読んで欲しい記事・索引

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「ぼくたちの哲学教室」を観に行ってきました
これはメチャクチャ良かった。マジで、特に子育てしている人は観た方がいい映画だと思う。もし僕の子供時代に、こんな先生(に限らないけど、大人)が周りにいたら、少しは社会に希望が持てていたかもしれない。
まずは、このドキュメンタリー映画の舞台となる街と学校の説明をしておこう。
北アイルランドのベルファスト市アードイン地区にあるホーリークロス男子小学校が物語の舞台である。この学校に通う子供たちを映し出しているのだが、そこには中心となる人物がいる。生徒ではなく、ケヴィン・マカリーヴィーという校長先生である。「
彼はこの学校で、「哲学」の授業を子どもたちに行っているのだ。
「哲学」と聞くと、小学生には難しいのではないかと感じるかもしれない。しかし、ケヴィン校長が行っている「哲学」は、「色んなことについて自分なりに考えてみよう」という感じだ。映画の中では、「他人に怒りをぶつけてもよいか?」「男子も泣いてもいいか?」「友達とはどういう存在か?」など、小学生の生活の中でも身近だろう話題について、生徒たちに考えさせる。
ケヴィン校長は映画の中で、「哲学」について様々に語っている。いくつか抜き出してみよう。
【同じものを見ても、人によって受け取り方が違う。それが哲学の面白さだ】
【哲学の良いところは、なかなか正解にたどり着かないところだ】
【哲学とは”問う”姿勢のことを指す】
そして彼は、たとえ相手が親であっても「問い」をぶつけ、自分なりの意見を深めていくように、子どもたちに常に教え込んでいく。
ケヴィン校長が小学校で哲学の授業を行うのには、北アイルランドやアードイン地区の難しい問題が背景にある。ここはかつて、プロテスタントとカトリックの間で武力闘争をも辞さない激しい戦闘が行われた場所であり、その問題が現在も解決に至っていないのだ。街には「接続領域(インターフェース)」と呼ばれる(「平和の壁」という名前もあるようだ)、レンガと鉄格子による長い壁が存在している。恐らくそれによって、プロテスタントとカトリックの居住区域を強制的に分けているのだろう。現代に置いても、ベルリンの壁のようなものが街中に厳然と存在しているという事実には驚かされた。
プロテスタントとカトリックによる対立による緊張感は、街の外観からも理解できる。街中の至る所に壁画のようなものがあり、そこには、それぞれの立場の主張が刻み込まれている。印象的だったのは、「PILL WILL KILL」と書かれた大きな看板が道路脇に設置されていたことだ。字幕では、「その一錠が命取り」と訳されていた。プロテスタントなのかカトリックなのか分からないが、「中絶に反対する思想」があるはずで、恐らくそういう思想を持つ側が設置した看板だろう。
他にも、「ドラッグディーラー うちの子に近づくな」というメッセージの壁画もあった。その壁画を映し出しながら、映画では、ホーリークロス男子小学校の卒業生だろう人物が亡くなったという話に触れられる。具体的には説明されなかったが、恐らくドラッグ中毒死(あるいは、ドラッグ中毒に起因する自殺)だろうと思う。その後全校生徒を集めた場で、ケヴィン校長は、「数えてみたら、ここの卒業生で突然亡くなったのは20名いる」と話していた。これも、自殺やドラッグ中毒などで命を落とした人の数だろう。
このように、街の治安はよろしくない。公式HPには、
【密集する労働者階級の住宅街に北アイルランドの宗派闘争の傷跡が残るこの地域は混沌とした衰退地区であり、リパブリカンとユニオニスト(注1)の政治的対立により、地域の発展が遅れている。犯罪や薬物乱用が盛んなこの街の絶望感は、ヨーロッパで最も高い青年や少年の自殺率に反映されている。】
と書かれていた。
そのような街で生きていかなければならないからこそ、ケヴィン校長は子どもたちに、「自分の頭で考える力」を身に着けさせようとしているのだ。
授業では、かつてこの地で起こった激しい対立・戦闘の様子を写真や映像で見せながら議論することもあった。学校のすぐそばで起こった出来事を捉えた写真を見せながら、この地でかつてこのようなことが起こったのだ、と伝えている。また、映画の撮影期間中、なんとこの男子小学校の正門に爆破装置が置かれるという事件が発生した。リパブリカン分派の発行と判明したのだそうだ。極め付きは、2001年に姉妹校であるホーリークロス女子小学校で起こった出来事には驚かされた。通学途中の女子児童を、地元のロイヤリストたちが脅迫するというイカれた事件である。映画の中では、女子児童が親に付き添われながら泣きながら投稿する当時の映像が映し出されていた。
このような街で生きていくのは容易ではない。具体的に描かれる機会は少ないが、子どもたちも学校外の場で様々な苦労を強いられているだろうと思う。そしてだからこそ、「思索する力」で生き延びられるようにしようと、ケヴィン校長は考えているのである。
映画の中で、僕が一番印象的だったのは、こんな授業である。
ケヴィン校長は、画用紙のようなものを持って生徒の前に座っている。まずそこに、「大文字のMの半分」のような、三角形の底辺だけ無いみたいな図形を描く。そして生徒に、「これは何に見えるか?」と聞く。子どもたちは、「三角形」「2本線」「サメ」「矢印」など色んな答えが出る。その後、「大文字のM」のような形、さらにそれに丸を加えた形など、少しずつ足していきながら、その度毎に「これは何に見える?」と聞いていく。最終的にその絵は「自転車」になるのだが、最初の段階からそうなることは予測できないし、途中経過の時点でも、なかなか「自転車」という答えは難しいだろう。
さて、この授業の中でケヴィン校長は、先程引用した「同じものを見ても、人によって受け取り方が違う。それが哲学の面白さだ」という言葉を発する。これは、その主張だけ聞けば「まあそうだよね」と思える内容ではあるが、それを「実感する」となるとなかなか難しい。自分が見ているものと他人が見ているものを、普段意識的に比較することなどないからだ。しかしケヴィン校長はそれを、非常にシンプルで分かりやすい形で提示して見せる。お見事だと感じた。
さらに校長はこんな風に伝える。
【人の意見に耳を傾けることで、自分の意見が変わる。
大事なのは、「絶対の意見」などないということだ】
こういうことは本当に、子供の頃に教えておくことは大事だなと思う。大人の中にも、この事実をまるきり失念しているとしか感じられないタイプの人もいるからだ。
ケヴィン校長はとにかく、生徒たちの意見を否定しないし、自分の意見を押し付けない。この話術がべらぼうに上手いと感じた。全体的にケヴィン校長は、「この人は本当のことを言っているんだ」と感じさせる話術に物凄く長けていると感じた。
学校内で喧嘩した子どもたちと話をする時も、とにかく辛抱強く子どもたちに「問い」を投げかけ続ける。「その時にどんなことを感じていたんだ?」「◯◯くんはこう言っているけど、君はどう思う?」「じゃあこれからどうするのがいいと思う?」など、とにかく「問い」を投げ続けることに専念している。もちろん時には、「君には失望した」「昨日の授業では実に見事な質問をしていたのに、それで今日は喧嘩か」など、「問い」ではないことも投げかけるのだが、そのバランスも含めて、話し方がメチャクチャ上手い。
例えば、大人が(あるいは上司・先輩など立場が上の人が)、「じゃあこれからどうするのがいいと思う?」みたいに言う時、そこにはそこはかとなく「こんな風にするって言えよ」みたいな強制めいた雰囲気が読み取れてしまうことがある。そして、特に子供はそういうことに敏感だから、大人がどうして欲しいのかを汲み取って、「◯◯に謝る」みたいな、望まれているだろう答えを返すみたいなこともあるはずだ。
しかしケヴィン校長からは、そういう雰囲気をまったく感じない。本当に、「純粋にこの問いに答えてもらいたい」という雰囲気が滲み出ていると僕には感じられた。だから子供たちも、素直に返答できるのだろう。このように、とにかく「発した言葉を言葉通りに受け取っても良いのだ」と感じさせる能力にべらぼうに長けていると言っていいだろう。
映画の中ではもう1人、よく焦点が当たる大人がいる。ジャンというその女性は、公式HPによると、「パストラルケア・リーダー」だそうだ。「パストラルケア」を調べると、ようするに「心のケア」みたいなことのようだ。彼女もまた、ケヴィン校長と同じく、子どもたちと積極的に対話をし、校長と同じように「発した言葉を言葉通りに受け取っても良い」と感じさせる人物である。
彼女に特に焦点が当たる場面が2つある。どちらも、心に不安を抱えた子どもたちと1対1で対話する場面だ。
まずは、突然精神的に不安定になって情緒不安定になってしまった子供と対話する。話を聞いてみるとその子は、3ヶ月ほど前からそういう状態が続いているが、誰にも話せず黙っていたという。ジャンは根気強く彼と話を続けていく。糖尿病と診断されたことで不安定になっていること、友達がいないこと、妹のことを自慢に思っていることなどを聞き出していく。
そんな彼との会話の終わり際に、彼女が発した言葉が、何気ないものではあるがとても印象的だった。それが、「どんなに小さなことでも言葉にする価値がある」というものだ。これもまた、彼女が本心からそう思っていることが伝わるような雰囲気で発せられる。とても良い言葉だと思う。
もう1人は、少し前から悪夢を見るようになって不安定になっている、という子供。ジャンは彼とも、ユーモアを交えながら(『ジョーズ』を見た後、トイレに行くのが怖かった、みたいな話など)、少年の不安に寄り添っていく。そして、最後にこんな言い方をするのだ。
【話してくれて良かった。
これから教室に戻ってみんなと勉強する?
じゃあ今からママと話して、休み時間にどうなったか話すからね】
短い言葉の中に、色んなものが詰まっていると思う。「話してくれて良かった」と伝えることで、自分が悩んでいたことを口に出しても大丈夫だったんだと思えるし、「~勉強する?」と押しつけではない聞き方をしてくれることで教室に戻りやすくなる。さらに、これからどうするつもりでいるのかを明確に伝えることで、少年が余計な不安を抱かずに済むようにしている。お見事な対応だったなと思う。
この学校のようなことを、実際に行うのは、とても難しいだろう。マニュアルでどうにか対応できるようなものではないからだ。しかし日本でも、面白い取り組みをしている小学校がある。以前観た『こどもかいぎ』『夢見る小学校』で描かれていたような取り組みだ。日本でも、やろうとさえ思えば出来ることだとは思う。
このような対話を経て大人になった方が、争いや対立とは縁遠い社会が生まれる可能性が高まるだろう。とても良い取り組みだと思うし、メチャクチャ苦労は多いだろうが、このような教育を続けてほしいものだと感じた。
「ぼくたちの哲学教室」を観に行ってきました
まずは、このドキュメンタリー映画の舞台となる街と学校の説明をしておこう。
北アイルランドのベルファスト市アードイン地区にあるホーリークロス男子小学校が物語の舞台である。この学校に通う子供たちを映し出しているのだが、そこには中心となる人物がいる。生徒ではなく、ケヴィン・マカリーヴィーという校長先生である。「
彼はこの学校で、「哲学」の授業を子どもたちに行っているのだ。
「哲学」と聞くと、小学生には難しいのではないかと感じるかもしれない。しかし、ケヴィン校長が行っている「哲学」は、「色んなことについて自分なりに考えてみよう」という感じだ。映画の中では、「他人に怒りをぶつけてもよいか?」「男子も泣いてもいいか?」「友達とはどういう存在か?」など、小学生の生活の中でも身近だろう話題について、生徒たちに考えさせる。
ケヴィン校長は映画の中で、「哲学」について様々に語っている。いくつか抜き出してみよう。
【同じものを見ても、人によって受け取り方が違う。それが哲学の面白さだ】
【哲学の良いところは、なかなか正解にたどり着かないところだ】
【哲学とは”問う”姿勢のことを指す】
そして彼は、たとえ相手が親であっても「問い」をぶつけ、自分なりの意見を深めていくように、子どもたちに常に教え込んでいく。
ケヴィン校長が小学校で哲学の授業を行うのには、北アイルランドやアードイン地区の難しい問題が背景にある。ここはかつて、プロテスタントとカトリックの間で武力闘争をも辞さない激しい戦闘が行われた場所であり、その問題が現在も解決に至っていないのだ。街には「接続領域(インターフェース)」と呼ばれる(「平和の壁」という名前もあるようだ)、レンガと鉄格子による長い壁が存在している。恐らくそれによって、プロテスタントとカトリックの居住区域を強制的に分けているのだろう。現代に置いても、ベルリンの壁のようなものが街中に厳然と存在しているという事実には驚かされた。
プロテスタントとカトリックによる対立による緊張感は、街の外観からも理解できる。街中の至る所に壁画のようなものがあり、そこには、それぞれの立場の主張が刻み込まれている。印象的だったのは、「PILL WILL KILL」と書かれた大きな看板が道路脇に設置されていたことだ。字幕では、「その一錠が命取り」と訳されていた。プロテスタントなのかカトリックなのか分からないが、「中絶に反対する思想」があるはずで、恐らくそういう思想を持つ側が設置した看板だろう。
他にも、「ドラッグディーラー うちの子に近づくな」というメッセージの壁画もあった。その壁画を映し出しながら、映画では、ホーリークロス男子小学校の卒業生だろう人物が亡くなったという話に触れられる。具体的には説明されなかったが、恐らくドラッグ中毒死(あるいは、ドラッグ中毒に起因する自殺)だろうと思う。その後全校生徒を集めた場で、ケヴィン校長は、「数えてみたら、ここの卒業生で突然亡くなったのは20名いる」と話していた。これも、自殺やドラッグ中毒などで命を落とした人の数だろう。
このように、街の治安はよろしくない。公式HPには、
【密集する労働者階級の住宅街に北アイルランドの宗派闘争の傷跡が残るこの地域は混沌とした衰退地区であり、リパブリカンとユニオニスト(注1)の政治的対立により、地域の発展が遅れている。犯罪や薬物乱用が盛んなこの街の絶望感は、ヨーロッパで最も高い青年や少年の自殺率に反映されている。】
と書かれていた。
そのような街で生きていかなければならないからこそ、ケヴィン校長は子どもたちに、「自分の頭で考える力」を身に着けさせようとしているのだ。
授業では、かつてこの地で起こった激しい対立・戦闘の様子を写真や映像で見せながら議論することもあった。学校のすぐそばで起こった出来事を捉えた写真を見せながら、この地でかつてこのようなことが起こったのだ、と伝えている。また、映画の撮影期間中、なんとこの男子小学校の正門に爆破装置が置かれるという事件が発生した。リパブリカン分派の発行と判明したのだそうだ。極め付きは、2001年に姉妹校であるホーリークロス女子小学校で起こった出来事には驚かされた。通学途中の女子児童を、地元のロイヤリストたちが脅迫するというイカれた事件である。映画の中では、女子児童が親に付き添われながら泣きながら投稿する当時の映像が映し出されていた。
このような街で生きていくのは容易ではない。具体的に描かれる機会は少ないが、子どもたちも学校外の場で様々な苦労を強いられているだろうと思う。そしてだからこそ、「思索する力」で生き延びられるようにしようと、ケヴィン校長は考えているのである。
映画の中で、僕が一番印象的だったのは、こんな授業である。
ケヴィン校長は、画用紙のようなものを持って生徒の前に座っている。まずそこに、「大文字のMの半分」のような、三角形の底辺だけ無いみたいな図形を描く。そして生徒に、「これは何に見えるか?」と聞く。子どもたちは、「三角形」「2本線」「サメ」「矢印」など色んな答えが出る。その後、「大文字のM」のような形、さらにそれに丸を加えた形など、少しずつ足していきながら、その度毎に「これは何に見える?」と聞いていく。最終的にその絵は「自転車」になるのだが、最初の段階からそうなることは予測できないし、途中経過の時点でも、なかなか「自転車」という答えは難しいだろう。
さて、この授業の中でケヴィン校長は、先程引用した「同じものを見ても、人によって受け取り方が違う。それが哲学の面白さだ」という言葉を発する。これは、その主張だけ聞けば「まあそうだよね」と思える内容ではあるが、それを「実感する」となるとなかなか難しい。自分が見ているものと他人が見ているものを、普段意識的に比較することなどないからだ。しかしケヴィン校長はそれを、非常にシンプルで分かりやすい形で提示して見せる。お見事だと感じた。
さらに校長はこんな風に伝える。
【人の意見に耳を傾けることで、自分の意見が変わる。
大事なのは、「絶対の意見」などないということだ】
こういうことは本当に、子供の頃に教えておくことは大事だなと思う。大人の中にも、この事実をまるきり失念しているとしか感じられないタイプの人もいるからだ。
ケヴィン校長はとにかく、生徒たちの意見を否定しないし、自分の意見を押し付けない。この話術がべらぼうに上手いと感じた。全体的にケヴィン校長は、「この人は本当のことを言っているんだ」と感じさせる話術に物凄く長けていると感じた。
学校内で喧嘩した子どもたちと話をする時も、とにかく辛抱強く子どもたちに「問い」を投げかけ続ける。「その時にどんなことを感じていたんだ?」「◯◯くんはこう言っているけど、君はどう思う?」「じゃあこれからどうするのがいいと思う?」など、とにかく「問い」を投げ続けることに専念している。もちろん時には、「君には失望した」「昨日の授業では実に見事な質問をしていたのに、それで今日は喧嘩か」など、「問い」ではないことも投げかけるのだが、そのバランスも含めて、話し方がメチャクチャ上手い。
例えば、大人が(あるいは上司・先輩など立場が上の人が)、「じゃあこれからどうするのがいいと思う?」みたいに言う時、そこにはそこはかとなく「こんな風にするって言えよ」みたいな強制めいた雰囲気が読み取れてしまうことがある。そして、特に子供はそういうことに敏感だから、大人がどうして欲しいのかを汲み取って、「◯◯に謝る」みたいな、望まれているだろう答えを返すみたいなこともあるはずだ。
しかしケヴィン校長からは、そういう雰囲気をまったく感じない。本当に、「純粋にこの問いに答えてもらいたい」という雰囲気が滲み出ていると僕には感じられた。だから子供たちも、素直に返答できるのだろう。このように、とにかく「発した言葉を言葉通りに受け取っても良いのだ」と感じさせる能力にべらぼうに長けていると言っていいだろう。
映画の中ではもう1人、よく焦点が当たる大人がいる。ジャンというその女性は、公式HPによると、「パストラルケア・リーダー」だそうだ。「パストラルケア」を調べると、ようするに「心のケア」みたいなことのようだ。彼女もまた、ケヴィン校長と同じく、子どもたちと積極的に対話をし、校長と同じように「発した言葉を言葉通りに受け取っても良い」と感じさせる人物である。
彼女に特に焦点が当たる場面が2つある。どちらも、心に不安を抱えた子どもたちと1対1で対話する場面だ。
まずは、突然精神的に不安定になって情緒不安定になってしまった子供と対話する。話を聞いてみるとその子は、3ヶ月ほど前からそういう状態が続いているが、誰にも話せず黙っていたという。ジャンは根気強く彼と話を続けていく。糖尿病と診断されたことで不安定になっていること、友達がいないこと、妹のことを自慢に思っていることなどを聞き出していく。
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もう1人は、少し前から悪夢を見るようになって不安定になっている、という子供。ジャンは彼とも、ユーモアを交えながら(『ジョーズ』を見た後、トイレに行くのが怖かった、みたいな話など)、少年の不安に寄り添っていく。そして、最後にこんな言い方をするのだ。
【話してくれて良かった。
これから教室に戻ってみんなと勉強する?
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短い言葉の中に、色んなものが詰まっていると思う。「話してくれて良かった」と伝えることで、自分が悩んでいたことを口に出しても大丈夫だったんだと思えるし、「~勉強する?」と押しつけではない聞き方をしてくれることで教室に戻りやすくなる。さらに、これからどうするつもりでいるのかを明確に伝えることで、少年が余計な不安を抱かずに済むようにしている。お見事な対応だったなと思う。
この学校のようなことを、実際に行うのは、とても難しいだろう。マニュアルでどうにか対応できるようなものではないからだ。しかし日本でも、面白い取り組みをしている小学校がある。以前観た『こどもかいぎ』『夢見る小学校』で描かれていたような取り組みだ。日本でも、やろうとさえ思えば出来ることだとは思う。
このような対話を経て大人になった方が、争いや対立とは縁遠い社会が生まれる可能性が高まるだろう。とても良い取り組みだと思うし、メチャクチャ苦労は多いだろうが、このような教育を続けてほしいものだと感じた。
「ぼくたちの哲学教室」を観に行ってきました
「aftersun/アフターサン」を観に行ってきました
すごくシンプルな物語で、そのシンプルさ故に、受け取り手の想像力が試されるタイプの映画だと感じた。僕はたぶん、ちょっと想像しきれなかった側の観客かもしれない。この映画が描き出そうとしている「何か」を100として、僕の理解は90にも達していない気がする。「もうちょっと分かりたかった」というのが、素直な感想だ。
父・カラムと、娘・ソフィが、トルコのリゾート地にバカンスに来ている。物語は基本的に、このバカンスの数日間のみを描いていると言っていい。だから、この父娘の関係についても、具体的な情報がもたらされる場面は少ない。ただ、カラムはソフィの母親と離婚しており、ソフィとは一緒には暮らしていない。ソフィと母親の関係についてはほとんど言及はなかったが、ソフィはどうやら、父・カラムのことが好きなようだ。
彼らは、宿泊先のホテルの敷地内からほとんど出ていないように見える。一度、バスに乗ってツアーに参加したぐらいではないだろうか。後は、ホテル内のプールやその他施設、隣接しているだろうビーチに足を運ぶぐらい。2人は、これと言って何をするわけでもなく、「2人でいる」ということに最大の重心を置きながら、このバカンスの日々を過ごしている。
その時間は、とても楽しそうに見える。
しかし何故か、そこには言い知れぬ「緊迫感」みたいなものが漂う瞬間がある。その発露のされ方は、父と娘で異なっている。
2人は、レトロなビデオカメラでお互いを撮り合っているのだが、父・カラムはソフィの見えないところでそのビデオテープを見返しながら、物思いに耽っているような様子を見せる。恐らく彼は、ソフィとのこのバカンスに、なんらかの大きな意味を見出している。その「意味」は、僕には正直はっきりとは分からなかった。映画の中で、象徴的に繰り返し差し込まれる「灯りが明滅する中で踊っている場面」が何か関係しているのかもしれないとは思うが、その描写は僕には上手く繋がらなかった。彼が一体何を抱えていたのかの理解に届かなかったところが、少し残念だった。
一方ソフィは、ホテルでの滞在中、様々な「大人たち」に目を向けている。プールサイドでキスをするカップルや、ディナータイムで音楽に乗せて踊る老夫婦などだ。その眼差しが何を意味するのか、これも明確に理解できたわけではないが、なんとなくはわかる。そこにはもちろん、「離婚してしまった両親」を重ねている部分もあるだろうが、それ以上に、「まだ子供であるが故に、大人である父の心に深く入り込めない」という諦念みたいなものが込められているように僕には感じられた。
なんとなく「緊迫感」の漂うシーンの1つに、「パパは11歳の頃に何をしてた?」とソフィが尋ねる場面がある。映画の冒頭は、まさにこの場面から始まるのだが、この場面がちゃんと映し出されるのは映画の後半になってからだ。
現在11歳であるソフィが、2日後に31歳になる父親に向けて放った他愛もない質問のはずなのだが、何故かカラムはこの問いに答えない。なんとなく不穏な感じが漂う。当初、「カメラを向けられていること」を理由に、その質問に答えない意思を示していた父親に、ソフィはさらに、「だったら、私の小さな心のカメラに撮るから」と、さらに先程の質問に答えてくれるように促すのだが、それでも答えないのだ。
この映画にはこういう、「理由はよく分からないが、何故か緊迫感が漂うシーン」がいくつもある。
なんとなく、「2人の関係に何か補助線を引けば、すぐに『そういうことか!』と理解できそう」と感じるのだが、結局僕には最後まで、その「補助線」が何なのか理解できなかった。
ただ、「理解できないこと」が僕にとってあまりマイナスにはならなかった。それは、とても珍しいことだ。僕は、映画のビジュアルとか衣装とか音楽とか効果とかに、ほとんど興味がない。「どういうストーリーなのか」ということに、もっとも強く関心があると言っていい。だから普段は、「ストーリーが上手く理解できない作品」に対しては、マイナスの感覚を強く抱いてしまうことが多い。
ただこの作品の場合は、あまりそうはならなかった。結局僕には、カラムとソフィがそれぞれ一体何を抱えていたのか上手く捉えきれなかったのだが、それはそれとして、物語として、映像として、2人の関係として、とても素敵なものを観たなという感じになれた。願わくは、もう少し深いところまで理解できたら良かったとは思うが、まあそれは仕方ない。
この2人の何が良かったかというと、「カラムはソフィを子供扱いしないし、ソフィはカラムに子供っぽく接しない」というところだと思う。つまりそれは、「どことなく親友感がある」ということだ。
そんな関係が成立する背景は色々と絶妙に散りばめられている気がする。離婚したがために、お互いに会う機会が少ないこと。宿泊客から「兄妹」に間違えられるぐらいの年齢差。「大人びたい」と感じているだろう思春期のソフィの心情。そして、この旅行に何かしらの「思い」を持って臨んでいるだろうカラムの、その「思い」がもたらしていると思われる悲哀。そういったものが、「親子っぽくない、親友みたいな感じ」を成り立たせているのだと思う。
他者との関わりも多少はあるが、それでも、全編に渡ってほぼこの2人の関係しか描かれない物語は、特段何が起こるというわけでもないのに、その静かな描写に引き込まれるような強い引力を感じた。正直、普段の僕ならそんなに好きにならないタイプの映画な雰囲気があるのだけど、これは観てよかったなと思う。
「aftersun/アフターサン」を観に行ってきました
父・カラムと、娘・ソフィが、トルコのリゾート地にバカンスに来ている。物語は基本的に、このバカンスの数日間のみを描いていると言っていい。だから、この父娘の関係についても、具体的な情報がもたらされる場面は少ない。ただ、カラムはソフィの母親と離婚しており、ソフィとは一緒には暮らしていない。ソフィと母親の関係についてはほとんど言及はなかったが、ソフィはどうやら、父・カラムのことが好きなようだ。
彼らは、宿泊先のホテルの敷地内からほとんど出ていないように見える。一度、バスに乗ってツアーに参加したぐらいではないだろうか。後は、ホテル内のプールやその他施設、隣接しているだろうビーチに足を運ぶぐらい。2人は、これと言って何をするわけでもなく、「2人でいる」ということに最大の重心を置きながら、このバカンスの日々を過ごしている。
その時間は、とても楽しそうに見える。
しかし何故か、そこには言い知れぬ「緊迫感」みたいなものが漂う瞬間がある。その発露のされ方は、父と娘で異なっている。
2人は、レトロなビデオカメラでお互いを撮り合っているのだが、父・カラムはソフィの見えないところでそのビデオテープを見返しながら、物思いに耽っているような様子を見せる。恐らく彼は、ソフィとのこのバカンスに、なんらかの大きな意味を見出している。その「意味」は、僕には正直はっきりとは分からなかった。映画の中で、象徴的に繰り返し差し込まれる「灯りが明滅する中で踊っている場面」が何か関係しているのかもしれないとは思うが、その描写は僕には上手く繋がらなかった。彼が一体何を抱えていたのかの理解に届かなかったところが、少し残念だった。
一方ソフィは、ホテルでの滞在中、様々な「大人たち」に目を向けている。プールサイドでキスをするカップルや、ディナータイムで音楽に乗せて踊る老夫婦などだ。その眼差しが何を意味するのか、これも明確に理解できたわけではないが、なんとなくはわかる。そこにはもちろん、「離婚してしまった両親」を重ねている部分もあるだろうが、それ以上に、「まだ子供であるが故に、大人である父の心に深く入り込めない」という諦念みたいなものが込められているように僕には感じられた。
なんとなく「緊迫感」の漂うシーンの1つに、「パパは11歳の頃に何をしてた?」とソフィが尋ねる場面がある。映画の冒頭は、まさにこの場面から始まるのだが、この場面がちゃんと映し出されるのは映画の後半になってからだ。
現在11歳であるソフィが、2日後に31歳になる父親に向けて放った他愛もない質問のはずなのだが、何故かカラムはこの問いに答えない。なんとなく不穏な感じが漂う。当初、「カメラを向けられていること」を理由に、その質問に答えない意思を示していた父親に、ソフィはさらに、「だったら、私の小さな心のカメラに撮るから」と、さらに先程の質問に答えてくれるように促すのだが、それでも答えないのだ。
この映画にはこういう、「理由はよく分からないが、何故か緊迫感が漂うシーン」がいくつもある。
なんとなく、「2人の関係に何か補助線を引けば、すぐに『そういうことか!』と理解できそう」と感じるのだが、結局僕には最後まで、その「補助線」が何なのか理解できなかった。
ただ、「理解できないこと」が僕にとってあまりマイナスにはならなかった。それは、とても珍しいことだ。僕は、映画のビジュアルとか衣装とか音楽とか効果とかに、ほとんど興味がない。「どういうストーリーなのか」ということに、もっとも強く関心があると言っていい。だから普段は、「ストーリーが上手く理解できない作品」に対しては、マイナスの感覚を強く抱いてしまうことが多い。
ただこの作品の場合は、あまりそうはならなかった。結局僕には、カラムとソフィがそれぞれ一体何を抱えていたのか上手く捉えきれなかったのだが、それはそれとして、物語として、映像として、2人の関係として、とても素敵なものを観たなという感じになれた。願わくは、もう少し深いところまで理解できたら良かったとは思うが、まあそれは仕方ない。
この2人の何が良かったかというと、「カラムはソフィを子供扱いしないし、ソフィはカラムに子供っぽく接しない」というところだと思う。つまりそれは、「どことなく親友感がある」ということだ。
そんな関係が成立する背景は色々と絶妙に散りばめられている気がする。離婚したがために、お互いに会う機会が少ないこと。宿泊客から「兄妹」に間違えられるぐらいの年齢差。「大人びたい」と感じているだろう思春期のソフィの心情。そして、この旅行に何かしらの「思い」を持って臨んでいるだろうカラムの、その「思い」がもたらしていると思われる悲哀。そういったものが、「親子っぽくない、親友みたいな感じ」を成り立たせているのだと思う。
他者との関わりも多少はあるが、それでも、全編に渡ってほぼこの2人の関係しか描かれない物語は、特段何が起こるというわけでもないのに、その静かな描写に引き込まれるような強い引力を感じた。正直、普段の僕ならそんなに好きにならないタイプの映画な雰囲気があるのだけど、これは観てよかったなと思う。
「aftersun/アフターサン」を観に行ってきました
「ソフト/クワイエット」を観に行ってきました
いやー、これは凄まじかった。ここ最近、正直、観る映画は「ハズレだなぁ」と感じることが多かったのだけど、久々にズドーンと来る映画だった。凄いものを観たなぁ。
登場人物の一人が、こんなことを口にする場面がある。
【黒人や有色人種の人たちは、白人のことをバカにすることができる。「白人はクソだ」ぐらいのことを言っても、特に問題にはならない。
でも、私たち白人が、ほんの僅かでも黒人や有色人種を悪く言うと、「ヘイト」だと批判される。】
この映画は、現代的な「多様性・ダイバーシティ」みたいなものを鼻で笑って蹴散らすような「凶悪さ」に満ちているし、「多様性・ダイバーシティ」という言葉が「当たり前になりすぎた」のかもしれない現代性のある一面を絶妙に切り取っているとも言って良いかもしれない。
さて、誤解されたくはないので、まずは僕自身のスタンスについて触れておこう。
僕は、「分かりやすいマイノリティ」ではない。「分かりやすいマイノリティ」というのは、いわゆる「LGBTQ」だったり、障害者だったり、白人社会における黒人だったりのことを指す。僕はそういう、「言葉で分類可能な意味でのマイノリティ」ではない。
ただ一方で、「マジョリティの感覚にはどうしても馴染めない」とずっと思ってきた。だから、「マインドはマイノリティである」と思っている。そういう意味で僕は、自分のことを「マイノリティ」だと認識している。
だからこそ、「分かりやすいマイノリティ」であろうがそうでなかろうが、とにかく「マインドがマイノリティである人」とは感覚が合うし、だからこそ、「多様性・ダイバーシティ」が謳われるようになった現代の風潮にはとても賛成している。「良い時代になっているじゃないか」と思っているのだ。
しかし一方で、そういう風潮に違和感を覚えてしまう場面も多々ある。
例えば映画の話で言えば、最近欧米の映画に、黒人やアジア系の役者がかなり出てくるようになったと感じる。あくまで僕の印象なので、実際どうなのかは分からないが、感覚としてはそう間違っていないだろう。
たぶんその流れは、「ハリウッドは白人ばかりを優遇している」みたいな批判が出始めたからだと思う。だから、欧米の映画でも、非白人を起用することは「ポリティカル・コレクトネス」に沿っていると見なされるようになった、ということなのだろう。
さて、僕は、そういう風潮はなんか好きではない。「そういう風潮」というのは、「批判されないようにポリティカル・コレクトネスを意識するというスタンス」である。もちろん、欧米の映画で非白人を起用する意図は様々にあるだろうし、すべてが「批判されないようにポリティカル・コレクトネスを意識するというスタンス」なわけがないと理解してもいるつもりだ。しかしやはり、変化の過渡期故に、そういう風潮が目に付きやすい。
最近の話で言えば、歌舞伎町タワーのジェンダーレストイレが炎上していることが記憶に新しい。正直、その炎上を詳しく追いかけているわけではないのだが、要するに「『マイノリティの人たちが本当に求めているものを作ろうという意識』ではなく、『ポリティカル・コレクトネスに配慮していますよという意識』が透けて見えているが故の炎上」なのだろうと理解している。
まさにこれなんかは、「多様性・ダイバーシティ」という言葉が広がったが故の弊害と言っていいだろう。恐らく世の中には、「ルールが分からないスポーツに参加させられている」みたいな意識を持っている人がたくさんいるんじゃないかと思う。「多様性・ダイバーシティ」というルールを根本からは理解できず、「たぶんこういうことなんだろう」という理解で行動するから、「いやいやいや」みたいな感覚になってしまうのだ。
というわけで僕として、「『多様性・ダイバーシティ』が重視される世の中になったことは喜ばしいことだが、一方で、そのことによる弊害も如実に現れ始めている」という風に世の中を見ている。これが僕の基本スタンスである。
映画を観ながら、「なるほどこれは難しい問題だ」と感じた。色んな思考が頭を過ぎったが、まずは、以前大学時代の友人と話した「男女平等」についての話に触れておこう。
その友人も男なのだが、話の流れで「男女平等」の話になった。お互いに、「男女平等を目指すべき」という基本スタンスは一致していたのだが、「男女平等」が示す意味が異なっていた。僕は基本的に、「男女の権利が不平等であることによってマイナスを受けている女性が、せめて0ぐらいにはなれるようにすること」を「男女平等」だと考えている。しかしその友人は、「それだけでは不十分だ」という。彼は、「男女の権利が不平等である現場においても、プラスを享受している女性はいるはずなのだから、その女性たちも0にならなければ、男女平等とは言えない」というのだ。
分かりにくいかもしれないので、具体的に書こう。その話の中では、「レディースデー」の話が出た。映画館などで、女性が安くなる日のことだ。この手の商業系のサービスは、実際には、「女性を安くすると、女友達や彼氏も連れてきてくれるだろうし、女性の方が口コミで発信してくれるから広がりが期待できる」みたいな点を見込んでいるのだと僕は想像しているが、しかし解釈しようによっては、このような「レディースデー」を、「社会の中で男性より低く扱われている女性のためのサービス」と見ることも出来るだろう。その友人も、どうもそのような解釈をしているようだった。
そしてそれ故に、その友人は、「マイナスを受けている人が0になることはもちろん大事だが、それと同時に『レディースデー』もなくなる(つまり、プラスが0になる)必要がある」と主張していたのだ。僕はあまりその意見には賛同できず、反論したのだが、そうすると、「お前はフェミニストだからなぁ」みたいなことを言われてしまった。
この話、少しだけ冒頭の「白人が非白人を悪く言うと…」という話に似ていないだろうか?
あるいは、少し前に読んだネット記事のことも思い出した。それは、「産休で時短勤務している同僚(男性)の仕事のカバーをするのがしんどくなったから会社を辞めた」という男性の話だった。その記事を読む限り、会社を辞めたという男性は、時短勤務の男性ことも、働いていた会社のことも、決して悪く言っているわけではなかったと思う。時短勤務で仕事の時間を制限していることも正しいし、そのような仕組みを会社が作っているのも正しい。ただ、そうだとしても、やはり自分が置かれている現状にはどうにも我慢ならん、という主張だった。全体のトーンとしては、「どこにこの怒りをぶつけるのが正しいのか分からないのが難しい」みたいな感じだったと思う。
これも、とても難しい問題だろう。
最近特に、「男性も有給休暇を取得すべし」という風潮が強くなっている。もちろんそれは良いことだ。ただ、「男性に有給休暇を取得させる」ということだけ実行して、他の部分を何も変えなければ、結局どこかに歪みが生まれることになる。
そしてそれは、人種差別についても同じなのだと、この映画を観て改めて意識させられた。
非常にややこしいのは、アメリカの場合は特に、黒人を奴隷として使役していた歴史があることだ。その過去は消せないし、だから「白人は黒人に対して贖罪の念を持つべきではないか」という感覚が、どうしても僕の頭には浮かんでしまう。
ただ、一旦その話は脇に置こう。その場合、ある登場人物が発した次の言葉は、示唆に富むと言えるかもしれない。
【1776年に白人がアメリカを建国したんでしょ?その国が今、奪われようとしている】
「奪われようとしている」について、それがどういう状況なのか具体的な言及はなかったが、要するに白人以外の黒人・移民などによって、白人の居場所や権威みたいなものが失われつつあるということなのだと思う。
僕は正直このような感覚とは縁遠いが、日本にはこのような感覚に共感できるという人が結構いるはずだ。というのも日本は、頑なに「移民」を受け入れないし、「難民」も追い返しているからだ。恐らく、「伝統的な日本」みたいな幻想にすがりたい人が多いのだろうし、そういう人からすれば、「奪われようとしている」と発言する女性の感覚には共感できるのではないかと思う。
つまりこの映画は、「『多様性・ダイバーシティ』という言葉が強くなりすぎたが故に、マジョリティの方が逆説的にマイノリティ的立場に追いやられてしまっている現状」を切り取っている映画だと言っていいだろう。
普段から、観る映画について調べないので、映画を観ながら、「この映画は一体誰が撮ったのだろう?」と考えていた。「誰が」というのはつまり、「白人」なのか「非白人」なのか、ということだ。家に帰って公式HPを見てみると、監督・脚本を担当したのが、「中国系アメリカ人の母親、ブラジル出身の父親を持つ人物」だと分かった。普段なら監督の属性など気にもしないが、この映画の場合そうはいかないように思う。というのも、「この映画を作ったのが、万が一にも『白人至上主義者』なのだとしたら、それはさすがに受け入れがたい」と感じるからだ。
公式HPに、監督の言葉が載っており、非常に面白いのだが、中でも鋭いと感じた部分を引用してみよう。
【私たちが生きる時代のストーリーテリングと映画製作は、非常に危険な状態にあると思います。アメリカのインディペンデント映画は、もう何年も観客を甘やかしてきました。観客や視聴者を慰め、安心させることに集中する時代が続いているのです。(勢力が縮小するどころか拡大している現実があるにもかかわらず)ナチスや秘密結社KKK (クー・クラックス・クラン)のメンバーが、自らの過ちに気付いたり、有色人種の主人公が、人種主義にあふれるこの世界で自らの重大な欠点を正したりという物語が中心です。もちろん、慰めを与えたり、人生には希望があるということを観客に思い出させたりするような映画があることも重要です。しかし、人種差別や白人至上主義に関して容赦するよう促す映画や物語が支持されているのは、非常に残念なことです。そうした間違った物語は、ずっと前から人々の内側にあり、それが白人至上主義を支えてきたのです。】
この言葉は、「なぜ『強烈な白人至上主義者』を主人公にした映画を作ろうと思ったのか」の答えになっていると言っていいだろう。つまり、「これが現実だ」と突きつけるためにこの映画は作られているというわけだ。
この映画を観てどう感じるのかは人それぞれだが、「この映画を観てどう感じたか」は、まさに鏡のように、「私たちが社会をどう捉えているか」と重なるというわけだ。恐らく、この映画が描き出す「現実」に、共感する人だっているだろう。この映画は決して、人種だけを問題にしているわけではない。「理想の女性とは従順な妻である」「男なら男らしくしろ」みたいな、「ステレオタイプこそが正義である」とでも言わんばかりの主張が散りばめられている。そしてその「ステレオタイプこそが正義である」という、この映画が全面に発するメッセージに共感する人はたくさんいるはずだ。日本に生きる、いわゆる「昭和を引きずっているオジサン」なんかは、まさにそういうタイプではないかと思う(しかし、こういう言い方をしている僕自身も、「ステレオタイプ」に飲み込まれていることに気をつけなければならない)。
「ソフト/クワイエット」というタイトルは、白人至上主義者である登場人物たちの「布教のスタンス」を示している。「表向きはソフトに、ひそかに(クワイエット)。そうすれば人々はすんなり受け入れてくれる」というわけだ。
つまり、「ソフト/クワイエット」というのは、「身近にいる誰もが、白人至上主義者的である可能性がある」という現実を示してもいると言っていいだろう。見た目は「ソフト」で「クワイエット」なのだから、内にどれだけヤバい思想を秘めていても、なかなかそれは見えてこない。そのような「怖さ」も感じさせる作品だった。
ざっくり内容を紹介しておこう。
幼稚園で先生として働くエミリーは、その日、幾人かの女性を集めて「会合」を開いていた。会の名前は「アーリア人団結をめざす娘たち」。ザ・白人至上主義者たちの集まりというわけだ。彼女たちは、「コロンビア人に管理職の座を奪われた」「多文化主義は失敗だ」「白人も結束すべき」と言い合う。エミリーは、鉤十字を描いたパイを焼いて持っていき、別れ際にあるメンバーはナチス式の敬礼をする。彼女たちは、自分たちの思想をどう広めていくべきかを検討し、今後の活動に繋げていこうと考える。
諸事情あって、エミリーの自宅に場所を移すことになり、何人かが先に帰った。ワインでも買おうと、参加者の一人・キムが経営する食料品店に立ち寄ったのだが、そこにアジア系の姉妹が客としてやってきて……。
さて、ここまで一切触れてこなかったが、この映画は「全編ワンカット」で撮影されている。その意図について監督はHPで、「こう決断したのは、この物語が伝統を破るよう意図したものだったからです。」「私は憎悪犯罪をありのまま描き出し、観客が1秒たりとも気を抜くことができないような映画を作りだしました。そうでなければ、この映画は偽りということになります。」と書いている。
しかし、もっとシンプルに、ワンカットである必然性を感じられると思う。観客は、「まさに自分もそこにいるかのような没入感」を得られるはずだ。「会合」や「事件」をその場で体験しているような感覚になれる。確かに、「1秒足りとも気が抜けない」作品と言えるだろう。
また、「この短い時間の中で、そんなところまでたどり着いてしまうのか」という驚きも感じられるだろう。映画は90分ぐらいの長さで、もちろんそれは撮影時間と同じである(同じ撮影を、4日間連続で行ったそうだ。恐らく、4本撮った中から、最も出来が良かったものが選ばれたのだろう)。そして、映画で描かれる物語は、「たった90分の出来事」としては、本当に驚くべきものに仕上がっていると言っていいと思う。普通なら、平和に始まった物語(話している中身はともかく、女性たちが集まって会合を開くというのは、穏やかな始まり方だと言っていいだろう)が、たった90分で凄まじい地点にまでたどり着いてしまう、その凄まじさは、やはりワンカットであるが故の効果だと思う。
たった90分の急転直下が、非常にリアリティのあるものとして描かれているのも上手い。普通なら、「さすがにそうはならんやろ」と感じる部分が出てきてもおかしくないと思うのだが、この映画ではそんな風に感じさせる場面はない。「白人至上主義者」という設定や、ここのキャラクターの造形などから、「なるほど、こんな人達がこんな風に集まってしまったら、こんな着地点もあり得るかもしれない」という納得感がとても強いのだ。
「会合の目的」が理解できた辺りから、物語はずっと「狂気」の只中にあると言っていいのだが、その「狂気」が最後の最後まで上り調子で続いていくのも上手い。「ワンカット」という強烈な制約の中で、それを実現することは、並大抵のことではないだろう。
凄いものを観たなぁ。間違いなく賛否分かれる作品だと思うし、「なんだよ、差別主義者が喚き散らしているだけじゃないか」みたいに感じる人もいると思うが、僕は、「多様性・ダイバーシティってどういうことなんだっけ?」と、みんなで一度振り返ってみる、そんなきっかけとしての存在感も放っている作品ではないかと感じた。久々に、良い作品に出会ったなぁ。
「ソフト/クワイエット」を観に行ってきました
登場人物の一人が、こんなことを口にする場面がある。
【黒人や有色人種の人たちは、白人のことをバカにすることができる。「白人はクソだ」ぐらいのことを言っても、特に問題にはならない。
でも、私たち白人が、ほんの僅かでも黒人や有色人種を悪く言うと、「ヘイト」だと批判される。】
この映画は、現代的な「多様性・ダイバーシティ」みたいなものを鼻で笑って蹴散らすような「凶悪さ」に満ちているし、「多様性・ダイバーシティ」という言葉が「当たり前になりすぎた」のかもしれない現代性のある一面を絶妙に切り取っているとも言って良いかもしれない。
さて、誤解されたくはないので、まずは僕自身のスタンスについて触れておこう。
僕は、「分かりやすいマイノリティ」ではない。「分かりやすいマイノリティ」というのは、いわゆる「LGBTQ」だったり、障害者だったり、白人社会における黒人だったりのことを指す。僕はそういう、「言葉で分類可能な意味でのマイノリティ」ではない。
ただ一方で、「マジョリティの感覚にはどうしても馴染めない」とずっと思ってきた。だから、「マインドはマイノリティである」と思っている。そういう意味で僕は、自分のことを「マイノリティ」だと認識している。
だからこそ、「分かりやすいマイノリティ」であろうがそうでなかろうが、とにかく「マインドがマイノリティである人」とは感覚が合うし、だからこそ、「多様性・ダイバーシティ」が謳われるようになった現代の風潮にはとても賛成している。「良い時代になっているじゃないか」と思っているのだ。
しかし一方で、そういう風潮に違和感を覚えてしまう場面も多々ある。
例えば映画の話で言えば、最近欧米の映画に、黒人やアジア系の役者がかなり出てくるようになったと感じる。あくまで僕の印象なので、実際どうなのかは分からないが、感覚としてはそう間違っていないだろう。
たぶんその流れは、「ハリウッドは白人ばかりを優遇している」みたいな批判が出始めたからだと思う。だから、欧米の映画でも、非白人を起用することは「ポリティカル・コレクトネス」に沿っていると見なされるようになった、ということなのだろう。
さて、僕は、そういう風潮はなんか好きではない。「そういう風潮」というのは、「批判されないようにポリティカル・コレクトネスを意識するというスタンス」である。もちろん、欧米の映画で非白人を起用する意図は様々にあるだろうし、すべてが「批判されないようにポリティカル・コレクトネスを意識するというスタンス」なわけがないと理解してもいるつもりだ。しかしやはり、変化の過渡期故に、そういう風潮が目に付きやすい。
最近の話で言えば、歌舞伎町タワーのジェンダーレストイレが炎上していることが記憶に新しい。正直、その炎上を詳しく追いかけているわけではないのだが、要するに「『マイノリティの人たちが本当に求めているものを作ろうという意識』ではなく、『ポリティカル・コレクトネスに配慮していますよという意識』が透けて見えているが故の炎上」なのだろうと理解している。
まさにこれなんかは、「多様性・ダイバーシティ」という言葉が広がったが故の弊害と言っていいだろう。恐らく世の中には、「ルールが分からないスポーツに参加させられている」みたいな意識を持っている人がたくさんいるんじゃないかと思う。「多様性・ダイバーシティ」というルールを根本からは理解できず、「たぶんこういうことなんだろう」という理解で行動するから、「いやいやいや」みたいな感覚になってしまうのだ。
というわけで僕として、「『多様性・ダイバーシティ』が重視される世の中になったことは喜ばしいことだが、一方で、そのことによる弊害も如実に現れ始めている」という風に世の中を見ている。これが僕の基本スタンスである。
映画を観ながら、「なるほどこれは難しい問題だ」と感じた。色んな思考が頭を過ぎったが、まずは、以前大学時代の友人と話した「男女平等」についての話に触れておこう。
その友人も男なのだが、話の流れで「男女平等」の話になった。お互いに、「男女平等を目指すべき」という基本スタンスは一致していたのだが、「男女平等」が示す意味が異なっていた。僕は基本的に、「男女の権利が不平等であることによってマイナスを受けている女性が、せめて0ぐらいにはなれるようにすること」を「男女平等」だと考えている。しかしその友人は、「それだけでは不十分だ」という。彼は、「男女の権利が不平等である現場においても、プラスを享受している女性はいるはずなのだから、その女性たちも0にならなければ、男女平等とは言えない」というのだ。
分かりにくいかもしれないので、具体的に書こう。その話の中では、「レディースデー」の話が出た。映画館などで、女性が安くなる日のことだ。この手の商業系のサービスは、実際には、「女性を安くすると、女友達や彼氏も連れてきてくれるだろうし、女性の方が口コミで発信してくれるから広がりが期待できる」みたいな点を見込んでいるのだと僕は想像しているが、しかし解釈しようによっては、このような「レディースデー」を、「社会の中で男性より低く扱われている女性のためのサービス」と見ることも出来るだろう。その友人も、どうもそのような解釈をしているようだった。
そしてそれ故に、その友人は、「マイナスを受けている人が0になることはもちろん大事だが、それと同時に『レディースデー』もなくなる(つまり、プラスが0になる)必要がある」と主張していたのだ。僕はあまりその意見には賛同できず、反論したのだが、そうすると、「お前はフェミニストだからなぁ」みたいなことを言われてしまった。
この話、少しだけ冒頭の「白人が非白人を悪く言うと…」という話に似ていないだろうか?
あるいは、少し前に読んだネット記事のことも思い出した。それは、「産休で時短勤務している同僚(男性)の仕事のカバーをするのがしんどくなったから会社を辞めた」という男性の話だった。その記事を読む限り、会社を辞めたという男性は、時短勤務の男性ことも、働いていた会社のことも、決して悪く言っているわけではなかったと思う。時短勤務で仕事の時間を制限していることも正しいし、そのような仕組みを会社が作っているのも正しい。ただ、そうだとしても、やはり自分が置かれている現状にはどうにも我慢ならん、という主張だった。全体のトーンとしては、「どこにこの怒りをぶつけるのが正しいのか分からないのが難しい」みたいな感じだったと思う。
これも、とても難しい問題だろう。
最近特に、「男性も有給休暇を取得すべし」という風潮が強くなっている。もちろんそれは良いことだ。ただ、「男性に有給休暇を取得させる」ということだけ実行して、他の部分を何も変えなければ、結局どこかに歪みが生まれることになる。
そしてそれは、人種差別についても同じなのだと、この映画を観て改めて意識させられた。
非常にややこしいのは、アメリカの場合は特に、黒人を奴隷として使役していた歴史があることだ。その過去は消せないし、だから「白人は黒人に対して贖罪の念を持つべきではないか」という感覚が、どうしても僕の頭には浮かんでしまう。
ただ、一旦その話は脇に置こう。その場合、ある登場人物が発した次の言葉は、示唆に富むと言えるかもしれない。
【1776年に白人がアメリカを建国したんでしょ?その国が今、奪われようとしている】
「奪われようとしている」について、それがどういう状況なのか具体的な言及はなかったが、要するに白人以外の黒人・移民などによって、白人の居場所や権威みたいなものが失われつつあるということなのだと思う。
僕は正直このような感覚とは縁遠いが、日本にはこのような感覚に共感できるという人が結構いるはずだ。というのも日本は、頑なに「移民」を受け入れないし、「難民」も追い返しているからだ。恐らく、「伝統的な日本」みたいな幻想にすがりたい人が多いのだろうし、そういう人からすれば、「奪われようとしている」と発言する女性の感覚には共感できるのではないかと思う。
つまりこの映画は、「『多様性・ダイバーシティ』という言葉が強くなりすぎたが故に、マジョリティの方が逆説的にマイノリティ的立場に追いやられてしまっている現状」を切り取っている映画だと言っていいだろう。
普段から、観る映画について調べないので、映画を観ながら、「この映画は一体誰が撮ったのだろう?」と考えていた。「誰が」というのはつまり、「白人」なのか「非白人」なのか、ということだ。家に帰って公式HPを見てみると、監督・脚本を担当したのが、「中国系アメリカ人の母親、ブラジル出身の父親を持つ人物」だと分かった。普段なら監督の属性など気にもしないが、この映画の場合そうはいかないように思う。というのも、「この映画を作ったのが、万が一にも『白人至上主義者』なのだとしたら、それはさすがに受け入れがたい」と感じるからだ。
公式HPに、監督の言葉が載っており、非常に面白いのだが、中でも鋭いと感じた部分を引用してみよう。
【私たちが生きる時代のストーリーテリングと映画製作は、非常に危険な状態にあると思います。アメリカのインディペンデント映画は、もう何年も観客を甘やかしてきました。観客や視聴者を慰め、安心させることに集中する時代が続いているのです。(勢力が縮小するどころか拡大している現実があるにもかかわらず)ナチスや秘密結社KKK (クー・クラックス・クラン)のメンバーが、自らの過ちに気付いたり、有色人種の主人公が、人種主義にあふれるこの世界で自らの重大な欠点を正したりという物語が中心です。もちろん、慰めを与えたり、人生には希望があるということを観客に思い出させたりするような映画があることも重要です。しかし、人種差別や白人至上主義に関して容赦するよう促す映画や物語が支持されているのは、非常に残念なことです。そうした間違った物語は、ずっと前から人々の内側にあり、それが白人至上主義を支えてきたのです。】
この言葉は、「なぜ『強烈な白人至上主義者』を主人公にした映画を作ろうと思ったのか」の答えになっていると言っていいだろう。つまり、「これが現実だ」と突きつけるためにこの映画は作られているというわけだ。
この映画を観てどう感じるのかは人それぞれだが、「この映画を観てどう感じたか」は、まさに鏡のように、「私たちが社会をどう捉えているか」と重なるというわけだ。恐らく、この映画が描き出す「現実」に、共感する人だっているだろう。この映画は決して、人種だけを問題にしているわけではない。「理想の女性とは従順な妻である」「男なら男らしくしろ」みたいな、「ステレオタイプこそが正義である」とでも言わんばかりの主張が散りばめられている。そしてその「ステレオタイプこそが正義である」という、この映画が全面に発するメッセージに共感する人はたくさんいるはずだ。日本に生きる、いわゆる「昭和を引きずっているオジサン」なんかは、まさにそういうタイプではないかと思う(しかし、こういう言い方をしている僕自身も、「ステレオタイプ」に飲み込まれていることに気をつけなければならない)。
「ソフト/クワイエット」というタイトルは、白人至上主義者である登場人物たちの「布教のスタンス」を示している。「表向きはソフトに、ひそかに(クワイエット)。そうすれば人々はすんなり受け入れてくれる」というわけだ。
つまり、「ソフト/クワイエット」というのは、「身近にいる誰もが、白人至上主義者的である可能性がある」という現実を示してもいると言っていいだろう。見た目は「ソフト」で「クワイエット」なのだから、内にどれだけヤバい思想を秘めていても、なかなかそれは見えてこない。そのような「怖さ」も感じさせる作品だった。
ざっくり内容を紹介しておこう。
幼稚園で先生として働くエミリーは、その日、幾人かの女性を集めて「会合」を開いていた。会の名前は「アーリア人団結をめざす娘たち」。ザ・白人至上主義者たちの集まりというわけだ。彼女たちは、「コロンビア人に管理職の座を奪われた」「多文化主義は失敗だ」「白人も結束すべき」と言い合う。エミリーは、鉤十字を描いたパイを焼いて持っていき、別れ際にあるメンバーはナチス式の敬礼をする。彼女たちは、自分たちの思想をどう広めていくべきかを検討し、今後の活動に繋げていこうと考える。
諸事情あって、エミリーの自宅に場所を移すことになり、何人かが先に帰った。ワインでも買おうと、参加者の一人・キムが経営する食料品店に立ち寄ったのだが、そこにアジア系の姉妹が客としてやってきて……。
さて、ここまで一切触れてこなかったが、この映画は「全編ワンカット」で撮影されている。その意図について監督はHPで、「こう決断したのは、この物語が伝統を破るよう意図したものだったからです。」「私は憎悪犯罪をありのまま描き出し、観客が1秒たりとも気を抜くことができないような映画を作りだしました。そうでなければ、この映画は偽りということになります。」と書いている。
しかし、もっとシンプルに、ワンカットである必然性を感じられると思う。観客は、「まさに自分もそこにいるかのような没入感」を得られるはずだ。「会合」や「事件」をその場で体験しているような感覚になれる。確かに、「1秒足りとも気が抜けない」作品と言えるだろう。
また、「この短い時間の中で、そんなところまでたどり着いてしまうのか」という驚きも感じられるだろう。映画は90分ぐらいの長さで、もちろんそれは撮影時間と同じである(同じ撮影を、4日間連続で行ったそうだ。恐らく、4本撮った中から、最も出来が良かったものが選ばれたのだろう)。そして、映画で描かれる物語は、「たった90分の出来事」としては、本当に驚くべきものに仕上がっていると言っていいと思う。普通なら、平和に始まった物語(話している中身はともかく、女性たちが集まって会合を開くというのは、穏やかな始まり方だと言っていいだろう)が、たった90分で凄まじい地点にまでたどり着いてしまう、その凄まじさは、やはりワンカットであるが故の効果だと思う。
たった90分の急転直下が、非常にリアリティのあるものとして描かれているのも上手い。普通なら、「さすがにそうはならんやろ」と感じる部分が出てきてもおかしくないと思うのだが、この映画ではそんな風に感じさせる場面はない。「白人至上主義者」という設定や、ここのキャラクターの造形などから、「なるほど、こんな人達がこんな風に集まってしまったら、こんな着地点もあり得るかもしれない」という納得感がとても強いのだ。
「会合の目的」が理解できた辺りから、物語はずっと「狂気」の只中にあると言っていいのだが、その「狂気」が最後の最後まで上り調子で続いていくのも上手い。「ワンカット」という強烈な制約の中で、それを実現することは、並大抵のことではないだろう。
凄いものを観たなぁ。間違いなく賛否分かれる作品だと思うし、「なんだよ、差別主義者が喚き散らしているだけじゃないか」みたいに感じる人もいると思うが、僕は、「多様性・ダイバーシティってどういうことなんだっけ?」と、みんなで一度振り返ってみる、そんなきっかけとしての存在感も放っている作品ではないかと感じた。久々に、良い作品に出会ったなぁ。
「ソフト/クワイエット」を観に行ってきました
「アルマゲドン・タイム ある日々の肖像」を観に行ってきました
良い映画だと思う。少し前(レーガン大統領が当選するとかしないとかっていうニュース映像が流れる時代)のアメリカを舞台に、マイノリティに対する差別感情が今以上に厳しかっただろう時代を描いている。あとで知ったが、この物語は、監督の実体験を基にしているそうだ。
印象的だったのは、おじいちゃん役のアンソニー・ホプキンスだ。出番こそ決して多くないが、正直、彼の存在感がメチャクチャ強く、なんなら主人公ぐらいの強さがある。なんというのか、人生のどこかのタイミングでこういう存在に出会いたかったなぁ、という気持ちになった。もちろん、「年の功」故の存在感ではあるのだけど、それでも、自分もこういう存在になれたらいいなぁ、と思ったりもする。
彼は、「高潔な人になれ」と孫に告げる。正直なところ、この言葉が物語全体を貫くことはないように思う。だからこそ、そこにリアリティを感じるとも言えるだろう。現実的には、父が語る「人生は不公平だ」の方が響く人も多いかもしれない。不公平だから、なんとか生き延びなければならない。
ポールは、伝統校に通う兄とは違い、地域の公立校に通っており、そこには黒人の子供も通っている。ポールは、ジョニーというクラスの問題児である黒人の少年と仲良くなり、ポール自身はジョニーと楽しい日々を過ごしていた。しかし、ジョニー自身の態度にも確かに問題はあるものの、恐らく「黒人である」という事実も相まって、教師から良い扱いを受けられず、また、話の断片から、家庭環境の厳しさも伺える。それ故にジョニーは、反発するような態度を取ってしまい、そしてポールもそれに同調してしまうのである。
そうやって、ジョニーだけではなく、ポールの状況も悪化していくことになる。
ポールは、ジョニーと比べれば圧倒的に恵まれた家庭環境に育っているが、しかしそれでも、両親のスタンスに馴染めないものを感じている。親族の中で唯一、おじいちゃんだけが心を許せる相手で、おじいちゃんの言うことだけは素直に聞くという具合だ。
そんな彼らの、葛藤の日々が描かれる。
やはり思い返してみても、アンソニー・ホプキンスが一番印象的だった。あと、やはり教育というのは大事だなと思う。
「アルマゲドン・タイム ある日々の肖像」を観に行ってきました
印象的だったのは、おじいちゃん役のアンソニー・ホプキンスだ。出番こそ決して多くないが、正直、彼の存在感がメチャクチャ強く、なんなら主人公ぐらいの強さがある。なんというのか、人生のどこかのタイミングでこういう存在に出会いたかったなぁ、という気持ちになった。もちろん、「年の功」故の存在感ではあるのだけど、それでも、自分もこういう存在になれたらいいなぁ、と思ったりもする。
彼は、「高潔な人になれ」と孫に告げる。正直なところ、この言葉が物語全体を貫くことはないように思う。だからこそ、そこにリアリティを感じるとも言えるだろう。現実的には、父が語る「人生は不公平だ」の方が響く人も多いかもしれない。不公平だから、なんとか生き延びなければならない。
ポールは、伝統校に通う兄とは違い、地域の公立校に通っており、そこには黒人の子供も通っている。ポールは、ジョニーというクラスの問題児である黒人の少年と仲良くなり、ポール自身はジョニーと楽しい日々を過ごしていた。しかし、ジョニー自身の態度にも確かに問題はあるものの、恐らく「黒人である」という事実も相まって、教師から良い扱いを受けられず、また、話の断片から、家庭環境の厳しさも伺える。それ故にジョニーは、反発するような態度を取ってしまい、そしてポールもそれに同調してしまうのである。
そうやって、ジョニーだけではなく、ポールの状況も悪化していくことになる。
ポールは、ジョニーと比べれば圧倒的に恵まれた家庭環境に育っているが、しかしそれでも、両親のスタンスに馴染めないものを感じている。親族の中で唯一、おじいちゃんだけが心を許せる相手で、おじいちゃんの言うことだけは素直に聞くという具合だ。
そんな彼らの、葛藤の日々が描かれる。
やはり思い返してみても、アンソニー・ホプキンスが一番印象的だった。あと、やはり教育というのは大事だなと思う。
「アルマゲドン・タイム ある日々の肖像」を観に行ってきました
「TAR/ター」を観に行ってきました
とても引力の強い映画だった。リディア・ターという女性指揮者が主人公なのだが、そのターが放つ「何か」がとても強く、最初から最後までスクリーンに釘付けにさせられた、という感じだった。
ただ、「分かったか、分からなかったか」と聞かれれば、「分からなかった」と答えざるを得ない。正直なところ、物語の焦点がどこに当たっていたのか、見終わった今考えてみてもイマイチ理解できない。もちろんそれは、「リディア・ター」という人物そのものであることは確かなのだが、言ってみればそれは「縦軸」だろう。そして、「横軸」に相当するものとの接点で、物語が展開していく、というのが、フィクションのよくある形ではないかと思う。ただ僕には、その「横軸」が何なのか、イマイチ捉えきれなかったのだ。
それぐらい、縦軸である「リディア・ター」が物凄く強い。インパクト抜群である。
しかし、そうは言っても、その「インパクト」は、一見すると分かりづらい。というのもターは、冒頭からしばらく、「実に物腰の柔らかい、穏やかな人物」として描かれていくからだ。
この映画を観ようと思ったきっかけは、例によって映画館で予告を観たからだが、そこには「狂気的」みたいな煽り文句が並んでいた記憶がある。それぐらいの情報しか持たずにこの映画を観たので、とにかく「主人公リディア・ターはヤバい人物なのだろう」という頭で映画を観始めてしまった。しかし、そんな印象とは裏腹に、最初の内はその片鱗が見えない。
映画の冒頭は、ターが出演するトークイベントの様子が映し出される。その冒頭でインタビューアーが、ターの経歴を並べ立てていく。それは凄まじいものだ。カーティス音楽院、ハーバード大学、ウィーン大学を卒業し、世界の名だたるオーケストラで指揮を振るってきた。四大エンタメ賞と呼ばれる「エミー賞」「グラミー賞」「オスカー賞」「トニー賞」をすべて受賞するという、「EGOT」と呼ばれる15人の内の1人でもある。それだけではなく、音楽の研究のために、ある部族の集落で5年間ともに生活を過ごした経験もあるのだ。彼女は「現代音楽における最も重要な人物の一人」と紹介されている。
そして、そんな輝かしい経歴を持つ人物には思えない穏やかさを持つ人物でもある。もちろん、滲み出す自信や力強さみたいなものは感じさせるが、それが「威圧」みたいな印象にはならない。恐らくそれは、彼女が女性であることとも少なからず関係するだろう。トークイベントの中で、「マエストロを、女性名詞であるマエストラにするのは変だ」みたいな話になるのだが、やはり男性が圧倒的に多い指揮の世界であるが故に、言い方は悪いかもしれないが、「自分を抑えた振る舞い」が必要だったということなのだと思う。
そう感じさせるのは、彼女が度々薬を飲むシーンが描かれるからだ。何の薬かは分からないが、いずれにせよ、「凄まじい期待が凄まじい重圧に変換される世界」の中でトップに立ち続けるための心労が、彼女を蝕んでいるのだと思う。
そんな彼女の「秘められた内側」が少しずつ明かされていく映画だ。しかも、暴力的に。彼女の心の内は、かなり暴虐的に暴かれていくと言っていいだろう。
キーパーソンとなる人物は何人かいるが、映画の前半に大きく関わってくる2人の人物を紹介しておこう。シャロンとフランチェスカである。
まず、ターはレズビアンを公表している。そして、彼女のパートナーが、楽団のコンサートマスターでもあるシャロンである。彼女たちは恐らく法的に婚姻関係にあるのではないかと思う。というのも、彼女たちは、恐らく養子だろう女の子を2人で育てているからだ。公私共に重要なパートナーである。
そしてもう1人が、ターの秘書的な役回りを担う、指揮者志望のフランチェスカである。ターは彼女に対し、仕事仲間以上の親愛の情を抱いているようだし、それはフランチェスカにしても同じに思えるが、ただ身体の関係はないようである。恐らくシャロンは、フランチェスカの存在に対して思うところがあるはずだが、しかしそのことを表立って聞いたりすることはない。
人間関係的にはターを含めたこの3人が中心となり、物語が展開していく。そして前半は特にだが、「ターの音楽に対する価値観」が浮き彫りになるようなシーンが多い。
冒頭のトークショーの場面でも、過去の偉大な指揮者や作曲家の名前を出しながらかなり専門的な話をしていく。印象的だったのは、ベートーヴェンとマーラーの話。
まず、指揮者が必要な理由について、インタビューアーから「指揮者は人間メトロノームと呼ばれることもある」と水を向けられたターは、「確かにそれは一面では真実だ」と答えつつ、ベートーヴェンの「運命」の話をする。「運命」は、最初の1音が無音である。だからこそ、「時計を動かす人間が必要だ」と彼女は言う。指揮者にとって最も大事なのは「時間」であり、「時間」をいかにコントロールするかがその役割なのだ、と言っていた。
また、ターはマーラーを敬愛しており、彼女が所属するベルリン・フィルで唯一録音を果たせていない第5番のライブ録音を控えている。そんな第5番は、マーラーの曲の中でも「謎」だそうで、ヒントは表紙に書かれた新妻・アルマへの献辞しかないという。つまり、「マーラーとアルマの結婚生活」を知ることが、第5番を読み解くヒントになるのだ、みたいなことを言っていた。
さてその後、ターが講師を務めるジュリアード音楽院での講義の場面に移るのだが、ここでもかなり専門的な話が展開された。ある生徒と、見解の相違から議論になるのだが、ざっくり要約するとそれは、「作曲者の人柄と、その人物が作曲した曲そのものを関連付けて考えるべきか?」となるだろう。そしてターは、「曲の良し悪しが大事だ」という立場を取る。そしてその上で、こんな言い方をしていた。
【指揮者は、作曲家に奉仕するものよ。聴衆と神の前に立って、自分を消し去るの】
このセリフは、なんとなく映画全体のテーマに絡んできそうな気がするのだが、なかなかスパッとは言い表せない。結局ターは、「曲」とは関係ない様々なことに思考を割かざるを得ない状況に陥ることになり、「作曲家に奉仕できない」という状態に陥ってしまうというわけだ。
さて、後半に進むに連れ、ターの周辺の状況は騒がしくなり、穏やかではいられなくなっていくのだが、そんな中で僕にはなかなか理解しがたかった描写が、ターの部屋で起こる様々な「異変」である。あれらは一体何だったんだろう? 「音」に関しては、ある場面でターが、「雑音への感度が作曲には重要になる」みたいに言われるので、なんとなくそういうことが絡んでくる感じがするのだけど、イマイチよく分からない。そして、それ以外の「異変」も、結局なんだったのかよく分からない。
とにかく、色んなことが示唆されるのだけど、それらが僕の中では上手く繋がらなかった。しかし、冒頭でも書いた通り、とにかくターの引力が強いので、よく分からないと思いつつも観させられてしまう映画ではあった。
現代的な様々なテーマを折り込みながら、最終的には「天才はいかに生きるべきか」みたいな話に終着していくような物語で、観終えて、なんとなくザワザワしたものが残る、印象的な映画だった。
「TAR/ター」を観に行ってきました
ただ、「分かったか、分からなかったか」と聞かれれば、「分からなかった」と答えざるを得ない。正直なところ、物語の焦点がどこに当たっていたのか、見終わった今考えてみてもイマイチ理解できない。もちろんそれは、「リディア・ター」という人物そのものであることは確かなのだが、言ってみればそれは「縦軸」だろう。そして、「横軸」に相当するものとの接点で、物語が展開していく、というのが、フィクションのよくある形ではないかと思う。ただ僕には、その「横軸」が何なのか、イマイチ捉えきれなかったのだ。
それぐらい、縦軸である「リディア・ター」が物凄く強い。インパクト抜群である。
しかし、そうは言っても、その「インパクト」は、一見すると分かりづらい。というのもターは、冒頭からしばらく、「実に物腰の柔らかい、穏やかな人物」として描かれていくからだ。
この映画を観ようと思ったきっかけは、例によって映画館で予告を観たからだが、そこには「狂気的」みたいな煽り文句が並んでいた記憶がある。それぐらいの情報しか持たずにこの映画を観たので、とにかく「主人公リディア・ターはヤバい人物なのだろう」という頭で映画を観始めてしまった。しかし、そんな印象とは裏腹に、最初の内はその片鱗が見えない。
映画の冒頭は、ターが出演するトークイベントの様子が映し出される。その冒頭でインタビューアーが、ターの経歴を並べ立てていく。それは凄まじいものだ。カーティス音楽院、ハーバード大学、ウィーン大学を卒業し、世界の名だたるオーケストラで指揮を振るってきた。四大エンタメ賞と呼ばれる「エミー賞」「グラミー賞」「オスカー賞」「トニー賞」をすべて受賞するという、「EGOT」と呼ばれる15人の内の1人でもある。それだけではなく、音楽の研究のために、ある部族の集落で5年間ともに生活を過ごした経験もあるのだ。彼女は「現代音楽における最も重要な人物の一人」と紹介されている。
そして、そんな輝かしい経歴を持つ人物には思えない穏やかさを持つ人物でもある。もちろん、滲み出す自信や力強さみたいなものは感じさせるが、それが「威圧」みたいな印象にはならない。恐らくそれは、彼女が女性であることとも少なからず関係するだろう。トークイベントの中で、「マエストロを、女性名詞であるマエストラにするのは変だ」みたいな話になるのだが、やはり男性が圧倒的に多い指揮の世界であるが故に、言い方は悪いかもしれないが、「自分を抑えた振る舞い」が必要だったということなのだと思う。
そう感じさせるのは、彼女が度々薬を飲むシーンが描かれるからだ。何の薬かは分からないが、いずれにせよ、「凄まじい期待が凄まじい重圧に変換される世界」の中でトップに立ち続けるための心労が、彼女を蝕んでいるのだと思う。
そんな彼女の「秘められた内側」が少しずつ明かされていく映画だ。しかも、暴力的に。彼女の心の内は、かなり暴虐的に暴かれていくと言っていいだろう。
キーパーソンとなる人物は何人かいるが、映画の前半に大きく関わってくる2人の人物を紹介しておこう。シャロンとフランチェスカである。
まず、ターはレズビアンを公表している。そして、彼女のパートナーが、楽団のコンサートマスターでもあるシャロンである。彼女たちは恐らく法的に婚姻関係にあるのではないかと思う。というのも、彼女たちは、恐らく養子だろう女の子を2人で育てているからだ。公私共に重要なパートナーである。
そしてもう1人が、ターの秘書的な役回りを担う、指揮者志望のフランチェスカである。ターは彼女に対し、仕事仲間以上の親愛の情を抱いているようだし、それはフランチェスカにしても同じに思えるが、ただ身体の関係はないようである。恐らくシャロンは、フランチェスカの存在に対して思うところがあるはずだが、しかしそのことを表立って聞いたりすることはない。
人間関係的にはターを含めたこの3人が中心となり、物語が展開していく。そして前半は特にだが、「ターの音楽に対する価値観」が浮き彫りになるようなシーンが多い。
冒頭のトークショーの場面でも、過去の偉大な指揮者や作曲家の名前を出しながらかなり専門的な話をしていく。印象的だったのは、ベートーヴェンとマーラーの話。
まず、指揮者が必要な理由について、インタビューアーから「指揮者は人間メトロノームと呼ばれることもある」と水を向けられたターは、「確かにそれは一面では真実だ」と答えつつ、ベートーヴェンの「運命」の話をする。「運命」は、最初の1音が無音である。だからこそ、「時計を動かす人間が必要だ」と彼女は言う。指揮者にとって最も大事なのは「時間」であり、「時間」をいかにコントロールするかがその役割なのだ、と言っていた。
また、ターはマーラーを敬愛しており、彼女が所属するベルリン・フィルで唯一録音を果たせていない第5番のライブ録音を控えている。そんな第5番は、マーラーの曲の中でも「謎」だそうで、ヒントは表紙に書かれた新妻・アルマへの献辞しかないという。つまり、「マーラーとアルマの結婚生活」を知ることが、第5番を読み解くヒントになるのだ、みたいなことを言っていた。
さてその後、ターが講師を務めるジュリアード音楽院での講義の場面に移るのだが、ここでもかなり専門的な話が展開された。ある生徒と、見解の相違から議論になるのだが、ざっくり要約するとそれは、「作曲者の人柄と、その人物が作曲した曲そのものを関連付けて考えるべきか?」となるだろう。そしてターは、「曲の良し悪しが大事だ」という立場を取る。そしてその上で、こんな言い方をしていた。
【指揮者は、作曲家に奉仕するものよ。聴衆と神の前に立って、自分を消し去るの】
このセリフは、なんとなく映画全体のテーマに絡んできそうな気がするのだが、なかなかスパッとは言い表せない。結局ターは、「曲」とは関係ない様々なことに思考を割かざるを得ない状況に陥ることになり、「作曲家に奉仕できない」という状態に陥ってしまうというわけだ。
さて、後半に進むに連れ、ターの周辺の状況は騒がしくなり、穏やかではいられなくなっていくのだが、そんな中で僕にはなかなか理解しがたかった描写が、ターの部屋で起こる様々な「異変」である。あれらは一体何だったんだろう? 「音」に関しては、ある場面でターが、「雑音への感度が作曲には重要になる」みたいに言われるので、なんとなくそういうことが絡んでくる感じがするのだけど、イマイチよく分からない。そして、それ以外の「異変」も、結局なんだったのかよく分からない。
とにかく、色んなことが示唆されるのだけど、それらが僕の中では上手く繋がらなかった。しかし、冒頭でも書いた通り、とにかくターの引力が強いので、よく分からないと思いつつも観させられてしまう映画ではあった。
現代的な様々なテーマを折り込みながら、最終的には「天才はいかに生きるべきか」みたいな話に終着していくような物語で、観終えて、なんとなくザワザワしたものが残る、印象的な映画だった。
「TAR/ター」を観に行ってきました
「EO イーオー」を観に行ってきました
うーーーーん、最近どうも、「うーーーーん」から始まる感想が多いけど、これも「うーーーーん」って感じだなぁ。
相変わらずどんな映画なのか知らずに観に行っているので、まずは「まさかホントにロバが主人公なんかい!」ってところに驚いた。モブではない、ちゃんと「キャラクター」として存在する人間が出てくる場面って、全体の2~3割じゃないだろうか。それ以外は、ロバのみ、あるいはモブ的な人間とロバのみ、みたいなシーンである。
確かに映像は綺麗だし、「おとぎ話感」が強いから、現実世界の話なのにファンタジックな雰囲気なのも興味深いとは思う。
ただ、うーん、面白いかと言われると、頷き難いなぁ。
正直、もう少し何かあって欲しかったなぁ、と思わざるを得ませんでした。
「EO イーオー」を観に行ってきました
相変わらずどんな映画なのか知らずに観に行っているので、まずは「まさかホントにロバが主人公なんかい!」ってところに驚いた。モブではない、ちゃんと「キャラクター」として存在する人間が出てくる場面って、全体の2~3割じゃないだろうか。それ以外は、ロバのみ、あるいはモブ的な人間とロバのみ、みたいなシーンである。
確かに映像は綺麗だし、「おとぎ話感」が強いから、現実世界の話なのにファンタジックな雰囲気なのも興味深いとは思う。
ただ、うーん、面白いかと言われると、頷き難いなぁ。
正直、もう少し何かあって欲しかったなぁ、と思わざるを得ませんでした。
「EO イーオー」を観に行ってきました
「マリウポリ 7日間の記録」を観に行ってきました
映画として成立しているのかと聞かれるとなんとも言えないし、退屈かどうかと聞かれればやはり退屈だと答えてしまうかもしれない。それでも、やはり、こういう映画が存在することに衝撃を覚えるし、そこには何か価値があるのだと思う。
とにかく、この映画は、状況の説明を一切しない。もし、なんの前情報も持たずにこの映画を観た場合、「マリウポリ 7日間の記録」以外の具体的な情報を、この映画から得ることは難しいだろう。映し出されているのはどういう人たちで、どういう状況にあって、何が展開されているのかなど、まったくわからない。とにかく、「観て分かる情報」以外のものをすべて排除して構成されていると言っていいだろう。
だから、この映画を観ようとしている人は、公式HPぐらいはチェックしてから劇場に行ってもいいかもしれない。
監督は、ウクライナ侵攻が始まって間もない3月に現地入りし、廃墟のような街中で被害を受けなかった教会に避難している数十人の市民らと共に生活をしながら撮影を開始したそうだ。しかし、撮影開始から数日後、親ロシア派に拘束され殺害されてしまう。撮影済みの素材は、フィアンセだった助監督が回収し、遺体と共に帰国したという。
映画の中では、「戦争」と聞いて僕らが容易に想像しうるような「ドラマティックな出来事」は何も起こらない。そしてだからこそ、「これが戦争のリアルなのだ」と実感させられる。
住民は、明らかに近くに着弾しているだろうロケット砲の爆音を背景に、そんな音など鳴り響いていないかのように「日常生活」を続ける。瓦礫の中から薪や鍋を拾って煮炊きをし、危険だからとトイレに行くのを躊躇し、教会で祈りを捧げる。カメラは、少し遠くをズームで捉え、火の手や煙を映し出す。
それが、彼らの日常である。
「戦争」というのはあまりにも僕らの日常から遠いので、どうしても「極端な何か」をイメージしてしまいがちだと思う。もちろん、この映画で映し出される現実もとても「極端」だ。ただ、それはあくまでも「日常」でもある。「戦場」にも「日常」がある。「戦争」からあまりに遠い世界に生きていると忘れてしまいがちなこの事実を、その静かな映像によって強烈に突きつける、そんな作品だと思う。
改めて凄まじい時代に生きていると感じるし、改めて、こんなクソみたいな日常を生きなければならない人がいなくなる世界であってほしいと感じた。
「マリウポリ 7日間の記録」を観に行ってきました
とにかく、この映画は、状況の説明を一切しない。もし、なんの前情報も持たずにこの映画を観た場合、「マリウポリ 7日間の記録」以外の具体的な情報を、この映画から得ることは難しいだろう。映し出されているのはどういう人たちで、どういう状況にあって、何が展開されているのかなど、まったくわからない。とにかく、「観て分かる情報」以外のものをすべて排除して構成されていると言っていいだろう。
だから、この映画を観ようとしている人は、公式HPぐらいはチェックしてから劇場に行ってもいいかもしれない。
監督は、ウクライナ侵攻が始まって間もない3月に現地入りし、廃墟のような街中で被害を受けなかった教会に避難している数十人の市民らと共に生活をしながら撮影を開始したそうだ。しかし、撮影開始から数日後、親ロシア派に拘束され殺害されてしまう。撮影済みの素材は、フィアンセだった助監督が回収し、遺体と共に帰国したという。
映画の中では、「戦争」と聞いて僕らが容易に想像しうるような「ドラマティックな出来事」は何も起こらない。そしてだからこそ、「これが戦争のリアルなのだ」と実感させられる。
住民は、明らかに近くに着弾しているだろうロケット砲の爆音を背景に、そんな音など鳴り響いていないかのように「日常生活」を続ける。瓦礫の中から薪や鍋を拾って煮炊きをし、危険だからとトイレに行くのを躊躇し、教会で祈りを捧げる。カメラは、少し遠くをズームで捉え、火の手や煙を映し出す。
それが、彼らの日常である。
「戦争」というのはあまりにも僕らの日常から遠いので、どうしても「極端な何か」をイメージしてしまいがちだと思う。もちろん、この映画で映し出される現実もとても「極端」だ。ただ、それはあくまでも「日常」でもある。「戦場」にも「日常」がある。「戦争」からあまりに遠い世界に生きていると忘れてしまいがちなこの事実を、その静かな映像によって強烈に突きつける、そんな作品だと思う。
改めて凄まじい時代に生きていると感じるし、改めて、こんなクソみたいな日常を生きなければならない人がいなくなる世界であってほしいと感じた。
「マリウポリ 7日間の記録」を観に行ってきました
「ハマのドン」を観に行ってきました
いやー、これはメチャクチャ面白かった!全然期待してなかったのもあって、まさかこんな面白いとはって感じだった。素晴らしい。ちなみに書いておくと、僕は横浜市民でもないし、
「ハマのドン」と呼ばれている人物が誰なのかも知らなかったし、何度かテレビで放送されたらしいけどそれも観たことがないし、最後に映し出される横浜市長選の結果も覚えていなかった(っていうかたぶんそもそも知らなかった)。それでも、メチャクチャ面白かったなぁ。
一番良かったのは、「ハマのドン」こと藤木幸夫が「伝わる言葉」を持っていることだ。この点にとにかくメチャクチャ驚いたし、これだけ言葉に力がある人なら、国家権力に戦いを挑むなんていう無茶なことも実現させられるかもしれない、と思った。
僕が政治家のことが好きになれない一番大きな理由が、「言葉を伝えようとしていない人が多すぎる」ということだ。色んな政治家の発言を聞く度に、「ホントにそれを本心から言ってるのか?」「仮にそれが本心なんだとして、その本心を伝えるための言葉選びや話し方を選んでいるか?」と感じてしまう。とにかく政治家の大半は「言葉が嘘くさい」。だから話を聞く気にならないし、「ホントにそんな言葉で人の心を動かせると思ってるのか?」と感じることばかりだ。
藤木幸夫は別に政治家というわけではないだろうが、横浜港を始めとする全国の港湾関係者を取りまとめる「顔役」として、政治にも深く関わっているし、選挙戦にも何度も関わっている。自民党の二階俊博や麻生太郎とは2人で飯を食いに行く仲だそうだし、横浜市議会から国政へと菅義偉を送り出したのもまさにこの藤木幸夫なのである。政治家ではないが、政治家みたいなものだと言っていいだろう。
御年91歳だというそんな政治家みたいな存在の言葉が、まあ届く届く。これには驚いた。
少し脱線するが、僕は「本心かどうか」と「言葉が届くかどうか」というのは別物だと思っている。そして僕にとっては、「本心かどうか以上に、言葉が届くかどうかの方が重要」である。結局、口から出た言葉が「本心かどうか」を判断する方法などない。聞いた側が「本心」だと信じるかどうかの話だ。だからこそ、「言葉」が重要なのである。
そして藤木幸夫の言葉は、「この人は本心を言っているんだろうなぁ」と思わせる力がとにかく強い。凄いなこの人。
初めの内、僕は藤木幸夫という人物について何も知らなかったので、「言葉が届く人物」だなんて思っていなかった。だから、映画の前半の方では、「聞こえの良い言葉を上手いこと口にする人なのかもしれない」ぐらいに思っていた。例えば、山下ふ頭でのIR事業に反対することを決めた彼がこんなことを口にする場面がある。
【男には、一度こうと決めたらその道を歩かなきゃいけない、そんな道があるんだよ。
俺はその道を歩く。一人でも】
正直、この言葉を聞いた時点では、「キレイなことを言う人だなぁ」ぐらいにしか感じていなかった。
ただ徐々に、「この人の言葉はいいぞ」と感じるようになっていった。
IR事業に反対する藤木幸夫は、自身が経営する会社(横浜港での荷役を管理する会社だろう)に対する「嫌がらせ」とも思える対応を受けることになる。世界最大の船会社との契約に市の許可が下りないかもしれない、という状況が突然降って湧いたのだ。
このことについて藤木幸夫はこんな風に言っていた。
【我慢しなきゃなんなないよ。なにも殺し合うわけにはいかないんだから。
それに、役人は言われたらしょうがないよ。人事権とか予算とか握られちゃってるんだから。
俺はそんなことには負けないよ】
あるいは、当時の横浜市長である林文子が、それまで「白紙」と言い続けてきたIR事業について「進める」と発表した直後の会見では、こんな風に言っていた。
【俺は今日、顔に泥を塗られたよ。ただ、どうも市長に文句を言う気にならないんだよなぁ。だって、泥を塗らせた奴がいるんだってハッキリわかってるから】
「泥を塗らせた奴」として暗に指摘しているのは、当時の首相である菅義偉である。
僕が書いた文字を読んでどこまで感じてもらえるか分からないが、僕はこのような発言から、「この人の言葉、メチャクチャ届くな」と感じるようになっていった。「本心を言っている感じがする」と思えるのだ。
ホントにこれは凄い。91歳という年齢で、しかも「政治」という海千山千と戦わないといけない世界で揉まれに揉まれているだろうに、その中で、ごくごく一般的な人間にちゃんと伝わる言葉で話せるというのは、とんでもない強みだと感じた。
こういう人も世の中にはいるんだなぁ、というのが、この映画全体を通じての僕の強烈な
実感だったし、とにかく面白いポイントだった。「言葉の重み」という意味ではホント、すべての政治家が彼を見習うべきじゃないかと感じた。
この映画のもう1つの面白ポイントは、「村尾武洋」という人物の存在だろう。上映後のトークイベントでプロデューサーが、TV版では使用されなかったこの村尾武洋の素材を監督から提示されたことで、劇場版もいけると判断したと語っていたが、たしかに彼の存在はこの映画を一層面白くする要素として重要だと言える。
村尾武洋は、アメリカでいくつものカジノを設計してきた人物である。そんな人物が、なぜ藤木幸夫の物語に絡んでくるのだろうか?
彼は何かの番組で、藤木幸夫がIR事業に反対している映像を観たそうだ。そして、彼の語る言葉に感じ入り、「この人しかいない」と自ら手紙を送ったそうだ。どうせ返信などこないだろうと思っていたのだが、藤木幸夫の直筆による巻物のような長文の返信が返ってきて、その誘いに応じて村尾は藤木幸夫と関わるようになる。
村尾武洋はなんと、カジノ設計者でありながら、IR事業に反対する藤木幸夫の主張を裏付けるような証言をするのである。実際にカジノの設計に関わっている人物による「反対」は、とんでもなく説得力が高いだろう。
もちろん、「そんなことをして、仕事が無くなったりしないのか?」と疑問に思うだろう。彼は家族からもそんな風に聞かれたそうだ。しかし村尾は、「時代ごとに、出来る人間がやらなきゃいけないことがあるもんじゃないですか」と言って、藤木幸夫と共に「横浜への(というか日本への)IR進出」に反対の声を上げる決断をするのである。
具体的には映画を観てほしいが、村尾武洋の主張はシンプルだ。設計者の立場から観て、カジノがいかに「カジノから人をなるべく外に出さず、長時間中に留まってもらうか」が考え尽くされているかということだ。だから、「周辺の街に還元する」なんてあり得ないと断言していた(もしそうなるとしたら、僕ら設計者の負けだ、とさえ言っていた)。設計した人物がそう言っているのだから、これほどの説得力はない。彼は、実際に設計図とカジノ内部の写真を見せながら、「カジノの危険性」について語っていく。
さてここで、映画の内容とは離れるが、僕自身の「IR・カジノ」に対する考え方を書いておこう。
まず、「IR・カジノに賛成か反対か」という問いに対して、シンプルに答えを返すことは難しい。まあ、良い面もあるだろうし悪い面もあるだろう。つまり、「条件次第」である。
で、僕が重要だと感じる条件は、「現状の『ギャンブル依存症者』に対して何をしているのか」である。僕がIR・カジノに賛成できるかどうかは、ほぼこの点に掛っていると言っていい。
日本には、パチンコ・競馬・競輪など様々なギャンブルが存在するし、最近では「ガチャ」の仕組みを有するオンラインゲームなんかもギャンブルに含めていいだろうと思っている。そして、それらのギャンブルによって「ギャンブル依存症者」が生み出されている。
であれば、まずはそこから手を付けなければならないのというのが僕の意見だ。
もちろん、カジノを誘致したい人の、「カジノで増えた税収でギャンブル依存症対策費用を捻出する」という意見も分からないではない。分からないではないが、やはり僕は順番が逆だと思う。何故なら、カジノを誘致するかどうかに関係なく、現時点で存在するギャンブル依存症者は問題だからだ。「カジノで増えた税収でギャンブル依存症対策を行う」というのは、僕にはちょっと納得できない。
ギャンブル依存症は、単に本人だけの問題ではない。家庭が崩壊し、貧困に陥り、子供が苦労させられる。藤木幸夫がIR反対に動いた大きな理由もそこにある。彼は児童養護施設の関係者と連絡を取り、ギャンブル依存症による家庭崩壊の現実をヒアリングしたそうだ。そして、「そんなものは横浜にはいらない」と反対の声を上げたのである。
もちろん、「既にギャンブル依存症になった者」だけに対処すればいいわけではない。IR推進派は「IRでは入場規制などを厳しくやる」みたいなことを言うが、だったら僕は、現状存在するパチンコや競馬などに対してまず制限を掛けるべきだと思う。つまり、「現時点で存在するギャンブル依存症者に対処し、さらに、現時点で存在する公認ギャンブルに対して制限を加える」ということをまずはやるべきだと思うのだ。それをやるなら、IRだろうがカジノだろうが、別に好きにすればいい。僕は別に行かないけど、それが必要だと思う人がいるなら進めれば良かろう、という考えである。
というわけで、「今存在するギャンブル依存症者・公認ギャンブルに対処する」という施策を取らない限り、IR・カジノは許容できない、というのが僕の基本的なスタンスである。
あとそもそもだが、ギャンブルというのは「何も生み出さない」という意味でもどうも好きになれない。有形の何かが生み出されるわけでも、技術が革新されるわけでも、知識が積み上がっていくわけでもない。どうせ大金を掛けるなら、何かを生み出すものであってほしいな、という気持ちがある。先に紹介した村尾武洋が、「25セントのスロットが、1日で5万ドル生み出さなければ、置き場所を変えるなど対策を取る」と語っていたのが印象的だった。まったく何も生み出さないスロットが、5万ドルも叩き出すというのはやはりおかしい(村尾武洋もおかしいと言っていた)。
藤木幸夫が携わる横浜港は、「世界で最も早く、信頼度の高い荷役を行う港」として評価されているそうだ。どう考えても、僕にはその方が価値があると思う。大阪は確か、元々ゴミの最終処分場だったところを埋め立てて万博、そしてIRの土地にしようとしていると思うで、ある意味で「元々マイナスだったところ」だからまだマシと言えるかもしれない。しかし横浜港の場合は、元々大いにプラスの場所なのだ。そのプラスをわざわざ減らしてまでカジノを作る意味が、僕にはよく分からないなと思う。
横浜市は、そんなIRに反対するために市民が動き、住民投票を請求する(言葉の使い方が違うかもだけど)ために必要な法定数の3倍以上となる19万もの署名を集めたが、横浜市議会は僅か3日の審議でこれを棄却した。とにかく横浜市議会としては、「IR誘致に全力を尽くす」構えである。
これを止めるためには、市長選で勝つしかない。映画の最後で描かれるのは、この市長選である。僕は覚えていなかったが、結果は書いてもネタバレとはならないだろう。藤木幸夫が擁立した無名の候補者が、現職林文子だけではなく、菅義偉が「奇策」として投入した小此木八郎も打ち破り、大差での圧勝となった。これはなかなか痛快な結果だよなぁ。
あと面白かったのは、山口組三代目としてよく知られている田岡一雄との関係である。藤木幸夫の父・幸太郎が、田岡一雄と、住吉会会長だった阿部重作と並んで写っている写真が映し出される。田岡も阿部も、港湾の仕事を幸太郎に学びに来ていたそうだ。
さて、映画の中で藤木幸夫が、「港湾は、世間で最も誤解されている」と言う場面がある。これまでも映画などで繰り返し、ヤクザとの関係が指摘されてきたからだ。実際、港湾で働く者たちにとって丁半博打は「唯一」と言っていい娯楽だったし、だからこそ後にヤクザが入り込んできたりした。しかし父・幸太郎がヤクザとの関係を断ち切ったそうだ。既に全国の港湾を取り仕切る人物になっていたから、横浜港に限らず、全国的にそうなっていったそうだ。
その点について、藤木幸夫が凄いことを言っていた。父・幸太郎が田岡一雄を、横浜港の理事長に誘ったというのだ。もちろんヤクザとしてではなく、ヤクザから足を洗えという意味での誘いである。しかし田岡一雄はこんな風に断ったそうだ。
【今、私のために旅に出ている者が100人ほどいる。それが帰ってきたら受けましょう】
もちろん、そんな日が来ることはない。なにせ、無期懲役の人間もいるのだ。だからそれは丁重な断りの文句なわけだが、なんか凄い話だなと思った。
藤木幸夫は父から「ヤクザとは関わるな」と厳命されていたそうだが、同時に、「カタギになると決めた者には優しくしてやってくれ」とも言われていたそうだ。またこの父親は、藤木幸夫が地元の不良を集めて作った野球チームの面々に本を読ませ、時々議論の議題を与えては意見を言わせるみたいなこともしていたそうだ。藤木幸夫や、当時の野球チームのメンバーは、「あの議論は、大人になってから役に立った」と口にしていた。
ラジオ局「横浜エフエム」を立ち上げたのも藤木幸夫だそうだが、彼は当初から営業に「消費者金融のCMは取ってくるな」と言っていたそうだ。その教えは、今でも守られているという。借金などで家庭が崩壊するようなことに加担したくはないという気持ちが強かったのだろう。その想いが、IR反対の根底にもあるなと感じた。
思いがけず、興味深い人物の存在を知ることが出来て良かった。繰り返すが、それが本心かどうかはともかく、ちゃんと届く言葉を持っている人間は魅力的だし、何よりも強いと思う。
「ハマのドン」を観に行ってきました
「ハマのドン」と呼ばれている人物が誰なのかも知らなかったし、何度かテレビで放送されたらしいけどそれも観たことがないし、最後に映し出される横浜市長選の結果も覚えていなかった(っていうかたぶんそもそも知らなかった)。それでも、メチャクチャ面白かったなぁ。
一番良かったのは、「ハマのドン」こと藤木幸夫が「伝わる言葉」を持っていることだ。この点にとにかくメチャクチャ驚いたし、これだけ言葉に力がある人なら、国家権力に戦いを挑むなんていう無茶なことも実現させられるかもしれない、と思った。
僕が政治家のことが好きになれない一番大きな理由が、「言葉を伝えようとしていない人が多すぎる」ということだ。色んな政治家の発言を聞く度に、「ホントにそれを本心から言ってるのか?」「仮にそれが本心なんだとして、その本心を伝えるための言葉選びや話し方を選んでいるか?」と感じてしまう。とにかく政治家の大半は「言葉が嘘くさい」。だから話を聞く気にならないし、「ホントにそんな言葉で人の心を動かせると思ってるのか?」と感じることばかりだ。
藤木幸夫は別に政治家というわけではないだろうが、横浜港を始めとする全国の港湾関係者を取りまとめる「顔役」として、政治にも深く関わっているし、選挙戦にも何度も関わっている。自民党の二階俊博や麻生太郎とは2人で飯を食いに行く仲だそうだし、横浜市議会から国政へと菅義偉を送り出したのもまさにこの藤木幸夫なのである。政治家ではないが、政治家みたいなものだと言っていいだろう。
御年91歳だというそんな政治家みたいな存在の言葉が、まあ届く届く。これには驚いた。
少し脱線するが、僕は「本心かどうか」と「言葉が届くかどうか」というのは別物だと思っている。そして僕にとっては、「本心かどうか以上に、言葉が届くかどうかの方が重要」である。結局、口から出た言葉が「本心かどうか」を判断する方法などない。聞いた側が「本心」だと信じるかどうかの話だ。だからこそ、「言葉」が重要なのである。
そして藤木幸夫の言葉は、「この人は本心を言っているんだろうなぁ」と思わせる力がとにかく強い。凄いなこの人。
初めの内、僕は藤木幸夫という人物について何も知らなかったので、「言葉が届く人物」だなんて思っていなかった。だから、映画の前半の方では、「聞こえの良い言葉を上手いこと口にする人なのかもしれない」ぐらいに思っていた。例えば、山下ふ頭でのIR事業に反対することを決めた彼がこんなことを口にする場面がある。
【男には、一度こうと決めたらその道を歩かなきゃいけない、そんな道があるんだよ。
俺はその道を歩く。一人でも】
正直、この言葉を聞いた時点では、「キレイなことを言う人だなぁ」ぐらいにしか感じていなかった。
ただ徐々に、「この人の言葉はいいぞ」と感じるようになっていった。
IR事業に反対する藤木幸夫は、自身が経営する会社(横浜港での荷役を管理する会社だろう)に対する「嫌がらせ」とも思える対応を受けることになる。世界最大の船会社との契約に市の許可が下りないかもしれない、という状況が突然降って湧いたのだ。
このことについて藤木幸夫はこんな風に言っていた。
【我慢しなきゃなんなないよ。なにも殺し合うわけにはいかないんだから。
それに、役人は言われたらしょうがないよ。人事権とか予算とか握られちゃってるんだから。
俺はそんなことには負けないよ】
あるいは、当時の横浜市長である林文子が、それまで「白紙」と言い続けてきたIR事業について「進める」と発表した直後の会見では、こんな風に言っていた。
【俺は今日、顔に泥を塗られたよ。ただ、どうも市長に文句を言う気にならないんだよなぁ。だって、泥を塗らせた奴がいるんだってハッキリわかってるから】
「泥を塗らせた奴」として暗に指摘しているのは、当時の首相である菅義偉である。
僕が書いた文字を読んでどこまで感じてもらえるか分からないが、僕はこのような発言から、「この人の言葉、メチャクチャ届くな」と感じるようになっていった。「本心を言っている感じがする」と思えるのだ。
ホントにこれは凄い。91歳という年齢で、しかも「政治」という海千山千と戦わないといけない世界で揉まれに揉まれているだろうに、その中で、ごくごく一般的な人間にちゃんと伝わる言葉で話せるというのは、とんでもない強みだと感じた。
こういう人も世の中にはいるんだなぁ、というのが、この映画全体を通じての僕の強烈な
実感だったし、とにかく面白いポイントだった。「言葉の重み」という意味ではホント、すべての政治家が彼を見習うべきじゃないかと感じた。
この映画のもう1つの面白ポイントは、「村尾武洋」という人物の存在だろう。上映後のトークイベントでプロデューサーが、TV版では使用されなかったこの村尾武洋の素材を監督から提示されたことで、劇場版もいけると判断したと語っていたが、たしかに彼の存在はこの映画を一層面白くする要素として重要だと言える。
村尾武洋は、アメリカでいくつものカジノを設計してきた人物である。そんな人物が、なぜ藤木幸夫の物語に絡んでくるのだろうか?
彼は何かの番組で、藤木幸夫がIR事業に反対している映像を観たそうだ。そして、彼の語る言葉に感じ入り、「この人しかいない」と自ら手紙を送ったそうだ。どうせ返信などこないだろうと思っていたのだが、藤木幸夫の直筆による巻物のような長文の返信が返ってきて、その誘いに応じて村尾は藤木幸夫と関わるようになる。
村尾武洋はなんと、カジノ設計者でありながら、IR事業に反対する藤木幸夫の主張を裏付けるような証言をするのである。実際にカジノの設計に関わっている人物による「反対」は、とんでもなく説得力が高いだろう。
もちろん、「そんなことをして、仕事が無くなったりしないのか?」と疑問に思うだろう。彼は家族からもそんな風に聞かれたそうだ。しかし村尾は、「時代ごとに、出来る人間がやらなきゃいけないことがあるもんじゃないですか」と言って、藤木幸夫と共に「横浜への(というか日本への)IR進出」に反対の声を上げる決断をするのである。
具体的には映画を観てほしいが、村尾武洋の主張はシンプルだ。設計者の立場から観て、カジノがいかに「カジノから人をなるべく外に出さず、長時間中に留まってもらうか」が考え尽くされているかということだ。だから、「周辺の街に還元する」なんてあり得ないと断言していた(もしそうなるとしたら、僕ら設計者の負けだ、とさえ言っていた)。設計した人物がそう言っているのだから、これほどの説得力はない。彼は、実際に設計図とカジノ内部の写真を見せながら、「カジノの危険性」について語っていく。
さてここで、映画の内容とは離れるが、僕自身の「IR・カジノ」に対する考え方を書いておこう。
まず、「IR・カジノに賛成か反対か」という問いに対して、シンプルに答えを返すことは難しい。まあ、良い面もあるだろうし悪い面もあるだろう。つまり、「条件次第」である。
で、僕が重要だと感じる条件は、「現状の『ギャンブル依存症者』に対して何をしているのか」である。僕がIR・カジノに賛成できるかどうかは、ほぼこの点に掛っていると言っていい。
日本には、パチンコ・競馬・競輪など様々なギャンブルが存在するし、最近では「ガチャ」の仕組みを有するオンラインゲームなんかもギャンブルに含めていいだろうと思っている。そして、それらのギャンブルによって「ギャンブル依存症者」が生み出されている。
であれば、まずはそこから手を付けなければならないのというのが僕の意見だ。
もちろん、カジノを誘致したい人の、「カジノで増えた税収でギャンブル依存症対策費用を捻出する」という意見も分からないではない。分からないではないが、やはり僕は順番が逆だと思う。何故なら、カジノを誘致するかどうかに関係なく、現時点で存在するギャンブル依存症者は問題だからだ。「カジノで増えた税収でギャンブル依存症対策を行う」というのは、僕にはちょっと納得できない。
ギャンブル依存症は、単に本人だけの問題ではない。家庭が崩壊し、貧困に陥り、子供が苦労させられる。藤木幸夫がIR反対に動いた大きな理由もそこにある。彼は児童養護施設の関係者と連絡を取り、ギャンブル依存症による家庭崩壊の現実をヒアリングしたそうだ。そして、「そんなものは横浜にはいらない」と反対の声を上げたのである。
もちろん、「既にギャンブル依存症になった者」だけに対処すればいいわけではない。IR推進派は「IRでは入場規制などを厳しくやる」みたいなことを言うが、だったら僕は、現状存在するパチンコや競馬などに対してまず制限を掛けるべきだと思う。つまり、「現時点で存在するギャンブル依存症者に対処し、さらに、現時点で存在する公認ギャンブルに対して制限を加える」ということをまずはやるべきだと思うのだ。それをやるなら、IRだろうがカジノだろうが、別に好きにすればいい。僕は別に行かないけど、それが必要だと思う人がいるなら進めれば良かろう、という考えである。
というわけで、「今存在するギャンブル依存症者・公認ギャンブルに対処する」という施策を取らない限り、IR・カジノは許容できない、というのが僕の基本的なスタンスである。
あとそもそもだが、ギャンブルというのは「何も生み出さない」という意味でもどうも好きになれない。有形の何かが生み出されるわけでも、技術が革新されるわけでも、知識が積み上がっていくわけでもない。どうせ大金を掛けるなら、何かを生み出すものであってほしいな、という気持ちがある。先に紹介した村尾武洋が、「25セントのスロットが、1日で5万ドル生み出さなければ、置き場所を変えるなど対策を取る」と語っていたのが印象的だった。まったく何も生み出さないスロットが、5万ドルも叩き出すというのはやはりおかしい(村尾武洋もおかしいと言っていた)。
藤木幸夫が携わる横浜港は、「世界で最も早く、信頼度の高い荷役を行う港」として評価されているそうだ。どう考えても、僕にはその方が価値があると思う。大阪は確か、元々ゴミの最終処分場だったところを埋め立てて万博、そしてIRの土地にしようとしていると思うで、ある意味で「元々マイナスだったところ」だからまだマシと言えるかもしれない。しかし横浜港の場合は、元々大いにプラスの場所なのだ。そのプラスをわざわざ減らしてまでカジノを作る意味が、僕にはよく分からないなと思う。
横浜市は、そんなIRに反対するために市民が動き、住民投票を請求する(言葉の使い方が違うかもだけど)ために必要な法定数の3倍以上となる19万もの署名を集めたが、横浜市議会は僅か3日の審議でこれを棄却した。とにかく横浜市議会としては、「IR誘致に全力を尽くす」構えである。
これを止めるためには、市長選で勝つしかない。映画の最後で描かれるのは、この市長選である。僕は覚えていなかったが、結果は書いてもネタバレとはならないだろう。藤木幸夫が擁立した無名の候補者が、現職林文子だけではなく、菅義偉が「奇策」として投入した小此木八郎も打ち破り、大差での圧勝となった。これはなかなか痛快な結果だよなぁ。
あと面白かったのは、山口組三代目としてよく知られている田岡一雄との関係である。藤木幸夫の父・幸太郎が、田岡一雄と、住吉会会長だった阿部重作と並んで写っている写真が映し出される。田岡も阿部も、港湾の仕事を幸太郎に学びに来ていたそうだ。
さて、映画の中で藤木幸夫が、「港湾は、世間で最も誤解されている」と言う場面がある。これまでも映画などで繰り返し、ヤクザとの関係が指摘されてきたからだ。実際、港湾で働く者たちにとって丁半博打は「唯一」と言っていい娯楽だったし、だからこそ後にヤクザが入り込んできたりした。しかし父・幸太郎がヤクザとの関係を断ち切ったそうだ。既に全国の港湾を取り仕切る人物になっていたから、横浜港に限らず、全国的にそうなっていったそうだ。
その点について、藤木幸夫が凄いことを言っていた。父・幸太郎が田岡一雄を、横浜港の理事長に誘ったというのだ。もちろんヤクザとしてではなく、ヤクザから足を洗えという意味での誘いである。しかし田岡一雄はこんな風に断ったそうだ。
【今、私のために旅に出ている者が100人ほどいる。それが帰ってきたら受けましょう】
もちろん、そんな日が来ることはない。なにせ、無期懲役の人間もいるのだ。だからそれは丁重な断りの文句なわけだが、なんか凄い話だなと思った。
藤木幸夫は父から「ヤクザとは関わるな」と厳命されていたそうだが、同時に、「カタギになると決めた者には優しくしてやってくれ」とも言われていたそうだ。またこの父親は、藤木幸夫が地元の不良を集めて作った野球チームの面々に本を読ませ、時々議論の議題を与えては意見を言わせるみたいなこともしていたそうだ。藤木幸夫や、当時の野球チームのメンバーは、「あの議論は、大人になってから役に立った」と口にしていた。
ラジオ局「横浜エフエム」を立ち上げたのも藤木幸夫だそうだが、彼は当初から営業に「消費者金融のCMは取ってくるな」と言っていたそうだ。その教えは、今でも守られているという。借金などで家庭が崩壊するようなことに加担したくはないという気持ちが強かったのだろう。その想いが、IR反対の根底にもあるなと感じた。
思いがけず、興味深い人物の存在を知ることが出来て良かった。繰り返すが、それが本心かどうかはともかく、ちゃんと届く言葉を持っている人間は魅力的だし、何よりも強いと思う。
「ハマのドン」を観に行ってきました
「アダマン号に乗って」を観に行ってきました
うーーーーーーん、ちょっとダメだったなぁ。なんとなく好きそうなタイプの映画に思えてたし、似たようなタイプ・テーマの映画も観たことがあるんだけど、この映画は、ちょっと僕にはダメだった。
映画では基本的に、「アダマン」と呼ばれる、船のような形をしたデイケアセンターに通う人々の姿が映し出される。それは本当に「映し出される」という表現がピッタリなくらいの、「とにかく目の前で怒っていることにカメラを向けている」という雰囲気だ。
「アダマン」がどんな場所で、どういう人が多く通っていて、映し出される個人がどういう人達なのかみたいな説明は基本的にない。つまり、「誰なのか分からない人が、どういう場所なのかよく分からないデイケアセンターで喋っている姿」が延々と流される、というわけだ。
こういう構成には何らかの意図があるのだろうし、こういう構成を好ましいと感じる人もいるとは思うんだけど、僕にはちょっとダメだったなぁ。正直、映画が始まってかなり早い段階で「睡魔」に襲われ、そのまま映画の最後まで「睡魔と戦う」という映画鑑賞だった。
うーん、ちょっと予想外だった。残念。
「アダマン号に乗って」を観に行ってきました
映画では基本的に、「アダマン」と呼ばれる、船のような形をしたデイケアセンターに通う人々の姿が映し出される。それは本当に「映し出される」という表現がピッタリなくらいの、「とにかく目の前で怒っていることにカメラを向けている」という雰囲気だ。
「アダマン」がどんな場所で、どういう人が多く通っていて、映し出される個人がどういう人達なのかみたいな説明は基本的にない。つまり、「誰なのか分からない人が、どういう場所なのかよく分からないデイケアセンターで喋っている姿」が延々と流される、というわけだ。
こういう構成には何らかの意図があるのだろうし、こういう構成を好ましいと感じる人もいるとは思うんだけど、僕にはちょっとダメだったなぁ。正直、映画が始まってかなり早い段階で「睡魔」に襲われ、そのまま映画の最後まで「睡魔と戦う」という映画鑑賞だった。
うーん、ちょっと予想外だった。残念。
「アダマン号に乗って」を観に行ってきました
「せかいのおきく」を観に行ってきました
「うん、そうだよなぁ、こういう感じの映画だよなぁ」という感じの映画だった。
「うんこ」を集めて農家に売る「汚穢屋(おわいや)」と、元武家の娘の話で、時代劇なんかではなかなか描かれない(時代劇をあんまり見ないからよく分からないけど)「汚いリアル」がベースになっている。ほぼ全編が白黒の映像なので、その「汚さ」が全面に出て来ないところが上手い。
「おわいや」はやはり最下層の身分として扱われていたようで、その暮らしはなかなか厳しい。一方、元武家の娘も、「侍」がいなくなった世の中で、それまでとは違う生き方を強いられる。その上、侍の理屈に巻き込まれて声を失ってしまうのだ。
そんな縁遠い男女が惹かれ合う……という話なのだが、「惹かれ合う」までがとても長く、さらに「惹かれ合ってから」の描写が短い。まあ、そういう物語も、良いとは思うのだけど、僕としてはあんまり好みではなかった。やっぱり、中次とおきくの関わりが、もう少し作品のメインになっていても良かったように思う。
ただ、「江戸時代ってこんな感じだったのか」ということが、少し垣間見えるところは興味深かった。
映画を観た後で少しネットで調べると、面白いことが書かれていた。この映画の撮影に際しては、すべての衣装や小道具を「新しいものを一切使用しない」という制約で用意したそうだ。『せかいのおきく』という映画で描かれているものが、「使えるものはすべて使う」という「循環型社会」であるため、それを撮影段階でも体現しようというわけだ。このような取り組みはなかなか面白いと思う。
映画を観終わるまでほぼ意識に上らなかったが、そういえば、佐藤浩市と寛一郎の親子共演だったのか。
「せかいのおきく」を観に行ってきました
「うんこ」を集めて農家に売る「汚穢屋(おわいや)」と、元武家の娘の話で、時代劇なんかではなかなか描かれない(時代劇をあんまり見ないからよく分からないけど)「汚いリアル」がベースになっている。ほぼ全編が白黒の映像なので、その「汚さ」が全面に出て来ないところが上手い。
「おわいや」はやはり最下層の身分として扱われていたようで、その暮らしはなかなか厳しい。一方、元武家の娘も、「侍」がいなくなった世の中で、それまでとは違う生き方を強いられる。その上、侍の理屈に巻き込まれて声を失ってしまうのだ。
そんな縁遠い男女が惹かれ合う……という話なのだが、「惹かれ合う」までがとても長く、さらに「惹かれ合ってから」の描写が短い。まあ、そういう物語も、良いとは思うのだけど、僕としてはあんまり好みではなかった。やっぱり、中次とおきくの関わりが、もう少し作品のメインになっていても良かったように思う。
ただ、「江戸時代ってこんな感じだったのか」ということが、少し垣間見えるところは興味深かった。
映画を観た後で少しネットで調べると、面白いことが書かれていた。この映画の撮影に際しては、すべての衣装や小道具を「新しいものを一切使用しない」という制約で用意したそうだ。『せかいのおきく』という映画で描かれているものが、「使えるものはすべて使う」という「循環型社会」であるため、それを撮影段階でも体現しようというわけだ。このような取り組みはなかなか面白いと思う。
映画を観終わるまでほぼ意識に上らなかったが、そういえば、佐藤浩市と寛一郎の親子共演だったのか。
「せかいのおきく」を観に行ってきました
「私、オルガ・ヘプナロヴァー」を観に行ってきました
映画として面白かったかどうかと言えば、面白くなかった。説明的な描写があまりにも少なく、「今どういう状況にあるのか」ということが、少なくとも僕にはなかなか捉えられなかった。「オルガ・ヘプナロヴァー」という人物が、本国チェコスロバキアでもそこまでメジャーな存在ではないはずなので、「観客が、オルガについての知識を持っていること」を前提とした造りではないはずだ。敢えて説明的な描写を排したということなんだと思うけど、その造りは、ちょっと僕には合わなかった。
ただ、オルガ・ヘプナロヴァーという人物は、なかなか興味深いと感じた。チェコスロバキア、最後の女性死刑囚である。
物語の前半の方で、オルガが手紙を書いているシーンがある。その手紙の文面に、こんな文章がある。
【みんな、つまらない会話で笑ってる。
何か話せていればいいみたいだ。】
僕も、よく同じことを思う。「内容はともかく、単に『会話をしているという状態』に満足できるのだろうか」と感じてしまうような人が多い。
別の場面では、カウンセラーらしき男性に次のように言う。
【他人とは分かり合えない】
【他人にはもう何も感じない】
【もう現実に興味がない】
こういう感覚も、結構分かる。僕は割と、「ほとんどの人間には興味がないけど、人間にしか興味が持てない」と自覚しているので、オルガのようにはならないが、それでも感覚的にはかなり理解できる。
「他人にはもう何も感じない」という言葉に、カウンセラーは、「それでも人間が好き?」みたいに問い返す。それに対して、「もう現実に興味がない」と返したはずだ。オルガが感じている絶望感みたいなものは、割と僕には馴染みがあるし、オルガには近いものを感じる。
そんなオルガは当然「自殺」も選択肢に入れている。ラスト付近で、それに関して言及する場面があった。どんな言い方をしたのかちょっと失念してしまったが、「自殺は諦めた」みたいな言い方ではなく、「自殺ではなく、積極的に殺人を選んだ」みたいな言い回しだったように思う。彼女には彼女なりの現実認識があり、それは「普通基準」からすれば歪みきっているわけだが、彼女にとってはその「歪み」こそが現実なのであり、どうにもならない。
僕は時々、そういうことについて考える。つまり、「歪みきった現実認識の中でしか逝きられない人」についてだ。
僕も、運が悪ければそっち側の人間として生きていたと思う。なんやかんや運良くそっちの道を進む必要がなく、どうにかこうにか社会の中でそれっぽく擬態しているが、そうは出来ない人、出来なかった人もたくさんいるはずだ。オルガのようにしか生きられない人が。
そういう時、個人や社会はどんな「解」を提示できるのだろうか、と考えてしまう。
「死刑を望む」というスタンスは、いわゆる「無敵の人」と言っていいし、そういう「無敵の人」には正直、適切な手立ては思いつかない。正直、共存は至難の業だが、かと言って当然、何かしでかす前に排除するあけにもいかない。
オルガの、人や社会に向ける視線は、否応なしにそういう「困難さ」を浮き彫りにするような感じがある。
オルガは、猫背というのか、男っぽい歩き方というのか、とにかく「立っていても歩いていても、その佇まいにどことなく異様さがある」という雰囲気がとても良かった。オルガ役の女優はとても美人なのだけど、その佇まいの異様さが容姿と恐ろしいギャップを生んでいて、一層オルガの異様さが引き立つ感じがある。
僕はこの映画を勝手に、「十数年前の映画のリマスター版」だと思いこんでいた。観る前の時点で白黒の映画だということだけは知っていたから、そういう印象だったのだろう。だから、冒頭オルガが大写しになる場面で、「映像がメチャクチャ綺麗だな」と感じた。実際には2016年に制作された映画のようで(日本での公開は2023年)、そりゃあ映像も綺麗だろう。
ただ、「カメラが移動せず、固定点からのショットが連続する」みたいな感じも、なんとなく「古臭さ」を滲ませる雰囲気があって、僕は映画を観終わるまで、数十年の作品だと信じていた。なんとなく、ちょっと前に観た『WANDA』っていう映画を彷彿とさせる感じもあったからかな。
なかなか勧めにくい作品ではあるが、いずれにせよ、ザワザワさせる映画であることは間違いない。
「私、オルガ・ヘプナロヴァー」を観に行ってきました
ただ、オルガ・ヘプナロヴァーという人物は、なかなか興味深いと感じた。チェコスロバキア、最後の女性死刑囚である。
物語の前半の方で、オルガが手紙を書いているシーンがある。その手紙の文面に、こんな文章がある。
【みんな、つまらない会話で笑ってる。
何か話せていればいいみたいだ。】
僕も、よく同じことを思う。「内容はともかく、単に『会話をしているという状態』に満足できるのだろうか」と感じてしまうような人が多い。
別の場面では、カウンセラーらしき男性に次のように言う。
【他人とは分かり合えない】
【他人にはもう何も感じない】
【もう現実に興味がない】
こういう感覚も、結構分かる。僕は割と、「ほとんどの人間には興味がないけど、人間にしか興味が持てない」と自覚しているので、オルガのようにはならないが、それでも感覚的にはかなり理解できる。
「他人にはもう何も感じない」という言葉に、カウンセラーは、「それでも人間が好き?」みたいに問い返す。それに対して、「もう現実に興味がない」と返したはずだ。オルガが感じている絶望感みたいなものは、割と僕には馴染みがあるし、オルガには近いものを感じる。
そんなオルガは当然「自殺」も選択肢に入れている。ラスト付近で、それに関して言及する場面があった。どんな言い方をしたのかちょっと失念してしまったが、「自殺は諦めた」みたいな言い方ではなく、「自殺ではなく、積極的に殺人を選んだ」みたいな言い回しだったように思う。彼女には彼女なりの現実認識があり、それは「普通基準」からすれば歪みきっているわけだが、彼女にとってはその「歪み」こそが現実なのであり、どうにもならない。
僕は時々、そういうことについて考える。つまり、「歪みきった現実認識の中でしか逝きられない人」についてだ。
僕も、運が悪ければそっち側の人間として生きていたと思う。なんやかんや運良くそっちの道を進む必要がなく、どうにかこうにか社会の中でそれっぽく擬態しているが、そうは出来ない人、出来なかった人もたくさんいるはずだ。オルガのようにしか生きられない人が。
そういう時、個人や社会はどんな「解」を提示できるのだろうか、と考えてしまう。
「死刑を望む」というスタンスは、いわゆる「無敵の人」と言っていいし、そういう「無敵の人」には正直、適切な手立ては思いつかない。正直、共存は至難の業だが、かと言って当然、何かしでかす前に排除するあけにもいかない。
オルガの、人や社会に向ける視線は、否応なしにそういう「困難さ」を浮き彫りにするような感じがある。
オルガは、猫背というのか、男っぽい歩き方というのか、とにかく「立っていても歩いていても、その佇まいにどことなく異様さがある」という雰囲気がとても良かった。オルガ役の女優はとても美人なのだけど、その佇まいの異様さが容姿と恐ろしいギャップを生んでいて、一層オルガの異様さが引き立つ感じがある。
僕はこの映画を勝手に、「十数年前の映画のリマスター版」だと思いこんでいた。観る前の時点で白黒の映画だということだけは知っていたから、そういう印象だったのだろう。だから、冒頭オルガが大写しになる場面で、「映像がメチャクチャ綺麗だな」と感じた。実際には2016年に制作された映画のようで(日本での公開は2023年)、そりゃあ映像も綺麗だろう。
ただ、「カメラが移動せず、固定点からのショットが連続する」みたいな感じも、なんとなく「古臭さ」を滲ませる雰囲気があって、僕は映画を観終わるまで、数十年の作品だと信じていた。なんとなく、ちょっと前に観た『WANDA』っていう映画を彷彿とさせる感じもあったからかな。
なかなか勧めにくい作品ではあるが、いずれにせよ、ザワザワさせる映画であることは間違いない。
「私、オルガ・ヘプナロヴァー」を観に行ってきました
「セールス・ガールの考現学」を観に行ってきました
いやー、これは面白かった!正直、「何が面白かったのか」がさっぱり分からないのだけど、とにかく面白い。これと言って何かが起こるわけでもないし、琴線に触れるセリフが出てくるわけでもないのに、ずっと面白かった。もちろんこの「面白い」は、「interesting(興味深い)」という意味なのだけど、「funny(可笑しい)」という意味でも面白かった。映画中、随所に「クスッと笑えるポイント」が散りばめられていて、実際に観客の間からも何度も笑い声が上がっていた。そのfunnyさも、「狙った面白さ」という感じじゃなく提示されているのがいい。ホントに、「主人公の女の子のナチュラルな行動が、結果として笑いを誘っている」という場面が多い。
モンゴル映画なのだけど、主人公サロールを演じた女優が、メチャクチャ日本人っぽくて異国感がない。なんとなく、「森七菜」とか「白河れい(貴乃花の娘)」に似てる感じ。でも、舞台は明らかに「異国」だから、そういう違和感も日本人的には面白く感じられるかもしれない。
とりあえず、ざっと内容の紹介をしておこう。
大学で原子力工学を学ぶ地味な学生であるサロールは、そこまで親しいわけではないクラスメートからあるお願いをされる。そのクラスメートは、バナナの皮で滑って足を骨折してしまい、しばらくバイトを休まなければならなくなったのだ。「代理を見つけないとクビだ」と言われ、サロールに声を掛けたというわけだ。
そのバイトというのが、「セックス・ショップ(アダルトグッズ販売店)」の店員である。
彼女は、店で商品の説明をひとしきり受け、「仕事の後、売上を、オーナーのカティアさんのところに届けてくれ」と、オーナーの家の鍵も預かる。初日の仕事を終え、売上を持っていくと、驚いたオーナーは怪我をしたバイトの子に電話をする。「正気?子どもを連れてくるなんて、あたしを逮捕させるつもり?」サロールは、成人しているようには見えない童顔なのだ。
こんな風にして、サロールの「セックス・ショップでのアルバイト」が始まる。
基本的にオーナーとの関わりは、売上を届けるだけなのだが、カティアはどうにもサロールのことが気に入ったようだ。一緒に食事をしたり、出かけたりするような仲になっていくのだが……。
というような話です。
映画を観ながら、僕がずっと面白いと感じていたポイントは、「サロールの無反応さ」だ。とにかくサロールは、その場その場の状況に、自身の意思を一切介在させないかのように、無表情で状況に接していく。普通なら、「えっ、困ります」「うわ、どうしよう」「それはちょっと…」みたいな反応になってもおかしくないような場面でも、とにかくサロールはひたすらに無表情のまま流されていく。
そのようなスタンスが、「自信の現れ」から来るのだとしたら、また受け取り方はちょっと変わっただろう。しかし、サロールの場合はそうではない。明らかに、「人生どうでもいいと思っている」みたいな感じが漂うのだ。アダルトグッズショップでバイトしようが、よく分からない年上のオーナーと食事しようが、ひょんなことから警察に拘束されようが、店で客からよく分からない扱いを受けようが、彼女にとってそれらはすべて「どうでもいいこと」なのである。
では、彼女にとって「どうでもいいとは思えないこと」は一体なんなのか。それは、映画の中で随所に描かれるのだけど、僕は正直、物語の後半になるまで、それが彼女にとって「重要なこと」だとあまり理解していなかった。同じように受け取る人もいるかもしれないので、ここではそれには触れずに思う。とにかく彼女には、「どうでもいいとは思えないこと」がちゃんとあるのだ。
しかし一方で、彼女はそれを「見ないようにしている」とも言える。というのもそれは、彼女が大学で選考している原子力工学とはあまりにかけ離れているからだ。サロールはカティアからの問いに答える形で、「原子力工学を選考したのは母の勧めだ」と明かす。彼女自身は、そこになんの興味も抱いていない。本当に興味が持てることには「蓋をしなければならない」と考えているのだ。
そういう意味でも、意思が弱いというのか、仕方ないと考えているというのか、そういう存在である。その感じが、「どんな時も無表情」という彼女のスタンスから実によくにじみ出ている。「敢えて無表情を装っている」とかではなく、「ナチュラルに無表情」という感じが、凄く良い。
サロールはオーナーから「眉毛がボーボー」と言われるぐらい、身なりに気を遣わない。髪もボサボサだし、服装も暗めの色合いのものが多い。「自分がどう見られているか、自分をどう見せるか」ということに、根本的な関心が欠けているのだろうと思う。
こういう感じが、サロールの「スタート地点」である。
そしてここを起点に、サロールが変わっていく物語なのだけど、その過程がなんだか一筋縄ではない感じで面白い。とにかく映画を観ながら感じていたのが、「次どういう展開になるのかさっぱり分からない」ということだ。ミステリチックな作品でも、SF的な設定でもない、割とよくある日常を描いた物語だと思うのだけど(アダルトグッズショップという設定だけちょっと異質だけど)、とにかく何がどうなるのかさっぱり分からない。
やはりその最大の要因は、サロールにある。サロールはとにかく、「自らの意思で行動する状況」がほとんどない。物語が展開するにつれて、彼女が自発的に行動する場面が増えていくのだけど、最初はとにかく、彼女にとっての「どうでもいいとは思えないこと」以外は、自分の意思で何か動くということがない。家でも、父親から「お茶を持ってきてくれ」と言われて反発するでもなく持っていく場面が描かれる(まあこの場面は後で、クスクス笑いを生むことにもなるのだけど)。カティアとの関係でも、基本的にカティアに言われるがまま行動していく。
そして、サロールを結果として大きく揺さぶっていくことになるカティアがまた謎めいたキャラクターなので、何をするんだか分からない雰囲気が強い。実際、カティアがサロールに対してする提案は、ことごとく唐突なものが多い。そして、その感じに、サロールもやはり無表情で付き従っていくのだ。その奇妙さが、やはり面白い。
さて、この映画ではもう1人、サロールと関わる人物が描かれる。名前が1回しか出てこなかったと思うので間違ってるかもだけど、「トガドルジ」みたいな名前だったと思う。サロールとどういう関係なのかよく分からないが、僕は「幼なじみ的な異性」なんじゃないかと思った。いつも同じ場所で、お互いにタバコを吸いながら、ダラっとした感じの話をしている場面が、時々挟み込まれる。
彼と話している時のサロールは、他の人と話している時と違って、少し「緩んでいる」感じがある。相変わらず無表情であることに変わりはないのだけど、それは、サロールが他の場面で見せる「無表情」とはちょっと意味が違っていて、「無表情でいることが、お互いに対する親密さの現れである」ということを理解しているが故の無表情であるように感じられた。
正直、彼がどういう風に物語に絡んでくるのかは全然分からないまま観ていたのだけど、「なるほど、そうなるのか」という展開になる。映画全体の中で、この場面が一番「funny」だったなぁ。普通ならfunnyになるような場面じゃないんだけど、とてもfunnyだった。そして最終的に、その場面こそが、サロールにとっての「新たな決断」のきっかけになるという展開が、物語全体を実に上手くまとめたような感じがあって良かった。
あと、随所に、映像の見せ方として上手いなぁ、と感じるような場面があった。例えばある場面で、「サロールの両親が、寝ている弟を静かに運んでくるシーン」がある。この場面、最後に「両親が弟を運んできた部屋で寝ているサロール」を映し出して終わるのだけど、それによって「あー、なるほど」となる場面となっている。「あること」を直接的に描くことなく、「弟を運んでくる」というだけで、観客にそれを伝える感じが、凄く上手いなと思った。
あと、この映画は全編にわたって、「音楽が流れるシーンで、実際に歌手が登場する」という、意味の分からない演出がなされる。しかし、これも、別に違和感を与えるようなものじゃないんだよなぁ。どんな意図でそんな演出にしたのかはよく分からないけど、僕は結構好きだった。特に、草原のシーンで歌手が出てきた場面は、映像の感じも含めて、凄く良かったなと思う。
しかしホント、変な映画だったなぁ。そしてその変さが、とても良い方に作用しているタイプの映画だったと思う。上映館がかなり少ないのが残念。みんな結構観たらいいと思うよ!
「セールス・ガールの考現学」を観に行ってきました
モンゴル映画なのだけど、主人公サロールを演じた女優が、メチャクチャ日本人っぽくて異国感がない。なんとなく、「森七菜」とか「白河れい(貴乃花の娘)」に似てる感じ。でも、舞台は明らかに「異国」だから、そういう違和感も日本人的には面白く感じられるかもしれない。
とりあえず、ざっと内容の紹介をしておこう。
大学で原子力工学を学ぶ地味な学生であるサロールは、そこまで親しいわけではないクラスメートからあるお願いをされる。そのクラスメートは、バナナの皮で滑って足を骨折してしまい、しばらくバイトを休まなければならなくなったのだ。「代理を見つけないとクビだ」と言われ、サロールに声を掛けたというわけだ。
そのバイトというのが、「セックス・ショップ(アダルトグッズ販売店)」の店員である。
彼女は、店で商品の説明をひとしきり受け、「仕事の後、売上を、オーナーのカティアさんのところに届けてくれ」と、オーナーの家の鍵も預かる。初日の仕事を終え、売上を持っていくと、驚いたオーナーは怪我をしたバイトの子に電話をする。「正気?子どもを連れてくるなんて、あたしを逮捕させるつもり?」サロールは、成人しているようには見えない童顔なのだ。
こんな風にして、サロールの「セックス・ショップでのアルバイト」が始まる。
基本的にオーナーとの関わりは、売上を届けるだけなのだが、カティアはどうにもサロールのことが気に入ったようだ。一緒に食事をしたり、出かけたりするような仲になっていくのだが……。
というような話です。
映画を観ながら、僕がずっと面白いと感じていたポイントは、「サロールの無反応さ」だ。とにかくサロールは、その場その場の状況に、自身の意思を一切介在させないかのように、無表情で状況に接していく。普通なら、「えっ、困ります」「うわ、どうしよう」「それはちょっと…」みたいな反応になってもおかしくないような場面でも、とにかくサロールはひたすらに無表情のまま流されていく。
そのようなスタンスが、「自信の現れ」から来るのだとしたら、また受け取り方はちょっと変わっただろう。しかし、サロールの場合はそうではない。明らかに、「人生どうでもいいと思っている」みたいな感じが漂うのだ。アダルトグッズショップでバイトしようが、よく分からない年上のオーナーと食事しようが、ひょんなことから警察に拘束されようが、店で客からよく分からない扱いを受けようが、彼女にとってそれらはすべて「どうでもいいこと」なのである。
では、彼女にとって「どうでもいいとは思えないこと」は一体なんなのか。それは、映画の中で随所に描かれるのだけど、僕は正直、物語の後半になるまで、それが彼女にとって「重要なこと」だとあまり理解していなかった。同じように受け取る人もいるかもしれないので、ここではそれには触れずに思う。とにかく彼女には、「どうでもいいとは思えないこと」がちゃんとあるのだ。
しかし一方で、彼女はそれを「見ないようにしている」とも言える。というのもそれは、彼女が大学で選考している原子力工学とはあまりにかけ離れているからだ。サロールはカティアからの問いに答える形で、「原子力工学を選考したのは母の勧めだ」と明かす。彼女自身は、そこになんの興味も抱いていない。本当に興味が持てることには「蓋をしなければならない」と考えているのだ。
そういう意味でも、意思が弱いというのか、仕方ないと考えているというのか、そういう存在である。その感じが、「どんな時も無表情」という彼女のスタンスから実によくにじみ出ている。「敢えて無表情を装っている」とかではなく、「ナチュラルに無表情」という感じが、凄く良い。
サロールはオーナーから「眉毛がボーボー」と言われるぐらい、身なりに気を遣わない。髪もボサボサだし、服装も暗めの色合いのものが多い。「自分がどう見られているか、自分をどう見せるか」ということに、根本的な関心が欠けているのだろうと思う。
こういう感じが、サロールの「スタート地点」である。
そしてここを起点に、サロールが変わっていく物語なのだけど、その過程がなんだか一筋縄ではない感じで面白い。とにかく映画を観ながら感じていたのが、「次どういう展開になるのかさっぱり分からない」ということだ。ミステリチックな作品でも、SF的な設定でもない、割とよくある日常を描いた物語だと思うのだけど(アダルトグッズショップという設定だけちょっと異質だけど)、とにかく何がどうなるのかさっぱり分からない。
やはりその最大の要因は、サロールにある。サロールはとにかく、「自らの意思で行動する状況」がほとんどない。物語が展開するにつれて、彼女が自発的に行動する場面が増えていくのだけど、最初はとにかく、彼女にとっての「どうでもいいとは思えないこと」以外は、自分の意思で何か動くということがない。家でも、父親から「お茶を持ってきてくれ」と言われて反発するでもなく持っていく場面が描かれる(まあこの場面は後で、クスクス笑いを生むことにもなるのだけど)。カティアとの関係でも、基本的にカティアに言われるがまま行動していく。
そして、サロールを結果として大きく揺さぶっていくことになるカティアがまた謎めいたキャラクターなので、何をするんだか分からない雰囲気が強い。実際、カティアがサロールに対してする提案は、ことごとく唐突なものが多い。そして、その感じに、サロールもやはり無表情で付き従っていくのだ。その奇妙さが、やはり面白い。
さて、この映画ではもう1人、サロールと関わる人物が描かれる。名前が1回しか出てこなかったと思うので間違ってるかもだけど、「トガドルジ」みたいな名前だったと思う。サロールとどういう関係なのかよく分からないが、僕は「幼なじみ的な異性」なんじゃないかと思った。いつも同じ場所で、お互いにタバコを吸いながら、ダラっとした感じの話をしている場面が、時々挟み込まれる。
彼と話している時のサロールは、他の人と話している時と違って、少し「緩んでいる」感じがある。相変わらず無表情であることに変わりはないのだけど、それは、サロールが他の場面で見せる「無表情」とはちょっと意味が違っていて、「無表情でいることが、お互いに対する親密さの現れである」ということを理解しているが故の無表情であるように感じられた。
正直、彼がどういう風に物語に絡んでくるのかは全然分からないまま観ていたのだけど、「なるほど、そうなるのか」という展開になる。映画全体の中で、この場面が一番「funny」だったなぁ。普通ならfunnyになるような場面じゃないんだけど、とてもfunnyだった。そして最終的に、その場面こそが、サロールにとっての「新たな決断」のきっかけになるという展開が、物語全体を実に上手くまとめたような感じがあって良かった。
あと、随所に、映像の見せ方として上手いなぁ、と感じるような場面があった。例えばある場面で、「サロールの両親が、寝ている弟を静かに運んでくるシーン」がある。この場面、最後に「両親が弟を運んできた部屋で寝ているサロール」を映し出して終わるのだけど、それによって「あー、なるほど」となる場面となっている。「あること」を直接的に描くことなく、「弟を運んでくる」というだけで、観客にそれを伝える感じが、凄く上手いなと思った。
あと、この映画は全編にわたって、「音楽が流れるシーンで、実際に歌手が登場する」という、意味の分からない演出がなされる。しかし、これも、別に違和感を与えるようなものじゃないんだよなぁ。どんな意図でそんな演出にしたのかはよく分からないけど、僕は結構好きだった。特に、草原のシーンで歌手が出てきた場面は、映像の感じも含めて、凄く良かったなと思う。
しかしホント、変な映画だったなぁ。そしてその変さが、とても良い方に作用しているタイプの映画だったと思う。上映館がかなり少ないのが残念。みんな結構観たらいいと思うよ!
「セールス・ガールの考現学」を観に行ってきました
「高速道路家族」を観に行ってきました
うーん、ちょっとピリッとしない映画だったかなぁ。
テーマ的には、なんとなく『万引き家族』とか『パラサイト』感があるし、「家族」とか「貧困・格差」みたいなテーマは割と普遍的だから、面白くなかったわけでもない。
ただ、うーん、ピリッとしないんだよなぁ。
分からないけど、ちょっと理由を考えてみると、「登場人物たちの背景がほとんど描かれなかった」ことにあるかもしれないなぁ、と思う。
なんとなく示唆されることは多い。「恐らくこういうことが起こったんだろう」という描写はある。ただ、それらが物語にあまり深く関わってこない。もう少し、「何故そういう生活になったのか」「何故手を差し伸べたのか」みたいな話が、有機的に物語と結びついていたら良かったのかなぁ、とか思う。
うーん、でも、それがあったとてどうかなぁ。わからん。
4人家族は、パーキングエリアに住み着いているホームレス。色んな事情で居心地が悪くなると、別のパーキングエリアまで歩いて移動している。パーキングエリア内では、人が良さそうな人を探し、「財布を無くして、ガソリンが無くなったから、2万ウォン貸してくれ」と声を掛けては、どうにかその日の食事にありついている。
しかし、やはりそんな生活も長続きはしない。ある日、かつてお金を借りた(実際には騙して奪った)女性とまた遭遇してしまい、警察に通報されてしまうのだ。
父親は逮捕され、母親と子ども2人は行き場もなく警察署の前でただ座っていたのだが……。
いつも書いていることだけど、僕は「『家族』という形をナチュラルに壊していくような関係性」は結構好きなので、そういう意味で、行き場を失った親子が辿る展開はなかなか好きです。ただ全体としてはなぁ、なんともピリッとしなかった。
「高速道路家族」を観に行ってきました
テーマ的には、なんとなく『万引き家族』とか『パラサイト』感があるし、「家族」とか「貧困・格差」みたいなテーマは割と普遍的だから、面白くなかったわけでもない。
ただ、うーん、ピリッとしないんだよなぁ。
分からないけど、ちょっと理由を考えてみると、「登場人物たちの背景がほとんど描かれなかった」ことにあるかもしれないなぁ、と思う。
なんとなく示唆されることは多い。「恐らくこういうことが起こったんだろう」という描写はある。ただ、それらが物語にあまり深く関わってこない。もう少し、「何故そういう生活になったのか」「何故手を差し伸べたのか」みたいな話が、有機的に物語と結びついていたら良かったのかなぁ、とか思う。
うーん、でも、それがあったとてどうかなぁ。わからん。
4人家族は、パーキングエリアに住み着いているホームレス。色んな事情で居心地が悪くなると、別のパーキングエリアまで歩いて移動している。パーキングエリア内では、人が良さそうな人を探し、「財布を無くして、ガソリンが無くなったから、2万ウォン貸してくれ」と声を掛けては、どうにかその日の食事にありついている。
しかし、やはりそんな生活も長続きはしない。ある日、かつてお金を借りた(実際には騙して奪った)女性とまた遭遇してしまい、警察に通報されてしまうのだ。
父親は逮捕され、母親と子ども2人は行き場もなく警察署の前でただ座っていたのだが……。
いつも書いていることだけど、僕は「『家族』という形をナチュラルに壊していくような関係性」は結構好きなので、そういう意味で、行き場を失った親子が辿る展開はなかなか好きです。ただ全体としてはなぁ、なんともピリッとしなかった。
「高速道路家族」を観に行ってきました
「ヴィレッジ」を観に行ってきました
うーーーーーーん、という感じ。良いか悪いかで言うなら「良い」んだけど、うーーーーーんって感じ。
とにかく、役者はとても良かった。主要な役を演じる役者陣が、凄く良い。どの役にもハマってる感じだし、「人気の役者を集めて映画を作ってみました」みたいな映画では全然なかったのが良かったと思う。
特に横浜流星は、「闇落ち」した役が似合う。なんとなく僕が見る横浜流星は、大体闇落ちしている印象だ。メチャクチャイケメンなのに、ナチュラルな「陰」を出せる感じは流石だなと思う。なかなか同じような雰囲気を出せる俳優っていないよなぁ。
また、非常に珍しいと思うが、この映画では「能」が中心的な存在としてある。そして、同じ伝統芸能という括りで、中村獅童が絶妙にハマる。
個人的には、奥平大兼と作間龍斗が印象的だった。奥平大兼は、「MOTHER」で初めてその存在を知って驚き、「マイスモールランド」でも良い演技をしていたなぁ、と思う。奥平大兼は、見る度に毎回「あー、どっかで見た記憶があるんだよなぁ」と思う感じで、それが、まだそこまで知名度がなかった頃の菅田将暉っぽい匂いを感じる。
作間龍斗は、「ひらいて」っていう映画で山田杏奈と主役的な役をやっていた。その時にはジャニーズの人だとは知らず、後からHiHi Jetsの人だと知って驚いた記憶がある。僕の感触では、ジャニーズファンはもちろん知っているだろうけど、まだまだ世間的な知名度はそこまで高くないだろうから、そういう意味でも、彼のような存在が今作でああいう感じの役どころを演じるのは絶妙だなと感じた。
というわけで、役者陣はとても良かった。
個人的に、ストーリーがどうにもうーーーーーーん、という感じだった。僕は普段映画を観る時には、メモ帳片手にあれこれ書きながら観ているのだけど、今作では、冒頭30分ぐらいを過ぎて以降、メモを取ることがなくなってしまった。普段なら、気になるセリフが出てきたり、なんか感じたことがあったりしたらメモするんだけど、そういうのが全然ない。とにかく、僕には「ピンとくる何か」が全然なかった。
とにかく、横浜流星が印象的だった。
「ヴィレッジ」を観に行ってきました
とにかく、役者はとても良かった。主要な役を演じる役者陣が、凄く良い。どの役にもハマってる感じだし、「人気の役者を集めて映画を作ってみました」みたいな映画では全然なかったのが良かったと思う。
特に横浜流星は、「闇落ち」した役が似合う。なんとなく僕が見る横浜流星は、大体闇落ちしている印象だ。メチャクチャイケメンなのに、ナチュラルな「陰」を出せる感じは流石だなと思う。なかなか同じような雰囲気を出せる俳優っていないよなぁ。
また、非常に珍しいと思うが、この映画では「能」が中心的な存在としてある。そして、同じ伝統芸能という括りで、中村獅童が絶妙にハマる。
個人的には、奥平大兼と作間龍斗が印象的だった。奥平大兼は、「MOTHER」で初めてその存在を知って驚き、「マイスモールランド」でも良い演技をしていたなぁ、と思う。奥平大兼は、見る度に毎回「あー、どっかで見た記憶があるんだよなぁ」と思う感じで、それが、まだそこまで知名度がなかった頃の菅田将暉っぽい匂いを感じる。
作間龍斗は、「ひらいて」っていう映画で山田杏奈と主役的な役をやっていた。その時にはジャニーズの人だとは知らず、後からHiHi Jetsの人だと知って驚いた記憶がある。僕の感触では、ジャニーズファンはもちろん知っているだろうけど、まだまだ世間的な知名度はそこまで高くないだろうから、そういう意味でも、彼のような存在が今作でああいう感じの役どころを演じるのは絶妙だなと感じた。
というわけで、役者陣はとても良かった。
個人的に、ストーリーがどうにもうーーーーーーん、という感じだった。僕は普段映画を観る時には、メモ帳片手にあれこれ書きながら観ているのだけど、今作では、冒頭30分ぐらいを過ぎて以降、メモを取ることがなくなってしまった。普段なら、気になるセリフが出てきたり、なんか感じたことがあったりしたらメモするんだけど、そういうのが全然ない。とにかく、僕には「ピンとくる何か」が全然なかった。
とにかく、横浜流星が印象的だった。
「ヴィレッジ」を観に行ってきました
「独裁者たちのとき」を観に行ってきました
いやー、変な映画だった。
実に挑戦的な作品だということは分かる。とても良く理解できる。映画を観るまで、詳しい設定を知らなかったが、「過去のアーカイブ映像のみを組み合わせて、独裁者たちを主人公にしたおとぎ話を作る」という作品なのだ。相当の労力が必要だっただろうし、そのアイデアと努力は素晴らしいと思う。
が、メチャクチャつまらなかった。あまりにもつまらなかったので、珍しく、「寝ようと思って寝た」映画である。
まあ、これはしょうがない。作品が、僕には残念ながら合わなかっただけである。
「独裁者たちのとき」を観に行ってきました
実に挑戦的な作品だということは分かる。とても良く理解できる。映画を観るまで、詳しい設定を知らなかったが、「過去のアーカイブ映像のみを組み合わせて、独裁者たちを主人公にしたおとぎ話を作る」という作品なのだ。相当の労力が必要だっただろうし、そのアイデアと努力は素晴らしいと思う。
が、メチャクチャつまらなかった。あまりにもつまらなかったので、珍しく、「寝ようと思って寝た」映画である。
まあ、これはしょうがない。作品が、僕には残念ながら合わなかっただけである。
「独裁者たちのとき」を観に行ってきました
「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」を観に行ってきました
これはメチャクチャ良い映画だった。正直、最初の1時間ぐらいは、「ここからどう話が展開するんだ?」と思ってたんだけど、「まさかそんな話になっていくとは」と感じた。友人から聞くまで、映画の存在すら知らなかったが、これはマジで観て良かった。
ちょうど昨日の夜、僕が寝ようとしていた直前に、女友達からLINEが来た。「生きづらくてしんどい」という内容だ。さらに、「こんなマイナスな話は、周りの人を不快にするだけだからすいません」「休みの前の日なのにこんなことを言ってごめんなさい」みたいなことも書いてあった。僕は、「そういうのは出せそうな時に出しといた方がいいよ」みたいに言っている。
僕は割と、人からそういう話を聞く機会が多い。自分で言うのも何だが、話しやすいのだろう。というか僕は、意識的に「話しやすい雰囲気」を醸し出しているつもりだ。完全に、意識的にやっている。まあ、それが上手くいっているのだと思う。
ただ、僕にそういう話をしてくれる人に話を聞いてみると、なかなか話せる相手はいないようだ。まあそうだろう。誰かの「しんどい話」を、フラットに聞くのは案外難しい。
だから「ぬいぐるみに話しかける」というのは、ベストでとは言えないが、ベターな解決策だと感じた。ぬいサー(ぬいぐるみサークル)の面々は、「辛い話を誰かに聞いてもらうと、相手の気持ちを辛くしてしまう。だからぬいぐるみに聞いてもらうんだ」と言っている。
ホント、絶妙な設定だと思う。
とにかくこの映画に対しては、随所で「絶妙」と感じた。何もかもが「絶妙」だ。中でも、会話の「絶妙さ」には驚かされる。「沈黙」や「間」も含めて、ホントに見事なまでの「絶妙な会話」なのだ。僕にとっては実に心地よいこの会話の雰囲気を感じるだけでも、この映画に触れる価値があるなと思う。
映画を観ながら、僕が普段から考えていることを改めて実感させられる気がした。それは、「『マイノリティ』という言葉の『狭さ』」である。
一般的に「マイノリティ」という言葉は、恐らく、「『分かりやすい何か』を有している人」という意味で使われることが多いはずだ。「分かりやすい何か」というのは、「障害を持っている」「LGBTQである」などだ。語弊のないように書いておくが、別に「障害」「LGBTQ」のことを「分かりやすい」と評しているのではない。あくまでも、いわゆる「マジョリティ」が「『マイノリティ』という言葉」を使う際に、「障害」「LGBTQ」を「分かりやすい何か」と捉えているのではないか、というイメージでそう呼んでいる。
もちろん、そういう「分かりやすい何か」を有している人は「マイノリティ」に含めて良いだろう(ただ僕は、「マイノリティであるか否か」を決めるのは、最終的には「本人の気分」だと思っているので、そういう「分かりやすい何か」を有している人でも、気分がマイノリティじゃなければ、マイノリティではないと思っている)。
さて、一方、「マイノリティ」と呼ばれるべきは、決してそういう「分かりやすい何か」を持っている人だけではない。そしてまさにこの映画は、そういう人たちを描き出していると言っていい。
映画には、ぬいサーのメンバーとして7人の人物が登場するが、その中で、「分かりやすい何か」を持っていると言えるのは1人だけだと思う(少なくとも、観客視点からはそうだ)。それ以外の人たちは、「分かりやすい何か」を持たない。しかし、彼らは間違いなく「マイノリティ」と呼んでいい人たちだと思う。
しかし、いわゆる「マジョリティ」の人たちが「マイノリティ」を思い浮かべる時、彼らの存在は思い浮かびもしないと思う。シンプルに、認識できない。「障害」や「LGBTQ」は、概念が言語化されているからまだ捉えられるが、映画の中のぬいサーメンバーの「マイノリティさ」は、広く知られる形では言語化されていないので、「マジョリティ」の人たちには理解できないのだ。
この映画では、ぬいサーという「マジョリティ」から意識的に距離を置いているサークルを舞台に展開するにも拘わらず、きちんと「マジョリティ」視点が入り込む。そのキーパーソンが白城ゆいである。
正直この物語は、彼女の存在で成立していると言っていいだろうと感じた。
白城は、ぬいサーに所属しながら、学内唯一のイベントサークルにも所属している。白城はそのイベサーについて、「セクハラまがいのことも多い」と表現していた。「大学生のマジョリティ」をステレオタイプに想像する時に思い浮かぶような人・集団だと考えていいだろう。
白城については、正直映画の中でそこまで深掘りされない(客観的な立ち位置でいることが重要な役割だったため)ので、彼女がどのようなマインドの人なのかを掴むのは難しい。ただ、事実として彼女は、「ザ・マジョリティであるイベサーと、ザ・マイノリティであるぬいサーのどちらにも馴染むことができる」。両者の視点を持ちうる存在だというわけだ。
そんな彼女が、主人公・七森に聞かれる形で、「どうしてセクハラまがいのイベサーに所属しているのか」に答える場面がある。彼女の返答は要するに、「世の中は安心できる場所の方が少ないんだから、ぬいサーみたいな場所だけにいたら弱くなってしまう」という内容だった。
この視点は、映画全体のテーマを捉える上で、非常に重要なものと言える。いつものことながら、映画の内容についてまったく調べないまま観に行ったこともあって、「そういう話になっていくのか」と驚いたし、そしてこの要素が、男女問わず、観客全員がこの映画世界の「関係者」として引きずり込まれることを意味することになる。
映画後半の話についてあまり触れないようにするのだが(印象的なセリフはとても多いのだが、あまり書きすぎないように注意しようと思う)、「あー、それはメチャクチャ分かる」と感じた場面がある。
【でも結局のところ、傷つきたくて傷ついてるだけなんじゃないかって思うんだ。傷ついている自分は、加害者じゃないって思い込みたいだけなんじゃないかって】
この「ズルさ」は、僕の中にもちゃんとあるなぁ、と思った。僕は割と早い段階でその「ズルさ」に気づいていたので、この映画を観て「痛いところを突かれた」みたいには思わなかったが、その「ズルさ」に気づいていない人は「うっ」と感じてしまうかもしれない。そしてこのセリフの後に続く、「それに僕は○○だから…」という話は、僕も割と普段から気をつけているつもりだ。「○○として生きている」というだけで、避けようがない「メタ的な意味」が自分に付随してしまっていることに、気づいていない人がとても多い。そのことが、社会のあちこちで齟齬として浮き彫りになっている状況が山ほどあって、そういう現実にうんざりすることが多い。しかし、「どうせ僕も○○だしな」という感覚は、ずっと頭の片隅のどこかにはある。
色んなことをぼやかして書くので意味が通じないと思うが、ある場面でこんなセリフが出てくる。
【みんな笑いながらそういう話をするんだよ。真剣に話せない空気があるっていうか】
最近、このことを実感する機会があった。僕自身の話ではないので具体的には書かないが、やはりその人も「その時にはヘラへラしてしまった」と言っていたし、後から振り返ってそんな自分に嫌気が差しているようだった。「それに僕は○○だから…」という言葉は、「そういう社会になってしまっている遠因としての自分」を責めるものだ。そしてやはり僕は、良い悪いという話ではなく、「そのことで自分のことを責められる方が、そのことにまったく気づいていない人よりも遥かに真っ当だ」と感じる。
恐らく、世の中的には、このぬいサーの面々は「奇妙な人」に映るだろう。しかし僕の目には、ぬいサーの面々の方が、社会の大多数の人よりも「真っ当な人」に見える。
こんな場面も印象的だった。ぬいサーの中で、唯一「分かりやすい何か」を持つ人物が、その「何か」をサラッと口にした時のことについて、こんな風に語る場面があった。
【その場の言葉遣いが制約されたような感じがあった。「私は尊重してますよ」みたいな空気を出すの。なんか「自分自身」として見られていないような感じだった】
この感覚も凄くよく分かる。僕は別に「分かりやすい何か」を持つ人ではないのだけど、「マジョリティ側ではないこと」をさりげなく示すためのエピソードストックはそれなりに持っている。そして、そういう話をしてみた時に、「言葉遣いが制約されたような感じ」を感じることは確かにある。もっと明け透けに言えば、「地雷を踏むわけにはいかない」という緊張感みたいな感じだろうか。そういう雰囲気が出てしまっている時点で、既に地雷は踏まれているのだけど、マジョリティは地雷を踏んだという事実に気づいていない。そういう雰囲気は、やはり強い違和感として残る。
その違和感は、こんなセリフがよく言い表しているだろう。
【ヤなこと言うヤツは、もっとヤなヤツであってくれ】
これもホント絶妙なセリフだなぁ、と感じた。「今地雷を踏んだ」という事実に気づかないような「鈍感さ」が、「ごく当たり前に生きる普通の人々」に内蔵されているから、普段の振る舞いからその「鈍感さ」を見抜けない、という話だ。そういう人たちが「マジョリティ」であるという事実こそが、「マイノリティ」にとっての「生きづらさ」の根源だったりもするのだ。
こんな風に僕は、この映画が全体的に描こうとしている「何か」にメチャクチャ共感できてしまう。「原作者とか監督・脚本家とめっちゃ喋りてー」と感じるぐらいだ。
映画の中では、「優しさ」について様々な言及がなされるが、僕にとって「優しさ」というのは、「『僕には優しく振る舞わなくていい』と相手が感じられるように振る舞うこと」みたいな感覚がある。まさにそれは、「ぬいサーにおけるぬいぐるみの性質」と同じようなものだと言っていいかもしれない。
どうやったら「僕には優しく振る舞わなくていい」と相手が感じてくれるかは、人それぞれ違う。だから、「優しさの発露の仕方」もまったく違うものになっていると思う。ただ世の中には、「優しさ」という「形の定まった何か」が存在して、それを相手に示したり投げつけたりすることが「優しさ」である、みたいな感覚を持っている人がいるように思う。
確かにそれは、とても分かりやすい。「これこれの振る舞いをしてくれたら『優しい』、してくれなかったら『優しくない』」と簡単に判定できるからだ。しかし僕は、そんな解像度の低い捉え方が許せない。同じ行為が、ある人には「優しさ」として受け取られ、別の人にはそうは受け取られないなって、当たり前に起こることだ。
そして、そういうことが分かりすぎること分かっているからこそ、ぬいサーの面々は、イヤホンを付け、ぬいぐるみに話しかける。やはりそれは、「真っ当さ」であるように僕には感じられるのである。
実に良い映画だった。
映画全体の話を少しすると、とにかく「違和感を覚えるぐらい、ストーリーがスパスパ飛んでいく」という形式が印象的だった。重要なシーンが編集でごっそり抜けちゃってるんじゃないかと思うぐらい、いきなり唐突に状況が変わっている、みたいなことが、特に前半は結構多かった。その欠落が、後々説明されるわけだが、個人的には、そういう「違和感」も、映画全体の雰囲気に合っていて良かったと思う。
あと個人的には、「双子みたい」と評される七森と麦戸の関係がとても良かった。僕は別に、アセクシャルみたいな感じではないのだけど、それでも、七森と麦戸の関係が、異性との最上級の理想的な関係だなと思う。
いやー、これはとても良い映画だった。
「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」を観に行ってきました
ちょうど昨日の夜、僕が寝ようとしていた直前に、女友達からLINEが来た。「生きづらくてしんどい」という内容だ。さらに、「こんなマイナスな話は、周りの人を不快にするだけだからすいません」「休みの前の日なのにこんなことを言ってごめんなさい」みたいなことも書いてあった。僕は、「そういうのは出せそうな時に出しといた方がいいよ」みたいに言っている。
僕は割と、人からそういう話を聞く機会が多い。自分で言うのも何だが、話しやすいのだろう。というか僕は、意識的に「話しやすい雰囲気」を醸し出しているつもりだ。完全に、意識的にやっている。まあ、それが上手くいっているのだと思う。
ただ、僕にそういう話をしてくれる人に話を聞いてみると、なかなか話せる相手はいないようだ。まあそうだろう。誰かの「しんどい話」を、フラットに聞くのは案外難しい。
だから「ぬいぐるみに話しかける」というのは、ベストでとは言えないが、ベターな解決策だと感じた。ぬいサー(ぬいぐるみサークル)の面々は、「辛い話を誰かに聞いてもらうと、相手の気持ちを辛くしてしまう。だからぬいぐるみに聞いてもらうんだ」と言っている。
ホント、絶妙な設定だと思う。
とにかくこの映画に対しては、随所で「絶妙」と感じた。何もかもが「絶妙」だ。中でも、会話の「絶妙さ」には驚かされる。「沈黙」や「間」も含めて、ホントに見事なまでの「絶妙な会話」なのだ。僕にとっては実に心地よいこの会話の雰囲気を感じるだけでも、この映画に触れる価値があるなと思う。
映画を観ながら、僕が普段から考えていることを改めて実感させられる気がした。それは、「『マイノリティ』という言葉の『狭さ』」である。
一般的に「マイノリティ」という言葉は、恐らく、「『分かりやすい何か』を有している人」という意味で使われることが多いはずだ。「分かりやすい何か」というのは、「障害を持っている」「LGBTQである」などだ。語弊のないように書いておくが、別に「障害」「LGBTQ」のことを「分かりやすい」と評しているのではない。あくまでも、いわゆる「マジョリティ」が「『マイノリティ』という言葉」を使う際に、「障害」「LGBTQ」を「分かりやすい何か」と捉えているのではないか、というイメージでそう呼んでいる。
もちろん、そういう「分かりやすい何か」を有している人は「マイノリティ」に含めて良いだろう(ただ僕は、「マイノリティであるか否か」を決めるのは、最終的には「本人の気分」だと思っているので、そういう「分かりやすい何か」を有している人でも、気分がマイノリティじゃなければ、マイノリティではないと思っている)。
さて、一方、「マイノリティ」と呼ばれるべきは、決してそういう「分かりやすい何か」を持っている人だけではない。そしてまさにこの映画は、そういう人たちを描き出していると言っていい。
映画には、ぬいサーのメンバーとして7人の人物が登場するが、その中で、「分かりやすい何か」を持っていると言えるのは1人だけだと思う(少なくとも、観客視点からはそうだ)。それ以外の人たちは、「分かりやすい何か」を持たない。しかし、彼らは間違いなく「マイノリティ」と呼んでいい人たちだと思う。
しかし、いわゆる「マジョリティ」の人たちが「マイノリティ」を思い浮かべる時、彼らの存在は思い浮かびもしないと思う。シンプルに、認識できない。「障害」や「LGBTQ」は、概念が言語化されているからまだ捉えられるが、映画の中のぬいサーメンバーの「マイノリティさ」は、広く知られる形では言語化されていないので、「マジョリティ」の人たちには理解できないのだ。
この映画では、ぬいサーという「マジョリティ」から意識的に距離を置いているサークルを舞台に展開するにも拘わらず、きちんと「マジョリティ」視点が入り込む。そのキーパーソンが白城ゆいである。
正直この物語は、彼女の存在で成立していると言っていいだろうと感じた。
白城は、ぬいサーに所属しながら、学内唯一のイベントサークルにも所属している。白城はそのイベサーについて、「セクハラまがいのことも多い」と表現していた。「大学生のマジョリティ」をステレオタイプに想像する時に思い浮かぶような人・集団だと考えていいだろう。
白城については、正直映画の中でそこまで深掘りされない(客観的な立ち位置でいることが重要な役割だったため)ので、彼女がどのようなマインドの人なのかを掴むのは難しい。ただ、事実として彼女は、「ザ・マジョリティであるイベサーと、ザ・マイノリティであるぬいサーのどちらにも馴染むことができる」。両者の視点を持ちうる存在だというわけだ。
そんな彼女が、主人公・七森に聞かれる形で、「どうしてセクハラまがいのイベサーに所属しているのか」に答える場面がある。彼女の返答は要するに、「世の中は安心できる場所の方が少ないんだから、ぬいサーみたいな場所だけにいたら弱くなってしまう」という内容だった。
この視点は、映画全体のテーマを捉える上で、非常に重要なものと言える。いつものことながら、映画の内容についてまったく調べないまま観に行ったこともあって、「そういう話になっていくのか」と驚いたし、そしてこの要素が、男女問わず、観客全員がこの映画世界の「関係者」として引きずり込まれることを意味することになる。
映画後半の話についてあまり触れないようにするのだが(印象的なセリフはとても多いのだが、あまり書きすぎないように注意しようと思う)、「あー、それはメチャクチャ分かる」と感じた場面がある。
【でも結局のところ、傷つきたくて傷ついてるだけなんじゃないかって思うんだ。傷ついている自分は、加害者じゃないって思い込みたいだけなんじゃないかって】
この「ズルさ」は、僕の中にもちゃんとあるなぁ、と思った。僕は割と早い段階でその「ズルさ」に気づいていたので、この映画を観て「痛いところを突かれた」みたいには思わなかったが、その「ズルさ」に気づいていない人は「うっ」と感じてしまうかもしれない。そしてこのセリフの後に続く、「それに僕は○○だから…」という話は、僕も割と普段から気をつけているつもりだ。「○○として生きている」というだけで、避けようがない「メタ的な意味」が自分に付随してしまっていることに、気づいていない人がとても多い。そのことが、社会のあちこちで齟齬として浮き彫りになっている状況が山ほどあって、そういう現実にうんざりすることが多い。しかし、「どうせ僕も○○だしな」という感覚は、ずっと頭の片隅のどこかにはある。
色んなことをぼやかして書くので意味が通じないと思うが、ある場面でこんなセリフが出てくる。
【みんな笑いながらそういう話をするんだよ。真剣に話せない空気があるっていうか】
最近、このことを実感する機会があった。僕自身の話ではないので具体的には書かないが、やはりその人も「その時にはヘラへラしてしまった」と言っていたし、後から振り返ってそんな自分に嫌気が差しているようだった。「それに僕は○○だから…」という言葉は、「そういう社会になってしまっている遠因としての自分」を責めるものだ。そしてやはり僕は、良い悪いという話ではなく、「そのことで自分のことを責められる方が、そのことにまったく気づいていない人よりも遥かに真っ当だ」と感じる。
恐らく、世の中的には、このぬいサーの面々は「奇妙な人」に映るだろう。しかし僕の目には、ぬいサーの面々の方が、社会の大多数の人よりも「真っ当な人」に見える。
こんな場面も印象的だった。ぬいサーの中で、唯一「分かりやすい何か」を持つ人物が、その「何か」をサラッと口にした時のことについて、こんな風に語る場面があった。
【その場の言葉遣いが制約されたような感じがあった。「私は尊重してますよ」みたいな空気を出すの。なんか「自分自身」として見られていないような感じだった】
この感覚も凄くよく分かる。僕は別に「分かりやすい何か」を持つ人ではないのだけど、「マジョリティ側ではないこと」をさりげなく示すためのエピソードストックはそれなりに持っている。そして、そういう話をしてみた時に、「言葉遣いが制約されたような感じ」を感じることは確かにある。もっと明け透けに言えば、「地雷を踏むわけにはいかない」という緊張感みたいな感じだろうか。そういう雰囲気が出てしまっている時点で、既に地雷は踏まれているのだけど、マジョリティは地雷を踏んだという事実に気づいていない。そういう雰囲気は、やはり強い違和感として残る。
その違和感は、こんなセリフがよく言い表しているだろう。
【ヤなこと言うヤツは、もっとヤなヤツであってくれ】
これもホント絶妙なセリフだなぁ、と感じた。「今地雷を踏んだ」という事実に気づかないような「鈍感さ」が、「ごく当たり前に生きる普通の人々」に内蔵されているから、普段の振る舞いからその「鈍感さ」を見抜けない、という話だ。そういう人たちが「マジョリティ」であるという事実こそが、「マイノリティ」にとっての「生きづらさ」の根源だったりもするのだ。
こんな風に僕は、この映画が全体的に描こうとしている「何か」にメチャクチャ共感できてしまう。「原作者とか監督・脚本家とめっちゃ喋りてー」と感じるぐらいだ。
映画の中では、「優しさ」について様々な言及がなされるが、僕にとって「優しさ」というのは、「『僕には優しく振る舞わなくていい』と相手が感じられるように振る舞うこと」みたいな感覚がある。まさにそれは、「ぬいサーにおけるぬいぐるみの性質」と同じようなものだと言っていいかもしれない。
どうやったら「僕には優しく振る舞わなくていい」と相手が感じてくれるかは、人それぞれ違う。だから、「優しさの発露の仕方」もまったく違うものになっていると思う。ただ世の中には、「優しさ」という「形の定まった何か」が存在して、それを相手に示したり投げつけたりすることが「優しさ」である、みたいな感覚を持っている人がいるように思う。
確かにそれは、とても分かりやすい。「これこれの振る舞いをしてくれたら『優しい』、してくれなかったら『優しくない』」と簡単に判定できるからだ。しかし僕は、そんな解像度の低い捉え方が許せない。同じ行為が、ある人には「優しさ」として受け取られ、別の人にはそうは受け取られないなって、当たり前に起こることだ。
そして、そういうことが分かりすぎること分かっているからこそ、ぬいサーの面々は、イヤホンを付け、ぬいぐるみに話しかける。やはりそれは、「真っ当さ」であるように僕には感じられるのである。
実に良い映画だった。
映画全体の話を少しすると、とにかく「違和感を覚えるぐらい、ストーリーがスパスパ飛んでいく」という形式が印象的だった。重要なシーンが編集でごっそり抜けちゃってるんじゃないかと思うぐらい、いきなり唐突に状況が変わっている、みたいなことが、特に前半は結構多かった。その欠落が、後々説明されるわけだが、個人的には、そういう「違和感」も、映画全体の雰囲気に合っていて良かったと思う。
あと個人的には、「双子みたい」と評される七森と麦戸の関係がとても良かった。僕は別に、アセクシャルみたいな感じではないのだけど、それでも、七森と麦戸の関係が、異性との最上級の理想的な関係だなと思う。
いやー、これはとても良い映画だった。
「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」を観に行ってきました
「聖地には蜘蛛が巣を張る」を観に行ってきました
非常にモヤモヤする映画だった。
この「モヤモヤ」には、色んな意味がある。
まず、「なんともしっくり来ない」という感覚だ。これは決して、悪い意味ではない。物語の評価において、「分かりやすさ」を重視する人間ではないので、「分かりにくい」「なんだか分からない」という内容であることは別に問題ない。
しかし、その「しっくり来なさ」が、どこからやってくるのかを上手く捉えきれないことに、なんだかモヤモヤする。
映画は、イスラム教の聖地マシュハドが舞台となる。そこで実際に起こった、16人の娼婦が殺された事件に着想を得た物語である。
つまり、このモヤモヤが「イスラム教の理解出来なさ」から生まれている、という可能性がある。その場合、イスラム教に対する知識を増やす以外に手立てはない。
しかし、本当にそうなんだろうか、と思う。そんな、「イスラム教だから」みたいな狭い捉え方をして良い作品であるように思えない。しかし、じゃあ何が自分をモヤモヤさせるのか、というのが、なんとも捉えられないのだ。
さて、こんなモヤモヤもある。それは、犯人が逮捕された後で描かれる。
この映画は、「捜査側」と「犯人側」が同時に描かれる作品であり、観客視点では犯人が誰なのかは早い段階で分かる。「犯人が誰か」は、物語のポイントではない。この映画では、色んな部分に焦点が当たるが、その1つが「犯人が逮捕された後」にある。
なんと民衆の多くが、この連続娼婦殺人犯を支持し、「無罪」にするよう運動を始めるのだ。
これは実に「モヤモヤ」させられる展開だった。
ここで最も重要になるのが、「イスラム教の聖地である」という事実だ。つまり、人々の間で、「聖地に娼婦は相応しくない」という考えがかなり多勢だということだ。
もちろん決して全員ではないのだが、少なくともこの映画では、「そのような声がかなり大きい」という描かれ方がしている。犯人自身も、「使命感でやった」「(殺す時に快感を得ていたのかと聞かれ)浄化の喜びだけだ」と答えている。映画を観るだけでは、「犯人が心の底から本当にそう考えているのか」ははっきり分かるわけではないのだが、恐らく監督はそのような意図をもってこの映画を作ったのではないかという気がする。
イスラム教の戒律(と呼ぶので合ってるのか分からないけど)について詳しいわけではないが、やはりそれらは西洋・東洋のものとはかなり異なるだろう。僕の感覚では、よほど狂気的な環境でない限り、「連続殺人犯が英雄視される」という状況は想像しにくい。しかし、「イスラム教であること」「聖地であること」という状況が、恐らくその「特異さ」を生み出しているのだろう。
その感覚の「馴染めなさ」に対しても、非常に強く「モヤモヤ」を感じてしまった。
そしてやはり、最大のモヤモヤは、主人公である女性ジャーナリストが直面する様々な現実である。
公式HP観て初めて知ったが、主人公ラヒミを演じた女優ザーラ・アミール・エブラヒミは、「第三者による私的なセックステープの流出によってスキャンダルの被害者となり、2008年、国民的女優として成功を収めていたイランからフランスへの亡命を余儀なくされた」そうだ。そして、ラヒミもまた、同じような経歴を持っている。映画の中ではほんの僅かしか語られないが、ラヒミもまた、自身に非がないスキャンダルのせいで新聞社をクビになっているのだ。
また彼女はある場面で、公権力を持つ人物から襲われそうになる。その人物が何を意図してそんな行動を取ったのか謎すぎるが、やはりこれは、ラヒミが女性であることから来るものだろう。
ラヒミは警察にも判事にも臆することなく質問を浴びせかける人物であり、知性と行動力がとても高い。一方、作中人物の言葉を借りるなら、マシュハドの娼婦は「薄汚い薬物常習者で、殺されても仕方がないロクデナシ」なのである。彼女たちには一見、共通項は無さそうだ。しかしながら、恐らくラヒミは、「自分も『娼婦』のような扱われ方をしている」という感覚を強く持っていたのではないかと思う。恐らくそのことが彼女の、この事件の取材に懸ける想いの強さに繋がっているのではないかと感じた。
日本も男女の不平等がかなり酷い国だとは思うが、映画の舞台となるイランはさらに酷いだろう。冒頭、ラヒミがホテルのチェックインをしようとすると(彼女はマシュハドとは別の地域に住んでいるっぽく、事件取材のために一時的にマシュハドに滞在するようだ)、既に予約済みであるにも拘わらず、「未婚で1人で宿泊」ということで一旦断られる。そこで彼女がジャーナリストのIDを提示すると、一転宿泊が許可されたが、それでも「(ヒジャブで)髪を隠して」とうるさく言われる。聖地ということもあるのだろうが、「道徳警察」の目が厳しいのだそうだ。
また、これはどの国でも大差はないのかもしれないが、「娼婦」ばかりを批判し、「娼婦を買う男」はまったく批判の対象にならない。少なくともこの映画では、そのように描かれている。仮に「娼婦」の存在が悪いのだとすれば、その娼婦を買う男だって同等に悪いとされてもいいはずだが、そこはやはり非対称になる。
確かに、「連続娼婦殺人事件」は、「犯人逮捕」によって「幕を閉じた」という状態にはなった。しかしそれは結局、「臭いものに蓋をした」という程度の話でしかない。本質的には何も変わっていないし、どころか、最後の映像(それが何かはここには書かないが、フィクションだと分かっていてもその異常さが際立つ驚愕の映像である)は「これで終わりではない」という現実を示唆しもするだろう。
新たな「連続娼婦殺人事件」が起こるかどうかが問題なのではない。そうではなく、「イスラム教に則った生活をしない人間は、どう扱われても仕方ない」という根本的な問題が今もずっと横たわっているということなのだ。それは、統一教会やエホバの証人などで二世信者の問題が取り沙汰されたように、決して「対岸の火事」ではない。
イスラム教に則った生活をすれば、必然的に女性は地位が低いままだ。それをどうにかしようと(まさにラヒミはそのような存在として描かれているのだと思う)奮闘すればするほど、イスラム教の教えから外れることになり、それはつまり、「娼婦的」な見られ方をされてしまうことを意味する。そうなれば、「殺されても仕方ない」という扱いになってしまうだけだ。
「ジャーナリスト」と「娼婦」という、対極とも言うべき存在を「同列」のものとして扱うような圧力が働いているという現実そのものを圧縮して閉じ込めたような作品であり、「連続娼婦殺人事件」という目立つテーマ以上の奥行きを感じさせる作品だった。
「聖地には蜘蛛が巣を張る」を観に行ってきました
この「モヤモヤ」には、色んな意味がある。
まず、「なんともしっくり来ない」という感覚だ。これは決して、悪い意味ではない。物語の評価において、「分かりやすさ」を重視する人間ではないので、「分かりにくい」「なんだか分からない」という内容であることは別に問題ない。
しかし、その「しっくり来なさ」が、どこからやってくるのかを上手く捉えきれないことに、なんだかモヤモヤする。
映画は、イスラム教の聖地マシュハドが舞台となる。そこで実際に起こった、16人の娼婦が殺された事件に着想を得た物語である。
つまり、このモヤモヤが「イスラム教の理解出来なさ」から生まれている、という可能性がある。その場合、イスラム教に対する知識を増やす以外に手立てはない。
しかし、本当にそうなんだろうか、と思う。そんな、「イスラム教だから」みたいな狭い捉え方をして良い作品であるように思えない。しかし、じゃあ何が自分をモヤモヤさせるのか、というのが、なんとも捉えられないのだ。
さて、こんなモヤモヤもある。それは、犯人が逮捕された後で描かれる。
この映画は、「捜査側」と「犯人側」が同時に描かれる作品であり、観客視点では犯人が誰なのかは早い段階で分かる。「犯人が誰か」は、物語のポイントではない。この映画では、色んな部分に焦点が当たるが、その1つが「犯人が逮捕された後」にある。
なんと民衆の多くが、この連続娼婦殺人犯を支持し、「無罪」にするよう運動を始めるのだ。
これは実に「モヤモヤ」させられる展開だった。
ここで最も重要になるのが、「イスラム教の聖地である」という事実だ。つまり、人々の間で、「聖地に娼婦は相応しくない」という考えがかなり多勢だということだ。
もちろん決して全員ではないのだが、少なくともこの映画では、「そのような声がかなり大きい」という描かれ方がしている。犯人自身も、「使命感でやった」「(殺す時に快感を得ていたのかと聞かれ)浄化の喜びだけだ」と答えている。映画を観るだけでは、「犯人が心の底から本当にそう考えているのか」ははっきり分かるわけではないのだが、恐らく監督はそのような意図をもってこの映画を作ったのではないかという気がする。
イスラム教の戒律(と呼ぶので合ってるのか分からないけど)について詳しいわけではないが、やはりそれらは西洋・東洋のものとはかなり異なるだろう。僕の感覚では、よほど狂気的な環境でない限り、「連続殺人犯が英雄視される」という状況は想像しにくい。しかし、「イスラム教であること」「聖地であること」という状況が、恐らくその「特異さ」を生み出しているのだろう。
その感覚の「馴染めなさ」に対しても、非常に強く「モヤモヤ」を感じてしまった。
そしてやはり、最大のモヤモヤは、主人公である女性ジャーナリストが直面する様々な現実である。
公式HP観て初めて知ったが、主人公ラヒミを演じた女優ザーラ・アミール・エブラヒミは、「第三者による私的なセックステープの流出によってスキャンダルの被害者となり、2008年、国民的女優として成功を収めていたイランからフランスへの亡命を余儀なくされた」そうだ。そして、ラヒミもまた、同じような経歴を持っている。映画の中ではほんの僅かしか語られないが、ラヒミもまた、自身に非がないスキャンダルのせいで新聞社をクビになっているのだ。
また彼女はある場面で、公権力を持つ人物から襲われそうになる。その人物が何を意図してそんな行動を取ったのか謎すぎるが、やはりこれは、ラヒミが女性であることから来るものだろう。
ラヒミは警察にも判事にも臆することなく質問を浴びせかける人物であり、知性と行動力がとても高い。一方、作中人物の言葉を借りるなら、マシュハドの娼婦は「薄汚い薬物常習者で、殺されても仕方がないロクデナシ」なのである。彼女たちには一見、共通項は無さそうだ。しかしながら、恐らくラヒミは、「自分も『娼婦』のような扱われ方をしている」という感覚を強く持っていたのではないかと思う。恐らくそのことが彼女の、この事件の取材に懸ける想いの強さに繋がっているのではないかと感じた。
日本も男女の不平等がかなり酷い国だとは思うが、映画の舞台となるイランはさらに酷いだろう。冒頭、ラヒミがホテルのチェックインをしようとすると(彼女はマシュハドとは別の地域に住んでいるっぽく、事件取材のために一時的にマシュハドに滞在するようだ)、既に予約済みであるにも拘わらず、「未婚で1人で宿泊」ということで一旦断られる。そこで彼女がジャーナリストのIDを提示すると、一転宿泊が許可されたが、それでも「(ヒジャブで)髪を隠して」とうるさく言われる。聖地ということもあるのだろうが、「道徳警察」の目が厳しいのだそうだ。
また、これはどの国でも大差はないのかもしれないが、「娼婦」ばかりを批判し、「娼婦を買う男」はまったく批判の対象にならない。少なくともこの映画では、そのように描かれている。仮に「娼婦」の存在が悪いのだとすれば、その娼婦を買う男だって同等に悪いとされてもいいはずだが、そこはやはり非対称になる。
確かに、「連続娼婦殺人事件」は、「犯人逮捕」によって「幕を閉じた」という状態にはなった。しかしそれは結局、「臭いものに蓋をした」という程度の話でしかない。本質的には何も変わっていないし、どころか、最後の映像(それが何かはここには書かないが、フィクションだと分かっていてもその異常さが際立つ驚愕の映像である)は「これで終わりではない」という現実を示唆しもするだろう。
新たな「連続娼婦殺人事件」が起こるかどうかが問題なのではない。そうではなく、「イスラム教に則った生活をしない人間は、どう扱われても仕方ない」という根本的な問題が今もずっと横たわっているということなのだ。それは、統一教会やエホバの証人などで二世信者の問題が取り沙汰されたように、決して「対岸の火事」ではない。
イスラム教に則った生活をすれば、必然的に女性は地位が低いままだ。それをどうにかしようと(まさにラヒミはそのような存在として描かれているのだと思う)奮闘すればするほど、イスラム教の教えから外れることになり、それはつまり、「娼婦的」な見られ方をされてしまうことを意味する。そうなれば、「殺されても仕方ない」という扱いになってしまうだけだ。
「ジャーナリスト」と「娼婦」という、対極とも言うべき存在を「同列」のものとして扱うような圧力が働いているという現実そのものを圧縮して閉じ込めたような作品であり、「連続娼婦殺人事件」という目立つテーマ以上の奥行きを感じさせる作品だった。
「聖地には蜘蛛が巣を張る」を観に行ってきました
「ザ・ホエール」を観に行ってきました
いやー、こりゃあ変な話だなぁ。でも、なんとも惹かれてしまう。部屋から一歩も出ない主人公の5日間を、主人公の部屋の中だけで撮る異色の作品は、スパッとは割り切れない、なんとも言えない感覚をもたらす、実に奇妙な物語だった。
まずはざっくりと内容紹介から。
オンライン講師として、文章講座を教えているチャーリーは、体重272キロの巨漢である。Zoomを通じた授業では常に、カメラをオフにしている。彼は、テレビの前に置かれたソファからほとんど立ち上がれず、トイレや就寝などの際には歩行器を支えに歩くしかない。
ほとんど他人と関わりのないチャーリーだが、看護師のリズだけは、彼の日々の生活の面倒を見に毎日顔を見せてくれる。リズが何度病院に行くように諭しても、「保険に入っていない」「治療費が払い切れるはずがない」と、一向に病院に行こうとしない。リズも、チャーリーが病院に行かないだろうと分かっていてそう口にするのだが、一方で、そんなチャーリーがどうにか穏やかに日々を過ごせるようにと、彼女なりに色んなことを考えてチャーリーの世話をしている。チャーリーはそんなリズに対して何度も「申し訳ない」と呟くのだが、そんな言葉を聞きたくないリズは、「やめて」と口にして言わせないようにする。
チャーリーもリズも、チャーリーの死期が近いことははっきりと理解している。
リズ以外には、ドアの外から声を掛けてくれるピザ配達の男と、突然やってきたニューラーフの宣教師の若い男ぐらいしかいない日々に、突如若い女性がやってきた。彼女はエリー、チャーリーの娘だ。実に3年ぶりの再会である。
エリーはチャーリーにキツく当たる。しかし、落第しそうだという彼女が、チャーリーにエッセイの添削を頼んだことで、彼女との細い繋がりが残ることになった……。
というような話です。
観ながらずっと思ってたことは、「よくもまあこんなストーリーを映画にしようと考えたな」ということだ。公式HPを見ると、どうやら最初は舞台劇で上映されたそうだ。たしかに、ワンシチュエーションの設定は、舞台劇によく合っていると思う。
物語は、「なんだか分からない断片」が様々に積み重ねられるようにしてしばらく進んでいく。メルヴィル『白鯨』をテーマにしたエッセイ、終末論を語るカルトと見なされているニューライフの宣教師、関係性が不明なリズとチャーリー(公式HPの内容紹介ではその関係に触れられているが、この記事では書かないことにする)、観客がチャーリーに関する「ある事実」を知った上で登場する娘エリー、チャーリーがここまで巨漢になった背景などなど、分からないことだらけだ。
そしてそれらは、「それら同士の繋がりが明らかになった後」も、やはり観客に「モヤモヤ」をもたらすものである。なるほど、確かに「今眼の前で展開されているのがどのような状況なのか」は理解できた。しかし、その理解した内容は、やはり「おかしなもの」に感じられるというわけだ。
観客は次第に、チャーリーのみならず、チャーリーと関わる他の面々も「何か」を抱えているのだということが理解できるようになっていく。それぞれが抱えているものも、一言で「これ」と表現できるようなものではなく、結構ややこしい。そして、そういうややこしさが、「巨漢過ぎて外に出られないチャーリーの部屋」にひたすら溜め込まれていくことになる。
しかし、これが物語の奇妙な点でもあり面白い点でもあるのだが、その「メチャクチャ絡まりあったややこしさ」が、「絡まり合っているが故に奇跡的に解けていく」みたいな展開になっていく。恐らく、個別に対処しようとしたら、どれ1つとして解決に至らなかっただろう。しかしそれらが、有無を言わさず絡まり合い、もう何と何がどう絡まっているのかさえ分からない状態になったからこそ、ふとした瞬間にそれらすべてが一遍に解けていくみたいな「奇跡」が起こる、そんな物語だったと思う。
まあ、「奇跡」と呼んでいいような物語なのかは、なんとも言えないのだけど。
映画を観ながら、僕はずっとリズに気持ちが引っ張られることが多かった。そもそもチャーリーとリズの関係性が謎だったので、「何故ここまで献身的にチャーリーの世話ができるのか」とも感じたし、それは、2人の関係性が理解できてからも大きく変わりはしなかった。また、それとは別に、リズがチャーリーに関する「ある事実」を知ってしまってからの彼女の気持ちは、本当に想像が難しいと感じる。彼女自身、整理がつかなかっただろう。「私ってバカ」みたいなことを呟く場面から、そんな風に感じた。
リズがチャーリーとの関係に何を見出していたのか、それはなんとも分からないのだけど、部外者である僕が勝手に名前をつけるとしたら「共依存」みたいなことになってしまうのかもしれないと思う。リズが宣教師の若い男と外で話すシーンから、それを強く感じた。だからと言って、それが良いとも悪いともならないのだけど、とにかく登場人物の中で、リズに対してだけは「どうにか幸せになってほしいなぁ」と感じてしまった。
チャーリーに対しては、特に女性の観客がどう感じるのか興味がある。見た目は一旦置いておくとして、チャーリーの過去や、5日間の中でのエリーとの関わり方など、色んな意味でチャーリーは良い面も悪い面もある。女性が、それらを総合してチャーリーという存在をどう評価するのかは気になるところだ。もちろん、全面的に「良い」となるわけはないが、許容出来るのか出来ないのかという判断は気になる。
あと、シンプルに、宣教師の若い男は嫌いだなぁ。最初から最後まで嫌いだった。
「ザ・ホエール」を観に行ってきました
まずはざっくりと内容紹介から。
オンライン講師として、文章講座を教えているチャーリーは、体重272キロの巨漢である。Zoomを通じた授業では常に、カメラをオフにしている。彼は、テレビの前に置かれたソファからほとんど立ち上がれず、トイレや就寝などの際には歩行器を支えに歩くしかない。
ほとんど他人と関わりのないチャーリーだが、看護師のリズだけは、彼の日々の生活の面倒を見に毎日顔を見せてくれる。リズが何度病院に行くように諭しても、「保険に入っていない」「治療費が払い切れるはずがない」と、一向に病院に行こうとしない。リズも、チャーリーが病院に行かないだろうと分かっていてそう口にするのだが、一方で、そんなチャーリーがどうにか穏やかに日々を過ごせるようにと、彼女なりに色んなことを考えてチャーリーの世話をしている。チャーリーはそんなリズに対して何度も「申し訳ない」と呟くのだが、そんな言葉を聞きたくないリズは、「やめて」と口にして言わせないようにする。
チャーリーもリズも、チャーリーの死期が近いことははっきりと理解している。
リズ以外には、ドアの外から声を掛けてくれるピザ配達の男と、突然やってきたニューラーフの宣教師の若い男ぐらいしかいない日々に、突如若い女性がやってきた。彼女はエリー、チャーリーの娘だ。実に3年ぶりの再会である。
エリーはチャーリーにキツく当たる。しかし、落第しそうだという彼女が、チャーリーにエッセイの添削を頼んだことで、彼女との細い繋がりが残ることになった……。
というような話です。
観ながらずっと思ってたことは、「よくもまあこんなストーリーを映画にしようと考えたな」ということだ。公式HPを見ると、どうやら最初は舞台劇で上映されたそうだ。たしかに、ワンシチュエーションの設定は、舞台劇によく合っていると思う。
物語は、「なんだか分からない断片」が様々に積み重ねられるようにしてしばらく進んでいく。メルヴィル『白鯨』をテーマにしたエッセイ、終末論を語るカルトと見なされているニューライフの宣教師、関係性が不明なリズとチャーリー(公式HPの内容紹介ではその関係に触れられているが、この記事では書かないことにする)、観客がチャーリーに関する「ある事実」を知った上で登場する娘エリー、チャーリーがここまで巨漢になった背景などなど、分からないことだらけだ。
そしてそれらは、「それら同士の繋がりが明らかになった後」も、やはり観客に「モヤモヤ」をもたらすものである。なるほど、確かに「今眼の前で展開されているのがどのような状況なのか」は理解できた。しかし、その理解した内容は、やはり「おかしなもの」に感じられるというわけだ。
観客は次第に、チャーリーのみならず、チャーリーと関わる他の面々も「何か」を抱えているのだということが理解できるようになっていく。それぞれが抱えているものも、一言で「これ」と表現できるようなものではなく、結構ややこしい。そして、そういうややこしさが、「巨漢過ぎて外に出られないチャーリーの部屋」にひたすら溜め込まれていくことになる。
しかし、これが物語の奇妙な点でもあり面白い点でもあるのだが、その「メチャクチャ絡まりあったややこしさ」が、「絡まり合っているが故に奇跡的に解けていく」みたいな展開になっていく。恐らく、個別に対処しようとしたら、どれ1つとして解決に至らなかっただろう。しかしそれらが、有無を言わさず絡まり合い、もう何と何がどう絡まっているのかさえ分からない状態になったからこそ、ふとした瞬間にそれらすべてが一遍に解けていくみたいな「奇跡」が起こる、そんな物語だったと思う。
まあ、「奇跡」と呼んでいいような物語なのかは、なんとも言えないのだけど。
映画を観ながら、僕はずっとリズに気持ちが引っ張られることが多かった。そもそもチャーリーとリズの関係性が謎だったので、「何故ここまで献身的にチャーリーの世話ができるのか」とも感じたし、それは、2人の関係性が理解できてからも大きく変わりはしなかった。また、それとは別に、リズがチャーリーに関する「ある事実」を知ってしまってからの彼女の気持ちは、本当に想像が難しいと感じる。彼女自身、整理がつかなかっただろう。「私ってバカ」みたいなことを呟く場面から、そんな風に感じた。
リズがチャーリーとの関係に何を見出していたのか、それはなんとも分からないのだけど、部外者である僕が勝手に名前をつけるとしたら「共依存」みたいなことになってしまうのかもしれないと思う。リズが宣教師の若い男と外で話すシーンから、それを強く感じた。だからと言って、それが良いとも悪いともならないのだけど、とにかく登場人物の中で、リズに対してだけは「どうにか幸せになってほしいなぁ」と感じてしまった。
チャーリーに対しては、特に女性の観客がどう感じるのか興味がある。見た目は一旦置いておくとして、チャーリーの過去や、5日間の中でのエリーとの関わり方など、色んな意味でチャーリーは良い面も悪い面もある。女性が、それらを総合してチャーリーという存在をどう評価するのかは気になるところだ。もちろん、全面的に「良い」となるわけはないが、許容出来るのか出来ないのかという判断は気になる。
あと、シンプルに、宣教師の若い男は嫌いだなぁ。最初から最後まで嫌いだった。
「ザ・ホエール」を観に行ってきました
「サイドバイサイド 隣にいる人」を観に行ってきました
僕は基本的に、「家族」という既存の括り方をナチュラルにぶっ壊していくような関係性が大好きなので、そういう意味で、莉子(齋藤飛鳥)が出てきてからのストーリーはなかなか面白かった。
まあ、単純に齋藤飛鳥が好きだってのもあるんだけど。
先に書いておくと、ストーリーは正直よく分からなかった。ただ、作品全体の雰囲気は良かったと思う。そして、その「なんとも言えない雰囲気」を、坂口健太郎・市川実日子・齋藤飛鳥が絶妙に「成立させている」感じがする。他にも合うキャスティングはあるかもしれないけど、少なくともこの3人は、この作品世界には見事に合うキャスティングだったなぁ、と思う。そこはとにかくお見事でした。
少しだけ、「家族」の話を。
僕はとにかく、「恋人なんだから」「友達だったらさぁ」「家族でしょ」みたいな言葉が嫌いすぎる。心の底から、「そんなことどうだっていい」と思っているのだ。
そんなこと言わずに、「私はそうしてほしくない」「俺はこんな風にしてほしい」って言えばいいのに、どうしてか「関係性の名前」を盾にとって、「そうしないお前が悪い」と相手のせいにしたがる風潮があるよなぁ、と思う。
そして、その謎の「圧力」は、「家族」という関係性に対して一番感じる。僕は、当時はそこまで言語化出来ていなかったものの、それこそ小学生ぐらいの頃からずっと、そういう「違和感」を感じ続けてきた。
だから、この映画で描かれる「家族」は、割と僕にとっては理想だ。こう書くと誤解されそうだけど、別に僕は未山の立場に立って「理想」と言っているのではない。そりゃあ、未山からすれば理想だろう(感じ方は人によって違うかもだが)。「イマカノとモトカノの両方と一緒に暮らしている」のだから。
しかし僕は、未山の立場だけではなく、詩織・莉子・美々、どの立場からでも、「この『家族』は羨ましい」と感じられる自信がある。
「家族」という重力から軽々と解き放たれたこんな関係性が、何らかの形で僕の身近でも実現するといいなと思う。そして、「家族」という呪縛に「囚われている」という自覚もないまま生きているすべての人に、こういう可能性も存在することを理解してもらえたらいいなと思う。
内容に入ろうと思います。
未山は、「存在しないものが視える」という性質がある。その力を活かし、何か困りごとがある人の身体を触ってはアドバイスするような生活をしている。恋人の詩織は看護師として働くシングルマザーであり、未山は主夫みたいな形で一人娘である美々の面倒を見るなどしている。散歩途中で農家の人からじゃがいもをもらったり、失踪した牛を牛舎に連れ戻したりと、静かで穏やかな生活をしている。
しかしそんな彼はしばらく前から、自分の身に「存在しないもの」がまとわりついていることに気づく。そして彼は、その存在を辿ることによって、かつての恋人・莉子と再会を果たすことになる。
真っ黒の服を来て、白いものしか食べない妊婦の莉子を連れて帰った未山。当然、詩織との関係は終わりになると思っていた。しかし、未山の家を訪れた詩織は思いがけない提案をし……。
というような話です。
とにかく極端に説明の少ない作品で、僕の体感では、最初の1時間ぐらいはほぼなんの説明もなく話が進む。だから初めは、未山と詩織が結婚していて、美々はその娘なんだと思ってたし、未山の後ろをついて歩く男が何者なのかまったく分からなかったし、とにかく何も分からなかった。「なんだか分からないけど、これがここからどうなるんだろう」という興味だけで観ていた感じだ(映像は全体的にキレイなのだけど、ビジュアル的なものにあまり興味のない僕としては、その点にはあんまり惹かれなかった)。
で、莉子が出てくるちょっと前ぐらいから、ようやく色んな背景が理解できるようになってきて、さらに莉子が加わることで「謎の関係性」が成立することになったこともあって、僕としてはちょっと面白くなってきたぞ、という感じで見れた。
さっきも書いたけど、やっぱり坂口健太郎・市川実日子・齋藤飛鳥っていうキャスティングは絶妙だなと思う。特に、贔屓目はあるにせよ、莉子というキャラクターを成立させられる人はあまりいないだろう。莉子が発する「よく分からなさ」みたいなものは、普通であれば「現実味」からどんどんと離れていってしまうような性質だと思うのだけど、齋藤飛鳥は莉子という存在を割とナチュラルに成立させられる存在だと感じる。
坂口健太郎も市川実日子も、この奇妙な関係性を受け入れそうだなと感じさせる何かのある人で、だから、この訳の分からない物語がギリギリのところで成立しているんだろうな、という気がする。
とにかく、未山・詩織・莉子・美々という4人の関係性は、その異常さに反比例するように穏やかなものであり、僕が思う「他者との関係性の1つの理想」だなと感じた。こういう関係性を「異常」だと感じなくてもいいような世の中になってくれたらいいなと思う。
「サイドバイサイド 隣にいる人」を観に行ってきました
まあ、単純に齋藤飛鳥が好きだってのもあるんだけど。
先に書いておくと、ストーリーは正直よく分からなかった。ただ、作品全体の雰囲気は良かったと思う。そして、その「なんとも言えない雰囲気」を、坂口健太郎・市川実日子・齋藤飛鳥が絶妙に「成立させている」感じがする。他にも合うキャスティングはあるかもしれないけど、少なくともこの3人は、この作品世界には見事に合うキャスティングだったなぁ、と思う。そこはとにかくお見事でした。
少しだけ、「家族」の話を。
僕はとにかく、「恋人なんだから」「友達だったらさぁ」「家族でしょ」みたいな言葉が嫌いすぎる。心の底から、「そんなことどうだっていい」と思っているのだ。
そんなこと言わずに、「私はそうしてほしくない」「俺はこんな風にしてほしい」って言えばいいのに、どうしてか「関係性の名前」を盾にとって、「そうしないお前が悪い」と相手のせいにしたがる風潮があるよなぁ、と思う。
そして、その謎の「圧力」は、「家族」という関係性に対して一番感じる。僕は、当時はそこまで言語化出来ていなかったものの、それこそ小学生ぐらいの頃からずっと、そういう「違和感」を感じ続けてきた。
だから、この映画で描かれる「家族」は、割と僕にとっては理想だ。こう書くと誤解されそうだけど、別に僕は未山の立場に立って「理想」と言っているのではない。そりゃあ、未山からすれば理想だろう(感じ方は人によって違うかもだが)。「イマカノとモトカノの両方と一緒に暮らしている」のだから。
しかし僕は、未山の立場だけではなく、詩織・莉子・美々、どの立場からでも、「この『家族』は羨ましい」と感じられる自信がある。
「家族」という重力から軽々と解き放たれたこんな関係性が、何らかの形で僕の身近でも実現するといいなと思う。そして、「家族」という呪縛に「囚われている」という自覚もないまま生きているすべての人に、こういう可能性も存在することを理解してもらえたらいいなと思う。
内容に入ろうと思います。
未山は、「存在しないものが視える」という性質がある。その力を活かし、何か困りごとがある人の身体を触ってはアドバイスするような生活をしている。恋人の詩織は看護師として働くシングルマザーであり、未山は主夫みたいな形で一人娘である美々の面倒を見るなどしている。散歩途中で農家の人からじゃがいもをもらったり、失踪した牛を牛舎に連れ戻したりと、静かで穏やかな生活をしている。
しかしそんな彼はしばらく前から、自分の身に「存在しないもの」がまとわりついていることに気づく。そして彼は、その存在を辿ることによって、かつての恋人・莉子と再会を果たすことになる。
真っ黒の服を来て、白いものしか食べない妊婦の莉子を連れて帰った未山。当然、詩織との関係は終わりになると思っていた。しかし、未山の家を訪れた詩織は思いがけない提案をし……。
というような話です。
とにかく極端に説明の少ない作品で、僕の体感では、最初の1時間ぐらいはほぼなんの説明もなく話が進む。だから初めは、未山と詩織が結婚していて、美々はその娘なんだと思ってたし、未山の後ろをついて歩く男が何者なのかまったく分からなかったし、とにかく何も分からなかった。「なんだか分からないけど、これがここからどうなるんだろう」という興味だけで観ていた感じだ(映像は全体的にキレイなのだけど、ビジュアル的なものにあまり興味のない僕としては、その点にはあんまり惹かれなかった)。
で、莉子が出てくるちょっと前ぐらいから、ようやく色んな背景が理解できるようになってきて、さらに莉子が加わることで「謎の関係性」が成立することになったこともあって、僕としてはちょっと面白くなってきたぞ、という感じで見れた。
さっきも書いたけど、やっぱり坂口健太郎・市川実日子・齋藤飛鳥っていうキャスティングは絶妙だなと思う。特に、贔屓目はあるにせよ、莉子というキャラクターを成立させられる人はあまりいないだろう。莉子が発する「よく分からなさ」みたいなものは、普通であれば「現実味」からどんどんと離れていってしまうような性質だと思うのだけど、齋藤飛鳥は莉子という存在を割とナチュラルに成立させられる存在だと感じる。
坂口健太郎も市川実日子も、この奇妙な関係性を受け入れそうだなと感じさせる何かのある人で、だから、この訳の分からない物語がギリギリのところで成立しているんだろうな、という気がする。
とにかく、未山・詩織・莉子・美々という4人の関係性は、その異常さに反比例するように穏やかなものであり、僕が思う「他者との関係性の1つの理想」だなと感じた。こういう関係性を「異常」だと感じなくてもいいような世の中になってくれたらいいなと思う。
「サイドバイサイド 隣にいる人」を観に行ってきました