きみはいい子(中脇初枝)
内容に入ろうと思います。
本書は、かつて烏ヶ谷と呼ばれ、今は桜ヶ丘として新興住宅地となったとある土地を舞台にした、学校や子供のいる環境を主に舞台にした連作短編集です。
「サンタさんのこない家」
教師になりたての岡野は、桜が丘小学校の一年生の担任になった。自分では大したことがないと思っていたちょっとした出来事がきっかけで、あっさりと学級崩壊してしまった。
翌年四年生を受け持ったが、やはりうまくいかない。どうしていいかわからない岡野は、それでも奮闘するが、そんな中、給食をおかわりするが給食費を払っていない神田という生徒の存在が気になった…。
「べっぴんさん」
あたしは、公園でだけは笑顔だ。公園では、どのママも笑顔。でもあたしは知っている。きっとみんな家では子供を叩いているはずだ。だって、あたしがそうだもの。
あやねも、公園でだけは怒られないと知って、家にいる時とは大違いだ。何かあると、すぐ手が出てしまう。でも、これは、あたしが悪いんじゃない。公園のママ友達であるはなちゃんママが、聞こえのいいことばかり言ってくるせいだ…
「うそつき」
土地家屋調査士である杉山は、自営業だということが知られると、学校や地域の色んな役割を頼まれるようになった。その縁で、学校なんかにも頻繁に行き来することがある。
息子の優介はちょっと周りとうまく溶け込めない感じで、妻のミキはいつだって本音で優介の味方なんだけど、ちょっとヒヤヒヤする。
そんな優介がある日、初めて家に友達を連れてきた。山崎くんというその男の子は「うそつき」だと優介は言うのだけど…
「春がくるみたいに」
一度結婚はしたけど、その結婚もうまく行かず、戦争をくぐり抜けてきたけど結局とうさまとかあさまも死んでしまって、今ではもう一人。長いことずっと誰とも話さないなんていうことも普通の日常がやってきてしまった。
歩いていると、毎回わたしに挨拶をしてくれる小学生ぐらいの男の子がいる。実に丁寧な挨拶で、その子のことは気になっていた。ある日鍵をなくしたというその男の子を家にあげたのだが…
「うばすて山」
妹のみわから、母を少しの間だけ預かってくれないか、と電話がある。施設に預けるまでの数日だけ、と。わたしは、忘れることが出来ない。私にだけ厳しかった、いや、厳しいという表現では到底伝えきれないほどの仕打ちをわたしにしてきた母のことを。
それでも、わたしは預かることにした。もうわたしのことなど欠片も覚えていない母のことを。
ずっしりと重い、でもほのかに暖かさを感じる石をお腹の中に入れているような感じのする作品でした。決して軽くはない、明るくもないテーマを扱いつつも、悲愴的になりすぎもせずに、子供の持つ「素直さ」によって救われ、またそれが悲しさを醸しだすような、そういう作品だと思います。
本作は、先程ざっくり「学校や子供のいる環境を主に舞台に」と書いたけど、子供を描いた小説、つまり「大人の目線で子供の姿を描いた作品」というわけではない。そう、僕は思った。本作は、子供を通じて大人を、つまり「子供という前景を描くことで、その後ろにいる大人の姿を描いた作品」だと僕は感じました。
子供はどうしたって、子供だけでは生きていけない。子供は、どういう形であれ、何らかの「大人の社会」にくっついていなければ生きていけなくて、だからこそ、子供の存在には大人の影が見え隠れする。
小説で子供が描かれる時、確かにその背後に大人の存在を薄く感じる。もちろん、作品のテーマによっては、それがくっきりと浮かび上がるようなものもあるだろう。本書は、子供の世界を、あるいは記憶の中の子供時代を描く作品であるようでいて、実際は、その子供の背後にいる「大人」の存在を、明確な意志を持って捕まえようとする作品。僕はそんな風に感じました。
本作では、「虐待」というのが一つのテーマとして扱われてる。決してそれだけが扱われているわけではないし、また「緩い育児放棄」など、「虐待」と呼ぶほどでもないものも扱われていたりするので、一概に「虐待」がテーマの作品だとは言えない作品なのだけど、一面として「虐待」というのはひとつ大きな軸となる。
子供と虐待というと僕はすぐに、金原ひとみの「マザーズ」という小説が思い浮かぶ。
「マザーズ」では、子育て真っ最中の、まったく個性の違う三人の母親を主人公に据え、「現代の日本で女性が子供を育てること」というのを前面に押し出しながら、子育てや母子の関係などを描く作品で、そのずっしりとした重さは、なかなかの重量感だった。読んでいる間も読後も、うわぁー、と言いたくなるような感覚がずっとあって、壮絶と表現しても言い過ぎではない、恐らくこれが現実なのだろうと思わせる底の深さに慄かされた作品だった。
本作は、同じ「虐待」を扱う作品でありながら、そういう作品ではない。どちらがいい、という話ではなくて。
本作では「虐待」というのは、一つの風景や記憶になっている、と僕は感じる。つまりそれは「日常」ということだ。
かつて、まだ「児童虐待」という言葉さえ認知されていなかったような頃から、子供に対する虐待は存在しただろう。でも現代では、「虐待」というのは、ある程度以上の認知のされ方をしてしまっている。母親が子供を虐待する、という事実に、驚く人はそう多くはないだろう。実数として、昔と比べて児童虐待が増えているのか減っているのか、それは僕は知らないけど、少なくともひとつ、かつてとまったく違っていることは、児童虐待が既に認知され、酷いことだとも思うし、なんとかしてやりたいとも思うのだけど、でも同時に、あぁまたか、と思ってしまうような、そういう風景化が、今の日本では起こってしまっているように思うのだ。
本作では、その風景としての「虐待」を、実にうまく掬いとっていると僕は感じる。
「マザーズ」では、母親自身が主人公であり、その母親にとっては、目の前にいる子供を「育てること」は、その時点での自らの人生において最も重大で重要な事柄だ。だからこそ、「虐待」に限らず、「子育て」に関わるありとあらゆる事柄は、母親にとっては一大事となる。「風景」などとは言っていられない。「マザーズ」ではそういう、母親自身による、どうしたって「風景」とは思えない「虐待」の現実が切り取られる。
しかし本作では、母親自身が主人公の話もあるが、タイトルにも現れているように、基本的には「となりのこども」を描いている。つまり、自分の子に対してではない「虐待」が描かれる話が多い。
自分の子に対してではない「虐待」は、日常化し、風景化してしまっている。それは、「サンタさんのこない家」に出てくる校長の言葉からもわかるように思う。
明らかに家で虐待されている子供の存在を知った担任教師は、その子の身体検査をするよう主張し認められる。が、校長から、「服は脱がせてはいけない」と言われるのだ。「服を脱がせると、保護者が怒鳴りこんでくることがあるから」と。これが風景化ではなくてなんだろう。学校にも色んな事情があるだろうし、校長としての立場もあるだろう。虐待に限らず、不幸な環境に置かれている子供がきっと増えているだろうから、そのすべてに対応しきれない、という発想もあるのかもしれない。でも、と思ってしまう。
「うそつき」も、そんな風景化した虐待の話だろう。とはいえ、こちらの話は、風景化しているからこそフラットに関われる、そんな家族の話でもある。風景化が、必ずしも悪いわけではない。
「べっぴんさん」は、虐待をしてしまう母親目線の話だ。けれどこの話は、最後の最後で、主人公ではないある人物に視点を移すことで、物語がガラっと変わる、そんな話だ。物語の初めから、その「ある人物」目線で作品を読むことが出来れば、風景化と言えるかもしれない。
「春がくるみたいに」は、ちょっと「虐待」の話とするには無理があるか。「うばすて山」は、「記憶の中の虐待」を扱ってるから、その膨大な時間の流れによって、虐待の事実がある種の風景化をしている、なんて言ったり出来るかもだけど、まあちょっと無理があるかな。
僕自身の話をしよう。
僕は、子供の頃になんて絶対に戻りたくない、とずっと思っている。僕自身の中では、子供時代は本当に大変だった。昔の自分に、よく頑張ったな、と言ってやりたいぐらい、僕は結構頑張っていたと思う。
僕は、別に親から虐待を受けたこともなければ、学校でいじめに遭ったこともほとんどない(こっちは、まったくない、とは言い切れないけど、でもその事実をほとんど思い出せないくらい軽微なものだったと思う)、傍から見ていれば、まあ平和な環境で生きていた子供だったと思う。少なくとも外側から見てわかるような、わかりやすい「何か」があったわけではない。
それはそれで僕を苦しめることになるわけだけど、とりあえず。
僕は子供の頃から、「表現できない辛さ」みたいなものに搦め捕られていた。それは、今でもそうだ。今でも僕は、「表現できない辛さ」みたいなものにがんじがらめにされているんだけど、でもそれは、子供の頃ほどじゃないと思う。
子供の頃は、自分が何に辛さを感じいているのか、全然わからなかった。自分の中でさえ、それをきちんと意識することが出来ないでいた。それが、結構苦しかった。
それはある意味では、「虐待」と結びつけて考えることが出来るかもしれない。今でもこそ、児童虐待というのは認知されているし、色んな経験が「児童虐待」という言葉で表現することで、色んな人に一瞬で理解される世の中になった。
しかし、「児童虐待」というのが社会的に認知されていなかった時代の子供たちは、今以上に(と、そんなことで比べても仕方がないことはもちろんわかっているけども)辛かっただろうと思う。
何故なら、「親から虐待を受けている」という事実が社会的に共通認識ではなく、誰にでも伝わるような形でその辛さを表現出来なかったからだ。
作中でこんなシーンがある。大人になった主人公が、かつて親から受けていた虐待を思い返している。友達の家に遊びに行った時、その家の子が洗濯物を干している母親の名前を呼ぶと、母親はにこっと笑って振り向いてくれた。そこで自分も、料理をしている母親の名前を読んでみると、怒ったような顔で振り向いて、用がないなら呼ぶんじゃない、と怒鳴られる。
そしてここからだ。怒鳴られた子供は考える。友達の家では、母親は洗濯物を干している時だった。だからうちのおかあさんも、洗濯物を干している時だったら笑って振り向いてくれるのかもしれない、と。
もちろんこれは、児童虐待が認知されていなかった時代だったから、というわけではないだろう。今だって子供たちは同じようなことがあれば、同じような思考をするかもしれない。でも「母親が子供を虐待する」ということが前提の知識としてあるかどうかによって、母親の行為をどう捉えるかにかなり差が出るだろう、と思うのだ。少なくとも今は、自分がされている行為を誰か外の大人に話せば、子供が「児童虐待」という単語を使わなかったとしても、大人には一瞬にして「児童虐待」という単語が浮かぶ。それは、母と子というものがいる以上児童虐待が永遠になくならないのだと考えれば、少なくともましな世の中になったのだろう、と僕は思う。
僕自身は未だに、自分が何を辛いと思っているのか、人にすんなり分かってもらえる形で表現することは出来ない。子供の頃は、自分の中で意識ができず、それにも苦しんだ。自分が苦しんでいる理由を、母親が嫌なやつだからだとか、学校という場が窮屈だからだとか、そういう「自分以外の何か」に付託して考えていた。それで、人に迷惑を掛けたこともあるし、僕のことをよくわからないやつだと思っていた人もきっといるだろう。
今では、僕自身は理解している。少なくとも、理解できた気にはなっている。でもそれを、誰かに共感してもらえる形で表現することは、やっぱりまだ出来ない。「フリーター」という単語が世の中に存在しなかった頃に、フリーターについて説明するようなものだ。もし僕と同じようなことを感じている人がたくさんいて(でも、そういう人がいても、お互いの感覚をどこまで共有できるのかは難しいところかもだけど)、それを表現する何か絶妙な単語を見つけて発信したりすれば、少しずつ社会に浸透したりするのかもしれないけど、少なくとも今は駄目だと思う。僕が感じているこの「表現しようのない辛さ」を、誰かに分かってもらえるように伝える自信が、未だに僕にはない。
僕は本書を読んで、そういうようなことを考えさせられた。「虐待」というものが、ある種風景になっている世の中で「虐待」を受ける子供たち。確かに、自分の置かれている状況への理解者は増えるかもしれない。でもそれは、増えるだけだ。別に、自分の味方をしてくれるわけでもない。それに、「児童虐待」というのが認知されることで、逆に「虐待」というものが類型化されすぎて、一人ひとり個別の事情を全部平坦にして「虐待」というものが捉えられてしまうような、そんな恐れもある。もちろん子供は、こうしたことを、明確な言葉で思考できているわけではないだろう。でも、子供は、決してそういうことに気づいていないわけではない。言葉で思考することは出来ないかもしれないけど、子供はちゃんとそういうことが分かっているし、だからこそ「虐待」というのが余計複雑な問題になっているのかもしれない、なんてわかったようなことを言うことだって出来てしまう。
本作ではそういう、「虐待」というものがある種の風景になってしまった日本という国における「虐待」というものについて、色んな子供を描き出すことで、その後ろにいる大人を炙り出している、そんな感じがしました。
児童虐待は、間違いなくなくならない。それは、色んな理由からそう推察できる。元々子育てというものは相当に辛いものだろうから、虐待が生まれる余地は常にあるのだと思う。しかしそれだけではなくて、今の日本の社会がそれを助長してしまう要素に溢れているように思える。一度「児童虐待」という言葉を与えられ、認知されたからには、もうそれはどんどん「当たり前」のことになっていくしかない。
そういう社会の中で、良識ある大人として何が出来るのか。どう感じるべきなのか。
きっと明確な答えはないのだろう。その答えを模索しようと奮闘している「大人」たちが、描かれているのかもしれない。
もう僕たちは、「児童虐待」の存在を知っても、少なくとも驚けない。それに、酷いとか悲しいとか、そういう感情を持つことは出来るけど、「まさかそんなことが」という驚きは、もはや共有できない。そういう世の中になってしまった。そういう世の中になってしまったからこそ、生まれた物語ではないかと思う。子供の素直さに救われる部分もあれば、子供の素直さにやるせなさを感じる部分もある。自分の力ではどうにもならない無力さを共感できる部分も多い。
根本的な解決策はない。ただ、「サンタさんのこない家」で教師である主人公が、自分のクラスに出したとある「宿題」にこそ、解決の糸口はあるのかもしれない。
作中でこんな場面がある。僕が一番好きな箇所だ。学校関連の役割を色々とやってきた主人公は、今の子供たちを見てこんな風に感じる。
『たかだか十年しか生きていない彼らの、学校以外の時間の中に、一体なにがおこっているのだろう。そのときにあげられなかったさけびが、安心できる学校で、安心できる先生の前で、あげられているとしか思えない。』
親と子だけではなく、学校で、また地域で、子供とどう関わっていくべきなのか、そういうことを少し考えさせられる作品です。「虐待」という結構重いテーマが扱われているけど、内容自体そこまで重いわけではなく、でも切なさの漂う作品です。「虐待」を受けていたわけではないけど、子供時代痛切に生きづらさを感じていた僕にとっては、共感させられる作品でした。是非読んでみてください。
中脇初枝「きみはいい子」
本書は、かつて烏ヶ谷と呼ばれ、今は桜ヶ丘として新興住宅地となったとある土地を舞台にした、学校や子供のいる環境を主に舞台にした連作短編集です。
「サンタさんのこない家」
教師になりたての岡野は、桜が丘小学校の一年生の担任になった。自分では大したことがないと思っていたちょっとした出来事がきっかけで、あっさりと学級崩壊してしまった。
翌年四年生を受け持ったが、やはりうまくいかない。どうしていいかわからない岡野は、それでも奮闘するが、そんな中、給食をおかわりするが給食費を払っていない神田という生徒の存在が気になった…。
「べっぴんさん」
あたしは、公園でだけは笑顔だ。公園では、どのママも笑顔。でもあたしは知っている。きっとみんな家では子供を叩いているはずだ。だって、あたしがそうだもの。
あやねも、公園でだけは怒られないと知って、家にいる時とは大違いだ。何かあると、すぐ手が出てしまう。でも、これは、あたしが悪いんじゃない。公園のママ友達であるはなちゃんママが、聞こえのいいことばかり言ってくるせいだ…
「うそつき」
土地家屋調査士である杉山は、自営業だということが知られると、学校や地域の色んな役割を頼まれるようになった。その縁で、学校なんかにも頻繁に行き来することがある。
息子の優介はちょっと周りとうまく溶け込めない感じで、妻のミキはいつだって本音で優介の味方なんだけど、ちょっとヒヤヒヤする。
そんな優介がある日、初めて家に友達を連れてきた。山崎くんというその男の子は「うそつき」だと優介は言うのだけど…
「春がくるみたいに」
一度結婚はしたけど、その結婚もうまく行かず、戦争をくぐり抜けてきたけど結局とうさまとかあさまも死んでしまって、今ではもう一人。長いことずっと誰とも話さないなんていうことも普通の日常がやってきてしまった。
歩いていると、毎回わたしに挨拶をしてくれる小学生ぐらいの男の子がいる。実に丁寧な挨拶で、その子のことは気になっていた。ある日鍵をなくしたというその男の子を家にあげたのだが…
「うばすて山」
妹のみわから、母を少しの間だけ預かってくれないか、と電話がある。施設に預けるまでの数日だけ、と。わたしは、忘れることが出来ない。私にだけ厳しかった、いや、厳しいという表現では到底伝えきれないほどの仕打ちをわたしにしてきた母のことを。
それでも、わたしは預かることにした。もうわたしのことなど欠片も覚えていない母のことを。
ずっしりと重い、でもほのかに暖かさを感じる石をお腹の中に入れているような感じのする作品でした。決して軽くはない、明るくもないテーマを扱いつつも、悲愴的になりすぎもせずに、子供の持つ「素直さ」によって救われ、またそれが悲しさを醸しだすような、そういう作品だと思います。
本作は、先程ざっくり「学校や子供のいる環境を主に舞台に」と書いたけど、子供を描いた小説、つまり「大人の目線で子供の姿を描いた作品」というわけではない。そう、僕は思った。本作は、子供を通じて大人を、つまり「子供という前景を描くことで、その後ろにいる大人の姿を描いた作品」だと僕は感じました。
子供はどうしたって、子供だけでは生きていけない。子供は、どういう形であれ、何らかの「大人の社会」にくっついていなければ生きていけなくて、だからこそ、子供の存在には大人の影が見え隠れする。
小説で子供が描かれる時、確かにその背後に大人の存在を薄く感じる。もちろん、作品のテーマによっては、それがくっきりと浮かび上がるようなものもあるだろう。本書は、子供の世界を、あるいは記憶の中の子供時代を描く作品であるようでいて、実際は、その子供の背後にいる「大人」の存在を、明確な意志を持って捕まえようとする作品。僕はそんな風に感じました。
本作では、「虐待」というのが一つのテーマとして扱われてる。決してそれだけが扱われているわけではないし、また「緩い育児放棄」など、「虐待」と呼ぶほどでもないものも扱われていたりするので、一概に「虐待」がテーマの作品だとは言えない作品なのだけど、一面として「虐待」というのはひとつ大きな軸となる。
子供と虐待というと僕はすぐに、金原ひとみの「マザーズ」という小説が思い浮かぶ。
「マザーズ」では、子育て真っ最中の、まったく個性の違う三人の母親を主人公に据え、「現代の日本で女性が子供を育てること」というのを前面に押し出しながら、子育てや母子の関係などを描く作品で、そのずっしりとした重さは、なかなかの重量感だった。読んでいる間も読後も、うわぁー、と言いたくなるような感覚がずっとあって、壮絶と表現しても言い過ぎではない、恐らくこれが現実なのだろうと思わせる底の深さに慄かされた作品だった。
本作は、同じ「虐待」を扱う作品でありながら、そういう作品ではない。どちらがいい、という話ではなくて。
本作では「虐待」というのは、一つの風景や記憶になっている、と僕は感じる。つまりそれは「日常」ということだ。
かつて、まだ「児童虐待」という言葉さえ認知されていなかったような頃から、子供に対する虐待は存在しただろう。でも現代では、「虐待」というのは、ある程度以上の認知のされ方をしてしまっている。母親が子供を虐待する、という事実に、驚く人はそう多くはないだろう。実数として、昔と比べて児童虐待が増えているのか減っているのか、それは僕は知らないけど、少なくともひとつ、かつてとまったく違っていることは、児童虐待が既に認知され、酷いことだとも思うし、なんとかしてやりたいとも思うのだけど、でも同時に、あぁまたか、と思ってしまうような、そういう風景化が、今の日本では起こってしまっているように思うのだ。
本作では、その風景としての「虐待」を、実にうまく掬いとっていると僕は感じる。
「マザーズ」では、母親自身が主人公であり、その母親にとっては、目の前にいる子供を「育てること」は、その時点での自らの人生において最も重大で重要な事柄だ。だからこそ、「虐待」に限らず、「子育て」に関わるありとあらゆる事柄は、母親にとっては一大事となる。「風景」などとは言っていられない。「マザーズ」ではそういう、母親自身による、どうしたって「風景」とは思えない「虐待」の現実が切り取られる。
しかし本作では、母親自身が主人公の話もあるが、タイトルにも現れているように、基本的には「となりのこども」を描いている。つまり、自分の子に対してではない「虐待」が描かれる話が多い。
自分の子に対してではない「虐待」は、日常化し、風景化してしまっている。それは、「サンタさんのこない家」に出てくる校長の言葉からもわかるように思う。
明らかに家で虐待されている子供の存在を知った担任教師は、その子の身体検査をするよう主張し認められる。が、校長から、「服は脱がせてはいけない」と言われるのだ。「服を脱がせると、保護者が怒鳴りこんでくることがあるから」と。これが風景化ではなくてなんだろう。学校にも色んな事情があるだろうし、校長としての立場もあるだろう。虐待に限らず、不幸な環境に置かれている子供がきっと増えているだろうから、そのすべてに対応しきれない、という発想もあるのかもしれない。でも、と思ってしまう。
「うそつき」も、そんな風景化した虐待の話だろう。とはいえ、こちらの話は、風景化しているからこそフラットに関われる、そんな家族の話でもある。風景化が、必ずしも悪いわけではない。
「べっぴんさん」は、虐待をしてしまう母親目線の話だ。けれどこの話は、最後の最後で、主人公ではないある人物に視点を移すことで、物語がガラっと変わる、そんな話だ。物語の初めから、その「ある人物」目線で作品を読むことが出来れば、風景化と言えるかもしれない。
「春がくるみたいに」は、ちょっと「虐待」の話とするには無理があるか。「うばすて山」は、「記憶の中の虐待」を扱ってるから、その膨大な時間の流れによって、虐待の事実がある種の風景化をしている、なんて言ったり出来るかもだけど、まあちょっと無理があるかな。
僕自身の話をしよう。
僕は、子供の頃になんて絶対に戻りたくない、とずっと思っている。僕自身の中では、子供時代は本当に大変だった。昔の自分に、よく頑張ったな、と言ってやりたいぐらい、僕は結構頑張っていたと思う。
僕は、別に親から虐待を受けたこともなければ、学校でいじめに遭ったこともほとんどない(こっちは、まったくない、とは言い切れないけど、でもその事実をほとんど思い出せないくらい軽微なものだったと思う)、傍から見ていれば、まあ平和な環境で生きていた子供だったと思う。少なくとも外側から見てわかるような、わかりやすい「何か」があったわけではない。
それはそれで僕を苦しめることになるわけだけど、とりあえず。
僕は子供の頃から、「表現できない辛さ」みたいなものに搦め捕られていた。それは、今でもそうだ。今でも僕は、「表現できない辛さ」みたいなものにがんじがらめにされているんだけど、でもそれは、子供の頃ほどじゃないと思う。
子供の頃は、自分が何に辛さを感じいているのか、全然わからなかった。自分の中でさえ、それをきちんと意識することが出来ないでいた。それが、結構苦しかった。
それはある意味では、「虐待」と結びつけて考えることが出来るかもしれない。今でもこそ、児童虐待というのは認知されているし、色んな経験が「児童虐待」という言葉で表現することで、色んな人に一瞬で理解される世の中になった。
しかし、「児童虐待」というのが社会的に認知されていなかった時代の子供たちは、今以上に(と、そんなことで比べても仕方がないことはもちろんわかっているけども)辛かっただろうと思う。
何故なら、「親から虐待を受けている」という事実が社会的に共通認識ではなく、誰にでも伝わるような形でその辛さを表現出来なかったからだ。
作中でこんなシーンがある。大人になった主人公が、かつて親から受けていた虐待を思い返している。友達の家に遊びに行った時、その家の子が洗濯物を干している母親の名前を呼ぶと、母親はにこっと笑って振り向いてくれた。そこで自分も、料理をしている母親の名前を読んでみると、怒ったような顔で振り向いて、用がないなら呼ぶんじゃない、と怒鳴られる。
そしてここからだ。怒鳴られた子供は考える。友達の家では、母親は洗濯物を干している時だった。だからうちのおかあさんも、洗濯物を干している時だったら笑って振り向いてくれるのかもしれない、と。
もちろんこれは、児童虐待が認知されていなかった時代だったから、というわけではないだろう。今だって子供たちは同じようなことがあれば、同じような思考をするかもしれない。でも「母親が子供を虐待する」ということが前提の知識としてあるかどうかによって、母親の行為をどう捉えるかにかなり差が出るだろう、と思うのだ。少なくとも今は、自分がされている行為を誰か外の大人に話せば、子供が「児童虐待」という単語を使わなかったとしても、大人には一瞬にして「児童虐待」という単語が浮かぶ。それは、母と子というものがいる以上児童虐待が永遠になくならないのだと考えれば、少なくともましな世の中になったのだろう、と僕は思う。
僕自身は未だに、自分が何を辛いと思っているのか、人にすんなり分かってもらえる形で表現することは出来ない。子供の頃は、自分の中で意識ができず、それにも苦しんだ。自分が苦しんでいる理由を、母親が嫌なやつだからだとか、学校という場が窮屈だからだとか、そういう「自分以外の何か」に付託して考えていた。それで、人に迷惑を掛けたこともあるし、僕のことをよくわからないやつだと思っていた人もきっといるだろう。
今では、僕自身は理解している。少なくとも、理解できた気にはなっている。でもそれを、誰かに共感してもらえる形で表現することは、やっぱりまだ出来ない。「フリーター」という単語が世の中に存在しなかった頃に、フリーターについて説明するようなものだ。もし僕と同じようなことを感じている人がたくさんいて(でも、そういう人がいても、お互いの感覚をどこまで共有できるのかは難しいところかもだけど)、それを表現する何か絶妙な単語を見つけて発信したりすれば、少しずつ社会に浸透したりするのかもしれないけど、少なくとも今は駄目だと思う。僕が感じているこの「表現しようのない辛さ」を、誰かに分かってもらえるように伝える自信が、未だに僕にはない。
僕は本書を読んで、そういうようなことを考えさせられた。「虐待」というものが、ある種風景になっている世の中で「虐待」を受ける子供たち。確かに、自分の置かれている状況への理解者は増えるかもしれない。でもそれは、増えるだけだ。別に、自分の味方をしてくれるわけでもない。それに、「児童虐待」というのが認知されることで、逆に「虐待」というものが類型化されすぎて、一人ひとり個別の事情を全部平坦にして「虐待」というものが捉えられてしまうような、そんな恐れもある。もちろん子供は、こうしたことを、明確な言葉で思考できているわけではないだろう。でも、子供は、決してそういうことに気づいていないわけではない。言葉で思考することは出来ないかもしれないけど、子供はちゃんとそういうことが分かっているし、だからこそ「虐待」というのが余計複雑な問題になっているのかもしれない、なんてわかったようなことを言うことだって出来てしまう。
本作ではそういう、「虐待」というものがある種の風景になってしまった日本という国における「虐待」というものについて、色んな子供を描き出すことで、その後ろにいる大人を炙り出している、そんな感じがしました。
児童虐待は、間違いなくなくならない。それは、色んな理由からそう推察できる。元々子育てというものは相当に辛いものだろうから、虐待が生まれる余地は常にあるのだと思う。しかしそれだけではなくて、今の日本の社会がそれを助長してしまう要素に溢れているように思える。一度「児童虐待」という言葉を与えられ、認知されたからには、もうそれはどんどん「当たり前」のことになっていくしかない。
そういう社会の中で、良識ある大人として何が出来るのか。どう感じるべきなのか。
きっと明確な答えはないのだろう。その答えを模索しようと奮闘している「大人」たちが、描かれているのかもしれない。
もう僕たちは、「児童虐待」の存在を知っても、少なくとも驚けない。それに、酷いとか悲しいとか、そういう感情を持つことは出来るけど、「まさかそんなことが」という驚きは、もはや共有できない。そういう世の中になってしまった。そういう世の中になってしまったからこそ、生まれた物語ではないかと思う。子供の素直さに救われる部分もあれば、子供の素直さにやるせなさを感じる部分もある。自分の力ではどうにもならない無力さを共感できる部分も多い。
根本的な解決策はない。ただ、「サンタさんのこない家」で教師である主人公が、自分のクラスに出したとある「宿題」にこそ、解決の糸口はあるのかもしれない。
作中でこんな場面がある。僕が一番好きな箇所だ。学校関連の役割を色々とやってきた主人公は、今の子供たちを見てこんな風に感じる。
『たかだか十年しか生きていない彼らの、学校以外の時間の中に、一体なにがおこっているのだろう。そのときにあげられなかったさけびが、安心できる学校で、安心できる先生の前で、あげられているとしか思えない。』
親と子だけではなく、学校で、また地域で、子供とどう関わっていくべきなのか、そういうことを少し考えさせられる作品です。「虐待」という結構重いテーマが扱われているけど、内容自体そこまで重いわけではなく、でも切なさの漂う作品です。「虐待」を受けていたわけではないけど、子供時代痛切に生きづらさを感じていた僕にとっては、共感させられる作品でした。是非読んでみてください。
中脇初枝「きみはいい子」
女子をこじらせて(雨宮まみ)
内容に入ろうと思います。
本書は、AVレビューを中心に、AV業界でフリーライターとして働く著者による、著者自身の人生を振り返り、「こじらせてしまった」自分を分析する自分史です。
容姿に自信がなく、「女」として見られることに慣れていなかった著者は、学生時代は自分の女性性を隠すように生きてきて、その反動みたいな感じで奇行に走る不思議ちゃん的立ち位置だった。どうにか東京の大学に行くも、華やかなキャンパスライフとかない、そもそも受験で上京した時に泊まったホテルでAVを見まくって試験に落ちた著者は、サブカル系の趣味に傾倒し、男とほとんど関わる機会もないまま、それまでのような暗黒の学生時代を過ごすのでした。
バニーガールのアルバイトをし始めた頃から、色んなことが変わっていく。少しずつAV的なものへ触れる機会が増え、やがてアダルト投稿雑誌を作る会社に就職、そこから様々な葛藤を経てフリーのライターになり、フリーのライターになってからも様々な葛藤にさいなまれつつも、「こじらせている」自分をなだめつつ前進してきた著者の、これまでの人生を振り返り、現在「こじらせてしまっている」女子に、「私のようになるなよ!」とアドバイスをする作品。
面白かったなぁ!僕は女子じゃないけど、すっげーわかる。僕もメチャクチャ「こじらせている」人間だから、著者とは持っているコンプレックスや生きてきた環境やありえた未来なんかが全然違うだろうけど、でも著者とは同類な感じがする。僕も、傍からすればどーでもいいようなことにウダウダ悩み、他人の視点がもんのすごく気になり、何をするにもビクビクしていたし、そうやってずっと生きてきたんだよなぁ。ここ5年ぐらいは凄く安定してて平和だけど、大学卒業してからちょっとしばらくぐらいまでは、ずっとそんな感じだった。どんな場にいてもしんどかったし、自分の自意識が邪魔をして何も出来なかった。色んな言い訳を常に用意してからじゃないと踏み出せないし、周りの人にどんな風に見られるのかが異様に気になってた。僕は未だに、なんで昔あんなことで悩んでたんだろうなぁ、なんて風には思えない。未だって、ただ自分の自意識と「休戦」しているだけで、いつまたそういうのが再発するかわからないし、そうならないなんて全然思えない。僕にとって、「こじらせまくって」生きている自分の方が長かったし自然で、今だって安定しているとはいえそういう部分が表面化しないわけではない。自分でも、これはどうにかした方がいいなぁ、という部分を、やっぱり直せないなぁって思ったりするけど、もうずっとそんな感じで生きてきたからしょうがねぇよな、なんて風に思ったりします。
割としんどいのは、「こじらせている」ということを巧く表現できないってことなんですね。これ、凄く難しい。本書の巻末には、「モテキ」の久保ミツロウとの対談が収録されてて、そこにも似たようなことが書かれてるんだけど、「こじらせている」っていうのを、なんかもっと分かりやすい感じで伝えられない。短い言葉で要約すると色んなものが抜け落ちるし、かと言って長い話をしたって聞く側には特に興味が持てるわけでもない。自分の中には、確かな質感を持って辛さとか違和感とかしんどさみたいなものがあるんだけど、これを自分が思っているのに半分ぐらいも伝えられない、という感覚が強くある。たまにいますけどね、あっこの話通じるんだ、って人。
たぶん本書を読んで、「はっ?」って思う人もいるんだろうと思うんです。まあ、短い言葉でざっくり表現しちゃえば、いわゆる「リア充」の人たちってことなんでしょうか。巻末の久保ミツロウとの対談は名言揃いなんだけど、その中にこんな言葉があった。
久保ミツロウ『高校時代に普通に恋愛してきたとか、普通に青春してきた人たちは、私たちみたいに自分のことでいっぱいいっぱいになってないから余裕があるわけ。そんで、今はその余力で「世界から貧困をなくそう」とか有意義な活動をしてたりするわけよ。自分のことでいっぱいいっぱいになってない人は、世界に目を向けたり、社会のことを考えたりしてくれてるの。私たちが世界を守れない代わりに…』
わかる!なんかそうなんだよなぁ。俺も、自分のことで精一杯だもんなぁ。自分がなんでそんな風にしたのか、しなかったのか、自分のこういう部分はつまりこういうことなんじゃないか、なんて分析は僕も大好きで、「こじらせてる」人はそういう分析が大好きだ、ってなことが本書にも書かれています。そうそう、俺も好きなんだよなぁ、そういうどこにもたどり着かない分析。だから、人のことなんか考えてる余裕がないのよね。対談には、こんな名言もある。
久保ミツロウ『震災が起きて、みんな家族がいてよかったとか彼氏がいてよかったとか言ってたけど、私あの時「いやー、ホント一人でよかった!自分しか守るものがなくて本当によかった!」って思ったよ。他人を守る余裕ないもん!』
わかる!メッチャわかる!ってか久保ミツロウ凄い!雨宮まみの自伝の話ももちろん面白いんだけど、巻末の久保ミツロウの言葉が痺れる!「モテキ」読もうかな!
「こじらせてる」女子がどんなことを考えているのか。一つ、うわこれは凄いな、って思った部分があるんで、抜き出してみます。
『恐怖はありませんでした。むしろ、暗い快感がありました。靴の中に画鋲を入れられるというのは少女漫画の定番です。靴に針を入れられることで私は初めて自分が他の女たちと対等な「女」になれたような気がしました。誰かに嫉妬されたり、憎まれたりするような「女」なのだと思うと、気分がよかった。』
どうでしょう、女子のみなさん?わかりますか?僕は、この気持ちそのものは理解出来ないけど、著者のこの思考回路はメチャクチャわかる。僕もこんな風に、ねじれた思考をすることがよくあって、だからあんまり周囲の人に理解されないような言動をしたりするんだけど、自分の中では凄く筋が通ってるし、理にかなってる。自分でも、めんどくさ!って思うことばっかりですけどね。
本書はそんな、「こじらせてしまった」女子が何を考え、どう行動し、どんな感情を抱いたのかを、どんな場面でオナニーしたのかや、初めてセックスした話みたいな赤裸々な部分も隠すことなく、現在の自分が過去の自分を分析してこういうことだったのだろう、今ならこうだとわかる、というような視点で書かれています。ホント、分かる人には分かるだろうなぁ、この「こじらせてる」感じ!
最近の人は、僕の勝手なイメージなんだけど、「私ってこういう人なんですぅ」っていう、自分へのラベル貼りがうまいなって印象があります。特に女子は。バイト先の新人を観察してて思うことなんで、一般的にどうなのかちょっとわからないけど。昔に比べたら価値観が多様化して、自分を守るための鎧の種類が増えた。僕は学生の頃、自分のイメージでは、自分をより守ってくれる鎧を手に入れるためにダンジョンをクリアしアイテムをゲットしなければならなかった、という感じなんだけど、今の人たちはあらかじめたくさんの選択肢の中から鎧を選べる、という気がする。もちろんそういう中にあっても、「自分が積極的に何かを選ぶなんて…」みたいな「こじらせ」方をする人もいるだろうから、「こじらせている」人ってのは一定数いるんだろうけど、自分の身を守る鎧を手に入れやすくなっている感じがするのは、ちょっと羨ましいような感じもします。
なんか色々ウダウダ書いてみたいけど、残念ながら時間もあんまりない。とはいえ、僕の「こじらせている」感じは、僕がこのブログでウダウダ書いていることから色々浮き出てるんだろうなぁ、という気もするし、自分の中でもそれを意識して文章を書いていたりはするんですけどね。まあ、ウザいですね(笑)
最後に、巻末の対談から、先程引用しなかったもので僕が感動したものをいくつか。
久保ミツロウ『自己評価が低いっていうことじゃなく、もしかして世間は自分のことをもっと低く見ていて、自分はそのことに気づかなきゃいけないんじゃないか?っていう強迫観念がある。本当は私はワキガみたいな存在で、みんな私がダメなことに気づいてるんだけど優しいから言わないだけなんじゃないかって思うんだよ。』
久保ミツロウ『複雑なことを短く言い切る言い方ってあるじゃない?例えば「草食系男子」みたいに、何かをひとくくりにしちゃう言い方ってあるけど、そうやって短く言い切ってしまうおとで本当は多様なはずの実態が抜け落ちていく気がするのね。わかりやすくするためには有効な手段だけど、それは自分の表現方法ではないなとずっと思ってて、「モテキ」ではそういう短く言い切れないものを自分の持てる表現方法を使って描いたつもり。』
久保ミツロウ『私は、こじらせ自体は治ってなくても、自分はこういうものを抱えているということを他人に上手く伝えられるようにはなったと思う。昔は伝えられなかったし、それ以前にこういうものを抱えていること自体言えなかった。』
あと、もう一つメチャクチャ共感したのが、ここでは絶対に引用しないけど、著者によるあとがきの、243ページの最後の文章。俺ってダメな人間だなぁ、と思いつつ、凄く共感してしまった。
ウダウダ悩んでいる人は、とりあえず読んでみたらいいと思う。「こじらせている」かどうかはともかくとして、人生の何かに悩んでいる人には、灯台のような存在になる可能性がある本だと思う。僕は、やっぱりこういう人っているよね!仲間!みたいな感じになれて、なんとなく嬉しい。ってか、久保ミツロウと喋りてぇなぁ(笑)。是非読んでみてください。
雨宮まみ「女子をこじらせて」
本書は、AVレビューを中心に、AV業界でフリーライターとして働く著者による、著者自身の人生を振り返り、「こじらせてしまった」自分を分析する自分史です。
容姿に自信がなく、「女」として見られることに慣れていなかった著者は、学生時代は自分の女性性を隠すように生きてきて、その反動みたいな感じで奇行に走る不思議ちゃん的立ち位置だった。どうにか東京の大学に行くも、華やかなキャンパスライフとかない、そもそも受験で上京した時に泊まったホテルでAVを見まくって試験に落ちた著者は、サブカル系の趣味に傾倒し、男とほとんど関わる機会もないまま、それまでのような暗黒の学生時代を過ごすのでした。
バニーガールのアルバイトをし始めた頃から、色んなことが変わっていく。少しずつAV的なものへ触れる機会が増え、やがてアダルト投稿雑誌を作る会社に就職、そこから様々な葛藤を経てフリーのライターになり、フリーのライターになってからも様々な葛藤にさいなまれつつも、「こじらせている」自分をなだめつつ前進してきた著者の、これまでの人生を振り返り、現在「こじらせてしまっている」女子に、「私のようになるなよ!」とアドバイスをする作品。
面白かったなぁ!僕は女子じゃないけど、すっげーわかる。僕もメチャクチャ「こじらせている」人間だから、著者とは持っているコンプレックスや生きてきた環境やありえた未来なんかが全然違うだろうけど、でも著者とは同類な感じがする。僕も、傍からすればどーでもいいようなことにウダウダ悩み、他人の視点がもんのすごく気になり、何をするにもビクビクしていたし、そうやってずっと生きてきたんだよなぁ。ここ5年ぐらいは凄く安定してて平和だけど、大学卒業してからちょっとしばらくぐらいまでは、ずっとそんな感じだった。どんな場にいてもしんどかったし、自分の自意識が邪魔をして何も出来なかった。色んな言い訳を常に用意してからじゃないと踏み出せないし、周りの人にどんな風に見られるのかが異様に気になってた。僕は未だに、なんで昔あんなことで悩んでたんだろうなぁ、なんて風には思えない。未だって、ただ自分の自意識と「休戦」しているだけで、いつまたそういうのが再発するかわからないし、そうならないなんて全然思えない。僕にとって、「こじらせまくって」生きている自分の方が長かったし自然で、今だって安定しているとはいえそういう部分が表面化しないわけではない。自分でも、これはどうにかした方がいいなぁ、という部分を、やっぱり直せないなぁって思ったりするけど、もうずっとそんな感じで生きてきたからしょうがねぇよな、なんて風に思ったりします。
割としんどいのは、「こじらせている」ということを巧く表現できないってことなんですね。これ、凄く難しい。本書の巻末には、「モテキ」の久保ミツロウとの対談が収録されてて、そこにも似たようなことが書かれてるんだけど、「こじらせている」っていうのを、なんかもっと分かりやすい感じで伝えられない。短い言葉で要約すると色んなものが抜け落ちるし、かと言って長い話をしたって聞く側には特に興味が持てるわけでもない。自分の中には、確かな質感を持って辛さとか違和感とかしんどさみたいなものがあるんだけど、これを自分が思っているのに半分ぐらいも伝えられない、という感覚が強くある。たまにいますけどね、あっこの話通じるんだ、って人。
たぶん本書を読んで、「はっ?」って思う人もいるんだろうと思うんです。まあ、短い言葉でざっくり表現しちゃえば、いわゆる「リア充」の人たちってことなんでしょうか。巻末の久保ミツロウとの対談は名言揃いなんだけど、その中にこんな言葉があった。
久保ミツロウ『高校時代に普通に恋愛してきたとか、普通に青春してきた人たちは、私たちみたいに自分のことでいっぱいいっぱいになってないから余裕があるわけ。そんで、今はその余力で「世界から貧困をなくそう」とか有意義な活動をしてたりするわけよ。自分のことでいっぱいいっぱいになってない人は、世界に目を向けたり、社会のことを考えたりしてくれてるの。私たちが世界を守れない代わりに…』
わかる!なんかそうなんだよなぁ。俺も、自分のことで精一杯だもんなぁ。自分がなんでそんな風にしたのか、しなかったのか、自分のこういう部分はつまりこういうことなんじゃないか、なんて分析は僕も大好きで、「こじらせてる」人はそういう分析が大好きだ、ってなことが本書にも書かれています。そうそう、俺も好きなんだよなぁ、そういうどこにもたどり着かない分析。だから、人のことなんか考えてる余裕がないのよね。対談には、こんな名言もある。
久保ミツロウ『震災が起きて、みんな家族がいてよかったとか彼氏がいてよかったとか言ってたけど、私あの時「いやー、ホント一人でよかった!自分しか守るものがなくて本当によかった!」って思ったよ。他人を守る余裕ないもん!』
わかる!メッチャわかる!ってか久保ミツロウ凄い!雨宮まみの自伝の話ももちろん面白いんだけど、巻末の久保ミツロウの言葉が痺れる!「モテキ」読もうかな!
「こじらせてる」女子がどんなことを考えているのか。一つ、うわこれは凄いな、って思った部分があるんで、抜き出してみます。
『恐怖はありませんでした。むしろ、暗い快感がありました。靴の中に画鋲を入れられるというのは少女漫画の定番です。靴に針を入れられることで私は初めて自分が他の女たちと対等な「女」になれたような気がしました。誰かに嫉妬されたり、憎まれたりするような「女」なのだと思うと、気分がよかった。』
どうでしょう、女子のみなさん?わかりますか?僕は、この気持ちそのものは理解出来ないけど、著者のこの思考回路はメチャクチャわかる。僕もこんな風に、ねじれた思考をすることがよくあって、だからあんまり周囲の人に理解されないような言動をしたりするんだけど、自分の中では凄く筋が通ってるし、理にかなってる。自分でも、めんどくさ!って思うことばっかりですけどね。
本書はそんな、「こじらせてしまった」女子が何を考え、どう行動し、どんな感情を抱いたのかを、どんな場面でオナニーしたのかや、初めてセックスした話みたいな赤裸々な部分も隠すことなく、現在の自分が過去の自分を分析してこういうことだったのだろう、今ならこうだとわかる、というような視点で書かれています。ホント、分かる人には分かるだろうなぁ、この「こじらせてる」感じ!
最近の人は、僕の勝手なイメージなんだけど、「私ってこういう人なんですぅ」っていう、自分へのラベル貼りがうまいなって印象があります。特に女子は。バイト先の新人を観察してて思うことなんで、一般的にどうなのかちょっとわからないけど。昔に比べたら価値観が多様化して、自分を守るための鎧の種類が増えた。僕は学生の頃、自分のイメージでは、自分をより守ってくれる鎧を手に入れるためにダンジョンをクリアしアイテムをゲットしなければならなかった、という感じなんだけど、今の人たちはあらかじめたくさんの選択肢の中から鎧を選べる、という気がする。もちろんそういう中にあっても、「自分が積極的に何かを選ぶなんて…」みたいな「こじらせ」方をする人もいるだろうから、「こじらせている」人ってのは一定数いるんだろうけど、自分の身を守る鎧を手に入れやすくなっている感じがするのは、ちょっと羨ましいような感じもします。
なんか色々ウダウダ書いてみたいけど、残念ながら時間もあんまりない。とはいえ、僕の「こじらせている」感じは、僕がこのブログでウダウダ書いていることから色々浮き出てるんだろうなぁ、という気もするし、自分の中でもそれを意識して文章を書いていたりはするんですけどね。まあ、ウザいですね(笑)
最後に、巻末の対談から、先程引用しなかったもので僕が感動したものをいくつか。
久保ミツロウ『自己評価が低いっていうことじゃなく、もしかして世間は自分のことをもっと低く見ていて、自分はそのことに気づかなきゃいけないんじゃないか?っていう強迫観念がある。本当は私はワキガみたいな存在で、みんな私がダメなことに気づいてるんだけど優しいから言わないだけなんじゃないかって思うんだよ。』
久保ミツロウ『複雑なことを短く言い切る言い方ってあるじゃない?例えば「草食系男子」みたいに、何かをひとくくりにしちゃう言い方ってあるけど、そうやって短く言い切ってしまうおとで本当は多様なはずの実態が抜け落ちていく気がするのね。わかりやすくするためには有効な手段だけど、それは自分の表現方法ではないなとずっと思ってて、「モテキ」ではそういう短く言い切れないものを自分の持てる表現方法を使って描いたつもり。』
久保ミツロウ『私は、こじらせ自体は治ってなくても、自分はこういうものを抱えているということを他人に上手く伝えられるようにはなったと思う。昔は伝えられなかったし、それ以前にこういうものを抱えていること自体言えなかった。』
あと、もう一つメチャクチャ共感したのが、ここでは絶対に引用しないけど、著者によるあとがきの、243ページの最後の文章。俺ってダメな人間だなぁ、と思いつつ、凄く共感してしまった。
ウダウダ悩んでいる人は、とりあえず読んでみたらいいと思う。「こじらせている」かどうかはともかくとして、人生の何かに悩んでいる人には、灯台のような存在になる可能性がある本だと思う。僕は、やっぱりこういう人っているよね!仲間!みたいな感じになれて、なんとなく嬉しい。ってか、久保ミツロウと喋りてぇなぁ(笑)。是非読んでみてください。
雨宮まみ「女子をこじらせて」
池上彰の「ニュース、そこからですか!?」(池上彰)
内容に入ろうと思います。
本書は、池上彰が週刊文春で連載していた、その時々の時事問題を分かりやすく解説するコラムを書籍化したものです。雑誌連載時から書籍化まで間が空いているので、古い情報が載っているのではないか、と思われるかもしれないけど、書籍化する際に最新情報を盛り込んで修正したとのことで、2012年1月の時点での最新情報、と考えてもらえばいい、とのことでした。
雑誌連載時は、その時々の時事問題に反応したコラムになってただろうから、本書のようにテーマ別に分けられていたわけではないだろうけど、書籍化の際には恐らくそれらを編集したのでしょう、6つのテーマに分けられています。
第一章「EU危機」
第二章「オバマとアメリカ」
第三章「中国・北朝鮮」
第四章「”アラブの春”革命と紛争」
第五章「原発・エネルギー」
第六章「日本の政治と経済」
こんな感じのテーマで、それぞれのニュースを解説していきます。
本書では、「そこからですか!?」というタイトルの通り、基礎の基礎から解説してくれる。例えば一番始めの話は、「EUとは何か?」です。本書では、それぞれの話題について、分かっている人からすれば「えっ、そんなところから?」というような部分から説明してくれるんで、政治・経済・時事問題全般に疎い僕には凄く助かります。
僕はそういう、ニュース全般に凄く弱い人間なので(新聞もテレビも見てないけど、見てたとしてもたぶん大して理解できないだろうなぁ、ということ)、本書のような基礎の基礎から解説してくれると物凄く助かるわけで、だから僕にとっては凄くためになる作品でした。全般的に外国の話が多くて、それはそれで知識として面白い話なんだけど、第五章の「原発・エネルギー」、そして第六章の「日本の政治と経済」の話なんかは、自分とも密接に関わるのに、難しい単語や理解できない状況なんかが難しすぎて理解する気にもならないんですけど、それらを分かりやすく解説してくれるんで、素敵です。「原発・エネルギー」の話では、プルサーマルとは何か、原発は見切り発車っぷり、在日イギリス人が落ち着いていた理由なんかの話は面白いなと思ったし、「日本の政治と経済」の話では、検察審査会の役割、官房長官は何をする人?大阪都抗争って何?教育費に関するOECDからの勧告、なんかが面白かったなぁ。もちろん他の章でも、なんとなく耳にしたことはあるんだけど、詳しくは知らないとか人に説明できないようなこと。あるいは、そもそもそんなことになってるんだ!というような全然知らなかったことなんかについても多々触れてくれて、面白いです。特に、アラブ諸国と北朝鮮の話は面白いですね。アラブ諸国は、宗教の対立は不理解によるゴタゴタがスムーズに解説されるし、北朝鮮の話では、何故そもそも北朝鮮という国が存続出来るのか、というようなところから解説してくれるので、分かりやすいです。
さて、本書はそういう本なので、経済とか政治とか時事問題にある程度詳しい人にとっては、恐らく退屈極まりない作品でしょう。分かっている人からすれば、そんなの知ってるよ!というような話がオンパレードなのでしょう。でも、まあそれは仕方ありません。あなたのような方向けに書かれた本ではないのですから。本書は、僕のような政治・経済・時事問題オンチにはまさにピッタリで、是非ともそういう人に読んで欲しいですね。
本書は、真面目に政治・経済・時事問題について解説する作品なんですけど、ところどころに出てくる「ちょっとした情報」も僕は結構好きでした。例えばこんな感じです。
アメリカの大統領選挙は、「11月の第一月曜日の翌日」と決まっているのだそうです。なんでこんな複雑な表記になっているのか。
シドニーオリンピックの開会式で日本選手団が虹のマントを着て入場行進した際、欧米人の観客は何故絶句したのか。
スカイツリーの高さは、何故634mなのか。
どうでしょう。こういう話は、メインの話の合間にところどころ挟み込まれていきます。本筋とは関係ないんですけど、おもわず「へぇ!」と言ってしまいたくなるような話が多くて、こういうのもいいなと思います。ちなみに、一つだけ答えを書くと、スカイツリーの高さが634mなのは、「武蔵の国」にちなんでいるんだそうです(ムサシ=634)。
あと本書には、ギリシャについての話が出てくるんだけど、これがつい最近読んだ、マイケル・ルイス「世紀の空売り」とかなり共通した話で、本書を読んでようやく「なるほどそういうことか!」と理解できました。「世紀の空売り」は、サブプライムローンに端を発する金融危機裏側を描いた作品ですけど、本書で取り上げられるギリシャもまさに似たような状況にあって、債券市場やらCDSと言った保険やらの話が出てきて、そうそうそんな話読んだんだったなぁ、なんて思ったりしました。これも面白かったです。
個別の話をいちいち取り上げられないんで、なかなか書けることが少ないんだけど、個人的には凄く楽しめた作品でした。これは本当に、新聞やニュースなんかに触れてもよくわかんないなぁ、なんて思っている人にはうってつけの作品だと思います。是非読んでみてください。
池上彰「池上彰の「ニュース、そこからですか!?」」
本書は、池上彰が週刊文春で連載していた、その時々の時事問題を分かりやすく解説するコラムを書籍化したものです。雑誌連載時から書籍化まで間が空いているので、古い情報が載っているのではないか、と思われるかもしれないけど、書籍化する際に最新情報を盛り込んで修正したとのことで、2012年1月の時点での最新情報、と考えてもらえばいい、とのことでした。
雑誌連載時は、その時々の時事問題に反応したコラムになってただろうから、本書のようにテーマ別に分けられていたわけではないだろうけど、書籍化の際には恐らくそれらを編集したのでしょう、6つのテーマに分けられています。
第一章「EU危機」
第二章「オバマとアメリカ」
第三章「中国・北朝鮮」
第四章「”アラブの春”革命と紛争」
第五章「原発・エネルギー」
第六章「日本の政治と経済」
こんな感じのテーマで、それぞれのニュースを解説していきます。
本書では、「そこからですか!?」というタイトルの通り、基礎の基礎から解説してくれる。例えば一番始めの話は、「EUとは何か?」です。本書では、それぞれの話題について、分かっている人からすれば「えっ、そんなところから?」というような部分から説明してくれるんで、政治・経済・時事問題全般に疎い僕には凄く助かります。
僕はそういう、ニュース全般に凄く弱い人間なので(新聞もテレビも見てないけど、見てたとしてもたぶん大して理解できないだろうなぁ、ということ)、本書のような基礎の基礎から解説してくれると物凄く助かるわけで、だから僕にとっては凄くためになる作品でした。全般的に外国の話が多くて、それはそれで知識として面白い話なんだけど、第五章の「原発・エネルギー」、そして第六章の「日本の政治と経済」の話なんかは、自分とも密接に関わるのに、難しい単語や理解できない状況なんかが難しすぎて理解する気にもならないんですけど、それらを分かりやすく解説してくれるんで、素敵です。「原発・エネルギー」の話では、プルサーマルとは何か、原発は見切り発車っぷり、在日イギリス人が落ち着いていた理由なんかの話は面白いなと思ったし、「日本の政治と経済」の話では、検察審査会の役割、官房長官は何をする人?大阪都抗争って何?教育費に関するOECDからの勧告、なんかが面白かったなぁ。もちろん他の章でも、なんとなく耳にしたことはあるんだけど、詳しくは知らないとか人に説明できないようなこと。あるいは、そもそもそんなことになってるんだ!というような全然知らなかったことなんかについても多々触れてくれて、面白いです。特に、アラブ諸国と北朝鮮の話は面白いですね。アラブ諸国は、宗教の対立は不理解によるゴタゴタがスムーズに解説されるし、北朝鮮の話では、何故そもそも北朝鮮という国が存続出来るのか、というようなところから解説してくれるので、分かりやすいです。
さて、本書はそういう本なので、経済とか政治とか時事問題にある程度詳しい人にとっては、恐らく退屈極まりない作品でしょう。分かっている人からすれば、そんなの知ってるよ!というような話がオンパレードなのでしょう。でも、まあそれは仕方ありません。あなたのような方向けに書かれた本ではないのですから。本書は、僕のような政治・経済・時事問題オンチにはまさにピッタリで、是非ともそういう人に読んで欲しいですね。
本書は、真面目に政治・経済・時事問題について解説する作品なんですけど、ところどころに出てくる「ちょっとした情報」も僕は結構好きでした。例えばこんな感じです。
アメリカの大統領選挙は、「11月の第一月曜日の翌日」と決まっているのだそうです。なんでこんな複雑な表記になっているのか。
シドニーオリンピックの開会式で日本選手団が虹のマントを着て入場行進した際、欧米人の観客は何故絶句したのか。
スカイツリーの高さは、何故634mなのか。
どうでしょう。こういう話は、メインの話の合間にところどころ挟み込まれていきます。本筋とは関係ないんですけど、おもわず「へぇ!」と言ってしまいたくなるような話が多くて、こういうのもいいなと思います。ちなみに、一つだけ答えを書くと、スカイツリーの高さが634mなのは、「武蔵の国」にちなんでいるんだそうです(ムサシ=634)。
あと本書には、ギリシャについての話が出てくるんだけど、これがつい最近読んだ、マイケル・ルイス「世紀の空売り」とかなり共通した話で、本書を読んでようやく「なるほどそういうことか!」と理解できました。「世紀の空売り」は、サブプライムローンに端を発する金融危機裏側を描いた作品ですけど、本書で取り上げられるギリシャもまさに似たような状況にあって、債券市場やらCDSと言った保険やらの話が出てきて、そうそうそんな話読んだんだったなぁ、なんて思ったりしました。これも面白かったです。
個別の話をいちいち取り上げられないんで、なかなか書けることが少ないんだけど、個人的には凄く楽しめた作品でした。これは本当に、新聞やニュースなんかに触れてもよくわかんないなぁ、なんて思っている人にはうってつけの作品だと思います。是非読んでみてください。
池上彰「池上彰の「ニュース、そこからですか!?」」
異性(角田光代+穂村弘)
内容に入ろうと思います。
本書は、作家の角田光代と、歌人の穂村弘が、お互いの経験や価値観や観察などを通じて、異性に対する不思議、疑問、そして自分なりの解釈などを、往復書簡の形式でやり取りしたものをまとめたもの。始めっから最後まで話題が連続しているわけでもないけど、基本的には前回の相手の文章を受けて文章が展開されていく。「異性について」という以外明確なテーマ設定があったわけでもないだろうこの往復書簡は、しかし異性についてものすごく深く掘り下げ、両者の間に横たわる溝や、埋まることのない差を明確にしていく。読んでて、「うわぁー!そうそう!」と思う場面がメチャクチャ多くて、読んでて凄く色んな感情に襲われる作品だった。楽しいけど、怖い。共感できるけど、拒絶したい。分かるけど、分かりたくない。みたいな。
読んでて共感できる部分が凄くたくさんあったのだけど、それは決して、「穂村弘が男を代表して描く事柄」だけに留まらない。
僕は割と色んな人に、「(男にしては)女性的な感覚があるね」と言われることが多いのだけど、もちろんだからと言って角田光代の言っていることにことごとく賛同できるというわけではもちろんない。というかやっぱり、女性側の話は、「話としては理解できるけど、受け入れられない」というものが多い。でもやっぱり、女性についての描写の中にも、「分かるわぁ!」ってものも出てくる。
その一方で、穂村弘が描く男の側の話に、常に全面的に賛同できるわけでもない。穂村弘の言っていることには、なんか凄く共感させられることが多いのだけど、でもそれは、冷静に分析してみると、「穂村弘の人間観察眼」に驚嘆しているだけなんだな、ということがある。やっぱり、全部はわからない。でもやっぱり、大抵は分かる。
読んだ人にはみんな大体こういう感覚、つまり、男女両方ともの意見に賛同できる部分もあれば賛同できない部分もある、という感じではないかと思う。角田光代の言ってることには完璧に賛同で、穂村弘が言う男の話は???だらけ、という女性は多くはないだろうし、その逆もまた多くはないだろうと思う。
また僕は、角田光代と穂村弘の主張の根底を成すものが凄く気になった。僕の勝手な判断では、角田光代は「自分のことを中心にして他者と比較すること」が中心であるのに大して、穂村弘は「自分のことも話けど他者観察が中心」という感じがする。そしてこの差は、「角田光代は『ザ・女』であるが、穂村弘は『ザ・男』ではない」という事実に依るのではないか、という気がしてしまう。
この、「角田光代は『ザ・女』であるが、穂村弘は『ザ・男』ではない」というのは、本書を読めばなんとなくわかってもらえるのではないかと思う。この組み合わせも、作品に大きく影響を与えていると思う。『ザ・女』と『ザ・男』同士であれば、下世話な本になっていただろうし、『ザ・女』ではない女性と『ザ・男』ではない男性同士であれば、異性間の違和感を解き明かすのではなく、自分の内側で渦巻いている『何か』の輪郭を見せ合うだけになってしまいそうな気がする。本書が、同じタイプ同士ではない男女の往復書簡によって成り立っているからこそ、普遍的な面白さを獲得しているのではないか、ってのは考えすぎかしらん。
僕は本書を読んだ人は、本書を『誰の本』と表現するか、それが気になる。つまり、「角田光代の『異性』」と表現するか、「穂村弘の『異性』」と表現するかだ。恐らく、どちらにより強く共感できたかによって、この表現は変化するはずだろうと思う。僕は本書を、「穂村弘の『異性』」と呼ぶだろう。穂村弘の価値観はともかく(大抵共感できるのだけど)、穂村弘の人間観察力の凄さに、僕はちと圧倒されたなぁ。
というか、人間観察した結果を言葉に変換する力に、ということになるだろうか。穂村弘の、観察から本質を見抜き、それを共感を引き起こす言葉に変換する力は、ちょっと凄まじいなという感じがしました。
さて、内容に触れすぎない程度に、具体的に内容に触れようかしらん。
まずは、男に特有の『所有』の話。これは凄く納得させられた。男は、テレビの向こうの出来事やただの言葉でさえ『所有』することが出来る。自分の所有物であるとみなす範囲が非常に広く、それを前提にした言動が、女性にとっては『好意』に感じられる、という話は、凄く面白い。僕自身は、そういう所有欲が強くない方だと思うんだけど、でも本書を読む限り、女性にはそういう感覚はまったくないみたいだから、まったくない女性から見たら、僕もまたその所有欲をたくさん持っているように映るのだろう。本書では、男女間の誤解の本質がどこにあるのかということが、色んな議論の中から浮き彫りにされていくのだけど、この男特有の感覚である『所有』というのも、一つ大きな誤解の要因だろうなという気がする。
また、4コマ漫画と長編劇画の話も秀逸だと思う。男にとって恋愛は4コマ漫画で、女性にとっては長編劇画。そしてその差が歴然と現れるのが、別れの時。女性は男性に、4コマ漫画を長編劇画に変換せよと無意識のうちに命じ、男もそれを理解するから怖気づく、という話。この4コマ漫画と長編劇画の対比は、面白かったなぁ。女性が長編劇画ってのはわかってたけど、男が4コマ漫画ってのは慧眼だなと思う。
そして、僕が何より一番「うわぁー!」って思ったのが、この部分。
角田『男性の多くは、許容ラインが変動しないにもかかわらず、したふりをしていることに無自覚である』
これは、共感できたわけではない。逆だ。僕はこの真逆で、だからしんどくなる。自分の中で、許容ラインはやっぱり変動しない。しないのだけど、したふりをしていることにはメチャクチャ自覚的で、それに自分の自意識が耐えられないのだよなぁ。そこに、僕の葛藤のほぼすべてがある、と言って良い。これはもう、昔からそうだし、別に恋愛に限らないから、もうどうにもしようがないんだけどね。この部分を読んだ時、やっぱり世の中の男は羨ましいぜ、と思ったよ。前に友人と飲んでる時、「いいなぁ。俺もそんな風になれたら楽なんだけど」と何度も言ったことがあるんだけど、そういう感覚だ。したふりをしていることに無自覚でいられたら、いいなぁ。
他にもまあ色々書きたいことがあるんだけど、なんてーかそのためには自分の色んなことをズブズブとさらけ出す感じになって嫌だなぁ、って気もするから(まあ、普段ブログで色んなことウダウダ書いてるがな、と言われたらそれまでなんだけど)、あんまり書き過ぎないようにしよう。後は、もの凄く共感できた文章をいくつか抜き出して終わろう。
角田『女性はものごとが変化変容することを本気でおそれている。嘘でもいいから「変化しない」と言ってほしいのだ。
それを言わない男性というのは、変化ではなく固定をおそれているのではないだろうか。』
穂村『私は女性の「当たり前」がおそろしい。』
角田『でも、優位を競うバトルが、ひそやかに行われているのである。優位というのはどっちがボスでどっちが小僧、という序列ではない。私の「関係性」が勝つか相手の「関係性」が勝つか、である。』
穂村『「好きな人」しか目に入らないことの度合いが、男とは比較にならないほど大きいのは何故だろう。』
穂村『例えば、そうすべき瞬間に、確信をもって嘘をつける女、他人を殴れる女、法律を敗れる女、に私は憧れる。そうすべき場面においても、おろおろと躊躇って何もできないだろう自分に引け目を感じているからだ。』
本書は、確かに恋愛がベースになっているのだけれども、結果的に表出される本質は、決して恋愛だけに限らない、普遍的な男女論になっていると思う。これは、恋愛ばかりではなく、仕事や家族や、他のありとあらゆる『異性』と関わる事柄に、何らかの参考になるのではないかと思う。目から鱗が落ちる部分も、人によって箇所は全然違うだろうけど、本書の中にたくさん出てくるだろうと思う。是非読んでみてください。
角田光代+穂村弘「異性」
本書は、作家の角田光代と、歌人の穂村弘が、お互いの経験や価値観や観察などを通じて、異性に対する不思議、疑問、そして自分なりの解釈などを、往復書簡の形式でやり取りしたものをまとめたもの。始めっから最後まで話題が連続しているわけでもないけど、基本的には前回の相手の文章を受けて文章が展開されていく。「異性について」という以外明確なテーマ設定があったわけでもないだろうこの往復書簡は、しかし異性についてものすごく深く掘り下げ、両者の間に横たわる溝や、埋まることのない差を明確にしていく。読んでて、「うわぁー!そうそう!」と思う場面がメチャクチャ多くて、読んでて凄く色んな感情に襲われる作品だった。楽しいけど、怖い。共感できるけど、拒絶したい。分かるけど、分かりたくない。みたいな。
読んでて共感できる部分が凄くたくさんあったのだけど、それは決して、「穂村弘が男を代表して描く事柄」だけに留まらない。
僕は割と色んな人に、「(男にしては)女性的な感覚があるね」と言われることが多いのだけど、もちろんだからと言って角田光代の言っていることにことごとく賛同できるというわけではもちろんない。というかやっぱり、女性側の話は、「話としては理解できるけど、受け入れられない」というものが多い。でもやっぱり、女性についての描写の中にも、「分かるわぁ!」ってものも出てくる。
その一方で、穂村弘が描く男の側の話に、常に全面的に賛同できるわけでもない。穂村弘の言っていることには、なんか凄く共感させられることが多いのだけど、でもそれは、冷静に分析してみると、「穂村弘の人間観察眼」に驚嘆しているだけなんだな、ということがある。やっぱり、全部はわからない。でもやっぱり、大抵は分かる。
読んだ人にはみんな大体こういう感覚、つまり、男女両方ともの意見に賛同できる部分もあれば賛同できない部分もある、という感じではないかと思う。角田光代の言ってることには完璧に賛同で、穂村弘が言う男の話は???だらけ、という女性は多くはないだろうし、その逆もまた多くはないだろうと思う。
また僕は、角田光代と穂村弘の主張の根底を成すものが凄く気になった。僕の勝手な判断では、角田光代は「自分のことを中心にして他者と比較すること」が中心であるのに大して、穂村弘は「自分のことも話けど他者観察が中心」という感じがする。そしてこの差は、「角田光代は『ザ・女』であるが、穂村弘は『ザ・男』ではない」という事実に依るのではないか、という気がしてしまう。
この、「角田光代は『ザ・女』であるが、穂村弘は『ザ・男』ではない」というのは、本書を読めばなんとなくわかってもらえるのではないかと思う。この組み合わせも、作品に大きく影響を与えていると思う。『ザ・女』と『ザ・男』同士であれば、下世話な本になっていただろうし、『ザ・女』ではない女性と『ザ・男』ではない男性同士であれば、異性間の違和感を解き明かすのではなく、自分の内側で渦巻いている『何か』の輪郭を見せ合うだけになってしまいそうな気がする。本書が、同じタイプ同士ではない男女の往復書簡によって成り立っているからこそ、普遍的な面白さを獲得しているのではないか、ってのは考えすぎかしらん。
僕は本書を読んだ人は、本書を『誰の本』と表現するか、それが気になる。つまり、「角田光代の『異性』」と表現するか、「穂村弘の『異性』」と表現するかだ。恐らく、どちらにより強く共感できたかによって、この表現は変化するはずだろうと思う。僕は本書を、「穂村弘の『異性』」と呼ぶだろう。穂村弘の価値観はともかく(大抵共感できるのだけど)、穂村弘の人間観察力の凄さに、僕はちと圧倒されたなぁ。
というか、人間観察した結果を言葉に変換する力に、ということになるだろうか。穂村弘の、観察から本質を見抜き、それを共感を引き起こす言葉に変換する力は、ちょっと凄まじいなという感じがしました。
さて、内容に触れすぎない程度に、具体的に内容に触れようかしらん。
まずは、男に特有の『所有』の話。これは凄く納得させられた。男は、テレビの向こうの出来事やただの言葉でさえ『所有』することが出来る。自分の所有物であるとみなす範囲が非常に広く、それを前提にした言動が、女性にとっては『好意』に感じられる、という話は、凄く面白い。僕自身は、そういう所有欲が強くない方だと思うんだけど、でも本書を読む限り、女性にはそういう感覚はまったくないみたいだから、まったくない女性から見たら、僕もまたその所有欲をたくさん持っているように映るのだろう。本書では、男女間の誤解の本質がどこにあるのかということが、色んな議論の中から浮き彫りにされていくのだけど、この男特有の感覚である『所有』というのも、一つ大きな誤解の要因だろうなという気がする。
また、4コマ漫画と長編劇画の話も秀逸だと思う。男にとって恋愛は4コマ漫画で、女性にとっては長編劇画。そしてその差が歴然と現れるのが、別れの時。女性は男性に、4コマ漫画を長編劇画に変換せよと無意識のうちに命じ、男もそれを理解するから怖気づく、という話。この4コマ漫画と長編劇画の対比は、面白かったなぁ。女性が長編劇画ってのはわかってたけど、男が4コマ漫画ってのは慧眼だなと思う。
そして、僕が何より一番「うわぁー!」って思ったのが、この部分。
角田『男性の多くは、許容ラインが変動しないにもかかわらず、したふりをしていることに無自覚である』
これは、共感できたわけではない。逆だ。僕はこの真逆で、だからしんどくなる。自分の中で、許容ラインはやっぱり変動しない。しないのだけど、したふりをしていることにはメチャクチャ自覚的で、それに自分の自意識が耐えられないのだよなぁ。そこに、僕の葛藤のほぼすべてがある、と言って良い。これはもう、昔からそうだし、別に恋愛に限らないから、もうどうにもしようがないんだけどね。この部分を読んだ時、やっぱり世の中の男は羨ましいぜ、と思ったよ。前に友人と飲んでる時、「いいなぁ。俺もそんな風になれたら楽なんだけど」と何度も言ったことがあるんだけど、そういう感覚だ。したふりをしていることに無自覚でいられたら、いいなぁ。
他にもまあ色々書きたいことがあるんだけど、なんてーかそのためには自分の色んなことをズブズブとさらけ出す感じになって嫌だなぁ、って気もするから(まあ、普段ブログで色んなことウダウダ書いてるがな、と言われたらそれまでなんだけど)、あんまり書き過ぎないようにしよう。後は、もの凄く共感できた文章をいくつか抜き出して終わろう。
角田『女性はものごとが変化変容することを本気でおそれている。嘘でもいいから「変化しない」と言ってほしいのだ。
それを言わない男性というのは、変化ではなく固定をおそれているのではないだろうか。』
穂村『私は女性の「当たり前」がおそろしい。』
角田『でも、優位を競うバトルが、ひそやかに行われているのである。優位というのはどっちがボスでどっちが小僧、という序列ではない。私の「関係性」が勝つか相手の「関係性」が勝つか、である。』
穂村『「好きな人」しか目に入らないことの度合いが、男とは比較にならないほど大きいのは何故だろう。』
穂村『例えば、そうすべき瞬間に、確信をもって嘘をつける女、他人を殴れる女、法律を敗れる女、に私は憧れる。そうすべき場面においても、おろおろと躊躇って何もできないだろう自分に引け目を感じているからだ。』
本書は、確かに恋愛がベースになっているのだけれども、結果的に表出される本質は、決して恋愛だけに限らない、普遍的な男女論になっていると思う。これは、恋愛ばかりではなく、仕事や家族や、他のありとあらゆる『異性』と関わる事柄に、何らかの参考になるのではないかと思う。目から鱗が落ちる部分も、人によって箇所は全然違うだろうけど、本書の中にたくさん出てくるだろうと思う。是非読んでみてください。
角田光代+穂村弘「異性」
ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」(高瀬毅)
内容に入ろうと思います。
長崎には、原爆の歴史を色濃く残すような遺構が存在しない。
原爆投下から10年後、爆心地近くで生まれた著者は、母から繰り返し被爆体験を聞いたが、浦上天主堂についてはまったく知らなかった。
著者が本書を書くきっかけになったのは、NBC長崎放送に勤める著者の友人が貸してくれた一本のドキュメンタリー。それは、原爆によって半壊し悲惨な姿のまま廃墟となったキリスト教の教会であった浦上天主堂が、戦後なぜ取り壊されたのか、という内容であった。浦上天主堂については、大分以前に耳にしたことがあった著者ではあるが、具体的なことはまるで知らなかった。それをきっかけに、廃墟となった浦上天主堂の写真を見る機会があった著者は、まるで天啓を受けたかのようにこの取材をしなければという思いに駆られた。
長崎に住むものでも、浦上天主堂について知っている人は多くはないという。何故広島の原爆ドームのように保存されなかったのか。
そこには、江戸幕府によってキリスト教が弾圧された際、隠れキリシタンにとっての聖地であった浦上という特殊な土地柄と、アメリカの遠大な世界戦略の存在があった。
この話には、3人の重要な人物が登場する。
一人は、当時長崎大司教区のトップである大司教であった山口大司教。
長崎の浦上に原爆が投下されたことは、本当に様々な些細な要因が積み重なった上の、偶発的な出来事であった。アメリカとしても、キリスト教の真上に原爆を落とすつもりではなかっただろう。
この浦上天主堂のあった場所というのは、キリスト教徒、特に隠れキリシタンにとっては非常に因縁のある土地だった。江戸時代キリスト教徒を弾圧した庄屋の所有していた土地だったのだ。その場所に、教会を立てる。それは彼ら隠れキリシタンにとってはとてつもなく重大で意味のあることであった。長崎大司教区のトップであった山口大司教は、最終的に浦上天主堂の廃墟をどうするか、つまり浦上天主堂を同じ場所に建てるかどうかの権限を持っていたものと思われる。浦上出身であった山口にとっては、同じ場所に建てなおすことへの強いこだわりがあったと推察される。その一方で、アメリカからの何らかの関わりがあっただろうと推察出来る事柄も存在した。
二人目は、永井隆。「浦上の聖者」と呼ばれ、天皇やヘレン・ケラーやローマ教皇までも永井の元を訪れたという、まさに時の人である。
永井は、長崎医科大学物理的療法科部長であり、医学博士でもあった。そんな永井を一躍有名にしたのが「長崎の鐘」という著作だ。この本が当時のベストセラーとなり、長崎の被曝について詳細に書かれた記録として大きな反響を呼んだのだった。
しかし、この「長崎の鐘」の出版にも、アメリカの意向がちらついている。占領当時、出版物はすべてGHQの検閲を受けた。「長崎の鐘」に対する占領軍の評価は二分だったようで、結果的にある条件付きならという形で出版が許された。
三人目は、当時の長崎市長であった田川市長。苦労して弁護士となり、その清廉潔白な仕事ぶりが評価されて市長になった田川は、原爆投下直後から、浦上天主堂保存の意向を打ち出していた。しかし、長崎市がアメリカのセントポール市と姉妹都市になることが決まり(この姉妹都市という形態は、長崎市とセントポール市が世界初)、その記念式典に参加するため田川市長はアメリカを一ヶ月ほど外遊することになった。そして帰国後、それまでと態度を一変させた田川市長によって、最終的に浦上天主堂が保存されないことが決まったのだった。
この三人の描写を軸に、長崎がいかにキリスト教と関わり深い土地であるかという歴史、何故浦上に原爆が落とされることになったのかという経緯、そしてアメリカの国立公文書館を始めとした取材を折り込みながら、浦上天主堂という、残されていれば間違いなく世界遺産に認定されていただろう、原爆の爪痕を色濃く残す遺構を何故取り壊してしまったのかを、アメリカとの関わりを含めて描き出すノンフィクション。
凄い話でした。僕はもちろん、浦上天主堂の話は知らなかったし、そもそも長崎に原爆ドームのような原爆の爪痕を残す遺構が何も存在しない、ということさえ知りませんでした。著者はあとがきで、自分が大人になるまで浦上天主堂の話をしてくれる大人は一人もいなかった、と書いている。知っている人もきっといるのだろう。でも、被曝都市長崎として、市民全員が共有しているというようなものではないのだ。まずそういう事実に驚かされた。
本書で重要となる三人の人物に関しての描写にも、かなり驚かされる。三人はそれぞれ、別々の場、別々の表現ではあるけれども、大体同じようなことを言っている。それは、「長崎に原爆が落とされたのは神の啓示だ」というようなことである。
これには、結構驚いた。原爆投下から何十年と経過しているなら、まだ理解できなくもない。しかし三人とも被爆者であり、身内を原爆によって失っている。まだ原爆の記憶が生々しく残っている段階で、長崎に原爆が落とされたことを「神の啓示」と表現できるのは、いかに長崎がキリスト教の土地であるからと言って、納得できるものではない。作中では、田川市長がアメリカ外遊中に新聞等に言ったとされるコメントとして様々な引用がなされるのだけど、えっ?と耳を疑うようなものが多い。被曝していない、広島・長崎以外の人がする発言であれば、理解不足からそういうコメントを発してしまったのだろうと納得も出来るけれども、言っているのは被曝都市長崎の市長である。田川市長の心変わりの背景に何があったのか、それはわからないけれども、何があってもそれは心変わりしてはいけないのではないか、という気がしてしまった。
そういう意味で、田川市長と永井隆については、何故被爆者という立場でそんな発言が出来るのか、非常に不思議な部分もあったのだけど、山口大司教については、その発言内容はともかく、浦上天主堂を同じ場所に再建したいという気持ちは分からなくはない。激烈な弾圧があった浦上において、その先鞭となった庄屋があった土地に教会を建てる。それは、隠れキリシタンにとっては非常に大きな意味のある事柄であった。もちろん、浦上天主堂の残骸をモニュメントとして残しながら再建するという選択肢だってあったはずで、山口大司教に完全に賛同できるわけでは決してないのだけど、キリスト教の歴史とともにある浦上という特殊な土地にあって、キリスト教について理解があるわけではない僕には、それについて強く何かを語ることは出来ないなという感じはしました。
本書では、本当に様々な観点から、浦上天主堂が取り壊された経緯について追っているのだけど、まさか姉妹都市の話が関わってくるとは思わなかった。詳しいことは書かないけど、姉妹都市を含むアメリカの様々な戦略について知った今、アメリカの凄さを改めて思い知ったような気がする。長崎市とセントポール市との提携から始まり、世界中で広がった姉妹都市というシステムについて、その背景を深く考えたことのある日本人は多くはないだろう著者もそうだったと書いている。フルブライト留学など、僕たちにとっては害のない、あるいは有益でさえある様々な事柄が、実はアメリカの世界戦略に非常に重要な位置づけがなされていると知って、そりゃあアメリカの土俵で戦ったらアメリカが一番強いわ、なんてことを考えてしまいました。
原爆について取り沙汰される時、いつも広島ばかりが注目される。長崎は「劣等被曝都市」である。そんな表現もされる長崎。広島の「怒り」とは違い、「祈り」によって核廃絶を訴えていると評される長崎。その背景には、キリスト教が根付いた土地柄だったということも大きな影響を与えているのだが、一方で、アメリカの間接的な介入によって浦上天主堂が保存されなかったということも大きいだろう。僕は広島にも行ったことはないので、原爆ドームを見たことはないのだけど、それを目にすれば、恐らく広島を襲った脅威のほんの僅かでも想像できるだろうと思う。しかし、長崎にはそれを感じさせてくれるものはない。その違いは、アメリカが予想した通り、やはり大きなものだったのだろう。
僕たちは、この浦上天主堂にまつわる歴史を知ることで、長崎というキリスト教の歴史を内包する特殊な土地について、そしてアメリカという国の遠大さを知るべきだろうと思う。原爆投下という、日本の歴史においても非常に重大な出来事について、たった50年で忘れ去られてしまう歴史がある、という事実に、もっと驚愕すべきだと思う。僕は「歴史」というものが好きではないのだけど、それはこういう怖さがあるからだ。伝わるべきことがちゃんと伝わらず、改ざん・隠匿された歴史が色濃く残っているだけなのではないか、と。現代史でも、このありさまである。
長崎に住む人であっても知っている人は多くないだろうというこの出来事。このままでは、早晩埋もれてしまう歴史だろう。本書を読むかどうかは、あなたに任せる。けど、こういう事実があったという記憶だけは、ずっと持ち続け、そして下の世代にも伝えていって欲しいと思う。きっと世の中には、本書で描かれているような「もっと伝わっていくべき歴史的事実」というのが、山ほどあるのではないかという気がした。是非読んでみてください。
高瀬毅「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」
長崎には、原爆の歴史を色濃く残すような遺構が存在しない。
原爆投下から10年後、爆心地近くで生まれた著者は、母から繰り返し被爆体験を聞いたが、浦上天主堂についてはまったく知らなかった。
著者が本書を書くきっかけになったのは、NBC長崎放送に勤める著者の友人が貸してくれた一本のドキュメンタリー。それは、原爆によって半壊し悲惨な姿のまま廃墟となったキリスト教の教会であった浦上天主堂が、戦後なぜ取り壊されたのか、という内容であった。浦上天主堂については、大分以前に耳にしたことがあった著者ではあるが、具体的なことはまるで知らなかった。それをきっかけに、廃墟となった浦上天主堂の写真を見る機会があった著者は、まるで天啓を受けたかのようにこの取材をしなければという思いに駆られた。
長崎に住むものでも、浦上天主堂について知っている人は多くはないという。何故広島の原爆ドームのように保存されなかったのか。
そこには、江戸幕府によってキリスト教が弾圧された際、隠れキリシタンにとっての聖地であった浦上という特殊な土地柄と、アメリカの遠大な世界戦略の存在があった。
この話には、3人の重要な人物が登場する。
一人は、当時長崎大司教区のトップである大司教であった山口大司教。
長崎の浦上に原爆が投下されたことは、本当に様々な些細な要因が積み重なった上の、偶発的な出来事であった。アメリカとしても、キリスト教の真上に原爆を落とすつもりではなかっただろう。
この浦上天主堂のあった場所というのは、キリスト教徒、特に隠れキリシタンにとっては非常に因縁のある土地だった。江戸時代キリスト教徒を弾圧した庄屋の所有していた土地だったのだ。その場所に、教会を立てる。それは彼ら隠れキリシタンにとってはとてつもなく重大で意味のあることであった。長崎大司教区のトップであった山口大司教は、最終的に浦上天主堂の廃墟をどうするか、つまり浦上天主堂を同じ場所に建てるかどうかの権限を持っていたものと思われる。浦上出身であった山口にとっては、同じ場所に建てなおすことへの強いこだわりがあったと推察される。その一方で、アメリカからの何らかの関わりがあっただろうと推察出来る事柄も存在した。
二人目は、永井隆。「浦上の聖者」と呼ばれ、天皇やヘレン・ケラーやローマ教皇までも永井の元を訪れたという、まさに時の人である。
永井は、長崎医科大学物理的療法科部長であり、医学博士でもあった。そんな永井を一躍有名にしたのが「長崎の鐘」という著作だ。この本が当時のベストセラーとなり、長崎の被曝について詳細に書かれた記録として大きな反響を呼んだのだった。
しかし、この「長崎の鐘」の出版にも、アメリカの意向がちらついている。占領当時、出版物はすべてGHQの検閲を受けた。「長崎の鐘」に対する占領軍の評価は二分だったようで、結果的にある条件付きならという形で出版が許された。
三人目は、当時の長崎市長であった田川市長。苦労して弁護士となり、その清廉潔白な仕事ぶりが評価されて市長になった田川は、原爆投下直後から、浦上天主堂保存の意向を打ち出していた。しかし、長崎市がアメリカのセントポール市と姉妹都市になることが決まり(この姉妹都市という形態は、長崎市とセントポール市が世界初)、その記念式典に参加するため田川市長はアメリカを一ヶ月ほど外遊することになった。そして帰国後、それまでと態度を一変させた田川市長によって、最終的に浦上天主堂が保存されないことが決まったのだった。
この三人の描写を軸に、長崎がいかにキリスト教と関わり深い土地であるかという歴史、何故浦上に原爆が落とされることになったのかという経緯、そしてアメリカの国立公文書館を始めとした取材を折り込みながら、浦上天主堂という、残されていれば間違いなく世界遺産に認定されていただろう、原爆の爪痕を色濃く残す遺構を何故取り壊してしまったのかを、アメリカとの関わりを含めて描き出すノンフィクション。
凄い話でした。僕はもちろん、浦上天主堂の話は知らなかったし、そもそも長崎に原爆ドームのような原爆の爪痕を残す遺構が何も存在しない、ということさえ知りませんでした。著者はあとがきで、自分が大人になるまで浦上天主堂の話をしてくれる大人は一人もいなかった、と書いている。知っている人もきっといるのだろう。でも、被曝都市長崎として、市民全員が共有しているというようなものではないのだ。まずそういう事実に驚かされた。
本書で重要となる三人の人物に関しての描写にも、かなり驚かされる。三人はそれぞれ、別々の場、別々の表現ではあるけれども、大体同じようなことを言っている。それは、「長崎に原爆が落とされたのは神の啓示だ」というようなことである。
これには、結構驚いた。原爆投下から何十年と経過しているなら、まだ理解できなくもない。しかし三人とも被爆者であり、身内を原爆によって失っている。まだ原爆の記憶が生々しく残っている段階で、長崎に原爆が落とされたことを「神の啓示」と表現できるのは、いかに長崎がキリスト教の土地であるからと言って、納得できるものではない。作中では、田川市長がアメリカ外遊中に新聞等に言ったとされるコメントとして様々な引用がなされるのだけど、えっ?と耳を疑うようなものが多い。被曝していない、広島・長崎以外の人がする発言であれば、理解不足からそういうコメントを発してしまったのだろうと納得も出来るけれども、言っているのは被曝都市長崎の市長である。田川市長の心変わりの背景に何があったのか、それはわからないけれども、何があってもそれは心変わりしてはいけないのではないか、という気がしてしまった。
そういう意味で、田川市長と永井隆については、何故被爆者という立場でそんな発言が出来るのか、非常に不思議な部分もあったのだけど、山口大司教については、その発言内容はともかく、浦上天主堂を同じ場所に再建したいという気持ちは分からなくはない。激烈な弾圧があった浦上において、その先鞭となった庄屋があった土地に教会を建てる。それは、隠れキリシタンにとっては非常に大きな意味のある事柄であった。もちろん、浦上天主堂の残骸をモニュメントとして残しながら再建するという選択肢だってあったはずで、山口大司教に完全に賛同できるわけでは決してないのだけど、キリスト教の歴史とともにある浦上という特殊な土地にあって、キリスト教について理解があるわけではない僕には、それについて強く何かを語ることは出来ないなという感じはしました。
本書では、本当に様々な観点から、浦上天主堂が取り壊された経緯について追っているのだけど、まさか姉妹都市の話が関わってくるとは思わなかった。詳しいことは書かないけど、姉妹都市を含むアメリカの様々な戦略について知った今、アメリカの凄さを改めて思い知ったような気がする。長崎市とセントポール市との提携から始まり、世界中で広がった姉妹都市というシステムについて、その背景を深く考えたことのある日本人は多くはないだろう著者もそうだったと書いている。フルブライト留学など、僕たちにとっては害のない、あるいは有益でさえある様々な事柄が、実はアメリカの世界戦略に非常に重要な位置づけがなされていると知って、そりゃあアメリカの土俵で戦ったらアメリカが一番強いわ、なんてことを考えてしまいました。
原爆について取り沙汰される時、いつも広島ばかりが注目される。長崎は「劣等被曝都市」である。そんな表現もされる長崎。広島の「怒り」とは違い、「祈り」によって核廃絶を訴えていると評される長崎。その背景には、キリスト教が根付いた土地柄だったということも大きな影響を与えているのだが、一方で、アメリカの間接的な介入によって浦上天主堂が保存されなかったということも大きいだろう。僕は広島にも行ったことはないので、原爆ドームを見たことはないのだけど、それを目にすれば、恐らく広島を襲った脅威のほんの僅かでも想像できるだろうと思う。しかし、長崎にはそれを感じさせてくれるものはない。その違いは、アメリカが予想した通り、やはり大きなものだったのだろう。
僕たちは、この浦上天主堂にまつわる歴史を知ることで、長崎というキリスト教の歴史を内包する特殊な土地について、そしてアメリカという国の遠大さを知るべきだろうと思う。原爆投下という、日本の歴史においても非常に重大な出来事について、たった50年で忘れ去られてしまう歴史がある、という事実に、もっと驚愕すべきだと思う。僕は「歴史」というものが好きではないのだけど、それはこういう怖さがあるからだ。伝わるべきことがちゃんと伝わらず、改ざん・隠匿された歴史が色濃く残っているだけなのではないか、と。現代史でも、このありさまである。
長崎に住む人であっても知っている人は多くないだろうというこの出来事。このままでは、早晩埋もれてしまう歴史だろう。本書を読むかどうかは、あなたに任せる。けど、こういう事実があったという記憶だけは、ずっと持ち続け、そして下の世代にも伝えていって欲しいと思う。きっと世の中には、本書で描かれているような「もっと伝わっていくべき歴史的事実」というのが、山ほどあるのではないかという気がした。是非読んでみてください。
高瀬毅「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」
山椒魚戦争(カレル・チャペック)
内容に入ろうと思います。
物語は、赤道直下にあるタナ・マサ島に、ヴァン・トフ船長がたどり着いたところから始まる。新たなる真珠の採取地を探しているヴァン・トフ船長がたどり着いたその島は、白人が一人と現地人が住んでいる島だったが、その島の周辺には『悪魔』がいると住民たちが言っていた。ヴァン・トフ船長は、そのわけのわからない話を確かめるべく、「魔の入江」と呼ばれる海域に船を寄せ、真珠採りに潜らせてみると、果たして彼らは水中で何かを目撃し、気絶した。
結果的にそこにいたのは、二本足で立ち、子どものような手を持つ、真っ黒な山椒魚であった。
ヴァン・トフ船長は、彼らが効率良く真珠を見つけ出し人間に差し出す修正に着目し、とある実業家に話を持ちかけて真珠採取の事業に乗り出すことにした。それはある程度成功を治めるが、採取しすぎて真珠の価値が下落していくと共に、繁殖させかなりの勢いで増殖している山椒魚の新たなる使い道を考えなくてはいけない状況になった。
一方、彼ら山椒魚は、人間の言葉を話すことが出来た。見聞きした会話や文字に限られるものの、彼らは学習し、道具の使い方なども学ぶことが出来た。人間に代わる新たなる安価な労働力として爆発的な需要を生み出すことになる山椒魚は、その数をどんどんと増やしていった。
ポヴォンドラというある門番が収集し続けたという山椒魚に関する様々な記事をベースに、山椒魚の生態や彼らが引き起こした数々の騒動、彼らを取り巻くビジネスの様子などが詳細に描かれつつ、人類と山椒魚の困難な共生を描くことになる作品。
なかなか面白い作品でした。古典作品で、しかも外国人作家の作品という、僕の苦手とする要素満載の作品なのだけど、凄く読みやすい作品で、最後まで楽しく読めました。
本書は、文章というか訳というか、そういう点では凄く読みやすいんだけど、構成という観点から見るとなかなか複雑だったりします。
初めの内はいいんです。ヴァン・トフ船長を初め、色んな人間が山椒魚を関わっていく過程を描いているので、ストーリーとして読みやすい。
ただこれが、途中から、ポヴォンドラという門番が収集していた様々な記事を元に、その当時の山椒魚に関する様々な情報を描く箇所になると、複雑になっていく。
まず、山椒魚に関するある情報が語られる。そしてその文章中に注釈が存在し、その注釈の方に、ポヴォンドラが収集した記事と共に、著者(カレル・チャペック)による注釈がなされる。つまり、ここまでは小説の内部である。さて一方で、本文中には訳注も存在する。これは、翻訳者がつけている注釈であり、巻末に載っている。つまり、著者による注釈と訳者による注釈が入り混じるという、なんとも変な構成になっていくのである。
ちょっとページを行ったり来たりしないといけなくて、その辺の複雑さはあるんだけど、でも文章がスイスイ読めるんで、そこまで苦にはならない。著者による、架空の存在である特殊な山椒魚についての、でっちあげ以外の何者でもない注釈の細かさみたいなものは結構凄くて感心させられるけど、訳注も負けてはいない。ある一つの訳注だけで数ページ使うようなものもあり、普段外国人作家の小説を読んでいても注釈ってそこまで真剣に読まない僕も、本書ではかなり注釈を読みました。
本書では、特殊な山椒魚という存在を描き出すことで、実際の人間の社会を比喩的に皮肉っているのだろうなぁ、と思わせる描写が凄く多くて面白い。労働と資本主義であるとか、黒人への奴隷制度であるとか、あるいは戦争であるとか、そう言ったものについて批判や皮肉なんかを描いているように読める部分が結構あります。著者がどんあ意図で書いている部分なのかは分からないけど、まえがきで「ユートピアを書いた小説ではない」と書いているので(本書はユートピア小説だと評されることが多かったのだそうです)、なんか色んな意味が込められているような感じはします。
本当は、僕がもっと深く読むことが出来れば、著者がどんなものに対して皮肉めいた描写をしているのかなんてのを、著者が生きていた当時の状況やなんかを考慮して書けたりするのかもだけど、僕にはまあそういうのは無理だなぁ。
本書では、ポヴォンドラ氏が収集した記事などを元にした部分の、山椒魚に関する細か過ぎる設定や描写がなかなか面白い。山椒魚がどんな風に子供を作るのかという考察から始まる雄雌論みたいなのは、よく考えられてるなぁって思うし、山椒魚が労働の現場にどんどん入り込んでいくことでどんな軋轢が生じて行ったのかなんて話も面白いと思った。それらが、さも現実に起こった出来事であるかのように、架空の記事と共に描かれているんで、よくこんなこと考えたよなぁ、という気になります。
きっと色々と、教訓や皮肉に満ちている作品なんだろうと思うんだけど、僕にはそういう高尚な部分はよくわかりません。ただ、特殊な山椒魚という実在しない生物について、これほどまでに詳細な設定と共に、彼らが注目されてからどん詰まりにたどり着くまでを描き切った作品で、凄く面白いと思いました。是非読んでください。僕の方にあまりにも時間がなさすぎて、ちょっと適当過ぎる感想になってしまったのは残念至極。
カレル・チャペック「山椒魚戦争」
物語は、赤道直下にあるタナ・マサ島に、ヴァン・トフ船長がたどり着いたところから始まる。新たなる真珠の採取地を探しているヴァン・トフ船長がたどり着いたその島は、白人が一人と現地人が住んでいる島だったが、その島の周辺には『悪魔』がいると住民たちが言っていた。ヴァン・トフ船長は、そのわけのわからない話を確かめるべく、「魔の入江」と呼ばれる海域に船を寄せ、真珠採りに潜らせてみると、果たして彼らは水中で何かを目撃し、気絶した。
結果的にそこにいたのは、二本足で立ち、子どものような手を持つ、真っ黒な山椒魚であった。
ヴァン・トフ船長は、彼らが効率良く真珠を見つけ出し人間に差し出す修正に着目し、とある実業家に話を持ちかけて真珠採取の事業に乗り出すことにした。それはある程度成功を治めるが、採取しすぎて真珠の価値が下落していくと共に、繁殖させかなりの勢いで増殖している山椒魚の新たなる使い道を考えなくてはいけない状況になった。
一方、彼ら山椒魚は、人間の言葉を話すことが出来た。見聞きした会話や文字に限られるものの、彼らは学習し、道具の使い方なども学ぶことが出来た。人間に代わる新たなる安価な労働力として爆発的な需要を生み出すことになる山椒魚は、その数をどんどんと増やしていった。
ポヴォンドラというある門番が収集し続けたという山椒魚に関する様々な記事をベースに、山椒魚の生態や彼らが引き起こした数々の騒動、彼らを取り巻くビジネスの様子などが詳細に描かれつつ、人類と山椒魚の困難な共生を描くことになる作品。
なかなか面白い作品でした。古典作品で、しかも外国人作家の作品という、僕の苦手とする要素満載の作品なのだけど、凄く読みやすい作品で、最後まで楽しく読めました。
本書は、文章というか訳というか、そういう点では凄く読みやすいんだけど、構成という観点から見るとなかなか複雑だったりします。
初めの内はいいんです。ヴァン・トフ船長を初め、色んな人間が山椒魚を関わっていく過程を描いているので、ストーリーとして読みやすい。
ただこれが、途中から、ポヴォンドラという門番が収集していた様々な記事を元に、その当時の山椒魚に関する様々な情報を描く箇所になると、複雑になっていく。
まず、山椒魚に関するある情報が語られる。そしてその文章中に注釈が存在し、その注釈の方に、ポヴォンドラが収集した記事と共に、著者(カレル・チャペック)による注釈がなされる。つまり、ここまでは小説の内部である。さて一方で、本文中には訳注も存在する。これは、翻訳者がつけている注釈であり、巻末に載っている。つまり、著者による注釈と訳者による注釈が入り混じるという、なんとも変な構成になっていくのである。
ちょっとページを行ったり来たりしないといけなくて、その辺の複雑さはあるんだけど、でも文章がスイスイ読めるんで、そこまで苦にはならない。著者による、架空の存在である特殊な山椒魚についての、でっちあげ以外の何者でもない注釈の細かさみたいなものは結構凄くて感心させられるけど、訳注も負けてはいない。ある一つの訳注だけで数ページ使うようなものもあり、普段外国人作家の小説を読んでいても注釈ってそこまで真剣に読まない僕も、本書ではかなり注釈を読みました。
本書では、特殊な山椒魚という存在を描き出すことで、実際の人間の社会を比喩的に皮肉っているのだろうなぁ、と思わせる描写が凄く多くて面白い。労働と資本主義であるとか、黒人への奴隷制度であるとか、あるいは戦争であるとか、そう言ったものについて批判や皮肉なんかを描いているように読める部分が結構あります。著者がどんあ意図で書いている部分なのかは分からないけど、まえがきで「ユートピアを書いた小説ではない」と書いているので(本書はユートピア小説だと評されることが多かったのだそうです)、なんか色んな意味が込められているような感じはします。
本当は、僕がもっと深く読むことが出来れば、著者がどんなものに対して皮肉めいた描写をしているのかなんてのを、著者が生きていた当時の状況やなんかを考慮して書けたりするのかもだけど、僕にはまあそういうのは無理だなぁ。
本書では、ポヴォンドラ氏が収集した記事などを元にした部分の、山椒魚に関する細か過ぎる設定や描写がなかなか面白い。山椒魚がどんな風に子供を作るのかという考察から始まる雄雌論みたいなのは、よく考えられてるなぁって思うし、山椒魚が労働の現場にどんどん入り込んでいくことでどんな軋轢が生じて行ったのかなんて話も面白いと思った。それらが、さも現実に起こった出来事であるかのように、架空の記事と共に描かれているんで、よくこんなこと考えたよなぁ、という気になります。
きっと色々と、教訓や皮肉に満ちている作品なんだろうと思うんだけど、僕にはそういう高尚な部分はよくわかりません。ただ、特殊な山椒魚という実在しない生物について、これほどまでに詳細な設定と共に、彼らが注目されてからどん詰まりにたどり着くまでを描き切った作品で、凄く面白いと思いました。是非読んでください。僕の方にあまりにも時間がなさすぎて、ちょっと適当過ぎる感想になってしまったのは残念至極。
カレル・チャペック「山椒魚戦争」









