黒夜行

>>本の中身は(2011)

翼(白石一文)

内容に入ろうと思います。
田宮里江子は、浜松光学という、電子部品関連の製造・販売をする会社で、営業課長代理として浜松から最近異動してきた。異動後初の大きな商談を成功させるべくこの半年必死で頑張っていたが、その最後の調印の日の朝、起きてみると田宮は、高熱にやられていた。
午前中の予定は飛ばせるからと、近くの診療所に行くと、そこで長谷川岳志と再開した。
長谷川とはこれまでほとんど何もなかったし、これからも何もないはずだ。
長谷川は、田宮の親友である聖子の彼氏として出会い、以後ずっとそうだった。長谷川との間で、聖子に秘密にしなければならないことは、一度しかない。その一度も、とにかく長谷川の荒唐無稽な考えにさらされ続けていただけで、別に田宮の方に疚しさはない。
仕事に戻り、つつがなくとは言えない形で調印を終えた後、明後日に控えている母の七回忌に万全を期そうと、もう一度長谷川の元で点滴をしてもらっている時、長谷川から二人で会えないかと誘われる。一度は断った田宮だが、じゃあ一度ウチに来ないかという誘いを断りきれなかった。
それから長谷川とは、時々会うようになった。長谷川は基本的に、何も変わっていなかった…。
というような話です。
本書は、光文社のテーマ競作という企画で出版された一冊で、6人の作家が『死様』という共通のテーマで作品を書くというものです。僕の書いた内容紹介からどうやって『死様』というテーマになるのかわからないかと思いますが、確かに本書では、死ぬということがどういうことなのか、ということが、様々な人間の口から、様々な価値観を背景に語られることになります。
本書を読んだ僕の正直な感想は、本書は誰の物語なんだろうなぁ、ということでした。
本書の主人公は、田宮で間違いない。間違いないのだけど、これが田宮の物語なのか、と聞かれると、僕はちょっと困る。田宮というのはある意味で、触媒として本書の中で存在するのではないかと思う。
触媒というのは、ある化学反応を効率よく進めるために加える物質のことで、触媒自体はその化学反応の過程で変化はしない(質量とかは減ったりするかもだけど、性質は変わらない)。田宮も同じようなもので、田宮は作中に出てくるあらゆる人間関係の間にいて、田宮がその場にいることで相手の人間関係を変質させてしまうような、そういう立ち位置として描かれているように感じられる。
そう感じてしまうと、この小説が誰の物語なのか、ちょっと捉えにくいなと思う。田宮自身は、完全な触媒というわけではなく、もちろん変化もする。しかしその変化は、やはり主人公だというには弱い変化に僕には感じられる。長谷川の物語は実に興味深いし、長谷川の言葉には共感できてしまう部分が結構あるのだけど、しかし長谷川の物語なのかというとそれもなんか違う。他にも本書では、田宮が浜松時代に尊敬していた上司である城山や、田宮の弟の元奥さんである朝子など、なかなか一筋縄ではいかない濃い人物が描かれる。けど、彼らも単独で物語の主役になれるほどではない。
どうもその辺りが、僕の中で落ち着かなさを感じさせたのではないかな、という感じがしました。僕は、白石一文の作品をそこまで読んだことはないのだけど、「僕の中の壊れていない部分」「見えないドアと鶴の空」「一瞬の光」の三作を読んで、この作家とはなかなか相性がよくないなぁ、と感じています。凄く評価の高い作家だということは知っているし、「僕の中の壊れていない部分」なんかはかなり評価されているように僕は感じるけど、でもどうも僕には分からない。本書も、絶賛されている評判をいくつも見聞きしているのだけど、やっぱり僕にはあまり合わなかったなぁ、という感じがしました。
作品の中心というか焦点は、もちろんテーマである『死様』に向けられているのだけども、それとは別に、なんか中心を見定めることの難しい作品だな、と思えてしまうのですよね。自分でも言っていることがよくわからないけど、なんかすっぽり真ん中が抜けてしまっているような、そういう感じがする。もちろんその空白は、僕がきちんと読めていないだけ、というだけのことかもしれないけど、少なくとも僕にはそう見えてしまうのですよね。
ただ、小説としては僕の中ではそこまで強く評価できないのだけど、作中に出てくる価値観や言葉の中には、なるほどと思わせられるものが散りばめられていた。その中でも、特に僕を惹きつけた二つを引用してみようと思う。

『私たちは手にした幸せより先に死ねれば、それが最高の人生なんでしょうね』

『そう考えると、俺たちは他人の心の中に自分という手紙を配って歩く配達人にすぎないのかもしれんなあ。配達人が郵便受けに差し込む手紙の中身を知らないように、俺たちも自分がどんな人間なのかちっとも知らずに、それをまるごと人に預けているだけなのかもしれん』

どちらも、前後の脈絡がないまま、ここの部分だけ抜き出してもスパッと意味が通じるわけではないかもしれないけど、この二つはなかなかいいなと思いました。
前者には、「自分が手にした幸せには寿命がある。自分自身の寿命と比べて、幸せの寿命が長ければ、それが幸せということだろう」という意味で、「自分が手にした幸せには寿命がある」という部分に凄く惹かれます。僕もどうしてもそんな風に考えてしまう人間で、ずっと幸せでいられるなんていう楽観的な感覚を持つことは難しいのですよね。逆に、幸せを手にしてしまえば、その幸せの寿命がいつ尽きるだろうか、ということに恐怖してしまうから、なるべく幸せを手に入れたくない、と考えるような人間だったりします。めんどくさいですね。
後者の言葉は、自分の中で考えたこともないような発想だったので、凄く感心しました。この話は、「自分のことを一番知っているのは自分だとは限らない。その自分のことを一番知っている人間が死んでしまうことこそ、自分という人間の致命的な死なのではないか」という話が前後にあって、それでこの言葉が出てくるんだけど、なるほど、という感じがしました。確かに僕たちは、自分のことを知っているようで知らない。郵便配達人のように、自分が届けているものがなんなのかわからないまま相手に自分自身そのものを届けているのかもしれない、という発想は、なかなか素敵だと思いました。
小説作品としては、やっぱり僕はどうしても白石一文の作品とは相性が悪いな、と感じました。でも本書は、作中で描かれる価値観や言葉なんかに、僕なりに気になるものが多くて、そういう意味では惹かれる作品でした。特に、長谷川のちょっと常軌を逸した考え方のいくつか(さすがにすべてではない)は、なんか凄くわかるな、という感じがしました。

白石一文「翼」



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ロンツーは終わらない(山田深夜)

内容に入ろうと思います。
物語のスタートは、青森県にあるねぶた祭サマーキャンプ場。
その名の通り、ねぶた祭のためにあるキャンプ場だ。バイクもそこかしこに置かれ、ライダーたちが瞬時に仲良くなる。ライダーはどこにいてもそういうものだが、こうやってキャンプ場で一晩過ごすとまた違う。
岩山は早朝、一人でそのキャンプ場から出発するところだった。
群れるのは好きではない。ロンツー(ロンリーツーリング)を好み、群れたがるライダーたちとは違い、岩山は一人でバイクを転がすことを好む。何故だか、貸し借りにも異常にこだわる男で、ほんの些細な借りも嫌がり返そうとする。人から無償で何かをしてもらうなんて耐えられない。
そんな、ライダーとしてはちょっと厄介な岩山の元に、一人の青年が近づいてきた。岩山は直感し、気を引き締める。案の定その男は、自分を東京まで乗せて言って欲しい、ときやがった。誰かと一緒に旅をするのなんてゴメンだという岩山は、にべもなくそれを突っぱねる。
しかし、キャンプ場から出ようとバイクを発信させた直後、窮地をその男に救われてしまう。
貸し借りが嫌いな岩山は、斗児と名乗ったその青年を、近くの駅まで、という条件付きでバイクに乗せてやることにした。
駅までという約束は、なし崩し的に反故にされた。龍野と名乗る青森のチンピラ兄弟に因縁をつけられ、追われる身になったのだ。
しかし次第に、斗児の置かれた状況が明らかになっていく。様々な状況から、斗児に対する態度が軟化していた岩山は、柄でもないのに、斗児を東京駅まで条件付きで送り届けてやると約束してしまった。
青森のキャンプ場を出た二人が、追手に阻まれつつ様々な人たちと出会い、その過程で逃亡が助けられ、また岩山と斗児が抱える問題も少しずつ誘拐し、二人は旅を続けながら徐々に、スタート時とは違った心持ちになっていく…。
というような話です。
いやはや!これは素晴らしい作品でした。山田深夜の作品は「電車屋赤城」しか読んだことがないけど、「電車屋赤城」もべらぼうによかったから実はちょっと期待していました。うん、この作家、やっぱり巧いわ。ちょっと凄いなぁ。
本書は、「父と子」というテーマがとにかく作品全体を通底していて素晴らしいのだけど、その話はちょっと後にすすとしよう。まず、物語を包むストーリー展開が見事だ。
この作品は、一言で言ってしまえば、斗児という青年が岩山の知己を借りて青森から東京まで行く、ってだけの話です。ホントに、たったそれだけ。物語のスタートが青森のキャンプ場で、物語の終わりは東京駅です。まあ若干の回想場面はあるものの、その道中を描く以外にストーリー展開は特にない。
しかしこれが本当によく出来てる。まあ正直、ちょっと物語に都合が良すぎるかな、という場面もないではないけど、その辺りも、斗児や岩山の性格や状況を実に巧く設定して、物語として可能な限り自然な感じを目指している。
このストーリー展開に関する部分は、まあネタバレに直結するんで詳しいことは書けないんだけど、よくもまあこれだけギリギリの感じの逃亡劇を演出出来るものだな、と関心しました。普通に考えれば、この物語の中で、斗児と岩山のチームの方が圧倒的に優位だ。なにせ、閉鎖空間で追われているわけでもなければ、移動手段が限られているわけでもない。車でも電車でもなんでも、とにかく好きなものを選んで東京駅を目指せばいい。東京駅に早くたどり着かなくてはいけないわけでも、時間制限があるわけでもないから、斗児と岩山の二人は、どこかでしばらく潜んでいて東京駅に向かうのを遅らせたっていい。
一方追う側は、最終的な行き先が東京だってのは分かってるものの、移動手段を何にするのかもわからないし、どこかに潜伏しているにしてもどこかわからない。追う側にはかなりハードルの高い鬼ごっこだと思うんですね。
しかも設定として、岩山は物凄く頭の回転が早いし、知恵も回る。一方龍野兄弟は、決して頭が悪いわけではないけど、ちょっと間が抜けている。そういう、基本的な能力の設定としても、斗児・岩山側の方が高めに設定されているのだ。
なのに、この逃亡劇は、結構いい勝負になる。もちろん、追われて逃げてばかりでは、「父と子」の物語の方がゆっくり展開できないから、ある程度斗児・岩山側を有利にして時間的な余裕をもたせたのだろうと思う。それでも、龍野兄弟もちょっと遅れはするけど、きちんと追いかけてくる。その設定が本当に巧かった。普通の物語では、その展開はちょっと不自然になってしまうな、という場面でも、かなり偏屈な岩山のキャラクターがどっしりと設定されているから、岩山の状況に見合わない頑固なこだわりも通るし、また追う側と追われる側に奇妙な連帯感があるという点でも、不自然な状況がまかり通る素地がある。本書は、逃亡劇の部分だけ抜き出せば、それほどスリリングな展開ではないし、その展開だけでは決して一つの物語にはならない。ただ、「父と子」というメインの話を展開させる土壌としての逃亡劇という側面と、「父と子」という物語の核とは別に、エンタメとして物語を面白く読んでもらうという側面と二つあって、それが非常に巧くマッチしていると思いました。
龍野兄弟のキャラクターも実にいい。龍野兄弟は、地元青森で整備工場を経営する二人だが、諸事情あって斗児・岩山の二人を追いかけることになった(ここにも実は「父と子」の話が隠されている、という素晴らしさ)。いきがってはいるが所詮は田舎のチンピラで、脇の甘さに何度も岩山は笑みをこぼすことになる。二人を追わなけえばならないという事情から、多少のことはするけども、でも暴力的なことには訴えられないし、決して悪人ではない。
そんな龍野兄弟とのやり取りを、岩山は楽しんでいる。もちrん岩山には、斗児を東京駅まで送り届けるという約束があるから、龍野兄弟の希望を叶えてやることは出来ない。しかし、決して悪い人間ではない龍野兄弟のことは、憎めないしやり取りを楽しんでもいる。
この、追う側と追われる側の奇妙な連帯感も凄く楽しい。殺伐とした逃亡劇ではなくて、非常に牧歌的なのだ。それでいて、岩山の能力が図抜けているので、物語がつまらなくなる、ということはない。本当に巧い設定・展開だよなぁ、と感心しました。
この逃亡劇は、最後の最後まで楽しませてくれる。見事です。こんな形での逃亡劇が成立するんだなぁ、と思いました。
さてそして、「父と子」の物語です。これももう抜群にいい。
そもそも岩山は、具体的なことまでは判然としないものの、物語の冒頭から、父親への屈折した感情を抱えていることを読者は知る。それは、自分の名前や所属、生きてきた道のりや性格など、あらゆるものがぐちゃっとこんがらがって、その結果生まれてしまった固い結び目みたいなもので、岩山自身、その結び目の存在を苦々しく思いつつ、どうにも出来ないでいた。他にもいろんな理由があるとはいえ、岩山がロンツーをしている背景にも、父親とのあれこれがないとはいえない。
そんな折、斗児という青年に出会った。この斗児という男、初めの内は、ただ安く東京まで戻りたいだけの男かと思うのだけど、実はそうではない。斗児も父親とのとある確執を抱えている最中であった。でもそれは、物語の序盤ではまだ読者に知らされる情報ではないので、具体的にはここでは書かない。
岩山と斗児は、奇しくも共に、父親という存在への一筋縄ではいかない感情を抱えてふたり旅をすることになった。
道中二人は、様々な場面で「父と子」の物語を耳にすることになる。人と関わることを意識的に避けてきたはずの岩山だが、斗児と一緒に行動するようになって何かが狂ったのか、様々な人間から、その人間が抱える「父と子」の物語を耳にすることになる。
運送会社を切り盛りする女主人から聞いた聖書の話、龍野兄弟の話、せんべい屋の跡取り息子の話。他にも多くの人たちから、大小様々な「父と子」の物型を耳にすることになる。
岩山と斗児の状況は、似ている部分もあり似ていない部分もある。決して同じではない。だから、それらの話を聞いて二人が考えること・感じることもやはり違う。特に岩山の感情は、一筋縄ではいかないほどこんがらがっている。
岩山は、自身の性格や考え方が極端であることを自覚しつつ、周りの人間の話を素直に聞き入れることが出来ない。それは、岩山自身が体験したとある出来事の重さを忘れることが出来ないからだ。岩山にとってそれは、自分一人で決着できるほどの軽さではないし、誰かと共有して軽さを減じれるほど柔なものでもない。岩山にとってはどにもしようのない存在感で、どうしていいのかわからないほどだった。
しかしそれが、次第に溶けていく。それを溶かした存在の筆頭は、斗児だっただろう。斗児が何かをしたわけではない。しかし、長いこと積極的に人と関わることを止めていた岩山にとって、不可抗力的に(と自分に言い訳が出来る状況である、ということが岩山自身の中では非常に重要だった)誰かと一緒にいなくてはならない状況に置かれた、という変化が、最も大きなものだっただろう。しかもその斗児自身も、父親との確執を抱えていた。そこには、かつての自分を見るような眼差しもあったのではないかと思う。
さらにその上で、道中二人は様々な人間に出会う。それは、日常的にはなかなか出くわすことのない、ちょっと変わった人間だったり、ちょっと変わった状況にいる人間だったりするわけだけど、その人たちと関わり話を聞くことで、岩山の強張りは少しずつ緩やかになっていく。
その過程が本当によく出来ていて素晴らしい。ホントはもっと色々書きたいのだけど、やはりネタバレになっちゃうことを考えて具体的に書けないのが残念。岩山の、どこまでもねじ曲がった性格や考え方が、非常に素直な青年・斗児との逃亡劇の中で、少しずつ変節していく。著者の力量が際立つ物語だったなと思います。
岩山が繰り出すマニアックな知識や危機的状況に慣れた立ち居振る舞いもなかなか圧巻だし、斗児の方も次第に強くなっていく過程も実にいい。「父と子」という骨太の主軸を、ちょっと脱力させつつ巧くシーソーゲームが成り立つ珍妙な逃亡劇で包んだ物語は、エンタメとしても面白く読ませつつ、しっかりと読者の内側に残すものがある。やっぱり山田深夜は巧いなぁ。これからも追いかけたい作家です。是非読んでみて下さい。

山田深夜「ロンツーは終わらない」




愛とカルシウム(木村航)

内容に入ろうと思います。
主人公は、18歳の藤島環。環は、HDS(ハンプティ・ダンプティ・シンドローム)という、体中が外側から骨になっていくという、治療法の見つかっていない難病に冒されている。それまでは、学校設備もある医療施設にいたのだけど、4年前から釜石の海を遠くに見ることが出来るしおかぜ荘という施設にやってきた。体重が十数キロしかない環は、家族とすんなりいかない関係を抱えながら、それでも毎日それなりに生きている。辛いことも多いし、ままならないことばっかりだけど、それでもどうにか生きている。
そんなある日。プラネタリウムを見るような角度でしか車椅子に乗れない環は、敷地内を散策中、巣から落ちてしまった雀の雛を見つける。動いていないように見えるけど、まだ生きているらしい。環は、両手両足もほとんど自由に動かない状態で、この雀の雛を飼うことに決めた。
ずっと昔から環の頭を占めているある計画はやっぱり未だに忘れていないし、施設を取り巻く状況の変化から、そろそろそれを実行に移すべき時なのかもしれない。母親も面倒だし、同じ施設にいる面々も面倒だし、何よりも自分の不自由さが面倒だけど、でもなんとかやったるぜ!
というような話です。
言い訳をすると、やっぱり「困ってるひと」ってノンフィクションを読んじゃってるから、ちょっとこの作品の読み方は難しかったなぁ。
本書は、結構ハードな難病(HDSはたぶん架空の病気だけど)を抱えた主人公が、周りもそれなりに重度の障害を抱えた人たちに囲まれつつ日々を過ごす話なんだけど、話のトーンは実に明るい。もちろん、シリアスな話もあるし、人に見えないところで環が落ち込んでたりすることだってあるわけなんだけど、基本的に環は常に明るい。
それは、長い施設生活の中で見につけたズルイ処世術の一つ(と環はきちんと自分で認識している)だ。その笑顔には、色んなものが溶け込んでいる。そういう意味で、決して明るいだけの小説ではないのだけど、でもこの、空元気だとしたとしても、全体のトーンがこれだけ明るいというのは、なんか救われる気がする。
でもそういう、本書を読んで感じる『ちょっと特殊な明るさ』みたいなものって、「困ってるひと」のトーンに凄く近い気がしちゃうんですね。
「困ってる人」っていうのは、病名さえ確定しないような超難病に冒された女子大生が、毎日めちゃハードな日々を送りながら、それでもその生活をコミカルに楽しく描いているノンフィクションで、やっぱり事実の力の強さって凄いなと改めて思った。どうしてもその点で、小説って太刀打ち出来ない。もちろん、事実があれば小説はいらないのか、というような話をしたいのではない。小説にはもちろん小説の良さがあって、僕はそういう部分も好きだ。しかしどうしても、本書と「困ってるひと」は、難病かつ明るいというトーンが非常に似通ってしまっているために、それで比較するとやっぱり事実の方により強さを感じてしまうのだよなぁ。
だから、正直僕はこの作品を読んでて、そこまで強いものを感じられなかったのだけど、それは僕が「困ってるひと」をもう読んでしまっているからで、作品がどうこうという部分とはまた違うのだろうなぁ、という気がします。
本書では、環の日常という部分の他に、結構シリアスな現実が描かれる。それは、法律の話だ。そしてやっぱり法律の話は「困ってるひと」にも出てくるのだけど、こういう部分はやっぱり、普段僕らが触れない世界のことだから全然分からない。
でもやっぱり、僕らには無関係じゃないんだよなぁ。どんな法律の話が描かれるのかは具体的には書かないけど、結局のところ、僕らの無関心がそういう現実を生み出しているのだ、ということは、やっぱり認識しておかなくてはいけないな、という気になりました。とはいえ、結局僕はまた忘れちゃうし(「困ってるひと」を読んだあとだってそう思ったはずだけど、やっぱり忘れちゃってるし)、覚えてたとしてもきっと何もしないんだろうけどなぁ。
個人的にどうしても気になってしまうのは、地の文のユルさかなぁ。ラノベ出身の人だから、っていうのもあるんだろうけど。会話文が凄くユルいタッチになるのは、それは全然いい。「うーわー最悪」とか「てゆーかさ」なんて表現があっても、僕は全然気にならない。でも、地の文もそれとほとんど同じトーンなんだよなぁ。もちろんその方が、主人公の環の感情が伝わりやすいかもしれないけど、どうしても僕の個人的な意見では、そのやり方はちょっと作品全体を必要以上に軽くしちゃうな、という気がします。もちろん、そういう部分は一部なんで凄く気になるほどでもないんだけど、個人的にはもう少し、地の文は違ったタッチにした方がよかったような気がします。
あともう少し厳しく行くと、環の話の軸となるものがもう少しはっきりして欲しかった気がします。雀を育てるのも、なんか軸っていうほどの感じではないし、環が秘めたる計画の話とか、色んな人との関わりとか、一つ一つは面白いんだけど、どうもどれも主軸っていう感じがしなかったです。でもまあやっぱり主軸と解釈すべきは、雀を育てるくだりなんだろうなぁ。なんかもうちょっと、という感じがしてしまいました。
とはいえ、読みやすいタッチで、なかなか身近ではない世界を描き出してくれている作品なので、それなりに面白く読めると思います。興味があれば読んでみてください。

木村航「愛とカルシウム」



ピンポンさん(城島充)

とんでもない日本人がいたものだ。
内容に入ろうと思います。
本書は、高校一年から卓球を始め、たった5年で世界の頂点に立ち、その後日本のスポーツ界にとてつもない功績を残し続けながら、惜しまれて亡くなった天才・荻村伊智朗の生涯を描いたノンフィクションです。
1949年、都立第十高の二年だった荻村は、卓球部の主将だった。
中学時代は野球のエースだった荻村は、身体が小さくて自分はプロにはなれないからと言って野球はやめてしまう。都立第十高入学当時卓球部は存在しなかったが、先輩たちがどうにか卓球部を創部しようとしているのを知り、先輩たちの美しいラリーに惹かれた荻村は、創部を目指して活動を始めることになる。
ここから、荻村のとてつもない人生が始まっていく。
荻村の人生にはもう一人、重要な人物がいる。
2008年に閉めてしまったが、つい最近まで吉祥寺で卓球場を続けてきた、上原久枝という女性だ。
久枝は、家の事情から、当時の女性としては珍しく職業婦人として働いていたが、戦争をきっかけに仕事を離れ専業主婦として過ごしていた。専業主婦として何者でもない日々を過ごすことに焦りを感じていた久枝は、たまたま手にとった婦人雑誌に、函館に住む主婦が自宅で開いた卓球場が人気だ、という記事を見かける。
卓球場なら自分にも続けられるかもしれない。
そうして久枝は、夫を説得し、吉祥寺に卓球場を開く。
この二人が邂逅した。歴史のifの話はよくあるけど、もしこの二人が邂逅しなければ、その後の荻村の活躍もなかったのではないだろうか。
設備も時間も、高校では満足に練習出来なかった荻村は、他の同世代の卓球をする学生同様、町中にある卓球場で汗を流した。母子家庭だった荻村は、母親の蔵書を勝手に売りさばいてお金を作り、それで費用を捻出していた。
ある時吉祥寺に新しい卓球場が出来たと聞いて見に行くと、久枝に中に入ってやっていったら、と声を掛けられた。
やせっぽっちの少年は、卓球にすべての時間を注いだ。周囲の言うことを聞かず、練習の工夫や効率などをすべて自分で考え、妥協ということを知らなかった。周囲と打ち解けられず、傲慢に見られていた荻村だったが、久枝にだけは懐き、困っている人を助けたくなってしまう性分の久枝も、孤立し苦悩を抱えながら卓球を続ける荻村を献身的にサポートした。
久枝の卓球場には次第に、荻村を中心に様々な人が集まり、卓球部のない大学に進学した荻村は、久枝の卓球場で作ったチームで大会に出場するようになる。
そして荻村は、卓球を始めてからたった5年7ヶ月で、圧倒的な強さを見せて世界一となった。
しかし、他人にも厳しさを求めるあり方や、孤高を貫くスタイルには、反発も多かった。後に日本のスポーツ界に偉大な貢献を残す荻村だが、選手時代の回想をされると悪評ばかりが飛び出す。それでも、勝負に異常にこだわり、また、日本の卓球界の未来のことを考えながら動き続ける荻村に迷いはなかった。
選手を引退した後も、荻村の活躍は続く。
指導者として成果を残し、また国際卓球連盟会長に就任して以降は、「米中ピンポン外交」など、スポーツで各国の融和を図ろうと世界中を飛び回った。
1994年、荻村が62歳で亡くなった際、メディアは荻村についてこんな風に伝えた。
<日本スポーツ界は天才的才能のリーダーを失った><戦後日本の希望の星><「スポーツを通じ平和」が信念>
卓球選手としてだけに留まらない情熱を秘めた、荻村伊智朗という一つの才能を伝えた傑作です。
いやー、これはちょっと凄すぎました!!
僕は、荻村伊智朗ってまったく知らなかったんです。これまで生きてきて、一度も名前を見たこともないし耳にしたこともないです。この作品を読もうと思ったのも、これは絶対面白いぞ、っていう直観だけで、荻村伊智朗って名前や、ピンポンさんって呼称を知っていたわけではなかったです。
ホントに、こんなとんでもない日本人がいたんですね。ホント、読みながら感動してしまいました。
正直、卓球って日本でそれほどメジャーなスポーツではないと思うんです。野球とかサッカーは大人気だし、フィギュアスケートなんかはやる度にテレビで放送される。他にもそういう面でメジャーと言えるスポーツってあるんだろうけど、でも卓球って、福原愛がテレビに出まくってた時は一時注目されてただろうけど、今ではやっぱりそんなに注目はされていないですよね。
そんな卓球という土俵の上で、これだけの活躍をした人がいた、という事実に本当に驚きました。
いつだかの新聞に、20世紀を大経するスポーツマンというアンケート結果が載ったそうです。荻村伊智朗は、その当時スポーツ界で最も注目を集めていた中田英寿の16位を抑えて、国内編の15位にランクインしていた。
この話は、本書の読み始めのところに書かれていて、荻村伊智朗のことをまるで知らなかった僕は、へぇーそんなに有名な人なのかと、15位という順位でも結構驚いたんです。
その同じページに、こんなエピソードが書かれている。その記事を見た古いメンバーの一人が、何で長嶋茂雄が1位なんだ、中国やヨーロッパ、中東なんかでは荻村さんの方が遥かに知られてるんだ、と不満をぶつけてきた、という話。
読み終わった今となっては、その古いメンバーの一人の訴えは、凄くよくわかる。正直荻村伊智朗は、ノーベル平和賞とかもらっててもおかしくないんじゃないか、って思うぐらいとんでもない人間だと思いました。
さっきからちょくちょく書いているけど、荻村伊智朗という人間は、選手や指導者としてだけ凄いのでは決してない。でもまずその辺の話を書こうと思います。
荻村は、たった5年で世界のトップに立ったけど、卓球を始めた当初からその凄さは別格だった。
荻村が通っていた高校は進学校で、生徒は大抵みな部活を二年の二学期で止め、以降は受験勉強に専念した。しかし荻村は部活を辞めなかった。卓球で飯が食えるわけないじゃないか、と荻村を諭そうとする友人に、荻村はこう返す。

『僕らが大人になったときにそうなっているかどうかはわからないけど、スポーツも、スポーツに時間を注ぎ込む人間も、その価値を認められる時代がきっと来るはずだ』

これが高校二年生の言葉ですからね。凄すぎると思いました。荻村は、どんな時でも常に未来を見ていた。ある人間が荻村を、10年後の未来を見据え、そこにたどり着くために逆算して今何をしなければならないか考えるような男だった、と評していたけど、恐らく荻村はこの時点で、自分が世界のトップに立つことを考え、そこにたどり着くために何をしなければならないか考えていたことだろう。荻村はある時久枝に、石はいくら磨いてもダイヤモンドにはなれない、僕は初めからダイヤモンドだったんだ、と言ったが、それに何も反論できないと思わせるほど、器の違う男だと思いました。
荻村は、一切の妥協をしなかった。それが必要であると思えば必ずやったし、相手の都合を考慮して何かを諦めるなんてこともしなかった。時間や設備が足りなければ、頭を使って工夫した。荻村は、自分と同じぐらい努力している人間はいない、と言っていたけど、本当にそうだと思う。肉体を酷使し、人間関係をぶち壊し、あらゆるものを打ち捨てても、目指すべき将来に必要な今やるべきことに邁進していった。
練習に対する発想も凄まじかった。例えば荻村はある時から、練習場の近くにあった「高島易断」で観相や骨相を学び始めた。それは、ラリーをしている相手の表情の変化や心の動きなんかを分析するためだった。他にも、卓球とは関係ない本(宮本武蔵の「五輪書」など)から刺激をうけたり、ジムでトレーナーに指導をしてもらったりと、ありとあらゆることをやった。
荻村は、『時・時の記』と題したノートにこんなことを書いている。

『天才には彼の良き理解者、心の援助者が必要だといった様なことをルーヂンが言う。
天才を理解できるモノが居るか。
そいつも天才か。』

尋常ではない天才、天才の中の天才を目指して邁進した荻村は、ついに世界のトップに立つ。しかしその後、ヨーロッパで博物館巡りをしていた際、ミケランジェロの「ピエタの像」を見て、ミケランジェロがこれを作った時自分と同じ21歳だったことを知って打ちのめされるような、本当に底の知れない、妥協を知らない地平を目指し続けた男だった。
久枝についても書こう。久枝は、生涯に渡って荻村を支え続けた。荻村と久枝は、言ってみればただの他人だ。家族でもなんでもない。しかし荻村にとって恐らく、唯一心を許せる相手だったのだろう。
久枝もまた、非凡な女性だった。職業婦人として高島屋で働いている時、働く女性を撮影する映画で抜擢され映画に写ったことがある。人気女優だった李香蘭の接客をしたり、高島屋ブランドの帽子のモデルになったりと、女学校中退でありながら、働くことで様々なものを身につけていった。
そんな久枝だったから、戦争をきっかけに仕事をしなくなって、宙に浮いたような気持ちだったのだろう。なんとなく始めた卓球場だったが、すぐさま荻村と出会って、そこから久枝はまた、表には出てこないけど日本卓球界を陰で支える重要な立ち位置を占めることになった。
久枝と荻村の関係は、常に良好だったわけではない。母子家庭であるという出自もあってか、大きな孤独を抱えていた荻村は、久枝が他の人にかまっているのを見ると嫉妬に駆られた。素直に言葉に出せない荻村は、わかりにくい形で自分の不満を表現するしかなかった。その後も、ちょっとしたことがきっかけで疎遠になったり、お互いの誤解からすれ違ったりすることもあったけど、荻村の中には常に久枝の存在が大きく存在していただろうと思う。
荻村が選手として活躍していた時代は、スポーツと戦争と政治がごちゃごちゃしていた時代でもあった。
初めての国際大会でイギリスに行った際(余談だけど、このイギリス行きの渡航費用80万円は、選手の自腹だった。卓球連盟にそれだけのお金がなかったのだ。久枝らが中心になって、募金でまかなった)、イギリス人の物凄い反日感情を目の当たりにした。どこに行っても日本は嫌われていて、その経験が、後の荻村の行動に活かされているのかもしれない。
選手を引退し、指導者になった荻村だったが、日本ではなく海外の選手を指導すると言って非難された。招かれて指導に行ったスウェーデンでも、荻村の指導に納得がいかない選手が次々に離れていき、たった一人しか残らなかった。しかし荻村はその選手を、世界のトップに立たせた。
指導者として海外を飛びまわる一方、荻村は国際卓球連盟会長に就任する。アジア人では初の快挙だった。
そこから荻村は、スポーツ外交を良好に進めるべく、それこそ奔走した。
文化大革命によって世界から孤立した中国を表舞台に引き戻したのは、荻村の功績だ。荻村は、それ以前に関わりのあった周恩来に直談判し、スポーツを通じて国交を回復させるべきだと説いた。そうやって荻村は、文化大革命以来初めて、世界卓球選手権への参加という形で、中国の国際社会への復帰への先鞭をつけたのだ。
荻村と周恩来のエピソードで、とんでもないものがある。
中国が参加した名古屋大会で、中国側はとある戦略を使った。それはルール違反ではないが、マナー的にはよくない。中国側の戦略を見抜いた荻村はいち早く抗議し、止めさせた。
それを新聞記事を読んで知った周恩来はこう言った。
「オギムラさんに抗議を受けるようなことはしてはいけない。オギムラさんを起こらせてまで勝つ必要はないよ」
それからも、南北問題に苦しむ朝鮮に何度も足を運び、南北共同のチームとして卓球選手権に出場させたり、アパルトヘイトに苦しむアフリカの黒人選手を特例で世界選手権に出場させたりと、スポーツを通じて外交を潤滑に進めようと努力し続けた。
まだまだ書きたいことはあるんだけど、ちょっと時間がないので、後は荻村が様々なところで言ったり書いたりした文章を書きだして終わろうと思います。

『身体文化であるスポーツの場合、<人間能力の限界への朝鮮>という目標の方が、<時代の選手に勝つことの工夫>という目標よりも、はるかに高い。<時代の選手に勝つ>という低い次元の目標にとらわれると、もしその時代の選手のレベルが低い場合、低いところで自己満足することがおこる』

『刺激を受ける対象を卓球界の外に求めた』

『おばさん、人間は勝手に自分の限界を作ってしまうんですよ。限界より少し上のハードルを設定してやるのが、指導者の仕事なんです』

『スポーツの本質を曲げずに、政治が歩みよりやすい場を設定する。それがスポーツ側にいる人間の力量です。スポーツが政治を動かすことはできないが、援護射撃はできる』

とにかく、とんでもないノンフィクションでした。かつてこんな日本人がいたのか、こんなに妥協を知らず情熱を持ち続けられる人間がいたのか、と衝撃的でした。是非読んでみてください。凄いです、ホント。

城島充「ピンポンさん」



文庫版 孤独のグルメ(久住昌之+谷口ジロー)

内容に入ろうと思います。
本書は、実在するらしい料理屋にふらりと入る、個人輸入業を営んでいる井之頭五郎(だと思う。作中では名前は出てこなかったんだけど、久住昌之によるあとがきにその名前が出てくる)が、ただ料理を食べるだけ、というマンガです。
料理屋と言っても、気取ったところは出てきます。地元の人が普通にお昼ごはんを食べているような定食屋とか、どこにでもありそうな焼肉屋、あるいはコンビニで買ったものとか野球場での食事なんてものまであります。そういう、別に名前が知れているわけでも、雑誌に載ったりするわけでもない、どの町にでもあるかもしれない隣近所の店にふらりと入り、そこで食事をする。
しかも本書は、別にその店を褒める本ではない。店の名前は出てないとはいえ、どの町の店なのかという表記はあるし、探しに行こうと思えばきっと生けてしまうんだろうし、地元の人だったらきっと、あぁあの店だな、って分かるんだろうと思います。そういう店を取り上げているにも関わらず、決して褒めるだけの話ではない。本書が、行った先の店を褒めるだけの話だったら、たぶん面白くはなかっただろう。本書は、行った先の店で感じたこと、気づいたこと、そういう感覚にかなり正直に書かれている作品で、そこが凄くいいと思いました。
主人公の井之頭五郎は、タイトル通り一人で料理屋に入る。無口で感情を表情に出すでもなく、結構ハードボイルドなタッチの人間なのに、どうも本書で描かれる時は常に腹ペコなのがなんかおかしい(笑)。
井之頭五郎は、酒は飲めない男で、とにかく食べるということにある程度のこだわりがある。でもそれは、美食家という感じではない。高級な店に行くわけでも、有名な店に行くわけでもない。作中では常に腹ペコの井之頭五郎は、とりあえずどこでもいいから入って飯を食べたいと思う。
とはいえ、どこでもいいわけではない。井之頭五郎なりに、今の気分や、店の入りやすさ、そういうものとマッチしていないとなかなか足を踏み入れられない。そういう葛藤の中で、時に諦めて適当に入った店で当たりを引いたり、これは良さそうだと思って入った店で目当てのメニューが注文出来なかったりと、色んなことが起こる。
色んなことが起こる、なんていいつつ、特別なことはまったく起こらない。本当にただ井之頭五郎が店を決めて、そこで食べて、店を出るというだけの話だ。一話がたった8ページしかなく、しかもその中である程度の物語が展開されるわけで(昔の彼女の話とか、甥っ子の野球の話とか)、だから料理を食べているページも凄く多いわけではない。それなのに、なんだか惹きこまれる。
自分なりに理由を考えてみると、それは、本書が『料理を中心とした、半径数メートルの小さな異世界』が描かれているからではないか、と思いました。
話によっても違うけど、本書では『店』という異世界が描かれる。そこが異世界である理由は、料理だけではなく人が描かれているからだ、と思うのですね。
僕なんか、普段適当なものばっかり食べているんで、料理屋に行く(っていっても、吉野家とかマックとかそういう類のものですよ)時は、料理しか目に入らない。もちろん、とんでもなく注意を惹く人物がいれば見るけど、そうじゃなければその空間には、僕にとって関心のあるものは料理しかない。
しかし本書では違う。店という空間には、もちろん料理もあるのだけど、それとセットになって料理も描かれる。
凄く不思議だと思うのが、料理というのは単体でも存在しうるけど、『人』は『場所』とセットになって描かれることで、それはただの食べ物ではなくなるのだな、ということです。
夕方5時にオバサマたちが集まる回転すし屋、朝の9時から酒を飲むひとたち、一様にみな帽子を被ってご飯を食べている定食屋、ポンポンと途切れることなく話が続くたこ焼き屋。こういう人たちは、その『店』と『料理』とセットでその空間にある。料理の存在が人を惹きつけ、そして人の存在が店の雰囲気を作る。本書では、そういう異世界が描かれているように思う。
僕は料理にこだわりがまったくない人間で、お腹が膨れれば何を食べたっていいという無粋な人間で、だから料理の味とか取り合わせとか旨いものを食べた時の幸福感みたいなものは正直よくわからなかったりします。でも、本書の、異世界の雰囲気というのは凄く好きだ。その店にその料理があったからこそ集った人たちが作り出す雰囲気が絶妙に伝わってくる。本書を読むと、料理はもちろん特別なものにもなりえるけど、基本的には生活の一部だよなぁ、と感じさせてくれる。井之頭五郎は、ちょっとこの店は入りにくいなぁ、という風にして店をパスすることがあるのだけど、それも、他人が作る店の雰囲気が、誰かの家に入り込むような居心地の悪さを生み出して、それを感じ取ってしまうからではないかなぁと思います。そこまでいってしまうと、常連さんばっかりしか寄りつけない店になってしまって残念な気もするけど、本書で描かれている店は、店構えはともかく店内でそういう居心地の悪さを覚えるような店はそこまでなくて、そういう塩梅のいい雰囲気の描かれ方が僕は好きだなと思いました。
この本は、ある人に勧めてもらって(というかその人にもらって)読んだ本なのだけど、その人が「基本的には穏やかな話なのだけど、唯一ケンカのシーンが出てくる話がある」と言っていた。その話は、確かに凄くインパクトがある。食べることにこだわりのある男だけど、基本的に店や料理に対して声に出して文句を言うことになかった井之頭五郎が、ある話でそれを口にしてしまう。『モノ食べる時はね』から始まる井之頭五郎のセリフは、料理にそこまで強い関心のない僕にも響くし、これは料理屋だけではなくて、あらゆるサービスに通ずるよなぁ、という感じがしました。
色んなタイプの話が描かれるけど、やっぱり店主や他の客とのやり取りがある話は結構面白いなと思いました。あとは、井之頭五郎の予想をいい意味でも悪い意味でも裏切る話も面白いですね。
個人的に一番行ってみたいなと思ったのは、たこ焼き屋です。大阪市北区にあるらしいそのたこ焼き屋の話は、最後の最後に「おいしいです ほんとに…これ」っていう囁きが載っていて、気になります。なんとなく大阪らしい店(あくまでも僕のイメージの)っていうところも、なんとなく行ってみたくなるポイントでした。
説明的な描写が多くないのと、一話一話が短いのとで、読む人によって色んな読み方が出来るマンガかもしれないな、と思いました。ここで取り上げられている店を探しだして実際に回ってみる、っていうのもちょっと楽しそうですね。なかなかマンガを読まないという人にも受け入れやすい作品ではないかと思います。是非読んでみてください。

久住昌之+谷口ジロー「文庫版 孤独のグルメ」



世界一退屈な授業(適菜収)

内容に入ろうと思います。
本書はどういう本かというと、一言で説明すれば、著:内村鑑三・新渡戸稲造・福沢諭吉・柳田国男・西田幾多郎、編訳・適菜収という感じです。
本書は、先に挙げた五名の先人たちの著作から一部抜き出したものを、適菜収が若干読みやすい文章に直し、明らかな間違いを訂正したものが収録されています。
内容に触れる前に、まず本書のコンセプトから。
本書は、師の見つからないこの時代に生きる人々に、本物の先生であり人生の師となるべき偉大なる先人たちの言葉を振り返り、教えを乞うべきではないのか、というスタンスです。
今の時代は、すぐに役立つ効率的な知識ばかりが求められている。そしてそれらが高く評価されている。本書は「世界一退屈な授業」というタイトルがつけられている。読んだところで、出世するわけでもなく年収がアップするわけでもない。そういう意味では、すぐに役立たない効率の悪い「退屈」な授業かもしれない。
でも、すぐには役に立たない知識、それこそ『教養』と呼ぶべき知識だけれども、まさに教養こそがこれからの武器になるのではないか。すぐには効かないけど、あとから効く。そして長期間にわたり効果が続く。簡単に全部飲み込めてしまうものなど、程度が知れている。
そういうコンセプトを持って、著者は本書を編訳することになりました。
本書に、師についてすごくいい文章があるんで抜き出してみます。

『最初にも言いましたが、今は師がいない時代です。
学校にも会社にも、見本となるような大人がいない。
そもそも、師弟関係そのものが成り立たなくなってきています。
師とは何か?
それは、なんでもかんでもわかりやすく教えてくれる先生ではありません。
効率よく知識を身につけさせてくれる便利な存在でもありません。
最後までわからない部分を残し、その立ち居振る舞いにより生き方を示してくれる存在です。
よって、師が品行方正である必要もないし、社会的成功者である必要もない。
そもそも、師と考え方を一致させる必要はありません。
師に必要なものは偉大さだと思います。』

この文章はいいなぁと思いました。
特に『最後までわからない部分を残し、その立ち居振る舞いにより生き方を示してくれる存在です。』という部分は素晴らしいですね。この一点だけでも、師と教師の違いが明確に伝わる。
確かに、ここで書かれているような師は、今の世の中にはなかなか見つかりそうにありません。じゃあ、本書に収録されているような人たちがかつてそういう存在であったのか、というと、僕はその時代に生きていないのでなんとも言えませんけど、きっとそうだったのでしょう。
本書は、著者がちょっと手を入れているとはいえ、やっぱりするっと読める内容ではない。昔の人が書いた文章だから、読みにくいところもあるし、すんなりの頭に入ってこない部分もある。僕も、基本的に昔の人が書いた文章を読むのは苦手なので、本書も難しい部分が結構ありました。
その点について著者はこう書いています。

『昔の人の文章なので、ごつごつしたところやわかりづらいところがあったかもしれません。
でも、それでいいんです。
大事なことは、飲み込めない部分を咀嚼することです。歯ごたえがあるもののほうが栄養があります。すぐには効かないけれど、あとから効きます。そして、長期間にわたって効果は続きます。
簡単にぜんぶ飲み込めてしまうものなど、程度がしれています。』

というわけで、新書にしてはなかなか読み応えのある作品です。
でも本書には、各編の最初と最後に、これからどういう話がされるのか、そしてここではどんな話がなされたのかという部分がきちんとある。だから、一度読んでわからなくても、何度も読んで咀嚼しやすいのではないかと思います。
って書いてたりするけど、少なくとも今の僕には、古典作品(に限らないけど本全般)を、ゆっくり丁寧に何度も咀嚼して読む、ってのはほぼ無理なんだよなぁ。第一講の新渡戸稲造の話がまさに読書についてで、やっぱり古典作品を何度も読むって話をしてるんだけど、まあ書店員じゃなくなったら僕も頑張ります(笑)
というわけで、各編がどの本から採られたもので、どんな内容なのかというのを書いていこうと思います。

第一講「読書について」(『新渡戸稲造全集 第11巻』(教文館)「読書と人生」より)

この講義は、1933年に早稲田大学の大隈講堂で行われたもの。適菜収曰く、正統派の中の正統、直球の中の直球、王道の中の王道とでも呼べる読書の本質が語られている、とのことです。
要するにざっくり言ってしまうと、古くから残っている名著を、出来る限り原著に近い形で何度も読みなさい、ってことで、こういう読書の仕方を学生時代にきちんと教えてくれる人がいたらなぁ、なんて思ったりします。少なくとも今の僕には、そういう読書のやり方が凄くいいということは分かっていても、書店員という仕事柄なかなかそれをやるのは難しいです。
いろいろ気になった文章を抜き出してみます。

『「読書をするのに良い物を選択せよ」ということを吾輩はここで述べたい』

『それを読むと、カフェなんかに行ってでらでらしていられなくなってくる。
とにかく、青年をカフェから引き出すというような力は、偉大なものではないか(笑声)』

『人の性格を見るには、その人間が一番なにも考えていないとき、ひょっと物を食っているとき、咳払いをしているときなどに「あれはあんな人間である」ということがわかる。
それを窺ってやるべきである(伝記をどう書くか、という話について)』

『かならずしもすべての真理がサイエンスのみで発見できるものではない』

『良い本と思ったものは大概、嫌になるものである。』

『「君、この本を読んだろうが、いったい何が書いてあったか」と尋ねられて答えのできない人がたくさんいる』

『だから、諸君が読書をするには遅くてもいいから、一日に何ページでもいいから、「この本にはこうあるけれども、どうか」というようにじっと考えてもらいたい。』

『読書にして人間をこしられることに貢献しないならば、これはただ漫談家を作るにすぎまい。』


第二講「仕事について」(『内村鑑三全集 第4巻』(岩波書店)「後世への最大遺物」より)

ここでは、『一番大切なものはなにか?それはカネである』という信念を元に、世の中を動かすためにカネを稼ぐこと、世の中を動かすためにカネを使うこと、そしてそれらを全部ひっくるめて、後世に一体自分は何を残すことが出来るのか。それこそが価値のある仕事であり生涯である、というようなことについて書かれています。
いや、本当に、ここで書かれているような志を持った金持ちが一杯出てきて欲しい、と思います。内村鑑三がこの話をした当時でも、カネを稼ぐことが美徳とされていたわけではなかったようですけど(特に内村鑑三はキリスト教徒だったようで、キリスト教徒としての発言としても異例だったようです)、ただやっぱり今の時代に「カネこそが一番大事だ」というと、どうしてもあまりよくないイメージがつきまとう。それは結局、どうカネを使うか、という部分に美学がないからだろうと思う。良くカネを使うために良くカネを稼ぐ。これは凄く良い話でした。
気になった文章を抜き出してみます。

『われわれが死ぬまでには、この世の中を少しなりともよくして死にたいではありませんぁ。なにか一つ事業を成し遂げて、できるならばわれわれの生まれたときよりも、この日本を少しなりともよくして逝きたいではありませんか。』

『金というのは、宇宙に浮いているようなものでおざいます。
しかしながら、それを一つにまとめて、構成の人がこれを用いることができるように溜めていこうという欲望が諸君のうちにあるならば、私は私の満腔の同情をもって、イエス=キリストの御名によって、父なる神の御名によって、精霊の御名によって、教会のために、国のために、世界のために、「君よ、金を溜めたまえ」といって、このことをその人に勧めるものです。』

『富というものを一つにまとめるということは、一大事業です。
われわれの今日の実際問題は、社会問題であろうと、教会問題であろうと、青年問題であろうと、教育問題であろうと、煎じつめてみれば、やはり金銭問題です。
ここにいたって誰が「金が不要だ」なぞというものがありますか。』

『私は、金のためにはアメリカ人はたいへん弱い、アメリカ人は金のためにはだいぶ侵害されたる民であるということも知っております。
けれども、アメリカ人のなかに金持ちがいて、彼らが清き目的をもって金を溜め、それを清きことのために用いるということは、アメリカの今日の盛大をいたした大原因であるということだけは、私もわかって帰ってきました。』

『それで、もしわれわれのなかにも、実業の従事するときにこういう目的をもって金を溜める人が出てこないときには、本当の実業家はわれわれnなかに起こらない。
そういう目的をもって実業家が起こらないなら、彼らはいくら起こっても国の益になりません。』

『そういう実業家が欲しい。
その100万両を国のために、社会のために残して逝こうという希望は、実に清い希望だと思います。』

『そればかりではない、金は後世への最大遺物の一つでございますけれども、残しようが悪いとずいぶん害をなす。
それゆえに、金を溜める力を持った人ばかりではなく、金を使う力を持った人が出てこなければならない。』

『それゆえに、金を遺物としようと思う人には、金を溜める力とまたその金を使う力とがなくてはならない。
この二つの考えのない人、この二つの考えについて十分に決心しない人が金を溜めるということは、はなはだ危険だと思います。』

『さて、私のように金を溜めることが下手なもの、あるいは溜めてもそれが使えない人は、後世の遺物に何を残そうか?
(中略)
それで、私が金よりもよい遺物はなんであるかと考えると、事業です。
事業とは、すなわち金を使うことです。』

『これらの大事業を考えてみるときに私が心のなかに起こる考えは、もし金を後世に残すことができないならば、私は事業を残したいとの考えです。』


第三講「お金について」(『福沢諭吉全集 第7巻』(岩波書店)「福翁自伝」より)

ここでは、福沢諭吉はお金について語る。
福沢諭吉のお金に対する考え方は、なかなか面白い。まず、とにかく何があっても絶対に借金だけはしない。その哲学はこうだ。

『人に借用すれば、かならず返済しなければならない。
当然のことでわかりきっているから、「その返済する金ができるくらいならば、できる時節まで待っていて借金はしない」と覚悟を決めて、そこで二朱や一分はさておき、100文の銭でも人に借りたことはない。ちゃんと自分の金のできるまで待っている。』

これはホントそうだなぁ、と僕も思っています。僕は、生涯で借金をしたことがない、とは言いませんが(返済しなければならない奨学金とかも、やっぱり借金ですしね)、クレジットカードも持たないし、キャッシングなんてもちろんしたことがない、基本的に金を借りない人間です。他にも福沢諭吉は、とにかく金のことになるとかなり強引に筋を通す男で、僕はさすがにそこまでストイックな人間ではないし、ってか全然ストイックではないけど、でも感覚としては凄くわかる。福沢諭吉は、自分はどういうことを考えてそういうお金に対するスタンスを取っているのか、ということを綴っている。
特に面白いなと思ったのは、子供二人を留学させたいと思っている福沢諭吉が、とある学校を監督する立ち位置に来てくれるなら、と先方から提示された条件を蹴った話。それは、今こちらの依頼を引き受けてくれたのなら、子供二人の留学については保証しましょう、という話だったのだけど、福沢諭吉はそれを、金のために自分の考えを翻すのはおかしい、子供が留学する時期になって自分に金があれば留学させるし、なければ諦めよう、と言ってその話を断ってしまう。ホントストイックだなぁ、と思いました。
というわけで、気になる部分の抜き出し。

『よろしい。今後もし私の子が金のないために十分の教育を受けることができなければ、これはその子の運命だ。幸いにして金ができれば教育してやる。できなければ無学文盲のままにしてうっちゃっておくと、私の心に決断した。』

『自分の金があろうとなかろうと、かならずしも他人に関係したことではない。
自分一身の利害を下らなく人に語るのは、独り言のようなもので、こんな馬鹿げたことはない。
私の流儀にすれば、金がなければ使わない。
あっても無駄に使わない。
多く使うも、少なく使うも、一切世間の人のお世話にならない。
使いたくなければ使わない。
使いたければ使う。
人に相談しようとも思わなければ、人に口出しさせようとも思わない。』


第四講「勉強について」(「定本柳田国男集 第25巻」(筑摩書房)「青年と学問」より)

第四講と第五項は正直、ちょっとあんまり集中して読めない時に無理矢理読んでしまったので、あんまりきちんと内容を理解できていないと思う。それまでの章より若干難しく感じられたんだけど、それは読んだ時の僕のコンディションの問題だったかなぁ。とりあえず第四講から、気になった文章を抜き出します。

『人はみなたがいに争っている。欺くことができるなら、欺こうとさえしえいる。
この形勢をもって押し進むならな、末は谷底であることは疑いの余地がない。
しかも、もはや打ち棄てては置けないということと、在来の治療法では不十分であったこととを、よほど多数の者が認めるようになったのである。』

『われわれがなにかしさえすれば、世の中が住みよくなるというのである。
だから、なにかしようというのである。』

第五講「物事の考え方について」(「定本西田幾多郎全集 第10巻」(岩波書店)「知識の客観性について」より)

第五講は、集中して読めなかった、ということもあるけど、やっぱりちょっと他の章と比べて段違いに難しかったような気がします。ここの章については何も書けないけど、哲学というのは興味があって、哲学の本も入門書的なのをいくつか読んでいたりするんで、ちょっとここの章とか、西田幾多郎って人の本は、いつか読んでみたいなと思いました。

正直僕は、こういう古典作品とかがすごく苦手で、学校の教科書に載っているような話もまるで受け付けない人間でした。だから、古典作品に触れる機会って全然ないんだけど、こうやって新書の形態にしてくれて、ちょっとは読みやすい編集をしてくれていると、すんなり手に取れる気がします。とりあえず、新渡戸稲造さんの言っているように、もう少し名著と呼ばれる古典的作品を読んでみようかなぁ。それは、来年の目標にしようかしらん。個人的には、「仕事について」の章が一番好きでした。是非読んでみてください。

適菜収「世界一退屈な授業」



あまからカルテット(柚木麻子)

内容に入ろうと思います。
本書は、女子校だった中学時代からの友人である、ピアノ講師の咲子、編集者の薫子、美容部員の満里子、料理上手な由香子という四人が、日常的に起こる様々なトラブルを、料理を通じて解決するという連作短編集です。

「恋する稲荷寿司」
昔からオクテだった咲子が、花火大会で偶然に出会った男性に恋をした!しかし、ちょっとした事情があって、連作先も何も聞けないままで別れてしまった。咲子たちに残されているのは、その男性が咲子にくれた稲荷寿司だけ。その稲荷寿司を他の三人も食べ、食雑誌の編集者をしていた薫子は、編集長であり食べあるきの達人である上司と知っている店を片っ端から回って稲荷寿司を食べ、満里子は、合コンで知り合った男性繋がりで咲子が恋した相手の友人を探すことになり、由香子は、自分が食べた稲荷寿司のレシピをどうにか解き明かそうと四苦八苦…。

「はにかむ甘食」
料理ブログが大人気となり、ついに薫子の編集でレシピ本を出版することになった由香子。その冒頭に載せるエッセイには、子供の頃祖母の元に一時預けられていた時に、あだ名しかわからない仲のいい女の子がくれた甘食の味が忘れられなくて、どうにかしてそれを再現してみたと書かれている。
ネットで自分自身が酷評されていることを知ってしまった由香子は、もう二週間も料理を作れないままだ。
友人たちが由香子の家に押しかけてあれこれ世話を焼いてやるも、由香子は立ち直る気配なし。こうなったら、エッセイに書かれていた当時の友人を探しだそうと三人は決めるが…。

「胸騒ぎのハイボール」
その美貌から、常にチヤホヤされてきた満里子は、今徹底的に落ち込んでいる。付き合っている彼氏が、どうも浮気をしているようだ、と言うのだ。ユキコという名前と、ハイボールとちょっとした一品料理が凄く美味しい店を切り盛りしているという条件で、どうにか満里子の彼氏が行きつけにしている店を探し当てた三人。どう見ても満里子と張り合えるほどの容姿ではないことを確認した三人は、安心してその店に満里子を呼び出すが…。

「てんてこ舞いにラー油」
結婚し、夫と新居に住み始めた薫子は、しかしとんでもない忙しさにてんてこ舞いになっていた。
念願だった書籍編集者になった薫子は、しかし担当している売れっ子脚本家の初の長編小説の担当にかなり苦戦している。しかも、引っ越した新居の暇を持て余した主婦たちが、どうにか自分たちの暇つぶしに薫子を誘い込もうとアプローチしてくる。鹿児島にいる夫の母親からは、頻繁にナマモノが送られ、家にあまりいられない薫子は、不在伝票の多さにイライラさせられる。何もかも自分でやり、人を頼ることが出来ない薫子の悪い部分が如実に現れてしまっている。
どんな限界の生活の中、まともな家事も出来ない中で、非常に重宝した食べるラー油。しかしそれは、ある日玄関のドアノブに引っ掛けられていたものだった。送り主が誰なのかも不明。一体このラー油は誰が…。

「おせちでカルテット」
大晦日。薫子は、鹿児島からやってくる義母を待ち構えていた。完璧なおせち料理を準備するのが嫁の役目だと言う義母に対抗し、どうにかおせちを用意してみせると啖呵を切ってしまった薫子。友人たちに泣きついて、多忙な彼女たちの時間を少しずつもらって、四段のお重を手分けして作ることにしたのだ。
しかし大晦日。とんでもない大雪により、薫子以外の三人は足留めを食らう。内緒にしておきたい理由から秩父にいた咲子は、大雪のため東京に戻れなくなっている。部下のミスにより、元旦二日から売り出す福袋を作り直していた満里子は、どうにもならない事情からデパートの倉庫に閉じ込められてしまった。人気アナのスケジュールの都合で大晦日に番組の収録をしていた由香子は、雪のせいである番組にどうしても必要なおせちをたった5時間で作る羽目になってしまった。薫子の方でもイレギュラーな事態が起こり…。

というような話です。
これは結構面白い作品でした。色んな意味で、凄くよく出来た作品だったなぁ。
基本的には、子供の頃からいつも一緒にいた女四人が、それぞれの抱える事情でトラブっているのを、他の三人がどうにか手助け、その過程で料理が大きな鍵を握る、というストーリー展開なのだけど、そういう同じ流れの構造でありながら一編一編違ったタイプの話になっているし、しかもそれぞれの話が個別に分断されているわけではなくて、各編の固有の話と同時並行で、四人の関係がリアルタイムで変化していって、最初から最後まで長編小説のように個々の話が絡みあって物語が進んでいくという構成が非常に巧いと思いました。特に僕が個人的に感心したのが、具体的には書きすぎないようにするけど、ハイボールの話の時に出てきた咲子のとある反応。その話だけでは理解出来ないその反応が、後々の話を読むとちゃんと分かるのですよね。
各編の話は、ちょっとしたミステリ仕立てになっていて、しかもそれに料理が巧く絡んでいるという点で、結構新しいタイプのミステリだなぁ、という感じがしました。謎自体はそこまで大したものではなくて、咲子が一目惚れした男性を探せ!だの、ラー油の送り主を探せ!だのといった、非常に小さい事態ばかりなのだけど、それが作品の雰囲気と凄くマッチしている。仲良し四人が、仕事の傍らでどうにか片手間で対処出来る程度の謎でないと、本書はどうにも成立しえないので、その辺りの謎の設定の仕方がまず巧いなと思いました。そして、どの話にもきっちりと料理が密接に関わっている。これが結構無理矢理という感じではなくて、料理の存在そのものが結構重要なモチーフになっているんです。稲荷寿司とか甘食とかラー油とか、ただモチーフとして出てくるだけではなくて、それがなかなか魅力的に描かれていて、凄く食べたくなるんですね。本書で描かれている食べ物が凄く美味しそうに感じられる、とか書くと、食に興味のない僕が言っても説得力がないですけど、でもたぶん、食べることが好きな人にとっては、その料理の描写だけでも凄く気に入る作品なんじゃないかなぁ、という感じがしました。
もちろん、本書は、四人の関係性や謎解きの過程、解決した後の展開など、ケチをつけようと思えば色んなところに突っ込むことが出来る作品です。でも、少女マンガみたいなものだと思って、この緩やかな物語の設定をすんなりと受け入れることが出来れば、凄く愉しく読める小説だと思います。
ラストのおせちを巡る物語は、ホント巧いなぁと思いました。この作品だけ若干長めで、しかも群像劇っぽい体裁を取っています。おせちを持って薫子の家に集合するはずの三人が、それぞれが別の事情で薫子の家に辿りつけないでいる。そうこうしている内に、薫子の方でも大変な事態に陥る。その緊迫した感じが凄く面白いなと思いました。特に、どうにかして番組開始までにおせちを作らなくてはいけなくなった由香子の話は良かったなぁ。
個々の物語もさることながら、四人の関係性がまた非常に面白い。この四人、もちろん仲がいいのだけど、いがみ合ったり喧嘩したりすることがないわけではもちろんない。本当にちょっとしたことがきっかけで、彼女たちの関係はぎこちなくなったり、収集がつかなくなったりする。でも彼女たちは、何度もそういう状況を乗り越えていく。彼女たちは、四人で会っている時も、四人全体で抱えるべきトラブルに遭遇してしまうわけなんだけど、それとは別に、個々人でそれぞれ悩みとか問題を抱えている。それは、傍から見れば些細なことにしか思えないかもしれないけど、彼女たちの生活の中では、あるいは彼女たちが生きてきた人生の中では、凄く大事なことだ。そういう様々な悩みや問題が、色んな方向から解決の糸口が見つかっていく。その過程も凄く面白い。
誰もが、子供の頃のままでは生きていけない。大人になって、仕事をしたり結婚したり、そういう中で、子供時代にはまだ大きな差ではなかったもの、あるいは大きな差ではあったけども将来的にまだどうにか挽回できると思っていたものが、現実として立ちはだかっていくことになる。特に女性にとって、社会の中で女性として生きるということに、男にははっきりとは目に見えない障害があちこちに転がっている。彼女たちは、自分たちの前に立ちはだかるそれぞれの障害を、時には自力で、そして時には仲間の力を借りて乗り越えていく。
彼女たちの関係性は少しずつ変わっていくし、それは悪い方向への変化であることだってもちろんありえる。それでも、彼女たち四人がずっと一緒にいる、という部分はきっと変わらないだろう。そう思わせるだけの力強さを本書からは感じることが出来て、凄くよかったなと思います。
本書を読んで僕は、大学時代の友人を思い出しました。大学時代の友人である女子5人は、物理的に距離が離れたり、それぞれの個人が様々な事情を抱えるようになってからも、学生時代と同じような関係性の中でいいやり取りを続けている。もちろんその過程で、その5人にしかわからない様々なことがあったことでしょう。それでも、そういうたくさんのことを乗り越えて、学生時代とは関係性の形がきっと変わってしまっているだろうけど、それでもまだ5人は5人でいるという関係性をきちんと維持している。小説や映像でよく描かれるのは、女同士の結構醜かったりする人間関係だと思うんだけど、なかなか小説やドラマでは描かれにくい仲の良い女性のグループというものの存在を僕は知っていたし、それが本書でも描かれていて面白かったです。もちろん、僕が知ってる5人組と、本書で描かれる4人組に、性格や環境やなんかで共通点があるなんてことは別にないんですけどね。
もちろん男が読んでも楽しめる作品ですけど、やっぱり女性が読んだらより楽しめる小説だろうと思います。本物の親友、というものの強さや安心感みたいなものがしっかりと描かれている作品で、読んでいて凄く楽しい小説です。是非読んでみて下さい。

柚木麻子「あまからカルテット」



「やめること」からはじめなさい(千田琢哉)

内容に入ろうと思います。
本書は、経営コンサルタントとして独立し、多くの業界に関わってきた著者による、人生指南の本です。
タイトルの通り、本書には、人生を生きる上で「やめるべきこと」が51個挙げられている。
まえがきには、こうある。

『飛躍できないのはたくさんの荷物を持ちすぎているからだ。
第2志望から第100志望を捨てて第1志望だけに専念すれば今すぐ飛躍できる。
「努力する」のではなく「やめる」ことが飛躍のコツなのだ。』

本書には、きちんとこういう注意書きもある。

『逆に本書の通りにすべてを一斉に手放したら、
それこそ大変な人生になってしまうから要注意だ。
人生の主導権はいつもあなた自身にある。』

そう、本書はそういう、『ここに書いてあることを辞めたら成功するよ』という本ではない。
そこを勘違いしてはいけない。
本書で挙げられている51の「やめるべきこと」は、あくまでも具体例の一部だ、と捉えなくてはいけない。
人それぞれ「やめるべきこと」は違うし、それは自分で判断していくしかない。

本書の中で最も重要だと僕が思う一文がこれだ。

『当たり前と思っていることを一つずつ取り外していこう』

本書は、まさにそれを手助けするための本だと僕は思う。
僕たちは、様々な『当たり前とされている価値観』に浸って生きている。子供の頃から洗脳されていることや、大人になっていく過程で徐々にそう思わされてきたものまで、様々な価値観を僕らは無意識の内に『当たり前のことだ』と思って生きている。でも、そのほとんどが当たり前ではないのだ、ということを本書は伝えようとしてくれている。当たり前の、誰もが従わなくてはいけない価値観なんて、どこにも存在しない。本書を最後まで読み通すと、そういうメッセージが強く伝わってくることだろう。
だから、自分で考えなくてはいけない。『本書にそう書いてあるからこれを止めよう』なんて発想で止めたところで、なんの意味もない。そうではなくて、自分がどんな価値観を『当たり前だ』と考えているのかを考えて、そしてそれを一つずつ止めてみる。その中には、本書に書かれていることもあるだろうし、書かれていないこともあるだろう。それでいい。本書に書かれていることがすべてではない。本書には、あくまでも一例しか載っていなくて、自分が『当たり前だ』と感じている価値観については、自分で考えるしかないのだ。
そういうきっかけを与えてくれる本という点で、本書は実に素晴らしいと思う。一つ一つの話は非常に短い。中には、うーんそれはちょっと無理じゃないかなぁ、というものもある。それでいい。全部に納得できる必要はない。いずれにしても、「何かを足すこと」が重要なのではなく、「何かを止めること」が重要なのだ、という風に意識を切り替えられればそれでいい。
僕は、この著者の考え方にすごく賛同できる。実際本書に書かれていることで、自分の中できっちりと言語化したことはなかったけど、確かにそういう理由で僕も止めてるなぁ、あるいはちょっと距離を置いているなぁ、というものもあった。僕は、自分で言うのもなんだけど、世間で『当たり前だ』と思われている価値観にどうも反発したい人間で、世間の『当たり前』に迎合しないというスタンスが元々ある程度備わっているのだろうと思う。
もちろん本書を読んでて、なるほどなぁ、そういう視点で考えたことはなかったなぁ、というものもたくさんあった。その中には、今の僕にも出来そうなことや、いやーちょっとそれは厳しいかもなぁ、というものも様々にあるのだけど、でもやるかどうか(というかやめるかどうか)は別として、そういう視点を持っておくということは凄く意味があることだと思うし、ためになるなぁ、と思いました。
もちろん中には、???と思うものもありました。それはどうなんだろう、関係あるのかな?という風に感じてしまうものもあります。とはいえ、一概にそれを否定するのも違うのでしょう。今の僕には見えていない視点なのかもしれないし、あるいは、やっぱり僕の価値観にはどうしても合わないというものなのかもしれません。まあそういうものも、とりあえずそういう意見がある、という形で頭の中にしまっておけばいいのだろうな、と思います。
凄く大事なことだと思うので繰り返し書くけど、本書はとにかく、『自分が無意識の内に当たり前だと思っていることをどれだけ捨てられるか』という意識の転換に主眼がある。『本書に書いてあるからとりあえずやめてみよう』なんて意識で実行しても、効果は薄いかもしれない。それをやめることが、どんな『当たり前の価値観』を捨てることに繋がるのか、ということをやっぱり意識しながらやめたほうがいいんだろう、と思います。
というわけで、気になった文章をあれこれ抜き出してみます。僕が気になったもの全部抜き出すとしんどいだろうから、ほどほどに。

『好きなことのために妥協するならまだしも、嫌いなことのために妥協してはいけない』

『「(会議に)あいつはいつも欠席だな」というレッテルを貼られたら勝ちだ』

『名刺に頼るのはサラリーマン。ビジネスマンになれ』

『思わず武勇伝を語りそうになったら、今の自分はイケていない証拠なのだということを深く反省すべきだ』

『酒を飲みたいなら憧れの人と飲め』

『仕事ができるようになるためのコツをひとつだけに絞れと問われたら「言い訳はしない」ことだと私は即答する』

『群れるとノロマに合わせるハメになる』

『たいていのサラリーマンの気遣いは謙虚のふりをした卑屈である』

『気を遣って何も行動しないよりは、気を使わずに叱られている人間のほうが圧倒的に成功していくのだけは間違いない』

『もちろんそうすることによってあなたのもとを去っていく人も多いだろう。
でも去っていく人というのはいずれにせよ、必ずあなたのもとを去っていくのだ。
それが早いか遅いかの違いに過ぎない』

『みんなが無駄だと思っていて誰も口にダレないことをあなたが率先してやめてみよう』

『この世でもっともお金がかかる道楽。それが貯金だ』

『値札を見るのをやめる』

『人生というのは無料で何でも手に入って当たり前と思ったら、細胞の一つひとつが卑しくなっていく』

『貧しさから脱出したかったらまず一年間触れなかった物は例外なく捨てることだ』

『世の中がデジタル化すればするほどに、昔の狭い「ムラ社会」へと逆戻りしていることに気づかないだろうか。
(中略)
実は多くの人たちが本音ではこの「ムラ社会」の再来に悩まされている。
脱出したいと思っている。
それは実に正しい感性だ。
「ムラ社会」というのは他人に嫌われないために生きる他人のための人生だ』

『本物の仲間というのは、お互いが一人でコツコツ実力を蓄えた者同士でしか出逢うことができない』

『「携帯に出ない人」というブランドを確立できれば、勝ちだ』

『新聞をやめ、人のはなしに耳を傾け、人と会って情報交換することを習慣にすれば、新聞には絶対に掲載されないような知恵にまで昇華できる』

『眠くてなかなか頭に入らない読書など時間の無駄だ。やさしい本を堂々と読むことができる人が将来成功するのだ』

『友達はがんばって作るものではなく、一人でがんばっていたら勝手にできてしまっているものだ』

『自分で「がんばっている」とか「努力している」と感じた時点で、それは好きなことではないからさっさとやめてしまうことだ』

『ここ一番のときに考え込むのは、普段考えていない何よりの証拠だ。普段からどれだけ考えているかで、勝負は完全に決まっているのだ』

悩んだり、人生の転機を迎えたり、そういう時に降りに触れてパラパラめくってみるような気がします。内容的にはかなりシンプルだと思いますけど、かなり胸の奥底まで届く言葉に溢れているのではないかと思います。是非読んでみてください。

千田琢哉「「やめること」からはじめなさい」



猫柳十一弦の後悔 不可能犯罪定数(北山猛邦)

内容に入ろうと思います。
主人公の私(君橋君人、あだ名はクンクン)は、名探偵という存在に憧れたが、17歳の時点で自分に才能がないことを自覚した。しかし、名探偵に関わる仕事がしたくて、日本で唯一探偵助手に関する技能と実践を学べる、大東亜帝国大学の探偵助手学部に入った。
大学から徒歩二分のところにある鮟鱇荘で、同じ学部に通う月々守という男と仲良くなった。大学1年目をそれなりにやり過ごし、二年目に突入した。
二年目になると、特定の探偵が担当するゼミに所属することになる。二人は要綱を確認しつつ第三希望まで希望の探偵を指定するのだが、要綱を見ていて発見した、猫柳十一弦という珍妙な名前の探偵を、まあ第三希望になるわけもなかろうと、二人で第三希望を猫柳十一弦にすることに決めた。
二人とも、猫柳十一弦のゼミに配属になった。
猫柳は、長い髪を幽霊のように垂らした女性探偵だった。実績こそないものの、この若さで名探偵号を取得しているだけあって優秀なのだろうとは思うのだが、いかんせん普段の行動に締まりがなさすぎて気が抜けてしまう。
私と月々の二人しかゼミ生のいない猫柳ゼミだが、猫柳が鮟鱇荘に住んでいることが判明し、友人のような感じで仲良くなっていく。
月々がノリで、合宿をしたいと言ったことを猫柳はきちんと覚えていて、雪ノ下ゼミと一緒に孤島合宿に行くことになったと猫柳は告げた。
雪ノ下樹は、国内でも最高の評価を与えられている名探偵であり、常にそのゼミは人気だった。その雪ノ下ゼミと一緒に合宿に行けるというのだから二人のテンションも上がった。
合宿は、雪ノ下ゼミ生の一人が所有する孤島で行われるようだ。メンバー11人で孤島へと赴き、迎えた最初の夜。
異変は、玄関に塗りたくられた光る塗料だった。その夜、二体の死体が見つかり…。
というような話です。
これはなかなか面白い作品でした。最近なかなか本格ミステリ的な作品を読まない僕ですが、これは結構ガチガチの本格ミステリ作品でありながら、結構ひねりが利いていて面白かったです。僕は、昔結構本格ミステリ作品を読んだ人間ですけど、最近はめっきりそういう作品を読まなくなっていて、ある程度知識はあるとはいえ、本格ミステリに詳しい人間ではありません。本格ミステリ作品なら、結構ハードなものより、ライトな感じのものが好きです。本書は、結構ライトっぽい感じでありつつ、ミステリ的にはかなり練られていると僕は感じて、凄く面白いと思いました。
本書の最大の魅力は、探偵の立ち位置です。僕は、このセリフをそのままPOPのフレーズにするつもりなんですけど、本書にはこんなセリフが出てきます。

『次の被害者を守るのがわたしの役目です』

普通探偵って、殺人が起こってから推理が始まります。で、人が死ぬ度に推理の材料が増えていって、最終的に犯人に辿りつける。というわけで、一般的な本格ミステリ作品の場合、極端な言い方をすれば、殺人が続いてくれないと探偵は事件を解くことが出来ないのですね。
でも本書では、探偵が犯人に殺人を起こさせないこと、というのが最優先されます。僕はそこまで本格ミステリ作品を読んでいるわけではないんですけど、本書のように、『殺人を防ぐために推理をする探偵』が出てくる物語って、なかったんじゃないかなぁ、と思うんです。
僕が本格ミステリ作品をあんまり読まなくなったのには、まあいろいろ理由がありますけど、『探偵が事件を防ぐことができない』って部分にも、若干の違和感を覚えるようになってきた、というのがあると思うんです。だって、小説に出てくる名探偵って、最後の最後にすっげー推理を展開して事件を解決しちゃうじゃないですか?だったら、そのすっげー推理力を使って、事件を未然に防ぐことはできんのかいな、ってやっぱ思っちゃったりするんだろうなって思うんです。まあ、本格ミステリ作品は、別にそういうツッコミをしてリアリティを追求するような作品じゃないって分かってるからいいんだけど、だからこそ本書で、殺人を防ぐために探偵が推理をするって展開が凄く素敵だと思ったわけです。
もちろん、殺人事件は起きてしまう。連続殺人の初めの事件はまあ仕方ないのだけど、そこから探偵は、どうにかして犯人の先回りをし、しかし犯人に先回りしていることを気取られないように、というなかなかアクロバティックな行動を取り続けます。ここが、これまで僕が読んできた本格ミステリにはなかなかなかった感じで凄くよかったです。
そしてもちろん、悲しくも起きてしまった殺人事件のトリックもなかなか見事だと思いました。もちろん、本格ミステリ読みの人からすれば色々言いたいことはあったりするのかもしれないけど(自分がライトな本格ミステリ読みだという自覚があるので、一応こんな風に書いておきます)、僕は巧く出来ているなぁ、と思いました。デビュー時、「物理の北山」をして、本格ミステリの世界では出尽くしたと思われていた物理トリックを次々と発表して話題になった若手作家ですけど、その雰囲気はやっぱり若干あります。かなり奇っ怪な状況での殺人なのだけど、そこに実に巧く理由をつけている。まったく意味不明で、しかも誰にも実行不可能に思われた殺人事件が、探偵の説明によってするすると解かれていく過程は素晴らしいと思いました。
殺人事件のトリック自体、僕はなかなか素晴らしいと思いましたけど、本書の場合、殺人事件のトリックと、犯人の思考を先読みするコンゲーム的な部分のバランスが凄くいいんだと思いました。結構ライトな感じで進んでいくミステリなんで、最後の最後まで殺人事件で引っ張ると、ちょっとそのライトさを維持するのは難しかったかもしれません。本書の場合、途中から、いかにして殺人事件を起こさせないかという部分に焦点が当たっていくんで、それが全体のバランスをうまく整えているなという感じがしました。
そしてさらにラストで、なかなか壮大な流れになっていくんだよなぁ。壮大っていう程の壮大さでもないけど、でもあれだけライトな感じで始まって、面白い感じで話が進んでいくのに、最後の方で、なるほどそういう背景があったのかという設定の妙が見事だと思いました。ってか、クローズドサークルの新しい見せ方とか、犯人の犯行動機とか、色んな点で結構斬新だったなぁという感じがしました。
本格ミステリ読みの人が読んだらどう感じるのかわかりませんが、僕のようなライトな本格ミステリ読みにはかなり愉しく読めるのではないかなと思います。見た目も読み始めも結構ライトなのに、本格ミステリ的に、トリックや設定や色んな点で結構斬新だったなぁ、という感じがしました。是非読んでみてください。

北山猛邦「猫柳十一弦の後悔 不可能犯罪定数」



雪の練習生(多和田葉子)

内容に入ろうと思います。
本書は、3編の短編(中編かな)が収録された連作短編集です。
設定は実に奇妙。なんと主人公はホッキョクグマです。サーカスの花形から作家に転身し自伝を書く「わたし」、その娘で、女曲芸師と伝説の「死の接吻」を演じた「トスカ」、さらにベルリン動物園で飼育係の愛情に育まれ、世界的アイドルとなった孫息子の「クヌート」(ここまでは、帯裏の内容紹介を引用しました。凄くまとまっててわかりやすかったので)。このホッキョクグマ三代の物語が描かれます。

「祖母の退化論」
かつてモスクワのサーカスの花形として活躍したわたし。三輪車に乗り、二本足で立ち、そうやって人気を獲得していった。それが今では、あちこちの会議に出るようになっている。身体を壊したわたしは、普通なら射殺されて処分されるところを、運良く管理職に移ることが出来た。わたしの事務能力は、案外に高かった。そうやって次第にわたしは、あちこちの会議に出かけることになったのだ。
その合間に、なんとなくわたしは自伝を書き始めた。まだサーカスに入る前、イワンに芸を躾けられている頃の記憶を少しずつ書いていった。そしてしばらくしてある程度まとまったものを、出版社に勤めるオットセイという渾名の男のところに持っていった。
わたしは作家として有名になり、そしていつの間にか、ベルリンへの亡命を遂げていた。

「死の接吻」
わたしは、巨大なホッキョクグマであるトスカと、他9頭のホッキョクグマを操り、サーカスのショーを行う。わたしは背が低く、顔も若く見られがちなため、そんな若い女が巨体のホッキョクグマを操っている、というところがウケているようだ。
馬小屋の掃除から、様々な偶然が重なって調教師になったわたしは、9頭のホッキョクグマがモスクワから贈られた後、モスクワにいるトスカというホッキョクグマを呼び寄せたいと団長に訴えた。9頭のホッキョクグマは、ベルリンに着くなりストに突入し、稽古などしない。これではモスクワからの賓客がショーを見に来た時に困る。せめてトスカだけでもいればまだ違うだろう、と言いくるめた。
トスカはモスクワで不遇をかこっていた。バレエ学校を優秀な成績で卒業したのに、ホッキョクグマであるという理由で期待された「白鳥の湖」のオーディションにも落ちてしまった。トスカと稽古を始めたわたしは、後々「死の接吻」と呼ばれるようになる甘美なショーを完成させる。

「北極を想う日」
生まれたばかりのクヌートは、自分がどこにいて、何をしているのか、全然理解できていない。次第に、自分がベルリンにいて、人間によって育てられているのだ、ということを知るようになる。母乳ではなく哺乳瓶からだったが、そもそもクヌートを育てているのは母親ではなくマティアスという男の飼育係だったが、そんなことはどうでもよかった。ベルリン動物園で生まれたクヌートは、やがてお客さんの前に出るようになり、その愛らしさから人気者になっていく。しかし、ある日祖母の夢を見る。ただ可愛いというだけの理由で人気になってはいけない、と祖母は言う。

というような話です。
いやいやこれは、ちょっと凄い物語でした。先に書いておくと、ちょっと僕にはレベルの高い小説で、この物語を深く自分の中で消化できているかと聞かれると、全然そんなことはありません。僕は、何度もこのブログで書いていますけど、物語を読む力がやっぱりちょっと劣っていて、ちょっと格調高い小説になると、途端に読み解けなくなってしまいます。本書も、別に難しい小説ではないんですけど、滋味深いというか、格調高いというか、ちょっと僕が読解出来るレベルを超えている作品で、うまくこの作品の良さを伝えられません。
でも、なんだか凄くザワザワさせられる作品でした。僕は、カバーが掛かったまま読み始めたので、作品の設定を知らないままで読み始めました。そうすると、「祖母の退化論」の初めの方を読んでいて、主人公の「わたし」は『自伝を書いている』というのに、その内容が『二本足で立つ』とか『三輪車に乗る練習をする』とかそんな話なわけです。僕はしばらく、全然話について行けなくて実に困惑しました。しばらくしてからようやくカバーを外して帯の言葉なんかを見て、やっと主人公が、何故か人間の言葉で自伝を書くことができるホッキョクグマだ、ということがわかって納得しました。
どっからそんな設定を思いついたんだかわかりませんが、ホントとんでもないことを考える作家だなと思いました。僕は、多和田葉子さんの作品を読むのは本書が初で、だから普段どんな作風の人なのかまったく知らないで読みました。他の作品もこういう感じなのかなぁ。凄く気になります。
話としては本当に、三代のホッキョクグマたち(とはいえ、「死の接吻」は主人公が人間ですけど)の周りで起こっていることを書いているだけという感じで、凄く特別なことが起こるとか、とんでもない展開になるとか、そういうことはありません。淡々と、ホッキョクグマたちが(あるいは調教師が)見たり感じたりすることを書いているという感じです。だから、物語そのものに強く惹きつける何かがあるというわけではないんだけど、それでも凄くザワザワさせられる。
それはなんでかなぁて思うと、ちょっと作品自体を消化しきれていないんで的外れかもですけど、ホッキョクグマでありながら人間でもあるというその身体感覚かなぁ、という気がします。
本書で描かれるホッキョクグマたちは、自分のことをホッキョクグマだときちんと認識しているんですけど、でも普通に人間と喋ったり、文字を書いたりということをまるで違和感なく行なっている。ホッキョクグマであるという認識と、能力的には人間と同じようなことが出来るというその状況が実にアンバランスで、そこが凄く気になるんだろうなぁ、という感じがしました。記憶や感覚なんかも人間そのものという感じで、だけど本書は、『人間と同じことが出来るのに外側がホッキョクグマという存在のアイデンティティ』みたいなものはまるで描かれていなくて、ホッキョクグマであるという認識と人間らしく振る舞えるという事実が共存している。
しかも、ホッキョクグマの認識だけではなく、周りの人間の認識もおかしい。ホッキョクグマが人間の言葉を話したり、会議に出たり、パーティに出席することについて、誰もが疑問を抱くことがない。そこには、共通の了解がある。それが、僕たちの世界とは明らかに異なっていて、凄くザワザワさせるのではないかな、という感じがしました。
自分の読解力がないために、この作品を深く理解出来ないのが凄く残念ですが、これは遠い将来もう一回リベンジしたい気がします。どうにかこういう作品を、ちゃんと隅々まで味わい深く理解できる人間になりたいなぁ、という感じがしました。みたいなことを書いていますけど、別に難しい作品というわけではありません。僕がちょっと、格調の高い作品が得意ではないというだけで、普通に読める小説だと思います。いろんな意味で凄く違和感満載の作品で、こういう変わった作品を書いたり思いつけたりする人は羨ましいですホントに。是非読んでみてください。


多和田葉子「雪の練習生」





こっちへお入り(平安寿子)

内容に入ろうと思います。
主人公の吉田江利は、33独身のOL。会社では、ムカつく取引先と使えない新入社員に振り回され、プライベートでは、腐れ縁としか言いようのない付かず離れずの関係である旬と時々ご飯を食べに行くぐらいで、ここ最近恋愛らしい恋愛もしていない。特別趣味があるわけでもなく、ただ毎日を漫然と過ごしていた。
大学時代の友人で病院付きのケースワーカーというシリアスな仕事をしている友美が、無料の市民講座で落語を習っていてその発表会があるから聞きに来てくれと言われて、特に期待もせずに行ってみた。思った通り、友美の噺は大したことはなかったけど、何人かこの人はちょっと巧いかもという人がいた。
最後に聞いたのが、市民講座の先生でありアマチュア落語家である楽笑だ。この楽笑の噺を聞いた江利は、ちょっと落語に惹かれ、打ち上げに参加したことをきっかけに、その市民講座を受講することに決めた。
初めの課題として『寿限無』を渡され、また楽笑から落語のCDを借りて聞いているうちに、すぐに落語にどっぷりはまってしまった。暇さえあればポケットに忍ばせた落語の台本に目を通し、外界の音をシャットアウト出来るイヤホンを耳にさして落語のCDを聞く。時折会う旬にも落語の話をし、次々に色んなCDを聞いては、落語の世界に笑ったり、あるいは疑問を抱いたりする。
と同時に、30代の江利にはそれなりにままならない状況が降り掛かってくる。江利を落語の世界に引き入れた友美の状況や、あるいは、便りがないのは無事の知らせとばかりに連絡を取らないでいた実家でもゴタゴタが起こっているようで…。
というような話です。
これはなかなか面白い話でした。僕は、本当にほんの少しだけ落語に興味を持っている人間で、でもほんのちょっとなんでほとんどCDとか聞いたことがないです。ちょっと縁があって、一回だけ落語を聞きに行ったことがあって、それは凄く感動したけど、本当にそれぐらいの経験しかないですね。落語絡みの本は多少読んだことがあって、立川談春の「赤めだか」とか立川志らくの「雨ン中の、らくだ」とか小島政二郎の「円朝」とか、まあいくつか読んでたりするんですけど、ホントそれぐらいだったりします。
まあそんな、ちょっと関心がある程度の人間で、知識もまるで何もなかったりするんですけど、でもやっぱり落語絡みの本を読むと、落語っていいよなぁ、って思っちゃいます。週刊で出てた落語のCDとかDVD付きの雑誌も2冊ぐらい買ったんですけど、全然聞く時間がなくてほったらかしにしてるんだけど、ちょっとそれを聞きたくなりました。
落語絡みの小説では、佐藤多佳子の「しゃべれどもしゃべれども」とか立川談四楼の「ファイティング寿限無」とか読みましたけど、落語が小説の中で活きるのって、落語というのが人間の弱さとかどうしようもなさとか、そういう綺麗ではない部分を扱っているからなんだろうなぁ、と思います。
本書でも、主人公の江利は、現実の世界で色々悩ましい状況にある。というか、江利自身はそれをそこまで自覚はしていなかったのだけど(恋愛に縁がない、ぐらいの悩ましさしか自覚していなかった)、落語に触れることで、自分の身の周りの現実の見え方が変わってくる、というようなそんな感じがします。それまで、自分の楽しさだけを追求してのほほんと生きていたのだけど、落語に触れることで、自分の周りにのほほんとしていられない状況の存在を知り、さらにその状況を落語に触れたことで自分の中でうまく消化していくことが出来る、そういう筋立てになっていて、凄く巧いなと思いました。
特に主人公は、30代女子。僕は女ではないけど、なかなか30代の女性というのは、30代の男よりも余計に色々と背負っているものがあるのだろうなぁ、という勝手な予想があります。作中で主人公はこんな風に言います。

『頑張って大人の女ぶったって、しょうがないじゃない。わたしゃ、相変わらずバカです。子供です。大人のふりなんか、もう、しません。できないもん。できないことは、しないんだ。時間の無駄だ。そう居直れたとき、成長したと感じた。三十代いいじゃん、と安心した。』

『それに引き替え、江利は何の犠牲も払っていない。ただ、自分のためにだけ、ノホホンと生きている。それが、引け目につながっている。』

こういうのって、まあ女性だけじゃないだろうけど、でも社会のあり方的に、女性の方がよけいいろいろなしがらみとかありそうな気がします。もちろん江利もそういうものを日常の生活の中で積み重ねていっていて、そういう中で、ちょっと窮屈さを感じている。まずそういう状況が、殊更深刻な感じで描かれないところが、エンタメ作品として面白いですね。
そういう、ちょっとままならない状況を、落語がどうにかしてくれる。もちろん、落語を聞くことで、あるいは落語を演ることで、現実の状況に変化があるわけじゃない。そんなものはもちろん変わらない。でも、落語を聞く者の、落語を演る者の気持ちが変わる。落語で描かれる人たちは、今の僕たちよりも全然辛い時代を生きている。そういう中で見せる人情や矜持や維持や誇り。落語のそういう部分に触れることで、自分の中で何かが変わっていく。凝り固まっていた考え方が少し溶けたり、分かり合えないと思っていた相手を受け入れようと思えたり、辛い状況を笑い飛ばせる気持ちになれたりする。そういう力が落語にはある。
凄くいいセリフがある。江利が、自分のままならない状況を何故か楽笑に話してしまった後で、楽笑が江利に言う言葉だ。

『思い通りに行く人生なんて、ない。誰もが、自分のバカさ加減に泣かされるんです。その繰り返しが人生じゃないですか。だから、噺の世界ではバカが立役者なんです。バカな考え、バカな行い、それゆえの泣き笑い。それがね、僕らがやっている落語ってものなんですよ』

本書では、落語の中身についても語られる。それぞれの落語がどういう噺で、それぞれについてどの主人公がどういう感想を抱いているのか。そういう話も結構よく出てくる。僕は『粗忽長屋』とか『芝浜』ぐらいはなんとなく知ってるんだけど(でも、それらについてもほとんど名前ぐらいかな、知ってるのは)、本書では結構たくさんの落語の中身が紹介される。江利はそれぞれについて、どういうところに共感できるのか、あるいはどういう部分に納得がいかないのか、ということを考え続ける。
江利は、自分には納得できない話について、楽笑に教えを乞う。ここは、主人公が女性で、その落語教室も基本的に女性向けに開かれている、という作品の設定が非常に面白く活きる。落語というのは、基本的に男の目線から、男によって語られてきた世界だ。だから、女性の側からすると許容できない、納得がいかない部分というのも出てくる。江利も、そういう部分でつっかかってしまう。しかし楽笑から、考え続ければ見えてくるものがある、と諭す。長い間落語の世界で大切に語られてきたある噺。それにどうしても納得出来なかった江利だったが、自分の現実のゴタゴタと関わっている内に見えてくるものがある。落語を知ることで現実の見え方が変わり、また、現実と真剣に取り組むことで、落語の見え方が変わっていく。
僕は落語については全然知識はないけど、その奥深さの一端に触れられたような気がした。ただ笑えるだけの噺では、ただ泣けるだけの噺ではない。それがこれほどまでに長く語られ、残り続けてきたその理由はきちんとあって、表面だけ物語を追っているだけでは見えないものがたくさん隠されている。そういう奥深さが、人の心を動かし、人の人生を変えていくことになる。本書では色んな落語の話がされるけど、個人的に凄く気になるのは、「文七元結」と「芝浜」。特に「文七元結」に納得できないでいた江利が、様々な経験を経て、これはこういう物語だったのですね、と悟るその解釈がなるほどと思わされました。どこからどう見るかで物事ががらりと入れ替わってしまう、その妙もあるなぁ、と。
落語の主人公は、頭もよくないし、怠けてるし、時には暴力を振るうような男も出てくる。基本的に駄目男の話なのだ。それでも、ただ駄目なだけではない話がそこにはある。僕たちは、何者かにならないといけないみたいな強迫観念が若干なりともあると思うし、夢を追わなくてはいけないなんていう強制を感じることもあるんじゃないかと思う。でも、誰もが何者かになれるわけでも、夢を実現できるわけでもない。そういうことをなんとなく圧力として感じてしまう世の中に窮屈さを覚えることって、結構あったりする。でも、落語の世界に触れると、それでいいんだよ、と言われているような気になるのではないかと思う。そのままでいいんだよ、と。なんかそうやって、肩の力を抜きやすくしてくれるのも、落語の良さだったりするのかもしれないなぁ、とか思ったりします。
作品自体も凄くいいんですけど、やっぱりこういう落語小説を読むと、落語を読みたくなってしまいますね。本書は特に、女性として社会の中で生きることに何か疲れとかモヤモヤとかを抱いている人が読むと、凄く面白いんじゃないかなと思います。落語に出会い、人生を知る、という感じの作品です。是非読んでみてください。

平安寿子「こっちへお入り」



3・15卒業闘争(平山瑞穂)

内容に入ろうと思います。
僕は中学二年生で、もちろん学校に通っている。ただ僕には、中学一年から中学二年に進級したという記憶がないし、来年三年に進級できるという確信はまったくない。もう長いことずっと中学二年生をやり続けているような、そんな気がしてくる。
僕は、よく教師から怒られた。遅刻や忘れ物ばかりするからだ。しかしそれは、僕としては不可抗力だった。しかし大人は、大人の理屈でしか物事を判断しない。僕が何を言っても聞き入れる気はまったくないようだ。
授業中に性的な写真を持っていたとか、生徒の立ち入りが禁じられている場所で目撃されたとか、僕としては言い訳をしたい出来事について言及された僕は、いくつかのきっかけを経て、ベルゼブブ生命保険相互会社という会社を設立することを思いつく。何をする会社なのかは、後から決まった。アカと呼ばれている教師を殺害することだ。
学校での理解出来ないあれこれの中、僕は様々なことに巻き込まれていく。次第に明らかになっていく、学校というシステムにおけるいくつかの不穏な動き。一体この学校で、何が起ころうとしているのか…。
というような話です。
面白い作品でした。相変わらず、その圧倒的な世界観は凄いな、という感じがします。妄想をわざとバランス悪く積み重ねた不安定な構造物を思わせるような連想させる不穏な世界観は、読む者を次第に惹きこみ、いつの間にか彼方へと連れ去っていきます。
そもそも冒頭から、異常な設定の『学校』が描かれています。
そもそも、中学生だというのに年齢がバラバラ。主人公の僕は三十代だけど、もちろん十代もいれば、五十代もいる。年齢と学年の間には関係性はなく、年齢が下でも先輩だったり、その逆ももちろんある。
学校に定期的に殺人鬼がやってきて、必ず生徒を一人殺して去っていく。学校側は、特別な対策を取らない。なにせその殺人鬼は、ある階しか襲わないとされていて、その階以外の生徒は通常通り授業を受けるように言われているのだ。
などなど、まったく普通の学校ではない。こういう奇妙な環境を描かせたら、平山瑞穂は本当に巧いと思う。狂気的な設定の中で、特に細かな部分に力を入れて描くという印象があるので、余計にリアリティを増す感じがします。
主人公が振り回されるこの作品の世界観と学校という舞台そのものについては、何を伝えたいのか、どういう象徴的な意味があるのか、というようなことは、僕にはちょっとわからなかったです。元々僕には、物語を深く読み解く力がないんだけど、この作品には、読む人が読めば分かるような、深い背景が潜んでいるような気がします。卒業も進級も出来ない学校、あらゆる年齢の人間が中学生であるという設定、大人と子どもと不適格者という三者による世界、卒業準備委員会、ずっと姿を見ることが出来ない家族、謎めいた生物、理由の分からない戦争。そういう様々なモチーフが、本書ではなかなか魅力的な形でストーリーに溶け込んでいて、それぞれの表層的な部分は読んでて面白いんですね。でも、やっぱり僕には深いところまではわからない。
本書の中で恐らく最も強く繰り返し出てくるのが、『卒業』という話。どうやったら『卒業』出来るのだろうか、というのが、一つストーリーの大きな軸になるのだけど、この『卒業』というモチーフについても、その裏にどんなメッセージが込められているのか、僕にはちょっと難しかったです。そういうところがもっと自分の中で深く理解できれば、もっともっと面白く読めるんだろうなぁ、という感じがします。表面的な部分だけを読んでもそれなりに面白く読めるんだけど、読み進めていく中で、どうしても僕はこの作品の魅力をまだまだきちんと読み解けていないよなぁ、という感覚に囚われてしまうのでした。もう少し小説を読む力のある人間になれたらよかったのだけどなぁ。
全体的な流れについては僕には理解出来ない部分もあったけど、雑多な学園生活で描かれる個々のエピソードはやっぱり面白い。香坂先生とのやり取りはなかなか甘美だし、涼子との微妙な距離感は素敵です。介良や久住たちとの日常も面白いし、そういう個々のエピソードはやっぱり好きなんだなぁ。どれもこれも普通じゃない、なかなか奇妙奇天烈な設定・展開なんだけど、そういうものを調理させたら平山瑞穂はホント巧い作家だと思います。
特異な世界観を構築し、魅力的なエピソードを積み重ねて、妄想的な事柄を物語に昇華している物語、という感じがします。デビュー作の「ラス・マンチャス通信」の方が圧倒的に好きだけど、この作品も面白く読めました。読んでみてください。




平山瑞穂「3・15卒業闘争」

香水 ある人殺しの物語(パトリック・ジュースキント)

内容に入ろうと思います。
本書は、ジャン=バティスト・グルヌイユという一人の男の生涯を描いた作品。
18世紀のパリ。悪臭にまみれたこの街にあって、さらに悪臭の激しい地でグルヌイユは生まれた。生まれ落ちてすぐ孤児となったグルヌイユは、子どもには相当に厳しい環境の中で生き抜いていくことになる。とはいえ、グルヌイユ自身には何ほどの感慨もない。生きるということに、そこまでの強い関心がないのだ。
どこに行っても、何らかの理由で疎まれた。グルヌイユに愛情を注ぐ人間など、ほとんどいなかった。一歩間違えれば命を落としていたかもしれない環境の中で過ごしてきたグルヌイユは、しかし死ぬことなくどうにか育っていった。
グルヌイユの特異な点は、その鼻にある。グルヌイユは、暗闇の中であっても嗅覚のみを頼りに歩けるほど、様々な匂いを嗅ぎ分けることが出来た。周囲の人間は誰も、グルヌイユのこの能力に気づかなかった。誰も、グルヌイユに関心を持つことなどなかった。
ある日グルヌイユは、以後思い出すだけで心をかき乱されるとある匂いに出会う。その匂いに出会ったことが、グルヌイユの運命を大きく変えることになる。彼は、最も偉大な香水調合師になることを目指し、自分の人生を歩んでいくことになる…。
というような話です。
なかなか面白い作品でした。基本的に外国人作家の作品が得意ではないので、どうしても凄く高い評価にはならないのですけど、外国人作家の作品が得意ではない割に本書はなかなか読みやすかったし(登場人物が少ないというのが良かったですね)、宗教やらなんやらそういう、背景的なことをちゃんと理解していないとうまく読めない、みたいな小説というわけでもなかったので、僕にでも楽しめました。
グルヌイユは、なかなか狂気の男で、その狂気を冷静に淡々と描き出しているところが面白いのだと思う。グルヌイユは、嗅覚が優れている、というのがもちろん大きな特徴なのだけど、それを除いてもなかなか変な男です。人生の愉しみみたいなものは特になく、幸せというものを感じることがほとんどなく、辛いことでも黙々とやり続けることが出来る。そういう、かなり無気力な男なんだけど、匂いのことになると別人のようになる。これについても変わっていて、自分の能力を駆使して有名になろうとかお金を稼ごうとか考えるわけではなく、自らの中の「匂いの美」みたいなものをただ求道するというような男で、そのストイックさが凄い。ここでは書かないけど、グルヌイユはストーリーの途中で、本当に匂いの世界の求道の終着点みたいな生活を長く続けることになるんだけど、本当にただそれだけで生きていけるというのは凄いなぁと思いました。
「ある人殺しの物語」という副題の通り、グルヌイユは人殺しをするわけですけど、それも匂いの求道に関わっているわけで、徹底しています。僕らのような普通の人間にとっては、視覚こそが五感の中で最大の力を持っていると思うのだけど、グルヌイユの場合はそれが嗅覚であるというだけで、そう考えれば凄く不思議というわけではないのですね。僕らが目で見て様々な価値判断を下しているのと同じように、グルヌイユは匂いを嗅ぐことでその判断を下す。けど、そういう人間の存在をなかなか想像してみることがないからこそ、この物語が異様な雰囲気をまとうのだろうなぁ、という感じがします。
個人的には、読む人間が匂いについての知識を少しでも持っているとより楽しめるんだろうなぁ、と思いました。僕はそもそも嗅覚がほとんど死んでいるので(一応比喩です。別にそういう障害があるわけではないんですけど)、匂いというものに相当に鈍感です。だから、本書で表現されていることがやっぱり若干遠かったりするんですね。目の悪い人には眼鏡があるけど、鼻の悪い人にはそういうものがないわけで、嗅覚が人より鈍い僕にはちょっと遠い世界だなという感じはしてしまいました。本書では、スミレの匂いだとかミルクの匂いだとか、とにかく色んな匂いの描写がされるけど、普段日常的に存在するものの匂いさえ僕はまったく意識しないで生きているんで、そういうのにちょっとは敏感な人だとまた読み方が変わってくるのかもしれません。
映画化もされ、原作の評判も実に高い作品です。是非読んでみてください。

パトリック・ジュースキント「香水 ある人殺しの物語」


なずな(堀江敏幸)

内容に入ろうと思います。
菱山秀一は、東京で働いていたものの、ちょっとしたきっかけがあって、伊都川という田舎にやってきた。伊都川日報という、地元密着の地方紙の記者として働く、40代独身男性だ。
その菱山は、なずなという、生後二ヶ月ほどの赤ん坊を育てている。もちろん、自分の子ではない。様々に複雑な事情があり、弟夫婦の子どもを菱山が一人で育てているのだ。
いや、一人で、という表現は正しくないだろう。近くに小児内科の医院を構えるジンゴロ先生や看護婦として働く友栄さん、菱山の暮らすマンションの管理人である黄倉さんや、そのマンションの一階で<美津保>という軽食やお酒を出す店をやっている瑞穂さん、あるいは伊都川日報の社長は他の社員らに支えられ、菱山はどうにか子育てを続けることが出来ている。
子どもがいるというだけで、これだけ世界の見え方が変わってくるのか、と菱山は日々驚きに打たれている。子育ての苦労というのは、それは挙げようと思えば様々にあるのだが、それをすべてひっくるめても、子育てから得られるものの方が遥かに多い。その刺激的な日々を、菱山はなずなと共に過ごしている。
事情を鑑み在宅で仕事をさせてもらっている菱山は、町のそこここの噂話やちょっとした出来事を拾い原稿を書きつつ、なずなの成長とともに日々を過ごす…。
というような話です。
この作品は、日々を丁寧に過ごしている人には凄く響く小説なんではないかな、と思いました。
僕は、毎日をかなり雑に過ごしていて、日々の変化にも疎いし、季節や植物や月の変化なんかさえあまり意識しないままで生きている人間です。そういう雑な人間には、この丁寧な物語はちょっとハードルが高かったかなぁ、という気がします。それにやっぱり、子どもを育てた経験があるかどうかというのは、結構作品との向き合い方が変わってくるんじゃないかなという気がしました。もちろん、子育てをしたことがない人が読んでも響く小説なのかもしれませんけど、子育てをして、子どもを育てるということの新鮮さを間近に経験した人が読むと、また違うんだろうなぁ、という気がしています。
物語は、本当に日常の出来事を丁寧に描いているだけで、何が起こるというわけでもない。帯に「時間はこうして過ぎていく」ってフレーズが載ってるんだけど、まさにそういうフレーズがピッタリくる作品で、淡々とした日常の情景を切り取って描写しています。僕はこういう、ただ日常の描写が続くだけの小説も結構好きだったりするのだけど、本書はどうしてか僕にはそこまで響かなかったのですよね。僕はよく書いているように、女性向けの作品の方が相性がよかったりするので、書き手が女性で主人公が女性だったりするとそういう日常系の作品も大丈夫だったりするのかもしれないなぁ、と思ったりしました。本書は、飽きても主人公も男性ですからね。まあ、関係ないかもですけど。
本書で僕がいいなと思った点は、描かれている人物と地方での生活の描写です。っていうか正直、菱山の日常なんてその二つの描写となずなの描写で構成されているようなものなんだから、この二つが良いと思えたんだったら、作品全体もある程度良く感じられるはずなんだけど、これがそうでもなくて不思議だったりします。
本書では、地方で生きる人びとというのが、あざとくない感じで(この表現もなんだかおかしいですけど、ちょっと他にぴったり来る言葉が今は思いつきません)実に自然に描かれているという気がしました(もちろん、僕は今地方に住んでいる人間ではないので、あくまで僕がそう感じた、というだけですけどね)。若い人がいなかったり、車がないと生活出来なかったり、生活上の若干の不便があったりという、どこの地方でもあるのだろう、地方が抱える普遍的な命題を、直接的ではなく日常のあれこれの中に実に巧く紛れ込ませて描いている点はさすがだなという気がしました。そういう環境の中で生きる人びとを、凄く活き活きと描いていて、そこは凄くよかったですね。何でもない日常を描くことの難しさというのはなんとなくわかっているつもりなので、なずなという物語を多少前進させる存在があるとは言え、これだけの分量を、特に出来事らしい出来事を何を描かないままで作品として成立させたところなんかは凄いなという感じがします。
僕自身はそこまで強く惹かれる作品ではなかったのだけど、読む人が読んだら凄く素敵な小説なんだろうなぁ、というのは凄く伝わってきました。子どもを育てる前の人に合うのか、まさに今育てている人に合うのか、あるいは育て終わった人に合うのかはなんともわかりませんけど、なんとなく僕は、今まさに育てていて苦労している人に読んでもらったらよさそうな気がします。ま、今まさに育ている人には、本書を読む余裕はないでしょうけどね。「よつばと!」ってマンガがあって、僕は読んでないんであくまでもイメージですけど、そのマンガは「よつば」という子どもとの日常を描いたストーリーなはずなんで、子どもの年齢と作品全体のノリに違いはあるんだろうけど、なんとなく通じるものはあるのかな、という勝手なイメージを持ちました。ちょっと長いので、自分がそこまで惹かれなかった作品を勧めるのはなかなか難しいですけど、ぴったりくる人には凄くぴったり来る作品だと思います。

堀江敏幸「なずな」



ビブリア古書堂の事件手帖ー栞子さんと奇妙な客人たちー(三上延)

内容に入ろうと思います。
まず舞台の説明から。
北鎌倉駅付近でひっそりと営業する、一件の古本屋がある。「ビブリア古書堂」という名のその古本屋で働く女性を、五浦は高校時代に一度だけ見かけたことがある。美しい女性だった。
五浦は、とある事情で本が読めなくなってしまった男で、現在求職中。本当にひょんなことからビブリア古書堂と関わることになった五浦は、前の主人から店を引き継いだという栞子さんと共に、ビブリア古書堂に舞い込んでくる奇妙な謎を解いていくことに…。

「夏目漱石「漱石全集・新書版」(岩波書店)」
あまり流行っていない定食屋を切り盛りしている母親が、仕事もせずダラダラしている俺を祖母の部屋へと呼び出した。この部屋にはいい思い出がない。昔祖母の蔵書を漁っていて、祖母にぶん殴られたことがあるのだ。
祖母の一回忌を機に遺品を整理したいのだけど、これはどうしていいかわからない、と母は「漱石全集」を俺に渡す。そこには「夏目漱石 田中嘉雄様へ」というサインがあった。もしこれが本物だとしたら、と母は言うが、まあ恐らくニセモノだろうと俺は思っていた。
しかし本を見返していると、ビブリア古書堂の値札が。どうやらこの本は、ビブリア古書堂で買ったものらしい。俺の脳裏に、高校時代に見かけたあの可憐な女性の姿が浮かぶ。これを口実に、あの店に入れるじゃないか…。

「小山清「落穂拾ひ・聖アンデルセン」(新潮文庫)」
店に本を売りに来た、常連客だという志田。栞子さんも信頼する、せどり(絶版本を安く仕入れて転売する人)だ。今日も何点か、俺には価値のわからない本を売りに来たのだけど、その時妙な頼まれ事をされてしまった。
大事にしていた本を盗まれてしまったから、探すのに協力してもらえないか、と。
男爵と呼んでいるせどり仲間と会う約束があった日、自転車に乗った女子高生と荷物が混ざって、その時に恐らく盗まれたんだと思う、と志田は言う。
男爵にも会って話を聞きが、余計に混乱するばかり。しかしそれを栞子さんに伝えると、謎は解けたようだ…。

「ヴィノグラードフ・クジミン「論理学入門」(青木文庫)」
店頭で「論理学入門」を売りに来た、堅い感じの喋り方をする男性。そしてその後掛かってきた、その妻らしい女性からの、騒がしいだけで内容のよくわからない電話。預かった「論理学入門」を栞子さんに見せると、資本閲読許可証と書かれた貼り紙が。これは、刑務所にいた人間が所有を許可された本に貼られるものらしい。
栞子さんのところまで押しかけてきて、その本を買い取らないで欲しい、と言ってきた妻。未だにラブラブだという夫婦の話を聞いて栞子さんは、男性が抱える秘密を解き明かす…。

「太宰治「晩年」(砂子屋書房)」
栞子さんはずっとある男のことを追っていたらしい。正体の知れないその男は、栞子さんが金庫に入れて大切に保管している、太宰治の「晩年」の初版本の超美本を狙っているというのだ。
栞子さんは、「晩年」のレプリカを店に出して、犯人をおびき寄せる罠を仕掛けることにした。俺もその計画に協力し、店に怪しい人物が近づいていないかチェックする。ここ最近関わり合いになった人たちが店に来てくれ、そうした人たちがどうも不審人物を見かけているようなのだけど…。

というような話です。
いやはや、これは凄くいい作品でした!巷の評判が良いのが分かるなぁ。これは、本好きにはもちろんかなり楽しめるでしょうけど、本好きじゃなくてもかなり楽しめるという点が素晴らしいと思いました。
まず何よりも、ストーリーが凄くしっかりしている。これが何よりも、凄く本好きというわけではない人でも本書を楽しめる点だと思います。本について色んな知識が描かれていて(ってかそれらの知識は、僕程度の人間では追いつけないぐらい深いものなので、ちょっとレベル高すぎるんですけど)、そういう部分も凄くいいんだけど、それだけだとなかなか面白く読むのが大変。本書はまず何よりも、ストーリーそのものが凄く面白くて、だからこそつい読んじゃうんですね。
だってまず冒頭の、漱石全集にサインがしてあった、って話、まさかあんな展開になるとは思わなかったですからね。サインが書かれていた漱石全集、という出発点から、栞子さんのとんでもない発想力を経て、まさかあんなところに着地するとはなぁ。しかもこの一番初めの話が、後々にも若干関わってくる。これは、他の話でもそうで、それぞれの短編でストーリー的には区切りはつくのだけど、他の話とも緩く繋がっていく。そういう構成も非常に巧いです。
落穂拾ひの話は、ちょっとそれはさすがに栞子さん明晰すぎじゃないっすか!って思うところはあったけど、謎解きの後の余韻というか交流というか、そういう部分も凄くよかったし、論理学入門の話は、ストーリーそのものはちょっと弱いかなと思ったけど、やっぱり凄くいい話だと思いました。
晩年の話は、ちょっと凄かったですね。なるほどそうきますか!という感じでした。これは本当にストーリーが見事だったなぁ。
読みどころは他にもいっぱいあって困っちゃうけど、次はやっぱり栞子さんと五浦の関係かなぁ。
二人の距離は、縮まりそうで縮まらない。このもどかしい感じは、やっぱ最高ですよね。栞子さんは、本以外の話をする時は恐ろしく極端なまでに内向的で、ほとんど普通の会話が成立しない。でも本の話をする時は活き活きとまるで別人のようになる、という設定で、しかも美人。どう考えても変人だけど、とにかく変人が好きな僕としてはもうウハウハしちゃうような人ですね。五浦はまた変わってて、本を読むことに拒絶反応があって読めない。だから二人は、本について語りたい人と本について語られたい人という良い関係で、だけどいろいろあってお互い踏み込めなかったりすれ違っちゃったりするんだよなぁ。
しかもそういう二人の関係が、ストーリーと断絶されていないというところが素敵です。ストーリーの展開に合わせて二人の関係は浮いたり沈んだりするわけで、絶妙です、ホントに。この二人の関係がどうなっていくのかっていうのも、凄く気になりますね。
あとは、やっぱり本の話が面白い!さっきも書いたけど、ここで出てくる本の話って、僕なんかでもさっぱりついていけないような、ホントめちゃレベル高い話ばっかりで、基本的に知らないことばっかりだったんだけど、こうやって物語のテイストに乗せて語ってくれると凄く楽しい。本書を読む前に聞いていた本書の評判でよく耳にしたのは、本書で紹介されている本を読んでみたくなる、ってものだったけど、ホントそうだよなぁ、と思います。「落穂拾ひ」とか凄く読んでみたくなるし、「せどり男爵数奇譚」も読みたくなります。絶版本の話とか、太宰の初版本の話とか、全然知らない世界の話がポンポン交わされて、しかもそれがストーリーときっちり結びついちゃうところが素敵な作品だなと思います。
これは評判になるのが凄くわかる作品でした。今のところ2巻まで出てますが、これは続きが気になります!知識としては相当ディープな古書の世界が描かれていながら、その深さに怯まずに愉しく読むことが出来て、しかも本書で紹介されている本にも興味を持たされてしまうという素敵な作品です。是非読んでみてください!

三上延「ビブリア古書堂の事件手帖ー栞子さんと奇妙な客人たちー」



11(津原泰水)

内容に入ろうと思います。
本書は、11編の短編を収録した短篇集です。

「五色の舟」
手や脚が欠損しているなど、異形の者たちが、牛と人間のあいのこを引き取りにいく。

「延長コード」
数年も前に家出をし行方がわからなくなっていた虚言癖の娘が死亡した。最後まで関わりのあった人を訪ねる。

「追ってくる少年」
声を掛けて来た少年は、あのかつての少年と同じなのだろうか?

「微笑面・改」
僕には虚空に、絹子の顔が見える。それは、徐々に大きくなっていく。

「琥珀みがき」
琥珀みがきの仕事をしていた地方の女が、仕事で寄った都会に居着いてしまう。

「キリノ」
キリノについて覚えていることを話す。

「手」
家出をしようと誘われて向かった、坂の上の鴉屋敷。

「クラーケン」
私が巨犬を飼うことになったわけ。

「YYとその身幹」
殺害されたYYと、あの夜バーでセックスをした。

「テルミン嬢」
能動的音楽治療を施された女の数奇な生涯。

「土の枕」
気まぐれに戦場にやってきた男の生涯。

ちょっと時間がないというのもあるんですけど、予想通りというか、やっぱり僕にはちょっと合わない作品で、内容紹介はこんな感じでざっとさせてもらいました。
たぶん、ハマる人は物凄くハマるんだろうと思います。僕はこういう、怪奇小説とかSFとか幻想小説とか、そういう類の作品があんまり得意ではなくて、それでも時々読むんですけど、やっぱりちょっと僕には合わなかったなぁ。
好みってのは誰にでもあるだろうけど、こういう作品をちゃんと評価できる人間になりたいものです。本書は、世間的な評価はもうそれはそれは恐ろしいほどに高いのですよ、ホントに。

津原泰水「11」


人質の朗読会(小川洋子)

内容に入ろうと思います。
本書は、一風変わった、連作ではない短篇集です。
本書には、9編の連作ではない短編が収録されているのですが、それぞれにはある共通点があります。
それは、人質が朗読している物語だ、ということです。
日本の裏側で起こったとある誘拐事件。犯行グループは、仲間のメンバーの釈放と身代金を要求しているらしい、という情報が入ってくるが、正確なことはわからない。人質となった日本人たちの行方も分からないままで、しばらく人の口に上らないまま、しばらく時間が経過していった。
ある日突然、軍と警察の特殊部隊が、元猟師小屋のアジトに強行突入し、犯人グループと人質全員が死亡するという形で終結を見た。
その後、アジトを盗聴していた特殊部隊が、作戦に無関係な部分だけを限定的に公開した。それは、人質たちがそれぞれ、自らの人生に起こった出来事を語り合った記録だった。長く一緒にいる中でコミュニケーションが生まれた犯人グループ側とのやり取りも生まれ、悲壮感ではなく笑顔の中で朗読も行われたらしい。
本書で収録されているのは、その人質たちが語った、自らの人生に起こった出来事たちです。

「杖」
私の家の前には、鉄工所があった。私はその鉄工所を見ているのが好きで、チョークで地面に何かを書いているフリをしながら、何かを破壊しているようにしか見えないその鉄工所の様子を観察していた。
ある時公園で、一番下っ端らしい鉄工所の工員さんを見かけた。何故かブランコに座っていた。聞くと、ブランコに乗っている時にちょっと怪我をしたらしい。私はどうにか、杖代わりになるものを探してこようとするが…。

「やまびこビスケット」
その家の家賃が安いのは、大家さんが嫌われ者だからだ。お金にうるさく、家賃の取り立ては厳しい。また、整理整頓がモットーのようで、ほんの些細なことでもガヤガヤと言われてしまう。私はそんな部屋に住んでいた。
やまびこビスケットという、地味なビスケットを作る会社で不良品を取り分ける仕事をしていた私は、いつしか、要らなくなった不良品を大家さんのところに持っていくようになった。アルファベットの形をしたビスケットを並べ、一緒にそれを食べる。

「B談話室」
私立大学の出版局で校閲の仕事をしていた僕は、ある時ほんの偶然から、公民館のB談話室に入ることになった。受付に、美人の女性がいたというのも理由の一つだ。その日B談話室では、危機言語を救う友の会が開かれていた。世界中の、絶滅寸前の言語を喋る人が、お互いにその言語を語り合う、というものだ。成り行きで入り込んだ僕は、自分に順番が回ってきたことに驚きつつも、はったりででっちあげの危機言語を生み出してその日を乗り切った。
それから僕は何度かB談話室に入り、入るまで何が行われているのか分からないその場を、どうにかやり過ごすようになっていった。

「冬眠中のヤマネ」
学校に向かう途中に、その老人はいた。露天で人形を売っているのだとほどなく知れたが、並べてある人形が普通ではなかった。食べこぼしがあったり汗染みがあったりするような生地を使い、しかも油虫・オオアリクイ・百足など、およそ人形にするには適切ではないモチーフのものばかりがあった。
僕は何故かその老人に話しかけていた。その老人は、左目が駄目になってしまっていた。置かれている人形もすべて、片目しかない。

「コンソメスープ名人」
その日何故か、母が僕を置いて出かけていった。誰か訪ねて来ても返事をしてもいけないし、ドアも開けてはいけないよ、と言われていたのだけど、隣の家の娘さんがやってきた時、僕はその約束をすんなりと破ってしまっていた。
台所を少しの間貸して欲しい、と隣の家の娘さんは言った。祖母がもう、私の作ったコンソメスープしか飲まないのだけど、台所のガスレンジが壊れて困っているのだ、と。

「槍投げの青年」
その日は、いつも通りの一日になるはずだった。長い長い荷物を持った青年が電車に乗ってくるまでは。
混雑した電車にその長い荷物を入れるのは大変そうだった。私は頼まれたわけでもなく、その青年が電車を降りる手助けをしてあげ、会社に向かわなくてはならないのを、そのまま青年の跡をつけることにしたのだ。
青年は住宅地の中の競技場に向かった。青年が持っていた荷物は、槍だった。

「死んだおばあさん」
バッティングセンターでハンサムな男性から、あなたは僕の死んだおばあさんに似ている、と声を掛けられる。それから何度かその青年とは話をした。
それから私の人生には、自分の死んだおばあさんに似ている、と話しかけてくる人が度々あった。そのどれ一つとして、見た目や正確に似ているものはなかった。唯一、既にもう死んでいるという点だけが共通していた。

「花束」
男性用スーツ販売店でのアルバイトの契約が終了したその日、僕の唯一の担当と言っていい顔なじみのお客さんである葬儀典礼会館の営業課長さんから花束を受け取った。僕はその花束を持て余しながら、家まで歩いて帰っている。
その営業課長さんの仕事は、死者のための新品のスーツを用意しておくことだった。この地方の慣習らしい。

「ハキリアリ」
この話だけ例外で、人質と犯人グループの話を盗聴していた特殊部隊の隊員による回顧録。
私が初めて外国人に会ったのは7歳の頃で、それは日本人だった。音信のない父のことを諦め切れない母と、既にその存在をないものとして新しい生活に切り替えている祖母、そして弟と妹との暮らしだった。
その日三人の日本人は我が家に、ラジオを借りに来た。ハキリアリの研究者だそうだ。

というような話です。
小川洋子はやっぱりさすがだな、と思います。本書は何よりも、その設定が素晴らしい。
連作ではない短篇集に意味を持たせた作品として、昔感心した記憶があるのは、山本弘の「アイの物語」で、これも、一編一編の短編自体の繋がりはないのだけど、その外側にもう一つ別の世界を用意することで連作ではない短編同士を繋げるという設定が見事だったのだけど、本書もまさにそういう見事さがあります。
誘拐された人質たちが、監禁されている最中に語った物語、なんて設定、なかなか思いつかないですよね?
しかも話の設定上、それぞれの短編は、語り手たちが人生の中で実際に経験した出来事、なわけです。それがまた、実際にありえそうな感じの話で凄くいい。小川洋子は、ファンタジーとは違った形で、現実からちょっと浮き上がった世界観を描くのが凄くうまい作家だなと思ってて、本書にもそういう部分がきっちりと現れている。正直本書を読んでると、まあさすがにこういうことは起こらんよな、なんて冷静に思っちゃったりもするんです。でもその一方で、もしかしたらここで描かれていることも起こりうるかもしれないなぁ、と思わせるだけの絶妙なバランス感覚があって、そこが凄いなと思うんです。現実には起こりそうにはなくて、でも起こってても不自然ではない、というような素晴らしいバランスの上に各話が成り立っていて、ホント巧いなぁ、と思いました。
ホントに話としては、えっ?って感じで終わるものもないではありません。僕なんかは、「槍投げの青年」とか「花束」なんかはそういう読後感でした。それで終わり?みたいな、ホントに何でもない描写だけで終わってしまったみたいな、そういう感触なんですね。でも、その短編が好きではないかっていうと別にそんなことはなくて、人質たちが語ったという設定が非常に巧く生きているせいか、なるほどこの人にとってはこの出来事が人生の中で一番重かったり大切だったりするのだな、と思わせる力があります。正直、先に話に出した「アイの物語」では、それぞれの短編をちょっと無理に繋げたな、と思わなくもなかったのだけど、本書の場合、『人質たちが、自分の人生で起こった出来事を語る』という設定が、特にこれと言ってなんでもない短編を輝かせるだけのスパイスになっていて、設定と構成が絶妙な作品だと感じました。
小川洋子はなんというか、世界の隙間に物語を見つける作家なのかなぁ、という気がしています。僕らが生きている世界は継ぎ接ぎだらけで、全然一枚の布から出来てるわけじゃない。虫食いだってあるかもしれないし、ほつれている部分もたくさんある。でも、きちんとした目を持っていなければ、そういう綻びを見つけることは出来ない。小川洋子は、普通の人間にはなかなか見えないそうした世界の綻びを、常に視界に入れ続けているのではないか、という気がします。そうじゃなければこんな、現実と非現実が絶妙に入り交じった物語なんか、なかなか書けるものではないと思います。
個人的に好きなのは、「B談話室」と「冬眠中のヤマネ」です。「B談話室」は、この経験があったからこそ今こうなった、という流れが、全然論理的ではない感覚で「なるほど!」と思えたし、B談話室で行われている変わった催しや(一番始めの「危機言語を救う友の会」なんて、発想が凄すぎるよなぁ)、そこに馴染んでしまう主人公の感覚なんかも凄く面白くて好きでした。なんとなく僕らの町の公民館にもB談話室がありそうな気がしてきて、なんかちょっと楽しいです。「冬眠中のヤマネ」も、これまたよくわからない話なんですけど、目的のさっぱり見えない人形売りと、どうしてかその老人に惹かれてしまう少年の、邂逅から別れまでを描く作品で、なんだかよくわからないものの、凄くざわつかせる作品だなと思いました。これも結局、この経験があったからこそ今こうなっています、という流れがあって、なんとなくそこに凄さを感じてみたり。うまく説明できないなぁ。
とにかく、『これは現実の話です』という前提をどっぷりと受け入れて読むと、凄く不思議な感覚に浸れる作品だと思います。連作ではない短篇集に意味を与えたという意味でも、構成や設定が見事な作品です。帯に「小川洋子ならではの小説世界」って書いてあるんだけど、まさにこれは小川洋子にしか書けない小説のような気がします。是非読んでみてください。

小川洋子「人質の朗読会」



桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活(奥泉光)

内容に入ろうと思います。
本書は、「モーダルな事象」とシリーズを同じくする、桑潟幸一が活躍(?)する連作短編集です。
ざっくりとまず、大まかな設定を書いておきます。
桑潟幸一(通称クワコー)はかつて、敷島学園麗華女子短期大学(通称レータン)という、関西圏随一の低偏差値大学で日本文学を教えていた(この話が「モーダルな事象」)。クワコーはとにかく、コネで大学教授になったような男で、風采も上がらずやる気もなく人望もなければ何もないという男であった。あるのは、人一倍の卑屈さだけである。
クワコーはちょっとした危機感を抱えていた。それは、レータンがそう遠くない内に潰れるだろう、という噂を耳にしていたからだ。
しかしそこに、蜘蛛の糸を垂らす男がいた。それが、かつてレータンで同僚であった鯨谷光司という男だった。
この鯨谷、かつて大手消費者金融会社の取締役だった男で、『ヤクザに学ぶリアル経営術』という本を出したことをきっかけとしてレータンで教授になったという怪しげな男である。その鯨谷はたらちね国際大学という関東の私大に移ったのだけど、クワコーをそこに呼んでくれるというのだ。
クワコーは、助かった!と思った。たらちね国際大学もレータンと同様底辺の大学であったし、鯨谷がどんな思惑でクワコーを呼び寄せようとしているのかも漠然と分かっているのだけど、それでもクワコーには、鯨谷から垂らされた蜘蛛の糸を唯一の希望と信じて、たらちね国際大学までやってきたのだ。
本書は、そうやってたらちね国際大学に異動してきたクワコーの物語。たらちね国際大学で文芸部の顧問になったクワコーは、ぶっきらぼうなジンジン・大昔のバスの車掌のような格好をした木村部長・大体いつも看護婦のコスプレをしているナース山本・入学直後プロレスをやって名を上げたドラゴン藤井など個性的な面々と共に、なんだかよくわからないままに巻き込まれるトラブルを解決したりする話です。

「呪われた研究室」
たらちね国際大学にやってきて研究室を持ったクワコーだったが、しかしクワコーの研究室であるA館の409号室というのは曰く有りげな部屋なのだ。
どうも、幽霊が出る、というのだ。しかも決まって4月限定で。
かつてその部屋の教授が自殺したとかで、ついちょっと前にも、その部屋を研究室としていた教授が窓から落ち大怪我を負ったという出来事があった。誰かに押されたような気がする、と言った教授だったが、しかしその時周囲に人気があるはずがなかったのだ。
そんな曰くつきの部屋にいることになったクワコー。ちょっとした理由から、レータンではしたこともない、夜遅くまで研究室にいるなんてことを続けてみたところ、出た。窓をノックし、天井から笑い声が聞こえ、エレベータが止まったのだ!ホントに出るのか?
409号室の怪をテーマの一つにしているという文芸部の面々は、409号室を部室がわりに使うことになって意気揚々と調査するが…。

「盗まれた手紙」
クワコーの元に、柿崎秀友という男がやってきたことから物語は始まる。この柿崎という男、タム子という警備会社で働いているというのだが、クワコーとの接点はさっぱり不明。しかしその柿崎から、春狂亭猫介の名前が出るや、クワコーは嫌な思い出を回想する。
そう、春狂亭猫介。かつてクワコーは、日本近代文学者総覧という大辞典の編纂に関わった。クワコーは太宰治の項を書きたかったのだけど、それは様々な理由によって叶わず、クワコーは春狂亭猫介という、誰なのかさっぱり分からない輩の項目を書かなくてはならなくなったのだ。その名前には、嫌な思い出しかない。
実はこの柿崎という男、春狂亭猫介と関わりのある男のようで、しかもとある事情によりある手紙を探しているのだという。もしかして桑潟先生のところにあるかもしれない、という話のようで、見つけたら50万円くれるという。
50万円!つい先日給与明細を見たクワコーは愕然とした。これは何かの間違いなのではないだろうかというような値段が記載されていた。そんなクワコーにとって、50万円は喉から手が出るほど欲しい。
文芸部員の力も借り、首尾よく手紙を発掘したクワコーだったが、それをもうしばらく預っていて欲しいと言われたクワコーは…。

「森娘の秘密」
たらちね国際大学には、四年制の大学に移行するに当たって、情報総合学部の中に、国際コミュニケーション学科・キャリア創造学科・日本文化学科の三つが作られた。鯨谷教授は、その専門(?)から言って国際コミュニケーション学科にいるべきところを、馬沢という学部長候補と言われる教授の画策により日本文化学科に追いやられたという経緯がある。そのことにいたく不満を抱き続ける鯨谷は、どうにかして馬沢を追い落としてやろうと画策している。
その片棒を担がされるのが、もちろん我らがクワコーだ。クワコーは鯨谷から、馬沢は森という女と研究室内でいちゃついていることは間違いないから、証拠の写真を押さえろ、と密命を受ける。いやいやながらも言われた通りにしようとするクワコーだが、なかなかうまくいかない。
一方でリクルート委員会の委員長である鯨谷は、新入生の勧誘実績で上にのし上がろうとしているようで、かなり熱心に活動をしている。その一つが、高校の名簿を手に入れることだ。近々名簿屋というアングラなところから名簿を手に入れることが出来ると言っていた鯨谷だったが…。

というような話です。
いやー!面白かった!やっぱり奥泉光は好きだなぁ。色んなタイプの作品を書く作家で、どちらかというと本書のようなユーモアタッチの作品は珍しい部類に入ると思うんだけど、奥泉光はなかなかとっつきにくい作品が多い気がするから、桑潟幸一ことクワコーが活躍する「モーダルな事象」と本書は、素晴らしい奥泉光入門書ではないかな、という感じがします。
本書は、帯とかに「ユーモア・ミステリー」って書かれていて、確かにユーモア・ミステリーなんだけど、でも本書の最大の魅力はストーリーそのものにあるわけではないのです。それは、ダルい会話と、クワコーの卑屈さが満載だ、という点です。この二点において、本書を越えられる作品ってなかなかないような気がします(まあ、そもそも類似の作品があんまりなさそうな気がしますけど 笑)
まずダルい会話から。本書では、文芸部のメンバーがかなりクワコーの日常に絡んでいくんだけど、この文芸部のメンバーの会話がべらぼうに面白い!もちろん、この会話の感覚が全然理解出来ないって人も多いと思う。年配になればなるほど、何が面白いんだかよくわからない会話だろう。若い人ほど、このダルい会話は面白がれるだろうなぁ。
何が驚くって、著者がこのダルい会話を書けているってことである。著者自身大学教授であるらしいから、身近でこういう会話を聞く機会があるんだろうし、また身近にいる学生に色々聞いたりもしてるんだろうけど、それにしても凄い。これだけ頭の悪そうな会話をリアリティたっぷりに書けるもんなんだなぁ。著者、50歳超えてますけどね(笑)
どっか会話の一部でも抜き出してみようかなって思ったんだけど、やっぱ一部だけだとなかなかうまく伝わらない気がして止めてみました。しっかしホント、このダルさは最高です。僕は、ここで描かれる文芸部の面々が割と好きで(相当に変わったキャラが揃ってるんで、最高ですよホントに)、日常的にこんなアホな会話してるとしたら面白いだろうなぁ、って気はするんだけど、でも聞いてるだけで脳みそが溶けてきそうな会話で、日常的にこんな会話聞いてるのも怖いかなって気もします(笑)
その中にあって、ジンジンこと神野仁美は別格に素晴らしい。このジンジンの最強に超絶的に特異な部分についてはここでは書かないことにするんだけど、なかなか破天荒なキャラです。しかも、探偵役。鋭い推理で謎を解いちゃう。でも、周りがアホばっかりなんで、ジンジンの鋭い推理も、周りのガヤガヤによってあんまり鋭く見えなくって、グダグダになっちゃうところも凄く面白いわけなんです。って、こんなこと書いてもよくわかんねーだろうなぁ。
ダルいと言えば、モンジと呼ばれる、たらちね国際大学唯一の男子学生の話し方のダルさもなかなかのもので、でもこんな若者実際どこかにいそうだよなぁ、という雰囲気を漂わせている辺り、すげぇなと思いました。
で、もう一つの魅力は、クワコーの恐ろしいまでの卑屈さです。
クワコーというのは、とにかく卑屈が服を着て歩いているような人間で、とにかく物事を悪く考えることが得意で仕方ない。しかもやる気も人望も何もかもないので、文芸部員から序列が下だと思われている始末。研究に力を入れてこなかった自分が悪いのだけど、とにかく何の実績もなく、ただ成り行きで大学教授であり続けているだけのクワコーは、自分を貶める要素に塗れながら生きているのだ。
だから、何かあるとすぐいじけたり、悪い風に考えて不安に駆られたり、先走って物事を考えすぎて素っ頓狂な行動を取ったりと、まあとにかく面白い。僕も、どちらかと言えば卑屈な人間だと思うし、物事を悪く考えるのも得意な人間だったりするのだけど、クワコーと比べたらもう天と地ほどの差がある。それぐらいクワコーは卑屈すぎるのだ。
そんな卑屈すぎるクワコーを、泣きっ面に蜂とばかりに様々なトラブルが襲う。襲われたクワコーの反応がまた面白いんだ。年甲斐もなく泣いたり、我を忘れて呆然としたり、文芸部員に頼りっぱなしだったり、ホントどうしようもない男なんだけど、そこがホントに面白いんだよなぁ。
本書では、クワコーの日常の部分も愉しみな一つ。クワコーが普段どんな生活をし、学内でどんな風に振るまい、文芸部内でどんな扱いを受けているのか、という部分も、本当に笑わせてくれる。真面目ではないけど真剣に生きているだけのクワコーの日常がこれだけ面白くなっちゃうのは、ホント作者の力量だなぁと。
というわけで、僕的には、ダルい会話とクワコーの卑屈さがとにかく面白くて仕方ない作品なんだけど、もちろんストーリーもきっちりしています。始めっからミステリだと思って読むと、トリックだとかオチの弱さが浮かんできちゃうかもだけど、でも読み始めると、とにかくトラブルとか謎解きとは関係のない部分に目がいってしまって、で話の流れに乗っているといつの間にか事件が解決していて、なるほどー、という感じで楽しめます(一応書いておきますけど、褒めてるんですよ)。
というわけで、これは読んでて楽しい小説だったなぁ。ユーモアな作品ですけど、決して軽いタッチではなくて読み応えもきっちりあるし、でももちろん重厚すぎるわけでもなくさらっと読める。イマドキ風の会話や雰囲気が出てくる一方で、イマドキもムカシドキもないようなクワコーの恐ろしいまでの卑屈さが匂い立つようにして蔓延している、そんな作品です。一応、クワコーが出てくる、という点で繋がってはいますけど、前作である「モーダルな事象」を読まなくても楽しめます(というか、僕が既に「モーダルな事象」の内容を忘れているという 笑。でも、「モーダルな事象」もメチャクチャ傑作だったっていう記憶はあります!こちらも是非!)。表紙も素敵ですね。読んでいくと、表紙の絵が誰が誰なのかわかってきて楽しいと思います。是非是非読んでみてください。


奥泉光「桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活」





感じる科学(さくら剛)

内容に入ろうと思います。
本書は、「インドなんて二度と行くか!ボケ!!」などの破天荒な旅行記をあれこれと刊行してきた著者による、真面目と不真面目のあいだの科学本、という感じです。
本書がどんな感じなのか、本文を引用する以外の方法で説明するのは難しいので、ちょっと、全体の雰囲気が通じるような部分を抜き出してみます。

『しかしここで考えてみてください。
いいですか、我々男子が見られる女子生徒の姿は、必ずどちらかが確定された一方の姿だけです。本来ならば、段階を踏んで女子生徒は、「セーラー服姿」→「セーラー服の上着を脱いだ姿」→「セーラー服のスカートを脱いだ姿」→「☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓姿(東京都青少年健全育成条例により伏せ字)」………というような非常に込み入った変化の流れをたどるはずなのに、その途中の姿は観測者たる男子には絶対に見せてくれないのです。
これは納得がいきません。世の物理学者たちが最も力を入れて、躍起になって探ろうとしているものこそが「見ていないときの粒子の振る舞い」なんです。つまり、物事は中間の姿が一番重要だということなんですよ。確定された状態なんてもう見飽きているんです。セーラーから体操着に変化する間に粒子や女子がどのような振る舞いを見せているか、それこそが我々研究者たる男子が最も観測したい事柄なんです。なんですか、物理学の発展のために協力して人肌脱ごうという女子はいないんですかっ。あなたがスルッと人肌脱いだ姿を観測させてくれることが量子論ひいては人間社会の未来のために大変な寄与を果たすんですよっ。それがわからないのですかあなたたちはっっ!!』

のっけからなかなか変態チックな文章ですが、本書は大体こんな感じで進んでいきます。
今引用したのは量子論の説明についての部分ですが、本書でとりあげられる様々なジャンルについて、こんな風に脱線しまくった脱力しきった文章で説明されるわけです。
胡散臭っ!と思った方。もう少し僕の文章を読んでみてください。
本書には、冒頭と巻末でこんな風に書かれています。

『もし物理の教科書が東野圭吾さんや宮部みゆきさんによって書かれ、ひとつの項目が終わるごとに毎回犯人がわかれば、授業中の生徒の目ももっと活き活きと輝くと思いませんか?』

『これからも、私たちが生きているうちに、大きな発見や発明はいくつもなされるに違いありません。しかしその発見を驚き楽しむためには、情報の受け手である私たちがある程度の知識を持っていることが要求されます。』

この二つが、ある意味で本書のコンセプト的なものだったりするのかなぁ、という気がします。
本書はまず、「入門書の入門書」という感じの作品で、とにかく、多少正確さを犠牲にしても(この点については後でもう少し詳しく書きます。)、科学の面白い部分について『面白い』と感じてもらえるような、そういうつくりになっています。だから、とにかく読んでいる人的に身近な喩え(恋愛とかドラゴンボールとか)なんかを駆使して、イメージが伝わることを重視しています。「入門書の入門書」だから、正確なことは入門書を読めばいいわけで、本書はさらにその前段階、科学って実は面白いかも?と思わせてくれる感じの作品になっています。
僕は元々理系で、物理なんかは結構好きだったりするんで(化学はあんま好きじゃないんですけど)、結構そういう本を読むんですけど、確かに、入り口のハードルって高いと思うんです。僕は学生時代物理をそれなりにちゃんと勉強していたからこそ物理の面白さというものがわかるわけで、そのベースがない人にいきなり最先端物理学の話を、まっとうな形でどれだけ噛み砕いて説明しようとしても、なかなか難しかったりします。まあ割と、『難しいかも~』っていう先入観だけが邪魔しているだけ、なんてことももちろんあるんだろうけど、それにしたって、どうやってその先入観を取り除くのか、というのはなかなか難しい問題だったりします。
本書は、結構それに成功している作品だなという感じがしました。どうしても科学者なり科学好きの人間というのは、『正確に伝えたい』という思いが強いあまり、どうしても難しくなってしまいます。本書は、多少の正確さは犠牲にしたとしても(とはいえ、本書が不正確なわけではありませんよ)、こんな風に捉えてみたらなんか凄くおもしろくね?とか、ちょっと難しいかもしんないけど簡単に考えればこういうことなんだぜみたいなことが、自虐も含めた様々な比喩やエピソードによって語られるので、物理の様々なジャンルに興味を持ちやすい本だと思うんですね。
本書ではなかなか多岐に渡るジャンルが扱われていて、大見出しだけでも、
「光」「特殊相対性理論」「万有引力」「一般相対性理論」「量子論」「タイムマシン」「発明」「宇宙」「進化論」
とあり、さらにそれぞれの章の中で細かく色んな話が繰り出されていきます。それぞれの分野についての一番面白い部分(or比喩やエピソードなどで脚色すると凄く面白そうに伝わりそうな部分)を選んでいるので、様々な分野について扱うことが出来るし、それぞれの分野の面白い部分を知れるので、そこから興味を広げていくことが出来ると思うんですね。
それに、意識的なのかそうでないのかわからないのだけど、僕らの日常とはまったく関係のない分野について書く際も、比喩やエピソードなどがかなり僕らの日常にありえそうなものばかりなので、「量子論」だの「相対性理論」だのといった、僕らの日常生活にはほぼ関係ないだろう事柄でも、なんか凄く身近なことのように感じられたりするのですよね。そう言った点でも、本書は「入門書の入門書」として非常に上手く機能しうる作品だな、と感じました。
さて、先程から書いている『多少正確さを犠牲にしても』って話についてちょっと書いてみようと思います。
本書は、確かにふざけた感じの作品ではありますが、書かれている科学的事実に関してはかなりちゃんとしていると僕は思いました。
正直この著者が何者なのか僕はよく知らないんですが、研究者は研究者のようです(なんの研究者なのかは知りませんけど)。ただ作中のどこかに、科学は趣味だ、みたいなことが書かれていた気がするけど、もしかしたら気のせいかもしれません。
とはいえ、僕はこれまで結構な物理の本を読んできたんですけど、それらと比べても、書かれている記述に関してはかなり正確だと思います。僕が『多少正確さを犠牲にしても』というのは、イメージの伝わり方の話です。
例をあげるとこんな感じです。
例えば、もの凄く臭いウンコが目の前にあるとしましょう。匂い学会(なんてのがあるのかわかりませんけど)では、そのウンコの匂いは、『サクフラシンスとメノモタメンの化合物を三年間熟成させた匂い』と表現しているとしましょう。これは、その匂い学会的には正確な記述です。でも、これではそのウンコの匂いのイメージがまるで伝わらない。そこでこの匂いを、多少正確さを犠牲にして(つまり『サクフラシンスとメノモタメンの化合物を三年間熟成させた匂い』とは若干違うんだけど)、『納豆をくさやにしてシュールストレミング缶(世界一臭いと言われている食べ物)の中に放り込んで三年熟成させた匂い』と表現すれば、まあなんとなくは伝わるんではないかと。
僕が言う『多少正確さを犠牲にしても』というのはそういう意味です。科学的な記述はかなり正確だと僕は思いました(少なくとも、僕が知っている範囲の知識では、ですが)。ただそのイメージを伝える際に、かなり大胆に正確さを欠いてその代わりに面白さをふんだんに足している、という感じです。それが、少なくとも僕がこれまでに読んできた科学本にはなかった特色だと思うし、本書の一番のポイントだと思います。
あと、もう一つ。僕は結構物理の本を読んでるし、本書は「入門書の入門書」なんでかなり初心者向けの知識しかないわけなんですけど、でも時々、僕が知らなかった知識が入っていたりして、もしかしたら結構物理に詳しい人でも楽しめる作品かもしれない、という気はします(あともう一つ、物理好きな人が本書を読むメリットを挙げるとすれば、難しい物理のイメージを伝える比喩やエピソードをふんだんに盗める、ということでしょうか 笑)。例えば、「暗黒物質」と「ダークマター」の違いは本書で初めて知りました。もしかしたらどこかで読んでたりしたかもしれないけど、本書の記述は分かりやすかったなぁ。それと関連するけど、光速度不変の原理(光速はどんな立場から見ても光速で、光速を超える速度は存在しない)っていう、相対性理論における超重要な事実に唯一外れるケースがある、なんてのも初めて知りましたよ。他にも、『動物園仮説』なんて固有名詞は初めて聞いたし、ゴキブリが時差ボケするなんてのも初めて知りました。こんな風に、それなりに物理に詳しい人でも、ちょろちょろっと知らなかった事実が出てきたりするかもなんで、面白いかもしれません。
個人的に一番なるほどーと思ってしまったのが、「発明」の章の中で書かれる「人体冷凍保存」の話。生きている人間を冷凍保存するのは法律違反だから全部死体だとか(僕は、案外生きてる人間も冷凍保存されてるんじゃないか、とか思ってました)、冷凍保存の管理がずさんすぎて酷い、みたいな話も面白かったんですけど、納得ポイントは別。
冷凍保存されている人は、死体を生き返らせる技術を持つ未来に蘇ることを期待しているわけですが、でもその世界で「わざわざ」死体を蘇らせてくれる人はいるのでしょうか?何故なら、
『当然ですが、亡くなってから保存されるということは、冷凍されているのはそのほとんどが高齢者です。
今からずっと先の将来、先進国では今以上に少子高齢化が深刻になり、地球全体では今以上に人口過多で食糧不足に襲われている時代に、誰がすすんで高齢者の遺体を蘇生させてあげようと考えるでしょうか?』
なるほど!と思いましたよ。確かにその通りで、たぶん誰も蘇生させてくれませんよね…。
あともう一つ。この冷凍保存には、頭部だけの保存ってもあるみたいなんです。未来に脳移植をして、若い体で復活することを願っている、らしいんですね。
でもこれについても、
『いつの日か、死んだ人間を蘇生させることができるようになった時代に…、そんな時代に、移植先になるような若い体があるわけがありません。だって誰も死なない時代なんですから。』
なるほど!という感じでした。確かにその通りですねぇ。
この冷凍保存の話に限らず、こういう、重箱の隅をつついているようで実は真実を言い当てちゃってるんじゃないの?的な部分は結構出てきて、なかなか面白かったです。
まあそんなわけで、他にも楽しい部分は色々とあるわけなんですけど、抜き出しすぎて興を削ぐのもなんかなーという感じなんで、これぐらいにしておきます。
本書は、子供でも読めるでしょうし(ただ、使われている比喩やエピソードが、親的には子供に読ませたくない、という感じかもしれませんが 笑)、大人が読んでももちろん楽しめる作品だと思います。例えば物理に対して、『宇宙って広いよなぁ』とか、『アインシュタインってなんとなくすげぇ』程度の興味を持っている人であればとても楽しめるんじゃないかなと思います。逆に、物理とか結構詳しい人には、人によっては退屈に感じられるかもしれません(僕は面白いと思いましたけど)。本書は何度も書いていますけど、「入門書の入門書」なので、本書を読んだ後で本当に入門書を読むと、より知識が深まるのではないかと思います。特に文系の人に読んでほしい作品です。物理って、面白いんですよ!

さくら剛「感じる科学」




さくら剛「感じる科学」

花言葉をさがして(ヴァネッサ・ディフェンバー)

内容に入ろうと思います。
本書は、主人公・ヴィクトリアの二つの時間軸の物語が交互に描かれていく、という構成の物語です。
一方は、ヴィクトリアの過去の話。親がいなく、施設を渡り歩きながら里親になってくれる人を待ち続ける生活の中に身を置く10歳のヴィクトリア。しかしヴィクトリアはどこでも問題を起こしてしまう。里親に名乗りを上げてくれた人に反抗したり悪戯をしたりしてしまう。ヴィクトリアの中ではそれは、これぐらいのことをしても愛してもらえるだろうか、という期待の裏返しだったりする。しかし、ヴィクトリアの態度と相まって、そんなヴィクトリアの想いは伝わらない。里親候補の方に問題があることもあったのだろうけど、とにかくヴィクトリアは常に施設に戻されることになった。
ヴィクトリア担当のソーシャルワーカーであるメレディスは、これが最後のチャンスだ、と言い聞かせて、ヴィクトリアをエリザベスのところへと連れていった。エリザベスは、ヴィクトリアがどんなことをしても、より大きな愛で包み込んでくれるような、そんな女性だった。またエリザベスは、ヴィクトリアに少しずつ、花言葉を教えていった。ヴィクトリアは少しずつ、エリザベスに心を許すようになっていく…。
もう一方は、ヴィクトリアの現在の話。ヴィクトリアは18歳になっていて、施設を出なくてはいけない年齢になっていた。ヴィクトリアはホームレスとなり、空腹と寒さに震えながら、自分の人生を諦めていた。
私を雇って欲しい。近くにあった花屋に行ったヴィクトリアは、すんなりとではないがその花屋で働けることになった。花への知識とセンスの凄さを認められたヴィクトリアは、レターナという花屋の女主人に連れられ、花の市場にも顔を出すようになっていった。
そこで、自分のことを見つめてくる男の子に出くわす。ヴィクトリアはその男の子を避けるようになる。しかし相手は諦めない。相手はヴィクトリアに、花を渡す。それは、自分に花言葉で会話をしようとしているのではないか、と思わせるセレクトだった。半信半疑のままヴィクトリアは、相手にそれに相応しい返答の意味の花言葉を持つ花を返すが…。
というような話です。
かなり分量のある作品で、しかも外国人作家の作品だったので、読むのに多少時間は掛かったんですけど、これはなかなか面白い作品でした。
本書は、中盤から後半に掛けてが実にいい。
正直に言えば、前半から中盤に掛けては、ちょっと退屈かもしれません。なかなか物語が進んで行かない。初めの方というのは、ヴィクトリアの過去の話では、人間不信の塊のようなヴィクトリアがエリザベスとどう打ち解けていくのかが、そしてヴィクトリアの現在の話では、悲惨な境遇に堕ちてしまったヴィクトリアの生き方と、グラントという男の子との出会いからのやり取りが描かれる感じなんだけど、その時点ではまだ、ヴィクトリアの過去の話と現在の話がどう絡んでいくのかも全然分からないし、グラントの正体も謎だし、エリザベスとの話もどう展開するのかわからない。中盤以降の展開に必要な要素を前半部分で出している、というのは凄くわかるし、もちろんその前半できちんとヴィクトリア・エリザベス・グラントが描かれるからこそ、中盤以降の展開が生きてくるというのも凄くよく分かるんだけど、でもやっぱり、単純に物語の展開だけで見ると、前半から中盤まではちょっと弱い。ヴィクトリアという、なかなかに強烈な個性を持つ女の子の振る舞いの奇抜さには惹かれるけども、それ以外には、読者を引っ張れるだけの強い何かというのがちょっと足りないような気はします。
でもこれが、中盤以降になると俄然面白くなっていきます。
まず、過去と現在の繋がりが、少しずつ見えてくるようになる。肝心な部分はかなり最後の方まで読まないと分からないんだけど、次第になんとなく、なるほどあの人たちの間で何か致命的なことがあってこんな感じになってしまっているのだな、ということがわかってくる。ヴィクトリアはどうも、自分は罪深き人間だ、という思いをずっと捨てきれずに、ありとあらゆる判断や行動原理がそれに支配されているように見えるのだけど、その理由は一体なんなのだろう、と興味を惹かれる。
彼らの間に起こった『致命的なこと』の設定は、巧いなと思いました。あらゆる誤解がそこにはある。それぞれが、ほんの少し何か違った行動を、あるいは決断をすれば、彼らの人生は大きく違ったものになっただろう。それぐらい、ほんのちょっとのすれ違いが悲劇を引き起こすことになる。その流れがかなり巧く作られていて、素晴らしいと思いました。
それに、ある程度安定していたはずの現在のヴィクトリアの物語が、ある時からまた波乱の連続になっていく。その展開も面白い。ヴィクトリアがなぜそこまでの行動を取らなくてはいけないのか、ということはその時点では分からないのだけど、ヴィクトリアの決意の固さははんぱないし、その決意を揺ぎ無いものにするための行動力というものがまた凄い。幼い頃から厳しい環境の中で育ってきただろうとはいえ、自ら辛い方辛い方へと舵を切っていくヴィクトリアの人生は、本当に苦痛の連続なのだろうなぁ、と思わされました。ヴィクトリアを駆り立てるその切実な何かが分かった時、ヴィクトリアの抱えてきた孤独とか、なかなか表には出てこない優しさとか、そういう色んなものがいっぺんに溢れでてくるような感じがして、凄くいいと思います。
また、エリザベスやグラントの描写も凄くいいんです。二人とも、ヴィクトリアと関わることで、傍から見れば相当の迷惑を被っている。普通なら、諦めてしまいたくなるような状況かもしれない。でも二人は、ヴィクトリアという存在を諦めない。それがまた、ヴィクトリアという存在の輪郭を濃くする。
ヴィクトリアの周りには他にも、ヴィクトリアのことを心の底から心配するたくさんの人がいる。その関わり方は皆それぞれで、僕は特に、花屋の女主人であるレターナの振る舞いはかなりいいなと思いました。レターナは、エリザベスやグラントとはまた違った形でヴィクトリアを見守っていて、ヴィクトリア愛されてるなぁ、と思いました。
不安という武器で、周りにあるものを片っ端から叩き壊さずにはいられなかったヴィクトリアという一人の少女が、その不安という武器を認識して、それを誰にも渡すまいと意固地になって辛い人生を歩みつつ、様々な人との出会いによって、次第にその武器を自分を守る盾のように変化させることが出来るようになっていく、そんな物語です。ヴィクトリアという激しい個性が、色んな形の優しさを持つ様々な人びとと出会うことで、少しずつ和らいでいく過程が、なんか凄く愛おしくなるような物語ではないかと思います。是非読んでみてください。

ヴァネッサ・ディフェンバー「花言葉をさがして」




ヴァネッサ・ディフェンバー「花言葉をさがして」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)