黒夜行

>>本の中身は(2017年)

でんでら国(平谷美樹)

『でんでら国の爺婆たちは、生き生きと生き、そして生き生きと死んでいく』

これは理想的だな、と思う。
もう少し具体的に書けば、「死の直前まで、自分に役割がきちんとある」ということが、人生の理想ではないか、と思う。

金があって時間があれば楽しい、なんて思ったことは、たぶん一度もない。金があって時間があっても、退屈なだけだ。金があって時間があるというのは、なんでもやりたいことが出来るということだが、同時にそれは、やらなくてはならないことが何もない、ということでもある。

そんな人生、面白くないだろうなぁ、という感じがする。

いくら金と時間があっても、自分がそこにいる意味を感じられなければ、どれだけ外面的に豊かな生活をしていようが、たぶん退屈だと思う。

とはいえ、そんなことは豊かになったから言えることでもある。食べるものを作り出すので精一杯だったような時代には、そもそも「自分がそこにいる意味」が云々などという話はまるで意味をなさないだろう。そんなことを考えている余裕なんてない、というのが正解のはずだ。

だからこそ、「でんでら国」の存在が、より一層凄みをもって感じられるのだ。

「でんでら国」には、爺婆しかいない。しかし彼らには、「自分がそこにいる意味」がきちんと理解されている。全員ではないが、少なくとも一つの共同体として共通の考え方が共有されていて、それが隅々にまで浸透しているのだ。

だからこそ、「生き生きと生き、そして生き生きと死んでいく」などということが実現されるのだ。

人生の最後に、自分がどんな役割を担うことが出来るか、あるいは自分に担える役割などないのか、それは晩年になってみるまで普通は分からない。しかし、「でんでら国」を有する大平村では、60歳になれば必ず「でんでら国」へと行き、そこで大事な役割を担うことが決まっている。それは、人生に張りを与える素晴らしい仕組みだなと思う。

「でんでら国」は、お上を欺くためという、後ろ向きな動機から生まれたものであることは間違いない。しかし、そうやって出来た「でんでら国」は、ある意味で桃源郷、理想郷としての性格を備えることになった。どれほどの理想がそこにあるのか―、それは本書を最後まで読むと理解できる。ある男のまさかの行動が、「でんでら国」がいかに素晴らしい環境であるのかを十分に理解させるのだ。

現代日本は、世界に先駆けて、超高齢化社会への道を進み続けている。そういう社会にあって、この「でんでら国」のような共同体のあり方は、何か可能性を示唆するものとして捉えられるべきではないかと思った。

内容に入ろうと思います。
幕末の東北、陸奥国八戸藩と南部藩に挟まれた大平村には、60歳を迎えた者は皆、すべての役職を解かれ、御山参りをする習わしがあった。御山参りとは、山へと分け入っていって二度と郷へは戻ってきてはいけない、というものだ。大平村のこの慣習は、姥捨てだとして近隣の村から嫌われていた。親の面倒を見なければ罰せられるという法律があったこともあるが、しかし近隣の村では飢饉になると、子どもを殺すのだ。そういう時代である。
善兵衛は、60歳となり、<知恵者>としての役割も終え、御山参りへと向かうことに決めた。<知恵者>とは、「あっち」と呼ばれている「でんでら国」の問題を解決するための役職であり、善兵衛は若い頃から「でんでら国」の秘密を知っていた。大平村の者は、60歳を超えると山に入るが、姥捨てとはまったく違い、山奥にある「でんでら国」で新しい生活が始まるのだ。そこでは開墾された土地で米が作られており、飢饉の折には大平村を助けたりもしている。
一方、外館藩の別段廻役(犯罪人を捕らえる役人)である船越平太郎は、代官の田代から内密に頼みたいことがあると言われた。それが穏田探しだ。事情はこうだ。外館藩は南部藩から内々に御用金の調達を命じられた。しかし、そんな金はない。そこで穏田だ。申告せずに開梱した田んぼで米を作っていれば死罪、という時代だ。穏田を見つけ、税を取り立てて御用金に充てようというのだ。
しかし穏田があるという確信があるわけではない。しかし田代には、気になっていることがある。5年前の大飢饉の際の大平村の振る舞いだ。他の村が損耗を届け出たのに対し、大平村だけはすべてきっちりと支払っているのだ。いくら棄老しているとはいえ、それだけでは説明の付かない額だ。
大平村には穏田があるはずだ。それを探し出せ…。平太郎に課せられたのは、そんな任務だった。
穏田を隠し持つ大平村、そして「でんでら国」と、穏田を見つけ早急に金を作らねばならぬお上との知恵比べが始まる!
というような話です。

これは面白い話だったなぁ!全然期待しないで読んだんですけど、時代小説が苦手な僕でもスイスイ読めたし、最後まで話がどう展開していくのか分からないワクワク感みたいなものが続きました。

しかし、まずは設定が実によく出来ている作品だなと思いました。実際に「でんでら国」みたいな共同体があったのか、つまり、本書で描かれていることが史実を元にしているのかどうか、僕には分からないのだけど、こういうことがあってもおかしくはない、と思いました。棄老をしていると疎まれている村が、実はあらゆる工夫をして全員がいかに幸せに生き死んでいくかを考えている、という舞台設定は、実に魅力的です。冒頭でも書いたけど、恐らく当初は、村を健全に存続させるための苦肉の策だったのだろうと思うのだけど、それが結果的に理想郷を生み出すことになった、という流れも、よく出来ているなと思います。

普通にしていればその存在すら気づかれなかったはずの「でんでら国」が何故気づかれたのか。それが、郷を救うために「ちょっとやりすぎてしまった」から、というのも面白い。他の村が年貢を払いきれないのに、大平村だけは満額払う。棄老しているからだ、という説明で納得しなかった慧眼の持ち主によって見抜かれてしまった、という流れはいいですね。

そして何よりも、「でんでら国」の面々と別段廻役たちとのバトルは、素晴らしい!という感じでした。お互いが知恵比べのような形でやり合うんだけど、普通に考えればどう考えても農民側が不利です。この当時、農民の地位はとても低く、お上に楯突くなど持っての他という時代。お上の権力が圧倒的に強いために勝負にならないようにも思うのだけど、これがそうでもない。互角の勝負を繰り広げるんですね。このパワーバランスも実によく考えられていて良いと思います。どちらも、ギリギリのラインまで知恵や力を振り絞って、それで互角、というこの戦いぶりがとても良くできている。

権力ではお上の方が圧倒的に強いのだけど、「でんでら国」の強みは、「でんでら国」を長い間気づかれずに運営してきた歴史と知恵にある。あらゆる可能性をあらかじめ考えておいて、それぞれに対してきちんと準備をしている。だからこそ、不可能とも思える戦いに善戦することが出来るのだ。

また、「でんでら国」の面々は、自分たちのことを「一度死んだ人間」だと捉えている。彼らは60歳になって山に入った時点で死人となっているのだ。一度捨てた命なのだから、という感覚が、彼らの内側にずっとある。だから楽天的でいられるし、世間の常識を無視することも出来る。新しい「当たり前」の中で生きることが出来るのだ。

お上と農民の戦いは、時を経れば経るほど予想もつかない展開になっていき、最後はンなアホな!っていう流れになっていくんだけど、それが周到に準備された計画だったということが非常に面白いと思う。お上を敵に回す農民が使える武器は「知恵」しかない。その知恵を最大限振り絞ってやれるだけのことはやりきる、という姿勢が面白い。

冒頭でも書いたように、「でんでら国」に住む面々には、そこにいる意味がある。死の間際まで、その意味を感じながら暮らすことが出来る。金銭的な意味でも確かに豊かな共同体なのだけど、それ以上に、彼らが得た豊かさというのは、簡単には生み出すことが出来ない、歴史のいたずらが生み出したものなのだろうな、と思う。

平谷美樹「でんでら国」



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隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働(ルトガー・ブレグマン)

『初めに少しばかり歴史の授業を。
そう、昔は、すべてが今より悪かった。
ほんのつい最近まで、ほとんどの人は貧しくて飢えており、不潔で、不安で、愚かで、病を抱え、醜かった、というのが世界の歴史の真実である』

そんな一文から本書は始まっている。本書には、様々なデータが載っており、過去と現在との比較によって、現在がいかに豊かになったのか、ということが明らかにされる。
しかし、そんな豊かな時代に、足りないものがある。

『ここでは、足りないものはただ一つ、朝ベッドから起き出す理由だ』

『わたしたちは有り余るほど豊かな時代に生きているが、それは何とつまらないことだろう。フクヤマの言葉を借りれば、そこには「芸術も哲学もない」。残っているのは、「歴史の遺物をただ管理し続けること」なのだ』

あぁ、分かる、と感じる人は多いだろう。様々な指標から、現代人は豊かだと示されている。しかし、まさにその世界に生きる僕ら現代人には、その計り知れない豊かさに感動を覚えない。GDPが増えているので景気は上向いています、と言われても、大半の国民がそれを実感できない、というのと同じような話だろうか。違うだろうか。
ともかくも、僕たちは、豊かではあるのだけど、幸せだという実感が持てないでいる。
ユートピアを思い描くことが、出来ないのだ。

『ユートピアがなければ、わたしたちは進むべき道を見失う。今の時代が悪いと言っているのではない。むしろその逆だ。けれども、より良い暮らしへの希望が持てない世界は、あまりにも寂しい』

『この時代の、そしてわたしたち世代の真の危機は、現状があまり良くないとか、先々暮らしぶりが悪くなるといったことではない。
それは、より良い暮らしを思い描けなくなっていることなのだ』

そこで本書では、豊かになりすぎた現代人に、僕らの未来にあるはずのユートピアを描き出す。それが本書の最大の目的だ。

『そもそも、このアイデアを世間に真剣に受け止めてもらうことからして非常に難しいのだ。わたし自身、それを痛感した。この三年間、わたしはユニバーサル・ベーシックインカム、労働時間の短縮、貧困の撲滅について訴えてきたが、幾度となく、非現実的だ、負担が大きすぎると批判され、あるいは露骨に無視された』

著者が提唱することは、確かに無謀に思える。現代に生きる僕たちには、無理なんじゃないか?と思えてしまうようなものだ。しかし、巻末の解説の文章が僕らに、著者の提案が現実のものになる可能性を与えてくれるのではないかと思う。

『「週十五時間労働、ベーシックインカム、そして国境のない世界」。いずれも、夢物語としか聞こえないという批判と無視と沈黙の中で、ブレグマンは言う。
奴隷制度の廃止、女性参政権、同性婚…。いずれも、当時主張する人々は狂人と見られていた、と。何度も、何度も失敗しながらも、偉大なアイデアは必ず社会を変えるのだ、と』

確かに、本書は、その可能性を与えてくれる一冊だ。
アイデアは、アイデアだけでは現実に影響を与えることはないし、何も変えはしない。アイデアに賛同する者がどれだけいて、さらにそのアイデアに沿った行動をする者がどれだけいるかが重要になってくる。そういう意味で、本書で描かれていることを「ユートピア」だと感じられる人にとっては、本書を読むことはその実現を加速させる一助になる、と言えるだろう。読んでその実現を信じることが、新しい世界の扉を開く鍵となるだろう。何よりもまず、荒唐無稽だと思わずに著者の主張に耳を傾けるべきである。

著者が主張していることは、大きく分けて三つある。

◯ユニバーサル・ベーシックインカム
◯労働時間の削減
◯国境の解放

そしてこれらに絡めて、他の話題も登場する。例えば、労働時間の削減は、積極的な施策としても有効だが、今まさにAIによって人間の仕事が奪われているという状況があり、外的要因からそうならざるを得ない、という状況でもあるのだという話。また、上記3つは人間生活に豊かさをもたらすのだ、ということが様々な実験などで証明されているのだが、じゃあそもそもその「豊かさ」とはどう図られるのか、GDPの正体は一体何なのだ、という話。あるいは、ベーシックインカムや労働時間の削減によって、人類は過剰な余暇を手にすることになる。その余暇にどう向き合うのかというのが、今後人間が向き合うべき最大の危機なのだ、という話。そういう様々な方向に話が繋がっていく。しかしここでは、この3つをメインで取り上げていこうと思う。

ユニバーサル・ベーシックインカムというのは、簡潔に言えば、「すべての人に一定の金額を直接渡す」というものだ。全国民に、例えばひと月に10万円なりを無条件で支給する、という仕組みだ。使い道を限定しないフリーマネーを、アルコール中毒の人やニートにもあげる、というものだ。

ベーシックインカムの議論は前からあるが、僕はその細かな内容を知らなかった。ベーシックインカム、と聞く度に、そんな膨大なお金がどこから生まれるのだろう?という疑問が先に生まれ、それ以上思考してみることがなかった。

しかし様々な実験によって、フリーマネーを与えることが貧困の撲滅にとても有効な手段であることが明らかになっていった。

『すでに研究によって、フリーマネーの支給が犯罪、小児死亡率、栄養失調、十代の妊娠、無断欠席の減少につながり、学校の成績の向上、経済成長、男女平等の改善をもたらすことがわかっている』

これは僕たちの直感に反する結論に思える。
これまで様々な社会実験が行われてきた。その多くは、貧困層を対象としたものだ。貧困層に、なんの目的で使ってもいいお金を渡したら、酒やギャンブルなんかに使ってしまうのではないか…。

『貧しい人々がフリーマネーで買わなかった一群の商品がある。それは、アルコールとタバコだ。実のところ、世界銀行が行った大規模な研究によると、アフリカ、南アメリカ、アジアで調査された全事例の82%で、アルコールとタバコの消費量は減少した。
さらに驚くべき結果が出た。リベリアで、最下層の人々に200ドルを与える実験が行われた。アルコール中毒者、麻薬中毒者、軽犯罪者がスラムから集められた。三年後、彼らはそのお金を何に使っていただろう?食料、衣服、内服薬、小規模ビジネスだ。「この男たちがフリーマネーを無駄に使わないのだとしたら」、研究者の一人は首をかしげた。「いったいだれが無駄に使うだろう?」』

僕たちの直感には、「貧しい人々は怠惰だ」という思い込みが横たわっている。日本でもよく起こる議論だ。ホームレスや生活保護受給者は怠けている、というような。当然、そういう人間もいるだろう。しかし、少なくとも、これまでに行われてきた様々な実験は、「貧しい人々は怠惰だ」という思い込みを覆す結果を導きだしてきた。

『貧しい人々は、フリーマネーを受け取ると、総じて以前より仕事に精を出すようになる』

他にもこのベーシックインカムには、様々な懐疑の目が向けられるのだが、過去繰り返されてきた実験からは、概ね良い傾向しか見られないようだ。

貧しい人々に対してはこれまで、教育や現物支給などという形で、膨大なお金を費やした様々な支援が行われてきた。しかし、それらがうまく効果を生み出さないのは、大きく二つの理由がある。

一つは、貧しい人々は、貧しいという理由でまともではいられない、という理由だ。

『貧困とは、基本的には現金がないことだ。愚かだから貧困になったわけではない』

『(他の様々な教育や施策が効力を持つためには)まずは、彼らが貧困線を越えなければならないのだ』

『では、具体的に、貧困はどのくらい人を愚かにするのだろう。
「その影響は、IQが13から14ポイント下がるのに相当した」とシャファーは言う。「これは、一晩眠れないことやアルコール依存症の影響に匹敵する」』

貧困であるが故に尽きない悩みに思考が取られ、長期的な視野が持てなくなってしまうことを「精神的バンドウィズ」と呼ぶようだ。貧しい人々にどんな教育を与えようが、まずはこの「精神的バンドウィズ」を越えなければどんな支援も意味をなさないということなのだ。

そしてもう一つは、もっとシンプルだ。

『「それに、実を言えば、貧しい人々が何を必要としているかが、ぼくにはよくわからなかった」。フェイは人々に魚を与えたわけではなく、魚の獲り方を教えたわけでもない。彼は、貧しい人々が何を必要としているかを本当に理解しているのは、貧しい人々自身だという信念のもと、彼らに現金を与えたのだ』

これを読んで、祖父母からのプレゼントを連想した。僕自身は、祖父母からどんなものをもらったのかという記憶はあまりないのだが、祖父母が孫に何かプレゼントをするという時に、相手側の需要を理解しきれずに結果的に不要なものを与える、という状況はよく起こるだろう。それよりは、お金をもらって好きなものを買った方がいい。まあ、プレゼントの場合は気持ちが大事だから、お金で、というのは身も蓋もないわけだが、支援なら、より効果のある方法を選択すべきだろう。

さてここまででベーシックインカムについてあれこれ書いてきた。しかし、おや?と思った方もいるだろう。今僕が書いてきたことは、貧困をベーシックインカムによって改善出来る、という話ではないか、と。ユニバーサル(すべての人への)ベーシックインカム、と言っておきながら、すべての人にどんな恩恵がもたらされるのか分からないじゃないか、と。

まあそれはその通り。しかしそれはある意味で仕方ないことだ。なぜなら、無条件ですべての人にベーシックインカムを与える、などという実験は、人類史上行われていないのだから、それを実現した時に何が起こるのかという話は、予想の域を出ない。

しかし、だからと言ってここまでの話が無駄になるわけではない。何故なら、研究によってこういうことが証明されているからだ。

『しかし、おそらく最も興味をそそられる発見はs,不平等が大きくなり過ぎると、裕福な人々さえ苦しむことになることだ。彼らも気分が塞いだり、疑い深くなったり、その他の無数の社会的問題を背負いやすくなるのだ』

『(オランダが行った、すべてのホームレスに家を無償で提供するという実験について)これは大成功を収めた。ほんの数年で、大都市の路上生活者の問題は65%解消した。薬物使用は半減した。恩恵を受けた人々の精神面と身体面の健康は著しく改善し、公園のベンチはついに空っぽになった。2008年10月1日までに、約6500人のホームレスが路上からいなくなった。そして、なによりも、(無償で家を与える施策を行い、これまで行ってきた路上生活者に対する様々な対策を講じる必要がなくなったことによって)社会が得た経済的利益は、投入した金額の2倍にのぼった』

僕たちは、自分たちが「貧しい人々」でなかったとしても、社会の中に「貧しい人々」がいることによって、何らかの形でマイナスの影響を受けている。直接的な影響もあるだろうし、間接的には、「貧しい人々」に何らかの対策をするための費用が税金から賄われている、という部分もある。様々な実験によって、「貧しい人々」に何らかの対策を施す費用よりも、直接お金を渡す方が、遥かに安上がりだ、ということが分かってきている。貧困を解消することは、貧困層にいない人にも良い影響を与えるのだ。

しかし、

『スティーンズランドに言わせれば、今日、すべてのアメリカ人へのベーシックインカムという考えは、「過去において、女性の参政権や人種的マイノリティの平等を求めるのが非常識とされたように」、到底考えられないことと見なされている』

らしい。これには、ニクソン大統領の影響も大きく関わっている。ニクソン大統領は1969年に、すべての貧困家庭に無条件に収入を保障する法律を成立させようとしていた。しかしその過程で、様々な行き違いがあり、結果ニクソン大統領の言動が、ベーシックインカムへの嫌悪感を植え付けることになったのだ。

この本を読めば、ベーシックインカムへの考え方が大きく変わるのではないかと思う。

さて次は、「働く」ということについて著者が何を言っているのかを見ていこう。このテーマに関しては、いかに労働時間を減らすか、労働時間を減らすと生産性が上がる、労働時間の減少による余暇の増大への対処など、様々な切り口があるのだが、僕が面白いと思ったのは、価値を生み出さない職業についての話だ。

『奇妙なことに、最も高額の給料を得ているのは、富を移転するだけで、有形の価値をほとんど生み出さない職業の人々だ。実に不思議で、逆説的な状況である。社会の繁栄を支えている教師や警察官や看護師が安月給に耐えているのに、社会にとって重要でも必要でもなく、破壊的ですらある富の移転者が富み栄えるというようなことが、なぜ起こり得るのだろう?』

『富の移転者』として著者が挙げているのは、ロビイスト・ソーシャルメディアのコンサルタント・テレマーケター・高頻度トレーダーなどである。銀行業務の一部も、富の移転でしかない、と著者は言う。

この「価値の創造」と「富の移転」の対照的な話として、ニューヨークのゴミ収集作業員とアイルランドの銀行員の話が出てくる。

ニューヨークのゴミ収集作業員は1968年に一斉にストライキを行った。ニューヨークの全市で、ゴミの回収がストップしたのだ。二日後、街はすでに膝の高さまでゴミに埋もれていた。ストライキから9日目、ついに市長は折れた。積み上がったゴミは10万トンにも上った。このストライキのお陰なのかどうか、本書でははっきりとは書かれていないが、現在ではニューヨークのゴミ収集作業員は人もうらやむ報酬をもらう、誰もがなりたがる職業になっているという。

一方、アイルランドの銀行員は1970年にストライキを行った。一夜にして、国内の支払準備金の85%が動かせなくなった。学者たちは、『アイルランドでの生活は行き詰まると予測した。まず現金の供給が枯渇し、商業が停滞し、ついには失業が爆発的に増える』という風に見ていた。しかし、結果的には、何も起こらなかった。銀行は半年間ストライキを続けたが、日々の生活にほとんど悪い影響はなかった、というのだ。

実に印象的なエピソードだと思った。

そして、こういう仕事の違いを踏まえた上で、著者はこんな風に問いかける。

『(高給だが富を移転するだけの職に就く)これらすべての才能が、富の移動ではなく、富の創造に投資されていたらどうだろう。わたしたちはとうの昔に、ジェットバック(背負ったジェット噴射で飛ぶ器具)を作り、海底都市を築き、がんを治療できていたかもしれない』

なるほど!と感じる指摘だった。確かにその通りかもしれない。有能な人材が、価値を生み出すのではなく、富を移転させるだけの仕事しかしていないから、思ったほど世の中は変わっていないのかもしれない。

『銀行が1ドル儲けるごとに経済の連鎖のどこかで60セントが失われている計算になる。しかし、研究者が1ドル儲けると、5ドルから、往々にしてそれを遥かに上回る額が、経済に還元されるのだ。(中略)
簡単に言えば、税金を高くすれば、有益な仕事をする人が増えるのだ』

有能な人間は、有能であるが故にどんな仕事にでも高い適性を示すだろう。であれば、より給料の高い職業に就くのが当然と言えば当然だ。しかし今の世の中では、「価値の創造」をする者より、「富の移転」をする者の方が給料が高い。であれば、有能な人材が「富の移転」に流れていくのは当然だといえるだろう。著者の、『税金を高くすれば、有益な仕事をする人が増えるのだ』というのは要するに、給料が高くてもその分税金も多く持って行かれるのだとすれば、「価値の創造」に流れる人が増えると期待できる、という意味だ。

著者は、教育にも目を向ける。現在の教育現場を著者こう見ている。

『すべての中心にあるのは、以下の疑問だ。―明日の求人市場、つまり2030年の市場で雇用されるために、今日の学生はどのような知識とスキルを身につけるべきか?
だが、それは、まさしく誤った問いなのだ。』

日本でも、産業界の要請によって、大学が職業訓練校のような立ち位置に成り下がっている、というような指摘がなされることがある。社会に出て即戦力となるような教育を産業界は大学側に求めているのだ。そして大学側も、就職率を高めるために、産業界からのそういう要請に応えようとする。
しかし、それはまさしく誤った考え方だと言えるだろう。

『そうならないために、わたしたちはまったく異なる問いを提示しなければならない。それは、2030年に、自分の子どもに備えていてほしい知識とスキルとは何か、というものだ。(中略)あれやこれやのくだらない仕事で生計を立てるために何をなすべきかではなく、どうやって生計を立てたいかを考えるのだ』

そして、その問いに答えることは、結局、どう生きるかを考える、ということなのだ。

『今世紀のうちに全ての人がより豊かになることを望むなら、すべての仕事に意味があるという信条を捨てるべきだ。合わせて、給料が高ければその仕事の社会的価値も高いという誤った考えを捨てようではないか』

この指摘は、自分の働き方を考えるきっかけになるのではないかと思う。

最後に、移民の問題について触れて終わろう。

トランプが大統領になって以降、自国ファースト、移民排斥の流れがより強くなったと感じられるようになった。移民を受け入れることは、自国民の仕事を奪うことに他ならないし、テロなどの無用なリスクも抱え込むことになる、という考え方がどんどんと広まっている。しかしこれに関しても様々な実験や検証が行われており、移民に対する様々なマイナスイメージは杞憂であり、移民を受け入れることで結果的に自国が豊かになる、ということが分かってきているのだという。

例えば、移民は仕事を奪うと思われているが、実際には雇用は増えるのだという。移民が増えることで消費も需要も増え、結果的に仕事の数が増えるからだ、と言う。移民により国内労働者の収入は微増するし、国境を開くことで移民は逆に母国へ帰還するようになるという。国境警備に大金を費やすより、積極的に移民を受け入れるべきだ、と著者は主張する。

『先進国全てがほんの3%多く移民を受け入れれば、世界の貧者が使えるお金は3050億ドル多くなると、世界銀行の科学者は予測する。その数字は、開発支援総額の3倍だ』

もちろん、良い事づくしというわけには行かないだろうが、どんな選択にもメリットとデメリットがある。移民を受け入れないという選択にも当然デメリットはあり、その比較によって判断されるべきだ。少なくとも本書は、移民受け入れのメリットと多少のデメリットを提示している。移民受け入れを反対する側は、同じようにして反論しなければ説得力を持たないだろう。

『誤解しないでいただきたい。豊穣の地の門を開いたのが資本主義であるのは確かだ。だが、資本主義だけでは、豊穣の地を維持することはできないのだ。進歩は経済的繁栄と同義になったが、21世紀に生きるわたしたちは、生活の質を上げる別の道を見つけなければならない。』

お金、労働、貧困、国境など、様々な問題に対して世界中の人間が考えなければならない問いを著者は突きつけ、著者なりの考え方を示した。あなたは著者が提示する問いに、どんな答えを頭に浮かべるだろうか?

ルトガー・ブレグマン「隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働」

食堂のおばちゃん(山口恵以子)

内容に入ろうと思います。
本書は、5作の短編が収録された連作短編集です。
まずは全体の設定から。
佃の大通りに面した「はじめ食堂」は、昼は定食屋、夜は居酒屋を兼ねる、下町の店だ。今店を切り盛りするのは、この店を始めた一(にのまえ)孝蔵の妻である一子(いちこ)だ。創業当初は本格的な洋食屋だったが、孝蔵が亡くなったのを期に、彼らの息子である高と一子が家庭料理を出す店に切り換えた。高は商社で働いていたが辞め、定食屋のオヤジになったのだ。
そんな高と結婚したのが、デパートで衣料品のバイヤーとして頭角を表していた二三(ふみ)だ。最初は店主と客という関係だったのだが、家庭料理を出す店の雰囲気に惹かれた二三の方から嫁になると立候補したのだった。
その後、高が若くして亡くなり、それを期に二三は仕事を辞め、「はじめ食堂」で働くことになった。今では一子と二三の二人が店を切り盛りしている。

「三丁目のカレー」
佃は高層マンションが立つ土地柄でもあり、金持ちが多い。「はじめ食堂」の常連は、基本的にはこの土地に古くから住む者が多いが、高層マンションに住んでいるだろう住人も時々やってくる。
藤代誠一もそんな一人だ。IT企業のオーナーであり、何故か頻繁に「はじめ食堂」で食事をしていく。また、モデルだろうと思われる美人(火曜によく来るので「かよ子」と呼ばれている)が、落ち込んだような顔をしてやってくることもある…。

「おかあさんの白和え」
常連の後藤さんの姿がしばらく見えないと、ちょっとした騒動になる。後藤輝明は警察を定年退職した後、警備会社に再就職したが、去年奥さんを亡くした後で退職し、今は一人暮らし。出不精でほとんど家から出ないはずなのに、郵便受けに郵便物が溜まっているというのだ。もしかして家で倒れているんじゃ…。

「オヤジの焼き鳥」
「はじめ食堂」の近くにある、こちらも古くからやっている「鳥千」という焼き鳥屋は、ちょっとした問題を抱えている。息子の進一は、料理学校を卒業後海外で修行し、青山のイタリア料理店の料理長に就任した。しかし、オーナーが事業に失敗し閉店、父親が経営する焼き鳥屋に戻ってきたのだが、この店を小洒落たリストランテにしたい、と言っては親と揉めているらしい…。

「恋の冷やしナスうどん」
一子が怪我をし、常連客であり仕事が長続きしない赤目万里を雇ってみることにした。これが大正解で、居酒屋でのアルバイト経験があることもあって、なんでも器用にこなしていく。
一方で、少し前に店にやってきた大食い青年に、二三の娘である要が入れあげているという。二三は、かつて自分も同じ状態になったことを思い出し、要が入れあげている男への恋心が不毛であることを悟っているが…。

「幻のビーフシチュー」
かつて、孝蔵に大変世話になったと語る不動産会社の経営者である平大吉は、かつて食べた孝蔵のビーフシチューをもう一度食べたいと言ってやってきた。しかし、既に往時の店はなく、ビーフシチューも「はじめ食堂」のメニューからは無くなっている。それでも一子は、亡き夫のレシピを見ながら再現してみると誓うが…。

というような話です。

なかなか面白く読ませる作品でした。
ストーリーそのものはそこまで大したことはないんだけど、常連を含めた「はじめ食堂」の雰囲気みたいなものがなかなか良かったですね。料理が美味しそうなのかどうか、食に興味のない僕にはイマイチ判断が出来ないんだけど、細々とでも長く続けていくための細かな工夫は面白いなと思うし、何よりも、ご飯を食べさせることが好きなんだろうな、と感じさせる一子と二三の雰囲気もいいなと思いました。

高級なお店もいいけど、ミシュランで星がつくわけでも、行列が出来るわけでもないけど、そこで生活している人にとってなくてはならない場所である、ということは大事なことなんだろうな、と思いました。目立たないけど、大事な役割を果たしているんだな、と。

僕にはなかなかそういう場所がないけど、あったらいいなと思いました。

山口恵以子「食堂のおばちゃん」

三つの悪夢と階段室の女王(増田忠則)

人はそれぞれ違うから面白い、と僕は思う。
自分が考えていること、思っていることが、誰かにそのまま伝わる、というのは、あまり面白くないと思ってしまう。
食い違いがあり、分かり合えず、共感できない部分がある。そういう他人がいるからこそ人生は面白いし、そういう多様性が社会を生み出している、と思っている。

多様性がきちんと社会の中で機能していた時代は、過去のものになってしまった、という風に最近思う。
今でも、多様性そのものは存在している。人間同士に差があり、おのおのが違いを持っていることは同じだ。しかし現代は、ネットのお陰で、より近い者同士が簡単に出会うことが出来るようになってしまった。人間同士に差があり、その差が多様性を生むはずなのだが、似たような人間が簡単に集まれるようになってしまったことで、小規模な集団の中での多様性は恐ろしいほど消えている、と僕は感じている。小規模な集団同士は、それぞれがほとんど孤立しているような状況で、関わり合いが薄い。社会全体で見れば多様性が存在しているはずなのに、似たような者同士が小規模な集団を作って固まっているが故に、多様性が社会の中できちんと機能しなくなってしまっていると思うのだ。

だからこそ、本書のような物語が成立し得るのだ、と僕は思う。

一昔前であれば、本書のような物語はそもそも成り立たなかっただろう。社会の中で多様性が機能しない、というのはつまり、人間同士にあって当然の差や違いが、許容されにくくなっている、ということを意味している。小規模な集団の中では差や違いが極端に平坦化されてしまっているが故に、自分たちとちょっとでも違う存在を許容する度合いが低くなってしまっているのだ。だからこそ、他人の行動を簡単に排除したり無関心でいたりすることが出来る。そういう前提が、この物語には横たわっているのだと僕には感じられる。

自分(そして自分と価値観を同じくする者たち)以外の人間はすべて異質なもの。異質だから無関係だし、どうでもいい。そういう力の強さを、きっと多くの人が感じ取りながら、時にそれを利用し、時にそれに呑み込まれながら日々を過ごしているのだと思う。そういう人たちには、もしかしたらこの物語の「怖さ」は、本当には理解されないのかもしれない、という風にも思う。

冒頭の「マグノリア通り、曇り」に登場する野次馬たち。彼らは、人が死ぬかもしれないという現実を目の前にして、自分(そして自分と価値観を同じくする者たち)には無関係だと思えるから、まるで虫でも殺すかのように無感情に暴言を吐く。それはとても恐ろしいことなのだ、という感覚が、もしかしたら通じない世の中になっているのかもしれない、という風にも思う。もしそうだとしたら、その現実の方こそが、この物語以上に恐ろしく感じられてしまう。

内容に入ろうと思います。
本書は、4編の短編を収録した短編集です。

「マグノリア通り、曇り」
斉木は、娘の理央が帰ってこないという妻から連絡の直後、知らない男からの電話を受け取った。間宮、と名乗ったその男は娘を預かったと言い、斉木をS駅前のマグノリア通りへと向かわせた。斉木は男からの電話で三ヶ月前の出来事を思い返していた。屋上から飛び降りようとしていた男と、その男に暴言を吐き続けた野次馬たち。そして、自分がした行動…。間宮と名乗る男は言った。少々恐怖を味わっていただきます、と…。

「夜にめざめて」

タカハシはパン工場の夜勤アルバイトをしている。弁護士を目指し大学受験をしたが失敗。浪人したが、無意味さを覚えて結局進学しなかった。ニートだった時期を経て、やっと一念発起し、アルバイトを始めた。そのタカハシの元に、刑事がやってきた。今市内で頻発している通り魔に関してだ。タカハシは、自分が疑われているのだ、と察した。
理由はなんとなく分かっている。同じ団地に住む、あの親子だ。些細なことが積み重なって、その親子からタカハシは嫌悪されている。タカハシは決して悪いことはしていないのだが、その親子が悪口を言いふらしているようだ。ニートだった時期がある、というのも、思った以上にマイナスであるようだ。何もしていないのだから気にすることはないのだが、今度は、通り魔事件をきっかけに生まれたという、市民による自警団からの監視も始まり…。

「復讐の花は枯れない」
バイクに載っていた沢井は、道に張られたロープに気づいて速度を落とした。沢井の首を狙っているかのような高さだ。息子の涼介に始まって、妻、そして自分と不審な出来事が続いている。沢井はここに至ってようやく、自分とその家族が狙われているのだ、と認識する。
沢井には心当たりがあった。あったが、しかしそれが現実のものとも思えない。25年前、高校生だった頃の話だ。まさか、という思いもある。しかし、あの時のあの男が、あの時言ったことをそのまま実行しているのだとしたら…。

「階段室の女王」
私は18階建てのマンションの12階から階段で下に降りている。レンタルショップに行くためだ。そして、8階と9階の間で、倒れている女性を発見した。救急車を呼ぶのはめんどくさい、と思った。なんとか見なかったことに出来ないか―。そうあれこれ画策している最中に、倒れている女性が誰なのか分かった。同じ階に住む女だ。その女は、いつも着飾っていて、野暮ったいダサい格好をいつもしている私を嫌っている。あの女か。じゃあなおさら救急車を呼ぶ必要はないか。
そう思いかけた時、階上から音が聞こえた。誰か来る。とりあえず、階段は使わなかった、という状況をうまく作り出すために私は動き始めるが…。

というような話です。

なかなか面白い作品でした。悪意全開、という感じの作品で、冒頭でもあれこれ書いたように、非常に現代的だなと感じました。悪意の発露のされ方が、ということです。もちろん、人間は昔からこんな風に悪意を表に出していたと思うけど、他人への無関心さ、みたいなものがより多大に入り混じっていくことで、一昔前だったら受け入れられなそうな物語が成立している、という風に感じました。

現代は、靴を踏まれたから、みたいな理由で人が殺されたりする時代でだ。行為者にはそれぞれの論理があるのだろうけど、その論理が共有できない、という感覚は、様々な形で日常的に感じている。この作品は、さすがに物語である以上、理解不能な行動原理、というところまで踏み込んで書くことは難しいのだろうけど、とはいえ、自分の内側にその感覚はない、と感じるような行動や価値観が出てくる場面も多いのではないかと思う。そういう違和感を与える行動や価値観を、なんとか上手いこと物語の中に落とし込んで読み物に仕上げている、という部分は、新人作家ながらなかなかの豪腕、という感じがしました。

とはいえ、個人的には不満もある。
この物語は、どの話も、物語が閉じた後にこそ、本当の物語があるように感じられてしまうということだ。つまり、僕の感覚としては、どの短編も「中途半端なところで終わっている」という感じがする。

もちろんそれは、著者が意図的にやったことなのかもしれないが、そこで物語が終わったような気がしない、というのはちょっともったいない気もする。物語はどれも、誰かが一線を越えてしまった直後に終わる、という感じだ。そこで物語を切るからこそ、後味の悪さみたいなものが倍加する、と考えることも出来るが、僕としては、長編小説の冒頭部分だけを読んだ、という感覚の方が強く出た。どの話も、物語としての本当の結末はもう少し先にあるのではないか、そういう物足りなさを拭えないままどの話も読み終えた。この物語の閉じ方が正解なのかどうかは、難しい判断ではないかなという気がする。

もう一つ。これは完全に僕の勘違いで、作品そのものに非があるわけではないのだが、タイトルから僕は一つの予想をしていた。本書のタイトルは「三つの悪夢と階段室の女王」だが、僕はこのタイトルから、最初の三つの話が、最後の「階段室の女王」という作品によって繋がる構成なのだ、と勝手に思ってしまった。前述した通り、どの短編も、僕の感覚では「中途半端なところで終わっている」と感じられたのも、その思いつきを補強した。最初の三つの短編は、物語としてはきっとまだ閉じていなくて、最後の「階段室の女王」で、三つの物語の繋がりが示唆され、本当に物語として閉じるのだろう、と。しかし、結果的にはそういう構成ではなかったので、勝手に予想をしていただけなので言いがかりなのだが、ちょっとがっかりした部分があった。

些細な悪意がちょっとしたすれ違いからどんどんと巨大になっていき、最終的に予想もしなかった帰結を導く、という話はよく出来ていると思ったし、ある種の読後感の悪さも、この作品の良さになっているのだと思う。

増田忠則「三つの悪夢と階段室の女王」

裁判所の正体 法服を着た役人たち(瀬木比呂志+清水潔)

あくまで僕の感覚の話だが、対談というのは通常、あまり面白い本にはならない。対談の場で聞いている分には、その場の雰囲気もあるので面白さも感じられるだろうが、よほど知性と経験を兼ね備え、かつ一般に伝わりやすい言葉を駆使する者同士の対談でないと、文章になったものを読んで面白い、ということはない。

そういう意味で本書は、なかなか稀な本だと思う。本書の場合、テーマ・話し手・聞き手のそれぞれが実に見事だと感じる。

本書のテーマは、「日本の司法全体」である。裁判所の話がメインになっていくが、そこから検察・弁護士の問題、権力との繋がり、憲法の話など、様々な方向へと進んでいく。
そして、やはりその中でもメインになっていくのが「裁判所」なわけだが、この裁判所というものを、僕を含めた一般の人というのはほとんど知らない。裁判を受けたことも裁判を傍聴したことも裁判員になったこともない、という人が圧倒的ではないだろうか。僕も、どれもない。裁判所に足を踏み入れた、という経験がない。

そして本書を読むと理解できるが、裁判所というのは基本的に、外界とほとんど接触を持たないようだ。

瀬木比呂志『要するに、外とのかかわりというのはほとんど全くなくて、官舎の中と裁判所ですべてが終わる、それが普通の裁判官の人生ですね。その意味ではとても狭い』

瀬木比呂志『日本の裁判官は、ソフトな精神的収容所にいて、外の世界のことはあまりわからないし、気にも留めないですからね。』

本書の中で指摘されていて、確かにそうだと感じたが、裁判が終わっても、基本的に「裁判官のコメント」というのはメディアに出てこない。明確なルールはないようだが、取材してはいけないという暗黙のルールのようなものがあるようだ。余計僕たちは、裁判や裁判所のことを知る機会がない。

本書は、まったく知らなかった世界ではあるが、僕たちの生活に実は直結していて、直結しているが故にまともに機能しているんだろうと思いたがっている部分があるのだが、実はそうじゃなかった!ということが分かる本であり、そういう意味でまず、テーマの選択が素晴らしい。

そして、話し手は、「絶望の裁判所」などの著作を持つ、元エリート裁判官だ。自身もかつては、裁判所という「ソフトな精神的収容所」の中で、思考停止状態にあったことを認めつつ、様々な違和感が積み重なって裁判官を辞めている。その後学者となり、それまで話すことのなかった多くの人と関わるようになっていく中で、いかに裁判所の組織や理屈や統制がおかしいのかということがようやく理解できるようになっていった。その上で、裁判所のかなり深いところまで知っており、また一般的な感覚や一般の人に通じる言葉も使える者として、知られざる裁判所の世界を出来る限り伝えようとこれまでも奮闘してきた者だ。外からは窺い知れない裁判所内部を知り尽くし、また学者として、諸外国との比較もしながら、客観的な目で裁判所というものを捉えているので、分析が明晰で分かりやすく、視野が広いという感じがする。話し手として非常に優秀だと感じる。

そして、僕が何よりも重要だと感じるのは、本書の聞き手である清水潔だ。その重要さについては、瀬木比呂志も巻末のあとがきでこんな風に書いている。

『清水さんの読者、ファンの方々は、本書における清水さんの発言部分が比較的少ないことに物足りなさを感じられるかもしれない。しかし、本書を映画にたとえるなら、監督及び編集者は清水さんであり、僕は、シナリオのうち比較的大きな部分を書いて出演を果たしたにすぎない。いわば、清水さんの手の平の上で、自由に、また時には清水さんの鋭い発言、質問にたじたじになりながら、踊らせてもらったにすぎないともいえるのだ』

僕自身はここまでのことを感じていたわけではないが、本書における清水潔の重要性は自分なりに理解している。というのは、清水潔は本書で、「高度な知識を持っているはずの無知な聞き手」という、なかなかない役回りを担っているからだ。

これは別に清水潔が殊更にそう演じようとしているわけではない。ここが、テーマの選択として非常に秀逸だったと感じるのだが、裁判所というテーマがあまりにも深く広く、また一般から隠されているが故に、ある程度知識を持っているはずの人間でも知らなかった事実の連続、というような事態になる、ということなのだ。

清水潔は作中で何度も、「それは知らなかった」「そんな事実、国民の誰も知らないと思いますよ」というような発言をする。この点が、本書における清水潔の最も重要な役割だ、と僕は感じる。

清水潔は、事件記者であり、その過程で裁判を傍聴することもあれば、検事や弁護士と関わることもある。冤罪を証明し、17年間刑務所に入れられていた人物を釈放に導いたことさえある。そんな人物でさえ、瀬木比呂志の語る裁判所の話は目からウロコなのだ。この清水潔の反応があることで、僕たちは、いかに裁判所の存在やあり方が世間一般から秘されているか、どれだけ僕たちが裁判所について無知なのか、ということがよく分かるのだ。清水潔が「高度な知識を持っているはずの無知な聞き手」という役割を自然に担っている、という点が、本書の最も重要なポイントだと僕は感じる。

そんなわけで本書は、対談でありながら高度な面白さを有することになった、なかなか稀有な本だと僕は感じる。

本書を読むと、かなりの人が絶望するだろう。若い世代であればあるほど、国や権力に対する失望というのをそもそも持っているだろうが、しかしそれでも、裁判所というものに対しては、なんとなく、ある一定の信頼というか、さすがに裁判所はちゃんとしてくれているでしょう、というような感覚があるのではないかと思う。それを二人は「お上」という言葉で表現する。

瀬木比呂志『多分どの国でもある程度座席の差というのはあると思うのですが、日本の場合にそれが目立ってしまうのは、やはり、日本の裁判官が、本質的に「お上」だからだという考え方によるのかと思うんです』

たとえばこれは、こういう事態を引き起こす。

瀬木比呂志『だから、冤罪の被害者が、「裁判所に行けば裁判官が絶対的に正しい裁判をしてくれると思っていた」という、そういう感じ方の基盤には、「裁判官は風雨の人と隔絶した神にも等しいような人だから、当然正しい再案をしてくれるはず」という思いがあるわけです』

本書では、司法の様々な問題が取り上げられる。この文章の中でそのすべてに触れることは出来ないが、本書を読めば、その酷さがよく理解できるだろうと思う。しかし、司法が悪い、とただ言っているだけでは問題は解決しない。僕たちも、司法や裁判というものを、きちんと捉え直さなければならないのだ。

瀬木比呂志『裁判に何でもかんでも求め、真実が必ずそこで明らかにされなければいけないし、被告に謝らせなければいけないし、背景が明らかにされ、動機も全部明らかにされなければいけないというような考え方は、近代的な裁判のとらえ方ではないということなのです。』

瀬木比呂志『だから、我々日本人は、裁判という制度の一定の「限界」を知るとともに、市民・国民の代表が行うべきものとして裁判をとらえ直す必要がある』


本書を読めば分かるが、恐らく、裁判所の体質が短期間で変わる可能性は、ほぼゼロだと言っていいだろう。それぐらい、裁判所が作り上げてきた統制のシステムは見事で、そんな統制があることを国民だけでなく、当の裁判官自身にさえ感じさせないような巧緻な仕組みが出来上がっている。その牙城を崩すのは、相当困難だろう。だから、まず裁判というものを捉える僕ら自身が変わった方がいいのではないかと思う。

それはとても難しいことだ。清水潔もこう言っている。

清水潔『私自身も甘かったかもしれません。多くの裁判を傍聴してきて、不条理もたくさんみましたが、それでも裁判官たちの心底には国民のためにという基本が備わっていると思っていました。菅家さん(※清水潔が冤罪を証明し、17年半ぶりに獄中から出た人物)もそう信じていたんですよ。大岡越前のような裁判官像です』

裁判をたくさん傍聴した清水潔でさえこうなのだ。だから僕たちは、より裁判というものを意識的に捉え直さなければならない。

本書では、実に様々なことが描かれているのだけど、ここではその中から主に、「裁判所による統制」と「権力との癒着」を取り上げようと思う。

裁判官というのは、何者にも冒されず、公平中立を保たなければならないはずなのだが、そんな裁判官を裁判所が統制する目に見えないシステムが作り上げられている。それらの多くは、本書の中で瀬木比呂志が詳細に説明することによって、やっとその輪郭がつかめるような話が多く、短い言葉で説明するのが難しいのだが、僕ら一般人にも分かりやすい部分もある。

まず、これはもしかしたら想像しやすい部分かもしれないが、どんな判決を出すか、と関わる部分だ。

瀬木比呂志『多くの場合には、やはり、無罪が多かったりすると、出世上、非常に不利になりやすい』

清水潔『たとえば政権、国に対して、国が望まないような判決を出した場合、裁判官の方は、どういうことが起こるという危険を感じるんでしょうか。』
瀬木比呂志『端的に言えば、都合が悪いというより、最高裁の意に沿わない判決をしたり、論文を書いたりすれば、「いつかどこかで必ず報復される」ということです』

そして、直近の例として、原発の再稼働に待ったを掛ける判決を下した、福井地裁の樋口裁判長が、あり得ない転勤をさせられる、というケースを挙げている。

瀬木比呂志曰く、こういうことはもう明白に起こっているようだ。だから、無罪判決や国に喧嘩を売るような判決は、普通は出せない。定年が近いなど、何らかの理由がない限り、そういう判決は出せない。

基本的に裁判というのは、やる前から判決がほぼ決まっているようなものなのだ。もちろん、日本の有罪率は99.9%と言われるわけで、そのこと自体は多くの人に知られた事実なのだろうが、しかし、じゃあ何故そうなっているのか、という部分まで踏み込むことはなかなかない。検察が、かならず有罪に出来る事件しか起訴していないからだ、というような受け取り方ももちろんあるだろうが、本書を読むとどうもそうではなさそうだ。それよりも、どんな裁判であろうと、もう最高裁の方針というものが大筋で決まっている事柄であれば、誰が何を言おうが結論は決まっている、というただそれだけのことなのだ。

だからこそ、こんなことも起こりうる。

瀬木比呂志『たとえば、判決が出る前から、記者クラブレベルでは情報が流れていることがあるという話は、聞いたことがあります。もちろん発表はしてはいけないわけですけど、すぐ記事が書けるように事前に結果が流れている。僕は民事系なので、これは聞いたというだけですけど』

また、そんな調子だから、冤罪も多数生まれる。

瀬木比呂志『そして、おそらくは冤罪もかなり多い。それが、日本の裁判のリアルな現実です』

瀬木比呂志『(40年の裁判生活の中で30件の無罪判決を出した裁判官がいた、という話の後で)ということは、多くの刑事裁判官は、本当は30くらいある無罪事件を有罪にしてしまっている可能性がきわめて高いということですよ。』

また裁判官には「再任」という制度があるという。10年ごとぐらいで、裁判官として適切なのかという判断をされ再任されるのだが、この仕組みが変わって状況が悪化したのだという。どう変化したのかは詳しく説明できないが、この変化によってこういう状況になったのだという。

瀬木比呂志『従業員が二千人台の会社(※裁判所のこと)で、毎年4,5名ずつ理由も告げられずにクビになっていたら、全体がすごく萎縮する』

かつてはほぼ無条件で再任されていたのが、制度の変更により、理由も分からず再任されない、というようなことが起こりはじめてきた。結局そういう状況で目立つことが出来る人は多くはないだろう。

最高裁の方針に逆らえない、逆らったら自分の身に何が起こるか分からない、という状況だからこそ、

瀬木比呂志『要するに、自分の頭で考えるような裁判官は上にいけないという形が、ここではっきりとできてしまった』

みたいなことになってしまったのだ。

これははっきりと、質という形で現れているようだ。

瀬木比呂志『若くて能力の乏しい裁判官を中心に、コピペ判決が増えている』

瀬木比呂志『僕が知っている後輩でも、「えっ、この人が裁判長!大丈夫なの?」と思うような人がやっています』

そしてそもそも、学生からいきなり裁判官になることで、『自己中心性、他者の不在、想像力の欠如』などの精神病理が裁判官の当たり前になってしまったという。そして、ソフトな精神的収容所にいる彼らは、外界と接しないために、自分たちがそういう病理に囚われてしまっていることにも気づかない。そういう閉鎖的な空間にいることも、裁判所による統制がより効果的に働く素地となっているのだろうと思う。

著者自身も、裁判官だった頃は、自分が「ソフトな精神的収容所」にいることも、最高裁の決定に疑問を抱かないことも、まったく気づいていなかったという。本書を読む限り瀬木比呂志は、冷静で客観的な人物に思えるので、そんな人物でも、統制の環境が非常に整った環境では強く影響されてしまうのだな、と感じた。

そして、もう一方の「権力との癒着」は、非常に問題だし、大きな意味で僕たちの生活に直結する問題でもある。

最高裁は、「統治と支配」にかかわる部分には絶対にさわらない。たとえば、夫婦別姓の問題はもろに「統治と支配」にかかわるから、最高裁は絶対に触れないのだという。先程挙げた原発再稼働にストップを掛けた樋口裁判長も、同じ理由で通常の出世ルートから外されます。詳しく触れられないと断りを入れた上で、親が裁判所に対して批判的な人物であるが故に任官されなかったのではないか、と感じ取れる例を知っているそうです。

本来裁判所というのは、権力に対する歯止めになるべき存在なのだけど、残念ながらそうなっていない。

瀬木比呂志『ところが、日本の裁判官は、まず権力、それから時の世論ということになるので、たとえば、日本という国がどんどん悪くなっていくような場合、日本の裁判官には、そういうものに対する歯止めとなる力がきわめて乏しく、それはごくごく一部の裁判官にしか期待できない、ということになるのです。』

瀬木比呂志『そうすると、結局、日本では、本来は市民・国民の代理人として権力を監視すべき裁判所も、ジャーナリズムも、どっちも権力の一部になってしまっている傾向が強くないかということですね。大きなところほど、「権力チェック機構」じゃなくて「権力補完機構」的になってしまっている』

本書を読んで、この点は本当に怖いなと思ったし、問題だと感じた。三権分立などと表向きでは言われているが、実際には全然違う。本書を読むと、三権分立って何なんだっけ?と思ってしまうだろう。それぐらい、権力と裁判所は結びついている。しかもその結びつきが表に出ないようになっている。

瀬木比呂志『ことに最高裁判所は、もはや、「権力の一部」という感じなんです。』

瀬木比呂志『(最高裁判所が)憲法の番人であるということは、これは万国共通ですが、権力が憲法違反のことをした場合に、あなた、そういうことをしてはいけませんよ、違憲ですよ、といって釘を刺すから「憲法の番人」なんです。ところが、日本の場合は、「統治と支配」の根幹にかかわる最高裁判決は、ほとんどが、「国のしていることはいいですよ、合憲ですよ。あるいはその問題に裁判所はふれませんよ」ということなので、むしろ「権力の番人」なんです』

そんな状態だからこそ、二人は今日本に対してこんな風に感じている。

清水潔『多少でも近代史を学んできた人なら、あるいは調べていけば、今、この国が進んでいる方向の危うさ、というのにすぐ気付くと思うんですけどね』

瀬木比呂志『僕は、今の世論の動き方を見ていると、太平洋戦争になだれ込んでいったときと同じような感じがするんですね。本当はだめなのに、大丈夫、大丈夫と言って、みんなで何となく空気で流れていってしまってね。』

この感覚は、僕も本当に感じる。近代史のことはあまり学んでいないし、具体的に今何がどうマズイのか指摘することも出来ないのだけど、今とてもマズイ状況にあるなということは感じる。国が、あらゆる法案を、しかも僕らの生活に直結する重要な法案を、十分に議論を尽くさないまま権力側に都合がいい形で通そうとする。それに対して、ある程度以上思考停止している人がたくさんいて、それこそ裁判所と同じように、「お上がやることなんだから正しいだろう」とか思っている。あるいは、単純に関心を持たないでいる。政治に関心があっても、「自分の生活が豊かになるのか」というような狭い範囲の思考しかしていない人が多かったりするのではないか、と思う。いや、そもそも僕は政治に関心を持っていないのだから、どんな理由であれ政治に関心を持っている方が良いと思うのだけど、ただ、国の方向性を決める大きな枠組みの議論がされている時に、個人の話でその流れを阻害する、みたいな流れがもしあるとしたら、それはちょっと違うなと思ってしまう。

また、日本の司法を取り巻く状況は、世界標準と比べてみてもかなり低く、というか世界の潮流にかなり逆行しているみたいです。

瀬木比呂志『その中で、日本の裁判所は、むしろ逆行している。日本の司法全体がそうですし、もう一ついえば、日本の社会、政治や権力、制度、メディアのあり方まで含めたそれが、全体が、世界の進んでいる方向とかなり逆行していないかと感じます。』

瀬木比呂志『だから、国連で、日本の刑事司法は「中世並み」と言われてしまった。その時、それを言われた日本の人権人道担当大使が、「日本は刑事司法の分野で最も先進的な国の一つだ」と反論して、みんながクスクス笑う。で、「笑うな。シャラップ!」と返して、たちまち世界中に報道されちゃった(笑)。解くに、マスメディアじゃなくて、インターネットで広がったんですね』

僕たちは、こういう国に生きているのだ、という自覚をまずは持たなければならないだろう。作中では何度も出てくるが、諸外国からの日本の司法に対する反応は、相当芳しくないというか、レベルの低いものではないか、誤っているのではないか、という風に見られているようです。民主主義を歴史の闘争の中から勝ち取ってきた欧米の人たちとは、やはり民主主義の成熟さが違うのだろう、という指摘も繰り返されていた。

最後に。日本の裁判所の問題が本書では具体的に挙げられていて、そのどれもが知らなかったような驚きの話ばっかりなんだけど、それらをひっくるめてこんな風に表現する場面がある。

清水潔『先程も出ましたが、日本人は何にもしないためにはどんなことでもするというわけですね』

これはもの凄く分かりやすい要約だ。国や権力の方を向き、そちらの方に波風を立てないためなら、どれだけ一般人を犠牲にしようが、どれだけ無理くりな理屈をつけようが、裁判所というのは何でもやってくる、ということだ。本書を読むと、本当にそんな風に感じられる。

個人に出来ることは多くはない。しかしまず何よりも、僕たち日本人が、どんな法環境の元で生きているのか、それは絶対に認識しておいた方がいいだろうと思う。

瀬木比呂志+清水潔「裁判所の正体 法服を着た役人たち」

かがみの孤城(辻村深月)

引きこもっている時期は、やっぱり辛かった。

今となっては、当時のことは正確には思い出せない。もう10年以上も前の話だ。何をしていたのか、何をしていなかったのか。どう感じていたのか。何を感じまいとしていたのか。ちゃんとは思い出せない。

けれど、キツかったなぁ、という漠然とした記憶だけは、今の自分の内側にざらっと残っている。

部屋から出ないわけではなかった。すぐ近くにあったコンビニには行っていたし、ちょっと部屋の外に出るぐらいのことはあった。けど、その時期の僕の日常に決定的になかったものは、誰かとの関わり合いだ。

親元を離れ一人暮らしをしている時だったし、酷いやり方で心配してやってきた家族を追い返したので、生活の中で誰かと関わることがなかった。コンビニで会計をする、ぐらいが唯一の関わりだったかもしれない。当然話す相手もいない。当時はまだSNSもそこまで普及していなかったはずだし、どんな形であれネット上で関わりを持つ人というのも存在しなかった。

ずっと一人だった。一日中テレビを見て、頭はグルグルしたままで、よく分からないタイミングで眠りについた。結局そんな時間を一年ぐらい過ごしていたのだと思う。

自分で選んだことだ。誰のせいでもない。引きこもって誰にも会わないと決めたのは僕自身で、誰が何をしたわけでもない。当時はたぶん、親のせいにしていたと思うけど、今ではそうではないことは分かっている。ただ、自分が弱いだけの話だ。

『だから、こころは学校に、行かない。
殺されて、しまうかもしれないから。』

僕も、社会に出なかった。
殺されて、しまうかもしれないから。
社会に出てサラリーマンになって働いたら、絶対に死ぬと、あの頃確信していた。
今でも、その確信は僕の中にくすぶったまま残っている。

みんなが当たり前に出来ることが出来ない。
そのことは、昔の僕を大いに苦しめた。
自分の内側にある、どうにもならない感情に突き動かされるようにして行動するしかないのだけど、しかしその行動が周りとあまりに違いすぎて浮き上がってしまう。
それをどうすればいいのか、僕にはよく分からなかった。

今では昔に比べれば格段にうまく対処できるようになった。
それでもそれは、色んな要素がうまい具合に絡まり合って、たまたまそうなっただけだ。
僕の人生には、そういう状況にうまく対処できない自分、という可能性もありえた。
だから、
居場所がないことに苦しんでいる人の物語に心を掴まれる。

内容に入ろうと思います。
安西こころは、中学に上がってすぐの4月にはもう、中学校に通えなくなってしまった。朝、母親のため息を聞き、昼に普段聞くことのない移動スーパーのアナウンスを聞き、カーテンを閉めた部屋で息を殺すように日々を過ごしている。母親が見つけてきた「心の教室」というフリースクールにも足が向かない。見学に行った時には、喜多嶋と名札にあった女性が凄く親切にしてくれたのに。
同じクラスの真田美織がすべての原因だ。彼女のせいで、こころは学校に行けなくなった。しかし、担任の伊田は、そのことを全然理解しない。真田のような明るくて自己主張が出来る子が、先生も好きだからだ。
同じクラスに、転校生がいた。東条萌というハーフのような整った顔立ちをした女の子で、家が近いからという理由でこころの隣の席になった。けれど、真田から何か言われたのだろう。こころは、東条さんから無視されるようになってしまった。
今も部屋の中で一人でいると、ポストに何か投函された音がする。東条さんが配布物なんかを届けてくれるのだ。けれど、チャイムを鳴らしてこころに会おうとすることはない。
ある日のこと。こころの部屋にある大きな姿見が光った。そしてそこに、可愛らしい服を着ているのに狼の被り物をした少女が映った。
そして、その少女(のちに“おおかみさま”と呼ばれていることを知る)に引きずり込まれるようにして、
こころは、城にやってきた。
そこには、こころの他にも6人の子どもたちが集められていた。そして“おおかみさま”から、この謎の城について説明を受ける。
この城は、3月30日まで使える。
朝9時から午後5時までこの城にいられる。
この城には“願いの鍵”があり、その鍵を見つけた者はどんな願いでも一つだけ叶えることが出来る。
願いを叶えることが出来るのは、一人だけ。
自己紹介をして全員中学生だということが分かった彼らは、薄々気づいていた。9時から5時までしか空いていない城にいつもやってこれるということは…。
ここにいるみんな、学校に通ってないんじゃないだろうか…。
というような話です。

久々に辻村深月の作品を読みましたけど、辻村深月らしい作品だなという感じがしました。周りの“当たり前”に馴染めないでいる感じとか、そういう世界との関わり方の“戸惑い”みたいなものが物語を動かしていく原動力になっていくようなところはさすがだなという感じがします。

ただ個人的には不満もある。これは、僕が持っている辻村深月に対するイメージの問題だからこの作品に付随する欠点では全然ないのだけど、やはり僕はどうしても辻村深月には“悪意”を期待してしまう。

辻村深月は、“悪意”の描き方が抜群だと感じる。本書の中にも、それがないわけではない。担任の伊田を見限るこころの思考や、物語の終わり付近で垣間見える、ある人物が抱く真田に対する感情など、断片的に“悪意”が散りばめられる。

しかし、その“悪意”が、物語の中心になることはない。あくまでも、物語を装飾するという役割がメインだ。そこにどうしても不満を感じてしまう。あの冴え渡るような“悪意”こそが、辻村深月の真骨頂だと思っている僕には、その点が少し物足りなかったかなとは思う。

とはいえ、居場所を無くした者たちの物語として、本書はとても良いと思う。

鏡を通して城にやってくることが出来る7人は、それぞれがそれぞれの事情を抱えている。派手な女子、アキ。イケメンなリオン。声優のような声をしたフウカ。ゲーム好きのマサムネ。「ハリー・ポッター」のロンに似たスバル。小太りのウレシノ。みんな最低限の情報だけを共有しながら、少しずつ仲良くなっていく。お互いに、きっと学校に行っていないのだろう、という思いを共有しているが故に、近づきやすいという側面もあった。自分がどこの誰で、というような情報で判断される場ではない、ということも良かった。彼らは、城の中では、一人の中学生として相対することが出来た。

そして次第に、城は彼らにとっての居場所になっていく。現実の世界で居場所を持てないが故に、城という場が大事な存在になっていくのだ。

しかし、ここでは書かないが、城にはいくつかのルールがあり、そのルールが彼らを悩ませることになる。城だからこそ生まれた関係性が、継続されないかもしれない…。その不安定な条件を理解しながら、それでも彼らは、居場所となった城から離れられないし、お互いの存在が大事に感じられるようになっていく。

傷ついた者同士が、城という特殊な環境であるが故に近づき、様々なものを共有することができる、そういう過程がうまく描かれていると思う。

またこの作品は、城という設定を中心にした物語もなかなか面白く出来ている。城にいる面々は、少しずつ違和感を覚えるようになっていく。その違和感は、本書の読みどころの一つだ。城がどんな理屈で成り立っているのか、ということが、現実での彼らの結びつきにも大きな影響を及ぼすことになり、さらにそれが、喜多嶋というフリースクールの先生を中心とした希望へと繋がっていくことになる。

なるべく興を削がないように曖昧にぼかしながら書いたが、特殊な設定が物語全体の希望を生んでいる、という意味で、全体の構成がよく出来ているなと思う。ただし、本書をミステリだと思って読むのは止めた方がいいと思う。城の謎は確かに一つの読みどころではあるのだけど、それが物語の中心というわけではない。あくまでも中心は、傷ついた者たちが恐る恐る人間関係を積み上げていく過程だ。城という非現実的な世界での経験が、現実の彼らをどう変えていくのか。そこをしっかりと読んで欲しいと思う。

辻村深月「かがみの孤城」

雪盲(ラグナル・ヨナソン)

内容に入ろうと思います。
アイスランドの首都・レイキャヴィークで、医学部を目指して勉強をしている恋人・クリスティンと一緒に暮らしているアリ=トウルは、神学の勉強をあきらめて警察学校に入学し直した変わり者だ。そんなアリ=トウルは、クリスティンに内緒でいくつか仕事先の応募をしており、その内の一つから電話が掛かってきた。
シグフィヨルズルという、アイスランドの最北の地にある警察署からだ。
アリ=トウルは、クリスティンに相談することもなく、その警察署への赴任を決めた。レイキャヴィークとの距離は400キロ。アリ=トウルと未来を作っているものだと思っていたクリスティンは気落ちし、赴任するアリ=トウルを冷たく見送った。
見知らぬ土地にやってきたアリ=トウルは、特に事件らしい事件も起こらないこの町で、少しずつ溶け込もうとしていた。しかし、誰も彼もが知り合い、という町で、アリ=トウルは浮いていた。誰も積極的には話しかけては来ないが、常に視線は感じる。そして、アリ=トウルのことを誰もが知っている。窮屈だとアリ=トウルは思った。
シグフィヨルズルの町には、フロルフュルという、アイスランドを代表する著名な作家が住んでおり、彼が主催する劇団がある。町の様々な人間がその劇団と関わり、演出家や脚本家、役者や大道具などを分担してこなしている。
彼らが新たな公演の準備を進め、いざ初演を迎えようという直前、それは起こった。舞台稽古の昼休み中に、稽古場でフロルフュルが死んでいたのだ。酒を飲んでいたから事故だろうと思われたが、アリ=トウルは違和感を覚え独自の捜査を開始する。
そしてその直後に、今度は劇団の主役の妻が、上半身裸のまま血を流して倒れているのが発見され…。
というような話です。

北欧のミステリのレベルが高い、という話は耳にしていて、僕自身も本書を含めて2~3作読んだことがあるのだけど、僕にはどうにも良さが理解できない。

本書も、ストーリーを取り出せば、どうということはないような気がしてしまうのだけど、違うんだろうか…。

ミステリという形式の最大の問題点は、謎がメインであるが故に、謎が解き明かされないとその作品の良さが分からない、ということだ。もちろん作家は様々に趣向を凝らし、謎が解き明かされるまでの物語も面白く読ませるようにするのだが、そうではない作品もある。僕には本書が、後者のような作品に思えてしまう。

この物語は、事件自体がそもそも地味だと思う。一つは、事故か自殺か分からない老作家の死。そしてもう一つが、ナイフで刺された意識不明の女性。「誰が犯人か」という以外に事件そのものに謎めいた部分はない。

そしてそれを解き明かすためにアリ=トウルが色々と捜査をするのだけど、その過程も特別面白くは感じられないのだよなぁ。確かに、シグフィヨルズルの町には「何かあるな」という雰囲気は漂ってくる。ただどうも、そこに特別な関心が抱けない。特別に魅力的な人物が出てくるわけでもないし、「えっ、どういうことなんだろう?」と思わせるような展開もない。「何かあるな」という予感だけは継続して発しながら、どうにも僕はそれに惹きつけられない。

そして事件の真相も、そんなもんかー、という風に感じてしまったんだよなぁ。

いや、これはこの作品に限らずで、僕が読んだことがある範囲の北欧ミステリからはなんか同じような感じの印象を受けるのだ。

北欧ミステリのどこが評価されているのか、僕にはうまく捉えきれないが、いつ止むとも知れない雪に覆われた陰鬱とした土地に雰囲気が良かったりするんだろうか。まあ、確かにそういう雰囲気はある。陰鬱だなぁ、という感じは、最初から最後までずっと付きまとう。そういう雰囲気が好きなら、好きになれるだろう。しかし、気候が人々に与えるその陰鬱さが、物語の展開や動機にそこまで反映されていないようにも感じられるから、ただ雰囲気が陰鬱だというだけの理由では評価できないと思うんだけどなぁ。

僕にはなかなか良さが捉えきれない作品だ。

ラグナル・ヨナソン「雪盲」

宇喜多の捨て嫁(木下昌輝)

人には役割というものがあるのだな、ということを、なんとなく少しずつ受け入れられるようになってきたような気がする。

すべての人間が「こう生きたい」を貫けるわけではない。いや、ほとんどの人間にとって、そんなこと不可能だろうと思う。自分が望む生き方を誰もが望みながら、少しずつ自分の生き方を修正していくことになる。

それでは、どう自分の人生を修正していくのか。

そこに「役割」というのが関わってくるのではないか。僕はそんな風に感じるようになってきた。

「役割」というのは、自分がいる場で何かを求められている、ということだ。自分が何を求められているのか、ということを理解し、それを実現するためにどう振る舞うかを考える。「こう生きたい」を貫けない状況に陥ってしまったら、そういう風にしか、自分の人生を修正していくことは出来ないのではないか。

その過程で、自分が望んでいないような見られ方をされるようになるかもしれない。悪評が広まることだってあるかもしれない。

とはいえ、すべてを手に入れることは出来ない。「こう生きたい」を貫けなくなった時点で、何かを諦めなければならないのだ。

何を諦めるのか。

「こう生きたい」から外れざるを得なくなった後、その点を非道に突き詰め、求められている役割を徹底的にやり遂げた異端児の物語である。

内容に入ろうと思います。
本書は、6編の短編が収録された連作短編集です。
(僕は基本的に歴史が得意ではないので、以下の内容紹介に間違いがあるかもしれませんが、大目に見てください)

「宇喜多の捨て嫁」
宇喜多家当主の直家の四女である於葉は、後藤家から婚姻の話が来ている。直家は、自分の娘さえも謀略に使うと悪評が立つ男であり、これまでも自分の娘を嫁がせた先を次々に仕物していった。だから、宇喜多の娘を嫁にもらうなど家の中で毒蛇を放つようなものだと言われ、また、直家の娘の扱いを、碁の「捨て石」になぞらえて「捨て嫁」と呼ぶ。
後藤家に嫁いだ於葉は、後藤家の嫁になろうとするが、宇喜多の名が邪魔をする…。

「無想の抜刀術」
八郎は、父である久蔵が逃げ着いた先である阿部善定宅に住むことになった。阿部善定の娘と久蔵が男女の仲であり、虎丸という子をもうけていたことを母は知らなかったようだ。阿部善定は、母と八郎を住まわせる代わりに、下女と同じような扱いをされることを受け入れた。母は八郎を、侍の子として育てようとするが、環境がなかなかそれを許さない。
その後浦上家に仕官を望んだ母子だったが、武功を挙げられなければ立場は弱い。そんな折、八郎が戦に出ることになったが…。

「貝あわせ」
宇喜多家に、島村家に当主がやってくる。直家の嫁を天神山城に登城させろ、というのだ。侍女として、というが、要は人質だ。妻の富は身重であり、承服できない提案だったが、聞けばのっぴきならない状況にあるという。もしかしたら富を登城させる方が安全やもしれぬ。しかし、富は城を離れようとしない。
やがて城を取り囲まれる事態に陥るが…。

「ぐひんの鼻」
浦上宗景は、幼い八郎が犯した罪を見ており、それ故、使える駒としてその成長を見守ってきた。幼きあの日、ぐひんの鼻先に立った八郎ならきっと、何かやるだろう、と。
その予想は、宗景の予想を大きく越えるものだった。今、浦上家が他と対抗出来るのは、八郎、すなわち宇喜多直家によるところが大きい。どんな策略を用いてでも勝ちを見出していくあり方は直家の祖父さえ凌駕している。しかしその力ゆえ、宗景には直家が邪魔に思えてしまう…。

「松之丞の一太刀」
浦上家の嫡男である松之丞は、剣や刀などを好まず、女の遊びである貝あわせに興じるような男だった。その松之丞、浦上家が宇喜多家を乗っ取る計略のために、宇喜多家の三女である小梅との結婚話が進んでいる。一筋縄ではいかない宇喜多家の計略、そしてお面を被るという謎の振る舞いをする小梅。直家とは正反対の性質を持つという松之丞は、やがてある一計を案じるが…。

「五逆の鼓」
江見河原家は浦上家の重臣の家系だが、源五郎の父は播磨以外にも名が知れる有名な鼓名人であり、武芸には秀でていない。その血を継いだのか、源五郎もまた武芸では劣る。しかし、父が早々と見切りを付けられたが故に、すべての期待が源五郎に降り注ぎ、鼓の筋は良いと父から言われながらも、鼓の稽古をする時間を取ることも出来ない。
長い時を経たある日、宇喜多家から使者がやってきて、密談をするのが、源五郎は断る。しかし、帰りを促そうと演奏した鼓の音を聞いた宇喜多家の使者からとある提案を受け…。

というような話です。

なかなか読み応えのある作品でした。

大前提として僕は歴史がとても苦手なので、普通は歴史モノは読まない。ただ、この作品は、読みやすかった。宇喜多家、というのが歴史上どの程度有名なのか僕は知らないが(僕は初めて聞いた)、なんとなくあまりメジャーではないように感じた。メジャーな武将を描く場合、読者の基礎知識がある程度高いと推察されるので、「これぐらいは知っているだろう」という部分は省略されがちなのではないか、と思う。もしそうだとすれば、それ故に僕は、そういう歴史小説を読むのが苦手だといえる。しかし、宇喜多家というのが歴史上そこまで有名でなければ、歴史の苦手な僕もそこそこ歴史に詳しい人も同じ程度の知識量と推察出来るので、だからこそ分かりやすい記述になるのではないか。本書が読みやすかった理由を、僕はそんな風に捉えている。

本書では、宇喜多直家(八郎)という人物を多角的に描き出している。冒頭で宇喜多直家は、極悪非道の人物として登場する。自分の娘を計略に用い、どんな卑怯な手も厭わずに使う男として、散々な描かれ方をする。冒頭の話だけで止まってしまえば、宇喜多直家は永遠に最低な卑怯者のままだろう。

しかし、読み進めていくにつれて、その印象が変わっていく。そこが本書の面白さのポイントだ。

特に「貝あわせ」は、宇喜多直家の変化が一番よく分かる話だろうと思う。元来、卑怯な戦法は取りたくない、と考えていた直家は、何故、どんな手を使ってでも勝ちを狙うような男になっていったのか。その根っこの部分が、ここで描かれていく。

また、直家に出自も非常に魅力的だ。ここには、二番目の短編のタイトルにもなっている「無想の抜刀術」というものが関わってくる。直家は、ごく稀にその力を持つ者が現れると言われるほど稀な「無想の抜刀術」を生まれながらにして持つ男だ。それ故、直家自身が望んでいない幾多の悲劇が巻き起こることになる。

ここに恐らく、「役割」が関わってくるのだと思う。

直家は、「無想の抜刀術」という力を持つが故に、「こう生きたい」から外れざるを得なかった。そして、「無想の抜刀術」を持つが故に、ある意味で鬼神のような生き方をせざるを得なかった。「無想の抜刀術」というものが本当に存在するのかどうか、それは僕には判断できないけど、宇喜多直家という男の生き様が、この「無想の抜刀術」をベースにして組み上げられていることが様々な場面から見て取ることが出来るという点が、非常に良く出来ていると感じる部分だった。

裏切り裏切られという戦国の世にあって、そうせざるを得なかった生き方に身を投じ、どんな風に見られようが己のあり方を貫いた宇喜多直家という男には、ある意味で生き方の美学がある、と感じられた。その生き方すべてに賛同できるわけではないが、世が世なら宇喜多直家は以上に好人物として生きられた可能性もある。乱世の世に生まれ、守るべきものをたくさん抱えていたからこその生き様に鬼気迫るものを感じ、うたれた。

この物語は基本的には宇喜多直家を描くものだが、脇を固める面々も実に多彩で面白い。宇喜多家に仕える者、宇喜多直家の家族、敵対する者、敵対しているはずの者などなど、様々な関係性が入り乱れるが、どれ一つとして安定しているものはない。裏切り裏切られることが当たり前の世にあっては、誰とどんな関係を築いていても、それがあっさりと崩れてしまうことはある。そういう儚さの中で、勝ち続けるしかない男たちの悲哀も浮き彫りにしているのかもしれない、とも思う。

やはり歴史モノということで、どうしてもどストライクとは行かなかったが、とはいえ非常に読ませる、ぎっしり身の詰まった作品だと感じた。

木下昌輝「宇喜多の捨て嫁」

さすらいのマイナンバー(松宮宏)

読み終わった後、特別何か残るわけじゃないから、ここで書くことってあんまりないんだけど、でも読んでる間は面白いなぁって感じで読めちゃう本ってあって、この本もそういう感じ。面白く読まされちゃうんだよなぁ。この作家、上手いと思います。

内容に入ろうと思います。
本書は、3編の短編が収録された連作短編集です。神戸を舞台にしており、同著者の「まぼろしのお好み焼きソース」という作品とも繋がる作品です。

「小さな郵便局員」
郵便局員である山岡タケシは、今とても困っている。上司に「おごってやるよ」と言われて連れて行ってもらったキャバクラで大金を払わされることになり、安月給ではカツカツなのだ。そんな折、IT企業を立ち上げヤフーからも買収話があった有名学生起業家である兄からアルバイトを頼まれた。夕方、職場を抜け出してATMでお金を引き出してもらえればその度に1万円払う、というものだ。なんだかよく分からなかったが、タケシはその話に飛びついた。トイレに行くということにして職場を抜け出すのだが、上司である武藤の邪魔が入り、無駄な攻防に時間を取られる。また、謎めいた女からいつもキャッシュカードを受け取るのだが、毎回その名義が違うのだ。もちろん、怪しい、とは思っていた。しかし、お金は必要だ。あまり考えずに、タケシは兄からの依頼に応え続けた。
そしてついに、その日が来た。いつもキャッシュカードを渡す女から、いつもとは違うことを言われたのだ…。

「さすらうマイナンバー」
山岡タケシは、全国の郵便局員にとっての死活問題である、「マイナンバーの配送」という問題に、やはり苦しめられていた。マイナンバーは個人情報であるが故に、簡易書留、つまり本人に認印をもらわなければならないのだ。配送の途中でマイナンバーや受領書の紛失があったりなんかすると、もう上司が大慌てするような、そんな大変な事態を引き起こしているのだ。
何度配達しても不在、という家に苦しめられながらも、タケシはマイナンバーの配送を徐々にこなしていった。しかし、タケシには、自身の配送地域における「配送困難家庭トップ3」という最難関の壁が立ちはだかっていた。いくら呼んでも出てこない老婆、常に喧嘩が絶えない夫婦、そしてヤクザの事務所…。

「刑事部長の娘」
刑事部長の娘である珠緒は、非常に奇妙な成り行きから、由緒ある大学を退学させられるところだったのが、一転卒業生の総代に選ばれるというウルトラCを成し遂げた。その武勇伝は広く伝わり、珠緒の周囲は謎の盛り上がりを見せていた。
一方、郵便局員である桃子は、幼馴染であり、川本組の組員である福富良男からの誘いを受けた。何でも、先輩の割烹を借りて、良男自身が腕を振るうのだという。断ろうとしたが、成り行きで行く形になってしまった桃子だったが…。

というような話です。

面白い話を書くんだよなぁ、この著者。「まぼろしのお好み焼きソース」も実に面白かったけど、こちらも面白い。正直、ストーリー自体はしょうもないというか、大した話ではないんだけど、なんだか読まされてしまう。不思議な魅力のある小説だなと思います。

人物と町の設定がいいんだろうな、という気がします。

読んでいて感じるのは、「こち亀」の雰囲気です。下町を舞台に、色んな個性を持つ面々があーだこーだ繰り広げる、というのが「こち亀」の乱暴な要約だと思うんだけど、その乱暴な要約は本書にも当てはまる。どんな個性の人間も許容してしまう度量の深い町の設定と、その町の中で個性を引き伸ばしている人物とが実に上手く混じり合って、面白い物語を生み出しているなぁ、という風に思います。

「小さな郵便局員」の話は、たぶん誰が読んだって、早い段階で「振り込め詐欺の話だな」って分かると思うんだけど、それが分かっちゃっても、話の面白さが半減するっていうことは特にない。上司とのくだらない駆け引きとか、謎の女の存在とか、ある瞬間以降のネタバラシなどなど、短い話の中に色んな要素を詰め込んでいく。基本的にはしょーもない話なんだけど、面白いんだよなぁ。

「さすらうマイナンバー」も、よくマイナンバーなんかで短編を一つ書くな、と思うくらい、しょーもないんだけど面白い。マイナンバーの配送の苦労は本当の話なんだろうけど(「まぼろしのお好み焼きソース」に、郵便屋さんのモデルは実在する、と書いていたので、恐らく本書に出てくる山岡タケシに実在のモデルがいるということなんだと思います)、その大変さをこんな風に面白おかしい物語に仕立てるというのは、ある種の才能だなと思いました。

最後の「刑事部長の娘」も、3編の中で最もよく分からないというか、なんなんだこの話は、って感じなんだけど、不思議な魅力があるんだよなぁ。決してストーリーで読者を引っ張っているわけではないんだけど、じゃあ何に引っ張られているのかはイマイチよく分からないという、なんだか不思議な感じのする小説でした。

松宮宏「さすらいのマイナンバー」

簡素な生き方(シャルル・ヴァグネル)

本というのは寿命の長いメディアだ。
印刷機が発明されてからずっと残り続けているような書物だってあるし、そもそもが写本という形でさらに以前からの本が残っていたりもする。

とはいえ、昔書かれた本を読む難しさというものはある。

その一つに、書く必要もないと著者が考えている同時代的な大前提を、現代の読者は知らない、ということが挙げられる。このことを、小説を例にとって説明してみたい。

例えばSF小説の場合、何らかの特殊な設定があることが多い。タイムトラベルが出来るとか、火星まで行ける宇宙船があるとかだ。そういう、僕らが生きているのとは折り合わせない設定がある場合、作家はその点について何らかの形で読者に提示しながら物語を進めていく必要がある。

しかし、現代を舞台にした小説の場合、そうではないことが多い。例えば作中に「コンビニ」と書いてあれば、僕らはそれが何であるのかすぐに理解できる。著者はそれを説明する必要はない。しかし、100年後の未来にはもう「コンビニ」は存在しないかもしれない。「コンビニ」について作中で説明していない物語の場合、未来の読者には伝わりにくくなる。

今は「コンビニ」という具体的なものを例に挙げたが、これは価値観や考え方についても同じだ。その時代その時代の当たり前の価値観については説明されないことの方が多いだろう。

そしてその点が、昔書かれた本を読む難しさに繋がっていく。

本書は、具体的な出来事や事例の話が非常に少ない。具体的な事実などの背景が描かれることなく、著者の考えていることが書かれていく。そうであればあるほど、その時代の大前提となる考え方が出にくくなる、といえるだろう。

本書は120年前にフランスで出版された、当時の欧米のベストセラーだそうだ。読みながら僕は、著者が前提としている考え方を上手く捉えることが出来ずに、読むのに苦労した。当時の基本的な考え方との差が著者の主張になるのだろうが、前提となる考え方をうまく捉えられなかったので、その差も捉えにくいと感じてしまった。

また、差のことはともかくとして、著者の言っていることを字面で受け取った場合、書かれていることは少なくとも今の僕にとってはとても当たり前のことのように感じられて、それもこの作品の良さが分からない理由の一つではある。この本に書かれていることを、自分が考えたこともない新鮮な発想だ、と感じる人もいるだろう。しかし、僕にはそうは思えなかった。本書で書かれていることを、僕は既に実践していたり考えていたりするので、新鮮さを感じることが難しかった。

とはいえ、世の中の「当たり前」にがんじがらめに囚われてしまっている人には、読んだら面白く感じられる本かもしれません。

シャルル・ヴァグネル「簡素な生き方」

ライオン・ブルー(呉勝浩)

色んな分類の仕方があるだろうが、ミステリをこんな風に二つに区分してみる。

一つは、「わけのわからなさが冒頭で一気に明らかにされる物語」だ。例えば同著者の、「白い衝動」という作品を挙げることが出来る。

「白い衝動」では冒頭から、「自分は誰かを殺してしまうかもしれない」と相談に来る高校生が登場する。さらに、かつて得体の知れない殺人を犯し、刑務所から出所した元凶悪犯が近隣に住んでいる、という情報がもたらされる。非常に不穏で、わけがわからない。このわけのわからなさをいかに解くかがミステリの核となって、物語が展開されていくことになる。

もう一つは、「わけのわからなさが少しずつ現れる物語」だ。まさに本書が、そういう物語だ。物語は、日常からスタートする。状況設定や人間関係を少しずつ描き出していきながら、徐々にその日常の中に「わけのわからなさ」が現れてくる。「わけのわからなさ」がなんであるのかというのを物語の核にしながら、それを解いていく物語だ。

さて僕は、前者のようなミステリが好きなようだ。冒頭でバーンと「わけのわからなさ」が登場する。なんだこりゃ、意味が分からない、という感覚に引っ張られていく。冒頭であまりにも大きな「わけのわからなさ」を提示することは、着地点を難しくすることにも繋がる。それは、読者からすれば期待にも変わる。この「わけのわからなさ」に、本当に説明をつけることなど出来るのだろうか?そういう期待がずっと自分の内側に残り続け、その続きを読みたいという動機に繋がっていく。

前者のようなミステリと比較した場合、後者のようなミステリは、読み続ける動機を確保するのが難しいことがある。「わけのわからなさ」が小出しにされるということは、僕にとっての先を読みたいと感じさせる動機が少しずつしか現れてこないことになる。「わけのわからなさ」以外にも、例えばキャラクターが魅力的だというような、読者を引っ張っていく要素があればまた違うだろう。でも、そうではない場合、少しずつ「わけのわからなさ」が明らかになっていく展開は、自分の中の読み進める動機を見つけ出すことが難しくなっていく。

もちろんこれは人によって違うだろう。後者のようなミステリの方が好きだ、という人もいるだろう。どちらがいい、という話ではない。ただ僕は、「わけのわからなさ」が冒頭でバーンと出てくる物語の方がどうしても好きになってしまう(もちろん、着地点の困難さの問題があるから、うまく着地させられずに失速してしまう物語も多くなる、という欠陥はあるのだけど)。

内容に入ろうと思います。
澤登耀司は、地元である関西の田舎町・獅子追の交番に異動してきた。澤登は「あの澤登」と呼ばれるほど有名な存在だ。甲子園で彼が見せた姿は今でも多くの人に記憶され、それから逃げるように澤登は地元に寄り付かなくなった。
今回、父の入院を理由に移動願いを出した澤登だったが、折り合いの悪い兄が実家の石屋を継いでいるし、今さら澤登が戻ってきたところで父は病院だ。本当の目的は別にある。
長原だ。教場(警察学校)で同期だった長原が、この獅子追交番での任地を最後に失踪したのだ。勤務中に警官が拳銃を持ったまま失踪したとあって、当時大ニュースになった。しかし、長原の無線機が発見されたのみで、長原の行方は杳として知れない。それを澤登は調べにやってきたのだ。
獅子追は、千歳という地元の大地主が牛耳っている。警官の身でありながら、その千歳とかなり深くつるんでいる晃光大吾という巡査が、獅子追交番を実質的に取り仕切っているようだ。交通事故が大事件であるような田舎では、交番の仕事なんかほとんどない。たまにあるトラブルを晃光が解決するやり方を見て、澤登は異常だと感じた。晃光の、法を無視した振る舞いが、ここ獅子追ではまかり通っているのだ。
澤登は、実直に勤務を続けながら、それとなく長原の失踪の謎を追った。そんな折、事件らしい事件のない獅子追で、火事があった。毛利淳一郎という地元の鼻つまみ者が焼死体で発見されたが、他殺の可能性もあるという。火災の報を受けて現場に急行した澤登は、非番だったはずの晃光が現場にいたことに不審を覚えた。
さらに澤登は、自分が知らない内に、澤登家のある決断が獅子追の命運を握っていることを知り…。
というような話です。

冒頭でも書いたように、「わけのわからなさ」が徐々に現れてくる物語で、そういう物語の性質上、僕とはちょっと合わなかったな、と感じる作品でした。

この物語を理解するためには、獅子追という田舎町が抱えた歴史や問題を理解しなくてはいけない。それらは、様々な断片に亘っているから、冒頭でバーンと提示するのは難しい。少しずつ、獅子追という土地の異様さが浮き彫りになっていく。その過程はなかなか面白いし、中盤から後半に掛けての、頭のネジが数本ぶっ飛んだような展開は斬新だと感じもした。

とはいえやはり、中盤までの展開がなかなかじれったいと感じてしまった。出てくるのは田舎の交番のオッサンばっかりだし、特に何が起こるわけでもない田舎町での出来事だから、日常に特別な変化があるわけではない。そういう中で殺人事件が起こるのだけど、それらの背景は徐々にしか明らかにならないから、その背景に横たわるものを期待して読むということがなかなか難しい。

そしてもう一つ、この物語を僕があまり受け入れられないのは、「土地」というものに対する思い入れが基本的にないことが理由にある。

この物語は、様々な人間が「獅子追」という土地について考えたり考えさせられたり影響されたり囚われたりする過程で起こる。田舎町であればどこにでもこういう構図はあるのかもしれない。晃光は獅子追の現状を、『ここがろくでもない田舎やと、みんなよくわかっとる。田舎が悪いんとちゃう。出来上がった田舎のシステムがくそなんや。誰もそこから自由になれん。』と表現している。土地というものに深く深く根付いて、そこに住む者すべてをがんじがらめにするような環境だからこそ、この物語は成立しうる。

そして僕は、そういう事柄に基本的にまるで関心がない。関心がなくても取り込まれてしまうのがこういう土地の問題なんだろうけど、幸いにして今までそういうことに囚われたことがないし、自分から関心を持とうという気持ちもない。僕自身はどこに住んでいてもいいし、ここでなければ生きられないなんていう感覚もない。そういう根無し草のような人間には、物語の中で人々ががんじがらめに囚われているものの正体が、ぼんやりとしか掴めないということになってしまう。

僕がこの物語の中で最も関心があるのは、晃光大吾という男だ。彼はなかなか興味深い。彼の行動原理は、行動原理を知る前はほとんど理解不能だが、行動原理が分かれば実にシンプルで分かりやすい。常人には理解しがたい言動にも、彼なりの思慮が込められている。目指すべき場所がはっきりしているからこそ、迷うこともない。この潔さは、実に魅力的だと感じた。

後半の展開は、晃光大吾の存在抜きには成り立たない。この異形の男が、日常の中に紛れ込みながら、己の目指す高みへと邁進していく。そのブレなさは見事だし、その強さには憧れさえしてしまう。

あと、とある殺人犯の殺人の動機も凄まじい。過去これほど中身のない動機で殺人を犯したものが、物語の中であってもいただろうか?

呉勝浩「ライオン・ブルー」

まぼろしのお好み焼きソース(松宮宏)

作中にも登場する、「ヤクザと憲法」という映画を、僕も観に行ったことがある。実際にヤクザに密着しているドキュメンタリー映画で、薬物を販売しているように見える場面や、ドア越しに若手組員をボコボコにしている映像など、とにかくリアルなシーンが満載の映画だった。

その映画の一つのテーマが、ヤクザの人権だった。

今ヤクザとして生きると、子供が幼稚園に入れなかったり、銀行から金を借りることが出来なかったりするらしい。暴対法が出来て(厳しくなって?)からその傾向は苛烈になったようで、その有り様が、憲法が保障しているはずの「最低限度の生活」を享受出来ていないのではないか…。この映画は、こういう問題意識を投げかけるものだった。

僕は日常的にヤクザと関わる生活をしていない。近隣にヤクザの事務所があったり、ヤクザと商売上関わらざるを得ない立場になればまた意見は変わってしまうだろうが、今の僕は、ヤクザにもきちんとした権利が与えられるべきだ、と思う。とはいえそれは、ヤクザだって人間じゃないか、というような人間愛から生まれるものではない。ヤクザにもヤクザなりの存在意義があると思うからだ。

日常の中にヤクザがいるというのは、確かに恐ろしいし不快ではあるが、ヤクザだからこそ出来る役回り、というのは確実にあると思う。昔は、ヤクザが地域ときちんと関係を持ち、お互いがお互いの役割をまっとうする、というような形で共存していた(少なくともそういう地域もあった)のではないかと思う。

いわゆる汚れ仕事をヤクザがきちんと請け負うことで、社会が回っている、というような側面もきっとあったはずだろうと思う。しかし、ヤクザを排斥するという流れが生まれ、ヤクザがどんどん追い詰められていく中で、暴対法の枠組みでは取り締まることが出来ないハングレ集団や中国系のマフィアなど、様々な勢力が出てきてしまった。良い見方をすれば、これまではヤクザがいたからこそハングレ集団や中国系マフィアが活動することが出来なかった、といえるだろう。それを、汚れ仕事を誰がやるのかという問題を先送りにしたままヤクザを排斥してしまったことで、より問題が大きくなってしまった、と見ることだって出来るのではないかと思う。

僕の中には前提として、そういう捉え方がある。

もちろん、すべてのヤクザが良い、と言っているわけではない。実際に、ヤクザの抗争に巻き込まれて命を落とす一般人もいれば、ヤクザに風俗に沈められてしまった女性もいるだろう。だから、全面的にヤクザを肯定している、と捉えられるのはちょっと違うと言いたい。しかし、悪いからと言って何でもかんでも排斥する姿勢が正しいとも思えない、ということだ。

ヤクザはともかく、ヤクザ的な存在というのは社会の中に必要なのだと思う。ヤクザ的な存在が、社会や地域の汚れ仕事を引き受けるからこそ、住民は綺麗な世界で生きることが出来る。無理やりヤクザに引き入れるのは言語道断だが、自ら進んで、あるいは何かよんどころない事情があってヤクザになったのであれば、ヤクザとしての生き方を社会が許容する、ということは考え方の一つとしてあってもいいのではないか、と思う。

繰り返すが、今僕はヤクザと関わりのない生活をしているからこんなことが言えるのだ、ということはきちんと自覚しているつもりだ。今後状況によっては意見が変わる可能性もある。とはいえ、理想論かもしれないけど、理想であったとしても誰かが口に出さなければ現実になることはない、とも思っている。

この小説は別にヤクザ小説ではないのだけど(ヤクザは出てきますが)、彼らが地域や社会からどう扱われているのか、ということを読みながら、「ヤクザと憲法」を観た時のことを思い出していた。

内容に入ろうと思います。
物語は、青葉小学校を中心に始まる。
まずは、新任の先生のご紹介だ。磯野祥子は、静岡県富士宮市出身だが、訳あってこの神戸市長田にある青葉小学校に赴任した。富士宮焼きそば発祥の店で働いていた祥子は、ソース文化を調べていく内に神戸に行き着いた。神戸こそ、ソースが生まれた土地だったのだ。素晴らしいソースと、豊かな粉もん文化が根づいている長田に憧れていた祥子は、青葉小学校に欠員が出たと知るやすぐさま応募した。二学期途中からの赴任となった祥子は、通勤途中にある「間口ソース店」に吸い寄せられるようにして入っていき、ソースをうっとりと眺めていたら、赴任初日に行われる運動会に遅刻することになった。
青葉小学校では、徒競走のスタートにピストルを使わない。そこには、青葉小学校が抱える長い複雑な事情が隠されている。
青葉小学校がある敷地の一部は、なんと、長田周辺を縄張りとするヤクザ・川本組の敷地なのだ。小学校は、川本組から敷地を借りている。そんな事情もあり、ピストルの使用を自粛しているのだ。
さて、そんな川本組は、川本甚三郎親分を筆頭に総勢6名ほどの小所帯であり、小学校からの賃貸料と地元での小さなシノギでなんとか持っている。長くこの地域に暮らす住民からは、『川本組はやくざやない。人がいちばんやりたくないところを何とかしてくれる任侠や』と理解を示してくれるのだが、とはいえ祖父が安藤組の初代と兄弟の盃を交わしており、やはり一般的にはヤクザと認識されている。甚三郎はそんな状況を変えようと日々模索しているのだが、すぐにうまく行くような方法はない。
そんな中、長田の粉もん文化を支えていると言っても言い過ぎではないオリーブソースが、闇金からの借金を返せずに追い込みを掛けられそうだ、という話を知る。オリーブソースは大野夫婦が二人でやっている工場で、妻の入院費として借りた借金が膨らんでしまった。材料さえ調達出来れば借金は3ヶ月もあれば完済できるのだが、何せその仕入れ代が捻出出来ない。このままでは、闇金や銀行が出張ってきて、土地を売り飛ばされておしまいだ。
そこで甚三郎は、若頭の山崎に、オリーブソースの再建を命じた。地元の宝であるオリーブソースを失ってはならない。なんとしてでも立て直すんだ、と。
『やくざは、やると決めたことは死ぬ気でやる。それだけである』
脱やくざを掲げる親分に振り回されながらも、川本組の面々は知力と根性を振り絞って、オリーブソースを救う手立てを考える…。
というような話です。

いやー、これは面白かったなぁ。とても良くできていると感じました。タイトルから、オリーブソースの再建がメインになるんだろう、と思ってたんですけど、いや、実際にオリーブソースの再建がメインなんですけど、後半、えっそんな話になるの?という連続で、ちょっとびっくりしました。

まず、甚三郎のキャラクターがとてもいいですね。甚三郎は、『やくざは終わりだ。やくざ的なのも終わりだ。正しく生きたい人が正しく生きるために、川本組は変化を遂げるんだ』という信念をずっと持っていて、それをどう実行に移すのかを必死で考えている。若頭の山崎には、甚三郎が何を考えているのか正直理解できない部分もあるが(甚三郎の言うことを「禅問答」と表現したりする)、とはいえ山崎のように、疑問を持ちながらも意志を汲み取って行動する人間がいるからこそ、甚三郎の青写真が正しく未来を生み出したとも言える。

やくざがやくざの看板を下ろす(なんて表現をするのか分からないけど)のはとても難しいだろう。川本組の場合、古くからの住民からはきちんとその存在意義を理解してもらっている、という点は強いけど、それでもそういう歴史を知らない住民には恐れられている。やくざを止めました、と言ったところで、信用されるはずもない。甚三郎は、川本組がやくざを止め、さらに地域の方にもそう認識してもらう、という非常に難しい着地を目指しているのだ。

その甚三郎のプランに、オリーブソースの再建の話がピタリとはまり込む。オリーブソースは、長田のソース文化、粉もん文化の命脈とも呼べる存在であり、地元住民からの存続を望む声も強い。とはいえ長田は、阪神淡路大震災によってかなりのダメージを受けた土地であり、長田の町にも余裕があるわけではない。みなオリーブソースを助けたいと思いつつ、出来ることが限られているのだ。

そこで川本組である。川本組の女組員である山下みどりは、川本組が地域の中でやくざ的な扱いをされないためにどうすべきかという甚三郎からの課題に答えている。

『わたしが考える方法は単純です。町を元気にすることです。わかりやすく言えば、町の人が儲かることです。利益が出る地域の名物を、今まで知らなかった外の人にもアピールし、さらに利益が出るようにすることです』

もはやヤクザがすることではないが、川本組はやくざから脱却しようとしているのだから当然と言えば当然だ。

川本組がやくざでなければ話はもっとスムーズに行っただろうが、それでは物語にならない。この物語は、やくざを脱却しようとしている川本組が、どうにか堅気であることをアピールしつつ、地元のためにソース工場を再建させようと本気で努力する、という部分が非常に面白いのだ。

また、組長以外の川本組の面々も良い。特に、既に名前を出した山崎とみどりが良い。彼らには色んな過去があるようだが、本書だけでは分からない。本書の前に、「さすらいのマイナンバー」という作品があり、そこで彼らの過去が描かれているようなのだ(僕は本書から読んでしまったので詳細は不明)。共に複雑な事情を抱えながら、甚三郎に拾ってもらった、という恩を抱いている者であり、自分がヤクザであろうがなんだろうが、とにかく親分のために身を粉にして働くんだ、というスタンスが良い。甚三郎と、山崎・みどりとの信頼関係が物事を動かしていったと言っていいだろう。

川本組がきっかけとなって、地域が動き始める。川本組が押し出し続ける誠実さを人々が理解し、少しずつ広め、共感の輪が広まっていく。うまく行きすぎだろう、という展開なのは物語なので仕方ないとして、とはいえ決してご都合主義というような展開ではなく、色んなことがうまく行ったらこうなるかもなぁ、と思わせてくれるのも良い。

さて、このまま良い感じで物語は閉じるのか、と思っていたら、後半でまたちょっとギアが変わるのが面白い。うそっ、ここからどうなるわけ?というようなドタバタの中、ウルトラCのような流れの中で物語が終焉を迎える。どんな展開になるのかは是非読んで欲しいが、これもまたとても良い展開で、甚三郎グッジョブ、という感じである。

どんな人でも面白く読める小説ではないかと思いました。

松宮宏「まぼろしのお好み焼きソース」

ナオミとカナコ(奥田英朗)

正しいことだけじゃ、生きていけない。
そんなことは分かってる。
けど、あまりにも高い壁を越えなければその後の人生が成り立たない―、そういう状況に追い込まれた時、その壁を越えられるだろうか、と考えてしまった。

自分のため、ということであれば、越えられるかもしれない、とは思う。
でも、自分以外の誰かのためだったら…。ちょっと僕には分からない。

彼女たちは、その壁を越えた。

そこにどんな葛藤があったのか、が描かれる物語ではある。
けれど、読んでそのすべてが分かるわけではないだろう。

印象的な文章がある。

『この神様が与えてくれたような完璧なプランが、自分を誘惑する。やれと言っているのだ』

もう一つ。

『もはや直美の頭の中は、達郎のクリアランス・プラン以外のことを受け付けなくなっていた。このプランは自分の作品のような気がする。早く完成させたい。その気持ちが喉元まで込み上げてきて、じっとしていられないのだ。』

僕は、この気持ちは理解できるような気がしてしまった。人は、そう簡単には、遥かな壁を越えられないはずだ。様々な心理的障壁が、そこには横たわっている。しかも直美は、直接的には関係ない立場だ。そんな彼女が、何故その壁を越えることが出来たのか。その一端が、この文章には表れている、と感じた。

その行動にどんな意味付けをするのかで、人は案外、恐ろしい高さの壁を越えてしまえるのかもしれない。そんな風にも思わされた作品だった。

内容に入ろうと思います。
直美は「葵百貨店」の外商部で働いている。大金持ちの顧客から執事のように色々と頼まれる仕事だ。そうやって関係性を築いておいて、後で大金を落としてもらう。一般人とはかけ離れた生活、お金の使い方をする人たちとの関わりを続けていく中で、まるで違う世界の話だと割り切れるようになっていった。学芸員の資格を持ち、百貨店の美術館で働くことを希望して入社した直美は、今の仕事はまったく望んだものではないが、仕事だと思ってなんとかやっている。独身、長らく恋人もいない28歳だ。
大学の同級生である加奈子は、大学卒業後大手家電メーカーで働いていたが、去年の秋に銀行員と結婚して退職し、専業主婦になっていた。直美の唯一と言っていい友人だ。夜食事の予定があったが、キャンセルのメールが来ていた。風邪だから来なくていい、と言っていたけど、食品売り場で何か買って持っていこう。
加奈子の自宅に着いたが、加奈子の様子がおかしい。直美を部屋に入れようとしない。惣菜を渡したらすぐ帰る、と言ってマンションに入ったが、ドアを開けた加奈子の顔を見て驚いた。
頬がボールのように腫れている。
すぐにDVだと分かった。直美の父親がそうだったのだ。加奈子を問い詰め、事実を確認した。
どうにかしなければならない…。
しかし、行動派の直美と違って、加奈子は慎重だ。警察に行くことも、夫の両親や加奈子の両親に話をすることにも及び腰だ。直美は両親の経験からDVが収まらないことを知っていたが、加奈子は、DVをした後で謝ってくる夫に期待したい気持ちもあるようだ。直美も、どう動くべきか判断がつかず、落ち着かない気持ちのまま仕事を続けた。
仕事の方で様々なことがあった。内覧会で盗難があった。加奈子の夫にそっくりな中国人を見かけた。痴呆症と思われる顧客の担当になった…。
それらの要素が積み重なっていく中で、直美の中である計画が徐々に形作られていく。
うまくすれば、加奈子の夫を排除することが出来るのではないだろうか…。
というような話です。

550ページ近くある物語ですが、一気読みさせられるリーダビリティのある作品だと思いました。ごくごく平凡な二人の女性が、人を殺し、その後の生活を生きていく過程をリアルに描き出していく物語で、きっかけさえあれば人間は誰でも人を殺す壁を越えられるのではないか、と思わされる作品でした。

彼女らが人を殺すに至るのには、様々な偶然がある。その中でも最も大きな要因は、加奈子の夫に似た中国人の存在だろう。他にも、彼女たちの状況に都合がいい現実が目の目に現れてくる。もちろん、これは物語にケチをつけているとかそういうことではない。そういう偶然があったからこそ彼女たちが人を殺すという決断に踏み出せたのだ、という設定は、ある意味では人を殺すというハードルの高さを示しているからだ。この物語は、状況が揃ってしまった時、人はどうするのかを問うている、という言い方も出来るだろう。

冒頭で引用した一文を再度載せよう。

『この神様が与えてくれたような完璧なプランが、自分を誘惑する。やれと言っているのだ』

状況さえ揃わなければ、彼女たちは殺人という大それたことに踏み切ることはなかっただろう。そういう意味で彼女たちは、ある意味で不幸だったとも言える。あり得ないほど都合がいい状況が目の前に揃ってしまったのだから。目の前に揃った状況が、彼女たちに、可能に思える選択肢を与えることになってしまった。「完璧なプラン」が目の前にあった時、それを選び取らないことが出来るだろうか?

もちろん、彼女たちが「完璧なプラン」だと思った計画は、実際には完璧ではなかった。物語の後半で、彼女たちは追い詰められていくことになるのだが、しかし彼女たちが思いついた計画を「完璧なプラン」だと思ってしまった気持ちは分かるような気がする。そう思わなければ、殺人などという大それたことに踏み切ることなど出来ないからだ。

どうにもならない現実があり、それに対抗できる手段がほとんどないと思っていた時に目の前に現れてしまった一つの選択肢。それが、実行に値する素晴らしい計画に思えてしまうのは、現実をなんとかしたい、現実から逃避したい、という気持ちが強ければ強いほど起こりうるだろうし、その辺りの認識の甘さみたいなものが後半でどんどんと明らかになっていく展開もリアルだと思った。

強くなければ生きていけない―。物語は、どんどんとそれを体現していくように展開していく。他人を蹴落としてでも生きていく、それは、直美が関わる中国人のようなスタンスでもある。中国人たちは、そのことに疑問を持たない。生きていくことは闘いだし、闘いである以上他人を蹴落としていかなければならない、という覚悟を持って生きている。しかし、日本人でそこまでの覚悟を持ちながら生きている人はそう多くはないだろう。突然に覚悟を持たなければならない状況に置かれた時、自分の内側から何が飛び出してくるか―。新しい自分、知らなかった自分に戸惑いながら現実に対処していく彼女たちの「強さ」がどんな風に変わり、どんな風に発露していくのか。それもまた物語的に面白い部分である。

明らかに間違ったことをしている彼女たちを、応援したくなる。なんとか、逃げ切って欲しいと思ってしまう。彼女たちが一線を越えてしまったのは、どうにもならない現実があったからだ。もちろん、他の手段がまったくなかったとは思わないが、どれも困難を極めるものであることは間違いないだろう。彼女たちの計画がベストに思えたのは、仕方ないことだと思う。彼女たちの行動を肯定してしまうわけにはいかないが、しかし否定したくもない。出来れば彼女たちには平穏無事に生き続けてほしい―。そう願いたくなるような物語だ。犯罪者側に切実に共感してしまう、というのは、他の物語でもあることではあるが、自分が何か間違った感情を抱いているような感覚で物語を読み進めることになり、そういう自分の感覚が奇妙に感じられた。

奥田英朗「ナオミとカナコ」

不屈の棋士(大川慎太郎)

人工知能によって、人間の仕事がどんどんなくなっていく、という話は、ちょっと前からじゃんじゃん出始めている。どんな仕事がなくなっていくのかというリストさえ、色んなところで目にするようになった。しかしどうだろう。実際の生活の中で、「人工知能によって、今の自分の仕事がなくなるかも…」と実感できる人は、まだそう多くはないだろう。

そういう意味で言えば、現代の職業の中で、最も人工知能の影響にさらされている一つに、棋士を挙げることが出来るだろう。

様々な評価の仕方があり、統一の見解こそないものの、本書を読んだ僕の印象では、既にソフトの棋力は、現役の棋士と互角かそれ以上なのだ、ということがよく分かった。

『ソフトと戦っても勝てない、と予想しています(勝又清和)』

『仲のいい棋士には、解説が終わった後に、「あれは人間が勝てるレベルじゃないよ」という話をしました(西尾明)』

こういう発言をしている棋士もいるほどだ。

『江戸時代から400年以上の歴史を有する将棋界。
言うまでもなく、棋士は常に実力最強の存在だった。棋士はその誇りを胸に競い続け、将棋ファンは尊敬と憧憬の念を抱いてきた。
将棋の強さこそ棋士最大の存在価値。それは当然の感覚であり、いちいち疑問を差し挟む者など存在しなかった。
コンピュータの将棋ソフトが驚異的な力をつけるまでは―』

そう棋士は、人工知能によって今まさに影響を受け続けている存在なのだ。

本書は、現役棋士11人に、コンピュータの将棋ソフトの捉え方や関わり方を問うたインタビューをまとめた作品だ。羽生善治・渡辺明という将棋界のスーパースターもいれば、コンピュータ将棋に造詣の深い者、コンピュータ将棋に負けた者、コンピュータ将棋を良く思っていない者など、様々な立場の棋士が、それぞれの将棋観を語っていく。

『将棋界は「強制」が少ない世界なのだ。だから自由な発想で物事を考え、それぞれが好き勝手に意見を述べることができる。これは将棋界の豊潤さの証明であり、財産だろう』

将棋連盟に所属していても、基本的に棋士は一人で活動する存在だ。だからこそ、自分の哲学に則って行動することが出来る。コンピュータ将棋との距離のとり方も様々で、それぞれの個々の哲学が密接に絡まり合っている。特に、ソフト研究を最も採り入れていると言われている若手棋士・千田翔太の将棋への取り組み方は印象的だ。

『これからは「棋力向上」を第一に目指してやっていこう、と(千田翔太)』

『公式戦で勝つよりも、純粋に棋力をつけることを第一としようと。(千田翔太)』

そしてそのために千田は、ソフト研究を採り入れる。

一般的に将棋の勉強法は、「棋譜並べ、詰将棋、実戦」だ。しかしこの勉強法を千田は、『その従来のやり方だと、個人の資質に大きく左右される。うまく人は才能がある人(千田翔太)』と判断する。そして、ソフト研究によって様々な形勢判断を自分の内側に取り入れていくことで、従来の方法よりも多くのものを吸収することが出来る、と語るのだ。

『現状、千田のソフトに対する姿勢が周囲に理解されているとはいい難い。先駆者の宿命ではあるのだが、苛立ちを感じることもあるだろう。
だが、未来は違うはずだ。これからプロになる若者の多くは、躊躇なくソフト研究を取り入れていくだろう。千田も自分の後を追ってくるであろう若者たちには大いに関心があるようだった』

ソフトをどう取り入れていくのか、というスタンスは、今まだに過渡期といえるだろう。どういう距離の取り方が正解であるのかは誰にも分からない。そういう意味で、千田翔太という棋士が10年後20年後にどうなっているのかは、とても楽しみだ。

本書には、ソフトが登場したことによるメリット・デメリットが様々に語られるが、最も印象的だったのは「怖さ」に関する話だ。

『人の頭なら相当わからない難解で長手数の詰みでも、ソフトはわかっている。この変化は詰むか詰まないかがわからないから踏み込めない、という話がソフトにはないわけでしょう。つまり人間が持つ「怖さ」という感覚が存在しない。それはちょっと違いますよね。強いんだろうけど、別物というか(渡辺明)』

同じ話を、さらに将棋を鑑賞することまで含めた議論に持ち込んでいる発言もある。

『将棋というのは人間同士の勝負で、お互いに答えを知らない中でやるものじゃないですか。怖さはあるけど、それに打ち勝つことも大事なわけです。ファンにもそこを楽しんでもらっている部分があると思う。もちろんソフトの手だって全部が正解ではない。でも、ソフトを使うと怖さを取り除くとまでは言わないけど、薄めているのは間違いない。勝負としてのおもしろさが減ってしまったら、スポンサーやファンがどう思うでしょうか。そういう状況が続けば今後、棋士全体が対局だけで食べていくのは大変でしょう。本当の上位棋士しか生き残れなくなる気がします。
―勝負というのはお互いに怖さを持つ中でやる。これが山崎さんの信念ですね。
そこが一番おもしろいところだと思います。答えがわからない中で、自分が正解と信じている手を指していく。その中で自分ができる工夫をしていくことが大事なんです。ただソフトを使うと、自分を信じる部分が薄れてきますよね。自分より強い、自分にはない発想に頼るようになると、それまでの局面認識や経験を元に培った判断が変わってくる。それはどうなのか(山崎隆之)』

この話が一番面白いと感じた。そう、問題は、棋士とソフトどっちが強いか、ということではないのだ。そうではなくて、将棋という勝負やゲームがちゃんと生き残っていくのか、ということだ。ソフト研究によって「怖さ」を失ってしまえば、対局から面白さが削られてしまう、という部分は、人工知能が将棋界に与える一番クリティカルな問題なのではないか、という風に感じました。

『たとえば詰将棋に関しては昔からコンピュータの方が解答が速いって知ってるけど、コンピュータの計算競争なんて誰も見ないでしょう。それと同じ。人間が暗算の競争をやるから見るんですよ。どっちが先にミスるんだ、っていう(渡辺明)』

『人間の勝負とはまったく別物ですから。トップ棋士同士とはいえ、やはり人間の将棋はミスありきなんです(渡辺明)』

『人間にしか指せない将棋とかそういうことではなく、人同士がやるからゲームとして楽しめるんです(渡辺明)』

渡辺明のこれらの発言は、棋士だけではなく見る側にも重要な問題だろう。トップ棋士でももうソフトに勝てないんだろ、と言って将棋を見ることから離れてしまった人もいるだろうが、やはり、人間同士が知力を尽くして闘うからこそ将棋は面白いのだ、という感覚が皆どこかにあるはずだ。そこに、ソフト研究という形でコンピュータが入り込むことで将棋がどう変わっていくのか。それらについても後で触れるつもりだが、まずは別の棋士の似たような発言を引こう。

『車がいくら早くても、人間が100メートル走で10秒を切ったらすごいでしょう。それと同じように、「人間の頭脳でここまで指せるんだ」と見守っていただきたいです(勝又清和)』

さて、実際にソフトを使うことで棋士としての力がどうなるのか、という部分についても、印象的な指摘があった。

『ソフトの示した手がプラス評価(※ソフトが盤面をどう捉えているかという評価値の話)だとしますよね。「じゃあ優勢なのかな」と思って実戦で採用する。その局面が仮にプラス300点だとして、その後の手順が自分が経験したことのないギリギリの攻め筋なんです。だからその後の指し方がわからないというか、間違えてしまう。コンピュータ的にはいけるのかもしれないけど、針の穴を通すような際どい攻めは自分の技術では導き出せない。だからソフトの評価値を重要視するあまり、自分のスタイルを見失っている部分はあるかもしれません(村山慈明)』

この指摘は非常に重要だろう。これは、棋力を上達させるには、答えではなくプロセスを学ぶ必要がある、という話だ。

『学ぶことは結局、プロセスが見えないとわからないのです。問題があって、過程があって、答えがある。ただ答えだけ出されても、過程が見えないと本質的な部分はわからない。だからソフトがドンドン強くなって、すごい答えを出す。でもプロセスがわからないと学びようがないという気がするのです(羽生善治)』

確かにその通りだ。先の村山慈明の指摘は、まさにこのことを言っている。

ソフトは、盤面を数字で評価してくれる。しかしその評価は、「俺(ソフト自身のこと)がミス無く指すって前提でこの点数ね」ということでしかない。ソフトがどう指すつもりでいるのかは、ただ評価値を見ているだけでは分からない。ソフトはいくらでも先の展開を読めるし、ミスもしない。だから、無謀な手筋でも押し通せる。しかし人間にはそれが出来ない。だから、プロセスを理解しないまま評価値だけを受け入れてしまうことの怖さがある。

これは恐らく、今後将棋界以外でも問題となっていくだろう。人工知能は、恐らく何らかの答えを出してくれる。人工知能が処理まで実行してくれるなら問題ない。しかし、人工知能に答えだけ教えてもらって、その上で人間が実行する、という状況があるとして、その場合人間にはプロセスは理解できないかもしれない。そういうことは、人工知能と共存していかなければならない過程でいくらでも起こりうるだろう。

『実力がつかないうちにソフト研究を取り入れるのは本当に怖いと思います(村山慈明)』

『―棋力が定まっていない人がソフトを使うのはよくないと思いますか?
まずいでしょうね。棋力が定まっている人間でもうかつに使うとまずい。ソフトとずっと指し続けると感覚がおかしくなって、自分の将棋が崩れます(糸谷哲郎)』

確かに、こういう指摘については納得できるし、将棋以外の場でも認識しておかなければならないだろう。

他にもソフトがもたらすデメリットとしては、

『いままでは、本来ダメなはずの新手もみんなわからないから2年くらい持っていたのが、(ソフト研究によって)即ダメになる。だからスパンがすごく短くなるけど、そもそも戦法の数がそんなにないので、後手番で戦える戦法がドンドン少なくなっていく(笑)(渡辺明)』

『今後は新手を指しても本当に自分で発見した手かどうか証明できませんから(行方尚史)』

など色々挙げられている。

とはいえ、もちろん良い点もある。一番のメリットについては、多くの棋士が指摘している。

『コンピュータのおかげでセオリーや常識にとらわれない指し手が増えてきました。プロ棋士もまだまだ将棋のことをわかっていなかったんだな、ということがわかってきました。こんなことはやっちゃいけない、というタブーもなくなってきた。この先、古い価値観はどんどん廃れていくでしょう。いまの将棋に合った新しい価値観も生まれるんだからそれでいいと思います(勝又清和)』

『将棋の枠組みが広がって、タブーが減った。不安が取り除かれてやりたいことがやれるようになった。(山崎隆之)』

『だからソフトの登場によって、過去の定跡が覆る可能性があるんです(村山慈明)』

『20年間主流だった矢倉の4六銀戦法も指されなくなったように、常識となっていたことがソフトに覆されるようなことも出てきた(行方尚史)』

人間の思考力では、長い長い歴史や積み重ねを経ても到達出来なかった部分に、ソフトはどんどん突き進んでいる。そうやって、ソフトが将棋の新しい常識や価値観をどんどん生み出しているのだ、という指摘が非常に多かった。

また、こんな指摘をする者もいる。

『だから全体的に終盤に時間を残そうとしている人が増えていますね。あとはみんなよく粘るようになりました。相手が間違えることが前提であれば、それは頑張りますよね。これは間違いなくソフトの効果で、将棋の進歩に役立っていると言えるでしょう(糸谷哲郎)』

糸谷哲郎は、『いつの日か棋士という存在がいらなくなる可能性を除けば、メリットばかりだと思っています』とさえ発言しているほどだ。もちろん、ソフトの存在に警鐘を鳴らす者もいる。ソフトの存在をどう評価するかは、まだまだ様々な価値観が入り乱れているのだ。

また、ソフトの登場と直接的な関係があるのかと言われればちょっと疑問符がつくかもしれないが、こんな指摘をする棋士もいる。

『開発者は純粋にソフトを強くしたいと思っている方々ですし、技術に対する意欲が強い。棋士以上にまじめだと思いますよ。そもそも棋士がどれぐらいまじめに将棋をやっているのか、私には疑問です。たとえば一部のベテラン棋士には、「真剣に取り組んでいるのかな」と思うような人がいますからね。それと比べると、開発者の方がよっぽど熱意があると思います(千田翔太)』

『もちろん将棋界にも問題はあります。プロが負ける姿を世の中におもしろおかしく見られてしまうのは、いままで将棋界が胡座をかいていたせいでもあるので。
―胡座をかいていたというのは?
“産児制限”を設ける、つまりプロ棋士になれる人間を厳しく限定して、その代わりにプロになってしまえばある程度は生活を保障する、という互助会的な制度だったことは否定できません。勝負の世界なのに、活躍できなくてもなんだかんだと食べていけたわけです。それは将棋界の甘いところだし、守られていたところだったでしょう。プロ棋士って本当に強いの? と訊かれて胸を張れる人は何人いるのか。だからいまは、将棋界の根本的なところに対して、ソフトというナイフを突きつけられているんです(行方尚史)』

棋士自身から、将棋界全体に対する問題提起がなされる。これもまた、「強制」の少ない将棋界ならではのことかもしれない。「胡座をかいていた」棋士もいるという中で、ソフトの存在がどう将棋界を変えていくのか。こういう問題意識を持つ人間がいるという事実が、将棋界の明るい未来を示唆している、と考えるのは、楽観的に過ぎるだろうか。

大川慎太郎「不屈の棋士」

ひこばえに咲く(玉岡かおる)

ただしたいからする、というのは、僕にとっては「文章を書くこと」だろうか、と思う。

何故だが、文章は書きたくなる。これは、「誰かに何かを伝えたい」とか「文章を書く練習をしたい」というような動機ではない。それらがまったくない、とは言わないが、そういうものよりももっと、ただ「書きたい」という気持ちになる。

自分でも、良く分からない。

僕は、なんだかんだこうして文章を書き続けてきたお陰で、「文章を書くこと」が仕事に役立てられるようになった。それは、とても運が良かった。文章を書くことが出来る、というのは有用性が高くて、色んな範囲で役に立つ。自分でも、文章を書くことを続けてきて良かったなぁ、と思っている。

ただしたいからする、という欲求は、どんな風に生み出されるのだろう、と思う。僕は、元々理系の人間だ。国語は大嫌いだった。本は読んでいたが、いわゆる本が好きな子どもが読むような本は読まなかった。特別文章が上手い子どもでもなかった。

僕がちゃんと文章を意識して書くようになったのは、たぶん20歳くらいからではないか。初めは、書きたくて書いていたわけではない。初めは、本を一冊読んだらその本の感想を必ず書く、というルールを決めて、無理やり書いていた。正直、文章の書き方なんて知らないし、その当時は長く文章を書くなんて全然出来なかった。

いつから、無理やり書く、から、書きたい、に変わったのだろう?

今でも、そう決めたから書きたくないけど書いてる文章もある。書く文章のすべてが、書きたくて書かれたものではない(これは、文章を書くことが仕事に活かせるようになった弊害と言えば弊害である)。とはいえ、やはり僕が文章を書き続けているのは、書きたい、と思うからだ。過去を振り返ってみて、「本を読む度に感想を書くことに決めて、粛々と書き続けた」という経験以外、文章を書くことに親しむ経験なんてほとんどないのに、どうして自分の内側からそんな欲求が湧き上がってくるのか、よく分からない。

『描くためだけの絵もあるんでねえか』

僕には到底、ケンの気持ちは分からない。画家であるケンは、『人が、食べたら排泄しないと死んじまうように、描かなきゃどこか胸の一部が詰まって死んじまうやつだっているべ?』と語る。僕には、そこまでの感覚はさすがにない。けれど、なんとなくは分かるつもりだ。僕は、感想を書くところまで含めて読書だ、と考えている。今では、読んだ本に関して感想を書かないことが気持ち悪く思えてしまう。

ケンの『描くためだけの絵もあるんでねえか』というのは、お金に換えるなんてことのために絵を描く以外のやり方もあるのではないか、という主張だ。これだけ聞くと、芸術家を気取った若者の理想論のようにも聞こえてしまうかもしれない。

しかしケンは90歳になるまで、ほとんど青森から出ることなく、150枚以上の絵を描き、納屋に押し込めていた。誰から評価されることも、まして誰かに絵を見てもらうことすら望まないまま、ひたすら魅惑的な絵を書き続けたのだ。

『描くためだけの絵もあるんでねえか』

そんな男の言葉だと思って聞くと、全然違った風に聞こえるはずだ。

『「あのですね。―誰に見せるつもりがないなら、百五十枚ものこの作品、いったいどういうつもりで描きためたのですか?」
眼鏡の下で、困ったような目がさまよう。香魚子は重ねて聴いた。
「こんなところに押し込むしかない絵を、どうして一生懸命、描いてるんですか?」
何が訊きたいか、今度はわかってくれたか、という目でケンを睨む。
だが、ケンの答えは香魚子の予想を超えていた。
「そりゃあ絵描きは絵を描くだろ。船頭が船をこぐようなもんだ」』

理由を考える理由さえ思いつかないまま、ケンはひたすらに絵を描き続ける。
特殊な環境があったとは言え、こんな風に生きられるとしたらいいな、と思える一生だった。

内容に入ろうと思います。
若瀧香魚子は、父が始めた銀座の骨董店で働いていたが、父がその骨董店の閉店を決断し、自らの身の振り方を考えなければならなくなった。既に50代。素晴らしいものを見る目と、人を惹きつける能力に長けた父に庇護の元不自由なく育ったが、自分の才覚で何かをやるという決断のなかなか出来ない年代だ。パリには、3年ほど付き合っている恋人がいる。黒岩俊紀は妻子ある身だが、日本とパリとで離れて暮らしているが故に、家族との関わりは薄い。ついぞ結婚しなかった女と、結婚しているがパリで一旗上げようと起業した男。男の事業が右肩下がりで下降している現実を前に、二人の恋の灯火も危ういものになっている。
骨董店の閉店準備を進め、また俊紀との関係がどうにもどん詰まりに陥っていたある日、まったくの偶然に、香魚子はある無名の画家の画集を目にすることになった。上羽研(ケン)というその画家の絵に、香魚子は魅入られた。ひと目この絵を見たい。思いつきで、ケンの住む青森まで言った香魚子は驚いた。
画集に載っていた、見る者の心を揺さぶる絵が、納屋に押し込められるようにしてひと目に触れない場所にしまわれていた。
この絵を多くの人に見て欲しい。そういう思いに駆られた香魚子は、閉店した骨董店の跡地をギャラリーに変え、その第一弾として上羽研展を行うことに決めた。俊紀の事業が下降するのに反比例するかのように香魚子の事業はトントン拍子に進み、それもまた、二人の関係に少なくない影響を及ぼす。
また、口数の少ないケンに変わって渉外すべてを担当する馬力のある70代の緒方芙久(フク)は、ケンのことを「オヤブン」と呼び、若い頃から慕ってきた。彼らには、絵画を介した長い長い歴史があり…。
というような話です。

かなり素晴らしい作品でした。香魚子と俊紀の現代の話と、ケンとフクの過去の話が折り重なるようにして進んでいき、時代時代の苦難を乗り越えながら「生きていく」ということを考えさせる物語だなと感じました。

何よりも、ケンが素晴らしいですね。ケンは、実在のモデルがいるらしいです。巻末に載っている参考文献の書名に、恐らくこの人物なんだろう、と思う名前がありますが、一応ここでは書かないことにしておきましょう。

ケンが実在した人物だ、という事前情報は、この作品を読む上で非常に重要だと僕は思っています。というのも、ケンという存在は、いやーそんな奴おらんやろ、と思ってしまうような非実在感を抱かせるものがあります。一流の批評家をもうならせる絵を描きながら、青森からほとんど出ることもなく、誰に見せるでもない絵を描き続ける。それは、実在の人物がいた、という情報があるからこそリアルに感じられる側面はどうしてもあると思います。

ケンのように生きられたら、と多くの人が思ってしまうのではないだろうか。何も望まず、何にも囚われず、目の前にあるもので、自分に今出来ることで満足する、という生き方。それは、出来るかもしれないことを、手に入るかもしれないものを諦めるような生き方に見えるかもしれないけど、たぶんそうじゃない。うまく説明できないけど、望まないことが結局、望んだ場合以上の何かを生み出すことがある、と僕自身が思っているからそんな風に感じるのかもしれない。

僕も、何の目的もなく、ただ書きたいというだけで文章を書き続けてきたけど、そのお陰で、自分が望んでもいなかったような現実がやってきた(詳しくは書かないが)。ケンも、もしかしたら同じなのではないか。何のため、ということもなく、ただ絵を描き続ける。そのことが、作品の質を高め、さらに物語を生み、死の間際に盛大な評価を得るに至ったのではないか。望むことで、その望んだものが手に入りにくくなる、ということは、起こりうるのではないか。そんな風にも感じた。

とにかく、ケンの存在感(ほとんど喋らないのだけど)に溢れた物語だった。

フクもまた良い。ケンを「オヤブン」と慕い、ケンを世に出すために奔走し続けてきた女。香魚子と出会ってからは、ケンの展覧会を成功させるために出来る限りのことをやった女。そんな彼女もまた、厳しい時代を生き抜いてきたのだった。東北の、厳しい貧しさの中で育ったケンとフクが、何故絵を描くことと出会い、二人がどこで出会い、日々どんな風に生きてきたのか。後半のメインとなるその辺りの物語も、実に読み応えがある。

物語を動かしていく香魚子は、恐らく最も読者に近い立ち位置の人物だろう。不自由なく育ったが、始末に負えない妻帯者との恋や、奔放な父が突然止めると言った骨董店の後始末など、どうにもならない現実に絡め取られながら生きている。その悲哀が、作品の隅々から漂ってくる。泰然自若としたケンや、何事にも前向きなフクの有り様には、正直遠さを感じる人もいるのではないか。境遇こそ様々に違えど、香魚子のような、くたびれ感とでも言うような生き方に共感できる人は多いのではないかと思う。

特に、俊紀との恋の物語は、大人の恋愛だからこそのややこしさみたいなものが非常に色濃く描かれていて面白い。妻子がいたり、パリと日本との距離だったり、俊紀の事業が傾きかけていたりと、様々な要因が絡まり合う中で、好きだとか嫌いだとかでは制御出来ない何かに翻弄される様は、読んでいて滑稽でもあり、切実さを感じもする。

時代背景や境遇などはまったく違うが、読者からすると、香魚子の人生と、ケンとフクの人生とか、様々な場面で共鳴していく。絵を介して出会った三人の人生が、時間を超えたところで折り重なっていく構成は、見事だなと感じる。

生きていくということの切実さや覚悟みたいなものに溢れた作品だ。若さを超え、人生の先が見えてきた者たちが咲かせた美しい花。奇跡的な邂逅から生まれたその花の行く末を読んでみて欲しい。

玉岡かおる「ひこばえに咲く」

ちょうかい 未犯調査室1(仁木英之)

内容に入ろうと思います。
通島武志は、身内が犯したとある事件により警察を去ることになってもおかしくなかったが、新たな辞令が下り、キャリアでありながらおっちょこちょいな女の子にしか見えない枝田千秋と共に警察庁へと向かっている。
そこで知らされたのは、これまでに蓄積された犯罪情報を元に、犯罪を未然に防ぐ任務に就く、ということだ。表向き彼らは、警察庁の外郭団体である犯罪史編纂室に所属していることになっている。しかし実際は、「繭」と呼ばれる謎めいた機器を千秋が操作することで、データマイニングの技術によって犯罪が起こりやすそうな状況を探り出し、そしてその発生を未然に防ぐ、という任務を行うのだ。
何がなんだかよく分からないまま、武志は、叩き上げの刑事の中では伝説的な存在となっている魚住桂樹、パソコンオタクである木内亮介、「繭」のナビゲーターである金田りえらと共に、一人の少年と、大規模な落書き事件から始まる混迷に身を投じることになるのだが…。
というような話です。

非常に面白そうな設定と展開ではある。物語がどうなるのか、という興味は確かにある。しかし僕には、まず「繭」がなんなのかまったく理解できなかったので、その時点でかなり挫折してしまいました。

「繭」というのは、ゲームセンターにあるような、体ごと入る筺体みたいなものがある(というのが僕のイメージ)で、その中に千秋は入ってるようだ。でも、武志と桂樹も入っている感じもする。
それで、その「繭」の中で彼らが何を見ているのかが、全然想像できない。ドラえもんでタイムマシンに乗ってる時に彼らがいるような空間みたいな、現実とは違うデータによって組み上げられた空間にいるんだろう、みたいなイメージなんだけど、でもどうも現実の映像(と言っていいのか)も映るようだ。「繭」の中で、千秋が一体何をしているのかも不明だ。恐らくそれは、物語の核心と関わりがあるだろうから分からなくて当然なのかもしれないけど、しかし登場人物の中に、読者と同じ困惑を体験してくれる人物がどうもいなくて(武志も桂樹も、まったく戸惑っていないわけではないが、千秋が何をしているのかという部分への違和感がどうも見えてこない)、僕は置き去りにされているような感じがした。

「繭」の中で、現実と変わらない映像を見ることが出来る、と思いながら読んでいる僕としては、千秋や武志や桂樹が「今いる場所」が、「繭から見た光景」なのか、「彼らが現実にその場にいる」のか分からなくなる場面もあった。「繭」から見てるんだろうなぁ、と思いながら読んでたらそうではなかったということがあった。

「繭」そのものの描写もなかなか理解し難かったのだけど、「繭」によって彼らが何をしようとしているのかもイマイチ分からなかった。彼らの目的が、犯罪を未然に防ぐことだ、ということはきちんと理解している。しかしそうではなくて、「繭」を使って彼らが何をしたいのかが分からない。「繭」が「犯罪を未然に防ぐこと」とどう関わっているのかが、僕にはイマイチ見えてこないのだ。武志と桂樹は、元々現場の刑事だから、足を使って情報を集めてくる。亮介は常軌を逸したパソコンオタクだから、街中の防犯カメラや他人の携帯電話なんかにも侵入して勝手に情報を取ってくることが出来る。彼らがやっていることは、やっていることと成果が結びつきやすい。しかし、「繭」がどう絡んでいるのか。千秋が「繭」で何をして、それが「情報を取る」という点においてどんな役割を果たしているのかという点が、どうにもうまく掴めなかった。

「繭」の存在を除けば、千秋のキャラクターも面白いし、武志が陥っている状況のジレンマも凄まじいし、少年と落書きから始まった物語が壮大な展開を見せる流れも面白いと思う。しかし、「繭」だ。「繭」のことが、僕にはどうにも理解できなかった。

「繭」のことをもう少し伝わりやすく書いてくれるか、あるいは「繭」という設定を丸ごと取り除いてもらえたら、面白く読めるような気がしました。

仁木英之「ちょうかい 未犯調査室1」

月の満ち欠け(佐藤正午)

物理学には、「ひも理論」という理論がある。これは、原子というのは、ひも状のものが振動することで異なる性質を持っているのだ、というようなところからスタートする理論だ(詳しくは知らない)。ひも理論は、理論としてとても美しいようだ。その美しさを、僕自身は理解することは出来ないが、そういう記述を頻繁に見かける。もしこの理論が正しいとしたら、世界のあり方を説明するのにぴったりな美しさだ、と。

しかし、一つだけ問題がある。それは、問題となる「ひも」があまりにも小さいため、現在の技術では観測することが不可能なことだ。もしひも理論が正しいとしたら、今よりも遥かに小さなものが見える顕微鏡を開発しなければならないが、それは技術的に不可能なのではないか、という意見もあるようだ。

さてこの場合、ひも理論の扱いはどうなるのだろうか?

科学の世界では、証明できない理論は、たとえその理論がどれだけ整合性のとれた素晴らしいものであっても意味をなさない。あくまでも、証明できることが大事なのだ。ひも理論は、「ひも」を観測することが出来ない。よくは知らないが、ひも理論が予測する何らかの効果を測定することも、きっと難しいのだろう。

とはいえ、証明できないからひも理論は成り立たない、ということでもない。実際に、僕らが生きているこの世界は、ひも理論によって成り立っているのかもしれない。けれど、僕らはそれを確認する方法を持たない。そういうことだ。

さて、生まれ変わりというものについて考えてみよう。これは、証明できるだろうか?

前世の記憶がある、知っているはずのない知識を喋った、クセが同じだ…というようなデータを取ることは出来るだろう。しかしそこから、「生まれ変わり」という現象を証明することは難しい。

例えば、知っているはずのない知識を喋ったとか、前世の記憶があるとかいう話には、こんな理屈をつけることだってできる。

「脳」と「記憶」が、「鍵」と「鍵穴」のような関係なのだとしよう。そして「記憶」というのは、脳内にただ留まっているわけではなく、常時空気中に放出されているとしよう。通常、「脳」と「記憶」は、形状が一致しなければ認識しない。Aさんの「脳」とAさんの「記憶」は形状が一致するので、AさんはAさんの「記憶」を脳内で再生できるが、Bさんの「脳」とAさんの「記憶」は形状が一致しないので再生できない。

しかし、極稀に、他人なのに「脳」と「記憶」の形状が同じ人がいる、とする。その場合、空気中に漂っている、まったく知らない誰かの「記憶」が、自分の「脳」で再生されることになる。

これが、前世の記憶や知らない知識の混入の説明である、と主張することも出来る。無理矢理考えれば、何故そんな仕組みが人類に採用されているのかも説明できる。人間は、突然死ぬ可能性がある。その場合、その人の思考は失われてしまう。しかし、「脳」と「記憶」がこういう仕組みになっていれば、いずれ誰かがその思考を拾う可能性がある。知識や思考という、人間を人間足らしめている要素を無益にしないための仕組みなのだ。もしそうなら、突然インスピレーションが湧くとか、今まで考えたこともなかった発想が浮かぶ、なんていう状況の説明も出来るかもしれない。

なにも、僕自身がこんな話を信じているわけではない。しかし、仮に「生まれ変わり」という仮説を信じるのであれば、僕が提唱した「脳・記憶仮説」を否定する理由もないはずだ。科学では扱えない理論であり、証明できないという点で両者は等価なのだから。

与えられた条件を満たす仮説など、恐らくいくらでも思いつけるはずだ。その中で「生まれ変わり」という仮説だけが特別な理由はない。あるとすれば、その仮説が僕らにとって受け入れやすく馴染みやすい、というぐらいなものだ。しかし、物理や化学の世界を少し知っていれば、僕らが生きているこの世界が、あまりにも僕らの日常感覚からかけ離れた理屈で動いていることを知ることが出来るだろう。受け入れやすいからと言って正しいとは限らないのだ。

だから、僕にとって「生まれ変わり」という現象は、科学的に証明する手立てがないのだから議論する価値はない、となる。もちろん、いずれ証明できる日が来るかもしれない。それはひも理論も同じだ。しかし、少なくとも今は証明できない。それは結局、いくらでもありえる仮説の一つに過ぎない、ということだ。

内容に入ろうと思います。
小山内堅は、八戸から東京までやってきた。ある少女に会うためだ。緑坂るりという7歳の少女は、会ったこともない小山内のことを「知っていた」。
何故なら彼女は、14年前に事故死した小山内の娘・瑠璃の生まれ変わりだ、というのだ。
小山内は、瑠璃のことを思い出す。ある時妻の梢が、瑠璃がおかしい、という。謎の高熱にうなされた後のことだ。ぬいぐるみに、「アキラ」という名前をつけている、という。小山内には、それのどこがおかしいのか分からない。しかし妻は重ねて言う。瑠璃は、黛ジュンの歌を口ずさんでいたんですって。デュポンのライターを見分けたんですって。ママ友や先生から聞いた話を小山内に聞かせる。小山内は、大したことじゃないだろう、と考えていた。その後、瑠璃は突然失踪した。彼らが住む千葉から高田馬場まで、小学生の身で一人で行ったという。その行動の意味はよく分からないが、小山内はそれでも瑠璃を特別おかしいと思うことはなかった。
事故で妻と娘を一遍に亡くした小山内は、長い時を経て、三角哲彦と名乗る一人の男性の訪問を受ける。14年前の妻と娘の葬儀にも顔を出してくれたらしいが、小山内は覚えていない。非の打ち所のない三角の経歴に、一点だけ曇りがある。大学を5年掛けて卒業しているのだ。
その空白の一年の話を、三角は語る。レンタルビデオ屋でアルバイトしている時に出会った、一人の女性の話を…。
というような話です。

評価の難しい作品だ。個人的には、さほどグッと来なかった、という感じだ。

偉そうな評価になるが、よく出来ている、とは感じる。生まれ変わりという、まあ言ってしまえば胡散臭い題材を、うまく物語に落とし込んでいる。様々な人物が登場するが、物語があまり複雑にならないようにうまく調整しているようにも感じられる。

ただ、僕の感触としては、リアルに寄せすぎたが故に中途半端になってるような気がしてしまった。

「生まれ変わり」という非現実的な題材ならば、その設定をフルに活かしてもっと空想の羽根を広げてもいいんじゃないか、という気がした。「生まれ変わり」という題材をリアルに描き出そうとするが故に、物語の広がりみたいなものが限定的になってしまっているように感じられる。巨人が狭い箱の中で伸びをしようとしているような作品に感じられた。

生まれ変わっているのかどうか、という点が、ミステリのような形で後に後に引き伸ばされているように感じられるのも、個人的には難しいのかもしれないと感じた。冒頭で書いたように、「生まれ変わり」という現象は絶対に証明出来ない。物語の中であれば、読者にそう錯覚させる風に描き出すことは出来るはずなのだが、本書ではそれを最後の最後までしない。「本当に生まれ変わっているのかどうか」という点を、謎のように引っ張っているように感じられてしまった。もちろん、それが作者の意図であるのかもしれない。しかし僕には、その部分で物語を引っ張っていくのは厳しいのではないか、と感じてしまった。何らかの形で、物語の早い段階で、「生まれ変わっているのだ」ということを打ち出してしまって、それを前提として物語が進んでいく方が、個人的には好きになれるような気がする。

生まれ変わっているかどうかで物語を引っ張っているように感じられるのは、生まれ変わっている本人たち視点で物語が進んでいかない、という部分も大きい。基本的には、生まれ変わっている者の周囲の人間たちの視点で物語が進んでいく。だからこそ、生まれ変わっている者たちの内面がなかなか見えてこない。生まれ変わっているのかもしれない、という葛藤を抱える周囲の人間の苦悩みたいなものを描く、という点ではこの物語は成功している。しかし読みながら僕は、生まれ変わっている者たちが何をどう感じているのか、という部分に関心が向いた。もちろん、それはこの物語で著者が書きたかったことではないのだろうし、読者に想像してもらいたい部分なのだろう。ただ、僕の好みではないなぁ、と思ってしまった。

この物語の中で僕が面白いと感じたのは、三角哲彦の大学時代のパートだ。この部分だけが、この物語の中で唯一「当人同士の物語」だと言えるかもしれない。そこに、切実さを感じることが出来る。彼らの物語には生まれ変わっている「かもしれない」、の部分がないので、スッと受け入れることが出来るのだ。

僕としては、もう少し違う形で物語が進んでくれたら良かったな、と感じられる作品だった。

佐藤正午「月の満ち欠け」

哲学的な何か、あと科学とか(飲茶)

久々に、ド級に面白い作品を読んだ。
自分の趣味のど真ん中、ということももちろんあるが、面白かった理由はそれだけではない。

正直なところ、本書に書かれている事柄は、ほとんど別の本で読んで知っていることばかりだった。そういう観点から本書を捉えれば、面白い本ではなかった、という感想になってもおかしくはない。

けど、そうはならなかった。
何故か。
それは、本書が「科学のびっくりする話を集めてみました」というような造りの本ではないからだ。
本書にはきちんと、「科学とはどういう営みなのか?」を伝えたいという、強い意志が込められているのだ。

『などなど、哲学的な視点で「科学的な正しさ」を問いかけていくと、実はそれがかなり危ういものだと気づかされるだろう。いままで確かだと思っていた景色がガラガラと崩れる瞬間は、怖いけども、ちょっぴり楽しかったりもする。』

本書は、主に科学のエピソードを様々に取り上げながら、「科学とは何か?」を伝えようとする。そういう意味で本書は、日常を生きる僕たちが読んでおくべき一冊だと感じるのだ。

何故なら、僕たちの日常は「科学的なもの」に取り囲まれているにもかかわらず、僕たち自身の手や目でその「科学的なもの」を確認することが出来ないほど複雑になってしまっているからだ。

たとえば。築地移転において豊洲の土壌汚染の問題が発覚した。多くの国民は、築地市場は既に耐震性や衛生面で問題を抱えているというのに、豊洲の土壌汚染の方を重視し、豊洲への移転を「安全ではない」と判断しているような印象がある。そしてそういう中で、土壌汚染を調査している科学者のチームにマスコミの人が「安全かどうか」を問うている場面をテレビで見かけて、それは科学者に向ける問いではないなぁ、と僕は感じてしまうのだ。

人は「科学」と聞くと、現実をはっきりと理解し、物事を明確に判断するものだという印象を受けるようだ。どんな仕組みかは分からないが、「科学」というブラックボックスを通せば、世の中のあらゆることに白黒つけることが出来る、と思っているようだ。だからこそ、豊洲の問題についても、科学者に対して「安全かどうか」を問う、という行動が生まれるのだ。

しかし、「科学」というのはそういう営みではない。本書を最初から最後まで読めば実感できるだろうが、「科学」というものを通せば通すほど、余計に目の前の現実が分からなくなっていくのだ。「科学」というのは、物事をくっきりさせるどころか、より深い混沌へと導くものでもあるのだ。

本書を読み、「科学」というのがどんな営みなのかを理解すれば、「科学」というブラックボックスに放り込めば何でも分かる、なんていう幻想は消え去るだろう。

科学者は、「科学」の限界をきちんと認識している。認識しているからこそ、「科学」という「道具」を使って、有益な成果を生み出すことが出来るのだ。本書は、その限界の一端を垣間見せてくれる作品だ。「科学」に出来ることと出来ないことをきちんと見極めることで、「科学的に正しい」という言葉が何を意味しているのかきちんと理解できるようになるだろう。驚くかもしれないが、「科学的に正しい」というのは必ずしも、「現実がそのようになっている」ことを保証しないのだ。

『そもそも、科学の役割とは、「矛盾なく説明でき、実験結果を予測できる理論を作ること」である。
だから、ぶっちゃけ、「観測する前は波!観測されると粒子に大変身!」ということが、「本当に起きているかどうか」なんてことは、科学にとって、どうでもいいことなのだ』

この発言の背景を少しだけ説明しよう。量子力学という物理の分野に、二重スリット実験という有名な実験がある。詳細は省くが、その二重スリット実験によって、「光は波でもあり、同時に粒子でもある」と考えなければ説明がつかない実験結果が得られたのだ。これは、僕たちの日常感覚からすれば到底受け入れることが出来る考え方ではない。そもそも、波でもあり粒子でもある状態、なんて誰も想像出来ない(これは、そう主張している科学者にしても同じことだ)。

しかし、「光は波でもあり粒子でもある」と考えると、目の前の実験を矛盾なく説明でき、また何らかの実験をした場合の結果を予測出来るのだ。

だったら、とりあえずそう考えようぜ、というのが「科学」という営みのスタンスなのだ。

『だから、決して科学は、「コペンハーゲン解釈(注:光は波でもあり粒子でもある、という考え方)が説明するとおりに、現実もホントウにそうなっている」とは述べていないことに注意してほしい』

恐らくこれは、あなたが抱いていた「科学」というものに対するイメージを大きく変えるのではないかと僕は思う。「科学」というのは、目の前で起こっている現象をきちんと理解した上で理論を組み立てるのだ、と思っていたのではないだろうか。でも、そうではないのだ。目の前で何が起こっているのかはまったく分からないが、とりあえずこう考えると矛盾しない理論が作れるし結果の予測も出来るから、じゃあそういうことが起こっていることにしようぜとりあえず、と考えるのが「科学」なのである。

『だから…。
この世界は、ホントウはどうなっているの!?世界は、いったい、どのような仕組みで成り立っているの?
という、古くから科学が追い求めてきた「世界のホントウの姿を解き明かす」という探求の旅は、科学史のうえでは、すでに終わっているのである。
科学は、世界について、ホントウのことを知ることはできない。
「ホントウのことがわからない」のだから、科学は、「より便利なものを」という基準で理論を選ぶしかないのだ』

信じられないかもしれないが、これが現在の「科学」が行き着いた到達点である。科学者は、この限界についてきちんと理解をしている。だから、「科学」の範囲で出来ることを探し、日々新たな成果を生み出している。しかし、科学者ではない者は未だに、「科学」というものを万能であるかのように感じてしまう。「科学」というブラックボックスに放り込んだものは真実の姿を見せるのだ、と思ってしまう。

ここに、大きなギャップがある。このギャップは、科学者にとっても科学者でない者にとっても不幸しか生まない。このギャップを埋めることが、「科学」が人類にとって有用であり続けるために最も重要なポイントだと言ってもいいだろう。

ここまで読んで、なーんだ「科学」って役立たずじゃん、と思った方がいたとすれば、それは違うと僕は言いたい。確かに、「科学」では「世界のホントウの姿」を明らかに出来ないかもしれない。しかし、「科学」が人類に様々な恩恵や成果を与え続けてきたし、これからも与え続けるのだということだけは間違いない。結局のところ、「科学」に何を求めるかの問題なのだ。「科学」に幻滅したとすれば、それはあなたが「科学」に対して望んでいるものは的外れだ、ということに過ぎない、ということが、本書を読むと理解できるだろう。「科学」という営みが人類全体にとって有益であるためには、「科学」によって出来ることは何で、出来ないことは何なのかということについて、社会全体で共通の認識を持つことだろう、と僕は思う。

そういう意味で、本書はむしろ、「科学」が苦手だったり嫌いだったりする人に読んで欲しいのだ。あなたが思い込んでいる「科学」の姿を打ち砕き、「科学」に何を求めるべきなのかをきちんと理解してもらうために、本書を読んで欲しい。

さてここまでで僕は、「科学とは何か?」というものを、「科学が担うべき役割」という側面から描いてきた。本書の中では、また別の側面から「科学とは何か?」を描き出す。それが、「科学でないものとは何なのか?」という側面だ。

よく「エセ科学」や「ニセ科学」という言葉を見かけることがあるだろう。これらはもちろん、「科学ではない」という意味で使われているのだが、それでは「科学ではない」とは一体どういう意味だろうか?

これも、きちんと理解しておくべきだろう。日常の中には「エセ科学」が溢れている。目の前の事柄が「科学」なのか「エセ科学」なのかを見極めるための指標を知っておくというのは、とても大事なことではないかと思う。

「科学」と「エセ科学」を区別することは、実はとても難しい。というのも、「エセ科学」であっても、どこからどう見ても矛盾しない理論、というのはいくらでも存在するからだ。

ここで少し、「非ユークリッド幾何学」について話そう。

本書の前半で、「公理」という項目がある。「公理」というのは、「あまりにも当たり前だから証明しなくてもいいよね」という法則だ、と思ってもらえたらいい。例えば、「線分の両端は無限に延長できる」などだ。これは、どう考えても当たり前だろう。

さて、その「公理」の中に、「二つの平行線は互いに交わらない」というものがある。これも、そりゃあそうだろうよ、と思うくらい当たり前の法則だろう。数学の根本を成す「公理」は5つあり、平行線は交わらないという公理は「平行線公準」と呼ばれている。紀元前からこの「公理」をベースに数学というのは組み立てられており、5つの「公理」をベースにした数学を「ユークリッド幾何学」と呼んでいる。

1800年頃、あの天才数学者・ガウスが、この「平行線公準」を満たさないとしても、つまり「二つの平行線が互いに交わる」と考えても、矛盾のない幾何学の体系を作り出せることが分かった。それは「非ユークリッド幾何学」と呼ばれ、実は僕らが生きている現実により近いのは「ユークリッド幾何学」ではなく「非ユークリッド幾何学」であることも判明したのだ。

『このことの最大の問題点とは、
「適当に、好き勝手に、公理を決めてしまっても、無矛盾な理論体系をいくらでも作り出せる」
ということなのだ』

「非ユークリッド幾何学」の発見によって、「絶対的な真理の記述」というのが幻想であり、あらゆる学問の理論体系は、「ある一定の公理をもとに、論理的思考の蓄積で作られた構造物」と見なされるようになったのだ。

さて、話を「エセ科学」に戻そう。「適当に、好き勝手に、公理を決めてしまっても、無矛盾な理論体系をいくらでも作り出せる」ということが判明した以上、理論がそれ自体で矛盾を孕んでいるかどうかを、「科学」と「エセ科学」の境界にすることは出来なくなった。

これは困った。この問題が浮上した当時、怪しげな理論がどんどん生まれ、それらの中から「科学ではないもの」を排除する必要に迫られていたのだが、誰もその境界を示すことが出来なかったのだ。

そこで登場したのが、ウィーン学団。彼らはウィーン大学の哲学教授を中心としたグループで、「論理実証主義」によって「科学」と「エセ科学」を見極めてやる、と主張したのだ。

さて、その結果どうなったのか。なんと、「科学と擬似科学のあいだに、境界線はない。ていうか、擬似科学しか存在しない!」という結論になってしまったのだ。多くの科学者が「科学」だと考えているものまで、ウィーン学団にかかってしまえば「エセ科学」扱いされてしまったのだ。

これも困る。なんとか「科学」と「エセ科学」に境界を見つけることが出来ないだろうか。

そこで登場したのがポパーである。ポパーが提唱したのは、「反証可能性」というものだ。大雑把に言えば、「反証可能性を持つものが科学であり、反証可能性を持たないものがエセ科学だ」とポパーは主張したのだ。

では、反証可能性とは何か。噛み砕いて言えば、「その理論が間違ってると指摘される可能性」のことだ。

例を挙げて説明しよう。昔読んだ本には、こんな例があった。透視が出来る、という男がおり、とある教授が実験を行っている。実験の詳細は何でもいいのだが、とにかくその男が透視が出来たと示せるような実験を、観客の前で行うのだ。
しかしその教授は、実験の前にこんなことを言う。
「もしこの部屋の中に、この男の透視能力を疑う者が一人でもいれば、彼は透視能力を発揮できない」
さて、この状態で実験をした場合、どういうことが起こるだろうか。
透視が出来た、という結果が出れば、それはいい。問題は、透視が出来なかった、という結果が出た場合だ。この時教授は、男に透視能力がないことを認めないだろう。何故なら教授は、「透視が出来なかったのは、この部屋に彼の透視能力を疑う者がいたからであり、この結果は彼の透視能力を否定するものではない」と主張できるからだ。

さて、この実験の場合、「透視が出来る、という主張が間違っていると指摘される可能性」はあるだろうか?透視が出来た、という結果が出れば正しいことになるし、透視が出来なかった、という結果が出れば観客が疑っていたせいにする。つまり、どんな結果が出ても、「透視が出来る、という主張が間違っていると指摘される可能性」はゼロなのだ。

この状態を「反証可能性がない」と言う。つまりこれは、「科学ではない」「エセ科学」だと考えていい。

『一般に「科学」と言えば、「明らかに正しいもの」「間違っていないと確認されたもの」というイメージを持ちがちであるが、実はそうではないのだ。面白いことに、「科学」であることの前提条件とは、「間違っていると指摘されるリスクを背負っているかどうか」なのである』

これは非常に面白い観点だと思わないだろうか?この視点もまた、「科学」というものの捉え方を一変させるだろう。

もちろんこの反証可能性という考え方も、決して万能ではない。究極的には、すべての科学理論は反証不可能だと言えてしまうのだ。だから本書には、こんな風にも書かれている。

『つまり、科学理論とは、
「うるせぇんだよ!とにかくこれは絶対に正しいんだよ!」
という人間の<決断>によって成り立っており、そのような思い込みによってしか成り立たないのだ』

とはいえ、反証可能性というのは一つの指標になることは間違いない。法律でもルールでも宗教でも何でもいい、目の前に何らかの理論めいたものがあった時に、「この理論が「間違っている」と指摘できる可能性はあるだろうか?」と考えてみよう。どう考えても「間違っている」と指摘できない場合、それは怪しげな理論だ、と思っていいかもしれない。

ちなみにこの「反証可能性」は、科学には当てはまるが、数学には当てはまらない。数学の場合、「数学的に証明された理論」は、未来永劫絶対に覆ることはない。もちろん、証明そのものに欠陥があるような場合は別だが、その証明が完璧であれば、数学の理論は覆らない。これが、「数学的に正しい」と「科学的に正しい」の決定的な違いだ。「科学的に正しい」というのは、概ね「現時点ではそう考えられている」という以上の意味を持たないが、「数学的に正しい」というのは、「100%正しい」と同じ意味である。恐らく数学や科学にあまり親しんでこなかった人には、この違いをうまく捉えられていないのではないかと思う。本書を読んで、特に「科学的に正しい」というのがどういう状態を指しているのか、実感して欲しいと思う。

僕たちは、「正しい」という言葉をあまり深く考えて使うことはない。しかし、「正しい」にも様々なグラデーションが存在し、様々な種類がある。本書は、「科学」という営みを「哲学」という切り口で眺めてみることで、「科学的に正しい」ということの意味合いを探っていく本だ。

難しい本に思えるかもしれないが、いくつか引用した箇所の文章を読んでもらえれば何となくの雰囲気は恐らく伝わるだろう、とても読みやすい本だ。扱われている内容は非常に高度で複雑だ(なにせ、科学者自身でさえも理解できていないことなのだから、難しいのは当然だ)。しかし、その難しさの本質をうまく取り出し、分かりやすく易しく説明をしてくれている。本書を理系の人間が読めば、漠然としか理解できていなかった数学や科学の複雑な状況を理解し、疑問が氷解していくことだろう。そして本書を文系の人が読めば、自分が「科学」をどんな風な思いこみで見ているのかが分かり、そしてその思いこみがかなり薄まるのではないかと思う。科学や哲学が嫌いだから本書を読まない、のではなく、嫌いだからこそ本書を読んでみる、そういう風に思って欲しいなと思う。

実に素晴らしい本だった。

飲茶「哲学的な何か、あと科学とか」

不発弾(相場英雄)

もし自分がバブルの時代に生きていたら、馬鹿げた投資に足を突っ込んでいただろうか、と考える。
現代から見れば、バブルの時代がいかにイカれていたかというのは誰だって分かる。しかし、「バブル」などという名前さえ付いておらず、土地の値段や株価は上がり続けるのが当たり前だ、と誰もが思っていた時代に生きていたら、どうだっただろう、と思うことがある。

今の自分の性格であれば、きっとその時代に生きていても、きっと投資には手を出していなかったように思う。絶対、とは言い切れないが、「自分がきちんとルールを把握することが出来ない事柄に手を出すことが怖い」「周りが盛り上がれば盛り上がるほど、それから離れようと意識する」という僕自身の性格を考えれば、アホみたいな投資に手を出して借金を抱えるようなことはきっとなかったに違いない。

そんなことを考えながら、じゃあ今はどうだろう?と考える。時代には、リアルタイムで名前が付くこともあれば、その時期を過ぎてから名前が付くこともある。先程も書いたように、「バブル」というのはたぶん、「バブル」だった時期の呼称というよりは、「バブルが弾けた」というような形で、「バブル」の時期の後に名前が定着したようなイメージがある。

今僕たちが生きているこの時代も、過ぎてしまえば何らかの特徴的な名前が付くような、そんな時代であるかもしれない。その時代を生きている人には気づかない、後から振り返ってみればみんな何をしてたんだろうね、と感じるような、そんな「狂乱」の中に僕らは生きているのかもしれない。そうである可能性は、どんな時代に生きる人にもありえるのだ。

世の中がそうだと言っているからと言って、その事柄の正しさが裏付けられる、なんていうことはありえない。僕らも、知らず知らずの内に「不発弾」を抱えてしまわないように、注意しなくてはいけないと思う。

内容に入ろうと思います。
警視庁捜査二課は、経済犯や知能犯を扱う部署だ。そこで管理官を務めるキャリアの小堀は、新聞で取り上げられている三田電機に違和感を覚える。三田電機は、創業から100年以上の歴史を持つ老舗企業で、洗濯機などの白物家電や半導体製造、あるいは原子力発電所など多岐に渡る事業を手がける、日本屈指の総合電機メーカーである。その三田電機では先ごろ、1500億円を超える“不適切会計”が発覚したばかりだ。小堀は、10年間で1500億円というのは、“不適切会計”ではなく、立派な“粉飾”ではないかと感じている。年上の部下であり、捜査二課のエース捜査員でもある今井巡査部長と共に、三田電機について調べてみることにした。
その過程で掴んだのが、古賀遼という男の存在だ。何者なのかははっきりしないが、古河遼について調べ始めると、彼が関わった企業や信金などで様々なトラブルが起こっていたことが判明する。古賀は北九州の炭鉱町出身だが、その地元信金の重鎮が、「不発弾」という謎の言葉を遺して自殺していることも判明した。小堀らは、古賀を追うことに決めた。
古賀遼こと古賀良樹は、証券会社に勤めていた先輩の話を聞き状況、中堅どころの証券会社の場立ち要員となった。立会場にて手振りで売買を成立させる仕事を長く続けた。そこから縁あって別のステージへと進むことが出来た古賀は、日本経済の発展と凋落に合わせながら、その時々で企業会計の世界で汚れ仕事を引き受けてきた。
まさに古賀こそが、日本中に「不発弾」を埋め込んだ張本人と言ってもいいのだ…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。扱われているテーマはちょっと難しい部分を含んでいて、その点はやっぱり理解がかなり困難です。そもそも短い描写で説明しきれる話ではないでしょう。その難しい部分をどうしてもきちんと理解しないまま読み進めるしかない、という点が唯一難点と言えば難点ですけど、全体的に非常に面白く読ませる作品だと感じました。

本書で描かれる三田電機は、明らかに東芝がモデルになっています。1500億円という巨額の損失隠しが何故行われたのか、そしてそれが何故隠されたままで在り続けたのか、そしてなぜ「粉飾」ではなく「不適切会計」と言い換えられたのか…。もちろん本書は小説であり、現実をそのまま引き写したものではない、という点は注意しなければなりませんが、なるほど、あのニュースの背景にはこんなことがあったのか…と驚かされる思いがしました。

本書を読むと、東芝の“不適切会計”が氷山の一角であるということがよくわかります。本書のタイトル通り、「不発弾」が日本中に眠っていて、いつどこでそれが爆発するのか、ほとんどの人が知らないままでいる。細かな部分まで完全に理解できているわけではないのだけど、本書を読む限り、日本が直面している状況は非常に深刻なのではないか、と感じざるを得ません。

「金」というのは何なのだろうな、と考えさせられます。

僕はいつも、「金持ちにはなりたくない」という発言をしています。もちろん、生活に困るような状況に陥りたくはありませんが、日常の生活がほどほどに過ごせるお金があれば、それ以上のお金を強く望む気持ちは特にありません。実際僕の年収は、同世代の平均年収と比べて大分低いと思いますけど、とりあえず生活していく分には特に不満もないので、あとちょっとあると楽だな、とは思いますけど、無闇矢鱈にお金が欲しいとは思いません。何らかの仕事や成果に対する対価としてもらえるのなら、仕事や成果を評価してもらえた、という側面もプラスされるのでありがたいのだけど、何の意味もなくポンと大金が目の前に現れたら、それを喜べるのかどうか、ちょっと分かりません。

というのも、お金持ちになればなるほど、お金を奪われるリスクに対する対処をしなければならないと思ってしまうからです。その余計な心配をしたり、奪われないために様々な知識を身につけたりする労力が、お金を得るというプラスと見合うのかどうか、僕はいつも疑問に思ってしまいます。

本書で描かれる人々も、結局のところ、大金を扱うだけの知識や技量が足りない人間が多い、ということなのだと思います。古賀を含めた、盤面全体を見渡せるごく一部の人間だけがその能力を有し、それ以外の人間は踊らされているだけ。マネーゲームというのは結局そういうものなのだろうなと思ってしまいます。

金持ちになりたいという人は、なればなるほど金を奪われるリスクが高まる、ということを意識出来ていないのではないか。僕にはそんな風に思えることがあります。

それ自体は、まあいいでしょう。リスクを見なくて困った事態に陥るのが当人であるなら、問題ありません。ただ、本書で描かれているのは、リスクを無視して踏み出したことで巨額の損失を被った場合、その損失を自分以外の何かのせいにする、という企業のあり方です。こういうあり方は、改められなければならないだろうな、と感じます。

僕らが普通に生きている限り見えることのない現実を見事に切り取った作品だと思います。

相場英雄「不発弾」

ハリー・クバート事件(ジョエル・ディケール)

嘘を吐くつもりがなくても、結果的に嘘になってしまうことはある。
その時、それが嘘であるとはっきりと言うことが出来れば、世の中の色んな問題は起こらずに済んだかもしれない。
しかし、なかなかそれは勇気の要ることだ。

嘘を吐き続けるのは、とても苦しいことだ。平然と嘘を吐ける人間も世の中にはいるだろうが、大抵の人は、自分の内側に嘘を抱え続けることに耐えきれない。しかし、真実を明らかにすることは、さらなる苦痛を伴う。どちらにも進むことが出来ない状態は、とてもつらい。

嘘は、日常のあらゆる場所にある。舞台にも状況にも関係性の中にも。すべての嘘を取り除こうとすれば日常が成り立たないし、かといって些細な嘘でも積み重なれば致命的な事態を引き起こしもする。

僕は、なるべく嘘をつきたくないと思う。正確に言えば、バレるような嘘はつきたくない。嘘をつくのであれば、絶対にバレないように、一生抱えるつもりでつく。そうでない場合には、嘘にならないように努力する。

しかし…。もし僕が、この作品の舞台であるオーロラの町に住んでいたら…。まったく嘘をつかないで過ごすことが出来ただろうか、と思う。誰もが、自分が放つ些細な嘘の中に、自分にとって大切だと思える何かを忍ばせて、長い年月の間現実を歪ませてきた。

その歪みが一気に噴出する時…。最悪な形で真実が明らかにされる。

内容に入ろうと思います。
マーカス・ゴールドマンにとってハリー・クバートは人生の師と言っていい存在だ。1500万部という金字塔とも言える売り上げを記録した「悪の起源」という作品を書いた偉大な作家だからとか、彼から小説を書くための心得を教わったから、というだけの理由ではない。まさしくマーカスは、ハリーと出会ったことで、作家として、そして人間として歩むことが出来たのだ。
ハリーは長年、オーロラという小さな町の外れにある邸宅で一人で暮らしてきた。マーカスは、デビュー作が200万部の大ベストセラーとなり、一躍時代の寵児となったが、しかし二作目が書けなくて苦しんでいた。出版社とは、五作分の契約をしている。二作目以降が書けなければ、契約違反で訴えられてしまう、そんな追い詰められた状況にあった。
そこでマーカスは、オーロラに住むハリーを訪ねた。マーカスが大ベストセラー作家となってからは久しぶりのことだった。
そしてその日マーカスは、とんでもないものを見つけてしまう。「悪の起源」などという傑作を書けた理由を知りたくてハリーの書斎を漁ってしまったマーカスは、そこで、ハリーが34歳の時に15歳の少女とつき合っていた証拠となるものを見つけてしまったのだ!ハリーがつき合っていたノラ・ケラーガンという少女は、1975年の8月のある晩に失踪している。謎めいた失踪であり、2008年現在もノラの行方は分かっていない。
書斎を漁っていたことを知ったハリーは激怒し、マーカスにこのことを口止めした。しかしその数ヶ月後、信じられない出来事が起こった。
ハリーの邸宅の庭から、ノラと思われる少女の死体が発見されたのだ。死体と一緒に、なんと「悪の起源」の原稿が埋められており、その原稿には、<さようなら、いとしいノラ>と書き込みがあった。
すぐさまハリーは逮捕された。アメリカを代表するベストセラー作家の逮捕に、全米中が騒然となった。また、「悪の起源」が15歳の少女との禁断の愛が描かれた作品だと知った人々は落胆し、「悪の起源」は出版停止に追い込まれるほど評判が下がった。ハリーは、この一件ですべてを失ったかに思えた。
しかし、マーカスだけはハリーの無実を信じた。マーカスは、警察とは別で独自の捜査を続けた。33年前のあの夏、このオーロラの町で一体何が起こったのか。執念の捜査で少しずつ真相の断片を掴みはじめていったマーカスは、やがて取材によって判明した事実をデビュー2作目として発表することになるのだが…。
というような話です。

評価の難しい作品だけど、とりあえず難しいことを考えなければ、とにかく面白い作品だった!外文にしては圧倒的に読みやすかったし、これだけの分量の作品を一気読みさせる筆力はなかなかのものだ。

とはいえ、小説の構成という意味で言えば厳しい部分もある。決して悪いわけではないが、時系列も視点人物も場所もあっちこっち入り乱れて、非常に断片的に描かれる構成で、それこそ一気に読まないと物語の筋を追いにくくなるようにも思う。この作品、内容はメチャクチャ面白いんだけど、この構成が難ありかなぁ、という感じが僕はした。

ストーリーは、本当によく出来ていると思いました。物語のかなり早い段階でハリーが疑われ、ハリーが真犯人だと考える以外にないような状況が提示される。しかしそこから地道な捜査を続けていくことで、オーロラという町に住む住民たちの様々な“秘密”が明らかになっていく。そして幾重にも重なったそれらの“秘密”をかいくぐった先に、事件の真相がある。

真実は少しずつしか明らかにならないのだけど、物語の中に色んな要素が詰め込まれているので、謎が少しずつしか明らかにならなくても読まされてしまう。決して謎だけで引っ張るタイプの作品ではないのだ。

何よりも本書の一番の魅力は、ノラという少女だろう。ノラは基本的には、人々の回想の中にしか登場しない。しかし、様々な人間が語るノラの姿を知る度に、どんどんノラという少女のことが気になってくる。色んな面を見せる少女だが、ハリーへの愛、という点で非常に真っ直ぐ貫かれたものがある。ハリーのことを心の底から愛している、という点がブレないまま、それを貫くためにどう行動すべきかが表に出る。その表に出た行動だけ見ると、ノラという少女は非常にチグハグな存在に思えるのだけど、ブレない想いがあるという前提でノラの行動を見れば、ノラという少女の純真さが非常に良く伝わってくる。

また、ハリーとマーカスの師弟関係もとても良い。ハリーはマーカスをきちんとした作家にすべく様々なことを教え、マーカスは“できるやつ”と思われながらも自分の虚飾に気づいていた人生を払拭すべく、ハリーの教えを忠実にこなそうとする。二人は、年こそ離れているが、固い友情で結ばれており、だからこそマーカスはハリーへの疑惑を払拭しようと奔走する。しかし、この関係にも、物語の中で様々な転換が存在し、特にハリーの苦悩が明らかにされるラストは、どうすれば良かったのだろうと考えさせられてしまうようなものだった。

また、オーロラの住民たちも、一癖も二癖もあって面白い。彼らは、何らかの“秘密”を抱えていたり、あるいは無害だったりと様々な立ち位置を取るが、様々な条件が重ならなければノラが命を落とすことはなかったし、それはオーロラだから起こったことだと言うことも出来る。オーロラという町に隠されていた“秘密”はあまりにも根深く、もちろんネタバレするつもりもないのでここでは書けないが、それぞれの“秘密”が、ただノラの事件と関係するというだけではなく、それぞれの住民たちの中で一つの物語となっている、という点が非常に良いと思う。それぞれの“秘密”ごとに一遍の短編小説が書けるのではないか、と思えるような密度があり、ノラの事件に設定として必要だから、というような理由で描かれているわけではない点が好感が持てると感じた。

正直なところ、読んで何かが残るような作品ではなく、とにかく一気読みして「面白かった!」と思うようなエンタメ作品です。でも、エンタメ作品として本書は非常に読みやすく面白く良く出来ているな、と感じます。この作品に何を求めるかで作品の評価が大きく変わりそうな気がしますが、とにかくエンタメ作品なんだと思って読めば、凄く楽しめる作品だと思います。

ジョエル・ディケール「ハリー・クバート事件」



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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)