黒夜行

>>本の中身は(2015年)

海のイカロス(大門剛明)

内容に入ろうと思います。
3.11の震災以後、注目された発電方法がある。潮流発電だ。潮の流れでモーターを回し発電する方式で、アイデア自体は以前からあったものの、日本の電力政策は原子力一本槍だったために研究開発の予算もつかず、細々と研究が行われているに過ぎなかった。
しかし3.11の震災を機に流れが代わり、潮流発電が注目されるようになってきた。そこには、ずっと以前から潮流発電の研究を続けてきたチームの存在がある。
正岡周平は、現在そのチームを率いる研究者だ。
瀬戸内海にある馬島を拠点に、少ない予算をやりくりして研究を続けてきた馬越教授の研究を引き継ぎ、地元企業の社長である羽藤の協力もあって、ようやく実用化へ向けた一歩を踏み出せるまでになった。世界で初めての潮流発電実験が行われた来島海峡で、日本の技術を結集したテクノロジーが、世界に羽ばたこうとしている。
しかしある時正岡は、とある女性の死の真相を知ってしまう。新居田七海は、彼が手掛ける来島プロジェクトの原型を作った人物だ。瀬戸内海に愛され、瀬戸内海を愛した彼女は、誰よりも来島プロジェクトの実現を願っていたが、7年前、瀬戸内海に身を投じて亡くなった。その死の背景にある真実を知った正岡は、世界的注目を集める来島プロジェクトをぶち壊しにしてしまうかもしれないことは分かっていながら、ある人物の殺害計画を練り始めることになるが…。
というような話です。

なかなか評価の難しい作品です。専門性の高い分野を分かりやすく物語に落とし込んでいるところと、ラストの展開は良いと思いました。でも、事件が解決に至るその道筋は、ちょっと無理があると感じざるを得ませんでした。

本書は、潮流発電という、なかなか耳慣れない分野を扱う作品です。こういうモチーフを物語に組み込んでいくのは、なかなか難しいものです。専門用語も多くなりがちだし、ミステリの部分とあまり融和していなくてその部分だけ浮いてしまったりします。本書の場合は、潮流発電というのは物語のメインの舞台装置であって、ミステリ部分もこの舞台装置の中にうまく組み込まれているので、違和感はありません。ある意味で、「下町ロケット」的な、町工場のサクセスストーリー的な部分もあるので、潮流発電の進捗がどうなっていくのか、という興味で読み進めることも出来ると思います。

また、物語のラストは、なかなか意外でした。詳しくは書けないけど、こうなるだろうと思っていた着地点を見事にズラされたな、という印象です。本当に、完全犯罪になってもおかしくなかったという感覚を与えてくれます。どうも本書を読んでいても、主人公である正岡の秀才さがそこまで伝わらなくて(潮流発電の駆動部のアイデアは七海のものだと言っているし、作中で正岡自身が何か凄いことをやってのけるわけではないので)、この犯罪計画の見事さとあまり釣り合っていないように思えてしまうのだけど、正岡の犯罪計画の見事さはなかなかのものだなと感じました。

しかし、本書を読んでいて僕は、正岡を追い詰めるその過程が、ちょっと無理があるだろうと感じさせる展開で、そこはもう少しうまくやって欲しかったなぁ、と思ってしまいました。

正岡は、犯行時完璧なアリバイがあります。しかも、表向き、殺した相手に対する殺意は見当たりません。つまり、周囲の人間には動機が存在しないように見えるわけです。そして正岡は、事故と判断される状況を作り出した。警察も、事故と判断している。
正岡を追い詰める側の人間のスタート地点は、こういう状況になります。

この状況で、正岡を調べるべき強い理由がなければ、そもそも正岡について調べてみようとはならないでしょう。まず、ここが苦しい。正岡を追い詰めるのは、正岡に資金援助をしている企業の法務も請け負う弁護士である真壁明日菜である。明日菜が正岡を調べる気になったのは、被害者の小学六年生の娘が「殺されたはずだから調べてくれ」と泣いてお願いした、という理由しかない。それだけで正岡の調べに乗り出すには、あまりにも正岡は“犯人像”からかけ離れている。

確かにその後明日菜は、あるパーティーの場で、正岡に対して些細な違和感を抱く。その違和感も、明日菜を調査に乗り出すきっかけになったわけだけど、しかしどう考えても、それは“些細な違和感”でしかない。鉄壁のアリバイを持ち、動機を持たないように見える正岡の調査に乗り出してみようと思えるほど、強い違和感ではないのだ。

調査を開始した後も、ある偶然によって、明日菜が知らなかった正岡に関するある情報を知ることになる。この偶然も、ちょっとなぁと思うのだけど、それはともかくとしても、そこで仕入れた情報にしたところで、すぐさまそれが“正岡の怪しさ”に繋がるものではないようにしか僕には思えないのだ。明日菜が偶然得た情報は、正岡が殺人を犯しうるかもしれない動機に結びつくものなのだけど、しかし、最初に明日菜が得た情報だけから、それが正岡の動機に結びつく情報だとは、強く思えないと思うのだ。

正岡の計画は、警察も見逃してしまうほどの、完全犯罪に近いものだったから、突き崩す過程を描くのが難しいというのは分かる。それならそれで、明日菜に、正岡を追い詰める強い理由を与えて欲しかった。正岡と過去に因縁のある記者で、正岡を追い詰めたいという一心で、あり得ない可能性も漁ってしまう、みたいな設定でもあれば、まだ明日菜の行動を理解できたと思う。でも、本書で描かれている明日菜は、明日菜の雇い主が正岡に資金援助をしているという関係でしかなく、作中でも明日菜は正岡に、犯罪者であることを確信しつつも同情してしまうという複雑な感情を持っている。そんな正義と優しさを持っている人間が、わざわざ調査を開始しようと思うほど強い情報がない、というのが僕にはちょっと納得しにくかった部分だ。

正岡の犯行が追及されていく過程がもっと巧く描かれていたら、凄く良い作品になったと思う。でも、少なくとも僕にとっては、正岡の犯行が追求されていく過程は、随所に不自然さを感じさせる部分があって、なかなかすんなりと受け入れるのは難しいなぁと思ってしまいました。惜しいです。

大門剛明「海のイカロス」


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2時間でおさらいできる世界史(祝田秀全)

内容に入ろうと思います。
本書は、古代文明から現代までの世界史の流れを一気に概観してしまおう、という作品です。つい最近、「日本史」版を読みましたが、今度は世界史です。

「日本史」の方の感想でも書きましたけど、僕は歴史が大の苦手です。色々理由はありますが、覚えるのはかったるいし、ホントに起こったことなのかもわかんないし、基本的には興味が全然持てませんでした。

大人になってから、教養として歴史の知識を持っていることの重要性を実感するようになりましたが、子どもの時サボりまくってた身には、歴史の知識というのはなかなか難敵です。

僕には、本書でさえもちょっとレベルが高いかもしれないと感じました。

「日本史」の方は、まだ日本の話なので、感覚的に馴染みが持てる部分もあったのだろうと思います。用語も、漢字がベースになっているので、ある程度推測で、どんな意味を持つ用語なのか直感的に理解出来る場合もあります。

しかし世界史の場合は、国の成り立ちや宗教観、国境を接しているという地の利などに大きな差があって、僕には感覚的にスーッと入ってこない話が多かったです。もちろん「日本史」の方と同じく、出来事の繋がりをうまく説明してくれていると思います。だから、本の構成そのものに不満があるわけではありません。小説を読む時も、外国人作家の作品の場合、登場人物の名前や地名をすんなり覚えられないし、文化の違いなんかもスッとは入ってきません。それと同じ苦手さを、世界史からも感じられるのだろうと思います。

しかし本書を読んでいると、世界を騒がせる問題の多くが、歴史の禍根を背景にしているのだろうな、と感じます。特に、イスラム教やパレスチナの問題など、テロや紛争など様々な形で現代にも影響を与える問題の根っこが、かなり古い出来事にあるのだなと感じられて、日本とは時間のスケールが違うのだろうなと感じました。

あと驚くのが、アメリカですね。かなり現代に近づかないと、アメリカが世界史に登場することはありません。もちろん、アメリカにも先住民たちによる歴史があるでしょうが、本書のように2時間で読める範囲に世界史を圧縮した場合、アメリカの歴史というのは重要ではない、ということなのだろうと思います。世界史の流れを見てみると、その時々で中国・モンゴル・イギリス・スペインなどなど、様々な国が帝国を作ろうとする。その時代の覇権を握ろうとする。しかし、かつて帝国を目指した国は勢いを落とし、今は、世界史でほとんど登場しないアメリカが世界の覇権を握っている。歴史を一つの大きな流れでみた時に、そのめまぐるしい移り変わりみたいなものは興味深いなと感じました。

個別には色々と気になる話が出てきます。例えば、「都市」というのは農業の生産力向上によって生み出されたものなのだとか、オスマン帝国による第二次ウィーン包囲をきっかけに伝わったコーヒーがきっかけで革命が起こる下地が作られたとか、香辛料を求めてモルッカ諸島を目指したイギリスを撃退したアンボイナ事件がきっかけで、イギリスは木綿と出会い、世界経済を主導するきっかけを得たなどなど。副産物のような事柄が、次の時代の重大な起点となっていく。そういう流れを幾度も経ながら世界史というのはつくり上げられているのだなと思うと、やっぱりもう少し歴史はちゃんと勉強するんだった、と思いました。

世界史という学問そのものが僕自身と合わないために、すんなに読めない部分も多かったわけですが、世界史というものを一つの流れの中で読むことが出来る作品だと思います。

祝田秀全「2時間でおさらいできる世界史」


僕は何度でも、きみに初めての恋をする(沖田円)

内容に入ろうと思います。
高校一年生のセイは、家族の不和という問題を抱えて、毎日をうんざりした気持ちで過ごしている。視界に入るものすべてが醜く感じられる。なんだかもう消えてしまいたいんだ。
そんなある日セイは、学校帰りになんとなく、となり町の公園まで足を伸ばしてみる。そしてそこで、ハナに出会った。
ハナは、セイの写真を勝手に撮り、初対面とは思えないような人懐っこさで話しかけてくる。セイはそんなハナの態度にびっくりしながらも、美しいものを留めておくために写真を撮るんだ、というハナの真っ直ぐな言葉に惹かれる。セイは、毎日のようにハナのいる公園に行ってみることにした。
やがてセイは知ってしまう。ハナが、一日しか記憶のもたない障害に陥っていることを。
日々失われていく記憶と闘いながら、ハナはそれを苦にしないかのように明るく楽しげに振る舞っている。ハナのそんなあり方に、セイは勇気づけられ、励まされる。ハナといる時間はどんどん、セイにとって大事なものになっていって…。
というような話です。

一言で言うと、童話みたいな物語だな、と思いました。そういう意味で、ちょっと大人が読むには厳しいんじゃないかな、と。たまたま自分の周りの世界は薄汚れているけど、世界には、キレイなものだけで出来上がっている場所がある、と信じられるような、若い世代とか理想を捨てたくない人なんかには、グッと突き刺さる作品かもしれない、と思いました。

読みながらずっと思っていたことは、キレイ過ぎるんだよなぁ、ということ。モデルルームを見学しているみたい。確かに、家具もキレイだし、壁や床もピカピカだ。でも、そこには生活感というものがない。人が住んでいる気配がない。そんなモデルルームと同じように、この物語にも、生身の人間がいる気配がしない。天界で起こっている天使同士の物語だ、みたいに言われる方がまだ納得できるような感じだ。

こういう世界が、僕らの現実の世界に存在するというのなら、それは素晴らしいことだ。この物語や、物語の世界観を否定したいわけではない。けど僕にはどうしても、ここで描かれる世界が、僕らの現実と地続きになっているとは感じられないのだ。僕らが到達することの出来ない、どこか遠くの出来事に感じられるのだ。だから、ふとした瞬間に涙腺が緩むことはあるのだけど、基本的にどうもこの物語を受け入れられない気持ちの方が強くなってしまう。

セイとハナは、なんというか陰りがない。セイもハナも、マイナスの価値観や思考を持たないわけではないのだけど、それでも彼らには、陰りがなさすぎるように思う。お互いに、ある価値観・ある感情だけに支配されすぎていて、それ以外の面が浮き出てこない。短編ならともかく、これだけ長さのある作品なんだし、メインで登場する人間が二人しかいないんだから、もう少しこの二人を重層的に描くことは出来ると思う。もちろん、それは著者の書きたいものとは違うんだろうから、読者がとやかく言うことではないと思うけど、どうもモヤモヤしてしまう。メインの二人以外の登場人物も、とにかく「良い人」しかいなくて、なんか違うなと感じてしまうのだ。

人間の心の憶測に突き刺さるような感情を描き出そうとしていると思うし、表現なり文章なりでそれなりには成功していると思う。しかし、先ほどから書いているように、物語の舞台が、僕が住んでいる世界と地続きとは思えないので、どうも入り込めない感じがしてしまう。

とはいえ、こういう物語に惹かれる人も、きっといるのだろう。世知辛い世の中だし、ニュースなんか見てても碌でもない事件ばっかりだし、せめて物語の中だけはキレイであって欲しい、という人もいるのだろう。それ自体は否定しないけど、僕にはちょっと合わない作品だったかなという感じがしました。

沖田円「僕は何度でも、きみに初めての恋をする」


2時間でおさらいできる物理(左巻健男)

内容に入ろうと思います。
本書は、だいわ文庫の「2時間でおさらいできる」シリーズと(と呼ばれてるのかどうか知りませんが)の一冊で、物理をおさらいする内容になっています。

本書は、以下の5つのテーマに分けられています。
「物の運動と力の法則」
「仕事・熱・エネルギーの間にはどんな関係があるのか?」
「身近な波と音の性質について知ろう」
「電気の正体とはたらきを知ろう」
「エネルギーの種類とその利用」

僕は学生時代理系で、物理が好きだったので、復習のようなつもりで本書を読んでみました。元理系だった人間からすれば、物凄く基本的な部分を扱っているな、という印象でした。

まあそれもそのはずで、本書は、現在の高校で文系の生徒でもかなりの割合で学ぶことになった「物理基礎」という科目で教える内容をメインに書かれているようです。僕が学生だった頃に「物理基礎」なんて科目があったのか覚えていませんが、確かに本書に書かれている内容なら、文系の人でも生活の中で関わる可能性があるし、人生のどこかで役立つかもしれない知識かもしれないなと思いました。

僕が本書を読んで良かったなと思う部分は、物理独特の言葉の使いかたをきちんと知れた、ということです。正直、最も勉強していた高校時代でさえ、基本的な用語の正しい理解が出来ていなかったような気がします。

例えば、

「速さ」と「速度」はどう違うのか。
「作用・反作用」と「つり合い」はどう違うのか。
「仕事」とは、物理学ではどう定義されるのか。
「温度」と「熱」はどう違うのか。
「電流」と「電圧」と「電力」とはなんなのか。

こう言った事柄について、分かりやすく書いてくれています。

物理に限りませんが、主に理系の学問では、用語が厳密に定義され、まずそれをきちんと理解しておかなければ、書いてあることを正しく受け取れない、という状態に陥ります。しかし、物理や化学では特に、日常僕らが使う単語(「仕事」や「熱」や「速さ」など)も頻繁に登場します。そしてそれらが、僕らが日常的に使っている意味とは微妙に食い違うこともあるのです。例えば、日常生活の中では、「速度」も「速さ」も区別して使わないでしょうし、「質量」と「重さ」についても同じでしょう。しかし、物理の世界では、それぞれ区別して使われる別の意味合いを持つ単語なわけです。

こういう基本的な部分は、教科書には確かに書いてあるんですけど、試験対策で問題をガリガリ解いているような時にはもうあやふやになってしまったりします。問題が解けないことを、解く量が足りないのだと勘違いして、どんどん解けばいいと思っているようなところが僕にはあって、今考えると、学生時代の僕の勉強の仕方はまだまだ改善の余地があったな、と思います。今なら、本書で説明してくれているような基本的な用語をとにかく正確に捉えるところからやり直すでしょうか。

本書は、かなり易しい内容ではありますけど、数式が出てこないというわけではありません。数式を見るだけでイヤ、という人も世の中にはいるみたいですけど、数式にするというのは、単純化したり分かりやすくしたりするためのものだと僕は思うので、嫌がらないで欲しいなと思います。

本書は、本当に基本です。物理にまったく触れたことがない人が本書を読んでどう感じるのか、それは僕にはよく分からないけど、日常感覚からかけ離れたことが書かれているわけではないので読みやすいのではないかと思います(現代物理学はもはや、僕らの日常感覚を裏切るような事実がわんさか出てくるような領域に入っているので、大変です)。2時間でおさらい出来るかどうかはともかくとして、手軽にチャレンジしてみてください。

左巻健男「2時間でおさらいできる物理」


体育館の殺人(青崎有吾)

風ヶ丘高校の旧体育館で放課後、放送部の部長である朝島友樹がナイフで刺された状態で死体となって発見された。何故か緞帳が降りていたステージ上で、教壇に寄り掛かるようにして死んでいた。第一発見者は、現場にいた演劇部と卓球部の面々。下がっていた緞帳を上げたところ、死体発見となった。
犯行時刻と思われる時間の前後に旧体育館周辺にいた者は、卓球部の顧問の教師によって集められた。また、すぐに警察に連絡をとり、迅速に現場保存がなされた。
警察による捜査が開始されるが、生徒への聞き込みを続けていくと、実に奇妙なことが判明した。
この旧体育館は、事件当時“密室”だったというのである。
出入り口はいくつか存在するが、そのほぼすべてが、駆けつけた警官によって施錠されていたことが確認された。残る開口部は、旧体育館の入り口と、舞台下手側のトイレ付近のドアだ。入り口はその場にいた人間の目があったし、トイレ付近のドアの方は、演劇部が舞台装置を運ぶために持ち込んだリアカーで塞がっていて、誰も通ることが出来なかったのだ。
しかし犯人は、誰にもその姿を見られることなく、現場に現れ、そして現場から消えた。現場に残されていたものは、上手側のドア付近にあったリボンと、トイレに残されていた傘。
捜査が進む中、とある事情から、卓球部の袴田柚乃は、卓球部の部長であり、柚乃が“完璧超人”とアダ名している佐川先輩が疑われていることを知ってしまう。
柚乃は、佐川先輩を助けたい一心で、つい最近耳にしたある噂に頼ることにする。先日のテストで、全教科満点を取った、恐ろしく頭のキレる男が、何故か学校の敷地内に住んでいる、という噂だ。柚乃は、噂通りの場所に出向き、そこで、後にこの難解な事件を見事に解き明かして見せる裏染天馬と出会うことになるのだが…。
というような話です。

べらぼうに面白かったです!この著者の作品を読むのは二度目ですけど、凄い作家がいたものだな、と思います。バリバリの本格ミステリを読むのは久しぶりですけど、これほど「快刀乱麻」という単語が似合う作家はなかなかいないような気がします。

とにかく、謎解きの過程が見事です。ほんの僅かな現象・情報・事実から、可能な選択肢をすべて列挙し、合理的な推論を積み重ね、出来上がった仮説を根気よく検証していくことで、天馬はこの複雑な謎を解き明かしていきます。その過程が本当に見事です。

ネタバレをするわけにはいかないから、この謎解きの凄さを具体的に書けないのが辛いところです。読者は、天馬とまったく同じ情報を手にしています。材料はすべて揃っています。しかしそれでも、天馬のように思考を展開させられる人はそうそういないでしょう。天馬の説明を聞けば、あぁそれしか考えられない、と納得するしかありません。でも、自分では気づけない。そういういくつもの論理を絶妙に折り重ねながら、合理的に、論理的に謎が解き明かされていきます。

とはいえ、ただ論理を積み重ねていくだけの無味乾燥な謎解きというわけではありません。本書の場合、殺人事件は1度起こるだけですが、謎解きが展開される場面はいくつかあります。最後にすべての謎が解き明かされる、それまでは前段階ですよ、という構成にはなっていません。謎解きの場面が適宜挟み込まれるので、350ページ強の物語をだれさせないで読ませます。
とにかく、最初の謎解きである、「佐川先輩の無実を証明する」場面は、凄いとしか言いようがありません。この時点で天馬が持っていた情報は、読者よりも少ないかもしれません。しかし天馬は、たった一つの遺留品について徹底的にこだわりぬいて考えぬくことで、佐川先輩の無実をあっさりと証明してしまいます。
その遺留品というのが、トイレに置き忘れた傘です。
本書はとにかく、この傘の存在が非常に重要です。天馬は、この1本の、指紋や血痕がついていたわけでもない傘のみから、様々な推論を展開し、実に多くの仮説・事実を導きさしてみせます。物語のラストでも、この傘の存在が実に重要になっていきます。この傘が何を伝えてくれるのか、それがどんな思考によるものなのか、是非体感して見てください。

そうやって、謎解きの場面がところどころに配置される構成に加えて、天馬自身のキャラクターのぶっ飛び具合もまた、本書を飽きさせなくしていると思います。
本書には、文庫の袖のところに人物紹介表がついているのだけど、天馬のところには、「二年生。駄目人間」と書かれています。まさにその通りで、天馬は、超絶的に思考力が優れているという点を除けば、人間としては結構クソです。アニメ方面の趣味があることは全然構わないけど、周辺で起こる様々なものをそういうアニメ方面の事柄で説明しようとするし(天馬はあまりにもマニアック過ぎて、他の登場人物も理解できない、という設定なので、アニメに詳しくない方でも問題なく読めます。僕も全然分かりません。でも、わかるともっと楽しいかもしれません)、そもそも学校に無断で住み着いている時点でアウトでしょう。謎解きのために重い腰を上げたのも金のためだし、人を小馬鹿にしたり、傍若無人に振る舞ったりするようなところがあります。
と、天馬の悪いところをあげつらいましたけど、でも何ででしょう、どうも天馬のことは嫌いになれないんですよね。なかなか不思議なキャラクターです。別に、不愉快な存在ではないのです。頭の良さだけでカバー出来るほど、天馬のキャラクターは穏やかではないので、何かしら天馬には、人を惹きつけるような部分があるのでしょう。それがなんなのか、きちんと言葉では説明できませんが、ともかく天馬には、結果的に人を従わせてしまうような、天馬が言うなら仕方ないかと諦めさせてしまうような、そんな雰囲気があって、それが“探偵役”というキャラクターにぴったり合うのと、場を常に引っ掻き回して物語的に面白い“トラブル”を引き起こすという意味で、なんとなく憎めない存在だったりします。

正直、天馬以外のキャラクターはさほど特徴は感じさせないというか、割と無難にまとまっている感じがするので、人物の描き分けという意味ではまだまだなのかもしれないと思います。ただ、本書はデビュー作ですし、僕が本書よりも先に読んだ「アンデッドガール・マーダーファルス」では、魅力的なキャラクターをバンバン描き出していたので、作家として成長しているのだろうと思います。

本書にはラスト付近に、「読者への挑戦状」がついています。ここまでの情報で、読者のあなたにも論理的に犯人を導き出すことが可能ですよ、という宣言である。僕の勝手なイメージでは、こういう「読者への挑戦状」がつく本格ミステリというのは、読者にも犯人が導けるように様々な条件を物語に詰め込むために、細部にこだわりすぎるきらいがある、と感じることがありました。本書でも、確かに時間に関する証言だけは、ちょっとリアルさがないぐらい緻密だな、と感じはしました。3時3分頃に着いた、みたいな証言をするんですけど、さすがにそこまでちゃんと覚えていられる人はいなかろう、と。もちろん、描写でその辺をうまく処理しようとしていますが、若干無理している感はあるような気がしました。
しかし、その時間に関する証言を除けば、細かな部分をきちんと入れ込みながら、リアルさを損なうほど細部にこだわりすぎているように見せない描写をしていて、うまいなと思いました。簡単に説明すれば、パズル的ではなく、あくまでもきちんと物語として整っているな、と感じました。

たった一度の殺人事件だけで、350ページ強の物語を見事に保たせる力、強烈に魅力的な探偵を描く力、圧倒的に緻密な論理展開で犯人を追い詰める過程。そうした要素が実に見事に絡まり合って、バリバリの本格ミステリでありながら、学園モノとしても十分愉しめる、そんな作品に仕上がっていると思います。本格ミステリにあまり馴染みのない人でも、十分愉しめるのではないかと思います。

青崎有吾「体育館の殺人」


2時間でおさらいできる日本史(石黒拡親)

子供の頃から、ずっと歴史が大嫌いだった。歴史を学ぶ意味も、歴史を暗記しなくちゃいけない意味も、まったく分からなかったからだ。
僕はバリバリの理系で、数学とか物理が大好きだった。数学や物理は、一定の法則の元、答えが一つに決まる。数学はパズル的な知的遊戯としての面白さがあるし、物理は世の中の現象を理解するための、そして未来を予測するための道具としての強力さが好きだった。
しかし歴史は、何が面白いのかさっぱり分からなかったのだ。
その理由には、「暗記しなくてはいけない」という点も大きく影響していただろう。理系だった僕からすれば、歴史の授業なんて、とりあえず受けているようなものだった。歴史を学ばなくても、政経とか地理で受験はなんとかなる。じゃあ、なんのために人名だとか年号だとかを覚えなくちゃいけないのか?
今考えれば、歴史を純粋に物語として見ることが出来れば、面白いと感じられたかもしれない。しかし当時の僕にとって、歴史というのは、ただ暗記しなくちゃいけないものでしかなくて、まるで興味が持てなかったのだ。

また、歴史そのものに対する懐疑、というのも、僕は昔からずっと持っている。
例えば、南京大虐殺があったかなかったか、そんな議論が未だになされている。まだ100年も経っていないような出来事の真偽が、確定していないのだ。じゃあ、数百年、数千年前の歴史の正しさを担保してくれるものって、一体なんなのだろう?と僕は思ってしまうのだ。

それでも、「○○だと考えられています」という風に教えてくれれば、僕もまだ納得できただろう。しかし、歴史の教科書や授業では、「○○だった」というような、断言調で語られるのだ。そんな風に断言できるほどの真実性が、どこにあるのか?
物理も、常に理論は変化していく。それまで正しいと思われてきたものが次々と塗り替えられていく学問だ。それでも教科書や授業では、歴史と同じく「○○である」と断言される。
しかし歴史と違うのは、物理の方は、検証可能だ、ということだ。学生には難しいかもしれないが、しかし教科書に書かれていることはすべて、その真偽を誰でも確かめられるようになっている。歴史の場合は、タイムマシンでも開発されない限り、そんなことは不可能だ。永遠の水掛け論でしかない。

そんな風に僕は、ずっと歴史というものが嫌いで、本当にほとんど学ばないでここまで来てしまった。嘘ではなく、僕が知ってる年号は「1192年(いい国作ろう鎌倉幕府)」と「1600年(関ヶ原の戦い)」だけだ。1192年は異説が唱えられているとかで、となると関ヶ原の戦い年号しか知らない。坂本龍馬が何をした人なのか説明できないし、そもそも室町時代とか鎌倉時代なんかを正しい順番で言えない気がする。一時話題になった、高校での必修科目の未履修問題。それが社会問題になった時点で僕はすでに成人していたけど、僕も高校では、必修科目であったはずの世界史・日本史は結局学ばなかった。

さて、大人になって、社会の中でそこそこ生きてみて感じることは、
“子供の頃、歴史の勉強をもっとちゃんとやっとくんだったなぁ”
ということだ。これは本当に後悔している。僕はあまり過去の自分の言動を後悔しないのだけど、振り返ってやり直せるなら、歴史と古典の勉強をきちんとやり直したい。

歴史というのは、様々な現代の出来事を理解するのにも必須だし、社会人として持っておくべき教養でもあるし、また人間の思考や行動の枠組みの幅を取り込むことも出来るのだ。また純粋に、歴史をベースにした様々な娯楽(映画や本や漫画やゲームなど)が楽しくなる、ということもある。普段関わらない年配の人との会話のとっかかりにも使えるかもしれないし、国際化が叫ばれる世の中においては、自国の歴史をきちんと知り自分なりの意見を持っているというのは大事なことだとも思う。学生時代こそ、歴史なんて学んで何になるんだ、二番目にクソみたいな学問だな(僕にとっての一番は国語だった)と思っていたのだけど、後悔しきりである。

大人になってから、まったくの基礎知識なく歴史の勉強をやり直すのは実に困難だ。色々調べたけど、「少年少女まんが日本の歴史」みたいなやつをひたすら繰り返し読むというのがいいのだろうな、という結論に達してはいる。しかし、全20巻ぐらいの本を買うのもしんどいし、なかなか時間もない。

そんなわけで、とりあえずざっくり流れを知るために、本書を読んでみたのでした。

本書は、予備校講師である著者が、普段は生徒に暗記させるような固有名詞をなるべく排除して、歴史の大きな流れを掴むことが出来るように書いた歴史の本です。
まえがきに、こんな風に書かれている。

『(世界史の図鑑にはハマったが)ところが、その歴史の流れを説明する本を読むと、今一つ楽しめない。最後まで読み通すのも苦痛なくらいだ。一番大きな壁だったのは、まぎらわしいカタカナ名だった。ローマの歴史に出てくる「グラックス兄弟」と「将軍クラッスス」などは、別人と気づかないまま読み進めていた。
自分の記憶力のなさにうなだれるほかないが、じれったさもつのった。
「人名なんてどうでもいいから、人間の営みそのものが知りたい!」と。
ローマのあの高い文化水準が、その後なぜ衰えてしまったのか。そっちの方がずっと気になるのである。そうして思ったのは、普通の人が日本史の本に向かうときも、同じ感情を抱くのではないだろうか、ということだった』

そこで著者は、暗記や詳細な解説を目的とする本ではなく、あくまでも歴史全体を概観出来るようなそんな本を書こうと思ったようです。

本書のタイトルには「2時間で」とありましたけど、僕は2時間では読めませんでした(笑)
やっぱり、あまりにもベースとなる歴史の知識がなさすぎるのでしょう。でも、なかなか面白く読めました。

本書は、「これこれが起こった」だから「これこれがこうなった」という流れを結構重視して説明してくれる。これがわかりやすい。たとえば「武士」というのは、元々、所領を守るために武装した者だった。かつて土地は幕府のものだったが、力のある領主が「この土地を俺にくれ」と幕府に言うと、幕府はそれをOKしたのだ。土地を広くすることに領主が躍起になってくれれば、税収が増えるからだ。そうすると、土地を広げたいと考える領主は当然、他の領主とぶつかり合うこともある。そういう時のために武装したのが、「武士」の始まりだった、というのだ。

確かに、唐突に「よっしゃ、武装して戦おうぜ!」という、暴走族みたいな輩が現れたなんて風には考えにくいんだけど、とはいえ、「何故武士が生まれたのか?」なんていう疑問を持ったことのなかった僕には、なるほど!という感じでした。誰かが何かをした、その結果がある時の別の何かに影響を与えている。そういう風に歴史を複層的に描くことで、歴史を一つの繋がりのある存在として感じられるようにしてくれているのだと思います。

また、著者もそう書いているように、固有名詞を出来るだけ排除しているように感じられるので、読みやすいです。ところどころ固有名詞が出てこますが、重要そうなものは太字になっているので、これは最重要なのだなということが伝わるようになっています。

一回読んだだけでは頭に残らないでしょうけど、何回か読んで、歴史の流れを掴めたらいいなと思っています。

石黒拡親「2時間でおさらいできる日本史」


アンデッドガール・マーダーファルス 1巻(青崎有吾)


内容に入ろうと思います。
舞台となるのは、吸血鬼やケンタウロス、人造人間や切り裂き魔など、古今東西の様々な“物語”の中の存在が実在する世界だ。
19世紀末。既に世界では、化け物狩りが進んでいた。吸血鬼や人狼などは、人間に害をもたらす存在だとして迫害され、化け物ハンターたちがその命を狙い、その存在はかなり絶滅の危機に瀕していた。
そんな中ヨーロッパでは、人類親和派の吸血鬼が登場する。その一人であるジャン・ドゥーシュ・ゴダール卿は、<人間の生き血を吸わない>という宣誓書にサインをし、政府から人権を得た史上6人目の吸血鬼だ。彼の妻であるハンナは元人間であり、吸血鬼となった後、子供らと共に、ジーヴルの街の東側にある深い森林地帯の奥にある、ヴァーグ・ド・フォリ城-“波打つ狂気の城”で暮らしている。吸血鬼は、銀製品と、カトリック教会が1260年に開発した“聖水”のみが弱点であり、それ以外のどんな攻撃に対しても、すぐさま治癒したり回復したり再生したりする。日光がダメで夜しか活動出来ないが、力は人間では太刀打ちできないほど強い。ゴダール卿はちょっと資産家であり、ジーヴルの街に対して莫大な援助金を渡している。そんな風にして、人類とうまくやっていこうと考えているのである。
ある日、仕留めた鹿を携えて城まで戻ると、ハンナが杭のようなもので貫かれ、さらに聖水を撒かれた状態で死んでいるのは見つかった。鍵を掛けていたはずの倉庫に、数日前にハンターから奪った銀の杭を保管していたのだが、そこにべっとりと血が付着していた。
ゴダール卿は、悲しみに暮れたが、犯人を捕まえるべく、探偵を雇うことにした。それが、怪物専門という奇矯な探偵、通称“鳥籠使い”である。
彼らは、日本人の二人組、真打津軽と輪堂鴉夜である。彼らは、スペインで屍食鬼(グール)を飼っていた教団を壊滅させ、ノルウェーで人魚にかけられた殺人容疑を晴らすなど、人間が忌避する怪物絡みの事件を軒並み解決してきた。しかし、具体的にどう活躍したのかという情報はほとんど伝わらず、ただ「大変有能である」という評判だけが伝わっている、非常に謎めいた探偵なのだ。
やってきた“鳥籠使い”は、およそ信じられないような風体で現れ、そして颯爽と事件を解決していく…。
というような話です。

とにかく凄い物語でした!メチャクチャ面白いし、見事です。本格ミステリ作品で、まだこんなことがやれるんだ、と新鮮な驚きを与えてくれた作品です。

まず、設定に驚かされました。こういう、異形の者たちが実際に存在する世界を舞台にした作品、というのは実際のところ存在するでしょう。でも大抵の場合、その設定自体にさほど大きな意味はなかったりすると思います。
本書の場合、異形の者たちが存在する世界だからこそ起こりうる事件だし、また、異形の者たちが存在する世界だからこそ“ミステリ”として成立する物語なわけです。この点が見事だなと思いました。

たとえば、吸血鬼の事件のメイントリックは、恐らく本格ミステリをほどほどに読んだことがある人なら、一度は触れたことがあるような、古典的なトリックだと言ってしまっていいかもしれません。だから本書は、トリック自体の斬新さで勝負してくる作品ではない。本書は、使い古されたそのトリックを使って、どれだけ新鮮な驚きを与えることが出来るか、その点にこそ重点がある。

詳しく書きすぎるとネタバレに繋がるかもしれないから抑えるけど、このトリックは本作でしか成立しえないだろう。見事に整えられた舞台設定の中に、このトリックがピタッとハマるのだ。この使い古されたトリックが明るみに出ることによって、事件の根底が一気にひっくり返されてしまう。そのカタルシスたるや見事だと思いました。

また、異形の者が存在する世界という設定は、事件だけではなく、探偵たちとも密接に関わってくる。この点も素晴らしい。この物語には、何故かれらが探偵にならざるを得なかったのか、という問いに対する答えが、物語世界の構造そのものに内包されているのだ。

なかなかそんな探偵小説はないだろう。古今東西様々な探偵が生まれてきただろうけど、多くは、類まれなる推理力が元からあったからとか、係累の誰かが刑事で手伝いをする内になど、弱い形での“探偵になることを決めた物語”があるに過ぎない。しかし本書の場合は、真打津軽にも輪堂鴉夜にも、探偵としてヨーロッパ各国を飛び回らなければならない切実な理由があるのだ。これも実に巧いと思う。著者がこの物語をどこから着想したのか、それは僕には分からないけど、どこから着想したにせよ、物語の世界観と、事件のトリックと、探偵にならざるを得なかった理由が、一つの一貫した流れの中で生み出されているという構成が、作品をもの凄く力強く立たせていると感じる。本書は、ただノリだけで、異形の者たちが住む世界を舞台として選んでいるのではない。異形の者たちの存在が、あらゆる場面で世界に立ち現われてくる見事な構成なのだ。

19世紀を舞台にしているのは、実際にそれらの作品群が書かれた時代を舞台にしたからだと思うのだけど、この設定は、クローズドサークルを必然的に生み出しているという点でも非常に面白い。普通ミステリの中でクローズドサークルは、雪の山荘や絶海の孤島などで作られる。それは、“警察がやってこない”という状況を作り出すためだ。科学技術の進んだ警察がやってきては、物語的に面白くならない場合、そういうクローズドサークルが作られる。

しかし、クローズドサークルを作品に登場させる時、作品はどうしても不自然になってしまう。本格ミステリを読む場合の“お約束”のようなもので、本格ミステリ読みにはさほど気にならないのだろうけど、一つの作品として見た場合、やはりクローズドサークルが作られる状況というのは、大抵不自然に、作品に都合が良すぎるように感じてしまう。

しかし本書の場合、警察は登場したとしても、現代のような進んだ科学技術を持っていない。そういう意味で、緩くクローズドサークルが作られているのだ。そしてそれを、まったく作為的に感じさせない。実に魅力的な舞台を整えたものだなと関心しました。

僕は物語に関して、一つ敢えて触れていない部分がある。それにはフランケンシュタインが関わってくる(この一文は、後々僕がこの文章を読み返した時、内容を思い出すためのものだ)。多分知らないまま読む方が面白いだろう。フランケンシュタインが関わる部分も、実によく出来ている。このパートこそ、異形の者たちが存在する世界であるが故に成り立つ話で、その斬新さには驚かされることだろう。

さて、次にキャラクターの話をしよう。こちらについても、書かない方がいいだろうと思う部分が多いのであれこれは書けないのだけど、とにかく、真打津軽と輪堂鴉夜のキャラクターは素晴らしい。実に魅力的で、惹きつけられる存在である。

確かに、ライトノベルに登場してくるようなキャラクターに、一見すると思える。しかし、この二人には、話が進んでいくことで明らかにされていく、深い背景が存在する。彼らの存在そのもの、生きる理由、探偵を続ける理由などなど、彼らの背後には、読者の誰もが想像もしえないような広がりのある物語が横たわっている。その一つ一つの歴史を知る度に、ただ無邪気で破天荒なだけのキャクターなのではないということが伝わってくるのだ。

真打津軽と輪堂鴉夜についても、世界観の設定と同様、見た目の面白さだけでキャラクター設定をしたわけではない、世界観と密接に繋がった要素が存在する。特に輪堂鴉夜は、普通には存在し得ない存在だ。しかし、著者が生み出したこの特殊な世界の中で、輪堂鴉夜は“論理的に”存在しうる。その斬新さ。ノリや見た目のインパクトだけで設定されたような物語の登場人物が色々いる中で、あからさまな異形であるにも関わらず存在理由にこれほど違和感のないキャラクターも珍しいだろう。

また、真打津軽と輪堂鴉夜のやり取りがなかなか面白い。殺人現場にいるとは思えないほどの珍妙なやり取りや、脈絡なく上げる笑い声など、独特な世界観を持っている。それでいて、輪堂鴉夜が展開する推理の論理展開は見事としか言いようがない。メインの事件の解決だけでなく、輪堂鴉夜は細々とした推理をいくつも披露していくのだけど、その知性がなかなか魅力的である。

また、真打津軽は、輪堂鴉夜の弟子という立ち位置であるが、喋らせたら天下一品である。相手を煙に巻く手腕も、くだらないことを延々喋り続けるアホらしさも、芝居の前の口上のような軽妙さも、口から生まれたかのような振る舞いが面白い。二人は、ある意味で二人で一つであり、しかしその一つが異様にデカイという感じのペアだ。お互いがお互いの存在を必要としているという点でも、なかなか魅力的な関係性である。

輪堂鴉夜は、『人間の行動原理なんて考えるだけ無駄』と切り捨てる。著者は、平成のクイーンと呼ばれているらしい。僕は、エラリー・クイーンの作品をたぶんほぼ読んだことがないから分からないのだけど、恐らく、論理で詰めていくタイプのミステリなんだろうと思う。本書も同じで、輪堂鴉夜は、動機だの心理状態だのを基本的に考えない。あくまでも、目の前の状況を観察し、仮説を立て、それを検証していくというやり方で事件を解決していく。それはどうしても、冷たい印象を残す捜査になりがちだと思うのだけど、しかし本書の場合、常にふざけているような真打津軽が全体のバランスを取ることで、怜悧なだけの物語にはしていない。そこも良いなと思う。

この物語は、シリーズとして続いていきそうだ。「名探偵コナン」と同じく、事件は事件として横糸として存在するが、物語を縦に貫いていく縦糸もあって、それが本作ではまるで解消されない。そちらの展開もなかなか気になるところだ。

物語の筋だけ追えば、実に本格ミステリ的な作品だ。しかしそこに、過剰なまでの装飾を施すことで、本作をただの本格ミステリ作品に留めていない。また、ただの装飾に思えたことが、実は作品の根幹と密接に関わっていくという構成もまた見事だ。本格ミステリを読んで、こんなに清々しく、さっぱりとした気分になったのは、たぶん初めてだろう。

青崎有吾「アンデッドガール・マーダーファルス 1巻」


連鎖<再読>(真保裕一)

内容に入ろうと思います。
東京検疫所に勤める羽川。彼は、輸出入される食品の安全を見張る番人として、日々業務をこなす役人だ。
彼の友人であり、雑誌記者である竹脇が、車ごと海に落ちた。
自殺の疑いようがない状況だったという。竹脇が自殺したのだとすれば、思い当たる理由は一つしかない。羽川が、竹脇の妻である枝里子と関係を持ったことが原因だろう。羽川と枝里子は、意識不明のまま入院を続ける竹脇を前に、重い時間を過ごしていた。
竹脇は、三角輸入によって、チェルノブイリ事故で汚染された食品が国内に入ってきている実態をスクープして、一躍時の人となった。共同で調査にあたった、輸入食品の検査機関の副所長である篠田もまた、注目を集めていた。
しかし、竹脇のスクープは、告発された大企業を揺さぶり、自殺者を出すほどの事態に発展していた。
ファミリーレストランチェーンの倉庫に保管されていた肉に農薬が撒かれた事件をきっかけにして、羽川は上司である高木から命じられて、検査で引っかかった食品を正しく処分せず流通させているのではないかという疑惑を追うことになる。その過程で羽川は、竹脇の取材の痕跡をそこここに発見する。衝撃的なスクープを放った竹脇は、どうもまた新たなネタを掴んでいたらしい。調査をすればするほど、竹脇が自殺をしたとは思えなくなり、警察が自殺と断定した死の真相も探ろうとするが…。
というような話です。

だいぶ昔に一度読んだことがある作品ですが、久々に読み返してみました。やっぱり、真保裕一の初期の作品はメチャクチャ面白いなと思います。小役人シリーズと呼ばれている、一般にはあまり馴染みのない役人を主人公に据えた一連の作品は、社会問題を鋭く切り取る切り取る手腕と、ミステリエンターテイメントとしての面白さが見事に融合した作品だと思います。

本書では、食品の輸出入や食の安全がストーリーの根幹を成す。食品Gメンだったこともある主人公の羽川は、不正な食品流通の痕跡を探ろうと、細かな調査を続けていく。それは、帳簿を確認するとか人に話を聞きに行くとか、あまり面白くなさそうな調査なのだけど、真保裕一はそれを読ませる物語に仕立てあげる。

食の安全が叫ばれて久しいが、どのようにして食品汚染が行われているのか、そのことに深く関心を持とうとする人は多くはないだろう。本書は、安い食品がいかにして生み出されているのか、その一端を知ることが出来る。安全はタダではない。知識や努力なしには、手に入れることが出来ないものになっている。

主人公の羽川は、食品Gメンを辞めた理由をこう吐露している。

『食品衛生監視員時代のことは、思い出したくないことばかりだった。仕事が辛かったのでも人間関係に悩まされたからでもない。そんなことは、どの職場にでもある些細なことだ。私には仕事をしている意味が分からなかったのだ。
食品は人の健康と密接に関係している。それだけに、まず安全性が優先されなければならない。食品衛生法を初めとする帰省は、そのためにある。私はそう思っていた。だが―。
違反は、想像以上に多かった。それだけではない。規制が緩やかだったり、時にはなかったりして、取り締まれないことが多過ぎた。』

もちろんこれは、小説の登場人物が言っていることに過ぎないわけだけど、しかし真保裕一は、緻密な取材をして小説を書くことに定評がある。本書の中で羽川に回想させたこの想いも、決して現実から遠いものではないだろう。

企業は、利益を確保していかなくてはいけない。もちろん、そのために何をやってもいいわけではない。しかし可能であるならば、より少ないコストでより大きな利益を得ようとする。本書で描かれている状況の一部も、まさにそういう葛藤の帰結だ。
もちろん、不正を働くのは企業が悪い。それは当然なのだけど、しかし我々消費者の側が、安いものを求めすぎていることも大きな要因の一つだろう。企業が悪い、と言うのは簡単だが、買う側の意識も変わらなければ、こうした不正がなくなることはきっとないのだろうと思わされた。

本書は、食品汚染の問題に端を発するのだけど、しかしこの物語の行き着く先は予想もしえなかったところになる。悪事を働く人間が、どんな抜け穴を使って、どんな企みを企てているのか。そして、羽川ら調査側の人間がどうやってその不正を見抜き追及していくのか。緊迫感溢れる展開が見事です。

さて本書は、食品汚染をベースに社会を切り取っていく物語なのだけど、著者自身は“社会派”というような呼ばれ方をするのは好きではないようだ。「現代を舞台に小説を書いているのだから、社会が出てくるのは当たり前」「このネタを使って面白いミステリを書いてやろう」 そんな気持ちだそうです。
そう、本書は、社会派的な部分を多分に持ちながら、ミステリとしても見事だと思います。羽川が調査に没入する前半から中盤に掛けてはそこまでミステリ感はありませんが、しかし読者を物語に引き込むような展開や伏線の張り方はさすがです。そして後半、物語の輪郭が明らかになっていくと、驚くべき事実が様々に明らかになっていきます。ちょっと羽川が、一介の役人にしてはスーパーマン過ぎる気もするけど(洞察力にしても体力にしても)、そんなことが気にならなくなるぐらいの怒涛の展開に圧倒されます。

また、正義と悪についても考えさせられます。本書では、食品汚染に端を発する不正に手を染めている人間は疑う余地もなく悪ですが、しかし羽川を初め、物語に出てくる多くの人間が、正義と悪の間を行ったり来たりします。

たとえば羽川にしても、竹脇の事故と食肉への農薬散布をきっかけに不正を暴く調査に入れ込みます。その姿だけ見れば強い正義ですが、しかし羽川のこの行動は罪悪感からでもあるわけです。羽川の妻と関係を持ってしまったために羽川を失いそうになっている現状、そして羽川が竹脇に対して持ち続けたとある嫉妬が、羽川の行動の裏に見え隠れします。他の登場人物にしても同じで、彼らはみな何かを抱えて、やるせない現実と対峙しているように思える。そこが、とても人間らしく映るのだろう。羽川を初め、登場人物たちが、正義感だけで動くのではない、という物語に通底するベースが、この作品をより浮き立たせているように思う。

本書の難点を一つ挙げるとすれば、1991年発行であるが故に、携帯電話など現代的なものがまったく登場しないということだ。24年も前の作品なのだから仕方なのだが、ところどころ若干の古さを感じる。しかし、四半世紀も前の作品なのに現代でもほぼ通用するような物語のクオリティを保っているというのは、凄いことでもあると思う。

ミステリであるので、どんな人物が出てくるのかや、物語がどう進んで行くのかにあまり触れないでおきます。そのせいで、うまく魅力を伝えにくい感想になっているかもしれないけど、骨太でありながらとっつきにくいわけではなく、自分の生活にも直結する可能性のある社会問題をベースにしつつ人間も深く描いていくという、新人のデビュー作とはとても思えないクオリティの作品です。是非読んでみてください。

真保裕一「連鎖」


負ける技術(カレー沢薫)

『だが、実は私がより重要視している「負ける技術」とは、「俺は負け組です」と表明して他者にナメられるという術ではなく、「俺は負け組なんだ」と自分を納得させる処世術のことである。
100点が99点になる日におびえて暮らすよりは、「俺の人生良くて30点」と割りきってしまったほうが良い。絶望が一転希望に変わることはまれだが、希望が一瞬で絶望に変わることはままある。ならば最初から、「ちょっと絶望」ぐらいの位置にいたほうが気が楽ではないか』

大いに共感である。自分が書いているんじゃないかと錯覚さえ出来るほどの共感ぶりである。
僕も、こんな生き方を実践してきた人間だ。このブログで何度も書いているから、あまり深くは書かないけど、二年終了時まで超優秀な成績のまま過ごしてきた大学を、三年の春から一切行かなくなり、そのまま中退したのも、「ここで脱落しておかないとマズイ」と思ったからだ。
このまま行けば、僕はもっといい点数のところまで行けるかもしれない。行けるか分からないけど、行くことが可能なレールに乗ることは出来る。でも、そうやってどんどん点数が上がって、まかりまちがって100点に近くなってしまうようなことになれば、困るのだ。まさに、「100点が99点になる日におびえて暮らす」ようになってしまうだろう。だから僕は、60点ぐらいの時に脱落して、一気に20点ぐらいの人生を歩むことにしたのだ。

金持ちになりたくない、というのも、同じ理屈だ。金持ちは、確かになんでも欲しいものは手に入り、やりたいことは何でも出来るのかもしれないけど、しかし、きちんと知識を身につけてお金を管理したり、人を掌握したり、世の中の流れを掴んでいないと、悪質な詐欺に騙されたり、思わぬ出費に泣いたりと、何かのきっかけにすぐお金がなくなってしまう危険がある。100億円持っていようが、「あぁ、この100億円を騙し取られたらどうしよう」なんていう不安も一緒についてくるなら、そんな大金はいらないのだ。

このように僕は、なるべく自分の人生の点数が上がり過ぎないように気をつけてきたつもりだ。とはいえ、今はさほどではないとは言え、僕にも「厄介な自意識」というものがやっぱりあって、人にいい風に見られたいと思って行動していた時期もある。こうなると、なかなか面倒である。人生の点数は上げたくないが、点数の高い人生を歩んでいるように見せたい、と思っているのだから。まあ、その欲求はさほど強かったわけではないから、そこまでドツボにはまらずに済んだと思う。人間とは、複雑な生き物である。

そんなわけで、僕はこんな風にネガティブな思考をこねくり回して生きてきたわけだが、僕が関心を抱く対象も、ネガティブな人ばっかりだったりする。しかも以前は、「なんでこんなキレイ・カワイイ人がこんなネガティブなんだ?」というような何人かの人と関わりがあって、非常に楽しかった。僕は最近、乃木坂46が好きなのだけど、彼女たちを好きになった決定的な理由は、彼女たちがとてもネガティブだったからだ。アイドルがこんなこと言ってていいのか?というぐらいネガティブな言動が多くて、惹かれずにはいられないのだ。

ネガティブな人間に何故惹かれてしまうのかを考えてみる。僕は、言葉の豊富さにあるのではないかと思っている。
僕自身もネガティブだからそうなのだけど、ネガティブな人間というのは、あらゆる状況で色んなことを考え過ぎる。人間関係だとか自分の将来とか、はたまた自分とは特に関係のない出来事・状況についてまで、なんだか色々考えてしまう。基本的に思考がマイナスなので、マイナスな思考によって不安などのマイナスな感情が引きずり出され、そのマイナスな感情がさらにマイナスな思考を引き連れてくるという悪循環をもたらすのである。

さて、ここで重要なのが、考えるためには言葉が必要だ、ということだ。世の中には、映像で思考が出来るという人間もいるらしいのだが(僕には何を言っているのかさっぱり理解が出来ない)、大抵は言葉でだろう。ネガティブな人間は、言葉を駆使して、自分の感情や相手の思考、未来の状況などについて延々と考えるのである。

だから、ネガティブな人間の方が圧倒的に言葉が豊富なのだと思う。
僕は、自分の頭で考え、自分の言葉で説明できる人が、男女とも好きなのだ。テレビや雑誌の情報を鵜呑みにし、流行っている言葉を抵抗もなく使い、ほとんど言葉を費やさなくてもコミュニケーションが取れてしまう仲間内の会話ばかりに興じている人間には、さほど興味が持てない。僕は、自分とは価値観がまるで噛み合わなくてもいいから、世間の誰がなんと言おうが自分の意見を曲げず、それがおかしなことだと分かっていても自分の思った通りに行動するような人が好きだ。ネガティブな人というのは、ネガティブであるが故に、人前であまり喋らなかったり、積極的に行動しなかったりするからわかりづらいが、ネガティブな人間にはそういう人が多いと僕は思っている。

本書の著者も、恐ろしくネガティブな人間だ。子供の頃から負け続けているようで、あらゆる発言が自虐的であり、ウソだとはまったく思わせないほどのドロドロしたものを内包しているのだ。

『コラムの連載を始めるにあたり、担当氏となにについて書くか話し合ったのだが、話し合えば合うほど、私には友達もいなければ趣味もなく、テレビや新聞をまったく見ないせいか話題のニュースも知らず、政治に関心がないのはもちろんのこと、抱かれたい芸能人の一人も思い浮かばないという、完全な生きる屍であることが判明するばかりであった』

『そんな私も来世スベスベマンジュウガニに生まれ変わることと引き換えに、漫画家デビューさせてもらえることとなり、表現の場がネットから誌面へと変わった。しかし誰が読んでいるかさっぱり分からないという点だけは今も変わっていない』

『なにせ高校3年間で男子と喋った回数は、私の記憶ではわずか2回である。男女比がほぼ半々の学校にも拘らず下手をすれば厳しめの刑務所にいるよりも異性との接触回数が少ない気がする。しかもうち1回はおぼろげであり、もしかしたら私の妄想かもしれないのだ。はっきりしているあと1回のほうにしても、「窓開けて」と言われただけでよく考えたら会話ですらない』

『しかし、そんな私も完全に一人になったことがある。
18の夏、一人BBQをしたのだ。家の庭などという生半可な場所ではなく、ちゃんとしたBBQ専用広場でだ。』

いかがだろうか。なかなか屈折しているというか、ネガティブに包み込まれているというか、素晴らしい逸材である。僕もどうせならこのぐらいまでネガティブをはっちゃけさせている方が、ちょっとぐらいネタになっただろう。自分の中途半端っぷりを恥じた次第である。

本書は「負ける技術」というタイトルではあるが、タイトルは後付で担当氏がつけたとのことで、内容と合致しているかは微妙だ。著者もそう思ったのだろう。まえがきでこんなことを書いている。

『「負ける技術」という名前から、本書を生きる術を学ぶ指南書だと思って手にとった方もいらっしゃるかもしれない。だが実はタイトル自体が担当編集による後付けなので、役に立つことはいっさい書かれていないのだ。
などと言いきってしまうと大半の人がレジまで持っていかないので、本書は現代社会に反乱している「そんなに頑張らなくていい、肩の力を抜け、ありのままの自分を愛せ、ゆるふわ」といった趣旨の自己啓発本であり、この本と一緒に練炭を買えば必ず人生が楽になると保証する、とでも言っておく』

その直後、著者の人生哲学を見事に要約したような見事な一文が登場する。

『現代社会において「勝利」は「敗北」の始まりだ』

どういうことか。著者は懇切丁寧に説明してくれる。

『日本人というのは、心の底から調子に載ってる奴が嫌いであり、そういう人間gふぁひとつボロを見せたばかりにハンバーグのタネになるまで叩かれる姿はもはやおなじみである。
たとえ買ってもひたすら謙虚、オリンピックで金メダルを獲ったとしても、「すべて支えてくれた家族と応援してくれた皆様のおかげで、自分は屁をこいて寝てただけです!」みたいな態度を貫かなければいけないのである。せっかく血のにじむような努力をして勝利をつかんだのに、全然威張れない。ならば勝利の意味とはいったいなんであろうか。
つまり、成功や勝利など、すくわれる足が増えたに過ぎないのである。そういったう意味ではj気分は完全に空中浮遊状態で、すくわれる余地はない』

もう一丁。

『日本人は異形を成し遂げた者をすごいすごいと持ち上げるのは好きなのだが、「俺はすごい」と当人が言うのは大嫌いだという“真理”がある。それを当人が言ったが最後、今まで褒めていた者が一斉に「あんたなんか全然すごくないんだからね!」と叩く側に周るという1億総逆ツンデレ状態なのだ。そのような事態を避けるために、あえて「負けてみせる技術」は現代日本を生き抜くために必要だと思う』

こういう状況は、ワイドショーを見ていれば次々に登場する。よくもまあ、それだけ叩くものを見つけてくるものだなと感心するほどだ。目立つということはイコール、いつか叩かれる権利を得ることを意味する世の中に、いつの間にかなってしまった。僕も著者と同じく別にすくわれる足もないのだけど、意識して目立たないようにしなければ何が起こるか分からないという怖さは、振り払っても常につきまとっているように思う。

著者は、子供の頃から安定して非リア充であり、安定してネガティブ街道を突き進んできた強者である。希望を持たないようにしてひっそりと生きてきたわけだが、しかし同時に、リア充に対する憎悪はずっと消えないままである。本書でも、制服カップルを見ると爆発しろと思うとか、クリスマスに行われたサイン会の前に美容院に寄ったらリア充どもしかいなかった、みたいな、リア充憎しの文章も多くある。自分の人生を諦観していることと、リア充を憎悪することは、著者の中では両立するのだ。リア充憎しの文章をこれでもかと書くが、それ以上に著者自身がイケてなさすぎるエピソードがてんこ盛りなので、どれだけ著者がリア充を貶そうとも、「うんうん、仕方ないよな」という気持ちになる。これもまた、著者が駆使する「負ける技術」の成果の一つかもしれない。

僕が一番爆笑した話は、パイ投げの話である。著者は、友達がいないというだけあって、様々な一人遊び・一人で過ごす方法に長けているのだけど、このパイ投げは、あまりの斬新さに吹き出してしまった。砂糖と塩を間違えて作ってしまった食べられないケーキを再利用するために一人パイ投げをした、って話なんだけど、ぶっ飛んでいるにもほどがあると思う。

オリンピックの冬季種目のマッドさ加減をアピールしてみたり、ブーツの底が剥がれても気にせず歩き通したり、「桐島、部活辞めるってよ」を読んで学生時代の身分社会を思い返し悶絶したり、「イケメンと付き合えたらすべてが解決する」という長年の自らの妄想を打ち砕く読者からのコメントなど、イケてない著者が全力でそのイケてない感を披瀝する作品である。勝ち組・リア充の人間からすれば、UMAの如く実在を疑いたくなるような性質の人間かもしれないけど、僕のようなネガティブな人間には、著者の思考回路はよく理解できる。著者と比べれば中途半端なネガティブである僕なんかとは比較にならないほどの年季入りようで、師匠と呼んで弟子入りした気持ちにさえなる。

勝ち組・リア充の人間は、恐らく読んでも楽しくないだろう。ネガティブをこじらせているような人間が読めば、実に共感できるだろうし、これほどの人間がどうにか生きているんだから、自分もまだやれるかも、という形で元気ももらえるかもしれない。ネガティブな人間の方が面白い。僕はその信念を、改めて実感することが出来た。

カレー沢薫「負ける技術」


世界城(小林泰三)

内容に入ろうと思います。
世界は、城の中にある。その城の全貌は誰も知るところがなく、あたかも無限の広がりがあるかのように思えた。迷宮のように入り組んでいる城内のそこここに村がある。あると言われている。ヴォルタ村も、そんな村の一つだ。細々と作物を作りながら、物々交換で日常を成り立たせている。「商人」は存在するが、どこから来てどこに行くのか、イマイチよく分からない。
ヴォルタ村のある一家の夕食に、一人の少女が飛び込んできた。その少女は、城の「外」に行くのだという。城に「外」なんてあるはずがない、と答える住民。彼らにとって、城内こそが世界のすべてなのだ。国王の娘だと名乗ったその少女は、赤ん坊を産み落として姿を消した。
その赤ん坊は、ジュチと名付けられ、ヴォルタ村のみんなで育てた。
ジュチが11歳になった時、村にある異変が起こる。城内は、風雨によって砂や泥水が移動する。土がなければ作物を育てられないので、城内では土の存在は重要だ。しかし今年は、泥が出て行くばっかりで、一向にこちらにやってこない。こんなことは初めてだ。隣村が何かをしたのかもしれない。偵察に行こう、ということになって白羽の矢が立ったのがジュチだ。ジュチは、村長の息子であるダグと共に、隣村であるオーム村へと足を運ぶことになるのだが…。
というような話です。

まあまあと言った感じの作品でしょうか。スイスイ読めます。恐らくシリーズとして続いていくんだろうな、と予感を抱かせる作品で、そういう意味で、世界観の導入という感じの位置づけでしょうか。

描かれる城の全貌が明らかになっていないので、これからわかっていくのでしょう。本書でいちばん気になるのは、この城に関してです。誰が何の目的でこの城を作ったのか。城に住んでいる人同士はどんな関係にあるのか。城における禁忌にはどんな意味があるのか。城の外側には何があるのか。シリーズとして続いていくのであれば、そういう部分が明らかになっていくのでしょう。そこは気になります。

本書では、僕らが当たり前だと思っている色んな概念が、当たり前のものではないものとして出てくるのが面白い。例えば地図。ジュチとダグは、城の地図を持って隣村まで向かう。そこでダグが、こんな疑問を持つ。その地図は、ヴォルタ村の領地とオーム村の領地が別の色で塗り分けられているのだけど、ダグは、実際僕らが歩いている通路に別に色がついているわけではない、この地図は嘘だ、と言う。ジュチは、地図は現実をそのまま写しとったものではない、とダグに言うが、しかし同時に、じゃあ地図が表しているものは一体なんなのか?という疑問を抱く。この問いはなかなか面白いと思いました。明確に答えられる人は多くはないのではないでしょうか?

恐らく本書で描かれる世界は、かつては文明と呼ばれるものが存在したのだろうけど、それが何らかの理由で一旦失われたのだろうと思います。その証拠に、かなり長生きしているヘカテ婆さん(彼女が地図を貸してくれた)は、この世界のあらましについてかなり深くまで知っている。普通の人が知らないような概念についても知っている。その当たりのことも、徐々に明らかにされていくでしょうか。

ジュチが、幼いながらに賢く描かれていて、その聡明さはなかなか素敵だ。自身を、村の厄介者だと捉えていて、それでもここで生きていくしかないと腹を括っている。自分をここまで育ててくれた村に恩返しをしたい気持ちを常に持っている。また、考える力がずば抜けていて、抽象的な概念をすぐに飲み込んだり、同じ条件を与えられながらジュチしか気づかないこともあったりする。ジュチが様々な窮地をどう乗り越えていくのかも読みどころだ。

さらっと読むにはいい本かもしれません。

小林泰三「世界城」


すばらしい新世界(オルダス・ハクスリー)

内容に入ろうと思います。
西暦2540年。人類は、それまでとはまったく違う生活をしている。
人間は、母親ではなく、人工子宮と繋がった瓶から生まれる。生まれる前から睡眠学習によって“条件付け”がなされており、どんなものを好むのか、どんなものを疎うのか、予めプログラムされている。生まれる前から階級が選別され、高い階級で生まれれば管理側に、低い階級で生まれれば労働者として生きていくことになる。しかし、どの階級の人間も、幸福を感じている。それは、生まれる前に行われる条件付けのお陰だ。下位の階級で生まれたものは、彼らがやらなければならないことになっている仕事に従事することが幸せである、という条件付けがなされているのだ。
父親・母親という概念は“恥ずかしい・卑猥な”ものとして捉えられ、家族という強い繋がりは存在しない。『誰もがみんなのもの』という条件付けがなされているために、フリーセックスが推奨されている。特定の誰かと長く付き合うという状態は、管理側の人間から目をつけられる行為なのだ。幼い頃から“桃色お遊戯”という名前でセックスが推奨されている。
人類は、不快なものをほとんど遠ざけることに成功した。彼らは、自分が満ち足りたと感じられる仕事をし、仕事以外の時間はこれまた快適だと感じられることだけをする。この世界では、書物や植物や芸術を好むことが禁じられている。条件付けによって、それらを不快に感じるようにさせられている。そこには色んな理由があるのだが、消費社会を継続していくこと、そして文明が脅かされる永続すること、この2点を重視して、様々なことが決められていく。
これほどまでに不快なものが遠ざけられている社会だが、しかしやはりまったく不快を感じないでいられるわけではない。そういう時は、“ソーマ”と呼ばれる薬物を摂取すればいい。これを飲みさえすれば、すべての嫌なことを忘れることが出来るのだ。
完璧に作りこまれた社会。しかしこの中に、この世の中を不快に感じる人間が僅かながらにいる。<中央ロンドン孵化・条件付けセンター>という、人類が生まれる場所の心理科で働くバーナードは、そんな一人だ。男女が誰彼かまわずセックスをしていることとか、バーナードには不愉快に感じられる遊戯に興じている姿を見て、社会に対する馴染めなさを感じている。しかし、そういう思想が知られるとマズイので、なんとかごまかしながら生きているのだ。
そしてバーナードは、この社会の統制の届かない“未開社会”で、ジョンという青年を見つける。研究材料としてジョンを<孵化・条件付けセンター>に連れて帰ったバーナードだったが…。
というような話です。

1932年に発売された古典作品です。僕が読んだのは、最近新たに翻訳された、いわゆる新版です。僕は古典を読むのが苦手なんですけど、この作品は、新訳だからでしょうか、かなり読みやすかったです。

思ってたよりもずっと面白くてびっくりしました。今から80年も前に、これほどまでに未来の可能性について言及できる作品を書けるものなんだな、と感心しました。

SF小説なんかで、未来の科学技術を予測するような、そういう作品は色々あることでしょう。しかし本書の場合、その部分が凄いわけではありません。本書は、人間の思想や思考がどんなところまで行き着いてしまうのかという、技術ではない部分の未来予測が凄いなと感じました。

2015年を生きる僕は、この作品で描かれる未来を、かなりリアルに捉えることが出来ます。瓶から生まれるとか、生まれる前から睡眠学習で条件付けを、というような技術的側面はとりあえず一旦措きます(さすがに何百年経っても、これらの技術は開発されないかもしれません)。そういう部分ではなくて、本書で描かれる人間の価値観の変化が、ありうると感じさせるのです。

極端な見方をすれば、ハクスリーがこの小説で描き出す社会は、もう現実の世界で実現されつつあると言ってもいいかもしれません。結婚をしない若者が増え、家族という強い関係性が失われつつある。恋愛さえしない若者が増え、その一方で、風俗や出会い系やその他様々な形で、恋愛以外の場でのセックスというのは広がっている。生まれながらに絶対的な格差があるわけではないけど、家の豊かさと教育環境はある程度比例することを考えると、生まれながらに存在する格差をひっくり返すことは困難だ。ソーマのような無害な麻薬は存在しないけど、でもパチンコや携帯ゲームなど、ある種の中毒性を持つ娯楽が広まっていて、それがある種の現実逃避になっている。

そういう人間の行動に関する部分だけではなく、思考的な部分についても感じる部分はある。ハクスリーは本書で、疑問を抱かない人々を描き出す。本書の場合それは、生まれる前から施される条件付け(つまり洗脳)によって成り立っている。あらかじめそういう人間として生まれてくるのだ。だから、ある程度避けようはない。
現代を生きる人々にも、疑問を抱かない人々がたくさん存在すると僕は感じる。それは、本書の解説でも触れられていたが、たとえば原発に関してだ。震災が起こる前で言えば、恐らく技術的にその危険性を認識できていた人もいたはずだろう。そういう人が、震災が起こる前から何らかの行動を起こした可能性もある。しかし、結果的に原発は危険なまま運用され続けた。それは、原発に直接的に関わる技術者や官僚、そして間接的に関わる国民全員が、疑問を抱かない人々だったからだ。人間は、見たくないものを見ないで過ごすことが出来る。原発事故は、まさにそれらが悪い方向に働いてしまった例だろう。

また、現代は、同じ価値観を持つ人間とすぐに繋がることが出来る世の中になった。インターネットというものが登場する以前であれば、同じ趣味嗜好の持ち主を見つけ出すことはかなり難しかっただろう。だからこそ、距離的に近くにいる、価値観の合わない人間と、どうにかうまいことやっていくしかなかった。しかし現代は、趣味嗜好の近い人間を簡単に探せるので、わざわざ価値観の遠い人間と関わる必要がなくなってしまった。
近い趣味嗜好の人間同士で関わって、共感だけで繋がっていく人間関係。まさにそれは、疑問を抱かない人々そのものではないのか、と僕は感じるのだ。

ハクスリーが描き出した社会は、技術レベルが高いので、まったく同じ社会が登場するのはまだまだ先になるだろう。しかし、技術を除いた部分を見てみれば、既にハクスリーが描き出した社会と似た部分を僕らは容易に見つけ出すことが出来る。
何よりも恐ろしいことは、僕らの社会には、ハクスリーが描く社会のような“管理者”は存在しないということだ。本書の場合、世界統制官と呼ばれるごく少数の人間が世界を統括し、文明が暴走しないように見張っている。様々な効率化や条件付けを武器として、人間という総体にダンスを躍らせるかのように統制する存在がいるのだ。しかし僕らの世界には、まだそれほどの権力を持った権威者は存在しない。それなのに、見方によってはすでにハクスリーが描き出した社会の近似値のような日常が広がっているのだ。

共通しているのは、ハクスリーが描く社会の住人も、現代社会における疑問を抱かない人々も、共に、自分が操られているということに気づいていない、ということだ。周りと同じであることに安心感を抱き、これが良いという声の大きな意見を無条件で信頼する。そして、そういう行動が正しいのだと、得なのだと、安心できるのだと信じる。そういう人が増えれば増えるほど、ハクスリーが描く世界は近づいてくるのではないかと思う。

僕は本書を、思想書のような感じで読んだ。小説として面白いのかどうかは、古典が得意ではない僕にはイマイチよく分からない。キャラクターやストーリー展開などが優れているのか、面白いのか、そういうことはあんまり分からない。しかし、本書で描かれる様々な思想・価値観は実に面白い。

ハクスリーが描き出す社会を、その中に生きる肯定派はどんな風に捉えているのか。

『みんなが幸せで、悲しんだり起こったりしていなくて、誰もがみんなのもので。何もかもが清潔で、ひどい匂いも汚れもない-寂しい思いをする人なんていない、みんないっしょに明るく愉しく暮らしているの。その愉しさが毎日続くのよ』

『今の世界は安定している。みんなは幸福だ。安全だ。病気にもならない。死を恐がらない。幸せなことに激しい感情も知らなければ老いも知らない。母親や父親という災いとも無縁だ。強い感情の対象となる妻も、子供も、恋人もいない。しっかりと条件付け教育されているから、望ましい行動以外の行動は事実上とれないようになっている。何か問題が起きたときにはソーマがある。』

聞きようによっては理想的だろう。しかし、本書を読めば、この世界が理想ではない、ということに気づくだろう。しかし難しいのは、この社会が理想的でないことに気づくためには、この社会の価値観の外に出なければならない。この社会を客観視しなければならない。しかし、住民にそれは不可能だ。それを不可能にすることで、社会を成り立たせていると言える。

しかし当然、犠牲も存在する。

『しかし安定性を得るためには代償を支払わなければならない。』
『「芸術に科学-あなたがたは幸福のためにかなり高い代償を支払ったようですね。ほかに何を犠牲にしたんです」
「もちろん宗教もだ」』

この社会では、文化的なものはまったく推奨されない。それは、人間に強い感情を引き起こすからだ。強い感情というのは、愛情だとか野心だとか鬱屈だとか、どんな種類のものでもいいのだけど、平均を大幅に逸脱するような感情だ。ハクスリーの社会では、それら強い感情は生じないようにコントロールされている。強い感情が生じるからトラブルが起き、社会が安定しないのだ、と。

『幸福か、かつて高度な芸術と呼ばれたものか、どちらかを選ばなければならないんだ』

強い感情を消すことは、不満を排除したり消費に対する欲求を組み込んだりしやすくなることを意味する。

『幸福な人生を送る秘訣なのだよ-自分がやらなければならないことを好むということが。条件付けの目的はそこにある。逃れられない社会的運命を好きになるよう仕向けることにね』

『判断し、欲求し、決意する心-それがこうした暗示の言葉から成り立っている。その暗示はわれわれが刷り込んだのだ!国家からの暗示なのだ』

『「あんなひどい仕事をやらされてても?」
「ひどい仕事?しかし彼らはそうは思っていないよ。逆に好んでやっている。楽だし、子供できる単純なものだ。頭脳にも筋肉にも負担が少ない。さほど疲れない作業を七時間半やれば、ソーマがもらえて、ゲームや、制約のない性交や、触感映画が愉しめる。これで何が不足なのかね」』

『人はなすべきことをするよう条件付けられている。そしてなすべきことというのは概して快適な行為だ』

本書において、最も重要で批判的で中心的なのは、この“条件付け”ではないかと僕は感じる。この技術が実現するかどうかはともかくとして、もし実現すれば、彼ら管理者側の主張に正面切って反論することは、かなり難しいだろう。管理者側は、生まれる時既にある条件付けがされていて、生まれた人間はその条件付け通りに感じたり考えたりするのだから幸福に決まっている、と主張する。それは、人間の自由意志や人間が成長する可能性みたいなものを根こそぎ奪い取り、予定調和的な人生になっていく。

果たしてこれを、“幸福”と呼ぶことは出来るのだろうか?

人類は既に似たような経験をしている。たとえば、「子供は何よりも大事」というような考え方は、日本では割とごく最近生まれたものであるらしい。それまで子供というのは、家庭における労働力だった。親は働き、働けない年齢の子供は放置される。これが昔は当たり前だったようだ。しかしそこから、子供に手を掛けて大切にする、ということが僕らの“当たり前”になった。これを当たり前だと感じている人は、人間の本能がそうさせるのだからおかしなことは何もない、と感じているだろう。しかし僕らは、そうではなかった時代を経て今に至っている。すなわちそれは、人間の本能がそうさせるのではない、ということを示している。
これは別に、どちらの考えが良いとか悪いとかの話ではない。しかし人間というのは、それまでとはまったく違う価値観を、さも当然であるかのように、前提であるかのように感じることが出来る性質を持っている。であれば、本書でハクスリーが描き出す条件付けという名の洗脳こそが、人間を幸せに導くのだ、という考え方を一概に否定することは難しくなるだろう。

僕はここにも、原発と同じ論理を当てはめてみたい。
原発の技術というのは、“問題さえ起きなければ”素晴らしい技術だ。発電効率が良くて、クリーンで、廃棄物さえ再利用出来る。しかし、問題が起こった時のリスクは恐ろしく高い。それは、先の原発事故の帰結を見れば明らかだ。

ハクスリーが描き出す、一見ユートピアに思える社会も、これと同じ問題を抱えているのだと僕は感じる。問題が起こりさえしなければ実に快適で素晴らしい社会だ。しかし、ひとたび問題が起これば、予想もし得ない帰結を迎える可能性がある。一瞬で社会が崩壊するほどの危険性を秘めている。ハクスリーが描くユートピアを肯定できない理由は、まさにその点にあるのだろうと思う。権威者は、まさにその点を注意深く隠すことで、社会の安定性を得ようとする。そこに科学技術と人類の知見を注ぎ込む。逆に言えば、そんな風にして抑えこまなければ実現しないほど、不自然で無謀な世の中だという言い方も出来るだろう。

さて、ハクスリーが描く社会が、それより以前の人間社会をどう描き出すのかについても書いておこう。

『そして家庭というものは物質的にだけでなく精神的にも汚いものである。精神的な兎の巣穴だ。糞だらけで、ぎゅう詰めの心どうしがこすれて熱を発し、感情の悪臭が漂う。家族という集団の構成員間のなんという息苦しい親密さ、なんという危険で常軌を逸した猥雑な関係!』

『憐れな前近代人が狂気と背徳と悲惨にまみれていたのも無理はない。彼らの世界はものごとを気楽に考え、正気を保ち、美徳と興奮を手にすることを許さなかった。母親や恋人というものがいて、禁止事項を守るよう条件付けられていなくて、誘惑や寂しい後悔、病気や孤独の苦しみ、不安や貧困がある-これでは激しい感情をもたざるをえない。激しい感情を持っていて(しかも個々人が絶望的に孤立して孤独を感じている中で激しい感情を持っていて)、どうして安定が得られるだろう』

僕らが、ハクスリーの描くユートピアに嫌悪感を抱くのとまったく同じ理由で、ハクスリーの社会に生きる人々は僕らの価値観に嫌悪感を抱く。どちらが正しい、ということはない。一方が正解ということはないのだ。どちらもある意味で正解であり、ある意味で不正解である。

結局僕らは、何が正しいのか、自分の力で見つけ出さなくてはいけない。本書にも、皆が信じている価値観の外に出ようと奮闘する人間が登場する。彼らは、今いる社会への違和感や不安を様々な形で表明する。

『僕は僕でいい。情けない僕のままがいい。どんなに明るくなれても、他人になるのは嫌だ』

『「きみは自由になりたくないか、レーニナ」
「言ってる意味がわからない。わたしは自由だもの。自由にすばらしい時間が過ごせるもの。今は誰もが幸せなのよ」』

『僕は情熱とはどういうものか知りたい。強烈な感情を持ちたい』

『きみたちは自由な、人間らしい人間になりたくないのか。人間らしさとはどういうものか、自由とは何かわからないのか』

当然、ハクスリーの社会を生きる多くの人に、彼らの言葉は届かない。意味をなさない。これらの言葉は、ハクスリーの社会の外に存在する価値観だ。存在しないものは理解できないし、存在しないものは見ないようにして生きていくことが出来る。彼らの会話は噛み合わない。その齟齬は、本書の面白い部分の一つだ。

ラスト付近で、世界統制官であるモンドとの議論が展開される。モンドは、世界統制官という立場であるが故に、旧社会の価値観についても理解している。そしてその上で、現在の社会の方が優れていると主張する。この議論は、非常に知的で楽しい。本書に登場するような技術が存在すると仮定した場合、どちらの意見の方が正しいのか、簡単に結論を出すことは難しいだろう。どちらも、前提の置き方によって正しくなる。その前提は、個々の価値観に依るだろうから、議論はいつまでも平行線なのだ。

『僕は不幸になる権利を要求しているんです』

自分の幸せは、自分で考えて自分で掴み取るしかない。僕は本書から、そんなメッセージを受け取った。

オルダス・ハクスリー「すばらしい新世界」


水鏡推理(松岡圭祐)

内容に入ろうと思います。
文科省の新人の一般職員である水鏡瑞希は、東日本大震災の被災地の仮設住宅に長期に派遣されていた。文科省の官僚に連れられて、同じく一般職である澤田は瑞希の元を訪れた。それは、ある被災者への謝罪を行うためだ。
被災地のとある仮設住宅に、一人だけずっと居座っている男がいる。彼は、日本中すべての原発を停止させないとここから動かないと主張する。どうにか彼に仮設住宅から出てもらえるよう、再三各省の官僚が出向くが、門前払い。女性の方が受けがいいだろうということで、瑞希に白羽の矢が立つ。
しかしそこで瑞希は、誰もが予想もしえなかった驚異的な結論を導き出してしまう。結果的にその男は仮設住宅から出ざるを得なくなったが、同時に、官僚や行政の論理に反した行動を取ったとして、瑞希と澤田は、同じく文科省ないにある、研究における不正行為・研究費の不正使用に関するタスクフォースという、助成金目当てで不正を行う研究者を追及する部署に配属されることになった。
驚異的な推理力を発揮する瑞希は、異動になってからも、一般職であるが故にほとんど情報が与えられていない状況でも、研究の不正を見事に見破っていく。しかしそんな瑞希の行動は、事なかれ主義であり、目立たないことこそ大事と考える同じチームの官僚に厄介に見られてしまう。総務省に父がいる南條朔也、女性官僚である牧瀬蒼唯、そして室長である檜木周蔵らを敵に回してでも、瑞希は研究の不正を暴こうとする。
そんな彼女の行動が次第に周りの人間を変えていき…。
というような話です。

松岡圭祐の作品を久しぶりに読みましたけど、相変わらずこの作家は面白い作品を書くなぁ、と思います。とにかく、エンタメ作品のお手本みたいな小説で、どれを読んでも面白いです。特に一貫して、魅力的な女性主人公を生み出し続けてきていて、本書でも、とにかく物語の中心は、水鏡瑞希という女性にあります。

瑞希は、幼いころ阪神大震災を経験し、貧しい暮らしを経験している。だから、被災地で親身になって働くし、また不正に国税を奪おうとする輩を許せないでいる。熱血、という感じでぐいぐい動くキャラクターでは決してないのだけど、ここぞというところでは決して引かない強さを持っている。瑞希は、圧倒的な正しさと正義感を常に持っているのだけど、しかし、言い方はおかしいけど、それが“圧倒的に”正しかったり正義だったりするが故に、周りから疎んじられたり、周りとうまく溶け込めなかったりする。見ていて、実にもどかしい存在だ。現実の世界で、自分の近くにこういう人がいたら、やっぱりもどかしいだろう。正しいのは間違いない。正義なのも間違いない。でも、やり方がスマートじゃないというか、ストレート過ぎるが故に、常に摩擦が起きてしまう。助けようにも、うまく関われない。そんな風に感じさせる女性だ。

だから本書の場合、澤田というキャラクターが実に重要になってくる。澤田は、瑞希に惚れていて、しかも彼女の能力に心の底から信頼を置いている。しかも瑞希と同じ一般職だ。瑞希がどれだけ辛い立場に立っていても、少なくとも気持ちだけは常に瑞希に寄り添っている。そのことが、瑞希にもちゃんと伝わっている。瑞希が数々の不正を見抜くことが出来たのも、澤田という影の存在あってのことだと言って言い過ぎではないだろうと思う。この二人の、なんだか不器用な関係性も、純情な感じでなかなか読ませるポイントだ。

僕が本書で巧いと感じたのは、舞台設定だ。本書は、物語の中身だけ取り出せば、ちょっとした謎解き程度の話だ。しかしそこに、官僚の論理、研究者の論理を組み込むことで、ちょっとした謎解き程度ではない物語に仕上げている。

官僚の論理とは、一言で言えば「事なかれ主義」である。特に加点がなくても失点がなければ出世できる官僚は、敢えて火中の栗を拾う真似をしたがらない。さらに、瑞希が配属されたタスクフォースには、皆が仕事に熱心にならない理由がある。このタスクフォースは文科省の直轄だが、文科省が絡んでいる研究プロジェクトも多くある。組織が独立して以降の問題発覚ではあったが、STAP細胞の研究も元々は文科省と関わりのあるプロジェクトだったようだ。色んなところに手を伸ばして、うっかり文科省が関わっている研究に横槍を入れるようなことになっては困る。室長である檜木のそんな考えもあって、このタスクフォースは実質的にはあまり機能していない。

『(ある事例が詐欺であると見抜いたことを攻められた瑞希と官僚とのやり取り)
「文科省が詐欺師を見逃したって、そしりを受けるかも」
「あとで弁護士か所轄署の耳にいれておくだけでいい。責任は回避される」』

『調査対象になっていなかった事例に、勝手に首を突っ込んだ。官僚なら好ましくないことだとわかるだろう』

瑞希は、自分とは合わないこういう論理の中で戦っていかなくてはいけない。謎解きに、この官僚たちの事なかれ主義という要素を放り込んで対立関係を作ることで、物語の厚みは増している。

さらに本書では、研究者の論理も様々に描かれていく。本書では、研究者というのは、国から金を騙し取る悪役として描かれている。彼らは、国から研究費を助成してもらうために、その研究がいかに素晴らしいか、価値があるかを、予算権限を持っている者に示さなくてはいけない。本書の場合、それは文科省になる。
しかし、研究というのは実に難しい側面を持っている。ここに、本書の中にさらに面白い構図を持ち込む秘密がある。

研究というのは、結果が分かった上で始めるわけではない。当然だ。何か分からない事柄があって、それを検証し白黒つけるために研究をするのだ。しかし、その白黒つけるためにもお金がかかる。研究費が必要になる。しかし、予算は限られている。であれば、その研究がお金を出してもらって当然である、ということを示さなくてはいけない。
しかし、ここに矛盾がある。同じことをもう一度書くが、研究というのは、結果が分からないからやるのだ。しかし、研究費を引っ張ってくるためには、さもその研究がどんな結果をもたらすのか分かっている風に見せなくてはいけないのだ。

これは実に困難だと言える。たとえばこれは、芸能人のスカウトマンに、将来確実に売れる子だけをスカウトしろ、というようなものではないかと思う。そんなこと、分かるわけない。けど、この子は絶対に売れますと言わないとお金にならないから、あの手この手で何か説明する。研究者が置かれている状況というのはこういうものではないかと思う。

さて、その上で本書ではどんな研究者の論理が描かれるのか。
もちろん、不正を働いて研究費を得ようとする研究者には、様々な動機があるだろう。実際に有望な研究なのだけど、現時点でその成果を示しづらいものの場合、パフォーマンスとして仕方なく嘘をつく、なんていう研究者も実際にはいるだろうと思う。しかし本書では、より悪い研究者が描かれる。
支給される前の審査にパスしさえすれば、行政からの助成金は、研究中だと主張し続ければずっと入ってくる。そこで、こんなことを考える研究者も出てくる。どうにかうまいことやって、国から助成金を引っ張ってくる。で、研究中だと嘘をついて研究は一切やらず、金だけ丸ごといただこう、というような。

研究者の側も辛いということは、僕はなんとなく分かるつもりだ。無茶なことを要求されているのだ。分からないから研究するのに、結果が分かっているかのように振る舞わなければお金が手に入らないというのは無茶だ。しかしそれでも、現行のシステムのままだと、悪徳研究者がはびこる余地が生まれてしまう。本書で描かれるタスクフォース、実際に文科省に最近設置されたようである。一般人からすればなかなか馴染みのない話ではあるのだけど、研究費として国税が投入されているのだから、それが正しい形で使われて欲しいと考えるのは当然だ。本書が、僕ら一般人の関心を引くきっかけになるならいいなと思う。

本書の中で瑞希が暴く様々なトリックは、種さえ分かってしまえば実にちゃちぃものだ。実際にマジックの現場で使われているトリックが応用されているようなものもきっとあるでしょう。割としょーもないトリックで乗り切ろうとする。
しかし、しょーもないトリックだからと言って、物語にケチをつけたいわけではない。本書の場合、しょーもないトリックを描くことで、こんな簡単なことで騙されてしまうのだと思わせることが出来るのだ(読者もきっと、その場にいたら騙されてしまうだろう)。また、しょーもないトリックだから盲点になる、という見方も出来る。なにせそのトリックを仕掛けているのは、マジシャンではなく研究者なのだ。研究者が、自らの研究のメリットを証明するために行っているわけで、いくらタスクフォースに回された案件だからと言っても、トリックを使っているなんて思わないだろう。やっているのが研究者であるというメリットを最大限活かして、大げさにしないことで、より見破られにくくしていると見ることも出来る。

しかし、トリック自体はしょーもないにせよ、本書で描かれる研究の中には、世の中にそんな研究があるんだな、と思わせるようなものも多くある。松岡圭祐の博識さが伺える。それぞれの研究に対して、どの部分にトリックを用い、さらにどういう発想から瑞希にそれを見破らせるのかというのを考えるには、それぞれの研究に対してそこそこの知識はないと難しいだろう。そういう部分のディテールというのは相変わらずさすがだなと感じました。

『あなたがいてくれてよかった。なんのために働いているのか思いだせたから』

本書は、日々の仕事や生活に倦んでいる人に力を与える作品でもあるだろう。ただ会社の歯車のように働いている人。理不尽な命令に従わざるを得ない人。変化のない日常に嫌気が差している人。そういう人に、自分にも何かやれることがあるのかもしれないと、ささやかに期待させる力があると思います。もちろん、誰もが瑞希のようにはなれないと思うけど、瑞希のように、逆境にも批判にもめげずに自分の信念を貫き通すことが出来る生き方に近づこうと動いてみることは出来るのかもしれないと思います。

『もし悩んだり行き詰まったりしたら、思いだせ。おまえは水鏡だ!真実を映し、人の規範となる水鏡だ。絶対まちがってない。人を正しくする使命があるんだ。鏡は曇るが、水鏡は曇らない。いつでも陽射しをまぶしく照りかえす』

そんな風に思ってくれる人の存在があるから、瑞希は戦える。色んな形で人間の優しさを感じ取ることが出来る作品でもあります。

松岡圭祐「水鏡推理」


変!!(中島らも)

内容に入ろうと思います。
本書は、コミック雑誌に連載を続けていた「変」に関するエッセイをまとめた作品です。

単行本あとがきで、著者はこんな風に書いている。

『「私って変なんですぅ」
というような女の子を見ると、僕はそのままダンボールに入れて国もとへ送り返し、「農家の嫁」にしてやりたくなる。もしその子がちょっとかわいくてセクシーな子であれば、半日くらいかかっていかにその子が「変じゃない」かをじゅんじゅんと説明し、ちゃんと納得させたうえで思いっきり「変なこと」をしてやりたいと思う。戸川純が好きでもベルベット・アンダーグラウンドが好きでも対人恐怖症でもレズビアンでもユイスマンスを読んでいても「月光」や「ALLAN」を読んでても、「丸」を購読してても、君は決して「変」ではない。「変」というのは、もっと「変」なのだ』

確かに、自分から変であると主張してくる人間には、あまり変な人はいないと僕も思っている。僕は、僕なりの世界の中で、変な人間を結構見てきた(中島らもとは比べ物にならないくらい、変度は低いと思うけど)。そして、僕が変だと感じた人間はことごとく、自分は普通だと思っていた。そう、まずここが変なのである。たとえ変な人であったとしても、その変さを自覚している時点で、ちょっとダメなのだ。変度が下がるのである。やはり変人は、自分の変さに気づいていないことが大事だ。

本書では、「人間が変!!」「言うことが変!!」「人種が変!!」「世の中が変!!」の4つの章に分けられている。それぞれについて、中島らもが出会った人、聞いたこと、知ったことなどをあれこれと書いている。

類は友を呼ぶと言うが、やはり中島らも自身が相当変だからだろう、彼の周りには変度の高い人間が集まってくる。そして、これも中島らも自身の性格がなせるわざなのだけど、中島らもは、何か変な状況があった時、それをより変な方向に進めてやろうという気持ちで行動してしまうのだ。だから、余計に場は混乱していく。ある意味でそんな風にネタを探して行ったのかもしれないけど。飲み仲間や演劇仲間や広告屋として関わった人間の中から変わった人間の話を出してくる。

また中島らもは、この連載と同時に、朝日新聞で「明るい悩み相談室」という連載を持っていた。一般の人からの質問に答えるコーナーである。そこに来た投書で、朝日新聞の方の連載では使わなかったものを使っていたりする。やはり家族の話というのは面白いもので、中島らもは、「明るい悩み相談室」の連載が人気な理由を、「みんな、家族が変わってるのは自分だけじゃないんだって思いたいんだよ」というような趣旨のことを書いていた。なるほど、確かに。

また、中島らもは、雑誌の広告や、新聞の投書欄をつぶさに見てしまうタイプの人間のようで、そこからも変わったものを見つけてくる。特に、新聞の投書欄の話はなかなか愉快だ。世の中本当に、いろんな人間がいるものだ。

ただ変なことを書いているだけの本というわけでもなくて、例えば「アホ」と「バカ」の違いについてはこんな考察をしている。

『この「アホ」に対する優しさというのは、大阪や神戸や京都が、大きいけれどまぎれもない地方都市であるという事実に起因している。
そこでは、人は地縁、血縁、共通の言葉などで結ばれていて、お互いに「油断」し合うことができる。
多少どうしようもないアホでも、なんとか食っていけるように工面してくれるし、それでもダメなら「吉本へ行け」ということになる』

また、演劇の脚本を書くために脳の構造に関する本を読んだらしく、脳に関する説明をつらつら綴っているような箇所もある。確か中島らもは、灘高だか出身だったはずで、基本的にとても優秀な頭をしているんである。アホなことばっかり書いていても、やっぱり基礎となるベースがきちんとあるから、全体として下品すぎない印象になる。その辺も中島らも巧いなぁ、と感じさせるところである。

気合を入れて読むような本ではない。たとえばトイレに置いておいて、少しずつ読むみたいなのでもいいだろう。気分が落ち込んでいる時に読めば、世の中アホばっかりやなと、少し気分が晴れるかもしれない。中島らもは、自分で自分を貶めるようなことをして、読者を優位に立たせてくれるようなところがあるから、なんだかんだ読後感もいい。くだらない話を書いていてもなんだか読ませられるのは、そういう側面もあるかもしれない。

中島らも「変!!」


95(早見和真)

僕は、”今を生きること”から全力で逃げてきたのだと思う。
現実から逃避するために学校の勉強をしたり、いつか役に立つかもしれないと資格を取ったり英語の勉強をしたりしている。いつ、どの時代のどんな瞬間を切り取っても、僕は、いつだって自分がいる”今”からの逃げ道を、まず確保してからでないと、その場所にいられないような人間だった。いつでも逃げられる、という安心感を確保してからでないと、”今”という場所にいられなかった。
”今”からは、ずっとずっと逃げ続けてきた。”未来”が”未来”のままでいてくれればいいのに、時間は無情にも進んでいく。”未来”が、少しずつ”今”に近づいてくると、それだけでもうしんどくなった。”未来”がずっと”未来”のまま変わらなければいいのにと、昔の僕はたぶん思っていたはずだ。まさに目の前にある”今”でさえ抱えきれないのに、その上”未来”までもどんどん”今”に変わっていくんだから、やってられない、と思っていた。
”今”を見たくなかったのは、”今”の自分は何も持っていないということに気づきたくなかったからだと思う。物質的にも、精神的にも、何も。熱中できるものがあるわけでもなく、特技があるわけでもなく、斬新な出生なわけでもなく、名前が特別なわけでもなく、無二の親友がいるわけでもない。僕にとって”今”というのは、「何も持っていない」ということを突きつけられる時間に他ならなかった。
だから、僕は”今”から逃げた。そして、不確定な”未来”に逃げた。”未来”の僕は、まだ確定していないが故に、何でも持っている可能性があった。”今”の自分が持っていない様々なものを、”未来”の僕は、少なくとも可能性の上では持っていてもおかしくはなかった。少なくとも、”今”の自分はまったく何も持っていないのだから、どう転んだって”未来”の僕の方が”今”よりは持っているはずだ。だから、“未来”の僕がもう少し良い物を持てるように、今は“未来”の僕のために頑張ろう。
きちんと言語化していたわけではないけど、たぶん僕はずっとそんな風にして生きてきたんじゃないかな、という気がする。
僕にはずっと、”やりたいこと”がない。
昨日テレビを見ていたら、モノマネ女王の清水ミチコが出ていた。天才ロボット学者と対談をしていたのだけど、その中で清水ミチコは、「誰かの真似をするのは楽なんだけど、自分がやりたいことは特にない」「人真似を見せることは全然平気なんだけど、自分自身を見せるのは恥ずかしくてしょうがない」みたいなことを言っていた。
なんか凄く分かるような気がした。
僕は、”今”から逃げるだけではなく、”自分”からも逃げていた。”自分”がどうしたいか、ということを考えるのが、億劫で仕方なかった。やりたいことも、食べたいものも、やりたくないことも特になかった。別に、何でも良かった。
だから僕は、”誰か”に合わせるのが楽だった。”場”に合わせるのが得意だった。
以前こんなことがあった。大学時代、サークル内であるトラブルが起こった。僕らの学年がその活動のトップだったのだけど、その活動のメインメンバーが、同じ学年の面々に散々非難に合う、という状況に陥ったことがあった。
その時、僕の学年の中心的な人たち(発言力のある人たち)は、ほぼ全員メインメンバーへの反対派に回ってしまった。僕は正直、どっちの立場でもなかった。いつものことだけど、僕には強く主張したいようなことが、その時もやっぱりなかった。
僕はそこで、その場にいる人間を見渡した。その結果、どう考えても、この場で何か発言できる人間がいるとすれば僕しかいない、という結論に達した。僕は、そこまで発言力のある存在ではなかったけど、でもその場には、メインメンバー・反対派に回った中心的な人たち・発言しなそうな人たち・そして僕しかいなかった。どう考えても、僕が発言する以外に、この場はどうにもならない。
だから、僕個人としてはどっちでもいいやと思っていたんだけど、その場をどうにか収めるために、僕は唯一、メインメンバーを擁護する側に回った。その結果、なんとかその場は収まったのだ。
その後僕は、メインメンバーの人たちから、あの時はお前がいなかったらどうにもならなかった、と褒められたのだけど、僕は別に英雄になろうとしてあんな行動をとったわけではない。あの時の僕の行動は、僕らしさのまさに極致という感じで、非常に僕の有り様を象徴するような行動だった。その場や、その場にいる人を観察し、最も足りない役割を補おうとしてしまう。そんな役回りを引き当てて後悔することもあるけど、大抵の場合、足りない役割を補おうと行動する方が、僕にとって楽なのだ。
一人でいる時ならともかく、”誰か”といる時に、”自分”がどうしたいかを考えるのはめんどくさい。それは、僕の役割ではない、と思ってしまう。僕は、”誰か”に合わせる方が楽だ。そんな風にして、”自分”からも逃げているのだ。

『”今”に悔いを残すなよ』

これが、彼らの三つのルールの内の一つだ。悔いを残すな。
もし子供の頃、近くに”渋谷”があったらどうだっただろう、と僕はずっと考えていた。彼らのように、”渋谷”という場所が、まるで庭のように、遊び場のように、日常の地続きにあったとしたら。
”渋谷”という存在に影響されなかったと、自信を持って言えるだろうか?
僕は、静岡県の中途半端な田舎町で育った。ど田舎ではないけど、栄えているわけではないという、中途半端な田舎。もちろん、近くに”渋谷”なんてないし、一番栄えている静岡市にも、電車で一時間ぐらい掛かったような気がする。
そういう環境では、劣等感を刺激されるようなものは視界に入らない。突出してオシャレなやつがいるわけでも、突出して文化的な香りを漂わせるやつがいるわけでもない。それぞれの文化的レベルには、田舎なりの差はあれど、都会に比べたら何ほどのものでもない。
でも、近くに”渋谷”があったら。
文化的レベルの差は、様々な要因で段違いになる。名門校に通っているか、家柄のいい家に生まれたか、金はあるか、ルックスはいいか、面白いか、度胸はあるか…。様々な要因が絡まり合って、人間同士の、特に若者同士の差を歴然としたものに変えていく。
そんな場所で生まれ育ったら、”渋谷”というものを無視して生きていくことは出来るだろうか?そこにのめり込まなかったとしても、逆の方向に触れすぎてしまうとか、そういう形で影響される可能性は十分にあっただろう。
だから僕は、彼らが『”今”に悔いを残すな』と確認しあうことを笑えはしない。
誰しもが、何かに抗おうとしていた。そんな時代だったと、登場人物の一人は語っている。きっとそうなのだろう。ランニングマシンの上では、走り続けなければ振り落とされてしまう。振り落とされて、困るわけではない。でも彼らは、振り落とされないことに決めた。そのランニングマシンが、たとえ誰かの掌の上なのだとしても、彼らはそこで、とにかく全速力を続けることに決めた。悔いを残さないために。それは、若者の社会への違和感さえも貪欲に飲み込み、さらにそれをエネルギーに変えてしまうような魔窟・”渋谷”が夢見る幻想だとしても、彼らは、その幻想を捕まえるために、とりあえず走り続ける。

内容に入ろうと思います。
SNSで高校生の少女から連絡をもらい、広重秋久は、「Q」と呼ばれていた高校時代に入り浸っていた渋谷に、久しぶりに足を運んだ。すっかり様変わりしているが、ところどころ面影がある。当時たまり場にしていたメケメケで彼女と会うことになった。
新村萌香と名乗った少女は、高校の卒業制作のために、星城学園のOBである秋久に、1995年のことについて教えて欲しいのだ、と話した。星城の卒業制作はちょっとした名物だ。
秋久は、1994年のことから話し始めた。そう、地下鉄サリン事件が起こり、秋久が”キレて”しまったあの日のことから。
その日秋久は、地下鉄サリン事件によって人生が一変することになる。直接被害を被ったわけではない。しかし、人生で初めて、人間は死ぬのだと実感したし、そんな日によくわからんオッサンと援助交際が出来る女子高生を目撃して、否応なしに憤ってしまう。いつもと対して変わらない反応をする両親にも、興ざめだった。
その日。クラスメートの丸山(すぐにマルコと呼ぶようになる)から電話があり、理由も分からないまま秋久は5人目のメンバーになった。元総理大臣を祖父に持つ翔を筆頭に、指定広域暴力団の組長の息子であるレオ、在日三世であるドヨンは、その日から仲間になった。秋久は、中学時代にごく少数の人間から呼ばれていた「Q」という名前で呼ばれるようになった。
彼らは、渋谷の街の有名人だった。Qは、どうして自分がこんなメンバーの一員の入れてもらえたのかよく分からなかった。しかも他の四人は、Qが主役だなどという。
なんだか分からなかったけど、とにかく毎日楽しかった。Qも渋谷ですぐに有名になった。出来ることが増えるに従って敵も増えていった。それでも、いつだって五人で笑い転げていた。
あの日が来るまでは。
というような話です。

かなり面白い作品でした。
正直初めの内は、この物語に馴染めるか自信はありませんでした。渋谷を根城にはしゃぎ回るキャラクターに、共感できるような気がしなかったからです。自分とは、住む世界が違う。しかも、住む世界だけじゃなくて、元総理大臣の孫だの暴力団の組長の息子だの、バックグラウンドも尋常ではない。そんな彼らがハチャメチャする話なんて面白いんだろうか、と思っていた。
予想に反して、読み進めるにつれて、どんどん彼らを好きになっていった。それは、次第に彼らが虚飾を脱ぎ捨てていったからだろうと思う。
渋谷という舞台、とんでもない出生。それらはある種、鎧のような存在に過ぎない。外界からの攻撃を防御し、体当たりすればダメージも与えられるような存在。しかしその中身は、似合わない鎧を着て苦しそうにしている少年に過ぎない。
彼らはきっと、”渋谷”が近くになければ、そして特殊な出生でなければ、ごく普通の少年だったはずだ。仲間を大切にして、ダサい大人にならないように誓い、法律は守り、道徳に悖る行為を嫌悪する。彼らの感覚は、比較的真っ当だ。

『こういう悲惨な出来事に直面したら、ちゃんと泣いていられる大人になってようぜ』

『っていうかさ、当たり前にがんばっている人たちが、当たり前に幸せになれないってことに対する気持ち悪さかな。何か価値のありそうなものに対してばかり金が集まって、一部の人間ばかりいい思いしてるわけじゃん。それって歪だと思わない?』

『これからたぶんすさまじく退屈なんだろうな。俺たちの人生。でもさ、Qちゃん。周りに絶対に退屈なところ見せない方がいいからね。高校時代は楽しかったとか、絶対に口にしちゃダメだよ。ウソでもいいから、今が一番幸せだって笑ってられる人間になってようぜ』

”渋谷”という、欲望の増幅装置が近くにあったが故に、彼らは、普通の高校生とはまったく違う日常を歩むことになった、というだけに過ぎない。どこにでもいる、と言うと少し言い過ぎだけど、特別な高校生ではない。
そんな中にあって、Qの変化は異常なほどだ。
ずっと優等生で過ごしていて、突然翔たちと不良をやってるわけだから、それだけでも十分な変化だが、翔たちの仲間になってからの変化も凄い。外見だけでなく、度胸や価値観までもが変わる。初めの内は、慣れない環境の中で右往左往するだけだったQは、やがてメンバー全員が制御出来ないほどの感情の昂ぶりを見せるまでになる。
その過程でQは、様々な感情に翻弄される。

『その僕がなぜか充たされた気持ちにさせられている。自分が欲していたことすら知らなかった何かを、僕は手に入れてしまったのだと思う。あの頃よりも心強い仲間がいる分、僕はたぶん繊細になった。失うもののあることの恐さを知ったのだ。』

『彼らと話していると、いい大学に行って、いい会社に就職してという父に叩き込まれてきたはずの真っ当な道がひとくつまらないものに思えた。
なのに一方では、少しでもいい大学へ進み、いい会社に入って、一日も早く力を持った大人になって奪う方の側に回らなければという焦りも生まれた』

『地下鉄サリン事件のあった日からずっとそうです。あの事件が起きた瞬間から、僕はずっと非日常を生きている気がします。(中略)だって俺、はじめて見ちゃったんですよ。あの地下鉄の事件で、はじめて人間は死ぬんだっていうことを直視させられたんです。自分もあれに乗っていたかもしれなかった、。明日いきなり命が消えてしまうかもしれない現実を突きつけられたし、そんな世界で生きているのなら、今日を保留しちゃいけないんだって思わされた。そうしたら、あいつらが手を差し伸べてくれた。あいつらが生きていることを感じさせてくれたんです』

僕も、何かきっかけさえあれば、Qのように今日を保留してはいけないという気持ちになれたかもしれない。9.11とか東日本大震災がそういうタイミングであってもおかしくなかったと思うけど、結局僕は、未だに、”今”から逃げ続けている有様だ。

物語はもう一人、セイラという少女が中心に存在する。Qの初恋の相手であり、物語全体の骨格に位置する登場人物であり、渋谷で打ち上げ花火をするという計画もセイラの存在あってのものだ。
珍しく、僕はセイラというキャラクターにはそこまで惹かれなかった。僕の好きな感じのタイプのキャラクターなのに。たぶんこれは、セイラに問題があるわけじゃなくて、男五人の関係性がなんだか羨ましく見えていたからだろうと思う。そっちに気を取られて、セイラにあまり目がいかなかったのだろう。それぐらい、Qたち五人の関係性は魅力的だ。自分がその中に入ってうまくやっていける自信はこれっぽっちもないけど、でも、なんかいいなと思うのだ。

ノストラダムスの大予言、地下鉄サリン事件、エヴァンゲリオン。”崩壊”をキーワードにした様々なものが世に溢れていた時代。渋谷も今とは違って、まだ雑然とした退廃を内包するゴミゴミした場所だったという。そんな1995年を、少年たちは駆け抜けていく。無謀さを、意地とプライドだと勘違いして、大人や未来を拒絶しながら、全力で”今”を疾走し続ける。意味なんかなくたっていい。理由なんて知らなくたっていい。仲間がいて、仲間を大切にする気持ちがあって、常に全力でいれば、それでいい。
そういう潔さみたいなものが、僕自身にはまったく欠如しているが故に、なんだか輝いて見えてしまうのでした。まあ、潔さと無謀さを、勘違いしているだけかもしれませんけどね。

仲間がいるということは、逆に言えば一人にはなれないということ。仲間に安堵するということは、一人が怖いということ。若い内は、”仲間”という単語の響きだけで、その事実に目を瞑ることが出来る。弱さを隠すことが出来る。『何かを証明するために』遊び続けるしかない彼らの弱さを、結局大人の掌の上で転がされているんだという彼らの諦念を、僕は愛おしみながらこの本を読んだ。

その輪に入りたいわけではないのに、彼らの関係性を羨ましく感じてしまう、そんな作品でした。大人になっても、そんな風にバカみたいに振る舞えるのって、いいなって思います。羨ましいな。

早見和真「95」


タスキメシ(額賀澪)

内容に入ろうと思います。
眞家兄弟。高校で同じ陸上部にいて、どちらも走りが速くて、でも二人の人生は大きく違ってしまった。
弟・春馬は、順調にタイムを伸ばし、ぐいぐいと力をつけている。順調そのものだ。チーム一早いキャプテンの助川のタイムを抜くかもしれない。春馬は強い。速い。
しかしそんな春馬が、『走ってる時の兄は最強だった』と語るほど、兄・早馬も速かった。常に誰よりも先頭を走り、振り向きざまに笑みを零すのでムカつかれることもあった。綺麗なフォームで走る、速い男だった。
しかし早馬は、怪我をした。膝の剥離骨折。ちゃんとリハビリをすれば、1年後の大会には出られるかもしれない。しかし、その頃にはもう、ほとんど卒業だ。
早馬の担任の教師である稔は、学校の敷地内に自分の畑を持っている。稔が勝手に作ったのだ。稔はそこで野菜を作り、暇そうにしている早馬にも手伝わせる。
それがきっかけで、井坂都と出会う。
都は、学内のたった一人の料理研究部部員だ。調理実習室でいつも料理をしている。稔は都に野菜を届け、都が作った料理を食べて帰る。野菜を持っていく役を命じられた早馬は、流れで料理を手伝わされることになった。
都の料理は、美味い。喋らなければ楚々とした雰囲気なのに、がさつで無神経な物言いをする女が作る料理とは思えないほど美味い。
早馬は、ふと考える。偏食家の弟のことをだ。野菜嫌い、魚嫌い、豆も茸も嫌い。和風の味付けもあまり好まない。嫌いなものを食べるくらいなら、食べないでいた方がマシと考えるような、弟のことを。
俺が料理を作って食わせてやればいいんじゃないか。
その日から早馬は、リハビリにも行かずに都の元へと通い、料理を習うことになる。
最強だったはずの兄は、一体どうしちゃったのだろうか?あいつは本当に陸上から身を引くつもりなのか?周囲の様々な人間が、早馬のことを考える。あいつが陸上から離れていくのは、嫌だと。
というような話です。

こんな風に内容紹介をすると、「偏食家な弟のために料理を習う兄の物語」という風にしか思えないかもしれませんが、まったくそんなことはありません。それはあくまでも舞台設定であって、早馬を中心として、弟の春馬、キャプテンの助川、料理研究部部員の都らとの、深く絡みあった人間関係が描かれていく。その人間関係には、様々なベクトルが存在し、一筋縄ではいかない。怪我をして陸上を辞めようとしている早馬の葛藤はまだ分かりやすいが(それでも、そんなに単純というわけでもないのだけど)、都が抱える屈折したねじれとか、助川が抱く言葉にならない奥底にしまわれた想いなど、物語が進むにつれてそういう分かりにくい葛藤も浮上してくる。思った以上に広がりのある物語で、料理を作って弟に夢を託す兄、みたいなありがちな物語ではないことに驚かされた。

怪我のために陸上から離れようとしている早馬の葛藤は、一見分かりやすい。まったく回復の見込みがないわけではなく、きちんとリハビリをすればまだ戦えるかもしれない、という状態であるが故に、早馬の周囲の人間は、何故いま辞めようとしているのか、と思いたがっている。確かに、そういう風に強く立ち続けることが出来る人間も、世の中にはいるだろう。怪我を克服して活躍したスポーツ選手の話とか、障害をものともせずに物凄いことにチャレンジする人たちの物語を、多かれ少なかれ僕達は知っている。

しかしやはり、そんな人間ばっかりじゃない。
僕は、早馬が陸上から離れようとしている気持ちが、最初から共感できていたような気がする。むしろ、春馬や助川が、直接的には言わないにせよ、早馬に戻ってきて欲しいという雰囲気を出す方が、凄いなと思っていた。

戦い続ければ負けではない、という気持ちは、わかるつもりだ。戦いのステージから降りなければ、少なくとも負けたことにはならない。勝つ人間というのは、そういう強い気持ちを常に持ち続けられるのだろう。しかし、負けではないからと言って戦い続けることは、苦しい。負けだと確定することになっても、何かをすっぱり諦めること。それは時として、別の扉を開くきっかけにもなるはずだ。

とはいえ、春馬も、辞めるという決心を、自分自身で下すことはなかなか出来ない。この気持ちも、分からないではない。特に早馬は、それまでずっと勝ってきた男だ。怪我をきっかけに気持ちが切れてしまったにしても、勝ち続けてきた人間が辞める決断をそう簡単に下すことは出来ない。
だから、たぶん早馬は、周りから固めようとしたのだろう。弟のために料理をしているのだ、という事実を、周囲の人間にも、そして自分自身にも植え付けることで、既成事実を作ろうとした。「陸上を辞めるかどうか」という後ろ向きな決断を、「陸上ではない新たな何かを始める」という前向きな決断にすり替えることで塗り込めようとする。
あー、そういう早馬の気持ちが、凄くよく分かるなぁ、と思ってしまうのだ。

しかし、早馬は、決して怪我のせいだけで陸上から離れようとしているのではない。究極的に言えば、怪我は一つのきっかけだったに過ぎない。もっと言えば、早馬は、辞めるきっかけを探していたと言っても、そこまで言い過ぎではないのかもしれない。そこにどんな葛藤があったのか、それは是非本書を読んで欲しいのだけど、早馬の内側に秘められたその想いを知った後で、改めて早馬の様々な言動を振り返ってみると、早馬の揺れ動く心がより明確に見て取れるように思う。

その、早馬の内側に秘められた想いを早馬の内側から引きずりだしたのが、都である。

『空っぽになった場所を、料理をすることで埋めた気になってるだけじゃないのか』

怪我の後、早馬の周りの人間は、早馬がいる前で陸上の話をするのをやめた。それは早馬を複雑な気持ちにさせる。しかし都は、そんな気遣いをする女ではない。ガラの悪い口調で、ズケズケと厳しいことを言う。たぶんそういう都に、早馬は安堵を感じていたのだろう。その気持ちは、分かるような気がする。腫れ物に触るように関わられるぐらいなら、いっそ腫れ物に触れてほしいと、僕も思ってしまうだろう。

『井坂は、今は誰かと料理をした方がいい』

料理研究部の顧問でもある稔は、早馬に対してそう語る。都自身も、問題を抱えている。都が早馬だけでなく誰に対しても無遠慮に関わるのには、理由がある。

『私が、たいして親しくもない他人から、可哀想可哀想って心配なんかされたくない』

都は、そう力強く叫ぶ場面がある。都は、可哀想だと思われる視線に、敏感すぎた。それがたとえ、心底の善意であっても、自分を可哀想だと見る見方を感じれば、都はそれを不愉快に感じた。都自身、そう思うことを止められなかった。
だから、都の無神経さは、自らの経験の裏返しだ。自分がされたくないことを、他人にもしないと決意している者のあり方だ。同じような経験をしてきた早馬には、きっとそれが理解できたのだろう。だから、都と早馬は、急速に親しくなっていく。

『だから私は早馬を受け入れたのだろうか』

都もまた、早馬と関わることで変化していく。振り払おうとしても永遠についてくる“孤独”という悪魔と共存することに決めた都は、一人でいることに違和感を抱かない。家でも学校でも、一人だ。誰と一緒にいても、都は一人。誰の存在も寄せ付けない。受け入れない。自らをさらけ出さない。ガラの悪い口調は、ある種の鎧だ。そうやって振る舞う生き方が、痛々しく見えなくなるまで、都はどれほどの苦労を重ねただろうか。早馬が出会った頃の都は、無理して無神経に振る舞う必要はないほどその自分にもう馴染んでいただろう。しかし、初めからそうだったとは思えない。きっと少しずつ塗り重ねていくようにして、自分のあり方を変えていったはずだ。

だから都は、筋金入りの孤独者だと思うのだ。料理だって、一人で出来る。顧問の稔は、都が作った料理を食べることで、少しでも都に関わろうと、都の孤独に関わろうとする。稔の距離感の取り方は実にスマートだが、しかしやはり年の離れた教師には限界がある。怪我によって長年続けてきた陸上を諦めようとしていて、また弟のためという大きな理由を持って料理をするから熱心に学ぼうとする早馬の存在は、孤独者になるために都がそぎ落としていったものを少しずつ取り戻すきっかけになったかもしれないと思う。

『逃げたっていいと思う』

都のこの言葉が、僕は好きだ。

弟の春馬と、キャプテンの助川もそれぞれ、複雑な想いを抱えたまま、日々の練習を続けていく。春馬は、兄の怪我に対して責任を感じている。自分のせいで兄は怪我をしたのだ、と。小さい頃から、自分の中の最強だった兄の姿を、春馬はずっと追いかけていたかった。兄がいたから、自分もここまでこれた。それなのに、兄だけが離脱してしまうことが、どうにも受け入れられないのだ。

早馬が弟の体調を考えて料理を作るのと同じように、春馬も兄のことを考えて色んなことをする。しかし、早馬は、弟の「強く速く怪我をしない選手になる」という願いを叶えるために行動しているのに対して、春馬は「兄ちゃんに陸上を辞めてほしくない」という自分の気持ち優先で行動してしまう。だから、春馬の言動は、兄に対して空回りしてしまう。

『だから、自分は兄の作る料理を残すことができないのだろう』
『できれば、兄貴の飯が食いたかったな』

まるで早馬が弟の料理に、特別な何かを入れたかのように、料理を通じて春馬は兄の気持ちを知り、兄の決断を受け入れようとする。弟の偏食を治すための食事は、春馬の兄に対する強張った気持ちをほぐすという別の役割を担いもしたのだ。

助川もまた、早馬に陸上から離れてほしくないと思っている。しかし助川は、春馬ほどその気持ちを表に出さない。普段クールに振舞っている彼には、そういうことが出来ないのだとも捉えられるけど、そもそも助川が自分の気持ちを捉えきれていなかったという側面もある。

ここでも、そんな助川の気持ちを引きずり出すのは、都なのだ。
助川と都は幼なじみであり、色々あって難しい関係にあった。高校に入ってからは、昔のわだかまりなんかを感じさせないで接することが出来るようになったけど、そんな過去があるからこそ、助川は都に対して、春馬が都に対して抱く以上に様々な感情を抱えている。

都と助川の関係も、なかなか一筋縄ではいかない。都がずっと抱えてきた想いをラストで吐露する場面でも、その印象は一層深まる。幼なじみ、という言葉ではたくさんの何かがはみ出してしまう、そんな二人の関係も繊細で読み応えがある。

『四年間も自分に嘘をついて、裏切り続けるなんて、なかなか大変だよ』

人間は、自分のことだってちゃんと分かるわけじゃない。正しいこと、本当の気持ち、そんなものはちょっとしたことですぐ揺れ動く。既存の言葉では置き換えが出来ないようなものだって、人間はその内側に溜め込むことが出来る。
人生は、決断の連続で出来ている。一つ一つの決断が、その後の人生を左右する。後悔しない人間なんていないのだろう。であれば、後悔しないために決断しない、という生き方ではなく、後悔するだろうけど決断して前に進む、と決めてしまう生き方の方が潔いのだろうなと、一点でまごついて彷徨っている少年少女たちの葛藤を読んでいて感じました。

人間が人間を想う気持ちを、走りや料理に託して絶妙に描き出し、人間が変節していく様を丁寧に描き出した作品です。額賀澪は、やっぱり巧い。

額賀澪「タスキメシ」


触法少女(ヒキタクニオ)

内容に入ろうと思います。
深津九子は、施設で暮らす13歳の少女だ。親から育児放棄を受け、虐待などもあり、母親の失踪と共に施設に預けられることになったのだ。
九子は、学校内に何人かの下僕を従えている。
優等生でありながら物凄い美貌を持つ九子は、自分の持っている武器のことをよく理解していた。担任の教師に対しては、その美しさを最大の武器にして弱みにつけこみ、良いように動かせる駒にした。同じクラスの西野は、九子への好意をうまく利用され、九子に従わざるを得ない状況にさせられた。
そして九子には、崇拝者もいる。同じくクラスメートの里見だ。平凡な容姿をしている里実は、綺麗で勉強もできて、どんなことでも臆することなくやってのける九子を実によく慕っている。九子は、自身が施設で暮らしていることも、最大限利用して人心を操る。
ある日九子は、いなくなった人間の探し方を、西野の部屋のパソコンで調べる。そこで得た知識と、これまで身につけてきた立ち回りのうまさを使って、九子はあっけなく母親の現住所にたどり着いてしまう。里見と共に母親に会いに行った九子は、あまりにもあっけらかんと九子と再会し、昔とほとんど変わらないままの姿を見せる母親を、殺してもいいんじゃないだろうか、という気持ちを捉えることになる。
やってみよう。
九子は、インターネットを使って殺人の方法を調べ始める。施設のパソコンは当然使えない。西野の家にも行きにくくなった。九子は、知恵と工夫と忍耐を駆使して、徐々に母親の殺害計画を練り上げていく…。
というような話です。

これはかなりよく出来た作品だと思いました。非常に面白い。かなり際どいテーマに全力でぶつかっていき、細部に徹底的にこだわることで、九子という「触法少女」が実にリアルな存在として立ち上がっていく。淡々と九子の計画が進んでいくだけに思えた物語が、終幕に至るにつれて様々なノイズを拾い、最終的に思いもかけない構図が描かれることになる。その驚愕のラストに至る流れが、実に見事だと思う。

まずタイトルの説明から行こう。「触法少女」という単語は、恐らく存在しない。法律的には、男であっても女であっても「触法少年」と称されるようだ。
「触法少年」というのは、14歳未満で刑法法令に触れる行為をした少年を指す。九子は13歳。ここで、たとえ殺人をおかしても、警察や検察は一切手出しが出来ず、児童相談所経由で家庭裁判所扱いの審理となる。だから、犯罪を犯した時点で13歳であるのか、あるいは14歳であるのか、この点は実に大きな差なのである。

そしてこの物語は、この「触法少女」の扱いが一つ大きなテーマになっている。詳しく書くことは避けるが、実に見事だ。この「触法少女」の考えは、九子の計画にも練りこまれていくのだが、そこからどんな紆余曲折を経るのか、そしてさらにラストでどういう展開を迎えるのか。それは是非読んで体験して欲しい。「触法少女」というタイトルがまさにぴったりだと感じられるほど、これは本書の中で非常に重要な要素となっていく。

酒鬼薔薇聖斗の事件を始めとして、幼い子供によるセンセーショナルな事件というのは、時代時代でそれぞれ人々の記憶に刻まれていることだろう。しかし、センセーショナルな報道の記憶こそあれ、現実に、そういう幼い子供による犯罪がどのように扱われ、どう物事が展開していくのか、きちんと知っている者は多くはないだろう。本書は、「触法少女」が警察機構の中でどう扱われ、事件がどう推移していくのか、つぶさに描き出していく。これは、親にも関係してくる話だ。本書の冒頭で、17歳の少女が覚せい剤の所持で逮捕される話が出てくる。その母親が、「うちの子に限って…」「この子はいい子なんです」と口にするのだが、生活安全課の刑事はそれを、どの親も決まってそういうと切り捨てる。親の目から見てきちんとしているようでも、子供が何を考えているかそんなことは分からない。特に現代は、インターネットを通じてありとあらゆる情報を簡単に手に入れることが出来てしまう。昔だったら、子供には絶対出来なかっただろうことが、今では、才覚と知恵と度胸さえあればなんとか出来てしまうのだ。そういう世の中で子供を育てるということは、100%完璧な安心などありえない、という自覚が求められるのだろうと思う。考えたくないことだろうが、こういう現実のことに触れておくことも大事かもしれない。

本書では、九子の犯罪計画がどう進んでいくのかというパートと、警察の捜査がどんな風に進んでいくのかというパートが入り混じって描かれていく。

九子の犯罪計画を描くパートは、実にリアルに展開していく。九子は、施設で育っているが故に完全にプライベートな部屋はなく、パソコンも施設のみんなと共有、携帯電話は持っていない中学生の少女だ。この少女が、下僕や崇拝者を駆使するとは言え、バレないと思われる完全犯罪の計画を練るのは、非常に困難なことだろう。しかし、九子はこの困難な環境の中で、持てる才覚をフルに使って計画立案に乗り出す。それは、下僕と崇拝者を従えた13歳の少女ならギリギリどうにか頑張れるだろう、というレベルに見事に抑えられている。もちろん、運が良い部分もある。そりゃあ、なきゃ困る。なかったら、ごく普通の13歳の少女でも、人を殺せる計画を立てられることになってしまう。本書がその示唆をすることになってしまう。本書は、実際に13歳の少年少女が同じことをしてもやりきれないだろうなという犯罪計画を、九子になら可能だったという絶妙な設定を用意して、物語を進めていく。これは実に巧いと思う。元々成績優秀で、しかも母親の機嫌を損ねないことを第一に考える生活から、他人の気持ちを推し量る類まれな能力を身に着けている。そんな少女は、この犯罪計画を、一種のゲームのように進めていく。もちろん、復讐という気持ちがベースにはあるのだけど、力試しをしたい、自分の知恵でどこまで大人に対抗できるのか試したい、そういう気持ちも強くあるように感じる。人を殺すということの現実感をリアルには捉えきれていない、ということもあるだろう。虐待の経験によって、痛みには敏感であるはずの九子だが、人を殺すとなるとまた話は違う。しかも、殺害方法が激痛を与えるようなものではないと九子は信じているだろうから、人を殺すということを痛みという観点で捉えきれていないのかもしれない。いずれにせよ九子にとって、この犯罪計画はある種のゲームのようなものであって、下僕や崇拝者を自分の思い通りに動かす全能感を味わい、さらにそれによって殺人という困難で障害の多い計画を成功に導きたいという気持ちが根底にあるように思える。

だからこそ、時折九子は揺れる。

『何か良いとこみせてよ…お母さん、どこか心の隅で、瑠美子を殺さないでいいと思えることを探している自分がいた』

九子は元々、母親に対して強い憎しみを抱いていたわけではない。一緒に暮らしていた頃は、母親のことが好きだった記憶さえある。自分が酷い環境に置かれているということを認識出来ていなかったのだ。施設での天国のような生活の後、かつての生活を振り返ってみると、それは異常であるのだということが理解出来るのだけど、そこから九子の憎しみが立ち上がったというようなことはなかったようだ。もう関係ない世界の関係ない場所にいる人のことで気持ちを煩わされたくない、という感じだったかもしれない。
しかし、またこれもゲームのようにして母親の居場所を突き止めてしまった九子は、母親と再会することで複雑な感情に囚われるようになる。なんのわだかまりもないかのように昔のように接する母親に、苛立ったり期待したり、名前の由来を聞こうとしたりする。里実の母親に接することで自身の母親と比べてしまったりもする。殺意が増すこともあれば、留まってもいいのではないかと思う瞬間もきっとあっただろう。どれだけ強がって見せても、どれだけ辛い経験をしていても、やはり13歳の少女であることには変わりはない。その九子の揺れの描き出し方も良い。

そんな時、九子の支えになるのが、同じ施設で生活をしている華蓮だ。華蓮は九子の犯罪計画を応援していて、相談すればなんでも的確な答えを返してくれる。弱気になった時も、九子は華蓮に相談する。そうやって、華蓮を心の支えとしながら、九子は犯罪計画を進めていく。

警察の動きも興味深い。本件は、発生当初から特A級の緘口令が敷かれた厳重な管理の元“調査”がスタートする。触法少女に対する“捜査”には大きな制約があり、九子の顔写真一枚さえ手に入れるには苦労するほどだ。非常に難しい問題を孕んでいて、警察組織としても様々な意見が存在する。『私が言えるのは、全体を見て選択をするのが、警察機構の上層部の正しい考え方なのだということだ』という意見さえ出させてしまう。

「触法少女」というのは、何が正しくて、何が正義で、何が偽りなのかを歪ませていく。警察機構さえ同じであって、彼らの様々な制約を課せられたまま調べを進めなければならないもどかしさみたいなものは、普通の警察小説では味わえない部分だ。

クレバーで冷静な少女、優しい母親の存在を希求する少女、追いつめられて崩れていく少女。いくつもの顔を見せながら、少女は未知の世界へとどんどん足を踏み入れていく。己の才覚だけで生きてきた自信から自分自身を過信し、なんでも出来るはずと気持ちが大きくなっていく中で、母親に対する複雑な感情を溜め込んでいく少女の、その奥に隠された脆さみたいなものが露わになっていく過程が見事な作品だ。現実の世界の九子が、今日も誰かを殺す算段を練っているかもしれない。そんな想像をリアルに呼び起こす物語です。

ヒキタクニオ「触法少女」


武曲(藤沢周)

内容に入ろうと思います。
羽田融は、陸上部を辞めて今は帰宅部だ。ラップに目覚め、リリックを紡ぐために、様々な言葉を日々広い集めている。iPodには、百人一首も入っている。
ある日駅で、同じ高校の剣道部の集団を見かける。そこで融は、竹刀を蹴った蹴らないの揉め事に巻き込まれ、盗られたiPodを取り返すために、何故か剣道の試合をさせられることになった。やったことなんてないってのに。
そこで融が見せた竹刀捌きは、剣道を普通にやっている者には、ただ粗雑で乱暴なだけに見えただろう。しかし、ここ鎌倉学院高校の剣道部のコーチをしている矢田部は、融という少年の竹刀捌きに、父の幻影を見るような思いでいた。融は、剣道のルールなどどうでもよくて、ただ相手に致命的なダメージを与えるために竹刀を振りさばいている。もし彼の竹刀が真剣であれば、融と竹刀を交えた部員二人は、間違いなく死んでいるだろう。
それは、殺人剣と呼ばれた父を彷彿とさせるものだった。
剣道界にその名を轟かす父・将造の息子である矢田部は、子供の頃から父の猛特訓を受けていた。相手を殺しにかかるような剣道をすることで畏れられた父との特訓は壮絶なもので、その終結として矢田部はやがて、もう取り戻すことの出来ない父子関係に行き着いてしまうことになる。
アルコール中毒を克服した矢田部は、今は警備員の仕事をしながら剣道部のコーチをしている。来る日も来る日も変わらない日常。父親の存在が常に、矢田部に重くのしかかってくる。
ある日同窓会に顔を出してみるも、いたたまれなさが増すばかりで、矢田部はつい、ずっと我慢していた酒に手を伸ばしてしまう…。
というような話です。
この内容紹介から、どんな風に話が展開するのか、たぶん全然分からないと思うんだけど、色々あって融と矢田部が一種のライバル関係になっていきます。ラップにハマっているだけのただの高校生と、凄腕の剣道家だがアル中という中年男がどうやったらライバルになるんだ、という感じだけど、そこは実に物語の展開の妙がある。否応なしに剣道の世界に引きずり込まれた少年と、父の幻影に囚われた中年男の軌跡が、つかず離れずのいち関係をのまま絶妙に絡み合うのだ。

正直言って、読み始める前のイメージとは全然違う物語だった。
読み始める前、僕は、誉田哲也の「武士道シックスティーン」のシリーズのようなイメージをしていた。「武士道シックスティーン」は、高校生の女子二人が剣道に打ち込む部活を中心とした物語だ。本書は、女子の物語でないことはわかっていたけど、剣道部を中心にした青春小説みたいなものなんだろう、と読む前は思っていた。
そう思った最大の理由は表紙にある。本書の表紙は、イヤホンをつけた少年が剣道の道着を着ているイラストだ。だから、もっとポップで軽快な部活の話だと思ったのだ。

しかし、予想とは裏腹に、本書は、実に濃密で絡みつくような物語だった。表現は純文学的と言っていいような気がする。高校の剣道部というのは舞台の一つではあるのだけど、メインステージというわけではない。僕の理解では、矢田部が長年抱えてきた鬱屈が先にあり、それに様々な形で巻き込まれ刺激された融が剣道に開花していく、という物語だ。つまり、融は本書の主人公ではあるのだけど、実際に物語の重心を担っているのは、アル中の中年男である矢田部の方なのだ。これは非常に予想外だった。

矢田部の物語であるが故に、しばらくの間僕はこの物語に入り込むことが難しかった。本書は、矢田部と融が交互に視点人物となる構成である。融のパートは、高校生らしく軽快でノリがよく読み進めやすい。融は融で、他の高校生とは違った特殊な部分があるのだけど、しかしそれ自体は融や融の物語を理解する障害にはならないし、逆に物語を面白くうねらせる要素にもなっている。

しかし矢田部のパートは、重苦しくねっとりしていて、悔恨と弱さにまみれている。しかも、矢田部のパートはさらにややこしい要素がある。矢田部はアル中を再発してしまうがために、妄想や幻覚が混じるのだ。ただでさえ陰鬱とした後悔や懺悔で溢れている中に、さらに妄想や幻覚が入り混じる。だから、なかなか読み進められない。

そんなわけで、読み始めてからかなり長い間、この物語をうまく捉えきれなかった。

その理由は、まだ他にもある。
本書は、ベースとなる物語が剣道なのだけど、序盤から、特に説明もないまま、かなり高度な剣道のやり合いが展開される。特に剣道特有の用語が説明されないまま使われたりもするので、剣道に馴染みのない僕には正直、何をやっているのかよくわからないことが多かった。ラストの方、融が開眼して一気にレベルを上げてからのわからなさは、まだ受け入れられる。それは、融と矢田部が、剣を交える前から感覚の世界で戦っているからで、現実には想像しにくい表現で描写されるのは、仕方ない。しかし前半の、剣道がなんなのかも分からないままいきなりレベルの高い戦いを見せられるというのは、さすがに少し不親切に感じた。もちろん確かに、初心者向けの描写が入り込む余地のないような、緊張感のある物語ではある。でもなぁ、と思ってしまうのだ。

そんなわけで僕は、途中まで結構ぶつくさ思いながら読んでいた。わかんないなぁと思いながらページをめくっていたし、矢田部は鬱陶しいなぁと思いながら読み進めていた。

けど、ほとんどラストというような箇所に来て、僕の中でようやく物語のテンションが上がった。それまでは、融は矢田部のことを、ただ倒したいだけの敵と見なしていただけだし、矢田部の方は融がどうこう言うよりも自分のことで一杯一杯みたいな感じだった。二人の日常は、様々な形で交錯するのだけど、僕には、二人はお互い相手のことをきちんと見ていないように思えてしまった。

しかし、ラスト付近で突然、二人は正面から向き合うようになったと感じられるようになった。融にとって矢田部はただの敵ではなく、矢田部にとって融は無視出来ない存在になった。そうなってからは、物語が俄然面白くなった。少なくとも僕の中で、ラストまでが長い前フリで、ラスト付近から一気にラストスパートを掛けてきたみたいな印象だった。

だから、最終的な本書に対する印象は、結構良い。ただやはり、冒頭からかなりの間、読み進めるのに苦戦したということは覚えておきたいと思う。

解説で中村文則氏は、本書は父子の物語だと言う。僕は正直、小説を読んだりする時に、あまりそういうことを考えないで読む。ただ確かに、言われてみればその通りだと思う。
矢田部の頭の中のかなりの割合を占めているのが父とのことで、この父子関係が一番強い。さらに、矢田部と師匠的存在である光邑、また矢田部と融、この二組の擬似父子関係が、様々な場面で入り組み捻じれ歪曲していく中で物語が生み出されていく。

特に、矢田部と融の関係性はなかなかに捻れている。二人は基本的には折り合わない。あらゆる場面で争い、こじれていく。憎しみをたぎらせて、殺意を解放することさえある。しかし、剣道の腕前で言っても、年齢で言っても、やはり矢田部が父で融が子になるはずだろう。
しかし、矢田部は同時に、融の姿に父を見ている。殺人剣と呼ばれた父の、暴力的で衝動的な、剣道と呼んでいいのか悩むほどの感情の奔流を見てとる。そこで、彼らの父子関係は瞬間的に逆転してしまうのだ。なかなかに捻れている。アル中でいかれている矢田部は、時に弱さをさらけだし、時にその弱さを隠したり守ったりするために凶暴になる。そういう点でも、矢田部と融の父子関係の逆転を垣間見ることが出来る。

そして、父子関係を描く上で避けて通れないのが、父殺し。本書では、この父殺しというモチーフも、様々な形で登場する。特に、矢田部を憂鬱に追い込むその最たる理由が、この父殺しと関わってくる。矢田部にとって、父の存在とは何であるのか。その問いかけを止められない、矢田部の地獄の流転が、まさに“業”という名前で呼ぶのに相応しいように感じられる。

本書の中で、僕が最も面白いと感じたのは、融の言葉に対する感覚だ。

まず、融のパートは、そもそも言語表現が面白い。言葉に惹かれて百人一首をiPodに入れてしまう融の感覚を著者はうまく掴んだのだろう。一つ一つの身体・内面の表現から、可能な限り自分の体感と一致するように言葉をセレクトしようとしているという気持ちを感じる。

そんな融の価値観を非常に色濃く映し出しているセリフがある。

『本気のラッパーというのは言葉に対して厳密なんだよ。正確でありたいんだよ、自分の気持ちに…』

融が何に悩んでいるのかというと、一級審査で課されるという筆記試験だ。剣道の級位認定に筆記試験があるというのは驚きだった。実際融は、その筆記試験を受けずに済むのだが、しかし受けなくてはならないと思い込んでいた融には、それは非常な難問だったのだ。

それは、剣道をやる者が持つべき理念についての問いだった。

基本的には模範解答が用意されていて、普通はみなその模範解答を疑うことなく書く。書けば級位が認定されるのだから当然だ。しかし、融は、その模範解答に引っかかる。自分の価値観とはあまりにも違う言葉が並んでいるために承服しかねるのだ。その違和感を口に出しても、周りには理解されない。覚えてちょっと変えて書いたらいいんだよ、とつれない。

『白川に限らず、北学の同じクラスの仲間達も、ほとんどが要領のいい奴らばかりだと融は思う。納得しなくても流していれば、その時間は過ぎる。スルーさせておけば、後で好きなことができるじゃん。それくらい我慢できなくてどうすんだよ、という具合に。別にそれを否定するほど自分は熱くはないと思っているが、自身に関わるものについては簡単に素通りさえるわけにはいかない』

『その心理を表す言葉を何度も何度も咀嚼して、体の細胞すべてが納得しないと駄目だ。さらに言葉を突き詰めて、言葉以前の所までいかないと相手には対処できない』

こういう感覚は、僕も凄くわかる。僕も、言葉に対しては几帳面な方だと思う。自分の口から出た言葉が、「正しくない」ならまだ許容出来るが、「嘘」というのは許容できない。みんながどうでもいいと思っているようなところにもこだわって、気になってしまう。その違いがくっきりしたところで実利的に何も得るものはないのに、細部の差を突き詰めたくなってしまう。そういう感覚が、僕の中にもある。そういう面もあって、融のパートには強く惹かれるのかもしれない。

言葉が豊かであるということは、それだけ現実を仔細に観察できるということでもある。それを端的に表現した言葉がある。

『「起こり」という言葉を知らなかったら、「起こり」を見分けることはできない』

これはまさに、ソシュールの言語論のようなものだ。人間は、ただモノに名前をつけているわけではない。区別を必要とするモノに名前をつけている。だから、様々な名前、すなわち様々な概念を知れば知るほど、僕らは物事を見る時の階層がより深くなり、物事の違いに敏感になれる。融が剣道の世界で急激な成長を遂げることが出来たのも、もしかしたら言葉の力があったのかもしれない。

『俺はラップの言葉でほんものの世界を表現する』

そう言っていた、剣道を始める前の融は、最後にはこんな風に言うようになる。

『ラップ命になって、たえず言葉をコレクションしてはリリックを紡いできたつもりだけど、剣道から教わる言葉は、さらにアグレッシブだ。』

融は、言葉によって世界を掴もうとしてきた。言葉を吸い集め、それらの違いを意識し、世界を細分化することで、普通にしていたら見えない細部まで世界を覗き込もうとしてきた。しかし融は、そのやり方では、“ほんものの世界”を掴むことができなかった。やがて、事故みたいにして剣道と出会い、矢田部や光邑との濃密で深淵なやり取りを経ることで、融は“ほんものの世界”に触れるチャンネルを手に入れた。融にとってそれは、言葉ではなく剣道だった。いや、言葉じゃなかったというのは正確ではないかもしれない。言葉を研ぎ澄ましていたことが、剣道を通じて“ほんものの世界”に触れる大きな要素であったかもしれない。ともかく融は、言葉で切り取ろうとするだけでは決して触れられなかったであろう新しい世界に触れた。融にとっては、それが一番大事なことだった。言葉を集めていたのは、それが武器になるからだ。リリックを生み出すための武器。そして、世界と接続するための武器。しかし、あくまでも手段でしかない。融は、新しい手段を手にし、それによって世界の扉をこじ開けた。言葉にこだわっていたら、もしかしたらずっと開かなかったかもしれない扉。その時の融の歓喜を、僕は想像することが出来ない。似たような経験をしたことがないからだ。それが残念でならない。そう感じさせるほど、物語全体から、融の歓喜が伝わってくるのだ。

原罪の如き重しを背負い、ふらつきながら人生を歩む一人の中年男の哀切と、無縁だと思っていた剣道を通じて世界の深遠を覗き込もうとしている少年の興奮を、一つの作品の中に同居させている。二人の関わりは奇妙で、否応なしに絡まり合っていく。いつしかライバルのような関係になっていく二人の、人生を変転させた時間の流れを堪能してください。

藤沢周「武曲」


酒気帯び車椅子(中島らも)

内容に入ろうと思います。
主人公の小泉は、モーレツ社員でありながら家族想いでもある、ちょっと良いパパという感じの平凡なサラリーマンだ。中堅の商社に勤めていて、価値のないと思われているものに新たな価値を提示して儲ける仕事にやりがいを感じている。
今小泉は、ゴルフ場を霊園に変えるプロジェクトを手がけている。小泉自身の発案だ。用地の買収や墓地の設計、協力してくれる寺社などすべて手配しており、計画の6割ぐらいが固まっている。様々にトラブルも発生し、その度に気苦労が絶えない仕事ではあるのだけど、この醍醐味はやめられない。
しかしある日、極秘であるはずの彼の霊園プロジェクトについて話があるという謎の不動産からの連絡があった。向かってみると、それはどう見てもヤクザ絡みの不動産会社だった。東大卒だという切れ者が、小泉が手がけている霊園プロジェクトの土地にカジノを建設する計画を立てているのだ。ヤクザらは、小泉の買収金額よりも多い金額を提示し、土地を売れと迫る。しかし小泉はその提案を蹴る。暴力や脅しにも一切屈せずに、その後も普段通りの生活を続ける小泉だったが…。
というような話です。

読み始めからしばらくはそんな雰囲気をほとんど感じませんが、巻末に『バイオレンス小説』と書かれているように、途中からかなりのバイオレンス具合になっていきます。ほのぼのとした家族小説のテンションから一転バイオレンスに変わるので、その落差に驚く人もいるかもしれません。

ストーリーは、さすが中島らもという感じで、一気に進んでいきます。余計な小細工なんかなく、中島らもは、スタート地点からゴールまで、とにかく直進で物語を進めていきます。普通そういう小説というのは、単調だったり工夫に欠けていたりで、面白くなかったりするものです。しかし中島らもは、何故か読ませる小説を書き上げます。読みながら、単調な展開だな、と感じはするんです。中盤で物語のテンションが一気に変質する場面以外では、ほとんど物語が曲がりくねったりしません。そう展開するだろうなというような想像の範囲内の展開をします。それでも、勢いなのかなんなのか、中島らもは読ませる小説に仕上げてくるんですね。なんだかそこが不思議な気がします。

物語は本当に、前半と後半で別物ではないかというぐらいテンションが違います。前半で面白いのは、小泉と、小泉の周りにいる人間との関係性でしょうか。社長、副社長、事務の女の子、妻、娘、飲み友達。小泉は様々な人間と関わるのだけど、その関わり方が面白い。僕が中島らものエッセイを読んでるからかもしれないけど、小泉のあり方が、中島らもその人であるように思えて、中島らもがこんな風に人と接しているのかもな、と思うことで面白さを感じているのかもしれません。

個人的に好きなのは、事務の女の子とのやり取りと、娘とのやり取りでしょうか。会社の部下と、あるいは自分の娘と、こんな感じに接することが出来るなら面白いだろうなぁ、と感じさせるようなやり取りをします。社長や副社長との関わりも、小泉に対する全幅の信頼ありきのもので頼もしいし、飲み友達との関わりも、世間とズレている世界を垣間見ることが出来て面白いです。

後半はとにかく、小泉自身の執念の凄まじさみたいなものに打たれます。それはもちろん、美しいものであるはずがないし、徹底的に醜いものです。でもその醜さが、不快という感じではない。小泉に降りかかった災厄を考えれば仕方ない、そう感じる人の方が多いのではないかと思います。
小泉は、その昏い執念を絶やすことなく、また自らを襲った状況に絶望して諦めることもなく、前だと信じる方向へ突き進んでいく。実際に同じ行動を取るかどうかは別として、小泉の気持ちが理解できるという人は結構いるのではないかと思います。しかしそのために、とんでもない“兵器”を完成させるという展開は、さすが中島らもの奇想だなと感じたのでした。

タイトルの「酒気帯び車椅子」という言葉も、とてもいいですよね。奥さんが解説を書いているんですけど、奥さんによれば、中島らもはこの「酒気帯び車椅子」というフレーズを思いついてしまったがために、本書を書いたのだそうです。確かに、それぐらい強いインパクトのあるフレーズだなと思います。元々広告屋みたいなところからキャリアをスタートさせた中島らもらしいなと感じました。

メチャクチャな小説ではあります。特に後半は凄いです。中盤に、とんでもなく悲惨でしんどいシーンが出てきます。そういうのが苦手な方は、手を出さない方がいいかもしれません。とはいえ、想いの強さや決意の固さみたいなものを猛烈に感じ取ることが出来る一冊です。

中島らも「酒気帯び車椅子」


運命は、嘘をつく(水生大海)

内容に入ろうと思います。
本作は、連続殺人事件を物語のベースに置いた、4編の連作短編集です。けど、4編それぞれの内容を紹介するやり方は、ちょっとうまくないような気がするので、全体の設定と登場人物について書くことにします。

小夜と月子は、飲料メーカーで働いている。部署内で20代の女性は二人だけで、割と正反対の性格ながら、二人はいつでも一緒にいる。今日も、予知夢を見たという月子の話を、適当に聞き流しながら小夜は一緒に御飯を食べている。
ここのところ、若い綺麗な女性を狙ったと思しき殺人が続いている。
小夜の彼氏は刑事になりたての筋肉バカで、その事件の担当になったために忙しくて連絡もほとんど取れなくなっている。また、社内で選抜されるあるプロジェクトに、てっきり自分が選ばれると思っていたのに月子が選ばれたのもむしゃくしゃしていた理由の一つだ。だから小夜は、月子にちょっとした仕返しのようなことをしてしまう。
予知夢で見たという月子の理想の相手。そのモンタージュをパソコンで適当に作っていたら、月子が「そっくり!」という顔に見覚えがあった。学生時代からの友人だ。小夜は月子を、その彼に引きあわせてみることにした。
思えばこれが、すべての始まりだったのかもしれない。
というような話です。
どうも肝心なところをボカしながらの内容紹介になってしまうので、物語がどう展開していくのかまったく分からない感じになってしまいましたけど、ご容赦ください。

全体的な評価は、もう少し何かあると思ってたんだけど、という感じだ。悪くもないけど、別に良くもない、というのが正直な感想。

どんどんボタンが掛け違っていく感じは、なかなか面白いと思う。発端が予知夢っていうのは、ちょっとどうかなと思ってしまうけど、ほとんど悪意が介在しないまま、状況が一気に悪くなってしまう展開は面白い。些細な選択と、人間の底しれなさみたいなものが相まって、悪い方悪い方に出来事がどんどん進んでいってしまう。そういう部分は、結構面白い。

リアリティという点では、ちょっと難しい部分があるかなぁ、という感じ。警察が一般人にべらべら捜査情報を話しちゃう感じとか、殺人事件に対して素人が首を突っ込んで捜査の真似事をしてみる感じとか。もちろん、捜査情報を流す刑事も、一般人なのに犯人探しをしちゃう感じも小説には時々出てくるんだろうけど、巧い小説はその辺りのことをうまくごまかす。本作は、ちょっとその編の違和感みたいなものが残ってしまっている感じがしました。

キャラクターは、ちょっと軽めな感じ。作風全体がそうなんだけど、全体的に軽い感じで描かれていく。短い作品の中で物語を展開させていくためにそんな感じになったのかもしれないけど、もう少しステレオタイプ的な部分から抜け出たキャラクターが動いて欲しかったようなもします。

解説が、これまで見たことのない感じでした。初野晴が解説を書いてるんだけど、一遍の短編のような内容になっている。初野晴の「ハルチカシリーズ」の登場人物と、本書の登場人物が対談する、というような設定になっていて、相変わらず初野晴の、どこから引っ張ってくるんだかわからない知識もふんだんに登場する。解説の中で、本書をある方向から見てみるんだど、それによって本書に対する新しい感じを提示出来るようになる感じはさすがだなと思う。

ライトな感じで、ささっと読むには良いかもしれない作品です。

水生大海「運命は、嘘をつく」


お父さんのバックドロップ(中島らも)

内容に入ろうと思います。
本書は、あとがきで著者が書いているように、『「子供より子供っぽい」お父さんを、四人集めて書いてみ』た作品です。

「お父さんのバックドロップ」
ある日タケルは、友人の父がプロレスラーであることを知る。しかし、悪役ばかりやっている父のことを、友人は全然尊敬できないと思っている。息子のそんな言葉を聞いたその悪役レスラーは、“熊殺し”の異名を持つ黒人の空手家に対戦を申し込むことに…。

「お父さんのカッパ落語」
落語かでもある芸人でもあるお父さんは、一ヶ月の20日ぐらいは仕事がなくて、だから仁はそんな暇なお父さんから、いつもくだらない“シャレ”をされている。どうでもいいイタズラにせっせと励んでいるのだ。お父さんの師匠もくだらないことが大好きで、二人して変なことばかりしている。しかしある日、師匠とお父さんが真面目な話をしているのを聞いてしまって…。

「お父さんのペット戦争」
田中セミ丸は、鈴木馬之助とペットで争っている。セミ丸は、ペットを飼っていることで自慢してくる馬之助に対抗してチワワを買ってもらったが、馬之助は土佐犬を連れてきた。セミ丸は魚屋の父親に相談する。父同士も友人であるという二人は、息子の代理戦争のような形でくだらない戦いに突入していく…。

「お父さんのロックンロール」
小筆は悩んでいる。お父さんのことでだ。
お父さんは、本当にどうでもいいようなイタズラを仕掛けてくる。これまで11年間、それでどれだけ苦労させられてきたか。小筆がキャベツから生まれたのだということを信じさせるために、小筆が生まれた時から写真を仕込んでおくようなお父さんだ。そんなお父さんが、家庭訪問の日に家にいると言う。大変なことになった…。

というような話です。

ページ数が少なくて、また文字が大きいので、とにかくサクサク読めます。軽いと言えば軽いし、読み込もうと思えば深くも読めるでしょう。子供のような父親とそれに振り回される子供という構成でありながら、それぞれ個性的な父親像を提示しているのはさすがだなという感じがします。

あとがきで著者が、早く大人になりたかった、という話を書いている。子供時代は不自由だ、と。その気持ちは、なんか凄くわかる。誰かと喋っていると、「子供の頃に戻りたい」なんていう人がいるけど、僕には理解できない。あんなに不自由で窮屈な場所になんか戻りたくないよなぁ、と僕はいつも思ってしまう。
著者は、結局大人になっても、そんなに自由なわけじゃないということに、大人になってから気づいた、というようなことも書いています。それでも僕は、大人でいる方がまだ自由があって、生きやすいなと思うのです。家族にしても、子供は親に捨てられたら生きていけないだろうけど、親は子供に捨てられても(高齢でなければ)生きていけます。これだけでも、自由度は格段に高いよなと思ってしまいます。

本書で登場する“父”は、なんというか自由です。みんな割と、やりたいようにやっている。しかし、全部が全部やりたいように出来るわけではない。そこは、“大人であること”、そして“父親であること”の責任みたいなものがどうしてもぶら下がってくる。子供でいる時には、そういうことはよく分からない。でも、分からないなりに、それを感じさせる瞬間に出会うこともある。「お父さんのバックドロップ」の下田くんとか、「お父さんのカッパ落語」の仁なんかは、まさにそれを感じ取ったことだろう。何もかも完全に振りきれるわけではない、という、大人なりの窮屈さみたいなものを、子供の視点から巧く描いているなという印象でした。

一番好きなのは、「お父さんのロックンロール」に出てくるお父さんかなぁ。とにかく人をからかうことに全精力を費やしている感じで、あらゆる場面でそういうチャンスを見つけては、全力を尽くす。それに、意味はない。その意味なんてないことのために小筆は振り回されるわけで、ホント大変だなぁ、でも後から振り返ったらいい笑い話になりそうだなぁ、と思いながら読んでいました。

大人になることで捨ててしまいがちな子供の部分を思い出させてくれる作品だと思います。

中島らも「お父さんのバックドロップ」


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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)