秀一郎の妻がこんなことを言う。

『あなたって、本当にご自分のことばっかりねえ。古いのね。本当に古いっていうのは、ご自分の考え以外は、もう何一つ受け入れることの出来ない頭のことだと思いますわ』

そして、こう言われた秀一郎は頭の中でこう思う。

『まともな自分と、まともでない妻がいた』

まさに妻の言う通り、「ご自分の考え以外は、もう何一つ受け入れることの出来ない頭」なのだなと思う。

そんな秀一郎が乃絵に対してする言動は、本当に醜いなと思う。秀一郎は乃絵との駆け引きを楽しんでいるつもりだが、そもそも乃絵は秀一郎と同じ土俵に上がっているという意識がない。この認識の差が、哀しいすれ違いを引き起こす(というか、そのすれ違いは秀一郎のただの妄想なのだけど)。秀一郎の側が本気だ、というのが滑稽だしとても惨めさを感じさせる。

乃絵にとっては、結果的には良かったと言える。秀一郎の会社で働くことで、兎にも角にも収入が得られるようになったし、また「こんなところにはいたくないと思わせる最低の環境」を経験できたことで、未来へと目と手足を向ける意識が生まれた。秀一郎の誘いに乗らないままだったら、この変化は生まれなかっただろう。案ずるより産むが易し、というところだろうか。

まさに「圏外同士」というタイトルに相応しい、「居場所」を巡る物語だ。ネット上での関係性が増えたことで、「居場所」だと思っていた場所がある日あっさり消えていた、なんていうことだって起こりうる時代だろう。いつだって誰だって、自分が「圏外」にいると気付かされてしまうかもしれない。「居場所」は、あった方がいいかもしれないがなくてもいい。そんな風に思える作品ではないかと思う。

富士本由紀「圏外同士」

完全版 下山事件 最後の証言(柴田哲孝)

読むのは二度目だ。一度目は、単行本で読んだ(感想はこちら→「下山事件(柴田哲孝)」)。単行本で読んだ時の記憶がちゃんとあるわけではないけど、文庫化で中身は結構変わっているような印象だ。著者は冒頭で、こんな風に書いている。

『2005年7月―。
私は「下山事件 最後の証言」を発表し、事件の真相に迫った。
その反響は予想を遥かに越えるものだった。あえて「最後の~」としたのは事件から56年を経過し、生の証言を得られるのはこれが最後だと考えたからだ。だが、私の予想はいい意味で外れることになった』

単行本発売後の反響も含め、「完全版」として出したということだろう。

さて、ここでは、下山事件の詳細については踏み込まない。ざっくりとした概要は、前回の感想で書いたし、ネットで調べればいくらでも出てくるだろう。そして、本書で「真相」とされていることは、とても短く説明できるようなものではない。下山事件は、国鉄総裁だった下山定則氏が列車に轢かれて死亡しているのが発見された、という事件だ。警察はなんと、自殺か他殺かも判明しない、として捜査を打ち切った。その後様々な仮説が生み出されたが、決定打となるものはなかなか出ない。本書が決定打になるのか、それは僕には判断が出来ない。

下山事件は、一人の男が殺された、という単純な見方が出来る事件ではない。法医学者が自殺か他殺かの見解を闘わせ、警察が証言を捏造したと思しき矛盾があり、GHQや時の政権やアンダーグラウンドな勢力までもが一斉に関わった、まさに昭和史のごった煮のような事件だ。下山事件を掘り下げることで、占領下における日本の状況が、そして現在まで続くアメリカによる日本の支配が、まざまざと浮かび上がるのだ。

とある理由(後述する。まさにこの点が本書の肝なのだ)により、著者は「亜細亜産業」という会社が下山事件に関わっていることを知る。そして著者は、「亜細亜産業」の総帥だった矢板玄に会うことが出来た。彼らは下山事件だけではなく様々な話をするが、矢板玄が下山事件に関して著者にこんな風に言う場面がある。


『(―それならやはり、アメリカの謀略ですか?)
そうは言っていない。ウィロビーは事件を利用しただけだ。ドッジ・ラインとは何だったのか。ハリー・カーンは何をやろうとしていたのか。それを考えるんだ。アメリカは日本の同盟国だ。東西が対立する世界情勢の中で、日本は常にアメリカと同じ側に立っている。過去も、現在も、これからもだ。もしアメリカじゃなくてソビエトに占領されていたら、どうなっていたと思う。日本は東ドイツや北朝鮮のようになっていたかもしれないんだぞ。それをくい止めたのが、マッカーサーやおれたちなんだ。日米安保条約は何のためにある。アメリカの不利になるようなことは言うべきではない』

繰り返すが、これが、下山事件について問われた矢板玄の回答だ。国鉄総裁が殺されたという事件が、「ドッジ・ライン」や「世界情勢」と関わりを持っている。そう、それぐらい壮大な話なのだ。正直僕は、本書の「真相」をきちんと理解できたとはいえない。誰と誰が対立していて、誰にどんな利益があり、どの情報が捏造で、どの情報に信憑性があり、誰が何のために動いていたのか。そういうことを把握することは、とても困難だ。途中で、戦時中に細菌兵器などの開発をしていた731部隊に所属していたという人物の証言も登場する。下山事件という、昭和最大の謎とも呼ばれる事件の闇の深さが窺える。

というように、下山事件という底なしの沼のような事件を把握するのはとても難しいので、下山事件の話はここで終わりにする。

さて、ここまで書かずにいたが、本書は、「何故著者が下山事件を追っているのか?」という動機が、明確過ぎるほど明確に存在する。

それは、「敬愛する祖父が下山事件に関わっていたかもしれない」という理由だ。

発端は、祖父・柴田宏の23回忌に当たる法要だった。その席には、祖父の妹であり、著者にとっては大叔母である飯島寿恵子もいた。そして寿恵子が、こんなことを言ったのだ。

『あの事件(=下山事件)をやったのはね、もしかしたら、兄さんかもしれない…』

この瞬間から、著者の長きに渡る下山事件の取材がスタートした。その対象は、まず大叔母の寿恵子と、母の菱子だった。彼女らは、共に同じ会社で働いていた。それが、先程の「亜細亜産業」だ。祖父ももちろん、同じ会社にいた。寿恵子と菱子は、亜細亜産業に出入りしていた人間や取引先の会社などを克明に覚えていた。著者はそれらの話を拾い集めながら、それまでとはまったく違う下山事件の仮説を追い始める。これまで亜細亜産業に着目した仮説はない。著者は、祖父が亜細亜産業に関わっていたからこそそこに辿り着けたのだ。そして調べれば調べるほど、下山事件に繋がる様々な要素が浮かび上がってくる。

もちろん、下山事件の真相が少しずつ明らかになっていく過程もスリリングだ。身内から聞いた事実と、取材によって知り得た事実が様々な形で結びつき、線となっていく。身内の何気ない記憶が、重要な鍵を握る場面もある。亜細亜産業に関わる身内がいたという、まさに著者の境遇だからこそ実現できた取材により、まったく新しい方向から下山事件に光が当てられていく様は、物語であるかのようにスリリングだ。

しかし、僕が一番気にかかったのは、著者の内面だ。それはほとんど描かれることはない。ただ、時折こんな文章が出てくる。

『以後、私は急速に下山事件の謎に没頭していった。といっても、その興味の対象が事件そのものに集約されていたわけではなかった。むしろ私を駆り立てたのは、祖父柴田宏に対する愛着と好奇心だったような気がする』

著者は祖父のことを、『あの頃の私にとって、祖父は自分の世界の大半を占める大きな存在だった』と表現する。ただ身内であるというだけではなく、著者にとってはかけがえのない存在だと言っていいほどの人物だったのだ。著者は、下山事件の取材をすることで、そんな祖父に「下山事件の首謀者」というレッテルを貼ることになるかもしれない。その葛藤が、時折見え隠れするのだ。

『私は、祖父を信じたかった。その一方で、下山事件の謎を解くことに使命感を燃やす自分がいる。それは、もしかしたら、尊敬する祖父の秘密を暴くことにもなりかねないと予感しながら。』

また一方で著者は、母親に対してもこんな感情を抱く。

『だが、いずれにしても、私の行為は少なからず年老いた母を傷つけることになる。
ある日、下山事件の話をした後で、母が泣いている姿を見た。ただ黙って俯きながら、涙をこぼしていた。』

著者は、寿恵子や菱子から話を聞くことで、彼女らを追い詰めることになる。著者以上に「身内の恥」という感覚が強い世代だ。祖父の行為が明らかになればなるほど、彼女らを辛い立場に追い詰めることになる。
しかし著者は、真実を追うことを諦めることが出来なかった。

『膝の上で組む手の上に、涙が落ちた。それを見た時、心の中で何かが切れたような気がした。
もうやめた。下山事件なんかどうでもいい。いまさら犯人をつきとめたって、何になるというのだ。
だが、できなかった。私にはどうしても、心の衝動を抑えることができない。気が付くとまた私は下山事件の資料を開き、その迷宮に足を踏み入れていた』

本書は、基本的には下山事件の本だ。下山事件をいかに掘り下げていくかという本だ。しかしその一方で、本書は「柴田家の本」であることから逃れられない。少なくとも著者はそれまで、柴田家に「不穏な歴史」が眠っているなどとは想像もしなかった。しかし、平穏でしかない、ごくありきたりな家族だと思っていた自分に連なる歴史に、昭和史の謎を解き明かす秘密が眠っていた。その衝撃と興奮、そして掘り下げることで迷惑を掛けることへの悔恨。それらが入り交じった著者の筆致は、普通のノンフィクションでは醸し出せないものだ。ノンフィクションを書く人にはそれぞれ、そのテーマを選び取った理由があるだろう。それらはそれぞれの著者にとっては、何物にも代えがたい衝動なのだろうと思う。しかし、どれだけの衝動があろうと、本書の著者の衝動に敵う者はそうそういないだろう。「祖父が実行犯かもしれない」というのは、それほどの状況なのだ。

寿恵子はある時、著者にこんなことを言う。

『あんた、これをどこかに書くつもりなんだろう。それ、まずいのよ。亜細亜産業は、絶対に身内からしか事務員を雇わなかったのよ。わかるでしょう?私も入る時、業務内容に関しては他言しないって念書入れてるの。あの会社は下山さんだけじゃない。他にも殺されたとか、消されたとか、そんな噂はいくらでもあった。私、怖いのよ…』

個人史と昭和史の交差点で苦悩する人がいる。また、その交差点で真実を探し出そうとする人がいる。そして、そこに歴史が生まれる。

本書を読んで強く感じたことがある。それは、事実が歴史を作るのではなく、誰かが信じたことが歴史になる、ということだ。つまりそれは、あなたが歴史だと思っていることは、事実であるとは限らない、ということも意味する。

いずれ、僕らが生きている現実も、歴史と呼ばれるようになる。その時僕らは、きちんとした歴史の証言者になれるだろうか?そのためには何が必要か、本書を読んで感じ取って欲しいと思う。

柴田哲孝「完全版 下山事件 最後の証言<再読>」

爆走社長の天国と地獄 大分トリニータVS溝畑宏(木村元彦)

溝畑宏とは何者か?

『溝畑宏が行ったのはビルド・アンド・スクラップであった。グラウンドもクラブハウスも選手もいないところからチームを立ち上げ、高級官僚の座を投げ捨て、社長に就任。15年で日本一(2008年ナビスコカップ優勝)に導いた。』

凄い男である。
しかしそんな溝畑宏は、世間からこんな風に見られているのだという。

『自らの放漫経営で、チームが6億円もの借金(公式試合安定開催基金)をJリーグから借り受ける事態に追い込み、Jリーグ全体に多大なる迷惑をかけ、某サッカー誌によれば「選手や職員の生活をメチャクチャにしながら、自分はさっさと社長職を辞めて観光庁の長官に大栄転した男」』

とんでもない言われようである。本書には、こんな記述もある。

『現在もトリニータサポーターにおける溝畑の評判は最悪のようだ。流言飛語が飛び交い、中には「前の社長がカネを私的に使い込んだのでクラブがつぶれた」と信じている方もいる』

溝畑宏は、特に大分県ではもの凄く評判が悪い。
しかし溝畑宏の近くにいた人間の見方は大分違う。溝畑が大分トリニータの社長を「解任」させられたことを知った当時の監督は選手に向かって、『いいか、社長を絶対に戻すぞ!』と言ったという。大分の経済界の長老は、『私に言わせれば、一番かわいそうなんは溝畑なんや。「俺がおまえの親なら泣くぞ」って、ようあれに言ったもんや』と発言している。

溝畑宏とは何者か?


人を評価することは、とても難しい。そして、人から評価されることも、とても難しい。

世の中には、様々な人間がいる。その中には、「やっているように見せるのが上手い人間」というのもいる。特に何もしていないのに、功績だけかっさらって威張っているような人間。

僕はこういう人間が嫌いだ。好きだ、という人は多くないだろう。しかし、特に現代は、こういう人間がどんどん表に出てきて、どんどん階段を駆け上がっていく。SNSなどにより、個人による発信力が格段に高まったこと、そして話題性のある情報が拡散されるスピードが驚異的に早くなったことによって、「見せ方」さえ整えてしまえば名前を売ることが出来てしまう世の中になってしまった。

もちろんそういう人間も、中身が伴わなければ長続きはしない。そこは、昔と変わらないだろう。しかし、そういう「見せ方」の上手い人間による情報戦略に反射で反応してしまう世の中にあっては、本当に汗をかき、実直に物事を進めている人間に、光が当たりにくくなっている、ということもまた事実だろう。

そんな世の中だから、軽薄で、賞味期限が短そうなものばかり表に出てきて、長く価値を見いだせそうな事柄がうまく軌道に載せられなくなっていく。短い期間で少ない労力で成功しているような事例を日々目にすることで、長い期間に多大な労力を掛けて成し遂げる事柄への興味が益々薄れていく。

それでいいのだろうか、と立ち止まる隙さえ与えずに、ただ闇雲に前に進んでいく世の中に対して、強く違和感を覚えることは多い。

文化も伝統も教養も知見も、長い年月の積み重ねによって洗練され、その土台の上に新たな発見を見出すことが出来るようなものだ。それらは必然的に、長い期間と多大な労力を必要とする。しかし、時代がそれを評価しなくなった。評価できなくなった、というべきなのかもしれない。それは必然的に、それらに携わる人間を評価しなくなることでもあり、結果的に文化も伝統も教養も知見も廃れさせる。結局残るものは、明日なくなってしまっても誰も困らないような、単純で分かりやすく脊髄反射的なものばかりだ。

それでいいとは思えない。

その状況をどうにかするには、「評価者」を育てなければならない。

『この10年、行政によって作られた政治的なトリニータをウォッチし続けて、ブレなくその公益性を指摘したのは、皮肉なことに県庁にとっては天敵であったオンブズマンの永井であった。政治から離れて屹立していた人物のみが、そのあり方をしっかりと相対化できたのではないだろうか。教員不正採用事件やキャノンの工場誘致問題で徹底的に県政に切り込んだ永井が「トリニータには公的支援をすべきだ」と、発言することは極めて興味深い』

溝畑宏にとっての最大の不幸は、彼の行動を適切に評価してくれる有力者がいなかったことだろう。大分の発展のためにゼロからクラブチームを作り上げた男は、しかし大分の政財界やサポーターから嫌われ続けた。彼らも、本書に書かれていることを知れば、恐らく考えを改めることだろう。溝畑宏という人間を、正しく評価できるに違いない。しかし、溝畑の性格や様々な組織の軋轢など、様々な要因が絡まりあって、結局溝畑は正しく評価されないまま、不本意に大分トリニータを去ることになってしまった。

どれだけ凄いことをやってのけても、それを正しく評価できる人間がいなければ物事は回っていかないし、歴史が歪んで伝わってしまう。僕は、常に問いかけるようにしている。人や物事を、他人の意見だけで判断してしまっていないか、と。人や物事に対する自分の評価は、自分の内側にある考えによって構成されたものなのか、と。他人がどう言っていても、自分が直接見たり聞いたりするまでは判断を保留にしろよ、と自戒している。

それぐらい意識しなければ、正しく判断することは出来ないと思っているのだ。

内容に入ろうと思います。
本書は先述した通り、W杯を大分県に誘致するためにゼロからクラブチームを作り上げ、スポンサー探しに奔走しながら、県リーグから出発してチャンピオンに導くというJリーグ史上初の快挙を成し遂げながらも、間違った現状認識によって失墜させられた「暴走社長」である溝畑宏を描いた作品だ。

著者は自身のスタンスをこんな風に書いている。

『ことわっておくが溝畑の擁護をする気はさらさらない。私はむしろ長い間、アンチ溝畑の書き手であった』

著者は雑誌上などで、アンチ溝畑の論調の記事を書いていたという。しかし、大分トリニータの内情を調べていく中で、どうも溝畑宏という人物像が違って見えてきた。監督や選手から信頼され、常にお金に苦労しながら給料の遅配は一度もなく、スポンサーを速攻で口説き落とすほどの夢を語り、その夢を現実のものとし、私費を投じ離婚までして大分トリニータに人生を捧げてきた男。溝畑宏という男のイメージが変わっていった。

本書では、溝畑宏が自治省に入省した頃の話からスタートする。官僚とは思えない型破りな存在感を放ち続けていた男は、著名な数学者である父の一言がきっかけでサッカーにのめり込むことになる。大分トリニータというクラブチームを、作り上げた溝畑宏の視点から、そして溝畑宏を支え続けた者たちの視点から、そして県庁を含む大分県の視点から描き分け、「大分トリニータを壊した男」という溝畑宏のイメージがどのように作り上げられていったのかを丹念に追っていく。サッカーのクラブチームの話ではあるのだが、話はむしろ会社経営の話であり、地方政治の話である。サッカーに詳しくなくても(僕は全然詳しくない)、面白く読めるだろう。

溝畑宏の存在感は圧倒的だ。夢を語る力、その夢を実現に導く力、一緒に夢を見る相手を見つけ出し口説き落とす力、官僚でありながらプライドの欠片も持たずに奉仕できる力、現状を認識して必要なものを差配し、特には非情な決断を下して必要ないものを排除する力。それらすべての力が圧倒していた。その手腕は、J2という下部リーグにいたチームが、大分とは無関係の企業から何度も大金を引っ張ってくる、という事実だけ見ても理解できるだろう。民意によって生まれたわけではなく、地元政財界もまったく協力的でなかったクラブチームを何年も存続させ、さらに優勝にまで導くのは、並大抵の努力ではなしえない。

『溝畑のファイン・プレーは本人が講演で語る「ゼロから日本一のチームをつくった」ことではなく、叩かれても嫌われても全部自分でのみ込んだ愚直な献身にあった』

著者は本書の最後で、溝畑をそんな風に評している。『努力して、究極の努力をしてできないなら私は納得します』とは溝畑自身の言葉だが、その言葉に見合った、常軌を逸した努力をし続けた溝畑という男の凄さは、本書を読んで何度も実感することだろうと思う。

そんな溝畑を支援し続けた者たちもまた魅力的だ。トリニータの初期を支えた、朝日ソーラーの創業者である林は、大分から全国へと快進撃を続ける精鋭の営業部隊を育て、あのトヨタと対等のパートナーシップ契約をした男だ。中興の祖であるペイントハウスの創業者である星野も、中卒でありながらリフォーム業界を16兆円規模の市場に引き上げた。パチンコチェーンの「マルハン」の創業者である林は、朝鮮人でありながら日本国籍を持ち、パチンコチェーンのイメージ回復のために、どんな超優良企業よりも透明度の高い経営をすると決心して、パチンコ業界のイメージ回復に貢献した傑物だ。彼らは皆、溝畑が語る夢に共鳴して、広告の宣伝効果という意味合いを超えたところで大分トリニータに大金を投じた者たちだ。他にも、スポンサーや溝畑の周りの人間など、溝畑の夢を支え伴走した者たちの奮闘があって初めて溝畑の無謀な挑戦は形になった。溝畑の、人を巻き込み、金を引っ張り、結果を出し続けるという手腕を認め、評価し、頼りにしていた者たちの数多くの証言から、巷間知られているのとは違う溝畑像がジワジワと浮かび上がってくる過程は読みどころ満載だ(とはいえ僕は、そもそも溝畑宏という男を本書を読むまで知らなかったのだけど)。

そして、最後の最後まで溝畑とは敵対的な位置を占めていた大分の政財界の様子も、非常に興味深い。本書はサッカーのクラブチームの経営の物語だが、ここで描かれていることは、地方がなんらかのブランディングをする際に非常に重要な事柄が描かれていると感じた。ブランディングの仕方によって、地方同士にも多大な格差が生まれ始め、自分が住む地をどうアピールしていくのかを常に問われ続けている現状に対して問いを投げかける作品でもあるのだ。

著者は取材を続けていく中で、「溝畑憎し」の感情の源泉にたどり着く。そしてそれは、溝畑宏という男の問題ではなく、地方政治の問題であったのだ。大分の政財界が何故溝畑に非協力的だったのか。その原因を明らかにせずに、溝畑一人にすべての責任を被せて知らん顔を決め込んでいる面々に、著者は厳しく迫る。

また、大分トリニータの、民意によるものではないという成立過程の不幸さは、地方が地方主導で何らかのブランディングをする際には確実につきまとってくる問題だろう。大分トリニータは、他のクラブチームとは違い、地元民が望んで出来たチームではなかった。W杯のために必要だったから作ったわけで、大分にクラブチームが存在していることが重要だった。それは特殊なことではなく、地方行政が何かを始めようとする際、同じようなケースはそこかしこに存在するだろう。その場合、どうやって民意を取り込んでいくのか。

『2000年に大分市内で乗ったタクシー運転手にトリニータの話題を振ると、初老のドライバーは「あれは知事と県の官僚がやっているだけですよ」と首を振った』

民意が盛り上がらない状況を打破するために溝畑がしたのは、勝つことだ。勝てるチームを作ることだ。溝畑のその方向性は、正しかっただろう。実際に大分トリニータは強くなった。溝畑がトリニータを解任される直前などは、『Jリーグで一番いいサッカーをしているのは大分です』と評されるほどのチームだった。大分のサポーターもどんどん増え、盛り上がりを見せていた。
しかし結局、溝畑に不備がなかったとはもちろん言わないが、地方行政の不手際と判断ミスにより、民意をうまく取り込むことができなかった。本書を読み込むことで、ブランディングの際に地方行政が必要とされる役割が何であるのかが捉えられるのではないかと思う。

溝畑宏というとんでもない存在感を放ち続けた毀誉褒貶の男と、Jリーグ最高と言われたチームを擁しながら生かしきれなかった地方行政という二つの柱を描き出す作品で、サッカーという枠組みを超えて読まれてよい作品だと思う。

木村元彦「爆走社長の天国と地獄 大分トリニータVS溝畑宏」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)