黒夜行

左脇のプロフィールにある「サイト全体の索引」から読みたい記事を探して下さい。

読んで欲しい記事・索引








style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



乃木坂46関係の記事をまとめました
TOEICの勉強を一切せずに、7ヶ月で485点から710点に上げた勉強法
一年間の勉強で、宅建・簿記2級を含む8つの資格に合格する勉強法
国語の授業が嫌いで仕方なかった僕が考える、「本の読み方・本屋の使い方」
2014の短歌まとめ
この本は、こんな人に読んで欲しい!!part1
この本は、こんな人に読んで欲しい!!part2
管理人自身が選ぶ良記事リスト
アクセス数ランキングトップ50
索引 まとめました
【今日考えたこと】索引


災害エバノ(災害時に役立ちそうな情報をまとめたサイト)(外部リンク)

青い眼がほしい(トニ・モリスン)

やっぱり難しいなぁ、外文は。

今回必要があって読んだ本なのだけど、やっぱり「ちゃんと読めなかったなぁ」という感覚がとても強かった。

「青い眼がほしい」というタイトルからなんとなく想像できるだろうが、本書は、黒人の女の子が、自身の境遇に嫌気が差し、白人のように青い眼を欲する、という小説です。

いわゆる「文学」と呼ばれるジャンルの本だと思いますけど、改めて「文学」ってダメだなぁ、って感じました。

本書を読んで感じた難しさを説明してみます。

「文学」というのは、数枚の写真が並んでいて、その写真の並び方、見ている人が様々なものを補いながら、自ら「物語」を読み取っていくものなんだろうなぁ、と本書を読んで感じました。本書も、情景の描写とか、登場人物たちの行動とかが細密に描かれるのだけど、著者は「小説」の中に明確に「物語」を埋め込んでいないように感じます。まさに、一瞬を切り取った写真が整然と並んでいるという感じで、それは動画じゃない。動画じゃないから、自分で隙間を補って「物語」を感じとるしかない。

僕が読める小説は、静止画の羅列じゃなくて、動画にしてくれるものだ。ちゃんと動画にして、「物語」を埋め込んでくれていれば、もちろんちゃんと読める。でもやっぱり、自分で「物語」を読み取る力はないなぁ、と思いました。

ノーベル賞を受賞した作家のデビュー作で、恐らく読む力がある人が読めば、この小説からきちんとした何かを取り出せるんだろうと思います。ただやっぱり、僕には、それは出来なかったなぁ。そもそも「物語」をうまく取り出せてないから、テーマや問題提起などもうまく取り出せない。裏表紙の内容紹介には、「白人が定めた価値観を痛烈に問いただす」と書いてあるんだけど、そういう感覚は僕には取り出せなかったな、と。

改めて、こういう物語がちゃんと読める人間になりたいなぁ、と思ったものでした。そういう意味では、本書のタイトルである「青い眼がほしい」という感覚は、僅かに理解できる気がします。

トニ・モリスン「青い眼がほしい」

まほり(高田大介)

僕は「歴史」というものが基本的には好きではない。その理由はシンプルで、「書き残されたものがどうして”正しい”と言えるのか」という疑問が根底にある。

例えばツイッターなんかを考えてみてもよく分かる。デマや流言なんか、あちらこちらで飛び交っている。もちろんこれは、「誰もが発信者になれる時代ゆえの現象だ」と捉えることも可能だ。昔は、文字を読める人も書ける人も少なかったのだから、同列に論じることは意味がないという主張もあるだろう。しかし一方で、「歴史とは勝者が残すものだ」とも言われるし、勝者にとって都合の悪い歴史は残りにくいのもまた事実だろう。また、「聖徳太子はいなかった」「鎌倉幕府の始まりは1192年じゃなかった」など、教科書に書かれていた事実がどんどんと改定されていく。そういう部分への「不信感」みたいなものもある。

僕は、「歴史学」について詳しい知識があるわけでもないので、勝手な憶測を積み重ねた上での忌避でしかないのだけど、そんな風に考えて、僕は「歴史の正しさ」みたいなものが信用できない。

本書では、そんな僕の「歴史への疑い」がちょっと変容するようなことが結構描かれている。そういう意味でも本書は面白い作品だと思った。

【史料の伝存自体がすでに書いたものの底意、保存したものの意志の働きを帯びているということです。そしてそれを出来うる限り客観的な形で今日に読み解き、将来に向けて紹介伝承していこうとする我々史学者の営みもまた、同じくなんらかの底意、なんらかの意志の働きを免れえないということなんですよ。史学そのものが透明なものではありえない、史学こそが、何らかの歴史、何らかの事実というご大層なものが形作られ、維持されていくのに手を貸してしまわざるをえないという、この背理に自覚的でなければならない理屈でしょ。歴史学は廉潔であろうとすればするだけ、客観性という幻想に対して慎重であらねばならない】

作中に登場するある史学者の言葉だが、この言葉から僕は、量子論の「観測問題」を思い出した。

ここで指摘されていることは、「なんらかの形で史料に接しようとする人間の意志が、史料の客観性を失わせる」ということだと思うが、同じようなことは、物理学でもある。「量子」というのは、原子などの非常に小さいものを指すが、それを扱う「量子論」では、「量子を観測するという行為が、量子の存在状態に影響を与えてしまう」と解釈されており(まだこの「観測問題」は決着がついていない)、つまり、「観測するという行為が量子の状態を変化させてしまうから、我々は量子を正確に”観測”することができない」と、現在では結論されている(ハイゼンベルクの不確定性原理)。

これは先程引用した話と、ほとんど同じといえるだろう。

別の箇所で、主人公がこんなことを言っている。

【(今調べている歴史的な事柄が)事実であったとしてもだよ、他でもないこの一事ばかりを追究するということが、とっくに俺の主観に彩られているだろう。何故この事ばかりを問題にするのか―そうした俺の拘りが既にして問題を主観的にしてしまっているんだ。歴史が残る、歴史を残すということ自体が無垢の客観性を保証してはくれない、むしろそこに意図と動機を刻んでしまう…】

これについても、現代的な例証を引っ張ってくることが出来る。例えば、ワイドショーなんかでよくある不倫報道。僕は、不倫が殊更に悪いものだと思っていないが、とりあえず世間では悪いことということになっている(まあ、不倫というのが、誰かを叩いたり貶めたりするのにうってつけの題材であり、それが故に、叩いたり貶めたりしている自分を正当化するために、不倫を殊更に悪者扱いしている、という側面はあると思うけど)。で、世の中に出てくる不倫報道って、数年前のものだったりすることもある。もちろん、事実は数年前でも、情報提供がなされたのが最近だ、というケースももちろんあるだろう。しかし不倫報道の中には、「対象となる人物の悪評が、その人物に最もダメージを与えるタイミング」で報じられるものもある。出馬しようとしているタイミングや、新しい番組が始まろうとしているタイミングなどである。もちろん報じる側は、雑誌の売上や視聴率なんかを見込んでそういうタイミングを選んでいるわけだけど、これなどまさに、「事実が主観によって歪められている事例」と言っていいだろう。事実そのものが変わるわけではないが、その事実を捉え、報じる側の人間がどういう主観を持っているかによって、その事実の受け取られ方は大きく変わっていく。

先の主人公のセリフも、そういう意味がある。僕らはなんとなく、「歴史的事実は固定的なものだ」という印象を持ちがちではないかと思う。大昔に起こったことであるし、「歴史的事実」が「固定的」なものなんであれば、どういう掘り出し方をしたって「変わらない」と思うのはある意味で当然だと言えるだろう。しかし、そうとも限らない。というか、そうではない。「掘り出し方」によって、「事実」の捉えられ方は明白に変わってしまう。

本書は、古文書の記述なんかが出てくる、ちょっとハードな民俗学ミステリで、正直、ちょっとついていけない部分もあった。しかし、そういう「過去の時間軸」に存在するものはともかくとして、「現在の時間軸」に存在する、「歴史というものとどう向き合い、どう掘り出していくべきかを考える人々」の話は、非常に興味深かった。「歴史」というものには今まで苦手意識しかなかったが、やはりそこには「食わず嫌い」的な要素があったようだ。もちろん、「歴史の教科書」は、まだ全然好きになれないけど、「歴史」というものと様々なスタンスで関わろうとする人々の物語を読んで、なるほど、一概に忌避するのも違うかもしれないな、という気分になれた。

内容に入ろうと思います。
大学生の勝山裕は、大学院進学を目指して勉強中だ。とりあえず大学に入った、というチャラチャラした連中とはあまりソリが合わないのだが、ひょんなことからある卒研グループの飲み会に誘われることになった。都市伝説をテーマに研究をまとめようとしているが、そもそもの研究手法からおぼつかない連中に、初歩の手ほどきをしただけであったが、その会話の中で裕は気になる話を耳にした。裕の出身に近い上州のある村で、子どもたちが二重丸が書かれた紙がそこかしこに貼られていることに気づいた、という話だ。その話自体は、明確なオチがあるわけでもなく、二重丸の正体も不明なままだったが、裕は、その話の出どころである、まさに子どもの頃に二重丸の紙をみんなで探したという張本人からも話を聞いた。何故そこまでこの話に興味を持ったのか。その二重丸の紙は、「こんぴらさん」と関係があるとされていたのだが、その表記が「琴平」だった。そしてその名前は、裕の母親と関係があるかもしれないのだ。裕の母親は幼い頃に亡くなっているのだが、父親からも、あるいは戸籍上からも、母親に関して確たる情報が得られない。唯一、旧姓が「琴平」あるいは「毛利」と関係するかもしれない、という話を知っているのみだ。そんな僅かな手がかりでしかなかったが、裕は夏休みのついでに帰郷し、調べることにしてみたのだった。帰郷に際して、近在の図書館に足を運ぶと、そこに偶然、高校時代に塾で仲良くなった飯山香織が働いていた。裕は香織にその都市伝説の話をしたところ、香織は裕の調査を手伝うという。古文書などを元に、神社の由縁などを調べる裕たちだったが、その調査の過程で一人の少年と出会う。なんと、裕たちが行き着いたある曰く付きの村に、同じく注目し、独自に調査をしているようなのだ。その少年曰く、その村には、”馬鹿(知的障害者を指す方言)”の女の子が監禁されている、というのだが…。
というような話です。

面白かった。面白かったけど、色々言いたいこともある。手放しで褒められるかというと、そうではないのだ。その辺りの話を色々書いていこう。

まず、物語全体としては、非常に良く出来ていると思う。導入の都市伝説の話から、まさかこんな展開になるとは、という感じだ。裕たちは正直、この物語の本丸のことは知らずに調査を始めた。「本丸」というのは要するに、少女の監禁だ。裕たちは、そんなことが行われているとはつゆ知らず、別の動機(母親に繋がる何かがないか)から調査を進めるのだ。一方で、少年(淳という)は、最初から「本丸」をめがけて調査をしていた。しかし悲しいかな、子どもに出来ることには限界がある。この「裕たちの文献方面からの知識」と「淳の実地調査の知識」が組み合わさることで、普通には捉えられない「歴史の暗部」に迫ることが出来るのだ。

【歴史は遡ればきっと何らかの…残酷無残に行き当たるもんですよ。歴史に分け入れば、そうした時代の無残、時代の酷薄に迫ることになる。どこか猟奇趣味めいた気味を帯びてくるのは普通です】

この構成は上手いなと思ったし、「歴史」が「現在」と接続されている怖さ、みたいなものも感じ取れる。実際に、本書で描かれているようなことが、日本のどこかで行われていないとは、誰にも断言できないだろう。

またそれは、「書かれなかった歴史」についても深堀りすることになる。

【大文字の『歴史』に翻弄されながら、左右されながら、それなのに日々変わりなく、年々変化なく過ごされていた大衆の生活というものがあったはずですよね。それを看過して、大文字の『歴史』に目を奪われていたのでは、これは大きな見過ごしになると思うんですよ】

ここではまだ穏やかに、「文字として記録されていない生活史」みたいな話として言及されているが、本書ではさらに、「記録に残すわけにはいかない残虐史」みたいなものに話が及んでいく。今でこそ、普通なら人に話せないようなことも、匿名のブログやSNSなどに書く人たちがたくさんいるが、昔であればあるほど、陰惨な事柄であればあるほど口を噤み、記録に残らないだろう。そういう「書かれなかった歴史」にどうアプローチすべきなのか、ということについて、学者の見解や裕たちの行動などから色々と考えさせられる。そういうテーマが浮かび上がってくるところも面白い。

ただ、そういう歴史学の困難さ、不完全さみたいなものをちゃんと描こうとすればするほど、古文書の記述なんかがバンバン出てきて、ついていくのがしんどくなる。確かに、最後まで読めば、本書で何故これほどまでに古文書が登場するのか理解できる。本書をミステリとして捉えた場合、その「解決」は古文書の記述からなされるのだ。しかし、だからこそ、本書は分かりづらくもある。

確かに、最終的に裕がある解決を見る場面における論理的な展開は非常に面白い。スゴいなと思う。まさにこれは、「古文書」というデータ群の中に、「書かれていない歴史」を見出す「文献探偵」みたいなものだ(裕と香織だけで成し遂げたわけではないが)。古文書単体では分からないが、それらを複数突き合わせ、様々なジャンルにおける知識を積み重ねることで、裕たちは「一定の確度を持った歴史的事実」を探り当てる。実際それは、本書で繰り返し釘を差しているように、「歴史学の中では客観的な事実とは認められない」類のものだ。しかし裕たちは別に、論文を書こうとしているわけではない。だから「一定の確度を持った」という程度で十分なのだ。そういう、古文書を突き合わせた解決は見事だと思う。

ただ、やっぱりなかなかスッとは頭に入ってくれない。理屈は分かるけど、それは主人公が説明してくれているからであって、自分の頭で、提示されたデータを理解して導いたわけではない。ミステリを読む人は、提示された伏線を自ら読み解きながら、結局果たせず、最終的に探偵の解決に委ねる、という読み方をすることが多いだろうけど、本書の場合それをやるためには、本書に登場する古文書をかなりちゃんと読み込まなければならないだろう。そういう意味で、ハードルは高い。

また本書は、文章的にもちょっとハードルがある。「現代もの」で「若い男女」が主人公なのに、「記述が古臭い」のだ。

著者のデビュー作である「図書館の魔女」にも、言ってしまえば記述の古臭さがあったのだけど、しかしそれは、僕は問題に感じなかった。何故なら「図書館の魔女」は、「異世界ファンタジー」だったからだ。「現代」を舞台にする以上、自分が持っている「現代」に関する常識で物事を判断するが、「異世界」を舞台にする場合、その常識の当てはめは有効ではない。だから僕は、「図書館の魔女」においては古臭さは感じなかった。

一方本書は「現代もの」だ。時代は特定されていないと思うが、小学生(かな?)の少年が携帯電話を持っている以上、そう昔ではありえない。で、そうだとすると、裕と香織のやり取りや会話なんかに、どうしても古臭さを感じてしまう。全体として、そこはちょっと難があるなぁ、と感じた。もったいない。

というわけで、全体として、面白いんだけど勧めにくい本だな、という印象だ。「古文書」という要素は、物語の根幹に関わるので仕方ないとはいえ、「古臭さ」はどうにかならなかったかなぁ、と思う。たぶん、年配の人が読む分には、違和感を感じない作りになってるんだろうし、それを狙ってやっているとするなら、それは正解なのだけど。

高田大介「まほり」

「アス」を見に行ってきました

凄い映画だった!

正直、この映画について、何か書けるかというと、ほとんど書けないだろう。何故なら、どういう映画だったのか、ちゃんと理解できている自信がまったくないからだ。

それでも、メチャクチャ面白かった。

この点について、「アス」の監督の前作(なのかな?)である「ゲット・アウト」と比較しながら書いてみよう。

「ゲット・アウト」は、まず予告を見た時に衝撃を受けた。なんだかよくわからないが、メチャクチャ面白そうだったのだ。その予感は、半分は当たっていたと言っていい。映画を見始めてからしばらくしてからは、グイグイと引き込まれる、どんな展開になるのかさっぱり分からない映画だったからだ。

しかし、途中から、完全においてかれた。なんのこっちゃ分からなくなった。少なくとも、映画を見終えた時点では、自分がどんな物語を見たのか、まったく理解できなかった。なので、感想を書く前に、ネットで調べて、それでようやく、「ゲット・アウト」がどういう物語なのか理解できた。

「ゲット・アウト」は、僕には何が「伏線」で、それらがどう「回収」されたのかさえまったく理解できない物語で、だから面白くないと思った。実際、ネットで調べると、様々な場面に「伏線」があり、それらが非常に深い風刺や社会問題の告発をしていることが理解できたが、映画を見ている時の僕には理解できなかった。自力でそれらを理解することはまず不可能だっただろう。

さて、「アス」である。「アス」も正直、ストーリー自体はまったく理解できなかった。どうしてあんなことが起こり、彼らが何を目的にしていて、なぜ一直線になっていて、主人公の女性は実はどっちなのか、などなど、まったく分からない。

なのに、すげぇ面白かった。

とりあえず今回は、面白かったから、ネットで調べる前にこの感想を書いている。だから、この映画が意味しているものについては、僕はまったく説明できない。だから、何がどう面白かったのかを頑張って書いてみよう。

とにかくこの物語は、どういう設定であるのかはまったく分からないが、状況については非常に分かりやすい。「アス」の公式サイトに、【家の前に自分達とそっくりな”わたしたち”がやってくる…】と書かれているので、ここまではネタバレではないと思うが、この物語ではとにかく、「自分に瓜二つの謎の人物に襲われる」という、あり得なさすぎる状況が描かれる。

メチャクチャ怖い。

もう、そこらのホラー映画なんかより、全然怖い。なにせ、状況がさっぱり理解できないのだ。何故か目の前に、顔がそっくりなやつがいて、意味不明なことを言ったりしながら自分に襲いかかってくる。

怖すぎるだろ。

とにかく、「理解できないこと」が、この映画では圧倒的な「怖さ」に変換される。「ゲット・アウト」では、「理解できないこと」が、僕の中では「物語」や「展開」と結びついていたが、「アス」では「理解できないこと」が「怖さ」と結びついている。たぶんこの物語を面白く見れた理由だろう。

とにかく、最後の最後まで、「理解できないこと」による「怖さ」が連続する。ほんとに、ところどころお尻でジャンプしちゃうぐらい、映画を見ながらびっくりする場面がかなりあった。

これが、ストーリーがさっぱり理解できなかったけど面白かった理由だと思う。「ゲット・アウト」は理解できなかったが、見て良かった。

内容に入ろうと思います。
物語は1986年に始まる。アディという名の少女は、仲の悪い両親に遊園地に連れられていた(もしかしたら、離婚していて、時々父親に合わせていた、その日かもしれない)。合わない両親のやり取りから離れるようにして、アディは続きになっている海岸へと向かった。そこに、「本当の自分を探そう」と題されたアトラクションがあった。一人でその中に入ったアディは、鏡張りの部屋でパニックに陥り、やがて両親の元に戻ったアディは、言葉を喋らなくなっていた。
そこから長い時間が経った現在。アディは結婚し、二人の子供に恵まれた。幸せな家族。彼らは、夏休みの一時を別荘で過ごすことにした。
しかしそこで、アディにとって予期せぬ出来事が起こる。夫が、ビーチに行こうと言うのだ。そのビーチこそ、アディがパニックに陥った遊園地のあるビーチだった。アディは反対するが、日没までに帰ることを約束し、ビーチに向かうことにした。
その夜。彼らの別荘の前に、見知らぬ家族が手を繋いで立っていた。暗闇で顔は見えなかったが、追い払ってやると夫が向かっていき…。
というような話です。

もうこれ以上書けることは特にないんだけど、とにかく凄かった。久々に映画を見たからってのもあるかもしれないけど、相当衝撃的で記憶に残る映画になりました。

とりあえず、自分なりに思うところは書いたので、これからネットで、どういう物語だったのか調べようと思います。

「アス」を見に行ってきました

物理学はいかに創られたか(アインシュタイン+インフェルト)

本書は、世界的なベストセラーになったという、アインシュタインとインフェルトによる、物理学に関する本です。主に「相対性理論」について書かれていて、最後の方で「量子論」が少し扱われる、というような構成になっています。

内容に入る前に、本書について昔僕がなにかの本で読んだエピソードについて書いてみたいと思います。調べてないので正確かどうか自身がありませんが、本書が生まれたきっかけは、インフェルトを亡命させるためだった、という話を読んだ記憶があります。ポーランド出身のインフェルトは、第二次世界大戦の最中、ヨーロッパで厳しい状況下に置かれていて(それがポーランドという国に関係するだったか、あるいは、インフェルトは実はユダヤ人で、ホロコーストに関係するんだったかは忘れてしまいましたが)、アインシュタインはインフェルトをアメリカに亡命させるために一計を案じた、と。それが、共同で本を書くというもので、これがうまく言って、インフェルトはアメリカに亡命できた、というような話を読んだことがありますが、正確な情報かどうかは自信ないです。

さて本書は、先程も少し触れましたが、相対性理論が主に扱われています。ただ、相対性理論の教科書、という感じの本ではありません。その辺りについて、著者連名の巻頭言から引用してみましょう。

【私たちは物理学の教科書を書いたのではありません。ここには初歩的な物理学上の事実や理論を系統立てて述べてはありません。私たちの目的とするところは、むしろ人間の心が観念の世界と現象の世界との関係を見つけ出そうと企てたことについて、その大要を述べてゆこうとする点にあるのでした】

まあこれも、スパッと理解できる文章ではありませんが(笑)、要するに、「生み出されてきた物理理論と、人間がどう折り合いをつけてきたのかという歴史」について書かれている、と考えていいでしょう。

本書では、相対性理論について触れる過程で、まずガリレオの話から始まります。ガリレオやニュートンがどんな風に物理理論を組み上げていったのか、という過程を描き出していきます。そしてそれらは、「物事を力学的な側面から描像していくものだ」ということを明らかにしていくわけです。これはどういうことかというと、「ある時刻にボールがある地点に存在しているとして、初期条件、つまり、ボールを打ち出す方向や速度、空気抵抗などがすべて分かれば、その後のボールの軌道はすべて予測できます」というような考え方です。まさにこれは、古典的物理学の特徴と言えます。個々の物質が、どの方向からどういう力を受けることでどういう運動をするのか、という力学的な描写によって世界を捉えよう、という発想です。

しかし、物理学が進んでいく過程で、この捉え方が徐々に難しくなっていきます。例えばニュートンは、万有引力の法則を導き出しましたが、この万有引力の法則というものは、どれだけ遠く距離が離れたもの同士でも一瞬で力が伝わる、と想定されていました。また、古典物理学の世界観においては、僕自身もちゃんと理解していないんで説明が難しいんですけど、「力学的な物理法則が成り立つ座標系」を「慣性系」と呼ぶそうですが、「力学的な物理法則が成り立つかどうか」を検証することによって、自分がいる座標系が、ある絶対的な基準の座標系に対して静止しているか運動しているかを判断できる、という風にされていました。しかし、実験や理論などにより、そういった考え方に対する不具合が出てきてしまいます。

そこで登場したのが「場の理論」と呼ばれるものです。これは、マクスウェルの方程式が初めて導入した考え方で、この「場」というものを考えることによって、一瞬の遠隔作用を考える必要がなくなります。また、アインシュタインが相対性理論を生み出したことで、「基準となる座標系(絶対空間)」が存在するという考え方が捨て去られ、座標系はどれも相対的な関係性を持つ、という認識に改まったわけです。

こんな風に、物理法則の変遷によって、人間の認識がどう変わっていったのか、ということについて、少しずつ確認しながら進んでいくので、面白いです。

ただ、やっぱり簡単ではありません。なかなか難しい。冒頭で著者二人は、

【この書物を書く間に、私たちはこれをどんな人たちに読んでもらうべきかについてかなり論じ合い、またわかりやすくすることについて苦心しました。読者は物理学や数学の具体的な知識を何ももっていなくとも、適当な思考力をもってさえいればよいと思います】

と書いていて、まあ確かにその主張に嘘があるわけではありませんが、ただやはり、相対性理論というものが、イメージで捉えるだけでもなかなか困難なものなので、記述はどうしても簡単ではありません。また本書は、相対性理論の一般向けの解説書があまり出ていないだろう時代に出版された本だと思うので、他の本に比べれば当時は圧倒的に易しかったと思いますが、一般向けの相対性理論の本がたくさん出版されている現在においては、本書よりも易しくイメージさせてくれる作品は他にもあると思います。

ただ本書は、アインシュタイン(とインフェルト)の、物理学というものに対する信念みたいなものが垣間見えるという点で非常に面白いと思います。

【物理学の概念は人間の心の自由な創作です。そしてそれは外界によって一義的に決定せられるように見えても、実はそうではないのです。真実を理解しようとするのは、あたかも閉じられた時計の内部の装置を知ろうとするのに似ています。時計の面や動く針が見え、その音も聞こえて来ますが、それを開く術はないのです。だからもし才能のある人ならば、自分の観察する限りの事柄に矛盾しない構造を心に描くことは出来ましょう。しかし自分の想像が、観察を説明することの出来る唯一のものだとは言えません。自分の想像を、真の構造と比べることは出来ないし、そんな比較が出来るかどうか、またはその比較がどういう意味をもつかをさえ考えるわけにはゆかないのです。けれども、その知識が進むにつれて、自分の想像が段々に簡単なものになり、次第に広い範囲の感覚的印象を説明し得るようになると信ずるに違いありません。また知識には理想的な極限があり、これは人間の頭脳によって近づくことのできるのを信じてよいでしょう。この極限を客観的真理と呼んでもよいのです】

【たとえて言えば、新しい理論をつくるのは、古い納屋を取りこわして、その跡に摩天楼を建てるというのとは違います。それよりもむしろ、山に登ってゆくと、だんだんに新しい広々とした展望が開けて来て、最初の出発点からはまるで思いもよらなかった周囲のたくさんの眺めを見つけ出すというのと、よく似ています。それでもしかし出発点は依然として存在し、かつそれを見ることができるにちがいないので、ただ私たちが冒険的な路をたどっていろいろな障害物を踏み越えて来たことによって、この出発点はやがてだんだんに小さく見え、私たちの広い眺めの些細な部分をなすのに過ぎなくなるのです】

【科学はまさに法則の集積でもなければ、まとまりのない事実のカタログでもありません。それは人間精神の一つの創造物であって、それが自由に発明した思想や観念を含んでいます】

こういった、物理学や物理理論というものをどう捉えているのか、という視点が、ところどころに組み込まれていくので、興味深いです。

あと、どうでもいい、でも個人的には興味深かった話を取り上げようと思います。量子論に関する文章で、こんなものがあります。

【私たちは銃から弾丸を射ち出すように、与えられた時刻に単一の光子や電子を射ち出すというようなことはできないのですから、もちろん、こんな事は理想化された実験であって、実際には行うことができませんけれども、しかしそう考えることは一向に差支えはないでしょう】

さて、この文章では、現在においては間違いです。なぜなら、「与えられた時刻に単一の光子や電子を射ち出すというようなこと」は出来るからです。実験物理学の進歩というのは凄いものです。本書では、実際に行われたことがないこの実験を思考実験として捉えて、正しい結論を導いていますが、さすが思考実験が得意だったアインシュタインなだけのことはあるな、と感じました。

アインシュタイン+インフェルト「物理学はいかに創られたか」



アインシュタイン 大人の科学伝記(新堂進)

最近、アインシュタインの本を結構読んでおります。

本書は、かなり一般向けの作品で、物理のことなんかさっぱりわからない、という人でも読める作品です。アインシュタインのエピソード的な話が結構載ってるのと、物理的な話についても、著者なりの解釈で非常に分かりやすく説明しているんで、かなり手に取りやすいと思います。物理的な記述は、もちろん深いところまで書かれていないけど、他の一般向けの相対性理論の本を読む前に読んでおくと、イメージを掴みやすい一冊かもしれません。

理論的な話よりも、「アインシュタインってどんな人だったの?」みたいなことを知りたい人にはおすすめです。

新堂進「アインシュタイン 大人の科学伝記」

評伝 アインシュタイン(フィリップ・フランク)

内容に入ろうと思います。
本書は、恐らくアインシュタインの評伝としては、一番有名な本なんじゃないかと思います。

アインシュタインについて書かれた本は様々ありますが、本書は物理学者であり、1912年にプラハ大学の理論物理学の教授に就任したが、これは、アインシュタインの後任としてだった。また、1938年に著者はアメリカに移り、プリンストン高等研究所に勤めていたアインシュタインと再会し、それがきっかけで、アインシュタインについての評伝を書こうと思い立ったという。つまり、アインシュタインと物理的な距離の近い物理学者による評伝、である。また本書は、アインシュタインが存命中に書かれた本でもある。この感想を、実は最後まで読めていない状態で書いているので、本書の著者が出版前にアインシュタインに原稿を見せたのかどうか分からないが(まだ読めていない部分にそういう記述があるかもしれない)、少なくとも、出版されればアインシュタイン本人の目に触れる可能性があるわけだし、アインシュタイン本人は読まなくても色んな人から話が耳に入る可能性があるわけで、そういう意味でも著者は、出来得る限り正確な記述を心がけたことだろう。そういう意味でも本書は、貴重な評伝と言えるだろう。

物理学者が書いているので、アインシュタインの物理の部分の業績についても、詳しく書かれている。アインシュタインの理論が登場する以前はどう考えられていて、それがアインシュタインの理論によってどう変わったのか、という部分まで細かく描かれているので、大きな流れを掴みやすい。

しかしそれ以上に本書では、様々な場面・状況において「アインシュタインがどのように思考・判断をするのか」ということについて深く描かれていて、興味深い。

特に本書の後半の、世界的な大スターとなって以降の、アインシュタインの様々な捉えられ方と、そういう状況におけるアインシュタインの思考が面白いと思った。

アインシュタインの理論は、当時の社会情勢と、アインシュタインがユダヤ人であるということもあって、科学の分野のみならず、政治・宗教・社会・哲学など、様々な分野においてあらゆる反応を引き起こした。アインシュタインの理論はとにかく、物理・数学の素養がない人間には正確に受け取ることが非常に困難だったので、アインシュタインの理論を“易しく”解説した記述から、極端な解釈をされることが多かった。どの分野のどの陣営も、アインシュタインの理論から、自分の陣営に有利で、相手の陣営に不利な情報を引き出すことが出来た。それらのほとんどは“誤解”から生まれる解釈なのだが、ほとんどの人がアインシュタインの理論を正確に捉えられない(これは、当時の物理学者にしても同様で、アインシュタインの理論は認めがたいという反応を科学界においても引き起こした)ことを良いことに、勝手気ままな主張が多数なされた。それによって、ある陣営からは非常に高く評価され、ある陣営からは激しく批判を受けることとなった。そのような場合に、アインシュタインがどのような行動をしたのか、そしてその背景には彼のどんな考え方があるのかなどについて、著者なりの分析を含めて描かれていて、非常に興味深い。

本書について、これ以上詳しい感想を書くのは難しい(ここまでで書いたような全体を概略する以上のことを書こうとすると、色んなことを詳細に書かなきゃいけなくてどんどん長くなる)ので、この辺りで感想を終えようと思うけど、アインシュタインという、ある意味で20世紀のアイコンとでも呼んでいい人物の生涯について、非常に詳しく描かれている本なので、アインシュタインの理論についてではなく(理論については、一般向けのより易しい解説書がたくさん存在する)、人柄についてかなりガッツリ知りたい、という人はぜひ読んでみてください。

フィリップ・フランク「評伝 アインシュタイン」

マンガ はじめましてファインマン先生 超天才物理学者の頭の中(ジム・オッタヴィアニ)

世界で最も有名な物理学者は誰か?というアンケートがあったとしたら、恐らく、

1位 アインシュタイン
2位 ホーキング
3位 ニュートン
4位 ガリレオ

ぐらいになるんじゃないか。そして、5位ぐらいにたぶん、本書の主人公であるファインマンが入ってもおかしくないような気がする。

もちろんそれは、物理学の業績という意味でも凄い物理学者だからなのだが、業績だけの話で言えば、凄い物理学者はたくさんいる。ファインマンが有名なのは、物理学以外の部分だ。ブラジルでフリジデイラという太鼓を真剣に練習したり、原爆を開発していたロスアラモス国立研究所で金庫破りの技術を磨き続けたり、トップレスバーで仕事をしたりと、この手の話には事欠かない人物だ。ファインマンについては、『ご冗談でしょう、ファインマンさん』という本が世界的なベストセラーになっている。これは、科学者としてのファインマン“以外”について書かれた、理系的な分野に興味のない人でも楽しく読めるエッセイだ。「物理学者」を頭に思い浮かべる時に出てくるイメージとはまったくそぐわない、規格外のキャラクターを持った人物なのだ(もちろん物理学者としても規格外の天才だったのだけど)。

本書では、そんなファインマンの人生をマンガで紹介している作品だ。概ね時系列に沿いつつ、ファインマンの楽しいエピソードが色々と描かれている。マンガなので、状況の説明などが省略されすぎていて、イメージしにくい描写もないではないけど、いつでも楽しいことが大好きで、それが重要であるかどうかに関わらず現象の解明の探求にのめり込み、権威や称賛などから出来るだけ離れつつ、やるべきことをきちんとやる、という姿がなかなか面白い。

ファインマンは死の直前、昏睡状態から無理やり目覚めて、「ぼくぁ二度死にたかないね。何とも退屈きわまるよ」という最後の言葉を遺している。死の間際の間際にこんな言葉を遺すほど、「楽しさ」を探求していたことが伝わるだろう。

またファインマンは、物理学に関して、分かりやすく面白い講義をすることでも有名だった。訳者が巻末でこんな風に書いている。

【ところが全く不思議なのは、先生の説明を聞くとすっかり理解できた気分になってしまうのに、あとで誰かにそれを説明しようとすると絶対にできないことだった。先生の同僚のあいだでも、その謎は有名だったらしく、「ファインマンの話は聞いていると実にもっともだと思うのに、あとになると一体何を食べたのかどうしても思い出せない中華料理みたいだ」と教授の一人がぼやいているのを聞いたことがある】

なんというか、良いんだか悪いんだか分からない評価だが(笑)、しかし、一瞬であっても「分かった気にさせる」というのは非常な才能を要するものだ。特にファインマンが関わっていたQED理論や量子論なんかは超絶難しいのだ。よく言われることだが、「量子論を真に理解している人は一人もいない」のだ。そんなクソ難しい分野を、一瞬でも「分かった気にさせる」ということがどれだけ凄いことか、と僕は思う。

ノーベル賞を辞退しようと思っていた話や、高給を提示されて断った話など、とことんまで権威や金に関心を持たなかった。圧倒的な才能があっての振る舞いではあるので、凡人に簡単に真似できるものではないが、こんな風に生きられたら人生楽しいだろうなぁ、と羨ましく感じてしまうような、そんな生き様です。

ジム・オッタヴィアニ「マンガ はじめましてファインマン先生 超天才物理学者の頭の中」

ガロア 天才数学者の生涯(加藤文元)

世に「天才」と呼ばれる人は数多く存在するが、ガロアほどの天才はなかなかいないだろう。本書では、ガロアとガロアの発見について、こんな風に書かれている。

【彼は近代数学史上最大の発見と言っても過言ではない、巨大な業績を残しました。ただ単に何らかの問題を解いた、というだけにとどまりません。その業績は、それ以後の数学の歴史を根本から変えたのです。パラダイムを変えた、と言ってもいいでしょう。彼のもたらした原理や考え方は、現在でも数学研究の基層に生きていますし、数世紀先の未来でも同様でしょう】

【現在の我々の状況に翻訳すれば、高校生が突如として現代数学において大発見をする、という感じになるでしょう。しかも、それは単なる発見ではなく、その後の歴史の数世紀分を変えてしまうような種類の巨大で深遠な金字塔なのです。そんなことが本当に可能なのか?と疑いたくなってしまうくらいです】

【「長々とした代数の計算は、まずもって数学の進歩にはほとんど必要ない」と彼は言う。オイラー以後、計算術の展覧会となってしまった数学は、もはやにっちもさっちも行かなくなっているではないか。計算し倒して現象を解明するというやり方は、もう限界に近づいている。だから数学はまったく新しい視点を獲得しなければならない。その<新しい視点>としてガロアが夢見ているのが、まさに難しさそのものを対象にして数学するという発想である】

【もちろん、例えば筆者(※現役の数学者である)が1831年当時にこの論文を見ていたとして、これを理解できたとはちょっと思えない。】

【ガロアの理論はその後、多くの人によって研究され解釈され、そして整理された。その理論がいかに強力で、どれだけ現代数学を先取りした素晴らしいものであったかはすでに述べた】

そして、本書全体をかなり抑えた筆致で描き出す著者が、感情を露わにするこんな描写もある。

【数学という学問はこのような視点からも鳥瞰することができる。このことを二十歳のガロアは筆者に教えてくれた。それだけでも筆者は幸せだ!】

なかなかの大評価ではないだろうか。まあ、それはそうなのである。僕は一般向けの数学書を結構読むが、現代数学のありとあらゆる場面で「群」と「集合」というものが登場する。それぞれがなんであるかは説明しないが、とにかくこの「群」「集合」は、現代数学における最大の武器であり、というか、必要不可欠な要素と言っていい。

しかし、ガロアが生きていた時代、まだ「群」も「集合」も存在していなかった。もちろん、「群」「集合」を使った数学(本書では「構造的数学」と名付けている)は生まれていなかったし、「群」「集合」を扱うだけの言葉・記号も存在していなかった。そんな時代にガロアは、「群」という考え方を生み出し、また「集合」という概念がなければ明瞭に説明できない領域にまで思考の触手を伸ばしていたのだ。

これは、現代風にもう少し分かりやすく喩えるとこうなるだろうか。ガロアは、携帯電話が生まれるずっと前から、人々が自由に通話をする世界を想像し、さらにスマートフォンによってネット接続やSNSが実現する世界を漠然と想像していた、と。よく指摘されることだが、昔のSF作家が描く未来世界に、「携帯電話」らしきものは登場しないらしい。空飛ぶ車やタイムマシンなど、SF作品が描き出す未来世界のアイテムは様々なものがあるが、その中に「携帯電話」は登場しないという。それぐらい、「携帯電話」というものは人々の想像の外にあったものだといえる。ガロアの凄さは、誰も「携帯電話」のようなものを想像していなかった時代に、スマートフォンで何が出来るかを考えているようなものだろう。

こんな風に書くと、ガロアが現代数学にどれだけインパクトを与えたのか理解できるだろう。そしてもう一つ、この喩えから理解できることがある。それは、「ガロアの言っていることは普通には理解されない」ということである。

携帯電話がない時代に、「色んな人が一人一台端末を持って、自由に通話が出来て、さらにそれを使って、世界中の情報にアクセス出来て、世界中の人と知り合いになれる」なんて主張する人間がいたら、頭がおかしいと思われるだろう。ガロアの主張にも、そういう部分がある。繰り返すが、彼が生きていた時代には、「群」も「集合」も存在しなかったし、当然、それらを記述するための言葉・記号もなかった。だからガロアは、その当時存在していた概念だけを使って、誰も想像していないような考え方を説明するしかなかった。これは、携帯電話のない時代にスマートフォンの説明をするようなものだと言っていいだろう。

数世紀先を行き過ぎたが故に、ガロアは同時代の知識人たちに自身の考えを理解してもらうことが出来なかった。そして、様々な時代背景やガロアの生い立ち・不幸な出来事の積み重ねにより、ガロアは20歳で命を落としてしまうのだ。伝えられるところによると、決闘で死んだということになっているが、その詳細はほとんど分かっていない。

そして本書は、ガロアの数学的な業績よりも、ガロアの20年間の生涯に一体何があったのかを解き明かす作品になっている。ガロアの生み出した「群論」について、本書にはほとんど説明はない。そういう具体的な数学の描写ではなく、本書では、ガロアが生み出した数学が、当時どう受け取られ、また現在において現代数学をどれほど革新したのかを、数学にあまり詳しくない人にも伝わるような筆致で描き出そうとする。そしてそれ以外の描写は基本的に、ガロアが生きた時代と、ガロアが辿ってきた足跡を追うものになっている。

あまり詳しく書きすぎても興を削ぐので、ここでは、ガロアが「いかに数学に目覚め」「いかに革命思想に目覚めた」かを中心に書こうと思う。

ガロアが生まれる少し前のフランスでは、教育の重要性があまり理解されていなかった。しかしフランス革命がその状況を変え、ナポレオンは教育に力を入れるようになる。ナポレオンが設置した「リセ」と呼ばれる高等中学校の中でも、特に超名門校として知られる「ルイ・ル・グラン」にガロアは入学し、そこで際立って優秀な学生であった。しかしこのリセは、超スパルタの学校としても知られていて、ガロアはこの生活で「専制」や「圧制」などを体感し、またガロア自身は関わっていないが、「聖シャルルマーニュ祭」の乾杯における事件の顛末が、「専制が強権を振り回す事例」としてガロアの心に深く刻まれることになる。

ガロアには進級に関するゴタゴタがあり、一度進級するも元の学級に戻されてしまう、ということがあった。しかし結果的にこのことはガロアにプラスに働いた。何故なら、戻った学級で履修した数学の授業で使われていた教科書、ルジャンドルの「幾何学原論」に出会ったからだ。マスターするのに通常は2年掛かると言われるこの本を、伝説によるとガロアは2日で読んでしまったという。そこからガロアの目には、数学しか入らなくなった。彼は、誰かに教わることなく、大数学者たちの著作を読み漁ることで数学を学んだ。

それから彼は「エコール・ポリテクニーク(高等理工科学校)」への入学を強く希望した。ここは、当時の一流数学者たちの<住処>であり、数学界の中心の一つだった。ガロアは早くリセから出てエコール・ポリテクニークに行きたくて仕方なく、通常より1年早く受験するも、失敗してしまう。試験自体が形骸化していたとも言われるし、ガロアの態度に問題があったとも言われるが、ガロア自身は「試験は公正さに欠けていた」と感じていたようだ。こういう、「自分が正当に扱われていない」という感覚をガロアはその後もいだき続けることになるが、そういう積み重ねが、社会への反抗的な思想に直結していくことになる。

しかし、ここで受験に失敗したことは、決して悪いことではなかった。仕方なくリセに戻ったガロアは、リシャール先生と出会ったのだ。有能な数学教師であるリシャールは、ガロアにとって人生で初めて、自分の才能を理解し、正当な評価を与えてくれる人であった。リシャール先生と出会ったことで、リセの一学生でありながら専門誌に論文が掲載されたり、アカデミーに論文を提出出来るようになったのだから、大きな出会いである(とはいえ、アカデミーへの論文提出は色々すったもんだある)

この時期、ガロアが考えていたことは、現代の我々が「ガロア最大の業績」と理解している数学そのものだった。ガロアの業績はよく、「五次元方程式の解の公式が存在しないことを証明した」と紹介されるが、この表現は正しくない。まず、そのことを最初に証明したのは、同じく天才で悲劇の数学者・アーベルである。ガロアはアーベルの仕事を知らなかったが、ガロアが考えていたことは、単に五次方程式収まるものではなかった。ガロアが考えていたことは、

「与えられた任意次数の代数方程式が代数的に解けるための必要十分条件を見つけること」

だった。アーベルは「五次方程式」について考えたが、ガロアは「あらゆる方程式」について考え、どんな方程式であっても「代数的に解ける/解けない」を判定するための要素はないか、と考えていたのだ。つまり、ガロアが考えていた領域のほんの一部分が、アーベルの証明した「五次元方程式には解の公式が存在しない(=代数的には解けない)」である、ということだ。

リシャール先生はガロアの論文を読んで、そのあまりの先駆性・重要性を認識し、アカデミーへの論文提出を目指す。そして、当代随一の数学者であったコーシーに論文を渡すことに成功する。しかし結局その論文は行方知れずになってしまう。

一般的にコーシーについては、「ガロアの論文を粗雑に扱った」と描かれることが多い。しかし本書では、その一般的なイメージが覆されることが書かれている。コーシーはガロアの論文の重要性を理解していたことが、様々な文書は発言から見て取れるという。さらに、この点はまさに数学者ならではの観点だと感じるが、コーシーが後年ガロアの論文に興味を失ったように見えることについても、著者は、「ガロアの論文を完全に理解してしまっていたからではないか」と推察する。著者自身の経験でもあるのだろう、常に自分の研究のことで頭がいっぱいだから、一度理解してしまった事柄に関して興味が薄れていくのは仕方ない、という。本書で、ガロアとコーシーの関係に関するイメージは大きく変わった。

その後ガロアは再びエコール・ポリテクニークの受験にチャレンジする。しかしまたしても失敗する。この二度目の失敗は、【この事件はフランス教育史上でも稀有の大スキャンダルとされた】と書かれているように、多くの人を驚かせたという。それはそうである。ガロアは既に、学生の身分でありながら複数の論文が専門誌に掲載され、さらに、結果的に紛失されてしまったが、アカデミーにも論文を提出しているのだ。現在では、試験をする側に不正、あるいはなんらかの間違いがあったに違いない、という意見で一致しているらしい。

この二度目の失敗は致命的だった。何故ならエコール・ポリテクニークの受験は二度までしか許されないからだ。ガロアは、数学しか勉強せず、学校での態度も悪い学生生活を送っていたが、進学するために様々な特例的な措置を取ってもらい、別の学校に入学することになる。

その後ガロアは、再びアカデミーに論文を提出する。今度は、こちらも随一の数学者であったフーリエに渡したが、しかし直後にフーリエは死亡、また論文は失われてしまう。さらに不幸は続く。世間では「七月革命」が起こっていたが、ガロアが通うことになった学校の校長は、自身の保身のために、学生全員を学校の外に出さないと決めた。ガロアは、エコール・ポリテクニークに進学できていれば自分も参加できていたはずの革命が目の前で起こっているにも関わらず何も出来ないことに苛立った。さらに、七月革命が沈静化した後の校長の態度の転身ぶりに嫌気が差し、どんどんと革命の方へと気持ちが傾いていくことになる。

その後、三度アカデミーに論文を提出することになる。幸いなことにこの論文は現存している。しかし、やはり先駆的な内容であったためか、ガロアの論点は十全に理解されず、「不十分」という烙印を押されてしまう。著者は、現代的な視点からすればガロアの論旨は明解であるが、「群」も「集合」も存在しなかった当時は、ガロアの書きぶりでは理解されなかったのは仕方ない部分もある、と書いている。しかし一方で、コーシーは理解していたはずなのだから、三度目の論文を査読したポアソンの読みが浅いのでは、と指摘している。

その後ガロアは、逮捕・裁判・また逮捕など、革命を志す者としての活動が色濃くなるが、そんな中、コレラの蔓延をきっかけに、元々収容されていた監獄から、衛生状態の良い療養所に移された。そしてその療養所で、運命の女性と出会う。その恋がどう始まり、どう展開したのかを知る手がかりは存在しないが、うまく行かなかったことだけは間違いない。そしてその後、ガロアはこれまでの自らの業績を大急ぎでまとめて、死を覚悟した手紙と共に親友のシュヴァリエに託し、それから銃で撃たれて命を落とした。その死にも謎が多く、「陰謀説」「自殺説」「恋愛説」と仮説はあるが、どれも決定打に欠ける。そのようにして、現代数学に多大な功績を残した天才数学者の生涯は閉じられることになったのだ。

本書は、こういう流れについて、非常に詳細に、当時のパリの雰囲気や、当時の文学作品からの引用、ガロアの手紙や、運良く残ったガロアの「序文」など、多くの資料を元にして鮮やかに描き出していく。そこには、同じ数学者として、ガロアという異次元の天才を敬愛する視線が見え隠れするし、どれだけ言葉を尽くしてもガロアの凄さを伝えきれない、というもどかしさをも感じる。

加藤文元「ガロア 天才数学者の生涯」

偉大なる失敗 天才科学者たちはどう間違えたか(マリオ・リヴィオ)

本書の唯一の欠点を挙げるとすれば、本書で扱われている「失敗」を理解するためには、多少理系的な知識や理解力を必要とする、ということだ。

例えば、「科学者の失敗」というキーワードで必ず名前が挙がるだろうアインシュタインについても本書で触れられているが、そのアインシュタインの「失敗」はこうである(世間的な定説の方)。

「アインシュタイン方程式に宇宙項(宇宙定数)を組み込んでしまったこと」

さて、この「失敗」を理解するためには、ある程度一般性相対性理論のことを理解しないといけないし、アインシュタインが生きていた当時の宇宙観も知らなければならないし、またこの「失敗」が何故これほど有名なのか(「アインシュタイン最大の失敗」と呼ばれているものは、現在不死鳥の如く復活している)を理解するためには、宇宙についての基本的な性質を知らなければならないだろう。

と、いきなりマイナスな話からスタートしたが、しかし本書はなかなか面白い作品だった。本書では、誰もが名前ぐらいは聞いたことがあるだろう科学者たちの、名前ぐらいは聞いたことがあるだろう理論(あるいは論争)について取り上げている。それらには「失敗」が含まれているのだが、しかしその「失敗」というのは、僕らが普通にイメージするような「失敗」ではなく、「偉大なる失敗」である。

【本書のテーマは重大な科学的過ちだ。私のいう「科学的過ち」とは特に、科学の理論や構想全体を台無しにしかねないような、または少なくとも原理的に科学の進歩を遅らせかねないような、深刻な考え方の誤りを意味している】

この文章もなかなかスッとは理解しにくいだろうが、要するに、「単なるミス」と片付けられるような「失敗」じゃないよ、ということだ。

そして本書で扱われている「失敗」は、大なり小なり影響度は違うが、どれも「別の成功のための布石」となっている。例えば、結果的には間違っていたある理論を唱え続けた科学者は、その学説を主張し続けることによって科学界における議論を活発化させ、最終的には正しいと認められた理論の正しさにたどり着くのに役立ったといえる。また別の科学者が、超絶単純ミスをしていることに気付いたことで、「おいおい、あいつがこの単純ミスに気づく前にちゃんと発表出来るようにしようぜ!」と勢いづいて、世紀の大発見をした者もいる。

本書では、5人の科学者が登場する。以下に、科学者の名前と、「失敗」が扱われている理論やテーマについて挙げておこう。

ダーウィン 進化論
ケルヴィン 地球の年齢
ポーリング DNAのらせん構造
ホイル 定常宇宙論
アインシュタイン 宇宙定数

本書では、それぞれの科学者について2部構成になっている。最初に、彼らがどれだけ偉大な功績を残したかが書かれる。そしてその後で、彼らがどんな「失敗」をしたのか、そして、どうしてそんな「失敗」をしてしまったのか、という話になっていく。

では、それぞれざっと紹介していこう。

ダーウィンの進化論については、説明は不要だろう。なのでいきなり、「失敗」の話に移ろうと思う。

ダーウィンの失敗は、「融合遺伝では自然選択のメカニズムが働かないことに気付かなかった」ということだ。説明していく。

まずダーウィンは、自然選択によって「適応度の低い個体が消滅していく」と論じた。またこの自然選択によって、ある個体に起こった突然変異が、しばらくして集団に浸透する、とされた。この結論は正しいとされている。

しかし問題があった。それは、ダーウィンの時代には、メンデルが発見した遺伝の法則はまだ存在しなかったのだ。ダーウィンの時代に信じられていたのは「融合遺伝」という、ペンキを混ぜ合わせるような遺伝の仕方だ(メンデルの遺伝は、トランプをシャッフルするような遺伝)。そして、「融合遺伝」の仕組みでは、自然選択は起こらないのだ。

さてここでまとめよう。ダーウィンは、「進化論」という類まれな理論を生み出した。しかしダーウィンはその理論を、「融合遺伝」という当時信じられていた遺伝の仕組みによって説明していた。しかし「融合遺伝」では、「進化論」の最も重要な要素である「自然選択」は起こらない。このことに気付かなかったことを、「失敗」と本書では呼んでいる。

しかし、誰もが理解できるだろうが、この「失敗」は、決して悪いものではない。何故なら、ダーウィンが「融合遺伝によって自然選択は起こらない」と正しく認識してしまっていたら、「進化論」は生まれなかったかもしれないからだ。つまり、ダーウィンが誤解しててくれて助かった、という感じなのである。

一応書いておくと、ダーウィンも、メンデルの遺伝に近いことを考えていたらしい。しかし、「融合遺伝によっては自然選択は起こらない」と批判されても、それを撤回しなかったみたいだ。

本書にはこう書かれている。

【ダーウィンが遺伝学の初歩的な事実を誤解していたことを考えれば、彼の理論の大部分が正しかったことは、まさに驚きとしか言いようがない】

確かにその通りだなと思う。

ケルヴィンは、伝記作家が絶賛するほどの数々の成果を生み、人格的にも優れていたという。しかし本書には、【最終的に科学界でのケルヴィンの名声が地に堕ちた】【晩年のケルヴィンは、現代物理学の足手まといのような人物と称されるようになった】と散々な言われようである。

そしてその理由が、地球の年齢の推定である。彼は、物理学の法則を元に緻密な計算をしたはずなのに、実際の地球の年齢の1/50という、大幅に間違った推定値を出してしまったのだ。

その理由が、「地球の熱伝導が一様だと仮定していること」にあった。ケルヴィンの教え子が、地球のマントルが対流していると考えれば、熱伝導が一様であると考える必要はないと何度も指摘したにも関わらず、ケルヴィンは聞き入れなかったという。確かにその当時、マントルが対流していると思われる証拠はなかったし、教え子もその可能性が高いと示せたわけではなかった。教え子はただ、そういう可能性もある、と指摘したに過ぎない。しかし結局、マントルは対流していたし、だから実際ケルヴィンの推定値はまったくの的外れとなったのだ。

とはいえ著者は、ケルヴィンをこう評価している。

【ケルヴィンの地球の年齢の計算が過ちだったのは事実だが、私はそれでも彼の計算は実に見事だと思っている。ケルヴィンは、地質年代学をあいまいな憶測から、物理法則に基づくれっきとした科学へと変えたのだ】

これはどういうことかと言えば、その当時まで地球の年齢は、聖書の記述に基づいて考えられていたことに関係する。聖書の記述を踏まえると地球はいついつ生まれた、と考えるようなあいまいな憶測ではなく、地球の年齢を物理法則から導けると認識させたことに功績がある、と著者は書く。

ポーリングは、細胞内のタンパク質がポリペプチドというアミノ酸の鎖からなると提唱し、さらにその正確な構造を発見したことで、科学界に多大な功績を残した。その構造は「αヘリックス」と呼ばれており、その見事な構造は画期的な偉業だった。著者はポーリングを、【生物学とは基本的に、進化の理論に裏打ちされた分子科学なのだということに初めて気づいた科学者のひとりだった】と評している。当時のポーリングの評価は絶大で、ある人物は「必死で研究しなさい。そうしないと、ポーリングが核酸に興味を持っちまうぞ」と発破をかけていたという。これはどういう意味かと言えば、「ポーリングが核酸に興味を持った瞬間、君等はあっさり追い抜かれちゃうから、ポーリングが興味を持つ前に成果を出せ」という意味だ。それぐらい、ポーリングは高く評価されていたのだ。

だから、ポーリングがDNAの構造を発見した、と発表した時は、誰もが先を越されたと感じた。しかし、ポーリングが発見したと主張する構造は、「バカバカしいくらい間違っていた」という。どれぐらい間違っていたかと言えば、DNAは「核酸」、つまり「酸」の一種であるのだが、ポーリングの示したモデルは「酸とはいえない代物だった」のだ。「αヘリックス」という驚異的な構造を見出し、誰からも恐れられていたポーリングが、化学の初歩の初歩をミスったのだ。しかし、そのお陰で、「ポーリングがミスに気づく前になんとかしなくちゃ!」と思って、ワトソンとクリックが必死になって二重らせん構造を発見したのだから、ワトソンとクリックにしてみれば良かったといえるだろう。

ホイルは、元素表に載っている様々な元素がどこから生まれたのか、という、当時大問題だった難問に、斬新で度肝を抜くような理論を提唱し、果てしない功績を残した。ガモフが発表した「ビッグバン理論」が、元素を生み出すための説明になるのではないかと期待されたが、しかし重い元素が作られる説明にはならなかった。しかしホイルは、恒星内部で元素が作られ、超新星爆発によってそれが宇宙全体に拡散したと唱え、元素誕生の謎の解決に大きな一歩を切り開くことになった。

とまあ、ホイルは天体核物理学などの研究では知らぬ者はないほどの業績を生み出したが、しかし一般的には、「定常宇宙論を最後まで主張し続けた人」として知られている。これは、長い間ビッグバン理論のライバルと考えられていたもので、「宇宙は過去も未来も、現在とまったく変わらない形で存在している」という理論だ。現在では、宇宙背景放射などの証拠からビッグバン理論が支持されているが、当時は、宇宙観について確定できるような観測事実はなく、定常宇宙論もかなり支持を集めていた。著者も、【定常宇宙論のアイデアそのものは、提唱された当時は抜群のアイデアだったと思っている】と書いている。定常宇宙論が提唱された当時は、馬鹿げた理論として切って捨てられるような考え方ではなかったのだ。

しかしホイルは、ビッグバン理論を支持する証拠が次々に見つかっても、独特な理屈を捏ねて定常宇宙論を死守しようとした。本書ではその点を、ホイルの「失敗」としている。また著者は、

【ホイルの理論は、たとえ結局は間違いだとわかったものであっても、常に刺激的であり、間違いなく分野全体を盛り上げ、新しい説の生まれる引き金になった】

と書いており、単なる「失敗」ではない、ホイルの功績についても触れている。

さて、最後に、科学史においてあまりに有名なアインシュタインの「失敗」についてである。本書では新しい見方を提示しているが、とりあえずまずは、有名な定説通りにこの話を紹介しよう。

アインシュタインは、一般性相対性理論で、いわゆるアインシュタイン方程式を生み出した。そしてこの方程式を解くと、「宇宙が膨張している」という解が出てくることに気付いた。

しかしアインシュタインにとってこの解は「都合が悪い」ものだった。何故ならアインシュタインは「静的な宇宙」、つまり、先程ホイルの過ちで紹介したような「定常宇宙」を信じていたからだ。当時まだ、「宇宙が膨張している」という観測結果は存在しなかった。アインシュタインは、自らの信念に合うように、アインシュタイン方程式に「手を加えた」。それが「宇宙項」である。この「宇宙項」は、後に「宇宙定数」と呼ばれることになるのだが、その話はまた後にしよう。

この「宇宙項」は要するに、「宇宙の膨張を食い止める作用」をする。つまり、そのままにしておくと「膨張」してしまう宇宙を、「宇宙項」を付け加えることで「引っ張る(堰き止める)力」を生み出し、両者の大きさがちょうど釣り合えば、宇宙は膨張も収縮もしないものとして存在する、というわけである。

さてここに、アインシュタインの大きな「失敗」がある。ここまでの説明で分かると思うが、アインシュタインが静的な宇宙を実現するために導入した「宇宙項」は、「非常によく調整されている」のでなければならない。何故なら、「宇宙が膨張しようとする力」と“ちょうど”釣り合う大きさの反対向きの力(これが「宇宙項」)が存在しなければ、静的な宇宙は実現できないからだ。アインシュタインの「失敗」は、「宇宙項を導入することで静的な宇宙を実現できると考えたこと」である。

その後ハッブルが「宇宙が膨張している」という観測事実を発表した(これについても、2011年に大きな論争が持ち上がったそうだ。著者はそれに対し、資料をくまなくチェックしある結論を導くのだが、ここでは割愛しよう)。それを受けてアインシュタインは、「宇宙項」をアインシュタイン方程式に導入したことが間違いだったと考え、正式に削除した。そして、「宇宙項」を導入したことを「我が人生最大の過ち」と言ったというのだ。

これが、世間的によく知られている、アインシュタインの「失敗」の話だ。しかし本書では、「アインシュタインが本当に最大の過ちと言ったのか?」という疑問を呈している。何故か?それは、この「最大の過ち」という言葉は、ガモフの著作の中にしか登場しないからだ。ガモフは「冗談好きな科学者」として知られている。最も有名なのは、ビッグバン理論を提出した際の話だろう。「アルファベット理論」とも呼ばれるその論文を提出した時のエピソードは非常に有名なので調べてみてほしい。また著者は、様々な文献を漁ることによって、「アインシュタインとガモフは本当に仲が良かったのか?」についても検証を行っている。著者の結論は、「ガモフが言うほど仲は良くなかったはずだ」というものだ。ガモフがアインシュタインと大して仲が良くなかったとすれば、「最大の過ち」という言葉がガモフの著作の中にしか出てこないのは不自然であり、ガモフが冗談好きだったということを加味すれば、恐らくこのエピソードはガモフの創作だろう、とするのが著者の見解である。

さて、アインシュタインの「宇宙項」は、アインシュタインが方程式にそれを組み込んでから80年近くたった頃、再び注目を集めることになる。何故なら1998年、科学者たちを驚嘆させたある観測事実が発表されたからだ。それは、「宇宙は加速膨張している」ということだ。ん?宇宙が膨張していることはハッブルが発見していたんじゃないの?と思った方もいるだろう。いや、ここで重要なのは「“加速”膨張」、“加速”の方である。宇宙が膨張していることはもちろん知られていたが、様々な理由から、その膨張速度は減速していると考えられていた。そうでなければ、理論上つじつまが合わないのだ。しかし観測結果は、膨張速度は加速している、というものだった。ここで「宇宙項」が再登場する。現在「宇宙項」は「宇宙定数」と名前を変えて知られているが、アインシュタインが静的な宇宙を実現するために方程式に組み込んだ「宇宙項」は現在、宇宙を膨張させる力である「真空エネルギー」の正体として理解されている。アインシュタインは、「宇宙が膨張している」という事実を知って「宇宙項」を削除してしまったが、実は、「宇宙が加速膨張している」ことを説明するために必要だったかもしれないのだ。著者は本書で、【アインシュタインの本当の過ちとは、宇宙定数を取り去ったことだったのである!】と書いている。

この「宇宙定数」は、物理学史上最も激論を巻き起こしているだろう「人間原理」を生み出すきっかけにもなったようで、そっちの話も面白いのだけど、それもここでは割愛しよう。

本書はこんな感じで、超一流の科学者たちの「失敗」を描き出し、その失敗の過程も明らかにする、なかなか類を見ない科学ノンフィクションである。著者が膨大な資料に直接当たっていることが伝わるので、より信憑性を感じることが出来る本でもある。

マリオ・リヴィオ「偉大なる失敗 天才科学者たちはどう間違えたか」

ブラックホール・膨張宇宙・重力波 一般性相対性理論の100年と展開(真貝寿明)

内容に入ろうと思います。
本書は、まさにタイトル通りの本で、本書を読めば、「ブラックホール」「膨張宇宙」「重力波」がどういう流れを経て現在に至っているのかが非常にコンパクトにまとまっています。どのテーマも、それだけで一冊の本になるぐらいのテーマだし、書けることは色々あると思うんだけど、本書では、科学的な記述と歴史的な記述をうまく拾い上げて、科学にあまり詳しくない人でもざっと理解できるぐらいに骨子を描きつつ、歴史上の面白エピソードを色々と散りばめているので、割とスイスイ読めちゃうんじゃないかと思います。たぶん本書なら、理科系に興味がある中学生なら読めるだろうし、理科系に興味がない大人でも読めると思います。

本書の3つのテーマはどれも、アインシュタインのいわゆる「相対性理論」(「特殊相対性理論」と「一般性相対性理論」の2つがある)が大きく関わっています。そして面白いことに、この3つのテーマすべてについて、アインシュタインが「間違えている」ということです。

その話が冒頭に書かれているので、引用してみましょう。

【ところが、その自信は災いし、数々の間違いを起こすことにもなる。
(中略)例えば、シュヴァルツシルトが導いた解(今ではブラックホールの解として知られるシュヴァルツシルト解)に対して、「計算は合っているが、物理的にあり得ないような簡単な状況を設定しているようだ」と評した。また、宇宙全体が傍聴している解を示したルメートルに対して「あなたの計算は正しいが、こんな解を信じるなんて、あなたの物理的センスは言語道断だ」とまで糾弾している。重力波の存在も、自身で一度予言しながら10年後には考え直して「物理的には存在しない」という論文を書きかけたほどである。つまり、現在の研究の主流である三つのトピックについて、いずれも一度は拒否反応を示したことになる】

3つのテーマはどれも、いわゆる「アインシュタイン方程式」(一般性相対性理論の重力方程式)から導き出されるものであるが、本書によると、【アインシュタインの重力場の方程式は、解くことがとても難しい】と書かれている。普通にはまず解けないようで、通常は、簡単な設定をした状態で解かれる。シュヴァルツシルト解も、アインシュタイン方程式を最も簡単な設定で解いた場合の厳密解だ。最近ではコンピューターのシミュレーションでそれらしい結果が得られるようにもなったが、それもここ10年ほどの話だという。アインシュタイン自身も、【彼本人は、この方程式をきちんとすぐには解いてみようとしなかった】という。著者自身、研究者としてアインシュタイン方程式に触れるが、

【途中で登場するリーマン幾何学のテンソル計算は、実に地味で、私自身も計算しながら、「よくぞこんな計算が重力に関係していると看破できたものだ…」と今でも思う】

と書いている。

【重力の正体は空間のゆがみだ、とする考えは、アインシュタイン以外には誰も思いつかなかった。幾何学という数学を、自然現象を説明する物理学に応用したのは、彼の努力と物理的なセンスの賜物である】

とも書かれている。絶賛である。

ところで、本書を読んで初めて知ったのだけど、実はこのアインシュタイン方程式は、ほぼ同時期に、「現代数学の父」と呼ばれるほど偉大な功績を持つヒルベルト(数学の本を読んでいると様々な場面で出てくる人物)もたどり着いていたのだという。アインシュタインは、1915年11月25日に論文を投稿した。しかしなんとその5日前の11月20日付で、ヒルベルトがまったく同じ方程式を投稿していた、というのだ。この事実は長年、アインシュタインの研究者や伝記作家を悩ませたという。どちらがより早く、方程式にたどり着いたのかは、歴史的事実として重要である。

これは、現在では解決されている。1997年に、ヒルベルトの論文の校正刷り(最初に提出した論文)が発見されたのだ。実はヒルベルトの論文は、最初に提出したものと、実際に掲載されたものが結構違っていたという。そのことが、校正刷りの発見によって理解され、アインシュタインが誰よりも早く方程式にたどり着いた、ということが確実になったという。

さて、先程の「アインシュタイン以外に誰も思いつかなかった」という話と、この「ヒルベルトも同じ方程式にたどり着いていた」という話が、どちらも正しいとするなら、恐らくこういうことになるだろう。ヒルベルトは、正しい数式にはたどり着いていたけど、その方程式が意味するところをきちんと説明できていたわけではなかった。アインシュタインは、方程式も導き、さらにその方程式が何を意味するかまできちんと理解していた、ということだ。このことは、アインシュタインとヒルベルトの先取権争いがまだ決着がついていない時期に書かれた著作の、こんなフレーズからも理解できるだろう。

【アインシュタインが一般性相対性理論のただ一人の創設者であり、彼とヒルベルトの二人が基礎方程式の発見の栄誉を受けるべきだ】

つまりこの文章を書いた人物は、「基礎方程式はもしかしたらヒルベルトの方が先にたどりついていたかもしれない。しかし、ほぼ同時なんだし、しかも、基礎方程式を元にした一般性相対性理論という大きな枠組みをきちんと理解していたのはアインシュタインだけだ」ということを言いたいのだろう。

一般性相対性理論の裏側に、そんなドラマがあることは知らなかったので、面白かった。これにちょっと関連して思い出したのが、何の本で読んだのかまったく覚えていないのだけど、次のような言説だ。

「相対性理論は、結果的にアインシュタインが最初にたどり着いたが、アインシュタインがもし気付かなかったとしても、他の誰かが気付いていただろう。しかし、ガロアが生み出した群論は、ガロアがいなければ恐らく生まれなかっただろう」

数学の世界に「群論」という分野があり、現代数学の要の一つとして非常に重要視されているが、その群論を生み出したのがガロアという若者だ(彼は20歳で決闘で死亡した)。アインシュタインは確かに天才ではあったが、少なくとも一般性相対性理論に限って言えば、アインシュタインが一番乗りだったというだけであり、同時代に近いところまでたどり着いていた人は他にもいた(という事実は元々知ってたんだけど、その一人がヒルベルトだとは知らなかった)。しかし群論は、ガロアにしかきっとたどり着けなかっただろう、と何かの本に書いてあった。まあ、完全に余談である。

それでは本書の構成に移ろう。本書は、割と明解な構成になっている。大まかに言って、以下の4つに分かれている。

◯アインシュタイン+相対性理論の説明
◯ブラックホールについて
◯膨張宇宙について
◯重力波について

僕は割と理系の本を結構読んでいるので、本書で記述されている話は、割とほとんど知っているものだった。しかし、だからこそ、科学にそこまで触れてこなかった人には本書は読みやすいだろう。本書で書かれていることは、一般向けの理系本によく書かれていることがよくまとまっているので、とっつきやすい。

「ブラックホール」「膨張宇宙」「重力波」それぞれについて、流れをざっと書いておこう。

ブラックホールは、結果的にはシュヴァルツシルト解として最初に登場したが、実際に「ブラックホール」という形で存在が認識されるようになるには時間が掛かった。これまでにも、星の一生がどうなるのか、という議論が続いていて、様々な理論が生み出されたり、それまでなかった観測結果が現れたりしてきた。その結果、やっぱ「ブラックホール」と呼ぶしかないようなものが生まれちゃうよね、ということが研究者の間に浸透していく(「ブラックホール」というのは、ホイーラーという物理学者がアインシュタインの死後につけた)。徐々に、星は、大きさにもよるけど、最終的にはブラックホールになるよね、という理解が進む一方で、ブラックホールの存在がまだ懐疑的だった頃から、もしブラックホールというものが存在するならどんな性質を持っているか、という研究がなされていく。中心的な研究者が、ペンローズと、車椅子の物理学者として有名なホーキングだ。彼らは、ブラックホールが「間接的に観測される」よりも前に、ブラックホールの性質に関する様々な研究を行った。さらにブラックホールの研究が超弦理論と結びつき、ブレーンという膜のような構造があるのではないか、という予測に繋がっていくことになる。

膨張宇宙については、宇宙観の話である。アインシュタインが生きていた当時、アインシュタインのみならず多くの物理学者が「定常宇宙」というものを信じていた。これは、宇宙は過去も未来も対して変わらず、始まりも終わりもないんだ、という考え方である。アインシュタインは、アインシュタイン方程式を解くと宇宙全体の構造が理解できることに気づき計算したところ、「宇宙は膨張している」という結果が出た。アインシュタインは、この解は間違っていると考え、方程式に「宇宙定数」という項をつけたすという修正を行うことで、膨張していない宇宙を表現することにした。しかしその後、宇宙は膨張しているという明確な証拠が出てしまい、アインシュタインは自説を撤回することになる。本書では、ビッグバンモデルやインフレーションモデルがどのように生まれ、認められていったのかという歴史を描きつつ、近年の大発見である「宇宙は加速膨張している」という認識から、ダークエネルギーという正体不明の研究対象が現れた。宇宙が膨張していることは知られていたが、しかしその膨張速度がどんどんと速くなっている(加速している)ということが最近発見された。宇宙の膨張を加速させるためには、物質(エネルギー)が必要だが、現在分かっている物質(エネルギー)を計算しても、70%ほど足りない。その足りない70%に便宜上「ダークエネルギー」という名前をつけている。この正体は現在まったく不明だ。しかし著者は、この「ダークエネルギー」を「エーテル」のようなものかもしれない、と書いている。「エーテル」というのは、かつてその存在が確実視されていた、宇宙全体を満たしていると考えられていた物質である。様々な観測結果から、「エーテル」とでも呼ぶべきものがないと説明つかねぇよ、ということになっていたのだけど、そこにアインシュタインがやってきて、華麗に「エーテルなんてものを想定しなくても解決できるよ!」と言ってみんなを驚かせたのである。「ダークエネルギー」も、もしかしたらそんな風に、異次元の解決がなされるかもしれない、と著者は書いている。

重力波は、「アインシュタイン最後の宿題」と呼ばれている。本書刊行時にはまだ検出されていなかったが、本書刊行から1年後2016年に重力波検出のニュースが世界中を駆け巡った。アインシュタインは、重力波の存在を予測しつつも、一旦は存在しないと考えたり、あるいは存在したとしてもあまりにも小さすぎて検出出来ないだろうと考えていた。アインシュタインが残した数々の功績の内、実験的な裏付けがなされていない最後のものが「重力波」であり、だから「最後の宿題」と呼ばれている。本書で初めて知ったが、「重力波」は、1970年代に「間接的にその存在が証明された」という。その業績に対して、1993年にノーベル賞が受賞されている。連星パルサーという、お互いがお互いの周りを回っている「パルサー」と呼ばれる星が発見された。一般性相対性理論によって、「もし重力波が存在するなら、連星パルサーの軌道周期は少しずつ短くなっていくはず」という予測がなされていて、連星パルサーの観測によって理論通りに軌道周期が短くなっていることが判明したのだ。それまで重力波は、「存在するかどうかも分からないもの」だったが、この連星パルサーの発見により、「検出できるかどうかはともかく、確実に存在はする」ということが明らかになったのだ。本書では、重力波検出の試みがどのように進んでいるのか、日本がそれにどう関わっているのかなどが書かれていく。

最後に。本書を読んで少し意外だった事実に触れて終わろうと思う。

【1950年代の終わり頃まで、一般性相対性理論は、現実とかけ離れた数学と見なされ、ごく少数の研究者だけが細々と研究を続けてきた】

今まで相対性理論とかアインシュタインの本を色々読んできたけど、一般性相対性理論は登場してすぐに研究者たちがワイワイ研究していたようなイメージを持っていた。しかし実はそうではないようだ。まあ、それもそのはずと言える。何故なら、地球や月などの惑星の動きについても、基本的にニュートンの重力方程式で正確に記述出来るのだ。当時の観測技術では、一般性相対性理論を正しく検証できるような天体現象を捉えることは難しかった。しかし、57年に重力に関する国際会議が開かれたことで、一般性相対性理論に注目が集まるようになったり、また先程挙げた連星パルサーの発見が、一般性相対性理論をより高い精度で検証できる天体現象だと分かったことなどによって、一般性相対性理論はどんどん研究されるようになったという。

本書にはこういう、結構理系の本を読んでいる人間でも初めて知るエピソードが結構あったりして、そういう意味でも面白く読める一冊です。

真貝寿明「ブラックホール・膨張宇宙・重力波 一般性相対性理論の100年と展開」

アネモネの姉妹 リコリスの兄弟(古内一絵)

内容に入ろうと思います。
本書は、6編の短編が収録された連作短編集です。

「アネモネの姉妹」
昔から完璧で、美貌も資産家の夫も努力によって手に入れたと感じている絹子。彼女は今、妹を迎え入れる準備をしている。表向きそれは、妹のお祝いだ。しかし、子どもの頃から愚図で、絹子とは似ても似つかない容姿で、勉強も出来なかった綾子への複雑な感情が昔からあった。自分は努力に努力を重ねて今ここにいるというのに、綾子は、自分とはまったく違う土俵にいて、何を考えているのか分からない。子どもの頃の些細な記憶を思い起こしながら、相変わらず方向音痴でかなり遅れてくると連絡のあった綾子を待つためにツイッターを開く。
そこに「#花言葉診断」というキーワードが。名前を入れると診断してくれるのだという。絹子の診断は、アネモネ。花言葉は「嫉妬のための無実の犠牲」だ。綾子のことを思い出す。嫉妬。絹子は、妹に嫉妬しているのだろうか?

「ヒエンソウの兄弟」
中堅出版社に新卒で入社して6年、昨年念願だった文芸部に異動となった桐生啓二は、新人の原稿を読み漁っていた。啓二でも名前を知っている作家の担当は、ベテラン編集者がしている。啓二は、早く結果を出すためにも、応募原稿の山から原石を見つけ出さなければならないのだ。
妹の美郷から、お兄ちゃんと連絡が取れたのかと催促の連絡が来る。来月の両親の結婚記念日を兄弟三人で祝おうと美郷が言うのだが、長男の祐一は、事実上行方不明、今どこにいるのかも分からないし、メールは届くが返信はこない。形だけメールは送るものの、祐一と連絡を取るのは難しいと美郷も分かっているはずだ。
そんな時、ダンボールの中から見つけた原稿が、それまでのものとは明らかに違った。そして読んでいく内に啓二は確信した。これはまさに、祐一が書いた原稿に違いない…。

「マツムシソウの兄妹」
冴島春奈は、海外出張の多い兄・慎吾と電話でやり取りするのを楽しみにしている。そこには、付き合っている森川卓也の存在も大きな理由だ。春奈と同じ専門商社の営業に勤める卓也の元には最近、妹の美佳が引越してきた。働いていたデザイン事務所を辞めてしまったので、仕事が見つかるまでだと言っているが、美佳は春奈と卓也が仲良くすることを嫌がっているようで、何かにつけて邪魔をしようとしてくる。そんな愚痴も、兄にしか言えない。花言葉診断ではマツムシソウ、花言葉は「あなたは私を置き去りにする」と出た。
美佳の態度がどんどんと酷くなっていく。まるで春奈を、邪険にするような扱いだ。一体美佳は、何が気に食わなくて嫌がらせしてくるのだろう…

「リコリスの兄弟」
双子の水泳選手として注目を集めた高森颯馬は、今は一人で泳いでいる。片割れは、事故で療養中だ。クローンのように育ち、常に同じように決断してきた二人だったが、今は一人。
颯馬は、オーストラリアへの留学が決まっていて、だから三年生が受験を控えて引退する中、プールで泳ぎ続けている。しかし、納得の行くタイムがまったく出ない。苛立ちからつい泳ぎすぎ、教諭の静止も聞かずに泳いだせいで、病院に運ばれてしまう。
すべてが同じ遺伝子を持つクローンだという彼岸花。その花言葉は「悲しき思い出」だ。二人で築き上げてきた数々の記録も、すべて「悲しき思い出」となってしまうのだろうか…。

「ツリフネソウの姉弟」
潮見隼人は、骨折で入院している母を見舞うために病院へと向かっている。幼い頃、両親の離婚によって会う機会が減った姉・苑子は相変わらずの陰気さで、すべてが面倒だが、女性の扱いの巧さだけで生き延びてきた隼人はほどよくそつなくこなす。妻とは冷え切った関係だが、一人娘である七海が成人するまではと思って、夫婦関係を維持する努力をしている。
そんなある日、妻から意外な事実を聞かされる。広告代理店に勤める隼人には、妻の望みを叶えることなど容易いが、しかし七海がどう思うだろうか。そんなことを思っていると、母が認知症になったと姉から連絡があり、色々あって七海と一緒に向かうことになった。その帰り…。

「カリフォルニアポピーの義妹」
寺内雪美は、祖父が興し、父が大きくした生花店「フローラル・テラ」の三代目社長だ。しかし、若くして父が亡くなった今、会社の経営は難航している。営業部長の谷岡が社内で様々な扇動をしているようで、若い女社長である雪美では事態を抑えにくくなっている。本来なら、長男である弟・泉が継ぐべきであるように思うが、しかし泉にはとてもじゃないが無理だ。姉である雪美とは違って、甘やかされて育った泉は、大手IT企業に就職したと思ったらすぐに辞め、今はライトノベル作家になっている。
そんな泉が結婚するというから驚いた。さらに、その結婚相手として連れてきた女が、雪美のことを「ユキミン」と呼ぶのはともかくとしても、雪美・泉の母である緑のことを「ミドリン」と呼ぶ、とんでもない女だった…。

というような話です。

後半に面白さが加速してきたなぁ、という感じの作品でした。

一番好きなのは、5話目の「ツリフネソウの姉弟」。物語全体を通して関係のある「花言葉診断」についてある謎が明らかにされ、それを遠景にしながら、家族のわだかまりを見事に描きだす作品で非常に面白いと思いました。いきなり変転する展開に「おっ!」と思わされるし、七海のキャラクターは凄くいいなと思いますね。僕も、七海と同じ動機で作りそうだもんなぁ、あれ。

また隼人については、他人に基本的な関心がないのに、表向きのそつのなさが見事だからなかなかそれを周りは見破れないし、結婚相手として優良物件と見られて当然のスペックだから結婚しちゃったけど(できちゃった結婚)、でも本来的には家族を持つこととは絶対に向いてないタイプの人間で、その点は凄く共感しました。僕は、それを自覚しているから、結婚とかするつもりはないけど。

最終話の「カリフォルニアポピーの義妹」は、泉の結婚相手として登場するキャロライン(日本人)のキャラクターが好きだなぁ。特に、まさかあの場面で出てくるとは思わなかったから驚いた!(笑) 物語の展開的には明らかに、「泉もキャロラインも実は良い人だよね」っていう流れになるのは分かってたけど、それにしても、キャロラインはなかなか想定外の人物・登場の仕方で、非常に面白いなと思いました。まあ、近くにいてほしいとは思わないけど(笑)

古内一絵「アネモネの姉妹 リコリスの兄弟」

光の量子コンピューター(古澤明)

量子コンピューターというのをご存知だろうか?これは、「量子力学」という分野から得られた知見をフル活用して構築されようとしている、まったく新しいタイプのコンピューターだ。現在のコンピューターは、「電子」を使って「0」と「1」を表現し、そのON・OFFによって様々な計算を行うが、量子コンピューターの場合、まず「電子」に当たるものが様々に検討されている。イオンや超伝導体や光子など、様々なものが検討されている。さらに現在のコンピューターの場合、「1ビット」には「0」か「1」のどちらかの数が割り当てられるが、量子コンピューターの場合は「1量子ビット」に「0と1が重ね合わされた状態」が割り当てられる。もはやこの辺りから理解不能だろうけど、安心してほしい。僕もちゃんと理解しているわけではない。とにかく「量子力学」の世界には「重ね合わせ」という現象があり、「観測されるまで情報が確定されないまま、重ね合わせられた状態のままでいる」のだ。この性質をうまく使うことで、高速計算を可能にする―というのが、一般的な量子コンピューターのイメージだろう。

実際、量子コンピューターを使って因数分解を行うアルゴリズムは既に作られている。そして、現在我々が使っているメジャーな暗号システムである「RSA暗号」(インターネットのパスワードやATMの暗証番号などに使われている)は、「現在のコンピューターの性能では因数分解にメッチャ時間が掛かる」という事実をベースにしている。つまり、量子コンピューターが完成して、かなり難しい因数分解が一瞬で解けるようになってしまえば、RSA暗号の基盤が崩れる、ということになってしまうのだ。

しかし、本書を読んで一番意外だったのは、「量子コンピューターの本質的な価値は、高速計算ではない」ということだ。

【量子コンピューターが実現することで、確実に超高速に計算処理できるようになることが理論的に保証されている問題は、ショアのアルゴリズムに加え、1996年にベル研究所の研究員であるロブ・グローバーが、量子力学の性質を使って膨大なデータの中から目的のデータを探索する至宝として開発した「グローバーのアルゴリズム」など、現在のところ約60種程度に過ぎず、それ以外はほとんどわかっていないというのが現状だ】

つまり、コンピューターの性能は超良くなるけど、計算するためのアルゴリズムが発見されていないものが多いから、量子コンピューターが出来ても、「計算能力」という点で素晴らしい成果を出せるかは、現状ではちょっと疑問、ということだ。

では著者はどこに力点を置くのか。

【量子コンピューターであれば、計算処理に伴って排出される大量の熱エネルギーを理論上、ゼロにできるということだ】

【既存のスーパー・コンピューターを正常に稼働させるには、原子力発電所1基分以上の電力が必要とされており、その電力の大半が、本来の目的である計算処理ではなく、冷却に使われている】

これは本書で初めて知った事実だった。量子コンピューターは、もちろん量子アルゴリズムの計算は出来るわけだけど、現在のコンピューターが行っている計算も当然出来る。つまり、量子アルゴリズムに限りがあっても、量子コンピューターが開発されれば、冷却を一切必要としないスーパー・コンピューターが作れるのだから、それだけでも価値があるのではないか、ということだ。なるほど、確かにそれは大きいメリットだなと思う。

さて本書は、そんな量子コンピューターの開発に挑んでいる日本人研究者自らが書いている、量子コンピューター開発の最前線の話だ。

この著者、なかなか凄い人物である。

量子力学の世界には、「量子テレポーテーション」という現象がある。実際に物体そのものをテレポーテーションするわけではないが、A地点にあるxという粒子が持つ性質を、A地点から遠く離れたB地点にあるyという粒子に瞬時に移動させ、それと同時に、A地点にあるxという粒子は元々持っていた性質を失ってしまうため、テレポーテーションと呼ばれている。FAXのようにコピーを送るのではない、ということだ。

この量子テレポーテーション、1993年にIBMの研究者らが理論的に構築していたのだが、なんと実際に実験によって量子テレポーテーションを実現させたのは、本書の著者だというのだ。この実験は、科学論文誌『サイエンス』による1998年の10大成果の1つに選ばれたという。

更に著者は凄い実験をしている。ここでは実験の詳細は書かないが、「シュレディンガーの猫状態の量子テレポーテーション」というその実験が成功した際、アメリカ、オーストラリア、ロシアなど世界中のテレビによって大々的に報じられたそうだ。日本でその功績が知られていないのは、その研究成果を発表したのが2011年4月だったからだ。日本は、東日本大震災の報道一色だった時期である。

その他にも著者は、ある実験法の精密化によってノーベル賞を受賞したジョン・ホールから「クレイジー」と言われる実験装置を使った、日本人にしか出来ないだろうと思われる実験を成功させたり、あるいは、誰もが不可能だと考えていた「スクイージングレベル」を飛躍的に向上させるきっかけを作る実験を行うなど、量子力学の実験分野において果てしない功績を持つ人物である。自身の名がついた「ヴァンルック―古澤の判定条件」という判定法にも貢献している。

そんな著者が開発を続けているのが、「光量子コンピューター」である。これは、現在のコンピューターの「電子」に当たるものを「光子(光量子)」で実現しようというもので、その根幹には、量子テレポーテーションが関わっている。そう、著者は、量子テレポーテーションの最先端を行く実験をしていたお陰で、誰も想像しなかった「光子を使って量子コンピューターを生み出す」という挑戦に挑んでいるのだ。

本書には、かなり技術的な詳細も載っているのだけど、僕にはその辺りのことはよく理解できない(そもそも、現在のコンピューターの仕組みだって、よく分かってないのだ)。しかし」、著者が主張する、「光量子コンピューターが、他の量子コンピューターの方式よりも優れている」と主張する点は、なるほど、と感じる部分も多い。

量子コンピューター開発の困難さは、大きく2つ挙げることが出来る。

一つは、「重ね合わせの状態を維持することが困難」という点にある。量子コンピューターにおいて決定的に重要な「重ね合わせ」という状態は、熱や外乱など、様々な環境要因によってすぐに壊れてしまう。そこで、多くの量子コンピューターの方式では、極低温状態にする。極低温状態であれば、「重ね合わせ」という状態は維持しやすいのだ。しかしそうだとしても、実際にコンピューターとして組み上げることを考えると、そのコンピューターが極低温下になければならない、という制約は難しい。この、極低温にすれば「重ね合わせ」はある程度維持出来るが、極低温下でなければ困難、という部分が、技術的に非常に難しいのだ。

そしてもう一つは、「量子誤り訂正」の困難さである。「誤り訂正」というのは、現在のコンピューターでも使われていて、電圧の高すぎるあるいは低すぎるなどの「誤り」が、計算結果に影響を与えないようにするためのセーフティ装置のようなものだ。かつて量子コンピューターは実現できないと考えられていた時期があり、その理由は、IBMのとある研究者が論文の中で、「誤り訂正が出来ない」と主張したからだ。誤り訂正が出来ないコンピューターは、現実的には使い物にならない。しかしその後、「理論的には誤り訂正は可能だ」という論文が出て、ようやく「量子誤り訂正」の可能性が拓けた。しかし、確かに理論上は可能だが、これを実現するのは相当に難しい、とされている。

しかし、著者が開発を進める「光量子コンピューター」は、この2つの問題を既にクリアしている、という。「光子」は常温で制御可能で、また環境との相互作用が極めて小さいので、「重ね合わせ」の状態が維持しやすい。また著者らは、量子テレポーテーションの実験を通じて、結果的に「光量子コンピューターで量子誤り訂正を行う方法」を発見していたのだ。量子コンピューター開発の大きな困難をもたらす2つが、「光量子コンピューター」では既に解決されているのだ。さらに「光子」の場合、単一光子(光子1個)を効率よく検出する技術が既に開発されていたり、量子状態を乱さずに長距離伝送が可能であることなど、メリットが非常に大きい。もちろん、著者が挑んでいる「光量子コンピューター」開発も、決して平坦な道ではないが、著者はこの方式が一番実現の可能性が高いのではないか、と考えている。

実際、量子コンピューターの開発が今後どう進んでいくのか、それは誰にも分からないが、著者は「量子コンピューターが実現したらどのような社会が訪れると思うか」と質問されると、「それには答えられない」と返すようだ。

【(トランジスタが最初に使われたのは補聴器だった、という話の後で)発見や発明が社会にどのように受け入れられ、利用されていくかは、その次代の人々にしかわからないことだ。イノベーションは、1人の人間が、研究室に閉じこもってうなっていても決して起こせるものではない。世界中の多種多様な人々との間の化学反応を通して、偶然生まれるものではないだろうか】

さて最後に。著者はコンスタントに成果を出し続けてきた自分の研究の秘密を、こんな風に書いている。

【言い換えれば、私の役割は、学生にどれだけ楽しめるおもちゃを与えられるかであると考えている。そして、それができたら、あとはもう学生の邪魔をしないというのが、私のポリシーだ。夢中で遊んでいる学生の浜をすることほど野暮なことはない。そのため、学生が実験中に覗きに行ってあれこれ指示を出したり、定期的にミーティングを開いたりといったことは一切行っていない。このような研究室は日本では珍しいだろう。】

【しかし、アメリカでは皆、楽しいことしかやらない。この姿勢を徹底している。しかも、大きな成果を出している人は皆、ものすごく遊んでおり、人生を楽しんでいる。苦しみながら研究をしている人が大きな成果を出したり、ましてや、イノベーションを起こしたりするということは決してない。そのことをアメリカで学んだのだ。】

【そもそも研究とは、面白いからやるというのが大前提であって、楽しいと思うこと以外、やるべきではない。どんなことでも楽しむことができることこそが、プロフェッショナルの条件だ。したがって、面白いと思うことは徹底的にやればよいし、面白くないと想い始めたら、すぐにやめた方がよいだろう】

これは、どんな分野であっても当てはまるだろう、と僕は感じた。これからの時代、益々そうなっていくだろう。寝食を忘れてのめり込む、みたいな人間が生み出したものでなければ、今の時代、大きく広まることはない。僕も、なるべく楽しいことだけしていこうと思う。

古澤明「光の量子コンピューター」

思いどおりになんて育たない 反ペアレンティングの科学(アリソン・ゴプニック)

本書は、「子育て」というかなり広い話題を扱っていて、その中には、興味を持てない部分もあったが、僕にとって本書は、4~6章が最高に面白かった(ちなみに僕には子どもはいない)。

【世の中にあふれかえる育児書に対する不満をぶつけて書いたのが本書である】

解説氏がこう書いている通り、本書は、世の中の育児書なんかくそくらえ(というような荒っぽい言葉は出てこないけど)というスタンスで書かれている。今世間では「ペアレンティング」という言葉があって、これはざくっと説明すると「子どもを良く育てるための方法」みたいな感じだけど、著者は、ンなもん存在しねーよ、と主張する。

【けれども親が行うことのわずかな違い―ペアレンティングで注目する違い―と、その子がどのような大人になるかとの間に、現実的ではっきりした関係を見つけるのは難しい。添い寝をするかしないか、子どもを“泣かせておく”か、寝るまで抱っこするか、宿題以外の勉強をさせるか遊ばせるかといった意識的な決定が、長期的に子どもの成長に影響を与えるという証拠はほとんどない。経験的に見れば、ペアレンティングの効果は明確ではないのだ】

一応書いておくと、著者には子育ての経験があり、本書執筆時点で孫もいる。解説氏は彼女のことを、【カリフォルニア大学バークレー校の心理学部の教授であり、哲学の教授も兼ねている、当世で最も独創的な研究者の一人である】と書いている。「子どもの発達に関する心理学」について様々な研究を行っているそうだ。本書はそういう、「母・祖母」の立場と「研究者」の立場が入り乱れた内容になっている。しかし主軸は、科学的スタンスに置かれている。「自分が、自分の子どもや孫に感じてしまうどう説明していいか分からない愛情」を感じながらも、なんとかそれを客観的に捉え、説明しようとする。それが不可能な状況にならない限り、彼女は「研究者」としての立場を踏み外さない。

冒頭で触れた4~6章の内容は、「子どもはどのように学ぶのか」に関する様々な実験が紹介されている。これらの実験は本当に興味深く、また、子育てをしている人が基本的に想定しているだろう内容ではないので、4~6章を読むために本書を買うというのも非常に有益だと僕は思う。

では、どんな実験について触れられているのか紹介しよう。

たとえば、生後24ヶ月の子どもへのこんな実験がある。真ん中にミニカーが置かれ、そこからちょっと離れた左右に箱が置いてある。あと、光るおもちゃもある。ミニカーがどちらかの箱にぶつかるとおもちゃは光るけど、もう一方の箱にぶつかった場合には光らない。

最初は、実験者がミニカーを押して動かす。その場合、子どもは、光った方の箱にぶつける行動だけ真似した。うまくいく行動だけ真似するのだ。しかしここからが面白い。今度は実験者がミニカーを動かすのではなく、ミニカーが自動的に動いて箱にぶつかるとする。実験者が動かしているかどうか以外、現象としてはすべて同じなのだけど、この場合、子どもたちはミニカーを動かそうとしなかった。促されてもミニカーに触れなかったという。

この実験の結論は、「子どもは、目の前の現象をすべて真似するのではなく、意図的な行動な行動だけを真似する」というものだ。

では、次の実験。今度は、ぶつかると光る箱が置いてある。生後18ヶ月の子どもに、「A腕に布を巻いて手が使えない人物が箱に頭をぶつける」のと、「B手を自由に使える人物が箱に頭をぶつける」という違う行動を見せた。

Aの場合子どもたちは、自分の手で箱を叩く。しかしBの場合子どもたちは、頭を使って箱を叩く。これはどういうことかというと、子どもたちはきっとこう推論しているはずなのだ。「Aの人は、手が使えないから頭でぶつけてるだけで、私は手が使えるから手で叩こう」「Bの人は、手が使えるのに頭でぶつけてるから、頭を使ったのには何か理由があるはずだから私も頭で叩く」そうじゃなければ、子どもたちの行動は説明できない。

つまり18ヶ月の子どもでも、目の前の現象からこういう推論をしている、ということだ。

また、実験内容の詳細を書くと煩雑になるので省略するが、いくつかの行為を組み合わせることで別の結果が現れる、という一連の動作において、どういう操作を行うかでどういう結果になるのかという確率をコントロールして行った実験がある。この場合子どもたちは、無意識の内に確率を計算しているような振る舞いを、つまり、確率が高くなる行動を取っていたという。これは4歳児を対象にした実験だが、4歳にして既に、統計や確率的な発想で目の前の現象を分析出来ているという。

生後24ヶ月の子どもを対象にしたこんな実験もある。実験者が子どもに2つの小さな動物のおもちゃ(色違い)とミルクの入ったカップのおもちゃを見せる。そして実験者は、どちらかの動物にミルクを飲ませるふりをして、次のどちらかのセリフを言う。

「A ブリックはミルクを飲む」
「B このブリックはミルクを飲む」

その後で実験者子どもに両方のおもちゃを渡して「やってみてくれる?」という。

すると、Aの場合は、その動物すべてがミルクを飲むと考えて、2つの動物の両方にミルクを飲ませた。しかしBの場合、実験者がミルクを飲ませた方の動物にだけミルクを飲ませた。この特定の動物だけがミルクを飲むと考えたのだ。

これもなかなか凄い結果ではないだろうか。確かに大人になれば、「この」がついてるかどうかは重要な違いだと分かるが、既に24ヶ月の子どもでもそれが出来る、ということだ。こういう僅かな差異から、子どもは様々なことを学び取るのだ。

また、「何かを教える」ということについて非常に深く考えさせられるこんな2つの実験がある。

まずは「真似する」ことに関するもの。ある課題をクリアするのにおもちゃを使う実験で、実験者の性質だけ変えた。

「A 実験者はおもちゃの使い方を良く知らないという風に振る舞う」
「B 実験者そのおもちゃを使うエキスパートであるように振る舞う」

Aの場合子どもたちは、効率的に課題をクリア出来るように創造的に行動した。つまり、その課題をクリアするのに必要な行為だけ真似したのだ。しかしBの場合、子どもたちは、課題をクリアするのに必要かどうかに関わらず、実験者が行った動作をすべて忠実に真似た。これは、結果だけ見れば、Bの方の子どもの方が愚かな行動をしているように見えるだろう。つまり、「自分はそれについて詳しい」という教育者が子どもに教育を与えることで、子どもから創造力が奪われてしまうように見える、ということだ。

一方、こんな実験もある。今度は「遊び」に関するものだ。違う機能を持つチューブをいくつも組み合わせたおもちゃを用意する。それぞれのチューブは、押したら高い音が出たり、明かりがついたりと、色んな性質を持っている。このおもちゃを使って、以下の2つの実験を行う

「A 実験者がおもちゃを踏んづけたりしてたまたま高い音が出てしまった後、そのおもちゃを渡す」
「B 実験者が、ここを押すと高い音が出るよと教えてから、おもちゃを渡す」

Aの場合、子どもたちはそのおもちゃで夢中になって遊び、他の様々な機能も発見した。しかしBの場合、子どもたちは「高い音が出る」という機能だけを繰り返し試し、他の機能について探ろうとしなかった。

ここにも「教えること」の難しさがある。教えてしまうと、子どもの創意工夫が失われるように見えるのだ。

この2つの実験で明らかなことは、「子どもは『教えられている』という事実に敏感である」ということだ。そして、「教えられている」と気づくと、そうでない場合と反応が変わってしまう。こういう結果からも、「子どもに何かを教えること」の難しさ、そして不合理さを感じることが出来るだろう。

また、「真似する」ことについてこんな実験もある。実験者は、ある似たような行動をするが、目的があるように見えるかどうかが違う。以下のような違いだ。

「A 空中でペンを振り、それを回し、その後箱に入れる」
「B テーブルに置いてあるペンを取り、何度も回して、また元の位置に置く」

Aの場合、子どもたちは「ペンを箱に入れること」が目的だと判断して、「ペンを振る」とか「ペンを回す」という行動は真似せずに、そのままペンを箱に入れる。しかしBの場合、実験者の行為に特別な目的を感じないので、そういう場合は細かいところまで真似して行動する。

これは、「あなたはこういう人だとわかっています」ということを相手に伝える、儀礼的な模倣だと考えられている。これも非常に高度な行動ではないだろうか。

そして、こういう実験を踏まえた上で、著者はこう書く。

【子どもたちは親がやるように行動する。そして親の行動のわずかな違いを区別する】

【大人の言ったことが、子どものカテゴリーの考え方に影響を与えることが分かっている。ちょっとした言葉遣いでも、子どもの世界の見方を左右することがある。むしろ本当にちょっとしたことが、子どもの考え方に大きな影響を与える可能性がある。きちんとした教育よりも強い影響力を持つかもしれないのだ】

そしてその上で、子育てについてこんな結論を出す。

【親の役割は、ペアレンティングの規範が示唆する役割とはかなり違っている。親をはじめとする子どもの世話をする人たちは、幼児にあまり教える必要はない。ただ子どもが自然に学ぶに任せればいい。幼い子は他人からすばやく楽々と学ぶ。そして必要な情報を得て、その情報を解釈するのに長けている】

【多様な人々が行っていることを、近くで観察する機会を子どもに与えることが、見ることによる学習を助けるいちばんいい方法である。多くの違う人々と話す機会を子どもに与えることが、聞くことによる学習を助けるいちばんいい方法である】

実験結果を踏まえると、なるほどな、と感じさせる結論である。これが、科学的な検証を踏まえた現時点での結論である、というのは、子どもを育てる親にとってはある種の救いになるのではないかと思う。意識的な教育が果たせる役割は、幼い子どもに対してはあまり多くはない。それよりは、日常の中の様々な経験や会話から、子どもは勝手に学んでいく。そう思っている方が、子育てはやりやすいだろう。

他にも興味深い記述はあるのだけど、一つ、へぇそんなんだ、と感じるものがあったので書いておく。

【祖母というのは大昔からある役割のように思えるかもしれない(本当にそう感じるときもる)が、進化の検知からすると比較的、新しい存在なのだ。人間は自分の子どもを持てる年齢を過ぎても元気で、長生きして子どもの世話をできる、唯一の霊長類である】

【私たちが知る限り、繁殖能力を失った雌がその後も生き続けるのは、哺乳類の中では他にシャチだけだ。】

【数学的モデルでは、赤ん坊に手がかかる世界では、進化によって繁殖力のない祖母という存在が書汁ことが示されている】

なるほど、これは非常に面白いなと思う。人間がなぜこれほど長い子ども時代を持つのかはまだ謎らしい(脳が大きくなり、骨盤を通れなくなるから、早い段階で出てくる、というよくある説は、あまり根拠がないと著者は書く)。しかし、長い子ども時代を持つことで、「祖母」という存在が生まれる、という発想は非常に興味深いなと思う。

研究者が書く本なので、ちょっと学術よりというか、子育て世代の母親がさくっと読める本ではないのがなかなか難点ではあるが、読めば目からウロコの知識は多々あるだろうし、子育てについて「何かしなくちゃ」という発想から「なるべく何もしないようにしなくちゃ」という発想に以降出来るようになるだろうから、そういう意味でも読んで損はない本だろうと思いました。

アリソン・ゴプニック「思いどおりになって育たない 反ペアレンティングの科学」

月下の犯罪 一九四五年三月、レヒニッツで起きたユダヤ人虐殺、そして或るハンガリー貴族の秘史(サーシャ・バッチャーニ)

こんなに読めない本は、久々だった。

最初の50ページほどで、もう完全に迷子になってしまった。この本に書いてあることがなんなのか、全然分からなかったのだ。

そこには僕なりに分析して、いくつかの要因がある。

まず、本書をどういう本だと思っていたか、という先入観の問題がある。本書を読む前僕は、「親族が虐殺に関わっているかもしれないという疑惑を調べること」に主眼があるんだと思っていた。つまり、「虐殺事件そのもの」が本書の中心だ、という捉え方だ。

でも読んでみたら、どうもそういう感じではない。本書は「虐殺事件について調べている俺」という「俺」に主眼がある作品だった。

別にそのことそのものを責めたいわけではない。ただ僕は、「虐殺事件」に興味があった。そこに焦点が当たるんだと思ってたんだけど、どうもそうならない。で、「俺」の話ばかり出てくるから、「これは一体なんの話なんだ?」と最初の時点で大きくつまづいてしまったのだ。

本によっては、こういうことはままある。で、冒頭で戸惑って迷子になっても、ある程度軌道修正出来る。通常は。

本書はそれも難しかった。その理由が、本書にはハンガリーの歴史が深く絡みついているからだ。

僕は、中学生でも知っているような歴史の知識すらないぐらい歴史が超苦手だ。さらに、こう言っては申し訳ないけど、恐らく「ハンガリーという国の歴史」というのは、歴史の授業でもそこまで大きく扱わない、結構マイナーな部類なんだと思う。そういう理由もあって、とにかく、本書を読むための前提知識がなさすぎた。「ハンガリーの歴史」という前提知識なしに本書を読むのは不可能で、もちろん、歴史に親和性のある人であれば、本書を読みながらその前提である「ハンガリーの歴史」を理解することは出来るんだと思う。でも僕は、とにかく歴史が超絶苦手なので、歴史の描写が基本的にまったく頭に入らない。これが日本で起こった出来事であれば、まだついていけたかもしれないけど、「ハンガリーの歴史」は、ちょっと僕にはお手上げだった。

さらに本書は、色んな要素が断片的にかなり入り乱れた構成になっている。僕は途中から、本書を斜め読みというか、字面だけ追っている状態だったので、ちゃんと正確には捉えられていないけど、本書にはこういう要素がある。

◯著者が事件について調べる過程
◯著者が精神科医を受診している場面
◯著者の祖母と、その祖母の友人の手記
◯故人たちによる会話(?)

これらが、短い間隔でどんどん切り替わりながら、作品が進んでいく。

この中でも特に、「故人たちによる会話」が謎すぎた。僕はちゃんと理解しているわけではないので憶測だけど、この会話は、「著者の創作」なんだと思う。著者が切り取りたいと思った過去のある場面があって、その場面においてきっとこういう会話がなされていただろう、という会話を著者が創作しているんだろう、と僕は解釈しました(間違っているかもしれません)。

「ハンガリーの歴史」という大前提をまったく取り込めていない段階で、こういう色んな要素が次から次へと出てくるんで、正直わけわからん、という感じになってしまいました。

一応、70ページぐらいまでは、それでもちゃんと読もうと思って頑張りましたが、やっぱりまったく無理で、それ以降はざっと流し読みするだけという読書をしました。最終的に、「親族が関わっていたかもしれない虐殺事件」がどう決着したのかもよく分からないまま、僕の読書は終了しました。

割と諦めないで最後まで読む主義なんですけど、久々に、まったく太刀打ち出来ない本でした。残念。

サーシャ・バッチャーニ「月下の犯罪 一九四五年三月、レヒニッツで起きたユダヤ人虐殺、そして或るハンガリー貴族の秘史」


佐藤優直伝!最強の働き方 令和時代の生存戦略(佐藤優)

内容に入ろうと思います。
本書は、著者が朝日カルチャーセンターでの連続講座をベースにした、マルクス「資本論」をベースにした働き方の話です。

本書に書かれている内容は、面白い部分もあったし、なるほどと思う部分もあったんだけど、本書にはなかなか致命的な欠点がある。

それは、「喋り言葉のまま」ということだ。

編集の意図は僕には分からないが、恐らく、「著者が喋っている雰囲気は残したい」ということだったんだろうと思う。しかし、人間が普通の喋っていることをただ文字に起こすと、基本的には意味不明な文章になる。喋っている時は、身振り手振りも使えるし、「あれ」「それ」と言った指示語も何を指しているのか流れで分かる。でも、それをただ文字に起こしても、よく判らない文章になってしまう。

で、僕の感触的に、本書はどうも、それをやってしまった本に思える。これ、本当に著者OKしたのかなぁ。それがちょっと僕には信じられない。文章を読んでても、全然すんなり頭の中に入ってこない。著者が喋っている雰囲気は残したい、という意図なんだとすれば、少なくとも僕にとっては大失敗だ。

特に、P135の、外務省のロシア課長の話は、さっぱり理解できなかった。3ページちょっとぐらい、何が書いてあるのかさっぱり理解できなくて、自分の頭が悪いのかな、と思ったりした。

内容に触れたい部分もなくはないんだけど、ちょーっとそういった感じで、文章が酷いので、諦めたい。ちょっともったいないなぁ。

佐藤優「佐藤優直伝!最強の働き方 令和時代の生存戦略」

人生にゆとりを生み出す知の整理術(pha)

内容に入ろうと思います。
本書は、「元『日本一のニート』」という肩書の著者が、自身の経験を踏まえつつ、「いかに勉強するか」「いかにアウトプットするか」についてまとめた本だ。

僕はこの著者が結構好きで、何冊か本を読んでるんだけど、基本的には「何もしたくない」「だるい」「疲れた」的なことばっかり書いている。そういう意味で本書は、今までとはちょっと違った基軸の作品といえるだろう。著者はなにかの本で、「本の内容は、その時に考えていたことを書いたもので、後々まで『◯◯の話をしてほしい』とか言われると飽きる」みたいなことを書いてて、それは分かるなと思うんだけど、それはそれとして、そういう著者だからこそ、色んなタイプの作品を書けるのだろう、と思う。

しかし、phaさんの作品を読むといつも思うけど、これは俺が書いた本だっけ?ということだ。勉強や読書に対する考え方が非常に似ていて、そうだよなぁ、普通に考えたらそういう結論に達するよなぁ、というようなことが多く書かれていて、納得してしまう。

例えば「勉強」に関する記述だと、こういうものがある。

【知識があれば避けられる不幸が、人生には結構ある】

【「勉強への抵抗のなさ」で、人生は結構変わる】

【勉強という趣味のよいところは、一生楽しめて役に立つところだ】

【知識は人を自由にする】

僕自身、昔から「勉強」は結構好きで、今でも勉強したいなぁ、とよく思う。どうしても「趣味」の扱いなので、優先順位を高く出来ないのだけど、数学とか物理を学びなおしたいなぁ、と思うし、哲学や経済や政治などについても、もっと知りたいなと思うことはたくさんある。日々色んな本を読んで知識を取り入れてはいるけど、「勉強」という捉え方でやっているわけではないので、やはりちゃんと腰を据えて「勉強」したいな、と思うのだ。

本書は、「勉強術」の本だ。と書くと、受験勉強などを想像するかもしれないが、そうではない。要するに、「知識を血肉化し使えるようにすること」を「勉強」と本書では呼んでいる。そして本書の特徴は、「頑張れない自分」というものを受け入れた上で、どうやって自分を騙しながら勉強するのか、という本だ、ということだ。普通「勉強術」の本だと、効率的にとか、科学的にこういうやり方が一番、みたいな話が出てくるけど、本書はそうじゃない。とりあえず、「勉強というものをなんとか続けるためにどんな風に自分をごまかすか」というところに焦点が当たっていて、そういう意味で普通の「勉強術」とは違う。

本書の場合、勉強することを特別なものだと捉えず、当たり前にやる習慣にすることを目標にしている。そして、「頑張れない自分」を認めている人にはなかなかハードルの高いその地点に向かうために、どういう一歩を踏み出せばいいか、どんな風に次の一歩を出せばいいか、やる気が出ない時はどうしたらいいかなどなど、ハードルの低いアドバイスが書かれている。

普通の「勉強術」の本は、「勉強する姿勢」については、当たり前すぎて書かれないことが多いだろう。「勉強する」ということは当然のこととして、じゃあどうやってやる?ということが書かれていく。しかし本書では、「勉強する姿勢」を当たり前のものとは捉えない。「勉強するのって大変だよね。机に毎日向かうとか辛いよね。暗記とかしんどいよね。分かる」というようなスタンスなのだ。

しかしだからといって、安易な暗記術とか、「これだけやれば!」みたいな怪しい方法を提示したりすることはない。著者は、「勉強にはあくまでも時間が掛かり、根気と忍耐が必要だ」というスタンスは崩さないまま、「その根気と忍耐をちょっとずつ騙し騙し出していくにはどうする?」というようなところから「勉強術」を書いていくのだ。そういう意味で、なかなか珍しいタイプの本だといえると思う。

本書では、大きく分けて「インプット」と「アウトプット」に分けて話が展開されるが、その具体的な話にも共感する部分が多かった。

まず「インプット」については、著者は「紙の本」がベストだと書く。僕もそう思う。そして、「読書」というものに対するスタンスが、結構似ていると思うのだ。

【読書において一番重要なのは、本を読むことを「努力」ではなく、「趣味」とか「ヒマ潰し」とか「なんとなくする習慣」にしてしまうことだ】

【読書というのは、たくさんの文字列の中のどの部分に自分が反応するかを探っていくという、自分探しみたいな行為なのだ】

【こうした評価の差は、別に本以外でも、映画やマンガなどでも存在するものなのだけど、本は特に人による差が大きい。
なぜかというと、本が読み手の想像で埋める余地が大きいメディアだからだ】

【僕も本を書く側の人間なので、「新品を買ってくれたほうがありがたい」という気持ちはある。ただ、新品の本しか買われないとすると、本とか読書の世界が狭くなりすぎると思うのだ。
僕自身、図書館や古本で育った人間なので思うのだけど、図書館や古本などで手軽に読書に親しめる機会があることで、本を読む人が増えるというのは確実にある。】

この辺りのことは、その通りだよなぁ、と思う。特に「読書をヒマ潰しだと思う」という話はその通りで、僕もずっと読書のことを「趣味」ではなくて「ヒマ潰し」だと言い続けてきた。分かるなぁ、と思う。

「アウトプット」についても共感できる話は多い。

【「言語化する」というのは、人間の持っている最も偉大な問題解決能力だ】

【想像力や創造性というのは、限られたリソースの中で何とかやりくりしようとするときに生まれる】

【もしそれほど読者がいなくて一銭にもならなかったとしても、ブログを書くことはやめていなかっただろうと思う。
なぜなら、僕がブログを書くのはあくまで自分のためだからだ】

【大体の場合、いいアイデアというのは、一生懸命何かをやっているときではなく、いったん考えるのをやめて休んでいるときに、フッと出てくるものだ】

【休むときのコツが一つだけある。
それは、「考える材料をすべて頭の中に入れ直してから休む」ということだ】

こういう話も、なるほどなぁ、と思う。特に、「誰にも読まれなくてもブログは書く」っていう話は、僕もその通りだと思う。確かに、誰かに読んでもらう可能性も考えてはいるけど、それでも僕は、自分のためにブログで文章を書き続けている。書くことで整理されるし、また書いている中で「俺ってこんなこと考えてたんだ」と気付ける。文章を書くというのは、「アウトプット」としては最強だと思っているし、だから「自分のため」に書いているという意識でやっている。それが、誰かのためになるならラッキー、というような感覚も、まったく同じだ。

【ググればどんな情報でもすぐに出てくる今の世界では、情報を暗記していることにはほとんど意味がない】

そういう時代に生きている以上、学び続けるという姿勢を失うわけにはいかないな、と思う。そういう中で本書は、低い地点からそこそこの高みを目指そうという「勉強術」について書いているので、割と広く需要があるんじゃないかなと思います。

pha「人生にゆとりを生み出す知の整理術」

文芸オタクの私が教えるバズる文章教室(三宅香帆)

「創発」という言葉がある。僕の理解が間違っている可能性はあるが、この言葉は、「要素を足し合わせた時、全体を超える」という意味で使われることが多いはずだ。

例えば、「人間」などはまさに創発だ。人間を要素に分解する方法はいくらでもある。部位ごと、臓器ごと、遺伝子単位など色んなやり方がある。しかし、どんな風に要素に分解し、それをつなぎ合わせても、「人間」にはならない。何故なら、要素を足し合わせただけでは、「意識」は生まれないからだ。人間の意識というのはなかなか謎めいたものであって、どの辺りに源があるのか、よく分かっていない。もちろん、脳が生み出しているのだろうが、「意識の起源」は謎だ。

つまりこれは、人間を構成する要素を足し合わせても「意識」は生まれず、しかし人間には「意識」がある以上、人間という存在は、要素を足し合わせた以上のものである、ということになる。「1+1+1+1+1=5」ではなく「10」になるようなものだろうか。

これが「創発」である。

さて、僕は「文章」にも似たようなところがあると思っている。

文章も、様々な形で要素に分解することが可能だ。言葉の選び方、句読点の打ち方、一文の長さ、人称の使い分け…などなどである。しかし、文章を書いたことがある人なら分かるはずだ。いくら要素要素を足し合わせても、「プロが書く文章」のようにはならない、と。文章を書くというのもやはり、要素の足し合わせでは捉えきれない、「創発」的な行為なのだ。

本書の著者は冒頭でこう書く。

【私はおそらく日本中の誰よりも「読んでて楽しい文章の法則」を研究してきました。
「読んでて楽しい文章の法則」って、言ってしまえば、今まで「文才」と呼ばれ、「あの人には文才がある」「私には文才がない」などと抽象的にとらえられてきたもの。
でもそれを、私は長年かけて、一つひとつがんばって“法則”として言語化してきたんです。それをまとめたのが、この本です】

言いたいことは実によく理解できる。しかしこれはやはり、要素の足し合わせが全体になるという、「創発」的ではない捉え方である。僕は、それがどんな「文章術」であれ、この「創発」という考え方を置き去りにしているようなものは、成り立たないだろう、と考えている。

もちろん、「創発」的な発想における「文章術」について、僕なりにアイデアがあるわけではない。「創発」という要素をどうやって「文章術」に組み込めばいいのかは、正直良くわからない。とはいえやはり、「創発」こそ、文章を書く際に最も押さえておかなければならないポイントであるように僕は思う。

盲目の人が象を触って表現する、という話は有名だ。鼻に触れた人は棒のように太いと言い、牙に触れた人は陶器のようだと言い、足に触れた人は丸太のようだと言い、尻尾に触れた人は縄のようだと言う。どの人の意見も間違っているわけではないし、全部正しいが、しかしそれらを統合して動物を思い描こうとしても難しい。要素に分解することで見えてくるものは確かにある。しかし、要素に分解することで既に、元の文章そのものとは違った何かに変わってしまっている、と言うことも出来るのではないかと思う。これが、「文章術」の難しさだ。

さて、ここまでの文章を読んできっとこう誤解されているだろうと思う。僕は本書を面白くないと判断したのだ、と。いや、そうではないのだ。

本書はたしかに、「文章術」としてはうまく評価することが出来ない。ただ、エッセイとして読めば、非常に面白い作品だ。

本書を読んで感心したのは、よくもまあ色んな文章から、自分の主張に合う文章を見つけ出してくるものだよなあ、ということだ。もちろん、実際には、「この文章について何か書きたい」というのが先にあって、それについて「◯◯の☓☓力」と言ったネーミングをしていっただけなんだろうとは思う。しかしそうだとしても、本やブログやCMに至るまで、様々なものの中から、なるほどこの文章からそういう「☓☓力」を引き出しますか、と感心させられた。著者はあとがきで、

【一番ワクワクするのは、「新しい文体」に出会えたときです。もう、顔が赤くなるほどうれしい。“文体ウォッチング”は、子どもの頃からの私の大切な趣味なのです】

と書いていて、確かに息を吸うように“文体ウォッチング”が出来なければ、この本は書けないだろうなぁ、と思った。

本書を読んで「文体」や「文章力」が身につくかと言われたら、僕はちょっと怪しいと思う。文章を書く、というのは、そう簡単なものではない。こういうような「分析」の及ばない部分、あるいは、要素間の繋ぎ目的な部分にこそ、本当に重要なことが隠されていると思うし、そういうものは、要素に分解した時点で解けてしまうと思うからだ。しかし、「こんな文章から、こんな特長を見つけ出しました!」というエッセイと捉えれば、見事な作品だなと思う。


さて、せっかく「文章術」の本なのだから、普段やることはないが、今回僕が書いたこの感想について、自分なりの分析をしてみようと思う。

まず意識したのは、冒頭の「創発」という単語だ。ここで<良心的釣りモデル>を意識している。「最初に意味不明な言葉を放り込む」というこのやり方で、僕は2種類の違和感を用意したつもりだ。

1つは、「創発」という単語の意味が分からない、という違和感。なんだそれ?どういう意味?というひっかかりを持ってもらえればいい。

もう1つは、「創発」という単語の意味は知っているけど、それがこの本とどう関係するわけ?という違和感。明らかに、「文章術」の本の感想の書き出しとしては違和感のある言葉だろう。

そんな風に冒頭で惹きつけてから、「創発」という単語の説明に入る。そして「創発」の説明をし、著者の言葉を引用することで「僕の独りよがりな受け取り方ではない」ことを示しつつ、<配役固定モデル>を意識している。「言いたいことのセンターを決める」というこのやり方で、「文章を書くことは創発的行為であり、要素に分解しても捉えきれない」という結論に向かっていく。

その後の「象」の話、さらには「誤解されているかもしれない」という話は、<フォロー先行モデル>を意識している。「アンチに対するフォローを入れておく」というこのやり方で、二重に防御している。

まずその前の段落で、「創発こそ押さえておかなければならないポイント」とかなり強い主張をしているので、さらにその主張を補足するような要素を入れることで、その主張の強さへの批判を和らげようとしている。

さらにその後、「文章術の本として評価していないだけで、エッセイとしては非常に面白い」という話を入れ込むことで、予想されうる批判に先に対処しようとする。

そしてその次の段落からは、<長調短調モデル>を意識。「心の流れをスイッチする」というこのやり方で、それまでの「マイナス」の主張から一転、「プラス」の主張をすることによる効果を狙っている。

そして最後に、冒頭の「創発」の話、そして「エッセイとしては面白い」という話を繋げて結論として、文章を閉じている。

という構成である。

僕は正直、文章を書く時に、全体の構成を考えたり、ここではこういう効果を狙ってこういう表現を使おう、なんてことはまったく考えていない。基本的には、手が動く限りキーボードを叩き続けて、もう書くことないな、と思った時点で止めるだけだ。だから、ここで書いた分析も、本書の「◯◯力」を自分が書いた文章に無理やり当てはめてみせたに過ぎない。ただまあ、いつも無意識に文章を書いている割には、案外どういう効果を狙って書いているのかというのを説明できるもんだなぁ、と思った。

三宅香帆「文芸オタクの私が教えるバズる文章教室」

電気じかけのクジラは歌う(逸木裕)

まったく、凄い物語を書くもんだなぁ。


昔、本で読んで、なるほどそれは面白い、と思った話がある。AIによる創作についてだ。

AIが生み出した創作物には、著作権が発生しない、というのだ。何故なら、正確な表現は覚えていないが、「著作権」というのは基本的に「人格が生み出したもの」というような定義がなされているようだ。で、当然ながら(少なくとも“今の”常識では)、AIには人格は存在しない。だから、AIが生み出した創作物には著作権は発生しない、というのだ。

もちろん今後、社会の中にAIが組み込まれていく過程で、「AI」というものが法律などによって明確に定義されるだろう。そこにはもしかしたら、「人格」的な要素が含まれるかもしれない。例えば、AIが人間を殺害したとする。その行為が、あらかじめプログラムされたものでない、ということが判明すれば、AIの意思によって殺害を行った、ということになる。その場合、その行為の責任は誰にあるのか?これは、自動運転などにおいても既に議論に上っている話だが、開発者に責任がある、と定められた場合、AIは間違いなく社会に浸透しない(そんなリスクを企業が負うはずがない)。とすれば、AIが社会に組み込まれている、ということは、「AI自体」か「AIの使用者」に責任が及ぶ、としなければならないだろう。「AIの使用者」に責任を負わせても、恐らく社会にAIは広まらないだろうから、そうなると、「AI」に人格を認め、「AI自体」に責任を取らせる、という流れが生まれる可能性もゼロではないだろう。そうなれば、AIによる創作物も、著作権が発生することになるだろう。

AIというのは、人間と共存することを考える時に、激しく問題を引き起こす。

例えばそうでない場合について考えてみる。これも以前本で読んで、なるほどと思った話だ。

世界中で真剣に、地球外生命体の探索というものが行われている。確か「SETI」とかいうプロジェクト名だったと思うのだけど、それは、宇宙のある方向に向かって、知性のある生命体であれば読み解けるに違いないメッセージを送り、返信を待つ、というものだ。どの方向にメッセージを送信しているのかといえば、それは「ハビタブルゾーン(生命居住可能領域)」のある方向だ。それがどんな生命体であれ、こういう条件下でなければ存在し得ない、という要素が様々挙げられており、それらを満たす領域を「ハビタブルゾーン」と呼んでいる。そして、その「ハビタブルゾーン」であれば知的生命体が存在する可能性があるだろう、ということで、その方向に向けてメッセージを送っているのだ。

しかし、人工知能の本に面白いことが書かれていた。進化した生命体であれば、恐らく間違いなくAIを開発しているはずだ。そういう生命体が存在するなら、惑星探査をAIにやらせているだろう。何故ならAIは、電力さえあれば食料や水がなくても活動可能だし、電力は太陽光から永遠に取ることが出来るから、宇宙探査には最適なのだ。知的生命体が、大量のAIを宇宙探査に送り込んでいて、通信可能な領域に、AIだらけの星があってもおかしくない、とその本の著者は主張する。

で、そのAIだらけの星は、「ハビタブルゾーン」に存在する必要はないのだ。だったら、「ハビタブルゾーン」以外の場所にメッセージを送っても返信が返ってくる可能性はあるのではないか、という話だった。

これは、AIと人間が関わらない(関わる前の)話だ。だから、特段問題にならない。しかし、AIと人間が関わると、途端に問題が大きくなる。

AIは今様々な領域で使われているだろうが、将棋の世界ではかなり早くからAIが使われていた。何故なら、AIを進化させるためには、入力データが揃っている必要があるのだが、将棋の世界には「棋譜」といって、棋士たちがどう指したかという記録が、それこそ江戸時代とかのものまで残っていたりする世界だ。ルールが明確に存在し、入力データが揃っているという意味で、AIの実力を試す場として将棋というのは非常にやりやすかったのだ。

そして今、将棋のAIソフトは、プロ棋士を追い抜いたと言われている。プロ棋士たちも実際、AIソフトを練習に取り入れていて(取り入れていない棋士も当然いる)、棋力向上に役立てている。

さて、そんな風にAIと将棋は相性が良かったこともあって、羽生善治がAIの世界と関わる機会も多かった。何かの本で読んだのだけど、羽生善治がこんな風に聞かれた場面がある。

「AIが、将棋のすべてのパターンを解析して、すべての指し手に対して正解/不正解が判定できるようになってしまったら、棋士たちはどうしますか?」

この質問はつまり、将棋というのはルールがはっきりあるんだから、理論的にはすべての駒の動かし方を解析して、どういう場合だったらどっちが勝つということが解明できる。そうなってしまえば、勝ち負けを決するために将棋を指す必要がなくなる(ある程度まで指せば、その後の展開はすべてAIが解析済みだから、勝敗が判明してしまう)。それでも棋士は将棋を指すのか、というような質問だ。

それに対して羽生善治は、非常に面白い回答をしていた。

「大丈夫です。桂馬がちょっと横に飛ぶみたいに、ルールを変えちゃえばいいんです」

なるほどなぁ、と思った。駒の動かし方をちょっと変えるだけで、将棋の指し方は大幅に変わるし、それまでの計算がすべて無意味になる。そうやって、仮にAIにすべて計算されたとしても、ルールをちょっと変えてしまえば予測不能になる。羽生善治はそんな回答をしたのだ。

また、誰の発言だったかも忘れてしまったが、同じように質問されたプロ棋士が、こんなような返答をしていたことも思います。

「将棋の面白さは、人間がミスをする点にある。ミスをしないAI同士の対局を見ていたって何も面白くない。だから、ミスをする人間が将棋を打っている、ということを面白がってもらえている内は、将棋界はやっていける」

これもなるほど、と感じました。一気に話は呼びますが、最近「<レンタルなんもしない人>というサービスを始めます。」という本を読んだ際に、「ミスをする人間」の話が出てきた。<レンタルなんもしない人>というのは、その場にはいるが、簡単な受け答え以外何もしない、という人間を無料でレンタルするというもので、その様々な利用法が面白く、世の中には様々な需要があるのだな、と感じさせられたが、<レンタルなんもしない人>への依頼に、

「朝6時に「体操着」とDMを送ってください」

というものがあったという。これは、現代であればリマインダー的なサービスがあるんだからそれを使えばいいはずだ。しかし、リマインダーはミスをしない。一方、人間はミスをするかもしれない。<レンタルなんもしない人>が朝6時までに起きられないかもしれないし、起きられたとしてもDMを送ることを忘れているかもしれない。しかしそういう「ミスをする人間」が、ミスせずに何かを行う、ということに価値を感じてもらえているのではないか、というような考察があって、なるほどそれは面白い指摘だ、と感じた。ミスをしない、ということがAIの一つの大きな利点ではあるが、しかし、そういう要素が世の中を席巻すればするほど、「ミスをする人間」の、その「ミスをする可能性」みたいなものに逆説的な価値が生み出されるのかもしれない、と思わされた。

こんな風に現代は、「AIが存在するという前提の世の中をどう生きるか」という、かつてない問いにさらされている時代である。僕らが生きている現代においては、まだAIは未熟だ。ルールの決まった単純作業は得意だし、また、ルールを言語化することは出来ないけどある程度の統一感みたいなものがあるものの場合、深層学習という方法によってAIがそのルールを“体感的”に理解し、ある程度のものであればその言語化出来ないはずのルールに則ったものを出力できるようにはなっている。

しかしまだ、「創作」という領域において、AIが人間の能力を上回っている、という事例は存在しないはずだ。

本書は、その「創作」という領域においてAIが人間の能力を遥かに上回ってしまった世界を描いている。

【自分が作る程度の曲は人工知能で簡単に作ることができるいま、自分が曲を作る意味が、あるのだろうか。作る前からそんなことを考えて、作りはじめるところまでも行かない】

僕らは、世の中の様々な創作物に対して「良い/悪い」の判断を下す。そしてその理由は、感覚的なものでしかない。もちろん世の中には評論家と呼ばれる人たちがたくさんいて、そういう人たちが、様々な創作物に対して、「何故良いのか/何故悪いのか」という理由を言語化してはくれる。しかし、いくらそうやって言語化することが出来ても、評論家は良いものを創作することは出来ない。あくまでも、出力されたものを評価することしか出来なくて、「良い」と評する理由がいくら言語化できようとも、それを以って創作に活かすことは難しい。

だからこそ今はまだ、「創作」というのは、人間が勝っている。センスや感覚、経験、そういったものが絶妙に組み合わさることでしか生み出されない、と考えられている。

しかしそれもどんどん変わっていくだろう。実際、確かもう既に、自動作曲するAIは存在するんだったと思う。そのAIが、本書で描かれる「Jing」ほど広まっていないのは、人間がまだ、人間が作った曲の方が良いと判断している、ということだろうが、正直、時間の問題ではあるだろうと思う。

AIが、人間の感性を突き刺す創作物を生み出せるようになったら、どうなってしまうのか。

【客が何を聴きたいのか、俺にはもうよく判らないんだ。(中略)俺は俺のいいと思うものを作れればいいと思っていた。だが、成功している名塚を近くで見ていると、よく判らなくなった。違うものを作ったほうがいいのか?今度はこっちか?やっぱりこうか?そんなことをやっているうちに、自分の音楽が聞こえなくなってきた。無理やり作り続けているうちに、自分は何がいいと思っているのかすら、よく判らなくなった。そうこうしてるうちに、人工知能が曲を作るようになった。もうわけが判らねえよ。いまの世界は、作曲家にとってつらすぎる。こんな世界を相手に何を出していけばいいのか、俺にはもう判らないんだ】

【作曲家って、表現したいものがあるから表現するんですよね?それなのに『Jing』ができない曲をやろうとするなんて、本末転倒じゃないですか】

僕自身は何かを創作するような人間ではないから、この感覚がきちんと理解できるかといえば、理解はできない。僕には「表現したいもの」は特にないし、「自分が作りたいと思うもの」も別にない。しかし、そういう感覚がある人には、相当辛いだろう。

【普通の作曲家が普通に作れる曲は、もう『Jing』で再現することができる。となると、作曲家はふたつの選択肢しかない。『Jing』で再現できることを承知で普通の曲を作るか、それを徹底的に避けるかだ。だがそれをやると、前者は聴かれず、後者は多少聞かれるかもしれないが鍋を叩くような珍曲になってしまう。
その限界を超えられるのは、名塚のような天才だけだ。まだ世界になく、それでいて普遍性も伴った楽曲。ごくごく限られた天才ならば、こんな環境でも作曲家でいられる。】

歴史上、「文字」というのは“必要”から生まれたはずだが、「音楽」というのは“必要”から生まれたわけではないはずだ。無ければないで良かったはずのものだが、しかし有史以来、恐らく「音楽」というものが存在しなかった時代はないのではないか。これは絵なども同じで、そういうプリミティブな芸術全般というのは、ある種「人間」という存在を他の動物から区別するような性質のものであるようにも感じる。あらゆる芸術が“商業”に飲み込まれているとはいえ、やはり何らかの“衝動”からしか生まれ得ないはずの芸術が、AIという技術革新によって、“衝動”という最も本質的だったはずのものを抜きにして生み出される時代が、まだ到来してはいないが恐らく近いうちにやってくるだろう。そうなった時、“衝動”抜きで再現された芸術作品にどんな価値を見出すことが出来るだろうか。

【天才以外は生き残れない戦場にいたら、殺されるだけだ】

内容に入ろうと思います。

都心では自動運転が整備され、無人のコンビニが急増している、そんなAIが社会の中に着実に組み込まれている近未来が舞台。この世界には、『Jing』と呼ばれる作曲アプリが存在する。自分が気に入った曲を数曲入力すると、それらの構造を解析して複数曲作曲してくれ、それらからさらに自分のお気に入りの曲を選ぶことで、さらに精度を上げることができる。今は、ユーザー一人一人が、自分が気に入る自分のための曲を『Jing』に作ってもらう世の中であり、作曲家と呼ばれる人種はほぼ絶滅した。
学生時代から作曲にのめり込み、天才・名塚楽と『心を彩るもの』という特殊なバンドを組んでいた元作曲家・岡部数人は、今「検査員」という仕事についている。『Jing』を開発したクレイドル社から外注のような形で雇われている。「検査員」というのは、ただ音楽を聴く仕事だ。これまでも自動作曲のソフトは存在したが、「人間がどういう曲を良いと感じるのか」というデータを入力することが非常に困難だった。しかし『Jing』はその点を乗り越えてトップランナーとなった。『Jing』には、岡部のような「検査員」と呼ばれる人に様々な音楽を聞かせた時の脳波などのデータを入力している。様々な「検査員」のデータを入力することで、こういう曲であれば人間はこういう反応をする、というデータが蓄積されることになり、それが『Jing』の作曲の根幹を支えているのだ。
ある日岡部は、衝撃的なニュースに触れる。盟友である名塚が自殺した、というのだ。『心を彩るもの』を解散してからほとんど会っていなかったが、状況を知ろうと家へと向かう。そこには、「カイバ」と呼ばれているシール状の記録媒体に保存される形で、名塚の最後の曲が残されていた。様々な状況から、名塚らしくない部分を感じた岡部は、名塚の死を調べ始めるが、その直後驚くべきことが起こる。なんと名塚から、自分の指をかたどったオブジェが送られてきたのだ。
名塚の秘書だった渡辺絵美子、名塚の従妹でワケありのピアニストである綾瀬梨紗、『心を彩るもの』のメンバーだった益子孝明、『Jing』の開発者で伝説的な存在である霜野鯨…。名塚の死を契機に、それまで関わりのなかった者、関わりが薄くなっていた者たちと接するようになった岡部。名塚の死の真相は謎のまま、名塚が遺した曲の続きが発表されたり、梨紗との関係が進んだり、決別状態だった益子と関わるようになったりと、岡部の身辺は慌ただしい。
『Jing』が席巻する世の中においても、ある種のプレミアとして称賛を浴びていた名塚の死は一体何を意味するのか。そして『Jing』は、「音楽の創作」を殺したのか?「創作の衝動」は人間に何をもたらすのか。近い将来、確実にやってくる未来をリアルに描き出す一冊。

メチャクチャ面白かったなぁ。僕自身は、音楽に詳しくないし、音楽活動に携わったこともないのだけど、「AI」と「創作」という領域への関心は凄くあるし、その中で「人間であるとはどういうことか」という哲学的な展開も見せる本書は、非常に読ませる一冊だと感じました。

「AI」と「創作」ということについて、森博嗣が著作(小説ではなく新書)の中で書いていたこんな趣旨の文章が記憶にある。

「いずれ人工知能が小説を書く時代がやってくるだろうけど、恐らくそうなっても、人間が書いたと発表するだろう」

これは非常に示唆的だなと思う。そしてこの点に関して、世の中の多数派がどう判断するかで、世の中の動きは変わってくる、と思う。

『Jing』は明らかに「AIが作った」ということが受け手側に伝わるものだ。そしてその「メタ情報」は、受け手にどんな影響を与えるのか。

例えば、「AIが寿司を握る」ということについて考えてみる。AIがお客さんの目の前で握った寿司を提供する場合、「寿司を食べる」ということへのある種の“感動”は減るのではないかと思うのだ。そして恐らくそのことは、味覚にも影響する。人間は、舌でも食べるが、脳でも食べているからだ。

しかし、AIはお客さんの前におらず、舞台裏で握り、そしてそれを「人間が握った」として提供する場合、ある種の幻想みたいなものが保たれ、それは味覚にも影響するように思うのだ。

そしてこの理屈が、音楽や他の芸術に当てはまるのかどうか、ということが問題だと僕は感じる。

音楽が、「脳への刺激」という要素しかないのであれば、誰が作った曲であろうが受け取り方は同じだろう。しかし実際には、「歌っているのが誰なのか」や「作り手のプロフィール(亡き母のために作った、など)」によって受け取り方が変わる。

その最たる例が、佐村河内守事件だろう。耳が聞こえない作曲家として一世を風靡したが、ゴーストライターがいたと指摘され評判は一気に落ちた。あの時、不思議に思ったものだ。提供されている歌は、佐村河内守が嘘つきだと判断される前も後も同じだ。しかしその前後で、曲の受け取り方は大きく変わったはずだ。であれば、曲そのものではない要素も、曲の受け取り方に大きな影響を与えることになる。

AI同士による将棋の対局があまり面白くないのは、人間同士の対局にある「人間にここまでの思考が出来るのか!」という驚きがないからだと思う。同じように考えれば、作曲も、「人間にここまでのことが出来るのか!」という要素こそが、「創作」と呼ばれるものの最後の砦なのではないかと思う。というか、思いたい。そして、そう感じる人間がどのぐらいいるかによって、「AI」と「創作」の未来は決するだろう、と本書を読んでて感じた。

本書では、「AIが作曲する世の中」を舞台に、様々な葛藤が描かれていく。ある人は、人間が作曲することに意味などあるのかと悩む。ある人は、AIが作った曲を弾くだけの仕事(「弾き師」と呼ばれる、『Jing』で作った曲を実際に演奏してくれる仕事のこと)に価値はあるのかと煩悶する。ある人は、曲を生み出すことに価値があるのか、曲を届けることに価値があるのかと懊悩する。そしてある人は、どうやっても消せない欲望をどう実現すべきかに頭を悩ませている。

創作をする人たちは元々、「創作の悩み」を誰もが抱えているだろうと思う。何もないところから何か新しいものを生み出していくことは悩みの連続だろう。しかし、それがあるからこその創作であり、そこに障害がないとするならば、創作というものに価値などないといえるかもしれない。

しかし本書で描かれている悩みは、その「創作の悩み」以前の問題だ。「創作」という領域に足を踏み入れるべきか、留まるべきか、という点での悩みなのだ。しかも、「創作の悩み」という共通項はあるが、本書で描かれるそれぞれの悩みはやはり個別的なものであり、共闘できるものではない。しかし、それらの、ある意味でバラバラの悩みが、全体の大きな物語の中で見事に収斂していく。霜野鯨という“狂人”にすべてのベクトルが集まっていく展開は見事だし、主人公の岡部を中心とした様々な人間関係が、メチャクチャに翻弄されていく過程は面白い。

詳しく書かないが、本書に【伴奏者】という単語が出てくる箇所がある。これはある意味で、本書で投げかけた大きな問いに対する答えだと思う。AIが作曲する世界で、人間が作曲することにどんな価値があるのか、という問いの答えとして著者が導き出した【伴奏者】という答えは、これからの世の中の大きな流れを予言するものでもあるだろうなと思う。

【人間は何かをしなければいけないという確信があれば、どんなことでもする。文字通り、どんなことでもだ。死ぬことくらいなんでもない】

具体的には書かないが、ある場面で登場するこのセリフに共感できる人は、たぶんそう多くないんじゃないかと思う。しかし、これを薄めて薄めて薄めた感情は、きっと誰もが持っている。AI時代は、僕らが薄く持っているに過ぎなかったこういう感覚を増幅させてしまうということなのだろうか?そうだとしたら、AIが組み込まれていく社会において、誰が「豊かさ」を享受出来ることになるのか、という新しい問題も浮かび上がるなぁ、と思う。

逸木裕「電気じかけのクジラは歌う」

量子革命(マンジット・クマール)

さて本書は、量子力学についての本である。物理について知らない人からすれば「???」という感じだろうけど、基本的に、今世の中に存在する電子機器は量子力学の恩恵なくしては存在しない、と言っておけば、量子力学の重要性は伝わるだろう。テレビもパソコンもレーザーも、量子力学なしには生まれなかったのだ。それぐらい、量子力学というのは重要で、20世紀の物理学の到達点の一つと言われている(もう一つが、アインシュタインの一般性相対性理論)。

さてしかし、そんな量子力学だが、とにかく悪名高い。「悪名高い」という表現が適切かどうか分からないが、量子力学を生み出したり関わってきた物理学者たちの言葉をたくさん引用してみるので、どんな感じなのか感覚で捉えてほしい。

【アインシュタインは後年、次のように述べた。「この理論のことを考えていると、すばらしく頭の良い偏執症患者が、支離滅裂な考えを寄せ集めて作った妄想体型のように思われるのです」】

【ヴェルナー・ハイゼンベルグが不確定性原理を発見する。その原理はあまりにも常識に反していたため、ドイツの生んだ神童ハイゼンベルグでさえも、はじめはどう解釈したものかわからず頭を抱えたほどだった】

【ノーベル賞を受賞したアメリカの物理学者、マレー・ゲルマンは、そんな状況を指して次のように述べた。量子力学は、「真に理解している者はひとりもいないにもかかわらず、使い方だけはわかっているという、謎めいて混乱した学問領域である」】

【量子論にはじめて出会った時にショックを受けない者に、量子論を理解できたはずがない(ニールス・ボーア)】

【アインシュタインは、黒体問題の解決案を提唱したプランクの論文が出るとすぐにそれを読み、のちにそのときの気持を次のように述べた。「まるで足もとの大地が下から引き抜かれてしまったかのように、確かな基礎はどこにも見えず、建設しようにも足場がなかった」】

【エーレンフェストはそれに続けて、「目標に到達するためには、この道を取るしかないというなら、わたしは物理学をやめなければなりません」と述べた】

【現在、物理学はまたしても滅茶苦茶だ。ともかくわたしには難し過ぎて、自分が映画の喜劇役者かなにかで、物理学のことなど聞いたこともないというのならよかったのにと思う(ヴォルフガング・パウリ)】

【もしもこの忌まわしい量子飛躍が本当にこれからも居座るなら、わたしは量子論にかかわったことを後悔するだろう(エルヴィン・シュレディンガー)】

ここに名前を挙げた物理学者たちは、その当時、いや、物理学の歴史全般を振り返ってみても、「天才」と呼んでしかるべき巨人たちばかりである。そんな巨人たちがそろいも揃って嫌悪感や戸惑いを示している。これらは、量子力学という学問が、アインシュタインとボーアという二人の巨人の激論を中心に発展していく過程における発言だが、アインシュタインの死後10年経た時点でも、こんな風に言われている。

【著名なアメリカの物理学者で、ノーベル賞受賞者でもあるリチャード・ファインマンは、アインシュタインの死後十年を経た1965年に、次のように述べた。「量子力学を理解している者は、ひとりもいないと言ってよいと思う」。コペンハーゲン解釈が、量子論の正統解釈として、あたかもローマ教皇から発布される教皇令のごとき権威を打ち立てると、ほとんどの物理学者は、ファインマンの次の忠告に素直に従った。「『こんなことがあっていいのか?』と考え続けるのはやめなさい―やめられるのならば。その問いへの答えは、誰も知らないのだから」】

物理学者たちは、「現実はどうなっているのか?」ということを、観察や実験や理論形成などによって捉えようとするプロフェッショナル集団である。そんな彼らが、「量子力学をちゃんと理解しようとするのは諦めよう、みんな!」という立場にいるというのだ。もはやこれは異常事態だろう。

そんな量子力学はどんな理論で、どのように生み出されていったのか。本書は、その長い長い歴史を描き出す非常に重厚な作品だ。本書について、全体の流れを簡潔にまとめるのは不可能なので、僕はここでは、「量子力学の形成にアインシュタインはどう関わったのか?」ということを中心に触れてみようと思う。

何故そうしようと思うのかという理由がある。量子力学の知識がちょっとある人(僕もそうだ)の一般的な印象として、「アインシュタインはコペンハーゲン解釈に負けた」という感じだと思う。コペンハーゲン解釈というのは、量子力学を主導した巨人の一人であるボーアが中心となって打ち立てたもの解釈で、アインシュタインは最後の最後までこのコペンハーゲン解釈に反対した。しかし、その後劇的な展開があって、実験によって、「アインシュタインの信念」が打ち砕かれることとなったのだ(しかしその時すでにアインシュタインは亡くなっていた)。アインシュタインは一般的に、「コペンハーゲン解釈に反対し続けた」「古典物理学に固執して新しい物理学を受け入れられなかった」という判定をされるのだけど、本書でのアインシュタインの描かれ方は違う。訳者である青木薫氏はあとがきでこんな風に書いている。

【今日では、コペンハーゲン解釈とはいったい何だったのか(コペンハーゲン解釈に関する解釈問題があると言われたりするほど、この解釈にはあいまいなところがあるのだ)、そしてアインシュタイン=ボーア論争とは何だったのかが、改めて問い直され、それにともなってアインシュタインの名誉回復が進んでいるのである】

「アインシュタインの名誉回復」って、アインシュタインって凄い人なんじゃないの?と思う人もいるかもしれない。それについては、同じく青木薫のこんな文章を読めば理解できるだろう。

【さて、アインシュタインが最後まで量子力学を受け入れなかったことについては、ながらく次のような理解が広くゆきわたっていた。「かつては革命的な考えを次々と打ち出したアインシュタインも、年老いてひびの入った骨董品のようになり、新しい量子力学の考え方についてこられなくなった」と。わたしが大学に入った1970年代半ばにも、そんなアインシュタイン像が、いわが歴史の常識のようになっていた】

そんなわけで、アインシュタインに着目しながら量子力学の形成を見ていこう。

まず「量子」というものが何か説明しよう。水道をイメージしてもらえればいいと思う。水道の水をジャーっと出している状態は、「1つ、2つ、…」と数えられるようなものではないので、これは「量子」ではない。一方で、水道の水がポタポタと、一滴一滴水滴を落とすように落ちているとどうだろう。これは「1滴、2滴、…」と数えることが出来る。これが「量子」だ。現代人には、「量子」というのは「デジタル」だ、という方が伝わりやすいだろうか。

この「量子」という考え方を初めて導入したのが、プランクという人物だ。当時、「黒体問題」と呼ばれる難問があって、誰も解けなかったのだけど、プランクは、今まで連続した量だと誰もが当たり前のように思っていたものを、「いや待てよ、これを量子だと思えば問題は解決するんじゃね?」と考えたのだ。先程引用したように、プランクが「量子」という考え方で黒体問題を解き明かした時、アインシュタインは「足もとの大地が下から引き抜かれてしまったかのよう」に感じたのだ。それぐらい「量子」という捉え方は斬新だった。

しかしその後、アインシュタインも「量子」という考え方を導入することになる。それが「光量子」というものだ。「光」を「1粒1粒の粒子(量子)で出来ている」と捉えることで、これも当時の難問だった「光電効果」を見事に説明したのだ。

しかし、アインシュタインが「光量子」という考えを提示した当初、「光量子」の存在を信じていたのはアインシュタインただ一人だった。それから20年経ってもまだ、「光量子」を信じる者はほとんどいなかった。

何故か。

それは、「光は波である」という信頼できる実験が山のように存在していたからだ。確かに「光電効果」は「光を粒子(量子)と捉えること」で解決できるかもしれない。しかし、「光は波だ」という実験結果が山程存在する。波でもあり粒子でもある、なんてことはあり得ないはずだから、物理学者は皆、光は波だ、という考えを捨てられなかったのだ。実験によって光電効果を検証し、ノーベル賞を受賞したミリカンという物理学者でさえ、自分の実験結果を信じられなかったほどだ。

誰も「光量子」を信じていなかったというのは、アインシュタインのノーベル賞受賞理由にも現れている。アインシュタインは、「一般性相対性理論」で有名だが、実はノーベル賞の受賞は「光電効果」によってである。しかし、「光電効果」に対してアインシュタインにノーベル賞を受賞させることで、「ノーベル賞が光量子の存在にお墨付きを与えた」と思われることを危惧したようで、アインシュタインの受賞理由は「光電効果を説明する数式を発見したこと」という風に限定されていた。そんな風にアインシュタイン以外は、「光量子」という存在を疑問視し続けたのだ。後に量子力学の巨人としてコペンハーゲン解釈を死守するボーアも、「コンプトン効果」という「光量子」の実在を反論の余地なく支持する実験が行われた後でさえも、「光量子」の存在を信じなかったという。

さてそんな風に、「量子」という考え方を誰よりも早く先駆的に認めたアインシュタインだったが、アインシュタイン自身は光電効果の自身の説明に納得がいっていなかった。それは、光量子が放出される向きや時刻が完全に運任せ、つまり「確率」でしか記述できない、ということだった。アインシュタインは有名な言葉をいくつも残しているが、その内の一つが「神はサイコロを振らない」だ。アインシュタインは、「確率」による記述は「不十分」であり、より正確な記述が可能な理論があるはずだ、という信念を持っていた。そしてこの信念こそが、アインシュタインをして量子力学へ攻撃をさせたのである。

しかしその話に行く前に、量子力学がその後どう進展したのかを書こう。まず量子力学には大きな欠点があった。それは、量子の世界を記述する数式がないことだ。しかし、ハイゼンベルグとシュレディンガーという2人の天才が、別々に数式を発見した。

しかし、これがまた問題を引き起こす。

ハイゼンベルグは、「行列」という、当時の物理学者にはまだ広く知られていなかった道具を使って数式を作り上げた。一方シュレディンガーは、波動方程式と呼ばれるものを作り上げた。後にこの2つの数式は「同値」、つまり、同じものを別の側面から描いているだけだ、ということが分かった。つまり、ハイゼンベルグの数式で計算しても、シュレディンガーの数式で計算しても、同じ結果が出るのだ。

じゃあ良いじゃないか、と思うかもしれないが、そう話は簡単ではない。実はこの2つの数式、背景がまったく違うのだ。ハイゼンベルグの数式は、「粒子」に着目した式であり、一方のシュレディンガーの数式は「波」に着目した式なのだ。当時は、「粒子でもあり、波でもある」という見方は一般的ではなく(コペンハーゲン解釈はそういう捉え方をする)、ハイゼンベルグの数式(の解釈)が正しいのか、シュレディンガーの数式(の解釈)が正しいのかは、「粒子」なのか「波」なのかという非常に大きな問題を孕んでいたのだ。実際この2人は険悪だったようで、相手を罵倒しまくっていたという。

しかし、解釈はともかく、数式の扱いやすさでいえば、シュレディンガーの数式の方が群を抜いていた。なので物理学者は基本的に、シュレディンガーの数式を使って計算していた。しかしシュレディンガーは、その数式を計算した結果がなんであるのかを捉えることが出来なかった。

それを捉えたのが、ボルンという物理学者である。彼は、「シュレディンガーの数式を解いて出てくるのは、存在確率だ」というのだ。原子がある瞬間どこにいるのかという確率を示している、という解釈を提示したのだ。しかしこれに対してシュレディンガーは猛反発。その違和感を示すために、後に有名になる「シュレディンガーの猫」の喩えを持ち出すことになる(しかし本書によると、その原型を作ったのは実はアインシュタインだそうだ)

さて、量子力学にとってもう一つ決定的に重要な要素がある。それは、ハイゼンベルグが発見した「不確定性原理」である。これについては詳しく触れないが、「霧箱の軌道」という、量子力学における大問題を解決しようとして導き出したもので、「共役変数」という関係にある2つの物理量を同時に正確に測定することは出来ない、というものである。この「不確定性原理」を発見したことで、ハイゼンベルグはこういう結論に至ることになる。

【彼にとって、電子の位置や運動量を測定するための実験が行われなければ、はっきりした位置や、はっきりした運動量を持つ電子は、そもそも存在しないのだ。電子の位置を測定するという行為が、位置をもつ電子を生み出し、電子の運動量を測定するという行為が、運動量をもつ電子を生み出す。はっきりした「位置」や「運動量」をもつ電子という概念は、測定が行われるまでは意味をもたない、と彼は述べた】

そしてこの考え方こそが、後に「コペンハーゲン解釈」と呼ばれるようになる解釈のベースとなっている。

しかし、アインシュタインはこの解釈を忌み嫌った。

【アインシュタインの物理学の核心にあったのは、観測されるかどうかによらず、「そこ」にある実在へのゆるぎない信念だった。「月は、きみが見上げたときだけ存在するとでも言うのかね?」と、彼はその考えの愚かしさを印象づけようとしてアブラハム・パイスに言った。アインシュタインの思い描いた実在は局所的で、因果律にのっとった法則に支配されており、そんな法則を発見することが物理学者の仕事なのだった】

さて、整理しよう。一般的に、アインシュタインは量子力学に反対した、と言われているが、これはもう少し正確に描写しなければならない。アインシュタインは、量子力学を正しい理論だと考えていた。しかし完全ではないとも考えていたのだ。

そして、ボーアの「コペンハーゲン解釈」と、アインシュタインの信念の一番の差は、「実在」をどう捉えるかなのだ。

ボーアは、「観測するまで何も存在しない。観測する前にどうなっているかを問うことには意味がない。量子力学とは、観測結果を解釈するための理論なのであり、それ以上でもそれ以下でもない」と考えていた。

しかしアインシュタインは、「観測しようがしまいが原子はそこに存在しているはずだ。確かに量子力学は現象を説明するし、正確に予測もする。しかし量子力学は、実在については何も記述できない。それは、量子力学が不完全だからだ。きっとこの世界には、実在も描写できるより完全な理論が存在するはずだ」と考えていたのだ。

そしてこの両者の立場から、激しい知的バトルが繰り広げられることとなる。

さて、ここで、ごくごく当たり前の感覚で物事を捉えれば、アインシュタインの捉え方の方が正しい気がするだろう。ボーアの「観測するまで原子は存在しない」なんていう考え方は、なんか胡散臭い気がする。それよりアインシュタインの、「観測しようがしまいが原子は存在する。それが描写出来ないなら量子力学は不完全だ」という主張の方が正しい気がするだろう。

しかし、アインシュタイン=ボーア論争が繰り広げられていた当時、「コペンハーゲン解釈」は圧倒的優位に立っていた。それには様々な理由があるのだけど、一番大きな理由は、マレー・ゲルマンのこの言葉に集約されるだろう。

【ニールス・ボーアが一世代の物理学者をまるごと洗脳して、問題はすでに解決したかのように思い込ませた】

それぐらい、ボーアというのは、量子力学の世界において圧倒的なカリスマ性を持っていたのだ。だから、「観測するまで原子は存在しない」なんていう、「ンなアホな!」というような解釈が、圧倒的多数を占めていたのだ。

そういう中で、アインシュタインとシュレディンガーは孤軍奮闘し、「コペンハーゲン解釈なんかありえねぇだろ!」と闘いに挑んでいた。アインシュタインは、その天才的な頭脳で、数々の思考実験を生み出し、ボーア陣営に揺さぶりを掛けていく。

アインシュタインの戦略には、実は2段階あった。

最初アインシュタインは、「ハイゼンベルグの不確定性原理」を攻撃することにした。「不確定性」が成り立たない、つまり、「共役変数の関係にある2つの物理量を同時に測ることが出来る実験」を多数考え出し、ボーア陣営に投げかけたのだ。しかしボーアはその度に、アインシュタインの論点に間違いがあることを指摘していった。

その内アインシュタインは、不確定性を攻撃する方針では無理だと判断し、今度は、「量子力学は不完全だ」ということを示そうとした。そして、それを示すために考案された有名な思考実験が、「EPR実験」である。これの詳細は説明しないが、アインシュタインによる実に巧みな設定によって、ボーア陣営にかつてない動揺を与えることになったのだ。

しかし、当時量子力学というのは、発展途上の分野であり、新しい研究はいくらでも出来た。そういう中で次第に、アインシュタインとボーアの論争は「関わってられない問題」と捉えられるようになる。何故なら、アインシュタインの解釈を採ろうが、ボーアの解釈を採ろうが、別に何も変わらないのだ。彼らは、「実在」という哲学的な命題について論じているのであって、それより量子力学の世界をもっと深く探索した方がいいじゃん、というような風潮になっていくのだ。

しかししかし、物語はここで終わらない。なんと、「実在」をめぐる哲学的な命題だと思われていたこの論争が、実験室で検証可能だ、ということが判明したのだ。最終的に大きな貢献をしたのはベルという物理学者だったが、発端はボームである。

ボームはマンハッタン計画を主導したオッペンハイマーとの関わりの中で、濡れ衣的な感じで悪評をつけられてしまい、ある意味やけっぱちになって、当時既に「老人たち(アインシュタインとボーアのこと)の論争」と思われていた問題に取り組むことになる。

アインシュタインのような、量子力学が不十分であるとする立場は、「隠れた変数理論」と呼ばれる。要するに、未だ見えない何らかの要素があって、目の前の現象が確率的にしか捉えられないけど、その隠れた要素が見つかれば確率的ではない捉え方が出来るはず、というものだ。

一方のコペンハーゲン解釈は、そうではない。隠れている要素は何もなく、観測するまでは何も存在しない、という立場だ。

実はこの「隠れた変数理論」は存在し得ない、という証明が、なされたことがあった。その証明を行ったのは、天才中の天才と言われたノイマンであり、多くの物理学者はノイマンの論文を読むことなしに、「あのノイマンが無理って言ってるなら無理なんだろう」と、「隠れた変数理論」を探すことを諦めていたのだ。

しかしボームはなんと、「隠れた変数理論」を作り出してしまった。そのことを論文で知ったベルは驚いた。そして、ノイマンの論文を読み、ノイマンが正しくない仮定を置いていることに気付いたのだ。

ボームもベルも、アインシュタイン的な、観測しようがしまいが実在する、という立場に傾倒していた。そこでベルは「隠れた変数理論」についてもう少し調べてみることにした。そしてその中で決定的に重要な事実を発見したのだ。

それが「ベルの不等式」と呼ばれるものだ。ベルは、「隠れた変数理論が正しい」か「隠れた変数理論が正しくないか」を実験で検証できることに気がついた。「ベルの不等式」と呼ばれるものが成り立てば、アインシュタイン的な立場、つまり「隠れた変数理論」が正しいということになる。一方で、「ベルの不等式」が成り立たなければ、「隠れた変数理論」が正しくないということになる。そしてこれを実験で確かめられるということを示したのだ。

そして実験は実際に行われ、なんとなんと、「ベルの不等式」が成り立たないことが示されたのだ。つまり、アインシュタインの信念が打ち砕かれ、「隠れた変数理論」が正しくないことが示されたのだ。

しかしだからと言って、「コペンハーゲン解釈」の正しさが証明されたわけではない。「ベルの不等式」の実験で分かることは、「隠れた変数理論が正しいかどうか」であり、アインシュタインが間違っていたことは示されたが、ボーアが正しいことを示すものではないのだ。「コペンハーゲン解釈」は、「隠れた変数理論ではない解釈の1つ」に過ぎず、「ベルの不等式」が成り立たないような解釈であれば、「コペンハーゲン解釈」以外の解釈にもまだ可能性はあるのだ。実際、1997年7月に、ケンブリッジ大学で開かれた量子物理学の会議で意見調査が行われた結果、

【新世代の物理学者たちが、量子力学の解釈問題という、頭の痛い問題をどのように見ているかが明らかになった。90.人の物理学者が回答したなかで、コペンハーゲン解釈に票を投じたのはわずか4名にすぎず、30名はエヴェレットの多世界解釈の現代版を選んだのである。考えさせられるのは、「上の選択肢のどれでもない、あるいは決心がつかない」という選択肢を選んだ者が、50名もいたことだ】

という状況になっているのだ。量子力学を解釈するというのは、まだまだまったく解決されていない、非常に難しい問題なのだ。

うん、とにかく、メチャクチャ面白かった!

マンジット・クマール「量子革命」

 | ホーム |  »

プロフィール

通りすがり

Author:通りすがり
災害エバノ(災害時に役立ちそうな情報をまとめたサイト)

サイト全体の索引
--------------------------
著者名で記事を分けています

あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や行~わ行

乃木坂46関係の記事をまとめました
(「Nogizaka Journal」様に記事を掲載させていただいています)

本の感想以外の文章の索引(映画の感想もここにあります)

この本は、こんな人に読んで欲しい!!part1
この本は、こんな人に読んで欲しい!!part2

BL作品の感想をまとめました

管理人自身が選ぶ良記事リスト

アクセス数ランキングトップ50

TOEICの勉強を一切せずに、7ヶ月で485点から710点に上げた勉強法

一年間の勉強で、宅建・簿記2級を含む8つの資格に合格する勉強法

国語の授業が嫌いで仕方なかった僕が考える、「本の読み方・本屋の使い方」

2014の短歌まとめ



------------------------

本をたくさん読みます。
映画もたまに見ます。
短歌をやってた時期もあります。
資格を取りまくったこともあります。
英語を勉強してます。













下のバナーをクリックしていただけると、ブログのランキングが上がるっぽいです。気が向いた方、ご協力お願いします。
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

アフィリエイトです

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
本・雑誌
23位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
和書
17位
アクセスランキングを見る>>

アフィリエイトです

最新記事

サイト内検索 作家名・作品名等を入れてみてくださいな

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ

Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

カウンター

2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)