黒夜行

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「若おかみは小学生!」を観に行ってきました

いやー、ビックリした!
メチャクチャ良い映画だった!

普段ならまず見ない映画なんだけど、
ヤフーニュースで「大人がハマっている」という記事を見かけたので、
試しに見てみることにしたんですけど、
超良かったです!

後で理由を含めて書くつもりですけど、
この映画、子ども向けっぽく見せてるけど、実は大人向けだなと思いました。
っていうか、子どもは子どもで、大人と違った見方をして楽しめる作品かもしれないけど、
大人は大人で、大人だからこその楽しみ方が出来る作品だなと感じました。

とりあえず内容を紹介しましょう。
主人公の関織子(おっこ)は小学生。おばあちゃんが女将として切り盛りしている、花の湯温泉にある春の屋という旅館に家族で遊びに行った帰り、交通事故に巻き込まれて両親を亡くしてしまう。奇跡的に無傷だったおっこは、春の屋に引き取られることになった。
玄関先で蜘蛛やヤモリを見かけて奇声を上げるおっこ。そんなおっこが離れに用意してもらった自室へと向かうと、どこからか声がする。見上げると、天井に浮かんでいる少年が!なんと彼、幽霊らしく、しかも女将でありおばあちゃんである峰子さんの古くからの知り合いなんだという。おっこにしか見えないその少年の幽霊とともに、仲居さんや料理長に挨拶に行くと、誠というその少年からの問い掛けに素っ頓狂に答える内に、おっこは春の屋の若おかみを目指す、ということになってしまった。不服のあるおっこだったが、誠が驚く程に喜んでいる姿を見て、嫌とは言えなくなってしまう。
早速旅館の仕事を手伝うことになるおっこだったが、おっちょこちょいでドジばかりという始末。とはいえ、お客様に喜んでもらえることの嬉しさを感じる日々に、少しずつ若おかみとしての自覚が芽生えていくことになる。
転校先の小学校でクラスメイトになった秋野真月は、花の湯温泉を牽引してきた秋好温泉の跡取り娘で、同じく小学生ながら抜群のアイデアで、秋好温泉をもり立てるプランを実現していく。二人は事あるごとにぶつかりあうことになるのだけど、お互いに老舗の旅館を守っていくのだという気概だけは共通している。
両親を喪った悲しみを表に出さないようにしながら、誠や、次々に増えていく「目に見えない存在」たちと関わりながら、若おかみとしての修行をしていく…。
という話です。

ストーリーや設定は、非常にシンプルです。原作の小説が、元々小学生向けに書かれているものだし、映画も表向きは子ども向けに作られているから、そんなに複雑な設定が出てくるわけもありません。ただ、いくつかの要因が、この映画を「大人が鑑賞するに耐えうる作品」に仕立て上げていて、そのことが高評価に繋がっているんだろうな、という感じがします。

僕が感じる一番の要因は、「小学生が大人の世界で頑張っている」ということです。この設定が、非常に秀逸だなと感じました。

この映画はかなり、「どストレートなセリフ」で作られていると言っていいと思います。喜怒哀楽のすべてが、シンプルで分かりやすい感情表現で表されている、ということです。これも、原作が小学生向けだということで、当たり前と言えば当たり前ではあります。でも、ちょっと考えてみると、この「どストレートなセリフ」で作られている映画って、普通はちょっと受け入れがたくなっちゃうと思うんです。大人の世界では、色んな理由から喜怒哀楽を単純に表に出すことが出来なかったりするし、仕草とか表情とか、そういう部分の僅かな揺れみたいなもので感情を表したりします。「どストレートなセリフ」で作られている映画って、ラブコメみたいな作品だとよくありそうですけど、そういう作品は、大人からしたらちょっと引いちゃうというか、簡単には受け入れがたく感じられちゃうと思うんです。

でもこの映画は、主人公のこっこが「小学生」で、かつ「大人の世界」で働いているわけです。だから、「大人の世界」で起こる様々な事柄に対して、「小学生」的な反応を見せてもまったく不自然ではないんです。というか、「小学生」的な反応じゃない方が不自然だな、という感じなんですね。

この点が、僕は一番見事だと感じました。喜怒哀楽をシンプルに表現する「小学生」的な反応で、「大人の世界」の辛さやトラブルなんかに対峙していく、という展開が、大人だけの世界ではなかなか実現し得ないものだと大人の観客には分かるし、だからこそおっこの喜怒哀楽がシンプルにストレートに突き刺さってくるんだと思います。

で、まさにこの点が、この映画が「大人向け」だと感じられる理由なんです。というのも、こういう見方は、大人が小学生に対して抱く「小学生っぽさ」みたいな幻想をベースにしないと成り立たないからです。

子どもにだって実際は色々あって、喜怒哀楽をシンプルに表に出せないことだっていっぱいあります。僕らも子どもだった頃、そういう時間を乗り越えてきたはずなんだけど、どうも大人になるとそういうことは忘れてしまう。なんとなく、「小学生は喜怒哀楽をシンプルに表に出せる存在だよね」なんていう幻想をいつの間にか持っちゃうわけなんです。で、そういう幻想ベースの視点でこの映画を見るからこそ、おっこの存在が不自然に見えないし、感情がストレートにバーンって入ってきて気持ちいいんですね。

だから子どもがこの映画を見たら、また別の見方になるだろうと思います。子ども自身は、大人が持っているようなそういう「小学生っぽさ」みたいな幻想は持ってないわけだから、おっこの素直な喜怒哀楽の表出がどう映るのかは分からないなぁ、と思います。

で、誠や他の「目に見えない存在」という設定も秀逸だったなと思います。何故なら、彼ら「目に見えない存在」は、「若おかみであるおっこ」の存在を不自然に見せない効果があるからです。

「小学生が若おかみになる」という設定は、正直なところちょっと無理があるように感じますよね。いくら両親を事故で亡くして、旅館をやっているおばあちゃんのところに引き取られたと言っても、ただそれだけでおっこが若おかみになることが正当化されるわけじゃないでしょう。実際におっこは、春の屋に着いた当初は、若おかみなんて目指すつもりはまったくなかったわけです。

けど、誠の存在がかなり大きくて、おっこは若おかみの道を目指すことになります。誠の「峰子ちゃんを助けてやってくれ」という強い想いに押されるようにして、おっこは旅館の手伝いをするようになるわけです。これが、誠の存在がなく、「おっこが最初からやる気満々で若おかみを目指していた」とか、あるいは「おっこが嫌々ながら無理やり若おかみをやらされた」とかいう設定だったら、全然違った物語になっていたでしょう。おっこが若おかみとしての道を歩んでいくことをごく自然に受け入れさせるために、誠の存在は非常に重要でした。

また「目に見えない存在」のもう一つの効果は、両親を喪ったばかりのおっこのメンタル面での支えになっている、ということです。おっこは、大好きだった両親を亡くし、馴染みのない土地に引っ越して新たな生活が始まります。転校した学校での雰囲気も悪くないですけど、すぐに夏休みになっちゃうこともあって、当初はクラスメイトたちとの関わりがメインにはなりません。旅館で働いているから、普段関わる人は大人ばかりです。そういう中で、誠を初めとした「目に見えない存在」が常に周りにいることで、おっこにメンタル的な支えがいるという状態になり、これもまたおっこが若おかみとして働くことを自然に見せているな、と感じました。

そんなわけで、「小学生が若おかみとして働く」とか「幽霊が出てくる」とか、ちょっと荒唐無稽な設定が出てくるんだけど、でも実はそれらの設定が実に見事にハマって、むしろ大人の鑑賞に耐えうる作品に仕上がっている、というのが僕の分析です。

そんなわけで、おっこのどストレートな感情表出にやられて、なんというか、ほぼずっと泣きっぱなしでした(笑)。最初の方から凄くいいんですけど、最後の最後は、ちょっとヤバかったですね。そう来るか!という展開と、その展開の中でおっこが急速に成長して、「若おかみであることの自覚」を一気に目覚めさせた感じは、そりゃあ泣きますわ、って感じでした。

旅館でのおっこの成長っぷりも色々面白いんだけど、秋野真月との絡みも面白いですね。真月は、いつもフリフリピンクのドレスを着ていて周りから浮いているんだけど、超努力家で、妥協を知らない感じ。小学生とはいえ、創業家の娘だからという理由でなくて、実力で様々な企画を立案して実行に移している。ある場面では、恐らく洋書だろう本を読んでたんだけど、そのタイトルが「Homo Deus」。これって、あの「サピエンス全史」の人の最新刊???とか思いながら見てました。もしそうだとしたら、それを原書で読めるって、相当の英語力だなぁ、とか。

そんな真月と事あるごとに対立してしまうおっこなんだけど、でもおっこは、何が一番大事かということをちゃんと理解している。おっこは若おかみとして働く中で、「お客さんに喜んでもらうのが何よりも大事なこと」と肌感覚で理解していて、そのためにやれることがあるなら自分のプライドや意地は捨てられる、というところがまた凄くいいなと思いました。

どうせ子ども向けの映画だろ、と思っちゃうような映画ですけど、予想を裏切る良作なので、是非見てみてください。

「若おかみは小学生!」を観に行ってきました

「告白小説、その結末」を観に行ってきました

普段は感想を書く前にネットで調べたりしないのだけど、今回は自力では物語を理解できなかったので、この映画について調べてみた。
なるほどなぁ、という感じだった。そういう映画だったのか。
そう言われれば、納得感もある。いや、色々気になるところも出てくるのだけど、映画の大枠としては、スッキリする感じ。
しかし、なかなか不思議な映画だったし、良かったと聞かれるとちょっと返答に困る感じではある。

内容に入ろうと思います。
自殺した母親をモチーフにした小説が大ヒットしたデルフィーヌは、サイン会の場で一人の美しい女性と出会う。「エル(※フランス語で「彼女」という意味)」と名乗った女性とその後度々会うことになり、仲良くなっていく。デルフィーヌは当時スランプで、小説が書けない状態に陥っていた。エルは、ファンの一人としてそんなデルフィーヌを支えようとし、徐々にデルフィーヌの生活圏に入り込んでいく。デルフィーヌには、別れて暮らしている夫がいて、彼にエルのことを時々話すが、夫はその女性の存在を快く思っていないようだ。
しかしデルフィーヌは、パソコンのパスワードを教えたり、家を空けなければならないというエルを一時的に住まわせたりと、エルを日常に引き入れていくことになる。
しかし、エルと関わるようになってから、デルフィーヌの周辺でちょっと変わったことが頻発するようになった。家族を売ってベストセラーとなったことを非難する手紙が送られてきたり、バッグが切られ小説用のメモノートが紛失したりしてしまう。エルも、時折デルフィーヌに対して凶暴性を発揮し、デルフィーヌに理解できない行動を取るようになる。
ある事情からデルフィーヌとエルは、郊外の一軒家でしばらく生活することとなった。二人の生活はうまく行っているように思えたが…。
というような話です。

映画を観ている観客の興味は、「エルは一体何者で、どんな動機で行動しているのか?」という一点に尽きるだろう。最初の出会いから最後の最後まで、エルは謎めいた存在として描かれていくことになる。読解力のある人なら、エルに関する疑問の答えを自分で見つけ出せるかもしれないけど、僕にはそれが出来なかった。だから、割と消化不良な感じで映画を見終わってしまった。

しかし、エル役の女優さんは、非常に良い感じだった。「妖艶」という感じの美しさで、でも謎めいていて何を考えているか分からない。そういうミステリアスな存在として描かれている感じが、彼女自身の容姿と相まって、非常に良い雰囲気を醸し出していると感じました。

デルフィーヌもエルも、内面がほとんど伝わってこない感じで、そういう部分は結構好きだった。色んな場面で違和感があって、でもそれがほとんど説明されない。なんだかよく分からない、不穏さを残したままストーリーが進んでいく感じは、僕としては結構好きでした。

なかなかオススメはしにくいけど、読解力のある人なら、映画の構造みたいなものを自力で捉えられると思います。

「告白小説、その結末」を観に行ってきました

あの頃、君を追いかけた(九把刀)

普段なら、たぶん読まない小説だろうなぁ、と思う。
読み終えた今も、やっぱりそう思う。
いや、別に作品が悪かったとか、つまらなかったとか、そういう話じゃない。
ただ、好んで読むタイプの小説ではなかった、ということだ。

僕は、乃木坂46の齋藤飛鳥が好きで、その齋藤飛鳥が主演を務めた同名の映画を見た。というか、映画を見てから小説を読もう、と思っていた。映画は、主演の齋藤飛鳥と、ヒロインの早瀬真愛のキャラクターが非常にフィットしていて楽しんで見ることが出来た。

その映画は、台湾で大ヒットを記録した映画のリメイク作であり、そしてその台湾で作られた本家の映画の原作が、本書の台湾語版というわけである。映画の監督も、この著者が務めている。台湾では、10人に1人が見たと言われるほどの空前の大ヒットだったという。二本に置き換えると、1000万人が見た、というようなレベルか。恐らく「君の名は」でも、そこまでは行ってないだろう。

本書はまた、著者の実話をベースにしているという。というか、結構変わった構成の作品で、「現在の著者自身の文章」というのが、小説の合間合間に挿入されるのだ。現在の「九把刀」が、当時の自分たちの記憶を振り返ったり、あるいは当時の仲間たちの最新情報を書いたりしている。うまく説明出来ないが、なかなか見たことがない構成の作品だ。これも、「後に小説家となった著者自身の過去の体験をベースにしている」からこそのものだろう。

本書の執筆には、相当の時間が掛かったという(という話も、あとがきとかではなく、小説内に書かれているのだ)。著者はネット小説出身で、書くのが早いようで、既に79作品も出版しているという。大体20年ぐらいで80作品と考えると、年間4作品ペースだ。結構な量産型だと言えるだろう。

その著者が、この作品には相当時間が掛かったという。理由はこうだ。

【しかし、この青春ドキュメンタリーは、リアリティのある空気で満たしたいがために、結末の決定打に欠けておち、このストーリーに「どのように呼吸させるのか」が俺は分からず、筆が遅々として進まなかった】

著者は、たくさん小説を書く中で、「こんな風に展開して、こんな風に伏線を置いていけばラストでうまくまとまる」という感覚がかなり身についたという。そして、そういう判断をベースにした時、実話を基にしたこの作品は、ラストのまとめ方に欠けていたというのだ。リアリティを何よりも重視しているから、嘘のエンディングにはしたくなかったのだろう。しかし、じゃあどこに落とし所を見い出せばいいのかは見えていなかった。そんな著者が、ダラダラと長い年月を掛けて書き続けてきた小説がようやくエンディングを迎えたのは、この小説のラストでもあるとある出来事が起こったからだ。それが何なのかは、是非読んでみて欲しい。

とりあえず、内容をざっと書いておこう。
柯景騰(コーチントン)は、彰化誠中学に通う男子生徒で、おふざけとマンガが得意な問題児。学校で問題行動を起こすブラックリストに常に載っていて、同じくブラックリスト入りしている仲間たちと、アホみたいなことをして過ごしている。もちろん、勉強は苦手。
ある日担任の教師から、「柯景騰は沈佳儀の前に座るように」と言われる。沈佳儀は、クラス一の優等生で、勉強ができて、人気もあって、女子が嫉妬を抱きようがないほどの女の子だ。しかし柯景騰は、フザケ倒している日々の言動を「幼稚」と言われるため、彼女のことを「天敵」と考えている。
しかし、突然クラス分けがあることが発表され、それに伴って勉強せざるを得ない状況が生まれた。というか、何故か沈佳儀が柯景騰に無理やり勉強させようとするのだ。彼女は毎朝早くから学校に来て一人で勉強しているのだが、彼も同じように勉強することになった。そして次第に、彼女に惹かれている自分に気づき、しかし、勉強以外にまったく興味がなさそうな彼女の迷惑にならぬよう、「一番仲の良い友だち」という役回りを完璧にこなすための作戦を日々練り続けることとなった。
その後、同じ高校に進学したが、文系と理系で分かれてしまい、普段の関わりはあまりない。それでも、猛勉強の末成績優秀者となっていた柯景騰は、沈佳儀とテストで勝負することに。そんな風にして、また少しずつ関わりを持つようになっていくが…。
というような話です。

先に見ていた映画と比べると、結構違う部分もあるな、と思いました。どう違うのか、ということはここでは触れないようにするけど、一番違うかな、と思ったのが沈佳儀のキャラクターでした。この原作に結構忠実に台湾版の映画が作られているとしたら(著者と監督が同じだからその可能性が高いと思うけど)、日本版の映画のヒロインは、主演の齋藤飛鳥のキャラクターに大分寄せたのかもなぁ、と思いながら読んでいました。

実話ベースらしく、そこでこういう展開にはならないんだな、と思う箇所が結構あって、リアル感があるな、と感じました。

凄く印象的だったセリフが2つあります。

一つは柯景騰のセリフ。

【恋において、知恵を振り絞って相手を打ち負かす策略を考えることも重要だが、より重要なのは自分らしくいることだ。
いや、もともとそれが一番重要なのかもしれない。
「もし最終的に沈佳儀が愛してくれた俺が本当の俺じゃなかったら、すべての行動に何の意味もなくなってしまう」俺は許博淳の肩を叩いた】

これはその通りだよなぁ、と思います。相手を振り向かせたり、ライバルを蹴落としたりすることも確かに必要かもしれないけど、一番大事なのは、その人の前で自分がこうありたいという自分のまま、相手の前にいられることだな、と。それが出来ないまま一緒にいられることになっても、辛いだけだからなぁ。分かるわぁ、と思いました。

もう一つは沈佳儀のセリフ。たぶんこのセリフは、ネタバレ的な観点から言うと引用しちゃいけないと思います。でも、なんか凄く良いセリフで、自分の中で記録として残したいなと思ってしまったので、ダメだろうなと思いつつ書いてしまいます。

【本当はこういうの良くないって私だって分かるんだけど、別れを切り出さずにはいられなかった。あなたみたいに私のことを好きでいてくれる人を知ったら、私のことを好きだという他の人の気持ちを、どうしてもあなたと比べちゃう】

これは凄いセリフですね。このセリフがどんな場面で発せられ、この後どうなっていくのかということには触れないけど、それらを合わせると、より凄いな、という感じのセリフです。凄くいいなぁと思いました。

小説として面白かったのか、というのは、正直うまく判断出来ないけど(小説を読みながら、映画のあの場面だな、とか思っていたので、純粋に小説としての評価はしにくい)、「これが実際に起こったことなのだ」と思いながら読むと、普段小説を読む時とはまた違った感じで物語を受け取れるのではないかと思います。

九把刀「あの頃、君を追いかけた」

ノックの音が(星新一)

内容に入ろうと思います。
本書は、ショートショートの第一人者である星新一のショートショート集です。
本書には、ある特徴があります。それは、15編あるすべてのショートショートの出だしが「ノックの音がした。」から始まるということです。

どの話も、12ページ(挿絵を入れると13ページ)で終わります。一幕モノというか、場面転換も時間の跳躍もなく、舞台を見ているような感じで物語が始まって終わっていきます。

展開が予想出来るものもあったり、なるほどそんな展開になるのかと感じるものもあったり、この分量でこの物語はちょっと複雑すぎるなぁと思うものもあったりで、ノックから始まる物語の割になかなかバラエティに富んでいると感じました。

全部の内容紹介はしませんが、気になったものをいくつか。

「夢の大金」
金が無くなり死のうと思っている老人の家に、謎の二人組がやってくるところから物語が始まる。予期せぬ一発逆転、という感じが面白い。

「和解の神」
旅館の一室で妻を待つ男。しばらく前に、喧嘩の勢いでつい「出て行け!」と言ってしまい、本当に家を出てしまった妻から手紙が…という感じの話。お互いの性格がうまく物語に組み込まれている。

「計略と結果」
「猟銃が爆発して」と言って怪我の治療にきた男女の正体が…という話だが、最後のオチがなかなか面白かった。なるほど、これは二律背反という感じだなぁ。

「しなやかな手」
低俗な雑誌社を経営する男の家に、女性がやってくるところから物語は始まる。実はこの女性、殺し屋なのだけど、男はちょっと予想外の反撃をする。しかし…という最後のオチもなかなか。

あと一点。「なるほどなぁ」と感じた点について書こうと思います。

何かで読みましたけど、星新一は「古びない作品を書く」ことをいつも意識していたそうです。本書のあとがきにも、『作品は風俗の部分から、まず古びてゆくのである』と書いてある。

その意識を強く感じたのが、『高額紙幣』という表記だ。「高額紙幣」というのは、時代によって変わるものだ。今は1万円札が最高だが、もしかしたら5万円札なんてのが刷られていたかもしれない。まあ、紙幣・硬貨以外の支払いが増えていくだろうから、今後1万円札を超える高額紙幣が登場する可能性は少ないだろうけど、こういうところからも、作品を古びさせない工夫を感じました。

星新一「ノックの音が」

焦心日記(少年アヤ)

【世間の期待に応えたい、応えなければ居場所はない。しかし、そうやって獲得した居場所に安住できることはなかった。当時の私は、ブスのオカマであるという現実を克服し、逆手に取って笑いを取るくらいの余裕が自分にはあると思っていたのです。しかし実際は、改めて人からブスだと笑われるたびに傷ついたし、ブスじゃないと否定してもらってもショックでした。まったく関係のない他人からいきなり「オカマ」と呼ばれるのも苦痛でしたし、要するにまったく覚悟もなく、名乗った記号が放つ意味も把握しないまま、返ってきたリアクションに傷ついたという、なんとも間抜けなお話です。】

自分がどういう人間で、何が好きで、何が辛くて、今何を考えていて、どう行動したくて、何が怖くて、何が楽しくて、どこに向かっているのか…みたいなことを昔はよく考えていた。それらについて考えている時には、自分のことはうまく理解できていなかったような気がするけど、そういう時期を脱して、冷静に振り返ってみると、そんな風に自分を捕まえようとしたのは、自分が「みんな」から外れないようにということだったんだと思う。

【全収入を投げ売ってタクヤを追いかけ、とうとう預金残高十一円になった五月の夕暮れ。私はガタガタ足を震わせながら、このままでは命が危ないと思った。そしてなるべく自分から目を放さないよう、一年間、毎日、日記をつけることにした。】

僕は、「みんな」の中にいるために、結構努力を要した。シンプルに言って、大変だった。「みんな」は、僕にはなかなか理解不能な集合で、それらが楽しいと思うこと、悔しいと思うこと、辛いと思うこと、恥ずかしいと思うことが、どうも僕には理解できないものばかりだった。だから僕は、「みんな」をきちんと捉え、その中に「僕」を適切にはめ込むために、「僕」をちゃんと捉えなければならないと思っていたんだと思う。

その当時は大変だったし、絶対に戻りたいとは思わないけど、でもそういう経験を経たお陰で、僕は、人間や価値観を言葉で捉えやすくなったな、と感じる。

【「こじらせ」って一部だけに起きている現象ではなく、きっとこの国に生きるほとんどの女子たちが患っている自意識の病なんだと思います。社会からの抑圧だとか、役割だとかをクリアしていくにはハードルがいくつも待ち構えており、女子たちはみんなどこかしらにつまずき、引っ掛かり、倒し、時には走るのを止めてしまったり、コースから離脱したりしているのです。そんななか、この「こじらせ」という言葉は、意図せずレールから外れてしまった自分、もしくは自分たちを笑ってみるという発想に基づいて生まれた発明品であり、もしかしたら紫式部や清少納言が活動していたころから待望されていた言葉なのかもしれません。
願わくば「毒母」なんかと同じで、何かを気付かせ、場合によっては啓発させていくためのきっかけになる言葉として定着していって欲しいですが、どうなんでしょう。少なくとも、やっと言葉のついたそれを、特に理由もなく「ケッ」とか言いたがるような、そんなつまんない人たちには負けないでほしいです】

自分が今陥っている状況、行き詰まっている現状、どこにも進んでいけない閉塞、みたいなものを日常の中で感じているからこそ、考えるし、感じるし、そして言葉に変換しようと思う。彼(僕は著者のことを“彼”と呼ぼう)は、「こじらせ」はほとんどの女子が患っている病と書くが、僕は単純には賛同出来ない。何故なら、「ほとんどの女子が患っている病」だとしたら、とっくの昔に名前が与えられていたはずだと思うからです。いや、違うか。「ほとんどの女子が患っている病」であるとすれば、あまりに当たり前すぎて名前が与えられないのではないかと思います。

「こじらせ」という言葉が生まれたからには、そういう言葉を生み出す以外には表現できない、人とは違った感覚を誰かが持っていたはずです。その「こじらせ」が、ほとんどの女子に広がっているとすれば、つまり、「こじらせ」という言葉の意味が急速に拡大した、ということでしょう。「こじらせ」という単語は既に、その言葉が生まれた時に指し示していた範囲を大いに逸脱して、より後半な領域を指し示す言葉になったということだと思います。

大分脱線しましたが、つまりこんな風にして、自分の違和感を突き詰めていくことが避けがたい人というのはいるし、そういう人は考えて感じて苦しんで、そんな風に言語化していきながら自分を捉えようとする。

彼が自らを捉えようとする姿は、本書の核の一つだが、それは「アイドルへの信仰」という形を取って行われる。

【確かに私は、超特急にハマって以降、韓流に対する興味を急激に失っており、かと言って飽きてしまったわけでは決してなく、その原因はやはり、より強くコンプレックスを刺激する存在(タクヤ)が表れてしまったからという他にないのだった。とにかく私の信仰は完全に「理想の自分」という一点のみを動機にしているので、楽曲のクオリティだとか、サービスの質なんて、どうでもいいのです】

彼は超特急(という名前の男性アイドルグループ)を好きなった理由を、「コンプレックス」という言葉で捉えようとする。この記述は、最初はうまく理解できなかったのだけど、この文章を読んでなんとなく理解した。

【タクヤはもう、私が乗り込める艦隊ではなくなってしまった。だってタクヤ、いきなり「ボディーをパンプアップしたい」とか言い始めるんだもん。ムキムキの韓流スターに憧れちゃってるんだもん。そんな筋肉ムキムキのタクヤへは、「理想の自分」を投影できない。そういえば、今まで自己投影してきたアイドルたちも、さんざん乗り回して暴れたあげく、少しでも自分の理想から外れた途端、ポイッと道端に乗り捨ててきたっけ。つくづく、私は神に対して潔癖だ。】

なるほど、彼が崇拝する「タクヤ」というのは、彼が「こうなりたい」と思える理想であり、だからこそ「コンプレックス」という言葉で信仰を表現していたのだ。

とはいえ彼は、「ただ単純にタクヤになりたい」というわけではないのだ。

【マジ恋という沼を這い出し、泥だらけのままタクヤという艦隊に帰還した私ですが、もう快適すぎて死にそう。沼の中では重く、エラー状態になっていたユースケへの恋心が、サクサク送信できてしまうこの感じ。これこれ、これが無敵の艦隊・タクヤの乗り心地。タクヤとしてなら、誰にも怒られず、警察にも捕まらず、堂々とユースケとのデートを楽しめるし、花火にだって行けるし、神社の裏で同じかき氷を食べることだって出来る。私はまた、無敵になったのだ】

この文章は、理解しにくいという人もいるだろうから、引用していない部分の情報を補いつつ説明してみる。

まず彼は、超特急の中で「タクヤ」と「ユースケ」という二人が好きである。超特急ファンの間では、「ユータク」というカップリング(ボーイズラブ的な用語である)が有名らしく、彼もそのカップリングで楽しんでいる。「ユータク」に萌えているファンは、「タクヤ」と「ユースケ」が仲良さそうにしていたり、逆に喧嘩っぽくなっていたりする雰囲気を察知して、(何があったんだろう?)と妄想したりするようだ(この辺は、僕が持っている拙いBL的な知識を入れ込みながら書いてみた)。

で、彼が「タクヤ」になりたい理由は、「タクヤ」そのものへの憧れというよりは、「タクヤ」としての自分で「ユースケ」と関わりたい、という欲求があるのだという。「マジ恋」というのは、「アイドルにマジで恋してしまうこと」を指すが、その主体は自分自身、つまり「自分がユースケを好きになる」という意味だ。この状態は「重く、エラー状態」だったわけで、結構辛かった。でも、「タクヤという艦隊に帰還」、つまり、「タクヤになりきった自分の視点でユースケを見る」というそれまでの在り方に戻った途端、「恋心が、サクサク送信できてしまう」という状態になった、ということだ。

つまり、繰り返すが、彼の「タクヤ」への憧れというのは、「タクヤ」そのものへの憧れというよりは、「タクヤになってユースケに愛されたい」という欲望なわけで、なかなか複雑なわけです。

アイドルを好きになる自分をそこまで冷静に分析できるなんて、もの凄く客観性があると僕は思うのですが、自分ではそういう認識ではないようです。

【友人から「自分と向き合うって苦しくないか」と訊かれた。しかし、本当に向き合っていたらそもそもアイドル依存なんかしないわけで、もし私に客観性があるとしたら、それは何もないところから必死にひねり出した、インチキで粗悪なものであるに違いありません。そうして自分を縛っておかないと、どこまでも飛んでいってしまいそうで怖い】

なるほど、言っていることは分からないでもない気がするが、しかしやはり彼には、「アイドルに心底没頭している自分」と「そんな自分を冷静に客観的に見ている自分」が共存しているように思える。

【アイドルの前でお化粧が崩れるくらいなら、熱中症で倒れたほうがマシ。ぐるりと会場を囲む建物は、コロセウムを思わせた。
通りがかった人たちは、熱中症のリスクを負ってまでアイドルを狂信する私たちの姿に、必ずといって良いほど苦笑するが、端から見て異様であればあるほど、私たちの信心はピンと張りつめて、ステージに延びていく。アイドルたちだって命懸けだ。お互い命を削って、ファンは残高まで削って、フラフラになりながら魂をぶつけあう。たとえその先でなにかを得られなくても、辿り着くゴールが更地でも、きっと私たちは叫び続けるんだろう。それぞれの信仰のために】

【私もいつか来るべき時(超特急総選挙)が来たら、全収入を捧げられるようになりたい、なるべき、いや、ならなければ、と思った。だから、やっぱり私、恋愛とか言ってブレてる場合じゃない。担当の男性編集者を見て勃起している場合でもない。なぜなら私という個人のつまらない人生より、アイドルの人生のほうがよっぽど美しくて刹那的で貴重だからです】

そんな風にアイドルに全精力を傾けながら、彼は「何も得られないこと」をきちんと理解している。

【私がしているのは、アイドル本人やコンテンツに対するものではなく、アイドルに投影した自分自身の欲望の狂信。つまり私が映写機で、アイドルは真っ白なスクリーンのようなもの。実体は自分のなかにしかなく、いくらそれをアイドルに求めても満たされることはない。】

凄いな。正直、これほど客観的に自分のやっていることを理解しながら、それでも、刹那的になのかもしれないけど、「信仰」と呼べるほどアイドルに没頭できる瞬間を得られるというのは、凄まじい気がする。

本書はもちろん、アイドルの話ばかりではない。彼が生きていく中で引っかかってしまうこと、躓いてしまうこと、辛いこと、楽しいこと、虚しいこと、分かり合えないこと…そういうことを、ねっとりしつつ麗しい文章で切り取っていくのだ。

【仕事先で「オカマなのにどうして女装しないんですか!?」なんて言われてしまい、つくづく「オカマ」ってジェンダー化してるよなーと思いました。きっと私より上の世代のオカマたちは、とにかくオカマという生き物・生き方がこの世に存在しているということを叫ぶのに必死で、おかげでこうして私も堂々と世間を闊歩出来ているのだと思いますが、世間は過剰にキャラクター化されたそれをとりあえず認識することしか出来ず、「色々なオカマがいる」と想像するまでには至らなかったのかも。だとしたら、それを広く認知させることが私たち世代の役目なのかもしれませんが、圧倒的マジョリティである男ジェンダーや女ジェンダーが苦戦しているところを見ると、やはり前途多難という感じがします】

【赤ちゃんと触れ合ったときの幸福感は、感じれば感じるほど惨めになるので、ここ数年意識的に不快なものとして処理していたのですが、その瞬間油断していたこともあり、ついうっかり「ああ幸せだ」なんて思ってしまった】

【古びたおもちゃ屋さんに入ってみたところ、ものすごい宝の山で、急いでお金をおろしにコンビニへ走ったのですが、ATMのミラーで見た自分の目が爛々と輝いていてゾッとした。何かに似てると思ったら、去年遭遇して一目惚れしてしまった露出狂の目だった】

【中くらいの人間に限って、自分より下だと認定した者に対する拒絶反応が強い。自力で上には昇っていけないから、下の人間を「作る」ことで上に立つしかないからなのだと思いますが、それにしても嫌悪感丸出しなあの表情の下には、どこか怯えがある気がする。もしかして、踏みつけた人間から、足を引っ張られる恐怖なのだろうか。】

自身や世間を捉える視点が鋭く、さらにそれを、絶妙な“醜さ”をブレンドした可憐な文章で綴るので、なんとなく陶酔するような感覚に襲われる。日記の後半は、事実なんだか分からないような、ポエムチックな文章が続くようになってしまい、個人的にはそこだけ不満が残るのだけど(でも、そういう部分を読んで、もしかしてこの本は、本当の日記ではなくて、小説なのか?と思ったりした。もし本書が小説であるなら、それはそれで驚愕する)、全体的には、過剰な自意識に埋もれるようにして窒息死寸前の人間が、息も絶え絶えなんとか呼吸しながらこの日常の中で生き延びていく様が丁寧に綴られていて、非常に面白く作品でした。

少年アヤ「焦心日記」

「音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!」を観に行ってきました

メジャーの映画で、このフザケ感は凄いなぁ、という感じがしました。
っていうか、メジャーだからここまでフザケられるのかな???

個人的には、うまく面白さを理解しにくいなぁ、という映画でした。
たぶん作り手側が、「分かる人に分かってくれたらいい」という遊びをふんだんに取り入れているんだろうし、たぶんそういう遊びについていける人は楽しく観れるんだろうけど、置き去りにされる人もいるだろうなぁ、と思ったりします。だからってこの映画がダメだとかそんな風に言いたいわけではないんだけど、僕にはちょっと合わなかったかな。

内容に入ろうと思います。
人間離れした爆声で歌い人気を博しているロックバンドのボーカル・シンは、「声帯ドーピング」という違法なやり方でその驚異の声を作り出している。筋肉増強剤で声帯を強くするが故に、その声帯に引っ張られる形で喉が裂け始めており、シンの喉はもう限界に近づきつつある。ライブ中に血を吐くことも多く、社長から歌うなと言われているが、シンは歌う。ライブ後、ピザ屋のバイクを借りて夜の町を疾走する。
一方、路上ライブをしているバンドのボーカルであるふうかは、歌っている声が小さくて歌声が聞こえないと言われてしまう始末。ずっと活動を続けてきたバンドだったが、「声が小さいこと」を理由に解散、ふうかはソロになった。バンドを解散した夜、ふうかは夜の町をとぼとぼと歩いている。
そんな二人が、工事現場近くで遭遇する。普段バリバリのメイクをしているシンだが、工事現場から吹き出した水でメイクが落ち、ふうかにはそれが誰なのか分からない。とりあえず、口から血を流している男を連れて帰り、知り合いの医者に見せた。
そこから、シンとふうかの奇妙な関わりが始まっていくのだが…。
というような話です。

ノリとテンションはほぼずっとトップスピードで、そういう映画を求めているならなかなか面白く見れると思います。ただ僕は、やっぱりなんというのか、人的な部分を見ちゃうんで、「ん?ここの感情はどう繋がってるんだ?」みたいに感じるシーンが結構多くて、立ち止まっちゃうことが多かったです。

え、なんでここで泣いてるの?とか、え、なんでここで○○してるの?とか、え、なんでここでこうなってるの?みたいな、疑問続出の展開が、少なくとも僕にとっては結構あって、気になっちゃいました。まあそういうことを気にして見る映画ではないんだろうなぁ、と思いはするんだけど、まあ気になっちゃうんですよねぇ。

音楽が好きな人なら、たぶん色んな場面で色々思ったり感じたりすることはあるんだろうけど、音楽的な素養も知識もない僕には、音楽的な方面で書けることが特にありません。

吉岡里帆は良い感じでした。

「音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!」を観に行ってきました

「判決、ふたつの希望」を観に行ってきました

この映画を観るには、僕にはちょっと知識が無さすぎた。
それでも、凄い映画だということは分かる。
見て良かった。

個人には、どうにもならないことがある。
例えば、「災害」などはその最たるものだろう。
もちろん、自然災害にも、「人災」に近いものはあるかもしれない。地球温暖化など、人間が地球に負担を掛けていることが、遠回りして自然災害として僕らに返ってきている、ということはあるだろう。しかしそうである場合、先進国に生きる人間は全員加害者ということになるだろうし、それを原因とした対立は生まれないように思う。

戦争や革命などは、個人にはどうにもならないことではあるが、自然災害とはまたちょっと違う。「アラブの春」のような、特定の誰かが主導したわけではない革命もあるが、大体の場合、戦争や革命には、それを引き起こした個人や団体がいる。イデオロギーや宗教などによって「正しさ」は様々だが、戦争や革命などは、明確に「人間」が引き起こしているものだ、と判断できる。

そういうものに巻き込まれた時、個人にはなす術がない。

抗ったり、主張したり、守ったり、戦ったり、勝ったり負けたり、そういうことは、個人の努力でどうにか出来る領域ではなくなってしまう。戦争や革命という外枠に遮られて、「個人」というものがどこまでもないがしろにされていく。そういう現実の中を生きなければならない。

僕は、個人的には、そういう経験をしたことがない。本や映像で、そういう出来事に巻き込まれた人や状況について知識を知っているだけだ。そしてそれらは、どうしても「遠い情報」になってしまう。日本には民族的な対立も、内乱も、目に見える範囲では存在しない。もちろん、どこかには必ずあるのだろうが、はっきりと誰もが認識出来るような形でそれらが社会の中に存在しているわけではない。

だからこそ、想像しにくい。「遠い情報」として、頭で理解するしかない。

この映画の凄さは、そういう「民族的な対立」や「内乱」が、「個人間の争い」として理解出来ることだ。

個人の物語として、民族的な対立や内乱が立ち上がってくるので、「遠い情報」にならずに、その状況を受け入れることが出来る。もちろん、彼らが立つ場所の背景は恐ろしく複雑だ。背景をちゃんと理解しようとすれば、分厚い本を何冊も読まなければならないだろう。しかし、そういう複雑な背景が、「ご近所トラブルに端を発する問題」という、非常にミニマムな世界から湧き上がってくるのだ。

物理学の二大理論として、「相対性理論」と「量子論」がある。大雑把に言うと、相対性理論は惑星などのメチャクチャ大きな対象に、量子論は原子などのメチャクチャ小さな対象に適応する。そして、現在の物理学の難問は、この両者が混じり合わないことなのだ。相対性理論の常識は量子論の世界では通用しないし、量子論の常識は相対性理論の世界では通用しない。科学者たちは今、この二つの理論を融合させようと必死になっている。

この映画からも、似たような印象を受けた。ご近所トラブルは、「量子論」のように小さな世界の話だ。しかし難民や虐殺などは、「相対性理論」のように大きな世界の話。それぞれの領域の内側であれば、適切な解決法が存在するかもしれないが、量子論的な話を相対性理論的な世界で解決しようとすると途端に難しくなっていく。

しかし、現実は現実だ。映画の中の世界(それはつまり、中東の今の現実ということだが)では、量子論的な世界の中に、あっさりと相対性理論的な世界が割り込んでくる。それぞれを分離して、単独で扱うことが出来なくなっている。

その困難さが、この映画では実に見事に描かれている、と感じた。

内容に入ろうと思います(映画では、レバノン人にとって常識であることは当然描かれません。なので、設定などの説明は、僕が映画を見ながらおそらくこうだろうと理解したことを書いています。事実と違っていたらすいません)。
舞台はレバノン。内戦の続く中東の国であり、現在はレバノン人と、国内の難民キャンプで暮らすパレスチナ人が住んでいる。レバノンは「レバノン軍団」という、先の内乱で最も苛烈な虐殺を行ったとされる政治団体が政権を握っており、対立の火種はくすぶったままだ。
自動車修理工場を営むトニーは、そんなレバノン軍団の党員だ。パレスチナ人への異様な敵愾心がある。レバノン軍団の演説を終始テレビで見て、当主の顔写真を家に飾っている。妻のシリーンはそんな夫をそこまで快くは思っていない。それもあって、首都のベイルートではなく、トニーの出身地であるダムールに引っ越したいと言うのだが、にべもなく断られる。
一方、パレスチナ難民であるヤーセルは、不法就労ではあるが、とある工事請負会社で現場監督を務めている。仕事ぶりは実直で、必ず工期内に作業を終わらせると評判だ。
ヤーセルは今、市内の違法建築を修繕する仕事に取り掛かっており、ちょうどトニーの家の真下で作業していた。トニーは日課である水やりをしていたが、バルコニー(これはレバノンでは違法建築だ)に取り付けた排水管から階下に水が流れ、ヤーセルに掛かった。ヤーセルはトニーの自宅を訪れ、違法建築を修繕する目的で排水管を見せてほしいと言ったが、トニーに断られたので、無断で排水管を付け替えた。しかしそのことにトニーは激怒し、付け替えたばかりの排水管を破壊。そのことで頭に血が上ったヤーセルは、トニーに向かって「クズ野郎」と言い放つ。
トニーは侮辱されたことを事務所に抗議した。ヤーセルが謝罪しなければ訴えると伝え、所長はヤーセルに謝罪をさせようと手を尽くすが、色々なすれ違いがあり、ヤーセルはトニーを殴り、肋骨を二本折る怪我をさせてしまった。
やがて裁判が行われた。双方とも代理人を立てずに争ったが、話を聞いた裁判官は、「トニーがヤーセルに対して何らかの暴言(ヤーセルが裁判で明かさなかったので裁判官にはそれがどんな暴言であるか分からない)を向けたことで暴力に至った」と認定。ヤーセルを無罪とする判決を出した。この判決に納得がいかないトニーは、優秀な弁護士と共に控訴審を起こすことになるのだが、この裁判が国を揺るがす大騒動へと発展していく…。
というような物語です。

これは考えさせる物語だったなぁ。正直なところ、背景的なことは知りません。これは映画が悪いわけではなく、僕の知識不足です。おそらく一般的には、世界史や現代史の授業で、大雑把な概要は習うものなんでしょう。僕は、パレスチナやパレスチナ人について、漠然としたおぼろげな知識はありますが、詳しいことはわかりません。そういう状態でこの映画を見ているので、恐らく深いところまでは理解できていないでしょう。

それでも、トニーとヤーセルをとりまく状況が、個人の思惑を離れてどんどん大きくなってしまっている状況に、複雑な感覚を抱くことが出来ます。

正直、争っているトニーとヤーセルのどちらに正義があるのか、僕には分かりません。「どんな理由があれ暴力を振るうのは許されない」という話も分かるし、「暴力を振るわざるを得ないほどの状況はあるし、仕方ない暴力は許容されることもある」という話も分かります。トニーもヤーセルも、世の中のほとんどの人がそうであるように、単純に善悪で切り分けられる存在ではなく、ある場面では悪寄りだし、ある場面では善寄りです。「どちらが正しいのか」という話は、そういう意味で非常に判断が難しい問題です。

ただ、一つだけはっきりしているシンプルな事柄があります。それは、「トニーが求めていたことは謝罪だけである」ということです。これは一貫しています。トニーは、どこかの段階で謝罪をしてくれていれば裁判など起こさなかったと語っています。そう、ヤーセルは、頑なに謝罪しませんでした。その理由も恐らく、過去の歴史や民族的な対立に根ざしているものでしょうから、部外者の僕がどうこう言う話ではありません。ただ、単純な事実として、「トニーは謝罪のみを求めている」し、「ヤーセルが謝罪すればすべて終わる」ということです。

さて、そういう状況の中で始まった裁判ですが、状況は個人の思惑を超えた不可解なものへと進展していくことになります。

裁判という「戦場」においては、「勝つ」か「負ける」かのどちらかしかありません。そして弁護人(代理人?)は、勝つためにあらゆる手を尽くすことになります。しかし…その手段が、原告・被告ともに望んでいないものへと発展していきます。トニーは謝罪だけを求めているし、ヤーセルは実は自分が有罪であることを認めています。しかし、第一審後に起こった状況の変化が、ヤーセルに厳しい現実を突きつけます。詳しいことは書きませんが、ヤーセルは「負ければ過失致死罪として長く刑務所に入れられるかもしれない」という、当初からは想像もつかない難しい立場に置かれることになります。だからこそ、自分の有罪を認めていながらも、裁判の場において戦わざるを得ないという、苦しい立場に置かれます。

苦しいのはトニーも同じです。こちらも詳しいことは書きませんが、トニーにとっても「そんなことをしてまで勝ちたくない」と思えるような、辛く厳しい状況が目の前に現れることになります。「法廷戦術だ」と言われればそれまでですが、個人の感情としては受け入れがたい状況に置かれることになります。

それ以外にも、様々なことが起こります。そのほぼすべてが「場外乱闘」というべきもので、トニー・ヤーセル両者のことは置き去りにされていきます。

そういう中で、置き去りにされた両者が「個人」としてどう振る舞うのか。これについては深く描かれるわけではありませんが、後半のあるシーンで、観る者は二人が置かれた状況の異様さを強く認識するのではないかと思います。

個人という実に小さな世界の物語が、様々なフィルターを通り抜けることで、民族や国家という非常に大きなものと直結し、そうなったが故に個人が置き去りにされていく、という矛盾みたいなものを明確に突きつける映画だと感じました。前半は、トニーもヤーセルもたくさん喋りましたが、後半はほぼ喋る機会がなかった、という意味でも、個人がないがしろにされている状況がうまく描かれていると感じました。

「判決、ふたつの希望」を観に行ってきました

「あの頃、君を追いかけた。」を観に行ってきました

さて僕は、主演の齋藤飛鳥が好きなので、この映画は正直純粋に観ることは難しい。いやこれは、「つまらなかった」とか「別の主演で冷静にストーリーを堪能したかった」みたいな意味では全然なくて、個人的にはこの映画を楽しんで観ることが出来て実に満足なのだけど、でも「僕が感じた面白さ」は、齋藤飛鳥ファンではない人にはなかなか共有してもらいにくいだろうから、こんな書き出しから始めてみました。

僕は映画を観る前に、雑誌やネットで結構齋藤飛鳥のインタビューを読みました。この映画にどう臨んだのか、演技に対してどう感じたのかなど色んなことが語られているのだけど、その中で結構触れられていたのが、監督から言われたスタンスについてでした。

齋藤飛鳥は、舞台経験はあるものの、映像での演技は(確か)初、もちろん主演も初めてです。だから、どんな風にやればいいのか悩みながら撮影に臨んだと言います。最初は、「早瀬真愛」というキャラクターを良く理解して、作り込んで現場入りしなければならない、と考えていたそうですが、監督から「なるべく作り込まずに、素のままで演じて欲しい」と言われたそうです。

だからでしょう。僕が観る限り、「早瀬真愛」は、まさに齋藤飛鳥そのものだったな、と感じました。

説明の必要はないでしょうが、一応。僕がここで「齋藤飛鳥そのもの」と書いているのは、あくまでも「僕の頭の中の齋藤飛鳥のイメージそのもの」ということです。僕は握手会にもコンサートにも行ったことがなく、齋藤飛鳥のことはテレビか雑誌のインタビューぐらいでしか知りません。もちろん、直接会うことがあったところで大した差はないでしょうが、とりあえずそんな風に、テレビや雑誌から得た知識で「自分なりの齋藤飛鳥像」を作っていて、それと比べて、という話です。

素のままの齋藤飛鳥で「早瀬真愛」を演じていた、ということと、僕の「自分なりの齋藤飛鳥像」という話から、非常に印象的なセリフを抜き出してみます。

『私のこと、良く思いすぎてない?たぶん、美化してる』
『あなたが好きになったのは、想像の中の私かも』

齋藤飛鳥も、凄く言いそうなセリフですよね。僕は以前からこういう、「自分の中の自信のなさから他者の好意を素直に受けとめきれない」「自分に都合が良すぎる状況を信じたために裏切られるのが怖くて信じきれない」みたいな発言を、齋藤飛鳥のインタビューの中で見ていたので、あのシーンでの「早瀬真愛」の感覚が凄く理解できた気がしたんだけど、齋藤飛鳥という人を知らないまま映画を観ている場合どうなんだろうな、という感じはしました。そこまでのストーリー的に、「早瀬真愛」は確かに他者とあまり関わりを持とうとしてこなかったけど、それは「自信のなさ」というより「自分なりの生き方を貫いている」という風に見えていたからです。

こんなセリフが印象的でした。
「水島浩介」が「早瀬真愛」に、「何故親切な命令をしてくれるの?」と聞く場面があります。自作の数学のテストを浩介に渡して、浩介が嫌がるシーンです。

「早瀬真愛」の返答はこうでした。

『軽蔑したくないから。(浩介が、「数学のテストの点数なんかで軽蔑されるのかよ」と返すと、)私が軽蔑するのは、努力していないのに人の努力を軽んじる人よ』

こういうシーンが結構あるんですよね。もちろん、映画後半の変化からすると、最初の方のこういうシーンは実は照れ隠しで、最初から浩介のことが好きだったけどそれを素直に表に出すのが怖いという自信のなさの表れだったのかもしれないとも思う。けど、うーん、どうなんかな?

他にも、齋藤飛鳥が言いそうだなぁ、というセリフが色々ありました。例えばこんな場面。

『(数学が人生の何の役に立つんだ、という浩介の疑問を受けて)見返りを求めない努力が人生には必要なんだと思う。それに、幼稚なことばっかり言って何が人生の役に立つの?』

まあここまで苛烈なことをはっきりと口に出すことはないでしょうけど、心の中ではこんな風に思ってるだろうなぁ、という気がしました。

そんなわけで僕はこの映画をずっと、齋藤飛鳥だと思って観ていました。たぶんこれは、齋藤飛鳥自身にとってはあまり嬉しくない評価かもなぁ、と思います。いくら素でやってくれと言われたと言っても、彼女は「早瀬真愛」というキャラクターを演じているわけだから、恐らく「早瀬真愛」を齋藤飛鳥本人と観るような見られ方は好まないような気がします。でも、セリフとか表情とかから、やっぱり齋藤飛鳥感が強く滲み出ていたなと思いました。特に笑い方なんか、僕がテレビとかでよく見る齋藤飛鳥そのものという感じでした。上手く説明できないけど、息を吐き出すような笑い方じゃなくて、息を吸うような笑い方をするようなイメージがあって、映画でもそういう笑い方をしていたなと思いました。

この映画に関連するインタビューの中で、齋藤飛鳥本人も、また共演者も、「齋藤飛鳥の壁」の話をしていました。齋藤飛鳥本人は、他の共演者に対して壁を作っていたつもりはなかったらしいけど、普段の齋藤飛鳥のままでいたら、そりゃあ壁があるように見えるだろうな、と。他の共演者は、その壁が厚すぎて、この映画無理なんじゃないか、と思っていたみたいな発言をしていました。でも、映画を撮影していく中で徐々に共演者たちと打ち解けていくことが出来て、それが映画のストーリーとうまくシンクロしていって良かった、というようなことも言っていました。

そういう意味でもこの映画は、まさに齋藤飛鳥らしさ全開と言えるでしょう。映画の中でマドンナ的な立場である「早瀬真愛」は、多くの人から注目を集める存在でありながら、「昭和の道徳」と言われる古風な言動と、他人に心を開かないあり方から、特に男子は近づけないでいる存在。現実の齋藤飛鳥も、乃木坂46のメンバーと一緒にいてさえそこまで馴れ合った関係にならない、という色んなメンバーからの証言がある通り、女性であっても他者との関係を築き上げていくのに時間が掛かるタイプ。それが、映画の中の時間、そして撮影の中の時間が経過していくにつれて少しずつ変化していくという流れが垣間見れたような感じがして、とても良かったです。パンフレットによれば、齋藤飛鳥はクランクアップの時泣いたと言います。その涙には色んな理由があったと本人は書いているけど、どんな理由であれ、「感情がこみ上げてきて涙する」というのは、僕がイメージする齋藤飛鳥像では相当レアな事柄なので、この映画の撮影を通じてまた変わった部分があるのかもしれないな、と思いました。

あと余談だけど、齋藤飛鳥絡みで言えば、映画の中で「カップスター」やパソコンの「mouse」なんかが、実にさりげない感じで登場していて、齋藤飛鳥の(というか乃木坂46)のファンだったら気づけるようなちょっとしたアクセントになっています。あと、映画の中で「水島浩介」が「なんでしゅか?」と返す場面があるんだけど、あれは齋藤飛鳥のニックネームの一つである「あしゅ」と関係あるんだろうか?とか考えてしまいました。

内容に入ろうと思います。
北島康介が「なんも言えねぇ」と言った少し後、スカイツリーの工事が始まった頃、まだガラケーが主流だった頃の地方の高校が舞台。校則が厳しい学校で、「天然パーマ証明書」を提出しなければならない水島浩介は、しかし教師からの再三の催促を無視する、割と問題児。授業中後ろの壁の方を向いていろと言われたりすることもザラで、もちろん成績も良くはない。幼稚園の頃から幼馴染の小松原詩子や、クラスメイトの陽平・健人・寿音・一樹らと、受験勉強もロクにせずにふざけてばかりいる。
早瀬真愛は、学校一のマドンナで、詩子と仲がいい。脳の半分が男だと自覚している詩子とは違って、真愛は町医者の娘で学年一の成績優秀者。浩介とはまるで関わりのない存在だったし、浩介としては融通が利かない“深窓の令嬢”とはあまり関わりたくないと思っていたのだが、ある日教師から、真愛に勉強を教えてもらえと、浩介は真愛の前の席に座らされることになった。
休み時間にアホみたいな会話をしている浩介たちを「幼稚」と突き放す真愛だったが、ある日、普段忘れることのない教科書を忘れてしまったところ、浩介が自分の教科書を真愛に渡し、身代わりとして教師に怒られてくれた。恩義に感じた真愛は、勉強を全然しない浩介のために数学のテストを作成、勉強も見てあげることになるのだが…。
というような話です。

冒頭でも書いた通り、僕はこの映画を純粋には見れません。僕は「齋藤飛鳥ファン」としてこの映画を観てしまったので、一般的にこの映画がどう受け取られるのかちょっと分かりません。僕は、「早瀬真愛」と齋藤飛鳥をシンクロさせて見ることで、とても楽しめる映画でしたが、冷静な視点で見た場合、「早瀬真愛」という人物の内面の変化というのはちょっと分かりにくいんじゃないか、という気もしました。

僕がうまく掴めなかったのは、真愛がいつ浩介を好きになったのか、ということ。もちろん、「好きになった瞬間」などというのはなくて、結果的に長い時間を過ごすことになる中で少しずつ、という答えなのかもしれないけど、それでもこういう物語の場合、「ここがそのポイントです!」的な描写って割とされがちかな、と思いました。僕としては、そういうポイントがはっきり描かれることはなかったと感じたので、ある意味でそれはリアルだ、現実らしさだ、とも受け取れましたけど、一方で、真愛という人物の分からなさにも繋がったかな、と。僕は「早瀬真愛」というキャラクターの中に齋藤飛鳥という人格を入れ込んでみていたので、そんなに違和感はありませんでしたけど(齋藤飛鳥であれば、「早瀬真愛」のような振る舞いは自然だな、という意味です)、ただ、ビジュアルはともかく、「齋藤飛鳥」というキャラクターはそこまで広く浸透しているわけではないだろうから、「早瀬真愛」に齋藤飛鳥のキャラクターを重ねずに観ていた人がどう感じるのかはちょっと僕には想像出来ないな、と思いました。

齋藤飛鳥自身もインタビューの中で何度も発言していましたが、僕自身も、こういういわゆる「ザ・青春」のような時間を過ごしたことがないので、「なんか眩しいなぁ」という風にこの映画を観ていました。羨ましい気もするけど、でもそれは決して羨ましいばっかりなわけではない。この時間がずっと続くなら確かに最高なんだけど、そんなわけはないし、かつて自分の手のひらの上にあった何か、あるいは自分のすぐ傍にあった体温とかが、時間とともに「失われた」という感覚になってしまうことが、その後の長い長い人生の中でどう消化(あるいは昇華)出来るのか、イメージできないなという感覚もあります。ただ、「早瀬真愛」あるいは齋藤飛鳥のような人と、人生のごく短い期間であっても関わることが出来る、というのはやっぱり羨ましいよなぁ、という気もするし、そういうヤキモキした感じを、映画中感じていたような気がします。

最後に、この映画のオリジナルについても触れておきましょう。元々は台湾の映画で、2011年に公開されると、ほぼ無名のキャストながら社会現象をまきおこす大ヒット。台湾では10人に1人が観たと言われているそうです。香港では「カンフーハッスル」の記録を塗り替えて、中国語映画の歴代興収ナンバーワンを記録した、とか。この映画は、原作・脚本・監督を自ら務めたギデンズ・コーの実際の物語をベースにしているそうです。実話ベースなのかよ、なんか羨ましいな、という感じがしました。

「あの頃、君を追いかけた。」を観に行ってきました

熟練校閲者が教える間違えやすい日本語実例集(講談社校閲部)

内容的には、まさにタイトルのまんま、という感じです。面白かった!

タイトルの話で言えば、本書の親本のタイトルは「日本語課外講座 名門校に席をおくな!」だったそうです。「席」の部分に赤丸がされていて、ここが間違っているよ、ということなんだけど分かりますか?答えは「籍」。これは、本書に登場する校閲者の一人が、かつて気づかずに通してしまった間違いだそうです。

で、こんなタイトルにしたばっかりに、書店で進学コーナーに置かれたりもしたそうです(笑)。まあそんな事情もあってか、文庫化に当たりタイトルが変わった、ということでしょうか。

【ていうかホント損ですよね、まず「お褒め」はなくて「お叱り」ですから。問題ないのが当たり前、減点主義で判断されるしかないですからね】

と書いている通り、なかなか大変なお仕事です。校閲者の一人は、かつて「いちぢく(本当は「いちじく」)」を作家に指摘したところ、現在では大家となったその作家は「校閲の分際でこんな生意気な赤字を入れおって」みたいなことを、読者の多い雑誌の座談会で言われて傷ついた、なんてことを書いています。いやはや、大変でございますね、ホント。

最近では、校閲がドラマになったし、あるいはかつて僕は「セブンルール」という番組で女性校閲者が採り上げられていたのを途中から見たこともありますけど、こんな風に「校閲」という仕事が以前よりは世間に認知されている、と言えるかもしれません。あくまでも憶測ですが、その背景には、ネット社会の広がりが関係しているんじゃないか、とも思います。かつて何らかの形で人目に触れる文章は、個人のガリ版刷りみたいなものを除けば、基本的には出版社などのものが主だったでしょう。それらはきちんと校閲されてから世に出るわけです。しかし、ネットが生まれ、SNSやブログが広がったことで、個人が発信できるルールが広がった。そのため、以前にも増して「言葉の取り違え」や「意味の転換」みたいなものが加速しているんじゃないか、と思っています。そういう背景の中で、「校閲」という仕事の重要さみたいなものが改めて認識されているのかもしれない、と思ったりもします。

本書でも、「昔とは違った使い方や表記をされることが多い言葉」が多々紹介されています。「耳ざわり」「棹さす」「ダンボール(段ボール)」「さぼる(サボる)」など、本来の意味や本来の表記から離れた言葉というのはたくさんあって、言葉は時代と共に変わっていくのだということがよく分かります。だからこそ彼らも、

【どちらにも解釈できるケースも多いわけで、どうしても引っ掛かる場合を除けば筆者の語感が尊重されるべきだ、というのが出版人の基本的なスタンスだね】

という形で仕事をしているようです。

もちろん悩むことも多いようで、

【ひとつのことば、ひとつの文章についてさんざん逡巡した挙げ句に思い切って「えいやっ」と直すケース、あるいは逆にためらい傷のように赤ペンをゲラに突いた跡を残しつつ直さなかったケース…、本来の用法と違うことを指摘したほうがよいのか、これも日本語の豊かさのひとつとして許容してよいのか…。校閲者が苦悩するさまは、この本のそこここに載っています】

だそうです。

というわけで、本書で紹介されている事例を様々に採り上げてみようと思いますが、まず本書を読んで一番衝撃的だった言葉から始めましょう。

それは「世間ずれ」です。

多くの人はこの言葉を、「世の中の考え方外れている」と解釈するでしょう。僕もその一人です。実際に文化庁が2014年に調査した結果でも、そう解釈する人が55.2%に上っていました。

しかしこの「世間ずれ」という言葉、「ずれ」を漢字に直すと「擦れ」、つまり「世間と擦れている」という意味なんだそうです。世の中でもまれたため純真さが薄れ、世知にたけている、というのが「世間ずれ」という言葉の本来の意味なんだそうです。そういう正しい捉え方をしている人が、先ほどの調査では35.6%だったとのこと。

いやぁ、これは知らなかったなぁ。本書を読んでて、とにかくこれが一番驚きました。分からないものですね。自分が「正しい」と思っていることが実は間違っている可能性がある、なんてことは、僕は普段から意識しているつもりですけど、まさか「世間ずれ」が間違っているとは思っていなかったので、衝撃でした。

他にも本書で扱われている間違いは色々あって、その中には、「説明されるまで何が間違っているのか分からなかったもの」も多々ありました。いくつか書き出してみます(書いたものが、間違った表記です)

「御頭付きの鯛」「悪どい」「寺小屋」「万事窮す」「写真の修正」

どうでしょうか?何が間違っているか分かるでしょうか?答えはここでは書きませんので考えて見てください。

また、意味をちゃんと理解していなかった言葉もありました。例えば、「一姫二太郎」とか「小春日和」です。「小春日和」って、何月のことを指しているか知ってますか?なんと11月頃だそうですよ。寒くなっていく時期に、時々春のように暖かい日が来ることを「小春日和」と言うんだそうです。ほぇ~。

また、言葉の切り方の無知もありました。例えば僕は、「間髪を入れず」を「間、髪を入れず」と読むことは知っていました。でも、「きら星のごとく」を「きら、星のごとく」、「習性となる」を「習い、性となる」と読むことは知りませんでした。どちらも、「きら星」「習い性」という単語があると思っていましたが、元々はそんな単語はないんだそうです。「習い性」っていうのは、今ではもう辞書に載ってるみたいですけどね。

あと面白かったのが、印刷の限界の話。例えば、「刺身」の「刺」という字と、「溌剌」の「剌」という字は、別の字だけど、文字の小さな印刷だと分からないからいいやと通したことがある、という話。また、究極だというのが「杮落とし(こけらおとし)」の「杮」という漢字。果物の「柿」という字と違う、ということも本書を読むまで知りませんでしたが、本書によると、「こけら」より「かき」の方が一画多いそうです。本書では、どこが違うのか教えてくれなかったですが、気になるなこれ。

また本書には、言葉の語源も色んなところに載っていました。一番へぇと思ったのが、歌舞伎界を指す「梨園」という言葉。これは、等の玄宗皇帝が梨を多く植えた庭園で楽土の子弟を自ら指導した故事にちなんでいるそうです。

そんなわけで、日本語に関する深い知識を学ぶことが出来る一冊です。

講談社校閲部「熟練校閲者が教える間違えやすい日本語実例集」

「クワイエットプレイス」を観に行ってきました

いやぁ、怖かった!!
ストーリーとか設定とかそういうことじゃなくて、とにかく「怖がらせること」「驚かせること」に異様に特化した映画だな、と思います。
面白かった。

物語は、リトルフォールズという名前の荒廃した街から始まる。信号は消え、店先には行方不明者の顔写真が大量に貼られている。街中には、ほぼ人影はない。内部がぐちゃぐちゃになっている薬局に、一組の家族がいる。長男の具合が悪く、薬を探しているのだ。長女と次男は、店内で遊んでいる。しかし、音は一切立てない。立ててはいけないのだ。家族はみな、手話で会話をしている。長女は、どうやら耳が聞こえないようだ。しかし、家族がみな手話で会話をするから、支障はない。
次男が、音の出るスペースシャトルのおもちゃを持って帰ろうとする。4歳で、まだまだ小さいから、音を出してはいけないことがうまく理解できないのだ。父親にダメだと言われたおもちゃを、長女は電池を抜いた状態で渡す。(内緒だよ)という手話と共に。ただ次男はこっそり、電池も一緒に持って返ってしまう。
一家の家は、街から離れた場所にあるようだ。両親はザックに大荷物を入れている。川に架かった橋を渡っている時、次男がおもちゃの音を鳴らしてしまった…。
何かの日(あの出来事があった日だろうか?)から472日が経過した。家族は、平原にポツンと立つ家で静かに暮らしていた。静かに家事をし、静かに遊び、静かに暮らす。父親は、様々な国際短波周波数に「SOS」というモールス信号を打ち続けている。しかし、一度も返事が返ってきたことはない。部屋には、かつての新聞が貼られている。「NY封鎖」「上海で多数の犠牲者」「音だ!」「奴らは音に反応する」
母親が血圧を測り、カレンダーに記入している。数週間先に、「出産予定日」の印がある。
というような話です。

最初から最後まで、割と緊張しっぱなしでした。「うわぁ、絶対なんか起こるじゃん!」みたいな予感が満載なんですよね。手話以外のセリフがほぼない中で、重低音を響かせる音楽が、「悪いこと起こりまっせ!」っていう予感をびしびしさせます。それに、映像的にも、「あぁ、これがこうってことは、後々絶対こうなるじゃん。止めて!」みたいな感じの描写が多くて、「止めて止めて!」みたいな感じでずっと待ってました。怖かったなぁ。

とにかく、「奴ら」が何なのかは、さっぱり分かりません。彼ら以外の人々がどうなったのかも、「奴ら」についてどんな研究・対処がされてきたのかも、ストーリーでは描かれません。とにかくこの映画では、「音に反応して捕食する化け物と戦う家族を描く」という部分にかなり全精力を傾けている、という感じがしました。

しかし、凄いですわ。絶体絶命でしょ!っていう場面が何度もありながらも、なんとかするんですよね。それが、物語的にはちゃんと必然性がある感じで、凄く良かったです。

説明的な描写がほぼないので、そういう意味でモヤモヤしてしまう人もいるかもしれないけど、そういうことは気にせず、「ハラハラドキドキの90分を体感する」という感じで映画を観に行くと、結構満足度が高いんじゃないかと思います。

「クワイエットプレイス」を観に行ってきました

無痛の子(リサ・ガードナー)

欠損は、その重要性を浮き彫りにする。

【急に腹が立ってきた。自分の呪われた遺伝子に。このおかげで、わたしは永遠にのけ者だ。わたしが何をなげうってでも感じたい、たったひとつの感覚に苦しむ患者たちとすごしていても、わたしの世界には安全を守ってくれるメルヴィンはいない。だからすべてを拒絶しなければならない。趣味も、浜辺を散歩することも。愛も。子供も。子猫も。
わたしはビニールに包まれたおもちゃのようなものだ。壊れないように永遠に棚に置かれたまま、そこからおろされることも、遊ばれることもない。
おもちゃでいたくない。人間でいたい。本物の生きた人間。あちこちを切ったり傷をつくったりして、戦いの古傷や心の傷をかかえた人間。笑い、傷つき、治って生きていく人間。】

主人公の一人は、SCN9A遺伝子の異常により、「痛み」を一切感じない。あまり深く考えなければ、それは羨ましいことのように思えるだろう。転んでも、カッターで切っても、骨折してもまったく痛くないなんて素敵、と。

実際はそうはいかない。まず痛覚のない子供は、3歳までに死んでしまうことが多い。致命傷になる怪我を負っていても、本人がそれに気づけないから手遅れになってしまうのだ。また怪我をしなかったとしても、体温の上昇に気づけずに、熱中症になって命を落としてしまうという。

この主人公は、注意深い養父から様々なことを教わり、注意してきたお陰で、子供の内に命を落とすことはなかった。しかし、生き延びるためには、様々なことを諦めなければならなかった。「趣味も、浜辺を散歩することも。愛も。子供も。子猫も。」である。例えば猫。猫に引っかかれたところで通常は大したことはないし、結構深手を負えば、消毒したり病院に行ったり出来る。でも彼女は、どんな種類の傷にも気づくことが出来ない。だから、猫を飼うことで傷を負い、感染症に罹って命を落とすことがある。護身用にとナイフや銃の扱い方を学ぶことも出来ない。ナイフや銃を扱っている際に何か間違いが起こって自身を傷つけないとも限らないからだ。

普段僕たちは、痛みを嫌なものだと感じる。怪我や病気による痛みに腹を立てたくなる。しかし、痛みを欠損した人物の物語を読むと、痛みのありがたさが分かる。

【姉はあなたやわたしとは違う。あなたやわたしみたいに人に愛着を感じたり、共感をおぼえたり、慰めを得たりすることはないの。姉はひとりだからって寂しいわけじゃない。混雑した部屋に立ってても、姉を愛してると言う男性の腕のなかにいても変わらないのよ。それが姉の人格障害の一部なの】

登場人物の一人は、重度の反社会性パーソナリティ障害を抱えている。正確な表現であるか自信はないが、つまり「感情を欠損している」ということだろう。いや、「寂しさ」は感じないけど「退屈」は感じるらしいから、「他人と関わる上で重要な感情を欠損している」と言うべきだろうか。

ここでは深く触れないが、彼女の欠損は、彼女の人生に大きな困難をもたらす結果となった。

僕たちは普段、自分が、そして周りの多くが当たり前に持っているものについて考えることがない。痛みも感情も、大抵みんな感じる(感じているように見える)ものだ。だから、その重要性について考えることはない。あって当たり前だし、なくなるはずがないと思っているから、ある意味で安心しきっていると言えるだろう。

確かに、痛みや感情がなくなる可能性は低いかもしれない。でも、大体の人が普通に持っているもので、でも失われてもおかしくないもの、というのはあると思う。

例えば、「家族との繋がり」なんてのはどうだろう。

家族との関係が良好であるかどうかは関係なく、繋がりがあるかどうか。皆、誰かの子供として生まれてくるわけだから、生まれた時点ではほぼ確実に家族との繋がりはある。しかし、生きている間に失われてしまうことは充分にあり得る。

僕たちは生きている中で、そういうものへの過信を抱いているように思う。自分も持っているし、周りも大体持っているんだから、失われることはないだろう、というような。

欠損の物語を読んで、何だかそんなことを考えた。

内容に入ろうと思います。
ボストン市警殺人課の部長刑事であるD・D・ウォレンは、シリアルキラーによるものと思しき殺人現場にいた。ナイトテーブルにはシャンパンボトル、血まみれの腹の上には一輪の薔薇。ボトルの横には、毛皮で裏張りされた手錠。そして何よりも、皮膚が何本もの薄いリボン状に剥がれて反り返った死体。
その日の捜査を終えて、皆を帰したD・Dだったが、自身は現場へと戻った。そしてそこで、“何か”が起こった。
気がついたらD・Dは、現場から落ち、左の上腕骨の欠片が剥離骨折した。D・Dは全身の激痛と戦わなければならなくなった。そしてさらに、第一の事件と似たような状態の被害者が発見された。
一方、精神科医であるアデライン・グレンは、マサチューセッツ州刑務所へと向かった。月に1度の、姉との面会日だ。姉のシェイナは14歳で初めて人を殺して、大人と同様に裁かれるという異例の措置が取られ、刑務所へと入った。そして刑務所で刑務官を殺し、一生刑務所から出られないことが決まった。重度の反社会性パーソナリティ障害を患う姉は、他人を操ることに長けており、刑務所内でも常時要注意人物として扱われている。
そんな姉を見舞うアデラインは、先天性無痛症を患っている。痛みを感じられないまま長く生き延びることは難しいが、彼女を引き取ってくれた年配の遺伝学者である養父のお陰で、なんとかここまでやってこれた。
そう、アデラインもシェイナも、まだ幼い頃に両親と離れ離れになった。実は彼らの父は、当時その名を轟かせたシリアルキラーであり、逮捕される直前に風呂場で自殺したのだ。父親が殺人を犯す時、4歳だったシェイナは父と一緒に、そして1歳だったアデラインはクローゼットに隠された。シェイナはある意味で、父親の素質を受け継いでいる、と言えるのかもしれない。
痛みを感じられないアデラインは、それ故に、痛みをコントロールするメンタルテクニックの専門家であり、アデラインの患者として、ボストン市警のD・Dがやってくることとなった。D・Dはアデラインから、「痛みに名前をつけること」と言われ困惑するが、彼女はそれを「メルヴィン」と呼ぶことに決めた。アデラインの指導により、確かにD・Dの激痛は和らぎ、D・Dはこの精神科医を信頼することに決めた。
ボストン市警の調査により、「皮膚が何本もの薄いリボン状に剥がされる」という殺害方法が、過去のデータベースと一致した。それがハリー・デイ、アデラインとシェイナな父親だ。アデラインとハリー・デイの繋がりを知ったD・Dは、長年獄中にいるシェイナに疑いの目を向けるが…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。とにかく、設定が凄い。「父はシリアルキラー、姉は反社会性パーソナリティ障害で殺人犯、妹は先天性無痛症」なんていう、まあ普通はあり得ないだろう設定が、物語上とても良く活かされている。シリアルキラーである父の犯罪は、物語の冒頭からこの作品の土台となっているものであるし、反社会性パーソナリティ障害を患う姉の存在は、(見たことはないけど)「ハンニバル博士」のような異様な存在感があって印象的だ。また、先天性無痛症である妹が、怪我を負って激痛と戦わなければならないD・Dとやり取りする場面はなかなか面白し、そこから事件の捜査が姉のシェイナへと伸びていく展開も良い。また本書のある場面は、反社会性パーソナリティ障害である姉と、先天性無痛症である妹が協力しなければ不可能なものであり、そういう意味でも設定が良く活かされていると思う。

正直に言えば、本筋のストーリーライン、つまり、「この連続殺人事件は誰がどんな理由で起こしているのか」という部分は、そこまで面白いとは思えなかった。ストーリー的にはまとまってると思うんだけど、「なんかそうじゃねぇんだよなぁ」と思ってしまった。そう思ってしまった理由は、「アデラインとD・D」「アデラインとシェイナ」「シェイナと捜査陣」みたいな、本筋のストーリーラインの周辺にある物語の方が圧倒的に魅力があるからだろう。そりゃあそうだ。反社会性パーソナリティ障害の姉と、先天性無痛症の妹の周辺の物語の方が面白いに決まってるだろう。

だから、600ページ弱というページ数も、長く感じてしまった。本筋のストーリーラインに直接関係する通常の捜査の描写は、やはりそこまで惹かれなかった。物語的にちゃんと着地させるためには必要な分量である、とは分かっていても、やはり、周辺の物語の方が面白いので、長いなぁ、と思ってしまいました。

しかし、アデラインとシェイナのやり取りは、なかなか興味深かったなぁ。「姉妹」という単純な括りではもちろん捉えられない。とはいえ、「反社会性パーソナリティ障害と精神科医」というだけの関係でももちろんない。「シリアルキラーである父ハリー・デイの娘」という共闘が出来るわけでもないし、「一生刑務所から出られない重犯罪者と、月1度の面会人」という薄い関係性でもない。姉の内面は不明だが、アデラインに関しては、姉に対する複雑な感情が描かれ、しかもそれが様々な出来事をきっかけにすることでちょっとずつ変化していく。相手は反社会性パーソナリティ障害でかつ殺人犯だ、という意識はもちろんあり、一方で唯一の肉親であるという感覚もあるのだが、さらに姉には、巷で起こっている連続殺人事件の首謀者かもしれない、という疑いさえある。シェイナ・デイという存在を、様々な立場から見なければならないアデラインは、その複雑な状況下で真っ当な感覚を保てなくなってしまうのだ。

その揺らぎに、D・Dを始めとする捜査員や、刑務所所長なんかも翻弄されることになる。アデラインの葛藤を軸にした人間関係の複雑性みたいなものは、かなり楽しめました。

リサ・ガードナー「無痛の子」

ベルリンは晴れているか(深緑野分)

凄い作品だと思う。
けど、面白いかと言われると、悩む。

内容に入ろうと思います。
舞台は、1945年、四カ国による分割統治下に置かれたベルリン。主人公のアウグステは、アメリカ軍の食堂「フィフティ・スターズ」で働くドイツ人少女だ。ヒトラーは2ヶ月前に自殺し、ドイツは降伏した。今は、アメリカやソヴィエトなどが、この国を支配している。
仕事を終えて疲れて家に帰った。すると憲兵がやってきて、彼女を連れ出してしまう。連れて行かれたのは警察署で、そこでソヴィエトのNKVD(内務人民委員部)に所属するドブリギン大尉から尋問を受ける。その日、かつてアウグステが世話になったクリストフという男が、毒入りの歯磨き粉を使って死んでいるのが見つかり、その死に関与しているのではないかと疑われているようなのだ。そこからさらに色々な出来事があり、彼女は、元俳優である泥棒・カフカと共に、クリストフの妻・フレデリカの甥であるエーリヒを探すことになった。
そして、その主軸の物語の合間合間に、アウグステの過去の物語が挿入される。戦争が始まる前のドイツで、共産主義者として活動していた両親との関わり合いを描き出していく…。
というような話です。

まず、「凄い」と感じた部分について書きましょう。
本書は、第二次世界大戦前後のドイツを舞台にした作品ですが、様々な描写が、「著者は当時そこにいたのか?」と感じるほど詳細で鮮やかです。この点は衝撃的でした。著者は僕と同じ年なので、そのこともちょっと衝撃ですね。どうやったら、大昔の異国を舞台に、ここまで具体的に詳細な描写が出来るんだろう、と感じました。

その部分は圧倒的だったんですが、物語自体はというと、ちょっとどうかなぁ、と感じてしまいました。

本書の物語部分について触れる上で、僕はヒッチコックという映画監督の言葉を思い出します。正確には覚えていませんが、サスペンス映画をたくさん撮り、評価されたヒッチコックは、「観客になるべく先に教える方がいい」というような発言をしています。

どういうことか。分かりやすいのが、「ジョーズ」という映画(ヒッチコック作品じゃないですけど)でしょうか。「ジョーズ」では、サメが登場する前には必ず「ダーダン」という、あの特徴的な音楽が流れます。観客は、この音楽が流れると、「そろそろサメが出てくるぞ!」と予感します。その状態でサメが登場することでより驚かせることが出来る、というような理屈です。

そして僕は、この理屈は、サスペンスに限らずどんな物語にもある程度応用できる、と考えています。つまり、観客なり読者なりに、「これからこんな風になるんだ」という予感を抱かせる、ということです。もちろん、その予感を裏切ってもいいわけです。ただ、何らかの形で予感を抱かせないと、その後の「やっぱり!」とか「うそっ!」という反応が引き出せなくなる、と思っているのです。

この話を踏まえて、本書の物語部分に触れていこうと思います。

本書は、「先々の展開がどうなるかの予感が少ない物語だ」と僕は感じました。本書は冒頭で、なかなか魅力的なスタートを切ります。一人の少女が捕えられ、よく分からない嫌疑を掛けられ、謎の泥棒とある人物を探すことを決める、というスタートは、なかなか面白いと思います。ただそこから、その「とある人物」がひたすらに見つかりません。ずっと探し続けている。この探し続けている間は、ほぼ「予感のない状態」と言えます。人物は縦横無尽に動いているけど、肝心の物語は全然動いていない。物語そのものが動かないから、予感も抱きようがなく、予感を抱きようがないから、「やっぱり!」も「うそっ!」も感じられない、という時間がかなり長く続く物語だな、と読みながらずっと思っていました。

僕は物語の冒頭の時点では、「彼らが探している人物が割と早い段階で見つかり、その人物と出会うことでさらに物語が動いてくんだろう」と予想しました。でも、そんな素振りはまったくなく、物語の最後の最後になるまでその人物は見つかりません。これはなかなかしんどいな、と思いながら読んでいました。

とにかくこの物語は、最後の最後まで読まないと何だかよく分からないのです。最後まで読めば、「なるほど、これこれこうで彼らは動いていて、こんな感じだったのかー」的なことは分かるんだけど、そこに至る過程では、ほぼ何も分からない。アウグステ自身がほぼ何も分かっていないまま主人公として存在していて、読者も基本的に何も分からないままで、ひたすらに彼らが人探しをしている描写を追うことになる。もちろんその描写の中には、戦争に負けた者たちに苛烈な生活だとか、戦時中の裏切りや自分の悪い行いなど、戦争というものを背景にした辛い場面も色々に描かれていて、そういう部分は単体の描写としては興味深かったけど、どれだけそれらを濃く描こうとも、それらはどうしても「背景」なわけで、メインの物語が進んでいかないことが、僕にはちょっとストレスフルに感じられました。

これが、ミステリ的な始まり方をする物語じゃなければ、また受け取り方は違ったかもしれません。戦争というものの酷さや虚しさみたいなものを切り取っていく純文学的な感じで物語が始まっていれば、ミステリ的な作品では「背景」になるものが、物語そのものになるでしょう。それならこういう描写の連続でも成りたつかもしれません。でも僕は、本書は非常にミステリ的な始まり方をしたので、そういうふうには受け取れませんでした。

繰り返しますが、凄い物語だと思います。どうやったらこんな物語が書けるのか僕には想像出来ないし、当時ドイツに住んでいた者たちのあらゆる後悔や悲哀みたいなものが強く染み出している物語だと思います。ただ、全体的には、面白いとは言えない物語でした。

深緑野分「ベルリンは晴れているか」

「ウィンド・リバー」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
ワイオミング州にある、ネイティブアメリカンの保留地である「ウィンド・リバー」。ここでは、ネイティブアメリカンの少女たちがよく殺される。
野生生物局のコリーは、この地で猛獣などを駆除する仕事をしている。雪深い山岳地帯で、静寂以外何もない土地。そこで彼は仕事中、少女の死体を発見する。少女は雪に埋もれた状態で、裸足だった。死因は、マイナス30度にもなる冷気を走りながら一気に吸い込んだことによって肺が破裂、自らの血液による窒息死だ。少女の名は、ナタリー。3年前に亡くなったコリーの娘の親友であり、コリーは、やってきたFBI捜査官・ジェーンと共に捜査をすることにした。
一番近い民家は、5.5キロ離れたところにある、荒くれ者の兄弟が住む家。そして8キロ離れたところには、採掘所がある。彼女が裸足である理由は、それらの場所から逃げ出したとしか考えられない。司法解剖の結果、少女はレイプされていたことが分かった。
監察医は、「どうしても死因を他殺には出来ない」と主張する。FBIの規定により、他殺でなければ応援を動員できない。彼らは、数少ない人員で、ナタリーを追い詰めた者を探し出さなければならなくなった。
この雪深い土地で、一体何が起こっているのか…。
というような話です。

冒頭で、「事実に基づく」と表記されました。そして映画の最後に、「ネイティブアメリカンの失踪者の統計は存在しない」と表記されました。この映画で描かれている出来事が事実に基づいているのか、あるいは、ネイティブアメリカンの少女が頻繁に失踪している、という現実がベースとなっていて、物語そのものは事実が基になっているわけではないのか、それは分からないけど、とにかくこの映画の背景として強く印象付けられているのは、「ネイティブアメリカンに対する迫害、そして無知」である。

物語で描かれる、ナタリー殺害の真相は、なんというのか胸糞悪くなるようなもので、身も蓋もない、という感じがする。『この土地は、凍った地獄だ』というセリフがあって、「だから仕方がないんだ」みたいな言い訳として発言している感じがある。そして恐らくだが、この言い訳を発するメンタリティは、アメリカ人全体が持っているものだぞ、と訴えるような映画であるように僕には感じられました。

もちろんこれは、「アメリカにおけるネイティブアメリカンの問題」だけではありません。多くの国が民族の問題を抱えているだろうし、民族に限らず、性的マイノリティや宗教による差別などがあることだろう。そういう「多数派ではない者」に対し、直接的に迫害や暴力をもたらす人は、そう多くはないだろうと思う。しかしこの映画では、「多数派ではない者」に対する無関心こそが問題の根深いところにあるのだ、と指摘しているように思う。

そう感じるのは、「ウィンド・リバー」という土地にある。ネイティブアメリカンたちは、ほとんど何もかもを奪われ、この雪と静寂しかない土地に無理やり連れてこられたという。確かに、そういう行為をしたのは、ずっと昔の世代の人達かもしれない。ただだからと言って、「隔離されている」「視界に入らない」という理由で「見ない」という無意識の選択をしている人達にまったく罪がない、ということはないだろう。

その「無関心さ」を象徴する存在として描かれているのが、FBI捜査官のジェーンだ。彼女はフロリダ出身で、この「ウィンド・リバー」にやってくるのに、防寒具を持ってくることもなかった。部族警察のベンは、『この土地をナメてる』と発言したが、まさにその通りだろう。ネイティブアメリカンの人達が、どんな生活を強いられているのか、そういう想像を人生の中ですることがないからこそ、何の用意もなくやってくる。

そんなジェーンに対して、ナタリーの父親は、『そう言ってお前たちはいつも侮辱する』と、白人という存在に対する嫌悪感を示し、協力的になることが出来ない。そんなジェーンは、この土地やそこに住む者たちのこと、そしてこの土地で起こっていることを知る過程で少しずつ考え方が変わっていくように見える。

『ここには運はない』
『ここでは生き残るか諦めるしかない』

コリーが言うこのセリフは、結構好きだ。なんというかこの言葉には、「ウィンド・リバー」という過酷な土地に生きざるを得ない人々に対し、生きる意思を持つ強い者たちであると称賛するような響きを感じる。コリーは、結果的には命を落とすことになってしまったナタリーさえも、その強さを称賛する。勇者でなければ、ナタリーはあの場所までたどり着くことは出来なかっただろう。

「ウィンド・リバー」を観に行ってきました

「食べる女」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
この映画は、微妙に日常が交錯するたくさんの女性たちの、「食べること」を通じた生活を描き出す物語です。
メインの舞台となるのは、古本屋「モチの家」を営みながら小説家として生計を立てる敦子。幼馴染で、ごはん屋「道草」の女将である美冬と共に料理好きで、女友達を呼んでは料理を振る舞っている。よくいるのは、敦子の担当編集者である圭子と、制作会社でアシスタントプロデューサーをする実子。
実子は、行きつけの「BAR ロマ」で、仲の良い女店主と話しながら飲んでいる。そこに、飲んだくれて突っ伏している女性が。古着屋で働いているあかりだ。あかりは、ひき肉料理が好きで付き合う男によく振る舞うが、ステーキを出さなかったから振られたんだ、と嘆いている。安くて早くて美味い、というひき肉のように、あかり自身もすぐに男とカラダの関係になってしまう。
編集者の圭子は、もう4年も彼氏がいない。どんな風に恋愛をスタートさせてきたのか、もう思い出せもしない。そんなある日、ちょっとしたトラブルから顔見知りになった男性と、道でばったり再会した。タナベと名乗る男は、良いタチウオが手に入ったんで、お詫びに料理を作りますよと言って圭子を誘う。なんだかんだ圭子は、購入したマンションにタナベを入れてしまう。
「道草」の女将である美冬は、店の前で泣きながら歩いている外国人女性を見かけ、料理を振る舞った。マチルダという名のその女性は、レンジでチンする料理ばかり旦那に出し続けたせいで旦那が出ていってしまったと話す。美冬は、ご飯を美味しそうに食べるマチルダを放っておけず、「モチの家」の敦子のところへ行き、空いている部屋に住まわせてくれと頼み込む。
そんな「モチの家」に、時々やってくるようになった二人の女の子がいる。一方は、母親が自由人で世界中を旅して回っていて、家には本当の父親ではない男性がいて、女の子が料理をしている。仲は良いが、変な関係だ。もう一方の女の子は、両親が離婚している。その母親であるツヤコは、耳のパーツモデルをしていて、ある日、既に別の家庭を作っている離婚した元旦那を誘ってピクニックに行こうとする…。
というような話です。

特別これと言った盛り上がりがある映画ではありませんが、全体的には面白く観れる映画でした。

映画の中で敦子が、「美味しいものを食べることと満たされたセックスをすることが、不幸せや暴力から一番遠ざかる方法だ」というようなことを言う場面があります。この物語の中では、「食べること」というのはそういう、生きることに直結することであるという風に描かれていきます。

そういう大前提を背景にして、女性たちの恋を中心とした日常が描かれていきます。それぞれがまったく違う価値観、違う恋愛観、違う感覚を持って生きていて、でもそういう女性たちが「食べること」で繋がって、色んな価値観が一つの場所でぐちゃっと混じり合っていく感じがなかなか良かったと思います。

あと個人的に好きなのは、「男女の関係ってそりゃあ色んな形があるよねー」というのを色々見せてくれるところ。生きているとなんとなく、「男と女の関係って、こういうのが普通だし、当たり前だし、普通で当たり前ってことはこれが常識だよねー」みたいな謎の圧力を感じることがあって、僕はそういうのに全力で抵抗しているんだけど、この映画は、色々あるし、別にどれが正解ってこともどれが不正解ってこともないんでないの?というのをゆるーく伝えてくれる感じで、その雰囲気が良かったなと思います。

個人的には、敦子の、人間を人間として受け入れていく感じが好きだなぁ。敦子だけは、「恋愛」的な感じで物語に組み込まれていな。別に恋愛を諦めているとか、嫌っているとか、あるいは熱望しているけど出来なくて辛いとか、全然そういう感じでもなくて、あればあるでいいし、ないならないでいいみたいな、凄くフラットな感じがいいと思う。関わる人間に執着しすぎず、かと言って突き放し過ぎもせず、ちょうどいい距離感で関わっていくというのは僕の理想で、僕は「男版・敦子」みたいな感じで生きていきたいんだよなぁ、と思ったりしました。

「食べる女」を観に行ってきました

ヒキコモリ漂流記(山田ルイ53世)

本書は、最初から最後まで実に面白い作品だが、一番良いことは最後の最後に書いてある。

【殆どの人間は、ナンバーワンでもオンリーワンでもない。
本当は、何も取柄が無い人間だっている。
無駄や失敗に塗れた日々を過ごす人間も少なくない。
そんな人間が、ただ生きていても、責められることがない社会…それこそが正常だと置くは思うのだ】

これは本当にその通りだなと思う。
もちろんこれは、自分への非難も含んでいるわけだけど。

僕は、比較的広く他人を許容する人間だ、と自分では思っているのだけど、それでもやはり、許容しがたい人というのは存在する。もちろん、そういう人であっても、大抵の場合は、「僕の目の前にいさえしなければ別に何をしていても構わない」と感じる。ただ、本当に時々、「こいつマジでいなくなって欲しい」「自分の視界からじゃなくて、この世から消えて欲しい」と感じるタイプの人間もいる。

本当は、そういう人も許容して、ただ生きていても責められることがない社会が良いのだと思う。それでも、そういう社会を切に望んでいる僕自身さえも、そういう社会の成員としてふさわしいとは言えない感覚を抱いている。難しいものだ、と思う。

僕自身も、引きこもっていた時期がある。

山田ルイ53世は6年間だったようだ。世間には、もっと長く引きこもっている人もいるだろう。それらに比べれば、僕は短い。二回に分けて、合計で半年、という感じだ。

しかし、その半年間は、本当に辛かった。

大学二年まで、小中高大学と成績はとても良かった。まあ頑張って勉強したからなぁ。そして、大学三年の春から授業に一切出ず、家からほとんど出ない生活をするようになった。理由は色々あるが、まあそれは置いておこう。とにかく僕は、優等生から一転、立派な引きこもりになった。

その当時の生活を、もう正確には思い出せないのだけど、大体こんな感じだったと思う。

昼夜逆転の生活をしていた記憶はない。早いとは言えない時間だったかもしれないけど、ちゃんと夜に寝て、昼に近かったかもしれないけど、午前中には起きていたと思う。そして、起きている間はひたすらテレビを見ていた。ずーっとだ。当時は、既に本をたくさん読んでいる時期だった。でも、引きこもっている間に本を読んだような記憶がない。理由ははっきりしている。読めるような精神状態じゃなかったのだ。とにかく頭の中はずっとぐるぐるしていた。問題が何なのかもはっきりと分からないまま、今すぐに答えを出さなければならないような焦燥感にずっと駆られていた。考えなければならない問題はたくさんあった。大学はどうするのか。ここにずっと住み続けられるのか(実家ではなく一人暮らしだった)。働けるのか。友人たちとはもう会えないだろうか…などなど。でも、考えると言っても、まともな思考能力は残っていなくて、考えれば考えるほど悪い方向に思考が進む。だから考えたくない。でも考えずにはいられない。そんな風に頭がぐるぐるしていたから、とても本なんか読んでいる場合じゃなかった。それで、一日中ずっとテレビを見ていた。

僕が住んでいたところは、建物内に食堂や大浴場があるようなところだった。食堂は専用のカードで支払いで、その請求は親に行ったから、とりあえず手持ちのお金がほとんどなくても生活は出来たのだと思う。親は、僕が大学に行かなくなったということを知ったが、山田ルイ53世の両親と同様、すぐに大学に復帰するだろうと考えて、学費も生活費も出してくれていた。山田ルイ53世と同様、僕もそれまでずっと優等生で通してきていたから、ここでダメになるはずがないと期待したかっただろうし、これまでワガママらしいワガママを言わなかったんだからここはなんとか踏ん張ってあげよう、みたいに思ってくれていたかもしれない。

実際どう思っていたのか、聞いたことはないが、しかしどう思っていたにせよ、それらはすべて間違っていただろう。

【中学受験はある日突然、ただの思いつきで僕が勝手にやると言いだし、勝手に勉強して、勝手に合格しただけのことだったし、入学後の学校での成績や生活態度もすこぶる良かった。そんなわけで親は安心しきっていたのである。僕のこと、その現状をまったく把握していなかった。
それが彼らにとっては仇となった。もっと手のかかる子供なら、何かにつけ知る機会も多かっただろうに…。】

これも、物凄く分かるな、と思った。僕も、ずっと優等生で通していたから、親からすれば、僕が突然大学を辞め、引きこもるようになったことを「何かの間違いだ」ぐらいに思っていたことだろう。ただ、僕の感覚からすると違う。僕は既に、中学生ぐらいの頃から、後に引きこもることになる要素をずっと隠し続けていたのだ。僕がもっと普段から問題を起こすような子供なら、親も注意深く観察したかもしれないけど、僕も山田ルイ53世と同じく、超がつくぐらいの優等生っぷりで通していたから、親も安心しきっていたんだろう、と思う。僕からすれば、ずっとカウントダウンの中を生きていたようなものだったのだけど、まあ気づくわけもない。

引きこもっている時は、本当に何をしていたかほぼ記憶がない。たぶん、テレビを見る以外のことを何もしていなかったんじゃないかと思う。それぐらい、気力がなかった。動き出そうという気力もなく、とはいえこのままで良いはずもなく、だからってどうもしたくないという堂々巡りの中で、ただただ脳みそが溶けるようなレベルでテレビを見続けいただけだった。

山田ルイ53世が引きこもりを脱するきっかけになったのが、成人式だったという。かつては神童だった自分が、既に周りから置いていかれているのに、成人になってしまえば、その差を埋めることはほぼ不可能になる――そんな焦燥感から、彼は無理やり引きこもりを脱することにしたという。

僕のきっかは、実家に強制送還されたことだった。さすがに引きこもったまま一人暮らしさせるわけにもいかず、僕は実家に帰らざるを得なくなった。しかし僕は子供の頃からずっと、実家が嫌で嫌で仕方がなかった。そして、結果的にはそれが良かった。もし僕にとって実家が居心地の良い場所であったら、そのまま社会に出られないままだっただろう。僕は、実家からどうにか抜け出したくて、それで、ずっと避け続けてきた「働く」という選択肢について真剣に考えるようになったのだ。

著者は取材などで引きこもりについて聞かれる度に、ある違和感を覚えていたという。それが、取材の終わりに放たれる、「その6年間があったから、今の山田さんがいるんですよね?」という類の質問だ。彼は、場の空気が悪くなることを承知で、「あの6年は完全に無駄でしたね」と答えるのだと言う。

そうだなぁ、僕も、引きこもっている時間そのものは、無駄だったな、と思う。僕は、「大学を辞めた」ということは、今でも最大級に最良の選択だと考えているのだけど、それに続く引きこもっていた時期は、はっきり言って無駄だなと思う。とはいえ、結局実家に強制送還されるまでは動けなかっただろうから、すべてが繋がっていると言えるのだろうけど、それでも、僅か半年間といえ、あんなしんどい時期を過ごす必要はなかったと思う。うん、はっきり言って無駄だったな。

でも、「引きこもっている」ということが、社会に生きる人間としてマイナスにならない世の中であって欲しいと思っている。人を負傷させたり、金品を盗んだりというような、積極的に他人に迷惑を掛けるような行為はダメだと思うけど、弱かったり頑張れなかったり苦しかったりして、普通の人が普通に出来ることが普通には出来ない人、というのがやっぱりいるわけです。そういう人たちも、消極的には周りに迷惑を掛けるだろうけど、それが受け入れてもらえる世の中というか、他意なく無視してくれるような世の中であってほしい、と僕も思ったりします。

内容に入ろうと思います。
本書の著者は、お笑い芸人「髭男爵」の太ってる方。彼は、小学生の頃からなかなかの神童だったようだ。勉強もスポーツも出来、地元の名門中学に入学を果たした。国語の授業で出された詩の課題(実は優秀作は新聞に掲載される)で、姑息にも新聞に載るような作品を必死で考えて載ったり、学校の面々を「主役」「脇役」「エキストラ」などに区分けして見ていたなど、本人が「嫌な人間だった」「救いようがない」「なかなかのクズ」と評するエピソードも多々登場するが、本当にそれぐらい、周りから頭一つ抜けた存在だったようだ。
しかし、うんこをもらしてしまったことをきっかけにして、彼は引きこもりになった。そう、うんこをもらしたことは、あくまでもきっかけに過ぎなかった。ただそれだけのことなら、きっと彼は学校に行き続けることが出来ただろう。しかし、あらゆる意味で、彼は限界だった。そして、夏休み明け、いつもなら夏休みに入って一週間程度で終わらせる夏休みの宿題を一切やっていないという理由で学校をサボり、そこから6年間の長きにわたり、引きこもることになる。
本書では、引きこもりを脱してから芸人になるまでの軌跡も描かれていて、まさに「山田ルイ53世が出来るまで」という感じの作品である。

面白かったなぁ。芸人だから、という面もあるかもしれないけど、文章が非常に面白い。ただ面白いだけじゃなくて、なんというか教養に裏打ちされている感じがする。伝わるか分からないけど、【あの先生の太鼓判には朱肉がついていなかったようだが】なんていう、知識とユーモアが入り混じったような表現が結構随所にあって、さすが子供の頃から大人向けの難しい本を読んでいただけのことはある、という感じだ。

そもそも、引きこもることになった初日の朝の描写がこうだ。

【実際、その時の僕は「なんか俺、今、カフカっぽいな」などと、チェコの文豪の作品と自分を重ね合わせ、その類似性に、意味不明の高揚感を覚え、さらにはこのたぬき寝入りになんらかの「正当性」があるのではないかと文豪の権威を悪用してそう思い込もうとしていた】

この時、14歳である。僕なんか、未だにカフカの「変身」を読んだことがないというのに(笑)

文章だけではなく、著者の、「書きにくい話も臆せず書く」という姿勢も良いなと思う。その最たるものが、既に少し触れたけど、「当時の自分がどんな風に感じていたのか」を露悪的に描くようなスタンスだ。例えばこんな感じ。

【我が家は、学校や、彼らの自宅からはかなり遠い。にもかかわらず、わざわざ来てくれたのだから、あの人達は、本当に僕を心配してくれていた友人であり恩師だったに違いない。
しかし、当時の僕は、「なんや?あわれな同級生の見舞いに来て点とりか?」とか、「あーあー、来てどうすんの?迷惑やわー!笑いに来たか!」とか「そもそも、俺のこの現状を、何とかできると思ってる時点でおこがましいわ!」とか思っていた。なかなかのクズである。】

【そんな状況が続いて、屈辱に耐えきれなくなった僕はバイトをやめた。
親には、「ほんま続かんね~!情けない!」、「もう学校も行ってないねんぞ?働け!お前みたいなもんに飯くわせる義理ない!」などと言われたが、その時も、「こんなに優秀な俺に、ただただ働けて…もったいないと思わんのか?この才能を!…アホやな~…」とか思っていた。救いようがない】

確かに救いようがない(笑)。なかなかの酷さである。しかしこういう自分を、隠すことなく露わにしている、という点が、本書の面白さの背景にはあると思う。もちろんその面白さというのは、「こんなこと考えててアホやな~」という面白さでもあるのだけど、決してそれだけではない。その説明のために、以下の引用をしよう。

【「これはあくまで、世をしのぶ仮の姿だ。暴れん坊将軍とか、遠山の金さんとか水戸黄門とか、そんな感じなんや!」と思っていた。本気で例の着ぐるみ(※自分は着ぐるみを着ているだけで、本当の自分はその中にいるんだ、という妄想の話)を脱げたら…強くそう思った。
そうでも思わなければやってられなかった。この、思い込みの逃げ道がなければ、本当の話、死んでいたかもしれない。】

この感覚は分かるなあ、と思う。僕も、引きこもっている間は、自分を支える考え方が必要だったと思う。それが何だったのか、具体的には覚えていないけど、今の自分のあり方を正当化するような理屈をこねて、自分は決して間違っているわけではない、と虚勢を張らなければ、とてもじゃないけど毎日をやり過ごせなかった。引きこもりの切実さを示している、という意味でも面白さを感じられる描写だと僕は思う。

引きこもりを抜け出してからも、著者は相当に苦労した。色んな紆余曲折があり、お笑い芸人という道に進むことになったのだけど、あまりにも壮絶で後戻り出来ない人生を歩んできたが故に、周りと感覚が合わなくなっていく。

【俺とお前らでは、本当は全然立場が違う!お前らは、最悪芸人やめても、売れなくても、就職できる。でも、俺みたいに、学歴がない、借金はある、友達もおない、人脈、コネもない、実家とも断絶している、こんな人間はもう就職などできない!俺にはこれしかないんや!これアカンかったら死ぬしかないねん!所詮、お前らはセーフティゾーンでやってるに過ぎないねん!】

みたいなことを相方に言ってしまったりするわけで、彼がくぐり抜けてきた人生の壮絶さは推して知るべし、という感じである。

読み物としてとてもおもしろい作品なのだけど、本書から何か教訓を引き出すとすればこうなるだろう。

『優等生こそ、危ないぞ』

山田ルイ53世「ヒキコモリ漂流記 完全版」

「響 HIBIKI」を観に行ってきました

才能というのはある。
そしてそれは、努力では立ち向かえない。

それを僕は、「数学」という学問を通じて感じることがある。

僕は数学が好きで、有名な定理が証明された過程を描くノンフィクションなんかを結構読んでいる。そもそも扱われている定理自体が難しい場合もあるのだけど、ものによっては、定理そのものを理解するだけなら簡単、というものもある。

しかし、それを証明するとなると、まったく別の話だ。

最近僕が好きな話がある。宇宙際タイヒミュラー理論だ。これは、ABC予想という、昔からの難問と言われている予想を証明するために生み出された理論で、まだ100%とはいかないまでも、恐らくこの宇宙際タイヒミュラー理論によってABC予想は証明されただろう、と考えられている。

この宇宙際タイヒミュラー理論は、確か7年ぐらい前に発表された。京都大学の望月教授がこの理論を発表した際、世界中の超がつく天才数学者たちの中でも、理解できたのはほんの僅かだったという。それから7年がたち、望月教授の弟子たちが熱心に普及したこともあって、今では世界で200人程度の数学者が宇宙際タイヒミュラー理論を理解している、らしい。

しかし200人だ。7年掛けて、世界中に山のようにいるだろう数学者たちの中で、たった200人しか理解できない。そんなものを、たった一人の頭脳が生み出したのだ。

「数学」という学問から「才能」を感じる理由は、「人工物」であり、かつ「唯一の正解を生み出すもの」だからだ。

数学というのは基本的に、人間の生来の欲求や本能に根ざしていないと思う。例えば、文字を理解したり言葉を話したりすることは、ある意味で生存本能などと直結するものだと思う。そういう意味で、文字や言葉を操ることは、人間の生来的な性質である、と言えるのではないかと思う。しかし、数学は違う。数学というのは、人間が生み出した超巨大な構造物であり、それらは生来的な欲求や性質に根ざして生み出されたわけではない。だからこそ、生まれてきた人間が後から獲得する能力だ、と感じるのだ(ラマヌジャンのような例外もいるが)。

また、例えば小説であれば、基本的に唯一の正解などというものは存在しない。基本的には、目の前にある小説を「受け入れるか」「受け入れないか」という個人の判断がそこにあるだけだ。しかし数学は違う。一定のルールに則った人工物であり、だからこそ、目の前に現れた定理は、おおよそ「正しい」か「正しくないか」である(「おおよそ」と書いたのは、数学には真偽が決定できない問題が存在するということを、ゲーデルが証明したからだ)。数学においては、たった一つの解しか許容されない。そのほんの僅かな正解を見つけ出す、という意味でも、数学というジャンルから才能を感じるのだ。

そして、そんな風にして発揮される才能は、正直なところ、努力「のみ」によっては太刀打ちできない。

数学に限らず、どんな分野にでも、やはり才能というのはあると思う。しかし、数学と違うのは、それがどんなものであれ、絶対的な真理を追い求めるものでない(あるいは、追い求めたくてもそれが出来るものではない)ために、「才能」の定義は時代によって変化するだろう。そして大抵の場合、その「才能」を判断するのは「世の中」だ。

もちろん、ここで言う「世の中」というのは、「世の中の人全員」という意味ではない。「才能」というのはやはり、見るべき人が見なければ分からないものでもある。基本的にはある程度の規模を持つ「世の中」が才能を判断し、そうやって認められた才能を「世の中の人全員」が受け入れる、という感じだろう。

絵画の世界に「印象派」と呼ばれるものがある。詳しくは知らないが、マネだかモネだかがそういう絵を描く代表的な人だったと思う。この「印象派」という名付けの由来が面白いと思ったので覚えている。かつて絵と言えば、宗教画のようなものを指しており、自然の風景を描くものは少なかった。しかし、そういう作風が現れるようになったのだが、そういう絵が出始めた頃、批評家が、「あいつらは、物事の印象ばかりを描いている」と批判したのだ。ここから「印象派」と名付けられたらしいのだけど、元々は批判の言葉だったのだ。宇宙の始まりを指す「ビッグバン」という言葉も同じような由来を持っている。ビッグバンという言葉は元々、「宇宙が極小の状態が爆発してデカくなったなんてそんな馬鹿な」と感じた物理学者が、その理論を揶揄するために名付けたものだったが、今ではそれが定着してしまった。

こんな風に、真に新しいもの、真に才能があるものというのは、すぐには受け入れられないし、ごく一部の人間にしか理解されない。

しかしそんな風にして、新しい価値観が少しずつ世の中を変えていく。すぐに受け入れられない価値観を持ち続けながら生きなければならない苦悩はあるだろう。しかしだからこその才能だとも言える。

『誰になんて思われても、私は私が書きたいから書くの。書きたいものがある限り書き続ける。私はそうやって生きていきたい』

この映画を見ながら感じていたことは、羨ましさだ。響ほど、自分を貫いて生きていくことは、ちょっと僕には出来そうにない。

内容に入ろうと思います。
鮎喰響は15歳の高校生。歩きながら本を読むほどの本好きで、文芸部に入部を希望するのだけど、そこは上級生のたまり場のような場所になっていた。しかし響は、自分に非がない時に自分を曲げるのを潔しとしない精神で立ち向かい、ついに上級生を追い出すことに。
一方、小論社で文芸編集者として働くハナイフミは、社内に届いた木蓮新人賞への応募原稿を拾った。「拾った」というのには理由があって、木蓮新人賞はWEBのみに応募であり、応募規定外として破棄されるところだったのだ。「おとぎの庭」というその小説に、ハナイは衝撃を受け、新人賞の応募締め切り前日に自ら原稿をタイプ打ちし、住所も連絡先も分からないまま応募した。
木蓮新人賞の選考が進む中、下読みを担当する者たちからの「おとぎの庭」への称賛が届き始めているが、一方ハナイは、「おとぎの庭」の作者である鮎喰響と連絡が取れずにヤキモキしていた。
ある日ハナイは、今日本で一番売れている小説家・祖父江秋人のコラム原稿を取りに自宅へと向かった。祖父江の5年ぶりの小説が先ごろ発売されたばかりであり、祖父江秋人の小説を読む読者は「ソブエスト」と呼ばれている。そこで、祖父江秋人の娘であるリカとも打ち合わせをするのだが…。
というような話です。

面白かったなぁ。原作は読んでないけど、原作のビジュアルと平手が凄くピッタリで、もちろんビジュアルだけではなく、平手友梨奈という異次元のアイドルの存在と鮎喰響というキャラクターが実に見事に共鳴していると感じた。

原作者は映画化に辺り、鮎喰響は平手友梨奈以外あり得ない、と言ったという。その気持ちは分かる。鮎喰響を今日本で演じられるのは、恐らく平手友梨奈しかいないだろう。平手友梨奈という、妥協を知らない極限のアイドルが、鮎喰響という異端小説家と重なる。素晴らしいと思う。

先日「行列のできる法律相談所」を見ていたら、平手友梨奈と監督の月川翔が出ていた。その中で月川翔が、初日に平手友梨奈から、脚本がつまらないと言われ、その指摘があまりに納得できるものだったから直した、という話をしていた。どこをどう直したのか、という話までは出なかったから分からないけど、さすが平手友梨奈というエピソードである。

鮎喰響の魅力は、行動原理のシンプルさだ。

『社会にはルールがあるの。人は一人で生きているわけではないのよ』

『大人の世界はね、自分一人で責任が取れるなんてことはないの』

鮎喰響の担当編集者であるハナイは、事ある毎に彼女にこう言い聞かせようとする。しかしそれは、妥協と打算が渦巻く大人の世界の都合だ。鮎喰響は、それを拒絶する。

誰もが分かっているのだ。鮎喰響の方が理屈としては正しいのだ、と。鮎喰響の難点は、すぐに暴力に訴えてしまうというところであって、その点をとりあえず無視すれば、鮎喰響が圧倒的に正しいことを言っている。

鮎喰響が暴くのは、大人の都合良さだ。生きていく中で、「仕方ない」「しょうがないよ」「俺が悪いんじゃない」「私のせいじゃない」「だって◯◯だったんだもん」と、僕らは色んな言い訳をしながら生きていく。大人の世界はある意味でそういう堆積で出来上がっているから、言い訳だらけの人生を生きていても、そこから決定的に排除されたりすることはあまりない。誰もが、お互い様だよな、なんて思いながら、そういう言い訳が飛び交う現実を無意識の内に許容しているのだ。

しかし鮎喰響は、そういう欺瞞を見抜く。そして、そこに一歩でも足を踏み入れようとしない。鮎喰響は、決して他者の価値観を認めないわけではない。いや、小説に関しては認めないかもしれない。そう感じさせる描写は多々ある。しかし、小説以外の事柄に関して言えば、鮎喰響は他者の意見を受け入れる場合もある。しかし、絶対に受け入れないのが、大人の欺瞞だ。欺瞞に満ちた言葉を口にする相手には容赦しない。

そういう意味で、キジマの態度は非常に良かったと感じる。キジマというのは映画の中に出てくる小説家であり、芥川賞を受賞したこともある。そんなキジマを鮎喰響はこき下ろす。あなたが天才だったのは、芥川賞を受賞するまでです、と。15歳の小娘にそんな風に言われたキジマは、欺瞞ではない言葉を鮎喰響に返す。だからだろうか。鮎喰響はキジマとの会話の後、少し笑った。

キジマに言わせたセリフは、なかなか痛快だ。

『世界を感動させるのは、お前に任せるよ』

キジマにこう言わしめたのも、鮎喰響の「おとぎの庭」という小説あってのことだ。

才能というのはもちろん様々な形で発揮されるものだが、「誰かの才能を見抜く」という形の才能もある。せめて僕も、そういう方面の才能でいいから持っていられるといいなと思う。

あと、どの場面で出てくるセリフかは書かないけど、

『人が傑作と思った小説を、作者の分際で何ケチつけてんだよ』

というセリフは、最高だなと思う。いや、確かにそうだよな、と。書いた人間がどう思っていようが、受け取った人間の感想にまで口を挟めるわけではない。鮎喰響の欺瞞への反抗は、僕らが日常的に違和感なく使ってしまっている言葉にも及ぶので、鮎喰響の言葉が自分に突き刺さることもある。それもまた面白い。

物語は、鮎喰響とハナイの関係性、そしてもう一つ、鮎喰響とリカの関係性の二つをメインにして描かれるのだが、鮎喰響とリカの関係性もまた興味深い。鮎喰響は、小説においては一切の妥協をしない。その妥協のなさがリカを追い詰めることになるのだが、しかし鮎喰響は善意でも悪意でもなく、それが正しいと思うからこそ言っているだけであって、だからこそ時間は掛かっても鮎喰響の気持ちは伝わる。というか、それが伝わらないような人間は鮎喰響と関われない。

恐らくこの物語の中で、一番しんどいのはリカだろう。原作がどんな風に続いていくのか知らないが、リカがどんな風に鮎喰響と関わっていくのかは、非常に興味がある。

あと超余談だが、鮎喰響は直木賞と芥川賞に同時にノミネートされる。僕は正直、そんなことあり得ないだろ、原作者は小説の世界を全然知らないんだなぁ、とか思ってたんだけど、すいません、僕が間違ってました。実際に、同一の作品で直木賞・芥川賞に同時ノミネートという事例は存在するそうです。一番新しくて、60年前だそうだけど。

「響 HIBIKI」を観に行ってきました

草紙屋薬楽堂ふしぎ始末(平谷美樹)

内容に入ろうと思います。
本書は、4編の短編が収録された連作短編集です。
まずは全体の設定から。
舞台は、薬楽堂という本屋。当時の本屋は出版も行っていて、薬楽堂には本能寺無念という戯作者が居候していた。時々店番をしながら戯作を書くのだ。そこへやってきたのが鉢野金魚(きんとと)という珍妙な名前の女。戯作を書いたから出版させてやろう、という、なかなか居丈高な女である。
この無念と金魚が、なんの因果か、近隣で起こるちょっとしたトラブルの解決に乗り出していく…、という物語です。

「春爛漫 桜下の捕り物」
薬楽堂に奉公する小僧である松吉が、ある夜お化けを見たと言って大騒ぎしている。それを小耳に挟んだ金魚は、松吉がお化けを見たという土蔵を検分する。そこには版木がしまわれている。最初から人間の仕業だと思っていた金魚は、本を刷る際にしか使わない版木を狙うような強盗がいるはずがない、と思った。盗もうとしたなら、何か理由があるはずだ…。

「尾張屋敷 強請りの裏」
戯作の筋が思いつかない無念は行きつけの飲み屋でばったり、同業である織田野武長と遭遇した。もちろん筆名であり、本名は加藤権三郎という。この加藤という男、実は勤番の尾張藩士であり、副業である戯作なんてやっててはいけない身分なのだ。
そんな加藤から相談を受ける。なんでも、自分が尾張藩士であることが誰かにバレたようで、父に知られたくなければ金を寄越せと強請られ、実際に何度も金を渡している、というのだ。無念に奢らせようとやってきた金魚が話を聞き、解決に乗り出すことになる…。

「池袋の女 怪異の顛末」
書肆藤田屋故山堂の主人である又兵衛は、自室で起こる怪異現象(今でいうポルターガイスト現象)に毎夜悩まされていた。ちょっとしたことからその悩みを見抜いた金魚は、さっそく調査に乗り出すことに。あやかしの仕業だと怯える無念に、人間がやっていることだと納得させた金魚は、無事下手人を捕まえることに成功するのだが…。

「師走の吉原 天狗の悪戯」
吉原でも格上である松本屋では、<呼出昼三>(女郎の最高位)である梶ノ鞠の絵を描いている者がいる。東雲夕月、新進気鋭の絵師だ。「華之吉原 傾城揃踏」とういう摺物絵のための絵なのだが、楼主の善助がちょっと目を離したスキに姿が消えてしまったのだという。それを、薬楽堂のご隠居である長右衛門のせいにしようとする八丁堀にそそのかされるようにして、無念と金魚は捜査を開始するが、いつもならノリノリで調べ始める金魚の腰が重い。どうやら吉原に行きたくないようだが…。
というような話です。

なかなか面白い話でした。とにかく物語がスタスタ進んでいく感じで、テンポが良いです。謎自体や謎解きそのものは、ミステリというほどの感じでもなくてそこまで強い魅力があるわけではないけど、金魚がなかなか良いキャラで読ませます。居丈高に振る舞って、怒涛の推理力で見事に謎を解決してしまうかと思えば、戯作を一向に出版してくれないことに悲しんだり、なかなかに苦しい過去と向き合わなければならない辛さなんかが出てきたりして、人物の面白さで読ませる感じです。無念も、長右衛門も短右衛門も、他にも色々出てくるけど、みんななかなか濃いキャラで良いです。

また、物語の流れの中で、当時の出版事情が垣間見れるのもまた良いなと思います。原稿料が幾らぐらいだとか、どういう仕組で出版されているのかとか。「重版」と言えば、今では初版が売り切れた時に増刷することだけど、当時は、版元や作者に無断で同じ内容の本を出版することを指して、それは重罪だったという。こんな小ネタも含めて、江戸時代の出版にまつわるあれこれを知ることが出来るというのもまた面白い点じゃないかと思います。

平谷美樹「草紙屋薬楽堂ふしぎ始末」

「君の膵臓がたべたい(アニメ)」を観に行ってきました

しかし、ストーリーは全部分かってるのに、相変わらず泣けるなぁ、キミスイは。

今まで色んな物語に触れてきて、たまに「自分に似てるな」と感じるキャラクターが出てくるのだけど、キミスイの主人公ほど似てると感じるキャラクターは、なかなかいないような気がする。一見、「キミスイの僕」と「僕」は全然違うように見えるだろう。「僕」は、割と社交性もあるし、人との関わりを遮断していない。小説はたくさん読んでいるけど、「キミスイの僕」が小説という物語世界が現実以上のものだ、ここにこそ没頭する価値がある、と感じているのに対して、「僕」はそこまででもない。「僕」にとって読書は、「暇つぶし」か「仕事」のどちらかだ。

そんな風に、見え方は色々違うと思うのだけど、本質的な部分は凄く似ていると思う。人間に関心がないし、誰かと積極的に関わろうとはしないし、色んなことを諦めて生きている。そして、自分が何を考えているのか、自分がどんな風に見られているのか、それを言語化する。そういう部分に僕は、すごく共通項を感じるし、「僕」が「キミスイの僕」のような、本ばかり読んでいて友達がいなくて静かに生きている、みたいな人生だった可能性は十分にあると思う。

「キミスイの僕」の本質的な部分に、自分が入っていけるからか、僕は小説でも実写映画でもアニメでも、キミスイに触れる度に泣けてくる。たぶんその根底にあるのは、羨ましさなのかな、と思う。

たぶん、桜良と出会った「キミスイの僕」のことが、きっと僕は羨ましいんだろうと思う。

『君と私の関係は、どこにでもある言葉じゃもったいない』

そう、僕が目指しているような関係性も、まさにここにある。「友達」とか「恋人」とか「夫」とか、なんでもいいんだけど、そういう簡単な名前で括れないような関係性を、僕も本質的に目指しているんだと思う。

桜良はずっと、二人の関係性のことを「仲良し」と表現していた。そう、彼らの関係は、そういう判然としないような言葉でしか表せない。「友達」でも「恋人」でもない、そして一番大事な点は、お互いがそのままの状態を良しとしている、ということだ。二人が、不安定な関係性のまま、名前が付くような分かりやすい関係性に「転んで」しまわない、ということが、とても大事だ。

名前の付く関係性は、とても普遍性が強くて、誰にとっても重要だと思えるようなものだから、名前が付いている。だから、そういう関係性に「転んで」しまうきっかけや圧力みたいなものは、日常の中に転がっている。みんなそれが当たり前で自然だと思っているから、「何かにつまづいた」なんて思うことなしにそのきっかけや圧力を受け入れるけど、二人は、そうじゃない方がいい、ということが分かっていた。だから、そのままで留まった。

もちろんそれは、「桜良の命があと僅かしかない」という、非日常的な状況によって支えられている。桜良と「キミスイの僕」が、仮に何らかの形で出会うとしても、桜良があと僅かの命だ、という状況ではなかったら、この関係性はまず成立しなかっただろう。

キミスイの物語で一番好きなセリフがある。

『君はきっとただ一人、私に日常と真実を与えてくれる人なんじゃないかな』

医者は真実しか与えてくれない。家族は、私の言葉に過剰に反応して日常を取り繕おうとする。友達もみんな、言ったらそうなると思う。君だけが、真実を知りながら、私と日常をやってくれる。
だから、君と遊ぶのが楽しいの。

この認識がなければ、二人の関係性は成立しないのだ。

正直に言えば、桜良も「キミスイの僕」も、キャラクターとしては非常にステレオタイプだと思っている。桜良は、誰とでも明るく接することが出来るクラスの人気者。「キミスイの僕」は、本ばかり読んでいて人と関わらない地味な男。それぞれのキャラクターは、よくある物語によくある感じで登場するような、割とよくいるキャラクターだな、と僕は感じる。

でも、まったく正反対の場所にいるこの二人が、『君はきっとただ一人、私に日常と真実を与えてくれる人なんじゃないかな』という切実な理由で関係性を持つという奇跡的な状況によって、ごく自然に関わり合いを持つようになる、という設定が、この物語をとてもエキセントリックなものにしている、と僕は感じる。作者の意図通りなのか、それは分からないけど、桜良と「キミスイの僕」が共にステレオタイプ的なキャラクターである、というのは、二人の関わりのエキセントリックさを際立たせるという意味で、とても重要な要素だと僕は感じるのだ。

桜良は、家族以外の人間に、自らの病気のことは隠していた。「キミスイの僕」がそのことを知ったのは、たまたまだ。何故桜良がそれを隠していたのかは、先ほどの引用の通り、言ってしまえば桜良にとっての好ましい「日常」が失われてしまうからだ。

こういう感覚が切実に理解できる人というのは、結構いるんじゃないか、と僕は思う。

若干ネタバレかもしれないが、作中の登場人物のキャラクター的に想定できる言動だと思うので、ラストの方でのあるやり取りを書いてしまおう。

桜良の死後、「キミスイの僕」は桜良の親友である恭子を呼び出し、桜良がずっとつけていた「共病文庫」という日記を見せる。恭子はそれを読み号泣するのだが、読み終えて「キミスイの僕」に、『絶対に許さない』と言う。病気のことを、なんであなたが私に教えてくれなかったのだ、と。

『教えてくれたら、もっと桜良と一緒にいられた。部活だって辞めた。学校だって辞めた。もっと桜良と一緒にいられたはずなのに…。絶対に許さない』

それを聞いて僕は、「だから言いたくなかったんだろうよ」と思ってしまった。そう感じる人は多いんじゃないか、というのが僕の予想だ。

部活も辞めて学校も辞めて一緒にいる時間を作るというのは、全然「日常」じゃない。確かに、一緒にいる時間は増えるだろう。しかし、病気のことを知らずに会っていた時間は、時間は短かったかもしれないがすべて「日常」だったのに対して、病気のことを知って切実さと共に一緒にいる時間は、時間がどれだけ長くなったところですべて「日常」ではなくなってしまう。そんな時間を過ごしたくはない、という桜良の気持ちを、僕は凄くよく理解できる。

だから、僕自身も「キミスイの僕」のように、「日常と真実を与える人」でありたいと思っている。

「僕」が「キミスイの僕」のような立場に置かれた時、どんな風に振る舞えるか分からない。でも、僕自身は、「キミスイの僕」のような存在でいたい、とずっと思っている。何故なら、僕にとってその方が、誰かの「真実」に近づける、と思っているからだ。

残酷なことを書くが、「親友」であった恭子は、「私に取り繕った日常しか与えてくれないだろう」と思われてしまったがために、「真実」を教えてもらえなかった。僕は、それは嫌だな、と思う。僕は、「相手が見せたいと思うもの」を否定するつもりはないのだけど、「相手が見せたいと思うもの」が出来る限り「真実」に近いといいな、という希望は持っている。そして、そうである可能性が高くなるように、自分の振る舞いをデザインしているつもりだ。

『生きるっていうのはね、誰かと心を通わせることそのものを指して生きるっていうんじゃないかな』

僕は桜良のように、そんな真っ直ぐなことは言えないが、人とのかかわり合いの中で、「真実」を見せても大丈夫だと思ってもらえる存在でありたい、と思っている。

内容に入ろうと思います。
僕が桜良と出会ったのは、病院の待合室でのことだ。ベンチに置かれていた本を何気なく手にとった僕は、それが「共病文庫」という名の日記で、日記の書き手が膵臓の病気でそう遠くない内に死んでしまうことを知った。そして、その日記を書いていたのが、クラスメイトの山内桜良だったのだ。
桜良は、余命が短いことを知ってもなお、同情や労りのような感情を見せない僕に、凄く関心を持った。そして僕が言った「君は君の好きなように生きていけばいい」という言葉を突き返し、「私は君を巻き込みたい」と言って、桜良は友達のいない地味なクラスメイトである僕と一緒にいるようになった。
意思らしい意思を持たず、桜良に連れ回されるがままになっている僕は、やはり桜良が死んでしまうということを重く受け止めはしない。そんな僕を「ただ一人、日常と真実を与えてくれる人」と感じる桜良は、死ぬまでにしたいことを僕と一緒にやっていくことにする。
僕は、クラスの人気者である桜良と仲が良いと噂され、面倒なことになっているが、桜良はそんなこと気にしない。「君はもっと人と関わった方がいいよ」と言って、相変わらず僕を連れ回していく。
そんな桜良との関わりを、少しずつ楽しいと感じるようになる僕だったが…。
というような話です。

何度も書くけど、好きなんだよなぁ、キミスイ。関係性として、僕の理想的なものだ。もちろん、「死」というものを間に挟まずにこういう関係性を成り立たせることが出来るのか、それはこれからの僕の頑張り次第なのだけど、観ていて、いいなぁ、という感覚が凄くある。

「友達」でも「恋人」でもない彼らの関わり方は、「正解」というものがない。世の中では、「友達だから」「恋人だから」という理由で、色んな「正解」が生み出されていくのだけど、彼らの場合、関係性にはっきりとした名前がつかないために、「正解」もまた存在しない。「正解」がないから「不正解」もない。彼ら自身も、そして観ている側も、そういう不文律みたいなものを共有することが出来るから、彼らの「あり得ないような日常」を受け入れられるんだろうと思う。普通ではあり得ないけど、でも彼らには「正解」も「不正解」もないんだから、これをこのまま受け入れるしかないよな、みたいな。

そしてそんな風に関わることで、二人の中だけで成立する「当たり前」が少しずつ積み上がっていく。

恭子を初めクラスメイトたちは、彼らの関係性を理解しない。そりゃあそうだ。名前が付かない関係性があると思っていないし、彼らの「当たり前」は二人の間でしか成立しないのだから。けれど、二人は、そんな周囲の圧力を無視することが出来た。その最大の理由が、やっぱり「病気」なんだよなぁ。時間がない、という共通認識こそが、彼らの関係性を成立させていくのだ。そういう意味で、物語の設定と彼らの関係性が、とてもうまく結びついていると思う。

みたいな話は、書こうと思えばいくらでも書けちゃう気がするから、この辺で止めておこう。

最後に、どうでも良いけど気になったことを二つ書いて終わりにしよう。

まず、エンドロールを見ていて「ん?」と思ったことがある。本書には、「星の王子さま」が割と重要なアイテムとして登場していて、エンドロールでその表記があった。ただもう一冊、彩瀬まるの「やがて海へと届く」の表記があって、「ん?」と思った。どっかで出てきたかなぁ。図書館が舞台だったり、「キミスイの僕」の部屋にも本がたくさんあるから、本の背表紙が映る場面は多々あったし、ちゃんと見てないけど、きっと実在する本もたくさんあるんだろう。だから、そういうものの一つとして登場したわけじゃなくて、作中で何か意味のある形で登場したんだと思うんだけど、それがどの場面なのか僕には分からなかった。

そしてもう一つ。このアニメには「カフェ・スプリング」という名前の喫茶店が出てくるのだけど、これは実在のモデルがあるのかもしれないなぁ、と思った。というのは、閉店を示す看板が「CLOSE」という表記になっていたからだ。

英語的には、この表記は「CLOSED」じゃないと不正解らしい。けどアニメの中では「CLOSE」になっていた。作画上のミスかもしれないけど、もしかしたら実在するモデルがあって、そこが実際に「CLOSE」という表記なのかな、と考えたのでした。

という、まあほんとにどうでもいい話で感想を終わりにしようと思います。

「君の膵臓がたべたい(アニメ)」を観に行ってきました

ブルックリンの少女(ギョーム・ミュッソ)

内容に入ろうと思います。
人気小説家であるラファエルは、婚約者であるアンナとの結婚式を3週間後に控え、南フランスで休暇を楽しんでいた。そこでラファエルは、アンナに再度同じ話を蒸し返すことになる。君の過去を教えて欲しい、と。
ラファエルは、結婚した女性とすぐに別れてしまい、その時の子どもを自分で育てるシングルファーザーだった。その時の経験がトラウマとなり、相手のことをより深く知りたいと思うのだが、アンナは、過去の自分のことを一切話さないのだ。
『それぞれの秘密があるから、個人が成りたつわけ。秘密は自分のアイデンティティーの一部、また自分の歴史、謎の一部を形づくっているんだと思う』
『二人の関係を脅かすようなことをわたしは隠していません。わたしを信じて!わたしたち二人はお互いを信頼するべきだと思う!』
アンナはそんな風に言ってラファエルからの追及を躱そうとするが、ついに観念し、彼の一枚の写真を見せる。
どんな過去が現れても受け入れるつもりでいたラファエルだったが、その写真があまりに衝撃的すぎて、彼女を置いて部屋から出ていってしまった。しかし、冷静になり、彼女の言い分も聞いてないじゃないかと思い20分後に戻ったのだが、部屋からアンナの姿は消えていた。
アンナを見つけられないまま自宅に戻った彼は、親友であり、組織犯罪取締班の元警部であるマルクに助けを求めた。そして、二人でアンナの行方を追うことにした。
細い細い糸を少しずつ辿っていきながら、アンナの過去を少しずつ掘り下げていく二人だったが、やがて彼らは、アンナに関するとんでもない過去を知ることになる。しかもそれが、ある巨大な存在とも繋がっていき…。
というような話です。

なかなか面白い話でした。というか、なかなか良く出来ている、と言った方が正確でしょうか。冒頭のカップルの喧嘩から、ちょっと想像出来ないようなところにまで話が展開していく感じは、「良く出来ている」という言い方が合っている気がします。

なかなか「面白い!」と言い切れないのには理由があって、ちょっと登場人物が多いんです。これは僕の得意不得意の話でもあるんで、登場人物が多くても特に気にせず読める人には問題ないと思うんだけど、僕は出てくる人物がどこの誰なのか、覚えるのが苦手なんですよね。文庫の袖のところに登場人物の一覧があるんですけど、そもそも人物名が出てきた時に「この名前を覚えるべきかどうか」というのを毎回考えるのが面倒に思えてくる、というところがあって、人物が多い小説には未だに苦手意識があります。

この作品の場合、アンナの過去というのが相当に強烈で、かつ辿りにくいものなんですね。それは、物語の設定上仕方ない。アンナの過去がすぐに辿れるようなものだったら、アンナが10年近くも過去を隠したまま生きていくのは難しかったかもしれないわけで、過去を辿るのが難しい、というのは確かにその通りなわけです。でも、そうであるが故に、アンナの過去を辿るためには結構な数の人物が出てこざるを得ない。しかも、細い糸を辿っているが故に、本筋にそこまで大きく関係してこない人物ってのも結構いるわけです。まあ、人物表にいない名前はそこまで気にしなければいい、という判断は妥当なんだけど、でも二度と出てこない保証はないし、人物表に載ってないってことは、万が一もう一回出てきちゃったら誰なのかを確認する術がない、という意味でもあるから、あっさりスルーしていいものかどうかも悩ましい。そもそも、人物表に載ってる人物も、大体毎回「誰だっけ?」って思うから、そこで一旦止まっちゃう感覚があって、スムーズに読むのが難しいなぁ、と思ってしまいます。

とはいえ、その点を除けば、非常に良かったと思います。とにかく、アンナの過去を遡っていくために、細かい細かい調査を積み上げていくんだけど、「そんなこと、関係ある?」みたいな、見逃してしまいそうになるような些細な部分が、実は次の糸を手繰り寄せるのに必要だった、みたいなことが何度も起こって、細かい部分まで精緻に構築してるんだなぁ、という感じがしました。色んな偶然のお陰で、簡単には解けない絡まりとなっているんだけど、その偶然が、人間の必死さの帰結である、ということが多いような感じで、「いやいや、そんな都合の良いことはそう起こりませんよ」と感じるようなものではなかった、というのも良かった、と思います。

初めはカップル間の問題だったはずなのに、いつしかとんでもない犯罪と繋がり、さらにはそれがもっとスケールのデカイものと繋がっていく過程はなかなかのもので、しかもそれがたった3日間の出来事である、というのも凄く濃密な感じがしました。

登場人物が多い、というのは、ある意味では本書のリアリティを担保する部分でもあるんだけど、やはりそれは諸刃の剣でもあって、読みにくさ的な部分はどうしても出てくるなぁ、と。そういう意味で、なかなかスパッとは勧めにくい作品ではあるなぁ、という感じはします。

ギョーム・ミュッソ「ブルックリンの少女」

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資格を取りまくったこともあります。
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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)