黒夜行

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「ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命」を観に行ってきました

正しいことをしたい、といつも思っている。

もちろん、正しいことだけでは生きていけないし、意識的に悪いことをすることだってある。ただ、いつも思っていることは、後から後悔するかもしれないような行動はしたくない、ということだ。

後悔をしたくないが故にチャレンジを避けるような生き方は、それはそれで嫌なものだが、あの時ああしておけば良かった、ああしなければ良かった、などと後から思うような行動は取りたくない、と思っている。

そういう時、いつも想像するのは、戦争のことだ。

僕は、戦争というものを直接的に体験したことはない。それがどんなもので、どれほど悲惨なものなのか、僕は想像すら出来ていないだろう。そんな僕が何を言っても、それは砂上の楼閣以上のなにものでもない。

とはいえ、イメージの中で僕は、戦争という時代の圧力に屈したくない、という気持ちを持っていたい、といつも思っている。戦争というのは人びとに、それまでとは真逆の価値観を押し付けるものだ。一変してしまった価値観に、屈さざるを得ないこともあるだろう。

それでも僕は、なんとかして、自分が正しいと感じる生き方を貫けたら、と思っている。

周りの価値観に従って流されて生きていく方が、もちろん簡単だ。しかし、そういう自分をなかなか許容できない性格であることももちろん理解している。信念、なんていうカッコイイ言葉を使うつもりはないのだけど、自分が正しいと思うことをする、あるいは間違っていると思うことをしない、という矜持は、出来るだけ持ち続けておきたいなと思っている。

内容に入ろうと思います。
ポーランド・ワルシャワで、動物園を営んでいたジャビンスキー夫妻は、広大な敷地で数多くの動物を飼育し、市民に親しまれていた。しかしワルシャワに、戦争の影が忍び寄る。ドイツ軍がポーランドを制圧したのだ。
空爆により壊滅的な被害を被った動物園は、ヒトラー直属の動物学者であるヘックの指示により、希少動物のみドイツ軍が引き取り、後は処分されることになった。悲しみに暮れるアントニーナとヤン。
彼らにはもう一つ、大きな問題があった。友人であり、ユダヤ人である女性の行き場がなかったのだ。アントニーナは、夫の反対を押し切って動物園内に彼女を匿うことを決断する。動物園はドイツ軍によって監視されているけど、一人くらいなら匿えるだろう。
しかしその後夫のヤンが、驚くべき話を持ってくる。ワルシャワでユダヤ人を救う活動をしているグループと接触したらしく、ユダヤ人たちが新たな隠れ家に行くまでの間だけ彼らを匿うことに決めたというのだ。アントニーナは、友人一人を匿うのとは訳が違うと言って反対したが、救える命は救いたいという想いを共有することとなった。
彼らは、ドイツ軍から“丸見え”状態である動物園にユダヤ人を連れてきて匿うために、巧妙な作戦を考えた。彼らは日々、ゲットーからユダヤ人を数人連れてきては地下に匿うという、長く続くことになる危険な活動をやり続けた…。
というような話です。

色んな映画を観ますけど、やはり「実話(というか、実話に基づいた話)」の強さにいつも打たれます。僕が冒頭で書いたように、彼女たちも「正しいことをしたい」という想いがあって、その中で様々な葛藤を繰り広げていくことになります。

『正しいことをしたい。その思いだけなのに、自分が嫌でたまらない』

ある場面でアントニーナはそう吐露します。

具体的な内容には触れませんが、アントニーナは、自分たちがやっているこの危険な活動のリスクを少しでも減らすために、とある行動を取ります。しかしその行動は、夫のヤンにとっては不快なものでした。アントニーナの言っていることも、ヤンの言っていることも、分からなくはありません。どちらが正しいとか間違っているとかではなくて、やはり戦争という状況が間違っているのだ、としか思えません。平時であれば、アントニーナはそんな行動を取る必要がないし、ヤンも存在しない行動を不快に感じることもありません。

映画の中で描かれる葛藤以外にも、様々な葛藤が彼らを襲ったことでしょう。彼らは結局その活動を、3~4年ぐらい続けたことになるはずです。延べ300人以上のユダヤ人が彼らの元で匿われ、ごく稀な例外を除き、全員の命が助かったようです。

戦争という辛い状況の中では、そうでありたいと思っていても正しい行動が取れなかった人もたくさんいることでしょう。そういう人たちを責めるつもりなど僕にはないし、そんな権利も当然ないと思っています。ただやはり、この夫妻のような、危険を冒してでも、自分たちに出来る限りの努力で正しさを貫いていく、という生き方は称賛したいと思うし、そういう事実をもっと知りたいと思います。

彼らは後に、「諸国民の中の正義の人」としてイスラエルからヤド・ヴァシェム賞を受賞したとのこと。終戦後、ワルシャワの人口は6%を切ったそうですが、彼らはまた動物園を再開し、現在でも営業を続けているとのことです。

難しいこともありますが、日々の生活の中でなんとか折り合いをつけながら、自分なりに正しい行動をし続けたいと、この映画を観て改めて感じました。

「ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命」を観に行ってきました

「スナッチ」を観ました

内容に入ろうと思います。
いくつかの物語が交錯して展開するのでなかなか紹介が難しいですが、大雑把に二つの物語が展開される。
一つは、裏社会を牛耳る男がやっている裏ボクシングの話。そこにボクサーを送り込むはずだった二人組は、ちょっとした手違いからボクサーが負傷、出られなくなってしまった。そのボクサーは、パイキーと呼ばれる集団の一人で素手ボクシングのチャンピオンである男にボコボコにされたのだけど、二人組はそのパイキーを裏ボクシングに出させようと画策する。しかし、賭け事である以上直前の変更は許されないと裏社会のボスから言われる。その流れで二人は、パイキーに4ラウンドで倒れろと、つまり八百長を指示してきた。
一方、銀行から盗まれた86カラットのダイヤを巡る物語も同時に進行していく。そのダイヤの売買を任された男が大の掛け狂いで、そこを突かれてダイヤを奪われてしまう。しかしそのダイヤは、色んな事情からいくつかの組織が追いかけていて、持ち主がコロコロと変わっていく。チンケな銀行強盗たち、元KGB、宝石商などが、ダイヤの行方を追うが…。
というような話です。

なかなかおもしろい話でした。登場人物が多くて、最初は状況の把握がかなり困難でしたが、大雑把に状況が理解できた後は、スピーディーな展開でトントンと進んでいく物語はなかなか面白く見ることが出来ました。

裏社会の話で、基本的にみんな(程度の差こそあれ)悪い奴らなんですけど、残虐なシーンもありつつ、かなりポップに描かれている感じがあって、残虐さが強調されているという印象はありませんでした。エンタメって感じの作品で、気楽に見るには良い映画だと思います。

「スナッチ」を観ました

「夜間もやってる保育園」を観に行ってきました

僕は結婚もしてないし子どもももちろんいないし、何らかの形で子育てに携わったこともないし、子どもはそもそも好きじゃないし、そんなわけで全然子育てについて語るのに相応しい人間ではない。ないんだけど、自分なりに世間の情報を見聞きしたり、時々子育てをしている人の話を聞いたりしながら考えることはある。

子育てにおける日本の困難さの根本原因は、子育てを取り巻く空気にある、と僕は感じている。

『生まれたばっかりですぐに子どもを預けてしまうのは、罪悪感がありました』

『やっぱり言われましたよ。子どもの一緒にいる時間が少なくなるのは可哀想だって、結構周りの人に』

映画の中で、夜間保育園に子どもを預けている親がそんな風に語る場面がちらほらある。実際に、僕が子育てをしている母親から話を聞いた時も、そんなようなことを言っていた。

また、ネットの記事なのでどこまでホントか分からないが、日本が保育園などに力を入れたがらないのは、政治家(高齢の男性)が、子育ては家でするものだ、という幻想を捨てられないからだ、と主張している人もいた。

こういう空気が、僕は日本での子育てを困難にしているのだと感じる。

僕は個人的には、保育園に子どもを預けることは良いことだと思っている。それは、共働きだろうがそうじゃなかろうが、夜働いていようがそうでなかろうが関係なしに、保育園という仕組みがそもそも子育てに必要ではないか、という立場だ。

何故なら、一昔前と違って、子どもが他者と接する機会が減ってきていると思うからだ。

昔は、兄弟が多かったり、三世代同居だったり、あるいは近所のコミュニティがちゃんとあったりで、家で子育てをしていても、両親以外の他者と自然と関わる機会があったはずだ、と僕は思っている(データがあるわけじゃないから、あくまでもイメージだけど)。そういう時代であれば、「他者と関わる場としての保育園」は不要だろう。

しかし現代は状況が大きく変わっている。核家族が進み、子どもも一人という家庭が多いのではないか。近所付き合いも濃密ではなくなり、それ故に、子どもが日常的に接するのが親だけ、という状況が生まれているのだと思っている。

そしてその状況は、子どもにとってとても悪いものだと思っている。確かに、母親と接する時間は大事だと思う。しかし、母親以外の他者と関わる時間だって同じくらい大事だ、と僕は思う。社会状況の変化によって、家庭での子育てのみでは他者との関わりが少なくなってしまった現代ならば、「他者と関わる場としての保育園」は非常に必要性が高いのではないか、と僕は考えている。

実際映画の中でも、そういう趣旨の発言をする人がいた。

『(農家なので)周りに同世代の子どもがなかなかいない。いれば保育園に預ける必要はないかなって思うんですけど、やっぱり他の子どもと触れ合う時間も大事だと思うので』

『遅くまで子どもを預けるなんて可哀想、ってやっぱり言われましたよ。でも、子どもの側から見たら、ここが生活の一部だし、友達もいるし、いつも楽しそうにしてる。卒園してからも、ここで働きたいなんて言うぐらいですから』

そうだろうなぁ、と思う。もちろん、保育園の環境にも依るだろうし、この映画で扱われている保育園は、全体の中でも恐らく「良い部類」の保育園だろうから、単純に捉えることは出来ないにせよ、やはり映画の中で映っていた子どもたちはみんな楽しそうだったし(そういう場面ばっかり切り取っているのだ、という可能性はあるにせよ)、同年代の子たちと関わっている姿は、家庭だけの子育てではなかなか得られにくいだろう、とも感じた。

空気、という意味で言えば、もう一つ感じることがある。それを的確に表現してくれていたのが、映画に登場した内閣官房統括官の方だ。この方は、自らの出身である地方の村での子育てにおける状況を語った後で、こんな風に言った。

『子どもを育てるということへの敬意が薄くなっているように感じることがあります』

それは、ニュースなんかを見ていても感じることだ。電車にベビーカーで来るなとか、幼稚園を近所に作るな、みたいな話が結構出てくる。そりゃあ、実際に迷惑を被っている人からすれば大変な状況ではあるんだろうけど、でもそういうのって、子どもを育てることに対する敬意がちゃんとあれば、まあしょうがないかという形で収まる話なんじゃないか、という気もします。子どもを育てることへの敬意が、一昔前はあったのかどうか僕には分からないけど(内閣官房統括官の方はあくまでも、自分の出身の村の昔の状況と、現在の日本の大雑把な状況を比較している)、現代ではそれが薄い、ということは間違いないだろうと思う。

そういう世の中にあって、保育園という存在は益々重要になってくるだろう。映画の中でも、「この保育園がなかったら、二人目は考えられなかった」と語る親もいた。子どもは欲しいけど、育てられるか分からないからという理由で躊躇してしまう人だっているだろう。そうなればなるほど、色んなことが苦しくなってくるだろうなぁ、と思う。

現在(確かデータは2016年のものと表記されてた気がする)、保育園(これが無認可も含むのか忘れてしまった)は2万ヶ所ぐらいあるのに対して、認可夜間保育園は80ヶ所しかないという。一方で、無認可のいわゆる「ベビーホテル」と呼ばれるところは全国で1749ヶ所あるという。

この映画では、そんなベビーホテルも取り上げられていた。必要性があるからこそ、1749ヶ所も存在するのだけど、認可がないから補助金はない。ベビーホテルの方の話だと、認可保育園だとキャバクラで働いている人は落とされてしまうという。そういう意味でも、ベビーホテルのような存在は必要とされている。

ニュースを見ていると、認可保育園でも問題があったりと、保育園を巡る様々な問題が取り上げられる。あるいは先日ネットで、「実は認可保育園に落ちたい母親が潜在的に多くいる」という記事を見かけて驚いたことがある。その記事によれば、認可保育園に落ちたという証明があれば、育休が伸ばせたりするらしい。だから、認可保育園に落ちたという証明をもらうために、敢えて入るつもりのない認可保育園に応募する親もいるらしい。そんなわけで、子育てを巡る問題や解決は、単純なものではなく、社会全体の色んな部分をひっくるめて考えなければならないことなんだと思うのだけど、こういう映画を見ると、そういう問題に目が向くようになって良いと思う。

この映画では、「エイビイシイ保育園(新宿)」「玉の子夜間保育園(沖縄)」「すいせい保育所(北海道)」「エンジェル児童療育保育園(新潟)」などが取り上げられる。それぞれが問題意識や使命感を持って夜間保育を担っていて、そこで働く人や、そこに預けている人の話を積み上げていきながら、現代の子育ての問題を浮き彫りにしようとする。

使命感ややりがいは大事だし、そういう人は素晴らしいと思う。けど、使命感ややりがいなど高いハードルを越えないと出来ないことは、なかなか広がっていかない。夜間保育も含め、子育てというものが、社会全体の努力によって、今よりももう少しハードルの低いものになればいいと、映画を見ながら感じた。

「夜間もやってる保育園」を観に行ってきました

「密偵」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
日本統治下にある朝鮮で、イ・ジョンチュルは通訳上がりの日本警察の警務として働いていた。当時、朝鮮の独立を掲げた抗日武装秘密結社である義烈団の活動が秘密裏に行われており、日本警察としては義烈団の動きを抑え、団長であるチョン・チュサンを捕らえることを至上命令としていた。
東部長の元で働いていたイ・ジョンチュルは、その語学力と独自の情報網を駆使して、義烈団のメンバーを追うが、なかなか決定的に捕まえることが出来ない。
ある時部長から、“橋本”(日本名ではあるが、朝鮮人)の男を組むように命じられる。お互いの情報は共有するように、と指示されたが、イも橋本もお互いを信用しない。互いのやり口を牽制し、それぞれが自らの正しさで捜査を進めようとする。
一方、義烈団の隊長を務めていたキム・ウジンは、商人として町に溶け込みながら、革命のための準備や情報戦の最前線にいた。情報漏れや資金難など課題は山積だが、メンバーの士気は高く、なんとか朝鮮の独立をと意気込んで活動に邁進している。
ある日イが、キムの営む写真店を訪れた。互いに牽制しながら、キムはイを「アニキ」と呼び、仲の良さをアピールするようになる。イも、キムが義烈団のメンバーであると認識しながら、それを知らせず、キムを動かして組織の壊滅を目論もうとする。
そんなある日、イにとって青天の霹靂とでも言うべき事態が起こり…。
というような話です。

全体的にはなかなか面白かったんですけど、とにかく最初の内は設定を理解するのが大変でした。調べると「義烈団」というのは実在したようです(歴史にはまったく詳しくないので、もしかしたら普通は学校で習うことなのかもですけど知りませんでした)。韓国では義烈団というのは恐らく誰もが知っている存在なのでしょう。この映画は韓国映画であるが故に、その辺りの詳細があまり詳しく描かれないまま話が展開されていきます。義烈団が何なのか、そもそもそこから知らない僕は、義烈団というのはどういう組織で、何と何が対立していて、誰がどちらの陣営なのか、みたいなことを理解しながら観るのにかなり苦労しました。

その辺りを大体理解できたら、後はスピーディーに展開する物語を楽しめるようになりました。そうなってくると、主人公のイ・ジョンチュルの葛藤が様々な形で浮き彫りになってきます。

内容を明かすことになってしまうので詳しくは書きませんが、イは様々な葛藤の中で目まぐるしく立場が入れ替わり、悩みながら行動していくことになります。義烈団、日本警察、そして朝鮮人という出自。どれもが彼の行動を制約し、苦しめる結果になります。イ自身は、恐らく善良な人間でしょう。というか、善良でありたいと願っている人間だと感じます。ただ、社会情勢や出自が、ただ善良であり続けることを許さない。その時その時で自分に与えられた役割をまっとうしながら、一人絶望的なまでの葛藤を飲み込んでいく姿は、なかなか迫ってくるものがありました。

だからこそ、イの最後の行動は、なんというか、個人的には受け入れてあげたい、という感じがしてしまいます。そう思うことは間違っているんでしょうけど。彼の最後の行動は、正しいか正しくないか、という判断基準ではなく、そうすべきか否か、という基準で選ばれたのだろうな、と思います。で、やるべきだ、と判断した。その決断をさせたものがなんだったのか、それは正直分かりません。分かりませんが、だからと言って納得感がないわけではありません。イの行動は、正しいかどうかではなく、すべきかどうかという観点から見れば、すべきだったと結論してしまっても仕方ないものに感じられます。いや、観る人によって感覚は変わるかもしれませんが、僕にはそう感じられました。

結局のところ、憎しみは何も生み出さないのだと感じる。憎しみを捨てきれないことは多々あるし、何も生み出さないと分かっていながらせざるを得ないこともあるのだろうけど、憎み合い続けることの不毛さみたいなものを感じました。この映画で描かれている状況は、日本側が憎み合いの口火を切っているわけで、「憎み合い続けることの不毛さ」などと言えるような立場ではないとは思うのだけど。

「密偵」を観に行ってきました

僕は君を殺せない(長谷川夕)

内容に入ろうと思います。
本書は、3篇の短編が収録された短編集です。

「僕は君を殺せない」
「おれ」と「僕」の物語が交錯する。「おれ」はかつて、とんでもない事件に巻き込まれていた。しかし、世間はその事件のことを知らない。「おれ」は運良く、その惨劇の舞台から生き延びたのだ。一方「僕」は、レイという名の同級生の女の子と良い関係にある。同棲しているとかではないが、レイは時々家にやってきてはご飯を作ってくれ、時々一緒に寝る。
交わりそうになり二つの物語が、徐々に折り重なっていく…

「Aさん」
かつて団地の一角に住んでいたAさんのことを思い出す。折れそうな痩躯、飼っていた痩せた犬、その犬に襲われそうになった記憶、Aさんの家の前にいた男の人、捨てられていた子犬…。

「春の遺書」
祖父が亡くなり、その直後、叔父が自殺した。その後、祖父の遺品の一部を受け取った私は、夜叔父の幽霊を見るようになった。ひたすらに仕事に打ち込み続けたという叔父は、一体何に未練があるというのだろうか…。

というような話です。

個人的には、うーん、なんともなぁ、という感じの作品でした。一番近い言葉を探せば、「甘い」となるでしょうか。全体的に、作品としてのシャープさが足りない気がしました。切れ味の悪いナイフで切ったような、という感じでしょうか。やりたいことは分からなくもないんだけど、ちょっと色々足りないような気がしました。表題作である「僕は君を殺せない」は、読みながら、なるほどそういう感じかぁ、ってなりましたけど、構成とか描写とか人物造形とか、全体的にちょっと甘い感じでした。もうちょいやれるだろう、と。

「Aさん」と「春の遺書」は、本作と関係ない形で読めばまた違ったかもしれないけど、「僕は君を殺せない」がちょっとなぁ、という感じだったので、正直、後の2篇を読みたい気分があまり盛り上がらなかった、ということがあります。作品として客観的に評価できていない感じがするので、あまりあれこれ書きませんが、こちらもやっぱり、もうちょっとなぁ、という感じがしました。

表紙が綺麗で印象的なので、中身もそれに相応しいものだと良かったんだけど、なかなかそうもいきませんでした。

長谷川夕「僕は君を殺せない」

義経暗殺(平谷美樹)

これはなかなか面白い物語だったなぁ。

歴史にはまったく詳しくないからうろ覚えなんだけど、源義経というのはなかなか色んな伝説がある人だったような気がする。確か、チンギス・ハーンの正体は源義経なんじゃないか、みたいな話もあったような気がする。いつどこで死んだのかが何かの記録に残っているのかどうか分からないのだけど、死んだとされているのが本当なのかどうか皆が疑問に思い、様々な伝説が残るほどには、色んなことがあった人物なのだろう。

さて、本書では、平泉(今の東北)で源義経が殺された!というところから物語が始まっていく。これが、何かの記録に残った史実なのかどうか、僕には分からない。ただ僕は、恐らくこれは著者の創作なのだろう、と思っている。どこで死んだんだかはっきりしないのだし、様々な資料とも矛盾しないのだから、平泉で義経が死んだことにして物語を組み立ててみよう―そういう物語なのだろうと思っている。

とはいえ、まったくの嘘っぱちでもないのだろう。僕には一切判断出来ないが、本書は概ね史実をベースにしているようだ。探偵役の清原実俊も実在の人物だったようだし、本書ではところどころ「吾妻鏡」からの引用がなされる。資料として残っている部分に関しては、恐らく忠実に歴史に則っているのだろう。

そう考えた時、平泉で源義経を殺す、という発想は、ミステリ的な観点から見ると実に面白い。というのも、平泉と源義経の関係は、なかなかに因縁深いからだ。以下、本書を読んで僕なりに理解した歴史的背景について書きますが、なにぶん歴史は無知なので、間違っていたらすいません。

本書の舞台は1187年だが、その当時平泉というのは、平泉藤原氏が治めている土地であり、100年近くに渡って戦乱のない平和な地だった。朝廷が力を持っている時代であり、平家を滅ぼした源頼朝が鎌倉で力を持ちつつあったが、それでも朝廷の頭越しに何かするのは難しい時代。平泉藤原氏は、そんな朝廷に多額の寄付的なことをすることで、源氏からの介入を阻止しようとしていた。源頼朝からすれば、平泉藤原氏は武家が治める国を作るに当たっての唯一の強大な勢力であり、いかにして平泉藤原氏を攻めるかが喫緊の課題である。
さて、そんな平泉に、源義経がやってきた。義経は、兄である頼朝に追われており、逃げ延びるために、義経が大恩を感じている平泉藤原氏三代秀衡のいる平泉にやってきたのだ。
この義経の存在が、平泉を二分してしまう。何故なら、平泉に義経がいることが、頼朝に平泉征伐の口実を与えてしまうことになるからだ。平泉の面々は、概ね二者択一を迫られることになる。義経を捕えて追い出すべきか、あるいは義経を総大将に据えて源氏を討ち取るべきか―。いずれにしても、100年続いた平泉の平穏は、義経によって乱されてしまう。

平泉と義経には、こういう関係性がある。だからこそ、平泉にいる誰が義経を殺してもおかしくはないのだ。義経が現れたせいで平泉が混乱に陥っているからだ。しかし事はそう単純でもない。義経が死んだら死んだで、そのこともまた頼朝に平泉征伐の口実になってしまうからだ。だから、単純に平泉の者の仕業であるとは言えない。

もちろん、義経は、兄である頼朝に追われて平泉入りしている。平泉には、鎌倉のスパイもたくさんいる。そいつらに殺された、という可能性も当然ある。また、義経と共に平泉にやってきた郎従たち(武蔵坊弁慶など)も、疑おうと思えば疑える。容疑者には事欠かないのだ。

さらに義経は、妻子を人質に取られて自刃させられたと見られている。この状況もまた、事件全体の構造を理解する壁となる。恨みに思って殺した、ということであればまだ理解しやすい。しかし今回は、義経に自刃を迫って何か得する人物を探し出さなければならないのだ。そこもさらに、謎を深める結果になっているのだ。

このように、平泉と義経が抱える政治的な問題が、義経の殺害犯を探し出す障壁となっていく。そしてそのことが、ミステリ的には非常に面白い構造を生み出しているのだ。状況がそもそも面白くて魅力的なのだ。

さらにそこに、切れ者の探偵役が登場する。清原実俊という、とんでもない記憶力を持った、本人曰く「日の本一頭の切れる男」である。数年前に読んだ書物を諳んじることが出来るほどであり、武力はからっきしだが、脳みそはピカイチだ。そして、口の悪さもピカイチと来ている。実俊にとっては目上の人間ばかりの状況だが、それでも臆せず傍若無人に振る舞い続ける姿はなかなか爽快だ。

歴史を舞台にした作品は苦手だが、本書の場合、舞台設定がなかなか魅力的なので、登場人物も多く、分量も多い物語なのに、なんだかんだ一気に読まされてしまった。面白い。

内容に入ろうと思います。
平泉之丁の大帳所(文書庫)の司である清原実俊は26歳、妻はない。恋の駆け引きをするくらいなら1巻でも多くの書物を読みたいという、変人である。そんな実俊に付き従うのは葛丸。女であるが諸事情あって男の格好をして、あちこちで問題ばかり振りまく実俊の後始末に追われる日々を喜々として楽しんでいる。
そんな実俊の元を、平泉藤原氏四代泰衡が訪れた。平泉のトップに対しても無礼な口の聞き方をする実俊だったが、泰衡はそんなことを気にかけはしなかった。彼の懸念はただ一つ。
源義経の死。
義経が、妻子と共に死体で発見されたと言う。泰衡は、その状況把握を実俊に依頼したのだ。状況からして、義経は自刃したようにしか見えない。しかし本当にそうなのか…。泰衡は、義経殺しの調査の全権を実俊に渡し、誰からも話を聞けるように、どんな場所にでも行けるように采配した。実俊も、弟で検非違使の実昌らと共に調査を開始するが…。
というような話です。

内容的には、ここまでの文章で大体触れてしまっているので、これ以上付け足すことはあまりないのだが、一点だけ。本書は、実俊と葛丸の関係性もなかなか読みどころの一つです。

実俊は口が悪いので、そのせいであっちこっちで諍いを起こす。それを絶妙なバランスで中和するのが葛丸の役割だ。その二人のやり取りは、なかなか面白い。また実俊は、実に切れる頭を持ってはいるが、他人の気持ちを想像することがなかなか出来ない。だから、相手を傷つけたり怒らせたりするようなことも平気で言ってしまう。しかし時折、実俊が葛丸たちの前で、人間らしい感情を発露してしまう場面がある。そういう場面で葛丸は、ニヤニヤしながら実俊の「成長」を喜ぶ。しかし実俊はその「成長」を認めない。そんな仲睦まじいやり取りが随所にある。その辺りの関係性も、なかなか面白く読めるだろうと思う。

僕は歴史が苦手で人名もなかなか覚えられないので、「泰衡」とか「国衡」とか「忠衡」とか、色んな「◯衡」が出て来るのがなかなか大変だった(正直覚えきれなかった)。しかも、その「◯衡」たちには、二つ名みたいな別名もあったりして、さらにややこしい。そういうハードルの高さはあったものの、全体的には非常に読みやすかったし、「源義経」「源頼朝」の名前ぐらいしか知らず、「源義経はチンギス・ハーンと牛若丸」「源頼朝は鎌倉幕府」ぐらいのアホみたいな知識しかない人間でも、本書の記述だけで概ね時代背景や状況を理解することが出来たので、そういう意味でハードルは低めの小説だと思います。平谷美樹氏の小説を読んだのは二作目ですけど、「もしかしたらホントにこんなことがあったのかも!」と思わせてくれる、史実とホラの絶妙なバランス加減が見事だと思います。

平谷美樹「義経暗殺」

装丁、あれこれ(桂川潤)

本を読む際には、出来るだけ先入観を持たないように、と意識しているつもりではある。とはいえ、常に100%となると、なかなか難しい。

仕事柄、自分で読もうと決めて買ったわけではない本を読む機会もある。それは、自分の読書の幅を広げるという意味で非常に助かっているのだけど、やはり自分では選んでいなかった本であることもあって、そういう本で自分的に当たりを引くという経験は決して多くはない(とはいえ僕は、当たりの本だけ読んでいればいい、と考える人間でもないので、当たりでなくてもそれもまた良し、と思うのだけど)。

さて、本書も、自分で読もうと思って買った本ではない。だから、やはりある程度は、(どうなんだろうなぁ)という先入観はあった。

でも、読み進めていく内に、あぁこれは面白い本だなぁ、とジワジワ感じられてきた。自分の仕事と関係する部分もある、という近さがそう思わせるという部分ももちろんあるのだろうけど、仕事でも考え方でも自身の立ち位置を決して固着させることなく、常に“遊び”(余裕という意味と、遊んでいるという意味を込めているつもり)をもたせながら思考し、作品を生み出し、そうした中で少しずつ塊になっていった想いや考えを丁寧に言語化している、という印象の作品で、予想していた以上に良い作品だった。

一応先にこれだけは書いておこう。本書は、確かに「装丁」というものに軸足を置いている作品なのだけど、両足を「装丁」の上に載せているのではない。片足は常に「装丁」の上にありながら、もう一方の足を縦横無尽に様々な領域へと伸ばしていく。電子書籍や出版社・書店の話に飛んでいくのは分かるが、社会批評や、ある種の芸術論的な部分にまで話が展開していくので、「装丁」というものに殊更興味のない人(実は僕もそうだ)にも楽しんで読める作品である。


自分の仕事と関係する、と書いたのは、単純に僕が書店員だから、というだけではない。ここでは具体的には書かないが、僕が本を売る際に行ってきた企画やアイデアなどは、広く括れば「装丁」という枠組みに入れてもらえるのではないか、と感じたからそう書いたのだ。

『装丁という仕事の本質は、結局のところ「予感」に尽きるのだ』

本書の中で著者は繰り返し、「装丁」の役割を書く。要約すれば「予感」を与える、ということになるのだが、本に触れる者はまずテキストに出会うのではなく装丁と出会う。だから装丁が作品の中身を予感させるような佇まいをしていなければならないのだ、と繰り返し語る。

そして、僕の本の売り方も、似たような部分がある。本には様々な面があり、様々な切り取られ方がある。それは読む者個人個人がそれぞれで切り取っていけばいいのだが、最近は特に、こちらがあらかじめ切れ込みを入れてあげないといけない、と感じるようになってきた。書店に送られ、店頭に並べられる本は、著者・編集者・装丁家など様々な人の手を経て、作品として完璧なものに仕上げられる。一昔前であれば、その状態から本の「予感」を感じ取ることが出来る人がたくさんいた。しかし今の時代は、完璧に仕上げられたものに切れ込みを入れて、中の匂いを少し出してあげないと、その「予感」を感じ取ることが出来ない人が増えている印象がある。

だから、僕がしていることは、その本が持つ「予感」を増幅させることだ。そう捉えると、僕がしていることは、広義の「装丁」という枠組みに入る可能性がある。

しかし難しいのが、切れ込みを入れ「予感」を増幅させる過程で、僕は本来の「装丁」を否定する手法を取ることが多い。「どのように届くのか」を一番に考えて装丁がなされているとして、僕がしていることは、「どのように」を削ってでもとにかく「届ける」ことを最優先にする、というものだ。もしかしたらそれは、「装丁」が目指すものの対極にあるのかもしれない、とも思う自分もいて、自分の売り方に迷うことはないものの、「どのように」を削ぎ落としてしまうことで本来の価値を減じた形で本を届けることになってはいないか、と考えてしまう瞬間はある。

とはいえ、やはり本は、売れなければどうにもならない。

『売れた本は、企画、内容、装丁・造本がぴたりと一致したものばかり』

これは僕も同じ感覚を持っている。本を売り出す際のアイデアが、本そのものやその周辺の状況とピタッとハマった時、あぁこれは売れるな、という感覚を持てることがある(常にではない)。本書を読むと、作品にピタッと合う装丁を仕上げることの難しさをひしひしと感じることが出来る。

僕は、絵やデザインと言ったものにまったく造詣がない。そもそも僕は、恐らくこれは脳の機能障害だと自分では思っているのだけど、映像的な記憶がまったく出来ない。例えば、目の前にリンゴを置くとする。それをじっと見つめて、その後目を瞑って、頭の中にリンゴを思い浮かべてください、と言われても、僕には出来ない。頭の中に映像やイメージを浮かべる、という感覚が、何を言っているのか全然分からないので、視覚的な記憶は脳に全然残らないし、そういう意味で、装丁というものへの関心も低い。

書店員として長く働いていて、「装丁」という観点から印象深く思い出せる本は二冊しかない。一つは、東野圭吾の「白夜行」。東野圭吾という作家がまださほど有名ではなく、僕自身もその名前を聞いたことがなかった頃に、表紙のインパクトだけで手に取り読んだ本だ。もう一冊は、森博嗣の「スカイ・クロラ」シリーズの単行本。本の本体に絵や文字を印刷し、その上から透明なカバーを掛ける、という装丁が斬新で、今でも憶えている。

そんな、絵心もデザイン力もない僕だが、仕事柄デザイン的なことを考えることもある。実際に僕がデザインをするわけではないのだが、そのアイデアを考える、ということは時々ある。

昔は自分にそんなことが出来るとは思っていなかったのだが、ある本の記述を読んで、デザインへの印象が変わった。

僕は乃木坂46が好きで、「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.1」というムックも買って読んだ。その中に、乃木坂46のCDなどのアートワークを分析するというようなコーナーがあって、その中にこんな文章があった。

『デザインにおいて、「ただなんとなく」は絶対に成立しません。少なくともデザインした人はあらゆることを考えているし、クライアントに理由をプレゼンしているはずですから』

要するに、商業デザインであればクライアントが必ずいて、プレゼンをしなければならないから、デザインの意図などを言葉で説明しているはずだ。つまり、デザインとは言葉で捉えられるものなのだ、という内容だった。

この記述を読んだ時、あぁそれなら僕にも出来る!と思えた。もちろん、すべての商業デザインが言語化出来るのかは僕には分からないのだけど、デザインは言葉で捉えうるのだ、という発想が僕の中には今までなかったから、この文章は僕に結構大きな影響を与えたと思う。その後僕は、問題をデザインで解決する、というような手法で色んな本の装いを変えてきたのだけど、その発想の大元には、デザインは言葉で捉えうる、という今まで知らなかった考え方がある。

本書を読んでいても、「装丁」における「ことば」の重要性が書かれている。

『しかし、杉浦さん(※建築家出身の装丁家・杉浦康平)と菊池さん(※広告界出身の装丁家・菊地信義)の対照もまた際立つ。杉浦イズムの核心を「批判=criticism」とするなら、菊池さんの方法論は「批評=review」だと考える』

『「“本は人の心をつくる道具”という気持ちで、本づくりに関わってきた」という菊池さんは、「本は物である」から、さらに進んで「ことばは物である」と述べる。「芸術性の高いことばは、物体のように表があって裏がある。表とは、世間に流通している額面どおりのことばであり、裏とは、なぜこのことばがここで使われているかという一人ひとりが考えることば。この裏のことばに“気づく”こと、自明の了解をひっくり返すこと、無意識のなかで迷子になることが、すなわち「読む」という行為であり、そこに批評性や批判性が生まれる」と、菊池デザインの核心へと迫る』

装丁というのは、綺麗な表紙を付ける、というような単純なものではなく、ことばによる「批判」や「批評」の上に成り立っている、という。完成された装丁から、その批判性・批評性を読み取れるかどうかは人それぞれだろうが、ビジュアルの背景にことばが存在している、ということが大事なのだ。

ここで語られているのは、著者自身の装丁観そのものではないのだろうが、著者のいう「予感」を孕ませるための装丁というのもまた、ことばは不可欠だろう。予感を感じる側は、それを言語化出来る必要はないが、予感を与える側は、やはりある程度その予感の正体をことばで捉えておかなければならないと思うからだ。

また、『書店の風景を一変させてしまった』というほどの影響力を持つ鈴木成一デザイン室(僕の記憶では、前述の「スカイ・クロラ」シリーズの装丁は、鈴木成一デザイン室のものだったはず)の鈴木成一は、『装丁とはテキストをビジュアル化し、物質化することである』と語っている。ここでもやはり、装丁の出発点は「テキスト」ということばだ。

ことばがどんな役割を担うのかという点は、何のデザインであるのかやデザイナーの個性に拠るのだろうが、デザインの背景にことばがある、ということは、やはり本書を通じて感じることができた。

「装丁」とは少し違うのだが、本書を読んで思い出した映画がある。「すばらしき映画音楽たち」という映画だ。これは、「スター・ウォーズ」「スーパーマン」「インディー・ジョーンズ」「ET」「ジュラシック・パーク」「パイレーツ・オブ・カリビアン」「JAWS」など、誰もが一度は聞いたことがある映画音楽がどのように生まれたのかを、様々な作曲家たちに話を聞きながら、映画における音楽というものの存在感を浮き彫りにする映画だった。

著者の言う「予感」という言葉を借りれば、本の「予感」を滲ませるのが「装丁」であり、映画の「予感」を滲ませるのが「音楽」と言えるだろう。装丁も映画音楽も、それを必要とする対象は既に存在していて、その作品世界をより良く見せるために機能するものとして存在する。そういう意味で両者は非常に近い存在だと感じる。

その映画の中で一番印象的だった言葉が、

『映画音楽のルールは一つだけだ。“ルールはない”』

である。これはまさに、本の装丁でも同じことが言えるのではないかと思う。

本書にも、様々な挑戦的な装丁の例が紹介されている。極限までコストカットさせられたが故に生まれた装丁や、世界初の手法を使った装丁など、決まったルールなど感じられないように思う。映画音楽家たちが様々な世界から業界にやってきたように、装丁家も、建築や広告など異業種からの参入も盛んだ。それは、本という長きに渡って存在してきた安定力抜群のメディアであるが故に、既存のルールや常識を打ち破ろうとはっちゃけても本という存在自体が揺るがない、という強さ故という可能性もあるかもしれない。

とはいえ、そんな物質としての本は、電子書籍の登場によって揺らぎを見せている。2012年に書かれた文章では、電子書籍の話題が非常に多いが、これは時代を反映したものだ。Amazonなどによる参入で電子書籍の流れが加速するという予測がなされていた時期であり、電子化が進めば進むほど装丁家としての仕事も細くなっていくだろうという危惧もあり、著者は電子書籍方面の話題を多く書いている。電子書籍業界についても逐次情報を仕入れていたり、自身でも電子化を手がけてみたりと、様々な形で電子化の流れの中に身を置いている。

著者は決して電子書籍を頭ごなしに否定しているわけではない。得意・不得意を見極め、電子化するメリットも十分に理解した上で、デバイスによって文字の大きさや組方向を変えられる方式の採用に不満を抱いたり、『だが、そんな現状を認めつつも、筆者はやはり“装丁”はモノから切り離せない、と考えている』など、本という存在そのものの有り様から出発して、装丁というものの役割を捉え直そうとする。自分の仕事が危ぶまれるから電子化には反対だ!というような立場であれば受け入れがたかっただろうが、現状をきちんと認識し、受け入れ、その上で理想と最善の間のどこで着地させるべきかという思考を常にしているような印象があって、そのスタンスが非常に好ましい。

電子書籍について僕自身のスタンスを少し書いてみようと思う。僕は賛成でも反対でもないのだが、「ツールの変化は、思考や行動に大きな影響を与える」という観点から電子書籍を捉えている。

それを僕は、「文字を書く」ということを通じて実感している。僕は普段、パソコンのキーボードで文字入力をしている。そして、僕にとって、「キーボードで文字入力するスピード」と「頭の中で思考するスピード」がかなり心地よい関係にあり、それ故にキーボードで文字入力することは、僕の思考そのものに影響を与えている、と考えている。

これが手書きになると、思考のスピードに対して文字入力が遅すぎてイライラするだろう。また、今以上に早く文字入力出来るツールが存在しても、思考のスピード以上の早さで文字入力出来るはずもないので意味がない。そういう意味で、僕にとっては、文字入力をするツールであるキーボードは、思考を司る脳の働きを拡張するような道具だと言えるのだ。

同じようなことは、文字を読むということについても起こりうるだろうと思う。紙の本とデバイスとでは、どんな影響差が出るのか、それは今の時点では想像出来ないのだけど、何らかの違いは出るだろう。それが良い影響なのか、悪い影響なのかも、今の僕にはまだ想像出来ないことだけど、もしもそれが悪い影響であったとして、それがデバイスの変化によるものだと判明するのには時間が掛かるだろうから、その間に紙の本がかなり衰退してしまっていれば、取り返しはつかなくなるな、という感覚を持っている。

僕自身は、本は紙で読みたいので、デバイスで読むことはないだろうが、デジタルネイティブと呼ばれる世代にとってはむしろ、デバイスで物語や情報に触れることの方が自然になるだろう。その大きな流れは変えようがないが、電子化によって失われるものが一体なんなのか(得られるものは分かりやすいからあまり気にしていない)、それを注視しておかないと怖いなぁと考えている。

そんなわけで、正直本書の内容にはほとんど触れていないような気もするのだけど、僕にとっては、読んだことで思考が様々に展開され、文章にしたいと思うことがたくさん浮かぶ本が良い本だという感覚があるので、そういう意味で本書はとても良い本だった。装丁というものを中心として、本周辺のことについて(あるいは社会や仕事について)、様々な情報や自身の体験、様々な人の考え方などを織り込みながら、今ある危機や未来への希望や可能性を浮かび上がらせる良書です。

桂川潤「装丁、あれこれ」

「ブロークバック・マウンテン」を見ました

内容に入ろうと思います。
1963年、仕事を得に来たジャック・ツイストとイニス・デルマーの二人は、共に森林局が管理する野営地で放牧されている羊を管理する仕事に就いた。ずっと山で過ごし、羊と共に眠る。彼らは、豆ばかりの食事に不平を言い、時に凍えながら眠り、喧嘩することもありながら仕事を続けていく。
ある夜。ジャックがイニスの手を握ったのをきっかけに、二人はセックスをする。お互いに惹かれ合っていることに気づいていながらも、男同士の恋愛など認められない時代、気づかないフリでやり過ごすしかなかった二人の関係が、そのことで一歩前進してしまった。
二人は時折体を重ねながらも、山での生活を終えた。山を降りる少し前殴り合いの喧嘩をしてしまった二人は、このまま二度と会わない可能性もあった。
イニスは予定通り、付き合っていたアルマと結婚、子どもをもうけた。ジャックは、ロデオで賞金稼ぎをしながら、バーで出会った女とセックスをし、子どもが出来て結婚した。
二人の人生はその後、4年間も交わらなかった。お互い、それぞれの結婚生活を送り、それなりに不満を抱えながら、それでもこの人生しかないのだと納得しながら日々を過ごしていた。
ある日、ジャックから手紙が届くまでは…。
というような話です。

全体的に静かに展開していく映画で、ここ!というような盛り上がりがあるわけではありません。淡々と、熾火のように静かに燃え続ける恋情みたいなものをベースにしながら、ままならない人生を描いていく映画です。

この映画は、ある程度時代背景的なものを抑えておかないと受け取るのが難しいかな、と思ったりしました。

1960年代のアメリカにおいて、同性愛というのがどういう扱いだったのか、という漠然とした知識は要るような気がします。映画の中での描写としても、まあ普通には認められない、あり得ないことだという受け取られ方をしているんだろうという感じはしたんだけど、映画全体はジャックとイニスの描写がメインだったので、社会的に同性愛がどう扱われていたのかということはハッキリとは分かりませんでした。

日本においては、同性愛っていうのは、またちょっと違う歴史があると思うんです。衆道と呼ばれている時代もあったし、明治時代とかに同性愛が当たり前に存在していたみたいな本も読んだことがあります。もちろん、昭和に入ってから一転嫌悪されるようになったんでしょうけど、またBLというような形で同性愛が(現実的なものとしてではないだろうけど)受け入れられつつあるでしょう。アメリカでは、同性愛というのがどんな歴史を辿っているのか、そういう方面の知識には明るくないので、その辺りのことをちょっとでも知ってる方が、見方は変わって来るんだろうなと思いました。

ジャックとイニスは、言葉でのやり取りがあまり多くないので、彼らの言動や感情の変化が捉えにくいなと感じる部分もありました。そもそも、何故セックスに至ったのかも唐突だなと思ったし(まあそういうものなのかもしれないし、それがリアルっぽさを生み出しているということもあるでしょうが)、何故殴り合いの喧嘩に至ったのかもよく分かりませんでした。

僕らは人生を一つしか選べないから、選ばなかった人生がどうなっていたのかは、永遠に想像の内側に閉じ込められることになります。ジャックにしてもイニスにしても、一つ一つの決断が正しかったのか、どこかで別の決断をしていたらどうなっていたのか、様々に考えただろうと思います。静かに展開されていく物語の中で、そういう葛藤が時々ポンと浮かび上がってくるところは、良かったなと思います。

「ブロークバック・マウンテン」を見ました

「スリー・ビルボード」を観に行ってきました

面白い映画だったなぁ!

「正しさ」というのは、常に対立しうる。それを「法律」とか「正義」とか「ルール」とか言い換えても同じで、いつどんな時代どんな場所でも絶対的に揺るがない「正しさ」なんて、たぶんない。「人を殺しちゃいけない」っていうのは、絶対に揺るがない「正しさ」に思えるかもだけど、戦争になれば違う。洗浄では、人を殺すことが正しくなる。今の世の中で通用しているどんな「正しさ」も、100年後200年後も正しいとは限らないし、国境や民族が変われば容易に「正しさ」は変わりうる。

常に、誰かと誰かの「正しさ」は対立しうる。そういう社会の中に生きている僕たちは、仮に「正しさ」が対立した場合、その国(や集団など)の法律によって決着をつける、という仕組みを、長い闘争の歴史の果てに手に入れた。「正しさ」が対立する部分には、大抵の場合何らかの法律が用意されていて、それに沿って判断を下す、という条件を、僕らは(特に承認した記憶はないのだけど)受け入れて生活をしている。

ただ時には、「正しさ」が対立しているのに、その衝突点に必要な法律が存在しない場合もある。法律というのは、その時その時の社会の要請によって生まれるもので、例えばインターネットの存在を前提にしていない法律では、インターネット上で特有に発生する対立は判断できない。そうやって法律は、現実を反映させながら変わっていく。

だからこそ法律は、常に最新の現実には対応出来ない箇所が残ったまま存在する、ということになる。

この映画が面白いのは、まさにそんなエアポケットのような衝突点を描き出しているからだ。この映画で描かれたようなことが現実にあった場合(この映画が現実を元にしているのかどうかは知らない)、両者の「正しさ」を解消出来るだけの法律は存在しない(少なくともこの映画の舞台であるミズーリ州ではそのようだ。しかし恐らく、アメリカ全体でも、日本でも、この対立を解消できる法律はきっと存在しないだろう)。

実際には、そういうケースというのは日常の様々な場所で起こっているのだろう。僕がこの文章を書いているまさに今も、きっとどこかで、法律では解消出来ない「正しさ」の対立に巻き込まれている人がいるはずだ。

そういう人たちにとってはもちろん、僕ら皆がこの映画には無関心ではいられないだろう。いつ自分がそういう立場に立たされるか分からない。法律があれば、感情的な部分はともかくとして、「とりあえずこうしなさい」という決定が出され、社会的にはそれに従わざるを得ない。しかし、法律が存在しない場合、その決着はつかない。対立している者や集団のどちらかが諦めるのを待つしかない。

しかしその間に、当人同士だけではなく、当人たちの周囲の人間にも莫大な影響が及ぶことになる。

この映画の最も面白い点を、僕はその点だと感じた。いやもう少し説明しよう。この映画では、対立している者同士は、実は心情的には対立していない。しかし、対立しているように見える者たちの周囲の人間が、代理戦争のようにして事態を悪化させていく。そして次第に、当人同士が置き去りにされ、問題が別のフェーズとして独り歩きしていくのだ。

この点が、非常に現代的だな、と感じた。僕らが生きているこの社会でも、似たようなことはよく起こる。特にネット上では、当人たちとは関係のない「善意の第三者」みたいな人たちが、「あんなことを言うなんて可哀想」「あんなことをするなんて信じられない」みたいな、当人同士が“望んでいるかどうかも分からない加勢”をしてくる。

この映画では、3枚の立て看板という実にアナログなツールを使って、主にネット上で散見される、前述したような奇妙な現象をうまく描き出している。この点が、僕は非常に見事な設定と構成だなと感じた。

内容に入ろうと思います。
ミズーリ州のエビングという町に住むミルドレッド・ヘイズは、ある日碌に車も通らない(しかし家に帰るのにその道を毎日通る)にある、朽ち果てた3枚の立て看板に目を留める。管理会社に出向くと、最後に看板が設置されたのは1986年だとか。彼女は3枚分の看板料を支払い、看板を設置させた。
3枚には、こんな風に書かれている。
「なぜ、ウィロビー署長」
「犯人逮捕はまだ?」
「レイプされて死亡」
そう、彼女は、この町で起こった悲惨なレイプ事件の被害者であるアンジェラ・ヘイズの母親なのだ。
設置された看板は、即座に町の噂となった。エビング署は、看板の管理会社に出向くが、法律違反ではないと突っぱねられる。実際に、この看板を法律に違反していると排除することは出来ない。署長はミルドレッドの元へと出向き、説明をする。職務怠慢ではない。現実に、手がかりのまったくない事件というのも存在するのだ。申し訳ないが、打つ手がない。そしてさらにウィロビーは彼女に、自分がガンで余命数ヶ月なのだと告げる。言外に、だからあの看板を外してもらえないかと込めながら。しかし彼女の答えは「知っている」だった。「死んだ後じゃ、意味ないでしょ?」と。
息子は学校で悪口を言われ、町の神父が彼女の元を訪れ、住民が反対していると告げる。彼女に賛同してくれる者もいるが、当然反対する者も多い。なにせウィロビー署長は、人格者として通っているからだ。
それでもミルドレッドは、自分の信念を曲げることはない。あらゆる抵抗を跳ね除けたり無視したりし、時には暴力的な手段に訴えながら、娘の事件の捜査の進展を願う…。
というような話です。

実に面白い映画だった。冒頭でも書いた通り、アナログなツールを使って、現代のネット社会を皮肉るような構成も見事だし、ミルドレッドとウィロビー署長の関係性も素晴らしい。たった3枚の看板を設置しただけで町がざわつき、その余波が様々な部分に押し寄せていく展開は面白かったし、何よりも主人公であるミルドレッドがなまなかな共感を寄せ付けないキャラクターであるにも関わらず、決して嫌悪することは出来ないという絶妙な立ち位置であるという点が、役者の演技も含めて見事だったと思う。

まずやっぱり印象的なのは、ミルドレッドとウィロビー署長の関係性だ。この二人は、ミルドレッドが設置した看板のせいで対立しているはずだ。しかし実際のところ、ミルドレッドとウィロビーはある意味では理解者同士だ。ミルドレッドは署長がガンだと知った上で行動しているし、またそもそも署長自身が悪いとは思っていないはずだ。何故そう思うのか。ミルドレッドは看板を設置した後、警察官に「ウィロビー署長の名前を出す必要があったか?」と聞かれ、「誰かが責任を取らないといけないから」と答える。ミルドレッドはテレビの取材に対し、「地元警察は黒人いじめに忙しい」と皮肉を語っているが、それは決して署長を指しての言葉ではないだろう。ミルドレッドとしては、エビング署の対応には不満がある、しかしそれは署長に向いているのではなくもっと末端の人間に対してだ。とはいえ、問題に対しては誰かが責任を取る必要がある。それは署長しかいない。恐らくそういう理屈を持っているはずだ。

ウィロビー署長の方もまた、ミルドレッドを理解している。後半の方で署長がミルドレッドに掛けた言葉がまさにそれを直接的に証明しているが、前半部分でも、署長自身はアンジェラの事件を解決したいと考えていることが伝わってくるし、ミルドレッドに対する態度にも、あんたの気持ちは分かっている、というような気持ちが滲む。

そう、この映画では、本来的に対立しているはずの二人の間に、実は対立関係は存在しない、という点が、一つ大きな根っこになるのだ。しかし残念ながら、彼らの周囲にいる人間はそのことに気づけないでいる。署長は住民に好かれている。もちろん多くの住民が、アンジェラの事件ではミルドレッドに味方しているが、しかし看板の件では署長の味方をする。ミルドレッドの味方もいるにはいるが、基本的には「善人・ウィロビー署長VS悪人・ミルドレッド」という対立構造がいつの間にか作り上げられている。

この辺りが、まさに当事者を置き去りにして論争やトラブルに発展していくネットの有り様を見事に描き出していると感じられる。

自然発生的に生み出されたその対立構造に沿って、多くの人間が行動をする。これもまたネットのようだ。どちらの意見でもなかったものが、多数派が決まった時点で多数派に乗っかって突然意見を言い始める、ということもネットではよくあることだ。そういう行動をする人は、多数派の考えに沿っているのだから安全だ、という思考でしか動いていない。それが結果的に正しかったとしても、自分で考え決断をしていない時点で、そういう人たちの言動に価値が生まれることはない、と僕は考えてしまう。

別に僕は、ミルドレッドの行動が正しいと言いたいわけではない。最終手段として看板を設置する、というのはアリかもしれないけど、個人的にはそこに至るまでのいくつかのステップをすっ飛ばしているような感じがして、違和感はある。しかし、ミルドレッドの行動が完全に間違っているともやはり言えはしない。個人の力で大きな組織や現実を動かしていくことは本当に困難だ。看板の設置というのが、その一つの選択肢だったことは間違いないし、ミルドレッドはその看板の設置がどういう事態を引き起こすのかある程度予測し覚悟していただろうから(もちろん、あまりの想定外の出来事もあったが)、その上での行動なら仕方ないとも感じられる。

とはいえ、ミルドレッドの最後の決断(というか、決断は迷っているのだけど)は、ムチャクチャだなと思います。ああいう決断を知ってしまうと、見ている側としても迷いますよね。本当にミルドレッドの言動を許容してしまっていいんだろうか、と。そう感じる場面は作中に多々あって、だからミルドレッドに単純に共感も出来ないし単純に拒絶も出来ない。その複雑さみたいなものもまた、人間らしいと言えば言えるし、モヤモヤさせるような言動や決断が多々ありながらも、それでもある種スッキリしたような感覚を残す映画だと思うので、全体としては本当に見事な映画だなと感じました。

「正しさ」の対立の衝突点に、いつ立たざるを得なくなるかは誰にも分からない。もし自分がそういう立場にならざるを得なくなったら、この映画のことを思い出そうと思う。

「スリー・ビルボード」を観に行ってきました

「ビジランテ」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
とある田舎町。市議会議員を務める神藤二郎の父で、かつて土地の有力者の一人だった男が死んだ。かつて男は、毎晩のように三兄弟を殴っていた。それに耐えきれなくなり、兄である一郎は子どもの頃に家を飛び出した。それから姿を見ていない。三郎は父とは関わらず、地元でデリヘルの店長をしている。
父の死が、ある問題を引き起こした。
父が所有していた膨大な土地の内、下ノ橋地区の土地を含む敷地に、アウトレットモールを誘致する計画が持ち上がっている。二郎は議会の有力者から、その土地の相続だけはちゃんとやれ、と言われていた。しかし、30年ぶりに戻ってきた兄・一郎が、なんと公正証書を持っていた。つまり、遺産の相続権は一郎にあるということになる。
大々的な計画として動き出しているアウトレットモール誘致の計画のためには、なんとしてもその土地が必要だ。しかし一郎は、頑としてその土地の権利を手放さない。土地の相続などに興味のない三郎も、この騒動に巻き込まれ、様々な勢力が蠢く中、三兄弟を取り巻く状況が激変していく…。
というような話です。

いわゆる、ノアールと呼ばれるような世界観で、もちろんそういう作品だと思って観に行ったんだけど、やっぱりちょっと合わなかったかなぁ。どうしても物事に理屈を求めてしまうから、色んな人間の行動原理が捉えにくいとすっきりしない。もちろん、現実の世界というのはむしろそうで、なんだかよく分からないまま日々色んなことが起こっているんだけど、せめて物語の中でぐらいは、ある程度は理屈が欲しいと思う。この映画では、何故一郎が下ノ橋地区の土地に固執したのかとか、二郎の妻は一体何をしているのかとか、三郎は三兄弟で集まって一体なんの話をしようとしていたのかとか、他にも色々あるんだけど、そういうことが少なくとも僕にはイマイチ理解できなかった。もちろん漠然と想像出来る部分もあるけど、まったく分からないものもある。個人的には、何故一郎があの土地に固執したのかという部分が一番謎だった(映画から読み取れるのかなぁ、この点って)。

個人的に気になったのは、本編ではなくエンドロール。最初は意識してなかったんだけど、後から思い返すと、エンドロールには役者の名前しか表記されてなかった。つまり、作中の役名が一切記載されていなかった。そんなエンドロール、正直見た記憶がないから、印象的だった。

そう考えると、三兄弟の名前が一郎・二郎・三郎だったことも意味があるのかもしれない。ほとんど個性を感じさせない名前をつけることで、「名前をつけること」「名前を持つこと」全般に対しての意味のなさみたいなものを出そうとしているのかなぁ、とか。ただそれが、映画全体に対してどんな役割があるのか、そういう分析は僕には出来ないのだけど。

三兄弟役のそれぞれの役者の演技は、やっぱり迫力があって、雰囲気が出てて凄いなと思いました。そんなアホみたいな感想しか書けないのが残念ですが。

「ビジランテ」を観に行ってきました

哲学的な何か、あと数学とか(飲茶)

いやー、実に面白かった!

本書は、フェルマーの最終定理の証明の歴史の物語だ。
フェルマーの最終定理と言えば、サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」という本が白眉で、どんな風に展開していくんだったか正確には覚えていないものの、超絶面白かった記憶は未だに残っている。

その他にも僕は、数学関連の本を結構読んでいるので、本書で書かれている「フェルマーの最終定理」の証明の大きな流れみたいなものは、もちろん全部知っていた。しかし、知っていてさえ、やはりこの証明の物語には感動させられてしまう。

フェルマーの最終定理について何も知らない人からすれば、数学の証明の物語のどこに「感動」の要素があるんだ、と感じてしまうことだろう。

しかしその疑問は、本書を読めば解消されるだろう。ホントに、マンガかよ!って突っ込みたくなるようなすっげー展開が連なりあって、フェルマーの最終定理というのは300年の時を経て証明に至ったのだ。

本書には、多少ながら数学の話は登場する。数式が出てきたり、難しい概念が説明されたりもする。しかし、本書のほとんどは歴史書だと思ってもらって構わない。誰がいつどこでどんなことを考えて何をしてその後どうなったのか…ということについて、様々な人物を登場させながら描き出していく。サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」も、頑張れば文系の人間でも読めるというレベルの作品だったが、本書は間違いなく文系の人でも読めるだろう。数式や概念などで分からない部分があれば飛ばして読んでもなんの問題もない。

さて、本書の内容にちゃんと触れようとすると、本書で描かれている「フェルマーの最終定理の証明に至る歴史」の概略を全部書いてしまいそうなので、それは止めておきます。代わりに、僕が本書を読んで初めて知った知識について触れていこうと思います。

まず、フェルマーが予想(フェルマーの最終定理)を遺してからほぼ進展がなかった中、その証明を大きく前進させたソフィー・ジェルマンという数学者のエピソードだ。この数学者は女性なのだけど、当時女性が学問をするなどということは考えられない時代だったという。そんなソフィーが、親の目をいかにかいくぐり、女性が入れない学校にいかにして潜り込み、さらにどんな出会いがあって数学の研究に携われるようになったのか、という話は面白かった。特に、ソフィー(だけではなく、当時生きていたすべての数学者)が神と崇拝していた大数学者・ガウスに、自身が女性だとバレてしまったエピソードは、本書の描き方もあるんだろうけど、非常に微笑ましかった。

また、フェルマーの最終定理には、ドイツの富豪・ヴォルフスケールなんて人物も絡んでくる。この人物、確かに数学をやってはいたのだが、資本家の名家の出身であり、基本的にはバリバリのビジネスマンである。そんな人物が一体、どういう理由でこのフェルマーの最終定理と絡んでくるのか。そのエピソードは、これこそまさに「マンガかよ!」と突っ込みたくなるような、ウソでしょ、というようなものだ。

色々あってヴォルフスケールは、自身の名を関した賞を作り、フェルマーの最終定理を証明した者に10万マルク(当時の価値を日本円に換算すると10数億円にもなるという)の賞金を与えると遺言状を残したのだが、しかし結果的に彼のこの行動が、「にわか素人たち」を大いに沸き立たせた、という話も面白かった。

数学の予想や証明は、世間にはほとんど知られていない。僕は個人的に興味があるから、「ゴールドバッハ予想」とか「P≠NP問題」など、有名どころは知っているが、世間の人はまず知らないだろう。しかしそれでも、多くの人が、「フェルマーの最終定理」だけは知っているのではないか(それがどんなものかは知らなくても、名前ぐらいは聞いたことがあるのではないか)。その理由は恐らく、ヴォルフスケールにまで遡るのだろうな、と本書を読んで感じた。

本書では、それがどうフェルマーの最終定理と繋がるのかは想像出来ないだろうけど(数学的に繋がっている、というわけではない)、「幾何学の第5公理(平行線公準)」の話も出てくる。この平行線公準の話も非常に面白いのだけど、ここでは割愛しよう。僕が本書を読んで初めて知ったのは、この「平行線公準」にまつわるあるエピソードだ。

「幾何学の5つの公理」というのは、図形なんかを考える時に、あったりまえすぎて証明もクソもないよね、というようなものだ。例えばその内の一つには、「ある一点から等距離の点を集めれば円になる」みたいなのがある(はず)。まあ、あったりまえですよね。だから、あったりまえすぎて証明できないから、これはもう大前提ってことにしましょう、と大昔の人が決めたのだ。

そして昔から、5つ目の公理(つまり平行線公準)は要らないんじゃね?という議論があったという。で、要らないんだ、ということを色んな人が証明しようとしていた。そしてその過程で、平行線公準を前提にしない幾何学も存在しうる、ということを発見したのが、ヤーノシュという数学者だ、と本書では書かれていた。

あれ?と思った。僕の知識では、そのことを発見したのはガウスだったはずだ。記憶違いかな、と思ったんだけど、もう少し読み進めていくと、その謎が明らかになる。いやー、ガウス、マジ罪な男だわ、ってなもんですね。ガウスと同じ時代の数学者、マジ可哀想、って感じでした。ご愁傷様!

本書を読んで、あぁなるほど、あの不完全性定理までフェルマーの最終定理と絡んでくるのか、と初めて知りました。こちらも先程と同様で、不完全性定理が数学的に直接フェルマーの最終定理と絡んでくるわけではありません。ただ、ヴォルフスケール賞の賞金に目がくらんだ人たちがフェルマーの最終定理に熱狂していくのを、この不完全性定理が一気にブレーキを掛けてしまった、ということのようです。

詳しくは書かないけど、要するに、ゲーデルが不完全性定理を証明してしまったことで、(うっそ、もしかしてフェルマーの最終定理って、解けない問題の可能性もあるんじゃね?)と、多くの人が感じてしまったわけですね。

そう、今までは、超絶難問だけど、でも頑張れば解けると思ってたわけです。実際、フェルマーだって、「オレはちゃーんと証明したけど、余白が狭すぎるから書けないよん!」とかフザけたことを書き残してるわけですしね。

そう、ちょっと脱線すると、このフェルマーって男は、本職は法律家であって、数学は趣味でやっていたのだ。アマチュア数学者というやつである。しかし、フェルマーが遺した予想(フェルマーは生前、フェルマーの最終定理以外にもべらぼうな数の予想を遺している)は、あまりにも難しく、天才と言われた数学者が数年を費やしてようやく一つ証明できる、というようなものだった(しかも遺した予想はそのほぼすべてが正しかった)。だからフェルマーの最終定理に取り組む数学者たちは、フェルマーが解いたって言ってんだからそりゃあ証明出来るよね、と思っていたのだ(フェルマーには悪い癖があって、「俺は証明したけど、お前解けるの?」と、プロの数学者に手紙を出すのが趣味だったらしい。嫌なヤツですね)

まあそんなわけで、みんなフェルマーのことを信じてフェルマーの最終定理を解こうとしてたわけなんだけど、不完全性定理によって、えっ、フェルマーの最終定理って解けない問題の可能性あるんすか?ってなんて、みんなやる気を失くしちゃったらしいんですよね(実際、「ヒルベルトの23個の問題」と呼ばれるとても有名な問題の中に、真でも偽でもなく証明不可能だと証明されたものがある)。

フェルマーの最終定理に、谷山=志村予想(僕は志村=谷山予想と記憶していたけど。この辺りの呼び名は、ヴェイユという数学者を含めた様々なパターンがある)が絡んでいるということは当然知っていたのだけど、やはり知らないことは多かった。谷山と志村の出会いの話も「マンガかよ!」って感じなんだけど、僕が知らなかったのは、「ワイルズが谷山=志村予想を完全に証明したわけではない」ということ。

これには説明が必要だろう。まずワイルズというのが、フェルマーの最終定理を証明した数学者だ。で、ある時フライという数学者が、フェルマーの最終定理の数式をあれこれいじくり回して、それが谷山=志村予想と関係していることを示したのだ。フライが示したことをもう少し書くと、「谷山=志村予想が証明できさえすれば、フェルマーの最終定理も自動的に証明されたことになる」ということだ。

だからワイルズは谷山=志村予想を証明したのだけど、実際にワイルズが証明したのは谷山=志村予想の一部だったようだ(しかし、それを証明しさえすれば、フェルマーの最終定理の証明には十分)。で、ワイルズが谷山=志村予想を一部証明するために開発した様々なテクニックが他の数学者によって洗練され、最終的に谷山=志村予想も完全に証明されたという。

また、本書を読んで知ったことではないのだけど、昔僕は大きな勘違いをしていて、「フェルマーの最終定理が解けさえすれば、谷山=志村予想も解けたことになる」のだと思っていた(何が違うのか分からない人もいるかもしれないけど、前述したものとは全然違うことを言っている)。

また、谷山が谷山=志村予想(と後に呼ばれることになる予想)の骨子を大胆にも(というのは、まだその時点では思いつきレベルのものでしかなかった)発表したシンポジウムに、まさかあの人物もいた、というのは驚きだった。これが現実じゃなかったら、(ちょっと出来過ぎでしょ…)と言いたくなるような話だ。

また、ワイルズが最終的に「岩澤理論」と呼ばれるもの(これが何なのかは僕は知らない)を使ってフェルマーの最終定理を最終的に証明した、ということは知っていたんだけど、まさかワイルズがそもそも岩澤理論の専門家だとは思っていなかった(最後の穴を埋めるのに何かないか、何かないかとあーだこーだ探し回っている内に岩澤理論にたどり着いたんだと思っていた)。

さらに、フェルマーの最終定理の証明の白眉とも言うべき部分も知らない話だった。ワイルズは、これで証明が完了したと自信を持てるところまで準備をし、証明を発表したのだけど、その後致命的な欠陥が見つかってしまうのだ(最終的にその欠陥を岩澤理論で埋めた)。数学の世界では、ワイルズがどれほどフェルマーの最終定理の証明に貢献していようが、その最後の欠陥を埋めた人間がフェルマーの最終定理を証明した者と認められる。ワイルズとしては、ここまでやってきて、最後の最後で誰か別の数学者に成果を奪われるなんて最悪だ。その最後の最後をどう乗り越えたのか、そしてその過程でどんな状況に取り囲まれることになったのか、という話は、マジ感動エピソードだと思う。

フェルマーの最終定理の証明の旅は、あっちこっちに盛り上がりがあるんだけど、最後の最後にもそんな盛り上がりを用意しますか!みたいな、誰か舞台演出を手がけている人間がいるんじゃないかってぐらい、物語的によく出来てる。本当に、フェルマーの最終定理というのは、ただ超絶難問が解けた!というだけではないドラマがあって、やっぱりメチャクチャ面白い。

数学にまったく興味のない人にも、是非読んで欲しい一冊です。

飲茶「哲学的な何か、あと数学とか」

シャッター通りに陽が昇る(広谷鏡子)

僕は、地方で生まれ、ある程度長い期間都会(あるいは都会に近い場所)に住み、そして今また生まれ故郷とは違う地方で暮らしている。いわゆる、Iターンというやつだ。

今住んでいるのは、地方都市とでも呼ぶべき街であって、いわゆる「地方」と言った時にイメージするような町ではない。だから、地方に住んでいる者の立場から本書を語るわけにはいかない。とはいえ、やはり東京や大坂などと言った、いわゆる大都会とは違う環境であり、仕事や生活の中で、良い面も悪い面も、都会ではないと感じる場面もある。

大局的な視点で見れば、今後確実に人口は減っていくのだから、今の地方自治体の数がそのまま残り続けるなどということはありえない。人口の減少と共に、維持できなくなる自治体は加速度的に増えていくだろう。

つまり、地方活性化というのは、そういう大局的な視点で見れば、維持できなくなる自治体からの流入も見込んだ上で、潰れない自治体を目指す、ということになるだろう。

新幹線の駅があるとか、大きな港があるなど、地理的な要因から廃れにくい自治体もあるだろうが、そうではない、言ってしまえば「必要性・必然性があるわけではない自治体」の方が多いだろう。

そういう自治体がどう生き残っていくべきか。それは今、日本全国の様々な自治体が直面している大問題だろう。

僕は以前、「コミュニティデザインの時代」という本を読んだことがある。まさに、なんとかしようと思っている自治体やコミュニティを、コミュニケーションやデザインの力によってサポートをし続けている著者の本だ。その中で著者は、これからの「地方」の在り方について様々に語っている。

『それでは、どんな市町村がこれからの時代の先進地になり得るだろうか。都道府県の県庁所在地だろうか。きっとそうではないだろう。都道府県のなかでも中山間離島地域と呼ばれる不便な場所で、すでにここ何十年も人口が減り続けている市町村こそ、眼前にさまざまな課題が立ち現れ、その対応に追われてきた「人口減少エリート」たちが住む地域である。この人たちが発明する日々の工夫や対応策は、人口が減少する地域のなかで何をすべきなのか僕たちに教えてくれる』

『そんな開発型の利益モデルはほとんどの地方都市にとって参考にならない。むしろ、ゆるやかに人口が減っていく地方都市において、若者と高齢者の関係をうまくつなぎながら、あるいは地域の資源をうまく生かしながら、幸せに暮らしていく方法にこそ多くの人が興味を持ち始めている。人口が増えなければ利益が出ない、地域経済が成長しなければ豊かになれない、という発想ではなく、地域の適正人口規模を見据え、目標とする人口規模になったときに地域でどう暮らしていくのかを考え、それをひとつずつ実践することが重要なのである』

「地方」であるということをプラスに捉え、その中でどう生きていくかについて模索し続けることで、「地方」の未来が拓けてくるということを訴えかける本だ。

その中に、こんな文章がある。

『新たな活動を始めにくいということは、ほかならぬ地域住民が自身が一番よくわかっている。だから彼らはそのきっかけを待っている。ヨソモノが入ってきて、みんながやりたいと思っていることを堂々と語ってくれることを待っている。誘ってくれることを待っている。そこへ僕たちが舞い込むことになる。
当然、地域の人たちは僕たちをうまく利用しようとする。自分がいいたかったこと、やりたかったことを僕たちにいわせようとする。僕たちもそれを感じ取って、さらに多くの人たちに共感してもらえるようなカタチで表現しなおす、ここには暗黙の了解が成立していることが多い。「私がいうと角が立つから」「僕の口からはいえない」という言葉がワークショップの端々に出てくる。こうした意図を汲み取って、より多くの人たちが望んでいることを言葉にするのが僕たちの役割である』

本書も、ある意味で「ヨソモノ」たちの物語だ。ヨソモノだからこそ出来ることの強さみたいなものを、物語を通じて改めて実感させられた作品だった。

内容に入ろうと思います。
藤木英里子は、恋人の和生から別れ話を切り出された直後、実家の父が倒れたと母親が連絡があった。長年務めた、世間的には一流企業での仕事も、総務や事務の仕事ばかりであり、どうしても自分がやらなければならないというものでもない。色んなことが一気に吹っ切れて、英里子は実家のある瀬戸内の「さぬき亀山市」に戻ってきた。実家の「藤木フルーツ」は一旦閉めざるを得なかった。かつて賑わいを見せていた商店街は、他の地方と同様見事にシャッター街となっていて、寂しい姿を晒している。
旧友と再会したり、父の見舞いに行ったり、知り合いに誘われて謎の芸術家と顔見知りになってよく飲みに行ったり、亀山城でのラジオ体操で銀行員と知り合ったりと、故郷での生活を一から築こうとしている英里子だったが、ひょんなことから、亀山の商店街を復活させると意気込むことになってしまう。とはいえ、何が出来るということもない。ただ、英里子には唐突に感じられたあるチャンスが突破口となり、故郷ではあるが長年東京にいた「ヨソモノ」である英里子は、次第に大きなプロジェクトへと変貌していく、この商店街の再生に携わるようになっていく…。
というような話です。

いや、なかなか面白い話でした。思っていたよりも面白かったです。小説で描くには、「商店街の再生」というプロジェクトは大きすぎるために、どうしてもご都合主義的な部分は出てきてしまいます。いやいや、そんなうまくはいかんやろ、というような部分です。僕は、まあそれは仕方ないだろうと思います。本書で描きたかったのは、プロジェクト進展そのものではなくて、地方活性がどのように盛り上がっていくのかという部分のプロセスなのだろうと思いました。事態の進展自体はちょっと出来すぎていますが、そのプロジェクトの根幹を支える「地元民」と「ヨソモノ」の関係性みたいなものは、かなりちゃんと描いているんじゃないかなと感じました。

本書には、英里子だけではなく、他にも重要な役どころとして「ヨソモノ」が登場する。主に英里子を含めて3人だ。うち一人は市役所に勤めていて、もう一人はラジオ体操で知り合った銀行員だ。彼らは、この商店街再生のプロジェクトにおいて欠かすことの出来ない存在だ。彼らは適所で、「ヨソモノ」にしか出来ない形でプロジェクトを進展させていく。

しかし、やはり地方活性は「ヨソモノ」だけではどうにもならない。やはり「地元民」が立ち上がらなければならない。しかし「地元民」だけでは、正直どうにもならないのだ。本書ではそこまで明白には描かれないが、前述した「コミュニティデザインの時代」にあったように、「地元民」同士では、「私がいうと角が立つから」「僕の口からはいえない」というような、人間関係が深いが故の壁みたいなものが存在する。

本書では、英里子という「ヨソモノ」代表を主人公に据え、「地元民」と「ヨソモノ」がどんな風に関わり合いを持ち、どう打ち解けていき、その結果どんなうねりとなっていくのかという部分がしっかりと描かれていて、その部分が非常に面白いなと思った。

また本書では、商店街の再生がちゃんと描かれ始めるのは中盤に差し掛かってからだ。250ページ強の物語のさらに後ろ半分で商店街の再生に取り組むのだから、そりゃあ駆け足になってしまっても仕方ない。

じゃあ、前半では何が描かれるのか。もちろん、英里子が地元に戻ってきてから、いずれ商店街復興の立役者となる人たちと出会い関わり合いを持つようになる過程も描かれるのだけど、それと同時に、英里子が「故郷」であり、また「東京に出たことでずっと離れていた土地」でもある地元に戻ってくることで感じる様々な違和感や気付きみたいなものが描かれていきます。

『彼女たちと自分に大きな違いはないように見える。けれど、大学時代の友達や会社の同僚や、東京でできた一番の親友の麻由とかわす会話ほど、彼女たちとの会話はしっくりこない。それは地方と東京の差なのか、単に長く会ってなかったタイムラグのせいなのか、英里子にはわからなかった。そのタイムラグが埋まる気もしなかった』

『そして一つの事実を発見した。
田舎には敬語が存在しない』

『自分の生まれ育った田舎を、観念上の“田舎”としてとらえてきたのだと英里子は気づいた。
凝り固まったマイナスイメージとしての“田舎”。世界の事情に疎くて、いやそれどころか、日本の政治や社会情勢についてもさして興味がなく、関心のあるのはせいぜい自分の暮らす地域、半径二、三キロ程度の範囲の事で、東京のものはなんでもお洒落で高級と、意味もなくありがたがり、テレビに出ているヒトは偉く、お上や権威に弱くて、平日も休日も安っぽい格好をし、本物と偽物の区別もわからず、テレビのバラエティーを見て馬鹿笑いをし、朝早く起きて夜早く練る生活に何の不満もなく、いやもしあっても、週末に安っぽい居酒屋で飲んで騒げば容易に解消する程度の不満に過ぎず、人のプライバシーにどんどん踏み込む事もいとわない。そういうイメージとしての“田舎”。
そこは英里子が二十年前に抜け出したかった場所そのものだった。でもあのこと、英里子はいったいその場所の何を知っていたというのだろう』

英里子は、親の介護を理由に「仕方なく」地元に戻ってきたわけだが、正直なところ、都会的なものに未練があるわけでもなかった。恋人には振られたし、仕事もやりがいがあるわけではない。唯一の心残りは、近くにあった良いパン屋さんに通えなくなることぐらい。

それぐらい、都会に未練がない英里子だったが、しかしやはり長い間離れていた地方という日常にすんなり馴染めるというわけではなかった。英里子は物語の後半で、商店街の再生に邁進するのだけど、しかしそうなる前にまず、自らが亀山市民としてちゃんといられるようにならなければならなかった。その辺りの、地元なのだけど長年離れていたが故にもう一度溶け込む努力をしなければならない、というもどかしさみたいなものが背景としてきちんと描かれていたのが良かったなと思いました。

広谷鏡子「シャッター通りに陽が昇る」

最高のオバハン 中島ハルコの恋愛相談室(林真理子)

内容に入ろうと思います。
本書は、50代の女社長である中島ハルコと、とある場所で彼女と知り合い、その後よく一緒に行動するようになったフードライターの菊池いづみを中心に話が展開していく連作短編集です。
物語の説明は、冒頭の短編と全体の設定だけ書いておきます。
菊池いづみは自腹でパリに来ていた。本当は雑誌社がお金を出してくれるはずだったのだけど、すったもんだあってダメになったのだ。男絡みで色々あって、むしゃくしゃしていた、というのもある。いづみは、高級なホテルに泊まっていた。
そこで出会ったのが中島ハルコだ。ビューティーコンシェルジュを名乗り、IT関係や美容関係の会社をいくつか経営しているらしいのだが、そう思えないほどケチだ。圧倒的に自分の自慢話ばかりで、また他人への口の悪さは天下一品なのに、喋っていて何故か不快ではない。

『あいづちをうつうち、いづみの心は不思議な方向へと変化していく。なにやら楽しくなってきたのである。これほどてらいなく、自慢話をえんえんと出来る人間に初めて出会った。しかし全く嫌な感じがしない。むしろ爽快な気分になって、なにやら笑いたくなってくる』

『あれだけ好き放題生きていけたらどんなにいいかしら。まるっきり人に気を遣わなくて嫌われないっていうのは、やっぱりあの人、何かを持ってんのよね』

周囲にそう思わせる中島ハルコは、自分より偉かったり商才がある男を手玉に取ったり、男友達の妻から慕われていたりと、交友関係が広い。近くで見ているいづみには、何故ハルコの周りに人が寄ってくるのかイマイチ分からないのだが。そんなハルコの元には、色んな悩みを抱えた人間がやってきて、本音で生きるハルコは、そういう俗世間の、ハルコからすればクソみたいな悩みに、ズバズバと本質を衝くような答えを返していく…。
というような話です。

これはなかなか面白かったなぁ。読んでいる感想は、まさにいづみの「爽快な気分になって」いくというのに近い。これだけ自己肯定出来て、これだけズバズバ物を言って、しかも嫌われないどころか慕われるっていいよなぁ。ちょっと違うかもだけど、なんとなく和田アキ子っぽい。系統は似てる気がする。

それぞれの短編の構成は比較的どれも同じで、何らかの形で料理やお酒を食べたり飲んだりする場にハルコといづみがいて、そこであーだこーだ喋っている内になんとなく悩み相談的な感じになっていく。食べたり飲んだりする場が料理屋だったりパーティーの席だったりするし、いづみが誘ったりハルコが誘ったりと、細かなパターンは色々あるんだけど、大枠ではそういう感じで物語が進んでいく。

ハルコのズバズバ言う感じはなかなかのものだ。

『「言っちゃナンだけど、あの日地、ふつうの奥さんよねぇ。おたくの会社で受付してたあの人と結婚する時、私はおたくのお父さんに相談されて反対したわよ。あっちゃんには、もっとしっかりした人がいいんじゃないかって。それをさ、顔だけで選んだのよね。まあ、あの人、可愛いだけのふつうの人よね」
驚いた。人の妻のことをこれほどずけずけと言ってのけるとは。こんなことが許されるんだろうか』

終始こんな感じである。それで、言われた男の側がどんな反応かと言えば、

『しかし三島は腹を立てた様子もない。きついなアと言いながら、顔は穏やかなままだ』

となる。

本書によると、会社や組織の上の方にいる人間は、どこかM的なところがあって、高圧的に出てくる女がいると嬉しくなっちゃうのだそうだ。ホントかどうかは知らない。僕は、ハルコのようなタイプとはまた違うんだけど、自分が雑に扱われるのが好きだから、気持ちは分かると言いたいところなんだけど、ただそれが経営者やお偉いさんに当てはまることなのかというのは僕には知りようがない。

ハルコの、他人の目を気にしない感じも凄まじくて、こんな場面がある。

『「私はね『女性自身』にどうしても読みたい記事があったのよ。だけど女性週刊誌を買うなんてみっともなくて、私のプライドが許さないでしょ」
とハルコは言う。キヨスクで立ち読みするのと、女性週刊誌を買うのとでは、どちらがみっともないかは考えなくてもわかると思うのだが…。』

こういう場面も結構ある。ハルコの場合、自分の言動が周りからどう見られるかではなくて、自分のプライドや金銭感覚の方を優先させる。しかもそのプライドや金銭感覚が、いづみの感覚からちょっとズレるので、余計に変な感じになる。

ハルコのような人に会ったことはないくせに、あぁいそうだなぁこういう人、と思わせる力はさすがという感じがした。

本書で描かれる悩み相談というのは、不倫だとかセックスで感じないとか定年退職した旦那がずっと家にいると言ったような、比較的個人的な話が多い。それらはそれらでもちろん面白く読めるのだけど、時々社会的っぽい問題にも斬り込んでいって、そういう時のハルコの問答無用の主張は、参考になると感じる人がいるんじゃないかと思う。

特に僕が、世の中の色んな人に読んでもらいたいと思ったのが、「ハルコ、母娘を割り切る」という章だ。ここでは、今まで結婚しろとずっと言ってきた両親が、結婚相談所に登録して相手を見つけてきた自分に対し、今度は結婚するなと言うようなことをずっと言ってくる、というような話が出て来る。それに対しハルコは、娘の年齢が一定以上過ぎれば、親は子どもに介護して欲しいと思うようになって、家から出したくないと考える、という持論を展開する。その上で、こんな風に言うのだ。

『「だって、自分の親ですからね、ほっとくことは出来ません」
「ほっとくんじゃないの。あなたは逃げなきゃいけないの。そもそもこの世の中の悪いことの半分は、親が原因で起こってんだから。(中略)いい、人っていうのは、親のめんどうをみるために生まれてきたんじゃないのよ。自分の人生を生きるために生まれてきたのよ」』

ハルコはドライ過ぎる、と感じる人ももちろん世の中にはたくさんいるだろうけど、僕も割とハルコの意見に賛成です。確かに、親は大事という気持ちは捨てる必要はないですが、「親が大事」というのと、「自分を犠牲にしてまで介護をする」というのは、また別の問題だろうと僕は思う。こういうことってホントに、ハルコみたいな、自分の発言がどう受け取られるか気にしないような人じゃないとズバッと言えない。他にも本書には様々な悩みが扱われていて、それらに対してハルコがズバズバ回答しているので、読めば自分が今抱えている問題が解消する、あるいはそこまでいかなくても、問題が整理されたり、別の方向から問題を捉えることが出来るようになるかもしれません。

中島ハルコというムチャクチャなキャラクターを、菊池いづみという、比較的一般的で常識的な考え方を持っている人間を通じて描き出すことで、「ハルコの傍若無人さ」と「ハルコの傍若無人さの客観的な捉え方」をうまく同居させ、中島ハルコというキャラクターを物語の中で浮きすぎないように調整しながら描き出しているというのが上手いなと思う。正直、ハルコのような人間の近くにはいたくないけど(笑)、いづみを通じてそのハチャメチャな空間を体験出来るという意味で、なかなか面白く読める作品でした。

林真理子「最高のオバハン 中島ハルコの恋愛相談室」

「チェイサー」を観ました

内容に入ろうと思います。
元刑事で、今はデリヘルの元締めを兄弟でやっているジュンホは、自分のところのデリヘル嬢が次々と「消える」ことに不審感を抱いていた。手付金を受け取ったままとんずらしたと考えて、いなくなったデリヘル嬢を探し回るが、その内に、イカれた男が売り飛ばしているのではないか、という疑惑が持ち上がった。いなくなったデリヘル嬢の携帯電話が車内に残っており、その履歴に末尾が「4885」という、なんとなく見覚えのある番号があった。調べてみると、今日まさにその男からデリヘル嬢の派遣の依頼があったという。その男の元へ向かったのは、風邪気味で休もうとしていたのをジュンホが無理やり引っ張りだしてきたミジンだった。ジュンホはすぐさまミジンに連絡をし、男の家に着いたら住所を覚えてすぐにメールしろ、と指示した。
ミジンは言われた通りにしようとしたが、男の家の電波が悪くて果たせず、結局そのまま浴室で縛り上げられ、金槌とノミで男に襲われてしまう。
一方ジュンホは、ミジンからの連絡を待つも一向に来ない。状況が悪化していると知り、周辺をあれこれ探し回るも、男の家は判明しない。そんな折、ある男の車と接触してしまう。保険会社に連絡しろとジュンホが伝えても、大丈夫だとその場から立ち去ろうとする。男の服には血痕。怪しいと睨み「4885」の番号に電話すると、まさに目の前の男の携帯電話が鳴った。
そこからすったもんだあった挙句、ジュンホとヨンミンと名乗った男は警察に拘束された。ヨンミンは警察署で、女をたくさん殺したと自供するのだが…。
というような話です。

韓国で実際に起こった連続殺人事件をモデルにした作品だそうです。
どこまで現実の事件をなぞっているのか分からないのだけど、この映画の救いの無さはちょっと凄かったです。

観ている側は、ヨンミンが連続殺人犯だということはわかっている。しかし、ジュンホも警察も、ヨンミンが殺人犯だと確信出来ているわけではない。ジュンホは、ヨンミンの「女たちを殺した」という供述を、異常者のフリをしているだけだと言って、あくまでもヨンミンが女を売り飛ばしたのだと思い込んでいる。また警察が当初理解していることは、ジュンホがヨンミンをボコボコに殴っているということだけであり、むしろジュンホの方が加害者に見えている。

韓国の法律では、逮捕状なしで逮捕した場合、12時間以内に検事に引き渡す(だったか逮捕状を請求するか)しないと、容疑者を釈放しなければならないというルールがある。ヨンミンは、殺人の状況などについての供述はするのだが、何度聞いても自宅の住所を言わない。死体をどこに埋めているのかも判然とせず、あるのはヨンミンの供述のみ。その状況から、ヨンミンを逮捕するための何らかの証拠を12時間以内に見つけ出さなければならないのだ。

一方でジュンホは、警察を頼りにせず、ミジンを独自に探し出そうとする。ヨンミンが、ミジンはまだ生きている、と証言したのだ。しかし、ヨンミンの自宅がまったく分からない。ジュンホの手元には、ヨンミンの車の中に残っていた鍵の束がある。この鍵の束で開く物件を虱潰しに探せと弟に命じて、なんとかミジンを見つけ出そうとする。

そして、ミジンは実際にまだ生きている。両手両足を縛られているが、どうにかこうにかヨンミンの家から脱出しようと奮闘する。

これらの時間軸が折り重なって物語が進んでいく。

現実にこの通りのことが起こったわけではないだろう。この映画の構成は、映画を盛り上げるために設定されたものに違いない。とはいえ、連続殺人犯の異常な造型は、たぶん現実のものをベースにしているんだろうと思います。

こういう異常さって、結局回避出来ないよなぁ、と思います。デリヘルという仕事が相手の家に行くこともある以上、リスクがあることは大前提でしょうが、とはいえこれほどのリスクを想定しないといけないとしたらちょっと辛いものがあるでしょう。

この映画を見て、警察が酷いと感じる人もいるかもだけど、しかしこれも仕方ない部分はあるよなぁ、と思います。もちろん、結果から見て、なんであの時釈放したんだ、と警察を責め立てるのは簡単です。けど、そんな易しい問題ではないでしょう。確かにヨンミンは怪しい人物だったし、殺したという証言もしている。しかし、ただそれだけの理由で逮捕・拘束し続けることはなかなか難しいだろうと思います。万が一ヨンミンが無実の人だった場合のことは、やはり考えないではいられません。もちろん、結果としてヨンミンは釈放されるべきではなかったのですが、じゃあヨンミンの釈放の前に間違いのない自信を持ってヨンミン釈放を阻止出来る人物がいるかと言えば、まあいないでしょう。

個人的にモヤモヤしてしまうのは、ジュンホの扱われ方です。ジュンホは、元刑事という立場を利用する時もあるし、暴力に訴え出ることもあるわけで、正直印象の良くない人物ではあります。ただ、ミジンを探し出したいという意思は本物だろうし、ミジンの娘を守ろうという気持ちも強い。どんな手を使ってもミジンを探すんだ、という意気込みが空回りしてしまうことで、ジュンホ自身の扱われ方がどんどん悪くなっていく。もちろんこれも結果論だが、ジュンホの言っていることをもう少し早く聞いていれば状況は変わったかもしれないよなぁ、と思ったりもします。

ヨンミンのような人間は、社会のどこかに今も潜んでいるでしょう。あんな人間は存在しない、などと思っていては、また同じ悲劇が繰り返されるだけでしょう。だからと言ってじゃあどうすればいいのかという結論はないのだけど、個人の狂気による被害と、個人の権利やプライバシーの両立をどうしたらいいかは、社会の構成員である僕らが考え続けなければならないんだろうと思います

「チェイサー」を観ました

「羊の木」を観に行ってきました

これは面白かったなぁ。

何かの本で読んだ話で、印象に残っているものがある。アメリカの話だ。
「銃」と「プール」はどっちの方が危険か?という話なのだけど、これだけでは分からないだろう。正確な問いはこうだ。「銃」のある家と「プール」のある家では、どちらが死亡率が高いか?さて、あなたはどう思うだろうか?

瞬間的な印象で言えば、「銃」の方が危険だし恐いと思うだろう。しかし実際には(少なくともアメリカでは)「プール」がある家の方が死亡率が高い。子どもが溺れて死亡する事故が多いからだ。

これと同じような話ではないか、と僕は感じるのだ。

「一度も殺人を犯したことがない人(非殺人者)」と「過去に殺人を犯したことがある人(殺人者)」だったら、どちらが危険だろうか?瞬間的な印象であれば、「殺人者」の方が危険だろう。しかし、本当にそうだろうか?「

ここからの議論は、あくまでも僕の個人的な意見だが、僕はこんな風に考えている。

まずそもそも、殺人を犯して捕まる人間の大半は「非殺人者」のはずだ。もちろん、正確なデータは知らないが、例えば殺人で捕まった人間を100人集めてきたら、98人ぐらいが「非殺人者」で2人ぐらいが「殺人者」ではないかと僕はイメージしている。

まあ、そりゃあそうだろう。現実には、刑務所を出た後また殺人を犯す者もいるだろう。もちろん、ゼロではない。しかし、その割合は、普通に考えればかなり低いはずだ。何故なら、もしも本当にそんなことが頻発しているのであれば、ニュースでバンバン報道されるはずだからだ。過去に殺人の前科がある者が殺人を犯したことが判明すれば、報道されないはずがない。

もちろん、被疑者が分からないまま迷宮入りする殺人事件も存在するだろうし、そういう中に、殺人の前科者による犯行もあるだろう。しかし、ごくごく一般的に考えてみれば、その可能性はかなり低いはずだ。

それよりも、どう考えてみたって、「非殺人者」が殺人を犯す可能性の方が高い。何故なら、僕のイメージが正しければ、殺人を犯して捕まる者の内98%が「非殺人者」なのだから。ニュースで報じられる殺人のほとんどが、「非殺人者」によるものだ、ということを思い返してみても、そのことが理解できるはずだ。

もちろん、こういう不安はあるだろう。「殺人者」の方が、殺人を犯すことへの抵抗が薄いはずだから、確率としては低いのかもしれないけど、危険視すべきであることには変わりない、と。

しかし、本当にそうだろうか?

ここで、殺人を犯す者を「理由なき殺人犯」と「理由のある殺人犯」に分類しよう。殺人を犯した者が「理由なき殺人犯」であれば、確かにかなり危険だとは思う。「理由なき殺人犯」は、理解できない理由で人を殺しうるからだ。

しかし「理由のある殺人犯」の人はどうだろう。殺人事件にはもちろん色んな動機がある。どうしようもない理由があれば殺人が肯定される、というわけではもちろんないが、夫のDVから逃れるためとか、壮絶な介護に疲れた果てにとか、そういう殺人だって世の中にはたくさんある。そういう人たちは、目の前にあるどうにもしようがない現実を打破するために、不幸にも殺人という選択をしてしまった人たちだと言えるだろう。

もちろん、「理由のある殺人犯」の人たちにも、ストーカーの末に殺してしまったとかというような身勝手な理由もありうる。だから、理由があるという分類でひとまとめには出来ない。ただ僕の感覚では、身勝手な理由での殺人というのは報道されやすく、だから頻発しているように感じやすい。あくまでも個人的な感触だが、切実な理由によってどうしようもなく人を殺めてしまう人の方が多いのではないかと思う。

さて、「理由なき殺人犯」と「理由のある殺人犯」は、どちらの方が多いだろうか?これも僕の感触だが、圧倒的に後者、つまり「理由のある殺人犯」の方が多いだろう。

ここまでの議論で何を示したかと言えば、殺人を犯した者の大半は、止むにやまれぬ事情によって人を殺してしまったのであって、そういう理由さえなければ人を殺すという行動を取らないだろう、ということだ。

もちろん、人を殺した者の中には「理由のある殺人犯」も混じっているし、外形でそれを判断するのは不可能だと言っていいだろう。だから、殺人を犯した者をひっくるめて怖がったり排除したりする、という姿勢を取ってしまうのも分からなくはない。ただ、もしそういう判断をするのであれば、僕らの周りにいる普通の人たちに対しても同じ態度を取るべきだ。何故なら、僕らの周りにいるごくごく普通の人の中にも、将来的に殺人を犯す人間はいるかもしれないし、その中には「理由なき殺人犯」もいるはずだからだ。だから、外形から「理由なき殺人犯」を区別出来ないから、かつて殺人を犯した者全員を排除する、という論理が成り立つのであれば、世の中に存在するすべての人の外形から「理由なき殺人犯」を区別できないから、世の中のすべての人を排除する、という論理も同時に成り立つはずだ。

僕はこんな風に考えているから、かつて殺人を犯した者だからと言って、ただそれだけの理由でその人を怖がることはないのではないか、と自分では思っている。

そもそも、これも当たり前の話だが、僕らが普通に生きている社会のどこかにも、かつて殺人を犯した者が普通に生活しているはずだ。刑期が終わればいずれ刑務所から出てくるわけで、そういう人だってどうにかして生きていかなければならないんだから、僕らが生きているすぐそばで生活している可能性はいつどこにいたってあり得る。知らないだけで、元殺人犯と日常的に接しているかもしれないのだから、知ったから怖がるという態度を僕は取りたくないなと思ってしまう、という部分もある。

本書で描かれるのは、過疎の町に素性を伏せて元殺人犯を受け入れるという国家プロジェクトを背景にした人びとの話だ。こんなプロジェクト、当然現実には行われてはいないだろうが、しかし完全には否定できないだろう。個人的には、フィクションとは言え、非常によく出来た設定だと思っている。僕らが知らされていないところで、このような極秘プロジェクトがどこかで行われているかもしれない。そのことは、誰にも否定できないだろう。

内容に入ろうと思います。
富山県魚深市の市役所で働く月末は、ある日上司から、この町に引っ越してくる6名の受け入れを担当してくれと命じられる。事情を知らずに、新幹線や飛行機でやってくる男女6名を迎えに行く月末だったが、久しぶりに食べるかのようにラーメンを勢い良く食べたり、預かっていてもらっていたから服がカビ臭いと発言したりと、なんとなく不穏な雰囲気を感じている。そのことを上司に問いただすと、彼らは全員犯罪者だと告げられたのだ。
刑務所の経費削減を国としては進めていきたいが、そのためには大きなハードルがある。仮釈放には、身元引受人が必要なのだ。しかし新しく、自治体が住居と雇用を確保すれば、仮釈放に必要な身元引受人になることが出来る、と決まった。そういう仮釈放者は、受け入れる自治体に10年住むことが義務付けられており、過疎対策にもなると、市長肝いりで始まったプロジェクトだと言うのだ。
月末は当初、彼らがどんな罪を犯したのか知らなかったのだが、秘密を知るはずのない同僚の一人が上司のパソコンを覗き見たとかで、彼ら全員が元殺人犯であることが分かったのだ。
月末は、彼らの受け入れ担当として、先入観を持たずフラットに接しようとする。しかし、彼らを受け入れた直後、港で変死体が見つかるなど、胸中穏やかではない。狭い町のことであり、月末自身、あるいは月末の父親とも深く関わるようになっていくが…。
というような話です。

とにかく、設定が見事な物語だな、と感じました。いやー、面白かった。先がどうなるのか分からないというサスペンスフルな部分もあり、また社会的な深いテーマも隠されている。非常に見応えのある映画だった。

社会的なテーマということで言えば、この映画で描かれる元殺人犯の受け入れというのは、原発の問題に近いものがある。原発を稼働すると核のゴミが出るが、その廃棄場所は未だに決まっていない。日本で生み出されたゴミである以上、日本のどこかで処分するしかないが、その処分地の受け入れをどこの自治体もやりたがらないからだ。

刑務所を出た人間をどう扱うか、というのも、近いものがある。核のゴミと同じ扱いをするのも悪いとは思うが、彼らも生きる以上日本のどこかに住まなければならない。しかし、積極的にそれを受け入れたいと考える自治体は存在しないだろう。この映画では、そういう設定が描かれているわけだが、実際には描かれてはいないものの、このプロジェクトを引き受けるにあたって、莫大な補助金などが出るだろう(出なければ、自治体側にメリットはほぼないはずだ)。刑務所から出てくる人間の身元引受人の成り手というのは、今後益々減っていくだろうから(昔は、家族だから仕方ない、という感覚はあっただろうけど、今ではそういう感覚は昔よりは薄れているだろう)、現実的にこの映画で描かれるような方策が必要とされる日が来るかもしれない。

物語という点で言えば、本当に何がどうなっていくのか予測出来なかった。表向きには普通の住民が増えたというだけのことだし、市役所の月末にしても、彼らとは可能な限りフラットに接しようとしている。やってきた6人は、自分と同じような立場の人間が同じ町にあと5人いるなどということは知らない。彼らには家と仕事があり、仕事も真面目にやっている。

普通に考えれば、そのまま何も起こらなくてもおかしくはないのだ。実際、不穏な雰囲気は常にありながらも、物語の冒頭から中盤に掛けては、特別何か起こるというわけでもない。ただ、設定からして、何も起こらないということはあり得ない。だから、これから一体何がどうなるんだ、という気分をずっと持ちながら見ていた。

冒頭で僕は、殺人を犯した者だからと言って怖がることはない、と書いた。しかし、もし自分が月島と同じ立場に立たされていたとしたら、様々な判断に迷ってしまうだろう、と感じた。

いや、それは、市役所の人間としてではない。魚深市に住む、一人の人間としてだ。

月末は、6人の内2人と、かなり深く関わることになる。いや、内1人は関わらざるを得なくなったというべきだろうか。彼らが元殺人犯でなければ何の問題もないはずなのに、彼らが過去に人を殺しているという事実があるが故に葛藤させられてしまう部分というのが月末にはかなりある。

その中で、あぁこれはやっちまったなと誰もが感じるだろう場面がある。月末がベースで参加しているバンドの練習の時のことだ。観客も、月末の気持ちは分かるだろう。あそこでああ言ってしまいたくなる気持ちを、自分は絶対に持ってはいない、と断言できる人はいないはずだ。でも、あの発言はやっぱりダメだった。いや、結果から見れば決して悪くはなかったかもしれないけど、でもやっぱりダメだろう。

これは、実に難しい問題だ。確かに、人を殺したことは悪いことだ。しかし、人間の感情の部分はとりあえず置いておくとして、法律上は懲役刑を経ることで罪は償ったということになる。過去は決して消せはしないが、しかし罪は償ったのだからやり直すチャンスはあって然るべきだ。もちろんその通りだ。しかしその人が、自分の生活に深く深く入り込んで来るとしたら、やはりそれは話が変わってきてしまうだろう。僕も、過去に殺人を犯した者を、ただそれだけの理由で排除するつもりはないが、しかしそれは決して、他の人と同じレベルで受け入れるということとは違う。月末は、かなり頑張ったと言えるだろう。僕が月末と同じ立場だったら、月末と同じように振る舞えるかは、ちょっと分からないなぁ。

月末と同じレベルで振る舞えるかは分からないけど、せめて僕は、クリーニング店の店主の女性程度には振る舞える自分でありたいと思う。

「羊の木」を観に行ってきました

「勝手にふるえてろ」を観に行ってきました

うぉーーーー!!!
超良かった!
メチャクチャ良かった!
松岡茉優も良かったし、江藤良香も良かった!
メッチャ良かった!
テンション上がる~~

(注 僕は、この映画を見る前から松岡茉優が好きだし、本書の主人公である江藤良香みたいなこじらせ系の女性が好きなので、正直、この映画を客観的に捉えられているとは思いません)

『私ごときが求め過ぎちゃダメなんですよね。手の届かないものばっかり欲しがって。本能のままに生きるなんて野蛮』

こういうことを書くと、うわぁって思われるような気もするんだけど、僕は、普通っぽく見えるのに、っていうかむしろ平均的な女性よりもスペック(この単語は好きじゃないけど、他に適切な単語が見当たらない)が高そうなのに、何故か自己評価が低い女性に興味がある。

そういう女性は、普通の仮面もちゃんと被って生きていられるので、その仮面に気づかない相手に対してはごくごく一般的な接し方が出来る。明るいし、楽しく話すし、友だちたくさんいるリア充です、みたいな雰囲気さえ出すことが出来る。だから、一般の人たちは、自分の周囲にそういう女性がいることに気づかないままであることが多い。

僕は、比較的にそういう女性が仮面を脱いで接してくれる関係になることが出来た(と思っている)。僕は普段から、どんな話をされても何でも受け入れますよ感を周囲に出している(つもり)なので、仮面を脱いだ姿を出しやすいという部分はあるかもしれない。もちろん僕自身も、そういうタイプの女性に関心があるということを、会話の流れの中で発言したりもするので、そういうこともあって、一般的な人にはきっと見せないのだろう、仮面を脱いだ姿で接することが出来る女性が時々現れる。

そういう人の話を聞くのは、本当に楽しい。

『そう初めてあの時自分から話しかけちゃったんですよ。あぁ本能側の人間に成り下がっちゃったって』

自分に自信を持つことが出来ない理由を、少なくとも僕は外形からは捉えられない。そういう人は、容姿も整っていたり、誰とでも喋れるコミュ力があったり、友だちも多そうなんだけど、何故だか自信が持てないでいる。相手の反応をことごとく悪い風に捉えるし、自分なんかが…という発想を捨てきれないでいる。僕は、どうしてそういう感覚に陥ってしまうのかを、その人の会話からなんとなく想像してみたいと思うんだけど、ちゃんとは捉えきれない。僕自身も、どちらかと言えば自信がない側だから、もちろん共感できる部分もたくさんあるんだけど、でも、そこまで自分のことを悪く考える必要はないんじゃないの?と感じてしまう部分もあって、とても不思議な感じがするし、こういう言い方は良くないのかもだけど、興味は尽きない。

彼女たちも、自分が普段隠しているそういう部分を表に出すことが良い結果を生まない、ということはちゃんと理解している。だから、仮面で隠しているのだ。平均よりもスペックが高い(と少なくとも僕は思っている)から、自分のマイナス面を出すと、「持っている者の贅沢な悩み」みたいな受け取られ方をされてしまうんだろうと思う。そういう経験を経てきているから、皆仮面で覆って見えないように頑張っているのだ。

ある女性は、僕とよく「死にたい」というような話をしていた。お互いに遺書を書いたことがあるという話で盛り上がったりしていたのだけど、ある時その女性は、「他の人にはこんな話が出来ない」と漏らしていた。「死にたい」みたいな話をすると、「えっ、何があったの?」「大丈夫、相談に乗るよ」「ダメだよ、死んじゃ!」みたいな反応が返ってきてしまう。別にそういう反応を求めていない(と僕はわかっているので、そういう反応を返さないのだけど)のに、なんか大事になっちゃうからそういう話は出来ない、というようなことを言っていた。そうだよなぁ、そういう難しさもあるよなぁ、と思った記憶がある。

また、今でも強烈なインパクトを憶えている、こんな印象的なことを言っていた女性もいた。その女性も自己評価が低かった(とはいえ、口調や言い方なんかだけ見ると、強そうな女性っぽいのだけど)。何かの時に、告白されたことがあるか?みたいな会話になったのだけど、その時にその女性は、「私は自分のことが好きじゃない。クソみたいな人間だ。で、そんなクソみたいな人間を好きだと言っている人間は頭がおかしいんだから、そんな人間の好きになれるはずがない」と言っていた。先日、あることで長年悩んでいるという女性にこのエピソードを話したら、「それは私が7年掛けてたどり着いた結論だ!」と非常に強く共感された。

そんなわけで僕は、これまでに、良香みたいな女性には、結構会ってきたと思っている。だから、良香のような女性を、非常にリアルなものとして捉えることが出来るのだ。

この映画を見る上で、良香のような女性の実在を大前提として受け入れることが出来るのかという点は、非常に大きなポイントだろうと思う。

この映画の原作で、主人公の江藤良香がどんな設定として描かれているのか分からないが、少なくともこの映画では、松岡茉優を起用している時点で江藤良香は「地味ではあるが容姿は良い女性」と受け取られるだろう。で、良香のような女性の実在を受け入れられない人(特に男に多いのではないか、と想像しているのだけど)は、「なんであんなにキレイなのに、あんなに捻くれてるんだ?あんなヤツいるわけない」と感じてしまうのではないか、と勝手に思っている。そうなってしまうと、この映画そのものを受け入れにくくなってしまうだろう。

僕の感覚で言えば、良香のような女性はどこにでもいる。普段はそうは見えないから、見破るのは難しいし、僕も近くにいるすべての女性の仮面の奥を覗けるわけではないから、そう考えると、僕が今まで出会ってきた以上にそういう女性が周りにいるということになる。10年間も脳内彼氏がいる、という設定にどこまで共感できるのかは分からないが(しかし、二次元キャラにリアルに恋をする女性も多いし、受け入れられやすい時代だろうとは思う)、少なくとも良香の性格的な部分に強く共感してしまう女性は、結構多いんじゃないかなぁ、と思っている。

内容に入ろうと思います。
経理として働く24歳のOLであるヨシカは、中学の頃から好きな「イチ」という「脳内彼氏」がいる。24年間、実際に彼氏がいたことはないが、中学の頃の「イチ」を何度も何度も脳内に召喚しては、その妄想に耽っている。とはいえ、中学時代も、「イチ」と深く関わっていたわけではない。ヨシカが編み出した「視野見」という、目の端で「イチ」を捉えることで「イチ」に見ていることに気づかれないようにする、というやり方で、ほとんど接触がないままだった。しかし、ごく僅かに存在する印象的だった出来事は、何度も何度も思い出してはキュンキュンしている。
ヨシカはインドア派で、絶滅した動物が好き。好きが高じて博物館払い下げのアンモナイトの化石を買ってしまうぐらいだ。職場と家の往復で、特に何があるわけでもない。
会社では、机を並べて仕事をしているクルミと仲が良く、日々くだらない話をしながら、お互いに相談事をしたりもしている。ある日、営業との飲み会があるとクルミに誘われたが、全然乗り気になれないヨシカはパスしようとするが、クルミに押し切られて行くことに。とはいえ、飲み会で発生する浮ついたノリに、予想通り嫌悪感を抱く。その飲み会で、普段仕事でちょくちょく関わっている、「ニ」という渾名で呼んでいる男と連絡先を交換することになった。「ニ」はヨシカと積極的に関わろうとするが、脳内彼氏である「イチ」がいるヨシカにすれば、「ニ」のことなど関心はない。
しかし、そんな「ニ」からある日突然告白され、ヨシカは脳内彼氏である「イチ」と、現実の「ニ」のどちらかを選ばなければならなくなり…。
というような話です。

いやー、面白かったなぁ。冒頭でも書いたけど、僕はそもそも松岡茉優が好きだし、江藤良香のような女性も好きなので、とにかくサイコーの映画でした。何よりも、江藤良香を演じる松岡茉優のハマりっぷりと言ったら、見事!って感じでした。これは、僕が元々、「松岡茉優は明るくてリア充側の人に見えるのに、実は結構ヤバイくらいの陰がある」ということを知っているからこそ感じるのかもしれません。松岡茉優も学生時代全然友だちがいなかったようで、あまりに話し相手がいないので、ヘッドセットを付けてパソコンに向かって話しかけていたそうです。そう、松岡茉優自身も、結構そっち側の人なわけです。だからだろうなぁ、松岡茉優(ってか江藤良香)の言動が、全然演技に見えないっていうか、松岡茉優と江藤良香の境界線が分からなくなるっていうか、ってかもはや同一人物なんじゃないかみたいな、そんな風に思いながら映画を見ていました。

もう、とにかく「妄想」で出来上がっている映画だと言っていいでしょう。詳しいことは書かないけど、ラストの方で(いや、見ながら、もしかしたらなーとは思っていたけど)ある事実が明らかになる構成は、いやー見事だなーと思いました。こういう構成にすることで、前後半での落差もより大きく打ち出すことが出来るし、映画自体も凄く楽しいものに仕上がっているので、上手いなぁーと思いました(原作がどうなってるのかは分からないんですけど)。

「ニ」がある場面でヨシカに向かって、「思考回路が悪魔的」って言うんですけど、後半、まさにそんな感じの状況になっていきます。こじらせているにもほどがあるだろ!っていう、ちょっとヤバさすら感じる展開には、度肝を抜かれますね。前半は、ふわっと笑わせるような小ネタが随所にあったりしてなんか楽しい感じなのに、後半では一転、狂気すら感じるような場面がぞくぞくと出てきます。ダンボール箱にモノを詰めているシーンでのヨシカの言動は、マジでヤバすぎますからね。常軌を逸している。そしてそれを、松岡茉優がまた実に良い感じに演じるんだよなぁ。この場面は、台詞が強いから、たぶんうまくやらないと「恐い」みたいな雰囲気に仕上がっちゃうと思うんだけど、それを松岡茉優はちゃんと「狂気」を打ち出せる演技でシーンを作っているので素晴らしいなって思いました。

個人的にはヨシカの言動で一つだけうまく納得出来ない部分がありました。これも詳しくは書きませんが、ベランダで急に態度が変わってしまう場面です。いや、分かる、分かるよ、ヨシカが感じたショックは。でも、それはさー、お互いの感情が非対称だからしょうがないっていうか、そこ求めるのはちょっとしんどいっていうか、っていうかそこさえ気にしなければ全然超うまく行ってたじゃん、みたいな感じがしちゃって、あそこだけ僕的には受け入れがたかったかなぁ。っていうか、アレでダメになっちゃうって、男的にもキツすぎっしょ、って感じがするんですけど、あの場面、女性の皆さんとしては共感できるものなんでしょうか?

いやーしかし、松岡茉優と江藤良香の両方を堪能出来る、超俺得な映画で、しかもストーリーも素晴らしいし、クスッと笑えるし、良いことづくめの映画でした。素晴らしかったー!

「勝手にふるえてろ」を観に行ってきました

桜の下で待っている(彩瀬まる)

新幹線でどこかに行く時は、大抵、何か日常ではない用事がある。日常の用事(通勤など)で新幹線を使っている人も、多少はいるだろうが、ほとんどそんなことはないだろう。新幹線、という響きは、非日常を引き連れてくる。

僕は、「日常」というものが、なんとなく胡散臭く感じられてしまうことがある。胡散臭い、というのは変な表現だけど。うーん、なんて言うのかな、嘘っぽい感じがする。「日常」を形作るものが、なんだか嘘っぽい。なんというのか、「こういうのが日常ってやつなんですよ」と、まるで押し付けられでもしたかのようなもので出来上がっているように感じられてしまうのだ。

「日常」を生み出すものは色々ある。仕事、家族、恋人、食事、趣味…などなど。でもそういうものは、「日常」を生み出すものであればあるほど、「こういうのが日常ってやつなんですよ」というよくあるものへと引きつけられる磁力を持つ。なんか違うな、といつも思う。そういうのを望んでるんじゃないんだけどなぁ、と思ってしまう。

僕の抱いている違和感に共感できない人も多いだろう。そうだろうと思う。普通はこんなことに違和感を持たずに、みんな「日常」を形作って日々生活をしている。だからこそ余計に「日常」というのは、「こういうのが日常ってやつなんですよ」という性質を強固なものにしてしまう。みんながみんな無意識の内に受け入れ従っている「日常」というものが、大多数の人間によって無条件に形作られていくことで、誰も意識的には望んでいないとしても、「日常」というのは否応のない強制力を持ち始めてしまうように思うのだ。

なんか嫌だなぁ、と感じる。

だからこそ、僕はなるべく「非日常」の中で生きていたいなと思う。もちろん、それは語義的に不可能だ。普段変わりなく過ぎていく日々のことを「日常」と呼ぶのだから、「非日常」を生きるためには、毎日毎日、前日とは違う変化がなければならないことになる。それは無理だ。

ただ、「日常」の中で生きざるを得ないとしても、その中に随時「非日常」が割り込んでくるような、そんな環境や状態をなるべく維持したいとは考えている。幸いにも、比較的長い期間、そういう時間を過ごすことが出来ているように思う。非常にありがたいことだ。いつまでこんな状態を続けられるか分からないが、「非日常」が否応無しに飛び込んでくる「日常」が少しでも長く続いてくれたらいいと思う。

新幹線がたどり着く場所はいつも、誰かにとっての「非日常」の空間だ。「日常」から逃げ出したのか、「日常」から出たくないのに出ざるを得なかったのか、そういう事情は様々だが、彼らは「非日常」にたどり着いて、そこで「日常」では感じられないもの、見られないもの、触れられないものを感じ取る。その些細な変化を掬い取る物語だ。

内容に入ろうと思います。
本書は、5編の短編が収録された短編集です。

「モッコウバラのワンピース」
智也は新幹線で宇都宮へと向かう。ここには、十年前には縁もゆかりもなかった67歳の祖母がひとり暮らしをしている。親族中が反対した、ある男性との恋を貫いて、旅行先で知り合った堀川雄太郎との生活を始めてしまったのだ。色々あってひとり暮らしとなった祖母の生活を補助するために、母か智也が頻繁に宇都宮までやってきている。
智也は付き合っている心美先輩との関係がちょっと不穏に成りかけている。智也にはどうにもしようがない事情でだ。そんなモヤモヤを抱えながら、親族中を振り回した祖母とあちこちを巡る。

「からたち香る」
律子は、恋人である由樹人の実家である福島へと向かっている。震災の後、福島は「フクシマ」とカタカナ表記され、良くない出来事が起こった時だけニュースになった。そういう土地で、どういう人がどんな生活をしているのか、律子にはイメージ出来ないでいた。実家で急におとなしくなる由樹人に頼りなさを感じつつも、時折微妙な雰囲気を感じたり思わず出してしまったりしながら、律子は、「フクシマ」のイメージを変えていく。

「菜の花の家」
武文は、実家のある仙台へと向かっている。母の七回忌のためだ。かなり多くの親族が集まる賑々しいイベントだが、実家に着いてみると事情があって坊さんの到着が遅れているという。武文は、姉である淑子から、姪の百花をアンパンマンミュージアムに連れて行ってくれと頼まれる。かつての母の干渉や、様変わりしてしまった仙台の街、まったく変わらないアンパンマンの世界などを感じながら、武文は新幹線の中で夢見た謎めいた景色の場所を思い出し、百花と共にそこに向かうことにする。そしてそこで、思いがけない再会がある。

「ハクモクレンが砕けるとき」
知里は、平日に結婚式をやるなんてと憤っている父親と、なだめる母親と共に新幹線で花巻へと向かっている。叔母さんが結婚するらしい。知里は先日、小学校の同じ掃除の班だった女の子が不慮の事故で亡くなったという事実を知った。だから、新幹線も怖い。事故になるんじゃないかと怖い。
実家に着くと、「むうちゃん」と呼ばれている女の子に出会う。彼女に誘われるようにして、知里は死を巡る幻想的な旅路へと足を向けさせられる。

「桜の下で待っている」
意外な人物が主人公になるが、素性は伏せておこう。
彼女は日々忙しく働いている。合コンにも出るけど、離婚した両親を見ているため、家族というものの良さを本当には理解できていないだろうと思っている。合コンがあった夜、弟がやってきた。どうやら相談事があるらしい。

というような話です。

なかなか良かったと思います。新幹線に乗ってたどり着く先は確かに「非日常」なんだけど、とはいえその「非日常」は誰かにとっての「日常」であって、だから突拍子もない世界が描かれるわけではない。誰かの「日常」の中に闖入してしまうことで「非日常」を経験することになる者たちが、そのちょっとした「非日常」の中で何を感じるのかを丁寧に拾っていく。

『日々変わっていく、かつての姿を思い出せなくなりつつある実在の故郷の町よりも、ジャムおじさんのパン向上の方が率直ななつかしさを訴えてくるぐらいだ』

『同じ車両に乗っているおばさん二人は、さきほどから癖の強い早口でしゃべっていて、律子にはほとんど内容が聞き取れない。けれど、由樹人にはちゃんとなんの話をしているのかわかるのだろう。東京では誰よりも近い二人でいられるけれど、この土地には私の存在よりもさらに深く、由樹人に染みついているものがある』

『自分がどこかに帰るより、居心地よくするから誰かに帰ってきてほしいな。遠くから、新幹線で来てほしい。私が見つけたきれいなものを一緒に見て、面白がってほしい。そういうのがやってみたくて、家族が欲しいのかも』

新幹線に乗って故郷へと向かう話が多いが故に、本書にはこんな風に、故郷に対する様々な感情が描かれる。あまりの変化に違和感を覚える者、自分ではない誰かの故郷に対して何かを思う者、あるいは、戻れるような故郷を持たない者なども登場し、それぞれ故郷というものに対する考え方を見せる。

僕自身は、故郷がどうということには、ほとんどこだわりがない。実家にいた頃、特別良い思い出があるわけでもなく、かといってトラウマになるほど嫌だったことがあったわけでもなく、特にどうということのない場所だった。それは、実家や故郷に限らない。どこに住んでいても、その土地に特別な愛着を抱くことはない。いつでもその環境から離れられるぞ、とういう感覚を捨てるのが怖くて、その環境に根を下ろすことを本能的に避けているんだと思う。

それは、こんな感覚とも少し近いものがあるかもしれない。

『福島がどうこうではないのだ、と窓に映る物憂げな自分の顔を眺めて気づいた。震災から三年、福島は確かにまだ複雑な状況にあって、だからそういう土地に住む人と接することに緊張があるのは本当だけれど、それが一番の理由ではなくて。それよりも、ただの個人として出会い、好きになって、これからは一緒に生きていこうと、三十路に差しかかる大人二人が決めたのに、誰かにその決定を許してもらわなければならない、好かれるようにふるまい、自分を調整しなければならない、ということが嫌なのだ。自分や相手の所有権を、家や親に握られているような閉塞感。でもそんなことが気になるのは、私がまだ大人ではなく子どもだからだろうか』

この感覚は、凄くよく分かる。土地というものに愛着を持てないのは、土地というものに縛られたくないからだし、それは人でも変わらない。僕は、自分で物事を決定しなくても、決定権さえある状況なら特に不満はない。しかし、決定権がない(ないように見える)状況には抵抗したくなってしまう。だから、彼女のこの葛藤は、なんだか凄くよく理解できてしまった。その葛藤を、福島という土地への微妙な揺らぎと重ね合わせて描く、というところが非常に自覚的なんだろうし、面白いと思った。

福島に関しては、こんな描写も興味深かった。

『わかっていないと失礼だと思い込んだ、にわか仕込みの数字と知識。お母さんたちはたとえ私が震災や原発事故についてなにも調べずに訪れても、新しい家族として温かく迎えてくれただろう。むしろ、なんの変哲もない暮らしをしている人たちのところへ、そんな風に身構えて訪れたことの方が、よっぽど失礼だったのではないだろうか。』

これは僕自身も、状況こそ大分違うけど、似たような感覚を抱いたことがあるので、分かる。こういう場合、どう振る舞うべきかの正解は実に捉えにくいが、結果的に不正解であった場合のマイナスが非常に大きいので、どうしても慎重になってしまう。彼女の葛藤は、3.11後の日本において、様々な形で顕在化していることなのかもしれない、という感じがした。

『新しい、きれいなワンピースを着て誰かに見せたいなんて、もう長い間、考えたこともなかったんだ』

本書ではこんな風に、人間の微細な感情の動きみたいなものもグッと捉えていく。今引用したこの文章は、非常に印象的だった。人間が何か行動するのには、やはり理由がある。その理由は、外からは見えにくいかもしれないし、時には全然理解できないかもしれないけど、本人の中では筋の通った理屈がきちんとあることが多い。登場人物たちは「非日常」と接することで、普段意識しないその「理由」みたいなものに触れることが出来るのかもしれない。一話一話は短いけど、そんな風に繊細に人間を切り取っていく感じが良い。

派手さはまったくないのだけど、新幹線という「非日常」への移動手段をうまく利用して、様々な人間模様を描き出していく作品です。

彩瀬まる「桜の下で待っている」

現代語訳 学問のすすめ(福沢諭吉 訳:檜谷昭彦)

内容に入ろうと思います。
本書は、あの有名な「学問のすすめ」を現代語訳にしたものです。
一回ぐらい読んでみようかなと思ってたけど、原文は無理そうなので、現代語訳にしてみました。

書いてあることは、明治維新直後の日本国民に向けられているので、状況は現代と重ならない部分もあるなと思います。ただ、福沢諭吉が指摘していることの中には、現代と同じ状況のもの、同じ様な人のこともあって、活かせる部分もありそうだなという感じがしました。

要するに、「お前ら学べよ」ってことを書いている本です。元々「学問のすすめ」というのは、故郷である大分県中津に学校をひらくにあたって書いた短い文章が発端だったようで、そこから色々書き足し書き足ししながら、17編を合わせて「学問のすすめ」としたようです。章立てによっては、学ぶこととはあまり関係なくて、人間関係だったり生き方全般だったりについて書いてあって、内容はまあ雑多という感じでしょうか。

一貫して福沢諭吉が説いているのは、

『現実的ではない学問は二の次にして、まずやらねばならぬのは、日常業務に必要な実用の学問である』

ということです。
要するに、生きていくのに必要なことをちゃんと学べよ、ということです。まあそりゃあそうだなと思うんですけど、これは当時の状況もあるでしょう。古典やら芸術やら、直接生活に結びつかないような学問ばっかりやってて、そんなんじゃ外国と渡り合えんぜ、というようなことをあれこれ言い方を変えながら言っています。

そうやって、書いてあることはなるほどと思える部分もあるんですけど、福沢諭吉の書きぶりがなかなか苛烈で、おぉ結構すげぇこと書いてるな、と感じる部分がそこここにありました。

例えばこんな感じ。

『およそ、世の中で無知蒙昧な民ほど憐れなものはないし、つき合いにくいものはない。彼らは恥を知らない。自分の無知を反省する能力がないから、金持ちを怨み、ときには集団で富者を襲う。自分は国の法律で守られながら、自分に不利な場合は平気で法を破るのである。
また、一応の財産があるのに金を貯めるばかりで、子孫の教育を考えない者がある。それで子も孫も愚かなまま遊びほうけて、先祖からの財産を使いはたす例が多い』

言い方が結構刺激的ですよね。よくこんな風に書いたなぁ、って色んな部分で感じました。あと、この部分は、書いてある内容的に、今も同じだなって感じしますよね。時代が変わっても、やっぱり人はそんなに変わらないよなぁ、とも感じました。

法律を守らなければならない、という話の中で、「忠臣蔵」のことをボロクソに書いていたりもする。「学問とは、何を信じ何を疑うのかの判断力を身につけることだ」みたいな風にも書いているので、みんなが当然だと思っていることにもズバズバ切り込んでいくんだけど、当時の人はこれを読んでどんな反応をしたのかなぁ、というのがちょっと気になった。

まあ、一度ぐらいは読んでみてもいいんじゃないかと思います。

福沢諭吉(訳 檜谷昭彦)「現代語訳 学問のすすめ」

愚者の毒(宇佐美まこと)

内容に入ろうと思います。
物語はいくつかの時間軸で展開されていく。ここでは、1985年春から始まる時間軸の物語のみ書いていこう。
香川葉子は、とある事情から甥っ子を一人で育てなければならず、就職先を探していた。しかし、特技があるわけでもなく、しかも子どもがいるために残業が出来ないとなると、なかなか仕事にありつけなかった。
そんなある日、いつものように面接に行くと、驚くべきことが起こった。なんと職安の人の手違いで、まったく違う人の履歴書が送られていたのだ。石川希美というらしいその女性とは、生年月日が同じなようだ。お互いに人違いのまま面接を受けるという無駄な時間を過ごし、職安の職員にひとしきり文句を言った後で、二人は親友になった。
やがて希美は、葉子にある仕事を紹介した。難波寛和という、中学校の教師をしていた先生の家の住み込みの仕事だ。今家政婦をしている藤原さんが、娘が住む大津に移住するということで話が回ってきたのだ。
難波先生は、葉子が育てている甥っ子である達也にも丁寧な口調で話しかける。達也は、心因性らしい理由によりひと言も話さない。葉子も、達也とどう接したらいいのか、ずっと分からないままだ。借金まみれだった両親(達也の母親が、葉子の妹だ)を無理心中で喪った達也が喋れなくなってしまったのも無理はないのかもしれない。しかしそんな達也の様子を気にかけることもなく難波先生はにこやかに話しかける。
難波邸には、一人息子である由起夫さんもいた。難波先生は、亡くなった奥さんとは再婚で、由起夫さんは奥さんと先夫との間の子だ。長らく消息不明だったが、癌で余命幾ばくもない妻の頼みで息子探しを始め、加藤義彦弁護士が見つけ出してきたのだ。亡くなった妻の父親が経営していた繊維関係の会社を由起夫さんが受け継ぎ、加藤弁護士を顧問としながら、順調な経営を続けているようだ。
希美と由起夫さんとは幼馴染であり、その繋がりで葉子が家政婦として収まることになった、ということらしい。
葉子は、妹夫婦が事業に失敗してからは、気の休まる時のない生活を送っていた。そして、高利貸しから逃げるようにあちこちを転々としてきたのだ。だからこそ、難波邸での穏やかな生活は、葉子にとっては心安らぐものだった。難波先生や達也をよくしてくれるし、葉子は由起夫さんに恋心を抱いている。親友の希美は加藤弁護士の事務所で働いていて、よく会うことが出来る。今までの人生が嘘みたいに、素晴らしい日々を過ごせている。
しかし、そんな穏やかな人生も、そう長くは続かなかった…。
というような話です。

非常に内容紹介が難しいのだけど、ネタバレを避けるためにはあまり書けません。本書では、第一章の「武蔵野陰影」は、前フリだと思ってください。第一章だけ読んでも、何がなんだか分からないでしょう。もちろん、何かが起こりそうな予感は、第一章の時点でもあります。ただ、実際に物語(というか舞台設定)が大きく動き出していくのは、第二章以降です。第二章は、1965年冬から始まる「筑豊挽歌」。第一章での穏やかな日常とはかけ離れた過酷な現実が描かれる第二章とが折り重なることで、物語全体の構造が見えてくるという形になっていきます。

物語の構造としては、なかなか良くできていると思いました。第一章で登場する様々な人物同士の繋がりが、第二章以降の描写によって明らかになっていきます。それが明らかになることで、第一章の見え方がガラリと変わることになります。葉子視点では穏やかに描かれていた日常が、視点をちょっと変えることで絶望が内包された世界へと様変わりしてしまう感じは、なかなか素晴らしいと思いました。

ただ、どうしてもあまりのめり込めなかったなぁ、という感覚もありました。その理由を自分の中でもうまく捉えきれていませんが、深みをあまり感じられなかったからかなぁ、と今のところは思っています。

本書は、第二章でかなり絶望的な人生が描かれることになります。確かにその悲惨さは物語から伝わるんですけど、どうも迫ってくるような描き方ではないように感じられてしまいました。第一章で、違和感はありつつも穏やかで幸せな日常を描き、第二章で圧倒的な絶望を描き、その対比によって強い世界観が生まれる構造なんだと思うのだけど、第二章がどうにも迫ってくるほどの描写ではなくて、弱いと思ってしまったのかもしれません。うーん、でもちょっと分からないなぁ。この作品をあまり高く評価できない理由を、うまく捉えきれません。

時々、同じテーマ、同じ構成で、別の作家が書いてくれたら超絶的な傑作になっただろうに、と感じる作品があります。本書も、例えばですが、同じテーマ、同じ構成で、窪美澄が書いたら、また全然違った作品になったような気もします。なんか本書に対する物足りなさみたいなものは、そういう部分なんです。個人的には、ちょっと惜しいなと感じてしまいました。

しかし、生まれる環境は選べないとはいえ、彼らのような境遇で生まれてきてしまった人たちはどう生きるべきだったのか、と考えてしまいますね。なんというか、そういうことを考えると、自分が子どもを持つことの怖さも感じてしまいます(元々欲しいとは思ってないんですけど)

宇佐美まこと「愚者の毒」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)