黒夜行

>>本の中身は(2012)

なめこ文學全集 なめこでわかる名作文学(小鳩まり)

内容に入ろうと思います。
本書は、登場人物をすべて「なめこ」に変えて名作を案内する作品です。なぜ「なめこ」なのかというと、スマートフォンアプリで大人気の「おさわり探偵 なめこ栽培キット」のキャラクターを使ったマンガだからです。
本書では、以下の8作品が収録されています。

芥川龍之介「蜘蛛の糸」
樋口一葉「たけくらべ」
夏目漱石「坊ちゃん」
宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」
太宰治「斜陽」
小泉八雲「怪談 耳なし芳一のはなし」
梶井基次郎「檸檬」
紫式部「源氏物語」

僕が読んだことがあるのは、「檸檬」だけでした。
まあ、「なめこ」がどうのこうのというのはおいといて(僕は別に「おさわ探偵 なめこ栽培キット」をやっているわけでもないし、別になめこが好きなわけでもない)、こういう名作をダイジェスト的に紹介してくれる作品っていいなと思います。
僕はホントに、昔の文豪の名作とかそういうのを全然読まないでここまで来てしまった人間なんで、読みたいなーなんて思いつつなかなか手が伸びなかったりします。ホント今になって、学生の頃に読んでおけばよかったなぁなんて思います。まあ、学生時代は国語の授業とか大嫌いだったから、絶対に読まなかったと思いますけどね。
名作をマンガで読む、みたいなのもありますけど、僕が知っている範囲では、一つの名作を一冊のマンガで、というものが多い感じがします。本書のように、いくつもの名作が一緒になって収録されているようなのは、なかなか珍しいんじゃないかなという気がします。
本書を読んで気になった作品は、「たけくらべ」「坊ちゃん」「斜陽」です。
どの話でも、一番最後に、この作家はどんな作家で、小説で読むとしたらこんな本があって、みたいなことが書かれているんだけど、そこには、「たけくらべ」は文語体で書かれていて読みにくいよ、頑張って!みたいなことが書かれてたんで、ちょっと気になるけど読めなそうかなぁ。「坊ちゃん」と「斜陽」は、超有名なのに読んでないし、最近店のスタッフに、太宰治は超読みやすいですよー、なんて言われたんで、とりあえず来年は太宰治の作品をなんか読んでみようかなぁ。
「セロ弾きのゴーシュ」もちょっと気になる作品ではあったんだけど、結構不条理っぽい感じなんだなぁと思って、読んで感覚的に理解できるかなぁっていうのがちょっと気になりました。
「源氏物語」は読んでみるつもりは特にないんだけど、光源氏ってちょっとメチャクチャな男だなぁって、読んでて思いましたですよ。
なんとなくだけど、こんな風にして名作に触れる機会があって、本書を読んだことで名作に手が伸びるんだったら、それはいいじゃないですか、っていう感じがします。

というわけで、2012年の更新はこれで終わりです。
来年もどうぞよろしくお願い致します。

小鳩まり「なめこ文學全集 なめこでわかる名作文学」


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残り全部バケーション(伊坂幸太郎)

内容に入ろうと思います。
本書は、「溝口」と「岡田」という、犯罪のアウトソーシング的な仕事をしている裏稼業コンビに関わる5つの物語です。

「残り全部バケーション」
家族解散の日。父親が浮気をしてて、私が高校の寮に入るから、じゃあ今日で家族はバラバラに住むことになりますー、解散ですー、なんて感じなった。母親が呑気に、最後なんだからみんなとっておきの秘密でも教えてよ、とかいう。父親が脳天気に、「お父さんは浮気してました」なんて言う。
そんな家族会議の最中、父親にメールが来る。どうやら、適当な番号に宛てて送られたメールのようで、友達になりたい、と書いてある。どうせ出会い系みたいなもんだって、無視しときなって私は言うのに、なんとそのメールに反応したのは母だった。
どうせなら最後の日に、その人にドライブにでも連れて行ってもらいましょうよ、なんて。

「タキオン作戦」
道端で見かけた少年は、どうやら父親から虐待を受けているようだ。子供の頃、同じく父親から虐待を受けていたという溝口がそう言う。岡田は、なんとなくその少年が気になって、ちょっと手を焼いてみることにした。溝口には、物好きだなぁって言われたけど。
とりあえず少年には、ターミネーターのDVDを渡して、もしタイミングがあるなら、これを父親と一緒に見て欲しい、という。特に、一番初め、裸の男が出現する辺りを印象に残すようにして。

「検問」
警察の検問を抜けてきた溝口らは、謎めいた状況に困惑している。
その日、溝口と太田は、ある女を浚ってくる仕事を請け負った。盗んだ車に女を押しこみ走っていると、前方で検問をやっている。まずい状況ではあるけど、オレたちはまだ何もしていない。大丈夫だ。ラジオで聞くところによると、どうやら有名な国会議員が刺されたとかで、そのための検問のようだ。
トランクを開けさせられ、難なく検問を通過したのだけど、後で溝口らは、その車のトランクに大金が積まれていることを知る。警察が、これに気づかなかったはずがない。

「小さな兵隊」
クラスメートの岡田君は、「問題児」だと言われていた。女の子のランドセルに印を書いたり、門を真っ青に塗ったりするかららしい。でも僕には、「問題児」ということの意味がよくわからない。「問題児」がいるなら、「答え児」もいるのだろうか?
そんなことを、海外に出張中の父親からの電話で話すと、それはいい発想だと褒められた。時差もあるし、海外との電話代は物凄く高いから、あんまり頻繁には電話出来ないのだけど。
僕は、父親が誰にも秘密な任務を負っていることを知っている。僕にはそれが誇らしかった。
そんな父が、おかしなことを言う。僕らの担任の先生に注意しろ、だって。

「飛べても8分」
高田は、溝口が唐突に当たり屋をやろうと言い出して困惑する。請け負った仕事でもないのに、なんでそんなことをしなければならないのか。しかし、普段から何も考えていない溝口は、実行してしまう。
その結果、大腿骨を骨折、入院する羽目になった。
高田はその後、実は高田らのボスである毒島が、溝口と同じ病院に入院していることを知る。さらに、脅迫状と共に、毒島の家の周囲で発砲騒ぎがあったのだとか。なんかマズイじゃないの…。

というような話です。
伊坂幸太郎らしく、なかなか楽しい小説でした。割と最近の伊坂幸太郎作品は、結構シリアスだったり、あるいは実験的だったりするものが多いイメージだったんだけど、本作は、なんか凄く肩の力が抜けているというか、凄くリラックスした可笑しさみたいなものがにじみ出ていて、楽しい作品でした。
割と伊坂幸太郎の作品って、「今回はどういう伊坂幸太郎かなぁ」みたいなのを、読み始めながら徐々にチューニングを合わせて行く、みたいな印象があります。初期の頃は、「THE 伊坂幸太郎作品」みたいな作品が多かったというのが僕のイメージなんですけど、次第に、それまでの伊坂幸太郎らしさみたいなものを脱却させようとしているような作品も混じり始めた感じがします。本書は、割といつも以上に脱力っぷりが際立っている感じがあって、そういう伊坂幸太郎作品なのねー、なんていう感じでチューニングしながら読みました。
しかしその『脱力』という点では、一番初めの話で表題作でもある「残り全部バケーション」は斬新だったなぁ、と思います。
これ、なかなか普通の作家じゃ怖くて書けないんじゃないかな、って気がします。伊坂幸太郎がこれまで積み上げてきた『伊坂幸太郎印』みたいなブランドがあって初めて成立しうる作品のような感じがしました。
というのも、解散する家族と「溝口」「岡田」コンビとの出会いも唐突なら、物語の終着点も唐突だなぁと思うからです。
別に、だからつまらなかった、なんて言いたいんじゃないんです。でも、もしこの作品を、伊坂幸太郎以外の作家の作品として読んだら、ちょっと評価は変わるかなぁ、という感じがします。伊坂幸太郎がこの作品を書くからこそ読者は許容出来る。そんな絶妙なラインを狙った作品のような気がしました。
二話目以降は、割とミステリ的な要素もきちんと加わっているんだけど、第一話の「残り全部バケーション」は、ミステリ的な要素もほとんどなくて、なんというか『不条理小説』みたいな感じの謎めいた展開をしていきます。やっぱり筆が巧いんで、スイスイ読まされちゃうんですけど、でもふと冷静に考えてみると、なんて意味不明な小説なんだ、っていう感じがします。それを、面白いな、なんて思って読ませちゃうんだから、伊坂幸太郎は凄いなと思いました。
「タキオン作戦」は素敵ですね。岡田があらゆる策を練って、ある状況を変えようとする。そのやり方が珍妙で、でも確かにそんな風にでもするしかないのかもしれないなぁと思わせるだけの説得力があったりします。この状況だったら、確かにそんな風にして追い詰める以外、実際的に有効な手立てはないのかもしれないなぁ、と。バカバカしさと真剣さとが巧いこと織り交ぜられている作品だなという感じがします。
「検問」も、かなり自由度が高いというか、伊坂幸太郎っぽいなぁっていう感じです。だって結局、「なぜ◯◯だったのか」という部分は解決されてないからなぁ。たぶんこうなんじゃね?っていう仮説が登場するだけで、解決しない。その部分をそのまま放置できちゃうっていうのも、『伊坂幸太郎印』だなって僕は個人的に思ったりします。しかしホント、限られた状況の中で巧いこと色んなことを繋げて行くものだよなぁ、という感じがします。
「小さな兵隊」は一番好きな話かもしれません。「岡田」の子供の頃の話ですね。岡田君は問題児で、だけどその問題児っぷりにはちゃんと理由がある。理由があるどころじゃなくて、それはある人を守るための行動だったわけで、主人公は感心しちゃう。さらにその人を助けるために色々動いている内に、主人公はびっくりしちゃう事実を知ることになる、みたいな話なんだけど、よく出来てるよなぁ。弓子先生がなんか結構いい教師です。
そして最後の「飛べても8分」も結構面白い。ミステリ的には、一番出来がいいかもしれないなぁ。そういう風に展開しますか、っていう物語がなかなか面白いです。
みたいな風に内容について書いてると、ネタバレを恐れてあんまり何も書けなくなっちゃうんで、別のことを書きます。
伊坂幸太郎の作品は割とどれもそうだと思うんだけど、「らしさ」みたいなものにまるで頓着がないのが凄くいいですね。それが、すっとぼけた感じとか、引っこ抜けたような感じのキャラクター造形につながるんだろうなぁ、という感じがしています。
例えば、父親を「父親らしく」描かないし、被害者を「被害者らしく」描かないし、先生を「先生らしく」描かない。それは、一番初めの「残り全部バケーション」から相当顕著だけど、この作品では、父親も母親もぜんぜん「らしく」ない。その「らしく」ない両親のすっとぼけた感じに振り回されている娘は、まあ一番「らしい」かな。
そういう囚われた枠みたいなものがないから、キャラクターの自由度が高いし、生き生きしている風に感じられる。読者も読んでて楽しい。こういう、「らしさ」に頼らないキャラクター造形って普通は難しいと思うんだけど、伊坂幸太郎はナチュラルに出来るんだろうか。
あと本書は、とにかく「溝口」のキャラが作中において非常にいい存在感を出しているなという感じがしました。かなりアクの強いキャラで、色んな人間が溝口のそのキャラに引きずられている。極悪非道なわけでも、かと言って優しいわけでも、頭が悪すぎるわけでも、でも良いわけでもない、なんとも掴みどころのないキャラで、何を考えてるんだかよくわからなかったりする。そんな溝口が、裏稼業をこなしているというのもなんだか可笑しいし、その時々のしごとのパートナーとの間の抜けたやりとりも面白い。やっぱり伊坂幸太郎が描くキャラクターは好きだなぁ。
当然加筆修正をしていると思いますけど、発表時期がバラバラの作品を巧いこと繋げている感じで、一つの作品としてのまとまりがきちんとしている感じがしました。短編はすべてこうあって欲しい、なんていうわけじゃないけど、でもやっぱり個々にあまり関連のない短編をいくつも読むより、それぞれに関わりのある短編(連作短編集)の方が好きですね。ミステリ的な要素はそこまで強くないけど、なんかつい笑っちゃうみたいな可笑しみに満ちた作品だと思います。読んでみてください。

伊坂幸太郎「残り全部バケーション」


すべてはモテるためである(二村ヒトシ)





内容に入ろうと思います。
本書は、AV監督である著者が、「モテない男たち」に送る「実践的なモテ本」です。
…なんて書くと、「あー、なんだ、モテのマニュアル本かいな。ってかお前そんな本読んでるのかよ、うぜー」みたいな風に思われちゃう気がしますけど、いやいやそんな風に思っちゃいけませんよ。この作品は、そんじょそこらのモテ本とは違います!(なんて言いつつ、普通の「モテ本」を読んだことがないんで、比較は出来ないんですけどね)。
本書がどんな本であるのか、僕は一言で表現することが出来ます。
それは、

『考え方を教えてくれる本』

です。
読んだことはないけど、ごく一般的なモテ本はたぶん、「行動の仕方」を教えてくれるんだろうと思うんです。こういう場合はこんな風に口説け!こんなタイプの女性にはこんなキャラでいけ!みたいな感じでしょうか。たぶん、そういう、色んな行動のためのマニュアルがいっぱい羅列されているんだろうなという感じがします。
本書は、そういう本ではありません。本書はとにかく、読者に「考えること」を、これでもかというぐらいに強要します。
本書を読んでも、「あなた」が具体的にどうしたらいいのかというのは、きっと分からないでしょう。後半になるにつれて、具体的なアドバイスも増えていくのだけど、そこまでたどり着くまでは本当に具体的な助言は少ないです。
何故なら、「あなた」は一人一人違うし、「あなたにとってもモテの理想」も一人一人違うし、「あなたが好きになってしまった女性」も一人一人違うからです。
本書でも、著者はこんな風に書いています。

『この本は、「あなたの日々の週刊だとか着てる服などの、こんな点がキモチワルイ!」とか「近年、女性たちはこんな男をキモチワルイと感じる傾向にあるようだ!」とういった事例をならべる本ではありません。』

そしてさらに、こんなことも書きます。

『なぜAV監督が、セックスの本じゃなくモテのための本を書くのか。
それは「エロいセックスをするためには、コミュニケーションの能力が必要不駆」だと、つくづく思うからです』

そう。本書は、『モテ本』という体裁をとっている作品ではあるのだけど、内実は『コミュニケーションのための本』です。著者がAV監督であるという点やタイトルなんかに騙されてはいけません。本書は、「いかに人と(まあ、主に異性と、というか、基本的に男向けの作品なので、女性と、ということになるけど)コミュニケーションを取るか」という点に重点が置かれています。
女性とちゃんとコミュニケーションを取ることが出来るようにならなければ、そもそもスタートラインに立てませんよ。
そういうことを、読者に考えさせるための質問を大量に用意しながら著者は語っていきます。
だからこそ本書は、『今モテていないという自覚がある男性』だけではなく、『今モテている男性』が読んでも面白いと思うし、あるいは『男性とコミュニケーションをとりたい女性』が読んでも、もちろん『男性のことを知りたいと思っている女性』が読んでも面白いと思います。
女性にも読んでほしい、ということで、著者はこんな風にも書いていました。

『だからこの本は男性だけでなく【男心を理解したい女性】にも読んでもらいたい。そして、できれば「土俵に乗りたいんだけど乗れないでいる、初心者の男」のことも排除しないで、まあ生理的にキモかったらしょうがないんだけど、その点はこっちも努力するんで、ちょっとでもキモくないと思えたら女性の側も「あ、そういう人たちがいるんだ」と思ってもらえると嬉しいです』

さて、著者がまず投げかける第一にの質問は、これは本当に考えるべき大事な点だなと思いました。
それは、

『あなたはなぜモテたいのか』
『あなたはどのようにモテたいのか』

という問いです。
いやいや、モテるっていったらだってああいうことでしょうよ、と思った方。書店で立ち読みでいいので、本書の冒頭のその質問が書かれたちょっと後を読んでみてください。そこには、著者は思いつく限り羅列した、「人がモテたいと思う理由」「モテているという様々な状況」が書かれています。
これがまず凄い。
この二つの質問への著者なりの選択肢の羅列だけで、5ページぐらい使っている。読んでいると、なるほどなーと感心させられる。一言で「モテたい」と言っても、そこには本当に色んな形・動機・可能性がある。
著者は、まずそれを明確にはっきりさせないと、そもそもモテることなんて出来ないだろう、と書きます。
著者は何度か本書の中で断りを入れているんだけど、本書は基本的に「モテていない人」のための本です。「モテていない人」に向かって著者は言葉を投げかけています。
たぶん読んでいる人の中には、「世の中でモテていう人の中には、そんなめんどくさいこと考えていないやつだってたくさんいるだろうよ」と思うかもしれません。だから、そんなこと考えたって、モテるようにはならんだろうよ、と。
違うんです。
本書では、あなたがモテない理由を、一言でこんな風に表現します。

『あなたが彼女にモテなのは、あなたが「彼女にとってキモチワルい人」だからである。』

なんという簡潔な定義。お見事です。
つまり、モテない人は何らかの理由で「キモチワルい人」であり、モテている人は何らかの理由で「キモチワルくない人」なわけです。だからそんな「キモチワルくない」モテている人と比較しても仕方がない。彼らは、生まれつきの才能だったり、あるいは「考える」ことによって、自分を「キモチワルくない」ように見せている。そうじゃない、残念ながら「キモチワルい」あなたたちは、とりあえずそういうところからまず考え始めようぜ、っていうことです。
本書で著者は、『なぜモテたいのか』について、一つの究極的な答えを書いています。

『あなたや僕が、女性に「モテたい」と思うのは(あるいは「やりたい」と思うのは)どう考えても、ただ単に性欲のせいだけじゃ、ないですよね。
きっと人間は、他人から「あなたは、そんなにキモチワルくないよ」って、保証してほしいんです。「やらせてくれ」とか「僕と、つきあってくれ」って他人に言うのは、そういうことです』

これは見事だと思いました。本作中で二番目に共感した文章です。
僕自身もたぶんそうで、これまで自分の中で言語化したことはなかったんだけど、この文章を見た時に、あーそうだ、これがまさに自分が「モテたい」と思う理由なんだなぁ、と思うことが出来ました。素晴らしいと思います。
そして僕は、『どのようにモテたいのか』については、本書を読む以前から、ある結論に達することが出来ていた。これまで色んな間違いを犯したり、色んな人を傷つけたりしながら、ようやく自分の中で、『自分にとって、これが「モテている」という状態だよなぁ』という、自分なりの理想的なモテを捉えることが出来たと思います。もちろんそれは、今の僕がそう思っているだけで、今後変わる可能性はあると思いますけど。
その僕の理想とする「モテ状態」は、あまりにも酷くて、言葉にするとドン引きされるので、ここでは書きません。まあそんな酷い「モテ状態」ではあるのだけど、僕としてはそれをきちんと捉えることが出来たことで、なんというか肩の力が抜けたような(本書の言葉を使うと、「自意識過剰」ではなくなった、ということになるかな)感じになれたような気がします。
それに、この理想の「モテ状態」を自分の中できちんと持っていたからこそ、本書を読んでグサグサ刺さらずにいられたような気がします。
たぶん、まだ自分の中でそれがはっきり固まっていない状態で本書を読んだら、とんでもなくグサグサ色んなものが僕に突き刺さって、読むのが辛かったと思います(笑)。僕は、結構「考えること」が嫌いじゃなくて、考えたことを自分なりに言語化するのも嫌いじゃなくて、そんな風にして考え続けることで、色んな呪縛を脱ぎ捨てられてきたような気がしているのだけど(まあもちろん、考え続けることで得てしまう呪縛もあるんですけどね)、なんとなく、そういう自分で良かったなぁという感じはありました。
でもそんな僕を「ヤバっ!」と思わせたのが次の文章です。

『これまでに、いろんなタイプの「キモチワルい=モテない奴」にそれぞれ処方箋を出したわけですが、それでも、まだピンと着ていない、ひとつもオレのことじゃないじゃないか、はやく「オレのモテない理由」を教えてオレをモテるようにしてくれ、と思っている、あなた。
「オレは『自分がある』し、何が好きか自分の言葉で言えるし、自意識過剰になるほどヘマじゃないぜ」って、あなた。
あなたが、いちばん臆病でバカな男です。バカ中のバカ。』

これはグサッと来たなぁ。
そうなんです。この文章にたどり着くまでに、本書を読みながら僕は、「うんうん、オレはこういう部分を、自分の頭でもう考えてどうにかしてきたから大丈夫なんだぜ、ふっふーん」みたいな風にちょっと油断してたんだけど、そんな時にいきなりこんな文章が飛び込んできたもんだから、ちと焦りました(笑)。だから、自分がこのバカ中のバカである可能性は、やっぱり捨てちゃいかんよな、ということだけは意識しておこうと思いました。
僕は自分では、『女性と話す方が得意』だと思ってて、割とそういう発言をすることもあって、実際に女子会みたいな飲み会とかにいる方が楽だったりして、むしろ男と喋る方が苦手だったりするんだけど、でもそれはあくまでも僕がそう思っているだけで、僕が喋っている相手の女性がどんな風に思っているのかなんて、まあ分かりませんですからね。本書では繰り返し、「謙虚であれ」みたいなことが書かれるんだけど、そうですよね、謙虚にならないといけませんですよね。
さて話を戻しましょうか。
本書の中で、僕が一番感銘を受けたのが、『居場所』という話です。自分の居場所をきちんと持っているかい?という話が、一番素晴らしいと思いました。
いくつか引用してみましょう。

『どんな答えでも、いいんです。「これこれこういうものを好きな男がモテる」という話じゃなくて、「自分が『なにが好きなのか』をよく知っていて、その理由も認識している男の方がモテやすい」ってことを言いたいんです。
仕事の職種だとか収入額とかじゃなくて、「あなたは『どんなことが好き』なのか」ってことこそが、「あなたとは何者か」ということなんです。』

『「なにが好きかを自分でわかってるか」ということは、おおげさに言うと「あなたには、ちゃんと自分で選んだ【自分の居場所】があるか」ってことです。』

『それを好きな自分に、誇りを持ってください。でも「べつに楽しいってわけじゃないんだけど、他にやることもない、なんとなくそれを毎日やっちゃう」ってかんじだと、それはハマってるんじゃなくて「逃避してる」と言います。それだけ心のふるさとに、なっていません』

『べつにそんなたいそうな「自分」を持たなくても、いいんです。無理して「特別な」ことを好きにならなきゃ「自分を持ってる」ことにならないってわけじゃない。
心から好きになれることなら、それは平凡なことでいい。それよりも「自意識過剰にならないこと」のほうが大切です。』

『【あなたの居場所】というのは、チンケな同類がうじゃうじゃ群れてるところじゃなくて、【あなたが、一人っきりでいても淋しくない場所】っていうことです』

この『居場所』の話は素晴らしいと思いました。いや、別に大層なことが書いてあるわけじゃなくて、たぶんすごく当たり前のことが書いてあるんだけど、でもまさにその通りだと思うし、モテるかモテないかという遥か以前の段階で、この『居場所』の話って凄く大事だよなぁって思います。
僕自身も、自分がどんな人を好きになる(恋愛とかに限らず)かって考えると、やっぱり、「その人にとって好きで好きで仕方ない何かがある」という部分が一番大きいなぁって思います。それが、僕自身の趣味・関心と重ならなくてもなんの問題もない。とにかく、その人が、どうしてもやりたくなっちゃう、気になっちゃう、目を閉じていられないものがあるかどうか、そこが一番大きいかなっていう気がします。そういう人とは、話してても楽しいですしね。まあ個人的には、その『気になっている』ものが、世間一般の常識と比べてぶっ飛んでいるとなおいいんですけど、まあそれはそんなに重要な点じゃありません。
モテたいからと言って、「相手から自分がどんな風に見えるのか」という点だけにこだわってしまうのは、結局「自意識過剰」になってしまうだけです。そうではなくて、まず自分自身を見つめなおす。自分自身が依って立つ場所があるのかどうかを見定めてみる。そして、【一人でいても淋しくない場所】をきっちりと持つ。そういう地点にまず立つことで、「本当に自分はモテたいのかどうか」という最初の質問に対する答えも違ってくるかもしれません。案外自分は、モテなくても別にやっていけるんじゃないか、みたいなことを発見するかもしれません。
コミュニケーションのためには、相手と向き合うことがもちろん大事。でも、その前に、きちんと自分自身のことを見定めなくてはいけない。
本書には、『対話』ということについて、こんな文章がある。

『対話とは、相手の言っていることばを「まずは、聴く。けれど【判断】しない、決め付けない」こと。それから「自分の肚を見せる」ことです。
「対話できる」ということが、つまり「相手と同じ土俵に乗れる」ということなんです』

「自分の肚を見せる」ためには、自分自身についてきちんと語れる言葉を持っていなくてはいけない。当然のことなんですけど、改めてこうやって言葉にされると、はっとさせられる感じがあります。
さてそれから、色んな実践的なこと(キャバクラや風俗に行って【練習】することや、キャバクラとかではない素人の女性とどんな風に出会うのかなどについて、かなり具体的で実践的なアドバイスが示されます)が書かれた後で、3度目の出版となる本書(本書は、「単行本」→「一度目の文庫化」→「二度目の文庫化(本書)」と、三度出版されています)には、新たに追加された第五章というものがあります。
ここは、なかなか興味深い内容でした。というのも著者は、本書を書いている頃はモテていなかった、と書いているんです。

『原稿を書いていたことはモテてはいなかった。もともと【自分がモテているから自分が「できていること」を人におすそわけする】ために書いたのではなく、自分がモテていないからモテるようになるために「するべきこと」を書いたのだった。書くために考えて、多くの人に読んでもらって、やった身についたんだと思う。』

それから著者は、モテるようになって感じたあれこれを書きます。ここは、なんというか結構哲学的というか、思索的というか、それまでの調子とは結構違うトーンで書かれていて面白いです。
さらに著者は、モテた経験を元に、大人っていうのはこういう存在なんだろうなとこんな風に悟る。

『それを認めて「愛することによって自分が変わるのを、恐れない」のが、つまり「大人になる」ということじゃないだろうか』

『大人だということは「もう、そんなに長い時間は残ってないんだから、なるべく他人を幸せにしよう」と考えることだ』

なかなか含蓄のある言葉である。本書は、「コミュニケーションのための本」というだけではなく、「生き方」の本でもあるのだ。
本書は、上野千鶴子の解説が載ってたり、哲学者の國分功一郎との対談が載っていたりと、一介のAV監督の作品にしてはなかなか豪華な本です。それだけ、色んな人の心に届いたということなのでしょう。
本書は、とにかく「全男必読」と言いたいです。それは、「モテるため」ではなく、「ちゃんとしたコミュニケーションを取るため」、そして「きちんとした自分を持つため」です。そして女性の皆さんには、こんな風に悩んでいる男もいるのだということを理解していただいてですね、今でも十分に温かい眼差しをいただけているかもしれませんですけども、さらに一層のご指導ご鞭撻温かい目線を賜りたく、っていう感じで読んでもらえるといいかなと思います。思ってた以上に素晴らしい作品でした。是非読んでみてください。

二村ヒトシ「すべてはモテるためである」


傷だらけの店長(伊達雅彦)

内容に入ろうと思います。
本書は、実在の元書店店長が、「伊達雅彦」というペンネームで業界紙に連載していた文章を一冊にまとめたものです。
内容は、書店の店長として働く中で経験したこと、感じたことなどを赤裸々に綴っている、エッセイのような感じの体裁です。
「伊達雅彦」は、とある小規模な書店の店長だ。アルバイトでその店で働き始めた。本が好きすぎたからだ。父親に勘当されながらも、そのままアルバイトから社員となり、いくつかの支店を回った。そしてやがて、彼がアルバイトとして働き始めた、そもそもの原点となる店舗の店長となった。
悪戦苦闘の連続だった。
言うことを聞かないで勝手をする古参アルバイトスタッフ。一向に減らない万引き犯。減らされ続ける人件費と、それに反比例するように増える残業・休日出勤。競合店の出店。やってもやっても終わらない業務。
しかし何よりも彼は、『書店』の姿が変わっていってしまうことを憂えていた。
効率重視、ランキング重視、そういうデータばかりに頼った品ぞろえの書店ばかりになってしまっている。そうせざるを得ない事情は理解できる。どこも業績が悪化して、書店の意義だとかそんなことに構っていられる余裕なんかないのだ。売れるものはなんでも売るしかないし、自分の主義を曲げて売り場を作らなくてはならないことがとても多い。
しかし彼は、そんな現状を嘆く。どうにかならないのか。どうしてこうなってしまったのか。俺が作りたい売り場は、本当にこんなものなのか?
彼は、一人の書店人として、真摯に『本』と向き合い、可能な限り限界まで努力をした。その奮闘の記録です。
なんというか、どんな風に何を感じたらいいか、とても難しい作品だなと感じました。僕自身も、「伊達雅彦」とはまったく立場も経験も何もかも違うとはいえ、一応書店員であるので、色々考えさせられました。
その色々考えさせられたことを、なかなかここにスパっと書くわけにはいかないんだろうなぁ、という感じがします。そんな感じになったのは、以前、石橋毅史「「本屋」は死なない」を読んだ時にも思った。「「本屋」は死なない」を読んだ時は、感想は書いたけどブログには上げない、というやり方をした。今回は、モヤモヤとしたまま、自分が感じたことをズバッと書くわけにはいかないと思いつつ、書けそうなことだけダラダラ書いてみようかなと思っています。
まず本書を読んで、一番強く感じたことは、

『なんだか申し訳ない』

という感じでした。誰に対して申し訳ないと思っているのか、そういうことははっきりとはよくわからないんだけど、でもとても申し訳ない気分になりました。
僕は今、書店員という仕事を楽しんでやっています。
これは、「伊達雅彦」との立場や書店の違いが非常に大きいでしょう。僕は店長でも社員でもないただのバイトだし、書店の在り方としても、基本的に放任主義というか、ただ放ったらかしにされているだけなんで、やりたいようになんでも出来る。他にも、たぶん僕自身はある意味でかなり恵まれている環境にいるのだろうなという感じがするんで、かなり状況は違う。
同じ書店員でも、ここまで違うのか、という感じがした。
僕が普段から関わることがある方にも、書店の店長職の人はいる。様々な規模の様々なタイプの書店の店長だ。そういう人達が、どんな風に何をしているのか、僕はよく知らないままでいた。本書とまったく同じということはないだろうけど、同じようなことをやっているのだろうなと思うと、やっぱり店長って凄いなと思う。ウチの店の店長にはまったくそんなこと思わないけど。
世の中には様々な仕事があって、その中には待遇の悪いものも様々あるだろう。書店員は、『本が好き』というベースを持って目の前の仕事に向かうことが出来るから、他の大変な仕事と比べたらマシだったりするのかもしれないなんていう風に思わなくもない。
でも、それでも、僕は本書を読んで、こんなに報われない仕事があろうか?と思ってしまった。
「伊達雅彦」は、本書のあちこちに書かれている断片的な情報を組み合わせると、どうも業界内ではかなり評判の高い、恐らくある程度有名な書店員なのだろうと思う(たぶんだけど)。業界内では、その知識や経験や手腕が評価された、評判の高い人物なのだろうと思う。
しかし、そんな彼が、限界の限界まで仕事をやって、しかしそれで報われることがない。
それは、給料が低いとか、連休が取れないとか、そういうことを言いたいんじゃない。もちろん、そういう部分でも「伊達雅彦」は消耗して行くのだけど、でもそこはあくまでもメインじゃない。
彼の報われなさは、外側の何かと比較して立ち現れるものではなくて、彼自身の内部にあるものが徐々に萎んでいってしまう、その報われなさである。
「伊達雅彦」は、もうずっと若い頃から、理想を持って仕事を続けてきた。その理想は、若さ故の猛進だった部分もあって、年を取った「伊達雅彦」は、それがいかに現実的でないか実感することになるのだけど、しかしその理想のすべてが消えたわけではない。彼の中には、『あるべき書店』として譲りたくない部分があり、どうにかそれを失わずに仕事が出来るように彼は奮闘する。
しかし、その奮闘は、虚しい。彼の必死の奮闘は、結局はあまり実を結ぶことはなく終わってしまう。
本書の中で、実に印象的だった文章がある。

『売りたいとも思わないものを買いたいと思ってもいない人に売らなければやっていけない、会社や書店のあり方こそ「ヤバイ」と思う私は、きっと考えが甘いのだろう。』

これは、なんというか、凄く分かる。僕の中にも、常にある違和感ではある。
僕も、今よりもっと昔、まだまだ何も知らない頃は、理想論を振りかざしていられた。「あるべき書店」について、自分の考えを、臆することなく主張できたと思う。でも今は、色んな人に会い、話を聞き、様々な価値観を知る中で、そうできなくなってしまった自分に気づいてもいる。
それでも、ちょっとぐらいは、自分の中で曲げたくないものがあったりする。でもそれは、冷静に考えると、「甘い」んだろうなぁ、とも思っている。最近、自分がブレてるなぁと思うことが多い。昔、絶対に正しいと感じていたことを、本当に正しいんだろうか?と信じきれなくなってきている自分がいる。「「本屋」は死なない」の感想を書いた頃の自分とはまた大きく違っているはずだ。今は、なんか、色んなことがよくわからない。
一つ僕が書いておきたいことは、本書で描かれる物語は、あくまでも様々あるに違いない切り口の一つにすぎない、ということだ。
本書で描かれてる書店は、全国に1万5千店舗以上もある書店の、たったの一例だ。
その一例の物語だけで、書店のすべてを分かった気になってはいけない。
あくまでも本書は、「伊達雅彦」の主観に基づいた描写なのであって、たとえ「伊達雅彦」と同じ店にいたとしても、誰が見るかによってまた見え方は変わってくるのだろう。
ここで描かれる書店は、どの程度の改変(要は、店名を悟られないようにする改変)があるのかよく分からないけど、実際に日本のどこかに存在した書店での物語である。でも、ここで描かれているのは、何かを代表するような一例ではないと思うし、多くを内包するような一例でもないはずだ。
実際に存在した書店の話なんだけど、だからと言ってそれは、真実そのものというわけではない。なんとなくそんなことを書いておきたくなった。
ウチの店は違うと言いたいわけでも、ここで描かれていることが特殊だと言いたいわけでもない。
ただ、書店という場のすべてを、本書で提示される方向だけからしか見なくなる、というのは、ちょっと悲しいかもしれないな、と思いました。
僕自身とは大きく境遇の違う方の奮闘記を読んで、何を感じたらいいのか難しい部分もあった。本書への批判も思いつけば、本書への賛同も思いつく。書店員以外の方が読んだら、どんな風に読まれるんだろう。
忘れたくないなと思うのは、こういう方が、こういう悩みを抱えながら、それでも前に進もうとしてきた、という事実です。たぶん僕は書店員として、そういう事実だけは、忘れちゃいけないんだろうなと思う。

伊達雅彦「傷だらけの店長」



これがメンタリズムです メンタリズムになれる本(DaiGo)

内容に入ろうと思います。
本書は、メンタリストとしてテレビなどで活躍するDaiGoお著作です。DaiGoの著作は結構たくさんあるんですけど、僕はこれが初めて読むDaiGoの本です。そんなわけで、他のDaiGoの作品と比較したりなんてことは出来ないです。
本書は4章から成っていて、大雑把にそれぞれの章をざっくり紹介していきます。
第一章は、DaiGoが実際に行なっている様々なパフォーマンス(もちろんそれには、フォーク曲げも含まれています)の実例を出しながら、それぞれを「どんな風に行なっているのか」ということが解説されます。こういうパフォーマンスの時は、こんな風にしてるんですよ、みたいなことが解説されちゃうわけです。
これが凄いなと思いました。後でも書くつもりですけど、DaiGoは、メンタリズムがマジックと違うことを主張するためにかなり闘って来た歴史を持っています。マジックのようだけど、メンタリズムってマジックと何が違うんだろう?そういう疑問に答えるための、入り口みたいな感じでしょうか。
この章では、DaiGoのフォーク曲げのパフォーマンスのコマ割りの写真が載ってたりするんですけど、やっぱり何をやってるのかわかりません。
あれ?「どんな風に行なっているのか」っていう解説をしてくれるんじゃないの?と思った方。
そうなんですけど、でもわかんないんです。
DaiGoは、「こんな風にやってるんですよー」と書きます。でも、読んでいるだけじゃ、それが具体的にどんな動きで、どんな仕草で、どんな口調で、みたいなことが全然わからなかったりする。
そう、それがメンタリストであるDaiGoの強みなんだろうなと思いました。
本書を読んで強く感じたことは、「手法を明かしたとしても真似できない」という自信です。DaiGoは、自分が何をしているのかを語ることは出来る。でも、その語られた内容は、とてもじゃないけど常人にはできそうな気がしない。っていうか、無理でしょう。そういうテクニックをいくつも組み合わせて、DaiGoは不思議なパフォーマンスを演出している。
舞台裏は覗かせてくれるんだけど、でも分かった気にはなれない。そこが、マジックとメンタリズムの大きな違うの一つかもしれません。
第二章は、第一章をさらに深めたような内容と言えるかもしれません。第二章では、色彩理論や心理学など、具体的な科学的背景を解説したり、DaiGoが自分で様々に実験してきて得た統計的な結果なんかを織り交ぜながら、DaiGoのパフォーマンスを支える科学やロジックについて詳細に描かれている感じがします。
この章を読むと、人間って不可思議だし面白いなって思います。
僕らは、色んなことを自分の意思で選んでいるつもりでいるし、嘘をつき通せているような気がしてしまう。でも全然そんなことはなくて、自分の意思以外の影響によって物事を選択させられることもあるし、嘘はすぐバレる。もちろん、DaiGoのように訓練によってテクニックを身につけないとそういうのはわからないわけなんだけど、人間ってこんなに色んな情報を発しているんだなぁと思うと、凄く不思議な感じがしました。
僕は、心理学とか脳科学の本なんかをそれなりに読んでいたりするんで、人間の認知に関する不可思議さみたいなものは実は結構知ってたりします。視界に入っているはずのものが見えなかったり、無意識に働きかけられる情報によって行動が左右されたりというのは、現実に様々な科学の結果として知られている事実です。
でも、メンタリズムの凄い点は、それらの様々なジャンルにまたがる知識(催眠術・色彩理論・心理学・物理学などなど)を様々に組み合わせることで、パフォーマンスとして見事なものを生み出してしまう、という点だと思います。
まさにそれは想像力の要求される部分だと思います。それぞれの専門知識を知っているだけではダメで、それらをどんな風に組み合わせたらどんなことが出来るだろうか。そういう発想で色んなことを考えていくことで、DaiGoがやるような不思議なパフォーマンスを生み出すことが出来るわけです。人間の行動の不可思議さみたいなものもやっぱり不思議ではあるんですけど、僕的には、それらの知識を使ってパフォーマンスを創造するメンタリズムの凄さみたいなものを実感しました。
第三章は大体、どんな風に訓練したらいいか、みたいな話になります。
DaiGoは、センター試験が終わった直後に見たマジックの特番がきっかけでマジックを始めるようになったそうです。それから、メンタリズムというものに出会い、不断の努力を積み重ねてここまで来ました。
僕がテレビでDaiGoを初めて見た時は、まだ慶応大学の学生でした。今何歳か知りませんけど、数年間の間にあのメンタリズムの手法を身につけたわけです。
いや、それは凄すぎるだろと思いました。僕はてっきり、子供の頃からマジックが大好きで、それでメンタリズムも…みたいなことかと思ってたんですけど、全然違ったみたいです。
あの華麗なるフォーク曲げにしても、あらゆることを調べ、そして一日に100本ぐらいフォークを曲げる練習をして、それであれだけ洗練された、誰も見たことがないようなフォーク曲げのパフォーマンスを完成させたようです。
メンタリズムの訓練は、マジックとはまた違った難しさがあります。
マジックの場合、一人でネタを練習すればいいですが(まあでも、会話のタイミングとか、視線をどうするかとか、そういう相手がいないと出来ないこともあるだろうけど)、メンタリズムの場合、まず基本となるのは『観察』です。
DaiGoは、二週間『目』だけを観察し続ける、その後は『口元』だけを観察し続ける、みたいな風にして、少しずつ人間の反応のデータを蓄積していったみたいです。やるとなったら徹底的にやらないと気がすまない性格のようで、とにかくあらゆるテクニックを自分のものにするために、相当な努力を重ねたんだそうです。
本書でも、まあDaiGoみたいになるのは難しいだろうけど、日常でも使えるレベルのテクニックをどう身につけるか、みたいな話が描かれます。
そして第四章は、さっきもちらっと書いた、マジックとメンタリズムの違いの話です。というかそれはあくまでも背景的な話で、メインはDaiGoがどんな風にテレビの世界に出てこれたのか、みたいな話です。
DaiGoは、マジックとは違う魅力を持ったメンタリズムというものをもっと広めたいと思っていた。
でも、テレビというのは、わかりにくいものは徹底して扱わない。

『「不思議」を見せるパフォーマンスは、すべて手品(マジック)か超能力のいずれかに属するという決め付けた常識が邪魔して、理解されないことも多かったが、それ以外に、バラエティ番組でのやらせ問題の露呈も重なり、「不明確なもの」を扱うことに、どこもピリピリと神経質になっていた。』

『マジック』や『超能力』であれば、視聴者の方にもイメージがあるし、分かりやすい。でも、いきなり『メンタリズム』とか言われても、なんのこっちゃわからない。それで、プロデューサーはDaiGoらに、メンタリズムって何?って聞くんだけど、長々しいなんだかよくわからないような説明をしないとなかなか伝わらなかったりする。
この、マジックとは違うメンタリズムって何?っていう部分が上手く伝えられなかったせいで、かなり長い間DaiGoはテレビの世界で活躍することが出来なかった。
一番初めにテレビに出た時は、DaiGoの代名詞みたいなフォーク曲げのパフォーマンスだったんだけど、それ以来、フォーク曲げばかりにオファーがくる。実際にやりたいメンタリズムは、テレビで披露するどころか、プロデューサーが耳を貸そうともしてくれない。
そういう状況が長く続くのだけど、でもDaiGoは諦めずにメンタリズムのことを伝えたいと思って努力したから、今のようにメンタリストという形で名が知られるようになった。これが途中で折れて、まあいいや、マジックとか超能力ってことにしよう、なんて思ってたら、今のDaiGoはないだろう。
本書ではこんなことも書かれている。

『本書を買いている2012年現在、パフォーマンスはすべて心理学やトリック、ロジックに基づくもので、そこに超能力や霊能力の類は一切ないという言い方をしているのは、僕とダレン・ブラウン(とバナチェック)だけだ』

メンタリストと呼ばれている人は、日本には非常に少ないのだけど、海外には結構いる。でもその人達も、心理学などに基づいていると言いつつも、同時に、超能力的な存在についても触れるのだという。僕は初めてDaiGoを見た時、これは科学とかロジックで超能力を再現してるんだ、みたいなことを言ってるのを聞いて、なんかすげぇこと言うなぁって思ってましたけど、やっぱりあれは、世界的にもかなり凄いことだったみたいです。
この章で書かれていて面白いなと思ったのは、『失敗』についての話。実はテレビの収録で失敗したことがちょっとあって、それはオンエアされなかったんだけど、みたいな小話もあって、それはそれで凄く好感が持てるんだけど、僕が面白いなと思ったのは、『笑っていいとも!』での話。
生放送だから、失敗したらテレビ的には相当マズイ。でも番組ディレクターが、「失敗してもいい」と言ってくれたという。そして実際に失敗することもあったらしいのだけど(もちろん生放送だからそのまま放送される)、視聴率も落ちなかったし、逆にリアリティがあってドキドキさせられたみたいな反応が多かったのだそうだ。
本書で、マジックは「これこれをやりましょう」と言うわけで、つまりそれは「これこれが出来なかったら失敗」と、失敗を定義しているのと同じだ、とDaiGoは書きます。メンタリズムの場合は、究極的には失敗は存在しない。どこに着地させるのかを、コミュニケーションの中で探っていきながら決めることが出来る。初めから着地点を明示しなくていいので、状況に応じてあらゆる方向に手をのばすことができるのだ。
そんなDaiGoの格闘の章がラストにあります。
思ってたよりずっと面白い作品でした。個別の話なら、心理学とか脳科学の本で読んだことがあるものも結構あったんだけど、でもそれらを組み合わせることでこんなことまで出来るのか!という驚きに満ちた作品だなと思います。
とにかく、徹底的に手の内をさらけ出している。マジックの本では、なかなかこんなものはないだろうと思います。あくまでマジックの場合だと、ネタの暴露本、みたいな感じになってしまうだろうと思います。
でも本書は、テクニックの暴露本、というのとは違う。『暴露』というのは、そうされることで致命的で不可逆な影響を与える、みたいな印象があるけど、でもDaiGoの場合は、手の内をさらけ出したところでどうにかなる。まったく大丈夫なわけではないけど、でもあらゆる手段でそれを乗り越えることが出来る。その自信があるからこそ、こういう本を出せているのだろうなと思います。
とにかくDaiGoが正直な感じがいい。自分を大きく見せすぎない。もちろんそれも、メンタリズム的な手法を使って印象を誘導しようとしているのかもしれないけど、だとしてもこの正直さはいいと思う。テレビの収録で失敗したことがあって、実はオンエアされなかったんだけどね、みたいな話とか、なかなか書けないんじゃないかなぁって気がします。
DaiGoのパフォーマンスを見てると、相手の考えてることなんか何でも分かっちゃうんじゃないか、みたいに思っちゃうけど、でもそんなわきゃない、って書いていました。それが、こんな感じの文章で書かれてて、面白い。

『おそらくあまりにも僕がうまくやるもんで、ときどき、
「人が何を考えているのか、手に取るようにわかるでしょう?」
と言われることもあるけれど、残念ながらそうではない。
ここでだけ本当のことを言うけど、すべて手に取るようにわかっていたら、この仕事はしていない。それは断言できる。
だって、人が考えていることを「すべて」わかったら…あなただって今の仕事はしていないんじゃないかな。』

まあ、確かにねー。
あともう一つ。DaiGoには、村山というプロデューサー的な立場の人がいるんだけど、とにかくその人が凄かった。
元々メンタリズム的な知識に関しては村山の方が上だったという。その村山に、

『3年間だけやってくれ。それまでにお前を絶対にスターにしてみせるから』

と言われ続け、カメラに向かって格好つけるのとか恥ずかしいとか思ってたDaiGoにありとあらゆるテクニックを伝授し、そして本当に毎週のようにテレビに出る人間にしてしまった。研究熱心で努力をし続けられるDaiGoも凄いけど、村山という存在も非常に大きかったんだろうなと思います。
僕は本書を読んで、どうにかこのメンタリズム的な発想を書店の売り場に活かせないだろうか、とちょっと考えてみることに決めています。僕としては、ある本だけが爆発的に売れる、なんていうのはそんなに魅力的ではないので、『いかにもう一冊買ってもらうか』『いかに棚から買ってもらうか』というこの二点を重視して、なんとかメンタリズム的な知識を組み合わせて面白い売り場を作れたりしないかなぁ、と考えてみることにしました。
DaiGoは、とんでもない量の努力をし続けて、人前でパフォーマンスできるほどになりましたけど、僕らは別にそんなところまで行く必要はない。日常生活で役立つレベルのメンタリズム的テクニックであれば、確かに本書で描かれていることに注意して訓練し続ければ、もしかしたらどうにかなるのかもしれない、なんて思わせてくれる作品でした。いや、ホント凄いです、DaiGo。本書を読む前から凄いと思っていましたけど、本書を読んでより凄いと思えるようになりました。

DaiGo「これがメンタリズムです メンタリストになれる本」


幕が上がる(平田オリザ)

内容に入ろうと思います。
高校の演劇部に所属する高橋さおりは、なんとなく、つまらない。部活が。うーん、つまらないというのでもないのか。なんか、物足りない。でも、こんなもんなのか、って感じもする。3年生の最後の大会が終わって、もちろん地区大会もいつものように突破できなくて、毎年の伝統で、大会で使った大道具なんかを2年生だけで燃やしている。
ユッコ(橋爪裕子)とガルル(西条美紀)とさおりの三人が、来年部を引っ張っていくことになる。
とりあえず、地区大会突破を目標にして、三人で色々考えて進めていく。新入生勧誘のための公演がかなりうまくいって、一年生も結構入ってきてくれた。2年になったわび助は、相変わらず演技がとてもうまい。さおりが一年生だった頃の、あのギスギスした感じも全然なくって、部も凄くいい雰囲気になってきた。
でも、やっぱり顧問の先生は演劇に詳しいわけじゃないし、これという手応えがあるわけでもない。
そんな演劇部に、立て続けに色んなことがあった。
まず、新しく赴任した美術の先生が、なんと東京で『伝説』と言われたこともある元「学生演劇の女王」だというのだ。彼女たちは、副顧問をお願いに行き、研修などで忙しい合間を縫って稽古を見てくれることになった。
そしてもうひとつ。去年の地区大会で優勝したS高で、主役以上に演技がうまかった女の子。中西さんっていうその女の子が、なんとウチの高校に転校してきた!早速演劇部に誘うのだけど、なんだかちょっと難しい女の子なのかもしれない。
とはいえ、なんというか、凄い布陣が敷かれている感じ。これなら、地区大会の突破も、夢じゃないのかも。
「小っちゃいな、目標。行こうよ、全国!」
というような話です。
思ってたよりは良い作品でした。劇作家である著者の初めての小説らしいですけど、なかなか良かったなと思います。
本書にちょっとだけ載っている著者の略歴と、作中でちょろっとだけ触れられている話からなんとなく想像するだけなんだけど、平田オリザっていう人はたぶん、「普通の口語で演劇をやる」みたいなのを再評価した、みたいな感じみたいです(よくわからないけど)。なんかこの小説も、小説なんだけど地の文も口語っぽい感じで進んでいく感じがあって、なんとなくなるほどなーって思ったりしました。
さすが劇作家だけなことはあって、演劇に関する部分は凄く鋭いなという印象がありました。どんなワークショップをするのか、どんな視点から演劇を見るのか、演出家としてどんな風に役者を動かして行くのか。そういう、演劇そのものに深く関わっていく部分については、やはり本業の強みということでしょう、凄く強い印象がありました。
高校演劇って、そういう風にやっていくんだなぁ、って思う部分もありました。
高校演劇の場合、ってまあ高校演劇に限らないだろうけど、どんな台本でやるのかっていうのが問題になってくる。なかなか高校生で、台本を書けるっていう人は多くないだろうからね。
色んなパターンがあるみたいです。既存の台本を使う(ただ、大会は規定の時間があるから、色々削って短くしないといけない)。顧問の先生が書く(役者のキャラクターを想定して当て書きしていくので、役者がその役に無理やり合わせる必要がなくてうまくいく事が多い)。大枠だけ誰かが決めて、後はエチュードをしながら稽古の場で創っていく(本書でさおりは、このやり方を採用します。なるほど、そんなやり方もあるんだな、と思いました)。
顧問の先生が生徒のキャラを考えながら当て書きするとか、大枠だけ決めてエチュードの中で完成させるとか、なるほどなぁ、という感じがしました。普段ドラマとか映画とかで、いわゆる『本職の役者さん』のことを見ている僕らからすると、話がまずあって、役者がその役に合わせていく、っていうのが当然だと思っちゃうような気がするんですね。でも、確かに、みんな演技が巧いわけじゃないし、無理させればボロが出る。でも、当て書きにせよエチュードにせよ、生徒個人のそのもののキャラを活かせるのであれば、確かにその方がいいよなぁと、高校演劇について全然知らない僕は感心しました。
物語はさおりの一人称でずっと展開されていくんだけど、口語みたいな地の文で、さおりの内面がスルッと表現されていくんで、なかなか面白い。
さおりは、分からないものは分からないまま受け取り、分かったフリをしない、という印象がある。僕からすると、とても好印象な女の子だ。自分の中の、何か『モヤモヤ』したものを、簡単にどこかに着地させたり、あまり考えずに名前をつけたりしない。違和感を違和感のまま持ち続ける、っていうか高校生だし、ずっと持ち続けてるわけでもなくて忘れたりすることもあるんだけど、でもそういうのが個人的にはなんか好きです。「これでいいの?」っていう問いを常に自分に向け続ける感じは、大変だろうけど、素敵だと思いますよ。
演劇部の面々のキャラクターもなかなか面白い。たぶんこれも、著者のスタンスなんだろうと思うんだけど、どの人も、分かりやすい個性みたいなものはあんまりない。もちろん、ガルルはダンスをするとか、中西さんはちょっととっつきにくいとかあるけど、でもみんな状況によってキャラは変わるし、一本調子なわかりやすさで括ろうとしていない。できるだけ忠実に『ありのまま』を描こうとするとそうなんるんだろうなぁ、という感じがしています。その辺りの著者のスタンスは、結構好きかも、って思います。
高校演劇の話だと、ちょっと前に「濡れた太陽」っていう小説を読みました。こちらも、同じく劇作家として活躍する前田司郎の著作です。確か「濡れた太陽」は、著者の高校時代の話をモチーフにしている、とかだったような気がします。
本書はどうなんだろうなぁ。なんとなく個人的には、かなり著者の実体験が元になっているんじゃないかな、という感じがします。
どうしてそう思うのかというと、作品全体から、説明のつけにくい脈絡のなさを感じるからです。
うまく説明できないんだけど、なんでこの話が出てきたんだ?っていうような、ストーリー全体からしたらちょっとはみ出ているような、そういう場面がところどころであるような気がします。気にしすぎかもしれないし、あるいは、そういう脈絡のなさこそがリアリティなのだという著者のスタンスなのかもしれないけど、個人的にはなんとなくその脈絡のなさが、自分の経験から引き出しているもののような感じがしたのでした。
そういうようなことを明確に考えながら読んでいたわけではないんですけど、でも途中から、さおり=平田オリザっていう頭でなんとなく読んでいたような気がします。
あと、演劇と合唱という違いはあるんだけど、中田永一の「くちびるに歌を」っていう小説も連想しました。なんとなく、雰囲気は近いような気がします。
なかなか面白く読める青春小説ではないかなと思います。青春小説が好きという方は読んでみてください。

平田オリザ「幕が上がる」


何者(朝井リョウ)

内容に入ろうと思います。
つい先日卒業ライブを終えた友人であり同居人である光太郎は、まさにその流れのまま髪を黒く染めたらしい。
就活が、始まる。
ちょっと前に留学から戻ってきて、光太郎のライブにも顔を出していた瑞月さんが、拓人と光太郎を誘う。ちょうど拓人と光太郎が住んでいる部屋のすぐ上が瑞月さんの友人の部屋だったようで、4人で就活の対策を一緒にやろう!という流れになった。
12月1日の就活開始を前にして、既に練習用のESを作成したり、面接対策なんかを始めている理香さん。うわーまだなんもやってねーよそんなんもうやるもんなのー、とか言ってる光太郎。瑞月さんは少しずつ、でも着実に進んでいくような感じ。
そして、理香さんと同居している、同じ大学に通う隆良。就活なんてしないで、自分の力で生きていける道を模索するよ俺は、誰かに合わせるような生き方なんて、俺にはちょっと出来ないしね、なんて言う男。
そして拓人はそんなみんなを観察している。
第一志望をESで落とされる、何度面接に行っても受からない、どんな方向に努力すればいいのかさえ判然としない漠然とした毎日。そんな日々を過ごしながら、彼らは少しずつ変質していく。
『就活』という門をくぐることで、強制的に降り掛かってくる変化。
そんな強烈な変化にさらされたことのない面々は、少しずつ心をすり減らしながら、それでも、どうにか前に進んでいく…。
というような話です。
やっぱり朝井リョウは素敵な話を書くなぁ。本当に凄い作家だなと思います。
僕自身は、就活というのをしたことがありません。僕はとにかく、『就活なんかしたら壊れる!』と真剣に思ってたんで(今でも、半分ぐらいはそう思っています)、だからとにかく全力で逃げました。就活から逃げたことが正解だったのかどうか、まあそれは未だによくわからないけど、でもこれまで一度も、就活をしなかったことを後悔したことはないんで、まあとりあえずそう悪い感じでもないかな、という感じがします。
まあそんな就活をやっていない人間なんで、「あーそうそう、こういう感じだった!」みたいな感じは、僕にはないんですね。そういう意味で、これまで読んできた朝井リョウ作品と比べると、僕の中で若干の距離を感じる作品ではありました。まあ、日本全国で、就活をしていない人の方が少ないだろうから、ほとんどの人にはグサグサ刺さるんだろうなぁ、という感じはしますけどね。
まあそんなわけで、僕の立ち位置的に、どうしても本書はちょっと遠い作品になっちゃうんだけど、でもそれでもやっぱり朝井リョウはさすがだなぁという感じがしました。
朝井リョウの作品は、常に『視点』と『切り取り方』が素晴らしいと思う。『どこに立ってその風景を見ているのか』、そして『どんな枠でその風景を切り取るのか』という二つが見事だといつも思っています。
その、『視点』と『切り取り方』のベースになっているのが、『今そのもの』だと僕は思います。
朝井リョウは、まさに『今そのもの』を描きとるのに長けている。登場人物の振る舞いとか、世の中の風潮とか、時代の空気みたいな、そういう『まさに今なんだ』という感じを掴みとるのが本当に巧い。
しかもそれを、ほとんど固有名詞を出すことなく描き出すというところが凄まじいな、という感じがします。
『今』を描き出すために、固有名詞をたくさん使う、という作品はよくあると思います。時代の感じを表現するためにどんな固有名詞を選びとるかというセンスを持っている人は素晴らしいと思うし、僕にはそんなこと絶対に出来ないけど、でも朝井リョウの、固有名詞に頼らずに『今』を描く、というやり方も凄すぎるなと思っています。
朝井リョウは、時代の感じを『言葉』で切り取る。当たり前のことを言っているみたいだけど、でも違うんだよなぁ。
たとえば、誰だって同じ風景を『見る』ことは出来る。同じ場所に立って、同じ方向に視線を向ければ、同じ風景を『見る』ことは出来る。
けど、じゃあたとえばその風景を『絵に描け』と言われたら、描けない人の方が多いでしょう。
朝井リョウは、そういうことを、絵ではなく言葉でやっている、という印象がすごく強いです。
そもそも僕は、朝井リョウと同じものを見ているとは思えないんだけど(朝井リョウには、他の人には見えないものまで見えているような感じがする)、けどたとえ同じものを見ていたとしても、それを言葉では表現しきれない。自分がどうやって努力しても、僕の文章からは『今の感じ』が抜け落ちるだろうし、朝井リョウの文章からは何故か『今の感じ』が漂う。こういうところが本当に凄いよなぁ、と思います。
さらに本書で見事なのは、ツイートの使い方です。
本書では、登場人物たちがツイッター上で呟いた『ツイート』が、ところどころで挿入されます。
これが、本当に素晴らしい。
小説を読んでいて時々、ツイートが挿入されているものを見かけます。でも大抵それらは、「舞台装置」でしかないんですね。椅子とかテーブルといったような、必要だからそこに置かれているもの、にすぎないものが多いと思います。作中で、ツイートを挿入した方がストーリーを展開させやすいと言ったような理由だけで描かれているような感じがします。
でも朝井リョウが描くツイートは、「舞台装置」ではありません。それは、「登場人物の分身」です。これが凄い。僕らが生きているリアルの世界では、ツイッターとかフェイスブックは、「自分の分身」的な存在として認知されているだろうと思います。でもそれを、小説の世界で写しとることが出来るっていうのは、ちょっと凄すぎるな、という感じがします。本書ではツイートは、登場人物をより深く描くための存在として、まさに登場人物そのものであるかのような扱いになっていて、それは素晴らしいと思いました。
「登場人物の分身」としてのツイートを絶妙に配置することで、本書の登場人物はいくつものレイヤーを複雑に抱えることになります。
つまり、『リアルな自分』『リアルな他者』『リアルではない自分』『リアルではない他者』『リアルな他者を見ているリアルな自分』『リアルな自分を見ているリアルな他者』『リアルではない他者を見ているリアルな自分』『リアルではない自分を見ているリアルではない他者』…というような感じで、一つの小説の中で、様々な『自分』と『他者』が生み出されていくことになる。
どんな『自分』が、「誰といる」のか、「何をしている」のか、「何を考えている」のか。あるいは、どんな『他者』が、「誰といる」のか、「何をしている」のか、「何を考えている」のか。主要な登場人物はたったの6人(実際に顔を合わせるのは5人)なのに、その中で複雑に『自分』と『他者』が分裂していくので、なんだかもっと大量の登場人物がいるようなそんな気がしてくる。
ちょっと前に、平野啓一郎の「私とは何か」っていう新書を読んだのだけど、その作品は、著者の「ドーン」という作品の中で出した「分人」という概念についての話でした。ざっくり書くと、一人の人間の中には色んな「分人」がいて、それが色んな場面で色んな形で出てくるんだよ、というような話です。特に若い世代であれば、そうやってきちんと名前をつけたり言葉で説明をしたことがなくても、感覚的にすんなり理解できる話だろうと思います。
でも、そういう「分人」的なものを、小説で描くというのは凄く難しいと思います。ある登場人物がいて、実はその人は裏では…、なんていう単純な話じゃないんです。二面性とかそういう分かりやすい話じゃないし、表が嘘で裏が本当というわけでもない。それは、嘘とかホントとか、あるいは自分の選択の話ではないんです。それはむしろ、『他者による選択』と言ってしまってもいいかもしれません。『その場でどんな自分が求められているのか』という『他者による選択』こそが、個人を複層的に分裂させていくのだろうと思います。
本書ではそういう、『他者の選択による分裂』というのが、恐ろしく深いレベルで描かれていきます。そしてそれは、まさに『就活』というものの本質にも近いものではないかと思います。面接で、その会社が求めているだろう自分を演じる。やったことがないからこんなことを言うのもアレだけど、でも就活にはそういう側面もあるだろうと思います。『就活』というものをメインの柱として描きながら、もちろんそれがすべての主軸であるのだけど、同時に、『他者の選択による分裂』という、今の若い世代が抱える息苦しさの本質的な部分を、その分裂を促進する役割を担っただろうツイッターのツイートを実に効果的に配することで見事に描き出している。そんな感じがしました。
今ちょうどその話だから、ちょっと脱線的に書くけど、ツイッターとかフェイスブックそのものへの価値観みたいなものもちょいちょい出てきて凄く面白い。

『なんでもないようなことを気軽に発信できるようになったからこそ、ほんとうにたいせつなことは、その中にどんどん埋もれて、隠れていく。』

『ツイッターもフェイスブックもメールも何も無ければ、隠されていたような気持ちはしなかったかもしれない。ただ話すタイミングが無かったんだ、と、思えたかもしれない。』

『だから、選ばれなかった言葉のほうがきっと、よっぽどその人のことを表してるんだと思う』

今の時代、ツイッターやフェイスブックをやっていることが、当たり前みたいな感じになりつつある。もちろんやっていない人もたくさんいるだろうし、そもそも日々ツイッターやらフェイスブックやらを見ていれば、やっている人の情報しか見えないわけだから不公平な判定かもしれないけど、でもそういう雰囲気はやっぱりあると思う。やっていることが当然、というよくわからない空気は、色んなものを覆い隠したり、逆に吐き出したりする。ツイッターやフェイスブックがなければ言わなかったこと、しなかったこと、出来なかったこと、そういうことがたくさんあって、色んな面で良いことや悪いことがある。ツイッターやフェイスブックをどんな風に使うか、ということによっても個々の個性を表現できてしまうような時代になってきていて、そういう『今感』みたいなものを、本当に朝井リョウは巧いこと捉えるようなぁ、という感じがしています。
なんか本書を読むと、ツイッターでなんか呟くことが怖くなるんだよなぁ(笑)。自分なりには少しずつではあるけど、周りからの評価なんか別に気にしないぜ!みたいな感じで生きていけるようにしてきたつもりなんだけど、まだまだ修行が足りないんだろうな(笑)
メインである就活の話をすると、本書は要するに、『就活という関門を前に、人はどんな価値観を持ち、どんな行動を取り、どう変化していくのか』という物語です。
就活から全力で逃げたせいで、結局その巨大な存在と向き合うことをしなかった僕には、『就活』というものと向き合うことでどんな価値観が生まれ、どんな行動を取り、どんな風に変化する可能性があったのか、よくわかりません。だから、分かったようなことは書けないんだけど、でも読んでいて、就活をやっていない僕にもグサグサと刺さる。

『就職活動において怖いのは、そこだと思う。確固たるものさしがない。ミスが見えないから、その理由がわからない。自分がいま、集団の中でどれくらいの位置にいるかがわからない。』

『なのに、就活がうまくいくと、まるでその人間まるごと超すげぇみたいに言われる。就活以外のことだって何でもこなせる、みたいにさ。』

『そういう姿勢で臨んで、面接もすらっと受かっちゃうんだもん。多分今までもそうやってきたんだろうし、これからもそうやってうまくやっていくんだろうね』

『どうして就職活動をしている人は何かに流されていると思うのだろう。みんな同じようなスーツを着るからだろうか。何万人という学生が集まる合同説明会の映像がニュース番組で流れるからだろうか。どうして、就職活動をしないと決めた自分だけが何かしらの決断を下した人間なのだと思えるのだろう。』

5人が、色んな壁にぶつかり、悩み、変質し、共感し、蔑み、そうやって削り取られたり補ったりしながら、必死になって前を見る。自分が向いている方向が前なのかどうかさえ不安に思いながら、それでもどうにか足を踏み出していく。そういう中で見えてくるもの、感じること、そういうものがあちこちで散りばめられていく。
就活をやっていない僕でも刺さった言葉が、これだ。

『十点でも二十点でもいいから、自分の中から出しなよ。自分の中から出さないと、点数さえつかないんだから』

たぶん昔の僕は、自分が得意だった勉強以外のステージで、何らかの点数がつくのが怖かったんだと思う。テストで悪い点数をとったことがほとんどない僕は、だからテスト以外の場面でも、悪い点数なんて取りたくなかったんだと思う。悪い点数を取るぐらいなら、そんなものからは逃げちゃえと思っていたんだろうと思う。そうやって自分を守ってたんだろうなぁ。
今だって、そういう自分は全然変わらないけど、でも昔ほどじゃないような気がする。たぶん今なら、悪い点数でも取りにいけるかもしれない。いや、どうかな。絶対の自信はないから、わからないけど。でも、昔よりは、『悪い点数』っていう基準は、確実に緩くなってるんじゃないかな。
後半になればなるほど、言葉がむき出しになっていく。それまで誰にも見せていなかった『自分』がひょっこり現れ、そんな風だとは想像もしていなかった『他者』がズバーンと登場する。
本書が恐ろしいのは、誰に共感していても斬られる、ということだ。誰の発言に、あーそうそう!って思ってたとしても、後々その言葉は誰かによって斬られる。色んな刀があちこちで振り回されていて、どこにいても安全じゃない。
そういう、「言葉の戦国時代」みたいな状況の中で、スーッと僕の心に届いたのが、この言葉。

『それ以外に、私に残された道なんてないからだよ』

結局、覚悟を決めた人間は強いんだよな。結局未だに覚悟を決めないまま、ダラダラフラフラ適当に生きている人間には、こういう言葉はグサグサ刺さりますです、ホント。
就活という、僕自身に馴染みのない舞台の物語で、そういう意味で僕からはちょっと遠く、他の朝井リョウ作品と比べるとどうしても他の作品の方が好きだなぁって思っちゃうけど、就活を経験したことがある人には、僕以上に色んな言葉がグサグサ刺さることでしょう。『他者の選択による分裂』という現代人の有り様を、ツイッターのツイートを絶妙に配することで描き出す手腕も見事だと思いました。是非読んでみてください。

朝井リョウ「何者」


屍者の帝国(伊藤計劃×円城塔)

内容に入ろうと思います。
舞台は、19世紀末。ヴィクター・フランケンシュタインが世界で始めてクリーチャを創造してから約100年。
現在、その技術は全世界的に拡散している。既に、死者にある操作を施すことで、生者に近い形で機能させることが出来るようになっている。しかしそれは、蘇りというわけではない。死者は、生きていた頃の記憶を伴って屍者となるわけではない。
そんな屍者は既に、単なる労働力としてや軍事用として、幅広く活用されている。既に、屍者の存在なくして、日常が回っていかないほどに、当たり前の存在として受け入れられるようになってしまった。
英国諜報員であるジョン・ワトソンは、元々はロンドン大学の医学部に籍をおく優秀な学生であったが、とあるきっかけからリクルートされ、卒業を待たずして、軍医としてボンベイに渡り、英露間の紛争の最前線であるアフガニスタンに渡ることになる。
全世界的に広まった『屍者』という存在。しかしワトソンは、様々な地を見、様々な人に話を聞く中で、『屍者』という存在の深い真相にたどり着くことになるが…。
というような話です。
やはり僕には、伊藤計劃の物語はハードルが高すぎるな、という感じがします。「虐殺器官」も「ハーモニー」も読みましたけど、本書も含めて、どれも僕には理解の届かない物語だなぁ、というのが強い印象です。
先に別のことを書きましょう。
僕は、この感想の中では本書を、『伊藤計劃の物語』として扱います。
とわざわざ書く必要があるのは、本書が非常に珍しい生い立ちを持つ物語だからです。
円城塔が芥川賞を受賞した際に非常に話題になったので知っている人も多いでしょうが、本書は、構想を続けていたものの、執筆に入る前に死を迎えてしまった伊藤計劃の遺志を継いで、円城塔が完成させた物語です。僕が知りうる断片的な情報をいくつか組み合わせて、本書の成立過程をざっと書くと、伊藤計劃の入院中から新作の構想をよく聞かされていた円城塔が、プロローグだけを書いて亡くなってしまった伊藤計劃の構想を引き継ぎ、自分なりのアイデアも加えつつ作品として完成させた、という形です。
だから、本文の9割以上は、円城塔の手になるものです。
ですが、表記が色々面倒になるので、基本的にこの感想の中で僕は本書を、『伊藤計劃の作品』として扱うことにします。
伊藤計劃の作品は、読むと、凄い作品だなと思います。世界観が重厚だし、僕はたぶんほとんど拾えていないだろうけど小道具的な装飾も山ほどあるだろうし、何より、人間という存在の深遠さみたいなものに辿り着こうとしているかのような思索や思想なんかが凄まじいような感じはします。
でも、どうしても僕には、その世界観に入り込むことが出来ないでいるのですよね。伊藤計劃の作品は、僕のいるところからすると凄く高いところにあって、僕はどうしてもそこまで登り切れない。凄く難しいな、という感じがしてしまいます。
そもそも僕が、SF的な設定の物語が不得意だということもあります。SF的な作品で好きな作品もあるんですけど、基本的にはどうしても、SFっぽいものは僕には合わないものが多いです。基本的に、小説を読んでいて頭の中に映像が浮かぶことがないんで、そういう想像力が元々乏しいというのも、原因の一つなんだろうなぁという感じがします。
物語の中盤ぐらいまでは、とりあえず『どんなことが起こっているのか』という部分は追えたと思うんだけど、終盤になると、もう文章を読んでいても、『どんなことが起こっているのか』さえ頭に入ってこないような感じになってしまうのですよね。伊藤計劃の作品はいつも、読み通すのが凄く大変です。
なんというかだから、伊藤計劃の作品を「面白い」と思える人が、凄く羨ましいんですよね。僕もそういう人間になりたいです。
しかし、円城塔は凄いなと思います。本書を読んでいて、『伊藤計劃の作品から感じるもの』みたいなものの印象が凄く近くて、よくもまあこんな無茶苦茶なことをやり通したものだなという感じがします。伊藤計劃と円城塔は、デビューの年も同じなら、デビューの経緯も似通っていて、しかも初期の頃は広く括ればどちらも『SF』というジャンルの作品を書いていたこともあって、ライバルというか、良き同志というか、そういう収まりの良い二人という印象は確かにありました。しかし、そうだとしても、どちらも物凄く評価されてる作家であるし、書き継ぐという決断は非常に勇気がいっただろうし、それをやり通したことは本当に素晴らしいなという感じがします。二人共、やっぱすげぇ作家だなぁ。
どうしても僕には、伊藤計劃の作品は読みこなせなくて残念なのですけど、やっぱり伊藤計劃は物凄く評価が高いし、その遺志を受け継いで本書を完成させた円城塔も凄すぎます。僕みたいに、伊藤計劃の世界観はどうも読めないんだよなぁ、という人もいるでしょうから、まずは文庫化されている伊藤計劃の作品を読んでみてもらって、それが凄かったら本書も読んでみる、という感じがいいのかもしれません。

伊藤計劃×円城塔「屍者の帝国」


コロンブスそっくりそのまま航海記(ロバート・F・マークス)

内容に入ろうと思います。
本書は、『世紀のアホども』による、超絶的な爆笑冒険記です。
この冒険の要約は、まさに本書のタイトルがその役割を担っています。
ロバート・F・マークスは現在、アメリカでのスキューバダイビングの先駆者として、また水没船などの引き揚げの実績などで知られるアメリカ人である。彼は若い頃から数々の冒険に繰り出し、著作は60冊を超えるという。
本書は、そんな彼が航海士として参加した、破天荒・はちゃめちゃな冒険記です。
元々彼は若い頃から、沈没船に多大なる興味を抱いており、そのためにとんでもない量の資料と格闘することも厭わなかった。彼は、スペインのガレオン船について、信頼出来る調査が行われていないことを知り、じゃあ自分でやるかってなもんで、索引も整理されていない魔窟のようなスペインの図書館に通いつめては、当時の資料を漁りまくっていた。
そんなある日彼は、ふとこんなことを思ったのだった。

『新大陸貿易を統率する官僚向けに記された公的な記録文書の多くには欠けているものがひとつあった。人間的要素だ。つまり、当時そうした貿易船に乗って航海するのはいったいどんな感じだったのだろう?どんな恐怖やストレスにさいなまれたのだろう?dのようにして食料を維持したのだろう?ワインは?いかにして暴風雨を乗り切ったのだろう?モーターもなしで凪ぎのときは?わたしにはわかる。毎回どの後悔も冒険だったのだ。人が死に、たえず祈りを捧げていたのだ。<新世界>に魅了されながらも、多くの果敢な男たちが当時のそうした船で航海することを拒んだ。』

さて、ここからさらに、彼の思考はこんな風に飛躍する。

『これらの問い―心理学者なら人間的要素と称するだろう―に対する答えの探求が、ある考えを導いた。いっそのことスペイン式ガレオン船の正確な複製を作って、それで大西洋を横断してみたら?』

アホである。この時点でこの著者は頭がおかしいとしていいようがない。
しかし、頭がおかしい人間は、やはり世界中にはいるものである。
著者がそのプロジェクトに邁進し始めた頃、一人の見知らぬ男から彼の元に電話が来た。
「(コロンブスが乗った)ニーニャ号の完璧な復元船を作っている最中で、その船でアメリカへ航海したいと思っている」
その男の名は、カルロス・エターヨ。最終的に、ニーニャⅡ世号の船長になるスペイン人である。
カルロスの親友の一人に、コロンブスの直系の子孫がいた。ある時、その子孫を直系の子孫とし、コロンブスの乗った船を復元した船で西インド連邦へ航海する計画が立ち上がり、カルロスに船作りが任されることになった。しかし、送られてくるはずの資金が送られてこず、結局プロジェクトは頓挫した。
しかし、既にカルロスはそのプロジェクトに取り憑かれており、自力でそのプロジェクトを継続する決意を固めた。
カルロスが著者の動向を知ったのは、そんな状況の中でのことだったのだ。
二人は、「コロンブスがアメリカへたどり着いたのとまったく同じ状況を再現し、航海をしよう」という認識を一致させ、膨大な準備に取り掛かった。「まったく同じ状況」というのは、船や航路や日数だけを指すのではない。食料や服装や装備など、ありとあらゆるものに及ぶのだ。つまり、正確な海図も、救命胴衣も、通信設備さえ持たないまま、ということだ。
アホである。
しかし、そんなアホみたいな計画に、著者とカルロスを含め、最終的に9名の命知らずの乗り手が集まった。
ほとんどが、船上で役に立つ知識・経験を持たない、ずぶの素人ばかりである。
素人といえば、カルロスにしたところで、船作りのプロというわけではない。あらゆる資料を当たり、当時のデータを出来るだけ収集したが、しかし船大工が造るわけではないのだ。
実際、試運転で、ニーニャⅡ世号は無様な醜態をさらすことになる。その頃には既に彼らの計画は、各地で大いに話題になっていたのだ。そもそも、帆を操って船を操縦する航行術を、誰一人知らないままだったのだ!
そんな頭のおかしな9名が、「コロンブスと同じ航海をする」という目標だけを胸に、「コロンブスが決してしなかっただろう様々な後悔に見舞われることになる」恐ろしい冒険に乗り出すことになり…。
というような話です。
いやはや!これはメチャクチャ面白い作品でした。高野秀行の冒険&作品に非常に近いものを感じます。無鉄砲で頭がおかしくて、しかも状況さえも彼らのアホさを煽る味方をするという、まさに奇跡のような冒険だ。
とにかく凄いのは、これほどまでい無茶苦茶な冒険であるにも関わらず、死者が一人も出なかったということだ。これははっきり言って、信じられない偉業である。彼らは、何度も、もう何度も何度も死にそうな目に遭う。そのどの状況であっても、死人が出てもおかしくないような、そういう修羅場を彼らは何度もくぐり抜けてきた。しかし、どんな奇跡が起きたのか、結局彼らは命を落とすことはなかった。それは、まず何よりも凄いことだなと思います。いや、ホントに。
しかし、表紙の感じなんかからすると、真っ当な冒険記に見えます。勇ましく海を割り、勇気と共に困難を乗り越えた屈強な男たちの不屈の物語であるような感じがします。
しかし、実際は全然そんなことはありません。彼らは、ほとんど操縦する術を持たないまま、全行程のおよそ70%ぐらいは『漂流していた』と表現していいでしょう。なんせ、彼らが乗った船の恐ろしさと言ったら、とんでもないのだ。作中で、ニーニャⅡ世号を、こんな風に表現する場面がある。

『あれは…あれは…筏だ!』

この一言で、どんな船なのか、なんとなくイメージしていたものが打ち壊されたことでしょう。そう、彼らが乗っていたのは、とてもまともな『船』と呼べるものではありませんでした。ニーニャⅡ世の唯一素晴らしい点は、どんな嵐にあっても沈没しない、というその一点なのだけど、それ以外のありとあらゆる点については、『船』と呼ぶのがおこがましいほどのレベルでしかありませんでした。日本人であれば、試運転をした時点で、これは止めよう、と判断するでしょう。そもそも、風が吹いても真っ直ぐ走らせることが困難な船でどうしろというのでしょう。
こんな記述もあります。

『確実なことがひとつある。大西洋で強風に遭遇すると、温かい食事をとてるのはまれになるということだ。凪ぎ状態なら、満足のいく食事にありつけるが、どこにも進めない。そして風に吹かれれば、食事は酷いものになるが、速く前進できる。いずれかひとつだ。それが小型帆船での暮らしである』

これはどういうことかというと、ニーニャⅡ世号はあまりにも揺れるので、風が強くなって勢い良く前進すると、船上で火を使うことができなくなるのだ。船は15世紀当時の材料だけで使われている(つまりほぼ木材)なので、火がつけば終わりである。
また彼らは、海図や当時の最新の航行機器などを搭載しなかったので、常に自分たちがどこにいるのか把握出来ていなかった。把握できていると思っていても、そのほとんどが間違っていた。つまり、彼らの旅のほとんどは『漂流』だったということである。
もっとアホらしいことがある。水である。
船旅に水は欠かせないだろう。しかも、何十日も航海することがあらかじめ想定されているのだ。
しかし彼らは、ほとんど真っ当な真水を搭載しないまま、何度も(彼らは、コロンブスが辿った経路をそのまま真似ているので、コロンブスが立ち寄った港で水や食料などをその度に補給している)出港する羽目になる。
最初の出港の際、彼らは学んだのだ。ワイン樽として使われていた樽に真水を入れると、すぐに腐る、と。
それなのに彼らは結局、出港の度に、同じようにして水を調達してしまうのだ。アホとしかいいようがない。
著者も、航海日記の中で、ちゃんとこんな風に書いている。

『自分はどうしてこんな狂ったことに首をつっこんでいるんだろう?思うに、アホだからだ。コロンブスの航海をまねるのはいい。だが、少なくとも、水と食料の量もそっくりそのまま模倣すべきだったのだ』

当たり前の話である。それを、船上で思いついたところで、後の祭りである。
船員たちも、なんというか凄まじい。船乗りだった人間はほとんどいないし、船乗りだと主張していた人間も実際はほとんど陸にいた。怠け者ばかりで、しかも諍いが耐えない。水や食料がなくなり続けて、緊急的に配給制が施行されても、誰も一向に従おうとしない。釣った貴重な獲物を、アホみたいな判断により海中に没してしまうことも何度もあった。
しかし、一番厄介なのは、スペイン人のプライドだろう。よくわからないが、とにかくスペイン人というのはプライドの高い人種であるようで、「どう考えても成功の見込みのない旅路」であることがわかっていても、「引き返す」という選択は彼らのプライドが許さないようなのである。
9人には、チームワークもなければ、命令系統もなし、的確な判断力のある人間も、生存のための特殊な能力を持つ人間も、とにかく何かの役に立つ人間はほとんどいなかったといっていいだろう。勤勉さだけが取り柄です、という乗組員が数名いたお陰で、最終的にどうにかなったようなものである。本当に、彼らの旅路は奇跡的だと思う。
彼らがどんな奇妙な冒険をしたのか、それは是非読んで爆笑して欲しいと思います。本当に、あらゆる点でアホすぎるし、彼らが死者を一人も出さなかったのは単なる奇跡でしかありません。ありとあらゆる修羅場が彼らを襲います。そしてその度に、彼らは奇跡的にそれを乗り越えることになります。神様がほんのちょっと気まぐれを起こしていたら、彼らは生きて航海を終えることが出来なかったでしょう。それほどの冒険譚であるのに、本書は爆笑の連続です。それは、彼らが陥る修羅場のほとんどが、結局彼らのアホさ加減が原因だからです。高野秀行の著作を読んでいるような脱力感や爆笑を得られるのではないかと思います。大きな違いは、スペイン人の陽気さでしょうか。なんというか、彼らの底なしの楽天っぷりが、本書の面白さに拍車を掛けているのは間違いないでしょう。本当に面白いノンフィクションを読みました。是非読んでみてください。

ロバート・F・マークス「コロンブスそっくりそのまま航海記」


芸人交換日記 イエローハーツの物語(鈴木おさむ)

内容に入ろうと思います。
本書は、放送作家の鈴木おさむが、ある売れないコンビ芸人を主人公にして書いた小説です。
本書は、交換日記という形で進んでいきます。
結成から11年目。もうすでにM-1の出場資格を失ってしまったイエローハーツの甲本と田中。二人は、弱小も弱小の事務所に所属し、パチンコ屋での営業や、AV女優とのイベントなどでどうにか芸人としての活動を続けている。甲本は、夜はキャバ嬢をやっている彼女に食わせてもらっており、田中の方はTSUTAYAでアルバイトしている。
交換日記は、ある日突然甲本が提案し、田中が渋々と言った感じで書くようになった。
前の家を家賃の滞納で追い出され、彼女の家に転がり込んだ甲本は、期せずして田中の家の近くに住むことになった。そこで、もう11年も売れていないイエローハーツをどうにかしようと甲本は考え、面と向かっては言い難いことを交換日記の形で言い合おうじゃないか、と考えたのだった。田中は当初徹底して拒否したのだけど、甲本の無理矢理な行動力に押される形で、どうにか交換日記を始めることになったのだ。
そこから、コンビとしてのお互いの在り方にダメ出しをしたり、もっとイエローハーツをよくするためにどうしたらいいかという話を交換日記上でやっていく。そして彼らは、最後の目標を見出す。「笑軍天下一決定戦」というコンテストに出場を決意するのだ。それは、噂では、かつてイエローハーツと同じ事務所に所属し、今はBBというコンビを組んで活躍している、ちょっと人気が出始めているかつての後輩も出るらしく…。
というような話です。
本書は僕にとって、「思ったより良かった」と「それなりだったな」という評価が入り混じる感じです。という話をしましょう。
本書が出た時、僕は、まあよくあるタレント本(まあ著者はタレントっていう感じじゃないかもだけど)かなと思ってスルーしてたんです。その時の期待値をAとしましょう。けどその後、とある理由があって、僕の中で若干期待値が上がる出来事がありました。その時の期待値をBとしましょう。
Aと比較すると、本書は「思ったより良かった」になります。でも、Bと比較すると、「それなりだったな」という感じになります。
日記形式で読ませる、という点はなかなか巧いと思います。お笑い的にどうなのかというようなことは僕には分からないけど、文章だけのやりとりなのにそれぞれのキャラがちゃんと出ているし、彼らのやりとりそのものが漫才みたいな感じがあって、それなりに楽しめました。
ラストに近づけば近づくほど、なかなかいい話になっていきます。ベタといえばベタなんだろうけど、まあそういうのもアリな感じの作品かなという感じです。
まあでもやっぱり、サラッとし過ぎている感はあって、凄く悪いわけでもないけど、凄く良くもない、という感じの作品だなと思いました。
サラッと読むにはなかなか面白く読めるかもしれません。

鈴木おさむ「芸人交換日記 イエローハーツの物語」


海を見に行こう(飛鳥井千砂)

内容に入ろうと思います。
本書は、『海』を背景の一つに据えたとある町を舞台にした、6編の短編が収録された連作短編集です。

「海風」
茜は、訳あって、久しぶりに叔父さんたちが経営している民宿に足を運んでみた。なんか、しばらく泊めてもらえたりするかな、なんて甘い考えで。
3年前に駆け落ちみたいな感じで家出をして、勇一と一緒に暮らし始めた。でも、我慢出来ないことがあって、ちょっと懲らしめるつもりで、こうやって飛び出してきたのだ。
勇一からの連絡は、まだ来ない。
そして、民宿は、ラブホテルに変わっていた。

「キラキラ」
麻衣は、隣の席の小橋君のちょっと変わったクセが気になる。登校日に部活の練習がなくなってしまったことが残念。毎年行っていた花火大会に、今年はどうも友達と一緒には行けなそう。
麻衣は考える。私が好きなものって、なんだろう。嫌いなものってなんだろう。なんだか自分には、そういうはっきりしたものが、何もないような気がする。

「笑う光」
古賀は、配送ドライバーとして配置換えがあり、海の見えるこの町にやってきた。未だに習慣のようにして、「河合」と書かれた荷物を見るとちょっと反応してしまう。7年前付き合っていた彼女と、同じ名前だ。
まさか。
こんな形で再開するなんて。

「海のせい」
怜子は車に乗っていて、運転しているのは尚人。怜子は、どんな風に話を進めたらいいか考えているのに、尚人は呑気そうに会話を続けようとしている。
ドライブに誘ったのって、ちゃんと話をするためじゃなかったの?
家を飛び出さないと収集がつかない喧嘩が、月に一度では収まらなくなってきてしまっている。
ねぇ、もう、ダメじゃない?私達。

「小さな生き物」
亜美は里子と一緒に、幼馴染だった智恵の出産祝いで家を訪ねる予定を立てた。三人とも、子供の頃からの腐れ縁。三人とも、もう住んでいるところはバラバラだけど、一度地元を出た智恵は、出産を気に生まれ育った町に引っ越したらしい。
人生で初めて生理が遅れている亜美は、まだ結婚していない里子と共に、自分たちにはまだわからない世界についての不安や期待を電車の中で話す。「ちゃんとする」って、わたしたちに出来るのかな?

「海を見に行こう」
コウは、フラッと実家に戻ってみた。綾と結婚して、バタバタと色々あって、3年前に父親が脳梗塞で倒れた時も、あまり寄れずにいた。綾も今、実家に身を寄せている。なんとなく、なんとなく、海のあるこの町にやってきてしまった。
杖をつきながらゆっくりと歩く父親。配達に回る先で住人の長話につかまる母親。ここにきて、何を見つけたいと思っていたのか。
最近よく夢に出てくる『魔女』のことを思い出した。子供の頃、海に掛かる桟橋で見かけた、あの『魔女』のことを。

というような話です。
飛鳥井さんの作品は、好きで結構読んでいるんだけど、今回はちょっと僕的には弱かったかなぁ、という感じがします。僕が飛鳥井作品に期待しているものとはちょっと違ったかなぁ、という感じでした。
僕は飛鳥井作品の、ふんわりしているように見せかけておいて実は鋭いし、ちょっと歪んでいる、というようなところが結構好きだったりするのですよね。飛鳥井さんが描く、普通に馴染めない人、どうしても世間からはみ出してしまう人、そういう人達への眼差しとか手の差し伸べ方とか、そういうのが凄くいいなぁと思っているんだろうなと思います。
ただ本作の場合、あまりそういう感じの人物は出てこない気がします。どちらかというと、真っ当に生きている人達のその真っ当さが描かれている、というような印象の方が強かったです。本書が初めて読んだ飛鳥井作品であればまた違った風に読んだかもしれないけど、飛鳥井作品の鋭さや歪みみたいなものに惹かれている僕としては、本書はちょっと弱かったかなぁ、という感じがしました。
本当は、真っ当な人間の真っ当さに惹かれる人間でいられたらよかったんだけど、どうもねぇ、そういう風には生きられなかったですねぇ(笑)
あと、もう一つ思ったことは、本書が『短編』だということ。
飛鳥井作品を結構読んでいるけど、大別して長編か連作短編だと思う。本書は確かに連作短編ではあるんだけど、舞台に統一感があるというのが主で、作品同士の個別の繋がりというのはそこまで強くはない。そういう意味で、僕が初めて読んだ「飛鳥井千砂の連作ではない短編」といえるかもしれません。
時々ですけど、長編は凄く好きなんだけど短編はどうしてかあまり好きになれないんだよなぁ、という作家がいます。
僕の中でその二大巨頭は、村上春樹と江國香織です。この二人の作品は、長編はかなり好きなのに、短編になると途端に好きじゃなくなってしまう、という傾向があります。
僕が自分で考えた理屈は、村上春樹にしても江國香織にしても、描き出す世界観が深く広いために、短編という枠の中だと窮屈なのではないか、ということでした。村上春樹や江國香織の短編を読んでいつも思うのは、これからもっと深く深く突き進んでいくんだよね!というタイミングで物語が終わっちゃうんだよなぁ、ということです。
飛鳥井さんの場合も同じ理屈でそうなるのかどうかはまだよくわからないのだけど、なんとなく、『世界観』という名前の霧が広がり切る前に物語が閉じちゃうような印象は若干ある気がします。ストーリーそのものよりも、全体の雰囲気なんかで物語を読ませる作家さんであればあるほど、短編という枠は制約がキツくなるような印象があります。
僕が一番好きな話は、「笑う光」です。これは、凄く良かった。本作の中でずば抜けて好きなんだよなぁ。
とにかく、主人公の古賀がイタい。そんで、そのイタさが自分とも重なるからうぅってなるんだよなぁ。そう、この古賀の感じは凄い分かるし、でもわかっててもやっちゃうし、自分でもアホだなぁって思う。そんで、有希の方の感じもすげぇわかるっていうか、いやそうだよなぁって感じで、二人のその差が、ホント痛々しくて素晴らしい。関係も、交わす言葉も、何もかもがハッキリとさせられない状況の中で、お互いの求めるものがすれ違うという、なんというかとても滑稽だし悲劇でもあるかなぁ、という感じの作品です。
「海のせい」も結構好きだったりします。これも、尚人がダメすぎて、そのダメさ加減がいい具合なんだよなぁ。こういうズルい男って、ひでぇなぁと思うけど、でも僕の場合、そういう部分を抑えているだけで、抑えていなければこういう感じがズルッと出ちゃうのがわかってるから、だから人のことはあまり言えないよなぁ、なんて。
全体的にはあまり好みの作品ではなかったですけど、真っ当な人の真っ当さにあまり関心が持てないというダメ人間の意見なんで、あまり気にしないでください。

飛鳥井千砂「海を見に行こう」


芙蓉千里(須賀しのぶ)

内容に入ろうと思います。
舞台は、1910年頃の、中国北東部の街・哈爾濱(ハルビン)。松花江(スンガリー)という大河と東清鉄道の交点に当たる哈爾濱は、支那人街や日本人街などを擁する大都市であり、そこに妓楼「酔芙蓉」はあった。基本的に支那人たちの街である傳家甸(フージャデン)に、日本人の女郎を抱えた妓楼を構えている店は特異で、女傑と呼ばれた女将が、どんな時勢であっても負けずに踏ん張り続けてきた、妓楼の有名店である。
そんな「酔芙蓉」に日本から売られてきたのが、フミとタエだ。
一つ年上のタエは、船旅の道中ずっとフミのことを支え続けていたが、しかしタエは自分が女郎になる運命だということを受け止めることが出来ずに深い絶望の淵に立たされたような日々を送ることになる。初めは赤前垂れで、店の雑用をやらされるだけだが、月のものが来るようになればタエは女郎として店に出される。そんな運命をどうすることもできず、ただ受け入れるしかない現実に、タエは打ちのめされている。
しかし、フミはまったく違う少女だった。
フミは、辻芸人に拾われ、角兵衛獅子を仕込まれた。全国を回る中で、「父」とのコンビで躍動感溢れる角兵衛獅子を披露し生計を立てていたフミだったが、ある時「父」が元芸妓と恋仲になり、ついには捨てられた。その芸妓に、若干舞を教わったフミだったが、しかしフミは、自らの角兵衛獅子がニセモノなら、芸妓に罵倒された舞もニセモノだと思い込んでいる。
そんなフミの拠り所は、自らの「母」についての知識だ。フミの母親は、吉原の大店でお職(その店で一番の女郎)だった、とフミは信じており、痩せっぽっちで可愛げもない自分だけど、年を取ればいずれ「母」みたいに美しくなると信じていた。
フミは、「酔芙蓉」に売られてきたわけではなかった。フミは、大陸に渡る人買いを見つけて、どうしても連れて行ってくれと頼み込んでここまでやってきたのだった。
大陸一の女郎になる。
その決意を胸に、日本を飛び出してきたフミ。どうせ、捨てるものなど、失うものなど何一つない。フミは、女郎という仕事がどんなものなのか、はっきりと全部わかった上でここまでやってきているのだ。
しかし、現実は厳しい。「酔芙蓉」の女将は、お前は一生赤前垂れだろうね、と宣告する。それでも夢を諦めることのないフミは、その一方で、女郎になりたくないと絶望するタエをその苦境から救うための一発逆転の策を練って実行に移すのだが…。
というような話です。
スケールの大きな話でした。そして、読み始めはさほど惹きこまれなかったんですけど、読んでいく内にどんどんのめり込んでいって、いつしかフミとタエから目が離せなくなってしまう。そんな小説だと思いました。
本書は主に、フミの成長が描かれていく作品です。フミがどんな風に成長していくのかという点を書くわけにはさすがにいかないと思うからなかなかもどかしいけど、フミの成長には驚かされます。
物語の冒頭では、フミは「女の子」でした。確かに、人一倍度胸は座っているし、頭もいい。生きていくために、必要なことは何でもしなくちゃいけない、という覚悟の座っている、「女の子」らしくない「女の子」だと言っていいでしょう。その辺りの対比は、運命に翻弄され、自らの人生を受け入れることが出来ないでいるタエの存在と比較して、のびのびと描かれていきます。
けれど、それでもやっぱりフミは「女の子」でした。人生経験もなければ、自ら掴みとった知識もない。人から見聞きした情報と、その年頃ではありえないほどの度胸だけを頼りに、駆け抜けている元気な「女の子」。そういう印象です。
個人的には、この「女の子」である時期の物語は、そこまで響かないかなという感じがします。でも、この時期の描写はやはり必要です。これからフミが、どのようにして「オンナ」になっていくのか。その落差を描き出すために、やはりフミの「女の子」時代の物語は欠かせません。
「女の子」でしかなかったフミが、一瞬だけ「オンナ」になった瞬間がありました。それが、得体の知れない日本人・山村との出会いです。
喧嘩の仲裁をしてくれたことがきっかけで出会った山村に、フミは一目惚れしてしまいます。一目惚れと言ったって、その時まだフミは12歳ぐらい。山村は大の大人だ。確かに、山村はフミを子供扱いしなかった。一人の人間として接してくれたし、フミにとってはそれは何よりも嬉しいことだった。しかしそれでも、結局は子供の恋心である。
…のはずなんだけど、この山村のことを、フミはずっと忘れることがない。この山村が、物語において非常に重要な軸となっていく辺り、フミの執念深さが伝わろうというものだ。12歳だったフミは、基本的にはまだまだ「女の子」だった。でも、そんなフミを瞬間的に「オンナ」に変えたのが山村だったのだ。
さて、タエとフミの物語は非常に面白くなっていく。フミは、歌の巧いタエが芸妓として生きていけるように策を練る。自分の得意な角兵衛獅子と合わせて披露し、様々な機会を捉えてはタエを芸妓にするためにあれこれと行動する。タエとフミはお互いを支えあってこれまでやってきて、その中でも、女郎になりたくないと絶望していたタエが、それでもとにかく日々生きてこれたのは、フミの励ましがあったが故だ。
そんな二人にとって最初の、そして恐らくは人生最大の瞬間が訪れる。
この場面、どんなシーンなのかここでは書かないけど、本当に素晴らしい。タエが人生最大の覚悟を決めた瞬間であるし、タエが人生で初めて女将に意見した瞬間でもある。ここで、タエとフミは誓い合う。共に、自分が目指した道を絶たれながら、それでも前進するために決断した誓い。お互いのその誓いを胸に刻み、新たな気持ちで未来を見据えるそのシーンを読んで、僕は少し泣いた。月並みな感想だけど、人は、誰かのためにならこれほどまでに強くなれるのだな、と感じました。
それからも、二人の人生は展開していく。やはり、主にフミの物語になるのだけど、フミは自ら望んだわけではないその道を、しかしこれ以上ないというくらい全力で走り抜け、並ぶもののない存在になっていく。黒谷という特異な後ろ盾も得て、益々フミは舞い続けることになる。
が、やはり運命は悪戯をするのだ。やがて迎える決断の時。フミにとってその決断は、自分の身を切り裂くような経験だった。人生のすべての目的、すべての意味、すべての経験がこの瞬間の決断のためだったかのような、それほどまでに大きな大きな決断を迫られることになる。元々カッコ良かったフミの生き様は、ここでさらに一段飛躍する。「オンナ」になればなるほどその強さと美しさを増すフミが選びとる未来。その決断に、なんだか拍手を送りたくなる。
できるだけ内容に触れないようにするために、凄くぼんやりとした感じの文章になってしまっているけど、本当に、年齢を重ねれば重ねるほど輝きを、そして凄みを増してくるフミという存在を鮮やかに描ききる手腕は見事だなという感じがしました。
そしてもう一つ。フミと同列で語ってもよいだろう本書のもう一つの主役は、やはり舞台となる「酔芙蓉」でしょう。
この場の引力の強さ、そこで生きる人間の醜い美しさと言ったら!
フミ(とタエ)の新たな人生は「酔芙蓉」から始まり、そしてそのすべてが「酔芙蓉」で終わると言ってもいいだろう。フミもタエも、「酔芙蓉」を「故郷」と呼ぶ。リセットされた人生のスタート地点であり、「女の子」から「オンナ」へと変貌していく過程のすべてを過ごしたその場所は、彼女たちにとって強い意味を持つ場になる。
「酔芙蓉」には、様々な女郎がいて、そして彼女たち一人ひとりが、何らかの形でフミとタエの人生に関わっていく。
やはり印象に強く残っているのは「お蘭」だろうか。「酔芙蓉」のお職の座を何年も続けているお蘭は、日本人街の妓楼にだって負けないほどの美貌・たおやかさ・細やかさを持つと知れた有名な女郎だった。フミも、お蘭の姿に憧れて、益々女郎の道へ進もうと決意するほどだ。
お蘭は、勝気でもなければ下品でもなく、常にたおやかに、穏やかな雰囲気を崩さない、女郎としては珍しいタイプだ。そんなお蘭との別れは、強く印象に残った。あらゆるものが嘘か幻想で出来ている「酔芙蓉」という空間において、その世界を生み出し続けている女郎という存在には、どんなことだって起こりうる。底辺の底辺の環境の中で、外界にも出られず、身体を酷使しながら日々を送っている女郎という人生の悲哀を、お蘭という存在は強く見せつけてくれた思いでした。
対照的なのが千代。千代も「酔芙蓉」の看板で、お蘭に次ぐ二番手として、その美貌がことに知られる存在だった。
この千代との別れも、また印象的である。「酔芙蓉」の女郎はすべて花の名を持つが、千代はお蘭とはまた違った形でその花を散らした。潔いのか未練がましいのか、どっちともつかない別れではあったのだけど、しかしフミはそんな千代のことを、「私が知っている中で、一番格好いい女郎だったよ」と評価する。確かに、フミの生一本生き様と、それは近いものがあったかもしれない。千代もまた、「酔芙蓉」という魔窟に取り込まれながら、最後まで矜持を捨てずに走り続けた女だった。
他にも、「酔芙蓉」では様々なことが起こり、女だらけのその空間の中で、様々な反応を生み出すことになる。女同士の、応援したいけど憎い、むかつくんだけど尊敬もしている、好きなんだけど貶す。そういう相矛盾した有り様が、常に絶望と隣合わせの環境の中で、必死にならなければ生きていくことなど到底できない壮絶な生き様の化学反応の結果だと感じられるし、どんな事情や個性であれ、どんな状況でも自らの信じるところで全力を出すその生き様は、美しささえ感じさせるなという感じがしました。
本書は、初めは戸惑うばかりでありながら、やがて大化けするタエの物語であり、個性的な女郎を幾人も抱え、時代の激流と共に奮闘し続けた「酔芙蓉」の物語であり、そして、大陸一の女郎を目指して日本を飛び出し、壮絶な努力の末に地位と評価を確立することになるフミの物語だ。どの物語も、読み応えがある。女の強さを改めて実感させられるし、全身全霊の覚悟や、絶望的なまでの努力が生み出す美しさみたいなものを実感させてくれる作品でもあると思います。エンジンが掛かるのはちょっと遅いかもしれないけど、タエとフミに必ずや惹きこまれるだろうと思います。是非読んでみてください。

須賀しのぶ「芙蓉千里」


スキエンティア(戸田誠二)

内容に入ろうと思います。
本書は、禁断の科学(オーバーテクノロジーというか、現実には実現不可能な科学技術)をモチーフにした7つの短編が収録された作品です。作品同士に繋がりはありませんが、一応、「スキエンティアタワー」と呼ばれる超高層ビルが見える街、という共通の設定があります。

「ボディレンタル」
引退した大企業の創業者。下半身不随になったその女性は、自殺志願者を募集していた。電波で身体を操る手術を施し、下半身不随の女性が自殺志願者の身体を自在に操る、そういう被験者を募集しているのだという。

「媚薬」
飲めば、その時一緒にいる人のことが絶大に好きになる惚れ薬。医者から、あなたは珍しいですね、と言われる。普通は、好きになってもらいたい相手に飲ませるのに、あなたは自分で飲むんですね、と。

「クローン」
事故で家族を失った女性。医師から、今ならクローンとして、亡くなったお子さんの遺伝子を残すことが出来ます、といわれ…

「抗鬱機」
鬱を機械で抑えこんで、どうにか人並みの生活を維持している男。寿命が短くなる、と言われたが、それを承知で受ける。今のままいたって、どうせ死んでるみたいなものだ。

「ドラッグ」
ちょっと前までは合法だったというドラッグ。その噂を友達から聞いた。死人も出ているらしいけど、でも、このクソみたいな日常を変えられるなら、それでもいい。

「ロボット」
アンドロイドが普及し始めた。介護用ロボットの「ナオ」もそうだ。寄り添って、最後まで付き添ってくれる。

「覚醒機」
この機械を使えば、要するに「天才」になれる。でも、その分寿命が恐ろしく短くなる。8年間音楽をやり続けた俺は…

というような話です。
なんとなく前々から、戸田誠二っていう漫画家はちょっと気になってました。なんで?って言われると困るんですけど、戸田誠二ってなんとなくメジャーじゃないところで踏ん張ってるイメージがあって、なんとなくそういう人に惹かれるからかなー。
でも、今回初めてコミックを買ってみて、この著者が「インディーズコミック」でデビュー(既存の新人賞の受賞歴もあるけど)したっていうのはちょっとびっくりでした。そういう人はなんか好きです。
でも、この作品は、うーんどうなんだろう。僕的にはそんなにはよくなかったかなぁ。
まとまってないけど、なんとなく、コミックじゃなくてもいいかな、という内容のものが多かったかな、という気がします。別に、マンガだからマンガにしか出来ないことを、なんて思ってるわけでもないんだけど、同じような話を小説で探そうと思えば見つけられそうだなぁというような、自分でそういう作品を読んだことがあるかどうかは別として、なんとなく既視感のある物語が多かったかなという感じがします。星新一のショートショートとか、実は一作も読んだことないんですけど、でもなんとなくどの話も、似たようなものを見つけられるんじゃないかなぁ、という感じがしました。
本作に限らずですけど、映画とかマンガとかって、個人的にはそういう部分が難しいなって思います。つまり、「映画でしかできないのか」「マンガでしか出来ないのか」みたいなところです。
例えばですが、僕は穂積「式の前日」っていうコミックを読みました。このコミックは凄く好きだったんだけど、個人的に凄く良かったなと思うのは、セリフがないシーンです。つまり『沈黙』の描かれ方が素敵だなと思いました。
映像的なメディアの強みの一つに、『沈黙を描く力』みたいなものがあるように思います。小説では、いくら沈黙を描こうとしても、なかなか上手くいかない。
別に沈黙に限らなくてもいいんだけど、やっぱり「映画にしか出来ない」「マンガにしか出来ない」という部分がある方が、普段小説ばっかり読んでいる人間にしたらぐグッと来るものがあるなという風に思います。なんせ、ただ物語を読みたいだけなら、小説で凄い作品をたくさん知ってるわけで、小説ばっかり読んでいる人間からすれば、物語の力だけで読ませるコミックっていうのは、グッと来るものは少なくなるだろうなぁ、という感じがします。
個人的に好感が持てたのは、この作品が「現実」をベースにしているという点です。オーバーテクノロジーを扱いながら、舞台となるのは僕らが生きているこの現実です。そういう世の中で、オーバーテクノロジーに頼らざるを得ない人間の弱さみたいなものに焦点を当てているというのはいいなと思いました。
オーバーテクノロジーという点で、なんとなくドラえもんのことが頭に浮かんだんだけど、ドラえもんとの大きな違いは、「オーバーテクノロジーを使う人間の切実なる動機」です。ドラえもんの場合、のび太君は、ほんの些細なことで道具を使おうとします。もちろんそれは、のび太君にとっては切実な問題かもしれないけど、僕らからすると、自力でどうにかせーよ、って思っちゃうようなものが多いですよね(それを言っちゃだめか 笑。いや、ドラえもんは好きですよ)。
でも本書の登場人物たちは、まあ若干の甘さみたいなものはあったりするのかもしれないけど、基本的にはどうにもならない世の中の中で、もうどうにもならない、進む方向なんて全然ない、という時に、オーバーテクノロジーと出会うことになります。その必死さみたいなものはいいなと思いました。
個人的にこれは好きだなと思った話は、「ドラッグ」です。ラストが素敵だなと思いました。
たぶん小説を読み慣れている人には、なんとなくありがちな物語という風に感じられるかもしれません。コミックに同種の作品群があるのかどうかは、僕の知識ではわかりません。ので、コミック界で本書がどんな風に評価されているのかは、よくわかりません。

追記)amazonのレビューでは、超高評価、というか、なんかみんな5つ星の評価でした。

戸田誠二「スキエンティア」


ロスジェネの逆襲(池井戸潤)





内容に入ろうと思います。
本書は、「オレたちバブル入行組」「オレたち花のバブル組」に続く、シリーズ第三弾です。とはいうものの、僕は前2作を読んでなかったりしますけど。本書を読む限り、シリーズキャラクターは半沢という男のようです。本書では半沢は「東京セントラル証券」という、「東京中央銀行」の子会社の一つに左遷されています。恐らく前2作で、半沢が東京セントラル証券に左遷される顛末が描かれているんだろうなぁ、と思いますけど、あくまで想像です。
時は2004年。1994年から続く超就職氷河期の中で、1994年から2004年に社会に出た世代は、後に「ロスジェネ世代」と呼ばれるようになる。本書からちょっと引用。

『森山が経験した氷河期と呼ばれる就職難は、その後も長く続き、この2004年も状況は変わっていない。
世の中全体が、バブル崩壊後の不景気という名のトンネルにすっぽりと入り込んでしまい、出口を見出そうともがき苦しんでいたこの十年間、1994年から2004年に亘る就職氷河期に世の中に出た若者たち、その彼らを、後に某全国紙の命名により、「ロスト・ジェネレーション」、略してロスジェネ世代と呼ぶようになる。
しかし―。
身を削るような就職活動をくぐり抜けて会社に入ってみると、そこには、大した能力もなういくせに、ただ売り手市場だというだけで大量採用された危機感なき社員たちが、中間管理職となって幅をきかせていたのだ。
バブル入行組である。
森山にとって彼らは、ただ後継機だったというだけで大量に採用され、禄は喰むが能はないお荷物世代だ。
大量採用のおかげで頭数だけはいるバブル世代を食わすため、少数精鋭のロスジェネ世代が働かされ、虐げられている。
世の中は、森山たちの世代に対して、なにもしてくれなかった。まして、会社が手を差し伸べてくれるとも思えない。
バブル世代は、自分を守ってくれるのは会社だと思い込んでいるかも知れない。
しかし、森山らロスジェネ世代にとって、自分を守ってくれるのは自分でしか有り得ない。』

本書は、バブル世代とロスジェネ世代の闘いの物語でもある。
東京セントラル証券の半沢はある日部下から、IT業界の雄であり、急成長を遂げて業界に革新をもたらした「電脳雑技集団」が、ライバル会社であり、同じくIT業界の雄である東京スパイラルを買収する意向であり、アドバイザーの座についてもらえないかと打診があった、という話を聞く。東京中央銀行の子会社として特段実績を上げることが出来ないでいた東京セントラル証券。東京セントラル証券には、東京中央銀行からの出向者も多く、さらに彼らの多くはバブル世代でもある。半沢もその一人なのだが、半沢はその世代の人間には珍しく気骨のある男だ。
東京セントラル証券の事案としてこの買収を成功させれば、その実績で銀行へと戻れるかもしれないという野心を秘めつつ準備を進めている最中、東京セントラル証券にとっては寝耳に水の事態が発生する。なんと、親会社である東京中央銀行がこの事案を横取りし、電脳雑技集団のアドバイザーに就任したというのだ。いくら親会社とは言え、筋の通らない横槍に、半沢は反旗を翻す決意をする。そんなことをしたら銀行に戻れなくなってしまうと諭す東京セントラル証券のプロパー社員の意見も聞かず、電脳雑技集団と東京スパイラルの買収劇に、世間をあっと言わせる秘策を投入する半沢たちの奮闘を描く物語。
という感じの話です。
もう池井戸潤は安定して素晴らしい作品を次々と生み出してくれるんで、素晴らしいなんてもんじゃないです。とにかく、素晴らしいです。この作品も、メチャクチャ面白かったなぁ!
池井戸潤の作品の良さを伝えることの難しいのは、内容についてあまり書けないからです。本書では、東京中央銀行が、全編を通じてどんな動きをしているのか、っていう話はある程度書いてもいいかなl,という気がします。確か池井戸潤は元銀行員だったと思うんだけど、その池井戸潤が描く銀行は、どの作品を通じても「悪者」で(銀行内でちゃんと仕事をしている人には申し訳ない表現ですけど)、そして「ある程度想像出来る動き」だからです。銀行の論理というのは、特殊でありながら何故か組織全体として伝染力でもあるのかどこでも同じなのでしょう。あぁそうなんだよなぁ、きっと銀行ってこういうところなんだろうなぁ、と思わせてくれる描写が多いんで、ある程度銀行の動きは書いちゃっても大丈夫かなって気はします。
でも、半沢の方の動きは具体的には何も書けないです。本書は、池井戸潤のどんな作品にも登場する「銀行」という存在に対する安定的な描写と、半沢という何を仕掛けてくるのかわからない男の奇策という二つが非常に上手く組み合わさって物語が進んでいると思うんですけど、やっぱりネタバレになるんで、半沢の方の動きは全然書けないんですよね。
でも、すげぇです。もちろん小説だから、半沢が凄い動きが出来るような状況設定の中で作品が組み上げられているんだろうけど、でも凄いです。当初は、電撃的な仕掛けをしてきた東京中央銀行のスキームの方が凄いなっていう感じでしたけど、東京中央銀行の凄さはそこまで。結局のところ、本質を見失った迷走をすることになります。
一方で、半沢が繰り出すウルトラCは、どこまでも地に足が着いている。正しいことを、正しいやり方でやる。その堅実さが結果に結びついているという感じです。パッと見はウルトラCに見えるんだけど、半沢にとってそれは必然的な形であって、そういうスタンスが素晴らしいなという感じがします。
半沢は、仕事についてこんな風に語ります。

『仕事は客のためにするもんだ。ひいては世の中のためにする。その大原則を忘れたとき、人は自分のためだけに仕事をするようになる。自分にためにした仕事は内向きで、卑屈で、身勝手な都合で醜く歪んでいく。そういう連中が増えれば、当然組織も腐っていく。組織が腐れば、世の中も腐る。』

まさに銀行と半沢の差はここにあったのでしょう。銀行が、結局は「自分のために仕事をした」のに対して(いやしかし本当に、本書に限らないけど、池井戸潤の作品の中で描かれる『銀行』は、「自分のためにしか仕事をしていない」という感じがします。作中では、こんなセリフも出てきます。『世間的には紳士面をしてみせるが、銀行の実態はヤクザと大して変わらない』)、半沢は「客のために仕事をした」ということなのでしょう。
さて、まあそんなわけで、ストーリー展開についてはほとんどここでは書けません。なるほどそんな手があったか!とか、銀行ってのはホントに!みたいな話をホントは色々書きたいところなんだけど、その辺りのことは是非読んでみてください、としか言えません。
というわけで、働き方の話を色々と書きましょう。
本書にはバブル世代の人間がたくさん出てくるんだけど、ロスジェネ世代の代表として森山というのがいる。東京セントラル証券のプロパー社員であり、銀行からの出向者には銀行という戻る場所があるが、プロパー社員にはそれがない。基本的には東京セントラル証券にずっと居続けることになる。
この森山が、ロスジェネ世代の「叫び」を代表することになる。
森山が繰り出す「叫び」は、サラリーマンなわけではない僕にもスーッと届く。
そうか、考えてみれば、僕もギリギリロスジェネ世代なのかもしれん。就職活動とか、一切しなかったし、今もフリーターだから、同じ立場かっていうとちょっと違うけど。
森山は、会社という組織の理不尽さを嘆き、無能な人間が上に立っている状況を腐し、能力があるはずの自分たちの世代が虐げられている状況に怒る。そして、嘆いたり腐したり怒ったりしても、別に何も変わらないしね、みたいな諦めさえも身に着けてしまっている。
そういう気持ちは、なんか凄く分かるんだよなぁ。
僕よりももう少し上の世代の人の意見を耳にすることもある。これを世代論で片付けてはいけないんだろうなと思いつつ、でもやっぱり考え方が全然違うんだな、という感じはする。『働き方』というのは凄く大きな話で、一言でまとめられるものではないと思うけど、結局のところ『働く』ということへのスタンスの違いが、やはり世代間で大きく変わっているのだろうなという感じはする。
今の若い世代の『働き方』について、色々と苦言が呈されることがある。確かに、賛同できる苦言もある。でも中には、僕らにとっての強烈な『違和感』が、上の世代にまったく通じないのだなというもどかしさを感じることもある。具体的にどういうものなのか、という例を今パッと思いつかないのだけど、そうか、上の世代の人からすると、僕達の『これ』はそんな風にまとめられちゃうんだな、と思うことは、時々あったりする。
共にロスジェネ世代である森山と、東京スパイラルの創業者である瀬名が、こんな風に語る場面がある。

『「オレたちって、いつも虐げられてきた世代だろ。オレの周りには、いまだにフリーター、やり続けてる大学の友達だっているんだ。理不尽なことばかり押し付けられてきたけど、どこかでそれをやり返したいって、そう思ってきたんだ」
「なるほどね。ただ、オレの考えはちょっと違うな。どんな時代にも勝ち組はいるし、いまの自分の境遇を世の中のせいにしたところで、結局虚しいだけなんだよ。ただし、オレがいう勝ち組は、大企業のサラリーマンのことじゃない。自分の仕事にプライドを持っているやつのことだけどさ」』

この後瀬名はさらに続けて、

『どんな小さな会社でも、あるいは自営業みたいな仕事であっても、自分の仕事にプライドを持ってるかどうかが、一番重要なことだと思うんだ。結局のところ、好きな仕事に誇りを持ってやっていられれば、オレは幸せだと思う』

と続ける。
これは本当にその通りなんだよなぁ、と思う。
僕は、フリーターだし全然なんのスキルもないけど、自分の今の仕事は凄く好きだし、そして誇りも持てていたりする。実に恵まれた環境だ。もちろん、ムカつくことは色々あるけど、でも自分がやっている仕事への愛着とか誇りみたいなものがある限り、まあやっていけるかな、と思う。でもこれが、お金を稼ぐために仕事をすることになったら、ちょっと辛いだろうなと思う。そういう働き方は、場合にとっては上の世代から「甘い」とか思われちゃうんだろうけど、今の若い世代には結構通じる気がする。社会起業家を目指す人も結構出てきているみたいだし、そういう、「働くこと」そのものに意義を見出していくようなあり方っていうのは、凄く理解できる。
一方で、どっぷりとサラリーマンの論理の中で生き抜いてきた半沢は、半沢らしくこんなことを言う場面がある。

『銀行に戻った方がいいなんてのは、錯覚なんだよ。サラリーマンは―いや、サラリーマンだけじゃなくて全ての働く人は、自分を必要とされる場所にいて、そこで活躍するのが一番幸せなんだ。会社の大小なんて関係がない。知名度も。オレたちが追求すべきは看板じゃなく、中味だ』

これは、言葉だけ見ればロスジェネ世代の森山・瀬名と同じようなことを言っているように見えるし、実際にそうなんだけど、でもこれを半沢が言っている、という事実が、本書を読んでいる人間にはグッと来るはずだ。
半沢は、『銀行の論理』という特殊な土俵の上で、サラリーマンらしく辞令を甘受しながら、それぞれの場所で全力を尽くす。瀬名は別として、ロスジェネ世代の森山は、現状を嘆くだけだ。実行を伴った前進はない。しかし半沢は、組織の論理や様々な政治的な思惑をすべて甘受した上で、それでも全力で戦って前進していく。半沢はある場面で、

『人事が怖くてサラリーマンが務まるか!』

と言うのだけど、本当に凄いなと思います。サラリーマンじゃない僕には、人事の怖さみたいなものはイメージしにくいけど、でも普通は左遷されるかもしれないと思えば躊躇するだろうし、それが銀行ともなればなおさらだろうと思う。半沢には、そこがどこであっても、自分に与えられた戦場で全力を尽くすという気概があって、それが他のバブル世代の人間と違っていて好感が持てる。
最後に、凄く長くなるけど、半沢がロスジェネ世代の森山に凄くいいことを言っていて、これはこれからの就活生なんかにも凄くいいんじゃないかって思ったりするんで、長々と引用してみます。

『半沢はいった。「世の中を儚み、文句をいったり草してみたりする―。でもそんなことは誰にだってできる。お前は知らないかも知れないが、いつの世にも、世の中に文句ばっかりいっている奴は大勢いるんだ。だけど、果たしてそれになんの意味がある。たとえばお前たちおが虐げられた世代なら、どうすればそういう世代が二度と出てこないようになるのか、その答えを探すべきなんじゃないか」
半沢hは続ける。「あと十年もすれば、お前たちは社会の真の担い手になる。そのとき、世の中に在り方に疑問を抱いてきたお前たちだからこそ、できる改革があると思う。そのときこそ、お前たちロスジェネ世代が、社会や組織に自分たちの真の存在意義を認めさせるときだと思うね。オレたちバブル世代は既存の仕組みに乗っかる形で社会に出た。後継機だったがゆえに、世の中に対する疑問や不信感というものがまるでなかった。つまり、上の世代が作り上げた仕組みになんの抵抗も感じず、素直に取り込まれたわけだ。だがそれは間違っていた。そして間違っていたと気付いたときには、もうどうすることもできない状況に置かれ、追い詰められていた。」
半沢は、少し遠い目をして、嘆息した。「だが、お前たちは違う。お前たちには、社会に対する疑問や反感という、我々の世代にはないフィルターがあり根強い問題意識があるはずだ。世の中を変えていけるとすれば、お前たちの世代なんだよ。失われた十年に世の中に出た者だけが、あるいは、さらにその下の世代が、これからの十年で世の中を変える資格がエられるのかも知れない。ロスジェネの逆襲がこれからはじまるとオレは期待している。」』

そう。虐げられてきたからこそ見えるものがある。抱ける問題意識がある。上の世代には見えない問題を見て、そしてそれを解決出来るのは自分たちの世代なんだ。そういう意識で社会に出ていければ、なんというか、前に進んでいくための力になるのではないかと思いました。
相変わらず池井戸潤の作品は素晴らしいです!本書は、「週刊ダイヤモンド」で連載されていたものらしいけど、同誌の連載小説史上初、「読者満足度No.1」なんだそうです。まあ、それも納得という感じです。だって、面白いですからね。
僕は基本的にビジネスとか経済とかの知識がないです。たぶん、ちょっと詳しい中学生とかにも負けると思います。本書にも、たまーに理解できない部分が出てきますけど、でもほとんど問題ないと思います。「経済小説」っていうとなんか難しそうだけど、池井戸潤の作品は全然そんなことはないので、安心して読んでください。

池井戸潤「ロスジェネの逆襲」


相田家のグッドバイ(森博嗣)

内容に入ろうと思います。
本書は、息子である相田紀彦が、父・秋雄、母・紗江子、妹・英美子との生涯を振り返り綴った、相田家の一代記といった感じの作品です。
紀彦は、子供の頃から祖父母と関わりを持つことがなく、他の親戚づきあいもほとんどない家庭に育ったので、紀彦にとっては相田家というのは突然現れたようなものであった。両親以外の大人と真っ当な形で関わることも少なかったから、自分の両親が普通だと思い込んでずっと生きてきた。それは、結婚した紀彦が子育てから解放されようかというような時までずっと引きずってきた、紀彦にとってはなかなか修正の出来ない事柄であった。
両親は、なかなかに『普通』ではなかった。
秋雄は、人付き合いを好まず、無口で、理屈が先行するというように、ある程度説明のつくタイプではある。ごく一般的な父親像からはズレているのだろうが、紀彦はそんな父親の存在を非常に尊敬していたし、その生き方に共感してもいた。長じて紀彦自身も、父のようになっていく。それは、世間の基準からすればかなり外れたものであるのだけど、二人にとってはごく自然なものだった。
ある種の狂気を内包していたのは、母の方だった。
母は、一度家に入ってきたものはほとんど捨てなかった。それらは母によって、驚異的な収納力を発揮されて、家中のあらゆる場所に収納されていった。両親の死後、紀彦が育った家を数年掛けて探索するも、その全容を把握することが出来なかったほどの物量である。
しかし両親は、紀彦にとっては非常に良き庇護者であった。父は父らしいことを何もしない、というか紀彦とほとんど喋りもしなかったけど、紀彦は父親の背中を見て、その背中に強く影響を受けて育った。母は、完成されたおもちゃは与えないけど作るための道具はどんなに高価でも買い与える、子供が怪我をしても過度な心配はせず、「それは貴方の手ですよ」と言った具合に諭すだけ、というような、子供をあまり子供扱いしない形で育てた。それら両親の教育方針は、紀彦という個人に非常に重要な形で蓄積され、紀彦という個性の基盤になっていく。
秋雄も紗江子も、やがて老い、入院し、施設に入り、そして亡くなっていく。紀彦は、結婚し、子供を設け、そしてまた夫婦だけの生活になっていく。
そういう時の流れを描き出していく作品です。
今回森博嗣の作品を読んで思ったのは、どうして森博嗣は物語を書くのだろう、ということだ。
森博嗣は、もうお金が欲しいわけではないだろし、誰かに認めてもらいたいという欲求があるわけでもないだろう。誰かに伝えたいことがあるとも思えない。小説と書く、という動機には様々なものがあるだろうが、森博嗣に当てはまるものを想像することはなかなか難しいように思う。
また、ちょっと前に読んだ「実験的経験」という作品のような、なんというかトリッキーで挑戦的な作品であれば、まだなんとなくイメージのとっかかりはあるように思う。うまく言葉では表現できないけど、「実験的経験」という作品を森博嗣が書くことは、なんとなく僕の中でイメージ的にしっくりくる。
けど、本書はどうだろう。
本書を読んで、森博嗣が小説を書く動機を想像することはなかなか難しい。一つ勝手な憶測をすれば、本書の主人公である紀彦は、僕がこれまでエッセイなどで読んできた『森博嗣』のイメージに近いものがあるので、もしかしたら秋雄や紗江子も森博嗣の両親がモデルになっているのかもしれない。なんとなく、記録として、自分の家族のことを書き残しておきたかった、というようなことかもしれない。
あるいはもっと現実的に、前にエッセイで書いていたように思うけど、これまでの仕事で関わった人達との関係性が残っていて、頼まれたから書いているのだ、というスタンスかもしれない。まあ、これが一番しっくり来るのだけれども。
いずれにしても、森博嗣の動機がどうであれ、僕が森博嗣の作品を読む動機ははっきりしている。
それは、「森博嗣の思考に触れたいから」だ。
本書では、なかなかに特殊な、現代の日本社会の常識から判断すればちょっと変わった家族の形が描かれているように思う。でも、僕は本当に森博嗣の考え方に共感できることが多くて、本書で描かれている家族の形は、家族というものが苦手であまり好きではない僕にとって、一つの理想のように見える。
僕は子供が欲しいと思うことはまったくないのだけど、でももし子供を持つことになったらこんな父親でありたい、というような理想がぼんやりとあったりする。変な話ではある。まあともかく、その僕の理想と、秋雄・紀彦の有り様は、凄く近いものがある。こんな風に子供と接することが出来ればいいだろうな、と思えてしまう。誰にとってどう「いい」のかはよくわからないし、よくわからないからやってみたいというだけの話なのだけど、でもやっぱりそういう風に考えている時点で、僕にとってそれはある種の「実験」であって、だから僕は子供なんて持たない方がいいよなぁ、とやっぱり思ってしまうのだけど。
家族というのは家族毎に違うものであっていいはずだし、普通もへったくれもないと思うのだけど、でもドラマとかの影響なのか、なんとなくみんな『普通』を求めてしまう部分があるように思う。普通はこうだ、こうしなければならない、こんな風であっては普通じゃない…。
なんかそういうのは疲れるなぁ、って思ってしまう僕としては、相田家はなかなかいいじゃないと思う。特に、秋雄が良い。僕は、理屈が通る人間が凄く好きだ。秋雄は、物事に理屈をつけたがるし、物凄く合理的な人間だ。理屈さえ通せばどんなものでも認めてもらえる、という状況は実に素晴らしいと思う。そういう意味で、判断基準の不明な紗江子の方はちと面倒な存在ではあるのだけど、でも教育的な方針は面白いと思うし、基本的にあまり干渉しないようにというスタンスなのでいいなと思う。
相田家に通底しているスタンスの一つは、「自分はいつ死ぬかわからない」という思想である。
紀彦には、実は兄が一人いた。1歳になるまでに死んでしまったその兄の経験があって、両親は紀彦は絶対に死なすまいと気を張っていたきらいがある。しかしその一方で両親は紀彦に、「自分たちはいつ死ぬかわからないから、そうなっても大丈夫なように一人で生きていけるようにしろ」と、まだ紀彦が小さな頃から言い聞かせているのである。
こういう環境で育つ死生観みたいなものは、なかなか特殊なものになるだろう。「いつ死んでもいい」というスタンスとともに秋雄や紀彦は生きるのだけど(紗江子はまたちょっと別なんだけど)、そのスタンスは僕もとても理解できる。僕も、いつ死んでもとりあえず後悔はないように生きているつもりではある。それに紀彦が、死ぬ時は一人がいいし云々、というようなことを語る場面もあるのだけど、そういうのも、そうだよなぁわかるなぁという感じである。
そんな風に僕は、森博嗣の思考に触れて共感し、自分では言語化していなかった感情を捉え、新たな価値観に息を飲む。僕にとっては、そういう体験そのものこそが、森博嗣の作品を読む価値である。正直、本書は、小説として面白いかどうかと聞かれたら、そんなに面白くないんじゃないかと思う。森博嗣らしくないといえばらしくないような気もする。全体を貫く思想や価値観は森博嗣の作品らしいのだけど、ストーリーや設定はなんというか森博嗣らしくなくとても普通だなぁと思う。だから、この作品を、僕のように「森博嗣の思考に触れたい」と思っている人以外が読んだらどんな風に感じるのか、よくわからない。かなり特殊な家族の形が描かれるから、共感できる人ももしかしたら少ないのかもしれない。わからない。でも、森博嗣の作品は、それが『森博嗣』という個性のほんの僅かな断片だったとしても、それを垣間見ることの出来る『窓』のようなもので、僕にとってはそこに価値がある。これからも、機会があれば森博嗣の作品は読み続けていくことになるだろう。
というわけで、普通の人がどんな風に感じられるかわからないけど、相変わらず森博嗣らしい価値観に覆われた作品で、読む度に、こういう思考・生き方が出来る人になりたいものだなと思いますです。

森博嗣「相田家のグッドバイ」


命をつないだ道 東北・国道45号線をゆく(稲泉連)

内容に入ろうと思います。
本書は、東日本大震災を、『道』という観点から描いたノンフィクションです。
東北に、国道45号線という道路がある。リアス式海岸である海沿いを走る、起伏が激しい道である。
しかし、東北にとってこの道は、大動脈と言っても言い過ぎではないほど重要な道路である。国道45号線が通れなくなってしまえば、孤立してしまう地域が山ほどある。道路の開通に、歴史的に様々な困難を抱えてきた東北の地にあって、国道45号線は元々、初めて東北を貫通した道路だと言っていい。
そんな国道45号線が、東日本大震災で壊滅的な被害を受けた。橋は落ち、船や家の瓦礫が道上を塞ぎ、震災後食料を調達するためだけに、歩いて山を越えなければならないような地区が山ほど生まれた。
そんな中、国道45号線はいかにして開通していったのか。
震災当時、それなりに報道に接していたと自分では思っている僕は、東北の壊滅した道は、『自衛隊が修復したのだ』と思っていたと思う。ネット上で、短期間の内に驚くべき早さで復旧した道路の写真を見て、自衛隊ってすげぇなぁ、って思ったような記憶がある。
でも、そうじゃなかった。
いや、もちろん自衛隊も全力で道を開いた。その功績を否定したいわけじゃない。
でも、自衛隊だけの功績ではない。
当然だ。自衛隊が被災地に入るまでにはある程度のタイムラグがある。その間、道が塞がれたままではどうにもしようがないだろう。そもそも、現地入りするために向かった自衛隊だって、道がなければ現地に入ることが出来ないのだ。

『自衛隊の人たちだって来てくれてんのに、通れなくてずらーっと並んでいるわけだ』

震災直後、いち早く道を開くために動き出したのは、地元の業者たちであった。

『国道45号線の”啓開”の現場には、そのように市や県や地元建設業社の有志による自発的な動きがあった。一週間という時間での道路の復旧は、国の物資や機動力に地域の力が加わったことで、初めて可能になった。その事実を忘れてはならないだろう。』

本書は、自衛隊が現地で”啓開”(道を開くこと)を始める前に、地元建設業社が何を考え、どう動き、何を成し遂げたのか。それを、個人の視点、個人の体験をつぶさに追いながら綴るノンフィクションです。
本書を読みながら僕は、

東京だったらどうだ。東京だったらどうだ。

とずっと考えていた。考えていた、という表現はおかしいか。考えてはいなかった。ずっとその問いが頭から離れなかっただけだ。
東京だったらどうだろう。どうなるだろう。

『それは、使命感という言葉で表現されるものとは少し違う感情だった。
「やっぱり自分の生まれ育ったところだし、それに―」と小笠原は言う。
「この瓦礫を退けられるのは、うちら建設業者しか現実的にない。理屈をいう以前に、俺たちしかいないでしょ、という気持ちがみんなにあったんだと思います」』

東京だったらどうだろう。

僕が今住んでいる地域は、もう何年も前から大規模な開発が行われていて、だからそこら中で色んな重機が活動をしている。もし今東京で何らかの大災害が起こったら、その重機は活躍するだろうか?
どうだろう?
開発の工事をしている人たちは、この近くが地元というわけではないだろう。もし災害で被災したとしても、自分の住んでいる地域に戻ろうとするだろう。じゃあ、住んでいる地域の住民が重機を扱えるかというと、どうだろう。そういう人もいるかもしれないけど、地方と比べるとその割合は著しく低くなるのではないかと思う。
重機を動かせる人間は地元の人間ではない。地元の人間は重機を動かせない。
そういう中で、じゃあ瓦礫を退けたり、道を開いたりするのは、一体誰なんだろう?

東京だったらどうなるのだろう?

僕らが生活していく上で様々なライフラインが存在するけど、特に『道路』というのは意識に上らないのではないかと思う。

『この出張所勤務での数カ月で彼があらためて実感していったのは、道路とは空気のように「あって当たり前のもの」であり、通行できなくなるような事態を人々はほとんど想像していない、ということだった』

水道やガスは止まることはありえるし、政府や警察の機能にしたって結構日常的にうまく機能しなくなったりする。でも、確かに考えてみれば、道路が通行できないという状況は、大雪が降るだとか、水道管が破裂しただとか、そういうかなり特殊な状況を思い浮かべないとなかなか受け入れることは難しいかもしれない。

『口で言ってもわかんねえよな―と彼は思った。
何しろモニターであの津波の様子を見たはずの自分ですら、ほんの数キロ先でいままさに起こっているその事態をいまだ現実の光景として受け止められずにいるのだから。
そこで鈴木は一度自分の机に戻ると、モニターの画像をデジタルカメラで撮影して印刷し、規制の解除を待つ人々に一枚ずつ手渡した。
「ほら、見てください。こういう状態なんです。だから、これ以上は本当に先には行けないんです」
このアイデアは功を奏し、写真を見て一様に驚いた彼らは、この場に留まるしかないことを理解したのだった。』

時々、車に轢かれたのだろうなと思われる動物の死骸が道路にあることがある。ああいうのは一体誰が片付けているのだろう?と疑問に思うことはあったのだけど、でもちゃんと考えたことはなかった。国が発注し、地元の建設業者が道のメンテナンスを請け負っているようで、そういう人たちが日夜道路の安全を守ってくれているからこそ、ライフラインとしての道路は維持されているのだ。
そういう事実を普段から意識できていない僕のような人間には、『壊滅した被災地の道路は自衛隊が直した』というイメージをすんなり受け入れてしまうのだ。ちょっと考えてみれば、そんなはずがないことはわかるのに。
東北の人たちにとって、国道45号線というのは、ただ『車を走らせる』ための存在ではない。困難な地形を切り開いていった先人の努力への敬意を含め、国道45号線という存在は彼らにとってもっと大きなものだ。

『国道沿いに町が現れる度に、鈴木は「やはり現道は町並みに溶け込んでいるな」と感じる。
内陸側を通る三陸縦貫自動車道は新しく美しい道路だが、やはりそれはどこか漂白された「バイパス」であり、町と町との交流を促す連絡路であるという印象が強かった、一方でいま走っている国道45号線は「土地にどっぷりと浸かっている道」だ。三陸沿岸の静かな町に暮らす人々が、普段の生活の中でこの二車線の道路を浸かっている。海とともに生きる彼らの生活の匂いは、この国道にも溶け出している。』

実際の啓開作業は、様々な困難を伴う、非常に厳しいものだった。
まず、仕事をやらせる側の強い葛藤がある。それは、現地の建設業者に仕事を依頼する国の職員の葛藤であったり、あるいは、自らも被災し社員も被災者である建設業者の社長の葛藤であったりもする。

『「いつ強い余震があって、また津波がやってくるかもわからない。その状況の中でこう思ったんです」と鈴木は振り返る。
「俺が責任を取ると頑張って言ったところで、警報の発令中に工事を指示し、もし誰か作業員の人が流されて怪我をしたり、亡くなったりしたら責任なんてとれないわけです。私が役所をやめても、命を絶っても何の責任の取り方にもならないわけです」
早朝の打ち合わせのとき、鈴木はそうした思いの中で「責任」という言葉を敢えて使わなかった。』

『彼らはそれぞれの立場で「何があっても責任を誰も取れない作業」をいかにして行えばいいのかと葛藤し、そのなかで必死に答えを出さなければならなかった。
「でも鈴木さん、作業をしろと私からは言えません。何かあっても私には責任が取れないです」
「それは俺も同じです。この作業をいまやれと指示はできない。やれ、と言うことはできないんです。ただ、これから被害を大きくしないためには、誰かがやらなきゃいけない」
だから―と鈴木はもう一度続けた。「一緒にやってくれないか」』

『前日の作業中、ある作業員に強く言われた言葉を彼は思い返した。
「俺にも妻や子供たちがいる。こんな作業をやらせていいんか!?」』

『薄暗くなっても、作業は上野の指示がなければ終わることはない。いまから振り返れば、その選択は少なからず無謀だったかもしれない、と彼は思う』

『「いまから思えば―」と千葉は言う。
「自分の判断でまずはやってしまったほうが良かったのかもしれません。一日でも早く道路が通せれば、社会への貢献度はその方が高かった。当然、立場のある人は聞かれたらすぐに許可は出せません。だからあの被災の現場では、そこにいる自分の判断でやって事後報告でも良かったんじゃないか、そうすればもっと早く道路を作れたんじゃないか、といまでも思うんです」
千葉がそのとき向い合っていたのは―宮古維持出張所の鈴木之がそうであったように―自信の立場をどのように乗り越えればいいのか、という職業的な問いに違いなかった。』

作業に当たるものの命を考慮した葛藤、あるいは、公務員として許可なしで動くことへの葛藤。そういった様々な葛藤と、自分なりの折り合いをつけながら、彼らは次第に、これは誰かがやらなければいけないのだ、そしてその誰かとは自分なんだ、という決意を固めていくことになります。

『国からの事業を受注し道路維持を担ってきた自分たちが、ここで引くわけにはいかない、と思った。』

『早朝、これから被災地へ先遣隊として向かうさん名を選んだ那須の胸にあったのは、叔父に当たる同社の先代の会長が常日頃から繰り返し語っている言葉だった。
「困っている人たちがいるときはとにかく無償で手伝え。それが我々の会社の生き様だ」』

『「その夜に家さ帰ったら、一緒に作業したうちの次男さ、避難している親戚たちの中で『お父さん、俺たちいままでこの仕事やってきて、こんなに感謝されたことはねがった』って言うんです。俺たちはボランティアでこの仕事をやったけど、お金では得難いものを得た、と」』

『県や国の担当者から文句言われたら、うちの名前を出して構わない。その代わり何かあったら、みんな俺のこと守ってけろよ、と重機の鍵は付けっ放しにしたんです』

『うちの息子たちさ、後でこんなことを言ってた。「お父さん、金南てこの際いいっちゃ。それは後から仕事で付いてくるもんだから、いまここで金になんねえからって半分やって投げたら、十二日からこれまで道路抜いてきてやってきたのがぜんぶゼロになるよ」』

想像を超えた災害の現場では、まさに最前線で闘った作業員たちは、やはり想像を超える事態に出くわすことになる。日常の延長線上には想定できないような様々な事態と遭遇しながら、彼ら作業員たちは最優先で道を開くために作業を続けていくことになる。

『瓦礫といっても、それは必ず「誰かの財産」だ。上のたちが作業を進めるとき、現場での時間のロスを少しでもなくすためには、道路上に散らばっているものの扱い方をあらかじめ決めておかなければならない。』

『「生きている人がこの中にいたら…」
そう思うと、どうしても身体が固くなった。』

『作業員や現場監督に対して、アルバムや写真、先祖の位牌などを探して欲しいといった要望が語られ始めるのは、数日経った後のことだった。十二日の時点では、行方不明者の家族を探す人も自宅に残してきた金庫や貴重品を探す人も、一様に虚脱状態にあるように見えた』

『建物にバケットが入れられ、めきめきと音を立てるのを見て、その男性も今度は自らの家の傍を離れなかった。
「申し訳ありません」と上野は必死に頭を下げた。
「ここを通さなければ二次的、三次的被害が出てしまいます。どうかお願いします」
五十嵐はこうしたやり取りを見ながら、作業を止めては再開することを繰り返した』

これだけの災害への対処に経験がある人物はいない、震災直後は国からの直接的な指示は現場には届かない、危険と隣り合わせの状況の中で最優先すべきものを一介の個人が個別に決断しなければならない、そもそも重機を動かすためのガソリンが足りない、そして何よりも、寝ずに作業をしている作業員たちも同じく被災者であるということ。
そういう様々な困難を乗り越えながら、彼らは自発的に道を開き、物資の輸送や病院への搬送などをスムーズにする役目を担ったのだ。

『この津波災害の惨状を見て一様に絶句し、戦慄を覚えながら、一方でそれを「想定外」という言葉で説明しなかったことだ。(中略)そしてもうひとつは、彼らが上部組織の国道事務所からの指示を待つことなく、ほとんど自主的に道路復旧の仕事を始めていることである』

『本当に地元意識で誰からの依頼も受けずに道を作っていたんですね。ここだけではないですよ、気仙沼でも石巻でもほとんどがそうですよ。地元の人は、重機があればどこでも入りました。こういう田舎町ですから、私たちにも気持ちはとてもわかります。でも、実際の作業はかなり大変だったはずですよ』

『それは、国や行政がほとんど把握していなかった―しかし被災地の沿岸部で無数に行われていた―最初の「道路啓開」の動きのひとつだった』

震災後、直後ではないのだけど、機会があって津波被害を受けた被災地を見たことがある。
本当にそれは、ただ「見た」だけだった。
何かを考えたり、感じたりすることが、ほとんど出来なかった。僕が見たのは、「外見からはそこそこ回復しているように見える町」だった。本書を読むまでまったく意識しなかったけど、そう、その時通った道は、ほとんどすべて正常だった。工事している区間もあったけれども、ほとんどすべての道が、普通に通ることができた。そういうことさえも、まったく意識に上らなかった。ただ「見る」ことしか出来なかった。
本書の表紙は、米軍が撮影したという、大槌町吉里吉里周辺の被災直後の写真である。左下からまっすぐ伸びているのが、恐らく国道45号線なのだろう。ある程度啓開が完了した時点でのものなのだろう、車が通れるだけのスペースは確保されている。この写真一枚だけでも、当時の凄まじさが伝わってくるのに、さらにこれは道を開いた後のものなのだ。
そして僕が「見た」道路は、そんな痕跡さえもほとんど伺わせないようなきちんとしたものだった。
震災直後、なんとなく「道は自衛隊が修復したのだ」と思いこんで、それ以上特に考えることはなかった。本書でも、九州から数日間だけ被災地支援にやってきたとある公務員が、震災から間もない頃に道がかなり復旧しているのを見て、自衛隊が頑張ったんだな、と胸のうちで思うシーンがある。震災の現実を、ただ「情報」としてしか受け取っていない僕だけではなくて、実際に被災地に足を踏み入れた人もそう思っていたという事実は、なんとなく僕にとって少しだけ救いではあるのだけど、でも本書を読んで、やはり「知らない」というのは怖いなと改めて思った。
もちろん、すべてを知ることは出来ない。でも、知ろうとする努力はやめてはいけないな、と改めて思う。被災地を「見た」時も、「『自分が何も知らないのだ』という事実」を強く強く思い知らされた。そう、僕は何も知らない。知った気になってはいけないし、でもすべてを知ろうと無謀な努力をしてもいけないのだろう。なんとなく被災地を「見て」僕が感じたことは、『知ること』は『伝えること』なのかもしれない、ということだ。すべての人が現地を見れるわけではないし、個人が受け取る情報は様々に違うだろう。でも、自分が知ったことを、自分が知ったように誰かに伝えることが、『知る』ということの一番強い意味合いなのではないかとなんとなく思う。
はっきり書くと、やはり被災地から遠くに住んでいる僕は、日常生活の中ではもはや東日本大震災はかなり遠いものになってしまった。地震で大きな揺れを感じるとか、被災地を「見る」とかいう経験をすれば思い出すけれど、そうでもなければ、普通に生きている中では、東日本大震災という現実は僕の日常の中に入り込んでこない。だからこそ僕は、東北に行ける機会があるなら積極的に行くし、震災に関連した本は時折でもいいから読もうと思っている。
本書でなくてもいい。なんなら東日本大震災に関することでなくてもいい。あなたにとって大事だと思うことを「知り」、そしてそれを誰かに「伝えること」。そうやって僕達は、何か大きなものと関わっていくべきなのかもしれないな、と思います。東日本大震災の陰で奮闘した人々の記録。是非読んでみてください。

稲泉連「命をつないだ道 東北・国道45号線をゆく」


2(野崎まど)

内容に入ろうと思います。
数多一人は、井の頭芸術大学をもうすぐ卒業し、このままいけば順当にフリーターになる男。酒屋がコンビニに改装したお店でアルバイトをしている。
そんな数多は、日本で最大の知名度を誇る、日本で最も人気のある劇団『パンドラ』の三次審査に挑もうとしているところであった。
毎年500人の応募があるという『パンドラ』は、一次審査で150人に減り、二次審査で15人に減る。さらに三次審査で2~3人に減るという超倍率をくぐり抜けなければならない。
しかし数多は、15人ほど集まった三次審査会場で、『パンドラ』のプロデューサーである出水と、座付き脚本家である御島から、不可思議なことを聞かされる。
審査はすべて終わっているのだ、と。
実は毎年、二次審査までで候補は決定している。しかし、その後色々あって、3ヶ月ほどの間に8割ぐらいが辞めてしまうのだ、と。新人が次々に辞める劇団というのも聞こえが悪い。だから、三ヶ月後残っている人を正式な団員という形で発表しているのだ。つまり君たちはもう、『パンドラ』の一員なんだよ、と。
そこから彼ら新人に与えられたのは、3ヶ月で一つの劇を作り、『パンドラ』の団員の前で見せる、というものだった。
しかし、予想もしなかった展開が起こり、数多はある人物から、映画の撮影に誘われることになり…。
というような話です。
さて、これはなかなかに評価の難しい作品です。
僕は時々、『この作品の設定・展開だったら、○○さんが書いてくれた方が傑作になっただろうなぁ』ということを書いたりします。僕の記憶のある範囲では、三津田信三「首無しの如き祟るもの」は、京極夏彦が同じ設定で書いてくれたら世紀の大傑作になったと思うし、山田宗樹「百年法」は、貴志祐介が同じ設定で書いてくれたら素晴らしい作品に仕上がっただろうな、と思います。
さて、本書にも同じようなことを思いました。本書の場合、同じ設定のままで、森博嗣が書いてくれたら、もの凄い作品になったのではないかな、という予感があります。
本書を強く評価できない最大の理由は、最原最早という人物が、どうしても『天才』には見えないことです。
本書では、最原最早という映画監督が『天才』という設定で出てきます。その天才っぷりは、『人類の枠には到底収まり切らないほど』のレベルの天才、という設定です。そして、最原最早が『天才』である、という事実は、ストーリー上非常に重要な設定で、個人的には最原最早が『天才』に見えなければ、物語は破綻してしまう、とさえ思っています。
そして残念ながら、僕には最原最早は『天才』には見えなかったのですね。
森博嗣の小説に、真賀田四季という『天才』が出てきます。僕のイメージでは、まさにあの真賀田四季こそが『天才』です。森博嗣は、犀川創平や西之園萌絵など、様々なタイプの『天才』を描き出すことが出来る作家です。『天才』というのは、テンプレートや基準が存在しない。夕日を見て『美しい』と感じるけど、でも何故『美しい』と感じられるのかは説明が出来ないように、『天才』を見ても、どの部分がどうなってその人を『天才』を判断できるのかは、正直よく分かりません。『天才』の要素みたいなものがあればいいんですが(まあ、例えばですが、アスペルガー症候群の人は天才的な知能を発揮しやすい、みたいなそういう傾向はあったりするんだろうけど)、でもむしろ、普通の人間が創りだしたそういう枠からはみ出してしまうのが『天才』だと思うんで、そういう発想も意味がないでしょう。
だからこそ、『天才』を描くのは本当に難しいと思います。そして、真賀田四季という『天才』を知ってしまっている僕からすれば、どうしても最原最早は『天才』とは思えない。
でも、その『天才』とは思えない最原最早が、『天才』としか思えないようなことを次々とやってのけるのですよね。どうしても僕は、その部分を受け入れがたいのだよなぁ、という感じがしてしまいました。
もちろん、『天才』に対する印象は人それぞれでしょう。本書を読んで、最原最早って『天才』だよなぁ、と感じられる人もきっといるでしょうし、であれば本書は面白く読めるのだろうと思います。でも僕には、どうしても『天才』とは思えない最原最早が、どうしても『天才』としか思えないことをやっているというおかしさみたいなものを無視できなかったので、この作品を強く評価するのが難しかったりします。
ただ、『最原最早が天才には見えなかった』という点以外は、凄く面白いと思いました。
初めに書いた内容紹介は本当に冒頭の冒頭で、最原最早の名前さえ出てきませんが、本書は基本的に最原最早を取り巻く物語です。そして究極的には、『なぜ最原最早は映画を撮るのか?』という疑問に収斂していきます。
この解答にたどり着く過程は非常に面白いです。基本的に映画の撮影をしているんだけど、創作論の話、愛の話、そして進化論の話なんかがところどころに挟み込まれて、そして最終的にそれらが渾然となって、最原最早という『天才』の思考の終着にたどり着くことになる。最原最早が目指す映画とはどんなものなのか、最原最早にとって創作とは何なのか、そして最原最早は何故映画を撮るのか…。かなりぶっ飛んだ展開だし着地点だと思うけど、でもそこに至るまでに必要な要素的なものをうまいこと散りばめているので、読んでいるとそこまで突拍子もない感はないと思う。まあ感じ方は人それぞれだとは思うけど。個人的には、最原最早の思惑は論理的で面白いと思うんだけど、その最原最早の思惑を見抜く舞面真面は、ちょっと飛躍し過ぎているかなぁ、という感じはします。さすがに、それだけの情報からそれを見抜くのは辛くないかなぁ、というか。いや、これも好みの問題ですけど。
冒頭の『パンドラ』に関わる部分は普通の入りだったんだけど、最原最早が出てきた辺りから急にラノベっぽくなって、その落差にちょっとびっくりしたりした。あそこまでラノベ感を出す必要はあったんかなぁ。まあ、レーベルがレーベルだし、そういう要素は必要なのかもしれないけど、個人的には冒頭の『パンドラ』のあれこれの話の中でちょっと泣きそうになった場面もあったりするんで、そこからいきなりラノベっぽくなられると、えーっていう感じはしました。
しかし、冒頭の『パンドラ』の話が、壮大な前フリなんだもんなぁ。個人的には、あの『パンドラ』の話だけでも作品として面白いものになるだろうなという感じはしました。『パンドラ』の話は『パンドラ』の話で、ちょっとまた別に読んでみたい気はする。
あと、話としてそういう展開にしないと繋がらないんだろうなということは分かるんだけど、最後の最後のあの展開も、うむむ…という感じはしました。個人的には蛇足というか、やりすぎというか、その展開なしでどうにか話をまとめられなかったものか、という感じはしました。確かに、設定としては可能だけど、ちと無理があるんじゃないかなぁという感じはありました。
評価の難しい作品ではあるけど、『最原最早が天才には見えなかった』という部分を除けば、設定や展開など非常に面白い作品だと思います。ただ、個人的には、『最原最早が天才であること』というのは、本作にとって非常に重要な要素であって、それがきちんと達成できていないという点で、あまり強く評価することは出来ないなという感じです。だから、ちょっとホントに惜しいなという感じです。繰り返しになるけど、森博嗣が同じ設定で書いてくれたら良かったなぁと思ってしまいました。
あと、野崎まどの作品を読むのはこれが初めてなのであくまで憶測なんだけど、著作リストを見る限り、これまでの作品に出てきた色んなキャラクターが総出演、みたいな感じの作品のような気がする。たぶん。

追記)amazonのレビューを見る限り、本作を読む前に、野崎まどの既刊すべてを読んでくのがベスト、なんだそうです。なるほど。そんな風に言われると、ちと間違ったタイミングで読んでしまったかなぁ、という感じがしてしまいますね。

野崎まど「2」


アンダーカレント(豊田徹也)

内容に入ろうと思います。知っている人は知っているでしょうが、本作は漫画です。
舞台はお風呂屋。かなえという女性は、しばらく閉めていたお風呂屋さんを、なんとなく再開することにした。
ちょっと前に、かなえの旦那が失踪した。予兆は、何もなかった、はずだ。今も、連絡がない。旦那が失踪して、人出が足りなくなったのもあって一時的に閉めてたのだけど、なんとなく、旦那は帰ってきてないけど、また始めることにした。組合から、人を紹介してもらえることにもなってたし。
無口だけど仕事はきちんとやってくれる堀さんと、何故か一つ屋根の下で生活することになったかなえ。お風呂屋さんの仕事を再開し、日々仕事をしていく中で、いなくなった旦那と新しくやってきた堀さんの存在を中心にちょっとした変化を見せる日常。
どうして、何も言わずにいなくなっちゃったんだろう…。
というような話です。
世間的に評価が高い、ということは知ってて、昔から気になっていたコミックでした。その前評判が高すぎたかなぁ。個人的には、そこまで良い作品かなぁ、という感じがしてしまいました。
別に悪いと思ったわけじゃないです。例えば、この作品についてまったく知らない状態で読んだら、ふむふむなるほどこんな感じね、という程度ではあるけど、なかなか良いじゃん、なんて思ったかもしれません。そこまでいいかなぁ、と思ってしまったんだけど、これは僕の経験不足だろうか。
この作品の好きな点は、空気感です。僕は、映画でも漫画でも、セリフが少なくて、映画の場合だったら音楽が流れていないような、そういうものの方が好きだったりするんだけど、本書もそういうタイプの作品です。会話で何かを伝えようとするんじゃなくて、何もセリフがないような、登場人物の表情だけとか後ろ姿だけとか、そういう描写が多いコミックだったりします。それでいて、暗いって感じでもなくて、ギャグっていうほどでもないけど、ちょっと面白い感じのテンポの描写もあったりして、その辺りのバランスは好きだなぁという感じがします。
登場人物も、「キャラクター」という感じではなくて、現実にいそうな、地に足のついた感じが僕的に好みだったりします。
でも、なんだろうなぁ。イマイチグッと来ない、という感じなんです。なんでだろうなぁ。僕は割と、自分的にあんまりという作品(基本読むのは小説なんで、小説が主ですけど)を読んだ時に、どうして自分に合わないのかというのを出来るだけ勝手に分析して書くようにしてるんだけど、今回は何も浮かばないんだよなぁ。なんだろう。絵があんまり好きじゃない、とかかなぁ。うーん、どうなんだろう。難しい。
ただ、僕には、かなえの思考や感情が、あまり理解しにくかったかな、という感じはあります。もちろん、かなえ本人にだって言語化出来ないような思考や感情もあるでしょう。小説と違って、「言語化」というフェーズを経ずに物語を展開できるのが漫画の良さの一つかもなぁ、と思っていたりするんで、それはそれで全然いいんだけど、全体的にかなえの思考や感情が追えていないような感じがして、それを汲み取れるかどうかで読解に差が出るのかなぁ、という風にちょっとだけ感じました。
まあいずれにしても、世間的な評価は凄く高いんで、僕の評価なんか気にしないで、気になったら読んでみてください。

追記)ホントにamazonのレビューなんかでも絶賛で、「漫画の天才」なんて風に書いている人もいます。

豊田徹也「アンダーカレント」


破産(嶽本野ばら)





内容に入ろうと思います。
本書は、「半分実録」なんて書かれていたりするんで、実際に嶽本野ばらの現状を反映させた小説なんだろうと思います。タイトルの如く、借金に困る小説家の物語です。
いっときは売れっ子作家となり、かつては一千万円以上の貯蓄があった小説家の僕。しかし、尋常ではない浪費癖(稀覯本の蒐集や、高価な服など)が抜けず、また色んな事情から単行本の刊行が先延ばしになったために、収入が激減。カードでの支払いを繰り返していたら限度額に届いてしまい、完全に困窮してしまう。
しかしそんな中でも、かつて付き合っていた元恋人で、超資産家の令嬢であり、バンドデビューも果たしたことがある靴乃コ(頻繁に僕の家にやってきては本を借りて行ったりするような関係。実家があまりにも巨大すぎて歌を歌うこともままならないと、今では細々とモデルの仕事を続けている)にお寿司を奢ってしまったり、見ていたら欲しくなった財布を買おうとしてしまう。
泣く泣く稀覯本を売ったり、止む無く高利貸しの魔法使いである要容子(最近被災地から引っ越してきた、巫女コスプレがデフォルトの女性)から少額のお金を借りたりとかしながら凌ぐのだけど…。
どうにもならなくなって、出版社の担当編集者に泣きつき…。
というような話です。
なかなかどんな風に評価していいものか、悩む作品ですなぁ。
自分の読書記録を見返してみたら、案外僕は、結構嶽本野ばらの小説を読んでるみたいなんですね。こんなに読んでたか、という感じです。それもこれも、デビュー作の「ミシン」が素敵だったからに他なりません(読みたいと思いつつも、「下妻物語」は読んでいなかったりするんですけど)。
デビュー当時の頃は、なんというか、巧く表現できないんですけど、「自分の内側から湧き上がるこのどうにもしようがない感情を吐き出さないといられない」みたいな感じを受けました。いや、まあそんな風に言葉にしていたわけじゃなくて、作中にデビューの時はこうだったのになぁ、という表現があって、確かにそうだなぁ、と思ったので書いてみただけなんですけども。でも確かに、デビューの頃は、圧倒的なディープな世界観の中で、社会の中にはどうしても溶け込めないでいるはみ出し者たちの感情をうまくすくい取っていたように思う。
まあその後、色んなタイプの作品を書くようになって、まあ世界観がディープだったりそうでなかったり、身を切るような切なさが描かれていたりそうでなかったりしたけど、まあやっぱり、デビューの頃のあの感じはあんまりないかなぁ、という風には思っていました。
本書も、まあもちろんそういう作品ではないんですね。どこまでが実録なのか判断がつかないのだけど、本書の主人公の小説家の行動がある程度真実を衝いているというのであれば、本書は「どうにかお金を得るために書いた」小説ということになるのでしょう。
いや、それを批判したいとかいうわけではなくて、本書は、その立ち位置が自覚的であるからこそ救われているのだろうな、という印象を受けました。
本書は、小説としてどうということはあんまりない感じですけど、でも、嶽本野ばらがやけくそで自分をさらけ出している、という点が面白い感じがするし、小説としての完成度がさほどでもなくても、その部分で読めてしまう感じはあります。それに、「やけくそで(というかお金のために)書いている」と作中でも触れているし、そのことに自覚的でもあるのでしょう。どこまで本書の主人公と嶽本野ばらをクロスさせていいものか悩みますけど、震災をテーマにした小説を依頼されて書こうとして吐くシーンがあります。お金のために、震災を食い物にしてお金を得ようとしている自分の有り様に嫌気が差すのです。嶽本野ばらが本書の主人公と同じタイプであるならば、日常生活のありとあらゆる部分についてだらしなくても、少なくとも『書く』ということについては真摯にならざるを得ないのでしょう。たとえ困窮していようと、お金のために作品を書くことに幾ばくかの抵抗があって、作中でそれに触れているとも解釈出来るわけで、そういう部分まで汲めばなかなか面白く読めるのではないかと思います。
ただ、そこには一点、越えがたいハードルがあるのですよね。それは、「読者が嶽本野ばらについてある程度知っていないといけない」ということです。
こんなことを書くと凄く失礼かもしれないけど、嶽本野ばらはコアなファンが多くて、デビューから12年経つ現在では、なかなか新規のファンは増えないものなのかもしれません。既存のファンが買うということがある程度前提であるのであれば、まあ本書は成立しうるのかな、という感じがしました。
やっぱり、主人公=嶽本野ばらと捉え、嶽本野ばらについてある程度のイメージ(高貴だったり、気高くだったりというようなイメージ。実際作中にも、読者からの手紙の文章という体で、そういう文章が書かれています)を持てる人でないと、なかなかこの作品は面白く見えないでしょう。「あの嶽本野ばらがこんなことに!?」みたいな面白さと並走する形で読めばそれなりに面白く読める作品だろうなと思いました。
あと、表紙の靴乃コと要容子の絵が凄く可愛いんで、どうにかして主人公も含めた三人がもっと絡まり合う感じの小説になったらよかったかな、という感じがしました。主人公と靴乃コとか、主人公と要容子という関わりはあるんですけど、三人で絡むシーンっていうのが凄く少ないから、どうせこんな素敵な表紙の小説なんであれば、三人のドタバタみたいなのがもっと描かれてもよかったのかも、と思います。本書の主人公は萌え系のアニメとかが好きという設定だし(嶽本野ばらもそうなのかな?)、本書も結構ギャグっぽい方向に振ってるんで、どうせならラノベみたいな感じの、主人公のヘタレ男の周り集う可愛い女の子たちとアハハ、みたいな感じの小説にしちゃってもよかったんだろうなぁと思います。
あと、まあこれは突っ込むのは野暮ってなもんですけど、どうしても気になったことが。稀覯本を売るつもりで、稀覯本についての会話を靴乃コとか、神保町にある古本屋の店主としたりするんだけど、彼らは会話の中にほんのタイトルを入れてくるんですね。『ですね。1991年に写真家のスティーヴン・ガン、モデルのセシリア・ディーン、メイクアップアーティストのジェームス。カリアードスが創刊した限定千部のヴィジュアル・アートのオブジェともいえる雑誌。当時、日本でこれがもてはやされたのは、しかしその芸術性よりも、希少で高価が故でしいた。…』みたいな会話をするんだけど、そんな会話しないでしょうよ、なんて思ってしまうのですね。もちろん小説だからしょうがないんだけど、お互いにその価値が分かっている人の間では、「これ」とか、何か略称があればsの略称で呼んだりするよなぁ、とか。どうにかその説明的な部分は地の分に入れられなかったんかなぁ、と思っちゃいました。
さっきも書いたけど、僕の個人的な意見としては、嶽本野ばらに対するイメージを持っているかどうかで読後感が大分変わる小説だと思います。嶽本野ばらの作品って読んだことないけど、とりあえずこの作品でも読んでみようかなぁ、っていう感じは、個人的にはオススメしません。

嶽本野ばら「破産」


おとなの進路教室。(山田ズーニー)

内容に入ろうと思います。
本書は、ベネッセコーポレーションの小論文編集長として16年勤めた後、なんのあてもなく38歳で仕事を辞め独立、そこからもがきながらも現在の立ち位置を獲得していった著者による、「働くとは?」「生きていくとは?」というような、主に進路をテーマとした文章をまとめた作品です。元々は、「ほぼ日刊イトイ新聞」内で連載されていたものだったようです。
いや、ホント、これは久々に超絶的に素晴らしすぎる作品に出会いました!サラッと読むつもりで手にとった一冊だったんですけど、予想外というか、予想以上の素晴らしさで、ちと山田ズーニーのファンになってしまった気がします。これはホントに、色んな人に薦めたくなる作品だなぁ。実際今日、昔一緒に仕事をしていた人と久しぶりにあって、その人が、仕事的なことでちょっと悩んでいるというんで、じゃあということでこの本を勧めてきたばかりです。これはマジで、人生に悩んでいる人には是非とも読んでほしい作品だと思いました。
本書はまえがきで、こんな風に書かれています。

『特効薬ではありません。
さらさら読める文章でもありません。
ひっかかり、ひっかかり、読むところもあります。
でも、自分の考えを引き出すのによく効きます。』

確かにその通りです。
本書は、明確な答えを提示してくれる作品でもなければ、何かズバッとしたものを提示してくれるような作品でもありません。著者が、自身の経験から、あるいは自身と関わりのある他社の経験から、様々に悩み苦しみ考え、そうやって表に出てきたものをまとめている、そんな印象があります。文章は、読みやすいし分かりやすいです。でも、書かれている内容は、スルッと読めるものでもないし、消化するのに時間が掛かるようなものも多いです。
一般的に「自己啓発本」と呼ばれる作品をあんまり読まないんでちゃんとした比較は出来ないんですけど、でもなんか、本書のような作品って凄く珍しいなと感じました。僕のイメージでは、一般的な「自己啓発本」って、『自分の方がこんな経験をしている、こんな知識がある、こんな立場にいる、だから私の言ってることって正しいでしょう?』みたいな印象があります。書かれている内容に共感できる部分もあるのかもしれないのだけど、それと同時に、うーむっていうような違和感も覚えてしまいそうな気がします。
でも本書は、『著者が一緒に寄り添って考えてくれる、悩んでくれる』そんな作品なような気がしました。読むと、マッサージでも受けてるみたいに肩の力が抜けていくし、なんだか前に進めそうな気がしてきます。等身大というか、著者が自分自身を大きく見せないようにしているところがあるんで、寄り添いやすいんだろうと思います。あまりにも凄すぎる人の話って、「へぇー」とは思えるけど、自分と同じ世界の話だと感じることって難しかったりするだろうなという印象があります。本書は、著者が読者と同じ土俵に立ってくれているんで、著者の言葉がすんなり届くような、そんな感じがありました。
僕は、読みながらメモを取ってて、こんなようなことを書いていたりする。

『就活生は、P36・P66・P73・P125・P173・P199を読んでみてください。
転職を考えている人は、P20・P50・P85を読んでみてください。
働くことに悩んでいる人は、P102からの第二章を全部読んでみてください。
そして、人生に悩んでいる人は、頭から全部読んでみてください』

これは、そのまんまPOPのフレーズにしようと考えています。
普通POPは、いいフレーズなんかを抜き出したりしてアピールするんですけど、本書は二つの理由でそれが難しいんです。
一つは、抜き出したいと思えるフレーズがとても多いということ。そして、こちらの方が致命的なんだけど、その部分だけ抜き出しても細かなニュアンスがこぼれ落ちてしまうような、コラム一つ丸々読んで一つの完結を得られる、という印象が強いということです。
なかなか巧く説明できないんだけど、例えば新書やビジネス書ではよくあるけど、「この章のまとめは→○○」みたいなのが各章の終わりに書かれていたりする。でも、本書では、なかなかそれは難しいのだ。結論めいたものはあるし、そこに向かって文章は収斂していくんだけど、でも結論だけ取り出すことが出来ない。そこに至る過程まで含めて『一つの結論』という印象が凄く強いのだ。
なんとなく、なぜそうなのだろうというのを書いてみよう。
僕のイメージでは、著者が、『見えやすいものから敢えて視線を外し、見えにくいものに目を向けている』からではないかと思う。
見えやすいものは、文章にしやすいし、結論を短くまとめもしやすいだろう。見えやすいものには大抵名前がついているし、名前がなかったとしても広く同じものを共有できるだけの共通認識が存在していたりするはずだ。だから、見えやすいものばかり見て文章を書いていれば、結論だけ取り出すことが出来る文章に出来るだろう。
でも本書は、見えにくいものに出来るだけ目を向けようとしている。見えにくいものは、そもそも気づいていない人が多いから名前がないことが多いし、一つの言葉で多くの人に共有出来るだけの共通認識が存在しないことも多いだろう。
著者はそんな見えにくいものに目を向けているが故に、結論だけ取り出すことが難しい文章になるのではないか、と思う。
全部で30個のコラムがあり、一応10個ずつ章に分かれているのだけど、「働くってどういうこと?」「やりたいことって何?」「自らの意思で選択するってどういうこと?」「居場所ってなんだろう?」というような結構幅広いテーマを、著者自身の経験や読者からのメールなど、具体的な話を適切に組み入れながら話を組み立てていく手腕はやっぱりさすがです。自分の価値観や、自分が考えてきたことに近いこともかなり多くて、そしてそれ以上に、なるほどそんな視点を持つことが出来るのか!というような気付きが凄く多くて、本当に実りある読書になりました。
個人的には、未来を選び取らなくてはいけない就活生や、今まさに人生の方向性に迷っている人なんかに読んでほしいし、上司が話の通じない部下に読ませてみたりするのも面白いかもしれません。読んでいて、この本を必要としているだろうなぁ、という存在が凄くたくさん浮かんでくるようでした。自分の問題が何かわかっていない人、自分が何に悩んでいるのかわかっていない人、そういう「乗り越えるべきものさえ見えていない状態」、つまり「どんな風に乗り越えるべきか」なんてところまで辿りつけず、どうやってその場所から抜けだしたらいいのか分からない人には、本当に素晴らしい手引きになるのではないかなという感じがしました。ちょっと格好良くいうと、『生き方をデザインするための素敵な発想集』という感じでしょうか。
正直今回の感想は、これ以上書けることがない。本当に、具体的にどんなことが書かれているかに触れようとすると一部を切り取らないといけないし、でも切り取られた一部だけでは正確なことは伝わらないということはとても分かっているわけです。なかなか内容に触れるのが難しかったりするわけです。
でも、正確さを多少犠牲にしてでも書いておきたいものをいくつか選んでみたので、それをここに引用して今回の感想を終わろうと思います。

『やりたいことは、人とのつながりの中に見つけていくしかない。(中略)人とつながりたいなら、自分の中にあるものを出して、表現するしかない』

『そんな若い世代を見ていると、あれこれと、画策したり、獲得したり、獲得したもので自分を説明したり、誇示したり、人に勝とうとしたり、という根性がない。
だからだめだという大人もいるけれど、私には、それが「余裕」と映る

豊かさが生み出した心の「余裕」

平和だの共生だの、外から押し付けられなくても、自分を飾らず、さらりと脱いで、共感によって、つながる力を彼らは持っている。
肩書きとか、実績とか、栄誉とか、そういう自分の位置に関する、いっさいの説明ゼリフを排除したところで、人とつながる力、場とつながる力。
だから若い人は、大人より苦じゃなく、すぐ友だちができていく』

『「やりたいことが見つからない」というとき、このこと自体が問題ではないと思う。まだ、社会に出て働いたこともない若者の、みんなに「やりたいこと」があるはずだと考える方が無理がある』

『でも、小学校から中学校、高校、大学と、ずっと「勉強」だけをやってきた人間は、「勉強でない、仕事をするとはどういうことか?」を、いったいどこで身につけるのだろうか?』

『もしも、「いまから外に出て、五千円稼いできてください」と言われたら、あなたは、どうやって稼いできますか?』

『自分も含め、関心が、内に内に向いてしまう人がどうしてか、いま、とても多くなっていると思う。(中略)
いまの人に「自己肯定感」が育たない、というが、それも、そのはずだと思う。外に目が行かないとなると、様々な不安や憤りも行き場を失い、結局は、「自分」以外に責めるものは、なくなるからだ。』

『いま、私が魅力を感じる人は、お金とか、地位とか、権威とか、自分にはりつける強いアイテムを何ひとつ持たず、「自分はこれからだ」ともがいている人たちだ。』

『自分探しじゃない。自分を探すから迷走するのだ。そうじゃなく、絆づくりなのだ、といま私は思う。』

ホントは、もっと言葉を尽くしてあれこれ絶賛したい作品だ。でも、なかなかそれは難しい。一つのコラムそれ自体で一つの完結を生み出している作品を、コラムを全文引用する以外の方法で紹介したり褒めたりすることがなかなか難しいのだ。とにかく、この作品は素晴らしかったです。間違いなく、他の山田ズーニーの作品も何か読んでみることでしょう。とにかく悩んでいる人は、絶対に読んでみてください。あなたのその悩みが、すぐに解消されるような一冊ではありません。でも、あなたが前に進もうという気力を得られるかもしれないし、時には、後ずさってもいいんだよね、というような勇気も得られるかもしれません。本当に素晴らしい作品です。是非読んでみてください。

山田ズーニー「おとなの進路教室。」


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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)