黒夜行

左脇のプロフィールにある「サイト全体の索引」から読みたい記事を探して下さい。

読んで欲しい記事・索引






乃木坂46関係の記事をまとめました
TOEICの勉強を一切せずに、7ヶ月で485点から710点に上げた勉強法
一年間の勉強で、宅建・簿記2級を含む8つの資格に合格する勉強法
国語の授業が嫌いで仕方なかった僕が考える、「本の読み方・本屋の使い方」
2014の短歌まとめ
この本は、こんな人に読んで欲しい!!part1
この本は、こんな人に読んで欲しい!!part2
管理人自身が選ぶ良記事リスト
アクセス数ランキングトップ50
索引 まとめました
【今日考えたこと】索引


災害エバノ(災害時に役立ちそうな情報をまとめたサイト)(外部リンク)
スポンサーサイト

鼻/外套/査察官(ゴーゴリ)

この本を読んだ理由は他でもない、乃木坂46の齋藤飛鳥にある。好きな本について聞かれる度に、ゴーゴリの「外套」を挙げていたのだ。

齋藤飛鳥は読書家で知られているし、遠藤周作や貫井徳郎など読んでいるという。人の悪意を描くような、気持ちが沈むような作品が好きだ、とも良く言っていたから、「外套」もそういう方向性の作品なのかと思っていた。

が、そうではなかった。

ある雑誌で「外套」について齋藤飛鳥は、『「真面目な人は損をする」とはこういうことかと思いました』と書いている。なるほど、そういう見方をしているとすれば、齋藤飛鳥らしい、という気もする。物事を真っ直ぐではなく斜めから見るような視点をよく取る齋藤飛鳥にとっては、ゴーゴリが描くこの不条理で滑稽な物語が、教訓めいた話に受け取れるのかもしれない。

しかし「外套」かぁ、と僕は思った。齋藤飛鳥がどの本で「外套」という作品に触れたのか、それは分からない。僕が読んだのは光文社古典新訳文庫版で、「鼻」「外套」「査察官」という3作品が載っている。で、この3作品の中で言えば、僕は「鼻」が好きだ。

冒頭から、何なんだこの話は、という展開が実に面白い。

何せ、焼きたてのパンを切ったら鼻が出てくる、というところから物語が始まるのだ。意味不明だ。その後、鼻を失った人物が右往左往しながら鼻を探す、という展開になるのだけど、その鼻が金の刺繍の入った制服を着て街を闊歩しているのだ。呼び止めた男は鼻に向かって、「あなたはぼくの鼻なんですよ!」と叫ぶ。シュール過ぎる…。何かを風刺したりするような背景的な当時の社会風潮などがあるのかもしれないけど、ただ読めばシュールで不条理で意味不明な物語だ。でも、なかなか面白い。

「外套」は、それまで慎ましやかな生活をしていた男が、擦り切れてボロボロになった外套を仕立て直してもらうのだが、それがきっかけで命を落とし、死後幽霊となって他人の外套を奪う、という、こちらも何だそりゃ、という話なのだが、「鼻」と比べれば全然現実よりだし、理解可能な範疇にある。

「外套」を読んでて感じた凄さは、要約すればさっき僕が書いたように2行程度で書けてしまうような、別に大した内容でもないのに、それを一つの短編にまで膨らませてしまうゴーゴリの想像力だろうか。本書の解説には「四次元的想像力」という言葉があり、『ゴーゴリの描く「現実」は現実を越えて「四次元」に突き抜けているのだ』と書かれている。それは「鼻」のような明らかに現実を超越したような作品に対しての表現なのかもしれないが、より現実に軸足を置いているように感じられる「外套」であっても、一人の男の慎ましやかな生活をここまで細かく描くのか、外套を盗まれた男がお役所などをたらい回しにされる様をこの短い話の中でここまで細かく描くのか、というような部分に現実を超越したような想像力を感じる。

とはいえ、これはある程度仕方ないことだが、「齋藤飛鳥が面白いと言っているから、僕も「外套」を面白く読みたい」という気持ちが僕の中にあることは確かだ。もし、齋藤飛鳥が「外套」を好きでいるという事実を知らずに本書を読んだとしたら、「外套」という作品に注目していたかは分からない。なので、ここで僕が書いたことが、「外套」に対する純粋な僕の評価なのかと言われると、なかなか難しいところはある。

何故齋藤飛鳥が「外套」を読もうと思ったのか。そこに一番関心がある。僕は、恐らく齋藤飛鳥が好きだと言っていなければ、一生読まなかっただろう。そのお陰で、本書のような読みやすい(解説で訳者が、本書を落語調に訳した、と書いている)古典作品もあるのだ、と知れたことは良かったことだ。齋藤飛鳥は一体いつどこで「外套」と出会い、それを読もうと思ったのだろうか。

聞く機会があれば、その辺りのことを聞いてみたいな、という感じもする。

内容紹介については、「鼻」と「外套」については、ここまでの文章の中で書いた要約以上に付け足す点はあまりない。少なくとも本書に収録されている3作品は、ストーリー展開がどうのというような話ではなく、読んでみてその不可思議さを感じるような作品なので、外形上の物語について触れてみても、あまり面白さは伝わらないのだ。

「査察官」についても、ざっと内容を書いておこう。こちらは、戯曲だ。ある町の市長が、ペテルブルクからお忍びで査察官がやってくる、という情報を耳にする。その内に町の地主である二人が、宿に金を払わない男がずっといる、あいつが査察官に違いない、と言って町は大わらわになる。しかし実はその男は、金遣いの荒いただの旅行者で…。というような話だ。こちらもスイスイ読めて、バカバカしい喜劇が展開されていく様がなかなかにシュールで面白い。

恐らく、齋藤飛鳥が「良い」と思っているほどには「外套」を良いと感じられなかったのが残念ではあるが、まあ読書というのはそういうものだ。読む本の趣味は、合わない方が当然だと思うので、なんということはない。読んでみて、「何故齋藤飛鳥は「外套」を読もうと思ったか」「「外套」のどこに齋藤飛鳥は惹かれたか」により関心が強まった、ということは確かである。
あと、これは昔からどうにもならない僕の性質だが、古典作品を読むと猛烈な睡魔に襲われるのをどうにかしたい。どうにもならないのだが。

ゴーゴリ「鼻/外套/査察官」

八月十五日に吹く風(松岡圭祐)

戦争を扱った小説に対して、こんな感想を抱くのはあまり良くないのかもしれないが、率直にこう思った。
メチャクチャテンションが上がる!と。

『だがここには、日本人なら誰でも抱いたことがあるはずの素朴な疑問が存在する。アメリカは原爆を落とす無慈悲をしめしながら、なぜ直後に比較的平和な占領政策をとるに至ったのか。』

本書の内容を一言で説明すれば、「この問いに答える物語だ」となるだろう。

確かにその通りだ。僕は学校であまりきちんと歴史を学んでこなかったし、歴史について考える機会もあまりないので、僕個人はこういう疑問を抱いたことがないのだが、言われてみれば、確かにその通りだと思える。実際に、イラク戦争など、僕たちがリアルタイムで知っている戦争では、戦勝国が苛烈な占領政策で支配している姿を見ている。歴史上、多くの戦争でも、そのような経過を辿ってきているはずだ。

何故日本は、平穏な終戦を迎えることができたのか。

もちろん、色んな理由があるのだろう。でもそれは、なかなか両方を同時に説明するものではないのではないか、と思う。「平和な占領政策をとった理由」だけであれば、色んな可能性を考えうる。しかし、「直前に原爆を落としていたにも関わらず、平和な占領政策をとった理由」となると、なかなか難しい。

まず、何故原爆が落とされたのか、という理由からいこう。いや、正確に表現しよう。「何故原爆を落とすことに躊躇することがなかったのか」の理由だ。

当時ホワイトハウスは、シンクタンクに日本の分析をさせていた。その中で、日本人はこんな風に描かれている。

「日本人は自他の生命への執着が薄弱であり、だからこそ一億玉砕にも呼応する。であれば、本土決戦になれば婦女子を含めた非戦闘員が戦闘員になりうる」

この報告書に対して、本書の登場人物の一人はこう思考を巡らせる。

『恣意的な誘導だと筒井は思った。一億総特攻を拒否しないからには、民間人も非戦闘員ではなく、したがって原爆の標的にしても国際法違反にあたらない。そう暗に示すのが目的だろう』

そう、当時アメリカ人は、日本人を「生命を尊重するなどありえない民族」だと捉えていた。これは、相当根強く信じられていた考えだったようだ。特攻やバンザイアタック、玉砕と言ったアメリカ人には理解できない戦闘行動に対して、「日本人は生命を重んじないのだ」とする見方がいつの間にか広まっていたという。そういう背景があったからこそ、アメリカ人は原爆投下を躊躇せずに行ったのだ。

つまりこうも言える。原爆投下まではアメリカ人は、日本人を野蛮な民族だと思っていたのだ、と。であれば、やはり冒頭の疑問が蘇ってくることになる。
ならば何故、その直後に平穏な占領政策を取ることができたのだろうか、と。

実際、(物語ではあるが)本書では、1945年8月15日の米軍内の会議で、こんな発言がなされている。

『(占領に際して)今後も非戦闘員による個人単位での玉砕、あるいは村や隣組など小自治体単位での反乱が起こりうる、注意警戒事項にそうある。根拠は、日本人に根付いた国家主義が、人命の尊重に優先するという、彼ら固有の意識構造にある』

『本土決戦、一億玉砕、一億総特攻、神風。軍部の呼びかけに国民から強く反発する声もなく、むしろ積極的に応じているとの報告が多々ある。それらに基づいた分析だ。どの戦線でも、日本の軍司令部は玉砕を強いて、無慈悲に兵を見捨ててばかりだ。なのに遺族は、訃報をきいても感謝を捧げている。復讐心もより強まるかもしれん。われわれが日本の占領にあたり、警戒するのは当然だろう』

1945年8月15日時点でも、アメリカ人はこう考えていたのだ。そのままであれば、苛烈な占領政策が行われていてもおかしくはなかっただろう。

この流れは一体、何によって変わったのか。

それが、「1943年8月15日の出来事」と「一人のアメリカ人の進言」なのだ。
本書は、この二つを軸にしながら、日本の終戦、そして戦後のあり方を形作った大きな流れを描き出そうとする。

先に挙げた「一人のアメリカ人」は、本書の中では「ロナルド・リーン」の名前で登場する。若き頃、タイムズスクエアの一角にある古本屋で見つけた「源氏物語」の翻訳に魅せられ、極東の島国に憧れるようになった。後に日本に帰化し、ある新聞社の客員編集委員となった人物である。もちろん、分かる人には分かるだろう。あの人物だ。

あの人物がいなければ、日本は今とはまったく違った国になっていたかもしれない。そう考える時、大げさに言えば、僕たちは「源氏物語」という一冊の古典によって救われたと言えるのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
ロシアとアラスカに挟まれたベーリング海に浮かぶアリューシャン列島。その中に、戦時中、日本軍がアメリカ軍の領土を占領した島が二つある。アッツ島(熱田島)とキスカ島(鳴神島)だ。
熱田島に着任した山崎保代大佐は、この島が現在置かれている状況を振り返った。極北の寒地荒原(ツンドラ)であり、動植物はほとんど存在しない。島外からの供給は長く途絶え、増援部隊を送るという連絡があってから9日が経つ。完全な孤立状態だ。アメリカ軍に対しては徹底抗戦を敷いているが、どこまで持つか分からない。そこへ、山崎を熱田島へと送った樋口司令官から打電が届く。全員、玉砕せよ、と。熱田島では2638名の日本人が死を迎えた。
同じ頃、隣の鳴神島にも、5000人を超える兵がいた。彼らも熱田島と同様、孤立状態にありながらアメリカ軍に対して凄まじい抵抗をし続けていた。そこに、玉砕を促すような平文と同時に、ガダルカナル島での撤退作戦の通称であるケ号作戦の内容が暗号文で送られてきた。彼らは考えた。これは、救出作戦の知らせなのではないか?
しかし、鳴神島の救出作戦は、現実的に不可能なものだった。アメリカ領の孤島に置き去りになった5000人を超える兵を、米艦隊がひしめきあう海域を突破して救助に向かわなければならない。艦隊を損失するわけにはいかない大本営も難色を示すが、しかし樋口司令官は諦めない。あらゆる手を尽くし、この任務を了承させ、艦長も探し出した。海軍少将、木村昌福だ。
木村は、気象専門士官である橋本恭一少尉と共に、誰もが不可能だと思っている救出作戦に乗り出していく…。
一方、20歳のロナルド・リーンは、日本軍ほぼ全員が玉砕したアッツ島に派遣された。残された日本語文書から、重要な機密を探し出すためだ。「源氏物語」から日本に関心を持ったリーンには、理解できなかった。何故あれだけ繊細な情愛の念が民族の根底にあって、バンザイアタックという発送に行き着くのか、と。彼は、『自殺の欲望に憑かれ、自他ともに生命を果てしなく軽んずる、いわば狂気といえる国民性の発露』と日本人を捉えている多くのアメリカ人とは違い、彼らの国民性や行動原理を可能な限り正しく理解しようと奮闘する…。
というような話です。

本当に、素晴らしい物語だった。

僕は正直なところ、本書で描かれていることがどの程度まで真実なのか、全然判断できない。どこまでが創作で(明らかに、米軍内での会議の様子などは、想像によって描かれているのではないか、と思うのだがどうだろう?)、どこまでが史実なのか、分からない。とはいえ、本書の冒頭に、

『この小説は史実に基づく
登場人物は全員実在する(一部仮名を含む)』

とあるので、僕はとりあえず、本書で描かれていることは基本的に事実なのだ、と捉えて感想を書いています。

キスカ島、という名前は聞いたことがあった。というか、見覚え、というべきか。キスカ島の名がタイトルに入る本を目にしたことがあるのだ。しかし、それがどんな本なのか知らなかったし、ましてやキスカ島で、ハリウッド映画なのか?と思いたくなるような壮絶な救出作戦が展開されていたなんて、まったく知らなかった。

そしてもちろん、このキスカ島での救出作戦が、ちょうど2年後の終戦に大きく関わっているなどということももちろん知らなかった。

冒頭でも書いたが、本当にこれが真実なのだとすれば、僕たちはある意味で「源氏物語」によって救われた国民だと言えるだろう。それぐらい、ロナルド・リーンの果たした役割は大きいし、ロナルド・リーンが日本人の国民性を見出したキスカ島での救出作戦に関わった者たちも素晴らしい。

本書では、アッツ島やキスカ島で壮絶な毎日を送らざるを得ない兵士たちや、司令官である樋口の奮闘、またアメリカ軍側の動きなど様々なことが描かれていくのだが、何よりもやはり、キスカ島での救出作戦の詳細が物語としてはスリリングであり、出来すぎているというぐらい奇跡的だと感じる。

キスカ島での救出作戦は、普通に考えて誰もが不可能だと感じるだろうと思う。本書のP86には、アリューシャン列島の地図が載っているのだが、日本列島から、日本列島の長さぐらい離れた場所にキスカ島はあり、しかもその周囲はアメリカ軍に囲まれているのだ。しかも残っている兵は5000人以上。その兵士たちを1時間以内に収容しキスカ島から撤退しなければならないのだ。

無理でしょ、と普通は思う。

しかし、艦長である木村は、誰も考えつかないようなアイデアを次々に繰り出し、計画を前に進めていく。時に木村の指示は、その意図がさっぱり分からない。例えば、三本ある内の真ん中の煙突を白く塗れ、と指示する。この指示は、その意図を誰も理解できなかった。しかしある場面でその理由がはっきりと分かる。これには本当に驚かされた。

他にも、常識では考えがたいアイデアと決断で、木村は不可能を可能にしていく。

木村は、5000人以上の兵を救った。しかし、間接的には、日本人全員を救ったと言っていいだろう。もちろんその背景には、キスカ島の救出作戦を実現させようと奮闘した樋口司令官など、様々な人間の想いが込められている。それらを、リーンが的確に汲み取り、適切な場面で進言をした。どれか一つでも欠けていれば、事態は全然違ったものとなっただろう。

『こう思ってほしい。救える者から救っていると。救うことが許される者から、あるいは容認される者から、そういうべきかもしれん。私にはいまのところ、それしかできんのだよ』

樋口がそう語る場面がある。樋口もまた信念の男であり、結果的に彼は、自らの信念を貫き続ける人生を突っ走ったお陰で救われた。もちろん、すべての人間がそんな風に振る舞えるわけでもないし、信念を貫き通せば何もかもうまく行くわけでもない。とはいえ、こういう生き方をした人がいた、ということを知れるのは、とても勇気づけられることだと思う。

『若い兵士たちは、天皇陛下のため命を捧げるべき、そう信じている。敗北はむろんのこと、敵の捕虜になるのも恥と考える。だが、こんな時代をつくりだしてしまった自分たちこそ、恥を知らねばならない』

これも樋口の考えだ。実際に樋口(あるは樋口のモデルとなった人物)がこんなことを考えていたかは分からないが、しかし、少なくとも本書で描かれる樋口の様々な言動は、こういう下地となる考えなしにはなかなか実現されないだろう。僕たちも、上の世代が作り上げた価値観をただ盲信していないかどうか、そして下の世代にこれが当たり前だという考えを押し付けていないか、常に振り返り続けなければならないだろう。

『戦争のなかにあっては、正しい答えは否定されます。でも正しいものは正しいんです』

本書の中で重要な役割を果たす、同盟通信社外信部の菊地雄介の言葉だ。戦争の影が様々な場面でちらつく現代。僕たちはこのことを改めて認識しなければならないし、その中にあっても正しさを貫ける人間でありたいと僕は思う。

松岡圭祐「八月十五日に吹く風」

成功者の告白 5年間の起業のノウハウを3時間で学べる物語(神田昌典)

正直に言おう。
胡散臭い本なのだと思っていた。

僕は本書を、とある理由から読むことにした。
その理由はここでは書かないが、別に起業しようとか成功者になろうと思って読んだわけではない。読む必要があったから読んだのだ。

だから、自分の中には、本書を読むためのそこまでの積極性はなかった。噛みくだいて言えば、しょーがねーから読むか、というぐらいのスタンスだったのだ。

けれど、冒頭から、本書は面白いかもしれないぞ、という予感を漂わせていたのだ。

『成功に向かう道には、いくつもの地雷が埋まっている。成功が現実のものとなるに応じて、それと等価の困難や障害が用意されていたのだ』

『大きな成功を実現していく過程では、確実に障害が降りかかる。成功だけを持ち逃げできない。私は単なる戒めとしていっているのではない。これは事実なのだ。私が確信できる理由は、短期間に急成長する会社経営者の多くの事例を見てきたからである。』

プロローグに、こんなことが書かれていた。なるほど、これはちょっとよくある自己啓発本とは違うような気がするぞ、と思ったのだ。

しかしとはいえ、まだまだ警戒心を解いたわけではなかった。というのも、「(ビジネス的に)成功すれば、等価の困難や障害がもたらされる」というのは、運不運やバイオリズムの話として説明されてしまうのではないか、という懸念があったからだ。そういう話であれば、面白くもなんともない。しかし、僕のその懸念は、良い意味で裏切られるのだ。

プロローグには、こんなことも書いてある。

『これからあなたに伝えたいことは、地雷を踏むことを回避する方法ではない。残念ながら困難や障害を避けることはできない。しかし上手に乗り越えることはできる』

『根底に流れるテーマは、ビジネスと家庭のバランスを撮りながら、いかに会社をスムーズに成長させるか、ということである』

ビジネス書をそこまで読んでいるわけではないが、ビジネス書という括られる本を読んで、「家庭」の話が出てきたことは、少なくとも僕の経験ではなかったと思う。非常に面白い切り口だと感じた。

そして、こう書かれている。

『物語ではあるが、作り話ではない。特定の人物や会社がモデルになっているわけではないが、この物語は、私に起こった出来事を含め、複数の実話を下敷きにしている。何人もの成功した経営者に出会ってみると、驚くほど似たようなパターンが生じているので、そのパターンから不純物を殺ぎ落としてきた結果、生まれた物語といっていいだろう』

本書は、青島タクという男が、会社を辞め起業し成功するも、その後様々な障害に襲われる、という展開の物語だ。ここで描かれる物語が、本当に色んな成功者が経験した「驚くほど似たようなパターン」であるのかどうか、それは著者の主張を信じるほかないが、これが事実をベースにしていようがいなかろうが、「起業」に関する様々なことを学べる物語だということは間違いないだろう。現代は、生涯同じ会社でサラリーマンとして働き続けることが困難になりつつある世の中と言っていいだろう。そういう世の中だからこそ、自分の人生を見つめ直すためにも、起業する予定などなくても、とりあえず読んでみるのはアリだと思う。

内容に入ろうと思います。
青島タクは、銀行員である父から「安定」を叩き込まれたために大手メーカーに就職したが、その安定から逃げ出したいと思うようになった。そこで、デジウィルというベンチャー企業へと転職した。デジウィルは数ヶ月前まで、その急成長ぶりがマスコミの話題となるほどの注目企業であり、転職したタクは周囲から羨ましがられた。
しかし半年後。タクは転籍(子会社に移り、本社に帰れる予定はなく、給料も減る)させられることになった。生まれてまだ三ヶ月の子どもがいる。どうしたらいいのか…。
転籍させられることを、妻のユキコに話をした。同時にタクは、独立して会社を作る計画を話す。ユキコは、そんなタクの決意を後押ししてくれた。そこからタクは独立へ向けて考え始める。
昼食を食べていると、かつて働いていた大手メーカーで上司だった神崎ヒロシに声を掛けられた。今は独立し、会計事務所とコンサルティング会社を経営している。やり手だ。タクは神埼に、独立する計画があることを話、相談に乗ってもらうことにした。神崎のアドバイスは的確で、タクが有望なビジネスのアイデアを思いついたこともあって、タクの会社は急成長を遂げることになる。
しかし、本題はここからだ。タクは、順調に成長しているはずの会社で、様々なトラブルがあることに気付く。ユキコとの関係もうまくいかない。それを神崎に相談しようとすると、まるで神崎はタクの会社や家庭の内情でも知っているかのように、きっとタクは今こうなっているんだろうね、と指摘する。一体神崎は、何故タクの会社や家庭のトラブルを予測することが出来るのか…。
というような話です。

なんとなくミステリっぽい内容紹介になっちゃいましたけど、別にそういうわけではありません。ただ、物語の展開のさせ方こそミステリ的ではありませんが、神崎が何故タクの会社や家庭のトラブルを予測出来たのか、という話は、まるでミステリの解決編を読んでいるかのような感覚になりました。

そう、タクが経験するトラブルは、きちんと原因や理由があるものであり、それは会社の成長と共に必然的に起こりうるものなのだ、ということを本書では指摘するわけです。

例えば、著者自身が経験したトラブルには、こんなものがある。

・長男が奇病に罹る
・長女が腸閉塞になる
・家に帰ったら妻がおらず、離婚届がポストにある
・社員が立て続けにメニエール病で倒れる
・同志のコンサルタントがうつ病になり、その後自殺

そしてこれらのいくつかは、青島タクが経験したこととして物語の中でも描かれる。

著者はこれらを、起業の成功による副作用のようなものとして原因追求する。もちろん、科学的に立証できるようなものではないが、本書の中で神崎の口を借りて語られるそれらの原因は、非常に納得感がある。なるほど、そういう説明であれば、100%ではないにせよ理解できる、というような説明をするのだ。

その過程で神崎は、「起業」というものをかなり詳細に分割して捉えてみせる。成長する過程で必要な役割、時期ごとの会社のあり得べき状態、起業家の精神状態などなど。そういったことを細かく捉えた上で、その過程のどんな要素がどんなトラブルに繋がっているのか、という説明をしていく。

先程も書いたが、もちろんこれは科学ではない。本書で描かれる説明が、必ずしも合っているとは限らない。しかしその点は、あまり問題にはならない、と僕は感じた。何故なら、起業家の状態や行動(=「行動」と呼ぶ)が「原因」となって「トラブル」が起こると推測しているわけだが、仮にその「行動」が「トラブル」の「原因」でなかったとしても、その「行動」は避けるべきだと感じられるように本書では描かれているからだ。

もう少し具体的に書こう。本書では、「長男が奇病に罹ったこと」(=「トラブル」)の「原因」が、青島タクの「行き過ぎたプラス思考」(=「行動」)にある、と捉えている。もしかしたら、この捉え方は不正解かもしれない。しかし、それは問題ではないのだ。本書を読めば、「行き過ぎたプラス思考」が「長男が奇病に罹ったこと」の「原因」でなかったとしても、「行き過ぎたプラス思考」を抑えるべきだ、と感じられるようになる、ということだ。仮にそれが直接の原因でなかったとしても、それは悪いものであると認識させられる。そこに本書の大きな意味があるのではないかと思う。

だから、「トラブル」の「原因」として指摘した「行動」が理屈に合わない、と仮に感じたとしても、そのことのみによって本書で書かれていることを単純に切り捨てるのはもったいないと思う。僕は理系の人間なので、やはり科学的に証明できないものに全力で寄りかかるのか怖いと思うし、本書で描かれる「原因」の指摘には、そこの関連性は弱い気がするなぁ、と感じるものもあった。それでも、その点をもって本書を非難する気にはならない。因果関係が仮に証明できなかったとしても、「原因」として指摘された「行動」を取るべきではない理由が伝わると思うからだ。

本書を読むと、「そういう視点から起業という行動や会社という存在を見るのか」と感心させられることが何度もある。今まで「起業」など考えたこともなかったし、「会社」というものも真剣に捉えたことがなかったのだけど、様々な形で「起業」や「会社」を単純化して捉えることで、その本質を捉えようとする視点が面白いと感じた。

本書は、「どうビジネスを軌道に乗せるか?」に対する直接的なヒントも様々に散りばめられている。それらのアドバイスも、実に面白い。「どうお客さんを集めるのか」「少数の大手のクライアントに頼るのは危険」「お客さんの声にこそヒントがある」など、ある意味では当たり前かもしれないのだけど、タクが軌道に乗せようとしている実際のビジネスのアイデアの実例と共にそれらが語られることもあって、非常に分かりやすい。

しかしそういう「どうビジネスを軌道に乗せるか?」という話は、恐らく本書でなくても学べるだろう。やはり本書は、「起業すること」や「会社という存在」の捉え方や、それらをどう活かしてトラブルを回避するのか、という点にこそ主眼がある。

『タク、仕事のために、家庭があるんじゃないんだぞ。家庭が幸せになるために、仕事があるんだ。履き違えるんじゃない』

恐らく多くの人が、「そんなこと分かってる」と思いながら起業するのだろう。しかし、分かっていないのだ。行く先にどんな落とし穴が待ち受けているのか、知らないから「分かってる」などと言えるのだ。

「分かっていないのだ」と思って、謙虚に学ぶことが大事なのだろう。本書は、そのスタートラインに立たせてくれる一冊だと思う。

神田昌典「成功者の告白 5年間の起業のノウハウを3時間で学べる物語」

History of 齋藤飛鳥

【―お笑いクラブって何をするんですか?
みんなでネタを考えて、披露するんです。私、小学校低学年の頃はすごく活発な子供だったんです。それが3年生ぐらいでちょっと変わって、「いや、でもまだ明るくいくんだ!」って思って4年生でお笑いクラブに入ったんです。でもやっぱりなんか違うなって思って1年で辞めました(笑)】「ENTAME 2016年10月号」



【―小学3年生までは「みんなと仲良くて、自分からひとりでいる子に声をかけたりする子」だったんですよね。
そうですね。
―その性格が変わっていった理由を、ぼんやりでいいので教えてもらうことはできますか?
いろいろあるんですよ(笑)。優等生ではなかったんだけど、弁論大会に出て賞をもらったことで全校生徒の前で発表した時があって。ブラスバンド部として全校生徒の前で披露する機会があった時は、木琴が一番難しくて一番憧れのパートになる曲だったんですけど、私がオーディションに受かって木琴を演奏したんです。慕われるような存在でもないのに、そうやって人前に立たされる機会があったことで、先輩にチクチクと言われることもあたし、同級生で取り立てて仲のいい子もいなかったし、いじめられてるわけじゃなかったけど、女子って面倒くさいので少しずつみんなとずれていったというか。】「EX大衆2016年5月号」



【中学デビューしたかったんですけど、まわりにビビってできなくて。でも、ついていくためにイケイケ風な女子を演じていました。途中から女の子特有の面倒くささを感じるようになりました。いまでは無理して自分を作っていたことを後悔しています。イケイケ風な女子も乃木坂初期のいちごみるくキャラも本当の自分じゃなかったんです】「OVERTURE Vol.009」



【中学生のときは、ハッピーエンドの恋愛小説も読んでいたんですよ。変わるものですよね(笑)】「Graduation 高校卒業2017」



【といっても、小さい頃はそんな子じゃなかったんですよ。いろんな本を読んで人間の心理を知ったことで、友達に対しても1つフィルターがかかってしまい、群れて行動するというのができなくなったんですよね】「アイドルspecial2016」



【知り合いに乃木坂のオーディションを勧められたんですけど、最初はイヤで。AKBさんがちょっと好きだったから、そういう存在に自分がなるのもどうだろうなと思ったし。
私はその頃暗かったのもあって、母親からも受けてみなよって言われて、最終的に応募したんです。で、オーディションで審査をするスタッフさんや大人の方と接していくうちに、“こういう芸能界の裏側を見てみたいな”と考えるようになって、この世界に入ってみたいなと思ったんです(笑)】「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」



【―当時AKBやハロプロが好きだったこともあり、過去のインタビューでは「アイドルに助けられてきたので、『私もそんな存在になりたい』という気持ちになって乃木坂46のオーディションを受けました」と語っていた飛鳥。改めて質問すると、オーディションを受けた理由はそれだけではなかった。
それもあるんですけど、知り合いの方にオーディションを勧められたのもあって。私は乗り気じゃなかったけど、母親に「アンタは暗いんだから」と促されて受けることになったんです。
(中略)
私は人生を掛けるほどでななかったので、オーディションに合格したと知った時はかなり意外でしたね。】「ENTAME 2016年9月号」



【―その辺は冷めてたんですかね?
冷めてますね、結構。乃木坂に入ったのも別に、『アイドルをどうしてもやりたいから入ります』というわけでもなかったし。】「MARQUEE Vol.112」



【だいぶ話はさかのぼるんですけど、乃木坂46に入ってから2、3年くらいは『自分が乃木坂46にいる』という感覚があまりなかったんです。当時は中学生だったこともあり、物ごとを真剣に考えていなくて。活動に対して意欲がないとかそういうわけではなく、自分なりに一生懸命取り組んでいたつもりだったけど、いま振りかえってみると、自分のすべてが薄っぺらかったなと感じるんです。】「blt graph. Vol.14」



【それまでの私って、ただ流れに身を任せて生きていたので、別にやりたいこともなくて。昔はみんなと一緒にいるのが楽しいから、乃木坂にいるみたいな感じでした。】「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」



【でも、乃木坂に入ってなかったら本当にどうなってたんだろう?きっとヤバいヤツになってたでしょうね】「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」



【―アイドルとしての理想像はありますか?
最初の頃は「THEアイドル」になろうとしてたんですけど、王道じゃなくても受け入れてくれる人がいることを知って、その理想像はなくなりました。アイドルらしくない道もあると分かった途端、どうやっていたのかも忘れてしまって(笑)。最近は、「自分はアイドルなんだ」とはあまり意識してないというか】「EX大衆2016年5月号」



【アイドルの好きなものは苺だと思って、でも、苺だけだと狙いすぎかなと。「ああ、いちごみるくにしよう」と考えたんです。そして、今以上に自分の武器がなかったので「最年少」を武器にしてしまえと思っていました。
今は「いちごみるく」を後悔しているけど(笑)、当時はそれが正解だと思っていたんですよ。私の想像するアイドルをやらなきゃいけないんだって。ただ、無理をしていたというわけでもないんです。当時は今よりも無邪気さがあったので(笑)、そんなアピールが自然な行為だと思っていました。】「ENTAME 2016年9月号」



【理想のアイドルは自分と逆ですね。だって暗いアイドルとか意味分からないじゃないですか】「BRODY 2017年2月号」



【(理想のアイドルを演じることは)無理ですね…。あっ、でも頑張ったら出来るかもしれないです。ただ、それをする価値を見いだせてないっていうか。たぶん怖いんでしょうね。いろんなことを言い訳にして、自分を納得させてるだけだと思うんですけど】「BRODY 2017年2月号」



【「私、今思うと、本当に何も考えずに乃木坂に来た気がします」
今では、選抜常連になりつつある齋藤飛鳥。彼女は当初、「選抜に対して、思い入れはなかった」と語る。】「乃木坂46物語」



【―普通はセンターを目指すとか競争すると思うんです。飛鳥さんはそういうのに影響されずに?
最初の頃はありましたね。最初の“ぐるぐるカーテン”で選抜メンバーに選んでもらったので、その次から何枚かアンダーで活動したんですけど、その頃は結構『悔しい!』って思ってました。】「MARQUEE Vol.112」



【その後、全国握手会で、『走れ!Bicycle』をファンの皆さんの前で初披露するときも、ステージ上で、選抜メンバーがスタンバイするのを、アンダーメンバーが幕で隠すっていう演出があったんです。私たちは、乃木坂ジャージで、布の中にはキラキラの衣装を着た選抜メンバーたちがポーズをとってるんです。
リハのときもスタッフさんに『幕も笑顔でやりなさい!』って言われて。笑顔になんてなれないじゃないですか。…新曲の初披露なのに、もうボロボロ泣きました。】「乃木坂46×プレイボーイ2015」



【14年は自分探しからスタートしました。横浜アリーナのライブリハでだれてしまったとき演出家の方に「これだけ大人数だと、あなたがいなくても成り立つんだよ」と言われて。そのときはショックではあったんですけど、すぐに「あなたがいないと成り立たない」と言われる存在にならないといえないなと思ったんです】「日経エンタテインメント アイドルSpecial 2015」



【最初、アンダー曲(※「扇風機」)のセンターと聞いた時はプレッシャーもあまりなくて、ただただうれしかったんです。だけど、MVの撮影でV字型のフォーメーションの一番前で横にも誰もいない状態を経験した時に寂しさと難しさを感じて。「センターって、もしや楽しいだけじゃないのかな」と思うようになったんです。
この頃かな、今もそう思っていますけど、個性がないことに気付きはじめてすごく焦りだしたんです。「何かを極めたいけど、どうしたらいいのかわからない」という時期がしばらく続きました。】「ENTAME 2016年9月号」



【(アンダーの)センターに立ったのは、アンダーライブがない時期。6枚目のときだったので。でも私は、逆にその時期にできたことをすごく誇りに思ってて】「乃木坂46×プレイボーイ2016」



【―8thシングル「気づいたら片想い」で再びアンダーに戻った時期が、飛鳥にとって一番ツラかったという。
「気づいたら片想い」で乃木坂46が「ミュージックステーション」に初めて出演したじゃないですか。乃木坂46というグループが世の中に浸透しはじめていることを実感する一方で、自分は選抜に入っていない状況があって…。
シングルの特典としてアンダーライブが行われたこともあって、「まいやん(白石麻衣)をはじめとした選抜常連メンバーと自分は別のグループなんだ」と考えることで、無理やりにでも自分の気持ちを割り切ろうとしたんです。】「ENTAME 2016年9月号」



【それまではガムシャラな姿を見せることがカッコ悪いと思っていたんです。だけど、ガムシャラな姿を出すことでファンの方が喜んでもらえることがわかったので、全力でパフォーマンスできるようになって。とくに2014年10月のアンダーライブ2ndシーズンで意識が変わって、本気で乃木坂46に向き合うようになりました。】「ENTAME 2016年9月号」



【アンダーの時期がなかったら、きっと今、ライブが好きじゃないだろうし】「乃木坂46×プレイボーイ2016」



【なんか私の中でアンダーって特別で、割と私は選抜に行っても、センターをやっていても、アンダーメンバーと一緒にいるときのほうが安心するんですよね】「乃木坂46×プレイボーイ2016」



【―CUTiEの前後で、飛鳥さんの何が変わったと思いますか?
もう全部変わりましたね。前まではあんまり写真に撮られることは好きじゃなかったんですよ。自分の見た目とかがそんなに好きじゃないというか(笑)。コンプレックスが多いのであんまり写真に残されるのが好きじゃなくて。ちっちゃい頃もいつも横を向いていたり、目を隠していたりしてましたね】「MARQUEE Vol.112」



【洋服を買う時、今年の頭くらいまではお母さんと伊藤万理華の指示に従っていました。買い物中にいちいち写真を撮って、2人に送って確認をとっていたんです。万理華にはコートとか大きい買い物の時だけなんですけど】「OVERTURE Vol.009」



【私は自分の見た目にコンプレックスだらけですけど、CUTiEの専属モデルをやらせて頂いたことで、周囲の人から“どう見られているのか”の大切さがわかって来て、普段の生活からどう過ごすべきかを学べたことが、人生ですごく大きい】「乃木坂46 夢の先へ」



【それまではカメラを向けられること自体が苦手だったんです。ただ、最初の「CUTiE」の表紙が好評だったので「メイクが変われば私が写真に残っても大丈夫なんだ」という気持ちになって、そこからは楽しさが大きくなりました】「ENTAME 2016年9月号」



【その頃は、実力や人気ではなくて「CUTiE」のおかげで選抜に入ることができたと勝手に思っていたので、ファンの方に「アンダーのフロントのほうがよかったんじゃないの?」と言われても「いやいや、『CUTiE』さんが用意してくれた席なんだから」と心のなかで呟いていました。】「ENTAME 2016年9月号」



【生駒ちゃん本人は覚えているかわからないけど、「アンダーにいる若い子たちにとっては飛鳥ちゃんが希望なんだよ」と言われたのがうれしくて。アンダーにいた回数と選抜にいた回数が同じだったし、アンダーメンバーの気持ちも分かっているつもりなので、若いメンバーには「アイドル向きじゃない齋藤飛鳥でも前にいけるんだ」と思ってほしいです】「ENTAME 2016年9月号」



【今でも選抜、アンダーのどっちがいいのかと聞かれると考えてしまいます。誤解を恐れず、理想を言えば「選抜に選ばれて、うれしい私」でありたいです。でも、選抜やアンダーのどこにいても「齋藤飛鳥はここにいます」というのを見せられれば幸せですよね。】「日経エンタテインメント アイドルSpecial 2015」



【でも実際、今はセンターにいないわけだし。逆に“私がセンターになったら、本気で売れると思ってるんですか?”ってみんなに訊きたいです】「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」



【―ではこれまで、センターに立ちたいと思ったことはないのだろうか。
ほぼないですね。もともとセンターを目指すようなタイプでもないし、むしろ私がなると万人受けしないと思うし。本当にダメだと思うんですよ…って、ネガティブ過ぎますかね?(笑)
―自分が万人受けしないと言い切ってしまう、その理由も訊いた。
もう、全て。顔も万人受けしないですし、考え方や発する言葉もアイドル向きじゃないし。少なくともこんな暗い話しか出てこないところがダメだなって(笑)多少は明るさもないと!】「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」



【今もですけど、センターになりたいっていう気持ちは別になかったので。福神も自分には無縁だと思ってました
―その頃の飛鳥さんは何を目指してたんですか?
特に何も目指さずただ居ただけって感じです。ただ今やる事をやってるっていう感じだったので】「MARQUEE Vol.112」



【もともとアイドルになりたくて乃木坂46に入ったわけではないし、センターは予想外すぎました。しかも『裸足でSummer』は夏曲じゃないですか。初めて曲を聴いたとき、これ絶対笑顔で歌う曲だ、とさらにプレッシャーがかかりました。でも、センター発表直後の『乃木坂工事中』(テレ東系)の放映を見て、自分の発言はほかのメンバーの気持ちを考えていなかったなと反省しました】「アイドルspecial2017」



【責任感や覚悟は必要だったけど、センターだからって無理して自分を変えることはない。私なりのセンターをやっていこうって。
実際センターに立ってみると、いろいろな発見がありました。私は意外とアイドルスマイルができるんだとか(笑)、こんなに粘り強く物事に取り組めるんだなとか。】「アイドルspecial2017」



【―感情をあらわにすることに抵抗がありますか?
多少はありますね。どんなに身近な人や親しい間柄でも、べつに見えなくてもいい部分はあるじゃないですか。だから、感情をそのまま出す必要はないのかなと思います。『もっと本音を見せてほしい』と言われていたし、もちろんそういう気持ちも理解していたけど、でもやる必要性をあまり感じていなくて。単純に頑固っていうだけなのかもしれないけど】「blt graph. Vol.14」



【―今回、センターを務め上げたことで齋藤さんが得た最大の収穫はなんだと思いますか?
なんだろう…「人間になれたこと」がいちばんの収穫ですね】「BUBUKA 2016年11月号」



【去年の夏ぐらいから、またちょっと人間らしくなったんですよ。「裸足でSummer」で初めてセンターをやらせていただいたときに、びっくりするぐらい周りがやさしかったんです。もちろん、いつもやさしいんですけど、私に不安しかないのを感じとって、私の性格も理解した上でいつも以上にやさしくしてくれて。そのやさしさにびっくりしつつも“なんだ!”人間っていいじゃん!って思えたんです。そのあたりから、ちょっとずつ“今、楽しい!”とかっていう感情を表に出せるようになって、人間らしくなってきたと思います】「Graduation 高校卒業2017」



【自分がどうかよりも、周りのメンバーの気持ちに気づけるようになったのが成長かもしれない。つらかったけどセンターを経験してよかったです】「日経エンタテインメント!2017年2月号」



【―飛鳥さんは以前と比べると、後ろ向きな発言も減りましたし。
『裸足でSummer』のときにあまりマイナスなことを言わないようにしようという意識でやっていて、それがたぶん染み付いて、わりと当たり前になったのかな】「BUBKA 2017年6月号」



【―昨年、センターを経験しても自信がついてこないんですか?
センターになっても、自信につながることはありませんでした。あの時期の経験は、まわりに助けてもらうことによって自分の至らなさを知ることにつながりました。それを反省して次に生かすっていう方向に持っていきたいですね】「FLASHスペシャル グラビアBEST」



【―確かに、飛鳥さんには今求められている感じが強いですし。
いやいやいや、全然全然。
―まだそういう認識はないですか?
ないですないです!
―でも確実にグループを牽引してるメンバーのひとりというイメージがありますが。
全然ですよ(苦笑)。そこに対する自信はこれからかなぁ】「BUBKA 2017年6月号」



【―センター期間をやり終えて、飛鳥さんのなかに何が残りましたか?
残ったというか、乃木坂46に対する考え方がだいぶ変わりました。グループのことも、グループのなかにいる自分のことも。
―具体的にいうと?
グループ内における自分の認識の仕方ですかね。前までは、べつに自分の存在がグループにとってそこまで大きいものではないので、自分のことを『乃木坂46として認めてない』っていう見方だったんです。『私はまだ認めてないからな』って。
―自分を突き放しますね
自分はグループのために何もできていないという意識が強かったし、むしろ『乃木坂46』という名前を使って何やっているんだ、という気持ちだったので。でも、センターをやらせてもらって、自分がここにいる意味だったり、役回りが理解できるようになりました。こういうふうにがんばればいいのか、っていう道がちょっと見えてきたというか。
―自分を認められるようになった?
乃木坂46にいても害はないかな、っていうくらいですけどね(笑)】「blt graph. Vol.14」



【実は、すこし前までは“次世代”という言葉に抵抗があったんですよ。1期生として最初からみんなと一緒に頑張ってきたつもりなのに、この4年間は何だったんだろう…って。でも、最近は、期待していただけているんだと思って、ありがたく受け止めています。私がグループの未来を担う、なんて大それたことは思わないけど、以前よりは欲が出てきたし、もっとグループに貢献したいと思うようにもなってきましたね】「FLASHスペシャルグラビアBEST 2016年新春特大号」



【―周りからの見られ方も、その時期から変わり始めたのも事実。そんな彼女は今、グループ内での自分の役割をどう分析しているのか。
みんなといると実感するんですけど、私って薄いなって思うんです。特に選抜メンバーは個性が強い子ばかりですし、何をやっても恥ずかしいことにはならない。そういう何事もうまくやる子たちと一緒にいると、“私にはこれがあるから、ここにいられます”みたいな武器がないなって気付かされるんです。
だからといって、そういう武器がほしいかと言われると…必要な時もあるんですけど、でもそういうのって周りから付けていただくものだと思うので。自分からこれをやろう、あれをやろうみたいなことは考えてないです】「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」



【「こんな大人になりたい」はないです(キッパリ)。流れに任せたいし、「こうなりたい」と思いながら生きていくのが嫌なので。「こんな大人になりたくない」というのはたくさんあるんです。それと、友達は少ないけど、同年代の子を遠くから観てうらやましいと思ったこともないので、いまのところは乃木坂46に専念できるかなって思います。この先はどうなるのか分からないですけどね】「EX大衆 2016年9月号」



【―最後に、未来に向けて今の気持ちを。
大人になると“高校生のことに戻りたい”って、みんな言うじゃないですか。私の周りにも多いし、私もいつかそう言うのかもしれないし、それは別に悪いことじゃないとは思います。でも、大人になっても高校時代に戻りたいと思わなくて済む生き方ができれば、本当はそれがいいんだろうなって思っています】「Graduation 高校卒業2017」



【私がすごい弱っちい人間なので、期待を裏切られてショックを受けるのが怖いんです】「BRODY 2017年2月号」



【たぶんね、何に対しても期待をしたくないんですよ。期待をしてここに来たはずなのに、その期待を裏切られることが多くて。でも“そんなもんだよな”と思ってる自分がいつつ」、まだどこかで期待したい自分もいつつ、みたいな。いろんなのが混ざり合って、今の私ができたんだと思います】「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」



【―いまも「世の中そんなもん精神」はあるんですか?
はい。9枚目、10枚目くらいから思い始めたんですけど、その頃はまだスタッフさんに褒められたらそのまま鵜呑みにして、期待に胸をふくらませていたこともあったんです。でも、結果的に期待はずれになることも多いと分かったので、いまは「世の中そんなもん精神」がより強固になってます。
―「世の中そんなもん精神」は、ビートたけしさんの「人生に期待するな」という言葉にも通じるなと思うんです。その分、冒険ができるというか、モデルなりラジオなり新しいジャンルにも恐れず飛び込めるのかなかって。
そうですね。小さいことで「うれしい」と大きく感じることもできるようになりました。「世の中そんなもん精神」があるから何に対しても高望みしないので、うまくやれている部分もあるのかなと思ってます。】「EX大衆2016年5月号」



【うーん、でも私はどんな意見も受け入れるというか、あえて自分のことを調べたりはしないけど、批判的な意見にも「参考になります」と思えるタイプなんです】「OVERTURE Vol.009」



【でも結局、私自身そこまで納得しようと思ってないというか、納得する気がないので、誰かに相談してスッキリしたいとか、自分のなかでこれを解決したいとか考えたことがあまりないですね。だって“納得することってなくないですか、世の中って?”って考えになっちゃうんですよ。】「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」



【私、なんに対しても“こだわりを持つ”ってことが好きじゃなくて。もちろんいい方向に進む努力はしますけど、なるようになってくれればいいし、私は絶対にこうなりたいって夢は持ちたくない。自分にも、周りにも、あんまり期待はしたくないんです。そのほうが、ワタシ的にはいい意味で楽なんですよね】「Graduation 高校卒業2017」



【私、「このジャンルに向いてるよね」って言われるのが好きじゃなくて。曲によっていろんな見え方ができたほうがいいかなと思っているので、それは意識していますね】「ENTAME 2017年5月号」



【私は個人的に“飛鳥はこういうイメージだよね”って決められるのがあんまり好きじゃなくて。
だからこそ、いろんな方面の仕事をさせてもらえるようになって、自分のいろんな面を見せなきゃいけないなっていう意識はより強くなってます】「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」



【私はファンの皆さんが抱いている私のイメージをまるまる全部は認めてはいないんですけど、自分らしさは自分が決めるものだとも思っていないんです。だから、齋藤飛鳥として求められるものにきちんと応えていきたいと思っています】「アイドルspecial2017」



【でもなんか、昔に比べて人に流されることがなくなってきていて、それが自分的にはいいなって感じることが多いんです。だから、今後も流されずに自分の考えを持ってやっていけたらって思うんですけどね。例えば、今は若いから何を言っても中2病とかメンヘラとか言われるんですけど、大人になってもずっとそんな感じで言い続けたら、中2病でもメンヘラでもなくて、根本的に性格がひん曲がっているだけなんだなって(笑)、わかってもらえる!
―齋藤飛鳥は、決して中2病でもメンヘラでもないんだぞと。
違いますよ。ただ、今はそう思う人はそう思ってくれてもいいんですけどね。時間がかかってもいいから、いつか理解してくれたらいいなって思います。】「Graduation 高校卒業2017」



【最近握手会やブログのコメントでうれしいのが、以前は「見た目」で好きになってもらう方が多かったんですけど、「考え方が好き」という方が増えたこと。「見た目」を好きになってもらえるのもうれしいけど、「見た目」が変わったらどうなってしまうんだろうという不安もあるし、「若さ」は必ず失われますから。
でも、「考え方」は基本的には変わらないので、そこを好きになってもらえるのが嬉しいんです。自分を認めてもらったような感じがします。】「日経エンタテインメント アイドルSpecial2016」



【あ~。世間の方にみんなのよさがどこも捻じ曲がることなく伝わればいいなと思ってます。
―自分自身は?
自分のことが捻じ曲がって伝わるのは、「もうしょうがない」と思ってるので大丈夫です】「EX大衆2017年5月号」



【もとから真夏のことは大好きだったんですけど、たぶんどこかで胡散臭さを感じていたんですよ(笑)】「BUBUKA 2016年11月号」



【もともと私はネガティブだから不安やプレッシャーはずっと抱えた状態ではあったんですけど、でも誰かに言うほどではなかったし、言うのもダサいから自分のなかに留めていたんです。ただ、一度だけどうしても我慢できなくなっちゃったときがあって。(中略)
そこで話を聴いてもらったときに「あ、真夏には言えるな」と思って。それから真夏にだけ話したりとか、言わなくてもなにかあったら目が合ったり(笑)】「BUBUKA 2016年11月号」



【真夏とは似てるところも結構あるんですけど…でも、なんか私が持ってないものをすべて持ってる印象があって。真夏は頭がいいし、やってることに無駄がないし。なにをやらせても恥ずかしいことにならないのもかっこいいですよね。あとはもう人間力。真夏だからこそ、こういうキャラでいれるというのはあると思います。私は誰からも好かれたいとは思ってないんですけど、でも真夏みたいにこれだけ周りから愛されているひとを見ると、そういう人生もアリなのかなってすごい思います。】「BUBUKA 2016年11月号」



【(最年少で得したことについて)あ、私は橋本(奈々未)が好きなんですけど、中学生のことはどうやって愛を表現すればいいのかわからなくて。たぶん、ちょっと歪んでいたんでしょうね。あの、きのこのお菓子があるじゃないですか?あれの上のチョコの部分だけ自分で食べて、棒のクッキーの部分を橋本に渡すっていう。よくわからない愛情表現を14歳のことにしていたんですよ。もう意味がよくわからないじゃないですか。でも橋本は、中学生なのにこんなに考えて私に愛を伝えてくれたって、理解を示してくれたうえにブログにまで書いてくれて。そんなことされるの絶対イヤなはずなのに、きっとこれも若さや無邪気さということで受け入れてもらえたんですよね】「BUBUKA 2017年5月号」



【なんだろうな。私がけっこうネガティブで暗いことをよく言うんですけど、奈々未は「私もそう思うときがあるよ」と共感してくれる。それと、ずっと言い続けてくれてるのが「飛鳥にはもっと気楽に生きる方法を覚えてほしい」という言葉で】「EX大衆 2017年1月号」



【なんか、奈々未のふとしたときに出る言葉って、すごく重みがあるの。この人は嘘をつかないんだって、心の奥底で信頼してる部分があるから、本当に素でいられるんだと思う。末永くこの関係でいたいな】「乃木坂46×プレイボーイ2016」



【(橋本奈々未)憧れている部分が大きいから、奈々未に質問や相談をすることが多かったのかなって。奈々未は嘘をつかないし考え方も近いから、その答えに納得できて、奈々未が示した道なら間違いないと思えるんです。5年間、ご飯に行ったこともないし、互いの気持ちをそこまで話したかといえばそうじゃないかもしれないけど、信頼し合えていた不思議な関係です】「OVERTURE Vol.009」



【礼儀とかはちゃんとしたいなって思ってます。チヤホヤされがちじゃないですか、アイドル。もう5年間もチヤホヤされ続けてきて、でもそのチヤホヤを真に受けず、それを疑って生きてこれたってことは、逆に社会に出ても普通に生きていけるんじゃないかなって思うんです】「BRODY 2017年2月号」

「光」を観に行ってきました

喪失は、持っているからこそ感じる。
持っていないものを、失うことは出来ない。

『消えてなくなってしまうものにこそ美しさがある』

確かにその通りなのだろうとは思う。でもそれを「美しい」と感じられるのは、それが元々自分のものではない場合だけだろう。

自分のものであれば「消える」とはなかなか表現しない。「失う」となるだろう。「消える」と表現できるものは、元々自分のものではなかったのだ。だから「美しさ」を感じることが出来る。

あるいは、失ったものにも、「美しさ」を感じることは出来るものだろうか?

失いたくないから、何も持ちたくないと思ってしまう。
どうも昔からそう思うことが僕にとっては普通だった。
モノも人も概念も、あまり持ちたくない。
いずれそれらは、失われてしまうと思っているから。
その喪失に、自分が耐えられる気がしないから。

目が見えない人にも、色んな方がいる。
生まれた時から見えなかった人もいれば、途中から見えなくなった人もいる。
僕にはどちらの気持ちも分からない。
恐らく、両方の気持ちを同時に理解できる人はまずいないだろう。
その上で、こんなことを考えてしまう。
どっちの方が、よりダメージは少ないだろうか、と。

「喪失」という意味で言えば、生まれた時から見えなかった人は何も失っていないかもしれない。初めから持っていなかったのだから。
けれど、最初から見えない場合、「想像する」というのはどういう行為になるのか。
見えていた記憶がある人は、過去に見たものや見たものからの類推で「想像する」ことは出来るかもしれない。
しかし「見た」という記憶がない人は、一体何を想像しているのだろうか?

何に「美しさ」を感じるのだろうか?

内容に入ろうと思います。
視覚障害者向けに、映画の音声ガイドの文章を作る仕事をしている尾崎美佐子は、日々目に映るものを音声ガイドのように切り取っていく。モニター会で自分の考えたガイド文を映画に当てはめながら朗読する。そのモニターの中に、中森雅哉がいた。モニター会で、美佐子に厳しい意見を言った人だ。上司に見せてもらった写真集で、中森がかつて名の知られた写真家だったことを知る。
中森は、僅かに視野が残っている。公園で彼を見かけた時、美佐子は中森の手に二眼レフカメラを認めた。今もまだ、カメラを手放さないでいるらしい。
届け物をしたことをきっかけに中森の部屋に上がることになった美佐子。少しずつ、中森雅哉という人物の内側に触れていく。
美佐子には年老いた母がいる。認知症だ。面倒を見てくれる人がいて、すべてその人に任せきりにしてしまっている。時々顔を見せに行くが、母が何を見ているのか、美佐子には分からない。
中森は久々に、かつてのカメラマン仲間と飲みに出かける。「もう撮らないんですか―」そんな言葉にも、笑って返答する。その帰り道、吐瀉物に滑って転んだ中森は、地面に転がった二眼レフカメラが誰かに持ち去られたことに気付く…。
というような話です。

なかなか素敵な映画でした。たぶん色んな見方が出来る映画で、見る人によってどこに感じ入るかが変わってくるんだろう、という感じがしました。

僕はやはり、冒頭でも書いた「喪失」という部分に一番惹かれました。視力を失った写真家がどう生きるのか。

『一番大事なものを捨てなきゃいけないなんて辛すぎる』

という言葉は、想像するだけでも辛い現実を切り取るものだと思います。

また「喪失」は、記憶の喪失という形でも出てきます。美佐子の母もそうですが、美佐子が音声ガイドを付ける短編映画でも、認知症を患った妻とそれを介護する夫の物語となっている。この短編映画は、「光」本編のエンドロールの後に流れる。こちらの映画も、「光」以上に文学的という感じで、「喪失」とそれに抗うことを止めた者の緩やかな時間が描かれていると感じました。

『映画の音声ガイドは、彼ら(視覚障害者)の想像力を理解すること』

なるほど、と思うと同時に、それは激しく困難だ、とも感じました。目の見える人間が、目の見えない人間の想像力を想像する。そんなことが出来るのだろうか?

ただ、なるほどと思わされるセリフがあった。

『私たちは映画を観ている時、いつの間にか映画の中にいる』

僕たちにとって「映画を観る」というのは、「スクリーンを見る」というのと同じだろう。しかし視覚障害者にとっては、「映画の世界の中に入っている状態」なのだという。

『映画は私たちにとって、とても大きな世界なの。その大きな世界を言葉で小さくしてしまうこと程、残念なことはない』

なかなか厳しい言い方だが、非常に的確で分かりやすい表現だと感じた。

映画を観ていて感じたことは、登場人物たちが「セリフを喋っている」ような感じが全然しなかったことだ。主演の永瀬正敏と水崎綾女の二人はともかくとして、そうじゃない人たちは皆、映画の撮影などということとは関係なしに、普通に喋っているように見えた。特にそれを感じたのが、モニター会のシーンだ。本当に、実在するモニター会を見ているような感じがした。あのモニター会にいた人たちが本物の役者なのか、あるいはそうでないのか僕には分からなかったが、あの雰囲気を「演技」によって生み出しているとしたら、ちょっと凄まじいな、と感じた。

ちゃんと映画全体を捉えきれたか自信はないけど、なかなか素敵な映画だったと思います。

「光」を観に行ってきました

廃校先生(浜口倫太郎)

学校の先生とは、あんまり相性が良くなかったなぁ、と思う。今振り返ってみれば、その理由ははっきり分かる。

僕は今でも、決められたこととかルールみたいなものが嫌いだ。自分の中でしっくり来るような内容であっても、それが「ルール」として定められているということに対してイライラしてしまうことさえある。

そして、まさに学校というのはルールの宝庫だ。「しなければならないこと」も山ほどあるが、「してはならないこと」も山ほどある。

そういう環境が、僕には窮屈だったなぁ、と思う。

子供の頃は表向きとても優等生だったので、ルールに対してさほど抵抗するようなことはなかったような気がする。ただやはり内側では、おかしいと思っていたし、時々どうにも我慢が出来なくなって爆発することもあった。

ルール、というのとはちょっと違うのだが、未だに覚えていることがある。

確か中学の合唱コンクールだったと思う。その時の担任の教師は、僕の中で「先生がなんでも決めてしまう」という見え方をしていた。それに対する反発があったのだろう。教師が、合唱コンクールで歌う歌はこれです、と勝手に決めてきた時に、それはおかしい、と言って反発したことがある。

正直僕にとっては、合唱コンクールで歌う曲なんかなんでも良かったのだけど、やはり「勝手に決められている」ということが凄く嫌だった。それで、選曲を一からやり直すことにしたのだ(まあ、結局、クラス全員で決めた結果、教師が最初に提示した曲に決まったのだけど 笑)。

そういうルールに対する嫌悪感は、やはり教師に向いてしまう。今なら、教師だって「やらされている」のだということは分かる。教育現場のことは詳しく知らないが、恐らく「こうしなければならない」「こうしてはならない」という様々な規則でがんじがらめにされているのだろう。教師にもよるだろうが、必ずしも生徒に押し付けているルールに賛同しているとは限らない。

とはいえ、その辺りのことは子供の頃はよく理解できていなかったのだと思う。ルールを押し付けてくる人=教師、と図式ですべての物事を見ていたのだと思う。だからどうしても、教師という存在を受け入れることが難しかった。時々、この先生はいいな、と思える教師もいたのだけど、数は決して多くはない。

その後僕の人生には、教師の側から子供を見る、などという経験はなかったわけだけど、教師を主人公にした物語を読むことで、少なくとも子供の頃よりは教師のことが理解できるようになったと思う。そうなった今思うことは、やはり教師も迷いながら教えているのだろうなぁ、ということだ。

『やっぱり先生って情熱持った人しかなったらあかん仕事やと俺は思うぞ』

作中にそんなセリフが出て来る。

教師になる理由には様々なものがあるはずだ。全員が、教育に対する情熱を持ち合わせているわけでもないだろう。とはいえ、そういう見られ方をされる、というのもまた一面の事実ではある。特に、子どもを預けている親はそう願ってしまうだろう。自分の教師としてのあり方と、教師の見られ方のギャップに、多くの人は苦労するのではないかと思う。

とはいえ、教え導くことに喜びを見いだせるのなら、天職なのだろう。本書の「よし太」のように。

内容に入ろうと思います。
里田香澄は、面積の96%が山林という、奈良県の十津川村にある谷川小学校の新米教師だ。創立143年の歴史を持つこの学校は、しかし今年度で廃校が決定している。2年生2人、4年生2人、6年生3人に教師が4人という非常にこじんまりした学校だが、生徒への目が行き届き、地域で学校を中心に行事を盛り上げる、という形が悪くないと思っている。しかし一方で香澄は、自分が教師に向いているのかどうか分からないという悩みをずっと抱えている。
香澄は4年生を受け持つが、同僚の仲村よし太が受け持つ6年生の副担任もやっている。地域の代表者であり、よし太の同級生でもある古坂一護の息子で絵の上手い十夢。曾祖母、母の女三人で暮らしながら、アイドル(NMB)に入ることを夢見る美少女愛梨。災害で母を亡くし、家具職人である父と二人で暮らしながら、中学受験を目指している優作。廃校の決定した小学校において、彼らのスタンスはばらばらだ。十夢は、この素晴らしい校舎、そして学校が無くなってしまうなんてあり得ないと考えている。しかし愛梨と優作はそうでもない。どちらも、スカウトされて、受験に受かって、この村を出て行くことを第一の目標としている。
よし太は教師で、当然大人だが、大人とは思えないほどアホだ。子供たちだけで遊んでいるといつも仲間に入りたがるし、いつも鼻をほじっている。勉強だって特別出来るわけでもないから、中学受験を目指している優作には不満だ。香澄にとっても、なんでこんな人が教師をやっているんだろう?と思うような人だったが、しかし子供たちからは絶大な人気がある。
ある意味で地域の中核を成す存在である谷川小学校が無くなることが決定している中で、そこに住む者たちの想い、そこを出たいと思う気持ち、誰かを思って行動する勇気などが丁寧に描かれていく作品。

これは良い物語だったなぁ。スイスイ読めてしまうような結構軽いタッチで描かれている作品なのに、中身はそこまで軽々しくはない。重厚なわけではないけど、穏やかな日常の物語の中に、小学校を中心とした人々の人生が屹立し、どっしりと張られた根っこのたくましさみたいなものをじっと眺めるような、そんな力強さを感じさせる作品だなと思いました。

物語の中心になっていくのは、やはりよし太です。彼はこの物語のキーパーソンだと言っていいでしょう。よし太がいるのといないのとでは、本書はまったく別の物語になってしまうだろうと思います。それぐらい、物語の根幹に関わってくるキャラクターです。

とはいえ、アホであることには変わりありません(笑)。作中でほぼずっと、よし太はアホなことばっかりやっています。まったく教師らしくないですし、教師らしく見せようという気も本人にはないでしょう。

それでも、よし太がやっていることは、まさに「教育」なんだろう、という感じがしました。

本書では、対比の意味を込めてでしょう、香澄が東京の小学校に研修に行く、という場面が描かれる。全校生徒が7人しかいない学校から、生徒数1000人以上の小学校に研修に行くのだ。そのギャップたるや。しかし、その現場は疲弊していた。そこに「教育」と呼べるものがあるのかどうか、判断は難しい。何を持って「教育」とするのか、というのは人それぞれではあるのだろうが、多くの人が最終的に求めてしまう「教育」というのは、よし太が実践するようなものなのではないか、と僕は思うのだ。

よし太の教師としてのあり方を真似するのはかなり難しいだろう。鼻をほじればいいのか、子供にバカにされるような振る舞いをすればいいのか、というとそれは全然違う。形だけ真似してもダメなのだ。そこには、よし太なりの想いと情熱がある。よし太は、それがとても強いのだ。想いや情熱だけでは乗り越えられないものもたくさんある。実際によし太は、教員免許は持っているが教員試験には何度チャレンジしてもダメで、講師という立場で教師をやっている。それでも、想いや情熱で届けることが出来るものもあるのだ、とよし太を見ていると思わされるのだ。

メインで描かれる3人の6年生も実に良い。三者三様であり、村での生活や学校への思い入れなど様々な部分で違っている。関係性がうまく行かなくなってしまうこともあるし、お互いのことが理解できなくなってしまうこともある。それでも、たった3人しかいない同級生との関わり、そしてあらゆるものがない村での生活は、彼らに良くも悪くも様々な経験を与えることになるのだ。

彼らを取り巻く大人たちも良い。大人たちにも物語があり、その多くは「何故十津川村での生活を選択したのか」だ。子供たちには、村での生活に不満がある。しかも親たちは、村での生活から離れられる機会があった、ということさえ知ることもある。じゃあ何故ここでの生活を選んだのか―。それぞれの家族のそれぞれの物語は、「生きる」ということについて大事な何かを伝えてくれるように感じられるのだ。

不覚にも、随所で泣きそうになってしまった。物語の展開としては、かなりベタではある。何度も、先の展開を予測出来た。しかしそれでも、予測通りの展開であることが分かって泣けてくる、という状況さえあった。正直、優しい人間が出て来る優しい物語はそこまで好きではないのだけど、本書はそういう部分に対する抵抗をほとんど感じることなく読むことが出来たし、ベタな展開であっても読ませる力には感心させられた。

こんな学校も、こんな生き方もいいかもしれないな、と思わせてくれる作品だと思います。

浜口倫太郎「廃校先生」

君を一人にしないための歌(佐藤青南)

内容に入ろうと思います。
本書は、一風変わったバンド小説です。何せ、楽器を弾くことも歌を歌うこともなく物語が終わるからです!この小説のテーマは、「バンドメンバー探し」です。
まずは全体の設定から。
中学の頃、ブラスバンド部でドラムを担当していた森尊(通称:モリソン)は、三年間の集大成となるコンクールでドラムスティックを放り投げてしまい、すべてを台無しにしてしまった。そのことがトラウマとなってドラムから遠ざかっていたが、ある日いきなり状況が変わる。同じ学年の見知らぬ少女が、突然モリソンのクラスにやってきて、「おめでとう」と言うのだ。
「選ばれたから。あたしのバンドのメンバーに」
台風のようにやってきて唐突にモリソンをバンドメンバーに引き入れたのは、石塚七海。このバンドのボーカルでありリーダーだ。他に、ベースギターを担当する緒方凛がメンバーとして決まっている。凛のロックに関する知識はかなり深いが、何故かリーダーの七海は、ロックのロの字も知らないようなド素人。何故バンドをやろうと思ったのかもよく分からない。
しかし、とにかくバンド活動を始めるには、あとギタリストを探さなければならない。彼らは、あの手この手でギタリストを探そうとするが、その度に「人助け」のような状況に巻き込まれることになり…。

「Track.1」
インターネットのバンドメンバー募集掲示板で勝手に七海がギタリスト募集を掛けていた。それを見てやってきたのが「ショーン」、本名「宮前匠音(ショーン)」という高校一年生だ。彼は、前のバンドを追い出されそうになっていることに気づいて自分から辞めてやった、と話をした。聞くと、前のバンドのメンバーがこそこそと集まり、別のバンドのギタリストと接触しているのを目撃してしまったのだという。確かにそれは怪しい。とはいえ、彼が本当に辞めさせられるところだったのだとすれば、何か彼に問題があると言うことも出来る。その辺りの事情を彼らは探ろうとするが…。

「Track.2」
応募してきたのは、高校生の志度道康。シド・ヴィシャスのようなパンクロッカーの格好をして、見た目こそバンドマンっぽいが、ギターは最近始めたばかりだという。しかし七海は、技術よりも魂の叫びが大事なんだ、とか、ついさっき凛が講釈した言葉を使って志度を加入させようとする。しかし、志度の加入にはモリソンがまったを掛けた。実はモリソンは、志度のことを小学生の頃から知っている。昔はあんなパンクロッカーみたいな格好はしていなかったし、もっと大人しい奴だった。すると、志度から驚くようなことを聞かされる。もうギターは弾けない、というのだ!

「Track.3」
小林さんは、27歳。高校生バンドに応募してくるにはちょっと年齢が高すぎるが、60万円もしたというヴィンテージギターをいじる手つきは流石で、いっきにバンドのレベルが上がったような感じだ。顔合わせを済ませ、今日は初めて音合わせをする日。入念に音を作る小林さんのこだわりにじれながらも、彼らは待つ。しかし、驚いたことに、トイレに行ってくると言ったきり、小林さんは戻ってこなかったのだ!なんでそんなことをしたのか…。

「Track.4」
初めて女の子の応募だぞ―。七海がそう言った時、誰も予想していなかった。ユウコちゃん(栄村由布子さん)が、まさか42歳のオバサンだなどとは。栄村さんが奢ってくれるというスイーツに釣られている七海と凛を横目に、モリソンは一人栄村さんの話を聞く。なんでも、これまでも高校生バンドに応募しては、断られてきているのだという。探せば同年代のバンドなどいくらでも見つかるだろうに、何故高校生バンドにこだわるのか…。さらに話を聞いていくと、どうも別居することになってしまった娘との関係修復を願ってのことだったようだが…。

「Track.5」
応募してきたのは、一つ年上の倉戸絵理。絵理がやってくる前、七海とモリソンはバンド名で揉めていた。自分の名前から取った「セブンシーズ」で押し切ろうとする七海と、4人を目指しているのに3人しかいない状況を模した「メヌエット」という名前にこだわるモリソンが険悪な雰囲気になっていた。絵理のロックに対する知識が深いために、凛と話が合うのが助かった。七海はいつもとは違って、絵理に対して敵意を剥き出しにするかのような態度を取っていた。音合わせにクラプトンの「いとしのレイラ」を選んだ絵理。その真意は、絵理から一人連絡をもらったモリソンはすぐに知るところとなったが…。

というような話です。

これはなかなか面白い作品でした。大粒な小説なわけではないですが、小粒ながらキラリと光る部分があるという感じの小説で、全体的にとてもうまくまとまっているような印象を受けました。

まず、全体の設定が面白いですね。バンドに限らずですが、スポーツ小説なんかでも、仲間を集めるところから話が始まっていくものは結構あると思います。でも本書の場合は、最後の最後まで、仲間を集めるだけで終わってしまう、というところがなかなか斬新だなと思いました。

連作短編集であり、全編バンドメンバー探しを貫くためには、毎回バンドメンバー探しに失敗しなければなりません。その点をミステリにする、という発想は、非常に面白いと思いました。募集を見てやってくる面々は、何かしら抱えている。彼ら三人は、自分たちのバンドのメンバーを探したいという気持ちは常にあるものの、しかしその一方で、相手の懸念を払拭してあげたい、という思いにも駆られてしまいます。そこがミステリになっていく。

やってくる人たちは、その人なりの理由があって彼らのバンドに応募してくる。小林さんのように、「ギターを弾かずに帰ってしまう」というのであれば話にならないのだけど、そうでもなければ、とりあえずバンドメンバーが決まったということでバンド活動をどんどん進めちゃえばいい。しかし彼らはそうしない。彼らは、その人たちが何故自分たちのバンドに応募することになったのか、ということが何だか気になってしまう。だから、その人たちが抱えている懸念を掘り下げ、あまつさえ解決に乗り出してしまう。しかしそうすることで、その人たちが彼らのバンドに応募してきた理由までなくなってしまうのだから、結局バンドメンバーが決まっていない状態に後戻りしてしまう、ということになる。この物語の構造が、うまく出来てるなぁ、と思いました。

何故彼らは、その人たちの事情を気にしてしまうのか。その詳しい理由は是非本書を読んでほしいのだけど、大きく言えば、彼らもまた傷ついてきた者たちだからだ、と言えるでしょう。モリソンの傷は、冒頭ですぐに描かれる。しかし、七海や凛もまた、それぞれ傷を抱えている。しかもそれが、物語の中でうまいこと絡んでくるのだ。実によく出来ている。七海の傍若無人さも、七海の背景を知れば多少は理解できるようになる…かもしれません(笑)

個人的に好きなのは、やはり「Track.4」と「Track.5」。この二つで、凛や七海の過去の話が明らかにされ、それが物語全体の骨格となっていく。全体的にだが、それぞれの個別の物語が何か突出して良いということはない。登場人物たちのそれぞれの問題は、有り体に言えばよくある話ではある。しかし、その組み合わせ方がなかなか上手いなと思う。

傷ついてきた者たち同士だからこその物語はとても優しい。僕が一番好きなセリフはこれだ(一応誰の誰に対する発言可伏せておく方がまだネタバレにはならないかなと思うので、セリフ中に出てくる名前は伏せてみます)。

『◯◯は私たちにすべてを話すことこそが誠意と思っているのかもしれませんが、それは違います。すべてを告白して相手に判断を委ねることは、相手に負担を強いるということです。私たちは◯◯を好きでいたいのです。だから、そのために必要な情報を与えてくだされば、それでいいのです』

これは凄く好きだなぁ、と思いました。僕の中にも、これに近い感覚があります。
僕の中では、「謝る」というのは、相手に「許容」を強要する行為だな、という感覚があります。謝ってしまえば、状況や相手との関係性にもよりますが、相手は許すしかなくなってしまう。許したくない、と思っていても、表向き許したことにしないわけにはいかない状況に追い込むことになる。だから僕は、どうも「謝る」というのが苦手だ。たぶんこのセリフも、感覚的にはそれに近いことを言っているのではないかと感じる。

傷ついてきた者たちだからこそ他人に優しく出来る。他人に優しく出来るからこそ、自分たちの現状を脇に置いて相手のために行動できる。しかもその優しさは、決して善意の押し売りのようには見えない(七海が傍若無人に振る舞うからこそ、彼らの優しさが100%純粋な優しさに見えない)。そこが良いと思う。

音楽やバンドのことに詳しくなくても、必要な情報は凛が詳しく説明してくれるし、たぶん読者以上に何も知らない七海をベースに物語が展開していくので、誰でも安心して読めます。バンドメンバー探しとミステリをうまく組み合わせた、なかなか読ませる作品だと感じました。

佐藤青南「君を一人にしないための歌」

脳を鍛えるには運動しかない 最新科学でわかった脳細胞の増やし方(ジョン・J・レイティ)

僕はこの本で、変わった読書体験をすることになった。まずその話を書こう。

本書のタイトルは、「脳を鍛えるには運動しかない 最新科学でわかった脳細胞の増やし方」だ。このタイトルから僕は、この本は「運動」についての本なのだ、と思った。これは、突飛な発想ではないだろう。色々あって僕は本書を、自分の興味関心から手に取ったわけではない、という事情も絡んでいる。中身をちら見することもなく、「運動」についての本なんだろう、という思い込みだけで読み始めた。

読み始めると、やけに「脳」についての話が多い。まあ、確かに、「運動」によって「脳」を鍛える、という話なのだから、「脳」について触れないはずもないか。しかし…。などと思いながら読んでいた。そして途中で気付いたのだ。

なるほどこの本は、「脳」についての本なのか、と。

それに気付いたところから、「脳」についての本だと頭を切り替えて読めれば良かったのだけど、どうもそううまくは行かなかった。「運動」についての本だと思いながらかなりのページ数読んでいたこともあって、なんとなく自分の中でこの本を読むモチベーションの糸が切れちゃったように感じたのだ。「脳」についての本だと気づいてからは、読みながら、なんだかなぁ、という感覚をずっと拭えないままいた。

僕は理系の人間だったので、脳科学の話も当然大好きだ。これまでも、脳科学についての本は結構読んできたので、「脳」に関する記述が難しいとか、興味がないとか、そういう理由でモチベーションが切れてしまったわけではないはずだ。恐らくだが、脳科学の本だと思って読み始めていれば、また違った読み方が出来たはずだと思う。

少なくとも僕が見る限り、タイトルや帯には、本書が脳科学の本だとはっきり伝えるような表記はないと思う。タイトルなどからは、「どう運動すれば脳が鍛えられるのか」について書かれた本に見えるのに、中身は「運動することでどう脳が鍛えられるのか」についての本だったので、僕は結構戸惑ってしまった。

そういう意味で、タイトルや帯で何を伝えようとするのか、という点は本当に大事だなと思った。

内容に入ろうと思います。
本書は、先程書いたように、「運動することでどう脳が鍛えられるのか」についての本です。かなり硬派な脳科学の本だと思った方がいいでしょう。もちろん、脳科学の知見そのものを伝えることが本書の目的ではありません。あくまでも本書は、運動をすることの良さを伝えることが目的です。その点は間違いありません。本書を読むと、病気や障害や加齢など様々な問題に対して運動がとても有効であるということが伝わるでしょう。しかしそのために脳科学の知見を通らなければならない、というのがちょっとハードルになるようにも感じます。

本書では、運動がどういう事柄に影響を及ぼすとされているのか、ざっと列記してみようと思います。

◯ 学習
◯ ストレス・不安
◯ うつ・注意欠陥障害
◯ 依存症
◯ ホルモンバランス
◯ 加齢

本書ではこれらの事柄について、様々な研究結果、学校や病院での活動実績、著者自身が診た患者の経緯などを交えながら書いていきます。

著者は正直で、確実に立証されているわけではない研究については、そう付け加えた上で記述していきます(当たり前のことなんですが、こういうことが出来ていない本もあるので)。どういう運動をどのくらいやればいいのか、についても、定量的な研究がなされているわけではないからはっきりとしたことは言えないとしながらも、様々な研究結果から、少なくとも、運動をすることで良い風に脳が変化する、ということは間違いないと言えそうです。「良い風」というのが科学的ではありませんが、別にそういう表現が本書で使われているわけではなく、僕が勝手に書いているだけです。

運動によって脳がどう反応し変化するのか、という部分についてかなり詳細にその仕組みを説明していますが、「これから運動したい」「運動したいけどどんなことをすればいいのか分からない」という目的で本書を手に取った人には、求めていることが書かれていなくてなかなかイライラするかもしれません。正直なところ、興味がない人はそういう脳科学的な部分はすっ飛ばしていけばいいんじゃないかと思います。最低限、「どんな具体的な実例があったのか」と「運動の激しさや頻度が効果にどんな影響を及ぼすか」について書かれている部分を読めば、目的は達せられるのではないかと思います。

むしろ僕は、本書は、これまでずっと運動をしてきたけど、それによって色んなことがうまく行っているような気がする、という人が読むといいのかもしれない、という気もします。これから運動したい、という人にとっては本書は不必要な情報が多い本に思えるかもしれませんが、既に運動を習慣に出来ている人には、自分の身体に起こっている変化を知るという好奇心によって、脳科学的な記述も読めてしまうかもしれない、という風に思います。

思っていた以上に学術的な内容で、実用書だと思って手に取った人は面食らうでしょう。書かれていることは興味深いし、なるほどと思わせることも多かったのだけど、「学術書」を「実用書」だと思わせてしまうタイトルや表紙(意図したものかどうかはともかく)が、読者のミスマッチを引き起こしそうな本だなぁ、とも感じました。

ジョン・J・レイティ「脳を鍛えるには運動しかない 最新科学でわかった脳細胞の増やし方」

どこの家にも怖いものはいる(三津田信三)

内容に入ろうと思います。
本書は、著者の三津田信三が、作中の登場人物として出て来る作品です。
小説家の三津田信三は、河漢社の三間坂秋蔵と定期的に会っている。仕事の打ち合わせではない。河漢社は専門書の出版社であり、小説を書いている彼が知らなくても当然の出版社だった。
三間坂はかねてより三津田信三のファンだったと言い、是非お会いして話がしたい、と言われ、仕事の打ち合わせだろうかと思いながら出向いていった、というところから、彼ら二人の会合<頭三会>はスタートした。
三間坂は、無類の三津田信三フリークであった。会う度に、お互いの個人的な話はそっちのけで、三津田信三の作品について語りに語った。やがて取り上げるべき作品が尽きてきた頃、三間坂は彼に、怪談は好きですよね?と問うてきた。
作品の多くが実話怪談をベースにしたものであり、またかつて怪談の蒐集をしていた時期もある三津田信三は、もちろん怪談が好きだが、三間坂のそれもまた凄まじいものだった。特に、語りの技術が抜群だった。聞けば、三間坂自身はそういう経験をすることはないという。怪談が集まってきやすい体質、とでも言うしかないだろう。
怪談の話をこれでもかとした後で、三間坂が変なことを言い出した。
「まったく別の二つの話なのに、どこか妙に似ている気がして仕方がない…といううす君の悪い感覚に囚われた経験が、先生にはありませんか」
そう言って三間坂が出してきたのは、二つの話である。一つはとある女性の日記であり、書き手である主婦の家で起こった不可解な出来事について触れている。そして二つ目は、少年の語りを書き記したもの。隣村の外れにある大きな屋敷に期せずして入り込んでしまった少年の体験を綴ったものだ。
時代も経験もまったく違う二つの話に、どことなく奇妙なものを感じた三津田信三は、その違和感を辿ってみることにするが…。
というような話です。

作品としてはそこまで良いとは感じませんでしたけど、短編集の見せ方としてなかなか面白い構成の作品だなと感じました。

本書には、5つの短編に序章・終章がつく、というような構成です。序章は、三津田信三がその5つの物語を読むことになった経緯が、そして終章ではミステリ的に言えば「解答編」が書かれている、という感じの構成です。

5つの短編は、何らかの形で素人が書き記した文章、という体裁を取っています。日記・聞き書き・ネット上の文章・応募されてきた小説のある章・自費出版された本のある章、という形です。だから、文体も雰囲気もバラバラで、そういう雰囲気の設定はうまいと思いました。本当っぽさ、みたいなものをうまく醸し出しているな、と。

三間坂と三津田信三が見つけ出してきた、来歴のバラバラな文章を並べて、それらに共通する違和感を取り出し、何故そんな違和感を醸し出すのかを議論する、という構成はなかなか斬新で、物語全体の構成としてはなかなか良くできている、と感じました。

ただ、僕が怪談的なものにさほど関心がないからでしょう、5つの物語にはどれもそこまで関心を惹かれなかったな、という感じでした。それは、僕が文章を読んでて頭に映像が浮かばないこととも関係があるかもしれません。怖ろしい描写がなされているんでしょうけど、僕にはこの作品で描かれている「異形の者」のイメージが頭の中にさっぱり浮かばない、という部分もあるかもしれません。

あと、「5つの怪談の共通項を探す」という設定は非常に面白いと思いましたが、一応設定としてこの作品は「三津田信三が実際に経験したこと」という体裁を取っているので、であればちょっと作為的に過ぎるなぁ、と思ってしまいました。もちろん、実際には本書は小説なので、僕のこの評価は厳しいかもしれませんが、ただ本書と同じ構成は、「三津田信三が実際に経験したこと」という体裁を取らずとも書けたはずだ、と思います。著者自身を登場させず、あくまでフィクションだ、という体裁で書けば、僕が抱いたような違和感はなかったでしょう。しかし、実話だ、という体裁を取っている以上、ちょっと色んなことが物語に都合よく描かれすぎている、と感じてしまいました。

とはいえ、なかなか良くできた作品だとは思いました。

三津田信三「どこの家にも怖いものはいる」

天盆(王城夕紀)

恩田陸「蜜蜂と遠雷」という小説を読んだ時は驚いた。
何故か。
この小説は、言葉で表現するのは不可能なのではないかと思える「音楽(しかもクラシック音楽)」を、言葉だけの力で描ききっている作品だったからだ。
誰もが知っているわけではない曲を、言葉の力だけで「聴かせる」。このことがどれだけ大変なことか、想像することはなかなか難しい。しかも「聴かせる」だけではない。「蜜蜂と遠雷」はクラシックのコンクールの話だったが、言葉の力だけで読者を、そのコンクールの「観客」に仕立て上げるのだ。その場にいて、その場で音楽を聴いているかのような感覚に、読者を引きずり込んでいく。凄まじい小説だったのだ。

本書も、ちょっと違うのだが、「蜜蜂と遠雷」を読んだ時に近いような感覚を味わった。

タイトルにもなっている「天盆」というのは、蓋という国固有の盤戯、つまりボードゲームである。将棋のルールを知っている人が読めば、概ね将棋に近いルールなのだろう、と想像は付く。しかし本書の中では、明確には「天盆」のルールは説明されない。

つまり読者は、ルールのはっきり分からない「天盆」というゲームについての小説を読むことになるのだ。

もちろん、そこにはプラスの効果もある。将棋ではなく、将棋に似た「天盆」という架空のゲームを設定したことで、「ゲームのルールそのものを知らなくてもこの作品は読めますよ」というメッセージを発することが出来る。「天盆」のルールを明確に設定しなかったのも、そういう意図からだろうと思う。

しかし、いくら将棋に似ているからと言って、ルールのはっきり分からないゲームについて描写することはなかなか困難だろうと思う。将棋のルールを知っている人に向けて将棋の対局を描写するのだってそう簡単なことではないはずだ。ルールを明示しないゲームの対局を描写することはより困難だろう。

しかし著者は、デビュー作にしてその困難をさらりと乗り越えている。確かに「天盆」のルールは分からないし、彼らがどう駒を動かしたのか、そうすることで盤面がどうなったのかなどの状況は分からない。それでも、対局中の熱気や対局に賭ける想い、一手指す毎に変化する観客の様子や息遣いなんかを、実にうまく描き出していく。

ルールを明示しない架空の「天盆」というゲームを設定したことで、「将棋は知らないから…」と尻込みされる可能性を排除出来た。そして、ルールを明示しないゲームの描写を、その筆力によってきっちりと描き出すことで、「天盆」を設定したマイナス部分を見事に補って見せた。その力量に、僕は驚かされたのだ。

内容に入ろうと思います。
蓋の国には、「天盆」と呼ばれる盤戯が昔から親しまれている。国を興した者たちが興じていたことがきっかけだったらしいが、今では天盆の才のあるなしが立身に影響を与えるほど、蓋の国では重要なものとなっている。
蓋の東端に住む少勇は、大工ではあるがあまり仕事をせず、賭け天盆などで日銭を稼ぐ毎日。その妻・静が中心となって「百楽門食堂」を切り盛りして、なんとか生計を立てている。
彼らには、12人の子どもがいる。そしてまさに今日、一人子が増えた。12人の子は皆、12×12のマスで行う天盆にちなんで、1から12までの数字の含んだ名前となっている。しかし13は天盆にはないので、仕方なく「凡天」という名前をつけた。
様々な個性を持つ、5人の兄、7人の姉たちに囲まれながらすくすくと育った凡天。やがて天盆を習うようになるが、天盆とは相性が良かったのだろう、凡天はめきめきと強くなり、やがて「天盆士」を目指して塾に通っている二秀を除いて、兄弟の誰も凡天に勝てなくなってしまった。
夏街祭で行われる天盆の大会に凡天を出すことにしたが、そこで類稀な強さを見せつけたことで、凡天とその家族はちょっとした窮地に陥ることになる。食堂で使う食材を仕入れるのにも事欠くようになっていったが、家族総出で助け合いながらどうにか取り繕う。そんな中でも凡天は、何かに取り憑かれたかのように天盆をし続けるのだが…。
というような話です。

デビュー作とは思えないほどの力強さを持った作品で、冒頭でも書いたように、ルールを明示しない「天盆」をベースにしながら、一人の少年の奮闘を描ききった意欲作だと感じました。

まずはやはり、「天盆」に関する描写が素晴らしいですね。ルールこそ示されないのだけど、蓋の国において天盆がどんな存在であるのか、どんな歴史を持っているのか、天盆が強いとどうなるのか、強い天盆打ちたちがどんなことを考えているのか、というようなことまで深掘りされていきます。日本における「将棋」とは、ルールこそ近いですが、存在としては大分違っていて、蓋の国にとっての天盆は、かつての中国にあった「科挙」と呼ばれる試験のような、そこに才を見出されれば登用される可能性があるというような、そういう重要な存在として描かれていきます。

そういう存在として天盆を描き出すことで、電子デバイスが普及しているわけではないという設定や、民が政治に対してどう感じているかという内実など、実に多くのことを自然に物語の中に登場させている、と感じました。この設定が上手いなと感じました。

前半は、ただ天盆を異常に好きなだけの凡天を中心に描かれる作品ですが、後半になればなるほど、天盆を中心とした蓋の国の歪みみたいなものが浮き彫りになっていく展開になります。架空の国の輪郭を、天盆と呼ばれる架空の盤戯を通じて描き出すことで、蓋という国がリアルに立ち上がってくるような、そんな印象を受けました。

そして、凡天を含めた登場人物たちが実に活き活きと描かれているのも素晴らしい。それほど長くない物語ではあるのだけど、本書は登場人物がメチャクチャ多い。凡天の兄弟からして12人もいて、さらに町の人間、天盆を通じて関わる者、蓋の国を司る者たちなどなど、実に多くの人物が描かれていく。これだけの登場人物を描き分けるのは非常に困難なはずだが、著者は彼らを躍動感溢れる描き方で登場させる。

特に、少勇を中心とする一家の面々は魅力的だ。全員の名前を出すのは面倒なのでやらないが、12人それぞれが家族の中で役割を担い、支え合いながら生きている。天盆ばかりに興じている凡天と、未だに天盆士の夢を諦めずに凡天と共に天盆を指し続ける二秀が、一家の中で稼ぎをもたらさないある意味で穀潰しなのだ。しかし、色んなことが起こりながらも、そんな二人も家族として彼らは受け入れる。

本書は、天盆という盤戯から蓋という国の歴史を描き出す物語ではあるのだが、もう一つ、家族の物語という側面がある。本書は最初から最後まで、「家族とは何か?」と猛烈に問い続ける作品でもあるのだ。13人の兄弟にどんな過去があるのか、ということについてはこの感想の中では触れないが、「家族」であるために彼らがどう振る舞ってきたのか、「家族」というものをどう捉えることでまとまりを成してきたのか、などが随所に描かれていく。「家族」である、ということが決して当たり前ではない環境の中で、それでも「家族」だ、と力強く言う覚悟みたいなものを、兄弟たちがどう気づき身につけていくのか。少勇と静という二人の男女が、いかにして「家族」という輪郭を維持し続けてきたのか。そのことが、強烈に描かれていく作品だ。

「家族」について静が放った言葉には、ハッとさせられる者も多いだろう。

凡天は、ただ無心に、強くなりたい、勝ちたいという想いだけで天盆を指し続けるが、しかしそのことが彼ら家族を結果的に追い詰める場面が頻繁に出てくる。天盆が才あるものを登用するための入り口として用いられている蓋の国ならではだろう。そういう状況の中で、彼ら家族のあり方が問われていく。凡天は、確かに滅法強かった。10歳にして、誰も到達出来ないのではないかと思われるような圧倒的な高みに手を伸ばせる位置にいる。しかし、凡天がその力を最大限に発揮出来たのは、家族がいたお陰だ。凡天は、一人では決して闘えなかった。

本書の中で非常に印象的なセリフがある。

『誰かのために戦う奴に勝てるわけがない』

その通りだと僕も思う。しかし凡天は、さらにその上を行くと僕は思う。凡天は、自分のためでも他人のためでもなく戦う。純粋に、戦うことの高揚を、勝つことの喜びだけを追い求めて戦うのだ。それは、無心であるが故に、圧倒的に強いだろうと思う。

『この期に及んで、この童は、楽しいのか。
何の制約もない。
何の掟もない。
己のすべてを解き放って、ただ、駒を打つだけ』

そして凡天にそれを許容したのが、彼の家族たちだ。凡天は決して、家族のために戦わったわけではなかった。むしろ、家族と共に戦ったという方が正しいだろう。凡天という異能を受け入れ、のびのびと生きさせた。そのことで、奇跡を呼び起こしたのだ。

物語が終盤どう展開するのか、具体的には触れないが、凡天の戦いと同時並行でとある戦いが描かれ、両者が呼応していく。凡天の快進撃は、蓋の国に一つの伝説を打ち立てようとしている。蓋の国ではもう長い間、天盆の実力者にしかなることが出来ない「征陣者」が平民から出ていない。もし凡天が天盆陣で勝ち進めば、平民から「征陣者」が出るという奇跡が生まれることになるのだ。その予感を孕んだ空気が、人々を熱狂させる。そして、凡天と共に別の戦いを挑む者たちもまた、その熱狂の中にいる。

ここでは触れないが、本書の最後の一文は、まさにその熱狂の渦の中にいた者たちを描写したものだ。物語を閉じるのに、これほど素敵な一文はないだろうと思われるほど、この物語に相応しいラストだと思う。

物語全体は、勘の良い人間なら先の展開が読めてしまうかもしれないぐらい、まさに王道と呼べるようなものだ。王道を臆せずに真正面から堂々と描ききる筆力と物語力に溢れた一冊だ。

王城夕紀「天盆」

改革者 蘇我入鹿(町井登志夫)

歴史は勝者の記録だ、というのはよく言われることだ。だから歴史が嫌いだ、などと言うつもりはない。僕は歴史が嫌いだが、嫌いな理由は勝者の記録だからではない。歴史の授業で、「これこれこういうことが起こった」と説明されることが腹立たしかっただけだ。実際にそれが起こったかどうか、分からないではないか。事実、歴史の教科書に乗っている「事実」はどんどん変わっている。歴史の授業で、「こういうことが起こった可能性がある」とか「歴史は物語のようなものだ」みたいに教えてくれたら、こんなに歴史を嫌いにならなかったかもしれない。

まあそれはともかくとして、僕が「歴史」というものを考えるとき、自分では確かめる手段はないが興味深いことがある。それは、「インターネット」というものが出現して以降の「歴史」というのは、どのように記述されるのか、ということだ。

インターネットが誕生してまだ数十年。それは、教科書に載るような過去の出来事ではない。しかし時が経てば、今僕たちが生きているこの時代も、やがて教科書に載るようになるのだろう。

その時、「歴史」はどう記述されるだろうか?

これまでは、「物理的に書き記された記録」だけが歴史を記述する際のほぼ唯一と言っていい物証だった。だからこそ、「歴史」を「勝者の記録」とすることが出来たのだ。

しかし、インターネットが出現して以降は、「電子的に書き記された記録」も登場する。というか、そちらの情報の方が圧倒的に多いだろう。誰が勝者なのかも分からないような戦いがあちこちで繰り広げられ、また敗者であっても電子的な記録を誰でも残せる時代。相反する様々な情報が乱れ飛ぶ中で、一体どれを「正史」として歴史の教科書に載せるのか。

それを、誰が決めるのか?

これまで歴史家と呼ばれる人たちは、発掘したり古文書や古い資料なんかを当たったりして、歴史を紐解こうとしてきた。それには専門的な知識が必要で、そういう一部の人たちが何らかの協議なり議論なりをして、いわゆる「正史」と呼ばれるものが作られてきたのだと思う。

しかしこれからはどうだろう。現実のフィールドでの作業がなくなることはないだろうが、電子データを隅々まで漁ることも、歴史家に要求されるようになるのではないか。そうなった時、「歴史家」と呼ばれるためには何が出来る必要があるのだろうか?

そんなことをつらつら考えながら読んでいた。

内容に入ろうと思います。
西暦645年、飛鳥京大極殿にて蘇我入鹿が殺された。中大兄皇子と中臣鎌足によるこの事件は、「大化の改新」として知られる、歴史に疎い僕でも知っている程有名な歴史的事実である。歴史に疎い僕はそれ以上のことを知らないが、どうやら蘇我入鹿は、「謀反者」として斬り殺されたようだ。そうだったのか。とにかく、勝者(中大兄皇子、中臣鎌足)による記録では、そうなっているようだ。
しかし著者は、そうではないのではないか、と異を唱える。謀反者として斬り殺された蘇我入鹿こそが、倭国の将来を憂え、民のために尽くした権力者だったのではないか―。それが本書の主題である。
大化の改新の17年前、西暦628年。推古天皇が崩御した。問題は後継者だ。推古天皇は、後継者に田村皇子を指名したとされている。しかし、遺言で次の天皇が決まったなどという先例はなく、また様々な条件から本来相応しいのは、あの聖徳太子の息子である山背大兄王だろうということで、揉めているというのだ。蘇我入鹿には下らない、どうでもいい争いにしか思えなかったが、それぐらい世の中が穏やかになっているということだ。かつては大陸の脅威を常に意識し、摂政・聖徳太子、大臣・蘇我馬子、そして推古天皇という三人が完璧な布陣を敷き、大陸への備えを欠かさなかったものだが、今は皆がだれきっている。
そんな中蘇我入鹿は、父の命により、大陸(唐)を見聞してくることとなった。隋はあっけなく滅びたが、唐はどうか、その目で確かめてこい、ということだ。大陸に足を踏み入れた蘇我入鹿は、唐という国の恐るべき底力を目の当たりにする。皇帝である李世民を筆頭に、皆で国を作るのだという若い熱意に満ちあふれている。その途上で出会った高表仁とは敵味方というような単純には割り切れないような関係をその後も続けていくことになる。
幾度も死地を脱しながら唐から戻ってきた蘇我入鹿は、唐の脅威をまざまざと見せつけられ、倭国としてどう振る舞うべきか考え始める。韓半島の三国が緩衝地帯となっており、特に高句麗が落ちなければ倭国は安全だと思うが、しかし…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。しかし、同著者の「爆撃聖徳太子」と比較すると、どうしても差を感じてしまう部分もありました。以降は、「爆撃聖徳太子」との比較の中で本書を捉えてみたいと思います。

本書も「爆撃聖徳太子」もどちらも、歴史をそれまでとは違った捉え方をするという意味では同系統の作品です。本書では、謀反者だとされていた蘇我入鹿が実は改革者だったのではないかと。そして「爆撃聖徳太子」では、聖徳太子が実は奇人変人(しかしきちんと国を憂えた行動をしている)だったのではないかと捉えています。そもそも歴史が得意ではない僕は、蘇我入鹿にしても聖徳太子にしても、本来どう描かれているのかということをほとんど知らないので、実は意外性を感じるのが難しいのですが、しかし「爆撃聖徳太子」という作品はその点をするりと乗り越えたのでした。

何故なら、「爆撃聖徳太子」で描かれる聖徳太子は、本当に「ヤバイ奴」だったからです。聖徳太子がどんなことをしたのか知らない人でも、聖徳太子は「凄い人」「偉い人」という印象は持っているでしょう。僕も同じです。しかしそのイメージを完全に覆す描き方をしていました。聖徳太子について詳しく知らない人でも、「爆撃聖徳太子」を読めば誰でもギャップを感じられる、そういう内容でした。

しかし本書の場合は違います。僕は、蘇我入鹿がそもそもどういう人なのかという歴史的な描かれ方を知らずに本書を読みましたけど、本書で描かれる蘇我入鹿のどの辺りまでが教科書通りで、どの辺りが教科書から外れているのか、ということが(作品のせいではなく完全に僕のせいではあるんですが)分かりませんでした。だからこそ、本書を読んだだけでは、蘇我入鹿に対してギャップを感じることが難しい、ということになってしまいます。その点が、この作品を楽しむ上で障害になったな、と感じました。

また、そういうギャップを感じるかどうかという点を仮に除いたとしても、「爆撃聖徳太子」で描かれる聖徳太子と、本書で描かれる蘇我入鹿は、キャラクターとしての魅力度が圧倒的に違います。「爆撃聖徳太子」で描かれる聖徳太子は、仮にそれが聖徳太子でなくても(という表現は変ですが)、その振る舞い全体で魅力を放つ奇人変人だと思います。しかし蘇我入鹿の方は、基本的には実に真面目な性格で、そういう部分も蘇我入鹿に魅力を感じにくい要因かなぁ、と思いました。

また、「爆撃聖徳太子」では、視点人物が小野妹子だった、という点も非常に重要だったと思います。聖徳太子目線ではなく、聖徳太子にパシリとして使われる小野妹子視点で物語が進むことで、聖徳太子の異常さや、小野妹子のパシラれっぷりが、小説としての魅力を引き立てていると感じました。しかし本書の場合は、視点人物は蘇我入鹿本人。振り回されるような人物がいるわけでもなく、しかも蘇我入鹿の実直で真面目。そこに、小説としての魅力を感じるのは難しかったなと思います。

もちろん、だから本書がダメだ、というわけではありません。「爆撃聖徳太子」という作品があまりにも面白すぎるために、本書が一段低く見えてしまうのです。読む順番が違っていたら感じ方もまた変わっていたかもしれません。

「爆撃聖徳太子」でもそうでしたが、本書も「日本書紀」や「三国史記」の記述をかなり正確に取り入れているようです。とはいえ、そのほとんどが著者の想像の産物でしょうが、1500年近く前の時代の話を、まるで見てきたかのように活き活きと描く様は本当に見事で、歴史にまったく興味のない僕でも惹きつけられるものがありました。特に、大陸に渡った蘇我入鹿が経験する様々な戦闘は、スケールの大きなものから小競り合いまで様々で、面白いと思いました。

大陸の若さと強さを見た蘇我入鹿は、ひとり大陸を脅威に感じるのに対して、倭国の中で小競り合いを繰り広げる輩はもう緩みきっていて、蘇我入鹿が感じている深刻さに共感できない。その気持ちの差が、言動の差に繋がり、結果として価値観の致命的な断絶に繋がっていく。その過程が実に丁寧に描かれる作品で、エンターテインメント小説としてはどうしても「爆撃聖徳太子」に劣るものの、読み物としてはなかなか読ませる作品だと感じました。

町井登志夫「改革者 蘇我入鹿」

「銀魂」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
江戸末期、「天人(あまんと)」と呼ばれる宇宙人の侵略により衰退の一途を辿る町では、廃刀令の影響もあり侍の生きづらい世の中になった。かぶき町で「万事屋銀ちゃん」を営む坂田銀時は、志村新八と神楽と共に、泰平の世を穏やかに過ごしている。町の治安を取り締まる新撰組の面々も、将軍のペットであるカブトムシを探すのに駆り出されるほど平和な日々だ。
しかし最近、夜毎辻斬りが現れるという噂が立つ。そんな折、かつて銀時と共に最後まで「天人」に抵抗した攘夷志士である桂小太郎の行方がわからなくなる。同じタイミングで銀時は鍛冶屋から、紅桜という名の妖刀に関する依頼を受ける。その二つが、同じくかつての仲間である高杉晋助の挙兵と関わりがあると分かり…。
というような話です。

原作をまったく読んだことがないですけど、概ね面白く観れたかな、という感じはします。全体のストーリーはともかく、ちょいちょい挟まれるギャグっぽい感じの要素は、なかなかチャレンジングなものが多くて面白かったです。「新撰組に、お任せあ~れ」っていう、何かのCMをパクったようなやつとか、「CDTV」モロパクリのやつとか、大丈夫かな?っていうのもぶっこんできてて、チャレンジングだなと。一番凄いなと思ったのは、日本人なら誰もが知っているあのアニメを彷彿とさせるネタでしたけど。いや、チャレンジングだなぁ。

あと個人的には、菅田将暉がやっぱ凄いなと思いました。菅田将暉が出てる、っていう情報をあらかじめ聞いてたので、ホントだ菅田将暉だ、って思えましたけど、もし知らないで観てたら、冒頭の喫茶店のレジ打ちをしていたのが菅田将暉だって、まず気づかなかったでしょうね。菅田将暉については、何かの映画を観た時にひとしきり論じた記憶がありますけど、本当に溶け込むというか、「菅田将暉という存在感」を見事に消すな、と思います。木村拓哉が何の役をやっても木村拓哉にしか見えない、というのと真逆のパターンですね。何の役をやってても菅田将暉に見えない、という凄さが、菅田将暉にはあるなと感じます。それでいて、名脇役みたいな役者ではなくて、主役だって張れる人なわけで、そこが凄いと思います。なんであんなに、菅田将暉としての存在感を消せるんだろう。不思議。

原作ファン曰く、配役がイメージ通りらしく、きっと原作ファンにはもっと楽しめる要素が満載なんだろうなと思います。

「銀魂」を観に行ってきました

「ライフ」を観に行ってきました

確かにそういうこともあり得るよな、と思った。
地球外生命体とのコンタクトを扱ったSF作品はきっと多いだろう。僕自身はそこまでそういう小説を読んだり映画を見たりすることはないが、様々な物語がそういう題材を取り上げているはずだ。
そして、僕の勝手なイメージでは、そういう作品は、「いかにコンタクトを取るか」、つまり「いかにコミュニケーションを取るか」がメインで描かれているようなイメージがある。

ただこの作品は、そうではない。地球外生命体に意志やコミュニケーション能力などがあるかどうかに関わらず、それと相対する羽目になる者たちを描く。

確かに、それはあり得る話だと思う。

地球外生命体を「コミュニケーションを取ることが出来る相手だ」という前提を持って接することは、科学者の態度としては恐らくあり得ないだろうが、僕ら一般人の感覚としては十分にありえる。地球外生命体も、姿形は地球人と違うかもしれないが、そこまで大きくかけ離れた姿はしておらず(いわゆる「火星人」としてよくイメージで登場する姿も、全体としては「ヒト」の形に似ている)、言語体系もまるで違うだろうが何らかの形でコミュニケーションが取れるはずだ、と思いたくなってしまうだろう。

しかし、そうである保証はどこにもない。

それが「敵意」であるかどうかは別として、その地球外生命体が地球人とのコミュニケーションを拒絶する可能性は常にある。物凄く簡単に言えば、地球外生命体から見て地球人が「食料」に見えてしまえば、コミュニケーションなど成り立つはずはないだろう。

そうであった場合、地球人はどう行動すべきか。
この映画では、まさにその点が問われているのだ。

内容に入ろうと思います。
ISS(国際宇宙ステーション)を拠点に、火星ピルグリム7計画に従事する6人の宇宙飛行士は、宇宙ゴミの衝突というトラブルに直面しつつも、当初のミッションである<火星から物質を持ち帰る>というミッションを成功させた。
その中に、ミドリムシのような、顕微鏡でしか見られない大きさの生命体を発見した。当初死んでいると思われたが、ラボで環境の変化を与えることで蘇生、初の<地球外生命体>の発見となった。地球では大ニュースとして報じられ、やがて<カルビン>と名付けられたその生命体を、宇宙生物学者であるヒューは実に可愛がっていた。
やがて成長し、肉眼でも見られる大きさになったが、ヒューのミスによってラボの酸素濃度が低下、それがきっかけで<カルビン>は動かなくなってしまった。冬眠に入ったと仮説を立て、なんとか起こそうと手を尽くしたところ、電気ショックを与えることで動き出した。しかし、ラボにいるヒューの様子がおかしい。どうやら<カルビン>がヒューの手に巻き付き、さらに怖ろしい力で締め上げているようだ。助けに行こうとする航宙エンジニアであるローリーを、検疫官のミランダが止める。彼女の任務は「隔離」。最悪の事態を常に想定し、謎の地球外生命体を「隔離」する環境を維持することが仕事だ。状況の変化を見て取ったローリーがラボに入りヒューを救うが、逆にローリーが囚われ、命を落とすことになった。
そのままラボ内に隔離できるはずだったが、想定外の状況変化により<カルビン>はラボから脱出、船内のどこかに潜んでいる。船長のキャット、システムエンジニアのショウ、ISSに長期滞在している医師であるデビッドを含めた乗組員で、この未曾有の危機に対応しようとするが…。
というような話です。

いやはや、凄い話だったなぁ。とにかく途中から、ビクビクしっぱなしでした。そんなに怖いもの耐性がない人間ではないと思うんだけど、この映画はメチャクチャ怖かったです。あぁ、もうとにかく止めて、ってずっと思ってました。宇宙空間でも生存出来る最強の地球外生命体が、脱出不可能な船内にいる、という状況が、当事者じゃないのにメチャクチャ怖かったです。

こういう映画って、セオリーで考えれば、最終的に「何らかの倒す方法」があって、どうにか対処する、っていうのが多い気がするんだけど、この映画では最初から、<カルビン>の弱点みたいなものは描かれません。宇宙物理学者であるヒューでさえその生態が理解できないのだから、弱点もそもそも理解できていないだけという状況なのだけど、映画の文法で言えば、登場しない「弱点」を衝いて倒す、という流れはあり得ないわけで、だからこの映画は、<カルビン>を倒す方向には進んでいかないんだろう、と予想できました。

じゃあどうすべきなのか。これは、予告の段階である程度出ていたから書いてもいいと思うんだけど、「いかに地球に<カルビン>を連れて行かないか」ということが大きなミッションになっていきます。彼らはほぼ全員が、自分たちが助かることはないと理解しているだろうと思います。なにせ、何をやったって死なないのだし、状況から船内への侵入口をすべて封鎖することも出来ない。正直言って、為す術がないわけです(まったくないわけではなさそうだけど、殺せるわけではない)。ただ、<カルビン>を地球から引き離すことはまだ可能性が残っている。そのために何が出来るのかを全員が考える。

その状況がとにかく壮絶だなと思います。宇宙飛行士を志願している時点で当然、何らかの形で命を落とす可能性を覚悟しているはずだろうけど、しかしあまりにも予想外過ぎる危機でしょう。命を落とす覚悟を持っていたとしても、あの化物に殺されるのは嫌だよなぁと思います。

そしてラスト。はー、そうなりますかー、という感じで、衝撃的でした。あまり詳しく書けないのが残念ですが。

深く何かを示唆するような映画では全然ないのだけど、パニックモノの映画としては物凄く恐怖を駆り立てる、非常に印象的な映画でした。

「ライフ」を観に行ってきました

真夏の島に咲く花は(垣根涼介)

『楽園は、周りの人間と作り上げていくものだよ。場所なんかじゃない。そしてその人間関係がもたらす心の風景だ、と』

この文章はとても良いなぁ、と感じた。

本書を読むと、「幸せな人生って何だろう?」と考えさせられる。
僕は昔から、金持ちにはなりたくない、と思っていた。金持ちになることで自分が幸せになれるイメージがどうしても出来なかったのだ。
もちろん、お金があることで、日常生活に不自由はなくなるし、何か大きなトラブルが起こった時にも対処しやすくなるし、やりたいことが出来るようになるだろうし…と、色々良い点はあるはずだ。けれど僕には、マイナス面の方が大きいように感じられてしまう。

それは、失うことの恐怖だ。

もともと持っていなければ、失う恐怖を感じることはない。もちろん、どんな人生でも多少なりとも何かしら持っているだろうが、それが小さなものであればあるほど、失う恐怖も小さくて済む。

しかし、大金や大金に付随してまとわりついてくる様々なものは、とても大きなものだし、その大きなものを一度手にしてしまった時、それが失われる恐怖はとても大きなものに感じられてしまうだろうなぁ、と僕はずっとそんな風に感じている。

『何千キロ、何万キロも離れた南の島にやって来ても、仕事のことや、将来のことや、家族のことなどをついあれこれと考え、物思いに沈んでいる。そしてときおり憂鬱そうな表情を垣間見せる。せっかくすべてを忘れて楽しむためにこの島にやって来ているのに、母国に置いてきたはずの日常に引き摺られている。
見ているこちらが、寂しい気分になった。
彼らの心は、どんなところに行っても、常に今ある生活の心配から自由にはなれないのだろう。この島で生まれ育ったフィジー人よりもはるかに裕福で、いろんな物も持っているのに、チョネが生まれ育ったここの住人のようには無邪気に笑えない』

「今ある生活の心配」というのは、僕の言葉で言い直せば「失う恐怖」ということだろう。今自分が手にしているものを失わないために努力し続けなければならない。その努力が出来なくなれば、それはあっさりと自分の手からこぼれ落ちてしまう。そういう恐怖を、みんな抱いているのだろう。

そういう恐怖に自覚的だった僕は、お金に限らず出来るだけ「手放せない何か」を持ちたくない、と思ってこれまで生きてきた。そういう生き方は、ある意味で寂しいものではあるが、プラスの事柄よりもマイナスの事柄の方をより過大に評価してしまう僕には、そういう生き方が合っていると思った。

『勤勉であること。約束を守ること。お互いに助け合うこと。
それらの根底にある思想は、飢えへの恐怖だ。(中略)
つまり、これらの美徳は、植えの回避という要因から発した後天的なものに過ぎない。だが、働かなくても道を歩けば食べ物はいくらでも転がっている社会では、勤勉さや約束遵守の精神はそれほど求められない。』

それ以外の価値観を知らない状態で生きられるなら、そういう「働かなくても道を歩けば食べ物はいくらでも転がっている社会」で生きることが何よりも幸せに繋がるのだろう。そういう中で育むことが出来る人間関係の中にこそ、楽園は存在するのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
物語は、南国の楽園であるフィジーが舞台だ。雑多な人種が暮らすフィジーでは、陽気でおしゃべり好きで働くことにはあまり向かないフィジー人を筆頭に、かつて奴隷として連れてこられたインド人を祖先に持つ者や、日本人・中国人などが暮らしている。
織田良昭(ヨシ)は、親から受け継いだ日本食レストラン「織田」のオーナーであり、フィジーに根ざして生活をしている。学生時代に同級生だったフィジー人のチョネとは、学力や性格の違いを越えて仲が良かったし、父親が観光客向けの土産物屋を営んでいるインド系のサティーとは今交際中だ。ガソリンスタンドで働くチョネには、就労ビザでフィジーに滞在している観光ガイドの塩田茜という彼女がいる。茜は、容姿も条件も良かったインド系のパイロットと付き合うのを蹴って、貧乏なフィジー人であるチョネと付き合っている。日本の文具会社を辞めフィジーにやってきた彼女は、フィジーという国が持つ、茜を惹きつけて止まない魅力が何であるのかを見極めたくて、フィジーに留まっている。
観光で成り立っているフィジーでの生活は、元々貨幣経済に組み込まれていなかったフィジー人にとってはなかなか厳しいが(時給2ドルの仕事ばかりする羽目になる)、勤勉で努力家なインド人や日本人にとっては、きちんとやっていればちゃんと成功できる国だ。ただ、かつて奴隷だったにも関わらず今は成功しているインド人と、フィジーは自分たちの国だという意識が強いフィジー人の間には、長いこと民族的な対立があり、両者がお互いに対して根強い嫌悪感を抱き続けている。
その対立が決定的な形で表に出てしまった。
ジョージ・スペイと名乗る先住民系武装グループが国会議事堂を占拠し、閣僚たちを監禁するという事件が発生した。首都スパで起こった事件は、ヨシやチョネたちが住む町には直接的な影響をもたらさないが、観光客の激減や、最悪な形で露わになった民族的対立が、徐々に彼らの生活に微細なヒビを入れ始め…。
というような話です。

一度読んだ記憶があるんだけどすっかり忘れてて読み直してみましたけど、なかなか面白い作品だと感じました。遠くフィジーを舞台にすることで、日本人にはちょっと遠い景色に見えてしまう可能性もあるのだけど、冒頭でも少し触れたように、フィジーを舞台にすることで、「幸せな人生」とは何か、という問いを追求しやすくなった、ということが出来ると思います。

物質的、金銭的に満たされることをどうしても追い求めてしまう風潮があるのだけど、でも僕は、そういうベクトルの先には幸せはないんじゃないかなぁ、と思ってしまいます。でも、生まれた時から資本主義が程よく成熟した社会に生きている僕らには、それに変わるシステムや努力の仕方というのがなかなかイメージ出来ません。しかし、フィジーという、本質的には働かなくても生きていける国を舞台にすることで、本当の幸せについて考えやすくなるように思います。

またそこに、民族的な対立というのが加わってきます。日本に生きていると、なかなかこういう対立について意識することはないですが、フィジーにおけるフィジー人とインド人の対立というのは、宗教や歴史を背景にしたものというよりは、「どう生きるか」というスタンスの差異から生まれているように僕には感じられました。その点が、お互いにあまりにも食い違っているために、同じ国で生活していながら、日常の中で相容れない部分が出てきてしまいます。フィジー人はそうする必要性をあまり感じないからあまり熱心には働かないし、インド人はそれが当然だと思うから勤勉に働く。その結果当然、フィジー人は貧乏だしインド人は裕福になるのだけど、フィジー人は自分たちの土地に後からやってきたのに裕福になるインド人に苛立ちを隠せないし、インド人は自分たちのお陰で経済が成り立っているのに不満ばかり言うフィジー人に苛立ちを募らせていく。その辺りの描写が実にうまいなと感じました。

そしてそんなフィジー人とインド人の間に、ヨシや茜のような日本人が絡んでいく。日本人としては、性格的には勤勉なインド人に近いが、フィジーまでやってきて働こうと思うような日本人からすれば、陽気でいつも楽しそうなフィジー人に好意を抱く部分もある。なかなか難しい立ち位置の中で、なんとか楽しく生きていくために日々を過ごしている。

貨幣経済だの民族的対立だの難しいことを書いてみたが、小説としてはそんな小難しさを感じる内容ではない。様々な人種の登場人物が、フィジーという国の論理をベースに生活をしている様が実に活き活きと描かれていく。彼らの日常を丁寧に描きながら、遠い首都で起こった出来事がじわりじわりと彼らの生活を侵していく様を上手く描いていく。「楽園というのは場所なんかじゃない」ということが、読み進めていく中で強く実感されるだろう。楽園は場所ではない。人間関係の中にある、というのも正しいが、結局は、そこを楽園にしようという個々人の努力の積み重ねでしかないのだろうと思う。

垣根涼介「真夏の島に咲く花は」

潔白(青木俊)

殺人犯はそこにいる」という作品がある。去年、「文庫X」として注目を集めた作品だ。この作品は、その「殺人犯はそこにいる」を下敷きにしている、と言っても良い作品だ。「殺人犯はそこにいる」で取り上げられたある事件の「その後」という「if」を描いている作品、という風に言える。

この点は、本書の利点でもあるし、欠点でもある。

本書では、「冤罪死刑」を取り上げた作品だ。死刑判決が下され、実際に死刑が執行されながら、それが冤罪である可能性について描く作品だ。本書のベースとなる事件は、実際に存在する。現実には、「冤罪死刑」を追及するような流れは生まれていない。再審の壁は、あまりにも高いからだ。本書では、そのあまりにも高い壁をもし乗り越えることが出来たとしたら、そこにどんな現実が展開する可能性があるのか、という予想を示している。

そして、「殺人犯はそこにいる」を読んだ者であれば、本書で提示された予想が、恐らくほぼ現実のものとなるだろうと感じることが出来るだろう。

『冤罪死刑が認められれば、日本の法曹界は、それこそ天地をひっくり返したような騒ぎになる。法務大臣、最高裁長官、検事総長らのクビが飛ぶ。死刑制度の見直しはもちろん、警察、検察の捜査のあり方、証拠の扱い、裁判の進め方、冤罪の防止策など、刑訴法の改正に話が進む。日本の硬直した司法制度に風穴が開く。その意味はあまりに大きい』

これは、弁護側の述懐だ。その通り。本書で描かれる冤罪死刑が認められれば、司法制度が大きく変わる。それは、普通の感覚で考えれば、とても良いことだ。正しいことが正しい形で通りにくかったこれまでの司法のあり方を変え、正しいことが正しいこととして認められるような、そんな道を進むことが出来るはずだ。

しかし、検察側はそうは考えない。

『いまの検察のあり方には、若手の検事を中心に疑問の声が強い。大阪地検の証拠改竄や裏金問題は、組織への不信として、いまも庁内に澱のように沈殿している。強引な国策捜査への批判は強いし、逆に首相側近の大臣や、東電、東芝といった大企業を不起訴にした姿勢にも、不満が燻っている。
そうした声には高瀬も共感する。しかし、だからといって、検察の威信が傷つき、力が失われてよしという訳では決してない。何といっても、検察庁はこの国の法治の要だ。
冤罪死刑を認めることは、検察を貶め、法治の危機を招来する。
自分も検察の一員なのだ。その権威と権限は、何を置いても守り抜かねばならない』

この感覚を、僕はとても怖いと感じる。

本書は小説だ。だから、上記のような考えを、一般の(あるいは一部の)検察官が実際に持っているのか、それは分からない。しかし、「殺人犯はそこにいる」というノンフィクションを読む限り、そう考えている検察官が多いのだろうという推察は合理的ではないかと思う。

そしてもしそうだとした場合、とても厄介だ。

僕はまだ、検察官が、個人の保身を目的に不正を働く方がマシだと思える。少なくともそれは、自分が悪いこと、間違ったことをしているという認識を持っているはずだからだ。しかし、先に引用したような、「検察という組織の権威を守るために不正を働かなければならない」という論理を違和感なく抱いているとすれば、自分が悪いこと、間違ったことをしているという感覚を持っていない可能性さえあると僕には感じられる。それは、とても怖ろしいことだと思う。

先に引用した内容は、一般的な感覚からすれば承服出来ないだろう。「検察庁はこの国の法治の要だ」という点には、恐らく多くの人が賛同するだろう。しかし、「だからこそ冤罪死刑を認めず、それによって権威を維持すべき」という価値観はおかしい。「だからこそ冤罪死刑を認め、誤りを浄化し、過ちが起きないように対策を取る」というのが正しいだろう。それが最終的に、組織を守るということに繋がるはずなのだ。しかし、どうもそういう発想は持てないようだ。

本書の中で検察は、冤罪死刑を認めさせないために、これでもかというほど汚い手を使う。権力を持つ人間が、その権力を最大限利用すれば、大抵のことはねじ伏せることが出来てしまう、ということをまざまざと見せつけられるような作品だ。そして、「殺人犯はそこにいる」を読んでいる者には、本書で描かれる検察の動きが、恐らくそうなるだろうと思わせるような振る舞いなのだ。司法というものへの深い絶望を抱かせるのに十分な作品だ。

さて、本書が「殺人犯はそこにいる」を下敷きにしているが故の欠点にも触れよう。それは、「殺人犯はそこにいる」を読んでいないと、この作品単体では不十分に感じられるだろう、という部分だ。

本書は、260ページぐらいの小説だ。長編小説としては短い部類に入るだろう。その中で、これまで日本で議論されたことのない「冤罪死刑」をリアルの遡上に載せようとする作品なのだ。そのことを考えると、ページ数があまりにも少なすぎると僕は感じる。恐らく意図的にそうしたのだろうと思うが、本書は、読者が「殺人犯はそこにいる」を読んでいるということをある程度以上前提に置いて作品を書いていると思う。そうでなければ、「足利事件」や「MCT118」や「再審請求」などについて、作中でもう少し詳しく触れるのではないかと思うのだ。また、検察や裁判所がどんな風に動くのかという具体性について、それをよりリアルに感じさせるような描写がもっと入ってくると思うのだ。

僕は「殺人犯はそこにいる」を読んでいるから、本書を読んで特に違和感を覚える部分はなかった。しかし読みながら、「殺人犯はそこにいる」を読んでいない人間が本書だけを読んだ時に、この物語にリアリティを感じることが出来るだろうか、と感じてしまった。それは、ちょっと難しいのではないかと思うのだ。それぐらい、本書で描かれている検察や裁判所の動きは、常識的には考えにくい、常軌を逸したものなのだ。

本書の欠点は、まさにこの点にある。「殺人犯はそこにいる」を読んでいない人間に対して親切ではないと僕は思う。本書だけでは、独立した作品と呼ぶことが、ちょっと難しいような気がしてしまうのだ。もちろん、僕はそういう本作りを、意図的なものだと思っている。そういう欠陥が生まれることを理解した上で、こういう造りにしたのだろうと考えている。そういう意味では、戦略とも言えるような欠陥であり、とやかく言うようなことではないのかもしれないが、やはりこの点は指摘しておくべきだろうかと思い書いてみた。

内容に入ろうと思います。
1989年7月に発生した「三村事件」と呼ばれる殺人事件がある。小樽市にあるスナック「美鈴」で経営者の野村鈴子と小学生の娘・優子が絞殺死体で発見された。捜査はなかなか進まなかったが、事件発生から一年八ヶ月後に、同市内で工務店を営む三村孝雄が逮捕された。様々な状況証拠があったのだが、最終的には「MCT118」と呼ばれる、当時の最先端技術を駆使したと喧伝されたDNA鑑定によってDNA型が一致、それにより死刑判決が下された。通常死刑が執行されるまでには判決から10年以上かかる。しかも三村は再審請求の準備を進めていた。再審請求者の処刑は見送られるのが慣例なのだが、三村の場合は何故間、判決からわずか2年での死刑執行となった。
その判決に、納得しない者がいた。三村の娘・ひかりだ。小学生だったひかりは、犯行があったその日の夜、ひかりの部屋で父と二人でずっと一緒にいた。だから、父が犯行を行えたはずがないのだ。そのことを、誰よりもひかりがよく知っている。しかし、身内の証言ということで聞き入れられることはなかった。
ひかりは、父に死刑判決が下って以降、父の冤罪を証明することに人生のすべてを捧げることにした。あらゆる手を尽くしたが、「開かずの扉」と呼ばれる再審への道を切り開くだけの有力な証拠を見つけることは出来ないでいた。
しかし、「足利事件」の冤罪が証明され、事態は少し前進した。「足利事件」でDNA型の鑑定が行われたのは、三村事件と同じ「MCT118」という手法だったのだ。その手法について詳しい、と評される弁護士事務所で森田と出会い、ひかりは一筋の光を求めて再審への道を進んでいくことになるが…。
というような話です。

冒頭でも書いたように、「殺人犯はそこにいる」というノンフィクションを大分下敷きにして書かれた作品です。本書で描かれる「三村事件」のモデルとなっているだろう事件は、福岡県で起こった「飯塚事件」だ。無実を訴えながら死刑判決が下され、2年で死刑執行された、という点が共通している。「殺人犯はそこにいる」では、「足利事件」を含む5件の連続幼女誘拐殺人事件の真犯人が、判明しているのに何故逮捕されないのかの理由として、「MCT118」という鑑定法が間違っていたと認定したくないからであり、では何故認定したくないかと言えば、「飯塚事件」でも同じ鑑定法を用いており、「MCT118」の真偽が揺らぐと「飯塚事件」において「冤罪死刑」の問題が取り沙汰されるからだ、と指摘している。

そしてまさに本書は、その「飯塚事件」(本書の中では「三村事件」)における「冤罪死刑」が議論の遡上に乗せられた時、検察や弁護側や世間はどう動くか、ということをリアルに描き出す作品なのだ。

読みながら、「検察や裁判所はこれぐらいのことはやるだろう」と思った。それは、最近読んだ「裁判所の正体」という作品の影響も大きい。元エリート裁判官である瀬木比呂志氏が、裁判所の実態を清水潔に語るような対談本である。「裁判所の正体」の場合、メインで描かれるのは裁判所であるが、ほとんど検察や権力と一体化している現実が描かれている。

『日本人は、裁判官と言えば、大岡越前や遠山の金さんをイメージするがね、大いなる誤解だな。ちなみに、アメリカとも大違いで、アメリカの裁判長は市民の代表、日本の裁判長は公務員、お上の手先…』

と本書「潔白」の中で書かれているが、まさにその通りなのだ。検察も同じだ。

『なるさ。三村事件の再審は、検察量が総がかりで潰すマターです。』

『多くの検事が“割る”ことが、被疑者更生の第一歩だと信じており、“割れる”検事が有能とみなされる。そして“割った”からには、たとえ証拠が完全でなくとも、果敢に“立てる”。』(割る=自白させる、立てる=起訴する)

『有罪率99.9%。
検察は、自分たちの主張が丸呑みされなかった判決を「問題判決」と呼び、猛烈に嫌う』

こういう世界なのだ。

本書は、小説だ。実際に「冤罪死刑」が俎上に載った際、どんな展開が待ち受けているのか、それは誰にも分からない。しかし、「殺人犯はそこにいる」や「裁判長の正体」を読んだ者にしてみれば、本書で描かれる検察・裁判所のあり方にはさほど驚かされないだろう。確かに、そういう振る舞いをするだろうな、と冷製に捉えることが出来るはずだ。それぐらい検察や裁判所は、荒唐無稽であり得ないことを平気でやってくるところなのだ。「法治の要」と言って組織を守る、まさにその組織こそが最も法治から遠い場所にあるという、皮肉な現実を如実に描き出す作品だ。

青木俊「潔白」

ひきこもりの弟だった

生きていたくないなぁと、昔はよく思っていた。今も、まったく思わないわけではないけど、昔よりは大分マシになった。

「俺は普通の人みたいに、普通のことができない」

あぁ、凄くよく分かる。僕もずっと、今でもそう思いながら生きている。

当たり前に出来ることだとされていることを、何の疑問もなく出来る人は、昔は羨ましかった。別に、大したことではない。誰かに良い事が起これば喜び、誰かに哀しいことがあれば哀しみ、家族や友だちを大切にする…みたいなことが、僕にはうまく出来なかった。いや、表向きは、たぶん出来ていたと思う。問題は、僕の心だ。心の中では、ずっと、違和感ばかり募っていた。周りのみんなが何の疑問も持たずにやっている多くのことが、僕には、なんでそんなことをしなきゃいけないのか全然理解できないようなものだった。

大人になる過程で、そういう当たり前から、ちょっとずつ抜け出してみることが出来るようになった。周りの人が当たり前にやっていることを、どうにかしてやらずに人間社会の中で溶け込めるように努力するようになった。そんな風にして、今の僕が出来上がった。昔の自分のことは結構嫌いだったけど、今の自分のことはそれほど嫌いではない。

どうしようもなく生きていることが辛い場合、僕たちはどうすればいいんだろう?
そういう感覚になったことがない人には、そのしんどさはなかなか理解できないだろう。ただ生きていることが辛い、ということが理解できないことだろう。しかし僕は分かる。ただ生きていることが辛いという感覚が。何か酷いことをされたとか、何か具体的に不安なことがあるとか、そういうこととは関係なく、ただ生きていることが辛いという感覚が。

そこから自力で抜け出すのは、本当に大変だ。何せ、生きていることが辛いというのは、具体的な原因があるわけではないからだ。原因があるなら、それを取り除けばいい。しかし、生きていることが辛い、ということの原因を敢えて探すとするなら、それは「生きていること」だ。それを取り除くためには、死ぬしかない。

だから、ひきこもりである兄の気持ちが、まったく分からないわけではない。もちろん、兄の振る舞いには様々な問題がある。そういうすべてを許容するつもりはない。しかし、生きていることが辛くてどうしようもない、という感覚は分かるし、それが絶望的なまでに他人と共有できない感覚だ、という絶望も理解できる。その状態で生きていかざるを得ない中で、言動がねじ曲がっていってしまうことは、ある程度は仕方ないと思う。とはいえ、そういう存在と対峙せざるを得ない人間にとっては、迷惑以外のなにものでもないのだが。

主人公である弟の方にも、理解できる部分が多々ある。

主人公は、ひょんなことから、絶対に無理だと思っていた結婚をすることになった。彼が、自分には結婚は無理だ、と考えていた理由の一部は、僕にも理解できる。例えばそれは、こんな文章から分かる。

『一生を一人でやり過ごすのはやるせない。でも“運命の人”なんか信じない。となると、誰かと一緒になるためには多くの場合、あなたを愛しています、という一定期間の実績なり演技なりが必要だ。』

そういうのがめんどくさい、という感覚は僕の中にもある。本書で主人公がする結婚に至る経緯は、ある意味で僕の理想にとても近い(別に僕は結婚願望はないが、万が一するとしたらこういう形がいいと思う)。まあ、実際にはこんな展開はあり得ないだろうから、そういう意味で僕の人生に結婚なんてものが関係してくることはあり得ないのだけど、もしそういうことが起こったら?という仮定の話は、少なくとも僕にとってはリアルなものに感じられた。

僕の感覚では、いわゆる「イマドキの若者」には、結婚というものに対する絶対的な価値観が薄れているのではないか、と思う。かつては結婚は、しなければおかしいと思われるようなものだった。しかし徐々に、結婚はしたければすればいいししなくてもいい、という風に、さらに、結婚なんかしたって良いことない、という風に変わってきているように感じられる。そういう中でこの物語はどんな風に受け取られ得るのか。

内容に入ろうと思います。
公園で行き倒れのように眠っていた掛橋啓太は、二人組の女性に起こされた。正確には、その内の一方の女性にだ。彼女は啓太に宇都宮のオススメの餃子店を質問した後で、唐突にこう切り出した。
「質問が三つあります」
その三つの質問に答えた啓太は、彼女と結婚することになっていた。妻の名は、大野千草と言う。
二人は、お互いのことなどほとんど知らないまま、お互いの両親にもまともに報告しないまま一緒に住み始めた。その生活は、非常に心地よかった。啓太は、自分が欲しいと望んでいた環境を、通過したくないと思っていた面倒な手続きを経ずに手に入れることが出来て、非常に満足していた。
そんな啓太は、子どもの頃から、ひきこもりの兄の存在に悩まされていた。
小学校の頃からすでに不登校だった兄のことを、まだ小さな頃はおかしいとは思っていなかった。しかし次第に周りから、何故兄は学校に行っていないのかと聞かれるようになり、啓太も疑問を持つようになった。母は完全に兄の味方だった。兄を甘やかすことは兄のためにはならない、と何度力説しても、まだ時期じゃない、と取り合わなかった。やがて啓太は、父親のいない、母と兄の三人での生活の中で、自分の居場所がなくなっていると感じられるようになっていった。
ひきこもりの兄に悩まされる弟として、そしてひょんなことから結婚した夫として、掛橋啓太は過去と現在と未来に思い悩まされる…。
というような話です。

なかなか面白い作品だったと思います。正直なところ、物語的には何が起こるというわけでもなく淡々と話が進んでいくんだけど、出て来る人物が曲者揃いで、現実にいそうな感じがする。こんな奴が周りにいたらしんどいだろうなぁ、と思ってしまうような人間が何人も登場し、主人公である啓太を苦しめていく。そのリアルさみたいなものが惹きつけるんだろうなぁ、という感じがします。

例えば、啓太の会社の同僚である坂巻という男は、本当にろくでなしだ。こんな人間が会社にいたら本当に最悪で仕方ないが、啓太自身でどうにか出来る問題でもない。同じ部署にいる限り関わらなければならないが、どう関わっても自分が損する、という相手は、どこかの会社にそのままいそうな人物だな、と思わせるリアリティがあるなと感じました。

啓太と千草の結婚に至る過程は、逆に非常にリアリティがない。しかしこのリアリティの無さは、現実に起こる可能性が低いというだけで、こうなったらいいなという願望を持つ者は、実は多いのではないかという気がする(さすがにそれは僕の世の中の捉え方が間違ってるでしょうか?)

最近若い人と喋っていると、(僕自身もそうだが)「恋愛」というところに行き着かない人が多い気がする。「出来ない」のではなく「しない」という選択をしている人が多いように思う。「しない」と考えている理由には様々あるだろうが、「他人にさほど興味がない」とか「人と一緒にいるのが苦痛」とか、色々と聞いたことがある。僕も今は恋愛を「しない」という選択をしているが、その理由は説明がめんどくさいし、共感してもらえる可能性は低いのでここでは書かない。

僕は恋愛の先に結婚があるべきだとは考えていないが、しかし多くの場合そういう流れを取る以上、恋愛に行き着かなければ結婚にもなかなか行き着かないということになるだろう。

だから本書で描かれる結婚の経緯は、実際に起こる可能性はほとんどないが、ある種の理想、ある種の願望として、多くの人が共有可能なものなのではないか。僕はそんな風に感じている。

だからこそ、彼ら夫婦がどんな生活をし、どんな展開を迎えるのかを読ませる本作は、ある意味で現代人の期待に応えたものになっているのではないか、という気がするのだ。

彼ら夫婦がどんな生活をし、どんな葛藤を抱え、どんな展開を迎えるのかは、ここでは詳しくは書かない。しかし、彼らは真剣なのだ、ということは、読みながら感じて欲しいように思う。彼らが、「きちんとした結婚」を忌避するのには理由があり、その理由に僕は共感できてしまう。彼らが恐れていることを、同じように恐れる気持ちを持っている。そんな彼らの恐怖を、理解できなかったとしても排除しないで欲しい。そういう苦しみや葛藤と共にしか、「家族」というものと関われない人間がいるのだ、ということを理解して欲しいなと思う。

彼らの様々な選択が正解だったのかどうか、それは読んだ人が決めることだ。分かりやすい正解などない、と認めることでしか、僕たちは現実と対峙することが出来ないのだ。

この本は、帯のコメントが秀逸だ。

『この本を読んで何も感じなかったとしたら、それはある意味で、とても幸せなことだと思う』

僕も、そう思う。

葦舟ナツ「ひきこもりの弟だった」

「弱さ」と「強さ」の絶妙なバランス・久保史緒里

乃木坂46に3期生が加入して10ヶ月。彼女たちは膨大な露出にさらされている。

僕は乃木坂46のファンだが、彼女たちのことは、テレビか雑誌でしか追っていない。握手会やライブ、イベントなどには行ったことがないので、そちらの方面でどういう露出がされているのかは、直接的には知らない。しかし、雑誌の対談などでその断片は分かるし、何よりも雑誌で取り上げられる頻度が非常に高い。

これを恵まれた環境だと捉える人もいるだろうが、僕には過酷に映る。例えば2期生は、乃木坂46に加入してから現在まで、一般的なルートでエベレスト登頂を目指しているとしてみよう。高所順応をしっかりし、自分の体力に合わせて自分のペースで登っていくというようなイメージだ。しかし3期生は、エベレストの9合目にいきなりヘリから下ろされて、そこから登れと言われているようなものだろうと思う。高所順応もせず、また少しずつ登って感触を掴んでいくような経験もしないまま、過酷な登山にさらされているのだ。よくやっていけるものだ、と感じる。

そして、やはりというべきか、そういう過酷な状況の中でも、突出するメンバーというのは出てくる。僕が見ている範囲では、久保史緒里と山下美月がずば抜けた個性を発揮していると感じる。雑誌の記述によれば、彼女たちの『3人のプリンシパル』は凄まじかったようで、共演した酒井敏也氏は、『あの2人は毎日変わっていきましたよね。』(OVERTURE 2017年7月号)と語っている。僕は『プリンシパル』は観ていないので分からないが、雑誌での彼女たちの発言を追っていくと、考え方や個性、覚悟の決め方や表現力などが、ちょっとずば抜けていると感じられる。

今回は、久保史緒里について書いていきたいと思う。

久保史緒里は、不思議な女の子だ。見た目は儚くて清楚なイメージで、「乃木坂らしい」と評されることも多いようだ。大きな声を出すイメージも、グイグイ前に出てくるイメージもないが、「NOGIBINGO!8」でのバドミントンをやりながらの自己紹介などを見て、スイッチが入った時の切り替わりに驚かされた。また、同じく「NOGIBINGO!8」での「妄想リクエスト」のコーナーでは、風紀委員役を驚くほど高いレベルで演技してみせた。『プリンシパル』で実力が高く評価された、という話は前々から雑誌で読んでいたが、これほどレベルが高いとは思ってもみなかった。

しかし、何よりも久保史緒里を特徴づけるのは、そのネガティブさだろう。

【初めて会うどんな方からも「この子はネガティブだな」と分かってしまうくらい隠しきれない(笑)。どんなことでもネガティブな方向に思考がいくようにルートが決まってて。】「EX大衆 2017年7月号」

乃木坂46にはネガティブなメンバーが多く、そのことが僕にとっての魅力になっている部分はある。齋藤飛鳥を始め、ネガティブな部分をさらけ出すメンバーは多い。その中でも僕の実感として、久保史緒里のネガティブさはかなり群を抜いているだろうと感じる。

【私は3期生とも上手に話せない…。
(与田祐希)え?え?3期生とも?それは初めて聞いた。
みんなに言ってない…。だって、言ったらみんなにもっと距離を置かれちゃうかもしれないから。なんかお悩み相談みたいになっちゃったね(笑)】「ENTAME 2017年6月号」

3期生とも上手く話せないというのには、【『お見立て会』の時期は、私がメンバーと何枚も壁を作っていたので】(BUBKA 2017年8月号)という発言もしている。年代こそバラバラだとは言え、「同じ学校にいる」よりも遥かに強い「乃木坂46の3期生」という関係性の中にいても、打ち解けるのに恐ろしく時間が掛かるのだという。【でも、最近は3期生のみんなに「ネガティブは面倒くさい」って言われるから、申し訳ないなと思い始めたんです】(EX大衆 2017年7月号)というほど、3期生も彼女のネガティブさを認識しているし、それが度を越えたものだと否応なしに分かっているようだ。

【私は、やっぱり自分のことがそんなに好きじゃないので。失礼だなとは思いつつも、相手がなにかを褒めてくださったことに対して、否定してしまうことがあります。それじゃダメだなとは思っているんですけど…。そもそも人見知りで、コミュニケーションが上手じゃないので、嫌われるような発言をしてしまったんじゃないか?とかいろいろ考えてしまいます】「BUBKA 2017年6月号」

僕自身もネガティブだから分かるが、ネガティブな人間は、考えても仕方ないことをつい考えてしまうことが多い。「嫌われるような発言をしてしまったのではないか」というのは、考えたところでそれが分かることは少ないし、そもそも関わる人全員に好かれる必要などないのだから気にしても仕方ない、という風に思えれば楽になれるのだけど、ネガティブな人間はなかなかそうは思えないものだ。とはいえ、【人と仲良くなるのにすごく時間がかかります。地元の友達でも「本当に仲良くなった」と思うまでに、短くて4年かかっていて】(BUBKA 2017年8月号)というのは、あまりにも物事をマイナスに捉えすぎではないかとは思うのだが。

こういう久保史緒里の考え方がどのように生まれたのか、その背景まで掘り下げるようなインタビューはまだないが、その一端を感じさせるような発言はある。

【でも、なんか…私の部屋はWiFiが繋がってなくて(笑)。だから、動画とか観られないんです。それをお母さんに伝えたら「ウチはそういう家系だからしょうがないよ」って言われて。何をやるにもツイてない、というか。
―久保家は代々そうなんですか?
とくに私がひどいかもしれないです。私が乗っていた電車が止まっちゃたり、そういうことがたくさんあります。この間も、ちょっと時間ができたので、行動派じゃないのに原宿にやっとの思いで行ったんです。すごく行きたかったピザ屋さんがあって、そしたら、私が行った3時間だけやってなくて。
―営業時間外だったんですね
あきらめて戻ろうと思ったら、電車の乗り換えがわからなくなっちゃって…。で、駅の地下を歩いて出ようとしたら「ここから出られないので入場料を払ってください」って言われて。それで入場料を払って、こんどは牛丼屋さんに行ったら、頼んだものが出てこなくて…。でも、人見知りで店員さんに言えなくて、そのままスルーして帰りました。
―「注文したものが来てないんですけど」って言わなかったんですか?
言えない…。基本的に私、そういう人間です。どっちかといえば空気に近いかも(笑)】「BUBUKA 2017年5月号」

彼女曰く、こういうことが日常で頻発するのだ、という。もちろんこれも、ニワトリが先か卵が先かという話に近いものがあって判断は難しい。こういう不運が日常の中で積み重なったからこそ、考え方がどんどんネガティブになっていったのだ、という捉え方ももちろん出来る。しかし、ネガティブだからこそ、身の回りで起こる些細な出来事を悪い方に、つまり「自分のせいだ」という風に解釈してしまう、という捉え方も出来るだろう。個人的には、彼女が何故これほどまでにネガティブな思考を持つようになったのかは非常に気になるところだ。

齋藤飛鳥もネガティブで、自分のネガティブの源流や、自分のネガティブさが自分にどういう影響を与えてきたのかについてよく語る。これは僕の持論だが、ネガティブな人間は、言葉で自分を捉える訓練をし続けなければならない。何故なら、ネガティブな思考で生きていくということは大抵、周囲との差異や周りの人間に対する違和感などをもたらすことになる。そういう中で生きていかなくてはならなくなる。久保史緒里も、

【たぶん普通ではないんですよね。まわりからも「普通じゃない」って言われ続けてきたので、自分でもそれはわかっているんですけど(笑)】「BUBUKA 2017年5月号」

と発言しているように、やはり周囲との差異の中で生き続けてきたのだと思う。そしてそういう中で生きていくためには、「自分が今何を感じているのか」「それが周囲とどういう差異をもたらすのか」などについて徹底的に自覚し、言語化し、時には他人に話が出来る状態に持っていく必要があるのだ。これは、僕自身の経験の話だが、ネガティブな人間にはそういう傾向があるはずだと思っている。

だからこそ僕は、ネガティブな彼女たちに惹かれるのだ。僕が雑誌で乃木坂46のメンバーを追いかけるのは、彼女たちの言葉を知りたいからだ。考え方や価値観を知りたいからだ。だから僕にとって、言語化出来る能力というのは、男女問わず人間に関心を持つ際の一番重要なポイントだ。ネガティブさは言語化力を生む。だから、ネガティブな人間に惹かれてしまう。

僕が久保史緒里の一番好きな部分は、「AKB新聞」の中でのこの発言だ。

【ライブのMCの台本を渡されたときに、桃ちゃん(大園桃子)のせりふとかを覚えています。私は人に頼るのは得意じゃないけど、人に頼られるのは好きなので、本番中に桃ちゃんが「何だっけ」という顔で私に頼ってくれるのがうれしくて】「AKB新聞 2017年6月号」

久保史緒里に強く関心を持ったのが、この発言に触れた瞬間だった。凄く良い子だな、と思ったのも確かだ。しかし、それだけではない。この発言は、ネガティブさと闘い続けてきた彼女が獲得した強みだと感じたのだ。

久保史緒里は、一人の方が好きだという発言を良くする。

【私も自分の好きなように生きています。みんなが「ねぇねぇ明日遊びに行かない?どこに行きたい?」みたいな話をしているなかには、あんまり自分から行きたいとは思わないです。
―みんなとエンジョイしたい!とは思わない?
ショッピングに行くくらいだったら、ひとりで森林に行きたいタイプなので(笑)】「BUBKA 2017年6月号」

何故そう感じるのか。それは次の発言から分かる。

【―ひとりのほうが楽ですか?
そうですね。誰かを誘うことによって、その人の時間が私の時間になっちゃうし。その人はもしかしたら、なにかほかに違うことをしたかったかもしれないのに、付き合わせてしまうのも申し訳ないです。誘った私も気を遣ってしまって、それで体力を…。それだったら、ひとりでいるのがいいかなと思ってしまいます】「BUBKA 2017年6月号」

久保史緒里は、誰か他人といることで、考えすぎてしまうのだ。何を考えるのかと言えば、「今ここで自分はどうあるべきか」ということだろう。この感覚は、僕の中にもずっとある。その場における自分の役割を考えすぎてしまうが故に、他人といることに疲れてしまうのだ。だから、一人でいたい。

こういう性格は、必要ではない場面でも考えすぎてしまうので疲れてしまう。しかし裏を返せば、必要な時には必要な形で適切な役割を担うことが出来る、という意味でもある。それが先程の、「桃ちゃんのせりふを覚える」という発言に繋がっていく。自分の役割を考える必要がない場面ではあまりに過剰に働きすぎてしまう彼女の性格が、自分の役割考える必要がある場面では強力な武器に変わるのだ。これはまさに、ネガティブさと常に向き合い、闘い続けてきた彼女だからこそ持ち得た力だろうと僕は感じるのだ。

そんな彼女も、乃木坂46に入り、少しずつ変わってきたようだ。

【私も「あぁ、無理かもな」と思うけど、「できなくてもやろう」という精神は持つようにしてます】「EX大衆 2017年7月号」

ただし、無理矢理自分を変えるようなことはしない。

【そうですね。最近はポジティブになるのも違うなと思ってます。もしポジティブになったら全然違う人間になってしまうので、いまはネガティブを減らしていけばいいかなって】「EX大衆 2017年7月号」

それでいいと僕も感じる。ネガティブさは、うまくコントロールすれば武器になる。敢えて手放す必要もない。うまくコントロール出来るようになるまでは周囲に迷惑を掛ける機会も多くあるかもしれないが、それも個性だと割り切って、自分らしくいて欲しいと思う。

何より久保史緒里は、少しずつネガティブさをコントロール出来るようになってきているようだ。

【―おふたりはライバル関係ではないかもしれませんが、3期生のなかで一番を目指したいという気持ちはありますか?
「一番になりたい」って考えたことなかったんです。むしろ、私が目指す場所は、3期生のなかでの一番じゃなくて、自分のなかでの一番。今の私ってダメダメなんです。「こうなりたい」と思い描いている理想の自分からは、ほど遠くて。今までと同じ生活をしていたら、今の場所からも今の自分からも抜け出せないいし、停滞していくだけだなと思います。だから、昨日の自分をつねに越えていくことが目標です。
―誰かと比較することもない?
以前までは、ちょっとの差だけですごく比較してたんですよ。なんであの子はできるのに、私はできないんだろう…って比較ばかりしていて。でも、今はしなくなりました。それがいことか悪いことはわからないけど、比較する相手が「昨日の自分」だっていうことに気づいたんです。自分を越えられない人間が、他人を越えられるわけがないので、まずは昨日の自分を越えていこう、っていう考え方に変わりました】「BUBKA 2017年8月号」

これまでずっと誰か他人と比較するのに向けられていたネガティブさが、昨日の自分に向けられるようになったという。素晴らしい方向転換だ。他人と比較しても、比較対象である他人の情報を正確には手に入れられないから、どうしても予想が入り交じる。しかし予想が混じる場合、ネガティブな人間には、どんどん悪い予想をすることになってしまう。結局これでは、まともな比較は出来ない。昨日の自分であれば、ほぼ正確に捉えることが出来て、予想が混じる余地もない。昨日の自分を乗り越えるために何が出来るのか。問いをそう捉え直すことで、彼女はより力をつけていくことだろうと思う。

そんな久保史緒里だが、最近発売された「BUBKA 2017年8月号」で、山下美月と対談をしている。僕は乃木坂46が取り上げられている雑誌をかなり買って読んでいるが、ここ最近読んだ中ではずば抜けて良い対談だったので、久保史緒里が山下美月との関係をどう捉えているのかという話に触れてこの記事を終えようと思う。

【あと、ふたりで一緒にいると「珍しいね」って言われるんですよ。だけど、全然仲悪くない】「BUBKA 2017年8月号」

【―今日こうやってお話を聞くまで、正直、おふたりはライバルのような関係だと思っていました
でも、そういう見られ方をされていると思います。
(山下美月) うん。『プリンシパル』以降バチバチ!みたいな(笑)
ね!ファンの方にも聞かれたことあるよ。「山下ちゃんとどういう関係なの?」って。だから「俺の嫁!」って答えたんですけど(笑)】「BUBKA 2017年8月号」

『プリンシパル』以降、彼女たちはそんな風に見られることが多かったという。こんな風に書かれると、『プリンシパル』でどういう争いが繰り広げられたのか、凄く気になるところだ。

「BRODY 2017年6月号」には、『3人のプリンシパル』での久保史緒里と山下美月の様子が活写されている。

【忘れてはならないメンバーが2人いる。今回の『3人のプリンシパル』を牽引したと言ってもいい2人、久保と山下だ。2人は初日から第二幕に選ばれ、千秋楽までの15公演中、久保が11公演、山下が10公演に出演。第一幕ではともにネガティブさを発揮してスタートした2人だが、演技審査になると一変し、堂々とした演技を見せ立候補した役を勝ち取っていった。しかも、彼女たちは演技初心者なのに、公演を重ねるごとに深く、細やかな演技を見せるまでに成長する。】「BRODY 2017年6月号」

こう評されながらも、彼女たちは自信がないまま闘い続けた。久保史緒里は、【もうダメです、今日は何をすればいいかわからないです】と嘆き、山下美月は、【次に出られなかったら死のう】というあまりに悲壮な覚悟で臨んだ日もあったという。

【久保の存在が山下に火をつけ、山下の存在が久保を支えた。乃木坂46に入っていなければ、おそらく出会うことはなかったであろう2人だが、気づけばお互いは唯一無二の存在になっていたのだ】「BRODY 2017年6月号」

いかに彼女たち二人が、お互いの存在を意識し、お互いを高め合いながら『プリンシパル』を乗り越えていったのかが、とてもよく分かる観戦記だった。

そんな二人だが、久保史緒里は山下美月のことをさらに高いレベルで捉えている。

【でも本当に不思議なんですけど、なぜかやましー(山下美月)とは全然そんなことなくて。最近気付いたんです。やましーの存在が特別であることに。】「BUBKA 2017年8月号」
【なんていうか…たぶん、やましーとは前世で会ってるんですよ】「BUBKA 2017年8月号」
【やましーは私のことを前から知っているんです。】「BUBKA 2017年8月号」

これらの発言に対して山下美月は、【え、やばくない?(笑)】【え?大丈夫?(笑)】と反応しており、この対談で初めて聞いたことが伺える。山下の反応にはお構いなく、久保史緒里は自分の考えをどんどんと喋っていき、周囲は恐らく「大丈夫かな…」という雰囲気になっていたように思うが(なんとなくそう感じる)、臆することなく主張する。ネガティブな人間とは思えないほどの前のめりぶりであり、その点が一層、久保が山下を非常に大事で気の許せる存在として見ているのだということが伝わってくる。

【…こんな出逢い、もう一生ないかもしれない!
(山下) 本当に?
ないよ!誓える!この出逢いはもう一生ない!】「BUBKA 2017年8月号」

久保史緒里にとって山下美月とは、ここまで言わしめる存在なのである。

山下美月もまた、久保史緒里の存在を非常に大事なものと捉えているが、さらにその上で、山下美月らしい客観的な捉え方もしている。

【でも、私たちの関係性を見ていて「面白い」って思うファンの方もいるんじゃないですか。乃木坂46というグループというか、エンターテインメントって、面白いことが第一だと思うんです。だから、このふたりがライバル関係っていうふうに見られているのも、私はすごくいいことだなと思っていて。そのストーリーを面白いって思ってほしいです
(中略)
でも、台本もないのに、こうやってストーリーができあがっていくのは、すごいことだと思う。
―『プリンシパル』がきっかけで自然と生まれたものですからね
(中略)
もし『プリンシパル』がなかったら、私たちもこんなに仲良くなっていないと思うし】

期せずしてライバルのような関係になり、一方でお互いを前世から会っていると感じるほどの親しさで捉えている二人。『3人のプリンシパル』を演出した徳尾氏が【この2人は今後の3期生を背負っていくであろう人間ですしね】(BRODY 2017年6月号)と語るほどの実力を持つ二人が今後どんな風に乃木坂46の中で活躍していくのか。今から非常に楽しみである。

「ハクソー・リッジ」を観に行ってきました

今まで観た戦争映画で、二番目に酷かった。
映画の出来ではなく、戦争の悲惨さの描き方が。

一番酷いと感じたのは、「野火」だ。「野火」では、日本兵は敵に撃たれて死ぬのではない。飢餓、自殺で死ぬ。そこには、戦場における圧倒的な「虚しさ」があった。戦場を描かずに、これほど戦争の悲惨さを描き出せるものなのかと驚嘆した。

「ハクソー・リッジ」では、第二次世界大戦で最も過酷な戦場の一つと言われた、沖縄の前田高地が舞台だ。米軍はここを「ハクソー・リッジ(のこぎり崖)」と呼んだ。
ここでの戦闘は、悲惨としか言いようがない。もちろん僕は、戦場を体験したことがない。「ハクソー・リッジ」での戦いがどれだけ悲惨だったのか、比較する対象を持っていない。けれど、これだけの接近戦で、敵味方が入り混じり、あっさりと人が死んでいく様は、あまりに悲惨としか言いようがない。

そんな酸鼻を極める戦場で、人は自らの信念をこうも貫けるものだろうか。

『でも、信念を曲げたら、僕は生きていけない』

その気持ちは、分かるような気がする。僕自身も、どちらかと言えば、自分が「No」と感じたことに対する態度は貫きたいと考える方だ。

例えば、経験はないし、この映画で描かれる現実と比較するのに相応しくない話なのだが、信念を貫くという意味で、僕は痴漢の冤罪を連想する。

自分が痴漢をしているのであれば、相応の罰を受けるのは当然で甘受するしかない。しかし、自分が痴漢をしていない場合、やはりそれを認めるわけにはいかない。しかし、現実はなかなか厳しい。仮に痴漢を行っていなかったとしても、それを現場あるいは警察署で証明できなければ、いくら無罪を主張してもほとんど裁判に掛けられる。そして裁判になれば、ほぼ有罪だ。判決が出る前から、会社をクビになったり、世間から非難されたりする。痴漢冤罪を立証する手立てはほぼない(まったくないわけではないが、怖ろしい手間と労力と期間が掛かるし、確実に立証できるわけでもない)。

一方で、痴漢をしていなくてもしたと認めれば、若干の罰金だけで解放される。前科が付くわけでもない(たぶん)だし、痴漢(の冤罪)で拘束されていたことを知られることもほとんどない(身元引受人を指定しなければいけないだろうから、まったく知られないということはないだろうが)。結果だけ見れば、痴漢をしていなくてもしたと認めてしまう方が、実害は少ない。

しかしそれでも僕は、自分が痴漢をしていないのであれば、してないと言い張りたいと思う。

繰り返すが、これはこの映画の現実と比較してあまりにも小さな話だが(痴漢冤罪で苦しんでいる人を貶める意図はない)、信念を貫くという意味では共通するものがある。これは、自分がどう生きるかという話であり、何を守るのかという話である。

『人の信念を変えることなど、戦争にだって出来やしない』

信念を貫くことは、困難だ。特にその信念が、時代の流れと大きく異なる場合には。それでも、不可能なわけではない。そして何よりも凄まじいことは、彼が信念を貫くことで、奇跡を成し遂げたということだ。

『痩せっぽっちの臆病者だと思ってた。でも、誰にも出来ないことをやってのけたな。人生最大の勘違いだった。俺を許して欲しい』

武器を持たずに戦場を駆け回った男が、武器を持って戦った男からこう声を掛けられる。それがどれほど凄まじいことか。

『お前なしでは戦えない』

武器を持たない彼なしでは戦えない。それだけの成果を、彼は成し得たのだ。

『でも、お前の信念は本物だと信じている』

信念を貫くことで、命を落としたり不遇の人生を歩んだ者も数多くいるだろう。そういう人間の話は、あまり表に出てこないかもしれない。だから、殊更に「信念を貫くこと」の凄さを訴えるだけではダメだろうという気持ちはある。しかし、たとえ信念を貫くことで何かを失ったとしても、信念を貫くことでしか成し得ないこともある。そう信じさせてくれる映画であることは間違いないと思う。

内容に入ろうと思います。
デズモンドは、信心深いキリスト教徒の家で育った。「第六戒 汝、殺すなかれ」というのが最も大事な戒律だと教え込まれた。デズモンドは、病院で知り合ったドロシーに惹かれ、付き合うようになるが、親の反対を押し切って入隊する決意を固めたデズモンドに対し、怒りを見せながらも、プロポーズしないつもり?と詰め寄った。
入隊したデズモンドは、早速訓練をすることになるが、銃を撃つ訓練で問題が起こった。デズモンドは、「銃を持つことが出来ないのです」と言って、上官の命令を断ったのだ。入隊時デズモンドは、銃を持つことが出来ないという話をし、「良心的兵役拒否者」とされていた。しかし上官は、「ここにいる限り俺の命令に従え」というスタンス。隊全体でも、規則としてデズモンドに無理やり銃を持たせることは出来ないが、しかしそれでは隊全体の規律が乱れるし、お互いの命にとっても危ないからと、デズモンドを除隊させようとする。しかしデズモンドは、人を殺すためではなく人を救うために自ら志願したのだ、という強い気持ちを捨てず、あらゆる状況に耐え続けた。
そして、様々な人間の尽力もあって、デズモンドは武器を持たずに衛生兵として戦場に行くことを認められたのだ。
ハクソー・リッジ。切り立った崖に設置されたロープを這い上がり、その上で死闘が繰り広げられる。武器を持たないまま、勇敢に戦場を駆け回るデズモンド。負傷者は次から次へと現れる。もう無理だ、という状況で米軍は撤退を余儀なくされるが…。
というような話です。

凄まじかった。今年観た映画では、「パッセンジャー」を超えるものはないと思っていたけど、匹敵する映画が現れた。正直、まったくタイプの違う映画で、単純には比較出来ないのだけど、とにかく凄まじかった。

まずは、やはりこれが実話であるということの衝撃がハンパではない。デズモンドの最も凄まじい功績は、内容紹介では触れなかった。この感想の中では、触れるつもりはない。映画を観て、その凄さを感じて欲しいからだ。

映画を観ながらずっと、「いや、ありえないだろ」と思い続けていた。そんなこと出来る人間がいるのか、と。

『「正気なら、武器を持って戦え」
「なら正気じゃなくていい」』

戦場である兵士と交わした会話だが、この言葉通り、デズモンドは明らかに正気ではない。武器を持たずに戦場を駆け回る、というだけでも常軌を逸しているのに、それどころの騒ぎではない。はっきり言って、「よく生きてたな」という感じなのだ。既に引用したが、『誰にも出来ないことをやってのけたな』という言葉は、まさに言葉通りだ。信じられない。

前半では、デズモンドが仲間の兵士や上官から散々な扱われ方をする場面が描かれていく。デズモンドの功績を仮に知らなかったとしても、彼らの行いはちょっと酷すぎる。とはいえ、彼らがデズモンドをどうにか除隊させようとした気持ちは、理解できなくもない。

軍隊にいた経験はないが、自分の命を仲間や上官に預けるようなことをしなければならないのだ。全員が同じルールの中で、信頼し合える関係を作らなければ、他人に命を預けることなど怖くて出来ない。上官もデズモンドに、ここにいる者たち全員の命の問題なのだ、と語りかける。確かにその通りだ。後にデズモンドが成し遂げた功績を知る前であれば、彼らの行いはともかく、彼らの判断が間違っていたとは思いにくい。

しかし、そんな風に扱っていた彼らが全員、最後の戦闘でデズモンドを待った。デズモンドの信念を本物だと認め、彼がそうしなければならないと信じることをするための時間を、全員が許容したのだ。素晴らしいシーンだった。

あと、詳しくは書かないが、デズモンドの父の行動も実に良かった。ダメな親父になっていたが、彼にも、貫くべき信念があり、それをデズモンドが引き出した、というところが見事だった。

映画の話で言えば、戦闘シーンが凄かった。もちろん僕は、本物の戦場なんて知らないのだけど、本当に自分がその場にいるかのような感覚を何度も味わわされた。絶対に自分に銃弾が飛んでこないことが分かっていても、怖すぎるのだ。そんな中、もちろん銃を持って戦っている者も凄いと思うが、銃も持たずに負傷兵を救い続けるデズモンドの勇気には、改めて感動させられる。

確かにこの映画は、戦争の悲惨さを見事に描き出す戦争映画だ。しかし、ただそれだけの作品として見るのはダメだ。ダメだ、という強い言葉を使ったが、ダメなのだ。そうではなく、どんな状況でも信念を貫き通すことの意味を教えてくれる作品なのだ。真の勇気とは何か、真の成果とは何か。そういうことを見失いがちな世の中を生きる僕たちを、忘れるな、と諭してくれる作品だ。

「ハクソー・リッジ」を観に行ってきました

夢を持たない齋藤飛鳥

夢を持つことは、可能性を狭めることだと、僕は思っている。

【ひとつだけ覚えています。
先生もクラスメイトの親もその子(※学校一の秀才と言われていた、将来医師になると決めていた小学校時代の同級生)に「将来に期待しかないね、若い頃から将来を考えるのは凄い、偉いね」って言うんです。
(中略)
ただ、あまりに皆が持ち上げるから、私には捩れて見えてしまうんです】「別冊カドカワ 乃木坂46 vol.4」

凄くよく分かる。齋藤飛鳥が言う「捩れて」がどういう意味なのか、正確に捉えられているかは分からないが、その状況に対する強烈な違和感は理解できる。

人間は生きている限り、様々な制約によって縛られる。生まれた環境、性格や体質、使える時間、お金などなど、あらゆる制約が存在する。そういう中で、自分が注ぎ込める可能性すべてを費やさないと届かないような、とてつもない夢というのも、もちろんあると思う。先の同級生の「医師」という夢も、もちろん一部の超天才であれば楽々と乗り越えられるものかもしれないが、一般的には自分のあらゆるリソースを注ぎ込まなければ到達することが出来ない夢だろう。そういう意味で、若い頃からそういう夢を見つけ、それに向かって邁進できることは、とても素晴らしいことだと思う。決して悪いことではない。

しかしそれは、「他の選択肢をほぼ諦めること」とイコールである、という認識を持った上でなければ、その夢が叶わなかった時の挫折感に耐えられないのではないか、とも感じてしまう。

子どもの頃は、夢を持つことは大事だ、素晴らしいことだと言われる。そうやって大人は子どもに、「夢の持ち方」だけは教えてくれる。しかし、大人になるにつれて、いい大人にもなって夢なんて見てるんじゃない、と言われる。おかしい。子どもの頃はあんなに夢を持つことを奨励されていたのに、いつからダメになったんだろう。子どもの頃は「夢の持ち方」を散々教えてくれるのに、大人になるまでの間に誰も「夢の諦め方」を教えてくれはしない。いつの間にか、夢を持ってはいけないことにされてしまう。

【勿論当時から難しい事ばかりを考えていた訳では無いとは思いますが、夢とか希望とか、そういう類のものに疑問を持ち始めたのはこの時期です(※先程の同級生への周囲の反応を見聞きしていた頃)。
そう、わたしは確かにここで違和感を感じました。
そして、夢を持たないという選択も、したはずなんです。全然覚えていないですけど】「別冊カドカワ 乃木坂46 vol.4」

僕も全然覚えていないけど、人生のどこかで「夢を持たないという選択」をしたはずだと思う。子どもの頃は、それでもまだ何か自分に何か可能性を持とうと思っていたような気もする。でも徐々に、そういう意識を手放していった。まだその頃は、「夢を持つことは可能性を狭めることだ」なんて明確に捉えられていたわけではないと思うけど、自分なりに、何か違うな、という感覚を持つようになったのだろう。

夢を持たないという選択をした齋藤飛鳥は、「実力」のない自分自身を嘆く。

【ほらわたし、今まで運だけでやってきてますから。実力なんてゼロですから。いつかバレてしまうんじゃないかと、ヒヤヒヤしてますから。】「別冊カドカワ 乃木坂46 vol.4」

ネガティブな齋藤飛鳥らしい自己認識だが、しかしこの「実力」の話を、夢を持たないことと組み合わせて考えると、ちょっと面白い捉え方が出来る。

夢に向かっている人にとっての「実力」というのは、非常にわかりやすい。例えば医師になるのが夢であれば、「医学部に入学するための知力」や「手術の手技」「論文を書く技量」などを総合して「実力」と捉えることが出来るし、それぞれに対してどんな風に「実力」を伸ばしていけばいいのかという方向性もなんとなく分かるだろう。

一方、夢を持たない人間にとっての「実力」というのは、一体何を指すのだろうか?これは、ちょっと難しい問題だ。夢がないということは、向かうべき方向がないということだ。そこにじっとしていてもいいし、どの方向に進んでいってもいい。たどり着くべき場所がないのだからスピードも問われないし、回り道するという発想さえない。そういう中で、「実力」というのは一体何を指すのだろうか?

【そのせいで、小さい頃の何も考えていない自分や実力をつけてこなかった自分に、腹を立てたことがあります。何度も。
誰かに必要とされる人間になるには何かしらの実力をつけなければならないと、躍起になった事もあります。】「別冊カドカワ 乃木坂46 vol.4」

そういう気持ちになってしまうことは、よく分かる。僕もそんな風に焦っていた時期があったなぁ、と思う。でもやっぱり、目指すべき場所がないのだから、「実力」をつけるために何をしたらいいのかは全然分からないのだ。

僕は、夢を持たない人間にとっての「実力」というのは、可変性なのだと思っている。目の前に何か状況がやってきた時、その状況に合わせてどれだけ変化できるか、ということだ。そして齋藤飛鳥は、意識的なのか無意識的なのかは分からないが、この可変性という「実力」を伸ばそうとしているように僕には感じられるのだ。

【私、「このジャンルに向いてるよね」って言われるのが好きじゃなくて。曲によっていろんな見え方ができたほうがいいかなと思っているので、それは意識していますね】「ENTAME 2017年5月号」

齋藤飛鳥は、自分自身が何らかの「枠」の中にはめ込まれることを嫌う。夢を追うことが、スペシャリストを目指すことだとすれば、齋藤飛鳥の意識はその対極にある。

【私、なんに対しても“こだわりを持つ”ってことが好きじゃなくて。もちろんいい方向に進む努力はしますけど、なるようになってくれればいいし、私は絶対にこうなりたいって夢は持ちたくない。自分にも、周りにも、あんまり期待はしたくないんです。そのほうが、ワタシ的にはいい意味で楽なんですよね】「Graduation 高校卒業2017」

齋藤飛鳥は、こだわりを持てば持つほど、可変性が失われることを直感的に理解しているのだと思う。進むべき道を決めてしまうことが、それ以外の道を諦めることと同じだと知っているからこそ、彼女は踏み込まない。

それはとても勇気の要る生き方だ。彼女が言う「実力」を身につける方が、分かりやすい安心を得られる生き方になるはずだ。自分に何らかの「実力」があり、それが発揮される場があるという生き方は、きっと心を安定させるに違いない。自分はこういう人間だ、という打ち出し方をする方が、楽に感じられることも多いだろう。しかし彼女はそうしない。夢を持たない彼女にとっては、どんな状況にでも対応できる可変性を持ち、自分自身の輪郭をはっきりさせない生き方の方がベストだと感じているからだろう。

【私はファンの皆さんが抱いている私のイメージをまるまる全部は認めてはいないんですけど、自分らしさは自分が決めるものだとも思っていないんです。だから、齋藤飛鳥として求められるものにきちんと応えていきたいと思っています】「アイドルspecial2017」

齋藤飛鳥は決して、自分の考えを持っていない人間ではない。むしろ、この若さで自分自身を支える独自の考え方を持っている凄さを常に感じさせられる。それでいて、他人からの期待やイメージを拒絶せず、それらを自分の考えと織り交ぜていきながら、新たな状況に適応していく。夢を持たずに生きてきた彼女の最大の強みは、この点にあると僕は感じる。

【そして次に、自分の夢に近しい人と仲良くなりましょう!
なんとなく理にかなっている気がしますがどうですか?
これはつまり、媚びるという事です!
媚びには需要があります!
媚びて媚びて、他人の力で夢を叶えてしまう!】「別冊カドカワ 乃木坂46 vol.4」

この文章を、言葉通りに受け取ってはいけない。これは、「手っ取り早く夢を叶える方法」として登場する文章で、その最初の提言は「夢のレベルを下げましょう!」だ。ある意味で逆説的なアドバイスを送っていると捉えるべきだろう。だからここで齋藤飛鳥が言いたいことは、「自分の夢のためなんかに媚びるな」ということではないかと思う(曲解かもしれないが)。

【―いまも「世の中そんなもん精神」はあるんですか?
はい。9枚目、10枚目くらいから思い始めたんですけど、その頃はまだスタッフさんに褒められたらそのまま鵜呑みにして、期待に胸をふくらませていたこともあったんです。でも、結果的に期待はずれになることも多いと分かったので、いまは「世の中そんなもん精神」がより強固になってます。
―「世の中そんなもん精神」は、ビートたけしさんの「人生に期待するな」という言葉にも通じるなと思うんです。その分、冒険ができるというか、モデルなりラジオなり新しいジャンルにも恐れず飛び込めるのかなかって。
そうですね。小さいことで「うれしい」と大きく感じることもできるようになりました。「世の中そんなもん精神」があるから何に対しても高望みしないので、うまくやれている部分もあるのかなと思ってます。】「EX大衆2016年5月号」

夢を持たず、可変性という「実力」を育ててきて彼女だからこそたどり着ける場所がある。どこも目指さないからこそ、どこまでも突き進むことが出来る。彼女の生き様は、「夢を持たないこと」の強さを実感させてくれる力強いものだと感じさせられた。

齋藤飛鳥の連載は、これで終了だと言う。他の多くの連載も終了とのことなので、「別冊カドカワ 乃木坂46」自体がvol.4を以って終了、ということなのかもしれない。残念だが仕方ない。最後に、やはり連載終了を哀しんでいるらしい齋藤飛鳥のこんな言葉を載せて終わろうと思う。

【仕方ないんです。だって、さみしーんだもん!
“終わりあるもの”は好きだけど…寂しいものは、寂しい。
なので、
久々に鉛筆削りを買おうと思います。手動の。
それでは、また。】「別冊カドカワ 乃木坂46 vol.4」

 | ホーム |  »

プロフィール

通りすがり

Author:通りすがり
災害エバノ(災害時に役立ちそうな情報をまとめたサイト)

サイト全体の索引
--------------------------
著者名で記事を分けています

あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や行~わ行

乃木坂46関係の記事をまとめました
(「Nogizaka Journal」様に記事を掲載させていただいています)

本の感想以外の文章の索引(映画の感想もここにあります)

この本は、こんな人に読んで欲しい!!part1
この本は、こんな人に読んで欲しい!!part2

BL作品の感想をまとめました

管理人自身が選ぶ良記事リスト

アクセス数ランキングトップ50

TOEICの勉強を一切せずに、7ヶ月で485点から710点に上げた勉強法

一年間の勉強で、宅建・簿記2級を含む8つの資格に合格する勉強法

国語の授業が嫌いで仕方なかった僕が考える、「本の読み方・本屋の使い方」

2014の短歌まとめ



------------------------

本をたくさん読みます。
映画もたまに見ます。
短歌をやってた時期もあります。
資格を取りまくったこともあります。
英語を勉強してます。













下のバナーをクリックしていただけると、ブログのランキングが上がるっぽいです。気が向いた方、ご協力お願いします。
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

アフィリエイトです

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
本・雑誌
11位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
和書
9位
アクセスランキングを見る>>

アフィリエイトです

サイト内検索 作家名・作品名等を入れてみてくださいな

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ

Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

カウンター

2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)