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古書カフェすみれ屋と本のソムリエ(里見蘭)

僕自身は、物語に救われた、と感じた経験はない。読んで感銘を受けた物語、泣いた物語、感情が揺さぶられた物語。そういうものはそれぞれにあるが、しかし、物語のお陰で救われたと感じた経験は、たぶんない。

僕はどちらかといえば、物語以外の本に救われたと感じた経験が多いと思う。自分の思考では辿り着けなかった価値観や自分が囚われている壁の存在に気づかせてくれる本が、僕自身の血肉を作り上げてきた。

僕にはどうしても、物語は虚構でしかない、と思ってしまう部分がある。これは別に、物語を否定するものではない。しかし、現実と対比出来るような存在ではない、と思うのだ。現実は現実であり、物語は物語。両者は、比べることが可能な同じ地平線上に存在するのではなく、まったく別のものなのだ、と思っている。

だから僕は、物語の力というのを、そこまで信じていなかったりする。

そういう自分を、もったいないなぁ、と感じる自分もいる。もっと物語に対する感受性、というか、物語を人生の重要な要素として受け取る力とでも言おうか、そういうものが強ければ良かったのに、と思う。

子供の頃、僕は、後に読書好きになるような子供が読むような本をまったく読んでこなかった。児童文学や横溝正史・江戸川乱歩など、およそ本好きであれば誰もが子供の頃に読んでいるだろう作品に、触れる機会がなかった。子供の頃本を読んでいなかったわけではないが、関心の範囲が恐ろしく限られていたのだろう。あるいは、図書室や図書館が嫌い(本を借りて読むというのが苦手)というのもあったかもしれない。本は読んでいたが、借りて読むという行為をほとんどしない子供だったと思う。

大学時代、古典を読んでおけばよかったなぁと今更感じる。元々理系だったので、ただでさえ古典を読むような環境や素地は存在しなかったのだけど、今振り返ると、その時期にしか読めなかっただろう本というのはあったよな、と思う。

ちゃんと自分の読書が始まったな、と感じるのは、大学二年の頃だ。唐突に古本屋に行って大量の本を買い、唐突に濫読し始めた。何がきっかけだったのか、まるで覚えていない。大学二年と言えば、僕の人生の中でもトップクラスに忙しい1年だったはずだ。自分でも不思議だと思う。

物語の感受性みたいなものが子供時代に形成されるとすれば、僕はそれが中途半端なままで止まってしまっているのだろう、と思う。物語に触れなかった分、数学や物理を大いに楽しんだから、まあ別に後悔するようなことではないのだが、タイムマシンがもしあるなら、俺が子供の頃の親に、読ませるべき本リストを渡すだろう。

本を読む人が少なくなっている、と言われている。僕は子供の頃から、周りに本を読む人間がほとんどいなかったから、そのことを実感する機会はない。とはいえ、書店員として本屋で働いていると、本を売ることの難しさを日々実感するのである。

現代において本を読んでいる人は、様々な理由で本を読んでいるのだろうが、その中には、一冊の本に救われた、という経験を持っている人もいるのだろう。救われ方はきっと様々だ。本を読んだことによって、その本を誰かとやりとりすることによって、その本を読めなかったことによって、その本と何度も不思議な出会いをしたことによって…。

僕自身にその経験がないから説得力の欠片もないが、しかし本書を読んで、確かにこれは物語で出来過ぎているけれども、しかし実際に、物語によって救われるということもあるのだろう、と思わされました。

内容に入ろうと思います。
本書は、玉川すみれがオーナーを務める「古書カフェすみれ屋」を舞台にした連作短編集だ。フードメニューを担当するすみれと、もう一人、古書スペースとドリンク担当である紙野頁の二人で切り盛りしている。渋谷から私鉄で数駅、そこから15分ほど歩いた住宅街。二階はすみれの住居だ。
紙野君とは、修行のためにアルバイトをしていたとある新刊書店で出会った。どんな本の問い合わせにも完璧に応える凄い書店員だった。すみれが古書カフェを開くつもりだと離すと、紙野君が突然、その古書部分を自分に任せてくれないか、と言ってきた。「古書カフェすみれ屋」は、カフェ部分と古書部分は独立採算制。紙野君は古書店のお客さんの対応以外の時間はカフェを手伝う。その対価としてすみれは、昼と夜のまかないと1日3杯のコーヒーを提供する。すみれは、人件費を掛けずに人手を確保出来、紙野君は好きな本を売る場所を確保出来る。お互いの条件がぴったり一致した。
飲食店は軌道に乗るまで時間が掛かると言われるが、幸い「古書カフェすみれ屋」は常連客もつき、経営的には比較的早くに安定した。すみれの料理の才ももちろん大きいが、紙野君の本を間に挟んだ接客もまた、お客さんの心を確実に掴んでいる…。

「恋人たちの贈りもの」
常連客の高原君がすみれに相談事をもちかけてきた。三年前、憧れ続けていた美雪さんと付き合い始めた高原君は、その時美雪さんから、「30才までには結婚することに決めている」「結婚したら子供と一緒にいたい」と言われていた。つまり高原君は、美雪さんが30歳になるまでに経済的に安定しなくてはいけないが、高原君の夢はミュージシャン。三年経った今も、目が出る気配はない。どうしたらいいだろう、という相談なのだった。
その話を耳にしていた紙野君が、高原君に一冊の本を売った。その本をきっかけに高原君は決意したようだ。慌てて店を出て行った。
そのすぐあと、なんと美雪さんがやってきた。美雪さんもすみれに、高原君との関係について相談を始めた。それも聞いていた紙野君は美雪さんに、「O・ヘンリ短編集(二)」という新潮文庫を売る。一冊の本が、人生を変えてしまうこともある、と伝えながら…。

「ランチタイムに待ちぼうけ」
すみれは、居心地の良いカフェ作りを心がけていた。客単価と回転率のことは常に考えておかなくてはならないが、しかし最終的にはすみれ自身がルールだ。どんなお客さんにお引き取り願うかを決めるのはすみれ自身。
開店と同時にやってきて、コーヒー一杯で何時間も粘る年配の男性客がいる。待ち合わせだと言うからテーブル席を案内するが、しかし相手は一向に現れない。昼時、その男性客がテーブル席に一人で座っていることから、客同士で揉め事が発生することもあった。しかしすみれは、自分の信念に沿って、その男性客を追い出すようなことはしなかった。
その男性客は、紙野君が行っていたフェアの中から、荒木経惟の写真集「センチメンタルな旅・冬の旅」を手に取った。荒木氏自身の妻を被写体に、新婚旅行と死の間際を撮った作品集だ。この作品について、紙野君と男性客は価値観をぶつけあうやり取りをしていたが…。

「百万円の本」
井上香奈子さんと息子の健太君は週に一度夜外食をし、その後でデザートを食べにすみれの店にやってくる。半年前に香奈子さんは再婚したが、再婚相手であるパン職人と健太君の反りが合わないのだという。良い人だから嫌いにならないでと言う香奈子さんに対し、俺が子供だから馬鹿だと思ってるし信じてないだろ、と突っかかってくる健太君。健太君は、紙野君が行っているフェアの中から、ジュール・ルナールの「にんじん」を手にとった。この作品が大好きだという。親子の会話を聞いていた紙野君は、香奈子さんに、是非読んでくださいと言ってある本を買わせる。もし読んで、僕がその本をオススメした理由が分からなければ、その時は、百万円の本を買ってもらいます、と言って…。

「火曜の夜と水曜の夜」
ある日の夜。本城さんと馬場さんという、共に初来店の二人の男性客が、紙野君が行っていたフェアの中にあった「セックスレスは罪ですか?」という本について話をしている。既婚者である馬場さんと、長く付き合っている彼女がいる本城さん。二人は、食と性をテーマに、パートナーとの相性の問題についてやり取りしている。
その翌日。由貴子さんと愛理さんという、こちらも共に初来店の二人の女性客が、同じく「セックスレスは罪ですか?」の話をしている。まだ若々しさを保っている愛理さんが、由貴子さんに対し、パートナーとのセックスを継続するためのアドバイスをし、また由貴子さんは、料理の腕について相談を始める。
その二組の会話を聞いていたすみれは、この4人の関係性を自分なりに想像するのだが…。

「自由帳の三日月猫」
すみれは店に、お客さんのコメントを書ける自由帳を置き始めた。普段やり取りしない方の意見も知ることが出来てやってよかったと思っているすみれだったが、ある日お客さんからの指摘で奇妙な書き込みがあるのを見つける。
猫の絵と、あと、日本語の意味をなさないひらがなの羅列だ。明らかに暗号みたいだったが、誰も解けそうにない。そんな書き込みが何度か続いた。
その後、あの猫は私が飼っていた猫で、最近死んでしまったのだ、と申し出てきた女性がいた。富永晴香さん。ようやく解読出来た暗号は、当の猫のことを知っていなければ書き得ない内容だったが、晴香さんには心当たりがないという…。

というような話です。

かなり好きな作品でした。思っていた以上に良かったです。

ストーリー展開がまず良い。恐らく、作中の鍵となる本から思い浮かべて物語を構築していったのではないかと思うけど、どの話も、その鍵となる本の使い方が巧い。特に、鍵となる本がある種のミスリードとなっている冒頭の「恋人たちの贈りもの」と、鍵となる本によってある幻想が崩れ、それによって躊躇していた一歩を踏み出せるようになる「火曜の夜と水曜の夜」での本の使われ方は特に巧いなぁと感じました。まさにその状況に合わせて本を差し出す紙野君の存在や、その本が常に在庫されている状況というのは、もちろんある種のファンタジーなわけでリアリティに欠ける部分ではあるのだけど、それが一つの型として作品全編で貫かれているので、物語としての統一感が計られていていいと思いました。

話によっては、鍵となるそのホント出会えなければかなり危険な状況に陥っていた、というものもあって、まさに、『たった一冊の本が、ときには人の一生を変えてしまうこともある』ということなんだよな、と思いました。

また、それらお客さんとのやり取りの合間合間に、紙野君の、本や書店に対する価値観みたいなものが挟み込まれていきます。

『そこが古本屋の面白いとこです。あの雑誌は半年前に出たものだから、まだ情報は腐ってない。でも新刊書店には並んでません。新刊書店は、ちょっと、情報の流れが早過ぎる』

『すみれさんは、書店併設のカフェで働いたことがあるから、ご存じですよね。ふつうの本屋、新刊書店って、自分が好きな本だけを売るわけにはいかないんですよ。自分の感性に合わないものでも売るのが仕事です。品性が下劣だと思えるような本でも、ベストセラーなら必死で仕入れる努力をする。そもそも、自分が注文しない本でも、問屋である取次から毎日たくさんの本が配本されてくる。
仕入れは難しいですが、古本屋は、やろうと思えば自分が好きな本だけを売ることができる。すみれ屋には、俺が好きなものしかありません』

本屋で仕事をしていると、紙野君が言っているようなことをよく考えさせられる。何が正しいという考え方は様々にあっていいのだけど、本屋を商売として成り立たせなければやっていけない、という点は同じだ。どうやって成り立たせるのか、という部分に様々な判断や行動が存在しうるが、紙野君のように、本が好きだからこそ古本屋をやる、という感覚もまた、一つの正解なのだろうと思う。

本書は、すみれさんの描写もとても良い。一応すみれさんの視点による物語なので、すみれさん自身の話はさほど出てこない。しかし、常識がきちんとあって、店を成り立たせるだけの才覚があって、つまりとても有能なのに、一人の女性としてはうまく振る舞えなくなってしまう、そんな姿が浮かんできていいなと思う。この店のルールは私自身だ、なんていう威勢のいいことを言う一方で、紙野君との仲を問われた時にうろたえる可愛さもある。オーナー店主としてのキリッとした部分と、人間の機微みたいなものをうまく捉えきれないうっかりした部分が、一人の人間の中でうまく混在している感じが、僅かな描写の中でうまく描かれていると思う。

さらに本書の凄いのは、カフェで提供される料理の描写だ。本書を手にとった方は、巻末に書かれた参考文献の一覧を見てみて欲しい。すべてレシピ本である。僕は食べることにさほど関心がない人間なので、本書で描写されている料理がどんなもので、美味しそうなのかどうか全然判断できないのだけど(なんなら飛ばし読みしてしまう 笑)、食べることに関心がある人(まあ世の中の大半の人がそうでしょう)は、非常にそそられる描写なのではないかなと思います。「古書カフェすみれ屋」は、基本的にランチメニューが毎日変わる。聞いたこともないような料理が日替わりで出てきて、しかもそれがべらぼうに美味いっていうんだから、近くに「古書カフェすみれ屋」がある人が羨ましくなる人も多いだろう。帯に三浦しをん氏も、『すみれ屋が本のなかにしか存在しないなんて、口惜しくてなりません。私も常連さんになりたいなー!』と書いている。そう感じる人はきっと多いだろう。

リアリティは薄いかもしれないし、ミステリとしては弱いかもしれないけど、人との関わり合いの中で本が繋ぐ優しさや想いみたいなものが伝わってくる良い作品だと思いました。

里見蘭「古書カフェすみれ屋と本のソムリエ」


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「乃木坂工事中160410 齋藤飛鳥独り立ち計画 初めての◯◯」を見て

2016年4月10日の「乃木坂工事中」が、齋藤飛鳥特集でした。少なくとも僕が「乃木坂って、どこ?」「乃木坂工事中」を見始めてから、齋藤飛鳥が一人で特集されるのは初めてです。たぶんそれまでもなかったんじゃないか、と思います。

企画は、「齋藤飛鳥独り立ち計画 初めての◯◯」と題して、齋藤飛鳥が一人では出来ないこと、やったことないことを、メンバーからのタレコミや実験なんかを交えながら紹介していく、という内容です。

まずざっと、番組の中で取り上げられていた、「齋藤飛鳥が一人ではできないこと、やったことないこと」を挙げてみます

◯服を一人では買えない(ちょっと前まで買い物自体一人で出来なかった)
◯朝ごはんを一人では食べられない(母親に食べさせてもらっている)
◯ご飯を炊いたことがない(手伝いではなく、一品自分で完成させる、という意味での料理はしたことがない)
◯高校生になるまで缶ジュースを開けられなかった(缶詰はこの企画の日まで開けられなかった)

なかなか斬新です。スタジオでも、バナナマンを初め、メンバーもかなり驚いていました。もちろん僕も驚きました。

それぞれのエピソードそのものももちろん面白いです。黒か白、どちらの猫耳をつけるかで母親と3時間悩んだり、詰めが剥がれそうになるから缶ジュースは一生開けられないと思ってたとか、朝ごはんを食べさせてもらってるのは髪を乾かすあいだにご飯を済ませたいという時短の意識なんだとか、それぞれの話でぶっこんでくるエピソード自体ももちろん面白いんです。

でもそれ以上に僕は、それを喋ってる齋藤飛鳥のスタンスがいなと思って見ていました。こう、どのエピソードも、「え、別に普通だけど」みたいなスタンスで話すんです。殊更に変わってる部分をアピールするでもなく、かと言ってもちろん自分のやり方が普通であることを力説するでもなく、割と淡々に、えぇ私はこうですから、みたいな雰囲気を自然と醸し出す。

僕は、子供の頃は、周りと違うことをかなり恐れているようなところがあったので、周りから「えっ?」って言われるだろうエピソードは積極的に話せなかったし、今は今で、自分のおかしな部分を積極的に出すことで対人関係の防御にしているような部分があるので、ナチュラルな感じで自分の行動や選択を話せない。齋藤飛鳥は割とそういうものとは無縁で、自分にとってそれが日常であるからそうなのだ、周りからどう思われてもいいし、別に自分からアピールもしませんよ、というスタンスが表によく出ている感じがして凄く良かったな、と。齋藤飛鳥を語る時にいつも年齢のことを出してしまうんだけど、よくもまあ17歳でそういうスタンスを身につけられているものだな、と感心しました。

しかし齋藤飛鳥というのは不思議な子だな、と。奥が深い。こういう底の知れない人間には益々興味が湧いてしまう。

服を自分で選べないとか、ご飯を一人で食べられないという話からは、齋藤飛鳥の主体性のなさを感じる。自分の意志がない、こうしたいああしたいという欲求に欠けている、そんな風に見えなくもない。でも、そういう見方をすると齋藤飛鳥を捉え間違えるんだろうな、という気もする。

齋藤飛鳥は、主体性を持つ対象が限られているのだ、と僕は捉えている。そしてそれぞれに対して0か100かのレベルで主体性を持っているのではないか、と思う。

齋藤飛鳥が主体性を持たないと判断している対象に対しては、本当に主体性0で臨む。それが、服を自分で選べないという行動に繋がっていく。そこに自分の意志を一切介在させない。そのすべてを他者に委ねてしまう。

そして齋藤飛鳥が主体性を発揮すると判断している対象に対しては、主体性100で臨む。

齋藤飛鳥は、仕事で疲れている日は、家に帰る前に母親に「今日は疲れているので話しかけないで下さい」というメールを送るという。齋藤家は、母も二番目の兄も陽気なのだそうで、二人のやり取りはネタみたいだという。普段はそれに突っ込む齋藤飛鳥だが、疲れている時はそれをやりたくないから先に宣言しておくのだ、と。

これなどまさに、主体性100の事例だろう。齋藤飛鳥は家では、本を読むか携帯をいじるかしかしない、と齋藤飛鳥母は言っていたが(番組に電話で、齋藤飛鳥母が登場した)、自分はこうしたいと思う対象に関しては妥協せずに自分の意志を貫く。

そして恐らくだが、齋藤飛鳥には、その中間の主体性というのはないのではないかと思う。そんな雰囲気を感じる。主体性40とか主体性70みたいなことはなくて、何に対しても0か100。そんな風に決めているから、外から見た時にちぐはぐな印象を与える結果になるのかもしれない、と思う。

主体性を0か100のどちらかに振り分けるというのは僕もやっている。それは、人間関係をどうにかこなしていくのに都合のいいやり方なのだ。

主体性0でいることは、他者の判断や価値観をそのまま受け入れることだ。僕は、食べたいものもやりたいことも行きたい場所もなく、「ご飯をどこに食べにいくか?」「どこに遊びに行くか?」「どこに旅行に行くか?」というような判断の際に自分の意見を言わない。意見があるのに言い出せないのではなく、自分には一切意見がない、ということを常日頃からアピールしていて、どんな判断でも文句をいわずに受け入れるというスタンスを貫いている。実際僕には、一切の文句がない。主体性0で行くと決めているので、自分の意見を出さないでいられるというのが一番の理想状態であり楽な展開なのだ。

主体性30ぐらいとかで臨むと、自分にも決断の責任が振り分けられる。だったら、自分の意志をゼロにして、主体性なく関わるのだというスタンスをアピールして他者と関わる方が楽な状況は多い。僕は、世の中の大半の事柄に対してそういうスタンスで臨んでいる。

しかし、それだけではどうしてもしんどくなることはある。だから、主体性100で臨む領域を確保するようにしている。主体性100で臨むということは、他者を一切関わらせない、ということだ。これは逆に、すべてを自分で決めるということだが、他者の判断や選択に後悔することもないし、すべての責任を自分で受け入れればいいだけなので、これも実は楽な選択なのだ。

社会の中で生きていく上で、すべての事柄に対して主体性100で臨むことはしんどい。だから大半の事柄に対しては主体性0で臨む。他者と関わる際には、自分の意志を一切介在させないことで楽に乗り切ろう、という判断だ。しかしそれだけだと自分の心が死ぬ。だから、主体性100、つまり他者の意志を一切介在させない領域をきちんと確保しておく。そういう意識を常に持っている。

齋藤飛鳥が同じスタンスでいるかどうかは判断できないけど、近いものを感じはする。齋藤飛鳥はそろそろ部屋を借りて一人で住むことも検討しているという。その環境の変化が、主体性の判断基準に影響するかもしれない。それまで、生活全般は主体性0の対象だったが、一人暮らしをすることで主体性100に変わるものも出てくるかもしれない。齋藤飛鳥母は、齋藤飛鳥はやれば出来るのにやらないだけなんだ、と語る。主体性0で臨む時は、やれるけどやらない、という判断になるのは当然だ。やらなければならない、という状態になった時、齋藤飛鳥の主体性はどんな風に変化していくのか、楽しみである。

齋藤飛鳥本人と関係ない部分で面白かったのが、料理のナレーションと、齋藤飛鳥母の最後の言葉だ。

齋藤飛鳥が初めて料理をする(チャーハンを作る)という企画では、ナレーションが秀逸だった。

『玄米を炊飯器に直接、「まいっか」と思える量いれます』
『炊飯器に油を適量入れ、適当な設定でスタートさせます』
『にんじんの皮むきでは、一周回ったことに気づかないのでずっと剥き続けます』
『絶望的な弱火で、油を引かずにご飯を炒め始めます』
『奇跡的に火力が強くなったので、炒めている音がし始めます』
『しょうゆ レタス 塩コショウ の順で味付けをします』

最初から最後までこんな感じのナレーションが続いていきます。齋藤飛鳥の手順の変な部分を大げさに取り上げるのではなくて、さも普通に調理をしているかのようなテンションで齋藤飛鳥の調理を描写することで、齋藤飛鳥の異常さがより際立つ形になったのではないかと思いました。

あと、齋藤飛鳥母の最後の言葉は、スタジオでも大爆笑でした。齋藤飛鳥はやれば出来るんだ、私が病気で寝込んだ時には色々手伝ってくれる、という話の流れで、「私はおかゆが好きなので」と齋藤飛鳥母が言うが、これが凄く面白かった。おかゆが好きと以前番組でも言っていたし、チャーハンを作っている時にも、みんなパラパラのご飯が良いっていうけど私はべちょべちょが好き、という齋藤飛鳥。そのおかゆ好きが遺伝だったのか!という面白さがありました。

「常識はちゃんとある」と繰り返し主張していた齋藤飛鳥。この企画からは、常識の持ち主であるという雰囲気はまるで感じられないわけだけど、この感じのスタンスでこれからもやっていって欲しいなぁ、と思う回でした。

「乃木坂工事中160410 齋藤飛鳥独り立ち計画 初めての◯◯」を見て

僕に踏まれた町と僕が踏まれた町(中島らも)

中島らもの本を読むと、なんとかなるような気がしてくるから不思議だ。
何がなんとかなる、なのかはあんまり具体的ではないのだけど、人生のあちこちでひっかかる様々なモヤモヤは、なんとなく通り抜けられるんじゃないか、というような感じにさせられる。生きていくことの自由というのは、これほどまでに広いのだな、と感じさせてくれる。

中島らもは、あの灘高出身だ。一学年140人から150人ぐらいいて、その内100人が東大へ、40人が京大へ行くという、バケモノみたいな高校だ。そんな高校で、最初の内は学年で8番という成績だった中島らも。しかし彼は、次第に成績を落とし、ダラダラとしたモラトリアム生活に突入していく。

『四回生の夏が過ぎて、まわりの学生たちの様子がやけにバタバタし始めたのに、他人事のようにそれをながめていたのである。学生たちは就職活動に走りまわり初めていたのに、僕にはそれが自分のこととしてピンと来なかったのである。自分が「働く」ということがうまく像を結ばなかった。かといってこの寝ぼけまなこなこの毎日が永遠に続くこともあり得ないとは感じていたのだが、だからといってどう動いいたらいいものなのかは皆目わからなかった。そしてまた、それはとりあえず今日ではなくてもいいような気もした。』

この気持ちは、凄く分かるような気がする。僕は、就活をする前に大学を辞めたので、著者のような感じを実際に持ったことはない。でも、もし僕が大学を辞めずにいたら、著者と同じようなことを考えていただろう。そして僕は、その時に自分が頭の中でグルグルと考える思考にやられ、気持ちが沈み込むだろうということは分かっていた。だから、先回りして大学を辞めたのだ。

どんな風に生きていくのか。そんなことを、子供の頃からちゃんと考えられる人間なんてほとんどいないだろう。僕も、著者とは比べ物にならないが、子供の頃は勉強が出来た。目の前にある課題を粛々とこなしていくことにかけては、今でも優秀だと思う。子供の頃は、だから先のことなんて何も考えずに、ただひたすら、僕が与えられている目の前の何かに没頭することにしていた。それが、現実逃避であるということは、随分前から気づいていた。今でもそうだが、子供の頃も、僕にはやりたいことなど何もなかった。何かやりたいような気がするものを思い浮かべることが出来たとしても、そこまでたどり着く自分のことが想像出来なかった。将来のことを考えるのは、怖かった。何もない自分を認めるのが怖かった。だから、勉強が出来るというだけの理由で名のある大学に進み、決断を先延ばしにした。そうして、もうこれ以上は先延ばしに出来ないような気がするというタイミングで、人生を諦めることに決めたのだ。

結果的に僕は、今なかなか面白い立ち位置にいる。20歳の頃の僕に今の僕の近況を伝えることが出来れば、彼はきっと驚くことだろう。ほぼ運だけで、ここまできてしまった。その自覚は、未だに手放せない。

『ただ、こうして生きてきてみるとわかるのだが、めったにはない、何十年に一回くらいしかないかもしれないが、「生きていてよかった」と思う夜がある。一度でもそういうことがあれば、その思いだけがあれば、あとはクズみたいな日々であっても生きていける。だから「あいつも生きてりゃよかったのに」と思う。生きていて、バカやって、アル中になって、醜く老いていって、それでも「まんざらでもない」瞬間を額に入れてときどき眺めたりして、そうやって生きていればよかったのに、と思う。あんまりあわてるから損をするんだ、わかったか、とそう思うのだ。』

浪人時代に自殺した友人について触れたエッセイの中の一節だ。
僕も、死のうと思ったことがある。将来のことを考えすぎたのだ。うんざりするような日々しか、想像出来なかったのだろう。その予想は、まあ半分ぐらいは当たってたけど、半分ぐらいは外れたかな。まあ、面白いこともあった。良かったこともあった。これからもあるかどうかは、分からない。あるといいなとは思う。ないまま続くのはしんどい。でも、先のことは考え過ぎない。
先のことを考えすぎてしまう夜は、中島らもの文章でも読もうかと思う。刹那を着るようにして生きた男の人生の軌跡は、僕の絡まった心を静かにほぐしてくれるような気がする。

本書は、朝日新聞社のサービス紙「A+1」というのに載ったエッセイのようだ。大体一つの話が文庫2ページぐらい。5話分で完結する長いストーリーもあったりするのだけど、基本的には短くまとまっている。概ね、著者が社会に出る以前の、灘高時代、大阪芸大時代の話が書かれている。

著者は、明確なきっかけもないままどんどん落ちぶれていって、ほとんど授業に出ないようになっていく。酒、タバコ、ジャズ喫茶などで生活は埋め尽くされて、同類項の者たちとくだらない日常を過ごしていく。次から次へと、よくもまあこれほどくだらないことを思いつけるものだというバカバカしいチャレンジや実験、普通の人間が触れることはないような社会の様々な隙間への逸脱などに彩られ、似たような刹那的な人間と、同じ時空で繋がっているとは思えない世界で生きていく。

高校生の時酒を飲み過ぎて二日酔いになった著者は、“反省し”、毎晩酒を飲んで自分を鍛えることにするというエピソード。金がないのに日々飲み歩く高校生だった著者は、安い酒を探し求める。仲間とそこへ行き、そして安い湯豆腐を食べるのだが、しかしそれには箸をつけない。それは“にらみ豆腐”と呼ばれ、その店にい続ける言い訳としてそこに残していくのだという話。大阪人は天ぷらうどんとご飯を一緒に食うけったいな人種だと言われた時、天丼と素うどんなら高いけど口の中に入ったら一緒だ、という合理性が大阪人にはある、と考える思考。そして、そういうバカバカしい話の合間合間に、時々真面目な話を差し込んでくるから侮れない。

『ただ、ここ何年か、春先になると必ずといっていいほど、大学の新入生歓迎コンパで死者が出る。急性アルコール中毒による死亡である。これは先輩なりにそうした場数を踏んだ人間がいて、むちゃ飲みを事前にやめさせるなり、指を突っ込んで吐かせるなり、温かくして寝かせるなりしていれば何割かは防げるものである。「教育上よろしい」育て方をしてやっと大学にまで上げた子供をそんなことで死なせてしまった親の気持ちを考えると暗然とする。「教育上よろしくない」ものがほんとうにチリひとつないまでに掃除消毒されてしまった教育を考えると恐ろしい気がする。そこから「検査済み」のハンコをおしてもらって出てくる人間というのも恐ろしい。話すことが何もない気がする。』

中島らものエッセイをそれなりに読んでいるが、エピソードにさほど重複がない気がする(まったくないわけではないが)。これだけのエッセイを書いていて、よくもまあネタがあるものだと感心する。経験したすべてのことをエッセイに書いているわけでは当然ないわけだから、中島らもの人生にはさらに色んなことが起こっているはずである。凄いものだな、と思う。もし僕にも、人生のこういう蓄積が、自身の歴史の地層として存在していたら、色んなことがまるで違っただろうな、と思う。と同時に、緩やかな自殺みたいな生活続けてこれたのも、中島らもに圧倒的な才能があったからだろう、とも思うのだ。凡人が、中島らもと同じ経験を経たところで、どうなるものでもないのだろうとも思ってしまう。羨ましいような羨ましくないような。中島らもに対してはそういう、割り切れない感情が浮かぶ。

『それ以来、人を信用するときは“だまされてもいいや”という気でやることにしている。』

こういうところは、激しく共感してしまうのである。破天荒なのか心配性なのかよく分からない。中島らもがそういう複雑な人格であるということも、僕が中島らもに惹かれてしまう理由の一つだろう。

本書じゃなくてもいい。何かひとつ、著者のエッセイを読んでみてください。あなたの人生の余白が、気持ち広がるかもしれません。

中島らも「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」


「みんな!エスパーだよ!」を観に行ってきました

鴨川嘉郎はその夜、いつものようにオナニーをしていた。東三河で出会う様々な美しい女性を思い浮かべては、そのいやらしい姿を妄想して励んでいた。
その時、東三河に空から光が降り注いだ。その光が嘉郎を、ヒーローにすることになった。
翌日嘉郎は、他人の心の声が聴こえるようになっていることに気づく。エスパーか?書店でエスパーの本を買うと、そこには、エスパーは地球の平和を守るために戦うべし、と書かれている。そうか。平和のために戦わなくてはいけないのか!
やがて東三河の街に、超能力者が増えていることを知る。ある条件が揃った場合に、超能力者になるという。街は、その能力を悪用している人間によって混乱に陥っている。街中がエロで支配されているのだ!
というような話です。

しかしまあ、果てしなくくだらない話だったなぁ。園子温の映画は観ようと決めてるから、まあどんな映画でも別にいいんだけど、久々に、これはなかなか酷い映画だなぁ、と思いました。よくもまあこんな企画が通ったな、と思ってたんだけど、原作があったのか。なるほど、っていう感じでした。

とにかく、ひたすらエロくしよう、っていう感じの映画でした。意味ある場面でエロいのは、まあそういう映画だからいいとしても、まったく意味のないところでもエロいんですよね。常時女優の下着が見えてる感じ。特に意味もなく。
スリーサイズで役者を決めただろっていうぐらい、グラビアアイドルがガンガン出てくるんだけど、演技っていう意味ではやっぱり厳しかったよなぁ、と。学生レベル、とは言わないけど、商業レベルとはちょっと思えないくらいの演技のクオリティで、主人公の染谷将太他、何人かのちゃんとした役者の演技との差が歴然としすぎてて違和感が凄かったです。

ストーリーも、あるんだかないんだかよく分からない感じで、うーんと思ってしまいました。超能力を持ちはしたけど、超能力を持ったことがストーリーの中でほとんど活かされはしないし、嘉郎は運命の人と出会うために生まれた、みたいなことを繰り返し描くんだけど、それも結局よくわかんないまま終わっちゃうし。全体的に、「こんなんでいいのか???」と感じるような設定・展開・セットのオンパレードで、そういう意味でかなり驚かされる映画でした。

とはいえまあ、全体的にエロエロな感じで、しかもそれが超おバカな感じでエロエロなので、余計なことを考えずにエロいシーンを楽しめる、という意味では、男としては楽しいですけどね。うーんでもまあそれぐらいかなぁ。しかも俺は、胸のデカさにはさほど興味がないので(脚がキレイな方が好きです)、あんまりって感じだったかなぁ。

とにかく、特に書くことがなにもないぐらいの映画でした。観ている間、さすがにこれはなー、ってずっと思ってました。

以前、友人の自主制作映画の撮影を手伝ったことがあるんだけど、その時の主演女優がちょっとだけ出ててびっくりしました。

「みんな!エスパーだよ!」を観に行ってきました

北壁の死闘(ボブ・ラングレー)

内容に入ろうと思います。
アイガー北壁で、ある山岳ガイドが、下半身の白骨化した死体を発見した。勲章には、「エーリッヒ・シュペングラー 1942年10月」と書かれていた。通報すると、スイス軍により尋問を受け、また死体は即座に回収され、この発見については口外しないよう口止めされた。
しかし、BBCの補助調査員がこの噂を聞きつけ、独自に取材を開始。そして彼の取材によって、その死体が、戦時中のある計画と、それに巻き込まれた人々の歴史を明らかにするものであることが分かった。
1944年.シュペングラーはドイツ軍のSSによって連れ去られ、唐突な配置換えを命じられる。唐突に、第五山岳歩兵師団の少尉に昇進すると言い渡され、登攀の訓練に放り込まれることになる。どんな任務につくのか知らないが、しかしシュペングラーは、ある時から登攀から足を洗っていた。過去の忌まわしい記憶が、未だにシュペングラーを苛むのだ。
シュペングラーと同様集められた者は他にもいた。中でも特異だったのが、スイス人でナチ党員である女医、ヘレーネ・レスラーだ。誰も任務を知らされないまま、過酷な訓練に従事させられる。
彼らは、敗走を続けるドイツ軍の劣勢を覆すことになるかもしれない、とある重要な使命を担うことになったのだが…。
というような話です。

全体的にはなかなか面白いのだけど、「外国人作家の作品であること」、そして「慣れないしイメージもしにくい登攀の描写がとても多い」という理由で、読むのに苦労した作品でもあります。
まず、これは作品とは関係ない話ですが、僕は外国人作家の作品を読むのがあまり得意ではありません。翻訳の問題もあるのかもだけど、翻訳の細かい違いなどはよく分からないので、たぶん言い回しとか描写の仕方とかがあんまり合わないんでしょう。外国人の名前を覚えるのも難しいし、未だに苦手意識が抜けません。
さらにその上で本書は、メインのテーマが「登攀」で、知らない用語やイメージしにくい描写なんかが大量に出てきて、そういう意味でも凄く苦労しました。正直、登攀をしているシーンの描写は、ほとんど何をしてるのか分かりませんでした。とりあえず上に登ってるんだろうなとか、誰かが落ちたんだなとか、そういうぐらいのこ、としか分かりませんでした。
作中のほとんどの場面の舞台が、訓練場所の山やアイガー北壁なので、この登攀の描写が分からないのとなかなか厳しいです。この登攀の感じを、文字だけで理解しようとするのは相当難しいだろうなぁ、と思いました。登攀の経験者であれば、恐らく、すんなり理解できるんでしょうけど。映像で見てみたいなぁ、という感じがしました。映像なら、相当迫力あるだろうなぁ、と

話的には、なかなか興味深い設定だと思いました。ドイツ軍は、ある奇策によって戦局をひっくり返そうとしている。しかしそれは、あまりにも無謀な作戦だった。何故登攀のプロフェッショナルが集められなければならないのか。そして、ヘレーネは糖尿病の専門医なのだけど、何故、糖尿病の専門医であるクライマーを探しだす必要があったのか。
そして、それが明らかになると今度は、両者(ドイツ軍ではない方の側は伏せておく)の戦いが繰り広げられる。しかもそれは、人間が到底生存不可能と思えるような、過酷な環境の中で繰り広げられる。絶体絶命、という状況を何度も経験し、敵も味方もなくなっていく面々の間に、奇妙な連帯意識が生まれ、誰がどんなミッションを有しているのか、誰のために働いているのか、そういうことが吹雪の中に溶けてしまっていく。生きている者など他にいないという環境の中で、生き延びるためにギリギリの選択をし続ける人々の、驚異と絶望が描き出されていく。

登攀ではないのだけど、いくつか登山家のノンフィクションを読んだことがある。彼らは、たった一人で、不可能と思えるようなことを成し遂げていく。もちろん、常に成功するわけではない。屈指のクライマーであったはずの植村直己も、冒険中に消息を断った。
僕には、彼らが何故、そういう場所に惹かれてしまうのか、ちゃんとは分からない。確かに、山に登るのは楽しいと思うし、やったことはないけどボルダリングも興味がある。でも、彼らがやっているのは、一歩間違えれば死んでしまうという極限の挑戦だ。そんな挑戦に彼らを駆り立てるものはなんなのか。

そういう意味では本書の場合、その動機はわかりやすい。当初は「命令されたから」であり、そしてアイガー北壁にたどり着いてからは「生き残るため」と理由が変わる。それがどんなに無謀な挑戦であっても、挑戦しなければ死あるのみ。そういう中で彼らは、唯一生に繋がる道を突き進み続ける。

アイガー北壁で孤立しているメンバーたちに芽生える独特の感情も丁寧に描かれていて面白い。地上にいたら、恐らく言わなかっただろう、やらなかっただろうことを、彼らはそれぞれやっていく。協力し合わなければ死あるのみという状況が生み出す人間関係のねじれみたいなものも読みどころです。

登攀の描写が多くて、用語や描写に慣れてない人はちょっと読むのに苦労するでしょう。内容的には、スリリングでもあり、人間模様の展開もあり、敵味方の境界が曖昧になっていく過程がなかなか面白いです。

ボブ・ラングレー「北壁の死闘」


孤狼の血(柚月裕子)

僕は、物事の善し悪しを判断するのが苦手だ。
何かに対して、良い・悪いという判断をするのがどうも得意ではない。自分の決断をするのに、どれだけ早くても一瞬の躊躇が生まれる。自分なりの決断をした後も、その決断はある意味留保を含んでいて、自分の中では絶対ではない。
どんな意見を聞いても、相手の言い分にそれなりの理を感じてしまうことが多い。常識に照らせば明らかに間違っている事柄であっても、相手の言い分は筋が通ってるように聞こえてしまう。そういう時僕は、その相手の言い分を完全に否定することが苦手だ。
自分の中に明確な判断基準がないのだろう。子供の頃からそうだった。誰かの言っていることを、とりあえず受け入れるみたいな習性が、僕の中にはある。白黒つけるのが苦手、という側面もあるのだけど、それだけではなくて、相手の言い分に多少なりとも正しい部分があるように感じてしまうのだ。
だから僕は、物事を断言出来る人のことが羨ましく思えることがある。
そういう人を見ている時、「うーん、その判断はちょっと行き過ぎなんじゃないか」と思うことも多い。どういう理屈でその決断を導いたのか問いただしたいと感じることもある。だから、その人の判断を肯定しているわけではない。しかし、「自分なりに瞬時に判断する」という行為そのものは羨ましい。それがどれだけ常識からかけ離れていても、自分なりの決断でそれを肯定できるというのは羨ましい。
とはいえ僕も、大人になるに連れて、常識的な判断からは意識的に遠ざかることが出来るようにはなった。世の中で常識だと思われている事柄を、意識的に無視することができるようになった。常識というのは、多くの人が判断を停止していられるための魔法の言葉みたいなもので、そういう側面が好きになれないという部分もある。今では、常識から外れた判断をすることに、あまり躊躇を感じることはなくなった。
しかし、法律は別だ。なかなか、法律を破るような決断をすることは出来ないだろう。
それが法律上明らかに罪とみなされるのだとしても、道義的に正しい行いというものも、実際には存在するだろう。嘘を吐くことも、一般には悪いこととされるが、誰かを守ったり、傷つけないための嘘はむしろ必要とされる場面は多い。法律は、国家の運営上必要不可欠なものではあるだろうが、しかし、どんな社会も、完璧な法律を作ることが出来るわけではない。法律の枠外の行為であっても、状況次第では肯定できることもあるだろう。
ただ、たぶん僕はその一線はなかなか超えられないだろう。マイケル・サンデルの著書で紹介されて有名になったのだと思うのだけど、「5人を助けるために、1人を殺すことは正しいか?」という問いに似ている。法を犯すことで誰かを救うことが出来る場合、その行動を取ることが出来るか。多くの人がきっと、その一線を踏み越えることは出来ないような気がする。
本書には、その一線を軽々と超える人間が登場する。明らかに、真っ黒な人間だ。法律違反をこれでもか、と繰り返している。
しかし、その行動には一定の理がある。法を犯すことで、その人物は、人間や社会を守る。自分が悪役を引き受けることで、何かの存在を守る。その行為の是非は、どう判断されるだろう?
その人物は、しかし、とかく魅力的に描かれている。法を犯す理由も明白だ。なんだかんだ、その人物に肩入れしたくなってしまう。

内容に入ろうと思います。
日岡秀一は、機動隊から呉原東署へと配属された。配属先は捜査二課。暴力団係だ。配属初日から、抗争事件が頻発する管内の捜査二課というのは、異例であるようだ。
日岡は大上班に配属されることになったのだが、班長の大上が、その名を県内に轟かす有名な刑事だった。凄腕のマル暴として有名で、暴力団絡みの事件を多数解決し、警視庁長官賞を始めとする各種表彰を多数受けている。しかし同時に、褒められない処分歴も多い人物だった。毀誉褒貶の多い人物だ。朝から出勤することはなく、コスモスという喫茶店に来るように指示された日岡は、地図を頼りに進み、喫茶店で上司と顔合わせをする。
しかしその日から日岡は、とんでもない毎日を過ごすはめになる。初日から、パチンコを売っていたヤクザに絡んでこいと指示されたり、様々なヤクザとの個人的な関わりを目にしてきた。また、表沙汰に出来ない違法捜査も数多く繰り返す。正義感の強い日岡はその度に、大上への不信感を募らせていく。
しかし一方で大上は、善良な市民に対しては実に親切に接していた。あくどいことを続けているが、市民を暴力団から守るためという大義名分はきっちりとしている。日岡は少しずつ、大上のやり方に違和感を覚えなくなっていく。
呉原では、きな臭い事件が頻発していた。尾谷組と、五十子会傘下の加古村組の衝突が様々に起こり、銃撃でお互いの組の人間が幾人か殺されるという事件に発展している。このままでは、呉原を舞台に大規模な抗争が発生してしまう。大上は、自らの人脈と違法な捜査の組み合わせで、その危機をなんとか回避しようとする。
加古村組のフロント企業であるヤミ金で経理を勤めていた上早稲という男の失踪に深い闇が隠されていると見抜いた大上は、この件を発端に加古村組を壊滅させようと奔走するが…。
というような話です。

ヤクザのドンバチ的な話には特別興味が湧かないのだけど、本書は非常に面白い作品でした。エンタメ作品としてすいすい読み進められる一方で、法とは何か、正義とは何か、というようなことを強く考えさせる物語でした。
登場人物が多く、さらに人間関係がなかなか入り組んでいるんで、その辺を整理しながら読んでいかなきゃいけないのがちょっと大変ですが、冒頭に人物相関図が載っているので、そこまで物語を見失うということにはならないと思います。
広島が舞台で、登場人物が広島弁でガンガン喋るのも、頭の中の勝手な「ヤクザもののイメージ」と合致します。また、割と最近広島に行ったことがあって、その時の広島の人の話し方がまだ頭に残っていたので、広島弁をすんなりと受け入れながら読むことが出来ました。
物語は、大上というぶっ飛んだ人間に捜査二課初心者である日岡がくっついていき、そこで見聞きしたものを描くというスタイルで進んでいくので、マル暴の刑事がどんな感じであるのか、ヤクザとのやりとりがどうであるのかということを、マル暴初心者の日岡の視点で読むことが出来ます。そりゃあある程度、ヤクザの世界の知識があった方がより面白く読めるののかもしれません。でも、僕自身も全然そういう方面の知識はないんだけど、面白く読めました。
本書を語るには、大上という人物を外しては無理です。
大上は刑事として、二つの顔を持っている。一つは、ヤクザと対峙する時のもの。そしてもう一つは、ヤクザとは関わりを持たないものは、自らの部下と関わる時のもの。
ヤクザと対峙する時の大上は、様々な顔を見せる。厳しい顔、懐柔しようとする顔、親しげな顔、同志同士のような顔。大上は、様々な顔を使い分けてヤクザと対峙し、その圧倒的な情報量と、ヤクザの世界のルールに即した振る舞いや判断のお陰で、様々に事件を決着させ、同時にヤクザの世界での存在感を増していく。それは、ヤクザとの癒着であり、しかし癒着しているが故に成し遂げることが出来るものでもある。
ヤクザ絡みの事件を解決するためには、ヤクザの世界に深く入り込まなければならないが、しかし一方で刑事として、一線を画すべきだろう。大上は、その一線を軽々超える。しかし、圧倒的な結果を生み出しているし、また、大上にしか抑えられないような状況もある。必要悪という言葉があるが、まさに大上のようなことを言うのかもしれない。大上は、行為だけ見れば悪だが、しかしその一方で、大上の存在は必要なのだ。そういう意味で、大上という存在を評価することは難しい。
さらに大上の評価を難しくするのが、大上の、ヤクザ以外の者との関わり方である。
大上は、自腹で捜査費をふんだんに使っていて、情報提供の対価として常時相当なお金を使っている。口調も穏やかで、大上を慕うものも多い。ヤクザの中にも、大上とは「刑事とヤクザ」という関係ではなく、「人間と人間」という関係で接する者もいる。そういう意味で大上は、実に魅力的な存在感を放っている。
日岡もまた、そんな大上の存在感に徐々に惹かれていった男だ。しばらくの間、大上のやり方に納得出来ない思いを抱え続けていた日岡だったが、様々な出来事を経て、また大上という人物の様々な面を知ることによって、日岡の中の大上に対する評価はどんどんと変化していく。
大上という人物を評価するのは、実に難しい。ただ法律だけを基準とするならば、大上は犯罪者だ。しかし、自らが泥を被って一人犯罪者の汚名を着ることで、様々な人間を救うことになっている。それを、ただ単に「悪」と読んでいいのか。本書を読むと、その辺りのことを考えさせられるのではないかと思う。
ヤクザ方面の知識はないのだけど、全体的にリアルだなぁ、と感じる場面が多かった。その中でも特に印象に残っているシーンが、ヤクザを取り調べている場面だ。日岡とはまた別の刑事があるヤクザを取り調べている時に、ほとんど言いがかりのような怒声を浴びせかけるシーンがある。当初日岡も、なんでそんな言いがかりのようなことを言い募るのか理解できなかったのだけど、説明されて納得する。僕も納得した。なるほど、そんな理由があるのか、と。他の場面でも、ヤクザらしさ、マル暴らしさを感じる場面が随所にあって、こういう物語を女性作家が書けるもんなんだなぁ。と思わされました。
ヤクザの物語ではあるのだけど、暑苦しい物語ではありません。大上という特異な人物を中心に据えて、その魅力を引き出しつつ、複雑に絡み合った事件の糸をほぐそうと奮闘を続ける人々を描く物語だ。エンタメ作品として非常に良く出来ていると感じました。是非読んでみてください。

柚月裕子「孤狼の血」


マーケット感覚を身につけよう 「これから何が売れるのか?」わかる人になる5つの方法(ちきりん)

僕はもう長いこと本屋で働いているのだけど、売場を作っていく中で、「自分が売っているのは『本という物質』ではないな」ということに徐々に気づいていった。
何故『本という物質』を売っているのではないかと言えば、本は本質的に「買う前に中身が分からない商品」だからだ(もちろんこういう商品は、世の中に他にもたくさんある)。
買う前に、そのものの中身を知った上で買うのではないとすれば、僕らは本を買う時、一体何を買っているのか。それは大体、「タイトルの響き」とか「帯のコメント」とか「表紙の綺麗さ」とか「誰かから薦められたという事実」や「その本を読んだらなれるかもしれない未来の自分」などである。その時々で、お客さんが何だと思ってそれを買っているのかは様々だろうが、ほとんどの場合、『本という物質』を売っているわけではない。
そしてここ最近僕は、ある傾向が強くなっているように感じる。それは「本の『参加券』としての価値」だ。これは本に限らず、世の中のありとあらゆる「商品」がそうなりつつあるように感じる。

『参加券』というのは、「あるグループ・集団に入っていくためのチケット」のようなものだ。例えば、テレビでジブリ映画が放送されると、Twitterなどでみんなが感想を言い合ったりする。あれは、「テレビ」と「Twitterのアカウント」が『参加券』の役割を果たしていると見ることができる。人と人が、あるいは人と場が繋がったりするような、そういう証明書のような価値を、様々な商品がまとい始めているように思う。
とにかく、「それを消費する(本であれば「読む」)」ためではなく、「買ったという事実・持っているという事実」が一種の『参加券』の役割を果たす。そしてその役割を求めて買われていると感じることがある。それをはっきりと前面に押し出しているのがAKBなどが出す「投票権付CD」だが、それに限らず世の中の多くの「商品」がこの『参加券』としての存在価値を持ち始めているような気がする。

もちろん売り上げを取らなければならないので、どんな形で売れてくれようとそれは売るしかないのだけど、個人的には『参加券』として売るという行為は、非常に危険だと感じている。何故ならそれは、「世の中のありとあらゆる商品をライバルになるから」だ。本が独自に持っている価値を無視して『参加券』としての側面ばかり押し出すと、スマホやゲーム、テレビやインターネットなど、『参加券』としての価値を持つ世の中のありとあらゆるものがライバルになる。そんな混雑した土俵での販売に力を注ぎ込むのは怖い。それよりは、「本にしかない価値」をもっと引き出せるような売り場作りをしなければ、余計に本が売れて行かなくなるだろう、と考えている。

僕はそういうことを考えて、どうやって『参加券』としてではなく本を売れるだろうか、という試行錯誤をしているつもりだ。たとえば、「何かを始めたい人用の棚」というのがある。陶芸とかピアノとか、哲学や歴史や英語の勉強などなんでもいいのだけど、「何か新しいことを始めたい」と考えている人に向けて本を集めている。本には一冊一冊様々な側面があるが、それを「何かを始めたい人向け」という括りを設けることで一つの大きな価値として提供しているつもりだ。またこの売り方は、「売り場を見ることで初めて購買動機を喚起できる」という意味でも悪くないと思っている。『参加券』として売る場合、お客さんは大体来店前から購買動機を持っている。すると、店を選ぶポイントは、「家から近いか」「ポイントがつくか」など、売り場や本とは関係ない側面に依存してしまう。しかし、店内で購買動機を喚起できるとすれば、ウチの店で買ってもらえる可能性は高まるのではないか。そんな思惑もある。僕が作る売り場には色んな枠組みがあるのだけど、今頭の中にあってまだ実現していないアイデアは、「スキマ時間で読める本」を集めた棚。基本的に見開き1ページで一つの項目が完結する本だけを集める、というコンセプトだ。

本書にも、「本のような多品種の商品は、『選んでもらうこと』に価値がある」という話が出てくる。書店は、「本を売る」のではなく、「選んであげること」を売るべきなのだ、と。僕が作っている売り場には、「何かを始めたい人用の棚」のような「選択肢を限定した棚」が様々にある。これはある意味で「選んであげること」を売っていると言っていいのではないかと思う。随分昔から、「どうやったら選択肢を狭められるか」
本が何として売れているかという別の話をしてみよう。まず傘の話をしよう。雨が降っている時に売れる傘と、雨が降りそうな時に売れる傘は、まったく同じものを売っていてもその性質は異なる。前者は「現在のトラブルに対処するためのもの」として、そして後者は「起こりうるかもしれないトラブルに対処するためのもの」として売られていく。同じ商品が、違う性質を伴って売られていくのだ。

同じような話を僕は本屋で考える。例えば、「あるテレビ番組で紹介されたことで、Aという著者のaという作品が爆発的に売れた」という事実があるとする。この場合大抵の書店員は、「Aの他の著作であるbやcやdも一緒に並べよう」という発想をする。しかし僕は、このやり方にずっと疑問を抱き続けてきた。
ここでお客さんがこのAという本を何だと思って買っているのかを考えてみる。「あるテレビ番組で紹介された後に爆発的に売れた」という事実から、大抵のお客さんはこのAという本を、「その番組で紹介された本」として買うはずだ。であれば、論理的に考えて一緒に並べるべき作品は、「過去にその番組で紹介された本」であるべきではないだろうか?もちろん、多くの書店員が別の著作を並べるというやり方を採用している以上、一定の売り上げは見込めるのだろうし、僕もまったくやらないわけではない。その番組で過去に紹介された本を調べるのもなかなか大変だし、Aを読んだお客さんの一定数がAの他の著作に関心を持つ可能性があることも分かっている。だから僕がここで言いたいことは、「実際の売り場づくりへの反映のさせ方」というよりは、「本がどう捉えられて売れているのかという視点が欠けている書店員が多いのではないか」という指摘だ。「Aの他の著作を並べること」だけが唯一の正解ではない、ということだ。


本屋で働いていてもう一つ強く感じることは、売り場づくりについてだ。僕はこの違和感を、

『本屋は、指輪とドーナツとマンホールを一緒に売っている店だ』

と表現している。つまり、形が同じだというだけでまったく性質が異なるものを、その性質に気づかないまま売っている、という意味だ。
例えば文庫・新書の売り場は、基本的に「出版社別」の売り場になっている。これには、作業効率など様々な側面があるので一概に批難は出来ないのだけど、僕には非常に不自然な売り場に思える。何故なら、時代小説も恋愛小説も雑学本も、「出版社が同じだ」というだけの理由で一緒に並んでいるのだ。僕は昔からこのやり方に大きな違和感を抱き続けていたのだけど、あまり共感してもらえたことはない。たぶんここには、ノスタルジーもある。本屋で働く人に本好きが多いとすれば、「昔から自分が通っていたあの本屋」を作りたいという気持ちがそうさせているのではないか、と僕は感じている。

僕には、ごく一般的な本屋の売り場は、「指輪とドーナツとマンホールを一緒にして売っている」ように見える。その不自然さを解消するために僕は長い時間を掛けて、「(僕にとって)同じように見える本を出来るだけ近くに並べる売場」に変えてきたつもりだ。指輪は指輪と、ドーナツはドーナツと、マンホールはマンホールと一緒に売ることにしたのだ。
他にも、書店で働いていて、常識とされることに疑問を抱くことは多い。それらをいちいち書いていくとどんどん長くなるのでこの辺りで止めるが、こういう「自分が売っているものが、どんな価値を持つものとして売られているのか」という視点の大事さを、僕は現場の仕事を長い事やり続けながら身に着けてきたつもりだ。
それが本書で言うところの「マーケット感覚」に、少し近いものなのではないかと思っている。本書で語られているようなレベルの「マーケット感覚」にはまだまだ程遠いだろうけど、自分が続けてきた仕事のフィールドに関していえば、「マーケット感覚」の入り口ぐらいにはいるのではないか、とそんな風に思えた。

本書は、ちきりん氏が「マーケット感覚」と名づけた、これからの世の中を生きていくのに必要とされる能力について、「それは一体どんな能力なのか?」「どうやって身につければ良いのか」について書かれた本です。
本書で「マーケット感覚」とは、こんな風に定義されている。

【商品やサービスが売買されている現場の、リアルな状況を想像できる能力】
【顧客が、市場で価値を取引する場面を、直感的に思い浮かべられる能力】

この文字列だと少し伝わりにくいと思うのだけど、そのためにちきりん氏は冒頭で、「ANAのライバルは?」という問いを読者に投げかける。この事例は、非常に面白い。本書ではこの問いに答えるために、「論理的思考」だけでなく、「マーケット感覚」からのアプローチもするべきだとしているのだけど、その「マーケット感覚」側のアプローチが「なるほど!」というものなのだ。確かにこれは、「論理的思考」からはかなり導くのが難しい答えだと思う。しかし、説明されれば、それは明らかに「ANAのライバル」であると実感できる。このANAのライバルの話、丸ごと書くには長すぎるので本書を読んでもらいたいのだけど、本書でもそう示唆があるように、まず自分の頭で考えてみるといいと思う。本書で「マーケット感覚」側から導き出された答えを自力で導ける人は、相当素晴らしい能力を持っていると感じる。

「マーケット感覚」そのものの定義ではないのだけど、本書の中で「マーケット感覚」の発露の一側面として描かれている能力が、【誰にとってどんな価値があるのか、見極める能力】である。本書では、【「自分は何を売っているのか」「何を勝っているのか」について、意識的になること】という表現もされている。「マーケット感覚」を身につけることで、この「表面に現れていない、そのものの本質的な価値に気づく能力」を手に入れることが出来る。
これは僕が冒頭で書いた、「本屋である僕は、何を売っているのかという気付き」と同じ話だと思う。僕はまだ自分に「マーケット感覚」があるとはまったく思えないけど、少しはかすっているのだろうなと思えるので、本書を読んでそこは少しホッとした部分だ。

以前、「シブヤ大学」という勉強会みたいなのに参加したことがある。その時の登壇者が、「OCICA」という鹿の角で作られたペンダントを生み出した方だった。震災で被災した石巻市牡鹿半島で、養殖などの職を喪った地元の人達に、「一緒に集まって作業をするコミュニティ」と「仕事」を生み出した事例だ。地元では余って捨てられるばかりであった鹿の角を、素人でも加工可能な、それでいて洗練されたデザインに仕上げ、作り手のおばちゃんの名前と共に売って、ニューヨークなどでも売られている、というものだった。
これなどまさに、「価値に気づく能力」の発露だろうと思う。地元で余っていた「鹿の角」に、「デザイン」と「物語」をプラスすることで生み出せる価値がある、と気づいた人間がいたのだ。

このOCICAの事例は、本として出版されたりするような特殊な事例だが、この「価値に気づく能力」を持つ人間の活躍は、僕らは日々目にすることが出来る。キャラ弁、LINEのスタンプ、ニコニコ動画のコメントなど、今までそこに価値があると誰も考えていなかったものに注目し、それを最終的にマネタイズする仕組みまで作り上げた事例は、僕らの身近に溢れている。Yotubeで自分がゲームをしている姿を流す「ゲーム実況」など、僕にはまったく理解できないが(そもそもゲームをやらないし、人がゲームをやってる姿を見て何が面白いんだ、と思ってしまう)、しかしそれで人気を博し、現実にそれで生活しているという人もいる。

それらにしたって、ある分野で突出した能力を持っているからでしょう?と思う人も多いと思う。でも本書は、そうではないと書く。例えば、こんな風に書かれている。

『日本のファミレスでのバイトが普通にこなせる人であれば(語学やビザの問題を除けば)、誰でも明日から、欧米やアジアのカジュアルレストランでフロアマネージャーが務まります。そういう人はみな、「グローバルに通用するスキル」を持っているのです』

(本当だろうか?)と思ってしまう話ではあるのだけど、でもきっとそうなのだろう。日本は、アルバイトであっても非常にレベルが高いという話はよく聞く。外国では、従業員が時間通りに集まらないので会議を開けない、なんていうのが日常茶飯事であるようだ。その点日本は、数分電車が遅れるだけで謝るような国。僕らが「当たり前だ」「普通だ」「こんなことできたって仕方ない」と思っているようなことでさえ、外国から見ればそれは驚嘆すべきスキルである、ということがあるわけです。

『どんな分野であれ10年も働いたら、「自分には売れるモノなど何もない」なんてことはありえません。もしそう感じるのだとしたら、その人に足りないのは「価値ある能力」ではなく、「価値ある能力に、気がつく能力」です』

もちろん、この能力でお金を稼ぎ、生計を立てていくレベルにまで持っていくのは物凄く大変でしょう。しかし、初めからそこを目指すこともないのです。

『ですが私は、マネタイズにはあまりこだわらないほうがよいと思っています。重要なのは儲かるかどうかではなく、「価値があるかどうか」なのです』

僕はこの本の感想のブログ(最近本の感想はあんまり書いていませんが)をもう10年以上続けています。

ちきりん「マーケット感覚を身につけよう 「これから何が売れるのか?」わかる人になる5つの方法」

真空で死なない虫がいる そんな些細なことでまだ生きられる

Ⅰ 「題詠blog2014」(http://blog.goo.ne.jp/daieiblog2014)の100のお題から
  (結局エントリーはせず)


(お題:谷)人生は谷底までの通過点頭上から降る声に焼かれる



Ⅱ 「うたの日」(http://utanohi.exout.net/index.html)に投稿した作品


雨にも負けず風にも負けず地蔵はここで海を見守っている
(8/24 24時間 http://nono.php.xdomain.jp/page.php?id=146)



Ⅲ その他の自作短歌


真空で死なない虫がいる そんな些細なことでまだ生きられる(ダ・ヴィンチ 穂村弘の「短歌ください」に採用)



Ⅳ 「連歌の花道」(http://renga57577.bbs.fc2.com/)に投稿した作品


ビスケット二人のために割りまして占いましたポチの未来を
http://renga57577.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6194992
(上の句:詠伝さん、下の句:黒夜行)

メガバンク絶滅戦争(波多野聖)

友人に誘われて、一度だけ競馬をやったことがある。
全12レース、一つも当たらなかったはずだし、そもそも大した金額を掛けてたわけでもないので、この一回の競馬をもってギャンブルをどうこう言うつもりはないのだけど、でも、僕には、ギャンブルにハマる素質はたぶんないんだろうなぁ、と思った。
たぶんそれは、「運」の要素が大きい、つまり、自分の力で関与できる部分が少ない、という気持ちがしてしまうからだろうと思う。
最近、独自のシステムを開発して競馬でボロ儲けしたが、外れ馬券を損金扱い出来ないことを不服とした裁判が終結するというニュースを見かけた。それは、競馬好き友人からも聞いていた話だったのだが、「システムを使って儲けられる」のであれば、うまく情報を取捨選択すれば、確実さの程度を上げていける、ということなのだろう。だから競馬も、努力すれば実は、実力(と表現していいのかどうかは分からないけど)で勝負出来るものなのかもしれない。
と思うこともあるのだけど、やはり、ギャンブルと呼ばれているものは全般に、それがギャンブルであるからこそ、不確実性に支配されているように思う。もちろん、そこにスリルがあるのだろうけど、僕はどうもそういうものにスリルを感じないようだ。
株投資をギャンブルと同じ括りに入れて良いのかどうか、それはよく分からないのだけど、競馬好きの友人が語ることの延長線上に、本書で描かれるファンドマネージャーの心情があるようにも思えて、相場師と呼ばれる人たちのことを、競馬好きの友人の実像を膨らませることで捉えてみようと思ったのだ。

『相場の神様は存在する』

TEFGという、日本最大のメガバンクでディーラーとして活躍する桂がそう語る場面がある。桂は屈指のディーラーであり、その運用手腕は高く評価されている。しかしそんな桂でさえも、「相場の神」という存在を肯定している。時に人間は、「自分には認知・許容が出来ない、名伏しがたい存在」に「神」と名付けることがあるが、桂のそれは少し違うように思う。桂にとっての「神」も、名伏しがたい存在であることは確かだろうが、なんとなくかつらは、その輪郭は捉えているように感じられるのだ。なんだか分からない存在を、ただ分からないという理由で「神」と名づけているのではなく、はっきりと捉えきれはしないが、ぼんやりと輪郭だけは掴んでいる存在に「神」という名をつけているように思う。
それは、相場という、生物ではないが「生きている存在」である何かと、長いこと触れ続けてきた者だからこそ捉えきれる何かなのだと思う。
僕の日常生活の中では実感はないけど、この相場という存在は、もはや人類の生活と切り離せないものになったのだろう。僕自身は、株式投資をしたこともないし、知識もないので、何がどうなっているのか分からないのだけど、この相場という存在が、あらゆる人種・ルール・社会・価値観を飛び越えて、世界を否が応でも一つにしてしまう存在であるということは分かる。人間が誕生しなければまず間違いなく誕生することのなかった相場に、今や人類は飲み込まれようとしているようにも感じられる。既に、人間の手にはほとんど制御できない存在だろう。僕自身の経験ではその実感はないのだけど、株を扱った小説を何度か読んだ経験から、そういう想像は出来る。
そういう意味で僕は、ギャンブルには興味はないけど、人間が生み出した「相場」という化け物には少しだけ興味がある。それは、宇宙の開闢の歴史を探ろうとする物理学者のような関心の持ち方だ。本書は、自身が実際に大金を動かしてきたファンドマネージャー自身が書いた小説である。「相場を知り尽くした」と言っていい存在だろう。そういった人物が、真正面から「相場」を描くという点に、まず非常に興味がある。
一方、まったく違う原理で動くが、「相場」と同じ程度に複雑な挙動を見せるのが「人間社会」である。

『部長。株式市場は本当に恐いです』

同じくTEFGで、総務部部長代理という肩書の二瓶(ヘイジ)はそう上司に注進する。しかし、上司はその話を一切理解しない。何故か。
それは、その上司が「帝都銀行」出身だからである。
TEFGは合併を繰り返しながらメガバンクとなった銀行だが、その中心は、戦前からの財閥の流れを組む帝都銀行であり、「帝都でなければ人にあらず」という恐ろしいまでの選別がなされていく。
先に挙げた桂もヘイジも、共に帝都銀行出身者ではない。
エリート中のエリートである帝都銀行出身者は、「帝都が潰れるわけがない」という考えを基本として持っている。これまで、危機らしい危機に直面したこともない。ないからこそ、実感も対策もない。しかし、帝都出身というだけで昇進し、威張りくさっている。

『舌先三寸でどんな白でも黒にされる』

同じく帝都銀行出身ではない役員の言葉である。吸収合併された銀行出身であり、かつて役所からさんざん辛酸を嘗めさせられた経験を持っている。また本書の冒頭では、「半沢直樹」のドラマでも有名になっただろう「金融庁」が登場し、その横暴さを見せつける。「立場」が人間を形作るということを、強く思い知らされる。
本書を読むと、「人間の価値」というものを考えさせられる。どんな地位にいるのか、どんな権限を持っているのか、どこ出身なのか。そういう物差ししか存在しない社会。それは、物差しの大きい小さいの差はあれど、様々な社会で起こりうる状態なのだと思う。そんな部分に「人間の価値」などないと思っていたとしても、状況が少し変われば揺れてしまう。

『人間などには自分自身にさえも信頼を置かない。人間は脆く弱いもので信頼に足るものではないとの思いが深い。それが逆に桂の人間への優しさに繋がっていた』

僕自身も、自分を含めた人間をそこまで信頼していないのだけど、そういう割り切りをせざるを得ないような社会や日常というのは歪かもしれないな、と感じることもある。信頼すればいいとも思っていないが、ヘイジのような人間を見ると(自分の友人にも、ヘイジのようだと感じる人間がいる)、こういう形で世界と関わっていきたいなと思う。
相場も人間社会も、あまりにも複雑になりすぎていて、誰もその全貌を把握することは出来ない。しかし、もしその仕組みを完全に把握できるとすれば…。本書では、「相場」と「人間関係」を共に支配しようとする有象無象が集結し、TEFGを舞台に暴れまわっていく。

日本国債が暴落した。すべての始まりはそこにある。
いつかは暴落するだろう、と思われていた日本国債だが、それが現実のものになると誰もがパニックになる。しかし、メガバンクの多くは、日本国債の比率を低く抑えていたし、償還期間も短くするように処理してきた。TEFGにおいては、運用担当のトップである桂自身が、この日のことを見越してすべて準備をしており、損失が出ることがあっても大したことはない。
はずだった。
桂が違和感を覚えたのは、日本国債暴落後のブリーフィングで、何人かの役員の顔が青ざめていたことだ。決定的だったのは、自らが開発を指揮したシステムにログイン出来なくなっていたこと。
何かが起こっている…。
桂に知らされたのは、驚愕の事実だった。桂の知らないところで、TEFG内に、とんでもない時限爆弾が仕掛けられていたのが。最悪の想定をすれば、自己資本の2倍もの損失を出すことになる。桂は現状を打破するために、相場に向き合おうとするが…。
というところから始まる、メガバンクを舞台にあらゆる者が知力を振り絞って勝ち抜けようとする、政治とマネーの戦争物語です。
非常に面白い物語でした。
僕は以前、同じく株式投資を扱った、川端裕人「リスクテイカー」という作品を読んだことがある。全然覚えていないのだけど、当時書いた感想を読み返すと、株式投資を廻る用語や状況説明などがなかなか難しくて、うまく物語を追えなかったようだ。
本書にも難しい描写は多少は出て来る。「大手証券各社に現物の売り注文が出されて、あらゆるビット(買い提示価格)にぶつけられたということです」「償還までの期間がながくなればなるほど債権のリスクは高くなり、特に流動性の無い四十年物などの価格は低くなり損失額はさらに上乗せされる」みたいな文章は、僕にはよくわからない。
ただ、本書の場合、こういう「株を実際にやりとりしている場面」というのはそう多くはない。これは「相場」の話ではあるのだけど、具体的な描写よりもむしろ、相場師である桂の身体感覚などを通じて、読者にも感覚的に「相場」というものが伝わるようにしているように感じられる。先に挙げたような描写が一切なければリアリティ的に難しくなるのだろうから、その辺りは最小限に留めて、「相場」というものを、経済用語や数字などではない形で感覚的に理解させようとしているように思う。
たとえば、そんな描写の一つだなと思うのが、これだ。「相場と対峙する集中力によって消費される膨大なエネルギー。場合によっては一時間で体重が2キロ落ちる。」これなどは、著者自身の経験談なんだろうなと思ってしまう。こういう描写によって、「相場」というものを理解させようとする。そして、もちろん僕みたいな経済に疎い人間にはたぶん輪郭さえ掴めていないのだろうと思うけど、なんとなく掴めたような気にさせてくれる。この著者は元々筆力は高い作家だと思っているのだけど、自身の経験や得意分野を予断なく物語に組み込むのってなんとなく難しい気がしているから、その辺りもうまく出来ているような気がする。
そして本書は、メガバンクが舞台であり、日本国債の暴落に端を発しており、相場を廻る物語ではあるのだけど、やはり最終的には様々な場面で「人間」が鍵を握っていく物語になる。
読めば分かるが、狭い範囲の登場人物たちが、結構色んな形で繋がっている。現実的にはありえないだろうけど、物語的にはなかなか面白い。初めこそ、ドライにカネを追いかけているだけに見える人物たちが、実は様々な物語や過去を内面に抱えていて、時にそれがカネを凌駕する。カネの話だったはずのことが、いつの間にかヒトの問題にすり替わっていることもある。そもそも、この物語の発端の発端が、他者からはどうでもいいとしか思えない、ある人間たちのエゴから始まっている。そんなエゴさえ持たなければこんな問題は起こらなかったが、しかし、そのエゴが何よりも大事に思えてしまう人もいるのだろう。
マネーゲームという舞台で、ヒトという不確実な要素がどのように舞台をかき乱していくのか。ただのマネーゲームとして捉えても十分にスリリングな物語なのだけど、ヒトとの複雑な絡み合いも一つの読みどころです。
また、こういう物語ではある程度お約束ではあるのだけど、弱者もきちんと勝負の俎上に載せられている、というのも良い。本書で言えば、弱者というのは桂やヘイジのことだ。彼らは、ファンドマネージャーでも、投資家でもなく、銀行内でも帝都出身ではない。桂は辣腕を振るうディーラーだが、ヘイジに至っては総務部部長代理である。しかし彼らも、きちんと闘いの舞台に立つことが出来る。
ただ、この点で若干の不満もある。彼らがきちんと闘いの舞台に立てていることはいいのだけど、もう少し弱者の活躍が見たいと思ってしまう気持ちもある。
本書で物語を引っ張っていくのは、政治家や官僚やファンドマネージャーや頭取と言った「なんだか凄い人たち」だ。もちろん、そういう人たちの物語でもいいのだけど、一庶民視点で物語を読むと、やっぱり「弱者が強者に噛み付く」というのがなんだか痛快だし楽しい。もちろん、桂もヘイジも奮闘するんだけど、どうしても物語の中心軸は「なんだか凄い人たち」の方にあるように感じられてしまった。物語上それは仕方ないのだけど、物語の舞台設定も「相場」や「銀行内部」など、庶民にはなかなか馴染みのないものだったりするわけです。もちろん、これまで僕が読んだこの著者の作品も、そういう傾向はありました。しかし、僕がこれまで読んだ作品は、舞台設定が明治・昭和など、現代を舞台にしていなかったので、そもそも自分と引きつけて物語を捉えなくても良かったというのがあります。本書はまさに現代を舞台にした作品であるので、庶民としては、もう少し庶民が活躍出来る感じの物語だと、より入り込めるんだろうな、という感じがしました。
とはいえ、この著者が描く「上流階級の雰囲気」は、どの作品を読んでもさすがだなぁ、という感じがする。別に僕自身は「上流階級の雰囲気」なんて全然知らないから、現実の何かと比較できるわけではないんだけど、(さっきの話と矛盾することを言うけど)「僕には全然手の届かない感」が凄く伝わってきて良いと思う。本書は他視点の物語で、色んな人物の視点を行き来するが、例えばヘイジが出て来る場面と、上流階級の人間が出て来る場面では、その場面の雰囲気が全然違う。描写によって、「まるで手の届かない感じ」を絶妙に醸しだす感じは、やっぱりうまいなぁ、と思うわけです。
また、これもこの著者の作品の感想ではたぶん毎回書いてるけど、教養的な部分がさりげなく物語に組み込まれていく感じが巧いと思う。本書では、方丈記や徒然草、あるいは仏教の用語なのか「只管打坐」というのが出て来る。以前の作品では、西田幾多郎や九鬼周造なんかが出てきたりする。しかも、知識を披瀝するような登場の仕方ではなくて、登場人物の内面を浮き彫りにするような形で使われるので、著者自身がそれらの教養をきちんと内側に取り込んで血肉化してるんだろうなぁ、と思わせます。こういう部分は、物語全体からすれば些細なもので、ストーリーそのものに影響を与えるわけではないけど、しかし作品全体に深みを与えるし、グッと引きしまる感じがあって良いなと思います。
株式の話はやっぱり難しいし、「なんだか凄いたち」が織りなす物語であるので身近に感じにくい物語ではあるのだけど、しかしこれまでの作品同様、非常に面白く読ませる作品だと思います。そして僕は、やっぱりこういう世界には近づかないでおこう、と思ったのでありました(笑)。カネを前にしたヒトの有り様を様々に実感できる作品ではないかなと思います。是非読んでみてください。

波多野聖「メガバンク絶滅戦争」


自転車に君が初めて乗れた日に砂時計の砂こぼれ始める

Ⅰ 「題詠blog2014」(http://blog.goo.ne.jp/daieiblog2014)の100のお題から
  (結局エントリーはせず)


(お題:最後)ロレックスよ革命を待て極東の最後の技師が時計を変える



Ⅱ 「うたの日」(http://utanohi.exout.net/index.html)に投稿した作品


自転車に君が初めて乗れた日に砂時計の砂こぼれ始める
(うたの人 初めて
http://nono.php.xdomain.jp/hito/page.php?id=1)



Ⅲ その他の自作短歌


(お題:旅)花畑にトリップしてる君の目に映らぬものでたましいを抜く



Ⅳ 「連歌の花道」(http://renga57577.bbs.fc2.com/)に投稿した作品


旅先でしか見れぬような雪景色
(http://renga57577.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6161811)
(上の句:、下の句:)


「みんなのアムステルダム国立美術館」を観に行ってきました

2003年に建て替えの計画がスタートし、2008年に再オープンする予定だったアムステルダム国立美術館。しかしその再オープンは結局、2013年までズレ込んでしまう。
何故か。
アムステルダム市民の反発に遭ったからだ。
元々のアムステルダム国立美術館は、その中央に「自転車道」を持つユニークな構造を持っていた。その自転車道が、新たな計画では縮小・改変されるという。アムステルダム市民にとってこの自転車道は、街の文化の一つと捉えられている。レンブラントも素晴らしいが、しかし、この自転車道は市民の誇りなのだ、と。
「”道路を救え”委員会」が設置され、美術館側に計画の変更を要求する。市としても、住民の反対の中では計画に同調することは出来ない。美術館側はどうにか、市民に賛同を得られる計画を提示しようとするが、しかしそれは「美的感覚」から難しい。そもそも、コンペを勝ち抜いたプランは、その「自転車道」をすっきりとしたデザインにする案が評価されて採用されたのだ。当然、美術館の設計を担当する建築家は、こう考える。「コンペを勝ち抜いたデザインが市民から拒絶されたのに、俺たちは設計を続行するのに適任なのか?」
とはいえ、プランが固まるまで工事を中断するわけにもいかない。自転車道に関わるエントランスの設計をペンディングしたまま、工事は進んでいく。しかし、設計者と工事施工者の意志の疎通がうまく行かず、意に染まないやり方がまかり通っている。
やがて、この騒動に嫌気が差した館長は辞任。新館長が就任し、最終的に10年という長い時間を費やすことになった建て替え計画を推し進めていく。
という内容です。ドキュメンタリーというほどドキュメンタリーという感じの作りではないのだけど(幾分、フィクションの映画に寄せて作られている風に感じられた)、とはいえ、実際にあった出来事をモチーフにした作品だ。
僕がこの映画を見て感じたことは、「映画の隙間を埋めることが出来る素材を自分の内側に持っている人が見れば、面白く感じられるだろう」ということだ。
例えば、実際にこの騒動に何らかの形で関わった人であれば、面白く見ることが出来るだろう。当然個々の人たちは、騒動のすべてを経験しているわけではない。改めて、騒動の全体像を確認しつつ、自分が経験してきたことを当てはめながら見れば、回想録として面白く見ることができるだろう。
あるいは、騒動に直接関わりがなくても、国内で報道されることもあっただろう。とすれば、オランダ国民であれば面白く見ることはできるかもしれない。時々テレビや新聞で見かける情報を思い出しながら、なるほど裏側はこうなっていたのね、と思えるかもしれない。
あるいは、実際に美術館で働いている人が見れば、面白く感じられるかもしれない。アムステルダム国立美術館での事例は少し特殊かもしれないが、しかし「建て替えに伴う苦労」という意味では共通項はあるはずだ。自らの職歴の中で、美術館の建て替えという経験がない場合でも、「自分があの立場だったらどうするだろう」という想像に必要な知識や経験を内側に持っている。そういう人が見れば面白く感じられるだろうと思う。
他にも面白く感じられる人のパターンはあるかもしれないが、ともかく、、「映画の隙間を埋めることが出来る素材を自分の内側に持っていない人」には、ちょっと面白く感じられない映画ではないかと思う。その理由は、「焦点が絞りきれていないこと」「10年の騒動を描くのに尺が短いこと」にあるように思う。
「焦点が絞りきれていない」というのは、この映画が、「美術館vs市民」という構図で描かれていないことを指す。もちろん、その対立は一つの軸として存在するのだけど、「アムステルダム国立美術館の建て替えにかんする様々なこと」を盛り込もうとしているがために、「美術館vs市民」が対立軸の一つに収まっている。個人的には、この部分をもっと核に据えれば、「素材を持たない人」にも楽しめる映画に仕上がったのではないかと感じる。
もちろん、エンタテインメントではなくドキュメンタリーなのだという監督の意図もあるだろうし、エンタテインメントとして面白いかどうかだけが映画の評価ではないだろう。しかしこの映画には、「アムステルダム国立美術館の建て替え」に関係ないと思われる要素も描かれる。
例えばこの映画では、学芸員の一人が日本の寂れた山村に行き、アムステルダム国立美術館に所蔵されている二体の力士像が実際に鎮座していた場所を見に行く、という場面が出て来る。これは、「学芸員の美術品に対する思い入れ」を描くのにはもちろん良い描写だと感じるが、「アムステルダム国立美術館の建て替え」という物語の中にはあまり必要ではない要素ではないかと思う。学芸員の美術品に対する思い入れは、別の形でもきちんと描かれるし、それは「美術館の建て替え」と絡む形で描かれる。印象的なセリフは、こうだ。

『像は、もっと経緯を払われるべきだ。暗闇に見る人もなく、置かれているべきじゃない』

建て替え期間中、美術品たちは当然ひと目にさらされることはない。そのことを嘆く場面である。こういう場面がきちんとあるのだから、先の、日本の山村に赴く場面は不要ではないかと感じる。
全体的に構成が非常に散漫であるように感じられた。実際に、リアルタイムで進行している出来事を映像で撮っていたものを編集しているのだろうから、「こういう場面を入れたいのに素材がない」ということだって当然あるだろう。この映画のような構成になったことは、結末がどうなるか分からないドキュメンタリーにはある程度しかたないことなのかもしれない。けど、もう少しうまくやれたのではないかと思ってしまった。
「尺」については、97分という、映画にしては少し短いのも気になった。描いているのが、10年という長い期間の話なので、さすがに97分では描ききれないのではないかと思う。実は、97分の映画なのに、僕はこの映画を長く感じた。少し前に「インターステラ―」という3時間の映画を見たのだが、そちらの方が圧倒的に短かった印象がある。
恐らくこれは、「色んな要素を詰め込んで、一つ一つが中途半端になってしまったがために、全体として退屈になった」ということではないかと思う。もう少し要素を切り詰めて、かつ尺をもう少し長くとって深く描けば、長く感じることもなかったのではないかと思うのだ。
「美術館vs市民」で描かれていることは、非常に印象的で面白かった。特に、美術館側の意見が痛烈で面白かったのだけど、まずは市民側の意見を見てみよう。

『市民に親しまれている城門を、何故取り壊そうとするのですか?』
『人はシャレた入り口ではなく、絵を見に美術館へ行く』

市民はこうやって、美術館の計画に反対する。意図的にそう描かれているのかもしれないが、市民側の意見は、「日常を壊されたくない」という感覚に根ざしているように感じられる。美術館もいいが、でも、俺たちの日常を改悪してまで、美術館なんて要るか?と、まあこれはちょっと穿ち過ぎだが、そんな風に感じられる。
対して美術館側の人間の意見の痛烈なこと。

『すべての問題が自転車に矮小化されている』
『素晴らしい建物を造るという誇りはないのか』
『(市民側から)出されている案は、すべて通俗的、平凡だ』
『先入観のかたまりだ』
『民主主義の悪用だな』
『恥とは言わないまでも、これでルーブル美術館並みの美術館が造れるか?』
『サイクリストは館の周りを迂回しろよ』
『この街は民主主義のマッドハウスだ』
『アムステルダム万歳。何でもまかり通る』
『サイクリストと心中だ』

どうだろうか。美術館側の憤懣やるかたない感じが、どのことばからも滲み出ていることだろう。こんなのを本国で放映して大丈夫なのかと思わされる。
どちらの言い分が正しいか、それは観る人次第だ。美術館側の人間も、「傲慢かもしれないが」と、自らの意見の正当性を留保する言葉をつけて発言する人もいた。「真に素晴らしい芸術に対して理解ある市民であること」と、「これまで慣れ親しんだ形で日常を過ごしたい市民であること」は、少なくともアムステルダム国立美術館の建て替え計画においてはなかなか両立しなかった。どちらが悪いというわけではないだろうが、個人的にはこう感じた。同じような状況が日本で起これば、この映画で描かれたような市民が確実に出て来るだろうな、と。そして僕自身は、そういう市民にはなりたくないような、そんな気がした。もちろん、当事者になってみないと分からないことはたくさんあるのだろうけど。
個人的にはあまり面白いと感じられない映画だったけど、観る人が観ればその面白さが分かるのではないかと思います。

「みんなのアムステルダム国立美術館」を観に行ってきました

Ⅰ 「題詠blog2014」(http://blog.goo.ne.jp/daieiblog2014)の100のお題から
  (結局エントリーはせず)


(お題:射)くちづけから射精に至るラストまで答えなき時進む道程


Ⅱ 「うたの日」(http://utanohi.exout.net/index.html)に投稿した作品


金持ちという名の荷物運ぶため倉庫を”ファーストクラス”って呼ぶ
(6/22 荷物 http://nono.php.xdomain.jp/page.php?id=83



Ⅲ その他の自作短歌


(お題:ティッシュ)約0.04mmのティッシュさえ重ね続ければ富士山超える



Ⅳ 「連歌の花道」(http://renga57577.bbs.fc2.com/)に投稿した作品


どんぶりに音符が浮かんだ玉子丼
http://renga57577.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6195171
(上の句:黒夜行)



Ⅴ 自作の都々逸


公務員にはなれないけど天使の羽根にはすぐなれる

カクテルの内側に咲く木漏れ日が弾けたようなビッグバンでした

Ⅰ 「題詠blog2014」(http://blog.goo.ne.jp/daieiblog2014)の100のお題から
  (結局エントリーはせず)


(お題:側)カクテルの内側に咲く木漏れ日が弾けたようなビッグバンでした



Ⅱ 「うたの日」(http://utanohi.exout.net/index.html)に投稿した作品


パパずるい!”29時”って5時間も長く1日使ってるじゃん!
(6/10 時 http://nono.php.xdomain.jp/page.php?id=71



Ⅲ その他の自作短歌


「ファミコンは100点取れたら」彼だってきっと気づいてる買えないだけって



Ⅳ 「連歌の花道」(http://renga57577.bbs.fc2.com/)に投稿した作品


三時までに賛辞と惨事が参上す
http://renga57577.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6195229
(上の句:黒夜行)



Ⅴ 自作の都々逸


答えの傍で足踏みしても特になんにも見えません

Ⅰ 「題詠blog2014」(http://blog.goo.ne.jp/daieiblog2014)の100のお題から
  (結局エントリーはせず)


(お題:手帳)分かってる?手帳に書いた♡ってあなたのことじゃないんだからね!



Ⅱ 「うたの日」(http://utanohi.exout.net/index.html)に投稿した作品


耳慣れぬ外語でよみがえるあの日外してくれたブラの色まで
(6/6 SEX http://nono.php.xdomain.jp/page.php?id=67



Ⅲ その他の自作短歌


(お題:ティッシュ)なんでなの?さっきまでここにあったのに…ティッシュで包んだはずの木漏れ日


Ⅳ 「連歌の花道」(http://renga57577.bbs.fc2.com/)に投稿した作品


恋歌が夜の静寂に落ちていく速度は心臓の鼓動に比例
http://renga57577.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6195395
(上の句:かりやどさん、下の句:黒夜行)



Ⅴ 自作の都々逸


元気に走る子供の声が世界の孤独を縫っていく

見えぬものに冒された地で夢を見る家のかたちをした迷子たち

Ⅰ 「題詠blog2014」(http://blog.goo.ne.jp/daieiblog2014)の100のお題から
  (結局エントリーはせず)


(お題:鮭)本当は鮭って白身魚だと知った時の騙された気分



Ⅱ 「うたの日」(http://utanohi.exout.net/index.html)に投稿した作品


見えぬものに冒された地で夢を見る家のかたちをした迷子たち
(5/8 家 http://nono.php.xdomain.jp/page.php?id=38



Ⅲ その他の自作短歌


落ちてくる空の支えにするがいい伝えきれない言葉の抜け殻を



Ⅳ 「連歌の花道」(http://renga57577.bbs.fc2.com/)に投稿した作品


夕焼けに二つの影が伸びてゆく二酸化炭素の壁もろともせず
http://renga57577.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6195989
(上の句:ゆるゆるさn、下の句:黒夜行)



Ⅴ 自作の都々逸


真っ赤に染まる世界が見たいだけど命はまだ惜しい

グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ(デイビッド・ミーアマン・スコット+ブライアン・ハリガン)

内容に入ろうと思います。
本書は、グレイトフル・デッドという名の、ビートルズやローリング・ストーンズなどと同じぐらい歴史がありながら日本ではあまり知られていない、しかし音楽業界に革新をもたらし、常識に逆らい、現在でも年間で5000万ドル稼ぐという彼らの在り方を、マーケティングという視点から捉え直し、彼らのやってきたことをビジネスに活かそう、という内容の作品です。
非常に示唆に富む、有益な作品だと僕は思いました。
グレイトフル・デッドがどれほど常識外れのことを、しかも40年も前からやり続けてきたのか、ざっと書いてみましょう。

◯ ライブは録音OK
◯ チケット販売は彼ら自身が管理している
◯ インターネットがない時代から、膨大な顧客名簿を管理
◯ ライブの度に違う演出。決まった演出のないライブ
◯ 年に100回もライブを行なう
◯ CDからの売り上げではなく、ライブからの売り上げで収益を得るモデルを創りだした

などなどである。現在の視点から見れば当たり前に思えることでも、それを遥か以前から行なっていた、という点に凄さを感じる。彼らは今でも熱狂的なファンを持ち、ライブをし続け、素晴らしい体験を与え続けている。本書の著者二人も、熱狂的なファンであり、グレイトフル・デッドのファンであったことが二人を結びつけ、本書を刊行するに到ったのだ。
さて、本書が邦訳されるのには、ある人物が関わっている。本書の冒頭で、まえがきを書いている糸井重里である。糸井重里は、本国アメリカで本書が刊行される前から本書の存在に注目していたようで、そこから本書の邦訳の話が決まったという。
糸井重里はまえがきでこんなことを書いている。

『マーケティングが、いやな言葉に聞こえるのには、理由があります。
それは、ある種のマーケティングが「大衆操作的」なものだと考えられているからです。
「これをこうして、あれをああすれば、みんながこうなるだろう?」という考え方が、大衆操作的でないとは思えません。
でも、「大衆操作的」ではないマーケティングもあるんです』

まさに本書の内容を的確に掴んでいる文章で、本書は「大衆操作的ではないマーケティング」について書かれた作品だといえるでしょう。従来の、要するに「大衆操作的なマーケティング」というものがどういうものなのか、きちんと説明できるわけではないのだけど、マスコミを使ったり、大きな仕掛けをしたり、というようなことを指すのでしょう。グレイトフル・デッドは、そういうことをほとんどしないまま、現在の極めて特殊な立ち位置を掴みました。彼らがやってきたことは、確かに常識外れの異常なことばかりだったかもしれません。でも、現在の視点、つまりインターネットやSNSが発達し、コミュニケーションや流通と言ったものが根本的に変わってしまった世の中から彼らの行動を見れば、非常に合理的で必然的なことだということが理解できるでしょう。本書は、そういう見方をするための手助けをしてくれる作品だといえるでしょうか。
本書は、グレイトフル・デッドの在り方から導き出した19のアドバイスが語られます。それぞれが独立した章を成していて、どこから読んでも良いように構成されています。各章では、まずグレイトフル・デッドが何をしてきたのかが語られ、それが一般化された形で提示されます。さらに、実際にそれを行なっている企業の具体例について触れ、最後にまとめがある、という構成になっています。
各章には、章題のような感じで、簡単にその章でどんな話がなされるのかというタイトルのようなものがあるのだけど、とりあえずそれを列挙してみようと思います。

「ユニークなビジネスモデルをつくろう」

「忘れられない名前をつけよう」

「バラエティに富んだチームを作ろう」

「ありのままの自分でいよう」

「「実験」を繰り返す」

「新しい技術を取り入れよう」

「新しいカテゴリーを作ってしまおう」

「変わり者でいいじゃないか」

「ファンを「冒険の旅」に連れ出そう」

「最前列の席はファンにあげよう」

「ファンを増やそう」

「中間業者を排除しよう」

「コンテンツを無料で提供しよう」

「広まりやすくしよう」

「フリーから有料のプレミアムへアップグレードしてもらおう」

「ブランドの管理をゆるくしよう」

「起業家と手を組もう」

「社会に恩返しをしよう」

「自分が本当に好きなことをやろう」

さて、僕なりに本書の内容を非常にざっくりまとめると、こうなる。

【コミュニティを作ってしまおう。お金は後からついてくる。】

たぶん本書で一番強いメッセージはこれではないかと思う。グレイトフル・デッドはとにかく、ファンを大切にした。ファンと共に歩んできた。ファンを増やしてきたし、ファンを育ててきた。それらはすべて、コミュニティを作る、と表現できるだろう。グレイトフル・デッドがまさに40年間やり続けてきたことは、これなのだ。そして本書には、【どうやってコミュニティを作り出すか】ということへの具体的な方策が色々と載っている、と考えてもらえばいいのではないかと思います。
確かに、それは本当にそう思う。
現在も、コミュニティを作り出した企業は成功しているのではないかと思う。アップルのような、熱心なファンを生み出すようなやり方を続けられた企業は、成功していることが多いのではないか。逆に、ファンを生み出せなかったり、生み出したファンをほったらかしにしたりする企業は、すぐに凋落してしまう。まさに僕らはそういうことがはっきりとわかる時代に生きているのだな、と感じる。
グレイトフル・デッドが様々なことをやり始めた時代には、まだそういうことは見えていなかったはずだ。ライブはCDを売り上げるための手段である、と捉えられていた当時、CDを売ることよりもライブで収益を上げることを目指し、インターネットもないのにファンと熱心に交流し、時には特別感を与える演出までしてみせる彼らは、コミュニティ作りというものの大切さを時代に先駆けて理解していたということが出来るのではないかと思う。
いかにしてコミュニティを生み出すか。彼らがそれを意識して目指してやっていたのかはともかく、彼らが決断・選択するあらゆることが、結果的にコミュニティを生み出し、拡大することに繋がっていった。彼らは、インターネットもSNSもない時代にそれをやってのけたのだ。そりゃあ、それだけの偉業には、年間5000万ドルという報酬があってもいいだろう。僕らは、インターネットもSNSもあり、インターネットやSNSが世の中を変えてきた、そんな時代を生きている。そんな僕らに、グレイトフル・デッドに出来たことが出来ないわけがないじゃないかと思う。
身近な例で言うと、星海社という出版社は、まさにコミュニティ作りを熱心にやっているという印象がある。無料で読めるコンテンツが充実したサイトがあり、また熱心なファンたちを集めたイベントなども行なっている。星海社新書などは、「大学」と称して、新書執筆者たちを集めて授業のようなことをする、ということさえやっているのだ(僕もそれに参加した)。お金を使ってもらってコミュニティの一員になるのではない。まずコミュニティの一員になってもらって、それからお金を使ってもらう、という順番だ。これは、書店の売り場で日々あーだこーだ売り方を考えている僕も、出来れば目指せたらいいなと思っているところだ。とにかくまず店に来て、面白がってもらう。それから、本を買ってもらえたらいいなと思う。
ちょっと前に、対照的な経験をしたことがあったので、ちょっと書いてみたい。
渋谷で飲み屋を探していた時、呼び込みに連れられて入った店が、とにかく席料とお通し代が高かった。ちょっとびっくりする値段だった。まあ文句も言わずに支払ったけど、この店には二度と来なかろう、と思った。渋谷という土地柄、新規のお客さんはいくらでもやってくる。だからこそ成り立つやり方なのだろうけど、これはコミュニティを作るという観点からすれば非常に失格だと思う。
一方で、渋谷で割と落ち着いた感じの雰囲気の店に入った。メニューには一切写真がなかったのだけど、なんとなく色んなものを注文して待っていたら、来る料理来る料理物凄く量が多い。こんな落ち着いた洒落た感じの店なのに、こんなボリューミーな料理が出てくるものか、と驚いたぐらいだ。なにせ、隣の席にいたお客さんから、「これちょっと多すぎるから」と言ってさつまいもをおすそ分けしていただいたくらいの量なのである(非常に満腹だった)。
この店にはまた行きたいなと思うし、それだけではなく、この店のことは人に話したくなる。そういう話は、SNS時代である現在では、以前より遥かに伝わりやすいことだろう。そうやって、店のファンを増やしていく。そういう在り方がこれから求められているような気がするし、僕もモノを売る立場の人間として、そういう在り方を目指して行けたらいいと、常に考えていうのだ。
内田樹は、かなり多作な作家でもあるが、以前何かで、内田樹は自著をどんな風に引用されても構わないし、なんなら自著の文章を自分の文章だと偽ってどこかに載せたって構わない、と書いているのを読んだことがある。なかなか凄いことを書くなぁ、と思っていたのだけど、でもその後の文章を読んで、なるほどこれは合理的なのだなと感じた。例えば内田樹の文章は、著者の許可を取らずに載せることが出来るということで、よく試験問題に採用されるという。そうやって、多くの受験生の目に触れる。するとその中からそれなりの人数が、図書館で借りたり本を買ったりして内田樹の著作を読む。そうやって読者というのは広まっていくのだ
グレイトフル・デッドもまさにそうだ。彼らは、ライブの録音を許可した。許可したどころか、録音するための専用のスペースを設けるほどだった。普通、ライブを録音されたらCDの売り上げが落ちると懸念され、禁止されることが多い。しかしグレイトフル・デッドは、ライブの録音を自由にさせながら、自分たちが録音した高品質な音源を売りに出し、実際にそれはよく売れているのだ。グレイトフル・デッドのライブは、毎回ごと内容がまったく違う。録音されたテープは、その記録となり、多くの人に貸し借りされることで、グレイトフル・デッドの音楽は多くの人に届く。そしてその内の何人かが、もっと高音質でこれを聞きたいと考える。そうやっていずれお金になって戻ってくることになるのだ。
そんな風にして彼らは、とにかくファンを大事にした。「お金を払ってくれる人」だから大事にする、というのとはまったく違った関係がそこにはあった。お金は最終的な結果であり、目的ではない。チケット販売を自分たちで行なうのも、忠実なファンにこそ良い席のチケットが届くようにしたいためだし、音楽のライブだというのに「デフヘッズ」と呼ばれる聴覚障害者たちがライブに集まり、さらにグレイトフル・デッドは彼らを歓迎する。インターネットがない時代から、ライブの情報やメンバーの近況を書き綴った手紙を、住所を教えてくれた全員に送っていた。
コミュニティを生み出し、そこにいるファンを徹底的に大事にする。グレイトフル・デッドがやっていることはまさにそういうことであるし、それだけであるともいえる。しかし、「だけ」といえるほど、多くの人はこれができていない(当然僕もだ)。だからこそグレイトフル・デッドは成功したのだし、今も成功し続けている。
ビジネスでも芸術でも趣味でもなんでもいい。何かやりたいという強い情熱がある人は、本書を読んでみることをオススメする。マーケティングという単語に引きずられて読まないでいるのは非常にもったいない。本書は、マーケティングの本ではあるのだけど、マーケティングの本ではないとも言える。シンプルで、ある意味で当然だと思えることばかり書かれているのに、非常に心に残るし、本書を読んでいるだけでグレイトフル・デッドのライブに行きたくなる。その訴求力の強さはハンパではないし、それだけ力強いコンテンツを生み出すことが出来たからこそ、コミュニティもファンも獲得出来たといえるだろう。非常に面白い作品です。読んで、貴方を覆う殻を破りましょう。

デイビッド・ミーアマン・スコット+ブライアン・ハリガン「グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ」


THE BOOKS 365人の本屋さんがどうしても届けたい「この一冊」(ミシマ社編)

内容に入ろうと思います。
本書は、独特の流通方式を採用し、「原点回帰の出版社」として業界内外に新鮮な驚きと可能性を提供してくれる出版社であるミシマ社による、365人の書店員にオススメ本を聞いたブックガイド&ブックショップガイドです。
とりあえず、本書がどんな構成になっているのかを書いて、その後、僕が気になったことをいくつか書いていきますね。
1ページ一冊(一人)という構成で、まずタイトルと書影があり、その下に推薦者による手書きのフレーズ、そしてその下に推薦者によるコメント、と続きます。その下に、推薦者が考える「次の一冊」のオススメ本と短いフレーズが載っています。その下に推薦者名と書店名が載り、その横に、ミシマ社の社員によるその書店への一言コメントが載っている、という構成になっています。
1/1から12/31までの365日それぞれに一冊ずつオススメ本が割り当てられています。各月には、ざっくりとしたテーマが設けられています。1月であれば、「1年にはじまりは名作で」ですね。ただ、このテーマに完全に縛られているわけではない、という構成になっています。
巻末には、全国地図に本書で紹介された書店が載った書店MAPと、本書で紹介されたすべての本が五十音順でリストアップされている索引も用意されていて、ブックガイドとしてもブックショップガイドとしても「使える」内容になっています。
推薦者に与えられた条件は、「(できれば)自分の担当ジャンルであること」「絶版本ではないこと」という二点のみ。なので、本書で紹介されている本は、小説や絵本はもちろん、新書も哲学書もアート本もなんでもアリです。普段あまり本を読まなくて、何を読んだらいいだろうなぁ、なんていう人にももちろん最適なガイドブックですけど、普段本は読んでるんだけどどうもいつも似たような本ばっかり読んでしまって広がりがない、と感じている人なんかにもオススメできるブックガイドになっています。
さて、あとは興味の赴くまま、自分が使いたいように本書を是非使ってみて下さい。本書に載った本を読むもよし、その本を紹介者の書店で買うもよし、「オススメされた本、つまんなかったぞ!」と直接文句を言いに行ってもよし…(いや、それだけは止めてほしい…笑)。
さてそういうわけで、個人的に色々と気になった話をあーだこーだ書いてみよう。
まず、コメントのエピソードが面白いものが結構ある。特に気になったのは、「ルバイヤート」(オマル・ハイヤーム)を勧めている諸橋さんと、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(村上春樹)を紹介している小澤さん。
諸橋さんは、この本と出会うきっかけとなったとあるお客さんとのエピソードを載せていて、なんだかとてもしんみり来るし、本屋冥利に尽きる、という感じもする。小澤さんの話は、まさに本に人生を狂わされた(?)というご自身のエピソードで、本の力って凄いもんだなぁ、と思わされる。
あともう一つ。これは具体的にどれとは言わないんだけど、あるエピソードが、あぁあの方の話なのだなと思わされてしまい、なんとなく個人的にしんみりしてしまった。
「人を助けるとはどういうことか」(エドガー・H・シャイン)を勧めている竹内さんの話は、書店員の感覚として頷けるものがある。

『ずっと残るだろう、重版を重ねるだろう、改訂されたりもしてきっと長く読まれ続けるだろうと思った本は、発売時はさほど売れなかったりします。爆発的に売れるだろう、というのとは、感触が違う。しつこく平積みを続けてようやくわかるのです。間違ってなかった、やっぱりこれは良本だ!』

これは凄くよくわかるな、と思いました。まさにそんなことを考えながら、僕も日々仕事をしています。
しかし、他の人のコメントを読んでいると、自分のコメントはあまりにも内容に触れていなさすぎるなと思えて、ちょっと書き直したい(笑)。エピソードもあれば一緒に書いて欲しい、なんて言われたんでそっちばっかり書いちゃって、内容にはまったく触れなかったのですよね。不覚。
本書を読んでて、もちろん読んでない本の方が多くて、読みたくなる本が増えすぎて困るわけですけど、もちろん読んでいる本も結構ある。その中で、そうそうこれは俺もちょっとオススメなんだよなぁと思ったのが二作。「えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる」(小山田咲子)と「クラウド・コレクター(手帖版)」(クラフト・エヴィング商會)。もちろん、既読の本で他にもこれはオススメだぞって本はいっぱいあるんだけど、この二冊は、なかなか紹介される機会がなさそうな本だから、これが紹介されてて嬉しかったです。
本屋の紹介の部分も面白いのですよね。例えば「富士日記」(武田百合子)を勧めている阿部さんが働いている書店は「一月と六月」という名前。この書店名だけでも気になりますよね。「地球のレッスン」(北山耕平)を勧めているヴィレヴァンで働く宮脇さんは、実はカメラマンが本業なんだそうです。すげー!「知的生活の方法」(渡部昇一)を勧めている花田さんは、「本屋の寅さん」という書店にいて、ここはなんと出張販売専門のお店なんだそうです。他にも、書店のコメントだけ読んでいても、全国にはホント色んな本屋があるんだなぁ、と思わされるだろうと思います。
さて最後に。個人的にちょっと気になった点を二点ほど。まず、複数巻に分かれている本については、「全◯巻」という表記があるんだけど、何故かこの表記が、推薦者のコメントの最後についてるんですよね。これは別に、書名と書影の欄に書いておけばよかったんじゃないかな、なんて。
あと一つ。どっちかっていうとこっちの方が個人的には問題ですけど、ページ数が見にくい。ページ数は、どうせなら下につけてくれた方がよかったなぁ、なんて思いました。巻末の索引から各ページに行く方もいるでしょうけど、ちょっとページ数は見にくいかもです。
世の中には色んなブックガイドやブックショップガイドがあるでしょうけど、本書はかなり内容的にも濃く使える、実用的な本になっていると思います。是非一冊買って、ふとした時にパラパラめくってみてください。オススメの1冊も含めれば730冊の本の紹介と、365店舗の書店の紹介が載っている本。是非読んでみて下さい。

ミシマ社編「THE BOOKS 365人の本屋さんがどうしても届けたい「この一冊」」



銭の戦争 第一巻 魔王誕生(波多野聖)





内容に入ろうと思います。
本書をどんな風に紹介するのか、もんのすごく難しいのだけど、さわりの部分と、最後どんなところに話が着地するのか、そして主人公は一体誰なのか、という部分について断片的に触れることで内容紹介に変えようと思います。
物語は、日露戦争を戦う上で必要となる戦費を諸外国から集める、日本銀行副総裁・高橋是清の活躍から始まる。
当時日本は小国で、しかもロシアに宣戦布告しつつも、大国ロシア相手に勝てるはずがない、と思われていた。そんな中で、戦費を諸外国からかき集めるために国債を売るというのは恐ろしい難事業だった。しかし、高橋是清はそれを成し遂げる。高橋是清の功績は大だが、しかしその背景には、時代の幸運もあった。
あるユダヤ人の富豪が動いたのだ。
ジェイコブ・シフと名乗るそのユダヤ人は、ロシアに対してある不満を抱えており、ロシアに対して宣戦布告をした日本を支援することに決める。ロシアの皇帝・ニコライ二世が抱える特殊な事情を明かしつつ、日本・ロシア・ユダヤ人の三者の思惑が錯綜していく。
本書は、井深享介という一人の若者の物語だ。日露戦争の話からどのように井深享介の話になるのか、そして井深享介とは何者なのか、という話は割愛することにしよう。
本書は最後どこにたどり着くかと言えば、明治40年前後の日本に置ける株の大相場の描写までである。そこで何が起こるのかも、書かないでおこう。井深享介という一人の青年が、どんな生い立ちの中で何を学び、どんな高みにまでたどり着くのか、そしてさらにそこからどこを目指そうとするのか。そういう物語です。
いやー、ホントに面白かった!正直、まったく期待してなかったんです。全然期待してなかった。経済を扱った小説は得意ではないし、本書ではその次代を彩った(だろう)様々な人物が実名で登場するのだけど、歴史に疎い僕はそれらの人がどんな人で何をしたのか全然知らない。そういう状況で読み始めたのだけど、まあこれが滅法面白い!ちょっとびっくりしました。
読み始めた時は、ちょっと無理かなと思ったんです。だって、ロシアの皇帝・ニコライ二世の話とか出てくるし、日露戦争の戦費を諸外国からかき集めてくるって話は全然知らなかったんで面白かったんだけど、でもこの物語がどこに向かっていくのかがまるで想像できなくて、ちょっとこれは厳しいかなと思いながら読み始めたのでした。
でも、どんどん面白くなる。
本書の面白さのメインは、やっぱり経済的な話です。でも、初めはそういう描写が少ない。最終的に、株の相場の話までたどり着く物語なんだけど、読み始めからしばらくの間は、もちろん少しは経済っぽい話も出てくるんだけど、でもそういう描写はかなり抑えられている。後でも触れるけど、初めの内は、登場人物とか舞台設定とかをかなりきちんと描写するために結構心血を注いでいる感じで、経済小説はちょっとなぁ、とか思うような人でもかなりとっつきやすい作りにはなっているかもしれません。
しかし何にせよ、後半怒涛のように展開されていく株の相場の話は面白い!僕はホントに経済の話って全然分かんなくて、「売り注文」とか「買い注文」なんて話も、ちゃんと考えればわかるんだけど、物語を読んでいる過程でするっと理解できるほど理解してるわけじゃない。特に、「売り注文」ってのが難しい。だって、手元にその株を持ってなくても売れちゃうんですよ!?(「空売り」というらしい)。いや、ちょっと時間を掛けて頭を使えば、なるほどそういうことかってまあわからなくはないんですけど、それでも僕にはやっぱり、経済とか株の話は難しい。
それでも、かなり読ませるんですよね。別に難しい話を避けてるわけじゃない、と思う。結構経済的に踏み込んだ描写ってのも出てくる。確かにそういう描写をちゃんと理解できているわけではないんだけど、でもそれでも面白い。株の相場というものがいかにして人間を狂わせていくか、その魔物的な魅力が凄くよく表現されていて、惹きこまれました。
ストーリーで言えば、株的な話でなくても面白い部分がある。具体的には書かないけど、ロシアのちょっとした秘密組織みたいなのが絡んでくるなかなか壮大な展開があって、これもよく出来てるなぁって思いました。そういう謀略小説的な作品って、そこまで読んでるわけではないんで、他の作品と比較出来るわけではないんですけど、展開とか細部の描写とか設定とか凄く巧く出来ていて、これまた惹きこまれました。登場人物が実在するからと言って、ここの部分の話が事実ってことはないんだろうけど(ってか、歴史の知識がほぼゼロな僕には、描写されているうちどこまでは事実でどこまでが創作なのかさっぱりわからないんだけど)、実際にこういうことが起こっててもおかしくないよなぁ、なんて思わせてくれるだけのリアリティがあったと思いました。
本書の凄い点は、そういう経済的な部分とかストーリーの面白さだけではないんです。本書でなされる、明治時代の様々な描写が、あの目の前で見てきたんですか?この光景、と聞きたくなるくらい描きこまれているのだ。
たとえばこんな感じ。

『茶会がはじまった。案内があり、席に入ると、床には唐銅の大水盤に、河骨が涼しげに活けてある。
亭主・井深雄庵の丁寧な挨拶に続いて、懐石が出された。旬の物や名残の物が巧妙に按配された膳の数々、焼物で出された夏鴨と魚肉のツクネの旨さには、皆声を上げた。
食後、中立となり、暫くした後に案内があり、再び席に入った。
床には、狩野元信の雨中山水の軸がかかっていて、滅多に褒めることの無い井上が、その字句に感服の声を漏らした。
そして、濃茶手舞となり、亭主が茶筅洗いにかかった時だった。
庭を隔てた向こうから、琴・三味線の合奏が起こった。耳をすませると、上方舞の茶音頭だ。雄庵は、大胆にも茶席では前代未聞の音曲付きの御立舞を行ったのだ。
合奏は、末客が呑み終わるまで続いた。』

これは、茶の湯の際の描写なのだけど、本書は全編こんな感じで、吉原の描写だったり、当時の町並みの描写だったり、どの場面をとってみても、その当時のその光景を間近で見てきたとしか思えないような臨場感溢れる描写をするんですね。これがちょっと凄いなと感じました。
まあ、意味不明な単語もいっぱい出てくるし、だからその描写から映像がズバッと浮かぶわけでもないんだけど、でも読む人が読めばきっと伝わるんだろうと思うし、あらゆる場面でそれだけ作りこまれた細密な描写が出来るというのは、著者が相当調べたか、元から相当な知識があったかだろうけど、どちらにしても凄いなと思ったのでした。
また本書では、さっき引用したような茶の話や、また吉原の話など、経済的な話とは関係のない、当時の「粋」の話が結構いろんなところで描かれていく。しかもこれは、決して舞台装置として必要なだけではないのだ。特に茶の方は、ストーリー展開でも非常に重要な役割を担っている。これがまた巧いと思いました。舞台装置としてこれだけの描写が出来るってだけでも充分凄いと思うんだけど、さらにそれを物語と無関係なままにはしないという点が、作品全体の質を高めているなと感じました。
個人的に、ここはもうちょっとこうした方が良くなるんじゃないか、なんていう不遜なことを考えていたりする部分もあったりはするんですけど、でも今のままでも充分過ぎるほど面白い作品で、ちょっとこれ、話がこれからどんな風に展開していくのか、気になって仕方ありません。正直なところ本書は、井深享介という男のプロローグ的な位置づけでしょう。恐らく次巻以降、井深享介の本領がはっきされるという形になるんじゃないかな、と思います。もちろん本書の、井深享介のプロローグ的な物語も実に面白いんですけど、続きがどうなるんだろうなぁ、という興味を結構強く掻き立てられる作品だと思います。
経済の小説かぁ、しかも舞台は現代じゃないのね、あんまり知らない作家だけど主人公が実在の人物って大丈夫かな…とか、まあ色々不安にさせる作品ではあると思います。ただ、経済とか歴史が苦手な人(まさに僕がそうです)でも充分楽しめる作品だと思います。これからどんな風に話が展開していくのか楽しみでしかたありません。是非読んでみて下さい。

波多野聖「銭の戦争 第一巻 魔王誕生」



謎の1セント硬貨 真実は細部に宿る in USA(向井万起男)

内容に入ろうと思います。
本書は、宇宙飛行士である向井千秋の旦那である向井万起男氏による、固い言い方をすれば「アメリカ文化論」とでも言えるようなエッセイ集です。
著者がこの本を書くことになる最初のきっかけになった出来事をまず書こう。
宇宙飛行士である妻に会いに、著者はよくアメリカに行き、奥さんと二人で持ち前の好奇心を発揮して色んな場所に出かける。そんな夫婦がある時飛行機の中で、ちょっとした出来事に遭遇した。
その日がクリスマス・イブでなかったら、この本は生まれなかったかもしれない。
客室乗務員の一人が、エコノミークラスの乗客に向って、こんな提案をした。
「ファーストクラスのお客様に出すシャンパンが余ったので、どなたか一名に差し上げます」と。ノリのいいアメリカ人の乗客は、大騒ぎでノリノリだ。
さらに客室乗務員の話は続く。
「どうやってお一人を選ぶか考えたのですが、一番古いペニー(1セント硬貨)を持っている方に差し上げます」と。
するとその瞬間、財布の中を見たわけでもない乗客の一人が、「シャンパンは俺のものだ!」と叫んだ。
日本人である著者らはもちろん、アメリカ人の乗客にも何がなんだかさっぱり分かっていない模様。
説明を聞くと、どうもこういうことらしい。1セント硬貨は、今は亜鉛で作られているけど、昔は銅で作られていた。しかし戦争で銅が不足したため、戦時中は鋼鉄で作られた、というのだ。スチール・ペニーと呼ばれているその1セント硬貨を持っている、ということのようだった。もちろんシャンパンはその乗客のものとなった。
しかしここで著者は、持ち前の好奇心が疼いてしまう。スチール・ペニーは1943年にしか作られなかったらしいけど、他の都市には作られていないのか、スチール・ペニー以外の呼び名はないのかどうか、などなど。
日本に帰ってから、スチール・ペニーについて書かれているサイトを見ていた著者は、そのサイトにメールを送ってみることにする。自分のくだらない質問なんかには答えてもらえないかもしれない、という不安は払拭され、実に丁寧な返事が返ってきた。
そこで著者は、味をしめてしまった。アメリカのサイトにメールを送れば、アメリカ人はどんな質問にでも答えてくれるのかもしれない。
元々書籍化する予定はなく、完全に自分の趣味でやっていた「アメリカのサイトへのメールでの質問」を、最終的に書籍化したのが本作です。
以下ざっと、著者がどんな対象に興味を持ったのか、という部分についてだけ、各章ごとの内容を書いてみようと思います。

「奇妙な数字」
合衆国憲法には、「14年間にわたって合衆国住民ではない者は大統領に選ばれる資格がない」と記載されている。何で「14」なんて中途半端な数字なんだろう?

「巨大な星条旗」
著者がアメリカで車を走らせている時に気づいた事実がある。「何故トヨタの販売店は、バカでかい星条旗を店の前に掲げているのか?」

「空を見上げたポパイ」
ポパイの像があると聞いてやってきたクリスタル・シティ。しかしそこには、日本人にとっては無視できない歴史的な事実があった。それに関する疑問。

「い~い湯だなin USA」
スポーツクラブに通う妻と共に汗を流した後、お風呂に入る。アメリカ人も入る。しかしアメリカ人と日本人ではどうも、お風呂に入る(温泉に入る)ことの意味合いが違うようだぞ?

「黒い革ジャンの少年たち」
ハンク・アーロンというのは、大リーグの歴史を、そしてアメリカの歴史を語る時に誰もが口にする偉大な黒人選手。そのハンク・アローンが子供時代に練習したというカーバー球場を見に行こうとそれがあるという町まで向かうも、町の住人は誰もカーバー球場の場所を知らない。何故?

「100万匹わんちゃん」
ドライブが好きな夫婦は、アメリカの道路でよく動物が轢かれて死んでいるのを見かける。それについてある友人から、「アメリカ人は、飼っているペットが要らなくなると、車から落として後ろの車に轢かせるんだ」という話を聞く。本当だろうか?

「制服を着ている人々」
妻が、空港には6時間前に来て人間観察をしているというちょっと変わった夫のために、ちょっと面白いものを見せてあげると言って空港に連れてきた。確かにそこは面白かった。職員が皆制服を着ていないのだ。他にもサウスウエスト航空は、なかなか他の航空会社にはない斬新な取り組みをしている。どうしてそうなっているのか、ちょっと気になるじゃないか。

「シンデレラの暗号」
アメリカで生活する妻から、アメリカのスーパーはおかしい、という話を聞く。例えば、卵1個の値段と、卵6個パックの値段では、卵1個辺りの値段は変わらない。また、同じ商品なのに違う値段がついている。時には、バラで買うよりセットで買う方が値段が高くなるというのだ!何でそんなことになっているのか。

「キルロイ伝説」
あるトイレで、アメリカで最も有名な落書きを見つけた著者。それは、第二次世界大戦中、兵士たちが世界中のあちこちに書きまくったという”Kilroy was here”というもの。著者は前からこの落書きについては知っていたけど、具体的には知らない。「キルロイ」とは誰なのか、何故みんなが同じものを書くようになったのか…。

「マクドナルド万歳!」
基本的に白いご飯がないと食事にならないという和食党の著者は、しかしアメリカで渋々マクドナルドに行く機会が増えた。これは、マクドナルドしか行ける場所がない、ということではない。そうではなく、マクドナルドの店舗がある特殊な設計になっているため、非常にお世話になっているから何かお返しをしないと申し訳ないかもしれない、という気持ちからなのだ。それは、アメリカのマクドナルドは、店内に入ると店員に見つかることなくトイレに直行できる、というものだ。これはマクドナルドが意識してそうしているのだろうか?

「勝手にしやがれ」
アリゾナ州は夏時間を使っていない、という話を耳にした著者は、アメリカにおける「夏時間」と「標準時間」の複雑さに興味をもつことになる。

「ヒューストン市警の対応」
かつて100%相手側が悪い自動車事故の歳に驚愕の対応をされたヒューストン市警。そのヒューストン市警に著者は、長年疑問だったスピード違反者への取り締まりに関する疑問を投げかけることに。

「オザーク高原のイエス・キリスト」
アメリカの歴史の中で特異な存在を持つジェラルド・L・K・スミスという人物が、著者が割とよく行く町にイエス・キリストの像を建てたということを知り、俄然興味を持つ。著者はこの、ジェラルド・L・K・スミスという人物について詳しく調べることに。

「ニューヨーク市への忠告」
妻が驚愕の情報を仕入れて来た。自由の女神像で有名なリバティ島は、地図で見るとどうも、隣のニュージャージー州の管轄に思えるというのだ。しかも、宇宙飛行士仲間が、ニューヨーク州とニュージャージー州が島の領土を巡って争っているという話も知る。ホントかよ?

「修道士からの手紙」
アメリカにあるメンフィス士に、ピラミッドがあった。メンフィスだからピラミッドを建てようという安易な発想で作られたらしい。他にも、アメリカにはパリという地名が多くあり、その内の一つにエッフェル塔があるというのだ。そう言われたら見に行くしかない。そのエッフェル塔はどういう経緯で作られたのか…。

というような話です。
いやはや、これはなかなか面白い作品でした。無差別に大量の質問メールを送りまくる、という著者のやり方も面白いですけど、それにきちんと返事を返してくれるアメリカ人が非常に多いこと、そしてその返ってくる答えの多様さに非常に驚かされました。
ネットでちょっと調べたけど見つけられなかったんだけど、日本でもどこかの誰かが、「ちょっとした疑問を企業の広報に電話して聞いてみよう」みたいな企画をネット上で見たことがあります。まあでも、これは分かる。本書でもいくつか企業にメールを出しているけど、企業としては聞かれたら答えないわけにはいかない。とはいえ、先に挙げた日本の例は電話だ。電話の場合、なかなか回避することは難しい。しかし著者は、メールで質問を送っている。やろうと思えば無視できてしまう。しかしアメリカ人たちはそうはしなかった。しかも著者は、企業ではない、ごく一般人や官公庁にもメールを出している。中には、こんなとんでもない人にこんなメール出していいんかいな、と思わせるような人もいる。しかしそれでもみんな、結構ちゃんと返事をくれる。日本で、メールで問い合わせをした場合どうなるかってちょっと考えてみたんだけど、日本だとメールでの質問には、特にその質問内容が特別重要ではないと判断されたら、返事は返ってこないような気もするなぁ。
とはいえ著者は、実際に様々なところにメールを送り、そして返事を受け取る。著者の(そして奥さんの)尽きることのない好奇心や、気になったことをとことんまで調べてやろうというそのエネルギーの強さにはもの凄く感心させられるのだけど、それ以上に、著者が抱いた本当になんてことのない些細な疑問から、アメリカという国が持つ様々な「おかしな」ところが浮き彫りになって面白い。
こういうのはなかなか、アメリカ人には掬い上げることが出来ないものだ。日本人の場合で考えたら分かる。よく外国人が、日本人のこんなところが変わってる、というような話をしているのを知る機会があるけど、日本人からしたら、疑問も抱くきっかけがないような、ごくあたり前のことが多かったりする。それと同じで、日本人である著者にとってはおかしく映る事柄でも(とはいえ、やはり著者はちょっと気になるポイントが変わっているようにも思う。実際、著者の疑問に、奥さんが共感しないことは多々ある)、アメリカ人にとってはごく当たり前すぎて、それが変であることさえ意識するきっかけがないような、そういうことが多いのだ。
それは、返事メールのニュアンスからも感じ取れることがある。「なるほど、そんなこと考えたことなかった」というような反応が結構あるのだ。僕もどちらかと言えば、細かなことがあれこれ気になってしまう質の人間だけど、それでもきっと外国人から見れば、より多くの「変わっていること」をスルーしながら生きているんだろうな、という気はする。本書が「アメリカ文化論」になっているというのは、まさにそういう点だ。著者は、日本の文化も時折引き合いに出しつつ、アメリカの文化のおかしなところ、矛盾したところ、不合理なところをあぶり出していく。その過程が非常に面白い。
特に僕が感心したのは、アメリカ人にとっての「大統領」や「星条旗」の意味。日本人にとっては、まあ違うという人も多々いるだろうけど、基本的には「首相」や「日の丸」にそこまで強く思い入れを持つ人はいないのではないかと思う。しかしアメリカ人の場合、「大統領」や「星条旗」というものを非常に尊敬し、大事にする。どちらがいい、という話をしたいわけではないのだけど、国というまとまりが徐々に失われつつあるように僕は感じてしまう日本という国より、移民ばかりだし州ごとにある程度独立を保っているという、国としての基盤が決して一枚岩とは言いがたいアメリカだからこそ、余計に「大統領」や「星条旗」という統一的なものに思い入れを強くするのかな、と想像して、それはそれで悪くないような気がしました。
個人的には一番面白かったのは、「キルロイ伝説」の話。これは本当に興味深いと思いました。僕自身は本書を読むまで、キルロイの落書きのことなんかまるで知らなかったわけなんですけど、第二次世界大戦中多くのアメリカ兵が同じことをしていたのに、どうしてそんなことが起こったのかアメリカ人が意識していない、深く考えていない、という点が凄く面白いと思いました。この話の最後で著者がやろうとするある試みは、さすが好奇心の塊だなという感じがして面白いと思います。
個別に色々書こうと思えばいくらでも書けるけど、内容に直接触れるのはこれぐらいにしようかな。
しかし、この夫婦の仲の良さ、そして好奇心の強さは、人生楽しいだろうなぁと思わせる力があります。お互いが様々なことに好奇心や疑問を持ち、そしてもう一方もそれに乗っかって楽しめてしまう。もの凄くくだらない目的のために何時間を車を走らせることになるのに、貴重な休暇をそんな風に過ごしても、お互いに嫌ではないどころか、バリバリに楽しんでいる。そういうところが、作中の端々から伝わってくる感じがして、本書の面白さは、もちろんアメリカのちょっと変わった文化という内容が非常にいいからなんだけど、それ以上の面白さがこの夫婦のあり方からにじみ出ているなという感じがしました。
アメリカに興味はない、という人にもきっと楽しめるでしょう。というのは、本書はアメリカのことを書く過程で、日本と比較をしているからです。すべてではないにせよ、日本ではこうなのにアメリカではこうなんだね、という話を読むと、日本という国についても色々と考えさせてくれる作品になるだろうと思います。是非読んでみて下さい。

向井万起男「謎の1セント硬貨 真実は細部に宿る in USA」



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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)