黒夜行

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さざなみのよる(木皿泉)

大学時代の友人の一人は、「死」について話す時いつもこんな風に言っていた。

「自分が死んだ後も世界が続いていくのが許せない」

だから死ぬのは嫌だ、といつも言っていた。

僕にはその感覚はイマイチよく理解出来ない。死体はただの「モノ」だと思っているから、僕が死んだら、煮ようが焼こうがカラスに食わせようがなんでもいいし、自分が死んだことが世の中とか世界に影響を与えるなんて嫌だから、自分が死んでもそれまでと同じように平然と日常が続いていって欲しいと思う。

『生きている限り、完全に立ち止まることはできない。大切な人が死にそうでも、今、目の前にあることをひとつづつ片づけてゆかねばならない』

本書を読んで面白いと感じた点は、「死そのもの」が変化をもたらしているわけではない、ということだと思う。

冒頭で、小国ナスミは癌で命を落とす。そこから、ナスミと何らかの形で関わったことがある人々の日常を描き出していくのだけど、彼らの日常に起こる変化は、ナスミの「死そのもの」によるものではない。彼らは、ナスミの死によって、ナスミとの過去の出来事を思い出す。あるいは、死に向かっているナスミに対して、何か行動を起こす。ナスミの死に悲しみくれるとか、ナスミの死によって遺産問題が持ち上がるみたいに「死」というものが物語を動かしていくのではなく、あくまでもナスミという女性の「生」「これまで生きてきた道のり」が物語を担っていく。

「死」によって輪郭が濃くなった「過去」が、ナスミが死んだ後の日常を生きる人々の「生」を形作ったり彩ったりする。「死ぬこと」や「自分が死んだ後の世界」にまるで興味のない僕だけど、もしも本当に、自分が死んだ後、少しでも本書に描かれているようなささやかな変化が周囲に現れるのなら、死ぬのも悪くないなぁ、なんて思ったりする。

内容に入ろうと思います。
本書は、連作短編集というには一話が短かったりするし、かと言ってひと繋がりの長編かというと、章ごとに主人公や状況設定が変わっていくのでそうとも言えないという感じで、なかなか分類しにくいのだけど、ここでの具体的な内容紹介は、冒頭ぐらいにとどめておこうと思います。
小国ナスミは末期癌だ。実家は、贋コンビニと呼ばれている、富士山が間近に見える場所にあるマーケットストア「富士ファミリー」だ。かつて姉の鷹子から100万円受け取り、これで東京に行ってみれば、と言われて移り住んだが、病気が分かって、ここでは死ねないと思って実家に戻った。しかし、商売をしている実家にいれば迷惑なのははっきりしているので、入院した。夫は、今更話すこともないのに、日に3度やってきて、病室で一緒にご飯を食べる。
『癌の末期患者の役を演じている。その方が、まわりの人間も接しやすいだろうと思うからだ』
死に向かっているナスミは、穏やかな気持ちでいる。まだ死ねないのかよ、と思うことさえある。死に際して、ナスミは小学生の頃のことを思い出す。鷹子と意味の分からない意地の張り合いをして喧嘩した。そのことを思い出した。
『ぽちゃん』
そう呟くことで、やっとあの時の競争に決着をつけられた。
ナスミは死んだ。
そこから、様々な人間が登場する。姉の鷹子や夫の日出男は当然として、中学時代にナスミと家出しようとした清二とその妻・利恵、ナスミ宛の手紙を書いた佐山啓太、ナスミがかつての上司を殴る直接のきっかけである元同僚の加藤由香里、ナスミが借りた金を返す役割を担った愛子、小学生の光、などなど、様々な人物が登場する。彼らは、ナスミの死を知ることで、あるいはナスミの死に近くで触れることで、その後の人生に少し変化が訪れる。
そのちょっとした変化を、実に丁寧に掬い取る物語。
というような感じです。

読んでいて一番感じたことは、丁寧に書かれた小説だなぁ、ということです。
冒頭でも少し書いたけど、「死」というものをメインにしていないのがいい。「死」というものを、決して大げさに捉えていない。かと言って、ドライなわけではない。「死」に際して、悲しみが深まる人もいれば、後悔する人もいる。とはいえ、殊更にそこに焦点は当たらない。

僕にはずっと疑問がある。誰かが死んだ時、分かりやすく悲しみが襲ってくるもんなんだろうか、と。大学時代の先輩が亡くなった時、周りの人間はその悲しみを言葉や涙によって表に出していたが、僕には分からなかった。毎日顔を合わせている人が急にいなくなったのならともかく、そもそもたまにしか合わなくなっている人だ。僕には、何かが欠落したという感覚はなかったし、何かを埋めるようにして涙が流れることもなかった。

僕は、そういう自分を「冷たい」と思ってきたし、今も思っているのだけど、でもある意味ではこの方が自然なのではないか、という気がすることもある。

僕はこの小説の、「死」というものを大げさに捉えない感じが好きだ。凄く、自然な気がする。ナスミという人物は、読めば読むほど奥深い人物で、多くの人に慕われるのは分かるなという感じの存在だ。ただ、冒頭でも引用した通り、『生きている限り、完全に立ち止まることはできない。大切な人が死にそうでも、今、目の前にあることをひとつづつ片づけてゆかねばならない』のだ。「ただ悲しい」だけでは生活は成り立たないし、「喪ってただ辛い」だけでは人生は啓けていかない。そういう、日常の中にあらねばならない人間の有り様みたいなものをうまく描き出しているような感じがしました。

ナスミは、生きている頃から、なんだか色んなことをしている。その行動によって自身の人生が大きく変わってしまったこともあるし、自分が死んだ後の誰かのための行動を準備していたりもする。ナスミの思惑など関係ないところでナスミに感謝している人物もいるし、ナスミの死が思いも掛けない出会いに繋がることもある。まるで生前、ナスミはドミノでも並べ続けていたみたいだ。「ナスミの死」という一撃によって、生きている間並べ続けたドミノがわーっと倒れていって、色んな余波を生む。その余波は、時と共に弱くなりながらも、長い間影響を与え続けていく。

そんな風に思った時、僕らも、はっきりとは気づけはしないのだけど、遠い遠い昔に亡くなった誰かの余波の中で生きているのだなぁ、と感じた。その震源地がどこなのか、分かることはほとんどないのだけど、きっと誰かの「死」が、僕らの日常を震わせているし、誰かの未来を動かしているのだと思う。なかなか実感することが出来ないはずのそういう感覚を与えてくれる物語なのだと思う。

本書で描かれている事柄は、部分部分だけ抜き出してみても、全然力がないと思う。一つ一つのエピソードは、正直、大したものではない。でも、一つの物語として読むと、印象は違う。単品では大したことがないはずのエピソードが、ナスミの死を起点にしたこの物語の中に配されると、途端に輝く。些細なエピソード同士が絡まり合って、単純な原理で複雑な模様を生み出す万華鏡のような輝きを放つ。すごいなぁ、と思う。それはまるで、家の中にあるガラクタで美術館に展示されるような芸術作品を作り上げちゃうようなものなんだと思う。すごいなぁ、と思う。ダイヤモンドの話なんか、そんなところまで話が続いていくのか、と驚かされた。

木皿泉「さざなみのよる」

教誨師(堀川惠子)

「死刑」というものに対する、今の僕の考え方をざっと書いてみよう。

まず僕は、「社会の中に存在してはいけない人」がいる、と思っている。例えば本書に登場する、こんな発言をするような人間のことだ。

『先生、私が弁護士の控訴を取り下げた時、新聞記者は被告人は半生を深めているなどと書いたようですがね、あれは違います。私はもう二度と外に出てはいけない人間なんです。外に出たら、私は必ず、また殺ります。自分の腹の底から衝き上げてくる衝動を抑えられないんです。だから、私のような人間は死刑になるより道はないんです』

本人が自覚している通り、(死刑にすべきかどうかはともかくとして)こういうタイプの人間は社会に出してはいけない、と思う。

さて、そういう前提の元で、僕はこう考える。基本的に、間違いを犯したからといって、その間違いによって永遠に社会から抹殺されるべきではない、と。「基本的に」と書いたのは、先に挙げたような、社会に存在してはいけないタイプの人のことは除いて、という意味であり、そういう人を除けば、僕は間違いを犯してもやり直すチャンスが存在すべきだ、と考えている。

僕の主張には、いくつか問題はある。一番の問題は、「社会に存在してはいけないタイプの人かどうかをどう判別するのか」ということだ。はっきり言ってこの判断は不可能だろう。だから、社会に存在してはいけないタイプの人を確実に社会から切り離すために、そうではない人(もちろん、重大な罪を犯している人なのだけど)がある程度犠牲になってしまうことは仕方がない、と思う。裁判においては「推定無罪」、つまり、有罪であるという確証がなければ無罪にする、という原則がある(はず)だが、同じ原則を当てはめることは出来ない。「社会に存在してはいけないタイプの人」であるという確証がなければ、そういうタイプではないと判断する、などとしていたら、リスクが大きすぎる。だから、「社会に存在してはいけないタイプの人」であるという、ある程度の確証があれば、そう判断すべきだし、そういう判断基準を採る以上、そういうタイプではない人も「社会に存在してはいけないタイプの人」と判断される可能性は充分にある。

まとめよう。「社会に存在してはいけないタイプの人」を、何らかの形で社会から切り離す方策(A)は必要だと思う。そして、その過程において、「社会に存在してはいけないタイプの人」ではない人(繰り返すが、重大な犯罪を犯した人だ)がそう判断されることもあるが、それはある程度仕方ない。そして、「社会に存在してはいけないタイプの人」ではない人は、やり直すチャンスがあるべきだ、と思っている。

さて問題は、(A)の方策として「死刑」が妥当かどうか、ということだ。僕の結論としては、これは単純にコストの問題だと思う。「社会に存在してはいけないタイプの人」を永遠に隔離し続けるのに掛かるコスト(主に金銭的なコスト)と、そういうタイプの人を死刑にするコスト(ここには、死刑を執行する人が被る心的被害も含む)を天秤に掛けて、どちらがよりコストが低いのか、で判断すべきだ、と思う。

そういう意味で僕は、「死刑」というものが絶対的に必要だ、とは思っていないし、死刑制度の是非はともかくとして、死刑にしなくてもいい人(社会に存在してはいけないタイプではない人)まで死刑にされているのだろうな、という印象を持っている。

そして本書は、「死刑にするコスト」について、ごくごく一般的な人(僕もそうだ)が知らない現実を描き出す作品だ。僕らは、「死刑制度に反対しない」という形で、消極的にであっても死刑制度に賛成している(そういう人が多いだろう)。しかし、死刑制度というものについて詳しく知らないが故に、死刑がどれほどのコストをもたらすのか、僕らは全然理解していない。

『世間を騒がす死刑事件が起きると、マスコミは繰り返し報道する。もう「死刑」という言葉を聞かされても、すっかり耳が慣れてしまって自分には無関係とばかりに考えることを放棄してしまう、と渡邉は言った。その背景には、法務省が一切情報を提供しないので考えようにも材料がないという事情があるのではないかと私が指摘すると、渡邉はこう漏らした。
「役所がね、情報を出したがらないのは、わしは理解できるんです。そりゃあ、外に出せるようなもんじゃないですよ、あれは。だから一般の人は死刑っていうものは、まるで自動的に機械が行うくらいにしか思ってないでしょう。何かあるとすぐに死刑、死刑と言うけどね、それを実際にやらされている者のことを、ちっとは考えてほしいよ」』

『死刑執行を行うのは、どこにでもいる普通の人間だ。たまたま刑務官という仕事に就いたばかりに、我が子を抱くその手で、今、目の前で生きている人間を処刑しなくてはならない。衣食住になんの不自由もなく、不条理な身分制度という鋳型もなくなった現代社会にあっても、いまだ「死刑執行人」という仕事が存在し、有無を言わさずそれをやらされている人たちがいる。渡邉があえて執行現場で目にした事々を詳細に語ったのは、その儀式にかかわる全ての人たちの気持ちを代弁しようとしたからではなかったかと思う。』

現在、先進国で「絞首刑」を行っているのは日本だけだという。僕らが「死刑」というものに“無関心”でいられるのは、「絞首刑」に伴う膨大なコストを人知れず引き受けてくれている多くの人々の存在があるからだ。

その中でも、本書でメインで描かれる渡邉普相は、『渡邉ほど長いキャリアを持つ死刑囚の教誨師は全国どこを探しても見当たらないし、恐らく今後も現れないだろう』と著者が書くほどの存在だ。組織的な存在ではなく、自然発生的に生まれた「教誨師」という存在が次第に組織化されていく中で、渡邉は自然とリーダー的立ち位置を取るようにもなっていく。

そんな渡邉が、『この話は、わしが死んでから世に出して下さいの』と著者に念押しして話したことをベースに、本書は書かれている。

何故そんなことを言ったのか。その理由は、教誨師には暗黙の了解として守秘義務が存在するからだ。

『このような場で人々の話に耳を傾けるにつけ、守秘義務のありようについて思う。個人の大切な情報が守られることの大切さについては論をまたない。だが苦役ともいえるこの仕事に、答えの出ない問いを抱え、苦しんでいる人たちが大勢いる。日の当たらぬ場所で、誰にも褒められることなく、それでも死を待つ人々に心身を捧げている宗教者たちがいる。そんな彼らに、同じ立場にある仲間どうしでも、家族の間でも一言も漏らしてはならぬと禁じる現在の守秘義務とは、一体、何を、誰を守るためのものなのだろう』

著者は以前から死刑制度も自身のテーマとして取材しており、その過程で渡邉普相と出会うこととなった。死刑囚と唯一自由に面会することを許された「教誨師」という立場で無ければ分からないこと、考えられないこと、見聞きできないことがあり、そしてそれらは、守秘義務という暗黙の了解と、世間の無関心とによって、表に出ることはない。本書によって明らかになる様々な事柄は、読む者に、死刑という制度の存在そのものについて考えさせるだろう。先進国が次々と「絞首刑」を廃止する中、先進国で唯一「絞首刑」を維持している国、というのは、見方によっては、国民の無関心の度合いを示しているとも取れるだろう。議論の結果、死刑制度は必要だ、と判断するならそれはいいが、現状では、昔から存在している死刑制度が議論されることもなくそのまま継続しているだけ、という感じだろう。そういう現状に、鋭く警鐘を鳴らす一冊だ、と感じる。

本書では様々な事柄が扱われるが、基本的には「教誨師の道に進むことになった渡邉普相の人生」と、「渡邉普相が出会ってきた死刑囚たち」の二つが主軸として描かれると言っていいだろう。

渡邉普相が教誨師になった過程は、非常に興味深い。広島出身の彼は、爆心地からほど近い場所で被爆した。『自分は大勢を見殺しにして逃げた』という悔恨が、教誨師という辛い道へと彼を進ませる原動力の一つだった。しかし、篠田龍雄との出会いがなければ、彼は教誨師にはなっていない。渡邉よりもずっと前から教誨師として活動していた篠田が、彼を教誨師の道へといざなったのだ。

死刑囚の扱いや教誨師の立ち位置の変遷などが、渡邉普相の個人史と折り重なるように紡がれ、教誨師という一般の人には馴染みの薄い存在の輪郭が浮き彫りになっていく過程は、非常に読み応えがある。

そして、そんな風にして教誨師となった渡邉が、どんな死刑囚と出会い、どんな教誨をし、どんな苦悩を抱えながら日々を過ごしていたのかという部分もやはり重厚だ。

生身の死刑囚と長きに渡り関係を続けてきた渡邉の目には、死刑囚はこう映っている。

『死刑事件の加害者である死刑囚には、大橋と同じような被害者的な怨みに捉われている者があまりに多く見受けられた。幼い頃から家や社会で虐げられ、謂れのない差別や人一倍の不運に晒されて生きてきた者が圧倒的に多い。そして成長するにつれ、自己防衛のために自己中心の価値観しか持てなくなっていく。だからと言って罪を犯すことが許される訳ではなく、自業自得と言ってしまえばそれだけのことだが、そうして行き着いた先が「処刑台」では救われない。事件のことはさておき、まずは彼ら自身に向き合って、その「被害感情」を取り払わなくては、事件に対する真の反省も被害者への慰藉の気持ちも永遠に訪れることはない』

『自分が被害者であり続ける限り、自ら手にかけた被害者に思いを馳せることなど出来るはずもない。そんな心の状態に「処刑」という形でしかピリオドを打つことが出来ないのだとしたら、あまりに不憫だ。せめて誰を怨むことなく静かな心境で逝かせたい。渡邉は、それが自分の仕事だと思った』

その通りだろうな、と思う。例外はもちろんあるだろうが、犯罪に走る者にも、その人なりの理屈がある。理屈があれば許されるという話ではないのだけど、しかしまずはその理屈を理解しようとしなければ、すべてが先に進んでいかない。その理屈は、「自分は悪くない」と、自らを正当化する理由としても働きうるし、それを取り除かなければ反省も悔恨もスタートしないだろう、と思う。しかし、世間はなかなかそうさせてはくれない。

『悲惨な事件が起きると、マスコミは犯人のことを“悪魔”のような人間と繰り返し報道する。そして、それからずいぶんたって死刑執行が行われた時、再び事件が取り上げられることになるのだが、その時も犯人像は変わらず“悪魔”のままだ。
しかし渡邉は、教誨師として死刑囚と長く過ごすうち、最初は事件について触れようともしない者でも、暫くするうちに被害者遺族と会わせても充分、心からの謝罪を伝えられると思うほどに変化を遂げる者がいるという。一方で日本の司法や行政の仕組みは、被害者やその遺族と加害者を向き合わせるような形にはなっていない。裁判の時、被害者遺族は加害者に怒りのたけをぶつけ、加害者は加害者で刑を軽くしようと自己保身に走る。そんな敵対関係をマスコミが事細かに報道して負の感情を煽り、憎しみの炎に油を注ぎ続ける。マスコミは往々にして被害者の怒りは取り上げるが、悲しみに寄り添うことはしない。そしていざ死刑判決が確定してしまえば、死刑囚となった加害者は外界との交流を断たれ、あらゆる人間の関係性から排除され、多くの場合、放置され、社会から忘れ去られる』

僕自身もそんな「世間」の一部であることを自覚しながら、一方で本書で描き出す構図への違和感も覚えてしまう。最終的に死刑にするのだから、という理由でどんな扱いも許容される、ということは決してないだろうし、そういうスタンスを渡邉自身も貫き続けた。自分たちがしている行為(教誨師は死刑執行にも立ち会う)を「人殺し」と表現し、様々な矛盾の中で、それでも、制度として「死刑」というものが存在する以上誰かがやらなければならない、それなら自分がやる、という強い意思で教誨という困難な仕事に挑んでいるのだ。

そんな渡邉自身の変化も非常に興味深い。

教誨師としてそれなりに活動をしてからも、渡邉には教誨という仕事に対して強いイメージがあった。それがどんなものであるのか、こんな表現から読み取れるだろう。

『渡邉は、篠田の言葉に納得することは出来なかった。
教誨師の仕事は死刑囚の世間話に付き合うだけでよいということか。それでは、わざわざ宗教の勉強を積んできた自分たちが教誨師になる意味などない。話を聞くだけなら民間のボランティアでも出来る。自分は死刑囚の機嫌をとりにやってきているのではない。そもそも教誨は茶飲みの場ではない。そんな感情的な言葉が心に次々と湧いて出た。』

その考えが後年、思わぬ形で変化することになる。その過程については是非本書を読んでほしいが、長く教誨師として活動をし、教誨師のリーダーとして大勢の面々を取りまとめる立場になってなお、そんなきっかけで変わり得るのか、という驚きがあった。

『「殺したくないな」と思いますよ。「死なせたくないな」という気持ちはありますよ。「こんな人間をなぜ殺さなければいけないのだろう」という疑問はありますよ。疑問はあるけれども、やっぱり日本の法律の下でわれわれは仕事をしていることですからね。それ以上のことは言えないね…、ええ。』

矛盾だらけの仕事(というか、無報酬のボランティア)に従事し続け、教誨という歴史の証人であった渡邉普相の人生と共に、教誨という仕事、死刑囚の存在、死刑制度の是非など、様々な方向にベクトルを伸ばしていく、非常に興味深い、重厚な作品です。

堀川惠子「教誨師」

「ダウンサイズ」を観に行ってきました

もし、身体を縮小させる技術が本当に存在したら、やるかなぁ。
ちょっと考えてみた。

人によって何をメリット・デメリットと感じるかは様々だろうけど、僕にはデメリットが少ないように感じられた。
目につく大きなデメリットは、縮小化していない家族や友人との関わりが、皆無とは言わないまでもかなり減ること。これが一番だと思う。ここがクリア出来ない人はダウンサイズには手を出さない方がいいだろうけど、僕は多分クリア出来る気がする。

後は、ダウンサイズする前にある程度お金を持ってないと、ダウンサイズ後の人生のメリットが少ない、という感じか。とはいえ、他人との比較をしなければ、資産は単純に増えることになるし、お金を得るための仕事もそこまでしなくてもいいということになるだろう。

あとはあまりデメリットを感じられなかった。面白そうじゃないか、と思う。

物語ではよく、増えすぎた人口や環境の悪化などを背景に、別の居住可能な惑星を探す、という設定が描かれる。しかし、人口の増加や資源の枯渇だけであれば、確かにダウンサイズでも物事は解決する。面白い発想だなと単純に思った。恐らく現実にはこういう技術は開発されないだろうけど、とはいえ、こういう技術が開発される確率は、居住可能な惑星が見つかる可能性と同程度にはあるんじゃないか、と思う。後は、時間と資金と根気の問題だ。

人間はこれまでにも、どう考えても不可能だろうと思われることを成し遂げてきた。古代の人からすれば、人類が月の上に立つなんて想像の埒外だろう。同じように、現代の僕らには想像の埒外であるダウンサイズが、遠い未来に実現する可能性だってゼロではない。その時まで地球が持ちこたえているかどうかは不明だけど、そうなったら面白いなぁ、と思う。

内容に入ろうと思います。
ヨルゲンという研究者が、画期的な技術を開発した。有機体を細胞レベルで縮小する、というものだ。その比率は2744対1。身長180cmの人が、12.9cmになる計算だ。一部の魚介類を除いて、副作用はほぼ皆無。ヨルゲンは、自ら被験者となり、また36人の勇敢な仲間と共に、7×11メートルという小さな村で4年間暮らした後、これを世界に発表した。36人が4年間で出した燃えないゴミは、ゴミ袋半分にも満たない程度だ。これで環境問題の多くは解決する。
このダウンサイズ、社会に少しずつ広まっていった。希望すれば、ある程度のお金を支払って誰でもダウンサイズ出来る。手持ちの資産を現金化し、ダウンサイズ後の資産に換算すると、100倍近くにもなる。一気に億万長者になれるのだ。
作業療法士として働くポールは、妻のオードリーと共に物件探しに勤しむが、なかなか折り合いが付かない。ローンの審査にも、なかなか通らない。ならばと、彼らはダウンサイズを検討することにした。よくよく話を聞き、ダウンサイズ後の生活を垣間見ながら、彼らはその決断をする。
体中の体毛を剃り、入れ歯や金歯などを抜き、いざ準備完了。目覚めたポールは、妻がどこにいるのか看護師に確認するが、そこで予想外の事態が起こっていることを知り…。
というような話です。

これは面白かったなぁ。ダウンサイズなんていう、まず荒唐無稽だろう設定を、実に見事に描き出している。良いことばかりではない。例えば、ダウンサイズを控え、友人たちとお別れのパーティーをしているポール夫妻に絡んできた酔客の話は印象的だった。ダウンサイズした人間も、選挙権は同じなのか?だって消費税は安いし、所得税はない奴もいる。金と仕事を奪っていく奴らだ、と非難するのだ。ニュースでも、消費が落ち込むが故に経済的な打撃は大きい、という話が出てくる。さらに、予想外の形でダウンサイズの技術が悪用される、という事態も起こる。恐らく実際にはもっと色んなことが起こるだろう。僕は、テロなどの危険性があると思う。彼らが住んでいるのは、ダウンサイズしていない人間からすれば実に狭い空間だ。ちょっとした爆弾でコミュニティが壊滅するだろうし、水道や電気などのライフラインだけ破壊するというのならもっと簡単な気がする。ホワイトハウスなどにスパイが紛れ込んだりもするだろうし、他にも色々問題は生じるだろう。そういう部分は、この映画のメインのストーリーと関わりがないので、描かなくて正解だと思うが、突き詰めてみたらどうなるのか、ちょっと想像してみたい気もした。

ダウンサイズした後の展開は、なかなかに予想不能だ。ダウンサイズして幸せな生活を手に入れました、なんて物語では面白くないわけだから当然だけど、ここから話がどう展開するんだ?と思っていたところに、結構斜め上を行く展開が待っていて面白かった。ポールはダウンサイズ後に様々な決断を迫られることになるのだけど、それらがある種究極の選択になってしまうのはダウンサイズしたことによる特殊さであって、そういう部分もとても面白い。

特にポールが最後の最後に直面することになる決断は、なかなか考えさせられる。正しい選択、なんてのは存在しなくて、常に、選んだ道を正しいと思い込むしかないんだけど、ポールも、その決断を正しいと思えたらいい、と思う。

ポールがダウンサイズ後の生活で直面することになる世界がある。詳しくは書かないが、それを見ながら、やっぱりどこにでも“現実”ってのはあるんだなぁ、と思う。それがどれだけ理想に近いものであっても、必ず余白や染みみたいなものは出来てくるし、それを存在させないやり方って存在しないんだろうな、と思う。まあ、だから人生は面白い、とも言えるのかもしれないけど。

こんなもしもがあったら、という想像力を駆使した物語で、なかなか面白い映画でした。

「ダウンサイズ」を観に行ってきました

鈴木成一デザイン室(鈴木成一)

『しかしながら、この手の、装丁の方向に必然性が見出だせない場合―つまり明快な「手がかり」や「口実」が見つけられない場合、何をやっても良い反面、「これはマズイのではないか」という、自由と自主規制がせめぎ合うため、それをどう克服するかが大問題になります。だいたいは締切によって克服されます(笑)』

あぁ、分かるわー、と思う。いや、こんな著名な装丁家と同等だ、などと主張したいわけでは全然ないんだけど、言ってることは凄く共感できる。

僕も、日々何かアイデアを考えている人間だ。本書の著者ほどではないが(著者はこれまで30年間で10000冊の装丁を手がけてきたそうだ。常軌を逸してるだろ)、色んなことをあーでもないこーでもないとこねくり回しながら、何かを考えている。

その時に大事なのは、なんでもいいからとっかかりがあることだ。とっかかりは「ある」ではなく「自分で作る」でもいいのだけど、とにかく何かとっかかりが欲しい。

著者は鴻上尚史の劇団のポスターやチラシをずっと担当していたらしいのだけど、それがいかに大変か、こんな風に書いています。

『この仕事が辛かった最大の原因は、宣材物作成時にまだその芝居を見ることができない、という一点に尽きます(当たり前なのですが…)。ほとんどの場合、台本すら出来ていない。あるのはタイトルぐらいで、一応制作サイドから「概念」的なものの説明はあるのですが、具体的なものがまったくわからないなかで、ビジュアルを作らなければならないのです。』

『それこそアーティストであれば、ちょっとした情報だけでいろいろ遊んじゃうと思いますが、私にはそれは本当に苦痛で仕方がなかった(笑)』

確かに、まだ中身がまったく決まっていないものを「宣伝する」ためのポスターやチラシを作らなければならない、というのも相当難しい話ですよね。これほどとっかかりのない仕事もなかなかないかもしれません。

『そういうわけで、自分はあくまで原稿のある装丁の世界が向いているという、そのことを心からわからせてくれたのも鴻上さんだった、とも言えるようです』

本書は、著者(この本には著者名が書いてないんですけど、鈴木成一が著者であることは明白なので、著者と書きます)がこれまでに装丁を手がけてきた本の中からいくつかをピックアップし、本の内容や装丁の意図、当時の苦労話などが書かれたエッセイです。

内容紹介的にはそれで済んでしまうような感じです。別に物足りないとかそういうことではなくて、カラーの写真で装丁した時の意図も含めてデザインを見れるというのは、本の中身を読むのとはまた違った形で作品を楽しめる感じがしました。

個々の本についてあれこれ書くことはしませんが、印象的なエピソードは色々ありました。<主人公の顔を出すか出さないか問題>に悩んだり、国会議事堂の写真を使うのに東武ワールドスクウェアに行ったり、文字だけの装丁には勇気がいるんだと書いてみたり、学生時代に見た「定価=2200円」から始まる装丁に度肝を抜かれたりと、興味深い話は色々と出てきます。

それらはまあ読んでもらうとして、「装丁」という行為全般について示唆的な文章についていくつか触れてみたいと思います。

『ただ、装丁にとって大切なのは、書店で「出会いがしらの発見」が起こることです』

著者は、イラストコンペの審査員などを引き受けることもあるそうですが(ってか、どこにそんな時間があるんだ?)、その時選ぶ基準は、『えっ!なんだこれ、見たことない』という点だけだそうです。本書の中でも、「この本のイメージに合うのはこれしかないと思った」とか「イメージに合う絵や写真がないかとあれこれひっくり返していた時にこれを見つけて衝撃を受けた」みたいな表現が結構随所にあります。著者自身も、驚きをベースに様々な作品を触れているので、それを装丁というステージにも持ち込みたい、という気持ちなのでしょう。

ただ、著者が作っているものは「作品」ではない、という認識のようです。

『あくまで仕事として、「これをいついつまでに作ってくれ」と言われて請け負う。そしてせっせと作る――それだけです。町工場みたいなもので、決して「作品」を作っているわけではなく、大量生産の商品の一端を担っているという意識のほうが強いように思います』

著者自身も、自分で何か作ったり、自分で写真を撮ったりすることもあるようですが、基本的には、誰かに何かを作ってもらったり、誰かに撮ってもらったりすることが著者の仕事です。最終的に形にまとめるのは装丁家である著者ですが、組み合わせるためのパーツを著者が作り出していることは少ない。そういう意味で、スティーブ・ジョブズみたいな立ち位置なのかもしれませんね。スティーブ・ジョブズも、自身では何も生み出さなかった、というようなことを言われますが、既存のものを組み合わせながら、世の中にないものを生み出した。著者の「装丁感」は、そういう感じに近いみたいです。

『本は、ポスターのように遠くから眺めるものでもなく、スマホやタブレットで眺めるデジタルのデータでもなく、あくまでリアルな物です。それをデザインする際も、パソコンは大いに活用しますが、まず何より優先したいのは「物」としての「驚き」や「感動」です。それには人の手による実感が何より大切です。
パソコンを使って作るようになっても、最終的には「本」という物体――手に取られる「物」を作るということに変わりはありません。「物」としての存在感や、手に取ったときの迫力、ゾクゾクする感じ、物理的な感触が大事なわけです』

僕自身も本屋で働いているので、「物」である本というものを日々扱っているわけです。著者とは関わり方が違うとはいえ、電子書籍なども台頭している今、やはり「物」であるということにいかにこだわるか、ということを日々模索しなければならないな、と感じています。装丁家が本を「物」という形に落とし込む人であるとするならば、書店員はその「物」をこの社会に定着させる一助を成すと言えるでしょうか。紙の本の存続がなかなか難しい時代になっていますけど、僕も自分に出来ることをやってふんばろうと思います。

あと、装丁とはちょっと違う話なんだけど、なるほどと感じた話があったので、それを引用して感想を終わりにしようと思います。

『イラストレーター全般に言えることですが、イラストレーターという職業は、基本的に発注されたものを描くわけです。つまり対象=「意味」を基に描くわけですが、往々にして絵に「意味」を与えようとする過度な使命感から、自分のスタイルをなくしてしまう人がいます。
仕事となれば緊張もするし、それがまじめな態度と言えなくもないんですが、「自分」以上に「相手」を優先させるため、確かに「答え」にはなっていますが、ぜんぜん面白くない、ということになってしまいます。その人の絵本来の魅力が置き去りにされているわけです。
デザインにも言えることですが、それは結局意味を「読み取られる」前に、一瞬にしてまず「見られてしまう」ことにどれだけ自覚的であるかが問われているんだと思います。「目を惹く」ことがイラストレーターに課された第一義的なミッションであるべきなのです。
<独自のスタイル>と<発注内容>をしなやかに両立させ続ける者がやはり生き残るのではないでしょうか』

仕事と芸術(個性)をいかに両立させるか――それは著者自身の仕事も同じでしょう。『ある程度無責任でなければこの仕事はやり続けられません』と書いているように、締切によって終わりの時間が決まっているからこそ生み出せるものがある、というのも、装丁の面白さの一つなのかもしれないと思いました。

鈴木成一「鈴木成一デザイン室」

出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと(花田菜々子)

東京に、泊めてくれる女性がいる。

僕は今地方に住んでいるが、東京に行く機会がある時に、泊まっていいよ、と言ってくれる。まだ1度しか行ったことはないし、東京にいる間毎日泊まっているわけでもないのだけど、タイミングが合えば泊めてもらう。

その女性とは特に何もなく、ただ泊めてもらうだけだ。僕は元々神奈川に住んでいたが、その時から知り合いだったというわけでもなく、僕が地方に引っ越してから数回しか会ったことがない人なのだけど、何故か家に泊めてもらえるようになった。

というような話を男にすると、大体こんな反応が返ってくる。

「女性の部屋に泊まって何もないはずがない」
「意味が分からない」
「セックスしてあげないのは可哀想」

最後の反応など、僕からすれば意味不明な理屈なのだけど、とにかくそんな反応になることが多い。

著者も、出会い系サイトで知らない人と会っているという話を男性にすると、特に中年以上の男性から「危ないよ!」というような忠告をいただくのだという。

『まさかこちらが気分を害するとは思わず、何も考えずに、なんなら私が気づいていなかった危険点を教えてあげた、くらいの気持ちでいるのだろう。自分の方が世の中を知っていると思っているのだ』

僕は、こういう反応をする人は、自分で人間関係の可能性を狭めているよなぁ、といつも感じてしまう。

『出会いに慣れていないその人にとっては「まったく知らない女と会う」が「セックスできる可能性」に直結していて、それ以外の発想が持てないのだろう。Xで私が見てきた世界を見せてあげたい、と思う。知らない男女が1対1で出会っても、セックスのことじゃない普通の喜びがごろごろ転がっているし、人は人にやさしくできるんだよ。私はこの数ヶ月、自分の身をもって体験してきたのだ。いいことも悪いことも』

セックス、あるいはそこまでいかなくても性的な何かでしか異性と関われないというのは、それだけで莫大な可能性を捨てているのと同じだ、と思う。

例えば僕は、女子の集団の中に男は僕が一人だけ(これを僕は「女子会に呼ばれる」と表現している)という状況がよくあるし、そういう場で違和感なく話が出来る。そういうことを男性に言うと、

「女の話はオチがないからつまらない」
「女は話を終わらせないでどんどん脱線させる」
「よくそんな場にいられるね」

みたいな反応になることが多いのだけど、僕は女子会に混じるのが得意だし、そういう場で「自分が男扱いされない術」(と自分では思っているのだけど)を割と習得しているので、女子が一般的には男には見せないだろう部分を結構見ることが出来た(女子は男がいない場所で、表向き仲良さそうにしている男の悪口をバンバン言ってて、自分も気をつけようと思った)。セックスや性的な何かでしか異性と関わらない場合、こういう側面はまず見られない。僕は、そういうのを捨てた方が異性とは面白い関係を築けると思っているし、っていうか何で恋愛とかにしなきゃいけないのかよく分からない、という域に達しているので、女子の家に泊まったり、女子会に混じったりするのだけど、そういう関係性はどうも理解されないようだ。

先ほど「自分が男扱いされない術」と書いたけど、これは、話している異性により深く潜り込んでいくためには絶対的に必要な要素だと僕は思っている。

『限られた時間の中でどこまで深く潜れるかにチャレンジするのは楽しかった』

この感覚、分かるなぁ、と思う。

梅田望夫「羽生善治と現代」の中に、こんな文章がある。

『どうやら羽生は、一局の将棋の勝ち負けや、ある局面での真理とかそういう個別のことではなく、現代将棋の進化のプロセスをすべて正確に記録しないともったいない、それが「いちばんの問題」だ、と言っているのである。どうも彼は、一人だけ別のことを考えているようなのだ。』

『羽生は、きっと若き日に七冠を制覇する過程で、一人で勝ち続けるだけではその先にあるのは「砂漠の世界」に過ぎず、二人で作る芸術、二人で真理を追究する将棋において、「もっとすごいもの」は一人では絶対に作れないと悟ったのだ。そして「もっとすごいもの」を作るには、現代将棋を究める同志(むろんライバルでもある)が何よりも重要だと確信した。「周りに誰もいなければ(進むべき)方向性を定めるのがとても難し」いからである。そして、同志を増やすという目標を達成するための「知のオープン化」思想が、そのとき羽生の中で芽生えたのだと考えられる』

本書を読んで、この話のことを思い出した。羽生善治は、勝敗などというレベルで物事を見ているのではなくて、将棋というものを「二人で作る芸術」と捉えている。そして、自分だけがどうにかなればいいのではなく、相手との関わりの中で目の前の局面や、あるいは将棋界全体が進化・発展していくのだ、と考えている。

著者が「X」という出会い系サイトを通じてやっていたことも、まさにそれに近いものがある。著者は後々合コンに行くようになるが、こんな描写がある。

『正直「4対4で話すなんて、どんだけぬるいんだ」と思うくらい、人と会うことになったときの戦闘力が仕上がってしまっていた。「『学生時代の部活当てクイズ~』とかほんとどうでもいい!もっと斬り込みたい!」という気持ちでいっぱいになり、「これが1対1だったらこうやってこうやって斬り込めるのに…でも、この平和的空間を乱してはいけないんだろうな」と我慢し、ニコニコと話を聞いたり、ほどほどの平和なツッコミをして、合コンでの振る舞いを勉強して帰ることになった』

あぁ、分かるなぁ、と思う。僕は、声を掛けてもらえればどんな場にでも行くのだけど、(あまりないけど)自分が誰かを誘うような場合は、大体1対1になってしまう。著者と同じような感覚があるからだ。僕も、どうやって相手に斬り込んでいくのか、その真剣勝負を楽しんでいる。

「自分が男扱いされない術」とは違うが、印象深い経験を思い出す。ある作家さん一家(夫婦と子ども3人)と一緒に食事をする機会があった。僕はその子どもたちと絶対に話すぞ、と決意していたのだけど、その作家さんから、子どもたちはみんな人見知りだ、と聞いていた。だから、2時間の食事時間の内、最初の1時間は子どもたちには一切話しかけなかった。彼らの正面に座っていたにも関わらず、である。きっと、最初からべらべら話しかけるようなやつは信用されないだろう、と判断して、相手に斬り込んでいく戦略として、最初の1時間はじっと待った。結果、人見知りだという初対面の子どもたちと、数学や物理や法律の話なんかをして、非常に満足できる時間を過ごせた。

ただ、こんな風に相手に斬り込んでいく術を身につけると弊害もあって、それは著者も実感している。

『短い時間の中で、自分が聞きたい話が引き出せるように切り込むことがとにかく大事だった。ただ、これを身につけてしまうと、会話の刃が鋭くなりすぎて、今度は仕事などで会う人との他愛のない世間話がつまらなく感じてしまうことがデメリットでもあった』

わかるわー、という感じである。

『今の会社は変わった人たちばかりだから、その中では生き生きとすることができたけど、会社の外に出たら、いわゆる『普通』の人たちの間ではやっていけないんです。昔からずっとそうなんです。普通の人たちに合わせることが嫌なんじゃなくて、本当にできないんです』

僕も「普通」に合わせられないことはずっと昔から気づいていて、でもどうしたらいいか分からなかった。昔は、「普通」に合わせて、「普通」の中で生きていかなきゃいけないんだ、と思っていて苦しかった。僕にもきっかけがあって、そういう思い込みから抜け出すことが出来た。『そして前にいた場所のことは思い出せない』というのは本当にその通りで、僕はたぶん25歳ぐらいを境にして、昔の僕とは別人になったと思う。恐らく、著者もそうだろう。「X」で人と会いまくる前は、『なんて狭い人生だろう。自分には何もないんだ』というような毎日だった。著者は「X」を、『みんなが不安定さを礼儀正しく交換し、少しだけ無防備になって寄り添ってるみたいな集まりだった』と表現している。無防備になることは、良いことだ。結局のところ、鎧を取り外していくところからしか、何も始まっていかない。『だけどそういうリスクを負ったからこそ面白い体験が手に入ったのだ』という実感はまさに、無防備さがワクワクする何かと交換可能だという証だろう。『逃げ道がなかったらどうやって生きていけるというのだろう』と言うように、「X」は著者にとって「逃げ道」だった。でも時には、鎧も闘う意思も脱ぎ捨てて、敗走するのも手だ。『他人を自分の幸福の根拠にするのは間違っている。自分の幸福の根拠は自分にあるべきで、自立的なものでなくては』という思い込みは、出会い系サイトを通じて本をすすめまくる『無謀に未知に立ち向かっていく』ことを通して、『人の人生に一瞬でも関わって、その人の中に存在させてほしいとめちゃくちゃな強さで思うのかもしれない』という感覚に至るのだ。

『私が突き付けられているような気がしていた普遍的な議題―例えば「独身と結婚しているのとどちらがいいのか?」「仕事と過程のどちらを優先すべきか?」「子どもを持つべきか持たないべきか?」―そもそもの問いが私の人生の重要な議題とずれていたのだ。こんな問いに立ち向かわされているとき、いつも自分の輪郭は消えそうで、きちんと答えられなくて不甲斐ない気分になることは、自分がいけないのだと思っていた。でも今夜、この今、自分の輪郭は電気が流れそうなほどにくっきりとしてぴかぴかと発光していた』

他人事ではあるのだけど、他人事とは思えないようなインパクトで、こう思う。

あぁ、良かった、と。

内容に入ろうと思います。
花田菜々子は、深夜のファミレスにいた。ファミレスだけではない。簡易宿泊所やスーパー銭湯やカプセルホテルにもいた。住む家がなかったからだ。夫との生活に限界を感じて、家を飛び出してきた。当てがあったわけではない。小売店の店長をしていて休みは合わないし、趣味は読書か書店巡りぐらいしかなかったから、よく会う友達もいなかった。
その生活は決して長くは続かなかったが、彼女の中の何かを変えた。夫と話し合い、別々に住むことに決め、引っ越しをした直後、彼女は「X」という出会い系サイトの存在を知る。「知らない人と30分だけ会って、話してみる」というサービスのようで、なんとなく(と言いつつかなり悪戦苦闘しながら)登録を済ませた。
そこには、これまで知らなかった、想像もしていなかった世界が広がっていた。色んな人が、手軽に、後ろ暗いところなく、むしろファッショナブルな雰囲気さえ醸し出しながら、それまで知らなかったはずの人と華麗に出会いを重ねている様が見て取れた。
そこで花田菜々子は、ふとひらめく。そうか、この「X」を使って、アレをやってみるというのはどうだろうか―。
彼女は、プロフィール欄にこう書いた。

「変わった本屋の店長をしています。1万冊を超える膨大な記憶データの中から、今のあなたにぴったりな本を1冊選んでおすすめさせていただきます」

そうやって彼女は、見知らぬ人と会い、その人に合った本を進めるという謎の武者修行をすることになった…。
というような話です。

本書は「実録私小説」という謳い文句が打ち出されています。要するに、実際に起こったことを元にしているけど、会った人のエピソードには書けないこともあるだろうし、忘れてることだってあるだろうから、そういうのはホントの話じゃないことで埋めたよ、だから「小説」って言ってるけど、大体ホントのことだよ、というような意味だろうと僕は受け取った。

凄く面白かった。

読む前は正直、あまり期待はしていなかった。いや正確に言えば、期待しないようにしていた、という方が正しいかもしれない。タイトルやあらすじなんかからは、凄く面白そうな雰囲気が漂ってくるんだけど、メチャクチャ面白そうな予告編の映画の本編がそうでもなかったりすることというのはよくある。本書は、あまりにも外見からの面白さのし見出しぶりが堂に入っていたので、期待しすぎてがっかりしないように防御していたような気がする。

読んでみて、想像以上に面白くて驚いた。正直、まさにタイトル通りのこと、つまり「出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと」だけが書かれていたとしたら、たぶんそこまで面白くはなかっただろう。もちろん、「X」を通じて出会う人たちとの関わりや、そこで起こったエピソードなどはとても面白い。でもそれだけだったらきっと、面白い経験したんだねー、で終わってしまうだろうと思う。

本書は、「X」という出会い系サイトでの自身の経験を中核にしながら、「花田菜々子」という人間を徹底的に掘り下げていく、その過程こそが絶妙な面白さを放っていると感じた。

そもそも「X」をやり始めたのも、夫との別居がきっかけみたいなところがある。夫との話は度々短く挟み込まれるのだけど、そういう描写から、彼女がいかに「普通さ」に馴染めないかが少し浮き彫りになる。

さらに彼女は、職場であるヴィレッジヴァンガードのことを書く。親とも学校ともうまく折り合えなかった彼女は、少ない友達と、本とサブカルだけが心の拠り所だった。そんな時、下北沢のヴィレッジヴァンガードの存在を知り、入り浸るようになる。好きが高じて働くようになり、ヴィレッジヴァンガードが自分のアイデンティティの核であると感じるようにまでなる。

『人生のほとんどをヴィレッジヴァンガードに捧げていて、もはや引き返し方もわからなくなっていた』

ここまで書ける人というのは、(もしかしたらヴィレッジヴァンガードの中にはたくさんいるのかもしれないけど)、普通はそういないだろう。

こういう「花田菜々子」が、「X」と出会う前の彼女なのだ。

で、「X」でたくさんの人と会うようになって、彼女はどう変化していくのか。その過程が実に興味深い。

そもそもが、非常に客観的なのだ。本書がどうやって書かれたのか分からないが(元々日記などをつけていて、それを見ながら書いたのか。あるいは書く段になって思い出しながら書いたのか)、いずれにせよ、なかなか鋭い客観視が随所に光っていて、興味深い。「X」で出会った人に大してどう感じたのか、それによって自分にどんな変化があったのか、というようなことを、彼女は、細かく積み上げていく。もちろん本書は小説だから、事実ではないエピソードだって混じっているだろう。とはいえ、恐らくだけどそれらは、実際にあった出来事をより分かりやすく伝えるための改変なのではないか、と思う。何にしても、鋭い客観視が、変化の過程を際立たせている。

時にかわいらしい女子と話して癒やされたり、時に何故会おうとしたのか分からないほど会話に積極性のない人との苦行のような会話をしたり、時に趣味でコーチングをしているという女性と話していて涙を流したりと、それまでの日常にはなかったような異世界の体験を繰り返していくことで、彼女は、それまで自分がいた世界がいかに狭かったのか、そして自分の前にある世界がどれほど広かったのかを実感していく。

『だって無機質で居心地が悪いとしか思ってなかった街は、少し扉を開けたらこんなにも面白マッドシティだったのだ。なんて自由なんだろう。やりたいようにやればいいんだ。』

やりたいようにやればいいと達観した彼女は、どんどんとレベルアップし、そして本書の中で「ラスボス戦」と表現されている地平とへたどり着く。それは、少し前の自分だったらまず間違いなく出来なかったことであり、というかそんなこと想像すら出来なかったようなことであり、しかし彼女は、「X」でメキメキと力をつけたことで、その「ラスボス戦」を難なく越えてしまう。また、「X」で人と会いまくった経験が、なんと仕事にも繋がっていくことになる。

僕にも、たった一つのある出来事から、縮こまっていた手足を伸ばしていいんだ!と思え、やりたいようにやればいいんだと感じられた経験がある。それは本当に爽快な気分なのだ。彼女もきっとそうだろう。

「X」で彼女がどんな人と会い、どんな変化を遂げたのか。それは是非本書を読んで欲しい。どこまでが事実かなんてことに関係なしに、一人の女性の成長(という表現は陳腐で好きではないけど)の過程は、実に読み応えがある。さらに、それぞれの人に紹介していく本が実際に本書でも紹介されていて、それがまた見事だ。もちろん、人によってはもっと絶妙なセレクトが出来るのかもしれないけど、僕にはその人に合うオススメの本をスパッと脳内から取り出して見せることなんて絶対に出来ないから、さすがだなと感じた。

『ということは、いや、まさかだけど、もしかして。いつか私のこの本も誰かから誰かにおすすめされたりする日が来るのだろうか。それって、無限ループ…じゃないけど、なんかすごいじゃん、循環してるじゃん』

僕も読みながら、この本を薦めたい人のことが頭に浮かんだ。ちょっと今あまり良い状態ではない彼女に、この本は凄く合うような気がする。すぐに読んでもらうことが難しそうだけど、いずれ読んでもらおうと思う。

最後に。これは本当にどうでもいい話なんだけど、ちょっと気になったので書いておく。
本書の中で、著者ととても仲良くなる男性がいる。その男性とは、「X」関係なしによく会って話をする関係で、でも別に付き合っているとか体の関係があるとかそういう感じではない。

その男性が、こんなことを言う場面がある。

『なんていうかさ、目の前で飲んでる女が性欲ゼロっていう話がいちばんがっかりするんだよな!やれなくてもいいんだけど、男は「やれるかも」っていう希望だけで生きていけるんだよ~!』

『いやいや、だってさ、やらせてくれそうでやれない女っていうのがいちばんいいじゃん』

この発言に、著者は「よく分からん」という反応なのだけど、僕は凄く分かるなぁ、と思った。僕も同じで、やれなくていいし、っていうかむしろやれない方がいいんだけど、でも「やれる可能性」っていうのはあって欲しい。感じさせて欲しい。それがどんなに低い可能性でもいいから、仄かに感じさせてくれるだけでいいから、という気持ちは僕の中にもある。ホントに、「やらせてくれそうでやれない女っていうのがいちばんいいじゃん」ってのは、超共感できる!

という、クソほどにどうでもいい話で、感想を終わりにしようと思います。

花田菜々子「出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと」

集中力はいらない(森博嗣)

『しかし、集中するような作業の多くは、今やコンピュータが担ってくれる。その割合はどんどん増加している。人間の仕事としては、より発散型の思考へとシフトし、ときどき発想し、全然関係ないものに着想し、試したり、やり直してみたりすること、あるいは、より多数の視点からの目配りができることなどの能力が、これからは求められるようになるだろう。
これらのシフトは、仕事以外、つまり個人の生活でも、まったく同じ状況といえる』

人生の先々を考えていく上で、どうしてもこの状況を外しては思考できない。僕らは今、恐らく人類の歴史上類を見ないほどの大転換期に生きているのではないかと思う。人間にしか出来なかったはずのものが人間以外の存在でも出来る―これは、産業革命以来様々な場面で起こり続けてきたことだろうが、その変化の中でも現代は最大級のものになるのではないか。今までは、同じことを繰り返すような単純作業だけ機械に任されてきたのだけど、今はどんどん、そんなことまでコンピュータが出来るのか!と日々驚かされるような時代になっている。

そんな時代に生きる僕らにとって大事なことは、機械には出来ないことをやれる人間になれるかどうか、に掛かっていると言っていいだろう。

そして本書は、そういう視点を持つために非常に有益な一冊だと言える。

まず本書の基本的なスタンスを書いておこう。

『そもそも、僕は、「集中力」を全否定するつもりは毛頭ない。それどころか、集中力は大事だと思っている。ただ、説明が難しいのだが、全面的にそれを押し通すのはいかがか、という問題を提起したい。集中力は、みんなが持っている印象ほど素晴らしいものではない、少しずれているのでは、と気づいてもらいたいのだ』

本書では、「集中すること」そして「集中しないこと(分散や発散という単語が使われる)」について様々な形で触れている。そのほとんどに共感できる、というか、僕が普段から考えていることとほぼほぼ同じという感じがする。もちろん完全に一致ではないだろうが、概ね本書で書かれているようなことを意識して生活や仕事をしているつもりだ。

なので、そういう部分についてこのブログで触れてしまうと、あまりにも色んなことを引用しすぎてしまうだろうから、集中・分散に関しては、この箇所を引用するだけに留めておこうと思う。

『集中思考をしている人は、自分の好きなものを決めつけ、そればかりを探しているから、どんどん見える範囲が狭くなっていく。』

『分散思考をしている人は、できるだけ対象から離れようとする本能的な方向性を持つようになる。これが発散思考と呼べるだろう。どうしてそうなるかといえば、分散思考をしているうちに発想したものが、まるで違う分野、遠い場所からヒントを見つけた結果であり、思わぬ得をした経験が重なるためである。だから、今まで自分が見ていない領域へ足を踏み入れようとする。まだ新しいものがあるはずだ、と常に探している。自分の好き嫌いに関係はないし、また自分の願望あるいは意見にも関わらない。そうではなく、自分が持っている信念を打ち砕くようなものに出会いたいと思っているからだ。』

僕はまさに、ここで書かれているような分散思考を意識している。自分の好き嫌いに関わらず色んな本・情報・体験に手を出すことで、自分が想定している場所からどんどん遠ざかりたいと思っているのだ。

何故かと言えば、それが何らかの「発想」に繋がっていくという、本能的な直感があるからだ。まったく同じことを森博嗣も書いている。

『一つだけ言えることがあるとしたら、発想は、集中している時間には生まれないということである』

僕は日々、様々なことを考え、アイデアを生み出し、実行に移すことをしている。ある意味ではそれが仕事の一部になっているし、趣味の一部でもある。色んなアイデアを生み出してきたと自分では思っているのだけど、基本的には「何かを考えるための時間」を設けることはない。常に、何かしながら考えている。二つのことを同時には考えられないから、本を読んだり売場づくりをしながらは思考したりは出来ないが、手や足を動かしていればいいという時には、頭では別のことを考えていられる。歩いていたり、自転車に乗っていたり、ちょっとした隙間時間にふと思い出したりしながら、常に色んなことを考えている。何を考えるべきかというのは思いついた時にメモをしておくし、何か思いついた時にすぐメモ出来るように常に何か書くものは携帯するようにしている。

僕の感覚としても、「よし今からこれについて考えるぞ」と意気込んで(集中して)アイデアが生まれた経験はない。それよりは、何かしながらふと何かの表紙にポロッとこぼれ出るような形で生まれることが多いように思う。まさに森博嗣が持っている感覚と同じだ。

そして「発想」を得るためにもう一つ大事な要素が「材料」を手に入れることだ。

『情報というのは、思考するための「材料」です。材料を加工することが、思考という作業です。加工しないでアウトプットする人は、ただ、情報に反応しているだけです』

その通りだなと思う。

思考が苦手だという人は、まず「材料」が足りない可能性について考えるべきだろうと思う。こんな状況を思い浮かべて欲しい。ある人が「料理の才能がない」と嘆いているのだけど、実はその人の家にある冷蔵庫は1年間ずっと空っぽだ、というような。確かにその人は「料理が出来ない人」だろう。しかし何故料理が出来ないのかといえば、冷蔵庫が空っぽだからであり、それは料理の才能がないこととは直結はしない。冷蔵庫に材料が潤沢にあるのに思うように料理が作れないのだとすれば、それは才能の問題である可能性はあるが、冷蔵庫が空っぽの時点では才能の問題かどうかは判断しようがない。

思考も同じだ。思考が苦手だという人は、そもそも頭の中に材料がない可能性がある。そりゃあ、思考も出来るはずがない。ただ、頭の中に思考のための材料があるかどうかは、冷蔵庫ほどにははっきりとは分からないので、よくよく自分の状況を観察してみる他ないと思う。

『こういった社会に育つと、「考える」チャンスがほとんどないといっても良い。
多くの場合、頭に思い浮かべて、ただ選択する、あるいは反応する、という程度である。それが「考える」ことだと思い込んでいる。また、大多数の人たちは、「学ぶ」ことが「考える」ことだと勘違いしている。「学ぶとは、頭にインプットすること、知識を入れて覚えるだけのことだが、「考える」とは、それらインプットしたものを頭の中で組み立てること、仮説を作ることなのである。脳の活動として、まったく異なっている。
今の若者に多いのは、まず「考えよう」として、頭で問題を思い浮かべるものの、すぐに「分からない」という結論になる。頭に思い浮かべているだけであり、ぼうっとしているのと変わらない状態である。そして、わからないのは、自分がこの問題を「知らない」からだ、とすぐに結論を出す。では、「知る」ためにどうすれば良いかといえば、調べる、検索する、誰かに教えてもらう、という行動しかない。今は、調べるのも、検索するのも、教えてもらうのも、とても手軽にいつでもできるようになったから、すぐにそこに飛びつく。
これらが簡単にできない時代の子供たちはどうしていたかというと、しかたがないから、自分で考えたのだ』

思い当たるという人も多いのではないだろうか?とにかく、何よりも大事なのは、正しい意味での「考える」という行為をすることであり、そのためにまず材料となる情報をインプットすることなのだ。これをしない限り、コンピュータが世界を席巻する世の中で人間の存在価値はなくなってしまうだろう。

先ほど『材料を加工することが、思考という作業です。』という部分を引用したが、この「加工」に関してもこんな文章がある。

『いずれにしても、雑多な情報の中から何を選ぶのか、という問題ではなく、その情報をどう加工して自分の頭に入れるのか、というところが肝心だと思う。
どう加工するのかとは、つまり自分が持っている知識や理屈と照らし合わせて、フィルタリングしたり、あるいは推測を行ったりする、ということであって、まずは、自分の知識と理屈を持っている必要がある。そして、この知識と理屈は、そうやって加工された入力によって築かれていくのだから、短時間に出来上がるものではない』

先ほど、「考える」ために材料となる情報をインプットすべき、と書いたが、それだけでは「考える」にはたどり着けない。情報は加工して頭に入れるべきだが、加工をするためには知識と理屈が必要。しかしその知識と理屈は、情報を加工して頭に入力していくという繰り返しによって作られていく。だから、知識と理屈で情報を加工し、加工された情報で知識と理屈を育てていくというフィードバックを繰り返して初めて、「考える」というステージに到達出来るのだ。

なかなか大変だ。しかし、僕の感覚としても、やはりそうしないと「考える」にはたどり着けないなと思う。僕の20代は、本をひたすら読み、本を読んで考えたことをブログで書く、ということの繰り返しで終わった。別に自分の頭を鍛えようなんて発想でやっていたわけではなくて、趣味と暇つぶしの間みたいなつもりでしかなかったが、20代ひたすらやり続けた読書と文章化が、今の僕の基礎となっている。正直に言って、30代の読書と文章化の継続がなければ、僕の30代はあり得なかった。20代の頃の積み重ねがなかったら乗り越えられなかった状況を、30代では多く経験した。やる前は「無理かもしれない」と思っていたことが結果的に大体出来たのは、20代の積み重ねのお陰だったと思っている。

じゃあどうすればいいのか―その答えは自分で見つけるしかない。

『ただし、僕は自分の頭しか持ったことがないし、六十年間の試行錯誤の結果であったとしても、これが大勢の人の頭に適用できるとはとうてい考えられない。そこまでの自信はまったくない。したがって、各自が自分に当てはめて、これはできそうだと思うものを試していただきたい。そんなことをするうちに、自分に適したやり方が見つかるのではないか、とも期待するところである』

『よくよく自分の頭や躰の反応を観察し、どうすれば上手く使えるか、どんな傾向があるのか、と考えれば良いだけである。本に書いてあった方法だから、TVでやっていたことだから、と安易に信じないこと。それくらい人それぞれ違っていて当たり前なのである』

『成功した人の例を参考にして、同じようにすれば良いのか、とも想像し、憧れが、前例の模倣へとステップアップする。
しかし、憧れの人、その人の方法論、というものに集中しているうちは、おそらく成功はありえない』

僕もその通りだと思う。世の中の「こうすれば絶対◯◯」「これだけやれば△△」みたいなものは、ほぼほぼ嘘だと思う。そんな方法はない。それが何であれ、自分に合ったやり方は自分で見つけるしかない。その試行錯誤の過程で、様々な方法論を知るという意味で他人のやり方を見聞きするのは良いことだと思う。しかし結局は、試してみて自分に合うかどうかということでしかない。そしてまさにそれは、先ほど書いた「知識と理屈で情報を加工し、加工された情報で知識と理屈を育てていくというフィードバック」そのものなのだ。

とはいえ、漠然としたアドバイスはある。

『もっと簡単に言うと、まず変えるべきものは「習慣」だろうと思う。こつこつと、少しずついろいろやることを「習慣」にする、という意味だ。そうすることで、考える習慣ができる。周囲を気にする時間、周囲とのつながりを確認する時間は、今の半分にして、その分を「考える」そして「作る」ために使うことである。こうした習慣こそが、さらに分散思考の頭を少しずつ耕してくれるだろう』

僕もこの「習慣にすること」はとても重要視している。何か新しいことを始めようと思う時は、それを毎日少しずつでもいいから継続してやれるかどうかを考える。その時間が取れない、と判断すればやらない。やっても身にならないからだ。1日10分でもいいから毎日やること。その重要性を僕は自分なりに理解しているから、「習慣にすること」は強く意識している。

まだまだ引用したい文章は山程あるのだけど、既に引用過多だろうからこれぐらいにしておこう。これからの時代を生きる上で、非常に重要でためになることが書かれている一冊だと思う。

森博嗣「集中力はいらない」

将棋の天才たち(米長邦雄)

内容に入ろうと思います。
本書は、プロ棋士であり、将棋連盟の会長でもあった故・米長邦雄が、週刊現代に連載したものを書籍化した作品です。
様々な棋士(女流棋士やアマチュアも)を取り上げ、人物について触れつつも、その棋士が最も印象に残った一手などを聞き出し、棋譜と共に解説する、というスタイルを取っている。
取り上げられている棋士は本当に多彩で、知っている名前も知らない名前もたくさんある。色んなエピソードが登場するので、読み物としては面白いのだけど、まとまった記述があるわけではないので、感想が書きにくい本ではある。

色んなエピソードの中から個人的に印象的だったものを二つ挙げよう。

一つは、コンピュータ将棋の発展に寄与した棋士の話。飯田弘之は、プロ棋士でありながら、大学教授だという。プロデビューしたのは上智大学の数学科在籍中だったというから、頭の出来がヤバい。人工知能の分野で有名な人のようで、コンピュータ将棋の研究を始めて30年になるという。まさか、プロ棋士兼研究者なんていう人がいるとは思ってもみなかったので驚いた。

もう一つは、斎藤慎太郎という棋士のエピソード。
谷川浩司と藤井猛という、どちらも将棋界ではトップクラスのメチャクチャ強い棋士が、竜王戦という大会で闘った。谷川が勝ちを確信し、藤井も負けを確信し投了した場面で、驚きのひと言が飛び出した。
「藤井先生がこう逃げれば詰まないのではありませんか」
こう言ったのは、この対局の記録係をしていた16歳三段の少年。現場はもちろん騒然となった。そして結果的に、その少年の発言が正しいことが分かったのだ。
その少年こそ、斎藤慎太郎だという。
トップ同士の対局で、闘っている両者が勝ち・負けを確信しているのに、さらにそこに違う可能性を見出す―こういうエピソードを聞くと、将棋というのは本当に奥が深いなぁ、と思うのだ。

こんな感じで気になったエピソードを断片的に書いていっても仕方ないので、これぐらいに留めておきます。

著者の米長邦雄について少し書きましょう。彼は、後に「米長哲学」と呼ばれる、現在将棋界で常識となっている考え方を常日頃から公言していた人だ。それが、

【自分には紹介試合でも、相手の大一番なら全力で負かしに行かなければならない】

というものだ。

これについて巻末で羽生善治がこんな風に書いている。

『プロ棋士は全員あわせても約150人しかおらず、互いに顔見知りであり、重要な一局においても人間関係が影響を及ぼすことが考えられます。だからこそ米長先生は、自分にとっては無関係な一局でも真剣に打ち込むことを説かれ、そうした姿勢、態度が、ひとつの世界としての規律を作り、運を呼び込むことになると話されていました』

確かにそうだ。みんな顔見知りだったら、少しぐらい相手のためを思って手を抜いてしまう…なんてことも起こりうるかもしれない。しかしそれは、結果的に相手のためにもならないだろうし、見ているファンも楽しくないだろう。コンピュータ将棋がここまで強くなっている今、何故人間同士が将棋で戦うのかと言えば、それは結局、人間の限界と限界のぶつかり合いを見たいからだろう。その中で奇跡のような一手が生まれたり、後世に残るような反則が出たりする。そういうところにこそ、人間同士の対局の価値があるはずだし、だからこそ常に全力でなければならないのだろう。

米長邦雄は、将棋連盟の会長としても新しいことに取り組み続けた。世間的にもインパクトがあったのは、コンピュータ将棋との関わりだろう。自らも「ボンクラーズ」と対戦して負け、またその後のプロ棋士とコンピュータとの対局の流れも作り出した。瀬川晶司アマのプロ編入試験に携わったのも米長だ。他にも、現在ニコニコ動画などで将棋の対局が見られるのも、彼の決断が背景にあったということがエッセイの中で少し触れられている。

棋譜付きで対局の話も載っているので、そこはちょっと将棋をちゃんとやっている人でないとなかなかついていけないと思うけど(僕も、ちょっと読み飛ばしてしまった)、人柄とかエピソードの部分は非常に面白いです。

米長邦雄「将棋の天才たち」

「ペンタゴン・ペーパーズ」を観に行ってきました

これまで、なるべく決断をしないで生きてきた。あらゆる決断から逃げてきた。今も、決断からは逃げたいと思っているし、許されるならばこれからもずっと決断しないで生きていきたいと思う。

決断することは怖い。その決断が、自分にしか関係ないことであれば、僕はあまり怖さを感じないが、自分以外の誰かも関係してくるのであれば、一気に怖くなる。

正しい決断など、決断する前には絶対に分からない。決断してみなければ分からないし、時には決断してからずっと長い時を経てからじゃないと分からないこともあるだろう。自分の決断が誰にどんな影響を与えるのかも分からない。すべて、分からないまま決断を下すしかないのだ。

未来が分かっているのなら、決断など容易だ。しかし、そんなことはあり得ない。未来がどう動くか分からないからこそ決断に迷うのだ。自分の決断に、多くの人の人生が掛かっている―そういう立場にいる人は世の中にそれなりにいるだろう。政治家や社長、あるいはもう少し小さいレベルで見れば親や学校の先生もそういう立場にいる。

正しい決断をすることは難しい。決断をする前に正しさなど絶対に分からないからだ。しかし、正しくない決断、というのは、決断をする前に分かることがある。明らかにすべきでない決断、明らかに間違った決断、というものは存在しうる。未来の不確実さがもたらす過ちではなく、未来には関係なく現時点で明らかに踏み外しているという過ちは存在しうる。

そういう決断を目の前にした時、どう決断すべきか。

この映画で描かれているのは、正しい決断のためにすべてを失うかもしれない―そういう決断に追い込まれた女性の勇気なのだ。

内容に入ろうと思います。
舞台は、ベトナム戦争真っ只中の1971年。ワシントン・ポストの社主であるグラハムは、祖父・父・そして夫と受け継がれてきたこの会社を守るべく、夫の急逝に伴って社主を引き受けた。ずっと家族経営で続けてきた新聞社だったが、役員の意見を受け入れ、グラハムは株式公開に踏み切る決断をする。優秀な記者に投資をし、質で勝負することで収益性を上げる―彼女は投資家や銀行に向けてそうスピーチをする。
銀行との交渉はなかなかうまくまとまらないが、グラハムが気になったのが、趣意書のある一文だ。「株式公開から1週間以内に緊急事態が起こった場合、契約を解除できる」 役員の一人は、契約書の決まり文句だ、となだめようとするが、グラハムはデスクである“海賊”ベンのことを思い浮かべて不安を隠せずにいる。
ベンは、自分のボスであるグラハムにも遠慮なくズバズバ物を言う。社主として立てつつも、現場への口出しが多すぎると牽制している。ベンには、「報道の自由を守る方法は報道しかない」という信念があり、ニクソン大統領の次女の披露宴をぶち壊しにした“ポスト”の記者を長女の結婚式から締め出そうとする政府のやり方にも屈するつもりがない。
そんなある日、ニューヨーク・タイムズに衝撃的な記事が出た。ベトナム戦争を分析した「マクナマラ文書」を手に入れ、それを分析することで、政府が勝てないと分かっている戦争に若者を送り込んでいるという衝撃的な実態が明らかになったのだ。ベンはすぐに記者を集め、情報を取ってこいと命じる。そして自らはグラハムの元を訪れた。
マクナマラ長官は、グラハムの古い友人だ。だからベンはグラハムに、マクナマラ文書のコピーを入手するように迫ったのだ。しかし彼女はこれを拒絶する。
やがて株式公開に踏み切った彼女だったが、ほぼ同時に記者の一人がマクナマラ文書のほぼすべてを入手した。秘密保持のために自宅に記者を呼び文書の精査と記事の作成を始めたベン。そこに弁護士を呼び、対応を協議するが…。
というような話です。

これは良い映画だったなぁ。素晴らしかった。冒頭で「決断」についての話を書いたけど、本当によくこんな決断が出来たなと感じるような物語でした。実話をベースにしているんだろうけど、ホントに凄いな。

「報道の自由」というのは、いつの時代でもどの国でも問題になることだろう。日本でも、メディアへの政権からの干渉があるとかないとかっていう話はよく出てくる。新聞や週刊誌などでも、ネタを取ってきても、様々な理由から載せられないと判断するケースもあるだろうと思う。

「マクナマラ文書」は、いわゆる「最高機密文書(ペンタゴン・ペーパーズ)」だ。だからこそ、それが新聞に載っていることが大問題になっている。何故それが機密なのかはとりあえず置いておくとして、機密である以上、流出させたり広めたりすれば罪に問われることになる。今回の件でも、この文書に関わった者の多くが、何らかの罪に問われる可能性を有している。そういう状況下での決断なのだ。

日本でも、情報を機密に出来るような法律(名前を忘れてしまった)が出来たはず。何故それが機密であるのかという理由さえ明らかにしなくていい、というような内容だったと思う。正直、そんな法律があれば、政権側のやりたい放題ではないか、と思う。

アメリカという国の潔いところは、どんな文書もある一定の年数(確か50年だったと思う)で公開されることだ。映画の中でも、ずっと機密なわけではない、国民の知る権利は当然大事だし、この文書も後世の研究のために公開されるべきだが、今じゃない、というような発言があった。

ここが日本と大きく違う点だと思う。日本の場合、情報公開を求めても、黒塗りのままほとんど何も情報が分からないというようなものしか出てこないことがある。しかも、アメリカのように期限がくれば公開するというのでもない。

この映画の舞台は1971年だ。今の話ではない。今のアメリカはどうだろう?トランプ大統領絡みのニュースを見ていると、大統領と敵対しても真実を報道しようという気概があるように思う。日本では今、外務省による文書書き換え問題が盛んに報じられている。確かあれは、朝日新聞の報道が端緒となったのだったと思う。

『古い時代は終わるべきだ。権力は見張られるべきだ。誰かがそれをやらなければならない』

全体はどうか分からないけど、少なくともまだ一部では、そういう気概が残っているのだと思いたいところだ。

この出来事に携わった者は多々いるだろうけど、この映画での主人公はやはりベンとグラハムだ。

ベンが語る、JFKとの話は、実に印象的だった。ここでは詳しく書かないけど、『友人か取材対象か、どちらかを選ばなければならない』とベンが語る場面は、記者という立場の難しさ、あるべき姿みたいなものを強く印象付けたと思う。またある意味では、この言葉が、グラハムの決断を後押ししたと言っても決して言い過ぎではないだろう。

『政府の顔色を見るというなら、もう“ポスト”は消滅したも同然だ』

ベンはゴリ押しに次ぐゴリ押しで記事をものにしようとするが、最後にそうではない一面を見ることが出来たのも良かったと思う。

グラハムは、非常に苦労を重ねてきた女性だ。その苦労が、映画の随所で描かれていく。

『社主が女性だと、投資家たちが動かない』

彼女は、望んで社主になったわけではない。誰からも優秀だと思われていた夫のフィルが死亡し、それ故に社主にならざるを得なかった。女性である、ということで色んな障害があったし、舐められるようなことも多かった。それでも彼女は“ポスト”が大好きだったし、この会社を守るために出来る限りのことをするつもりがある。

一方で彼女は、友人を大事にする人でもある。パーティーなどは頻繁に開かれるし、古くからの友人であるマクナマラ長官についても同様だ。渦中の人であっても、仕事と友人関係は別だと考えている。

しかし、ベンがマクナマラ文書を手に入れたことで、彼女は大きな決断を迫られることになる。それは彼女にしか出来ない決断だが、その決断によって多くの人の人生が左右される可能性がある。

彼女は困難な決断をする。その後、ある場面でグラハムはこんな風に声を掛けられるのだ。

『言うべきことではないですが…勝ってください』

凄く良い場面だった。

『報道が仕えるべきは国民だ。統治者ではない』

こういう発言が出来ることが、アメリカという国の強さだ、と僕は思う。

「ペンタゴン・ペーパーズ」を観に行ってきました

「トレイン・ミッション」を観に行ってきました

いやー、面白い映画だったなぁ。

内容に入ろうと思います。
刑事から保険の販売員に転職したマイケル・マコーリーは、10年間、ほぼ変わらぬ通勤風景を見続けてきた。同じ朝、同じスケジュール、同じ人…。しかしその日は違った。上司に呼ばれると、いきなり解雇を突き付けられたのだ。成果が雇用条件に見合わないと厳しい通達。60歳のマイケルは、定年まであと5年なんだ、と粘るが、どうにもならない。
その帰りの車内でも、いつもと違うことが起こった。ジョアンナと名乗る女性がマイケルの向かいに座り、奇妙な話を始めるのだ。もしも、あなたにはまったく関係ないことで、しかしそれが誰かの人生に関わるようなことを誰かに頼まれたら、あなたは引き受ける?と。いつしか仮定の話ではなくなり、マイケルは突然、奇妙な人探しをさせられることになった。
探すのは、普段この電車では見かけない人。コールド・スプリング駅で降りる。通称“プリン”―。これだけの情報から、マイケルは人探しをしなければならなくなった。
やがて彼は知る。彼が、いかに危険なゲームに参加させられているのかを…。
というような話です。

ハリウッド映画、なのかどうかは分からないけど、ハリウッド映画みたいな、とにかくノンストップでストーリーを走らせる、息をつかせない作品だなと思いました。冒頭でジョアンナという謎の女から奇妙な依頼を受けてから、とにかく立て続けに色んなことが起こる。彼には、このミッションについて、本当に最小限の情報しか与えられていない。何のためにプリンを探すのかも分からないし、プリンに関して具体的な情報はほとんどない。何せ、男か女かさえ分からないのだ。彼の強みはただ一つ。10年間、同じ電車に乗り続けたことで、「いつもの通勤客」以外の人間に気付きやすい、ということだけだ。

マイケルは、うっかり弱みを見せてしまったがためにこのミッションに引きずり込まれることになってしまったのだけど、まあ確かに、もしかしたら僕も乗っかってしまうかもしれないなぁ、という気はする。もちろん、普通の状態であれば乗らないだろうけど、マイケルは会社を解雇され、それでも家族を養っていかなきゃいけないというプレッシャーがある。息子の大学のこともある。蓄えはゼロ。妻は一家の財政について危機感を持っていない。マイケルがなんとかするしかない状況だ。そんな中で提示された条件なら、手を出してしまう可能性もあるかもしれないと思う。

しかしまあ、そうやって手を出したミッションが、まさかこれほど根深いものだったとは、という感じでした。中盤から終盤に掛けて、「助かった!」と一旦ホッとする場面があるのだけど、実はまだそこからひと山待ち構えているという感じ。そして、「最終戦」はホントに、マイケルの日常をすべて打ち壊していくような、そんな残酷で無残な展開を見せることになる。

具体的に書けることが少ないので感想が難しいですけど、とにかく物語が動き始めてからはノンストップで進んでいく、エンタメ作品としては非常に面白い作品だと思いました。

「トレイン・ミッション」を観に行ってきました

透明の棋士(北野新太)

『ふと、最終局の投了図について尋ねてみた。美しいと話題になっていたからだ。
(中略)
「どうせ殺されてしまうなら…」
中村は確かに、殺されてしまうなら、と言った。
「いちばん綺麗な形で、と思ったんです。あの十手くらい前から、最後の投了図を描いて指していました。だから、羽生さんにも、思い描いた手順で指してもらえればと思っていました」
胸を衝かれた。勝負を見守っている者たちが逆転への一縷の望みを託していた時、中村は最良の死に場所を探していた』

こういう話を聞くにつけ、将棋というのは、単純な勝負の世界ではないと感じる。

投了図の美しさ、というものが、将棋の素人(僕もそうだ)に分かるのかどうかなんとも言えないが(本書にはその投了図は載っていないので判断不能)、フィギュアスケートのような採点競技ではない、勝つか負けるかしかない勝負の世界で、なお「美しさ」という要素が入り込む余地がある、というのが将棋の奥深さだろう。もちろんスポーツなどでも、プレーの美しさ、みたいなものはあるのだろうけど、将棋の場合、そういうものとも少し違うような気がする。将棋で言われる「美しさ」というのは、勝敗を決するために真正面からぶつかりあっている二人が、共同で作り出す芸術性みたいなものを指しているように思う。

もちろん、将棋には勝つか負けるかしかない。しかしトップ棋士の勝負の捉え方はなかなか独特だ。以下は、羽生善治と小学生の頃から現在までずっとライバル関係が継続している森内俊之の言葉だ。

『相手を打ち負かそうという感情は薄いと思います。でも、将棋は勝つか負けるかしかないので、負けないためには勝つしかないんですよね。負けるのは嫌なんです。自分を否定されるような感覚を持ちますので。でも、もっと嫌なのはできるはずのことができないこと。できるかできないか、というところでできないのは仕方がないんですけど、当然できるところで間違えたりミスをするのは嫌ですね。結局、負けることに結び付いていきますし』

羽生善治は、こんな風に語っている。

『彼は、過去の様々なインタビューで「実は将棋には闘争心はいらないと思っているんです。相手を打ち負かそうなんて気持ちは全然必要ないんですよ」といった趣旨の発言を度々している』

勝つか負けるかしかないし、負けるのは嫌なら勝つしかないのだけど、それでも闘争心や打ち負かそうという気持ちはいらない―やはり不思議な世界である。

とはいえ羽生善治は、こうも発言している。

『達観とは言わないまでも、達観に近いような心境になることは必ずしもいいことばかりではない、というのも間違いないですよね。ある種の貪欲さというか、なんて言うんでしょうかね、ギラギラしたものをどこかの部分で持っていないといけないということはあると思います』

この発言を僕はこう捉えた。つまり、勝つためにギラギラするのではなく、将棋を追求するためにギラギラすべきなのだ、と。そのギラギラが、結果的に勝ちに結びつくのだ、と。そうだとすれば、なんと純粋な勝負だろうか、と思う。

将棋というのはまた、強さを推し量ることが難しい、という面がある。もちろん、外形的に分かることはある。タイトルをどれだけ持っているか、勝率がどれくらいかなど、ある程度幅を持たせた期間の中での強さというのははっきりと現れてくる。シビアな実力の世界だ。

しかし、ある一局に限定すれば、両者の強さを測る指標は消える、と言ってもいい。

第72期名人戦を戦う羽生善治と森内俊之の第四局は、錚々たるメンツが立会人として部屋にいたが、『実力者ばかりが揃った顔ぶれでも、目の前の盤に一致した正答を導き出すことができなくなっていた。』『検討で一切触れられていなかった一手の出現に、四人は思わず自嘲の笑い声を洩らした。』という状況である。また対局後、長年プロ棋士としてトップに居続けている森内俊之は、『経験したことのない将棋が多く、難しかった』と発言している。

このエピソードだけで、将棋というのがどれほど難しいのか伝わることだろう。だからこそ、コンピュータソフトがプロ棋士を打ち破るという現実が凄まじいことだと思える。本書には、そんなコンピュータソフトとの対局を行った棋士のエピソードも載っている。

『彼らは「君の夢は極限まで努力しても叶うまで十年はかかる。むしろ叶わない可能性のほうが高い。失敗した場合の保証は何もない。やり直しの機会もない」という神様の声を聞きながら、夢を追い続け、明日のわからない勝負に討って出た勇者だった。』

将棋のプロ棋士というのは、年に4人(状況次第では4人以上のこともあるが)しか生まれない。東大に入るより遥かに難しい、と言われるほどの超難関なのだ。しかもそこに辿り着くためには、ありとあらゆる犠牲を払って膨大な時間を注ぎ込み、壮絶な戦いを繰り広げ続けなければならない。しかも、そうやってたどり着いた場所が、まだスタートラインなのだ。その先に、羽生善治を始めとする化物たちがうようよいる。そんな中で闘っていかなければならない。

棋士というのは、本当に凄まじい仕事なのだなぁ、と思う。

本書を読んで初めて知ったのが、中村太地だ。いや、中村太地のことは知っていた。NHKの将棋講座で乃木坂46の伊藤かりんと一緒に喋っている人だ。知らなかったのは、中村太地がそんなに強い棋士だった、ということだ。2012年には歴代2位の0.851(40勝7敗)というとんでもない勝率を残したし、タイトル戦にも出ている。まだ若い棋士だし、テレビで見ている限りにおいてはほんわりとしたスマートな印象しかなかったから、そんなに強い棋士だというのが意外だった。

意外ではなかったのは、彼の人柄だ。いや、想定以上ではあったのだが。棋士は基本的に良い人が多いようだが、中村太地は著者とのいくつかのエピソードだけでも、良い人感が溢れ出ている。羽生善治も、相当な人格者のようで、女流棋士でありながら棋士を目指す里見香奈(基本的に「棋士」というのは、奨励会を経てプロになった人を指し、今まで女性で「棋士」になった人はいない)の就位式でのエピソードなどは素晴らしいの一言に尽きるという感じだ。

さて、そんな風に様々な棋士と付き合いのある著者だが、元々将棋が好きだったわけではないという。

『多くの人と同じように、私は将棋という存在とは無縁の人生を歩んできた。学校の囲碁将棋部員に友人がいた経験はないし、桂馬は後方にも跳ねる能力を持つ駒なのだと長らく信じて疑わなかった。(中略)
勝負の世界について自分の手で書いてみたいと願い、報知新聞社に入社してからも、将棋という勝負の形が存在することに気付きもしなかった。正直、自分の会社が女流名人位戦(2014年度から女流名人戦)というタイトル戦を主催していることも入社当初は知らなかったし、知ったところで興味すら抱かなかった』

そんな状態から、よくもまあこれほど深く将棋に関心を持つまでになったものだ、と思う。やはり将棋には、知識がなくても感じ取れてしまう、人間の業みたいなものがほとばしっているということなのだろう。

そう、将棋は生き残るとも言える。コンピュータソフトにいくら負けようが、やはり僕たちが知りたいのは、生身の人間がどう戦いに挑んでいくのか、ということなのだから。

北野新太「透明の棋士」

凶犬の眼(柚月裕子)

自分の中のルールに正直に生きていきたいと思っている。

自分の中にあるそのルールは、世間のルールからは外れているかもしれない。でも、それは正直大した問題ではない。他人に迷惑を掛けるべきではないと思うし、社会の秩序を乱すのも良くないと思うが、そうでなければ、自分の中のルールが世間のルールにそぐわなくたって問題はない。

変な話だが、僕にはこんな感覚がある。天から誰かに見られているような感覚だ。

僕は、何か特定の宗教を信仰しているわけでもないし、神だの創造主だのと言った存在を信じているわけでもない。バリバリの理系で、オカルト的な話全般にはイマイチ興味が持てない。

だから僕は、何か特定の存在を信じているというような意識でいるわけではない。僕が言う「誰か」というのは、本当になんだか分からない実態のない存在で、そういうよく分からない存在に「見られている」というような感覚がある。

例えば、道端にゴミを捨てたくなることがある。実際に捨てることも、もしかしたらあるかもしれない。でも、大体捨てない。捨てようとすると、天にいる謎の存在に「見られている」というような感覚が強まるのだ。で、見られてるから、なんとなく止めようという感じになる。そうやって、僕は道端にゴミを捨てない、という選択をする。

こんなことを書くと、僕が道徳的、模範的な人間に思われるかもしれないけど、別にそういうことではない。あくまでも僕は、自分の中のルールに正直にいたいだけで、世間のルールに従おうと思っているわけではない。例えば、危険がないと判断すれば、赤信号でも渡る。僕の中のルールでは、それを禁じていない。でもなんとなく、ゴミはダメだ。どういう基準で決まっているのか、自分でも分からないのだけど。

この「見られている」という感覚は、自分の行動を律するのになかなか便利だ。こういう便利さを日常の中に組み込むために自分が生み出した感覚なのか、あるいは元々僕の中に存在した感覚なのか分からないが、自分が極端に悪い方向に進まないでいられる歯止めとして、とても重宝している。

自分の中のルールは、破ったところで罰則はない。一回ぐらいサボったって、誰かに怒られたりはしない。でも、だからこそ、なかなか破れない。自分しか歯止めがないのだから、その自分が簡単に破ってしまったら、なし崩し的にすべてダメになってしまう、という風に思っているからだ。僕は高校時代、夏休みの宿題を夏休み前にすべて終わらせ、その上で毎日長時間勉強をし続けたが、これも、一旦止めてしまったらもう二度と勉強を再開出来なくなるのではないか、という感覚があったからだ。

たとえそれが言語化出来ないようなものでも、この人にはこの人なりの明確なルールがあるのだな、と感じられる人が好きだ。ルールそのものをうまく捉えきれなくても、そういうのは感覚としてなんとなく分かる。逆に、時と場合によってルールがぐにゃぐにゃに見えたり、筋の通ったルールを持ってなさそうに見える人は、あまり好きになれないことが多い。

たぶん、不自由さを内在することでしか獲得できない自由、みたいなものに惹かれるのだろうなと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、「孤狼の血」の続編に当たる作品ですが、ストーリーだけなら本書からでも読めます。
日岡秀一は、久々に「小料理や 志乃」の晶子に会いにきた。裁判絡みの用事のついでなのだが、かつての上司・大上章吾とここで過ごした日々は、今も日岡の血肉となっている。以前は呉原東署捜査二課にいた日岡だが、今は山奥の駐在所勤務だ。有り体に言えば、左遷である。事件らしい事件も起こらない土地で、夫婦喧嘩の仲裁を買って出るような日々は、かつて大上と過ごしたひりつくような毎日とは雲泥の差だ。
「小料理や 志乃」でしばらく旨い飯を食っていた日岡だったが、階上に人の気配を感じた。そこには、日岡の見知ったヤクザらが数名顔を揃えており、その中に一人、誰なのか分からない男がいた。
明らかにカタギではない。どこかで見覚えもあるのだが…。記憶を探る日岡は、ある人物の顔が浮かび、衝撃に震えた。
国光寛郎―。日本最大の暴力団組織・明石組の二次団体である北柴組の若頭だった男だ。今年の二月、明石組四代目の武田力也が暗殺され日本中が騒然となったが、国光はその暗殺の首謀者の一人として、殺人幇助の容疑で全国に指名手配されているのだ。
動悸がする。僻地に追いやられた身でも、指名手配犯を確保出来れば大手柄、所轄へ戻れる―。
国光は日岡が刑事と知っても動じることなく、しかもなんと自ら名乗った。どういうつもりだ…。国光は日岡に、少し時間をくれ、と言った。まだやらなければならないことがある。目処がついたら、必ずあんたに手錠を嵌めてもらう、と。
日岡は考えた末、国光をすぐに捕えないことに決めた。管轄中に指名手配犯が潜んでいたとなれば処分は免れないが、その危険を冒してでも国光が何をやろうとしているのか気になった。
国光という男には、他のヤクザにはない何かがある―。日岡はそれを見極めようとしていた…。
というような話です。

人間関係や組織図は難しくて基本的に理解できなかったけど、それでも面白かった!というのが正直な感想です。

まず、難しかった、という部分から触れましょう。

僕は「孤狼の血」の内容はもうほとんど忘れちゃってるんですけど、「孤狼の血」の時も、ヤクザ的な部分は把握するのが難しいと感じたと思います。本書でもやっぱりなかなか大変で、正直、ちゃんと把握するのは諦めながら読みました。

いやー、複雑過ぎませんか、ヤクザの関係って。

誰と誰が兄弟で、なんとか組となんとか会が関係があって、どことどこが対立していて、みたいなこと、わたくし、ほぼ理解できませんでした(泣)。まあ、理解できないだろうなぁ、と最初から諦めてそういう描写を真剣に読まなかった、というのもあるんだけど、ちょっと僕にはハードルが高かったです。

あと、ヤクザ独特の理屈、みたいなものも結構難しかったですね。例えば、こういう感じ。

『自分が引退した後は、子分の○○を当代に据える腹よ。そうなりゃあ、いまの舎弟のほとんどは、代替わりして跡目を子分に譲り、組長の座から降りにゃァならん(ネタバレになるのかどうかも判断出来なかったので、人物名は一応伏せました)』

僕には、「ある人が当代になる」と何故「代替わりして跡目を子分に譲り、組長の座から降りなければならない」のか、その理屈がイマイチよく分からないんですよね。これ、発言してる方も聞いてる方も刑事で、二人の間では当然過ぎるほど当然の話なんだろうから作中で説明されないんだけど、こういう、メンツとか体面とか仁義みたいなものを重んじるヤクザ独特の考え方みたいなものも、スッと入ってこない部分があってなかなか難しい部分がありました。

それでも、本書は面白い作品でした。何故なら、国光という男が実に魅力的だからです。

日岡は、『ヤクザの大半は、その場しのぎの嘘で生きている。暴力団とは欲と金にまみれた外道の集団だ。(中略)しかしその一方で、わずかだが昔ながらの仁義を貫いている者もいる』と感じている。そして、国光は後者のヤクザなのではないか、と思っている。

国光は確かにヤクザだし、同じヤクザとは言え人を殺している人間だ。だから当然「良い人」なんて括り方は出来ない。しかし、冒頭で書いたような、自分のルールに忠実な人間で、それも忠実すぎるほどに忠実な人間なのだ。その点が、国光という男をとても魅力的に見せているし、日岡が国光に惹かれたように、きっと僕も国光の近くにいれば、彼のために何か出来ないかと思ってしまうだろうと思う。

悪人をここまで魅力的に描けるというのは、本当に素晴らしいと思う。

国光はたぶん、ヤクザでなかったとしても頭角を現していただろう。わざわざヤクザになる必要はなかった。何故国光がヤクザになったのかは、後半の方で描かれるのでここでは触れないが、国光なりの理由があり、この道を選んだ。そして選んだからにはその道を貫き通すのだ、という覚悟に溢れている。

もし国光がヤクザでなかったとしたら、あまりにも出来すぎていて逆に興ざめしてしまうだろう。それぐらい、国光という男の生き方や振る舞いは徹底している。国光がヤクザでなかったとしたら、ノンフィクションならともかく、小説の中では「そんな奴いるか!」と一喝されてしまうような、そんな人物だ。

本書では、国光のような見事な男がヤクザである、という点がとても重要で、これほどの男なのにヤクザであるが故に全面的に許容できない、という自分の中の葛藤が、本書をより面白くするのだ、と思う。国光という男に惹かれている自分に気づく度、いやこいつはヤクザなんだ、と我に返る。読みながら、その繰り返しだ。それが、妙な緊張感を生む作品だ。

ヤクザである国光が、警察官である日岡とこれほどの関係になる、というのは、恐らく現実にはあり得ない設定だろう。しかし、なんとも言えない説得力が、本書にはある。柚月裕子の作品には、全体的にそういう力強さが漲っている感じがして、あり得ないだろうと感じさせるような物語がリアルなものに感じられるようになっていく。

ヤクザの組織や理屈は僕にはちょっと難しすぎたが、国光という男の魅力に引きずられて一気読みさせられてしまった作品だ。

柚月裕子「凶犬の眼」

将棋エッセイコレクション(後藤元気編)

『誰が勝つとか負けるかなんて二の次で、将棋が人間を動かしている感じにドキドキする』

本書の編者の言葉である。この一文だけでもう、この人がどれだけ将棋が好きなのかが伝わろうというものだ。

本書は、将棋も、将棋に関する文章を読むのも好きだという編者が、様々な時代の文章を編んだ作品だ。その編集方針が巻末に書かれているのだが、本書を読みながら、こういう点がいいなと感じていたまさにそれが方針の一つだったので、意図的にこういう風に編んだのだなと感じた。

『「自己紹介的なエッセイではなく、他人のことを書いたエッセイを選ぶ。登場人物の重複が、作品を二層、三層に上塗りしてくれるのではないか」というような狙いである』

まさにそういう効果が見事に現れている作品だ。

本書には、39人(書き手が個人でない場合もあるが)41編(基本一人一遍だが、どうしても選びきれなかったと、二人の書き手については2編ずつ選んでいる)が収録されている。文章の長さは様々で、書き手もプロ棋士や観戦記者、あるいはネットで将棋に関する文章を書いている人のものもある。基本的に将棋の話ではあるのだけど、内容もかなり多岐に渡る。後でまた触れるつもりだが、「女流棋士」に関する問題についての文章などは、非常に新鮮だったし、本書の中でも異色の文章だと思う。

「登場人物の重複」という意味で、一番面白い印象をもたらしているのが、河口俊彦「「対局日誌」より」と桐谷広人「緊急反論―「対局日誌」を読んで」である。桐谷広人は「桐谷さん」の愛称で有名な、株主優待で生活しているあの人だ。また河口俊彦というのは、「対局日誌」という観戦記が非常に人気を博しているプロ棋士だ。

さてこの二編、実は河口氏の「対局日誌」に対して桐谷氏が反論している、という構図になっている。桐谷氏のとある対局を河口氏が「絶妙・玄妙・奇妙・珍妙・考えられぬ悪手・緩手をおりまぜた」ものだったと、やや批判的に書いているのだが、その観戦記に対して、指している本人が、あの時の意図はこうだったんだ、と反論している。そればかりか桐谷氏は、かねてより河口氏とは浅からぬ因縁があるようで、そのこともチクリと触れている。しかし、巻末で編者が書いているように、『ご本人同士がどう感じたかは分からないが、一読者としては、どこかさわやかな印象すら受ける名文だと思っている』という、決して読後感の悪いものではない。将棋の細かな話は僕には分からないのだけど、二人の応酬は面白いと思った。

米長邦雄、中原誠、村山聖、木村義雄、升田幸三など、将棋界に残るスーパースターの名前はもちろんあちこちに出てくるが、官能小説作家の団鬼六の名前が頻繁に出てくるのは、将棋に詳しくない人には不思議に感じられるかもしれない。団鬼六は無類の将棋好きであり、経営状態の厳しかった「将棋ジャーナル」という雑誌を個人で買い取って、自らの資産を切り崩しながら発行し続けた人でもある。本書でも、将棋界には欠かせない人物のような描かれ方でよく登場する。

文章の巧さ(を僕が判断できるのかという点はともかくとして)について言えば、梅田望夫と先崎学が別格かなぁ、と思う。梅田望夫は、「羽生善治と現代」という本を昔読んだことがある。べらぼうに面白かった。基本的には、「指さない将棋ファンをいかに増やすか」という観点から語られているもので、本書でも渡辺明という若い世代のプロ棋士の発言を引用しながら同様の主張をする文章が収録されている。

先崎学は二編収録されているが、「頭の中を翻訳する」が素晴らしかった。将棋を評論する、ということについて冷静に客観的に分析している文章で、『評論とは、感性の発露である』から始まる箇所は見事だと思う。プロ棋士としては、将棋は「体感する」ことが大事だが、評論の際にはその「体感」を「言語化」しなくてはならない。しかし「言語化」によって否応なしに「感性」は衰えていくのだから、それ故に将棋が弱くなってしまうのだ、という認識は、将棋が強くない僕にもすっと入ってくるような、納得感のあるものだった。

ネットに書かれた文章もいくつかあるが、その中でインパクトがあったのは「十年後の将棋世界」と「女流棋士独立について」だ。

「十年後の将棋世界」は、超楽観論・現実的なもの・超悲観論の三つに分けて、今後将棋界がどうなっていくのか、という想像を巡らせている。面白いのが、超楽観論であっても、現状と比べてそこまでよくはならない、ということだ。将棋界というのは、基本的に新聞社主催のタイトル戦で成り立っているわけで、新聞業界の今後に大きく左右されてしまうというのが辛いところだ。しかし、藤井聡太のようなスーパースターの登場もあるし、新聞社以外のどこか元気な業界が手を差し伸べるのではないかな、という気もする。

「女流棋士独立について」は、そんな騒動があったことさえ知らなかったので、現役のプロ棋士である書き手の認識も含めて、非常に面白かった。書いているのは、片上大輔という棋士であり、将棋連盟の理事も務めている。

片山氏の書きぶりは、非常の中立的であり、かつ公正だと思う。女流棋士の「弱さ」は認めた上で(これは事実そうだから仕方がない)、しかしそんな弱い女性たちを「女流棋士」として遇しながら、権限は与えないというやり方をずっとしてきたこれまでの連盟のやり方に対して疑問符を投げかけている。その上でこんな風に書いている。

『それぞれの時代にはそれぞれの事情があっただろうし、いまから見てこうすべきだったということは必ずしも正しくないかもしれない。ただ、将棋連盟はもっと女流棋士に関心を持ち、将棋界の発展のために活用するすべを考えるべきであったということは言えると思う』

実に誠実なスタンスであり、個人的には凄く好感の持てる文章だと感じた。

時代の古いもの新しいもの、対局に関わるもの関わらないものなどなど、文章の種類が多岐に渡っているので、読者の関心に応じて本書は様々に玉石混交と捉えられることだろう。全部が良いと思えるということはないだろうが、将棋との関わり方に応じて良いと感じられる文章はそれなりにあるのではないかと思います。

後藤元気編「将棋エッセイコレクション」

話術(徳川夢声)

内容に入ろうと思います。
本書は、“話術の神様”と言われていたらしい、昭和に活躍した漫談家(でいいのかな?色んな肩書があるみたいだけど)が書いた、話術に関する歴史的名著、だそうです。

いわゆるハウツー本のようなもので、人前で話す際にどんなことに気をつければいいのかということが様々に書かれている。その「人前」にも様々なシチュエーションがあるが、それらをかなり細かく網羅して、こういう場合はこう、こういう場合はこう、と書いていく。喩えとして出て来る話が古いのは、仕方ないとはいえなかなかするっと入ってこない点ではあるのだけど、話し方に関する本などあまり多くはなかった時代には、非常に参考になっただろうと思う。

こういう類の本を評価するのは、とても難しい。恐らく、本書が出版された当時であれば、本書は非常に価値の高い本だっただろう。本書の冒頭に、「『話す』というのは誰もが出来るが故になかなか難しいものだし、研究がなかなかなされないのだ」というようなことが書かれていて、そうだよなぁ、と感じた。バイオリンなんかは、そもそも相当練習しないとまともに音が出ないのだから、「どうしたら音が出るか」「どうしたら綺麗な音が出るか」というような教本や教材は生まれやすい。しかし『話す』というのは、レベルはどうあれ、誰にでも出来ることだ。だからこそ、わざわざ『話す』ということについて書いてみよう、という動機はなくなる。現代であれば「コミュ障」のような捉えられ方が出てきて、『話す』ということが難しいことなのだという認識が生まれているから、話し方の本なんかは結構出てくるわけだけど、かつてはなかなか類書もなかったのだろう。

類書がない時代であれば、本書は非常にまとまった、実践的な内容だと僕も思うのだけど、現代だとどうかなぁ、という感じがする。少なくとも僕なんかは、まあ当たり前のことが書いてあるなぁ、と思ってしまった。もちろん、みんなが「当たり前だ」と思っているんだけど、なかなか言語化しにくいことというのはあるし、『話す』というのもそういう対象だろうと思う。その言語化が難しいことをうまく言語化している、という点を評価するべきなんだろうけど、やはりどうしてもそんなに大層なもんではないように感じられてしまう。

ハウツー本はどうしても古びるものだから、本書もそういう宿命から逃れられなかっただけ、ということなのだけど。いやでも、人生で一度も話し方的な本を読んだことがない、という人であれば、入門書としてはいいのかなぁ。

徳川夢声「話術」

中学生棋士(谷川浩司)

谷川浩司というのは僕の中で、村山聖の名前と結びついて記憶されている。

聖の青春」という、将棋ノンフィクションの傑作がある。村山聖という、若くして病気で亡くなってしまったプロ棋士を描いた作品だ。「3月のライオン」に登場するあるキャラクターのモデルとも言われている人物だ。

その村山聖が中学生の頃、奨励会(将棋のプロ棋士になるための養成所みたいなところ)に入りたいと親を説得する場面で、こう言うのだ。

「谷川を倒すには、いま、いくしかないんじゃ」

この「谷川」が、恐らく谷川浩司だろうと思う。村山聖は、生きていれば羽生善治に匹敵しただろうと言われているほどの棋力の持ち主だった。そんな男が、絶対に倒してみせると決意した男が、谷川浩司なのだ。

さて本書のタイトルは「中学生棋士」だが、谷川浩司もまたその一人だ。中学生棋士と言えば、今は藤井聡太が世間を騒がせているが、現在のようなプロ棋士の制度が出来て以来、中学生でプロ棋士になったのは5人しかいない。プロ棋士になった順に、「加藤一二三(ひふみん)、谷川浩司、羽生善治、渡辺明、藤井聡太」である。

本書はそんな中学生棋士を中心に描く作品だが、やはり時節柄、藤井聡太の話が非常に多い。まあ、出版社としても、そういう風に本を作らせるしかないよな、と思ってしまうほど、藤井聡太が話題だということなのだけど。

というわけでこの感想でも、藤井聡太の凄さなどに触れつつ、どのように子どもの才能を伸ばしていくべきなのか、という話を書こうと思うが、その前に「3段リーグ」の話だけしてしまおうと思う。

3段リーグというのは、将棋のノンフィクションを読むとよく出てくる。この3段リーグを突破しないとプロ棋士になれない、という、いわば最終試験みたいなものであり、その過酷さについてはよく語られるのだ。

そもそも、どうやってプロ棋士になるのかの話を書こう。まず、奨励会に入らないといけない(奨励会に入るにはアマ○段以上じゃないといけないとか、誰か師匠を見つけないといけないとか色々あるはずなんだけど、詳しくは知らない)。で、そこで対局をしまくって、26歳までに4段になれば晴れてプロ棋士だ。

とはいえ、そう簡単な話ではない。奨励会に一年で何人ぐらいやってくるのか分からないが、一年でプロ棋士になれるのはたったの4人だ。3段リーグを突破すれば4段になりプロ棋士になれるのだけど、日本中から集まった将棋の天才たちの中で、さらに年間トップ4にならなければならないのだ。

さて、何故この「3段リーグ」の話を書いたのか。僕は本書を読むまで知らなかったのだけど、この過酷な「3段リーグ」を突破して中学生棋士となったのは、5人中2人、渡辺明と藤井聡太だけらしいのだ。加藤一二三・谷川浩司・羽生善治は、「3段リーグ」がない時代にプロ棋士になった。昭和に偉大な実績を残した中原誠という棋士が中学生でプロ棋士になれなかったのは、この「3段リーグ」があったせいだ、と著者は書いている。そう考えると、改めて藤井聡太の凄さがわかろうというものだ。

さて、その藤井聡太の話である。藤井聡太の凄さは、テレビや新聞で様々に見聞きしているだろう。29連勝とか、恐ろしく速いスピードでの昇段とか、とにかく話題に事欠かない。そんな中で、本書で僕が一番凄いと感じたエピソードがこれだ。

『幼稚園時代は詰将棋の解答を夢中で考えながら「考えすぎて頭が割れそう」と母・裕子さんに言ったという。幼稚園児には似つかわしくない言葉だ。幼いころから考えることが好きで、夢中になりやすい性格だったのだろう』

凄いですね。幼稚園児ですよ。幼稚園児が「考えすぎて頭割れそう」って言うんですから、ちょっと常軌を逸してますよね。僕も考えることは好きだったりするんですけど、「考えすぎて頭割れそう」なんてことにはならないからなぁ。語彙力については本書の別の箇所でも触れられている。例えば、羽生善治と非公式戦で指して勝った「自戦記」が「将棋世界」に載ったが(その一部が本書に掲載されている)、中学生とは思えない文章だ。編集者は、「一字も直しませんでした」と証言しているという。

彼の強さについては、羽生善治がこんな風に語っている(「文藝春秋」のインタビューでの発言)。

『みんな弱い部分を持ちながら年齢や経験を積んで修正し、全体として強くなっていく。でも、彼の場合は現時点で足りていない部分、粗削りな部分が全く見えません』

これに谷川浩司も「同感である」と書いている。

著者はまた、29連勝中の藤井聡太の対局を見て、こんな風に書いている。

『私が藤井四段に驚いたのは、二十九連勝という記録以上に、その間の将棋の内容である。
連勝中の将棋には、明確な悪手がほとんどなかった。勝ち将棋というのは、決定的に悪い手がないからこそ勝つわけで、当然といえば当然だが、とにかくミスが少ないのだ』

『ただ、藤井四段のこれまでの公式戦には、終盤のきわどい競り合いになった将棋が数局しかない(※他は、序中盤で優勢を築き、そのまま勝つパターンがほとんど)。ということは、彼が最も得意なはずの終盤力(※詰将棋が得意で、詰むかどうかの読みが抜群と言われている)を発揮する機会がほとんどないまま勝ち続けたことを意味しており、そこに凄みを感じる』

第一線のプロ棋士をしてこう言わしめるほどの強さを、藤井聡太は今の時点で発揮しているのだ。これからどれだけ成長していくのか末恐ろしい。

本書には、じゃあどうやったら藤井聡太みたいな能力を伸ばすことが出来るのか、についても触れられている。この点に関しては、僕が前々から感じていることをまったく同じで、まあそうだろうなと感じる。

今将棋ブームになっていて、多くの親が子どもに将棋を習わせようとしているだろう。それはいいのだけど、大事なのは、子どもが本当にそれをやりたいのかどうかだ。

『中学生で棋士になった者に共通することは、みな幼いころに自ら将棋が好きになり、のめり込んだことだ。そして、子どもが夢中になったことを親が応援するという環境がほぼ共通してあった』

『藤井四段の場合は母・裕子さんが、
「子どもには好きなことをやらせよう」
「子どもが何かに集中しているときは邪魔をしない」
と決めていたという』

『私は将棋大会などで、子どもに話をする機会があるたびにこう言っている。
「みなさん、将棋でも、将棋でなくてもいいので、自分の好きなこと、得意なことを見つけてください」』

これは僕の実感としてもある。別に僕は何か凄い能力があるわけではないのだけど、「文章を書く」という、今の僕が得意とする力が身についたのは、まさに同じような理由だと思っている。

僕は子どもの頃から理系の人間で、国語の授業が大嫌いだった。本は多少読んではいたけど、文章を書く機会などほとんどなくて、別に得意でもなんでもなかった。ただ、大人になってから、突然このブログを始めて、本を読んでは感想を書くということをやり続けた。ブログを始めて15年ぐらい経つと思うが、これだけ長く続けられたのは、結果的には「書くこと」が好きだったのだろう。最初は全然上手くもないし、早く書けもしなかったのだけど、今では、割と長い文章でも、全体の構成など考えずに書き始めて、まあ悪くない文章が書ける。僕は今、「文章を書く」ことに関してはかなり高い能力を持っていると思っているのだけど、これは完全に後天的に身に着けたものだ。

『天才的な人物が出現すると、持って生まれた才能ゆえと説明されることが多い。だが、おそらく才能と呼ばれるものは、常人とは桁外れの鍛錬をした者が生んだ結果について、人々が後から語る言葉なのではないか』

『才能とは結局、自分が好きなことに時間をささげることが苦にならない情熱の深さの度合いなのだ』

そうだよなぁ、と僕も思う。

だから、ブームだからと言って子どもに“無理矢理”将棋を学ばせようとしている親は、すぐに止めた方がいいと思う。そうではなくて、子どもがあらゆる事柄に興味を抱けるチャンスを作っておいて、その中から異常な関心を示したものに全精力を注ぎ込む方がいいだろう。結局圧倒的な努力なしには大成しないし、であれば、努力し続けられる対象をいかに見つけるかということが一番大事になってくるのだ。

というわけで書きたいことは大体書いたのだけど、最後に、本書を読んで驚いたことに触れて終わろうと思う。

「ひふみん」の愛称で知られる加藤一二三には、「ひふみんアイ」と呼ばれる行動がある。「ひふみんアイ」という言葉は聞いたことがあった。よく将棋の対局がネット中継される時なんかに「ひふみんアイ」と言われることがある。しかし僕はそれが何なのかちゃんとは分かっていなかった。

本書を読んで初めて「ひふみんアイ」が何なのかを知った。加藤一二三は対局中、相手の背中に回り込んで、対戦相手の視点から盤を見るのだそうだ(ルール違反ではない)。それを「ひふみんアイ」と呼んでいたようなのだ。謎が解けたのと同時に、加藤一二三についての謎は深まったなぁ、というエピソードだった。

谷川浩司「中学生棋士」

名人に香車を引いた男 升田幸三自伝(升田幸三)

僕は大分勘違いしていた。

「名人に香車を引いた男」という本のタイトルは、昔から知っていた。将棋は好きだけど全然知識も実力もない人間ではあるが、それでも、「プロ棋士が名人に香車を引く」なんてことが出来ない、ということぐらいは分かっているつもりだ。

将棋に詳しくない方のために少し説明しよう。「香車を引く」というのは、「自分が香車を1枚使わずに戦う」ということだ。対局相手と実力差がある場合、強い方がいくつか駒を落とす(最初から使わない)で戦うというやり方があり、「香車を引く」というのもその一つだ。

さてここで大事な点は、「強い方が駒を落とす」ということだ。プロが「飛車」と「角」を使わないでアマチュアと戦う、なんてことはよくある(はず)。しかし当たり前だが、その逆はない。アマチュアが「飛車」と「角」を使わないでプロと戦うことなんてあり得ない。つまり、駒を落とす(駒を最初から使わない)のは、強い側なのだ。

さてここで「名人」について説明しよう。これについては僕もはっきりと具体的には説明できないのだけど、すごーく大雑把にざっくり言えば、「一番強いプロ棋士=名人」ということになる。

さてすると、「名人に香車を引く」というのはどういうことになると、「一番強いプロ棋士に対して最初から香車を使わないで戦う」ということなのだ。

これがいかにあり得ない状況か、理解してもらえるだろう。

さて、升田幸三の自伝のタイトルは「名人に香車を引いた男」だ。著者略歴にも、『昭和三十一年には大山康晴名人に対し「名人に香車を引いて勝つ」という将棋史上空前絶後の記録を残す』と書かれている。つまり升田幸三は実際に、名人に対して香車を引いた、ということになる。そして、僕が持っている将棋の知識では、そんな対局を将棋連盟が許すはずがないのだ(この判断には、一時期プロ棋士が公式の場で将棋ソフトと対局することが禁じられていた、という事実も考慮している。ある意味でプロ棋士もイメージ商売なのだから、強い者が強いのだ、というイメージを崩すような対局は許容されない傾向にあると思う)。

升田幸三自身も、こう言っている。

『将棋界の仕組みがわかってからは、「名人に香車を引く」なんてことは、あり得ない、成し得ないことだと知った』

さてではどうなるのか。僕はこう考えていた。升田幸三は、名人に「俺が香車を引くから対局しろ」と無理矢理脅して迫ったのではないか、と。そうじゃないと、名人に対して香車を引いて戦う、という状況そのものが成り立たないと思っていた。

ずっとそんな間違ったイメージでいたから、升田幸三という棋士は、たぶんヤバいやつなんだろう、という漠然とした印象を持っていた。まあ、その印象は実際には当たらずといえども遠からずといったところだったのだが(笑)、とはいえ、将棋の品格や棋士の品位を貶めるようなことをする人間ではない、ということは本書を読んでよく分かった。

そう、将棋ファンなら当然知っているのだろうけど、升田幸三は名人を脅して対局に持ち込んだわけではないのである。

内容に入ろうと思います。
本書は、タイトル通り「名人に香車を引いた男」として、将棋界でもはや誰も成しえない弩級の記録を残した棋士が、引退後に自らの半生を語り下ろした作品です。
彼の凄さは、「名人に香車を引いた」という事実、そして「香車を引きながら勝った」という事実だけに留まらない。なんとこれは、幼い日に升田幸三が抱いた大望だったのだ。
広島県の農家に生まれ育った升田幸三は、兄の影響で将棋を始めた。父は博打狂いで、母親は非常に苦労していた。そして升田幸三自身も、借金取りから逃げる父に連れられて、日本中を転々とする生活をしていた時期もあった。一流の武芸者になるという夢は、自転車事故で大怪我を負って諦めた。しかしある意味でそれが、将棋への道へと繋がるのだ。片足が曲がらない障害を持ちながら超絶的な強さを誇った棋士の話を知り、自分も将棋の道で生きていくんだ、と決めたのだ。
そして満13歳で、彼は家出をした。棋士になるという彼の夢を、母親がどうしても理解しなかったからだ。彼は家を出る前に、母が縫い物をするのに使う三尺の物差しの裏側に、墨でこう書いた。
『名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く』
こうして、あてもないまま家を飛び出し、棋士になる道を探っていく少年は、様々な幸運に恵まれながら、メキメキと頭角を現していく。しかし、節目節目で彼は悲劇に襲われる。名人戦のルールが変わったり、対局場所に関する要望を聞き入れてもらえず死にそうになったり、戦争に召集されて命を落としかけたり、世論を巻き込む大騒動の渦中の人となったこともある。
決して恵まれた将棋人生ではなかったかもしれないが、しかし彼はついに、少年の頃に抱いた大望を果たした…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。やはりこういう、ぶっ飛んだ人間の話というのは面白いですね。棋士には色んなエピソードや伝説を持つ人がたくさんいて、そういう本はそれなりに読んでいるんですけど、とはいえやはり升田幸三のエピソードはずば抜けているでしょう。だって、プロ棋士になる前に宣言した「名人に香車を引いて勝つ」という、およそ不可能な大望(不可能、というのは、能力的な問題というより、環境的な問題)を実現させてしまったのだから。現在の将棋界では、この「名人に香車を引く」というのは制度上不可能なので、「名人に香車を引いた」のはこれまでもそして恐らくこれからも升田幸三ただ一人だし、「名人に香車を引いて勝った」のも同様です。

そんな升田幸三の人生は、波乱の連続と言っていいです。何度も死にかけているし、何度も煮え湯を飲まされている。時代や時の状況などが良く働くこともあり悪く働くこともあり、悪く働いた時の悲惨さは本当に酷いものがあるなと思いました。まあ、結果彼は死ななかったし、悪い状況をひっくり返せることもあったわけで、そうであれば後から振り返って笑い話に出来るネタが多くなったといえるのかもしれないけど、その真っ最中の時は本当に大変だっただろうなと思います。

そもそも、無一文で家を飛び出して、プロ棋士になるあてもないまま広島市をウロウロしている時なんて、よく生きのびたなぁって感じだったし、関東と関西の棋士の扱いに雲泥の差がある中で(升田幸三は関西棋士で、関西棋士は低く見られていた)、それでも豪腕を見せつけ続けてあらゆる声を力でねじ伏せていく姿なんか、ある意味では余計な苦労をしているよなぁ、と思いながら読んでいた。体調が悪いから温暖な地での対局を希望すると申し入れたのに、極寒の高野山での対局をセットされた時の彼の怒りは、相当なものだったでしょう。

升田幸三という男は、ムチャクチャな振る舞いをする一方で、一本筋が通っていると感じられる部分もあって、メチャクチャやっているのに嫌な感じがしない。特に、「名人」や「名人戦」に抱いている気持ちの強さみたいなものは非常に強く伝わってくるし、それがそのまま、彼が将棋を愛する気持ちそのものなのだと思う。純粋であるが故に、将棋以外の場でも戦わざるを得なかった男の辛さみたいなものを感じました。

升田幸三の頃の将棋界は、現在のような制度やルールがきちんと明文化される前の時代であり、棋士としての力以外の部分で様々ないざこざが起こっていた。一番驚いたのが、阪田三吉という棋士を取り巻く話だ。関西将棋の神的存在だった阪田三吉は、とある理由から関東将棋の逆鱗に触れ、将棋界で孤立してしまう。対局が一切できなくなってしまったのだ。現在では似たような状況はあまり想像しにくいが、将棋の腕前以外の部分での場外乱闘が様々に行われていたようだ。

そして升田幸三はその阪田三吉から、「木村を負かすのはあんたや」と言われるのだ。木村というのは木村義雄八段のことであり、当時棋界の絶対エースだった。升田幸三はまだまだ名前が知られるような棋士ではない。しかも阪田三吉は将棋界で孤立している人であり、升田幸三も師匠の奥さんから、阪田派とは仲良くしてはいけない、と釘を刺されていた。

そんな状況で升田幸三は、「木村を負かすのはあんたや」と言われるのだ。そして結果的にそうなっていくから凄い。ちなみに升田幸三の母は、升田幸三を出産した直後、骨相学をやっている親戚の一人に、「この子がきっと家名をあげてくれる。おそらく日本中に名を知られる男になる」と予言されており、それもまた現実のものとなっている。

場外乱闘と言えば、升田幸三もとんでもない場外乱闘をしている。ある日、何故かGHQに呼ばれた升田幸三は、「将棋はチェスと違い、取った駒をまた利用する。これは捕虜の虐待であり、人道に反するのではないか」という意味不明なイチャモンに対して、臆すること無く反論、逆に将棋の良さをアピールするのだ。このやり取りが面白がられたのか、升田幸三はライシャワー(肩書なんでしたっけ?)と講演したり、ロバート・ケネディ(この人は大統領ですよね?)に説教したりするようになったそうです。メチャクチャですね、ホントに。

『勝ったからって、威張っていうんじゃありません。二十年過ぎ去った今日、現在の目で振り返ってみて、わが生涯を通じての最高の将棋が指せたのは、この時期(※升田幸三が名人になってから、大山康晴の挑戦を受けた七番勝負の頃)だったと断言できる。冒涜を承知でいわせてもらえば、「神技」だった、と思う。それに比べたら、中原君にせよ加藤一二三君、米長にせよ、かったるい将棋で見ちゃおられん』

このあと、『「ホラの升田の大ボラ」が出たところで』と自虐しているが、これほど痛快にいい切れるのもまた升田幸三の魅力なのだろう。今将棋界では、藤井聡太が彗星の如く現れ、また羽生善治が国民栄誉賞を受賞した。実に盛り上がっている。しかし現在の将棋界は、なかなか「スマート」な感じの人が多いように思う。僕の勝手なイメージでは、かつての将棋界にはもっと無頼派がたくさんいたように思う。どちらがいいかという話ではないのだけど、将棋以外の部分でも多々伝説を残してくれるようなメチャクチャさがあると、将棋にそこまで詳しくない人間でも、面白がれるなぁ、と思うのであります。

升田幸三「名人に香車を引いた男 升田幸三自伝」

「去年の冬、きみと別れ」を観に行ってきました

僕は自分の中に“怪物”がいるなぁ、という自覚がある。

自分でも、その輪郭ははっきりしない。僕自身と、その“怪物”とに境界があるのかもわからないし、その“怪物”がどんな時に表に出てくるのかもちゃんとは分からない。

でも、いるなぁ、と思う。これは比喩だけど、時々息遣いが聞こえるような気がする。僕の内側で息を潜めて何かを待っているような気がする。別にそれは、血なまぐさい何かを求めているとかそういうわけではない。別に誰かを殺したいとか、鮮血を見たいとか、誰かを傷付けたいとか、そんな趣味はない。そういうことではなくて、自分が、普段立っている“常識的な世界”の上にはいられなくなるような、その世界の底を踏み抜いてしまうような、そんな感覚は常にある。

まあだから正確な表現をすれば、その“怪物”というのは、周囲から“怪物”だと見られるだろうという話であって、結局は僕そのものだし、だから輪郭がはっきりしないのは当然なのだ。

自分の中に“怪物”がいる、という自覚は、割と僕自身の生き方を抑止する効果を生んでいると思う。だから、決して悪い自覚ではない。自分の内側にいる“怪物”が解き放たれてしまったらマズイことが起こる、という感覚はあって、だからそれが表に出ないように手なづけようとする。それが、僕の穏やかさに繋がっているだろう、という気はしている。

僕の中の“怪物”が表に出てきたところで、結局のところ僕が何らかの形で排除されるだけだろう。だから、一生出てこないで欲しいなぁ、と思う。誰かを物理的に傷付けるようなことはたぶんしないだろうけど、誰かを精神的に傷付けるようなことならしてしまうような気がするから、そういう自分にならずに済むようにこれからも穏やかに生きたいものだと思う。

内容に入ろうと思います。
といいつつ、書きすぎるとネタバレになってしまう作品だから、書けることが少ないのが難点。
写真家の木原坂雄大はかつて、目の見えない女性モデルを監禁し、挙句火を放って焼死させたという疑惑をもたれた。結局不運な事故だったと結論付けられ、執行猶予付きで釈放された。
その事件からしばらく経ったある日、耶雲恭介というフリーライターを名乗る男が、「週刊文詠」の編集部を訪れた。編集長に頼まれ、ベテラン編集者である小林良樹が応対することになった。耶雲が持ち込んだのは、木原坂の事件だ。彼は、女性モデルが焼かれていく姿を撮影した写真が存在する、というネットの書き込みを見つけ、掘り下げてみたいと語った。もしそんな写真が実在するなら、木原坂を罪に問えるだろう。編集長共々、小林は彼の取材を見守ることにした。
耶雲は木原坂のスタジオを訪れ、密着取材を要請。鍵を渡され、自由に出入りする許可をもらった。耶雲には婚約者がおり、結婚式までになんとかこの取材を形にし、最終的に木原坂雄大についての本を出したいと思っていた。
耶雲の熱意と取材力は、編集長も小林も感心するところだった。だからこそ小林は、ある懸念を抱いて動き始めることになるのだが…。
というような話です。

久々にメチャクチャ面白い映画でした!僕は割と、欧米の、しかも事実を元にしたノンフィクション的な映画を見ることが結構多くて、純粋な「物語」の映画を観る機会の方が少ないかもしれません。事実ベースの映画ももちろん面白いんですけど、事実であるという迫力や重さ以外の部分では迫ってくるものがないものもあったりします。

この映画は久々に、やっぱり「物語」も面白いなぁ、と感じさせてくれた作品でした。

先ほどもチラッと書いたけど、かなり精密に構成されている物語で、書くとネタバレになってしまうことが多すぎて、面白い映画だったのにあまり中身について触れられない、というところがなかなかジレンマではありますが、書けそうなことを書いてみます。

原作がどうなっているのか分かりませんが、この映画、いきなり「第二章」って表記から始まるんですよね。映画で章立てがあるっていうのも珍しいですけど、確かにこの作品の場合は、こういうやり方が良かったと思いました。

色んな人間が、色んな過去を抱えていて、なかなか複雑に絡み合っていくんだけど、ストーリー自体はさほど複雑なわけではなくて、すんなり理解できると思います。しかし、物語が進むにつれて明らかになっていく関係性は、見事ですね。こういう物語の場合、誰かの動機とか行動原理なんかにどうしても無理が生じてしまいがちなんですけど、この映画の場合、特に目立って違和感を覚えるような部分もなかったので、よく出来てるなと思いました。

関わる人間たちの狂気みたいなものがどんどん強くなっていって、その描かれ方も結構良かったです。この物語は、狂気なしには存在し得なくて、とはいえすべてを狂気で説明してしまうのも無理がある。現実感と、現実感を失わせる狂気のバランスが、僕は結構良かったと思いました。リアリティのない部分を狂気で乗り切っている、みたいに感じられる部分もないではないんだけど、でも物語としての違和感はなかったかなと思いました。

何のために何を失うのか―映画を観る人はそんなことを考えてしまうかもしれません。一番大きなものを失ったのは誰なのか、失わなかったのは誰なのか。考えれば考えるほど難しいように感じました。彼らの行動原理を「正しさ」とか「正義」みたいな基準で判断することにまったく意味がないので、そもそもどういう基準を持ち出せば彼らを評価できるのか、みたいなところから考えさせる物語に感じました。

個人的な意見では、岩田剛典の演技は、あまりうまくハマっていなかったような気がしました。あの役を、岩田剛典がやらなければならなかったのか?というのがちょっとしっくりこなかったなぁ。もちろん、役者っていうのは色んな役をやることで幅を広げたいと思うだろうし、別にこの映画における岩田剛典の演技が悪かったと言いたいわけでもないんだけど、岩田剛典が持つイメージ、つまり爽やかで穏やかなイメージとはかけ離れた役だったので、だからやっぱり表現としては「うまくハマってない」という印象になりました。岩田剛典を起用するならもう少し耶雲という人物造型を変えても良かったと思うし、耶雲をあの人物造型で描くのであれば、もう少し適役な人がいたような気がしてしまいました。まあこれは岩田剛典の責任なわけではないので、本人としてもこんなこと言われても困るでしょうけど。

タイトルの意味が最後の最後で明らかになる構成も含めて、実に見事な物語だと思いました。原作を読んでいないので、原作が最初から良かったのか、映画は映画で原作とは違う良さが生み出されているのか、それは判断できませんが。

「去年の冬、きみと別れ」を観に行ってきました

「デトロイト」を観に行ってきました

いつだって本当の悪は、正義の側にある。いや、正義というか、正義を体現するはずの権力の側に、というべきだろうか。

権力が悪を発揮したら、それに抗う術はほとんどないだろう。

いつの世でも、権力側は様々な力を使って、様々な悪に手を貸してきたことだろう。もちろん、権力の側でも、悪に手を染めるのはごく一部だということぐらいは分かっているつもりだ。しかし、たとえごく一部であったとしても、権力側が発揮する悪の強さはあまりに圧倒的なので、その影響力は大きい。

抗えない悪に接した時、僕らはどうすればいいのだろうか?闘うべき相手が明白であっても、闘って勝てるはずのない相手だった場合、何が出来るだろうか?

結局僕らに出来ることは、祈ることぐらいだろうか。そういう悪に、一生出会わないでいられますように、と。

内容に入ろうと思います。
1967年7月23日、アメリカ第五の都市・デトロイトで、史上稀に見る大規模な暴動が発生した。きっかけは、デトロイト市警が、低所得者地域にある違法酒場へ踏み込んだことだった。経営者が酒取扱許可書を持っていなかったことによる取り締まりだったが、それに反発した黒人市民が蜂起、火炎瓶を投げたり略奪をしたりして、デトロイトの街は壊滅状態となっていった。
暴動三日目。アルジュ・モーテルでその事件は起こった。当時そのモーテルには、黒人のバンド・グループのメンバー、白人女性二人、そしてその白人女性がモーテルで知り合った黒人たちがいた。黒人の一人が、暴動を警戒して配備している市警や州兵をちょっと脅かしてやろうと、陸上競技のスタート用のピストルを使って発砲した。もちろんお遊びのつもりだったが、警察はすぐに反応し、モーテルを取り囲んだ。そして銃を持って中へと突入し、逃げ出そうとしていた黒人一人を射殺、そしてモーテル内にいた全員を壁に向かって一列に立たせ、「銃の在り処を言わなければ殺す」と脅しながら痛めつけていた。
そのモーテルの向かいで警備の仕事をしていた黒人のディスミュークスは、騒ぎを予感してモーテルに入っていった。デトロイト市警の横暴を目にしつつ、白人警官を敵に回しては街では生きていけないことを知っている彼は、いきり立つ白人警官を横目に見ながら、なんとかこの事態を最小限の被害で食い止めようと考えるが…。
というような話です。

今から50年も前の出来事であり、今とは時代が違う、と言えばそうなのかもしれません。とはいえアメリカでは最近でも、白人警官が黒人を痛めつけている(あるいは射殺している)というニュースを見聞きすることがあります。州にもよるのかもしれませんが、状況は決して大きくは変わっていないのかもしれません。

この映画は、実際に起こった出来事をベースに描かれてはいますが、映画の最後に、「この事件の真相は解明されなかった。この映画の一部は、当時の記録と当事者の証言から作られている」というような表記が出ていて、つまりこの映画での描かれ方が実際に起こったことかどうかは100%確証はない、ということになります。とはいえ、映画を観た人間としては、この映画をベースに判断するしかないので、そういう立場で書くことにします。

権力側の横暴を見聞きする度に僕が感じることは、当然それは個人の問題でもあるのだけど、権力側にいるという立ち位置の問題でもあるということだ。この映画では、クラウスという白人警官が結構ヤバい奴で、彼の指示の元、その夜の惨劇が進んでいく、という感じになります。もちろん、実際のところはともかくとして、映画で描かれるクラウスは、個人としても大きな問題があるでしょう(そう判断できるのは、モーテルの事件の前にも、白人を射殺しているからです)。とはいえ、同時に言えることは、彼は権力側にいるからこそこういう行動を取ってしまった、ということです。

有名な実験があります(確かスタンフォードの監獄実験、みたいな名前だったと思う)。適当に集められた被験者を、ランダムに囚人側と刑務官側に分ける。そして、それぞれの役割を一定期間演じさせると、次第に本当にその役柄通りの人格になっていく、というものです。特に刑務官側に割り振られた人たちは、どんどんと横暴になっていく。被験者は、適当に集められた人たちであり、さらに囚人か刑務官かもランダムに選んだ。だから、刑務官役をしている人たちに特定の性質があったわけではないと言えるのだけど、それでも、刑務官という役割を演じさせると、人格に大きな影響が出てしまう。

クラウスという白人警官が、元々ヤバい奴だったのかどうかに関係なく、どんな人であっても、自分の役割に人格が引き寄せられてしまう、ということはどんな場合でも起こりうるわけです。

そういう意味でこの映画を、他人事だと思って観ているわけにはいかない、といえるでしょう。誰でも、その立場になれば、クラウスと同じ振る舞いをする可能性はある。そんなこと絶対にしない、と断言出来る人間こそ、注意した方がいいでしょう。それほど、権力というのは、人間を変えうるのです。

映画を観ながら、もう一つ考えたことがあります。それは、自分があの場にいたとして、クラウスを止めることが出来たか、ということです。これもまた、とても難しい問題でしょう。

黒人であるディスミュークスがクラウスを止めることが出来なかったのは、仕方ないことだと思います。それは無理でしょう。現場にはデトロイト市警だけでなく、州兵もいたし、ミシガン州警察もいました。彼らももちろん、クラウスの行為(殺人はともかく、拷問まがいの尋問)は見ている。しかし彼らも、彼らなりの理屈があってクラウスを止めない。

自分だったらどうするか。あの現場に、どういう立場の人間として存在していたら、クラウスを止めることが出来たか。

そう考えるとやはり、アメリカの銃社会の恐ろしさに考えが行き着いてしまいます。正直、相手が銃を持っている場合、自分がどんな理屈でどんな行為をしようとも、それが相手の理屈において「間違っている」と判断されれば発砲される可能性がある。銃ではなく、ナイフ程度であれば、まだやれることはあるかもしれないけど、相手が銃を持っていたら諦めちゃうだろうな、と思いました。

アメリカでは、どんな狂人であっても、それなりの手続きさえ踏めば誰でも銃を手に入れることが出来る。しかもクラウスは、様々な規則はあるとはいえ、悪を取り締まる側として銃を持っているので、自身の発砲を正当なものと見せかけやすい立場にいる。もちろん普通の状況であれば、理性や正義感や倫理観などが自分の行動を押し止めるだろう。しかし、普通ではない状況もあり得るし、そういう状況で銃を持っていれば、理性や正義感や倫理観などが発動する前に引き金を引いてしまう可能性だってある。

アメリカではここ最近立て続けに、学校での銃乱射事件が起きていて、銃規制の声が高まっている。しかしアメリカにおいては、銃容認派が絶大な力を持っていて、どれほど多くの人が乱射事件で命を落としても、銃規制への動きは進んでいかない。

銃さえなければ、モーテルでの事件は起きなかったのかと言えば、それもまた違うだろう。一般市民が銃を規制されたとしても、警察は銃を携帯できるからだ。状況は、大して変わらない。だからこの映画に大して銃規制の話を書くのは筋違いなのだけど、アメリカという国が病根として抱え続けているこの問題は避けては通れないと感じたこともまた事実だ。

間違ったことをした人間が常に罰せられるべきだ、などという理想を語るつもりはない。しかし、正しいことをしている人間が損したままの社会は、社会の構成員全員で改善していくべきだとは思っている。

「デトロイト」を観に行ってきました

巡査長 真行寺弘道(榎本憲男)

脳科学的に言うと、人間には「自由意志」というものはないらしい。

有名な実験に、こんなものがある。細部を省略してざっくり書くとこうなる。人間は、「何かをしようと思う」よりも前に「それをしている」のだ、と。

例えば、目の前にあるボールを掴むことを考える。普通に考えれば、「目の前のボールを掴もうと思う」という脳の判断が先にきて、それから「腕を動かす」という実際に動作に映る、となるはずだ。しかし何度実験してもそうはならない。実際には、「腕を動かす」という動作が先に起こり、その後で「目の前のボールを掴もうと思う」のだ。

そんな馬鹿な、と思うかもしれないが、現時点ではそんな風に考えられている。人間の脳というのは、「無意識」の領域が非常に広く、そして「意識」は「無意識」にアクセス出来ない。人間の行動のほとんどは「無意識」によって決定され、「意識」はただそれを追認しているだけなのだ、という。確かに僕らは、自分の脳で物事を考え判断しているのだが、判断のほとんどを「無意識」が担っており、さらにその「無意識」に「意識」はアクセス出来ないというのだから、自分の意思で何かを判断している、などと言えないという感覚になるだろう。

意思より行動が先にある、と書くとなかなか受け入れがたいかもしれないが、こんな状況を考えてみれば受け入れやすいかもしれない。例えば車を運転していて、事故を起こしそうになったとする。その時、「意識」で「あれをしよう」「こうしよう」と判断してから行動していたらとても間に合わないだろう。そういう状況になれば僕らは、何かを判断したという意識もないままで、ハンドルを切るとかブレーキを踏むと言った行動を取る。これはまさに、意思より行動が先にある実例と言えるだろう。それが、僕らのありとあらゆる行動に適応される、というだけの話だ。

『でもね、真行寺さん、自由なんてものはもうないと僕は思ってるんですよ。自由を守るって言うけれど、自由はどこかに行って消えちゃったんです。GoogleやFacebookやTwitterやクレジットカードやメールやカーナビでネットにつながれ、科学のメスで切り刻まれ、僕らはもう情報のレベルにまで解体されちゃってる』

脳科学の世界から離れて、僕らが生きているこの社会全体を考えてみても、確かに「自由意志」というものが個人の領域に留まりにくくなっている、と感じる。ネットの検索窓に打ち込んだ検索キーワードが収集され、それぞれの個人に合った検索結果や広告が表示される。SNSが発達し、インターネットによって世界が繋がったことで、「世界に対して自分をどう見せるか」という発想が行動原理の根幹になり得る。人間がそんな風に行動することは、もはや「自由意志」を自ら手放していることと同じなのではないかと思う。

『ジャンクフードを食って、満員電車で通勤し、広告に踊らされ、予算と売上を気に病み、テレビのバラエティ番組が語る薄っぺらい道徳になんの考えもなしに怒ったりうなずいたりしながら、次の休暇の旅行を楽しみに生きている会社員って、家畜じゃないんですか』

そうなのだ。そういう人生は、僕は家畜だと思うのだ。「自由意志」を自ら手放し、手放したことにさえ気づかないまま、インターネットという広い遊び場を手に入れたことで、自分が広い世界に住んでいるような気になって、本当は牢獄のような狭小な空間に閉じ込められているんだってことに気づかないままで生きていくのはゴメンだ、と僕は思っているのだ。

ただ、「自由意志」を手放すことは本当に不幸せなのか、という問いは慎重に考えなければならない。

『やさしく管理された畜舎で餌を与えられ、惰眠を貪りながら家畜として生きることが、過酷な自然環境の中で餌を求めてさすらいながら生きる人より不幸だってどうして言えるんです』

確かに、こう問われたら反論は難しい。私はそれで満足しているんだ、という理屈ほど堅牢なものはない。まだ知らない幸せがあるんだとか、もっと広い世界があるんだ、などとどれだけ説得しようとしたところで、そんなものを求めておらず、今の自分の立ち位置に満足しているとすれば、それを非難することはほぼ不可能だ。

『もう自由なんてものはない。それでも自由って言葉だけは残っていて、真行寺さんみたいな人がそこにロマンを感じて、自由を守るんだって言う。言うとなんだか自由になった気持ちがするだけなんです』

自由か自由でないかは、本人の感覚次第で、それが家畜のような人生でも、本人が自由だと思っているのであればそれは自由なのだ。中島らもの奥さんが、中島らもを評して言った言葉を思い出す。正確な引用ではないが、「あの人は、頭の中が自由でありさえすれば何でも良かった」というようなことを言っている。どれだけ肉体的に不自由な環境にあろうとも、頭の中さえ自由ならそれでいい。確かに、そういう自由もあるし、自由であるかどうかは個人の感覚一つだ。

それでも僕は、この言葉を支持したい。

『不幸になる自由を手放すなって』

「科学とは何か?」という問いは、昔から発せられてきた。かつて科学は宗教と区別がなかったし、錬金術が科学として扱われていた時代もあった。今では、宗教も錬金術も科学ではないとされているが、じゃあ科学と科学でないものとの差は一体どこにあるのか。

科学を定義することは非常に難しかったが、ポパーという人が「反証主義」という主張をした。現在、科学を定義する二つの柱の内の一つが、「反証可能性」というものだ(もう一つは「再現性」、つまり、いつ誰がやっても同じ結果が得られる、というもの)。

「反証可能性」とは何か。それは、「これこれこうだったら、その理論は間違いだと判明する」という要素を持っているかどうか、ということだ。たぶんこの説明だと意味が分からないだろう。

例えば、あの有名な相対性理論は、天体現象の観測によってその正しさが証明された。正確には忘れたが、アインシュタインが相対性理論を元に、日食(だったかな?)の日に、太陽の周囲でこういう現象が観測されるはずだ、という予測をした。そして観測隊が実際に、その予想にぴったりと合う天体現象を観測した。それで、相対性理論の正しさが証明されたのだ。

この場合、もしアインシュタインが予想した通りの天体現象が起こらなければ、相対性理論は間違っていたと判定されることになる。これが、「これこれこうだったら、その理論は間違いだと判明する可能性」ということになる。

じゃあ、反証可能性を持たないものにはどんなものがあるだろうか。

例えば透視能力の実験をするとしよう。実験者と、透視能力を持つとされる被験者、そして観客がいるとする。さて実験者は実験を行う前に、観客に向かってこう宣言する。「この被験者の透視能力は、観客の中にその能力を疑っている者がいる場合発揮されない」

さて、この実験によって、被験者が透視能力を持たない、と判断される可能性はあるだろうか?透視が成功すれば、もちろん透視能力を持つという結論になる。一方、透視が失敗しても、実験者は「観客の中に被験者の能力を疑っている者がいたから能力を発揮できなかったのだ」と主張できる。

つまりこの実験の場合、どんな結果が出ようとも、被験者が透視能力を持たない、という結論が導き出される可能性はない。それはつまり、反証可能性がない、ということであり、つまりこれは科学ではない、と判定出来るのだ。

さて、話を戻そう。何故この反証可能性の話をしたのかと言えば、「不幸になる自由を手放すな」という言葉がきっかけだ。僕はこの、「不幸になる自由」と「反証可能性」を重ねて捉えている。自分の人生が絶対に不幸にならない、と知ることは、反証可能性がないことと近い。そして、科学が好きな僕としては、そういう状況はやはりちょっと気持ち悪く感じられる。それよりも科学のように、もしかしたらいつか間違っていると指摘されてしまう(いつか不幸になってしまう)という可能性がある人生の方が豊かなのではないか、と感じる。

もちろん、本書でも指摘されているように、現時点で莫大な不幸の中を生きている人もいるわけで、そういう人に「不幸になる自由」の話が出来るのか、と言われれば出来ないだろう。そういうことを考える余裕があるのは、今さほど不幸ではない人だけだ。今絶望的な不幸に閉じ込められている人には、恒久的な幸福を求めるだろうし、そのためになら多少のものは差し出してもいい、と考えるかもしれない。

そういうことも、一応頭の片隅で理解したつもりでいるという前提の上で、やはり僕は思う。「不幸になる自由」を手放すような人生はゴメンだな、と。

内容に入ろうと思います。
警視庁の捜査一課、いわゆる殺人などを扱う花形の部署にいる真行寺弘道は、53歳にして巡査長という異色の経歴を持っている。普通この年齢であればもう少し出世しているはずなのだが、真行寺は末端の末端だ。とはいえ、捜査一課に在籍し続けているのだから、決して能力が低いというわけでもない。実際真行寺は、信念を持って巡査長という立場に居続けているのだ。
日々様々な事件が起こるが、先日発生したのはいささか奇妙な事件だった。老人ホームで導入した介護ロボット<お孫さん>が、突然老人たちを罵倒するようなセリフを言うようになったのだ、という。それだけなら事件でもなんでもないが、その暴言に驚いてショック死してしまった高齢女性が現れ、もしかしたら殺人の可能性も捨てきれないと捜査することになった。しかし、コンピュータ方面の知識がかなり必要とされる事件で、捜査はなかなか進まない。
オーディオを趣味にしている真行寺は、休日に秋葉原のショップで真空管を買おうと思ったのだが、その店頭でちょっと気になる若者と遭遇した。アンプだけ自作してデジタルの音楽を聞くというのだが、それで良い音が出るという。じゃあ聞かせてくと、黒木と名乗った男の自宅まで一緒に行くことになった。黒木はハッカーだと名乗ったので、直近で発生した老人ホームでの事件について、推理小説を書いている、という体で相談に乗ってもらうことにした。
老人ホームでの事件が一段落ついた頃に、新たな事件が起こった。尾関という議員がホテルで変死していたのだ。デリヘルの女が部屋に出入りしているのを確認し、毒物も発見されたことから殺人に切り替えて捜査が始まるが、しかし真行寺は、この事件の背後に、壮大な構図を感じるようになり…。
というような話です。

物語の序盤こそ、よくある警察小説かなと思っていたんですけど、読み進める内に、これは斬新な警察小説だなと感じるようになりました。その斬新さは、いくつかの要素から生み出されているのだけど、まずは本書が、既存の警察小説のある種アンチテーゼとして描かれている、という点に触れてみましょう。

一般的な警察小説を乱暴に描写してみるとこんな感じになります。警察という組織の中で、出世争いや足の引っ張り合いなんかは色々ありつつも、組織の駒として足を棒にしながら歩き回り、その一方で多少の逸脱をしながら独自の路線を突き進む。聞き込み、現場百遍など、とにかく人に会ったり現場を見たりと動き回りながら、事件の概要を掴み、犯人を追い詰めていく…。
まあ、色々ありますが、大体こんな感じでしょう。

一方で本書は、それとはまったく違います。警察という組織の中で、駒としての立ち位置を完全に捨て去って好き勝手に動き回り、足を棒にするのではなく、凄腕のハッカーと組んで、バリバリの違法捜査を繰り返しながら、時には相手を罠に嵌めたりしながら犯人を追い詰めていく…。

もちろん、そういう要素を持つ警察小説もあるでしょう。組織に馴染まず一匹狼を貫いて、というような。しかしそういう警察小説は、方向性としてはハードボイルド的なベクトルを持ちがちですが、本書の主人公である真行寺は全然そんなタイプではありません。真行寺は元々一匹狼的ではあるんですが、今回の一連の事件ではそもそも違法捜査をしまくってるので、一匹狼にならざるを得ない、という側面があるのです。

また、バリバリ違法捜査を繰り返しているという要素からは、ノワール的な作品が連想されますが、本書はそんなこともありません。真行寺は、確かにルールは破っているし、正しくないことはしているんだけど、とはいえ真行寺にも彼なりのモラルがあり、そのモラルには沿っている、という感じがするんです。そういう意味で、本書はノワール的でもない。

真行寺という刑事は、一般的な警察小説ならむしろ脇役なんじゃないかというほど、彼自身の存在感は薄いのだけど、そんな男がひょいっと軽やかに違法捜査に手を染めている、というのが非常に違和感があって斬新なのだ。

また本書が普通の警察小説と異なるのは、そのスケールの大きさにある。もちろん、事件の背景にとんでもない事態が隠されていた、というような物語はよくある。しかしそういう物語の場合、物語の根幹は、そういう巨大な背景といかに闘っていくのか、という部分に移っていくことになる。

しかし本書はそうではない。巨大な背景といかに闘うかという一歩手前、つまり、その背景と闘うべきなのかどうか、という部分に焦点が当てられるのだ。これは非常に面白いと感じた。

確かに、本書の中盤以降で明らかになる、事件を貫く大きな背景は、非常に難しい問題を孕んでいる。僕自身は、直感的には大反対だが、しかしならば対案があるのかと言われれば返答に窮してしまう。この解決法は決して良くはないが、しかし他に選択肢はないのだ、と言われてしまえば、納得したくはないが納得せざるを得ないかもしれない、という感覚は持っている。いやだな、とは思うが、例えば、あることを受け入れるか、受け入れないならば死ぬか、という二択しかないとしたら、仕方なく受け入れる、というような感じで、この未来を受け入れざるを得なくなるのではないか、という予感がある。

巨大な背景が登場する場合、普通の警察小説であれば、それと如何に対峙するかが描かれる。そういう意味で本書は、警察小説の格好をしてはいるのだが、実際には警察小説ではないと言えるだろう。その背景は、あまりに巨大過ぎて、闘うことすら不可能に思えるものなのだ。それでも闘うべきか否かを、様々な段階で議論する本書は、警察小説の形を借りた思想小説(と言うと堅苦しいイメージになっちゃうかもだけど、そんなことは全然ない)とでも言うべきかもしれないと思う。

それは、こんな文章からも感じとることが出来るだろう。

『でも、なぜ僕らは音楽を聴くのかってことを考えてみましょうよ。キング・クリムゾンにせよ、バッハにせよ、ソニー・ロリンズにせよ、バリ島のガムランにせよ、僕らが音楽を求めるのは、それは言葉以外の方法で世界に触れ合おうとしているからです。つまり、意味の外、情報の外へと旅立って、世界と魂を共振させようとしているんですよ。
世界が奏でる調べに、魂が震えなくなった時、それは感情をなくした時です。感情がなくなれば、音楽は消え、なっているのは音の情報にすぎなくなり、記号とノイズだけが残る。
ある音の列なりを聴いて、これは音楽だと思い、そして、音楽を聴きたいと思い続ける限り、感情を持った存在として、僕らは嫌なものは嫌だと踏みとどまろうとしてもいいんです。踏みとどまれるかどうかはわからないし、それが正しいかどうかもわからないけれど』

こんな文章は、まず一般的な警察小説では見かけないでしょう。

僕らが今当たり前に存在していると思っていること(物質だけではなく、概念も含む)のほとんどは、先人たちの膨大な努力や闘争の堆積物だったりする。そして、その努力や闘争を止めてしまえば、すぐにではないにせよ、いずれどこかのタイミングで過去の遺物を使い切り、当たり前に存在するはずのものが当たり前ではなくなる日が来るだろう。

「自由」というのもその一つであって、過去様々な人間が「自由」のために言葉を尽くし、血を流し、剣で斬りあった、その果てに今がある。ただのその上に安寧としているだけでは、僕らは「自由」を守りきることは出来ないだろう。しかし、様々な環境の変化によって、人類は恐らく史上初めて、「自由であるべきなのか?」という、今まで追い求めることが当たり前だった「自由」という概念への疑問を抱くようになった。その時代の揺らぎみたいなものを、警察小説という仮面を被った物語が描き出そうとしている。その挑戦的な冒険心が、非常に斬新だと感じられる物語だった。

榎本憲男「巡査長 真行寺弘道」

もうすぐ絶滅するという紙の書物について(ウンベルト・エーコ+ジャン=クロード・カリエール)

本書は、まったく別の分野で活躍しながら、共に書物愛好者でもある二人が、『世界規模で進められている文書のデジタル化と新しい読書ツールの導入という試練に直面している今』の世の中において、『書物がフィルタリングという災難にもめげず、結局は張られた網をすべてかいくぐり、幸運にも、また時には不運にも、生きのびてきた、その奮闘ぶりを愉しげに語ってい』る本です。電子化という、抗いきれない時代の流れの中にあって、「本が好き」「紙の本は素晴らしい」という単純な偏愛ではなく、長年、本を始め様々なメディアや文化や価値観と関わってきた二人が、それでも紙の本に一体何があるのかということを深く深く掘り下げていきます。

彼らは本当に様々な事柄について話していくのだけど、僕が本書で一番興味深かったことは「忘却」に関わる部分です。電子データは、「忘却しない」という点においてデメリットを有している―非常に大雑把に要約すればそういうことになるだろうと思います。

たとえば、ちょっと長いがこんな文章がある。

エーコ『カエサルの最後の妻カルプルニアのことは、カエサルが暗殺された三月十五日までは、何でもわかっています。三月十五日、カルプルニアは不吉な夢を見て、夫カエサルに元老院に行かないでくれと頼みました。
カエサルの死後のカルプルニアについては、いっさい情報がありません。彼女は我々の記憶から姿を消したのです。なぜでしょう。これはなにも、彼女が女性だったからというわけではありません。(中略)文化とは、つまり、このような選別を行うことなのです。現代の文化は逆に、インターネット経由で、世界じゅうのあらゆるカルプルニアたちについて、毎日毎秒、詳細な情報をまき散らしているので、子供が学校の宿題で調べ物をしたら、カルプルニアのことを、カエサルと同じくらい重要な人物だと思うかもしれないほどです』

この記述は、非常に面白いと僕は感じました。

それがどんな記録媒体であれ、「記録する」ということには通常、何らかの選別が入るはずです。紙の本にする、というのは、ある意味でその最たるものかもしれません。この本の中に何を書いて何を書かないか、残すべきものは何で残す必要のないものは何か―紙の本に書くということは、そういう無限の選別の行為の果てにあるものです。

もちろんそれは、電子情報でも同じ部分はあります。自分が何らかの文字なり文章なりを書く、ということであれば、紙の本だろうとブログだろうとなんだろうと、そこに何らかの選別は入り込みます。

しかし、電子情報には、ひとりでに記録するという側面もあります。分かりやすいのは、ボイスレコーダーのようなものでしょうか。スイッチを入れておけば、マイクが拾える範囲の音声はすべて拾う、という行為には、選別の入る余地はありません。

同じように、GPSで移動経路を記録するとか、ネットショッピングの注文履歴を記録すると言ったようなものは、選別なしに何もかもを記録してしまうものです。そういうものにはやはり、選別という思考が入り込む余裕はありません。

そして先ほど引用した文章は、選別なきものは文化ではない、と主張しています。『文化とは、つまり、このような選別を行うことなのです。』という一文は、そう言い換えることが出来るでしょう。となれば、ひとりでに記録される電子情報は、文化の基盤には成りえない、と言えると思います。

この視点は、僕の頭の中にはあまりなかったものなので、非常に新鮮でした。

同じようなことが、別の場面でこんな風に書かれています。こちらも長いですが引用してみます。

エーコ『諸文化は、保存すべきものと忘れるべきものを示すことで、フィルタリングを行います。その意味で、文化は我々に、暗黙裡の共通基盤を提供しています。間違いに関してもそうです。ガリレイが導いた革命を理解するには、どうしてもプトレマイオスの学説を出発点にしなければなりません。ガリレイの段階までたどり着くには、プトレマイオスの段階を共有しなければいけないし、プトレマイオスが間違っているということをわかっていなければいけない。何の議論をするにしても、共通の百科事典を基盤にしていなければいけません。ナポレオンなどという人物はじつは存在しなかった、ということを立証することだってできなくはない―でもそれは、我々が三人とも、ナポレオンという人物がいたということを知識として学んで知っているからです。対話の継続を保証するのはまさにそれなんです。こういった群居性によってこそ、対話や創造や自由が可能になってくるんです。
インターネットはすべてを与えてくれますが、それによって我々は、すでにご指摘なさったとおり、もはや文化という仲介によらず、自分自身の頭でフィルタリングを行うことを余儀なくされ、結果的にいまや、世の中に六〇億冊の百科事典があるのと同じようなことになりかねないのです。これはあらゆる相互理解の妨げになるでしょう』

こちらも、なるほど、と思いました。「文化」というのは要するに、ライブ会場の入場ゲートのようなものなのでしょう。会場に入っていい人とダメな人(チケットを持っているかどうか)を入場ゲートで選別する。そしてその入場ゲートを通り抜けることが出来た人が、ライブという共通の経験を得ることが出来るわけです。

「文化」についても同様で、文化というフィルタリング機能があるからこそ、僕らは、他者と何らかの議論や意見交換をするための共通基盤を得ることが出来る。そしてそのフィルタリング機能は、「保存すべきもの」と「忘れるべきもの」を示すことによって発揮されるのだし、つまりは「忘れられること」というのが絶対的に大事になってくる、というわけです。

しかしインターネットは忘れません。一度インターネット上に載ったものは、相当な苦労をしなければ完全に削除することは出来ないし、削除できない以上いずれ誰かが見つけるかもしれないし、つまり完全に忘却されることは出来ないということになります。

一方で本というのは、様々な形で忘却され得る。禁書にされたり、家事で燃えたり、あまり広く読まれることなく時間が経過してしまったりすることで、本の存在や本に書かれた内容はすぐに忘れられてしまう。

本書で指摘されているこんな事例もまた、本が忘却という機能を内包していることを示すかもしれない。

ジャン=フィリップ・ド・トナック『我々は今日なお、エウリピデス、ソフォクレス、アイスキュロスを読みますし、彼らをギリシャ三大悲劇詩人と見なしています。しかしアリストテレスは、悲劇について論じた「詩学」のなかで、当時の代表的な悲劇詩人たちの名前を列挙しながら、我らが三大悲劇詩人の誰についてもまったく触れていません。我々がうしなったものは、今日まで残ったものに比べて、より優れた、ギリシャ演劇を代表するものとしてよりふさわしいものだったのでしょうか。この先誰がこの疑念を晴らしてくれるのでしょう』

僕らは、残ったものからしか過去を判断できない。しかし、当然ながら、残ったものがすべてなわけではない。であればどうして、残ったものの中が最高のもの(あるいはその一つ)であると信じることが出来るのだろうか?

あるいはこんな話もある。

エーコ『ストア派の哲学というのは、我々がその重要性を十分評価しきれていない知的達成の一つと言えそうですが、そのストア派について我々が知っていることの大部分は、ストア派の思想に反駁したセクストゥス・エンピリクスの文章がなければ、知りえなかったことです』

この記述から分かることは、ストア派の人間がストア派について書いた本というのは、現代にほとんど残っていない、ということです。ある意味ではそれも、文化のフィルタリング機能によるものなのでしょう。しかし一方で、ストア派の思想に反対した人の文章は残っていて、それによってストア派の思想が現代でも知られている、というわけです。

これらの話から分かることは、必ずしも残ったものが素晴らしいとは言い切れない、ということです。本当であれば三大悲劇詩人よりも素晴らしい詩人はいたかもしれないけど残っていないし、本当であれば残っていてもおかしくはないストア派の人間がストア派について書いた本というのは失われてしまっているわけです。だから、「保存すべきもの」と「忘れるべきもの」という判断は決して、その中身に依るのではない、ということだ。

ならば、そんな程度の低いフィルタリングを要請する「文化」というものも大したものではないと言えるかもしれない。だからインターネットが、選別やフィルタリングが存在しない世界を作り出すことが、プラスに働く可能性もないではない。それは、もっと時代が経たなければ分からないことだろう。とはいえ、あくまでも僕の個人的な感覚で言えば、「文化」というフィルタリング機能があるというのは重要に思えるし、だからこそ、忘却という機能を有する本というメディアは存在価値があると感じられる。

中身に依るのではない、という話で言えば、こんな話も出てくる。

エーコ『「もしかしたら私の能力が少し足りないのかもしれないが、誰かが眠れなくて輾転反側する様子を語るのに、どうして三〇ページも費やす必要があるのか私には理解できない」。これはプルーストの「失われた時を求めて」について最初に書かれた書評です』

このあと、「白鯨」「ボヴァリー夫人」「動物農場」「アンネの日記」など、世界的名作と呼ばれている作品が、出版された当初いかに評価されていなかったか、ということが書かれています。

こんな風にも書かれている。

エーコ『傑作が傑作であるためには、知られるということが大事です。つまり、作品がみずから喚起した解釈を吸収することで、その個性をより強く発揮していれば、傑作は傑作として認知されます。知られざる傑作には読者が足りなかったんです。充分に読まれなかったし、充分に解釈されなかった。』

「解釈を吸収する」という話では、シェイクスピアのこんな捉え方も面白い。

カリエール『おっしゃいましたね、今日我々が読んでいるシェイクスピアの戯曲は、書かれた当初よりきっと豊かになっている、なぜなら、それらの戯曲は、シェイクスピアが紙にペンを走らせて以来、積み重ねられた偉大な読みと解釈をすべて吸収してきたからだ、と。私もそう思います。シェイクスピアはたえず豊かになり、丈夫になりつづけているんです』

このように、「保存すべきもの」「忘れられるべきもの」という観点から、電子化と紙の本を捉えるという視点が、本書を読んで僕が一番面白いと感じた点です。

また、本とは関係ないですが、「忘却」という点で一つ、非常に興味深い話があったので引用してみます。

エーコ『二十年前、NASAかどこかの米国政府機関が、核廃棄物を埋める場所について具体的に話し合いました。核廃棄物の放射能は一万年―とにかく天文学的な数字です―持続することが知られています。問題になったのは、土地がどこに見つかったとしても、そこへの侵入を防ぐために、どのような標識でまわりを取り囲めばいいのか、わからないということでした。
二、三千年たったら、読み解く鍵の失われた言語というのが出てくるのではないでしょうか。五千年後に人類が姿を消し、遠い宇宙からの来訪者たちが地球に降り立った場合、問題の土地に近づいてはいけないということをどうやって説明すればよいでしょう』

これも、今まで考えたことのない問いだったので、なるほどなぁ、と感心してしまいました。確かに、半減期が異様に長い核廃棄物を埋めたとして、現在我々が使っている言語が滅びる、あるいは解読出来ないような状況になってしまう可能性については考えておかなければなりませんね。そういう観点からも、核廃棄物という存在に否を突きつけることが出来るかもしれません。

本書は対談であり、共に書物愛好者の二人なわけですが、とはいえ、紙の本を絶対的に信奉しているわけでもないし、本を読むという行為にもかなり柔軟な捉え方をしています。
いくつか抜き出してみます。

カリエール『我々は、書物というものを非常に高く評価しており、えてして神聖視しがちです。しかしよく見れば、我々の蔵書の圧倒的多数が、無能ないしは間抜けな人間、あるいは偏執狂によって書かれた本なんです』

エーコ『世界には書物があふれていて、我々にはその一冊一冊を知悉する時間がありません。出版されたすべての書物を読むことはおろか、ある特定の文化を代表するような最重要書だけでも、全部読むことは不可能です。ですから我々は、読んでいない書物、時間がなくて読めなかった書物から、深い影響を受けています』

エーコ『くどいようですが、べつに本を買わなくたっていいし、読まなくたっていいんですよ。ただぱらぱらめくってみて、背表紙に何が書いてあるか見てみるだけでいいんです』

エーコ『ところで、楽観的になれる理由の一つは、最近は、大量の本を目にすることのできるチャンスが増えてきているからです。私がまだ子供だったころ、書店というのはひどく暗い所で、敷居が高かったんです。中に入ると、黒っぽい服を着た店員が、何かお探しですかと訊いてきます。それがあんまり恐ろしいので、長居しようという気にはとてもなれませんでした。時に、文明の歴史のなかで、今日ほど書店がたくさんあって、綺麗で、明るかったことはありません』

ある意味では、無類の本好きとは思えないような発言もあるでしょう。本との接し方に肩の力を抜いてもいいと思えるような捉え方ではないかと思います。

ここでは書ききれないほど、様々な方向に話の矛先を伸ばしていきながら、博覧強記の知識で縦横無尽に対談を続ける二人の知の巨人のやり取りは、本の電子化、などといった矮小的な問題に囚われない、非常に自由で奥行きのある内容になっています。色んな形で知的好奇心を刺激される一冊です。

ウンベルト・エーコ+ジャン=クロード・カリエール「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)