黒夜行

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「search サーチ」を観に行ってきました

これはよく出来てたなぁ。
メッチャ面白かった!
最初から最後まで、「パソコンの画面上のみで完結する映画」で、その設定自体も斬新なんだけど、さらに、その設定を物語の中に実に見事に取り込んでいるから、うまく出来てるなぁ、ってメッチャ思いました。

まずは内容から。
主人公のキムは、パムという女性と結婚し、マーゴットという娘をもうけ、幸せに暮らしていた。妻や娘との思い出は、写真や映像で様々に記録し、パソコン内やSNS上にある。ピアノを習い始めた娘、入学した娘、病気と闘う妻。困難もありながら、彼らは慎ましやかに、幸せに暮らしていた。
しかし、リンパ腫によって妻が亡くなり、キムは男で一つでマーゴットを育てることになった。オンラインではよくやり取りをしていたけど、「Mom would be too(ママもそう思ってると思うよ)」と一文を娘に送れないでいるように、亡くなった妻のことについては父娘の間でまだうまく消化することが出来ていない。
そんなある日、娘からの連絡が途絶えた。いつもなら学校からも返信が来るのに、今日は一向に音沙汰なしだ。不審に思って何度も連絡するキムだが、彼は今日が金曜であることを思い出した。なるほど、金曜はピアノ教室の日だ。早速教室の先生に連絡をしてみると、驚くべき事実が明らかになる。
なんとマーゴットは、半年前にピアノ教室を辞めていたというのだ。
ピアノ教室の代金として、100ドルを定期的に娘に渡していたキムは不審に思い、マーゴットを知っている人間に連絡を取るが、みなマーゴットとはさほど親しかったわけではないと話す。ついにキムは警察に連絡をし、ヴィックという女性刑事と共に娘を探すことにした。
マーゴットが偽造IDを作成していたり、2500ドルを自分宛てに送金していたりと不審な行動を取っていることが分かり、ヴィックはマーゴットが逃亡したのではないかと推測するが…。
というような話です。

本当に、よく出来た物語だったなと思います。
とにかく、ホントに、パソコン上ですべてが完結します。もちろん、「ニュース映像をパソコンで見ている」とか「防犯カメラの映像をパソコンで見ている」など、厳密に考えるとちょっと違うような描写もあるんだけど、でも概ねグーグルの検索とか、各種SNSとか、パソコン内のフォルダとか、そういうものがバンバン出てきて、そういうものを駆使しながら物語が展開されていく。

この映画の制約(パソコン上から出ない)のために、映像はすべて「カメラが存在することが不自然ではない場所のもの」ということになります。この点で色々難しい部分もあったと思うけど、うまくクリアしています。例えばある場面で、主人公のキムは映画館に行くことになるんだけど、そこでの映像は、「一般人がスマホで撮ってYoutubeに上げた映像をパソコンで見ている」という形になっています。逆に、「カメラが存在することが不自然ではない場所のもの」という制約によって、映画がよりリアルに感じられるというプラスがあります。普通の映像作品ではどうしても、カメラがある必然性のない場所にカメラがある。もちろん僕らはもう映像作品を見慣れているから、それに違和感を覚えることはないんだけど、この「サーチ」を観て、なるほどこれまでの映像作品の意識されない違和感みたいなものを浮き彫りにしているな、という感じがしました。

さらに、冒頭で少し触れたけど、この映画では「パソコン上から出ない」という制約を、物語の展開的に実にうまく組み込んでいます。この映画が、ただの手法として「パソコン上から出ない」というやり方をしていたとしても、それはそれで悪くはなかったと思うけど、その設定がストーリーとうまく結びついているから、見事だなと思いました。特にラストの方で、主人公がある2つの事実に気づく瞬間は、まさに「パソコンから出ない」という制約を劇的に活かしているもので、ちょっと鳥肌モノでした。その2つに気づくことが、最後のピースを埋めるというか、たどり着けなかった真相へのルートというか、そういう感じで物語が展開されるので、メチャクチャ上手いなと思いました。

ちゃんと調べてないけど、この映画は低予算で撮られたそうです。確かにそうかもしれません。何せ、この映画で映し出される映像は基本的に、「一般人が撮れるレベルの構図・画質であることがむしろ望ましい」わけだから、高度な機材も必要ないし、画質が粗っぽい感じでも問題ありません。SNSなんかに載せる写真や映像を用意するのは結構大変だったかもしれないけど、それでも普通の映画よりカット数は少ないんじゃないかなぁ。「パソコンから出ない」という手法ありきだったのか、低予算で作れるアイデアという制約が先にあったのかは分からないけど、いずれにしても、最小のコストで最大の効果を上げる、実に見事なアイデアと構想力だったと思います。

「search サーチ」を観に行ってきました

「来る」を観に行ってきました

まったく意味不明だったけど、超面白かった!
というのが、見終わった素直な感想だ。

内容に入ろうと思います。
が、ちょっとこの物語、後から色々分かってくる系の物語だから、あんまり内容に触れられないなぁ。
田原秀樹は、香奈と結婚した。参加した法事で、秀樹の親族から、「ぼぎわん」の話を聞く。その地方では、悪い子供をさらうオバケとして、子供を注意する際に使われているようだ。しかし実際、かつて女の子が一人行方不明になっていた。秀樹とは仲が良かったはずだが、母親に聞かれても秀樹はその名前を思い出せなくなっている。
幸せな結婚をした二人は、やがて子供をもうける。「知沙」と名付けた娘を、秀樹は殊の外可愛がり、妊娠が分かった日から毎日ブログを更新するようになった。やがて秀樹は、周囲でもよく知られた「イクメンパパ」となった。
誰が見ても幸せそうな家族だったが、しばらくして秀樹は、学生時代からの一番の親友で、民俗学の助教授となった津田に、「妖怪は存在するのか?」と相談を持ちかける。詳しく聞いてみると、ある日秀樹が自宅に戻った時、玄関前に切られたお守りが散乱しており、また部屋中が荒らされ、香奈と知沙が号泣していた。香奈が「来たの…」と言ったことで、秀樹はすべてを理解した。「ぼぎわん」が、来たのだ。
津田の紹介で、頼まれればどんな原稿でも書くという怪しいライター・野崎と会うことになった秀樹は、野崎の知り合いだというマコトを紹介される。マコトはキャバ嬢だが、ユタの家系に生まれており、野崎が知る中でその方面の能力が一番強くて確かだ。マコトは田原家と関わるようになり、やがてまた「ぼぎわん」が来て…。
というような話です。

僕は割と、小説でも映画でも、「ストーリーの辻褄が合ってるか」みたいなところがちょっと気になってしまうタイプです。別に厳密に辻褄を検討するわけではないけど、なんかちょっと「それはおかしくないか?」ということに気づいてしまうと、全体の評価が下がってしまうようなところがあります。

この映画は正直、辻褄が合ってるのかどうかイマイチ判断できなしい、ってか合ってないような気もするんだけど、でも映画全体としては凄く面白かったんだよなぁ。普段の自分の感覚だと、受け入れがたい映画のはずだから、映像の強さとか、勢いとか、強引さとか、そういう部分を引っくるめて面白いと感じたんだと思います。

個人的に特に一番好きなのは、最後の壮大な展開ですね。僕は原作を読んでないけど、これまで見た中島監督作品では、原作からの改変が結構あったから、そのイメージで言うと、恐らくこのラストの展開は、原作とは大分違うだろうな、と思います。原作は、新人作家のデビュー作なんだけど、この映画のラストの展開は、ちょっと新人作家の発想じゃないような気がするので。

このラストの展開では、正直何度も、「ンなアホな」と笑っちゃいました。もちろん登場人物たちは真剣なんだけど、アホみたいなことを真面目な顔してやってるし、最後のありえない非日常感の舞台設定もシュールだし、そもそも何やってるんだか意味不明だし、なんかそういうのの相乗効果で、笑えてきちゃう場面がありました。

物語の展開のさせ方としては、凄く上手いなって思いました。冒頭から、色々違和感があったりするんだけど、それが中盤から後半にかけてちゃんと説明されていく(ただ、怪異的な部分はむしろ説明されないことが多くて、そういう部分が意味不明さに繋がっていくんだけど)。なるほどなぁ、それがそういう風に関わっていくんだなぁ、みたいな、ある種の謎解きみたいな感覚もあって、面白かった。それに、怪異的な部分はともかくとして、全体として扱われているテーマみたいなものが非常に現代的で、こういうことってどこにでも起こりうるよなぁ、と思いました。そういう、「どこにでも起こりそうなこと」と「起こりそうもない怪異的なもの」が異様な結びつき方をして、このちょっと異質な映画が出来上がっているんだなぁ、と思いました。

しかし、そういう意味で、妻夫木聡は、本人にとっては悪評になると思うんだけど(笑)、実にピッタリというか、役柄にドハマリした配役だなぁ、と思いました。いや、あくまでも、僕が妻夫木聡という役者から感じるものが田原秀樹と近いと感じた、ってだけの話ですけど。

途中から「比嘉琴子」って人物が出てくるんだけど、コイツもなかなか謎なんだよなぁ。ヒーローなんだか悪魔なんだか、イマイチ掴めない。ラストの方で、「正しさのぶつかり合い」みたいな場面があって、もう何がなんだかさっぱりって感じだったんだけど、「比嘉琴子」の持ってる「正しさ」の正体が未知数で、この映画だけでは判断出来ないなぁ、と思いました。

あと、岡田准一が出てくるんだけど、岡田准一の登場シーンで、僕は岡田准一だと認識出来ませんでした。正直、全然サブキャラだと思ってたんで、そいつが岡田准一だと分かった時はびっくりしました。あと、エンドロールを見て、「あぁ、あれが柴田理恵か!」と思いました。見ている間、ずっと気付かなかった(笑)

僕は中島哲也監督が好きなので、贔屓目もあるかもしれないけど、やっぱり面白いなぁ、と思いました。意味不明だけど(笑)

「来る」を観に行ってきました

サイバネティックス(ウィーナー)

さて、本書については、とてもじゃないけど「読んだ」とは言えない。
「眺めた」という方が正しいだろう。

正直、ほぼ全ページ、何が書いてあるのか分からなかった。
結局250ページぐらいまで「眺めて」、本書を諦めてしまったが、とにかく僕にはハンパなく難しい本だった。

何故本書を読もうと思ったかと言えば、最近本書を勧める文章を結構見かけたからだ。今読むべき一冊として挙げられることが、少なくとも僕の主観的には結構続いた。

というのも本書は、原著が70年近く前に出版されたのだが、まさに現代の「ディープラーニング」や「人工知能」の理論の出発点とされているからだ。著者自らが生み出した「サイバネティックス」という言葉が、新しい学問領域として生まれ、通信や機械制御のみならず、社会科学的にも大きな影響を与えた本だという。

本書を勧めていた一人が、「現代の魔術師」とも称される落合陽一だ。彼が「NEWA PICS Magazine Vol.2」に寄せた文章を引用してみよう。

【ノーバート・ウィーナーの『サイバネティックス』は1948年に出版されたすごく古い本です。僕は青春時代に読みましたが、非常に刺激を受けました。
ウィーナーは『人間機械論』の著者でもありますが、この本は彼が「この社会自体や人間の会話や行動などをどうやって通信や人工知能の中に落とし込んで考えていくか」を記したものです。本の途中には、システム図や数式もよく出てきます。例えば、生物のシステムや集団のシステムを、どう数理的なシステム系として捉えられるのかを考察しています。
なぜ現代においても、こんなに古い本を読む価値があるかというと、ウィーナーのように思考をまとめようとする哲学のスタイル自体が面白いからです。時代を超えた価値があるのです】

だそうです。僕に言わせれば、こんな本を読める人間は化け物でしかないな、と思っている次第であります。

というわけで、本書の内容についてはまったく何も書けませんが、割と多くの人が「読むべき本」に挙げている本だと思うので、チャレンジしてみようという方は手を出してみてください。まあまずは「眺める」ところから(笑)

ウィーナー「サイバネティックス」

天才 藤井聡太(中村徹+松本博文)

藤井聡太が凄い、ということはもちろん誰もが認めるところだろう。しかし、じゃあ「どう凄い」のかと聞かれると、なかなか答えるのが難しい。もちろん、「前人未到の様々な記録を作った」という客観的な事実はあって、その事実に対して「凄い」と形容することは出来る。ただ、それが「どのぐらい凄いことなのか」を理解することはなかなか難しい。

やはりそれは、現役の棋士たちに語ってもらうのが一番いいのだろう。というわけでまずは、本書に載っていた、多くの現役棋士たちが「藤井聡太」について語った言葉を引用してみようと思います。

【今回の(朝日杯での)優勝は、たとえるなら中学生が五輪の陸上100メートルで金メダルを獲ったようなものでしょう】(中村太地)

【天才という言葉を使わないで藤井君について説明するのは難しいと思います】(渡辺明)

【今まで中学生で棋士になった人は五人いますけど、さすがに14~15歳の時だと、詰みはすぐ見えるけど序盤は苦手、というように、ここはすごく強いけど、ここはまだ弱点、ここは荒削り、という部分が必ずあります。みんな弱い部分を持ちながら年齢や経験を積んで修正し、全体として強くなっていく。でも、彼の場合は現時点で足りていない部分、荒削りな部分が全く見えません。あの年齢でそのような将棋を指していることは驚くべきことだと思います。だから勝っているんでしょうけど…と言っちゃうと身も蓋もないですね(笑)】(羽生善治)

【私は、将棋界の王者の系譜というものがあると考えているんです。(中略)
羽生さんの後の王座に座る事になるのが藤井君だと私は見ています】(森下卓)

【最近では、(詰将棋の回答能力で)誰が追いつけるのだろうというレベルにまで行ってしまいました。今は多分、僕の三倍ぐらいのスピードで解いています。僕が二問目を解き終わったときに、彼は六問目を解いている、そんな速さです。僕も(詰将棋解答選手権で)優勝した経験はあるので、彼の実力は桁違いだと思っていただいて良いと思います。間違いなく日本一、世界一のスピードでしょう。しばらくは抜ける人がいるのかな、というレベルです】(斎藤慎太郎)

【今、将棋界に二人以上、大天才がいると思います。年長の羽生先生が有名であり、年下の藤井聡太さんが有名であり。そういう狭間の世代ですよね。狭間の世代でいられることは幸運だなと思います。羽生先生の棋譜も拝見することができますし、藤井聡太さんの棋譜も拝見することができるということで。この両方を勉強できるというのは恵まれている世代になっているんじゃないかなと思います】(永瀬拓矢)

【4四桂は、何分か考えれば浮かぶ可能性も十分にある一手だと思いますけど、7七同飛成は正直すごかったですね。考えても浮かばないかもしれないし、浮かんでもリスクが高すぎて実際には指せないかもしれない】(渡辺明)

【不思議なんですよ。まず四段になろうと思ったら最低限の定跡やセオリーを知っていないと話になりません。それらを全て身に付けるには結構時間がかかります。将棋には矢倉、角換わり、相掛かり、横歩取り、中飛車、四間飛車、三間飛車といった多くの戦型があり、それぞれでフォローしなくてはならない定跡が山ほどあります。それらをきちんと押さえるだけで20歳ぐらいになっていてもおかしくないものです。ところが藤井さんは14歳でほとんど全てに対応している。ものすごいことです】(羽生善治)

本書に登場する棋士たちも、ものすごい人たちなのだ。羽生善治は誰もが知る棋士だろうが、例えば、「羽生世代」と呼ばれる黄金世代の牙城を崩すべく奮闘しているその下の世代にいる渡辺明なんかが、「自分には思いつかなかったかもしれないし、思いついても指せなかったかもしれない」と発言しているのは、なかなか衝撃的だ。

他にも本書には、藤井聡太の凄さを表す様々なエピソード・形容が登場する。

【(朝日杯の準決勝で藤井聡太が羽生善治と対戦した時のこと)(羽生善治の)劣勢が明らかになってくると、かつて誰も見たことのない現象が起き始める。着手する羽生の手先が震え始めたのだ。通常は勝利を確信した時に見られるシーンが敗勢の局面で現れているのだ。焦燥なのか屈辱なのか、何らかの感情が指先に宿ったのは確かだった】

【将棋界では400年の歴史のうちに、数々の名勝負がおこなわれてきた。その中にあって、藤井聡太が公式戦新記録の29連勝目をかけた対局は世間の注目という点においては、400年史で最大の一局であったかもしれない】

【実は彼は対局後の会見でも、決して対局相手を褒めません。凄かったとか、強かったとは口にしない。まだまだ自分が至らなかったとか、もっと実力をつけます、と必ず自分の事を話すんです。勝負の世界で、相手を褒めたり過剰に尊敬していては絶対その相手には勝てません。これまで羽生さんの軍門に降ってきた若手たちはみんなそれでやられているんです。
藤井君のその受け答えはホトホト感心しますね。】

【デビューから一年半に満たない短期間で三回昇段する棋士は異例中の異例である】

さてそんな風に、400年の歴史の中でも圧倒的な天才の登場に、棋界は様々な反応を見せていくわけなのだけど、羽生善治と渡辺明が、藤井聡太に対して似たような見方(というか、留保)をしている点が面白いと感じた。

【20代も強い棋士がたくさんいるので全く予想出来ませんが、10代の若い人たちがたくさん台頭することになれば、ソフトの世代的な恩恵になるでしょう。そうでなければ、藤井さん本人の個人的なポテンシャルの証明とも思えます。三年ぐらいすれば、そのあたりもかなり明確になるのではないでしょうか?】(羽生善治)

【今、奨励会の2級から初段くらいに小学生がたくさんいるんです。過去にこんなことはありませんでした。もしかしたら、羽生世代が出現した時みたいに(革新的な)何かが起きている世代なのかもしれないし、ソフトの影響とかで単純に仕上がりが早くなっているだけかもしれない】(渡辺明)

渡辺明のその発言を受けて、著者はこうまとめる。

【次世代において、藤井は唯一無二の存在で在り続けるか、新たに勃興する集団の先頭者にすぎないか。まだ計りかねる部分があるという見解を示す】

この視点は、非常に面白いし重要だ、と感じました。

確かに、僕らにはまだ「藤井聡太」しか見えていないけど、実は「ソフトの恩恵を受けた世代」の先頭であるというだけで、今後藤井聡太レベルの若手が続々と出てくる可能性だってまだある、と言っているのだ。確かに、その可能性はまだ否定は出来ないだろう。仮にそうであったとしても、藤井聡太の凄さが揺らぐことはないのだけけど、藤井聡太が先頭者である、という場合、また将棋界が激変を迎えることになるだろう。ちょうど「羽生世代」が将棋の常識を一変させたように。そうなれば、また将棋が面白くなっていくだろう。そういう変化が起こるのであれば、僕自身は将棋には特に詳しくはないのだけど、生きている間にその変化を見たいものだと思う。

中村徹+松本博文「天才 藤井聡太」

ブロックチェーン入門(森川夢佑斗)

内容に入ろうと思います。
本書は、「ビットコイン」などの仮想通貨の中で使われた技術であり、現在では仮想通貨以外の応用法が様々に検討され、世の中を激変させるのではないか、と考えられている「ブロックチェーン」についての本です。

僕は最近ちょっと「ブロックチェーン」に関心があって、ちょっとずつ情報を仕入れるようにしているんだけど、本書は、「ブロックチェーン」がなんなのかまったく分からないような人でも読める入門書だと思います。

「ブロックチェーン」というのは、「インターネット上で中央集権的じゃなくても信頼できるシステムを作り出せる仕組み」という感じです。

例えば、フリマアプリの「メルカリ」のことを考えてみましょう。現在「メルカリ」で「ブロックチェーン」が使われているわけではありませんが、「中央集権的」の説明をしようと思って例に上げました。

「メルカリ」は、個人同士の売買の間に入ります。個人間の売買であれば、一番早いのは個人同士でやり取りすることでしょう。しかし、そう簡単ではありません。まず、インターネット上で簡単にお金を送る仕組みがまだありません(手数料が高かったり、信頼度が低かったりします)。それに、個人同士だと、何かトラブルがあった時に泣き寝入りするしかなくなるかもしれません。だから「メルカリ」が間に入って、お金の処理やもしもの時のトラブルに対処しているわけです。これが、「メルカリ」という「中央集権的」な存在を間に挟むシステムです。

「ブロックチェーン」というのは、この個人間にいる「中央集権的」な存在を無くしても信頼出来るシステムを構築出来るものとして注目されています。

「ブロックチェーン」の特徴として、

・特殊なデータ構造
・公開鍵暗号方式
・コンセンサスアルゴリズム

の三つが挙げられます。そしてこの中でも、「ビットコイン」を生み出した「サトシ・ナカモト(未だに正体が明らかになっていない謎の人物です)」が組み込んだ「プルーフ・オブ・ワーク(POW)」というコンセンサスアルゴリズムが非常に秀逸で、これが「ブロックチェーン」というシステムを、改竄や不正が出来ないものにしているのです。

では「POW」とは何かという説明をしていきたいと思います。そのために、「サトシ・ナカモト」が生み出した「ビットコイン」の仕組みを説明しようと思います。

「ビットコイン」は、10分毎に、その間のすべての取引データを「ブロック」と呼ばれる箱のようなものに入れます。で、この「ブロック」に名前をつけなければいけません。そして、この「ブロック」に名前を付けることが出来た人が、ご褒美として「ビットコイン」をもらえる、という仕組みになっています。このプロセスを「マイニング」と呼びます。

では、どんな風に名前を付ければいいでしょうか?

ここで「ハッシュ関数」というものが登場します。これが何なのかは僕にもちゃんと分かっていませんが、とにかく「仮想通貨」や「ブロックチェーン」の話ではこの「ハッシュ関数」がよく登場します。

ある数値を「ハッシュ関数」の中に入れると、「ハッシュ値」という答えが出てきます。で、この「ハッシュ値」の一つが、「ブロック」の名前になるんですけど、では何の数値を入れるでしょうか?それが、1つ前の「ブロック」の「すべての取引データ」です。

この点はまだうまく説明できませんが、「ブロック全体の情報(ここには、10分毎の取引データや、そのブロックの名前も含まれます)」を、数値(こんな感じだそうです→1f2258g36a1147v2c558h2174s6f5)に変換できるんだそうです。で、その数値に変換した取引データを「ハッシュ関数」に入れると、ある「ハッシュ値」が出てくるわけです。

しかし、ただ「ブロック全体の情報」を数値に変換したものを「ハッシュ関数」に入れるだけでは、誰でも簡単に「ブロック」に名前を付けることが出来てしまいます。なので、「ブロック」につける名前にはある条件があります。それは、「先頭に0が◯個(個数はその時々で変わる)つかなければならない」というものです。

例えば、先程の数値(1f2258g36a1147v2c558h2174s6f5)を「ハッシュ関数」に入れると、「000d5287r56fd247g56a2147」という「ハッシュ値」になるとしましょう。「ブロック」の名前は、先頭に0が10個続かないとダメ、となっていたら、この「ハッシュ値」は相応しくないことになります。とはいえ基本的には、「ハッシュ関数」に入れる数値一つに対して「ハッシュ値」が一つ対応することになります。だからこのままでは、別の「ハッシュ値」を導くことは出来ません。

そこで、「ナンス値」というものが出てきます。様々な「ナンス値」を数値と一緒にして「ハッシュ関数」に入れることで、0が先頭に10個続く「ハッシュ値」を探す、というわけです。

例えば、イメージではこんな感じです。

1f2258g36a1147v2c558h2174s6f5 + 0215(ナンス値)→01dr8574a65d958rtl
1f2258g36a1147v2c558h2174s6f5 + 5s68(ナンス値)→36s00d258a547r54cv
1f2258g36a1147v2c558h2174s6f5 + 3ss8(ナンス値)→0000004se85f4a96df4



1f2258g36a1147v2c558h2174s6f5 + 888q(ナンス値)→0000000000d5ff6y8a5

これで、数値に「888q」という「ナンス値」を加えることで、先頭に0が10個つく「ハッシュ値」を見つけ出すことが出来ました。

さて、ここまでの話をおさらいしましょう。

今、「POW」という仕組みの説明をしているのでした。この仕組みは、10分毎の取引データをまとめた「ブロック」に名前を付ける競争を皆でして、一番早かった人に報酬として「ビットコイン」が与えられる、というもので、「マイニング」と呼ばれています。

「ブロック」の名前は、「一つ前のブロック全体の情報から作られた数値」に「ナンス値」を加えることで、「先頭に0が◯個付く」という条件をクリアする「ハッシュ値」が相応しいものとして認められるわけです。で、この計算は、パソコンをガシガシ使って総当たりで計算しないと出来ません。だから、世界中の人が躍起になってこの競争に参加して、見事条件を満たす「ナンス値」を見つけることが出来れば、「ビットコイン」を「マイニング(発掘)」出来る、というわけです。

これで「POW」の説明は終わりですが、何故この「POW」が画期的な仕組みなのかを次に説明していきましょう。

もう一度おさらいすると、

【「ブロック」の名前は、「一つ前のブロック全体の情報から作られた数値」に「ナンス値」を加えることで、「先頭に0が◯個付く」という条件をクリアする「ハッシュ値」が相応しいものとして認められる】

わけです。では、ある「ブロック」の取引データを改ざんしたらどうなるでしょうか?

今、「改ざんされる前のブロック全体の情報から作られた数値」を、先ほどと同じく「1f2258g36a1147v2c558h2174s6f5」としましょう。これに「888q」という「ナンス値」を加えることで、次の「ブロック」の名前が「0000000000d5ff6y8a5」となったわけです。

では、「改ざんされた後のブロック全体の情報から作られた数値」はどうなるでしょうか?もちろん、「1f2258g36a1147v2c558h2174s6f5」とは違う値になります。ということはそれによって、次の「ブロック」の名前も「0000000000d5ff6y8a5」とは違う名前に変えなければ改竄したことがバレてしまいます。なんとかそれを、計算して相応しい名前に変えられたとしましょう。しかし、「ブロック全体の情報」には、「ブロックの名前」も含まれるので、「ブロックの名前」が変わってしまえば、「ブロック全体の情報から作られた数値」が変わり、それによってさらにその次の「ブロックの名前」が変わってしまう、ということになるわけです。

つまり、「ブロック」の情報のどこか一箇所でも改ざんしてしまえば、それ以降すべての「ブロック」の名前を相応しい名前に変更し続けなければ、改ざんしたことがバレてしまう、ということです。このような仕組みになっているから、「ブロックチェーン」というのは、不正や改ざんが極めてしにくいと考えられており、これを使うことで「中央集権的」なシステムを排除できると考えられているわけです。

「ブロックチェーン」には他にも、優れた仕組みが組み込まれています。

「ビットコイン」の「ブロックチェーン」では、誰かが相応しい「ナンス値」を発見したら、他の人がその「ナンス値」が相応しいかを計算し、「マイナー(マイニングする人のこと)」の過半数がその「ナンス値」を承認すれば、ブロックに名前が付くことになります。この「過半数が承認する」というところが重要です。この場合の「過半数」というのは、「人数」のことではなく「コンピューティング能力」のことを指します。パワフルなコンピュータを使っている人の方が、そうでない人より存在感が大きい、ということです。

この仕組みを逆手にとって、こんな不正を働くことができそうです。つまり、「マイナー」の全コンピューティング能力の51%以上を自分が保有して(つまり、超強力なコンピュータを何千台と繋げて)、本当は相応しくない「ナンス値」を「これが相応しい!」と自分が主張してしまう、というやり方です。「ナンス値」が相応しいかどうかは、過半数が承認すればいいわけで、自分がその過半数を占めてしまえば、実際には相応しくない「ナンス値」でも正しい「ナンス値」と認めさせることが出来るわけです。

でも、実際にはそうはなりません。何故なら「ブロックチェーン」というのは「P2P」という、多数のコンピュータ(ノード)が連結したシステムであり、つまり「ビットコイン」というのは「参加する人がいるから存在するもの」だからです。確かに原理的には、51%以上のコンピューティング能力を保有して支配することは出来ますが、そうなると、「ビットコイン」に参加する人が誰もいなくなり、結局手に入れた「ビットコイン」が無価値になってしまうのです。この「51%アタック」と呼ばれる問題は、実際には「ブロックチェーン」に組み込まれたインセンティブシステムがうまく働いて、回避することが出来るのです。

とはいえ、難しい部分もあります。例えば「ハードフォーク」と呼ばれるものです。これは、「互換性のないシステム変更」を指す用語です。バージョン1からバージョン2へ変更が行われる際、全員がバージョン2に移行してくれればいいですが、バージョンに留まる人も出てきます。バージョン1とバージョン2は互換性がないので、つまりこの時点で通貨が分裂する、ということになってしまうのです(実際にそういう例が過去にあった)。このように、「ブロックチェーン」や「仮想通貨」の仕組みも、まだまだ完璧ではありません。

本書では、そんな「ブロックチェーン」を、非常に分かりやすい言葉で説明してくれます。技術やシステムをちゃんと理解してもらおうというより、「ブロックチェーン」の根幹的な部分と、「ブロックチェーン」によって何が出来るのかという部分に焦点が当てられている感じです。本書を読めば分かりますが、実際に様々な応用事例が検討されていて、実際にプロジェクトとして動き出しているものもあります。元々は「ビットコイン」という仮想通貨の中で生み出された「ブロックチェーン」という仕組みですが、今では「仲介業者が存在しないままサービスを提供するシステム」として活用が期待されていて、その目的で設計された「イーサリアム」というシステムがかなり注目を集めています。他にも、著作権保護や電力供給、土地登記や仕事の仕方、サプライチェーンの改革など、様々な応用が検討されています。

個人的にはとても興味がある技術なので、これからも知識を拡げていきたいと思います。

森川夢佑斗「ブロックチェーン入門」

死に山 世界一不気味な遭難事故 <ディアトロフ峠事件>の真相(ドニー・アイカー)

本書はまず、巻末の解説から読むのがいいかもしれない。少なくとも僕は、読後解説を読んで、「なるほど!」と感じることがいくつかあったし、読む前に知っておけばなお面白かったかもしれない、と思うからだ。

解説には色々と書かれているが、その中の一つに、「何故<ディアトロフ峠事件>が2010年頃に突然注目されるようになったのか」が説明される。

<ディアトロフ峠事件>がどんなものであるのかは後で触れるが、起こったのは1959年のことだ。何故そんな大昔の出来事が今最近また話題になっているのかと言えば、この事件がソ連時代に起こったからだ。ソ連はずっとアメリカと睨み合っていたし、同時に世界最大の非英語圏だ。だから未だに世界にとって、「ソ連(ロシア)」というのは未知が多い国なのだ。もちろんこの<ディアトロフ峠事件>は、国内では大いに話題になっていたし、著作も多数出版されている。しかし、この事件を英語圏に人が知ったのはごく最近だ。ウィキペディアの英語ページが出来たのが2006年、ロシア語ページが出来たのが2008年だという。解説の中で、インターネットが生まれたことで世の中から「謎めいたもの」がどんどん無くなってしまう中で、この<ディアトロフ峠事件>は、このインターネットの世界においても未だに不動の「謎」としてその特異な存在感を持ち続けているのだ、ということが指摘されている。

そんな事件を扱った本書に対して解説氏は、

【この複雑怪奇なディアトロフ峠事件をめぐる、現時点での唯一にして決定的な読み物となっている】

【そこで著者は当時の記録を綿密に調べ上げて、事件担当者の変遷から調査方法、その発見の様子まであぶりだし、曖昧な情報を排除している。つまりこの記録を読めば、ディアトロフ峠事件における基本的な事実、少なくとも「公開されている事実」のほとんどは俯瞰できると言っていいだろう】

と書いている。読み終わった僕の感覚からしても、確かにそうだろうと思う。なんと言っても著者は、手に入る資料はすべて目を通し、それでも謎が解けず、最後の手段と言わんばかりに、9人が遭難したホラチャフリ山(別名「死の山」)に、彼らが遭難したのと同じ時期に登るという無謀なことをやってのけるのだ。これがどれほど無謀なことかと言うと、例えば、<ディアトロフ峠事件>に関する書籍はロシア国で多数出版されているが、そのどの著者も、真冬のホラチャフリ山に登ったことがない、という指摘で十分だろうか。実際に著者らが登った日も、自力で登るのは諦め、スノーモービルでの移動となったが、それでもかなり危うい思いをするほどの険しい道程なのだ。

【たしかに当初からこの事件に夢中になってはいたが、現実的に人生のどの程度をそれに費やしてよいかわからなかったのだ。】

と書く著者は、この事件の調査中に子供が生まれている。9人が遭難した山に登ってる場合ではないのだ。しかも、著者に協力してくれたロシア人は多数いたが、その誰もが、「何故アメリカ人のお前が、ディアトロフ峠事件なんかを調べてるんだ」と問うてくる。まあその疑問は、確かにもっともだ。何せ著者自身も、そう感じていたのだから。しかし本書の中で著者は、こうも書いている。

【どんな外的事件によって惹きつけられたにしても、私が関心を抱くのはやむにやまれぬ情熱を抱く人々だ】

著者は本来はドキュメンタリー映画作家であり、映像の方で「やむにやまれぬ情熱を抱く人々」をこれまで撮ってきた。そういう意味で、難しいルートに挑もうとする9人のトレッカーたちの情熱に著者は惹かれたのだし、本書では、遺された日記や写真、そして客観的な証拠などから、9人の若者たちがホラチャフリ山に挑む過程をつぶさに描き出していくのだ。

さて、そろそろ<ディアトロフ峠事件>について書こう。まずこの「ディアトロフ」というのは、9人の内の一人の名前だ。イーゴリ・ディアトロフ、類まれな技術力と統率力を持つ、まさにリーダーに相応しい人物だったと多くの人が証言する、9人のトレッカーたちのリーダーだ。
ウラル工科大学の学生をメインとした10人(実はこの事件には生存者がいる。9人が謎の遭難をするずっと以前に、体調を崩したために下山を余儀なくされたユーリ・ユーディンだ)は、入念な準備をし、陽気な若者と言った感じでトレッキングを始め、そして2月1日にホラチャフリ山にアタックした。そしてその後、行方がわからなくなった。
まず彼らの家族が心配をし、ようやく大学が重い腰を上げ、調査に乗り出す。やがてイヴデル検察局が、行方不明事件について犯罪捜査を命じ、大規模な捜索が行われた結果、最終的に9人全員の遺体が発見された。
しかしその死に方は、あまりにも奇妙としか言いようがないものだった。
彼らは、ホラチャフリ山の斜面にキャンプを設営し、夜を明かそうとした。そのテントはほぼ無傷で残っていたが、そのテントには誰一人残っていなかった。そして9人は、テントから1キロ半ほど離れたところで、バラバラで見つかった。氷点下の季節であるのに碌な服も着ておらず、ある者は舌を失っていたり、ある者はかなり大きな衝撃を受けたことによって死亡した。ほぼ全員が靴を履いていなかった。テントには刃物で切られたような痕があったが、しかしテントの周辺には、9人以外の足跡は発見されなかった。また、彼らの衣服からは大量の放射能物質が検出されたという。
捜査官は、国からの圧力があったのか、短期間で捜査を打ち切り、9人は「未知の不可抗力」によって命を落とした、と報告書には書かれた。
これが<ディアトロフ峠事件>の全容である。

この事件に対しては、情報がほとんど存在しないこと、さらに国内ではよく知られた情報があまりにも不可解であるために、突飛なものを含む様々な仮説が生み出された。雪崩、吹雪、殺人、放射能被爆、脱獄囚の攻撃、衝撃はまたは爆発によるショック死、放射性廃棄物による死、UFO、宇宙人、狂暴な熊、異常な冬の竜巻、最高機密のミサイル発射実験を目撃したせいで殺されたなどなど、様々な仮説が存在している。

しかしどれも決定打に欠ける…というか、本書を読むと理解できるのだが、遺された証拠と合わないのだ。どんな可能性を考えても、どこかで整合性が取れない。しかし、あそこで何かが起こったことは間違いない。著者はそれを、執念とでも言うべき根性で解き明かしていく。

本書では、著者なりの結論が提示されている。それをここで明かすことはしないが、なるほどそれはメチャクチャ説得力のある仮説だな、と感じた。なるほど、確かにこれが真相であれば、50年以上前に原因が判明しなかった理由も納得出来るし、著者がそれを解明できたのも納得という感じだ。もちろん、それがどんな仮説であれ、これが<ディアトロフ峠事件>の真相だ!と100%断言することは永遠に出来ないが、少なくとも、本書を通読し、巷間で言われている様々な仮説よりは、本書で著者が提示する仮説の方が遥かに信憑性があるな、と感じた。

本書は、「1959年に10人のトレッカーがどのような流れでホラチャフリ山へと至ったのか」と「1959年に9人の捜索に当たった者たちがどう動いたのか」と「2010年からこの事件を著者がどう調べていったのか」という三つの視点が混在して展開されていく。1959年の記述については、様々な資料やまだ生きている人の証言なんかを繋ぎ、さらに恐らく多少の想像力も付け足しながら、まるで見てきたかのように描き出していく。そして2010年以降の記述は、著者の主観を全面に提示しながら、ノンフィクションっぽくない感じで展開されていく。僕は正直なところ、<ディアトロフ峠事件>の真相だけに興味があって読んでいたので、10人のトレッカーたちがどんな風に山へと向かっていったのか的な話は、あまり興味がなかった。捜査の過程は、捜査に携わっていた者たちの驚きと共に、衝撃的な新事実が明らかになっていく、という点が面白かった。そして、著者自身の取材の過程は、個人的にはさほど面白くはなかった。面白いと感じる箇所もあったけど、全部がそうというわけではなかった。というわけで、個人的な僕の読み方としては、本書は全部まるごと面白かったわけではない。それでも、<ディアトロフ峠事件>という異様な事件と、その斬新きわまる仮説の提示、そして著者の執念みたいなものが入り混じって、本書全体としては満足度が高かったと思う。ホントに、良くもまあ調べたものだ、という感じがする。お疲れ様でした。

ドニー・アイカー「死に山 世界一不気味な遭難事故 <ディアトロフ峠事件>の真相」

謎解き古代文明(ASIOS)

本書は、いわゆる「オーパーツ」と呼ばれる、世界中で見つかっている「不可思議なものたち」について、ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)というグループが、これまでに発表されたデータや文献などを調査し、「オーパーツ」を検証していく作品です。

本書では、とにかく色んな「オーパーツ」が扱われていますが、有名どころでは、「ナスカの地上絵」「イースター島のモアイ」「クリスタル・スカル」「トリノの聖骸布」「ストーンヘンジ」「ノアの箱舟」「アトランティス大陸」「ピラミッド」「スフィンクス」「ムー大陸」「邪馬台国」などが扱われています。個人的には、こういう有名どころの「オーパーツ」が、学術的にどういう評価が下されているのかに興味があったので読んでみました。

ちなみに「オーパーツ」というのは、「Out of place artifacts(場違いな人工物)」の略だそうです。そういう意味では、「アトランティス大陸」とか「ムー大陸」とかは人工物なのか?って気もするけど、とはいえ、結局それらが偽物だって断定するわけだし、偽物である以上生み出した人間がいる、という意味では「人工物」と言っていいんだろうかな、という感じがします。

本書は、なかなか面白い構成になっています。「オーパーツ」単位でまとまっているのだけど、そのまとまりの中で、最初に【伝説】を書き、その後【真相】を書く、という構成になっています。【伝説】では、この「オーパーツ」について一般的にどんな伝説が存在するのかが描かれます。そして【真相】で、現在までのところ判明している、確からしい事実について詳しく触れられます。【伝説】の部分は、いわゆる「世間的にそう伝えられていること」なので、正確ではない描写も出てきます。例えば最初に登場する「ナスカの地上絵」の【伝説】には、「これほど巨大な絵をどうやって描いたのか、その方法では現在でもまったく分かっていない」と書かれているのだけど、【真相】の方では、実際に分かっていると記述される。つまり本書は1冊で、「あやしげなオカルティックな記述」と「正確な調査によって判明した事実」を両方知ることが出来る、というわけです。

本書を読んで全体的に感じることは、世の中には「嘘をつきたい人」と「嘘を信じたい人」がたくさんいるんだなぁ、ということです。本書の【真相】で描かれることの多くは、「最初っから全部嘘っぱちで、嘘をついた人間もほぼ分かっている」か、「悪戯や誤報、混入、早とちりだと判明しているし、それが公式に発表されてもいるのに、それを知ってなお嘘を信じたい」というのが大半でした。例えば本書には、「11世紀に作られたサラマンカ大聖堂に宇宙飛行士を模した彫刻がある」という話が出てくるんですけど、実はこれ、1992年に修復をした際に芸術家が勝手に付け足したものだという。なんだそりゃ、という結論だが、それが分かっていてなお、11世紀に宇宙飛行士がいた証拠だ、と主張したい人がいる、というのは、本当に斬新だなぁ、と思いました。

他にも、「トリノの聖骸布は、イエスを覆った布ではない、と教皇も公言している」とか、「ムー大陸が存在すると主張している人物が参照したとする古文書は、その人以外に誰も見たことがないし、実在する可能性は低い」とか、「日本の潜水艇「しんかい6500」がアトランティス大陸を発見したというのはブラジル政府による誤報」など面白い話が色々と出てくる。中には、「175万年前の人工橋と騒がれた、通称「アダムの橋」は、実際には人工橋でも何でもないのだけど、強硬にそれを真実人たちがいるせいで、海上輸送を圧倒的に効率化する水路の建設が頓挫している」なんて話もある。こうなってくると、実害が出ていると言えるので、はたはた迷惑である。

そんな中、本書で唯一「これは実際に古代の遺物である」と高い確率で認められているものが一つだけ登場する。その名前はここでは触れないが、それが見つかった経緯が実に面白い。なんと、盗掘団の情報をキャッチした警察と考古学者がおとり捜査を行う、その押収品の中にあったものだ、というのだ。凄い話である。そんな特異な経緯で発見されたものだが、色んな調査の結果、古代のものであることは確実だろうとされている。なるほど、こういうこともあるから、超古代史ファンは止められないのかもしれない。

本書の項目で、一番意外なのは「江戸しぐさ」だろう。本書を読んで、確かにそういう記述を昔読んだ記憶あるなぁ、と思い出したのだけど、「江戸しぐさ」というのは1980年代に「作られた」ものなのだ。江戸時代の知識がある人なら、今広まっている「江戸しぐさ」が、江戸時代の生活の中で有効のはずがない、と気づくという。別に「江戸しぐさ」は、現代人が現代人のために作ったマナーだから、実用的ではあるし、学ぶこと自体は悪くないが、これが「江戸時代から連綿と続く日本の伝統である」と教えるのはいかがなものか、と本書では苦言を呈している。

最後に一つ。
本書の注釈の中に、こんな記述がある。

【アメリカには「神が過去1万年ほどの間に、人間を現在のような姿で創造した」と考える人々が人口の44~47%近くいるという(ギャラップ社調べ)。ICRのようなキリスト教原理主義者の団体は、こうした考えを「創造科学」「ID(インテリジェント・デザイン)論」と呼び、公立学校の理科の時間に教えるべきだ、と主張している】

アメリカ、凄いなぁ。確かに、どんな学説も常に更新される可能性があるし、今正しいと信じられている通説が絶対に正しいとも限らないけど、しかしそうだとしてもさすがに、「神が過去1万年ほどの間に、人間を現在のような姿で創造した」という主張は、あらゆる物的証拠と照らし合わせて整合性が取れないだろうと思う。彼らは、原人は原人で存在していたが、別に我々の祖先なわけではなく、我々の祖先は原人とは別に起源を持つ存在だ、という主張であるらしい。どうも彼らは、人間が猿から進化したのだ、ということを受け入れたくないようだ。

まあ、何を信じるかは自由だ。しかし、教育は教育として区別しないといけないよなぁ、と思う。「進化論を否定する」という思考が見についてしまうと、自分のその信念に合わせるように、他の正しさも歪めてしまう可能性があるだろう。そうなってしまうのは、科学にとっても子供たちにとっても不幸でしかない。アメリカ人は、目を覚ました方がいい。

凄く面白かったわけではないけど、なかなかおもしろく読めた作品です。

ASIOS「謎解き古代文明」

「GODZILLA 星を喰う者」を観に行ってきました

シリーズ完結編も凄い!
1作目の感想→「GODZILLA 怪獣惑星」を観に行ってきました
2作目の感想→「GODZILLA 決戦機動増殖都市」を観に行ってきました
しかし、1作目を見た時は、まさかここまで壮大で、深淵で、哲学的思考に溢れた作品だとは思いもよらなかったなぁ。
(2作目の感想までは、可能な限りネタバレをしないように感想を書いてきましたが、今回では、シリーズ全体を通じてのネタバレ込みの感想を書きたいので、この映画をまだ見ていないという人は、以下の感想を読まないでください)












大前提としてこのシリーズは、「人類」「ビルサルド」「エクシフ」という三つの異なる種族が共同でゴジラと立ち向かう、という構成になっている。元々地球にいたのが「人類」だが、色んなことがあって、「人類」から見れば地球外生命体である「ビルサルド」と「エクシフ」という異種族を受け入れ、ゴジラに対する共同戦線を張ることになる。

そして、このシリーズの絶対的主役は、「人類」であるサカキ・ハルオだ。彼の視点で物語が進んでいくので、基本的にこの映画を観る者は、「人類」側の視点で物事を捉えることになる。

シリーズ1作目は、それでなんの問題もなかった。何故なら1作目は「人類」の物語だったからだ。ゴジラによって地球を追われ、宇宙船での20年にも及ぶ漂流生活を余儀なくされた。そして、居住可能な惑星を探索するというミッションを諦め、ゴジラを打ち倒してまた地球に住む、という目標のために、強大すぎる敵に立ち向かっていくのだ。奪還しようとしているのが、「人類」の母星である地球でもあるし、やはりハルオが全体の統率を担っているので、「人類」側の価値観が優位となって話が展開していく。というか、1作目を見ている時点ではそんな意識もすることはなく、色んな描写を当然だと思いながら受け入れていた。

しかし、2作目から様子が変わってくる。2作目では、「ビルサルド」が主役に躍り出ることになる。ゴジラを倒せたかと思いきや、それはまだ雑魚で、さらに巨大なゴジラがいたことが判明し絶望する彼ら。もう打ち倒す手段などないかに思われたが、実は地球には、フツワと名乗る種族が生き延びていた。昆虫の遺伝子を取り込んでいると思われる彼らの助けを借りながら態勢を整えた彼らは、フツワのとある技術に目を付けた。いや、目を付けたのは「ビルサルド」の面々だ。彼らはそれが、「ビルサルド」がかつて開発し、研究を進めていた「ナノメタル」であることに気づいた。自己増殖し、設計図通りに自己を形成していくことが可能なナノメタルを使えば、ゴジラを打ち倒すための「メカゴジラシティ」を生み出すことが出来る。「ビルサルド」の考えるゴジラ討伐プランを進めていくことになるのだが、その過程で、「ビルサルド」という種族の特異性が浮き彫りになってくるのだ。

それが、「ビルサルドという種全体で一つの存在である」というような捉え方だ。個の存在に価値はなく、「ビルサルド」という種族全体のためには、「人類」から見れば命を捨てているようにしか見えない犠牲も厭わない。彼らは非常に合理的な思考をする種族であり、個よりも全体を優先する。彼らは「人類」や「エクシフ」にも全体への合一(つまりそれは、ナノメタルに飲み込まれる、ということ)を強要し、さらに、ゴジラを討伐するための作戦に、「ハルオたちがその全体に組み込まれる」という条件が内包されていたのだ。確かに、彼らが主張する方法でゴジラは倒せるだろう。しかし、ゴジラを倒した後の世界はどうなるのか。すべての存在が「メカゴジラシティ」という全体に組み込まれ、個人という概念が存在しないまま、「メカゴジラシティ」が地球上を覆い尽くす世界がやってくる。果たしてそれは「人類」にとって、意味のある勝利と言えるのか?

そのことに納得できなかったハルオは、自らの意志で全体への合一を拒絶、結果、ゴジラは休眠するに留まり、討伐するには至らなかった。

ここまではシリーズ2作目までの物語だ。

完結編である今回は、主役を「エクシフ」に移すことになる。

「エクシフ」はシリーズを通じて、宗教的な導きをする者として描かれる。争いは好まず、祈りによって現状を肯定しよう、というような考え方だ。「エクシフ」のトップであるメトフィエスは、「メカゴジラシティ」によるゴジラ討伐の失敗をうまく利用し、自らの宗教的地位をさらに高めた。実はこの戦闘を生き延びた者の中に、ナノメタルに接触されながら飲み込まれなかった者たちがいた。彼らはそこに合理的な説明を見いだせず、「奇跡だ」と受け取ることになる。そしてそのことを利用し、メトフィエスは自らの存在感を高めたのだ。しかし実際には、ナノメタルに飲み込まれなかった者たちには共通項があった。彼らは、フツワによる治療を受けていたのだ。それはハルオも同様だった。医師はそれを見抜き、フツワの治療の何かがナノメタルと親和性がないのだとハルオに告げたが、彼は状況を読みそれを他の者に伝えようとはしない。メトフィエスが残った者たちを実に上手く掌握し、ハルオでさえ実質的な実権が奪われているような状況なのだ。

そんな中、ようやくメトフィエスがその正体を現し始める。彼はハルオに、「神がゴジラを打ち倒す」と伝えた。与太話だとつっかかり、さらに、もしそれが本当であるなら、何故今まで伏せていたのだと詰め寄る。これまでゴジラとの戦闘でどれだけの命が奪われたと思っているのだ、と。しかしメトフィエスは意に介さない。彼はある場面で、こんなことを口にする。

『怪獣を怪獣足らしめるものは、怒りだ。
英雄を英雄足らしめるものは、憎しみだ。
そして神を神足らしめるものは、英雄による祈りだ。』

そしてその条件が揃うのを待っていたのだ、とハルオに言うのだ。

「エクシフ」にとっての「神」とは、実は「数学的演算の帰結」であることが徐々に明らかになっていく。そして実際に「ギドラ」と神の名を呼ぶことで、異空間から「神」がやってきた。どんな観測方法によっても捉えられないが目の前に現に存在する、異様な「神」だ。

「エクシフ」にとっての「祝福」とは、「恐怖からの離脱」だ。彼ら種族は、高度な数学・科学的な知見によって、宇宙の果てまでを計算し尽くしてしまった。そしてその結果、宇宙は有限であり、いずれ終焉を迎えることが演算によって明らかになった。そこで「エクシフ」は、自らを供物として「神」に捧げることで、終焉のその向こう側の世界を探求する決断を下した。そして、ごく僅かの「神官」のみが残され、彼らは「収穫」のための活動を続ける。

「収穫」とは何か。それは、高度な文明がいずれ辿ることになる、ゴジラという「果実」を「神」が喰らい尽くすことだ。

テクノロジーによる進化を希求し、高度な文明を手に入れた者たちは、やがて「ゴジラ」の出現によって滅びる。「ゴジラ」というのは、高度な文明の終焉の象徴であると同時に、終焉を彩る「神」に捧げられる「果実」でもあるのだ。メトフィエスたちは、様々な高度文明を渡り歩きながら、「収穫」の時を待つ存在だったのだ。

あらゆるものを喰らい尽くす、ゴジラ以上の最悪の存在である「ギドラ」に対し、「人類」代表であるハルオはどのような結論を導き出すのか…。

とまあ、こんな感じで、完結編の中身をほぼほぼ全部書いちゃったけど、凄かったなぁ。この映画は、確かにこれまでのゴジラのシリーズの流れの中にはあるのだと思う。ゴジラが現水爆実験に端を発して生まれた、という設定は同じだし、さらにそこから、高度文明の終焉に必ず現れる怪物、という性格を付与するのは自然な流れだと思う。しかしその一方で、「人類」「ビルサルド」「エクシフ」という、「生きる」ということに対する価値観がまったく異なる種族の思想を物語にうまく噛み合わせていくことで、これまでのゴジラシリーズとはまったく異質な作品にも仕上がっている。

これまでのゴジラは、なんだかんだと言っても「ゴジラ」が主役だったのだと思う。ゴジラという強大な存在を圧倒的な存在感で描き出すことが重要であり、そこから派生して、そういう巨大な存在に対して人類はどう立ち向かっていくのか、ということが描かれていくわけです。

しかしこの映画では、もはやゴジラは主役ではない、と僕は感じた。ゴジラはあくまでも触媒であり、何の触媒であるかと言えば、「人類」「ビルサルド」「エクシフ」の根本的な違いをあぶり出すための触媒だ。彼らは長い年月を掛けて、共に生きてきた。その過程で様々な衝突はあっただろうが、共存できているということはその衝突は致命的なものではなかったということだ。しかし、この映画を最後まで見れば分かる通り、「人類」「ビルサルド」「エクシフ」の、「生きる」ということに対する価値観には絶望的な乖離がある。本来であれば共存など出来るはずがないほどの断絶が、しかし、それまでの関わり合いの中では浮き彫りにはならなかったのだ。

ゴジラという存在は、その圧倒的なまでの断絶を浮き上がらせる触媒としての機能を持つ脇役として描かれているのだ、と僕は感じた。この映画の根本的な革新さは、ここにあるのではないかと思う。圧倒的だったのはゴジラの存在そのものではなく、三種族の間にある絶望的な断絶の方である、という描き方をすることによって、深淵で哲学的な思考を展開する異次元の物語に仕上がっている。

しかし、やはり凄いなと感じるのは、このシリーズでは「ゴジラ」という存在に、これまでなかった新たな意味を付与したことだろう。これまで「ゴジラ」は、「人類を破壊する怪獣」としての意味以外に、「人類の傲慢さが生み出した罰」というような意味があった。もちろんこの映画でもそういう側面はしっかりと描かれていくのだが、さらにこの映画では、「高度な文明が滅びることによる果実」だという意味が付与される。地球というスケールの生態系ではなく、宇宙(それも、僕らの宇宙以外の宇宙も含む)全体で成り立つ壮大な生態系を描き出し、その中で、「ゴジラ」という「高度な文明が滅びることによる果実」を捕食する「数学的演算の帰結」としての存在が「神」である、という発想は、ちょっと壮大過ぎて震えた。その構造の中に、「エクシフ」という異種族をうまく組み込み、さらに「人類」「ビルサルド」「エクシフ」という三つ巴の混沌を、ゴジラを起点に描き出していく、というこのシリーズの構成は、ちょっと凄すぎるように思う。もう、ちゃんと理解できている自信はないし、意味不明なんだけど、面白すぎたなぁ。

普段はあまり、一度見た作品(映画も小説も)をまた見たいとは思わないのだけど、この映画は、最後まで物語を理解した上で、改めて最初から見たいなと、久々に思わされた作品だった。

「GODZILLA 星を喰う者」を観に行ってきました

「斬、」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
250年に渡り平和だった国内が、開国するかどうかで揺れ動いていた江戸末期、貧窮して藩を出て、農家に身を寄せていた杢之進は、農家の息子である市助に剣術を教えていた。市助の姉・ゆうは、農家の息子が武士かぶれすることを嫌がっていたが、市助本人がその気なのだから仕方ない。杢之進は、時代の変化を感じつつも、農家の仕事を手伝いながら穏やかな生活を続けていた。
しかしそんな杢之進も、やはり江戸へと向かう決意を固めていた。「死ぬの?」と聞くゆうに「死にません」と返す杢之進。杢之進に惹かれるゆうは、行ってほしくない気持ちを押し隠しつつ、杢之進と関わり続ける。
ある日、果たし合いの場面を目撃する。圧倒的な強さを誇った男が、杢之進らに話しかけてきた。澤村と名乗った男は、江戸へと向かう仲間を探していると言った。杢之進は誘われ、市助も控えとしてではあるが声を掛けられた。
その出立の前日、悪い噂が聞こえる荒くれ者達が村の近くに居座るようになった。村を守るためにもう少し留まって欲しいと村人は願うが…。
というような話です。

個人的には、そこまで惹かれる作品ではなかったなぁ、という感じでした。時代背景が明確に説明されないし、それぞれの個々の事情もイマイチよく分からないし、当時の武士の生き方なんかに関する知識もあまりないので、どういう見方をする映画だと想定されているのかがまずうまく掴めなかったな、と感じました。読み取る力とか、この時代に関する知識がある人には問題ない映画なのかもしれないけど、僕にはちょっと彼らの心情や葛藤なんかを読み取れるレベルにまで、そもそもこの映画の背景的な部分を理解できなかったという感じがします。

だからでしょうか。杢之進やゆうの、泣き叫んだり震えたりするようなシーンが、僕にとってはあまり真に迫ってこないんですね。何故そうなっているのか、という理由が僕にはイマイチ把握出来ないから、彼らの感情の発露がピンと来ない、という場面が多かったです。

自分の読解力のなさを感じさせられる映画でした。

「斬、」を観に行ってきました

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂(落合陽一)

落合陽一が自分より年下だっていうのが、なんか絶望だなって感じだ。
年齢が近いから余計に。

凄いなぁ、落合陽一。
僕は生まれ変わったら数学者か棋士になりたい、と思っているんだけど、とりあえずもっと広く「天才」になりたいな、と思う。
本書を読んで、内容の半分も理解できない僕は、落合陽一がどんな世界を見ているのか、体感したい。
もちろん、落合陽一が類まれな努力を重ねている、ということは十分理解しているつもりだけど、それにしても、僕が生まれた瞬間から死ぬほど努力しても、落合陽一のようにはなれないだろう。
生得的なものと、育ってきた環境要因は、間違いなく落合陽一という人間に大きな影響を与えていると思う。

以前、何かの雑誌で小説感円城塔が、「会いたい人はいるか?」というような質問をされた時に、「会って話してみたい人はいるけど、その人の時間を奪うだけになるから会いたくない」という返答をしていたのが印象に残っている。自分は憧れを抱いている存在だからもちろん会って話がしたいけど、相手にとって自分と会うことが益にならない。そんな風に、相手の貴重な時間を奪ってしまうだけになるくらいなら、会いたくない、という判断だ。

僕は今まで、森博嗣という小説家に対してそう感じてきた。僕は森博嗣が大好きだし、会って話してみたいと思うけど、どう考えても、森博嗣が僕に会うメリットがない。どれだけ僕が努力したところで、森博嗣の時間を奪うだけになってしまうだろうから、会いたいけど会いたくない、と思う。

落合陽一にも、似たような感覚を抱いた。

さて、本書を読み終わったのだけど、正直、半分も理解出来なかった。
僕の理解はこんな感じだ。

本書の文章の1/3は、通常の文章を読む時と同じぐらいのスピードで読めて、内容も大体理解できた。
本書の文章の1/3は、ゆっくり時間を掛けて読めば何とか理解できる、というレベルの難易度だった。
そして、本書の文章の残りの1/3は、何が書いてあるのかさっぱり理解できなかった。

例えば、難しいなぁ、と感じた文章を2つほど引用してみよう。

『言語を経由しない直接的変換によって、意味論の外部で現象を定義し、それを外在化する方法に辿り着かなければ、西洋形而上学の枠組みの中で、本質から疎外された言葉遊びを永遠に繰り返すことになるだろう』

『物質的な存在に規定される人間が、デジタルデータの信用に基づくエコシステムを信じることによって成り立つ価値は、物質的な価値に紐づかないデジタルデータによりつながっており、これらのインフラを成り立たせる諸条件、つまり<計数的な自然>となりうるインフラであるインターネット上のデジタルネイチャー、デジタルエコシステムは物理的な人間存在へ対応するという意味で、デジタルエコシステムを全体最適しているように見える』

すんなり意味が読み取れるだろうか?もちろん、前後の文脈もあるし、本書にはキーワードの注釈が大量にあるので、それらを省いて一文だけ抜き出したら、分かるものも分からないかもしれないが、とにかくこういう感じの文章がオンパレードだ。普段僕は、小説でも小説でなくても、大体100ページを1時間で読める。でも本書は、ちゃんと測ったわけではないけど、270ページほどの作品を7~8時間掛かって読んだように思う。とにかく濃密な作品で、本書を執筆するためには、本書の中で扱われている要素の100倍以上の知識や経験を必要とするだろうと思う(それぐらいのバックグラウンドがないと、こんな本は書けないだろう)。著者は、いわゆる工学系の分野でメディアアーティストとして活躍する研究者だが、理系的な知識だけではなく(理系的な知識に限っても、一分野の知識に留まらず、物理・科学・生物など全方位的な知識がある)、思想史・人類史・哲学・宗教などといった分野にも造形が深い。例えば、人工知能の世界でよく使われる「End to End」という言葉は、いわゆる「ディープラーニング」の言い換えであり、入力データと出力データ以外はブラックボックス化されていて、入力という「End」(「一端」ぐらいの意味だと思う)から出力という「End」に繋がっていく、ということを表すようだ。そして著者はこの「End to End」という概念を、華厳経の「事事無礙法界」という概念と対比させる。こんな風にして、あらゆる知識を織り交ぜながら、あくまでも軸足は理系的な部分に置いて書かれた思想書、という感じだ。

本書について、著者は冒頭でこう説明している。

『この本では、僕が見てきたさまざまな領域に及ぶ活動―計算機科学、応用物理、エンジニアリング、アート、デザイン、ビジネスを通じて実現させようとしている<計数的な自然>、デジタルネイチャーの世界観を描きながら、脱近代的視点がもたらす社会変化や、それを踏まえた提言、分析、思考を行っている』

本書のタイトルにもなっている「デジタルネイチャー」というのが本書のテーマであるが、これは著者の造語だと思う。この概念について考え始めたきっかけをこう書いている。

『僕が最初にデジタルネイチャーについて考え始めたきっかけは、電子回路の構造をフラクタル的に、そして再帰的に眺め始めたことだ。電子回路でヴァニタスは作れるか? ということを考えながら、曼荼羅と回路の相似形で都市を形作るようなことをぼんやり考えていたのを覚えている』

もはや何を言っているのか理解不能だが、とにかくそんな風にして、著者のマニフェストである「デジタルネイチャー」という概念は生まれることとなった。

では、「デジタルネイチャー」とは何か。また本書から引用する。

『デジタルネイチャーとは、生物が生み出した量子化という叡智を計算機的テクノロジーによって再構築することで、現存する自然を更新し、実装することだ。そして同時に<近代的人間存在>を脱構築した上で、計算機と非計算機に不可分な環境を構成し、計数的な自然を構築することで、<近代>を乗り越え、言語と現象、アナログとデジタル、主観と客観、風景と景観の二項対立を円環的に超越するための思想だ』

後半は、僕には何を言っているのかイマイチ理解できないが、前半の「デジタルネイチャーとは、生物が生み出した量子化という叡智を計算機的テクノロジーによって再構築することで、現存する自然を更新し、実装することだ。」だったら、大体理解できる。

まず「生物が生み出した量子化」とは何かを説明しよう。「量子化」というのはなかなか聞き慣れない言葉だろうけど、水道から出る水で説明してみよう。水道の蛇口を大きくひねる、水がずっと流れ続けている状態は、「量子化」ではない。一方、水道の蛇口がちょっとだけ緩んでいて、蛇口から水滴が一滴一滴落ちている状態は「量子化」と言える。つまり、「1,2,3…」と数えられる状態にあるようなものを「量子化」と呼んでいて、つまりこれはデジタルデータそのものと言える。何故なら、デジタルデータはすべて「0」と「1」によって成り立っているからだ。「音」は基本的に波(音波)であり、波は量子化されているものではない(ダーッと流れる水道水みたいなものだ)。しかしそれをiPodなどに入れる時には、デジタルデータに変換される。どうやっているかと言えば、波を階段のような形のもので近似しているのだ。実際には階段状(量子化された状態)ではないのだけど、階段状のものに近似することで、波をデジタルデータに変換している。

そして生物も、基本的には感覚器官から取り込んだデータを量子化しているという。耳から入った音は、神経を経由して脳に行く過程でデジタルデータに変換される(というか、デジタルデータに変換できないと神経を経由できない)。

で、著者は、「生物は量子化という仕組みを内部に持っていて、量子化っていうのは要するにデジタルデータに変換することなんだから、計算機でも同じことが出来るはずだよね。だったら、感覚器官で取り込む情報そのものをデジタルデータにしちゃっても同じはずだし、それによって眼の前にある自然を超えた現実を作っちゃおうよ」と言っている(のだと思う)。もう少しイメージしやすい例で言えば、今でいう「VR」のような入力(視覚や聴覚)によって、それがまるで本物の現実であるかのように感じられる日が来るはずだし、そうやって機械によって生み出される、人類が「自然」であると感じるものを「デジタルネイチャー」と呼んでいる(のだと思う)。

著者はこの概念を、「サイバネティックス」と「ユビキタス」に続くものだと捉えている。

『ノーバート・ウィーナーは1964年に亡くなるが、その27年後の1991年、マーク・ワイザーが「ユビキタス」という概念を提唱する。あらゆるモノがコンピュータ化し、相互に情報通信することで、人間の周囲の管渠言うそのものが進化していく、いわば、「人間のためのモノの研究」を彼は行っていた。
人間を数理的に捉えるウィナーのサイバネティックスと、あらゆるモノにコンピュータ性を付与するワイザーのユビキタス。本書で提唱している「デジタルネイチャー」はこの二つの概念を継承した計算機分野の思想だ。』

本書はこの「デジタルネイチャー」という概念を核として、様々なことが描かれるのだけど、僕自身がきちんと理解できていないので、ちゃんと説明できることが少ない。その少ない中からいくつか書いてみよう。

まず著者は、「デジタルネイチャー」を支えるものについてこう指摘する。

『デジタルネイチャーの思想の中核にあるのは「資本主義」的な中央集権化したスケールモデルと「オープンソース」的な非中央集権型の分散モデルだ』

「「資本主義」的な中央集権化したスケールモデル」というのは、国家などではなく、本書ではグーグルやフェイスブックのような巨大帝国企業のことを指している(はず)。そして、「「オープンソース」的な非中央集権型の分散モデル」というのは、厳密に言えばLinuxやFirefoxのような、管理主体のない、誰でも改変、再配布が可能なサービスのことであり、また本書では、ある程度インフラ化しているサービス、つまりツイッターやLINEなども、「オープンソース」ではないものの「オープンソース」的なものとして含まれている(と思う)。

『世界全体の利潤をインフラベースで考えると、オープンソースの影響力はとてつもなく大きい。今や市場の寡占を目指す資本主義モデルは、オープンソースなしでは立ち行かなくなっている。その一方で、オープンソースもまた、資本主義の株式会社が生み出すキャピタルゲインの余剰なしには成り立たない』

と指摘し、両者がどのように影響しあっているかを具体的にこんな風に書いている。

『現在のインターネットビジネスでは、市場への最適化の結果としてプラットフォームが生成され、それが安定すると、また別の場所に新たなプラットフォームを作り出そうとする動きが生まれる。この仕組みを駆動しているのが、ウェーバーのいう「資本主義の精神」に駆動されるキャピタルゲインと恒常的な資本の余剰から生まれる再投下だ。新たなプラットフォームの成功は、そこで生み出される価値を、次の投資対象へと向ける。その過程で、プラットフォームから非中央集権的に、共有材であるソースコードが投下され、それがオープンソースとして新しい技術のベースとなっている。』

さらに、

『対立する価値観にも見えるこの両者は、階層的かつ相互的に接続されることで、多様で自由な全体最適、均衡状態による両立、いわば「イデオロギーなき自然な全体主義への着地」を実現する』

と指摘している。僕の理解では、「資本主義的な部分がお金的な部分をなんとか回してくれて、その余剰を活かすことでオープンソース的なやり方で新たなプラットフォームが社会の中で定着していく。AIなんかもディープラーニングで優秀になってるから、そのサイクルを回し続けることで、新しいプラットフォームがどんどんと人間社会全体を最適化する方向へと進んでいく。それによって多様性が失われたりもするんだけど、でもインターネットが人間の能力や知識を外部化する存在になってくれるから、人間自体から多様性が失われても、人間と機械、人間とインターネットの多様性は失われない。こういう感じで、そういう過程でどういうことが起きて、最適化が人間をどう変えるのかについて色々書いている」という感じだ。

さて、そういうサイクルが既に回り始めているのだが、そういうサイクルによって何が起こっているのかを著者は指摘している。

『オープンソースが拡大した社会は、「生産手段の共有」がもたらす汎化によって、共産主義的になると考えている人がいるかもしれない。しかし、現在起きているのはその真逆で、むしろ市場原理の極限ともいえるような、イノベーションが短期間でリセットされ、常にゼロベースの競争を余儀なくされる世界だ。それは現在のアントレプレナー的な生き方と似たものとなる』

どういうことか。著者は具体的にこう書いている。

『オープンソースの自然化によってあらゆるものに市場原理が導入された社会では、この短期的なりセットに、市場の全員が晒されることになる。なぜなら、オープンソースが普及した社会では、コモディティ化という市場原理の上限を生み出す壁や、特定のプラットフォームが市場を寡占化したことによる停滞状態が早い段階で立ちふさがるからだ。新しく現れた知見や技術は、<受益者負担>のオープンソースに取り込まれ、社会の共有財産であるインフラや「下駄」の一部となり、市場価値はリセットされる』

要するに、どれだけ素晴らしいサービスを生み出しても、「オープンソース」が当たり前の世の中では、そのサービスが生み出す価値はあっという間に「当たり前のもの」になって、市場的な価値がリセットされてしまう、ということだ。

そして、この話とはまた別の文脈で出てくるものなのだが、著者はこんな指摘もしている。

『昔であれば、時間を投じて身に付けた能力は、一定期間は希少性が保証されていた。しかし今では、インターネットによる学習効率の向上によって、ある程度の下地があれば誰でも短期間で行動な技能を身に付けることができる。つまり、これまで属人的だと思われていた知識や技術の大半が、インターネットという誰もが同じように履ける「下駄」の部分に吸収されるようになったのだ』

この話は、著者が行ったあるワークショップが基になっている。中高生を対象にした、ハードウェア・ソフトウェア・機械学習をテーマに行われたそのワークショップは、レベル的には2011年頃には修士論文で扱われていた内容だという。しかしそれが、かなり困難さは伴ったものの、脱落者を出さずに全員が乗り切ったという。これは、インターネットを通じて得られる様々なサービスが非常に平易で使いやすく、それによって学習の難易度が桁違いに下がっているからだ。

こういうことを前提にして、著者はこう書く。

『知識が短期間で市場価値を失ってしまうことを前提として、絶え間なく学習によるアップデートを続け、さらには複数の専門職を掛け持つポートフォリオマネジメントを前提とした働き方を考えなければならない』

このような発想が、著者が指摘する「AI+BI」「AI+VC」という極端に分断化された未来の生き方に繋がっていくように思う。

『こうして、人々の労働は、機械の指示のもと働くベーシックインカム的な労働(AI+BI型・地方的)と、機械を利用して新しいイノベーションを起こそうとするベンチャーキャピタル的な労働(AI+VC型・都市的)に二極化し、労働者たちはそれぞれの地域でまったく違った風土の社会を形成するはずだ。』

『この両者の価値観の共存は難しいため、AI+VC型の社会についていけなくなった人々は、AI+BI型の社会に移住して余生を過ごすことになる。市場の拡大を目指す人間と、市場拡大の恩恵をゆるやかに受ける人間が、明確に分けられた世界だ』

そして、「AI+VC型」に向いている人についてこう書く。

『何かを起こしそうな人間を、然るべき仕事に割り当てることで打率を上げること。それがAI+VC型の社会でイノベーションを生み出す最適解なのだ』

僕は、出来れば「AI+VC型」の社会で生きていきたい。そのために何が出来るのかはよく分からないが、少なくとも「何かを起こしそうな人間」として振る舞おうと努力してきたことだけは確かだ。そういう意味では、まだ生き残れる可能性があるかもしれないな、と思う。

さて、ここまで書いたことが、僕が本書を読んで、他人に説明できるレベルで理解できたことだ。他は、断片的な記述に頷いたり(エジソンが発明家として時代を先取りしすぎていたとか、イルカが言語的ではないものでやり取りをしているかもしれない、みたいな話は凄く面白かった)、あるいはなんとなく分かったような気にはなれるけど説明できるレベルじゃないとか、そういう感じだった。難しい。

あと一つ。断片的な記述なのだけど、最近の僕の関心事に対する新たな見方が書かれていたので、それについても触れたいと思う。

最近、「人工知能が人類を滅ぼす」と警告する本を読んだのだけど、著者はその考え方に異論を唱える。
それは、「インターネットの側から人間を見る」という発想によって成されている。

著者は「インターネット」を「人類の生物学的限界を超えた「寿命から切り離された知識」」と捉えている。人間の大体の知的活動は、人間の寿命程度で完遂される。300年の建造機関が想定されているサグラダ・ファミリアや、1000年以上増築され続けた万里の長城などはその数少ない例外に入るだろうけど、インターネットはまさにそういう、人類の寿命を超越した知的生産物となるだろうとまず指摘する。著者は、インターネットは人類が滅亡しても存続し続けるだろう、としている。

さて、そんな「インターネット」の側から人類を見てみよう。インターネットは数千年単位の時間軸を持っている。そのインターネットの側から見れば、たかだか80年程度しか生きない人類など大した年月ではない。ハツカネズミの寿命は約1年だそうだが、インターネットにとっての人類は、人間にとってのハツカネズミのようなものだろう。

さて、自身の寿命よりも遥かに短い存在に対して、何か脅威を与えようとするだろうか?例えば人間が、Aというハツカネズミに対して不愉快さを感じたとしても、どうせ1年で死ぬ対象に対して何かしようとは思わないだろう。Aという個体ではなく、ハツカネズミという種全体に対して不愉快さを感じたとしても、ある一個体に対して何かするより、ハツカネズミの遺伝子などに何らかの影響を組み込んで、世代交代によってハツカネズミという種の仕組みを変えようとするのではないか。インターネット側はそれを待てるだけの時間的余裕があるのだから、わざわざ直接的に人類を滅ぼすような手段を取る必要がない、と著者は主張するのだ。人工知能は基本的に、インターネット上で存在するものなのだから、そんな人工知能が人類を滅ぼうそうとはしないだろう、という話である。

『コンピュータが推し進める全体最適化は、「死の概念」や「個人の幸福」といった人間の倫理観を超越している。しかしそれが、人間の尊厳や基本的人権を直接的におびやかす可能性は低いだろう。なぜなら、人間が判断や意思決定しうるスパンは、せいぜい自分の一生、80年程度が関の山で、それ以上の時間的スケールを要する問題はおのずと認識の外側に置かれるからである。
この世界には、「インターネット的な時間」と「生物学的な時間」が存在している。数千年生きるかもしれない前者から見れば、人間の一個体の生存時間は取るに足らない問題でしかない。我々の外側に存在している、とてつもなく長い寿命を持った環境、それが人間の想像をはるかに超えた膨大な時間をかけて、人類の形を変えていくだろう。
その観点において、シンギュラリティ以降、機械が人間を滅ぼすという議論は、そもそも問題として成立しない。インターネットやコンピュータが人類に反抗しようがしまいが、それは、私たちの生存時間においてほとんど意味を持たない「誤差」にすぎないのである』

この見方が正しいかどうかは、シンギュラリティを迎えて見なければ分からないけど、なるほど凄く納得感のある話だなぁ、という感じはする。「人工知能が人類が滅ぼす」的な本も説得力があったから、僕にはどちらがより正しそうかなんてことさえ分からないが、楽観的な信仰みたいなものではなく(人工知能に対しては、そういう感情を持つ研究者も多いようだ)、論理的に考えて「人工知能が人類を滅ぼす」論に論駁しているという点が面白いと感じた。

しかしホント、こういう本をちゃんと理解できる人間になりたいものだ。

落合陽一「デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂」

トラペジウム(高山一実)

思ってたよりずっと面白かった!
正直、ちょっとナメてた。
すいません。


昔から折に触れて考えてしまうことがある。
それは、「美人は本当に幸せなのか?」ということだ。
これは、僕が男だから提示出来る問いだ。
女性だったら、どんな立場・状況の人が発しても、問いの本質以上の余計な贅肉がついてまわってしまう。そんな類の問いだ。

僕がそんな疑問を抱く時、思い出す本がある。桜庭一樹の「少女七竈と七人の可愛そうな大人」だ。その中に、こんな文章がある。

【異性からちやほやされたくもなければ、恋に興味もなく、男社会をうまく渡り歩きたくもなければ、他人から注目されたくもないのに、しかし美しいという場合、その美しさは余る。過剰にして余分であるだけの、ただの贅肉である。
しかも、その悩みは誰にも打ち明けることが出来ない。過剰に持つものの羨ましい悩みであるとしか捉えられず、かえって非難を浴びることであろう。本人としては、真面目に思っているのだ。美しさに寄り添った人生など不要だ、と。しかし、周囲はそれを理解しない。美しさに付随するありとあらゆるを羨ましがり、それを活かそうともしない人間を軽蔑することであろう。】

僕も、同じようなことを考えることがある。

女性と話していて、「この人は、恋愛的なものに関心は無さそうだな」と感じる人がいる。これは逆に、男である僕が言うと余計な贅肉が付く捉え方だ。何故なら、「僕に関心がないだけで、恋愛には関心があるかもしれない」からだ。もちろんその可能性は常に否定できないが、それは一旦脇に置いておこう。

恋愛的なものに関心がない女性が、かなり美しかったりすると、僕は「大変だろうなぁ」と感じてしまう。

実際に、数としては多くはないが、そういう話を直接聞いたこともある。化粧をせず、ダサい格好で大学に行って目立たないように静かにしているのに、それでも、構内を追いかけ回されたりする。それでいて、同性からは妬まれる。そのせいで、恋愛とは無関係な場面で散々足を引っ張られたという。

僕は、「もっと綺麗に生まれてたら人生もっと良かったはずなのに」と言う女性の発言も何度か耳にしたことがあるが、その度に、ホントにそうかな?と思ってしまう自分がいる。美しい人には、もちろんプラスのことだって多々あるだろう。しかし、それが「プラス」であるかどうかは、人それぞれの判断だ。容姿の良さによって得ているものが、当人には「マイナス」であっても、周囲には「プラス」と思われていることだってよくあるだろう。それに、容姿が良くなければ関わる必要もなかっただろう「マイナス」だって、引き込んでしまうことになるだろうと思うのだ。

何故こんな話を書いたのか。それは、本書の主人公がこんな発言をするからだ。

『アイドルになりたくない女の子なんているんですか?』

『私、可愛い子を見るたび思うのよ、アイドルになればいいのにって。でもきっときっかけがないんだと思う。だから私が作ってあげるの』

彼女にとって、「アイドル」というのは圧倒的な「善」であり「プラス」であり「正義」だ。自分の人生を賭ける価値があると感じられる唯一と言っていいものだし、そのためなら何でも出来る。

『初めてアイドルを見た時思ったの。人間って光るんだって。』

しかし、誰もがそう思っているわけではない、ということを、彼女は失念している。「可愛い子はみんなアイドルになるべき」「なるきっかけがないから私が作ってあげる」ということが彼女の「憲法」みたいなもので、彼女には疑う余地はない。だからこそ猪突猛進にやれることがあるし、だからこそ失ってしまうものもある。

作中で、この場面にしか登場しないある人物が、こんなことを言う場面がある。

『だから、ちゃんと夢持ってる人っていんのかなって不安だった。今ここで話を聞いている生徒の中にはさ、なんとなく自分の偏差値に合ったから東高に入学して、なんとなくまた自分に合うレベルの大学を受験して、なんとなく入れそうな会社に履歴書送って、受かっちゃった企業になんとなく就職するって人多いと思うんだ。別にそれも悪くはないと思うけどさ。俺はちょっともったいねぇなって』

僕自身も、やりたいことがない側の人間だから、こういう人生を歩む可能性は十分にあったんだけど、僕はそれを拒絶して、ちょっと普通とは違うルートでここまでやってきた。正解だったかどうかはともかく、悪くはなかったと思う。

一方で、やりたいことが明確にある主人公は、自分の人生に対してどう感じているのか。

『私は、状況が変わるのを待っていた。しかしそんな日など待っていても訪れないのではないか。変わりたい、そう思った日から自分はこんなにも変わっているというのに』

これも、広く括れば、容姿が美しいことが人生に「マイナス」に作用する例と言えるのではないかと僕は感じてしまう。容姿が美しいが故に、可能な選択肢が広がる。しかし、選択肢が広がるだけであって、確率まで上がるわけではない。もちろん、他を圧倒するような美少女であれば、また話は違うのだろう。しかし、決してそういうわけではない、一般的にキレイ・カワイイ子の場合、多くの選択肢が検討出来るようにはなるが、結局どこにも行き着けない、ということだって十分にあるはずだ。結果的にそうだった場合、容姿が美しいことで選択肢が広がることが、果たして「プラス」であったのかは、判断が難しいのではないかと思う。

美しさが自分を、そして誰かを幸せにする、という意味で、「アイドル」という職業(生き方)は向いている人には最高だと思う。しかし、「アイドル」という職業(生き方)が存在することによって、「アイドル」的に生きるべきという、無言の圧力も生まれることになる。その圧力は、向いていない人にとっては、美しさを嫌悪する要因にもなるだろう。そういう、「アイドル」という存在が持つ矛盾を含んだ歪みのようなものを、アイドルらしい綺羅びやかな世界をほぼ登場させることなく描き出している、という意味で、本書は非常に特異な物語だと感じる。

内容に入ろうと思います。
東ゆうは、アイドルになりたい高校1年生。彼女は、彼女が住む城州という地域の東西南北の美少女を仲間にしようとしていた。東は、自分だ。あとは、南と西と北。事前の調査と、無謀な行動力で彼女は、お嬢様学校・聖南テネリタス女学院の華鳥蘭子、西テクノ工業高等専門学校の大河くるみ、そしてかつての同級生(らしい)亀井美嘉という三人と仲良くなることに成功した。計画は順調だ。そう、彼女は、城州の東西南北から一人ずつ集めて、アイドルグループを作ろうとしているのだ。アイドルになる、その夢をなんとしてでも勝ち取るべく、彼女はそのことばかり考えていた。
お蝶夫人のような縦巻きロールにお嬢様言葉の蘭子、NHKロボコンで優勝し一躍有名になったくるみ、そしてボランティア活動に熱心に取り組んでいる美嘉と、まったく違う個性を集め、他の3人にはアイドルを目指しているなどとはおくびにも出さずに、彼女は自らの計画を遂行していく。
僅かなチャンスをモノにした彼女だったが…。
というような話です。

さて、本書について書く上で、「著者が乃木坂46という現役トップアイドルのメンバーである」ということを抜きには出来ないので、随時そのことを織り交ぜながら感想を書いていくつもりだが、先にこれだけは書いておきたい。それは、本書は、「アイドルが書いた」という部分を取り払っても十分に勝負出来るほど、作品として自立している、ということだ。

正直僕は、アイドルの書いた小説だ、という前提で読み始めた。ある程度、評価基準を下げた方がいいだろうと、不遜にも考えていたからだ。しかし、読み始めてしばらくして、そんな必要はないと感じた。普通に、ごく一般的な小説家と戦わせても十分に勝負が出来る作品だし、というかむしろ、「現役アイドルが書いている」という点を大いなるプラスに変えて作品を書いているから、この作品に限って言えば、高山一実のアイドルとしての存在感も作品の評価にプラスすることが出来る。その辺りのことは後ほど書こうと思う。「現役アイドルが書いている」という部分をプラスに転化しているということは、見方を変えれば、アイドルという強みを生かせない題材・テーマの小説では勝負出来なくなる可能性を示唆しているとも言えるが、しかしそれはこれからの話だ。本書ではデビュー作であり、「小説家・高山一実」の存在を知らしめるためなら、使えるものは何でも使った方がいい。そういう意味で本書は、題材や切り口、描写の仕方などの部分で「現役アイドルが書いている」ことを強みにしているということが、作品全体の強みになっている、と僕は感じる。

実は本書を読み始めた時、「文章が下手なのではないか」と感じた。例えば最初の方に、

『首尾よく任務を遂行し、さっさと帰宅したいものだ』

という文章が出てくる。主人公は、高校1年生だ。今の高校生の感覚を僕が掴めているとは思えないが、しかし心理描写とはいえ、こんな話し方はしないだろう、と感じてしまった。

しかし読み進めていく内に、違和感はなくなった。その理由は、主人公の東ゆうが、ちょっと変わった人物であるということが明らかになっていくからだ。彼女は、「アイドルになる」ということを人生の第一義に掲げていて、だからSNSもやらないし、恋愛もしないし、茶色い地毛を黒く染めている。他人との関わり方もちょっと独特で、そういう「東ゆう」という変わった女の子の描写をするのに、ちょっと変に感じる文体が合うのだ。これが意図的にやっていることなのか、あるいはたまたまうまく行ったのかは、本書しか読んでいないので判断できないが、意図的にやっているとすれば、結構高度なことをやってるなぁ、という感じがした。

本書の面白さは、「現役アイドルがアイドルについて描く」という部分だが、ここはもう少し掘り下げたい。普通「アイドル」の物語と言えば、「芸能界のあれこれ」が描かれていると想像する人が多いだろう。僕も、高山一実がアイドルの小説を書いていると聞いた時、そういうイメージをした。しかし高山一実は、そのイメージを大きく外してきた。ここが、非常に重要なポイントだと僕は感じる。現役アイドルである高山一実が、「芸能界のあれこれ」を書くというのでは、「現役アイドルが書いている」という面白さが生まれにくいのだ。自分が今いる、描くのに一番やりやすくて書くこともたくさんあるだろう芸能界を描くのではなく、「アイドル」というモチーフを選びながら、ちょっと変わった女子高生が仲間集めをしているようにしか見えない設定で物語を紡いだことで、著者が現役アイドルであるということが活きてくる。何故なら、「主人公と著者が過剰に同一視されずに済む」という状況を生み出すからだ。

現役アイドルが、どういう形であれ芸能界のアイドルを描くとすれば、どうしたって「主人公=著者」と捉えられる。しかしそれは、物語を生み出す上で、大きな制約となるだろう。主人公に発言させたことが、著者本人の発言と受け取られるようでは、自由に主人公に動いてもらいにくい。それはつまり、「現役アイドルが書いている」という部分がプラスになるどころか、マイナスに働く、ということだ。

一方、芸能界のアイドルから遠い存在を描き出せば、「主人公=著者」という図式を大分緩和出来る。だからこそ、高山一実本人がするわけにはいかない様々な言動を、主人公にさせることが出来る。例えば、こんな感じだ。

『今回は可愛く撮らなくていいんだよ。ボランティアやってるっていう証拠が必要なだけなの。そういう活動してるとさ、なんかいい人っぽいじゃん』

『ここまで年寄りたちに囲まれると、いよいよ寿命を吸い取られるのではないかと心配になってくる』

こういう発言は、「アイドル・高山一実」は出来ないが、「主人公=著者」という図式が緩和されている本書の中では、「東ゆう」にさせられるのだ。このことは、とても大きいと思う。

しかも、いくら「主人公=著者」という図式が緩和されると言っても、そういう捉えられ方がまったくなくなるわけではない。高山一実は、そのことも実に巧みに利用して、「現役アイドルが書いている」ことのメリットを生み出していく。例えばこういう部分。

『なんだろう、この漂う童貞感は。』

『引いてはいない。むしろ今の自分は達観していて、この年で制服好きを自覚し公言している彼の潔さのほうに違和感を覚えている次第だ。大人になってからふれる機会が少なくなり、そこで制服の良さに気づく、というようなものが悪癖誕生のプロセスだと思っていたのだが、この年から目覚めてしまうとは早めの変態界デビューだろう』

『休みの日にボランティア活動をしている派手な顔立ちのキャラなんてギャルゲーには出てこなそうだが、もし仮にいようものならプレイヤーは「俺にもタダで奉仕してくれー!」と叶わぬ願いを叫ぶかもしれない』

こういう描写は、大分踏み込んだなぁ、と僕は感じた。これらも、先程触れたように、「主人公=著者」の図式が緩和されているが故に出来る描写だが、さらに一歩踏み込んでいると僕は感じる。こういう描写は、「主人公=著者」というより、「著者=アイドル」という捉えられ方を踏まえたものであり、「アイドルがこんなことを書くなんて!」という、ある種メタ的な驚きを与える役割を持たせているように僕には感じられるのだ。

著者が現役アイドルであることを知っていれば知っているほど、こういう描写に反応し、その反応が、本書の主人公である「東ゆう」の特異さとして認識される、というプロセスが成り立っているように感じられる。そしてこういう点こそが、「現役アイドルが書いている」という強みがより発揮されている部分だと感じるのだ。

本書は、東ゆうを中心とした4人の女子たちの関係性を通して、「アイドル」という存在の不可思議さや矛盾を浮き彫りにしていく。そしてまた本書では、「アイドル」という生き方が、広く「女性として生きること」としても描かれているように感じられるのだ。決してそれだけではないが、しかし「美しさ」という要素が圧倒的に求められる「アイドル」という存在に否応なしに触れることで、生きていく上で自分が何を一番大切にしているのかという現実に皆直面することになるのだ。

高山一実と同じく乃木坂46のメンバーである齋藤飛鳥は、以前雑誌のインタビューでこんな発言をしていた。

【(坂道グループの合同オーディションの希望者向けセミナーで登壇した話を振られて)皆さん乃木坂46に対して憧れの気持ちを持っているでしょうし、加入したいと思ってくれるのはすごく光栄なこと。「そうなんです、我々のグループ、超良いんですよ!」と言いたい気持ちももちろんあるんですけど、それと同じくらい「入ったら人生が変わります。決して楽しいことばかりではないけど大丈夫?」という気持ちもあって。どうしても良いところばかりが見えるかもしれないけど、あまり幻想ばかりをい抱いたまま入ってほしくなかったんです。】「日経エンタテインメント 2018年11月号」

この話は決して、「アイドル」に限るものではない。自分が憧れをもって目指しているその世界は、決して楽しいことばかりではない。どれだけ華やかで恵まれた世界に見えていても、激しい競争が存在する世界であればあるほど、不快度の増す現実も多いだろう。そういう、どんな世界においても成立しうる現実を、「アイドル」という舞台を使うことによって描き出しているのではないかと感じた。

『それ以来ずっと自分も光る方法を探してた。周りには隠して、嘘ついて。でも自分みたいな人、いっぱいいると思うんだよね。みんな口に出せない夢や願望を持っていて、それについて毎日考えたり、努力してみたり。勉強してないって言ってたのに100点取る人と一緒でさ。
でもそういう奴ってかっこいい』

本書を読みながら浮かんだのは、朝井リョウだ。朝井リョウと比べたらもちろん劣るが、自分も他人も恐ろしいぐらいの客観性で冷静に捉えるところとか、人間の悪意をさらっと凝縮したような嫌味のないセリフとか、人間の本質を衝くような視点とか、そういう部分から、朝井リョウ感を感じた。以前雑誌のインタビューで、乃木坂46の伊藤かりんが高山一実のことを【人当たりはいいけど、距離が縮まらない】「EX大衆2017年5月号」と評していたが、それはきっと、人間を客観的に見て本質を捉えようとする性質から来るんじゃないかと思う。そういう視点がある限り、これからも人間を描き出していくことは出来るだろうと思う。今回で、「現役アイドルが書いている」という強みは十分に発揮したから、次は、その強みが封じられてしまう題材・テーマの小説を読んでみたいと思う。

高山一実「トラペジウム」

神は数学者か? 数学の不可思議な歴史(マリオ・リヴィオ)

本書は「数学」についての本である。
しかし、この説明では恐らく不完全だろう。本書は別に、「数学の定理(ピタゴラスの定理など)」や「未解決問題(リーマン予想など)」についての本ではない。本書は、「数学そのもの」についての本なのだ。より具体的に言えば、「数学者が、数学をどういうものとして捉えてきたのか?」についての本である。

意味が分かるだろうか?

数学に興味がない人には、この疑問の意味そのものが理解できないかもしれない。「数学をどういうものとして捉えているか」なんて、そんなもん「数学」として捉えているに決まっているだろう、と。しかしそう簡単な話でもないのだ。数学の世界には、数学者の間でも意見が分かれている事柄がある。それが、

「数学は「発見」か?「発明」か?」

という問題である。

【数学は人間の心とはまったく独立して存在するのか?つまり、天文学者が未知の銀河を発見するのと同じように、われわれは単に数学的な真理を発見しているのか?あるいは、数学は人間の発明にすぎないのか?】

これが、本書の中心的な問いである。僕は、この疑問について昔から知っていたので、すんなり理解できたが、この疑問に始めて出会った人向けに、もう少し説明を加えてみよう.

例えば、星のことを考えよう。今でも世界中にアマチュアの天文学者がたくさんいて、新しい星を発見すると、申請して好きな名前を付けられたりする。こういう場合、星を「発明した」と表現する人はいないだろう。新しく発見された星は、発見される以前から存在していたはずだ。その人がその場所に望遠鏡を向けたから、その星が生まれた、なんてことはありえない。星を見つけるプロセスは、明らかに「発見」だ。

一方、言語について考えてみよう。世界中には、日本語や英語やフランス語など、限りない言語がある。これらを「発見した」と主張する人は、恐らくいないだろう。例えば日本語が、「日本語を使う者」が現れる以前から存在していて、「日本語を使う者」がそれを「発見した」のだ、などという可能性はほとんど存在しないだろう。だから言語が生まれるプロセスは「発明」だ。

では数学はどうだろうか?これは、実は一筋縄ではいかない問題なのだ。

数学を「発見」と捉えたい人は、数学があまりにもあらゆる場面で見事に適用される事実に驚嘆する。本書では、【数学の偏在性と全能性】と表現されているが、自然界のみならず、人間の活動に至るまで、数学で記述できない対象はほとんど存在せず、また数学によってありとあらゆることが驚異的な精度で説明がつくのだ。例えば冒頭で、ブラック・ショールズ方程式の話が登場する。これは、金融業界でオプション価格決定理論で用いられるものだが、この方程式が生み出された背景には、ブラウン運動という物理的な現象があったのだ。自然界の出来事を記述する方程式が、人間の営みである金融の世界でも適用できる。数学者のウィグナーはこのことを【数学の不条理な有効性】と呼んだが、何故こんなことが起こりうるのか?

これに対して、「神」(つまり、この世界を設計した人)が数学者だったのであり、神は数学に基づいてこの世界を生み出した、つまり数学は実体を持つ紛れもない存在なのだ、と考えるのが「発見」派だ。こういう立場を「プラトン主義」と呼ぶ。数学の驚異的な応用力を考えると、このように考えたくもなるが、しかし、「数学が実在する」という考え方にも色んな意味でも問題がある。

一方、「発明」派は、また違う主張をする。数学というのは、ゲームのルールのようなものであり、実在するものとの関連性などなくても構わない、考える。例えば人間は、眼の前のものを数えるのに「1,2,3…」という自然数を使う。しかしこの「自然数」という概念を、僅かな前提から論理的に導き出すことも可能だ。数学というのは、「無矛盾性」さえ保たれていれば問題ないのであって、「無矛盾性」が保たれるように人間が規則を定めて「発明」しているだけなのだ、という主張だ。こういう立場を「形式主義」と呼ぶ。確かに、本書で劇的な衝撃だったと描き出す「非ユークリッド幾何学」の登場によって、「プラトン主義」(「発見」派)は衰えたように見えるが、しかし「形式主義」(「発明」派)の場合、どうして数学がこれほどまでに様々な場面で見事な働きをするのか、うまく説明できない。

さて、数学者の間にこのような二つの立場があるのだ、ということを理解した上で、本書では、「発見か?発明か?」という数学の捉え方が、時代によってどのように変遷してきたのかという数学史が描かれていく。この構成はなかなか見事だ。「発見か?発明か?」という観点から数学の歴史を紐解いていくことで、それぞれの時代で数学がどのように捉えられていたのかが分かり、そしてそういう背景があったからこそ様々な考え方や理論が生まれていったのだ、ということが非常にわかりやすくなっている。著者自身の結論も本書には書かれていて、その結論も興味深いが、本書ではやはり、「数学」というものに対して多様な見方が存在する、ということが理解できる構成が非常に面白いと思う。

さてでは、「発見か?発明か?」の数学的な歴史をざざっと追ってみよう。

元々数学は、「発見するもの」として捉えられていた。それを明確に打ち出したのが、「ピタゴラスの定理」で有名なピタゴラスだ。正確には「ピタゴラス学派」と呼ぶべき集団のことなのだが、この学派は

【数とは、天界から人間の道徳まで、万物に宿る生きた実体であり、普遍的な原理であった】

という捉え方をしていた。まさにこれは「プラトン主義」的であり、探検家のように、「数」という世界を探索して、様々な真理や定理を「発見」すると考えていたのだ。

その考え方は、プラトンやアルキメデスと行った錚々たる数学者たちによって高められ、ガリレオが最初の到達点とも言うべき場所へと辿り着く。

【科学哲学者のアレクサンドル・コイレ(1892~1964)はかつて、ガリレオが科学的思考にもたらした革命は一点に集約されると指摘した。それは、数学が科学の文法だという発見である】

彼は、科学と数学を分かちがたく結びつけた。そして、観測データを適切な数学理論に組み込まなければ、現実を有意義に説明できない、ということを示したのだ。

さらに、哲学者として有名なデカルトが、幾何学と呼ばれる世界に革命的な発想を持ち込んだ。それが、「デカルト座標系」である。誰もが学校で習う、x軸y軸のあの座標のことだ。この表記法によって、あらゆる事柄が数学で体系的に表現することができるようになったのだ。

そういう土台の上に現れたのが、科学界に燦然と輝く大天才・ニュートンである。

【ニュートンは4%程度もばらつきのある観測や実験から、100万分の1の精度を上回る重力法則を築き上げた。彼は史上初めて、自然現象の説明と観測結果の持つ予測能力を統合したのである。物理学と数学は永久に結び付き、科学と哲学の分離は避けられなくなった】

そんなニュートンに多大な影響を与えた本が、デカルトの『幾何学』だった。当時は、「幾何学」こそ重要で有用性があり、世界を記述するための法則であり、これこそが神が創造した永久不変の真理である、というような捉え方をされていたのだ。

こうして、

【数学と科学の境界が見分けの付かないほどぼやけ、数学を理解することと、科学の広大な領域を探求することが、ほぼ等しい意味を持つようになった】

という状況が生まれることになった。

また、「幾何学」とはまた違う、「確率・統計」の話もなされる。【数学の不条理な有効性】という点で最も興味深いのは、「正規分布」の話だ。「正規分布」というのは、お寺の鐘のような形のグラフであり、体重・IQ・メジャーリーグの平均打率・株式指数の年間利益率など、様々なデータが「正規分布」に従う。まったく無関係に思えるデータ、しかも自然界の事柄だけではなく、人間の特徴や人間の活動などありとあらゆる場面において「正規分布」が登場するというのは、やはり数学こそが神の言語であるという証明なのではないか?

しかし19世紀に、衝撃的な事実が判明する。それが、「非ユークリッド幾何学」の登場だ。

これまで「幾何学」と表記してきたものは、現在では「ユークリッド幾何学」と呼ばれている。それは19世紀に「非ユークリッド幾何学」が発見されたためだ。では、「非ユークリッド幾何学」とは何なのか?この説明をするためには、「平行線公準(第五公準)」の話をしなければならない。

幾何学(ユークリッド幾何学)は、紀元前300年頃のギリシャの数学者であるユークリッドが生み出した。彼は明らかに正しいと思われる5つの単純な前提(例えば、「すべての直角は等しい」など)から、幾何学の様々な定理を導き出した。その5つの内の一つが「平行線公準」であり、大雑把に表現すると、「平行な2直線は交わらない」というものだ。まあ、当たり前だと感じるだろう。

しかし19世紀になるまでずっと、数学者たちはこの「平行線公準」に不満を抱いていた。何故なら、他の4つに比べて複雑で自明と言い難いからだ(「平行線公準」は実際には「平行な2直線は交わらない」みたいな単純なルールではなく、もう少し厳密で面倒くさい表記がなされる)。だから数学者たちは、この「平行線公準」を、他の4つの前提から導けないか色々試してみたのだが、上手く行かなかったのだ。

そこで、とんでもないことを考える数学者が出てくるようになった。それは、「平行線公準」は満たさなくてもいいんじゃないか?ということだ。要するに、「平行な2直線が交わる」ような幾何学を生み出すことが出来るんじゃないか、ということだ。

そして、実際にそれは出来てしまった。「平行な2直線が交わる」ような幾何学のことを「非ユークリッド幾何学」と呼ぶ。

これは当時の数学者たちに激烈な衝撃を与えた。何故なら、彼らは「幾何学(ユークリッド幾何学)」こそが、【真実性や確実性の極みと言える学問】と考えていたからだ。すなわちそれは、一つに定まるということだ。しかし、「非ユークリッド幾何学」が誕生してしまったことで、「幾何学」にも複数の種類が存在することが分かった。しかも、「平行な2直線が交わる」というような、現実にはおよそ存在するとは思えないような「幾何学」が成立してしまう、ということが分かったのだ。

これによって、「発見」派は大打撃を受けることになる。そして徐々に、「数学って、人間が発明したものなんじゃね?」という考え方が広がるようになっていったのだ。

そういう「形式主義」の数学者にとって、数学に求める唯一のものは「無矛盾性」だった。現実に沿わなくても、複数の幾何学が生まれても、矛盾さえなかったら問題ない、と考える人たちである。数学の本質は自由である、と考える数学者たちは、やがて「論理学」と「数学」を融合させようとする。

本書を呼んで僕が意外に感じたのが、ここだ。僕は、数学の中に論理学が組み込まれていることは当然だと考えていたのだけど、数学に論理学が組み込まれたのは、実は最近のことであるようなのだ。意外だった。論理学を数学に組み込み、普遍的な数学を生み出そうという動きによって、自然数などの一般的な概念も、ごく僅かな前提から論理的に導けるはずだ、と考えられるようになっていく。つまり、数学と現実的な意味とを分離させて、数学を純粋に論理によって構築し直そうというものだ。

論理学を数学に組み込もうとする過程で、さらに「発見」派に打撃を与える事実が分かった。この話は、ちょっと難しい(というか長々説明しないと伝わらない)のでざっと流す程度に書くが、「選択公理」と「連続体仮説」という考え方が、ツェルメロ=フレンケルのその他の公理(前提)と矛盾しない、ということが分かったのだ。

もう少し説明しよう。【「選択公理」と「連続体仮説」という考え方が、ツェルメロ=フレンケルのその他の公理(前提)と矛盾しない】というのはどういうことかと言えば、ツェルメロ=フレンケル公理系の内部では、「選択公理」も「連続体仮説」も、肯定も否定も出来ない、ということだ。本書に載っている例ではないが、これをもう少し分かりやすくするために、こんな例を考えた。

例えば、あるイベント会場の入口に警備員がいるとする。この警備員は、「髪の毛が黒い人は通して良く、髪の毛が茶色の人は通してはいけない」というルールが与えられているとする(これがツェルメロ=フレンケル公理系に当たる)。さてこの入口に、髪の毛が赤い人物がやってきたらどうすればいいだろう?警備員は、髪が「黒」の場合と「茶色」の場合しか知らされていないのだから、髪が「赤」の人物にどう対処すればいいのかは確定的ではない。この警備員が、「赤」の人物を通しても通さなくても、与えられた指示とは矛盾しないだろう。

これと同じように、【「選択公理」と「連続体仮説」という考え方が、ツェルメロ=フレンケルのその他の公理(前提)と矛盾しない】というのは、「ツェルメロ=フレンケル公理系」の中では、「選択公理」を採用してもしなくても矛盾が生じないし、「連続体仮説」も同様だ、ということだ。これによって、「選択公理」「連続体仮説」それぞれを「採用する/採用しない」という、4パターンの集合論が生まれることになる。

これは「非ユークリッド幾何学」の時と同じだ。幾何学だけでなく、集合論も複数存在するとすれば、どの幾何学・集合論を選ぶのかは人間の判断でしかなく、結局のところ数学は人間が生み出したものだということになるのではないか?そういう機運が高まりつつあった。

しかし、なかなかそうもいかない。そのきっかけは、偉大な数学者・ヒルベルトがやろうとした「ヒルベルト・プログラム」である。これもなかなか簡単には説明出来ないのだけど、「推論規則によって、公理から定理を導き出すプロセスが無矛盾だということを示す」、みたいなことです。まあ、僕もなんとなくしか理解していないからこれが限界ですが、要するにこれは、「形式主義の勝利宣言をするつもりのプロジェクト」だと思ってもらえばいいと思います。

しかしこの壮大なプロジェクトを、天才・ゲーデルが打ち砕きます。ゲーデルが打ち出した「不完全性定理」は、その中身を説明するとややこしくて難しいんですけど、要は「ヒルベルトさんがやろうとしてることは無理だよ」と突きつける、ヒルベルトにとっては絶望的なものだったわけです。結局のところ、形式主義者も、「数学は不完全なゲームでしかない」という結論しか導くことが出来なかったわけで、「発見か?発明か?」論争は、簡単には決着しないのでした。

本書の最後では、「結び目理論」と呼ばれるものが扱われます。これは、数学という学問の驚異的な一面が如実に理解できる例です。詳しくは触れませんが、要するにこれは、「間違いから生まれた理論を深めていったら、実はそれが生命の仕組みに関わりがあった」というような物語です。初めは、原子モデルを説明するために考えられた理論なのだけど、早い段階でその原子モデルは廃れてしまいます。しかし、その原子モデルを説明するために考え出された「結び目理論」は、純粋な数学の対象として、長く研究が続けられました。しかし突如、この「結び目理論」が、生命の根幹を成すDNAと深い関わりがあることが判明したのです。さらにこの「結び目理論」は、宇宙のすべてを説明すると言われる「万物理論」の候補として注目される「ひも理論」とも関係するのです。

このように、まったく無関係なところから生まれた理論(しかも、最初は間違った認識から生まれた)が、全然別のところで有効性を発揮するということが数学の世界ではしばしば起こるし、どうしてこんな不思議なことが起こるんだろうね?という問題を提起します。

そこから、著者なりの結論が提示される、というような流れになっていきます。

僕自身の感触を書いておくと、やっぱり「発見」だと思いたい、という気持ちがあるなぁ、と思います。「人間が作ったもの」と考えるのは味気ないような気がするし、それに、本書でも繰り返し書かれているように、「人間が作ったもの」であった場合に、どうしてこれほどまでにあらゆる分野において数学が有効性を発揮するのかが説明できないなぁ、と思うからです。

数学史を辿りながら、「発見か?発明か?」という興味深い謎を紐解いていく、非常に興味深い作品でした。

マリオ・リヴィオ「神は数学者か? 数学の不可思議な歴史」

デジタルゴールド(ナサニエル・ホッパー)

個人的には、「使用・保有」という意味で、ビットコインにはさほど関心はない。「使用」という意味で言えば、Suicaやクレジットカードの類もほとんど使わないし、少額決済をやりたい状況も特に存在しない。「保有」という意味で言えば、投機的な理由になるんだろうけど、ビットコインに初期から関わっているならともかく、今から参入するためには、「処理能力の高いコンピュータを持つ」か「取引所で取引するか」だ。前者をやるほどの気力はないし、後者は投資先としてビットコインが優れているのかは、僕の知識では判断できないので手を出すつもりはない。

とはいえ、「技術」という意味ではビットコインには非常に興味がある。

ビットコインの仕組みは、なんとなく理解しているつもりだ。まだ他人に上手く説明できるほどの理解度ではないが、自分の中では大雑把に捉えられている。

ビットコインというのは、「自分の『秘密鍵』以外ではアクセス不可能な通貨」だと思えばいい。例えば、タンス預金は例外だが、銀行口座に入っているお金も、クレジットカードの利用履歴も、基本的には「銀行」や「クレジットカード会社」などの「管理主体」が管理している。つまり、いくらそのお金を「自分のものだ」と言っても、何らかの理由で銀行口座が凍結されたり、クレジットカードの使用が停止されれば、お金として使えないことになってしまう。日本に生きる僕らは、あまりそのことに対する不安感みたいなものはない。比較的日本という国は安全・安心なのだろうし、国家として信頼されている部分もあるだろう。だからこそ、犯罪者や多重債務者でもない限り、銀行口座が凍結されたりクレジットカードが停止されることはない。しかし、政治や経済が不安定な国では通貨が安定せず、自国の通貨を保有することは価値がなくなることだ、という状況がある。あるいは、それが正義から来る行動であっても、政府を敵に回すようなものであれば、政府の介入により、活動資金が凍結されることだってあり得る。

このように、基本的に現代における「通貨」というのは、使用や保有(orそれらの記録)が、管理主体によって管理されてしまうことになる。その管理主体が国家や企業などから圧力を受ければ、自分の保有している通貨にも影響が及ぼされる、ということなのだ。

しかし、ビットコインは違う。ビットコインは、インターネットと同じく、管理主体の存在しないシステムだ。取引の記録は、何らかの管理主体が管理するのではなく、ネットワーク全体で管理する。そして、ビットコインを保有する者は、『秘密鍵』さえあれば、自由にビットコインを使ったり送金したり出来る。それらが、管理主体に承認される必要はないのだ。

この事実が、ビットコインが誕生した当初、ビットコインを盛り上げて行こうと努力したプログラマーたちの大きなモチベーションとなった。リバタリアンという、自由を標榜する人々に特に受け入れられ、国家や政府に干渉されない形で通貨を生み出し、使い、送り、保有することが出来る、という考えに飛びついた。

そう、ビットコインは金儲けのために生まれたわけではない。本書に、こんな記述がある。

『エリックが冗談めかして語っていたとおり、当時(※2011年頃。ビットコインの誕生から2~3年ほど)金儲けだけが目的でビットコインのような実験中のプロジェクトに投資する愚か者はいなかったはずだ。
「こんなうさん臭いものに投資しようなんてヤツがどこにいるんだ。別の動機がなければ、やってられないさ」』

ビットコインを取り巻く状況は様々に変化したが、そこには、現実を支配する金融システムの綻びの反動のようなものも多々あった。世界金融危機によって既存の金融システムの欠陥が明るみになったり、ウォール街占拠運動が発生したり、ウィキリークスへの寄付を取り次がないように政府から圧力が掛かった「ウィキリークス封鎖」など、金融・国家・政治・通貨を巡る様々な出来事が起こった。さらに、時代はIT企業全盛だった。そんな中、既存のシステムを打ち出せるのは自分たちだけだ、と彼らは思うようになる。

『ビットコイン支持者が増えた背景には、2013年はじめ、シリコンバレーの自負心がいつになく強まったことが挙げられる。ナスダック総合指数が急騰し、グーグルの株価は最高値を更新し、新興企業が驚くほどの高値で株式を売りだすなか、IT産業の人々は現代社会のあらゆる側面に革命をもたらし、改善していくのは自分たちだと信じるようになった』

本書は前半と後半で大分カラーが違う。前半では、技術者たちがユートピアやサイファーパンクのような世界を実現するためにビットコインという技術をどのように大切に育て上げてきたのかが描かれる。そして後半では、急激に存在感を増し始めたビットコインに対し、投資家や企業や銀行や政府がどのように介入してきたのか、という話だ。僕は前半の方が好きだ。後半の、有象無象が金儲けのために疾走する部分も面白いのだけど、やはり前半の、ほとんどボランティアのような状態でビットコインという技術の素晴らしさを伝道したいと強く願う者たちの物語の方が面白い。本書の冒頭には、こんな風に書かれている。

『したがって本書は、孤独な天才が新たな世界を創りあげて一攫千金を果たすという、ありきたりのベンチャー物語とは違う。政府やウォール街に対する怒り、シリコンバレーと金融業界の戦い、技術がわれわれを人間の弱さから救ってくれるのではないかという期待と同時に技術の生み出す力へのおそれなど、現代社会のさまざまな底流から生まれた集団的発明の物語である』

ビットコインは、「サトシ・ナカモト」という正体不明の人物(日本人かどうかも定かではない)がメーリングリストに投稿した論文から生み出された。確かに技術の根幹は、「サトシ・ナカモト」が生み出した。しかし、ビットコインを世に送り出したのは「サトシ・ナカモト」だけではない。そもそも「サトシ・ナカモト」は、2011年以降、一切消息が不明だそうだ。元々正体不明ではあるのだが、それでもオンライン上でのやり取りは時々出来ていた。しかし2011年以降、それもなくなった。しかしそれでも問題ない。ビットコインに関するコードはオープンソース(誰でも書き換えることが出来るコード)であり、「サトシ・ナカモト」が書いたままの箇所は全体の15%程度しかないという。ビットコインは管理主体を必要とするシステムではないので、「サトシ・ナカモト」がいなくても不都合は何もないのだ。

さてここで、僕としてはかなり関心が強い、ビットコインのシステムそのものの話を、僕の理解できている範囲で書いてみよう。

まず「サトシ・ナカモト」は、ビットコインを金(ゴールド)と同じく希少性の高いものに設計しようとした。だから、ビットコインの発行枚数は2100万BTCと決まっている。約10分に一度発行され、10分毎の発行以外にビットコインが生み出されることはない。

では、10分毎に生み出されるビットコインを手に入れるのは一体誰(どのパソコン)なのか?当たり前の話だが、ビットコインというのはネットワーク上のデータであり、「BTC」という単位で呼ばれているだけのものだ。現実には、ビットコインの取引所というものが存在し、そこでビットコインが現実の通貨(円やドル)などで売り買いされているのだが、それはあくまでも、既に発行され、誰かの所有物となっているビットコインを売り買いしているだけなのだ。ビットコインのシステムが10分毎に発行するビットコインを、現実の通貨で買うわけにはいかない。じゃあどのようにして手に入れるのか。

この仕組みが非常に面白い。これは、ビットコインのシステムに接続している全パソコンが参加するとある競争に買ったパソコンが手に入れる、ということになっている。これは「マイニング(発掘)」と呼ばれている。

この「マイニング」は、「AとBというデータを基に、Cという条件を持つ新たなデータを計算によって見つけること」という感じで表現できる。A・Bが何なのかは後で説明するが、Cという条件は、「先頭に0が◯個付くデータ」という感じだ。◯に入る数字は、その時々で変わる。この部分を調整することで、計算の難易度が変化する。それによって、10分に一度発行するというペースを維持するように出来ているのだ。

とにかく、A・Bというデータから、Cという条件を持つ新たなデータを最も早く計算で導き出した者が、新たに発行されるビットコインを手に入れることが出来る。では、どんなデータA・Bを基に計算するのか。

ここで、ブロックチェーンと呼ばれるものが登場する。ブロックチェーンというのは要するに「台帳」のことだ。イメージは、10分毎の取引記録がまとまった台帳が、鎖で連綿と繋がっている、というものだ。

ビットコインでは、全取引情報を約10分毎に記録する。それぞれの台帳には名前がついている。例えば、一番最初の台帳の名前が「A1」、二番目が「A2」…ということにしよう。また、10分毎の全取引記録にも名前が付く(これはうまく伝えにくい。そもそも「名前が付く」というのも比喩なのでまったく正確ではないのだけど、こんなイメージでもいいかもしれない。ある10分間にやり取りした全ビットコインの総額が、その取引の名前になる、と。こう考えると、10分毎の取引記録の名前が、それぞれ違うものになる、ということがイメージしやすくなるだろうか?)。これらを最初から「B1」「B2」…としよう。

すると今、「A1」の台帳には「B1」の取引記録が、「A2」の台帳には「B2」の取引記録が入っている、ということになる。

さてここで、重要なルールがある。それは、「新しい台帳の名前は、その時の取引記録の名前と、一つ前の台帳の名前を組み合わせて作る」というものだ。イメージしにくいだろうから具体例で行こう。例えば、3番目の台帳に今から名前を付けるとしよう。3番目の取引記録の名前は「B3」で、一つ前の台帳の名前は「A2」だ。そして、3番目の台帳の名前は、この「A2」と「B3」のデータから、膨大な計算の結果判明するCという条件を持つデータとなる。そして、この3番目の台帳に相応しい名前を計算によって導き出したコンピュータが、新たに発行されるビットコインを手に入れられるのだ。

このシステムの何が優れているのか。それは、「事実上」台帳を改ざんすることが不可能、ということだ。何故だろうか。

例えば、誰かが3番目の台帳(A3)の取引記録を書き換えたとしよう。すると、取引の情報によって取引記録の名前も変わるのだから、改ざん後の取引記録の名前は「B3」ではなくなる(「B’3」になったとしよう)。3番目の台帳の名前である「A3」は、「A2」と「B3」から生み出された。つまり、「A2」+「B3」→「A3」ということだ。しかし今、3番目の取引記録を改ざんしたために、「B3」が「B’3」になってしまった。当然、「A2」+「B’3」は「A3」にならない(「A’3」に変わってしまったとしよう)。

3番目の取引記録を改ざんした人は、それによって3番目の台帳の名前が「A3」から「A’3」に変わってしまったことをごまかしたい。しかしそのためには、「A3」と「B4」によって生み出される「A4」という4番目の台帳の名前を書き換えなければならない。しかし「A4」を書き換えると今度は、「A4」と「B5」から生み出される「A5」の名前を書き換えなければ……という風に、一箇所取引記録を改ざんすることで、鎖で繋がっているすべての台帳や取引記録に手を加えなければならない、ということになるのだ。ただでさえ、AとBからCを満たすデータを導き出す計算は、世界中のコンピュータが膨大な計算をして求められるほど計算量が必要なものだ。一箇所計算するだけでもそれだけのコンピューティング能力が必要なのだから、ブロックチェーン全体を書き換えるのは「事実上」不可能、というのがこのシステムなのだ。

また、この「マイニング」という仕組みを組み込んだことが、システム全体に対するインセンティブとしても働く。「マイニング」によって通貨を手にできる、という事実が、新規ユーザーを引き寄せる一方で、既に「マイニング」の有力者としての地位を築いている人も、それまでに獲得した資産の価値が失われないようにするために、個人の利益ではなく、システム全体の益となる判断を下すのだ。実際に初期のビットコインのシステムにおいては、致命的とも思えたトラブルが何度かあったが、「サトシ・ナカモト」が組み込んだこの強力なインセンティブシステムのお陰で、トラブルを比較的穏便に回避することが出来たのだ。

もう一つ、ビットコインを支える高度な数学的な技術がある。それが「秘密鍵」の作り方だ。これは、数学の特殊な関数が使われているのだけど、これによって、「秘密鍵」が正しいかどうかを第三者が確認しなくても、「秘密鍵」の正しさを確認することが出来るようになったのだ。

大体こんな仕組みだ。まずシステムは、ある特殊な数式によって、「ビットコインアドレス(ログインIDみたいなものだと思う)」と「秘密鍵(ログインパスワードみたいなものだと思う)」を生成する。一つの「ビットコインアドレス」に対して、一つの「秘密鍵」が生まれる。さらに「秘密鍵」から「デジタル署名」と呼ばれるものを生み出す。生み出された「デジタル署名」から逆算して「秘密鍵」を生成することは不可能だそうだ(何故不可能なのかは僕には分からないけど、数学的にそれが出来ない、という意味だと思う)。さらにその「デジタル署名」と、公開されている「ビットコインアドレス」をある関数の中に入れる。すると、「秘密鍵」そのものが分からなくても、その「デジタル署名」が「ビットコインアドレス」に対応する「秘密鍵」から生み出されたものだと確認出来る、という。これによって、「秘密鍵」を誰かに確認してもらう必要がない状態で自分であることを証明できる。これによって、管理主体がないシステムを設計することが出来たということだ。

このようにして、ビットコインに初期から関わっているメンバーは、「改ざん不可能」「管理主体が不要」「個人情報を表に出さないままお金のやり取りが出来る」という部分が理想的だと感じ、この技術を広めようとした。本書は、あまりに多くの人間が様々な動きをしている非常に複雑な流れが描かれる作品なので、全体像を描き出すことがほぼ不可能だが、本書の前半では、政府や国家というものに対するある種の不信感を持つ、シリコンバレーを中心とした技術者たちが、強大な権力に対抗する力を持つことが出来る理想的な技術としてビットコインを捉え、伝道しようとしている様が描かれていく。

しかし、ビットコインが広まっていくにつれて、ビットコインを初期から支えてきた面々の思惑とは違うものへと変わっていくことになる。

『ビットコインは、政府や銀行の手の届かない新たなデジタル通貨を創るという、当初サイファーパンクの人々が抱いていたビジョンからほど遠いものになりつつあった。サトシ・ナカモトがブロックチェーンという分散型のビットコイン台帳を作った狙いは、ユーザーが政府を含めた第三者機関の介入や監督を一切受けずに自分の資産管理をできるようにすることだった。だが現実には、コインベースやビットスタンプなどの集中型サービスにコインを預かってもらう利便性のほうを人々は好む傾向があった』

『拡大を続けるビットコイン・コミュニティも似たような感触で、ほとんどのユーザーは自分の取引の秘密が完全に守られるかどうかなどさほど気にしていなかった。それ以上に、1BTCが1000ドルに近づくなか、人々の関心はビットコインのメリットに向かうようになった』

この辺りの流れは、非常に興味深いものだと感じた。後半では、初期のビットコイナーたちの理想とは裏腹に、ビットコインが世間に受け入れられていく過程でどんどんと変わっていく様子が描かれる。

その最大の障害が、銀行だった。何故ならアメリカの銀行は、マネーロンダリングの監視を怠ったとして数十億ドルの罰金を課されたこともあり、マネーロンダリングにはかなり慎重だったからだ。ビットコインは、誕生した当初から、マネーロンダリングとの関わりが切っても切り離せなかった。ブロックチェーン上に取引記録が残るとはいえ、そこに個人情報が含まれるわけではない。管理主体なしでお金を動かすことが出来るので、ビットコインの仕組みを使えば、マネーロンダリングが簡単にできてしまうのだ。その危険性を感じ取った銀行は、ビットコイン関連会社の銀行口座を凍結するなどの措置を度々取ることになる。

この点で苦労したのが、ビットコインの取引所だ。ビットコインと、現実の通貨との交換を行う取引所では、銀行口座は絶対に不可欠だ。この点も結局、政府や銀行の介入出来ないデジタル通貨、という理想から遠ざかる要因となってしまった。

後半で度々登場する、政府や銀行の反応は、ビットコインの先行きの難しさを示している。日本は、世界で始めて仮想通貨を法律で定義した国であり、ある意味で先駆的と言えるが、先進各国は厳しい対応をしていて、中国では仮想通貨取引所が閉鎖に追い込まれているほどだ。世界で14000万人が利用し、発行済の仮想通貨の時価総額は100億ドル(1兆円)を超えると言われているが、法規制等の動き次第ではどうなるか分からない。

またビットコインには、ある意味ではメリットなのだが、ある面では致命的なデメリットとなる部分もある。それが、「秘密鍵」を紛失すると、自分の保有する通貨であっても使用・送金が出来なくなる、ということだ。「秘密鍵」をどうやって安全に保管するのか、という課題には、本書でも描かれている通り様々な人がチャレンジしているが、結局のところシステムや人間をどこまで信頼するか、という話に帰着してしまう。

また、本書では触れられていないが、個人的に仮想通貨の最大の脅威は「量子コンピュータ」ではないかと思う。量子コンピュータというのは、現在のスーパーパソコンなどと比べても桁違いの計算能力を発揮すると言われている次世代のコンピュータだ。理論的には実現可能で、現在完成に向けて様々な機関・企業が開発競争にしのぎを削っている。ブロックチェーンの仕組みは、計算に膨大な時間が掛かるが故に「事実上」改ざんが不可能、というものだった。しかし、「量子コンピュータ」が生み出されれば、現在では不可能なレベルの計算も一瞬で出来てしまう。そうなった時、ブロックチェーンを支える技術が揺らぐことはないのか、という点が、僕は凄く気になる。

本書は、久々に感想を書くのが難しかった。先程も少し触れたが、本書は、膨大な数の人間が、かなり長期間に渡って、様々な思惑でビットコインと関わってきた記録であり、その大雑把な流れを記述するだけでも相当困難だ。だから、本書の内容に具体的に踏み込む書き方ではなくて、ビットコインという技術と、その技術が世界をどんな風に変えると思われていたのかという思想的な部分を重点的に押し出していこうと思った。個人的に、あまり納得の行く感想ではないのだけど、これ以上うまく書ける自信はない。

ナサニエル・ホッパー「デジタルゴールド」

「完成形」と「アイドル性」の間で葛藤する山下美月


山下美月は、デビュー当時から「完成されている」という捉えられ方をしてきた。確かに僕もそういうような印象を持った記憶がある。僕は、ライブや握手会に行くわけではないので、3期生が加入した当時から彼女たちの動向をちゃんと追いかけていたわけではないのだけど、「田舎から出てきてよく分からないままアイドルになって今ここにいます」みたいな与田祐希や大園桃子とは対照的に、山下美月は「生まれた時からアイドルです!」というような落ち着きと華やかさがあったように思う。そのことはある意味で「強み」だと思うのだが、彼女はそう見られていることが「悔しかった」という。

【当時、ネットの書き込みで『成長していく様子が見られない』とか『プロっぽくて面白みがない』っていうコメントも多かったです。でも、そう言われるのがすごく悔しかったし、入ったばかりでまだまだこれからなのに…という気持ちがありました】「BRODY 2018年10月号」

確かに、アイドル像というのは結構変わっていて、ずっと昔であればそういうプロっぽさみたいなものが求められていたのかもしれないけど、徐々に「親しみやすさ」や「放っておけないところ」みたいなものが求められるようになってきているとは思う。かつては雲の上の存在だった「アイドル」を、「会いに行けるアイドル」として打ち出したAKB48が大成功したことが、時代の変化を一番象徴しているように思う。

山下美月自身も、「アイドル性」をそういうものとして捉えている。

【与田や大園を近くで見ていると、すごくキラキラ輝いているな、って感じるんです。アイドルには歌やダンス、演技などの技術も必要だけど、それ以上に“アイドル性”という魅力が大事だと思うんですけど、あの2人はまさにその特化型で。華があって、誰からも愛されるキャラクターで、放っておけない存在で、人を魅了する能力に長けていて。】「日経エンタテインメント!アイドルSpecial2018春」

彼女は、「私が間違えたらプロ意識がないと思われるけど、与田のちっちゃいミスなら許してあげたくなる」とも発言していて、僕は別に山下美月が間違えても「プロ意識がない」などとは思わないけど、与田祐希が間違えた時に許してあげたくなるのは、分かるなぁと思ってしまった。確かにそういう意味での「アイドル性」というのは、自分でコントロールして獲得するのは相当に難しいだろうし、既に「努力の人」という見られ方をしている山下美月がそれを手に入れるのは困難だろうと思う。

そう、彼女は「努力の人」と見られている。

【ただ、なんとなく『山下ならこれくらいいけるだろう』っていうのがあるんです。それをクリアするのは自分にとって最低限のことで、そのさらに上を行かないと、みんなみたいに『成長したね』って言われることがないのはつらかったです。】「BRODY 2018年10月号」

そのイメージは、3期生による「3人のプリンシパル」でついたものだ。第一部のアピールによって第二部の役を勝ち取れるというシステムにおいて、彼女は努力や根性で役を勝ち取った。少なくとも、彼女はそういう自覚をずっと持っていた。

【でも、自分としてはそれが苦しかったんです。私のアピールポイントは努力しかないのかと思ってしまって。(中略)私には何もない。だから、「認めてください」としか言えない自分がすごく嫌でした。努力を認めてほしいって泣き叫んでいるのは乃木坂46っぽくないですよね】「BUBUKA 2017年5月号」

確かに、彼女自身、「負けず嫌い」であることは認めている。

【私、負けず嫌いなんです。それは『この子に負けたから悔しい』とか『勝てなかったから悔しい』とかじゃなくて、役に選ばれる努力をしなかった自分にムカついて、それで毎日楽屋で泣くんです】「BRODY 2017年6月号」

だから、自分に負けたくない、という思いで努力し続けることは、彼女らしいと言える。そんな意識が作られたのは、母親の影響が大きかったようだ。テストで95点取っても「どうして100点取れないの?」と言われていたという。しかも、運動が出来たわけでも、習い事をしていたわけでもない彼女は、勉強で1番になって期待に応えなきゃ褒めてもらえない、という思いが強くなりすぎたのだという。だから、テスト前になると3週間ぐらい徹夜して必死で勉強する、というような生き方をしてきていて、だから「努力すること」は彼女にとって、ある意味では当たり前のことではあるのだ。

しかし、そんな彼女の頑張りは、アイドルというステージにおいては裏目に出てしまう。

【私は「3人のプリンシパル」とかで、「負けず嫌い」みたいなイメージがついて、根性とか情熱とか、そういうキャラでいかなきゃいけないと思っていたから、必死にメンタルの弱さを隠してきたけど、このままじゃずっと続かないと思いました。】「AKB48Group新聞2018年3月号」

【自分はそんなに強い人間じゃないのに、『プリンシパル』が終わってからも、そのキャラクターを演じ続けるつらさがあって。】「BRODY 2018年6月号」

強いから努力し続けられるのではない。弱さを隠して頑張らなければ評価してもらえないと思っているから努力し続けるのだ。「アイドル性」の無さを自覚しているから、【自分なりに考え抜いてやっとたどり着いたことも、才能や素質がある子は、一瞬でヒュンってさらにその上を行ってしまう。でも、アイドルってそういう世界なんですよね】「日経エンタテインメント!アイドルSpecial2018春」という現実を見せつけられることで、「努力しても簡単に結果に結びつくわけではない世界で、弱さを隠して努力し続けることの辛さ」をまざまざと感じさせられたのだろう。「3人のプリンシパル」の時期を振り返って、こんな発言もしている。

【そういう『これ以上、何を頑張ったらいいんだろう?』っていう葛藤のなかで、最終的には『次に出られなかったら死のう』ぐらいの気持ちで臨みました。】「BRODY 2018年10月号」

アイドルの活動を通じて、山下美月はそこまで追い詰められた。しかし、もうこれ以上余力はない、というところまで追い詰められたからこそ、考え方を変えることが出来た。

【今まで、アイドルはキャラを確立して必死に前に進むものだと思っていたけど、乃木坂って自分自身の本当の中身を好きになってくださるファンの方が多いし、みんな着飾らないから仲もいい。ちょっと無理をしてた部分もあるので、肩の力を抜いて素直に活動していきたいです】「AKB48Group新聞2018年3月号」

「完成されている」という、ある意味で生まれ持った素質であるはずの部分がアイドルとしては武器にならず、全力で努力し続けられるという性格がむしろ仇となり、「アイドル性」が欠けているという劣等感に苛まれながら、ようやく彼女はここに辿り着くことが出来た。たぶん、そう思えるようになったところが、彼女がアイドルとしての新たなスタートラインと言えるだろう。

【1年間はいくら努力したり、頑張っても『自分ダメじゃん』って思うばかりだったけど、そういう自己嫌悪はなくなりました。選抜に入ってフロントに立たせていただいて、先輩方と私ではレベルが違いすぎるので、『私、ここに並んでていいのかな?』とは思うんですけどね。ただ、今は楽しい気持ちのほうが大きいです。自信がついたわけじゃないけど、あんまり悩んだり、ふさぎ込んだり…まぁ、するときはするんですけど(笑)、大人になったからか、そこまで深く考えなくなりました】「BRODY 2018年10月号」

また、常に客観的に自らの状況を捉える彼女らしい、こんな感覚もある。

【きっとファンの人から見たら、私って自分が必死に這い上がっていく姿のほうが見ていて面白いと思うんですよ。最初から選抜に入ってセンターに立つことで得られるものよりも、同期が先に行ってしまったことへの不安や焦りのほうが自分を大きくしてくれるんだろうな、っていうのもわかっていました。だから、安心したわけじゃないけど、2人(※与田祐希と大園桃子)がセンターに立ったことへの悔しさもそんなになくて、むしろチャンスだと思いました。】「BRODY 2018年10月号」

山下美月には、「努力し続けられる」という強さがある。アイドルとしてはマイナスになりがちな要素であったとしても、それが無駄になることは絶対にない。努力し続けられるということは、たとえ今どれだけ遅れを取っていても、少しずつでも前進して近づいて行けるということでもある。努力を見せることで評価してもらうという、学生時代からのやり方はアイドルとしてはうまく行かなくても、見えないところで努力を続けることで、カメがウサギを追い抜くようにしていつの間にか先頭に立っている、という進み方は充分にあり得るだろう。

山下美月の理想のアイドル像は、「つねに明るくてニコニコしていて、芯の強い人」だそうだ。暗かった学生時代を支えてくれた自分にとっての理想のアイドル像に、少しでも近づきたいという想いで、アイドルを続けているという。

【アイドルとして、ファンの方に心配をかけちゃいけないとか、気を遣わせちゃいけないとか、ちゃんと元気な姿を見せないといけない、っていうのがあるから。アイドルとして人前に立つときの自分は、負のオーラを完全にかき消そうとしています(笑)】「BRODY 2017年10月号」

そんなネガティブさを内に秘める彼女だが、その一方で、ネガティブだからこそ、人生を意識的に面白くしていきたいとも思っているようだ。

【私、小学校の頃から自分の人生を楽しくするためにはどうしたらいいのかなって考えて、まずは自分が楽しくならなきゃダメだと思ったんですよ。そうしたら、自分の人生も楽しくなっていくんじゃないかなって思って。でも、アイドルの仕事上、ファンの方を楽しませようって気持ちはあるけど…たしかに自分が生きていく中で自分が楽しんで、周りの人も楽しんでくれるような何かをできたらいいなとは、常に思っていたかもしれないです】「BUBKA 2018年5月号」

自分の人生に納得がいっていなかったから乃木坂46のオーディションを受けたという彼女は、憧れのアイドルという存在になった今、その立場をフルに活用して、自分の、そして誰かの人生を「面白く」しようと奮闘している。山下美月は「アイドル性」に欠けると言っているが、しかし、周りの人の人生も「面白く」しようと思っていたという感覚は、非常にアイドルらしいと言えるのではないか、とも思う。

【時間なんて、意外とあっという間に経ってしまうじゃないですか。最近、そのことに対して焦っていて。だから、悠長にしている暇はないなって思うんです。自分のアイドルストーリーの最後がいつになるのかはわからないけど、アイドルとして燃え尽きたいです。自分が燃えられる人間であるっていうのには自信があるので。ここぞというときに底力を出せる人間だなって。そこだけは自信があるから】「BRODY 2018年10月号」

「努力しすぎなくていい」という感覚を持つことが出来るようになった「努力の人」はこれから、「努力」だけでは太刀打ちできないアイドルという世界でどんな物語を紡いでいってくれるのか、楽しみだ。

死ぬまで満足しない寺田蘭世

僕が乃木坂46を好きになった時にはもう、2期生は加入していた。しかし、その頃にはまだ、2期生の辛さみたいなものはよく分かっていなかった。僕がそのことを少しは理解できるようになったのは、3期生が加入してしばらくしてからだ。3期生が、加入してすぐに注目を浴びるようになり、それと対比するようにして、2期生の不遇さみたいなものを雑誌のインタビューや特集などで見かけるようになった。2期生は、いきなりセンターに抜擢された堀未央奈や、選抜の常連となった新内眞衣を除けば、加入してからアイドルとして大きく注目される機会もそこまではなかっただろうし、また、2期生で足並みを揃えて何かをするという機会すら恵まれなかったのだという。そういう中にあっても、メンバーたちは諦めず、出来ることを必死でやり続けた。

そんな2期生の中でも、個人的に一番“熱く”アイドルとして闘志を燃やしていると感じるのが、寺田蘭世だ。

【私、満足することは死ぬまでないだろうっていうスタンスで生きてるんです。なので、そういう点ではまだまだじゃないですか。(中略)今回の選抜入りはセンターまでの通過点だし、もっと言うと人生の一部でしかないんです】「BRODY 2017年4月号」

なかなか強い言葉だし、寺田蘭世という小柄で可愛らしい女の子から出てくる言葉としては似つかわしくないようにも感じられるが、彼女は、この“熱さ”だけを武器に、これまでアイドルとして自分なりに闘い続けてきた。

【後ろのポジションだからって気を抜いたことはないし、センターの私が16人分頑張っても意味がない。それぞれが自分のやり方で頑張ることで形ができあがるのが理想なんです】「EX大衆 2017年1月号」

【それまでも後ろにいるからって見られてないわけじゃないし、逆に、後ろにいるから「前の人よりいいものを見せてやる」くらいの気持ちで燃えていた自分もいるので。これからも自分を貫いていけば見つけてくれる人はいると思うので、変わらず頑張ります】「別冊カドカワ 乃木坂46 vol.4」

加入から長いこと、アンダーとして活動していた彼女は、ポジション的にファンから見つけてもらいやすい場所にいられたわけではない。それでも、全力でパフォーマンスをしてきた、という自負を持っている。

いや、そのこと自体は当たり前のことなのかもしれない。どんなポジションであっても、全力でやるというのは、アイドルとして当然なのだろう。しかし、いくらそれが当たり前だからと言って、常にどんな時も100%やれている人などそうはいないだろう。そしてそういう人はきっと、ここまで強く断言は出来ない。寺田蘭世は意識的に、常に全力で100%やっている、という自負があるからこそ、当たり前のようにこういう発言が出来るのだ、と僕は感じる。

そしてそれは、決してアイドルとしてだけではないようだ。

【こんなことを言うと変な子って思われるかもしれないですけど、「今日を生きているだけで奇跡的で、明日が来るのが当たり前だと思っちゃだめだよね」って“中2病”みたいなことを私はよく言っていて(笑)】「アイドルspecial2015」

なるほど、そういう感覚をリアルに持っているとすれば、毎回どんな場でも全力で臨むというスタンスは、むしろ当然と言えるのだろう。

しかしとはいえ、彼女のこういうスタンスは当然、生き辛さにも繋がっていくことになる。

【(自分の今の立場に迷っているという話の後で)今までの自分は包み隠さずに何でも言ってきて、小さいコでも頑張っているんだっていうイメージがあったと思いますけど、最近いろんな方によく言われるんです、「妥協するのはどう?」みたいなことを。】「BUBKA 2017年10月号」

【いつもブログは身を削って書いているから(笑)
―ご自愛ください(笑)
もっとオブラートに包んで書いたらいいんだろうなとは思うんですけど、妥協してまで賛成してほしくないので。】「BUBKA 2017年10月号」

確かに、周囲と馴染むのが難しそうな性格ではあるが、しかしそんな彼女に対し、他のメンバーは共感したり、報われてほしいと思ってくれたりするようで、そんな自分を「人間としては正しいんじゃないか」と捉えているとも発言している。

【私は感情的になりやすい性格なので、よく「子どもっぽい」とか「大人になりなよ」と言われます。でも、そこで自分の本当の意思を隠すような大人には、絶対になりたくないんですよ。
スケールが大きくなりますが、例えば歴史上の有名な人物って、ずっと子ども心を忘れなかったからこそ、誰にも負けないチャレンジ精神があって、いろいろな発見や後世に語り継がれる偉業を成し遂げられたんだと思っていて。だから私も、アイデンティティである“子ども心”をなくしてはいけないと改めて思いました】「日経エンタテインメント!アイドルSpecial2018春」

寺田蘭世は彼女なりにきちんと意識して、自分の「子どもっぽさ」を受け入れている。ただわがままを言ったり、ただ反抗したりしているのではない。自分の意志を明確に持ち、主張し、議論を戦わせ、そうやって自分という存在に意味を見出している。もちろん彼女は、そういう生き方について「損もあるだろう」と認めている。しかし、損する可能性を認めながらも、彼女は葛藤しながら生きていくことを選ぶ。

【いくら褒められたとしても、「もうちょっと楽に考えてもいいんじゃない?」って言われたとしても、それはその人の考えた定義であって、私が生きていく上での定義ではありませんから。葛藤しながら生きていって、死ぬ瞬間に楽しかったなって思えればいいかな…っていうことを最近考えます。御年19歳。】「BUBKA 2018年5月号」

こういう考え方の延長にあるのが、寺田蘭世を象徴する言葉でもある「センターになりたい」という発言なのだろう。

寺田蘭世は、乃木坂46に加入した当初からずっと「センターになりたい」と主張していた。乃木坂46は、ガツガツしているように見えないメンバーが多く、また、センター経験者のほとんどが、センターに選ばれた時に泣いたりネガティブな発言をしていた。そういう意味で、アイドルである以上目指すべきはセンターだと、センターになることをメインの目標に置いているように感じられるメンバーは、乃木坂46の中にはほとんどいなかったように思う。そういう中で、研究生の時代から「センターになりたい」とあらゆる場面で発言し続けてきた彼女の言葉は、非常に強い印象を与えることになる。

【初期から「まわりから認められた上でセンターになりたい」と言ってました。気の強い子だと思われていたかもしれないけど、言葉にした以上はふさわしい行動をとるようにしてきたつもりです。段々と、まわりの方も「寺田はただのバカじゃない。考えたうえで発した言葉なんだ」と気づいてくれるようになったのかなと思います】「EX大衆 2017年1月号」

ファンによる総選挙があるわけではない乃木坂46において、センターになるために何をすればいいのかというのは、他のアイドル以上に明確ではないように思う。運営側の今後のプランやその時々の乃木坂46を取り巻く状況に大きく左右されるだろうからだ。何をすればセンターに近づけるのか、判然としない中で努力し続けるというのは、かなり精神的に応えることだろう。しかも彼女は、アイドルとしての活動期間のほとんどをアンダーとして過ごしており、センターはおろか、選抜の常連にもまだなれていないのだ。そういう中にあって「センターになりたい」と主張し、それに見合う努力をし続けることは、葛藤の連続だったはずだ。しかし彼女は、そういう生き方を自らで選び取った。

【「センターになりたいです」という言葉だけが先行してしまって、動いている私を見てもらえる場が少なかったんですよ。アンダーライブだって研究生だったから最初は出られなかった。だけど、「いつかは分かってもらえる」という自信はあったんです】「ENTAME 2018年3月号」

こういう発言から、寺田蘭世は強い女性なのだと感じる人が多いだろう。実際にそういう見られ方をずっとしてきたと彼女は語っている。しかし彼女の自覚では、それは弱さの裏返しであるようだ。

【大人は面白がって「センターになりたい」という部分だけを取り上げるから「気の強さ」が先行しちゃったけど、私は弱い人間だからこそ、センターという目標を掲げて前に進みたいんです】「EX大衆 2018年5月号」

ここが、寺田蘭世の面白さだと僕は感じる。

彼女は、スタッフやメンバーから「もっとポジティブになれ」と言われるくらい、ネガティブさが全面に出てしまう人であるらしい。これまでの彼女の発言からは、イメージできないだろう。しかし、以前「BRODY 2017年4月号 寺田蘭世のインタビューを読んで」という記事の中で触れたように、寺田蘭世にとって「ネガティブさ」というのは、ある種の原動力なのだ。ネガティブであることは、「満腹感」を得るのを避けるようなスタンスであると僕は感じていて、そのことが彼女を前進させているのだと思う。彼女も、「ネガティブだからこそ成立しているところもある」という発言をしていて、自らの我の強さとネガティブさをよく理解しているのだなと感じさせられる。

【常に負けず嫌いだし、褒めて伸びるんじゃなくて、挑発されたほうがスイッチが入るタイプなので。(中略)「覚えとけよ~!」っていうのが私の原動力なのかな。最近だと、選抜の枠が増えたから入ったんだと思われるのが一番嫌で!「私の4年間の努力をなんだと思ってるんだ!」って思います(笑)】「BRODY 2017年4月号」

弱さの自覚がネガティブさとなり、しかしそのネガティブさの自覚が強さの原動力になる、という不思議な作用が、寺田蘭世というアイドルを非常に面白いものにしているのだと僕には感じられる。

また最近では、昔ほどは肩肘を張らずにいられるようになったようだ。

【アンダーに戻ったときはいろいろと思うところもあって、全国ツアーでもひっそり泣いていました。でもそれで「蘭世ってこんなに脆いんだ」と知ってくれたメンバーもいて、「いつも頑張ってるんだから」と支えてくれたんです。今まで「折れちゃいけない」と思いながらやってきた意味があったし、自分のことが受け入れられるようになりました。】「ENTAME 2018年5月号」

別のインタビューでは、「5ミリくらいは自分のことを褒めてもいいんじゃないかと思った」と発言していて、自分を受け入れる幅はまだまだ大きくないようではあるが、ネガティブさしか原動力がなかった頃と比べれば大きな進化と言えるだろう。

弱い自分を自覚し、そんな自分が強くなっていくために全力を出し続ける。彼女がそういう想いでしんどい道のりを歩み続けることが出来るのには、こんな理由もあるようだ。

【…一番弱い者が強くなったら、それが本当の最強だと思うので】「乃木坂46×プレイボーイ2016」

乃木坂46の中で、寺田蘭世が一番弱いのかは分からないが、仮にそうだとした時、一番弱い寺田蘭世が強くなれば乃木坂46が最強になれる、という理屈は確かにその通りだろう。

そしてそういう感覚は、ファンに対しても向けられている。

【私達が頑張っている姿を見て、ファンの方も頑張ろうと思うから成立しています。だから、私もそういう存在になれたらいいなって】「BRODY 2017年4月号」

弱い自分が頑張ることで、他の誰かを強くすることが出来る。その決意がある限り、寺田蘭世は全力で走り続けることだろう。

【そこでわかったのは、「自分」をしっかり持っていないと不安になるということです。今年は20歳にもなるし、「自分」をしっかり持って、いい年にしたいなと思っています。いつか乃木坂46を卒業した時に、人間として薄くならないような生活を送りたいです】「BUBKA 2018年5月号」

既に充分すぎるほど「自分」を持っていると感じるが、とにかく、今の弱さと強さを兼ね備えたまま、大目標であるセンターに向かって、突き進んでいって欲しいと思う。

「ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男」を観に行ってきました

注目を浴びる存在になるということへの違和感みたいなものは、なんとなくずっと持っていた。

別に僕は注目を浴びるような存在ではないし、そういう経験があるわけではないのだけど、もし自分がそうなったら、と思うと、しんどいだろうなぁ、としか思えない。

モデルや芸能界などは、ある意味で「注目を浴びる存在になること」が一つの目的だったりもするだろうから、それを目指す以上、注目を浴びることは受け入れざるを得ない。でも、例えばスポーツ選手などは、注目を浴びることが主目的ではない(そういう人ももちろんいるだろうが)。そういう中で、不本意に注目を集めてしまう存在になることの大変さみたいなものは、なんとなく昔から想像していた。

一度そうなってしまうと、そこからちゃんとした形で抜け出すことはかなり困難だ。そしてそれは、自然と重圧へと変わっていく。

失いたくない、と思えてしまうものを持ってしまうことの怖さを、じっくりと描き出しているように、僕には感じられた。

内容に入ろうと思います。
この映画は、1980年のウィンブルドン決勝で歴史的な死闘を演じたボルグとマッケンローの話です。
ボルグは、数々の最年少優勝記録を塗り替え、現時点でウィンブルドン4連覇中、次勝てば歴史的な快挙である5連覇となる、テニス界の不動のヒーローだ。「完璧」「冷静沈着」「マシンのよう」と評されるこの男は、感情の起伏をさせずに淡々とプレーする氷のような男だった。
一方のマッケンローは、世界ランク2位の新星で、ウィンブルドンの初タイトルを狙う男だ。実力は申し分ないのだが、彼には悪癖があった。紳士のスポーツと言われるテニスで、暴言を連発するのだ。アメリカのテレビ番組では、「アル・カポネ以来の最悪のアメリカの顔」などと紹介されもした。試合中に審判に悪態をつき、ペナルティを課されることもある。
北欧とアメリカ、陰と陽、ヒーローとヒール、あらゆる点で対照的なこの二人が、順当に勝ち進み、決勝でぶつかり合う。
今では「マシンのよう」などと評されるボルグも、子どもの頃は短気で抑えの利かない、誰もが手を焼く選手だった。信頼できるコーチとの出会いで、破竹の快進撃を続けることになるのだが、5連覇の重圧は想像以上であり、子どもの頃の自分が出てきそうになるのを、必死で抑え込む。
一方でマッケンローは、相変わらずの態度を続けながら、打倒ボルグに闘志を燃やす。しかし、やはりその態度は、マスコミは対戦相手の不興を買うが…。
というような話です。

なかなか面白い映画でした。構成は実にシンプルで、お互いの過去を振り返りつつウィンブルドンの決勝までを描き出し、最後に決勝での死闘を描き出す、という感じです。予想外のことは特に起こりませんが、僕はドキドキしながら見れました。というのは、僕はこの一戦のことを知らなかったので、最後まで「どっちが勝つか」が分からないまま見ることが出来たからです。決勝戦は、まさに「死闘」と呼ぶにふさわしい戦いで、ダイジェストで見ているわけですけど、手に汗握る感じでした。

ボルグとマッケンローが本当に水と油みたいな二人で、表面上まったく違うんだけど、でも実はどちらも短気でキレやすい感じだった、というのは面白かったです。ボルグがいかに自分を抑えながらテニスのスター選手へと上り詰め、しかしそのことでいかにして自分を追い詰めて行ったのか。そしてボルグと対戦したマッケンローがどんな変化を見せるに至ったのか。この辺りが見どころだと思います。

スポーツにはさほど興味が持てませんが、面白く見れた映画でした。

「ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男」を観に行ってきました

「1987、ある闘いの真実」を観に行ってきました

無駄だと分かっていても、僕は闘う側にいたい。
いつもそう思っている。

「正義」が、人によって違うということは、充分理解している。
だから、人がそれぞれの「正義」に沿って行動することは正しいことだし、自分とは相容れない「正義」を、「相容れない」というだけの理由で排除したくもない。
ただ、その「正義」を実現するために、人間の尊厳を奪うようなことがあってはいけない、と僕は思う。

「正義」の実現のために、法を犯さなければならないことはあるだろう。
何故なら、法こそが絶対的に間違っている、という状況だってあり得るからだ。
だから、法を犯すような犯罪行為があったかどうか、という基準で判断するつもりはない。

しかし、尊厳を奪っているかどうかは、明らかに判定できるはずだ。
「正義」の実現のために拷問をしたり、「正義」の実現のために人を死に至らしめたりすることは、どんな「正義」を実現する場合であっても、絶対に間違っていると僕は思う。

だからそういう、「正義」の種類に関わらず明らかに間違っているものとは、僕は闘い続けたい。

たった30年前の話だ。
たった30年前に、まだこんなことが起きていたのか、という衝撃があった。
しかし、その感想もまた間違っているのだろう。
何故なら、今この文章を書いているまさにこの瞬間にも、この映画で描像されているようなことが、世界中のどこかで、間違いなく起こっているからだ。
この映画を見た直後の僕は、その事実に、心が痛む。

権力の横暴は、直接的な暴力という形でなくても発露されることは多々あるだろう。
恐らく現在の日本にあっても、直接的な暴力以外の形で、権力の横暴が様々な場面で繰り広げられているはずだ。
私利私欲のためにそうしている人ももちろんいるだろうが、その人なりの「正義」の実現のためにそうしている人だってやはりいるだろう。
「正義」に対抗する唯一の手段は、自分なりの「正義」を持つことしかない、と僕は感じる。
だからこそ、僕自身も出来ていないし難しいなと思うのだけど、政治に関心を向けなければいけないよなぁ、と感じさせられた。

内容に入ろうと思います。
1987年の韓国は、チョン大統領による事実上の独裁政権だった。大統領の配下にある治安本部(通称・南営洞)は、反共のアカ(スパイ)を摘発する部署であり、警察組織の中でも絶対的な権力を持っていた。その所長である脱北者のパクは、強大な権力を有し、パク所長に楯突いて生き残った者はいない、と言われるほど恐れられていた。
1月14日、南営洞の面々がソウル大学の学生パク・ジョンチョルを拷問中に死なせてしまう。彼らは、公安部長のチェ検事のところへ急行し、即時火葬するための書類にハンコを押すよう迫ったが、チェ検事はそれを拒否した。翌日解剖してから火葬すること、遺体に触ったら公務執行妨害だと脅して。
遺体には明らかな拷問の痕が残っており、解剖されれば拷問死が明るみに出てしまう。治安本部は圧倒的な権力を駆使してこの問題に蓋をしようとするが、そう簡単にはいかない。
検察に出入りしていた記者が、検事がそれほど重大なことだと思わず発した言葉から、ソウル大の学生が拷問死した事実を知り新聞で報じた。新聞社には軍人が押し寄せ混乱が起こったが、新聞各社は、当時報道機関に通達されていた「報道指針」を無視し、この事件の真実を暴くように記者に命じた。
解剖を担当した医師は、上司の命令を無視して診断書に「心臓麻痺」とは書かず、また学生の死亡を確認した医師は、自らの所見をこっそりと記者に伝えた。
形勢が悪くなったと見るや、警察は南営洞の二人をスケープゴートとして逮捕し、事態を収めようとするが、裏切られたと感じたスケープゴートの二人が反旗を翻すような行動を取る。また、南営洞の面々は刑務所でも横暴を繰り返し、その規則違反を繰り返す様を見て、刑務所所長はある英断を下すことになる。スケープゴートの二人が収監されている刑務所には、5.3仁川事件で逮捕された東亜日報の記者が収監されており、そこからの情報が、ごく普通の女子大生であるヨニの手に渡ったことで、状況は大きく進展することになる。
数多くの人間が、軍事独裁政権の打倒のために、自らの命を危険にさらして行動を続け、やがてその民主化運動の波が政権を打ち倒すことになる…。
というような話です。

これは凄い映画でした。少し前に、同じく韓国で起こった「光州事件」を扱った映画も見ましたが、この映画で描かれ出来事と時期的には凄く変わるわけではないと思います。本当に、まだまだごく最近の話で、韓国という、色んな意味で身近な国でこんなことが起こっていたという事実に驚愕しました。

映画の冒頭で、「事実を基に、フィクションを織り交ぜた作品だ」というクレジットが出てきたので、もちろん描かれていることすべてが事実ではありません。ただ、拷問で亡くなった学生の名前や遺影の写真などは実際のものを使っていたりと、かなり現実を踏襲している作品だと思いました。僕の感触では、女子大生のヨニ周辺の話はフィクションが多そうだけど、それ以外はかなり忠実に現実をベースにしているんじゃないかという気がしました。

こういう、人間を横暴さによって締め付けるような歴史を耳にすると、「何でそんなことが出来てしまうんだろうなぁ」という気持ちになります。誤解されそうなので先に書いておきますが、これは、「自分だったらそうならないのに」という意味ではありません。僕はこれまでに色んな本を読んできて、権力に命じられれば、ごく一般的な人でも残虐なことが出来てしまう、ということを知っています。だから、「何でそんなことが出来てしまうんだろうなぁ」というのは、「イメージできないけどどうせ自分もそうなってしまうんだろうし、だとしたらそれはとても怖いことだ」という感覚があります。

南営洞で拷問をしている人たちは、正直ちょっと欠片も共感できませんが、例えば軍人が、暴徒化する市民に対して警棒を振りかざしたり、催涙弾を直接当てたりするようなのは、もしかしたら自分が同じような状況になればやっているかもしれない、と思ったりはします。本当に、心の底からそうはなりたくないけど、でも思考停止ではなく、そうせざるを得ないような状況があったとすれば、やむを得ずやるかもしれません。だから僕は、出来るだけ、少なくとも僕自身はいつでも闘える状況でいよう、と意識しています。

僕の価値観では、パク所長の苛烈なスパイ狩りには正直賛同は出来ません。ただ、スパイというものの怖さや、彼らがどれほど国益というものに多大な影響を及ぼすのかという知識が僕にはないので、それを知らないままパク所長を糾弾する権利はないかもしれない、とは思います。また後半で、パク所長が何故それほどの苛烈さを発揮するのかという過去の辛い経験が明かされます。たとえそういう経験をしたからと言って、拷問をしていいことにはなりませんが、その経験を踏まえつつ、「命懸けでスパイ狩りをしている」という発言に繋がっていくんだろうなぁ、という感じはしました。

パク所長の「正義」を全否定することは出来ないけど、それでもやはり、拷問はダメだと感じます。

正しいことだけで「正義」が実現できない、ということはもちろん理解しています。ただ、人間の尊厳を奪わなければ実現できない「正義」なら、捨ててしまえ、と僕は思います。

「1987、ある闘いの真実」を観に行ってきました

abc予想入門(黒川重信+小山信也)

久々に、「何が書いてあるのかさっぱり分からない本」だった!(笑)
でも、分かったこともあった。
とりあえず、一番理解できたことは、「abc予想は、僕には理解不能である」ということです。

さて、本書の内容に入る前に、僕が「abc予想」というものをどのように知ったのか、という話から始めようと思います。

最初は確か、何かの記事をネットで見かけたんだったと思います。そこには、「宇宙際タイヒミュラー理論」という、謎めいた単語が踊っていました。ネット上の反応でも、「宇宙際タイヒミュラー理論って名前はかっこよすぎだろ!」みたいな反応があって、確かに僕も、このワードセンスはなんか凄いなぁ、と思って興味を持ったのでした。

で、この「宇宙際タイヒミュラー理論」というのが、2012年に京都大学の望月新一教授が自身のHPに発表した、「abc予想」への解答だったわけです。より正確に言えば、望月教授は、「abc予想」を証明するために、「宇宙際タイヒミュラー理論」という新たな理論を作り上げた、ということです。

そこから、「abc予想ってなんだ?」と思った僕は、ちょっと調べてみたんですけど、これがなかなか面白いんです。

一番凄いなと思ったエピソードが、2012年に望月教授が「宇宙際タイヒミュラー理論」を発表した当時は、世界でも数人しかその内容を理解できなかった、的なものです。もちろん、これがどこまで事実なのかは分かりませんが、もし本当だとすれば、世界中にいる、数学の天才中の天才でも、ほぼほぼ理解できない理論だった、ということになるわけです。これは凄いな、と思いました。僕がその「宇宙際タイヒミュラー理論」の話題を目にしたのは、確か2017年頃でしたが、その頃には世界中で500人ぐらい理解者がいる、という状況になっていたようです。

2012年に発表したものが何故2017年に話題になったのかというと、「宇宙際タイヒミュラー理論がどうやら正しいみたいだぞ」という憶測が出たからです。2012年に発表した時点では、まだ「望月教授による仮説」以上の何者でもありませんでした。数学や科学の論文などは、ここから第三者によるチェックを受けて、「正しい!」というお墨付きをもらうことで正式に認められるわけです。

で、そのチェックに5年近く掛かってるわけですね(とはいえこれは、数学や科学の世界では、ままあることだと思います)。で、そのチェックの感触から、「なんか正しいっぽい!」っていう感じになって、2017年に再び話題になったというわけです。

さて、「abc予想」について調べていく中で、もう一つ興味深いことを知りました。それは、「abc予想が正しいことが証明されれば、フェルマーの最終定理が10行くらいで証明できる」ということです。

「フェルマーの最終定理」というのは、恐らく数学の問題としては最も有名なものでしょう。300年近く前、フェルマーというアマチュア数学者(本業は法律家だったかな?)が遺した数多くの「予想」の中から、最後の最後まで正しいことが証明されないまま残ってしまった予想のことを「フェルマーの最終定理」と呼んでいたのでした。この予想は、1995年にイギリス人数学者のワイルズが証明し、一躍時の人となりました。しかしその論文は、500ページを超える膨大なもので、楕円関数という特殊な関数の知識をフル活用して成し遂げられました。

しかし、もし「abc予想」が正しいことが証明出来たら、「フェルマーの最終定理」はあっさり証明できてしまう、というのです。ネットで見たその10行の証明は、僕にも理解できるもので、僕はその記事を読んだ時、「abc予想が証明される前にフェルマーの最終定理を証明できて良かったね、ワイルズ」って思いました。

とはいえ、本書を読んだことで、僕のこの認識(の一部)は誤りであることが分かりました。その辺りのことは後で触れたいと思います。

さて、そんな風にして僕の目に飛び込んできた「宇宙際タイヒミュラー理論」と「abc予想」のことをもっと知りたい!と思ったんですけど、本としてまとまってるものがほぼない。唯一本書だけが出版されてたんですけど、既に品切れだったんですね。なので中古で買って読むことにしました。

しかしまあこれが難しい!始めの方はまだ読み進められましたけど、中盤から後半に掛けては、ほぼほぼ何を書いているんだかさっぱり理解できない、という感じでした。こんなに難しい本を読んだのは久々でした。これ、いくらサイエンス系とはいえ、新書で出す内容じゃないと思う…。

さて、本書を読んで僕が理解したことのいくつかについて触れてみたいと思います。

まずは、「abc予想」がどのようにして生まれたのか、ということです。ここには、「整数」と「多項式」の関係があります。

「整数」というのは分かるでしょうけど、「多項式」というのは聞き覚えのない人もいるかもです。僕も正確な定義は書けませんけど、要するに、

「x+1」「x^2(←これはxの2乗のこと)+a」「x^2+y^3/z^7」

みたいな、関数みたいなものだと思えばいいと思います(たぶん)。

で、昔から、「整数」と「多項式」の関係が研究されていました。「整数」で成り立つ理論が「多項式」でも成り立ったり、その逆もあったりするわけです。例えば、今「数論」(「整数」を扱う分野)において最も重要な「リーマン予想」と「ラングランズ予想」は、「多項式」の場合は既に証明済みなんだそうです。

で、元々は「多項式版abc予想」というものがあって、早い段階で解決されていました。それで、だったら同じことが「整数」でも成り立つんじゃないか、と考えられて「abc予想」が生まれた、ということのようです。

じゃあ「abc予想」ってどんなのなんだ?という話なんですけど、ここにはちょっとややこしい話が出てきます。これが、「abc予想が証明されればフェルマーの最終定理が10行で証明できる」という話と絡んでくるわけです。

まず、「多項式版abc予想」から導かれる「abc予想(願望)」を書いてみます。

【a,b,cを互いに素な整数でa+b=cを満たすものとすると、
max{|a|,|b|,|c|}<(rad(abc))
が成立する】

この「abc予想(願望)」というのは、(願望)と書いてあるだけあって、実際には成り立ちません。しかしそもそも、この式の意味が分からないでしょうから説明します。

まず【max{|a|,|b|,|c|}】というのは、「a,b,cの中で、絶対値が一番大きなもの」という意味です。「絶対値」というのは、「マイナスの数はプラスにして考える」みたいに思ってもらえればOKです。例えば、「a=3,b=-25,c=8」とすると、数字として一番大きいのは「8」ですが、絶対値というのはマイナスをプラスの数字だと思って考えるので、このa,b,cにおいて【max{|a|,|b|,|c|}】を考えると、|b|=25となるわけです。

今度は【rad(abc)】についてです。こっちはちょっと説明しにくいんですけど、「rad」というのが「a,b,cの素因子の積」となります。

具体例で説明しましょう。
「a=8,b=6,c=15」とします(今、a+b=cという条件は無視しています)。それぞれ因数分解すると、「8=2×2×2」、「6=2×3」、「15=3×5」となります。つまり、この三つの数a,b,cに使われている「素因子」は、「2」「3」「5」ということになります。なので、これら三つの数を掛け算して、rad(abc)=30となるわけです。

もう一つ、別の例です。
「a=30,b=14,c=1」としましょう。これも素因数分解すると、「30=2×3×5」、「14=2×7」なので、「素因子」は「2」「3」「5」「7」。よって掛け合わせると、rad(abc)は210となります。

これで大体、【max{|a|,|b|,|c|}<(rad(abc))】の意味は理解できると思います。

ただ残念ながら、この「abc予想(願望)」は、実際には成り立たないわけです。そこで今度は、「abc予想(たぶん成り立つだろう)」(本書では実際は、「abc予想」(☆)と表記されています)が考えられました。それがこちら。

【a,b,cを互いに素な整数でa+b=cを満たすものとすると、
max{|a|,|b|,|c|}<(rad(abc))^2
が成立する】

先程説明したように、「^2」は「2乗」を表します。「a=8,b=6,c=15」の例では、rad(abc)は30だったので、(rad(abc))^2は30×30=900となります。

この「abc予想(たぶん成り立つだろう)」は、恐らく正しいと思われているんですが、実は望月教授が証明したと主張しているのはこれではありません。それでは、望月教授が証明したと主張している「abc予想(望月教授)」を書きましょう。

【任意のε>0に対して、ある正の定数K(ε)≧1が存在して、次を満たす:
a,b,cを互いに素な整数でa+b=cを満たすならば、不等式、
max{|a|,|b|,|c|}< K(ε) (rad(abc))^1+ε
が成立する】

こうなってくるともう何がなんだか分かんないって感じで、僕も正確に理解できているわけではないんですけど、式を見れば分かる通り、「abc予想(望月教授)」で、K(ε)=1、ε=1とすると、「abc予想(たぶん成り立つだろう)」になります。

さて、「フェルマーの最終定理」との関係はここからです。「abc予想が証明されればフェルマーの最終定理が10行で証明できる」と言う時の「abc予想」というのは、「abc予想(たぶん成り立つだろう)」のことです。もし、「abc予想(望月教授)」が証明されることで、「abc予想(たぶん成り立つだろう)」が証明されるのであれば、「abc予想が証明されればフェルマーの最終定理が10行で証明できる」という主張は正しいことになります。

しかし、そうは行かないのです。仮に「abc予想(望月教授)」が正しいと証明されても、「abc予想(たぶん成り立つだろう)」が正しいことにはならないのです。

何故か。

「abc予想(たぶん成り立つだろう)」は、「abc予想(望月教授)」における「K(ε)=1、ε=1」の場合の表現です。しかし望月教授は、論文の中で、「εが1の時、K(ε)の値が1になる」ということを示していないわけです。というか、論文の中でK(ε)に明確な値を与えていないので、仮に「abc予想(望月教授)」が証明されても、「abc予想(たぶん成り立つだろう)」が証明されたことにならず、つまり「abc予想が証明されればフェルマーの最終定理が10行で証明できる」という状況にもならない、ということなのです。

意味分かりましたでしょうか?

まあそんなわけで、僕が本書を読んで理解できたのはここまでです。これ以上のことはさっぱり分かりませんでした。いやー、ハイパー難しかったなぁ。「abc予想」のもう少し易しい解説書が出てくれることを祈るばかりである。

黒川重信+小山信也「abc予想入門」

さよならの夜食カフェ マカン・マラン おしまい(古内一絵)

内容に入ろうと思います。
本書は「マカン・マラン」シリーズの4作目です。実はシリーズ作だと気付かずに4作目だけ読みました。読んでいく中で、なるほどきっとこの人はレギュラーの登場人物で、きっと前の巻でなんかあったんだろうな、と思うことが度々あって、案外順番通り読まなくても面白く読めるんじゃないかと思います。

先にざっと大まかな舞台設定を。
「マカン・マラン」というのは、不定期に夜だけ営業しているカフェ。昼間、ダンスファッションの専門店をやっているシャールという「おかま」(本人は“ドラァグクイーン”と称している)が、お針子さんたちの賄いとして始めたものがスタートだ。そこには、シャールとかつて同級生だった理科教師や、元ヤンキーのおかま、ライターや翻訳者や料理人など、様々な縁を得て引き寄せられてきた人々が集う。
そんな「マカン・マラン」にまた一人、また一人と、何かを抱えた人が引き寄せられていく。

「さくらんぼティラミスのエール」
秋元希美は、幼い頃に母を喪い、父と二人暮らし。亡き母が少女時代に憧れていた、この界隈では“お嬢様”が通う女子校に編入し、友達も出来た。ビーズ細工が好きな希美は、近くのビーズ専門店で買ってきたビーズで色んなものを作り、友達にあげていたが、最近その友達との関係が微妙になっているように感じている。理由は、希美にはよく分からない。日々の鬱憤はインスタに吐き出しながら、今日もビーズと戯れるが、ある日いつものビーズ専門店でちょっとやらかしてしまった。見慣れぬ男の人に「誘われている」と思い込み、ビーズをぶちまけたまま立ち去ってしまったのだ。また別のある日、とある理由で消沈している希美は、色んなことが嫌になって捨てたビーズ細工を拾い、褒めてくれた男性についていくことになったが…。

「幻惑のキャロットケーキ」
料亭「ASHIZAWA」の若きオーナーシェフである芦沢庸介は、4年連続世界一のレストランの称号を得た、サンパウロの「ジパング」で修行したことがあり、その経歴を引っさげて東京で華々しく成功しようとしている。インフルエンサーを招待したクラウドファンディング形式のパーティを頻繁に行い、また見た目もいい庸介がテレビなどに積極的に出演することで、常に予約で一杯という状態を維持出来ている。「体験を与えること」を何よりも大事だと考え、無理をしてでも走り続けた。
しかし、SNSでの不注意な発言と、テレビでの不運が重なり、「ASHIZAWA」は窮地に追い込まれることになる。そんな時、思い出したのが、同じく「ジパング」で修行をした香坂省吾だ。久々に会いに行くと、「開いてるかどうか分からないカフェ」に行こうと誘われ…。

「追憶のたまごスープ」
平川更紗は、投資会社の経営者の妻という「トロフィーワイフ」に収まるという“セレブ婚”を勝ち取った。容姿と大きな胸に恵まれていた更紗は、読者モデルからグラビアアイドルになり、そこからタワーマンションに住む生活へとステップアップした。自分は無事「ゴール」したのだし、満足なはずだ。しかし結局、同じマンションに住む暇なマダムたちと、くだらない会話と気を使う人間関係に明け暮れている。私はこんな人生を望んでいたんだろうか?
夫は2度の離婚歴があり、子どもは4人いる。「25歳を過ぎたら、女は終わりだな」という夫の言葉を結婚前に聞いた20歳の更紗は、自分が25歳を超えるなんて想像出来なかった。
夫には、女の影がある。気づいてはいるけど、何か出来ることがあるわけではない。
そんな時に思い出したのが、小学校からの友人であり、今では疎遠になっているノブちゃんだ…。

「旅立ちのガレット・デ・ロワ」
シャールは年の瀬が迫った街を歩いている。美しくて可愛いものが好きな自分は、しかし普通にしていれば長身の男だ。子どもの頃から、女の子らしいものに憧れながら、そういうものを好きでいてはいけないのだと理解していた。証券会社で働くようになって、自分の衝動は押し殺せていたつもりだったが、大病を患ったことで吹っ切れた。誰もが、女装したシャールを見ると驚き、目を反らすが、そんな視線にももう慣れた。
たった一人で始めた店に、こんなにたくさんの人が集まるなんて想像も出来なかった。自分が生きていてもいい、と思えるような経験が少しでもあったから自分もこうして生きていられるし、そういう感覚を与えられる場が作れているなら素敵だと思う。
イベント事は、節操がなくても楽しむ主義。年の瀬は色々イベントが目白押しだ。そんな中、元ヤンキーのジャガが、「シャールが美男子と会っていた」とわめいている。どうやら嫉妬しているらしいが、シャールは、「みんなが知ってる人だよ」とたしなめる…。

というような話です。

なかなか面白い作品でした。僕は料理にはまるで興味がないので、料理を作ってたり食べてたりするシーンは割とすっ飛ばしちゃうんだけど(読んでもイメージできないから)、「マカン・マラン」を中心とした人間関係はとてもいいなと思いました。

僕がいつも感じていることは、「どんな立場の人だって、悩んでいることがある」ということだ。悩みが外側に伝わりやすい人と伝わりにくい人というのはいる。例えば、例としては不適切かもしれないけど、身体的な障害のある人は、悩みが伝わりやすい人と言えるだろう(何故不適切かと言えば、障害があるからといって必ずしも悩みがあるとは限らないからだ)。逆に言えば、美しい女性とか、大金持ちとか、そういう恵まれているように見える人は、悩みが伝わりにくい人だと感じる。

このシリーズを4作目しか読んでいないのでなんとも言えないけど、本作だけ読んだ限りでは、物語の登場人物たちは比較的「悩みが外側に伝わりにくい人」なんだろうと思う。秋川希美は、母親を亡くして父子家庭だが、容姿は整っていて羨ましがられるレベル。芦沢庸介も成功者の仲間入りを果たそうとしているし、平川更紗は分かりやすい成功を掴んだ女性と見られるだろう。

しかしどんな立場の人にも、その立場なりの悩みがある。それを丁寧に描き出しながら、対極的に、その悩みを吐き出したり解消したりする相手は、悩みが伝わりやすいだろうシャールだ。いや、シャールは既に突き抜けているので、シャール自身には悩みはないと言っていいかもしれない(もちろんまったくないわけではないが)。そんな、「悩みがなさそうなのに実際は深く悩んでいる人」が、「悩みがありそうなのに実際はそこまで悩んでいない人」に癒やされる、という構図なのかなぁ、という感じがしました。

僕も昔は、頭がグルグルするほど悩みまくったことがあったけど、悩んでいる時というのは、世界中で自分が一番不幸であるかのように感じられるものだ。自分より不幸な人間なんて山程いる、というのは、冷静な時であれば容易に想像が出来るのだけど、いざ自分が悩みの渦の中でグルグルしている時には、そんなことにも気づけなくなっている。そこから自力で抜け出すのは、本当に大変だ。そういう時、シャールみたいな存在がいると、凄く心強いだろうなぁ、と思う。

日本は昔からだけど、今世界全体を見ても、「違い」を許容できない風潮が加速しているように思える。トランプ大統領がその引き金を引いたのか、それとももっと何か原因があるのかは分からないけど、人種や国境など何らかの形で線引をし、その内側と外側を明確に区別することで力を得ようとする動きが頻発しているように思う。またSNSの発達により、自分が抱いている考えや価値観がどれほど少数派・異端であっても、共鳴する人を簡単に見つけ出せるし、共鳴できる人だけと関わる環境を容易に作り出せるから、その考え・価値観がすべてであるような錯覚に陥りやすい時代にもなっている。そういう社会は、非常に小さなまとまりに分断しながら、同時に多様性は許容しないという、非常に窮屈なものになっていくと僕は考えている。

個人的には、多様性を許容することが自由の本質だ、と考えている。自分自身が自由であるためには、ある一定以上のレベルまで自分と異なる価値観を許容しなければならないと思う。僕は、自分がそんな風に振る舞えるよう、普段から意識しているつもりだけど、正直、結構意識しなければ取り込まれてしまうぐらい、世の中の圧力が強くなっているようにも感じている。嫌だなぁ。

「マカン・マラン」の凄いところは、異なる価値観を持った人間が狭い空間の中に共存し、多様性が確保されていることだ。僕にとっては、とても理想的な環境だ。こういう場所はきっと、世の中にもひっそり存在しているだろうけど、ネットの検索やSNSなんかからじゃたぶんたどり着けない。そうやって、簡単には見つからない場所にひっそりと存在する以外に、こういう多様性が許容されないとしたら、それは凄く哀しいことだよなぁ、なんて本書を読みながら考えていた。

古内一絵「さよならの夜食カフェ マカン・マラン おしまい」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)