黒夜行

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「サイバー・ミッション」を観に行ってきました

なかなか面白い映画でした。

内容に入ろうと思います。
リー・ハオミンは、ネットゲームばかりやっているオタク。特に働くでもなくゲームばかりしているが、彼は実は「海賊船長」という名で活躍する凄腕のハッカーだ。かつてハッカーの大会で優勝したこともある。しかし、その能力で何かお金を稼ごうというのでもなく、時々その能力を人助けに役立てながらダラダラと過ごしている。
一方、チャオ・ファイは、「ゼブラ」という名前のハッカーであり、かつてハオミンの僅差で負けたことがある。ファイは、凄腕のハッカーとして犯罪組織から重宝される存在であり、料金は高いが確実に仕事を成し遂げるとして評判だ。
そんなファイが、著名なIT経営者であるモリから、オアシスというOSに侵入するように依頼される。インドネシアの公共交通機関にも採用されるほど普及しているこのOSで、何かやろうとしているのだ。相棒が必要だと感じたファイは、ハオミンに白羽の矢を立てる。ファイの相棒であるスー・イーの誘惑もあって、あっさり協力者に仕立て上げられたハオミンは、渋々ながらファイのミッションを手伝うことになる。
物凄く高いセキュリティを、彼らは知恵とテクニックで蹴破っていき、ついにオアシスをクラッシュさせることに成功するが…。
というような話です。

なかなかスピーディに展開していく、面白い話でした。ハッキング的なことはよくわからないけど、そういうよくわからない人間にも、ビジュアル的に何をしているのか分かるような見せ方をうまくやっていて、良かったです。ただ、展開が早すぎてちょっとついていけない部分もありましたけど。こういう、国際謀略モノ(と言っていいのかな?)は、面白いけど、誰が誰の側で、誰が誰を裏切っていて…みたいなことが結構複雑になりがちなので、難しいなと感じる部分もあります。

特別何か書くようなことはないんですけど、面白く見れるエンタメ映画だと思います。

「サイバー・ミッション」を観に行ってきました

史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち(飲茶)

相変わらず、べらぼうに面白いな!
「史上最強の哲学入門」ももちろん面白かったけど、こっちも最高だった!
相変わらず、読みやすく、それでいて奥深いところまで説明されていて、ホントに、東洋哲学はこの一冊を読めば入門としては十分理解できちゃうという感じがする。

本書は、インド哲学に始まって、中国の哲学、そして最終的には日本の哲学と進んでいくが、それらを詳しく紹介する前にまず、「東洋哲学は西洋哲学とどう違うのか?」という話から始めよう。

【まず最初にはっきりと断っておくが、本書を読んで東洋哲学を理解することは不可能である】

本書は、そんな文章から始まっている。ムムム…という感じだが、その後の説明を読めばなるほどと納得できる。

まず西洋哲学というのは基本的に「無知」を前提とするらしい。自分はまだ何も知らない、というところから始めて、色んな人間が知力を振り絞って、一段ずつ階段を上がるようにして知を積み上げていく。

しかし東洋哲学はまったく違う。東洋哲学の場合はまず、「私は悟った!」と主張する人間が現れるのだ。

【(東洋哲学とは)ある日突然、「真理に到達した」と言い放つ不遜な人間が現れ、その人の言葉や考え方を後世の人たちが学問としてまとめ上げたものであると言える。】

この違いを著者は、テレビドラマに喩えている。

「西洋哲学が難しい」という時、それはテレビドラマの18話だけ見ているようなものなのだ。初回から17話までの話を知らないのだから、理解できなくて当然だ。こういうように西洋哲学の場合は、順を追っていけばちゃんと理解できるものであり、難しく感じられるのは、途中から学ぼうとしているからなのだ。

しかし東洋哲学の場合は違う。東洋哲学の場合、テレビドラマには最終回しか存在しない。最終回が放送されたら、そこでドラマは終了である。その最終回を見ながら色んな人が、「きっとこうだ」「いやこうに違いない」と話している。これが東洋哲学だ、と。だから難しいし、理解できなくて当然なのだ、と。

なるほど、そう説明してもらえると、東洋哲学を学ぶ心構えが出来る気がする。

そしてもう一つ、西洋哲学と東洋哲学の大きな違いが存在する。それは、「知った」とはどういう状態であるか、である。

【西洋であれば、「知識」として得たことは素直に「知った」とみなされる。(中略)
しかし、東洋では、知識を持っていることも明晰に説明できることも、「知っている」ことの条件には含まれない。なぜなら、東洋では「わかった!」「ああ、そうか!」といった体験を伴っていないかぎり、「知った」とは認められないからだ】

要するにこれは「悟った」ということなのだけど、結局のところ、悟りに達しないと理解したことにはならないのだ。いくら言葉の上でそれを理解できたと思っても、捉えられたと思っても、東洋ではそんなことに意味はない。本来的に、真理というのは言語化できないものであり、言語で捉えようとすること自体が間違っているのだ。この辺りの説明を著者は、「白と黒のものしかない部屋でずっと生きてきた人に、「赤」をどうやって説明するか」という問題を取り上げながら、具体的に説明していく。

こういう説明をしてもらえると、禅の公案なんかも理解しやすくなる。公案というのは、要するに「意味不明なナゾナゾ」であり、最も有名な公案はこうである。

【両手で拍手するとパチパチと音がするけど、では片手でやるとどんな音がする?】

師匠から出されたこの問い(ナゾナゾ)を、弟子は数十年掛けて考え続けるわけだけど、本書では、そのことによって何が起こるのかを精妙に解説していく。なるほど、確かにそういう理屈なのであれば、こんなわけの分からない公案なるものの存在意義も理解できるなぁ、と感じた。

とはいえ、そうやって公案の仕組みを「知ってしまうこと」は、ダメなことなのだ。要するに公案は、「何にも知らない状態で、それについて超真剣に考え続けるからこそ、効果が出る可能性があるもの」なのであり、「公案ってこういう仕組みらしいよ」ということを頭で知ってしまえば、その効果は半減どころかほとんどなくなってしまうだろう。本書にも巻末にこう書かれている。

【そう、だから、ネット検索による知識の公開、そして本書のようなお手軽な入門書といったものは、本当は伝統的な東洋哲学を破壊してしまう存在なのだ】

本書を読めば、その意味も実によく理解できるだろう。

また、東洋哲学の特徴としてもう一つ挙げられるのが、「ウソも方便」というものだ。

【東洋哲学はあらゆる「理屈」に先立ち、まず「結果」を優先する】

東洋哲学というのは要するに、「あの体験に至るにはどうすればいいか?」と体系化してきたのだ。そのための手段や方法論こそが東洋哲学であり、だからこそ、体験に至る過程はどうでもいい。あの体験にさえたどり着ければいいのだから、色んな天才が色んなことを考えながら、そこに至る様々な手法を開発してきた、というのが東洋哲学の歴史なのだ。

【このように東洋哲学は「とにかく釈迦と同じ体験をすること」を目的とし、「その体験が起きるなら、理屈や根拠なんかどうだっていい!ウソだろうとなんだろうと使ってやる!」という気概でやってきた。なぜなら、彼らは「不可能を可能にする(伝達できないものを伝達する)」という絶望的な戦いに挑んでいるからだ。そういう「気概」でもなければ、とてもじゃないがやってられない!
そして、事実、東洋哲学者たちは、そのウソ(方便)を何千年もかけて根気強く練り続けてきた】

この「ウソも方便」を説明するのに、法華経に載っているというある例を引き合いに出している。父親が家に帰ると家が燃えていたが、子どもたちは「火事」というものを知らず、家の中で遊んでいる。ここで子どもたちに、「火事というのはこれこれこういうもので危険だからそこからすぐに離れなさい」と言っても、理解できないかもしれないし、興味がないから聞かないかもしれない。でも火の手はもうすぐそこまで迫っている。どうする?そこで父親は、「こっちに凄く楽しいおもちゃがたくさんあるよ!」と呼びかけた。子どもたちはわーっと父親の元へと駆け寄り、命は助かった。

こういうことを、東洋哲学もやっているのだ。あの体験へと誘うために、ウソでもなんでもいいからついて、一人でも多くの人をそこに行き着かせようとする。だから、宗派によって言っていることが違うし、師匠は何も教えないし、わけのわからない状況が度々やってきたりするのだけど、そこにはそういう意味があるんだ、ということのようである。

本書では、釈迦や孔子や最澄なんかがどういう教えを導き出したのか、みたいな話も事細かに説明されるのだけど、まずこういう、「東洋哲学の特殊さ」を非常にわかりやすく説明してもらえたので、それだけでも十分に面白いと感じた。

さて、ではインド哲学からいこう。インド哲学はヤージュニャヴァルキヤから始まった。彼は「梵我一如」として知られる哲学を打ち出した。これは、「私(=アートマン)と世界(=ブラフマン)が同一である」という考えであり、さらにヤージュニャヴァルキヤは「アートマンは捉えられないものだ」と主張する。これだけだとなんのこっちゃ分からないだろうけど、それを本書よりさらに短くわかりやすく説明することは不可能なので、是非本書を読んでもらうとして、本書に登場する映画の喩えだけ書いておこう。

あなたが真っ暗な空間で映画のスクリーンのようなものを見ているとしよう。映画を見ていると、その映画の登場人物になったかのような錯覚に陥ることがある。あなたが、ただの観客であるのだけど、次第に登場人物であるように錯覚され、そうなればなるほど、その映画の内容に自分自身が影響されていく。映画の中で起こったことであるのに、さも自分自身に起こったことであるかのように錯覚し始める。

しかしここで、その空間の電気がつけば、あなたは自分がただ映画を見ていただけだ、ということを改めて理解する。

人間の悩みもこれと同じようなものだ、と説くのだ。つまり、「あぁ不幸だ」「あぁ辛い」と感じるようなことがあっても、それは映画の中の話であって、映画の中で何が起こっても、それを見ている私が傷ついたり壊されてしまうことはない、ということだ。そして、この境地に達することさえできれば、あらゆる不安は消えてなくなる、という考え方だ。

さて、この「アートマン」は、「~に非ず、~ではない」という形でしか捉えられないものであると彼は主張しており、だからこそ、身分制度が存在するのもおかしい。何故なら、「アートマン」は「~ではない」という形でしか捉えられないのだから、「アートマンは特権階級ではない」し、「アートマンは奴隷ではない」からだ。

当時のインドにおいては、この考えは革命的だった。バラモン(特権階級)や奴隷などの身分差がある中で、ヤージュニャヴァルキヤの哲学は、身分制度に抑圧されていたバラモン以外の人々を勇気づけたのだ。

そんな勇気づけられた一人が、釈迦だった。釈迦は、当時のブームであった「老病死の苦しみを克服する境地」を目指すために出家し、苦行に励んだ。

ちなみに、当時のインドでは苦行が流行していたのだけど、それにはこんな理由がある。「悟った人」と「悟っていない人」をどう見分ければいいか、というのはとても難しい問題だ。悟っていようがいまいが、言動に差はない。しかし「悟った人」は、あらゆる苦痛から開放されているはずだ。つまり、ボコボコに殴られたって平然としているはずだ。そうでなければ「悟った」などとは言えないだろう。

という発想から、彼らは、「苦しい状況に耐えられれば耐えられるほど悟っている」という理屈を作り出し、ガマン大会みたいな状況が生まれてしまったのだ。

当然釈迦も、そのガマン大会に参加した。しかし、どれだけ苦行に励もうとも、一向に悟ることが出来ない。そんな時、ようやく釈迦はある考えにたどり着く。苦行こそ、悟りにとって邪魔なのだ、と。そこで彼は苦行を止め、「中道」という考えに行き着くことになる。釈迦が、ガマン大会になっていた当時のインドに、待ったをかけたのだ。

そんな釈迦の主張で重要なことは、「アートマンは存在しない」というものだ。これは当時のインドでは衝撃的なものだった。何故なら、明らかにヤージュニャヴァルキヤの哲学と矛盾するからだ。

釈迦も、ヤージュニャヴァルキヤを否定しようと思ってこんなことを言ったのではない。ヤージュニャヴァルキヤは正しかったが、一つだけ間違いを犯した。それが、「大衆は誤って理解する」ということだ。ヤージュニャヴァルキヤの、「アートマンは、~に非ずとしか表現できない」という哲学を大衆は、「アートマンというのは、~に非ずとしか表現できないようなものだ」と概念化して捉えるようになってしまったのだ。大衆は、「私は~ではない」という理解の仕方がなかなかできず、どうしても「私は~である」という風に捉えてしまう。しかしそう捉えること自体が、ヤージュニャヴァルキヤの哲学から遠のく原因になるのだ。

だから釈迦は、大衆の勘違いを正すために、敢えて「アートマンは存在しない」という強烈な主張をした。そうしないと、大衆が誤解するからである。

さて、釈迦も人間なので死ぬ。食あたりで死んだようだ。トップが死ぬと、組織は大体大変なことになる。仏教もそうだった。そもそも釈迦は、自分の教えを文章に残すことが好きじゃなかったらしいし、それに東洋哲学らしく、「成果」を出すことが一番なのだから、そのために人によって違うことを言っていた。釈迦の死後、弟子たちが釈迦の発言をまとめようとしても、そんなこんなで紛糾、ついに分裂してしまう。そして、大所帯の方が自分たちを「大乗仏教」と名乗り、小所帯の方を「小乗仏教」とバカにしたという。しかし、とにかく数で勝っているし、またよほどの覚悟がなければ実行できない小乗仏教より、大衆向けにアレンジされた大乗仏教の方が大成功するのは当然だった。後は、その大乗仏教を率いる先導がちゃんとしていれば問題ない。そして、運良く天才がいたから問題なかったのだ。

それが龍樹である。彼は「空の哲学」と呼ばれるものを完成させ、その究極が「般若心経」と呼ばれているものである。「色即是空」で有名なアレである。

さて、この「般若心経」は一体どんな主張をしているのか。これも、本書よりも分かりやすい説明をするのは不可能なので是非読んで欲しいが、ざっくり書くと、「すべてものは実体としてそこに存在するのではなく、人間が言語によって区別を与えているだけであり、実体なんか存在しない」ということだ。まあよく分からないだろう。僕もちゃんとは理解できていないが、なんとなく分かった。「空の哲学」では、言葉ではない形で物事を捉える無分別智が推奨される。

しかし、そんな風に認識をしても、どうしても乗りこられない区別があり、それが「私と他者の区別」である。何故なら、どれだけ色んなものを「ない、ない、ない!」と言って否定しても、「そうやって否定している私は存在する」からだ。

そして般若心経では、その最後の区別を、なんと「呪文」で乗り越えろという超展開によって解決しようとする。呪文そのものには意味はないが、しかしそれでもこの呪文には意味があるのだ、という説明が展開されていく。

さて、これで大体インド哲学は終了である。

さて、中国哲学ももちろん面白いのだけど、こういう感じで書いていくと疲れるので、ざざっと行こう。中国哲学では、孔子・莊子・韓非子・荀子・老子など、僕でも名前を知っている色んな人物の哲学が紹介されるが、ここではそれらについていちいち書かない。ここでは、「なぜそういう哲学者が中国で現れるようになったのか」をメインに書こうと思う。

古代の中国に、「堯」「舜」「禹」という英雄がいた。彼らは、生活に必要ではあるが氾濫によって大きな被害を被りもする「大河」に立ち向かった人物である。洪水が起きないように工事をするという、絶望的に大変な事業に手を出した「堯」は、血族ではなく優秀さで後継者を選び、その伝統は「禹」まで続くこととなった。しかし残念ながら「禹」の後は世襲によって後継者が決まるようになり、そうなれば当然の流れだが、アホみたいな王が出てくるようになる。そしてお決まりの革命が起こる。つまり、「世襲→アホが王になる→革命」という流れを繰り返すことになった。

しかしそんなことを繰り返すわけにはいかない。そこで「周」の国の人は、「ちょっとぐらいアホな王様がいても崩れないくらい強固な政治体系」を作ろうとした。それが「封建制度」である。国を分割し、それぞれの土地を有力な貴族に統治させるというものだ。もちろん、そんな仕組みを作ったところで不届き者は出てくる。まあそんなものは中央の武力で蹴散らしてやりたいが、しかし中国は広い。何だかんだ、地方の貴族が武力を結集させれば、中央の武力では太刀打ちできないのは明白だ。

そこで彼らは、実にうまいやり方を考えた。当時中国の人々は、「天」という名前の神様(人間の頭上におわし、世界のすべての現象をつかさどる神秘的な何か)の存在を素朴に信じていたが、周王は自らをその「天」の使いとし、「天」から命を受けて地上を支配している、と宣言したのだ。さらに、周王は地方貴族の「本家」であると主張し、地方貴族の先祖を祭る儀式は周王にしかできないよ、と主張した。これによって、「周王に逆らうことは天に逆らうことであり、また先祖の霊を怒らせることになるぞ」と理解させたのだ。

このやり方は大ヒット!周王は安泰だったが、一つ問題があった。地方の貴族たちは、王としてその地方に君臨するのだから、やっぱりやりたい放題やりたい。でも、周王に逆らうことは出来ない。だったらどうするか。それは「他の国から奪う」である。周王には逆らえないが、他の国にだったら悪さをしても大丈夫。

そんな理由から中国は、春秋戦国時代に突入するのだ。

しかし、困ったことがある。そういう時代であるから、当然どの国も、自分の国を強くして他の国をやっつけようとする。だから、「国を強くする能力のある者」をとにかく見つけ出してくる必要があった。

そしてこの状況が、平民にチャンスを生むことになる。貴族でなくても、学問を身に着けて貴族に雇ってもらえれば、大出世なのだ。そういう状況の中で、孔子などの天才が世に現れることになったのだ。

この中国の哲学者たちの話で面白いなと思ったのが、孔子と老子だ。孔子は、「思いやりの気持ちを大切にして、礼儀正しく生きましょう」ぐらいのことしか言っていないのに、世界4大聖人の一人に数えられていたりする。何故そんなありきたりのことを言っていただけなのに評価されたのか。

それは、彼が空気を読まずに、徹底的にその主張をし続けたからだ。詳しいことは省くが、孔子の主張は、当時の王様たちの流行とはかけ離れていた。孔子は、正しいと思う政治の実現のために、王様たちに嫌われても自らの主張を通そうとし続けたのだ。この時代、王様に気に入られるようなことを言えば取り立てられて出世できたかもしれないのに、孔子はその道を選ばなかった。だから孔子自身は、存命中は不遇な人生だったらしいが、弟子たちが孔子の考えをまとめたことで、孔子の心意気が伝わり、後世に残る大哲学者として知られているのだ。

老子の話も面白い。老子は、インドから中国に伝わってきた仏教を中国に根付かせた人物だが、彼は周国の衰えを悟って国を出ようとしていた。しかし国境で弟子に捕まり、「あなたの教えを書き残してください」と詰め寄ったのだ。老子は自分の哲学を文章にしておらず、この弟子のファインプレーがなければ、老子という天才哲学者の教えは失われていただろう。

そういう意味で、もう一つ印象的なエピソードがあった。あ、ここで一気に日本の哲学に話が移るが、日本の哲学はこの感想ではちょっと省略しよう。重要なのは、聖徳太子が仏教の真髄を理解していたから仏教が日本に根づいたこと、そして徳川幕府の思惑によって国民全員がどこかの寺に帰属されることになったということ、あとは禅ぐらいだ。禅というのは、インド仏教が中国に伝わり、老荘思想と融合して生まれたものであるが、「禅」は世界でも「ZEN」という日本の音で理解されており、中国が発祥であるが、日本で成熟したものだそうだ。

さて、そんな禅の面白い話がある。禅というのは伝統的に、悟ったものが後継者となる。で、禅を生み出した達磨から数えて五代目である弘忍の元に、慧能という天才がやってくる。慧能は、後に弘忍から後継者と認定されるが、寺にやってきた時は極貧の木こりで、読み書きは一切できず、寺にも雑用係として採用された。

弘忍には弟子がおり、ある時弘忍は、自分のたどり着いた境地を詩にしてみろ、悟ったものがいれば後継者とする、と彼らに告げた。弟子たちは頭を振り絞り詩を作る。中でも優秀と言われていた神秀という弟子がきっと選ばれるだろうと誰もが思い、やはりその詩は素晴らしかったが、そこに通りかかった慧能がその詩の内容を教えてもらうと、「この詩を書いている人はまだ悟ってないみたいですね」と言った。爆笑した弟子たちは、じゃあお前が詩を書けという。字を書けない慧能は、口頭で詩作し、それを弟子が書きつけた。そこにちょうど弘忍が通りかかり、慧能の詩を見て、「こんなくだらない詩を書いたやつは誰だ。こんな詩を書いた人間は悟っていない。消せ」と命じた。

さて、その夜のこと。弘忍は慧能の寝室までやってきて、自分が着ている袈裟(これを受け継いだ者が後継者とみなされる)を渡し、「弟子たちの中で悟っているのはお前だけだ。だからお前が後継者だ。だが、そのことを知れば他の弟子たちが怒り狂い、お前は殺されるだろう。だからこの袈裟を来てさっさと逃げろ」と言ったのだ。

翌日、弘忍が袈裟を着ていないことに気づき、弟子たちは弘忍を問い詰めるが弘忍は何も喋らない。しかし、慧能の姿が見えないから、彼が後継者に選ばれたのだと理解した彼らは怒り狂い、慧能を探し出そうとした。しかしその頃慧能は無事に南に逃げており、こうして禅がちゃんと継承されることになった。

というお話である。これもメチャクチャ面白い話だなと思いました。

そんなわけで、本書の面白さの10分の1も表現できていませんが、とにかくハチャメチャに面白い作品でした!知的興奮に満ち溢れた、超絶面白い入門書です。是非読んでみてください!

飲茶「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」

定理が生まれる 天才数学者の思索と生活(セドリック・ヴィラーニ)

なかなか変わった本である。その変わった点について、本書の訳者の一人の文章を抜き出してみよう。

【この本のスタイルは少し特殊である。統計をとったわけではないが、多くの数学者は苦労しているところは見せず、成果だけをさらりとみせることがスマートだと思っているはずだ。本書はそれとは逆に、証明を得るまでの苦労を一般読者向けに記しているのだ。】

僕自身も、あまりこういう類の本は読んだことがない。数学者本人ではない人が、その数学者の人生なんかを描く作品はもちろんあるが、本人が、凄い証明(その凄さは後で説明する)にたどり着くまでの七転八倒を描いている作品というのはなかなかないだろう。

さて、本書の著者であるセドリック・ヴィラーニの略歴をざっと書いてみよう。

【弱冠28歳でリヨン高等師範学校数学教授になり、現在リヨン第1大学数学教授およびポアンカレ研究所所長。数々の数学賞を受賞し、2010年にフィールズ賞を受賞。トレードマークはドレッシーかつカリスマティックな、プルーストを思わせる衣装とクモのブローチ。手塚治虫、宮崎駿がお気に入り。『DEATH NOTE』の悪魔的な面白さに心酔し、クラシックからポップスまで広範な音楽を愛する、フランスを代表する数学の伝道師】

この紹介文だけでも、なんとなく変人っぷりが伝わってくる感じがするから、なんとなくさすがだ。まあ、本書にも色々登場するが、基本的に数学者というのは変人揃いなので、この程度では数学者の中ではさほど変人でもないのだが、一般的に見れば十分変人枠に入るのではないか。

彼は日本のマンガが好きなようで、本書の中にこんな描写がある。

【メトロに乗り込むとすぐさま、私は上着のポケットからマンガを取り出し、短いながらも貴重な時間を過ごす。まわりの世界は消え去り、顔に縫合の痕がある超人的に器用な外科医や、切れ長で大きな瞳の幼い娘たちのために命を捧げる筋金入りのヤクザが登場し、いきなり悲劇の英雄になる残酷な怪物、そして反対に残酷な怪物に変貌を遂げる金髪の巻き毛の少年たちが活躍する世界が現れる、懐疑的であるかと思えば甘く、情熱的かと思えばしらけた世界。偏見もなければ、善か悪かの単純な二元論でもなく、感情がほとばしり、無邪気に楽しむことを恐れない読者の心を打ち、目に涙を浮かべさせる世界だ。
市役所駅に着いた。降りなければならない。メトロに乗っていた間は、まるでインクと紙が小さな流れとなって私の血管を通るかのように、物語が頭の中に入り込んできた。私は体の中からすっかり洗われた気分になる。】

他にも、家族全員でアニメ『ベルサイユのばら』を見たり、娘に『DEATH NOTE』のアニメを見せたりしている。彼は、【マンガと数学が一緒くたになることはない】と書いてはいるが、日本のマンガが彼の気晴らしとなり、そういう意味で研究の助けに少しでもなっているとすれば、なんかいいじゃない、という感じだ。

さてさて、彼がどれぐらい凄いか、という話なのだけど、そのためには、先程の略歴の中にあった「フィールズ賞」について説明しなければならない。この「フィールズ賞」は、数学のノンフィクションを読んでいれば結構出てくる。有名なところで言えば、フェルマーの最終定理を証明したワイルズが受賞できなかったり(ちゃんと理由はある)、あるいはポアンカレ予想を証明したペレルマンが受賞を拒否したりして、世界的に話題になった。

さて「フィールズ賞」とはこういう賞である。

【4年に1度、40歳以下の数学者にのみ与えられる数学界最高の栄誉であり、ノーベル賞に数学部門がないこともあり、数学のノーベル賞とも称される。】

ノーベル賞に数学部門がないのは、ダイナマイトを発明したノーベルが当時付き合っていた彼女を奪ったのが数学者だったから、なんていうホントかウソか分からない話もあったりするんだけど、とにかく、ノーベル賞が毎年発表されるのに対して(1つの部門に最大3人までだったかな)、フィールズ賞は4年に1度、2~4人しか選出されない。さらにこの賞は、40歳以下という制約がついている(この制約のせいで、ワイルズは受賞出来なかった)。若手が取り上げられ、しかも世界的に注目を集めるという意味で、フィールズ賞はどんな数学者も手にしたいと思う聖杯なのだ。

このフィールズ賞について、著者はこう書いている。

【フィールズ賞―受賞する権利のある人々にとってはその言葉を口にするのもおこがましく、フランスではせいぜい頭文字をとって「MF」(訳注:Medaille Fieldsの略)などと呼ぶのがやっとという存在。4年おきに開かれる国際数学者会議で、40歳未満の数学者二人から四人に授与されるという、働き盛りの数学者にとって最高のご褒美である。
もちろん、他にも数学には粋な賞がいくつかある。アーベル賞、ウルフ賞、京都賞にいたっては、おそらくフィールズ賞よりも受賞するのが難しいかもしれない。だが受賞することによる反響とメディアへの露出はフィールズ賞にはおよばない。それにこれらの賞は数学者のキャリアの終盤に与えられる。フィールズ賞のように数学者にとってさらならステップアップのきっかけになるとか、今後の研究人生に対する激励という役目を担っていない。その意味で「MF」はずっと大きな輝きを放っているのである】

さて著者は、そんなフィールズ賞を受賞した。本書は、そのフィールズ賞を受賞するまでの過程を、日記のような形式で綴った作品である。彼がフィールズ賞を受賞した研究タイトルはこうである。

「非線形ランダウ減衰とボルツマン方程式の平衡状態への収束に関する証明」

まあ正直、これについては意味不明である。本書には、彼ら(著者は共同研究者と二人で研究を進めている)のメールのやり取りや、著者のひらめきなんかが書かれているんだけど、ほぼ意味不明である。

ランダウ減衰の話ではないが、本書で描かれる数学がどれほど意味不明かを体感出来る文章を引用してみよう。

【口頭試問から3年後、誠実なロラン・デヴィエットとの共同研究で、私は弾性理論におけるコルンの不等式とボルツマンエントロピーの生成の間のありそうなかった関係性を発見した。
そのまま勢いに乗った私は、準統御性の理論を発展させた。これは、縮退した散逸方偏微分方程式における正則化の問題と平衡状態へ向かう収束性に関する問題との間に新たに見つけた類似性に基づいている。
そして、ダリオ・コルデロ=エラウスキンとブルーノ・ナザレとともに私が明らかにしたのは最適輸送とソボレフ不等式の間に隠された関係である。それは、この不等式を熟知しているつもりでいた数多くの解析学者たちを唖然とさせた。
2004年、カリフォルニア大学バークレー校ミラー研究所の客員教授となった私は、当時、数理科学研究所の客員教授だったアメリカ人ジョン・ロットと出会い、共同研究を行った。私たちは共に、非ユークリッド的で滑らかでない幾何の問題であるいわゆる構成的リッチ曲率の問題に取り組むため、経済性の観点に基づく最適輸送の考え方をどう利用するかを示した。この研究から誕生し、ロット―シュトゥルム―ヴィラーニ理論とも呼ばれている理論は、解析学と幾何学の間にあったいくつかの壁を壊したのである。
2007年、接最小跡の幾何と、最適輸送の生息性に必要な曲率条件の間に何か調和的なつながりが潜んでいると私はにらみ、両者の間に強い関係性があると推測した。ふってわいてきたかのような関係性に見えるかもしれないが、これを私はグレゴワール・ルペールと一緒に証明した。】

僕は一応理系の人間で、大学は中退しているから大学で専門的な数学を学んだことはない。そんなわけで、数学に特別詳しいわけではないが、しかし、ここに書かれていることが「ちょっと数学に詳しい」レベルの人に理解できる話ではない、ということぐらいは理解できる。そもそも、「ランダウ減衰」も「ボルツマン方程式」も物理の領域であって、恐らく「弾性理論」や「最適輸送」も物理の話だろうと思う。フィールズ賞で、同じ方程式(今回の場合ボルツマン方程式)の研究でフィールズ賞が2度与えられたのはこれが初だそうだ。

まあそんなわけで、本書の数学に関する部分は、一般人はほぼ理解不能だろう。理解できる人がいるとすれば、数学科の大学教授ぐらいじゃないだろうか。しかし本書には、著者のこんな文章があったりもする。

【ヴォエヴォドスキーの数学ほど、私が研究している数学からかけ離れているものはない。彼の研究で使われる言葉はただの一語も私にはわからないし、おそらくその逆もしかりだろう】

同じ数学者と言えども、分野が違えば用語もやり方をまったく違う。だから、数学者だからと言って、本書の数学が理解できる、というのもまた違うかもしれない。だから、とにかく本書を読む一般人は、数学部分については理解できなくて当然だ、理解できたら天才だ、というぐらいの気持ちで読むのがいいと思う。

本書は、数学者自らが、暗中模索しながら数学理論の証明に少しずつたどり着く様を描き出す作品だが、本書の中に、数学者がどういう風に研究を進めていくのかを端的に表した箇所があるので引用してみようと思う。

【“数学者とは、真っ暗な部屋の中で何も見えないまま、黒い猫を、しかもそこにはいないかもしれない猫を探し続ける人のようなものだ”…これはダーウィンが言った言葉だが、その通りだと思う。完全な暗闇…洞窟でゴクリとなぞなぞの勝負をするビルボのようだ(訳注:トルーキンの『ホビットの冒険』より)
この暗闇の時期は、数学者が未知の領域に踏み出す最初の一歩を特徴的に表わしており、第1段階としては普通のことである。
その暗闇に、何かが整いつつあると思わせる、かすかな、かすかな光が差し込み始める…。そのかすかな光が差し込んだ後は、絡んだ糸がほぐれていくようにすべてうまくいけば、晴れて到達点にたどり着くのだ。自信と誇りをもって、至るところで発表する。この段階は一気にやってくることがあるが、それはまた別の話だ。私にも心当たりがある。
そしてこうした晴れやかな日と輝かしい光の後には、大きなことを達成した後につきものの気の停滞期がやってくる。自分自身の貢献などちっぽけなものに思えてしまうのだ】

「真っ暗闇の中で、いるかどうかも分からない黒い猫を探す」という表現は、なるほどなぁ、という感じだし、そのダーウィンの言葉を引きつつ、数学者の研究のスタンスを端的に表している著者の書きぶりも、なんかいいなと思いました。

さて、そんなわけで、数学の部分は超難しい(っていうか、難しいのかどうかも理解できないほど意味不明)ですが、エッセイ的な部分はなかなか面白く読ませる作品です。数学者の七転八倒を見ることはなかなかないので、貴重だと思います。

セドリック・ヴィラーニ「定理が生まれる 天才数学者の思索と生活」

「十二人の死にたい子どもたち」を観に行ってきました

面白い映画だった!

いつ死んでもいいや、と割といつも思っている。昔からだ。少なくとも今は、すぐに死にたい理由は特にない。とはいえ、生きていたい理由が何かあるわけでもない。

昔はあったなぁ、死のうと思ってたことが。僕の中では、真剣に考えていた。別に、客観的に見れば、それほど辛いことがあったわけではない。健康だし、いじめられてたわけでもないし、勉強は出来たし、友だちもいたし、別に人生に対して悲観するようなことは、少なくとも客観的に見た場合にはなかったと思う。でも、僕の主観的には、うまくやっていけるとは思えなかった。これからの人生、なんとか生きていけると思えるだけの気力が、僕にはなかったのだ。そして、その時の僕には、それは積極的に死ぬ理由だった。屋上の縁で片足立ちする、みたいなところまでやってみたんだけど、やっぱり自分では死にきれなかったなぁ。

だからこの映画の設定のように、「みんなで死のうとする」っていうのは、分かる気がする。一人で死ぬのは、なかなか難しい。なんというのか、自分の決断一つで止めれてしまうから。自分を強く強く押し出す何かがないと、自分ひとりでは死ねない。そういう意味では、みんなで死のうとするというのは、迷いがあるということなんだと思う。迷いがなければ、つまり、死ぬための理由が明確で強烈であれば、きっと一人で死ねる。けど、そうじゃないから、誰かと一緒に死のうとする。自分の決断では後戻り出来ない環境に自分を追い込みたいからだ。

迷いがあるなら、生きることを考えるべきじゃないのか、なんて意見もあるのかもしれないけど、僕にはそうは思えない。死のうとする者を引き止める言葉として、「死ぬのなんかいつでも出来る」というのがあるけど、あれは嘘だと思う。いつでもは出来ない。一人で死ぬためには、自分を押し出す強力な何かが必要だし、時にそれは瞬間的にしか結実しない。一方、誰かと死ぬためには、それこそ「いつでも」なんて無理だ。だから、死ぬ誘惑に取り憑かれた者が、その時死ぬしかない、と思いつめる気持ちは分かるし、それを止めるのに、「死ぬのなんかいつでも出来る」なんて言葉はなんの意味もなさない。

僕は、自分も死にたいと思っていた側だし、そういう人に結構会っても来た。もちろん、自分が、そして相手がどれだけの強さで死にたいと思っているかなんて、誰にも分からないし、比較出来ない。だから、その「死にたい」という感覚がどの程度のものなのかについてはなんとも言えないけど、程度はともかく、そういう人は結構いる。そしてそういう人は、結構、社会の中でごく当たり前のように生きている。友だちがたくさんいるように見えて、いつも笑っているように見えて、人生楽しそうに見える人だって、内側はしんどくて、毎日死にたいと思っている、なんて人だっていた。

だから僕はいつも思う。僕の隣で笑っている人や、レジでちょっと喋る人や、テレビの向こう側で楽しそうにしている人が、何を抱えているかなんてわからないし、そういう人たちがいつ死んでも、まあおかしくはないだろうな、と。

誰の言葉だったか、ちゃんと覚えていないけど、「死にたいと思ったことがない人とは友だちにはなれない」って、誰か有名人的な人が言っていたのを何かで見聞きした記憶がある。それを見て、分かるなぁ、と思った。僕も、たぶんそうだと思う。死にたいと思うというのは、死ぬことを軽視しているわけでも、想像力がないわけでもない。僕の感覚では、「生きていること」と「死ぬこと」はセットで、生きている以上死ぬことを考えるのは当然だ、ぐらいの感覚がある。だからこそ、生きているのに死ぬことについて考えたことがない人というのが、どこか欠陥のある人間に見えてしまうんじゃないかな。

「どうして死にたいのか」と考えることは、「どうして生きたくないのか」を考えることであり、つまりこれは逆説的に「どうして生きたいのか」を考えることに繋がっているのだ。「どうして死にたいのか」と「どうして生きたいのか」は両面だ。それはきっと、この映画のメッセージでもあるはずだ。

内容に入ろうと思います。
子どもたちが、とある廃病院に続々と集まってくる。そこでは今日、「集い」と呼ばれる集まりが開かれる。集まる子どもたちは皆、死にたいと思っている。そう、集団自殺だ。廃病院の地下に12時までに集まり、そこで全員一致で死ぬことを決定し、自殺することになっている。
「集い」の部屋に入った彼らは、ベッドの上で死んでいる少年を発見する。理由は分からないが、12人の内の誰かが先に死ぬことを決めてしまったみたいだ。まあ特に問題はない。残りの11人で決を取ればいい。そして、11人目が入ってきたところで、ドアを閉めるように言ったその時…。
主催者だというサトシと名乗る男が部屋に入ってきた。11時に鍵を開けてから正午まで、病院内を巡回していたという。彼は、自分も含めて12人が参加者であると語った。
では、1番のベッドで寝ているこの少年は、一体誰なのか?
便宜上「ゼロバン」と呼ばれることになった少年を巡って、議論が紛糾する。自殺するかどうかの決を取る際、一人が反対したのだ。こんな誰かも分からないような死体がある中で、みんな死ねるっていうのかよ、と。
その後、その少年の死が殺人である可能性が示唆されると、別の者も反対に回った。「ゼロバン」が殺人だと警察が見抜いたとしたら、この部屋で死んでいる全員が誰かに殺されたとみなされる可能性もある、という説を提示したことがきっかけで、自殺でなければ困るという者が反対に回ったのだ。
実行は、全会一致が原則。そこでとりあえずサトシは、状況を把握するために、廃病院の中の捜索を提案する…。
というような話です。

面白い映画だったなぁ。お見事でした。ミステリ的な観点からすれば、この映画で描かれていることの色んな部分に謎に関わる伏線が散りばめられているので、あんまり物語について触れられないですが、なるほどなぁ、よく出来てるなぁ、という感じでした。

まずとにかく、設定が超秀逸ですね。死にたいと思って集まった面々の前にあらわれた殺人死体、それ故に彼らは自殺出来ない状況に陥っている、なんていうのは相当イカれた状況だと思いますけど、この設定が、今の時代感覚(若い人が自分の命をそこまで大切にしていないような感じ)とか、「ちゃんと死ぬために謎解きをしている」という違和感なんかが絶妙に現れる感じで、メチャクチャ良かったと思います。

あと、これは受け売りですけど、「十二人の~」というのは会話劇の名作によくあるタイトルです。「十二人の怒れる男」とか「十二人の優しい日本人」とか。どちらも見てませんが、恐らくこの本(原作は小説です)は、それらを意識して「十二人の~」とタイトルを付けたんだろう、みたいなのを何かで目にしました。

この映画も、基本的には「病院内」で「会話ベース」で話が進んでいきます。過去の回想のシーンがあったりもしますけど、基本的には「場面固定の会話劇」というようなスタイルです。それで、これだけ二転三転する物語を展開できるのは見事だなと思いました。

あと、個人的に面白いなと思ったのは、橋本環奈です。橋本環奈は、この映画の中でもアイドルという役で登場するんですが、「私なんて、大勢の大人が時間とお金を掛けて作った商品よ!」みたいなことを言ったりします。たぶんこれは狙ってやってるんだろうけど、「橋本環奈」と「リョウコ(リコ)」の重ね合わせみたいなものが面白いと感じました。

面白い映画でした!

「十二人の死にたい子どもたち」を観に行ってきました

「マスカレード・ホテル」を観に行ってきました

やっぱり東野圭吾は面白い話考えるよなぁ!お見事!って感じのストーリーテリングでした。

舞台は、ホテルコルテシア東京。ここに、刑事が集められた。何故か。理由は、このホテルで殺人事件が起こることが判明したからだ。
実は少し前から、東京で連続殺人と思われる事件が発生していた。被害者同士の繋がりはまったくなかったが、現場に同じような暗号が残されていた。その暗号を解読すると、次の犯行現場はこのホテルコルテシア東京であることが分かったのだ。
刑事は、ホテルに潜入捜査をすることにした。刑事をホテルマンに扮して配置するのだ。刑事である新田は、フロントに配属されることになった。帰国子女であり、唯一、英語が出来るからだ。しかし新田はフロントマンにはまったく向かない男だった。ガサツだし、横柄だし、それに刑事であるが故に当然、疑り深い。新田の教育担当になった山岸は、「人を疑うのが刑事の仕事なら、ホテルマンのしごとはお客様を信じることです」と言い、ホテルマンらしからぬ行動を取る新田と始終ぶつかり合うこととなった。
ホテルには様々な客がやってくる。とんでもないクレームもあるし、謎めいたお客さんもいる。盲目を装って実は目が見えているとしか思えない老女、ストーカーの影におびえる女性、新田だけに無理難題をふっかける中年男性…。新田は、ホテルマンとして様々な問題に対処しながら、同時に、怪しい客をチェックしていく。殺人事件の捜査は遅々として進まないが、新田のかつての相棒だった所轄刑事の能勢の協力を得ながら、不可解な事件の驚くべき謎を解き明かしていく…。
というような話です。

いやー、よく出来てますね。原作は読んでませんけど、これは原作がちゃんと面白いんだろうなぁ、と感じさせる映画でした。

まず、ミステリの核となる謎の部分が面白い。この部分については詳しいことは書けないけど、色んな要素が絡まり合って、なるほどそう展開するのか、なるほどそれが伏線だったか、みたいなことが非常によく出来ていると思います。まあいくつか、それは警察が調べれば早い段階で分かるんじゃないかな???とか、それはさすがに警察が捜査しても難しいんじゃないかな???と感じる部分はあったけど、そんなに気になるような部分ではないと思います。

あと、ホテルを舞台にするという設定と、そのきっかけがうまいと思いました。普通、事件がここで起こるなんてことは先に分かることはないわけですけど、今回は、なかなかうまい設定を使って、それが実現しています(しかもそれは、決して、ホテルを舞台にするためだけの仕掛けではなくて、事件全体にもちゃんと意味を持つものなんだけど)。そして、「ホテルに刑事が潜入する」という設定が、物語全体を面白くしていると感じました。「人を疑う刑事」と「お客様を信じるホテルマン」という、まったく異質な存在が協力しなければならない、という状況の中で、お互いの存在がうまくプラスの相乗効果を生むような場面も結構描かれていて、ホテルを舞台にすることによって面白さが引き出されているなぁ、という感じがしました。

そして、刑事がホテルマンに扮するという、普通あり得ない設定が、ある種の成長物語にもなっている、という部分も面白いと思います。新田(木村拓哉)は、最初はホテルマンとしてまったくやる気を見いだせなかったけど、山岸(長澤まさみ)と一緒に働くことで、少しずつ考え方が変わっていきます。最初は、「客の言っていることに全部応えるのなんか間違ってる」と思っているのだけど、次第にその気持ちが融解していくことになります。お客様にも色んな事情があり、表面からだけでは分からない様々なものがあるのだと呑み込めるようになっていきます。あくまでも新田は、最後まで刑事なわけですけど、ホテルマンとしてどうあるべきか、という視点を自然と持てるようになるという物語の流れが、成長物語としてとても良くできていると感じました。

しかし映画を見ながら、僕にはホテルマンは無理だな、と思いました(笑)。たぶん働いている間、ずーっとイライラしていると思います。今も接客業ではあるんですけど、全然お客さんのために、という感覚を持てないでいるので、ホテルマンの人は凄いな、と思いました。

あと、エンドロールに「明石家さんま(友情出演)」って書いてあったんですけど、まったく分かりませんでした(笑)。ネットで調べると、気づく人は気づくかもしれないけど、みたいなレベルでどっかに映ってるみたいです。これから見る方は気にしてみるのも面白いかもしれません。

「マスカレード・ホテル」を観に行ってきました

ねずみに支配された島(ウィリアム・ソウルゼンバーグ)

全然知らない話ばっかりで驚かされた。

まずは、この文章を読んでみてほしい。

【米国だけでも、五万種もの外来生物が海を越えて、あるいは国境を越えて侵入している。その中には10億匹以上のネズミ、一億匹以上の飼い猫が含まれ、そのネコのせいで、合わせて10億匹もの小型哺乳類やトカゲや鳥が毎年姿を消している。また、米国の森は、400万頭の野生のブタの、庭や飼育場になっている。侵入者がもたらす経済的損失は年間1200億ドルに達する】

本書は、「ネズミやネコが、生態系を破壊し尽くし、生物多様性を失わせる恐るべき存在であり、それらと人間がいかに闘ってきたのかという歴史を描く本」である。

実は現在、地球の歴史上6度目の大量絶滅期にある、とされている。これは別の本で読んで知っていた。もちろんその原因のほとんどは、人間にある。本書は、ネズミやネコについて描く本だが、結局のところそれらネズミやネコを世界中のあらゆるところに持ち込んだのは人間なのだ。人間が自然を破壊し、人間が持ち込んだネズミやネコが自然を破壊する。そんな風にして、現在、地球は6度目となる絶滅期を迎えている。

地球上の陸地において、島が占める面積の割合はたったの5%だそうだが、しかし絶滅の大半は島で起こっている。鳥と爬虫類に限って言えば、絶滅した種の三分の二は、島で暮らしていたものだという。

本書は、そういう絶滅が進行している島で一体何が起こっているのかを、過去の歴史も合わせながら追う。

例えば、ハワイ島の話が出てくる。1971年に、ある女性博物学者がハワイ島を散歩している時に見つけた巨大な鳥の全身骨格がきっかけで、ハワイ島における鳥の痕跡探しが始まった。そしてそれによって、ハワイ島にいた鳥のほとんどが「飛べない鳥」であり、そして人間が世界中に散らばると同時に侵入したネズミによって絶滅したのだろう、と考えられるようになった。

本書にはもう一つ、誰もが知っているある島の話が登場する。モアイ像があるイースター島だ。

この島の文明が何故滅びたのかは長年謎だったが、科学のジャレド・ダイアモンドが「文明崩壊」の中で、人間が木を切り倒し、文明が成り立たなくなったのだ、と指摘し、人間が生態系を破壊しがちだという性向を物語る寓話として語られるようになった。

しかし2007年に別の説が提示される。曰く、イースター島の崩壊は、ネズミが主犯だったに違いない、というものだ。ネズミは、捕食者のいない島で大繁殖し、ひとつがいのネズミが、3年後には1700万匹になり得たという試算をした。

このようにしてネズミは、これまでも様々な島を破壊し尽くしてきたのだ。

近現代におけるネズミによる破壊の象徴として描かれるのが、「カカポ」というニュージーランド固有の鳥だ。オウムの仲間らしいが、飛べない鳥であり、簡単に捕まえられることから、かつては探検家たちが冒険途中の食料としてよく重宝していた。基本的に捕食者の存在しない島でずっと生き残っていた種で、だから警戒心もないし、身を守る術をまったく持っていない。

かなり奇妙な生態を持つカカポの保護に乗り出したのは、一人のホームレスだった。リチャード・ヘンリーという、今では伝説的とまで言われているナチュラリストは、1800年台後半から、カカポの観察と保護に力を入れ始めた。科学者は彼を無教養な田舎者と決めつけ、カカポが絶滅しかかっているという訴えも無視した。しかし、ニュージーランドでは、増えすぎたウサギを駆除するためにフェレットとイタチを放つという「愚策」を取っており、そのフェレットとイタチが、ウサギを捕らえるよりも遥かにカカポを捕らえる方が楽だと気付き、そのせいでカカポは絶滅の危機に瀕していたのだ。結局ヘンリーの訴えは届かず、忘れられていく。

それから半世紀が経った頃、ようやくカカポ保護の機運が高まってきた。その頃にはまだ、後々に登場する「魔法の薬」は存在せず、人間がネズミによる破壊に対抗するには、保護すべき動物をどこか安全な場所に避難させるしかなかった。しかし、あらゆる島がネズミに占拠され、安住の地はほとんどなかった。しかも絶望的なことに、そもそも保護すべきカカポがまったく見つからなくなってしまっていた。もしやもう絶滅してしまっているのか…。本書の中でもこのカカポの保護作戦は、折に触れて登場する話である。

さて、人類は、ネズミとの闘いを諦めるしかないかもしれない、という雰囲気が濃厚になっていった。なにせ、島をネズミの被害から救うためには、一匹残らず駆除する必要があるからだ。しかもネズミは知能が高く、毒の入った餌を食べた仲間が苦しむ様を見て警戒信号を発し、それ以降その餌を食べなくなるのだという。そういう困難さから、ネズミの根絶は不可能なのではないかという悲観的な空気が漂っていた。

しかし、画期的な毒が開発される。これは、ゆっくりと効くため、初めの内はネズミが毒だと警戒せずにガンガン食べる。なんなら仲間に、うまい食べ物があるぞ!と宣伝もする。それから、毒がジワジワと効いてきて全滅させるのだ。この毒は大きな成果を挙げたが、しかし別の問題も引き起こした。他の生物を守るために、害獣というレッテルを貼ってネズミを大量虐殺するのは許されるのか?という議論が巻き起こることになったのだ。

こんな風にして、地球上における生物の闘いの様子が、本書にまとめられている。こんな闘いが繰り広げられているということをまったく知らなかったので、非常に印象的だった。本書で描かれる、「他の動物を救うためにネズミを殺していいのか」という問題については、僕は殺していいだろう、と感じる。例えば本書のこんな描写を読めば、誰でもそう感じるのではないか。

【ネズミは巣にいるウミスズメを見つけると、その後頭部を噛んで穴をあけ、脳みそと眼球だけ食べて、死骸を巣穴に運びこむ。ウミスズメを見つける先からそれを繰り返し、地下の食料庫にその死骸を積みあげていく。腹がすいていなくても、習性ゆえにそうせずにはいられないのだ。一匹のネズミが150羽のウミスズメを集めることもあり、その大半は手つかずのまま腐っていく。大虐殺が進行中だというのに、ウミスズメのほうは戸惑い顔でじっと巣に座っているだけだ。なぜなら彼らは、そのような危険にまつわる記憶を、遠い過去に置き去りにしてきたからだ。ウミスズメがその進化の初期に危険な大陸を捨てて島々に移りすんだのは、主に、このネズミのような四本足の捕食動物から逃れるためだった】

【そこに設置したビデオカメラが捉えた顛末は、にわかには信じられないものだった。暗闇からハツカネズミの一団が現れ、自分たちの300倍も大きなその鳥(※トリスタンアホウドリ)に突進していった。ネズミたちは巣に座っている8キロもあるヒナの尻にかみついて穴をあけ、その穴に入り込んで中から外へと、鳥を生きたまま食いつくしたのだ】

確かに自然の摂理によって、生物は絶滅したりする。人間が介入するのではなく、自然に任せるべきだ、という意見も分からないでもない。しかし、こういう描写を読むと、ネズミの破壊力は圧倒的だ。それこそ、「進撃の巨人」における巨人と人間ぐらいの差があるのではないか。人間が介入せず、自然のままに任せておいたら、生物の多様性はどんどんと失われていくだろう。どの生物を生かすべきか、という選択は人間の恣意的なものであり、その判断が正しいかは分からない。例えば、ネズミの根絶作戦の折に、ハクトウワシがある程度死んだことが確認された。これはアメリカ国内の非難を巻き起こしたが、それは、ハクトウワシが聖なる生き物としてアメリカでは崇められる存在だからだ。現代でも、クジラを捕まえて食べる日本人に対して、欧米から非難が向けられている。動物に対する感じ方は、様々だ。とはいえ、一つだけ断言できることはある。それは、生物の多様性は失われてはいけない、ということだ。どの生き物を保護するかという判断が人間による恣意的な部分があったとしても、その活動によって地球全体の生物多様性が高く維持されるのであれば、それは良いことではないかと僕は思うし、そのためにネズミを駆除する必要があるのなら、それは仕方ないだろうな、と思う。

もちろん、一番悪いのは人間なのだ。そのことを忘れてはいけない。そもそも、人間が生まれなければ、これほど生物が絶滅の危機に瀕することはなかっただろう(人間が海を渡って、ネズミやネコを他の大陸に持ち込まなければ、もっと豊かな動物相が維持されただろう)。とはいえ、僕らは僕らのエゴにより、地球で生きていくしかない。そのために何をするべきなのか―本書は、なかなか難しい問いを投げかける一冊だ。

ウィリアム・ソウルゼンバーグ「ねずみに支配された島」

ぼくは数式で宇宙の美しさを伝えたい(クリスティン・バーネット)

いやー、久々にこんな酷いタイトルの本を読んだ。

いや、誤解しないでほしいのだけど、内容は素晴らしかった!!超絶素晴らしかった!久々にこんなとんでもない本を読んだな、という感じの内容だったのだけど、いかんせんタイトルが酷すぎる。

僕は本書を、物理の本だと思って買った。もちろん、中身をよく見もせずに買っている方が悪いと言われればそれまでだけど、誰だってこのタイトルを見れば、この本は「数学」か「物理」の本だと思うのではないか。しかし実際は本書は「子育て」の本だ。実際原題は、

「The Spark A Mother’s Story of Nurturing, Genius, and Autism」

である。知らない単語もあるが、要は「(才能の)きらめき ○○や天才や☓☓の母親の物語」という感じだろう。原題を見れば、「子育ての本」ということは伝わるだろうが、日本語のタイトルではその要素は一切皆無である。一体誰が誰に何を伝えたいと思ってこんなタイトルにしたのか、1ミクロンも理解できない。大体の人は、タイトルに「数式」や「宇宙」と入っているだけで手を伸ばさないだろう。本書を一番読むべき「母親」という存在に、まず届くことはない。いやホント、久々にこんな酷いタイトルに出会ったな、という感じだ。

本書を物理の本だと思っていた僕には、最初の100ページはかなり退屈だった。本書を子育ての本だと思って読めば、まあ読めるだろう(それでも正直、本書全体の面白さを考えれば、冒頭からもっと面白く出来るような気はするのだけど)。そして途中から、どんどん面白くなっていく。というのも本書は、ちょっとあり得ない、尋常ではない実話だからだ。

【そして息子の要望にしたがって、とある物理学者に連絡をとったのです。その学者はまだやりかけのジェイクの式を快く見てくれ、彼の理論は間違いなく彼独自のものであること、そしてもしこれが完成されれば、ノーベル賞候補にもなり得るだろう、と言ってくれました】

【ジェイクは大学の物理学の研究者として、十二歳で初めて夏休みのアルバイトを経験しました。アルバイトをはじめて三週間目、彼は格子説におけるある未解決問題を解いてしまったのです。この解答はのちに、一流の専門誌に掲載されることになりました】

著者の息子であるジェイクは、他にもとんでもないことがたくさん出来ます。一度聞いた音楽をその場でピアノで弾けたり(一度もピアノを教えたことはない)、地図を見ただけで全米の主要道路のほぼすべてを記憶し、実際に運転する際にナビゲートしてくれたりします。IQはなんと189で、しかも「天井効果」と呼ばれるものによって実際には測定不能だとのこと。彼は9歳にして大学に入学し、相対性理論や量子論を学び、自ら新しい理論を打ち立て、学生たちに数学を教える、というような日々を送っています。

しかし、彼がこうなることを予測出来た人はいませんでした。3歳の頃、ジェイクは専門家からこう診断されます。

【彼が十六歳になったときに自分で靴ひもを結べるようになっていたらラッキーだ】

彼は自閉症(IQが恐ろしく高かったのでアスペルガー症候群とされたようですが)と診断され、他人とコミュニケーションが取れず、集団行動が出来ず、ちょっとした刺激で突然かんしゃくを起こしてしまうような、そういう子供だったのです。ジェイクの自閉症はかなり重度のものだったようで、ジェイクが字を読めるようになると思っていた人もいませんでした。

そんな自閉症の子供が、何故大学に通い、ノーベル賞候補にもなり得る研究が出来ているのか。その秘密を解き明かすのが本書です。そしてその秘密の90%以上を、彼の母親、つまり本書の著者が担っているのです。

僕が退屈だと感じた最初の100ページには、「創意工夫の塊のような人だった祖父との関係」や「夫であるマイケルとの出会い」や「自閉症についてあまりまだ理解されていなかった時代に、いかにジェイクの振る舞いに振り回されたか」などですが、その中に、「専門家と呼ばれる人たちがジェイクをどう判断しているか」もあります。

アメリカには、自閉症患者に対するプログラムが用意されているようで、日々様々な訓練を行うことになっています。5歳までにどういう接し方をしたかで、自閉症児のその後の様子が大きく変わる、という研究結果があるようで、自閉症児の親たちは、専門家が良いと判断しているプログラムを毎日詰め込んで、少しでもたくさんの訓練を受けさせるべく奔走することになります。

その訓練というのが、著者の言い方を借りれば「出来ないことに焦点を当てたもの」ということになります。例えば、「じっと座っているのが出来ない」のであれば、それが出来るように訓練する、ということです。そのようにして、自閉症児たちが少しでも社会に適応できたり、他者とコミュニケーション出来たりするようになるのを目指すわけです。

しかし著者は、息子のジェイクが訓練させられている様子を見て疑問を抱きます。それは、発達障害の子供のためのプリスクールに通わせるようになってからも同じです。いわゆる専門家と呼ばれる人たちがやっていることが、少なくともジェイクのためにはなっていないのではないか、と感じていたのです。

しかし彼女は、なかなか決断出来ません。それはそうです。やはり経験のある専門家なわけだし、それに夫のマイケルも、知識のある専門家に任せるべきだ、という考え方だったからです。しかし、とあるきっかけ(ジェイクには字は覚えられないのだと専門家が決めつけていると判断出来た時)を境に、彼女は考えを変えます。全部自分でやろう、と。彼女は、渋る夫を説き伏せ、何の知識もないまま、重度の自閉症児を普通の小学校に通わせるための訓練を自宅で行うことにしました。

そしてここで彼女がとったアプローチが、「自閉症の天才児」に限らず、世の中のありとあらゆる子供との関わりに役立つのではないか、と感じさせるものなのです。実際著者もあとがきで、

【わたしがこの本を書いたのは、ジェイクのストーリーはすべての子どもに当てはまる話だと考えるからです】

と書いています。

彼女は、専門家らと真逆で、「出来ることに焦点を当てたプログラム」を組むことにしました。彼女はこの決断を、【崖から飛び降りるほどの勇気を必要とします】と表現しています。何故なら、先程も触れたように、自閉症児は5歳までにどれだけ訓練をしたかでその先が変わるので、どの親も苦手を克服する訓練に時間を費やそうとするからです。そんな中で、全然関係のない出来ること・得意なことばかりをやらせるというのは、相当勇気が要ることなわけです。

彼女が凄かったのは、それを他の自閉症児にも行ったことです。最初は、ジェイクの友達がほしいと思って、他の自閉症児をちょっとだけ集めるつもりでした。しかし、その案内を出すや、数百のメールが返ってきてしまいます。自閉症児を抱える親の苦悩や労力は十分理解している彼女は、誰も断らないと決め、それぞれの自閉症児に合ったオリジナルのプログラムを“無償”で行うことにしました(何故無償で提供したのかについては、彼女の生い立ちなどとも関係する話で、ここでは割愛します)。

彼女がどんな風に他の自閉症児と接していたのかは、こんな文章から理解できます。

【ここで何に時間を割いているか知ったら、誰もが驚くにちがいありません!「ある子とは、一緒に美術館に行って、一枚の絵の前で六時間いっしょにいました。ある子にはガレージセールで手に入れた製図台をあげました。ある子といっしょに何百枚ものクッキーを焼いて、アイシング(砂糖衣)でアルファベットを書いて、読み書きをおぼえました。あ、あとラマのことね…」】

ラマというのは、動物のラマで、動物好きな子どものために、農家からラマを借りて自宅のガレージで触れさせたのです。「リトル・ライト」と名付けたこのガレージでのプログラムは評判を呼びます。何故なら、ジェイクのみならず、重度の自閉症児たちが普通の小学校に通えるようになったのですから。著者はこう書いています。

【ジェイクは本格的な天文学を学ぶ機会を与えられている限りは、学校でもきちんとした社会的行動がとれるのだと。保育所の健常児たちや「リトル・ライト」の自閉症児たち、そしてジェイクを見ていてもわかるように、子どもというのは好きなことに打ち込む時間さえ与えられれば、それ以外のスキルも自然と向上していくものだと】

まさにこれこそが本書の主題です(「ぼくは数式で宇宙の美しさを伝えたい」なんてタイトルからでは1ミクロンも想像できない主題です。ホントに編集者は一体何を考えてこんなタイトルをつけたんだか)。これは、どんな子どもに対しても普遍的に当てはまるものではないかと、本書全体を読んで僕は強く感じました。

ジェイクがもし、「出来ないことに焦点を当てるプログラム」をずっと続けていれば、恐らく彼は16歳の時点で靴紐を結べなかったでしょう。しかし母親が、「出来ることに焦点を当てるプログラム」をやり続けたことで、ジェイクは飛躍的に変化します。「やりたいことを十分やらせてもらえれば、教わらなくたって苦手なことが出来るようになる」というのは、専門家からすれば衝撃的な事実でしょうし、また、いわゆる専門家ではたどり着けなかった結論でしょう。実際に子どもを育てるという過程の中で、注意深く観察し、可能性を信じ、尋常ではない努力をしたからこそ、たどり着けた結論です。その奮闘の記録だからこそ、本書は読む者の心を打つのだと思います。

本書は、ジェイク以外の部分でも波乱万丈です。例えば、著者が産んだ二番目の息子も、医者が人生で2例しか見たことがないという珍しい重篤な障害を抱えていました。また、あまりに忙しい生活を送っていた著者は、30歳にして脳卒中になってしまいます。自閉症児たちのためのセンターを作ろうとして、年金を解約し車を売り払いましたが、しかしその後予想もしなかったとんでもない事態に見舞われることになります。そんなこんなで、波乱万丈としか言いようがない壮絶な人生を送った女性の、多くの人に希望を抱かせる物語だと僕は感じました。タイトルに臆せず、是非読んでみてください!

クリスティン・バーネット「ぼくは数式で宇宙の美しさを伝えたい」

努力不要論 脳科学が解く!「がんばってるのに報われない」と思ったら読む本(中野信子)

以前林修が「林修の初耳学」の中で、高学歴ニートと呼ばれる人たちに講義をするというのがあった。その中で、「親以外の誰にも迷惑を掛けずに、働かないで生きていけるのなら、何の問題もない」と言っていた。僕もその意見には賛成だ。遺伝子にも人それぞれ差があるように、氏育ちにも差がある。それをめいっぱ活用して生きていけるなら、ある意味でそれは「才能」だし、努力せずに生きていけるのならそれでいい(他人に迷惑を掛けない限りにおいては)。

また、本書にも似たような話が出てくるが、明石家さんまが「努力という言葉を辞書から消せ」と言った話も記憶にある。これは、乃木坂46の齋藤飛鳥のインタビューをきっかけに知ったエピソードだった記憶がある。これはつまり、努力を努力だと思ってやっている内はダメ、という意味で、そういう意味で、努力なんかしてるようじゃダメだ、という発言だ。

ブロガーのちきりんの本には、「ちょっとやってみて、これは相当努力が必要だな、と思ったら、どれだけおだてられても止める」みたいなことが書いてあった。頑張り続けなければ出来ないことにいくら自分の時間を注いでもあまり効果はない。それよりは、そこまで頑張らずに出来ることで成果を上げられる何かを探した方がいい、という話だ。

本書で主張する「努力不要論」も、今挙げたような方向性と近い話だ。別に、何もしなくていいわけじゃない。でも、「努力」をするなら、それが意味を為すようなやり方をしなければいけないし、意味を為すようなやり方ではないのであれば、その「努力」は無意味でしかない、ということだ。

本書では、「努力は報われる」は半分は本当だ、と書いている。それは、負荷が掛からなければ筋肉が衰えるのと同じで、脳にもある程度の負荷が掛からないとパフォーマンスが下がる、という意味だ。だから、脳のパフォーマンスを下げないために何らかの努力が必要である、という意味で、「努力は報われる」は半分本当だ、と書く。

しかしその一方で、「努力」で乗り越えられないものもある。
例えば、身長が低い人がバスケットボール選手になることは可能だろうが、しかしダンクシュートが出来るようにはなかなかならないだろう。ここで大事なのは、仮に努力によって背の低い人がダンクシュート出来るようになったとして、果たしてそれが本当に正しい「努力」と言えるのか、ということだ。実際には、ダンクシュートをするのであれば背が高い人がやる方が効率がいいし、背が低い人は、背が低いということを活かしたドリブルやパスを習得した方が、チーム全体のプラスになるのではないか。

本書では、そういう問題提起をしているわけです。つまり、「ダンクシュートをするための練習」のような「努力」は不要であり(何故なら効率が悪いから)、そうではなくて、自分がもっと効率よく(なるべく努力せずに)高められる何かを伸ばしていく方がいいのではないか、ということなのだ。

本書にはこんな文章がある。

【その意味では、才能のない人というのはこの世には存在しません。ただ、自分に何ができるのかがわかっているかいないかの差だけがあるのです。】

これは僕も大人になってからそう感じられるようになりました。子供の頃はどうしても、自分に出来ないことばかりに目が向いてしまうでしょう。同年代でまとめられた学校という環境の中で、それぞれの個性が様々に発揮される状況では、自分に何が出来るのかということより、自分に何が出来ないのかという意識が強くなりがちでしょう。

でも徐々に、出来ないことに注力しても仕方ないなぁ、と思うようになりました。

例えば僕は、人の顔と名前をまったく覚えられません。基本的に映像的な記憶がまったくダメで、人の顔などは5秒もあれば忘れます。そんな僕が、多大な労力を掛けて、人の顔と名前を覚える努力をすることに、果たして意味があるのか。それよりは、そんなことはさっさと諦めて、もっと別の自分が得意とする方に時間を割く方がいいんじゃないか、と思えるようになりました。そんなこともあって、人の顔と名前は覚えないことにしました。

【努力というと普通の人は、苦労した分だけ成果が出る、と思い込まされているのではないでしょうか?しかし、「苦労すること=努力」ではないのです】

これは本当にその通りです。昔運動部では、今ではまったく意味がないと認められている「うさぎ跳び」なんかをやらされていたわけですけど、これなんかも、「とりあえず、身体を痛めつけることこそ大事」というムダな「努力」なわけです。青山学院大学の陸上部では、余計な筋肉は付けずにストレッチなどをすることで体作りをしていったという話を何かで見た気がしますけど、そういう風に「努力」というのは、目的があって、その目的のためにどういうアプローチを取るべきかという戦略と一緒でなければ意味がないのです。

本書には、「江戸時代は努力は美徳ではなく、その流れを作ったのは明治政府を生み出した薩長の武士だ」とか「人は努力したり良いことをしたと思うと、その分悪いことをしてもいいという気分になる」など興味深い話が色々載っているんですけど、一番面白いと思ったのが「セロトニントランスポーター」の話です。

「セロトニン」というのは、「幸せホルモン」とも呼ばれていて、これをたくさん使えると「幸せな気分」が持続するわけです。で、脳の中には「セロトニントランスポーター」という、一度放出した「セロトニン」を再度取り込みするポンプのようなものがあって、もちろんこの「セロトニントランスポーター」が多い方が「セロトニン」を再利用出来るわけだから、より「幸せな気分」が持続することになります。

で、なんと日本人は、この「セロトニントランスポーター」が少ない人が圧倒的に多いんだそうです。日本人の7割の人が、「セロトニントランスポーター」が少ないタイプだそうで、欧米だとその割合は2割以下とのこと。また、「セロトニントランスポーター」が多い人は、日本だと2%ぐらいだけど、欧米だと30%ぐらいいるそうです。

だからほとんどの日本人はそもそも脳の機能的に「幸せな気分」をあんまり感じられないわけです。そういう状態で「努力」しすぎてしまうと、「こんなに頑張ってるのに報われない…」という感覚に陥ってしまうそうです。なるほど、そもそも日本人は脳機能的に特殊なんだなぁ、ということに驚かされました。

僕自身は、本書を読まなくてもある程度本書の主張しているような生き方が出来ていると思うんだけど、まだ「努力教」に縛られている人には、その呪縛を解くための一冊になると思います。

中野信子「努力不要論 脳科学が解く!「がんばってるのに報われない」と思ったら読む本」

「へレディタリー/継承」を観に行ってきました

うーむ、なかなか意味不明な映画だったなぁ。
僕にはちょっと、うまく捉えられないなぁ、という感じでした。

難しかったのは、登場人物たちが感じている「恐怖」が何なのかがうまく理解できなかったこと。一番理解できたのは、大学教授である主人公の夫。彼はこの物語の中で恐らく一番真っ当な感じで、彼は純粋に、冷静に、一般的な感覚で「恐怖」を感じている。

ただ、他の人達、特に主人公であるアニーが感じている恐怖は、ちゃんと理解することは難しかった。もちろんその根底に、「遺伝」という要素があることは分かる。割と冒頭の方で出てくるから書いていいと思うけど、アニーの一家は、統合失調症だったり解離性同一性障害だったり夢遊病だったりと、精神的な疾患によって様々な不幸に見舞われてきた。その「遺伝するということ」が恐怖のベースになっているんだろう、という感覚は理解できたと思います。

ただ、それ以上のことがよくわからないし、映画を観ながら、「何か嫌なことが起こりそうだ」という感覚は分かっても、「どういうことが起こりそうか」という想像が基本的に出来なくて、だから驚きが半減しちゃうなぁ、という感じでした。

「へレディタリー/継承」を観に行ってきました

もっとも美しい数学 ゲーム理論(トム・ジーグフリード)

メチャクチャ面白いんだけど、やっぱりちょっと難しかった。
ところどころ、ちょっとついて行けないかも、っていう部分が出てきて、全体をうまく理解できなかったのは残念だった。本書は「ゲーム理論」とタイトルに名前がついているけど、いわゆる「ゲーム理論」だけの本ではない。ノイマンが生み出し、ナッシュが発展させた「ゲーム理論」は、元々経済学の分野から生まれたものだが、現在では「ゲーム理論」はありとあらゆる分野で使われている。その歴史の過程を描き出す作品だ。

【この本の狙いは、ナッシュが作った基礎の上に打ち立てられたゲーム理論が、いかに多様な形でいかに広範な科学の分野に応用されているかを紹介することにある】

そんなわけで当然本書には、「ゲーム理論」そのものの説明もなされる。それが二章と三章にまとまっている。四章以降は、生み出された「ゲーム理論」がどのように応用されていったのか、ということが描かれていくのだが、意外なのが一章だ。なんとここではアダム・スミスの「国富論」が扱われるのだ。「ゲーム理論」と「国富論」には、直接の関係はない。ではなぜここに「国富論」が出てくるのかと言えば、「神の見えざる手」という言葉で有名なアダム・スミスが、「国富論」を通じて、

【人間のふるまいや交流に「自然な秩序」があるという考え】

を提示したからだ。

アダム・スミスは「国富論」の中で、【かりにみんながまったく利己的にふるまったとしても、それでもやはり、経済システムはみんなにとってよいように効率的に機能する】と指摘した。このような発想は当時存在せず、またこのような「自然の秩序」があるという考えは、多くの人に影響を与えたという。そしてこの、人間の行動の背後に「自然な秩序」がある、という考えは、「ゲーム理論」と同根なのである。そういう意味で本書では、アダム・スミスが一章で取り上げられている。

二章・三章は、「ゲーム理論」の話で、ざっくり書けば、ノイマンがミニマックス原理を証明し、ナッシュがナッシュ均衡の存在を証明し、それによって「ゲーム理論」の大枠は確立された。その後、有名な「囚人のジレンマ」などのゲームをゲーム理論家は様々に開発し、それらを実際に実験することによって、「ゲーム理論」によって人間の行動の「秩序」を明らかにしようとしてきた歴史が描かれていく。

さて、先程も触れたが、当初「ゲーム理論」は経済学の分野で生まれた。しかし、「ゲーム理論」が最も成功を収めたのは生物学だった。「ゲーム理論」によって、ダーウィンの進化論にようやく意味のある説明がつけられるようになったのだ。「ゲーム理論」を使えば、どういうタイプ(攻撃的だったり、いつも戦闘を回避して逃げるだったり、他人同士の闘いを見物しているだったり)がいるかによって、それぞれがどういう戦略(毎回戦うとか、4回に1回は逃げるなど)を取るのが最も合理的であるかということが計算できるようになったのだ。

さらに「ゲーム理論」は、「神経経済学」なるものも生み出した。これまでも「ゲーム理論」に基づいた「囚人のジレンマゲーム」や「公共財ゲーム」など様々なゲームが実際に行われてきたが、その際の脳の神経の働きを観察することによって、さらに新たな知見を得ることができるようになってきた。そしてそれによって、あるゲームをスタートし、両者まったく同じ行動を取っていたとしても、神経の働きを見ることによって、それぞれのプレイヤーが次にどう行動するのかが予測できるようになっていくのだ。

そうなってくると、科学者たちは「自然の法典」、つまり人間の行動をすべて予測するような理論を打ち立てたいと考えるようになる。しかしそれを実現するためには、一つ大きなハードルがあった。それは、

【はたして、そもそもゲーム理論で説明すべき「人間性」なるものが、ほんとうに存在するのだろうか】

という疑問だ。

結論から言えば、様々な実験により、そういう「人間性」はないのではないか、と考えられるようになった。なぜか。「囚人のジレンマゲーム」のようなゲームを、ゲーム理論家は様々な国で行った。すると、アメリカの学生と、アフリカの少数民族では、まったく違う結果が現れたのだ。人間に共通する「人間性」なるものが存在するなら、行動に大きく差は出ないはずだ。

結局人間の行動は、文化の影響を色濃く受ける、ということが分かってきた。そういう意味で、個々の人間について予測をするのは難しい。

しかし方法がないわけではない。それは、社会を「気体」のように扱う方法だ。

空気や酸素など、機体の動きや働きを記述するのは、かつては不可能だと考えられていた。何故なら、一つ一つの気体分子の動き分析して足し合わせる、などということはまず不可能だからだ。しかしマクスウェルという物理学者が、一つ一つの分子の動きは分からなくても、膨大な数の分子が平均としてどう動いているのかを統計的に把握することは出来るのではないかと考えた。そしてそれによって、気体に関する正確な予測が可能になったのだ。

これと同じように、人間一人一人を分子と捉え、個々の人間について詳しい言及は出来ないけど、全体を統計的に捉えることは出来るのではないかという考えが生まれた、こうして、統計物理学と呼ばれるジャンルが生まれることになった。

そして、このように統計によって社会を捉えるという試みは、実は「グラフ理論」というものの発展によるところが大きい。これは、ケヴィン・ベーコンという俳優の存在から生み出されたなかなか変わった数学理論なのだが、これによって「ネットワーク」と呼ぶべきものをきちんと捉えることが出来るようになり、インターネットやアデノシン三リン酸の化学反応など様々な事柄が「ネットワーク」という見方によって捉えられるようになったのだ。

さらにそこから、量子論や確率論などの話が組み込まれながら、「ゲーム理論」がどのように応用されていったのかが描かれていく。

僕自身が本書の内容をきちんと理解できているわけではないので、本書の面白さをうまく伝えられないが、「人間」という、一人ひとり違う考え・価値観を持ち、人種や文化によってもまったく違う存在を、包括的に捉えることが出来る“可能性”を持つこの「ゲーム理論」は、なかなか興味深いなと感じた。色んな意味で議論の絶えない理論であるようだが、いつの日か、人間の行動を高い精度で「予測」できるような理論になったりするんじゃないかと思うし、まあそうなったらそうなったで嫌だなと思うけど、文学や生活などからではなく、数学によって人間に迫ろうとする野心は、実に興味深いと感じました。

トム・ジーグフリード「もっとも美しい数学 ゲーム理論」

行こう、どこにもなかった方法で(寺尾玄)

【なぜ、そんなにも親切にしてくれるんですか? と私が尋ねると、こんなに本気な人を見たのは初めてだからだ、という答えだった】

なるほど、面白い人がいるじゃねぇか、と思った。

本書は、実に予想外の本だった。どんな本なのか、ちゃんと理解しないで買ったのだが、「寺尾玄」が「バルミューダ」という家電会社の創業者だということは知っていたし、「バルミューダ」がこれまでにない独創的な家電を生み出していることも知っていた。

だから当然本書は、ビジネス書寄りの本なんだろう、と勝手に思っていた。別にビジネス書が読みたくて買ったわけではないが、ものづくりをしている人や、変わった挑戦をする人には興味があるので、そういうことが書かれているビジネス書なんだろう、と思って買った。

しかし全然違った。
本書の最初の70ページ、第三章までは、著者の両親との思い出話だ。かなり面食らった。読み始めは、「こんなビジネス書あるんか」と思っていたのだけど、次第に、「なるほどこれはビジネス書じゃなくて、個人史なのだ」と理解できるようになった。

彼の両親の話は、その後の著者の生き様や、あるいは「バルミューダ」創業に繋がるという意味で意味はある。とはいえ、やはり他人の話である。なかなか強烈な両親だったようだけど、変わった両親を持つ子供の話というのは、それだけ見れば世の中に色々とあるし、恐ろしく突き抜けているというほどでもないから、第三章までは正直、僕としてはそこまで面白くはなかった。編集者はよくこれを冒頭に持ってくることを決断(あるいは容認)したな。

寺尾玄という男の人生がゴトリと大きく動き出すのは、高校で提出しろと言われた進路アンケートだった。

【まれにだが。絶対にしてはならないと思うことに直面することがある。意味など考えるまでもなく、これは絶対に嫌だと思うようなことだ。直感的にそう思うようなことは、しない方がいい。無理をしてやってみても後悔ばかりが残るし、多くの場合、誇りを持って生きるための基盤を傷つけることになる。
あの用紙を見た時に私が持った気持ちはまさにそれだった。特に気に入らなかったのは、将来の職業を記載する欄で、ここだけは絶対に書いてはいけないと強く感じた】

【アンケート用紙の将来の職業だけは絶対に書いてはいけない、それを仮にでも書くということは可能性に対する裏切り行為だと感じた。また、可能性しか持っていない我々に、無神経にもそれを質問できる大人に腹が立ったし、それを聞かれて素直に答えようとしている友達の態度もおかしいと思った。
あの時に感じた強烈な拒絶感は薄れるどころかだんだんと大きくなり、結局、私は進路アンケート用紙を提出する期限の日に、退学届を提出した】

この箇所を読んで、なるほどこの人は同類だ、と感じた。僕は、進路アンケートの用紙を書かされたかどうか覚えていないし、高校を退学もしていないが(とはいえ、大学は退学している)、彼の気持ちは死ぬほど分かる。ごく一般的な人なら、「別に嘘でもいいから書けばいいだけじゃん。別にそれぐらいのこと、どうってこともないじゃん」という感じなのだろう。それが、世の中をうまく、上手に渡っていくコツなのだろうとも思う。しかし僕は、彼の【可能性に対する裏切り行為】という表現に凄くしっくりくる人間だ。そう、その通り。この感覚は、伝わらない人にはまったく伝わらないだろう。でも、僕は理解できる。

それから彼は、スペインへと一人で旅に出かける。旅というか、放浪だ。高校を退学してから、一人で1年ぐらい行っていたらしい。その放浪の過程で、彼はこんな実感を得る。

【龍ケ崎では、居場所がないと感じていた。しかし最小限の荷物を持って移動し続ける旅の最中、私は居場所がないと感じなかったし、居心地が悪いとも感じなかった。なぜなら、この旅こそが居場所だからだ】

そして、本書のラストのラストの部分に、こんな文章が出てくる。

【あの日、成田で。荒野を目指せと言われて歩き始めた道を、私はいまだに歩いているのだと思う。会社や帰る家、住民票もあるが、真の定住地を持たずに今も生きている。そして、それが恐いことだと思わない】

僕も、こんな風に生きていくことが理想だ。「真の定住地を持たない」というのは、本当に憧れる。僕自身も、なるべく自分の心や身体がどこかに・何かに・誰かに付きすぎないように意識して生きてきた。定住は安住となり、やがて腐っていく。僕は、それが嫌だ。だったら、定住しない人生の方がいい。そんな風に思って生きてきた。もちろん、僕は彼ほどには自由ではない。彼のようにフットワークも軽くないし、彼のように本気にもなれない。でも、同じ方向を向いている自信だけはある。

「バルミューダ」を創業してから、最初にして最大の窮地に追い込まれていた時、彼は一発逆転の可能性を手にしていた。しかし、様々な事情から、彼が自らの手でその可能性を実現させるのは不可能だろうと、周りの多くの人は考えており、ある妥協をしろと散々言われたという。

【それは絶対にできないと言い張る私を見て、彼らは今更何を意地はっているのかと思っただろう。ただ、自分にとっては、これは意地ではなかった。高校を辞めてから二十年間、変わらずに追い求めてきたのは、自分と社会との接点だ。その接点を、この羽根が持っていると感じていた。扉を開いてくれると感じていた。私にとっては、あれは意地ではなく、自分が生きる意味だった。
これを売ったら、きっとあの時の二の舞になるだろう。人には、絶対に売ってはならないものがあるのだ】

ここで出てくる「あの時」というのが、バンド時代のことだ。

彼は、18歳の頃突然ギターを買い、その数カ月後にはレコード会社からデビューしている。それから数年間、歌手として活動していた。詳しくは書かないが、その時の経験(振り返って判断すると、ほとんど“失敗”と呼ぶべきもの)が彼を大きく変化させた。特にこの、「絶対に売ってはならない」という意地(ではないと彼は言っているが)を通したことは、後の「バルミューダ」にとっては重要なことだったし、そしてその決断は、バンド時代の経験がなかったらありえなかった。

というかこの人、思考や価値観も凄いが、行動や技能も凄い。ギターを買ってすぐデビューというのも凄いが、「バルミューダ」の製品に関しても、材料の知識を東急ハンズの店員を質問攻めにして仕入れ、デザインソフトを自力で覚え、たまたま出会ったとても親切な工場で旋盤などの機械を使わせてもらい、そんな風に自力で家電を作るのだ。HPの作成も自力なら、流体力学の勉強も自力という、なんというかちょっと尋常ではない人間だ。本書を読んでいると、「考え方や価値観が彼を駆動している」と感じてしまうし、もちろんそういう側面はある。しかしその一方で、あまりにもさらっと書かれているから実感しにくいが、新しい知識や技能を習得する歳の集中力やセンスなんかがずば抜けているんだろう、と感じる。本書を読んでいると、扇風機とかトースターがあたかもさらっと完成したかのように感じてしまうが、そんなわけがないだろう。あまりにもそういう、技能やセンスに関する描写がなさすぎるので勘違いしてしまいそうになるが、彼は間違いなく、「何かを生み出すこと」という物理的な事柄に膨大な時間を注ぎ込んでいるし、さらにセンスの塊も持ち合わせているのだろうと思う。

本書の中で、一番好きな場面がこれだ。

【あの時、私は長年の疑問の答えが、やっと分かった気がした。自分たちの製品はなぜ売れないのか、これまで嫌というほど考えてきた。高いからだと思っていた。しかし、やっと気がついた。製品が売れないのは、高かったからではない。必要なかったからなのだ】

僕も小売業で働いていて、モノを作りはしないが売る立場にいる。だからこそこの「必要なかったからなのだ」という実感は日々強く感じるし、「必要だ」と感じてもらえるように売らないと誰にも届かないことが分かっている。

寺尾玄「行こう、どこにもなかった方法で」

「パッドマン 5億人の女性を救った男」を観に行ってきました

メチャクチャ面白かった!
これは凄いなぁ。
女性用ナプキンを開発する“だけ”の物語で2時間20分、しかも、まさか“国連”まで登場するとは!

この映画を見て一番驚いたことは、この物語が2001年が舞台になっている、ということだ。
マジか、と思った。

以前何かの本で、アフリカに避妊具を広めるボランティア活動をしている団体の話を目にしたことがある。コンドームの使い方を説明するのに、コンドームを指にはめて、こう使うんだ、とアフリカの人に説明をしたところ、コンドームを本当に指にはめて使うものだ、と勘違いされてまったく伝わらなかったらしい。要するに、おまじないか何かの類だと受け取られたのだ、という。

映画を見ながら、そのことを思い出した。

2001年当時、インドの女性は、生理期間の5日間、家の外で暮らさなければならない。都会ではどうか分からないが、物語の舞台になっている田舎では、生理は“穢れ”と呼ばれ、話に出すことも汚らわしいし、それについて触れることも恥ずかしい、という感じだった。しかも問題だったのは、出血のために使うのが汚れた布だ、ということだ。

主人公のラクシュミ(これは映画の中の名前で、実際にはムルカナンダムという名前の人物だそうだけど)は、妻が汚い布を使っていることを心配した。医者からも、生理に汚れた布や灰を使うことで病気になり、不妊になるケースだってある、という話を聞いた。ナプキンを薬局で買うが、55ルピーもした。これがどれぐらいの値段なのか分からないが、妻はあまりにも高すぎて薬局に返してきてと言うほどの値段だった。

これが、この映画の舞台である。

そんな中、ラクシュミは、妻のためにナプキンを自作することに決める。しかしこれが大騒動を引き起こすことに。ラクシュミの行動は、妻や周囲の人間を大いに困惑させることになったのだ。最初は妻に使ってもらおうと思っていたラクシュミだったが、数回使って止めてしまう。出来が良くなかったからだ。しかしラクシュミは諦めず、改良したものをまた使ってもらおうとしたが、妻は、この話を話題にすること自体が恥ずかしいからもう止めてと取り合ってくれない。そこでラクシュミは、自分が作ったナプキンを使ってくれる人をあれこれ探し、女子医大生にアプローチしたり、成人女性になったばかりの近所の女の子にナプキンを渡したりしていたのだが、その行動によってラクシュミは「イカれている」と判断されてしまうのだ。

ここからラクシュミがどうしていくのか、というのが物語の主眼なのだけど、しかしホントに、21世紀にもなって、まだ迷信や間違った伝統みたいなものに縛られ、それらを守るために自分の健康が害されても仕方がない、という判断がまかり通るというのは、やはり怖いことだ、と僕は感じた。

そして、ここで描かれていることはきっと、インドだけの問題でもないし、発展途上国だけの問題でもない。

例えば日本では、常時様々なダイエット法が現れては消えていく。はっきり言って、科学的に考えればダイエットなんか、「適度に運動すること」「バランスよく食べること」以外に方法なんかないと思う(それ以外の差は、元々の体質だから正直どうにもしようがない)。しかしみんな楽をしたくて、色んなダイエット法に手を出しては失敗する。

そういう行動を繰り返している人は、決してこの映画で描かれる「無知な女性たち」を非難できないと僕は思う。

そしてこの映画で描かれるもう一つの凄さは、ラクシュミの野望だ。ラクシュミにはある時点で、自分がより豊かになれる選択肢があった。しかしラクシュミは、その選択をしなかった。そして彼は、自分がより正しいと思える行動を取った。その選択は、本当に見事だったと思う。

この映画の副題は「5億人の女性を救った男」だ。これは、インドの女性人口が5億人であることから来ている。しかし彼が救ったのは、“たった”5億人ではない。彼が生み出した“魔法”は、経済的な理由でナプキンを手に入れることが出来ないすべての女性を、そしてさらに、仕事がなく自立出来ないでいるすべての女性を救う可能性を持っている。

いやはや、すげぇもんだな、と思いましたよ。

前半のラクシュミは、本当にメチャクチャ大変だったと思う。彼の行動の意味を、先進国に生きる僕らはもちろん理解できるけど、2001年当時のインドでは女性にも男性にも理解されなかった。ラクシュミが高潔な目的のために行うすべての行動が、「汚らわしい」「恥」「意味が分からない」「頭がおかしくなった」と言われた。彼はそれでも、決して歩みを止めなかった。それが凄すぎる。これは正直、「妻への愛」としか言いようがないのだけど、でも実際にはそれを超えていると言わざるを得ない。何故なら、ナプキンを作るという行動のせいで、妻の心がラクシュミから離れてしまうからだ。それでも彼は、目的のために邁進する。その凄まじさは並ではない。

そして後半のラクシュミは、メチャクチャ楽しそうに見えた!僕も、感覚としてはラクシュミの言っていることが分かる。どれだけたくさんお金があっても、どれだけ大きな家に住んでも、どれだけ美味しいものが食べられるとしても、たぶん僕は全然楽しくないだろう。それより、お金がなくても(貧しい生活でなければ)楽しいこと、あるいは誰かのためになることが出来る方がいいだろう。特にラクシュミのやっていることは、世界を変える可能性がある。実際ラクシュミが「ニューヨーク・タイムズ」や「LIFE」の表紙を飾っているような描写が出てくる。別にそうやって大きなものに評価されることが重要なわけではないけど、ラクシュミの行動は、小さな変化の積み重ねが大きな評価に繋がったという意味で非常に価値がある。

前に本で、最近アメリカなどでは、優秀な学生が、大企業の内定を蹴ってNPOなどに就職するケースが増えてきている、というような話を読んだことがある。給料ではなくやりがい、金儲けではなく問題解決のために自分の能力を活用したい、という人がどんどん出てきているというのだ。僕も、感覚としてはそちら側だ。確かに大金があったらよりやりたいことが実現できる可能性はある。しかし、大金があることでできなくなってしまうこともある。ラクシュミも、大金を手に入れられるチャンスはあったが、それでは彼が望んでいた未来は実現できなくなってしまう。だからこそ、大金を手にできるかもしれない可能性を捨て、別の可能性に賭けた。

そういう、実在した、凄い男の物語だ。

「パッドマン 5億人の女性を救った男」を観に行ってきました

「ハード・コア」を観に行ってきました

いやー、不思議な映画だったなぁ。意味不明だったけど、面白かった!ここまでストーリーの展開が予測出来ない物語も、久々だったなぁ。

物語は、右翼(なのかな?よく分かんないけど)の結社の代表に拾われ、恩義を感じている権堂右近という男の日常から始まる。彼は社会にうまく馴染めず、友人もほとんどおらず、女性にもモテない。ハロウィーンで騒いでいる連中に悪態をつき、街宣車の近くでビラを配り、また結社が軍資金として探している「埋蔵金」発掘のために、週に1度群馬の山奥で穴掘りをしている。右近は、同じ結社に所属する、ほとんど喋ることが出来ない牛山と仲が良く、彼といつも一緒にいて、牛山のために何かしてやろうと奮闘している。
右近には、左近という名の優秀な弟がいる。兄とはまったく違い、商社に勤め、女ともよく遊んでいるが、しかし実はそんな生活に倦んでもいる。左近は、酔っ払った兄を引き取ったりと世話を掛けられることを迷惑がっているが、しかし何だかんだ付き合いは細々と続いている。
彼らの生活は、あることによって一変する。しかしその変化は、右近と左近が協力することで生まれた。
きっかけは、牛山だった。彼は、元薬品工場である廃墟で寝泊まりしているのだが、そこで変なロボットを見つけたのだ。ガラクタにしか見えない、外見はお粗末なロボットだったが、あれこれいじっている間に何故か起動、さらに自律的に動き出した。彼らはそのロボットに「ロボオ」と名前をつけ、友人として扱うことにした。
弟の左近は、そのロボットを見て、彼なりに解析することにした。すると、とんでもないことが分かった。ロボオの搭載されているのは「QPU」、つまり「量子プロセッサ」であり、これはNASAやGoogleが大金を掛けて開発しようとしているものなのだ。なんでこんなものがここに?
左近は兄の右近から、ロボオのことを誰かに喋ったら弟であっても殺すと脅され、左近はロボオの存在を表沙汰に出来ないのだが…。
というような話です。

正直、ここからどう展開していくのかさっぱり分からなくて、どうなるんだろうと思いながら見ていました。僕には、「結局左近がロボオのことをバラしちゃうんだろうな」としか思えなかったんだけど、そうはなりません。っていうか、うっそマジでそう展開するわけ?っていうような流れになっていきます。正直、相当にぶっ飛んでるし、普通の物語だったら正直破綻しているレベルなんだけど、この物語は、割と冒頭から破綻してるっていうか、ムチャクチャっていうか、通常の感覚が通用しない世界観で展開されていたんで、観ている側としてはそこまで違和感はないな、という感じがしました。

右近と左近の価値観があまりにも違いすぎる、っていうか、兄の右近があまりにも全時代的すぎる(なんていうと、右近みたいな生き方をしている人には申し訳ないけど)ので、右近と左近はあまりにも相容れません。しかしこの映画の凄いところは、そんな「世間の当たり前から完全に取り残されている右近」の視点で物語が進んでいく、ということです。ごくごく当たり前の感覚からすると、それは物語として成立し無さそうな気がするんだけど、それを右近(山田孝之)と牛山(荒川良々)という異様な存在感の二人が成り立たせている、という感じがしました。正直この映画、山田孝之と荒川良々じゃなかったら、成立しないんじゃないかなぁ。そういう意味で、ちょっと異次元の映画だな、という感じがしました。

さっき書いた、「っていうか、うっそマジでそう展開するわけ?っていうような流れ」の後も、物語がどう転んでいくのか分かんなくて、ずっと不安定さを感じさせる映画でした。それは僕の中では割と新鮮な感じがして、凄く良かったです。最後の最後まで、「なるほど、これからこうなるんだね」と想像させる場面がないというか、最後まで「そうなるんだ!」って感じで、普段映画を観ている感覚とはちょっと違いました。物語が不安定だから、マイナス面もあります。大体物語って、「きっとこうなるんだろうな」という予感が土台にあって、その予感が実現することによって心が動かされる、みたいな部分ってあると思います。けどこの映画の場合は、予感をまったく感じさせないから、心が動かされる感覚が他の映画より弱いと思います。ただ、たぶんそれも計算されているんだと思うんだけど、この映画では、兄の右近も弟の左近も、あるいは牛山も、「共感される存在」としてまったく描かれていないんですね。右近は、いいヤツだけど時代錯誤な結社にいて世間と隔絶している。左近は、世間とはうまくやっているし、たぶん外面はいいんだけど、人間的にはちょっとイヤなやつ。牛山は、喋れないキャラクターだし、何を考えているか分からない人という造形がされているから、そういう意味で共感が入り込む余地がない。だからこそ、「物語が不安定であることによって、共感によって心を動かす前段階である予感を抱かせる」という要素が欠如していても成立するんだろうな、なんて思いました。

まあ、この映画についてはあまりうまく説明できないんで、気になる方は観て下さい(笑)

エンドロールで気になったのは、「特別協力」で「深田恭子」の名前が挙がっていたこと。これが、女優の深田恭子なのか、同姓同名の別人なのかは分からないけど、普段エンドロールの特別協力のところに、女優の名前を見かける機会がないので、気になりました。山田孝之が、俳優のプロデュース的なことをする会社を作った、みたいなニュースを見かけたこともあるんで、もしかしたらそういう絡みもあるかもしれないなと思ったり。

「ハード・コア」を観に行ってきました

強い力と弱い力 ヒッグス粒子が宇宙にかけた魔法を解く(大栗博司)

さて、この本の内容をなるべくちゃんと説明しようと思って、色々考えていたんだけど、でもやっぱりちょっとそれは難しいかもと思いました。

本書は、「標準模型」と呼ばれる、素粒子物理学の現時点での到達点を説明する本としては、恐ろしく分かりやすいし、読みやすいし、面白いです。僕がこういう分野の本を元から結構読んでいるということはもちろん無関係ではないと思いますが、とにかくスイスイ読めました。本書で初めて「標準模型」に触れる人は、やはり難しさを感じるとは思いますが、それは「説明」が難しいのではなくて「標準模型」が難しいのです。本書は、超難解な「標準模型」を説明する本としては、とても分かりやすいと思います。

ただ、僕が「理解したと思っていること」を、誰かに説明するのはまたちょっと別の話だな、と思います。僕は本書を読んで、かなり理解できた気になっているけど、でもやはり、誰かにちゃんと説明できそうにない以上、ちゃんとは理解していないということなんだと思います。

というわけでこの感想では、大雑把な流れだけ触れていこうと思います。

本書は、一体何について書かれた本かというと、それは「標準模型」についてなんですけど、もう少し詳しく書くと、「なぜヒッグス粒子の発見が大ニュースだったのか」を理解するための本、と言っていいでしょう。「ヒッグス粒子」というのは、「標準模型」に含まれる18種類の素粒子(パラメータ)が存在していますが、その中で最後まで発見されていなかったものです。つまり、「ヒッグス粒子」が発見されたことで、ようやく「標準模型」が完成した、と言えるのです。

しかし、「ヒッグス粒子」の重要度はそれだけではありません。そもそも「ヒッグス粒子」は、「弱い力」の3つの大きな謎を解くために存在が仮定されたものです(まあ実際には、「強い力」を解くために最初は仮定されたんですけど、その辺りの顛末は是非本書を読んでください。ワインバーグさんが頑張ったみたいです)。もし「ヒッグス粒子」というものが(というか、正確に言えば「ヒッグス場」が)存在すれば、「弱い力」が抱えていた難問3つを一気に解決できるぞ!と期待されたわけです。しかしその一方で、「ヒッグス場」の存在を導入しないで「弱い力」を説明する理屈も提唱されていました(「テクニカラー理論」と呼ばれていました)。つまり、「ヒッグス粒子(ヒッグス場)」が発見されたことで、「ヒッグス粒子(ヒッグス場)」が組み込まれた理論の方が正しい、ということがはっきりするわけです。

本書の著者は、この「ヒッグス粒子」の発見について、こんな風に書いています。

【ヒッグス粒子発見の宣言を聞いて、「自然界は本当に標準模型を採用していたのだ」という驚きと感動をかみ締めました】

物理学者でないとなかなか実感できないとは思いますが、本書冒頭のこの文章を読めばもう少し理解できるかもしれません。

【私が感動したもう一つの理由は、ヒッグス粒子の発見は、技術の勝利であるとともに、数学の力でもあったということです。
この粒子の存在は、素粒子の世界を数学的に説明するために、理論物理学者たちが紙と鉛筆で考え出したものです。「こういう素粒子があれば理論的に辻褄が合う」という形で予言したものですから、本当にそんなものが存在するかはわかりませんでした(中略)
ところが今回の発見で、自然界がその理論を採用していたことがわかりました。人間が頭の中で考え出したことが、自然の基本的なところで実際に起きていたのです】

理論的制約の中で生み出されたものだとはいえ、人間の「妄想」でしかなかったものが、実験によって存在することが確かめられ、自然の精緻さを感じた、ということで、そう説明されると、ちょっとは分かるような気がします。

さてでは、「ヒッグス粒子」はどのようにして「弱い力」の謎を解消したのか。それが「自発的対称性の破れ」と関わってきます。つまりこういうことです。

「自発的対称性の破れが起こっているなら、弱い力の謎はすべて解消される」→「自発的対称性の破れが起こるような仕組みを考えよう」→「その仕組みの核となるものがヒッグス粒子(ヒッグス場)である」

この「自発的対称性の破れ」は、南部陽一郎という理論物理学者が考え出したものです。彼の業績については本書にも色々言及がありますが、二つほど抜き出してみましょう。

【2004年に強い力の「漸近的自由性の発見」でグロス、ウィエウチェック、ポリッツァーの三人がノーベル賞を受賞した際、スウェーデン王立科学アカデミーの公式発表には「南部の理論は正しかったが、時代を先取りしすぎた」との異例の言及がありました】

【(偉大な理論物理学者には、賢者、曲芸師、魔法使いの三種類のスタイルがある、という著者の発言の後)そして、ごく稀に魔法使いとしか考えられない研究者が現れます。彼らの仕事は、時代を超越しているので、並の研究者にはすぐに理解できません。論文を読んでも、どうしてそのようなことを思いついたのか、なぜそうなっているのか、見当がつきません。しかし、彼らはこれまで誰も見たことのない自然界の深い真実を指し示しているのです。
南部は二十世紀を代表する魔法使いと言えるでしょう】

「自発的対称性の破れ」について本書では、【専門の物理学者でさえその意義を理解するのに何年もかかった理論】と書いていて、とにかくいかにそれが独創的で、しかもあらゆる分野に関わる発見だったことが示唆されます。

この「自発的対称性の破れ」自体の説明はしませんが、何故これが「弱い力」の謎を解くことになったのかは書いておきましょう。

とここでようやく、「強い力」と「弱い力」が何なのかの説明を挟みたいと思います。

まず「強い力」から。これは、「クォーク同士を結びつける力」です。「クォーク」というのは、原子よりもさらに小さい、現時点で物質の最小構成要素と考えられているものです。例えば原子などは、三つの「クォーク」が結びついて出来ている、と考えられています。そしてその「クォーク」を結びつけているのが「強い力」なわけです。

一方「弱い力」は、「ある粒子を別の粒子に変える力」です。例えば「中性子」という粒子は、「弱い力」の働きによって、「陽子」という粒子(に加えて「電子」と「反ニュートリノ」)に変化します。

ちなみに、この「強い力」「弱い力」という変な名前は、ちゃんとした正式名称(「重力」や「核力」などと同様に)なんですが、何に対して「強い」「弱い」のかというと「電磁気力」に対してです。自然界には「重力」「電磁気力」「強い力」「弱い力」の4つの力があるとされていて、その内素粒子物理学の世界では「重力」を除く三つが重要です(何故なら、「重力」は他の三つと比べて遥かに弱いからです)。で、「電磁気力」より強いから「強い力」、「電磁気力」より弱いから「弱い力」と名付けられたとのことです。

さて、「強い力」も「弱い力」も、発見された当時から謎だらけの力でしたが、「ヤン―ミルズ理論」という、場の量子論と呼ばれる理論が登場したことで突破口が開けることになります。僕には「ヤン―ミルズ理論」が何なのか説明できませんが、とにかくこれによって、最終的には「強い力」の謎も「弱い力」の謎も解けることになったんだそうです。

しかしそこには、「対称性」という大きな問題がありました。

「ヤン―ミルズ理論」は、「対称性」のあるものを入れ替える理論です。「対称性」というのは、「入れ替えても変わらない性質」のことです。例えば、正三角形は、60度回転させてもまったく同じ形のままです。この時、「正三角形には回転対称性が存在する」と言います。

で、「強い力」の場合は、「対称性」が保たれていたので、普通に「ヤン―ミルズ理論」が使えます。何の問題もありません。しかし「弱い力」の場合、「対称性」が保たれていなかったので、そのままでは「ヤン―ミルズ理論」を使えないのです。そして、この難問を解消するきっかけを作ったのが、南部陽一郎の「対称性の自発的破れ」という考え方なのです。

簡単に言うと、こういうことになります。「弱い力」も、理論上は「対称性」が保たれている。しかし現実には「対称性」が「自発的に破れている」のだ、と。理論の段階で「対称性」が保たれていれば、現実で「対称性」が保たれていなくても「ヤン―ミルズ理論」を使える可能性がある、と示したわけです。そしてヒッグスら(「ヒッグス場」のアイデアを考えたのは、ヒッグスも含めて同時期に3グループあったそうです)は、「ヒッグス場」というものが存在すれば、「弱い力」が「対称性の自発的破れ」を引き起こすモデルを作り出すことが出来る、と提唱し、「ヒッグス粒子」の発見によってそのモデルの正しさが証明されたわけです。

さてでは、「自発的対称性の破れ」とはどういうことなのか。これについては、僕が説明するより、本書を引用した方が伝わりやすいはずなので、引用します。

【鉛筆を尖った方を下にして机の上に立てようとしてみてください。どんなにがんばって釣り合いを取ろうとしても、結局はどちらかの方向に倒れてしまうはずです。鉛筆が倒れる前の状態には特別な方向はないように見えます。最初は回転対称だったはずなのに、倒れてしまった後には鉛筆の向いている方向が決まるので、対称性が破れてしまうのです。あなたが意図して鉛筆が倒れる方向を選んだわけではないのに結果的に対称性が破れてしまうので、「自発的対称性の破れ」と呼びます】

【南部はノーベル賞の受賞記念講演で、対称性の自発的破れを、次のようなたとえで説明しています。
広い体育館の中にたくさんの人々が並んで立っていると思ってください。この体育館は完全な円形で、壁には時計もなければバスケットボールのゴールやステージもありません。したがって、どちらを見ても風景は同じ。つまり回転対称の状態です。
特別な方向がないので、そこに立っている人々はどちらを向いてもよさそうです。ところが彼らは付和雷同しやすい性格で、周りの人たちと同じ方向を向きたがる。最初はバラバラの方向を見ているのですが、その中の何人かがある方向を向くと、周囲もそれにつられて同じ方向を向くようになります。その結果、体育館そのものは回転対称なのに、そこにいる人々がすべて同じ方向を向く。回転対称性が自発的に破れているのです】

なんとなくイメージは伝わるでしょうか?「体育館そのものは回転対称なのに、そこにいる人々がすべて同じ方向を向くことで回転対称性が破れる」というのが、「弱い力は元々対称性を持っているんだけど、ヒッグス場によって対称性が破れる」と対応しています。そして「弱い力」は、元々対称性を持っているので、「ヤン―ミルズ理論」が使えて、大きな三つの謎が解消される、というわけです。

さて、大雑把にここまでの話をまとめてみましょう。

まず人類は、「強い力」と「弱い力」という、それまで知られていなかった未知の力を発見することになります。それらの力は、色々調べれば調べるほど謎めいていて、まともなやり方では説明がつきそうにありません。しかし、ようやく「ヤン―ミルズ理論」というものが登場し、「強い力」の謎が解き明かされることになりました。「ヤン―ミルズ理論」というのは、「対称性」が保たれていることが重要で、「強い力」は「対称性」が保たれているので、「ヤン―ミルズ理論」によって美しく説明がつくことになりました。しかし「弱い力」はそうはいきません。何故なら「対称性」が保たれていなかったからです。「弱い力」では、「対称性」が保たれていないせいで、解き明かされない3つの難問がありましたが、それらは、「弱い力」に「対称性」があるとすれば(「ヤン―ミルズ理論」が使えるので)
解消される問題でした。
そこで考え出されたのが「自発的対称性の破れ」です。世の中には、「対称性」が存在していても、それが自発的に破れてしまうことがある、という見方を南部陽一郎が提示し、「弱い力」の謎が解かれる可能性が拓かれました。そして、ヒッグスらが、「ヒッグス場」と呼ばれるものを導入することによって、「弱い力」に「自発的対称性の破れ」が起こるモデルを示すことが出来ました。そして「ヒッグス場」を導入したモデルによって、「ヒッグス粒子」と呼ばれる、まだ誰も見たことがない新粒子の存在が予測されるので、もしそれが実際に発見されれば、このモデルの正しさが証明されます。そして実際に「ヒッグス粒子」は発見され、それによって「ヒッグス場」が存在することが明らかになったので、ようやく「弱い力」の謎が解き明かされると共に、「標準模型」と呼ばれる、ノーベル賞受賞者だけでも40人以上が関わった、現時点での素粒子物理学の最高峰と呼べるモデルが完成した。

というわけです。

というわけで大体僕の説明は終わりですが、「ヒッグス粒子」に関する誤解を2点ほど取り上げて終わろうと思います。

まず、僕も実際に報道などで目にしましたが、「ヒッグス粒子は物質の質量の起源を説明する」という理解は、ほぼ間違っているそうです。何故なら、物質の質量の99%は「強い力」が生み出していて、残りの1%を「弱い力」(というか「ヒッグス場」)が生み出しているからです。もちろんこの1%の質量も重要なわけですが、物質の質量の99%は「ヒッグス粒子」とは無関係だそうです。

また「ヒッグス粒子」は「神の素粒子」と呼ばれていましたが、これにもちょっとしたエピソードがあります。ヒッグス粒子は、提唱されてから発見されるまで実に48年も掛かりましたが、あまりにも見つからないので、「ヒッグス粒子」についての解説書に「Goddamn Particle」というタイトルをつけようとした科学者がいたそうです。「goddamn」というのは「神(god)に呪われた(damn)」から転じて「こんちくしょう」とか「いまいましい」という意味を持つ単語だそうです。普段使ってはいけない下品な言葉で、経験なキリスト教徒なら神への冒涜とみなすほどだそうです。だから担当編集者はそのタイトルを却下し、代わりに「God Particle(神の素粒子)」というタイトルを付けたんだそうです。面白いですね!

本書の巻末には、「莫大なお金を掛けて加速器を建設し、何の役にも立たなそうな実験をすること」についてどんな価値があるのかについて書かれています。有名なエピソードは(僕は他の本でも読んだことがあります)、19世紀に電磁誘導を発見したマイケル・ファラデーの言葉でしょう。

【マイケル・ファラデーは、当時の財務大臣ウィリアム・グラッドストーンに「電気にはどのような実用的価値があるのか」と問われ、こう答えたといいます。「何の役に立つかはわからないが、あなたが将来、それに税金をかけるようになることは間違いない」】

新しく発見されたものの実用的な価値がすぐに見つかることはむしろ稀と言っていいでしょう。発見された当初は、大体のものが何に利用できるか分からないものです。しかしそうやって発見されたものが、僕らの生活を激変させてきたのも間違いのない事実なわけです。だから、「それが何の役に立つのか?」という質問に科学者が答えられないとしてもそれは当然のことであるし、仮に結果的にその発見が後世にまったく役に立たなかったとしても、それは、価値ある発見のためのリスクと捉えるべきだ、と僕は感じています。

また、面白かったのがこの値段の比較です。

【LHC(※加速器の一種)建設費の4000億円を「高い」と感じるか「安い」と感じるかは、人それぞれでしょう。比較のために、米国の最新鋭航空母艦一隻の建造費は、その2.5倍の1兆円2012年に開催されたロンドン・オリンピックの予算は3倍の1兆2000億円でした。また、ブラウン大学の調査によると、2001年9月11日以来のイラクやアフガニスタンでの武力衝突に、米国政府は2011年までの10年間でおよそ300兆円を費やしたそうです。日割りにすると、LHCを5日に1台建設できるだけの金額になります】

イラク戦争などはともかく、オリンピックの予算が1兆円を超えているとすれば、4000億円なんて大したことないなって感じますよね。

大栗博司「強い力と弱い力 ヒッグス粒子が宇宙にかけた魔法を解く」

恐竜はなぜ鳥に進化したのか 絶滅も進化も酸素濃度が決めた(ピーター・D・ウォード)

なかなか興味深い本ではあったのだけど、いかんせん、思ってた以上に難しい本だった。
ちょっと僕には、なんとかついていくのがやっと、という感じで、ところどころ飛ばしながらの読書になってしまった。
イメージとしては、一般向けの本でありながら、学術論文に近いんじゃないかと思う(とはいえ僕は、学術論文を読んだことはないのだけど)。
一般向けの本だったら、もうちょっと細部を端折りながら書き進めてもいいような場面でも、かなり詳細に緻密に説明をしていく。
だから、書かれている内容には非常に興味が持てるのだけど、読み解いていくのにちょっと苦労する本だった。

一応、僕が理解できた範囲で内容を紹介しよう。
本書は、まさに副題の通りの本で(だから、タイトルと中身はちょっとズレると思う)、これまでの地球上の生命の歴史を「酸素濃度」という観点から新たな仮説を提示する本なのだ。

どういうことか?

実は、地球上の酸素濃度は、過去6億年間の間で大きく変動しているのだ。どうしてそれが分かったのか、僕は説明が出来ないが、とりあえず信頼すべき研究があって、その研究によると、地球上の酸素濃度は12%~35%の間を変動していたという(現在は24%)。そしてその変動の時期が、動植物の絶滅や進化のタイミングとある程度一致するのではないか、というところから本書では様々な仮説が提示されているのだ。

【これから本書で述べることの要旨は、単純そうに見える。すなわち、歴史を通じての大気中の(ひいては海中の)酸素濃度の時間的変化が、地球上の動物の性質、すなわち、形態および基本的な体制(ボディ・プラン)、生理、進化および多様性を決定するもっとも重要な要因であったというものである】

例えば、非常にわかりやすい話で言えば、何故生命は海を出て地上で生きることにしたのか、という問題がある。生命は海で誕生し、「酸素を取り込む」という意味で「鰓(エラ)」を進化させ、海水中に溶けているあまり多くはない酸素を効率よく体内に取り込むことが出来るようになった。しかし、「鰓」というのは水中の酸素を取り込むのに適した仕組みであり、地上では使えない。地上で生きるために、生命は「肺」を進化させなければならなかったのだけど、しかしそんなことが出来たのも、地球上の酸素が非常に高濃度な時期だったからだ、というのが著者の仮説だ。鰓から肺への進化の途中で、地上の酸素濃度が異常に高かったからこそ、生き延びることができた、というのだ。

また、二足歩行も酸素濃度(というか呼吸)と関係があるという。爬虫類は基本的に足が身体の側面に付いている。この構造だと、歩く度に肺が押されてしまうために、爬虫類というのは基本的に、歩いている間は呼吸が出来ないらしい。しかし、酸素濃度が低い環境だと、それは結構致命的だ。だから、歩きながらでも肺が押されないために、足が身体の下に付くデザインになり、これによって二足歩行が可能になったのだ、と本書には書かれている。

こんな具合にして、生命の6億年の様々な歴史を、「その時々の酸素濃度」をベースに構築し直そうというのが、本書が目指す野心的な取り組みなのだ。もちろん、本書に書かれていることはほとんどが仮説であり、本書にも、「◯◯だったのかもしれない」というような表現が多用される。そういう意味で学術論文ではないのだけど、一般人が読む分には、凄く納得させられるというか、「酸素濃度」という切り口一つでこんなにも様々な事柄が説明できてしまうんだ、ということに驚かされた。

本書では、様々な時代の地球の様子が、まるで見てきたかのように描かれる。例えば、「オルドビス紀」にタイムマシンで下り立った、という設定で、こんな描写がなされる。

【私たちが陸地の上をゆっくりと通過していくとき、そこが緑におおわれていることにすぐに気がつく。まだ樹木はなく、ごくふつうの根をもつ植物さえ生えていないが、コケ類が一面に広がり、そのなかに原始的な維管束植物も見られる。また陸地の表面ではごくまれに動物の動きも見られる。それらは脊椎動物ではなく、多様な、サソリ類やムカデのような姿をした節足動物である…】

こういうような描写が数ページ続く。もちろんこれらは、現時点での最新の研究を踏まえた上での、ほぼ確実と言えるデータを使った描写なんだと思うんだけど、こういう部分を読む度に、科学者ってのは凄いもんだな、と思います。過去6億年間の生命のあり方なんて、基本的には「化石」か「過去の動物から進化した現生動物」を調べる以外に出来ることはなさそうだし、世界中の研究者による膨大な事実の積み上げによって、ここまでのことが分かるんだなぁ、ということになんか感心してしまいました。

まあそんなわけで、本書は興味深い本ではあったんだけど、僕が理解するにはなかなか難しい本でした。とはいえ、理解できる部分を断片的に摘み読みしているだけでも、「酸素濃度」という一要素だけを以って、様々な事柄を説明してしまうというのは見事だと思うし、これらの仮説が正しいかどうかはまだまだ分からないながらも、その真偽が早く判明してほしいなぁ、と思いました。

ピーター・D・ウォード「恐竜はなぜ鳥に進化したのか 絶滅も進化も酸素濃度が決めた」

「アース アメイジング・デイ」を観に行ってきました

いやー凄かった!
別に普段は、「自然の雄大さが云々」みたいなことってそこまで関心はないんだけど、この映画は凄かったなぁ。
ホントに、「どうやって撮ってるの?」って思う映像のオンパレードで、衝撃的でした。

この映画を観ていて一番不思議に感じたことは、「次に何が起こるかが分かっていた上でカメラワークを決めているように見える」という点です。
映画とかドラマなら、そりゃあ分かります。役者にこう動いてほしいという指示をして、それをベースにカメラワークを組み立てるでしょうから、「次に何が起こるか分かっている」し、その上で想定した動きを撮ることが出来る。

でも、自然相手だとそうはいかないじゃないですか。

例えばこの映画の中で、キリンの決闘のシーンが出てくる。少なくとも僕には、「キリンがこれから決闘するぞ」なんていう予測が出来るような気がしないんですよね。でもこの映画の中では、決闘前のキリン同士がなんか睨み合ってるような場面とか、一頭のキリン越しにもう一頭のキリンをなめるように撮るみたいな場面があるわけなんです。こういう映像は、「決闘が始まってからカメラを向ける」では当然遅いし、「決闘が始まることを予想して撮る」だけでも遅くて、「決闘が始まることを予想しつつ、その決闘シーンが最もよく映るようなカメラワークを同時進行で考えながら撮る」みたいなことをしないと無理な気がするんですよね。でも、もちろんそういう撮り方をしても、望んだ通りの展開に常になるわけがないんだから、とにかく膨大な時間を費やしながら、毎回最高の展開になることを期待しながら、愚直に地道な手順を踏みながら撮影した結果なんだろうなぁ、と思いました。

あと不思議だったのは(映像の撮り方的に不思議なことは色々あるんですけど)、ガラパゴス諸島のウミイグアナの子供の映像です。ウミイグアナの子供は、砂の中に数ヶ月いて、しばらくしたらそこから自分で出てくるんだけど、でもウミイグアナたちが普段いる岩場までたどり着く間に、天敵であるヘビに狙われてしまうんです。そのまさにカーチェイスのような攻防を巧みに映像に収めているんだけど、不思議だったのは、どうしてそこからウミイグアナが出てくるか分かるのか、ということです。ウミイグアナの子供が、砂の中のどこにいるのかが、分かる方法があるのかなぁ。あるのかもしれないけど、常にカメラが、ウミイグアナが出てくる瞬間を捉えているから、そこから出てくるんだってことがあらかじめ分かってないといけないし、どうやったらそんなことが出来るんだろう、って思ったりしました。

あと、モンカゲロウも不思議だったなぁ。モンカゲロウって、エサを食べず、口もないらしくて、孵化してから数時間しか生きられないらしいです。3年間水中で過ごして、ある日500万匹が一斉に羽化して交尾をし、数時間で死んでいくらしいんだけど、ってことはつまりですよ、そのモンカゲロウ500万匹の群生を映像に捉えるためには、3年間の内の僅か数時間しか撮影チャンスがない、ってことですよね?もちろん、前回のモンカゲロウの群生がいつ起こったのか、ということがある程度分かれば、それなりに予測が出来るだろうとはいえ、それでも大きな賭けになるだろうな、って思います。これも忍耐強く待つしかないんだろうけど、凄いなぁと思いました。

また、ハイスピードカメラ(名称が合ってるか自信ないけど)でロケットハチドリとミツバチを撮影しているんだけど、これも凄かった。途中で雨が降ってくるんだけど、その雨粒がロケットハチドリとミツバチに当たる瞬間を撮ってるんですね。僕のイメージでは、ハイスピードカメラって、カメラ自体を急に動かしたりするとうまく映像が撮れないような気がしてて、だから基本的には画角を固定して撮るものだと思ってるんだけど、だとすると、固定した画角の中でたまたまそういう雨粒が当たる場面が撮れるまでじっと待ってるしかない、ってことになるような気がするし、それも凄いなぁ、と。

他にも、雷が鳴り響く様をバックに画面を覆い尽くすほどのコウモリの群れを撮影した映像なんかはホントに綺麗だし、あるいはヒグマが幹に背中を擦り付ける映像はチャーミングで可愛かったし、普段は絶対観られないようなグッと来る映像がたくさんあって、観て良かったなと思いました。

「アース アメイジング・デイ」を観に行ってきました

「ボーダーライン ソルジャーズ・デイ」を観に行ってきました

凄い映画だったなぁ。
なんというのか、色々考えさせられた。

トランプ大統領が、メキシコとの国境に壁を作ると言っている。
この発言は色々と物議を醸しているし、賛否両論あるのだろうけど、基本的には「トランプ大統領は何をアホみたいなことを言っているんだ」というような情報の出方・捉えられ方をしているように僕には感じられる。

僕も確かに、そう感じていた。ちょっとそれはやりすぎではないか、と。

しかし一方で、この映画で描かれていることが真実(あるいは真実に近い)とすれば、ちょっとその認識も変化させなければならないかもしれない、とも感じる。

現在、メキシコとアメリカの国境を、毎年数千人の人間が、高い手数料を払って密入国させているという。そして、それを取り仕切っているのが、メキシコの麻薬カルテルだと言う。

20年前は、国境間を運んで最も価値が出るものはコカインだった。しかし今は、人だという。密入国は、大きなビジネスになる。この映画では、その現実が描かれている(※とはいえ、一応こうも考えている。この映画は、もしかしたらアメリカのプロパガンダ映画なのかもしれない、と。どの国が作った映画なのかは知らないけど、この映画が、「メキシコとの国境をどうにかしないとヤバイ」というアメリカ国民の世論を高めるために作られた、みたいな側面があるとしたら、描かれ方をそのまま受け取るのもちょっとマズイかもしれない。とはいえ、そこまでの判断が出来るほど知識がないので、とりあえずこの映画で描かれていることが真実に近いものだという前提で書く)。

「密入国」が法律上ダメなのは理解している。しかし一方で僕は、様々な理由から、より豊かな生活、安全な生活、不自由のない生活を求めるために別の国を目指す、という気持ちは尊重されていいとも思う。しかし、あまり詳しく知識はないが、アメリカに限らずだろうが、外国人が別の国で永住権を得る、みたいなことは、なかなか難しいんだと思う。だから「密入国」してしまう。そういう、生活のための「密入国」は仕方がないと思ってしまう。とはいえ、生活のための「密入国」なのか、あるいは悪さをするための「密入国」なのかを区別する方法がないから、「密入国」をすべて取り締まる、という形にしなければならないのも当然だと思っている。

しかし難しいのは、「密入国」が禁止されているからこそ、「密入国」を支援するビジネスがアンダーグラウンドの世界で成立する。ビジネスとして成立し、規模が大きくなればなるほど、結果的に「密入国」してくる人間は増えることになる。もちろん、単純に国境を開放しておくのと比べれば、そりゃあ雲泥の差で少ない人間しか入国できないだろうが、しかしそれでも、「密入国」が禁止されているが故に、「密入国」が増える、という現実は存在する。

そういう現実が、現に存在するという世界の中で、果たしてどういう決断が正しいのかを考えることは、なかなか難しい。

国境に壁を作る、という決断を支持するつもりは決してないが、しかしその決断によって、麻薬カルテルによる「密入国ビジネス」に大打撃を与えることが出来るなら、最悪の選択と言うことも難しいのかもしれないと、この映画を見ながら考えていた。しかしその一方で、やはり対立からは何も生まれない、とも感じてしまう。恐らくこの映画のもう一つのテーマは、そこに設定されているはずだ。主人公の一人である殺し屋と、ある少女との奇妙な関わりは、そのことを強く示唆する。価値観の異なる者、あるいは憎しみを持っている者同士が、相手をただ排除するだけの選択は、結果的に双方の未来を良くしない。双方がそう信じることによってしか、最良の未来が切り開かれることはきっとないのだろう、と思うが、しかし国家間でその選択は、やはり出来ないだろうなとも感じた。

僕はこうやって、結論を出さずにただ悩んでいるだけでも問題ない立場だが、しかし政治家などは決断し実行しなければならない。最良の選択肢を取ることは出来ず、他のどの選択肢も最良から程遠いとするならば、保留せず決断して実行するという選択をしたことそのものを評価すべきなのかもしれないなぁ、とも感じさせられてしまった。

内容に入ろうと思います。
殺し屋であるアレハンドロは、CIA特別捜査官であるマットと組んで、様々な国家的な困難なミッションに取り組んできた。そんなアレハンドロがマットから依頼されたのが、メキシコの麻薬カルテルの撲滅だった。マットは国防長官と話をし、メキシコ内の麻薬カルテル同士を争わせる作戦を取ることにした。現状で麻薬カルテル同士は安定した膠着状態にあるが、彼らが争っていてくれる方が「内戦状態」と定義出来て、軍を動かしやすくなるからだ。そこで彼らは、麻薬カルテルの一つを襲撃し、敵対する麻薬カルテルの仕業に見せかけ、また、巨大カルテルの支配者であるカルロス・レイエスの16歳の娘・イザベルを報復として拉致された風に見せかけた。仕事は順調に進み、自分たちで救出した風に見せかけたイザベルをメキシコに送り届けようと、装甲車の車列を組んでメキシコの砂漠を走っていたが…。
というような話です。

観終わってから知ったけど、この映画続編なんですね。シリーズ物だったみたいです。僕としては、この映画だけ見ても十分面白いと思うけど、前作から見ている方が、アレハンドロとマットの関係性がより深いものに見えるでしょうし、たぶんアレハンドロの過去がそっちで描かれているんでしょう。

かなり良い作品でした。とにかく単純に、ストーリーが面白い。これから物語がどう展開していくんだろう、という興味を強く湧かせるサスペンスフルな映画で、面白かったなぁ。色々考えさせられる映画なんだけど、そういうことを抜きにして、ただストーリーだけ受け取ってもメチャクチャ面白い映画でした。

アレハンドロとマットが関わらない展開のストーリー軸があって、これがこれからどう物語に関係していくんだろう、と思ってたんだけど、なるほどそうなるのか!という感じでした。まさか、この映画の始まりから、アレハンドロがあんなことになるなんて誰も思わなかっただろうし、ってかそこから「えっ!マジ!」って展開になるし、しかもそこからさらに「嘘でしょっ!」ってことになっていくんで、凄いなって思いました。

あと、こういう映画を見るといつも感じるのは、「正義」についてですね。人の数だけ正義があることは理解しているつもりで、とはいえ、ここまで「正義」が分断されていくと、人間同士が理解することの困難さが本当に激しくなるなぁ、と思います。

トランプ大統領の、国境に壁を、という話に、今までさほど関心はなかったんだけど、この映画を見たことで、ニュースを今までとはちょっと違った風に受け取れそうな気がします。

「ボーダーライン ソルジャーズ・デイ」を観に行ってきました

天才ガロアの発想力 対称性と群が明かす方程式の秘密(小島寛之)

難しかった!
一応、自分が読んでいる分には、理解できなくもないっていうか、なんとなく理解したような気になれる部分もあるみたいな感じだったんだけど、いざそれを誰かに説明しようとしても、絶対に無理だ。それぐらい、かなり難しい本だった。

巻末に著者は、【本書は、13歳だった頃のぼくを想定読者に書きました】と書いてあって絶望しました(笑)。著者は東大の数理学部数学科卒業だとかで、「数学科」っていうだけで超絶頭の良い連中揃いだってのに、さらに東大なんだから、まあ天才中の天才と言っていいでしょう。そんな天才中の天才の「13歳」に遠く及ばない知性しか持たない僕には、なかなか難しい本でした。

いや、僕だって、たぶん15時間ぐらい本書を読むのに時間掛ければ、今よりずっと理解できると思います。そういう意味で、確かに凡人でも頑張ればそこそこ理解できる内容だとは思います。決して本書での説明が悪いとかではなく、本書で扱われている数学のレベルがメチャクチャ高いのです。

著者も巻末で、

【ぼくは、代数学、集合論、微積分学の初等的な知識は独習で身につけましたが、ガロア理論にだけは歯が立ちませんでした】

【数学科に在籍したとき、ガロア理論の教科書を何冊か勉強しましたが、視界のきかない山道を延々と登らされているように苦しく、青息吐息でした。どうにか期末試験にはパスしたものに、「心からわかった」という気分にはなりませんでした】

と書いています。東大の数学科なんていう、正直化け物みたいな人間しか行けないような頭脳を持った人間でも相当に難しく感じる、というほど、このガロア理論は難しいわけです。

しかし、そんなガロア理論を、ガロアは弱冠20歳の頃に完成させるんですね。しかも、彼が書いた数学論文は、なんと遺書だったわけです。その翌日、決闘をすることになっており、その決闘によって天才ガロアは命を落としてしまうのです。マンガみたいな話ですけど、ホントみたいです。

ガロアが数学に成した功績は、莫大だったようです。

【このようなガロアの発想は、20世紀以降の数学の研究の方向性を劇的に変えることになりました。】

僕は昔何かで、こんな文章を読んだ記憶があります。天才と言われる人の中に、アインシュタインがいます。アインシュタインは、相対性理論を生み出して物理学の世界を一変させましたが、しかしこの相対性理論は、恐らくアインシュタインじゃなくてもきっと別の人間が作り上げただろう、と言われています。たまたま最初に見つけたのがアインシュタインだっただけで(それももちろん十分凄いことですが)、アインシュタインが存在しなかったとしてもきっと別の誰かが相対性理論を生み出しただろう、と。しかし、ガロアが生み出した群論と呼ばれる新しい数学の分野は、天才ガロアがいなければ誰も生み出せなかったかもしれない。それぐらい、群論というのは独創的で特異な発想であり、さらにあらゆる分野に広範囲に関係してくるものであるということが、ガロアが天才と言われるゆえんだそうです。

さて、そんなガロアはじゃあ一体何をしたのか、というと、基本的には「五次以上の方程式には解の公式は存在しないよ!」ということを、その理由まで含めて明確に示したわけです。そしてその過程で、「体」や「群」という、それまでの数学には存在しなかった新しい概念を生み出したわけです。この「体」や「群」が、数学だけではなく、生物学や物理学など他の分野でも威力を発揮する、凄いツールになっていくわけです。

じゃあ、「体」とか「群」って何よ、って話になるんですけど、僕の理解はここで止まります。本書を読んで「体」とか「群」について分かった部分ももちろんあるけど、まとまった形で誰かに説明できるほどの理解度にはまったく達していません。「体」とか「群」って、割と色んな本を読んでるんだけど、未だにすんなりと頭の中に入ってくれないなぁ、という感じです。難しい、ホントに。

面白いと思ったのが、人工甘味料の話です。何で数学の話に人工甘味料が出てくるかというと、「群」というのが「対称性」というものに関係するからです。「対称性」にも色んな種類があるんだけど、例えば鏡に写すのと同じ「鏡像対称性」というのもあります。で、ここから数学の話から外れますが、化学物質というのは、構成する分子や結合の仕方が同じでも、「鏡像」つまり「鏡に写した形」は別の物質になるものがほとんどなんだそうです。で、「鏡像」が異なる物質になるものを「キラル」と呼ぶそうですが、「キラル」の「鏡像物質」は自然界には存在しないことがほとんどなんだとか。だから、「キラル」の「鏡像物質」を人工的に作り出したものが「人工甘味料」なんだそう。「人工甘味料」は、「キラルの鏡像物質」という特性を活かして、甘みは感じるんだけど体には吸収されない物質なんだそうですよ。こんなところにも数学の話が関係してくるんですね!

小島寛之「天才ガロアの発想力 対称性と群が明かす方程式の秘密」

絵とは何か(坂崎乙郎)

なかなか難しい本だったなぁ。
僕の勝手なイメージでは、もう少しとっつきやすい本かなぁ、と思ってたんだけど。

僕の勝手なイメージでは、もう少し抽象的に「絵」というものについて描いている本なのか、と思っていた。
「抽象的」というのはどういう意味で使っているかというと、「具体的ではない」ということだ。つまり、あまり具体的に画家の名前や作品名なんかを表に出すことなく、抽象的な概念である「絵」そのものを中心に据えている本かなぁ、と思っていた。まあこれは僕が勝手にそう思っていただけなのだけど、実際のところは、西洋画や日本画の様々な人物・作品名が登場して、それらを通して「絵」を語る、という形式だった。

もちろん、一般向けの本だから、本書に登場する画家や作品をそもそも知っていなければ理解できない、というような類の本ではない。でもやっぱり僕には、あまりに僕の日常と馴染みのない色んな絵画の具体的情報がたくさん出てきて、ちょっと僕には辛いなぁ、と感じてしまいました。

ただ、著者のスタンスとかは結構好きです。欧米と比較して日本の美術界は、「画家も批評家も画廊も、“良いと言われているもの”に集まりすぎだ」みたいなことを書いていたりします。また、良いものを知るためには悪いものにも触れなければならないとか、なんだかんだ絵を描く人間は狂気を孕んでいないといけない(直接的にそういう表現ではなかったと思うけど)みたいなことを書いてて、スタンスとしては結構好きだと思えることを書いているなぁ、と感じました。

あんまり好きにはなれない本だったけど、著者は好きかもです。

坂崎乙郎「絵とは何か」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)