黒夜行

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乃木坂46関係の記事をまとめました
TOEICの勉強を一切せずに、7ヶ月で485点から710点に上げた勉強法
一年間の勉強で、宅建・簿記2級を含む8つの資格に合格する勉強法
国語の授業が嫌いで仕方なかった僕が考える、「本の読み方・本屋の使い方」
2014の短歌まとめ
この本は、こんな人に読んで欲しい!!part1
この本は、こんな人に読んで欲しい!!part2
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【今日考えたこと】索引


災害エバノ(災害時に役立ちそうな情報をまとめたサイト)(外部リンク)

「ゆれる人魚」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
時代は、テレビがカラーになる前。舞台は、恐らくポーランド。ナイトクラブでステージをこなす一家は、ある日川辺で奇妙な二人の少女を見つける。彼女たちは、裸のまま、水中で歌っていた。
彼らはその二人の少女をナイトクラブのボスに引き合わせた。酒とストリップを提供するナイトクラブのボスは、二人の少女に服を脱ぐよう命じる。下半身に、穴が一つもない。見ててください、と言いながら男が二人の少女に水を掛けると、彼女たちの下半身は魚の尻尾になった。人魚なのだ。
彼女たちはナイトクラブで人気を博すようになるが、姉のシルバーは人間に恋をし、妹のゴールデンは人間を襲って食べてしまう。シルバーは人間になるべく手段を模索し、ゴールデンは気ままに人間を襲い続ける…。
というような話です。

正直、よく分からない映画だったなぁ、という感じでした。読んだことはないんだけど、恐らくアンデルセンの「人魚姫」がベースになっているんだろうと思います。どうにかすると海の泡になってしまうとか、声が出なくなるとか、確か「人魚姫」にもそういう設定があったなぁ、という感じなので。

よく分からなかった原因の一つは、この映画がミュージカル仕立てだったこともあるかもしれません。設定や状況説明を担う存在がほぼいなくて、歌で物語が展開されていくんだけど、正直僕はそういう、歌で展開されていく物語にうまくついていけないところがあって、話を捉えきれませんでした。僕の目からは、ほぼほぼ状況が説明されないまま、唐突に状況が変化しており、(何があったんだろう???)と思っている内にまた状況が変わっていく、ということの連続で、ついていけなかったなぁ。

1時間半ぐらいの映画だったんだけど、もう少し長くして、もう少し説明的な部分を増やして、もう少しわかりやすくしてくれたら、映像とか雰囲気は結構好きだったから、もう少し好印象で捉えられたかもなぁ、と思ったりします。あと、予告でも使われてた、早いテンポで「♪ズチャズチャズチャズチャ~」って流れてる音楽は、なんか凄く不穏なインパクトがあって好きです。

「ゆれる人魚」を観に行ってきました

「マーゴット」と「マーゴットのお城」(桜咲ゆかこ)

内容に入ろうと思います。
僕は両親を喪い、町を出ざるを得なくなってしまう。一緒にいてくれたのは、マーゴット。祖父が作ったという人形だ。両親が亡くなった日、突然動き、喋り始めたマーゴットと一緒に、幼い頃から人前で弾いていたバイオリンで日銭を稼ぎながら、どうにか放浪の旅を続けていた。
町から町へと渡り歩いていた二人は、ある町で心惹かれる教会と出会った。それまでも教会にはよく泊まりに来ていたが、こんな雰囲気の教会は初めてだ。アオノさんという建築家が作ったのだと聞き、僕は弟子入りを志願することにした。ありがたいことに、すぐに聞き入れてもらえ、それから修行の日々が始まった。
二人の生活は初めて穏やかなものとなったが、それも、マーゴットが突然恐ろしいことを口にするまでだった…。
というような話です。

そもそもファンタジーとか児童文学とかが得意ではないので、趣味ではない、というだけかもしれないのだけど、読んでいて、物語が真っ直ぐ進みすぎてしまうところが残念でした。もちろん、物語的な展開はあるのだけど、なんというかな、「悪人が出てこない」とでも言うのか。もう少し何か起こってくれないと、ちょっと平坦すぎるなぁ、という印象でした。

小学生ぐらいが読んだら、また違うのかなぁ。

桜咲ゆかこ「「マーゴット」と「マーゴットのお城」」

総門谷(高橋克彦)

いやー!面白すぎた!何だこの物語!べらっぼうに面白い!久々にこんなにテンションの上がる小説を読んだなぁ。
とりあえず、先に内容を紹介しておきましょう。ただ、800ページ近い小説で、物語の面白い部分はネタバレになっちゃうから書けない。ここでの内容紹介は、本当に物語のさわりだけ、という感じになります。

E2という、同名の雑誌を発行している雑誌社で働く淳二は、取材テープを聞き直している内に、とんでもない話が録音されていることを知った。たまたま録音されていたその音声は、恐らく自衛隊員によるもので、彼らは「1年前のあのUFOの件について散々聞かれた」と愚痴を言い合っている。UFOの話なんか眉唾だが、とりあえずこの件を追ってみることにした。
一方、テレビ関東のチーフディレクターである篠塚大次郎は、彼が担当する「月曜ワイド一二〇」の打ち合わせ中だ。彼は、盛岡市の医師が夜中にUFOを目撃したという証言、そしてその場にいたという自衛隊員の証言を撮影していた。医師の運転手だった男が写真も撮っており、まさにそこには宇宙人らしいものが映っていた。始めは篠塚の話に半信半疑だった面々は、インタビュー映像と写真を見てテンションが高まっていく。実は既に予告を流しているのだが、突然スポンサー3社が下りる、と言い出した。明らかに、どこかから圧力が掛かったのだ。ということは、この情報は本物だろう―。彼らはそこから、より一層の宣伝を行い、この世紀のスクープの期待感を煽った。
E2の面々も独自に動いており、テレビ関東の放送には注目していた。そしてその当日。番組は大反響を呼び、大成功に思えたが…。

大体これで、本書の100ページぐらいの内容紹介になります。
この、比較的普通な(まあ、UFOとか出てきますけど)導入から、この物語がどういう展開を見せるのかは、是非自分で読んで欲しいと思います。正直言って、まったく予想外の、いやいやいやいやいやいや…と言いたくなるようなぶっ飛んだ展開なんですけど、妙な説得力があって、一気読みさせられてしまいます。

冒頭では登場しない(留学から帰ってくる、という設定です)けど、本書の超重要人物の名前を挙げておきましょう。霧神顕です。彼は、前半ではほとんど特別な活躍はしないのですけど、後半は彼なしには物語は成立しなくなります。彼がどんな活躍をするのか、ということも注目してみてください。

さて、物語がどう展開していくのかは書けないので、本書でどんな話題が扱われるのか、ということについて書いてみようと思います。

まず、一番面白いと思ったのが「ピリ・レイスの古地図」の話です。これはビックリしました。1513年に書かれた地図に、まだ発見されていないはずの南極大陸が描かれており、また、その地図を詳細に調べると、航空写真を元にした地図であると結論付けざるを得ないという。16世紀初頭に飛行機の類などあるはずもないが、航空写真を元に作られたと考えるしかないほど、誤差がほとんどないという。また、もっと面白いことに、その地図では、南米大陸と南極大陸とが細い陸地で繋がっている。もちろん現代では繋がっていないが、研究によれば、1万5000年前には繋がっていたという。とするならば、この地図は、1万5000年前に航空写真によって描かれた地図が元になっている、と考えざるを得ない。

当然、ニセモノ説はある。しかしニセモノだとしてもおかしい。ピリ・レイスの地図は1929年に発見されたが、その当時の技術でも、南極大陸をあそこまで正確には描けない。それに、1929年以前に作られたニセモノだとするなら、南米大陸と南極大陸が繋がっているのがおかしい。何故なら、かつて南米大陸と南極大陸が繋がっていたと判明したのが1980年頃のことだからだ。だからニセモノだとしても理屈に合わない、ということになるのだ。なんとも魅力的な謎じゃないですか。

また、僕らにとって馴染みの深い「月」についても、その不可思議さが多く語られる。日蝕が起こるのは、月と太陽の見かけの大きさが同じだからだけど、自然にそんなことが起こる確率は相当に低い。さらにその上で、月と太陽がまったく同じ軌道を通らなければ日日蝕は起こらない。天文学的な確率だ。

また、月がどう誕生したのかも謎だそうだ。当初は、「地球誕生と同時に生まれた」か「地球が分裂して月になった」と考えられていた。しかし、月の石を調べたところ、月が地球よりも遥かに古いものだと分かった。とすれば、地球と同時に誕生した可能性も、地球から分裂した可能性も低い。残るは「捕獲説」、つまり、どこから飛んできた星が地球の引力によって止まった、というものだけど、しかし自然捕獲でありながら完全な円軌道を取る確率はほぼない。というのも、基本的に星は楕円軌道が当たり前だからだ。

また、月震という現象から「月の内部は空洞である」と信じられている。これは、通常の星ではありえない。さらに、月のクレーターが消滅するという現象が知られている。誰にもその理由は説明できない。僕らにとってはあって当たり前の月には、こんなにも謎が満載なのだという。

「鬼」についての考察も面白い。これについてはあまり詳しくは書かないが、「鬼」と「牛」と「神」が、絶妙な論理によって繋がっていく。「光」という言葉の語源が「角」だったという話や、アルファベットの「A」が牡牛の角からデザインされたという話、さらに神聖視されながらも牛を食べる習慣もあるというような話から、刺激的な結論が導かれる。

他にも、「遠野物語のマヨイガ伝説」「フリーメーソンのP2」「マンモスが一瞬で凍った話」「ナスカの地上絵」「UFO研究史上最も不可解なエイモス事件」「日本のピラミッド」などなど、ワクワクさせるような話が満載なのだ。さらに本書には、「クレオパトラ」「イエス・キリスト」「レオナルド・ダ・ヴィンチ」「ジャンヌ・ダルク」など、歴史上の人物も多数関わってくる。もうホントに、トンデモな要素と展開が満載なのだけど、それでも、妙にワクワクさせられるし、不思議な説得力もあって、グイグイ読まされてしまう。いやー、面白い読書体験だったなぁ。

ただ、これは書いておかなければいけないと思うのだけど、物語の閉じ方は、ちょっと強引というか、肩透かしを食らう感じがしました。いやまあ、そこまでの物語で充分楽しませてもらったんで、ラストがイマイチでも作品全体の面白さはさほど減じはしないけど、若干画竜点睛を欠く感はあるな、と思いました。

高橋克彦「総門谷」

インターネット的(糸井重里)

「予言の書」として、話題になっているようだ。

本書が新書として発売されたのが2001年。今から17年前だ。糸井重里は本書に書いてあるようなことを、2001年以前から捉えていただろうから(言語化して本にしたのが2001年なので)、本書に書かれている内容について考えたのはほぼ20年近く前ということになるだろう。

本書に書かれていることは、まさに現代そのものだ、と言っていい。本書を読めば、「確かにそうだわ」「今そうなってる」と感じながら読むことになるだろう。

しかし、本書をそういう読み方しかしなかったら、行き着くところは結局、「糸井重里ってすげー!」になってしまうだろう。

そんなことをわざわざ確認するために本書を読む必要はない、と僕は思う。

ならば本書を読む価値はどこにあるのか。

それは、20年後を予言するため、と言えるのではないかと思う。

糸井重里は、インターネットがまさに登場したまさに初期の頃から、インターネットが(本書の記述に沿って言えば「インターネット的が」)どこに行き着くのか見通していた。インターネットが登場し始めた当初、多くの人は「インターネットそのものの凄さ」について語っていたのだという。しかし、糸井重里は冒頭でこんな風に書く。

『インターネットそのものが偉いわけではない。インターネットは人と人をつなげるわけですから、豊かになっていくかどうかは、それを使う人が何をどう思っているのかによるのだとぼくは考えています』

後半の方にも、こんな文章がある。

『インターネットは人減らしのための道具でもなければ、人間に代わって何かいいことを考え出してくれる仕組みでもありません。人間が何がしたいかを思いつくことが、すべての出発点なのです』

こういう視点は、常に大事だ。
例えば今であれば、プログラミングが流行っている。小学校で必修の授業になるというし、プログラミングを教える塾のようなところも出てきているらしい。

しかし、これもインターネットと同じだ。プログラミングという技術が凄いわけではない。プログラミングによって何をしたいのかを考えることに価値がある。

そう感じるのは、僕がプログラミングの勉強をちょっとしてみたことがあるからだろう。C言語だとかRUBYだとかを齧ってみたのだけど、正直、さっぱり意味が分からなかった。まあでも、それはある意味で当然だったのだ。何故なら僕には、プログラミングを習得することによってやりたいことが何もなかったからだ。ゲームは元々やらないし、SNSやyoutubeなんかもあまり使わない。何かやりたいことがあって、その解決法としてプログラミングを学ぶのであれば、きっと僕も知識を積み重ねていくことが出来たと思う。でもやっぱり、ただプログラミングを学ぶ、というのは無理なのだと思う。

今ここでした話は、20年後の予言の話では全然なく、本書に書かれていることを今目の前にある現実にどう活かすか、という観点だが、予言の場合でも同じようなものだ。本書を読む上で大事なことは、糸井重里が「何を言っているか」ではなく、「どういう端緒から、どういうプロセスを経て結論を導き出しているか」ということだ。何らかのアナロジーから結論を導くこともあれば、ある対立構造が逆転するはずだという予測から何か主張することもある。それらは、僕らがこれからの20年を予測するのに、役に立つだろう。

僕らは、益々変化の早い時代に生きている。まさにその役割を、インターネットが担っていると言っていい。そういう意味で、糸井重里が20年後を予測出来たのは、まだインターネットがそこまで普及していない世の中にいたからだ、とも言えるだろう。インターネットがこれほど普及し、インフラとしてなくてはならないものになってしまった今、それが持つ計り知れない力が僕らをどこへ導いていくのか、予測することなど不可能だろう。20年どころか、5年先も分からないかもしれない。

それでも、本書のような思考を積み重ねて、自分なりに未来を思い描くことには意味がある。

『なぜいま再評価されているのか、ということを探るよりも、「なぜいままで見つけられないまま埋もれていたのか?」ということのほうに、この本の本質が表れているように思います。もっとストレートにいえば、十年間、人はこの本をあまり読もうとしなかったのです。皮肉でもなんでもなく、そこにもっともこの本の「らしさ」があると思います』

これは、文庫版に追加された「続・インターネット的」という章に書かれた文章だ。本書は、発売された当初、全然読まれなかったという。まあ、そういうものかもしれない。こう書いているということは、恐らくさほど話題にもならなかったのだろう。しかし、そんな作品が、まさに現代を照射するように「予言の書」と呼ばれている。

これはまさに、同時代の人間がいかに未来を受け入れる(理解する)のが困難か、ということなのでしょう。そう考えれば、今僕らが生きている社会にも、未来を照射しながら、まったく評価されていない言説があるかもしれません―。

本書はこんな風に、「何が書かれているか」ではない部分で評価したくなる、そんな作品だと感じました。

糸井重里「インターネット的」

花井沢町公民館便り(ヤマシタトモコ)

結局生きていくしかないんだよなぁ、ということは、いつも思っている。

もちろん、「死ぬ」という選択肢もまた、常にあることはある。しかし、やはりそれはどうしても、現実的な選択肢としては検討しにくいものがある。他にもある、無数の選択肢と、同列には扱えない。様々な選択肢を色々と検討し、そのどれもが不可能だ、となった時、初めて「選択肢」という形で立ち上がってくるものが「死ぬ」だと思うのだ。

だから結局、僕らは生きていくしかない。

結局生きていくしかないんだ、という部分を大前提にすると、どう生きたいのか、という問いが優先される。目の前の現実を嘆いたり、ないものねだりをしたり、過去の言動を悔やんだりしても、それは「今をどう生きるか」にはなかなか繋がっていかない。それよりは、目の前の現実を受け入れてみたり、あるものでどうにかしてみたり、未来を目指す意志を持った方がいい。

そして、そういう人間を描く物語は、やはり「強さ」を感じるな、と思うのだ。

僕らは、現代の日本に、絶望の隣で生きざるを得ない人々のことを知っている。福島第一原発事故により被災した福島県の人たちだ。もちろん彼らには、県外で暮らす、という選択肢はある。しかし、誰もがそういう選択が出来るわけではない。様々な理由で、生活というのは土地に縛られているものだ。自分がいる場所がどんな土地であろうが、ここで生きていくしかない、という決断はどんな場合にもあり得るし、そこにどんな風に外から批判を加えたところで意味をなさない。

色んな選択肢が過ぎったに違いないが、それでも福島県で生きることを決めた人々の人生には、当然ながら「日常」がある。常に絶望に彩られている人生を「日常」とは呼ばない。絶望の気配は常に感じながらも、その中で、当たり前のことが当たり前のように行われる「日常」が生まれていく。

そしてそれは、僕らの人生だって同じだ。原発事故ほどはっきりとした絶望じゃなくたって、僕らの人生には様々な絶望の気配が常に漂っている。そして、それらを感じつつ、僕らは何でもない「日常」を生きていく。

物語の中で、「絶望」に焦点を当てることは、とても簡単だ。分かりやすいし、見えやすいし、伝わりやすい。しかし「絶望」が前面に現れると「日常」が遠のく。「日常」の中にこそ、人間の本質が溶けているように僕は思うし、そういう意味で、この物語が「絶望」を背景に追いやっている点が、非常に良いと僕は思う。

内容に入ろうと思います。
2055年5月15日、その事故は起こった。シェルターとか刑務所に使われる予定で開発されていたある技術の研究中、事故が起こった。その技術は、生命反応のある有機体は通さない見えない膜であり、事故の結果、花井沢町の1丁目から2丁目一帯にかけてが、その膜で覆われてしまった。
つまり、その内側にいる人間は、生きたままではその膜の外に出られなくなってしまった。
政府は花井沢町の住民への補償を充実させているために、住民は生活に必要なものはほぼ無料で手に入れられる。贅沢品を買う場合のみ自分のお金で、ということになっており、住民たちはWEBを通じて出来る外の仕事をやりながら、少しお金を稼ぐ。
200年もすれば確実に滅びるこの町で生きざるを得ない人々の、この町ならではの「日常」を活写する物語です。

こんな話だとは思ってもいなかったので、驚きました。ヤマシタトモコという漫画家の作品を読むのは初めてですけど、なんとなく、よくある(と言ったら失礼かもですが)恋愛モノの漫画を描いているような印象だったので、冒頭から驚かされたし、非常に面白い設定・展開の物語だなと思いました。

こういう設定の物語の場合、往々にして「いかにして膜の外に出るか」ということが話として描かれがちです。でも本書の場合は、そういう方向性がまったくありません。住民の気持ちは完全には分かりませんが、恐らく、色々試してみた後の物語なんだろう、と思います。無理なもんは無理なんだから、ジタバタしてもしょーがない、みたいな。そういうところから物語がスタートしているから、後はいかにして生きるか、という部分が純粋に描かれていて面白いと思いました。

生命反応のないものなら普通に膜を通るから、境界までくれば物資を渡したり、膜の内側に何か機械を入れたりできる。境界付近まで医者が行けば、簡単な診療ぐらいは出来るし、境界付近にステージを建てればライブだってもちろん出来る。ネットで買ったものも届くし、パンツだって盗まれる。

警察はいないから自分たちでどうにかしないといけないし、学校も通信だし、ストーカーがいても逃げ場がない。「人間が出られない境界がある」という世界の中で、どんな日常があり得るのかを、全然派手ではない形で日常感を届ける物語に仕上げているのがとても良いと思いました。

彼らの「日常」を構成している一つの感情が、「どうにか普通でいたい」ということです。もちろん、彼らが花井沢町の住人である以上、普通の生活など送れはしません。でも、そういう中にあって、なんとか普通に近づきたい、あるいは、特定の集団の中だけでいいから普通に、いや普通以上に見られたい、という欲求が、彼らを突き動かすことがあります。

そういう話で印象的だったのが、オシャレファッションツイートとパン屋です。

オシャレファッションツイートは、自分が花井沢町の住人であることを伏せて、ツイッター上にオシャレファッションの自撮り写真を上げる男の話です。彼は、ネットの世界では、みんなから憧れられるファッショニスタで、彼はその世界の中では普通以上になることが出来ます。ただ、色んな事情から、それが続けられなくなってしまう。社会がそれを許容しない、という部分ももちろんあるのだけど、それ以上に、自分自身がそれを許容できなくなる、という姿が描かれている、と感じました。

パン屋は、焼き立てのパンを食べたことがないという女性が、ネット上でパンの焼き方を教えてもらいながら自分でパンを焼いてみる、という話です。この話の中に、非常に印象的なセリフがありました。

『わたしは一度も自分の稼いだお金を使ったことがないのが、本当に恥ずかしくて悔しい』

彼女は、事故後に生まれた人であり、労働せずに生きていけてしまう環境にいることを恥じている。ネットがなければ、膜の外の世界のことも知りようがなかったから、彼女に葛藤が生まれることはなかったかもしれないけど、彼女は当たり前のように外の世界のことも知るし、だからこそ、労働でお金を稼いだことがない自分を恥じてしまう。普通でありたい、という気持ちが、パンを焼くなんていう単純な物語からも生まれていきます。

また、読んでる時にははっきりとは時系列を捉えられなかったのだけど、別々の様々な人間を描き出す群像劇のような物語の中に、定期的に登場する市川希という人物がいる。彼女が置かれている状況については、物語を読みながら徐々に分かる構成になっているはずだからここでは触れないけど、他の人たちとはちょっと違った状況を生きている。度々触れられる希の物語は、他の人たち以上に悲哀に満ちていて、でもそこには揺るぎない強さもある。最後、希が手に入れる生活と、その果てにある結末には、作中ではそこまで焦点が当てられてこなかった「絶望」に一気に焦点が当たったようで、辛さが押し寄せてくるような感覚がありました。

ヤマシタトモコ「花井沢町公民館便り」





「ラブレス」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
舞台はロシア、あるいはその周辺の国。ボリスとジェーニャは離婚を考えていて、マンションを売却しようとしている。彼らには、アレクセイという12歳の息子がいて、しかしどちらも離婚後、引き取る意志がない。何故なら、どちらも既に恋人がおり、ボリスに至っては彼女を妊娠させている。お互いに新しい生活に踏み出すのに、息子の存在は邪魔なのだ。
深夜、息子をどちらが引き取るかで幾度となく繰り返された喧嘩をする。寝ていると思っていたアレクセイはこっそりその喧嘩を聞いていて、声を上げずに泣いている。
ボリスは、身ごもった彼女とセックスをし、ジェーニャも年上の彼氏とセックスをする。お互い、家にも碌に帰らず、それぞれの生活をしている。
ジェーニャが家に帰ると、担任の教師から、息子が2日も学校に来ていない、と連絡があった。ジェーニャはボリスに相談するも、楽観的な意見を述べる夫にキレ、警察に連絡する。しかし、警察もまともには取り合ってはくれない。彼らは、行方不明者の捜索をしてくれるボランティアグループの力を借りて、アレクセイの捜索をするが…。
というような話です。

観る人次第で様々な受け取り方が出来そうな映画ではありましたけど、個人的にはあまり面白いとは感じられない映画でした。読み取られるべき、示唆的な設定や描写は色々あるように感じたんですけど、それらを自分の中でうまく消化できなかったなぁ、という感じです。

いくつか挙げてみましょう。

まず、ボリスの会社は、原則的に離婚を禁じている、という設定が出てくる。敬虔なクリスチャンであり、離婚がバレるとクビ、という噂がある。

また、彼らが住んでいる国では、マヤ暦から読み取った滅亡の予言みたいなものが流布しているようで、それを取り上げたテレビ番組などが恐怖を煽っているという。

さらに、ウクライナの国内情勢が悪化しており、戦争に近いような状態になりつつある、というような状況がある。

彼らを取り巻く、ちょっと特殊な事情にはこういうものがあるのだけど、しかしこれらが、映画全体の中でどういう役割をしているのか、僕にはイマイチ理解できなかった。

基本的には、自分の都合しか考えていない夫婦のエゴが全開に描かれていく。彼らが気にしているのは、離婚後の生活と体面だけ。いなくなった息子に対する感情は、映画の中で切実には読み取れない。アレクセイの捜索を主導してくれるボランティアグループが一番熱心で、ボリスもジェーニャも、僕が見ている限り、息子の捜索に感情が宿っているようには見えない。「息子が行方不明になった夫婦が取るべき行動」を取っている。ただそれだけに思える。

そういう意味で言えば、西川美和の「永い言い訳」という映画を連想させる。「永い言い訳」では、妻を亡くした小説家が主人公だが、その主人公はバス事故で妻が亡くなった時、浮気の真っ最中だった。そして、妻を喪ってなお、その小説家は悲しみを感じられないでいる。そういう状況から物語が展開されていく。

スタートは似ているが、物語的には大きく違う。「ラブレス」では、結局物語の最初と最後で、目立った変化はない。もちろん、アレクセイが行方不明、という状況は大きな変化なのだが、その変化があってなお、他の変化が誘発されない、というところに異常さがある。いや、もちろん変化はあったのかもしれない。しかし、それは映画の中ではほとんど描かれることがない。観客が何を読み取っても自由だろうが、少なくとも映画全体から明確な変化を見つけ出すことは難しいだろう。

そういう描き方によって、何を伝えたかったのか。それは僕にはうまく捉えきれなかったが、この映画から何か揺さぶられるものを感じ取る人は、いるだろうという気もする。

「ラブレス」を観に行ってきました

「羊と鋼の森」を観に行ってきました

これは、僕の言い訳だ。
音楽が付いて、分からなくなってしまった。

僕は、音楽にあまり興味はない。子供の頃から、どんな種類の音楽も聞く機会がなかったし、今だって乃木坂46の曲ぐらいしか聞かない。もちろん、音楽的素養もない。

音楽的素養が必要な映画だ、などというつもりはない。ただ僕は、この映画に原作があることを知っている。原作小説では、当たり前だが、すべての事柄が文字で描かれる。音楽も、音も、すべて。僕にとっては、文字の方が馴染み深い。だから、音楽や音を言葉で説明してもらえていた時の方が、スッと入ってきたのだと思う。

急に話は飛ぶが、最近ニュースを見ると泣けてしまう事件がある。5歳の少女が両親に虐待を受けて死んでしまった事件だ。

僕は普段、人が殺される事件であろうと、ニュースを見て悲しいと感じることはない。たぶんそれは、映像だからなのだと思う。昔から映画を見ていたわけではないし、今だってyoutubeなどはほとんど見ない。まあもちろん、昔からテレビは見ていたけれども。

僕なりに分析するに、その少女の虐待事件で泣けてきてしまうのは、それが文字だからだ。

少女は両親から、朝4時に起きてひらがなの書き取りをさせていたという。その少女が、ひらがなだけで書き残した文章が読み上げられる度に、僕は、涙腺がヤバくなる。そんな経験をニュースを見ていてすることがほとんどなかったので、僕の中でこれは、非常にインパクトのある出来事だった。

多くの人にとっては、文字で描かれていたものがきちんと音を獲得することで、より深みを増すことになるのだろうと思う。でも、たぶん僕はそうではない。ピアノから実際に音が聴こえるよりも、ピアノから流れているだろう音が文字で描かれている方が馴染みやすい。

映画を見ながら、そんな風に感じていた。

内容に入ろうと思います。
戸村は高校時代、ふとしたきっかけからピアノの音に強く惹かれた。ピアノどころか、周りには山と森しかないような場所で育った男だ。何故、ピアノの音に惹かれたのか分からない。でも、確かにその音に、森を感じたのだ。
戸村は2年間、東京の調律学校に通い、卒業後、地元の楽器店「江藤楽器」に就職した。戸村が調律師を目指すきっかけとなった、板鳥さんのいる会社だ。
戸村は、柳という先輩にくっついて、調律師としての仕事を覚える。非常に難しい仕事だ。技術だけあってもダメ。知識だけあってもダメ。大事なのは、お客さんがどんな音を望んでいるのかを、きちんと捉えること。戸村は、先輩のアドバイスや、板鳥さんからの金言を手帳にメモしながら、少しずつ仕事を覚えていく。
そんな中で出会ったのが、佐倉姉妹だ。姉も妹も、共にピアノを引く。姉は奔放で、妹は大人しい。ピアノの弾き方も、全然違う。一台のピアノを、そんな対照的な二人に合わせなければならない。
調律師というのは、常に脇役だ。ピアニストを陰で支える役目。だから、調律師が目立っても仕方がない。それでも、調律師にだって目指すべき何かはあるはず―。誰もが、正解のない世界の中で、自分が信じる道を進んでいく。
というような物語です。

原作を読んだのはもう数年前なのできちんとは覚えていないが、原作をかなり忠実に映像化しているように感じた。原作の中で、僕が一番印象的だった部分は映画では描かれなかったが(50ccのバイクにしか乗れない人に、ハーレーダビッドソンのような調律をするのが正解なのか、という話)、主人公が調律という世界と出会い、才能のなさに打ちひしがれながらも、どうやっても離れられない世界にしがみつくために奮闘する様を、丁寧に描いていく。

『才能っていうのは、ものすごく好きっていう気持ちのことなんじゃないか』

僕なりにこの言葉をもう少し言い換えてみると、こうなる。

「才能っていうのは、ずっと続けられるということなんじゃないか」

それがどんなことであれ、ずっと続けることが出来ているものには、才能があると思う。どれだけ記憶力が良くても、どれだけ絵がうまくても、どれだけ楽器がうまく弾けても、それは「道具の性能が良い」というのとほとんど変わらない。その「道具」を使って何をするのか、ということが大事なのだ。だから、仮に道具の性能が低くても、ずっとずっと続けられることであれば、それは才能だと思っていい、と僕は思う。どんな状況であれ、やり続ける行為の先にしか、何かを生み出したり残したりという営みは、あり得ないと思うから。

そういう意味で、戸村には間違いなく才能がある。才能のカタマリだ。どれほど技術がなくても、どれほど知識がなくても、彼は調律という世界から離れることが出来ない。その事実だけで、才能のカタマリだ、と思う。

僕も、文章だけはずっと書き続けている。まあ、そういう意味では、才能があるといえるだろう。だからこそ、「自分には才能がない」と感じてしまう、戸村の気持ちも、なんか凄くよく分かるのだ。

「羊と鋼の森」を観に行ってきました

ヒトラーの試写室(松岡圭祐)

あいかわらず、爆裂的に面白い作品を書くな、松岡圭祐は。

この作品では、「映画」が扱われるが、戦時中の「映画」は、現代の「映画」とは、まったく違った意味を持っていた。
それは、より「ニュース」に近いものとして捉えられていたのだ。

『奇術の興行に変わる見世物、それが発明直後の映画だった。すなわち大衆は、映画とはいんちきだと思っていた。ジョルジュ・メリエスの短編から三十年余りが過ぎたいま、世間はニュース映画を通じ国際社会を知る。そこに嘘があれば非難の対象となる。たった三十余年で変わったものだ。映画はいんちきではなく、真実と捉えられている』

この大前提が、この作品を読むに当たって非常に大事になってくる。何故ならば、「映画が真実と捉えられている」ということは、「真実味のある映像を撮って映画として流せば、それが大衆に真実と受け取られる」ということになるからだ。

だからこそナチスドイツには、ゲッペルス宣伝大臣率いる「宣伝省」が存在した。ヒトラーが、宣伝に力を入れていた、という。

『開催中のベルリン・オリンピックの記録映画には、全世界からプリントの貸しだし予約が殺到しています。みな現地での感染の代わりに、映画を鑑賞するのです』

ゲッペルスは、幼少の頃に患った小児麻痺により歩行が不得手となった。それ故軍人になれなかったのだが、宣伝省を任された以上、映画によって武力行使以上の外交の成果を挙げたいという野心を秘めている。

しかし、決してそれだけではない。

『どれだけ戦闘機を量産しようと、全地球は爆撃できない。だが映画は世界の隅々まで浸透し、人の心を操作できる。近代文明においては、宣伝省こそ軍隊をもうわまわる力を発揮する。その事実を証明する好機、歴史の転換点となりうる。
武力衝突では大勢が死ぬ。一方、映画で戦争に決着がつけられるなら、人命は奪われない。いかに文明的な進歩であるか考えるまでもない』

『映画を作ることで、人心を完全に掌握できたのなら、現実の戦禍は避けられた。悲劇を描くことで悲劇を防げた。敵はひれ伏し、民衆は偉大なる総統のご意思に従い、平和と発展があるのみだった』

この認識が、完全に正しいかどうかは判断が分かれるかもしれない。映画という一要素だけで、それだけの成果を生み出すことは難しいのではないか、という気もする。しかし、ゲッペルスの意志は強く感じられる。彼は、武力行使によって秩序がもたらされるよりも、犠牲の少ない方法でそれを達成すべきだと考えていた。

『適正な宣伝により、大衆が自発的に劇場へ足を運んだのなら、おのずから内容を受け入れる。いったん鑑賞が始まれば、暗闇のなか画面のみを凝視するがゆえ、集団意識の誘導操作に格好の環境ができあがる。それとも、映画より有効な方策がほかにあるのか』

こういう感覚はむしろ、現代に近いものがあるのではないかと思う。戦時中の「映画」を、現代の「ネット」に置き換えてみれば、想像しやすいだろう。ネット上では、数多くのデマが蔓延する。その中には、個人を傷つけるもの、世間をあざ笑うもの、企業や政権にダメージを与えうるものなど、様々なものがある。インターネットの登場により、誰でも個人が情報を発信できるようになったが故に、映画よりも遥かに「信憑性」が高まるだろう。映画だけではないが、いわゆる「マスメディア」と呼ばれるものには、何か大きな力が加わって情報が歪む可能性がある。多くの人がその可能性を熟知している。しかしネット上での情報は、自分が知っている人が発信したもの、あるいは、自分が知っている人が拡散したものなど、他者との繋がりの中で情報が生まれ広まっていく。だからこそ、自分の手元に届く情報を、より信じやすくなってしまうのだ。

本書には、特撮映画の父とも呼ぶべき円谷英二が登場する。本書の中で彼の印象的な発言がある。

『きみが描くのは戦争の絵だ。戦艦が沈没するカットを作るとき、きみは乗組員らの死を描いているんだよ』

この発言は、物語の後半で非常に大きな意味を持つ。そして、「本当ではないもの」が「本当」に変わる、その瞬間を目の当たりにすることになるのだ。

円谷英二は、特殊撮影技術を極めたことで、現実にしか見えない映像を次々と生み出した。本書にも登場するエピソードだが、円谷英二が特殊撮影技術によって生み出した真珠湾攻撃の映像は、GHQが本当に真珠湾で撮影したと思い込んだという。

彼は、「本当ではないもの」を「本当」に見せる卓越した技術を次々に生み出したわけだが、それが悪意と結びつくことによって恐ろしいことになる。現代も同じだ。様々な技術が生まれ、それらは普通に使えば僕らの生活を便利に、豊かにするものであるが、悪意と結びつくことで世の中を混乱に陥れたり個人を痛めつけたり出来るようになる。その怖さを、僕らはまだ十全には理解していないだろう。そういう意味で、本書を読むことに大きな価値を見出すことが出来る。「本当ではないもの」を「本当」に見せる技術が、どれだけ人間の生活を豊かにし得るか、そして同時にどれだけ人間の生活を壊し得るか。技術は、人間がどう使うかによってまったく意味が変わってしまうということが、実感できる物語なのだ。

全文を引用することは避けるが、主人公の柴田彰が、『だから本物の◯◯なんか作ってほしくなかった』と語る場面は、非常に印象的だ。主張そのものは、ゲッペルスと方向性は同じだ。それ故に、物悲しい気持ちにもなる。技術を良き方向に使う意志のあった者たちが手を染めることになる、重大な悪事に対して。

内容に入ろうと思います。
父の下で大工見習いとして働いている柴田彰は、映画俳優になりたいと言って父に勘当される。当時の感覚では当然だ。舞台俳優が「河原乞食」と呼ばれていた時代であり、映画俳優はそれより劣ると思われていたのだ。しかし柴田彰は諦めない。親しい仲である敏子に、俳優になるために京都へ行くと告げ、あてもないのに撮影所近辺で糊口をしのぐ生活を始めた。
そんな折、ビッグチャンスが舞い込んできた。こんな張り紙を見かけたのだ。
「日独合作 大作映画製作開始 出演者募集 独逸語に堪能な二十代男子求む」
彰は家が裕福だった時期に、ドイツ語を習わせてもらっていた。来たるベルリン・オリンピックで大工の需要が高まるかもしれない、と父が考えたからだ。これしかない、と意気込んで面接へと向かったが、ほぼ何も出来ないまま終わった。面接の相手役が、後に「日本の恋人」「世界の恋人」と呼ばれるようになる原節子であり、日独合作映画「新しき土」の監督であるファンクが、主役は彼女しかあり得ないと一目惚れし、主役に大抜擢となった。彰はその面接の場で原節子と短いやり取りをし、その後も折りに触れ彼女と関わりを持つことになる。
失意の内に面接場を後にする彰だったが、そこで「新しき土」の特殊技術担当の助手を急募する男に声を掛けられた。仁川というその男は、円谷主任の元で「新しき土」の撮影に関わるのだという。半ば強引に助手にさせられた彰は、円谷英二が生み出す仕掛けとアイデアによって、魔法のような映像が生み出される現場を体験することなった。
一方、ナチスドイツの宣伝省の大臣であるゲッペルスは、映画によって大衆を誘導するために日々模索を続けていた。アメリカで大ヒットとなった「キングコング」を分析したり、誘導に要する時間や、適切な環境・刺激などについても研究させていた。「新しき土」もゲッペルスの承認によって製作がスタートすることとなったが、結局ドイツ国外では売れなかった。明らかに自国の宣伝と見透かされるような映画では、宣伝としての効果は薄いのだ。
そんな折、ゲッペルスは脚本家が持ち込んだある企画を目にした。それは、イギリスの豪華客船「タイタニック」沈没を描くものだった。映画としての娯楽性が必要だと考えていたゲッペルスは、この企画に飛びついた。うまくやれば世界中でヒットを狙える映画になる。ゲッペルスは監督を決め、莫大な予算をつけて映画化に向けて動き出すことになる。
しかし、「タイタニック」の監督に決まったセルピンは、非常に優れた映画を撮るのだが、潤沢にある予算を俳優たちとのどんちゃん騒ぎに使うような狂気の男でもあった。彼は、映画上絶対に必要不可欠な、タイタニック号沈没のシーンを撮影しなければならないが、模型による映像は惨憺たるもので…。
というような話です。

先に書いておかなければならないことがある。本書の冒頭には、「この小説は史実から発想された」とか書かれている。巻末の記述によると、柴田彰には実在のモデルがいるようだ。恐らく、本書の記述については、ほぼ史実をベースにしているのだろう。しかし、巻末に参考文献が載っているわけでもないし、柴田彰のモデルが誰なのかもパッとは分からない以上、どこまでが真実なのか読者は調べようがない。受け取り方として、そこが非常に難しいところではあるのだけど、僕は基本的には、本書の記述(会話などはともかくとして、誰がいつどこで何をしていたのか、というような部分)については、基本的に事実をベースにしているのだ、と受け取ってこの感想を書くことにする。

事実だとするなら、本当に圧倒されるような展開だ。正直、戦時中に映画製作のためにドイツに渡った日本人がいた、なんて全然信じられないけど、しかし信じたくなるようなリアリティを持つ物語でもある。

物語は、最終的には日本とドイツの物語が交わるのだけど、しばらくの間独立した物語として進んでいく。日本では、円谷英二率いるチームが、様々な試行錯誤の末に斬新な映像を次々と生み出していく。それらがどんな創意工夫によって生み出されたのか、そして生み出した映像がどんな波紋を呼ぶことになったのか、などが描かれていく。

一方でドイツでは、ゲッペルス率いる宣伝省が、映画というメディアを最大限に利用して、いかに人心を掌握するか、という奮闘を続ける。正直ナチスドイツの将校たちは、宣伝省を軽視している。ゲッペルス自身もそのことを理解している。しかしゲッペルスは、宣伝によって無駄な犠牲を回避すべきだし、それが出来ると信じている。その一番の挑戦が、タイタニック号沈没を描く映画の製作であり、そのために多大な労力を費やすことになる。

両者はしばらく交わらないのだが、対比として非常に面白い。それは、映画製作の現場の雰囲気の違いだ。

ドイツの撮影現場は、セルピンの独裁みたいなものだ。皆、ナチスドイツに忠誠を誓ってはいるが、それは映画を作るための方便に過ぎない。彼らは、戦地に行かなくて済むように映画業界にしがみついている者たちであり、だから全権を持つ監督に嫌われないよう振る舞う。宣伝省が映画製作に力を入れているから、予算も潤沢だ。そんなわけで、セルピンが強権を発動する、狂乱の現場となっているのだ。

一方、日本の現場は対照的だ。そもそも彰や円谷たちの現場は、日本における映画製作の主流ではない。円谷は、カメラの知識もあるが、変な撮影ばっかりやってるやつにカメラなんか任せられないと、役者がいるような現場でカメラは持たせてもらえない。彼らは日々、予算も潤沢にないために、土や木材や寒天などの材料にまみれながら、こそこそと地道な準備を続けている。

円谷は、満足な環境が与えられなかったからこそ、工夫するしかなかった、という側面もきっとあるだろう。それは、セルピンを見ていてもわかる。予算が潤沢だから、工夫する必要がない。必要なものは何でも手に入るし、セットや衣装なども豪華にし放題だ。ないからこそ考える。円谷は、こんな風に言っている。

『不可能を可能にするのが特殊技術じゃないか。いいか。できるかできないかと問われたら、とりあえずできると答える。それから胃が痛くなるぐらい考えれば、きっと解決策が見つかる』

その教えは、異国の地でたった一人で特殊技術を考え出さなければならない状況に陥った彰にも染み付いたものだった。

円谷たちが撮影した「ハワイ・マレー沖海戦」(後にGHQが本物だと勘違いした映像)がきっかけとなり、日本の物語とドイツの物語が結びつく。そしてそこから、まったく想像もつかなかった展開がやってくるのには驚かされた。

巻末の記述によれば、それも史実に沿っているらしい。もちろん、どこまで脚色があるのかは判断できない。しかし、少なくとも、ベースとなる史実はあるようだ。凄い、と思った。よくもまあ、そんなことを思いつくものだし、さらにそれを物語上の要請に従って、彰と結びつけたと思う。どこまで史実なのか、ということは一旦置いておいて、単純に物語の展開として非常に魅力的だし、実際にこんなことが行われていたとしたら…という想像を喚起させる、見事な展開だった。

そうやって、自ら「嘘つき」の片棒を担がされることとなった彰は、日本の報道さえも信じられなくなっていく。

『世のなかはどうなっているのだろう。すべてが欺瞞で、作りものにすぎないと思えてきた。特殊技術撮影のなかだけにトリックがある、これまではそう信じた。だが現実は異なる。なにもかもが嘘ばかりだ。』

この感覚は、戦争が終結した後まで、彰の中に留まり続けることになる。ある衝撃的な事実を告げられた時、彰は「嘘だ」と感じるのだ。その感覚は、分からないでもない。そして、その衝撃故に、彼は『だから本物の◯◯なんか作ってほしくなかった』と嘆くことになるのだ。

巻末の記述にはこうある。

『柴田彰(仮名)は東京府東京市南葛飾郡(現・東京都葛飾区)生まれ、府立四中卒。戦後、円谷特技プロダクションへの勧誘について辞退し、設立されたばかりの太平住宅に入社。生前はすべての取材を断ってきた。夫人によれば、黄金NSDAP(ナチス)党員バッジを授与された過去を恥じていたとのことである』

語られなければ、それは「歴史」にならない。柴田彰のモデルとなった人物は、語らなかった。彼が語らなくても、周辺の人間が様々な媒体で語っているかもしれない。著者はそれらをかき集めてこの物語を生み出したのかもしれない。しかし、やはり「物語」が限界だ。この物語は、そのまま「歴史」にはならない。なんというか、そのことが少し残念でもあり、同時に、「物語」であるが故にこれほど楽しめたのかもしれないとも思う。しかし、読み終えて思うことは、やはり、きちんと「歴史」として残って欲しいと思わされるものだった。

いや、まだ間に合うかもしれない。僕らがそれを認識し、語り続ければ、いつしか「歴史」になるかもしれない。

松岡圭祐「ヒトラーの試写室」

人間に向いてない(黒澤いずみ)

僕が抱いた違和感をひと言で表現すると、こうなる。

子供を虐待する親もいるじゃないか。


僕は、「血の繋がり」みたいなものに意味があるとは全然思っていない。子供の頃から家族のことを、「血は繋がっているけど、性格も生きてきた環境も何もかも違う他人」だと思っていた。血が繋がってるから何なんだ、と割といつも思っていた。客観的に見て「親」というのは、「血が繋がっている」という以外ほぼほぼ共通項なんてない存在ではないかと思ってしまうのだ。

もちろん、育ててくれたことに対する恩みたいなものがないとは言わない。言わないけど、でも、酷い言い方だが、こっちが頼んだことじゃない、という気持ちはやっぱりある。今はそういう気持ちは薄れたけど、子供の頃、今よりずっとずっとしんどかった頃は、勝手に生んで勝手に育てて、結果今俺しんどいんっすけど、みたいに思うこともあった。まあ、「反抗期」なんて分かりやすい言葉を使えばそれまでなのかもしれないけど、その時期の自分としては、そんな風に軽く考えられるようなものではなかった。

子供の頃、自分がそんな風に感じていた、ということも影響しているのだろう。僕ははっきり言って、「自分の子供だから無条件に可愛い/愛すべき」という前提を持っていない。僕はまだ結婚もしていないし、もちろん子供もいない。だからすべてが想像でしかないし、分からない(結婚とか子供について自分の意見を言うと、経験してみたら変わるよ、みたいに言われることもよくある)。そういう条件付きではあるが、自分が「親」になっても、やはり子供のことを「血が繋がっているだけの他人」と感じるのではないかと思うのだ。

もちろん、法律上の責任があることは理解している。そして、その責任を放棄すると罰せられることも知っている。だから自分が子供を持つようなことがあれば、法律で定められた範囲内の責任は可能な限りまっとうしようと努力するだろう。しかし、それが僕の限界だ。それ以上の努力が出来るかどうかは、はっきり言って、その時次第としか言えない。僕はちゃんとそういう自分を認識しているから、子供を持つべきではないと理解している。

さて、そんなわけで僕には、「自分の子供だから無条件に可愛い/愛すべき」という前提がない。そして、そういう観点から本書を読むと、やはり主人公の田無美晴に違和感を覚えてしまうのだ。

本当か???と。

僕はむしろ、美晴の夫である勲夫の方に共感できてしまう。もちろん、勲夫ほど極端ではないと思うし、勲夫ほど酷い言い方もしないとは思う。しかし、美晴側か勲夫側で分けるとすれば、僕は間違いない勲夫側の人間だ。

『「どうして、って…優一はもう死んだんだ」
「やめてよお父さん、ユウくんの前で。現にあの子はここにいるじゃない」
「お前のほうこそ勘弁してくれ。医者から死亡のお墨付きをもらったんだよ。死亡届も七日以内に提出しなきゃいけないんだ。これから煩雑な諸手続きが待ってるんだから」』

少なくとも僕の価値観では、勲夫の考え方(発言や行動はともかく)の方が自然に思える。人間ではない異形へと姿を変えてしまった息子を、それでも愛そうとする美晴の方に、僕は最初からずっと違和感を抱きながら読んでいた。

ホントに、そんな人いるのだろうか?と。

いや、まったくいないとは言わない。しかし、この「田無美晴」という人が、異形へと姿を変えた息子へ愛情を注ぎ続ける人格である、ということへの信頼感が強くあるわけでもない。そこには二つの理由があって、一つは前述した通り、僕に「自分の子供だから無条件に可愛い/愛すべき」という前提がないことだ。

もう一つは、息子が異形へと姿を変える以前の話が、ほとんど描かれないからだ。そして、「息子は長いことひきこもりである」という状況設定においては、母親(美晴)が息子へ愛情を注ぐことが難しくなる、という読み取り方の方が僕には自然に感じられる。現に、美晴のことは置いておいて、作中で描かれる社会全体に目を向ければ、そういう傾向の強さを実感できる。

本書の場合、その落差を埋める描写は決して多いとは言えない。もちろん、これは難しい問題だ。「愛情」というのは目に見えないものだし、息子に対する具体的なアクションが「ない」からと言って、愛情が「ない」と断言できるわけでもない(逆もまた然り)。とはいえこれは小説だ。現実であれば、「現実だった」という重みがその違和感を消し去ってくれるが、小説ではそうはいかない。ひきこもりであった息子に対して、変わらぬ愛情を抱いていた――そう読者に納得させる描写がなければ、僕のように「自分の子供だから無条件に可愛い/愛すべき」という前提を持たない人間には、違和感の方が大きくなってしまうだろう。

もちろん、僕のような人間は決して多数派ではないだろう。恐らく世の中の大多数の人は、「自分の子供だから無条件に可愛い/愛すべき」と思っている(あるいは、子供を持てば自分がそう感じるはずだと思っている)ことだろう。そういう人は、美晴から不自然さを感じることなく本書を読むことが出来るのだろう。だったらわざわざ、僕のような少数派の人間にチャンネルを合わせて内容に手を加える必要はない、とも言える。

内容に入ろうと思います。
田無美晴の息子・優一は、ある時から高校に通わなくなり、そのまま退学。それから5年ほど、ずっと部屋に引きこもって生活をしていた。
美晴は優一の部屋をノックする度に、ある不安を過ぎらせていた。
「異形性変異症候群」
それは、いわゆる「ひきこもり」と呼ばれる若者たちの間でジワジワと蔓延している奇病だ。ある日突然、人間が異形へと姿を変えてしまう、というもので、数年前から頻繁に発症が報告されている。どんな異形に姿を変えるのかはその時々で、犬猫のような小動物のようなものから、虫・魚と言ったような生物に近かったりと多種多様だ。しかしおしなべてグロテスクな見た目をしていることだけは変わりない。
発症が蔓延するようになり、困り果てた政府はある決断をする。「異形性変異症候群」を致死性の病と決めたのだ。物理的な死ではなく、人間としての死。診断されればその時刻に死亡したとされ、生命保険なども下りる。人間としての権利をすべて失い、後は「変異者」として、気味の悪い姿のまま生きていくことしか出来ない。
そして優一も、ある日異形へと姿を変えてしまった。気味の悪い「虫」へと変貌してしまった息子を、それでも愛そうとする美晴。夫との価値観の相違が浮き彫りになりつつ、美晴は、異形へと姿を変えてしまった息子と共に生きていくための努力や方策を模索し続けることになるが…。
というような話です。

よく出来た小説だ、と思う。

何よりもまず設定が秀逸だ。カフカ的な不条理な世界を、可能性を感じさせる形で現実へと組み込んでいく。息子が突然「虫」(虫だけに限らないが)になってしまう、という事態から、彼女が住む世界が描かれていくのだけど、それはまさに、僕らが生きている現実を虫眼鏡で拡大したかのような日常だ。「異形性変異症候群」という強烈な存在を作中に置くことで、僕らが生きている現実の嫌な部分をクローズアップしていく。

この物語から連想できることは多い。引きこもりやニートなどは、元々作品の設定になっているから当然としても、あらゆる弱者・マイノリティがこの作品からは連想出来る。僕は、原爆の投下や福島第一原発事故を連想した。「異形性変異症候群」の家族がいるせいで結婚できない女性の話が出てくるのだが、それはまさに、原爆や原発がもたらした状況と同じだと思う。

また、自閉症も連想した。以前、「自閉症の僕が「ありがとう」を言えるまで」という作品を読んだことがある。自閉症であるが故に「知恵遅れ」だと思われていたが、やがて特殊な方法でコミュニケーションを取る方法を母親と作り上げ、やがてその芳醇な知性を示すまでを描くノンフィクションだ。

著者は、頭は正常であるのに、コミュニケーションの手段がないばっかりに「知恵遅れ」だと思われてしまうことの絶望を描いている。彼が「自閉症児にも知性がある」と示したことで、自閉症を取り巻く世界は変わっていったようだ。

「人間に向いてない」では、人間が突然異形の存在となり、言葉によるコミュニケーションが不可能になる。それは、双方に取って厳しい状態をもたらす。世話する側は、自分の意思が伝わっているのか分からず、異形になった側は(意識のようなものがあるとして)自分の意思を伝えられないことになる。この断絶はまさに、自閉症児が抱える問題と同じだと感じた。

他にも読む人次第で様々な事柄が連想されるだろうと思う。引きこもりが「異形性変異症候群」を発症するという状況を描き出すことで、僕らが生きている現実に存在する様々な問題や歪みみたいなものを浮き彫りにしていく作品だと思う。

冒頭で、美晴が注ぐ愛情に違和感を覚えた、と書いた。その感覚は変わらないのだが、物語を最後まで読めばある程度納得できる。あまり詳しくは書けないが、なるほど、そう着地するのか、と。とはいえやはり、僕には、美晴が息子に愛情を注ぐことへの「違和感」を消し去ってくれる何かがあったら良かった、とは感じた。

僕なら…まあ、諦めるだろう。それは、親の介護のことを想像してみてもイメージ出来る。世の中には、仕事を辞めてまで親の介護をする人がいるかと思えば、可能な限り親の介護から逃げようとする人もいるだろう。僕は後者のような人間だ。自分の親と自分の子供は全然違う、というようなことを言われそうな気もするし、少なくとも子供がいない僕には今それに反論することは出来ないのだけど、今持てる実感としては、子供が「異形性変異症候群」になったら諦めるだろうな、というものだ。

世の中には、どっちの人が多いんだろう。僕は、僕のフィルターを通してしか世の中を見ることが出来ない。そういう意味で、僕には、自分のような人間が多いんじゃないか、という風に見える。特に、世代が下がれば下がるほどそういう傾向が強くなるのではないか、という気もしている。

田無美晴に共感しながら本書を読める人は、なんというのか、「人間に向いている」のだろうな、と思う。

黒澤いずみ「人間に向いてない」

川の光(松浦寿輝)

内容に入ろうと思います。
本書は、三匹のネズミを中心とした、動物たちの大冒険の物語です。
川沿いに棲むネズミのタータは、弟のチッチと一緒に遊んでいた。ゴールデンレトリバーのタミーと仲良くなったりと、色んな動物たちと関わりが出来たり、そもそも街中ではなくて川の近くに住めていることが快適だったのだけど、ある日事態は大きく変わってしまう。なんと人間がこの川の上に蓋をして暗渠にしてしまうというのだ。工事はまさに始まっており、彼らはすぐにでもどこかに引っ越さなくてはならなくなった。
彼らは上流へと向かうことに決めた。暗渠化の工事は、榎田橋までだという情報を耳にしたので、川をそのまま遡り、榎田橋をくぐって行こうとしたのだが、そこで思いも掛けないことが起こった。なんと、ドブネズミの大軍が待ち構えていて、ここより先は自分たちの領土だから通せない、というのだ。彼らは撤退せざるを得なかった
橋の下は通れない。その周辺も、ドブネズミの縄張りだ。だったら、これしかない。彼らはさらに上流へと向かうために、ドブネズミの縄張りを大幅に迂回して進むことにしたが…。
というような話です。

なかなか面白く読めました。全然どんな話なのかも知らないで読み始めたので、そもそもネズミの話だっていうことに驚きましたけど、人間が気付けないような小さな世界で大冒険が行われている、という描写がなかなかに面白かったです。

物語を読む上で、本書には非常に大きな安心感がある。それは、「この三匹のネズミは、恐らく死んだりはしないだろう」という安心感だ。読みながら確信を持てたわけではないのだけど、物語全体に漂う雰囲気から、恐らく彼らに「死」という悲劇的な結末が用意される物語ではないだろう、と感じたのだ。

道中、彼らには本当に次々と災難が降りかかるのだが、彼らは「死なない」と分かっている(という表現はおかしいが)のだから、「じゃあ彼らはどうやってこの難所を乗り越えるのだろうか!」という関心で本書を読み進めることが出来たのが良かったと思う。

彼らの大冒険は、人間の視点からすればちっぽけだ。それには二つの意味がある。一つは、単純にスケールの問題。人間と比べてネズミは凄く小さいから、それだけスケールの小さい冒険になるのは当然だ。そしてもう一つ。これはある種の偏見なのだけど、人間から見ると、人間と比べてネズミは「重要度が低い」から、彼らの大冒険が「大したことでないように見える」ということになるのだ。

とはいえ、その点にこそ本書の面白さがある、と僕は感じる。正直僕らからすれば、ネズミが一匹命を落とそうがどうということはないだろう。猫が車に轢かれていれば、それが自分の飼い猫でなかったとしても、可愛そうと感じるかもしれないが、それがネズミだったら恐らく、なんとも思わないだろう。そう、僕らにとってネズミというのはそういう存在なのだ。

そういう存在を大冒険の主人公に据え、生き生きと描き出すことで、なんというのか、僕らが持っている「人間優位」的な考え方になんの根拠もないということを突きつけているような感じもして、自虐も含めて痛快な気分になる部分もあった。

物語は全体としておとぎ話のような感じで、比較的子供でも読めるような作品だと思う。「生きる」ということの現実性や意味合いがまったく違う「人間」と「ネズミ」だけれども、「生きる」ということがもたらす「輝き」や「喜び」みたいなものは同じなのだ―そう思わせてくれるような作品だと思う。

松浦寿輝「川の光」

マンガでわかる 最高の結果を引き出す心理交渉術(DaiGo)

なるほど、これはなかなか面白い本だった。

物語は、「ネゴシエイトナビゲーター」という、「どんな交渉でも必ず成功に導きます」と謳う会社が舞台。そこでネゴシエーター(というか社長?)としてあらゆる交渉事をまとめる小鳥遊聖悟と、その秘書(兼ネゴシエイトナビゲーター見習い)である美咲が物語の主役です。
二人の元には、様々ないらいが舞い込みます。厳しいマンガ家の原稿を濡らしてダメにしてしまった編集者、ママ友の集まりを断りきれずに家庭環境に悪影響をもたらしている奥さん、祖父のためにどうしても合格したいオーディションに落ちてしまった役者…などなど、それぞれの事情を抱えた人物がやってきて、小鳥遊に交渉を依頼します。
そして小鳥遊は、個々の事例を鑑みて作戦を練り、心理学的に有効な様々なテクニックを使って依頼人の問題を解消する…という感じです。

マンガなのでストーリーをあまり詳しく説明しすぎない方がいいと思うので、これぐらいにしておきます。

使われているテクニックは、心理学の本をそこまでたくさん読んでいるわけではない僕でも耳にしたことがあるようなものばかりで、そういう意味で初歩の初歩、という感じでしょう。また、事例ごとに使われる「テクニック」に焦点を当てるのが本書の大きな目的なので、どうしても、「テクニック」が映えるようにうまく事例そのものが調整されている、と感じます。本書を読む上で理解しておかなければいけないことは、実際にはこんな風にスムーズには行かないだろう、ということです。使う「テクニック」の使用方法や効果などがはっきり分かるように調整された事例を元に物語が進んでいくので、そこを差し引いて受け取らなければならないでしょう。

じゃあ、本書のような本が無益かというと、もちろんそんなこともありません。僕は、こういう本を読む価値というのは、「どれほど絶望的な状況であっても、なんとか出来る可能性がある」ということを知ることだと思っています。もちろん、テクニックは知っていた方がいいし、使い方を知っていた方がいいし、使った経験がある方がもちろんいいわけですが、それらが全部なくても、「今目の前にあるこの最悪な状況を乗り切る方法が何かあるはずだ」と思えるかどうか、ということが結構大事になってくると僕は思っています。本書で扱われている事例は、確かに調整されているとはいえ、どれも結構絶望的な状況だったりします。でも、もちろん本書のように完璧にスムーズに行くことはないにせよ、やり方次第でどうにかなる可能性がある、と思えれば、今後自分の人生に何かが降り掛かってきても、諦めずに対処出来るようになるかもしれません。

本書を読んでいてもう一つ感じたことは、主人公の性格がクソなのにもちゃんと意味はあるなぁ、ということです。これも、「テクニック」を映えさせるために事例を調整しているのと同じで、あくまでも「テクニック」によって事態を打開したのだ、つまり、ネゴシエーターの人間性みたいなものは関係ないんだ、ということをアピールする意図があるんだと思います。とはいえ、そう単純な話でもなくて、本書の物語の場合は、ネゴシエーターである小鳥遊は基本的に陰に隠れて、裏から指示を出しています。そういう存在の性格は、まあ確かにロクでなしでもいいでしょう。しかし、小鳥遊の指示を受けて実際に交渉の矢面に立つ人自身は、やはり、クソ野郎ではいけないわけです。その辺りのことを捉え間違えてはいけない、と思います。

僕はこういうハウトゥ本は、理解できるまで繰り返し読んで実践することが大事だと思っています。で、繰り返し読む、という点で、本書はマンガなので大きな利点があるな、と感じました。心理学の初歩の初歩のテクニックが紹介されているだけですが、知らない人には新鮮だろうし、知識として知っている人にとっても、物語とはいえ実際的な使い方を知ることが出来るのはいいんじゃないかと思います。

DaiGo「マンガでわかる 最高の結果を引き出す心理交渉術」

「しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス」を観に行ってきました

女性が強い、というのは、良いことだと僕は思っている。

歴史の大きな流れで見れば、男性と女性は以前に比べたら平等に近づきつつあるだろうが、やはりまだまだ社会の中で女性の権利というのはうまく確保されていない。歴史を遡れば遡るほど、その傾向が強くなっていく。

そういう社会の中では、女性はなかなか強く振る舞うことが出来ない。強く振る舞えないから、余計に権利が確保されない。そういう悪循環に陥ってしまう。

本当に、男性と女性が平等な社会が実現されているのであれば、別に女性が強くある必要はない。性差に関係なく、強い人は強ければいいし、弱い人は弱ければいい。ただ、まだまだ世の中は男性優位だ。だからこそ僕は、女性が強くあって欲しい。男性優位の社会の一パーツである僕がそんなことを言う権利はないだろうけど、主張し、行動し、闘う女性というのは、世の中にたくさんいて欲しい、と思うのだ。

今若い世代の人と喋っていると、自分をうまく認められないと感じている人が多いように思う。もちろん、それは世代によらず、どんな世代にも一定数いるのだろう。僕も、まあそういう人間だった。でもなんとなく、僕より下の世代は、よりそういう傾向が強いように感じられる。自己肯定感が、非常に低いような気がするのだ。

自分にどんな価値があるのかを自分で判断することは、とても難しい。それは、その人個人の判断ではあり得ないからだ。どんな時代のどんな社会の中に生きているのかによって、充実しているものや足りないものは変わってくるし、そういう中で、自分の内側から出せるものが、世の中にとって足りないものであると、そこに価値が見出されることになる。何をするかではなく、それが世の中の不足を補うのかどうか、ということに、自身の価値は大きく左右されてしまうのだ。

だから、生きている間には評価されなかったことが死後評価される、などということも起こる。したことは、生前と死後で変わっていないが、世の中の不足の方が変わったのだ。

だから、自分にどんな価値があるのか、という問いに悩むのは、あまり意味がない。結局それは、自分ではどうにもならない事柄を解決策として持ってこなければならないからだ。

自分に価値があるかどうかに関係なく、自分が何をするのか、ということが大事だ。もっと言えば、自分が何をしていれば満たされると感じるか、こそが大事なのだ。

自分にとって大事なものがきちんと分かっていて、それを自分の行動によって生み出したり維持したり出来れば、それは幸せな人生だろう。自分にとって大事なものが分からなかったり、分かっていてもそれが他人の行動によってしか生み出せないものであれば、幸せだと感じ続けることは難しくなるだろう。

強さというのは結局、自分を認めるところからしか始まっていかない。僕も、その難しさを常に意識している。

内容に入ろうと思います。
モードは、リウマチにより手足に多少障害がある。兄・チャールズが母の家を売り払ってしまい、モードはアイダおばさんの家に住むことになった。チャールズがモードのためにもってきた荷物は、僅かな絵筆だけ。モードは、絵を描く人なのだ。
アイダから快く扱われていないモードは、町の雑貨店で買い物中、一人の男性を目にする。彼は、家政婦を探しているそうで、雑貨店の壁に求人票を貼っていった。モードはその紙を持ち帰り、後日その、エベレットという魚売りの元を訪ねた。
一度は追い返されたモードだったが、その後住み込みで働くことになった。モードをただの使用人のように厳しく扱うエベレット。彼はこの家の序列が、「俺→犬→ニワトリ→お前」だと伝え、モードを追い込んでいく。
モードも、啖呵を切っておばさんの家を飛び出した手間、帰る場所がない。エベレットに厳しい扱いを受けながらも奮闘するモードは、しばらくして彼の家でペンキを見つける。彼に許可を取らずに壁に絵を描くモードは…。
というような話です。

モードというのは実在した(する?)画家で、カナダで最も有名な画家、と呼ばれているそうです。この映画がどこまで事実を元にしているのか、それは分からないけど(映画を見ているとよく、「この映画は事実に基づく」みたいな表記が出てくることがあるけど、この映画にそれはなかった)、基本的に事実通りなのだとすれば、有名になってからも非常に質素な生活ぶりで、ただ絵だけ描いていられればいい、という生活だったようです。

『私は多くを望まないから、絵筆が目の前にあれば幸せなの』

しかし、映画を見る前のイメージとは大分違いました。僕は勝手に、モードというのは「弱い女性」だと思っていたのです。リウマチによって手足に障害があり、また生涯ほとんど旅行もせずに絵だけ描き続けた、というような事前情報から、障害によって気弱になり、誰かの庇護の元、絵を描き続けるしかなかった女性なのだな、という勝手なイメージを抱いていました。

この映画で描かれていたモードは、そんな僕の先入観をひっくり返す人物像でした。基本的に自分の主張をはっきりして、臆することがない。許可を取らずに色々やり、怒られてもめげない。そういう「強い女性」でした。そして、モードのその強さが、非常に気持ちよかったです。映画館で見ましたけど、観客がモードの気の強さが現れる場面で結構笑っていたのが印象的でした。確かに「痛快」と称したくなるような振る舞いで、良かったです。

モードのような生き方は、幸せだろうなと思います。もちろん、辛いことがたくさんあることは分かっています。そもそも兄やおばさんに邪険に扱われているし、エベレットにも最初はかなりきつく当たられていました。物語の終盤で明らかにあるある事実も、モードを打ちのめしたことでしょう。それでも、モードは幸せだろうなと思うんです。それはさっき書いたように、自分にとって大事なものがちゃんと分かっていて、それを自分の生活の範囲内で生み出せるからです。絵筆さえあれば幸せ、というのは恐らく誇張ではなくて、本心でしょう。あんな風に生きられたらいいだろうな、と思います。

エベレットも、なかなか魅力的な描かれ方をしていました。最初こそ、マジでこいつクソだな、と思っていましたけど、徐々に、なるほどツンデレなんだな、と思うようになってきました。エベレットは、マジでツンデレですね。どんどんと、可愛さが増していく感じがしました。

特別なことは何も起こらないけど、偶然とお互いの努力によって、交わるはずのなかった二つの人生が、撚り合ってさらに太くなり、お互いがかけがえのない存在になっていく―そういう過程が描かれていく物語で、静かで淡々とした中に、力強い佇まいを感じさせる映画だったと思います。

「しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス」を観に行ってきました

「ザ・スクエア 思いやりの聖域」を観に行ってきました

いやはや、まったく理解できない映画だった。2017年のパルムドール(確かこれ、今年是枝監督の「万引き家族」が獲ったやつだよなぁ)受賞らしいんだけど、正直、マジで、なんのこっちゃさっぱり理解できない映画だった。びっくり。

一応内容を紹介しよう。
現代美術を扱う王立美術館のチーフ・キュレーターであるクリスティアンは、「ザ・スクエア」という展示を企画した。スウェーデン人の社会学者が作ったもので、物理的な展示物としては、地面を四角で囲っただけ。そこは【信頼と思いやりの聖域です。この中では誰でも平等の権利と義務を有します】という空間だ。
その宣伝の打ち合わせの会議の朝、クリスティアンは出勤途中でスマホと財布をスられてしまう。GPSでスマホの在り処まではわかったが、集合住宅の部屋番号まで分からない。そこで部下と共に、「君が盗んだことはわかってるんだ」という脅迫状を作成し、全戸に入れることにした。
やがて彼のスマホと財布は戻ってきたが…。
というような話です。

映画を見ながら思ったのは、僕にはこの映画を見るための前提知識が欠けているんじゃないか、ということ。恐らくこの映画はスウェーデンの映画なんだと思うんだけど、北欧は人権とか平等とかの感覚が日本よりも優れている感じがするから、たぶんその辺の感覚で、北欧では(あるいは欧米では)共有されているけど、日本人が遅れている(あるいは僕が遅れている)感覚、みたいなものがちょっと前提になっているんじゃないかと思いました。そう考えないと理解できないくらい、僕には何が描かれているのか分からない映画でした。

僕に理解できたのは、「自分のことしか考えていない現代人を風刺しているんだろう」ということです。クリスティアンがまさにその筆頭ですが、この映画に出てくる人たちは、割と皆、自分のことしか考えていません。それはある意味で、現代社会らしさみたいなもので、誰もが自己愛の強い世界で生きている。「自分さえよければいい」という、トランプ大統領が掲げるような感覚を、実は無意識の内に多くの人が持っていて、自分ではそうとは気づかずに周囲に撒き散らしている。「ザ・スクエア」という展示によって「思いやり」を主張したいクリスティアン自身が、まさにそういう利己的な行動をしている、という描き方をすることで、そういう社会を風刺したいんだろう、という感じはしました。

映画を見て、昔心理学の本で読んだある事件のことを思い出しました。確かアメリカだったと思います。ある夜、住宅が密集するような地域で女性が襲われました。女性は「助けて!」と何度も叫びましたが、結局誰も助けには来ず、女性は死亡しました。後日警察が調べると、その夜30人弱(だったと思う)の人が、彼女の「助けて!」という叫び声を聞いていたことが分かりました。彼らに、何故助けに行かなかったのか、と聞くと、「誰かが助けると思った」と返したと言います。こういう集団心理みたいなものには、忘れちゃったけどちゃんとした名前がついていて、それはこの事件をきっかけにして研究がなされた、というようなことが書かれていたと思います。

この映画にも、似たような場面が出てきます。その時のクリスティアンの行動原理は、そういう「誰かが助けると思った」的なものに近いのかもしれませんけど、それにしても、ちょっと意味不明だなと思いました。

猿が出てきたり、猿っぽい人が出てきたりしましたが、それらもなんのこっちゃさっぱり理解できなかったし、他にも、断片的に色んな描写があるんですけど、それらがどう繋がっていくのか、僕にはまったく理解できませんでした。ちゃんと理解力のある人が見れば素晴らしい映画なのかもしれないけど、ちょっと僕にはさっぱり理解できない映画だったなぁ。

「ザ・スクエア 思いやりの聖域」を観に行ってきました

魔女の棲む町(トマス・オルディ・フーヴェルト)

内容に入ろうと思います。
舞台は、人口約3000人の町、ブラックスプリング。この町には、ある秘密がある。魔女が棲んでいるのだ。魔女は、寝室や道路や店先など、あらゆる場所に出没する。そして住民たちは、その魔女の存在が外部に漏れないよう、必死で隠している。そこには、彼らの命に関わる、ある切実な理由がある。
キャサリンという名のこの魔女は、300年以上もこの町にいる。子供を殺された恨みから、死してなおこの地に留まっている魔女。その呪いはあまりにも強力で、住民たちは逃れようもない。そのためにブラックスプリングの住民は、この町を離れることが出来ないし、魔女の存在が観光客などにも知られないように必死にならなければならないのだ。
この町で、魔女に関する監視を行っている<HEX>は、ある日、若く裕福な夫婦がブラックスプリングの家を購入しようとしていることを知る。彼らになんとか諦めさせようと努力するも、うまく行かず、結局その夫婦は魔女の呪いに取り込まれることになってしまった。
ブラックスプリングに住むスティーヴ・グラントは、妻と二人の息子と四人で暮らしている。上の息子が、友人らと、何か企んでいるようだが…。
というような話です。

うーん、面白いのかどうか、よく分からなかったなぁ。僕の趣味ではないのだけど、僕の趣味じゃないからつまらない、という判断はしたくないから、この作品が面白いと受け取られる可能性について考えたいんだけど、どうもなぁ。分からない。

設定は非常に面白いと思った。もし本書のような設定の町が実在したとしたら、その町の情報は確かに表には出てこないと思う。住民たちが、必死で魔女の存在を隠す理由に説得力があるので、そういう意味で、キャサリンのような魔女を抱えた町がこの世界のどこかにある、という可能性は確かにあり得る、と思う。

そういう意味で言えば、リアリティというのとはまたちょっと違うんだけど、信憑性を感じられる物語ではあった。

とはいえ、長い。なんというのか、僕の目線でこの作品を捉えると、「魔女が出没するって町、っていうだけの設定で550ページ書いてる小説」って感じがする。ミステリ好きとしては、何故魔女が存在するのかとか、魔女が何を目的としているのか、みたいなことが明かされて欲しいなと思っちゃったし、あるいは、ゴジラとかエヴァンゲリオンみたいに、魔女という強敵を倒す、なんてストーリーでもいい。けど本書にはそういう要素はあんまりなくて、あくまでも「魔女がおるでー」っていうところからだけ話を展開させていく。魔女という、ある種の超常現象を抱え込まざるを得なかった人たちの意識の変化や鬱屈とした行動の描写なんかはなかなか面白いんだけど、とはいえ、僕の感覚では、それだけでこれだけ長い小説を成り立たせるのはちょっと無理があるような気がするんだけどなぁ、という感じだった。

魔女というものを中心に据えて、人間の愚かしさみたいなものを描き出していく感じは面白いし、人間の恐怖が連鎖することでさらなる恐怖がもたらされることになるというような部分もなかなか面白かったんだけど、やっぱり、これだけのネタで550Pは長いなぁ、と思ってしまったのでした。

トマス・オルディ・フーヴェルト「魔女の棲む町」

愛と勇気を分けてくれないか(清水浩司)

子供の頃、自分より年上の人間が嫌いだった。

今でもはっきり覚えているのは二つ。

一つは、小学生だったか中学生だったか忘れたが、担任の教師が嫌いで、連絡帳みたいなノートに新聞の切り抜きで脅迫状みたいな文章を書いて提出したら殴られたこと。

もう一つは、大学時代に入っていたサークルで、僕の立場では絶対に出席しなければならなかった、一個上の先輩も関わる集まりを途中退席し、その後同じ集まりには参加しなかったこと。

生まれたのがちょっと早かったからって偉そうにしてんじゃねーぞ

と、割と真面目に思っていた。体育会系の部活には、ほんの一瞬しか在籍したことがない。まあ、基本的には向いていないだろう。今でも、年上だから敬うべきとか、年下だから威張っていい、みたいな発想は微塵もない(はず)。

少しずつ年を重ねていって、「大人」と呼ばれる年代になってしまった。僕が「大人」になるに当たって意識していたことは一つだけ。それは、「かつての自分が大嫌いだと思っていたような大人にはなるまい」ということ。昔の自分が抱いていた感覚を正確には覚えてはいないけど、恐らく今の僕は、まだギリギリ及第点だろうと思う。自分の中では、昔の僕が嫌悪しそうな大人には、なっていないと思う。

まあでも、やっぱり、昔のままの感覚では大人になれないよなぁ、という諦念もあったりする。人生の節目節目で、意識的に何かを捨ててきた、という感覚が僕にはある。子供の頃、「大人はこうあるべきなんじゃないか」と思っていた、まさにその核となる部分を手放してしまったことも、たぶんあったはずだ。

そうやって何かを捨てたことで、何を得てきたのか。強く実感出来るものはない。結局のところ、皮膚の力が加わる部分にマメが出来るのと同じように、大人の社会の中で圧力が掛かる部分に何らかの変異があって、そこを切り離しているということなのだろう。何かを得るためではなく、これ以上すり減らないために何かを捨てる。

そういう自分を思う時、子供の頃の自分の感覚を捨て去りたくないな、という気持ちが濃くなる。

内容に入ろうと思います。
三好桃郎は、親の転勤によってあちこち転校をし続けてきた。高校二年の現在は、広島にいる。いつしか、自分の存在感を自在に消せるようになった。どうせすぐ別れる関係だ。仲良くなったって仕方ない。
広島で桃郎は、愛郷委員というのにさせられた。さらに校内の愛郷委員の中から選ばれる、全広島愛郷協議会に派遣されるメンバーにも決まった。よくわからないが、十代から郷土を愛する心を育んでもらおうという広島独自の活動のようだ。
その全愛郷の場で、桃郎は青山小麦に心奪われる。彼女は全愛郷でも有名な存在のようで、っていうかそんなことどうでも良くて、小麦の存在が桃郎にとっては衝撃的で、頭から離れなかった。
そんな小麦が崇拝しているのが、“ユキちゃん”という先輩のようだ。86年の日本シリーズで、広島の人間なら誰でも知っている「レッドワン作戦」を仕掛けた人で、他にも広島を盛り上げるために様々なことをしているらしい。
やがてその“ユキちゃん”とも会うことになる桃郎は、小麦への恋心と、広島で起こり始めている異変と、それらに取り込まれていく自分に翻弄される一年を過ごすことになる…。
というような話です。

なかなか面白い小説でした。特殊な歴史と、地元野球チームを擁する広島という不可思議な土地柄と、若さでしか戦うことが出来ない、その瑞々しさと無力さにさいなまれながら前進する者たちの奮闘が撚り合って、あぁ“青春”だなぁ、と感じさせてくれるような物語に仕上がっています。

個人的には、広島という土地に思い入れはなく、野球にも特に関心はないので、やはりこの物語においては、桃郎・小麦・“ユキちゃん”の生き方や関係性が興味深かったです。

この三人は、それぞれに抱えているものが違う。

桃郎は、根無し草のような自分の存在をうまく肯定することが出来ないでいる。どこに行っても余所者でしかない自分に何が出来るのか、何が言えるのか――ずっとそういう葛藤の中で生きてきた。だから、広島の人間でもないのに愛郷委員に選ばれた桃郎は、愛郷委員としての活動を斜めに見てしまう。桃郎は広島のことを、『なくても別に構わないものが大好き』な街、と評するほどだ。

そして、そういう温度差を持つ人物が主人公だからこそ、読者は物語から引き剥がされずに済む。現在の広島がどうなのか知らないが、少なくともこの小説の中で描かれる広島は、正直、僕にはちょっと鬱陶しい。広島に生まれ育てば違和感を覚えないのかもしれないけど、この小説の中で描かれる広島は、どうしても暑苦しいのだ。そしてそんな鬱陶しさ、暑苦しさを一緒に感じてくれる桃郎が主人公だからこそ、僕らは置いてけぼりを食らわずに済む。

小麦は、捉え難い存在だ。小麦は、基本的には桃郎視点でしか描かれない。だから、桃郎にとって恋の対象である小麦を客観的に捉える視点はほぼ存在しないと言える(作中で時々、“ユキちゃん”や議長の皆川などが小麦について言及する場面はあるが)。そういう意味でも、余計に小麦という人物は捉えにくい。

本書を最後まで読むと、小麦という女性についての印象が大きく変遷していることに気づくだろう。小麦が“見せている姿”が少しずつ明らかになっていく。特に男からすれば、小麦が何を考えて言動を選択しているのか、分からなくなる場面も多いだろう。そしてそれが、小麦の魅力でもある。

小麦が「広島」という土地をどう見ているのか、「広島」という土地で生まれ育った自分のことをどう捉えているのか、ちゃんとは理解できない。作中でははっきりとは描かれないものの、もしかしたら一番闇が深いのかもしれないとも思うし、その奥行の底知れなさが興味深い。

反対に、分かりにくそうで案外理解しやすいのが“ユキちゃん”だろう。広島における特異な立ち位置、その立ち位置故の悩み、そこから脱却するための奮闘――“ユキちゃん”ははっきりと、「広島」という土地に囚われているし、「広島」という土地を背景にしてしか自己を規定することが出来ないでいる。だからこその反発が凄まじいエネルギーを生みもするし、そのエネルギーが自分の内側から生み出されているのだとも勘違いしやすいのだ。

この三人が、それぞれの思惑や鬱屈を抱えながら関わり合っていく。良いことばかりではない。苦々しいこと、切ないこともある。大人ではないが、大人ではない存在でも広島だからこそ出来ることがある。しかしやはりそれは、大人の手のひらの上で転がされているだけのことでしかない。そういうことすべてが嫌になってしまう感じは、なんか分かるなー、と思う。

別れ際、小麦が投げかける言葉は、非常に強烈だ。確実に、相手を傷つけるために発せられた言葉で、でも、そういう風に言葉を使うこともあったなぁ、と思ったりもする。言葉を、意味を伝える手段でもなく、感情を届ける媒介でもなく、ただ刃として相手に届く、それだけを狙った言い方。そういう風にしか言葉を使えない瞬間が確かにあって、普段は忘れているけども、ふとした瞬間に思い出すこともある。

彼らはきっと、そんな時間を共有したという経験が、絶望的には悪い方向には働かなかった。そういう風でしかいられなかった自分、そして相手を認めながら、時間を掛けて変わっていったのだろう。そう思わせてくれる、余韻のある物語だったと思う。

清水浩司「愛と勇気を分けてくれないか」

ルポルタージュ(売野機子)

「恋愛」というのはどうも、「恋愛」という名前が付いた瞬間に別のものに変わってしまうみたいだ。
いつも、そんなことを感じてしまう。

今の僕は、もう、恋愛はいいや、と思っている。少ない経験値しかないが、自分の経験から、恋愛は向いていないな、という結論に至った。

僕は、友達として女性と関わるのは好きだし、他の男と比べれば断然得意だとも思う。女性の集団の中に、割と違和感なく入っていける。女性と関わるのが苦手、というわけでは全然ない。また、セックス的なものにもちゃんと関心はある。性欲がないから恋愛は要らない、と考えているわけではない。

僕が苦手なのは、「恋愛」という名前が付いてしまった時点で、「しなければならないこと」「してはいけないこと」が“暗黙のうちに”規定されてしまうことだ。

例えば、セックス的なことに関心はあるが、それが「しなければならないこと」になってしまうと、面倒くささを感じる。そして僕にはどうも、「恋愛」という名前が付くと、セックスはしなければならない、と感じられてしまう。

しなければならない、というとちょっと感覚がズレる。僕の中では、「恋愛」における「セックス」は、「愛の確認作業」であるように感じられる。つまり、セックスをすれば好き、セックスが出来なくなれば嫌い(あるいは関心が薄れた)ということになる、という了解があるように感じられる。僕は、そこが結びついてしまうことが嫌だな、といつも感じてしまう。別にセックスなんて、したければすればいいし、したくなければしなければいいと思うのだけど、「恋愛」というステージにおいては、するかしないかで「愛」が測られてしまうようなイメージが僕の中にある。それは、とてつもなく面倒くさい。

また、「恋愛」になると、他の女性と二人で会ったりすることがダメになるようだ。正直なところ、僕にはその意味がよく分からない。

何故なら僕は、恋愛に「排他律」を持ち込むつもりがないからだ。

排他律というのは、「Aでなければ必ずB」「Aならば必ずBではない」というような論理のことだ。例えば、赤と白のボールが一つずつ入っている箱があるとする。この例を使えば、「取ったボールが赤でなければ必ず白」「取ったボールが赤ならば必ず白ではない」となる。こういうのを排他律という。

多くの人が、恋愛において排他律を採用しているようだ。どういうことかと言えば、「私以外の異性と二人で会っているなら、私のことはもう好きではない」と判断しているからだ。これはまさに排他律だと僕は思う。

僕は、もっと可能性があると思っている。別に、「◯◯と☆☆が同時に好き」という可能性だってあっていいと思っている。先程のボールの例をまた使えば、箱の中に追加で青のボールを一つ加えると、「取ったボールが赤でなければ必ず白」という論理は崩れる。だって、青である可能性もあるからだ。しかし恋愛においてはどうも、多くの人が、この青いボールのような選択肢を排除したがるようだ。

僕にはこれがめんどくさく感じられる。

こんな風に、「恋愛」という名前が付くことで、「しなければならないこと」「してはいけないこと」が自然と規定される。そして、その規定の範囲内の振る舞いをしなければ、社会的な評価さえ下がる可能性もある(芸能人や政治家などがそういうことで評判を落としたりする)。うわぁ、めんどくさ、と思ってしまうのだ。

そんなわけで、今の僕はもう、積極的に恋愛しようという気持ちはなくなっている。さっきも書いたみたいに、女性の集団に入り込んでいくのは割と得意だから、セックスさえ除けば異性と関わる機会は普通に作ることが出来るし、性欲はまあなんとでもなる。

そもそも僕は、まったく結婚願望がないのだけど、仮に結婚を目指すとしても、恋愛にしようとは思わないだろう。何故なら、「恋愛的に気が合う人」と「結婚的に気が合う人」が合致するとは、僕にはどうしても思えないからだ。

恋愛や結婚に何を求めるのかは人それぞれ様々だろうが、僕には割とはっきりした感覚がある。恋愛には、「底知れぬワクワク感」を求めているし、(する気はないけど)結婚には、「一切気を使わない空気感」を求めている。

僕は、恋愛相手のことを「理解したい」と思うことはない。基本的には、永遠に理解できない存在でいて欲しいと思っている。その方が面白い。いつ会っても、まだそんな面があったの!と感じるような振る舞いをして欲しいし、そんなこと考えてたんだ!と思うような発言をして欲しい。捕まえようとしても捉えきれない底知れなさみたいなものを強烈に求めている。

一方、もし結婚するとしたら、相手の存在を無視し続けても自分の心が傷まないような相手がいい。こう書くとなんか酷い表現に思えるかもしれないけど、そういうつもりはない。僕はどうしても、誰かといる時には、相手基準で物事を考えてしまう。相手が楽しいか、相手が不快ではないか、相手が負担に感じていないか、みたいなことばかり考えてしまう。もうこれは性格の問題だからどうにもならない。ただ時々、あ、この人は、ホントに全然何も考えずに接しても大丈夫な人だな、と感じられる人がいる。こう感じさせてくれる人は、決して多くはないのだけど、時々いる。で、長いことずっと一緒にいるなら、そういう人がいい。

こんな風に僕は、恋愛と結婚に求めていることがまるで違うので、恋愛から結婚に至るイメージがまったくない。万が一僕が結婚するようなことがあったら、突然結婚するんじゃないかな、と思う。え、あんたたち付き合ってたの?と周りに思われるぐらいの感じになるんじゃないかと思う。

「恋愛」というのは、いつの時代も、特別素晴らしいものであるように扱われる。僕も、20代の頃は、恋愛したいと思っていた。そして、実際に恋愛をする機会があったからこそ、今こうして、恋愛なんかいいや、なんて言っていられるのだ。もし僕に恋愛経験がまったくなかったとしたら、やっぱり、恋愛したいと今でも思っているだろうと思う。そういう意味で言えば、恋愛経験を持てたことはとても良かったと思うし、ありがたいと思っている。

今僕はなんとか、女性との関係性に「恋愛」という名前が付かないことを祈っている。別に、他の名前を欲しているわけでもない。とりあえず、既存の概念では名付け出来ないような、そんな名前の付けがたい関係性でいられたらいいなと思っている。そういう努力を地道にしている僕だからこそ、この物語で描かれている設定は、非常に親近感があったし、興味深いものだった。

内容に入ろうと思います。
舞台は、2033年の日本。それは、恋愛を“飛ばし”て結婚する人が大多数となり、独身男女の未恋率は70%を超えるような時代だった。そんな社会においては、結婚マッチングシステムによって結婚相手を見つけるのが主流で、中には、一緒に住みながらお互いの相性を理解し合う、主体性のあるお見合いを実現できるシェアハウスまで登場した。非・恋愛コミューンとして記事に取り上げたことがあるのが、中央新聞社会部で記者をしている絵野沢理茗だ。
絵野沢は、先輩女性記者である青枝聖が退職するつもりだと聞いて動揺する。「(事件の)発生があるとワクワクするね」と言ってしまうような人が、警察常駐から外されてしまったからだ、と周囲は見ている。
そんな折、先のシェアハウスで事件が起こった。カラシニコフを乱射し、死者多数、容疑者は既に確保されているという。過激思想テロ組織XXXから犯行声明が出されるなど、大騒動に発展したこの事件で、絵野沢と青枝はコンビを組んでルポルタージュを書くこととなった。シェアハウスで犠牲になった住人の周辺の人間を取材して、その人となりを記事にするのだ。絵野沢は上司から、このルポルタージュが続いている間に、青枝の退職を思いとどまらせろと言われている。
“飛ばし”が当たり前になった世の中で、誰もが「恋愛」を遠いものだと思っている中、仕事仕事で働き詰めだっただろう青枝が、恋に落ちた…。
というような話です。

これは面白かったなぁ。これは、人に勧められて読んだ。自分が恋愛に対してどう考えているのかを話す機会があって、その相手から、だったらこれ読んでみてと勧められたのだ。作中では様々な価値観が描かれるので、その全部に共感しているわけではないけど、このマンガの舞台設定は非常に僕の感覚に沿うものだし、非常に興味深かった。

作中の登場人物の一人が、こんなことをいう場面がある。

『やっぱ、私達みたいな結婚適齢期が恋愛をしていたらバカみたいな雰囲気あるじゃないですか』

この一言が、彼らが生きている世界を端的に表現していると感じた。仕組みや制度だけあっても、人間は変わらない。このマンガで描かれている2033年は、仕組みや制度ではなく、既に人間の意識が大転換している世の中なのだ。「結婚適齢期にいる人が恋愛をしていたらバカみたいに思われる雰囲気」というのは、やはりまだまだ「恋愛」というものの力が強い現代では成り立ちえないだろう。むしろ、結婚適齢期にいるんだから「恋愛」しなさい、みたいに思われるのが僕らのいる世界だ。それとはまったく真逆の世界が、このマンガの中では成立しているし、それが成立しうると感じさせてくれる点が非常に面白い。

そう、この物語は、決して起こり得ないSF作品なわけではなくて、僕は、僕らが生きているこの世の中の延長線上にある世界だと思っている。それが2033年までにやってくるのかどうか、それは分からないが、地続きであることは確かだと思う。絵野沢はこう言っている。

『しかし楽な時代になったと思いませんか?結婚も、WEBで手軽にマッチングするシステムが定着しつつありますし、恋愛へのプレッシャーも減って、若者の自己肯定感も回復傾向にあると聞きます。いずれ少子化に歯止めがかかる…。いい時代です。』

この感覚を、まったく理解できない人もたくさんいるだろう。しかし、若い世代になればなるほど、たぶん共感できる人は増えてくるのではないかと思う。実際に、恋愛経験がないという男女が増えているというニュースをテレビでみたことがあったし、でも結婚したい人は相変わらず多いという。であれば、このマンガで描かれているような世界への需要は潜在的にあるのだろうし、需要があるものはいずれ実現するだろう。

作品の舞台設定も絶妙だ。この2033年という世界は、まだまだ新しい価値観への移行期のようで、絵野沢には恋愛の経験もないしその期待もないのだけど、青枝には、厳密には描かれていなかったと思うが、恐らく過去に恋愛経験がある。“飛ばし”に反対する人もまだ少なくない数いるようだし、だからこそ様々な価値観が局所的に入り混じっている世界が作られている。だから、価値観同士の衝突も起こりうるし、結果的にシェアハウスでの大事件のようなことも起こる。

物語は、絵野沢と青枝がルポルタージュのための取材をするのと同時に、青枝が取材対象者と出会い恋に落ち、その様子を見て絵野沢が「嫉妬(カッコに入れたのは、本人がそれを嫉妬であるかどうか理解していないため)」を感じる、というのをベースに展開されていく。ルポルタージュそのものも、非・恋愛コミューンを舞台にした事件であるが故に、取材によって恋愛や結婚に対する様々な価値観が浮き彫りになる。一方、絵野沢にしても青枝にしても、「恋愛」というものに絡んだ、長らく感じたことのない(あるいは初めて感じる)感情に振り回され、自分が今まで正しいと信じてきた価値観が揺さぶられる。そしてその過程で、「恋愛なんて、別に要らないよね」という態度が、ある種の「強がり」「虚構」「欺瞞」である可能性が示唆され、社会全体が自らの手で自らの感情に蓋をしてしまったかのような、そういうのっぺり感さえ抱かせる。

明白な結論が用意されないからこそ、誰もがきっとこの物語のどこかに自分を配置出来るのではないかと思う。この世界に賛成でも反対でも、恋愛を“飛ばす”という在り方について考えて、感じてみることは、あなたが当たり前のように抱き続けてきた価値観を自然と揺さぶるかもしれないと思う。

売野機子「ルポルタージュ」





どこよりも遠い場所にいる君へ(阿部曉子)

「優しさ」というのは、なかなかうまく伝わってくれない。
優しくしようと思えば思うほど、優しさが伝わって欲しいと思えば思うほど、遠のいてしまう。
僕には、そんな印象がある。

誰かのことを思って、その誰かの助けになりたくて、優しさは生まれてくる。でも同時に、人は、誰かの優しさを、なかなかすんなりとは受け入れられない。自分が迷惑を掛けてしまったから、傷つけてしまったから、最低な振る舞いをしてしまったから…色んな理由で、僕らは誰かに引け目を感じる。そしてその引け目が、同じ相手からの優しさを歪ませる。自分はこんなにも悪いのに、そんな自分にこんなに優しくしてくれるなんて嘘だ、と思ってしまう。もし、それが嘘じゃなくて、ホントにホントに自分に向けられた優しさなんだとしたら、その大きさに耐えられないと思ってしまう。

そんな風にして、誰かに向けられた優しさはすれ違っていく。

ちょっと前、僕もそういう経験をした。優しさ、と自分で言うのはちょっと嫌だけど、この人にはちゃんと良い感じになって欲しい、そのために僕がやれそうなことは頑張ってみよう、と思う人がいた。でも、色んなことがあって、なかなかうまく行かなかった。直接的には聞いてないけど、たぶんその人は、僕の優しさ(繰り返すが、自分でこんな表現はしたくないが)を、耐えられないと思ったんじゃないかと思う。自分はそんな風にしてもらえるような人じゃない、っていう引け目が、拭いきれなかったんじゃないかと思う。どうにかしてあげたかったんだけど、僕にはうまくやりきれなかった。

目に見える優しさはなかなか届きにくい。とすれば、こういう解釈も成り立つ。僕らは、目に見えない優しさの中に生きているのだ、と。

自分が孤立したり、一人だと感じられることもあると思う。でもそういう時、伝わるような形で優しさを発揮しない人も、きっといる。目には見えないから、なかなかそれを信じにくい。でも、きっとどこかにはいる。そんな風に信じられれば、すぐ傍で悪意が口を開けて待っているこの世界で、寄る辺のない思いをしなくても済むかもしれない。

内容に入ろうと思います。
采岐島高校、通称「シマ高」は、最短でも本州からフェリーで3時間は掛かる離島にありながら、全国から入学希望者が集まる高校だ。前校長が、廃れていく高校、そして島の様子を嘆き、一念発起した結果だという。テレビでも取り上げられ、益々入学希望者が増えている。
月ヶ瀬和希も、そんな一人だ。「留学生」と呼ばれる、単身この島にやってきて、寮で生活する生徒だ。4人部屋には他に、口の悪い顕光、温厚な修治、そして和希と同じ中学で、和希についてくるようにしてこの島にやってきた幹也。和希のこの島でのあだ名は「王子」で、そんな和希の世話ばかり焼いている幹也は「乳母」と呼ばれている。
この島には、曰く付きの入り江がある。神隠しに遭う、と言われる場所で、大人たちから近づくなと言われている場所だが、和希はよくそこで一人で過ごす。そんなある日、和希は、波打ち際で倒れている少女を発見する。島に来るのと同時にスマホを手放した和希には連絡手段がなかったが、たまたま通りかかったらしきガラの悪そうな大人の助けもあり、大過なく時は過ぎていった。少女は秋鹿七緒と名乗り、色々あって七緒を助けた大人(高津)がしばらく面倒を見ることになった。
彼女は、何故突然海辺に現れたのか。高津は何の目的で彼女を引き取ったのか。何やら秘密を抱えているらしき和希と、何やら謎を抱えているらしき七緒が出会うことで、この島に、誰も想像し得なかった歴史が生まれる…。
というような話です。

正直そこまで期待していなかったんですけど、これは面白かったです。物語はかなりゆっくり進んでいく感じで、正直なところ、半分以上読み進めないとストーリーらしいストーリーが展開されません。それがちょっと難点ではあるのだけど、とはいえ、後半は、かなり色んな謎が一気に明らかにされ、なるほどそれとそれがそんな風に繋がってたのか!という驚きの連続になるので、そこまで読み進められれば、後半は一気読みだと思います。

物語の構成上、なかなか色んなことに触れられないのが難点ではありますが、まず一つ、この作品の特異な点は、冒頭で登場する謎めいた少女・七緒が、実は思ったほど物語の中心人物ではない、ということです。

いや、もちろん重要な部分で関わってくるんだけど、単純な登場回数でいえば、主役とは言えない感じでしょう。七緒を中心に物語が展開されていくんだろう、と想像していたので、意外でした。

でも、それは良い構成だったと思います。正直なところ、七緒の謎では、物語を引っ張ることは難しかったと思います。七緒という謎めいた要素を最初に出しておきながら、決してメインには据えず、島の中の様々な人間関係を随時中心に据えながら物語を展開させていったのは良かったと思います。

この物語を引っ張っていくのは、やはりなんと言っても和希です。和希の存在も、最初から結構謎です。分かりやすい謎は、何故和希がこんな離島の高校にやってきたのか、ということ。ルームメイトに聞かれても、彼は言葉を濁しながらはっきりとは答えません。何かあるのだろう、と思いつつ、しばらくその理由は明らかにされません。

また、徐々に明らかになっていきますが、幹也にも大きな謎があります。高津もよく分からない男だし、とにかく島の人間の色んな背景が明らかにならないまま、彼らの穏やかな日常だけが淡々と展開されていく。七緒という闖入者はいるのだけど、高津と和希以外にはさほど大きな影響を与えることなく、島はいつもの島のままの日常を過ごしていくことになります。

そういう日常の些細な部分から積み重なってきた違和感が、後半一気に寄り集まって、狭い島の人間関係がバシバシと繋がっていくことになります。なかなか前半部分に出てくる要素だけで本書の魅力を伝えるのは難しいですが、よく考えられた構成だなと感じました。

あと、前半と後半では、人物や作品のトーンがガラッと変わっていく感じも面白いと思います。前半は、和気あいあいとした青春小説という感じの雰囲気なのに、後半はシリアスで鋭さもある物語になっていく。特にその印象を強めているのが、ある人物の豹変です。それが誰なのか、ここでは書かないことにするけど、その人物の本来の姿が、僕は結構好きだったりします。そういう部分を押し隠しながらじゃないと生きていけない辛さは分かるような気がするし、それこそ、自分の内側にある「優しさ」が、どうしたってきちんと届かないもどかしさみたいなものを常に抱え続けなければならないから、大変だろうと思います。とはいえ、その人物がしたことは、大変だろうと同情出来るようなことではなくて、その辺りの異様なアンバランスさみたいなものに惹かれました。

また、最後の展開も、まったく予想していなかっただけに、なるほどなぁ、という感じでした。物語全体としてちゃんと辻褄があっているのかどうか、それは僕にはイマイチ判断できないけど、一読した限りでは大丈夫な気がするし、ラストまで読むと、タイトルの意味がスッと分かるような感じもあって、良かったなと思います。

ライトな作品ながら、なかなか読ませる物語だと感じました。

阿部曉子「どこよりも遠い場所にいる君へ」

オシム 終わりなき闘い(木村元彦)

「民族」という言葉を聞く時に思い出すのは、いつも外国のことだ。
今まさに世界中がそれを感じているかもしれない。韓国と北朝鮮が南北統一に向かうかもしれない、という機運の真っ只中にいるからだ。もちろん、事態がどう展開するかは誰にも予測できない。しかし、「民族」というものについて多くの人に考えさせるきっかけには間違いなくなっているだろう。

日本に生きている限り、「民族」というものについてあまり考えることはない。もちろん、日本にもアイヌ民族はいる(いた?)し、混同してはいけないだろうが、いわゆる同和問題なども、民族的な問題と近い根っこを持っているだろう。「嫌韓」などという言葉があり、特に朝鮮の人々を嫌悪するような風潮も一部ではあるのだろうし、移民を受け入れないというような排外主義が薄く広く日本全体を覆っているような雰囲気も感じはする。

しかし、とはいえ、やはり「民族」は、少なくとも僕にとっては身近な問題とは捉えることが出来ない。

それは、とても幸せな環境なのだろう。地続きで様々な文化を持つ国と接している場合、歴史観や宗教観などから、これまでにもやまほど「民族」同士の問題が起こってきたはずだ。僕は歴史が嫌いだから詳しく分からないが、9.11だって、イギリスのEU離脱だって、トランプ大統領就任だって、恐らくは何らかの形でそういう「民族」的な問題と結びつくのだと思う。

恐らく日本は、恐ろしいまでに「民族」というものを意識せずに人類史を歩んできた者なのではないかと思う。もちろん、まったくとは行かないだろうが、島国であり、どの国とも国境を接していないという特殊な環境が、良くも悪くも「民族」的な要素を排する結果となったのだと思う。

正直僕は、ニュースなどを見ていても、外国で起こっている様々な争いの根幹がうまく捉えきれない。まあ、それはそうなのだ。時々池上彰が時事問題を解説してくれる番組を見るが、そういう中で、「現在起こっている◯◯は、西暦600年頃の××に端を発するのです」みたいな話が出てきたりすることもあって、そりゃ分からんわ、と思ったりする。

「民族」という問題とあまりにかけ離れているが故に、知識としては理解できても、実感として「何故?」の部分を咀嚼出来ないように思う。戦時中には色々あったかもしれないが、少なくとも今日本に生きる僕は、「日本人であるとは?」という問いに対して正面から向き合わざるを得ない状況に陥ることがない。その問いが生まれるためには、「明らかに何かが異なるとお互いに認識している別の民族」の存在が日常的に関わってくることが必要だ。なかなか今僕は、そういう状況を思い浮かべることが出来ない。だから、なかなか共感にたどり着けない。

そういう状態を良しとは出来ない感覚はありながらも、「民族」というものへの実感の遠さが、本書に対する遠さに感じられてしまう部分は確かにあった。

内容に入ろうと思います。
『かつてオーストリアの中位で燻っていた小さなクラブ、シュトゥルム・グラーツを卓越した手腕で3年連続してチャンピオンズリーグに出場させ、名将の名を刻んだ』人物であり、『日本代表監督の任にあった2007年11月、彼は千葉の自宅で急性脳梗塞に倒れて一時は生死の境をさまよい、日本代表の抜本的な強化という志を半ばにして故郷ボスニアへの帰国を余儀なくされた』人物でもあるオシムが、ボスニアのサッカーを救った―本書は、そういう話である。
2011年4月に、ボスニアはFIFAの加盟資格を取り消された。すべての国際大会への出場を停止させられたのだ。その理由は、ボスニアのサッカー協会にあった。当時、代表は3民族で16ヶ月交代という仕組みが取られていた。しかしFIFAは、1国家1競技団体1会長が原則だ。一元化を勧告されていたが聞き入れず、ペナルティが課されてしまったのだ。
『自らのサッカー人生において政治、特に民族主義者との関わりを頑なに拒んできたオシムがその禁を破ったのは、このままでは祖国からサッカーが消えてしまうという危機感からである。しかし、国連やEUをはじめとする国際的な調整機関が何度もトライしては破綻してきたボスニアの和平合意による統一を、短期間で実現することは極めて難作業とも思われた』
そしてオシムは、病身をおして動き回り、その難作業を実現させたのだ。
本書は、オシムが最前線で奮闘した「正常化委員会」が何をしたのか、ということを核にし、ボスニアがW杯に出場する過程を追いかけながら、ボスニアでの紛争やサッカー史を辿っていく作品だ。

『驚きは小さくなかったまさに12年前、この3つの極右政党が戦争を始めたのだ。これを仲介して同じひとつの方向に向かせるというのは薩長同盟以上の難行だと日本研究の長いセルビア人の学究も言っていた』

オシムが動かざるを得なかった状況は、それほどのものだった。オシムは、自分が動かなければボスニアからサッカーがなくなってしまうことを憂えて事態収拾に乗り出したのだが、オシムの凄さが分かるエピソードがある。オシムが直接会いに行った交渉相手の一人が、こんな発言をしているのだ。

『オシムに会うということはそれでOKということ。オシムがここに来て出席したことで、そこに特別な次元が生まれるのだ。彼の存在があって私も協力ができた』

それほどまでに、オシムという存在は絶大なのだ。凄まじい男である。

僕には、ボスニアの現状や歴史はなかなか難しくて、ちゃんと理解して読み進めるのは無理だった。世界史の授業をちゃんと受けたことがある人なら、カタカナの名前や地名にも怯まずに済むかもしれないけど、僕にはその辺はちょっとハードル高かったなぁ。

著者がオシムに、サッカーの可能性とは何ですか?と問いかけた際の返答が素晴らしい。

『メッセージはまさにこれだ。一緒に生きられるということ。一緒に遊び、プレーすること。それで戦争を忘れられる。またここの民族は一緒にやれる。何かが成し遂げられないと人々からは認められない。だが、あいつらにはできる力がある』

木村元彦「オシム 終わりなき闘い」

「友罪」を観に行ってきました

友人が過去に罪を犯していたとしたら…。ということは、実際にあり得る問いだと思う。僕たちは、結婚したりするんでなければ、知り合った人間のことをそこまで積極的に詮索しようとはしない。相手の言動に何か矛盾があれば、調べてみるという行動になることもあるかもしれないけど、大抵の場合は、相手が言っていることをそのまま信じるだろう。ネット社会であり、色んな個人の情報が蔓延している世の中だとは言え、逆に言えば、あらゆる情報がありすぎて特定の情報にたどり着きにくい社会であるとも言える。疑いを持ったなら、調べるのには便利な社会だが、疑いを持っていない相手であれば、その相手の過去の情報について、自分の視界に飛び込んでくる可能性は、決して高くはないと思う。

どこかで知り合った誰かが、過去に強盗や殺人を犯している―。日常の中で、なかなか想定しにくい状況ではあるのだけど、でも現実的には、起こり得ないと断言できるほど確率の低い話でもないだろう。

その過去を知ってしまった時、自分ならどう振る舞うだろうか、と考えてしまう。

僕が想定できるパターンは二つある。一つは、その人と知り合うのとほぼ同時に、その人の過去についても知るという状況。その場合は、まあ、積極的に関わろうという意識は持たないかもしれない。その過去を先に知った上で、その人と積極的に関係性を築くだけの必然性がない。僕はそもそも、他人にさほど関心はないので、相手が誰であろうと、積極的に関心を持って関係性を築くことは少ない。過去を先に知っているかどうかに関係なくあまり他人と関わらないのだけど、過去を知れば、その積極性がより失われるだろう、とは思う。

一方で、過去を知らないまま関係性が続いていて、ある時その過去を知る、というパターンんだ。そういう状況であれば、僕は、その人の過去よりは、その人と関わってきた時間の方を優先するだろう、と思う。

というのも、良かれ悪しかれ、人間というのは変わるものだと思うからだ。

僕は、25歳頃を境に、まったく別人になった、と感じている。だから、大学時代の友人が今の僕を見れば、まったく違った人間に見えるだろう。だから例えば、大学時代にした僕の発言などについて何か聞かれたとしたら、その時はそう思っていた、と答えるしかない、と思う。

程度の差こそあれ、人間というのは変わるものだ。良くなることもあるし、悪くなることもある。過去に罪を犯したことがある、というのは確かに大きな事実だけど、しかしそれだけを理由に人間を判断することは僕には出来ない。だったら、自分と関わってきた時間によって、その人を判断したいと思う。

そんな判断が出来るのか、と聞かれれば、出来ない、と答えるしかないだろう。当然、相手が更生しているのか、相手が真人間に生まれ変わったのか、そんなことはどれだけ関わったってわかるはずもない。

ただそれは、罪を犯したという過去を持たない人間に対しても同じことが言える。

世の中には犯罪者がたくさんいる。その犯罪者の多くは、初めて犯罪を犯した者だろう。であれば僕らは、過去に犯罪を犯したかどうかに関係なく、普段関わっている人が犯罪を犯すかどうか、という判断などまったく出来ていない、ということになる。もちろん、あいつは何かやりそうだった、という雰囲気の犯罪者もいるだろうけど、よくテレビで、「そんな人だとは思わなかった」という発言が出てくるように、まったく犯罪を犯しそうにない人間が犯罪者になることだって頻繁にある。

つまり、過去に犯罪を犯していようがいまいが、その人が犯罪を犯すかどうかなど、誰にも判断できない、ということなのだ。

だったら、その人との関わりを通じて、相手を信じるかどうか、自分が決めるしかない。過去に犯罪を犯したことがある、という理由で誰かを遠ざける人は、自分の身近にいる、一度も犯罪を犯していない人が犯罪者になる可能性をまったく考慮していないだけだと思う。

人間は、自分とは「違う」と感じる人間を排除したがる。自分と同じではなかった、ということがわかると、裏切られたと感じたくなる。その気持ちがまったく理解できないとは言わないけど、じゃあ「同じ」という判断のどこに保証があるのか、と感じてしまう。誰かを「同じ」だと感じるのは、結局、幻想に過ぎないのだ。

内容に入ろうと思います。
かつて雑誌記者だった益田は、訳あって工場で働くことになった。一緒に研修に入るのが鈴木。益田と鈴木は、清水・内海という同僚と共に、4人で同じ寮で生活をすることになった。
鈴木は、どうも周りと馴染めないでいる。でも、溶接の資格を持っているようで、仕事はちゃんとやる。一方、力仕事などほとんど経験のない益田は、なかなかすんなりとは仕事をこなせないでいる。益田は、同期ということもあり、周りから浮いている鈴木のことを気にかけている。
その近くで、小学1年生の男児が刃物で刺されて死亡しているのが見つかった。調べを進める女性記者。そして、彼女を現場まで運んだタクシー運転手。運転手は仕事の合間に、謝罪をしている。かつて彼の息子が、誰かの命を奪ったようだ。
橋の上でぼーっとしている鈴木の元に、見知らぬ女性が駆け込んでくる。彼女は、元カレに追われているようだ。そこでその元カレにボコボコに殴られたことで、鈴木は藤沢さんと知り合った。
やがて益田は知ることになる。鈴木があの、14歳で猟奇殺人を犯した、「少年A」こと青柳健太郎だ、ということに…。
というような話です。

なかなか重苦しい話ですが、重苦しいだけという話でもありません。犯罪そのものが描かれるというよりも、過去の犯罪に対して、様々な人間がどう向き合っていくのか、ということが描かれていきます。

主軸は益田と鈴木の話ですが、枝葉の部分がかなり色々あります。鈴木の恋愛の話や、鈴木の彼女である藤沢さんの話、益田の過去、「少年A」を追う女性記者、医療少年院で「少年A」の担当だった女性、息子が加害者になってしまったタクシー運転手…。様々な形で、色んな人が「過去の犯罪」と向き合っていきます。

そこに、分かりやすい結論はありません。というか、分かりやすい結論などない、ということを描くために、いくつもの物語を同時に描き出しているのでしょう。犯罪を犯した側、巻き込まれた側、どちらでもない立場…、様々な立場から「犯罪の余波」みたいなものが描かれ、それが鈍く、しかし確実に遠くへと届いていく様が、丁寧に描かれている、と感じました。

とはいえ、枝葉がちょっと多すぎるかな、という感想も持ちました。原作は読んでいませんが、かなり厚い作品です。映画化するにあたってだいぶ削ったでしょうが、しかしそれでもまだ要素が多すぎるかな、という感じがしました。様々な方向から「過去の犯罪」を描き出すことに主眼がある、ということは分かった上で、例えば医療少年院の話を削るなどした方が良かったかな、という感じもしました。

鈴木は、青柳健太郎という、14歳にして猟奇殺人を犯した、という設定の青年ですが、この男が醸し出す違和感が、映画全体を支配していたな、と感じました。鈴木という男が、どういう理屈で行動しているのか全然読めずに、ぞわぞわします。他人を拒絶しているようでいながら、他人に優しさを発揮することもあり、瞬間的な凶暴性の発露や、狂気を孕んだ自傷行為など、簡単には捉えきれないキャラクターです。その異質な様が、観客をこの映画に惹きつけるのだな、と思います。そういう意味で、鈴木(青柳健太郎)を演じた瑛太は見事だと思います。ホントに、かなりヤバイ人に見えました。社会生活がギリギリ営める程度の異質さみたいなものを絶妙に醸し出している感じが、凄く良かった、と思います。

個人的には、タクシー運転手の山内の物語に色々考えさせられました。山内とその息子は、ある理由から対立します。息子側の人物が、「罪を犯した人間は幸せになっちゃいけないんですか?」と山内に問いますが、それに対して山内はにべもなく「当然だ」というような返答をする場面があります。非常に印象的な場面でした。僕は、山内のようには考えませんが、山内には山内なりの理由があってそういう発言をするのです。

犯罪というものが、どういう事態をもたらすのか、人をどう変えていくのか、ということを強く感じさせられる物語でした。

「友罪」を観に行ってきました

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)