黒夜行

>>本の中身は(2013)

絶望(ナボコフ)

内容に入ろうと思います。
ベルリン在住のゲルマンは、プラハ出張の際、自分と「瓜二つ」の浮浪者に偶然出会う。フェリックスと名乗るその浮浪者と出会ったことで、ゲルマンは保険金殺人の計画を頭の中で練り始める。自分の周囲にいる誰をどんな風に説き伏せて、どんな風に行動に移せば、この「完璧な犯罪」をやり遂げることが出来るだろうか。ゲルマンは、様々な困難を乗り越えながら、ついにその犯罪に手を染めんとするのだが…。
というような話です。
僕は古典作品を読むのが苦手だという話はこのブログでも何度もしているので、今更恥ずかしいもなにもないのだけど、本書は、最後まで読んでも、うーん、という感じだった。どうして最後、あんなことになったんだろうなぁ、というのがよく分からなかったし、全然話が進んでいかない展開にもイライラさせられたりした。
ただ、本書には訳者による解説が巻末に載っているのだけど、それを読んで初めて本書がどんな話なのかきちんと理解し、「なるほど、そういうことだったのか!」と思わされた。ダメダメ過ぎますね。そういうことなら理解できる。なるほど、ラストああいう展開になったのは、なるほどなるほどそういうことなんでしたか、ということを、解説を読むまで気づかない、という体たらくである。ホントにこの、古典読めない病はどうにかしたいものだ。本書の場合、まず解説から読みたかったなぁ、という感じもある。ただ、解説では絶賛ネタバレがされているので、解説から先に読むことをオススメするわけではない。
ネタバレになるので、解説でどんなことが書かれているのかを詳しく書くわけには行かないのだけど、一点だけ。本書は、全体の体裁としては、「完璧な犯罪計画を立てた男が、自らの準備の過程と顛末を小説に仕立てている」という、まあ犯罪小説と言っていい作品なんだろうけど、でもその奥には、「小説を書くこと(読むこと)についての小説」という別の骨組みがある。説明されると、なるほどそういうことか、ナボコフすげーな、っていう感じになるのだけど、でも自分では、そういうの、読み取れないなぁ。
訳者はまた、こんな風にも書いている。

『ナボコフが最も嫌っていたのは、(中略)つまり、細部を読み飛ばしてストーリーや「作者の言いたいこと」だけをせっかちに読み取ろうとする凡庸な読者であり』

あぁ、これは僕のことだなぁ。というか、現代小説を読んでいる多くの人にも当てはまっちゃうんではないだろうか。僕が古典作品が苦手な理由は、まさにこの点にあると思われる。本書でも、ストーリーが全然進まないなぁ、なんて思いながら読んでいたわけで、まさにナボコフが最も嫌う読者として振る舞ってしまったわけだ。でもまあ、それもまた仕方なし。これ以上「読む力」を鍛えるのは、無理そうだしなぁ。
ナボコフの作品を読んだのは本書が初めてですが、訳者によれば、ナボコフが「ロリータ」によってアメリカで成功して以降の作品は、なかなか難解らしいです。でも本書は、ナボコフが駆け出しの頃にロシア語で書かれた作品で、その頃の作品は「ロリータ」などに比べたら読みやすいらしい。確かに、文章の調子なんかはなかなか軽妙で、難しそうなイメージだったんだけどナボコフってこういうライトな感じだったんだ、と勘違いしてしまうほどでした。僕は古典作品が超苦手なので、本作でも巧く読めませんでしたけど、難解と言われる(らしい)ナボコフの作品の中では、比較的読みやすい作品なんじゃないかなと訳者の文章を読んでいてそう思いました。

ナボコフ「絶望」


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回転ドアは、順番に(穂村弘+東直子)

内容に入ろうと思います。
本書は、共に歌人である穂村弘と東直子が、メールで短歌をつけあい、それを編集者が一遍の物語風に編集することで生み出された、ちょっと変わった詩集です。相手の歌や言葉にインスパイアされる形で短歌が次々と生み出され、数百回にも上るメールのやりとりを経て、男女の出会いから始まるストーリーが生み出されていく。
といいつつ僕は、本書を読みながらは、その「ストーリー」をきちんと理解出来はしなかった。文庫化に際して、両著者による自作解説が付記されたようだが、その自作解説を読みながら、なるほどこんなストーリーだったのか、と理解した次第。なんとなく漠然としたものは感じていたけど、説明されなければわからない部分もあった。
とはいえ、全体のストーリーがどうとかに関係なく、繰り出される短歌と、短くつけられた散文(詩)が、とても良い。すべてが好きなわけではもちろんないのだけど、短歌も散文(詩)も、凄く好きな雰囲気で、気になってしまうものが非常に多かった。
そんなわけで今回の感想は、自分が気になった短歌について、即興で感じたことを書く、みたいな感じで感想を書いてみようと思う。短歌をちゃんと読み始めたのは(と言っても2~3冊)、ここ1週間ぐらいのことなんで、短歌の解説とか読解なんてまあ出来るわけはないんだけど、まあ初心者の無知と傲慢さで押し通すとして、無茶を承知でやってみます。

「眩しくて 何も言わないゆびさきに触れる理由を考えていた」

具体的な光景が浮かぶわけじゃないんだけど、なんだろう、気になる短歌だ。「何も言わないゆびさき」という表現が、きっと一番好きなんだな。「眩しくて」というのがどこに掛かるのかちゃんと分からないんだけど、眩しいなっていう情景が、手を繋ぎたいっていう衝動と結びついたのかな。


「海で洗ったひまわりを贈る 未発見ビタミン的な笑顔のひとに」

これはもう「未発見ビタミン的な笑顔」っていう表現が図抜けて好きだなぁ。「未発見ビタミン的な笑顔」って、なんかよくわかんないけど、今まで見たことないような印象を残す笑顔だってことだよなぁ。しかも「ビタミン的」っていうのが、わっとした明るさみたいなのを含んでいて、前半部の「ひまわり」と併せて、全体の光の感じがとても素敵。


「相撲取りの手形にてのひら当てながらサイダー頼む夏の食堂」

こういうストレートな感じも嫌いじゃないんです。情景はストレートに想像出来るんだけど、「相撲取りの手形」から始まる非日常感と、着地点である「夏の食堂」の日常感の一連の緩やかな連続感がいい感じです。


「震えながら海からあがるもういいやモスバーガーに眠りにゆこう」

「震えながら海からあがる」っていうのが、そうそう、って感じします。真夏とかでも、海に入る瞬間と、海から出てしばらくしてからの寒さって、やっぱりありますよね。その「そうそう」っていう感じから、「モスバーガー」っていう固有名詞に振られる辺りもいい。っていうか、なんとなく、固有名詞が出てくると気になっちゃうんだよなぁ。


「終電を見捨ててふたり灯台の謎を解いてもまだ月の謎」

「灯台の謎」「月の謎」っていうのが、どんな謎なのか僕らには分からない、でもふたりには分かってるし、解けた喜びを共有出来るし、それは「終電を見捨て」るだけの価値のある喜びで、みたいなのが、するっと伝わってくる感じ。でもホント、「灯台の謎」「月の謎」って、なんだろうなぁ


「観覧車昇るよきみはストローをくわえて僕は氷を噛んで」

これは、「ストローをくわえ」る、「氷を噛」むというのが、男女のあり方を違いをうまく切り取っている感じがして良い気がします。確かに、「ストローをくわえ」るのは女性だし、「氷を噛」むのは男なんだよなぁ、と思えてしまう。飲み物を違った風に切り取って男女の違いを浮き彫りにする感じが素敵


「隕石で手をあたためていましたがこぼれてしまうこれはなんなの」

なんかこれは、凄く好きです。でも、なんでこれが好きなのかは、全然分からない。「隕石で手をあたため」るなんて、あり得ないシチュエーションだし、あたためている手から「こぼれてしまう」ものがなんなのかもわからない。わからないのは、あたためてる本人も同じなんだけど。なんなんだろうなぁ、この短歌は。不思議です。


「ゆめのなかでは十二羽の鳩である一人のひとを殺し続ける」

これも凄く好きなんだけど、なんで良いと感じるのか全然理解できない。正直、全然意味わかりませんしね。「十二羽の鳩である一人のひと」っていうフレーズがきっと凄く好きなんだけど、全然意味はわからない。なんか凄く、自分では抑えきれない衝動を抱えているのかな、って気もするけど、そうだとしてもきっとその本人も、それがどんな衝動なのかわからないんでしょうね


「自転車に鍵をかけたらもうここにもういられないなくしたんだもの」

これも、たぶん言葉の響きで好きなんだろうなという気がする。意味は、よくわからない。いや、これはたぶん、想像力があれば意味の通る内容なんだろうな。僕には、ちょっと捉えきれない。何をなくしたんだろう?どうしてここにはいられないんだろう?結局この人はどうしたんだろう?そういう広がりも好きなのかな。


「ひまわりの擬態を一晩したままであなたを待っていました ここに」

最後の「ここに」の余韻がまず好きなんだろうな。「ここに」なんなんだろう?来て?届けて?触れて?色んな言葉が入りそうだ。それと、「ひまわりの擬態を一晩」するという情景が、シュール過ぎて楽しい。もちろん実際にしたわけじゃなくて、そんな気分で「あなたを待っていました」ということなんだろうけど、それでも「ひまわりの擬態」をするような気分ってどんなだろう?ってちょっと楽しい


「やさしくてあまくくるしいあのゆめは柑橘類の戦争だった」

これははっきり、「柑橘類の戦争」っていうフレーズに惹かれています。どうしてこんなフレーズを思いつくんだろうなぁ。意味は全然わかんないんだけど、とにかく「柑橘類の戦争」っていうフレーズの響き、イメージ、広がりみたいなものが素敵です。


「うわごとで名前を呼んでくださればゆきましたのよ電車にゆられ」

これは凄くいいですね。東直子はこういう会話調の短歌を結構書くイメージがあるんだけど、「これを実際に言ってるんだとしたらなんか惚れるな」っていう感じ。特に「うわごとで」が見事ですね。ただ名前を呼ぶだけではない、「うわごとで」呼ぶ、というところが、苦しさとか淋しさとかまとまりのつかない気持ちとかが内包されているような感じがして素敵です


「トマトジュースのグラス掲げてウエディングドレス溢れる廊下を泳ぐ」

情景はパッと浮かぶのにあり得ない光景。あり得ない光景なのに、情景はパッと浮かんでしまう。短歌の中には、そういうものて結構あるイメージがあって、これもまさにそう。「ウエディングドレス溢れる廊下」で何故「トマトジュースのグラス掲げて」いるのか。最後の「泳ぐ」という表現も、ウエディングドレスが周囲を囲っている感じ、そして選んでいる人、選んでいる人を見ている人のウキウキした感じが伝わってくるようで良いと思います。


「くちづけは暴走族の落書きのまるで読めない漢字の前で」

情景はパッと浮かびます。でも、あれ?とも思う。まずこれは、誰かが誰かに向かって言っているのか?(落書きの前でくちづけをしようよ、と言っているのか) あるいは、そういう情景を切り取っているのか。それが男女どちらの意志なのか分からないけど、相手の意志に身を任せた方は一体落書きの前でくちづけすることをどう感じているのか。言っていることはわかりやすいのに、色んな疑問符が瞬時に立ち現れる、というところが好きなのかな


「水かきを失くした指をたまさかに組みかわすとき沁み合うものを」

これはもう完全に、「水かきを失くした指」という表現にグッときています。凄いよなぁ、こういう発想に到れる人って。「水かきを失くした指」って、結局普通の指のことなのに、「水かきを失くした」って言われるだけで、凄く大事なものを失ったような(元から持ってなかっただけなのに)気分になってざわざわします。凄いと思う


「空転の車輪しずかに止まっても死につづけてる嘘つきジャック」

これも凄く好き。情景は全然分からないけど、「止まっても」「死ぬ続けてる」っていうこの対比が好き。自転車で事故にでも遭ったのか。それで、自転車も人も弾き飛ばされる。自転車の車輪は空転し、しばらく動的な世界に身を置くけど、やがてそれも止まってしまう。しかし、もうその頃にはずっと、「嘘つきジャック」は「死につづけてる」わけだ。「嘘つきジャック」というのもなんだかよくわからないけど、でもピタっとくるような感じがある


「手術台でブルーベリーの口移しめざめるめざめるめざめるために」

「手術台でブルーベリーの口移し」っていう光景がちょっと凄まじいな、と。しかもそれが「めざめるため」なわけです。意味が分からない。その支離滅裂な感じが、これを実行している(あるいは実行しようとしている)人間の支離滅裂さを表現しているようで、なんか好きです。


「(いちばん近い消火器までの距離×虫歯の数)にて永遠に待つ」

こんなん、一体どうやって思いつくんでしょう?僕が100年考えても、絶対にこんな文章頭の中から出てきません。この短歌は、その発想の跳躍度合いに驚かされた。



「「洪水の中であなたはなにもかも失ったのよ」写真は笑う」

これも、情景がパッと浮かぶ感じがします。「「洪水の中であなたはなにもかも失ったのよ」」と自分に言い聞かせている。失ったものの大きさを噛み締めている。そしてそれは、二人で撮った笑っている写真を見ることで、より増幅されていく。恋愛の短歌だ、という知識なしで読めば、「洪水」というのをそのまま受け取って、大震災によって「なにもかも失った」人が、流されずに残った一葉の写真の中の笑顔に気づく、という風にも読めるかも。


「歩くなら一人がいいの青空に象のこどもがうまれたように」

パッと情景が浮かびますね。「象のこども」というのは、きっと雲のことでしょう。青空に、ポッと生まれた小さい雲の塊。まるで「象のこども」のように見えるその雲が青空にぽつんと浮かんでいるみたいに、私は一人で歩きたい、という感じでしょうか。ストレートな感じが好きなんだと思います。


こんなんで内容に触れたことになるのかどうか分からないけど、パラパラページをめくるだけでも気になる短歌が見つかるだろうし、初めから読んでいくと、きっと分かる人には、男女の恋が深まっていく過程が、短歌という短い表現によって浮き彫りにされる感じを味わうことが出来ると思います。物語るという観点からすると、凄く斬新で新しい表現だと思うし、独立した短歌としても気になる作品が多いように思いました。こんなメールのやりとりをずっと続けられる相手がいる、っていうのはなんかいいですね。是非読んでみてください。

穂村弘+東直子「回転ドアは、順番に」


数学で織りなすカードマジックのからくり(パーシ・ダイアニコス+ロン・グラハム)

内容に入ろうと思います。
本書は、まさにタイトル通りの作品で、トランプを使ったカードマジックの内、「数理奇術」と呼ばれる、奇術の背景に数学的な理論や理屈が隠れているものについて、奇術的な側面からと、数学的な側面から描き出す、非常に変わった数学の本です。
著者の一人であるパーシ・ダイアニコスは、ハーバード大学で手品に関する数学の研究をしている世界屈指のカードマジシャンだそうだ。世界屈指のカードマジシャンでありながら、ハーバード大学の教授というのも、なんというか凄い話である。本書には、講義の中で学生にこんな問題を出した、学生がこんな奇術にまとめてきた、というような奇術が幾度も出てくる。まさに講義の中で学生たちとやりとりを繰り返す中で、新しい奇術を発見し、また、カードマジックの方から何か数学的な知見を見つけ出したりもする。
一方の著者であるロン・グラハムは、詳しいことは書かれていないのだけど、ジャグリングを専門とする人のようだ。この二人が、お互いの専門分野を扱いながら、奇術やジャグリングの中に隠れている数学について語っていく。
本書については正直なところ、ほとんど書けることがない。というのも、数学の話が凄く難しかったからだ。数学の本はそこそこ読んでいるのだけど、本書は結構ガチな数学の本だった。どうにかギリギリついていける話もあれば、あーこれはもう無理、という話まで、難易度は様々だったけど、とにかく、きちんと理解しようとした場合、本書の数学の描写はとても難しいと思う。一般的でない(というのは僕にとって、一般的な数学の本にあまり出てこない、という意味)数学ばかりが扱われる。本書では、デブロイン系列・万有巡回系列・マンデルブロー集合・サイトスワップ系列など、今まで聞いたことがないような数学の話が描かれていく。知らない数学の話を知ることはとても楽しいのだけど、どうしても難しく思えてしまう。
また、本書で描かれる数学の話が難しく見えるのには、僕にカードマジックの素養がない、という点もあるだろうと思う。カードマジックをそこそこやったことがある人であれば、扱われている現象そのものについて恐らく馴染みがあることだろう。本書では、カードマジックにおける最大の発見であるギルブレスの原理が、マンデルブロー集合とどう関わっているかという話が描かれるのだけど、カードマジックをたしなんだことがある人であればギルブレスの原理はまず間違いなく知っているだろうし、馴染んでいることでしょう。でも僕は、ギルブレスの原理そのものを本書で始めて知ったので、カードがどう動いてどう変化していくのかというイメージを持つこともなかなか難しかった。そういう意味で、数学的に難しいという部分ももちろんあるにはあるのだけど、カードマジックに馴染んでいる人であればそこまで難しさを感じない内容かもしれないとは思う。
本書を読んで感じたことの一つは、「ある種のマジックは、見ていても絶対に分からない」というものだ。
テクニックや手技などによって実現される奇術であれば、カメラで撮ってスロー再生するなど、どうにかして「手がどんな風に動いているのか」を観察出来るかもしれないし、それによってどうにかその奇術を支えている原理を読み解くことが出来るかもしれない。
しかし、数理奇術の場合、それは不可能だ。演者がやっていることを丸々公開したところで、その背景にある原理は絶対に理解できない。何故ならその背景は、本書で描かれているような複雑な数学が支えているからだ。本書では、奇術のネタばらしがいくつも描かれている(奇術を支える原理を数学的に説明しなくてはいけないのだから当然だ)。それぞれの奇術は、準備が必要だったり手順が長かったりするものもあるが、どれも非常に面白いと思う。実際にやることが出来れば(そして、本書で描かれている奇術は、手技を必要とするものではないので、やり方さえ覚えれば誰にでも出来る)、見ている人を驚かせることが出来るだろう。本書で描かれているカードマジックのいくつかを実際に自分で練習してみて、カードの動きなんかをちゃんと体得してから、あらためて本書の数学の話を読んでみたいものだと思う。
本書の基本は、トランプマジックの原理を数学的に解明する、という点にあるが、それだけではない。数学的に得られた結果をさらに新たなトランプマジックに活かせないかという試みもあり、またトランプマジックの原理を数学的に解明するだけではなく、トランプマジックが新たな数学領域を押し広げることさえある。また、トランプマジックから始まった話が、暗号作成やDNAの読み取りにまで発展する。トランプマジックというものを一つの出発点として、様々な方向にその手を伸ばし、知的好奇心でもって前進していく。「手品に関する数学」が、これほどの奥深さを持っているとは、驚きである。そもそも僕は、トランプマジックの一部が数学によって支えられている、ということもちゃんとは理解していなかったので、本書は色んな意味で新しい知見をもたらしてくれる作品でした。
数学の話は非常に難しいので、スルッと読める作品ではないのだけど、テクニックがなくても出来るトランプマジックがいくつも載っているし、数学が現実の世界で役立つということを意識できる作品でもあると思います。本書を読みながら、トランプマジックをちょっと練習してみようかなと思います。

パーシ・ダイアニコス+ロン・グラハム「数学で織りなすカードマジックのからくり」


言壺(神林長平)

内容に入ろうと思います。
本書は、「言葉」に空想の翼を与え、「言葉」というものの危険性や可能性を最大限に夢想した、9つの短編が収録された作品です。
物語の中には、ベースとなる基本的なモノが存在する。それが、「ワーカム」と呼ばれる万能著述支援用マシンだ。「ワーカム」は、著述者が書いてきた文章などから著述者の思考を読み、それを先回りし、整理し、より洗練させることで、著述者の著述行動を全面的に支援するマシンだ。ワーカムなしでも文章は掛けるのだが、ネットワークにも接続され、あらゆる著述業が主にワーカムを介してなされる世界になってしまっているため、ワーカムなしで生きていくことはもはや難しい。そんな時代をメインに描き出していく。

「綺文」
作家であるおれは、ワーカムからある文章の入力を拒絶されている。「私を生んだのは姉だった」という一文だ。ワーカムはこの文を、明らかな誤りとして受け付けない。でもおれが書きたいのはこの文章なのだ。困って友人の技術屋に助けを求めるが…

「似負文」
売れない電送作家である水谷は、ある日突然わけもなく自宅から連れ去られる。弓岡と名乗る男は、水谷からすれば信じられない任務に就いているようだが、そんな弓岡が水谷の力を借りたいのだという。ある「言葉」が読めなくて困っているというが…

「被援文」
ワーカムに慣れきった作家が、久方ぶりに手書きで文章を書いている。わたしにとっては、作品を物理的な本という形にしてくれる有能な編集者だった長尾の死が、わたしを不安定にする。わたしは手書きで文章を書きながら、ワーカムとはどのような存在なのかについて思考する。

「没文」
陸地が消え、八百階建ての高層ビルに住み始めるようになった人類。人類は皆、物語を創作することで生きるようになったが、階毎に生み出す物語に違いがある。時々、海の底から、かつて紡がれた「本」という物理的な形を持つ物語が見つかる。

「跳文」
兄に呼ばれて作家のパーティに出るが、そこで、それまで弟のぼくの意見など一顧だにしなかった兄から相談を受ける。自分が使っている著述支援システムがおかしいのだという。おかしいのはわかるのだが、どうおかしいのかがどうしてもわからない。俺は狂っているのではないか、と…。

「栽培文」
言葉は、栽培ポッドと呼ばれるものに入れて栽培するものになった。いや、元々そういうものだったのだが、人類は「文字」を「言葉」の本質だとずっと捉えてきて、その本来の姿に気付かなかっただけなのだ。今では誰もが、自分や相手が育てている言葉を「見る」ことが出来るし、意志の疎通はすべて栽培ポッドを通じて行われるようになった。

「戯文」
私はなかなか眠ることが出来なくなった。物語を書いていると、切り替えが難しい。今までは犬の散歩がよい気晴らしだったようだ。愛犬が死んでからその存在の大きさを知る。私を眠りにつかせるようになったのは、偶然の出来事だった。ワーカムを通じて、久しく音信のない父親とテキストモードで会話をすることになったのだ。

「乱文」
内容紹介省略

「碑文」
内容紹介省略

というような話です。
これはなかなか素晴らしい作品でした。徹底的に「言葉」というものを突き詰めて考えている。僕らは言葉というものを、特に意識することなく、まるで空気のような存在として扱っているだろう。どこからやってきたのか、何故その言葉はそういう意味なのか、言葉の本質とはどこにあるのか、何故言葉は「聞く」と「見る」がメインなのか…などなど、そういう疑問を抱くことはきっとほとんどないはずだ。言葉は便利だ、言葉があってくれて良かった、などと思うこともきっとないだろう。ごく普通の人にとっては、言葉は「あって当たり前」のものであるし、繰り返すけどまさに空気のようなものなので、普段その存在を意識することは非常に少ないはずだ。
しかし、言葉というのはなかなか不思議なものだと思う。日常的にそんなことを考えているわけではないのだけど、僕は時々そんな風に考えることがある。
例えば、大した話ではないのだけど、こんなことを考えることがある。日本語だとよく、「女女している」とか「眼鏡眼鏡している」というような表現が使われる。この意味を、簡潔に説明することは難しいような気がするけど、でも大抵の場合、こういう表現を聞けば、なるほどそういうことか、と伝わる。
あるいは、同じような言葉として、「フラグ」という言葉がある。これは元々はオタク界隈から生まれた言葉だったはずだろうが、今では一般的に使われているだろうと思う。でもこの「フラグ」という単語、意味を説明しようとすると、非常に難しい。スパッとした、見事な説明を、今まで聞いたことがないような気がする。
こういう言葉は不思議だ。どうしてこんな表現になったのか、そしてきちんと意味を説明するのが難しいにも関わらず、どうしてそれが一般的に使われるまで広まったのか。こういうことを考える時、言葉の不思議さにいっとき囚われる。
本書は「言葉」を扱った作品であり、さらに「ワーカム」と呼ばれる著述支援マシンが登場するために、作家や創作者が物語の中心にいることが多い。そのため、「書くということ」「物語を生み出すということ」についての思索はやはり多い。「ワーカム」という著述支援マシンが登場することで、「書く」という行為はどのように変化したのか、「物語」の役割はどんな風に拡張したのか、という部分が、まずは中核として描かれることが多い。
それらの物語も、非常に面白い。僕もこうして、日々駄文をタイプしているのだけど、僕は間違いなく、パソコンがなければ毎日こんなに長々と文章を書くことはしなかったと断言できる。手書きでも、スマートフォンでもダメで、パソコンのキーボードがなければ僕は文章が書けない(このブログのような長い文章は、ということだけど)。それは僕の思考のスピードとタイプのスピードが限りなく並走する、という点が一番大きいだろう。手書きでもスマートフォンでも、自分の思考に追いつかない。唯一、キーボードだけが、それでもまだ遅いけど、自分の思考になんとか並走出来る出力方法なのだ。僕はこうして文章を書いている時、あらかじめ文章をまったく考えていない。書きながら考えている(そもそも、書く前に文章を考える、なんていう時間はない)。タイピングをしながら、そのちょっと先に何を書こうかということを考えながら常に文章を打っている。
初めからそんなことが出来たわけではなくて、長年の訓練の結果だと思うのだけど、だからこそある時、自分のやっていることが不思議だなと思えるようになったことがある。一体僕は、文章をどこで考えているのだろう。当然、頭で考えている、というのが普通の答えだ。でも、ある時から僕の感覚としては、指先が文章を考えている、という方が近いような感覚がある。もちろん、長い文章を書いている時、立ちどまってしまうこともある。そういう時に、改めて書き始めるその瞬間には頭で文章を考えているような気はするのだけど、一度タイピングを始めてしまえば、後は指先が文章を書いているような感覚になる。実際は頭で考えているのだろうけど、実感としては違う。これが非常に面白いと感じる瞬間がかつてあったような気がする。
「ワーカム」で文章を書く、というのも、もしかしたら僕のこのような違和感の延長線上にあるのかもしれない。「ワーカム」を使って文章を書く人は、確かに自分で文章を書いていると感じている。出力された文章も、自分の文章だ。しかし、やはりどこかで、自分以外の誰かが書いた文章なのではないか、という思いが入り込む。自分の書きたかったこととは違うのではないかと疑いを持つようになる。そういう、著述者の思考や不安を丁寧に拾い集めていく物語も非常に面白いと思った。
しかし僕は、そうではないタイプの物語の方がより面白いと感じた。そうではないタイプの物語では主に何が描かれるかというと、「言葉そのもの」が描かれていることが多いように思う。
「言葉」とは一体何なのか。
日常的に言葉を使っている僕らからすれば、言葉というのは情報伝達の手段でしかないかもしれない。
でも本書を読むと、「言葉」の本質はそれだけなのだろうか?他にももっと違った機能が搭載されているのではないか、という疑いを抱くようになるのではないかと思う。
例えば本書の中では、「言葉によるウイルス」という話が出てくる。これは、原理的にはきちんと理解できているわけではないのだけど、読んでいると、なるほどそういうものの存在も許容されるかもしれないと思わせる作品に仕上がっている。ウイルスは、生物学的に言うと、生物と無生物のあいだに属する、ちょっと特殊な存在だ。定義次第で、生きているとも言えるし、生きていないとも言える。同じことが、言葉に対しても言える可能性がある。僕らの常識からすれば、明らかに「言葉」は生きていないだろう。でも、もしウイルスを「生きている」と定義するのであれば、同じ定義の方法で、言葉も「生きている」と定義出来る可能性があるのではないか?そんな風に思わされた。
また本書の中で、お金と言葉を比較する文章が出てくる場面がある。

『金も幻想だよ。ただの紙切れにすぎないのに、勝ち幻想を皆が共有することで、仮想世界が成り立っている。言葉も同じだ。ヒトは言葉を持ったときから幻想空間で生きるようになったんだ』

これは非常に面白いと思う。そう、まずお金は幻想だ。「1万円札」はただの紙切れだが、しかし皆がそれに価値があると信じ、皆が信頼している存在(=政府)がその価値を保証することで、「1万円札」は貨幣としての価値を持つ。
言葉も、同じ単語を同じ意味で使っている、という幻想がなければ成り立たない。そういう意味で幻想の上に成り立っていると言えるが、さらに言葉の場合、面白い現象がある。
心理学か何かの実験で、「ブーバキキ実験」と呼ばれる有名なものがある。被験者に二つの図形を見せる。片方はトゲトゲとした図形で、もう片方は丸っこい図形だ。その二つの図形を見せながら実験者は、「どちらがブーバで、どちらがキキですか?」と問う。すると、多くの人が、尖っている方をキキだと、丸っこい方をブーバだと答えるのだという。
これは一体どういうことだろう?ブーバもキキも、固有名詞ではないし、どちらの図形もブーバやキキと言った意味のない単語を連想させるはっきりとした属性などないはずだ。しかし多くの人が、同じ選択をする。これは、「言葉」というものには、それを使っている人間には意識できないレベルでの幻想性が付帯されているということなのかもしれないと思う。それはすなわち、言葉というものは、僕ら人間が意識している以上の可能性を持つ、つまりただの情報伝達のための手段だけではない、ということを示唆するのではないか。本書は、「示唆するのではないか」という、まだ人間が意識できない部分を、物語として紡ぐことで可能性を提示した。その見事な創造性によって、「言葉」という存在が拡張されていく有り様を、読者は知ることが出来るだろう。
僕らが日常的に何気なく使っていて、意識することのない「言葉」という存在。それが実は不思議な可能性を持つかもしれない、僕らが意識出来ないだけでもっと広がりを持った存在なのかもしれない、と思わせてくれる作品です。この作品が、1990年前後に描かれていた、ということは、やはり驚愕に値するでしょう。是非読んでみてください。

神林長平「言壺」


俳句いきなり入門(千野帽子)

内容に入ろうと思います。
本書は、「まったくの俳句未経験者、あるいは「俳句って年寄り臭い趣味でしょ」と思いこんでいる人、つまり俳句の「外」の人を読者に想定している」と著者が書くように、まったくの初心者がどうやって俳句の世界に足を踏み入れていけばいいのかという、超実践的な作品です。
著者は、俳句の専門家というわけでは全然ない。基本的にライターの仕事をしていて、学生の俳句を教えることはあるが、一般的な俳句の世界(俳壇というのか?)みたいなところにいるわけではないし、本書を読む限り恐らく、そういう俳壇的なところからは異端視されるようなことばかり書いている。
本書の「まえがき」には、「俳句についてこんなイメージを持ってたりします?」という10個の設問が用意されている。当てはまることが多い、つまり、「俳句ってこんな感じのものだよね」というイメージが強い人ほど、底から抜け出すことが難しいと著者は語る。
本書は、俳句未経験者が持つ「俳句へのイメージ」を、様々な形でぶった切って行く作品だ。
僕は俳句について強いイメージを持っていたわけではないのだけど、「俳句って自分の言いたいことを短く表現するものだよなー」ぐらいの漠然とした感覚はあった。
しかし、著者はまずこのイメージを粉砕する。

『言いたいことがあるときには俳句なんか書くな』

『俳句では自分より言葉の方が偉い』

『「俳句は文学である、自己を表現するものである」という国語の授業的な思いこみは、「自分」というちっぽけな器のなかに自分の俳句を囲いこんでしまう枷にしかならない。「自分」の外側にある言葉は無限なのに』

『「俳句は、自分の言いたいことを言うものじゃない」ということ。このことをわかっていないと、いくら技術論をやってもムダだと思う。
この本でいいたい最大のことは、「言いたいことがあるなら俳句なんて書くな」ということだ。あなたの俳句の最大の的は、あなたの「言いたいこと」なのだ』

いかがだろうか。まずこの時点で、相当印象は変わるのではないだろうか。実際に本書を読んでみると、かなり納得感がある。特に、「「自分」の外側にある言葉は無限」という言い方には、なるほどと思わされた。自分の内側にある思いや感覚や言葉には、どうしても限界がある。そこから何かを掬いあげたところで、結局それは狭い表現にしかならない。だったら、自分の外側にある言葉にアプローチする方が面白いじゃん、と著者は書く。
自分の言いたいことを書かないのであれば一体何を書くのか。著者は、「俳句とはモノボケだ」と書いている。言葉を使ったモノボケなのだ。俳句とは年寄り臭い趣味ではなく、「季語」と「それ以外」という二枚のディスクをつなぐDJなのだ、と著者は言う。気持ちを言葉に乗せるのではなく、言葉の面白い組み合わせ、以外な相互作用、不可解な言語的飛躍、そうしたものを目指す高度な言語ゲームなのだ、と著者は言うのだ。
こう言われると、俳句というものへのイメージが結構変わるのではないだろうか。僕は、結構変わった。実作するとしたらまだまだハードルは高そうな気はするけど、「自分の言いたいことを言うわけではない」「言葉の面白い組み合わせを目指せ」なんて言う風に言われるだけで、俳句が全然違うものに見えてくるから不思議だ。
さらに本書では、「俳句を作る」ことよりも、「他人の俳句を読んで評価する」ことの方が圧倒的に大事で面白い、と書く。それを踏まえて著者は、一作も作らなくたって句会は開けるのだ、という主張までしてしまう。

『「俳句を作るために句会を開く」のではなく、「句会を開くために俳句を作る」と私は考えている。句の意味は作者が決めるものではなく、その場の優れた読み手たちが会話の中で発見するものだ』

『俳句なんか一句も作ったことがない、まったくの初心者だけでも、これからお読みいただく方法なら、句会を開くことができる。一句も作らずに』

『「句を出すこと」が句会の参加条件ではない。「他人の句を読んで投票し、句評すること」が句会の参加条件だ』

『「投句しないけれど選句・句評はちゃんとする」という人がいれば、その人たちも同等の資格で句会に参加している、と思う。私のなかでは重要度から言って「句会のための俳句」になっている。
句会の盛り上がりを決めるのは、くどいようだが作句よりもむしろ読み、句評である。俳句を作るのは句会のため、句会を開くのは飲み会のためなのだ』

これは非常に斬新な発想だなと思った。まさか一句も作らずに句会が開けるとは(実際本書に書かれている方法をそのまま踏襲すれば、今すぐにでも誰にでも句会を開くことが出来るだろう)。句会は、作句が重要なのではなく、選んで評価することが重要なのだという主張も、本書を読むと納得出来る。それは、著者のこんな考え方が背景にあるからだ。

『自分の句にどんな意味があるかは、句会にならなければわからない。句会になればわかる。意味は他人が作ってくれる』

『この点で俳句は一発芸である。句を作った本人も、作った瞬間には句の意味がわからない。作った本人は作者でありながら最初の解説者でもある』

この「意味は他人が決めてくれる」という部分の説明のために、著者は「川柳」との比較を持ち出す。

『つまり、川柳では「意味がわかる」ことがなにより大事なのにたいして、俳句では「よさがわかる」ことが大事で、「意味がわかる」の部分は二の次ということだ。だから、「意味がわかるものしか、よさがわからない」という人には俳句は無理なんです』

川柳は、どんな人が読んでも「あぁ、そうそう」と理解できる、という点に主眼が置かれる。しかし俳句では、作った本人ですら、その意味が分からないことがある。意味は分からないけど、でも良さはわかる。そういうものが俳句なのだ、と著者は語る。面白いですねぇ。
著者が「俳句の意味は他人が決める」と主張している背景には、元々俳句が「連句」と呼ばれるものから独立したものだ、という点がある。連句とは、五七五の後に、別の誰かが七七をつけ、さらにその七七に別の人が五七五をつけて展開していく遊びだった。その発句と呼ばれる一番初めの五七五が独立して俳句となったのだ。
つまり俳句というのは元々、次の七七へ引き継がれるものであり、それ単体で独立しているようなものではない。本書には、こんな風に書かれている。

『俳句って読んだ側が「これってこういうことだよな」「いや、こうじゃないか?」と会話する作業(つまりいろんな七七)へと開かれていくのが楽しいものじゃないですか』

『これまで書いたとおり俳句は「外に預ける」ものであり、句会の良し悪しは提出された俳句やその作者よりも、読む人・コメントする人の仕事で決まる』

『要は、俳句を作るときに「自分」の仕事を最小にすること、そして意味不明な句ができても「だれか読み手が意味を見つけてくれる」と信頼することです』

本書では後半で、実際に俳句を作る際の技術的なルールについてかなり細かく描いてくれるのだけど、その部分は是非本を買って読んでみてください。本書は、なにはともあれこの前半部の、俳句というものに対して多くの人が抱いているだろうイメージを粉砕する、という機能が非常に面白いと感じました。本書を読んだら、ポーンと素晴らしい俳句が書けるようになる…かどうかは人それぞれでしょうが、少なくとも、著者が「ポエマー」と呼ぶ、ちょっとイタい俳句を作る人にはならずに済むんじゃないかな、と思います。本書で書かれていることは、俳壇的な人たちからすれば噴飯物なのかもしれないけど、僕自身はとても面白いと思ったし、なるほどそんな風に考えていいんだ、と思えたので、俳句に興味を持つことが出来ました。僕も断然初心者(ってか、作ったことない)ですけど、誰か句会やりましょう(笑)。是非読んでみてください。

千野帽子「俳句いきなり入門」


光秀の定理(垣根涼介)

内容に入ろうと思います。
本書は、かの有名な「本能寺の変」を起こした明智光秀が、まだ無位無官だった頃に出会った坊主と素浪人との付き合いを主軸とし、怒涛の出世を遂げていくまでを描く作品です。
故郷で食い詰め京にやってきた新九郎という素浪人は、辻で賭け事をやっている坊主に出会う。名を愚息というその坊主は、なんのからくりもないように見えるのに、相手に大差をつけて勝っている。その訳を聞こうと話しかけたのだが、のらりくらりと交わされたまま、逆に馬鹿扱いされる始末。
その愚息、新九郎が金に困って人斬りをしようという夜に必ず姿を現しては、新九郎の邪魔立てをする。新九郎としては、なかなか厄介な男だった。
そんなある夜。いつものように人斬りをしようと待ち伏せていたところに、見目麗しい男が通りかかる。
明智光秀である。
新九郎は彼に挑まんとするが、力量の差を知った光秀はすぐさま降参。その様子を見ていた愚息が、お前の負けだと新九郎に告げ、新九郎としてはいたたまれない思いに駆られる。
ともかくも、三人はそのようにして出会った。
釈尊以外のどんな存在も信じることなく、身分の上下などクソ食らえだと思っている、気持ちは爽やかだがところどころ扱いにくい愚息と、愚息にアホだと言われてどうしていいのかわからず終いの、剣の腕だけは立つ新九郎。そして、「道三崩れ」によって散り散りになった明智一族の再興を常に考えている光秀は、各人が己の信じる生き方でこの戦乱の世を生き抜いていく。
世捨て人として生きる覚悟を決めた二人に信頼を起き続けた光秀が、晩年行き着いた「定理」とは、一体なんだったのか?
というような話です。
なるほど、これは巧く出来た小説だな、と感心しました。
恐らく普通の人(本書を読むような歴史好きな人)であればきっと、「光秀ってこんな人だったのか!」というような部分に感心するのではないかと思います。僕自身は歴史はさっぱりわからないので(あまりにも基本的な知識さえない)、明智光秀と言えば本能寺の変の人、という知識しかなく、「それまでこんな風に思ってたけど実はこうだったのか!」というような驚きは持ちようがありません。強いて言えば、信長に対しては、ちょっと印象が変わったような気がします。粗野で乱暴者、みたいなイメージだったような気がするんだけど、でも本書を読んでいると、信長ってなかなか凄かったんだな、と。でも、その元々持ってたイメージも、もしかしたら秀吉と混ざってる可能性があるんで、なんとも言えませんけど。
というわけで僕には、歴史的な部分で感嘆することは出来ません。恐らく本書は、史実では悪く描かれているだろう明智光秀という人物を、実はこんな人間だったのだ、とイメージを転換させるような物語に仕上がっているのだろうと思うのだけど、正確なところは僕にはよくわかりません。とはいえ、元々のイメージがまったくない人間でも、本書で描かれる明智光秀の姿にはとても好感が持てます。生真面目で、どこまでも生真面目であったが故に追い詰められてしまう。その生真面目さが優位に働くことも当然あっただろうが、多くの場合、戦乱の世では不利に働くことが多かったのではないかと思う。その不器用さが、なんとも言えず好ましいです。
さて、僕が感心したのは、まったく別の点です。
本書は、歴史小説でありながら、同時に、数学の確率の問題が扱われている。どちらもその発端は、愚息が辻で行っている賭け事である。
一方は、非常に簡単だ。3つのサイコロを同時に投げた時に、一つでも6の目が出たら相手の勝ち。6の目が一つも出なければ愚息の勝ち、というものだ。
これは、基本的な確率の考え方を知っていれば、誰でも理解できる。どう考えても、愚息が勝つようになっているのだ。
問題はもう一つの方。
4つの椀を用意する。その内の一つに小石を入れ、すべての椀を伏せる。相手は4つの内から一つ、小石が入っている椀を予想して選ぶ。愚息は、小石が入っていない椀を二つ取り除く。すると、伏せられた椀は二つになる。ここで愚息は再度相手に問う。選択を変えるか否か。そうやってすべての選択を相手に委ね、結果愚息は勝ち続ける。
これは本書の冒頭で出てくるシーンなのだけど、これを読んだ瞬間、なるほどこれは「モンティ・ホール問題だ」と分かった。
これは恐らく、世界で最も有名な確率の問題の一つと言っていいだろう。
「モンティ・ホール」というのは、かつてあったアメリカのテレビ番組の名前(だったか、その司会者の名前)だ。クイズ番組であり、その最後に、愚息がやった椀の賭け事のようなやり方で回答者に賞品を選ばせるコーナーがある。
そのクイズ番組をモデルに、新聞紙上(か雑誌誌上)で、後世にまでの残る有名な問題を提示したのが、ギネスブックに世界一のIQの持ち主として記録された(今もそうかは知らないけど、少なくともその当時は)女性だった。その女性は、そのクイズ番組をモデルにして、ある確率の問題を出し、答えも提示した。
しかしその答えに、世界中の数学者が猛反論したのだ。ここで反対を示した数学者の中には、現在まで名前が残るほど素晴らしい業績を残した超天才数学者もいる。彼らは、女性が示した答えが「明らかに間違っている」として反論を繰り広げたのだった。
しかし結果は、その女性の言うことの方が正しかった。世界中の数学者の方が間違っていたのだ。
という、あまりにも有名な逸話を持つ確率問題が「モンティ・ホール問題」です。
これは本当に難しい。僕もいくつか、モンティ・ホール問題に関する本を読んだことがあるけど、やっぱりすんなりとは理解出来ない。どうしても、惑わされてしまうのだよなぁ。本書でその理を説明した際に提示したやり方が、確かに一番理解しやすいと思うのだけど、それでもやっぱり、するっと理解できるわけではないだろう。
だから、本書を読んで、この問題の答えが理解できなかった人は、理解力がないと悲しい気持ちになる必要はありません。天才数学者の一人に数えられるエルデシュも、何度説明されても理屈に納得出来ず、コンピュータのシュミレーションを見させられることでようやく納得した、という逸話が残っているほどです。
さて、僕が感心した点は、「モンティ・ホール問題を小説の中に登場させた」ということではない。ただ登場させるだけなら話題としたポンと出せばいいだけのことで、別に難しくもなんともない。あるいは一例を挙げるとすれば、「夜中に犬に起こった奇妙な事件」という小説にも、チラッとモンティ・ホール問題は登場した。
しかし本書の場合、ただ登場したというだけのことではないのだ。このモンティ・ホール問題が、物語の非常に重要な部分と密接に結びついている、という点が素晴らしいと思った。まさか世界一有名なこの確率問題を、こんな風な形で歴史小説の中に組み込むことが出来るのか、とその手腕の見事さに感動しました。本書は、決してその部分だけが素晴らしいわけではなくて、全体的にとても秀逸な歴史小説だと思うのだけど、僕自身としては、他のどんな要素よりも、まずこの点に衝撃を受けて、お見事!という感じを受けました。結果的にはこの確率の話が、愚息の「自由で権力に染まらず信じた人間を信じきる」という側面を非常によく描き出す助けにもなっていて、特に本書の中で、愚息が四つの椀の理を明かす場面なんかは、まさに愚息の真骨頂、というような感じもしました。本書から確率の要素を除いたとしても本書は十分成立しただろうけど、確率の要素を加えることで、光秀の必死さに彩りを加え、新九郎が自らの歩をわきまえるきっかけを作り、さらに愚息の自由気ままな生き方をより強く表現できたのだろうと思うと、確率と歴史小説というまったく相容れなさそうな二つの要素をこれほどまでに見事に融合した著者に拍手という感じでした。
まあ確率の話はこれぐらいにして。
本書は、確かに光秀の話なのだけど、やはり歴史の知識がなく、元々の光秀のイメージがない僕には、光秀という人物に強く惹かれるのは難しいと思いました。光秀という人物は非常に好ましい男として描かれるのだけど、やはり必要以上に生真面目で、奔放さに欠けるきらいがある。恐らく、光秀に対して何らかのイメージを最初から持っている人にはきっと、本書の光秀の描かれ方は新鮮に映るのではないかと思うのだけど、僕自身にはそういう感覚はやはりない。
僕はやはり、新九郎と愚息のあり方に惹かれる。
新九郎の場合は、その人間的成長の著しさみたいなものに強く惹かれてしまいます。愚息に出会った当時の新九郎は、自らの剣の力を過信(実際に強いのだけど)するだけの若造で、愚息からすればどこかでぽきりと折れてしまいそうな、しなやかさの欠片もない男に映ったことでしょう。しかし、愚息と生活を共にし、様々な場面で、自ら考えるという訓練をさせられた結果、新九郎は人間的に驚異の成長を遂げていくことになる。新九郎の、「人とは所詮、自分の得手とすることを通じてしか、賢くなれぬ」という境地は、新九郎の出発点から見ている読者としては、大きくなったなぁと、まるで自分の子供の成長でも見ているような感じで清々しくなることでしょう。
そしてさらに輪をかけて見事なのが愚息だ。愚息の凄さは、どんな場面でもブレないこと。真っ直ぐとした芯がドンとある。その芯は、世間一般の価値観からすれば非常に外れていて、だからこそ愚息は、荒れ寺のクソ坊主のままで居続けることになるわけなのだけど、本人はそれを気にする風でもない。どんな相手であろうと上下の関係を嫌い、報酬を受け取らず、しかし信じた人間のためであればそれこそ命を張ってでも助けに出る。現代でもよく、こんな人が政治家になってくれたら世の中が変わってくれるんじゃないかな、と思いたくなるような人間がいるけど、愚息もまさにそんな感じで、彼が天下のトップに立てば、色んな意味で世の中は変わり、穏やかさを手にできるだろう。しかしもちろん、愚息はそんなことには興味はない。
自分の信条と相容れない時はどんな場面でも怒りを発する一方で、相手の細やかな信条を慮って、時には自らを貶めてまで相手の立場を思いやる。人間的な器の大きさが見事で、新九郎でなくても、師匠のような存在として関わっていたくなるような存在だなと思いました。
後半になるほどにこの二人の出番は減っていってしまって残念なのだけど、また別の作品でひょこり出てきてくれたら嬉しいなぁ、とそんな風に思わせる見事なコンビでした。
歴史好きな人が本書をどんな風に評価するか分かりませんが、史実の扱い方や光秀の描き方はともかく(僕にはその良し悪しは判断できない)、小説としての面白さに満ちた作品だと思います。特に個人的には、確率の扱い方には感動しました。是非読んでみてください。

垣根涼介「光秀の定理」


短歌という爆弾(穂村弘)





僕には、今でも空で言える短歌が一つだけある。今まで生きてきて、国語の授業や他の機会などで、ほどほどに人並みに短歌に触れてきたと思うが、これほど衝撃的で、印象的で、一発で覚えてしまった短歌は他にない。

「問十二、夜空の青を微分せよ。街の明りは無視してもよい」

僕が元々理系の人間だということも強く影響しているだろう。理系の人ではなければ、そこまで深く衝撃を感じることはないかもしれない。理系の人間にしたって、「夜空の青を微分」というのは、よくわからない。分かるようでわからない。ただ、「問十二」からはじまり「無視してもよい」で終わる、まさに試験問題の如くの体裁でありながら、五七五七七の定形にうまく収まっている見事さ、「夜空の青」という普通には存在し得ない色の不可思議さ、そして、「街の明りは無視してもよい」が伝える、「町」ではなく「街」であるからにはそれなりに賑やかさがありそうな場面であるのに、「無視してもよい」ほどの「街の明り」であるという淋しげな情景などが、一瞬にして僕の内側にウワッと入り込んできたのだろうと思う。後にも先にも、本当に、これほどに衝撃を受けた短歌に出会ったことはない。本書に掲載された様々な短歌にも、このような衝撃を受けることはなかった。
本書の中身を説明するために、まず解説の枡野浩一氏の文章を引用するところから始めたい。

『冒頭で書いたように本書は「短歌入門書」のスタイルをとっているが、ほんとうは初心者向けではない。初心者には理解不能な言葉がたくさん書かれていると思う初心者でない私にもいまだに理解しがたい部分もある。けれども、だからこそ、あなたは本書を買っておくべきだ。今はよくわからなくても、本書に書かれていることが必ず必要になる日が来る。あなたが短歌または穂村弘に興味を持っている場合、「ああそういうことだったのか」と本書を読み返したくなる日が来るのです』

この枡野浩一氏の文章には、ちょっと救われる思いだった。そう、本書は、僕のような短歌初心者には、ちょっと難しいような気がするのだ。特に、本書の内容の半分近くを占めると思われる「構造図―衝撃と感動はどこからやってくるのか」は、穂村弘による様々な短歌を「実存的に読み解く」評論文なのだけど、これは僕にはなかなか難しかった。実作する上で、なるほど短歌にはこういう部分を盛り込めばいいのだな、という断片が少しずつ見えてくるような感じはあるのだけど、あくまでもそれは字面だけのことであって、いくら短歌を示されて、それを分解して分析されても、なかなか言っていることを実感するというところまで辿りつけない。これはある程度、短歌を作ったことがある、触れたことがあるという人が読むことで、「実感」まで辿り着く。そんな文章なんじゃないかな、という感じがしました。
とはいえ、難しいばかりではありません。本書の前半部は、僕のような初心者でもなかなかに興味深い内容でした。
本書の前半では、「ファックス同人誌『猫又』からいくつか短歌を選んで穂村弘と東直子が選評をする」のと、「神谷きよみという歌手が作った短歌をメール上で添削する」という二つの「製造法」が描かれている。どちらも素人の短歌を評したり添削したりする、という内容になっていて、非常に面白かった。なるほど、そういう視点で短歌を読み解くのか、そういう風に言葉をいじれば印象が変わるのか、ということが、軽妙なやりとりによって紡がれていく。素人の作品ではあるのだけど、その中にも結構良さ気なものが結構あって、本書の中で僕が一番好きだなと思う短歌は、「猫又」に投稿された素人の作品だったりします。それをここに挙げておきます。

「空を飛ぶ帽子の上に鳥とまり重さで落ちかけまた飛び立っていく」

「帽子」という題で詠まれた様々な短歌の中で、この短歌の映像を喚起する力が、僕は一番強いと思いました。非現実的な光景で、実際にはまったくありえない情景でありながら、詠んだ瞬間にパッと光景が浮かんでしまう。その浮かんだ光景に親しみな懐かしさを感じられるわけでは決してないのだけど、そのイメージの強烈さ、鮮やかなにどうも惹かれてしまうみたいです。本書に収録されているすべての短歌の内、僕が一番好きなのがこれです。
本書の様々な場面で言及される、「短歌の作り方」について、気になったものをいくつか取り上げてみます。

『あと言っておきたいのは、今しか作れない歌が必ずあるということです。自分が何歳でもどんな状況でも、今しか作れない歌が必ずあって、それは次の瞬間にはもう作れないものなんです』

『善意や好意や明るさの領域だけで書かれた歌には、本当の力は宿らない』

『短歌が人を感動させるために必要な要素のうちで、大きなものが二つあると思う。それは共感と驚異である。共感とはシンパシーの感覚。「そういうことってある」「その気持ちわかる」と読者に思わせる力である。驚異=ワンダーの感覚とは、「いままでみたこともない」「なんて不思議なんだ」という驚きを読者に与えるものである』

『短歌という詩形においては、感覚の鋭さとか言葉の斡旋の巧みさといったこと以前に、こうした心を一点に張る能力がしばしば決定的な力を持つ』

本書では、穂村弘が何故短歌に向かったのかという、そのモヤモヤした気持ちや衝動が描かれている。長い文章だけど、引用してみます。

『無色透明な孤独、贅沢な退屈、強すぎる自意識、そんなものたちに取り囲まれて、私たちは身動きがとれなくなっている。友達といくら長電話をしても寂しい。メールを書いても書いてもさみしい。新しい腕時計を買ってもブーツを買ってもさみしい。そして、いつまでもいつまでも(時には結婚しても子供ができても)理想の恋人を夢見ている。
日常の真空地帯にすっぽりとはまりこんで、毎日をやり過ごすのに手一杯で、本当に夢中になれる何かをみつけられずにいる。これだというものがみつかったら、なりふり構わずそいつをやってやってやりまくるんだが、などと思いながら。
だが、何かを見つけるの何かって、いったいなんだ。これだというものって、いったいどれだ。今すぐそれをやり始めて、世界と自分とを決定的に変えられるような何かはどこに隠れているんだろう。
絶望的に重くて堅い世界の扉をひらく鍵、あるいは呪文、いっそのこと扉ごとふっ飛ばしてしまうような爆弾がどこかにないものだろうか。
経験的に私が示せる答えがひとつある。それは短歌を作ってみることだ。多くの人のとって思いがけない答えかも知れない。だが、案外そんなところに「何か」はかくれているものではないか。千年以上の歴史があって、雅やかで古臭い。いろいろなルールがあって、昔の言葉を知らないと作れない。そんなイメージはひとまず無視していい。
必要なのは、今ここにいる自分の想いや感覚、夢や絶望を、最高のやり方で五七五七七の定形に込めること。それだけで短歌は世界の扉を破るための爆弾になる可能性がある』

『半ズボンをはいて、ランドセルを背負い、カブト虫を捕まえることが人生最大の目標だった頃、私は世界の中で楽々と胡弓をすることができた。子供の生活にも、それなりに辛いことや悲しいことがあったが、それらはいわば等身大の辛さや悲しみといったものだった。
ところが十歳を過ぎた頃、私が<私>というものを意識するようになったとたん、世界は気味の悪い場所に変わった。胸のあたりが辺に息苦しく、見慣れたはずの景色が違う。自転車に乗って遊んでいる自分と、家で夜御飯を食べている自分と、教室でノートをとっている自分とが、ひとつのものという感じがしなくなって、どんどんばらばらになっていくようだった。
この気味の悪さを人に話してはいけない、私はそう感じていた。親や教師はもちろん友達にも知られていはいけない。私は同級生の様子をこっそり窺って、彼らが世界の不気味さをどう感じているか、なんとか知ろうとした。だが、休み時間のドッジボールに命をかける彼らは、そんなことはまったく何も感じていないように見えた。どういうことだ。わからない。
気味の悪い世界を脱出して別の場所へ行くことができないのなら、なんとかしてこの不気味な世界に打ち勝つしかない』

穂村弘が感じた、世界との相容れなさみたいなものが凄く共感できて、僕も子供時代のある時からずっと同じような感覚を抱いたままここまで来ている。一時薄れたり、また意識されるようになったりと、その時その時で濃度は違うとはいえ、常に自分の中にそういう違和感は残り続けた。穂村弘は、短歌に出会うことで、その不気味さと折り合いをつけることが出来るようになった。僕は、どうだろう。ただ目を反らし続けてきただけかもしれない。ないものとして、見なければないんだと思い込めるものとして、気づかないフリをし続けてきただけかもしれない。僕も、世界の扉を吹っ飛ばすような爆弾を手に入れたいと思う。
最後に。本書に載っている中で、僕がちょっと気になった短歌を引用して終わろうと思います。初心者にはなかなかハイレベルな作品だと思うけど、刺激的ではあるなと思います。なんとなく、ほよほよした感じがする「穂村弘」という歌人に対する見方が変わった気がします。

「恋人が恋人の恋人と住む丘には風は吹かないのです」

「端的に言ふなら犬はぬかるみの水を飲みわれはその水を飲まぬ」

「枕木の数ほどの日を生きてきて愛する人に出会はぬ不思議」

「17進法で微笑し目をそらす もう少し早く縫っていたなら」

「昭和というウォッカが壜に三センチのこったままで捨てられている」

「鉄道で自殺するにも改札を通る切符の代金は要る」

「コンビニのバックヤードでミサイルを補充しているような感覚」

「B型の不足を叫ぶ青年が血のいれものとして僕を見る」

「目を閉じた人から順に夏になる光の中で君に出会った」

穂村弘「短歌という爆弾」



know(野崎まど)

『天才』を描くことは、とても難しい。
例えば僕達がまだ身近に感じられる天才の中に、棋士がいる。将棋のルールが分からなくても、「もの凄く頭を使うものだ」「勝ち続けられている人はよほど凄いんだ」というような漠然とした印象は持てるだろう。僕も、将棋はルールが分かる程度なので、例えば羽生善治がどれぐらい凄いのか、ちゃんとは分からないのだけど、でも数学者や研究者やプログラマーなんかよりはまだ、将棋指しの方が身近に感じられる人の方が多いのではないか。
棋士の天才性を理解することは、まず前提として自分がその思考に近づけなくてはいけない。ニュートンが遺したとされる有名な言葉に、「もし私が、人より遠くを見ることができていると すれば、それは巨人の肩に乗ったから」というのがあるけど、まさにそれと同じことで、まずその天才の目線と同じような高さに自らが立てなくてはいけない。
しかし、そこに立ったからと言って、同じものが見えるわけではないだろう。天才の打ち筋を研究し、著作を読み、どんな風に考えているのかをトレースしたところで、天才と同じように思考出来るわけではない。僕等に見ることが出来るのは、天才が点々と残していく様々な痕跡の残滓ぐらいなもので、それらを少しずつ拾い集めながら、想像するぐらいのことしか出来ない。
『天才』という存在を小説の中で描き出すためには、まずその、「理解できない残滓」をたくさん残さなくてはいけない。『天才』は、天才であるが故に、世の中に対して分かりやすくある必然性がない。誰も彼に追いつけないし、彼の思考や言動を理解できない。誰かに何かを伝えるには、幾段もレベルを落とすしかないけど、それこそ時間の無駄だ。だから、『天才』が残す痕跡は、ほどよく理解できないレベルでなくてはいけないと思う。
これ自体は、そう難しくはないと思う。思わせぶりな描写で、「理解できなさ」を醸し出すことは。
しかし、小説の場合、『天才』の天才たる有り様をどこかの段階で放出する必要がある。ただ文字で、「彼は天才です」と書くだけでなく、彼が天才であるということを示さなくてはいけない。
このハードルは、とても高いだろう。そもそも、僕ら凡人には理解できないからこその『天才』なのであって、だけれど小説であるからには、『天才』が「本当にとんでもない天才なんだ!」と、凡人である僕らが実感できるようにしなくてはいけないと僕は思う。
本書は、それに驚くべき形で応えている作品だと僕は思う。
本書には、異質な天才が二人登場する。
一人は、世界を変える発明をした男。「情報」というものの存在・扱い・意味をすべて一変させてしまった、文字通り世界を変えた男。
そしてもう一人は、そんな世界を変えた天才が生み出した創造物だ。
二人の天才の天才性が、凡人である僕らに伝わる理由が、物語の中にきちんと組み込まれている、という点が実にいい。彼らは、自らの好奇心・探究心のために、誰も進んだことがない道を突き進み続けるわけだが、しかし同時にそれは、すべての人類に新たなる世界を提示するためのものでもあった。彼らの目的の一つに、人類を啓蒙するという部分が幾分かでもあったからこそ、彼らは自分の足跡を誰かに見せることで、自分たちを理解させようとした。ただ言葉で説明するだけでは、まったく誰にも一切伝わるはずのない事柄を、自ら行動し現出させて示すことで、理解させようとする。本書は、その長いようで短い濃密な一瞬を切り取った、人類に新たな世界を提示するための不思議な数日をメインに描いた作品です。
京都大学の天才研究者が、電子葉という世界を激変させる発明を生み出した。これは、脳に埋め込むことで脳外部からの膨大な情報を処理するもので、日本では2066年に全国民に電子葉移植が義務化された。
そもそもそんなものが必要になったのには、情報材と呼ばれる新たな素材の開発があった。これは、フェムトテクノロジーの結晶であり、微細な情報素子を含む素材・建材の総称だ。この情報材は、それ自体が情報伝達のデバイスとして機能し、勝手に周辺の情報をモニタリングし、相互に交信している。今では、ありとあらゆる人工物にこの情報材が使用され、人類が処理しなくてはならない情報量は無限に増殖したのだ。
2081年現在。「知っている」という単語は、「たった今調べた」という意味で使われるようになった。「知っていること」と「調べたこと」の間に差がなくなり、人類はありとあらゆる情報に、自由にアクセスすることが出来るようになった。
そんな世界で、国内の情報管理を一手に担う情報庁に勤める主人公の御野・連レルは、<クラス5>という特殊な情報権限を有していた。実は、取得出来る情報は、クラス毎に制約があり、御野は一般人が手にできる最上級の情報権限を、時に自分の趣味にも使っていた。
御野がこの世界の有り様に魅せられたのは、中学時代の頃。そこで彼は、二十代で情報素子と情報材の基礎理論を作り上げ、四十代で電子葉を実用化させた、世界を変えた天才である道終・常イチと出会う。そこで、先生が書いたソースコードに魅せられた彼は、以後何百回となく、先生が作り上げた今の世界を規定しているソースコードを眺めながら、中学のあの一週間の後に彼の目の前から姿を消してしまった天才研究者に思いを馳せている。
ある日、次長に呼ばれて出向いてみると、情報通信事業の国内最大手企業であり、世界第二位を誇るアルコーン社のCEOがいた。彼は、14年前にデータをほぼ完全に消去して失踪した研究者を追っていると話をする。それは警察の仕事ではないのかと思った御野に、衝撃の事実が告げられる。なんと、彼らが探しているのは、14年前に失踪した道終・常イチだというのだ。そして彼らは、14年前の一瞬、彼らが邂逅していたことをどこからか調べあげ、アプローチを取ってきたのだ。
しかし、御野のところにももちろん連絡などあるわけがない。誰よりも先生との再会を望んでいる自分だが、先生に辿りつく手がかりなど…
まてよ、本当に、何もないのか…?
というような話です。
いや、ホントにもう、凄いとしか言いようのない作品でした。
野崎まどは凄い凄いと、前々から耳にはしていました。試しに「2」という作品を読んでみたことがあるんですけど(今自分の感想を見るまですっかり忘れてたけど、「2」でも最原最早という天才が描かれていました)、あまりその凄さは伝わらなかったな、という感じがしました。後々色んな評価を読むと、「2」は、それまでの野崎まど作品と色んな形で繋がっているようで、そういう部分でも凄いのだ、ということのようでしたが。
しかし、本書は凄いです。
「2」でも天才が描かれていましたが、そちらはあまり天才っぽい感じがしませんでした。でも、本書で描かれる天才は、物凄く天才っぽい感じでした。物凄く主観的な評価ですが、どちらの作品も、「天才の描かれ方」にかなり物語の比重が置かれているように思えたので、そういう意味で、僕の中で天才が天才らしく描かれているように思える本書の方がより強い印象を残したのだろうと思います。
物語の中身については、先ほど書いたこと以上に書けるのは、一人の天才少女が出てくる、ということぐらいでしょうか。ストーリーは相当に精緻に構築されていて、無駄な部分など何もないと思えるほどあらゆる部分が繋がっている。だから、一部分だけ抜き出して内容に触れる、ということがとても難しい。本当は、作中で描かれるあれこれについて触れたい感じはするのだけど、、ストーリーに触れると何らかの形でネタバレになりそうでちょっと出来ません。
一つだけ。この描写はちょっと凄いと思いました。

『きっと人は近づかずにはいられない。行けるならば、行ってしまうでしょう。光すら隔絶される向こう側。誰も戻って来られない事象の地平線の先に飛び込んでしまう』

ブラックホールに近づいたら死んでしまうけど、それでもそこに近づくことで何かを知ることが出来るなら、最終的に人間はそこに近づいてしまうだろう、と少女は言います。これは、ただの雑談だと思っていたのですけど、全然そんなことがなかった。むしろ、少女の目的の根幹を成す、と言っても言い過ぎではないかもしれない。この部分だけではない。物語の、あらゆる部分が絡み合っていく。天才以外の凡百の人類にとっては意味不明な様々な言動が、一つに束になって、新しい世界の鍵となる。ラスト、怒涛のように展開される光景には、なんというか美しささえ感じました。御野は自らのある行動を、「僕の勝手な、一時の自己満足のためだけに、彼女が本当の意味で人生まで懸けた望みを潰すのか」と自問する。そう、まさに少女は、自らの命を懸けて新しい世界を現出させようとしていた。その神々しさ。古来人類は、絵画や物語など様々な形で「神」を描き出してきただろうが、技術的可能性の延長線上に「神」を描き出す作品はそう多くはないだろう。ごく一部のSF作品だけがそういう描写をなしうるのだろうけど、本書もまさにそんな一作なのではないかと僕は感じました。
あと、これは決して物語の本筋でも本質でもないのだけど、本書を読んで強く感じたことは、「価値はどこに生まれるのか」ということ。誰もが、クラスの制約はあるものの、いつでもどこでもどんな情報でも手に入れることが出来るようになった世界。そんな世界において、<オンライン>の情報には、もはやほとんど価値がないと言っていいだろう。それは、いつでも誰でもアクセス出来る情報なのだから。そんな世界いおいて、じゃあ「情報」が価値を持つためにはどうあるべきなのか。これは、本書の世界の話だけではなく、どんな時代どんな場所でも当てはまることだろうと思う。<オフライン>の情報は、どこにあり、どうやってアクセス出来るのか。そういう、「情報の価値」みたいなものもちょっと考えさせられました。
設定として、なかなか飲み込みにくい部分もあるかもしれません(僕も、SFを読むのはそこまで得意ではないし、それに加えてパソコンとかネットワークとかそういう方面の知識は脆弱なんで、うまく捉えきれなかった設定はある)。しかし、すべてきちんと理解しなくては読めないわけではないし、SF的な話だけではなく、古代史や神話や禅の話なんかも出てくる。すべてがきっちりと組み上がった美しい造形物のような作品で、無駄がない。『天才』という、特異点のような存在も、実に魅力的に、天才らしく描かれていく。野崎まど、ちょっと凄いかもと思い直しました。是非読んでみてください。

野崎まど「know」


「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話を4つください」(山田真哉+花輪陽子)

内容に入ろうと思います。
本書は、ニコニコ生放送で放送された、「ニコニコ生活講座」という生活密着型お勉強番組で放送された様々な情報から、人気が高かった「給与明細」「給与明細その2」「消費税」「カード」の4つをまとめて書籍化した作品です。
これは凄く面白い本だと思います。本書の最大の特徴は、まさにタイトル通りですが、「手取り10万円台の俺たち」のための番組(書籍)だという点です。テレビや新聞なんかでは、(たぶん)TPPがどうちゃらとかアベノミクスがどうちゃらみたいな話をしているはずなんですけど、そういうのが、「手取り10万円台の俺たち」にどう関わってくるのか、正直よくわからない。ってか、関わってこないだろきっと。じゃあそんな俺たちにも役立つマネー話はないわけ?というところを、実にうまくすくい取っている内容で、まさに「手取り10万円台」の方は読んでおいた方がいいと思います。
もちろん本書は、ごく身近なお金の話なわけで、別に「手取り10万円台の俺たち」以外の人でも、十分ためになる内容だと思います。金が余ってて仕方がない、みたいな人には当然まったう要らない知識ですけど、月収がいくらであれ、毎月毎月お金はカツカツだよ、という人には、色んな意味で役立つ内容になっているのではないかと思います。
扱われている内容は、給与明細・増税・クレジットカードと、非常に身近なものばかりです。さらにそこから話を発展させて、決して身近ではないけどやってやれないことはない、という知識もいっぱい出てきます。本書の中では、全然身近ではない(日常的ではない)けど、やってみたらかなりいいかもっていう知識の代表格として、「ふるさと納税」があります。これ、自分で確定申告をする、というのが大前提ですけど、やったらメッチャお得なシステムなんです。面白いなぁ。自分で確定申告出来れば(後で触れるけど、サラリーマンやフリーターも、確定申告やるべきだぜ、しかもそんなに難しくないぜ、という話も本書には出てくる)、「ふるさと納税」をすると結構テンションが上る感じになる人は多いんじゃないかなと思います。
さて本書には、本当に色んな知識が満載なんですけど、個人的に気になった話題をいくつか取り上げてみようと思います。元々あったけど知らなかっただけ、という知識もありますけど、最近法律や制度が変わったことで状況に変化が訪れたという話も結構多くて、とても面白いです。

まず、給与明細の話から。給与明細っていうとどうしても、手取り額に目が行ってしまうけど(っていうか、給与明細をすぐ捨てちゃう人も多いんだろうなー。僕は、あんまりちゃんと見てなかったけど、全部取ってはありますです)、一番大事なのは「総支給額」です。
知らなかったのは、「社会保険料は総支給額によって決まってくる」ということです。これはどういうことか。
たとえば「扶養手当」とか「住居手当」とか「通勤手当」とかが増えたとしても、それらが上がることで社会保険料も上がる。「通勤手当0円」の人と「通勤手当10万円」の人では、支払っている社会保険料が違うのです(当然、「通勤手当10万円」の人の方が高い)。これはなんとなく、知っておくとよい気がしますよね。
また給与明細を見ることで、ブラック企業がどうか判断する指標の一つも教えてくれます。給与明細の「厚生年金保険」の項目をチェックです。保険料は、総支払額に比例し、かつ会社と折半で支払っている。よって会社側は、日本年金機構にウソをついて、「(ホントはこの人給料50万円なんだけど)給料20万円です」とか申告して、支払う保険料を低くしちゃう悪徳な経営者とかがいるかもしれない、といいます。こうすると、社員が支払う保険料も減るから、一瞬ラッキーに思えるんだけど、将来「俺こんなに年金少なかったのかー!」と衝撃を受ける可能性があるとのこと。
それをどうチェックするのか。「厚生年金保険」の欄を見て、総支払額の8%前後だったら安心してOK、だそう。これが8%よりも低ければ、経営者が嘘の申告をしているブラック企業の可能性がある、という判断をsてもいいかもだそうです。
さて、そんな年金ですが、天引きされているわけではない人の中には、払っていないという人もいることでしょう。25年も払い続けないともらえないらしいしなー、と思ってまあいいやと放置している方もいるような気がします。
そんな人に、注目すべき情報です。なんと最近法律が変わり、「受給資格期間(年金がもらえる権利が手に入る期間)」が、平成27年10月から、25年から10年に短縮されるんだそうです。これはお得ですね。いや、もちろん、支払う金額が低ければ低いほど将来もらえる金額は減るわけなんですけど、僕としては、年金を支払ってると、障害者になってしまった時に障害年金をもらえる、という仕組みが重要な気がしているんで、これはなんとなく気になる情報ではありますなぁ。
給与明細には「住民税」や「所得税」なども載っていますけど、さて問題。これはどちらの方が高いでしょうか?正解は、ほとんどの人が「住民税」の方が高いはずだそう(年収700万円ぐらいの人でも、住民税の方が高いはず)。これは何故か。
所得税は国の税で、住民税は地方の税、という違いが大きい。国の税は、「金持ちからはいっぱい取りましょう」という配慮があるのに対して、地方の税は、「公共サービスはみんな使ってるんだから平等ね」ということで、地域差などほぼなしで一律10%ということになっているんだそうです。
で、政治のお話で「道州制」なんてのが時々出てきたりしますけど、これは実は「地方ごとに税率を決めれるようにしようぜ」っていうお話でもあるんだそうです。一律10%はおかしいから、税率を決める権利を各地方に委ねよう、というところから議論がはじまっているそうです。知らなかったなー。でも実際、これは実務を知らない人間の発想で、実務をやっている人間からしたら地方ごとに税率が違うなんて仕組みやってられるわけねー、無理無理、世界中どこでもそんなんしてないし、みたいなことを書いておりました(アメリカでは州毎に税率が違うじゃん、指摘があったらしいけど、アメリカの仕組みは、日本やヨーロッパの仕組みとまったく違って、ざっくりかつ不正も起きやすい、という特徴があるようなんです)。
で、給与明細と絡む話として、確定申告の話がありますが、これはみんなやったほうがいいらしいですよ。
というのも、「所得控除」には、会社が把握しているもの以外に、プライベートな4ものもあるからです。ここまでは会社が把握して、会社が確定申告やってあげるけど、これこれについては会社は敢えて知ろうとしないから、その部分は自分でやってねー、というものがあるのです。その代表格が医療費控除です。
確定申告って難しそうだなぁというイメージがありますけど、確定申告の時期に確定申告会場に行くと、税務署の人とか税理士の人が優しく相談に乗ってくれるらしいんで、自分で完全に理解してやらないといけないわけでもないみたいです。本書には、バイトはフリーターの人こそ確定申告はした方がいい(返ってくる額はほんの僅かかもしれないけど、でも確実に返ってくる)と書いてあります。
あと、確定申告をするには領収書がないとダメなんじゃないか、と思う人もいるでしょうが、これは幻想だそうです。「今はレシートの方が証拠能力が高いですから」と書いてもあります。また、電子申告であれば領収証やレシートの提出は不要(ただし、個人保管の必要はアリ)だそうで、交通費など領収書が出ないようなものはノートとかのメモでもいいらしいです(嘘を書いてはいけません)。そう言われると、確定申告ってそこまでハードル高くないのかもなーと思えます。
で、確定申告を自分でやるのであれば、「ふるさと納税」が断然オススメです!これメッチャ面白いです。仕組みは省略するけど(本当のところ、なんでそうなるのかはよく分かってない)、どこかの地方(自分の出身地でなくてもいい)に「ふるさと納税」として寄付をすると、「寄付金額」は全額戻ってくる(ただし上限は住民税の10%まで。つまり、給料の1%まで)上に、さらにその地方から様々な物産品が届く、という素晴らしい仕組みです。つまり、年収200万円台の人なら、どこかの地方に2万円台の寄付をする。すると、確定申告を自分ですると、その2万円台の寄付金は全部戻ってくる。さらに、その地方毎に寄付金額によって決められた物産品がもらえる、という仕組みです。これは面白いですね。2万円の寄付でどれぐらい物産品がもらえるのか分からないけど、色々調べてみたら面白いかもしれません。年収が10億円ぐらいある人なら、1千万円寄付しても全額戻ってくる。しかも、その1千万円に見合った物産品がもらえる、という仕組みです。凄いですね。なんでそんなことが可能なんだろうなぁ。
「ふるさと納税」って、寄付金を支払うのがめんどくさそう、というイメージもあるでしょうけど、「Yahoo!公金支払い」というサービスを使えば、手数料なしでクレッジカードで支払うことが出来るらしいですよ。便利ですね。クレジットカードは本書の最後のテーマで、タイプ別にどのカードがお得なのかという話が非常にためになります。

増税に関連して消費税の説明がなされるんですけど、消費税の話も面白い。これは、知識として面白いだけで、役立つ知識なわけではないからごそっと省略するけど、消費税がいかに「国にとっては都合がよい」「店舗にとっては複雑」なのかというのがとてもよくわかるし、イギリスの「ドミノ・ピザ裁判」なんて、ちょっと衝撃的な話でした。また、日本では土地や家賃に消費税は掛からないんですけど(だから、増税時に家賃が上がるところがあったら、それは便乗値上げだそうですよ)、欧米諸国では消費税が掛かるのにどうして日本では掛からないのか、という話も斬新でした。
消費税の話ではないんだけど、株とかやっている人には大事な情報が、一つ。株への税金はこれはで、所得税と住民税の合計で約10%だったのが、2014年1月から約20%にUPするそうです。株をやっている方、税金がこれまでの2倍になります。ご注意ください。
増税前に家とか車とか家電を買った方がいいのか、という話については、家とか車とかは、必要があって買うつもりがある人なら増税前の方がいいでしょうけど、増税前だから買わないとという理由で慌てて買うほどでもないでしょう、というお話でした。でも、家電に関しては、白物家電とかブランド家電は値段が下がりにくいので、増税前に買った方がいいかもね、という感じでした。

とそんなわけで、ザザッと僕が気になった情報だけ書いてみたけど、読む人によって気になるポイントは様々に違うことでしょう。僕がここで書いたような情報に「なるほど!」「それは知らなかった!」と思った人は、是非本書を一読してみるといいと思います。自分が知らなかった様々な情報を知ることが出来ると思います。本書は、ホントに基礎の基礎の話なんだろうけど、なんかすげー面白かったので、お金の話勉強してみてもいいかもなぁ。そんな風に思える一冊でもありました。是非読んでみてください。

山田真哉+花輪陽子「「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話を4つください」」


眠りの庭(千早茜)

「自分」なんて、さっさとなくなっちゃえばいいのに、と思うことはある。昔は、よくそんなことを考えていたような気がする。最近は、そこまでちゃんと意識に上ることはないけど、自分の土台にちゃんと根を張っているような感覚はある。
僕は、自分の意志を持って、自分の希望を持って、自分の展望を持って、この世の中を疾走出来る人って、本当に凄いと思う。そこまで強い名前がつくようなものでなくてもいい。自分が進むべき道を、自分が進みたいと思う道を、ぼんやりとでも漠然とでもなんとなくでも、頭の中で思い描ける人はいいなと思う。
僕には、そんなものが全然ない。進みたい場所も、たどり着きたい場所も、何もない。なんというか、どうでもいい。漂流しているような感覚で、とりあえずどこに向かっていようとも、いや、たとえそれが同じところをグルグル回っているだけだって、まあいいやという感覚でいる。大した問題ではない。
そのくせ、「自分」というものはきちんと存在しているから、厄介で仕方がない。
もっと人形のように何も感じずに生きられればいいのに。辛さや悲しみだけではなく、喜びや楽しさも感じられなくなっても、まあいいかもしれない。どうせ、意志などとうにない。だったら、「自分」そのものも、さっさと薄れてくれたらいいのに、と思う。
失うものがあるから、恐いと思うし悲しいと思うし辛いと思う。大事なものが視界に入るから、心を乱される。なんか、そういうの、もういいや、って思ってしまうことがある。時々。何かと繋がっていればいるほど、その繋がりのどこかがちょっとよじれただけで、自分も引っ張られて痛みを感じる。そういうのは、もういいんじゃないか。
何もかもスパッと捨てることが出来たら爽快だろうなと思う。でも、そんなこと、自分には出来ないことも知っている。結局、あるものは、引き剥がされない限り、手放すことは出来ない。

『だって、暴力なら拒めばいい。でも、愛されたら、受け入れるしかないですよね』

千早茜が描く世界には、手の届く範囲の社会との繋がりさえも失った人間たちが描かれるような印象がある。自ら選択しているのか、流されているだけなのか、それは様々だろうけど、自分と世界とを隔てる分厚い壁の存在を、常に意識している人間たちがいるように思う。

『学校という場所は切り離された空間だと思う。時間割と区切られた時間、個性を消す制服、外界から遮断するための柵と門、独自のルール、守られているのか縛られているのかわからないその中で毎日同じことが繰り返される。
何のために?それがわからなくて学生の頃の俺は学校がキラだった。けれど、その単調さの中に改めて身を浸してみると、ひとつだけわかったことがあった。
緩やかな縛りは人を安心させる。決められたことに従っていれば、身のうちから湧きあがってくるものを見ないふりできる。枠から出てこない限りは。
だから、あの頃は発情期の猿みたいな奇声をあげて馬鹿をやっていられたわけだ。俺は男子校だったけれど、男も女も変わらないな、とここに来て思った。青春時代なんて狭い箱の中で必死に暇つぶしをしているだけのものだ』

独りの世界の中に、時折、独りがするりと入り込んでくる。普段は固く閉ざされている扉が、何故かスッと開いてしまう。そんな相手との邂逅に戸惑いながら、この物語は進んでいく。濃密な独りの世界が打ち破られ、弾け、世界の形が歪められ、一人の人間のあり方を変容させてしまう。そんな、恐ろしくも魅惑的な強い出会い。

『信じるのって相手に失礼じゃない?だって、人って刻一刻と変化するのに。信じられたら変われないじゃない。それってちょっと重荷じゃないかな』

小説を読んでいて時々感じるのは、世の中の多くの人は言葉に鈍感なのかもしれない、ということだ。言葉を凄く曖昧なまま捉え、お互いに意味が一致しているかどうかも確かめないまま、なんとなく言葉をやりとりしている。まあ、それはある程度当然で、いちいち辞書を引くみたいに言葉の意味をお互いに確認なんてしてたらコミュニケーションなんて成り立たないんだけど、でもなぁ、もうちょっとなぁ、と思うことはある。
小説を書くような人はきっと、言葉に敏感な人が多くて、そういう人が紡ぐ物語を読んでいると、日常的に出会う人たちの言葉の鈍感さみたいなものを、よりくっきりさせられるのかもしれない。著者もきっと、言葉に敏感な人だろう。「信じる」という言葉を、こんな風に捉える人は、そう多くはないはずだ。「信じるのって相手に失礼じゃない?」という気持ちは、僕は結構よくわかる。

『どうせ理解できないって思ってるから』

そう、人と人が理解できる、という前提が共有されているから、色んな不幸が起こるんじゃないかと思う。僕はあんまりそれを信じていない。それは、自分が相手のことを理解しようとしないから、という部分もきっとあるだろう。誰かのことも理解したいし、自分のことも理解されたいと思っている人には、こういう考え方は理解できないだろう。
諦めているからこそ立てる場所がある。期待しないからこそ見えてくるものがある。理解できるという幻想に囚われるのは、ちょっと恐い。言葉に敏感であればあるほどきっと、相手との差異がより強調されて見えてきてしまうのではないかと思う。
作品内容についてまったく触れていないのだけど、僕は正直この作品は、物語としては巧く捉えることが出来なかったと思う。ただ、作品の雰囲気が、とても好きだ。異端に籠もる人物たちが発する独特の雰囲気が化学反応を起こし、小規模な爆発を何度も繰り返す。トゲトゲしたものを隠し切れない不器用な人間たちが、同じ種類の人間と出会うことで見せるちょっとした隙。そういう全体の雰囲気が、僕にはとても合っている。「アカイツタ」に出てくる主要な人物たちには、大抵どこか惹かれる部分がある。その後ろ暗さや、裡に秘めた黒さみたいなものに、なんだか惹かれる。そういう強さが魅力的な作品だと僕は思います。読んでみてください。

千早茜「眠りの庭」


競馬漂流記 では、また、世界のどこかの観客席で(高橋源一郎)

内容に入ろうと思います。
本書は、作家・高橋源一郎が一時期、小説の仕事をほとんどせずに、世界中の競馬場に赴き、馬券を買い、様々な人と話をし、馬と語り、競馬というものの奥の深さに見せられ続けた時期、競馬雑誌に連載し続けた文章をまとめた作品です。

『もしかしたら、わたしは、競馬というよりも、競馬場が好きだったのかもしれない。
そこには、たくさんの競馬ファンがいた。その、たくさんの競馬ファンたちは、外見はみな異なっていたけれど、そこにいる目的は同じだった。彼らは「勝つ」ために、そこにいた。
もちろん、「勝つ」とは、とりあえずは、馬券が当たることだった。そして、ほとんどの場合、競馬ファンたちは「負ける」のである。そして、「マメル」ことに深く傷ついた後、また、「勝つ」ために、馬券を買い、馬を(そして騎手を)応援する。そして、また「負ける」。そのことを、彼らは繰り返し続ける。「負ける」とわかっている勝負に、彼らは魅せられたように、挑んでいた。
そのような人たちのための場所が、競馬場だった。そして、わたしもまた、ひとりの競馬ファンとして、「負け」続けた。
では、そんなに「負け」続けるのに、彼らは、というか、どうして、わたしは、競馬場に行くことを辞められないのだろう。そんな疑問が、時に、脳裏に浮かぶことはあった。けれども、そんな余計な考えはすぐに忘れることにした。そして、わたしは競馬場に通ったのだ。』

僕自身は、競馬をしたことは一度もない。馬が走っているのを見たこともほとんどない(テレビでチラッと視界に入るぐらい)。競馬場に行ったことは一度あるのだけど、競馬をしに行ったわけでも、馬を見に行ったわけでもない。だから、本書に書かれている固有名詞はほぼ分からないし、彼らが一体どこに惹かれて競馬というものにのめり込んでしまうのかも、まったく分からない。
競馬は不思議だ。著者も書いているように、普通に考えれば「負ける」のだ。そういう風に出来ている。しかし本書を読んで、一つ理解したことがある。それは、決して「お金を増やすため」だけに競馬にのめり込んでいるわけではないということだ。

『馬を好きになるのと馬券は別だという人間がいる。その人の言うことはたぶん正しいのだろう。正しい人間はいつまでも正しいことをすればいい。だが、わたしは自分が正しいことを証明するために競馬場に通っているわけではない』

もちろん、競馬の「ギャンブル」的な部分にのめり込んでいる人もたくさんいるのだろう。しかし、本書で高橋源一郎が描き出すのは、ギャンブルとしての競馬ではなく、走るために改良された競馬馬という存在、あらゆる感情が渦巻き、時に一体感を演出しもする競馬場という空間、そして競馬を愛する人間との触れ合いだ。ギャンブルに勝つか負けるか。そんな視点を超越した空間と存在に、人々は魅せられているようなのだ。

『その瞬間までは他人だった。けれども、もう私たちは他人ではなかった。ルドルフの子がロンシャンを2着で走った。見えない壁を乗り越えるには、それだけで充分だったのである。』

高橋源一郎は、日本の競馬場ではなく、世界の競馬場へと飛び出していく。何故なのか。当然高橋源一郎も、競馬を始めた頃は、日本の競馬場に通っていた。僕は知らなかったが、日本の競馬のレベルは、結構高いようだ。

『最初のうち、外国人ジャーナリストたちの興味は「数字」とシステムに限られていた。だが、実際に日本の競馬場へ足を運び、その目で実際にレースを見た時から彼らの書くものの調子は変わった。素直に驚き、感動を語り、そして見習おうとさえするようになった。金より、馬の強さより、競馬場を訪れるファンに彼らは強い衝撃を受けたからだ』

高橋源一郎は、一度競馬場から足が遠のいた後、再び訪れた競馬場で、こんな感想を抱く。

『ある意味で、日本の競馬場は、世界でいちばん華やかで、豊かだった。馬券の売上は世界一だい、競馬場に来るファンたちも若者が増えていた。わたしが競馬を始めた頃とは、違った光景が目の前に広がっていた。新しい競馬ファンたちは、「負ける」ために競馬場に来ているのではなく、もう少し、楽しい何かを求めて来ているように、わたしには見えた。
だとするなら、わたしは、わたしのよく知っている、かつての「競馬場」を求めて、海外に出たのかもしれなかった』

そんな高橋源一郎は、文庫化に辺り本書を読み返して、こう思ったという。

『いま、この本を読み返してみると、わたしはとても不思議な気分になる。この本の中にいる「わたし」が、ほんとうに自分のことなのかわからなくなるのである』

僕は競馬のことはさっぱりわからないのだけど、これだけのめり込めるものがある、というのが、とても羨ましく感じられる。それがたとえ、一時の狂熱であったとしても。僕にはどうにも、そういうものを持てる気がしない。著者は、空気を吸うように、あるいは、毎日歯を磨くかのように、するっと海外の競馬場に行く。行っているように見える。そこには、気負いも決意もなく、「そうすることになっているのだ」という自然体だけがあるように思える。その肩の力の抜け方が、僕には羨ましい。そんな風にして、何かにハマってみたいものだなと思う。

『(著者が一番好きな競馬場にて)わたしたちはあんまり競馬が好きで、しかもあまりにも素晴らしい競馬場にいるので、もう競馬の話をしたくなくなっていたのだ。話に飽きて、ふと空を見上げると、泣きたいくらい晴れていた』

本書にはいくつか、サラブレッドについて書かれている文章がある。競走馬として恐らく最高の品種なのだろうサラブレッドには、世界中の競馬ファンが様々な思い入れを持っていることだろう。本書には、競馬場だけではなく、調教場にも足を踏み入れる。本当に、馬が好きなのだ。

『いいかね、友よ。サラブレッドという種族は歴史の中を流れ行く河なのだ。太くなり細くなり、いくつもの流れに分かれ、ある流れは枯れ果て、別の流れは滔々たる大河となる、その一つ一つの場所につけられた地名、それが彼らの名前なのだ。だから、友よ。「聖地」といってもどこかに場所があるわけではない。彼ら、一頭、一頭がサラブレッドという歴史の中の「聖地」なのだ』

『だが、サラブレッドだけは「生きる理由」を与えられる。それは競馬場にたどり着き、他の馬より速く走るということだ。彼らの障害は一切がそのために費やされる。それをサラブレッドに強いたのは人間だ。
それは人間のわがままだろうか。サラブレッドに対して神の立場に立とうとした人間の驕りだろうか。
わたしにはすは思えない。サラブレッドの「生きる理由」とは、サラブレッドに投影された人間自身の「生きる理由」の陰ではなかったのではないだろうか』

『サラブレッドが走る時には必ず世界中で、そのサラブレッドの一頭一頭に「頑張れ、頑張れ!」と声をかけている人間がいるはずじゃないかね。そして、そのサラブレッドを励ましながら、逆に自分を励ましているんじゃないかと思うんだ。いったい、他にどんな言葉を口にすることが出来るっていうのさ』

著者とその妻は、「一口馬主」という仕組みで自分の馬を持っているらしいが、自分たちが持っている馬について語る文章も良い。

『わたしたちが最初に一口購入した馬は脚部不安に悩まされていた。そして、ずっと牧場暮らしが続いたあげく、とうとう4歳の終わりに登録を抹消された。彼は競馬場には一度も姿を現すことが出来なかった。それからしばらくの間、自分の部屋に閉じこもった妻が、押し殺したような声で泣いているのをわたしは何度も聞いた』

『歴史に名を残す名馬がいる。だが、ファイヤーバードラッドのように、馬主とごく少数の関係者以外からはなんの興味も示されない馬ははるかに多い。彼らは束の間、競馬場に姿を現し、無名のままたちまち消え去ってゆく。だが、彼の首にしがみついて愛撫していた老人たちの顔には安堵と喜びの表情が浮かんでいたように、わたしには思えた。彼らはたぶん、こう言っていたのだ。
「よく競馬場までたどり着いた。そのことをわたしたちはほんとうに誇りに思うよ。ここへ来るためにお前は生まれたのだから」
ファンファーレが鳴った。わたしと妻は立ち上がった。「倒れそう」と妻が言った。ゲートが開いた。小さな国の小さな競馬場の小さなレースがはじまった。そのメンバーの中に、一頭だけ生まれてはじめてレースをする馬がいる』

『わたしたちがはじめて「持った」馬の一頭は5歳になってようやく遅いデビューを冬の小倉で飾った。その小さなレースのファンファーレが鳴った瞬間、わたしは、いとおしさで胸が張り裂けそうになった。ゲートが開いた瞬間、わたしは目の前が真っ白になり、そのまま倒れるのではないかと思った。それは、どんな大きな額を賭けた時にも感じたことのない至福の瞬間だった』

大半は、ほとんど名も知らない馬たちの話がなされる。そういう意味で、僕のような競馬初心者には、やはりどうしてもハードルの上がる作品ではある。しかしこの作品は一方で、取り憑かれてしまった人間の物語でもある。彼らの存在は、羨ましくも見えるし、滑稽でもあるし、愚かでもある。そんな、人間の様々な面が吹きこぼれてしまう競馬場という異空間を、絶妙な筆致で切り取った作品です。読んでみてください。

高橋源一郎「競馬漂流記 では、また、世界のどこかの観客席で」


ニートの歩き方 お金がなくても楽しくクラスためのインターネット活用法(pha)

内容に入ろうと思います。
本書は、「日本一有名なニート」とも言われている著者が、自身の生き方や考え方を綴り、自分と同じような人間に、もっと楽な生き方があるよ、と示唆する作品です。何故「日本一有名」なのかと言えば、この著者が京大卒だからでしょう。また、プログラミング好きな人間を集めた「ギークハウス」というシェアハウスの発起人でもあるようです。
先程も書いたけど、本書は、「自分と同じような人間に、もっと楽な生き方があるよ、と示唆する作品」です。なので、世の中の大多数の人は、この著者の価値観に共感しないでしょう。だからむしろ、本書を読んで、こんな考え方は全然理解できない、と思った方は、とても正常で、世の中でほどほどにうまく生きていられている人なのではないかと思います。
僕は、著者の考え方が物凄く理解できてしまいます。僕は、この著者とまったく同じ考え方なわけではないので、この著者のようには生きられないと思います。けど、根本的な考え方は、とても似ている。どちらかと言えば僕も、社会にうまく馴染めない人間で、色んなラッキーの積み重ねで今どうにか生きてるよなぁ、といつも思っています(著者も、同じようなことを書いていました)

『どちらにしてもあのままずっと会社に勤め続けることは自分の性質的に無理だっただろう。仕事を辞めなくてもどこかで潰れていた。どうせ辞めるならできるだけ若いうちのほうがいい。人生引き際が肝心だ。』

著者は京大卒業後、一旦は就職してみたものの、やはり仕事をし続けることが苦痛で辞めてしまった。著者の「どちらにしてもあのままいたら自分は潰れていた」というのは、僕の大学時代の思考とまったく同じだ。僕も著者と同じように勉強は出来て、そこそこ良い大学にいたんだけど、「このまま大学にいたら就職しなくちゃいけないよな。でも、自分がまともに働けるとは思えないぞ。さっさと脱落しておかないとヤバイんじゃないか」というようなことを考えて、大学を辞めたような気がする。だからこの著者の、「あのままいたら潰れていた」という感覚は、とてもよく分かる。

『世の中で一般的とされているルールや常識や当たり前は、世の中で多数派とされている人たちに最適化して作られている。少数派がそんなアウェイな土俵で戦っても負けるだけだ。無理して我慢しても意味がないし、向いていない場所からは早めに逃げたほうがいい。レールから外れることで自分と違う人種の人たちにどう思われようが気にすることはない』

これは僕も、いつも同じことを考えている。僕自身、「常識」や「当たり前」に守られていることも当然あるだろうけど、でも多くの場合、「常識」や「当たり前」がしっくりこない。なんでそうしなくちゃいけないんだろう?なんでそんな風に考えなくちゃいけないんだろう?そう思うようなことが世の中には多すぎる。昔から不思議だったのだ。なんでみんなこういうことに疑問を持たないんだろうと。でも大人になるに従って、こういうことに疑問を持たない人が多数派だからこそこういう「常識」や「当たり前」が存在しているのだ、ということに気がついた。だから今では、あまりそういうことに表立って抵抗はしないようにした。抵抗したって、無駄だ。多数派が、無邪気に積み上げてきた「常識」や「当たり前」は、とても強固だ。僕一人が抵抗したところで、揺さぶられもしない。だから、そんな「常識」や「当たり前」からは、さっさと逃げるしかない。

『僕自身が何かをやってうまくいったときにいつも思うのは、この成功は別に自分がすごかったからではなく、たまたまその場所に自分がいたからというだけにすぎない、ということだ。そこでも自己責任の割合は半分ぐらいに感じている』

『だから「頑張れば成功できる」というのも僕は半分嘘だと思うし、そもそも頑張れるかどうかとか能力があるかどうかも環境によって左右されるものだから、「定収入は自己責任だ」って一方的に突き放してしまうのは間違っていると思う』

僕も、「たまたまそこにいたからだ」という感覚は、いつも持っている。僕は常に、自分は運だけで今ここまで来た、という自覚を持っている。10年前の自分に言ったら、絶対信じてもらえないようなことが自分の周りに起こったとしても、結局それは僕自身の能力とか努力の結果ではない、という感覚が常に付きまとう。努力したからと言ってどうにかなるもんでもないし、努力しなくても色んな要素がうまいこと重なればどうにかなっちゃうものだ。だから出来るだけ、自分の能力や現状を過信しすぎないようにしている。どんなことが起こっても、運が良かった/悪かったという風に捉えてしまうので、著者の言っていることはとてもよく理解できる。「頑張れば成功できる」という言葉は、「頑張ったことで成功できた人間」がたくさんそういうことを言うから流布するわけだけど、でも世の中には「頑張ったんだけど成功出来なかった人間」も山ほどいるはずだ。でもそういう人の声は、なかなか拾われることがない。そういう情報の偏差みたいなものが、色んな人を呪縛しているんじゃないかなぁ、という気がする。

『でもだからと言って、三十年後にくる老後のために仕事をするとか貯金をしておくとか、そういうのはどうもぴんとこない。みんな、そんな先のことを計画できるものなんだろうか。僕はすぐ目の前のこと、せいぜい数カ月先までのことしか想像できない。自分の二十年後や三十年後なんて全く実感が湧かない。それ、本当にあるんだろうか。生きているかも怪しい。そんなあやふやなもののために備える気力が湧いてこない』

同感だ。ホント、世の中の人は凄いなと思う。30年のローンを組める人とか凄い。30年後の自分なんて、まったく想像出来ないし、そんな想像出来ない未来の自分にお金の支払という約束を守らせることが出来るという自信なんてどこからも湧いてこない。これは僕がフリーターだからってのもあるだろうけど、でも正直、サラリーマンをやってても、きっと僕にはそんな実感を持てないと思う。老後なんて、僕は完全に無視して生きている。今生きていくのだって、自分の気持ち的にはあっぷあっぷなのに、そんな老後のことなんて考えるのなんてめんどくさい。そりゃあ、余裕がある人は準備すればいいけど、そんな風に準備出来るのなんて凄いななんてやっぱり僕は思う。

『でも正直、自分が二十年後や三十年後にどうなっているかは分からない。お金がなく体も悪くなってとても惨めな生活を送っている可能性も高い。でもすごく惨めな老後を過ごしたとしても、多分後悔はしないと思う。結局若いときの自分にはそういう選択しかできなかったのだから。若いうちにいろいろ好き勝手な楽しいことをできたし、もう人生なんてそれで十分じゃないだろうか』

僕も同じようなことを思っている。二十年後、三十年後のリアルな想像は出来ないけど、でもよほど運が良くなければ惨めな生活になっているだろうな、と思う。でも、まあそれでもしょうがない。僕も著者と同じで、こういう選択しか出来なかったのだから。もし大学を辞めずに卒業していれば、もう少し選択肢は広がったかもしれないけど、でも当時の自分には、その選択肢はなかった。僕は、大学を辞めたことを後悔したことが一度もない。後悔しようにも、僕には「大学に踏みとどまる」という選択は、絶対に取り得なかったことが分かっているからだ。
僕は、明日死んでも後悔はないと思って生きている。毎日それだけ情熱的に生きている、というわけではなくて、まあそれなりに楽しいこともあったし、どうしてもやりたいことって別にないし、老後にしんどい生き方をしなくちゃいけないなら、明日事故で死んじゃってもまあいいか、ぐらいの気持ちだ。そもそも日常を生きるというのは僕にとって、長い長い暇つぶしをしているようなものだから、死んじゃうことに恐怖があるわけでもない。ま、自分で死ぬ勇気みたいなものはなかったりするんですけどね。

『日本人は周りにどう見られるかを気にして自分を犠牲にしすぎだと思う。もっと全体的に適当でいい加減になっていいし、それで社会が不便になるなら不便になってもいい。電車やバスが遅れまくったり停電がしょっちゅう起きたりコンビニが二十四時間営業じゃなくなっても、その分みんなが気楽に生きられるならそっちのほうが幸せなんじゃないだろうか。もっとみんなだらだらしよう』

『あんまり先のことを考えすぎても仕方ない。十年後、二十年後にこの社会がどうなっているかなんて誰にも分からないし、また必要が迫ってから考えればいい。人間いつ何が起こって死ぬかわからないし、いつかは絶対に死ぬ。人生なんて死ぬまでの間をなんとかやり過ごせればそれでいい』

『もっと言うと、僕は「お金がないと生きていけない」とか「お金を稼ぐには働かなければならない」という事実にまだあまり納得がいっていないというのがある。憎悪していると言ってもいい。それは社会では当たり前のことなのかもしれないけど、それが当たり前だって簡単に思いたくなうい。もっと適当に、お金なんてなくても全ての人間は安楽に幸せに生きられるべきなんじゃないのか。それが文明ってもんじゃないのだろうか。それは夢のような話なのかもしれないけど、なんかそれは諦めたくない』

『人生においてもそんな感じで、頑張って力づくで無理矢理状況を変えようとするのってあんまりうまい方法じゃなくて、自分がそれほど力を入れなくても動ける状況を探すべきなのだ。もしどうすれば楽になれるのか全く見えない状況だったら、あまりあせらずに何かが見えてくるまでじっと何もせずに待ってみてもいいんじゃないかと思う』

『結論から言うと、別に働かなくても人間は生きていていいと思う。人間って別に働くために生きているわけじゃない。人間という概念はそんなに狭いものじゃないはずだ。人生をより良く送るための手段として働くのはありだけど、それはあくまで手段にすぎないのに、働くこと自体が人生の意味のように思っている人が多い』

『ニートが全くいない世界は、人間に労働を矯正する圧力がキツくて社会から逃げ場がなくて、自殺者が今よりもっと多いディストピアだと思う。
働きたくない人はニートになってもいいし、働きたい人は働いてもいい。一旦ニートになった人がまた労働者になることも、労働者がちょっと疲れたらしばらくニートをやるようなことも、どちらでも気軽に選べるような社会が理想的な社会だと思う』

考え方のすべてに賛同するわけではないけど、こうやって書かれていることのほとんどに共感できてしまう。社会に馴染めなくて、かつ考えることが好きな人間は、きっと同じような結論に達するのだろう。著者も、ここに書いたことは自分一人の意見なわけではなくて、色んな影響を様々に受けながら自分の内側に蓄積していったものだ、と書いているし、考え方や価値観は時代によって規定される、とも書いているし、そういうものなのかもしれないけど。
僕が著者と大きく違う点は二点あると思う。一つは、働くことが決して嫌いなわけではない、ということ。そしてもう一つは、人と関わることが嫌いではないということ。この二点が大きく違うから、僕は著者とまったく同じような生活を羨ましく思うことはきっとない。でも著者も当然、自分の生き方がベストだなんて言っているわけでもないし、人にはそれぞれ生きやすい生き方があるから、今窮屈に感じている人はそれを探してみたらいいんじゃない、と言っている作品なんで、全然いいのだけど。
僕は決して、働くことは嫌いではない。ただ、「働くこと」に付随する余分なものが面倒に感じることが多い。理不尽な命令だったり、無駄に感じられる会議だったり、仕事以外の部分で評価されるような雰囲気だったり…というような、まあサラリーマンとして働いたことはないから全部想像でしかないんだけど、そういう「働くこと」のちょっと外側にあるような部分が僕には我慢できないようなところがある。だから、注意深くそういうものが出来るだけない仕事を探せば、たぶん僕は仕事を続けることが出来る。今は運良くそういう場所にいるから、どうにか働き続けることが出来ているけども。だから、どんな場所でも働けるわけでもないし、というか世の中の大半の場所では働けないかもしれないけど、でも決して働くことは嫌いではない。
そしてもう一つ、僕は人と関わることは嫌いではない。しんどく感じることも当然あるのだけど、基本的に人と関わることは好きだ。だから、著者のように、「コミュニケーションを取らなくても孤独にならない方法」を探してシェアハウスに行き着いたりはきっとしないだろうなと思う。まあ、人と関わる、という部分でシェアハウスは面白そうかもと思ったりはするけど、なんとなく僕には向いてないかもなー、という気がしないでもない。まあ住んでみないと分からないけど。
だから僕は、著者のように内に閉じこもっているよりも、外に出て行く方が健全に生きられる気がする。それでも、ベースとしての考え方は凄く共感できるのだから、本書はニートであるかどうかみたいなこととはあんまり関係なかったりすると思う。本書の評価として、「この著者はニートじゃない」という批判をひくつか目にしたことがあるんだけど、これほど的はずれな批判もないな、と僕は思う。本書は、著者がニートであるかどうか、なんて狭い価値判断に左右されるような作品ではない。例えばこの著者が大金持ちの御曹司で、働かなくても優雅な生活を維持できる、という環境で本書のようなことを言っていたら、それはまた受け取り方は変わるだろうけど、厳密にニートであるかどうかはともかく、ニート周辺にいる著者がこういうことを書いているのだから、僕は全然素直に受け取ることが出来る。著者も本書で、大金持ちが遊んで暮らしていることは批判しないのに、貧乏人同士が些細な差異をあげつらって共感できないのはなんだかなー、みたいなことを書いていたけど、本当にそう思う。僕は、著者の外面的な生き方がどう見えようと、内面は紛れも無くニートだと思うし、そういう意味で僕も、外面的にはともかく、内面的には相当ニートに近いんじゃないかなと思います。

『ニートでない人たちは、ニートが自分たちとまったく違う何かだと思わないで欲しい。それは自分たちと同じ社会の雰囲気から産まれた、自分と共通するものを持った何か何かなのだから。
逆も同じことが言える。ニートにとっても、働いている人は自分と無関係ではない。それは自分と共通する何かを持った人たちで、1枚のコインの両面みたいなものだ』

著者は様々な本を持ち、色々あがいて様々な経験をすることで、非常に面白い視点を獲得することが出来ている人だと思う。自分の立ち位置を客観的に見定め、社会や常識を違った方向から眺め、多勢に流されることなく、自分の考え方をきちんと持ち、そしてその価値観を裏切ることなく行動に移す。なかなか出来ることではないと思う。著者の考え方を受け入れることが出来るかはともかくとして、自分の生き方や価値観などについて、ここまで向き合って真剣に考えられる人はそう多くはないだろう。恐らく、多数派であればあるほど、社会の常識や当たり前に疑問を感じない人であればあるほど、自分の生き方や価値観と向き合って考えることは難しくなっていくだろうと思う。そういう意味でも、共感できる。どんな生き方をしていようが、自分がどこに立っていて、そこでどう生きているのかを客観的に見定めることが出来ているのであれば、そしてその生き方そのものが誰か他人の迷惑になっていないなら、それは誰かがとやかく言うようなことではないだろう。僕ももっと、自分の肌感覚みたいなものに従って生きていこうかなと思いました。是非読んでみてください。

pha「ニートの歩き方 お金がなくても楽しくクラスためのインターネット活用法」


記憶力を強くする(池谷裕二)

内容に入ろうと思います。
本書は、東大大学院の若き研究者であり、脳科学者として高く評価されている著者による、科学的に記憶力を増大させる方法と、何故そう言い切れるのかという理論的側面について書かれた作品です。
さて、本書を読む前に、一つ重要な点を理解しておかなくてはいけません。
それは、本書が2001年に発行された本だ、という点です。
科学の世界はどんな分野であっても、長足の進歩を遂げていきます。本書は、12年前の時点での最先端の知識を元にして書かれている作品です。しかしそれは、現在の最先端とは相当にかけ離れたところにいることでしょう。もしかしたら、本書で描かれていることのうち、間違っているかもしれないと示唆される研究結果が出ていたりする可能性さえあるでしょう。なので本書は、「最先端の脳科学を知る」という目的には、明らかに向いていません。
しかし本書は、タイトルにもあるように、「記憶力を強くする」本です。科学的、理論的な裏付けを元にするわけですが、あくまでも本書は、「どうやったら記憶力を強くすることが出来るか」という点が大きなテーマです。作中の大半を、2001年当時における最先端の脳科学の知見の説明に費やす内容ですが、本書の大きなテーマは、そこからどんな記憶術を導きだすことが出来るか、という点です。2013年現在、脳科学はさらにさらに遠くまで進んでいるでしょうが、「記憶」に関する極々基本的なメカニズムについては、恐らく2001年の時点で相当に理解されているのではないかと僕は感じました。なので、本書は、現在の視点から見れば古臭い知見によって成り立っているかもしれないけど、記憶術を提示するには十分なのだと、僕は認識しています。まずその点を注意しながら読んでもらえるといいと思います。
さて、詳しく内容に入る前に、著者によるガツンと来る文章を拾ってみましょう。

『本題に入る前に、まずみなさんにぜひ心に留めておいてほしいことがあります。それは年齢と記憶の関係です。「ちかごろ記憶力が落ちて…」「最近もの忘れが激しくて…」などとよくグチをこぼす人がいます。確かに、頭脳の働きは十七歳あたりまでがもっとも活発で、その後は徐々に低下すると世間ではいわれています。しかし、これは本当でしょうか。脳を詳細に調べてみると、確かに、神経細胞の総数は歳とともに減っていきますが、シナプスの数はむしろ反対に増えていくことがわかります。つまり、神経回路は年齢を重ねるにしたがって増加していくのです。この事実は、若い頃よりも歳をとったほうが記憶の要領が大きくなるということを意味しています。
それなのに人は「歳のせいで覚えが悪い」と嘆きます。この嘆きはたいへんな間違いで、私から見れば、そういう人は単なる努力不足であるように思います。そしてまた、昔自分がものを覚えるために、どれほど努力したのかを忘れているのです。勉強がその生活の大半を占める学生時代でも、ひとつのものごとを修得するのに、かなりの時間と労力を要したはずです。こうして苦労した経験を忘れ、ただただ老化を嘆くのはとても愚かな行為です』

これはグサッと来ますね。「歳だから…」と言って逃げているみなさん。そういう逃げは、脳科学的な見地からすると、許されないそうですよ。
しかし、年齢によって脳の働き方が変わるので、勉強方法も変えなくてはいけません。学生時代と同じように勉強するのでは、うまくいきません。

『歳をとって、エピソード記憶が発達してくると、丸暗記よりも、むしろ論理だった記憶能力がよく発達してきます。ものごとをよく理解して、その理屈を覚えるという能力です』

本書によると、子供の頃は意味記憶が発達していて、大人になるにつれエピソード記憶が発達してくるそうです。小学生の頃に九九を覚えさせるのは、その時期意味記憶が発達しているからだそうで、そのために大人になってから九九を覚えるのは非常に困難なのだそう。エピソード記憶というのは、過去の自分の経験や出来事に関係した記憶であり、なんらかの「きっかけ」によって思い出されるものです。大人になるにつれ、このエピソード記憶が発達してくるので、この特性を活かした勉強方法を採らなくてはいけないのです。覚えたいものを様々なものと結びつけることで、記憶は定着していきます。
他にも、

「間を空けすぎずに復習をすべし」
「夢は記憶を適正に整理する過程なのだから、ちゃんと寝るべし」
「何かに興味を持つことで発せられるθ波が海馬を活性化させるので、興味を持つべし」
「いきなり細部を覚えるのではなく、まずは全体像を把握してから段階を踏んで覚えるべし」

などなど、それだけ聞くと、ふーんなるほどどこかで聞いたことあるようなことだな、ってかまあそんなこと言われなくてもなんとなくイメージ的に分かるわい、と思ってしまうようなことが描かれます。奇跡のような記憶術を求めている人は、ちょっとがっかりするかもしれません。しかし、やはり王道は王道。著者も、「つまり、覚えるということは「努力」と「根気」なのです」と書いています。楽な道はありません。
ただ、楽な道はありませんが、間違った記憶のやり方をしている人には、本書は実に有効でしょう。何かどうしても学びたいこと、覚えたいことがあって勉強をしてるんだけど、どうにもうまくいかない。そういう人は、アドバイスそのものはありきたりかもしれないけど、本書で書かれていることを実践してみると良いと思います。
記憶術としては、やはり王道の解決策になってしまうんだな、と思いはしますが、僕は、「記憶」というメカニズムが脳の中でどんな風に起こっているのか、という科学的な説明にかなり惹かれました。これは、非常に面白いと思います。一つ一つの仕組みを簡単には説明できないので省くしかありませんが、脳がいかにしてこれほど精緻な活動をやり遂げているのかを思い知らされました。どんな風にして様々な機能や性質が分かってきたのか、どんな発見が脳科学を前進させてきたのか、そういう知的好奇心を刺激するような形で本書は描かれているので、脳科学という難しそうな分野の作品でありながら、非常に読みやすく理解しやすい内容になっていると思います。実際著者はあとがきで、脳科学を語る難しさに触れています。

『極度に込み入った複雑な脳科学の世界を詳解することは端から無理なことです。科学を説明するためには「分かりやすさ」か「正確さ」のどちらかを犠牲にしなければなりません。したがって、この本では、せめてその大局的な骨格だけでも皆さんに理解していただきたいと割り切り、思い切った説明をしました。表現を端折った部分や曖昧な説明をした箇所も多々あります。したがって、私としては非常に歯痒い思いですし、また同分野の研究者から見ても舌足らずに感じる箇所もあろうかと思います。それでも、最先端の内容をできるだけ盛り込むように注意を払い、結果としては、現場の雰囲気を多少なりとも皆さんに伝えることができたのではないかと自負しています』

僕にとって池谷裕二は、非常に信頼できる科学者です。池谷裕二の著作では、「進化しすぎた脳」と「単純な脳、複雑な「私」」という二冊を読んだことがあります。どちらも、高校生への講演をベースにした作品ですが、脳科学の最新の知見をふんだんに盛り込みつつも、科学の面白さを同時に伝えようとしているところが凄く伝わってくる作品で、とても素晴らしい作品でした。こちらも是非読んでもらえればと思います。
本書の中で、なるほどと思わされたことが、脳とコンピュータの違いです。

『何でも正確に記憶して、いつまでも忘れないのが優れた脳であるという認識はあらためなければいけません。コンピュータのような正確無比な脳は「脳」としては役に立たないのです。人間とは忘れたり間違ったりするものなのです。その弱点を補うために、人は、コンピュータや文字を発明し開発したにすぎません』

人間の記憶というのは、曖昧でファジーです。何故人間の脳は、物事を正確に精緻に捉えるのではなく。曖昧でファジーに捉えるように進化したのか。
それは生存に有利であるためです。コンピュータのように正確無比な記憶では、変化に対応できません。生物は基本的に、まったく同じ状況には二度と遭遇しません。あらゆる変化に対応出来るようにしなくてはいけません。例えば、別々の二人が手書きで書いた同じ文章を、人間は同じものと捉えますが、コンピュータは違うものと捉えるでしょう(最近では、手書き文字を認識出来るようになっているだろうけど)。このような柔軟性があるからこそ、生物は生きていくことが出来る。コンピュータのような正確無比な記憶こそが最上なのだ、という価値観は捨てて、ちょっとぐらい間違えたり失敗したりするからこそ、僕らは安全に生きていけるんだ、と思う方が面白いと思います。
学生でも大人でもお年寄りでも、何かを学びたい、新しいことを覚えたいなんていう人は、一読してみるといいと思います。効率的で効果的な勉強方法を知ることが出来るでしょう。また、歳を取ったからと言って諦めるのは愚の骨頂と著者は断言します。本書を読んで、新しいことにチャレンジしてみませんか?

池谷裕二「記憶力を強くする」



見て見ぬふりをする社会(マーガレット・ヘファーナン)

内容に入ろうと思います。
本書は、まさにタイトル通りの本で、世の中で起こる様々な「見て見ぬふり」を取り上げた作品です。本書が他の作品と若干毛色が違う点を指摘するとすれば、それは著者が学者ではない、という点でしょうか。通常本書のような作品は、心理学系の学者によって書かれることが多いと思いますが、本書の著者は様々な企業の役員や社長をしている人物のようで、だからこそ、取り上げられている事例が現実に軸足を置いたものが多いような気がします。

『大規模な事故や災害の前には、後悔してもしきれないパターンがある事が多い。早い時期に何度も警告(シグナル)が発せられていたのに無視されていたとか、基本的な想定に誰も疑問を持たずにいたなどの状態があって、そこに災害が起こると、後になって、あのときちゃんと情報を理解していたら防げたと知り、さらに苦しみが大きくなる。このパターンは911の同時多発テロや、西側の経済を襲っている金融危機や、福島原子力発電所の事故に顕著に見られる。それぞれの出来事は悲劇的だが、これほど被害が大きくなったのは人災であり、防ぐ事ができたという事実が、混乱した状況をさらに苦しいものにしている』

これは本書の冒頭である「日本語版刊行に寄せて」の最初の部分だ。この後に続けて著者は、福島第一原発事故について触れている。著者によれば、「すべての証拠が揃ってみると、福島は典型的な見て見ぬふりの事例だ」となる。

『不安になる情報の隠蔽は世界中の組織で起こっている現象だ。その情報により多大な経費がかかることがわかっている場合に、特に起こりやすい。そしてこういう場面で内部告発者が生まれる』

『小さな出来事が続いて起こっていたというのも典型的だ。弱いシグナルが出ていても、それ自体にはそれほど大きな意味がないので、見過ごされることが多い。こういうシグナルは積み重ならないと意味を持たないのだ。そして、誠実で、こうしたシグナルに警戒している従業員は、騒ぎを起こしすぎだと批判されやすい。実際は、経営者自身が問題へとつながるパターンが出ていないか、注意深く観察するべきなのに。』

『もっとも重要なのは、彼らが―そうではないと革新できるような根拠がないかぎり―悪いニュースは絶対に歓迎されないと考えていることだ。私は世界でも指折りのすばらしい組織のいくつかで仕事をしてきたが、どこでも従業員たちはこうした考えを持っていた。悪いニュースを報告しても、善意の対応を受けると思っている者は誰もいない』

本書を読めば誰にでも理解できることだが、「見て見ぬふり」は、個人の資質によるものではない(そういう場合もあるが)。それは、誰にでも起こりうる。自分だけは大丈夫、と思っている人はたくさんいるだろうが(僕もそうだ)、しかしそれは、たまたまこれまでそういう状態に出くわさなかっただけだ(いや、あるいは、既に今の時点で見て見ぬふりをしているのだけど、それに気づいていないだけかもしれない。これも、十分にあり得る話だ)。本書で様々な具体例が提示されるが、自分だけはその罠に陥るはずがない、と思うことは止めた方がいい。あらゆる心理学の実験が、そして現実に起こった様々な事件が、そのことを如実に示している。僕達に出来ることは、どんな風に見て見ぬふりが現実に起こり得るのかを知り、意識に留めておくことぐらいだ。だからこそ本書のような本を読んでおいた方がいいと僕は思う。「オレオレ詐欺」という詐欺の方法がある、という事実を知っていれば、まだ多少対処の余地が出てくるのと同じように、世の中にこんな見て見ぬふりの事例があるのだと知ることが、あなたの現実の行動に少しは影響を与えるかもしれない。
本書は、各章毎にそれぞれテーマが違う。11の章で様々な「見て見ぬふり」の事例が紹介され、最後の第12章で、「見て見ぬふりに陥らないために」という文章が続く(実は僕はまだこの「見て見ぬふりに陥らないために」という文章は読めていないのだけど)。11の章でどんな見て見ぬふりが紹介されているのか、いくつかざっと説明していこう。
まずは、人間は馴染みのあるものを好む傾向にある、という話だ。当たり前だと思うだろうが、これによって人間の視野はどんどん狭くなっていく。

『この二人のような、異質なものよりなじみのあるもの、未知のものよりよく知っているもの、調和しないものより居心地のよいものを好むという傾向に人は陥りやすいが、それは重大な結果を招く。事故認識から脱することがないまま、自分の価値を肯定するような人間関係や組織や街やシステムや文化を築き、異なるものに触れることが少なくなる。ここから見て見ぬふりがはじまるのだ』

『我々は自分が好きだ。それはなによりも自分のことはよく知っていてなじんんでいるからだ。だから我々は自分によく似た人、あるいは自分と何か共通点があると思う人が好きだ。そういう人はなじみがあって安全な感じがする。そしてなじんだものには安心するというこの感覚のせいで、さらに自分自身が好きになる。不安を感じないですむからだ。所属している。プライドが高くなる。幸せを感じる。人は自分をよく思いたいし、安心していたい。そしてなじんだものや自分に似たものにかもまれた環境はこの欲求を十分に果たす。
問題はこのぬくぬくして安全な輪の外が見えなくなってしまうことだ。』

『人は同じような考えの者同士で固まっていたいという本能があるせいで、違う種類の人々や価値観や経験に触れることが少なくなる。ゆっくりと、しかし確実に、自分の知っていることだけに集中し、他のすべてが見えなくなっていく。現代は以前より選択肢自体は増えたのに、狭い好みを守るようになった』

『こうして見て見ぬふりがはじまる。意識して積極的に見て見ぬふりをするのではなく、一連の洗濯の結果、ゆっくりと、しかし確実に視界が狭くなっていくのだ。視野が狭まっていることを本人は自覚できず、ほとんどの人がそのまま広く豊かな世界が見えていると思いたがる。しかしそれは日常のごく小さな洗濯にまでおよんできて、自分に肯定的な考え方と価値観にぬくぬくとひたり、埋没していく。そしてこの経過でもっとも恐ろしいのは、視野がどんどん狭くなっていくと、さらに居心地よさと自信を感じるようになることだ。目の前の世界は縮んでいっているのに、たくさんのものが見えている気分になってしまうのだ』

こういう感じは、本屋で働いているとよく感じる。僕は、小説ばっかり読んでいると飽きてくるし、ましてや同じ作家の本ばっかり読んでいるとより飽きてくるのだけど、多くの人は、決まりきった作家の作品しか買っていかないように僕には見える。実際にはどうか知らないけど、お気に入りの作家以外には手を出さない、と決めているかのように見えることがある。あるいは、とにかくみんなが読んでいるもの(つまり、売れているもの)がどんどん売れていく。まあこれは当然と言えば当然だけど、そんな本まで「みんなが買っている」というだけの理由で売れるものなのか、と驚くことがある。

次は、愛の問題だ。愛が介在すると、本来見えるはずのものも見えなくなってしまう。いくつかの事例が取り上げられるが、印象的だったのは、児童虐待とナチスの話だ。児童虐待では、家庭内で我が子に暴力が振るわれている兆候を目にしながらも、愛情が邪魔をしてそれを見なかったことにしてしまう。ナチスの話では、ヒトラーから特別に目を掛けられた(と本人が感じている)建築家の話が印象深い。彼は、ヒトラーから認められたというその一点だけで、自らの倫理規定に反することをやってしまう。愛がある故に医者は、親族の病気の診断を正確に下せなくなるとも書かれている。

次は、捨てることが出来ない信念の話だ。ここでは、レントゲンととあるカルト集団の話が印象的だった。
アリス・スチュワートという女性医師は、様々な調査の結果、妊娠女性にレントゲン撮影をすると、生まれてくる子供が白血病になる、という、現代から考えれば当然の結論に初めてたどり着いた。これは、ありとあらゆる結果が明らかにしていた事実だったが、しかし医学界はアリスの言説を無視した。当時医学界に大きな影響力を持っていたドール氏が自身の信念を曲げなかったことも要因の一つだが、それだけではない。

『「誰でも、ずっと間違ったことをしてきたとはいわれたくはないでしょう」アン・マーシャルは母親の発見についてそう語った。「放射線技師と助産師は母の発見をそう捉えました。自分たちが間違ったことをしてきたといわれたと。放射線科医も産科医もたくさんいますし、みな自分の仕事が気に入っていたから、それを続けたかったんです」』

とあるカルト教団を舞台にした実験は、心理学の世界で非常に有名な実験だ。レオン・フェスティンガーは、とある主婦が預言者となり人類滅亡の日を予言、彼女のシンパシーを感じる人たちが集まってカルト教団のようになっている、と知り、これはチャンスだと思い、自ら教団内部に潜り込んだ。彼が知りたかったのは、人類が滅亡するというその日に、予言通りに人類が滅亡しなかった時、それまで信じていた人たちはどんな反応をするのか、ということだった。
そしてその結果は、彼が立てた仮説通りだった。それは、「現実に反証があがると彼らの信念は強くなる」である。これは、直感的には理解し難い。普通反証があがれば、その信念を捨てるしかないと思うだろう。しかし現実は違う。現実に反証があがることで、信念はより強く増強されるのである。

モンタナ州リビーで起こった出来事は、福島第一原発事故を思い起こさせる。リビーにはかつて鉱山があった。まともな職がなかったその町では、鉱山での仕事は夢のようだった。給料はとても良かったのだ。しかも、会社がレントゲン代を負担してくれる。素晴らしい。
しかし次第に、鉱山で働く人、そしてその家族に健康被害が広まっていく。それはアスベストによるものだった。アスベストによって両親を失った一人の女性が、この問題に立ち向かう。事実を調べ、世間に公表しようとしたのだ。
しかしそれは、周囲の住民の反対という驚くべき反応を引き起こすことになる。ほとんどの住民が健康被害を抱えているというのに、声をあらげようとするその女性の動きを批難したのだ。
これは、現実を直視したくない、という心の動きから起こるものだ。現実を見さえしなければ、悪いことは何も起こらなかったことになる。そんな風に信じているかのように。この考え方は、福島第一原発事故における放射能汚染の問題にも繋がるのではないかと思う。

人が集団に同化しようとしてしまう性質を持つ、ということも、様々な実験によって明らかにされている。有名なのは、いくつかの長さの違う線を見せられて、どれが一番短いかを答えさせるもの。被験者以外は全員サクラで、サクラは明らかに一番短いわけではない線を答えるように言われている。すると被験者も、明らかに一番短いわけではない線を選ぶ傾向が強くなるという。
金融危機を引き起こしたサブプライムローンも、同化によって引き起こされたと考えている。

『サーノフが見たのは、増幅されていく見て見ぬふりだった。みな間違っているのを知っていても、目をそらしていれば、自分も他人も見なくてすむ。これほど大規模な見て見ぬふりの合作あるいは共謀は、1930年代の全体主義体制以来かもしれない。しかしこの同化には独裁者はいない。市場があるだけだ。そしてこの出来事で一番の難題は、市場の競争が激しくなるとそれだけみなが画一化されてくるという点だ』

様々な人間を集めて集団を作ることで、多様性が生み出されると考える人も多いだろう。しかし、実際はそうならないことの方が多いという。

『ビジネスでは、企業は社員間の競争を助長するが、これはそうすることによって社員たちのもっともいい面を引き出せると考えているからである。そして従業員たちをチームに分けるのは、なにかの判断を下す際、一人よりも異なった人々からなる集団の方が、いい判断を下せると考えられているからだ。しかしこのようにグループで仕事をさせることにおける問題は、個人が影響を与えあうことによって、多くの可能性が消えてしまうことだ』

『同化に伴うもっとも大きな危険は、なにかに所属しているという感覚(これによって安全だと感じる)があると、我々は危険性がわからなくなり、通常より大きなリスクを冒すようになることだという』

さて、最後に、金は人を幸せにするわけではない、という話をいくつか引用しよう。

『消費すればするほど、さらにほしくなるのだ。しかし人はそのトレッドミルから降りることはない。少なくともつかの間だけはいい気分にさせてくれる、快楽の中毒になっている』

『実験者は金は個人の努力を引き出す上では大きな動機になるが、社会的には負の副作用を伴うと結論づけた。自分自身の利益と他人への配慮の衝突は誰もが経験するが、金は我々の利益追求の部分だけを刺激するので、自分勝手で自己中心的になる』

『経済的な優遇策に重きを置き過ぎると、大事なのは金であり、それ以外は問題ではないというメッセージを送ることになってしまう。私利私欲に訴えるような経済的な優遇策は、企業が予想しないような展開で失敗する。』

「見て見ぬふりに陥らないために」はまだ読めていないので、どんなことが書かれているかわからないのだけど、とにかく僕達は、あらゆる「見て見ぬふり」の罠に掛かってしまう可能性があるのだという自覚を持っておいた方がいい。自分だけは大丈夫、という考えこそが、さらに「見て見ぬふり」を助長させるのだということを肝に命じた方がいいのだろうと思う。それはなかなか難しいことだろうけど、見て見ぬふりが個人の人生や社会にどれだけ大きな影響をもたらすのか、本書を読めば様々な実例と共に知ることが出来る。油断は禁物だ。あなたの人生のどこかにもきっと、「見て見ぬふり」という落とし穴が待ち構えているはずだ。少しでも見て見ぬふりへの意識を強めるために、是非読んでみてください。

マーガレット・ヘファーナン「見て見ぬふりをする社会」


刻刻 1~5巻(堀尾省太)

内容に入ろうと思います。
佑河家に一本の電話。樹里の姉の息子である真が誘拐されたという。たまたま今日は、ひきこもりの兄・翼が保育園まで真を迎えに行ってて、状況が分からない。
身代金の500万円をどうにか揃えようとする、樹里の父・貴文。しかしそこで、樹里の祖父が二人を一喝して座らせる。そして、「努力」と書かれた石に手を置くように指示し、何やらやり始めた。
その瞬間、時が止まった。
ありとあらゆるものが静止した世界。その中で、彼ら三人だけが動いている。誘拐犯に指示された場所まで行き、翼と真を助けようとする三人。
しかしそこで、驚愕の事態に見舞われる。なんと、この三人しか動けないはずの世界で、多くの人間が動いて彼らのいるところまでやってきたのだ。この術を知っている祖父にも、まったく状況が理解できない。さらに、「止者」と呼ばれる、時間が止められたことで動きを封じられている人を殺そうとすると現れる、「管理者(神ノ離忍)」もやってきた。
止界の世界のことを知っていて、佑河家を狙い撃ちにした組織がある。しかし、一体彼らの目的はなんなのか…。
というような話です。
現時点で7巻まで出ているはずですが、なんとなく5巻まで読んでみました。
なかなか面白い作品ですね。「時間が静止してしまう世界」という、まあありがちな世界観を、なかなか面白く物語に落としこんでいる感じがします。
祖父だけがこの術の存在を知っていて、真が誘拐されるまでそのことを一切知らされることがなかった佑河家と、その術の存在を知り、教義にまで高めて「実愛会」という宗教団体を作り上げた佐河家。この二つが、止界の中で争いを繰り広げるわけなんだけど、5巻まで読んでもまだまだ全体像が掴めない。
佑河家の動機は、わかりやすい。彼らは、翼と真を救い出すことが目的であって、そのために常に動いている。次第に樹里らは、佑河家が持つ術への耐性や特殊能力などを知るようになり、それらを駆使して、佐河側の人間とも関わって止界の中で色んなことをするようになるのだけど、それでも基本的なベースは、自分たちの家族を救うための行動を取っているという点で、非常にわかりやすいです。
しかし、佐河側が何をしようとしているのかが、なかなかわかりづらい。
佐河という男が実愛会のトップとなり、色んな欲望や目的を持った人間を雇って止界へと連れてくる。この佐河が何を目的として動いているのかが、物語の1つの軸になっていく。仕方なく止界に入らざるを得なかった佑河家とは違って、佐河側はかなり目的意識を持って止界に来ている。しかし、ただ雇われている連中も、佐河の目的を知らない。当然、佑河家の面々も知るよしもない。その謎めいた部分が、物語を面白くしていく感じがします。
またここに、間島という女が関わってきて話をややこしくする。間島は、佐河側の人間だが、実愛会と関わるようになったのはつい最近で、この女も何を目的としているのかしばらく分からない。この間島は、実は樹里と昔関わりがあって、長い間忘れていたその記憶を、樹里は思い出すことになる。
止界の設定が少しずつ明らかになっていくところも面白い。佑河家にとっても、佐河側にとっても、止界は謎めいた場所であり、何もかも理解できているわけではない。色んな行動を取ってみることで、止界でのルールが少しずつ明らかになっていく。特に、ただ「時間が止まる」というだけではなく、物理法則にも配慮されているのが面白いと思った。慣性の法則が働かないから、自転車は漕ぎ続けてもずっと重いままだし、空気や地面との摩擦がどう処理されるのかも、説明がなされる。細部に渡って設定が細かく考えられているというのはいいなと思いました。
これから物語がどう進んでいくのか分からないけど、先が気になる物語ではありますね。特に、5巻の中で佐河が大変なことになっちゃってるんだけど、これがこの後どうなっていくのかというのが、物語の主軸になっていくのかなと思います。佑河家はみんな一緒に元の世界に帰れるか。是非読んでみてください。

堀尾省太「刻刻 1~5巻」











アフガン、たった一人の生還(マーカス・ラトレル)





内容に入ろうと思います。
本書は、世界最強とも謳われる<米国海軍SEAL部隊>に所属する著者が、アフガニスタンで4人でも作戦従事中にタリバンの兵士に襲われ、4人対数百人の激烈な戦いをくぐり抜け、たった一人アメリカへ帰還を果たした男の、慟哭と悔恨と怒りに満ちたノンフィクションです。
彼らは、たった一人の羊飼いを見逃したことで、絶望的な危機に置かれることになった。

『この男たちを自由にするなんてことは、絶対にできない。だが困ったことに、おれにはもう一つの心があった。それはクリスチャンの心だ。そしてそれはおれを圧倒しようとしていた。心の裏側で、これらの非武装の男たちを平然と殺すのは間違っていると、何かがささやき続けていた。』

『まっすぐにマイキーの目を見て、おれは言った。「こいつらを解放するしかない」
それはおれがこの世に生を受けて以来した、最も愚かで南部的で間抜けな決断だった。とても正気だったとは思えない』

彼らは常に、任務の詳細は告げられない。しかし、自分たちが何をしようとしているのかはきちんと知っている。彼らは、9.11のテロを組織し実行に移したタリバンを壊滅させるためにここにいる。少なくとも、それが任務の一つだ。
しかし彼らは同時に、<交戦規則>に縛られてもいる。これはざっくり言えば、「民間人は殺してはいけない」という規則だ。
本書は著者の、<交戦規則>への怒りの物語でもある。

『けれども、レンジャー、シール、グリーンベレー、その他何であれ、そういった米軍先頭兵士たちの観点からすれば、交戦規則は非常に深刻なジレンマを突きつける。おれたちもそれを守らなくてはならないことは理解している。なぜならば、それはおれたちが仕えると誓った国の法のもとに定められたルールだからだ。しかし、それはおれたちにとっては危険を意味する。世界的なテロとの実践場でのおれたちの自信の土台を揺るがす。さらに悪いのは、それはおれたちを不安にし、弱気にし、ときに及び腰にさせる』

何故彼らは<交戦規則>を恐れるのか。それを理解するために、羊飼いを解放するかどうか議論をしている時に、マイキーが言ったセリフの一部を引用しよう。

『(羊飼いの)死体が見つかったら、タリバンのリーダーたちはアフガンのメディアに大喜びで報告するだろう。それを聞きつけた我が国のメディアは、野蛮な米軍についての記事を書き立てる。ほどなくおれたちは殺人罪で起訴される。罪なき非武装のアフガン農夫を殺したからだ』

<交戦規則>は、非武装の民間人を殺してはならないと定めている。これが、アメリカが自ら立てた戦争のルールだ。しかし、現場ではそんなこと言っていられない。この羊飼いは、確かに非武装だ。ただの羊飼いかもしれない。しかし彼は明らかにアメリカに対する憎しみをその目にたたえている。解放された後、彼はどうするだろうか?タリバンにこの場所を伝えはしないだろうか?いや、間違いなく伝える。というよりも、タリバン側は、どうすれば戦争が有利に運ぶかをきちんと知っていて、アメリカの<交戦規則>を利用しているのだ。彼らが非武装の民間人を殺せないことを知っているタリバン側は、それを利用して情報を集め、またその民間人が殺されるようなことがあれば徹底的に利用するのだ。
それを助長するのが、自国アメリカのメディアである。メディアは、話題になればどんなことでも取り上げる。たとえそれが、自国のために身体を張って戦争に立ち向かっている勇敢な戦士を不用意に追い詰める行為だとしても。

『アフガニスタンにおける交戦規則には、おれたちは非武装の一般市民を撃っても、殺しても、負傷させてもいけないと明記されている。しかし、その日武装の一般市民が、おれたちが取り除こうとしている違法部隊の熟達したスパイだった場合はどうだろう?または、一般市民を装ってはいるが、実は様々な形態をとって散らばる、きわめて強力な秘密の軍隊で、アフガニスタンの山岳地帯を這い回っているのだとしたら?』

『こういったテロリスト/暴徒は、イラクでもそうだったが、おれたちの交戦規則のことを知っている。それはおれたちのルール、世界のより文明が開けた側である西側諸国のルールだ。そしてテロリストというテロリストが、このルールをどうすれば自分たちの味方につけられるかを知っている。でなければ、駱駝遣いたちは銃を持ち歩いているはずだ』

『おれたちはそこに行く。一日中。毎日、しっかり任務をまっとうするか、あるいは途中で死んでしまうか―アメリカ合衆国のために。しかし、おれたちに誰を攻撃していいかを指図するのはやめてくれ。その決定はおれたちに、軍に、委ねられるべきなのだ。進歩的なメディアや政治家のグループがそれを受け入れられなければ、戦場では死ななくていい人間が死ぬ羽目になる』

『シールは他のどんな的にでも対処できる。ただし、それは合衆国におれたちを刑務所に入れたがっている人間がいなければ、の話だ。だからといって、相手が非武装のアフガン農民に分類される可能性があるというだけの理由で反撃することおもできずに、喉を掻き切られるのをただ待って山の仲をうろうろしているなんてことは絶対にごめんだ』

『今のおれのこの姿を見てくれ。拷問され、撃たれ、爆破され、最高の仲間を全員失った、無力なこのおれを。すべては自国のリベラル派を恐れたからだ。民間の弁護士を恐れたからだ。もしもきみが、ときに死ぬべきでない人が死んだり、罪なき人々が死ななくてはならなかったりするような戦争に巻き込まれたくなかったら、最初からそんなものには近づかないほうがいい。なぜなら、それは起きるべきして起きるからだ。死に値しない人々を殺すtいう、ひどい不正義。それこそが戦争なのだ』

彼らは、たった一人の羊飼いを見逃したことで、遮蔽物もない、戦闘的にはほぼ絶望的な状況の中で、しかも恐るべき訓練を受けているとはいえ、たった4人しかいない中で、数百人のタリバンに囲まれながら現状を打破しなくてはならない事態に陥る。普通、そこから生還することはまず不可能だろう。タリバンの数百人の兵士も、決して訓練されていないわけではない。戦術はきちんと理解しているし、銃の扱いも下手ではない。そんな彼らを相手に、たった4人で立ち向かった著者を含む4人のシール部隊のメンバーたち。
この戦闘は、本当に凄すぎる。親指を吹き飛ばされても、腹を何発か撃たれても、何度も崖から落ちても、彼らは戦い続ける。凄まじいとしか言いようがない。この凄さは、とても表現できないので、是非とも本書を読んで欲しいのだけど、これほどまでに超人的な戦い方が出来る人間がこの地上にいるのか、と思わされるほどだった。彼らは、最後の最後まで、決して諦めないのだ。

『世界中のどの三人の男をとっても、あの山岳地帯で、おれの仲間たちほど勇猛果敢に戦った者はいない。ほぼ完全包囲された状態にありながらも、おれたちはまだ最終的には敵に勝てると信じていた。まだ、弾はたっぷりあった』

『おれたちが万全の状態でないことはわかっている。それでも、やはりおれたちはシールだ。何ものおそれは奪えない。おれたちにはまだ自信があった。そして、おれたちは絶対に降伏はしない。いざとなれば、銃を相手にナイフででも死ぬまで戦ってやる』

普通の人間からすればどう考えても絶体絶命としか思えない状況だ。タリバン兵は、殺しても殺しても、次から次へと湧き出てくるようにやってくる。彼らにはほとんど無限の補充のように感じられたのではないか。しかも彼らが戦っていたのは、まともな遮蔽物が存在しない荒野だ。これが彼らの戦い方をさらに難しくする。というようなことをどれだけ書き連ねても、彼らが置かれた状況を説明することは出来ないのだけど、そんな状況でも彼らは、ほとんど最後の最後まで希望を失うことがなかったのだ。
結局タリバン兵との戦闘で、仲間の三人が命を落とした。著者が助かったのは、強靭な精神力ももちろんあるが、かなり運も大きかっただろう。とにかく著者は生き延びた。
しかしここからがさらに問題なのだ。著者は、撃たれ、骨が折れ、全身に激痛が走る中、連絡手段も持たないままアフガンの荒野に取り残されたのだ。アメリカ軍と連絡を取る手段はない。周囲にはまだタリバン兵が山ほどいて、見つかるわけにはいかない。
そんな状況の中で、著者はいかに救助されたのか。これはまるで映画のような展開で、こちらも凄いとしかいいようがない。彼がどんな風に救助されたのか、それは是非本書を読んで欲しいのでここでは書かないけど、あらゆる幸運があ折り重なるようにして実現した奇跡の生還と言っていいと思う。そもそもあの戦闘を生き延びることが出来たことも奇跡だったし、ほとんど動かないはずの身体で相当な距離を、しかもタリバン兵から隠れるようにして移動出来たことも奇跡だし、さらにその後に起こったこともまさに奇跡だった。アメリカでは、シール部隊全員が死亡した、と報じられていたらしい。当然だ。しかし、シールの仲間たちには、こんなモットーがある。「死体が上るまでは決して潜水工作隊員の死を決めつけてはならない」。そのモットーに従ってアフガニスタンで作戦に従事していた存在も、彼の生還を決める一つの要因になった。
彼は、戦闘で死亡した三人の仲間がいかに勇敢で素晴らしい闘いをし、最後の最後まで諦めることがなかったか、それを遺族に伝え、またこうして本に書き記すことにその後の時間を大いに使うことにした。そして驚くべきことに、彼はまたアフガニスタンの戦場へと戻っていったらしい。
彼らがどうしてそこまで強靭でいられるのか。それは、シールになるための訓練の描写が明らかにしてくれる。この訓練の描写は、本書の前半に描かれているのだ、その凄まじい訓練内容は、常軌を逸していると僕は思う。あと一歩で死ぬ、というところまで全員を追い込み、多くの人間を脱落させ、そうやって最後の最後まで残った人間だけがシールと認められる。その訓練がどれだけ凄まじいか、それはとても短くは表現できないのだけど、この経験があってこそ、彼らはどんな絶望的な状況でも諦めることがなく、最後の最後まで戦い続け、また生き延びるための努力を続けることが出来るのだな、と実感させられる。
しかし一点、僕としては非常に残念な点がある。本書は、内容は非常に面白いのだけど、構成が惜しいと思う。本書では、著者の生い立ちやシールになるための訓練がまず描かれ、それからアフガニスタンでの戦闘・生還が描かれるという、大雑把に言って時系列順に描かれているのだけど、僕はアフガニスタンでの絶望的な戦闘シーンから本書を始めるべきだったと思う。全部とは言わない。その一部でもいいから、まず彼らがどれだけ絶望的な状況で戦闘に巻き込まれたのか、それを冒頭に持ってくるべきだったと思う。本書の構成のままだと、本書の中で最も面白い(と表現するには抵抗があるが)部分にたどり着くまでに半分以上読まなくてはいけない。確かにシールになるための訓練の描写も興味深いのだけど、やはり絶望体な戦闘シーンの方が本書の核となるでしょう。それを、一部でもいいから冒頭に持ってきて欲しかった。そこだけがちょっと残念だなという感じがしました。
とはいえ、凄まじいという単語を繰り返すぐらいしか表現のしようがないほど、とにかく凄まじい状況の連続で、まさに著者が生還できたのは奇跡と言って言い過ぎではないでしょう。また、具体的には書かないけど、本書を読むと、僕らが無意識の内に一括りにしてしまいがちな事柄が、決して単一のものではないのだということ、イメージだけで捉えてはいけないということを思い知らされるような感じもあります。本当に、凄まじい作品でした。是非読んでみてください。

マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還」



その辺の問題(いしいしんじ×中島らも)

内容に入ろうと思います。
本書は、共に作家であるいしいしんじと中島らもが対談をしているだけ(一度、アムステルダムに、ソフトドラッグをやりに旅行に行きますけど)の作品です。
対談してるだけなんですけど、この作品、ぶっ飛ぶぐらい面白いです。いやー、びっくりした。凄いなこの二人。
中島らもについては、「らも 中島らもとの三十五年」という、中島らもの奥さんが書いた本を読んで、そのハチャメチャぶりは知っていました。こんなにムチャクチャなのに、よくもまあ生きてるなぁ、という感じです。アル中でクスリ漬けなんだけど、昔はサラリーマンもやってたし、演劇・音楽・小説ととにかく多彩。そんな人だから、まあメチャクチャな経験が山ほどある、っていうのは、僕にとっては意外ではないんです。いくつかムチャクチャなエピソードを抜き出してみましょう。

『10年前、横浜でシタール買ったのが、最初。腹たったのは、中国の胡弓ってあるやろ。あれは皮が蛇なんやけど、検疫通るときに、皮だけ、ベリって、剥がされてもうた』

『(旅行先での恥のかき捨てについて)ものすごく、小便したくなったんや。運ちゃんに言うても、通じへんやろ。スーパーの袋持ってたんやね。そこいじょびじょびっとして、キュット口を結んで、降りて、どっかに置いてきた』

『(飼ってた犬をずっと散歩させないでいたら、隣の人が散歩をかって出てくれた)そやねん。そのうち、散歩帰りに自分の家にジャダを繋ぐようになって、その時間がどんどん長くなっていって、とうとう、取られちゃったんや。ジャダ』

『その点、やっぱり、猫と犬は、他の動物とは違うな。一度、猫をラリらしてみたんや(この話は、結末が凄すぎるので、自主規制)』

メチャクチャ意外だったのが、いしいしんじの方ですね。
僕は今までずっと、いしいしんじって「優等生」のイメージだったんです。著者略歴を読んだ時点では、「京都大学文学部仏文学科卒」とか書いてあるから、うんうんやっぱり優等生なんだなぁ、と思ってたんだけど、これがまったく違う。中島らもに勝るとも劣らないムチャクチャな人でした。

『ぼくはロンドンで牛食うてきました。今が旬ですから。狂牛病。空港で走り回って、ハンバーガー屋見つけて、「牛100パーか」「100パーや」「じゃあ、くれ」って。お客は「なんて勇気のある少年だ」言うて、全員立ち上がって拍手してましたよ』

『(ジャマイカで山賊に襲われた時の話)林に連れ込まれて、殴られて、血塗れになって逃げながら、財布から1枚ずつ、撒きビジみたいに、道に札を投げていったんです。最後の札がなくなったときに、山頂の別荘地に飛び込んで助かったんですけど、あのときはやばかったですね』

『現実のわけのわからなさって、やっぱり強烈ですよね。最近いちばん怖かったのは、家帰ったらね、イラン人が5人、勝手に上がり込んで、ビデオ見てたんですよ』

『(昔会社で働いてたけど)なんというか、特別学級扱い、みたいな感じで。営業とか、経理とか、ふつうの仕事じゃなくて、特別クラスみたいな部署つくってもらって、とりあえずなんかやってなさい、みたいな感じでした。だから、学生のときのまま、スクーターで会社行ったり、金髪に染めて、オフィスで朝まで酒飲んだり』

いやはや、いしいしんじ、凄いなぁ。元々「優等生」イメージを持っていただけに、本書で垣間見えるいしいしんじの姿には驚かされっぱなしでした。いしいしんじの小説って、どうも僕あんまり合わないんですけど、こんな人が書いてるんだってわかったから、ちょっとまた興味が湧いてきました。凄いなぁ、いしいしんじ。
そもそもこの対談は、いしいしんじの存在で成り立っているようなところがあります。中島らもはあとがきで、他の対談ではまともな対談になったことがない、みたいなことを言っていますけど、まあそりゃあそうでしょう。中島らものぶっ飛んだ話を冷静に受けられる人も、脈絡なく縦横無尽に話題が飛ぶのをナチュラルに軌道修正できる人も、中島らもに興味を持たせるほどの話が出来る人もそうはいないでしょう。いしいしんじはそのすべてを兼ね備えている感じで、まさに中島らもと対談をするために生まれてきたような絶妙な感じなのでした。関西人同士の会話って、ナチュラルにこういう感じだったりするのかもだけど、話術だけじゃなくて、お互いの経験と知識の深さがハンパないから、それらがグチャグチャに入り混じって濃密な対談になっている。
掛け合いも見事で、例えばスマトラ島では年間24人も落ちてきたココナッツで死ぬという話の中で、

『らも:残された子供に、母親はどう説明するんやろね
いしい:「ねえ、パパはどうして死んだの?」
らも:「ココナッツがね、落ちてきて死んだのよ」
いしい:ぐれますね、確実に』

こんな具合である。
あと、これは編集の妙と言っていいのか、よく知らない単語が出てきても、注釈とか入れない。これがまたいい。知らんプロレスラーの名前とか、知らんクスリの名前とかバンバン出てくるんだけど、全然説明されない。これがまたいい。もしこの作品に注釈とか入れちゃったら、この対談の勢いみたいなものが結構削がれちゃうだろうなと思う。冒頭も、1ページ目から対談がすぐさま始まって、この対談がどんな経緯で行われたのか、どんな風にやってたのかみたいな説明は全然ない。いきなり二人の世界に無理やり引きずりこんでいく。こういう本の作りも、とてもいいと思う。
狂った作家二人(褒めてます)が、ストッパーを外して(ないかもしれないけど、一般人から見たら十分外れてる)喋り倒している対談集です。読んでると、こんなムチャクチャな生き方しててもどうにかなるもんなんだなぁ、と思えると思うので、気持ちが沈んだ時なんかにも最適かも(笑)是非読んでみてください。

いしいしんじ×中島らも「その辺の問題」


聲の形 1巻(大今良時)

内容に入ろうと思います。
小6の石田将也は、退屈に押しつぶされないように、日々をドラマチックに生きていこうと思っていた。友達とつるんで度胸試し大会をしたり、盗まれた靴の奪還作戦を立てたりと、人に迷惑を掛けてでも毎日を面白おかしく生きていこうとしていた。
そんなある日、将也のクラスに、転校生がやってきた。西宮硝子というその少女は、耳が聞こえない。
将也は、新しいオモチャを手に入れたかのように、西宮と接することになる。耳が聞こえないことをいいことに、からかったりいじめたりするようになっていく。
5年後。将也はある決意を胸に、西宮と再会する。
というような話です。
全体的な感想としては、ザワザワさせられる作品だな、という感じでした。
僕の勝手なイメージですけど、物語全般というのは、大衆向けであればあるほど(だから、マンガや映画なんかは比較的そうだというイメージなんですけど)、善悪というのが結構分かりやすく提示されているような気がしています。もちろんそうでない場合も多々あるでしょうけど、こちら側は悪い、こちら側は良いという線引が、結構明確になされているようなイメージがあります。マンガにも色んな作品があるでしょうが、特に週刊誌で連載されている作品は、よりそういうイメージが強かったりします。
でも、僕らが生きている現実の世界は、何が正しくて、何が間違っているのか、何が善で、何が悪なのか、はっきりとは分からない世の中ではないかと思っています。善悪が複雑に入り混じってよくわからない。そういう世の中だからこそ、せめて物語では善悪がわかりやすいものが求められる傾向にあるのかな、みたいに勝手に思っていたりします。
この作品は、善悪が非常にはっきりしません。そういう意味で、現実により近い形で描かれている作品ではないかと思います。
主人公の将也の立ち位置は、とてもわかり易い。自分が面白ければ他人がどう思おうが構わないというスタンスは、この作品中もっとも理解しやすい(共感できるかどうかはまた別として)あり方ではないかなと思います。
主人公以外は、善悪のあり方がとてもブレているような気がします。将也と共にいつもつるんでいた仲間や、クラスで一緒に西宮をからかっていた連中、そして担任の先生でさえも、一筋縄ではいかないというか、ある一定の枠内にいないという感じがしました。
特に僕が面白いと感じたのは、担任の先生の言動です。今の学校の先生のあり方を知っているわけではないんだけど、とても今風だなと感じました。先生のあり方として良いのか悪いのか、そういうことは僕は考えませんけど、今っぽいなと思います。

『確かに俺は警告したぞ?何度も何度も、自己責任だと』

『俺が言いたいのは、俺に恥をかかせるなということだけだ』

昔の学園ドラマに出てくるような先生は、まず言わないセリフではないかと思います。この作品に出てくる教師は、一定の範囲内で生徒と関わる、というスタンスを貫いている。なんとなれば、教師と生徒ではなく、人間と人間の関わり、という言い方さえ出来るかもしれません。人間と人間の関わり、と言うと、なんかより良い関係という風に聞こえるでしょうけど、教師として生徒に関心を持つ場合より、人間として生徒に関心を持つ場合の方が、よりハードルは上るというか、関心を持ちにくくなるような気がします。
教師でさえ、善悪の基準になりえない。それは、今どきの学校事情が絡んでいるんだろうな、という感じがします。親の存在が非常に大きくなって、どんな場合でも、親の善悪の判断がすべての基準になってしまう、それが今の学校教育なのではないかと思います。そういう中で教師に出来ることと言えば、その時々の親の判断基準を受け入れ、それをどうにか無理矢理にでも生徒に伝える、ぐらいのことしか出来ないのでしょう。教師自身が善悪の判断基準を持つことが、教師自身にとって辛い世の中になっているのだろうな、と勝手に想像します。
そういう環境では、生徒自身もなかなか、善悪の判断を身につけていくことが難しいのかもしれません。生徒たちも、教師が親の顔を窺っていることを察しているだろうし、そうであればあるほど、教師の権威というのは薄まっていく。それは、声の大きな人間が善悪の判断基準を制定できるということでもあって、より学校という場はカオスになっていくのではないかと思います。
そういう今風の学校のあり方を、本書は巧く捉えているような気がします。もちろんこれは僕の勝手な想像なので、現実の学校教育のあり方を映しているというのは的外れな指摘かもしれませんが。まあともあれ、善悪のあり方が非常に曖昧で揺らいでいるという点が、本書を読んだ人間をザワザワさせる強い要因だろうなと僕は感じました。
連載がどんな風に続いているのかは知らないけど、1巻を読む限りだと、とにかく石田が物語の中心にいる。1巻は小6の頃の話がメインなので、そうなっているのだろう。個人的には、西宮に興味があるのだけど、1巻では西宮の存在感はまだ強いとはいえない。2巻目以降では恐らく、それから5年後の、久しぶりに将也と西宮が再会するところから話が始まっていくのだろう。そこから西宮の存在感がもっと強くなっていくのかもしれない。
大人になった今なら、将也たちのあり方を批難も出来る。でも、じゃあ自分が小学生の頃に同じように耳の聞こえない同級生がいたらどうだっただろうと考えると、まったく自信はない。もはや僕は、小中高時代のことはまったく覚えてないのだけど、同じ状況にいたら、将也ほどではないにしろ、ちょっとからかったり、止めもせずに傍観したりするような人間だっただろうと思う。大人になれば、大人になっただけまた別の問題が出てくるんだろうけど、子供時代の容赦のない「暴力」は、あまりにも避けがたいなと、本書を読んで改めて思う。作中に、「なんでみんな、仲良くできないのぉ」というセリフが出てくるんだけど、いやホントにそうだよなぁ、と思う。
「これ面白いよ」って言って人に勧めるのはなんとなく抵抗があるというか、「面白い」っていう感じではなくてモヤモヤする感じなんだけど、読まなきゃ良かったというわけでは全然なくて、この善悪の定まっていない感じが僕は結構好きなんだけど、というなかなか人に勧めにくい作品ではある。絶望というほど絶望ではないのだろうけど、日常のそこかしこに空いている穴の一つに落ちた人間の物語だ。読んでみてください。

大今良時「聲の形 1巻」


災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか(レベッカ・ソルニット)

内容に入ろうと思います。
のですが、本書は、僕には若干難しめな本で、すんなり読めたわけでもなく、また内容をきちんと把握できているわけでもありません。なので僕は、本書が描く様々な要素の内、3つだけを特に取り上げて感想を書こうと思います。
本書は、平たく説明すれば、「災害が起こった時、人々はどう行動するか」について、過去の様々な研究結果や、著者自身の手によるインタビューなどから、多角的に検証をしている作品です。
僕が本書から抜き出そうとしている三つの要素は、

◯ 普通の人々の間にはパニックは起きない
◯ エリートたちはパニックに陥る
◯ 災害は様々な「革命」をもたらす可能性を持つ

という三つだ。

『地震、爆撃、大嵐などの直後には緊迫した状況の中で誰もが利他的になり、自身や身内のみならず隣人や見も知らぬ人々に対してさえ、まず思いやりを示す。大惨事に直面すると、人間は利己的になり、パニックに陥り、退行現象が起きて野蛮になるという一般的なイメージがあるが、それは真実はとは程遠い。二次大戦の爆撃から、洪水、竜巻、地震、大嵐にいたるまで、三次が起きたときの世界中の人々の行動についての何十年もの綿密な社会学的調査の結果が、これを裏付けている』

『切迫した恐ろしい状況に置かれた人々に関する研究結果を、クアランテリは災害学につきものの素っ気ない表現で、次のように記している。「残忍な争いがおきることはなく、社会秩序も崩壊しない。利己的な行動より、協力的なそれのほうが圧倒的に多い」』

クアランテリという災害学者は、「パニックの事例を多く発見できると信じて、それをテーマに修士論文を書き始めたが、しばらくすると「どうしよう。パニックについての論文を書きたいのに、一つも事例が見つからない」という羽目になった」とも書いている。
本書では、サンフランシスコやメキシコシティの大地震、ハリケーン・カトリーナやスリーマイル島の事故、そして9.11など、様々な災害を取り上げ、その時に人々がどう行動したのかを分析している。本書は東日本大震災以前に出版された作品だが、もし東日本大震災の後に出版される予定であればその事例も含まれたことだろう。
東日本大震災では、暴動や略奪が起きず、皆が助けあっていることが、世界中で賞賛されたように思う。日本人は素晴らしい、と。確かに、東日本大震災に直面した人たちの態度は素晴らしかったのだと思う。けれども本書を読んで、それは、どんな災害時にも、どんな民族にも当てはまる、普遍的な行動なのではないかと思わされた。本書で挙げられているどんな災害においても、「普通の人々」の間ではパニックは起こっていない。それどころか、あれほど素晴らしい一日はなかった、と評す人さえ大勢いるのだ。

『サンフランシスコの全歴史の中で、あの恐怖の夜ほど人々が親切で礼儀正しかったことはない』

『多くの人が亡くなり負傷した夜に、不謹慎かもしれないけれど、わたしの一生であれほど純粋で一点の曇りもない幸せを感じたことはありません』

『テロリストたちは、わたしたちを恐怖に陥れることに失敗した。わたしたちは冷静だった。もし、わたしたちを殺したいなら、放っておいてくれ。わたしたちは自分のことは自分でやれる。もし、わたしたちをより強くしたいなら、攻撃すればいい。わたしたちは団結する。これはアメリカ合衆国に対するテロの究極の失敗例だ。最初の航空機が乗っ取られた瞬間から、民主主義が勝利した』

『ああいった共同体の感覚は、長い人生でもめったに経験できるものではなく、しかも、壮絶な恐怖と向き合った中でしか起きません。9.11直後の数日間には、公民権運動のときによく話していた”愛すべきコミュニティ”の存在を感じました』

どうして、そうなるのだろうか?

『絶望的な状況の中にポジティブな感情が生じるのは、人々が本心では社会的なつながりや意義深い仕事を望んでいて、機を得て行動し、大きなやりがいを得るからだ』

『彼らの多くが利他主義的な行動を自己犠牲とは見ていない。むしろ、ギブとテイクが同時に起きる相互的な関係だと見ている。他の人々を助けると、彼らはその人たちとの間に連帯感を得る。人に何かを与えたり、人を助けたりすることは、彼らに、彼ら自身より大きい何かの一部であるという感覚を与える。他人を助けると、自分は必要とされている価値のある人間で、この世での時間を有効に使っていると感じさせる。他人を助けることは、生きる目的を与えてくれる』

さて、その一方で、圧倒的な大多数である「普通に人々」に対して、圧倒的な少数派であるエリートたちはどうなのか。

『「普通の人々」がパニックになるなんて、とんでもない。見たところ、パニックになるのはエリートのほうよって。エリートパニックがユニークなのは、それが一般の人々がパニックになると思って引き起こされている点です。ただ、彼らがパニックになることは、わたしたちがパニックになるよち、ただ単にもっと重大です。なぜなら、彼らには権力があり、より大きな影響を与えられる地位にあるからです。』

『災害学の学者たちは、現在、権力者たちのこの恐怖に駆られた過反応を”エリートパニック”と呼んでいる』

大災害が起こると、あらゆる判断や決断をしなくてはならないエリートたちの方がパニックに陥ると言います。本書の中では、ハリウッド映画で描かれるパニックモノの作品の中で、唯一正確に描かれているのが、エリートたちの描写だ、というようなことが書かれていました。
スリーマイル島の事故の際には、上層部が重大な情報を握っていたにも関わらず、「市民がパニックになるから」という理由でその事実が公表されなかったようです。これは、東日本大震災における福島第一原発事故でもまったく同じことがありました。SPEEDIという、放射性物質がどのように拡散するのか予測できる、超高額な機械が存在し、実際に予測が行われていたにも関わらず、「市民がパニックになるから」というまったく同じ理由でそのデータは公表されず、そのために逃げ遅れて放射性物質を浴びてしまう人が大勢出ました。

『事実、通常時にうまく機能していればいるほど、災害時には、臨機応変に対処できなかったり、まとまらなかったりと、うまくいかなくなる可能性が高い』

また、災害時には、「市民が略奪などを行うから」という理由で警官や兵士が派遣され、「盗みを働くものは問答無用で撃ってよい」という指示が出されることもあるようです。実際には、「物資の調達」や「瓦礫の除去」や「埋もれている人の救助」をしているだけの人たちが、「盗みを働いている」という理由で射殺され、その一方で、当の警官や兵士たちが「略奪者」に変貌する、ということが頻繁にあったと言います。

『警察官の娘が友人に宛てた手紙には「おびただしい数の悪者が町に解き放たれています。兵士たちはほんの少しでも命令に従わない人たちを片端から撃っているのです。説明を聞こうともせず、説明することもなく」とある』

なぜエリートたちは、「街から市民を守る」のではなく、「市民から街を守る」と考えてしまうのか。なぜ市民を、暴動やパニックを引き起こす「敵」と捉えてしまうのか。

『わたし自身の印象では、エリートパニックはすべての人間を自分自身と同じであると見る権力者たちのパニックである。権力者は、彼らの最大の恐怖である暴徒たちと同じくらい、残酷にも利己的にもなれるのだ。』

本書では、災害学の長年の研究結果が、こんな短い一文で記されている。

『数十年におよぶ念入りな調査から、大半の災害学者が、災害においては市民社会が勝利を収め、公的機関が過ちを犯すという世界観を描くに至った』

さて、災害は、ある種の「革命」を誘発する場合がある。すべての災害でそうなるとは言えないが。

『災害は社会に変化の機会を与え、進行中の変化を加速させ、もしくは、何であれ、変化を妨げていたものを壊すというのだ』

『現代の西欧世界の災害も現行の権力を脅かし、しばしば変化を生じさせる。そういった点で、災害は革命によく似ている。ある意味、災害は社会や政府の中に存在していた対立や軋轢や悪癖を表面化させたり、重大局面に持ち込んだりする』

『災害や危機は意志を強固にする。また、時に災害はすでに悪い状況をそれ以上耐えられない点まで悪化させることで、限界点に到達させる。それを以前には不明瞭だった不公平や社会問題を際立たせるといった方法で成し遂げる場合もあれば、人々に互いの存在を通じて市民社会や集団の力を発見させることで成し遂げる場合もある。だが、公式はない』

災害は例えば、厳しい階級格差が残る社会を一時的にせよ公平にしたり、圧政や悪政に苦しむ国が変革のために立ち上がったりといったきっかけを与える。また、それほど大きなレベルでなくとも、震災時に自分が取った行動が、その後の人生においてその人の自信や確信に繋がった、というケースもある。
災害は、様々な被害をもたらし、特に取り返しがつかないほど人命が奪われることも多い。しかし、そのようなマイナスの側面だけではない。エリートや権力者による暴走はあれど、希薄だったコミュニティが復活し、また限界を迎えていたシステムやルールをリセットし、新しい仕組みを生み出すきっかけにもなる。本書は、なかなかスイスイと読めるような易しい本ではないと思うけど(べらぼうに難しいわけでもないけど)、ハリウッド映画などによって植えつけられた、災害時の人々の行動についてのイメージを一新させてくれる作品だと思います。是非読んでみてください。

レベッカ・ソルニット「災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか」


きみは白鳥の死体を踏んだことがあるか(下駄で)(宮藤官九郎)

内容に入ろうと思います。
本書は、脚本家であり、他にも様々な顔を持つ宮藤官九郎が、初めて書いた小説です。作中で本人が「恥小説」と書いていますが(そう、小説なのに、「現在の宮藤官九郎」が時々出てきます)、書かれているのは宮藤官九郎の青春時代がベースになっているよう。本人は虚8実2ぐらい、と書いているけど、さて実際のところはどうだろう。
舞台は宮城県の、冬に白鳥が飛来することぐらいしかウリのない土地。実家が文具屋である主人公の「僕」は、中学時代の仲間たちとは一人違う高校へ進学することに。月伊達高校は、筋金入りのバンカラ高で、下駄で通学、上履きは雪駄という、強烈な男子校だった。「僕」はそこで、先輩たちにもみくちゃにされながらも、童貞感丸出しのまま、何者でもないフラフラした自分を持て余す。

『不良でも秀才でもスポーツマンでもハンサムでもブサイクでも貧乏でも金持ちでもないモヤぁっとした男子高校生が、いつもお腹がモヤぁっと痛苦しい十二指腸潰瘍の十七歳が、モヤぁっとした霧の向こうにあるパリっとした何かを掴み取るための戦い』

ある場面で「僕」はそんな決意をすることになるのだが、つまり「僕」の高校時代とは、そういう感じだった。冬に飛来する白鳥に餌付けすることだけが生きがいの「白鳥おじさん」ぐらいしか話し相手がおらず、高田文夫の素人オーディションに出てみたり、修学旅行先で出会った女の子と文通してみたり、ギターに熱中してみたけど、全然続かない。ハマれない。何か違う。どう違うのかも分からないまま、モヤぁっとし続けたまま、僕は時々白鳥の死体を踏む(下駄で)。
というような話です。
小説としてどうか、というのはなかなか判断しにくい作品ですけど、読み物としてはなかなか面白い作品だったと思います。
さっきも書いたけど、著者はこの作品を「虚8実2」と書いていて、まあそれも一応小説内の描写なんでホントかどうか分かりませんけど、読んでいるとなんとなく、かなり実際のことをベースにしているんじゃないかなぁ、という感じがします。個々のエピソードはともかく、舞台設定とか、あるいはその時々の感情とか、そういうものはかなりきちんと拾っているんじゃないかなと思います。
本書の解説は、宮藤官九郎がドラマの脚本を担当した「池袋ウエストゲートパーク」の著者である石田衣良なんですけど、解説で石田衣良が本書を非常に的確な表現で短くまとめていたので抜き出してみます。

『「きみ白(下駄)」は、どんな作家でも一度きりしか書けない青春の(危機をくぐり抜ける)物語である。本来、生まれるべきでない場所に産まれたセンスのいい少年が、さまざまな葛藤を経て、のびのびと生きていける自分の居場所を見つけるまでの貴種流離譚だ』

まさにその通りの作品だ。もし宮藤官九郎が東京に生まれていたら、こんな葛藤を抱きながら青春時代を送ることはきっとなかっただろう。宮藤官九郎の存在を受け入れる場がどこかにあっただろうし、宮藤官九郎の欲求を引き出してくれるような存在にも出会えたかもしれない。そうやってきっと、どこかに居場所を見つけることが出来たに違いない。
でも、それでよかったのかどうか。宮藤官九郎は、白鳥以外に名物がない土地で、しかも下駄で登校するような高校でもみくちゃにされている。そこに自分の居場所はなさそうだと思いながらも、そこから抜け出すことも出来ない。そういう中で、悩み、もがき、苦しみながら、色んなことをグルグル考える。そんな時間があったからこそ、宮藤官九郎は宮藤官九郎になれたのではないか。
とはいえ僕には、本書で描かれているような「男子高校生の青春の葛藤」的なものに、あまり懐かしさを覚えない人間だ。同レベルの友達だと思っていた奴に彼女が出来たとか、しかもその彼女が微妙に可愛くないとか、文通をしただけで恋に落ちるとか、そういうような青春らしい葛藤みたいなものとは無縁だった。それは僕がモテたとかそういうわけではなくて、僕の場合もっと、「あー、生きてくのしんど」みたいな、青春とは程遠い鬱々とした葛藤を抱えていたような気がするので、そういう明るい真っ当な葛藤とは無縁だったような気がするんだよなぁ。僕は、辻村深月が描くような、あまり爽やかではない葛藤を描かれた方が、懐かしさを感じるし、グッと刺さる。
そういう意味で本書からは懐かしさは感じないのだけど(本書で出てくる音楽とか映画とかそういうものも全然分からない。年代が違うってこともあるだろうけど、元々そういう方面に関心がないのだ)、羨ましいなという感じはある。こういう、大人になったら馬鹿話になるような青春エピソードって、羨ましいなぁって思う。そもそも僕は、小中高大学時代のことをもうほっとんど覚えていないんで、覚えていないだけかもしれないけど、そういう話題で盛り上がっている会話なんかに入れなかったりすると、ちょっと悲しい気分になることもあるのだ。勉強ばっかりしてたからなぁ。ホントに面白くない男だったなぁ(今もだけど)。
冒頭でも書いたけど、小説としてどうなのかは、まあうまく判断できません。でも、主人公と現在の宮藤官九郎を重ねて、宮藤官九郎って面白いんだろうけどなんだかよくわかんない人だなぁ、っていうだけだったイメージが、なるほどこんな青春時代を送っていたのか、と肉厚されるような感じで、そういう面白さはあるなと思います。読んでみてください。

宮藤官九郎「きみは白鳥の死体を踏んだことがあるか(下駄で)」


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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)