黒夜行

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自画像(朝比奈あすか)

「美しさ」について考える時、僕がいつも思い浮かべてしまう文章がある。桜庭一樹「少女と七人の可愛そうな大人」という小説の一節だ。

『異性からちやほやされたくもなければ、恋に興味もなく、男社会をうまく渡り歩きたくもなければ、他人から注目されたくもないのに、しかし美しいという場合、その美しさは余る。過剰にして余分であるだけの、ただの贅肉である。しかも、その悩みは誰にも打ち明けることが出来ない。過剰に持つものの羨ましい悩みであるとしか捉えられず、かえって非難を浴びることであろう。本人としては、真面目に思っているのだ。美しさに寄り添った人生など不要だ、と。しかし、周囲はそれを理解しない。美しさに付随するありとあらゆるものを羨ましがり、それを活かそうともしない人間を軽蔑することであろう。』

美しい人を見る度に、このことを考えてしまう。

もちろん、美しい容姿を持っていることが、そうでない人に比べて多くの「何か」を勝ち得る、ということは間違いないと思う。しかし、その「何か」が、欲しているものかどうか、という視点で語られることは、あまりないように思う。

知り合いがこんなことを言っていた。家族で高級なレストランに食事に行く機会があるのだけど、高いものを美味しいと感じることがあまりない。だから私は、安っぽいものの方が満足できる、と。

こういうことは、どんな場面でもあり得る、と僕は思うのだ。しかし、こと美しさに関して言えば、その視点はあまり顧みられることがない。「美しさ」によって得られたものすべてが、その当人にとって「プラス」と評価されるものであり、だから「美しさ」を有していない人間は妬む権利があるのだ、と言わんばかりの態度に、僕には感じられる。僕自身は、本心かどうかはともかく(僕は本心だと思っているが)、「容姿を褒めてもらっても嬉しくない」と言う女性に何人も会ったことがある。もちろん彼女たちにしたところで、自分のまったく意識していないところで、容姿による恩恵を受けているだろう。だから、その事実に無自覚であるとしたら、妬まれてしまう感じも分からなくはないが、しかし、幸福や有利不利というのは、あくまでも主観的なものであるはずなので、「容姿が自分の人生にプラスに働いていない」という自覚を持つ人がいれば、それはある種不幸だと言えるだろうと思う。

とはいえ、当然ではあるが、「美しさ」というものが、特に女性の社会において重要な要素であることも、また理解しているつもりだ。例えば本書「自画像」の中には、こんな文章がある。

『「こども」としてひと括りにされる時間が唐突に終わり、ある日、私達は市場に並べられた。きれい、可愛い、持ち物のセンスがいい、優しい、お洒落、しとやか、活発、スタイルがいい、同性の上位グループにいる、発言力がある…。さまざまな要素が絡み合い、異性への訴求力に差が出てくる。差は可視化された。そのことによろこびを見いだせる子がいる一方で、戸惑う子、反感を持つ子、開き直る子もいる。気づかない子は、たぶんいない。
私が女だから感じるのかもしれないけど、思春期のあの一時期、男の子よりも女の子のほうが、自分がどう判断されるかということに緊張しながら生きなければならないのではないかと思う。
男の子は、たとえ恋愛市場で価値が低い存在であっても、ほかに得意なことや夢中になれることがあれば、自己完結して満足できているようだった。たとえそういったことがなくても、モテないことに頓着せずに、自由でいられるように見えた。女の子は、異性からの評価が低かったら、もう終わり。同性からも、同情と優越の目で見られてしまう。そのためか、自分の価値を棚に上げて、一方的に女の子のことをあれこれ品定めする発言をする男子が多かった。その声を、聞いていないふりをしながら、女の子たちは聞いていた。私たちは一緒に、彼らの視線に囚われていた。』

ここでは、男女の違いが描かれている。男である僕は、男側のことしか分からないが、確かにここで指摘されているような感じだったような気がする。男の場合は、恋愛市場、異性からの評価、と言ったものとはまた違った評価軸があり得て、その方向で生き延びることが出来る。

しかし、この物語の登場人物の自覚によれば、女子というのは異性からの評価が低かったら終わりだそうだ。つまり、僕は先程、「美しさ」によって手に入る「何か」が、欲しているものであるかどうか分からない、ということを書いたが、しかし女性の認識からすれば、「美しさ」によって手に入る何より一番のものは、女子の世界での安定や優越だ、ということになるのだろう。であれば、当然それは無視出来るはずもない。恋愛がどうのこうのという以前に、異性からの評価が、同性のヒエラルキーを如実に決定する、ということであれば、やはり「美しさ」に優るものはない、と言うしかない。

『わたしは少し違うことを感じています。
ミスコンを批判する人は、人間をよく知っているのです。
彼らは、美貌こそがあまりにも容易に、そして絶対的な力で、わたしたちを平伏させるということを、知っています。
警鐘を、鳴らし続けなければなりません。努力して勝ち得たものや、心のきれいさのほうが、ずっと重要なのだという価値観を、必死で植えつけていかなければ。それほどに美貌が圧倒的な権利であることを、彼らは知っていて、恐れているのではないでしょうか。』

「美しさ」については、どんな立場の人間も公平に話題にするのは難しい。女性なら、美しい人が「美しさ」について語れば、「謙遜」や「傲慢」などという捉えられ方をする。美しくない人であれば、「卑屈」や「負け惜しみ」という感じだろうか。男の立場でいかに、「女性は容姿じゃない」と言ったところで、それを信じる女性はほぼ皆無だろうし、かと言って容姿ばかり褒め上げるような男は軽蔑の対象となる。正面切って取り上げても、誰も得しない。しかしそれでも、「美しさ」の話題はそこかしこで現れるし、興味が尽きることはない。

そういう意味で、本書が描き出す、女性にとっては当たり前の、男にとってはある意味では未知の“現実”は、どんな立場の人をも飲み込む力を持っているように感じる。女性であれば、誰もが避けようがなかった思春期特有のあの殺伐とした時代を思い返して苦しくなるかもしれないし、男であれば、呑気に「キレイ」「可愛い」とか言っているその裏側でどんな戦いが繰り広げられているのかを知らされて慄くだろう。

そういう、怖い小説である。

内容に入ろうと思います。
これから結婚しようとしている一組の男女がいる。男は、結婚前に大事な話がある、と女に言われたが、話はというと、女のこれまでの来歴だった。
わたし(田畠清子)は、面皰の目立つ女の子だった。そのことをわたしは恥じていたが、どうにもしようがない。同じ中学に入学することになった松崎琴美を入学式の際に見かけて声を掛けたが、彼女たちはどこかよそよそしかった。その理由を、わたしはよく理解していた。小学校の頃と、顔が変わっていたのだ。キレイになっていた。
クラスでの力関係が少しずつ決まり始めていた。わたしは、なんとか悪くない位置を確保しようと必死だった。そしてもう一つ必死だったことがある。わたしの真後ろに座っている蓼沼陽子と絶対に仲良くしてはいけない、ということだった。
何故なら彼女は、わたしいじょうに面皰の酷い女の子だったからだ。もし彼女と一緒くたにされてしまったら、わたしの中学生活は終わってしまう。
わたしの人生には様々なことがあった。仲の良い四人組が出来た。後から一人加わった。その子との関係で、わたしはひとりぼっちになってしまった。蓼沼さんとの関係。琴美の秘密を握っているという昏い感覚。そして、面皰が治らないまま大学生になり、わたしは壮絶な痛みを伴う面皰治療を始めることになる。
…というようなことを、女は男に滔々と語って聞かせる。聞かせる理由が女にはあるのだが、男には何故女がそんな話をしているのか理解できない。君が面皰で苦労したことはわかったけど、今じゃ全然気にならないじゃないか。そんな昔の話をして、どうするんだ?
男は結局、女の意図がまったく分からないままだった…。
というような話です。

なかなか衝撃的な作品でした。この衝撃には二種類あって、一つは本書のメインテーマそのものである、「美醜が人の人生をどう左右するか」という部分。そしてもう一つは、「何故女は男にそんな話をしているのか」に関わる部分。もちろん物語上、この両者は最後の方で融合されていくわけなのだけど、どう融合されるのかは読み始めの段階では分からない。凄い作品でした。

しかし同時に、非常に勧めにくい作品だとも感じました。それは、冒頭でもちらっと書きましたけど、「美しさ」というのはどんな立場の人間が取り上げても公平には受け取られないからです。それはつまり、誰が本書を勧めてもバイアスが掛かる、という意味でもあります。本書に関して言えば、「面白かった」と言う時、「どんな立場にいる誰がそう感じたのか」ということが非常に重要になってくる。誰が読むかによって面白さが変わってくる、というのはどんな物語でも同じなのだけど、問題は、本書の場合、「どんな読み方を選んだのか」ということが、「美しさ」というものに対する個人的な立場を表明する結果に繋がってしまいかねず、だからこそ勧めるのに躊躇してしまうな、という感覚が僕の中にあります。

しかし、あらゆる点で設定が秀逸だと感じます。例えばこの物語は、大人の世界ではうまく成立しないでしょう(物語の大半は、中学時代が舞台になっている)。大人であれば、心の内側でどう感じているかはともかく、「美醜によって何かを判断することをセーブする機構」みたいなものがある程度働くようになるものです。この物語は、中学生という、無邪気さと残酷さを矛盾なく同居させられる存在だからこそ成立するだろう、と思います。

また、面皰に悩む清子、整形した琴美、面皰が酷い陽子という三人をメインに据えながら、ある種逆説的に「美しさ」を描き出していくところも上手いと思いました。というのも、何を美しいと感じるかは人によって変わるものだし、また「美しさ」に直面した時何を思うかというのも様々でしょう。しかし、美しくないものに対しては、人は似たような判断基準を持つものだし、同じような受け取り方をするでしょう。少なくともそこに、「美しさ」に対する以上の個性が発揮されることはありません。そういう意味で、美しくないものを中心軸に据えることで、読者の感覚をきゅっと絞り込んで、それによって「美しさ」に対する感覚も同一化させよう、とする意図があるような気がしました。

本書には、ここまで敢えて一切触れていない要素もあって、そちらも相当にしんどいです。あまり触れない方がいいだろうと思って具体的には書きませんが、こういう現状を結果的に放置せざるを得ない状況(法律などが追いついていない現状)は、社会全体で何とかしなければならないだろう、と感じます。

色んな意味でざわざわとさせられる作品です。既に書いた通り、どんな立場にいる誰が読むかによって読み方が変わるだろうし、だからこそ非常に勧めにくい作品でもあります。僕は男なので、本書で描かれている話の大部分は外側から見ていられますが、女性が読めば自分の内側が抉られるように感じる人もいるかもしれません。

朝比奈あすか「自画像」

三日間の幸福(三秋縋)

僕は、人生を諦めたところから、自分の人生が再スタートした、と感じている。

昔の僕は、「THE 王道」のような人生を“歩まなければならない”と思い込んでいた。なんでそう思い込んでいたのか覚えていないが、それ以外の人生を知らなかったし、それ以外の人生を歩むことは真っ当ではない、と何故か感じていたのだろう。

僕の中の「THE 王道」の人生のイメージはこうだ。良い大学に入って、良い就職をして、結婚して子どもをもうけて家を買って…というような、誰もが想像するような、よくあるやつだ。

“歩まなければならない”と思っていたのと同時に、僕は、そういう生き方が自分には出来ないだろう、という感覚もあった。勉強だけは出来たから、良い大学には入った。けど、就職できる気はしなかったし、結婚に憧れはなかったし、子どもは今でも嫌いだし、家なんか欲しくない。でもそう感じるのは、僕が子どもだからなんだろう、ととりあえず思い込もうとしていた。だって、そうじゃないと困る。「THE 王道」の人生を歩めない。だから、きっとこれから自分の感覚は変わっていくんだ、と思っていた。

とにかく、「普通」であることを目指そうとしていた。なんでかは分からない。でも、そうじゃなきゃいけない、と思っていた。

大人になるに連れて、僕にもちゃんと分かってきた。あぁ、そうか。僕の感覚は、別に年齢を重ねたところで変わるもんじゃなさそうだな、と。大人になれば変わるかも、と思っていた色んなことに対する考え方が、全然変わらないままだった。参ったな、こりゃ。今まで、自分の考えが変わることを前提に、「THE 王道」の人生への道からなるべく外れないように生きてきたというのに、どう頑張っても自分には「THE 王道」の人生は許容出来そうにないと分かってしまったのだ。

そこで僕は、一度人生を諦めた。実際に、死んでもいいかな、とも思ったのだけど、勇気がなくて死ぬところまでは行かなかった。僕は、「THE 王道」のための道を一旦すべて捨てて、まっさらな状態からもう一度人生を考え直すことにした。

今振り返ってみても、当時のその選択は秀逸だった、と思う。たくさんの人に迷惑を掛けたし、僕自身も色々大変だったけど、それでも、一度人生を諦める、という選択は、僕を生き延びさせてくれたな、と感じる。

「諦める」という単語には、マイナスのイメージしかないかもしれない。けど、そうではないこともある。諦めた後、立ち止まってしまえば、「諦めたこと」はただのマイナスかもしれないが、諦めた後、どこか別の方向に向かって歩いていけば、何か違った結果がやってくるだろう。それが良い結果なのか、悪い結果なのか、それはその時々で違うだろうけど、「諦める」ことによってプラスの何かを手に出来る可能性は、いつどんな場合でもあり得ると、僕は自分の経験からそう感じている。

むしろ、諦められないことが、人生を不幸にする、ということもあり得る。

自分が何に向いているのか、何に合っているのかは、自分ではなかなか認識しにくいものだ。幼い頃から目標を定め、努力を重ね、望んだ通りの道を進んで結果を手に入れる人ももちろんいる。そういう人は、称賛されるし、そういう生き方を目指すべきだというモデルにされることも多い。しかしそれには、多分に運の要素も関係してくるし、どれだけ努力したところで、元々の素質を見誤っていればほどほどのところまでしか進めない。

それよりも、早い段階で自分に見切りをつけ、まったく別の方向、あるいは、誰かがこっちに進んだらいいよと勧めてくれた方向へと進んでいくことで、人生に意味が出てくる可能性があると僕は思っている。

夢を追うことの素晴らしさや、諦めないで努力することの大事さは、僕らは折に触れて教わる。しかし、諦めることの潔さ、みたいなものも、やはり子どもの頃に教えた方が良いのではないか、と僕は感じている。

内容に入ろうと思います。
10年前、まだ小学生だった“俺(クスノキ)”は、自分の人生をとても高く見積もっていた。自分と同じくらい勉強が出来、しかし自分と同じくらいクラスから爪弾きにされている幼馴染・ヒメノと二人で、10年後には自分たちには凄いことが起こるんだ、と話していた。『俺とヒメノが待っていたのは、自分たちの存在を肯定してくれる、すべてを納得させてくれる「何か」だった』と感じ、『そうじゃないと、わりにあわないもんね』と話していた。
さて10年後。“俺”は、どこにでもいる大学生、というか、どこにでもいる大学生の中でもさらに底辺の大学生だった。特に何か成し遂げているわけでも、称賛される何かを持っているわけでもなく、禄に大学にも行かないまま、音楽を聴くか本を読むかして生活する、10年前には想像できなかったほど“無価値”な日々を送っていた。
いよいよ金欠が極まり、大事に残しておいた本とCDを売り払わざるを得なくなった時、その噂を耳にした。寿命を買い取ってくれる店がある、というのだ。半信半疑のまま言われた場所へと向かい、“俺”は3ヶ月を残して残りの人生を売り払ってしまった。1年につき1万円、計30万円の端金で。
寿命を売り払った人間には、他人に迷惑を掛ける行動を取らないよう「監視員」がつく。“俺”の監視員は、整った顔立ちだが愛想の欠片もないミヤギという女の子だった。“俺”は、残り僅かな日々をどう過ごすか考えた。浮かんでくるのは一つしかない。
ヒメノのことだ。
「20歳になっても売れ残っていたら、結婚しよう」子どもの頃に交わしたそんな他愛もない約束を、“俺”はまだ信じていた。いや、縋っていたと言ってもいいくらいだ。
しかし…。人生、そううまくは行かない。“俺”は、残りわずかの日々を、過去を確認するかのように過ごし、そしてその度に、自分がこれまで歩んできた人生がいかに碌でもないものだったかを思い知らされることになった。
やがて“俺”は悟ることになる。今自分が「幸せだ」と感じるためには、何をすればいいのかを…。
というような話です。

これは非常によく出来た小説だと思いました。個人的には凄く好きなタイプの小説で、主人公の人生に対する感覚とか、作品全体を通底する諦念とか、あり得ない設定なんだけどそれ故に人間のリアルな感情がむき出しになっているところとか、凄くいいなと思いました。

物語は、基本的にはとても暗いトーンで始まります。“俺”は、とにかく世の中をマイナスに捉えることに非常に長けた人物で、傍目には努力不足だったり、見込み違いだったり、とにかく本人にも非があるはずのことも、“俺”は躊躇なくその責任を他者や社会に転嫁するような、そんな人物です。自分が悪い、ということを認めずに、自分にはまだこれから「何か」があるはずだ、と信じるだけ信じて何もしない、というようなクズ感に溢れていて、昔の自分に似ている部分もあるなと思ったり、あるいは単純に、そういう責任の転嫁の仕方が潔いなと感じたり、個人的には好感が持てる人物でした(積極的に友人になりたいとは思いませんが)。

そんな彼が、「寿命を売る」という、完全に人生を「諦める」行為をすることによって、人生が大きく変わっていきます。寿命を売っているのに人生が大きく変わる、というのも変な表現なのだけど、読了された方なら理解できる表現だと思います。もちろん、すぐに変わるわけではないし、劇的に変化するわけではありません。徐々に、少しずつ、彼は変わっていきます。その変化が、この物語の内部においては非常に自然に感じられて、うまいなぁと思いました。

「この物語の内部においては」などと変な表現をしましたが、これは、「寿命を売る」などという、僕らの現実とはかけ離れた設定が登場するからです。いや、「寿命を売る」というのは、“俺”がいる世界でも一般的なわけではなくて、マイナーな要素なわけですが、とにかく、荒唐無稽な設定が入り込んでいるために、「自然であるかどうか」の判断を、「寿命を売る」という設定の存在しない僕らの日常をベースにしてしまっていいのか、とちょっと感じたのです。

本書が秀逸なのは、まさにこの「寿命を売る」という設定を日常の物語の中に持ち込んだことだ、と僕は感じました。あり得ない設定ですが、その要素を一つ組み込むだけで、「生きる」とか「死ぬ」とかの意味が大きく変わり、また「死までの時間」に関する認識も大きく変わることになります。「自ら死を選ぶと同時に死んでしまう」自殺とは違って、「自ら死を選んでいるにも関わらずしばらく生きている」という状態は、普通ではあり得ない問いや判断を投げかける余地にもなり、それが、「寿命を売る」という設定のない僕らの現実においても普遍的なものを突きつけるように僕には感じられました。

本書がどんな展開を見せるのか、それは是非読んでほしいのだけど、個人的には非常に意外でした。「安値で寿命を売る」という設定からやすやすとは想像出来ないような展開になります。その最も重要な要素が、監視員のミヤギの存在であり、具体的には書かないけど、「寿命を売った人間を監視する」という設定が、本書の一番の肝であり、この設定があるからこそ、暗いトーンから始まった物語が、主要な登場人物はほぼ二人だけという状態のまま、温かみのある物語へと変わっていくのです。

寿命を売った者と監視員という、相容れない存在である二人は、当初はもちろん噛み合わないままですが、様々な経験や時間の経過と共に、徐々に関係性が変化し、二人は噛み合うようになっていきます。ただ、さらに秀逸なのが、ある瞬間から二人の関係性が、良い意味で噛み合わなくなっていく、ということです。そこには、それぞれの都合やあるいは優しさなどが垣間見えるわけですが、それぞれの究極の選択が「三日間の幸福」へと繋がっていく、という流れは、凄く良かったと思います。

三秋縋「三日間の幸福」

「カメラを止めるな!」を観に行ってきました

噂に違わず、面白い映画でした!

※以下基本的には、予告で流れている情報のみを使ってあれこれ書くつもりです。なので、既に予告を見ているという方にはネタバレにはならないと思います。予告の情報さえ知りたくない、という方は、以下の文章を読まない方がいいでしょう。




予告で既に、この映画は二部構成である、ということが明らかにされます。前半は、廃墟でゾンビ映画を撮影している時に本物のゾンビが現れてしまった、という設定の超B級ホラー映画。そして後半は、そんな超B級ホラー映画を撮影した面々の物語、という構成です。

前半の超B級ホラー映画の設定はこうです。かつて浄水場として使われていた廃墟を舞台に、日暮という監督がゾンビ映画を撮ろうとしている。ゾンビ役の男性とゾンビに襲われる女性のシーンで休憩が入り、メイク役の女性が、この廃墟の謂れを二人に話す。実はここ、表向きは浄水場なのだが、裏では日本軍が人体実験を行っていた、という噂があるのだ。死者を蘇らす実験をしていた、という。すると彼らは、撮影の休憩中に、本物のゾンビに遭遇してしまう。監督は、「カメラは止めない!」と宣言し、常軌を逸した死と隣り合わせのサバイバル映画撮影が始まる…。
というような話から、後半の、この超B級ホラー映画を撮影した面々の物語に移ります。
後半の物語で書けることは一点のみ。日暮監督が、どんな条件でこの映画を引き受けたのか、ということです。彼は、「ゾンビもので、生放送で、ワンカット」という、前代未聞の番組作りに巻き込まれることになり…。
というような話です。

これは、ホントに何も知らないで見た方が面白いでしょうね!僕は、この映画が話題になるずっと前から、映画館で散々予告を見ていたので、前後半の二部構成だということも分かっていたし、「ゾンビもので、生放送で、ワンカット」も分かっていましたが、そういう事前情報を一切何も知らないまま見ると、より面白いだろうな、と思います。とはいえ、僕も十分楽しめました。

先に観ていた人から、「映画が始まってからしばらく、あまりにB級映画すぎて帰ろうかと思った」と話を聞いていましたが、まあ確かにその気持ちは分からなくないです。何も知らないまま観に行ったら、(なんだこれ…)と思うような映画が37分続きます。(えっ、なんでこんな映画が話題なの…)と思うでしょうね、何も知らないで観に行けば。僕は、前半は前フリだと分かっていたので、観ながら、(ここは何かありそうだな)と感じる部分を多々発見していて、実際に後半で、やっぱりそこはなんかあるところだよね、ということが確認出来る、なんていう見方をしていました。ただ、なるほどそんな場面でも実は色々あったのか!という部分もあって、面白かったです。

しかし映画を観ながらみんな、爆笑なんですよね。いや、気持ちはわかります。これは、物語的にすごく良く出来てるんです。ある意味では、「刑事コロンボ」とか「古畑任三郎」みたいな構成なんです。コロンボとか古畑って、最初に犯人が分かってて、そいつがどう追い詰められるか、みたいな展開ですよね。だから、最初に答えが分かっている状態で観ている側はストーリーを追いかける。この映画も同じで、ある意味で最初の37分間が「答え」なんですね。で、後半でその「解説」がある。観客はみんな「答え」を知ってるから、後半の色んな場面で、「なるほど、これがあの「答え」に繋がるのか!」という予感を抱くことが出来て、で、「やっぱりそうだよな!」っていう確認が出来て、それが爆笑に繋がっているな、と思いました。うまいなぁ、と思いました。

しかしこの映画の最大の秀逸さは、「ゾンビもので、生放送で、ワンカット」という設定を最大限活かしきっている、ということですね。この映画は、そのどの要素が欠けてもまず成立しないんです。特に「生放送」「ワンカット」という設定があるからこそのストーリー展開で、よく1時間半の物語にこれだけ色々詰め込んだな、と感じさせられました。

また、前半と後半で焦点が当てられる人物が大きく変わる、というのもうまいなと思いました。前半のホラー映画では、当たり前だけど役者たちに焦点が当たるわけです。でも後半では、裏方たちに焦点が当たる。映画の裏側で何が起こっているのか、というドタバタはホントによく出来てて、そこに色んな要素で関わってくる人間たちのダメっぷりみたいなものも面白いなと思いました。

確かにこれは、人に勧めたくなるし、まったく事前情報なしで観た人はもう一回観たくなるだろうな、と思いました。たった2館からスタートした映画らしいですけど、こんな風に話題になっていくっていうのは、今の時代っぽいし、面白いものを作ればちゃんと届くし評価される、という希望を感じさせてもくれるなと思います。

「カメラを止めるな!」を観に行ってきました

「オーシャンズ8」を観に行ってきました

こういう大作ハリウッド映画はあんまり見ないですけど、久々に見て、面白いなぁ、と思いました。

内容に入ろうと思います。
かつてハメられて刑務所行きとなったデビー・オーシャンは、仮釈放されるとすぐさま行動に移した。彼女には、刑務所にいた期間、5年8ヶ月と12日の間ずっと考え続けてきた計画があった。1000回以上シミュレーションをし、欠点を修正し続けたその計画を実行に移すため、まずはルーの元を訪れた。
その計画は、1億5千万ドル以上ものダイヤのネックレス「トゥーサン」を盗み出す、というものだった。
彼女たちが目をつけたのが、メトロポリタン美術館のオープニングで行われる、世界一のパーティの一つである「メットガラ」だ。そこにゲストとして出演する世界的女優・ダフネに「トゥーサン」を身に着けさせ、それを奪い取ろうというのだ。
彼女たちは、仲間集めから始めることにした。落ちぶれたファッションデザイナー、腕利きのハッカー、手技が見事なスリ、宝石の鑑定人…様々な人間をリクルートして、完璧な計画へと仕上げていく。
カルティエが地下15メートルにある金庫に50年間も眠らせていたお宝だ。カルティエも万全の体制で望む。美術館には、世界最高峰のセキュリティシステムが導入されている。「メットガラ」は世界中に配信されており、世界中の人の目が光っている。
そんな状況の中、彼女たちは無事「トゥーサン」を盗み出すことが出来るのか?
というような話です。

どエンタメ、って感じで、凄く面白かったです。とにかく展開がスピーディーで、動きは華麗、また舞台がセレブが集まるパーティなので見栄えも良い。とにかく難しいことは考えずに、単純に面白く見れる映画でした。

「メットガラ」での宝石強奪作戦ももちろん面白いんだけど、正直、ハッカーが入ってる時点でちょっと面白さが減っちゃうなぁ、という感じはする。もちろん、マンパワーの部分も多々あるんだけど、ハッカーがいるなら割となんでもできちゃうよなぁ、という感じがしちゃうのだ。

なんでそう思うかというと、デビーが刑務所から出てから行った詐欺的な手法が、実に華麗だったからだ。彼女は、45ドルしか所持金がない状態で刑務所を出たにも関わらず、その直後に、高級ブランドの化粧品などをいくつも抱え、さらに最高級ホテルに泊まっていた。その手口が鮮やかで、なるほどなぁ、という感じがしてしまった。そういう、知恵と工夫だけで状況を乗り切るのと違って、ハッカーがいるのはちょっと残念な気がしちゃうんだけど、まあどう考えてもハッカーの一人でもいないとどうにもならない状況だったのは間違いないから仕方ない。

「メットガラ」で彼女たちが「トゥーサン」強奪作戦を展開している時、一つだけ大きな疑問があった。それが何かは書かないのだけど、割と最後の方まで、なんであそこでああしなかったんだろうなぁ、と思っていたことがあった。しかしそれも、最後の最後でちゃんと理由があったことが分かる展開になるから、なるほどなぁ、と思いました。

「オーシャンズ8」を観に行ってきました

復活力(サンドウィッチマン)

正直、この感想で書きたいことはあまり浮かばないのだけど、でも本書は凄く良い本だった。サンドウィッチマンの二人が、かなり子ども時代から遡って自分たちのことを振り返り、敗者復活戦からM-1で優勝するまでの軌跡を描いていく作品だ。

本書で一番印象深かったのは、こんな文章だ。

『M-1チャンピオンになる前の僕らを、敗者だと言いたい奴には、言わせておこう。
名もなく、稼ぎもない年月を過ごしてきた僕らは、わかっている。敗者とは、勝者になれるチャンスを手にしている者のことだ。そのチャンスは、賞金1000万円ぐらいの金じゃ、代えられない。
敗者って、いいもんじゃないか。
そこに気づくまで、僕らは10年近くかかってしまった。』

もちろんこれは、勝者になれた者だから言える言葉だ。勝者になれていない者が言っても、説得力は薄い。そういう意味で、すべての人に刺さる言葉であるのかは判断しにくいが、「彼らがこういう認識をしていて、その上で自分たちのことをどう捉えているのか」ということを考える上で、面白い視点だと僕は思った。

サンドウィッチマンは、「日経エンタテインメント」の「好きな芸人ランキング」で、今年2018年に1位になったそうだ。僕が前にチラッとネットで見た限りでは、ずっと明石家さんまが1位だったのに、それを抑えての1位、みたいな感じだったと思う。凄いな、サンドウィッチマン。

彼らは、色んな意味で異例の芸人であるようだ。そもそも出身地である仙台は、「お笑い不毛の地」と呼ばれることがあるそうだ。吉本興業が作った劇場も、すぐに撤退してしまった。また、上京してからずっと男二人で同居していた。また、M-1優勝者としても、異例づくしだそうだ。敗者復活から初の優勝、NHKの「爆笑オンエアバトル」に一度も出ていないコンビで初の優勝。大手ではなく弱小事務所所属で初の優勝。さらに彼らは、3.11の震災時、仙台におり、以後お笑い芸人でありながら震災の現実を伝えていく使命も担っている。そんな、色んな意味で既存の芸人の枠を外れている彼らだからこそ出来ることがある。

しかし、既存の道を歩まなかったというのは、同時に、相応の苦労をするということでもある。もちろん、お笑い芸人を目指している人というのは皆、なかなかの苦労をしているのだと思うのだけど、サンドウィッチマンもなかなかだ。その苦労の一端は、テレビ局員のこんなセリフからも伺い知れるだろう。

『お前らみたいなのが、今までどこに埋もれてたんだ?』

「エンタの神さま」のプロデューサーだった五味氏の言葉なのだけど、これは、圧倒的な実力がありながらまったく恵まれない環境にい続けた彼らの人生をぎゅっと凝縮したような言葉ではないかと思う。

僕にも実感はあるが、人生の辛さみたいなものは、後々振り返ってみれば、自分を輝かせる物語に変換されたり、笑い話に変わったりするものだ。しかし、その渦中にいる時は、本当に大変だ。ネタを作っている富澤は、ある時期死を考えていたというし、伊達は結婚を考えていた相手と別れざるを得なくなった。それらは、結果さえついてくれば「結果オーライ」で済ませてしまえるものではあるのだが、結果がついてくるか分からない時期には本当に大変だ。彼らは、そういう辛さを、幾度も乗り越えてここまでやってきている。

それにしても、敗者復活からM-1優勝までの流れは、文字で読んでいてもその興奮が伝わってくる。彼らはそれまで、決勝進出コンビが吉本興業所属ばかりだったから、「M-1は出来レースだ」と思っていたのだという。そんな中彼らは敗者復活に選ばれ、そのままの勢いで優勝してしまった。M-1ってガチだったんだ、と彼らは恐ろしくなった、なんてエピソードも書かれている。

伊達が、こんなことを書いている。

『昔の僕のように、23歳ぐらいで、将来の進路に悩んでいる若い子はいっぱいいるだろう。悩むだけ悩めばいい。そして、夢を持って、前に飛び出せ。間違っても自殺なんかするなと言いたい。人は、何にだってなれるんだから
仙台のどこにでもいるラグビー部出身の田舎小僧が、若手漫才師日本一の称号をもらえたんだから、本当だよ。』

僕は、こういう意見には頷けない。「間違っても自殺なんかするな」には大いに賛同するが、「人は、何にだってなれるんだから」は、やはり成功した人間だから言えることだ。世の中に数多存在する人間が全員「何にだってなれる」わけがない。それは、嘘だと思う。

しかし同時に、サンドウィッチマンほどの努力をせずに、「夢なんかどうせ叶わないんだから」とか言うのも、また違うと感じる。彼らはある時から、生活のすべてをお笑いに捧げる覚悟を決め、実際にそれを貫き続けた。人生には色んなことがあり、それだけ努力をしたところで何も達成できないことだって十分にあるのだけど、とはいえ、注ぎ込んだ努力は決して無駄にはならない、と僕は考えている。自分がなりたいと思っていた何かにはなれなかったとしても、その努力がどこかにはたどり着かせてくれるだろう。それでいいんだと思う。

サンドウィッチマンのことをより好きになったか、と言われると、別にそんなことはないが、いいじゃんこいつら、というのは強く感じました。

サンドウィッチマン「復活力」

増補版 子どもと貧困(朝日新聞取材班)

本書は、朝日新聞に連載された子どもの貧困に関する記事を再編集したものだ。本書を読むと、現状の厳しさが非常によく分かる。

ただ、この感想では、「いかに今子どもの貧困が深刻化しているか」という観点からは書かない。それは、是非本書を読んで欲しい。僕がこの感想の中で書くつもりなのは、「その現状に対して、僕らに何が出来るのか」という部分だ。結局のところ、現状を理解しただけではどうにもならないからだ。

さて、本書を読む上で、まず頭に入れておいて欲しい事実がある。

【社会的に自立できない人が増えると、みなさんの製品やサービスの顧客になるはずの人、あるいは勤勉な日本の労働者が減るかもしれない。「かわいそうな子ども」を助ける手段ではなく、未来への投資として子どもの貧困対策が重要なのです。
日本財団子どもの貧困対策チームは、子どもの貧困を放置した場合の社会的損失について、2015年12月に推計を発表しました。貧困世帯の子ども(15歳以下)の進学率や中退率が改善された場合に比べ、現状のまま放置された場合、生涯所得は約43兆円、財政収支は約16兆円少なくなる。非正規雇用や無職者の増加、税金や社会保険料の徴収現象、生活保護費などの公的支出の増加などから算出した結果です】

子どもの貧困を放置すれば、僕らは16兆円失う、ということだ。この推計を知ってなお、子どもの貧困は他人事だ、と思える人は多くないだろう。本書には、幼稚園から中学校までの給食無償化に踏み切った兵庫県相生市の話として、

【市議会も全会一致で予算案を可決したが、5年たった今も、「なぜ若い世代だけに税金をばらまくのか」といった声が根強くあるという】

というエピソードを取り上げている。こういう反応は、子どもの貧困対策が、未来への投資であるという認識がない故に生まれるのだろう。まずはそこから、認識を改めなければならない。

さて、今から僕が書こうと思っていることは、大きく分けて2つある。
一つは、「貧困に苦しんでいる人をどう見るか」。そして、もう一つは、「具体的にどんな行動が出来るのか」だ。

前者から行こう。
本書には、取材を通じて知った様々な事例が取り上げられているが、貧困に苦しむ人たちの障害の一つとして、周囲からの見られ方の問題がある。

例えば、子どもの貧困対策に取り組む学生(公益財団法人「あすのば」の学生理事)の一人は、こう語っている。

【私がメディアに取り上げられた時、ネットに「私立大に行っている。それって貧困じゃない」と書かれ、ショックでした。極端な例だけが子どもの貧困だと思わないでほしい。取材でがっかりしたような顔をされたこともあります。かわいそうと思うかどうかで線引される。
生活保護は受けてないし、特別なドラマもない。苦しいけれど、声を出せない人の方が多いと思います。】

確かに僕らは、「貧困」と聞くと、極端な例ばかり思い浮かぶ。「貧困」という言葉は、まだまだやはり強いワードだし、テレビやネットなどでも極端な事例ばかり取り上げられるからだ。しかし、そのせいで、当人たちは苦しい思いをさせられている。

これはまだ、悪意がベースになっているから分かりやすいだろう。しかし、善意がベースになっている、こんな事例もある。現在は大学教授であり、かつて民法のディレクターをしていた人の話だ。

【親の虐待から逃れるために中卒で家を出て派遣の仕事で生きてきた女性を番組で取り上げた時、「彼女を助けたい。寄付したい」という電話が相当数ありました。非正規雇用が拡大する社会のひずみを提起したつもりでしたが、目前の困り事だけ切り取られる。】

これは非常に難しい。「寄付したい」と善意から言っている、ということが問題をややこしくする。しかし、これも理解できる話だ。目に見えるもの、分かりやすいものだけを“消費”して、その奥にあるものを想像しようとしない、というような作法は、様々な場面で見受けられるようになってしまった。それでは、問題が解決しないどころか、問題をきちんと把握することも難しいだろう。

本書には、本書のために複数の記者が書いたコラムが載っているが、その中にこんな記述がある。

【「困ったらいつでも相談してほしい」と、私達はときどき言うかもしれない。しかし、特に虐待や貧困などちょうきにわたり困難にさらされると、自己肯定感が低くなる。「困っている」と告白することは「ダメな私」を披露することになり、「バカにされるのではないか」と恐れる。相談自体、ハードルが高い人がいる】

これは非常に理解できる話だし、多くの人がきちんと理解して置かなければならないことだと思う。

僕はこれまで、自分の周囲にいる、自己肯定感の低い人と話をしてきた。普通に見れば、明るくて周囲に溶け込んでいて周りとうまくやっていてみんなから好かれているような人でも、話を聞いてみると自己肯定感が異様に低かったりする。そしてそういう人から、「こういう話は普通には出来ない」と聞かされる。僕は意識的に、「僕には話してくれて大丈夫だ」という振る舞いをするように心がけているし、たぶんそういうサインを受け取ってくれるから、僕には話してくれるんだと思う。ただ、「こういう話は他の人には出来ない」という話は、色んな人から聞いた。理解してもらえないだろうし、反応に困らせてしまうし、的を外したようなアドバイスが返ってくるから、話しても意味がない、と思うようだ。

【貧困家庭であろうと、人の何倍も努力してチャンスをつかむべきだという意見があるかもしれない。ただ、生徒たちと日々向き合う高校教員らは「貧困状態の子どもは、他の人が当たり前と思うようなこともあきらめてきた結果、意欲や自尊心が低い場合が多い」と口にする。挑戦を促しても、「面倒くさそう」「どうせ自分なんて」という思いが強いのだという】

【「支援策や機会もあるんだから、あとは本人次第じゃないの」という声もあるでしょう。でも、彼らは差し伸べられた手の握り返し方も分からないんです。できないんじゃなくて知らない。僕も給付型の奨学金を知っていれば、違う人生だったかもしれません。
自己責任を言う前に、援助や選択肢、生き方を十分伝えられているかを問うべきではないでしょうか。】

【「頼れない親」は確かにいます。その多くが、貧困の中で大人になり、虐待やDVを受けたり、障害などを抱えたりしています。子育て、家事、金銭管理、人付き合い…。苦手なことが多くあります「常識」で判断すると「ダメ親」と思われてしまう人もいます。
ですが、よくよく関わっていくと、私たちと大きくは変わらない。ただ、大切にされた経験がなく、人間不信でSOSの出し方を知らないのです。家庭でも学校でも「問題児」という扱いを受け、社会的なチャンスを奪われ、ひどい場合は身体的、金銭的な搾取の中で育っています。善悪の区別を教えてもらった経験もない。自尊心が低く、極端に心を閉じるか、攻撃的になるか。振り幅が大きく、孤立しがちです】

僕たちはこういうことをきちんと理解しておかなければならないのです。

僕はかつて、僕よりも年上の人から、「主張しない人間に権利はない」という価値観を聞いたことがあります。僕はそれを否定しましたが、その人は自分の考えが正しいと思っているようです。まあ、ある一面では正しいかもしれません。ただ、僕らの周りにはたくさん、貧困などを背景にした苦しみの中で生きている人がおり、そういう人たちは「主張する」ということがそもそも出来ないのだ、ということをきちんと理解しておかなければなりません。「言わない方が悪い」などという態度では、何も解決しないし、そもそも問題が見えてきません。本書では、女性にとって風俗店がセーフティネットになっている、と指摘しており、

【少女を食いものにする大人たちはSNSを駆使して悩みの相談に乗り、街でうざがられても声をかけ続け、とにかく接触を図っている】

という、虐待などを受けた女性を支援する団体の代表の言葉を載せています。「助けを求めてくれたら助ける」という態度ではなく、「助けが必要かもしれない人におせっかいかもしれないけど関わっていく」というスタンスに切り替えないと、現状は変わっていかないでしょう。

さてでは、「具体的にどんな行動が出来るのか」の話に移りましょう。子どもの貧困という大きな問題に対して、個人が出来ることなどあまりなさそうに感じられるかもしれないけど、そうではない。本書では、個人が個人レベルで出来ることから始めている取り組みが紹介されている。

それが「子ども食堂」だ。朝日新聞が独自に取材したところ、2016年5月の時点では全国に319ヶ所だった「子ども食堂」は、2018年4月時点では、とある団体の調査で2286ヶ所になっていた。

「子ども食堂」というのは、基本的には無料で子どもたちがご飯を食べられる場所だ。月1回だったり週1回だったり、あるいは全額無料だったり大人は有料だったりと、運営形態は様々だが、地域の民生委員から学生までが自ら発起人となって「子ども食堂」を立ち上げ、資金をどうにか集めながら運営している現状が様々に紹介されている。

【実は、「誰でも好きな時に来てよい」という子ども食堂に通えるのは、人と食事を楽しむ力が身についている子ども。困難を抱えた子はそうした機会に恵まれず、そこに行くことに不安を持ち、ハードルが高い。信頼できる人が一緒に参加して、楽しければまた行こうかなと思えます。その経験を重ね、新たなつながりができてきて初めて、ひとりでも行こうと思うようになります。段階を経る支援がないと「いつか来てくれたら」のいつかは遠い】

という准教授のコメントも載せており、「子ども食堂」を開くだけで問題が解決するわけではないが、しないよりはした方が絶対に良い。また、

【「昔も貧困問題はあったし、今より大変だった。今の人は甘えているのではないですか?」企画を進める中で、読者の方からこんな意見も数多く寄せられた】

と書く記者は、【昔と今では、地域の力が低下し、家族が力を失っていると感じた】と指摘している。その地域の力を取り戻す、という意味でも、「子ども食堂」の役割は大きいだろう。

この子ども食堂の開設についても、こんな障害があるという。

【一方、「貧困の子が行く場所」という認識が、ハードルになるケースもある。
東日本の山間部で2016年春、公民館で子ども食堂を開きたいと地区の口調に依頼に行った民間団体のメンバーは、問い詰められた。「なぜ、うちでやるのか。困窮者が集まる地域と思われる。どんな趣旨で開くのか」】

【九州でも2015年、公民館で開こうとして「貧困の子どもはいない」と口調に拒まれたケースがあった】

こういう事例を知ると、改めて思う。子どもの貧困は、問題意識を皆が共有しなければ解決出来ないのだ、と。本書を通じて、そのことを一番強く感じた。

本書では他にも、様々なことが扱われている。欧米では養育費を徴収する国の公的機関があったり、未払いの養育費を立て替え払いする国もある。日本の教育費は世界的に見ても高く、またOECD加盟国では唯一、給付型の奨学金がないという。様々な支援施設は、法律の解釈に四苦八苦し、時に首をかしげるような判断をしてしまう。とはいえ、現場は「支える側の犠牲で成り立っている」ような状況で、現場は現場で苦しい。などなど、子どもの貧困を取り巻く様々な状況が描かれていく。

僕も、別に何かしているわけではない。ないが、しかししなければマズイだろうな、という感覚はある。自分の仕事と直結する部分から、何か始めていければいい。例えば僕なら、本書を店頭で売る、というやり方だって出来る。みんなが少しずつ、自分に出来ることをやることで、状況は少しずつ変わっていくだろうし、具体的な行動をしなくても、苦しんでいる人たちの見方をちょっと変えるだけで救われる部分もあるだろう。そういうことを意識しながら読んでほしい一冊だ。

朝日新聞取材班「増補版 子どもと貧困」

贖い(五十嵐貴久)

過去のことは、すぐに忘れてしまう。
小中高大学時代のことなど、もうほとんど覚えていない。働き始めた頃のこともだし、数年前のことさえ怪しい。

だから、過去の僕のことを覚えている人と話すと、驚かされることになる。自分がすっかり忘れてしまっていることなら、なおさらだ。

人から聞く過去の自分は、自分ではないような気分にさせられることさえある。そんなことしたっけ?そんなこと言ったっけ?そんな気分になる。

でも、誰かはそれを覚えている。覚えている、ということは、印象的だった、ということが。本人としては覚えていないくらい何気ないことであっても、良かれ悪しかれ、誰かの記憶には残っている。

良いことなら良い。誰かを褒めた。何かをプレゼントした。助けてあげた。一緒に怒った。協力して何かを成し遂げた…。そういうことなら良い。忘れてしまっても、なんということはない。

問題は、悪いことだ。僕がした何かの言動が、誰かを傷つけたり、怖がらせたりしてしまったような場合。忘れてしまった側の記憶より、覚えている側の記憶の方が正確さは高いだろう。

そういうことがないように、と思いながら過ごしているつもりだ。とはいえ…と本書を読みながら考えてしまった。

内容に入ろうと思います。
東京・埼玉・愛知で、子どもが殺される事件が起こる・
東京で殺されたのは、吉岡隆一。小学六年生だ。家に帰ってこず、辺りを捜索したが見つからない。そして翌日、隆一が通う学校の正門前で、切り落とされた頭部だけが発見された。
埼玉で殺されたのは、浅川順子。中学二年生だ。看護師として働く母親は、熱を出したという息子を迎えに行くよう、順子に頼んだ。しばらくして帰宅すると、順子の姿がなかった。そして死体は、春馬山の雑木林で発見された。
愛知で殺されたのは、松永真人。まだ1歳だ。母親が車の中に少しの時間真人を置いたままスーパーで買い物をしている最中に行方が分からなくなってしまった。そして数日後、コインロッカーから死体が発見された。
これらの事件は、日付的には近接して発生したが、当然のことながら誰も三つの事件を考えてなどいなかった。それはそうだ。そもそもそれぞれの捜査本部では、犯人像を「変質者」「異常性欲者」と想定している。被害者が殺されたのはたまたまであって、彼ら三人が狙われて殺されたわけではない、と考えているのだ。特に東京の事件は、酒鬼薔薇聖斗事件との類似から大きく報道されたが、各捜査本部は、これらの事件との関連などもちろん想定するはずもなかった。
東京の事件で、コンビニを担当することになったのが、警視庁捜査一課強行犯係に所属する鶴田里奈と星野だ。里奈は、男女雇用機会均等法との絡みもあり、捜査一課に女性刑事を、という流れの中で抜擢されたと話に聞いている。星野は、事情はよく知らないが、かつては特殊犯捜査係にいて、交渉人を務めていたはずなのだが、強行犯係に転属となった。二人がペアになったのは明白な意図がある。捜査一課の“お荷物”を一緒にして、重要な仕事はさせない、という係長・島崎の目論見だ。被害者は姿を消す前にコンビニに立ち寄っているのだが、その捜査はほぼほぼ終わっており、彼らには特にやることがない。
埼玉の事件では、埼玉県警捜査一課強行犯係の神埼と、中江由紀が主に事件を担当している。由紀は、仕事熱心だが、係の面々とコミュニケーションを取ろうとしない。上司である神埼はどうにかしたい、と思っているが、今のところ手をこまねいている。愛知の事件では、被害者がスーパーの駐車場で行方不明になった時最初に担当した、栄新町警察署刑事課の坪川がその後も関わるようになる。坪川は、もともと警視庁にいたが、愛知県警に移ることになった。表向きの理由はともかく、身内を密告したというのが大きな理由だ。坪川は、自らの行動を間違いだと思いたくないが、警察という組織の中では個人の意思など吹けば飛ぶようなものだ。そんなわけで坪川は、愛知県警で誰からも話しかけられない存在となっている。
東京・埼玉・愛知と、まったく別個に捜査が行われ、どの事件もほぼ進展がないまま時間だけが過ぎていく。そんな中、閑職に回されている里奈と星野は、星野主導の元、粘り強い捜査を続けていた。やがて彼らは、ある一人の人物をマークするようになるのだが…。
というような話です。

非常に面白い作品でした。ただ、面白さを伝えるのが非常に難しい作品でもあります。

というのは、大きく二つ理由があります。

一つは、どれだけページをめくっても、ほぼ捜査に進展がない、ということ。正直言って、どの事件の捜査も、まったく進展しません。聞き込みをしても無駄足、物的証拠になるようなものもほぼなし、当然被害者たちに殺される動機が見つかるわけでもない、と言った具合で、ホントに捜査は何も進みません。これが、ストーリー展開上なかなか厳しいところではあります。

もちろん、何もないわけではありません。内容紹介の中でも触れたように、例えば愛知の坪川は、身内を密告したことで爪弾きにされました。また、東京の里奈、埼玉の由紀など、捜査一課に女性刑事がいる、ということが、物語上さざなみを引き起こす場面もあります。また、東京では、星野がある人物に揺さぶりをかけ続ける、という展開がしばらく続く。事件そのものへの進展はほぼないのですけど、物語上は何かが動いている。だから、読んでいて退屈だ、ということは全然ないのだけど、しかし、いかんせん物語のメインである殺人事件の捜査が遅々として進まない、というのは、もどかしく思えてしまいます。

もう一つは、一つ目の理由と関係する部分もありますが、物語の核となる要素が、物語の本当に終盤も終盤、というところで出てくるので、それについて触れられない、ということです。

だから、僕が本書について触れられるのは、「別々の都県で殺人事件が起こり、捜査は全然進まず、その繋がりが最後の最後で分かる」ぐらいしかないんです。これだと、面白そうな話には思えないですよねぇ。作品は面白いのだけど、面白そうに感じてもらうのが難しい、という意味で、もったいないなぁ、という気分になる作品でもあります。

本書で印象的なのが、犯人の人格です。こう書くと語弊があるのは分かっているのだけど殺人を犯したことは理解できているのに、この犯人に共感というか、親しみみたいなものを感じてしまうことです。

これについては作中でも、様々な人間が、表現はそれぞれだが、感じていることです。彼が三人の子どもを殺害したことは間違いないわけで、星野の言葉を借りれば、『越えてはならない一線というものはありますよ。あなたはそれを踏み越えた。同情の余地はありません』となるし、それは確かにその通りなんです。ただ、「何故人殺しをしなければならなかったのか」「そのためにどんな人生を歩んできたのか」ということを知れば知るほど、この犯人を憎めなくなっている自分がいます。非常に複雑です。彼の行動を許容するわけにはいきません。ただこの「許容するわけにはいかない」という感覚は、「社会の一員である僕」が感じているものです。社会というものを切り離した「単体の僕」としては、彼の行動を許容したくなる気持ちもあります。

彼は人を殺したわけで、問答無用で断罪されるべき存在だが、しかし一方で、「人を殺した」という点だけ取り除けば、彼の行動・判断・意思・忍耐はどれも“正しい”感じがします。非常に論理的で、自分が成すべきことを理解しており、それを着実に準備して達成する、という在り方は、ある種尊敬に近い気分さえ抱かされます。作中の人物たちも、彼の仕事ぶりや普段の振る舞いを間近で見て、それぞれに複雑な思いを抱いている。「人を殺したから極悪人だ」というようなシンプルな価値観では判断できない人格であり、そんな彼の捉えきれない人格を描き出すのにこれだけのページ数が必要だった、と思えば、納得の作品という感じもします。

五十嵐貴久「贖い」



歪んだ波紋(塩田武士)

「正しさ」は、常にそれを判断するための「基準」とセットだ。そうあるべきだ。
しかし僕らは、そのことを忘れてしまいがちな、もっと言えば、忘れてしまえるよのなかに生き始めている。

「正しさ」の「基準」について考える時、僕はいつも戦争のことを考える。僕らは今、「人を殺してはいけない世界」に住んでいる。当たり前だ。それが「正しい」と、僕らは何の疑問もなく感じている。もちろん人を殺す人間はいつの世にも現れるが、それはごく少数であり、人を殺した人間に対してはほとんどの人が何らかの悪感情を抱くはずだ。

しかし、戦時中はそうではなかったはずだ。少なくとも兵士たちは、「人を殺すことが正義である世界」に生きていたはずだ。そう思い込まされたと言った方がいいか。いずれにせよ、人を殺すということについて、今の僕らとは違った価値観が存在していた。

何かを「正しい」という時に、僕らが無意識の内に想定している「基準」は、いわゆる「常識」というやつだろう。多くの人が、この「常識」というものを判断基準に、「正しい」「正しくない」を判定している。

「常識」について、僕が好きな言葉がある。物理学者のアインシュタインの言葉だ。

【「常識」とは、18歳までに身に着けた偏見のコレクションである】

この言葉を初めて知った時、あぁ分かる、と思った。僕の中にも、そういう感覚はある。多くの人が、何故なのか理由は分からないが、世の中の人が自分と同じ「常識」を持っている、と想定して話をする。特に日本は、(一応)単一民族国家であり、さらに島国で国境を接している国がないために、余計にそういう感覚が強まってしまうはずだ。

しかし、「常識」が「偏見のコレクション」なのであれば、そもそも一人ひとり違うことになる。というか、そんなことは当たり前だと僕は思うのだけど、それが当たり前だと感じられない世の中になりつつあることが怖いと思う。

ネットが出てきて、近い「常識」を持っている人同士が繋がりやすくなった。これはもちろん、様々にプラスの状況を生み出しもするだろうが、危険な側面もある。自分が持っている「常識」が、世間の「常識」と勘違いしやすくなってしまうのだ。自分の周りにいる人が、みんな同じ「常識」を持っているのだから、日本全体が、あるいは世界全体がそう思っててもおかしくない――そういう発想に行きやすくなってしまうだろう。ヘイトスピーチや排外主義などが、そういう感覚から生み出されているのだろうし、セクハラ・パワハラやいじめなども、そういう感覚が温床となってさらに被害が拡大しているような印象がある。

僕は理系の人間で、物理学が好きだ。物理学は、「誰が見ても正しい」「誰がやっても同じ結果が出る」ことしか「正しい」と認めない。そうであるためには、個人の感覚を判断基準から厳密に排除しなければならない。

例えば、提唱者がノーベル賞を受賞したヒッグス粒子は、「99.999%」の信頼度で発見された。物理実験においては、何かを「発見した」と主張するためには、この「99.999%以上の信頼度」が必要とされるらしい。僕らの感覚で言えば、「99.9%」信頼できる結果なら、「正しい」と言ってしまっていいような気もするが、そこは物理学は厳密だ。何故「99.999%」なのかは、確か統計学的な裏付けがあるはずだけど、ちゃんとは知らない。ともかく、物理学はそんな風にして、個人の感覚を一切排除して、「正しさ」を判定するルールを自らで生み出している。

物理学ほどの厳密さは求めないにしても、僕らにも出来るはずなのだ。「正しさ」の背後にあるはずの「基準」に目を向けることぐらいは。

本書に、こんな文章がある。

『テレビの本質は消費や。君の言うように虚実関係なく「分かりやすさ」と「面白さ」に無上の価値を置くから、短い時間でシロかクロかはっきりさせなあかんし、飽きっぽい視聴者のために常にオモチャを探してる』

これを読んで僕は、熱力学第二法則を思い出した。いわゆる、エントロピー増大の法則だ。世の中のエントロピー(いわゆる「乱雑さ」)は、外部から熱や力が加わらない限り、増大する方向にしか進まない、というものだ。マスコミと受け手の関係にも、近いものを感じる。受け手は、自然な状態では「分かりやすさ」と「面白さ」を求める方向にしか進まないから、それを押し止めようとするマスコミの努力はあまり意味をなさないし、であれば受け手が望む方向に進んでいくしかない。

僕らは、マスコミが何をどう報じるかが「正しさ」を決めるような感覚を持っているのだが、結局のところマスコミは、僕らが「正しさ」を感じるような情報を流しているだけであって、「正しさ」は実は受け手である僕らが決めているのだ、とも言える。

そう、本書は、警告をしているのだ。「正しさ」を決めているのが受け手である僕らに留まっている内に、自浄努力によって状況を改変させろ、と。そうしなければ、僕らは「正しさ」を決する権利すら奪われることになってしまうだろう。そういう世の中は、まさに間近に迫っている。本書を読めば、背筋が凍るような感覚と共に、そのことを強く実感させられることだろう。

内容に入ろうと思います。
本書は、マスコミの「誤報」に焦点を当てながら展開される5つの物語を描く連作短編集です。

「黒い依頼」
近畿新報の記者である沢村政彦は、息子が総合学習で作っている新聞の取材に張り切っているという話を妻から聞きながら、いつものように「満田タバコ店」の道路の話を振られる。道幅が狭く危険だから取り上げろというのだが、13年目の中堅記者の仕事ではない。
休日だったが、デスクの中島から呼び出された沢村は、ちょっとした取材を頼まれた。中島は、近畿新報が年間200万円という破格の予算をつけてスタートさせた「プロジェクトIJ」という調査報道の責任者で、今は、同社のエース記者である桐野が追っている政治ネタを進めている。関西で有名なコメンテーターが出馬する予定だが、彼が犯罪に関わっている疑いがある、という線らしい。しかし沢村が頼まれたのは、ひき逃げ事件の取材だ。読者からの投稿で、ひき逃げしたと思しき車が見つかったのだが、それがなんと被害者遺族の家にあるという。その情報が正しいとすれば、被害者遺族が一転加害者になるが…。

「共犯者」
定年後、殺風景な部屋でブラームスの交響曲を聞くことを趣味にしている、元新聞記者の相賀正和は、大日新聞時代の後輩である能美から、垣内智成が死んだと連絡を受けた。亡くなったのは一週間ほども前で、自殺だという噂らしい。垣内はかつて一緒に消費者金融の取材をした戦友だ。以前の住所を尋ねると、そこには垣内の妻だった女性がいた。離婚していたことも知らなかったが、もっと驚いたことは、垣内は消費者金融から借金をしていたというのだ。あれほど消費者金融の取材にのめり込み、その悪事に迫った男が何故…。相賀は、垣内の家まで行き、遺品を整理し、そして垣内の死について調べてみることに決めた。そしてその取材は、長い長い時を経て、相賀へと戻ってくることになる…。

「ゼロの影」
かつて大日新聞の記者だった野村美沙は、社内結婚をしたことで配置換えさせられ、その不満もあって会社を辞めた。今は「K―コミュニケーション」というところで韓国語を教える講師をしているが、なかなかうまくいかない。特に、美沙にちょっかいを掛けてくるように思える生徒が一人いて、非常に億劫だ。谷崎という名のその生徒との授業中、廊下が慌ただしくなり、谷崎も警備員に加勢して一人の男が取り押さえられた。盗撮だという。
しばらくして美沙は、娘の杏が通う保育園でその盗撮犯を見かけた。まさか。そのことを夫の新一に伝え、調べてもらうと、警察に盗撮事案の記録がない、と分かった。どういうこと…?美沙は、自分でも調べてみることにしたが…。

「Dの微笑」
近畿新報の上岡総局のデスクである吾妻裕樹は、「よろず屋ジャーナル」という関西ローカルの深夜バラエティを他の記者と一緒に見ていた。俳優の谷垣徹にセクハラ疑惑が噴出しており、その番組でも、被害に遭ったという女性がモザイクで出演していた。セクハラ問題は記者としては関心事だが、同時に、物証が提示されないまま記憶だけで「リンチ」のような状況が作り出されてしまう現状に怖さも感じている。
会社に、かつて入社面接で顔を合わせ、彼のような記者になりたいと思った大先輩である安田隆がやってきた。安田に送ってもらいがてら話をしていた二人だったが、安田が、バブル期に「闇社会の帝王」の異名を取った安大成の親戚だと言い出し、彼のインタビューを取りたいと吾妻に頼んできた。吾妻はお世話になった先輩の頼みと、安大成の行方を探してみることにした。
安大成は最近、「よろず屋ジャーナル」に登場していた。大物フィクサーと接触寸前まで行った、という内容だった。その件で知り合いのプロデューサーをつついてみると、その番組の構成作家がちょっときな臭いと分かった。さらに吾妻は、「よろず屋ジャーナル」の映像を見返してみて、衝撃的な事実を発見してしまう…。

「歪んだ波紋」
硬軟取り揃えた記事を常に出し続け、裏取りもきちんとやると評判のネットメディア「ファクト・ジャーナル」の三反園は、不倫報道を連発する「週刊文潮」のエース記者の不倫をすっぱ抜くなど、PVの稼げる記事を出しつつも、かつて全国紙で記者を経験していたという自負もあり、きちんとした記事を書きたいと思っていた。しかしそのためには、軟派な記事も取り混ぜて、母体を盤石にしなければならない。
三反園は、あるマスコミの捏造の背景にさらに大きな思惑がある、とする、近畿新報の吾妻からの連絡に辟易しながらも、程よくあしらっていた。そして今日の、吾妻がさらなる背景と言った人物と会うのだ。
そこで吾妻は、ずっとやりたいと願っていた硬派な記事が書けるチャンスをものにした。取材前から世間がざわつく様が想像できるほどの記事になるだろうことは間違いなく、事情があって行けなかったその取材がどんな記事に変わるのか楽しみに待っていたが…。

というような話です。

これは面白い小説だったなぁ!始めのウチは、よくあるような、新聞記者を主人公にした事件モノの小説だろうと思って読んでいたのだけど、全然違いました。これ、ちょっと凄かったなぁ。

物語全体の大きな枠組みはとりあえず置いておくとして、まずこの物語は、決して僕らとは無関係ではない。「新聞記者による誤報」の話であって、一般人である僕らが同じようなミスをするわけがないから関係ない――なんて言えるような物語ではない。

ネット社会が当たり前になったことで、僕らは、誰でも自分の意見を発信できるようになった。かつては、一部の人間に限られていたことが、誰にでも出来るようになったのだ。もちろん、誰もがミスをするが、発信する人間が専門職に限られていた時代は、専門職に就く以上最低限のリテラシーは身につけさせられるし、その枠の中で時々、どうしようもないミスが生まれる、という状況だっただろう。あるいはミスではなく、意図的な情報操作というものもあったのかもしれないけど、だとしてもその総数は非常に少なかったはずだ。

しかし今は、専門職としてのリテラシーを持たない人間が発信側に回ったことで、混沌とした状況が生まれているはずだ。流れてくる情報の真偽を判定しない(できない)ままに拡散に関わったり、善意の振りをした悪意をばら撒く手助けをさせられていることだってあり得る。本書では、新聞記者であるが故の虚栄心や特落ちの恐怖などに根ざした誤報が描かれることが多いが、しかしそれらは決して、僕らとは無関係ではないのだ。

「ファクト・ジャーナル」の三反園は、こんな実感を抱いている。

『心地のいい情報に包まれやすい現代ほど、真っ当なジャーナリズムが求められる時代はない』

僕らは、ほんの一昔前と比べても想像を絶するほどの情報に日々さらされながら生きている。そういう中にあって、情報の真贋を見極めることは非常に困難だ。しかしだからと言って、真贋を見極めなくていい、などということにはならない。だからこそ、真っ当なジャーナリズムがきちんと機能し、裏付けのあるきちんとした情報がより強度を保ったまま世の中に広まる社会を目指さなければならないのだが、「分かりやすさ」や「面白さ」にすぐに飛びついてしまうような時代環境では実現はままならない。そのもどかしさを、三反園も感じている。

こんな時代だからこそ、誰もが「誤報」と無関係ではいられないと強く実感させられる物語であると同時に、本書が訴えかける「ある危機」の怖さにも震撼させられる。

本書は、実に緻密に構成された物語だが、その緻密さは、既存のメディア(「レガシーメディア」と呼ばれているそうだ)の欠陥を際立たせる点においてさらに発揮される。「レガシーメディア」が元々カバー出来ていなかった領域が、様々な外的要因によって膨らんでいき、その現状を無視したままこれまでのやり方を踏襲しようとする「レガシーメディア」のあり方に一石を投じるような構成は、もちろんマスコミという仕事に携わる人々に多大なる衝撃を与えるだろうが、受け手である僕らにとっても破壊力を持つ。「レガシーメディア」であっても情報を精査すべきである点に変わりはないが、もはやそんな次元の話ではないのだ、ということが本書を読めば理解できるだろう。それはもう、「情報」とは何か、「情報が持つ価値」とは何か、という領域の話であり、本書で描かれていることが、現実を広く侵食していくとするならば、「情報」に依存している僕らの生活はある種の破綻を迎えることになるのだろうと思う。既にある程度壊れかけているとはいえ、まだまだ多くの人の幻想によって成り立っている「情報社会」が、音を立てて崩れるような日が遠くない内にやってくるのだろう。

そうなった時、きっと僕らは、迷惑メール程度の価値しかない情報のゴミに埋もれて、手近な情報にさえ手が届かなくなるような、そんな世界に生きることになるのかもしれない。

塩田武士「歪んだ波紋」

「焼肉ドラゴン」を観に行ってきました

僕らの生活は基本的に、誰かの・何かの都合の上に成り立っている。

生活が安定している場合、その誰か・何かは見えない。しかし、ちょっとしたことで、それはスッと姿を現す。その時に初めて、自分の生活が、自分の意思ではどうにもならないものの上に成り立っているということに気付かされることになるのだ。

それは、どこに住んでいるどんな人にも起こりうる。自治体が原発を誘致するかもしれないし、空き家が増えたことで治安が悪化するかもしれないし、未曾有の災害によって住処を奪われるかもしれない。事前に手が打てるものもなくはないが、実際にそういう状況に直面してみないと、僕らにはその被害の甚大さが理解出来ないし、そういうものに予め労力を割く気力がない。だから皆、何か起こってから慌てふためくことになってしまう。

ただ、状況や立場によっては、自分の足元が常に不安定であるということを意識し続けながら生きなければならない人もいる。

常にその意識を突きつけられたまま生きる、というのは、相当にしんどいだろう。僕らは普段、実際には幻想であったとしても、ここでの生活がずっと続くものだ、という前提の元で生きていける。明日にはここでの生活が終わってしまうかもしれない、という不安と共に生きなければならない人は、そう多くはないはずだ。だからこそ、そういう生活は、なかなか想像が及ばない。

この映画は、そういう覚悟を常に突きつけられながらも、明るくたくましく生きる人々を描く作品だ。

内容に入ろうと思います。
時は高度経済成長期真っ只中の1969年。大阪の空港のすぐ近くの国有地に、「焼肉ドラゴン」はある。そこは、在日朝鮮人が掘っ立て小屋のような建物で暮らしているゴミゴミとした町で、常に市から立ち退きの話が出ている。しかし住民たちは、狭く汚くやかましいこの町で、とりあえず精一杯生きている。
「焼肉ドラゴン」には、常に人が集まっている。店主の「龍吉」から、皆が「ドラゴン」という名前で呼ぶようになった焼肉屋だ。店主とその妻はどちらも娘を連れての再婚で、長女・静花、次女・梨花、三女・美花の三人がいる。静花は事情があって足を引きずっており、美花はキャバレーのボーイ(既婚者)と付き合っている。物語は、まさに梨花が哲夫と結婚する、というところから始まるのだが、気性の荒い哲夫が市役所で婚約届を破り捨てたことでいきなり険悪なムードである。しかし「焼肉ドラゴン」では、家族や常連客たちとの喧嘩は日常茶飯事。いつでも何かゴタゴタが起こっている。
両親の再婚後に生まれた時生は、色々あって心を病んでいて、学校にもあまり行けていない。片腕しかない父親を手伝いながら、屋根に登って町を見たり、本を読んでいたりする。
家族だからこそ、喧嘩し、言い合い、反発し、反対し、それでも、彼らはきちんと繋がっている。それぞれが問題を様々に抱えていて、在日朝鮮人であるという理由で乗り越えがたいこともたくさんあるけど、それでも彼らは日々、真っ直ぐ前を向いて生きている。
というような話です。

良い映画だったなぁ。僕は凄く好きでした。内容紹介を文章にしようとするとなかなか難しくて、映画の中では色々起こっているはずなんだけど、何か核となるようなストーリーがあるわけじゃない。とにかく、「焼肉ドラゴンで起こっている色んなこと」としかまとめられない作品で、そういう意味では雑多な映画なんだけど、グイグイ引き込まれるような力があるなと思います。

やっぱりその源泉は、彼らの陽気さだろうな、と思います。とにかく、家族間で色んな問題が頻発するし、いつだって誰かと誰かが喧嘩してるような感じなんだけど、それでも彼らは、喧嘩する時はする、終わったらスパッと陽気になる、みたいな、陰湿さがあまり感じられないようなカラッとした感じがあって、それが見ていて心地よかったし、爽快な感じがしました。

彼らが在日朝鮮人である、ということは、物語の中で明確に扱われる場面というのはそう多くはありません。普通に見ていると、彼らの物語は日本人の物語に思えます。ただ、何か問題が起こった時の個々人の判断や反応の中に、在日朝鮮人として日本で生きなければならない身の上であることの苦悩や苦労が垣間見える、と思いました。

それを一番実感させてくれるのが、父親ですね。戦争で片腕を失い、それでも子どもたちのために懸命に働いたこの父親は、様々な感情を飲み込みながら、自分たちはここで生きていくしかないんだ、という強い決意で様々な判断をしていく。口数の多い人物ではないのだけど、時折見せる表情や、言葉の端々から、複雑な感情と無理矢理に折り合いをつけ、この現実を生きようとする力を感じました。

物語の中で結構な割合を占めるのが、三姉妹の恋愛(や結婚)模様です。これもまあなかなか色々あって、うっかりすると書きすぎてしまいそうになるけど、この三姉妹の恋愛を巡る物語の中で、一番強く引き込まれるのが、長女の静花です。詳しいことは書かないのだけど、彼女もどうにもならない色んな感情を内側に抑え込んでいる人物で、それが時々爆発してしまうシーンは、さすがの迫力がありました。

この映画をどんな風に見てもいいと思うけど、とにかく、難しいことを考えなくたって楽しい気分になる映画です。僕が知ってる俳優だと、真木よう子・井上真央・大泉洋ぐらいですが、この三人の演技はさすがだなぁって感じだったし、その時代を知っているわけでもないんだけど、時代の空気感みたいなものも伝わってきました。

「焼肉ドラゴン」を観に行ってきました

「未来のミライ」を観に行ってきました

昔、何で読んだか(あるいは見たのか)覚えてないんだけど(確か、ヒッチコックの映画絡みだったような気がするんだけど)、「物語」というもの全般に対して、こういう考え方に触れた機会がある。

【物語というのは、読んでいる人(あるいは見ている人)がある程度先を予測出来なければならない。「きっとこうなるんだろう」という想像が生まれれば、その通り進めば安堵をもたらすし、裏切れば驚きを与えられる】

なるほど、という感じがしました。確かにその通りかもしれません。

で、この「未来のミライ」の最大の欠点は、「先を予測出来ない」という点だと思う。

僕らは何か「物語」に触れる際、「先が全然想像できない」という言い方をすることがある。この表現は、伝えようとしている中身を正確に捉えると、本当は、「普通に考えると先の展開はこうなるんだろうけど、きっとそうじゃないし、だとしたらどうなるか想像できない」という意味だろうと思う。ここで大事なのが、「普通に考えるとこうなるだろう」と想像している点だ。しかし、様々な理由から、そうなるわけがない、と考えている。だからこそ「想像できない」という感覚になるのだ。

しかし、「未来のミライ」の場合は、「そもそも普通に考えても先の展開がどうなるのかまったく分からない」のだ。これは結構辛かった。正直、ストーリーラインというのか、物語を展開していくための基本の論理というのか、そういうのがまったく掴めないまま最後まで行ってしまった。どの場面を見ても、次にどうなるのかイマイチ分からず、だから安堵も驚きも得られない。この映画を見て、「物語は先をある程度予測させなければならない」という言葉の意味が、すごく良く理解できた、と感じました。

内容に入ろうと思います。
くんちゃんは、まだ親に甘えたい盛り。でもそんなくんちゃんに妹が出来た。名前は「未来」。くんちゃんは、未来に両親の愛情を奪われたと思い、あれこれと親を困らせるような行動を取ってしまう。
そういう時、くんちゃんは、幻想的な世界に取り込まれる。そしてそこには、「未来の未来」や「過去の曽祖父」などがいて、くんちゃんはそこでの経験から様々なことを学ぶ。
というような感じです。

1時間半ぐらいの映画だったんだけど、メチャクチャ長く感じました。とにかく、全然面白くなかった。印象的だったのは、映画が終わって帰る時、僕の前を通った小学生ぐらいの男の子が、「全然意味が分からなかった」とぼそっと言ってたことだ。まあそうだろう。特に、子どもが見て面白い映画じゃ、全然ない。

「未来のミライ」を観に行ってきました

友だち幻想 人と人の<つながり>を考える(菅野仁)

現在ベストセラーとなっている作品である。

先に書いておくと、本書に書かれている内容は、僕個人としては、「まあそうだよなぁ」と感じるものばかりだった。僕は、本書に書かれているようなことを、既に10年くらい前に自力で考えていたし、5年位前には、他人に対して言語化出来るぐらいにはなっていたと思う。それぐらい、気づいている人からすれば「当たり前」のことが書かれている。

しかし同時に、僕は、本書に書かれているような考え方にたどり着けずに苦しんでいる人も結構見てきた。「周りから浮いてはいけない」「指示されたこと、頼まれたことは全部きちんとやらなければならない」「みんなと出来るだけ仲良くしなければならない」みたいな感覚に囚われすぎていて、窮屈さを感じてしまっている人にたくさん出会った。

何よりも、昔の僕がそういう人間だった。大学生ぐらいまで、僕はそういう側の人間だった。僕は、そういう自分がすごくしんどくて、どうにかしたいとずっと思っていたから、自分なりに思考や環境を無理やり変化させて、どうにか現在のような価値観や立ち位置にたどり着けるようになった。それは、周囲に迷惑を掛けることもあったし、今でも周りの人を不快にしている可能性は十分あるのだけど、しかし、自分の中で、何が一番大事なのかをきちんと捉えることで、周囲の人について「考えすぎること」を止めたのだ。

僕にとって何が一番大事なのか。それは、「自分の考えをきちんと持つこと」だ。

別に、「他人の意見を一切受け入れない」などと言いたいのではない。でも、「自分の考え」というものがちゃんとないまま他人と関わると、どうしても侵略されてしまう感覚がある。だからこそ、他人との距離感を明確に取ってでも、「自分の考え」をきちんと持った方がいいと思ったし、そのためにはどうすべきかをずっと考えてきたのだと思う。

本書では、著者が提示する問題意識はこんな風に文章化されている。

『身近な人との親しいつながりが大事だと思っていて、そのことに神経がすり減るぐらい気を遣っている。なのにうまくいかないのは、なぜなのでしょうか?』

これは、現代を生きる多くの人が抱いている問題なのではないかと思います。そして、この問題への対処はなかなか難しい。それは、僕自身がかつてそういう人間だったからこそ、実感として分かる部分もあるからそう言えます。

その原因分析として、色々書いているんですが、要約するとこの文章がよくまとまっていると思います。

『一人でも生きていくことができてしまう社会だから、人とつながることが昔より複雑で難しいのは当たり前だ』

昔と今では、特に学校で「当たり前」のように存在する関係性というのがまったく変わってきているのに、表向きのやり方だけ昔のものを踏襲しているからみんな苦労しているのだ、ということです。本書では、「一年生になったら、友だち百人できるかな」という有名な歌詞について疑問を呈していますが、確かにその通りで、昔なら「友だち百人できるかな」という問いかけはまだ成立していたのだけど、現在では、様々な社会状況の変化からそれが成立し得ないのだ、と指摘します。

ではどうすればいいのか。それについては本書では、同じ内容を繰り返し繰り返し違う文章で書いています。恐らく、本書の中で最も重要な主張だろうし、僕自身も強く共感するので、該当する文章を目につくだけ抜き出してみます。

『基本的な発想として、共同体的な凝縮された親しさという関係から離れて、もう少し人と人との距離感を丁寧に見つめ直したり、気の合わない人とでも一緒にいる作法というものをきちんと考えたほうがよいと思うのです』

『つまり、現代社会においては、「気の合わない人」といっしょの時間や空間を過ごすという経験をせざるを得ない機会が多くなっているのです。だから「気の合わない人と一緒にいる作法」ということを真剣に考えなければならないと思います』

『そのためには、「気に入らない相手とも、お互い傷つけあわない形で、ともに時間と空間をとりあえず共有できる作法」を身につける以外にないのです。大人は意識的に「傷つけあわず共生することがまず大事なんだよ」と子どもたちに教えるべきです』

『ちょっとムカツクなと思ったら、お互いの存在を見ないようにするとか、同じ空間にいてもなるべくお互い距離を置くということしかないと思います』

本当に、その通りだと思います。僕も普段からこのことをとても意識して行動しています。

「気の合わない人」が目の前にいる場合、現代人の多くは「自分の視界から排除する」方向性で動くように思います。学校でのいじめや、ネット上の炎上などの多くは、そういう意識から生まれているように僕には感じられます。でも、はっきり言って、そんな行動にはほぼほぼ意味はない、と僕は感じます。だって、「気の合わない人」なんて、どこにもかしこにも必ずいるからです。「気の合わない人とは絶対に関わりたくない!」ということであれば、引きこもるしかないでしょう(まあそれで引きこもってしまう人も実際には多いのかもしれませんが)。

普通に社会の中で生きていくのであれば、必ず「気の合わない人」は現れます。そして、「気の合わない人」を排除しようとすれば、集団全体に余計な歪が生まれて、結局、その集団に属している自分自身まで不快な思いをする羽目になる、ということが多いと思います。だからこそ、「気の合わない人」とどう関わっていくのか、という振る舞いを考える必要があるわけです。

ただ、現代人にはこれは難しいですよね。何故なら、ネットが広がったお陰で、「気の合う人」をいくらでも簡単に探せる時代になってしまったからです。それ故に、「気の合わない人」と関わらなくても他人との接点を持てるようになってしまったし、わざわざ我慢して「気の合わない人」と接する努力をしようなんていう人はどんどん少なくなってしまうでしょう。

また本書では、著者が「阻害語」と名付けた言葉遣いにも問題があると指摘しています。例えば、「ムカツク」「ウザい」のような言葉を頻繁に使う若い人に対して、著者はこんな懸念を抱きます。

『つまり、自分にとって少しでも異質だと感じたり、これは苦い感じだなと思ったときに、すぐさま「おれは不快だ」と表現して、異質なものと折り合おうとする意欲を即座に遮断してしまう言葉です。』

また、「カワイイ」という表現に対してはこんな風にいいます。

『たとえば、自分にとって好ましいと感じる対象を、ほとんどすべて「カワイイ」という語で間に合わせてしまうということは、そうした対象がそれぞれに持っている特徴の間の微妙な差異を感覚できない鈍さを、知らず知らずのうちに帯びてしまうことにつながると思うのです』

僕にも昔からこういう感覚があります。以前僕は職場で、ある大学生のアルバイト二人が、会話の4割ぐらいを「アレ」で済ませているのを聞いたことがあります。二人の間ではそれで通じているので、「気の合う人」同士のやり取りとしては何の問題もありませんが、しかしそれは、他の人には通用しません。そういう感じで、仲間内でしか通用しない言葉(仲間内では通用してしまう言葉)ばかり使い続けていると、物事を捉えて表現する力も衰えるし、自分の感情を認識して言語化する力も失われていきます。そうなればなるほど、「気の合わない人」とは、「言葉が通じない」という根本的な理由によってコミュニケーションが成立しなくなり、そのせいでさらにお互いの距離が離れていき、共存できない、ということになっていきます。

その対策として、本書では「読書」を勧めています。僕は書店で働いているので、まあ贔屓もありますが、でも確かに「読書」ほどコミュニケーション能力を高める簡便な手段はないな、と感じています。何故なら、本書でも指摘されている通りですが、「読書」というのは著者と「対話」をすることであるし、また、直接的なコミュニケーションに依らずとも、世の中に多様な価値観・考え方があるということを知ることが出来るツールだからです。読書とコミュニケーション能力というのは、一見無関係のように思えますが、実はコミュニケーション能力を高める一番の近道が読書だと言えるかもしれない、と僕は考えています。

本書には、学校の先生に向けた提言も様々になされています。基本的な発想は、「みんなが仲良くなれる、なんていう幻想は持つべきではない」というものです。そういう幻想を持てば持つほど、いじめはなくならないし、子どもが危害を加えられる環境を維持してしまうことになると指摘します。それよりは、全員が仲良くなる必要はない、気が合う人が見つかればラッキーなんだ、ぐらいでいいんだということを教え、生徒同士がそれぞれの人と適切な距離を保ったまま関わることが出来るようにクラス運営をすべきだ、と主張します。うん、そんな風にやってもらえると、まだちょっとは楽かな、という感じはしますね。

社会学の教授のようですが、中高生でも理解できるだろう平易な言葉で語りかけるように伝えようとしてくれる作品なので、非常に読みやすいと思います。生徒自身ももちろんですが、親・教師なども是非読んで欲しいなと思います。

菅野仁「友だち幻想 人と人の<つながり>を考える」

鈴の神さま(知野みさき)

内容に入ろうと思います。
本書は、5つの短編が収録された連作短編集です。

「鈴の神さま」
冬弥は、ピアノの練習の件で母親と喧嘩し、しばらく四国にある祖父の家に身を寄せることになった。ピアノの練習を毎日するのは絶対だったから遠出する機会はあまりなかった。ピアノを嫌いになったわけではないけど、気分転換に、ウマが合う祖父と一緒に住むのはいいだろう。
祖父はかつて家具のバイヤーをやっていて、世界中を飛び回っていた。語学が堪能なのはもちろん、好奇心や努力も人一倍あるので、興味や能力の幅が広い。そんな祖父とのんびり過ごしていると、庭先に小さな男の子がやってきた。祖父はその男の子のことを「安那殿」と呼んでいる。時代劇のような古臭い話し方をする男の子は、祖父曰く「神さま」なんだそうだ。
半信半疑だった冬弥も、町の他の住人に安那(とお目付け役の楓)の姿が見えていないらしいと分かって、祖父の言葉を信じた。
冬弥は、安那の幼名である「沙耶」という呼び名で安那を呼んだ。「神さま」だとはとても思えないような愛嬌のある沙耶と、祖父の家にいる間存分に楽しんだ。また会う約束をして帰ったが…。

「引き出しのビー玉」
夫の故郷へと疎開してきた和は、40手前の夫が疎開先で召集令状を受け取ってしまった。今、出産間近にお腹を抱えながら、お世話になっている白石家の仕事を出来る限り手伝うつもりでいる和だったが、身体は思うように動かない。結局、和が最も邪魔にならないのは散歩に出ることだった。暑さが厳しく、ちゃんと水筒を持っていったのだったが、目眩がして倒れ込んでしまう。介抱してくれたのが、小さな男の子と男性で、若い男性は戦争に取られていって目にする機会がないから新鮮だった。何やら訳ありみたいだけど、そもそも口調が時代劇風で古臭い。二度ほど会ったけど、結局それきりになってしまった…。

「ジッポと煙管」
若い頃から俳優を目指して頑張ってきたものの、なかなか芽が出ず、30歳後半になってもアルバイト生活をしている鵜木次郎は、ふと思いついて実家に帰ってみると、いつもの小言を浴びせられて消沈する。姉の嫁ぎ先である四国の高野町まで行こう、と決めたのだが、どこをどうしたものか、冬の山中で迷ってしまった。マズイ、このままだと凍死もあり得る…と思った時、一軒の家を見つけた。そこには、安那と名乗る小さな男の子が、その場の主であるかのように他の三人の大人たちを紹介していた。家の作りや着ているものの感じは、完全に時代劇だ。彼らが何者なのかよく分からないまま会話を続けた鵜木は、しばらくして彼らに正しい道を教えてもらい、なんとか姉の嫁ぎ先までたどり着くことが出来た。後々、お礼がてらあの家を訪ねようとしたが…。

「秋桜」
高野町で雛屋というお菓子屋を切り盛りし続けてきた美鈴は、ひ孫にせがまれて、店の者たちよりも先に祭りに足を運ぶことにした。古い友人と久々に再会した彼女は、祭りの雰囲気の中、5、6歳の頃の祭りの日のことを思い出した。あの日、たった一人でお祭りを楽しんでいる男の子を見かけて、どうしても気になってしまったのだ。見覚えのない子だった。隣村の子だろうか?誰かと一緒じゃないんだろうか?しばらく後をついていって、勇気を出してようやく声を掛けた。
そんなことを思い返していると、ひ孫の面倒を頼んでいた子が、ひ孫を見失ったという。見つけ出して聞いてみると、ねり飴を二つ欲しいという。二つ?誰かにあげるのかな?

「十四年目の夏休み」
この内容は一応伏せておきましょう。

というような話です。

なかなかおもしろく読めました。僕はこういう、「あやかし」とか「神さま」とか出てくるような小説ってあんまり読むことがないですけど、ほんわかしていて良かったと思います。

本書では、一応「神さま」ってなってますけど、安那は全然神さまらしくなくて、そこがなかなかいいですね。作中でもちらっと出てきますけど、確かに「800万も神さまがいるなら、色々いるだろう」って感じです。

安那たちと会う面々は、神さまだと知ってて会うとか、知らずに会うとか、後でなんとなく察するとか、色んなパターンがありますけど、それぞれ、安那たちと出会うことで、はっきりここが、と指摘できるようなものではないんだけど、自分の中の何かが変わって、前に進んでいく勇気をもらえる、みたいな感じが良かったと思います。

知野みさき「鈴の神さま」

雨の鎮魂歌(沢村鐵)

内容に入ろうと思います。
舞台は渡里東中学。仁木徹也は仲間たちと一緒に普段と同じような時間を過ごしていた。生徒会に入った橘路子・古館英明・一村和人とは昔のような関係のまま、とはいかなくて、特に心を寄せる路子との関係は、徹也にとって悩ましいものだった。
一村がしばらく学校に来ておらず、見舞いに行っても姿を見ることが出来なかった。そしてある日、旧校舎で一村が死体で発見される。時を同じくして、理科教師である清水も、山の中で死体で見つかった。
一体何が起こっているのだ?徹也は、古館が事情を知っていると判断するが、古館は何も話さない…。
というような話です。

もうとにかく、文章が無理だったなぁ。僕には文章が恐ろしく下手にしか思えなくて、ストーリーも人物像も、とにかく何も頭に入ってこなかった。正直、それ以外に書くことは何もない、というぐらい、最初から最後まで文章が受け付けなかった。

沢村鐵「雨の鎮魂歌」

「天命の城」を観に行ってきました

誇りのために死を選ぶか?それとも、恥辱とともに生きるのか?

これは、置かれた状況によって答え方が変わる。少なくとも僕は。

死んだり生きたりするのが僕一人なのであれば、まあ死を選んでもいいか、と思う。特別強く生きたいと思っているわけではないので、わざわざ恥辱に耐えてまで生きる気力はない。誇りのために死を選ぶ、という積極性ではなく、恥辱がめんどくさいから死ぬ、というような判断をするだろう。

しかし、死んだり生きたりするのが僕一人の話でないのなら、僕は生きることを選ぶだろう。

僕一人の決断で、多くの人の生死を決するような状況にいるのであれば、そんなもの、考える余地もない、と僕は思う。「誇り」というのがどこまでを指すのか、つまり「個人」の誇りなのか「民族」の誇りなのか、はたまたもっと別の誇りなのかによっても変わってくるのかもしれないが、しかしそれがどんな誇りであれ、それを守るために多くの人が命を失うというのであれば、そんな誇りは捨ててしまえばいい、と僕は思う。

もちろん、なかなかそんな決断を迫られることもない。僕が言っていることはリアルさの欠片もないのかもしれない。それでも、多くの人の命を救う決断をしたい、という気持ちはどんな場合でも持っていたいと思う。

この映画では、「王の誇りを守るために死を覚悟で戦う」か、「王に恥辱を味あわせてでも人民の命を救う」かという二択が提示される。前者の主張は、大臣たちの大半の総意であり、後者の主張は孤軍奮闘という状況だ。後者の主張は圧倒的不利にある。しかし、時代背景や民族対立の歴史など、色んな要素が絡まり合うのだろうとはいえ、やはり僕は、圧倒的に後者の主張の方が真っ当だろう、と考えてしまう。

『あなたがたの大義や名分は、なんのためのものですか?人が生きてこその、大義や名分ではないのですか?』

その通りだと思う。そこに生きる者がいなくなってしまえば、どんなに立派な大義や名分を掲げていようと、何の意味もない。戦う価値も、耐える価値も、人がいればこそ、だ。

戦を前にすると、どうも人は「何故戦うのか」を見失うようだ。少なくとも、僕が読んできた本や見てきた映画には、そういう人たちがたくさん登場した。「奪う」ために戦うというのももちろんあるだろうが、今僕がここで書きたいのは「守る」ための戦いだ。「守る」ために戦っているはずなのに、戦場において真っ当な判断が出来なくなり、戦うことで守るべきものを失ったり傷つけたりしてしまう、などということにもなりうる。

映画を見ながら、そんな人間にはなるまい、と改めて感じた。

内容に入ろうと思います。
17世紀、北東アジアを制圧しようとする清は、朝鮮に臣従を求めた。しかし朝鮮は、明を父と仰ぐ国。明に対する義理からそれを拒絶する。1636年12月14日、清は朝鮮に攻め入った。朝鮮軍は王と共に、南漢山城に逃げ込んだ。兵の数は13000人。清はその10倍以上の数で山城を包囲している。
雪降る、寒さ厳しい季節。食料もあまり持ち出せていない。見張りの兵たちは凍傷にかかり、また飢えで命を落としていく。
清との交渉の矢面に立った吏曹大臣・ミョンギルは、和睦の道を探る。敵将から、王の世子を人質として寄越すよう命じられ、ミョンギルは、生きるため従うべきだと主張する。しかし、礼曹大臣・サンホンは、ミョンギルの主張に真っ向から反論、和睦の道を探るなど逆臣のすることと、ミョンギルの首を撥ねるよう進言するほどだ。
南漢山城に立てこもった彼らには、まともには生き残る術はない。しかし大臣たちの多くは、王に仕える者として徹底抗戦すべきと主張する。ミョンギルだけが、逆臣と罵られつつも、どんな状況でも和睦の道を探り、王に恥辱を味わわせることになっても、皆が生き残ることこそが大事だ、と主張し続けるが…。
というような話です。

なかなか良い映画でした。結構お金掛かってるんだろうなぁ、と感じるくらいのなかなかの壮大さで、映像的にもなかなかパワフルな映画でした。

映画のメインは、和睦か抗戦かの判断に揺れ動く王や大臣たちの物語なのだけど、それらに加えて枝葉の物語が色々とある。

まずは、南漢山城の麓にある村で鍛冶職人をしているナルセとその弟だ。彼らは卑賤の身分であり、朝鮮が清と明、どちらの元にいようがどうでもいい。しかし戦闘に巻き込まれ、仕方なく警備につかされている。しかし、色々あって、彼らは徐々に、南漢山城において重要な役割を担うようになっていく。

ナルセという男の立ち居振る舞いがなかなかいい。強く優しい男で、自分がやらねばならないことを、感情を押し殺してでも遂行する。表には出さない、色んな複雑な感情を内に秘めているだろうが、それらをグッと飲み込んで、国のためではなく、自分が大事だと思う人たちのために奮闘する姿はカッコいい。

また、南漢山城に迷い込んできた一人の少女も、なかなかいい味を出している。凍った川を渡る道案内をしてくれた老人の親族であり、彼女もまた、国同士の戦いなどに関心はない。家に戻ってこなかった祖父の行方だけが心配なのだが、サンホンは少女と一緒に暮らす中で、初めは優しく接することが出来なかった少女に対しての態度を少しずつ変えていく。

また、ミョンギルの古くからの友人であり、兵をまとめる守御使であるシベクも重要な役割を担っている。なんというのか、戦というのは本当に、アホな上司を持つと一瞬で壊滅するよなぁ、ということがよく分かる場面があって、シベクは能力がありながら苦労させられている。

そんな面々が、それぞれ生きるために奮闘しながら、それぞれの「生」「死」を考える。そこには、大きな対比がある。王や大臣らの「賊軍に命乞いをするくらいなら…」という発想の対極として、ナルセの「俺たちのような者は、種を蒔いて収穫することだけを考える」という発想がある。上の立場にいる者たちは、「王が誇りを失えば人民はついてこない」と言うが、人民はそんなことどうでもいいと思っている。「命を賭けている兵たちの士気が下がる」と言ったって、そもそも寒さと飢えで士気もクソもあったもんじゃない。しかし彼らは、自分たちが置かれた状況下で「抗戦」を選ぶ大義名分として人民や兵の話を持ち出してくる。そんなクソみたいな理屈は、古今東西過去様々な歴史の中で繰り返されてきたことなんだろうけど、やっぱりイライラしてしまうなぁ。

王や大臣らの大半の理屈には納得できないものがあるんだけど、それは時代的に仕方ないとして、ミョンギルような者がきちんといるということに救いが感じられる映画でした。

「天命の城」を観に行ってきました

「フジコ・ヘミングの時間」を観に行ってきました

睡魔に勝てなかった。結局、全体の1/3ぐらいは寝ていたと思う。

寝てて全部観れていないのにこんなことを言うのはフェアではないかもしれないけど、ちょっとこの映画には不満がある。
それは、

「全体を貫くテーマ・ストーリー」も、「今撮らなければならない理由」も、あまり感じられなかったこと

だ。

ドキュメンタリー的な作品もそれなりに見るが、僕の印象では大体、なにかスパッと言語化出来るようなテーマ性や、全体を貫くストーリーなどがある。今パッと浮かんだのが、森達也の「Fake」というドキュメンタリー映画だが、これは、佐村河内守という、ゴーストライターに作曲させていたと問題になった人物を取り上げた映画だ。正確に覚えていないが、この映画では、「佐村河内守の主張を全面的に信じて映像を撮る」というようなテーマがあったように記憶している。稀代の嘘つきのように喧伝された佐村河内守という男を、監督であり撮影者である森達也はとりあえず一旦信じ、その前提の元で撮影を続けていたような記憶がある。

「フジコ・ヘミングの時間」には、そういう全体的なテーマやストーリーはなかったように感じられた。また同じく、「今撮らなければならない理由」も感じられなかった。

どちらかがあれば良かったのだけど、僕が観ている限りではこの映画は、フジコ・ヘミングという特異な演奏家について回り、色んな映像を撮り、それを色々繋いでみました、という風な映像に見えてしまった。その何がいけないのかと考えると、それなら、同じことをドキュメンタリーではなく、フィクションとして描いた方がマシではないか、と感じられてしまうからだ。

この映画では、フジコ・ヘミング自身の言葉を色々と収めながら、過去の写真や生家の映像などを織り込んで、フジコ・ヘミングの過去や歴史に迫ろうとする。しかし、観ていて感じることは、「今のフジコ・ヘミング」に対しては、結局フジコ・ヘミングの発する言葉以上の描き方をしていない、ということだ。もちろん、フジコ・ヘミングの生の言葉を記録し届けることにも一定以上の価値はあると思うのだけど、しかしそれだけしかないのだとしたらドキュメンタリーとして弱いと僕には感じられてしまう。だったら、フジコ・ヘミングの過去や歴史を、フィクションとして役者に演じさせる方が、より伝わるものがあるのではないか、と思ってしまったのだ。

最近では、実話を元にした映画というのが多く作られている。少なくとも僕には、この映画のドキュメンタリーとしての弱さが強く感じられてしまったが故に、フジコ・ヘミングの激動だっただろう生涯を、フィクションで描いて欲しいな、と感じた。

「フジコ・ヘミングの時間」を観に行ってきました

福井モデル 未来は地方から始まる(藤吉雅春)

非常に面白い一冊だった。
これは、都会・地方を問わず、さらに行政に関わる者であるかどうかに関わらず、みんなが読んだ方がいい本だろう。
何故なら、本書を大雑把にまとめると、「改革をするためには、危機意識を共有しなければならない」となるからだ。
本書は、ある意味で「解法」が載っている本かもしれない。でも、地域ごとに問題や状況は異なるわけで、本書で描かれていることをそのままやろうとしても、やはりうまくはいかないだろうと思う。だから、「解法」を学ぼう、という意識だけで本書を読むのは良くないと思う。大事なことは、「今何が起こっているのか」そして「それが未来をどう変えるのか」をみんなが共有し、「ヤバイ」と思うことだ。
そのきっかけを作るものとして、本書は実に有用ではないかと思う。

日本は今、様々な問題を抱えている。超少子高齢化もそうだし、災害大国であることもそうだし、国の借金も膨大だ。しかし、色んな問題があるとはいえ、とりあえず「国から国民がいなくなってしまう」ということが、最も大きな問題だろう。それなりの数の国民が、それなりの安定性で暮らしているからこそ、色んな問題が起こるのだ。そもそも国民がいなくなれば、他の問題など起こりようはない。極論だが、間違ってはいないと思っている。

であるならば、どうやって国民を増やすか(あるいは減らさないか)が、とにかく最重要課題だ、というのは、誰だって分かるだろうと思う。しかし、日本という国はどうも、その課題に向き合おうとしていないように感じられる。育児休暇や保育園入園の問題など、制度的に女性が子どもを育てるのに満足行く環境にないのは明白だが、政治も企業もご近所レベルでも、なかなかその問題を共有出来ず、放置されているように思う。同級生で、結婚し子どもを産んだ女性から話を聞くことが時々あるが、やはり大変だそうだ。まあそうだろう。

本書の31Pに、2010年に国土交通省が作成した、未来の人口変動を予測したグラフが載っている。それによれば、2000年から2050年の50年間で、人口が3000万人も減る、と予測されている。また、2100年の最も悪い想定の人口は3770万人で、これは、明治維新の頃と同程度の人口である。

しかも、ただ人口が減るだけではない。年々、高齢化率は上昇するのだ。2050年の時点で高齢化率は約40%、これは国民の5人に2人は高齢者、ということになる。明治維新の頃と平均寿命が全然違うとはいえ、人口の数が同じでも、構成比はまったく違うと考えなければならないだろう。

都道府県幸福度ランキングでは、毎回北陸3県が上位に来る。福井はその3県の中でも、合計特殊出生率が高いという。共働きが当たり前で、かつ、子どもを産み育てやすい環境にある、という。福井県は、その他のデータでも抜きん出た数字を叩き出すのだが、子どもという観点だけで見ても、福井という土地の豊かさが伝わるだろう。

『危機に早く気づいた地域には、一歩先を進んだ社会のヒントがあるのではないか。つまり、地方は「先に終わった」のではなく、「先に始まった」のだ。地方にこそ2025年の未来を知る機会があふれている。東京よりも先にどん底を見た人たちは、どういう手段で今までとは異なる社会をつくろうとしているのだろうか』

著者は、そう冒頭で問いかける。その問いに答えるかのように、文科省のキャリア官僚はこう語る。

『日本がより良い未来をつくれるかどうかは、福井にかかっています』

一体、福井に何があるというのだろうか?本書では、それを明らかにしていく。

本書は、大まかに4つに分けて構成されている。「過去」「現在」「未来」「教育」である。

「過去」では、何故今、出生率が低下し、さらに地方が苦境にあえいでいるのか、その原因を、過去の政治状況などを掘り起こしながら描き出してく。政治の場で「出生」を扱うことの難しさや、地方が企業誘致によって活性化したかつての成功体験を追い求めようとする悪循環の存在など、現在の状況がどのような歴史的背景によって生み出されてきたのかを描き出します。

「現在」では、富山市の成功例が描かれます。僕は知りませんでしたが、富山市というのは、コンパクトシティの成功例として、世界的に注目されているんだそうです。コンパクトシティの先進都市として、メルボルン・バンクーバー・パリ・ポートランドと並んで富山市が選ばれたのだ。

本書では、そのコンパクトシティ化を推し進めた市長が、どんな発想でコンパクトシティにたどり着き、どういう手法でそれを成し遂げて行ったのか、ということが描かれます。

面白いと思ったのは、「お得感」を抱かせることで自然と人の行動を意識付けようとするやり方です。たとえば、市内にある市の施設(動物園など)は、祖父母が孫やひ孫と一緒に来れば入園料無料という一年限定のサービスだ。これを別の地域でやろうとしたところ、「孫がいない人には不公平だ」と反対にあい断念したらしいのだけど、富山市市長は「小さい子を連れてきて「孫だ」と言い張ればいいんだ」と堂々と主張します。この施策で大事なことは、「孫と一緒にくること」ではなく、「お年寄りを外出させること」なのだから、本当の孫であるかなどどうでもいい、というのです。

他にも、お得感を感じさせる手法をいくつも組み合わせ、また、データと論理を駆使して住民の支持を得ながら、あるまとまった地域に人を集約し、その地域ごとを公共の交通網で結ぶ、というコンパクトシティ化を成功に導いたのです。現在富山市市長は、世界中の講演に引っ張りだこなんだそうです。

また、富山県の成功例がもう一つ描かれます。港町である岩渕という地区の物語です。ここは、いっときは猫とロシア人しかいなかった、と言われたほど寂れた地域ですが、今では観光客がバンバンやってくる場所になりました。伝統的な竹細工が施された、古さを感じさせる建築物で埋め尽くされたような町は、時代劇に迷い込んだような世界だそう。そんな町を生み出したのは、地元の造り酒屋の店主だ。彼がこの地を、伝統的な建築に溢れる景観に仕立て上げる仕組みを作り上げ、多くの人が自然と協力する関係性が生み出された。

また、中小企業の技術力を、外務省が仲介することで海外へと広めていく、というプロジェクトを外務省が立ち上げ、その成功例として、富山県の精米会社とタンク製造会社の例が取り上げられている。どちらの会社も、法律という大きな壁にぶつかったことで方向転換を余儀なくされ、しかし結果的にそのことが長期的な反映をもたらすことになった、という実例だ。

そんな風に、富山県の事例を取り上げながら、積極的な手法で改革を成し遂げた者たちの物語を取り上げていく。

そして「未来」と「教育」が福井県の物語だ。

「未来」は、福井県の中でも、眼鏡のフレームの生産で有名な鯖江市が舞台だ。人口7万人のこの市は、一般的に「斜陽」と呼ばれている産業を多数抱えながらも、福井県で唯一、人口が増加し続けている土地でもある。クラスで「お父さんの職業は?」と聞くと、ほぼ全員が「社長」と答えるのも、鯖江あるあるらしい。

鯖江市は、「日本でもっとも早く中国にやられた町」でもあるという。眼鏡のフレームの生産で、安価な中国性に押されてしまったのだ。そんな苦境を経ながら、何故鯖江市は生き残り、他に類を見ない強みを維持しているのか。

その根本の仕組みを作り上げたのが、鯖江に眼鏡のフレームの産業を持ち込んだ増永五右衛門である。彼は、高度な技術を要するフレーム制作の技術者を囲い込むのではなく独立させ、グループ毎に競わせるという「帳場制」という仕組みを作り上げた。これによって品質が向上するし、また、新たな起業家を生み出す土壌も作り上げることになったのです。

本書では、結婚して鯖江に移り住んだある看護師の女性のエピソードが取り上げられている。一介の看護師でしかなかった彼女は、今では日本政府から注目され、外務省の管轄団体が彼女の成果を海外に紹介しているという。

彼女は看護師の仕事をする中で、些細ではあるが無視できない問題を発見し、それを解決しようとした。すると、彼女のアイデアを形にしようとする人間がどんどん現れたのだ。夫は彼女のアイデアを聞きすぐに設計を始める。職場の医師は資金がいるだろうと言って大金をポンと出す。地元の製造業の人たちも手伝ってくれる。そうして彼女は、起業の経験がなかったにも関わらず、周囲の協力の元に製品を完成させ、それがグッドデザイン賞を受賞するまでに至るのだ。

鯖江にはこういう「インキュベータ(孵化器)」としての地域性があり、それが起業家をたくさん生む土壌になっているのだという。鯖江に限らないが、福井には国内シェアや世界シェアで優位に立つ企業が多いという。著者は本書のまとめとして、

『では、「なぜ福井なのか」と問われれば、こう答えている。常に何かが欠けているからだ。欠けているから、自助努力をして必死に埋めようとしている』

と書いている。まさにそれが、「福井モデル」と呼ばれるような強さの根幹なのだと思う。

そしてその強さは、教育によって生み出されるのだ。本書の最終章は「教育」であり、福井で行われている教育改革が取り上げられている。前述の文科省のキャリア官僚は、

『日本の教育を変えることができるのは、福井大学の教職大学院しかありません』

と発言している。それほどまでに、福井の教育というのは注目されているようなのだ。

福井県は、小中学校の全国学力テストで十年連続全国トップクラスを維持しているが、学力テスト対策はしていないのだと言う。全国の教育関係者が、「福井の子どもは何故あんなに勉強が出来るのか」と不思議がるそうだが、本書の「教育」の章を読めば納得という感じがする。

『グループで討論して、その場で書いたものを記録として残す手法は、昔から福井では行われているという。「ポートフォリオ」と呼ばれていて、残すだけでは価値がなく、記録を見て必ず振り返ることが重要だ。
そして、何を学んだかを、自分たちでレポートにする。思考のプロセスを見ていると、当初の見立てと違い、自分の考えがどう変容したかがわかる。つまり、先生に教えられたから答えを導き出したのではなく、自分の考えがどう変わり、どんな結論になったかを自分の言葉で書く。これが「子どもが主体となった授業」である』

『何度も何度も思ったことを書く。書いて書いて書きまくる。そして思考を整理する。
自分で課題を見つけて、協働で解決していく。それにはコミュニケーションできる能力を高めていくことが必要になる。これがあらゆる授業の基本だ。
社会に出た時には、学校で習ったことはすでに古びてしまい、グローバル化と超高齢化によって社会の仕組み自体が変わっている。より良い結果を導き出すには、思考を整理できるこうした能力を養っておいた方がいいというわけだ』

『中学の「技術・家庭」という授業が、福井県と他県の違いを見る上でわかりやすいだろう。(中略)
福井県では、ここでも「思考」から取りかかる。
「学校に必要なものは何か、こんなものがあったら便利だなと思うものを探しなさい」』

こういった記述だけからでは、具体的にどんな授業をしているのか想像出来ない部分もあるだろうが、「先生の授業を聞いて、テストで確認する」というのとはまったく違う、ということは理解できるだろう。大人になってようやく僕も、「勉強」にとって不可欠なことが分かるようになってきた。それは「学んでいることそのものに関心を持つこと」であり、それが出来なければ、どれだけ時間を注ぎ込んでも、自分の身になる可能性は低い。福井県での教育は、まさに「どう関心を持たせるか」という観点から作り上げられているように感じられる。

また、先述した教職大学院では、教師を教育するという仕組みを作り出し、実践している。また、学校の校舎の建築に手を加えることで、自然とコミュニケーションや勉強への関心が芽生えるようにも工夫されている。テスト対策のためではなく、「大人になって社会に出た時に、どういう能力を持っているべきか」という観点から教育が行われているという点が非常に有意義だと感じられた。

鯖江市は人口7万人程度だし、福井県全体にしたところで、これという特別な何かを持っている県なわけではない。そんな市や県に出来ていることであれば、他の地域でも同じようなことは出来るのではないか。本書を読んで、そう感じる人が増えれば、変化のための一歩となりうるだろう。改革は常に難しいものだが、本書は、何か出来るかもしれない、という希望を与えてくれる一冊である。

藤吉雅春「福井モデル 未来は地方から始まる」

「モリのいる場所」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
時代は、ドリフターズが全盛期の頃。熊谷守一(モリ)は、日々自宅の庭を探検している。時に寝転んでアリを眺め、時に切り株に座って石を眺め、そうやって30年間、この庭からほとんど出ることなく過ごしてきた。
金や名誉に一切興味を持たず、ただ庭の生命を眺め、それを絵に描いて暮らした。屋号を看板に書いてくれと頼まれても、好きな文字しか書かないと断り、文化勲章をあげると言われても断った。
家には常に誰の来客なのか分からないような人たちがたくさんいた。そんなモリの家と庭を舞台に、モリを支えた妻や、周辺でモリに関わった人々を描き出す映画です。

最後まで、熊谷守一という画家が実在の人物なのか分からないまま見ましたが、エンドロールを観て実在した人だと知りました。なるほど、こんな人がかつて実際にいたんだなぁ。

特別何が起こるというわけでもない映画なんだけど、なかなか観ました。もうこれについては、山崎努と樹木希林の存在感によるものと言ってしまっていいでしょう。味のあるというより、クセのある役柄を、二人とも絶妙に演じている感じがしました。熊谷守一が実在する画家かどうか分からず観ていましたけど、あり得ない行動ばかりしながらも、こういう人がいてもおかしくないんだろうなぁ、と感じさせる力があるのは、熊谷守一という芯のある奇抜さと、それをきちんと支えた妻の存在を、演技によってきちんと感じさせたからだろう、と思いました。

モリのような、自分の世界がきちんとある人というのは、いつも羨ましく感じられます。僕は、自分の中に「こうだ!」と言えるものがあんまりなくて、常にその場その場の雰囲気で生きているので、なかなか自分の中に芯と言えるものがないなぁ、といつも感じています。それが何を生み出すのか、正しいのかどうか、意味があるかどうか、そういうこととは関係なく、「自分はこれをするんだ」という力強さみたいなものを持てるというのは、素晴らしいことだなと思います。

正直、映画の中身についてあれこれ触れるようなことは特にないんですけど(映画自体は好きですけど、特別書くことが思い浮かばない)、普通にしていたら知り得なかった実在した奇人(超俗の画家、などと呼ばれていたようです)の生涯を、フィクションであるとは言え知ることが出来たのは良かったな、と思います。

「モリのいる場所」を観に行ってきました

ウルトラマン誕生(実相寺昭雄)

内容に入ろうと思います。
本書は、ウルトラシリーズの第一弾である「ウルトラQ」で脚本家として関わり(実際、「ウルトラQ」内では形にならなかったが)、その後のウルトラシリーズで演出や監督を務めた著者が、かつての円谷プロの周辺にいた人々を取材したり、自分の経験を振り返ったりして、ウルトラマンというヒーローがどう生み出され、その陰にどんな努力があったのかを描き出す作品です。元々「ウルトラマンのできるまで」と「ウルトラマンに夢見た男たち」という2冊の本だったのを1冊にまとめ、改題した作品です。

僕はウルトラマンには特段の思い入れはないんだけど、職人たちの物語は好きなので、結構面白く読めました。

そう、職人たちの物語なのです。

『SFXと特撮は別ものなんだ。日本の特撮は伝統芸能なんだ』

確かにそう言いたくなるほど、現場の人間がありとあらゆる工夫をして、普通には作り得ない映像を作り上げていく過程は、職人芸という感じがしました。

そんな特撮を世界を支えているのは、こんな人達なのです。

『特撮ななんて、夢を見ようとしなかったら、スタッフのやってることなんかバカバカしいかぎりですよ。でも、すばらしいのは分別ざかりのおとなが、バカバカしいことに夢中になってるってことなんです。もし、そういうことで冷めちゃうような人だったら、特撮はやらない方がいい…』

作り上げた映像を見れば素晴らしいが、それを生み出す現場の人間たちは、冷静になってしまうと(なんで俺こんなことしてるんだろ…)と感じるようなものばかりでしょう。身近にあるありとあらゆるものを試しながら、ストーリーや展開の条件に合いつつ、映像的にも満足の行くものを作り上げる。しかもそれを毎週の単発のシリーズでやっていくのだ。並大抵の苦労ではないだろう。

でも読んでて、面白そうだな、と思ってしまった。

『これからも特撮をやろうとする人たちが、とにかく軽い気持ちと柔軟な頭で、いろいろと発見してくれることを願いますね。とてつもないことを思いついたり、そのアイディアで失敗しても、とにかく円谷英二(おやじ)さんは決して怒りませんでしたよ。“そうか、そうか”ってニコニコしてね。とても楽しそうだった』

『そうなんだ。特撮では“こんなこと笑われちゃうかな”といった思いつきの中に宝石が転がっている。その宝石の数々を、スタッフとつかみどりすることが、特撮のよろこびでもあるだろう』

現代であれば、時間と労力とお金さえ掛ければ、CGなどで求めている映像などすぐ作れてしまう。しかし、どんなにそれが綺麗な映像でも、作ってる方は面白みがないんじゃないかなぁ、と思ってしまう。それよりは、CGなんて使わずに、それでいてどうやって求めている映像を撮るのか試行錯誤する方が楽しいだろう。クリストファー・ノーランという映画監督は、確か、CGをほぼ使わない人だったと思うのだけど、映像を見ると、CGを使ってないなんてとても想像できないような場面の連続で、こういう映像をどうやって撮っているんだろう?と考えるのは楽しい。

本書には、ウルトラシリーズに関わった様々な人間たちの苦労が描かれていくのだけど、やはり印象的なのは怪獣に関する記述だ。

まず、毎週新しい怪獣を生み出さなければならない。ただぬいぐるみを1体作ればいい、というのではない。撮影状況などによって大中小のぬいぐるみを作るし、拡大パーツなんかが必要な場合もある。名前も考えなければならない、中に入る人は動きを作り上げなければならない。登場シーンを考えたり、中に入る人の居住性も考えなければならないのだ。

そんな中で、結構大変だったのが「声」だそうだ。怪獣の発する声によって、その怪獣の大きさや重さを表現しなければならない。

『具体的に音をつくる自分を納得させられれば、百パーセント近く、クレームがつくことはなかったですね。時間切れで、自分でも納得しないまま出しちゃった音なんかの場合、やはり、こちらの自信のなさが出ちゃうのか、監督をはじめとして周囲を納得させることはできませんでしたけどね』

未知の怪獣であるのだから、見た目から設定から何から何までゼロから作らないといけないのだけど、その中でも声は、どこから考えていけばいいか非常に分かりにくいものだろう。苦労も人一倍だったのではないかと思う。

「声」に関しては印象的だった話が他にも2つある。

まず、ウルトラマンの「シュワッチ」という声についてだ。「シュワッチ」に行き着くまでに相当苦労を重ねたようで、声を担当してくれた劇団の人とあーでもないこーでもないとやりながら、ウルトラマンのイメージにある掛け声を考えたという。

もう一つは、円谷英二の長男・一氏のエピソードだ。

『そのときしきりとつぶちゃん(※円谷一氏のこと)は“怪獣だって泣くんだよ、…怪獣だって泣くんだよ”と繰り返していたんだ。きっと、金ちゃん(※金城哲夫氏)が脚本を書く新しい怪獣キャラクターのことが頭にあったんだろう。“おれは怪獣を泣かせたいんだよ、金ちゃん…”とうったえるようにいってたのが印象的だったなあ。』

特撮というとどうしても映像の方ばかりに意識が向いてしまうが、実は音にもかなりこだわって作られていたのだ、ということが分かる。前述の円谷一氏はこうも言っている。

『開口一番“怪獣は人間と同じって考えてよ。喜怒哀楽も全部あるんだ。怪獣って人間の鏡なんだからね”って、いったんだよ。“怪獣はいかめしくて、グロテスクなだけの存在じゃないんだから、音楽もかたちにとらわれないでよ”って注文だった』

本書の中には、日本の特撮の始祖である円谷英二氏の価値観もたぶんに散りばめられている。

『「きたならしいものはだめだよ。見ていてヘドの出るようなものや、残忍なものや、暴力だけがまかりとおるものや、気持の悪いものや、血まみれを売りものにするようなものはね」
円谷さんは、繰り返しスタッフたちに説いていた。
「やはり見終わって夢が残るものじゃなきゃだめだよ。きたならしいもの、目をそむけちゃいけない現実、社会問題…それは別のリアリズム映画がやってくれる。特撮っていうのはね、だれもが見たくても見られない光景や視点をつくりだすためにあるんだよ。どんな巨大怪獣を出そうが、ミクロの細菌の世界に潜入しようが、日ごろ見られない夢を見せるようにしなきゃだめなんだよ」』

『円谷英二さんの教育というか、理念とういうか、考え方は徹底していましたね。第一には、お化けはつくらない、ということです。そして第二に、人間の体、皮膚を破壊したものはつくらない、ということでした。その理念にはぼくも共鳴したし、その円谷さんの強い意思があったからこそ、怪獣たちも、人びとに愛される存在になったんじゃないでしょうか。』

『カラー万能になって(中略)怪獣も血を出せ!(中略)と撮影所長のほうから命令がきましてね、円谷さんは悩まれたんです。(中略)円谷さんはそのことに相当抵抗されたんですよ。血を流すとか、首が飛ぶ、というようなことにね。子どもが見るんだから、子どもの間隔を刺激したくないといって。…それでも抗し切れず、たしかゴロザウルスって怪獣だったと思うけど、切られて血を流すところをとうとう撮られたんです。でも円谷さんはそのとき、血の色をグリーンにしたんですよ。しかもすきとおったような、きれいなものにね。その色の選択を見ていて、何か円谷さんの特撮をつらぬく思想にふれた思いがしましたね』

多くの人が「特撮」に夢を見て、バカバカしいと思えるようなことに全力を注いだからこそ、ウルトラマンは長く愛されるキャラクターになったし、「特撮は日本の伝統芸能」と言うくらいの技術的蓄積がもたらされることになった。数ページに1つは必ずイラストがあるような構成だし、当時特撮に関わった、知識のある人が読めばそれこそ重鎮たちばかりであろう人々が登場する本書は、歴史を作り出した貴重な証言だろうと思う。僕自身もそうだが、ウルトラマンにはさほど興味がない人でも十分楽しめる一冊ではないかと思う。

実相寺昭雄「ウルトラマン誕生」

「マルクス・エンゲルス」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
19世紀初頭、ヨーロッパは絶対王政の元、資本家が労働階級を搾取する、階級社会がはびこっていた。資本家は、子供でさえも薄給で働かせ、仕事で怪我をすれば解雇するという使い捨てだ。労働階級は生活していくのがやっとで、一方資本家は益々肥え太る。
カール・マルクスは、裕福ではない生活の中、新聞に記事を書いたりして糊口をしのいでいる。体制を批判するような記事を書いて逮捕されたりもする。一方エンゲルスは、イギリス・マンチェスターにある紡績工場を経営する父の元で働いているが、父を含めた経営陣の、労働階級の扱いに嫌悪感を抱いている。父からクビを命じられ、工場を飛び出した女性を探し出し、親交を深めることで、労働階級の現状にも詳しくなっていく。
マルクスとエンゲルスは、出版元に出向いた際に出会った。出会いこそ険悪だったが、すぐに意気投合し、世界を変えるため、共著を出版することにしたが…。
というような話です。

もう少し僕に知識があったら面白く見れたかな、という気がしました。資本主義とか共産主義についての知識もあまりないし、そもそもマルクスとエンゲルスの主張もよく知りません。「共産党宣言」も「資本論」も読んだことはないし、そういう状態のまま観に行ったので、やっぱりちょっと難しいなぁ、という感じはしました。

ただ、この映画で描かれている状況と、僕らが生きているこの世界の状況は、ちょっと近いのかな、という感じがしました。

もちろん、絶対王政なんていう仕組みはほとんどないし、いくら資本家が肥え太っていると言っても、表から見て分かりやすいくらいの労働者搾取というのもないでしょう。一応現代では、労働者の権利は色々保護されていて、もちろんその法の抜け穴をついて色んな悪いことをしている会社もあるんだろうけど、この映画で描かれている時代ほど、労働者が搾取されている、ということはないだろうと思います。

それでもやはり、資本主義が経済格差を広げていることは確かだろうし、明確な「階級」はないにせよ、経済格差によって生活環境に大きな差が開いている現実は無視できなくなっています。

当時と現在で最も違うことは、「共産主義という夢」を見られない、ということかもしれません。

マルクスとエンゲルスは、資本主義こそが悪の根源であり、皆で共産主義を目指すべきだ、という主張をしている(んだと僕は判断したんだけど、合ってるかしら?)のだけど、それはまだ、共産主義というものの可能性を信じられた時代だったからだと思います。しかし僕らはもう、共産主義が成り立たないことを知っている。ソ連という壮大な社会実験は失敗したし、中国も資本主義を取り入れざるを得なかった。

共産主義という夢を見られない現代にマルクスとエンゲルスが生きていたら、彼らはどんな主張をしただろうか?

マルクスもエンゲルスも名前ぐらいしか聞いたことがなくて、特に写真も見た記憶がないので、僕の中ではなんのイメージもない人でした。でもこうやって映画になって、動いている姿を見ると、歴史上の人物に血肉に通うなぁ、という感じがしました。

「マルクス・エンゲルス」を観に行ってきました

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)