黒夜行

>>本の中身は(2017年)

真夏の島に咲く花は(垣根涼介)

『楽園は、周りの人間と作り上げていくものだよ。場所なんかじゃない。そしてその人間関係がもたらす心の風景だ、と』

この文章はとても良いなぁ、と感じた。

本書を読むと、「幸せな人生って何だろう?」と考えさせられる。
僕は昔から、金持ちにはなりたくない、と思っていた。金持ちになることで自分が幸せになれるイメージがどうしても出来なかったのだ。
もちろん、お金があることで、日常生活に不自由はなくなるし、何か大きなトラブルが起こった時にも対処しやすくなるし、やりたいことが出来るようになるだろうし…と、色々良い点はあるはずだ。けれど僕には、マイナス面の方が大きいように感じられてしまう。

それは、失うことの恐怖だ。

もともと持っていなければ、失う恐怖を感じることはない。もちろん、どんな人生でも多少なりとも何かしら持っているだろうが、それが小さなものであればあるほど、失う恐怖も小さくて済む。

しかし、大金や大金に付随してまとわりついてくる様々なものは、とても大きなものだし、その大きなものを一度手にしてしまった時、それが失われる恐怖はとても大きなものに感じられてしまうだろうなぁ、と僕はずっとそんな風に感じている。

『何千キロ、何万キロも離れた南の島にやって来ても、仕事のことや、将来のことや、家族のことなどをついあれこれと考え、物思いに沈んでいる。そしてときおり憂鬱そうな表情を垣間見せる。せっかくすべてを忘れて楽しむためにこの島にやって来ているのに、母国に置いてきたはずの日常に引き摺られている。
見ているこちらが、寂しい気分になった。
彼らの心は、どんなところに行っても、常に今ある生活の心配から自由にはなれないのだろう。この島で生まれ育ったフィジー人よりもはるかに裕福で、いろんな物も持っているのに、チョネが生まれ育ったここの住人のようには無邪気に笑えない』

「今ある生活の心配」というのは、僕の言葉で言い直せば「失う恐怖」ということだろう。今自分が手にしているものを失わないために努力し続けなければならない。その努力が出来なくなれば、それはあっさりと自分の手からこぼれ落ちてしまう。そういう恐怖を、みんな抱いているのだろう。

そういう恐怖に自覚的だった僕は、お金に限らず出来るだけ「手放せない何か」を持ちたくない、と思ってこれまで生きてきた。そういう生き方は、ある意味で寂しいものではあるが、プラスの事柄よりもマイナスの事柄の方をより過大に評価してしまう僕には、そういう生き方が合っていると思った。

『勤勉であること。約束を守ること。お互いに助け合うこと。
それらの根底にある思想は、飢えへの恐怖だ。(中略)
つまり、これらの美徳は、植えの回避という要因から発した後天的なものに過ぎない。だが、働かなくても道を歩けば食べ物はいくらでも転がっている社会では、勤勉さや約束遵守の精神はそれほど求められない。』

それ以外の価値観を知らない状態で生きられるなら、そういう「働かなくても道を歩けば食べ物はいくらでも転がっている社会」で生きることが何よりも幸せに繋がるのだろう。そういう中で育むことが出来る人間関係の中にこそ、楽園は存在するのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
物語は、南国の楽園であるフィジーが舞台だ。雑多な人種が暮らすフィジーでは、陽気でおしゃべり好きで働くことにはあまり向かないフィジー人を筆頭に、かつて奴隷として連れてこられたインド人を祖先に持つ者や、日本人・中国人などが暮らしている。
織田良昭(ヨシ)は、親から受け継いだ日本食レストラン「織田」のオーナーであり、フィジーに根ざして生活をしている。学生時代に同級生だったフィジー人のチョネとは、学力や性格の違いを越えて仲が良かったし、父親が観光客向けの土産物屋を営んでいるインド系のサティーとは今交際中だ。ガソリンスタンドで働くチョネには、就労ビザでフィジーに滞在している観光ガイドの塩田茜という彼女がいる。茜は、容姿も条件も良かったインド系のパイロットと付き合うのを蹴って、貧乏なフィジー人であるチョネと付き合っている。日本の文具会社を辞めフィジーにやってきた彼女は、フィジーという国が持つ、茜を惹きつけて止まない魅力が何であるのかを見極めたくて、フィジーに留まっている。
観光で成り立っているフィジーでの生活は、元々貨幣経済に組み込まれていなかったフィジー人にとってはなかなか厳しいが(時給2ドルの仕事ばかりする羽目になる)、勤勉で努力家なインド人や日本人にとっては、きちんとやっていればちゃんと成功できる国だ。ただ、かつて奴隷だったにも関わらず今は成功しているインド人と、フィジーは自分たちの国だという意識が強いフィジー人の間には、長いこと民族的な対立があり、両者がお互いに対して根強い嫌悪感を抱き続けている。
その対立が決定的な形で表に出てしまった。
ジョージ・スペイと名乗る先住民系武装グループが国会議事堂を占拠し、閣僚たちを監禁するという事件が発生した。首都スパで起こった事件は、ヨシやチョネたちが住む町には直接的な影響をもたらさないが、観光客の激減や、最悪な形で露わになった民族的対立が、徐々に彼らの生活に微細なヒビを入れ始め…。
というような話です。

一度読んだ記憶があるんだけどすっかり忘れてて読み直してみましたけど、なかなか面白い作品だと感じました。遠くフィジーを舞台にすることで、日本人にはちょっと遠い景色に見えてしまう可能性もあるのだけど、冒頭でも少し触れたように、フィジーを舞台にすることで、「幸せな人生」とは何か、という問いを追求しやすくなった、ということが出来ると思います。

物質的、金銭的に満たされることをどうしても追い求めてしまう風潮があるのだけど、でも僕は、そういうベクトルの先には幸せはないんじゃないかなぁ、と思ってしまいます。でも、生まれた時から資本主義が程よく成熟した社会に生きている僕らには、それに変わるシステムや努力の仕方というのがなかなかイメージ出来ません。しかし、フィジーという、本質的には働かなくても生きていける国を舞台にすることで、本当の幸せについて考えやすくなるように思います。

またそこに、民族的な対立というのが加わってきます。日本に生きていると、なかなかこういう対立について意識することはないですが、フィジーにおけるフィジー人とインド人の対立というのは、宗教や歴史を背景にしたものというよりは、「どう生きるか」というスタンスの差異から生まれているように僕には感じられました。その点が、お互いにあまりにも食い違っているために、同じ国で生活していながら、日常の中で相容れない部分が出てきてしまいます。フィジー人はそうする必要性をあまり感じないからあまり熱心には働かないし、インド人はそれが当然だと思うから勤勉に働く。その結果当然、フィジー人は貧乏だしインド人は裕福になるのだけど、フィジー人は自分たちの土地に後からやってきたのに裕福になるインド人に苛立ちを隠せないし、インド人は自分たちのお陰で経済が成り立っているのに不満ばかり言うフィジー人に苛立ちを募らせていく。その辺りの描写が実にうまいなと感じました。

そしてそんなフィジー人とインド人の間に、ヨシや茜のような日本人が絡んでいく。日本人としては、性格的には勤勉なインド人に近いが、フィジーまでやってきて働こうと思うような日本人からすれば、陽気でいつも楽しそうなフィジー人に好意を抱く部分もある。なかなか難しい立ち位置の中で、なんとか楽しく生きていくために日々を過ごしている。

貨幣経済だの民族的対立だの難しいことを書いてみたが、小説としてはそんな小難しさを感じる内容ではない。様々な人種の登場人物が、フィジーという国の論理をベースに生活をしている様が実に活き活きと描かれていく。彼らの日常を丁寧に描きながら、遠い首都で起こった出来事がじわりじわりと彼らの生活を侵していく様を上手く描いていく。「楽園というのは場所なんかじゃない」ということが、読み進めていく中で強く実感されるだろう。楽園は場所ではない。人間関係の中にある、というのも正しいが、結局は、そこを楽園にしようという個々人の努力の積み重ねでしかないのだろうと思う。

垣根涼介「真夏の島に咲く花は」

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潔白(青木俊)

殺人犯はそこにいる」という作品がある。去年、「文庫X」として注目を集めた作品だ。この作品は、その「殺人犯はそこにいる」を下敷きにしている、と言っても良い作品だ。「殺人犯はそこにいる」で取り上げられたある事件の「その後」という「if」を描いている作品、という風に言える。

この点は、本書の利点でもあるし、欠点でもある。

本書では、「冤罪死刑」を取り上げた作品だ。死刑判決が下され、実際に死刑が執行されながら、それが冤罪である可能性について描く作品だ。本書のベースとなる事件は、実際に存在する。現実には、「冤罪死刑」を追及するような流れは生まれていない。再審の壁は、あまりにも高いからだ。本書では、そのあまりにも高い壁をもし乗り越えることが出来たとしたら、そこにどんな現実が展開する可能性があるのか、という予想を示している。

そして、「殺人犯はそこにいる」を読んだ者であれば、本書で提示された予想が、恐らくほぼ現実のものとなるだろうと感じることが出来るだろう。

『冤罪死刑が認められれば、日本の法曹界は、それこそ天地をひっくり返したような騒ぎになる。法務大臣、最高裁長官、検事総長らのクビが飛ぶ。死刑制度の見直しはもちろん、警察、検察の捜査のあり方、証拠の扱い、裁判の進め方、冤罪の防止策など、刑訴法の改正に話が進む。日本の硬直した司法制度に風穴が開く。その意味はあまりに大きい』

これは、弁護側の述懐だ。その通り。本書で描かれる冤罪死刑が認められれば、司法制度が大きく変わる。それは、普通の感覚で考えれば、とても良いことだ。正しいことが正しい形で通りにくかったこれまでの司法のあり方を変え、正しいことが正しいこととして認められるような、そんな道を進むことが出来るはずだ。

しかし、検察側はそうは考えない。

『いまの検察のあり方には、若手の検事を中心に疑問の声が強い。大阪地検の証拠改竄や裏金問題は、組織への不信として、いまも庁内に澱のように沈殿している。強引な国策捜査への批判は強いし、逆に首相側近の大臣や、東電、東芝といった大企業を不起訴にした姿勢にも、不満が燻っている。
そうした声には高瀬も共感する。しかし、だからといって、検察の威信が傷つき、力が失われてよしという訳では決してない。何といっても、検察庁はこの国の法治の要だ。
冤罪死刑を認めることは、検察を貶め、法治の危機を招来する。
自分も検察の一員なのだ。その権威と権限は、何を置いても守り抜かねばならない』

この感覚を、僕はとても怖いと感じる。

本書は小説だ。だから、上記のような考えを、一般の(あるいは一部の)検察官が実際に持っているのか、それは分からない。しかし、「殺人犯はそこにいる」というノンフィクションを読む限り、そう考えている検察官が多いのだろうという推察は合理的ではないかと思う。

そしてもしそうだとした場合、とても厄介だ。

僕はまだ、検察官が、個人の保身を目的に不正を働く方がマシだと思える。少なくともそれは、自分が悪いこと、間違ったことをしているという認識を持っているはずだからだ。しかし、先に引用したような、「検察という組織の権威を守るために不正を働かなければならない」という論理を違和感なく抱いているとすれば、自分が悪いこと、間違ったことをしているという感覚を持っていない可能性さえあると僕には感じられる。それは、とても怖ろしいことだと思う。

先に引用した内容は、一般的な感覚からすれば承服出来ないだろう。「検察庁はこの国の法治の要だ」という点には、恐らく多くの人が賛同するだろう。しかし、「だからこそ冤罪死刑を認めず、それによって権威を維持すべき」という価値観はおかしい。「だからこそ冤罪死刑を認め、誤りを浄化し、過ちが起きないように対策を取る」というのが正しいだろう。それが最終的に、組織を守るということに繋がるはずなのだ。しかし、どうもそういう発想は持てないようだ。

本書の中で検察は、冤罪死刑を認めさせないために、これでもかというほど汚い手を使う。権力を持つ人間が、その権力を最大限利用すれば、大抵のことはねじ伏せることが出来てしまう、ということをまざまざと見せつけられるような作品だ。そして、「殺人犯はそこにいる」を読んでいる者には、本書で描かれる検察の動きが、恐らくそうなるだろうと思わせるような振る舞いなのだ。司法というものへの深い絶望を抱かせるのに十分な作品だ。

さて、本書が「殺人犯はそこにいる」を下敷きにしているが故の欠点にも触れよう。それは、「殺人犯はそこにいる」を読んでいないと、この作品単体では不十分に感じられるだろう、という部分だ。

本書は、260ページぐらいの小説だ。長編小説としては短い部類に入るだろう。その中で、これまで日本で議論されたことのない「冤罪死刑」をリアルの遡上に載せようとする作品なのだ。そのことを考えると、ページ数があまりにも少なすぎると僕は感じる。恐らく意図的にそうしたのだろうと思うが、本書は、読者が「殺人犯はそこにいる」を読んでいるということをある程度以上前提に置いて作品を書いていると思う。そうでなければ、「足利事件」や「MCT118」や「再審請求」などについて、作中でもう少し詳しく触れるのではないかと思うのだ。また、検察や裁判所がどんな風に動くのかという具体性について、それをよりリアルに感じさせるような描写がもっと入ってくると思うのだ。

僕は「殺人犯はそこにいる」を読んでいるから、本書を読んで特に違和感を覚える部分はなかった。しかし読みながら、「殺人犯はそこにいる」を読んでいない人間が本書だけを読んだ時に、この物語にリアリティを感じることが出来るだろうか、と感じてしまった。それは、ちょっと難しいのではないかと思うのだ。それぐらい、本書で描かれている検察や裁判所の動きは、常識的には考えにくい、常軌を逸したものなのだ。

本書の欠点は、まさにこの点にある。「殺人犯はそこにいる」を読んでいない人間に対して親切ではないと僕は思う。本書だけでは、独立した作品と呼ぶことが、ちょっと難しいような気がしてしまうのだ。もちろん、僕はそういう本作りを、意図的なものだと思っている。そういう欠陥が生まれることを理解した上で、こういう造りにしたのだろうと考えている。そういう意味では、戦略とも言えるような欠陥であり、とやかく言うようなことではないのかもしれないが、やはりこの点は指摘しておくべきだろうかと思い書いてみた。

内容に入ろうと思います。
1989年7月に発生した「三村事件」と呼ばれる殺人事件がある。小樽市にあるスナック「美鈴」で経営者の野村鈴子と小学生の娘・優子が絞殺死体で発見された。捜査はなかなか進まなかったが、事件発生から一年八ヶ月後に、同市内で工務店を営む三村孝雄が逮捕された。様々な状況証拠があったのだが、最終的には「MCT118」と呼ばれる、当時の最先端技術を駆使したと喧伝されたDNA鑑定によってDNA型が一致、それにより死刑判決が下された。通常死刑が執行されるまでには判決から10年以上かかる。しかも三村は再審請求の準備を進めていた。再審請求者の処刑は見送られるのが慣例なのだが、三村の場合は何故間、判決からわずか2年での死刑執行となった。
その判決に、納得しない者がいた。三村の娘・ひかりだ。小学生だったひかりは、犯行があったその日の夜、ひかりの部屋で父と二人でずっと一緒にいた。だから、父が犯行を行えたはずがないのだ。そのことを、誰よりもひかりがよく知っている。しかし、身内の証言ということで聞き入れられることはなかった。
ひかりは、父に死刑判決が下って以降、父の冤罪を証明することに人生のすべてを捧げることにした。あらゆる手を尽くしたが、「開かずの扉」と呼ばれる再審への道を切り開くだけの有力な証拠を見つけることは出来ないでいた。
しかし、「足利事件」の冤罪が証明され、事態は少し前進した。「足利事件」でDNA型の鑑定が行われたのは、三村事件と同じ「MCT118」という手法だったのだ。その手法について詳しい、と評される弁護士事務所で森田と出会い、ひかりは一筋の光を求めて再審への道を進んでいくことになるが…。
というような話です。

冒頭でも書いたように、「殺人犯はそこにいる」というノンフィクションを大分下敷きにして書かれた作品です。本書で描かれる「三村事件」のモデルとなっているだろう事件は、福岡県で起こった「飯塚事件」だ。無実を訴えながら死刑判決が下され、2年で死刑執行された、という点が共通している。「殺人犯はそこにいる」では、「足利事件」を含む5件の連続幼女誘拐殺人事件の真犯人が、判明しているのに何故逮捕されないのかの理由として、「MCT118」という鑑定法が間違っていたと認定したくないからであり、では何故認定したくないかと言えば、「飯塚事件」でも同じ鑑定法を用いており、「MCT118」の真偽が揺らぐと「飯塚事件」において「冤罪死刑」の問題が取り沙汰されるからだ、と指摘している。

そしてまさに本書は、その「飯塚事件」(本書の中では「三村事件」)における「冤罪死刑」が議論の遡上に乗せられた時、検察や弁護側や世間はどう動くか、ということをリアルに描き出す作品なのだ。

読みながら、「検察や裁判所はこれぐらいのことはやるだろう」と思った。それは、最近読んだ「裁判所の正体」という作品の影響も大きい。元エリート裁判官である瀬木比呂志氏が、裁判所の実態を清水潔に語るような対談本である。「裁判所の正体」の場合、メインで描かれるのは裁判所であるが、ほとんど検察や権力と一体化している現実が描かれている。

『日本人は、裁判官と言えば、大岡越前や遠山の金さんをイメージするがね、大いなる誤解だな。ちなみに、アメリカとも大違いで、アメリカの裁判長は市民の代表、日本の裁判長は公務員、お上の手先…』

と本書「潔白」の中で書かれているが、まさにその通りなのだ。検察も同じだ。

『なるさ。三村事件の再審は、検察量が総がかりで潰すマターです。』

『多くの検事が“割る”ことが、被疑者更生の第一歩だと信じており、“割れる”検事が有能とみなされる。そして“割った”からには、たとえ証拠が完全でなくとも、果敢に“立てる”。』(割る=自白させる、立てる=起訴する)

『有罪率99.9%。
検察は、自分たちの主張が丸呑みされなかった判決を「問題判決」と呼び、猛烈に嫌う』

こういう世界なのだ。

本書は、小説だ。実際に「冤罪死刑」が俎上に載った際、どんな展開が待ち受けているのか、それは誰にも分からない。しかし、「殺人犯はそこにいる」や「裁判長の正体」を読んだ者にしてみれば、本書で描かれる検察・裁判所のあり方にはさほど驚かされないだろう。確かに、そういう振る舞いをするだろうな、と冷製に捉えることが出来るはずだ。それぐらい検察や裁判所は、荒唐無稽であり得ないことを平気でやってくるところなのだ。「法治の要」と言って組織を守る、まさにその組織こそが最も法治から遠い場所にあるという、皮肉な現実を如実に描き出す作品だ。

青木俊「潔白」

ひきこもりの弟だった

生きていたくないなぁと、昔はよく思っていた。今も、まったく思わないわけではないけど、昔よりは大分マシになった。

「俺は普通の人みたいに、普通のことができない」

あぁ、凄くよく分かる。僕もずっと、今でもそう思いながら生きている。

当たり前に出来ることだとされていることを、何の疑問もなく出来る人は、昔は羨ましかった。別に、大したことではない。誰かに良い事が起これば喜び、誰かに哀しいことがあれば哀しみ、家族や友だちを大切にする…みたいなことが、僕にはうまく出来なかった。いや、表向きは、たぶん出来ていたと思う。問題は、僕の心だ。心の中では、ずっと、違和感ばかり募っていた。周りのみんなが何の疑問も持たずにやっている多くのことが、僕には、なんでそんなことをしなきゃいけないのか全然理解できないようなものだった。

大人になる過程で、そういう当たり前から、ちょっとずつ抜け出してみることが出来るようになった。周りの人が当たり前にやっていることを、どうにかしてやらずに人間社会の中で溶け込めるように努力するようになった。そんな風にして、今の僕が出来上がった。昔の自分のことは結構嫌いだったけど、今の自分のことはそれほど嫌いではない。

どうしようもなく生きていることが辛い場合、僕たちはどうすればいいんだろう?
そういう感覚になったことがない人には、そのしんどさはなかなか理解できないだろう。ただ生きていることが辛い、ということが理解できないことだろう。しかし僕は分かる。ただ生きていることが辛いという感覚が。何か酷いことをされたとか、何か具体的に不安なことがあるとか、そういうこととは関係なく、ただ生きていることが辛いという感覚が。

そこから自力で抜け出すのは、本当に大変だ。何せ、生きていることが辛いというのは、具体的な原因があるわけではないからだ。原因があるなら、それを取り除けばいい。しかし、生きていることが辛い、ということの原因を敢えて探すとするなら、それは「生きていること」だ。それを取り除くためには、死ぬしかない。

だから、ひきこもりである兄の気持ちが、まったく分からないわけではない。もちろん、兄の振る舞いには様々な問題がある。そういうすべてを許容するつもりはない。しかし、生きていることが辛くてどうしようもない、という感覚は分かるし、それが絶望的なまでに他人と共有できない感覚だ、という絶望も理解できる。その状態で生きていかざるを得ない中で、言動がねじ曲がっていってしまうことは、ある程度は仕方ないと思う。とはいえ、そういう存在と対峙せざるを得ない人間にとっては、迷惑以外のなにものでもないのだが。

主人公である弟の方にも、理解できる部分が多々ある。

主人公は、ひょんなことから、絶対に無理だと思っていた結婚をすることになった。彼が、自分には結婚は無理だ、と考えていた理由の一部は、僕にも理解できる。例えばそれは、こんな文章から分かる。

『一生を一人でやり過ごすのはやるせない。でも“運命の人”なんか信じない。となると、誰かと一緒になるためには多くの場合、あなたを愛しています、という一定期間の実績なり演技なりが必要だ。』

そういうのがめんどくさい、という感覚は僕の中にもある。本書で主人公がする結婚に至る経緯は、ある意味で僕の理想にとても近い(別に僕は結婚願望はないが、万が一するとしたらこういう形がいいと思う)。まあ、実際にはこんな展開はあり得ないだろうから、そういう意味で僕の人生に結婚なんてものが関係してくることはあり得ないのだけど、もしそういうことが起こったら?という仮定の話は、少なくとも僕にとってはリアルなものに感じられた。

僕の感覚では、いわゆる「イマドキの若者」には、結婚というものに対する絶対的な価値観が薄れているのではないか、と思う。かつては結婚は、しなければおかしいと思われるようなものだった。しかし徐々に、結婚はしたければすればいいししなくてもいい、という風に、さらに、結婚なんかしたって良いことない、という風に変わってきているように感じられる。そういう中でこの物語はどんな風に受け取られ得るのか。

内容に入ろうと思います。
公園で行き倒れのように眠っていた掛橋啓太は、二人組の女性に起こされた。正確には、その内の一方の女性にだ。彼女は啓太に宇都宮のオススメの餃子店を質問した後で、唐突にこう切り出した。
「質問が三つあります」
その三つの質問に答えた啓太は、彼女と結婚することになっていた。妻の名は、大野千草と言う。
二人は、お互いのことなどほとんど知らないまま、お互いの両親にもまともに報告しないまま一緒に住み始めた。その生活は、非常に心地よかった。啓太は、自分が欲しいと望んでいた環境を、通過したくないと思っていた面倒な手続きを経ずに手に入れることが出来て、非常に満足していた。
そんな啓太は、子どもの頃から、ひきこもりの兄の存在に悩まされていた。
小学校の頃からすでに不登校だった兄のことを、まだ小さな頃はおかしいとは思っていなかった。しかし次第に周りから、何故兄は学校に行っていないのかと聞かれるようになり、啓太も疑問を持つようになった。母は完全に兄の味方だった。兄を甘やかすことは兄のためにはならない、と何度力説しても、まだ時期じゃない、と取り合わなかった。やがて啓太は、父親のいない、母と兄の三人での生活の中で、自分の居場所がなくなっていると感じられるようになっていった。
ひきこもりの兄に悩まされる弟として、そしてひょんなことから結婚した夫として、掛橋啓太は過去と現在と未来に思い悩まされる…。
というような話です。

なかなか面白い作品だったと思います。正直なところ、物語的には何が起こるというわけでもなく淡々と話が進んでいくんだけど、出て来る人物が曲者揃いで、現実にいそうな感じがする。こんな奴が周りにいたらしんどいだろうなぁ、と思ってしまうような人間が何人も登場し、主人公である啓太を苦しめていく。そのリアルさみたいなものが惹きつけるんだろうなぁ、という感じがします。

例えば、啓太の会社の同僚である坂巻という男は、本当にろくでなしだ。こんな人間が会社にいたら本当に最悪で仕方ないが、啓太自身でどうにか出来る問題でもない。同じ部署にいる限り関わらなければならないが、どう関わっても自分が損する、という相手は、どこかの会社にそのままいそうな人物だな、と思わせるリアリティがあるなと感じました。

啓太と千草の結婚に至る過程は、逆に非常にリアリティがない。しかしこのリアリティの無さは、現実に起こる可能性が低いというだけで、こうなったらいいなという願望を持つ者は、実は多いのではないかという気がする(さすがにそれは僕の世の中の捉え方が間違ってるでしょうか?)

最近若い人と喋っていると、(僕自身もそうだが)「恋愛」というところに行き着かない人が多い気がする。「出来ない」のではなく「しない」という選択をしている人が多いように思う。「しない」と考えている理由には様々あるだろうが、「他人にさほど興味がない」とか「人と一緒にいるのが苦痛」とか、色々と聞いたことがある。僕も今は恋愛を「しない」という選択をしているが、その理由は説明がめんどくさいし、共感してもらえる可能性は低いのでここでは書かない。

僕は恋愛の先に結婚があるべきだとは考えていないが、しかし多くの場合そういう流れを取る以上、恋愛に行き着かなければ結婚にもなかなか行き着かないということになるだろう。

だから本書で描かれる結婚の経緯は、実際に起こる可能性はほとんどないが、ある種の理想、ある種の願望として、多くの人が共有可能なものなのではないか。僕はそんな風に感じている。

だからこそ、彼ら夫婦がどんな生活をし、どんな展開を迎えるのかを読ませる本作は、ある意味で現代人の期待に応えたものになっているのではないか、という気がするのだ。

彼ら夫婦がどんな生活をし、どんな葛藤を抱え、どんな展開を迎えるのかは、ここでは詳しくは書かない。しかし、彼らは真剣なのだ、ということは、読みながら感じて欲しいように思う。彼らが、「きちんとした結婚」を忌避するのには理由があり、その理由に僕は共感できてしまう。彼らが恐れていることを、同じように恐れる気持ちを持っている。そんな彼らの恐怖を、理解できなかったとしても排除しないで欲しい。そういう苦しみや葛藤と共にしか、「家族」というものと関われない人間がいるのだ、ということを理解して欲しいなと思う。

彼らの様々な選択が正解だったのかどうか、それは読んだ人が決めることだ。分かりやすい正解などない、と認めることでしか、僕たちは現実と対峙することが出来ないのだ。

この本は、帯のコメントが秀逸だ。

『この本を読んで何も感じなかったとしたら、それはある意味で、とても幸せなことだと思う』

僕も、そう思う。

葦舟ナツ「ひきこもりの弟だった」

二千七百の夏と冬(荻原浩)

内容に入ろうと思います。
まさに、「荻原浩にしか書けないだろう」という作品です。
メインとなるのは、縄文時代。ピナイと呼ばれる谷の村に住むウルクという少年が主人公だ。
ピナイに住む者は、典型的な狩猟民族、後の分類では縄文人である。カンジェ・ツチィという長を中心に、男は狩りをし、女は編み物をしたり魚を取ったりする。川の下流の村と交流があり、時々婚姻関係を結んだり、年に一度来る「魚喰い」と彼らが呼ぶ、海の近くで漁をする者たちと交易をすることもある。しかし基本的には、山に入り、獲物を狙い、そうして撃った獲物を神からの贈り物として食べ、暮らしている。
ウルクは、長の娘であり幼馴染であるパナに惚れている。自分の存在をアピールしたいところだが、狩りでも重要な役割はさせてもらえず(それ故分け前も少ない)、またパナがまだ幼い故にウルクのアピールが通じないということもある。それでもウルクは、パナのいる前でははりきってしまう。
幼い頃に父を亡くし、その父を「臆病者」呼ばわりされながら生きてきたウルク。何故父が「臆病者」なのか分からないままだった。一方でウルクは、山に一人で入った時(小さな獲物なら一人で狩りに言ってもいいことになっている)、四つん這いの状態でウルクの背丈ほどもあるクムゥ(※クマのこと)を目撃するが、そんなクムゥいるはずがないと笑われてしまう。
そんな風に、ウルクを中心にして、二千七百年前の、僕ら日本人の祖先の日常を描き出していく。
その一方で、時折2011年の物語が挿入される。東日本大震災からまだそう日が浅くなく、震災に絡めた記事を求められる中で取材を続けなければならないジレンマと戦いながら日々取材に追われる地方支局の新聞記者である佐藤香椰は、ある日縄文人の人骨の発掘現場にいた。入社三年目、記者として満足の行く仕事が出来ているとは言い難い香椰は、なんでも震災に絡めなければ、と感じてしまう自分に嫌気が差していることもあって、この縄文人の発掘を記事に出来ないかと考えている。なかなか簡単には行かなそうだが、しかしやがて驚くべきことが判明する。縄文人男性の人骨の隣に、まるで手を繋いでいるかのように見える、弥生人女性の人骨があることが判明したのだ…。
というような話です。

まず、作品としては、さすが荻原浩、という感じでした。これはまさに、荻原浩にしか書けないだろう作品だと感じました。

僕が感じる、荻原浩の作家としての凄さは、「視点人物の感覚で世の中を捉える」ということです。例えば、子ども目線の時は、子どもの日常に溢れているモノや考え方で世界を切り取る。それを、お年寄り、サラリーマン、主婦などなど、どんな立ち位置の人でもやってのけてしまう、というのが、荻原浩の作家としての凄みだと僕は日々感じています。

そして、本書はまさにその荻原浩らしさが全開に発揮された作品だと僕は感じるのです。今回の視点は、「縄文人」。並大抵の想像力では描けないでしょう。しかし荻原浩はそれを成し遂げるわけです。

『ウルクは頭の中が春の日だまりになってしまい、』

『日から近いはずの山の上のほうが寒いのは、ピナイの知恵者たちも首をかしげる不思議のひとつだ。』

こういう表現はまさに、「縄文人」の視点から世の中を切り取るものだし、そういう表現が随所に存在する。縄文時代にも存在していてもおかしくない概念や価値観のみを使い、彼ら縄文人の思考をトレースするかのような描写を組み上げることで、作品を成り立たせている。縄文時代を舞台にした小説を書ける作家というのは存在するだろうと思う。しかし荻原浩ほど、縄文人の思考をトレースするかのようなやり方で縄文人を描ける作家というのは、まず存在しないだろうと思う。その点は素直に驚きだったし、作品として賞賛に値すると感じる。

とはいえ、だからと言って作品が面白いのかというと、ちょっとそこは違ったりする。これがなかなか難しいところだ。
縄文人の思考をトレースするかのような描写は驚きに満ちているが、しかし同時に、彼らのような物事の捉え方は、現代とはあまりにもかけ離れているために、すんなりと受け入れることが難しい。どうしても読みながら、つっかえてしまう。これは、僕がSF小説やファンタジー小説を読むのが苦手なのとちょっと似ている。物語全体の設定を読みながら頭の中で組み上げていかなければならないので、そういうタイプの小説が苦手な僕にはちょっと辛い部分があった。彼らの日常の物語をスイスイと読んでいくためには、彼らが世の中をどう見ているのかという視点を自分の頭の中にインストールするみたいな意識が必要で、やはり「本を読む」という行為の中ではちょっとレベルが上がる感じがする。難しい。

恐らく、僕が元々SF小説やファンタジー小説を好んで読むようなタイプであれば、この作品での描き方や世界観の作り込み方にもっと衝撃を受け、もっと感じることが多々あっただろうと思う。しかし、僕の好みの問題でそうはならなかった。そういう意味では、ちょっと残念だった。作品の問題というよりは、僕の個人的な趣味の問題なので、気になる方は是非読んでみてください。凄い作品であることは間違いありません。

荻原浩「二千七百の夏と冬」



蒼のファンファーレ(古内一絵)

色んな理由で、僕たちははみ出していく。
「こういうもんだ」と何となく決められているような感じのする人生のレールから、いつの間にか外れている。
僕もずっと、当たり前からはみ出しながら生きていた。
そんな僕自身の感覚からすると、はみ出してしまう人は、ただ当たり前には馴染めなかった人、というだけなのだ。

僕たちは、色んな問題や悩みを抱えながら生きていく。
でも、それらの問題や悩みの多くは、自分自身に接着しているとは限らない。
自分自身と自分がいる環境の間にこびりついているだけであって、自分がその環境から離れれば消えてなくなるものである場合も多いはずだ。
問題は、自分自身に接着しているものなのか、自分自身と環境の間にあるものなのかをはっきり区別することはなかなか難しいということだ。

僕は、人生の色んなことから逃げて逃げて逃げて生きてきた。逃げるという選択肢は常に僕の中にあって、自分の中でどうにもならないと感じられる時は、悩みながらその環境と距離を置いた。そういう行動を取っている頃はまだ、僕が抱えている問題が自分の環境の間にあるものなのだ、ということには気づいていなかった。自分自身に接着しているものだと思っていた。だから、逃げることは、ただの現実逃避みたいなものだった。逃げることで解決すると思っていたわけではないし、ただ嫌なことに蓋をして見ないようにしたいというだけの行動だった。

ただ逃げてみて感じたことは、逃げてしまえば自分が悩んでいた問題の多くは解決する、ということだ。もちろん、逃げたことによって新たな問題が発生することはある。それは避けられないのだが、しかし逃げる経験を何度か繰り返したことで、自分が抱えている問題がどこにあるのか、つまり、自分自身に接着しているのか環境との間にあるのかが、なんとなく分かるようになってきた。

それに気づけるようになると、なんとなく気が楽になってくる。

人間には、居場所がどうしても必要だ。自分はここにいても大丈夫だ、と思える場所が、絶対に必要だ。しかし、そういう居場所をどうしたら見つけられるかについては、簡単な方法はない、としか言いようがないだろう。運良く自分に最適な場所に労せずにいられる人もいるだろうが、ほとんどそれは期待できない。ネット上では気の合う仲間を見つけやすいだろうし、ネット上の関係だけであってもそれを居場所だと感じられる人も昔に比べたら増えているだろうけど、やはりリアルの世界に居場所はあって欲しい。しかしその場合、自分が関われる、あるいはその存在を知ることが出来る場に限りがあるが故に、選択肢は非常に狭い。どんな場所で生まれ、どんな家庭に育ち、どんな才能を持っているかなどによって、関われる場は絞られていく。その狭い選択肢の中から、自分に合う居場所を見つけ出さなければならない。これはなかなか難しい。

だからこそ多くの人が、人間関係で悩み、苦しんでいるのだろう。

その悩みは、自分自身の問題ではなく、自分がいる場との相性の問題なのではないか―。そういう発想を持つことはとても大事なことだ。自分が今いる場所が悪いのだ、という発想は、自分自身を顧みないただの現実逃避である可能性ももちろんあるが、その悩みを解消する糸口が見当たらない場合、逃げるという選択肢を真剣に考えてみてもいいのではないかとも思う。

本書で登場する緑川厩舎の面々は皆、人生で様々な問題を抱え、流れ着いて来た者たちだ。傷つき、傷つけ、やりきれない思いを抱えながら、それでもなんとか必死に生き続けてきた果てに、緑川厩舎にたどり着いた。「藻屑の漂流先」と揶揄されることもある厩舎だが、傷ついた者たちが寄り集まったこの厩舎はまた、傷ついた者たちをお互いに癒やす厩舎でもある。ここでしか生きられない面々が、馬という言葉の通じない動物と共に、中央競馬とは何もかも違う地方競馬の現実に日々直面しながらも奮闘していく物語には、勇気を与えられるのではないかと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、「風のムコウへ駆け抜けろ」に続く、シリーズ第二弾です。
広島県にある鈴田競馬場でもっとも規模の小さな厩舎、それが緑川厩舎だ。そこは「藻屑の漂流先」と言われるぐらい、様々な過去や傷を背負った者たちが流れ着く場所だ。
芦原瑞穂は、地方競馬教養センターを卒業し、請われて鈴田競馬場にやってきたものの、女性騎手の珍しさを広告塔にしようという目論見しか感じられなかった。父が馬の世話をしていたお陰で、本能的に馬と関わる方法を知っている瑞穂は、騎手として評価されたいと願いながらも、女が馬に競走馬に触るなんて不吉だ、という競馬界の男優位の不文律が様々な場面で立ちはだかり、苦杯をなめてきた。
そんな瑞穂が乗る馬が、フィッシュアイズだ。規模の小ささ故に強い馬を持つことが出来ない緑川厩舎が、必死の思いで見つけてきた馬だ。魚目という虹彩の青白い馬であり、元の馬主が不吉だからと言って手放し、その後GI場を育成するための当て馬として限界まで酷使された過去を持つフィッシュアイズは、人間に対する深い絶望を抱いていた。そんな馬を見つけ出して、緑川厩舎は中央への挑戦権を手にした過去もある。
そんなフィッシュアイズを、騎手を乗せられるほどに面倒を見たのが木原誠だ。彼は、幼少期に母親と母親の交際相手から酷い扱いを受けたために、ある時からずっと施設で生活をしており、また心因性失声症に陥っている。そんな誠は、施設で行われていたホースセラピーをきっかけに馬に関心を持ち、今ではフィッシュアイズを落ち着かせることが出来る唯一の厩務員としての重責を担っている。
緑川厩舎のトップである緑川光司は、かつては中央でも活躍した騎手だった。しかし、強い後ろ盾を持たないまま実力だけで上り詰めた男はまた、転落も早かった。八百長に絡んだという不名誉な理由で騎手を続けられなくなり、流れ流れて、父親が経営していた緑川厩舎を引き継ぐことになった。
他にも緑川厩舎に関わる面々は、なかなか難しい人生を背負っている。しかし、前作「風の向こうへ駆け抜けろ」の中で、瑞穂は実力のある騎手として緑川厩舎に受け入れられ、フィッシュアイズはどうにか競走馬としての風格を持てるようになり、さらにGIへの挑戦権も得ることが出来た。経営の厳しい地方競馬を何とか維持していこうと、緑川厩舎として出来ることは何でもやってきた。
さて、ここからが本作の内容である。
緑川厩舎に新しい変化をもたらしたのは、イケメン風水師として人気を博しているワン・ユーティンだ。彼は、ここ数年のGIを総なめにしている種牡馬を親に持つ、鈴田競馬場では絶対にお目にかかれない超良血馬であるティエレンの馬主である。ティエレンは中央のデビュー戦での一勝の後なぜか勝ち星を上げることが出来ず、それでワンは何故か、ティエレンを緑川厩舎に預けると決めたという。ワンの説明によれば、風水で決めた、とのことだったが、意味がわからない。
ティエレンに乗ることになった瑞穂だったが、ティエレンには致命的な欠点があった。それが、手を抜く、ということだ。ティエレンは恐ろしく頭の良い馬だ。恐らくティエレンは、デビュー戦で勝った後急に調教がきつくなったことに気づき、勝てる試合でも勝とうとしなくなったのではないか、と瑞穂は考えた。フィッシュアイズも厄介な馬だったが、力がありながら手を抜くティエレンをどう走らせたらいいのか、瑞穂には見当もつかなかった。
ワンは何故か、フィッシュアイズのことを殊更に気にしている。フィッシュアイズとティエレンを対戦させたがっているようだが、普通に考えればクラスの違う両者が同じレースで走る可能性はない。しかしワンは、預言者のようにそんなレースが近い内に実現すると口にし、実際にそれが実現した。
それが、鈴田市競馬事業局の職員である大泉が企画した、「全日本女性ジョッキー招待競争 アマテラス杯」である。全国にほとんどいない女性騎手を集めてレースを行おうというのだ。そこで、ティエレンとフィッシュアイズは競い合うことになった。
アマテラス杯の企画書を読んだ光司は驚いた。参加騎手の一人に、長らく騎乗していない、「中央競馬の都市伝説」と呼ばれている二階堂冴香の名前が上がっているのだ…。
というような話です。

やっぱり好きな作品だなと思います。シリーズの第二作であり、登場人物たちの様々な過去はシリーズ一作目の「風の向こうへ駆け抜けろ」で描かれているので、是非そちらから読んで下さい。「藻屑の漂流先」と呼ばれる、色んな部分に問題を抱えている面々が、チームとして一つになって勝ちを狙って奮闘する物語は、物語全体の構造こそよくあるスポーツ小説と同じものかもしれないけど、入れ物を「地方競馬」「女性騎手」「手懐けられない暴れ馬」などにしたことで、よくあるスポーツ小説とはまた趣の異なる作品に仕上がっていると思います。

競馬という舞台設定が、まず絶妙だなと思います。
概ねスポーツというのは、男女でそもそも別れている。別れているからこそ、「男社会」「女社会」なんていう話も普通は出てこない。ただ競馬の場合は、男騎手も女騎手も同じステージで戦う。そういう中にあって、古くから競馬の世界は「男社会」なのであって、「女は不吉だから競走馬に触るな」というような考え方がまかりとおっていたりする。

この状況が、主人公である女性騎手・瑞穂の物語をドラマティックに見せる背景として非常によく機能している。純粋に馬が好きで、純粋に勝ちたいと思って厳しい訓練を重ねてきたのに、いざ騎手になれば「女だからって理由で名前を覚えてもらえていいな」「人寄せパンダの女ジョッキー」などと揶揄されて、実力で評価してもらえない。瑞穂がどんな思いで馬と向き合っているかに関わらず、「女である」という事実が瑞穂にとっての足かせになっていくのだ。

しかし瑞穂としても、そういう自分の「女であることの価値」をまったく無視することも出来ない。何せ、中央はともかく、地方競馬はどこも厳しいからだ。騎手として評価されたいと願っても、現実的に勝てなければその思いは空を切るだけだ。そんな時、女としての自分に役割があるのなら…、という葛藤と戦わざるを得なくなる。

また競馬というのは、金が絡むという意味でも特殊だ。多くのスポーツでは、テレビなどの放映料、あるいはスポーツ賭博などでは大金が動くかもしれないが、あくまでもスポーツの勝ち負けが観客のお金と何か直結することはない。しかし競馬は、見ている者の大金が絡んでくる勝負だ。だからこそ、見る方も乗る方も、純粋な勝負に挑む緊迫感だけではないプレッシャーみたいなものを背負うことになる。純粋な勝負とはまた違った形での真剣勝負が繰り広げられる、という意味でも、競馬は面白い題材だ。

シリーズ二作目である本書では、登場人物たちの過去がより掘り下げられていく。一作目では触れられなかったそれらの過去が、物語をより厚くしていく。

光司は、アマテラス杯で二階堂冴香と再会する。一作目で冴香が出てきたのか、僕はもうちゃんとは覚えていないが、彼らは過去恋愛関係にあった。とはいえ、光司が中央の騎手として有名になるにつれて、光司は冴香を顧みなくなる。その後、騎手として没落した光司は、冴香と連絡を取ることも出来ないでいた。光司にとっては苦い過去だが、冴香を想い気持ちは残っている。

二人の久々の再会は、お互いに新たな感情をもたらすことになるが、決してそれだけには留まらない影響も生んだ。詳しくは書かないが、冴香の登場は、様々な意味で波乱を生むことになる。

また、光司に関して言えばもう一点、過去と向き合わなければならないことがあった。こちらに関しては詳しく書かないことにするが、冴香のこと以上に、光司の中にはわだかまりとして残っていることだ。誰が悪いとかそういう次元とは違う部分で受け入れることが出来ない過去と直面せざるを得ない中で、光司は揺れる。しかしある意味でそれは、緑川厩舎全体にとっては、とても良かったことだと言える。

一方で、緑川厩舎全体にとってとても良くない出来事も起こる。誠に関してだ。こちらも詳しくは書かないが、やはり過去を振り切れないでいることが悪循環を生んでしまっている。誠は、緑川厩舎にとって不可欠な存在だ。誠が揺れれば、馬に直接的な影響がある。誰もが辛い過去を持つ緑川厩舎では、傷ついた者に優しい。そんな環境だからこそ、誠はまた立ち上がる意志を持つことが出来る。だからこそだろうか。後半、誠は大きな一歩を踏み出すことになる。

満足の行く環境とはとても言えない中で、ある意味で羽根をもがれた者たちが寄り集まっている。一人ひとりの力は満足の行くものではないかもしれないけど、それでもお互いに足りない部分を補い合いながら奮闘する、その姿がグッとくる作品です。

古内一絵「蒼のファンファーレ」

オーマイ・ゴットファーザー(岡根芳樹)

本書で描かれる父親の考え方に、僕は凄く共感する。

僕自身は、本書の父親のような考え方(それは今の僕を形作っているものとかなり近い)に自力でたどり着いた。人生の色んな場面で違和感を覚え、周りとうまくやっていくことが出来ず、普通の人が普通に出来るはずのことが出来ず、自分の中でかなり苦労しながら生きてきた。そういう自分をなんとか自立させていくために、僕は自分の力で考えなければならなかった。自分が何を良いと感じ、何を悪いと感じるのか。何に喜びを感じ、何に苦痛を感じるのか。そういう様々なデータを収集しながら(別にそういう意識でやっていたわけではないが)、自分がどんな価値観を持っていて、どんな物事に対してどう感じるのかということを少しずつ理解していった。その過程は、世の中の「普通」から外れていく過程でもあったのだけど、でも外れれば外れるほど、僕は生きやすくなっていくのを感じていた。

本書で父親は、子どもたちに対して、様々な形で「あれをするな」「これをしろ」と言う。これだけ聞くと、自分の考えている方向に無理やり誘導しようとする教育に思えるだろう。しかし、本書を読んでみれば分かるが、それはまったくの誤解だ。逆にこの父親は、子どもたちを自由にするために「あれをするな」「これをしろ」と言う。

『しかし真と良樹は進んだ道こそ違いはあるが、どちらも誰かに選ばされた人生ではなく、自分で選んだ人生だから本人たちに悔いはないのだ。たとえ道に迷おうが失敗しようが自分で何とかするしかないし、なんともならなかったとしてもそれはそれでいいのだ。人生はある程度、適当であることが必要である』

僕たちは、何も考えないで生きていると、世間の「常識」とか「当たり前」みたいなものに自然と絡め取られて生きていくことになる。この父親は、それに抵抗する意識と手段を与えるための子育てをしているのだ。「あれをするな」「これをしろ」というのは、確かに何かの方向に誘導しようとしているような感じがするが、そうではなく、そのままにしていたら「常識」とか「当たり前」の方向に流されていってしまうのに抵抗する方向に力を向けることを教え込もうとしているのだ。

『良樹、人生はな、面白いかどうかが大事やぞ。どんな結果であってもやな、面白ければ人生は大成功なんや。
人生で最優先すべきことは、成功でも儲かることでもない。むしろ人生は失敗したほうが面白いんやぞ。変な人と言われることは光栄に思え。
ええか、「変なことをするな」って大人が子どもによく言うやろ。そんな言葉繰り返し聞かされ続けとったら、子どもたちは変なことができんようになるやろ。それはとんでもないことやぞ。
「平凡な人生が一番いい」なんて言う奴がおるが、世の中すべて平凡な人間しかおらんかったらこんなに人類は発展しとらんぞ』

僕は、こういうような発想に、大人になってから自力でたどり着いた。25歳は過ぎていただろう。もしもっと子どもの頃に、こういう考え方を知ることが出来ていたら、僕の人生は大きく変わっていたに違いない。今より良い人生になっていたかどうか、それは分からないが、少なくとも、無駄な苦労はせずに生きられただろう(必要な苦労はした方がいいが)。そういう意味で、子どもの頃どんな教育を受けるかということは、本当に大事だ。

『ずいぶん後で聞いた話だが、あの時比沙子は毎日貧しい食事をして、たまにとんでもない贅沢をするという岡根家の風習が無性に悲しくなり、貧乏ならば無理しないでもっと「普通」の生活がしたかったそうだ』

もちろん、この父親のような教育は、ある意味で劇薬だ。悪い方に作用する可能性もゼロではない。

『この本に含まれた毒は、希望が持てない不安な時代にこそ必要な価値観であり、いつしか精神を鍛え育てる術を無くしてしまった現代の日本の教育に必要な、健全なる哲学である。
その毒は、無難に収まろうとする人生に疑問を投げかけ、奇人変人と呼ばれようが異端児と言われようが、自分というかけがえのない個性に誇りを持って生きるための一つの道標となるだろう』

そう、その通りだと僕も思う。まさに今、「普通」では生きられない時代に突入しているように僕には感じられる。しかし、今の親世代は、子どもに「普通」を与える以外の教育が出来ないだろう。自分たちが、「世間から外れない普通の生き方をしていれば普通の幸せを手に入れられる」という価値観の中で育ってきたからだ。しかし、時代は変わった。あらゆる意味で生きにくい時代になった今、「普通」からどれだけはみ出せるかで人生が大きく変わっていく、そんな時代になっているのだと思う。そういう時代の変化を捉え、これからの世界を生きていく子どもたちに何を教えるべきなのか。それを本書から学ぶことが出来るのではないかと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、著者が自身の父親とのエピソードを書いた「小説」だ。「小説」とカッコで括ったのには理由がある。

『この物語は事実に基づいたフィクションである。フィクションを取り入れたのは、実際には父が酒を飲んだ時以外はあまりに無口だったため物語としては成立しそうにもないからだ。だから実在する岡根徹和の価値観と精神を引き継いだ「岡根哲和」なる架空の登場人物から、本人に代わって大いに教育という観点から物申してもらおう』

だそうである。ちなみに本書には「良樹」という人物が出て来るが、恐らくこれが著者である岡根芳樹氏だろうと思う。フィクションだということで、著者自身も別名で登場する。

本書は冒頭で、

『この物語はそんな「変」な父のでたらめで型破りな子育ての物語である』

と書かれている。まさにその通り、本書で描かれる父親は、ちょっとぶっ飛び過ぎている。
父親のぶっ飛んだ話として、本書の中で最もインパクトがあるのが、良樹が仲間と共にアルバイト先のファミレスに深夜忍び込み食べ物などを勝手に食べていたことがバレた時の話だ。父親は良樹と共に店まで行った。誰もが謝るものだと思ったはずだが、その予想は大きく外れた。父親は、こう言ってのけたのだ。

『お前が経営者か、俺の息子が何したか知らんが、警察に通報して退学でも何でも勝手にしろ!その代わりええか、未成年を夜十時行こう働かせた罪で訴えてこの店潰してやる!』

著者自身、『もちろん百パーセント良樹が悪く、哲和の言っていることは屁理屈であり、社会的にも決して許されることではないだろう』と書いている。そりゃそうだ。ただ、良樹はこの父親の姿を見て、『この人は、社会的とか世間体とかどうでもいいのだ。善も悪も損も得も関係ない。この人は、ただ命懸けで家族を守ろうとしているのだ』と感じ、さらに、『その哲和の強い思いに完全に打ちのめされ、良樹は自分のやった愚かな行動を心から強烈に反省した』と書いている。

こんな風に、この父親の言動は、決して手放しで褒められるようなものではない。しかし、父親の価値観を支えるベースとなる考え方は、厳しい子供時代をなんとか独力で乗り越えてきた父親ならではのシンプルで力強いものであり、完全に同じように子育てするのは無理にせよ、取り入れることが出来る部分はあるのではないかと思う。

僕は結婚するつもりがないが、もし自分に子どもが出来たら、この父親と同じようにしようと思っていることがある。それが、

『子どもを子ども扱いしていないということだ』

という父親のスタンスである。これは、子育てする上で一番重要なスタンスなのではないかと僕は考えている。子どもを一個の人格と認め、「子どもだから甘やかす」「子どもだから怒る」というのではなく、他の大人にするのと同じ判断基準によって子どもへの態度を決めるというのは、とても大事だと思うのだ。

また、

『岡根哲和は、まったく子どもに無関心な男である』

というのも示唆に富むスタンスだ。

『少なくとも関心を持たれなかった岡根家の子どもたちは、変なプレッシャーを受けることもなく、親の被害者になることもなく、のびのびと真直ぐに育つのであった』

『子どもに期待しない』

『親の期待に応えるために人生があるんじゃない』

哲和は、実際には子どもに無関心なわけではない。本書でも、それを示唆するエピソードが載っている。ただ彼は、意識的に関心を持たないようにしていた。自分が関心を持つことで、子どもが進むべき方向性に影響を与えてしまうからだ。それを何よりも恐れていたのだろう。だからこその、無関心なのだ。

また、これは子どもの頃に誰かに教わりたかったと感じたことがある。

『せやから人間の心には、光も大事やけど同じように闇も必要なんや』

これは、僕は本当にもっと早く知りたかったと思う。確かに、その通りなのだ。今ならそのことがよく分かる。でも僕は子どもの頃は、闇を抱えながら、それは捨てたり手放したりしなければならないものなのだ、と思っていた。自分のマイナスな部分を、ダメだと感じてしまっていた。それで、無用な苦しみを抱えることになった。今では本当に思う。人間には、闇が必要なのだ、と。闇だけでは人生は成り立たないが、同時に、光だけでも人生はうまくいかないのだ。

『そんなクジラのようにや、ある時期は好きなだけ引きこもっとってもええやないか。いや、むしろそんな時間が誰にでも必要なんちゃうか。
無理に急いで闇から引きずり出すよりも、闇の中の面白さやら、遊び方やら、光の世界に戻ってくる方法やら、そんなことを子どもに教えてやることの方が重要なんちゃうか』

あぁ、本当にその通りだと思う。特に、「光の世界に戻ってくる方法」を教えるべき、という話には物凄く頷いてしまった。自分が闇に囚われている時、そこから出られるのかどうか、僕はずっと不安だった。光と闇は行き来できるんだ、片道切符ではないんだ、ということを教えてくれる大人がいたら、もっと楽に生きることが出来たのではないかと思う。

他にも、

『ええか、人間は好きなことばかりやっとったらあかん。』

『ええか良樹。勉強でもスポーツでも何かを成し遂げるためにはやな、やせ我慢が必要やぞ。自己責任において何かを犠牲にすることが交換条件ちゅうことや』

『そうやない。(本は)わかるために読むんやない。わからんようになるために読むんや』

など、含蓄に富んだメッセージが次々に放たれていく。今の僕は、これらの考え方をすんなり受け入れることが出来る。でも、子どもの頃、誰かからこういう意見だけを聞いて、「はいそうですね」と言って受け入れることが出来たかどうかは分からない。しかし岡根家では、父が口で言うばかりではなく、態度や行動や環境などによって、口で言ったことが実行されるような状況を可能な限り作り上げている。そこが凄いところだ。例えば岡根家は、つっかい棒が必要なほどのボロ屋だったそうだが、

『しかしそんなハイオク同然の岡根家の茶の間の薄汚れた壁には、カレンダーや画集を切り取ったものではあったが、ゴッホやシャガールやモディリアーニといった有名画家の作品が飾られ、ちょっとした美術館のようであり、いくつもの本棚には百科事典や図鑑や、少年探偵団シリーズ、怪盗ルパンシリーズ、芥川龍之介、夏目漱石、遠藤周作から世界名作分学習、さらにはドストエフスキーやニーチェに至るまで揃っていて、さならが小民間の図書室のようだった。
またステレオの棚んはクラシックやシャンソンやポルトガル民謡やフォルクローレのレコードがずらりと並んでいたり、おまけになぜか顕微鏡や天体望遠鏡まであり、さらには中古だがピアノまであった。
ピアノはいらないから、せめてつっかい棒がない家に住んだ方がいいのではないかと思うのだが、すべて主である哲和の「必需品より嗜好品を優先させる」というこだわりだった』

というように、ある意味では充実した環境を整えていた。父親の凄い点はまさにここで、決して言うだけではなく、それが実行できる状況を作り上げる点にある。それには相当の覚悟と努力が必要となるだろうが、うまく行けば子どもたちに最高の教育を与えることが出来るだろう。

そんな哲和の妻はどうかと言えば、こちらもなかなかぶっ飛んでいる。さすが、哲和と結婚するような女性である。一番好きなエピソードは、哲和が働いていた従兄の会社が倒産し、翌日差し押さえが来るという夜のことである。妻は、「家電まで取り上げられたらかなわん」と考え、一計を案じる。子どもたちにマジックを渡し(子どもたちは倒産のことなど何も知らない)、『今から落書き大会をやるよ!机でもテレビでも箪笥でも好きなだけ落書きしな!』と言ったのだ。これによって、倒産による陰鬱な時間となるはずだった夜は、子どもたちにとってとても印象深い楽しい夜になった。この夫にしてこの妻、という感じである。

本書は、自分の考えなしにただ形だけ真似しても火傷するような、ある種危険な子育ての考え方が描かれている作品だ。しかし、こういう教育こそが、生きづらい世の中を生き抜く子どもを育てることになるのではないかと思う。哲和のように振る舞うことはとても困難だろうが、本書で描かれている考え方を理解した上で、取り入れられそうなものは取り入れてみてはどうだろうか。

岡根芳樹「オーマイ・ゴットファーザー」

土漠の花(月村了衛)

内容に入ろうと思います。
ソマリアでの海賊対処行動に従事するジブチの自衛隊活動拠点に、墜落したCMF(有志連合海上部隊)連絡ヘリの捜索救助要請が入った。活動拠点から70キロの距離だが、ジブチ・ソマリア・エチオピアの三国が至近に接する国境地帯だ。海上自衛隊と共に派遣海賊対処行動航空隊を構成する陸上自衛隊第1空挺団は、ただちに捜索救助隊を編成し、現場へと向かわせた。現場では状況から、3人の乗組員は全員死亡と判断、遺体の回収は明朝ということになった。三台の車輛内で仮眠を取り、翌日に備えることになった。
とそこへ、複数の足音が近付く音。こんな場所で、こんな時間に何が…。やがて、英語で助けを求める女性の声が届く。ビヨマール・カダン氏族のスルタン(氏族長)の娘アスキラ・エルミとその縁者の女性二人は、ワーズデーン小氏族に追われていると話、保護を求めてきた。吉松隊長は、彼女らを避難民として保護することを決めたが、すぐさま襲撃を受け、多数の仲間が命を落とした。僥倖もあり、アスキラと共にその場を逃げ出すことが出来たものは、必死に走った。どうにか敵の追尾をまくことが出来たが、ここはソマリアだ。このままではどうにもならない。なんとか活動拠点まで戻らねば…。
<未だかつて戦ったことのない軍隊>である自衛隊が、ソマリアの氏族間の抗争に巻き込まれ、甚大な被害を負いながらも、不屈の精神で帰還を目指す物語。
というような話です。

これはスケールの大きな作品だったなぁ。実に面白い作品だった。戦闘シーンなんかは正直理解できない部分も多くて、その辺りはちょっと厳しいなと思ったけど、ストーリーが面白いので読まされてしまいました。

本書の読みどころは、とにかく、どう考えてもその状況はもうクリア出来ないでしょう、という状況を、多少の運もありながら、なんとか潜り抜けていく、という展開です。救助活動をするはずだった地点から逃げた彼らにどんな試練が待ち構えているのかは、ここで書いてしまうと面白くないので伏せるのだけど、次から次へとやってくる困難にどうにか立ち向かっていく姿は非常に読ませる。

本書で描かれる困難さの一つは、彼らが自衛隊である、という部分が関わっている。

『我々の任務は海賊対処行動であり、遭難機の捜索救助です。未承認国家の小氏族とは家、他国の紛争に介入することは許されていないはずです』

『我々に許されているのはジブチ国内の拠点警衛任務のみだ。それは海賊対処法でも明記されている。勝手に国境を超えるなど問題外だ。』

ここで、自衛隊の存在の是非なんかについてあーだこーだ書くつもりはない。色々思う所はないではないが、ここでは止めておこう。

代わりに、昔読んだ「アフガン、たった一人の生還」という本について触れよう。この本は、世界最強とも謳われる<米国海軍SEAL部隊>に所属する4人が、アフガニスタンでの作戦従事中にタリバンの兵士に襲われ、4人対数百人という壮絶な死闘の末、内1人だけがアメリカに生きて帰ることが出来た実話だ。

この本では、<交戦規則>というものが繰り返し描かれる。これは、「民間人は殺してはいけない」というアメリカ軍が定めたルールだ。彼ら4人は、一人の羊飼いを見逃したために、数百人のタリバン兵に襲われることになった。羊飼いは民間人だ。しかし彼らは、この羊飼いを見逃せば、羊飼いから話が漏れ自分たちが窮地に陥ることが分かっていた。しかし、<交戦規則>に縛られ、彼らは羊飼いを殺すことができなかった。そのために、世界最強のSEAL隊員の内3名が命を落とすことになったのだ。

そもそも「戦争」というものがいけないのだ、という意見は当然だと思う。しかし、人間の歴史を振り返って見た時に、世界のどこにも戦争がなかった時代の方が珍しいのだ。であれば、ルールに則って戦争をすべし、という発想になるのはやむを得ないことなのだろう。しかし、ルールというのは、現場感覚と基本的にはズレる。国際的に非難されないためにルールに則って戦争を行うのだが、しかしそれによってルールを守る者の命を危うくする。しかし、そのルールを破れば、国際的に非難される。その歪を、現場が丸ごと背負わされているのだ。

これは、自衛隊にしても同じだろう、と感じる。ルールを守らなければならないのは分かる。しかし、ルール通りにやれば自分たちの命さえ危うくなる状況など、戦場では山ほどあるだろう。そうなった時、どう行動すべきなのか。法律や規則は教えてくれない。あくまでも現場で判断し、現場の責任で動かなければならないのだ。その窮屈さは半端なものではないだろうと感じる。その辺りのしがらみも感じながら読んでみるといい。

本書の巻末に参考文献として挙げられているが、僕は以前「謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア」という本を読んだことがある。国家として国際的には認められていない「ソマリランド」に入っていき、その驚異的な国家(ではないのだが)運営を調べ尽くす本なのだが、この本を読んでいたから、ソマリアという遠く離れたアフリカの国にはなんとなく親しみがあった。いくつもの「氏族」と呼ばれるグループが群雄割拠する、まさに日本の戦国時代のような国だったりするのだが、その一方で、長老同士の話し合いによってありとあらゆる紛争が解決されてきた歴史を持つ国でもあり、ソマリランドを取材した高野秀行は、「これこそ究極の民主主義なのではないか」というようなことを書いていたような記憶がある。どちらから読んでもいいが、「土漠の花」を読んでソマリランドに興味を持った方は読んでみても良いと思う。ノンフィクションとしてべらぼうに面白い作品だ。本書の背景には、先進国がアフリカなどの発展途上国を蹂躙し、そこに住む者たちを混乱に陥れている現実が横たわっている。先進国に生きる人間として、ここで描かれている悲劇は、決して無関係ではないのだ。

本書は、物語としてはひたすら逃げて闘ってという話なのだが、その中で、自衛隊員同士の軋轢みたいなものも描かれていく。こちらも、本書の読みどころの一つと言えるだろう。

様々な人間に視点が切り替わる形で物語が進んでいくが、それぞれが生死を分かつような危機的状況にいながら、同時に、個人的な問題や葛藤と闘っている。生き抜くためには、生き残った者たちで力を合わせなければならないが、なかなか難しい。

友永芳彦曹長は、同い年で同じ階級の新開譲曹長に、自分でも言語化出来ないようなわだかまりを覚えている。優れた曹(下士官)を養成するための教育機関である工科学校をトップに近い成績で卒業した新開に対する僻みみたいなものがある。しかし、決してそれだけではない。ジブチ市街で物売りに対して「貧乏人が」と吐き捨てるように呟いた新開の姿を蘇らせる。他の言動も、友永にはどうにも許容出来ないものがある。吉松隊長亡き後、隊の指揮は友永か新開のどちらかが取らねばならないが、自信満々な新開に対して、臆してしまう部分のある友永は、新開のように振る舞えない自分の嫌気が差す部分もある。

友永は、由利和馬1曹と梶谷伸次郎士長の間にわだかまりがあることに気付いている。由利は、生涯安定していると言われる警務隊を自ら途中で辞め、第1空挺団にやってきた変わり者だ。何があったかは知らないが、口数は少なく、周りと打ち解ける雰囲気は感じられなかった。梶谷は機械全般に対する知識が豊富で、状況判断に長けている。この二人に一体何があったというのだろうか。

津久田宗一2曹は、射撃の上級検定で準特級という、警衛隊の中でもトップクラスの射撃の名手として知られていたが、いざ戦場に立つと、銃をまったく撃つことが出来なかった。空挺は活動拠点の警護と管理のために派遣されているだけであり、海賊との戦闘が想定されている海自とは違って、戦闘は想定外だ。しかしそれでも多くの者は、自分の身を守るため、あるいは仲間の身を守るために引き金を引いた。しかし津久田は出来なかった。自分が殺人者になることが、耐えられなかったのだ。津久田が撃っていれば仲間を救うことが出来たはずの場面がある。津久田は、そういう状況でも撃つことが出来ず、自責の念にも駆られる。津久田は、この戦闘中ひたすら自分自身と闘うことになる。

朝比奈満雄1曹や一ノ瀬浩太1士は、これまで挙げた者ほどの葛藤を抱くことはないが、彼らと共に逃げるアスキラの扱いをどうするかは、常に大きな問題だった。アスキラは早い段階で、彼らに隠し事をしていたことが明らかになってしまう。アスキラを信用しても良いのか…そういう葛藤は、隊の面々の中にしこりのようにずっと残っていた。何せ、すべての災厄を引き連れてきた、と言っていいのはアスキラだ。アスキラだって襲撃されて逃げてきた身であり、災厄などと呼ぶべきではないが、しかし彼らの仲間が無残に殺されたのはやはりアスキラがやってきたからだ。その中で、人間としてアスキラを救うべきだという気持ちと、規則として、あるいは自分たち隊員が生き残る確率を高めるためにアスキラを手放してしまいたいという気持ちとで揺れることになる。

こういう様々な思惑が絡み合って、彼らの物語は進んでいく。ソマリアという異国の地で、ほとんど武器を持ち出せずに逃げ出した彼らの決死の闘い、そして戦闘に従事する中で変化していく彼らの人間関係。それらが実にうまく入り混じり、極上のエンターテインメント小説に仕上がっていると感じました。

月村了衛「土漠の花」

鏡の迷宮(E・O・キロヴィッツ)

内容に入ろうと思います。
物語は、三部構成になっている。その内、第一部と、第二部の冒頭だけを紹介しようと思う。
ブロンソン&マターズ社の文芸エージェントを務めるピーター・カッツは、ある日メールの中から、興味深い原稿を発見した。リチャード・フリンという名の男からのもので、その小説は、自分が過去に経験したとある事件の真相に関わるものであるらしい。
1987年に、全米が注目したある殺人事件が起こった。ジョーゼフ・ウィーダーという、プリンストン大学の中でも特に著名な教授が殺害されたのだ。犯罪者の精神鑑定も行う人物であり、恨みを覚えた犯罪者による報復かとも考えられたが、結局犯人が分からないまま迷宮入りした事件だ。フリンという男は、まさにウィーダーが殺される直前まで、彼の蔵書整理を手伝っていたようで、ローラ・ベインズという女性を含めた3人の当時の出来事を、3ヶ月前にあったとある出来事をきっかけにして次々と思い出したために、こうして物語にしたのだ、という。彼は、物語の冒頭だけをカッツに送った。残りはいつでも送付できる、とメールには記されていた。
1987年、フリンはローラという女性と唐突に同居することになった。ローラは、ウィーダーと研究を通じた繋がりがあるようで、フリンのことを紹介したいという。そんな風にフリンは、ローラとウィーダーと知り合うことになった。やがてフリンはローラと恋仲になっていき、またウィーダーの蔵書整理を手伝うことになった。時に彼らは一緒に食事をし、学術的な話やそうでない話をした。ウィーダーは、デレク・シモンズという元患者を手伝いとして雇っていた。デレクの珍しい症例も、彼らの会話の端に上ることがあった。
そんなある日、ウィーダーが死体となって発見された。明らかに、誰かに殴り殺されていた。デレクやフリンは、容疑者として疑われた。ローラは、ウィーダーが殺された翌朝、さよならも告げずにフリンの元を去った。
原稿を読んだカッツは、フリンと連絡を取ろうとしたが、果たせなかった。その理由は、フリンの住所を訪ねてみて分かった。オルセンと名乗ったフリンの妻は、五日前にフリンが死んだことをカッツに告げた。カッツは彼女に、原稿の残りの在り処を知らないかと訪ねたが、知らないという返答だった。
そこでカッツは、この原稿を世に出す可能性を追求するために、友人であるジョン・ケラーに連絡を取った。カッツは、売れない作家であるジョンにフリンの原稿を渡した上で、ウィーダー殺害事件について調べるように言った。そして、フリンが見つからない原稿の中で書いただろう結末を推理し、未完原稿を完成させろ、と…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。
設定がなかなか魅力的だと思います。とある原稿があり、その中には20年前の殺人事件の真相が書かれている、と謳われている。しかし存在する原稿は冒頭部分だけであり、書いた本人は死亡、あるはずの残りの原稿は見つからない。じゃあ、推理して見つからない部分を埋めよう、というのが本書の大きな枠組みである。これは、なかなか読み手を惹きつける魅力を持った設定だなと思いました。

普通に考えれば、20年も前の未解決事件の謎を解き明かすなんて不可能である。確かに、登場人物たちはそれを目指して行動するのだけど、この物語の面白さは、その調査の過程そのものではない、と僕は思う。この物語がどう閉じるのか、それはもちろん読んでもらうとして、どう閉じるかが物語の核ではないのだ、と思う。そうではなくて、何故多くの人間がこの謎に惹かれてしまうのか、という部分に面白さがあるように思う。

ウィーダー殺害事件は、こういう表現は適切ではないかもしれないが、20年前に刑事としてこの事件を普通に捜査している立場としては、さほど面白みのある事件とは言えないだろうと思う。犯人こそ分からなかったものの、大きな謎があるわけでも、不可思議な状況にあるわけでもない。よくある、と言ったら語弊があるだろうが、よくある殺人事件だ。被害者がとても有名だった、という点を除けば。

しかし、フリンの原稿に端を発し、ウィーダー殺害事件を調べ始める人間は、20年経ち、またフリンの原稿をスタート地点にしているが故の強い関心を持つことになる。20年の時が経過しているということは、当事者たちの記憶も曖昧になっていておかしくはない、ということだ。また、フリンの原稿を調査のスタートにしているということは、「フリンはどこまで本当のことを書いているのか」という疑念を常に念頭に置きながら調べを進めていかなくてはいかなくなる。フリンの原稿と矛盾する証言があった場合、証言者が嘘をついている、とは単純に判断出来ない。フリンが嘘をついていたり、覚え間違っていたりすることもあるだろう。また、フリンの原稿に登場するローラやウィーダーが、一筋縄ではいかないキャラクターであることも、捜査を難しくする。彼らがどんな人物であり、どんな行動原理で動いていたのか、というところまできちんと精査しなければ、当時の真相にはたどり着けないだろう。

そして、それだけ入念な調査をしたところで、辿り着いた結論が真実であると判断できる可能性は非常に低いのだ。直接的な関係者は、既に死んでいるか、事件に深く関わっていると疑われる人物だ。つまり、死人に口なしか、本当のことを言うとは限らない人物しかいない。どれだけ筋の通った推理であっても、それが真実であるかを確かめる術はない。

そういう状況であるにも関わらず、ウィーダー殺害事件にのめり込んでしまう人間がいる。この事件にはそういう魅力があるのだ、ということが、読んでいるとなんとなく感じられるようになってくる。あの時、一体誰が何をしたのか。そういう関心は最後まで持続しつつ、何故か、この事件を追う者たちの情熱みたいなものに面白さを感じるようになっていくような気がする。

とはいえ、凄く面白かったのかというと、そういうわけでもない。これは趣味の問題だけど、描写がくどいなと感じられる部分が多々あった。恐らく、文化の違いもあるだろう。小説の描写に求めるものが日本人と違うように思えることがある。そもそも外国人作家の作品はあまり得意ではない、というのも、きっとそういう側面があるはずだ。外国人作家全般の特徴かどうかは、僕自身があまり読まないので分からないが、本書には、僕にとってはさほど興味のない余計な描写が多いような気がした。とはいえ、まあこれは好みの問題だろう。

まったく同じ設定の物語を、例えば京極夏彦や森博嗣が書いてくれたりしたら、たぶんずっとずっと好きな物語になっただろう、と思う。そういう意味では残念だったなという感じはする。物語自体は、なかなか魅力的だと思う。

E・O・キロヴィッツ「鏡の迷宮」

まぼろしのパン屋(松宮宏)

これまで読んできた松宮宏の作品群とは、ちょっと違うタイプの作品という感じがした。
これまでは、それが奇想であれ、あるいは日常のドタバタであれ、まずは大風呂敷を広げたところから物語が展開していくようなイメージがあった。ぶっ飛んだ発想を、リアルさを支える様々な現実的な描写で組み上げながら、リーダビリティを生み出す物語を紡いでいくようなイメージだ。

本作は、そういうタイプの作品とはちょっと違った。日常を飛び越える展開も登場するのだが、基本的にはどこにでもありそうな日常を舞台にして話が進んでいく。もちろんそこには、松宮宏らしさみたいなものを感じさせる。こぶりながらよくまとまった作品だという印象である。

内容に入ろうと思います。
本書は、3編の短編が収録された短編集です。

「まぼろしのパン屋」
茨城沼に、開発の波が押し寄せている。地元選出で国土交通大臣になった亀井高雄の悲願だったが、あまりの規模に資金繰りがつかなかった。そこに手を差し伸べたのが大東京電鉄グループの総帥である設楽昇である。茨城沼には、その開発に反対して「サンカノゴイの家」と名付けられた小屋に立てこもっているジャーナリストらがいるが、開発業者は彼らに農薬を撒くなどして徹底抗戦している。
その大東京電鉄で働く高橋は、課長程度で終わるはずだった人生が、玉突き事故のような形で大きく変わった。会社の資産を預かる財務部長に指名されたのだ。自分が優秀だなどと思ってはいない。何かあったら切られる尻尾であると自覚している。最近、妻の久里子がカルチャーセンターのパン職人の講座にハマッている。まあ、結構なことだ。
サラリーマンの常として、日々満員電車での戦いを繰り広げている高橋は、休日出勤しなければならない朝、いつもと違ってガラガラの車内で不思議なおばあさんに会った。何故かそのおばあさんからパンを受け取った。そのことで彼の人生は大きく変わっていくことになるのだが…。

「ホルモンと薔薇」
花隈病院の大腸外科医である村岡久雄は、仕事も休日も腸にまみれている。普段は、日本で三本の指に入ると言われる大腸外科医として、その美しさに感動し、また仕事終わりや休日も何かと腸が絡んでくるのだ。
仕事終わりで「吉田酒店」で飲んでいると、父の久二雄がやってきた。今日は焼肉の会だ。久二雄が主催する焼肉パーティーにはプロの焼肉店さえ店を休んでやってくるほどの人気だ。久雄もその準備のため牛の解体を手伝った。
そこに加奈がやってくる。ひったくりに遭ったのだという。皆で憤るが、どうなるものでもない。とりあえず皆で話を聞き慰めていたが、その後予想もしなかった展開となり…。

「こころの帰る場所」
華井中の荒井と言えば知らぬものはいないヤンキーだった荒井は、はみ出した生き方をしていたが、性根が腐っていたわけではない。人生の都度都度で、生き方を改めようと思ったことはあった。しかし、一度貼られたレッテルはなかなか剥がすことができない。真面目になろうとしたり、でもなりきれなかったりというゆらゆらした人生を続けていた。
一念発起してJRの試験を受け、車掌として真面目に働き始めるが、昔の仲間との縁はそうそう切れるものではなく…。

というような話です。

どの話も、凄く地味ではあるんですけど、スイスイと流れに乗った語りに読まされてしまうし、じわじわと染み込んでくるような物語がとても良い。物語の中で特別な出来事が起こることはなくて、悪い言い方をすればダラダラと話が展開していくんだけど、それでも読ませる力はさすが松宮宏だと思う。

最初の「まぼろしのパン屋」こそ、ちょっと非日常的な部分が出て来るのだけど、その点を除けば、全体的に日常ベースで物語が進んでいく。とはいえ、松宮宏である。普通の話にはならない。登場人物たちが非常に個性的で、わいわいがやがやしているだけなのだけど、なんだかほっこりさせられてしまうのだ。相変わらず不思議な物語を書く作家だ。

どの話にも食べ物が絡んでくるが、より重要なのは、どの話も働く者たちの話だということではないかと思う。特に「まぼろしのパン屋」はそうだ。本書をお仕事小説、と捉えるのは難しいだろうが、働く者の悲哀や哀愁みたいなものも感じ取れる作品なのではないかと思う。

松宮宏「まぼろしのパン屋」

命のまもりびと 秋田の自殺を半減させた男(中村智志)

僕も昔、自殺しようと思ったことがある。住んでいた建物の屋上から飛び降りようと思ったのだけど、結局は出来なかった。その経験以来僕は、「僕に自殺をする勇気はないな」と判断し、人生の選択肢から「自殺」を消した。「死ぬ気になれば何でも出来る」というが、いざ死のうとした時に死ねないのでは「死ぬ気」にもなれない。だから、自分を追い込むような状況にならないよう、注意して生きるようになった。

死にたいと思っていた頃の自分のことを思い出すと、自力ではあの状態から抜け出せなかったな、と思う。とにかく、まともな思考が出来なかった。何か考えようとしても、すべてが悪い風にしか思えなかったし、何をどう考えても結局「死ぬ」という結論に行き着いてしまう。
キツかったなぁ、と思う。

自分がいる状況が変われば、思考も変わってくる。僕は、比較的強制的に環境を変えさせられたので、結果的にはそれが良かったのだと思う。悩んでいる時のまま状況が変わらなければ、恐らくずっとそのままだっただろう。自分がどれだけ理性的できちんとした思考が出来る人間だと思っていても、悩みや不安に冒されている時はそういう自分ではいられないのだと思っておいた方がいい。少なくとも、僕はそうだった。

「死にたい」と思った時、誰かに助けを求めることはとても難しい。周りにいる人間は、「言ってくれさえすれば助けたのに」と感じるだろう。その気持ちは凄くよく分かる。分かるが、しかしそれは簡単ではない。そこには、様々なフェーズがある。

何より一番難しいことは、自分が何に悩んでいるのかを正確に伝えることだ。大抵、死にたいと思うぐらいまで追い詰められている時は、いくつかの複合的な要素が関係している。悩んでいる当人は、もうまともな思考が出来ないので、自分がどんな不安に冒されているのかをきちんと言語化出来ない。言語化出来ていても、それが問題の本質かどうか、自分の中できちんと分析できているか分からない。原因が分かれば対処のしようもあるだろうが、そもそも何が原因なのか悩んでいる本人がきちんと理解することが出来ないのだから、死にたいと思っていると言っても伝わらないだろうと思ってしまう。

また、死にたい理由をきちんと捉えることが出来ていても、「そんなことで悩んでるなんて」と言われることを恐れる気持ちがある。僕にも、この不安はあった。普通の人が当たり前に出来ることが、僕には出来ないという感覚がずっとあった。それを普通の人に話をしても、「そんなことで不安がってないでやってみれば大丈夫だって」みたいなことを言われてお終いだろう、と思った。悩んでいる人間にとっては、そのことはとても重大で深刻な問題なのだけど、その深刻さを理解してもらうことがとても難しいだろうと思えてしまうのだ。

もちろん、「死にたいと思っている人間」として見られることへの抵抗感もある。注目を集めたいだけなんじゃないかという過剰な心配や、あるいは逆に、自分が望む以上の優しさや親切を相手に強いてしまうのではないか、という怖さもある。相談するとすれば自分の周りにいる人間になるだろうが、そういう人からそれまでと同じような見られ方をされなくなってしまうだろう、という怖さがどうしても付きまとう。

他にも周りの人間に相談するのをためらわせる理由は様々に存在するだろうが、そう言った理由から、死にたいと思っていることを周囲に告げることが出来ない人が多くいることには、とても共感できる。

だからこそ、本書で中心的に描かれる佐藤久男のような人物がとても重要になってくるのだ。

『(秋田県の自殺が減ったのは)もちろん、佐藤一人の力ではない。秋田県庁も危機感を抱き、2000年から対策を取りはじめていた。秋田大学の研究者たちも研究と実践をつなぐことに力を注いでいる。県下に続々と生まれた民間団体は、横のつながりを保ちながら、それぞれの場で活動している。そして、「民」「学」「官」の連携。それが秋田の強みであり、「秋田モデル」と呼ばれる。
秋田モデルは自殺者を減らした成功例としてよく知られており、日本の自殺対策を語るうえでは欠かせない。その秋田モデルの中核に、佐藤がいるのだ。』

日本の自殺者はとても多い。1998年に自殺者が初めて3万人を越えた。この数は、東日本大震災と阪神・淡路大震災の犠牲者を合わせた数よりも多いという。どんな死であってもそれは不幸に違いないが、自ら命を断つ者が甚大な被害をもたらした自然災害による犠牲者よりも多いというのは、ちょっと異常ではないかと思う。

そんな中、自身も会社を倒産させ自殺を考えたという佐藤が、地元秋田の地で、主に中小企業の経営者向けの自殺対策を行う「蜘蛛の糸」というNPO法人を立ち上げ、後に「秋田モデル」と呼ばれるようになるスタイルを作り上げていく。

佐藤がしていることは、ある意味では誰でも出来ることだ。何時間でも相手の話をじっくりと聞く。何度でも聞く。そして多くの場合、次の約束をして別れる。時には、経営者だった経験からアドバイスもするが、まずは相手の話を聞くことからだ。

『十年間経って九百社ぐらいの相談を受けてきましたが、私は素人なんですね。でも、プロになろうとは思いません。私は、誰でもやれる平凡な自殺予防、って言うんです。隣のじっちゃんばっちゃんが困ったときに「何したあ。ちょっと話を聞かせてもらえねえか」と手を差し伸ばす活動だからね。みんなでやりましょうって』

確かに「誰にでもやれる平凡な自殺予防」という表現は、決して誇張ではなく、そういう側面はあると思う。ただ、誰にでもできることと、誰にでもできることをやり続けることは、全然違う。それに、誰にでもできることではあるが、誰にでもできるからと言って洗練させなくて良いということにはならない。佐藤は様々な経験をしてきたことで、誰にでもできることを磨いてきた。その積み重ねが、自殺者を減らすという成果に繋がっているのだ。

また佐藤は、中小企業の経営者向け、というスタイルを崩さない。自分がアドバイス出来ること周辺にしか手を伸ばすまい、と決めているのだ。「子どもいじめ相談は受けないのか?」と著者が佐藤に問うた時の反応は、著者をして違和感を覚えたと言わせるほどのものであり、受け取り方に賛否分かれるかもしれないが、それだけ誠意を持って活動を続けているとも取れる。

『もっとも怖いのはね、自分がわからないのに間口を広げて、相手に迷惑をかける相談なんだよね。それなら、やらねえほうがいい』

それでなくても佐藤のスタイルは、時間無制限で話を聞く、というものだ。NPOで、報酬をもらっているわけでもない。じっくり相手に向き合う、という意味で、間口を広げない方がいいということもあるだろう。佐藤一人が多くの人を見るのではなく、佐藤のような人間をたくさん生み出して、彼らに様々な得意分野を見てもらうようにする、という方が自然だ。

佐藤は、決して自殺を否定しているわけではない。

『人間には、自分の命を守る自由と共に、自分で命を絶つ自由もある。俺は、自殺を否定するわけでもないし、自殺がダメだという価値観には立たねえんだ。あくまで個人の命は個人のもの、人間っていうのは死ぬもんだという価値観だから。三島由紀夫のような死は食い止められねえし、死ぬことで評価が定まる人もいる。自殺者が誰もいない社会なんて息苦しいし、小説の半分がなくなっちゃうよ。自殺をゼロにできると考えるのは、不遜なよ、傲慢な人間だと思っている。自分に問いかけてるわけでうよ。あなたは何者なのか、あなたはそんな立派な人間なのか、と。ただ、食い止められる死、避けられる死がいっぱいある。それを防ぎたいと思うわけさ』

このスタンスは、僕は好きだなと思う。僕も、死ぬ自由はあると考えたい人間だ。死ぬ自由を感じられない社会は、窮屈だと思う。けれど、死ぬ必要もないようなことで死にたくなってしまう瞬間というのは必ずある。そういう瞬間は、出来るだけ取り除けるに越したことはない、という考えも共感できる。

本書は、佐藤久男の生い立ちや人となりと合わせて、佐藤がこれまで相談を聞いてきた人たちの人生にも深く触れられていく。

『佐藤はふだん、相談者が立ち直ると、会わなくなる。道ですれ違っても、相手が挨拶をしなければ素知らぬ振りをする。苦悩の日々が「忘れたい過去」になっている場合があるからだ。病気が治ったら患者は医者を必要としない。佐藤は、相談者と自分との関係をそうなぞらえていた。
だから、私が印象深かった過去の相談相手に会いたいと頼んでも、紹介できる人は自ずと限られた。』

それでも本書には、佐藤が関わった事例が様々な形で取り上げられている。

その過程で佐藤は、様々なことを経験し、考えさせられた。うまく行かなかったこともあるし、その後の佐藤の活動の柱となっていったような経験もあった。自分のやっていることに意味などないのではないかと感じられることもあった。しかし佐藤は、ある経験からこんな風に感じる。

『「蜘蛛の糸」の目的な自殺予防である。それなら、相手が生き続けていれば、相談は役に立っているのではないか。直接的に何かをしてあげられなくてもかまわないのではないか。』

そんな様々な葛藤を乗り越え、佐藤は自分にできることを少しずつ積み重ねていった。行動原理に哲学があり、前に進む意志があれば、個人でも大きな壁を壊すことが出来る。そんな実例を目の当たりさせられた作品だった。

中村智志「命のまもりびと 秋田の自殺を半減させた男」

くすぶり亦蔵 秘剣こいわらい(松宮宏)

本当に松宮宏は、どこから物語を創造するんだろうなぁ、と毎回不思議に思わされる。

本作は、「路上喫煙が禁止されているマンハッタンでタバコを吸い、何度も逮捕される無口な日本人」を描く小説だ。何だそりゃ?という感じだろう。でも、要約するとこうなるのだ。

ほとんど、たったこれだけの舞台設定で物語を成立させてしまう。もちろん、その外側では色んなことが起こる。その色んなことが面白いのだが、しかし、物語の中心は「タバコを吸って逮捕されるオッサン」だ。そこにしか中心がない。

普通、たったそれだけの核で、長編一遍を成立させられるなどと考える作家はいないだろう。そういう意味で、松宮宏は頭がイカれているのだと思う。もちろん、良い意味でだ。

松宮宏が描く物語は、「奇想」に支えられていることが多いが、しかしその奇想は、ファンタジーやSFという方向とはちょっと違う。どちらかと言えば、「バカバカしすぎて誰も真剣に考えたことのない発想」という意味での奇想だろう。松宮宏の小説には、そういう意味での奇想がバンバン登場するのだが、しかし松宮宏の広範な知識と描写力によって、あたかもそういうことが実際にあってもおかしくないような錯覚を与える物語に仕上がっている、と僕は感じる。明らかにバカバカしいし、実際には起こり得ないだろう出来事なんだけど、松宮宏の小説からは妙なリアリティを感じるのだ。そういう、物語の成立のさせ方にも、独特なものを感じる。

毎回、どんな作品を生み出してくるのか、実に楽しみな作家である。

内容に入ろうと思います。
樺沢亦蔵は、尋常ではないチェーンスモーカーだ。
『朝起きてすぐに吸い、朝飯の間吸い続ける。
服を着替えながらも吸い、靴を履きながらも吸う。
亦蔵の家から田園都市線溝の口の駅まで、せいぜい歩いて十分であるが、その間に最初のひと箱がなくなる。
それだけ吸うということは、もう、無理やり吸っているとしか言いようがない。
そんな吸い方だ』
そんな男である。
当然、周囲からは顰蹙を買いまくっている。しかし亦蔵は、何を言われても表情一つ変えず、平然としている。無口な男なのである。赤ら顔で毛が濃いが故に、「毛蟹」と呼ばれている。青山通りにある真新しいイメージの会社で現金出納係として働いているのだが、とにかく青山という土地に似合わない男である。
タバコにまつわるトラブルは絶えないが、亦蔵にはこれほどまでにタバコを吸うようになったきっかけがきちんとある。とはいえ、そんなことは周りには関係ないし、そもそも無口な亦蔵は何も喋らないので、周りとしてはただ迷惑なだけの男である。
一方、アメリカでは、タバコ産業が壊滅的な状況に追いやられていた。1998年に、巨大タバコ四社が四十六の州政府に対して、医療保険が喫煙関連の疾患治療のためにこれまでに負担してきた合計二千六十億ドル(約二十五兆円)の医療費を支払うという合意に至った。タバコを争点にした裁判で軒並み敗訴を喫し、喫煙者が社会的にかなり追い詰められている。全米タバコ産業親交協会会長であるデイモン・チェンバレンと、タバコ産業から多大な献金を受け取ってきたアーノルド・グリムショー下院議員(共和党の元締めである)の二人は、事態を静観することぐらいしか出来ないでいる。
亦蔵はたまたま、そんなアメリカの喫煙事情を特集する番組を見た。今や多くの州では自宅以外では喫煙出来ず、都市部では路上喫煙をすると逮捕されるのだという。それを知って亦蔵は決意した。会社を辞めて、アメリカに行こう。
どこでもいいから、とチケットカウンターで言い、ニューヨーク行きのファーストクラスに乗ることになった亦蔵は、テレビで見たプラザホテル前でタバコを吸うことに決めるが…。
刑務所から出る度にタバコを吸い再度逮捕される亦蔵に多くの輩が群がっていく。亦蔵ブームによって息を吹き返したタバコ産業、亦蔵に自社の服や靴を着せようとするファッションブランドなどが亦蔵の登場を歓喜と共に迎え入れ、ほぼ何も喋らない亦蔵は一躍アメリカの寵児に祭り上げられることになる。そこに、21歳の暇な女子大生・和邇メグルはどう絡んでくるのか…。
というような話です。

いやー、今回も面白かったなぁ。冒頭でも書いたけど、松宮宏は本当に奇想が凄い。どっからこんな話思いつくんだ、っていうような舞台設定や構成が本当に凄いんだよなぁ。

とはいえ、今回の作品は、物語の着想はわかりやすいと言えばわかりやすい。どう考えても、「マンハッタンで路上喫煙を繰り返して逮捕される日本人がいたらどうだろう?」という着想から物語を組み立てていったはずだ。だとしても、その日本人である樺沢亦蔵の造型や、亦蔵の振る舞いがニューヨークでどんな反応を引き起こすことになるのか、さらにはこの物語に和邇メグルがどう絡んでくるのか、というような部分まで含めて一つの物語に収めるのは本当に凄いなと思いました。

特に本書では、アメリカの政界の話がかなり描かれている。もちろん、僕はアメリカの政界には全然詳しくないので、本書の記述がリアリティを無視した荒唐無稽なものであるかもしれないのだけど、僕が読む限り、リアリティを感じました。政治の力学みたいなものがどう働くのか、という部分がリアルさを感じさせます。亦蔵という、ただタバコを吸って逮捕されるだけの男に、アメリカの政界が右往左往させられる様子は痛快で、でもその痛快さを演出するためには、アメリカの政界事情をリアルに描かなければならないわけで、その点も実に見事にクリアしていると思いました。

他の作品でも、例えばビジネスの話に精通していたり、食通なのかと感じさせるような記述があったりと、とにかく描像出来る範囲がとても広い。深い知識と描像力に支えられているからこそ、バカバカしいほどの奇想が、ただの荒唐無稽な設定ではなく、リアリティを伴ったバカバカしさを生み出しているのだという感じがします。

どの作品の読んでてもそうなんだけど、松宮宏の作品は、正直なところ、読み終わっても何も残らない。読者に何かを考えさせたり、何か教えを与えたりと言ったようなものとは無縁だ。しかし、その圧倒的な面白さ故に、「こんなに面白い本があるぞ!」と誰かに言い聞かせたくなるような、そんな作品です。超ドストレートなエンタメ作品です。そんじょそこらの小説にはない、ノンストップな奇想が物語を一気に牽引していく作品です。

松宮宏「くすぶり亦蔵 秘剣こいわらい」

ルドヴィカがいる(平山瑞穂)

平山瑞穂、やっぱり好きだなぁ。
作家本人はどうか知らないけど、作品に異様な捻れを感じることはそうそうあるもんじゃない。

言葉に対する感覚が鋭敏であるかどうか、というのは、人間を評価する際に僕にとってとても大事な要素になってくる。言葉を雑に扱う人間は、あまり好きではない。

大げさに言えば、世界は言葉で出来ているのだ、と言っていい。もちろん、言葉なんかなくたって太陽や空気は存在している。そういう観点からすれば、「世界は言葉で出来ている」という捉え方は間違っているだろう。

では、太陽が東から昇り西に沈む、ということについて考えてみよう。もし、言葉というものが存在しない場合、その光景はどう映るだろうか?なかなか想像するのが難しいが、その光景は認識されないのではないか、とも思う。言葉がないということは、概念がないということだ。つまり、「空」「太陽」「東」「西」「昇る」「沈む」と言ったようなことすべてが、分離したものとして捉えられないということではないか。一枚の抽象画を見ているかのように、その絵の中に区別すべき何かを見いだせない、という状態にあるのではないか。

言葉がなければ、目の前にどんな存在があっても抽象画のように見えてしまうとしたら、それは「世界が存在しない」ことと同じなのではないか。大げさかもしれないが、そうなるのではないかと思う。僕たちは、言葉を知っているから、目の前の光景を抽象的なものとしてではなく、個々の意味のある物質や概念の総体として捉えることが出来る。そんな風に、物質や概念の総体として世界が立ち上がることになる。ということは、言葉こそが世界を立ち上げているということになりはしないか?

僕が好きな話がある。このブログでも様々なところで書いた記憶があるが、フランス語では「蛾」と「蝶」を区別せずに、どちらも「パピヨン」と呼ぶ。つまり、フランス語を喋る人間には「パピヨン」として見えているものを、僕ら日本人は「蛾」と「蝶」という別々のものとして捉えることになる。虹の色は、日本では七色だが、外国では国ごとにまちまちだ。まったく同じものを見ているはずなのに、言葉が目の前にある存在の捉え方を変えている、ということがこれらの例から分かるだろう。「パピヨン」とまとめて捉えようが、「蛾」と「蝶」として区別して捉えようが、世界の立ち上がり方は大きく変わりはしないが、世界の捉え方が大きく変わる言葉もある。例えば、「空気」という言葉が生まれるまで、人間は自分たちが「空気」の中にいることに気づかなかったはずだ。「空気」という言葉が生まれたことで、僕たちは初めて「空気」の存在に気付くことが出来る。「空気」という言葉が出来る前に「空気」の存在に気付くことが出来た者(ラボアジェっていう科学者だった気がする。それは「酸素」かな?)は、本当に凄いと思う。

最近、「メッセージ」という映画を見た。この話も、言語を扱う物語だった。ネタバレになるようなことは書かないが、とある特殊な言語体系を持つ異星人の存在が、物語に大きく関係してくる。言語が世界そのものを変える力を持ちうるのだ、ということが鮮やかに示される物語だった。

言葉によって世界が立ち上がるとすれば、言葉に対する感覚が鋭敏であればあるほど、世界をよりクリアに見ることが出来る、ということだろうと思う。言葉に対する感覚が鈍い者も、日常生活に支障を来すことはないだろう。視力の悪い人間が、それでも日常生活を送れてしまうのと同じだ。しかしそういう視力の悪い人間がある日、眼鏡を掛けたら驚くだろう。今まで自分が見ていた世界がなんてぼやけていたのか、ということが一瞬で理解出来ることだろう。同じことが、言葉の鋭敏さについても言えるはずだ。言葉の鋭敏さは、眼鏡を掛けるようには一瞬では強くはならないだろうが、もしそんな魔法のような状況が存在すれば、自分がいかにぼやけた世界の中で生きていたのかが分かるだろう。

言葉の鋭敏さを持ち、世界をクリアに認識出来るようになればなるほど、僕にとっての人間的な魅力は増す。僕には、そういう感覚がある。言葉の鋭敏さの強い人は、やはり普段から見ているものが全然違う。それは、言葉に対する感覚の鈍い人とは、本当に雲泥の差があると感じられる。フランス人を悪く言う意図はまったくないが、言語に対する感覚が鈍い人は、「蛾」と「蝶」が同じに見えるフランス人のようなものだろう(たまたま今回の例ではこうだっただけで、フランス語の方が日本語より捉え方が細分化されているという事例も当然あるだろう)。同じものを見ていても、言語の鋭敏さの程度によって世界は違う捉えられ方をする。そしてそのことは、ある程度以上言葉の鋭敏さを有している人間でないとなかなか気づけないのだ。

平山瑞穂は、言葉の鋭敏さが非常に強い人だと感じる。本書の主人公は、伊豆浜という小説家であり、そんな伊豆浜が蒼井という編集者との会話で多大な違和感を表明する場面があるが、本書の中で蒼井こそが、言葉の鋭敏さが弱い人間として描かれる。そして、そんな蒼井に対する伊豆浜の苛立ちが、僕にはよく理解できる。小説の登場人物と作者を安易に重ねるべきではないと思うのだが、恐らく伊豆浜の蒼井に対する感覚は、著者の平山瑞穂自身の感覚でもあるのではないか、と思う。

言葉の鋭敏さが強いことは、決して良いことばかりではない。見える必要がないものまで見えてしまうこともある。通常紫外線や赤外線は目には見えないが、言葉の鋭敏さが強くなればなるほど、そういう見えないはずのものが見えてくるようになる、ということでもあるのだ(まあ、どれだけ言葉の鋭敏さが強くなっても、紫外線や赤外線は見えないと思うけど)。

本書は、「言葉」というものが一つ大きな要素となっている。不可思議な日本語を操る人物が登場するのだが、言語によって世界の見え方が変わるとすれば、彼らにはどんな風に目の前の物事が見えているのか、非常に興味深い。

内容に入ろうと思います。
小説家の伊豆浜亮平は、ここ5年間ヒットに恵まれることもなく、世間から忘れ去られているばかりか、担当編集者からも新作が特に期待されていないと思われる、そんな小説家だ。もちろん、それでは生きていけないので、伊豆浜は濱田出雲という別のペンネームでフリーライターの仕事も請け負っている。「週刊レディー」という女性週刊誌の仕事で、芸能ネタと、「作家にアタック!」という小説家を取り上げるコーナーだけは勘弁してもらっているが、それ以外ならどんな仕事も引き受けてきた。小説を書く際には、言葉に対する細部のこだわり、小説を生み出す際の緻密な思考があるのだが、フリーライターとしては、求められている文章を求められているように完成させるという職人に徹することにしている。
ある日、書き下ろしの小説の原稿に行き詰まっている時(大体常に行き詰まっているのだが)、「週刊レディー」の担当編集者である蒼井から、「鍵盤王子」と呼ばれている美貌の男性ピアニスト・荻須晶の取材を依頼された。海外を拠点に活動をしており、日本での知名度はほとんどなかったが、何年か前に出た携帯電話のCMで大ブレイクし、女性週刊誌ではよく取り上げられる存在になった。もちろん伊豆浜は荻須には全然詳しくなかったが、通り一遍の情報だけさらって取材に出向いた。
荻須は、インタビューから受ける印象とはまるで違っていた。「王子」と呼ばれるような存在ではなく、父親をけなしたり、ピアノを教えてくれた人をこきおろしたりと散々な言い草だった。しかしそれも、露悪的に振る舞っているというわけではなく、思ったことを素直に口に出しているだけだと見受けられた。外国暮らしが長かったからだろうか、社交辞令的なやり取りはほとんど通じず、言葉にしたことがすべて、というような人物だった。普通なら失礼に感じるようなやり取りもあったが、伊豆浜は何故かこの荻須という男に惹かれる部分を感じていた。
そんな荻須から、別荘に誘われた。確かにインタビューの後の食事の際、そんな話が出た。しかし伊豆浜としては当然、社交辞令的な返答だった。荻須からすれば、伊豆浜が別荘にやってくることは規定事項だったようで、とはいえそういう場は得意ではない。伊豆浜は、以前から付き合いがあり、恋人と呼んでいいのかわからないが時折体の関係もある白石もえを伴って、荻須の別荘を訪れたのだった。
しかしそこで伊豆浜は、奇妙な喋り方をする女性と出会う。
「社宅にヒきに行っている人とその恋人の方ですね。ラクゴはミています」
さっぱり理解できなかった。そして、この女性との邂逅が、伊豆浜を奇妙な現実へと引きずり出して行くことになるのだが…。
というような話です。

面白かったなぁ。実にヘンな物語で、グイグイ惹き込まれた。

物語の冒頭からしばらくは、ごくごく普通に進んでいく。とある作家が、ピアニストのインタビューを担当し、そのピアニストに別荘に誘われるぐらいまでは、ごく普通だ。伊豆浜亮平という人物が、物事や言葉の細部にちょっと厳しくて、それによって伊豆浜のレンズを通した世界の見え方はちょっとずつ歪んでいくんだけど、とはいえそれは、そこまで大きな違和感としては認識されない。物語は、ある程度普通の領域で展開されていく。

しかし、荻須晶の姉の登場により、徐々に違和感は増していく。一気に、畳み掛けるようにして違和感が増大するわけではない。あくまでも、少しずつ少しずつ違和感がましていく。読者は、自分がいつこんな深みに嵌まったのか理解できないまま、いつしか大きな穴に落ち込んでいるのである。

そして、その穴に嵌まり込んでみると、平山瑞穂が少しずつ積み上げてきた物語の世界観が、非常に緻密に作りあげられてきたのだということが分かる。

その一つの効果として見事に機能しているのが、作中作である「さなぎの宿」である。伊豆浜が書き下ろしの小説として書き進めている作品で、不倫関係を指摘された女が失踪し、その女を探す過程で男が奇妙な世界へと足を踏み入れていく、という物語だ。伊豆浜は、荻須のインタビューから向こう、様々な経験をするが、その間中、暇さえあればこの「さなぎの宿」の原稿を書いている。そしてその原稿の一部が、「ルドヴィカがいる」の中にも引用されるような形で登場するのだ。

初め、この二つの物語は、まったく別物として登場する。しかし、作中作が登場する常であるように、この作中作は本編と絡まり合っていく。しかし、この絡まり合い方が実に奇妙で、そこが本書の読みどころの一つでもある。陳腐な例だが、まるでウロボロスの蛇であるかのように、いつの間にか自分自身が呑み込まれてしまっているというような、そういう不可思議な展開になっていくのだ。伊豆浜が生みだした「現実」と、平山瑞穂が生みだした「現実」が干渉し合い、まるで伊豆浜にも平山瑞穂にも制御不能になっているかのような、そんな不可思議な錯覚を抱かせる作品でもある。

僕は、作品のタイプにもよるが、出来るだけ物語は合理的に閉じてほしいと思ってしまうタイプの人間だ。SFやファンタジーならともかく、そういう超越的な世界観を前提としない世界では、出来るだけ物語全体は合理的に閉じて欲しいというのが基本的な願望だ(100%ではないが)。普段の僕であれば、この作品にもそういう合理的な結末を望んだだろう。物語の始まりからしばらくの間は、そういう超越的な設定を必要としない世界観で話が進んでいくのだから。しかし、本作を読み終えて今、僕には特に不快感はないし、実に清々しい。合理的、とはとても言えない終わり方をするにも関わらず、それが至極当然の結末であるかのように受け入れている。平山瑞穂が構築する世界観が強固だからだろう、と僕は考えている。

平山瑞穂の作品は、どうもその良さをうまく言葉で伝えにくいものが多い。デビュー作の「ラス・マンチャス通信」などはその最たるもので、あの妖しげな魅惑はなかなか伝えられるものではない。本作にも、そういう妖しさがちょっと漂っている。そういう雰囲気の似合う作家なのである。

平山瑞穂「ルドヴィカがいる」

ふたつのしるし(宮下奈都)

やっぱり宮下奈都はいいなぁ。
素晴らしい。

昔の僕は、きちんと生きているように見える人のことを、羨ましいとずっと思っていた。みんなに好かれ、何事も努力し、分け隔てなく人と接する。そこまで聖人君子みたいな人でなくても、あぁきちんと生きてるなぁ、と感じられる人というのはどこにでもいて、そういう人を見ると、なんで自分はあんな風にいられないんだろう、なんて思っていた。

でも、大人になるに連れて、そういう人も色んなものを抱えているんだなぁ、ということが分かってくるようになる。きちんと生きているように見えても、それは水面上の白鳥の姿のようなもので、水面下では足をばたつかせながら生きているんだ、みたいなことが分かるようになってきた。

そういうことを、もっと子どもの頃に気づけていたら、色んなことがもっと楽だったんだろうなぁ、という感じはする。

『ぜんぜんちがう。思っていた中学生活とぜんぜんちがう。もっとほんとうのことに近づいてもいいんだと思っていた。うれしいことにも、悲しいことにも、いっぱい揺さぶられながら生きていくんだと思っていた。できるだけ揺さぶられないように、揺さぶられてもそれを気取られないように、縮こまって縮こまって息をしている。
誰がこの空気をつくっているの?誰がこの空気を打ち破ってくれるの?誰が私をここから掬い上げてくれるの?
遥名は口に出さずにそう思った。学校にいると息苦しい。卒業するまでこんな日々がずっと続くんだろうか』

僕も、学生時代はずっと息苦しかった。周りに合わせなきゃ、とずっと思っていて、でも何に合わせたらいいんだか全然掴めなかった。歌人の穂村弘も、エッセイの中で同じことを書いていた。自分には分からないルールが、他の人には当然のものとして理解されているようだ、というような違和感をどこでも覚えてしまうらしい。わかる。僕も、その通りだ。そうやって、その場のルールを違和感なく察知出来る人間が、日常を動かしていくんだなぁ、という感じだ。

『遥名も型が欲しい。今必要なものがどの型か、ひと目でわかればどんなに助かるだろう』

結局、色んなことがよく分からないまんま生きていくしかない。そして、大事なことは、実はほとんどの人がそういう苦しさみたいなものを感じている、ということなんだろうと思うのだ。その場のルールが分かっているように思える人であっても、その大半はよく分からないまま振る舞っているのではないか。僕は、そんな風に感じるようになった。ごくごく一部の、その場のルールを支配している人間がいるだけで、後の人は何がなんだかよく分かっていないのではないかと。

今の僕から考えると、昔の僕がそういうなんだかよく分からないものに振り回されていたのは、馬鹿らしく思える。もし、今の脳みそのまま小学生に戻ることが出来たら、僕はハルに近い振る舞いが出来るのではないかと思う。

『ハルの心は常にそのへんを漂っていて、たまにカチッとピントが合ったときにだけ身体に返ってくる』

ハルの振る舞いは、今の僕には凄く羨ましく感じられる。ハルにとっては、自分の周りの世界や、その世界に根ざしているルールなどどうでもいい。そこに関わらなければならない、という理解がない。自分を動かす衝動が、自分自身の内側からしか湧いてこない、という生き方は、周囲との怖ろしいまでの摩擦を生む。しかし、とても自由だ。

自分の行動を自由にするために自分の心に制約を加えるか、自分の心を自由にするために自分の行動に制約を加えるか。まったく対象的な生き方をしてきた二人を対比的に描き出しながら、立ち止まりながら生きていくことの大事さを描き出す筆力はさすがだ。

内容に入ろうと思います。
柏木温之(ハル)は、幼稚園から「来ないで欲しい」と言われるぐらい、協調性の欠片もない不器用な子どもだった。自分がその場にいること、そしてその場の様々な暗黙の了解に従わなければならないことが理解できなかった。自分に向けられた言葉も、自分に向けられた視線も、ハルにとっては何の意味も持たないものだった。だからずっと、自分が何故怒鳴られたり怒られたりするのか、理解出来ないでいた。
学校には通った。でも、自分が学校にいる意味はよく分からなかった。勉強は、全然出来なかった。ハルの振る舞いに凄みを感じた同級生の健太がハルの宿題を勝手にやってあげたら、そのせいでハルが怒られたこともあった。健太は、自分がこれほどに高く評価しているハルが怒られているのを見るのが苦痛だった。
母親の死をきっかけにして、ハルは家を出た。目的はなかった。どうするつもりもなかった。地図が好きだったから、行けるところまで行こうと考えていた。ふとした出会いから、ハルは錨を見つけたかのようにそこに人生の根を下ろすようになる。
大野遥名は人生をそつなくこなしてきた。頭は良かったが、学校では馬鹿っぽく振る舞った。当たり障りのない反応を返し、その場の雰囲気を瞬時に察して自分の行動を決めた。息苦しさを感じていたけど、そうやって生きていく以外、自分に選択肢はないと思っていた。
地方から勢いをつけて東京の大学に出てきたつもりだった。東京に出さえすれば、翼でも生えるのではないかと思っていた。そんなことはなかった。結局、どこにいても、自分がうまく馴染めないでいることを確認するような毎日でしかなかった。
出会いもあるにはあった。心はときめくが、ときめくばかりもいられない出会いだ。そういう経験を積み重ねた果てに、
二人はあの日を迎える。
というような話です。

やっぱり宮下奈都は上手いと思う。とにかく、人間の輪郭をとても丁寧に描き出していく。よく宮下奈都の小説を読むと、「ストーリーらしいストーリーはないのに読まされてしまう」と感じる。本作も同じだった。確かに、ハルや遥名の人生には、ところどころ大きな出来事が起こりはする。しかし、物語の大半は、自分の半径5メートルぐらいの間の範囲内で、普通に起こってもおかしくはないような、そういう平凡な日常で組み立てられている。それなのに、味わい深く読ませる。いつも思うが、これは宮下奈都のマジックだなと思う。

ハルも遥名も、いちいち色んなことに引っかかりながら生きている。世の中にはたぶん、そんな引っ掛かりを感じずに生きていける人もいるのだろうとは思う。周囲の振る舞いへの違和感だとか、自分の存在への納得できない感じとか、そういうことをまったく感じないままいられる人もいるのだろう。

けれども、多くの人はたぶんそうじゃない。何らかの違和感を覚えてしまう。しかし、それを言語化出来る人もそう多くはないのだ。自分が何らかの違和感を持っていることは気付いているが、それが何なのかをはっきり説明するには、高度な言語化力が必要だ。それは、ある種の才能である。

ハルも遥名も、その言語化力を持っている。というか、宮下奈都の小説の主人公は大体そういう言語化力を持っている。そして、そういう言語化力があるからこそ悩むのだ。

『かわいいとか、すごいとか、素敵だとか、そのひとことで済ませてしまうのは思考停止だと遥名は思う』

凄く共感できる一文だが、でも、正直なところ、こんなこと考えなければもう少し楽にいられるのだ。別に誰かから、「かわいい、なんて使うの、考えてない証拠だよ」なんて言われるわけでもない。ただ自分でそう律しているだけなのだ。でも、そういう言語化力のある人間には、そういう思考を止めることが難しい。宮下奈都の小説に出てくる人物は、こういう思考にぐるぐると絡め取られながら、日常の中で踏ん張っていきている印象がある。

ハルと遥名の人生は、ほとんどすれ違うことがない。まったく別の人生を歩んでいるのだ。しかしある日、唐突に交わる。恐らく、普通なら交わることのなかった線が、あり得ない瞬間に交わった。遥名は学生の頃、「矢がどこへ飛んでいくかは、弓から放たれた瞬間に決まってしまっている」と言われた。あるいは、こうなることは、あらかじめ決まっていたのかもしれない。

後半、どんな風に物語が展開するのかあまり触れたくないので、ぼやぼやっと書くのだけど、最終章が実に良い。タイトルの意味も、最終章でより開けていく感じがするし、親友について語る健太の眼差しがとてもいい。まさか、物語の初めで出てきたあの話が最後に繋がるとは思っていなかったし、最後の「生い立ちの記」の文章も書き手の才気も素晴らしい。

本当に、良い物語を読んだなぁ、という気分に浸れる小説なのだ。

宮下奈都「ふたつのしるし」

さくらんぼ同盟(松宮宏)

ホントに、この松宮宏って作家は何者なんだろうなぁ。
出す本出す本、全部面白い。
正直言って、物語に中身があるのかっていうと、全然ない。最初から最後まで馬鹿馬鹿しさ全開の作品なのだ。
ただ、だからと言って侮ってはいけない。
馬鹿馬鹿しい物語で、いかに読者を引っ張るのが難しいのかということが、僕は分かっているつもりだから、そういう意味で本当に驚かされる。

この小説も、「腋から謎の物質が摘出される奇病が板橋で頻発するんだけど、その謎の物質が超絶美味で、“さくらんぼ”と名付けられ、日本中を大混乱に陥れる」っていうだけの話なんです。たぶん、この紹介だけ読んでも、意味不明だろうと思います。いや、正直、読んだって、意味不明なんです。なんで腋から“さくらんぼ”が出て来るのか、そしてそれが何故超絶美味なのか、ということが一切不明のまま、そんなこと当たり前のことでしょ?とでも言わんばかりにスイスイと物語が展開していってしまう。よくわかんねーなー、とか思いながら、でも場面場面の描写が絶妙に面白いんだよなぁ、だからうっかり読まされてしまう。ずーっとそんな感じで、最後まで読まされてしまうんだよなぁ。

とにかく、物語の展開のさせかたがべらぼうにうまい。ホントにこの著者は何者なんだ!って読みながらずっと考えてしまうような、そんなぶっ飛んだ小説です。

内容に入ろうと思います。

日本中を大混乱に陥れた“さくらんぼ”の発端は、死体が生き返ったという衝撃的な出来事から始まる。
板橋総合医療センターに、一人の患者が救急搬送されてきた。いや、搬送される前、その患者は死んでいた。同病院の心臓外科医である土居医師が死亡を確認したのだ。間違えるはずがない。しかし今患者は、体中を跳ね上がらせて大暴れしている。原因は不明だが、とにかく腋を痛がっているようだ。担当した整形外科医の永積惇史が全身麻酔をして切ってみると、壮絶な悪臭と共に、プリッとした弾力のある異物が腋から摘出された。その見た目から“さくらんぼ”と名付けられた異物を取り出したら、患者は急に元気になった。よくわからないが、とりあえず一件落着である。
しかし、またも同じような症状の患者が板橋病院に運び込まれてきた。幸か不幸か、またも惇史が担当することになった。やはり“さくらんぼ”が摘出されたのだが、前回と違ったのは、その“さくらんぼ”を、看護師の渡辺が食べてしまったのだ。
渡辺が“さくらんぼ”を「この世のものとは思えない味わい」と評したお陰で、世界中が熱狂することになった。その熱狂を受けて、“さくらんぼ”の売買を仲介すると宣言する弁護士が登場、彼の音頭で始まった“さくらんぼ”争奪戦には、なんと3億円という大金が投じられることになった。仲介料を除き、次に“さくらんぼ”を体内に宿した者は2億4000万円が手に入ることが確実になったのだ。このことが世間を熱狂させることになる。
この“さくらんぼ”騒動に関わることになる人物は多々いるが、二人紹介しよう。一人は、<うちでの小槌>という消費者金融で大成功を収め、現在は若者向けのエンジェル投資家である薮内久世治郎。もう一人は、警視庁を定年で退職した後、生来の人の良さから近所の揉め事を解決する探偵事務所を開設することになった小渕岩男だ。久世治郎は、金に糸目をつけない美食家であり、またその内側に狂気を宿すサイコパスでもある。一方で岩男は、キャリアである警視庁の刑事部長と今でも昵懇の仲であり、警察が処理しきれない重大案件を任されることになる。
彼らは一体、どんな大騒動に巻き込まれることになるのか…。
というような話です。

この内容紹介を読むだけでも、相当にぶっ飛んだ小説だということは分かるだろうと思います。ただ、読めば、もっと驚くでしょう。それぐらい、先の展開がまるで予測できない物語です。

松宮宏が凄いのは、物語全体の展開はアホアホしいのに、登場人物の来歴や背景なんかは実に緻密に描き出すところです。どこからそんな知識を引っ張ってくるんだってぐらい、登場人物を描き出す際の知識が多様で面白い。登場人物の来歴や背景も、びっくりするくらい無茶苦茶で、例えば一例を挙げると、「たとえ微量でも赤外線に触れると失神してしまう女性」なんてのが出てきます。いや、正直、あり得ないでしょう、そんなこと。だけど、そんな背景を持つ人間が、結構わんさか出て来る。それでリアリティなんて生み出せるのか?と思うかもしれないけど、松宮宏の描写にはなんというか、妙なリアリティがあるんだよなぁ。松宮宏は、起こり得ないことを、妙なリアリティを持って描き出すことで、独特の雰囲気を小説に与えることに成功していると思います。

正直、“さくらんぼ”がどんな奇病だろうが、“さくらんぼ”がどれほど美味だろうが、久世治郎や岩男がどんな目的で動いているのか、なんてことは、どうでもいいっちゃどうでもいいんです。別に、それらを追うことで、世界の問題が解決するわけでも、人間の悩みが解消されるわけでもないんです。ただ、単純に純粋にべらぼうに面白い、というだけなんです。物語に深い意味合いや高尚性みたいなものを付属させずに、純粋に「面白さ」だけを追求した作品って、本当に久しぶりに読んだような気がします。

読んでも正直、何も残らないでしょう。けど、読んでいる間、無茶苦茶面白いです。荒唐無稽さを、リアリティたっぷりの筆致で描き出す、なんとも言えない妙な雰囲気を醸し出すこの作品を、是非読んでみてください。ホントに面白い!

松宮宏「さくらんぼ同盟」

ビートルズを呼んだ男(野地秩嘉)

内容に入ろうと思います。
本書は、ビートルズの初の日本公演の開催を実現させ、日本のみならず海外の音楽業界で絶大な信頼を得ている永島達司を中心に、日本の戦後や音楽業界の変遷、ビートルズ来日の際の混乱ぶり、永島以外の呼び屋など、様々なことが描かれていく作品だ。
著者は、この本の執筆のために、ロンドンに住むポール・マッカトニーにも取材を行っている。

『其の都市の春に長年連れ添った妻、リンダを亡くしたポールは、一切の仕事を止めロンドン郊外の自宅に引きこもった。散歩することすら稀で、一日のほとんどの時間を家の中で過ごしていた。もちろん、沈黙を守りインタビューを受けることもない』

著者がポール・マッカトニーを訪れた時の状況は、そういうものだった。

『ところが「永島達司とビートルズ来日公演について話を聞きたい」という私のFAXには「OK」の返事が来た
「タツ(永島達司のニックネーム)のためならいくらでも質問に答えよう」
彼はインタビューに何の条件もつけず、会う場所と時間だけを知らせてきた。
妻を亡くした悲しみのため友人との面会さえ拒んでいるポール・マッカトニーがそこまで信頼し、敬愛する男、永島達司は音楽プロモーターである』

このエピソードだけで、永島達司という男がどれほどの信頼を勝ち得ているか分かろうというものだ。

永島は、親の仕事の都合で幼い頃から海外で過ごし、『タツの英語はエリザベス女王みたいだ』と評されるほど完璧で上品な英語を話したという。その英語力を見込まれ、第二次世界大戦後、永島は進駐軍の将校クラブの支配人になった。そこから、海外ミュージシャンを日本へと呼ぶ仕事をするようになり、やがて「呼び屋」と呼ばれるようになっていくのだ。

『この用に永島が嫌気が差す理由はいくつかあったのだが、もっとも大きな問題はみずら化の職業に自信が持てないことだった。彼にとって興行とはあくまでも怪しくてうさん臭い人間のやることだった。そのため、他人に職業を尋ねられても、堂々と名乗ることができなかった。』

『当時の二大人気歌手を抱えたプロダクションの社長なのに、彼は「これは男子一生のしごとではない」という思いに取りつかれていた。父親は三菱銀行の重役として日本の戦後復興に力を尽くしていた。早稲田大学の友人たちもそれぞれの持ち場で日本の人々のために外貨を稼いでいた。それに比べて収入こそ多いものの、自分の仕事は国家の発展に直接、寄与しているものではない。永島は芸能の仕事に対するコンプレックスを取り払うことができなかった』

ビートルズを呼ぶ以前から、永島の評判は音楽業界では知れ渡っていた。それは国内のみならず、である。永島と同時代には、他にも神彰や樋口玖など名を馳せた「呼び屋」がいた。自己顕示欲の強かった彼らとは違い、永島は自分の名前がなるべく表に出ないように気を配っていたので、一般にはあまり知られていないが、やはり同時代の「呼び屋」の中では圧倒的な存在感だったようだ。

後年、こんなことがあったという。モハメド・アリを呼んだ康芳夫という呼び屋が、イギリスのトップシンガーであるトム・ジョーンズの招聘を目指すことにした。しかし、呼び屋に変わってプロモーターの仕事をするようになった広告代理店には、康の存在が気に食わない。

『広告代理店のやつらはみんな僕のことが嫌いらしくて、トム・ジョーンズを呼ぶとぶちあげたとたんに「康をつぶせ」と圧力をかけてきたんだ。その時だよ。永島さんが出てきて、「康さんがやるならいいじゃないか」と説得してくれたのは。永島さんのひとことでぴたっと嫌がらせが止まった。彼だって競合してたはずなんだけど、譲ってくれた。僕は永島さんに一対一でお目にかからなかったんだが、あの時どうして僕を守ってくれたのかがよくわからない。しかし、偉い人だな、と敬意を払ってる』

永島が「世界一のプロモーター」と評したジェリー・ペレンチオは、『ギャラを値切らない男といえばこの世界ではタツ・ナガシマのことを指すんだ』と言い、著者は永島の仕事を『永島達司が一生かかってやってきたこととは、立派な日本人の姿を世界に示すことだった』と評している。他の呼び屋と一線を画す、本当にアーティストのことを考えて仕事をした男でした。「呼び屋」という自分の仕事に対する違和感は拭えないままだったが、日本に来て良かった、また来たいと思ってもらえるようにもてなす精神は素晴らしいと思う。

そんな永島は、ビートルズをどのように呼んだのか。これは、ちょっと想像していなかったような展開でした。

『樋口、康にかぎらず、当時の呼び屋の大半はビートルズの来日公演を夢に見ていた。しかし、ひとり永島だけは競争に加わるつもりもなかった。彼は大物狙いなど考えず、若者たちが聴きたがっているミュージシャンを調べ、それを呼ぶという単純な仕事に徹するようになっていたのだった。』

永島は、ビートルズを積極的に呼ぼうとは考えていなかった。しかし、1966年3月14日の電話がすべてを変える。ビートルズのツアーマネージャーであるビック・ルイスから電話が掛かってきたのだ。

『実はビートルズが日本に行きたいと言っている。コンサートをやってくれないか。俺が知ってる日本人はお前しかない。どうだ、お前、やってくれないか?』

ビック・ルイスと永島達司は、小学校の同級生だったのだ。それが、ビートルズを呼ぶという歴史的な仕事に繋がることになる。

しかし、電話を受けた永島の心中はこうだった。

『できればやりたくない』

どこまでも、他の呼び屋とは違いすぎる男の生涯である。

なかなか面白い作品でした。本書のタイトルは「ビートルズを呼んだ男」となっていて、確かに永島達司という人物が物語の中心にいるんだけど、決してそれだけの物語ではない。その時代を、音楽というキーワードで切り取った作品という感じがしました。

僕自身は、音楽はほとんど聞かないし、特別興味もない。ライブに行ったこともないし、何かに熱狂した経験もないので、ビートルズの何が良くて、どう凄いのかよく分からないし、作中に登場するビートルズ以外のアーティストの名前の大半を聞いたことがない。そういう意味では、僕からは遠い物語ではある。とはいえ、広告代理店ではなく一介の個人が「呼び屋」として海外からアーティストを引っ張ってこれたり、芸能と暴力団が不可分だったりというような、色んなことがまだ洗練されていなかった時代のゴタゴタした感じというのは結構好きで、そういう部分は面白かった。

本書で描かれているエピソードだけでも、ビートルズがどれだけの狂熱を生みだしたのかということが分かる。

『脚の一本くらい折れてもいいから客席から飛び降りて舞台に行ってキスしたい』

『なかのひとりがすーっと近寄ってきて、おじさんの名前と住所を教えてくれ、おじさんの言うことを何でも聞くからビートルズが触ったものをひとつ持ってきてくれ』

『そして、彼らの車が通り過ぎて規制を解くでしょう、すると、うわっと女の子たちが車道に走り出してきて、道路に残った車のわだちに一斉にキスし始めるんだ』

凄まじいですね。警察や消防は、とんでもない人数を借り出して武道館の警備を敷いたのだが、これほどの警備計画は後にも先にもなかったようです。

時代を一変させた「ビートルズ」というアーティスト。そして彼を日本に呼ぶきっかけを作り出した永島達司。現代では通用しないだろう形での信頼関係で結ばれた彼らの関わりを描き出していく作品だ。スケールのでかい男である。

野地秩嘉「ビートルズを呼んだ男」

スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか(池谷孝司)

『教師の仕事は好きでした。でも、根本的なところで間違っていました。自分が権力を持っているなんて考えもしませんでした』

小学4年生の生徒へのセクハラで執行猶予付きの判決を下された元教師が、そう語る場面があった。本書の中で、僕が一番驚いた発想だ。

『「私は生徒の目線に立って指導しています」と言う先生は多い。「でも、あなたに権力があるのは歴然としている」と私(※本書に登場する、スクールセクハラの解決に専門的に取り組むNPO代表の亀井さん)は指摘します。進学のための内申書を付け、部活動の選手を選ぶのだから、と。そう言われて初めて自分の権力に気付く人が多いんです』

これには、本当に驚かされた。自分に権力がある、という発想がなければ、そりゃあわいせつやセクハラや体罰はなくならないわな、と物凄く納得した。

とはいえ、そう言っている僕にしても、自分が持つ権力みたいなものに気づけたのは、偶然によるところが大きい(ちなみに、僕は教師ではない。ここで言う権力というのは、先輩後輩のような上下関係が発生しうるすべての場で存在しうるものだ)。

僕は小売店で働いているが、その中には大雑把に分けて「社員」と「アルバイト」がいる。そしてそのアルバイトも、入った順番で先輩・後輩がある。あまり上とか下とかいう表現は好きではないのだけど、僕は、自分より下の立場の人間と関わる時、「自分が恐れられている可能性」を常に考慮に入れている。立場に差があるからだ。

昔から、そういう発想を持てていたわけではない。僕がそういう風に考えるようになったのは、女子会に混じるようになってからだ。

僕は何故か、大勢の女子に僕一人だけ男、という飲み会によく呼ばれることがあった。僕はそういう場で男扱いされないので、女子会のように(男の僕がいるから完全には女子会にならないにせよ)女子たちは話をする。その中で、僕は何度も驚かされることになった。女子たちが、同じ職場で働いている自分よりも立場が上の男たちを、ボロクソに罵っていたのだ。驚いたのは、罵っているという事実に対してではない。普段の振る舞いを見る限りでは、彼らは非常に仲良さげに見えていたからだ。少なくとも僕の目には、彼らの間のわだかまりを、彼らのやり取りから感じることは出来なかった。だからこそ、陰でボロクソに罵っているのを聞いて驚いたのだ。

僕は、女子会に紛れ込むことで、そういう経験を何度もした。恐らく、僕もどこかでそんな風に罵られていることがあるだろう、と想像した。僕自身に対する女性の振る舞いだけからは、自分に対する嫌悪には気づけないだろう、と判断した。

そうやって僕は、立場が下の女性が、上の人間に対して表向きどう振る舞い、裏でどう振る舞っているのかを理解していった。そして、女性がそういう振る舞いをしなければならないのには、立場の差による権力の存在があるのだ、ということを理解できるようになっていった。

女子会に紛れ込む経験をしていなければ、もしかしたら今も気づいていなかったかもしれない。自分に権力があるなどとは微塵も考えずに、相手の振る舞いをそのまま真に受けて、相手が嫌悪する行動を無自覚の内にとってしまっていたかもしれない。

そんな風にしてイメージしていくと、冒頭に挙げた教師の言葉も、まったく理解できないものではなくなってくるようにも思う。

『二十五年の教師生活で誰も教えてくれませんでした。他の教師はみんな分かっているのかというと、そんなことはないと思います』

自分が持つ権力に気づいた今の僕の頭では、この教師の言っていることは言い訳じみて聞こえるが、自分が持つ権力に気づけなかった可能性のことを考えると、単純にこの教師を責めるのも酷に思える。もちろん、彼がしたことは許されるべきではないが、本書でもそう書かれているように、スクールセクハラは個人の問題ではなく組織の構造的な問題なのだろう、と感じる。

『裁判で鈴木(※仮名です)が一番ショックだったのは「教師の権力を使って教え子を思い通りにした」と言われたことだという。学校で教師が権力を持つ存在だという意識はまるでなかった』

もちろん、悪いたくらみを持って教師になる者もいるだろう。そういう人間を採用の段階で排除する仕組みを作るのは非常に困難だし、なかなか防ぎようはないだろう。しかしもし、真面目に教育する意志を持って教師になったのに、「自分が権力者である自覚がないこと」によってスクールセクハラの加害者になってしまっている者も多いのだとすれば、それは教師への教育で改善出来る可能性があるはずだ。『自分が意識していなくても、教師と子どもは権力関係にあることを大学でも研修でもきちんと教えるべきです』という指摘は、最もすぎるほど最もだ。

僕は、自分が権力を持っていることを普段から自覚し、それが関係性においてなるべく障害にならないような振る舞いをしようと心がけている。自分のやっていることがうまくいっているのかどうかは永久に確認しようがないのだが(女性の表向きの振る舞いからでは自分に対する悪意を感じ取ることは不可能、という前提なので)、権力を持っているものの発言がどう受け取られる可能性があるか、ということは常に自覚的でありたい、と思っている。

内容に入ろうと思います。
本書は、共同通信の記者である著者が、「スクールセクハラ」と名付けた学校におけるわいせつ被害を深く取材し、それを「届かない悲鳴―学校だから起きたこと」という題で全国の新聞社に配信した連載企画に大幅加筆して書籍化した作品だ。

本書では、随所に著者の「スクールセクハラ」に対する問題意識が描かれている。

『文部科学省によると、1990年度にわいせつ行為で懲戒免職になった公立小中学校の教師はわずか3人だった。ところが、過去最悪となった2012年度には、なんと40倍の119人に達している。(中略)急に教師の質が落ちるはずはなく、見過ごされてきたのが厳しく処分されるようになっただけだ』

『性暴力は「魂の殺人」といわれる』と書く著者は、被害者の取材を通じて、スクールセクハラが許容されていいはずがない、と憤る。そんな著者の憤りが、様々な困難のある取材に邁進させるのだ。

難しい点の一つは、被害者が表に出たがらないことだ。被害者の多くは、親にもそのことを話せていない。そんな話を、男である著者が聞き出さなければならない。よほどの信頼関係がなければ難しいだろう。後でも触れるだろうが、スクールセクハラには二次被害が付き物だ。そうやって、二重三重に傷ついてきた者の心を開かせ、詳しい話を聞き出すという難しさがある。

また、さらに難しいのは、加害者側の話を聞きだすことだ。スクールセクハラは、ほとんどの場合密室で行われる。目撃者も証拠もない中で、加害者側の自白がどうしても必要とされる。被害者が勇気を振り絞って告発しても、学校の体質と、証拠が存在しないことで、被害者側が嘘つきにされるケースも少なくないのだ。

『高校時代の教師の性被害に遭った横山智子さん(※仮名です)の取材を進めながら、教師から教え子へのわいせつ問題を考える時、どうしても加害者への深い取材が必要だと私は考えるようになっていった。被害者の声を聞くことはなにより大切だ。耳を傾けることで被害者の心が癒される場合もある。ただ、最終的に問題解決や再発防止を考えるには、加害者側の状況を知る必要があった』

先程挙げた鈴木(※仮名)は、贖罪の気持ちから素直に取材を受けてくれたが、そうではない者もたくさんいる。そういう輩とどうやり取りをし、自白を引き出していくのか。著者は、使命感から、その困難な取材に立ち向かっていくのだ。

本書では、スクールセクハラは組織の問題であると指摘される。

『教師から教え子へのわいせつ行為に、教育関係者はよく「一部の不心得者が」と口にする。「大半の先生は真面目なのに」というわけだ。だが、亀井さんは「学校の構造的な問題」だと考えている』

本書を読むと、そのことがよく理解できる。そもそもが、「教師に権力があると感じていない者が多い」ということ自体も組織の問題だが、スクールセクハラの問題が浮上した際の学校の対応の酷さにも問題がある。それらを総称して「二次被害」と呼んでいる。

例えば、こんな信じがたいやり取りが載っている。

『抗議する親たちを前に、校長が三人の女子生徒に聞いた。
「君たちは先生にどうしてもらいたいんだ?」
「私たちの前から消えてほしいんです」
「先生にも奥さんや子どもがいる。辞めさせられたら、家族はどうする」
あまりに無責任な対応に、三人が一斉に叫んだ。
「それは私たちには関係ないことです」』

呆れて物が言えないとはこのことだ。何を言ってるんだ、という感じだろう。悪いことをしたから糾弾しているのだ。それなのに、悪いことをした側に立って、辞めさせられたら家族が困るだろう、などと言ってのける校長がいるとは。

こんな例もある。

『全国大会に出たような学校の指導者が問題を起こすと、保護者が応援団になってかばうケースは多い。「恩をあだで返すのか」「輝かしい実績に泥を塗るのか」。親たちは繰り返した。』

教師だけではなく、自分の子どもが被害に遭っていたかもしれない保護者までもが、悪質な教師を守るのだ。問題の根はとても深い。

『なぜ学校ではこうした二次被害が起きやすいのか。亀井さんはこう解説する。
「『あってはならないこと』だから『ない方がいい』。それが『なかったことにしよう』になってしまう。加害者が否定したら、学校や関係者の利害も一致して『先生が正しい。生徒が嘘をついた』とされやすいからです。いじめ自殺で、学校関係者が保身のために事実を隠すのと同じ構造です」』

悪意を持ってセクハラをする悪質な教師ももちろんいるだろうし、そういう人間に対しては個人の問題だと言っていいかもしれない。しかし、権力を行使している自覚のない者がセクハラと認定される行為をしてしまうことは組織の問題だし、さらに隠蔽体質になってしまうのも組織の問題だ。これは、個人で解決出来る問題ではない。スクールセクハラは、『あってはならないこと』という共通認識は共有出来るはずだ。であれば、そこからどうそれを実現していくのかを組織全体で真剣に考えなければならない。

『国連で1989年に採択された「子どもの権利条約」が、日本ではなかなか批准されなかった歴史がある。94年までずれ込み、日本は158番目の批准国になった。その背景を亀井さんが説明する。
「学校や大人に『子どもの権利』を守る意識が乏しいんです。権利ばかり主張して義務を果たさない人間になると困る、という本音が背景にあります」』

これは組織に限らず、社会全体の問題だと言えるだろう。大人が「子どもの権利」を守る意識がないという雰囲気は、学校だけでなく家庭でも醸成されるはずだ。解説を書いた小島慶子は、自身も子どもの頃、担任教師からセクハラを受けたと書き、自分の子どもたちには、自分の身は自分で守れるように意識してもらえるように常に言葉を掛けていると書く。日本人は、教師を絶対視しすぎるようにも感じられる。学校は教育の場ではあるが、やはり家庭こそが教育の中心地なのだ、ということを、改めて認識し直さなくてはいけないのではないか、とも思わされる作品だった。

池谷孝司「スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか」

オシムの言葉(木村元彦)

僕は、人の上に立つような人間にはなりたくないが、それでも、そういう立ち位置にならざるを得なくなったら、こうなりたいという理想はある。そして、イビツァ・オシムというサッカー監督は、僕のあらゆる理想を体現している人物だと感じる。

『監督に、最後の佐藤のシュートが残念でしたね、と聞いたんだよ。そうしたら、「シュートは外れる時もある。それよりもあの時間帯に、ボランチがあそこまで走っていたことをなぜ褒めてあげないのか」と言われたよ』

『2004年の仙台戦で勇人が2ゴールを決めた時、そのことについて会見で記者が質問すると、オシムは、
「ユウトが点を取ったのではなく、ジェフというチームが点を取ったのです」と切り返した。』

物事をどう捉え、評価するかという視点が非常にフラットだ。自分なりの軸がきちんとあり、それを揺るがせにしない。どんな立場の誰に対しても、自分の中にある基準に沿って対する。だから、かつてジェフ市原の得点王だったチェ・ヨンスに対しても、オシムは『守備をしないと、お前は使わない』と言うのだ。

『ただ、それより重要なのは、ミスをして叱っても使い続けるということだ』

『ミスした選手を使わないと、彼らは怖がってリスクを冒さなくなってしまう』

僕はマイナス思考の人間だから、これはとても良くわかる。ミスするというのは大体、チャレンジした結果であることが多い(日常生活でのことならともかく、本書で描かれているのはプロサッカー選手の話なのだから、余計そうだろう)。であれば、ミスしたことよりも、チャレンジしたことを褒めなければ、誰もチャレンジなどしないだろう。

『試合前、オシムはこう言って選手を送り出していた。
「守備路はJの中でナンバーワンのチーム。だから、そこに負けても恥ずかしいことはない。まずは、自分たちのサッカーを思い切ってやろう。負けてもいいから」
負けてもいい。
厳格な監督がホッと漏らしたその言葉が「優勝」という未体験の領域に挑もうとする選手を呪縛から解き放った』

技術や練習方法を教えるのだけが、リーダーの仕事ではない。リーダーとは、自分が見ている者達の能力を、いかにして最大限引き出すのか、という点にこそ意味がある。そういう意味でオシムは、選手たちの気持ちを自在にコントロールする術に長けていた。

『常に考えているのは、選手たちの「勝ちたい」、「克ちたい」という強い気持ちを目覚めさせることなんだ。なぜ、勝ちたいのか。その問いに対する答えは11人いたら11人違うかもしれない。だからこそ選手を観察する必要がある。その上で、対戦相手のことを洞察し、まず、相手が何に長けていて何に劣っているのかを考えさせる。そして自分たちが何をすべきなのか、何をしてはいけないのかを言っていく』

オシムは、『サッカーにおいて最も大切なものもアイデアだ』と言う。走り込みを徹底させて身体を作らせる一方で、選手たちにひたすら考えさせた。ミスのないプレーでも、考えていないと見抜かれたら叱責される。1対1の練習をしろと言われたのに、一方が押されていると、なんで誰も助けに行かないんだ、と怒る。1対1をやれ、と言われてただ漫然とやっているだけでは駄目なのだ。『理解さえできていれば、やってはいけないことは何もなかった』というのがオシムのサッカーだった。

『何も言うことはないだろう。10分で代えただけで十分だ。水本自身があの10分で代えた意味が分からないようだったら意味がない。大事なのは言葉ではなく、自分でその意味を感じているか。前も話したが、時としては何も言わないほうが、100万語を費やすよりも伝わる場合がある』

『モチベーションを上げるのに大事だと思っているのは、選手たちが自分たちで物事を考えようとするのを助けてやることだ』

どういう行動を取ったら自分の意図が相手に伝わるのか、どうすれば選手たちが自分たちで考え始めるのか。そういう環境をいかに整えていくのかが自分の仕事であると、オシムははっきり認識していた。

『システムは、もっとできるはずの選手から自由を奪う。システムが選手を作るんじゃなくて、選手がシステムを作っていくべきだと考えている。チームでこのシステムをしたいと考えて当てはめる。でもできる選手がいない。じゃあ、外から買ってくるというのは本末転倒だ。チームが一番効率よく力が発揮できるシステムを、選手が探していくべきだ』

『無数にあるシステムそれ自体を語ることに、いったいどんな意味があるというのか。大切なことは、まずどういう選手がいるか把握すること。個性を活かすシステムでなければ意味がない。システムが人間の上に君臨することは許されないのだ』

オシムは、与えられた状況の中で最大の成果をどう引き出すかを考える。最大の成果を出すのにこれが足りない、などとは考えない。徹底的な観察と、数学の大学教授への道もありえたほどの明晰な頭脳で、オシムは、目の前にある要素をどう組み合わせて、あり得る最も大きな成果を生み出していくのかを真剣に考える。

そんなオシムは、勝ちにもこだわるが、しかしもっとずっと先を見ている監督でもある。

『私が思考するのは、観客やサポーターはいったい何を望んでいるのか、そして何が目的なのかということです。サッカーとは攻撃と守備から成り立っているもの。その要素の中でいろいろな方法をとることができるが、私としては、いる選手がやれる最大限のことをして、魅力的なサッカーを展開したいと考えている。そういうサッカーを目指すにはリスクが付きものです。しかし(中略)。観客が満足するようなことに挑戦することこそが、大切なことだと私は思っている』

オシムは、日本サッカーをいかに発展させるかと考えている。そのためには、スタジアムにもっとサポーターに来てもらう必要があるし、彼らが来たいと思うような試合をしなければならない、と考えているのだ。

サラエボでオシムのことを聞くなら彼が適任、と言われるほどの人物が、オシムのことをこう評している。

『指導を受けていた我々はイビツァ(オシム)をこう呼んでいたよ。「天国から来た人間」と。コーチであると同時に教育者だった。彼の教えのおかげで私は世界選抜に選ばれたと思っている』

もし何らかの指導者になるような機会があるとすれば、オシムのような人間でありたいと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、ユーゴスラビアの崩壊という現代史の混乱の真っ只中にいながら、信念に基づきサッカーチームを指揮し、また日本では弱小チームを再生し優勝へと導き、また日本代表をも率いた名将、イビツァ・オシムの生涯を描き出した作品だ。

僕は、サッカーにはほとんど興味はない。サッカー選手の名前もメジャーな選手を何人か知っているぐらいだし、サッカーの試合をまともに90分間通して見たこともない。だから、本書のサッカーに関する記述は、よく分からない部分もあった。とはいえ、それでも十分に楽しめる作品だ。何故なら、それほどまでに、オシムの言葉が強く、サッカー以外の場面でも響くからだ。

「オシム語録」とも呼ばれた、ユーモアとウィットに富んだ哲学的な発言は、様々な形で広がりを見せた。オシムは、言葉をとても大事なものと捉えていて、こんな発言をしている。

『実は発言に気をつけていることがある。今の世の中、真実そのものを言うことは往々にして危険だ。サッカーも政治も日常生活も、世の真実には辛いことが多すぎる。だから真実に近いこと、大体真実であろうと思われることを言うようにしているのだ』

『言葉は極めて重要だ。そして銃器のように危険でもある。私は記者を観察している。このメディアは正しい質問をしているのか。ジェフを応援しているのか。そうでないのか。新聞記者は戦争を始めることができる。意図を持てば世の中を危険な方向に導けるのだから。ユーゴの戦争だってそこから始まった部分がある』

そんなオシムが、通訳とどんなやり取りをしているのかという話も本書では触れられていて、それも実に面白いのだが、ここでは割愛しよう。

彼を世界最高の指揮官に足らしめた背景には、間違いなくユーゴスラビアの崩壊という激震があった。オシムはそのことを、こんな表現で曖昧に肯定している。

『確かにそういう所から影響を受けたかもしれないが…。ただ、言葉にする時は影響は受けていないと言ったほうがいいだろう。そういうものから学べたとするのなら、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が…』

オシムは、1941年5月6日にサラエボで生まれた。そのちょうど一ヶ月前には、ドイツ軍がユーゴスラビアに侵攻している。そういう時代だった。ボスニアは、過半数を占める同一の民族が存在しない多民族地域であり、ユーゴスラビアの中で民族名を冠しない唯一の共和国だった。中でも首都サラエボは、セルビア・クロアチア・ムスリムの3民族が融和する多元主義精神の極めて発達した都市だった。そんなサラエボで生まれ育ったことは、間違いなくオシムの人格形成に大きな影響を与えている。

後にオシムはユーゴスラビアの代表監督に就任するが、試合を行う地域をホームとする選手を優先的に起用するようにという圧力をよく受けていた。しかしオシムは、どんな状況であれ、選手の実力だけで起用を決断した。どんな場面においても、フラットに、自分の信念に沿って決断をする。だからこそオシムは、どんな立場の人間からも支持された。

『私はユーゴスラビア崩壊後、すべての共和国のサッカーシーンを取材して来たが、驚くべきことにどの地域の関係者からも、オシムこそが最高の監督であったと聞き及んでいる。そう、バルカンの火薬庫と言われたコソボですら、である。分離独立した後の各共和国が、自民族ではない指揮官の名前を挙げる、それはある意味で国家の正史から外れる行為であり、タブーとすら言える。すべての民族と平等に接していたオシムが如何に求心力を持っていたかの証左である』

『オシムは、あの頃、サラエボの星だった。食料はなくなるし、狙撃を恐れて街を歩けなかった。寒くて、凍えて…。誰が誰にレイプされたとか…。信じられず、仲が良かった友人が、密告し合う…。想像を絶する暮らしが私たちを待っていた。そんな中で、オシムが我々に向けて言った言葉、「辞任は、私がサラエボのためにできる唯一のこと。思い出して欲しい。私はサラエボの人間だ」…そしてその後の彼の活躍を、皆が見ていた。間違いなく…、わが国で…、一番…、好かれている人物です』

オシムは、国内リーグの試合のハーフタイム中に、故郷ボスニアで戦争が始まったことを知る。試合に入り込んだら、何があっても90分間絶対に集中力は途切れないと言われていたオシムは、その日ばかりはピッチから気持ちが離れていた。結果的に、妻とは二年半も会うことが出来なかった。彼が指揮を取るパルチザンは、サラエボに攻めている人民軍のクラブなのだ。難しい決断だった。オシムはそれでも、一つの区切りまでは監督としての責務を果たし、そしてそれから、サラエボのために監督を辞めたのだ。

『オシムは内戦時に自分がサラエボにいなかったことを、強烈な負い目として感じている。心から愛して止まなかった故郷で人が殺されている時、別の場所にいたことを「一生かかっても消えない自分にとっての障害だ」とまで言い切る』

歴史の教科書に載るほどの現代史の渦に巻き込まれながら、自身はプロフェッショナルとして監督の仕事を全うし、同時に故郷を思う者としても何が出来るかと考える。そういう経験が、オシムという異次元の指導者を生みだした。本書の中には、オシムを讃える言葉がこれでもかと登場する。特にそれは、オシムと直接関わった者から発せられることが多い。厳しいが良い監督だ、という評価を、彼の指導を受けた多くの選手が口にする。そして、彼らの薫陶を受けた者たちが、その教えをさらに広めていく。

『現在のサッカーの常識になっていることを、ヨーロッパは百年かけて作りあげました。それを日本はたった十数年で身につけたかに見える。しかし、残念ながらそれらの常識は、まだ日本人の血肉となっているわけではないのです』

そんな、日本サッカー過渡期に強烈なインパクトを残したオシムは、その膨大な「オシム語録」がによって多くの者を鼓舞し続けている。凄い男である。

木村元彦「オシムの言葉」

チェインドッグ(櫛木理宇)

思考停止は、楽だ。
考えなくていい、というのは、容易だ。
万物は、楽な方向へと流れていく。物理法則もそう規定するし、人の気持ちもそういう風になっている。
だからこそ、それに抵抗する意志を持たなければならないと思うのだ。

考えない人間を操作することは、たぶん簡単だろう。
操作されていることに気づきもしないまま、相手の望む行動を取ってしまうだろう。
そうなってしまえば、ただの容れ物でしかなくなる。
そうはなりたくないものだ。

通常であれば、考えない状態で生きていても、酷くマズイことにはならないだろう。
近くに、シリアルキラーでもいない限り…。

内容に入ろうと思います。
筧井雅也は、かつては神童と呼ばれるほど一目置かれる存在だったが、今ではFランクの私立大学に通う落ちこぼれだ。しかし、昔の感覚を捨てきることが出来ず、周囲の人間を見下しながら、大学生活に馴染むことなく日々一人で行動している。
そんな雅也の元に、一通の封書が届いた。榛村大和、42歳。24件以上の殺人容疑で逮捕されたのが5年前。結局警察が立件できたのは9件。16歳から23歳までの男女を監禁し、拷問して殺すという残忍な手口だ。
雅也は、拘置所にいる大和を訪ねた。俳優と言われても信じるくらいの美男子であり、かつて雅也がよく通っていたパン屋の主人でもある。
アクリル板を挟んで向かい合った二人。雅也に対して大和は、予想もしていなかったことを口にする。
「9件の内、最後の1件だけは冤罪だ。それを証明してくれないか?」
大和は、9件目が無実だと証明されても、自分が死刑になるという事実は理解している。しかし、やってもいない罪を被せられるのは不本意なのだ、と語る。葛藤の末、雅也はこの調査をやってみることにした。
大和の担当弁護士の協力もあって、大和の過去に関わる人への聞き取り調査は比較的スムーズに行うことが出来た。様々な人間に話を聞いた。その度に、大和の印象が変転する。大和に悪い印象を抱けない者もいれば、大和をこき下ろす者もいる。悲惨な生い立ちを背景に持つ大和について、母親や養母との関係、少年刑務所に入れられた経緯、ボランティア活動での様子など、雅也は様々な情報を仕入れていく。
しかしその過程で、雅也が予想もしなかった繋がりが見つかり…。
というような話です。

全体的には、嫌いではない、という感じの作品でした。物語の設定は実に魅力的に、この物語がどう着地するのかという関心で読まされましたが、途中から、むむむ…という感じになってきました。想定した通りに物語が進んでいかないこと自体は良いことなのですが、その新たな方向性が、ちょっとしっくり来なかったなぁ、という感じです。

榛村大和の造型は、実に魅力的です。もちろん僕は、シリアルキラーにお目にかかったことはないのだけど、こういう人物はどこかにいてもおかしくないと思えるような強さを感じました。彼は拘置所の内側から出ることは出来ないわけですけど、手出しの出来ないその内側から、言葉だけを使って雅也を動かしていく。また、雅也が掘り出していく過去の大和も、もちろん悪いことをしているし、許容出来る話ではないのだけど、しかし物語であるからこそ安心して大和の悪事を受け入れることが出来るし、様々な経験を持つ大和がどのように形成されていったのか、という流れもなかなか興味深かった。

酷い境遇で生まれたからって人殺しになっていいのか、と口にする人物がいて、それは確かにその通り、正論だなと思うわけです。しかし、やはりその境遇がなければ何か違ったのではないか、という思いも拭うことは難しい。悪影響は連鎖し、なかなかそれを止めることも難しい。そういう現実を、うまく切り取っていると感じました。

雅也の造型もなかなか面白い。今の自分を受け入れる事ができずに、他人を見下してしまう。自分はもっと出来るはずという思いと、結局この程度の人間だったのかという諦念がまぜこぜになって、日常が穏やかにならない。大和の調査を始めることで、雅也は大きく変わっていくのだけど、しかしその変わっていく過程もちょっと普通ではない。とはいえ、雅也が変化していく過程に全然違和感を覚えなかったか、と聞かれると、ちょっと返答に困るが。

大和と雅也のやり取りが、大和を中心と人間関係を掘り返すことになり、やがてそれは雅也の予期せぬ蓋まで開けることになる。その辺りの展開はなかなか面白いと思うのだけど、どうしても、物語の閉じ方がぼやっとしている感じがして、ちょっとなぁ、と思ってしまう。

全体的な雰囲気は結構好きなのだけど、どことなく煮え切らない感じがある。冒頭でバーンと提示した謎と、物語を包み込む設定が非常に魅力的だったので、もう少しわかりやすい着地点に行き着く物語の方が良かったのではないか、と思う。

櫛木理宇「チェインドッグ」

AI経営で会社は甦る(冨山和彦)

メチャクチャ面白い作品だった。けどこの作品、タイトルが実によろしくない。
この「AI経営で会社は甦る」というタイトルは、ぱっと見ると経営者向けの本にしか見えないだろう。いや、実際に確かにそういう側面もある。どんな風に会社の舵取りをしていくべきかという有益な助言を得ることが出来るだろう。

しかし、ただそれだけの本ではない。本書は、AI技術が世界中を激変させる世の中で、会社だけではなく、個人はどう生き残っていくべきなのか、ということについてもかなり触れている作品だ。

冒頭にはこうある。

『今回のブームにおいては、企業が、経営者が、個人が、まずはその表層的な減少に惑わされずに変化の本質をとらえ、生き残っていくために、そして願わくはそれが産業的、経済的に生み出す色々な意味での「稼ぐ力」を獲得していくために、何が問われているのか。それを提示することが本書の目的である』

そう、本書で最も重要な点は、「AIが社会構造をどう変化させるのか」という点だ。これは、いわゆる未来予測ではない。未来予測というのは、科学的な知見に基づいて技術がどう発展していくのかを予測するものだと思うが、本書は、その土台を「経営」という観点に置いている。技術がどう発展するかよりは、その技術が経済的にどんな利益をもたらすのか、そしてその可能性を企業はどう掴んでいくべきなのか、という点について徹底的に考えることで、「経営」をベースにした未来の社会のあり方を予測する作品だ。そしてその上で、その予測通りの世界がやってきた時、個人はどんな風に生きていくべきなのか、という提言までするのだ。こう書くと、タイトルがちょっと合っていないということが伝わるだろうか。

本書を読んで連想した本が二冊ある。一つは、倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ」、もう一冊は落合陽一「これからの世界をつくる仲間たちへ」だ。どちらの本も、それまでの価値観が通用しなくなった世の中で、生き方の選択や世代などによって大きな分断がある人たちの間をどう融和させていくか、ということが書かれている本だ。本書もまた、そういう性格を持つ本だ。AIという、それまでの常識を一変させるテクノロジーが登場し、しかしそれまでの価値観にしがみつきたい人もいる。そういう両者の間をどう取り持ち、お互いに良い結果をもたらしていくのか。その答えが本書には描かれていると思う。

本書には非常に面白い話がたくさん出てくるのだが、僕が面白いと感じた5つのキーワードで本書の中身を説明したいと思う。
その5つを挙げてみると、

「C(カジュアル)の世界からS(シリアス)の世界へ」
「差別化要因をどう捉えるか」
「AI開発において日本が優位な理由」
「スマイルカーブ」
「G(グローバル)の世界とL(ローカル)の世界」

となる。
順番に行こう。

まず「C(カジュアル)の世界からS(シリアス)の世界へ」だ。これは、AIに限らない「デジタル革命」全般の話になるのだが、これまでCの世界で閉じていたものがSの世界に滲み出していくことで何が起こるのか、という話だ。

これまでのデジタル革命は、基本的にすべてがネット上で完結していた。ゲームでもSNSでも検索でもなんでもそうだ。これを「Cの世界」と呼ぶ。

『他方、個別ビジネスの単位で考えると、(Cの世界では)限界費用がゼロということは、参入障壁が低いことを意味する。参入が容易ということは、経済学が教える通り、競争激化によって価格はほとんど限界費用付近まで下がっていくので、サービスは実質的に無料化しやすい』

概ねこれまでのデジタル革命で起こってきたことを考えれば納得してもらえるだろう。

またCの世界ではこんなことも起こりうる。

『基本アルゴリズムは数式の世界なので、たった一人の天才が世界を一変させてしまうことがある』

グーグルのラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグのような天才が世界を変えたという物語が可能だったのは、それがバーチャルな世界で完結していたからだ。

しかし、Sの世界ではそうはいかない。Sの世界というのは、例えば自動運転であったり遠隔操作による手術だったりする。AIの技術がSの世界に滲み出るということは、人の命を左右することになる、ということだ。

『しかし、デジタル技術が本当にリアルに滲み出してくると、物理的な不可に対する耐久性が最大のチャレンジになってくる』

そしてこの現実があるからこそ、今起こっているAI革命においては、リアルのモノづくりにおける蓄積がある企業にこそ価値が生まれうるのだ、と著者は主張する。

例えば、自動運転技術はグーグルがかなり開発をしているが、著者の見立てでは、グーグルによる自動運転は恐らくうまく行かないだろう、と考えている。ソフトの部分を作る力がいくらあっても、ハードを作るノウハウがない。しかもAI革命というのは、大量の情報をディープラーニングで処理して学習させる過程が必要になるので、それには大量の入力情報が必要になる。自動車メーカーではないグーグルには、その情報を手に入れる方法がないのだ。これまでは、脳みそだけ作れば勝てていた勝負だったが、今始まっているのは、脳みそだけではなく手足も作り、さらに脳と手足をミスなく連動させなくてはならないという勝負なのだ。そういう意味で、日本の電機メーカーが軒並みやられていってそれまでのデジタル革命とは意味合いが大きく違うという。この指摘は、なるほどなと感じさせられた。

しかし、モノづくりのノウハウがあるだけでは、やはりこの競争に勝つことは難しい。では何が必要かといえば、次の「差別化要因をどう捉えるか」である。

『AIは今ブームになっているから、AI自体が差別化要因になると思い込んでいる人が多いが、実は、そんなことはあまりなくて、本当の競争領域は、もとから持っているハードウェアのアナログなノウハウな部分であることが多い』

AIを開発することで勝負に勝てるわけではない、ということだ。何故なら、AI革命において最も重要な問いは、「AIを使って何をするか、どう稼ぐか」というものだ。AIを開発しておしまい、などということはありえないわけだ。だったら、道具であるAIは誰かが開発したものを拝借すればいい、という発想になる。

また、トップクラスのAI研究者は、非常に流動性が高いマーケットになるので、特定企業に囲い込むのが難しい、というより実際的な問題がある。特定企業にそういう天才を囲い込むことが出来れば、その技術はその企業の独占として使えるかもしれないが、なかなかそうはいかない。だからこそ、特定企業に囲い込むことが出来ないAIの部分は差別化要因にはならないのだ。

『AI技術そのものの世界で、米国や欧州の企業や研究機関に遅れを取っていることを悲観視する声を聞くが、AI研究は優れた個人が国境や企業の壁を越えてコラボするスタイルになっていて、その基盤となっている人材の流動性は高い。また、アルゴリズムを軸とした要素技術体系もオープンソースになっていく流れを考えると、こうした開発成果は、特定の企業がクローズドに囲い込むことは難しくなるし、それを半導体チップのような世界に閉じ込めても、おそらくインテルのCPUと同じく、一般に外販される可能性が高い。さらにはアルゴリズムの数式自体も公開されて、どの企業でもアクセスできるようになり、まったくもって競争領域ではなくなってしまう可能性さえ高い。
(中略)
現時点での出遅れ感は、経営論的にはまったくもって致命的ではないのだ』

しかし、日本企業は、こういう現状が苦手であるようだ。なんでも自社で開発しなければならないと思ってしまうのだという(しかもそれが出来る技術力がある)。だから、日本企業は「捨てる」ことをしなければならない。

『そうなると、今、日本企業に問われているのは、割り切れるかどうか、(捨てるべきものを)捨てられるかどうか、そう、日本企業が伝統的にもっとも苦手としてきた「捨てる」経営ができるかどうかなのである。
よそから持ってくれば済むものは、自社開発をやめて外部から調達すると割り切れるかどうか。買収したり、ライセンスを買ってきたり、人材を引き抜いたり、そうした技術を取り込むやり方は様々だ』

日本や日本企業が、今起こっているAI革命の中で真に成果を出していくためにしなければならないことについては本書で様々に触れられている。苦手な部分と得意な部分をうまく住み分けて、日本が得意とする部分にきちんと注力すれば、AI革命の波に乗れる可能性は高い、と主張する。

さらにその上で著者は、「AI開発において日本が優位な理由」も挙げている。

『もう一つ大きいのは、少子高齢化という問題と、日本が結果的に移民政策に消極的なことが重なり、ローカル経済圏(サービス産業を中心とする労働集約的な地域密着型産業群)が人手不足に陥っているからだ』

ここが欧米とは大きく違う点だ。トランプが大統領になり、国内に雇用を増やす、というようなことを日々言っているが、何故そう主張する必要があるかと言えば、アメリカでは移民などにより雇用が足りない状態だからだ。だから、そんな状況の中で、さらに雇用を奪いかねないAI技術は、技術開発の段階では障害がなくても、社会実装段階でつまづく可能性が高いという。

しかし日本では、人手が圧倒的に足りていない。農業や介護などの分野で人手が足りていない現状は多くの人が認識しているだろう。そういう状況だからこそ、AIによって労働の生産性を上げるという発想が、欧米諸国に比べれば圧倒的に受け入れやすい状況にあるのだ。

また、こんな要素もある。

『(日本ではドラえもんや鉄腕アトムが人気なのに対して)欧米では心のあるロボット研究をするのは、宗教的なタブーに触れるおそれもあり、映画などでもヒューマノイド(ヒト型ロボット)というのは、まずは気持ち悪いものとして登場する。映画『ターミネーター』などはその典型だ。だから日本以外でヒト型ロボット開発にここまで熱心な国はあまりないし、AI開発においても、日本の人工知能学者の多くは人間の脳の真理に迫ることに血道を上げがちである』

実はこの文章は、「そういうことを日本の研究者はやってしまうリスクがあるよね」という警鐘を鳴らす一文ではあるのだが、見方を変えれば、AIの開発において社会的な嫌悪感が実に低いとも考えられるし、うまくやればそれは日本のアドバンテージになることだろう。

『それもあって、日本では誰に遠慮することもなく、AIやIoTやロボティクスのテクノロジーをガンガン入れて、ガンガン生産性を上げていける土壌ができつつある。ローカル経済圏から政治的な突き上げを食らっている欧米先進国では考えられない状況で、ほとんど唯一の存在ではないか。発展途上国では人を使ったほうが安いし、新興国でもまだ自動化に対するニーズはそこまで高くない。世界で唯一、日本だけが国の総意としてAIやIoTに積極的にチャレンジできる。だから、チャンスなのだ』

さて、そんな風に、惨敗続きだったこれまでのデジタル革命における日本企業が、これからは主導権を握ることが出来る可能性があると本書は指摘する。しかし、その際にきちんと押さえておかなければならないのが「スマイルカーブ」だ。

『スマイルカーブとは、ある製品のバリューチェーン全体を見たときに、川上(企画・設計・部品)と川下(販売・メンテナンス)側の利幅が厚くなる一方、真ん中の製造工程(組み立て)はほとんど利幅が取れなくなる現象を指す』

AI革命はモジュラー化(交換可能な部品でシステム全体を構成すること)の流れを呼び込むので、結果的に組立自体は誰でも出来るようになる。そこが差別化要因にならないので、利幅がどんどんと減っていく。だからこそ、川上か川下のどちらかを押さえなければならない、ということだ。本書の中では、重機メーカーのコマツの名前がよく登場するが、コマツは川上も川下もどちらもきちんと押さえ、真ん中の部分はあまり手を出さないというスタイルを早くから確立したようで、著者は非常に高く評価している。

さて、そんな風にして、AI革命は企業の経営のあり方を大きく変えていく。では、それが個人の生活をどう変えていくのか。ここで重要なキーワードになるのが「G(グローバル)の世界とL(ローカル)の世界」だ。

『自分の生き方のゴールをどこに設定するのかがすごく大事になってきた。業種や職種による違いもあるが、もう一つ大きな軸として、グローバルなゴールを目指すのか、ローカルな世界の中に生きがいを見出すのか。自分なりに考えて決める必要がある。
ローカルな世界で生きていくと決めてしまえば、高いお金を払ってベルリッツに通う必要はなくなる』

本書の中で僕が最も重要な指摘だと感じるのはこの部分だ。AI革命によって、実はローカルな世界が強くなっていく可能性がある、と著者は指摘する。それは、先程のスマイルカーブの話からもイメージ出来るかもしれない。川上側にいるのが、世の中の一部の超天才が占めるグローバルな世界、そして川下側にいるのがローカルな世界で生きる多くの一般人。AI革命によって、川下側にある無数の中小企業の重要性が増していくという。

『ここ数十年、「グローバル化」がキーワードになってから、この国の教育や人材育成は、「グローバル人材」になれないと生き残れない、あるいは二流の人生しか送れないかのような強迫観念に追い立てられてきた感がある。私もかつては同じような思い込みに取りつかれている部分があった。
しかし、産業再生機構時代に地域のバス会社、物流会社、旅館、スーパーマーケットなど、ローカルな経済圏で活動している企業の再生やそこに生きる人々と深いかかわりをもつようになって、この強迫観念に大きな疑問を持つようになった。ローカルな世界にはローカルな価値観があり、ローカルな一流があり、生きがいや幸福がある。どの国に行っても、いわゆるグローバル化が進展しても、生身の人間は地域に住み、日常の生活基盤はローカルな経済社会圏である。そして、前にも触れたように、先進国ほどローカル型の産業、企業で働いている人はむしろどんどん増えている』

こんな風にも指摘している。

『それぞれの地域でリアルな問題を抱えている産業群にいけば、自分が役に立っている実感を持つことができるだろう。逆に、メガバンクのような巨大組織で働いていて、自分が世の中の役に立っている感を持つのは困難だ』

AI革命は、様々な不安や憶測(20年後には仕事の大半がなくなる、など)が渦巻くが、「経営」という観点からAI革命を捉えた時に、現実的にどんなことが起こりうるのか、について指摘する本書は、AIによって激変するだろう未来をどう生きていくのか、という問いに対して意味のある答えをもたらしてくれる作品だと思う。タイトルのせいで、本書を読むべき人のところまできちんと届かない感じになっているような気がするのがもったいないが、本書は経営者だけではなく、未来を生きるすべての人が読むべき作品だと思う。

冨山和彦「AI経営で会社は甦る」

雲は湧き、光あふれて(須賀しのぶ)

甲子園に限らないが、どんなものにも、それを支える人間がいる。
甲子園は、球児たちのものだろう。全力でバットを振り、全力でボールを追いかける球児たちのためにある。しかし、そういう風な立場ではなくても、甲子園と関わる者たちはいる。彼らにしても、彼らの中での甲子園の戦いというのはある。しかし、なかなかそれは表に出ることはない。

甲子園という舞台で迷いなく全力でプレーできる選手以外の人たちを描き出す物語だ。ライト系の小説が出版されるレーベルから出ているのだが、芯のしっかりした、ライト系という括りには収まらない作品だと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、3編の短編が収録された短編集です。

「ピンチランナー」
武蔵高校の須藤は、代走専門で試合に出場する。他の代走選手を差し置いてスタメン入りしてはいるのだが、試合では、今この場面で俺必要か?と思えるような場面で投入される。とはいえ、監督が行けというなら行かないわけにはいかない。
去年まで、武蔵高校は、甲子園に行けるかもしれない、と盛り上がっていた。益岡がいたからだ。エースで四番。その凄さは知れ渡っていた。そんな益岡が、強豪の私立校の誘いを断って公立校の武蔵高校なんかにやってきたのも驚いた。益岡のお陰で、去年の県大会はベスト4まで行った。今年こそは、と誰もが思っていた。
益岡が腰を痛めるまでは。
医者からは、これ以上野球をやったら歩けなくなる、と言われているほどだという。益岡は、もう野球が出来ない。そんな雰囲気の中で、去年のようなテンションを維持することは難しい。
しかし、思いもかけないような展開になった。監督に呼ばれた須藤は、お前は益岡専門の代走(ピンチランナー)にする、と。益岡は、試合で1打席だけ立つ。そこで必ずヒットを打つ。なんとか一塁まではたどり着くから、後は須藤に任せる、ということらしい。しかし、そんな作戦そのものよりも、益岡の態度が気になる須藤は…。

「甲子園への道」
スポーツ専門の蒼天新聞関東局編集部の高校野球班をまとめる松崎キャップから、泉は翌日取材に向かう球場を指示されて驚いた。Aシードの東明学園の初戦が第一試合にあるのだ。注目の木暮投手を始め、戦力に厚みのある、県下で圧倒的な強さを誇る高校だ。そんな試合を任され、泉は気合を入れると共に気鬱にもなった。というのも松崎から、木暮のLINEを聞き出せという、どう考えても不可能なミッションを与えられたからだ。とはいえ、5人いる新人の中で甲子園記者として選ばれるのはただ一人。5人の内で唯一野球経験のない泉は、がむしゃらにやるしかない。
その東明学園の第一試合は、波乱の幕開けとなった。対戦相手は三ツ木高校。毎年初戦敗退を喫する、何の特徴もない弱小公立校だと、同期に成瀬は言っていた。部員は11名、試合前のシートノックも、東明学園と比べなくても明らかにレベルが落ちる。
しかし、そんな三ツ木高校は、東明学園と途中まで互角の戦いを見せたのだ。
その立役者が、二年生投手の月谷悠悟だ。特に球威のあるわけではない彼の球を、東明学園の選手たちは何故か打ち返すことが出来なかった。バッター自身も、首を傾げている。何故打てないのか…。試合が終わってすぐ、泉は東明学園ではなく、三ツ木高校の月谷の取材へと向かった…。

「『雲は湧き、光あふれて』」
日本が第二次世界大戦へと突入していく、そのちょっと前、昭和15年頃のお話。
鈴木雄太は、地元では強いと評判の普川商業の野球部に入部して三年、初めて先発を任された。対戦相手は、同じく名門の佐川中。しかし雄太の調子は上がらない。良いところがないまま、滝山と後退させられた。
雄太は、出来るだけ滝山の投球を見たくない。何故なら、見ると頭の中の「神様」が遠のいてしまうからだ。昭和9年に行われた日米野球、そのマウンドに立った少年がいた。沢村栄治。彼の神様だ。しかし、「沢村みたい」と評される速球を持つ滝山の投球を見ていると、頭の中の沢村栄治が薄れてしまうのだ。
やがて雄太は、キャッチャーに転向させられた。滝山とバッテリーを組むことになるのだが、滝山は雄太のサインなんて一切無視する。どうせ自分の球なんか、どこに投げたって誰も打てない、という傲慢さがそうさせるのであり、事実その通りなので雄太も何も言えないでいる。ピッチャーを辞めてまで野球部に残り続ける意味はあったのか…。バッテリーと呼べないような関係を続けながら雄太は思う。
そうこうしている内に、日本を取り巻く状況はいよいよ怪しくなっていき、次第に適性国のスポーツである野球をやっていられないような雰囲気になっていき…。

というような話です。

結構好きな作品でした。野球にはさほど興味はないし、甲子園にも特別な思い入れはないんだけど、まっすぐに甲子園を目指すみたいな小説ではなくて、甲子園とのちょっと変わった関わり方を描く作品で、その切り取り方が面白いなと思いました。

一番初めの「ピンチランナー」は、よくこんな面白い設定を考えるなぁ、と思いました。普通の野球小説ではまず成立しない「ピンチヒッター」と「ピンチランナー」の関係が、実によく描かれていると思いました。腰を痛めた強打者と、盗塁のセンスだけは抜群の男が、二人で力を合わせることで試合の鍵を握る存在になる、という設定も秀逸なのだけど、その二人の関係が一筋縄ではいかない、という点も面白いと思いました。かたや、怪我をして戦線離脱しながら対戦相手の研究に余念がない、かたや、スタメン入り出来るというのにただ走るだけの自分の存在に違和感を覚えている。どちらも、真っ当な形で野球と向き合うことが出来ないが故の葛藤やぶつかり合いみたいなものを内に抱えていて、そんな二人が自分たちのちからをどう試合で活かしていくのか、という展開は面白いと思いました。

また、お互いの関係性という意味では「『雲は湧き、光あふれて』」も良かったですね。戦争直前という、およそ野球をするのに良いとは言えない環境の中で、それぞれがそれぞれの立場の中で野球をしている。日本を取り巻く状況が厳しくなっているが故に、才能があるだけでは、野球に対する情熱があるだけではどうにもならない現実に直面せざるを得ない中で、傲慢で自分のことしか考えていない豪腕ピッチャー・滝山と、投手志望でありながらキャッチャーに転向させられた雄太の、どちらにもあるやりきれなさみたいなものがうまく描かれていると思いました。

ただ、僕が一番好きな話は、二話目の「甲子園への道」でした。野球の部分の話も実に面白かったですが、この話が一番好きなのは、「伝えること」の難しさを描いている部分です。

強豪校である東明学園と、弱小校である三ツ木高校の対戦は、観客の予想を遥かに裏切る非常に面白いゲームで、さらに、泉が取材に行った三ツ木高校のエース・月谷のキャラクターも実に面白い。泉の質問に、予想の斜め上を行くような回答を返してくる月谷には、多くの人が魅力を感じるのではないだろうか。「

そういう野球の部分も、実に面白い作品だ。しかし、本書で僕が一番面白いと感じたのは、泉がキャップに出した原稿がどうなったのか、という部分だ。なるべく具体的なことを書かずに僕が面白いと思った部分に触れようと思う。キャップは泉の原稿に対して何かをした。その何かは、泉を落胆させた。その記事は、泉が初めて書名入りで載った記事であり、それ自体は誇らしいことだったが、しかし泉は素直に喜ぶことが出来ない。キャップがしたことを割り切って捉えることが出来なかったのだ。

しかしその後泉は、思いがけない反応に直面することになる。そしてそれは、キャップが手を加えた記事によって生まれた反応だったのだ。そのことの意味を、泉はきちんと捉えようとする。キャップからぶつけられただけの言葉は泉の内側に入り込んでいかなかったが、その反応を知った後、ようやく泉はキャップの言葉を理解できるようになる。

具体的なことを伏せたので非常にぼんやりした言い方になったが、この部分が、「伝えること」の難しさを描いていて、非常に面白いと思いました。

甲子園をテーマに、様々な切り取り方を見せる作品で、野球をあまり詳しく知らない人にも、よくある野球小説には飽きている人にも、どちらにも楽しめる作品だと思います。

須賀しのぶ「雲は湧き、光あふれて」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)