黒夜行

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BRODY 2017年4月号 寺田蘭世のインタビューを読んで

僕にとっての乃木坂46の魅力の一つに、「ネガティブさ」がある。僕の中の「アイドル」というイメージを超えて、彼女たちは「ネガティブ」な自分を見せる。全メンバーがそういうわけではないが、乃木坂46にはそういうメンバーが多いような印象を僕は持っている。

「ネガティブさ」は、言葉を生む。

穂村弘の「蚊がいる」というエッセイがある。その巻末で、又吉直樹との対談が収録されているのだが、穂村弘がサッカー部に所属していた又吉直樹に対して、こんな風に言う場面がある。

『僕はそこが謎で。たとえば運動ができないとなぜできないかを考えると思うんです、言葉で。できるヤツは言葉要らないんですよ、できるから。モテるヤツ、運動できるヤツ、楽器弾けるヤツはそえでコミュニケーションできるから言葉を必要としない。だから意外で、サッカーができたのに、なぜ本を読む必要があったんだろうって』

「できるヤツ」は言葉を必要としない。その通りだ、と僕も思った。「できない」というネガティブな葛藤を抱える人間だからこそ、言葉を取り入れ、言葉で思考し、言葉で生きていくのだというのは、僕の実感としてもある。

だからこそ、乃木坂46のメンバーの言葉には力があるのだ、と僕は感じる。

僕は、テレビ(乃木坂工事中)と雑誌でしか基本的に乃木坂46を知らない。だから、選抜に入らないメンバーについてはあまり知る機会がない。寺田蘭世は、今回の17thシングル「インフルエンサー」で初めて選抜メンバーに選ばれた。だからだろう。最近雑誌のインタビューで、寺田蘭世をよく見かけるようになった。

寺田蘭世については、ほとんど知らない状態ながらも、言葉の強さが印象に残るメンバーだという印象はあった。時折視界に入る寺田蘭世の言葉や、本を読んでいるというイメージから、そんな強さを感じていたのだろう。

そしてやはり、寺田蘭世の言葉は強いなと、雑誌でのインタビューを読む度に感じるようになった。

『常にネガティブなので。』

寺田蘭世は、自身のことをそう語る。なるほど、やはり「ネガティブさ」が彼女の言葉の強さを生んでいるのだ、とこのインタビューを読んで改めて感じた。

しかし。このインタビューは僕に違和感ももたらした。
寺田蘭世の言う「ネガティブ」とは、一体何なのだろう、と。

先程僕は、「できない」という考えが言葉を生むのだ、と書いた。そしてその、「できない」と思ってしまうことそのものを指して「ネガティブ」と言うのではないか。僕は漠然と、「ネガティブ」というものをそんな風に捉えていた。

乃木坂46の他のネガティブなメンバーの印象も、大体近い。僕の中では、齋藤飛鳥や西野七瀬はネガティブなメンバーだと思うが、彼女たちの思考からは、「できない」という諦めみたいなものを感じる。もちろん、そう感じてしまったところをスタート地点として、その「できない」をいかに乗り越えていくのか、という葛藤を繰り返すことで彼女たちは成長してきたのだろう。そこにはきっと言葉の力や支えがあっただろうし、だから「ネガティブさ」が彼女たちにとってただマイナスだったわけではない。そういう風に感じていた。

しかし、寺田蘭世からは「できない」を感じられないのだ。

『常に負けず嫌いだし、褒めて伸びるんじゃなくて、挑発されたほうがスイッチが入るタイプなので。
―誰が挑発するんですか(笑)。
今はもうないですけど、コンサートのリハで怒られてばかりだったんですよ。右も左もわからない研究生時代だったのに、誰も助けてくれなくて。でも、心が折れるんじゃなくて、私は燃えたんですよ!面白いじゃんと思っちゃって!みんな泣いてて、私も涙は出ているんだけど、「面白い!」と思ったので。』

この発言からは、「できない」を感じることが出来ない。もちろん「私も涙は出ている」と書いているので、何らかの感情はあったのだろう。しかしそれはきっと、「できない」ではないのだろうなと、この発言からは感じられる。

『私は加入当初から「センターになりたい」と言わせてもらってきたんですけど…』

これは、寺田蘭世が選抜メンバーに選ばれる以前から目にしていた発言だ。選抜に入る前野寺田蘭世に対する僕のイメージは、「言葉が強い」と「センターを目指している」の二つだったと言っていい。それぐらい寺田蘭世はそう繰り返し発言している。この発言からも、「できない」を感じることが出来ない。

寺田蘭世の「ネガティブさ」が、どこにあるのか、僕にはなかなか見えない。

色んな可能性を考えることが出来る。
まず、自分で「ネガティブ」だと言っているけれど、本当はそうではない可能性だ。しかし、恐らくそれはない。それはこんな発言からも分かる。

『だからメンバーにもスタッフさんにも、「もっとポジティブになれ」って言われるんです。去年の誕生日はみんなからそう連絡が来て(笑)。』

少なくとも、寺田蘭世の周囲にいる人間は、彼女の「ネガティブさ」を感じとっているようだ。感じとっているどころではなく、誰が見ても明らかなほどネガティブなのだろう。こんな風にも言っている。

『コンサートのリハーサルでも常に斜め下を向いてて。カメラを見ることができなくて。リハーサルだと私は恥ずかしさが勝っちゃうんです。』

これも、彼女の「ネガティブさ」の発露なのだろう。

寺田蘭世が誰が見てもネガティブなのだとすれば、考えられることは、彼女が意識的にそれを隠している、ということだろう。いや、ネガティブである、ということは言っているわけだから、ネガティブであること自体を隠しているという意味ではない。そうではなくて、ネガティブさがあることを認めた上で、少なくとも対外的にはそのネガティブさが存在しないように振る舞っている、ということだ。

『アイドルってそういうものじゃないですか。私たちが頑張っている姿を見て、ファンの方も頑張ろうと思うから成立しています。だから、私もそういう存在になれたらいいなっていう意味を込めました(※武道館での、モハメド・アリの名言を意訳した発言に対して)。』

自分の中には「ネガティブさ」が横たわっている。しかし、アイドルというのは「ネガティブさ」を全面に出すような存在ではない。自分の努力が誰かの努力に繋がるような、そういう存在だ。だから自分の「ネガティブさ」が表に出ないように意識しよう。そう考えているのかもしれない。

そうだとすれば、齋藤飛鳥や西野七瀬とは違うアプローチを取っていることになる。彼女たちには、自らの「ネガティブさ」を隠すつもりはない。表に出すことのデメリットまで認識した上でそれを晒し、その状態で受け入れてもらえるように長い時間を掛けてきた。寺田蘭世はそうではなく、「ネガティブさ」を抱えた存在として受け入れられることを拒絶し、ネガティブであることを表に出しながらポジティブに振る舞うことで、アイドルという存在にしか伝えられない何かを伝えようとしているのかもしれない。

しかし、それもまたイメージに合わない。時折テレビで見かける寺田蘭世は、特別ネガティブでも、特別ポジティブでもないように見える。また、『ネガティブだからこそ成立しているところもあるんですけど』という発言からも分かるように、アイドルだからと言って自分の「ネガティブさ」を否定的に捉えている様子もない。

だから結局こんな風に考えるしかない。寺田蘭世にとって「ネガティブさ」は、常に取り込んでは体内に保持しておかなければ動けなくなってしまうようなものなのだ、と。

『「覚えとけよ~!」っていうのが私の原動力なのかな』

「ネガティブさ」が寺田蘭世を動かしている。彼女にとって「ネガティブさ」は、隠すものではなく、そもそも内側にあって当然のものなのだ。それが自然体なのであり、取り除いたり隠したりするために何かするような、そういう対象として捉えていない。そういうことなのだろう。

そしてその考え方の背景にあるのは、寺田蘭世のこんな考え方なのだろうと思う。

『私、満足することは死ぬまでないだろうっていうスタンスで生きてるんです』

この発言から、僕はこんなことをイメージした。
寺田蘭世は、「満腹」になることに対する恐怖がある。その恐怖がどのように寺田蘭世の内側に芽生えたのかについて興味はあるが、それはまだ分からない。しかし「満腹」に対する恐怖が常にあって、何らかの形で自分が「満腹」になることを妨げるものがなければ安心できない。それが彼女にとっての「ネガティブさ」なのだ。つまり彼女にとって「ネガティブさ」というのは、取り込むことによって「満腹感」を妨げるようなものなのだろう。「ネガティブさ」は寺田蘭世の原動力ではあるが、それは燃料や栄養とは違う。自分の内側にある「満腹感」を妨げるための薬のようなものなのだと思う。

そう考えると、次の発言も理解しやすくなるのではないかと思う。

『(選抜に選ばれた瞬間について)いつ呼ばれてもいいっていう心の準備ができていた時期だったから、自分で感情をセーブすることができたんです』

僕も、寺田蘭世が選抜に選ばれた瞬間の彼女をテレビで見た。非常に落ち着いていた。「満腹感」に対する恐怖として「ネガティブさ」という薬を常に取り込んでいる、と考えると、寺田蘭世のあの振る舞いも、理解しやすくなる。

「ネガティブさ」にも多様性があって面白い、と感じた。例えば齋藤飛鳥の「ネガティブさ」は、「こだわりを持たない」という生き方のスタンスを生んでいる。

『私、なんに対しても“こだわりを持つ”ってことが好きじゃなくて。もちろんいい方向に進む努力はしますけど、なるようになってくれればいいし、私は絶対にこうなりたいって夢は持ちたくない。周りにも、あんまり期待はしたくないんです。そのほうが、ワタシ的にはいい意味で楽なんですよね』(「Graduation 高校卒業2017」より)

齋藤飛鳥の場合、「ネガティブさ」が先に存在する。自分の内側にどうしても巣食ってしまう「ネガティブさ」を押さえ込むために、「こだわりを持たない」という生き方のスタンスを選択している。自分の努力によって未来を掴むのではなく、努力はもちろんするが結果として目の前に現れた現実を受け入れることで、自分の努力と未来を切り離し、「ネガティブさ」に囚われないように意識している。

寺田蘭世の場合、僕の解釈では、「満腹感」への恐怖が先に存在する。その処方箋として「ネガティブさ」があるのだ。「満腹感」への恐怖は、「食べる」という行動なしには生まれ得ない。だからこそ寺田蘭世は、センターを目指すというような大きな目標を持ち、それに向けて努力する(=「食べる」)という行動を取る。しかし「満腹」にならないように「ネガティブさ」もきちんと処方する。そのバランスの中に、寺田蘭世というアイドルは存在している。

『私は鈍感だし、気にしないんです。何を言われても、「いや、私は私なので」っていう感じなので(笑)』

『だから、人の意見にも左右されません(笑)』

「ネガティブさ」からは程遠いように感じられるこれらの発言も、「満腹感」への処方箋だ、と捉えれば分かる。寺田蘭世の中には、「満腹を目指すベクトル」と「満腹を避けるベクトル」の両方が存在する。「満腹を避けるベクトル(=「ネガティブさ」)」は、ある意味でブレーキなのだ。だから、時々しか顔を出さない。寺田蘭世にとってのアクセルは「満腹を目指すベクトル」であり、だから彼女の発言には、そういう方向のものが多くなるのだろう。

自分でこうして文章を書いてみて、やっと寺田蘭世のことを少し捉えられるようになったように思う。この文章を書き始めた時は、【「満腹感」に対する処方箋としての「ネガティブさ」】という概念はまだ持っていなかった(書きながら考えた)ので、この概念を自分の思考の中から取り出せた満足感がある。

ここまで読んでくれた方の「寺田蘭世像」とは、どの程度当てはまるだろうか?

さて最後に、数学の話をしたい。というのもこのインタビューの中で、寺田蘭世がこんな発言をしているからだ。

『みんな、枠にはめようとするじゃないですか。私はそれが嫌いで。決まりきったことの象徴が数学なんです』

この記事を寺田蘭世が読んでくれる可能性は低いと思うが、それでも僕は、寺田蘭世の中の「数学」の概念を変えたくて、以下の文章を書く。

(以下の文章は、「僕がそう思っていること」です。詳しく調べながら書いているわけではないので、僕自身の認識の誤りなどはあるかもしれません。その点を踏まえてお読み下さい)

僕は、数学ほど自由な学問はない、と考えている。その理由を、いくつかの例を示しながら書いていこうと思う。難しい話はしないつもりなので安心して読んでほしい。

まず、「数学には決まりきったことなどない」ということを示すために、「ユークリッド幾何学」についての話を書く。「ユークリッド幾何学」について詳しいことは書かないが、「ユークリッド幾何学」には、それを構成する大前提となる5つの「公準」と呼ばれるものが存在している。

1.2点を直線でつなげる
2.有限直線を好きなだけ延長できる(※線分は、どこまでも長く出来る、という程度の意味)
3.任意の点と距離に対し、その点を中心としその距離を半径とする円をかける(※点が一つあれば、その点を中心に円が書ける、ぐらいの意味)
4.直角はすべて等しい
5.平行な二直線は交わらない(平行線公準)

用語が難しい部分もあるだろうが、言っていることはどれも当たり前だと感じられるだろう。「ユークリッド幾何学」は、この5つの当たり前を大前提として成り立っている。

ユークリッドというのは、紀元前3世紀頃の数学者だ。それから2000年以上の間、数学者はこの5つの「公準」を正しいものと考えてきた。

しかし、5つ目の「平行線公準」だけは、長いこと議論の対象だった。これだけは、うまく証明することが出来なかったからだ。そこでこんな風に考える数学者が現れた。

「平行線公準を満たさない幾何学も存在するのではないか?」

そうして、「非ユークリッド幾何学」というものが生まれた。これは、「ユークリッド幾何学」の前提となる5つの「公準」の内、最初の4つは満たすが、最後の「平行線公準」だけは満たさない。つまり、「平行な二直線が交わる」ことを前提とした幾何学なのだ。

この一例だけ見ても、数学が「決まりきったもの」という印象を払拭できないだろうか?数学には、確かに様々なルールがあるように見える。実際にあるのだけど、しかしそれは「数学という学問」が押し付けてくるルールではない。数学の様々なルールは、人間が決めている、と言っても言い過ぎではない。何故そう決めるのかと言えば、「そういう風にルールを決めると良いことがあるから」だなのだ。

寺田蘭世は、武道館で『1+1=2って誰が決めたんだ』という発言をしたようだ。この発言からは、「数学という学問が、1+1=2というルールを定めている」と捉えている印象を受ける。しかし実は違う。「1+1=2」と定義したのは、人間だ。何故そう決めたのかと言えば、そう定義すると「良いこと」があるからだ。別に「A+1=足」と定義したっていいし、「7+×÷1==Z」なんていう定義だってすることは出来る。重要なのは、そういう定義をした時に「良いこと」があるのかどうか、ということだ。その定義によって、誰かにとって(主に数学者にとってだが)「良いこと」があれば、その定義は残る。新しい概念を定義し、その定義によってどういう広がりがあるのかを考える。これが数学者の仕事だ。決して数学は、「数学という学問」が元から持っている「決まりきったこと」を掘り出すような営みではない。

実は数学者の中でも、この点についての意見は割れている。数学は「神様が作ったもの」だと考える数学者もいるし、数学は「人間が作ったもの」だと考える数学者もいる。僕は今、後者の説明をした。僕自身、どちらかの考えに傾倒しているわけではない。重要なのは、数学は「神様がつくったもの」、つまりあらかじめルールが決まっているものだと確定しているわけではない、ということなのだ。

もう一つ書きたいことがある。それは、数学は「現実」とリンクさせる必要がない、という点で自由度が高い、ということだ。

例えば、歴史の場合、「過去に起こったこと」を知ろうとする学問だ。「起こらなかったこと」について考えるのは、物語や空想であり、歴史という学問ではない。

歴史においても、「こういうことが起こったかもしれない」という考え方は仮説という形で随時出てくるだろう。しかしそれらは、何らかの資料によって事実と確定されなければ、学問としての価値は持ち得ないはずだ。

科学も同じだ。例えば物理学の世界には「ひも理論」というものが存在する。内容について詳しく知らないが、「ひも理論」は、理論としては完璧だしとても美しいと言われている。しかし、「ひも理論」を実証するためには、現在の観測技術では観測が不可能な現象を捉えなければならない。「ひも理論」は、理論上は完璧だが、現実に起こっていることであるかどうか、現時点では確定することが出来ない理論だ。「ひも理論」について考えることに価値がないわけではないが、やはり実験や観測によって正しさを証明されなければ、「ひも理論」は物理学の中で評価されない。

このように学問には、「その仮説が現実とどうリンクするのか?」が重要となるものが多く存在する。

しかし、数学は違う。数学では、現実には存在しないもの、現実と関わりを持たないものも考えることが出来る。

例えば、「虚数i」を挙げることが出来る。「虚数i」は、「2乗すると-1になる数字」だ。こんな数字は、現実世界のどこを探しても対応するものを見つけることが出来ない。「1」という数字は、「りんご1個」のように現実と対応させることが出来るが、「虚数i」は現実とは対応しない。

しかし「虚数i」は、現実の世界で非常に役立っている。例えば、パソコンに入っている半導体の動作は、「虚数i」の存在抜きには説明できないという。現実世界には、「虚数i」と対応するものは存在しないのに、その存在は現実世界で役に立っているのだ。

重要なことは、半導体の動作を知りたい、という欲求が先にあって「虚数i」が生まれたわけではない、ということだ。数学者の、「虚数iという数字があったらどうなるだろう?」という妄想が、結果的に現実と結びつきを持ったのだ。

現実とどう対応するのか、という点が常に問われる学問と比べて、数学はとても自由だ。それが現実からどれだけかけ離れた概念であろうとも、定義し思考を深めることが出来る。これもまた、決まりきったことなどない、という印象を持ってもらえるのではないかと思う。

寺田蘭世の中の「決まりきったことの象徴」が、「数学」ではない何かに変わることを密かに期待している。

「BRODY 2017年4月号 寺田蘭世のインタビューを読んで」
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隙間を埋める“パテアイドル”としての秋元真夏の真骨頂

秋元真夏には、さほど関心を持っていなかった。乃木坂46には控えめでマイナス思考のメンバーが多く、僕はそういうメンバーに興味を惹かれることが多い。元気で明るいキャラクターを全面に押し出していた彼女は、正直に言って僕の興味からは外れていた。

秋元真夏に引っかかりを覚えたのは、確かこのインタビューを目にした時からだったと思う。少し長いが引用する。

【完全に過去のトラウマからきていると思うんですけど…ちょっと暗い話になっちゃいますけど、小3のときにいじめられていて、周りのひとを疑うようになってしまったんですね。そのときに相談した先生も信用できなくて、大人も同世代もみんな疑うところから始まったから、ひとを信用するのにすごく時間がかかってしまって。だからとりあえずはバリアを張って、徐々に信用できるところを探していくのがいいのかなって。そういう結論に行き着いたんです。ただ、その癖が本当に直らないんですよ。大人になれば直ると思っていたんですけど、この年齢になってくるとそういう自分をだんだん認められるようになってきて。昔は友達がたくさんいないとダメだって思っていたんですけど、いまは本当に信頼できるひとがひとりかふたりいれば十分ぐらいの気持ちになりました。バリアを張りつつも、大丈夫なところを探していくって感じですかね】「BUBUKA 2016年11月号」

このインタビューを読んで、僕はとても意外に感じた。「周りの人を疑う」「ひとを信用するのにすごく時間がかかって」「バリアを張って」「信頼できるひとがひとりかふたりいれば十分」と言ったような言葉は、僕が勝手に抱いていた秋元真夏のイメージとはかけ離れていたからだ。あの元気でパワフルで何事にも前のめりで進んでいくような在り方からはちょっとイメージ出来ない内面だと感じたのだ。

たぶんその時からだろう。秋元真夏にちょっと興味が湧きはじめた。マイナス思考で暗いところがあるから、というわけではなく、アイドルとしての秋元真夏の在り方がどんな風に生み出されているのか、という部分に関心を持ったのだ。秋元真夏の主張するメンタリティから、あのテレビで見るような「THE秋元真夏」みたいなアイドル像がどうして生まれるのだろう?という部分に引っかかった。

そうして、過去のインタビューなどを見てみると、秋元真夏のスタンスが見えてきたような気がした。それは、こんな発言に現れている。

【(生駒里奈がAKB48と兼任することが発表された時のこと)私は、そういうビックリすることとか、大きい出来事があったときって、自分の感情よりも「今、どうしなきゃいけないんだろう?」っていうのが頭に最初に浮かぶんです。正直、どうしたらいいかわからなかったけど、「とりあえず生駒ちゃんのそばにいなきゃ!」っていうのが、一番最初にありました】「乃木坂46物語」

【でも、ちょっとは無邪気になりたい。福神のメンバーはアクションを起こす子が少ないので、バランスを見て私がふざけてみたりするし、(永島)聖羅みたいにワーッ!と勢いあるメンバーがいるときはツッコミに廻ったりと、出たり引いたりのバランスを毎回考えちゃう。前に出ようと意識してしまうと、ひとり悪目立ちしてしまうので、キャラを出していいタイミングは常に見極めています】「アイドルspecial2015」

「THE秋元真夏」を作り出しているのは、「隙間を埋める」というスタンスだ。

昔テレビで聞いて、とても印象的だった関根勤のフレーズがある。関根勤は自身の芸人としてのスタンスを「パテ芸人」と評したのだ。誰が司会で誰がひな壇にいようが関係なく、自分はその場における隙間をどんどん埋めていくパテ(接着剤みたいなもの)だ、と。ちょっと途切れそうになった間とか、誰も拾わなかったボケとか、そういうものを拾いながら、その場その場の隙間を埋めていくんだ、と。非常に印象的なフレーズだった。芸人はグイグイ出ていくイメージがあるけど、そうではない闘い方もあるのだなぁ、と感心した。

そのフレーズを借りて、僕は秋元真夏を「パテアイドル」と評したい。

秋元真夏も、乃木坂46というグループ全体の隙間を常に埋める意識でアイドルをしているのだと思う。それは先程の発言にも滲み出ている。自分がどう思うか、どうしたいか、ということよりも、「どうしなければならないか」が先に浮かぶ。周りの雰囲気を見ながら、自分がどういう行動を取るべきか考える。それは、アイドルだとか芸能人だとか関係なく、誰もがある程度生活の中でやっていることだとは思うのだけど、関根勤や秋元真夏ほど自覚的に徹底的に実践していくと、それは一つの武器になっていく。

僕は秋元真夏を「元気で明るい女の子」と見ていたが、これも乃木坂46にそういうキャラクターが少ないと感じていたから自覚的にそう見せているのだ、ということなのだろう。足りない部分を探り、そこを埋めるために自分を変質させもする。ここに秋元真夏の凄さがあるのだ、と理解できるようになった。

【私はアイドルというものを職業として捉えているので、そんなふうに聞こえちゃっているのかもしれません。アイドルとは程遠かった自分をどうにかアイドルに近づけようとして日々活動していて。今の見せ方が間違っているんじゃないかと思って不安になることもあります】「ENTAME 2016年9月号」

不安になるのも当然だ。例えば西野七瀬は、【私は「求められていること」が分かってないので、自分が思うようにずっとやってきたという感じなんです】「EX大衆 2017年1月号」という発言をしている。当然、自分で決める怖さはあるが、何か間違っていても自分の責任だと思える。しかし秋元真夏の場合は、自分の周りにどんな隙間があるのか、そしてその隙間を埋めるために自分がどんな振る舞いが出来るのか、という思考が「THE秋元真夏」を成り立たせている。「自分の周りの隙間」は、メンバーの関係性や世間からの見られ方などで絶えず変化するし、それを捉え間違えれば自分自身の振る舞いも外れることになってしまう。その怖さを感じながら、秋元真夏は日々「THE秋元真夏」というアイドル像を作り出している。

【私自身は「乃木坂っぽい」と言われる雰囲気に、あえて溶け込まないようにしようと思っています。だからといって浮いた存在になるわけではなくて、溶け込んだら自分を甘やかしてしまって挑戦する心を忘れてしまいそうなんですよね。だからあえてみんながやらないことをしよう、驚かせるようなことを考えよう!って思っています】「ENTAME 2016年9月号」

「乃木坂らしさ」は大事だという考えは、メンバー皆が共有しているだろう。しかし同時に、「乃木坂らしさ」だけに囚われることは衰退でしかない、という考えも共有しているはずだ。「乃木坂らしさ」を保ちながら「乃木坂らしさ」から外れていく。アイドルという、競争相手が膨大に存在する闘いの中で勝ち抜くために、そんな矛盾した前進を彼女たちはしなければならない。

そんな時、意識的に「乃木坂らしさ」から外れることが出来る人間の存在は大きい。

「乃木坂らしさ」は、乃木坂46メンバーが自然と醸し出してきた雰囲気が定着したものだろう。意識して生み出すのは難しいのかもしれないけど、メンバーが自然にしていれば出てしまうものでもあると言える。しかし、「乃木坂らしさ」から外れるには力がいる。しかも、ただ外れるだけ、というわけにはいかない。それは乃木坂46全体にとっては意味があるかもしれないけど、外れた個人の評価は下がるかもしれない。その辺りのバランスを、秋元真夏は絶妙に取る。「乃木坂らしさ」からうまく外れながら、同時に乃木坂46のファンから愛される。そんな離れ業を日常的にやっているのだ。

【でも、グループ全体のことは基本的にはプロデュースしてくださるスタッフさんや秋元先生にお任せしています。どんなものにもなれるようにしておくことが私たちの役目だと思うので】「ENTAME 2016年9月号」

この覚悟が、素晴らしいではないか。

秋元真夏がこういうスタンスを取るようになったのは、もちろん冒頭で挙げたようなメンタリティも背景にあるだろう。バリアを張って人と関わるのなら、相手に合わせて自分を組み替えて、その仮面でその人と関わっていく、というやり方が楽だったという部分もあるだろう。

しかし、それ以上に影響を与えたのは、やはり加入後すぐに活動休止、その後電撃的な福神入りという、秋元真夏のデビューの仕方にあっただろう。彼女は乃木坂46の1期生でありながら他のメンバーと同じスタートラインに立てなかった。さらに、秋元真夏はサプライズ復帰で福神に選ばれ、メンバーとの間にギクシャクした関係が残った。彼女自身のせいではないとはいえ、結果的にかなりのハンデキャップを背負いながら活動を始めることになってしまった。その中で自分の居場所を確保していくためには、隙間を狙っていくしかなかっただろう。彼女自身も、【はじめからすんなり活動を始めていなかったからこそ、今の私があるとも思っていて。】「ENTAME 2016年9月号」と発言している。

しかし秋元真夏は、ただ「隙間」に甘んじているつもりはないようだ。

【私は乃木坂46の“大黒柱”のような人になるのが目標です。グループとして外に出ていく時に、みんなから「真夏にいてほしい」って信頼してもらえるような存在になりたくて。それは、私が後から復帰したということもあって、乃木坂46に恩返しをしたいという気持ちが根本にあるので。その目標を叶えられたらいいなと思っています】「別冊カドカワ 乃木坂46 Vol.2」

隙間を少しずつ埋めていきながら、いずれは大黒柱を目指す。いや違うか。彼女は「“大黒柱”のような人」と言っている。「大黒柱」は、一本の太い柱だが、そういう支え方を狙っているわけではないだろう。色んな隙間をちょっとずつ埋めていくことで、「大黒柱」のような太い柱がないまま全体を固定しようとする。秋元真夏が狙っているのはそういう支え方だろう。それは太い柱のようには気づかれにくいが、同じように全体をしっかりと安定させていく。

そういう「大黒柱」になら、彼女はもうなっているのかもしれない。

「隙間を埋める“パテアイドル”としての秋元真夏の真骨頂」

齋藤飛鳥写真集『潮騒』 勝手にキャプションを考える

先日、乃木坂46の齋藤飛鳥さんの1st写真集『潮騒』が発売になりました。
それで、勝手ながら、この写真集に載っているすべての写真にキャプションを考えてみました。
お手元に『潮騒』をご用意いただいてこの記事をご覧いただければと思います。


読み方:
◯ 一つの【】内が一つの写真に対応します
◯ どの写真のキャプションなのか見失うと思うので、時々言葉で説明しやすい写真を()で書き加えます




(表紙の写真)
【この先に、私の知らない私がいるのかな…】

【見えてるものがすべてとは限らない】

【分かってはいるんだけど、それでも見たくなる】

【だから、ぐるぐる廻る】

【時々、自分が何を考えているのか分からなくなる】

【ここが月なら、この右足は“第一歩”とか呼ばれるのかな。
…あ、まただ。リセットしなきゃ】

【私は私を再インストール中】

(「Shiosai Asuka Saito」という文字)

【私の視線の先に齋藤飛鳥はいない】

【宇宙の果てにも齋藤飛鳥はいない】

【二人目の齋藤飛鳥はいない】

【ねぇ、それってホントなのかな?】

【さっと振り向けば見つかるんじゃない?もう一人の齋藤飛鳥】

【もう一人ぐらいいてくれたら、ちょっとは楽なんだけどなぁ】

【でも、祈るのはとっくにやめたんだ】

【誰も私の願いを叶えてくれない】

【私も私の願いを叶えてあげられない】

【あなたもどうせ叶えてくれないんでしょう?】

(セグウェイの写真)
【ウソウソ!ゴメン!いじわるしちゃった(笑)】

【他人には期待なんてしてないから大丈夫】

【ちゃんと自分の足で歩いていくから心配しないで】

【何かを覚えておくのは難しい】

【いつも時間が飛んでる気がする】

【お前の時間は止まったんだな。羨ましいぞ!】

【今だって、メロンを食べていたのに】

【いつの間にか魚に変わってる。笑えない】

【心に鍵を掛けると笑いやすくなる】

【でもそうすると、夢の世界が私を侵食する】

【ほら、またいつもの夢】

【あの角を曲がったら引き返そうっていつも思うのに】

【いつまで経ってもどこにも戻れない】

【そんな夢から】

【覚めたって、どうせ現実が待ってるだけだ】

(熊の写真)
【現実は、私が見ないようにしてるものをいつだって見せたがるんだ】

【見た?あれが私の本当の姿だよ】

【だから鬼にも捕まる】

【あなたも私から離れたくなったでしょう?】

【目を合わせるのは苦手】

【だからすぐに反らしちゃう】

【可愛い、って言ってもらえる度、私は私を見失う】

【そんな私、どこにいるんだろう?】

【神様?信じてないよ。だって私には優しくないから】

【神様になら何されてもいいってずっと思ってるのに】

【何かしてくれたことなんて一度もない】

(星空の写真)
【夜空を見上げなくなったのはいつの頃からだろう?星ってなんか、ウソっぽいでしょ?】

【太陽はなんか信じてみてもいいかもって思えるんだけど】

【だってあいつ、いつも一人で頑張ってるからさ】

【私は一人で立つぐらいがやっとだけど】

【けど今日は、そんな“齋藤飛鳥”を脱いでみる日】

【そんなに見ないで欲しいんだけどな】

【とりあえず笑ってみる】

【やっぱりちょっと恥ずかしいかも】

【でも、私なんかが後悔するのはダメだと思うんです】

【偉そうなこと言っちゃいましたかね?】

【わざとだぞー。わざと偉そうなこと言ったんだぞー】

【すいません】

【私、笑ってる時は大体なにか隠してるんです】

【全部ウソってわけじゃないですけど】

【“ぜんぶってどこからどこまで?”って子供の頃よく聞いてたみたいです。覚えてないけど】

(水を浴びてる写真)
【子供の頃はもっと無邪気だったはずなんだけどなぁ】

【今は自分のことも他人のこともよくわからないんです】

【わかり合うって、何を?】

【あなたが正しいかどうかなんて、私興味ないよ】

【あなたが行きたいと思う場所に行けばいいんじゃない?】

【自分の力だけでは行けない場所がある】

【それを知りたくて本を読むんですけど】

【答えだけ書いてあっても困るんだよね】

【何言ってるか分かんないでしょ?(笑)】

【バーカ】

【何かを吸うとさ】

【私は“齋藤飛鳥プラス”になれるんだけどね】

【何かを吐くと】

【“齋藤飛鳥マイナス”になる】

(椅子に体育座り)
【今日は私を全部吐き出した。プラスでもマイナスでもない、ゼロだ】

【心がなくてもちゃんとカメラに写るのかな?】

【夢で五年後の自分を見た】

【なんか自分じゃないみたいだったなぁ】

【未来なんか想像もつかない】

【五年前の自分を思い出してた。何も変わってない気がする】

【目指してる場所?私にもあったよ、たぶんね。忘れちゃったけど】

【私がいる場所が現実だっていうのが、そもそもなんか嘘くさいしさ】

【このまま壊れていっちゃうのかもね。別にそれでもいいんだけど】

【まあ、ちょっとは楽しもうかな】

【とか言って、いつまで経っても】

【足元を見て歩く方が好き】

【何度も同じことを繰り返したくなる】

【無駄だってことぐらい分かってるんだけど】

【“焦らなくていい” そう言われる度、わけもなく焦る】

(脚)
【ジタバタしたくなる】

【“にんげん”なんですよね、私も】

【いつだってそのことを忘れちゃう】

【練習すればうまくなるって思ってる?】

【それ、ウソなんだよ】

【いくら人間のフリがうまくなっても】

【誰も認めてくれないんだから】

【ほら、またあいつが見てる】

【ちゃんと人間の動きが出来るかチェックされてる】

【正直でいるってどういうこと?】

【色んなものを吐き出せってことかな?】

【そういうの、好きじゃないんだけどな】

【人間って難しいけど】

【私はちゃんと人間に近づけてるのかな?】

(奥付の写真)
【そもそも私は、人間になりたいのかな?】

(裏表紙の写真)
【ねぇ、どう思います?】

(カバー外した写真)
【コイツには仲間だって思われてますけど】

「齋藤飛鳥写真集『潮騒』 勝手にキャプションを考える」

「弱さと強さの奇跡的なバランスが生み出す“西野七瀬”というアイドル」

西野七瀬を捉えることは、本当に難しい。そもそもあまり喋らない。僕は基本的にテレビと雑誌でしか乃木坂46を見ないが、テレビの中の西野七瀬は聞かれなければ自分からは発言しないし、雑誌のインタビューでも、発言の合間に「(ここで沈黙)」などと書かれるくらい、スムーズな受け答えにならないことが多い。次どんな発言をするのか、次どんな表情をするのか、全然読めない。言動のベースや核となっているものをうまく捉えきれない。

しかし、西野七瀬の振る舞いや発言に触れることで、僕の中で西野七瀬を切り取るキーワードが見えてきたように思う。

それが「弱さと強さの奇跡的なバランス」だ。

西野七瀬の「弱さ」は、様々な形で表に現れる。自信のなさやネガティブな感じは、言動に如実に現れ、それが西野七瀬のパッと見のイメージを作り出している。

【ステージでは、なるべく行ってない場所をなくそうと意識しています。同じところばかりに行くと、「またか」みたいな人もいると思うので…】「BRODY 2016年6月号」

【…正直、「私をセンターにして大丈夫なの?」「乃木坂46がとんでもないことになっちゃう」って思ってました。申し訳ないって気持ちが大きかったです。それに、私がセンターになることで、絶対にイヤがる人もいるわけじゃないですか。怖かったですね】「乃木坂46物語」

そういう在り方は、子どもの頃からだったらしい。というか、子どもの頃の方がさらに酷かったと言えるかもしれない。

【正直、中学時代、何をしていたか覚えていないくらいです。男子ともしゃべらないし、「話しかけないでください」っていうオーラを出してたと思います。話しかけられても、相手の顔を見れないんですよ。目が合っても、すぐにサッてなっちゃうタイプ。クラスに男女関係なく、誰とでも話せるコがいたんです。そのコは、…私とも仲良くしてくれてて、すごく憧れていました】「乃木坂46物語」

【それに私の中学校時代って、本当に何も楽しいことがなかったんですよ。】「乃木坂46物語」

乃木坂46は西野七瀬に限らず、自己評価の低いメンバーがとても多い。そういうメンバーが多くいるからこそ西野七瀬も受け入れられているし、乃木坂46だからこそ西野七瀬はトップアイドルになることが出来たと言えるだろう。人見知りで自己主張が苦手である彼女が、他のアイドルグループの中で人気を獲得できるイメージを掴むことはなかなか難しい。

西野七瀬に対しては「守りたくなるような雰囲気を感じる」という話をよく耳にする。これも、彼女の「弱さ」から醸し出されていると言っていいだろう。実際に僕も、西野七瀬が時折見せる表情から、このまま消えてしまうんじゃないだろうか、というような儚さを感じることがある。だから、自分が守ってあげなければ、という気持ちになることもよく分かるし、それが人気に繋がっているというのもとても良くわかる。

しかし当然ではあるが、ただ「弱い」というだけで人気が出るはずもない。西野七瀬の中には、「弱さ」以外の何かがある。しかし、それをきちんと捉えるのがとても難しかった。

西野七瀬が「弱さ」と共に兼ね備えているのが「強さ」だ。そしてこの「弱さ」と「強さ」が絶妙なバランスを保っていることで、西野七瀬のあの雰囲気が醸し出されるのだと感じる。

西野七瀬の「強さ」は、思考や妄想などに発揮される。

【私は「求められていること」が分かってないので、自分が思うようにずっとやってきたという感じなんです】「EX大衆 2017年1月号」

【誰かが「こうしたほうがいい」といってくれるわけじゃないので、全部自分で決めて、自分で「これがいい」と思ったやり方を選んでいって。どこかで否定されていたかもしれないけど、その声は私に届いていなかったから】「EX大衆 2017年1月号」

こういう発言は、「弱い」西野七瀬のイメージとはかけ離れている。控えめに言っているが、この発言から見えてくる西野七瀬は、とても「強い」。

西野七瀬が「弱い」側面しか持っていないとすれば、自分の言動や進むべき道について誰かに相談していてもおかしくない。しかし実際は、この発言から分かる範囲では西野七瀬は誰にも相談しないで決めているようだ。それは、「相談しない」のではなく「相談できない」のだという可能性もあるが、僕は「相談しない」のだと思う。僕の考えでは、まさにこういう場面でこそ西野七瀬は「強さ」を発揮できると考えているからだ。

また、こんな発言もしている。

【2,3年前にほかの仕事でも金魚を使っていたんですけど、いまでも「どうなったんだろう」と思い出すことがあるんです】「EX大衆 2016年9月号」

【ありえへんことを想像するのが好きなんです。たとえば、そこのビニール袋に光が反射している部分がいくつあるんだろうって数えるとするじゃないですか。そのうえで、いまの瞬間に同じことを考えているのは何人いるんだろうって。】「乃木坂派」

西野七瀬の思考は、とても自由だ。何にも制限されていないように思える。そして、この自由度は一つの「強さ」だと僕は感じる。
以前「アナザースカイ」に彼女が出ているのを見たことがある。景色のいい場所でイーゼルを立てて絵を描いていたから、てっきり風景を描いているもんだと思っていたら、ちょっと前に見たカメレオンの絵を描いていて驚かされたことがある。こうしなければならない、こうでなければならない、というような発想から解放されているように見える彼女は、「思考の自由度」という「強さ」を持っているのだと思う。

【「変わってる」と思ったことはなかったんですけど、「普通にできない」ことには悩んでました。まわりの女子と好きなモノが一緒じゃないとか、合わないとか、小中学生の時はよく思ってました。かといって、「クラスの端っこにいたい」というわけでもなくて。いま思うとしょーもないんですけど、中学生ってけっこう残酷じゃないですか】「EX大衆 2016年9月号」

この発言からは、自分の思考を大事にしてそれを手放さない「強さ」を感じる。他人と関わることを優先して自分の思考を周りに合わせるというやり方もあったはずだろう。しかし彼女はそうしなかった。そして最終的には、「普通にできない」ことを「強さ」に変えてしまった。

【はい。高校生の時の私のままで生きていたら、いまごろ苦労していたと思います。乃木坂46に入ったことでプラスに変えることができたんじゃないかな。「普通にできない」ことが個性になって、「そこがいい」と思ってくれる方もいるのはよかったですね】「EX大衆 2016年9月号」

西野七瀬には、外からは見えにくいが、確実に「強い」部分があるのだ。

それでは、この「弱さ」と「強さ」はいつどのように発揮されるのか。僕はこう考えている。

他人と関わらなければならない時に「弱さ」が発揮され、一人でいられる時に「強さ」が発揮されるのだ、と。

【メンバーも一緒ですね。仲良くしてもらっているけど、でも、乃木坂46以外の場所ですごく仲がいい存在の子がいるのを知っているので。そういうのをいろいろ気にして距離を置いてしまうというか…。でも、やっぱり私にはそこしかなくて。乃木坂46じゃないところを見ても、誰もいないんですよ】「BRODY 2016年6月号」

誰かと関わる時は、「弱く」なる。

【歌は、新垣結衣さんの「赤い糸」を歌いました。モニターに歌の歌詞が出るんですけど、最終審査の前にスタッフさんに「あまり歌詞を見ないほうがいいかもね」って言われたんで、「秋元さんの顔を見て歌おう」と思ったんです。そしたら、歌詞を間違いまくりました。でも、自分の中で歌詞を作って歌ってたんですよ。堂々と歌ってたから、誰にもバレてなかったと思います】「乃木坂46物語」

一人で出来ることには「強く」いられる(人前で歌うことは、厳密には一人で出来ることではないかもしれないが)。

こういう見方をすると、西野七瀬を少しは理解しやすくなる。

例えば西野七瀬がインタビューなどで沈黙する場面。見ている側は、「喋ることが思いつかないのだろう」と思う。しかし、そうではないのかもしれない。思考に「強さ」を発揮する彼女は、喋るべきことは思いついているのかもしれない。しかし、それを表に出すことは他人と関わることだから「弱く」なって躊躇してしまう。この発言をしてもいいのか悩んでしまう。そういうことではないか。

しかし、それは決して悪いことではない。西野七瀬が思考に「強さ」を発揮できるのは、他人とあまり関わりを持とうとしなかったお陰だろうと思うからだ。友達がいない、とよく発言する彼女は、頭の中で考えたことを外に出す機会がほとんどなかった。だからこそ、外側の影響を受けずに、思考の純粋性を守ることが出来たのではないかと思うのだ。

一方で、西野七瀬のアイドルとしての葛藤もまた、この点に凝縮されている。今まで他人に明かす機会のなかった思考を、アイドルとして表に出すことが求められるからだ。彼女にとってそれは「普通にできない」ことだった。しかし彼女はそのやり方を少しずつ身につけていったのだろう。それは、「笑顔」に関するこんな発言からも類推できる。

【私、最初の頃は全然笑えなくて。笑顔も1パターンしかなかったというか、自分の中での概念的に笑顔ってひとつだと思っていたので。でも、そうじゃないんだ、笑顔にはいろんな種類があるんだっていうことが乃木坂に入ってわかったんです。それがわかってからは、笑顔だけじゃなくて表情も豊かになったねと言われるようになりました。たぶん昔に比べたら、感情をそのまま表に出しやすくなったのかも。昔は活動の全てに緊張して、ただこわばって硬い表情になっていたけど、今はリラックスして撮影ができるようになったと思います】「別冊カドカワ 乃木坂46 Vol.3」

西野七瀬は、自身の「強み」である思考を少しずつ表に出すようになった。そうすることで、「弱さ」と「強さ」が程よいバランスで混じり合っていったのだろう。「人に見せなくてもいい部分は強い。でも、人に見せなくてはいけない部分は弱い」という在り方が、結果的に彼女の魅力に繋がっている。僕はそんな風に考えている。

以前僕は「乃木坂46 MVの中の西野七瀬」という記事を書いたことがある。その中で、「MVの中の西野七瀬は、黙っていても存在感に溢れている」というようなことを書いた。これも「弱さ」と「強さ」のバランスで説明できるかもしれない。

MVは、他人と関わるもの。だから当然、「弱さ」が出ることになる。しかし、MVの西野七瀬の役柄は、彼女自身と同じくどことなく孤独を感じさせる。だからこそ彼女はMVの中で、一人でいるという意識も持てるのではないか。一人でいるが故の「強さ」が滲み出てしまうのではないか。
僕が見ている限り、普通は西野七瀬の「弱さ」と「強さ」が同時に発揮されることはほとんどない。当然だ。「弱さ」は他人と関わる時、そして「強さ」は一人でいる時に発揮されるのだから相容れるはずがない。しかしMVにおいては、両者が奇跡的に同時に発揮されるのではないか。だからこそ、MVの中の西野七瀬にこれほど惹かれるのではないだろうか。

こんな風にして、西野七瀬をうまく捉えられた気になっているのだが、どうしても彼女の性質でうまく組み込めないものがある。それが「負けず嫌い」だ。

その最も有名な話が、秋元真夏とのエピソードだろう。

【…なんか、もう心がぐちゃぐちゃでした。スタッフさんに取り押さえられた後は、「頭を冷やせ!」って言われてずっと座らされてました。今思うと…福神から落ちちゃったけど、選抜には入ってたわけだし、「そんな簡単じゃないんだよ!贅沢だ」って思うんですけどね。そのときは心が完全にダークになっちゃってたんです。それから、真夏とは一切しゃべれなくなってしまって。ほかのメンバーが真夏と話していても、なんか…わだかまりがありましたね】「乃木坂46物語」

乃木坂46に加入するも、活動をする前から活動休止を余儀なくされた秋元真夏が、復帰直後に福神に選ばれた。同じタイミングで福神から落ちてしまった西野七瀬は、秋元真夏と長いことギクシャクした関係だったという、有名なエピソードだ。

【私、乃木坂46に入ってから、じぶんが負けず嫌いだってことを知ったんです。今でもですけど、基本、争い事は嫌いなんです。でも、負けると悔しいんですよ。悔しいから、それがイヤで、ずっと争いを避けていたのかもしれません】「乃木坂46物語」

僕の中でこの「負けず嫌い」という部分が、どうしてもうまく組み込めない。秋元真夏との関係がギクシャクしていたことについては、西野七瀬の「弱さ」の部分で説明できるだろうからいいのだけど、そもそも何故「負けず嫌い」という性質を持っているのか、という部分がうまく捉えきれないのだ。だから、ここまで長々と説明してきた「弱さ」と「強さ」のバランス説は間違っているのだろう。良い線いってるとは思うんだけどなぁ。


【いまは個人の仕事が増えてる分、グループへの想いが薄まっているんじゃないかと疑ってしまう時があるんです。乃木坂46が頑張る場所だと思っている自分にとって、その中身が薄くなるのは怖くて。そんなことを話すとスタッフさんからは「なーちゃんと生駒ちゃんはグループに対する想いが強いから大丈夫」と言われるんですよ】「EX大衆 2017年1月号」

これは、北野日奈子の発言だ。この発言からも滲み出ているが、西野七瀬はアイデンティティの核を「乃木坂46」に置いているメンバーだ。

【でも、最近、変わってきたっていうか、感じるようになったのは、ソロのお仕事が増えてきて、メンバーのみんなとちょっとでも会えなかったりすると寂しくて。久しぶりにただ話してるだけで楽しいんですよ】「乃木坂46×プレイボーイ2016」

【「乃木坂46は曲が良いね」って言っていただくことが多いんですけど、曲を良くしているのはメンバーだと思うんです。メンバーみんなが「乃木坂ってこういうことだ」って理解して行動してると思ってて。それは歌もダンスも、普段の態度も、舞台での動きも。頭で考えてないっていうか。身体で理解して、みんなが同じ方向を向いてるなって思います】「乃木坂46×プレイボーイ2016」

既に引用したが、【乃木坂46じゃないところを見ても、誰もいないんですよ】と語る彼女は、【うーん。基本的に将来には不安しかないんですよ。乃木坂46を卒業しても何をしていいのか分からないなぁってずっと悩んでいて】「EX大衆 2016年9月号」と不安を覗かせる。乃木坂46だからこそトップアイドルになれたという印象を与える彼女が、乃木坂46を離れる日が来たらどうなるのか。全然想像が出来ないが、その想像の出来なさもやはり彼女の魅力になってしまう。【私が表舞台からいなくなっても、どいやさんには頑張ってほしいんです】「日経エンタテインメント!2017年2月号」などと発言してしまう彼女だが、誰にも真似出来ないその特異な存在感で、乃木坂46を離れた後も活躍して欲しいと思う。

【未来…まったく想像できないです。でも、ずっと自分が嫌いで泣き虫だった、あの頃の自分みたいなコがいたら、乃木坂のオーディションを受けてほしいなって思います】「乃木坂46物語」

西野七瀬こそ、「君の名は希望」と言いたくなるような、物語を持ったアイドルだ。捉えきれない魅力をもった彼女がこれからどう変化していくのか。とても楽しみでならない。

「弱さと強さの奇跡的なバランスが生み出す“西野七瀬”というアイドル」

ダメ人間・橋本奈々未

2017年2月20日、橋本奈々未は自身の誕生日を目処に、乃木坂46から卒業することを発表した。乃木坂46の初期からずっと第一線で活躍し続けてきた橋本奈々未が果たした役割はとても大きいだろう。さらに橋本奈々未自身も、その聡明さ、あるいは知性によって高く評価されてきた。「アイドルらしくない」と言われる佇まいを見せる橋本奈々未は、その特異な存在感で独自の地位を作り上げたと言っていいのではないかと思う。

しかし彼女は、自分の捉えられ方について困惑する機会が多かったという。

【勉強ができると思われているかもしれないけど、若いときからアイドルを始めた方たちは、仕事でなかなか高校に通えないけど、私は普通に授業に出られていただけ。クールと言われているけど、感情の起伏が激しくて、楽屋ではひとりですごい騒いでいますから。
一番抜け出したいのは「できて当たり前」「しっかり者」というイメージ。本当はダメ人間なんですよ】「アイドルspecial2015」

橋本奈々未を「ダメ人間」だと捉えている人間はいないだろう。あまりにも、橋本奈々未のイメージからかけ離れている。何でもこなし、自分なりの考え方を持ち、常に知性を感じさせる彼女には、あまりにも似つかわしくない。とはいえ、自己認識と見られ方に差があると感じているのなら、その差を埋める努力をしてあげたい、という気持ちもある。

【ただ私は、見た目と中身が、だいぶ違うんですよね。どうしても見た目先行で色々なことが進んじゃうんですけど、あまりイメージと直結させないでほしいなとは思います。クールって言われることが多いけど、中身は全くクールではないんですよ】「アイドルspecial2016」

橋本奈々未は、こんな風にも語っている。

【映画で一緒になったいくちゃん(生田絵梨花)と(秋元)真夏と「アイドルと女優の違い」を話したときに思ったんです。アイドルは自分の色を出して分かってもらうことが仕事。だけど、女優さんは色を付けないのが仕事で、役によって色を付けるから無色でいなきゃいけないんだろうなって。
アイドルの場合はグループの中でキャラができて、それがずっと継続されてしまう。乃木坂46の中にいる橋本奈々未としてはいいけど、それが私の本質だと思われるのはどうなんだろうなって】「アイドルspecial2015」

橋本奈々未は乃木坂46を卒業して、芸能界を離れた普通の社会で生きていく。今彼女は、「乃木坂46の中にいる橋本奈々未」として捉えられている。そして、乃木坂46の卒業と同時に芸能界を去る決断をした橋本奈々未は、「乃木坂46の中にいる橋本奈々未」という捉えられ方から脱する術をほとんど持たないと言っていいだろう。

僕の文章がその役を担えるとは到底思えないが、橋本奈々未を、自身がそう望むように「ダメ人間」というキーワードで切り取ってみたい。今回の記事はそんな動機で書かれている。


【「できて当たり前」みたいに見られても、私は特に何が秀でているわけでもないんですよ。むしろ、できてないことのほうが多いので、「損してるな」と思うときも正直あります。イメージから外れたことをすると「そういうことをするのはおかしい」と言われることもあるんです。何も考えずに書いたブログが深読みされることもあるし、自由が狭まっているのかなと感じることが増えました】「アイドルspecial2015」

繰り返すが、橋本奈々未は自己認識と見られ方の間にギャップを感じていた。僕自身も、冒頭で書いたように、橋本奈々未は何でも出来るし、知性を感じさせる人間だとずっと感じていた。僕は乃木坂46の中では齋藤飛鳥がダントツで好きだが、齋藤飛鳥のインタビュー目当てで買った雑誌の中に他のメンバーの記事があれば読む。その中で、価値観や考え方や言葉のセレクトに最も琴線が触れるのが橋本奈々未だ。だから僕自身も、橋本奈々未を「ダメ人間」だと思ったことなどなかった。

何故そこにギャップが生まれるのか。考えた僕は、こんな結論に達した。
「橋本奈々未は、鎧だと思って身につけたものを武器だと捉えられているのではないか」と。

橋本奈々未は自分自身を、こんな風に捉えている。

【私、もともと自分に自信がないタイプなんですね】「別冊カドカワ 乃木坂46 Vol.1」

【10代の頃は、人と目を合わせられなくてバイトの面接で落ちまくりました。強くなりましたね】「アイドルspecial2017」

【(とあるMVについてのコメントで)私もこのキャラもコミュ障なので通ずるものがありました】「乃木坂46映像の世界」

【私もだよ。めちゃくちゃズボラで気分屋だから、それを理解してもなおグイグイ来てくれる人や、私と同じズボラな人としか仲良くなれない】「乃木坂46×プレイボーイ2016」

乃木坂46にはこういう、自分を低く捉えるメンバーが多いが、橋本奈々未もそうであるようだ。スボラで自信がないコミュ障。そういう自分を指して「ダメ人間」だと評しているのだろう。

そして、そんな「ダメ人間」だからこそ身についただろう力がある。それが「観察力」だ。

「ダメ人間」であっても、何とか生きていかなければいけない。そういう時どうするかは、人それぞれ様々だろう。無理して「デキる人間」という仮面を被る者もいるかもしれないし、引きこもってしまう者もいるかもしれない。橋本奈々未は、「観察する」という方法で「ダメ人間」なりに生きていこうとした、というのが僕の仮説だ。根拠はないのだが、そう考えないと、「橋本奈々未が自身をダメ人間だと感じている」という事実と、「橋本奈々未が他者から圧倒的な知性を感じさせる」という事実が結びつかないと僕は感じる。

まず橋本奈々未は、自分自身を観察した。どんな時に自分はうまくいかないのか、どういう条件で自分は失敗するのか、何が原因で自分の悪い部分が表に出てしまうのか、逆に自分が良く出来るのはどういう時なのか…。きっと彼女は子供の頃から、こんな思考を繰り返していたのではないか。自分が「ダメ人間」であるという自覚があるからこそ、それでもなんとか生きていくために徹底的に自己分析する。自分のことを出来る限り理解することで、自分の弱い部分・ダメな部分を捉え、先回りしてそこを保護する。

そう、橋本奈々未にとって「観察力」は、ある種の鎧として機能していたと思うのだ。自分には良いところなど少ないと感じていた彼女は、高い観察力によって自分の弱さを見極めておく。

そしてその弱さをきちんと「言葉で捉える」ことによって、あらかじめその場所の防御を高めておく。言語化するというのはある意味で「近似する」というのと同じだ。多少のズレがあっても、その弱さをきちんと言葉で捉えることで近似し、分かりやすい形で保持しておく。「体調が悪い」だけでは対処の仕方は無限にあるが、「風邪」「インフルエンザ」「気管支炎」などの病名がつけば対処の仕方がはっきりするように、言語化によってよりシンプルに捉え、対処しやすくし、その場所の防御を高めやすくする。

そんな風にして彼女はなんとか生きてきたのではないか。

しかし、当然と言えば当然ではあるのだが、その高い「観察力」と鋭い「言語化」は、他者に向けられればもの凄く強い武器になる。

乃木坂46に入る以前の橋本奈々未がどんな人間だったのか、僕には知る由もないが、想像力を膨らませれば、乃木坂46に入ってからその武器が顕在化したと考えることも出来る。それまでは、他者に対して観察力が発揮されても、それを披瀝する場がなかった。普段のおしゃべりの中で話すようなことでもないし、コミュ障だと自分で言っている橋本奈々未は、そこまで交友関係が広かったわけでもないのだろう。しかしアイドルになり、しかも乃木坂46のメインとして一線で活躍する中で、橋本奈々未はそれまでの人生で問われることのなかった問いを投げかけられるようになった。それらに対して「観察力」と「言語化」を発揮することで、それらが始めて武器として認識されるようになったのではないか。

橋本奈々未の「メンバー評」は、とても面白い。

【いまの話(※松村沙友理が自身をKYだと語る話)を聞いて思うのは、きっとさゆりんは自分があるからそうなるんだろうなって。自分がおもしろいと思うことだったり、正しいことやまちがってることが自分の中でちゃんと整理がついてるんだよ。その基準で周りで起こることを見て、自分の基準で笑えたり怒れたりするから、結果的に「合わない」と思うことが多いのかもしれない】「BRODY 2016年10月号」

橋本奈々未は、他者の本質を捉え、それを別の人間でも理解できる言葉にまとめ上げる能力が卓越している。それは、「ダメ人間」であるが故に自分自身に向け続けてきた「観察力」が他者に発揮されることによって実現しているのだと思う。

西野七瀬についても、こんなことを書いている。

【西野は「許容範囲が広い」人ですね。人に何かされて「いいよ」っていう意味じゃなくて、例えばですけど、寒くなってきた秋口におじさんが半ソデで交通整理をしているとすると、私だったら「寒そうだな」くらいで終わるんですけど、西野の場合は「あのおじさん可愛い」って感じになるんですよ。「一生懸命、棒を振ってんねんで。可愛いなぁ」みたいな。実際にそういうことがあったわけじゃないんですけど。普通の人だったら、その物ごとに対して特別な感情を抱かなかったり、興味を持たないだろうなっていうことにも、わりと感情を持つというか…。そういう「許容範囲の広さ」が人気なんだと思います】「BUBUKA 2016年4月号」

西野七瀬を「許容範囲が広い人」と捉え、瞬時に例え話も作り出す能力は、やはり図抜けている。

その「観察力」は、何も人にだけ向けられているわけではない。

【でも、何も印象に残らない作品よりは、今でも「あのシーンはなんだったんだ」と議論される作品のほうが、アイドルのMVとしては成功だったんじゃないかと思います】「MdN 2015年4月号」

【私が苦手な部分は誰かの得意ジャンルだったりするので。集団の強みはそこだと思っています】「別冊カドカワ 乃木坂46 Vol.1」

引用したのは乃木坂46に対するものだけだが、橋本奈々未の「観察力」は、事象にも概念にも発揮される。どんな物事に対しても高い観察力を発揮し、それを的確に言語化していく力は、圧倒的な知性を感じさせる。多くの人が持つ橋本奈々未に対するイメージは、こんな風に作り上げられたのだろうと思う。

しかし、だからこそ橋本奈々未はギャップを感じることになる。彼女にとって「観察力」と「言語化」は、「ダメ人間」である自分を生きさせるための手段でしかなかった。しかしそれが結果的に、自分に知性というイメージをもたらすことになった。その違和感を、橋本奈々未は感じるようになっていったのだろう。

【私はもともと普通にパッと発言したことが、深読みされやすい立ち位置にいるらしいので、かなり発言には気をつけてきたんですけど】「乃木坂46×プレイボーイ2016」

【自分が思ってる自分が「自分じゃない」って言われることがあるんですよ。「ななみんってこうだよね」っていうイメージがひとり歩きしちゃうんです。あるひとつのことに周りから見た自分のイメージが付け加えられていって、自分が思った通りにやったことが「それはちょっとらしくない」って言われてしまったり。そうすると「あれ?私って本当はそうだったのかな?」って(笑)。どこからが本当の自分の意志でやっていて、どこまでが周りに求められてやっていることなのか、たまにその境界線がわからなくなることはありますね。その積み重ねによって自分が変わっていってしまうのかもしれないとは感じていて。自分の価値観は大切にしたいけど、それが知らずしらずのうちに外からの力で変わっていくこともあるのかもしれない…うーん、難しいです(笑)】「BRODY 2016年10月号」

こういう怖さは、少しは理解できる。僕も、当然橋本奈々未とは比べ物にはならないが、似たようなことを感じることがある。他者からの見られ方、評価のされ方に怖くなることがある。僕は意識的に、自分の評価を下げるような行動を取ってバランスを取ろうとする。しかし、今や国民的アイドルグループの一員であり、その中でも人気の高い彼女は、外からの自分の評価を自己認識に近づけるような行為を考えなしにすることは許されない。その窮屈さみたいなものも彼女を卒業へと向かわせたのではないか。インタビューの端々からそんなことを感じることがあった。


もう一つ、橋本奈々未を「ダメ人間」として捉える軸がある。それは彼女のこんな発言から読み取ることが出来る。

【これをサービス精神と言っていいかはわからないんですけど、少なくとも私は自分のためにはがんばれないんですよ】「BRODY 2016年10月号」

この発言も、「ダメ人間」というキーワードで捉えることが出来る。僕もそうだが、自己認識が低い場合、そんな自分に対して全力を出すことはとても難しい。「自分のためにはがんばれない」という認識を持っている橋本奈々未が自身のことを「ダメ人間」と捉えているということが如実に現れた発言だと僕は感じる。

【私、自分自身に自信がないので、「私のどこがいいんだろう?」とか「どうして私を応援してくれるんだろう?」って思ってしまうんです。でも、ファンの人やスタッフさんが褒めてくれたり、期待してくれることによって、「この人たちは裏切れないな」っていう思いで、なんとか踏ん張ってここまでやってこれました】「BUBUKA 2016年4月号」

アイドルとして優等生的な発言だと捉える向きもきっとあるのだろうが、本心なのだろうと僕は思う。結果的に彼女は、自分を「押し流してくれる環境」にいられた。乃木坂46のメンバーとして、第一線のアイドルでいるというのは、無数の期待の中にいるということだ。無数の「誰か」のために、という意識は、自身を「ズボラ」とも評する橋本奈々未をきちんと自立させる環境だっただろう。

しかし一方で橋本奈々未は、無数の「誰か」に対してこんな風にも感じていた。

【はい。私は昔から憧れって感情を抱いたことがなくて(笑)。だから羨ましいじゃないけど、自分が必死になれるということは、自分が役に立ってると感じられるということだと思っていて。さっきと同じような話になりますけど、自分がいちばん活き活きして必死になれるときって、自分になにかしてあげてるときじゃなくて、ひとの役に立っていたりひとに求められていることが目に見えてわかるときなんだろうなって思ってます。このお仕事をしていると、どうしてもそれが伝わりづらくて。求めてくれるひとに自分がしたことが与えている影響って、まったく自分があまり知らないところで起こっているわけじゃないですか。だから握手会で「こういうときにこういうことを言ってくれたからがんばれました」みたいに言われるのはすごくうれしいけど、自分の中でまったくリアリティが伴ってこないんですよね】「BRODY 2016年10月号」

無数の「誰か」による期待は、数だけは圧倒的だが、ひとつひとつをはっきり認識することはとても難しい。料理を作って誰かに食べさせる、みたいなことは、自分のした行為とその結果が直結する分かりやすい行動だ。しかしアイドルというのは、大昔と比べれば格段にファンとの距離は近づいたとはいえ、自分のした行為とその結果が強く結びついたと感じる機会が少ない。橋本奈々未はそんな風に捉えている。

【やっぱり私は、働いているべき性格というか「“働くこと”が生きていく上でのモチベーションにつながっていくタイプ」だと思っているんです。だから、お仕事が変わっても、「自分がやるべきことだ。どう貢献できるかな」と考えて、行動していくことが一番嬉しいことになっていくと思います】「乃木坂46×プレイボーイ2016」

僕はどこかで彼女が、「裏方さんのような縁の下の力持ち的な仕事が自分には合っていると思う」というような発言をしているのを目にした記憶もある。そんな彼女の意識は、「サヨナラの意味」のMV撮影の時にも発揮されていたようだ。

【ミュージックビデオの撮影で、初めてセンターの責任を感じました。台風が迫る中、雨に振られてみんながびしょ濡れになり寒い思いをしていたので、「このシーンは雨の中で撮る必要が本当にありますか?」とスタッフさんに聞きました。もしセンターでなければ、寒いけどガマンと思うくらいだったかもしれない。センターとはグループの代表として、周りのメンバーに対してこういう風に感じるんだなと思いました】「日経エンタテインメント!2017年2月号」

また、これは橋本奈々未に限らず乃木坂46のメンバーの多くが口にすることでもあるのだが、MVを始めとした乃木坂46のクリエイション全体に対しても、こんな意識を持っている。

【かわいく明るく撮ることを優先しているアイドルグループは多いと思うんですけど、乃木坂の場合、メンバーは「かわいく撮ってもらいたい」とはもちろん思うんですけど、求められるのはそこじゃなくて作品としての完成度が優先されるというか】「MdN 2015年4月号」

「ロケ弁が食べられると思って」アイドルになった橋本奈々未は、アイドルという「職業」に何か期待を持っていたわけではなかっただろう。そんな環境で「誰かのために」という意識で努力を続けた結果、彼女はトップアイドルになった。「ダメ人間」という意識が、自分で人生を切り開くのではなく、誰かによって求められた道を進むという意識を生んだのだろう。そしてそれを徹底したからこそ、彼女はトップアイドルになれたのではないかと思う。しかし、アイドルとしての階段を駆け上がれば上がるほど、彼女の「役に立っているという実感を得たい」という感覚からかけ離れてしまう。忸怩たる思いがあっただろう。求められる自分と本来の自分の差も激しくなり、自分がどうあるべきか分からなくなっていきもしただろう。

【今は夢も目標もない状態なんですよ。何かしたいことがあるかって聞かれても、何もしたいことがないんです。余計に、今目の前にあることをやるしかなくて。やっていくうちに何か見つかればいいなという感じです。】「アイドルspecial2016」

【色々なことを経験したし、様々な現実を知って、これは自分には難しいなとか、適正がないかなとか判断してきた結果、徐々に選べることが狭まってきた。その中で、自分がこれをやりたいというものに出合えれば、今頑張っている意味はあるのかなって思います。
かつての夢は何一つとしてかなっていない。でも、今もう一度そのときに戻ってやり直したいかというと、そこまでのこだわりもない。だからこの先、新しく何かやりたいということが、きっとまた見つかるはずだと思ってやっています。漠然と何もないところを走るのは、ゴールが見えない中をひたすら走るようなものなので、たまにしんどくなることもあります。それでも家族を支えなきゃいけないという思いがあるので、早く何か見つけたいですね】「アイドルspecial2016」

夢も目標もない、と語る橋本奈々未は、「何でも出来る」「知性的だ」という「乃木坂46の中の橋本奈々未」のイメージに応えるために努力した結果、求められることはなんでもやれてしまう人間になった。「乃木坂工事中」の放送作家の一人が、「橋本奈々未が恥ずかしいことになっているのを見た記憶がない」と語っていたが、本当にその通りだろう。しかし、器用に何でも出来てしまうが故に、「アイドル」という枠組みの中にいる限り夢も目標も見つけられない、と感じるようにもなっていったのだろう。

【めまぐるしい時間のなかで、目の前のことをやりきるのに精いっぱいになり、15年にインタビューでは「夢も目標もない」と言いました。自分自身の新たな夢や目標を持つために卒業する道を選んだのかもしれませんし、前向きに見つけていくつもりです。
漠然と「自分に正直にありたい」と思い続けて生きてきました。それが今の私にとって何よりの目標ですし、ずっと達成していきたい。それを実現するために自分の選択は間違ってなかったと思うし、今後もそれを実現できるよう、日々を過ごしていけたらいいなと思っています】「アイドルspecial2017」

卒業は橋本奈々未にとって、自分を見つめ直す一つの機会なのだろう。「ダメ人間」であるが故に「押し流してくれる環境」に心地よさを感じる彼女だが、しかしその環境に甘んじていては自分自身が失われてしまうとも感じている。「自分に正直にありたい」という目標を達成し、またやりたいことを見つけるためにも必要な手続きだったのだろう。一度離れてみて、結果的に彼女がやりたいことが芸能の仕事だとなれば、橋本奈々未ならいくらでも戻ってこれるだろう(まあ、その可能性は低いと思うが)。

【この5年間で私が乃木坂46でどんな役割を果たせたかは分かりません。メンバーやファンの方が寂しいと感じてくれたり、ぽっかりと穴が開いたと感じる部分があれば、そこが私の果たせたことなのかなと思います】「アイドルspecial2017」

卒業は橋本奈々未をどう変えるか。それを知る術はきっとないのだろうが、乃木坂46を離れてみて彼女が感じることをまた言葉で知りたいなと感じる。

「BRODY 2 齋藤飛鳥のインタビュー」を読んで

「期待する」というのは、「道を決める」ということでもあると思う。そうすることで、自分が決めた道に、自分の力を集結させることが出来る。「こうなりたい」「こうしたい」と期待することで、その方向だけに注力することが可能になる。

ただそれは同時に、「他の道を捨てる」ということでもあると思っている。

『自然と何に対しても、期待をせずに生きていくっていう生き方が自分の中で一番合ってて。だから諦めっていうか、期待を持たないで生きてます』

齋藤飛鳥のこの生き方は、後ろ向きに捉えられることが多いのではないかと思う。こんな考えを持つ彼女に対して、「もっと自信を持って!」とか「強く願えばもっと先まで行けるのに!」と言った感情を持つ人も、いるのかもしれない。

しかし、僕はその捉え方は違うのではないかと思っている。齋藤飛鳥は「期待」を捨てることで、「期待」を持つ以上の強さを手に入れているのではないかと思うのだ。

「アイドルSpecial2017」の中で齋藤飛鳥はこんな風に語っている。

『私はファンの皆さんが抱いている私のイメージをまるまる全部は認めてはいないんですけど、自分らしさは自分が決めるものだとも思っていないんです。だから、齋藤飛鳥として求められるものにきちんと応えていきたいと思っています』

「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」の中でもこう語る。

『だからといって、そういう武器がほしいかと言われると…必要な時もあるんですけど、でもそういうのって周りから付けていただくものだと思うので。自分からこれをやろう、あれをやろうみたいなことは考えてないです』

これが齋藤飛鳥の強さなのだと僕は思う。

齋藤飛鳥は、期待しないことで、道を決めることをしない。自分が進むべき方向はこうだ、自分がやるべきことはこうだ、という考えを持たない。何かを期待すれば、自ずとそういう考えが出てきてしまう。そして、自分が決めたことと周りの評価が合わなかったり、自分が決めた道でうまくいかなかったりすると、どうしていいか分からなくなって悩んでしまう。齋藤飛鳥は、期待を持たないが故に、進むべき方向性について悩む必要から解放される。そこに彼女の強さがある。

道を決めない齋藤飛鳥は、何にでもなることが出来る。武術における「構え」は、どの方向に対しても、どんな動きにでも対応できる立ち方をするのが理想だ、というような話を聞いたことがあるが、齋藤飛鳥の在り方はそれに近いのではないか。どんな状況がやってきても、それに対応するのだというしなやかさ。マイナス思考であるが故に、何に対しても「怖さ」を感じてしまうだろうが、それでも最終的には、そのしなやかさが「怖さ」に打ち勝つ。どんな方向にも、足を踏み出すことが出来る。「齋藤飛鳥」として求められることを全うできる。
彼女の期待しない生き方は、そんな強さの源泉なのだろうと思う。

『私がすごい弱っちい人間なので、期待を裏切られてショックをウケるのが怖いんです』

『(齋藤さんは「乃木坂46である自分を受け入れられない」という話をされていましたけど、なんで受け入れられないんですかね…)
受け入れられないというか、「認めてやんねーぞ」みたいな感じです。乃木坂46って名前を、今いろんな方に知っていただいて、私はその名前を使って生きてるくらいの気持ちなので。自分に対して価値があるとは全く思ってないんです』

こんな風に自分を卑下するのは、もちろん本心だろう。しかし心のどこかで、自分が持つ強さの源泉を理解しているのではないかと思う。何に対しても期待しないからこそ湧き上がる強さ、というものを認識しているからこそ、期待しない自分を貫くスタンスを崩さずにいられる、という可能性もあるのではないか。

『(それは本心ですか?それとも調子に乗って自分を見失わないためにあえて思っているんですか?)
本心ではありますけど、天狗にはなりたくないっていうのは、ずっと思ってることなので、それもあるかもしれないですね』

齋藤飛鳥も、最初から期待しない人間でいられたわけではない。

『デビューから3年くらい「THEアイドル」みたいな風になろうと思って、そこでいろんな痛い目を見たし、恥ずかしい思いをしたっていうのもあるし。自分はその役割じゃないかなっていうのも気づきました』

齋藤飛鳥がよく言うことだが、当初は「THEアイドル」を目指していた。それは彼女にとっての「理想のアイドル」でもある。その理想に近づけるようにという期待を持って、乃木坂46加入当初は努力していたという。しかし、それは齋藤飛鳥には合わなかった。「理想のアイドル」を目指す自分の在り方にもがいていただろう。

そのもがきの中から抜け出せた、というのが齋藤飛鳥の凄いところだろう。恐らく、痛い目、恥ずかしい経験の度に立ち止まって、自分の言動の何がこの状況を招いたのかを思考し続けたのではないかと思う。そうやって少しずつ言動を変化させていきながら、その結果をフィードバックしていく。そんな風にして作り上げられた「齋藤飛鳥」という特異なアイドル像は、ある意味で唯一無二というか、誰にも真似出来ない存在感を生み出しているのだと思う。

『今も全然、自分のことをアイドルだと思っていないので』

『世の中が優しいからちょっと受け入れてもらってるだけです』

度々書くが、僕は乃木坂46で初めてアイドルというものを好きになったので、アイドル全体のことは分からない。ただ齋藤飛鳥を見ていると、彼女が新しいアイドル像を切り拓いているのだ、と思いたくなる。「THEアイドル」とは対極にいるように感じられる「齋藤飛鳥」が、日増しに世間での人気を高めていることがその証左だろう。彼女はセンターに選ばれた理由を、『「本当は嫌だけど、仕方ないからこいつにするか!」っていう、妥協に妥協を重ねた結果だと思っています(笑)』と言っているが、もちろんそんなわけはない。彼女の、自分のスタイルに固執せず、それでいて独自の価値観は手放さず、同時に求められれば何にでもなることが出来る強さとしなやかさに、今の時代の人々は憧れ、追いかけたくなるのではないかと思う。

期待せず、道を決めない齋藤飛鳥の指針となっているのが、「乃木坂46」というグループの存在だ。「乃木坂46」という指針があるからこそ、「齋藤飛鳥」という存在が成り立つとも言える。齋藤飛鳥は、『乃木坂46に今いられているのもいろんなもののおかげでいられてるだけで、「自分の力じゃねーぞ」って思っちゃいます』と語っているが、僕の感覚で言えば、彼女は「乃木坂46に所属している」というよりは、「乃木坂46と同期している」のだと思う。「乃木坂46」という指針を手放した(乃木坂46を卒業した)齋藤飛鳥は、「齋藤飛鳥」とはまるで違う人間になるのではないか。そんな風に感じさせもするのだ。

『(乃木坂46を辞めて社会に出るとなってもすんなり出れる自信があるのは何故か、と問われて)
乃木坂46で人間を作って頂いたからです。前までの私は、たぶんそのまま生きていたら、はぐれ者になってしまう人間だったと思います。でも、そんな自分をこのグループで厚生してもらいました。それがなかったらこうはなっていない』

僕は齋藤飛鳥の、「社会にすんなり出れる」という自信を疑いたい。乃木坂46を離れるということは、「乃木坂46」という指針を失うということだ。もちろん100%失うことはないだろうが、今の「齋藤飛鳥」は、その指針と一体となっていると僕は感じる。乃木坂46を離れた場合、新たな指針を見つけ、それに馴染んでいくまでに、やはりまたそれなりの葛藤があるのではないかと思う。

とはいえ、アイドルや芸能界を辞めても生きていけるか、という問いであれば、齋藤飛鳥なら大丈夫だろう。

『礼儀とかはちゃんとしたいなって思ってます。チヤホヤされがちじゃないですか、アイドル。もう5年間もチヤホヤされ続けてきて、でもそのチヤホヤを真に受けず、それを疑って生きてこれたってことは、逆に社会に出ても普通に生きていけるんじゃないかなって思うんです』

インタビューアーは前回、齋藤飛鳥が放った『虹は過大評価されすぎだと思う』という発言が印象的だったと、インタビューの冒頭で話している。それに対して齋藤飛鳥はこう語る。

『単純に、「あ~、虹だ。きれいだな」と思ったことはありますし、一つの自然現象として不思議だなって気持ちはあるんだけど、虹がかかったからってみんながこぞって写真を撮り出すのが…。ちょっと評価されすぎじゃないかなって。それに雨がかわいそう』

齋藤飛鳥は、チヤホヤされる「虹」ではなく、「虹」を生み出す「雨」に視線を向けることが出来る人だ。それは人に対しても同じことが言える。チヤホヤされる「齋藤飛鳥」や「乃木坂46」ではなく、それらを支える者たちに目を向ける。

『私、スタッフさんがめちゃくちゃ好きなので、スタッフさんの影響は大きく受けていると思います。環境が一番ですね』

このインタビュー中、彼女はこの発言に最大の自信を覗かせる。自分自身ではないものに自分の存在の核を託せる強さが、この発言に表れていると言えるだろう。

『いやいや、やっぱりそんなきれいな言葉は私にはもったいないですよ(笑)』

「虹」である自覚から距離を置こうとする齋藤飛鳥だからこそ「虹」にも「雨」にもなることが出来るのだ。

「BRODY 2 齋藤飛鳥のインタビュー」を読んで

「BRODY 2 松井玲奈のインタビュー」を読んで

齋藤飛鳥が載っている雑誌は基本的に買う、というスタンスで雑誌を買っているが、雑誌ごとに、写真がメインか文章がメイン可かというのは分かれる。「BRODY」は、写真も多いが、他の雑誌と比べてインタビューが圧倒的に長いので、僕はかなり好きな雑誌だ。どうしても、写真よりも中身に関心が行く人間なので。

普段は、齋藤飛鳥が載っている雑誌を買って、同じ雑誌に乃木坂46のメンバーのインタビューが載っていれば読むぐらい。他の記事は見ないことが多い。でも今回はなんとなく、松井玲奈のインタビューを読んでみた。

メチャクチャ面白かった。松井玲奈についてはこれまでまるで知らなかったけど、この子はとてもいいですね。

『生きていくのに向いてないなって思います』

先日飲み会の場で、「“死ぬ”とか“死にたい”とか思った経験がない人とは分かり合えない」と発言した人がいて、なるほどと共感した。松井玲奈は『破滅願望はないです』と書くが、生きづらさを感じているという意味で、同じ匂いを感じる人だと思った。

『はい。結局、芸能の仕事をやりたいと思ったのも、ふつうに働けない…って言っちゃうと頑張ってOLやってる方とかサラリーマンやってる全国の人にとても申し訳ない気持ちになるんですけど、同じ時間に会社に行って机の前に座って同じ時間に帰るみたいな、学校でそれができなかったから、私ダメだ、働けないと思って。毎日同じことができないから、芸能の仕事だったら、ふつうの人生では経験し得ない刺激的なことが待ってるって子供の頃に理解しちゃって。50歳までそういう刺激的なことをやってれば、90年生きたぐらい刺激的な人生だと思うんです』

すげぇ分かる、と思った。僕も、絶対に社会に出れないと学生時代に思っていたし、まともに働けないという感覚は今も持っている。勉強は好きだったから学校はちゃんと行けてたけど、アルバイトはどれも長続きしなかったし、就活が嫌で大学を辞めたし、就職活動も転職活動もしたことがないし、未だに「きちんとした企業」では働けないだろうと思っている。

インタビューアーである吉田豪は、『(アイドルは)ネガティブがマイナスにならない職業なんだろうなと思うんですよ。どう思います?』と松井玲奈に問いかけているが、それは齋藤飛鳥を見ているから僕も強く共感できる。松井玲奈も齋藤飛鳥も、もしアイドルじゃなかったらどうだったんだろう、と思わせるだけの不器用さを感じる。

『地元は好きですけど、ずっと地元にいたら部屋から出なかったと思うので。四角い部屋の四角いパソコンのなかだけが私の世界みたいな人に90パーぐらいなってたと思うと、ホントによかったなって。パソコンだけじゃない世界にいまいるからよかったなって思います』

乃木坂46を好きになる前、僕の人生には「アイドル」というものが入り込んでいなかったので、「アイドル」という存在に対して漠然と「華やかなもの」ぐらいのイメージしか持っていなかったのだけど、齋藤飛鳥や今回の松井玲奈のインタビューを読んで、「アイドル」というのは普通の社会に馴染めない人の受け皿としても機能しているのだなぁ、と確認させられた。

『ずっと初期装備でレベルを上げてるみたいな気持ちでやってます』
『(部杭を探しながら闘い続けて、自分の武器はなんだっていう結論に至ったんですか?)
ダンスも歌もできないから顔で踊る』

客観的に見て松井玲奈に武器がないのかどうかはともかく、松井玲奈自身は自分には武器がないと思っていたのだという。『周りの子のいほうがかわいいし、華やかさだったり、歌がうまい、ダンスができるとか、みんなが思ってるそれぞれの武器』がないと思っていた松井玲奈だが、それでも「アイドル」というステージで闘うことが出来た。

僕は松井玲奈が動いているところをほとんど見たことがないので、松井玲奈のアイドル時代のことも今の活動もほとんど知らない。けれど、AKB48グループの中でかなり人気メンバーだったことは知っている。僕が乃木坂46を好きになり始めた頃には既に終わっていたが、彼女は生駒里奈と交換する形で乃木坂46に在籍していたこともあった。そういう結果だけ見れば、松井玲奈には武器があったのだろう、という判断をしたくなるだろう。しかしこのインタビューを読むと、彼女は徒手空拳で「アイドル」として存在し続けたのだという。

それが出来たのは、彼女が持っている「考える力」と「努力し続ける力」だろうと思う。

『結局、アイドルだけじゃないけど、そのグループのなかにいてどう抜け出すかっていうのをひとりひとりが考えてないし、ダラダラ惰性でベトーッとした感じで終わっちゃうんだなってういうのは思いますね。みんなが一致団結して同じ方向を向いてれば飛び抜けてくる人たちもいるし、そうじゃなくてなんとなくグループっていう輪のなかにいることで満足しちゃってると、そこから小さな世界のなかで終わってしまうなってういうのは思います』

吉田豪は、『こんなにインタビューしやすい人も珍しいですよ』と発言している。実際に、インタビューという形で誌面になる時には、様々な形で手が入るだろうから実際のインタビュー現場の雰囲気まで推し量ることは難しいが、インタビューアーである吉田豪の実感のこもったこの言葉は、松井玲奈の思考力の高さを表しているのだと思う。インタビュー全体からも、やはりそれは感じ取ることが出来る。自分を含めた物事を常に俯瞰で捉えていて、全体の中の自分とか、「私松井玲奈」の意識の中の「アイドル松井玲奈」とか、そういう認識の仕方が抜群に上手い。その上で、そうやって認識した事柄を的確に瞬時に言葉に変換できる能力がある。これは、常に観察し、常に言語化していなければなかなか身につくものではない。

『アイドルだけじゃなく、自分たちがおもしろいと思うことは間違ってないって意識でまっすぐにやる人たちは抜けて出てくるんだなっていうのは思います。イロモノって言われたとしても、それでも自分たちが正しいと思って、「私のスタイルはこれ」ってやってれば、それは個性になって浮いて出てくるし、それが逆にカッコいい、みたいな』

齋藤飛鳥もそうだが、僕は松井玲奈のように、目の前の現実や状況を自分なりのやり方で切り取れる人が好きだ。捉え、思考し、発する。そのサイクルを息を吸うように出来る人は素敵だなと思う。

『昔から「ああダメだった」ってどん底まで落ち込んで、でもできなかったぶん、まだまだ伸びしろがあるんだって思えてたので、じゃあその伸びしろに向かってこの地べたからもう一回上がってやろう、見てろよみたいな気持ちはあって(笑)。いまでもあります』

松井玲奈のもう1つの強さである「努力し続ける力」は、「思考力」の高さとの組み合わせでより強力なる。ただがむしゃらに頑張るだけで、「アイドル」としてうまくいくはずもない。努力すべき方向を見定める「思考力」があって初めて、「努力し続ける力」が活かされる。

『でも、課題がちゃんと目に見えてることは安心感でもあるので。それをクリアすればもう1個上にいけるから。なんにもなく漠然と大きな課題を目の前に出されるよりは、自分は小さい目標をちょっとずつハードルを越えてって、結果的に大きな壁を乗り越えられるほうがうれしいタイプなので、目標が先にありすぎると気持ちが続かないなっていう』

こういう発言を読むと、本当に「努力の人」なのだなと感じる。どれだけ戦闘力の高い武器を持っていても努力出来なければ芸能の世界では残っていけないのだろうし、武器がないと思っている人でも努力によって上に行くことが出来る。何が評価されるのかまったく分からない世界にあって、それでも課題を見つけ、その課題をひとつひとつ潰し続けることが出来るというのは、ある意味で大きな武器と言ってもいいのだろうと思う。

『ボロボロになっていく自分が好きなんで、「あ、いますり減ってる。もっとすり減ろう」みたいな』

まあ、こういうメンタルも、プラスに働いたんだろうけども。

松井玲奈のインタビュー中で最も共感したのが次の発言だ。

『50年生きればもう十分じゃないですか?違います?したいことがなくて』

しかし、松井玲奈がこう発言するのは意外だった。

僕は、趣味らしい趣味も、ハマっていると言えるものも本当にない。齋藤飛鳥は好きだけど、何らかの形で僕の人生から齋藤飛鳥が取り上げられても、なんとなく諦められてしまう気がする。そういう態度について「そこまで好きじゃないってことじゃない?」と言われることはよくあるんだけど、自分の中ではそうではないと思っている。好きなんだけど、どうしても入り込めない自分がいるのだ。

松井玲奈も、こんな発言をしている。

『主観的になれてる方のほうが熱中してる感じがあっていいなと思えたりして。なんでも一步引いて見ちゃうんで、輪の中にうまく入れなかったりとかは昔からずっとそうだったんで、ある意味、別の自意識というか。自分というものを持って自分に夢中になれてる人はすごいうらやましいなって思ってましたね。自分に夢中になれなかったんで』

凄く分かる。僕もまったく同じことを普段から考えている。僕も、自分にもそうだけど、何事にも夢中になれない。なりふり構わず好きになるとか、そのことを考えると苦しくなってくる、みたいなことが人生でほとんどなかった。好きだけどハマりきれないし、一步引いて見てるから、いつだってそれが無くなった場合のことも想定してしまう。だから僕は、割といつ死んでもいいかなと思っているし、松井玲奈とまったく同じで、僕も50年ぐらい生きれば十分かなと思っている。

しかし、松井玲奈はそういうタイプではないと思っていた。

松井玲奈についてはよく知らなかったが、アイドルやマンガや鉄道など趣味が多彩だということは知っていた。だから僕は勝手に、死にたくない人だろうな、というイメージを持っていたのだと思う。やりたいことがありすぎて、可能な限り生きていたいと思う人なんじゃないか、と。でもそうではないようだ。

『(これをやれなかったら死ねないみたいなことってあります?)
それはあります。やりたい舞台の戯曲が何本かありますし、この方と仕事したいなとかもありますし、そういう欲はあるんですけど。それが必ずしも…なんか危ない人みたいですけど生きていたいっていう気持ちとつながらないから(笑)。』

面白い感覚だなぁ。吉田豪はその感覚を、『やる気にはなるけど未練にはならない』と一言で表現しているが、とても面白いと思う。

松井玲奈のこの発言から感じることは、彼女は「自分がどうだったら幸せなのか」をきちんと把握できている人なのだろう、ということだ。僕も長生きをしたくない人間だが、その理由は、身体や頭にガタ来て、今まで出来たはずのことが出来なくなってまで生きていても幸せは感じられない、と思っているからだ。松井玲奈も、そうは言っていないが、大筋では同じだろう。やりたいと思えることがやれれば幸せだ、でも50歳を越えてそれが出来るイメージが出来ないから、別に生きていなくてもいい。そういう考え方に近いのではないかなと思う。

生きづらさを覗かせる松井玲奈だが、「自分がどうだったら幸せなのか」をきちんと把握できているという事実は、生きていく上での指針となる。努力する方向性が見えやすいからだ。そして松井玲奈は、努力が出来る人だ。だから、その時その時では様々に辛い現実に直面するだろうが、松井玲奈はきちんと生きていける人だと思うし、自分なりの幸せをきちんと追求できる人だと思う。

『お芝居をしてたいっていうよりは生き残りたい!』

齋藤飛鳥にしても松井玲奈にしても、僕の中の「アイドル」という概念を覆してくれるので、とても面白いと思う。

「BRODY 2 松井玲奈のインタビュー」を読んで

「OVERTURE No.009 齋藤飛鳥のインタビュー」を読んで

齋藤飛鳥は、「自分」という存在を手放しているように感じられる。

世の中の多くの人は、「自分」という存在に縛られているのではないかと感じることが多い。自分は長男だから、B型だから、専業主婦だから、もう年だから、外国には行ったことがないから…。そういう色んな「自分」に囚われたまま、不自由さを感じているように思う。やりたいことがあってもセーブしたり、やりたくないことがあっても断れなかったり。

人によっては、自分でそういう「自分」に囚われたがっていると感じる人もいる。占い本や宗教などに走ってしまう人の中には、自分を囚えてくれる大きな存在を求めて、その不自由さの中で生きていたいと思う人もいるのではないかと思っている。

齋藤飛鳥からは、そういう印象をまったく受けない。

齋藤飛鳥は、「自分」がどうであるか、という要素に影響を受けていないように思う。

『(コンプレックスは)ほぼ全部です。顔が小さいと言われても、嫌だと思わないけど、得なこともないので。だいたい、よく見たら小さくないですから』

齋藤飛鳥は、小顔であるという、女性にとっては武器になるだろう要素を手放す。小顔であるということが、齋藤飛鳥という人間には影響を与えない。与えていないぞ、という風に捉えている。小顔については、自分が努力して得たわけではない、というような感覚も、それを自分のものであると捉えられない理由なのかもしれないと僕は勝手に考えている。

「努力」については、こんな発言がある。

『明石家さんまさんの「努力は逃げ言葉」も「そうだよな」と思って書き留めました。私も自分からは努力という言葉は使っていないはずです。もし、「努力していますか?」と聞かれたら、「してないです」と答えます』

齋藤飛鳥は、努力している自分も手放す。努力しているから結果は伴わなくてもいい、と思ってしまわないようにという戒めの発言なのだけど、こうも潔く努力している自分を手放すことが出来るものかと思う。

ライバルについて聞かれて齋藤飛鳥はこう答える。

『ないですね。3年前くらいまでは、メンバーに対していい意味でライバル心があったんです。負けちゃいけないなって。プライドが高かったんですよ。今はいい意味で力が抜けたし、自分のことがやっと理解できるようになったんです』

齋藤飛鳥は、対抗心さえ手放す。もちろん、ライバル心がなくなった理由には、センターを経験したという事実も影響しているだろうと思う。苦労を重ねた末にセンターという形で評価されたという経験が、彼女から力を抜くいいきっかけになったのではないか。とはいえ、だからといって対抗心を簡単に手放すことが出来るわけでもないはずだ。一度センターになったと言っても、戦いは常にあるのだから。これも、齋藤飛鳥の「自分」を手放す在り方故だろう。

「戦い」についてはこんなことを言っている。

『(飛鳥さんが今、戦ってることはありますか?)
いや、ないです。基本的には勝負を仕掛けないタイプなので。納得できなくてもいいというか、そもそも納得しようと思ってないんです』

齋藤飛鳥は、納得する自分さえ手放す。この発言の論理は少し飛躍していると感じるが、おそらくそれは編集の問題だろう。勝手な想像だと、この質問の前に「納得できないことはありますか?」というような趣旨の質問があったのではないかと思う。その流れで、「その納得できないことに戦ってますか?」と聞かれたのではないかと思う。
「自分」というものをはっきり持ってしまうと、その「自分」が納得できるかどうかは比較的大きな問題になる。しかし齋藤飛鳥は、「自分」を手放しているので、納得するかどうかということが大した問題ではなくなる。『流れに身を任せています』とも発言している。「自分」がどうしたいかが人生や生活を動かす大きな原動力にはならないのだ。

こういう生き方は、非常に柔軟で楽だ。僕自身がそういう人間だからよく分かる。僕も、「自分」というものがほとんどない。これがしたい、あれが食べたい、あそこに行きたい…というようなことを思うことがほとんどない。基本的に僕の日常は、ルーティーンと他者からの誘いで成り立っている。日常はルーティーンを出来るだけ守ってこなしていき、後は他者から誘われたものは基本的に受けるというスタンスで生きている。僕自身は、こういう生き方がとても楽だ。

この生き方を楽だと感じられるのは、正しさの判断をしなくていい、というところにある。だから、マイナス思考の人間にはよく合っていると感じる。

「自分」というものを持っている場合、その「自分」の言動が正しいのかどうかを自分自身で判断しなければならない。何かやりたいことがある場合、それをやっていいと判断するのは基本的には自分だ。色んな要素を考え合わせて、その判断を下さなければいけない。

しかし、マイナス思考の人間には、これがなかなか難しい。

『洋服を買う時、今年の頭くらいまではお母さんと伊藤万理華の指示に従っていました。買い物中にいちいち写真を撮って、2人に送って確認をとっていたんです。万理華にはコートとか大きい買い物の時だけなんですけど』

自分で服を買うというのは、その服が自分に合うかどうか自分で判断しなくちゃいけない、ということだ。当たり前じゃないか、と思われるかもしれないけど、マイナス思考で自信がない人間にはこれが難しい。僕自身は、着るものなんかなんだっていいと思っているから、服を買うということには悩まないけど、齋藤飛鳥はそうはいかないのだろう。自分の内側から出てくる正しさを信じられないが故に、他者の正しさに乗っかるしかないのだ。

服を買う、という程度のことであれば人生にさほど大きな影響はないが、「自分がこうしたい」という思いを持つということは、その時その時で正しさの判断が求められるが故に、マイナス思考の人間には辛いことなのだ。

だから「自分」を手放してしまう。「自分」を手放して、その時々で相手の、あるいはその場の正しさに身を任せる方が、こういうタイプは安心できるのだ。

『(友達について聞かれて)いないことはわかりきってるじゃないですか、聞かないでくださいよ(笑)。メンバー以外では2人くらい…といっても、「友達は多くなくてもいい」というのは深い仲の友達がいる場合じゃないですか。私の2人は深くなくて、一緒にご飯を食べたことがあるくらいで互いの秘密を知ってるわけでもない。ひとりが好きだから寂しいと思わないけど、希に寂しいと思ったら女性マネージャーさんに連絡します(笑)』

「自分」を持ってしまう場合、一番大変なのが人間関係だろう。他者と関わる時は、様々な場面で正しさの判断を突きつけられるからだ。齋藤飛鳥は、友達を持たないことで、その判断から逃れている。「ひとりが好き」というのは本心だろうが、それは「他者といる時に正しさの判断を迫られるのが辛いから、それよりはひとりの方が好き」という意味だろう、と僕は考えている。

『中学デビューしたかったんですけど、まわりにビビってできなくて。でも、ついていくためにイケイケ風な女子を演じていました。途中から女の子特有の面倒くささを感じるようになりました。いまでは無理して自分を作っていたことを後悔しています。イケイケ風な女子も乃木坂初期のいちごみるくキャラも本当の自分じゃなかったんです』

イケイケ風な女子もいちごみるくキャラも、本来の自分ではないだろうが、「自分はこうだ」という決めつけであることは間違いない。そういう決めつけを持ってしまったが故に失敗した経験を何度も経てきたことで、齋藤飛鳥は今のようなスタンスを獲得していったのかもしれない。

「自分」を捨てた齋藤飛鳥は、同時に、自分が何らかの枠にはめられないように、という意識も常に持っている。

『(18歳という年齢についてはどう考えていますか?)
いろいろ得がある年齢だなって。大人ではないので大人がやらなきゃいけないことは免除されるし、子どもじゃないから子どもっぽいことをしなくてもいい。17、18歳は一番難しい年齢と言われているじゃないですか。だから、それを理由にできるのが得だなって思います(笑)』

齋藤飛鳥は、「18歳という枠」をひらりとかわす。世間の「18歳」に対するイメージを逆手にとって、自分の輪郭をぼやかそうとする。ある枠組みで捉えられてしまうと、その枠の内側が正しいと思わされてしまい、その内側でしか動けなくなる。それは、「自分」を持っているのと大差なくなる。齋藤飛鳥はインタビューというものを、もしかしたらファンや読者が自分を見る際の枠組みを取り払うための手段と捉えているのかもしれない。「齋藤飛鳥はこうだから」という枠組みを壊すために言葉を紡いでいるのかもしれない。

『うーん、でも私はどんな意見も受け入れるというか、あえて自分のことを調べたりはしないけど、批判的な意見にも「参考になります」と思えるタイプなんです』

「自分」を手放すと、批判は届かなくなる。それは同時に、称賛も届かなくなることを意味するが。批判も称賛も、届くべき先の「自分」というものがないから客観的に捉えることができるのだろう。マイナス思考で自信がなくてもなんとかアイドルとしてやっていけるのは、この客観性のお陰もあるだろう。

齋藤飛鳥は「自分」を手放しているが、思考や価値観まで手放しているわけではない。齋藤飛鳥が「自分」を手放すのは、他者となんらかの関わりがある事柄について正しさの判断をする自信がないからだ。自分にしか関係のないことであれば、齋藤飛鳥は自分なりの考えや価値観を持てる。そこがまた、齋藤飛鳥という人間を面白くしている要因なのだと思う。

「OVERTURE No.009 齋藤飛鳥のインタビュー」を読んで

「blt graph. Vol.14 齋藤飛鳥のインタビューを読んで」

齋藤飛鳥は、何人かで喋ると、普通の女の子という感じがする。
雑誌でのインタビューの話だ。
何人かで話す場合、そこまで多く喋りはしないし、喋っても突っ込んだ意見を発することは少ないように思う。

やはり齋藤飛鳥には、一人で語らせるのがいい。
本書の中のインタビューは1ページしかないが、それでも、僕が齋藤飛鳥に惹かれる理由が詰まったやり取りだった。

『(もっと人を信じてもいいかな、と思いましたか?)
「うーん、人を信じるということには直接的にはつながっていないけど…なんていうか、「人間っていいな」って思うことは増えました」』

齋藤飛鳥は頻繁に、「他人を信じていない」という発言をしている。もう少し正確に書くと、「他人から優しくされることを疑ってしまう」のだという。
しかしこのインタビューを読んで、齋藤飛鳥が一番信じていないのは自分自身なんだろう、と感じた。

『もうちょっと自分の気持ちとか欲を抑えながら生きていたいです』
『今まで抑えながら生きてきたので、それを外したときに自分がどうなるのかわからないですけど、たぶん自分が嫌いなタイプの人間になりそう(笑)』

この感覚には、凄く共感できる。

僕の、凄く些細な話を書こう。
僕は小説をそれなりに読む人間だが、既に5巻以上の長いシリーズになっている作品にはなるべく手を出さないようにしている。
何故か。それは、ハマってしまったら困るからだ。
もしもその作品が面白くて面白くてたまらなければ、出ているシリーズ作品すべて読みたくなってしまうだろう。でも、それをするための時間的・金銭的余裕に恵まれているわけではない。だから、手を出してハマってしまったら困るのだ。だから手を出さない。

僕はあまりやりたいことを持っていない。食べたいもの、行きたい場所、欲しいモノ。そういうものがほとんどない。日常生きている限りにおいて、僕が自分の生き方を「気持ちや欲を抑えている」と思うことは少ないけど、傍から見ればそう見えるだろう。そんな生き方をしている根本的な部分には、ハマってしまったら困る、という感覚がある。

先程のシリーズ物の小説を読む、という話は、「欲望をオープンにしたら嫌な人間になる」というものではないのでエピソードとして伝わりにくいかもしれない。もっと分かりやすい例を出せば薬物だろうか。僕は、大麻などの薬物に手をだすつもりはない。ハマってしまったら困るからだ。そしてハマってしまった場合、確実に「自分が嫌いなタイプの人間」になる。

薬物に対してであれば、この感覚が理解できるという人はいるのではないか。そして齋藤飛鳥も僕も、そういう感覚を、他のことにも当てはめて生きている。

何故か。それは、自分自身を信じていないからだ。

薬物に手を出す人間は、「一回ぐらいなら大丈夫」「依存症なんかになりっこない」と考えるのではないだろうか。それはつまり、自分を信じているということだろう。だから薬物に手を出せる。僕は、自分を信じていないから、薬物には手を出さない。

『前までは、べつに自分の存在がグループにとってそこまで大きいものではないので、自分のことを「乃木坂46として認めてない」っていう見方だったんです。「私はまだ認めてないからな」って』

自分を信じていない齋藤飛鳥は、だからこそ「乃木坂46の齋藤飛鳥」という存在をも信じない。乃木坂46という名前は、今の自分にその資格がないのにたまたまくっついてしまっているだけ。

『乃木坂46に入ってから2,3年くらいは「自分が乃木坂46にいる」という感覚があまりなかったんです。当時は中学生だったこともあり、物ごとを真剣に考えていなくて。活動に対して意欲がないとかそういうわけではなく、自分なりに一生懸命取り組んでいたつもりだったけど、いま振りかえってみると、自分のすべてが薄っぺらだったかなと感じるんです』

他のメンバーのインタビューなどを読むと、他のメンバーは乃木坂46に選ばれて喜びや不安を感じたというようなことを言っているように思う。それはつまり、乃木坂46として他社から認められたこと、乃木坂46という名前が自分自身につくこと、そういうことを純粋に喜び、また認められたが故の怖さみたいなものも感じたということだろう。認められたという事実を、喜びや不安という形で一旦受け止め、その上で、どう頑張ったらいいか分からない、どうすれば選抜として認められるか分からない、というような挫折や悩みに至るのだろう。

恐らく齋藤飛鳥は違ったのだろう。齋藤飛鳥にとっては、他人から認められることが何よりも大事なことなのではない。そもそも齋藤飛鳥は他人のことを信じていないのだ。他人からの評価に寄りかかるはずもない。齋藤飛鳥にとっては、自分が認められるかどうかが何よりも大事だった。自分が自分自身のことを、乃木坂46のメンバーであると認めることが出来るかどうか。齋藤飛鳥の関心は常にその一点にあったのだろう。

齋藤飛鳥も、その時々で挫折を感じていたはずだ。齋藤飛鳥がよく発言する印象的なエピソードに、カーテンを閉めるというものがある。「走れ!Bicycle」の演出でカーテンを閉めるというのがあった。選抜組は着飾った衣装でステージ上にいる。そして選抜ではない自分はジャージを着てそのカーテンを閉める役をやらされた。凄く悔しかった、というようなものだ。
これも見方によっては、自分が周りから認められていない、認められ方が分からない、という葛藤に映るだろう。しかし恐らく、齋藤飛鳥の感覚は違ったのだろう。齋藤飛鳥は、ジャージでカーテンを閉めているような自分を、乃木坂46の一員としては認められないぞ、という、あくまでも自分の判断にあったのだろうと思う。

自分が自分自身を認められるかどうかが常に最重要課題である齋藤飛鳥。しかし彼女は同時に、誰よりも自分自身のことを信じていない。もちろん、自分の判断も信じていないだろう。だからこそ齋藤飛鳥は、いつまで経っても自分自身を認めることが出来ない。齋藤飛鳥はずっと、そういうスパイラルの中にい続けているのだろうと感じる。

「EX大衆 2017年1月号」の中で、卒業する橋本奈々未について伊藤純奈・齋藤飛鳥・川後陽菜の三人が話すページがある。その中で齋藤飛鳥は、橋本奈々未からずっと言われ続けている言葉があると語る。

『飛鳥にはもっと気楽に生きる方法を覚えてほしい』

そりゃあ橋本奈々未も言いたくなるだろう。最も信じていない自分自身が自分のことを認めてあげられなければダメ、というハードルは、アイドルであるかどうかに関係なく、人間として生きていくのにしんどいだろうと思う。

『それがやっとここ2年くらいで人間味が出てきたのかな?と思っていたんですけど、それも気のせいで。今年になってやっと人間らしくなったかな…と感じたんです』

自分自身のことを最も信じていない齋藤飛鳥に人間味がなかったというのは、ある意味で当然かもしれない。何故ならそれは、自分の内側に存在するものすべてを信じていない、ということなのだから。このインタビューの中では、こうも発言している。

『いえ、感情を出す、出さないというよりは、それまでは感情というものがあまりなかったんだと思います』

これは、僕の解釈では、「感情がなかった」というよりも、「自分の内側から出てくる感情を信じていなかった」ということだろうと思う。

「POP OF THE WORLD」という齋藤飛鳥がMCの一人を務めるラジオを聴いていて思うことだけど、齋藤飛鳥は自分の感情で一旦立ち止まっているように思う。自分は今楽しいのか、辛いのか、嬉しいのか、哀しいのか…。ラジオの中でそこまで大きく感情が揺さぶられることもないだろうが、時々そういう場面に出くわすと、齋藤飛鳥は立ち止まって、自分が今どう感じているのかをきちんと捉えようとしているように思う。

そういう振る舞いは、僕も分かるような気がする。

僕は年齢を重ねていく過程で、自分が今どんな反応をすればいいのかというチューニングがかなり合ってきたと感じられるようになった。だから今は、その場その場の状況で「適切な」反応を瞬時に出せていると思う。でも、外側にどう見せるかはともかく、僕自身の内側では、いつも考えている。今自分は楽しいのか、辛いのか、嬉しいのか、哀しいのか…。常にではないが、自分の内側にある感情は、きちんと一旦立ち止まって頭できちんと捉えようとしないと分からないことが多い。

他人を見ていて、「嬉しい時にはすぐに嬉しいって分かるんだな」「怒りをすぐに怒りだと認識出来るんだな」と思うことがある。多くの人は、そこにタイムラグがないように見える。僕は、これって嬉しいんだよな、これって怒ってるんだよな、と確かめないと、自分の感情が分からない時がある。そういう他人との比較をすることで、「自分には感情がないんだな」と感じることは結構頻繁にある。僕自身も、内側に感情がないわけではないのだろうが、それを認める方法を知らないために、感情がないと感じてしまうのだろう。そして、齋藤飛鳥も似たような感じではないかと思うのだ。

齋藤飛鳥は、今年やっと人間らしくなった、と書いている。まさにこれはセンターを経験したことによるものが大きいだろう。

『だから、今年に入ってから「感情を素直に出せるようになった」というわけではないんです。意識的に人間味を出そうと思っていたわけではないので、出てしまったのは自分としては本意ではありませんでした』

センターを経験することで、それまで自分の内側から生まれたことのなかった様々な「何か」が溢れるようにして噴出したことだろう。齋藤飛鳥は、それらに対処しなければならなかった。普段であれば、その「何か」が外側に溢れ出る前に、思考で止めることが出来る。自分が今何を感じたのか、という思考を挟むことで、感情に引きずられることなく生きていられた。

しかし、センターを経験したことによって溢れ出た「何か」は、そんな普段の対処では追いつかないほど膨大だったのだろう。結果的にそれは、齋藤飛鳥から人間味が滲み出るという流れに繋がっていった。

『どんなに身近な人や親しい関係でも、べつに見せなくてもいい部分はあるじゃないですか。だから、感情をそのまま出す必要はないのかなと思います。「もっと本音を見せてほしい」と言われていたし、もちろんそういう気持ちも理解していたけど、でもやる必要性をあまり感じていなくて。単純に頑固っていうだけなのかもしれないけど』

齋藤飛鳥はこれからも、自分の内側から湧き上がる「何か」に立ち止まりながら、それらを思考で押さえようとするだろう。しかし、センターを経験したことで、感情が外側に流れ出す「通路」みたいなものが出来てしまった。齋藤飛鳥はそれを『人間味を出す方法を身につけた』と、あくまでも自分でコントロール出来るものだと捉えたいようだ。しかしどうだろう。齋藤飛鳥は、センターを経験したという以上の大きな変化をしばらく受けることはないかもしれない。しかしそれでも、一度出来てしまった「通路」をすり抜けていく感情はあるのではないか。別に齋藤飛鳥の人間味が表に出なくても僕は齋藤飛鳥のことが好きだろうが、「人間・齋藤飛鳥」が表に出てくることがあるならば、それを楽しみに待ってしまう自分もいる。

最後に、齋藤飛鳥のことの言葉を引用して終わろう。

『誤解されるのが嫌だったので「この人誤解しているな」と思ったら弁解していたけど、それでさらにややこしくなってしまうことも多くて。だから、今も誤解されるのはもちろん嫌だけど、別に誤解している人だって四六時中私のことを考えているわけではないので、まぁ別にいいかなと思えるようになりました』

齋藤飛鳥が僕のブログを見ているなんてまったく想像もしていないけど、齋藤飛鳥について書いた一連の記事を読んで齋藤飛鳥がどんな風に感じるのかは、死ぬまでに聞く機会があったらいいなと思う。

「blt graph. Vol.14 齋藤飛鳥のインタビューを読んで」

「BUBUKA 2016年11月号」を読んで

秋元真夏には、あまり関心を持っていなかった。

齋藤飛鳥は自分で、「THEアイドルを目指していない」とインタビューなどでよく語っている。同じ言葉を使えば、秋元真夏は「THEアイドルそのもの」という風にしか見ていなかった。秋元真夏は、乃木坂46というグループの中では異質な存在だが、アイドル全体で見れば、秋元真夏のような振る舞いは一般的ではないかと思う。可愛く見られる振る舞いをする、ファンが喜んでくれそうな発言をする、いつどんな時も笑顔でいる。秋元真夏はそういう意味でアイドルの王道を進もうとしているのだが、そういう秋元真夏にはさほど関心が持てないでいた。

しかし、「BUBUKA 2016年11月号」の中の、齋藤飛鳥とのインタビューを読んで、こう思うようになった。
齋藤飛鳥と秋元真夏は、発露の仕方が違うだけで、同じ根っこを持っているのではないか、と。

自分を隠す方法には、色んなやり方がある。
齋藤飛鳥は、自分を隠すために、「見せない」というやり方を選択した。

『もともと私はネガティブだから不安やプレッシャーはずっと抱えた状態ではあったんですけど、でも誰かに言うほどではなかったし、言うのもダサいから自分のなかに留めていたんです』

齋藤飛鳥は、平静を装いながら、辛い部分は全部内側に押し込んで外に出さない。そういう発言はこれまでも目にしてきたし、齋藤飛鳥はそんな風にうまく自分を隠すやり方を身に着けてきたのだと思う。

秋元真夏もまた、自分を隠している。そのやり方は、「違う自分を見せる」というものだ。

『でも真夏も根性があるタイプなんですよ。見た目や雰囲気は女の子らしいし、出て来る言葉も女の子だなって思うことが多いんですけど、すごく我慢強いところがあって、さっき自分でも言っていたように真夏も溜め込むタイプで誰かに相談したりしないし、あくまで「秋元真夏」でいようとしているんですよ』

秋元真夏が、「秋元真夏」というアイドル像を意識的に見せている、ということは知っていた。しかし僕はそれを、「仕事と割り切っている」というぐらいの捉え方しかしていなかった。乃木坂46という、アイドルとして王道を行くメンバーが少ないちょっと特異なグループに、他の一期生から遅れて加入した秋元真夏。その中で自分のポジションを確保するために、敢えて乃木坂46らしくない「THEアイドル」というポジションを確保する。そういう目的なのだとずっと思っていた。

もちろん、そういう理由もあるだろう。しかしどうもそれだけではないようだ。秋元真夏が「秋元真夏」のような違う自分を作り出していくのは、自分の人生を生き抜くためのある種の戦術として身についているものであるらしい。

『ちょっと暗い話になっちゃいますけど、小3のときにいじめられていて、周りのひとを疑うようになってしまったんですよ。それからずっとですね。そのときに相談した先生も信用できなくて、大人も同世代もみんな疑うところから始まったから、ひとを信用するのにすごく時間がかかってしまって。だからとりあえずバリアを張って、徐々に信用できるところを探していくのがいいのかなって。そういう結論に行き着いたんです』

この発言を読んで、なるほど、秋元真夏は齋藤飛鳥と同じ根っこを持っているのか、と感じたのだった。

『そこで話を聴いてもらったときに「あ、真夏には言えるな」と思って。それから真夏にだけ話したりとか、言わなくてもなにかあったら目が合ったりとか(笑)』

ここ最近買う、乃木坂46の特集がある雑誌には、「齋藤飛鳥は秋元真夏に支えられた」というような趣旨の文章や発言が結構見つかる。今回のツアーを通じて、齋藤飛鳥と秋元真夏は接近したようだ。

『もとから真夏のことは大好きだったんですけど、たぶんどこかで胡散臭さを感じていたんですよ(笑)でも、今回のツアーでそれは消えました。本当にいいひとなんだなって(笑)』

メンバーに対してだけではなく、家族や友達にもほとんど悩みを言わないという齋藤飛鳥。そんな齋藤飛鳥が、秋元真夏にだけは話せるという感触を掴む。そこには色んな要因があるだろうが、齋藤飛鳥が秋元真夏のことを同根だと認識したということなのではないか、という風にも捉えることが出来る。

『ただ、飛鳥にならウザいって思われてもまあいいかなって』

『あのときの飛鳥を見てからは、自分がどう思われてもいいからとりあえず飛鳥の近くにいてあげたいなって』

秋元真夏のこのスタンスも、齋藤飛鳥にとってはいい距離感だったのだろう。たとえば僕の話をすると、おおっぴらに心配されたり、悩みを大げさに捉えられたりするのは得意じゃないし、困る。そんな反応をするだろうな、という人には、ちょっと何も言えなくなる。むしろ、どれだけ深刻な話でも「へぇ」ぐらいに受け取ってくれると気が楽だし、そんな話をした後も特に態度が変わらないとなお素敵だ、と思う。齋藤飛鳥もきっと、似たような感覚を持っているような気がする。そんな齋藤飛鳥の感覚に、秋元真夏のスタンスがマッチしたのだろう。

『でも、真夏は自分からいろいろと動くからお節介って言ってるんだと思うんですけど、傍からするとぜんぜんお節介な感じはしなくて。別に押し付けもしないし、逆にいい距離感だと思います。話やすくする空気をつくってくれるのが上手なんですよね。そう、上手なお節介。』

秋元真夏も、他人に対してバリアを張っていると言っているように、距離感を大事にする人なのだろう。だから、齋藤飛鳥が必要とする距離感が分かる。しかし、それだけでは、齋藤飛鳥を支えるのは難しい。何故なら、齋藤飛鳥が必要とする距離感は、手を差し伸べて支えるには遠すぎるからだ。

だから、秋元真夏の「おせっかい」というスタンスが生きてくる。秋元真夏は、齋藤飛鳥が必要とする距離感を理解した上で、「私っておせっかいだからエヘヘ」というスタンスで、その距離をちょっと縮める。齋藤飛鳥も、「鬱陶しいなぁ」と思いつつも、「おせっかいだからしょうがないか」という諦めでその距離の詰め方を少しずつ許容する。そういう関係性をベースとして築いていたからこそ、齋藤飛鳥がセンターになって一杯一杯になっているまさにこのタイミングで、齋藤飛鳥は秋元真夏に手を伸ばしたし、秋元真夏は齋藤飛鳥が伸ばした手を掴める場所にいられたのだろう。

少し前に買った「AKB新聞2016年9月号」の齋藤飛鳥と秋元真夏のインタビューの中でも、秋元真夏はこんな風に言っている。

『いや、違うんです。今までは、誰かが初めてセンターになった時も、自分のことだけで精いっぱいだったんですけど、ようやく周りにも気を配れるようになってきていて。そんな中での飛鳥のセンターだったので、みんなでサポートして、飛鳥らしく自由にやれるようにしたいな、と思っていたんです。でも結局、できなかった。あれだけ泣いて爆発しちゃうくらいに抱えていたのを知って、すごく反省しました』

「すごく反省しました」と言える秋元真夏が凄いと思う。他のメンバーに目を向けて実際に行動に移せるメンバーとしては、生駒里奈や松村沙友理が浮かぶが、秋元真夏もその一人だと言える。秋元真夏は、自分自身も「THEアイドル」を演じて輝きながら、同時に、グループ内の触媒としての役割を果たしている。「THEアイドル」としての秋元真夏には今後も興味が持てないような気がするが、僕らファンの視界にはほとんど映らない、陰で暗躍(?)しているだろう秋元真夏には、今回のインタビューを通じてと強く関心を抱いた。

『私はあまりひとに興味がないからみんなのことをよく理解できていなかったんですけど、』

こういう発言が出来る齋藤飛鳥が、僕は好きだ。僕も少し前から、「ひとに興味がない」と言えるようになったけど、昔はそんなことを言ったら人間関係やっていけない、と思っていた。齋藤飛鳥は18歳にして、しかもアイドルという多くの人に好かれなければならない立場でありながら、こういうことをさらっと言ってのける。その強さに惹かれる。

秋元真夏はそれとは真逆の方向を向いている。

『あとはもう人間力。真夏だからこそ、こういうキャラでいられるというのはあると思います。私は誰からも好かれたいとは思ってないんですけど、でも真夏みたいにこれだけ周りから愛されているひとを見ると、そういう人生もアリなのかなってすごい思います』

基本的には興味のないタイプのはずの秋元真夏に関心を持つに至ったのは、秋元真夏が幾重もの思考を重ねた末に今のスタイルにたどり着いたからなのだろう。その試行錯誤の一端を今回のインタビューで垣間見ることが出来た気がした。

初めこそ僕は乃木坂46を箱推ししていたが、すぐに齋藤飛鳥を好きになって、それからは基本的に齋藤飛鳥にしか目がいっていなかった。齋藤飛鳥をきっかけとして、色んな雑誌などのインタビューを読むにつれて、橋本奈々未、松村沙友理、そして今回の秋元真夏と、関心の幅が広がっていく。自分の言葉で思考し、自分の言葉で語れるメンバーが、乃木坂46には多いように思う。自分自身で考えて組み上げた価値観によって、自分の人生を進んでいるメンバーが、多いように思う。秋元真夏はこのインタビューの中で、『でも中身が!顔から入っても全然構わないから、ちゃんと中身まで辿り着いてくれ!』という風に、齋藤飛鳥の中身の深さを賞賛している。僕も同じように、顔から乃木坂46を好きになっていいから、こういうメンバーの中身にまで辿り着いて欲しいな、と思って、こんな風に乃木坂46の文章を書いているつもりだ。

最後に。このインタビューの中で一番好きなのが、齋藤飛鳥のこの言葉だ。

『(今回、センターを務め上げたことで齋藤さんが得た最大の収穫はなんだと思いますか?)
なんだろう…「人間になれたこと」がいちばんの収穫ですね』

今の齋藤飛鳥が、人間らしさまで身につけたら、最強なんじゃないかと僕は思う。

「BUBUKA 2016年11月号」を読んで

別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.3

「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46」の感想では毎回、齋藤飛鳥のエッセイについてあれこれ書いているが、今回は、齋藤飛鳥と同じテーマで文章を書くことにする。
齋藤飛鳥はエッセイのテーマを<人>と書いているが、今回のエッセイのテーマは<やさしさ>だ。

『昔、本で読んだ事がある。
人にやさしくできるのは自分を愛しているからだ。
(中略)
しかしどうだろう。
今の世の中、自分のことを愛している人はわんさかいる!ちょっとSNSなんかを覗けばすぐに見つかる!
だけど、やさしいと感じる人は滅多にいない』

そういう書き出しで始まるこのエッセイは、「やさしさを疑う自分」と「他人にやさしくしない自分」について書いている。

そこで僕も今回は、<やさしさ>について文章を書き、齋藤飛鳥のエッセイに対するアンサーエッセイみたいな立ち位置を目指せればいい、と思っている。

まず、言葉の定義をしたい。
僕は、<やさしさ>というのは大雑把に分けて二種類あると思っている。それを、「やさしさ」と「優しさ」という二種類の表記で書き分ける。

「やさしさ」:その場で伝わるやさしさ
「優しさ」:その場では伝わらないやさしさ

こう言葉を定義した時、齋藤飛鳥はこのエッセイの中で「やさしさ」について書いているのだ、ということはすぐに分かるだろう。

『自慢だが、私の母はやさしい。
家族のことや家族の親しい人に対してはもちろん、赤の他人にまでやさしい。これに関しては自信を持って言える。
困っている人がいたら誰であろうと必ず助けるし、
何の躊躇もなく自分の物を人にあげる。』

齋藤飛鳥は母親のことをこう評す。これはまさに「やさしさ」だろう。その言動が伝わった瞬間に、やさしさも伝わる。母親はそういうタイプであるようだ。そしてそんな母親を引き合いに出して、齋藤飛鳥は、自分が受けるやさしさについて分析していく。

このエッセイを一読して僕は、この文章には「優しさ」の要素が欠けている、と感じた。そしてその理由は、齋藤飛鳥が「優しさ」の体現者だからではないか、と僕は想像した。

やさしさというのは、時に厳しく、時に辛い。怒られたり、無理な挑戦をさせられたり、厳しいことを言われたりすることが、結果的に自分の人生のためになる、ということはよくあることだ。それらは、その言動を受けた瞬間にはやさしく見えない。しかし、時間が経つことで、あれはやさしさだったのだ、と過去を振り返ることが出来るようになる。それが「優しさ」だ。

齋藤飛鳥は決して、「やさしく」振る舞うことが出来なくて悩んでいるわけではない。エッセイの中ではこう書いている。

『私はやさしくありたいと思うが、やさしくなりたいとは思わない』

色んな解釈が可能な文章だが、「自分のスタイルを保ちながらやさしいと受け取られるならそれでいいが、自分を曲げてまでやさしく振る舞おうとは思わない」という風に僕は読んだ。この受け取り方で正しいとすれば、僕も同感だし、そのままの齋藤飛鳥でいて欲しいと思う。

しかし単純に僕は、齋藤飛鳥は「優しさ」に言及していないな、と感じるのだ。

もちろん、それは当然のことでもある。齋藤飛鳥はこのエッセイの中で、「やさしく振る舞うこと」ではなく、「やさしさを受け取ること」について言及しているのだ。やさしく振る舞われても、その通りには受け取れずに疑ってしまう自分自身について書いている。

齋藤飛鳥は、「やさしく」されたら疑うのだろう。『この人なんでやさしいんだろう…。どうして私なんぞにやさしくしてくれるんだろう…。何が欲しいのかな…』と書いているように、「やさしく」されるという状態をすんなり受け入れられない自分について書いている。

一方で「優しく」された場合には、きっと疑わないのだろう。何故ならそれは、その場ではやさしい言動には見えないからだ。齋藤飛鳥の中で、引っかかる部分はたぶんない。疑い深い彼女にすれば、「優しく」振る舞われる方が自然で安心できるのだろう。だからこのエッセイの中では「優しさ」について触れられていない。

ただ、齋藤飛鳥がこのエッセイの中で「優しさ」に触れなかった理由はもう一つあると僕は感じている。それが先程も書いたことだが、齋藤飛鳥が「優しさ」の体現者だからなのではないかということだ。

これに関しては、具体的に提示できるような傍証はない。あくまでも、僕の勝手なイメージの話だ。

齋藤飛鳥には、「やさしく」振る舞っているイメージはあまりない。他人にそこまで関心がないということもあるだろうし、後で触れるつもりだが、エッセイの中でも「やさしく」振る舞いたくない理由が書かれている。
しかしそれら以上に大きな要素は、「やさしい」振る舞いに良くないイメージを抱いているからではないか、と僕は想像するのだ。

「BUBUKA 2016年11月号」の中のインタビューの中で、齋藤飛鳥が秋元真夏に対してこんな風に語っている箇所がある。

『もとから真夏のことは大好きだったんですけど、たぶんどこかで胡散臭さを感じていたんですよ(笑)。でも今回のツアーでそれは消えました。本当にいいひとなんだなって(笑)。』

このインタビューの中で齋藤飛鳥は、秋元真夏の「やさしさ」に触れた経験を様々に語っている。齋藤飛鳥が言う「いいひと」というのは「やさしいひと」という捉え方でそこまで間違ってはいないだろう。

「やさしいひと」を胡散臭いと感じてしまう感覚が齋藤飛鳥の中にあるのだろう。それは、「やさしく」振る舞われた時に相手の言動を疑ってしまうという齋藤飛鳥自身の言葉からも読み取ることが出来る。母親の「やさしさ」を賞賛する彼女だが、それは、ずっと一緒にいて母親のことをきちんと理解しているから、胡散臭いと感じる余地がない、ということだろう。同じことが、秋元真夏に対しても起こったのだろう。

「やさしいひと」を胡散臭く感じる感覚が齋藤飛鳥の中にあるとすれば、自分でも「やさしい」振る舞いを制限することになってしまうだろう。これが齋藤飛鳥に「やさしい」振る舞いをしているイメージがない理由だと僕は考えている。

しかし、齋藤飛鳥がやさしくないわけではない、とも思う。齋藤飛鳥は「優しい」振る舞いをしているということなのだろうと僕は感じるのだ。

別に怒ったり厳しいことを言ったりするような「優しさ」ではないだろう。恐らく、そっとしておいたり、バランスのよい距離を取ったり、辛さの絶頂を外して声を掛けたりというような形で「優しさ」を発揮しているのではないか。完全に僕の妄想だが、僕は齋藤飛鳥に対してはそういう「優しさ」を発揮しているというイメージがある。

そして、自分がそういう風に振る舞っているからこそ、意識的にか無意識的にかは分からないが、このエッセイの中で「優しさ」について触れられていないのではないか、と僕は感じるのだ。

「やさしさ」と「優しさ」は別物で、基本的に両方発揮することは難しいと僕は感じている。僕は、今は「やさしいひと」と思われたいとは思わなくなった。何故なら、「やさしいひと」と思われると「優しい」振る舞いがしにくくなると思うからだ。「やさしい」振る舞いと「優しい」振る舞いなら、出来れば「優しい」振る舞いの出来る人になりたいと僕は思う。いずれにせよ、「やさしさ」を求める人もいれば「優しさ」を求める人もいる。どちらかだけが優れているわけではない。

ここまで書きながら気づいたことがある。齋藤飛鳥はこのエッセイの中で、「やさしさ」と「優しさ」を混同している箇所がある、と。基本的には「やさしさ」についての話だが、「優しさ」について書いている部分があるのではないか、と気づいた。

それが、先程も引用した『私はやさしくありたいと思うが、やさしくなりたいとは思わない』という一文だ。この文章は以下のように続いていく。

『何故か。
薄っぺらい人間だからだ。
これはあくまでも私の考えだが、私みたいな奴にやさしくされても皆は嬉しく無いと思う。
私のような薄っぺらい人間にやさしくされても
ありがとう。なんて言いたく無いと思う。』

齋藤飛鳥はここまでの部分で、母親の「やさしさ」や、自分が受ける「やさしさ」への疑いなどについて書いてきた。しかし、この「私みたいな薄っぺらい人間にやさしくされても嬉しくない」という話は、「優しさ」についての話ではないかと考えた。

今回のエッセイを読んで一番に感じたことは、この「私みたいな薄っぺらい人間にやさしくされても嬉しくない」という部分をもっと掘り下げて欲しい、ということだった。一読した時、この部分は弱い、と感じたのだ。

何故なら、薄っぺらさとやさしさには関係がないと思うからだ。あくまで僕の感覚だが、「やさしく」振る舞うことは、ある種の挨拶みたいなものだ。挨拶は、薄っぺらであるかどうかに関係なくする。潤滑油みたいなものだ。「やさしく」振る舞うことは、挨拶ほどは容易くはないが、しかしこちらもある種の潤滑油みたいなものであって、薄っぺらかどうかとは関係ないと僕は思う。薄っぺらな人間からされた挨拶でも不快にはならないように、薄っぺらな人間から受けた「やさしさ」に対して特に不快に思うことはないのではないか。

今文章を書いていて、なるほど、齋藤飛鳥がここで指摘していることが「優しさ」についてだとすれば話が通る、と感じた。確かに、こちらも僕の感覚にすぎないが、薄っぺらな人間から「優しく」振る舞われることは、ちょっと不愉快かもしれない。薄っぺらな人間というものを齋藤飛鳥がどう捉えているかにもよるが、「優しく」振る舞う人には、何らかの深い考えがあって欲しい、と感じることは自然かもしれない。

齋藤飛鳥が、自分が受けるやさしさは「やさしさ」、自分が与えるやさしさは「優しさ」と書き分けていたとは思わない。混同しているのだろう。あくまでも僕の解釈が正しければだが。

僕は、齋藤飛鳥は文章を書ける人だと感じているが、まだまだ文章を書くという経験の絶対量が足りない。絶対量が足りない中で人に読んでもらう文章を書かなければならない状況、というのもなかなか大変だろう。しかし、以前にも書いたが、この「別冊カドカワ」の場でどんどん書き、鍛錬を積んで欲しいと思う。このまま文章を書き続ければ、齋藤飛鳥は、人間や社会を独自の目線で鋭く切り取るエッセイストになれるだろうと思う。そういう齋藤飛鳥を楽しみに待ちながら、これからも齋藤飛鳥のエッセイを読みたいと思う。

今回の「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.3」の感想は、齋藤飛鳥のエッセイについてだけ触れて終了である。個人的には、齋藤飛鳥のエッセイ以外に採り上げたいと思うものはなかった。面白くないわけでは決してないが、僕の関心とは重ならなかった、という感じだ。
「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46」自体はとても良い企画だ。毎回齋藤飛鳥のエッセイが読めるのは言うに及ばず、写真だけではなくインタビューなども多い点や、乃木坂46の歴史や周辺などについて知ることが出来る点も良い。普段は雑誌やテレビなどでそこまで露出がないメンバーが価値観や決意を語る場としても有用だろう。続けられる限り続けて欲しいと思う。

「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.3」

「BRODY 2016年10月号」を読んで

言葉や価値観に惹かれる傾向にある僕は、雑誌を買う時に、グラビアがたくさん載っているかどうかではなく、インタビュー記事がたくさん載っているかで判断することが多い。

「BRODY」の月刊誌としての創刊号は、そういう意味で、とても良い雑誌だった。乃木坂46関連のインタビューが、非常に充実していた。

乃木坂46のインタビューで、圧倒的な存在感を放つのは橋本奈々未だ。橋本奈々未のインタビューをすべて追っているわけではもちろんないのだが、どれを読んでも、問われたことに対する理解度、自分自身に対する客観視、価値観を言葉にする言語力など、アイドルだから、ということではなく、一人の人間としてそれらの能力に優れていると感じさせる。

橋本奈々未は、常に「冷徹な観察者」という感じがする。「冷徹な」という形容が正しいかはともかく、いつどんな場にいても「観察者」として存在している、というのは多くの人が抱く感覚ではないかと思う。そして、観察対象との距離感みたいなものが、どことなく「冷徹さ」を感じさせる。

『私の場合、笑うツボが小さいころから周りとあまり合わなかったりして』

この感覚は僕にもあって、こういう感覚は人を「観察者」にさせるのだと感じる。周りとの価値観にズレを感じなければ、周りを殊更に観察する必要はない。しかし、周りとの価値観にズレを感じれば、周囲と溶け込むためには観察することが必須となる。何故今笑っているのか、何故今泣いているのか、他人はどういう時にどういう行動をするのか、自分の行動はどう見られているのか…。観察し、言葉や感覚として捉え、カムフラージュとしてそれらを表面にまとっていく。学校という狭い世界の中で生き抜くためには必須の能力だろうし、橋本奈々未はその力が異様に発達しているのだろうと思う。

そんな橋本奈々未がインタビューの中で語っているのは、「自分の境界」についてだ。

『自分が思ってる自分が「自分じゃない」って言われることがあるんですよ。「ななみんってこうだよね」っていうイメージがひとり歩きしちゃうんです(中略)どこからが本当の自分の意志でやっていて、どこまでが周りに求められてやっていることなのか、たまにその境界線がわからなくなることはありますね。その積み重ねによって自分が変わっていってしまうのかもしれないとは感じていて。』

アイドルに限らず、他者に見られることを仕事にしている人のメンタリティがどうなっているのか、その一般的なところは僕にはまるで分からないが、橋本奈々未は、アイドルという仕事を通じて、「本来の自分」が変化していくのではないか、という危惧を抱いている。

『うん、思ってないことは言えないんだよね』

そう語る橋本奈々未は、恐らく、「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」を出来る限り近づけようとしているのだろう。近づけよう、というか、遠ざからないように、という感覚だろうか。例えば秋元真夏は、「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」を意識的に離し、まったく違うものとして扱っているだろう。そういう生き方が出来る人もいる。しかし橋本奈々未は、自分の感覚としてそれはやれない。「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」は、限りなく肉薄している。

だからこそ、その変化にも敏感なのだろう。

橋本奈々未はおそらく意識的に、「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」を定期的に比較しているのだろう。そしてそこがあまりズレないことが、橋本奈々未がアイドルとしてやっていく上での一つのルールみたいなものとして機能しているのだろう。しかし、「アイドルとして見せる自分」は、様々な要因によって変化していく。基本的に、「アイドルとして見せる自分」というのは受け取り手のものだからだ。「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」を定期的に比べている橋本奈々未は、「アイドルとして見せる自分」に「本来の自分」が引きずられるような感覚を持っている。

『うーん…これはひとによると思うし誤解されてしまうかもしれないんですけど、このお仕事をしていると失うものも多いと思ってるんですよ。それはあくまで私の性格上のことなんですけどね。だからなるべく変わらないほうがいいとは思うし、昔はこんなこともできていたのにって感じることも多いから、それは忘れないようにしておきたくて』

「アイドル」としては異質の存在感を放つ橋本奈々未は、アイドルという仕事が自分から何を奪っていくのかということについても冷静に観察する。それは、プライバシーや自由といった、他者に見られる仕事につきものの、誰でも思いつきそうなものではなく、もっと感覚的なものだ。

『ひとに対する気遣いとか優しさ…わかっているのに優しくできないとか、そこに寄り添ってあげられない自分の気持ちの弱さとか。意地悪な気持ちが生まれやすい環境ではあると思うから、そこに自分が侵食されたくないと思ってるのかもしれない』

こういう感覚を未だに維持できている、ということが、橋本奈々未の凄さの一端だろうと思う。乃木坂46が結成されてから5年。5年も一つの環境にいれば、その環境における「普通」に価値観が馴染んでしまうのが当然だろう。その中で橋本奈々未は、自分がかつて持っていたもの、今まさに失われつつあるものなどに対して自覚的だ。アイドルという仕事に就いた以上宿命であると諦めている部分もありながら、それでも「本来の自分」を手放さないようにしようという芯を持ち続けている。

『地元については、将来戻ったときに順応できれば自分はひととしてまちがってないんだっていうか(笑)
うん、そう思えるようにしていたいんですよね。ひとつの指標じゃないですけど』

橋本奈々未は、アイドルとして生きている中で、ある種の限界のようなものを捉えたのだろう。「アイドルとして見せる自分」を持つ以上、そして持たざるを得ない以上、それは「本来の自分」からは離れていくのだし、その乖離を完全に自覚し切るのは無理なのだ、と。だからこそ橋本奈々未は、指標を外に用意した。これもまた、非常に冷静だ。「本来の自分」の変化を感じ取るために、「地元(の友達)」との関係性を注視する。そんな風に橋本奈々未は、自らの思考力・言語力に加え、客観的な指標をきっちりと手放さないでいることで「本来の自分」を保ち、「自分の境界」を認識し続けているのだろうと思う。

橋本奈々未の客観的な者の見方は以前から凄いと感じていたが、改めてその凄さを実感したインタビューだった。

さて、そんな橋本奈々未は、客観視の能力が高いが故に、こういう性質を身にまとうことになる。

『これをサービス精神と言っていいかはわからないんですけど、少なくとも私は自分のためにはがんばれないんですよ』

この感覚は、客観視によってもたらされていると僕は感じる。
客観視というのは、自分が自分を見るのではなく、他者として自分を見ることだ。つまり橋本奈々未は、常に「誰かから見た自分」を意識していることになる。

僕も基本的に似たタイプだから同じような発想になるのだけど(僕も、自分のために頑張るのはなかなか難しい)、常に「誰かから見た自分」を意識しているが故に、その「他者視線」を満足させるように行動してしまう。

『だから羨ましいじゃないけど、自分が必死になれるということは、自分が役に立ってると感じられるということだと思っていて。さっきと同じような話になりますけど、自分がいちばん活き活きして必死になれるときって、自分になにかしてあげてるときじゃなくて、ひとの役に立っていたりひとに求められていることが目に見えてわかるときなんだろうなって思います。このお仕事をしていると、どうしてもそれが伝わりづらくて。求めてくれている人に自分がしたことが与えている影響って、まったく自分があまり知らないところで起こっているわけじゃないですか。だから握手会で「こういうときにこういうことを言ってくれたからがんばれました」みたいに言われるのはすごくうれしいけど、自分の中でまったくリアリティが伴ってこないんですよね』

自分を常に外側から見ているから、「何かしたい」「こうなりたい」みたいな、「自分」という立脚点を必要とする望みは生まれにくくなるし、次第に、「他人がして欲しいと望んでいること」を提供できることの“楽さ”(“楽しさ”ではなく)を感じるようになっていくだろう。その感覚はとてもよく分かる。

「本来の自分」を否が応でも変質させる「アイドルとして見せる自分」を持たざるを得ないアイドルという仕事に危惧を抱きつつ、同時に、求められることを返すことによって「本来の自分の境界」をはっきりさせていく橋本奈々未。「ロケ弁が食べられるから」という衝撃的な理由でオーディションにやってきた橋本奈々未は、最初から、そして今なお、「アイドル」という枠組みから外れ続けていると言えるだろう。アイドルという仕事が、自分を失わせ、同時に自分をはっきりとさせる。その奇妙なバランスと危うさが、橋本奈々未という稀有なアイドルを作り上げているのだろうと、改めて認識させられた。

橋本奈々未は、他者への洞察力も実に高い。

周りの人と合わない、と語るあるメンバーに対して橋本奈々未は、『自分があるからそうなるんだろう』と分析する。

松村沙友理である。

『自分がおもしろいと思うことだったり、正しいことやまちがってることが自分の中でちゃんと整理がついてるんだよ。その基準で周りで起こることを見て、自分の基準で笑えたり怒れたりするから、結果的に「合わない」と思うことが多いのかもしれない。』

橋本奈々未は松村沙友理をそう捉える。

松村沙友理のインタビューはあまり読んだことがないが、見た感じの「明るい」「自分の見せ方が上手い」「面白い」というイメージは、どうも、本来の自分とはかけ離れているという感覚があるようだ。「別冊カドカワ 乃木坂46 Vol.2」で初めて松村沙友理のインタビューを読んで、自分自身をどう捉えているのかを知った。

テレビなどでの松村沙友理しか知らない人(僕もそうだ)にとっては意外ではないだろうか。橋本奈々未も松村沙友理に対して、『さゆりんは、最初の印象では私とは真逆の人間だと思った』と言っている。確かに、橋本奈々未と松村沙友理は、真逆の人間に思える。

橋本奈々未は松村沙友理のことを、『なんとなくその場の空気や流れを見て、なんとなく察知する力がある』と評するが、松村沙友理の感覚では、自身はKYなのだと言う。

『すべての考え方が周りとズレすぎていて。昔に流行った言葉で言うとKY…自分凄いKYだなって思います。だから「空気読めるね」って言ってもらえることが多いんですけど、自分的にはぜんぜんそうは思えなくて、もうちがう世界の住人みたいな感じがしてしまって。周りのひとたちと合わなさすぎて悩んでるんですよ』

また、テレビを通じて見る松村沙友理のイメージは「明るい」「テンションが高い」というような感じだろうと思うが、松村沙友理自身は『性格がすごく地味だから』と言っている。

やはり、「アイドルとして見せる自分」と「本来の自分」との感覚はズレるものらしい。橋本奈々未が語っていたように、イメージ先行で「らしくない」と思われたりするようなことと同じだろう。松村沙友理自身は空気を読んでいる意識はないが、周りからはそう見られる。松村沙友理のことを僕は秋元真夏と同じタイプだとちょっと前まで思っていて、ある程度の戦略込みで自分の見せ方を選びとっていると思っていたので、「空気が読めない」という感覚を持っているというのはとても意外だった。

「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」の話で言えば、松村沙友理もまたその両者は肉薄しているようだ。でも、インタビューを読む限り、橋本奈々未とは少しイメージが違う。橋本奈々未の場合は前述したように「遠ざからないように意識して近づけておく」という感覚を持っている。しかし松村沙友理の場合は、「(遠ざけたいかどうかはともかく)自然に近づいてしまう」という感じだ。

『私はむしろ(仕事とプライベートの)線引きが下手だと思うんですよね。「これはお仕事だから」みたいに思えなくて。』

非常に面白いなと思ったのが、「◯◯ちゃんと遊びました!」みたいなことをブログに書けない、という話だ。

『自分でダメだなって思うのが、ブログに「◯◯ちゃんと遊びました!」とか「◯◯に行きました」みたいなことをぜんぜん書けないんですよ。なんか、ブログに書くために遊んでるんじゃないかって思えてきちゃって。』

この感覚は凄くよく分かる。松村沙友理は真面目なんだろうな、とこの部分を読んで強く感じた。「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」をうまく分けられないばかりか、分けることに対して罪悪感みたいなものを抱いてしまっているのだろう。嘘をついているような感覚になるのだろうと思う。考えすぎる人間はこうなってしまうが、僕はそういう部分に人間的な魅力を感じる。

テレビで見ているだけだと、松村沙友理が深い考えを持って動いているということはなかなか知り得ないので、今回のインタビューは、「別冊カドカワ」でのインタビューと併せて、印象的なものだった。

『私がいろんな物事を考えるときに優先していることは、どちらかというとファン向きじゃないんですよ。すべて一般の方にどういうふうに届くかを考えていて。乃木坂46のことをよく知らない方がフラットな気持ちで見た時にどう受け止めてもらえるかをすごく考えちゃうんです』

そう語る松村沙友理の言葉は、同じ雑誌に掲載されている白石麻衣のインタビュー中のこんな言葉にも通じる。

『実は握手会でファンの方と接することで、私を知ってから乃木坂に興味を持ったと直接言われることも多くて。(中略)
でもみんな、そこからどんどん推し変してしまうんですよ(笑)。(中略)最終的には乃木坂を応援してくれてることには変わりないので、結果的には全然いいやみたいな。』

松村沙友理も白石麻衣も、自分のファンは元より、今はまだ乃木坂46のファンではない人に視線が向いている。もちろん、松村沙友理は意識的に、白石麻衣は結果的にそうなった、という違いはあるかもしれない。また、安定的に人気のあるメンバーだからこそそういう方向に目を向ける余裕がある、という側面だって当然ある。とはいえ、生駒里奈もそうだろうが、「グループとして輝くために私がいる」という意識を、実践する中で表に出せるメンバーが多いことが、乃木坂46というグループの強みなのだろうと感じる。目立つ場所にいるメンバーがそういう意識でいればいるほど、その意識はグループ全体に広がっていくだろう。また、48グループのような総選挙がない、ということも、良い方向に働いている、ということなのかもしれない。「競争」が組み込まれた場合、グループのためにという意識は通常よりは薄れてしまうだろうから。

白石麻衣のインタビューで印象的だったのは、「プロ意識」についての話だ。

『よく周りの方からプロ意識が強いと言われますけど、私はそこまで…みんなが思ってる程じゃないと思いますよ(笑)。これが普通だと思ってるだけで。』

白石麻衣のインタビューもさほど読んだことがないので、自分の中でまだ白石麻衣はうまく掘り下げられていない。白石麻衣は確かに、「乃木坂工事中」などでも常に、求められる役割を完璧に全うしているように見えるし、他の場面でも周りからそう見られるほど「プロ意識」が高く見えるのだろう。しかし白石麻衣はそれを「普通だと思ってる」と語る。僕の白石麻衣のイメージは、中学の頃に引きこもって学校に行かなくなった、というぐらいのものだ。そこからどのようにして、周囲から賞賛されるほど「プロ意識」が高く見られるような意識を身につけていったのか。乃木坂46の中で常に最前線に立ち続けなければならなかった、という環境がそうさせたのかもしれないが、今後その辺りの意識を掘り下げたいものである。

同じく「グループとして輝くために私がいる」という意識の強い生駒里奈は、欅坂46のセンターである平手友梨奈を心配する。

『あと、みんな平手ちゃんのことを「天才」っていうのは良くない!確かにあの子は天才かもしれないよ。でも、それは言っちゃダメ。平手ちゃんだって絶対に気にするだろうし、もしも手のひらを返すようなことが起きた時に傷つくのは彼女なんだから。だからあんまり言いすぎないで欲しいです。』

生駒里奈の発言を追っていると、最近は、「他のメンバーを輝かせたい」ということを良く言っているように思う。例えば「EX大衆2016年9月号」ではこんな風に言っている。

『(だからフォローする側に回りたいんですね、という確認に対して)ウチはそういうところに落ち着いたのかなって。下手くそかもしれないけど、若いメンバーをフォローしていきたいと思ってます。私もそれが心地いいし、いまはいいバランスがとれいているんです。』

ちなみに松村沙友理も「別冊カドカワ 乃木坂46 Vol.2」の中で、『どうしてもこの子(2期生)たちを知ってもらいたいと思っちゃう。うちにはもっとすごい子たちがいるんだぞって』と似たような発言をしている。

生駒里奈の平手友梨奈に対する気遣いは、「何も知らないままのセンター経験者同士である」という部分ももちろんあるだろうが、生駒里奈の、他のメンバーを輝かせたりサポートしたりしたい、という現れなのだろうと感じる。先程触れた、白石麻衣や松村沙友理の「今まだ乃木坂46のファンではない人に向いている」という感覚とはまた違うが、生駒里奈は生駒里奈で、彼女にしか出来ないやり方でグループ全体のことを見ている。「アイドル」という、自分自身が光らなければ生き残れない環境で、他人を輝かせるためにも奮闘する生駒里奈のあり方は、やはり乃木坂46を語る上で外せないだろう。

さてこの記事は、橋本奈々未と松村沙友理の自己認識についての話から始まった。最後に、白石麻衣、生駒里奈、そして衛藤美彩の自己認識について触れてこの記事を閉じようと思う。

まずは白石麻衣。

『私、本質的にネガティブ思考なんですよ(笑)
(でも普段の白石さんを見ていると、そういうネガティブな部分はあまり表には出てませんよね)
お仕事のときはそうですね。でもひとりになったときとか家に帰ったときとか、落ち込むときはとことん落ち込むんです』

ドキュメンタリー映画「悲しみの忘れ方」を見ているので、白石麻衣のネガティブについては知らないわけではないのだが、やはり画面越しに見ていると、そういう雰囲気はまったく伝わらないので、こういう発言は意外に感じてしまう。

生駒里奈。

『(生駒さんのいちばんの武器ってなんだと思いますか?)
普通。周りにはカワイイ子が多いし、歌上手い子が多いし、演技が出来る、才能があるっていう子が多い中で私がいるから、ある意味目立つなって。普通だから。普通な意見をパーンって言えるし、ビッグな人を引き立たせることもできる。普通なことが逆に珍しいことことなのかなって思います。』

同じく「悲しみの忘れ方」の中で、『私はここまで運だけで来てしまいました』と言って泣いていた少女は、「普通」である自分自身に強みを見出した。強くなったものだ。

最後に衛藤美彩。

『強いとかしっかりしているようなイメージを持っている方は多いですね。自分はそう思ったことがないから、そのギャップに悩んできました』

衛藤美彩について僕は特別イメージを持っていないが、「なんでもそつなくこなせそうな感じ」は確かにある。

今回記事の中で色んなことについて触れたが、しかしこの「BRODY 2016年10月号」のインタビューはどれも、「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」のあり方について触れられていて、インタビュー自体も今まで読んできたものと比べて濃くて、非常に充実していたと感じた。こういう雑誌が増えてくれると嬉しい。


「BRODY 2016年10月号」を読んで

「15thシングルキャンペーン・新センター齋藤飛鳥の1人でヒット祈願inミャンマー」を見て

24時間テレビを横目で見ながら感じることがある。
それは、みんな泣いていて不自然だな、ということだ。

僕にはそこに、「泣かなければならない圧力」みたいなものを感じ取ってしまう。
その圧力は、現実に存在するものかもしれないし、出演者個々の妄想の集合体みたいなものなのかもしれないが、いずれにしてもそういう圧力に「屈して」泣いているように見えてしまう。

これは語弊があるだろうからきちんと説明するが、
本当に悲しいと思って泣いている人ももちろんいることだろう。
それを疑っているわけではない。
ただ、実際に悲しいと感じて、あるいは感動して泣いているのだとしても、前述したような圧力がある場(あるように見える場)で泣くということは、そういう圧力に「屈して」泣いているように受け取られても仕方がない、と僕は思う。

別に24時間テレビに限る話ではない。オリンピックやワールドカップなどでみんなが日本を応援してる感じとか、バラエティ番組で、ここで笑ってというように笑い声が挿入されている感じなど、昔から「そう感じなければいけない圧力」「感じたことを表に出さなければいけない圧力」みたいなものに強烈に違和感を覚えてきたし、そういう場所からは出来る限り逃げるようにしてきた。

さて、齋藤飛鳥の話である。

先日「乃木坂工事中」で、15thシングルキャンペーンである、齋藤飛鳥のミャンマー一人旅を見た。以前齋藤飛鳥の料理に強烈なナレーションを入れたディレクターが担当だとかで、齋藤飛鳥の自由奔放な感じとか、他人とは感じ方の違う部分なんかがうまくフィーチャーされていて、齋藤飛鳥のファンとしてはとても面白い回だった。

その中で、僕がとても気になって、とても共感できた部分がある。

『撮れ高は(スタッフが)満足して帰ることはないと思います。
お寺とか好きなので凄くテンション上がってたんですけど、それであれなので(テンション上がってるように見えませんでしたよね?という確認の発言)。』

『今結構テンション上がってるし、感動してる(と割と低いテンションで話す)』

『嬉しさ伝わってますか?』

この旅中、齋藤飛鳥は何度かこういう類の発言を繰り返していた。
そしてこういう部分を、僕はとてもいいなぁ、と感じてしまう。

悲しかったら涙を流すとか、嬉しかったらはしゃぐとか、怖かったら叫ぶみたいな「反応」って、どうしても「他者」の目を意識したものになる。もちろんこれも先ほどの24時間テレビの話と同じだが、例えば「他者」が誰もいなくても嬉しかったらはしゃぐ、という人はいるだろう。しかし同時に、そういう振る舞いが「他者」を意識したものであるように受け取られることは仕方ない、と僕は思っている。

アイドルというのは、そういう「反応」をどれだけ自然に見せられるか、ということも人気を左右する一つの指標となるだろう。何らかの感情の動きに対して、それを外側に分かりやすく「反応」として提示することで興味を持ってもらったり好きになってもらったりする。それを意識的にやろうが無意識的にやろうがどちらでも構わないが、いかに自然にそう振る舞えるかで、人気や評価が変わってくる存在であるように僕は感じている。

齋藤飛鳥は、恐らくではあるが、そういう存在としてのアイドルを「THEアイドル」と呼んでいる。

齋藤飛鳥はインタビューなどで頻繁に、「昔はTHEアイドルを目指してたけど、そうじゃなくても受け入れられることが分かってからはそれを目指さなくなった」というような発言をしている。そこで言う「THEアイドル」は、恐らく僕が前述したようなものではないかと思うのだ。

齋藤飛鳥は、その「THEアイドル」を目標にすることを止めた。「THEアイドル」を目指していた頃の齋藤飛鳥のことは知らないが、僕は今の齋藤飛鳥の振る舞いが好きだ。

ミャンマー一人旅をしている齋藤飛鳥は、確かに笑顔ではあるが、物凄く楽しそうに見えるわけではない。馬がただぐるぐる回っている土産物を見て瞬間的にテンションが上がったりするような場面はあるが、全般的に同じようなトーンで過ごしているように見える。

しかし齋藤飛鳥自身の感覚としては、凄く感動している時とそうでない時がきちんとあったのだという。
そして、凄く感動している時に、それを「反応」としてわざわざ提示しない齋藤飛鳥に、僕はとても好感を抱く。

齋藤飛鳥がどういう感覚でそういう振る舞いをしているのかは分からないし、別に意識的にやっているわけではない、ということだってあるだろう。ただ、どういう感覚でそうしているかに関わらず、感情を「反応」として提示しないという選択はなかなか勇気がいるものだと僕は感じるし、それを結果的に選びとっている齋藤飛鳥は凄いと感じてしまう。

感情に合わせた「反応」を普通に見せる方が、一般人としても楽だし、当然アイドルとしても楽なはずだ。「反応」を見せないことで、周りを不安にさせたり、余計な誤解を生んだりすることもあるだろう。特別良いことはないはずなのだ。

だからこそ、そういう行動を取る齋藤飛鳥に僕は、強い意志を感じてしまう。それが本来の自分であるのかどうかはともかく(僕は、そういうあり方が本来の齋藤飛鳥に近いのだろうと思ってはいるが)、「反応」を見せないという自分を提示する、という選択に、自分自身を貫く意志や、何か大きなものに抵抗する意志など、敢えて苦しい道を選んでいるような強い何かを感じてしまう。その分生きづらくなるはずだが、たとえそうだとしても自分の感覚に正直でいようとする振る舞いに、好感を抱く。

齋藤飛鳥自身は恐らくそこまで意識的にはやっていないだろう。僕も、「反応」を見せることが苦手なタイプだから、齋藤飛鳥の振る舞いはそもそも共感できる。別に自分がどう思ったかが大事なわけで、それを周りにいる「他者」(面識があろうがなかろうが)に見せる必要はない。きっとそれぐらいの感覚だろうと思う。自分のあり方に素直なだけだ。
しかし一方で、「反応」を見せないことで、周りの人を不安にさせたり、要らぬ誤解を与えたりする経験も数多くしてきたはずだ。アイドルであれば、なおさらそれが不利に働く場面もあるだろう。そういう不利益があることが分かっていて、なおそういうあり方を貫く齋藤飛鳥の姿に僕は惹かれる。

しかも、「反応」を見せない振る舞いが基本だからこそ、「反応」を見せた時の真実味みたいなものが増す、ということもあるはずだ。
メンバーのインタビューを読むと、齋藤飛鳥はよく泣くのだという。僕には齋藤飛鳥がよく泣くというイメージは特にないのだが、しかし本当に齋藤飛鳥がよく泣くのだとすれば、その涙はより本物に近いように映ると僕には思える。

何故なら、普段「反応」を示さない齋藤飛鳥が、「泣く」という「反応」を露わにしているからだ。

僕はライブや握手会に行ったことがないので、そういう場で齋藤飛鳥が涙を見せているのかどうかは知らない。ファンにも見せるのか、あるいはメンバーの前でだけなのか、それは僕には判断できないが、いずれにしても、齋藤飛鳥の涙を見た者は、それが普段見られない齋藤飛鳥の「反応」であるという意味で、よりその「反応」を強くリアルに感じ取るのではないかと僕は思うのだ。

もちろん、その辺りのことを齋藤飛鳥が計算でやっている、なんてことを主張したいわけではない。計算だろうが計算じゃなかろうが僕にはどっちでも構わない。いずれにしても、見せる必要がないと齋藤飛鳥が感じる「反応」は敢えては見せない、というミャンマー一人旅の企画で見せたそのスタンスは、齋藤飛鳥に対する僕の関心をより強くした。


ミャンマー一人旅の企画はそれ以外にも、齋藤飛鳥の魅力に溢れた企画だった。

例えばその独特な言語感覚。ある料理を食べた時、齋藤飛鳥はこんなコメントをしていた。

『台湾についた瞬間、その国の匂いってあるじゃないですか?その味です』

味についてはまったく何も伝わらないのだが、その独特の言語センスがとても素敵だ。ミャンマーでご飯を食べていて台湾が出てくるのも謎だし、匂いが味です、という日本語はメチャクチャなのだけど、でもそういうことを言っても齋藤飛鳥はバカっぽく映らない。安部公房や遠藤周作などの作品を読んでいるというイメージがそうさせるのか、常に一本芯が通っているかのような雰囲気がそう見せるのか分からないが、齋藤飛鳥の発言は、内容的にそれがどれだけ意味不明なものであっても、的を外した感じにならない、という点は、齋藤飛鳥の強みであるように思う。

「張り切りチャイティーヨー」という謎のフレーズも印象的だった。この発言の意図を説明する齋藤飛鳥の言葉は正直意味不明で、ディレクターも「齋藤飛鳥は疲労にやられてしまっていたようだ」というようなナレーションを入れていた。しかしこちらも先程と同じで、意味不明なのだけど面白いし、外した感じがない。齋藤飛鳥はまだ、「乃木坂工事中」の中でもそこまで喋る方ではないが、深い思索を感じさせる橋本奈々未や、異次元の発想を繰り出す堀未央奈などとはまた違った形の言語感覚を見せてくれるはずだと期待している。

母親から、ミャンマーのご飯は味が濃いから日本から何か食べ物を持っていけ、と言われて齋藤飛鳥が持ってきたのが「おかゆ お茶漬け リゾット」という「三大べちゃべちゃしたご飯(僕が勝手に名づけました)」なのはもう鉄板のネタだし、雨季のため状況次第ではロケを中止しなくてはならなかったかもしれない中、齋藤飛鳥が外にいる時間だけ雨が一切降らなかったという奇跡を呼び寄せたのも、持ってるなという感じがする。齋藤飛鳥らしさを存分に引き出す面白いナレーションも健在で、見た目のテンションに変化がない齋藤飛鳥の姿をとぼけた感じに見せるのに大いに貢献していると感じた。

今回初めてセンターに選ばれ、そのことによって今までやる機会のなかった仕事や状況に直面する機会も触れるだろう。齋藤飛鳥は、まだまだ秘めたものを持っていると僕は勝手に感じている。齋藤飛鳥自身は、「何かを知らないことは恥ずかしいこと」「努力している姿を見せたくない」とインタビューなどで語っているが、そういう部分も垣間見せていくようになると、より齋藤飛鳥の魅力的な部分が表に出るのではないか、と感じさせる今回の企画だった。

「15thシングルキャンペーン・新センター齋藤飛鳥の1人でヒット祈願inミャンマー」を見て

乃木坂46 MVの中の西野七瀬

乃木坂46の中で、西野七瀬は確かに元から気になる存在ではあった。
「悲しみの忘れ方」というドキュメンタリー映画を見た時から(それは僕が、乃木坂46のファンになった時、という意味だが)、西野七瀬というのは存在感に溢れていた。映画の中でメインで取り上げられていたということもあるが、そこか儚げで静かで、前に出たいという意欲を見せず、何故この子がアイドルなのだろう?という違和感を与えながら、同時に、存在しているだけで「THE アイドル」と呼びたくなるような、不思議な存在感だった。

しかしその後僕は、西野七瀬にあまり注目しなくなった。
齋藤飛鳥の存在を知り、齋藤飛鳥のファンを自覚したことで、西野七瀬に限らず乃木坂46の他のメンバーにさほど興味を持たなくなった、ということもあるかもしれない。

しかし、原因はそれだけではない。

僕が乃木坂46に触れるのは、「乃木坂工事中」という番組か、雑誌の記事が主だ。
そして、そのどちらであっても、西野七瀬は存在感が薄い。

西野七瀬は、喋るのがさほど得意ではない。それは、テレビでも雑誌でも変わらない。エレビでも雑誌でも、振られた問いに対して考えこむ素振りを見せ(雑誌でも、西野七瀬のインタビューの場合、「ここでしばらく沈黙」みたいな表記がある)、そしてポロッと短い言葉を放つ。確かにその言葉には、よく考えられた鋭さみたいなことを感じることもあるのだけど、それよりもむしろ、言葉で自分のことを表現するのは苦手なのだ、という印象を強く受ける。言葉に惹かれる傾向のある僕には、西野七瀬の内面には深い何かあるのだろうな、ということは感じつつも、どうも西野七瀬に特別関心を抱けないでいた。

しかし最近、西野七瀬に強く関心を抱くようになった。そのきっかけが、乃木坂46のMVを集めた「乃木坂46 ALL MV COLLECTION~あの時の彼女たち~」を見たことだ。

西野七瀬は凄いな、と思った。

他のアーティストのMVをほぼ見たことがないので比較は出来ないのだけど、乃木坂46のMVにはドラマ仕立てのものが多い。他のアイドルのように、リップシンク(という言葉も最近知ったが)とダンスで構成されているMVもあるのだが、曲の歌詞とリンクしているわけではないドラマ仕立てのMVも多い。

そして西野七瀬は、そのドラマ仕立てのMVで主人公になることが結構ある。主人公が決まっていない、選抜メンバー全員がメインあるいはアンダーメンバー全員がメイン、みたいなMVもある中で、西野七瀬が主役を務める割合はとても高いと感じる。

乃木坂46のドラマ仕立てのMVは、もちろんMVの背景であるのでセリフがほぼない中で、心情を伝え見る者の心を動かすものが多くて好きだ。しかしその中でも、西野七瀬が主役であるMVは格別にいい。

西野七瀬が主役のMVを見ると、何故だか泣きそうになってしまう。

「ロマンスのスタート」という、西野七瀬が主役の他のMVとはちょっと違うテイストのものもあるが、基本的に西野七瀬が主役のMVは、西野七瀬自身がちょっと切ない状況置かれている。あともう少しで死んでしまう少女、転校が嫌で家出してしまう少女、耳が聞こえないけどダンスに参加する少女。どれも、その瞬間しか存在し得ない儚さを身にまとった少女であり、その少女の姿を西野七瀬は見事に演じている。

「MdN EXTRA Vol.3 乃木坂46映像の世界」の中で、「気づいたら片想い」のMVを撮った柳沢翔氏は、西野七瀬についてこんな風に語っている。

『でも、いざカメラを回してみたら「これはいける!何分でも観ていられる!」って。撮っててビジコンを見たら、間が持つ人、持たない人、すぐに分かりますからね』

これは、すごくよく分かる。

先程も書いたが、MVなので、基本的にセリフがないままドラマが展開されていく。喋っている内容が文字で表示されることもあるが、そうではないこともある。なので、ドラマを成立させるものは基本的には表情しかない。

そして西野七瀬は、その表情で圧倒的に魅せる。

柳沢翔氏が言うように、西野七瀬は、喋らずに画面に写っているだけで、観ているものを惹きつける力がある。切ない表情は、観ている者にも涙を誘いかけるような力を持つ。そして楽しそうな表情であっても、どことなくバラバラになりそうな不安定感が滲む。泣き顔が似合うが、しかし泣いているから惹きつけられるというのとは違う。「西野七瀬が泣いている」ということに、もっと強い意味を感じてしまうのだ。先に挙げた雑誌の中で、同じく西野七瀬のMVを担当した山戸結希氏は、『一度目が合うと逸らせない方だなぁ、と西野さんを見ていました』と言っている。まさにその通りだなと、画面越しでもそう感じる。

僕が判断できないのは、こう感じるのは、「西野七瀬というパーソナリティを知っているから」なのかどうか、ということだ。
西野七瀬についてまるで知らない人が同じMVを観て、僕と同じように感じるのか。それとも、一人や孤独が似合う西野七瀬というパーソナリティを知っている人間だからこそ、西野七瀬の表情から感じ取れるものがあるのか。

西野七瀬は、インタビューなどで圧倒的な孤独感を漂わせる。東京に友達はおらず、休みの日は家にいて、家にいると不安になるからずっと仕事をしていたくて、メンバーに対しても申し訳無さを感じて自分からは距離を縮めることが難しい。僕は西野七瀬に対してそんなイメージを持っている。

そしてそんな西野七瀬に対するイメージと、西野七瀬がMVの中で演じる少女が見事にオーバーラップするのだ。MVの中で描かれる少女が、どれも「西野七瀬自身」に見えてくる。もうすぐ死んでしまう少女や、耳の聞こえない少女など、「西野七瀬自身」とはかけ離れた設定であっても、それが「西野七瀬自身」に見せてしまうだけの力があるのだ。

今となっては僕はそんな風に、西野七瀬と作中の少女をオーバーラップさせるような見方しか出来ないが、西野七瀬を知らない人があのMVを観てどう感じるのか、とても興味がある。

今まで正直、西野七瀬の魅力がイマイチ分からなかった。もちろん、容姿は可愛いし、守りたくなるみたいな雰囲気も感じるのだろう。しかし、綺麗でかつお笑い方面のポテンシャルも高い白石麻衣や、綺麗でかつ知的で哲学を感じさせる橋本奈々未などと比べて、乃木坂46の第一線で活躍するほどの魅力が分からなかった。でも、MVを観ることでようやく西野七瀬の魅力が分かったような気がする。なるほど、これは人気が出るわけだな、と感じました。

MVと西野七瀬との関係で言えば、非常に印象的だった言葉がある。同じく、先の雑誌で山戸結希氏がこんな風に語っている。

『西野さんは、どんなに大変でも、首を縦にしか振らない方でした。今でもよく撮影時の西野さんを思い出します。本当に、尊敬に値する方でした。』

「首を縦にしか振らない人」というのは、非常に西野七瀬らしいと感じた。自分の意志がないわけではない。しかしその意志というのは、良い物を作りたいというものであって、そのために首を縦に振り続けるという選択をする西野七瀬。西野七瀬の底力を感じさせる話だなと思いました。

改めて乃木坂46は、様々なポテンシャルを持つ稀有なメンバーで構成されているのだな、と感じました。

「乃木坂46 MVの中の西野七瀬」

別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.2

『実際、今はセンターにいないわけだし。逆に“私がセンターになったら、本気で売れると思ってるんですか?”ってみんなに訊きたいです』

乃木坂46の15thシングルで初めてセンターに立つ齋藤飛鳥。その齋藤飛鳥の、センター決定前のインタビューが、本書の巻頭に掲載されている。THE齋藤飛鳥、とでも言うべきネガティブ思考が、相変わらず展開されている。

ちなみに僕は、今回、乃木坂46のシングルを初めて買うつもりだ。だから齋藤飛鳥の「私がセンターになったら、本気で売れると思ってるんですか?」という問いには、全力で「はい」と答えたいところである。

巻頭のロングインタビューでは、齋藤飛鳥の葛藤が切り取られていく。齋藤飛鳥は常に葛藤している印象があるが、今回はその葛藤がよりくっきりとしているように思う。センターに決まる前のインタビューとはいえ、雑誌のモデルから始まり、様々な雑誌への露出、ラジオ番組、福神入りなど、確実に環境が変化している齋藤飛鳥。それに伴って彼女の葛藤も、より輪郭がはっきりしてきたのではないか、という気がする。

僕はその葛藤に、「自覚」という名前を付けたい。「自身への自覚」と「他者への自覚」である。

『でも、モデルのお仕事を始めてからは、メイクや洋服によって自分であって自分じゃない姿になれることに気付いて、写真を撮られることが好きになったんです。その意識を変えてくれたのはファッション誌やモデルのお仕事のおかげ。』

写真を撮られることへの自覚、みたいなものは、これまでもインタビューの中で語ってきた。苦手だったもの、よくわからなかったものが、自分の中で違った意味付けを持つようになる。モデル、という仕事において、齋藤飛鳥は「自身への自覚」を積み重ねてきた。

そしてそれは、アイドルという仕事全般に及ぶようになっていく。

『こう言ったらファンの方には申し訳ないですけど、もともとはそんなに自分の人生のなかで乃木坂を大きく考えてなかったから。今ほどいろいろ深く考えて行動してなかったし、でも今はそういうわけにもいかないので。』

僕は、齋藤飛鳥が選抜入りするようになった頃から乃木坂46を好きになった。だから、齋藤飛鳥のアンダー時代のことはよく知らない。しかし、選抜後の齋藤飛鳥を見ていると、何故この子がアンダーだったんだろう?と感じる。様々な面でポテンシャルを秘めた存在だと僕は感じるのに、何故アンダーだったのだろう?と。しかし、「深く考えて行動してなかった」と自身が認めているように、意識の問題だったのだろう。どれほど強い武器を持っていようとも、それを意識的に見せていかなければ伝わらない。齋藤飛鳥は、様々な環境の変化と共に、アイドルとしての「自身への自覚」を徐々に身につけていった。そして、あくまでも結果論だが、それがセンターに繋がった。そういうことだろうと思う。

『それまでの私って、ただ流れに身を任せて生きていたので、別にやりたいこともなくて。昔はみんなと一緒にいるのが楽しいから、乃木坂にいるみたいな感じでした』

ちょっと話は脱線するが、少し前何かでこんな話を読んだ。「今の若い人は、学生の頃から将来のビジョンなんかを求められるから大変だ」と。昔はそういう時代ではなかったし、長いこと働いたり努力したりした結果そういうものって見えてくるものなんだ、という話だった。齋藤飛鳥のこの話も、まさにそうだろう。やりたいこともやる意志もなかったけど、環境に巻き込まれるようにして劇的な変化を遂げた。もちろん、齋藤飛鳥ほどの環境に身を置くのは困難だろうし、良い環境に身を置くために将来のビジョンを語らなければならないのだ、という事情もあるかもしれない。しかしそれでも、齋藤飛鳥のこの言葉は、働くこと、社会に出ることなどに悩んでいる若い人の希望になるのではないかと思う。

さて、「他者への自覚」の話をしよう。

『みんなといると実感するんですけど、私って薄いなって思うんです。特に選抜メンバーは個性が強い子ばかりですし、何をやっても恥ずかしいことにはならない。そういう何事もうまくやる子たちと一緒にいると、“私にはこれがあるから、ここにいられます”みたいな武器がないなって気付かされるんです』

僕は、齋藤飛鳥のこの言葉の中に「他者への自覚」を見る。これは「自身への自覚」に見えるかもしれないけど、そうではない。

僕には、「東京タワー理論」と呼んでいるものがある。

大学の友達と大学の近くを歩いていたら、ビルの間から東京タワーが見えた。なんだ近いんじゃん。ちょっと言ってみようか、というノリで、歩いて東京タワーを目指すことになった。

しかし、メチャクチャ遠いのである。

知識としては、東京タワーが333mだということは知っている。凄く高いのだということも知っている。でも、視界に入ると、あっ結構近いんだな、歩いて行けそうだなと思う。でも全然辿りつけないし、近づいたらあまりにデカくてびっくりする。

こういう感覚のことを僕は「東京タワー理論」と呼んでいる。

これは、人間に対してもまるで同じことが当てはまると思うのだ。

知識としては「凄い」と感じている人がいる。でも、視界に入ると(つまり、存在としてまだまだ遠いレベルにいる時は)、案外近いのかも、と思う。で、近づいてみるのだけど、全然追いつけないし、近づいたら(つまり、存在としての距離が狭まったら)、あまりにデカくてびっくりする。

齋藤飛鳥がここで語っている感覚は、まさにこの「東京タワー理論」だろうと僕は感じている。

『だって自分に自信ないですし。昔はたぶんあったんですけど、年々なくなっていて。単純に自分がいろいろ持っている人だったら、もうちょっと自己評価も高かったかもしれないけど、私のこの感じでどういう考えをしたら自己評価が高くなるんだろうな、っていう感じです』

「昔はたぶんあったんですけど、年々なくなっていて」という実感こそが、まさにその象徴だろう。昔自信があったのは、存在としての距離感がまだまだ遠かったからだ。だから、対象がそこまで離れているようには見えなかった。しかし、少しずつ近付くに連れて、対象の大きさが分かってくる。それにつれて、自信も失っていく。
(補足すると、ここで言う「対象」というのは、特定の誰かでもいいし、自分の中の理想でもいいし、誰かから与えられた目標でもいい)

主に本などで、様々なトップランナーの話を読むと、トップランナーほど謙虚で他者の才能を認めている、と感じることが多い。それは、ある面では、他を圧倒するだけの地位を築き上げた余裕から来るのかもしれないけど、ある面では「東京タワー理論」から来るだろうと思う。自分が対象に近づけば近付くほど、その対象の大きさが理解でき、その自覚を通じて、自身の立ち位置をより細密に理解することが出来るのだ。

これこそ「他者への自覚」だと僕は感じる。

齋藤飛鳥は様々な場面で、気弱な発言をする。容姿や自分の声に対する評価は、さすがにちょっと自己評価が低すぎると感じるが、そういう目に見える部分ではなく、アイドルとしての意識、番組収録での貪欲さ、センターに対する意欲などの内側に関係する部分について自信がなくなっているのは、悪いことではないと感じる。何故ならそれは、齋藤飛鳥が対象に向かって近づいていることに他ならないからだ。

『逆に自分にないものがいろいろと見え過ぎちゃってる、というのはあります』

自分にないものが見えるくらい、対象に近づけている齋藤飛鳥。対象に近づかなければ決して見えないものがある。見えれば見えるほど奮起する人もいれば、落ち込む人もいる。そういう、見えた時の反応は人それぞれ様々だろうが、他者との違いが自覚できるほど接近しているという事実に変わりはない。

齋藤飛鳥はまさに今その場所に立っていて、もがいている。しかし、齋藤飛鳥は結論を急がない。

『だからといって、そういう武器が欲しいかと言われると…必要な時もあるんですけど、でもそういうのって周りから付けていただくものだと思うので。自分からこれをやろう、あれをやろうみたいなことは考えてないです』

ここが齋藤飛鳥の強さだと感じる。今齋藤飛鳥がいる場所は、齋藤飛鳥の性格にとってはかなり厳しい場所だろう。チャレンジを楽しめるタイプならエネルギーが湧き上がってくる場所かもしれないが、基本的にネガティブな齋藤飛鳥には、答えのない問いが渦巻く辛い場所のはずだ。しかし齋藤飛鳥は、そこを積極的に脱しようとしない。

そこには、齋藤飛鳥のこんな考え方がある。

『でも結局、私自身そこまで納得しようと思ってないというか、納得する気がないので、誰かに相談してスッキリしたいとか、自分のなかでこれを解決したいとか考えたことがあまりないですね。だって“納得することってなくないですか、世の中って?”って考えになっちゃうんですよ』

齋藤飛鳥にとって「現実」とは、解釈するものではなく受け入れるものだ。解釈する方が、本当は楽なはずだ。答えの出ない問いに無理やり答えを出し、これが私の武器になるのだと言って様々なものに飛びつく。そういう生き方の方が、瞬間瞬間は楽なはずなのだ。しかし齋藤飛鳥はそうしない。現実を解釈しないで、そのまま受け入れる。それは当然、納得とは程遠いものになる。しかし齋藤飛鳥は、納得出来ないままのそのモヤモヤしたものを、そのまま受け入れる。齋藤飛鳥には、その度量がある。

齋藤飛鳥は恐ろしくネガティブだ。しかしその土台に、どんな現実も受け入れる強さがある。『たぶんね、何に対しても期待をしたくないんですよ』と語る齋藤飛鳥。もうすぐ18歳というその若さで、どんな経験をすればそんな価値観を持てるのか。外面を見ているだけでは決して分からない、内面の奥底に横たわる強さこそが、他のアイドルが持ち得ない齋藤飛鳥の強みだと感じるし、そういう部分に、僕は強く惹かれるのだ。

『でも、乃木坂に入ってなかったら本当にどうなってたんだろう?きっとヤバいヤツになってたでしょうね』

ヤバいヤツになってたかどうかはともかく(まあ、その可能性もあるかもしれない、と思わせる存在ではあるが)、今の齋藤飛鳥の立ち位置にとって、齋藤飛鳥が築き上げてきた価値観は適しているのかもしれない、とは感じる。現実を丸ごと受け入れ、他者との差を明確に意識し、答えのない問いに答えを出さないまま保持しておける。それは、常に誰かから見られ、万人受けしないと言いながらもより多くの人に好かれる振る舞いを模索し、大人数グループの中で常に差別化が求められる今の環境でその真価を発揮するのではないか。

『私は個人的に“飛鳥はこういうイメージだよね”って決められるのがあんまり好きじゃなくて。
だからこそ、いろんな方面の仕事をさせてもらえるようになって、自分のいろんな面を見せなきゃいけないなっていう意識はより強くなってます』

齋藤飛鳥は、ますます進化していくことだろう。アイドルとして、そして人間として、どんな変化を遂げるのか。益々楽しみである。


「いろんな面を見せなきゃいけない」と感じている齋藤飛鳥は、この「別冊カドカワ」の中で「齋藤飛鳥、書く。」という連載をスタートさせた。二回目である今回のテーマは「女の子」である。

正直に言うと、僕は今回の齋藤飛鳥のエッセイは、あまり好きではなかった。これには二つ理由があると僕は感じている。

一つは、テーマの問題だ。

今回齋藤飛鳥は、自身の握手会に女の子が来てくれることが多くなってきた、ということを思考のきっかけとして、女の子という存在そのものについて思考を巡らせている。そしてそういう中で、自分が女の子に対してどういう感情を抱いているのかを書いていく。

確かに齋藤飛鳥は、女の子というものに対する自分の感覚も書いている。しかし本書のほとんどは、女の子という存在そのものについて触れられている。

これはつまり、テーマが「齋藤飛鳥の外側」に存在していることになる。

前回のテーマは、「齋藤飛鳥について書いてみる。」だった。まさに、齋藤飛鳥自身のことについて触れた文章だった。テーマの良し悪しは、完全に僕の個人的な趣味なので齋藤飛鳥に罪はないのだけど、やはり僕は、齋藤飛鳥が齋藤飛鳥自身について掘り下げる文章の方がいいな、と感じる。他者の観察を通じて自分の内面を捉える、というやり方ももちろん出来るし、齋藤飛鳥にはその能力はあると思う。しかし、僕の印象では、齋藤飛鳥はまだ、他者の観察を通じて自分の内面を「言葉で表現する」ということにまだ長けていないのではないか、と感じた。

自分自身についてのことであれば、捉えかつ言葉で表現するということは、実際に文章を書くかどうかはともかくとして昔から続けてきただろうと思う。しかし、他者についてとなると、感覚的に捉えることはあっても、それをうまく文字化出来ていないのではないか、と感じる。

そして、だからこそ(で繋げるのはおかしいかもしれないが)、齋藤飛鳥には他者を捉える文章を書いていって欲しいと感じる。それはきっと、うまくいかないだろう。僕自身の感覚で言えば、今回のエッセイはあまりうまく行っていないと感じる。でも、人に見られる場で文章を書き続けることで、文章というのは変わっていく。この「別冊カドカワ 乃木坂46」は、一冊丸ごと乃木坂46の特集なわけで、ある意味ではホームと言える。そのホームで試行錯誤を重ねて欲しいな、と思う(齋藤飛鳥はきっと、うまくいっていない感じを他人に見せたくない人だろうから、そういう意識は許容出来なそうだけど)。

そして二つ目の理由は、文章の論理展開だ。これは純粋に、文章の技法というか、書き方の問題だ。

ところどころ僕は、文章の繋がりが理解できない部分があった。

ある箇所では、「こういう人が好き」という話を書いたあとで、逆説の接続詞がないまま、「そういう人の考え方はちょっとダメだよ」と書く。結局その箇所では、何が結論だったのかイマイチわからない。

ある箇所では、ある行動に対して「難しいよ!」と言ったあとで、そういう行動をする人を「可愛い!」と評す。それ自体はいいのだけど、「難しいよ!」から「可愛い!」への変化に一体何があったのか、もう少し書いて欲しいな、と感じる。ちょっと飛躍しすぎているように思えてしまう。自分でもきちんと理解しきれていないということは伝わるのだけど、その箇所が全体的に、出てくる価値観が突然、という感じがしてしまう。

ある箇所では、「女性の偽る力」の話をした後で、そのままの流れで「ライバル心」の話になる。「偽る力」から「ライバル心」へと移行する部分がちょっと飛躍しすぎてる気がするんだよなぁ。

もちろんこれらは、すべてわざとやっているという可能性もある。演出なのかもしれない。あるいはこれは無意識の行為であり、こういう理路整然としていない部分に齋藤飛鳥の文章の魅力が潜んでいるのかもしれない。文章は、当然論理だけではない。まったく論理的じゃないけど、なんか惹きつけられる文章、というのも存在する。齋藤飛鳥は、その境地に至る道半ばであって、この方向を突き進むことで齋藤飛鳥独自の文章が確立されていくのかもしれない。もしそうだとすれば、僕のこの意見は、齋藤飛鳥の才能を潰す方向にしか働かないだろう。

出版物には必ず編集者がいて、編集者の目を通る。編集者がこういう部分をスルーしたまま掲載しているということは、編集者はここにこそ齋藤飛鳥の魅力があると分かっているのかもしれない。こういう部分を指摘せず自由に書かせることで、齋藤飛鳥の文章を伸ばそうとしているのかもしれない。

いずれにしても、僕が今回齋藤飛鳥のエッセイを読んで感じたことは、「この「齋藤飛鳥、書く。」の場で、とにかくやれるだけのチャレンジをして欲しい」ということだ。結果的にそれが成功しなかったとしても、「別冊カドカワ 乃木坂46」というホームでしか出来ない実験があると僕は思う。人によるだろうが、圧倒的な才能を生まれながらに持っている人以外は、文章は書いて書いて書きまくることでしか上達しない、と僕は考えている。だから僕は、齋藤飛鳥には「齋藤飛鳥、書く。」で、それまでの自分の手数にはないもので戦って欲しいと感じる。それこそが、「アイドル齋藤飛鳥」ではなく「文筆家齋藤飛鳥」に至る最短距離だと僕は思う。


さてここからは、齋藤飛鳥以外の部分から、乃木坂46全体に関係する部分を抜き出しつつ、乃木坂46の現状と未来について書いてみたいと思う。

一番印象的だったのは、「乃木坂らしさ」についての話だ。

西野七瀬と桜井玲香の対談の中で、桜井がこんなことを言っている。

『でも、そういった子(※三期生に言及している)が入ってくることによって、今までの乃木坂のカラーが変わってしまうことはちょっと怖いので、そこは基盤を築き上げてきた1期生が3期生の勢いを保てるようにうまくやりつつ、従来の乃木坂のカラーを守っていくという役目があるんじゃないかなと思っています』

そしてそれに続けて、乃木坂のカラーを保つ役割は1期生2期生がやるから、3期生は自由にやってくれ、と続けている。

乃木坂46のメンバーは様々な場面でこの「乃木坂のカラー」「乃木坂らしさ」みたいなものに言及している。僕は他のアイドルのことはよく知らないが、知らないなりに捉えているイメージで言えば、乃木坂46というのは確かに他のアイドルグループとは違う印象を受ける。それは、同じ対談で西野が『厚かましくできない子のほうが多いからなのかな』と言っているように、そして同じようなことを様々な場でメンバーが言っているように、控えめで後ろ向きなメンバーが多かった、という点に大いに立脚しているだろうとも思う。そういう「乃木坂らしさ」みたいなものを気に入っているファンももちろん多いだろうし、それを自覚している彼女たちも、それを守るべきものとして捉えている。

しかし、総合プロデューサーである秋元康氏は、「乃木坂らしさ」に対してこんな風に感じている。

『去年の神宮球場で、ライブが終わった後に反省会みたいなのがあって、そこでやたらとメンバーが“乃木坂らしさが”“乃木坂らしさが”って言うわけ。“乃木坂らしさを出していきたい”って。いやそれは違うよと。』

秋元氏は、メンバーが“乃木坂らしさ”という、言ってしまえば実態のないものに囚われている現状に対して違和感を覚えているようだ。

その違和感を言い表すのに秋元氏は、アルゼンチンにあるカミニート通りの例を出す。

『港町なんだけど遠くから見ると、淡いピンクやグリーンでものすごくキレイ。ところが近づいて見ると、一戸一戸の家は濃い原色で、しかも半分だけピンクとか半分だけブルーとかなの。どういうことかと言うと、船の塗料が余るとそれを自分の家に塗ってるんだよね。その行き当たりばったりでバラバラな感じが、遠くから見るとすごく美しい色彩になる』

秋元氏は、メンバー自身が、全体の風景に言及するようではダメだ、と言っているのだ。個々のメンバーは、勝手に自分の色を出していくべきだ。そして、本来であれば統一感が失われるかもしれない中で、渾然一体とした美しさが生み出される時、それが「らしさ」と称されるものになっていくのだ、と言う。

これはもしかしたら、齋藤飛鳥の思考に近いものがあるのではないか、と僕は感じた。

齋藤飛鳥は、乃木坂46というメンバーの一人であるが、同時に、齋藤飛鳥という一人の人間でもある。秋元氏のこの話は、「乃木坂らしさ」というグループ全体の話にも当てはまるが、「齋藤飛鳥らしさ」という個人の話にも当てはまるだろう。

武器は周りから付けてもらうものだ、と考えている齋藤飛鳥。齋藤飛鳥の中にいる「様々な齋藤飛鳥」が「齋藤飛鳥らしさ」という大きなものを指向せずに、誰かから与えられた課題、誰かにもらった武器、そういうものをその時その時で組み合わせていきながら、ある種行き当たりばったりに「齋藤飛鳥らしさ」を組み上げていく。「“飛鳥はこういうイメージだよね”って決められるのがあんまり好きじゃない」と語る彼女は、内側にいる「様々な齋藤飛鳥」に自由に裁量を与えることで形ある「齋藤飛鳥らしさ」みたいなものから逃れ、同時に、カミニート通りのような不定形な「齋藤飛鳥らしさ」みたいなものを目指しているのではないか。秋元氏の話から、そんなことを連想した。

メンバーが「乃木坂らしさ」と言いたくなる気持ちは分かるような気がする。それまではがむしゃらにやってきて、どんな形になるのか分からないまま突っ走ってきた。これからもその気持ちは変わらないだろうが、しかしある程度形が出来てくると、逆にその形を手放すのが怖くなる。齋藤飛鳥はインタビューの中で、『今は…ファンの人が飽きないのかなって心配になることもあるんです』と言う。つまり、変えないことへの恐怖も同時に感じているのだろう。しかしそれでも、「乃木坂らしさ」という言葉を使うことで、今のままで行く自分たちの存在を肯定しようとする。

決してそれは悪いことではないと思う。恐らく多くのファンも、「乃木坂らしさ」(ファン一人一人捉えている部分は違うだろうが)みたいなものに惹かれ、変わってほしくないと感じているだろう。しかし、これまで様々なものを世に問い、時代を創り出してきた秋元氏は、メンバーに変革を求めているのだろうと思う。これから3期生も入ってくる。妹分の欅坂46も出来た。乃木坂46もそのままではいられないぞ。「乃木坂らしさ」みたいなものに安住するんじゃないぞ。秋元氏のそんな言葉が聞こえてくるような気もする。

「透明な色」ファーストアルバムのそのタイトルは、永遠に固着しない、どんな色にも変わり得る色、という意味でもあるのかもしれない。個々のメンバーの変化が、乃木坂46というグループをどう変えていくのか。益々楽しみである。


乃木坂46は、先程も触れたが、3期生の加入や欅坂46の登場など、様々な変化の渦中にいる。それらをメンバー自身はどう捉えているのか。

3期生の加入に対して、松村沙友理はこんな風に語っている。

『今気にしているのは、2期生のみんなのこと。欅坂46もできて、乃木坂3期生募集となると、そのはざまにいる2期生のことを心配してしまうんです。どうしてもこの子たちを知ってもらいたいと思っちゃう。うちにはもっとすごい子たちがいるんだぞって。』

桜井玲香はこんな風に語る。

『あと私が個人的に感じているのは、1期生は控えめな子が多かったこと。2期生は、向上心というか前を狙いにいく姿勢がはっきり見える子が、1期生に比べると多くて。それまでは狙いにいくという姿勢を取る環境じゃなかったというのもあったんですけど、今は違う。たぶん3期生が入ってきた時はそういうお手本にできるような先輩もいると思うから、もしかしたら入ってきてすぐに前に出てこられる子が増えるんじゃないかなっていう期待はあります』

捉え方は様々だが、3期生の加入で乃木坂46がどうなっていくのか、メンバー自身も様々に考えているのだろう。3期生の加入というのは乃木坂46にとっては内的な変化だ。それによって直接的に変わっていくメンバーも増えていくことだろう。秋元氏が語る「それぞれが自分勝手に色を出す」という起爆剤の一つになってくれたらいいと思う。

3期生の加入とは対称的な外的な変化が、欅坂46の登場だ。これについては西野七瀬がこんな風に言っている。

『でも欅のみんなは全てがすごいスピードで進んでいるから、それを喜ぶ余裕があるのかな、大丈夫かなって思うこともあります。そこも私たちの時とは全然違うかなって見てる感じです。追われてるというよりは違う道を進んでいるというか』

桜井玲香もこんな風に言っている。

『今のなぁちゃんの話じゃないですけど、こういうところに乃木坂のマイペースさが出ているのかなっていう気がします。そこまで「追われてる」とかって思うわけでもなく、でも普通に曲が良いからみんなも楽屋で歌ったり踊ったりしていて。(中略)そんな感じでいい距離感なのなかって思います』

先行者の余裕とも読めるし、乃木坂46のマイペースさの表れとも読める。外側から見ている限り、内部での競争みたいなものをほとんど感じさせない乃木坂46。張り合う、競い合う、闘う、と言ったような感情ではない部分で成立しているように見えるこのグループは、欅坂46に対しても競争心みたいなものが湧き出ないのかもしれない。そういう意味で改めて、「乃木坂らしさ」という言葉を使わせてもらうが、「乃木坂らしさ」の凄さ、みたいなものを感じた。

最後に、乃木坂46のメンバーの言葉ではないが、非常に印象的だった武井壮の言葉を引用して終わろうと思う。

『アイドルもタレントもアスリートも、その価値っていうのは頂き物だと思うんです。パフォーマンスのクオリティが上がったり、競技のレベルが上がったりするのは、あくまでもクオリティであって、=(イコール)バリューではないと僕は思うんです。観てくれる人が“楽しい”とか“うれしい”とか思ってくれて初めてひとつの価値になるんです』

これは、乃木坂46に限らずどのアイドルでもそうだろうが、何をするか、何が出来るかではなく、どう感じさせたか、そこにバリューがあるのだろう。乃木坂46は僕にとってバリューのある存在だが、より多くの人にとってバリューのある存在になってほしいと思いました。

別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.2


「MdN 2015年4月号 乃木坂46 乃木坂46 歌と魂を視覚化する物語」を読んで

『エンターテイメント界のど真ん中にいるコンテンツでありながら、あんなに作家性を出してもOKなのは、いい意味で狂ってると思うんですよ。それなりに予算があって、前向きなキャストがそろっていて、自由なモノが撮れる…。クリエイターが育ちやすい環境なんです』

『普通は稟議を重ねていく内に上で潰されちゃうもんでしょ。でも、ここには秋元さんっていう人がいる。だから、秋元さんの周りのクリエイティブの世界って狂気に満ちてるけど、刺激的なんですよね』

乃木坂46を好きになってまだ1年弱。歌や踊りなどの部分よりも、彼女たちの言葉や価値観に関心を持ってきた僕は、乃木坂46関連の制作物全般については疎い。乃木坂46にハマったきっかけになった「悲しみの忘れ方」こそ、ドキュメンタリー映画という制作物だったが、それ以降は雑誌記事・書籍・ネットの記事・個人ブログなどをチェックしながら乃木坂46を追いかけてきた僕は、乃木坂46のクリエイティブの部分はよく知らないままだった。

しかしどうも、乃木坂46というのは、クリエイティブという観点から見た時、驚くべき異端さを有しているようだ。

『結果的にカメラマンの色に染まっていますし、僕はそれでいいと思っているんです』

『やっぱり今、クリエイティブの現場がシステマチックになっている。以前は、テレビ、映画、音楽、出版、いろんな世界に良くも悪くも狂気に満ちた情熱とこだわりを持った異常な制作マンがいっぱいいたんです。時代の流れもあってだんだん、チームで合議制でとなるとサラリーマン化されてくる。制作担当者のやってる主な仕事が、制作ではなく制作進行になってしまうことが多くなってる。そうじゃないだろと。やっぱり制作マンは制作の中心にいないとものは絶対作れないはずなんです』

乃木坂46のクリエイティブは自由度が高い。だからこそ新しい才能が育つ、と指摘する声もある。

『これから乃木坂46のMVや個人PVで育っていくクリエイターはもっと出てくると思いますよ』

『有名な監督もとても素敵な作品を作っていただきますけど、乃木坂が最初だったよねっていうクリエイターがいっぱいいるのはとても誇らしい』

何故このような自由なクリエイションが可能なのか。そこには、AKBとは違い専用劇場を持たないアイドルであるという点、秋元康というプロデューサーの存在、AKBとの差別化が至上命題であるという点など様々な要素があるが、乃木坂46がすべて同じ事務所で一体としてマネジメントを行っている強さもあるという。

『どうしてもこの人数でやってくれとか指定されるとデザインの幅がかなり狭まるので、クリエイティブに対しての信頼が厚いのはありがたいことです。また、通常、ジャケット制作する際には、マネジメントとレーベルの意見で板挟みになることがあるのですが、乃木坂46の場合、今野さんがマネジメントと絵作りを兼務しているので、意見が一本化されている点も非常にやりやすかったですね』

『アイドルの場合、クオリティの高い写真を撮るのは大前提でやらなきゃいけないこと。それに加えて、乃木坂46の強みとして、マネジメントとレーベルが一体になっているという点があります。なので、ジャケットもメンバー全員が同じ日、同じ場所に集まって一発撮りができる。写真にこだわっているのも、この利点を活かしてAKB48と差別化できるからという側面も大きいです』

『(「透明な色」のメンバーを連れたロケハン写真のキャプション)メンバーをロケハンに呼べるということに驚くが、そこに運営サイドと川本さんの本気度がうかがえる』

乃木坂46は、容姿の整った女の子が集まっているアイドルグループ。ただそんな風に見られがちだろう。確かに、彼女たちの個々のポテンシャルは乃木坂46というグループにとって大きな要素ではある。しかし、乃木坂46を外部から支える、ある意味で「乃木坂46」というブランドを作り出してきたデザインもまた、乃木坂46の大きな一部と言える。様々な要因が揃っても、なおやり続けるのが困難なアイドル育成に、彼らは日々挑んでいる。シングル発売ごとに、全メンバーの個人PVを撮影する。可愛く撮られることを重視したいはずのアイドルのジャケット撮影で、一枚絵にこだわる。水中での撮影やセルフタイマーでの撮影など、完成度やスケジュールの関係で困難な撮影でも強行する。乃木坂46だからこそ可能なやり方で、メンバーとクリエイターは、ともに「乃木坂46」という世界を作り出していく。

乃木坂46のメンバーは、シングル制作期間、「製作中なんです」と言うという。そしてこれは、他のアイドルでは聞かれない表現であるようだ。

『―シングルを作っている期間、乃木坂46のみなさんは「製作中なんです」と言うんですけど、他のグループでそういった言葉を聞かないんですよ。メンバーとして積極的に参加している意識があるのかなと。
橋本:めっちゃみんな気にしてます。次はどんな曲なのか、いつ振りVがくるのか、次はどんなMVだろうって。11枚目のMV衣装に関しては2パターン提案されて、当初はAでいこうと考えられていたみたいなんですけど、私たちは曲やダンスの感じで明らかにBのほうがよかったので、そのことを伝えたら監督も「Bにしましょう」と言ってくれたんです』

『―シングルの制作期間、乃木坂46のメンバーからは「制作してます」と聞くことが多いのですが、他のアイドルさんからはそういう言葉を聞かないんです。だから、CDにしろMVにしろ、ひとつの作品に対して積極的に参加している意識を持っているのかなと思って。
西野:(長い沈黙)…はい。みんなそういう意識を持ってると思います。おかしいと思ったことはみんなで話して、スタッフさんに提案することもけっこうあるので。それぞれのメンバーがこだわりを持って取り組んでます』

いくらクリエイターが気合を入れていても、撮られる彼女たちが同じ熱を持っていなければ良いクリエイションにはならない。他のアイドルが口にしない「制作中です」という意識が、乃木坂46の中でどう生み出されたのか分からないけど、瞬間瞬間を劇場で見せるスタイルを取れない彼女たちだからこそ、瞬間ではない時間の連なりが生むなにかを重視する形に落ち着いたのかもしれない、と思う。

『乃木坂46の特集を行った理由は、彼女たちが「いま人気のアイドルグループ」だからではなく、そういった前提の向こう側で、そのグラフィックデザインや、映像作品や、衣装や、振り付けが純粋に素晴らしいと思えたからだ。が、素晴らしいから特集をした、といった単純なものでもない。いま例に上げた乃木坂46の視覚表現全般が、彼女たちの存在と不可分にファンに愛され、語られ、魅力の求心力として働いているからというのが非常に大きい。もし彼女たちのCDジャケットが、映像作品が、衣装が、振り付けがこのようなものでなかったら、どれだけ乃木坂46がいまとは違った存在に見えていたか。そして、この魅力はファン以外の人にも絶対に気づかれるべきものだ。この特集は、乃木坂46が視覚表現面のクリエイションを軸に、さらに多くの人に語られるきっかけになると思う』

この特集の巻頭に書かれている文章だ。「そして、この魅力はファン以外の人にも絶対に気づかれるべきものだ。」というのは、僕もそう感じる。乃木坂46のファンになる前、僕は特別「アイドル」というものに偏見は持っていなかったと思うが、しかしそれでも、自分の日常には関係のないものだ、と思っていた。乃木坂46のクリエイションは、「アイドル」という枠の中に押し込められているものではない。乃木坂46という「アイドル」の形に関心が持てなかったとしても、乃木坂46のクリエイションに関心を持つことは出来るのではないか、と僕は感じる。それは、有名無名様々なクリエイターが乃木坂46のクリエイションに参加し、そこから名が知られるようになるクリエイターを次々に生み出していることからも分かるだろう。

乃木坂46のクリエイションは、予定調和を吹き飛ばそう、というような意識で作られている。

『2ndの時ぐらいから秋元(康)先生に散々言われ続けたのが、「見た人をざわざわさせたい。それだけ話題になるものにしたい」と。』

『夏休みになった瞬間の開放感というコンセプトで葉山で撮影したら、秋元先生に「こういう絵はみんな見飽きたのでは」と言われ、再撮影しなきゃいけなくなった。もうみんなぼうぜんとなりました』

『(セルフタイマーでの撮影について)正直、うまく撮れる気が全くしなくて、「しーらない!また再撮影だよ」って思っていて。そうしたら、本人たちのポテンシャルがすごくて、想像以上の動きと表情をしてくれて、結果的に大成功。』

『(セルフタイマーでの撮影について)僕の方でメンバーの顔がきれいに映った写真も選んだのですが、結果的に顔や姿が見切れている、より偶然性の高い写真が採用に。その方が面白いし、それを選んだ運営サイドもすごいなと』

橋本も、こんな風に語っている。

『橋本:でも、何も印象に残らない作品よりは、今でも「あのシーンはなんだったんだ」と議論される作品のほうが、アイドルのMVとしては成功だったんじゃないかと思います』

『橋本:100人中100人が賛になることはないと思うんです。何をやっても少なからず否はあるわけだから、映像作品として評価されるMVを作っていくことが乃木坂の評価にもつながるんじゃないかな。そういう意識はメンバーみんなにあると思います』

『橋本:かわいく明るく撮ることを優先しているアイドルグループは多いと思うんですけど、乃木坂の場合、メンバーは「かわいく撮ってもらいたい」とはもちろん思うんですけど、求められるのはそこじゃなくて作品としての完成度が優先されるというか』

こんな風に、予定調和を吹き飛ばすやり方で、それでも「乃木坂46」というイメージがある範囲内に統一されるのには、作り手側の『ジャケットで一つの世界観』という考え方がある。

『「PVのシチュエーションを借りてジャケットを作ればいいじゃないか」という意見もあるんですが、今野さんも僕らもそれはあまりやりたくない。ジャケットはジャケットで一つの世界観でやりたいという想いがあるんです』

『(インタビュアーの質問の引用)通常のジャケット制作では、楽曲からイメージを膨らませて考えると思うんですが、乃木坂46の場合、グループのイメージにぶら下がって作るのが個性的だと思います』

そして、こういう作り方を支えるのが、やはり乃木坂46のメンバー一人一人の個性・ポテンシャルだ。乃木坂46運営委員長である今野氏はこう語る。

『例えば最近であればサブカル的な仕掛けなどでプロデュースされるものも多いと思うんですけど、乃木坂の場合はメンバーにないものをこちらが持ってくるのではなくて、メンバーの中にあるものをどうやったら引き出せるかなと考えます。積み重ねていった時にたぶん、その方が無理がこない』

『そうではなくて、メンバーが魅力的であるからこそ、どうやったらその子たちを輝かせられるか、その子たち自身の中にあるものを引き出せるかっていうことを考える』

これは、メンバーも同様のことを感じているようだ。

『―他のアイドルやアーティストのジャケ写と比べた時、乃木坂46のジャケ写はここが違うんじゃないか、というのはありますか?
白石:あぁ。けっこう自然な感じで撮ってもらうことは多いかなとは思います』

『生駒:乃木坂の制作物は、私たちの自然体の姿というか、作ったかわいさじゃなくて、持っている素材を良く見せようという考えが強いんじゃないかと思いますね。自分自身が作品になるという意識ですよね。』

メンバーの魅力を見出し、その魅力をどうクリエイションとして形にしていくのか。その裏側は、実に刺激的だった。「狂気」と称されるクリエイションだからこそ、見るものに届くデザインを生み出すことが出来る。アイドルグループの背景にそんな「狂気」が潜んでいることを知らなかった僕は、非常に新鮮な気持ちでこの特集を読んだ。

最後に、乃木坂46運営委員長の今野氏が、乃木坂46というグループをどんな風に作り上げていったのかに言及している部分を引用しよう。

『―38934人から100人に絞るまでは今野さんの仕事だったんですね
今野:先生に「よくぞこの人材を集めたな」って言わせないと僕の負けだった。そこはもう、命がけでやりました』

『―今野さんの中で、選ぶ基準もはっきり固まっていた?
今野:もちろん。まず、プロっぽい子は駄目だな、と。あとは単純に、そのパーソナルな人間性に惚れるかどうかですよね。この子に何かあるぞ、と感じるかどうか。それとビジュアル的なことで言うと、洋服が絶対似合うなっていう子にこだわりましたね。
―洋服が似合う、というと?
今野:洋服を綺麗に着られる子です。だから実は、骨格なんですよ。うちの子たちが全員ズラッと並んだ時にある程度統一した美しさが出るのは、全員脚が綺麗だからです
―いわゆる「アイドルらしさ」のような基準ではないんですね』
今野:このこがアイドルだったらちょっとびっくりするっていうのが基準だったりするんですよね。橋本奈々未とかは今でもそういう空気感がある。なんでこの子がアイドルをやってるんだろうって。そこが面白さなんですよね

『―そのメジャー感が乃木坂46できちんと出せるのはなぜでしょう?
今野:たぶん、ベースとしてうちのメンバーに共通しているのは「月」の魅力じゃないかな。乃木坂には実は、「太陽」の子は少ない。でも、「月」の魅力って実は日本人にとってはメジャーなんですよね。(中略)そういう意味では彼女たちの存在感って、決してニッチなものでもなんでもない。彼女たちは男の人からも女の人からも憧れられる理想像に近いところにいる。全体像としてメジャー感が消えないのはそういうことだと思いますね』

『自分の中で、これをやってみたいとか、こんなのが好きだよなというだけでやってても、結局自分のキャパシティでしかないわけで。それだったらネタに詰まっちゃうんですよね。でもメンバー自身がアイデアの源になっていれば、実はネタに枯れることはないんですよ。そのかわり、彼女たちをずっと見てなきゃいけない。たまに見に行って、この子こうだよな、ではとてもじゃないけど無理です。毎日毎日、彼女たちのちょっとした変化も見逃さないようにウォッチし続けてる中で生まれるクリエイティブのはずなんで。秋元先生からもよく言われるんですけど、「24時間乃木坂のことを考えないと」って。秋元先生なんかまさにそうだと思う。本当に寝てないですからね。頭全開で考えて、見続けないと生まれてこないんですよね』

そんな風に今野氏が生み出してきた乃木坂46を、生駒里奈はこう評している。それを引用して終わろうと思う。

『乃木坂って「永遠のお試し期間」なんじゃないかと。私もそれでいいと思ってます。今まで乃木坂をどう紹介したらいいのか迷っていたんですけど、ファーストアルバムの「透明な色」というタイトルに「これだ!」と思って。乃木坂はいろんな色に染まることができるし、これからもいろんな可能性を試していきたいんです。でも、このメンバーだからこそ「透明な色」になっているから、乃木坂46は本当に奇跡の集まりなんですよ』

「MdN 2015年4月号 乃木坂46 乃木坂46 歌と魂を視覚化する物語」を読んで


「乃木坂工事中 #54 160501「恋愛ゲームアプリ『乃木恋』リリース記念!理想の彼氏に求める条件ベスト5をメンバーが大発表!」」を見て

「乃木恋」という恋愛ゲームアプリがリリースされた記念で、乃木坂46のメンバーが理想の彼氏に求める条件を5つ挙げる、という企画です。

まず見てて思ったのは、ホントに人間の好みってのは多種多様で面白いな、ということ。見た目や考え方や趣味趣向など、そんなところを見るんだ、と思わせるような条件がいっぱいありました。

もちろん、すべての条件を満たすような人間はいない(万が一いても出会えるかはわからない)。だから人は、その条件すべてが満たされていなければダメ、という判断はしない。ある程度の理想条件を満たした人を好きになって、その人の様々な面を後から受け入れていくことになるわけで、その条件がすべてではないのは分かる。けど、その特定の誰かというのがいない段階での理想条件の幅広さには、やっぱり驚かされるなぁ、と思います。

こういう話、日常的にする人はするんだろうけど、僕はあんまり聞いたり自分でしたりなんていうことをしないので、改めて複数の人たちが自分の理想条件を挙げているのを見て、ほぉーと思ったのでした。

さて、僕は齋藤飛鳥が好きなので、齋藤飛鳥が挙げた5つの条件を書いてみます。

◯うすっぺらい体(ガリガリは嫌だけど、筋肉質はちょっと苦手)
◯ボソボソ喋る人
◯さりげない人
◯家計の管理が出来るひと
◯大人なのにスキップ

この中で、「さりげない人」の話の中で出てきた、「サプライズが好きじゃない」という話が僕は一番いいなと思いました。

この「サプライズが好きじゃない」という意見、別の人が発言していたことがあります。新垣結衣です。

確か「情熱大陸」だったはずだけど、その番組の中でガッキーが、「サプライズが好きじゃない」という話をしていて、その瞬間、ガッキーっていいな、と思いました。「サプライズが好きじゃない」理由は、「うまく驚ける自信がないから」。すげー分かるなぁ、と思いました。

僕もサプライズが得意じゃありません。理由は、ガッキーとまったく同じ理由です。
サプライズって、仕掛ける側が「相手はこれぐらい驚いて、喜んでくれるだろう」という想定をして色々準備をしてくれているはずです。でも僕は、間違いなく、その想定に達しないぐらいの反応しか返せません。人生の中でそんなにサプライズをしてもらったことがない気がするから、実際に反応が返せなかった、という経験がたくさんあるわけじゃないけど、自分が、まあこれぐらいの反応はした方がいいよな、と自分でさえ思うレベルの反応をしているイメージが出来ません。

また、なんというのか、自分なんかにそんなことしてもらうのは悪いなぁ、という気持ちもあります。この「自分なんかに」というのには、「うまく反応を返せないのに」という理由もありますが、それだけじゃなく、「別に大した存在でもないのに」「別に何かしたわけでもないのに」みたいな感じがあります。基本的に自己評価が低いので、他者からの評価が過剰に感じられてしまうことが多いです。いや、そんなことしてもらうのには値しない人間っす、みたいな思いがどうしても湧き出てしまうんですよね。

齋藤飛鳥がどんな理由で「サプライズが好きじゃない」のかは語られなかったから不明ですが、恐らく似たような理由ではないかと思います。同じく「さりげない人」の話の中で語っていた、「記念日とかじゃない時に、買い物に行ってなんか良いのあったから買ってきた」みたいなさりげない感じでモノを渡して欲しい、みたいに言ってたのも、わかるわー、という感じでした。

あと齋藤飛鳥については、「食べ物とかモノをくれるとチョロいので」って言ってたのが面白かったです。確かに以前、乃木坂工事中で「しくじり先生」風の企画をやってた時に、齋藤飛鳥は、「初期のころ、いちごミルクをくれるとすぐ懐く」というキャラで行こうと思ってたという話をしてたから、「モノをもらうと嬉しい」という感覚はあるんだろうと思います。でもたぶん、この「モノ」っていうのが曲者なんだろうと思っています。たぶん、何でもいいわけじゃないと思うんですよね。自分のストライクゾーンに入ってくる「モノ」をくれたらチョロい、っていう話だと思うんで、実際にはたぶん、全然チョロくないんだろうな、という気がしました。

他に面白かったのは、高山一実です。「バカか天才」っていう条件を挙げていました。とにかく普通は嫌で、動物園に行ったら、「あれってゴリラなの?サルなの?」というレベルのバカか、あるいは、「あのサルは今日本に何頭ぐらいいてね…」って何でも説明してくれる天才かがいいらしいです。僕も普通は嫌なので、感覚的には分かるんですけど、でもやっぱり「ゴリラなの?サルなの?」っていうバカはちょっと嫌だなぁ、と思いました。

橋本奈々未の「冷たそうな目」っていうのも分かるなと思いました。「鋭く情熱的な感じで見られること」が苦手だそうで、「何を考えているんだか分からないような目」がいいと言っていました。その方が自分も、相手のことにずっと興味を持っていられるだろうから、と。

そう、この理由の部分の方に僕は共感したのでした。僕は、他人への興味があんまり持続しない人間だという自覚があります。だから、いくら喋っても底が見えない、相手の価値観がイマイチ掴めない、何を考えているのか分からないような人だといいなと思います。僕は、人との関係において、相手を理解しきりたい、という気持ちは薄いです。相手のことは理解したいけど、でも永遠に理解しきれないままでいたい、という感覚がとても強い。そうじゃないと、その人に興味を持ち続けられないからです。そう思うからこそ、僕自身も、なるべく他人から理解されきらないように振る舞おう、という意識があったりします。

橋本奈々未が同じことを言っているのか、はっきりとは分からないけど、僕はそう受け取ったし、共感できるポイントでした。

やっぱり僕はこう、メンバーの価値観が浮き彫りになるようなこういう企画は面白いな、と思います。

「乃木坂工事中 #54 160501「恋愛ゲームアプリ『乃木恋』リリース記念!理想の彼氏に求める条件ベスト5をメンバーが大発表!」」を見て

「EX大衆2016年5月号 齋藤飛鳥ロングインタビュー」を読んで

『最初の頃は「THEアイドル」になろうとしてたんですけど、王道じゃなくても受け入れてくれる人がいることを知って、その理想像はなくなりました。』

このインタビューの中で一番意外だったのは、この部分だ。

インタビューアーによると、齋藤飛鳥は乃木坂46加入前、AKB48やSUPER☆GiRLSが好きだったという。アイドルに対する憧れがあったから、乃木坂46のオーディションを受けたのだろう。僕の中で、齋藤飛鳥はどうしてアイドルのオーディションを受けたのかがイマイチしっくりきていない部分があった。それは、齋藤飛鳥はアイドル的なものに興味がないのだろう、と思い込んでいたからだ。齋藤飛鳥が元々アイドルに興味があったなら、不自然なところは何もない。

『アイドルらしくない道もあると分かった途端、(THEアイドルを目指していた自分が)どうやっていたのかも忘れてしまって(笑)。最近は、「自分はアイドルなんだ」とはあまり意識していないというか』

だからこそ多くの人に受け入れられているのだろう、というインタビューアーの感覚には、僕も賛成する。以前「「乃木坂46の「の」 20160313 伊藤万理華・齋藤飛鳥」を聞いて」という記事の中で、「齋藤飛鳥の自然体と“自然体”」についての話を書いたことがある。齋藤飛鳥は、“自然体”という演技をしている、という話なのだけど、齋藤飛鳥の振る舞いが、見ている人からは自然体だと思える。その振る舞いに齋藤飛鳥の魅力があるのではないか、と僕も思います。

インタビューアーも、今の齋藤飛鳥からは「アイドル好き感」が出ていない、と言い、それに対して齋藤飛鳥はこんな風に答えている。

『アイドルは好きだけど、女子の集団は苦手だし、人見知りしてしまうんです。』
『(共演している子でも)しばらく会ってないと心の扉が閉ざされてしまう』

齋藤飛鳥は人見知りだったり対人関係が苦手だったりという発言をよくする。そのきっかけになった出来事をこのインタビューの中で少し語っている。僕が目にした範囲では、自分の性格が変わっていった具体的なエピソードを語っている齋藤飛鳥はこれが初な気がする。

具体的、とはいえ、何か特定の出来事があったわけではない。恐らく女子の世界だったら、世の中の女子全員ではないけど、女子の半分ぐらいは何らかの形で経験しているのではないかと思う、女子同士のちょっとめんどくさい関係性が積み重なって今に至る、という感じのようだ。本人としても説明しにくいだろう。具体的なわかりやすいエピソードがある方が楽だなと感じている部分もあるだろうけど、そこで適当にあしらわないのは良い。

『同級生で取り立てて仲のいい子もいなかったし、いじめられるわけじゃなかったけど、女子って面倒くさいので少しずつみんなとずれていったというか』

僕は比較的女性と恋愛的な意味ではなく距離を詰められる方だと思っているんだけど、それが出来るタイプというのが、女子同士の関係がめんどくさい、と言っている女性だ。僕が割と仲がいいと思っている女性は、大体そういうことを言う。女友達よりも男友達の方が多いタイプ。齋藤飛鳥は恐らく、男友達だって多くないだろうけど、タイプとしては男の中にいる方が楽なんじゃないかな、と思う。

女子同士の関係でこじれたメンバーには、西野七瀬や白石麻衣などがいる。共に、ドキュメンタリー映画「悲しみの忘れ方」の中で、部活での女子同士の関係性から他人との人間関係がうまくいかなくなった、というような発言をしている。齋藤飛鳥もそういうタイプだろうし、彼女たちほどではないにせよ、乃木坂46にはそういうタイプの女子が集まっているのだろう。「女子の集団は苦手」という齋藤飛鳥がアイドルグループの中でやっていけているのは、乃木坂46というアイドルグループの雰囲気あってのことなのだろう、と再確認させられた。

『みんな元気なのがしんどいなと感じてきちゃったんです』

中学校時代の人間関係を聞かれてそう答える齋藤飛鳥。こういうことをはっきりと口に出せる女の子が、アイドルとして人前に立ってスポットライトを浴びている。そのことが与える勇気、みたいなものは確実にあるはずだ、と僕は感じる。


『でも結果的に期待はずれになることも多いと分かったので、いまは「世の中そんなもん精神」がより強固になっています』

期待が裏切られた時に最もストレスが掛かる、という心理学の研究結果を知って納得した齋藤飛鳥は、物事に期待しなくなった。どれだけアイドルとして人気を得ようとも、どれだけ多くの人にその容姿を羨ましがられようとも、齋藤飛鳥はそのスタンスを崩さない。

自分の心の弱さをきちんと理解している、というのは大事なことだと僕は思う。そして、それに対処する方法を自分なりに見つけることも。僕は、自分の心の弱さは相当早くから認識していたのだけど、それにどう対処したらいいかは全然分からないで逃げてばかりいた。ようやく自分なりに先手を打って対処出来るようになったのは25歳ぐらいじゃないかな。齋藤飛鳥は、アイドルという厳しい環境に身を置いていたとはいえ、たった17歳で既に自分の扱い方を習得している。そして、楽観的に物事に臨むでもなく、かと言って悲観的すぎもせず、「世の中そんなもん」と思いながら目の前に現れた現実をそのまま受け入れていくスタンスが、多くの人から受け入れられていく。齋藤飛鳥も、初めからこういう好循環の中に身を置くことが出来たわけではないだろう。少なくとも「THEアイドル」を目指していた頃は、こういう好循環はありえなかったはずだ。齋藤飛鳥の中でどのような変化があって、結果的にこういう好循環の中にいられるようになったのか。齋藤飛鳥のその軌跡はとても気になる。

『小さいことで「うれしい」と大きく感じることもできるようになりました。「世の中そんなもん精神」があるから何に対しても高望みしないので、うまくやれている部分もあるのかなと思ってます』

「がんばった日はイクラのおにぎりを食べることにしている」という齋藤飛鳥。これも、小さな幸せだろう。このインタビューの直後のページに、コンビニおにぎりの特集があるので、この発言言わされてるのか?とちょっと疑ってしまう部分もあったけど、そういう小さな幸せで日常を乗り越えていける人のままでいて欲しいなと思う。【汚れなきものなんて大人が求める幻想】だけど。


『特定のイメージをつけられたくなかったという気持ちはありました』

アンダーから選抜へと上がる過程で、齋藤飛鳥はそういうことを意識していた、という発言をしていた。モデルの撮影でも、雑誌ごとのイメージに自分を染める、感じの意識なのだろう。自分自身の色を持たない。まさに乃木坂46のファーストアルバムの「透明な色」というタイトルそのものの体現、という感じもする。

だから、こうして僕が齋藤飛鳥について文章を書くことは、齋藤飛鳥からすれば邪魔でしかないだろうな、という意識もある。もちろん、僕の文章の影響力なんてほぼゼロに等しいから気にならないだろうけど、イメージがないことを目指している人からすればちょっとした色付けも邪魔かもしれない。まあ、この文章がたとえ齋藤飛鳥の邪魔になっていたとしても、そんなこととは関係なしに僕は文章を書き続けるのだけど。

僕は、基本的に自分が書いている齋藤飛鳥評は、すべて的外れだろうな、と思っている。基本的には、自分の性格に引き寄せて齋藤飛鳥を理解したつもりになっているだけで、たぶん齋藤飛鳥のことは全然掴めていない。まあ、でもそれでいいんです、僕は。齋藤飛鳥というのは僕にとって、何か書きたくなってしまう対象であって、それが不正解でも僕にとっては問題ありません。自分の小説が国語の問題に採用された小説家が、「下線部における作者の気持ちを答えなさい」という問題に答えられないのと同じように、齋藤飛鳥というテキストはきっと齋藤飛鳥自身にもきちんとは読み解けていないはず。だからそもそも不正解なんて存在しないんだ、という強弁を振るって有耶無耶にしようと思います。

僕は、自分自身は出来るだけ一貫性のある人間でありたいと思うし、他人を見る時も、一貫性のある人がいいなと思う。でも、齋藤飛鳥には、一貫性はなくてもいいかも、と感じてしまう。もっと僕をざわざわさせるような違和感を放出して、齋藤飛鳥をうまく読み解けない苦悩を楽しみたい気がします。自分でも、変な感覚だなと思います。

「EX大衆2016年5月号 齋藤飛鳥ロングインタビュー」を読んで

「乃木坂46の「の」 #158 160410(堀未央奈MC、齋藤飛鳥、渡辺みり愛)」を聞いて

齋藤飛鳥が出ているので、4月10日の「乃木坂46の「の」」を聞いてみました。

今回面白かったのは、「犬系男子と猫系男子のどっちが好きですか?また、他の◯◯系男子で気になるものはありますか?」というリスナーからの質問に対する答え。

齋藤飛鳥は、犬系でも猫系でもなく、ワニ系がいいと語ります。

齋藤飛鳥は、自分がツンデレ、つまり猫系であると言われることが多いから、同じ猫系だとうまくいかないかもしれない。けど、犬系男子にワンワン懐かれるのもまためんどくさい。

ワニ系男子というのは、齋藤飛鳥が言うには、普段は静かなんだけど突然顔を出す感じだそうだ。犬系のように懐いてほしくはないから、猫系のような静かさは欲しい。でもそもそも、相手の方から来てくれないと自分からはいけないから、肉食的な部分はあってほしい。そういう意味を込めてのワニ系だそうです。瞬時に思いついたにしてはなかなか良い表現だったと齋藤飛鳥自身語っています。

また同じく髪型について質問された時は、「雑誌とかでも同じ質問されることがあるけど、本当に分かんない」と答えていました。特別これという好みはない、という意味に受けとりました。MCの堀未央奈が、じゃあロングで真っ白な髪でもいいの?と聞くと、真っ白はともかく又吉さんみたいなロングは全然許容範囲、と言っていました。ちなみに渡辺みり愛は、自分は黒髪がいいけど男子は茶髪であって欲しい(ただし、ワックスは使わないで欲しい。寝ぐせはアリ)とのことです。

あと今回のラジオでは、コーナー名は忘れてしまったけど、「聞き慣れない変わった単語について想像で話す」というものがあって、これがなかなか面白かったです。

与えられたお題は「クビワペッカリー」と「カラテオドリ」の二つ。齋藤飛鳥は「でまかせクイーン」と呼ばれているようで、特に「クビワペッカリー」の方ではなかなか面白い話をしていました。

「クビワペッカリー」はタイで人気のアクセサリーみたいなもの、という話をしていました。その話の内容そのものよりも、考える時間を確保するための会話のつなぎ方(未央奈がたぶん好きなやつだよ、みたいな話を振って時間を稼ぐ)や、堀未央奈をうまく巻き込んでいく展開のさせ方など、自分の話に聴いている人間を惹きつける話し方の方が興味深かったです。「カラテオドリ」の方は、ちょっと手を抜いたかな、と思ってしまったけど(笑)。ちなみに「カラテオドリ」は外国の数学者の名前だと知ってかなり驚きました。まじかよ。

前回の「乃木坂46の「の」」で、一年もこのラジオに呼んでもらえなかったことをかなり嘆いていたから今回突然呼んでもらえた、と言っていた齋藤飛鳥。堀未央奈と渡辺みり愛は家族のように仲がいいらしいんだけど、そんな中に私なんかがいていいのかな、みたいなことを言ってて、相変わらずのスタンスでいいなと思います。EX大衆2016年5月号のロングインタビューの中で「主役とか考えたこともないです。こっそり動いてるだけです(笑)」と語っている齋藤飛鳥。確かに齋藤飛鳥は、主役ではない立ち位置にいる方が映えそうだな、という雰囲気を感じます。そんな齋藤飛鳥が主役に立ったらどうなるか。興味は尽きません。

「乃木坂46の「の」 #158 160410(堀未央奈MC、齋藤飛鳥、渡辺みり愛)」を聞いて

別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.1

『ここに並んだ文字を読んで、私という人間を見透かされるんじゃないか。文章を書きながらふとそう思いました。
が、読み返し、安心しています。いつの間にか私は私の誤魔化しかたを覚えていました。』

「別冊カドカワ」で1冊丸々乃木坂46が特集された号が出た。定期的に出るようで、次号は初夏の発売予定だそうだ。

その「別冊カドカワ」に、僕がずっと待望していた齋藤飛鳥のエッセイが掲載されている。齋藤飛鳥は絶対に文章を書ける人だと僕は思っている。だから今回の機会はとても嬉しい。齋藤飛鳥は、ブログでも文章は書いているはが、全体的に「報告」感が強い。今回のエッセイのタイトルは、「齋藤飛鳥について書いてみる。」だ。常に内省的な雰囲気を漂わせ、自分自身も含めて様々な事柄について思考しているだろう齋藤飛鳥がどんなことを書くのか楽しみだった。

冒頭の引用は、そのエッセイの後半部分に登場する。『いつの間にか私は私の誤魔化しかたを覚えていました。』という一文は、凄くいいなと思う。『私は私を信用していないのです。』『私は自分に自信を持つことができていません。』と語るように、齋藤飛鳥は自分をとても低く見積もっている。その気持ちは、とても良くわかる。そして、自分を強く出しきれないその弱さみたいなものが、先の一文に色濃く現れているのだろうと思う。

ただ僕は知ってほしいと思った。
文章を書くことは、ある種の煙幕にもなるのだ、ということを。

先の一文は、「自分自身を表に出すことの怖さ」から来ている。文章を書くことは、確かにある一面では「自分自身を表に出すこと」だ。しかし、文章を書き続けることは、「自分自身を隠す手段」にもなりうるのだ、ということを齋藤飛鳥には感じて欲しいと思う。

文章を書き始めの頃は、書いた文章の少なさのせいで、文章が孤独を感じる。スクランブル交差点に一人で立っているようなものだ。しかし、文章を書き続けることで、スクランブル交差点に“自分という名の他人”が増える。それが増えれば増えるほど、自分が“自分という名の他人”に紛れ込み、自分自身を見えにくくしてくれる。僕はそう思っている。

何故文章を書き続けることで“自分”ではなく“自分という名の他人”が増えるのか。
それは、人間の価値観は常に変化するからだ。

その時々の価値観に沿って文章を書くと、それぞれの文章が違った自立の仕方をする。そして、それぞれの文章が他者に与える印象も、文章ごとに変化する。一徹した価値観でブレずに文章を書き続けられる人が、そう多くいるとは思えない。僕は、自分が昔書いた文章を読み返して驚くことがしばしばある。だから、文章を書くという行為を続けることで、“自分という名の他人”の中に紛れることが出来るのだ。

文章は、文字という形で定着して残る。だからこそ“自分という名の他人”が消えずに自立し続ける。喋った言葉ではそうはいかない。

もちろん、アイドルのような人に見られる仕事をしていれば、喋った言葉が文字として定着する機会も多いだろう。そういう意味で言えば、わざわざ文章を書かなくても“自分という名の他人”を生み出すことが出来る稀有な立ち位置であるとも言える。しかし、齋藤飛鳥は文章を書くべきだと思う。

何故か。

『乃木坂46に加入して約5年。私は、人に見られることはすごく怖いことだと感じています』

その通り。だからこそ、文章を書くべきなのだ。何故なら、書いた文章は「見られる」ものではなく「見せる」ものだと思うからだ。

姿形の場合、映る自分のすべてをコントロールすることは難しい。

『動画で撮影された自分を見たとき、自分の容姿について気になる部分がありました。
しかし、鏡で自分を見るとき、それはさほど気になりません。
ならば写真はどうでしょう
【盛る】という言葉の通り、うつりによって見え方が変わります。
動画だって、うつりかたさえ覚えれば見せ方は変えられます。』

そう齋藤飛鳥は書くが、しかし、自分の姿形がどう映るのか、完璧にコントロールするのは不可能だと思う。だから、姿形の場合は、「見られる」という行為になる。

文章は違う。チャットや速記をしているならともかく、文章というのは、何を見せるのか自分がかなり完璧にコントロールすることが出来る。書き、推敲し、チェックし、それから表に出すことが出来る。だから、文章の場合は「見られる」ではなく「見せる」になる。

「見られる」ことに恐怖を感じるならば、「見せる」ことに強くなればいい。姿形よりも文章の方がやりやすいはずだ。そういう意味で、文章を書くというのは齋藤飛鳥の武器になる。鉾にも盾にもなりうるのだ。だから是非これからも、齋藤飛鳥には文章を書き続けて欲しいと思う。


齋藤飛鳥の文章からは、“読者である齋藤飛鳥”の存在が見え隠れするように思う。

『私はわたしを信用していないのです。
なので、ここにある情報も、信じすぎないでくださいね!』

“書き手である齋藤飛鳥”が文章を書く。そしてそれをすぐさま“読書である齋藤飛鳥”がチェックをする。そして“読者である齋藤飛鳥”のチェックを通った文章だけが表に出る。そういう“読者である齋藤飛鳥”の存在を強く感じる。

だからエッセイを読んでいてもどかしさを感じる。もっと書けるだろう、と思えてしまう。

『先程述べた、周りがつけた私のイメージ。否定する気は一切ありません。見た人がそう感じたならばそれでいい。実際は全然違うとしても、自分の本性を見せる必要はそこまでないのかも』

齋藤飛鳥には、文章を書くことへの躊躇がある。というか、自分を見せること全般に対する躊躇がある。文章だけに限らない。これは、“自分が自分をどう見るか”という客観視の話なのだ。

“他人からどう見られるか”という客観視をする人は多くいるだろう。むしろ現代は、その客観視に多くの人が縛られている時代だと言ってもいいかもしれない。他人に対して自分をどう見せるか、その文脈の中で様々な言動が選び取られていく。

しかし齋藤飛鳥がやっているのはそれだけではない。僕もそうだが、“自分が自分をどう見るか”という客観視も同時に行っている。芸能人が時々テレビで、「もう一人の自分が(頭の後ろの方を指して)この辺からいつも見ている」みたいなことを言うことがある。その感覚は、僕も凄く分かる。恐らく齋藤飛鳥にも、その“もう一人の自分”がいるだろう。そしてその客観視している“もう一人の自分”が常に自分の行動をチェックしているのだ。

僕は、“他人からどう見られるか”という呪縛からは、以前と比べればかなり逃れることが出来るようになったと思う。しかし、“自分が自分をどう見るか”という呪縛からは、恐らく一生逃れられないだろう。

『元々万人受けするタイプじゃ無いのも承知しています。もっとも、したいとは思いません』

“もう一人の自分”が、文章を書く時には“読者である齋藤飛鳥”となって、“書き手である齋藤飛鳥”の邪魔をする。“書き手である齋藤飛鳥”は、恐らくもっと書けるのだけど、それを“読者である齋藤飛鳥”が止めている。
その“読者である齋藤飛鳥”をどうやって制御するか。今後文章を書く上での最大の障壁となるのがその点かな、と感じた。“読者である齋藤飛鳥”を打ち破る日が来てくれるといいなぁ。


語尾が統一されていない印象を受けたり、接続詞のセレクトに違和感があったりと、惜しいなと感じてしまう部分もあるのだけど、でもそれらは瑣末な部分だ。文章を書くというのは、一面では単純に技術の問題であって、その部分は書き続ければどうにかなる。

その上で、“文章を書く”というのは、“考える”と同義だと僕は感じている。考えたことを文章にする、のではない。書くことを通じて考える、あるいは、書くという習慣を手に入れることで考える習慣を持つということだ。文章という形に落としこむ行為は単純に技術の範疇だが、文章という形に落としこむ以前の部分は思考力に依存している。

そして齋藤飛鳥は、考えられる人だ。自分自身を客観的に捉え、内側に生じた感覚に最も近い言葉を選び取る。そしてさらに、読書を通じて常に、自分の内側の言葉の豊かさを更新する。そういう行為の繰り返しによって、文章というものが生まれうる場が生じる。そこに技術が加わることで、文章が生み出されるのだ。

だから齋藤飛鳥は、もっと書けると思う。
しかし、そういう風に期待されるのは嫌だろう、とも思う。僕もそうだ。

『私は世の中に期待をしていません。
どうしてか。それは、ストレスが怖いからです。』

いつも同じようなことを書くが、齋藤飛鳥のこの感覚はとても共感できる。
僕も、いつの頃からか、期待をしないようになった。

『そこで。
もしも元から期待をしていなかったら?
それならば、失望感もストレスも起こらないと思うのです。』

僕もずっと、そんな風にして生きてきた。
『期待をするという行為は、人間の勝手な支配欲でしか無い。はず!』と齋藤飛鳥は書く。齋藤飛鳥は、その支配欲自体を否定することはない。しかし、『勝手な』ものなのだから、本来的に「支配欲が満たされなくて絶望する」というのは身勝手なのだ、と悟るのだ。とはいえ、そういう自分を押しとどめることは難しい。『私は自分に自信を持つことができていません。なので執着をしてしまうのだろうと思います』と、自分自身をきちんと分析している。

「期待する=支配する」という行為をすれば、それが満たされなかった時の絶望は回避出来ない。そういう自分の性質のことは知っている。だからこそ、「期待する=支配する」という行為そのものを手放そうと決意する。僕自身がそういう価値観を選択してきたこともあって、17歳という若さで、しかも現時点でトップアイドルである乃木坂46のメンバーでありながら、一方でそういう後ろ向きな決断をする齋藤飛鳥に、僕は惹かれる。

ただ、先程少し書いたように、僕は「期待する」ことだけではなく、「期待される」ことも苦手だ。

「期待される」ことは、ありがたいことだ。そう思うことは出来る。しかし、「期待される」ことで、「裏切ることになるかもしれない」という選択肢が生まれてしまう。齋藤飛鳥が『私は私を信用していないのです。』と言うように、僕も自分のことをまるで信用していない。人生のあらゆる局面で逃げ続けてきている自分自身のことを、信用することは出来ない。誰かの期待に応えている自分ではなく、誰かの期待に応えていない自分の方が真っ先に思い浮かぶ。だから「期待される」ことが怖くなる。

「期待される」ことから逃れるために、自分を低く見せようとしてしまう。絶対的な評価で高いか低いか、そういうことはどうでもいい。現時点で自分がどこに立っていようと、現時点の自分よりも自分自身を低く見せる。そういう態度が染み付いてしまっている。

齋藤飛鳥も同じはずだ。しかしこのエッセイで、「期待される」ことについては触れていない。そういう性質が齋藤飛鳥にはないのか、あるいは敢えて書かなかったのか。分からないが、後者だとすれば、それはアイドルという『見られることが仕事』であるが故の自制なのだろうと思う。

アイドルであるということは、期待してくれている人の存在の上に立つ、ということだ。それはもう、アイドルという存在の宿命だろう。期待してくれる人の存在を、ないものとして扱うことは出来ない。だから、自分がどう思っているかはともかくとして、「期待される」ことは引き受けるしかない。このエッセイの中で、「期待する」ことには触れ、「期待される」ことには触れない理由を、僕はそんな風に想像した。


『元々万人受けするタイプじゃ無いのも承知しています。もっとも、したいとは思いません』

他人とは分かり合えない。これは僕の基本的な価値観だ。だから僕にとってコミュニケーションの目的や到達点は“共感”ではない。“共感”は、なくても構わない。分かり合えなくても同じ空間にいられる。それこそが一つの理想なのだと、僕は考えている。だから現代の、“共感”を通貨として他人との関わりが成立していくような雰囲気にどうも馴染めない。

齋藤飛鳥の『元々万人受けするタイプじゃ無いのも承知しています。もっとも、したいとは思いません』という文章は、自分の性格を表現している文章ではない。それは一つの宣言だ。“共感”という通貨に手を伸ばしません、という宣言だと僕は捉えた。『誰かに褒められると嬉しい。相手が誰であれ好意を持たれると嬉しい。でも、それらを信じすぎてしまうという(意外とピュアな、子供らしい)癖があります。』と書く齋藤飛鳥だが、それは、「自分は“共感”を拒否しているのだから共感されにくいはずだ」という思い込み故の反動だろうと感じる。

僕は齋藤飛鳥に“共感”を抱く。しかし、齋藤飛鳥の“共感”を求めているつもりはないし、齋藤飛鳥に共感できない部分があっても自分の気持ちが揺らぐことはない。むしろどんどん、共感できない部分が出てきて欲しいと思いさえする。齋藤飛鳥に対しては、こういう捻れた、複雑な感情を抱きたくなる。


さて、ここまでで齋藤飛鳥のエッセイについての文章は終わりだ。この時点で既に僕の文章は5000字強。恐らく齋藤飛鳥のエッセイの字数を超えていることだろう。


「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.1」は、様々な方向から乃木坂46を描き出す。インタビューや著名人からのコメントや絵、メンバー同士の対談や趣味を突き詰めた企画、お気に入りの曲紹介やメンバーが撮った写真など、様々な企画が載っている。僕自身は、乃木坂46の視覚的な部分ではなくて、内面に迫る言葉に惹かれる部分があり、そういう意味で、写真がメインではなく文字がメインであるこの特集号はとても良いと感じる。

その中で、齋藤飛鳥のエッセイ以外で非常に面白いと思ったのが、「ミッツ・マングローブ×生駒里奈」の対談と、「乃木坂46のクリエイションについて考える」の「タイポグラフィ」の話だ。どちらの企画にしても、惹かれたのは乃木坂46のメンバー自身の言葉ではなく、その点が少し残念だったが、乃木坂46というものを外から捉えた時に出てくる言葉もまた非常に興味深いものがあるな、と感じた。


ミッツ・マングローブという人に特段のイメージは持っていなかったが、物事を見る視点や、目の前の現実を切り取る言葉が実に素晴らしかった。感覚で捉えたものを論理の力で言葉として放出する、その凄さみたいなものをこの対談から感じた。

『今はステージと客席の“段差”が無いようなもので、テレビ画面とお茶の間の距離も無くなってきてるでしょ。これは大きい意味で、芸能の質を下げちゃうと思う。シビアに“区別”しないと、お客さんが楽しみ方を忘れちゃうから。こっちでピシッと線を引いてあげることが、芸事をする上の義務だと思う。線を引いた上で「観たいならお金を払って!」「お金を払っていただいたらキッチリ満足させますから」って仕事をするの』

「会いにいけるアイドル」としてAKB48が生まれ、そのライバルとして登場した乃木坂46としては、『ステージと客席の“段差”が無い』という話は、スッと入ってくるものではないだろう。何故なら彼女たちにとって、そういう時代がもう当たり前だったからだ。当たり前であることに違和感を持ったり、腑に落ちたりという感覚を抱くことは難しい。専用の劇場を持たない乃木坂46には、その段差の無さを如実に実感する機会は少ないかもしれない。しかしそれでも、感覚的には段差が無い状態の方が自然に思えるだろう。そういう時代なのだ。生駒里奈も、『そういう発想は全然なかったです』と言っている通り、これは新しい視点を獲得するきっかけになっただろう。

昔のアイドルとの違いでは、ミッツ・マングローブがこんな風に言う場面もある。

『ひとつの課題をクリアするとすぐに次の課題を自分の中で持たなきゃいけないなんて、今のアイドルは過酷だよね。』

昔のことは僕はよく知らないが、昔のアイドルの場合、「アイドルとしてデビューする」ことが一つの目標であっただろう。さらにそこから「どう芸能界で残っていくか」「アイドルを辞めたら何をするか」という問いが突きつけられる日が来るのだろうけど、それまでは目の前にある仕事を全力でこなせばいい。

ただ、モーニング娘。の成長がテレビ番組で逐一放送されたり、選抜という仕組みによって競争が激しくなったりする中で、「アイドルとしてデビューする」というのが一つの通過点に過ぎない現実が徐々に明確になっていく。彼女たちは、常に何かに追われているのだ。

さらに、現在の選抜が基本にあるシステムの中では、必ずしも努力が結果に結びつくわけではない、という点も彼女たちを苦しめる。選抜されるかどうか、という場は与えられる。しかし、何をすればそこで選抜に残れるのか、という具体的な指針はない。そういう中で彼女たちは、自分で課題を発見し、それを克服し、さらに別の課題を見つけ…という繰り返しの中に自分の身を置かざるを得なくなっていくのだ。

『ただ、それは聖子ちゃんが制服を着るために“一生懸命に頑張っている”ってわけじゃないの。本当のアイドルって、“アイドルになろうと一生懸命に頑張らなくてもいい人”なのよ。
もちろん努力はするんだよ。だけど、「一生懸命やってるからアイドルとして認めてください」っていうのは矛盾でしかなくて。アイドルって“存在”や“在りよう”だからね。俳優でもスポーツ選手でも、努力した上で他の誰にもない力を発揮して、それを観たお客さんが「この人はアイドルだ」って感じるものなんだよ。例えば、羽生結弦くんは存在の仕方としてアイドルだと思うし、古いところでは長嶋(茂雄)さんだってそうだから』

努力を否定はしない。しかし、努力を超えた先にあるものがアイドルなのだ、という話を明確にする。
現代では、『一生懸命やってる』ことが、アイドルを推す一つの理由になっているようには思う。そこは時代の変化なのだろうけど、でもそうであるが故に、誰の中にも当然存在するような“アイドルとしてのアイコン”のような存在がいなくなった、と見ることも出来るかもしれない。もちろん今のアイドルのありようを否定するわけではないけど、アイドルというのは存在そのものがアイドルなのだ、そこには努力だけでは決して辿り着けないのだ、という話には納得させられた。

今のアイドルにはあまり興味はないし、パッと目に入ってくる子じゃないと覚えられない、と語るミッツ・マングローブは、しかし生駒里奈のことはすぐさま覚えたと言う。

『芸能の世界の勝負ってそういうことだと思うの。まずは覚えてもらえるかどうか。そこは努力してどうにかなるものじゃなくて、天賦の才なんだよね。』

『最近のアイドルには、いわゆる“アイドル性”が無いからこそ、昔のアイドルを知っている大人たちが面白がれるんじゃないかな』と言うミッツ・マングローブは、生駒里奈の中に何らかの“アイドル性”を見出し、注目した。僕にとっても、ドキュメンタリー映画「悲しみの忘れ方」の中で最も強いインパクトを残したのが生駒里奈だった(僕はその時点で、生駒里奈がデビュー当時センターを連続して経験した、という事実さえ知らなかったので、メンバーそれぞれをフラットに見れていたと思う)。確かに生駒里奈は、取り上げられる場面がとても多かった。その回数に比例して印象に残った可能性もあるけど、でも僕も生駒里奈に、何か持ってる子なんだな、という雰囲気を感じたのだと思う。

ミッツ・マングローブが、「トップアイドルであるということ」を、非常に面白い表現で語っている部分がある。

『乃木坂のファンじゃない若い子たちが、社会人になってカラオケに行った時に、「なんか昔、シャンプーの歌あったよね」って。
そういうふうに残っていくことがトップアイドルの宿命だし、義務でもあると思うの。』

意識を向けていない人にも残る存在。それがトップアイドルだと、ミッツ・マングローブは指摘する。そしてそこに向かうためには、時には非情にならなければならない場面も来るはずだ、と生駒里奈に語る。

『幸福論を語るつもりはないけどさ、本当にこの世界で幸せになりたいなら、人を出し抜くことも必要だと思うのね。でも生駒ちゃんはそういうことに抵抗を感じるタイプの人間でしょ?もし、そんなふうに感じてしまうことがあったら、そのときは私とご飯でも行きましょう』

ミッツ・マングローブのことがとても好きになる対談だった。


さて、もう一方の「タイポグラフィ」の話に移る。正直この部分を読み始める前は、「いくら乃木坂46に関係する話とはいえ、タイポグラフィの話はないでしょ」と思っていた。しかし予想以上に面白かったので、ある意味で拾い物だったと言えるだろう。

タイポグラフィに関しては、3名(3グループという表記の方が正確だろうか)の登壇者がいるのだが、その中で、有馬トモユキ氏の考察が非情に面白かった。

有馬トモユキ氏は、乃木坂46のCDジャケットについて考察をするのがど、その中で非常に面白い指摘だと感じた点が2点ある。「ウェブ時代のジャケット制作」と「ルールの明示」だ。

「ウェブ時代のジャケット制作」に関しては、言われれば確かにその通りと思うし、むしろ、こういうことを他のクリエイターがまだそこまでやっていないとすればその方が意外だ、と感じるものだった。

乃木坂46のCDジャケットは、ウェブ上で見られることを大前提にして制作されている、と有馬氏は指摘する。

『今、いちばん見ている媒体はスマホの画面ですから。それに最適化したジャケットって何だとなれば、最新のスマホのフレームにあてはめて美しいのはどれだということになる。乃木坂46のCDジャケットはそこをすでに捉えています』

なるほど、と思った。CDのジャケットは、確かにCDのジャケットとして認識されることもあるが、それ以上に、何らかの形でウェブ上で見られる機会の方が圧倒的に多い、そんな世の中になっている。その中で、ウェブで見た時に最も美しいデザインになるように作る、というのは、非常に納得感のある話だった。

もう一つの「ルールの明示」は少し説明が必要になる。

『デザインがルールを語っている。ファンに対してどこで遊んでいいのか、どうコミュニケーションしていったらいいのかということをジャケットで提示しています。デザインが、ルールブックとしても機能している気がします』

そう有馬氏は主張する。

有馬氏はまず、「乃木坂46」というロゴそのものの分析をする。その分析も面白いのだが、さらにそこから、「乃木坂46では、CDジャケットごとにロゴを作り変えている」という点に着目する。

僕はほとんどCDを買わないし、CDジャケットもちゃんと見ることがないので分からないが、本書の書きぶりでは、ミュージシャンの公式のロゴを、それぞれのCDジャケットにも統一で載せる、というのが一般的なやり方なのだろう、と理解した。しかし乃木坂46はそうではない。CDジャケット毎に違ったロゴを作り出している。その作品の世界観やCDジャケットの雰囲気に合わせて、「乃木坂46」というロゴが毎回変わる。

そしてこの点が、「どこまで遊んでいいのかというルールを明示する」という機能になっているのではないか、と有馬氏は言うのだ。

実際に乃木坂46のCDジャケットを制作している人たちがそういう意図でデザインをしているのか、それは本書からだけではわからないが、その指摘自体にはなるほどと思えた。

『乃木坂46の場合、“学校”っていうフレームから飛び出さない限りはほぼ自由なのでしょう』

その点がファン側にきちんと伝わっているかどうかはともかくとして、作り手側がそういう意図を持ってデザインをしているとしたら、凄く面白いなと思った。専用の劇場を持たない乃木坂46は、常時ファンと接する場を持てるわけではない。その交流の不足を、CDジャケットのデザインで補おう、という発想なのだとしたら、専用の劇場を持たなかったことが乃木坂46というグループをさらに特異にする要素になるのだな、と思わされた。

『デザインにおいて、「ただなんとなく」は絶対に成立しません。少なくともデザインした人はあらゆることを考えているし、クライアントに理由をプレゼンしているはずですから』

これは有馬氏の言葉ではなく、大日本タイポ組合の塚田氏の言葉だ。今までデザインというのは、センスがなければ捉えられないものだと思っていたけど、芸術はともかく、商業デザインであれば、デザインの意味を言葉で捉えることが出来るのか!という新しい発見のある企画で、実に面白かった。


他に気になった言葉をいくつか拾ってみる。
まず、イベントで乃木坂46とコラボしたことのある騎士団の綾小路翔。

『(乃木坂46にオファーをした理由を問われ)この時期、いろいろな意味で飽和化し始めたような空気が漂っていたアイドルシーンにおいて、「真っ当である」ということで逆に違和感や異質感を放つ彼女たちに興味を持ち、活動をチェックするようになりました』

『(乃木坂46の魅力を問われ)実は泥臭いとこ。何かそこはかとなく野暮ったいんですよね。全員ルックスが良過ぎて世間的には騙せてるのかもしれないけど、実は田舎者臭がほんのり漂う感じ。あのギャップがいいですね』

次は、ロックバンド「THE COLLECTORS」のボーカリストであり、多くのアーティストに楽曲や歌詞を提供している加藤ひさし。

『(「君の名は希望」を聞いて)アイドルはおちゃらけてて、ロックバンドのディープなヤツらが文学的だと持てはやされた傾向があったけど、そんな連中も太刀打ちできないぐらいすごいところに来てると感じました、乃木坂46自体が。また、歌ってる本人たちがそれに気付いてなくて歌ってるような純真さ、イノセントぶりが余計恐ろしさを生んでるんです。もしロックバンドがこういう歌詞を歌ったら、「これが俺の青春だ!」と言わんばかりに感情移入して暑苦しくなると思うんです。気持ちが空回りしちゃって、聴いてるほうも「ハイハイ、わかったよ。ずいぶんツラかったんだね」って。でもアイドルってそういうところが二次元的だから、気持ち悪いぐらい真っすぐ心に入ってくるんです。』


全体的に、乃木坂46以外の人間の言葉に惹かれてしまったな、という印象だった。でも、僕もそうだが、乃木坂46の魅力の一つは、そういう、なんか語りたくなる部分がある、っていうことなのかな、という気もする。それは、一つの個性としてとても魅力的だな、と。本人たちがあれこれ語らなくても、周りが語りだしてしまう。そういう魅力を持った乃木坂46に、これからも注目していこうと思う。

「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.1」


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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)