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小説王(早見和真)

僕の中には、「書きたいもの」はない。

僕はいつも、自分の外側にある何かに触発されて文章を書く。本、映画、アイドルなど、それがどんなものであれ、それに触れた衝動や感動みたいなものを文章にする、ということを続けてきた。
だから、外側の何から刺激を受けて文章を書く、というのは、割と得意だと思う。

ただ、自分の内側にある何かが、僕に文章を書かせることはない。そういう衝動は、僕にはない。

『「紙の本がどうなるかとかはわからないけど、物語は存在し続けるに決まってる」
「なんでそう断言できるの?」
「物語がここまで人間を生き延びさせてくれたから」』

物語を生み出す、というのは、僕には想像出来ない。かつて僕も、小説らしきものを書いたことがある。しかし、書いている間、僕の中には「書きたい」という衝動は特になかった。なんとなくストーリーを考えて、なんとなく人物を考えて、なんとなく文字にしてみただけだ。

『君、書くことを舐めてるだろ?』

僕には、物語が立ち現れる瞬間みたいなものは、イメージ出来ない。自分の内側から、それが出てくる想像が出来ない。常日頃、他人が書いた物語についてあーだこーだ書いているが、しかしどう考えても「物語を書ける」というだけで、僕にはない力を持っている。凄いなと思う。

『ご存じかもしれませんけど、こう見えて僕は物語に救われてきた側の人間なんです。』

人間と他の生物の違い、みたいなものが取りざたされることがある。道具を使うだの、言語を獲得しただの様々な要素があるだろうが、物語というのも一つ大きな要素なのかもしれない。確かめようはないが、他の生物には、物語と呼べるようなものは存在しないのではないか。物語の有無が、人間という種をここまで大きくさせたのではないか。

『「小説って何なの?誰が読んでるの?」
「どういう意味だ?それって…」
「いや、違うよ。べつに批判してるつもりはない。でもさ、お父さんたちがどれだけ必死になってたとしても、学校じゃ誰も小説なんて読んでないよ。電車に乗ってたって普通の人はみんな携帯を眺めてる。じゃあ、お父さんたちは誰を相手にしてるのかなって。何を目指して本を作ってるのかなって。もちろん本好きっていう人はいるんだろうけど、それだけなのかなって」』

小説だけが物語なのではない。これからも物語は様々な形に姿を変えて残っていくことだろう。その時、小説という形態が果たして残っているか。小説が果たすべき役割はまだきちんと残っているか。その問いと、それに対する希望と絶望が、この作品には詰まっている。

内容に入ろうと思います。
神楽社で文芸の編集者をしている小柳俊太郎は、「KG」と呼ばれている、凄腕だがドギツイ榊田玄という編集長の下で、赤字を垂れ流す文芸部門でなんとか踏ん張っている。俊太郎にはある野望があり、その野望を叶えるために一度中退した大学に入り直して出版社を受けた。神楽社に入ったもののすぐにチャンスが巡ってくるわけでもなく、俊太郎は様々な「作家センセイ」の無茶振りに振り回される日々を送っていた。
30代半ばになってなおファミレスでアルバイトをしている吉田豊隆。彼はかつて大学時代に、「空白のメソッド」という作品で新人賞を受賞し作家デビューした。そのデビュー作はとんとん拍子に映画化まで決定し、「空白のメソッド」はベストセラーとなった。しかしその後はヒットする作品を書くことが出来ず、そのままずるずるとフリーター生活を続けている。今も小説は書いているが、自分が本当に書きたいものを書けているのだろうかという自問や、作家としてどうしていくべきなのかという憂慮などに囚われている日々だった。
二人の物語は、突然動き出した。小学校時代の幼馴染だった二人は、長いこと離れていた後でまた再会した。豊隆の「空白のメソッド」を読み返したことが、俊太郎を編集者にし、豊隆といつか絶対に仕事をするという決意へと変わっていったのだ。
長いことくすぶっている小説家と、ヒットメイカーなわけではない編集者。彼らが小説の世界に壮大な喧嘩を仕掛ける…。
というような話です。

これは面白かったなぁ。エンタメでありながら、小説に限らず何かを生み出そうとする衝動を持った人達の心を熱くするような言葉に溢れた作品だと感じました。

まず、物語としてとても面白い。そこは作者としても相当必死にやっただろう。何故なら、「面白い小説を作れよ!」と全力で訴えかけている当のその小説が面白くなかったら元も子もないからだ。
主人公である俊太郎と豊隆を主軸として、様々な人間のドラマが描かれていく。俊太郎の妻である美咲、俊太郎の息子の悠、豊隆と付き合うことになる晴子、俊太郎が担当している二人の作家、内山光紀と野々宮博、俊太郎が面接を担当した就活生である青島修一、「空白のメソッド」の主演女優である綾乃。こう言った面々が、決して脇役なわけではなく、それぞれの物語を持っている。俊太郎と豊隆の無謀ででも熱すぎる挑戦に何らかの形で巻き込まれた彼らは、その熱で自分の内側の何かが変形でもしたかのように、生き方や価値観が変わっていく。

そう、この小説は、まさに「物語」によって人生を動かしたり動かされたりする人達の物語なのだ。その芯が最初から最後まで貫かれているのが良い。

豊隆がかつて生み出した「空白のメソッド」という傑作、そして今まさに豊隆が書いている「エピローグ」という作品。この二つの小説が、様々な人生を変え、巻き込んでいく。小説の中で、「小説にはまだまだ人生を変える力があるんだ」という展開を描き出すというのはある意味で危険で、ある種のリスクを伴うようにも感じるのだけど、そのハードルを著者は超えているように感じる。

『これだけみんなが夢中になるものがつまらないはずないですから。結局は熱ですもんね。本に込められるのは作家の思いだけじゃなく、かかわったみんなの熱でもあると思うんです。』

「エピローグ」という小説が、多くの人を巻き込んでいく後半の展開にはワクワクさせられる。それは、作家と編集者という、非常に孤独で小さなところからスタートしていく前半の展開とはまさに対照的だ。作家という孤独な作業をずっと続け、それに慣れていた豊隆が、ある場面でこんな心境に至るのがとても印象的だった。

『でも豊隆は頭を上げることができなかった。もっと謝っていたかった。そうして頭を垂れ続けて、自分がどうして賞を欲しがっていたかを理解した。
みんなに喜んでもらいたかったからだ。喜びを共有してほしかった。(中略)
小説家が、こんなふうに多くの人と喜びを共有できる機会はそうはない。』

それにしても「編集者」というのは不思議な職業だと思う。

『小説家を本気にさせることだけがお前らの仕事だろうが』

小説以外の業界でも、「編集者」と呼べるような職業というのはあるだろうか?僕の中では、ジブリの鈴木敏夫は、宮崎駿の「編集者」と呼んでもいいかもしれない、と思う。しかし、他にはパッとは思いつかない。助監督やマネージャーやパトロンなどとは違う役割を持つ「編集者」という存在がいるからこそ、小説というのは「物語」の中でも特異な立ち位置を占めていると言えるのかもしれないと思う。

『自分の担当作を「俺の本」とか口にしてしまう編集者は信用できません。でも、心の中では常にそう思っていてほしいです。一緒に仕事している間だけでいいんですよ。この作品のためなら死ねますよって、せめてウソをついてほしいんです』

豊隆がこんな風に語る場面がある。本書を読むと、「編集者」というのは本当に、「もう一人の作者」と呼んでもいいくらい作品に深く関わっている。作家一人では辿り着けない場所まで、「編集者」が一緒にいるからこそ行ける。「編集者」は、物語を生み出すわけでも、文章を書くわけでもない。しかしそれでも、「編集者」がいるからこそ物語が生まれる。作家と編集者というのは、他の何とも比べられないような、特殊で濃密な関係性なのだなということが本書を読むとよく理解できる(もちろん実際には、様々なタイプの作家が、様々なタイプの編集者がいるだろうけど)。

しかし本書は、本に関わる人間にズバズバ刺さるようなセリフに溢れている。出版という現実を如実に表すそれらのセリフには、読み取り方によって様々な真理が隠されていると思う。

『いいか、小柳。二度は言わねぇぞ。名前だけで売れる作家の作品以外は、一行で読者に「おもしろそう」と思わせられなきゃ売れねぇんだよ』

『作家が書きたいものを書くなら売れっ子になるしかねぇんだ。編集者が載せたいものを載せるならヒット作を連発しろよ。話はそれからだ、クソガキが』

これらは、そんなムチャクチャな、と感じさせるエピソードだが、しかしかなり真実を衝いていると僕は感じる。特に前者については、本を売る現場にいる人間としてよく感じることでもある。映画などのコンテンツ産業はどれも同じだろうけど、「面白いかどうか」より「面白く見えるかどうか」が大事だ。そして、大多数のお客さんが「面白い」と感じるものは、その時々で変化していく。それもあって、余計に本を売るのは難しいなと感じる。

後者については具体的なことを知っているわけではないけど、そうなのだろうなと思わされた。書きたいものと売れるものがマッチすればいいが、必ずしもそうはいかない。しかし、売れるものだけが残ればいいのかというとそれも違うように思えてしまう。こういうジレンマは、まさに最前線である編集者自身が感じていることだろう。

作家という人種についても非常に興味深いセリフがあった。次に引用するのは、同じ作家の発現だ。

『そんなこと知るか!テメーが家族といることで少しでも俺の小説が良くなるのかよ!』

『今回のことだけじゃねぇぞ。若い作家を蔑ろにするようなところでは俺は二度と書かないって言ってるんだよ!』

この内山光紀という作家は、作品の重要な場面で度々登場しては、物語を動かしていく存在だ。傍若無人だが良い作品を書くし、その作品は売れる。業界内でも影響力はあり、ムチャクチャなことを言っているようで芯が通っている部分もある。あまり関わりたくないけど、憎めない存在である。

書店についてはこんな描写がある。

『書店だって慈善事業ではないと頭では理解しながら、時間と神経を注いだ自著が軽く扱われているようで胸が痛む』

書店員として、本を売ることに力を注ぎたいけど、しかし公平にとはどうしてもいかない。売れているもの、売れそうなもの、そういうものに優先的に力が注がれることになる。力を注ぐことが出来ない作家の側からすれば、そんな風に見えるだろう。難しい。

俊太郎や豊隆を始めとした面々が、身を削り、全力を出し切った先で振り絞る言葉は、小説だけではなく、何かを生み出している人に響くのではないかと思う。たとえ本以外の世界に「編集者」がいなくても、彼らの関係や衝突に似た何かは、どこかしらで発露することだろう。死力を尽くすことでしか生まれない何かが、人を感動させ、一気に広まっていく。そう信じなければ突き進むことなど出来ない世界を、ひりつくような熱と共に描き出す作品だ。

早見和真「小説王」

「永い言い訳」を観に行ってきました

『自分の遺伝子が怖いって、思ったことない?』

ある。
僕にはある。
自分の遺伝子が残っていく怖さ、みたいなものが。

『こんなサイテーな人間が受け継がれてくなんて』

そう。
そういう怖さが僕にもある。
自分みたいな人間が、この世界に増えることの怖さ、みたいなものが。

『そうしないと、僕みたいになるよ』

彼の後悔は、映画の中ではほぼ一点しか描かれない。
妻が死んだ時、愛人とセックスをしていた、ということだ。
しかしもちろん彼にも、それだけではない、人生の中で堆積された後悔が山ほどある。
あるはずだ。

『僕みたいに、愛していいはずの人が誰もいない人生になる』

彼の述懐は、後悔ではない。彼はきっと、後悔はしていない。恐らく、人生をやり直せるチャンスがあったとしても、彼はきっとまた同じ生き方をするだろう。
他人を受け入れず、世の中を斜めに見て、僻みを抱えてその場に留まるような、そんな人生を。

だから、遺伝子が怖いのだ。
自分で変えることが出来ないと分かっているから、怖いのだ。

『先生、私のこと抱いてるんじゃない。誰のことも抱いたことないんですよ』

彼は、妻の死の報を聞いた時、何を喪ったのか理解できていなかった。彼は、妻が死んでも、まるで哀しくなかった。妻の存在の喪失は、彼にとっての喪失ではなかった。少なくとも、妻の死の報を聞いた時には。

彼には、妻の死がもたらしたものを、うまく捉えることが出来なかった。もしかしたら、愛人に「私を抱いてるんじゃない」と言われた時、少しだけ喪失の形が見えたかもしれない。でも、たぶん少しだけだ。

彼は、喪ったものが何なのか分からないまま、日々を過ごしていく。妻を喪って哀しいわけでもなく、むしろ新たな家族との関わりを得て、以前より充実した生活を過ごすようになっていく。

しかし、その家族との関わりの中で、彼は気づく。自分が喪ったものを。

僕は、彼が喪ったのは「現実」なんだと思う。

妻が死んだ後の彼の日常は、「現実」ではなかった。葬式で、心にもない弔事を読み上げ、妻を亡くした作家を追うドキュメンタリー番組で意味のない手を合わせる。編集者からは落ちぶれた作家という扱いをされ、妻の死後まともに小説を書けているわけでもない。
そして最もファンタジックなのが、子守をすることになった兄妹との関わりだ。彼自身に子どもはいないし、恐らく子どもが好きなわけでもないが、彼は目の前に立ち現れた仕方のない事情に救いの手を差し伸べる、という体で、これまで自分の人生ではありえなかった「家族」との触れ合いを手にする。
しかしそれは、ファンタジーでしかない。

『子育てって免罪符ですよね、男にとって。自分がサイテーのバカだってこと全部忘れて、何もかも帳消しに出来る』

彼にとって、兄妹との関わりは、新たな「現実」だった。自分が生きるべき「現実」だと考えていた。しかし、その「現実」の脆さをある時彼は知る。知ってしまう。
その時彼は気づいたのではないだろうか。自分が何を喪ったのかを。妻がいたからこそ、自分の「現実」は成立していたのだ、と。

そのことに気づくまで、彼は永い永い言い訳を続ける。自分が「現実」から逃避していたこと、そして今では逃避すべき「現実」すら喪ってしまっていたこと。そういうことを彼は、言い訳をし続けることで見ないようにしていたのではないだろうか。

『自分の幸せの尺度だけでものを言わないでよ』

彼はもう、そう言うので精いっぱいだったのだ。それぐらいしか、自分を守る方法がなかったのだ。

喪ったものの大きさは、喪ってからでないと分からない。人によっては、喪ってからもしばらくは分からない。もしかしたら、一生分からないかもしれない。
それは、哀しいことだろうか?

内容に入ろうと思います。
作家の津村啓こと衣笠幸夫はその日、妻の夏子に髪を切ってもらっていた。冷え切った夫婦の会話をしながら。切り終わってすぐ夏子は高校時代の親友と旅行に出かけた。一方の幸夫は、妻の旅行にかこつけて愛人を自宅に呼びセックスをする。
翌日、警察からの電話で、夏子がバス事故で亡くなったことを知る。
悲しみの欠片もないが、カメラの前では「妻を亡くした傷心の作家」を演じる幸夫。そんな彼の元に、夏子の親友であり、夏子と一緒に死亡したゆきの夫である大宮陽一と出会う。陽一は幸夫とは対照的に、「妻を返せよ!」とバス会社の社員に怒鳴るような男で、そんな陽一のことを幸夫は、ちょっと違う人種だと思いながら見ている。
ある日、ゆきや夏子のことを話せる相手がいない、ということで陽一から連絡をもらい、陽一の二人の子供と一緒に食事に出かけることにした幸夫。その食事の席でちょっとしたトラブルがあり、長男の真平を家まで連れて帰らなければならなくなった幸夫は、真平の苦境を知る。父である陽一は長距離トラックの運転手で、母も亡くしたために、妹の灯の面倒を見なければならず、優秀でありながら勉強がまともに出来ないでいる真平は、塾も辞め受験もしない覚悟を決めていた。そんな真平を見た幸夫は、真平が塾に行く日だけ灯の面倒を見る、ということで大宮家にやってくることになったのだ。
自分ではついぞ得ることになかった暖かい家族。自分の遺伝子が関わっている子ではない、という意識もきっと後押ししたことだろう。幸夫は、妻の死によって何を喪ったのか理解しないまま、大宮家にどっぷりと馴染んでいく…
というような話です。

原作も良かったけど、映画も良かった。これはまさに、原作と監督が同じだからだろう、と思う。原作のことはあまりちゃんとは覚えていないけど、映画とは結構違う部分もあったように思う。西川美和が、小説に向くエピソードや描写、映画に向くエピソードや描写をきちんと理解しているからだろう。また、原作も映画も「物足りない」と感じさせることがなかった。これも、原作と監督が同じであるが故だろうという感じがした。乾ききった冷たい人間の生活が、家族との触れ合いで溶け出す…などと書くとありきたりの物語に聞こえるが、そういう要約ではうまく拾いきれない何かが詰まっている映画だと思う。

主人公の衣笠幸夫には共感できる部分がとても多い。僕は、外面的には衣笠幸夫ほど酷い人間ではないと思うが、内面は遠くはないはずだ。映画を見ながらそのことをひしひしと実感した。

僕が印象的だなと感じたのは、幸夫が兄妹(特に兄の真平の方)に語りかける言葉だ。幸夫は大宮家と関わっていく中で、真平が置かれている厳しい状況に対して、常に何らかの言葉を掛けていく。

しかし、僕はそれらの言葉は、自分自身に、あるいはかつての自分自身に発した言葉であるように感じられた。幸夫は、真平に様々な心情を伝えることで、ある意味で自分の人生をやり直そうとしているのではないか、と感じた。幸夫は、自分自身のことをサイテーの人間だと考えている。そしてそれは、遺伝子に刻まれた、逃れようのないものだ、とも感じている。しかしもしも、言葉によって、幸夫自身が発する言葉によって真平が変わることが出来たとすれば、人間は遺伝子ではない何かによって変わることが出来ると信じられる。幸夫の内側には、そんな衝動が見え隠れするように思える。

そしてその衝動は、別の意味でも真平に向けられることがぴったりだったのだ、と僕は感じた。

本書のもう一人の主人公は、僕は真平だと思う。これは原作小説では感じなかったことだ。

真平は様々な場面で父への不信感を露わにする。

『泣いたってお父さんに言わないで』
『僕はお葬式の時に泣かなかった。そしたら言われたんだ。お前平気なのかって』

そしてその不信感は、父親である陽一も僅かながら察している。

『今日初めて会ったくせに、幸夫くんにはそんなこと言うんすね』

この関係性は、映画の冒頭からしばらくの間は感じられないが、徐々に明らかになっていく。
そして、そういう不信感が漂う大宮家に、幸夫がやってくるのだ。
父親という遺伝子の存在を否定したい真平。それはまるで、自らの遺伝子の呪縛に囚われている幸夫のようだ。幸夫は、そんな真平に対して言葉を掛けることで、自分にも変わる可能性があったのだ、という幻想を持ちたいと願う。そしてさらに、真平に対して擬似的な父親として振る舞うことで、「妻を返してくれ」と絶叫できる、自分にはない感覚を持った陽一のことを否定したい、という気持ちも持っているのではないかと思う。

そういう思いを抱きながら大宮家に通っていたから、あの灯の誕生日の場面に結びつくのだ。擬似的な父親でいられる環境を手放さなければならない状況で、無様な姿をさらしてしまうのだ。

『(死ぬのが)お父さんの方がましだったって思ったの』

そう心情を吐露する真平。この映画は、衣笠幸夫という男の物語であると同時に、大宮真平という少年の物語でもある。父親という、自分の力ではいかんともしがたい存在に対するやりきれない気持ちに振り回されながらも、目の前の現実でどうにかふんばろうとする少年の物語だ。

家族に正解はない、といつも思う。結果的に、どんな家族も正解なんだと思うしかない。何故なら、どれだけ「不正解」な家族の中にいても、特に子供はそこから自力では抜け出せないからだ。そこから逃れられないのなら、そこが正解だと信じるしかない。恐らく真平は、その覚悟を持つことが出来たはずだ。
幸夫はどうだろう。その覚悟を持たずにこの年まで生きてきてしまった幸夫は、正解かどうかを判断する対象である「現実」そのものを既に喪ってしまった。彼の人生がこの先どんな風に続いていくのか、気になるところだ。

「永い言い訳」を観に行ってきました

桜子は帰ってきたか(麗羅)

内容に入ろうと思います。

満州で暮らしていた朝鮮人のクレは、17歳ながらある重要な使命を帯びることになった。
恩人である安東真琴の妻である桜子さんを、なんとか日本まで送り届ける、というものだ。
スパイ容疑で捕まったロシア人を処刑しようとする日本軍に楯突いて殺されてしまった安東は、クレに桜子を託した。クレは、徒歩だけで大陸を縦断し、無謀とも言える逃避行をやり遂げるつもりでいた。体力がさほどあるわけでもない、身体もそこまで強くない桜子をいたわりつつ、クレは知恵と勇気を振り絞って日本を目指す。
日本で安東と桜子の帰りを待ちわびていたのは、桜子の父である久能耕作だ。彼は、引揚船がやってくると聞けば飛んでいき、その度に落胆した。引揚船が終了し、安東と桜子の死を覚悟した後も、当時の二人の様子を聞こうと、新聞広告を打つなどしていた。
耕作の子どもとして育てられた、安東と桜子の息子である真人は、父であり祖父である耕作の死後、とある人物に出会う。彼は、真人の両親のことを知っているようだ。クレと名乗ったその人物から、母である桜子を連れて逃げた壮絶な話を聞いた。クレは、何故桜子が日本に戻っていないのかを調べているという。クレは間違いなく、桜子を日本行きの船に載せたという。しかし真人は、母である桜子の姿を目にしてはいない…。
というような話です。

なかなかスケールの大きな作品でした。
本書は、クレという人物の想いで出来上がっている、と言ってもいいくらい、クレという人物が輝いている。彼は朝鮮人でありながら、戦時中に日本人である安東と桜子から受けた恩を忘れずに、30年以上もの時を経て苦労して日本へとやってきた。確実に日本に戻っているはずだと思っていた桜子が帰国していないと知るや、不法入国者であるという不利な立場であるにも関わらず、自分に出来る調査を続けている。ある事実が明らかになって以降、クレの静かな怒りは消えることがない。

クレの執念が、ひたすら物語を動かしていく。その凄まじさには打たれます。

とはいえ、これは個人的な話になってしまうのだけど、僕はイマイチ、過去にこだわることが出来ない。それが良いことであっても悪いことであっても、起こってしまったことに対して感情を動かすことがなかなか難しい。
だから、復讐、という感覚が、僕にはうまく理解できない。

もちろん、僕自身の身に信じられないほど酷い出来事が起これば、自然と復讐心が湧き上がるのかもしれない、とも思う。でも僕はどうしても、過去にこだわり、過去を精算するために行動しても、現在や未来は大して変わらない、と感じてしまう。

そういう人間だからだろうか。クレの行動原理に凄さを感じても、イマイチ共感することが出来ない。僕がクレと同じ境遇に置かれた時、クレのように行動するかと聞かれたら、まずしないだろう。もう一度書くが、クレは凄いなと思う。思うが、僕の感覚からすると、クレの存在はちょっとファンタジーにも思えてしまう。僕が冷たい人間だからだろう。

僕はかつて、「あの戦争から遠く離れて」や「たった独りの引き揚げ隊 10歳の少年、満州1000キロを征く」と言った本を読んだことがある。どちらも、終戦後の中国からなんとか日本へと帰還した者たちの実話だ。物語も人の胸を打つ。しかしやはり、事実が持つ力に勝てないことも多くある。この作品は、前半は特にクレと桜子の逃避行にページが割かれているが、やはりその部分は、かつて読んだ事実と比べてしまうと弱さを感じてしまう。

ミステリとして読んだ時には、なかなか面白いと思う。人の命が奪われた出来事が非常に多く、謎や問題点を整理しながら読むのがなかなか難しいが、満州からの脱出と、無関係に思える多くの人が亡くなった出来事を結びつけ、一本の線として提示して見せる部分はなかなか良くできているように思う。真人とクレが出会いお互いの情報を共有しなければ辿り着けなかった真実というのがたくさんあり、それが、長い間真相が明るみに出なかった理由にもなっていると思う。えっ、と思わせるような展開もあり、なかなか面白い。

クレという人物の行動原理には、僕はどうにも共感しにくいのだけど、読みながらずっと、クレの願望が叶って欲しい、と思いながら読んだ。クレの奮闘と努力が報われて欲しい、と思いながら読んだ。クレのような生き方には、それに見合う何かが必要だ。クレがその何かを手にすることが出来たのか、それは読者一人一人の想像次第だが、クレは満足しているのではないかと、僕は思いたい。

麗羅「桜子は帰ってきたか」

i<アイ>(西加奈子)

時々、弟から電話が来る。
僕は大抵、弟に説教される。親ともう少し連絡を取ってやれ、と。たまには実家に帰ってこい、と。
弟が僕にそう言うことは至極真っ当なことなので、僕は弟の話をそれなりにちゃんと聞いている。

先日弟から「プライドが高いから」と言われた。これは、こういう意味だ。
昔、僕は親との関係であーだこーだあったあった。そして、その時の関係のまま今も来てしまっている。プライドが高いから僕の方から関係改善に動いたり出来ないんだろうけど、もういいじゃないか、ちょっとは大人になれよ、みたいな感じ。
でも、弟から見る僕のその感じに、僕は違和感を覚えてしまう。

今の僕にとって、親というのは「特に関心がない人」でしかない。好きでも嫌いでもない。僕の中にはもうわだかまり的なものはない。けど、じゃあ親だから特別なのかというと全然そんなことはなくて、世の中のその他大勢の人と同じように、僕にとっては等しく興味がない人。僕は親というのをそんな風にしか捉えることが出来ない。

弟から、プライドが高いから自分から関係改善に動けない、と言われて違和感を覚えるのはそのためだ。そうじゃねぇんだけどな、と思う。ただ、関心が湧かないだけだ。もちろん頭では、親子だし何らかのアクションが必要なんだろう、と思ったりはする。でも、自分の気持ちの内側から、そういう気持ちが湧き上がることはない。

嫌いじゃない、ただ興味がないだけだ、ということを伝えるのは難しいと思う。

内容に入ろうと思います。
ワイルド曽田アイは、アメリカ人の父と日本人の母の引き取られた養子だ。シリア生まれだというが、アイは本当の両親のことも、故郷のシリアのことも知らない。
養父母は、とても優しかったし、アイを一人の人間として尊重してくれた。でも、養子であるということも両親から明かされて育ってきたアイは、養父母の素晴らしい愛情に包まれながらも、どこか無理をしていた。養父母がこうして欲しいのだろう、と望む自分を生きている、そんな感覚がずっとつきまとっていた。そういう自分で、いなければならない、と。
アイにはずっと、私は免れた、という感覚がつきまとった。養父母に引き取られずにシリアにいたら、混乱の続くシリアで死んでいたかもしれない。自分は、たまたまそういう境遇から免れた。もしかしたら、他の誰かの幸せを奪って、今私はここにいるのかもしれない。
そういう思いを拭い去ることが出来なかった。
高校生になって、アイは、ミナと出会った。ミナはアイの最高の親友となった。
免れた、という思いを拭い去れないまま、アイは成長していく。世界では、様々な不幸な出来事が起こっている。そこの場に自分がいなかった、という事実が、アイを複雑な気持ちにさせた。
やがてアイは、恋に落ちる…。
というような話です。

良い作品だとは思うのだけど、僕にはあまり響かなかった。
アイの葛藤の半分が、僕にはどうしてもうまく理解できないからだ。

僕は、養子ではない(と思う)。だから、養子であることが分かった状態で成長してきた人の気持ちは分からない。ただ、少なくとも今の自分は、自分が養子だったとしてもどうでもいい。実の両親にも興味はないだろうし、血の繋がりの中にいられる感覚みたいなものに囚われることもないだろう。自分が養子であると、子どもの時に知ったとしても、あまり変わらなかったように思う。

そんな風に思ってしまうので、アイの葛藤がイマイチよく分からない。

アイが抱えるもう一つの葛藤は、ちょっと分かるような気がする。
「免れてきた」という感覚だ。
これも、僕の中に「免れてきた」という感覚が丸々あるわけではない。僕の場合は、良いことが起こった時に、「運が良かったな」と思う、その感覚が近いように思う。

自分の身に何か良いことが起こった時、これは自分じゃなくても良かったはずだな、と感じる。宝くじのように、本当に運の要素しかないものもそうだが、自分がある程度以上の努力をして掴み取ったものに対しても同じように感じる。これまでも同じようなことをした人はいるだろうし、僕がやらなかったとしても誰かが同じようなことをしただろう。でも、今回はたまたまそれが自分のところにやってきたのだ、と。

僕の場合、良いことが起こった時に感じることだからまだいい。アイの場合、何か悪いことが起こった時に、それが自分を回避してくれた、と感じる。これは辛いだろう。自分に良いことが起こる、というのはそうそうあるものではないが、自分以外の誰かに悪いことが起こる、というのは日常茶飯事だからだ。アイは、アイの視界に入るそういう悪いことすべてに対して罪悪感を抱いてしまう。

『ずっと、誰かの幸せを不当に奪ったような気がしていて』

養子であるという自分の境遇と、シリアという内政が混乱状態にある国にルーツがあるという事実。この二つがアイの中で複雑な反応をし、様々な経験をすることによって、「悪いことをたまたま回避してきた」「誰かの幸せを奪った」という感覚に囚われ続けることになる。自らのアイデンティティと、世界で起こっている様々な悲しい出来事を違和感なく結びつけている作品で、非常に上手い。

アイが囚われている感覚は、大人になってからのあるきっかけによってさらに悪化し、アイは自分で自分を追い詰めるような結果になってしまう。外側から見れば明らかに「幸せ」であるアイの人生は、内側から突き上げられるような葛藤との闘いの日々だった。常に、抑えきれない何かを押さえ込もうとするような日々を、アイがどう乗り越え前に進んでいくのか。その過程が実に丁寧に描かれている作品だ。

西加奈子「i<アイ>」

ニルヤの島(柴田勝家)

死んだ後のことは、どうでもいいと思ってしまう。
だから、「死後の世界」があるかどうか、というのは、僕にとってはとてもどうでもいい話だ。

人が、死んだ後のことを気にしてしまうのは何故なんだろう。
例えば「死後の世界」を信じている人にとっての「死」というのは、「僕らが生きているこの世界から離れなくてはいけない」ということでしかないのだろう。だって、「死後の世界」では彼らは「生きている」のだから。「死後の世界」を信じる人にとっては、「死」というのは、生きる場所の変化ということでしかない。

それはおかしいだろ、と僕は思ってしまう。だったら、「死」なんて区切りは要らないんじゃないか、と。生きる場所が変わるだけで、結局死んだ後も別の場所で生きているのだとしたら、わざわざ「死」なんて区切りを設ける必要はない。

僕はそんな風に考えてしまう。

僕にとっての「死」というのは、「そこですべて終わり」というものだ。生きる場所が変わるのではなく、「死」というもの境にして、僕という存在のすべてが終了する。「死」というのは、そういうものであって欲しい。だから僕は「死後の世界」など考えもしない。

ある人が、「私のことを憶えていてくれる人がいる限り、私は死んでいない」という考えを持っている、という話をしていた。なるほど、と思う。その発想は、本質的な部分でこの作品と通じるものがある。「死後の世界」の存在を否定し、死者の記録にいつでもアクセス出来る世界では、人間は永遠に死なない、と言っていいかもしれない。

しかし僕は、そういう世の中は嫌だなと思う。

内容に入ろうと思います。
とはいえ、本書は内容紹介が実に難しい。

舞台となるのは、南洋諸島のミクロネシア。そこは、「大環橋」という東西2000キロに及ぶ巨大な橋と人工島によって繋がれ、ECM(ミクロネシア経済連合体)と呼ばれる国家をなしている。この島を舞台にして物語は展開していく。
世界は今、「死後の世界」を否定している。バチカンすらそう表明したのだ。生体受像という技術によって人々は生きている間常にログが記録に取られている。そしてそのログによって、死後であっても本人の意識を復元することが出来る。そういう技術が開発されたために、人々が死を悲観したり、死後の世界を思い描いたりすることがなくなってしまった。しかしこのECMには、「世界最後の宗教」と呼ばれるモデカイトが存在し、その教義によれば、人は死んだら「ニルヤの島」に行くのだという。
日本国籍を持つ文化人類学者であるイリアス・ノヴァクは、ECMにやってきた。彼の目当ては、ボートを作り続けているという一人の老人だ。かつて読んでリジェクトした論文の祖父に興味があって、論文を書いた孫であるヒロヤをガイドに雇ってECMを廻っている。
スウェーデン人模倣子行動学者であるヨハンナ・マルムクヴィストは、トリーという現地ガイドを雇ってECM内を廻っている。ECMに棲みついているサルについて考察したり、モデカイトの儀式に参加したり…。
ポンペイ島でひたすらアコーマンというゲームを続けるベータ・ハイドリという老人。彼は、遺伝子やミームの考察から、来るべき未来を予測する。
タヤと呼ばれる男は、橋上島で働く労働者たちのリーダーである。


本書を読んで連想した作家は、伊藤計劃・円城塔・宮内悠介である。この三人の作品を読んだことがある人は、本書の雰囲気もなんとなく想像がつくだろう。この三人と同様、本書の著者である柴田勝家氏も、デビュー作とは思えない重厚で深淵な作品を送り出した。

正直に言って、この作品の全体像は僕にはうまく掴みきれない。これもまた、先に挙げた三人の作品と同じだ。断片的に理解できる部分もあるし、分かった気になっている部分もあるだろう。とにかく今は、4つが同時並行で進んでいくそれぞれの物語が、結局どう繋がったのかはイマイチ理解していない。また、ここの描写で言えば、全然理解できない部分が山ほどある。

とはいえ、凄い作品だということはとても良くわかる。民俗学の知見をベースにして、遺伝子などの生物学、プログラミングや社会科学的な分野、チェスに似た知的遊戯、宗教や伝統などなど、様々な知識を織り交ぜながら、「生きるとは」「死ぬとは」「人間とは」「遺伝子とは」「ミームとは」という問いかけをし続ける。「死後の世界」があろうがなかろうが、僕にとってはどうでもいい。しかし本書は、「科学が「死後の世界」を追い払った」という話であり、全体の設定が非常に面白いと思った。そして、4つの物語を並行で読みながら、ECMという国家の成り立ちや行ってきたことなどが明らかにされるにつれて、思っても見なかった世界観が立ち現れる過程はなかなか見事なものだなと思う。

正直、僕のお粗末な理解力では、作品全体を評価できるほど内容についての理解が及ばないのだけど、先に挙げた伊藤計劃・円城塔・宮内悠介が好きな人は間違いなく好きだろうと思うし、土着の文化と最先端のテクノロジーを融合させながら哲学的な思考をする、という知的な作品としても面白いと感じられる人はいるだろう。僕としても、こういう作品を理解できる人間になりたいものだと思わせてくれる作品だった。

柴田勝家「ニルヤの島」

失敗の本質(戸部良一他)

この作品は、良い作品なのだと思う。
それを否定したいわけではない。
本書を、読み物として読む場合、戦争や歴史に関心がある人が読むだろうからまず問題ないだろう。読者は、良い作品だと思えるはずだ。
問題は本書を、「戦争に限らない、組織の失敗を学ぶ本」として読む場合、ちょっと難しい部分があるのではないか、と個人的には思う。
そしてこの本は、後者として読まれることが、特に最近は多いはずなのだ。

本書は、副題に「日本軍の組織論的研究」とあるように、日本軍の話であり、戦争や戦術の話である。そして僕の感覚では、ある程度予備知識がないとこの作品を読むのは難しいのではないか、ということだ。

僕はとりわけ歴史の知識がない。元々理系だったせいで、歴史をほぼまったく学んでいない、という理由に依るところが多いのだけど、とにかくどの時代の歴史のことも全然知らない。太平洋戦争などの世界大戦についても、知っていることはほとんどない。

そういう人間が本書を読むのは、なかなか無謀だ。

学校の授業で習う程度の歴史の知識がきちんとある人が読めば(僕にはない)、恐らくそれほど問題なく読めるのだろう。しかし、そうではない人にはなかなか厳しい。本書では、地図も付記されるとはいえ地名がバンバン出て来るし、僕がよく知らない人名もいっぱい出てくる。そういう人達が、どこでどういう戦略を立て、誰がそれに反対し、どういう経緯でその作戦が結構されるに至ったのか、みたいな流れを追うのは、結構厳しい。

本書では、

ノモンハン
ミッドウェー
ガダルカナル
インパール
レイテ
沖縄

の6つの作戦が描かれる。どれも、名称ぐらいは聞いたことがあるが、どんな戦いだったのかという知識は僕には全然ない。だから、これら6つの作戦において、事態がどう推移していったのかを詳述した第一章は、文字は追ったけどイマイチ理解できないままに終わった。

そして、第一章で書いたことをベースに、それじゃあ日本軍はどうして負けたのかという要因みたいなものを抽出して理論化していく第二章・第三章も、第一章の情報が頭に入っていないのでやはりよく分からないままだった。

僕は本書を読みながら、本書の現代版を出して欲しい、と思ってしまった。
例えば、地震や噴火などの災害、航空機事故などの事故、企業の倒産やスポーツでの不正など、組織が何らかの失敗を犯してしまうケースは、現代も様々な場面で存在する。それらについて、同じような分析の仕方で「失敗の本質」を誰かが書いてくれるといいなぁと思う。本書はちょっと、僕には難しかった。

要所要所で、なるほどと思う文章があったので、全然理解できていないとは言え、本書の分析自体は現在も活かせるものだろうし、だからこそ売れているのだと思う。しかし、本書からそういう知見を汲み取るには、多少なりとも戦争に関するざっくりとした知識がないとちょっと難しいだろうなぁ、と思う。

本書のあとがきの一節を抜き出して、今回の感想を終わろうと思う。

『いずれにしても、わが国にとってもはや先行モデルや真似るべき手本がなくなってしまったといわれる。こと企業活動に関していえば、意図せざるうちに先頭集団を走るようになってしまった。概念創造能力の不在を、第一線現場での絶えざる自己超越や、実施段階における創意工夫による不確実性吸収だけでカバーすることができなくなってきたのである。
なぜなら、このようなやり方は、既成の秩序やゲームのルールの中で先行目標を後追いする時にのみ、その強みを発揮するからである。むしろ、明示的な概念を持たないことは、組織の柔軟性を確保して流動的な状況への対応にしばしば有利に作用してきたともいえる。
しかし、いまやフォローすべき先行目標がなくなり、自らの手で秩序を形成しゲームのルールを作り上げていかなければならなくなってきた。グランド・デザインや概念は他から与えられるものではなく、自らが作り上げていくものなのである。新秩序模索の過程では、ゲームのルールも動揺を繰り返すであろう。
企業をはじめわが国のあらゆる領域の組織は、主体的に独自の概念を構想し、フロンティアに挑戦し、新たな時代を切り開くことができるかということ、すなわち自己革新組織としての能力を問われている。本書の今日的意義もここにあるといえよう』

戸部良一他「失敗の本質」

クランクイン(相場英雄)

内容に入ろうと思います。
広告代理店に勤める根本崇は、ある日社長から直々に呼び出しを食らう。まったく心当たりのなかった根本に突きつけられたのは、映画製作の話だ。しかも、映画製作に携わったことのない京楽エージェンシーが手がけるのは、大ベストセラーとなった、庄野美希「永久の大地」だ。この大ベストセラーを、京楽エージェンシーが手がけられるのだという。映画好きの根本には、願ったり叶ったりな話だった。
根本自身も映画製作の経験は皆無だが、気合だけは十分と言った感じで自分なりに出来ることを探し始める根本。しかし、出版社に勤める姉や、社内でアニメ制作に携わっている先輩などに、「担当から降りろ。降りないと死ぬぞ」「この案件は相当曲者だぞ」と脅される。しかし、映画製作に意気込む根本は意に介さない。
しかし、やがてその理由が分かる。原作者である庄野が、とんでもない人間だったのだ。「永久の大地」を発売した四葉者の伊澤、帝映の岩城が様々に奮闘して、どうにか映画化にこぎつける。
しかし、そこからもトラブル続きだ。原作者からの要望に応えるための巨額の費用、カメラマンの人選、撮影初日のトラブルなど、映画に初めて関わる根本はヒヤヒヤさせられた。
そしてそこに、根本の母の話が入り込む。父から死んだと聞かされていた母だったが、理由があって戸籍謄本を取ったところ、父と母が離婚していることを知り…。
というような話です。

ラスト6ページまでは、凄く面白かった。映画製作の舞台裏をきちんと取材したんだなと思わせる描写はなかなかのものだし、女優の伊野やカメラマンの大豆生田のキャラクターも良い。トラブルに対してどう対処していくのかというのも、映画業界ならこういうこともありうるか、と思わせるような破天荒な感じでなかなか面白い。

その映画製作の物語に、広告代理店の一社員である根本の物語が組み込まれていくのは、ちょっとやりすぎかなという感じもするのだけど、その部分も割と違和感なく物語の中に組み込まれていたという感じがする。伝説が伝説のまま表になっていない理由付けがちゃんとされた上で、一人の人間の生涯と、まさに今を生きる主人公とを繋いでいく物語は、なかなか良くできていたなと思う。

しかしなぁ…。ラスト6ページはちょっと酷いんじゃないかと思う。この物語は、こういう終わり方を求めてないよなぁ、と思ってしまうのだ。このまんま、うまく着地させてやれよ、と思ってしまった。物語の流れに乗ったまま、ストンといい位置に落としてやれば、結構良い物語として閉じたんじゃないかなぁ、と思うともったいない。正直、何をどう考えてあんな終わり方にしたのか、イマイチ理解が出来ない。

ラストがあんな終わり方じゃなければ、もう少し色々書いてみたくなる作品だったかもしれないけど、あのラストじゃなぁ、と思ってしまうため感想はここでおしまい。

相場英雄「クランクイン」

「コンカッション」を観に行ってきました

正しいことがわかりにくい世の中に生きている。
最近、富にそう思うようになった。

様々な形で、真実を隠蔽するような強大な力が働く事実を見聞きしたからかもしれない。特に最近は、「殺人犯はそこにいる」「桶川ストーカー殺人事件」の二作を読んだことがとても大きい。警察や司法やマスコミが、どのようにして事実を捻じ曲げるのかという恐ろしい現実を知って、「正しい」というのがなんなのか、よく分からなくなった。

正しいことを隠そうとすれば、どこかで何かが歪む。その歪みは、歪みを生み出した側ではない場所に影響を与える。正しいことを隠した側は、隠し通せれば知らんぷり出来る。自分達に、実害はない。いつもどこかで誰かが、正しいことを隠されたことによる歪みの影響を受けている。

僕達は、そのすべてを知ることなど到底出来ない。しかし、知ろうとする意識、世界の歪みのほんの一部でもいいから知る努力をすること。歪みとは無関係な生活を送ることが出来る者たちが、ほんの僅かそういう意識や努力が出来れば、大きなうねりとなっていくのではないか。僕はそんな風に期待してしまうのだ。

だから、知ることはとても大事だ。まず知ること。その後何が出来るかは、そこから考えればいい。

内容に入ろうと思います。

ピッツバーグで監察医として働くベネット・オマルは、遺体と対話するように解剖し、死者の声を少しでも正確に拾おうとする男だ。上司から、もっと効率よくやれ、チームとうまくやれ、と言われても、自分のスタイルを崩そうとしない。
ある日彼は、マイク・ウェブスターというフットボール選手の解剖を担当することになった。彼は、フットボール史上最強のセンターと謳われた名選手であったが、ここ数年は家族の元を離れホームレス状態だった。マイク自身にも制御できないような衝動や、家族の名前も忘れてしまうほどの記憶障害に悩まされ、最終的に心臓発作で死亡した。50歳だった。
解剖を進めるオマルだったが、マイクの身体は健康そのものに見える。しかし、何か原因があるはずだ。オマルは、金が掛かりすぎるという上司の反対を押し切って、自費でマイクの脳を取り出し調べてみることにした。
驚いた。彼の脳は、とても50歳の脳とは思えないほど破壊されていた。CTスキャンには映らないこの症状を、オマルはCTE(慢性外傷性脳症)と名付けた。
オマルは、別の医師と共同で、CTEに関する論文を発表することにした。すると、NFL(ナショナル・フットボールリーグ)からの反論が待っていた。「リーグの結論は、選手たちに脳の損傷はない」と。
アフリカからやってきて、休日も遺体の解剖ばかりしていたオマルは、アメリカにおけるフットボールの人気をよく理解していなかった。2000万人が熱狂し、日曜日は教会ではなくフットボールのスタジアムへと行く。ピッツバーグの街もフットボールで成り立っているし、フットボールのファンからオマルに「フットボールを女のスポーツにするつもりか」という抗議の電話が来たりもした。
しかしオマルは、それらの抵抗に負けず、真実のために奔走する…。
事実を基にした物語だ。

僕は、この映画の原作を読んでいる。原作を読んでいる立場からすると、映画はやはりちょっと弱い。2時間の映画にまとめるにはそうするしかなかったのだろうが、映画は全体の流れしか追えていないという印象だった。どういう順序でどういうことが起こり、それらに対して誰がどういう反応をしたのか、という流れを描いた映画だという印象だった。

もちろん、オマル自身の物語はある。神父から託された女性との恋愛だ(しかしこの恋愛話は、原作にはなかったような気がする。ちゃんとは覚えていないけど)。しかし、原作にはもっとスリリングで信じられないような話がたくさん出てくる。仕方ないとはいえ、映画でそういう部分を描けなかった以上、原作を読んでいる人間には物足りなさを感じた。

しかしこういう実話を知ると、改めて権力というのは恐ろしいということが分かる。
オマルは、NFL側の人間に、CTEの危険を伝え、本格的な調査をするよう要望した。しかしその人物は、明確な返事をしなかった。その代わりに、いかにフットボールが人々の生活に関わっているのかを説くのだ。雇用も生み出しているし、貧しい人達に寄付もしている。そんなフットボールがなくなったら、多くの人間が困る。アメリカの主婦の1割が、フットボールは恐ろしいから子どもにやらせない、となれば、フットボールはなくなる。彼はそう語る。

確かに彼の言っていることは正しいのだろう。フットボールには存在意義があり、CTEはフットボールを存続させなくする恐れがある。しかしだからと言って、多くの元フットボール選手が事故や自殺で命を落とす現状を許容できるわけでもないはずだ。オマルが声を上げたことで、結果的に5000人以上の元フットボール選手がNFLを相手に訴えを起こしたという。

真実というのは、意識して見ていなければいつの間にか失われてしまう。見えないところでも、ずっとそのままの真実である保証は、どこにもないのだ。この映画で描かれる事実は、アメリカの、しかも日本にはないフットボールというスポーツの話ではあるが、真実を知ること、関わることの難しさを知るという意味では、誰が見ても何かを学べるのではないかと思う。

「コンカッション」を観に行ってきました

棺の女(リサ・ガードナー)

少し前、「ルーム」という映画を観た。誘拐された少女が誘拐犯によって、裏庭に建てられた狭い“部屋”に閉じ込められる。そこで性的虐待を受けた少女は妊娠し、“部屋”で子どもを産む。
その子どもにとっては、“部屋”の中が世界のすべてだ。母親から、テレビに映る映像はすべて嘘だと教えられる。壁に囲まれたこの狭い空間だけが世界のすべてなのであり、壁の向こうには何もない。彼はそう思ってずっと生きてきている。
ある日母親はある企みを実行に移し、子どもを“部屋”の外に出すことに成功し、母子共に救出された。
しかし、問題はここからだ。“部屋”から生還した少年は、本物の世界にどうしても馴染むことが出来ない。母親から、テレビに映っていたものは全部本物だ、と言われても、そのことがよく理解できない。“部屋”の外に世界なんてないと思っていた少年にはあまりにも広すぎる世界が、彼にはうまく捉えきれない。そうして少年は、どうにも世界に馴染めない。

彼の苦しみは、「自分が慣れ親しんだ価値観に戻りたい」という地点から発せられる。“部屋”は、母親にとっては最低最悪な環境だったが、子どもにとっては生まれた時からそれがすべてだった。その“部屋”の中で培われた価値観だけで生きてきたのだ。しかし彼は、生還したことで、これまで身につけてきた価値観をすべて捨てることを求められる。今まで正しかったことが間違っていて、間違っていたことが正しかった、そういう大きな変化を迫られたのだ。

少なくとも少年にとっては、狭く汚く薄暗い“部屋”から救出されたことを喜ぶよりも、その空間で培ってきた価値観を手放すことの方が苦痛だったのだ。

アインシュタインは、「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションだ」と言ったという。そういう意味で、それぞれの人間が抱えている価値観というのは、どれも偏見に満ちていて歪なのだろうと思う。しかしそれらは、その人が慣れ親しんでいるものなのだ。それを手放せ、と言われることの苦しさは、僕はそういう状況に直面したことがないのでなかなか想像が出来ない。

誘拐された少女である母親の方は、その映画の中では、監禁生活の間もそれまでの自分の価値観を手放さずに過ごせたようだ。正気を保つのは容易ではなかっただろうが、この壁の向こう側にある価値観が正しくて、この“部屋”はおかしいんだという感覚をずっと持ち続けることが出来た。そういう意味で母親の方は、価値観の転換という試練にそこまで直面しなくて良かったと言えるのかもしれない。

しかしもちろん、そうできない人もいる。囚われている環境における価値観に慣れてしまう被害者もいるだろう。慣れることで苦痛を減らせる可能性があるなら当然だ。
しかしその場合、価値観の転換は二度訪れることになる。普通の生活から囚われの環境での価値観の転換、そして、救助されたあと囚われの環境から普通の価値観の転換。

自分がそういう被害者になったことがないから欠片も想像出来ないが、その価値観の転換は相当辛いのだろうと、本書を読んでなんとなく理解した。

ボストン市警殺人課の刑事であるD・D・ウォレンは、ある殺人現場で全裸の女と遭遇する。殺されたのはデヴォン・グールディングというバーテンであり、自宅のガレージで生きたまま焼き殺された。そして殺したのが、全裸のフローラ・デインである。襲われそうになった女性が、抵抗の末化学の知識を使ってデヴォンを焼死させた正当防衛なのだが、ウォレンは納得いかないものを感じた。その思いは、フローラが7年前に誘拐され、1年以上に渡って監禁された末に救助された被害者だった、ということが判明するとより強くなった。有名な誘拐事件の被害者が、今度は男に連れ込まれながらその男を焼死させる。
そんなことあるだろうか?
捜査の過程で、殺されたデヴォンが複数の女性を連れ去っているかもしれない、という痕跡が発見された。もしかしてフローラは、自ら囮となることで、性犯罪者を懲らしめようとしているのではないか。
そんな疑念を抱きながら捜査を続けるウォレンは、あの焼死事件の後家に戻ったはずのフローラが在宅していないことに気づく。部屋中のドアと窓の鍵が開いている。セキュリティを万全にしていたはずのフローラがどう連れ去られたのかは不明だが、明らかにフローラの失踪には第三者が絡んでいるはずだ。
7年前、誘拐され監禁されていたフローラが、何を見て何を知ってどう行動したのか。そして、奇跡の生還を果たしたフローラが一体何の目的で自ら性犯罪者の罠に掛かるような真似をしていたのか。物語が進むに連れて、究極的な状況から「生還」したフローラが抱える恐ろしいほどの葛藤と使命が明らかになっていき…。
というような話です。

なかなか凄い作品でした。ページ数もなかなかのものですが、物語も相当重厚で、重苦しさもあるテーマをエンターテイメントとして読ませる作品に仕上げていると思います。

『わたしは見たくないものをたくさん見た。知りたくないことをたくさん知った。そして犯罪の被害にあうということについて、はじめてはっきりと悟った。それをなかったことにはできない。時間を巻きもどすことも、過去を消すことも、すべてをもとに戻すこtもできない。起こったこと、それらがわたしであり、わたしがそれらなのだ』

本書の物語の圧倒的な中心にいるのが、フローラだ。彼女は、7年前に誘拐され奇跡的に救出された被害者でもあり、性犯罪者を返り討ちにして殺し、さらに再度行方知れずになってしまう。彼女の動向がこの物語を動かし、物語に力を与えているのは間違いない。

フローラの中には、何らかの葛藤がある。そしてそれは、ジェイコブという男に誘拐された472日間に芽生えたものだ。フローラは、長い期間棺に入れられていた。様々な感覚が遮断され、自分を誘拐した男に調教されるようにして、ジェイコブとの特異な関係性を構築していくようになる。

『男の顔を、自分にこんなことをした人間の顔をはじめて見たとき、ほっとする。嬉しささえ感じる』

472日間、フローラにとってジェイコブだけがすべてだった。そういう環境で、棺に入れられ、食事や水をまっとうに与えられなければ、フローラにとってのジェイコブの価値というのはどんどんと変わっていくことになる。ストックホルム症候群という、事件に被害者が加害者に共感してしまうようになる状況は有名だ。フローラも、それと同じような状況に置かれることになる。

『彼が憎い。そして彼が恋しい。彼はわたしの人生にもっとも大きな影響をおよぼした人物であり、これからもずっとそうだ。ほかの人にとってそれは初恋の相手であったり、崩壊した家族であったりするように、わたしにとってはジェイコブなのだ。どこへ行き、何をしても、彼の影がつきまとっている』

フローラは監禁されている生活の中で、自分自身を組み替えた。フローラはジェイコブから「モリー」という名前を与えられていた。そういう環境に長くいたことで、彼女は自分が「フローラ」であることを思いだすことが困難になっていったのだ。「フローラ」と呼ばれていた、農場で狐を追いかけるのが大好きな優しい女の子ではない。「モリー」と呼ばれる、それまでとは違う自分へと生まれ変わっていく。

そしてそのことが、救助された後も苦しみとしてつきまとう。

著者はあとがきの中で、本書のテーマを「救出は試練の終わりではなく、まったく新しい試練の始まりです」という表現で書いている。訳者もほとんど同じようなことを書いている。まさにその通りだ。

『これまでに話を聞いたすべての救出された被害者が、逃げられさえすれば、この試練を耐え抜きさえすれば、二度と苦しむことはないとみな信じていた。そうではないと理解させることがぼくの最大の仕事といってもいいほどだ。生還はゴールじゃない、旅なんだ。そしてぼくが支援した被害者の多くが、まだその旅の途中だ』

FBIの被害者支援スペシャリストであるサミュエルがそう語る場面がある。

サミュエルは、誘拐や監禁などで救出された者を「生還者」と呼んでいる。生還者は、生き抜くためにやれることをやる。救出された後、生還者たちは、自分がしたことに思い悩む。自分が生き抜くためにしたことを自分の内側で処理することができずに。フローラの葛藤も、そこに根がある。
本書の中に、フローラのこんな葛藤が表現されている場面があり、非常に苦しくなる。

『ほんのつかの間、母にもう一度会いたくなった。もうわたしのことは忘れてと伝えるために。お母さん、どうか幸せに暮らして。
でもわたしのことは忘れて。
そうすれば、わたしはもう諦められるかもしれないから。もう頑張るのをやめ、生きるためにこんなにひどいことをしなくてもすむから。ただ消えてゆけるから。
きっとそのほうがましだから。
わたしはひさしぶりに母のために祈った。母がわたしを見つけないように祈った。母がこんなわたしを見ないように祈った。わたしのしたあらゆることを母が決して知らぬようにすむように祈った』

救助された後、フローラはそれまでのフローラとは別人となって、フローラが正しいと信じる行動を取り続ける。フローラが正しいと信じる行動は、周囲から見ると異常でしかない。それでも、フローラは止めることが出来ない。どれだけ危険な状況に追い込まれようとも、フローラは自分の中にある“使命”に囚われて行動してしまう。

『生き抜くことはもうしたくない。
人生を生きたい』

読者は、フローラに翻弄される。読み始めは、フローラの行動原理はまるで理解できない。しかし読み進めると、フローラが抱えている壮絶な葛藤や、“使命”を果たすためにしてきた努力を知ることで、フローラが何に囚われているのかが少しずつ理解できるようになっていく。

フローラを否定することは簡単だ。しかし僕らは「生還者」ではない。「生還者」の経験のない人間には、なんだって言えるのだ。経験したのは、フローラだ。「生還者」となって、それまでの自分と決別したフローラは、自分なりの論理で正しいと思うことをし続ける。その行動を、外部の人間が正しく判断することはとても難しい。

『でもすべての生還者が秘密をかかえている。決して口に出せないことがある。なぜなら、口に出せば起きたことが生々しい現実になってしまうから。他人にとってだけでなく、誰よりも自分にとって』

壮絶すぎる体験を経て、尋常ではない葛藤を抱え、その葛藤に押されるようにして“使命”を果たそうとするフローラと、そんな“被害者”である彼女に遭遇し、その得体の知れさなから捜査を開始するウォレン、そして、まさに誘拐・監禁されている最中のフローラ。これらの物語が、絡まり合って大きな物語を作っていく。僕らは、犯人が逮捕されれば事件は終わりだ、と考えてしまいがちだ。しかし、被害者にとってはそんな終わりはやってこない。永遠に。そういう状況の中、一体どうやって社会の中で生き延びていくのか。その問いかけに真摯に向き合い、答えを見出そうとする、そんな物語だ。

リサ・ガードナー「棺の女」

桶川ストーカー殺人事件 遺言(清水潔)

事件の存在自体は知っていた。
事件の推移も、なんとなく漠然とは知っていた。
本書を読んで、知らなかったことをたくさん知った。

怒りが、身体中に渦巻いているのが分かる。

『私は別に詩織さんを神聖視などしない。聖女のようなひとだったと言うつもりもない。私が言いたいのは、彼女は本当に普通の、あなたの周りにいるような、善良な一市民だったということだ。彼女は、私やあなたの娘がそうであるように、あらゆる意味で無実なのだ。ストーカー達は彼女を殺した。警察は告訴状を無視し、改竄した。彼女はなにをした?
彼女はただ訴えたのだ。警察に。助けてくれと。』

国だけが暴力を行使できる権利を持つ。そういう発想が、近代国家のベースの一つのはずだ。国家が行使できる暴力の最たるものが、警察や司法だろう。誰かを逮捕し、罰を与えることが出来る。それを、国家だけが行える、ということは、警察や司法には強大な権力が与えられている、ということだ。

『殺人事件の被害者が、犯人を名指しする「遺言」を遺していた』

僕ら市民は、警察という暴力装置が、正しくその暴力を行使してくれることを願うしかない。罪を犯した人間を捉え罰を与え、罪を犯していない人間の安全と平和を守る。そのために警察には強大な権力が与えられているはずだ。

『詩織は小松と警察に殺されたんです』

しかし、その強大な権力が、罪を犯していない人間に向けられたとしたら?あらゆる意味で無実の一市民を貶めるためだけに行使されたとしたら?

『小松を筆頭とするストーカーチームを逮捕したら、警察が何と言われるか目に見えている。
「結局犯人はストーカー達だった。ならばどうして被害者が相談に来たり告訴しようとした時にちゃんと対応しなかったのか。警察は何をしていたのか。きちんとやっておけば猪野さんは死なずに済んだ」
そんな結果が待っていると分かっていて、県警が本気で事件を解決する気になどなるだろうか。むしろ警察は、詩織さんの「遺言」通りの構図などでは事件を決して解決させたくないのではないか』

警察が持つ、暴力という強大な権力が、明らかに誤った方向に使われている。

『ところがその遺品を、国賠請求で訴えられた県警側はまるで違う目的に使用しているのだ。はっきり言えば自己弁護のために、刑事事件ではなく、民事裁判の証拠として、しかも、被害者と遺族に対する攻撃材料として使っているのだ』

著者は、警察よりも犯人を探り当て、さらに埼玉県警の不正を暴いた。彼は、取材が行き詰まる度に、何らかの形で「何か」を受けとる。そんな連続だった。

『私のところに情報を提供してくれた人達は口を揃えてこう言うのだ。
「最初は警察に連絡したんです。でももう嫌です。何から何まで聞くだけで、こちらには何も教えてくれない。向こうが困った時だけ呼び出されるんです。それなのになんであんなに偉そうな態度なんでしょうか…。」』

何かあれば、僕らは警察を頼る以外に方法はない。しかしその警察が、怠慢によって人を殺し、さらにその事実を隠蔽しようとした。

『最終的に警察が描いた絵柄がどんなものか見てみればいい。実行犯久保田が小松武史の指示だと自供。武史の同期は、弟和人を苦しめる悪い女を懲らしめてやるつもりだった。よって和人は無関係、というものだ。その絵柄を最後まで押し通したのだ。現在公判もそれで進行している。和人を絵柄の中から外している限り、詩織さんの「遺言」通りになることはない。それが警察の描いた絵だ。
だが、それが何を意味するか分かっているのだろうか。詩織さんは、名指しして警察にその男からの救いを求めたのに、警察はその男だけ無視するのだ。それは警察の面子によるものなのか。だとしたら、その面子が被害者を二度殺すということになぜ気づかないのか。詩織さんの声は最後まで届かぬままなのか。「犯人」が捕まりさえすればいいのか。「真相」なんてものはどうでもいいのか』

この事件における埼玉県警の対応は、事件の前も、事件の捜査中も、そして裁判中も、すべてが最悪だ。同じ人間と思いたくないくらいだ。もちろん、現場で組織の決定に心を痛めていた人はいただろう。不正に携わったとされた人たちも、重い処分を下されることのなかった上司の指示でやらされたのだろう。本当に、本当に悪い人間は、ごく一部であるのかもしれない。

しかし、もしそうだからと言って、この事件には何も影響しない。現実に、警察の怠慢と不正によって、なんの罪もない一人の女性が殺され、死後も名誉を貶められ、あまつさえ警察の面子を守るために、明らかに主犯だと判明している男を逮捕しないという暴挙を押し通したのだ。

『「でも、俺はおじさんみたいにこういう警察の対応を許せないとは思わないよ。彼らは捜査本部なんか存在しなければ、夕方さっと仕事を終えて、駅前の赤ちょうちんで一杯やるか、家に帰って野球中継でも見るか、そんな普通の人達なんだよ」
それはそうだろう。警察官だって人の子だ。普通で悪いとは全然思わない。だが、だからといって事件があるのに捜査をしない、ましてや事件そのものをなくしてしまおうという奴らをかばって嘘をつくなど許されることか』

僕らも、ミスはする。怠慢であることもあれば、不正を隠蔽したくなることもあるだろう。実際に不正を隠蔽することだってあるはずだ。僕らはいいけど、警察は駄目、という理屈は通らない。通らないと僕も思っているが、しかし冒頭で書いたように、警察というのは国家がほぼ唯一認めている暴力装置だ。警察が世の中の暴力を一手に引き受ける、という条件で、僕らは暴力を禁じられるのだ。僕らから闘うためのすべての武器を奪っておきながら、さらに警察という存在が僕らの“敵”になるとすれば、勝てるはずがない。
僕は本書を読んで、警察にはそういう自覚が皆無なのだ、と感じた。唯一の暴力装置だからこそ、より高い倫理が求められる。それは、そういう職業なのだから仕方ないだろう。

『取材ではありません。伝えたいことがあったから来ただけです。来週発売のFOCUSで桶川駅前の殺人事件の容疑者について重要な記事を掲載します。すでにその内容は捜査本部が十分にご存知のはずです。締め切りは今週土曜です。このことは必ず署長にお伝えください。以上』

この事件は、著者がいなければ間違いなく埋もれていた。「派手好きな女子大生が不幸にも命を落とした」という型に嵌められて終わっていただろう。著者は、詩織さんのイメージを回復させ、事件の真相を見抜いて犯人を特定し、さらに警察の不正を暴いた。本書は、その全記録である。

1999年10月26日、詩織さんは桶川駅前で刺殺された。当初は、通り魔の犯行だと思われていた。著者はFOCUSの記者として取材を続けた。FOCUSは記者クラブに入っていないため、警察からの情報は入手出来ない。いつものことだ。だから著者は、独自に取材を開始することにした。しかし、状況がまるで理解できない。どうやら通り魔ではないようで、詩織さんが執拗なストーカー被害に遭っていたらしいということまではなんとなく分かったが、詩織さんの周辺にいる人は皆一様に口が固く、取材は進まない。
しかし、詩織さんから相談を受けていたという男女から、ようやく話を聞くことが出来ることになった。
そこで著者が耳にしたことは、想像を遥かに絶するものだった。
『私は、あのカラオケボックスの中で、言葉以外の「何か」を受け取ってしまったような気がしていた』
生前詩織さんは、周囲の人間に何度も「私は殺される」と話していた。警察にも相談したが、まともに取り合ってもらえなかった。詩織さんは、警察が力になってくれないことを落胆しながら、それでも毎日前向きに生きようと努力していた。詩織さんに降りかかる嫌がらせは、どんどんエスカレートしていた。外に出るのも怖かったはずだ。しかしそれでも詩織さんは、亡くなる当日まで愛犬の散歩を続けた。普通に生活をしようと、精いっぱいの努力をしていたのだ。
しかし、詩織さんの「遺言」通り、詩織さんは殺されてしまった。
著者の怒りは、まず犯人に向いた。「三流」週刊誌記者が執念を燃やし、警察よりも先に実行犯を特定し、居場所も押さえた。著者の怒りは、警察の発表をただ垂れ流すだけの「一流」のマスコミにも向けられていく。そしてさらに、取材を進める過程で、埼玉県警が不正を隠蔽した可能性に気づく。著者は、警察という権力と闘うべく、再びペンを執り闘うことを決める…。

『週刊誌記者、カメラマンとして、事件取材は嫌になるほどうやってきた。しかし殺人事件の遺族から労いの言葉を掛けてもらったのは初めてだった。大抵の場合はまず逆だ。我々が事実を報じたつもりでも、関係者からすればマスコミはどう転んでも嫌な存在でしかない』

足利事件の冤罪を証明し、警察がその存在を認めていない「連続幼女誘拐殺人事件」の存在をあぶり出した取材を元にした「殺人犯はそこにいる」という作品を読んでも思ったが、著者の執念は凄い。
彼のやっていることは、もう記者のレベルを越えている。じゃあなんだ、と聞かれれば答えに窮するが、敢えて言えば「弱い声を拾い、行動する人」となるだろうか。

著者の執念の根底には常に怒りがある。無念さがある。やりきれなさや理不尽な思いがある。著者は、そういうものに突き動かされるようにして、がむしゃらに行動する。

この事件で最も弱い立場にいたのは、被害者と被害者家族、そして被害者の友人たちだ。彼らは、事件が起こる前から殺人事件が起こることを予感して警察に駆け込むも、手ひどく警察にあしらわれる。事件が起こっても、真犯人を捕まえる素振りを見せない。詩織さんの想いを無視し、警察の都合で事実が捻じ曲げられる。あまつさえ、警察の面子を保つために、応酬した証拠品を使って裁判で詩織さんの印象を貶めるようなことをするのだ。

なんなんだこいつらは、と思う。著者も思っただろう。誰だって思う。しかし、そう思った上で、行動できる人間となるとまずいないだろう。自らの身を危険に晒すことになるとわかっていて、それでもなお実行犯を特定し追い詰めることなど、まず出来ないだろう。

遺族の方からすれば、たしかに著者は、実行犯を特定し埼玉県警の不正を暴いたヒーローだろう。しかし、仮にそういう成果を得られなかったとしても、遺族の方にとって著者は救いだっただろう。

そう、他のマスコミがあまりにも酷すぎる、という意味で。

著者はまえがきで、『週刊誌が嫌い』と書いている。週刊誌記者としての自分の仕事を卑下しているわけではない。その理由を著者はこう書いている。

『派手な見出し、愚にもつかないスキャンダル、強引な取材。イメージで言えばそういうことだ。実際にはそうやって雑誌が作られているわけではないのだが、官庁広報型の「公的なメディア」でないというだけで、そういうイメージが作られてしまっているところが嫌いだ。そういう社会のあり方が嫌いだ』

そしてそれに続けて著者はこんな風に書くのだ。

『だが、この桶川の事件に関わってみて私の思ったことの一つは、その分類の弊害が如実に現れたのがこの事件だったのではないか、ということだ。官庁などが発表する「公的な」情報をそのまま流して「一流」と呼ばれることに甘んじているメディアの報道が、その情報源自身に具合が悪いことが起こったときにどれだけ歪むか。情報源に間違った情報を流されたとき、「一流」メディアの強大な力がいかに多くのものを踏み潰すか。』

この感想の中では触れずに来たが、本書は、「一流」メディアがこの桶川ストーカー殺人事件でどんな役割を果たし(というか、果たせず)、そしてどんな害悪を撒き散らしたのかを指摘する。実際桶川ストーカー殺人事件においては、大部分の非は埼玉県警にあるが、一部は「一流」メディアにあると言っていいだろう。警察が情報を隠蔽しようとする時、警察情報だけを頼りに記事を書く「一流」メディアが、事件の実像をどのように歪めていったのか、著者は丁寧に検証していくのだ。

『それでは記者クラブの構造と同じだ。事件がどんなものかではなく、警察が何を発表するかが大事だというクラブと、「犯人」さえ逮捕すればいいという警察に何の違いがあるのか』

当時著者が所属していたFOCUSは、記者クラブに加盟していなかった。加盟していなければ、警察が行う記者会見にも行けない。警察署を取材しようとしても、非加盟社であるという理由ですべて拒否、警察からの情報がまるで手に入らない、という状態になるのだ。

その状態で著者は、自らの足で稼いだ情報のみで犯人に辿り着く。そして、実行犯が逮捕された後、今まで調べた情報をFOCUS誌上で放出すると、同業他社は度肝を抜かれたという。警察発表しか記事にしない「一流」メディアは、その時点で事件の概要をまるで把握していなかったのだ。記者たちは、桶川ストーカー殺人事件の情報を求めて、FOCUSが発売されると真っ先に買い求めたという。

しかし、ただそれだけのことであれば、まともな取材をしていない社がただ損をする、というだけの話だ。しかし当然、話はそれで終わらない。

『大メディアの流れは急変した。被害者側の訴えなど、知っていてもほとんど記事にしなかった大手マスコミが、狂喜したように県警叩きに躍起になっていた。「桶川事件」がいきなり一面トップであった。しかもその根拠たるやさんざん嘘をついてきた県警が「これが事実です」と発表したことなのだから、ブラックジョークとしか思えなかった。警察の発表だと、どうしてこんなに簡単に信用するのだろうか。それまで県警は嘘を並べ続けてきたのに、それでも県警の発表の方が被害者の父親の会見より真実味があるというのか。詩織さんの「遺言」は記事に出来なくても、警察から文書が配布された瞬間に警察官の行為は犯罪として報じられ、突然事実となるのか…。あまりの変貌ぶりに、私は驚くしかなかった』

大手マスコミは、警察が発表したことだけを信じて記事を書く。それまでにも被害者側が様々な形で訴えてきたことは一切報じず、それらが警察というフィルターを通った後にだけ報じるのだ。著者が指摘したこの状況こそが、埼玉県警の不正を助長したと言っていいだろう。そういう意味で大手マスコミは、埼玉県警と共犯だったと言ってしまっていい。

警察が発表したことが事実になる。警察とマスコミの間で、そういう関係性が出来上がっている。それはつまり、警察が嘘をついても、それが事実になる、ということだ。桶川ストーカー殺人事件で起こったことは、まさにそういうことだった。警察側のあからさまな嘘に、被害者側がどれだけ悩まされ、どれだけ苦しめられてきたのか。100%嘘しかない発表が、大手メディアが報じることで事実となり、桶川事件の実像がどんどん歪められていく。それに加担しているマスコミの責任は重い、と僕は感じる。

『ありがとうございます。詩織のことをひどく書かないでくれて…』

被害者の詩織さんの友人で、著者に詳細な情報を提供した男女が、著者にこういう場面がある。
警察は、詩織さんの殺害が判明してから、記者会見などで詩織さんのイメージを歪めるような発表を次々としていた。「グッチ」などの高価なブランド物を持っていた、「風俗店」で働いていた、などだ。これらは、悪意を持って切り取れば事実ではあるのだが、実情は全然違う。この時警察は、「殺された詩織さんもこんな人間なんだから、殺されても仕方ないのだ」というイメージを植え付けようとして、そういう情報をマスコミに流していたのだ。

警察からそういう情報を入手した大手マスコミは、それをそのまま書く。詩織さんは派手好きで遊び歩いているような女性でしたよ、と。そうやって、何の罪もない被害者である詩織さんのイメージは、警察とマスコミの手によって蹂躙されていったのだ。

記者クラブに加盟できない「三流」週刊誌の記者である著者は、すべての情報を自らの足で拾っていった。その取材で知ることが出来るのは、親思いで誰からも好かれる優しい女性像だ。大手マスコミが報じるような、遊び歩いている詩織さんの話に出会ったことなどない。

著者に感謝した男女は、まさにこのことを言っているのである。

「正しさ」というのは、作るものではない。作られる「正しさ」も、もちろん世の中にはあるだろう。その最たるものは「流行」だ。今これが流行ってる、これなら間違いないという「正しさ」は、間違いなく誰かの作為によって生み出されているはずだ。

しかし、「正しさ」が作られる、という状況は、基本的に歪んでいると考えていいと僕は思っている。「流行」も、歪んでいる。そして、この事件において警察とマスコミは、一体となって「正しさ」を作ろうとした、という意味で歪んでいるし、許してはならないのだと思う。

「正しさ」というのは、化石のようにそこにあるものだ。常に、誰かに掘り出されるのを待っている。その形を崩さぬよう、壊さぬよう、慎重に掘り出すのが「真実を追う者」の役目ではないのか。そこにあるはずの「正しさ」を見ようともせずに、誰かが作った「正しさ」ばかり追うのは、それこそ正しい姿勢とは言えないだろう。

『この事件の真実を求める多くの人たちに、この事件がどういうものだったのか、また、報道を志す人々に、報道する人間が真に持つべき姿勢とはどのようなものか、この本を手にする事で分かって頂けると信じ、心から願っている』

詩織さんの父親は「文庫化に寄せて」という巻末の文章でこう書いている。

この本は、掘り出されるのを待っていた「正しさ」で溢れている。

清水潔「桶川ストーカー殺人事件 遺言」

「聖の青春」を観に行ってきました

勝たなければ、死ねない。

僕には、そんな衝動は、ない。

『お前のどこが、命かけてたんじゃ!負け犬の遠吠えじゃあ!スッカスカの人生じゃ!』

負けて奨励会を去ることになり、吹っ切れたような清々しさを見せる友人に、村山はそんな風に突っかかる。

そんな怒りは、僕の中からは湧き出てこない。

『あなたに負けて、死にたいほど悔しい』

村山との対局で敗れた羽生善治が、村山にそう語る。

僕は、その気持ちには追い付けない。

<なぜ生きるのか?>

この映画は、全編でそう訴えかける。
この問いに囚われずに生きてこられた人は、幸せな人だろう。いじめられたり、仕事が辛くなったり、病気になったり。そういうしんどい場面で、人は<なぜ生きるのか?>と問うのだろうと思う。

村山聖は、幼い頃からその問いを抱き続けてきた。いや、違うか。彼は幼いころから、その問いに対する答えを、ずっと抱き続けてきたのだ。

将棋で勝つこと。

彼は、人生のあらゆる選択を、その目標のために選び取る。重篤な病気を抱えながら、「将棋弱くなりたくないんで、麻酔しないなら手術受けます」と言ってのけるこの男には、長く生きたいというような生の欲求はない。

『大丈夫ですよ。人間誰でもいつかは死にます。そんなことより僕たちが今考えなきゃいけないのは、目の前の一手です』

羽生善治でさえ連敗することがあり、西の怪童とも呼ばれたほどの圧倒的な強さを誇りながら、29歳という若さでこの世を去った天才棋士のをモデルにした物語だ。

羽生善治が、史上初の7冠を達成した頃、村山は大阪にいた。ネフローゼという重い病気を抱えながら、日々対局に勤しむ日々。羽生との対局で高熱を出した村山は、ある決断をする。
東京に行く。東京に行って、羽生の近くで将棋を指す。
身体はボロボロ。体調が良い日なんてない。対局中に具合が悪くなり、不戦敗を選ばざるを得ないこともあった。
それでも村山は、将棋を指し続けた。羽生善治に勝って、名人位を奪取するために。

映画を見ながら感じていたことは、この映画は「物語」だな、ということだ。それは、映画の最後にも表示された。この映画は、「聖の青春」をモチーフにしたフィクションであり、事実と異なる箇所があります、と。

そういう意味で、どうしても弱さのある映画だな、と感じてしまった。

これは、僕が原作を読んでいるからだろうとは思う。
「聖の青春」という原作は、これまで僕が読んできたノンフィクションの中でもトップクラスに心を動かされた作品だ。村山聖という人間が放つ魅力、師匠の献身的な支え、「聖の青春」の著者である大崎善生の村山を見る眼差し。そういうものすべてをひっくるめて、一人の人物と、将棋界という魔窟を描き出した、絶品のノンフィクションである。

原作があまりにも強いからこそ、この原作をベースにした「物語」が弱くなってしまうのは、ある程度は仕方ないだろう。恐らく、映画から見て原作を読む人は、とても良いだろうと思う。映画は映画で「物語」としてはなかなかよく出来ている。特に、村山と羽生の対極の場面の臨場感は、実際の将棋の対局を見たことがないにも関わらず、非常にリアルだと感じた。村山にも羽生にも、人間的魅力が溢れている。この映画を見て、原作に興味を持つ人が増えるのであれば、それはとても嬉しいことだ。

『将棋は殺し合いじゃろうが。
将棋指しの人生は、それがすべてじゃろうが』

村山の日常からはあまり窺えないが、村山は常にこういう意識を持って将棋を指している。

『「みんな勝ちたいと思ってる」
「思うだけだったらバカでも出来ます。そのために何が出来るのかを、考えて行動出来るかどうかです」』

村山には、ひりつくような熱が常に宿っている。

『僕たちは、どうして将棋を選んだんでしょうね?』

村山は、羽生にそう問いかける。

村山は、抑えようのない衝動に囚われながら生きる。自分を捉えて離さないその衝動に全力で立ち向かいながら、高みを目指していく。

『時々怖くなることがあるんですよね。深く潜りすぎて戻ってこれなくなるんじゃないかって。でも村山さんとなら一緒にいけるかもしれない。いつか一緒に行きましょう』

二人の天才が出会い、ぶつかり、誰も到達していない高みを目指す。凡人にはその高みの一端すら窺うことが出来ない。そんな二人の闘いと、村山という短い生涯を駆け抜けた男の生涯を描く映画である。

「聖の青春」を観に行ってきました

「淵に立つ」を観に行ってきました

一度何かが始まれば、それが終わる可能性をゼロには出来ないように、一度人を信じれば、裏切られる可能性をゼロにすることは出来ない。
他者と関わる時、僕はいつもそんなことを考えている。

人を裏切るような人間が元々いるのではない、と僕は思う。もちろん、そういうタイプの人間もいないわけではない。しかし基本的には、どんな人間だって人を裏切る可能性があるのだと僕は思う。

裏切りは、いつやってくるか分からない。どれほど信じた相手だろうと、どれほどの思いを持って信じようとも、裏切りというのは一瞬でやってくる。僕は、そういう事実を常に意識して生きている。僕の周りにいる誰が僕を裏切っても、まあ仕方ないだろうと考えている。それは、人を信じていないだけだ、と言われるかもしれないけど、僕の中では逆だ。「この人になら裏切られてもいいか」と思える人しか、信じることが出来ないというだけの話だ。

信じたい気持ちは、人を弱くする。裏切られたくない、という恐怖が、あなたを支配するからだ。裏切られた時の絶望を回避したいという思いが、あなたの行動を制約するからだ。

それでも、人は人を信じる。信じることでしか、他者との関係性を築くことが出来ないからだ。そんな風に、信じたいからだ。

時に、人を信じたことによる代償は大きい。
人を信じたい気持ちが、破滅を呼び込むのだ。

父親から受け継いだ金属加工工場で働く鈴岡利雄とその妻・章江。利雄は無口で、仕事や生活に関することを章江にほとんど言うことはない。娘の蛍は、オルガンのコンクールを間近に控えていて、日々練習に励んでいる。章江はプロテスタントであり、蛍と共に食事の前はお祈りを捧げている。
ある日工場に、章江の知らない男がいた。利雄の古い友人だという。利雄は章江に何も言わないまま、八坂章太郎というその男を工場で雇い、家に住まわせた。三週間だけだ、と利雄は言うが、章江にしてみればなんだか分からない男が同じ家にいるのは不快だった。
八坂は礼儀正しい男だった。蛍も八坂に懐き、オルガンを昔やっていたという八坂が蛍にある曲を教えることになった。章江も、真面目な八坂の姿を日々見る内に、当初抱いていた不快感を徐々に薄めていった。
教会への礼拝の帰り、喫茶店で八坂は章江に対し、かつて人を殺し、つい最近まで刑務所にいたことを話した…。
というような話です。

見ていてザワザワさせられる作品だった。好き嫌いは大きく分かれそうな気もするが、僕は凄く好きな映画だ。

映画の全編で、「どうしようもない気持ち」が描かれる作品だと感じた。登場人物たちの感情は、様々な理由によって覆い隠されているが、抑えきれずに溢れ出してしまう感情が時々間欠泉のようにして吹き出す。利雄・章江・蛍・八坂。誰もが、どこにもぶつけようのないやりきれない感情を内側に秘めながら、仕方なく続いていく日常を過ごしている。そういう雰囲気が絶妙に切り取られた作品だと思う。

蛍はともかくとして、僕は利雄にも章江にも八坂にも、共感できる部分があると感じた。

章江が抱えるやりきれなさは、誰しもが同じ状況に立たされたら感じるものだろう。章江に非がないとは言わないが、全体的に章江は被害者だ。章江の落ち度によって、この現実が引き寄せられたわけではない。章江はただ巻き込まれ、途轍もない現実が重くのしかかりながらも、なんとか懸命に前に進もうとする。

八坂に共感できる、とはちょっと言いにくいが、しかし分からないでもない。八坂の、このセリフは非常に印象的だ。

『なんでこの生活が俺じゃなくてお前なんだ』

八坂の衝動がなんであったのか、それは映画の中でははっきりとは描かれないが、その衝動が湧き上がるに至る手前までであれば、想像できるし理解できる。自分が置かれている状況を受け入れようとする自分と、理不尽だと感じる自分とが共存し、少しずつ積もるようにして、その衝動に至る何かが溜まっていったのだろう。八坂と同じ境遇に置かれた時、八坂と同じ感情を抱く可能性は、誰にでもあるのではないか。

利雄の気持ちも、分からないではない。彼には、そうせざるを得ない理由があった。ある意味で、すべての元凶は利雄にあると言っていいのかもしれないし、その事実をすんなりと許容していいとは思わないが、ただ、利雄の前に八坂が現れた時の衝撃に、動揺することなく対峙出来る人間はそう多くはないだろう。

この三人に、共感は出来るが、しかし許容したくない、という気持ちもある。彼らに起こった現実は、誰かが何かを諦めれば排除出来たかもしれない。三人がそれぞれ、自分自身の弱さみたいなものを隠し、否定すべきものを見ないフリをしたからこそ起こった出来事なのではないか、とも思う。

自分が同じ立場に立たされた時、彼らと同じことをしてしまうだろう、という予感もある。だからこそ、彼らのやったことを許容したくないと思うのだろう。自分がそうしたくないけどそうしてしまうかもしれない。彼らを見ていてザワザワさせられるのは、観る者が誰しも、そういう感覚に囚われるからではないかと思う。

後半は、それぞれがそれぞれのやり方で「贖罪」について考えることになる。起こってしまった出来事を、無くすことは出来ない。時間は、どんどん前に進んでいく。ただ立ち止まっているわけには行かない。進んでいく時に合わせて、どうにか自分たち自身も前に進ませなければならない。そういう中で、8年前のあの出来事が、彼らの前進を阻む重しとなっていく。8年前の出来事とゴムで繋がっているかのように、時を経れば減るほど、前進する際の抵抗は増して行く。それでも、騙し騙し前に進んでいく彼らに、予想だにしなかった出来事が起こるのだ。

「家族とは何かを考えさせられる」などというありきたりなことを書きたくはないのだが、やはりそういう映画でもある。家族である、ということは、喜びだけではなく苦しみも分かち合うものなのだろう。しかし、相手の得体の知れない様を実感してしまうが故に、相手と特に苦しみを共有することが出来なくなってしまう。
結局、どんなに家族であっても、他人のまま。家族というのは、「家族でありたいという共同幻想」につけることが許された呼称なのだろう。だからこそ、家族でなくなることは、少なくとも気持ちの上では、簡単だ。

『8年前、俺達はやっと夫婦になったんだよ』

裏切りは、いつも唐突にやってくるのだ。

「淵に立つ」を観に行ってきました

慈雨(柚月裕子)

『いまここで、十六年前の事件と向き合わなければ、自分のこれから先はない。過ちを犯していたならば、罪を償わなければならない。そうしなければ、自分の人生そのものが偽りになってしまう。家族、財産、すべてを失ったとしても、それは過ちを犯した自分に科せられた罰だ』

何か失敗を犯す度、僕はずっと逃げ続けてきた。誰の迷惑も顧みず、いつだってその場から立ち去ろうとして、実際に立ち去った。責任を取る、などという行動が僕には取れないのだろう、と思っている。だから、責任がのしかかる行動を慎もう。今の僕はそんな風に考えている。

『われわれは神じゃない。人間だ。人間がやることに、完璧という言葉は存在しない。常にどこかに、微細とはいえ瑕がある。だからこそ、われわれ捜査員は、疑念を限りなくゼロに近づけなければならない』

取り返しのつかない過ちであれ、取り返しのつく過ちであれ、それぞれに対して自分なりの責任を果たすことは出来る。取り返しのつく過ちであれば、それを取り返せばいい。取り返しのつかない過ちの場合、責任の取り方は様々だろう。何をどうしても、失ったものは元通りにはならない。元通りではないもので、その失った部分を埋めることは出来ない。しかしそれでも、自分に何が出来るかを考えて実行する。それが責任を取るということなのだろうと思う。

『いま、十六年前の事件から目を背けたら、俺は警察官である前に、人でいられなくなる。そう思っているのは、神さんも同じだ』

これまで、色んなことから逃げ続けてきた。逃げて逃げて、色んな人に迷惑を掛けながら、どうにか今も生きている。逃げる時の罪悪感は、いつももの凄いものがある。死んだ方がましなのではないか、と思うほどの罪悪感が全身を襲う。逃げなくても辛いし、逃げても辛い。そういう状況の中で、常に逃げることを選択してきた。

しばらくすると、その罪悪感は薄れていく。自分の中に確かにあった、あれだけ自分を苦しめた罪悪感が、ふと気づくと、もうはっきりとは思い出せないものになっている。僕の場合、取り返しのつかない過ちはしたことがないはずだから、そこの違いももしかしたらあるかもしれない。取り返しのつかない過ちを犯していたとしたら、やはり一生罪悪感は薄れないままだろうか。分からない。分からないけど、僕は自分のことを薄情な人間だなと思う。一時の罪悪感を乗り越えさえすれば、次第にそれは薄れていく、ということをきっと経験で理解しているのだ。だから僕は、常に逃げるという選択をする。

『同僚から誘われて近場の山にトレッキングに行ったときも、有名な写真家が撮った神々しい山の写真集を見たときも、美しいと神場が感じるのはわずかな時間で、眺めているうちに荘厳たる景色は、梅雨時の鬱蒼とした山中を這いずり回ったときの記憶に取って代わられる。どんなに素晴らしい山の景色も、神場のなかでは、十六年前の純子ちゃんの遺体発見時へと繋がる』

どれだけ時間が経っても罪悪感が薄れない場合、人はどう行動すべきだろう。自分の行動一つで状況を変えることが出来る。そういう可能性があったとしたら、その方向に進めるだろうか。進めば自分の身が破滅すると分かっていて、その道を選ぶことが出来るだろうか。

『私は、あなたの妻になって後悔したことは一度もないわ。むしろ、刑事の妻であることを誇りに思っている』

その道を、選ぶことが出来るだろうか?

3月に警察を定年退職した神場智則は、警備会社への再就職が1年先送りになったのを契機と捉え、退職したらしようと考えていた四国八十八ヶ所のお遍路を実行に移すことにした。
自分が関わった事件の被害者の供養のためだ。
目的が目的だけに、当初は妻の香代子を連れて行く予定ではなかったが、香代子も同行を希望したために止む無く受け入れた。これまでの刑事人生で、妻には迷惑を掛けた。妻が一緒に行きたいというのなら断れない。
妻と共に霊場を巡りながら考えることは、これまでの自分の人生についてだ。片田舎の駐在所勤めに苦労したこと、刑事になってから出会った人々、娘である幸知との出会い、娘が元部下である緒方圭祐と付き合っていることを認めていないこと。陽気な妻とは対称的に無口な神場は、久々の妻との時間を過ごしていた。
しかし、やはりどうしても、心穏やかにとはならない。むしろ、霊場を巡れば巡るほど、神仏に救いを求める行為に疑いを挟んでしまう。
未だに悪夢を見る、16年前のあの事件。自分が犯したかもしれない“罪”に囚われ続け、刑事である自分の存在を揺るがし続けたあの出来事が、やはり神場の内側を占める。
現在進行形かもしれないのだ。
遍路中、緒方から度々連絡が来る。群馬県で、愛里菜ちゃんという小学一年生の女の子が陵辱され遺体で発見された。緒方はその捜査の進捗状況を、神場に報告しているのだ。
というような話です。

素晴らしい作品だった。久々に良い作品を読んだ。刑事を主人公にした、殺人事件を扱った作品だが、そういうまとめかたをすると作品の良さの大半がこぼれ落ちる。事件や事件の推移そのものに主眼のある作品ではない。この作品は、刑事という真実を追う者と、殺人事件という究極の事実が出会った時、その摩擦にすり減ってしまいそうになりながらも、刑事として、そして何よりも人として真っ当に生きようとする者たちの葛藤の物語なのだ。

この作品は明らかに、現実に起こったある事件をベースとしている。群馬県で起こった、「北関東連続幼女誘拐殺人事件」と呼ばれている事件だ。知らない人も多いだろう。何故ならこの「北関東連続幼女誘拐殺人事件」という呼称は、正式なものではないからだ。

この連続殺人事件は、警察は感知していない。いや、感知しているが認めていない、と言うべきか。「北関東連続幼女誘拐殺人事件」と名付けたのは、この事件を調査したあるマスコミ人である。それは、ノンフィクションという形で一冊の本にまとまっている。清水潔「殺人犯はそこにいる」という本だ。

「殺人犯はそこにいる」が“問い”だとすれば、本書「慈雨」は“答え”と呼べるだろう。いや、“答えであって欲しい”と書くべきだろうか。「慈雨」のようには、現実は動いていない。

どちらも、警察の恐ろしいミスが描かれている。それは、これまでの警察による捜査、そして裁判所による審判を根こそぎ覆す可能性のあるものだ。本書の中で警察の上層部が、『我々は、信頼を失うわけにはいかない』と語る場面があるが、まさにこのミスが公になれば、警察や司法の信頼は失墜すると言っていいだろうと思う。

「殺人犯はそこにいる」で描かれた現実では、そのミスに関わった人たちは、そのミスを認めるつもりはないように見える。実際にはどうなのか、それは想像するしかないのだが、少なくとも警察組織という大きな集合体は、このミスを出来る限り隠匿する決意を固めているだろう。このミスを認めることは、パンドラの箱を開けるようなものだからだ。一旦開けてしまえば、未来永劫閉めることができないかもしれない。その覚悟を決めることが出来る人間はそうそういないだろう。

本書「慈雨」は、その覚悟を決める者たちの物語なのだ。関わった者たちは、それぞれの立場で悩み苦しむ。16年前、自らが関わったある事件の顛末に、心を痛めている。しかし、16年前の結論を覆すことは、やはりパンドラの箱を開けるのと同じことなのだ。その箱を開けようとする彼ら自身にも、多大な影響を及ぼす。

彼らは、守るべきものと、自分が貫くべき正義との間で揺れ動く。彼らは、途轍もなく真っ当で、途轍もなく誠実な人間たちだ。刑事という、限りなく疑念を排除した真実を追わなければならない職業に就く彼らは、その責務を全うするために自らを律している。ごく一般的な人間よりも遥かに倫理基準が高いと言っていいだろう。
そんな彼らでも、16年間も決断出来なかった。犯したかもしれない過ちを自分の内側でぐるぐるとさせながら、すべきだと理性が告げている行動を取ることが出来ないまま過ごしてきてしまっている。ごく僅かな人間としか共有することが出来ない、その存在を明かすことすら躊躇われるほどの過ち。それを生涯抱え込まなければならない彼らの葛藤は、想像に余りある。

僕なら、逃げてしまうだろう。向き合うことすら避け、徐々に低減すると分かっている罪悪感を抱え込むことを選んでしまうだろう。無理矢理押さえ込んで蓋をしてしまえば、自分の人生から排除できるはずだ、という幻想にすがって、意識を向けないようにしてしまうだろう。僕は、警察上層部の判断を責めることは出来ない。そうすべきだ、と理性が告げる行動をどうしても取ることが出来ない。組織の中にいる個人がそう判断しても仕方ないと思えてしまうような、それは過ちなのだ。

仕方ない、などと言うのは本当なら駄目だ。仕方なくなんかない。ないのだけど、怖い。それが自分自身の過ちだとしたら、怖くて仕方がない。「殺人犯はそこにいる」を読んだ時は、被害者の無念や、著者の執念、そして警察という組織全体への苛立ちと言ったようなことしか感じていなかった。本書を読んで、警察という組織の中にいる個人に目が向いた。捜査に直接関わった者、捜査を指揮した者。実際にそういう人が、警察という組織の中にいるのだ。彼らが何を考え、どんな思いを抱えて生きてきたのか。本書「慈雨」を読んで、初めてそこに想像力を向けることが出来たように思う。

過ちから逃げ続けている僕が言うことではないが、僕は、間違っていることは正されるべきだと思いたいし、正義は出来る限り貫かれるべきだと思いたい。自分自身のことではないと思えるからこそ、外から偉そうなことを言うことが出来る。警察は、そのパンドラの箱を開け、正義を貫くべきだ、と。

しかし一方で、責任が個人に向いてほしくはないとも思う。日本の場合、組織全体の過ちも、特定の個人に押し付けておしまいにする傾向がある。もし、警察がこのパンドラの箱を開けるとしたら、責任を押し付けることが出来る個人をきちんと確保できてからになるのではないかと思う。組織全体を守るために、組織は時にそうした非情な決断を下す。

しかし、「殺人犯はそこにいる」や「慈雨」を読めば分かるが、これは決して個人だけの責任ではない。捜査手法という意味で、個人に帰せられる責任もあるかもしれない。しれないがしかし、警察という組織全体が負うべき責任も当然ある。『いま、十六年前の事件から目を背けたら、俺は警察官である前に、人でいられなくなる。』という気持ちは、警察にいる一人でも多くの人に感じて欲しい、と思ってしまう。この現実を無視したままでは、警察は前には進めないのではないかと思う。

少し違う話をしよう。
冒頭で、本書はただの警察小説ではない、という話を書いた。ここまで書いてきたように、本書は、事件が起こり刑事が捜査する、というだけの物語ではまったくない。後悔と前進という二つの端を行ったりきたりしながら葛藤する者たちの物語だ。

しかし、さらに本書は家族の物語でもある。
詳しく書けない部分もあるが、神場の家族には様々に抱えてるものがある。神場自身、四国巡礼をするほど抱えているものがあり、妻の香代子も長い年月ずっと持ち続けていた葛藤がある。娘の幸知は、父である神場に緒方との交際を認めてもらえず、緒方も同様の葛藤を抱えながら、さらにほとんど手がかりのない事件の捜査に疲弊している。

そして、そのそれぞれの葛藤のどの根っこにも、16年前の出来事が関係してくるのだ。16年前の出来事が関係することを知っているのは神場しかいない。神場は、神場が抱えている葛藤が明らかになることで家族に迷惑を掛けることが分かっている。その上で神場は、その箱を開けるべきかどうか悩み抜く。

香代子も幸知も緒方も、神場が抱えているものの正体を知らない。その正体を知らないままでは理解できない言動や衝動を神場が繰り出す度、彼らは不安になる。神場が正義を体現する人間であることを、近くにいる者なら誰でも知っている。だからこそ、神場が思いやなむその姿に、神場が葛藤を押し退けて決断する姿に、彼の周りの人間も読者も打たれるのである。

特に妻がいい。妻の香代子は、駐在所勤務時代から神場と苦労を共にしている。刑事の妻である、という以外にも、香代子には苦しみがある。しかしそれら全部がないかのように、香代子は明るく振る舞う。
ここでは書かないが、物語のラスト付近、神場がある覚悟を伝えた時の香代子の返答は素晴らしい。こう言い切れる人は、男女合わせてもそうそういないだろう。自分の夫が抱えてきたもの、そしてやろうとしていること。それはあまりにも強大で、恐ろしいことであるのだが、それらを香代子は神場と一緒にすべて飲み込もうと覚悟する。香代子という女性が辿ってきた道筋や我慢してきたこと、飲み込んだり乗り越えたりしようとしてきたこと、それらが読む者の心を震わせるのだ。

ある事件が、地中で繋がる根のようにして様々な葛藤や後悔の素となり、作品全体を覆っていく。ほとんど他人に話さず、自分一人でその大きすぎるものを抱え続けた神場という男がどのように覚悟を決めるのか。その過程こそが物語の核そのものなのだ。現実の事件を下敷きとしながらも、それを人としての尊厳と家族としてのあり方を描く作品に仕上げる著者の力量は見事なものだ。あなたが神場と同じ立場に立たされた時、どう行動し、どう決断するか。そのことを想像しながら、是非本書を読んで欲しいと思う

柚月裕子「慈雨」

一〇〇年前の女の子(船曳由美)

『語り手はこれ以上ない聞き手に出会い、聞き手はこれ以上ない題材を見つけた』

解説で中島京子氏がそう書いているが、まさにその通りの作品だろう。

本書は、実の母親の生まれてからの生い立ちを聞き書きした作品である。語り手である母親は、恐ろしいほどの記憶力で当時の生活の細部や感情の端っこまでを繊細に語る。そして聞き手である著者は、平凡社の元編集者であり、様々な作家と一緒に仕事をしてきた敏腕編集者なのである。
その二人が、100年前の日本の生活を、ありありと描き出す作品を生み出したのだ。

本書の主役である寺崎テイ(著者の母親)は、実家でテイを産んだ実母が、栃木県の高松村に戻りたくなくなったために、生後一ヶ月にして実母と別れ高松村で生活することになった。父はすぐに後妻と結婚するが、後妻の実家が、テイには寺崎家を継がせないこと、という条件で娘を送り出したので、テイは寺崎家にいられないことになってしまう。

『おぶされたその背中は冷たくて固い。おばあさんのように温かく柔らかい背中ではない。だから、固い背中だと感じるときは、かならず、どこかの家に連れていかれるときなのであった』

テイは、わずか5歳にしてあちこちの家を転々とさせられ、やがて落ち着き先が見つかってからも仕事ばかり押し付けられた。

『ここは越えられないのだ、決して渡ることは出来ないのだ、寺崎の家には絶対に呼び戻されることはないのだ…。テイはそう考えて、涙をためて、また南の方の家に帰るのであった』

幼くしてそんな悲壮な覚悟を決めて毎日を過ごしていた少女は、ちょっとした要因があってなんとか寺崎家に戻ることが出来た。常に「母親に捨てられた」「実母に会ったことがない」という寂しさに囚われ、また貧しい村で暮らすことの苦労を感じながら、季節ごとのちょっとした楽しい出来事や学校での行事など、ささやかにテイの気持ちを浮き上がらせる事柄もある。どのみち寺崎家にずっとはいられない運命であるテイは、小学校時代、すべての教科で「甲」を取り続けたその優秀な頭で女学校へと通い、やがて東京で独立して生活するようになり…。
というような話です。

非常に豊かな作品だな、と感じました。基本的には、実在する一人の女性の生涯を綴っているだけの作品なのだけど、全体的に描写の濃密さが凄い。これを娘に語っている時は100歳ぐらいだったはずなのだけど、よくもこんなことまで覚えているなという描写ばかりなのだ。例えばこんな描写。

『ア、よその茶屋に、お客が立ったぞ、とその太鼓の音を聞くや、赤い襦袢のお女郎さんたちが色めき立つ。奥の方のお女郎さんが長ギセルをぽんぽんはたき、格子窓に近づいてくるや、手ぬぐいでほっ被りをしていた若い男の袂にキセルの雁首をひっかけ、くるくるっとねじった。そしてキセルの長い柄を格子の内側に横倒しに押しつけると、もうどんなことをしてもキセルの雁首が袂からふりほどけないのだ』

もちろん、事実がこの通りだったかは誰も確かめようがないし、後々映画などで見たシーンと記憶が入れ替わってるということも当然あり得るだろう。だから、実際の描写であるのかどうかという部分についてはあまり関心がないのだけど、これを語っているテイが、「自分はこういうことを覚えている」というつもりで喋っているわけだ。そういう意識で話したことで本書が出来上がっているとすると、たとえそれが改ざんされた記憶であったとしても凄いものだな、と僕は思うのだ。僕は今33歳だけど、10年前のことだって、こんな風には語れないから、なおさらそう思う。

本書の中で一番グッと来るところは、やはりテイが故郷や実母を想う場面だろう。特に、とある法律の存在により、正式にテイが寺崎家に戻ってこれるようになるまでの、他の家に預けられている間の話は、胸が締め付けられるような気がする。

『もしかして高松に戻れることがあるかもしれない、テイはそのときのためにと幼な心に考えて、必死に道筋を憶えながら走ったのだ』

別の家に連れていかれる時のテイの心情だ。

『しかし、お父っつあんが見ると、そのテイのにぎりこぶしの上にぽたぽた、ぽたぽたと、涙があとからあとから落ちていた。親の前でも声をあげて無くことはしなかったのである。
父は、家の者が田仕事から帰る前の昼時をわざと選んで、ようすを見に来ていたのだ。そして、ああ、これはやはり、テイは連れ戻してやらなければ、と決心した』

他の人の家にやられ、その家の者から適当に扱われながら、必死に仕事をする5歳のテイは、様子を見に来た父の前で静かに泣く。

『こうして、イワというお嫁さんが来たことには来たが、テイにとっては、胸に抱きとめてくれるおっ母さんではなかった。“おっ母さん”と呼ぶこともならなかったのだ』

ずーっと自分の居場所がきちんと定まらないまま生きてきたテイは、甘えるということがほとんどなかったし、出来なかった。実母を想う気持ちや、他家にやられながら故郷を想う気持ちは常にあったが、それを分かりやすく表に出すことは苦手だった。辛抱強い子どもだったが、それ故に脆さも抱えていた。そんなテイが、健気に、必死に生きざるを得なかった幼き日の描写には、非常に切なくさせられる。

テイが再びきちんと寺崎家に戻ってからは、高松村での四季折々の生活が描かれていく。この辺りの描写には特別関心はないのだけど、読みながら考えていたことは「豊かさ」についてだ。

現代は、物質的には非常に豊かだ。欲しいと思っていたわけではないけど便利で楽しいものが山ほど見つかるし、こうしたい、と思った時にそれを実現するためのツールは様々に見つかる。
ただ、物質的に非常に豊かなはずなのに、現代人はあまり豊かそうに見えない。

この作品で描写される日常は、物質的には豊かではない。この高松村は、県全体で電気が通るようになってからもしばらく、電気が通っていなかった地域だ。日本という国全体がそこまで豊かではなかったのだろうが、高松村の周辺は貧しくて、寺崎家はそれなりに豊かだったが、周囲には乞食や物乞いも多くいた。

しかし、そんな人々の暮らしは、ある意味で豊かに思えるのだ。

『このあと、お墓から帰るとき、けっして振り返ったりしてはいけない
(中略)
―ダンゴや供え物を子どもに早く持っていってやりたいんだよ。顔を見られたくないだろう。だから、けっして後ろを見てはならねえよ』

『おばあさんもいつもいっている。
―どんなに汚い姿をしている者でもバカにしてはいけない、そういうヤツは人間のクズだ。コジキだって、来世は仏様に生まれ代わるんだから…。
そういえば村では物乞いでもていねいに“お乞食さま”と呼んだりする。何か理由があって、神様が身を窶して村を訪れているのかもしれないからだ』

彼らは決して、自分たちの生活だけが良ければいい、という考え方をしない。村全体で、さらに直接的には村とは関係ない人も一緒になんとか生きていこう、という発想でいる。常に他者を思いやる心を持っているのだ。

辛い農作業も、節目節目で行事を入れ込むことで息抜きをし、季節ごとの役目や食べ物を大切にし、伝統をきちんと守っていく。確かに彼らの生活には刺激は少ないかもしれない。貧しいが故に気分を高揚させるような出来事が日常の中にほとんどないかもしれない。しかし、生活という土台を疎かにして全力で遊んでいるような現代人よりも、生活という土台にきっちりと力を入れ、毎日を過ごしていくという生き方は、一つの豊かさの実現ではないかと感じるのだ。もちろん、それはある種の理想に過ぎない。都会に住む人間が田舎での暮らしに憧れるけど、実際には田舎暮らしには特有の困難さがある、というのと同じように、大正や昭和の時代にも相応の困難さがつきまとうはずだ。そこにもきちんと目を向けなくては公平ではないのだけど、良い面に内包されている豊かさみたいなものが羨ましく感じられる部分もある。

日本人は、欧米のような生活を目指し、豊かになろうと必死に努力した。日本は先進国となり、先進国の一員として、グローバリズムの波に飲み込まれようとしている。グローバル化は避けられないにしても、「豊かさ」とは一体何であるかを考え、グローバリズムによって失われた「豊かさ」もあるのではないかと、立ち止まって考える時間を作ってみるのもいいのかもしれない。そういう発想のきっかけとなる一冊とも言える。

テイはその後、教育を受ける機会に恵まれ、新渡戸稲造が校長を勤めていた女学校に入学する。女性にも教育を、という時代の流れが生まれ始めたタイミングであり、学ぶことでテイは生きる力を身に着けていった。テイが教育を受けることが出来たのは、結局のところ「寺崎家の跡継ぎにはなれないから」なのであり、結果としてそれはテイのためになったと言えるだろう。実母がテイを置いて行ってしまわず、母子ともに高松村に戻っていれば、テイが教育を受ける機会はなかったかもしれない。テイ自身は、生涯実母への想いは捨てきれなかったようだが、物事がどう転ぶかは分からないものだとも感じる。

ドラマチックなわけでも、スリリングなわけでもありません。恐らくその当時、テイのような少女はどこにでもいたことでしょう。ままならない現実を呑み込みながら、色んなことを「しょうがない」と受け入れて生きなければならなかった少女が。テイはそういう一人であり、現在まで長生きをし、その類まれな記憶力によって当時の生活を細部まで描写することによって、テイ以外の、当時苦労を重ねて成長していった他の少女たちの救いにもなっているのではないか、と思う。本書で描かれているのは、たった100年前の出来事だ。現代と直接繋がっているとは思えないほど違う世界の中で、真っ当な感覚を持った優秀な少女はどのように生きたのか。「豊かさ」とは何か、ということを考えさせながら読ませる本だと思う。

船曳由美「一〇〇年前の女の子」

ミステリなふたり ア・ラ・カルト(太田忠司)

内容に入ろうと思います。
まずは全体的な設定から。
愛知県警捜査一課の京堂景子警部補は、愛知県警にその名を轟かす有名な刑事だ。「鉄の女」「氷の女王」などの異名を持ち、本部長でさえひれ伏すと言われている。冷たい視線と声色で男社会である警察の中で指揮を取り、抜群の検挙率を誇るスーパーウーマンだ。
しかし、そんな景子も、家に帰るとまったく別の顔を見せる。イラストレーターであり主夫である新太郎は、家事をすべてこなし、帰りが不規則な景子のためにいつも食事を用意する言うことなしの夫だ。そんな新太郎の前では景子はふにゃふにゃになってしまう。美味しい料理を食べた後は、景子は手がけている事件のことを新太郎に話す。新太郎は話を聞くだけで事件を解決してしまうのだ。
9編の短編が収録された連作短編集だ。

「密室殺人プロヴァンス風」
密室となった一軒家で夫の死体を発見した妻。その家にはなんと、外から鍵がかけられたクローゼットの中に、全裸の女もいた。殺したのは一体誰なのか?

「シェフの気まぐれ殺人」
女性ばかりが狙われる連続殺人事件の最中、ある男の死体が発見される。男のデジカメの中には、連続殺人事件の被害者の写真があり…。

「連続殺人の童謡仕立て」
かつて名古屋ローカルで放送されていた子供番組に出演していた、当時小学生だった女の子2人が、その当時彼女たちが歌っていた歌になぞらえるようにして殺されていた。3人目も狙われるのか…。

「偽装殺人 針と糸のトリックを添えて」
離婚式の最中、密室の中で離婚する夫が殺された。しかしその部屋は、まさにその殺された当人が密室トリックを実演していた場所だった…

「眠れる殺人 少し辛い人生のソースと共に」
人を殺した、と言って自首してきた女性は、それだけ言うと沈黙してしまう。被害者は、10年前に事故で亡くなったとされている兄は実は殺されたのだ、と何度も警察に陳情にきており…

「不完全なバラバラ殺人にバニラの香りをまとわせて」
廃病院に肝試しに来ていたグループが、片腕のない女性の死体を発見する。殺害現場には何故かバニラの香りが漂っており…

「ふたつの思惑をメランジェした誘拐殺人」
誘拐されていた父親が殺された。警察に通報せずに内々で済ませようとしたのが仇になったのか。しかしどうにも状況がちぐはぐで…

「殺意の古漬け 夫婦の機微を添えて」
夫が死んだ、と連絡してきた老女は、長い沈黙を破って、自分が殺したと自供した。しかしどうも証言に信憑性がない。老夫婦の悪さばかりしていた息子が5年前くらいに失踪しているという話もあり…

「男と女のキャラメリゼ」
京堂警部補に憧れを持つ瞳は、休日、偶然カフェで京堂警部補を目撃する。もの凄いイケメンと一緒にいるが、彼女がトイレに行った時、瞳は偶然ある光景を目にしてしまい…

というような話です。

設定もトリック自体もなかなかライトな感じで、読みやすいと思います。するするっと読めるんじゃないかと思います。景子のギャップもなかなか面白いし、新太郎が作る料理も美味そうだな、と。手軽に読む本としてはいいんじゃないかと思います。

太田忠司「ミステリなふたり ア・ラ・カルト」

黒警(月村了衛)

内容に入ろうと思います。
警視庁組織犯罪対策部の沢渡は、理想を抱いて刑事を志したが、今では組織に従順な男に成り下がっている。上に媚び、下にへつらい、言われたことをただこなすだけの日々。テレビの警察密着番組で有名になった後輩の引き立て役になっても、へらへらと笑ってやり過ごす。中国語が出来るという理由だけで組対に組み込まれた沢渡は、不法入国者たちによる腐った現実を日々見せられ、うんざりしていた。
沢渡が組み込まれたのは、生活安全課と合同で行う偽ブランド商品の大量流通の捜査だ。生安の発案であるというこの捜査は、次期警視総監とも警察庁長官とも噂されている高遠生安局長の肝いりであろう。沢渡がいる小淵班は、「らくがきペンちゃん」というキャラクターの偽商品を追うことになった。くだらねぇ。
しかし、その捜査の過程で彼は、義水盟という謎の組織について耳にする。日本のアンダーグラウンドを牛耳る組織の一つである天老会が義水盟を追っているという話もあり、益々謎だ。義水盟の幹部の一人が沈という名の男だということまでは分かったが、組織の全貌についてはほとんど分からなかった。
腐れ縁であり、マズい付き合いだと認識しながら自分の弱いところを知られている気後れから付き合いを断つことが出来ない、滝本組の波多野という男と情報のやり取りをしながら、義水盟を追いかけるが…。
というような話です。

これは面白かったなぁ。300ページいかないぐらいの短い分量の作品なのだけど、なかなか濃密です。警察、ヤクザ、謎の組織と、複雑なアンダーグラウンドの力関係をベースにしながら、沢渡という、どうということもないただの平凡な刑事が「黒警」へと堕ちていく、その過程が非常によく描かれていると思います。

「堕ちていく」という表現を使いましたが、それはある一面の見方である、と言えるでしょう。確かに、沢渡は現職の刑事であり、ある時から沢渡がやり始めたことは、明らかに刑事としての職務を逸脱し、法にも触れる行いだろうと思います。そういう意味で言えば、「堕ちていく」という表現は正しい。

しかし一方で、沢渡に関してこんな風に描かれている箇所がある。

『奇妙なことに、そして皮肉なことに、沢渡は任官以来、自分が初めて警察官になったような錯覚さえ感じていた』

それまで沢渡は、刑事として惰性で仕事をしてきた。やる気もなく、才覚があるわけでもなく、ただ言われたことをそれなりにこなすだけの日々。外国人が碌でもない現実を作っていること、そしてさらに、警察が正義だけを道標にして捜査をしているわけではないこと。そういう諸々のことを、嫌というほど目にすることになった沢渡は、傍観者として存在するようになっていった。自分がいてもいなくても大きくは変わらない、何をしようがしまいが現実が動くわけではない。そういう諦念と共に、刑事である自分の存在を意識できなくなってしまっていた。

しかし沢渡は、あるきっかけから、刑事でありながらアンダーグラウンドの世界に自らの意志で足を踏み入れることになる。そうやって、刑事としてではなく、アンダーグラウンドを泳ぐ者として生きていく中で沢渡は、初めて自分が警察官になったような気分を得るのだ。

沢渡がそういう実感を得る背景には、警察の腐敗が存在する。正義を体現し、悪を取り締まる側であるはずの警察が、率先して悪に手を染めている。警察という圧倒的な権力を自在に操りながら、思い描く通りの現実を引き寄せそうとする。決して沢渡は正義感に溢れた男ではないが、そういう構図を知ってしまった以上、前に進みたくなくなってしまう気持ちは分かるように思う。

沢渡は、ヤクザである波多野と、義水盟の幹部である沈との関わり合いの中で、少しずつ考え方が変化していく。波多野も沈もアンダーグラウンドの住人ではあるが、彼らには彼らなりの矜持がある。確かに、手段は暴力であるかもしれない。しかし、その手段を取る目的は、大きな括りで言えば正義のためと言える。正義、とは大っぴらには言いにくい感もあるのだが、大きく括れば正義だろう。暴力という手段は決して使わないが、悪を忍ばせようとする一部の警察幹部とは真逆だと言えるだろう。沢渡は、波多野や沈が手に入れようとする正義に乗る。手段はどうあれ、彼らが目指す秩序には価値があると信じて、沢渡は前に進もうとする。

『そういうことだ。俺達には国も歴史も関係ない』

国や歴史を共有することで繋がるのではなく、目的を共有することで繋がる。生まれや育ちはともかくも、同じ方向に一緒に進んでいくバディとしてお互いが存在する。そういう不思議な関係性が、彼らの間に生まれる。矜持を貫くために、自分の立場やこれまで積み上げてきたものを使う。手段の是非を問うのではなく、その手段を取ることで実現される理想に目を向ける。アンダーグラウンドな世界のことを殊更に良く言うつもりもないし、非合法な手段は可能な限り避けるべきだと思うが、しかし彼らのミニマムなテロリズムは応援したくなってしまう。

物語は後半になるに連れて俄然面白くなっていく。ラストの大団円は、それまで描いてきた様々な舞台装置を一気に集約し、まさか!と思えるような終幕を引き寄せる。あまりにも出来すぎたラストでマンガみたいではあるが、その痛快さに痺れることだろう。

警察や敵対する組織を翻弄させる様々な展開は非常に面白いが、個人的に本書の魅力をもう一つ挙げるとすれば、波多野の存在だろう。
波多野と沢渡は、お互いに誰にも言いたくない弱みを共有する間柄だ。お互いが、同じ女を見殺しにした、という意識を持っているのだ。

沢渡は、ただ臆病で面倒くさがりなだけの男なのだが、波多野は違う。波多野は、その女を助けたいと思っていたが状況がそれを許さなかった。だから波多野はその後、別の女に償いをするようになっていく。かつて自分が女を見殺しにした償いに、ヤクザとは思えないような手助けを、窮地に立たされた女に対してするようになる。

らしいらしくないを判断できるほどヤクザには詳しくないが、たしかにヤクザらしくない振る舞いに感じられる。本来的にはまるで関係ない女の死を今に至るまで引きずり、する必要のない償いをし続けるヤクザ。そんな男だからこそ、カタギである沢渡とも、関係が継続していると言えるだろう。

彼らの物語を読んでいると、結局正義というのは、どこかの個人が信じる妄想に過ぎないのだろう、と思わされる。「正義」という、大きく固まった一つのものが存在するような感じがするが、きっと世の中にはそういうものは存在しない。それぞれが、それぞれの正義を妄想し、そこに突き進む。あとは、その正義を妄想している自分のことを、どれだけ信じてあげられるかだろう。

平凡でカッコ悪い、傍観者にしかなれない主人公が、どんなきっかけで自分なりの正義を妄想し始め、どう行動するようになっていくのか。短い物語の中で、その過程が魅力的に描かれていく作品だ。

月村了衛「黒警」

「THE BLUE HEARTS ショートフィルムセレクション」を観に行ってきました

オムニバス映画というのを見たのは、初めてなんじゃないかと思う。いや、昔、乙一(というか安達寛高)と桜井亜美がお互いの自主制作映画を同時に上映していたことがあって、それを観に行ったことがある。あるいはそれも、オムニバス映画と呼んでいいのだろうか。

観に行った映画は、ブルーハーツの曲をモチーフにしたものだ。僕は音楽には詳しくないし、ブルーハーツも、耳にしたことはあるけど歌詞をちゃんと覚えているわけではないので、歌詞と映画の内容がリンクしているのか知らないけど、歌詞からではなく、曲名や楽曲全体の雰囲気から映画を作ったのだろう、という印象だった。

「ハンマー(48億のブルース)」
「人にやさしく」
「ラブレター」
「少年の詩」
「ジョウネツノバラ」
の5作品だ。

「ハンマー(48億のブルース)」
同棲している彼氏の浮気を目撃してしまった女。その時何も出来ず、翌朝もそんな彼氏のために朝飯を作ったというその女の話を、職場の先輩と、何故かいる女子高生二人が茶化す。28歳、後がないってのに、どうしろって?女は怒りをぶつける先が、ハンマーを振り下ろす先がない。

「人にやさしく」
銀河の彼方にある刑務所惑星を目指す囚人護送船に流星群が衝突。生き残ったのは、看守一人と囚人数名。電源が落ちれば酸素の供給もなくなり、全員死ぬ。捨て鉢になった兄弟の弟の方がどうせ最後ならと女に襲いかかったのを皮切りに、船内で戦闘が始まる。その最中、囚人の中にアンドロイドが紛れ込んでいることが判明し…。

「ラブレター」
脚本家になって10年。大輔は高校時代の淡く苦しい記憶を物語にしようとしていた。デブでダサかった高校時代に憧れていたクラスメイトの彩乃。彼女にカメラ越しに何か言われたその日、彼女は工事現場から落下してきた鉄骨に当たって命を落とした。せめて物語の中では彼女を死なすまいとした大輔は、何故か高校時代にタイムスリップし…。

「少年の詩」
健の誕生日。シングルマザーの母は急遽仕事に出なければならなくなった。デパートの屋上で行われるボンバー仮面ショーの手伝いに駆り出されるのだ。ボンバー仮面が好きな健も喜ぶだろうと思って声を掛けても、健は学童に行くから行かないという。
健は、偶然聞いてしまったのだ。ショーでボンバー仮面を演じる男が、母親のことが好きらしいということを。それで母親も、喜んでショーの手伝いに出かけるんだろうと…。

「ジョウネツノバラ」
美しさを保ったまま命を落とした恋人の亡骸を棺桶から連れ出し、密かに一緒に暮らす男。同じベッドで寝て、体を洗い、豪雨の夜は抱きしめる。男は他人と関わらず、恋人の亡骸だけを見続ける。その先に、一体何を見ているのか…。

一番好きなのは「少年の詩」かな。昭和感のあるザラッとした感じの映像で、一人の少年のモヤモヤした気持ちを、セリフではなく行動や仕草で見せる感じがいいなと思う。ヒーローに憧れる気持ちと、そんな自分を幼く感じる、まさにその狭間の年齢で、それはまた、母親の恋愛を許せるか許せないかという狭間の年齢でもあるのだろう。自分がどうしたいのかはっきりとは掴めないままモヤモヤした気持ちを持て余している少年の、最後の決断と行動がなかなかいい。

「人にやさしく」も結構好きだ。彼らは囚人であるが、罪を問われた理由は様々だ。テロを画策した女や、大量に人の命を奪うことにも使える発明をした科学者など、普通の犯罪ではない理由で逮捕され刑務所送りにされる者もいる。そんな中で、アンドロイドであると告白した男の存在が、その場の空気を変える。

『ここでお前を解体しても何も変わらない。でも、お前が生き続ければ、何かが変わるかもしれない』

一度は捉えられながら、そう告げられて人間のIDを渡された彼は、人間として生きてみることにした。
しかし、自分の存在は、この世界の何かを変えることが出来たのか?
その問いかけが、一筋の希望となって船内を漂う。何かが変わるかもしれない。そんな予感を滲ませるラストだ。

映像の美しさで言えば「ジョウネツノバラ」も良い。セリフが一切ない映画で、状況はイマイチ理解しにくいが、水原希子が全編死体として登場し、死体であるのにそこに美しく存在し続ける、という映像が、とても気になる作品だった。

「ハンマー(48億のブルース)」と「ラブレター」は、どちらもそこまで好きではないが、「ハンマー(48億のブルース)」は会話のテンポが、「ラブレター」はぶっ飛んだ展開を強引に形にまとめましたという勢いが印象的だった。

ブルーハーツの楽曲で統一してオムニバス映画を作る、という発想はなかなか面白いなと思いました。個人的には、「人にやさしく」の続きが観てみたい。

「THE BLUE HEARTS ショートフィルムセレクション」を観に行ってきました

ヴァイオリン職人の探求と推理(ポール・アダム)

内容に入ろうと思います。
イタリアで50年近くヴァイオリンを作り続けてきたジャンニは、ある日、親友であり同じくヴァイオリン職人でもあるトマソの死体を発見してしまう。殺害されたようだが、トマソが殺される理由が思い当たらない。トマソの妻によれば、トマソはここ最近、何かを探していたようだという。探しているものの名前を聞いて、ジャンニは度肝を抜かれた。「メシアの姉妹」、それは、この世で最も有名で最も高価なヴァイオリンだ。
あらゆる方面を当たってみてもトマソ殺害の動機がはっきりしないため、ジャンニの友人であり刑事でもあるグァスタフェステと共に、「メシアの姉妹」を追うことにした。トマソは一体どんなヒントを得たのか?「メシアの姉妹」など、本当に存在するのか?古い手紙や絵などから、彼らは「メシアの姉妹」を探し出そうとするが…。
というような話です。

なかなか面白い話でしたけど、込み入った話が多くてついていけない部分が結構多かったです。特に、「メシアの姉妹」と呼ばれるヴァイオリンの真贋問題に関わる来歴や人の動きの話が複雑で、基本的に全然理解できませんでした。だから最後、ジャンニが何を見つけ、そこからどう解き明かしていったのか、みたいなことはイマイチよく分かりませんでした。

個人的に関心が向いたのが、どうしても欲しい、という欲求についてです。

『ヴァイオリンを手に入れたいという望みが、欲が、人間をどれほど食いつくし、堕落させるかは見てきていた』

僕には基本的に、物欲がない。何かが欲しい、なんて欲求に囚われることがない。今欲しいものは?と聞かれても特にないし、人生を通じても、欲しいと思ったものなんてほとんどないと思う。
だから僕には、モノに惹かれる、という気持ちがイマイチ理解できない。

『メシアは美学的に言っても美しいが、それだけでなく機能もそなわっている。これまで歴史に登場したあらゆる宝石、あらゆる絵、あらゆる詩を集めたものよりも、さらに無上の音、無上の音楽を奏でるんだからね』

凄い評価である。ジャンニも、『ヴァイオリン作りを始めてから、もう半世紀がすぎたというのに、いまだにヴァイオリンの何がこんなにも強い気持ちをかきたてるのだろう』と言っているように、どうしてそんな衝動に囚われるのか理解できないようだが、とにかくヴァイオリンは、見る人によってはその美しさに狂ってしまうようなものであるらしい。そんな気持ちになってみたい気もするが、そのせいで人殺しになったりはしたくないからなぁとも思う。

ヴァイオリンが他の芸術作品と多少異なるのは、それが楽器である、という点だ。これが、彫刻や絵画などとは異なる。このことに関する主人公・ジャンニの考え方が僕は好きだ。

『芸術品を収集する人間に文句があるのではない。芸術品の唯一の目的は見られることだからだ。公共のギャラリーであろうと、コレクターの家の壁であろうと、肝心なのはそれをどれだけの人が楽しめるかということだけだ。しかしヴァイオリンは違う。ヴァイオリンとは演奏され、聴かれるべきものであって、金庫やガラスケースにしまっておくものではない。ファルラーニは自分の所有している楽器を、制作者たちが意図していたように使ってくれるはずの、才能はあっても貧しい演奏家たちや、若い音楽家たちに貸し出すこともできるのに、自分だけがながめられるようしまいこむほうを選んでいた』

ジャンニはこの信念を貫き通し、自分なりの決断で行動をする。魑魅魍魎が跋扈する世界で誠実さを貫くジャンニの生き方も魅力的な作品だ。

ポール・アダム「ヴァイオリン職人の探求と推理」

14歳からの哲学 考えるための教科書(池田晶子)

僕はよく、変人が好きだ、と言う。
それは、「考えることが好きな人」が好きだ、という意味だ。

『どのように考え、どのように生きるかは、やっぱりどこまでも君の自由だ。この本に書いてあることだって、君に何を教えているわけでもないんだよ』

これまでの時代がどうだったか、それは僕には分からないけど、少なくとも今の時代は、「考えることが好きな人」は「変人」と扱われることが多い。それぐらい、考えていない人間が多いと僕は感じる。

『人は、自分がわかっていると思っていたことが、じつはまるでわかっていなかったということに気がつくからこそ、わかろうとして考え始めるのであって、それ以外に人がものを考え始める理由はない』

僕は、他者と価値観が合うこと、にあまり重点を置かない。同じものが好きだったり、同じような考え方を持っていたり、そういうことが重要だとはあまり思わない。好きなものが全然重ならなかったり、まるで違う考え方をしていてもいいし、むしろその方が面白いと感じる。
価値観が合うかどうかよりも、その人なりの考え方がきちんとあるかどうか、ということが僕にとっては大事だ。

『まさかこの本を暗記して覚える人はいないと思うけど、ひと通り読んで、ハイそういう考え方もあると知りましたというのでは、何を知ったことにもならない。もし君が、この本に書いてあることを自分で考えて、自分の知識として確実に知ったのなら、君の生き方考え方は、必ず変わる。変わるはずなんだ。本当に知る、「わかる」とは、つまり、そういうことなんだ』

多くの人は、誰かが考えたことを信じたいと思っているように見える。もちろん、そうするしかない場合も多くある。例えば、最も効率の良いエンジンの仕組みは、自分がその仕組みを理解できないから説明されることを信じるしかない。あるいは、宇宙から地球を見た時の感想は、実際に宇宙に言った人間の言っていることを信じるしかない。そういうことは世の中にたくさんある。
しかし、そうではないことだってたくさんあるはずなのだ。

『この本には、いかなる答えも書いていない。答えなんかないのだから、書くことはできない。もし君が、何か答えが書いてあると期待して読んだのなら、肩すかしをくらったと思うだろう。でも、もし肩すかしをくらったと思ったのなら、それこそが始まりなんだ。君は、わからないということが、わかったのだからだ。「読む」ということは、それ自体が、「考える」ということなんだ。字を読むことなら誰だってできるさ。でも、それこそ何もわからないだろ。字を読むのではなくて「本を読む」ということは、わからないことを共に考えてゆくということなんだ』

自分がどんな風に生きていたいのか、何を楽しいと思うのか、何を良いと判断し何を悪いと判断するのか。あるいは、どうやったら痩せられるのか、どうやったらお金持ちになれるのか、どうやったら彼女が出来るのか。抽象的なことから具体的なことまで、多くの人は誰かの考えを借りたがる人がいる。それは自分で考えて結論を出すことなんだぞ、という事柄についても、自分の外側のどこかに答えがあるみたいに思い込んで、自分の内側から答えを出そうとしない人がいる。
僕はどうにも、そういう人に興味を持つことが出来ない。

『自由というのは、他人や社会に求めるものではなくて、自分で気がつくものなんだ』

テレビで言っていたこと、雑誌や本に書いてあったこと、友達から聞いたこと、ネットで見たこと。現代は、あらゆる人が考えたあらゆる価値観に簡単にアクセス出来る時代になっていて、僕らはまるで、バイキングで料理を選ぶみたいにして、自分の好きな価値観を自分の周りに集めることが出来てしまう。そうやって、借りてきた考え方だけで、自分の周りを固めてしまうことが容易に出来てしまう。

『自分で考えることをしない人の不自由は、まったく同じなんだ。人は、思い込むことで自分で自分を不自由にする。それ以外に自分の自由を制限するものなんて、この宇宙には、存在しない。』

他人の考え方は、それがどれだけ自分に近いものであっても、結局は「近いもの」でしかない。どこまで行っても近似値に過ぎなくて、そういうもので自分の周りを固めてしまえば、やがて自分の輪郭さえぼやけていくだろう。でも、多くの人は、自分の輪郭がぼやけていることに気づかない。自分の内側から出した考え方でなければ自分自身というものは保つことが出来ないということに気づかない。

『人が信じるのは、考えていないからだ。きちんと考えることをしていないから、無理に信じる、盲信することになるんだ』

考えないことで、人は不自由になる。当然だ。元々存在する場所に、自分自身を押し込めなくちゃいけないのだから。僕らは、情報を手に入れることは、とても上手になった。でも、情報をそのまま価値観だと捉えているから苦しくなる。情報は、自分の内側で熟成させないと、価値観には変わらないのだ。

『情報は知識ではない。ただの情報を自分の血肉の知識とするためには、人は自分で考えなければならないんだ』

「考えることが好きな人」が「変人」と思われるのは、考えるために時間が必要だという点がある。考えるためには、他人と関わっている時間なんてないのだ。

『孤独というのはいいものだ。友情もいいけど、孤独というのも本当にいいものなんだ。今は孤独というとイヤなもの、逃避か引きこもりとしか思われていないけれども、それはその人が自分を愛する仕方を知らないからなんだ。自分を愛する、つまり自分で自分を味わう仕方を覚えると、その面白さは、つまらない友だちといることなんかより、はるかに面白い。人生の大事なことについて、心ゆくまで考えることができるからだ』

多くの他人と関わりを持ちながら、考えるということも一緒に継続していくことはなかなか難しい。どうしても、考える人というのは、一人になりがちだ。そうやって、自分の考え方を熟成させていく。それは、他人と関わることこそ大事だ、と考えている人からは、「変人」だと見られる。
きちんと一人の時間を持つことが出来ない人と話していても、面白いと感じることは少ない。

『考えるということは、ある意味で、自分との対話、ひたすら自分と語り合うことだ。だから、孤独というのは、決して空虚なものではなくて、とても豊かなものなんだ。もしこのことに気がついたなら、君は、つまらない友だちとすごす時間が、人生においていかに空虚で無駄な時間か、わかるようになるはずだ。ただ友だちがほしいって外へ探しに行く前に、まず一人で座って、静に自分を見つめてごらん。
そんなふうに自分を愛し、孤独を味わえる者同士が、幸運にも出会うことができたなら、そこに生まれる友情こそが素晴らしい。お互いにそれまで一人で考え、考え深めてきた大事な事柄について、語り合い、確認し、触発し合うことで、いっそう考えを深めてゆくことができるんだ。むろん全然語り合わなくたってかまわない。同じものを見ているという信頼があるからだ』

考えることが出来ない人間は不自由に見える。自分自身で考え、新しい価値観を自分の内側から出すことで、人は自由になることが出来る。誰かから借りてきた、自分の内側に根付いているわけではない考え方ばっかりに寄りかかっている人は、いつまでたっても不自由から抜け出せない。しかし、考えることが出来ない人は、不自由の原因が、自分が考えていないことにある、ということに気づけない。

『でも、考えるということは、多くの人が当たり前だと思って認めている前提についてこそ考えることなのだと、君はそろそろわかってきているね』

考える、ということがどういうことなのか、人生の中で教わる機会はほとんどない。学校では、答えを導くとか、物事を覚えるというようなことばかりさせられる。そしてそれが、考えるということなんだろうと、僕らは漠然と思うようになっていく。
しかし、考えるというのは結局、問うことなのだと思う。分からないことを見つけ出し、その分からないことに対して問いかけることなのだと思う。

『考えるためには、何よりもまず当たり前なことに気がつくことだ。あれこれの知識を覚えるのも大事だけれど、一番大事なことは当たり前なことに気がつくことなんだ』

本書は、「考えるための教科書」と、「教科書」と銘打たれている。考える、ということは、恐らく、誰も教わらずに大人になっていく。時々、どうしてか分からないけどどうしようもなく手放すことが出来ない思考に囚われた人間が、手探りで「考える」という森に中へと入り込んでいく。そうやって、「考える」というやり方を身につける者もいるだろう。しかし、全員ではない。

『大丈夫さ、だって、君は自分で考えることができるんだもの』

そう、誰でも考えることが出来る。やり方を知らないだけだ。この作品は、「考える」を体験させてくれる作品だ。本書は、答えではない。強いて言うならば、問いである。しかし、ここで書かれている問いも、絶対的なものではない。当たり前だ。僕らは、何について考えてもいい。本書は、著者が例題的な問いを提示し、それに対して著者が答えるという形で、「考える」を教えてくれる本だ。だから、ここに書かれている答えに見えるものを受け入れなければならないわけでもないし、ここに書かれている問いについて考えなければいけないわけでもない。
ただ、「考える」をあまり経験したことがない人は、ここに書かれている問いについてまず考えてみるのがいいだろう。

『友だちがいないことで悩んでいる君は、なぜそれが悩みなのかを考えたことがあるかしら。休み時間や行事の時など、友だちがいないと淋しいし、つまらない。なるほど、たぶんそれはつまらないことだけれども、でも、ちょっとここで想像してごらん。それは、つまらない友だちといることよりも、つまらないことかしら。つまらない友だちといることの方が、一人でいることよりも、つまらなくないことかしら』

たとえば、こんな風に。

大人が読んでもいい。非常に素晴らしい作品だ。人は何について、どんな風に考えるべきなのか。そういうことを体感することなく大人になってしまった人は、本書を読むことで、そのスタートを切ってみるといい。

池田晶子「14歳からの哲学 考えるための教科書」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)