黒夜行

>>本の中身は(2017年)

否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い(デボラ・E・リップシュタット)

本書を読むまで、知らなかった。
ナチス・ドイツが強制収容所でユダヤ人を殺害した、いわゆる「ホロコースト」が、実際に起こったのか否かがイギリスの裁判所で争われたことがあるらしい。




僕はどうも「歴史」というものに懐疑的な目を向けてしまう。
それは、「歴史」は必然的に、厳密性に欠ける学問だ、と感じてしまうからだ。

歴史の正しさというのは、一体どのように判定されるのだろうか。僕には、イマイチよく分からない。
不思議なのは、本書で扱われるホロコーストや、あるいは南京事件など、比較的最近の出来事についても、そもそもそんなことが起こったのかどうかという根本的なレベルから議論が起こる、ということだ。

僕は、ホロコーストも南京事件も、起こったのだろうと思っている。思っているが、それはそう教わったり、そういう状況を本で読んだりしたからだ。本当に起こったと言えるのか?と問い詰められれば、分からないと答えるしかないだろう。

ここが、歴史の限界だと僕には感じられる。

もちろん、様々な証拠が存在する。本書では、ホロコーストに関して、それが起こった出来事であることを示すために、様々な形で証拠が提示される。僕はホロコーストが起こらなかったなどと主張したいわけではないが、それでも、歴史学者に出来ることは、様々な証拠を「いかに解釈するか」でしかない、と僕には感じられるのだ。

もちろん、それが無意味だとは言わない。しかし、歴史は解釈に過ぎないと思っている僕としては、解釈の正しさを闘わせることに、本質的な意味はない、と感じられてしまう。

いや、こんな風に書くと、僕の言いたいことが伝わらないなぁ。結局僕が言いたいことは、映像や写真があればほぼ確実だと言えるが、そうではない場合、歴史は様々な証拠を解釈するだけになる。もちろん、「経験した」という人もいるだろう。ただ、僕はこんな風に考えてしまう。例えば今僕の目の前に、「9.11のテロの際、ツインタワーの中にいたんだ」と喋りだす男がいて、自身の経験を滔々と語るとしよう。僕はその人の証言を、「正しい」と判断できるだろうか?9.11は、誰もが「起こったことだ」と知っているからいいが、例えば目の前に、「太平洋に浮かぶ小さな島で生物兵器が使われ島民のほとんどが死んだ」と主張する人がいたとして、その人のことを信じられるだろうか?

みたいなことを考えてしまう。

だからこそ、本書の裁判を担当したリーガルチームが、「ホロコーストが起こったかどうか」ではなく、「原告が嘘つきかどうか」を争点にしたことは正しいことだと思う。起こったかどうかは、究極的には解釈の問題だ、という感覚を、僕は捨てられないからだ。

「科学」という学問は、ちょっとタイプが違う。

科学のことが好きなのは、科学には厳密さがあるからだ。

科学であるためには、最低限クリアしなければならない2つの条件がある。一つは「再現可能性」。これは、ある人が行った成果を、別の人がやっても同じ状況を再現できる、ということだ。つまり、透視やハンドパワーなど、別の人が再現できない状況は、科学では扱わない。そしてもう一つが、「反証可能性」だ。これは、「ある理論が、どうだったら間違いだと言えるか」というものだ。そう、科学というのは常に、「もしこうだったらこの理論は誤りである」と示せなければならないのだ。だから、「Aさんは透視が出来るが、この部屋の中にAさんの透視能力を疑う者がいればその能力は発揮されない」などと主張する場合、それは科学ではない。こう主張しておけば、透視が成功しなくても「この部屋に透視能力を疑う者がいたのだ」と主張すれば間違いにはならない。どう転んでも誤りであると示せないので、科学ではない。

歴史には、こういう厳密さがないように感じられる。もちろん、歴史学者は皆厳密に研究をしているのだろうが、しかし客観的に見て、歴史が科学と同程度の厳密さを獲得できる可能性は低いだろう。

そんな風に考えてしまうから、歴史というものをどうにも苦手だと感じてしまうのだ。

内容に入ろうと思います。
2000年1月、驚くべき裁判がイギリスで行われた。なんと、ホロコーストが起こったか否かが焦点となる裁判が開かれたのだ。
経緯はこうだ。アメリカで歴史研究を続けていた、さほど名を知られていたわけではない女性歴史家であるリップシュタット(本書の著者)の元に、1995年のある日速達が届いた。差出人は、彼女が執筆した「ホロコーストの真実 大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ」のイギリスの版元であるペンギン・ブックス。そこには、歴史家デイヴィッド・アーヴィングが、「ホロコーストの真実」の記載は名誉毀損だと訴えを起こすつもりだ、と記されていた。リップシュタットはその本の中で、「アーヴィングはホロコースト否定者だ」と書いた。アーヴィング自身、自らそう主張しているので名誉毀損に当たるはずがないと思い、当初リップシュタットはこの知らせを大したことではないと放っておいたが、アーヴィングが本当に訴えを起こすと分かって、厄介なことに巻き込まれたと感じた。
というのも、アメリカの法律であれば、訴えた側に立証責任があるのに対し、イギリスの法律では訴えられた側に立証責任があるからだ。つまり、イギリスの法律の元で名誉毀損で訴えられたリップシュタットは、自分の主張、つまりアーヴィングがホロコースト否定者であり、それがユダヤ人差別主義から生み出されている考えだということを証明しなければならなくなったのだ。
リップシュタットは、最高のリーガルチームの協力を得られることになった。また、150万ドルにも上る裁判費用は、ユダヤ人コミュニティが様々な形で援助してくれることになった。リーガルチームは、アーヴィングのこれまでの著作や書簡など膨大な量の資料を精査し、一流の歴史学者などの協力も得ながら、アーヴィングがいかに証拠を歪曲し、自説に都合のいいように捻じ曲げていたのかを、様々な形で暴き立てることとなった。
そして2000年1月、ついに世界中が注目する裁判が始まった…。
というような話です。

なんだか小説みたいな展開ですが、実話です。しかし、ホントに凄いことが起こるものですね。まさか法廷で、歴史論争が行われるとは、という感じです。

ただ、この裁判に臨むリップシュタットとアーヴィングの思惑は、それぞれにちょっと違います。

リップシュタット側は、先程も少し触れたように、「ホロコーストが起こったか否か」を焦点にしません。そうではなく、「アーヴィングがいかに資料を歪曲し捏造するか、そしてそれが極度のユダヤ人差別主義から生まれているか」ということを立証しようとします。一方でアーヴィング側は(というか、アーヴィングは弁護士を立てずに自己弁護しているので、「アーヴィングは」、ですが)、「捏造や歪曲などはしていない」と主張ももちろんしつつ、この裁判の場で「ホロコーストなど起こらなかった」と主張するのに労力を費やします。

また、リップシュタット自身もなかなか難しい立場にいます。リップシュタットは、アーヴィングが裁判の場で、間違った歴史認識や事実誤認を開陳し続けることに我慢がなりません。しかし彼女はリーガルチームから、「喋るな」と言われてしまいます。この法廷の趣旨は、ホロコーストが起こったかどうかという歴史論争にはない。リップシュタットに口を開かせてしまえば、アーヴィングの挑発に乗って歴史論争に引きずり込まれてしまう可能性がある。だからリップシュタットは、どれだけ言いたいことがあっても自分の口では言えず、法廷弁護士に任せるしかないのです。

こういう、かなり複雑な状況の中で、しかも「ホロコースト」という歴史上の出来事がメインとなる裁判が行われる、というのは相当異例でしょう。実際に、裁判が始まった時や判決が出た時などは、多くの報道陣に囲まれることになります。

本書を読むと、嘘つきの凄まじさみたいなものを感じます。

身近にもいるので、実感として分かりますが、極度の嘘つきというのは、自分が嘘をついているという自覚がありません。誰がどう聞いても理屈に合わない意見でも平然と口に出来てしまうし、自分にとって都合の良いように現実を捻じ曲げる能力には凄まじいものがあります。

本書で描かれるアーヴィングも、ちょっと凄まじいものがあります。短い引用で、その傲岸さが伝わる箇所をいくつか抜き出してみます。

『ランプトンはアーヴィングに、ヒムラーが<狼の巣>に呼び出されたという記述の裏付けとなる証拠を示すよう求めた。アーヴィングは即座に、「それに関するわたしのすぐれた専門的意見がその証拠です」と答えた。手元の書類を見ていたランプトンが驚いて顔を上げた。「えっ?」アーヴィングはもう一度言った。「それに関するわたしのすぐれた専門的意見がその証拠なのです。詳しい説明をお望みですか?」グレイ裁判官もアーヴィングの返事にいささか困惑の様子で、意味がよくわからないので詳しく説明してもらえないかと言った。』

『ランプトンは“あの女はとんでもない嘘つきだ”と、ビドル裁判官(※ニュルンベルクの国際軍事法廷で裁判官を務めたアメリカ人)が実際に言ったのかどうかを訪ねた。アーヴィングは彼自身の“脚色”であることを認めたが、ビドル裁判官はあの女の“荒唐無稽な”証言に“呆れはてて”いたのだからこれは正当な脚色だ、と主張した。』

『ランプトンはアーヴィングに、ゲーリングがその場にいたとか、目を丸くしていたとか、どうしてわかるのか、と訪ねた。アーヴィングは「著者の特権です」ときっぱり言った。「作り事だというのですか…フィクションだと?」アーヴィングはランプトンに講義をするような口調で言った。「人に読んでもらう本を書くときは…読みやすくするために工夫するものです…」』

『ランプトンは疑問を呈した。「司法制度を捻じ曲げたこの言語道断なやり方に、アーヴィング氏が著書のなかでひと言も触れていないのはなぜでしょう?」アーヴィングはそれに答えて、その件をとりあげれば“八ページ分のごみを本に加えることになる”と主張した。ランプトンの意見は違っていた。「真実を書くスペースが見つからないなら、執筆そのものをやめるべきです」自分の解釈こそが真実だ、とアーヴィングが抗議を続けたが、ランプトンは次の項目へ移った』

短い引用で伝わりやすい部分を選んだので、内容的には瑣末なものが多いが(本書を通して読むと、アーヴィングが著作やスピーチの中でしてきた歪曲や捏造の凄まじい程度が理解できる)、それでも十分理解不能というか、歴史家を名乗るべきではないと感じるレベルだと伝わるのではないか、という感じがします。

ある主張の根拠が「自分のすぐれた専門的意見」だと言ってみたり、執筆した歴史書の中の記述について脚色であることを認めたり、自分の主張にとって都合の悪い(しかし状況判断に非常に重要な)事実を“ごみ”と断言して著作に含めないとか、やっていることはメチャクチャなのだ。

しかし、アーヴィングの存在の危険さは、捏造したり歪曲したりしている、という点だけにはない。そういう歴史家は恐らく他にも多く存在するだろうが、アーヴィングは、この裁判の前までは、歴史家として一定以上の評価を受けているのだ。

「学者としてのアーヴィングの不撓不屈の努力はいくら褒めても褒め足りない」
「リサーチの巨人」
「アーヴィングが不当に無視されてきた」
「『ヒトラーの戦争(※アーヴィング著)』は第二次世界大戦について書かれた本の中で一、二を争うすぐれた著作である」

これらは、様々な歴史家によるアーヴィングへの評価だ。もちろん悪い評価も多々あるのだが、良い評価をする者もいる。アーヴィングはただのホロコースト否定者ではなく、一定以上の評価を受けた歴史家でもあり、だからこそアーヴィングの捏造や歪曲による主張は危険なのだ。

それ故に、リップシュタットが受けて立ったこの裁判が非常に注目され、大きな影響を与えたのだ。

『わたしは自分を守るために、表現の自由を信じる心を保つために、そして、歴史に関して嘘をつき、ユダヤ人やその他の少数民族に対するひどい軽蔑を口にした男を打ち負かすために戦ったのだ』

リップシュタットは本書で、この裁判の本質がきちんと理解されていないこともある、と嘆いているが、イギリスやユダヤ人社会を中心に、リップシュタットの奮闘は正しく評価され、一方アーヴィングを始めとするホロコースト否定者は非常に苦しくなった。ホロコーストに限らず、歴史認識に対する誠実さや、表現の自由の大事だ、正義を貫く勇気などを与えたこの裁判は、「ホロコーストの実在を証明した」という以上の大きな成果を生み出したのだと思う。

しかし本書を読んで、情報を取り込む際にはより注意しなければならないなと感じるようになった。

例えば僕は、元々理系の人間で、科学や数学が好きなので、そういう方面の情報であれば、ある程度は胡散臭い話かどうかの匂いは分かると思う(とはいえ、STAP細胞の情報が出始めた時、本当の話であって欲しいと無意識に思ってしまったので、あまりアテにはならないけど)。ただ、自分が関心のある分野以外の情報については、そういう匂いはきっと分からない。経済・政治・歴史・国際情勢・文化・社会問題…などなど、そういう事柄に関して、アーヴィングのように悪意を持って嘘を垂れ流そうという意志で情報を拡散しようとする人間がいる場合、その情報を素直に受け取ってしまいそうな自分がいて怖い。

本に書いてあるから、というだけの理由で信じるというような愚かなことはしないが、自分が触れている情報は常に誤りである可能性があるのだ、ということを意識しながら、これからも様々な情報を取り入れたいと思う。

デボラ・E・リップシュタット「否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い」

探してるものはそう遠くはないのかもしれない(新井見枝香)

先日、「Nogizaka Journal」というサイトに、「自己不信なプロデューサー・松村沙友理」という記事を書いた。その冒頭で僕は、こんなことを書いている。

【僕がグラビアやライブにあまり興味が持てない理由の一つは、外側から見るだけでは「ホントウ」に辿り着けないと思っているからだ。もちろん、言葉も嘘をつくし、「ホントウ」を正確に表現できないことだってある。それでも、少なくとも僕にとっては、本人の口から出る言葉の方が、より「ホントウ」に近いと感じられる。だから僕は、彼女たちの言葉を見聞きして「ホントウ」を知りたいと思ってしまうし、その過程で、外側から見たイメージを覆される瞬間を楽しいと感じる。】

同じようなことがこのエッセイの中に書かれていた。

『どれほど言葉をやり取りしても、傍で長い時間を過ごしても、その人が書いたエッセイを読む以上に、その人の本当に触れることは難しいような気がする。
少なくとも、私は知っている人が書いたエッセイを読んで、1から10まで思った通りだと思ったことはない。
もちろん、日記ではなく、人に読まれることを前提にして書いている文章なのだから、虚飾やサービスもあるだろう。
でも、見抜けるでしょう?そういうの、わかった上で読んでいるでしょう。
言葉通りでなくても、その人がどんな人で、何を考え、何に本人ですら気づいていないのか、エッセイを読む人は触れることができるのだ』

分かるわぁー、と思う。

僕は乃木坂46のファンだが、ファン活動の中心は、雑誌のインタビューを読むことである。握手会にもライブにも行かないし、雑誌のグラビアにもさほど興味はない。とにかく、彼女たちの発した言葉に関心がある。

もちろんエッセイとインタビューは別物だろうが、言わんとしていることは共通するはずだと思っている。頭の中の世界を文字にするのでの、問われて答えるのでも同じだが、結局のところ、「言葉」というものを使っていかに自分を表すか、ということだ。「目は口ほどに物を言う」とか「百聞は一見にしかず」みたいなことわざもあるし、「インスタ映え」って言葉が流行語大賞になってしまう時代だったりするから、視覚的な情報の強さみたいなものをみんな信じているような気がするんだけど、僕はそこまで信頼していない。言葉ももちろん絶対じゃないけど、言葉を取り込み言葉を吐き出すことを続けてきた人間の、言葉で切り取ることが出来る自己認識の方を、僕はより信頼している。

言葉を必要とする人間は、世界に馴染めない人間だ。

考えてもみてほしい。日常の生活や周囲の人間関係に違和感を覚えることがなければ、言葉なんか必要としなくたって全然生きていける。「カワイイー」「ヤバイ」みたいな、何かを言っているようで何も言っていない言葉だけで仲間内の会話は済んでしまうし、価値観が合う者同士なら、写真やスタンプなんかを使えばコミュニケーションは取れてしまう。だから、世界に馴染めていればいるほど、言葉なんか要らなくなるのだ。

でも、世界にどうしても馴染めない人間というのも、もちろんいる。僕もそうだ。だから、考えるしかない。自分の何がダメなのか、周囲に溶け込むためにはどうすればいいのか、目の前のこの状況は何故生まれたのか、他人から求められていることは何なのか、そしてそれは本当に自分がしたいことなのか――世界に馴染めなければ馴染めないほど、こういうことを考えずには生きていられないし、そうであればあるほど、思考のための言葉を切実に必要とする。

基本的にこのエッセイには、アホみたいなことがアホみたいな文章で綴られている。そのアホさ加減には、驚かされるほどだ。

『シャワーの〆に手鼻をかむ』

『私はブラジャーを1枚も持っていない』

『イカを捌くときは、全裸に限る』

『また絶望感に心が支配されそうになったので、ハンディブレンダーできなこバナナミルクを作る、一服した。健やかなる甘みよ、豊富な繊維質よ。我が心と腸を救っておくれ。
なんて、どんなに大地の神に感謝の祈りを捧げても、健康に暮らしても、ウイルス兵器をぶち込まれたら我々ひとたまりもないのですけどね。ハハッ。』

いや、正直、何を書いているんだお主は、というような話のオンパレードだ。

いや、本書を貶したくてこんなことを書いているのではない。これからダラダラと、本書の面白さについて書いていくのだが、まず僕が書いておきたかったのが「言葉」の話であり、「世界に馴染めない」話なのだ。

全体的にアホみたいな本なのだが、全部かというとそうではない。たとえば、不意にこんな文章が出て来る。

『私も同じようなことに悩んでいた中高時代、学校へ行かず、LIVEに足を運んでいた。私がいてもいなくても全く影響のない場所で、感情の動きを全てライブハウスの空気に委ねる時間が、切実に必要だったのだと思う』

こういう文章が出てくるから侮れないし、本書で醸し出される「アホさ」が、計算によって作り出されたものなのだ、ということが伝わってくるのだ。

エッセイを最初から最後まで読むと、きっと皆分かるだろう。著者は言葉を持っている人なのだ、と。そして、言葉を獲得した背景には、世界への馴染めなさが潜んでいるのだ、と。

『人生のうち、どうしても衝動を抑えられず、何度か積み上げたものを全てぶっ壊すということをしてきた。その都度人を傷付け、期待を裏切り、自分自身への信用を失くしていった』

この文章は、僕が書いたんじゃないか、と思うほど、最初の「人」から最後の「た」まで余す所なく僕の話でもある。疑問なく世界に馴染める人は、こんなことにはならない。そう、必死で生きているだけなのに、いつの間にか世界の淵から滑り落ちてしまう人間にしか分からない葛藤や絶望が、著者の人間性を作り出す土台となっている。

そしてだからこそ、このエッセイが面白いものになっている。テーマや文章やエピソードがどれだけアホらしくても、著者が「滑り落ちてしまう人間」であり、「でも滑り落ちすぎないようにと努力した人間」であり、「その過程で言葉を取り込んでは吐き出してきた人間」である以上、そこには何かが宿る。「言葉」というのは、価値観や概念を通す「ざる」の網目のようなものだ。蓄積すればするほど網目が細かくなり、価値観や概念をより繊細に漉すことが出来る。

『共感せずとも、人の気持ちがわからない人間ではない。本当はわかっていないのかもしれないが、そんなのはみんな一緒だ。
悪口はいくらでも言えるし、瞬間湯沸かし器ではあるが、それをSNSで世界に発信しないのは、埋もれるほど小説を読んできたおかげだと思っている』

言葉を蓄積し続けてきた著者は、世界をより細かな網目を通して見ることが出来る。著者が世界をどう見ているのか、という点にこそこのエッセイの主眼があるのであって、それをアホみたいな文章で表現しているという点は、書く時のテンションや売る戦略など、本の内容そのものとは違うステージにあるものだ。

立ち読みでパラパラページをめくった人が、アホみたいな文章だなぁ、という理解でストップしてしまわないことを祈る。

『大人になったらできるだろうと思っていたことが、何もできていません。
会社員に向いていない。
結婚に向いていない。
大人に向いていない。
エッセイを書いてみて、改めて自覚しました。』

本書を読んでると、似てるなぁ、と思う部分がたくさんある。僕も、会社員に向いてないし、結婚に向いてないし、大人にも向いてない。

『私はこれでも人間なのだろうか』

これも昔思ったことがある。祖父が亡くなった時だ。それまでにも身近な人の死を経験していたのだけど、祖父が死んだ時も、悲しいと思わなかった。今に至るまで、人が死んで悲しいと思ったことが一度もない。あぁ、これは人間ではないんじゃないだろうか、と思ってちょっと悩んだこともある。今では、まあ別にいいか、悲しくないもんはしょうがない、と開き直っているのだけど。

著者はエッセイの中で、自分がサイコパス扱いされているのではないか、と不安を抱く場面があるのだけど、まあきっと著者はサイコパスだろうし、僕もたぶんサイコパスなんだろうな、と思う。まあ、たぶん犯罪なんかには手を染めないと思うので、害のないサイコパスだと思って放置しておいていただけるとありがたい。

他にも共感できるポイントが多すぎる。

『私は私を世界一信用していない』

『基本的に人間が好きではないのだ』

『寂しいという気持ちがどういうものなのかはなんとなくわかるのだが、実感したことはない。
人に恋することはあるが、ただ人が恋しいと思ったことはないし、ただ寂しいから人に会いたいと思ったこともない』

『自分の努力が及ばないところで褒められてもピンとこないし、自分を信じていないから他人が言うことも信じられない』

あれ、これ僕が書いたエッセイだっけ?と錯覚するぐらい、書いてあることが僕のことで、なんというか驚く。

しかし、もっと驚かされるのは、内側の核の部分はたぶん結構近いはずなのに、外側の見えている部分はこんなにも違うのか、ということだ。

先程僕は、「著者が世界をどう見ているのか、という点にこそこのエッセイの主眼がある」と書いた。いや、その表現に偽りはないのだけど、しかしだな、著者が経てきた世界そのものも、やっぱりちょっとおかしいとは思うのだ。普通に生きてて(しかも、僕のようなメンタリティの人間が、である)、そんなシチュエーションに遭遇することなんかないだろ、というようなエピソードも出て来る。「おなくら」の話とか、「女マリリン・マンソン」の話とかである。自分で突っ込んでいっている場合もあるし、引き寄せられている場合もあるだろうが、なんというか、何故そんなことが起こる???と思いたくなる。おかしい。僕も、頭のネジの配置がちょっと違えば、著者のように非日常的なシチュエーションに遭遇できる人生だっただろうか?

また、人としても、著者と僕とでは同じメンタリティを持っているようには見られないだろう。いや、どうだろう。自分ではなんとも言えないが、広く括れば同じ方向にはいるけど(サイコパスだし)、でも別物、みたいな見方になるのではないか、という気はする。そのこともまた、なんというか、不思議だなぁ、と感じながら読んでいた。

著者が世界をどう見ているのか、という話に戻ると、個人的には、トイレットペーパーを買う時の「テープでよろしいですか?」への疑問なんかは秀逸だと思う。僕も、エッセイに書かれていることとまったく同じことを思うが、これが秀逸だと感じるのは、わざわざメモするほどのエピソードでもないから、エッセイに書こうとした時に思い出せる可能性が低いと感じられる点だ。いや、もしかしたら著者にとっては大問題なのかもしれないからその辺りのことは断言は出来ないのだけど、そういう日常の中の、そんな些細なことをよく覚えていて、かつ、エッセイの中で適切なタイミングで登場させられるものだな、と感心した。

さて、ここでちょっと変なことを書こう。
僕は本書を読み始める前、もしかしたら本書は面白くないかもしれないぞ、と思っていた、という話だ。

僕は本書を読む前に、浅田次郎の「壬生義士伝」という、上下巻合わせて900ページを超えるような長い小説を読んでいた。だから、「壬生義士伝」の途中途中で、本書「探してるものは~」の適当なページ数を開いて拾い読みしていたのだ。

ただその時は、正直、あまり面白いとは思えなかった。2~3個エッセイを拾い読みしてみたのだけど、つまらなくはないけど言うほど面白くもないぞ、という感じだった。

だから、「壬生義士伝」を読み終えて、さぁ頭からちゃんと読みますか、という時には、あまり期待していなかった。

けど、頭から終わりまで通しで読んでみると、2~3個拾い読みした時とはまったく違う印象で、実に面白かった。

この不可思議な現象を、自分なりに分析してみた。

恐らくそれは、「こいつマジ何書くか分からねぇ」という謎の緊張感の中に取り込まれていった、ということなのだと思う。

本書を読むと、5ページに1回ぐらい、「おいおいそんなこと書いていいのか?」と感じる。書店員として、仕事人として、女性として、人として、そんなこと書いちゃってホントに大丈夫?と思うような描写がバンバン出てくるのだ。

僕自身も、何か文章を書く時は、自分が恥ずかしいと思うこと、出来れば書きたくないと思うことを書かないと面白くならない、と思っているので、比較的普通の人なら書きにくいと感じるだろうことも書くようにしている。でも、そんなレベルではない。読んでる側は別に問題ないけど、書いてるあなたには色々支障あるんじゃないでしょうか?と思うようなことが一杯書かれているのだ。

だから読み進めているとだんだん、「こいつ次は何言うんだ?」というような気分になってくる。

話は突然変わるが、ちょっと前に「素晴らしき映画たち」という映画を観た。「スターウォーズ」や「インディー・ジョーンズ」「ET」と言った誰もが知っている劇中曲を、誰がどんな風に生み出していったのかを描くドキュメンタリー映画だ。

その中で、「JAWS」のあの「ドゥードゥン」という、サメが登場する時の音楽を作ったエピソードも出てくる。映画の中で誰かが、「「JAWS」はあの効果音がなければ、何がなんだか分からない映画」と語っていたことを覚えている。

で、本書の著者に対しての「こいつ次は何言うんだ?」という感覚は、まさに「JAWS」の「ドゥードゥン」という効果音のようなものなのだと思う。あ、なんか来るぞ、という感覚に囚われるのだ。頭の中で「ドゥードゥン」と鳴るのだ。で、やっぱりなんか来るのだ。うわ、来たよ、という感じになる。拾い読みしている時には「ドゥードゥン」は鳴らなかったのだ。だから、頭から通して読む時と、印象が変わるのである。

『しかし、(エッセイを書くことで)失ったものならある。
深刻さだ。
過去に感じた怒りや悲しみが人生から消えることはないが、文章にした途端、深刻さを失い、それはもう、元には戻らなかった。全然笑えない話だったはずなのに』

言葉を蓄積すればするほど、世界を細かく見ることは出来る。しかし、どれだけ言葉を蓄えたところで、言葉というものが近似値であるという事実に変わりはない。感情や価値観や思考を、一片も漏らさず言語化することなど出来ない。それらは、言語化する過程で、どうしても何かが欠落してしまうのだ。著者の場合、欠落したものが深刻さだったのだろう。

ただ、言語化することで、「自分はこんなことを考えていたんだ」と感じる機会もある。少なくとも僕は、文章を書いていて時々そういう状態に陥る。頭の中にある概念や価値観について書いているはずなのに、出力された言葉を目で認識することで、自分の頭の中の概念や価値観を理解する、という瞬間がままあるのだ。

「探しているもの」が、言語化することでしか見えてこない自分の頭の中にあるのだとすれば、「そう遠くはないのかもしれない」という認識は、エッセイを書いた今だからこそ、より正しさに近づいたと言えるだろう。

新井見枝香「探してるものはそう遠くはないのかもしれない」

エスケープジャーニー 1・2(おげれつたなか)

『太一とは、「恋人」じゃダメだった。なら「友達」に戻れば、またうまくいくのだろうか。俺と太一は、どんな名前だったらうまくいくんだろう』

あぁ、すげぇ分かるなぁ、と思う。

僕は、数少ない恋愛経験から、「恋人」という名前だとうまく行かないことが分かった。相手のことがどれだけ好きでも、「恋人」になるとダメ。僕はそのことに、色んな理屈をつけて自分を納得させようとしてるんだけど、どうしてそうなってしまうのか、本当のところはよく分からない。

そういう人は、男女限らず結構いるだろう。例えばちょっと話はズレるかもしれないが、「好きな人なのに、相手に好きになられると、気持ち悪いと感じてしまう現象」には「蛙化現象」という名前がついており、論文も存在する。論文が存在することと、論文の内容が正しいことは、決してイコールではないけど、「蛙化現象」と呼ばれる現象に近いことは、僕にも理解できる。僕も、その人のことが好きなはずなのに、相手が自分のことを好きになってくれると、相手への関心を失ってしまう。自分でも、どうしてそうなるんだかイマイチ分からないのだけど、どうしてもそうなってしまうんだからしょうがない。

でも、男女の恋愛をテーマに、この「蛙化現象」を描くのは、ちょっと困難だろう。論文になんて書かれているのかは知らないが、少なくとも「蛙化現象」はまだ一般的な概念ではないだろうし、であればその現象を理解してもらうために様々な説明や状況設定が必要になる。決して少なくない人間が「蛙化現象」を感じているはずだろうに、それを表現するのにはなかなか困難だろう。

そして、もう少し話を拡大して、「蛙化現象」に限らず、「恋人になるとうまくいかなくなってしまう」というのを男女の恋愛で描き出すのは、結構難しいように思う。男女の恋愛の場合は、恋人になったことそのものではなくて、何らかの外的要因とか、お互いの内面の変化など、そうだよねそれなら恋人としてうまくやっていけないよね、と思ってもらえるような何かを用意しないと、なかなか描きにくい。

でも、男同士の恋愛であれば、それをうまく描ける。

『女の子は友達、恋人、それから結婚して家族になる。でも俺と太一は恋人がゴールで最後だった』

男女ではうまく説明できない「恋人になったらうまくいかない理由」を、この作品では、「男同士だと家族になれないから、恋人が関係性の執着だ」という描き方をすることで提示する。そこに、この作品がBLである必然性があって、そういう作品は好きだ。

『どうなったらゴールなのかも分かんねえ』

「好きだ」ということを描くだけなら簡単だ。喧嘩して、仲直りして、トラブルを乗り越えて、セックスして、そういう二人のやり取りを眺めるだけで楽しい、という人もいるだろう。でもこの作品のように、男同士の関係性をリアルに突き詰めてみるのも面白い。

「家族」なんて概念は、時代によって変わる。時代の都合に合わせて、特に為政者にとって分かりやすい価値観に押し込められるだけのことだ。そんな押し付けられた「家族」って概念なんて、さっさと捨てればいい。

『男2人ってやっぱり、ご近所の目とか物騒だと思われたりするんですよ。何より偏見がありますからねぇ…大家さんにもよるんですけど』

社会は、簡単には新しいものを受け入れない。いや、別に男同士の関係は、新しいもの、というわけではないか。やはりこう言うべきだな。多数派は、簡単には少数派を受け入れない。だから、多数派の論理についていけないと思ったら、多数派の論理なんか捨てるしかない。

『こえーんだよ。なんか…なんでもいい。名前がつかないと。友達とか恋人とか…家族とかさ』

名前が付けられたって、そこに自分たちの関係を押し込めているだけなら意味がない。2巻目は、彼らにその自覚を促す展開だった。

僕は、なるべく名前の付かない関係性を目指している。窮屈に生きるより、全然マシだ。

内容に入ろうと思います。
高校時代付き合っていた太一と直人は、酷い別れ方をして、疎遠になった。驚異のコミュ力で大学入学早々男女ともにすぐに仲良くなってしまう直人は、あちこち声を掛けている時に驚いた。
同じ大学に、太一がいたのだ。高校時代、文系だった直人と理系だった太一。大学が被るはずないと思っていたけど、まさかここで会うとはね。
直人は、気まずさを抱えながら太一と一緒にいるが、次第に分かってくる。
太一とは「恋人」ではいられなかっただけで、「友達」としては凄く楽しい、と。好きになりさえしなければ大丈夫、余裕だ。
そう思っていたのに、やっぱりダメだった。結局また太一と関係を持ち、付き合うことになってしまった…。
というところから物語が始まっていきます。

本書の核となる部分については冒頭で触れたので、あと僕が書きたいことは2つ。

一つは、本書には珍しく「女子」が登場する、ということです。もちろん、モブ的な感じで女子が登場するBLはあるでしょうけど、本書では、恋愛対象者として女子が登場します。これは、水城せとな「窮鼠はチーズの夢を見る/俎上の鯉は二度跳ねる」でも同様でしたけど、物語の展開のさせ方としては、恋愛対象者として女子が登場すると圧倒的に難しくなります。だって、「男」と「女」を比較させて、「男」を選ばせなければいけないわけですから。それを、ごく自然にやるのは凄く難しいと思うので、そういう意味でも本書はなかなか凄いなと思います。

あともう一つ。本書は、直人が超チャラ男で、作品全体の雰囲気はその直人の雰囲気に引きずられる形で超チャラい感じになっています。でも、作品全体のテーマとしては、「男同士でも家族になり得るか」というかなり真剣なもので、そのギャップが結構良い効果を出していると思います。あとがきで著者が、「今時の若者言葉の難解さにも苦しみましたが」と書いているように、学内で展開される会話にたまについていけないこともあるぐらい、「今時の若者感」全開って感じでしたけど、それでも真剣な場面ではびっくりするぐらい真剣で、その緩急が凄くいいなぁ、と思いました。

2巻では、仁科京っていう新キャラが登場して物語をかき回しますが、さてさてこの後太一と直人がどうなっていくのか、楽しみでございますね!

おげれつたなか「エスケープジャーニー 1・2」



壬生義士伝(浅田次郎)

死ぬ理由がある、というのは、羨ましいことなんだと思う。
それは、生きる理由がある、ということと同じだと思うからだ。

大体の日本人にとって、「死」というものには特別な意味はない。いや、「特別な意味はない」というのは、決して「死」が普通でありきたりのものだと言いたいのではない。僕が言いたいことは、「死」というものに特別な意味を付随出来ない世の中に生きている、ということだ。つまり、「どう死ぬべきか」という問いが成り立たない時代だ、ということだ。

今の世の中で、「死」というものが意識されるのは、年齢を重ねて死が近づいて来ている老人か、あるいは死ぬことでしか現実の問題を解消出来ない人だろう。前者にとって「死」とは、やがてやってくる当たり前のものであり、「どう死ぬべきか」という問いは、仮に成り立ったとしても、「周囲に迷惑を掛けないように」程度のものでしかない。

後者の場合、「どう死ぬべきか」などという問いはそもそも成り立ちようがない。「死」というものが、現実から逃避するための手段として意識されているだけなので、「どう死ぬべきか」などと問うても仕方がない。

そういう世の中も、良いんだろうと思う。別に、悪いと思いたいわけではない。誰もが「死」というものを殊更に日常的に意識することはなく、「どう死ぬべきか」など考えなくても前に進んでいける世の中というのも、もちろん、それはそれで素晴らしい。命というのは、一度喪われてしまえば取り返しがつかないものなので、それを喪わせる状態である「死」というものに対して、「どうあるべきか」などと問うことは、愚問であるのかもしれない。

ただ、「どう死ぬべきか」が問われない世の中であるということは、同時に、「どう生きるべきか」がぼやけてしまうことにもなる、と僕は感じる。

それがどんな生き方であっても構わない。僕自身は、他人に迷惑を掛ける生き方は良しとはしないが、とりあえず今はそれも措いておこう。とりあえず、どんなそれがどんな生き方であっても、「自分はこの生き方を貫くことが出来ないのなら死ぬ」という何かがあることは、生き方として僕は素晴らしいことだと思う。

『あの人はね、まちがいだらけの世の中に向かって、いつもきっかりと正眼に構えていたんです。その構えだけが、正しい姿勢だと信じてね。
曲がっていたのは世の中のほうです。むろん、あたしも含めて。』

時代の大きな流れに逆らうことは、とても難しい。世の中の当たり前に歯向かって生きていくことは難しい。多くの人が、そういう大きなものに流され、そういう自分を良しとして前に進んでいくしかない。もちろんそういう生き方を否定するつもりはない。生きていく、というのは、単純なものではないからだ。ただ、自分の正しさを信じて、貫いて、貫き通せなかった時に死を選ぶ、という潔さは、「生きる」ということを積極的に選び取っていることだと僕には感じられる。無闇矢鱈に死を望めばいいわけではないけど、こうあるべき自分を曲げずに貫いて、それで死んでしまうのであれば、それは良いんじゃないかと僕は思う。

もちろん、こんな意見にも賛成だ。

『だから私ァ、今でもあの人のことを男の中の男だと思う。男の責任てえやつをね、とことん果たしたんだから、誰も文句は言えねえはずでがしょう。
そんならひとつお訊ねいたしやすが、そういう立派な男を殺さにゃならなかった武士道ってのは何なんです。そこまであの人を追い詰めちまった世の中は、どこか間違ってやしませんでしたかい』

そう、確かに、武士道「なんか」に殺されるのはアホらしい。でも、それは、後世の人間が判断してはいけないことなのだ、と僕は感じる。その時代を生きた人が、あまねく背景を知った上でそう言うのであれば、それは意見の一つとして正しい。でも、僕らの時代にはもう、武士道なんてものは存在しない。彼らが生きてきた世の中とは、全然価値観が違っている。そんな僕らが、「武士道なんかに殺されるのはアホらしい」などと言ってはいけないんじゃないか、と僕は感じる。

『わしは脱藩者にてござんす。生きんがために主家を捨て、妻子に背を向け、あげくには狼となり果てて錦旗にすら弓引く不埒者にござんす。したどもわしは、おのれの道が不実であるとは、どうしても思えねがった。不義であるとも、不倫であるとも思うことができねがったのす。
わしが立ち向かったのは、人の踏むべき道を不実となす、大いなる不実に対してでござんした。
わしらを賊と決めたすべての方々に物申す。勤皇も佐幕も、士道も忠君も、そんたなつまらぬことはどうでもよい。
石をば割って割かんとする花を、なにゆえ仇となさるるのか。北風に向かって咲かんとする花を、なにゆえ不実と申さるるのか。』

彼は、時代が「正しい」と要請する様々な価値観に背を向けた。多くの人は、「正しい」価値観に沿って生きていた。理由は様々だろう。それが当然で疑問など感じなかった人もいるだろうし、疑問を感じつつも背を背けることなど出来ないと思っていた人もいるだろう。

そういう中にあって彼は、自分が正しいと信じる道を貫き通した。

『能力だけを認められて、藩校の助教や藩道場の指南役を仰せつかり、内職をする暇もない。奥様は労がたたって病に伏し、子供らは飢えるとなれば、いっそ飼い殺しになるよりは脱藩をして、江戸や京からひそかに送金をしようというのは、一家の主としてはむしろ当然の選択であったのではなかろうか。すべては、幕末という暗い時代のもたらした、理不尽のせいであります』

彼は、どう生きるかを考え続けた。考えて考えて、時に人を傷つけながら、時に人を裏切りながら、それでも、自分が正しいと思う生き方を真っ直ぐに進んだ。

彼には、「時代に抗う」という意識などなかった。彼にあったのは、正しく生きたい、という想いだけだった。しかし、彼が思う正しさは、彼が生きた世ではほとんど実現出来ない。ならば、何がなんでも貫き通さねばならぬ正しさのみを追い求め、そのためにあまねく間違いを引き受ける生き方を選んだのだ。

『武士はその出自がすべてじゃった。いや、あの時代には、生きとし生くる人間の一生が、すべてその出自によって定められていた。
そうした時代にあっても、武術なり学問なりの教育が行き届けば、突然に身分不相応な才というものが出現する。武に秀で学に長じ、しかも貧しさの分だけ情のこまやかな人物がの。
才を持ちながら、もしくは才を持ったがゆえに世の中の仕組に押し潰され、抗うべくもない世の流れに押し流される。吉村貫一郎はそうした矛盾の雛形じゃった』

時代は大きく変わった。価値観も大きく変わった。しかし、彼のように理不尽・矛盾に絡め取られながら生きている人は、今の時代にもたくさんいるはずだ。時代さえ違えば、英雄とは言わないまでも何か成し遂げることが出来ていたかもしれない人が、時代が違うが故に押し潰されようとしている。そんな人は、今の時代にだってあらゆるところにいるだろう。

そういう時、そう生きるべきか。その判断は、とてつもなく難しいだろう。

『たしかに強情っぱりには違えねえ。でもね、私にァはっきりとわかりやした。なぜ吉村さんがその握り飯を食おうとはしなかったのかが。
御蔵屋敷の米は、南部の米でござんす。そりゃあ、あの人にとっちゃあ南部の御殿様からいただくお代物だ。父祖代々、ずっと頂戴してきた南部の米でござんす。
あの人はそれを、どうしても口にすることができなかったに違えねえ。脱藩者であるかぎり、それを食っちゃならねえと思ったのか、さもなけりゃあ、脱藩せずばならなかった貧乏足軽の意地にかけて、その米だけは食いたくねえと思ったんでがしょう』

傍から見れば、彼の行為の多くは、馬鹿馬鹿しく見えたことだろう。そんな意地を張る必要がどこにある。まして、まさに今から時代が変わろうという、まさにその瞬間に生きているのだ。旧来の価値観で物事を判断することに意味などなくなる―多くの人がそう考えるようになってもそれは自然なことのはずだ。

それでも彼は、自分の生き方・考え方を貫いた。

それを曲げてしまっては自分ではなくなってしまう、という感覚は、彼ほどではないけれどもたぶん僕の中にもほんのちょっとはある。そういう自分は、ほとんど表に顔を出してはこないけど、たまに出てくることがある。自分でも、めんどくせぇな、と思う。でも、その自分を無視してしまえば、後で後悔することは分かっている。自分が自分でなくなってしまう。命は継続していても、生きていることの意味が減じてしまう。

そういう自分は、確かに僕の中にもいる。

だから僕も、無駄な意地を張りながらこれからも生きていく。たまにそういう自分について人に話す機会があると、そんなに背負う必要はない、そんなに重く考えることはない、と言われる。もちろん、僕だって、そんなことは分かっている。分かっているんだけど、でもそうせざるを得ない。

窮屈だな、とは思う。でも、だからこそ、彼が貫きたかった生き方のことが強く理解できてしまう部分もあるんだろうな、と思う。

内容に入ろうと思います。
『慶應四年旧暦一月七日の夜更け、大坂北浜過書町の盛岡南部藩蔵屋敷に、満身創痍の侍がただひとりたどり着いた。』
本書は、そんな一文から始まる。
ここにたどり着いた侍が、南部藩を脱藩し新撰組に入隊、後に「鬼貫」とまで呼ばれるほど人を斬りまくった吉村貫一郎だった。
三日に戦端を開いた鳥羽伏見の戦いは既に大勢が決しているという状況の中、命からがら戦いを潜り抜け、故郷の家紋の入った提灯を目にしてやってきたボロボロの侍を、蔵屋敷の面々は持て余した。
というのも、塀を隔てて隣り合う彦根藩が、薩長長州の軍に加わっているからである。ここで、薩長の敵である新撰組の残党を手助けしたと彦根藩に知られれば、厄介なことになる。
当時、蔵屋敷を預かっていたのは、かつて同じ寺子屋で勉学に励んだ幼馴染である大野次郎右衛門である。しかし彼は、土下座しながら命乞いをする吉村に向かって、「腹ば切れ」と冷たく言い放つ。
そんな吉村貫一郎のことを、誰とも知れぬ聞き手が、御一新から50年後の時代に聞き歩いている。かつて新撰組の隊員だった者、大野次郎右衛門の周囲にいた者、吉村貫一郎の親族などなど。
話を聞かれる側は、一様に驚く。なんだって吉村貫一郎なんざの話を聞きたいんだ、と。講談なんかで話の主役になるような人物ではないし、歴史に名を残すような男でもない。なんでそんな男の話を聞きたいのか、と。
それでも話し手は、時には重い口を開きながら、それでも皆吉村貫一郎について話をする。

『本当のことを言うとな、俺ァ吉村貫一郎ってやつは、好きじゃなかった。
なぜかって、いじ汚ねえやつだったからよ。そりゃあ剣は立つ、学問もある、とりわけ筆は達者だった。だが何てったって、銭に汚かったんだ』

そんな風に嫌悪されながらも、しかし一方で、多くの人間が吉村貫一郎を一角の人物として語る。

『こいつだけは殺しちゃならねえって、土方歳三は考えていたんだと思います』

『一見して矛盾だらけのようでありながら、奴はどう考えても、能うかぎりの完全な侍じゃった』

『誰が死んでもよい。侍など死に絶えてもかまわぬ。だが、この日本一国と引き替えてでも、あの男だけは殺してはならぬと思うた』

何が彼らにそう言わせるのか。南部藩の蔵屋敷で、無残な姿を晒しながら、それでも命乞いをし続けた侍らしからぬこの男のどこに、修羅場を潜り抜けた男たちは惹かれていたのか。

『人の器を大小で評するならば、奴は小人じゃよ。侍の中では最もちっぽけな、それこそ足軽雑兵の権化のごとき小人じゃ。しかしそのちっぽけな器は、あまりに硬く、あまりに確かであった。おのれの分というものを徹頭徹尾わきまえた、あれはあまりに硬く美しい器の持ち主じゃった』

激動の時代を、その生き様を以って多くの人の記憶に鮮明に残り続ける、一人の高潔な男の生涯を、様々な人物の口を借りながら描き出す作品。

凄い作品だったなぁ。凄かった。とにかく凄かった。

正直に言えば、読み始めはよく分からなかった。まあ、これはしょうがない。何故なら、最初の方は、「いかに吉村貫一郎がダメな人間だったか」が描かれるからだ。もちろん、良い側面も描かれる。しかし、本書での吉村貫一郎の描かれ方は、最初の方は悪い印象が募るものが多かった。

とかくそれは、金にまつわる話が多かった。とにかく吉村は、金の亡者のような男だった。もちろん、新撰組などそもそも寄せ集めのような集団だったのだから、食い詰めてどうにもしようがなくなって流れ着いた者も多い。だから、金のために新撰組にいる、という人間ももちろんいただろう。

しかし、当時の感覚は、新撰組の隊士の一人の口を借りればこうだった。

『こいつはいってえ、何のために生きてるんだ。誰のために人殺しなんぞするんだ。こんなことを続けていたら、早晩叩っ斬られるか切腹させられるかして命がなくなるってえのに、そりゃあお天道様が東から昇るぐれえわかりきったことなのに、何でまたお命代の給金をいちいち国に送ったりするんだ。
当たり前だよ、亭主が女房子供を養うのは。だがよ、あの日あのときのあいつが、真正直にそんなことをしてるってのがな、俺にはどうともやりきれなかった。
その気持ちばかりァ、同じ暮らしをしていたやつにしかわかりゃしねえ。俺ァまったくやりきれなかった』

もちろん、言っている内容を見れば、むしろ吉村の良さが浮かび上がってくるような話なのだけど、最初の内は色んな話が、「吉村は悪く見られていた」という方向から描かれるので、物語に入るのに時間が掛かった。冒頭の、大野次郎右衛門に「腹ば切れ」と言われた話も、そんな印象を補強する。吉村が「竹馬の友」と呼ぶ大野次郎右衛門に「腹ば切れ」と言われるこの男の印象が良くなろうはずがない。

しかし読み進めていく内に、吉村貫一郎という男の印象がどんどん変わっていく。吉村が何をして何をしなかったのか、ということが徐々に明らかになっていくに連れて、どんどんと吉村貫一郎像が変質していくのだ。そして、そういう話の展開を理解することで、冒頭で何故吉村が悪し様に描かれていたのかも理解できた。要は前フリなのだ。吉村貫一郎を悪く見せることで、変化が劇的に感じられるようになる。

彼の人生は、追えば追うほど真っ直ぐだ。多くの人間が、時代や時代の変化に合わせて、自分自身の姿形や考え方まで変えてしまうのに、吉村貫一郎はそれを良しとしなかった。自分が何をしているのか、それがどんな罪であるのか、その罪と引き換えに何を得ているのか、そうするだけの価値がどこにあるのか―彼は、常にそういうことを考えていた。時代がどうとか、周りからどう見られるとか、そういうことは考えなかった。

その潔さに、多くの人が惹かれるのだ。

誰もが、こんな風に生きられれば素晴らしいだろうな、と感じる生き方を、吉村貫一郎はしていた。多くの人にとって、彼は理想だったし、希望だった。しかし、理想であり希望であるにも関わらず、彼の人生は、時代にそぐわなかったというだけの理由で苦しいものとなった。

そんな背負って余りある理不尽に気丈に立ち向かって、一人の男として真っ直ぐ生き続けた男の生き様は、読み進める毎に凄みを増していって、読み始めた頃の印象など吹き飛んでしまうほどだ。

こうありたい、こう生きたい、という理想を貫くことは本当に難しい。守るものがあったり、手放せない状況があったりすれば余計にそうだろう。時には妥協も必要だし、いずれにしても死ぬより生きる方がずっとマシ、というのも確かだとは思う。

しかし、多くの人間が、これだけ吉村貫一郎という人物について語りたくなってしまう、その背景には、やはり彼に対する憧れがあるだろうし、自分にはそんな風には生きられなかったという悔恨みたいなものがあるのだろうと思う。って、なんだかノンフィクション作品を評するような書き方になってしまったけど、なんだかそう感じてしまうぐらい、彼らの語りは生々しいし、「そこ」にいるような感じがするのだ。

彼が正しいか正しくないか、などという問いは無意味だし、問う価値もない。吉村貫一郎という男がこういう風に生きたのだ、ということそのものに価値があるのだと思う。そう思いたい。

人生全部を吉村貫一郎のようには生きられないかもしれない。でも、人生の内のどこか一時、あるいは一瞬でもいい、彼のような潔さで以って世の中と対峙することが出来ればいいな―そんなささやかな希望を胸に抱きながら、この作品を読み終わった。

浅田次郎「壬生義士伝」



薊/錆びた夜でも恋は囁く/恋愛ルビの正しいふりかた/はだける怪物 上(おげれつたなか)

【俺、これ以上ひどい奴になりたくない。なのにダメだ。このままじゃお前にもっと酷いことしちまう。俺達そのうち、楽しかった頃もきっともう思い出せなくなる。でも、今ならまだ間に合うんだ。
助けてくれ】

恋愛になると、どうもうまく行かなくなる。そうしたいなんて思っていないのに、相手に嫌なことをしてしまう。相手を傷つけなくちゃ、自分を守れないと思ってしまう。相手との距離が縮まれば縮まるほど、僕は嫌な自分になる。

【俺は…追いつめられりゃ、何するか分かんねぇような奴だ。だから大事だって思う人もつくりたくない。傷付けるのも離れることになるのも分かってる】

自分は悪くないって思い込むために、ずっと相手のせいだと思っていたんだけど、あぁそうじゃないんだなって途中で気づいた。僕の問題なんだなぁ、って。だから、「大事だって思う人もつくりたくない」ってのは、凄く分かる。自分が大切にしたいと思えば思うほど、その人には近づかない方がいいんだろうな、と感じてしまう。

【あの人といると「理想」でいられなくなる】

距離が縮まれば縮まるほど、「こんな風には振る舞いたくない」という自分に近づいてしまう。その度に、嫌だなと思う。またここにたどり着いてしまうのか、と思う。うんざりする。そういう自分に気づきたくないから、もういいや、と思う。恋愛も家族も、僕には向いてない。

それに、大事な人が出来ると、自分が弱くなる。

【真山さえいなければ、僕は自分の思った通り立っていられるのに、真山といるとひとりじゃ立っていられなくなりそうになる。】

誰かの存在を希求することは、そう、一人では立っていられなくなることだ。それは怖い。

【全て見せてしまったとして、真山がいなくなったらどうする?】

一人で立っていられない自分にはなりたくない。

【真山のことがこわい。ひとりで立っていたい】

一人で立っていられないことは、寄りかかっている存在がいなくなった時の自分へのダメージも怖いけど、それ以上に、相手への負担が気になる。自分が一人で立っていられないということは、相手に支えてもらっている、ということだ。

支えたいと望む人も、世の中にはいるのだろう。でも、僕自身がそういう人間ではないから、そういう気持ちをうまく想像できない。想像できないから、なかなか信じることが出来ない。信じることが出来ないから、相手への負担になっているのではないかという懸念を捨てきれない。

だから、遠ざけたくなるし、傷つけたくなる。

【俺はただ、惨めでいたくない。都合よく扱われても、酷くされても、俺は自分をかわいそうだと思いたくない。だから俺は、自分がかわいそうにならないために、泣かなかったし、誰にも頼らなかったんだ。自分のために笑ってただけ。それで良かった。なのに、お前がただひとり、俺をかわいそうな奴にする。お前が一番、俺を傷つけんだよ】

弱くなりたくなくて、虚勢を張る。一度弱くなってしまったら、二度と一人では立ち上がれないと知っているから、差し伸べられた手をはねのける。一度優しさを受け入れてしまったら、その優しさを当然のものとして扱いたくなる自分が嫌で、優しさを拒絶したくなる。

【この手を取っちゃだめだ。この手を取ったら、全部終わる】

すべては、自分のことを信用できない弱さが生み出している。

【傷つけることしかしてこなかったから、今も…分からなくなる。お前のこと、大事にできてんのかどうかって】

「怪物」が、自分の中にいる。目を覚まさせてはいけない。起きてしまえば、自分ではもう制御出来なくなってしまう。だから、自分の感情をコントロールする。

誰も傷つけないために。

内容をそれぞれ紹介するのではなくて、全体の設定をざざっと書いておきましょう。
弓とかんちゃん(かんのすけ)は、高校の同級生。かんのすけは高校を卒業して働きに出る。妹の学費を稼ぐためだ。でも、そこは壮絶なブラック企業だった。でもかんのすけはそこから離れられない。学歴のない男に、行き先などないからだ。そんな鬱憤を晴らすかのように、かんのすけは弓を殴るようになる。その衝動を抑えきれない。
弓はアルバイト先で、中学時代の同級生・真山と再会する。卒業後ケータイを水没させて、ずっと連絡を取れないでいた相手だ。弓は、真山に近づいてはいけないと思う。思うのだけど、なんとか会う理由を探している。弓は時々、殴られた姿でバイト先に顔を出す。真山はそれを見て、弓を心配するが、真山が差し伸べる手を、弓は素直に掴むことが出来ない。
林田は、強面の顔で社内で恐れられているが、イケメンの後輩である秀那をセフレにしている。飲み会の後、酔いつぶれた林田を介抱しつつ、先に手を出してきたのは秀那の方だ。これまで女性からモテまくってきた秀那だが、男も悪くないと、林田とヤッてみて思う。林田は、秀那とセックスが出来ればいいと思っているが、秀那は次第に林田にのめり込んでいく。林田の部屋に貼られた写真のせいもある。高校時代、付き合っていた彼氏だそうだ。
付き合って欲しいと言った秀那に対し、林田は、かつて付き合っていた相手を殴っていたと告白するが…。
というような話です。

「恋愛ルビの正しいふりかた」だけ単体で読んでいたのだけど、正直その時は、あまり良い作品だとは思いませんでした。でも今回、一連の作品を読んで林田の背景を知ったことで、印象がガラッと変わりました。

今回読んだ一連の作品は、僕が好きなタイプのBLとはちょっと違います。僕が好きなBLは、「ゲイがノンケを好きになって、そのノンケとどう恋愛関係に持っていくのかゲイが葛藤する」というものです。今回の作品は、元々ゲイなのかどうかはともかく、男同士が付き合ったりセックスしたりすることに抵抗のない者同士の話で、僕がBLに求める葛藤が描かれているわけではありません。

ただ、彼らは別の形で葛藤を抱えていて、それが自分が抱える葛藤に近いと感じられました。

「怪物」という表現が本当に適切だと思うんだけど、自分の内側に「怪物」を抱えている者が、自分の振る舞いに自信が持てずに怯える。それは、凄くよく分かる。自分ではどうにも出来ない「怪物」が出て来るかもしれないと怯えながら生きていくのは、正直めんどくさい。めんどくさいから、その可能性を断ち切っちゃえばいい、と思うんだけど、まあなかなかそうもいかない。その辺りの葛藤は、すげぇ分かるなぁ、と思った。

もう一つ、これも冒頭で書いたけど、大事な存在が出来ることで自分が弱くなってしまうことの怖さみたいなものも、分かるなぁ、って感じでした。弓は、殴られている自分の状況に対して苦痛を感じない。僕も、殴られたことはないから正確には分からないけど、気持ちは分かるはず。誰かの悪意や衝動が、自分だけに向けられているなら、たぶん耐えられるんじゃないかなって思う。自分で立っていられているような感じがするから。

でも、自分で立っていられないような感じがするのは怖い。

この作品ではそれを、自分の弱さを理解しようとする男への恐怖として描かれている。それも分かる。僕は他にも、悪意や衝動が、自分の大事な人に向けられる怖さ、みたいなのもあると思う。自分の大事な人が傷つけられる様を見せられるのは、自分で立っていられないような感じに近いような気がする。

「怪物」と「弱さ」、抱えている葛藤の質は違うのだけど、どちらの葛藤も、あぁ分かるなぁ、という感じだった。

そして、これはこれで、BLの方が描きやすいものなんだろう、と感じた。

「殴る」というのは、男女間ではあまりにもバランスが取れなさすぎる。男が女を殴るのは、葛藤として描くにはあまりにもアンバランスだ。その点、男同士なら、「喧嘩の延長だよ」なんてごまかしたり出来る程度にはバランスが取れる。しようと思えば抵抗だって出来るはずなんだから、暴力を続けるのも受け入れるのも、見方次第では本人の選択とも取れる。これはBLならではだな、と思う。

また、相手の弱さを理解しようとする、というのも、男女間だと「哀れみ」が際立ちそうだ。真山が男だからこそ、弓を心配する気持ちは純粋なものとして受け取りやすいけど、もし真山が女で同じことをしていたら、「哀れみ」が先に立って心配する気持ちを素直に受け取れない可能性もあるかもしれない。そういう意味でこれも、男同士だからこそ描きやすいのかもしれない、と思う。

こういう、BLであることに必然性を感じさせてくれる作品は良いと思う。

おげれつたなか「薊/錆びた夜でも恋は囁く/恋愛ルビの正しいふりかた/はだける怪物 上」







作詞少女 詞をなめてた私が知った8つの技術と勇気の話(仰木日向)

いやはや、ナメてました。すいません。
「何を」の答えは、二つある。
一つは、作詞という行為を、もう一つは本書を。

本書についてまず書こう。

本書は、どう見てもラノベだ。ラノベをそこまで低く見ているつもりはなかったけど(多少はそういう気持ちもあるけど)、やっぱりラノベだからなと思って油断してたんだろう。実に素晴らしい作品だった。

僕は、楽器が弾けるわけでも、よくカラオケに行くわけでもない。30歳を超えてから乃木坂46にハマり、その流れで欅坂46の曲も聞くが、子どもの頃から音楽はほとんど聞かなかった。ライブと呼べるものには、ほとんど行ったことがない。iPodも持ってないし、もちろん作曲も作詞も出来ない。する予定もない。

そんな人間が何で本書を手に取ったのか、うまく説明は出来ないが、なんとなく面白そうだなと思ったからだ。もう少し突き詰めると、「作詞」に「技術」がある、ということがどういうことなのか、という興味があったということだ(この発言自体、「作詞」をナメていることになるのだけど)。作詞をするつもりもない僕だけど、でも本書は実に面白かったし、作詞に限らず、何かを表現する人には汎用性のある話がたくさん盛り込まれていると感じた。確かに「作詞」に特化した技術や経験値の積み方などが多く書かれているのだけど、その合間合間に、「自分の内側から何か表現すべきものを出すこと」の本質的な部分に触れていると感じられる描写が多数あった。そういう意味で本書は、決して「作詞を志す人」だけに向いている本ではない。

そして「作詞」である。すいません、僕も思ってました。作詞ぐらい、自分にもきっと出来るだろう、ぐらいには。

『はーははは。いるんだよな、お前みたいなやつ。作詞くらい誰でもできるとか思ってるタイプのさ。笑っちゃうよな』

『…お前に限った話でもなくてな、作詞ってのは、なめられたんだよ。素人が趣味でやる分にはまだいいとして、プロの世界ですらな』

『だって作詞は、文字だもんな。文字なら扱えそうな気がするよな。センスでやれそうっていうかさ。メロディ作るよりはよっぽど簡単そうだ。そりゃそうだよな、だって日本人なら誰でも、読み書きくらいできるもんな。
正直に白状しろよ。別に責めてるわけじゃねぇんだ。みんなそうだよ。特に、素人のお前がその気持ちで入ってくるのはフツーのことだ』

『…今までいろんな作曲家と仕事してきたけどな、みんな愚痴るんだよ。クソみたいな作詞家をあてがわれたときの話をな。「こんな曲になるはずじゃなかった」って、そりゃあもう寂しそうに言うんだぜ。作曲家がとりあえずつけた仮歌詞の段階では良い曲になるって全員が思ってたのに、本チャンの歌詞がついたら急に台無し。よくある話なんだよ、これは』

いやー、ホントに、なんかゴメンナサイって感じでした。僕も、割とそんな風に思ってました。だって、メロディがあるんでしょ?で、そこに言葉を当てはめていけばいいんでしょ?あとは、センスとか語彙力の問題でしょ?…みたいに思ってました!すいません!

と土下座したくなるような本でした。

本書を読めば分かる。なるほど、作詞というのは確かに技術が必要なことなのだ、ということが。

著者自身、作曲も作詞も手がける人ですが、著者のあとがきに、こんな一文があります。

『音楽をやっている人はかなりの割合で「作詞は難しい」と言い、音楽をやっていない人はかなりの割合で「作詞くらいはできそう」と言う。』

作詞が簡単そうに見えるのは、作詞というのがどういう行為であり、何を目指しているのかが、全然分かっていないからなのです。音楽をきちんとやっている人には、作詞が難しく感じられる―正直、そんな風に考えたことは一瞬もないので、そのことを知れただけでも本書を読んだ価値がありました。

さてそれでは、「作詞」とは一体なんでしょうか?

『どいつもこいつもハッキリ言わねぇんだ。こんなに大事なことをさ。作詞ができるようになるには、作曲の意味がわからなきゃ話になんねぇんだよ。』

作詞とは、言葉だけの問題ではなく、作曲と関わりがあるようです。この一文を読んだ時には、まだ僕にはうまくイメージ出来ませんでした。でもその後、なるほどと納得させられる説明が登場します。

『作曲は「言いたいことや伝えたい情景を作る」“主体性そのもの”だ。編曲は「作曲の言いたいことをさらに盛り立てる」演出家。演奏家や歌手は、そうやって作り上げられた言いたいことや情景を「聴衆に語り伝える」語り部だ。さて、じゃあ作詞っていうのは、なんだ?』

そう問いかけた後、こんな答えを提示します。

『―「音楽語の日本語吹き替え」だ』

まさにこの点にこそ、作詞は作曲の意味が理解できなければ出来ないと断定される部分なわけです。

この表現は、僕には非常にしっくりきました。元々音楽というのは、クラシック音楽なんか典型的ですが、歌詞なんかなかったわけです。つまり、音楽というのは、歌詞のない状態で「音楽語」を伝えることが出来るわけです。で、それをより伝わりやすくしたり補完したりするのが作詞であり、つまり日本語吹き替えというわけです。そりゃあ、作曲の意味が理解できなかったら作詞なんか出来るわけありませんね。

この大前提を叩き込んだ上で、作詞というものに必要な技術や作業を伝える、という内容になっています。個々の技術や作業なんかはここでは触れないけど、非常に合理的で納得感のあるものでした。作詞について書かれた一般的な本の記述を知らないので分からないけど、恐らくそういう本には本書に書かれているようなことはさほど書かれていないのではないかという感じがします。というか、書いてあっても捉え方が違うかもしれません。本書は、物語という形で作詞技術を伝えようとしているからこそ伝わるものがあると感じられる作品で、そういう意味で、「作詞のやり方をラノベにしてみました」という単純な物語ではありません。

それがより理解できるようになるのが、後半です。

本書では、全体の2/3ぐらいの時点で、「お前にはもう教えることはない」と言って作詞講座が終了してしまいます。しかし、もちろんそこで終わりなはずがありません。というか、そこからが本当のスタートなんですけど、これがなかなかハードです。「私が知りたくなかった作詞の話」という章題があるんですが、まさにその通りで、作詞というのは技術だけではどうにもならない部分があるということが示されるわけです。

で、まさにこの部分こそ、作詞に限らず、自分の内側から何か表現すべきものを引っ張り出してくるすべての人に関わる箇所だと感じました。それは、文字に関わらなくても同じです。写真でも絵でも映像でもなんでも、とにかくそれが表現に関わっている以上、本書で書かれていることは役立つでしょう。もちろん、作詞の話をベースにしてはいるので、「文字を介して伝えること」に主眼は置かれますが、そうではない人にも有益だろうと思います。もちろん、賛否両論あるだろうけど、『アタシの言ってることなんて全部デマカセだと思っちまえ!』なんてセリフがある通り、受け入れるも受け入れないも自分次第でしょう。僕自身は、取り入れられそうな部分は積極的に取り入れていこうと思います。

さて、内容に入ろうと思います。作詞についてではなく、ラノベの物語の基本設定や展開などについてです。

高校二年生の江戸川悠は、クラスメイトで軽音部所属の友人から、学園祭で披露する曲の歌詞を考えてくれないか、と頼まれた。頭が良さそうに見えるのか、本を読んでいるイメージなのか、とにかく作詞の役回りが自分に回ってきた悠は、作詞くらいヨユー!と思って取り掛かるも、出来上がったものは友人にやんわり拒絶されてしまう。
落ち込んでいると、白髪に赤いメッシュの入った、制服をダラっと着てスカートの裾をかなり短く折った背の低い女が話しかけてきた。その女は、作詞くらい誰でも出来ると思っているテキトー作詞家を嫌悪しているようで、たまたま見られた悠の歌詞を見てボロクソに言ってきた。反論する悠だったが、しかし相手があのSiEだと知って驚愕する。月9ドラマの主題歌を始め、ヒット曲の歌詞を担当しているあのSiEだ。信じられない。しかもこの女、悠と同じ高校の三年生だという。伊佐坂詩文、それがこの女の名前だった。
結果的に悠は、詩文に作詞を習うことになる。しかし詩文はぶっ飛んでいる。何せ、転校してきたばかりの頃、クラスで行われていたイジメを目撃して、激ギレしながら消化器をぶっ放したという噂のある女だ。ヤバイ。ヤバすぎる。口も悪いし、行動が突飛でついていけない。しかし、詩文が語る作詞の話は実に魅力的で…。

というような話です。

繰り返すけど、凄く面白かった。作詞技術の話ももちろん面白かったんだけど、物語としても面白かった。ただ漫然と、作詞技術を悠に伝授する、というような話では全然ない。悠が抱える問題、そして詩文が抱える問題などが徐々に明らかになっていき、その展開と共に悠と詩文の関係性も揺れ動いていく。支離滅裂にしか思えない詩文の言動にはきちんと意味があって、しかしその意味を理解するまではまったく謎の行動でしかない。特に後半、「私が知りたくなかった作詞の話」の部分なんか、正直ここから物語はどうなるんだ!?と思っちゃうくらいだった。

そして、そんな二人のやり取りを読んでいく内に、瞬間的に涙腺が刺激されるような場面が出て来るんだよなぁ。これは、キャラクターの造詣が非常に見事だからだと思う。悠のキャラクター、そして詩文のキャラクターだからこそのやり取りが、読者の感情を揺さぶる。

特に、詩文の背景については、色々と考えさせられてしまった。もちろん、一般人が陥ることがないような特殊な状況だから、全然気にする必要はないんだけど、詩文のような人生って一体どんなだろう、と考えさせられてしまった。その圧倒的な孤独に、自らの意思で近づこうと決意する悠の決断も良い。

恐らく、作詞技術だけを解説するのであれば、ラノベにする必要はなかったでしょう。でも、本書の後半1/3の部分を描こうとしたら、物語として描く方がより効果的だろう、と感じました。これは、教本という形で描かれても、ちょっとうまくイメージ出来ないだろうなと思いました。物語という形で、伊佐坂詩文というぶっ飛んだ少女が繰り出すからこそ伝わる何かが、確実にこの物語の中にはある、と感じました。

あと、これはamazonのレビューを見て知ったけど、本書で紹介される「母音検索法」は、恐らく本書オリジナルの方法なんだそうです。読んで、なるほど作詞家ってのはこうやって歌い心地の良い詞を書く準備をするのか、と感心したので、これが本書のオリジナルだというのはちょっと驚きでした。

最後にまた繰り返すけど、決して作詞に限らず、何かを表現しようとする人は読んでおいて損はないでしょう。自分の内側から何かをひねり出すことの意味や心構えみたいなものって、なかなか言語化することが難しいけど、本書はそれを物語という形でうまく提示出来ていると思いました。オススメです。

仰木日向「作詞少女 詞をなめてた私が知った8つの技術と勇気の話」

たぶん、出会わなければよかった嘘つきな君に(佐藤青南)

嘘を吐くなら、バレてはいけないと思う。
だから、僕が嘘を吐くのは、すぐに嘘だと明かすか、あるいは絶対にバレないように状況をコントロール出来ると判断できる場合に限られる。
自分にそういうハードルを設けているので、僕はあまり嘘は吐かない(まったく吐かないとは言わないけど)。

そう意味で僕は、嘘を吐くこと自体悪いことだとは思っていない。吐いた嘘がバレてしまうことが悪いことだと思っている。状況によって「必要な嘘」というのは存在すると思うし、嘘をまったく吐かないことが誰かを傷つけることだってある。

だから、息を吸う様に嘘を吐く人間のことは許容できない。そういう人間は、大体嘘がすぐにバレるからだ。すぐバレる嘘を吐く人間の思考は、一体どうなっているのだろうか?イマイチ僕には理解できない。

僕は、他人の内面は永久に理解できない、と思っている。どれだ言葉や仕草を観察したって、相手がこう思っている、こういう気持ちでいる、などということが確実に分かるわけがない、と思っている。だったら、考えるだけ無駄だ。相手が僕に嘘を吐いていようと、別にどうでもいい。ただ願うのは、その嘘を吐き通し続けて欲しい、ということだけだ。

内容に入ろうと思います。
スマイル法務事務所で働く伊東公洋は、大学時代の親友・森尾に「何故彼女を作らないのだ」と詰問される。司法書士の資格の勉強をしている公洋は、今は別に彼女はほしくないと考えているのだが、森尾はしつこい。社内に誰かいないのか、と言われて、峰岸佑子の名前を出してしまった。さらに森尾は、居酒屋の店長にも、こいつ彼女いないんですよなどと声を掛けた。すると、店内にいた女子大生二人組の片方・ナナちゃんが彼氏がいないという話になる。変な流れになってきたと思いながら流していると、ナナちゃんから「デートしてみよっか」と声を掛けられた。
会社では、公洋は何故か社長の目の敵にされている。ミスを叱責されるのだけど、そのミスの大半は峰岸さんのものだ。公洋は何も言わずに、黙って叱責を受ける。そういうことがよくあった。公洋が峰岸さんに仕事を頼むことも多く、そのために峰岸さんが事務所に戻ってくるまで公洋も待つような流れが出来ていた。
ある日、いつものようにケーキを買って事務所に戻ってきた峰岸さんとひとしきり話をしていると、妙な具合になった。そしてその日から、公洋は峰岸さんから下の名前で呼ばれるようになり、さらには仲の良さを事務所内でアピールするようになった。
公洋は、ナナちゃんと映画を観る約束をしていた。そして何の因果か、まったく同じ映画を峰岸さんとも観に行くことになっていた。ナナちゃんとの予定が先で、そのデートの後、真面目な公洋は、自分がナナちゃんを好きだとはっきり自覚したことで、峰岸さんとの映画の約束を断る決心をしたのだが…。
というような話です。

まあまあ面白かったかな、という感じです。第一章は三角関係になりかけみたいな男女のラブストーリーみたいな話ですが、二章からガラッと物語のテイストが変わっていきます。誰もが日常の中で、悪意なくポロッと口にしてしまうような嘘(とも言えないようなもの)が発端となって、状況がどんどんおかしなことになっていきます。

三人の背景が徐々に明らかになっていくに連れて、状況が二転三転していくんですが、色んな人が色んなことを考えながら行動することで、不可思議な状況が生まれることになります。罪悪感、復讐心、嫉妬心、狂気なんかが入り混じりながら、彼らの間に何が起こったのかを明らかにしていく物語です。

本書は、なかなか珍しいタイプの小説です。少なくとも僕は、前例を知りません。というのは、本書はある書店員が原案を担当しているのです。その書店員が作家に原案を提示、作家がそれを元に小説を書き、後から出版社が決まる、というような流れだったそうです。そういう意味でも、ちょっと斬新な作品ではあります。

佐藤青南「たぶん、出会わなければよかった嘘つきな君に」

花木荘のひとびと(髙森美由紀)

内容に入ろうと思います。
盛岡駅から徒歩15分のところにある「花木荘」というアパートが舞台。大家であるトミというばあさんが一階に住んでいて、残り3部屋を店子に貸している。
一階に住むこはくは、ネットショッピングを止められないでいる。欲しいものがあるわけでもないのに。「父親」であるノリオとの関係はなかなか微妙で、その父がこはくを訪ねてやってくるという。久々に会う。
二階に住む時計屋の浅野は、寡黙な技術者だ。休日でも工房に足を運んで、趣味で時計を修理している。施設に入っている祖母が、自分のことをどんどん忘れてしまっている。そのことが、無性に悲しい。
もう一人の二階の住人である昇平は、植木屋である父の反対を押し切って美容師になった。とはいえ、まだまだ見習いだ。小学校時代の同級生の葵と偶然再会し、また関わるようになっていく。葵は、昇平が美容師を目指すきっかけになった人だ。
というような話です。

うーん、実にぼんやりした小説だなぁ、という感じがしました。「花木荘」に住んでいる、以外の共通項がストーリー上存在しないので、どこに焦点を当てて物語を追っていけばいいのかイマイチ掴めない。個人的には、昇平と葵の話はなかなか面白いと思ったけど、ただ、何故彼らの話が一冊の本としてまとまっているのか、という点がよく分からない。

例えば、もう少し大家のトミの関わりが強ければ、全体のバランスは取れるかもしれない。トミが問題を持ち込んでくるとか、あるいはトミが問題を解消させるとか、なんでもいいんだけどそういう要素がもう少し強ければ、作品としてのまとまりはあるような気がします。けど、本作では、あくまでもトミは「よく出て来る登場人物の一人」に過ぎなくて、まとまりはなかなか感じられない。

こはくの話、そして浅野の話は、正直何がなんだかよく分からなかった。さっきも書いた通り、どこに焦点を当てて読めばいいのか全然分からないから、こはくの話も浅野の話も、ただそこに物語がポンと浮かんでいるだけな感じで、よく分からなかった。こはくの話でも浅野の話でも、親と子の関係性みたいなものを描きたいんだろうけど、決して親子の話がメインなわけでもなく色んな話が同列に展開されていく感じがするし、イマイチ何を強く描きたかったのか分からない感じがした。

昇平と葵の話は、これまで書いた全体のまとまりとかそういうことはとりあえず放っておいて、それ単体で見れば悪くない作品だと思う。特に葵のキャラクターがなかなか良いと思うので、結構読ませると思う。昇平が美容師である、という設定も、ちゃんとストーリーの中で意味のあるものとして組み込まれるし。

とはいえ、じゃあ昇平と葵の話が「花木荘」で展開されなきゃいけなかったのか、と言うと、その必然性はやはり感じられない。こはくも浅野もトミも、昇平と葵の話にそこまで強く関わるわけではない(トミは若干介入するけど)。

長編の中の一部ではなく、昇平と葵の話を独立した中編のような捉え方をすれば、悪くはないと思います。

髙森美由紀「花木荘のひとびと」

紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場(佐々涼子)

「紙」に対する印象が大きく変わった。

僕は、なんとなくこんな想像をしていた。例えば、何でもいいけど、例えばカップラーメンの工場のように、機械に材料をセットして流し込んでしまえば、機会がすべてやってくれて製品にしてくれる。紙もそんな風に出来ているのだ、と思っていた。もちろん、工場にセットされている機械には様々な工夫がされているわけで、それは技術の結晶なわけだが、機械化が進むということは人の手が排除されていくというわけで、紙もそういうよくある工業製品の一つだという捉え方しか出来ていなかった。

しかし、どうやら違うようだ。

『製紙会社には、紙の作り方を記した門外不出の「レシピ」と言われるものがある。表面の仕上げに使う薬品など、それぞれの紙の仕上げ方は、長年の研究の上に積み上げたものである。それらもまた、知的財産としてそれぞれの工場内で伝えられている。しかし、「レシピ」だけでは完璧に仕上げることができない。最後の微妙な塩加減が料理人の腕にかかっているように、技術者たちの微調整が完璧な紙を作り上げているのである』

『(中略)石巻工場の8号抄紙機、通称「8マシン」で作られているのである。
8マシンのリーダー、佐藤憲昭(46)は、「うちのはクセがあるからね。本屋に並んでいても見りゃわかりますよ」と言葉に紙への愛情をのぞかせる。』

なるほど、紙というのは機械で作られているものではあるが、工業製品というよりもむしろ職人の手によるものと言った方がいいのかもしれない。何せ、作った本人であれば、自分たちの工場で作った紙かどうか、書店で並んでいる本の状態から分かる、というのだ。これは、工業製品ではなかなかないことだろう。

8マシンには、こんな話さえある。

『日ごろ憲昭は上司から、「8号の『姫』がご機嫌を損ねるから、遠くへ出張しないでくれ」と言われている。彼がいない日に限って、8号が「すべて」調子が悪くなるからだ。彼が戻ってくると途端に調子がよくなるのを見て、「やっぱノリさんがいないとダメだ」と同僚たちが笑った。まるでだだっ子だった』

ホントかよ、と眉に唾をつけて聞きたくなるような話ではあるが、まあさすがに嘘はつかないだろう。機械を使っているとはいえ、紙作りとは職人工芸であり、だからこそ他では代替が利かない。

『8号抄紙機、8号、8マシンなどと呼ばれるこの抄紙機は、1970年に稼働した古いマシンである。この抄紙機は単行本や、各出版社の文庫本の本文用紙、そしてコミック用紙を製造していた。
高度な専門性をもったこのマシンで作る紙は、ほかの工場では作れないものが多かった』

日本製紙がどれだけの数の工場を保有しているのかは知らないが、「8号にしか作れない」というのは本当なんだろうか?と思うだろう。僕も思った。『現に、日本の出版用紙の約四割を日本製紙が供給してきたのだ』とも書かれており、これらを突き合わせれば、石巻工場の8号が、日本の出版用紙の4割に近い数を供給していた、ということになるのだろう。

だからこそ、東日本大震災によって石巻工場が被災したことで、出版が大混乱に陥った。

『「今、大変ですよ。社内で紙がないって大騒ぎしてます。石巻に大きな製紙工場があってね。そこが壊滅状態らしいの。うちの雑誌もページを減らさないといけないかも。佐々さんは東北で紙が作られてるって知ってましたか?」
私は首を振った。ライターの私も、ベテラン編集者の彼女も、出版物を印刷するための紙が、どこで作られているのかまったく知らなかったのだ』

確かにそうだ、と思う。どこで紙が作られているのかなど、普通は気にしないだろう。紙はたぶん誰にとっても、あって当たり前のものだからだ。自分の家の水道の水がどこからやってくるのか知らないのと同じだろう。

石巻工場が壊滅状態に陥ったことは、僕たちの予想を遥かに超える事態だった。8号の責任者である佐藤憲昭はこう断言する。

『8号が止まるときは、この国の出版が倒れる時です』

日本製紙は、誰もが想像し得なかったスピードで復興を果たした。それは、現場の作業員でさえ信じられないほどのスピードだった。そして、まず最初に稼働させたのが、8号なのだ。そこには、こんな強い想いがあった。

『日本製紙のDNAは出版用紙にあります。我々には、出版社とともに戦前からやって来たという自負がある。出版社と我々には固い絆がある。ここで立ち上げる順番は、どうしても出版社を中心としたものでなければならなかったのです』

『大きな傷を負った日本製紙は、なおも出版を支えようとした。この決断は、人々の家の本棚に、何年も何十年も所蔵される紙を作っているという誇りから来るものだ』

さてそんな、日本の出版を支えている石巻工場は、どのように立ち直ったのだろうか。

被災した石巻工場を見て、多くの人は同じような感想を抱いた。

『おしまいだ、きっと日本製紙は石巻を見捨てる』

『あれを見て、工場が復興できると思った人は誰もいない』

『最も楽観的な者でさえ、復旧には数年かかると踏んでいた』

『果たしてこんな工場が生き返ると、誰が思うだろう。池内はこの時、工場の閉鎖を覚悟した。
<これなら、最初から新しく工場を作ったほうが早いんじゃないのか?>』

ほとんど、絶望的な状況である。ありとあらゆるものが水に浸かり、東京ドーム約23個分という敷地内に、家屋や車の残骸が大量に流入していた。

『(可燃性の薬品もある中で)工場が燃えなかったのは、奇跡みたいなものです。あの時、火事になっていたら石巻工場の再建はなかった』

そんな不幸中の幸いはあったものの、誰がどう見ても、立て直せるとは思えない状態だった。

しかし、工場長である倉田は、驚くべき決断をする。

『ところが次の瞬間、倉田は表情を変えることもなく、課長たちが耳を疑うようなことを言い始めた。
「そこで期限を切る。半年。期限は半年だ」』

工場長が倉田であったことは僥倖だった。

通常であれば大卒のキャリア組は三交代の現場に配属されることはない。しかし倉田は、体力がありそうだという理由で現場に回された。また、北海道の複数の工場の立て直しに関わったこともあった。だから、現場にどこまでのことが出来て、どこに限界があって、何が無理なのか、自身の経験から判断することが出来た。

そんな倉田が工場長だったからこそ出来た「半年」という決断だった。

『いったん現場が「やり遂げる」と腹をくくって覚悟を決めれば、どんなに困難であろうと、絶対に乗り越えて仕事を仕上げてくることを知っていた。彼らはいつも想定外の出来事に対応している。マニュアルでは解決できないトラブルへの耐性が備わっていた。そして何より、倉田はどん底に落ちた時の人間の底力を知っている』

彼らが、どんな困難の果てに石巻工場の再建を果たしたのか、その詳細は是非本書を読んで欲しい。東日本大震災に関わる話はどれも悲惨で困難極まるものばかりだが、被災地での奮闘が、日本の出版が崩壊することを防いだという本書の描き方は、悲惨さや困難さだけではない何かを伝えてくれると思う。本書には、日本製紙石巻硬式野球部の記述もある。お荷物とも呼ばれがちな企業運動部をいかに存続させるのかの決断もまた、石巻工場の再建に負けず劣らず見事だと思う。

最後に。印象的だった数字を二つ紹介して終わろうと思う。

まず、8号よりも前に復旧を目指していたN6というマシンがある。このマシンは、1台で小さな製紙工場の生産量を上回るほどの力を持っているのだが、驚くべきはその値段。一台なんと630億円だという。イメージしにくいだろうが、東京スカイツリーの総工費650億円と比較すると、その凄さが分かるだろう。

また日本製紙は、東日本大震災において会社全体で1000億円の被害を被ったという。その大半が石巻工場の再建費用であり、私企業では東京電力に次ぐ巨額の費用をつぎ込んでの立て直しだったという。

たかが紙、されど紙。普段紙と関わる仕事をしている身として、新たな発見もあったし、また、当たり前にあるからと言って疎かにしてはいけないなと実感できる作品だった。

佐々涼子「紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場」

盤上の向日葵(柚月裕子)

内容に入ろうと思います。
天木山山中男性死体遺棄事件は、大宮市(現・さいたま市)にある小高い山で山林伐採の作業途中で死体が見つかったことに端を発する。白骨化した死体は、身元を特定する要素が何もなく、科捜研による復顔を待つしかなかった。
その死体にはもう一つ、奇妙なことがあった。白骨化する前は恐らく手に持たされていただろう、将棋の駒が見つかったのだ。ただの将棋の駒ではない。初代・菊水月の手によるもので、書体・駒木地・製法、どれをとっても最高級品なのだった。値段をつけるとしたら600万円―。さらに、今回発見された駒と同様の駒は、生涯で7組しか作られなかったという。そこから被害者、そしてさらには被疑者も辿れるのではないか。警察はそう見て、この駒の捜査を重点的に行うことにした。
割り振られたのは、埼玉県警捜査一課の石破剛志と、所轄の地域課の刑事である佐野直也の二人だった。石破は、嫌味な性格で人付き合いも悪く、なかなか煙たがれる存在だが、刑事としての腕は一級と噂されている。一方の佐野は、実は元奨励会員だ。奨励会とは、プロ棋士の養成所のようなもので、奨励会を経なければ基本的にはプロ棋士にはなれない。26歳までにプロ棋士になれなければ退会しなければならない、という厳しいルールがあり、佐野もそんなルールに抗えず、奨励会を後にした一人だ。将棋の駒の捜査には何かと役に立つだろう、と目されたのだ。
彼らは、日本中の名駒を鑑定したことがあるという専門家を訪ね、彼が鑑定した時点での所有者の記録から駒の行方を追いかけるが…。
一方、上条桂介は、長野県諏訪市で生まれ育った。母親の死をきっかけにギャンブルにハマって堕落してしまった父親との二人暮らしで、桂介は小学生ながら新聞配達をするなど、苦労が絶えなかった。元教師であり、子供に恵まれず妻と二人で生活している唐沢光一郎は、ちょっとしたきっかけから彼と知り合うことになった。そして、そのあまりの窮状を見かね、出来る範囲で桂介が日々を生き延びられるよう手助けするようにした。
その一つが、将棋だ。桂介は、唐沢がゴミ捨て場に置いた将棋雑誌を盗んだことで唐沢と関わりを持つようになった。唐沢自身も有段者だったが、すぐに桂介の才能に気づいた。磨けば驚くほどの逸材となるだろう―。しかし、彼が生きている境遇では、なかなかそのまっとうな機会を掴むことは出来なかった。
そして今上条桂介は、山形県天童市で、将棋ファンのみならず、日本国民全員から注目を集める対局を行っている。将棋のタイトル戦である竜昇戦の第七局は、どっちが勝っても前代未聞という、異様な様相を呈している。
上条桂介の対戦相手は、将棋界の天才・壬生芳樹だ。壬生は現在竜昇の座におり、7つあるプロ棋戦のタイトルの内6つを保持、来年1月に残る一つへの挑戦権も手にしている。つまり、今回竜昇を守りきれば、史上初の七冠制覇がまさに現実のものとなる、そういう状況だ。
一方、挑戦者である上条桂介は、その特異な経歴から将棋ファン以外にも広く知られた存在だ。東大を卒業したのち、IT企業を立ち上げ成功、しかしある日そのすべてを捨てて将棋へと没頭するようになる。通常奨励会を経なければなれないプロ棋士だが、特例としてプロ編入試験が行われ、それを突破して晴れてプロ棋士となった男だ。将棋界の天才・壬生を倒せるのは上条しかいない、とまで言われるほどの実力の持ち主であり、その二人の対局だからこそ否が応でも盛り上がるのだ。
そして警察は、上条桂介をマークしている。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。とにかく、読ませる力が凄い。捜査のシーンでも、過去の回想の場面でも、どんな場面でもいいんだけど、なかなか途中で止められない。キリのいいところまで読んでしまいたい、という気持ちにさせられる。特にコレというような場面でもないのに、細部に対する気配りみたいなものがかなり強くて、とにかく読ませる作品に仕上がっていると思います。

ただ、個人的にはちょっと不満もあります。本書は、ミステリであろうとするがために、本来もっと長く深く描くべき部分を、かなり後半に寄せてしまっている、というのがもったいない気がしました。

詳しいことはネタバレになるので書きませんが、本書の中で一番重要であるはずの関係性が、作中で描かれ始めるのがかなり遅いんですね。もちろん、その部分がなくても読ませる力が抜群なので、作品としては全然成立しているんだけど、どうせならそのコアな部分をもっと深く読みたかったなぁ、という感じがしてしまいました。

何せこの物語で最大のネックとなるのが、「何故600万円もする名駒とともに埋めたのか」という部分なわけです。この部分にいかに説得力を持たせるか、という部分に大きく関係してくるわけです。深く描けば描くほど、よりそこに説得力が出てきて、作品全体がより締まると僕は感じました。それを、ミステリであることにこだわっている(ように見える)せいで、描写がちょっと薄くなってしまっている(著者の力量の問題ではなく、作品の構造上の問題)という点が、僕はもったいないなと思いました。

とはいえ、やはりグイグイ読ませる作品であることには変わりありません。石破と佐野のコンビの関係性や、彼らが進める捜査の中の、些細だけど刑事として色々気を配らなければならない部分なんかも面白い。唐沢と桂介の関係性や、桂介がその後どのように将棋と関わっていったのかというような描写も見事です。圧巻だったのは、将棋の対局の描写。僕自身は将棋にそこまで詳しくはないのだけど、本書では、対局のごく一部だけれども、かなり詳細に手筋などを描写している。恐らく、実際の棋譜を元に描写しているんだろうけど、臨場感のある描き方で驚いた。著者は本書を書くまで将棋については全然知らなかった、というのだから余計驚かされる。

また本書を読んでいると、「何故生きるのか?」みたいなことが突きつけられる場面が度々ある。特に上条は、実業家として成功しながら何故か棋士に転身している。その背景には、この「何故生きるのか?」という切実な問いがある。自分にとって何が大事なのか、ということを突き詰めることなしに前を向いて生きていくことは出来ない、という切実さみたいなものがヒシヒシと伝わってくる場面が多いのは良かったなと思います。

上条のような宿命を背負ってしまったとしたら、どう生きていくべきか。なかなかイメージは出来ないが、子が親の不幸に巻き込まれるようなことが出来る限りなくなって欲しい、とは強く願ってしまいました。

柚月裕子「盤上の向日葵」

火怨 北の耀星アテルイ(高橋克彦)

凄すぎた。
物語を読んで、これほどまでに打ちのめされたのは久しぶりだ。
今まで読んでこなかったことを後悔するレベルの作品だった。
大げさに聞こえるかもしれないが、この作品を読まなければ人としての魂は宿らない―そんなことさえ感じさせる、とんでもない物語だった。

闘うことは、少なくない犠牲を生むことだ。
まったく犠牲を生まずに、何かと闘い続けることは出来ない。
その犠牲を払ってでも、闘うべきだと考える誰かの意思によって、闘いというのは生み出される。

しかし、蝦夷の者たちに突きつけられた現実は、あまりにも辛いものだった。

『蝦夷が勝つ策はたった一つ。一度たりとも敗けぬことです。それも十年やそこらではとても足りますまい。五十年、いや百年を敗けぬことで、朝廷も陸奥から手を引きましょう』

蝦夷の者たちは、闘いを望んでいたわけではない。犠牲を払ってでも闘いに挑む理由は、彼らにはなかった。闘う理由があったのは、朝廷の方だ。陸奥で産出された黄金を奪い取ろうというのだ。

蝦夷たちにとって、黄金など価値がないに等しいものだった。しかし彼らは闘わざるを得なかった。

『黄金や土地を守るだけの戦さであるなら俺も首を横に振る。しかし、蝦夷の心を守る戦さとなればこの身を捧げてもいい』

「蝦夷」という名は蔑称であり、陸奥に住む者は人間ではなく獣―朝廷は彼らをそう見ていた。そして、それに見合った扱いしかされてこなかった。確かに、これまではそのことは良い風に働いていた。蔑まれていたからこそ朝廷からの関心が向けられることもなく、平穏に過ごすことが出来ていたのだ。しかし、黄金が出てしまった。蝦夷にとっては何の価値もない黄金を端緒に、両者引くに引けない闘いに突入することになってしまったのだ。

自分がそういう境遇に置かれている時、果たしてどう行動するだろうか?

これは、現代でも通用する問いだ。人としての尊厳を奪われる、あるいは奪われているような境遇に自ら飛び込まなければ生きていけない―そういう現実はあちこちに存在しているだろう。そういう時、闘う意思を持つことが出来るかどうか。

一人では、難しいかもしれない。

自分を守るための闘いに力を発揮できる人ももちろんいるだろう。しかし、やはり人は多くの場合、誰かを守る闘いにこそ力を発揮できるものだろう。そういう意味で現代はちょっと辛いものがある。環境と価値観が分離してしまっているからだ。自分の近くの環境に、自分と似たような価値観を持つ人間が多くいる可能性は低い。一方で、ネットの発達で、以前にも増して同じ価値観を持つ人と出会いやすくなりはしたが、地域はバラバラだろう。同じ土地に同じ価値観を持つ人間が住んでいるからこそ共闘出来る―そういう側面はきっとあるだろう。

『敵はほとんどが無理に徴収された兵ばかりで志など持っておらぬ。我ら蝦夷とは違う。我らは皆、親や子や美しい山や空のために戦っている』

闘うことが避けられることが何よりも素晴らしいことではあるが、しかしそれが避けられないというのであれば、同じ志を持った者どうして強大な敵と立ち向かうことが出来る、という状況は悪いものではないだろう。

彼らは、何のために闘っているのか、常に自覚的でいる。だから、無用な殺生はしないし、出来るだけ犠牲の少ない策を練る。蝦夷たちが望んだ闘いではない。だからこそ、何のために闘うのかを、彼らが手放すことはない。

『兵らはそなたとともに死ねるのを幸せとしているのだ。たとえだれに分かって貰えずとも満足して果てる。そうに違いない』

そう言わしめる、阿弖流為という一人の男。

『この二十二年の永い戦さは、蝦夷のはじまりとなろう。終わりではない。阿弖流為という男を生むための戦さであった、と田村麻呂は思い至った』

そんな阿弖流為が、一体いかにして蝦夷のリーダーとなり、どのように蝦夷を守る闘いに挑み、最終的にどういう決断をしたのか―。心震わせる一冊だ。

内容に入ろうと思います。
朝廷からの無関心故に平穏に過ごすことが出来ていた蝦夷たちにとって大きな転機となったのは、749年に多賀城に近い小田郡で黄金が見つかったことだ。当時朝廷は東大寺の大仏造立に着手しており、莫大な黄金を必要としていた。陸奥は朝廷が蔑んでいる土地。だから黄金も奪うまで―そうやって朝廷は小田郡の黄金を奪いに掛かった。
この時点ではまだ蝦夷は朝廷に抵抗しない。いくつか理由はある。蝦夷にとって黄金は無用の長物であったし、何よりも5千から1万の朝廷軍に対抗できる力を持っていなかったからだ。
しかし、朝廷軍は多賀城周辺に留まり、次第に蝦夷を追い詰める施策を打ち出してくる。朝廷軍が長く留まることで、蝦夷側にも朝廷に寝返る者が出始め、彼らが権勢を振るうようになっていく。そんな寝返った蝦夷を使って蝦夷を支配する―そんな侮蔑的なやり方を朝廷は採るようになったのだ。
ここに来て蝦夷らは立ち上がることになる。蝦夷の誇りを奪われるようなやり方には我慢がならない。ここから蝦夷と朝廷軍とは小競り合いを繰り広げることとなる。
そして780年。この闘いに一つの大きな転機がやってくる。朝廷側に寝返った伊治公鮮麻呂の使いが、胆沢の長である阿久斗の元へとやってきた。鮮麻呂は蝦夷の中では裏切り者と目されていたが、そんな鮮麻呂の使者が驚くべき計画を口にした。なんと、朝廷軍の要職にある紀広純と道嶋大楯の二人を暗殺する、というのだ。鮮麻呂は、朝廷軍に深く入り込むことで信頼されており、ごくわずかの兵のみを率いて築城の検分にやってくるのだ、という。胆沢の者には、城攻めをして注意を外に向けてもらいたいとの依頼が使者の目的だった。
そして、この暗殺を見事成功させたことで、蝦夷たちの闘いはまた新たなステージへと上がっていく。その過程で、阿久斗の息子である阿弖流為が、蝦夷を束ねる者として抜擢される。阿弖流為は、黒石に住む知恵者・母礼と組み、母礼の奇抜で効率的な策を、阿弖流為の人心を掴む手腕によって実行に移し、彼らは、人数的には圧倒的に不利な戦闘に次々と対峙していくこととなる。

『蝦夷が蝦夷であること。それだけだ』

何を求めるのか、と問われてそう返した彼らの、高潔で峻烈な戦闘の物語!

冒頭でも書きましたけど、本当に凄まじい物語でした。この本の存在は知っていたし、その評判ももちろん聞いていました。ただやはり、上下巻で1000ページを超える物語にはなかなか手を伸ばせないでいました。

ただこれは、本当に、読まなければ後悔するレベルの、とんでもない作品でした。あぁ、ホントに、読んで良かった。

僕は、史実を舞台にした物語は本当に苦手です。基本的に歴史の授業は大嫌いだったし、だからこそ年号や人の名前もまったく覚えていません。本書に登場する人物が、どれほど歴史の教科書に載っているのか、僕にはさっぱり見当も付きませんが、僕が読む前から知っていた名前は「坂上田村麻呂」だけです。あとは全員知らなかったし、もちろん蝦夷の歴史についてもまったく知りませんでした。

それでもホントに、一気読みでした。これだけ分厚い小説なのに、本当に長さを感じさせない小説だったし、ページをめくる手が止まりませんでした。

まず書いておくべきなのは、恐らく本書の記述のほとんどが、著者の想像でしょう。本書には「続日本紀」という書物からの引用もちょいちょいありますが、そこに本書で描かれている闘いの詳細が書かれているはずもないでしょう。また「続日本紀」は、朝廷側の記録です。本書は、陸奥での闘いを蝦夷側から描いているので、そういう意味でもほとんどが著者の想像だろうと思います。

ただ、僕はこんな風にも感じてしまいました。もし、蝦夷で闘った戦士たちが本書を読んだなら、「これはノンフィクションだ」と感じるのではないか、ということです。それぐらい、登場人物たちが活き活きと描かれているし、魅力的です。

物語の展開や構造は、典型的と言っていいでしょう。胆沢という地域の長の息子だったとは言え、蝦夷全体では無名だった阿弖流為という男が、様々なきっかけによって仲間をたくさん集め、母礼が策を練り、阿弖流為が人心をコントロールする。そうやって、普通であれば勝てるはずのない相手に連戦連勝という驚異の戦績を叩き出すが―というような流れです。

しかし、展開や構造がベタだからと言って、作品全体がベタなわけではありません。とにかく、どこを読んでいても飽きないし素晴らしい。

まずは、一人ひとりのキャラクターが素晴らしい。阿弖流為や母礼などメインどころのキャラクターは当然なのだけど、主役級じゃなくても皆に見せ所がちゃんとある。蝦夷のために、という想いで結集した者たちだが、それぞれの役割や考え方は様々だ。それらが、時にぶつかり合い、時にお互いに増幅し合い、読む者の心を揺さぶっていく。特に、やはり阿弖流為と母礼の個々人の考え方や、お互いのやり取りは素晴らしいものがある。自己犠牲を厭わない精神を持ちながら、リーダーとして少しでも長く生きて人々を率いなければならないという立場に苦悩する阿弖流為と、阿弖流為をなんとか死なせないために毎度極上の策を生み出す母礼のコンビは、蝦夷の闘いには不可欠な存在だ。

また、蝦夷全体の思惑も様々に関わってくる。蝦夷ではないが、陸奥に住む物部一族が、蝦夷に対する支援を申し出る。そうかと思えば、戦場の第一線から遠く離れた地では、阿弖流為たちがしている戦さを良く思っていない者もいる。直接戦闘に関わっていない地域の者なども、それぞれの立場からどの選択が最善であるのかを思い悩む。胆沢や黒石など、朝廷軍と接するような地域の者であれば一息に決まる覚悟が、なかなか付けられない者もいる。そういう中でどういう闘い方をするのかを考えなければならないのだ。

そして何よりも、戦闘の描写が圧倒的だ。毎回蝦夷側は苦戦を強いられる。それも当然だ。朝廷軍は数万の単位で兵を出してくるし、何年でも何十年でも兵を補充できる。しかし蝦夷たちは、初めの頃など数千の兵で立ち向かわなければならなかった。普通なら、どう考えても勝ち目のない闘いだ。

しかしそこで、母礼の斬新で見事な策が次々に決まっていくことになる。

川と山に囲まれた土地、そしてその土地を知り尽くした者たち、それらを最大限に活かした策をひねり出し、情報戦なども駆使しながら相手を手玉に取る様は見事だ。どの闘いでも、数だけでゴリ押ししてくる朝廷軍を押しのける蝦夷の強さに、ニヤニヤしてしまう。

さらに、坂上田村麻呂が登場することで、闘いの様相はまた変わってくる。坂上田村麻呂は、最強の軍師でありながら、坂上田村麻呂をうまく使いこなせないでいるために、朝廷軍は苦杯をなめることになる。蝦夷たちも坂上田村麻呂も、お互いにお互いを尊敬しており、たまたま立場が違い、闘わねばならないと捉えている。そんな、人間的にお互いを尊重し合う者同士の闘いは、さらに洗練され、礼を尽くしたものとなる。何のために闘っているのかに常に自覚的でいる蝦夷と、蝦夷もまっとうな人であり、その強さと賢さを嫌というほど理解している坂上田村麻呂だからこそあり得た見事な終結には、感動させられる。

死ぬまでには絶対に読んでおきたい、超絶的なスケールの一冊だ。

高橋克彦「火怨 北の耀星アテルイ」



ウズタマ(額賀澪)

いくら考えてみても、僕には「血縁」の大事さが理解できない。

もちろん、僕が「血縁」に関して悩む立場にないから、ということはあるだろう。親が離婚して再婚したとか、養子に出されたとか、施設で育ったとか、そういうことは(たぶん)ないから、そもそも「血縁」を意識するような機会がないから考えないだけなのかもしれない。

ただ、そういう人は世の中には多いはずだ。でも僕には、世の中の多くの人が「血縁」をとても重視しているように思える。

例えば、自分の子供のDNA鑑定もそうだろう。本当に自分と血の繋がった子なのかどうかを確かめたい、ということだろう。これも「血縁」に関することだ。

僕としては、DNA鑑定をすることで、「自分の妻が浮気をしていた」ということが判明する可能性がある、という点は意味があるとは思う。僕自身は、その点もどうでもいいけど、浮気していたかどうかが気になる、という気持ちは、まあまだ理解できる。ただ、自分と血が繋がっていないから愛せない、というような判断になるとしたら、途端に理解出来なくなる。

しかもそれを、子供がある程度大きくなってからやる、というのはもっと理解できない。生まれた直後にやるのであれば、まあまだ理解できるかもしれない。でも、自分の子としてある程度の期間育ててきて、それから検査をする、という気持ちが、僕にはイマイチ掴めない。

血が繋がっていないことの、何がダメなんだろうか、と。

あるいは、実際にはあまり多くある事例ではないかもしれないけど、ドラマや小説などでは、自分が養子だと知った主人公が、育ての親とは違う、生みの親を探す、という展開になることもある。その気持ちも、僕には全然理解できない。自分がそういう立場になればまた別なのかもしれないけど、どう考えても大事なのは、生んでからずっと会っていない生みの親より、長いこと自分を育ててくれた育ての親だろう。「何故自分を養子に出したのか直接聞きたい」という動機なら理解できるのだけど、「血の繋がった親に会いたい」という動機は、僕には理解できない。

血が繋がっていようがいまいが、赤の他人だろうがなんだろうが、一緒にいたいと思う人と一緒にいればいいのだし、一緒にいたくない人とは一緒にいなければいい。そんな風にシンプルに考えればいいと思うのだけど、世の中はどうもそういうわけにはいかないようだ。

関係性に名前がつかないと、世間ではどうも排除されてしまうようだ。「親子」「兄弟」「家族」「夫婦」「恋人」「仲間」「友達」「同僚」「先輩後輩」などなど、誰もが理解しやすい関係性であれば何も言われない。しかし、そういう、辞書に載っているような言葉では表せない関係性になると、途端に理解されなくなり、排除される。みんなが、無意識の内にその排除の論理を発動させているように感じられることも、また怖いと思う。

「血縁」というのは、関係性の中でも最も強いものだと考えられているのだろう。だから、行き過ぎてしまう。「血縁」が最も強い関係だ、とするために、他の関係性と明確に区別するために、人々は「血縁」により多くのものを求めようとする。そうしなければ、「血縁」であることの価値を、誰も感じることが出来ないからだ。

みんなで「血縁」に対する幻想を作り上げて、維持して、苦しんでいる。そんなアホみたいなことは止めてしまえば、もっと楽に生きられるんじゃないかと思うんだけど、なかなか難しいんだろうなぁ。

内容に入ろうと思います。
1993年の冬。ある家庭で、何か事件が起こった。倒れている女性、泣き叫ぶ子供、そして「松宮さん」と呼びかける声。
2017年。28歳の松宮周作は、一人ぼっちだと感じていた。遠い親戚はどこかにいるかもしれないが、唯一の肉親である父・将彦は、つい先日脳梗塞で倒れ、それ以来意識が戻らない。大学時代一つ上の先輩だった紫織と結婚を前提に交際しているが、紫織の前の旦那との間の娘・真結とは、まだあまり打ち解けられないでいる。そもそも結婚の話も、父が倒れたことで延期になった。そのことに、ホッとしている自分もいる。自分が何者なのかイマイチよく分からなくなってしまっている今、自分が夫や父親などになる資格があるのか、考え込んでしまうことが増えたからだ。
周作には、気になっていることがあった。父が倒れる前、一通の預金通帳を受け取った。ふざけたことに使ったら縁を切る、と言いながら手渡されたその通帳には、324万円もの大金が記載されていた。父は、それが誰が溜めたお金なのかを明かさなかった。
自分には、母親に関する記憶があまりない。母親のことを思い出そうとすることもあまりない。母親は死んだと聞かされていたが、詳しいことは分からない。自分は、自分の家族のことを全然知らない。こんなんじゃ、自分が新しい家族を作るなんて無理だ。
だから調べてみることにした。
調べ始めると、奇妙な事実に行き当たった。どうやらかつて松宮家には、「家事手伝いをする大学生」がいたようなのだ。誰なんだ、そいつは?
というような話です。

なかなか良い作品だったなぁ。周作が抱く孤独感には共感できない部分もあったけど(その理由は、冒頭で書いた「血縁」が絡む)、しかし「血縁」の呪縛を解き放っている物語でもあって、全体としてはとても良かったです。

冒頭でも書いたように、僕は全然「血縁」を重視していないので、本書で描かれる家族の形に、基本的にはまったく違和感を覚えない。恐らく、「血縁」を重視する人にとっては、本書は価値観を揺さぶられる作品となるのだろう。「血縁」で繋がってこそ「家族」なのだ、という価値観を持つ人にとっては、本書で描かれる家族の形は、生理的にはきっと拒否したいはずだ。しかし、心情的にはなかなか拒否できない。そういう葛藤を自分の裡に認めながら読み進めていくことになるのではないか、と思います。

ただ僕は、全然そういう読み方をしなかったので、その部分に関しては一般的な人と比べて感動が薄まる可能性はあるな、という気はしました。主人公の周作にしてからが、やはり「血縁」を重視する人間であり、そんな周作が、「血縁」を超えた関係性を受け入れ、自分の中のわだかまりを乗り越えていく。その周作の心の動きに共感するように読者の心も動いていくだろうし、それが正当な読み方だろうとも思います。ただ、「血縁」をそもそも重視していない僕には、なかなかそういう読み方は出来ません。その部分は、まあそうなるよなあ、と思いながら当たり前のこととして読んでいました。やはりどんな前提を持って読むかで、作品の読み方って大きく変わるな、と感じました。

本書の主人公は松宮周作ですが、核となる人物は別にいます。内容紹介の中で「家事手伝いをする大学生」と紹介した人物です。名前ぐらいは出してもネタバレにはならないと思うんですけど、一応彼についてはあまり詳しいことを知らないまま本書を読んだ方がいいと思うので、この感想の中では「家事手伝い」と書くことにします。

「家事手伝い」のような生き方の選択が出来るだろうか、と考えてしまう。仮にそれが最善の選択肢だと分かっていても、出来ないことというのはたくさんある。その中で、それが最善の選択なのだ、と突き進むことが出来るかどうか。その凄さを、彼の生き様から感じてしまう。

僕なら、出来ないだろうな、と思う。

彼があんな行動を取ったのも、極論すれば、「血縁」こそが関係性の最大のものだ、という価値観にあると言えるだろう。そんな価値観が世の中になければ、恐らく彼はあんな行動を取らずに済んだかもしれない。「血縁」がなかったとしても、「家族」であり得るのだ、と社会が信じていれば、彼がそんな行動を取る必要は、もしかしたらなかったのかもしれない。

僕としては、そのことが一番悲しいように感じられる。

それが歪でもおかしくても形が変でも構わない。何が「家族」の形を作り出すのかと言えば、「血縁」という幻想ではなく、「家族である」という思い込みだろう。お互いがお互いを「家族」だと思っているということ―。これ以外に「家族」を定義出来る方法はない。本書を読んで、改めてそんなことを感じさせられた。

額賀澪「ウズタマ」

ウェルカム・ホーム!(鷺沢萠)

一緒にいる理由を、世間が納得する形で説明できなければ「おかしい」と思われてしまう世の中は、おかしいと僕は思う。

例えば一組の男女がいる。彼らが「夫婦」や「恋人同士」なら、誰もおかしいと思わない。しかしこれが、「ただのクラスメイト」とか「ただの先輩後輩」とかになると、途端に「んんん?」となる。そして人々は、「夫婦」や「恋人同士」であるはずだ、あるべきだ、というような見方をしたがる。

例えば男が二人でいるとする。彼らが「先輩後輩」や「クライアントとの商談」みたいなことなら、みんな納得する。しかし、少しでも世間の概念を逸脱すると、世間は彼らのことを「ホモなのか?」という風に見たがる。

意味が分からない。誰かと一緒にいることについて、何故「世間様」の了解を得なければならないのか。

と僕は思ってしまう。本書の解説を書いている三浦しをんも、似たようなことを考えているようだ。

【私がずっと不思議だと思っていること、理不尽だと感じていることへの答えを、『ウェルカム・ホーム!』は物語の形で見せてくれる。】

【なぜ、「家族」という単位を不動のもののように見なすのか。それが私には分からない。仲の悪い家族だっていっぱいいるし、家族だからといって一緒に住んでいるとも限らない】

うん、その通りだ。完全に、三浦しをんに賛同する。

日本は、「◯◯はこうあるべき」という圧力がとても強い。男はこうあるべき、女はこうあるべき、夫は、妻は、家族は、恋人は、子供は、学校は、先生は、先輩は、後輩は、地方出身者は、◯◯県人は…。そういう、明文化されていないはずの、でもだからこそ強力で厄介なルールがあちこちにあって、そういうものにちゃんと従って生きていこうとすると、窮屈で仕方ない。

でも、そもそも「ちゃんと従って生きていこう」という発想からして、もう外れているのだ。作中から引用してみる。

『彼女たちは、女というものは、結婚したら男の帰りを待ちながら家を守るものだ、と信じて疑わない』

そう、「信じて」「疑わない」のである。「従わなくちゃ」などと思っているのではない。そうすることが当たり前で、それ以外の選択肢など考えたこともないし、そうではない行動を取っている者は異端者。そういう風に考えている人が多数派だからこそ、世の中が窮屈なんだよなぁ、と思う。

僕は、「家族」だの「恋人」だのと言った、人間関係に付けられた名称はすべて、「便利なタグ」ぐらいにしか思っていない。日本のパスポートは世界中の大抵の国にすんなり入国できるから、闇のマーケットでは人気らしい。彼らにとって日本のパスポートは、日本に入国を果たすのに便利なタグでしかない。人間関係の名称も、それを持っていることで便利に世の中を渡っていけるタグみたいなものでしかないと思う。

だってそうだろう。一番大事なことは、「その人と一緒にいる理由」だ。そこさえはっきりしていれば、二人の間の関係性の名称などどうでもいい。「友達」から「恋人」になって「夫婦」になることで関係性の名称は変化するが、それは本質的な変化ではない。より本質的な変化は、「その人と一緒にいる理由」だ。そこを捉え間違わなければ、呼び方などどうでもいい。その時その時で、一番便利さを発揮できる名称を選択すればいいと思う。

三浦しをんも解説でこう書いている。

【私たちはたぶん、常識や社会制度や受けてきた教育から、完全に自由になることはできない。だが、幸せになるために生きるのだ、という大前提を、決して忘れてはならないはずだ。】

「世間のフツー」に収まるために、「自分の幸せ」を手放すのだとしたら、これほどアホらしいことはない。

三浦しをんはこうも書く。

【私はたぶん、結婚することはない(というか、できない)と思うし、子供もいないままだろう。「社会」の単位となりうる「家族」を、ついに自分では形成できないままなのではないか、という予感がする。
そういうひとは、きっと多くいることだろう。堂々たる「家族」を形成してはみたが、その人間関係のなかで自分はちっとも幸せではない、というひとも、少なからずいるはずだ。
では、どうすればいいのか。どうするべきなのか。私はずっと、それを考え続けている。】

「家族」を形成できたからと言って、幸せであるとは限らない。名称は、あなたの幸せとイコールではない。名称ばかりを追いかけているように見える人も、世の中には多くいるだろうと思う。その無意味さを、本書を読んで実感してみて欲しい。

内容に入ろうと思います。
本書は、2編の中編が収録された中編集です。

「渡辺毅のウェルカム・ホーム」
渡辺毅は今、無職に近い生活を送っている。そして一日の大半を「シュフ」として生活している。父親が始めた洋食屋「アンジェロ」を継ぎ「シェフ」になったが、テキトーに生きていたが故に潰してしまい、今は「シュフ」である。
と言っても、毅は結婚しているわけではない。彼女はいるが、独身だ。じゃあ誰の「シュフ」をしているのか…。大学時代の同級生であり、親友でもある松本英弘だ。彼らは、毅、英弘、そして英弘の息子である小学六年生の憲弘の三人で生活をしている。
ある日毅は、本当にたまたま、憲弘の作文を読んでしまった。「ぼくにはパパが二人いる」という内容の作文を読んで、毅は「ヤバイ」と思った。これじゃあ、俺達がホモみたいなじゃないか…。

「児島律子のウェルカム・ホーム」
児島律子は、結婚したら家庭に入るのが当たり前だった時代に証券会社での仕事を続け、離婚後にアメリカで学んだ「フューチャーズ(先物)」の知識を駆使して投資の個人オフィスを立ち上げるまでになっていた。頭を切り替えるのも不可能なぐらいの目まぐるしさの中、この4年間で大分成長し、目だけで意思疎通が出来るようになった秘書が、忙しいと分かっている状態の律子に何度も話しかけてきた。待っている人がいる、というのだ。もう2時間も。学生のようだけど…と言われて要件がさっぱり思い浮かばなかったが、久部良拓人と名乗った青年(学生ではなかった)からその名前を聞いて律子は驚愕した。
聖奈。石井聖奈。かつての結婚相手の連れ子で、もう何年も連絡を取っていない。
久部良と名乗った青年は、聖奈と結婚するつもりであるという。その報告にやってきたのだ。
久部良青年の登場により、律子の頭の中では、一度目の結婚とその破綻、そして二度目の結婚と聖奈との出会い、そしてその破綻の記憶が駆け巡っていく…。

というような話です。

これは結構面白かったなぁ。僕も三浦しをんと同じく、家族というものについては不思議や理不尽を感じているので、そういうものが物語として描かれているなぁ、と思いました。作中、様々な価値観が登場するが、「別にそんなの関係ないじゃん」的な意見は大体同じことを考えていたし、大きく賛同している。

本書で描かれる「家族」は、どちらも本質的な部分では血縁では繋がっていない。狭義で考えれば、彼らが言う「家族」というのは、言ってしまえば「自称」ということになるだろう。「自称家族」ということだ。しかし、やはりその捉え方は狭すぎる。僕は、自分たちが「家族」だと思っているのなら、そこに血縁がなくたって世間が認めなくたって「家族」でいいと思う。ペットならそういう発想が許されるのに、どうも人間だと許されないみたいだ。

『家事を女に押し付けるのはおかしい、とか、そういう話をしたいわけじゃないんです。でも、女が結婚したあとも仕事を続けることになると、すぐに「家庭と仕事を両立できるのか?」みたいなこと言われるじゃないですか。なのに男の人は結婚しても「家庭と仕事を両立できるのか?」とはゼッタイに言われないでしょう…?』

ホントその通り。ちょっと前にある人から、会社の面談で結婚するのか、子供を生むのか、みたいなことを聞かれた、みたいな話を聞いたことがある。僕が、会社の役員に女性は何人いるんですか?と聞いたら、一人もいないという返答だった。そういう会社なら、そういう無神経な質問もするんだろうなぁ、と思ったことがある。

フツーではない「家族」の中にいると、自然とこんな発想が生まれる。

『自分が向いてない分野のことは、向いてるヒトに任せる。その代わり、自分は自分が向いてる分野で役に立つ。それでいいんじゃないっすかね』

これはまさに至言と言っていいだろう。人の属性に対して役割が与えられているのではなくて、関係性の中で役割が生まれてくるという捉え方をすることは大事だと思っている。僕は普段からそんな風に思って人と関わっている。今この集団の中で足りない部分はどこで、その中で自分が埋められそうな箇所はどこだ、というように。

属性に対して役割が割り振られているとすると、一生その役割から逃れることは出来なくなるが、関係性の中で役割が生まれると思えれば、一つの役割に押し込められるわけでもないし、もちろん自分が望むなら自分が得意だと思っている役割を貫き通すことも出来る。こういう生き方の方が自由で、そして何よりもより全体のパフォーマンスが向上するように僕には感じられる。

本書を読めば、きっと分かるだろう。自分が今何に囚われていて、そしてそれが捨てて良いものなのかどうかを。捨てていいはずのものに囚われているなんて馬鹿らしい。考え方をちょっと変えるだけで手に入る自由が、この作品の中には詰まっています。

鷺沢萠「ウェルカム・ホーム!」

秀吉の活(木下昌輝)

いやー!実に面白かった!

僕は、今の性格のまま自分が戦国時代に生まれたら、何も出来なかっただろうなぁ、と思う。何も目指すものがないからだ。

平時と乱世では、生き方はまったく変わってくる。平時ならば、慎重で野心がなく平凡な人間でも、それなりに役割はきちんとある。しかし、乱世であれば、そんな人間は碌に使えもしないだろう。僕はきっと、特に何をするでもなく死んだことだろう。今だって何かを成しているわけでは全然ないんだけど、でも、乱世に生まれなくて良かったと思う。

僕は歴史が苦手なので、元々歴史に対してはぼんやりとしたイメージしか持っていない。縄文時代は狩りだなとか、弥生時代は稲作だなとか、江戸時代は鎖国だな、みたいな。そういう意味で言うと、戦国時代は、イケイケの、今で言うマイルドヤンキーみたいな人たちが、イケイケな感じでやりあってた、という感じだ。織田信長は、まあそんな感じだろう。織田信長がマイルドヤンキーかどうかはともかくとして、イケイケのオラオラの感じだっただろう。もし戦国時代にSNSがあったとしても、きっと織田信長は使ってなかっただろうけど、周りにいる人が「信長様すげー」「信長様サイコー」みたいなツイートを日々するんじゃないかと思うような、なんかそんなイメージがある。いや、本書を読む限り、織田信長、人心掌握的に相当優秀っぽいけど。

豊臣秀吉が農民の出だ、ということはなんとなく知っていた。そこから天下統一を成し遂げたことがもちろん凄まじいことだ、ということももちろん分かっている。でも、じゃあその間がどうなっているのか、っていうのは、イマイチよく分からない。これは、歴史をちゃんと学んだ人はイメージ出来るもんなんだろうか?少なくとも、僕にはイメージできなかった。

本書は、そこを補完してくれる作品だ。

藤吉郎という、名字すらない農民が、いかにして天下統一を果たし、関白にまで成り上がったのか。本書ではその過程が活き活きと描かれていく。

本書を読んで凄いなと感じるのが、秀吉はその生涯を通じてほぼずっと「凡人」だった、ということだ。後半は策士的な一面も垣間見せるが、途中までは、力はない、武器も使えない、かといって算盤が出来るわけでもなく、農民の出のくせに畑仕事も碌に出来ない、という体たらくだった。

秀吉は、自身でもそのことを認識していた。だからある時、信長にこう問うた。

『おいらは何を極めればいいのですか』

それに対する信長の返答はさすがだ。

『貴様には、何の才もない』

これだけで終わってしまえばただの悪口だが、ちゃんとこの後も続く。それはここでは書かないことにするが、なるほど、さすが人の扱いに長けた男だ、と思わされる、信長の人心掌握術である。

秀吉は、とにかくひたすら凡人だった。とはいえ、ちゃんと持っているものもあった。それが、上に行こうとする意欲である。

印象的な場面がある。手柄が欲しいと信長に直訴した秀吉は、何の説明もなくある場所へ行くように言われた。そこで始まったのが、ある城を攻め落とす作戦会議だ。しかし秀吉は城攻めなどしたことがない。そもそも、城の各所の名称すら分からないのだから話にならない。なので、隅っこで黙っていろ、と言われて当然なのだが、そこで秀吉はこう返す。

『いやです。おいらも役に立ちたいです。隅っこで話聞いてるだけじゃ、手柄は立てられません』

この辺りが秀吉の面白いところだ。自分には特に出来ることはない、という認識はきちんとある。あるのだが、しかしそれでも手柄は欲しい。何かやってやるぞ、という気持ちはある。その気持ちが、最終的に秀吉を頂点にまで押し上げたのかもしれない。

「秀吉の活」というタイトルの「活」とは、「活きる」の「活」である。

『生きると活きるは、全く違う。たくさん考えて、他人に気配りして、一生懸命働くのが、活きるということだ』

秀吉のこの言葉は、随所に発揮される。秀吉は、自分が手柄を立ててやる、という気持ちを強く持つ一方で、他人を思いやる気持ちを持っている。誰かを犠牲にしてまで何事かを成したくはない、という気持ちを持っている。この気持ちもまた、物語全体を面白くする要素だ。決して自分だけのために突き進んでいかない、という姿に、共感させられてしまうのである。

自分が「活きる」だけではなく、他人をどう「活かす」かまで考える―。秀吉の振る舞いは、信長とはまた違った意味で、現在でも意味を持つような人心掌握術ではないかと思う。

内容に入ろうと思います。
とはいえ、今回は内容紹介はほとんどしません。歴史の知識がないので正確に書けない、ということもありますが、「農民・藤吉郎が、関白・豊臣秀吉になるまでの生涯を描く」という要約以外にやりようがない、ということもあります。
とはいえ、内容を少しはイメージしやすくするために、各章題だけ抜き出してみます。

天下人の就活
天下人の婚活
天下人の昇活
天下人の凡活
天下人の勤活
天下人の転活
天下人の天活
天下人の朝活
天下人の妊活
天下人の終活

こんな感じで「活」で統一されています。
「就活」では、農民出の藤吉郎がいかに侍になるかが、「婚活」では寧々とどう再会し結婚に至ったのかが、「昇活」では秀吉の指示を聞かない足軽たちを従わせる成果をいかに戦場で掴むかが、「凡活」では平凡な自分の非凡さをどこに見出すかが、「勤活」では侍を辞めようとした秀吉を信長の勤勉な下僕へと戻らせたきっかけが、「転活」では侍を辞めた後の転職に思索を巡らせる様が、「天活」では織田信長に代わっていかに天下統一を成し遂げたかが、「朝活」では朝早くからどれだけ動けるかが勝負の公家の世界の話が、「妊活」では跡取りを儲けるまでに苦闘が、そして「終活」では自分が死んだ後のことをどうするかに思いを巡らせる様が描かれていきます。

まず本書は、圧倒的に読みやすいです。僕はこの著者のデビュー作である「宇喜多の捨嫁」という作品を読んだことがあります。内容はもの凄く面白かったんですけど、歴史が不得意な僕には読みにくい部分も結構ありました。

本書は、歴史のことなんてまったく分からない僕でもスイスイ読めてしまうぐらい読みやすかったです。ビックリしました。作中に出てくる登場人物たちは、教科書なんかで字面ぐらいは見たことがありますけど、何をした人なのかほとんど分かりません。前田利家とか、黒田官兵衛とか、石田三成とか色々出てくるんですけど、僕にはさっぱり。それでも、全然読めてしまう。この読みやすさは、本当に魅力だと思います。僕は元々理系で、ホントに歴史がまったく分からないんですけど、そんな僕がこれだけスイスイ読めるんだから、誰でも読めちゃうと思います。

また、全体的な雰囲気がコミカルな感じです。いや、そう書くと語弊があるかな。先程話に挙げた「宇喜多の捨嫁」が結構クールな感じの作品で、それと対比してしまう部分もあると思います。とにかく本書は、秀吉を滑稽に描き出すことで親しみやすさも読みやすさも演出していると思います。また織田信長がかなりかっこよく描かれているんで、その対比もあって、余計に秀吉がへなちょこに見えてくるという部分もあります。

500ページ以上あるなかなかの大著なんですけど、そんな長さを全然感じさせないような作品でした。ホントに、一気読み!って感じでした。

好きな描写は多々あるんだけど、やっぱり寧々と前田利家に関わる部分では良いシーンが多かったなぁ。

寧々は、秀吉を尻に敷くような勢いであれこれ口を出す女なんだけど、でも芯がちゃんとあってしっかりしている。寧々と秀吉とはかなり幼い頃から関わりがあったんだけど、本当にそこから結婚に至るまでは色んなことがあって、この二人の結婚までの話はなかなか波乱万丈です。寧々のような女性はいいなぁ。

前田利家との話も実に良かったです。秀吉と前田利家も古くからの付き合いで、悪友と呼んでいいような関係です。秀吉の人生の随所随所で関わりを持ってくる男で、その度に色んなことが起こるんだけど、やっぱり一番好きな場面は、天下統一を成す直前のある戦における二人の関係ですね。これは良い。本書全体の中で一番好きな場面です。秀吉と前田利家の関係性の集大成がここにあるという感じで、見事でした。秀吉、前田利家、双方がどういう判断をし、二人の関係性がどうなったのかについては、是非本書を読んで欲しいと思います。

実に見事な作品でした。一気読みです!

木下昌輝「秀吉の活」

構造素子(樋口恭介)

昔、こんなことを考えたことがある。

科学の研究などで、細菌や微生物を実験対象とするということはあるだろう。細菌や微生物に対して、薬品を振りかけたり真空状態に置いたりと、様々なことをやって反応を見るような実験は想定できる。

さて、ここでこんな想像をしてみる。もしも細菌や微生物に「意識」があったら、その実験はどういう風に感じられるか、と。「意識」の定義は難しいが、なんとなく、人間と同じようなものを想像してほしい。

そういう想像をした場合、彼らにとって薬品を振りかけられたり真空状態に置かれたりすることは、僕ら人間にとっての「自然災害」のようなものではないか、と思うのだ。自分たちの意志とは関係ないところで、周囲の環境から暴力的にやってくる変化、という意味で、それほど遠いイメージではないと思っている。

さて、ここでさらに想像してみる。ならば、僕らが「災害」だと思っている現象も、実はさらに上位の世界の者たちによる何らかの「実験」なのではないか、と。もちろんこれは、永遠に証明することが出来ないただの空想ではあるが、可能性という意味では否定し切ることは難しいだろう。山も川も雲も太陽もすべて人工物…ではなくて<上位の存在>工物であり、それらが一定の条件下で作動することでその中で生きる人類に対する負荷を長い時間を掛けて観察しているのかもしれない―そういう想像も、可能だ。

そしてこの発想には、世界には「階層構造」があり、自分たちが住む世界に対して上位・下位の世界を想定することが出来る、ということでもある。

本書はその階層構造を、「物語」を扱うことで生み出している。

僕らが生きているこの世界には、「物語」を書く人間が多くいる。そうやって生み出された「物語」は一つの世界であり、僕らよりも一つ下位の世界では「現実」そのものとして振る舞う。さらに、僕らの世界の作家が生みだした「物語」の中にも「物語」を生み出す登場人物がおり、その人物が生み出す「物語」はさらに下位の「現実」として存在する。

そしてそれはつまり、僕たちが生きているこの「現実」も、より上位の世界の誰かが生みだした「物語」なのではないか、と想像出来ることになる。

そうだとしても、僕たちの生活は特に何も変わらない。僕らは、僕らの自由意志によって行動していると思っているが、実際にはそれは上位の世界の小説家(あるいは小説家に限らない)が生みだした行動要請なのかもしれない。しかし、仮にそうだとしても、僕たちが僕たち自身で、自由意志によって行動していると思えるのであれば何も問題はない。

僕たちは、殺人や大災害や貧困などの世界を、様々な物語の形で描くことが出来る。そうやって生み出された物語は、下位の世界では「現実」そのものとなり、恐らくそこで生きる人々は苦しみを味わうことだろう。しかし僕らは、それらの苦しみを「物語」として受け取ることはあっても、それを「現実」だと認識することはない。それらは僕らにとっては「現実」の苦しみではない。

科学の世界には、「オッカムの剃刀」という考え方がある。これは、科学理論は、目の前の物事を可能な限りシンプルに表現できるものであるはずだ、という考え方だ。例えば「雨が降る」という現象は、雲や大気や重力などによって説明できる。しかしそれを、「3億五千万年前に地球にやってきた宇宙人が遺した、地球上には本来存在しなかった化合物があり、それらは空気よりも軽いため常に大気圏に留まっている。そしてそれらが空気中の窒素とある一定の条件下で反応することで雨が発生する」みたいな説明をすることも(もちろん出来ないのだが)出来るかもしれない。しかしこれは、雲や大気や重力をベースとする説明よりも冗長だ。だから恐らくこれは間違っているだろう、というような判断の根拠として「オッカムの剃刀」は用いられることがある。

物語が階層化している、という世界の捉え方も同じだ。世界を冗長に捉えようとする試みであり、正しくない可能性の方が高い。しかし、可能性や希望を抱くことは、誰にとっても自由だ。

内容に入ろうと思います。
が、僕には難しすぎて本書の内容はとてもじゃないけど説明できないので、なんとなく分かった気になっている部分だけざっと書いてみます。

物語は、エドガーの父・ダニエルが死ぬところから始まる。エドガーは母・ラブレスから、父が遺したという小説の草稿を受け取る。そこでは、ダニエルとラブレスが「オートリックス・ポイント・システム」と呼ばれるシステムを開発した。言葉で記述することで世界を生み出す仕組みだ。エドガー001と名付けられたそのシステムは、大量の物語を生み出し、それらは「エドガー・シリーズ」と呼ばれた。しかしやがてある出来事が起こり、人類は絶滅してしまう。
人類が絶滅した後も、エドガー001は残り、誰もいなくなった惑星で一人物語を生み出し続ける。そして、有機体を持たないそれらの「エドガー・シリーズ」は、第二の人類の自らを称することになる。
一方で、オートリックス・ポイント・システムは、その内部に、その内部にはあり得ないはずの記憶をベースとした構造素子が生まれていることに気づく。それは、ディファランス・エンジンという、オートリックス・ポイント・システムとはまったく違う仕組みによって社会が成り立っている世界であり、エドガー001の流れを汲むウィリアム・ウィルソン004はそんな構造素子をバグと決めつけて排除しようとするが…。
というような話…かどうかは分かりませんが、僕がなんとなく理解したところだとこんな感じです。

新人のデビュー作らしいが、いやはや、ちょっとこれは僕にはハードルが高すぎた。使われている用語が、恐らくコンピュータやプログラミングの世界で使われているものをベースにしていて、基本的にそっちの方面に疎い僕には、使われている用語からしてちょっと理解の上限を越えた、という感じだった。なんとなく、どういう設定の物語なのかは漠然と分かったつもりではある。僕が理解できたことは、さっき書いたみたいな、「作中作やさらにその作中作というのは、世界を生み出すための構造なのだ」というような漠然とした理解で、とりあえず、「言葉で物語を生み出すことで世界を現出させる」という考えが基本にあることは分かったつもり。しかしそれ以上の理解は、僕には出来なかったなぁ。

つまらなかったわけではありません。基本的に全然理解できないながらも、ところどころ面白い記述があったし、ところどころ面白い場面があった。とはいえ、やはり僕にはちょっと歯が立たない作品だった。たぶん、プログラマーとか、あるいはコンピュータのシステムとか構造とか、そういうのを仕事にしている人であれば、本書で使われている用語や概念を恐らくすんなり理解できるでしょうから、そういう人には凄く面白く読める作品かもしれない、と思います。そうじゃない人には、とにかく用語と概念を理解するハードルがとにかく高い小説だと言っておきます。

樋口恭介「構造素子」

彼方の友へ(伊吹有喜)

戦争、という言葉を使うと、一気に遠くなる。
砲弾の衝撃とか、銃声のやかましさとか、血の匂いとか、死体の惨たらしさとか…そういうものを、僕たちは知らない。戦争という言葉を使ってしまうと、だから一気に、遠い世界の出来事に思えてしまう。そこに、リアルを感じることが出来なくなる。

戦争、という言葉を使うのを止めてみればいい。例えば、日常の喪失、ならどうだろうか?

色んな日常を生きている人がいる。辛い日常を生きている人もたくさんいるだろうけど、しかし辛いことしかない、という人はそう多くはないはずだ。子育てをしている人、youtubeをいつも見ている人、アイドルや野球球団を応援している人、花を育てている人、絵を描いている人、旅をしている人、恋をしている人…。戦争というのは結局のところ、そういう日常を失わせるものなのだ。そう考えると、一気に戦争が身近なものに思えてはこないだろうか?

僕らの日常は、実に不確かな足場の上に構築されている。それは、「今自分たちがいるこの場所は日常なのだ」という思い込みの集積でしかない。僕らの目の前に、まるで無限に続くかのように思える形で存在しているように思える日常というのは、あるいは、二枚の鏡の間に立っているだけのようなものかもしれない。ちょっと前後どちらかに進んだら、鏡にぶつかってそれ以上進めなくなってしまうような。

『(雑誌の付録の)小道具の外国趣味もほどほどに。現実から目をそむけて、叙情的なものに溺れるのは読者の心を脆弱にする』

『ねえ、間違っていてよ。あなた方の誰も、お父様やお兄様が戦地に行っていないの?恥ずかしいと思わなくって?自分の身を飾ることばかり考えて』

雑誌の付録か華美だろうが、自分の身を飾ろうが、今の世の中では問題ではない。日本が戦争に突入する前も、そうだった。しかし、戦争が始まると、人々の考え方が変わる。ちょっと前まで「日常」であったものが、はっきりとした変化の兆しに気づけ無いまま、いつの間にか「日常」から排斥する力が生まれてくるのだ。

『どれほど現実が冷たくとも、誌面を眺めるひとときだけは温かい夢を。
そうした思いが許されない時代が来たのかもしれない。』

あなたの日常の中で、これがあるから頑張れる、というものを思い浮かべて見てほしい。そして、あなたの原動力になっているそれについて、「今の時代では不謹慎だ」と言って奪われてしまうことを想像してみてほしい―。

その想像の中にこそ、僕は「戦争の本質」があるのだと思う。

『希望です。新しい靴や服がなくても、ひもじくても、そこに読み物や絵があれば、少しは気持ちもなぐさめられる。明日へ向かう元気もわいてきます。』

本書は、戦争の足音を聞きながら、少女に向けた雑誌を作り続けている人々の物語だ。雑誌や物語に関心を持つ人にはそれだけで興味深いだろう。しかし、本書をただそれだけの物語として捉えるのはあまりにも狭量だ。本書では、「少女向けの雑誌」は「日常を彩るもの」として描かれる。そしてその「日常を彩るもの」を生み出すのにどれだけの情熱を注いでいるか、また、「日常を彩るもの」がいかに奪われうるかということを描き出していくのだ。

『子どもから大人になるわずかな期間、美しい夢や理想の世界に心を遊ばせる。やがて清濁併せ呑まねばならぬ大人になったとき、その美しい思い出はどれほど心をなぐさめ、気持ちを支えることだろうか。そうした思いをもとにこの雑誌は続いてきたはずだ』

『「だけど僕らは切腹も殉死もしない。生き残ることを選ぶ。なぜならこの雑誌は少女、乙女の友だからだ。たとえ荒廃した大地に置かれようと、女性はそれに絶望して死にはしない。一粒の麦、一握の希望、わずかな希望でもそこに命脈がある限り…女たちはそれをはぐくみ、つなげていく。」
はいつくばろう、ぶざまであろうと、有賀がつぶやいた。
「未来へつなげていくことに光を見出す。それが女性たちの力だ。僕らは男だけれど、女性にはそうした力があることを今だから声を大にして伝えなければいけない。なぜなら彼女たちの声は今はあまりに小さく、あまりにか細い。この時代のなかで簡単に潰されてしまうから」』

「日常」は、いつだってあっさり奪われ得る。そのことを、僕たちは「日常」の中にいると忘れてしまう。本書は、「日常」は決して「当たり前」と同義ではないと意識させてくれる作品なのだ。

内容に入ろうと思います。

佐倉波津子は、本名は「ハツ」だが、その名前が嫌で自分で書く時は「佐倉波津子」と書く。今は老人施設で寝起きする日々だ。夢と現実のあわいで生きているような、何が現実で何が過去の出来事なのか区別がつかないような日々だ。
来客は断って欲しい、とお願いしているが、たまに誰かが来たことを報告してくれる。ある日佐倉は、「フローラ・ゲーム」の限定バージョンを受け取った。それがきっかけで、17歳の頃から自分の人生がパーっと思い出された。
昭和12年。かつて裕福だった佐倉家は、父が帰って来なくなったのを機に生活が厳しくなり、佐倉は進学を諦めた。椎名音楽学院の内弟子として働きながら、時々マダムに歌の稽古をつけてもらう日々だが、マダムは戦争が終わるまで関西の田舎にひきこもることにしたとかで、佐倉は行き場を失ってしまう。
辛い日々を支えてくれたのは、印刷所の息子であり幼馴染である春山慎が時々こっそりくれる、試し印刷をした少女雑誌「乙女の友」だ。画家の長谷川純司と、主筆である詩人である有賀憲一郎のコンビが大好きで、いつも心をときめかせている。
そんな佐倉は、ひょんなことから、大和之興行社で働くことになった。「乙女の友」を発行している雑誌社だ。なんと、主筆である有賀氏の下で働けるのだという。とはいえ、働き始めた佐倉は、自分がお荷物であることに日々気付かされる。少年の働き手が欲しかった有賀氏の思惑が外れ、佐倉は何を任されるでもなく、時々雑用を頼まれたりしながら、会社の端っこにいた。
それでも、憧れの有賀憲一郎と長谷川純司の近くにいられることは、佐倉の心をときめかせた。
戦争の気配が色濃くなっていき、社員や友人が徴兵されたり、連載を持っていた作家さんが突然逮捕され原稿を落としたりするようなことが起こるようになった。佐倉は、そういう状況の中で、少しずつ自分の存在意義を見出し、誌面づくりでも活躍できるようになっていく。
周りは皆女性も含めて大学出ばかりの職場で、小学校しか出ていない佐倉は常に引け目を感じていたが、モノ作りに真摯に取り組む人々の中で揉まれながら、佐倉は次第に強くなっていく…。
というような話です。

これは良い作品だったなぁ。戦争を背景にした作品でありながら、作品全体からとてもキラキラした雰囲気を感じる。少女雑誌という、戦時中においてはいの一番に「不要」と判断されそうなものを、全身全霊を以って作り続ける者たちの心意気が見事に描かれている作品で、何かを生み出し届けるという、あらゆる仕事において不可欠な事柄の大事さみたいなものを改めて実感させてくれる作品でした。

冒頭でも触れたように、本書は、砲弾や銃声はほとんど描かれないながらも、それでいて「戦争の悲惨さ」を如実に描き出す作品だな、と感じました。戦場や兵士たちを直接的に描くことによっても「戦争の悲惨さ」を描き出すことは出来る。しかしやはりそれは、どこか遠い世界の話に感じられてしまう。本書は、戦時下ではいかに「日常」がジワジワと奪われていくのか、ということが丁寧に描かれていく。誰もが、自分が正しいと思っている。平時であれば、複数の正しさは共存できるのだけど、戦時下においてはそれが不可能になる。戦時下では、人々の思考や価値観がある方向に自然と集約されていくし、その流れに逆らうことはたぶん出来ない。その怖さを、本書は描き出しているなと感じます。

とはいえ、こういう捉え方は読者次第だと言える。そんなことを考えなければ、純粋に美しいもの、心をときめかすものへの愛情に溢れたものたちのキラキラした日常を描いた作品として読むことが出来る(ラスト付近はどうしても戦争を意識せざるを得ないけど)。

自分たちが作っているものを待ってくれる人がいる。ネットのない時代、そう信じることはなかなか勇気がいることだろう。特に戦時下においては。雑誌を一冊買ったところで、お腹が膨れるわけでもなければ、明日の支払いの役に立つわけでもない。しかしそれでも、ある人達にとっては、この雑誌の存在がどうしても必要であり、だからこそ自分たちも作り続けるのだ―。これはもはや、信仰に近いものがある。しかし、信じる力が強ければ強いほど、それは事実となる。仮にその事実が、ごく狭い範囲でしか成り立たない事実であったとしても、その世界の中では紛れもない事実だ。そういうものを自分たちが生み出しているということの自負と責任を、彼らはきちんと意識している。そこにプロフェッショナルを感じるのだ。

佐倉は、かなり個性豊かな面々と共に働くことになる。有賀憲一郎と長谷川純司も、共にユーモラスで有能で尊敬に値する人物だが、他にもいる。科学をベースに空想小説を書く空井量太郎、憲一郎の従姉妹で編集部で働いている佐藤史絵里、有能だが少女雑誌にはさほど興味はない編集長の上里善啓、読者からの人気の高い「翻訳詩人」である霧島美蘭…。他にも多数いるが、そういう個性的な面々と一緒に雑誌作りをしている。そういう中にあって、佐倉には誇れるものはない。唯一あるとしたら、「乙女の友」をずっと好きで、敬愛と言っていいほど愛している、ということだ。その愛情の深さが、佐倉を悩ませもするし、前に進ませもする。仕事、という側面から見ても、本書は実に面白い。

人間関係もまた豊かだ。色恋は扱わない、という方針の「乙女の友」だが、雑誌作りに励む面々の間では様々な思いが交錯することになる。創作の熱意と恋心が入り混じり、本人でさえその境界を区別することが出来なくなっていく者たちの苦しさみたいなものが描かれていてとても良い。

『この雑誌の読者は、この雑誌を毎月買える裕福な家の子女だけかい?大人の庇護を受けている子女だけが友なのか。僕はそうは思わない。美しい物が好きならば、男も女も、年も身分も国籍も関係ない。』

こういう台詞に、羨ましさを感じる自分もいる。何故なら、この時代は、戦争という巨大なものが迫りつつあったが、同時に、良い物を作ればきちんと売れる時代でもあったからだ。だからこそ作り手は、いかにして良い物を作るか、という点だけに神経を注げば良かった(というのはまあ書きすぎかもしれないが)。本書においても、「いかに売るか」という議論は出てこない。「いかに良い物を作るか」が重要なのだ。

今の時代は、そうはいかない。どれだけ良い物であっても、売れないことはある。逆に、大したことがないものでも、ひょんなことから売れてしまうこともある。僕は日々、「いかに売るか」に汲々としている人間だ。何か物を生み出すような仕事をしているわけではないから、彼らと同列に論じるのは間違っているとは思う。しかしそれでも、不謹慎なのかもしれないが、ある意味で良い時代だったなと感じてしまうのだ。

本書の舞台となる「大和之興行社」のモデルは、本書の出版社である「実業之日本社」であるという。「乙女の友」という雑誌のモデルは、同社が出していた伝説の雑誌「少女の友」だという。本書で描かれていることが、どれだけ現実や時代の雰囲気を切り取ったものなのか、僕には判断が出来ない。しかし、「少女の友」を出版した出版社から本書が出る、ということから考えてみても、かなり当時の雰囲気を醸し出せている可能性は高いのではないかと思いたくなる。そうか、こういう時代が、本当にかつてあったのか、という嬉しさみたいなものが、湧き上がってくるような気がするのだ。

伊吹有喜「彼方の友へ」

開幕ベルは華やかに(有吉佐和子)

もの凄く面白かった!
期待値が低かった、ということもあるのかもしれないけど、いやはや、べらぼうに面白い。30年以上前、それこそ僕が生まれたのとほぼ同じ年に出版されたとは思えないほど古さを感じさせないし、演劇を舞台に脅迫電話から始まる事件を描いているのに、事件じゃないところが滅法面白いというのも凄い。有吉佐和子、凄いな。

内容に入ろうと思います。
推理作家の渡紳一郎は、うまく入眠できないという問題を長年抱えていた。今は、必要な量の薬を的確な時間に飲み、生活全体を穏やかにすることできちんと睡眠を確保できるサイクルを生み出している。しかし、そんなサイクルを邪魔する電話が掛かってきた。しかも、とんでもない電話だった。
元妻である小野寺ハルからの電話は、常軌を逸したものだった。演劇界にその名を馳せる加藤梅三という脚本家が、開幕を一ヶ月後に控えて降りてしまったという。その演劇は、川島芳子を主人公に据えたもので、松宝の看板である八重垣光子と中村勘十郎を東竹が借りて行う一大プロジェクトだった。しかし、脚本がないんじゃどうにもならない。そこで小野寺ハルにお鉢が回ってきた、ということらしい。それだけなら渡には何の関係もない話だ。しかしこの元妻は、依頼を引き受けるに当たって一つ条件を出したという。それが、演出は渡紳一郎でお願いします、というものだった。
かつて渡は演劇界にいた。しかし、あまりのストレスにより入眠できない日々が続き、二度と演劇界には戻らないと決意して、渡は推理作家へと転身したのだ。それをこの女はぶち壊しにしようとする…。
とはいえ、渡はその話を引き受けた。そして、すったもんだありながら、どうにか初日を迎えることが出来た。そのすったもんだの中には、渡の処女作に主演した花村紅子の死去も含まれている。舞台の幕が開く、まさにその前日に、花村紅粉の葬儀が行われるのだ。
初日から、関係者を慌てさせる色んなことが起こるも、観客は大喝采。連日超満員の大評判となった。帝劇側も、補助席を目一杯出して詰め込む作戦である。
そんなある日、帝劇の貴賓室の電話が鳴った。おかしい。この電話がなることなど、ほとんどないのだ。支配人の大島ですら、この番号を知らないほどだ。不審に思いながら出てみると、男の声で、「二億円用意しろ。でないと大詰めで女優を殺す」と言われる。なんてことだ、今日はただでさえ混雑が予測されるのに、その上脅迫電話か…。八重垣光子には敵が多く、彼女を守る必要などないという意見も出たり、そもそも光子自身も、舞台で死ねるなら本望、と言ってのけるし、中村勘十郎にしてからも、もう十分生きただろう、光子を守る協力などはしない、などと言い張る始末。その内、誰も予想していなかった展開が次々起こり…。
というような話です。

面白い作品だったなぁ。繰り返すけど、古さをまったく感じさせない作品だし、最初から最後まで一気に読ませる。最後、真犯人が明らかになる辺りの展開は、本格ミステリ的ではない(具体的には書かないけど)感じで、それはちょっとなぁ、と思う部分はないでもない。とはいえ、別に本書は本格ミステリとして書かれたわけでもないし、全体的にはもの凄く面白い作品だから、さほど気にならなかった。

一番凄いと思ったのは、本書の構成だ。なんと、脅迫電話が掛かって来るまでに200ページ掛かる。全部で430ページ程の作品だから、ほぼ中間地点から事件が始まる、と言っていい。じゃあ、事件が起こるまで面白くないのかと言えば、それは逆で、むしろ冒頭200ページが滅法面白いのだ。これが凄いと思う。

最初の200ページでは、渡とハルが演出と脚本を引き受け奮闘する話や稽古の様子、また初日からしばらくの間の演劇の内容が描かれていく。こう書くとさほど面白くなさそうに思えるだろうが、さにあらず。とにかく、八重垣光子と中村勘十郎が凄すぎて、この二人が織りなすやり取りがとにかく面白い。

二人共、看板俳優でありながら、セリフを全然覚えてこない。じゃあどうするのかと言えば、舞台上に隠れている「プロンプ」と呼ばれる、台本を持って役者にセリフを教える係というのがいるのだ。彼らが良いタイミングで役者にセリフを伝える。もちろん口頭で伝えるわけだが、「プロンプ」の声は役者にだけ届くように調整されるので、観客席からは聞こえない。

で、この二人は、セリフを覚えないという理由もあるんだろう、元のセリフとは全然違うことを喋ったり、台本にないような演技をバンバンしてくる。即興でセリフを作り上げては、相手とのやり取りを成立させていく。もちろん本書は小説だから何でも出来てしまうのだが、本書の解説によれば、八重垣光子にも中村勘十郎にも実在のモデルがいるという。その実在のモデルの方にしても、どこまでそういう即興でのセリフ回しをしていたのか分からないのだけど、そういうことは演劇界では往々にしてあることなのだろう。それがリアルに描かれていた。

台本になりセリフをやり合うことで、お互いの力試しや力関係を示す意図があり、だから八重垣光子と中村勘十郎はバチバチなのだ。実際には、八重垣光子は何を考えているんだかよく分からないのだが、中村勘十郎は光子のことを「殺してやる」と思っているぐらいムカついている。しかし困ったことに、八重垣光子の演技は、それはそれは観客を魅了するのだ。演技があまりに天才的であるが故に、誰も光子に口出しが出来ない。八重垣光子という超天才に周りが振り回されている、という構図が歴然とあるのだ。この状況を、舞台上での演技だけではなく、舞台裏での振る舞い、松宝や東竹の上層部の反応、付き人たちの証言などから明らかにしていく。もちろんその状況が、物語全体を左右することにもなるわけで、冒頭200ページでその辺りのことを掘り下げるのはとても重要なのだ。

事件が起こる前、彼らが彼らにとっての日常である「演劇」の世界を普通に生きているだけで、物語としてはもう十分スリリングなのだ。著者は演劇にも造詣が深かったようで、だからこそ演劇の世界を掘り下げて描くことが出来るのだろう。そのことが、物語を厚みのあるものにしている。

そして、事件のきっかけとなる脅迫電話が掛かってきてからも、基本的には演劇主体で物語が進んでいく。というのも、脅迫犯がどう出て来るのか、そしてどこの誰なのか、みたいなことがほとんど掴めないからだ。だから事件の方で物語を牽引していくことはなかなか難しい。

そんなわけで、事件が起こってからも、やはり八重垣光子と中村勘十郎の演劇が物語全体を引っ張っていくことになるのだ。脅迫電話が掛かってきてからは、ギアが一段上がったかのようにテンポが一層スピーディーとなり、てんやわんやの様相を呈することになる。そうした中で、一体誰がどんな目的で事件を引き起こしたのか…。もちろんこの点も面白く読ませるのだ。

なんとなく文学的な作品をイメージしていましたが、超ドエンタメ作品でした。ちょっと長いですけど、一気読みの一冊なので、是非読んでみてください。

有吉佐和子「開幕ベルは華やかに」

ロボット・イン・ザ・ハウス(デボラ・インストール)



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難しいことなど一切考えずとも面白く読める小説だが、本書には、異なる価値観を持つ存在とどう関わっていくのかという一つの解答がある。

昔がどうだったのか、具体的には知らないので、あくまでも印象の比較ではあるが、現代は以前と比べて、他人の価値観を受け入れる余地が狭い人間が多いように感じられる。

もちろん、時代の差はある。かつては、インターネットがなかったこともあり、個人の価値観が距離を飛び越えた他者にまで届くことはほとんどなかった。物理的に距離の近い者同士の間での価値観しか問題にならなかった時代だろう。また、そういう時代だからこそ、世間一般の価値観を作り出すのは、テレビや新聞や雑誌などのいわゆるマスメディアが中心だったはずだ。だからこそ、マスメディアから届く様々な価値観をベースにしながら、皆自分の考えを組み立てていったはずだ。ベースが同じだからこそ、そこまで大きな違いが認識されなかった、という側面はあるだろう。そういう時代の方が良かった、などというつもりはないが、そういう今とは違う環境があったことは確かだろう。

現代では、インターネットの登場により、個人の価値観が様々な形で表に出てくるようになった。個人が自らの価値観を社会に染み出させることが出来る仕組みのお陰で、人々の考え方のベースとなるような大きなもの(かつてはマスメディアが作り出していたもの)がどんどんと薄れていった。それ故に、どんどんと価値観は多様化し、細分化していくことになる。そのこと自体は、とても良いことだと思う。多様な価値観が混在するからこそ、世の中が豊かになっていくのだと僕は思っているからだ。しかし、多様性というのは、間違った方向に進んでしまうと、異なる価値観を持つ者を排除するような方向に行ってしまう。まさに僕らは今、そういう時代に生きているのだと僕は思う。

ニュースやネットを通じて、世の中で起こっている様々な出来事を見聞きすると、もう少し他者の価値観を受け入れる余裕を持てば大体のことは起こり得なかったのではないか、と感じるような事件やトラブルを見かけることがある。もちろん、昔はなかった、などというつもりはない。というか、昔の方が、全共闘を始め、対立が社会問題化するような時代だっただろう。しかしそれでも、現代の方が、価値観が多様化しすぎているが故に、対立の構造が遥かに複雑になっているような印象を受ける。

僕は、自分と価値観の合わない人間と遭遇すると、チャンスだ、と感じる。多数派の意見には興味を持てないことが多いのだけど、少数派同士でも意見が合わないことはよくある。その意見の合わない少数派と出会うと、自分とどこが合わないのか知りたくなる。知ることで、自分の価値観の境界線がはっきりしてくるように感じられるからだ。

また、相手の土俵の上で議論を進めていくことも好きだ。議論をする場合には、お互いにある程度前提を共有しなければならないが、そのことを理解しないで議論をしている人を見かけると、なんて不毛な議論なんだ、と感じる。僕は、お互いの前提をすり合わせて共通する部分を見つける、みたいな作業がめんどくさいので、相手の土俵に立って、相手の価値観の論理を使って議論を進めていく、みたいなことをやることもある。相手は、僕が根拠としているのが相手自身の価値観をベースにしたものであるので、なかなか反論しにくくなる。

自分と異なる価値観を理解し受け入れることは、コミュニケーションの基本だと僕は思っている。しかし、そこを放棄してしまう人が多いような印象を持っている。コミュニケーションには、価値観の異なる者と関わる、という側面もあるのだということに気づかない振りをして、価値観の合う者ばかりを探しては、「ヤバイ!」の一言で続いてしまう会話をする。

なんとなく僕はそういう現状を、怖いなと感じることがある。

価値観の異なる者との関係性を排除できてしまう社会インフラが様々に整うようになってきて、益々気が合う者とだけ関わればいいような日常が構築されようとしている。人間関係がオンライン中心だという人は多いだろうし、やがて本当に物理的に他者と合わなくても生きていけるような世の中がやってくるかもしれない。

そうなった時、きっと、人類は滅びるんじゃないかな、と思う。異なる価値観の接点・接地面にしか生まれないモノが、人類の歴史を作り上げてきたのだと、僕は思いたいのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
本書は、前作「ロボットイン・ザ・ガーデン」の続編です。正直に言って、僕は前作の内容をほとんど思い出せないまま本書を読み始めたので、前作の内容はリンク先で読んでください。

本書は、“ジャスミン”という名の新たなロボットが、ベンとエイミーの夫婦(ではないのがややこしいのだけど、ここでは「夫婦」と表記する)の元にやってきたことから始まる。ベンはかつて、自宅の庭に迷い込んできた旧式のオンボロロボット(「タング」という名を付けた)と共に長い長い旅をし、タングを生みだした天才ロボット工学者であるボリンジャーの元までたどり着いたことがある。ジャスミンは、そのボリンジャーの元から派遣されてきた新たなロボットなのだ。
ジャスミンの任務はシンプルだ。タングのいる地点の位置情報をボリンジャーに送信すること。タングの所有権は自分にあるので、取り返しに来る、というのだ。しかしボリンジャーは政府から監視される対象、どんな通信手段も使えない状況だ。そんな中でジャスミンがどんな連絡方法を有しているのか謎だが、ともかくもジャスミンに位置情報を送信されるのは困る。
何故ならベンとエイミーは、タングのことを家族の一員と捉え、大切にしているからだ。
この時代、掃除や料理などに特化した、いわゆる「アンドロイド」と呼ばれるタイプの人工知能は急速に発展している。しかし、何らかの機能を全うするのではなく、ただ幼稚な言語でお喋りをするだけの旧式のロボットには興味を持たない。ロボットは全般的に厳しく管理され、チップに埋め込まれた情報から所有者などの情報が判明する仕組みになっているのだが、タングは盗品であるが故にメンテナンスや保障に問題が生じている。さらに、盗品であることが発覚すれば、ベンとエイミーはタングを手放さなければならなくなるかもしれないのだ。彼らはジャスミンをどうにか処分しようと試みるが、宙に浮き、庭にじっとしているジャスミンを排除することは出来なかった。
彼らの間にはボニーという娘がいる。彼らは幼い娘とロボット二台を抱えながら、研修医と解雇されそうな弁護士という苦しい立場に立たされている。
彼らは、法律上は彼らの持ち物ではないタングらとの様々な日常風景を描きながら、様々な成長を描き出す作品だ。

なかなか面白い作品でした。冒頭でも書いたように、僕は前作「ロボットイン・ザ・ガーデン」の内容をほぼ忘れていました。それでも十分面白く読めますが、やはり前作は読んでおいた方がいいでしょう。

前作は、ベンとタングが旅をし、その旅先ごとで色んなことが起こるという、ある種の冒険譚だった。本書の場合は前作とがらりと変わって、物語はほぼ家の中で進んでいく。だからこそ、という側面もきっとあるだろう、本書は日常における価値観の対立をうまく描き出している、と感じました。

相手がロボットである、という点も、本書を面白くする。例えばボニーのような人間の子どもであれば、言葉が通じる年齢になれば、「同じ種族である」という前提があるために、価値観のすり合わせは同じ種族ではない場合に比べたら圧倒的に楽だろう。

本書では、タング、そしてジャスミンが、自ら意志を持ち、会話をする。彼らが世の中をどう捉えているのか、どんな場面でどう感じているのかを知ることは実に面白い。人間と会話する場合には「大前提」にしてしまう様々な事柄を持っていないタングに対して、新たな価値観をどう伝え、また適切な価値観を元に行動することの大事さを伝えることは、なかなか難しいことだった。しかし、ベンとエイミーはそれをやり遂げたから今の生活がある。ベンとエイミーがロボットたちとどう関わっていくのか。一つの読みどころである。

また、ベンとエイミーの関係性も注目だ。前作の流れを忘れたので、何故ベンとエイミーが離婚しているのか、という理由を忘れてしまったが、彼らは、よりを戻したい気もするし、でもそこには高い壁があるとも感じられて、モヤモヤしてた状態を持続させている。ベンとエイミーの関係が、新たなロボットの登場によってどう変化したのか。その点も読みどころだと言えるだろう。

彼らの日常は、「家に意志を持ったロボットがいる」という点を除けば、至ってありきたりのものだ。しかしだからこそ、彼らの異質さが浮かび上がってくる。タングとジャスミンを受け入れる生活には、なかなか普通は踏み出すことが出来ないはずだ。異なる意志、というよりも、人間と同じような意志を持っているとは想定難い存在を前にして、0から人間の価値観を植え込んでいく過程は、読んでいる分には面白いが、相当大変だろう。しかし、その苦労を乗り越えてでもタングと一緒にいたいというベンとエイミーの強い意志を感じることが出来るし、実際に彼らは、タングやジャスミンがいたお陰で関係性に変化をもたらすことが出来たと言っていいだろう。

自分が当たり前だと思っていることほど、言語化しないまま疑問を感じることなく脳内にしまいこんでいる。しかし、タングのような存在がいると、自分の中の常識がひっくり返っていく。「ペットって何?」のような単純な質問だからこそ、それが如実に現れてくるのだ。本書は、ほんわかした読み物としてももちろん十分楽しめるのだが、コミュニケーションの本質を垣間見せてくれるという意味でも面白い作品だ。

デボラ・インストール「ロボット・イン・ザ・ハウス」

晴れても雪でも キミコのダンゴ虫的日常(北大路公子)



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内容に入ろうと思います。
本書は、エッセイストの北大路公子が、1年間雑誌に連載し続けたエッセイが掲載されている作品です。1月1日から12月31日まで、ところどころ抜けている日付もあるけど、概ね毎日書いています。日毎の分量はまちまちですけど。

僕は北大路公子のことを「プロの無職」だと思っているんだけど、とにかく何もしていない。いや、北海道に住んでいるので、仕方なく雪かきはしているようだが、雪かきする以外は大体酒を飲んでいる。よくもまあそんなに飲んでられるな、というぐらい飲んでいる。アル中を疑えるレベルで飲んでいるのだけど、大丈夫なんだろうか?

副題の「ダンゴ虫的」の通り、北大路公子は大体家から出ない。そして出る時は、時々あるサイン会か、あとは酒を飲むためである。これほどまでに「飲むために生きる」を体現している人もなかなかいないだろう。

酒を飲みながら、色んな人と話をする。その話もアホみたいな話ばっかりで面白い。例えば、会話というわけではないが、本書には「ストーブ祭り」というのが登場する。

『夜は、毎年この時期(※3月末)に開かれるストーブ祭りに参加するため、Mっちととともにハマユウさん宅へ。ストーブ祭りとは、「ハマユウさんがこの冬に買った灯油を消費しきるまで、皆でひたすらストーブを燃やしつつ酒を飲む」という天下の奇祭である』

アホである。これが毎年行われるというのだからアホである。

また、著者の独特の思考も面白い。いくつか抜いてみよう。

『もし私に息子がいて箱根駅伝の選手にでもなったら応援に行かなくちゃいけなくなるから、本当に息子がいなくてよかったと思う』

『天気予報を観ながら、「アレ」の呼び名について考える。代名詞のままだと不便だし、「雪」と呼ぶにはあまりに忌々しいので、思い切って「希望」と呼ぶことにするのはどうだろう。「あたり一面希望にふれている!」などと声に出すと、くさくさした気持ちも少しは晴れるのではという、健気な乙女心である。予報によると、明日の朝も希望が積もっているらしい』

『ついこの間までは、お正月に神棚に供えたスルメを「太る成分は神様が全部食べたから」という理屈で毎晩食べ続けていた』

アホだなぁ。しかし、よくもまあこんなアホみたいなことをポンポン思いつくものだと感心する。そのほとんどが、「目の前の現実を見なかったことにしたい」「めんどくさいことをやらないで済ませたい」という後ろ向きな発想から生まれているというのもまた凄い。

そして、日記であるのに、「生活感」というものをほとんど感じさせないところも凄まじい。「生活感」的な部分は、もちろん書いていないだけなんだろうけど、日々奇妙なこと、おかしなこと、笑えることが起こっているので、本当にこれが日常なのか、という気がしてくる。酒も飲みすぎだ。もしかしたら、この本は「ある一年」の記録ではないのかもしれない。例えば、「1月1日」は「2015年」のこと、「7月1日」は「2000年」のことなど、色んな年代のその日その日を継ぎ接ぎしているのではないか…なんてめんどくさいことを北大路公子がするはずもないので、もちろんそんなことはあり得ないだろうが、そんなふうにも感じさせられる作品だったりもするのである。

読んでも一切役に立たないし、人生を豊かにもしないが、「あぁ、人間というのは、どこmでも頑張らなくてもなんとかなる人はなんとかなるのだなぁ」としみじみさせられる、読んでいて楽しい作品です。

北大路公子「晴れても雪でも キミコのダンゴ虫的日常」

たまうら~玉占~(星乃あかり)



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内容に入ろうと思います。
本書は、5編の短編を収録した連作短編集です。
まずは全体の設定から。
舞台は江戸。橋のたもとに時折現れる謎の老婆とたぬきのようにでかい白猫がいる。「玉占」という行灯があるので、占い師であるようだ。老婆は、悩みを抱えていると思しき者を呼び止めては、白い壺から玉を引かせる。その玉はその者の今の状態に近い性質を持つものとなる。「みれん玉」「やっかい玉」「びびり玉」「忘れ玉」「よくばり玉」 そしてその後で、壺に頭から顔を突っ込んだ白猫が咥えて取り出すのが、その者に今必要な玉だ。持っているだけで、今抱えている悩みが解決する―。そんな触れ込みで、1日8文で貸し出している。

「みれん玉」
おみつは、三味線の稽古場で出会った京さんに惹かれている。そんな京さんからもらったかんざしをなくしてしまった。今まさに必要なものなのに…。占い師にもらった「えにし玉」は、取り戻したいものを頭に浮かべるとそれが手元に戻ってくるのだという。病気で倒れた母の待つ家へと向かい、さっそく枕の下に「えにし玉」を入れてかんざしを思い浮かべると…。

「やっかい玉」
おこうは、お種の営む一膳飯屋・亀屋で働いている。他の若い娘がどんどん結婚していなくなっていく中、おこうだけはそんな話もない。人生で、誰かに関心を持たれたことなどない。そんなおこうを片付けようと思ったか、お種はおこうを占い師の元へと連れて行こうとするが、期せずしておこうは橋のたもとで占い師に出会う。そこで「すかれ玉」を借りたおこうは、翌日から自分に誰も彼もが関心を持ち始める状況に戸惑うようになる…。

「びびり玉」
俵兵衛は、無理難題を押し付けられて弱っている。若殿が見初めた娘がいるのだが、その娘には許嫁がいて、若殿の求婚を受け入れない。しかし、欲しいものは何をしても手に入れようとする若殿は、俵兵衛に、凄腕の占い師がいるらしいから相談してこいと命じられたのだ。そこで彼は「肝っ玉」を借りた。それを持って、若殿が見初めた娘の実家まで談判に向かうが…。

「忘れ玉」
正太は小間物屋の一人息子で、家を継ぐつもりではいるが、しかし記憶力があまりにも貧弱で、お客さんの顔やお得意さんの家までの行き方など何もかも全部忘れてしまう。まさに今配達中で道に迷い困っている正太の前に老婆が現れ、「覚え玉」を借りた。その日以来、一度見ただけでどんなことも記憶出来るようになった正太だったが…。

「よくばり玉」
団子屋で働きながら倹しい生活をしているトメは、ある日占い師から「あきあき玉」を借りた。なんでも、持っているだけで飽き飽きするほど金が入り込んでくるという。団子屋で働くだけの私にどうやって?と思ったが、確かに色んなとこから金が入り込んでくる。使えば使うほど入ってくると言われて散財するトメだったが…。

というような話です。

江戸を舞台にしているけど、会話や描写などはかなり現代物に近くて、時代物を読み慣れない人にも読みやすい作品でしょう。占い師の元にやってくる者たちの悩みも、非常に身近なもので、共感しやすいと思います。

この物語は、玉の力で悩みが消えたり望みが叶ったりするわけなんだけど、大事なのは、玉は自分のものになるわけじゃなくて、お金を払って借りているのだ、ということ。金を払えなくなれば手放すしかない。未来永劫その状況が続くわけではない、というのが一つの肝だ。

結局のところ、玉の力では物事は解決しないのだ、ということが分かる。相談に来た者たちの去就は話ごとに様々だけど、自分が望んだ通りにならなかったとしても、結果的に良い状況に落ち着いている、という展開になる。問題を捉え間違えていたり、理想としていた状況が実はさほど望ましいものではないのだと気づいたりすることで、現実に何らかの変化がある。その展開を楽しむ作品です。

さらさらと読める、読みやすい作品です。

星乃あかり「たまうら~玉占~」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)