黒夜行

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思いどおりになんて育たない 反ペアレンティングの科学(アリソン・ゴプニック)

本書は、「子育て」というかなり広い話題を扱っていて、その中には、興味を持てない部分もあったが、僕にとって本書は、4~6章が最高に面白かった(ちなみに僕には子どもはいない)。

【世の中にあふれかえる育児書に対する不満をぶつけて書いたのが本書である】

解説氏がこう書いている通り、本書は、世の中の育児書なんかくそくらえ(というような荒っぽい言葉は出てこないけど)というスタンスで書かれている。今世間では「ペアレンティング」という言葉があって、これはざくっと説明すると「子どもを良く育てるための方法」みたいな感じだけど、著者は、ンなもん存在しねーよ、と主張する。

【けれども親が行うことのわずかな違い―ペアレンティングで注目する違い―と、その子がどのような大人になるかとの間に、現実的ではっきりした関係を見つけるのは難しい。添い寝をするかしないか、子どもを“泣かせておく”か、寝るまで抱っこするか、宿題以外の勉強をさせるか遊ばせるかといった意識的な決定が、長期的に子どもの成長に影響を与えるという証拠はほとんどない。経験的に見れば、ペアレンティングの効果は明確ではないのだ】

一応書いておくと、著者には子育ての経験があり、本書執筆時点で孫もいる。解説氏は彼女のことを、【カリフォルニア大学バークレー校の心理学部の教授であり、哲学の教授も兼ねている、当世で最も独創的な研究者の一人である】と書いている。「子どもの発達に関する心理学」について様々な研究を行っているそうだ。本書はそういう、「母・祖母」の立場と「研究者」の立場が入り乱れた内容になっている。しかし主軸は、科学的スタンスに置かれている。「自分が、自分の子どもや孫に感じてしまうどう説明していいか分からない愛情」を感じながらも、なんとかそれを客観的に捉え、説明しようとする。それが不可能な状況にならない限り、彼女は「研究者」としての立場を踏み外さない。

冒頭で触れた4~6章の内容は、「子どもはどのように学ぶのか」に関する様々な実験が紹介されている。これらの実験は本当に興味深く、また、子育てをしている人が基本的に想定しているだろう内容ではないので、4~6章を読むために本書を買うというのも非常に有益だと僕は思う。

では、どんな実験について触れられているのか紹介しよう。

たとえば、生後24ヶ月の子どもへのこんな実験がある。真ん中にミニカーが置かれ、そこからちょっと離れた左右に箱が置いてある。あと、光るおもちゃもある。ミニカーがどちらかの箱にぶつかるとおもちゃは光るけど、もう一方の箱にぶつかった場合には光らない。

最初は、実験者がミニカーを押して動かす。その場合、子どもは、光った方の箱にぶつける行動だけ真似した。うまくいく行動だけ真似するのだ。しかしここからが面白い。今度は実験者がミニカーを動かすのではなく、ミニカーが自動的に動いて箱にぶつかるとする。実験者が動かしているかどうか以外、現象としてはすべて同じなのだけど、この場合、子どもたちはミニカーを動かそうとしなかった。促されてもミニカーに触れなかったという。

この実験の結論は、「子どもは、目の前の現象をすべて真似するのではなく、意図的な行動な行動だけを真似する」というものだ。

では、次の実験。今度は、ぶつかると光る箱が置いてある。生後18ヶ月の子どもに、「A腕に布を巻いて手が使えない人物が箱に頭をぶつける」のと、「B手を自由に使える人物が箱に頭をぶつける」という違う行動を見せた。

Aの場合子どもたちは、自分の手で箱を叩く。しかしBの場合子どもたちは、頭を使って箱を叩く。これはどういうことかというと、子どもたちはきっとこう推論しているはずなのだ。「Aの人は、手が使えないから頭でぶつけてるだけで、私は手が使えるから手で叩こう」「Bの人は、手が使えるのに頭でぶつけてるから、頭を使ったのには何か理由があるはずだから私も頭で叩く」そうじゃなければ、子どもたちの行動は説明できない。

つまり18ヶ月の子どもでも、目の前の現象からこういう推論をしている、ということだ。

また、実験内容の詳細を書くと煩雑になるので省略するが、いくつかの行為を組み合わせることで別の結果が現れる、という一連の動作において、どういう操作を行うかでどういう結果になるのかという確率をコントロールして行った実験がある。この場合子どもたちは、無意識の内に確率を計算しているような振る舞いを、つまり、確率が高くなる行動を取っていたという。これは4歳児を対象にした実験だが、4歳にして既に、統計や確率的な発想で目の前の現象を分析出来ているという。

生後24ヶ月の子どもを対象にしたこんな実験もある。実験者が子どもに2つの小さな動物のおもちゃ(色違い)とミルクの入ったカップのおもちゃを見せる。そして実験者は、どちらかの動物にミルクを飲ませるふりをして、次のどちらかのセリフを言う。

「A ブリックはミルクを飲む」
「B このブリックはミルクを飲む」

その後で実験者子どもに両方のおもちゃを渡して「やってみてくれる?」という。

すると、Aの場合は、その動物すべてがミルクを飲むと考えて、2つの動物の両方にミルクを飲ませた。しかしBの場合、実験者がミルクを飲ませた方の動物にだけミルクを飲ませた。この特定の動物だけがミルクを飲むと考えたのだ。

これもなかなか凄い結果ではないだろうか。確かに大人になれば、「この」がついてるかどうかは重要な違いだと分かるが、既に24ヶ月の子どもでもそれが出来る、ということだ。こういう僅かな差異から、子どもは様々なことを学び取るのだ。

また、「何かを教える」ということについて非常に深く考えさせられるこんな2つの実験がある。

まずは「真似する」ことに関するもの。ある課題をクリアするのにおもちゃを使う実験で、実験者の性質だけ変えた。

「A 実験者はおもちゃの使い方を良く知らないという風に振る舞う」
「B 実験者そのおもちゃを使うエキスパートであるように振る舞う」

Aの場合子どもたちは、効率的に課題をクリア出来るように創造的に行動した。つまり、その課題をクリアするのに必要な行為だけ真似したのだ。しかしBの場合、子どもたちは、課題をクリアするのに必要かどうかに関わらず、実験者が行った動作をすべて忠実に真似た。これは、結果だけ見れば、Bの方の子どもの方が愚かな行動をしているように見えるだろう。つまり、「自分はそれについて詳しい」という教育者が子どもに教育を与えることで、子どもから創造力が奪われてしまうように見える、ということだ。

一方、こんな実験もある。今度は「遊び」に関するものだ。違う機能を持つチューブをいくつも組み合わせたおもちゃを用意する。それぞれのチューブは、押したら高い音が出たり、明かりがついたりと、色んな性質を持っている。このおもちゃを使って、以下の2つの実験を行う

「A 実験者がおもちゃを踏んづけたりしてたまたま高い音が出てしまった後、そのおもちゃを渡す」
「B 実験者が、ここを押すと高い音が出るよと教えてから、おもちゃを渡す」

Aの場合、子どもたちはそのおもちゃで夢中になって遊び、他の様々な機能も発見した。しかしBの場合、子どもたちは「高い音が出る」という機能だけを繰り返し試し、他の機能について探ろうとしなかった。

ここにも「教えること」の難しさがある。教えてしまうと、子どもの創意工夫が失われるように見えるのだ。

この2つの実験で明らかなことは、「子どもは『教えられている』という事実に敏感である」ということだ。そして、「教えられている」と気づくと、そうでない場合と反応が変わってしまう。こういう結果からも、「子どもに何かを教えること」の難しさ、そして不合理さを感じることが出来るだろう。

また、「真似する」ことについてこんな実験もある。実験者は、ある似たような行動をするが、目的があるように見えるかどうかが違う。以下のような違いだ。

「A 空中でペンを振り、それを回し、その後箱に入れる」
「B テーブルに置いてあるペンを取り、何度も回して、また元の位置に置く」

Aの場合、子どもたちは「ペンを箱に入れること」が目的だと判断して、「ペンを振る」とか「ペンを回す」という行動は真似せずに、そのままペンを箱に入れる。しかしBの場合、実験者の行為に特別な目的を感じないので、そういう場合は細かいところまで真似して行動する。

これは、「あなたはこういう人だとわかっています」ということを相手に伝える、儀礼的な模倣だと考えられている。これも非常に高度な行動ではないだろうか。

そして、こういう実験を踏まえた上で、著者はこう書く。

【子どもたちは親がやるように行動する。そして親の行動のわずかな違いを区別する】

【大人の言ったことが、子どものカテゴリーの考え方に影響を与えることが分かっている。ちょっとした言葉遣いでも、子どもの世界の見方を左右することがある。むしろ本当にちょっとしたことが、子どもの考え方に大きな影響を与える可能性がある。きちんとした教育よりも強い影響力を持つかもしれないのだ】

そしてその上で、子育てについてこんな結論を出す。

【親の役割は、ペアレンティングの規範が示唆する役割とはかなり違っている。親をはじめとする子どもの世話をする人たちは、幼児にあまり教える必要はない。ただ子どもが自然に学ぶに任せればいい。幼い子は他人からすばやく楽々と学ぶ。そして必要な情報を得て、その情報を解釈するのに長けている】

【多様な人々が行っていることを、近くで観察する機会を子どもに与えることが、見ることによる学習を助けるいちばんいい方法である。多くの違う人々と話す機会を子どもに与えることが、聞くことによる学習を助けるいちばんいい方法である】

実験結果を踏まえると、なるほどな、と感じさせる結論である。これが、科学的な検証を踏まえた現時点での結論である、というのは、子どもを育てる親にとってはある種の救いになるのではないかと思う。意識的な教育が果たせる役割は、幼い子どもに対してはあまり多くはない。それよりは、日常の中の様々な経験や会話から、子どもは勝手に学んでいく。そう思っている方が、子育てはやりやすいだろう。

他にも興味深い記述はあるのだけど、一つ、へぇそんなんだ、と感じるものがあったので書いておく。

【祖母というのは大昔からある役割のように思えるかもしれない(本当にそう感じるときもる)が、進化の検知からすると比較的、新しい存在なのだ。人間は自分の子どもを持てる年齢を過ぎても元気で、長生きして子どもの世話をできる、唯一の霊長類である】

【私たちが知る限り、繁殖能力を失った雌がその後も生き続けるのは、哺乳類の中では他にシャチだけだ。】

【数学的モデルでは、赤ん坊に手がかかる世界では、進化によって繁殖力のない祖母という存在が書汁ことが示されている】

なるほど、これは非常に面白いなと思う。人間がなぜこれほど長い子ども時代を持つのかはまだ謎らしい(脳が大きくなり、骨盤を通れなくなるから、早い段階で出てくる、というよくある説は、あまり根拠がないと著者は書く)。しかし、長い子ども時代を持つことで、「祖母」という存在が生まれる、という発想は非常に興味深いなと思う。

研究者が書く本なので、ちょっと学術よりというか、子育て世代の母親がさくっと読める本ではないのがなかなか難点ではあるが、読めば目からウロコの知識は多々あるだろうし、子育てについて「何かしなくちゃ」という発想から「なるべく何もしないようにしなくちゃ」という発想に以降出来るようになるだろうから、そういう意味でも読んで損はない本だろうと思いました。

アリソン・ゴプニック「思いどおりになって育たない 反ペアレンティングの科学」

月下の犯罪 一九四五年三月、レヒニッツで起きたユダヤ人虐殺、そして或るハンガリー貴族の秘史(サーシャ・バッチャーニ)

こんなに読めない本は、久々だった。

最初の50ページほどで、もう完全に迷子になってしまった。この本に書いてあることがなんなのか、全然分からなかったのだ。

そこには僕なりに分析して、いくつかの要因がある。

まず、本書をどういう本だと思っていたか、という先入観の問題がある。本書を読む前僕は、「親族が虐殺に関わっているかもしれないという疑惑を調べること」に主眼があるんだと思っていた。つまり、「虐殺事件そのもの」が本書の中心だ、という捉え方だ。

でも読んでみたら、どうもそういう感じではない。本書は「虐殺事件について調べている俺」という「俺」に主眼がある作品だった。

別にそのことそのものを責めたいわけではない。ただ僕は、「虐殺事件」に興味があった。そこに焦点が当たるんだと思ってたんだけど、どうもそうならない。で、「俺」の話ばかり出てくるから、「これは一体なんの話なんだ?」と最初の時点で大きくつまづいてしまったのだ。

本によっては、こういうことはままある。で、冒頭で戸惑って迷子になっても、ある程度軌道修正出来る。通常は。

本書はそれも難しかった。その理由が、本書にはハンガリーの歴史が深く絡みついているからだ。

僕は、中学生でも知っているような歴史の知識すらないぐらい歴史が超苦手だ。さらに、こう言っては申し訳ないけど、恐らく「ハンガリーという国の歴史」というのは、歴史の授業でもそこまで大きく扱わない、結構マイナーな部類なんだと思う。そういう理由もあって、とにかく、本書を読むための前提知識がなさすぎた。「ハンガリーの歴史」という前提知識なしに本書を読むのは不可能で、もちろん、歴史に親和性のある人であれば、本書を読みながらその前提である「ハンガリーの歴史」を理解することは出来るんだと思う。でも僕は、とにかく歴史が超絶苦手なので、歴史の描写が基本的にまったく頭に入らない。これが日本で起こった出来事であれば、まだついていけたかもしれないけど、「ハンガリーの歴史」は、ちょっと僕にはお手上げだった。

さらに本書は、色んな要素が断片的にかなり入り乱れた構成になっている。僕は途中から、本書を斜め読みというか、字面だけ追っている状態だったので、ちゃんと正確には捉えられていないけど、本書にはこういう要素がある。

◯著者が事件について調べる過程
◯著者が精神科医を受診している場面
◯著者の祖母と、その祖母の友人の手記
◯故人たちによる会話(?)

これらが、短い間隔でどんどん切り替わりながら、作品が進んでいく。

この中でも特に、「故人たちによる会話」が謎すぎた。僕はちゃんと理解しているわけではないので憶測だけど、この会話は、「著者の創作」なんだと思う。著者が切り取りたいと思った過去のある場面があって、その場面においてきっとこういう会話がなされていただろう、という会話を著者が創作しているんだろう、と僕は解釈しました(間違っているかもしれません)。

「ハンガリーの歴史」という大前提をまったく取り込めていない段階で、こういう色んな要素が次から次へと出てくるんで、正直わけわからん、という感じになってしまいました。

一応、70ページぐらいまでは、それでもちゃんと読もうと思って頑張りましたが、やっぱりまったく無理で、それ以降はざっと流し読みするだけという読書をしました。最終的に、「親族が関わっていたかもしれない虐殺事件」がどう決着したのかもよく分からないまま、僕の読書は終了しました。

割と諦めないで最後まで読む主義なんですけど、久々に、まったく太刀打ち出来ない本でした。残念。

サーシャ・バッチャーニ「月下の犯罪 一九四五年三月、レヒニッツで起きたユダヤ人虐殺、そして或るハンガリー貴族の秘史」


佐藤優直伝!最強の働き方 令和時代の生存戦略(佐藤優)

内容に入ろうと思います。
本書は、著者が朝日カルチャーセンターでの連続講座をベースにした、マルクス「資本論」をベースにした働き方の話です。

本書に書かれている内容は、面白い部分もあったし、なるほどと思う部分もあったんだけど、本書にはなかなか致命的な欠点がある。

それは、「喋り言葉のまま」ということだ。

編集の意図は僕には分からないが、恐らく、「著者が喋っている雰囲気は残したい」ということだったんだろうと思う。しかし、人間が普通の喋っていることをただ文字に起こすと、基本的には意味不明な文章になる。喋っている時は、身振り手振りも使えるし、「あれ」「それ」と言った指示語も何を指しているのか流れで分かる。でも、それをただ文字に起こしても、よく判らない文章になってしまう。

で、僕の感触的に、本書はどうも、それをやってしまった本に思える。これ、本当に著者OKしたのかなぁ。それがちょっと僕には信じられない。文章を読んでても、全然すんなり頭の中に入ってこない。著者が喋っている雰囲気は残したい、という意図なんだとすれば、少なくとも僕にとっては大失敗だ。

特に、P135の、外務省のロシア課長の話は、さっぱり理解できなかった。3ページちょっとぐらい、何が書いてあるのかさっぱり理解できなくて、自分の頭が悪いのかな、と思ったりした。

内容に触れたい部分もなくはないんだけど、ちょーっとそういった感じで、文章が酷いので、諦めたい。ちょっともったいないなぁ。

佐藤優「佐藤優直伝!最強の働き方 令和時代の生存戦略」

人生にゆとりを生み出す知の整理術(pha)

内容に入ろうと思います。
本書は、「元『日本一のニート』」という肩書の著者が、自身の経験を踏まえつつ、「いかに勉強するか」「いかにアウトプットするか」についてまとめた本だ。

僕はこの著者が結構好きで、何冊か本を読んでるんだけど、基本的には「何もしたくない」「だるい」「疲れた」的なことばっかり書いている。そういう意味で本書は、今までとはちょっと違った基軸の作品といえるだろう。著者はなにかの本で、「本の内容は、その時に考えていたことを書いたもので、後々まで『◯◯の話をしてほしい』とか言われると飽きる」みたいなことを書いてて、それは分かるなと思うんだけど、それはそれとして、そういう著者だからこそ、色んなタイプの作品を書けるのだろう、と思う。

しかし、phaさんの作品を読むといつも思うけど、これは俺が書いた本だっけ?ということだ。勉強や読書に対する考え方が非常に似ていて、そうだよなぁ、普通に考えたらそういう結論に達するよなぁ、というようなことが多く書かれていて、納得してしまう。

例えば「勉強」に関する記述だと、こういうものがある。

【知識があれば避けられる不幸が、人生には結構ある】

【「勉強への抵抗のなさ」で、人生は結構変わる】

【勉強という趣味のよいところは、一生楽しめて役に立つところだ】

【知識は人を自由にする】

僕自身、昔から「勉強」は結構好きで、今でも勉強したいなぁ、とよく思う。どうしても「趣味」の扱いなので、優先順位を高く出来ないのだけど、数学とか物理を学びなおしたいなぁ、と思うし、哲学や経済や政治などについても、もっと知りたいなと思うことはたくさんある。日々色んな本を読んで知識を取り入れてはいるけど、「勉強」という捉え方でやっているわけではないので、やはりちゃんと腰を据えて「勉強」したいな、と思うのだ。

本書は、「勉強術」の本だ。と書くと、受験勉強などを想像するかもしれないが、そうではない。要するに、「知識を血肉化し使えるようにすること」を「勉強」と本書では呼んでいる。そして本書の特徴は、「頑張れない自分」というものを受け入れた上で、どうやって自分を騙しながら勉強するのか、という本だ、ということだ。普通「勉強術」の本だと、効率的にとか、科学的にこういうやり方が一番、みたいな話が出てくるけど、本書はそうじゃない。とりあえず、「勉強というものをなんとか続けるためにどんな風に自分をごまかすか」というところに焦点が当たっていて、そういう意味で普通の「勉強術」とは違う。

本書の場合、勉強することを特別なものだと捉えず、当たり前にやる習慣にすることを目標にしている。そして、「頑張れない自分」を認めている人にはなかなかハードルの高いその地点に向かうために、どういう一歩を踏み出せばいいか、どんな風に次の一歩を出せばいいか、やる気が出ない時はどうしたらいいかなどなど、ハードルの低いアドバイスが書かれている。

普通の「勉強術」の本は、「勉強する姿勢」については、当たり前すぎて書かれないことが多いだろう。「勉強する」ということは当然のこととして、じゃあどうやってやる?ということが書かれていく。しかし本書では、「勉強する姿勢」を当たり前のものとは捉えない。「勉強するのって大変だよね。机に毎日向かうとか辛いよね。暗記とかしんどいよね。分かる」というようなスタンスなのだ。

しかしだからといって、安易な暗記術とか、「これだけやれば!」みたいな怪しい方法を提示したりすることはない。著者は、「勉強にはあくまでも時間が掛かり、根気と忍耐が必要だ」というスタンスは崩さないまま、「その根気と忍耐をちょっとずつ騙し騙し出していくにはどうする?」というようなところから「勉強術」を書いていくのだ。そういう意味で、なかなか珍しいタイプの本だといえると思う。

本書では、大きく分けて「インプット」と「アウトプット」に分けて話が展開されるが、その具体的な話にも共感する部分が多かった。

まず「インプット」については、著者は「紙の本」がベストだと書く。僕もそう思う。そして、「読書」というものに対するスタンスが、結構似ていると思うのだ。

【読書において一番重要なのは、本を読むことを「努力」ではなく、「趣味」とか「ヒマ潰し」とか「なんとなくする習慣」にしてしまうことだ】

【読書というのは、たくさんの文字列の中のどの部分に自分が反応するかを探っていくという、自分探しみたいな行為なのだ】

【こうした評価の差は、別に本以外でも、映画やマンガなどでも存在するものなのだけど、本は特に人による差が大きい。
なぜかというと、本が読み手の想像で埋める余地が大きいメディアだからだ】

【僕も本を書く側の人間なので、「新品を買ってくれたほうがありがたい」という気持ちはある。ただ、新品の本しか買われないとすると、本とか読書の世界が狭くなりすぎると思うのだ。
僕自身、図書館や古本で育った人間なので思うのだけど、図書館や古本などで手軽に読書に親しめる機会があることで、本を読む人が増えるというのは確実にある。】

この辺りのことは、その通りだよなぁ、と思う。特に「読書をヒマ潰しだと思う」という話はその通りで、僕もずっと読書のことを「趣味」ではなくて「ヒマ潰し」だと言い続けてきた。分かるなぁ、と思う。

「アウトプット」についても共感できる話は多い。

【「言語化する」というのは、人間の持っている最も偉大な問題解決能力だ】

【想像力や創造性というのは、限られたリソースの中で何とかやりくりしようとするときに生まれる】

【もしそれほど読者がいなくて一銭にもならなかったとしても、ブログを書くことはやめていなかっただろうと思う。
なぜなら、僕がブログを書くのはあくまで自分のためだからだ】

【大体の場合、いいアイデアというのは、一生懸命何かをやっているときではなく、いったん考えるのをやめて休んでいるときに、フッと出てくるものだ】

【休むときのコツが一つだけある。
それは、「考える材料をすべて頭の中に入れ直してから休む」ということだ】

こういう話も、なるほどなぁ、と思う。特に、「誰にも読まれなくてもブログは書く」っていう話は、僕もその通りだと思う。確かに、誰かに読んでもらう可能性も考えてはいるけど、それでも僕は、自分のためにブログで文章を書き続けている。書くことで整理されるし、また書いている中で「俺ってこんなこと考えてたんだ」と気付ける。文章を書くというのは、「アウトプット」としては最強だと思っているし、だから「自分のため」に書いているという意識でやっている。それが、誰かのためになるならラッキー、というような感覚も、まったく同じだ。

【ググればどんな情報でもすぐに出てくる今の世界では、情報を暗記していることにはほとんど意味がない】

そういう時代に生きている以上、学び続けるという姿勢を失うわけにはいかないな、と思う。そういう中で本書は、低い地点からそこそこの高みを目指そうという「勉強術」について書いているので、割と広く需要があるんじゃないかなと思います。

pha「人生にゆとりを生み出す知の整理術」

文芸オタクの私が教えるバズる文章教室(三宅香帆)

「創発」という言葉がある。僕の理解が間違っている可能性はあるが、この言葉は、「要素を足し合わせた時、全体を超える」という意味で使われることが多いはずだ。

例えば、「人間」などはまさに創発だ。人間を要素に分解する方法はいくらでもある。部位ごと、臓器ごと、遺伝子単位など色んなやり方がある。しかし、どんな風に要素に分解し、それをつなぎ合わせても、「人間」にはならない。何故なら、要素を足し合わせただけでは、「意識」は生まれないからだ。人間の意識というのはなかなか謎めいたものであって、どの辺りに源があるのか、よく分かっていない。もちろん、脳が生み出しているのだろうが、「意識の起源」は謎だ。

つまりこれは、人間を構成する要素を足し合わせても「意識」は生まれず、しかし人間には「意識」がある以上、人間という存在は、要素を足し合わせた以上のものである、ということになる。「1+1+1+1+1=5」ではなく「10」になるようなものだろうか。

これが「創発」である。

さて、僕は「文章」にも似たようなところがあると思っている。

文章も、様々な形で要素に分解することが可能だ。言葉の選び方、句読点の打ち方、一文の長さ、人称の使い分け…などなどである。しかし、文章を書いたことがある人なら分かるはずだ。いくら要素要素を足し合わせても、「プロが書く文章」のようにはならない、と。文章を書くというのもやはり、要素の足し合わせでは捉えきれない、「創発」的な行為なのだ。

本書の著者は冒頭でこう書く。

【私はおそらく日本中の誰よりも「読んでて楽しい文章の法則」を研究してきました。
「読んでて楽しい文章の法則」って、言ってしまえば、今まで「文才」と呼ばれ、「あの人には文才がある」「私には文才がない」などと抽象的にとらえられてきたもの。
でもそれを、私は長年かけて、一つひとつがんばって“法則”として言語化してきたんです。それをまとめたのが、この本です】

言いたいことは実によく理解できる。しかしこれはやはり、要素の足し合わせが全体になるという、「創発」的ではない捉え方である。僕は、それがどんな「文章術」であれ、この「創発」という考え方を置き去りにしているようなものは、成り立たないだろう、と考えている。

もちろん、「創発」的な発想における「文章術」について、僕なりにアイデアがあるわけではない。「創発」という要素をどうやって「文章術」に組み込めばいいのかは、正直良くわからない。とはいえやはり、「創発」こそ、文章を書く際に最も押さえておかなければならないポイントであるように僕は思う。

盲目の人が象を触って表現する、という話は有名だ。鼻に触れた人は棒のように太いと言い、牙に触れた人は陶器のようだと言い、足に触れた人は丸太のようだと言い、尻尾に触れた人は縄のようだと言う。どの人の意見も間違っているわけではないし、全部正しいが、しかしそれらを統合して動物を思い描こうとしても難しい。要素に分解することで見えてくるものは確かにある。しかし、要素に分解することで既に、元の文章そのものとは違った何かに変わってしまっている、と言うことも出来るのではないかと思う。これが、「文章術」の難しさだ。

さて、ここまでの文章を読んできっとこう誤解されているだろうと思う。僕は本書を面白くないと判断したのだ、と。いや、そうではないのだ。

本書はたしかに、「文章術」としてはうまく評価することが出来ない。ただ、エッセイとして読めば、非常に面白い作品だ。

本書を読んで感心したのは、よくもまあ色んな文章から、自分の主張に合う文章を見つけ出してくるものだよなあ、ということだ。もちろん、実際には、「この文章について何か書きたい」というのが先にあって、それについて「◯◯の☓☓力」と言ったネーミングをしていっただけなんだろうとは思う。しかしそうだとしても、本やブログやCMに至るまで、様々なものの中から、なるほどこの文章からそういう「☓☓力」を引き出しますか、と感心させられた。著者はあとがきで、

【一番ワクワクするのは、「新しい文体」に出会えたときです。もう、顔が赤くなるほどうれしい。“文体ウォッチング”は、子どもの頃からの私の大切な趣味なのです】

と書いていて、確かに息を吸うように“文体ウォッチング”が出来なければ、この本は書けないだろうなぁ、と思った。

本書を読んで「文体」や「文章力」が身につくかと言われたら、僕はちょっと怪しいと思う。文章を書く、というのは、そう簡単なものではない。こういうような「分析」の及ばない部分、あるいは、要素間の繋ぎ目的な部分にこそ、本当に重要なことが隠されていると思うし、そういうものは、要素に分解した時点で解けてしまうと思うからだ。しかし、「こんな文章から、こんな特長を見つけ出しました!」というエッセイと捉えれば、見事な作品だなと思う。


さて、せっかく「文章術」の本なのだから、普段やることはないが、今回僕が書いたこの感想について、自分なりの分析をしてみようと思う。

まず意識したのは、冒頭の「創発」という単語だ。ここで<良心的釣りモデル>を意識している。「最初に意味不明な言葉を放り込む」というこのやり方で、僕は2種類の違和感を用意したつもりだ。

1つは、「創発」という単語の意味が分からない、という違和感。なんだそれ?どういう意味?というひっかかりを持ってもらえればいい。

もう1つは、「創発」という単語の意味は知っているけど、それがこの本とどう関係するわけ?という違和感。明らかに、「文章術」の本の感想の書き出しとしては違和感のある言葉だろう。

そんな風に冒頭で惹きつけてから、「創発」という単語の説明に入る。そして「創発」の説明をし、著者の言葉を引用することで「僕の独りよがりな受け取り方ではない」ことを示しつつ、<配役固定モデル>を意識している。「言いたいことのセンターを決める」というこのやり方で、「文章を書くことは創発的行為であり、要素に分解しても捉えきれない」という結論に向かっていく。

その後の「象」の話、さらには「誤解されているかもしれない」という話は、<フォロー先行モデル>を意識している。「アンチに対するフォローを入れておく」というこのやり方で、二重に防御している。

まずその前の段落で、「創発こそ押さえておかなければならないポイント」とかなり強い主張をしているので、さらにその主張を補足するような要素を入れることで、その主張の強さへの批判を和らげようとしている。

さらにその後、「文章術の本として評価していないだけで、エッセイとしては非常に面白い」という話を入れ込むことで、予想されうる批判に先に対処しようとする。

そしてその次の段落からは、<長調短調モデル>を意識。「心の流れをスイッチする」というこのやり方で、それまでの「マイナス」の主張から一転、「プラス」の主張をすることによる効果を狙っている。

そして最後に、冒頭の「創発」の話、そして「エッセイとしては面白い」という話を繋げて結論として、文章を閉じている。

という構成である。

僕は正直、文章を書く時に、全体の構成を考えたり、ここではこういう効果を狙ってこういう表現を使おう、なんてことはまったく考えていない。基本的には、手が動く限りキーボードを叩き続けて、もう書くことないな、と思った時点で止めるだけだ。だから、ここで書いた分析も、本書の「◯◯力」を自分が書いた文章に無理やり当てはめてみせたに過ぎない。ただまあ、いつも無意識に文章を書いている割には、案外どういう効果を狙って書いているのかというのを説明できるもんだなぁ、と思った。

三宅香帆「文芸オタクの私が教えるバズる文章教室」

電気じかけのクジラは歌う(逸木裕)

まったく、凄い物語を書くもんだなぁ。


昔、本で読んで、なるほどそれは面白い、と思った話がある。AIによる創作についてだ。

AIが生み出した創作物には、著作権が発生しない、というのだ。何故なら、正確な表現は覚えていないが、「著作権」というのは基本的に「人格が生み出したもの」というような定義がなされているようだ。で、当然ながら(少なくとも“今の”常識では)、AIには人格は存在しない。だから、AIが生み出した創作物には著作権は発生しない、というのだ。

もちろん今後、社会の中にAIが組み込まれていく過程で、「AI」というものが法律などによって明確に定義されるだろう。そこにはもしかしたら、「人格」的な要素が含まれるかもしれない。例えば、AIが人間を殺害したとする。その行為が、あらかじめプログラムされたものでない、ということが判明すれば、AIの意思によって殺害を行った、ということになる。その場合、その行為の責任は誰にあるのか?これは、自動運転などにおいても既に議論に上っている話だが、開発者に責任がある、と定められた場合、AIは間違いなく社会に浸透しない(そんなリスクを企業が負うはずがない)。とすれば、AIが社会に組み込まれている、ということは、「AI自体」か「AIの使用者」に責任が及ぶ、としなければならないだろう。「AIの使用者」に責任を負わせても、恐らく社会にAIは広まらないだろうから、そうなると、「AI」に人格を認め、「AI自体」に責任を取らせる、という流れが生まれる可能性もゼロではないだろう。そうなれば、AIによる創作物も、著作権が発生することになるだろう。

AIというのは、人間と共存することを考える時に、激しく問題を引き起こす。

例えばそうでない場合について考えてみる。これも以前本で読んで、なるほどと思った話だ。

世界中で真剣に、地球外生命体の探索というものが行われている。確か「SETI」とかいうプロジェクト名だったと思うのだけど、それは、宇宙のある方向に向かって、知性のある生命体であれば読み解けるに違いないメッセージを送り、返信を待つ、というものだ。どの方向にメッセージを送信しているのかといえば、それは「ハビタブルゾーン(生命居住可能領域)」のある方向だ。それがどんな生命体であれ、こういう条件下でなければ存在し得ない、という要素が様々挙げられており、それらを満たす領域を「ハビタブルゾーン」と呼んでいる。そして、その「ハビタブルゾーン」であれば知的生命体が存在する可能性があるだろう、ということで、その方向に向けてメッセージを送っているのだ。

しかし、人工知能の本に面白いことが書かれていた。進化した生命体であれば、恐らく間違いなくAIを開発しているはずだ。そういう生命体が存在するなら、惑星探査をAIにやらせているだろう。何故ならAIは、電力さえあれば食料や水がなくても活動可能だし、電力は太陽光から永遠に取ることが出来るから、宇宙探査には最適なのだ。知的生命体が、大量のAIを宇宙探査に送り込んでいて、通信可能な領域に、AIだらけの星があってもおかしくない、とその本の著者は主張する。

で、そのAIだらけの星は、「ハビタブルゾーン」に存在する必要はないのだ。だったら、「ハビタブルゾーン」以外の場所にメッセージを送っても返信が返ってくる可能性はあるのではないか、という話だった。

これは、AIと人間が関わらない(関わる前の)話だ。だから、特段問題にならない。しかし、AIと人間が関わると、途端に問題が大きくなる。

AIは今様々な領域で使われているだろうが、将棋の世界ではかなり早くからAIが使われていた。何故なら、AIを進化させるためには、入力データが揃っている必要があるのだが、将棋の世界には「棋譜」といって、棋士たちがどう指したかという記録が、それこそ江戸時代とかのものまで残っていたりする世界だ。ルールが明確に存在し、入力データが揃っているという意味で、AIの実力を試す場として将棋というのは非常にやりやすかったのだ。

そして今、将棋のAIソフトは、プロ棋士を追い抜いたと言われている。プロ棋士たちも実際、AIソフトを練習に取り入れていて(取り入れていない棋士も当然いる)、棋力向上に役立てている。

さて、そんな風にAIと将棋は相性が良かったこともあって、羽生善治がAIの世界と関わる機会も多かった。何かの本で読んだのだけど、羽生善治がこんな風に聞かれた場面がある。

「AIが、将棋のすべてのパターンを解析して、すべての指し手に対して正解/不正解が判定できるようになってしまったら、棋士たちはどうしますか?」

この質問はつまり、将棋というのはルールがはっきりあるんだから、理論的にはすべての駒の動かし方を解析して、どういう場合だったらどっちが勝つということが解明できる。そうなってしまえば、勝ち負けを決するために将棋を指す必要がなくなる(ある程度まで指せば、その後の展開はすべてAIが解析済みだから、勝敗が判明してしまう)。それでも棋士は将棋を指すのか、というような質問だ。

それに対して羽生善治は、非常に面白い回答をしていた。

「大丈夫です。桂馬がちょっと横に飛ぶみたいに、ルールを変えちゃえばいいんです」

なるほどなぁ、と思った。駒の動かし方をちょっと変えるだけで、将棋の指し方は大幅に変わるし、それまでの計算がすべて無意味になる。そうやって、仮にAIにすべて計算されたとしても、ルールをちょっと変えてしまえば予測不能になる。羽生善治はそんな回答をしたのだ。

また、誰の発言だったかも忘れてしまったが、同じように質問されたプロ棋士が、こんなような返答をしていたことも思います。

「将棋の面白さは、人間がミスをする点にある。ミスをしないAI同士の対局を見ていたって何も面白くない。だから、ミスをする人間が将棋を打っている、ということを面白がってもらえている内は、将棋界はやっていける」

これもなるほど、と感じました。一気に話は呼びますが、最近「<レンタルなんもしない人>というサービスを始めます。」という本を読んだ際に、「ミスをする人間」の話が出てきた。<レンタルなんもしない人>というのは、その場にはいるが、簡単な受け答え以外何もしない、という人間を無料でレンタルするというもので、その様々な利用法が面白く、世の中には様々な需要があるのだな、と感じさせられたが、<レンタルなんもしない人>への依頼に、

「朝6時に「体操着」とDMを送ってください」

というものがあったという。これは、現代であればリマインダー的なサービスがあるんだからそれを使えばいいはずだ。しかし、リマインダーはミスをしない。一方、人間はミスをするかもしれない。<レンタルなんもしない人>が朝6時までに起きられないかもしれないし、起きられたとしてもDMを送ることを忘れているかもしれない。しかしそういう「ミスをする人間」が、ミスせずに何かを行う、ということに価値を感じてもらえているのではないか、というような考察があって、なるほどそれは面白い指摘だ、と感じた。ミスをしない、ということがAIの一つの大きな利点ではあるが、しかし、そういう要素が世の中を席巻すればするほど、「ミスをする人間」の、その「ミスをする可能性」みたいなものに逆説的な価値が生み出されるのかもしれない、と思わされた。

こんな風に現代は、「AIが存在するという前提の世の中をどう生きるか」という、かつてない問いにさらされている時代である。僕らが生きている現代においては、まだAIは未熟だ。ルールの決まった単純作業は得意だし、また、ルールを言語化することは出来ないけどある程度の統一感みたいなものがあるものの場合、深層学習という方法によってAIがそのルールを“体感的”に理解し、ある程度のものであればその言語化出来ないはずのルールに則ったものを出力できるようにはなっている。

しかしまだ、「創作」という領域において、AIが人間の能力を上回っている、という事例は存在しないはずだ。

本書は、その「創作」という領域においてAIが人間の能力を遥かに上回ってしまった世界を描いている。

【自分が作る程度の曲は人工知能で簡単に作ることができるいま、自分が曲を作る意味が、あるのだろうか。作る前からそんなことを考えて、作りはじめるところまでも行かない】

僕らは、世の中の様々な創作物に対して「良い/悪い」の判断を下す。そしてその理由は、感覚的なものでしかない。もちろん世の中には評論家と呼ばれる人たちがたくさんいて、そういう人たちが、様々な創作物に対して、「何故良いのか/何故悪いのか」という理由を言語化してはくれる。しかし、いくらそうやって言語化することが出来ても、評論家は良いものを創作することは出来ない。あくまでも、出力されたものを評価することしか出来なくて、「良い」と評する理由がいくら言語化できようとも、それを以って創作に活かすことは難しい。

だからこそ今はまだ、「創作」というのは、人間が勝っている。センスや感覚、経験、そういったものが絶妙に組み合わさることでしか生み出されない、と考えられている。

しかしそれもどんどん変わっていくだろう。実際、確かもう既に、自動作曲するAIは存在するんだったと思う。そのAIが、本書で描かれる「Jing」ほど広まっていないのは、人間がまだ、人間が作った曲の方が良いと判断している、ということだろうが、正直、時間の問題ではあるだろうと思う。

AIが、人間の感性を突き刺す創作物を生み出せるようになったら、どうなってしまうのか。

【客が何を聴きたいのか、俺にはもうよく判らないんだ。(中略)俺は俺のいいと思うものを作れればいいと思っていた。だが、成功している名塚を近くで見ていると、よく判らなくなった。違うものを作ったほうがいいのか?今度はこっちか?やっぱりこうか?そんなことをやっているうちに、自分の音楽が聞こえなくなってきた。無理やり作り続けているうちに、自分は何がいいと思っているのかすら、よく判らなくなった。そうこうしてるうちに、人工知能が曲を作るようになった。もうわけが判らねえよ。いまの世界は、作曲家にとってつらすぎる。こんな世界を相手に何を出していけばいいのか、俺にはもう判らないんだ】

【作曲家って、表現したいものがあるから表現するんですよね?それなのに『Jing』ができない曲をやろうとするなんて、本末転倒じゃないですか】

僕自身は何かを創作するような人間ではないから、この感覚がきちんと理解できるかといえば、理解はできない。僕には「表現したいもの」は特にないし、「自分が作りたいと思うもの」も別にない。しかし、そういう感覚がある人には、相当辛いだろう。

【普通の作曲家が普通に作れる曲は、もう『Jing』で再現することができる。となると、作曲家はふたつの選択肢しかない。『Jing』で再現できることを承知で普通の曲を作るか、それを徹底的に避けるかだ。だがそれをやると、前者は聴かれず、後者は多少聞かれるかもしれないが鍋を叩くような珍曲になってしまう。
その限界を超えられるのは、名塚のような天才だけだ。まだ世界になく、それでいて普遍性も伴った楽曲。ごくごく限られた天才ならば、こんな環境でも作曲家でいられる。】

歴史上、「文字」というのは“必要”から生まれたはずだが、「音楽」というのは“必要”から生まれたわけではないはずだ。無ければないで良かったはずのものだが、しかし有史以来、恐らく「音楽」というものが存在しなかった時代はないのではないか。これは絵なども同じで、そういうプリミティブな芸術全般というのは、ある種「人間」という存在を他の動物から区別するような性質のものであるようにも感じる。あらゆる芸術が“商業”に飲み込まれているとはいえ、やはり何らかの“衝動”からしか生まれ得ないはずの芸術が、AIという技術革新によって、“衝動”という最も本質的だったはずのものを抜きにして生み出される時代が、まだ到来してはいないが恐らく近いうちにやってくるだろう。そうなった時、“衝動”抜きで再現された芸術作品にどんな価値を見出すことが出来るだろうか。

【天才以外は生き残れない戦場にいたら、殺されるだけだ】

内容に入ろうと思います。

都心では自動運転が整備され、無人のコンビニが急増している、そんなAIが社会の中に着実に組み込まれている近未来が舞台。この世界には、『Jing』と呼ばれる作曲アプリが存在する。自分が気に入った曲を数曲入力すると、それらの構造を解析して複数曲作曲してくれ、それらからさらに自分のお気に入りの曲を選ぶことで、さらに精度を上げることができる。今は、ユーザー一人一人が、自分が気に入る自分のための曲を『Jing』に作ってもらう世の中であり、作曲家と呼ばれる人種はほぼ絶滅した。
学生時代から作曲にのめり込み、天才・名塚楽と『心を彩るもの』という特殊なバンドを組んでいた元作曲家・岡部数人は、今「検査員」という仕事についている。『Jing』を開発したクレイドル社から外注のような形で雇われている。「検査員」というのは、ただ音楽を聴く仕事だ。これまでも自動作曲のソフトは存在したが、「人間がどういう曲を良いと感じるのか」というデータを入力することが非常に困難だった。しかし『Jing』はその点を乗り越えてトップランナーとなった。『Jing』には、岡部のような「検査員」と呼ばれる人に様々な音楽を聞かせた時の脳波などのデータを入力している。様々な「検査員」のデータを入力することで、こういう曲であれば人間はこういう反応をする、というデータが蓄積されることになり、それが『Jing』の作曲の根幹を支えているのだ。
ある日岡部は、衝撃的なニュースに触れる。盟友である名塚が自殺した、というのだ。『心を彩るもの』を解散してからほとんど会っていなかったが、状況を知ろうと家へと向かう。そこには、「カイバ」と呼ばれているシール状の記録媒体に保存される形で、名塚の最後の曲が残されていた。様々な状況から、名塚らしくない部分を感じた岡部は、名塚の死を調べ始めるが、その直後驚くべきことが起こる。なんと名塚から、自分の指をかたどったオブジェが送られてきたのだ。
名塚の秘書だった渡辺絵美子、名塚の従妹でワケありのピアニストである綾瀬梨紗、『心を彩るもの』のメンバーだった益子孝明、『Jing』の開発者で伝説的な存在である霜野鯨…。名塚の死を契機に、それまで関わりのなかった者、関わりが薄くなっていた者たちと接するようになった岡部。名塚の死の真相は謎のまま、名塚が遺した曲の続きが発表されたり、梨紗との関係が進んだり、決別状態だった益子と関わるようになったりと、岡部の身辺は慌ただしい。
『Jing』が席巻する世の中においても、ある種のプレミアとして称賛を浴びていた名塚の死は一体何を意味するのか。そして『Jing』は、「音楽の創作」を殺したのか?「創作の衝動」は人間に何をもたらすのか。近い将来、確実にやってくる未来をリアルに描き出す一冊。

メチャクチャ面白かったなぁ。僕自身は、音楽に詳しくないし、音楽活動に携わったこともないのだけど、「AI」と「創作」という領域への関心は凄くあるし、その中で「人間であるとはどういうことか」という哲学的な展開も見せる本書は、非常に読ませる一冊だと感じました。

「AI」と「創作」ということについて、森博嗣が著作(小説ではなく新書)の中で書いていたこんな趣旨の文章が記憶にある。

「いずれ人工知能が小説を書く時代がやってくるだろうけど、恐らくそうなっても、人間が書いたと発表するだろう」

これは非常に示唆的だなと思う。そしてこの点に関して、世の中の多数派がどう判断するかで、世の中の動きは変わってくる、と思う。

『Jing』は明らかに「AIが作った」ということが受け手側に伝わるものだ。そしてその「メタ情報」は、受け手にどんな影響を与えるのか。

例えば、「AIが寿司を握る」ということについて考えてみる。AIがお客さんの目の前で握った寿司を提供する場合、「寿司を食べる」ということへのある種の“感動”は減るのではないかと思うのだ。そして恐らくそのことは、味覚にも影響する。人間は、舌でも食べるが、脳でも食べているからだ。

しかし、AIはお客さんの前におらず、舞台裏で握り、そしてそれを「人間が握った」として提供する場合、ある種の幻想みたいなものが保たれ、それは味覚にも影響するように思うのだ。

そしてこの理屈が、音楽や他の芸術に当てはまるのかどうか、ということが問題だと僕は感じる。

音楽が、「脳への刺激」という要素しかないのであれば、誰が作った曲であろうが受け取り方は同じだろう。しかし実際には、「歌っているのが誰なのか」や「作り手のプロフィール(亡き母のために作った、など)」によって受け取り方が変わる。

その最たる例が、佐村河内守事件だろう。耳が聞こえない作曲家として一世を風靡したが、ゴーストライターがいたと指摘され評判は一気に落ちた。あの時、不思議に思ったものだ。提供されている歌は、佐村河内守が嘘つきだと判断される前も後も同じだ。しかしその前後で、曲の受け取り方は大きく変わったはずだ。であれば、曲そのものではない要素も、曲の受け取り方に大きな影響を与えることになる。

AI同士による将棋の対局があまり面白くないのは、人間同士の対局にある「人間にここまでの思考が出来るのか!」という驚きがないからだと思う。同じように考えれば、作曲も、「人間にここまでのことが出来るのか!」という要素こそが、「創作」と呼ばれるものの最後の砦なのではないかと思う。というか、思いたい。そして、そう感じる人間がどのぐらいいるかによって、「AI」と「創作」の未来は決するだろう、と本書を読んでて感じた。

本書では、「AIが作曲する世の中」を舞台に、様々な葛藤が描かれていく。ある人は、人間が作曲することに意味などあるのかと悩む。ある人は、AIが作った曲を弾くだけの仕事(「弾き師」と呼ばれる、『Jing』で作った曲を実際に演奏してくれる仕事のこと)に価値はあるのかと煩悶する。ある人は、曲を生み出すことに価値があるのか、曲を届けることに価値があるのかと懊悩する。そしてある人は、どうやっても消せない欲望をどう実現すべきかに頭を悩ませている。

創作をする人たちは元々、「創作の悩み」を誰もが抱えているだろうと思う。何もないところから何か新しいものを生み出していくことは悩みの連続だろう。しかし、それがあるからこその創作であり、そこに障害がないとするならば、創作というものに価値などないといえるかもしれない。

しかし本書で描かれている悩みは、その「創作の悩み」以前の問題だ。「創作」という領域に足を踏み入れるべきか、留まるべきか、という点での悩みなのだ。しかも、「創作の悩み」という共通項はあるが、本書で描かれるそれぞれの悩みはやはり個別的なものであり、共闘できるものではない。しかし、それらの、ある意味でバラバラの悩みが、全体の大きな物語の中で見事に収斂していく。霜野鯨という“狂人”にすべてのベクトルが集まっていく展開は見事だし、主人公の岡部を中心とした様々な人間関係が、メチャクチャに翻弄されていく過程は面白い。

詳しく書かないが、本書に【伴奏者】という単語が出てくる箇所がある。これはある意味で、本書で投げかけた大きな問いに対する答えだと思う。AIが作曲する世界で、人間が作曲することにどんな価値があるのか、という問いの答えとして著者が導き出した【伴奏者】という答えは、これからの世の中の大きな流れを予言するものでもあるだろうなと思う。

【人間は何かをしなければいけないという確信があれば、どんなことでもする。文字通り、どんなことでもだ。死ぬことくらいなんでもない】

具体的には書かないが、ある場面で登場するこのセリフに共感できる人は、たぶんそう多くないんじゃないかと思う。しかし、これを薄めて薄めて薄めた感情は、きっと誰もが持っている。AI時代は、僕らが薄く持っているに過ぎなかったこういう感覚を増幅させてしまうということなのだろうか?そうだとしたら、AIが組み込まれていく社会において、誰が「豊かさ」を享受出来ることになるのか、という新しい問題も浮かび上がるなぁ、と思う。

逸木裕「電気じかけのクジラは歌う」

量子革命(マンジット・クマール)

さて本書は、量子力学についての本である。物理について知らない人からすれば「???」という感じだろうけど、基本的に、今世の中に存在する電子機器は量子力学の恩恵なくしては存在しない、と言っておけば、量子力学の重要性は伝わるだろう。テレビもパソコンもレーザーも、量子力学なしには生まれなかったのだ。それぐらい、量子力学というのは重要で、20世紀の物理学の到達点の一つと言われている(もう一つが、アインシュタインの一般性相対性理論)。

さてしかし、そんな量子力学だが、とにかく悪名高い。「悪名高い」という表現が適切かどうか分からないが、量子力学を生み出したり関わってきた物理学者たちの言葉をたくさん引用してみるので、どんな感じなのか感覚で捉えてほしい。

【アインシュタインは後年、次のように述べた。「この理論のことを考えていると、すばらしく頭の良い偏執症患者が、支離滅裂な考えを寄せ集めて作った妄想体型のように思われるのです」】

【ヴェルナー・ハイゼンベルグが不確定性原理を発見する。その原理はあまりにも常識に反していたため、ドイツの生んだ神童ハイゼンベルグでさえも、はじめはどう解釈したものかわからず頭を抱えたほどだった】

【ノーベル賞を受賞したアメリカの物理学者、マレー・ゲルマンは、そんな状況を指して次のように述べた。量子力学は、「真に理解している者はひとりもいないにもかかわらず、使い方だけはわかっているという、謎めいて混乱した学問領域である」】

【量子論にはじめて出会った時にショックを受けない者に、量子論を理解できたはずがない(ニールス・ボーア)】

【アインシュタインは、黒体問題の解決案を提唱したプランクの論文が出るとすぐにそれを読み、のちにそのときの気持を次のように述べた。「まるで足もとの大地が下から引き抜かれてしまったかのように、確かな基礎はどこにも見えず、建設しようにも足場がなかった」】

【エーレンフェストはそれに続けて、「目標に到達するためには、この道を取るしかないというなら、わたしは物理学をやめなければなりません」と述べた】

【現在、物理学はまたしても滅茶苦茶だ。ともかくわたしには難し過ぎて、自分が映画の喜劇役者かなにかで、物理学のことなど聞いたこともないというのならよかったのにと思う(ヴォルフガング・パウリ)】

【もしもこの忌まわしい量子飛躍が本当にこれからも居座るなら、わたしは量子論にかかわったことを後悔するだろう(エルヴィン・シュレディンガー)】

ここに名前を挙げた物理学者たちは、その当時、いや、物理学の歴史全般を振り返ってみても、「天才」と呼んでしかるべき巨人たちばかりである。そんな巨人たちがそろいも揃って嫌悪感や戸惑いを示している。これらは、量子力学という学問が、アインシュタインとボーアという二人の巨人の激論を中心に発展していく過程における発言だが、アインシュタインの死後10年経た時点でも、こんな風に言われている。

【著名なアメリカの物理学者で、ノーベル賞受賞者でもあるリチャード・ファインマンは、アインシュタインの死後十年を経た1965年に、次のように述べた。「量子力学を理解している者は、ひとりもいないと言ってよいと思う」。コペンハーゲン解釈が、量子論の正統解釈として、あたかもローマ教皇から発布される教皇令のごとき権威を打ち立てると、ほとんどの物理学者は、ファインマンの次の忠告に素直に従った。「『こんなことがあっていいのか?』と考え続けるのはやめなさい―やめられるのならば。その問いへの答えは、誰も知らないのだから」】

物理学者たちは、「現実はどうなっているのか?」ということを、観察や実験や理論形成などによって捉えようとするプロフェッショナル集団である。そんな彼らが、「量子力学をちゃんと理解しようとするのは諦めよう、みんな!」という立場にいるというのだ。もはやこれは異常事態だろう。

そんな量子力学はどんな理論で、どのように生み出されていったのか。本書は、その長い長い歴史を描き出す非常に重厚な作品だ。本書について、全体の流れを簡潔にまとめるのは不可能なので、僕はここでは、「量子力学の形成にアインシュタインはどう関わったのか?」ということを中心に触れてみようと思う。

何故そうしようと思うのかという理由がある。量子力学の知識がちょっとある人(僕もそうだ)の一般的な印象として、「アインシュタインはコペンハーゲン解釈に負けた」という感じだと思う。コペンハーゲン解釈というのは、量子力学を主導した巨人の一人であるボーアが中心となって打ち立てたもの解釈で、アインシュタインは最後の最後までこのコペンハーゲン解釈に反対した。しかし、その後劇的な展開があって、実験によって、「アインシュタインの信念」が打ち砕かれることとなったのだ(しかしその時すでにアインシュタインは亡くなっていた)。アインシュタインは一般的に、「コペンハーゲン解釈に反対し続けた」「古典物理学に固執して新しい物理学を受け入れられなかった」という判定をされるのだけど、本書でのアインシュタインの描かれ方は違う。訳者である青木薫氏はあとがきでこんな風に書いている。

【今日では、コペンハーゲン解釈とはいったい何だったのか(コペンハーゲン解釈に関する解釈問題があると言われたりするほど、この解釈にはあいまいなところがあるのだ)、そしてアインシュタイン=ボーア論争とは何だったのかが、改めて問い直され、それにともなってアインシュタインの名誉回復が進んでいるのである】

「アインシュタインの名誉回復」って、アインシュタインって凄い人なんじゃないの?と思う人もいるかもしれない。それについては、同じく青木薫のこんな文章を読めば理解できるだろう。

【さて、アインシュタインが最後まで量子力学を受け入れなかったことについては、ながらく次のような理解が広くゆきわたっていた。「かつては革命的な考えを次々と打ち出したアインシュタインも、年老いてひびの入った骨董品のようになり、新しい量子力学の考え方についてこられなくなった」と。わたしが大学に入った1970年代半ばにも、そんなアインシュタイン像が、いわが歴史の常識のようになっていた】

そんなわけで、アインシュタインに着目しながら量子力学の形成を見ていこう。

まず「量子」というものが何か説明しよう。水道をイメージしてもらえればいいと思う。水道の水をジャーっと出している状態は、「1つ、2つ、…」と数えられるようなものではないので、これは「量子」ではない。一方で、水道の水がポタポタと、一滴一滴水滴を落とすように落ちているとどうだろう。これは「1滴、2滴、…」と数えることが出来る。これが「量子」だ。現代人には、「量子」というのは「デジタル」だ、という方が伝わりやすいだろうか。

この「量子」という考え方を初めて導入したのが、プランクという人物だ。当時、「黒体問題」と呼ばれる難問があって、誰も解けなかったのだけど、プランクは、今まで連続した量だと誰もが当たり前のように思っていたものを、「いや待てよ、これを量子だと思えば問題は解決するんじゃね?」と考えたのだ。先程引用したように、プランクが「量子」という考え方で黒体問題を解き明かした時、アインシュタインは「足もとの大地が下から引き抜かれてしまったかのよう」に感じたのだ。それぐらい「量子」という捉え方は斬新だった。

しかしその後、アインシュタインも「量子」という考え方を導入することになる。それが「光量子」というものだ。「光」を「1粒1粒の粒子(量子)で出来ている」と捉えることで、これも当時の難問だった「光電効果」を見事に説明したのだ。

しかし、アインシュタインが「光量子」という考えを提示した当初、「光量子」の存在を信じていたのはアインシュタインただ一人だった。それから20年経ってもまだ、「光量子」を信じる者はほとんどいなかった。

何故か。

それは、「光は波である」という信頼できる実験が山のように存在していたからだ。確かに「光電効果」は「光を粒子(量子)と捉えること」で解決できるかもしれない。しかし、「光は波だ」という実験結果が山程存在する。波でもあり粒子でもある、なんてことはあり得ないはずだから、物理学者は皆、光は波だ、という考えを捨てられなかったのだ。実験によって光電効果を検証し、ノーベル賞を受賞したミリカンという物理学者でさえ、自分の実験結果を信じられなかったほどだ。

誰も「光量子」を信じていなかったというのは、アインシュタインのノーベル賞受賞理由にも現れている。アインシュタインは、「一般性相対性理論」で有名だが、実はノーベル賞の受賞は「光電効果」によってである。しかし、「光電効果」に対してアインシュタインにノーベル賞を受賞させることで、「ノーベル賞が光量子の存在にお墨付きを与えた」と思われることを危惧したようで、アインシュタインの受賞理由は「光電効果を説明する数式を発見したこと」という風に限定されていた。そんな風にアインシュタイン以外は、「光量子」という存在を疑問視し続けたのだ。後に量子力学の巨人としてコペンハーゲン解釈を死守するボーアも、「コンプトン効果」という「光量子」の実在を反論の余地なく支持する実験が行われた後でさえも、「光量子」の存在を信じなかったという。

さてそんな風に、「量子」という考え方を誰よりも早く先駆的に認めたアインシュタインだったが、アインシュタイン自身は光電効果の自身の説明に納得がいっていなかった。それは、光量子が放出される向きや時刻が完全に運任せ、つまり「確率」でしか記述できない、ということだった。アインシュタインは有名な言葉をいくつも残しているが、その内の一つが「神はサイコロを振らない」だ。アインシュタインは、「確率」による記述は「不十分」であり、より正確な記述が可能な理論があるはずだ、という信念を持っていた。そしてこの信念こそが、アインシュタインをして量子力学へ攻撃をさせたのである。

しかしその話に行く前に、量子力学がその後どう進展したのかを書こう。まず量子力学には大きな欠点があった。それは、量子の世界を記述する数式がないことだ。しかし、ハイゼンベルグとシュレディンガーという2人の天才が、別々に数式を発見した。

しかし、これがまた問題を引き起こす。

ハイゼンベルグは、「行列」という、当時の物理学者にはまだ広く知られていなかった道具を使って数式を作り上げた。一方シュレディンガーは、波動方程式と呼ばれるものを作り上げた。後にこの2つの数式は「同値」、つまり、同じものを別の側面から描いているだけだ、ということが分かった。つまり、ハイゼンベルグの数式で計算しても、シュレディンガーの数式で計算しても、同じ結果が出るのだ。

じゃあ良いじゃないか、と思うかもしれないが、そう話は簡単ではない。実はこの2つの数式、背景がまったく違うのだ。ハイゼンベルグの数式は、「粒子」に着目した式であり、一方のシュレディンガーの数式は「波」に着目した式なのだ。当時は、「粒子でもあり、波でもある」という見方は一般的ではなく(コペンハーゲン解釈はそういう捉え方をする)、ハイゼンベルグの数式(の解釈)が正しいのか、シュレディンガーの数式(の解釈)が正しいのかは、「粒子」なのか「波」なのかという非常に大きな問題を孕んでいたのだ。実際この2人は険悪だったようで、相手を罵倒しまくっていたという。

しかし、解釈はともかく、数式の扱いやすさでいえば、シュレディンガーの数式の方が群を抜いていた。なので物理学者は基本的に、シュレディンガーの数式を使って計算していた。しかしシュレディンガーは、その数式を計算した結果がなんであるのかを捉えることが出来なかった。

それを捉えたのが、ボルンという物理学者である。彼は、「シュレディンガーの数式を解いて出てくるのは、存在確率だ」というのだ。原子がある瞬間どこにいるのかという確率を示している、という解釈を提示したのだ。しかしこれに対してシュレディンガーは猛反発。その違和感を示すために、後に有名になる「シュレディンガーの猫」の喩えを持ち出すことになる(しかし本書によると、その原型を作ったのは実はアインシュタインだそうだ)

さて、量子力学にとってもう一つ決定的に重要な要素がある。それは、ハイゼンベルグが発見した「不確定性原理」である。これについては詳しく触れないが、「霧箱の軌道」という、量子力学における大問題を解決しようとして導き出したもので、「共役変数」という関係にある2つの物理量を同時に正確に測定することは出来ない、というものである。この「不確定性原理」を発見したことで、ハイゼンベルグはこういう結論に至ることになる。

【彼にとって、電子の位置や運動量を測定するための実験が行われなければ、はっきりした位置や、はっきりした運動量を持つ電子は、そもそも存在しないのだ。電子の位置を測定するという行為が、位置をもつ電子を生み出し、電子の運動量を測定するという行為が、運動量をもつ電子を生み出す。はっきりした「位置」や「運動量」をもつ電子という概念は、測定が行われるまでは意味をもたない、と彼は述べた】

そしてこの考え方こそが、後に「コペンハーゲン解釈」と呼ばれるようになる解釈のベースとなっている。

しかし、アインシュタインはこの解釈を忌み嫌った。

【アインシュタインの物理学の核心にあったのは、観測されるかどうかによらず、「そこ」にある実在へのゆるぎない信念だった。「月は、きみが見上げたときだけ存在するとでも言うのかね?」と、彼はその考えの愚かしさを印象づけようとしてアブラハム・パイスに言った。アインシュタインの思い描いた実在は局所的で、因果律にのっとった法則に支配されており、そんな法則を発見することが物理学者の仕事なのだった】

さて、整理しよう。一般的に、アインシュタインは量子力学に反対した、と言われているが、これはもう少し正確に描写しなければならない。アインシュタインは、量子力学を正しい理論だと考えていた。しかし完全ではないとも考えていたのだ。

そして、ボーアの「コペンハーゲン解釈」と、アインシュタインの信念の一番の差は、「実在」をどう捉えるかなのだ。

ボーアは、「観測するまで何も存在しない。観測する前にどうなっているかを問うことには意味がない。量子力学とは、観測結果を解釈するための理論なのであり、それ以上でもそれ以下でもない」と考えていた。

しかしアインシュタインは、「観測しようがしまいが原子はそこに存在しているはずだ。確かに量子力学は現象を説明するし、正確に予測もする。しかし量子力学は、実在については何も記述できない。それは、量子力学が不完全だからだ。きっとこの世界には、実在も描写できるより完全な理論が存在するはずだ」と考えていたのだ。

そしてこの両者の立場から、激しい知的バトルが繰り広げられることとなる。

さて、ここで、ごくごく当たり前の感覚で物事を捉えれば、アインシュタインの捉え方の方が正しい気がするだろう。ボーアの「観測するまで原子は存在しない」なんていう考え方は、なんか胡散臭い気がする。それよりアインシュタインの、「観測しようがしまいが原子は存在する。それが描写出来ないなら量子力学は不完全だ」という主張の方が正しい気がするだろう。

しかし、アインシュタイン=ボーア論争が繰り広げられていた当時、「コペンハーゲン解釈」は圧倒的優位に立っていた。それには様々な理由があるのだけど、一番大きな理由は、マレー・ゲルマンのこの言葉に集約されるだろう。

【ニールス・ボーアが一世代の物理学者をまるごと洗脳して、問題はすでに解決したかのように思い込ませた】

それぐらい、ボーアというのは、量子力学の世界において圧倒的なカリスマ性を持っていたのだ。だから、「観測するまで原子は存在しない」なんていう、「ンなアホな!」というような解釈が、圧倒的多数を占めていたのだ。

そういう中で、アインシュタインとシュレディンガーは孤軍奮闘し、「コペンハーゲン解釈なんかありえねぇだろ!」と闘いに挑んでいた。アインシュタインは、その天才的な頭脳で、数々の思考実験を生み出し、ボーア陣営に揺さぶりを掛けていく。

アインシュタインの戦略には、実は2段階あった。

最初アインシュタインは、「ハイゼンベルグの不確定性原理」を攻撃することにした。「不確定性」が成り立たない、つまり、「共役変数の関係にある2つの物理量を同時に測ることが出来る実験」を多数考え出し、ボーア陣営に投げかけたのだ。しかしボーアはその度に、アインシュタインの論点に間違いがあることを指摘していった。

その内アインシュタインは、不確定性を攻撃する方針では無理だと判断し、今度は、「量子力学は不完全だ」ということを示そうとした。そして、それを示すために考案された有名な思考実験が、「EPR実験」である。これの詳細は説明しないが、アインシュタインによる実に巧みな設定によって、ボーア陣営にかつてない動揺を与えることになったのだ。

しかし、当時量子力学というのは、発展途上の分野であり、新しい研究はいくらでも出来た。そういう中で次第に、アインシュタインとボーアの論争は「関わってられない問題」と捉えられるようになる。何故なら、アインシュタインの解釈を採ろうが、ボーアの解釈を採ろうが、別に何も変わらないのだ。彼らは、「実在」という哲学的な命題について論じているのであって、それより量子力学の世界をもっと深く探索した方がいいじゃん、というような風潮になっていくのだ。

しかししかし、物語はここで終わらない。なんと、「実在」をめぐる哲学的な命題だと思われていたこの論争が、実験室で検証可能だ、ということが判明したのだ。最終的に大きな貢献をしたのはベルという物理学者だったが、発端はボームである。

ボームはマンハッタン計画を主導したオッペンハイマーとの関わりの中で、濡れ衣的な感じで悪評をつけられてしまい、ある意味やけっぱちになって、当時既に「老人たち(アインシュタインとボーアのこと)の論争」と思われていた問題に取り組むことになる。

アインシュタインのような、量子力学が不十分であるとする立場は、「隠れた変数理論」と呼ばれる。要するに、未だ見えない何らかの要素があって、目の前の現象が確率的にしか捉えられないけど、その隠れた要素が見つかれば確率的ではない捉え方が出来るはず、というものだ。

一方のコペンハーゲン解釈は、そうではない。隠れている要素は何もなく、観測するまでは何も存在しない、という立場だ。

実はこの「隠れた変数理論」は存在し得ない、という証明が、なされたことがあった。その証明を行ったのは、天才中の天才と言われたノイマンであり、多くの物理学者はノイマンの論文を読むことなしに、「あのノイマンが無理って言ってるなら無理なんだろう」と、「隠れた変数理論」を探すことを諦めていたのだ。

しかしボームはなんと、「隠れた変数理論」を作り出してしまった。そのことを論文で知ったベルは驚いた。そして、ノイマンの論文を読み、ノイマンが正しくない仮定を置いていることに気付いたのだ。

ボームもベルも、アインシュタイン的な、観測しようがしまいが実在する、という立場に傾倒していた。そこでベルは「隠れた変数理論」についてもう少し調べてみることにした。そしてその中で決定的に重要な事実を発見したのだ。

それが「ベルの不等式」と呼ばれるものだ。ベルは、「隠れた変数理論が正しい」か「隠れた変数理論が正しくないか」を実験で検証できることに気がついた。「ベルの不等式」と呼ばれるものが成り立てば、アインシュタイン的な立場、つまり「隠れた変数理論」が正しいということになる。一方で、「ベルの不等式」が成り立たなければ、「隠れた変数理論」が正しくないということになる。そしてこれを実験で確かめられるということを示したのだ。

そして実験は実際に行われ、なんとなんと、「ベルの不等式」が成り立たないことが示されたのだ。つまり、アインシュタインの信念が打ち砕かれ、「隠れた変数理論」が正しくないことが示されたのだ。

しかしだからと言って、「コペンハーゲン解釈」の正しさが証明されたわけではない。「ベルの不等式」の実験で分かることは、「隠れた変数理論が正しいかどうか」であり、アインシュタインが間違っていたことは示されたが、ボーアが正しいことを示すものではないのだ。「コペンハーゲン解釈」は、「隠れた変数理論ではない解釈の1つ」に過ぎず、「ベルの不等式」が成り立たないような解釈であれば、「コペンハーゲン解釈」以外の解釈にもまだ可能性はあるのだ。実際、1997年7月に、ケンブリッジ大学で開かれた量子物理学の会議で意見調査が行われた結果、

【新世代の物理学者たちが、量子力学の解釈問題という、頭の痛い問題をどのように見ているかが明らかになった。90.人の物理学者が回答したなかで、コペンハーゲン解釈に票を投じたのはわずか4名にすぎず、30名はエヴェレットの多世界解釈の現代版を選んだのである。考えさせられるのは、「上の選択肢のどれでもない、あるいは決心がつかない」という選択肢を選んだ者が、50名もいたことだ】

という状況になっているのだ。量子力学を解釈するというのは、まだまだまったく解決されていない、非常に難しい問題なのだ。

うん、とにかく、メチャクチャ面白かった!

マンジット・クマール「量子革命」

「天気の子」を観に行ってきました

面白かったなぁ。「これ!」という何かを描いているのか、と言われると、別にそんなことはないんだけど、エンタメとしてメッチャ面白いんだよなぁ。

とにかく、そこまで異質な設定の物語ではないんだけど、この先どうなるんだろう、というワクワク感が強い。描かれてるのがどの街のどこなのかはっきり分かるぐらい「日常」を舞台にしているし、出てくる登場人物だって、100%晴れ女はともかく、みんなどこにでも居そう。徹底的にはっきりと地に足のついた僕らに馴染みのある世界を舞台にしているのに、どうしてか、普通じゃないことが起こりそうなワクワク感がある。

それはもちろん、細々とした小道具に拠る部分もあるだろう。例えば、冒頭で拾った拳銃。例えば、冒頭で見かけたバスの中の小学生。例えば、拳銃は、穏やかそうな物語の中で不穏な雰囲気を醸し出すし、バスの小学生が後々物語に絡んでくるみたいな細かい描写があるから、どのシーンも油断出来ないような気にさせられる。

しかしやっぱり、一番大きな理由は、この映画のテーマだろう。「天気」というのが果たして、どんな風に少年少女たちの物語に絡んでくるのか、基本的には予測できない、という部分に、このワクワク感の正体があるように思う。

いつでも晴れに出来る少女が、一体何をして、どうなっていくのか。ここが物語の核で、この核となる部分が、やっぱり凄くいい。核となる部分の設定・展開が凄くシンプルで分かりやすいし、全体のストーリーがそこからブレない。いろんなサイドストーリーはあるんだけど、それらは「サイドストーリーである」ということが明確だし、主軸のストーリーをいろんな形で補強しているのも良いなと思う。

また、全体的に割と重いテーマも扱っている、というのも良かった。なんとなく「キレイなお話」っていうんじゃなくて、生きていく上で避けられないこともある現実が結構盛り込まれてる。ネタバレにならない範囲で伝えるのが容易な部分は、雨ばかり続く世界で災害なんかが起こる、みたいなことだけど、それだけじゃなくて、登場人物それぞれが、個人的な、でも社会や制度と無関係ではいられないような問題を抱えていて、それら全部がうまくいかない、ということの象徴として、永遠に止むことのない大雨、というものが置かれているようにも感じた。

いろんな物語が重なり合って、最終的にみんなで一つの目標に向かって全力を出す!みたいなのは、まあよくある展開なんだろうけど、よくある展開なんだろうからやっぱり単純に良いなって思っちゃうし、ワクワクしたし、ウルウルもしましたね。

まあ僕が言っても言わなくても、見ようと思ってる人は見るだろうし、見ようと思ってない人は見ないだろうけど、面白いと思うんで観てみてください

(しかし、謎の水の塊は、なんだったんだろうなぁ…)

「天気の子」を観に行ってきました

ケーキの切れない非行少年たち(宮口幸治)

【しかし、私が驚いたのは約8割の少年が「自分はやさしい人間だ」と答えたことでした。どんなにひどい犯罪を行った少年たち(連続強姦、一生治らない後遺症を負わせた暴行・傷害、放火、殺人など)でも同様でした。当初、私は耳を疑いましたが、どうやら本気で思っていたのです。
ある殺人を犯した少年も、「自分はやさしい」と答えました。そこで「どんなところがやさしいのか?」と尋ねてみると「小さい子どもやお年寄りにやさしい」「友だちからやさしいって言われる」と答えたりするのです。“なるほど”と思いました。そこでさらに私は「君は◯◯して、人が亡くなったけど、それは殺人ですね。それでも君はやさしい人間なの?」と聞いてみますと、そこで初めて「あー、やさしくないです」と答えるのです。
逆にいうと、“そこまで言わないと気付かない”のです】

この辺りの感覚は、よく分かるな、と感じる。僕の経験は別に対犯罪少年ではなく、小売店でのバイトの子に対してのものだけど。

以前、こういうことがあった。書店で働いていたのだけど、売り場に置かれている雑誌が変な状態になっていた。裏表紙が完全に破れていて、そこを補修するようにセロテープが貼られていたのだ。なんだろう?と思っていろんなスタッフに聞いてみると、新人だったバイトの子が「破れてるのを見つけたので、直して戻しておきました~」と陽気に答えたのです。

彼女は、自分の行為を一切間違ったことだと思っていませんでした。そして僕は、その時の経験から、「自分がどう伝えたか」ではなく、「相手がどう理解したか」が重要なのであり、常に教える側は「相手がどう理解したか」を捉える意識を持たなければいけないのだなぁ、と感じたのでした。

犯罪についても、同様でしょう。

犯罪行為そのものを悪いことだと認識出来ない人もいるだろうし、犯罪行為を悪いことだと捉えていても、そのことが自分自身の評価に影響を与えるのだ、ということが理解できない人もいる。世の中にはいろんな人がいて、物事をいろんな風に解釈している。相手の解釈を理解しようとしなければ、物事は前に進まない。

犯罪を犯した者に対して、「反省を促す」のは当然ではあるが、しかしそこに至るまでにハードルが多数存在する場合もある。例えば犯罪を犯す少年の中には、そこまで複雑ではない絵を描き写すことが出来ないという場合がある。他にも様々なパターンがあるが、要するに、「物事を認知する力が弱い」ということだ。例えばこれは、「『目が悪い』という状態を知らない人」というのを想像してみれば分かるだろう。自分以外のすべての人の目が良くて、メガネやコンタクトのようなものが存在しなければ、自分が見ている「ぼんやりした風景」が、世界そのものだと思ってしまっても仕方がない。同じように、視覚でも聴覚でもなんでも、認知機能に難がある場合、そもそも世界の受け取り方がまったく違う、ということにもなってしまうだろう。

認知機能の障害も含まれるのかは分からないが、本書では「知的障害」を問題としている。「発達障害」については、研究も進み、社会の理解も進んでいるが、「知的障害」の方はそうではない。少年院にやってくる子どもたちの中には、「足し算や引き算が出来ない」「漢字が読めない」「簡単な図形が写せない」「短い文章を復唱できない」というような人たちがいるという。これらは「知的障害」と捉えるべきだろうが、なかなかそう受け取られない現実がある。

僕自身もかつて、そういう計算が出来なかったり漢字が読めなかったりする少年に一時勉強を教えていたことがあった。友人の弟だったのだけど、彼を見ていて、なるほど確かにこれは大変だろうな、と思った。僕は専門家ではないので、どこに問題があるのか具体的に分かっていたわけではないのだけど、明らかに何かしらの機能障害があったと思う。別に受け答えは普通だし、バスケがメチャクチャうまいし、トランプマジックも華麗にこなす。バスケにしてもトランプマジックにしても、ある一定以上の訓練が必要だから、忍耐力がないわけではない。しかしそれが、簡単な計算問題ですら発揮されない。確かに、怠けているだけ、興味がないから逃げたいだけ、という風にも見えてしまうだろう。しかしそれ以上に僕は、何らかの機能障害によって、とりあえず「計算問題」というものをちゃんと認識できない。何を言っているのか、何をしたらいいのか分からないからイライラするし、やっていることが理解できないから集中もできない、という風に見えた。だから彼の場合、最初の機能障害を解消するしか改善の方向性はないんだろうと思ったけど、僕にはそこをなんとかする力はないので、辛抱強く待ちながら、彼の関心をちょっとずつ勉強に向ける努力をしていたつもりだ。

そういう「軽度の知的障害」を持つ子どもが放置されてしまうのには、理由がある。

1950年代においては、「知能障害」というのはIQ85未満だったそうだ。これはおよそ、人口の16%を占める。しかし、16%もの人たちに知的障害をなんとかするためのプログラムを実施するのは現実的ではない。だから、基準の方を変えたという。今では「知的障害」は、IQ70未満となっているようだ。これだと、人口の2%である。

つまり、一昔前だったら「知的障害」とされていたのに今の基準ではそれに含まれない人が14%も存在する、ということだ。現在は、IQ70以上あれば「知的障害ではない」と判断される。知的障害ではない、ということは、勉強ができないのは「サボっている」「怠けている」と考えるしかない。そして、そういう風に扱われれば扱われるほど、ますます子どもたちは不満を募らせ、勉強から遠のき、悪事に手を染めることになるのだ。本書には、

【この世の中で普通に生活していく上で、IQが100ないとなかなかしんどいと言われています】

と書かれています。そうなると、支援を必要とする人はさらに多く存在する、ということになりますが、彼らは教育現場では適切な支援を得られず、他にどうしていいか分からないまま犯罪を犯し、少年院などに収容され、そこでようやく問題が発覚する、ということになるわけです。これを、もっと手前の段階で食い止められないか、というのが、著者の主張になります。

【知的なハンディをもった人たちは、普段生活している限りではほとんど健常の人たちと見分けがつきません。特に、軽度知的障害や境界知能をもった人たちは、通常の日常会話も普通にできるため、どこに障害があるのだろうと首をかしげたくなることもあります。
違いが出るのは、何か困ったことが生じた場合なのです】

こんな風に書かれているので、正直なところ、「軽度の知的障害」を支援することは非常に困難です。あるいは、知的障害の存在に気付いたとしても、本人に変わる意志がなければ、やはりどうにもしようがありません。

本人の意志、という点で、非常に印象的だった話があります。

著者が少年院の子どもたちに対して、認知機能向上のトレーニングを行った時のことです。最初彼らはまったくやる気がなく、無駄だ、意味がない、と行ったり、ずっと横を向いて座っているような少年がいたりという状態でした。著者も次第に諦めがちになり、めんどうになったこともあって、少年を一人選んで「代わりにみんなに教えてやってくれ」と言って投げやりになっていました。
しかしそれが功を奏すことになります。少年たちは「ボクにやらせて」「ボクが教えます」「もう終わるんですか」と言うようになったというのです。

【これまで幾度となく“こんなのも分からないの?”と言われ馬鹿にされ続けてきた少年たちは、自分たちも、
“人に教えてみたい”
“人から頼りにされたい”
“人から認められたい”
という気持ちを強くもっていることを知りました】

確かに、変わる意志を持つのは少年自身でしょう。しかし「変わりたい」と思わせる役割は、大人が担うべきでしょう。非常に難しいでしょうが、これを子どもたちだけのためと思うのではなく、子どもたちを良くすればするほど社会から犯罪が減る、という風に、自分たちへのメリットとして捉えるべきなんだろうな、と思います。

宮口幸治「ケーキの切れない非行少年たち」

「アルキメデスの大戦」を観に行ってきました

面白かったなぁ。
ただ、僕が感じた「面白さ」の何割かは、「これが実話なんだとしたら凄い」というものだったんで、後で調べて、実話じゃないんだ、ということが分かって、ちょっとがっかりしてしまう部分はありました。

内容に入ろうと思います。
海軍の山本五十六は、これからの戦争には航空母艦が必要だ、と考えていた。しかし、そういう先を見据えた考え方をする者は少なく、未だに海軍内では、優美でカッコいい軍艦を作ることが先決である、という風潮がある。山本は空母の重要性を説くが、会議で平山忠道が出した新たな戦艦の縮尺模型が提示され、フォルムの美しさや帝国海軍の威容を誇るべしというような精神論が多勢を占めるようになってしまう。
山本側は、なんとかして平山案を廃棄しなければならないが、正攻法では戦えそうにない。ある日山本らは、料亭で英気を養うことにしたが、芸者を呼んでも誰もいないという。なんと、元帝大の学生が芸者を独り占めしているというのだ。話をつけに行ってみると、櫂直というその男に興味を惹かれた。ちょっとした誤解で帝大を退学させられたが、彼は100年に1人の数学の天才と言われる男だったのだ。そこで山本は考える。会議の場で、建造費の見積もりが提出されたが、山本側は空母でシンプルであるのに、平山案の方が見積り金額が少なかったのだ。そんな馬鹿げた話はない。そこで山本は、櫂を引き入れ、平山案の見積もりをやり直させることにした。
その期限、2週間。次回の会議まで、それぐらいの日数しかないのだ。しかも困難は日数だけではない。そもそも軍艦の設計図は、軍機として最高度の情報管理がされている。つまり櫂は、平山案の設計図を見ることも、各部品の納入金額なども一切分からないまま、平山案の見積もりをしなければならないのだ。
軍人は嫌いだ、と言ってギリギリまで抵抗していた櫂だったが、やると決めたからには徹底的にやる。しかしさすがの数学の天才にとっても、あまりにハードルの高いミッションだった。僅かな望みにかけてあらゆる方策を検討するが…。
というような話です。

ストーリーの話をする前にまず、冒頭の戦闘シーンの話をしましょう。冒頭は、昭和20年4月7日、坊ノ岬での海戦が描かれています。これがまあ迫力満点!観ながら、どうやってこんなん撮るんだろうなぁ、と思ってしまいました。もちろんほとんどCGでしょうが、CGでは無理な部分もあります。そもそも、構図というのか、その戦場をどういう角度や方向から切り取るのか、みたいなのもカッコいい感じで、一気に引き込まれますね。

で、ストーリーは、ホントに上手く出来てるなぁ、と思いました。なんというのか、確かにこういうことが起こっててもおかしくないような気がするなぁ、と思わせる力があります。「数学で戦争を止めようとした男がいた」みたいな予告を観た記憶があって、どういうことなんだろう?と思ってたんだけど、なるほどまさに数学で戦争を止めようとしているな、という感じです。航空母艦も戦艦(大和)も実際に作られているわけで、そういう意味では史実を基にしているといえるでしょう。そしてその背景に、「もしかしたらこんなことがあったのかもしれない」と思わせる物語の力がありました。

それにしても櫂はちょっと超人過ぎますね(笑)。いくら100年に1人の天才でも、ここまでは無理でしょう。こんな奴いたら、絶望しかない(笑)。まあでも、数学とか物理の本を読んでると、実際、たまにいるんだよなぁ、こういう桁外れの天才が実在するんです。羨ましい。生まれ変わったら天才になりたい。

あと、この物語の見せ場はやはり、「櫂が平山案をいかに阻止するか」という会議の場面なわけですけど、実はその後にも一つ、大きな山場があるんですね。そして僕は、こっちの山場の方がグッときました。櫂の存在がフィクションだとするなら、この最後の山場ももちろんフィクションなんだろうけど、なんだか凄く説得力があるな、と。平山という軍艦の設計者が櫂に滔々と語る未来の話は、もちろん、未来から過去を見ている僕らからすれば「そうだよね」って感じの話ではあるんだけど、その当時の人からすれば斬新極まりないものだっただろうし、「軍艦の建造」に対してそこまでの意味を持たせているのだ、という解釈は凄く好きだなぁ、と思います。

あと、最後にちょっとした疑問を。僕はこの映画を見てて、こういう風に物語を作るのってアリなんだ、って感じました。山本五十六とか平山忠道は、実在した人みたいです。で、櫂直が実在しないのであれば、山本五十六と櫂の会話や、平山忠道と櫂の会話は存在しない、ということになります。つまり、フィクションです。実在する人物の口から、そういうフィクションを語らせる、しかも、実にリアルでフィクションとは思えない物語の中でそれをやる、というのは、セーフなんかなぁ、と思ってしまいました。まあ、そういうノンフィクションノベルって存在するにはするからいいんだろうけど、本書では、山本五十六とか平山忠道が結構自らの価値観を主張している場面があるから、櫂直という存在がいなかったら発しなかっただろうそういうフィクションのセリフを存在させてしまっていいのかなぁ、という疑問は結構ありました。

とはいえ、物語としてはなかなか面白かったです。

「アルキメデスの大戦」を観に行ってきました

世界の名画 仕掛けられたメッセージ(博学面白倶楽部)

内容に入ろうと思います。
本書はタイトルの通り、世界の名画をどう観るのか、どういう見方が出来るのかについて書かれている本です。

知ってる話もあったり、知らない話もあったりですけど、スイスイっと読むにはなかなか面白い本です。

人物と人物の間に不自然な空間があるとか、描かれている天秤に何も載っていないとか、切り取られた生首が画家自身の自画像であるなど、なるほどそういう部分を捉えることで絵全体の見方が変わるんだなぁ、と思ったりしました。

モデルを水風呂に5時間も漬けて訴えられたとあ、死にかけの人間のところに画材を持っていって絵を核とか、ゴッホは安いアルコールの飲み過ぎによってキサントプシア(黄視症)に陥ったために視野が黄色だったのではないかなど、画家自身のヤバさみたいなものも色々と描かれます。

また、絵の歴史についても色んなことが描かれています。有名な「夜警」という絵は、ニスの上塗りのせいで始めよりずっと暗くなってしまったのに、本当は昼を描いた絵なのに「夜警」と呼ばれているとか、絵が大きくて市庁舎に入らなかったので切られてしまったようです。この絵によって油絵の技法が確立されたと評価される「ヘントの祭壇画」は、塩鉱で爆破されるところだったけど、鉱夫たちのファインプレーで救われた。フェルメールの絵画をナチスに売却したとして逮捕された人物が、それは俺が描いた贋作だ、と言ってみんなびっくり仰天。それを証明するために裁判の場で絵を描かされた、なんていう凄まじいエピソードもあります。

絵画について知りたい方はまず本書を読んでみてもいいと思います。

博学面白倶楽部「世界の名画 仕掛けられたメッセージ」

届かなかった手紙 原爆開発「マンハッタン計画」科学者たちの叫び(大平一枝)

“現実”を認識するのは、いつも大変だ。何故なら、誰もが同じ情報を共有しているわけではないから。それぞれに人が、それぞれの立場、生き方、価値観の中で、様々な情報に接する。“現実”というのは、それら情報をどのように処理するのかという出力結果だ。そして、その出力結果は、人の数だけ存在する。

「原爆」と聞くと、具体的にどう言葉にするかは様々だろうが、日本人であれば「悪」という認識であろう。しかし、アメリカ人からすればそうではない。アメリカ人からすれば、「善」なのだ。何故なら、「原爆」を使用しなかった場合、より甚大な被害がもたらされていたはずだから、というのだ。これは、広島・長崎の悲惨な情報がアメリカにきちんと届かなかったことや、アメリカにおける歴史教育などによるもので、アメリカ人が悪いわけではないだろう。“現実”の認識の仕方が常に難しい、というだけのことだ。

本書は、そんな「原爆」の開発において、忘れ去られた一人の科学者を取り上げ、彼が成したことを中心に、原爆開発に携わった科学者たちの内面に迫ろうとする一冊だ。

忘れられた科学者の名は、レオ・シラード。伏見康治という科学者は、シラードをこう形容したという。

【原爆を作らせようとして成功し、使わせまいとして失敗した男】

まさに彼の存在を的確に表現したものだ。

彼が何をしたのかについてはすぐ触れるが、シラードという科学者のことは現在、アメリカ国内でもほとんど知られていないという。

【当時の物理学者はみなリオ(※レオのこと)のことを知っていたけれど、今は学者でも知らない人がほとんど。アメリカの一般市民はもっと知らない】

不思議な話だ。何故なら、マンハッタン計画は、シラードがいなかったら始まりもしなかったのだから。

【シラードがいなかったら、マンハッタン計画は立ち上がっていなかった。仮に立ち上がっていたとしても、1945年8月6日の投下に間に合うほど研究は進んでいなかった。すなわち、シラードがいなかったら、日本に原爆は落とされていなかったのである。】

そもそも、原爆のアイデアを生み出したのがシラードだという。

【彼は、ハーバート・ジョージ・ウェルズのSF小説『解放された世界』のことを思い出した。ウェルズは、1914年の時点で、石炭や石油など天然のエネルギーが枯渇した末に、原子力エネルギーが開発されるという未来を描いている。シラードは、ウェルズの描いた未来が絵空事とはどうしても思えなかった。
信号が青になったので歩き出す。その横断中、まるで天から降ってきたかのように、突如ひとつのアイデアがひらめいた。
「もし中性子の衝突で分裂するような元素が発見でき、一個の中性子を吸収する際、二個の中性子を放出するような物質がみつかったら、原子核の連鎖反応が維持できるのではないか」
大量にその元素が存在すれば、莫大な核のエネルギーが放出されることになる。このときの発想がのちに、世界初の臨海達成につながるのである。シラードは、この想いつきをその後研究で試し、初期段階の核連鎖反応にまつわる幾つかの特許を取得した。つまり、核分裂しやすいウラン235によって原子爆弾製造が可能であると、イギリス政府の研究機関モード委員会が結論づける八年前から、シラードは独自にその可能性を探り始めていたのである】

つまり、シラードこそが、原子爆弾の生みの親と言っていいはずなのだ。なのにシラードの存在は忘れ去られている。

さて、この点が、【原爆を作らせようとして成功】した部分である。

ではその後彼は何をしたのか?その点に触れる前に、何故マンハッタン計画がこれほど急ピッチで進められたのかについて書こう。

そもそも原爆は、ナチスドイツに対抗するために開発がスタートした。臨海が技術的に可能であるということは、ナチスドイツが先にそれを開発する可能性は十分にある。というかシラードらは、恐らくナチスドイツはもうある程度開発しているだろう、と想定していた。実際には、ナチスドイツでは原爆はほぼ開発されていなかったことが後に分かるのだが、世界中がナチスドイツへの恐怖で満たされていた時代には、そういう憶測が現実感を持っていた。そして、ナチスドイツよりも早く原爆を開発しなければならない、という機運が高まったのだ。

しかし、戦争の情勢は刻一刻と変わっていく。ドイツとの戦争は終結するだろう、という流れになっていった。すると、どうして原爆の開発を続けなければならないのか?という疑問が出てくるようになる。マンハッタン計画に携わっていた者たちのほとんどは、自分たちが原爆の開発に携わっていることを知らされていなかったらしいが、計画の中心にいたシラードはもちろん理解していたし、原爆の恐ろしさについても分かっていた。アメリカが、日本に対して原爆を使おうとしていることも、早くから見抜いていた。

だからこそシラードは、原爆を日本に投下させないように、懸命の努力を続ける。その一つが、科学者たちによる署名だ。

著者の取材のスタートは、この「署名」の存在を知ったことにある。テレビで原爆のドキュメンタリーを見ていると、マンハッタン計画に携わっていたという女性科学者が取材に応じていて、彼女が、原爆投下させないようにという嘆願書に署名をした、と証言していたのだ。そんな事実を知らなかった著者は、そこから調査をスタートさせる。そして、マンハッタン計画に関わった存命の科学者たちにアプローチし、科学者たちの内面を理解しようとする。

結局、シラードが集めた署名入りの嘆願書は、当時の大統領の元に届かなかったという。しかしシラード自身、それが届いていたとしても状況は変わらなかっただろう、と考えていたという。

存命の科学者は少ないが、取材を受けてくれた科学者たちの反応に著者は戸惑った。

【広島の人たちは悪い人ではなかった。長崎もそうですね。その人たちの死が、ほかの人の命を救ったのも事実だし、同盟国の人たちの命も救ったわけだし、そういう意味でいいことではないが、ただ無駄に亡くなっていったわけではないと思います】

【自分は過去に関わったけれど、言ってみればそれは事故のようなもので、内容を知っていて自分が選んだことではなかった。原爆自体の設計にも関わっていなかった】

これは別々の人の発言だが、やはり日本人の捉え方とは大分距離がある。とはいえ僕自身は、こういう発言を、残念だとか酷いとは思わない。心理学的にも、人間は「自分の行動」と「自分の感情」を一致させようとする傾向があるという。つまり、「自分がマンハッタン計画に携わった」という行動があり、そのことを「悪いもの」としたくないのであれば、それに合わせて「自分の感情」も調整されていく、というような話だ。人間は、なるべく自分の言動の一貫性を保ちたがるので、そういう感覚も働いていることだろう。どの道、戦時中の話だ。すべてを「戦争だったから仕方ない」でまとめてしまうのは良くないことだが、しかし、戦争という抗えない流れの中で、個人に出来ることは多くない。誰もが、そうせざるを得なかった人生を歩んできたのだ、と思うしかない、と僕は思ってしまう。

著者は後半で、「科学者たちからの謝罪がなかったから自分はモヤモヤするのだろうか」という悩みを明かす。これは、難しい問題だ、と感じた。僕自身は、「謝罪してもらう」ということにほとんど価値を感じない。何故ならそれはただの言葉でしかないからだ。その人が「ごめん」と言うかどうかに関わらず、大事なことは、その人がどんな行動をしているか(してきたか)でしかないと思っている。しかし、世の中の多くの人は、たぶんそうじゃない。謝罪、という行為に重要性を感じるはずだ。本書でも、「謝罪を重視すると物事が前に進まない」という著者自身の感覚が語られる場面があるが、そうだなぁと思う。「謝罪した」という形式が重要になる、ということは理解できないこともないが、僕にはあまりその感覚は理解できない。

世界中の様々な場所で様々な対立が起こっている。そこでは、「謝罪」というものが一つ大きな障害物になっているのではないかと想像する。もちろん「謝罪の気持ち」は大事だろうが、しかし「謝罪という形式」に本当に意味があるのか?なんかそんなことを考えさせられた一冊だった。

大平一枝「届かなかった手紙 原爆開発「マンハッタン計画」科学者たちの叫び」

「いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46」を観に行ってきました

前作「悲しみの忘れ方」は、個人的な意見で言えば、「乃木坂46の映画」というより「アイドルのドキュメンタリー」だった。「悲しみの忘れ方」の公開時、あるいは、その映画に収録されていたような頃は、乃木坂46というものがまだ世間的に今ほど飛躍していない時期だった。僕自身、乃木坂46のファンとして「悲しみの忘れ方」を観たわけではなかった。そういう僕個人の関わり方も関係しているかもしれないが、「悲しみの忘れ方」は、乃木坂46という存在に興味がない人でも関心を持って観ることが出来る映画だったと思う。

今作「いつのまにか、ここにいる」は、そういう前作との対比で言えば、「乃木坂46の映画」だと思った。もちろんこれは、乃木坂46に詳しくないと関心を持って観られない、という意味ではない。この映画の監督自身も、モノローグ(という言い方はおかしいのかな?監督の言葉が時々出てくる)で、【アイドルについてはまったく知らなかった】と言っている。そんな監督が、メンバーの関係性も一切分からないまま撮影をした映画であるので、乃木坂46に詳しくなくても観られる映画ではある。しかしやはりこの映画は「乃木坂46の映画」だと思った。

この映画を撮る難しさを、監督はこんな風に表現していた。

【アイドルドキュメンタリーの面白さは、少女たちの成長物語だ。
しかし乃木坂46は、すでにスターになってしまったプロ集団だ。
すべてがうまく行っているように見える。
何を映画に撮ればいいのか分からなかった。
仕事を断りたいとさえ思った。】

その感覚については、僕も同感だ。乃木坂46のドキュメンタリー第二弾が公開されるという情報を知って最初にそのことが思考に上った。一体、何を描くんだろう?今の乃木坂46の、何を切り取ったら映画になるんだろう?と。これは誤解を招きそうな表現だから補足するが、別に乃木坂46という集団に物語がないという意味ではない。そこここに物語はある。しかしそれは、割と世間一般に既にさらけ出されている物語でもある。メンバーのネガティブ的な部分については、前作「悲しみの忘れ方」で存分に切り取られている。レコード大賞受賞や紅白出場、生田絵梨花のミュージカル女優としての軌跡や、舞台やラジオやモデルで活躍するメンバーの存在、卒業生がアナウンサーとなり、女優となり、それぞれのステージで活躍している。そういう物語は、乃木坂46のファン以外の層にも、ある程度視覚化されてしまっている。

そういう中で、映画として提示すべき物語をどこに見出すのか。

ある意味でそれは、メンバー自身の疑問でもあったようだ。監督は撮影中メンバーから「撮影側の心配をされた」と明かしている。こんなんで、映画になりますか?と。齋藤飛鳥は、個人的な観光旅行の場面を撮られている中、同じように「観光なんか撮ってて映画になるんですか?」と聞いていたという。

監督の、「仕事を断りたいとさえ思った」という感覚の一番大きな部分は、この点にあっただろう。

しかし監督は、恣意的に物語を設定しようとしなかった。映画のパンフレットの中で、監督はこう書いている。

【何を撮ろうかは決めずに撮影に入りましたが、事前に決めていたことがあります。それは、仕事で撮影をする者という以上に「人として近づく」という意識を持つことです。なので、こういう言葉がほしいという圧を加えるようなことはしませんし、メンバーと話をする中でカマをかけたり、被写体の真意を捻じ曲げたりするようなこともしません。また、自分の中に大義名分がない限りはカメラを回さないと決めました。カメラを向けることは被写体にとって負荷がかかります。この圧はなるべく与えたくありません。でも、素材はないといけない。だから、「この時間は貴重だから、絶対に記録しておくべきだ」と感じた瞬間だけ、カメラを回しました。“いかに撮るか”も大事ですが、“いかに撮らないか”も大事だと思っています】「『いつのまにか、ここにいる』パンフレット」

この点については、まさに監督にオファーをした理由そのものだったそうです。同じパンフレットに載っている、乃木坂46映像プロデューサーの金森氏はこう言います。

【きっかけは岩下さんが撮った「ポカリスエット」のCMのドキュメンタリー映像を見たことです。「天才がいる!」と、すぐに連絡をしました。岩下さんが最高なのは、メンバーに対して意思を誘導するような聞き方や撮り方を極力しないということです。あくまで観察者として密着する。メンバーは若くて、考え方は日に日に変化して言う。その変化一つひとつに大げさなリアクションや結論を出さないで経過観察するんです。「一個の言葉や行動で相手を簡単に理解しない」という立ち位置でメンバーに向かう。その上品な作り方は乃木坂46に合っていると思いました】「『いつのまにか、ここにいる』パンフレット」

そんな風に、メンバーのことも誰も知らず、そもそもアイドルにもまったく詳しくない監督が乃木坂46に密着する中で見えてきたもの。それは「失恋」だった。

この「失恋」という捉え方には、2つの大きな要素が関係している。一つは、「乃木坂46の仲の良さ」、もう一つは「アイドルの卒業」だ。

監督はまず、乃木坂46の異常な仲の良さに着目する。メンバー自身も、「気持ち悪いですよね?」と自虐的に言ってしまうぐらいで、映像の中では、メンバー同士がひっついたりハグしたりしている場面が随時捉えられている。「B.L.T. 9月号」の中で、齋藤飛鳥と与田祐希はこの映画を見てこんな発言をしている。

【齋藤「(メンバー同士の仲が良すぎて)ちょっとコワいよね(笑)。みんなひっつくし」
与田「たしかに!すごく密着していて。私、人にくっつくタイプじゃなかったんですけど,ドキュメンタリー映画を見ていて、“こんなに私、人にくっついているんだ”と思って、びっくりしました(笑)。乃木坂だからなんですかね、乃木坂の空気でそうなるんですかね」】「B.L.T. 2019年9月号」

同じく岩下監督も、こう発言している。

【ホントに裏表のない、正直な人たちだったので。最初からそう聞いてはいたんですけど、ホントかなって思っていたら、ホントにそうでした(笑)】「B.L.T. 2019年9月号」

こういうのは、まあ正直なところ、僕ら一般人には本当のところは分からない。良い部分だけ切り取って見せている可能性だって常にあるし、イメージを守るためにそういうことにしてるってこともまああるだろう。僕は男だから、映画の中の彼女たちの振る舞いを見ていてもその辺りの判断は出来ないけど、まあでも、僕が見ている限り、本当に仲が良さそうだなぁ、とは思う。仲が良いというか、「Noを共有出来そうだな」といつも思っている。「仲が良い」という表現だと、いつも一緒にいてお喋りして楽しくワイワイしてる、みたいな感じしかイメージできない。もちろん乃木坂46にもそういう部分はあるだろうけど、そうではない、積極的に関わらなくても価値観が合わなくても同じ一つの空気感でまとまれる、というような雰囲気を乃木坂46から感じることがあって、そういう部分が強いなって思う。そう思わされる一番の理由は齋藤飛鳥の存在で、彼女はやはりこの映画の主役の一人である。しかし齋藤飛鳥についは最後に触れよう。

そんな仲の良さを目の当たりにした監督は、これを描くことに決める。

【じゃあもう、この人たちが織りなす大胆不敵なラブストーリーにしよう、この人たちが見せてくれる愛の物語をそのまま丁寧に編んでいけばいいんだって思いました。有りもしないものを作り込んだり、何かを隠したりする必要がないから。ホントに正直な人たちを、正直に撮りにいった結果、この映画に描かれている全部のエピソードがラブストーリーになったっていう。】「B.L.T. 2019年9月号」

そういう描かれ方の中心になったのが、西野七瀬だ。

この映画の撮影期間中に、西野七瀬が卒業を発表した。誰も、西野七瀬から事前に話を聞かされなかった。西野はこう言う。

【自分が卒業しても、涙を流してくれる人なんて誰もいないだろうと思ってた。寂しいって思ってもらえるのって嬉しいんだなって。寂しいとか思ってもらえる存在だと思ってなかったので】

だから誰にも話さなかったという。そして、「乃木坂46の仲の良さ」に、西野七瀬の「卒業」という要素が加わることで、物語は「失恋」のトーンになる。

監督のモノローグで、こんな言葉が出てくる。

【(卒業による別れは)失恋に近いのではないかと思った。
だとしたら、あんなに近くにいたのに、と絶対苦しむ。】

誰もが、西野の卒業を知り、涙する。そしてそれぞれの言葉で、西野の卒業や、アイドルの卒業について語る。

【桜井 このグループに引き止められているのは、思い出とか好きな子がいるからとか、そういうものが大半になっている】

【山下 乃木坂46が変わってしまうのは嫌。永遠に誰も卒業しないでほしい】

【大園 大好きな先輩がいつか卒業するって思ったら耐えられなくないですか?会えないことに強くなる必要、ありますか?】

【高山 過去のことを考えても、未来のことを考えても切ない。】

【秋本 卒業って形、無くさない?って思ったことは何度もあります。乃木坂46は実家みたいなもので、いつでも戻ってこられる場所、みたいに出来たらいいなって】

生駒里奈が卒業した後、乃木坂46の支柱と言っていい白石麻衣と西野七瀬。その一角が卒業するという衝撃は、乃木坂46を大きく揺さぶる。乃木坂46合同会社代表である今野氏も、

【西野をどのように送り出すかというのは、僕たちにとって大きなミッションでした。西野の気持ちを考えたのはもちろんでしたが、残されたメンバーの気持ちも考えないといけません。西野の卒業を契機として、自分の卒業のことを考えるかもしれませんから、グループにとっていろいろな形で影響を与える出来事でした】「『いつのまにか、ここにいる』パンフレット」

と語っている。

メンバーやスタッフからそれほど強く認識され、卒業という報がやはり激震を巻き起こすこととなった西野七瀬は、「乃木坂46にいた期間は、全人生の中で唯一そこだけキラキラしている大切すぎる部分」と言った上で、紅白を終え年越しした瞬間にこんな風に語っている。

【こんなに清々しく、晴れ晴れしい気持ちで新しい年を迎えられるとは思っていませんでした。最高の2018年でした。(中略)私は、起こった出来事について「こうなるべきだったんだろうな」と思うタイプなんです。乃木坂46って本当に良い流れの中にいますよね。そしてその大きな流れの中に、自分もいられたことが、凄く嬉しい。】

この流れで、大園桃子のこんな発言も書いておこう。確か、レコード大賞か紅白歌合戦か、どちらかの番組でのパフォーマンス終了後の場面だったと思う。

【大園 なんか、乃木坂も悪くないなって思った。こんなに素直に思ったのは初めてかもしれない】

そう言って、齋藤飛鳥に抱きついた。この大園の言葉が、この映画の中で一番印象的な言葉だった。こういうことを、他にもたくさんメンバーがいて、カメラも回っている場面で素直に言えてしまう。そこに、大園桃子という人間の素直さと、乃木坂46という許容力が詰まっているように感じられて、凄くいい場面だと思ったし、言葉としては一番印象に残っている。

さて、ここまでで、齋藤飛鳥以外の話は大体書いたと思う。後は、この映画での齋藤飛鳥の話を書こう。

僕自身が齋藤飛鳥に強く関心があるからということはもちろんあるが、やはり齋藤飛鳥には奇妙な存在感がある。この映画は、先程書いた通り「失恋」という言葉で大きく括れる外枠を持っているが、齋藤飛鳥はその大枠の中には嵌らない。齋藤飛鳥の部分だけ、完全にこの映画から浮いている。

監督もこんな風に発言している。

【それ(※齋藤飛鳥の独白の場面)は映画の本筋からはやや逸脱しているけど、これだけ心を開いてくれたことはこの映画の1つの到達点のように感じたので、これは入れるしかないと思って、ラストシーンに使うことにしたんです】「B.L.T. 2019年9月号」

他のメンバーが、別のメンバーとの関係性の中で何かが切り取られているのに対して、齋藤飛鳥は基本的に、齋藤飛鳥として完結する映り方をしている。唯一、大園桃子との関係性に着目される箇所はあるが、それ以外は基本、齋藤飛鳥一人、として描かれる。

監督も、齋藤飛鳥には苦労したようだ。

【嫌われた、と何度も思った】

モノローグでそう語っている。

僕は、齋藤飛鳥の言葉にインタビューなどでかなり触れているので、この映画で描かれている齋藤飛鳥像は、まあいつもの齋藤飛鳥だな、と思って見ている。しかし、齋藤飛鳥について「顔が小さい」「乃木坂46を担う次世代のメンバー」「ハーフ」程度の認識しか持っていない人がこの映画を見たら、とても驚くだろう。

【飛鳥 自分のことをあんまり知られたくない、って思っちゃうんですよね。それはメンバーに対してより強く思うかもしれない。嫌われたくないのかな、やっぱり。未だに、メンバーと楽に喋れる、みたいなことってないんです。いつもガチガチになりながら、それを悟られないように喋ってる】

【飛鳥 人に期待してないですし、自分にも期待しないですね。理想も、特にないかなぁ。自分にあんまり興味がないから、将来も何でもいいやって思ってるっていうか】

【飛鳥 楽屋では、読んでるようで実は読んでない。本を開いてるだけ、みたいなことは結構あります。一人になりたい、っていうわけじゃないんですけどね。一人しか選択肢がないっていう】

メンバーがワイワイ集まっている場面でも一人壁に触れていたり(昔から壁に触れるのが好きと発言している)、一人で本を読んでいたり、カメラを向けても私なんか撮らなくていいからと逃げたりする。僕は、インタビューなどの発言からこういう齋藤飛鳥像を常に思い描いているので、イメージ通りだなという感じだけど、意外だと感じる人は多いだろう。

しかし、この映画を見ていて、僕が意外だと感じた齋藤飛鳥の行動がある。それが、地元の成人式に出る、というものだ。混乱を避けるため、特別な席を用意してもらって、一般の人と関わることはなかったが、しかしそれでも驚いた。成人式に、出るんだなぁ、と。

実際彼女も、成人式に出るつもりはなかったという。しかし、「成人式に出ると親孝行になる」と聞いたから出ることにした、と話していた。実家を出てから一度も帰っておらず、良い機会だから、と。なんとなくこれは、照れ隠し的に僕には聞こえたけど、どうだろうな。

しかし、衝撃はその後にさらにきた。なんと、中学時代の同窓会に出る、というのだ。これは弩級の衝撃だったなぁ。「齋藤飛鳥と成人式」はまだ繋がるけど、「齋藤飛鳥と同窓会」はまあ繋がらない。出ることに決めた理由を、「単なる好奇心」と説明したようだ。以前彼女は雑誌のインタビューで、

【いや、人混みとか騒がしいところ、すごく嫌いなんですけど。なんか今、「自分がイヤなことをしよう」って思っていて。今、自分が嫌いなことを吸収しようと思う時期なんです】「Weekly プレイボーイno.39・40」

という発言をしていた。齋藤飛鳥は、「ちょっと前であっても、昔の自分を嫌う傾向がある」とこの映画の中で話をしていたので、既にこの発言をした頃の彼女とは違ってしまっているかもしれないが、インタビューなどで彼女の発言を追いかけていると、なんとなく、自分の思い込みを捨てて色んなところに飛び込んで行こうとする意思みたいなものを感じることがあって、そういう流れが続いててその延長線上に同窓会があるのかな、と思った。しかしそれにしても、驚いたなぁ。同窓会が終わって、「疲れた」とぽつんと口にしていたのが、彼女らしいと思った。

先程も少し触れたが、この映画のラストは、スコットランドのエディンバラに個人的に(仕事ではないという意味)旅行に行く齋藤飛鳥についていった、その時の様子で終わっている。そこで監督は彼女に、「前世で何か罪を犯したんですかね?原罪がありますよね」と言う。思わずそう言ってしまった齋藤飛鳥の発言がこれだ。

【飛鳥 できることなら私も、正統な感じで生きたかったな、と。
今の自分を考え方とかを良いものだと思ってないんです。欲求とか願望とかを抱いてしまうと、てめぇが言うなって自分のことを思っちゃうんです。こうなったらいいなっていう幻想を抱いても、冷静になると、てめぇが言うなって思う瞬間が来ちゃう。だから、理想を定めてそこに向かっていく生き方は向いてないなって思う】

しかしその後で、こんな風にも発言する。

【飛鳥 だからこそ自分に期待できるっていうこともあるんです。跳ね上がりのバネが大きくなるから。自分、いけるんじゃないかって思えることもあるんですよね】

そして、崖から海を見ながら、彼女はこんな結論に至る。

【飛鳥 期待しないって、嘘かもって思っちゃいました。してるかもしれない。人に期待、してるかもしれない】

本当に、興味の尽きない存在だなと思う。

【飛鳥 私だったら、私みたいな人と関わりたいとは思わない。でも、関わってくれる人がいる。この人はもしかしたら、あれこれ見せても幻滅しないでいてくれるんじゃないかって思う】

彼女が言う「期待」が、「幻滅されないこと」だとすれば、そんなのは全然「期待」じゃない、と僕は思う。もっとポジティブな意味での期待を、もうちょっと持ってもいいんじゃないかと、彼女に対しては思ってしまう。

「齋藤飛鳥」という、アイドルの枠に嵌らないどころか、人間の枠からも容易にはみ出しうる存在が、「アイドル」という枠組みの中で許容されている。その事実こそが、僕は「乃木坂46」というグループの驚異であり、強みであり、魅力なのだと感じてしまうのだ。

「いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46」を観に行ってきました

がんばらない練習(pha)

あれ、これって俺が書いた文章なんだっけ?
と感じるような文章が、本書にはたくさんあった。著者のphaさんの本は昔から何冊か読んでて、考え方とか結構似てるなぁ、と思ってたんだけど、改めて強くそう感じた。

もちろん、全然違う部分もある。人と喋ってると頭の中がワーッとなってしまうことはないし、からあげとかポテチばかり食べてしまうみたいなこともないし、ライナスの毛布みたいなお気に入りの布があるわけでもないし、旅行の荷物を減らせないわけでもない(旅行の荷物については、昔は減らせなかったけど)。そんな風に色々と違う部分もあるんだけど、うわっマジこれ俺が書いた文章だわ、というような部分も多々ある。

【自分が何か意見を口にすると、自分にも責任の一端が来てしまう、という気持ちがある。自分で選択をしたくない。何も選ばなければ、何か悪い結果になったとしても自分は無責任な被害者でいられる。自分は何も悪くないのに、どうしてこうなったんだ、と言っていられる。
ひたすら受け身で何もせずに、今から何されるんだろう、と思っているのが好きなのだと思う。】

【何も決めたくない。自分に選択権や決定権を与えられるとどうしたらいいかわからなくなる。
スクリーンを眺めるように、ひたすら世界とは関係ない観察者でいたい。誰かに全部決めてほしい。
そして、自分は何も悪くないのに、全部だめになってしまった、全てが壊れてしまった、どうしてこうなったんだ、と一人でぼやき続けていたい。甚だ無責任なことだけど】

メッチャ分かるなぁ。誤解されそうなので一応書いておくと、著者は別に「選択しないこと」によって、何か問題が起こった時に相手を責めたいと思っているのではない。そうではなくて、「自分が悪かったんだと思いたくない」という感覚の方が強い。それは、本書全体を読んでいても感じる。他人に責任を押し付けたい、というのではなくて、自分に責任が降り掛かってほしくない。その感覚は凄く分かります。僕も、誰かが適当に僕の人生を動かしてくれたら楽だなぁといつも思っているし、相手の決断に委ねているから相手を責めるつもりはまったくないし、でも自分で決めてないしから自分が悪いと思わなくて済む。素晴らしい。僕も意識的に相手に選択を委ねるようにしている。そして、自分が選択を委ねられたらプレッシャーを感じてしまう人間だから、相手に選択を委ねる時、そのプレッシャーを出来るだけ感じずに済むような感じにしたいとも思っている。まあ、実現できているかは分からないけど。

同じような話に、

【多分その「適当」が苦手なのだ。】

という話もある。

【何かをしなきゃいけないという立場になると、「きっちりやらなければいけない」と一人で勝手に気に病んで、過剰にがんばりすぎてしんどくなってしまうから、最初から全てを放り出してしまう。それが僕の癖なのだ。なんかもうちょっと融通が利かないものかと思うのだけど】

これも凄く分かる。これも、相手に選択を委ねるのと基本的には同じ発想だ。「自分に責任がある」という状態が、怖い。僕も、「きっちりやらなければいけない」という感情はとても強いんだけど、でも、「最初から全てを放り出す」というのもちょっと難しいので、「こいつはダメなやつだと思ってもらう」というやり方をしている。「こいつに任せたらマズイ」と思わせることで、自分に向けられる責任を回避しようとするのだ。

また「選択」については、こんなことも書いている。

【何かを決めるということは、それ以外の別の何かになり得た可能性を全て殺すということだ。常に最善手を選んでいたいのに、それが自分の愚かさゆえにわからない。それだったら何も決めたくない。決めなければ失敗はない。決めなければ、世界は何にでもなれる可能性を持ったままを保っていられる。そんな風に思ってしまう。実際には、何も決めないということも、何も決めないという選択肢を選んでいるだけに過ぎないのだけど】

この話も、凄く分かる。ただ僕の場合、この感覚は、どちらかというと他者に向けられることが多い。色んなことをスパスパと決断している人を見ると、「今そこで決断していることは、他の可能性を閉じるっていうことなんだけど、それに気付いてる?」と思ってしまうのだ。もちろん、選択肢を一つに絞って、リスクはあってもそれに注力する、というようなやり方をしなければ実現できないようなこともあると思う。限られた人間しか叶えられないような、いわゆる「夢」と呼ばれるようなものを実現するためには、そういう態度も必要だと思う。ただ、例えば、「結婚しなければ幸せになれない」という考えはどうなんだろう?人生には、結婚するという選択も結婚しないという選択もあり得る。しかし、「結婚しなければ幸せになれない」と決めてしまっている人は、結婚しないで得られる幸せ、みたいなものを全部殺してしまっていることになる。それは良いんだろうか?と僕はいつも感じてしまう。あなたがしているその決断は、あなたを本当は幸せにしたかもしれない他の選択を全部無いことにしてるってことなんだよ、と思ってしまうのだ。

そんな風に考える僕は、著者のこういう感覚にも納得感がある。

【世の中の人の意見で、百%正しい意見とか百%間違っている意見というものはあまりない。それぞれある程度の理があったり、どっちもどっちだったりする。だからわざわざ相手の言うことを否定する気になれないし、相手を否定してまで主張したい意見もない。相手の言うことを否定して議論になるとたくさん離さないといけないから面倒臭いだけかもしれないけど】

僕も割とこう考えてしまう。僕も、たまには強い意見、それこそ「百%正しい」とか「百%間違ってる」と思う場面もある。でもそれは、「未来永劫どんな場面でも常に正しい」と言っているわけではない。そうではなくて、ある枠組みがある状況下で、「その枠組みの中では絶対に正しい/間違っている」という判断をしている。その枠組みの外側に出れば、その正しさ/間違いも変わってくる。そういう風に自分で理解しているから、「未来永劫どんな場面でも常に正しい」という意味で「百%」という言葉を使うことは、「数学」に対して以外使うことはないと思う。

だからだろう。著者は「会話」に対してこんなことを書いている。

【世間話って無意味だろ。相手の発言の一つ一つにどういう意図があるのか全く読み取れない。どう応答すれば正解なのか】

【そもそも人と対面しているというだけで緊張してどうふるまえばいいのかわからなくなるのに、その上会話なんていうルールのわからないゲームをふっかけられたらパニックになるしかない。でも、社会はそれを当たり前のこととして強要してくるのだ】

僕は正直、雑談とか結構得意なので著者とは違うと思うのだけど、ただ僕も、男同士の会話に対してこういうことを感じる機会はある。女性との会話は「共感」がベースになっているので、特別な主張を持っているわけではない僕でも会話がしやすい。割と誰が言っていることも、「なるほど、そういう見方もあるよなぁ」と思ってしまう人間なので、「そうだよね」という相づちが自然に出てくるし、それで会話は成立する。ただ男同士の会話の場合は、どうもそうではない。未だに、男同士の会話のルールが掴みきれないのだけど、そういう意味でいうと、著者の感覚は分かる気もする。

著者が「会話」を苦手と感じるのには、自分に言いたいことがないから、という理由もあるようだが、それについてもこんなことを書いている。

【大体何でも、本当に何かの真っ最中にいるときは、そのことを言語化することができない。真っ最中にいるときは自分に起こっているのがどういうことなのかわからないからだ。言語というのは人類が持っている最大の問題解決ツールで、言語化できるということは、すでにある程度それを乗り越えているということなのだ。
人は文章を書くとき、自分の中である程度終わっているもの、ある程度一段落しているものについてしか書けない。「書く」という行為には、既に終わりかけている何かをはっきりと終わらせて、その次に進めるようにする効果がある】

普通に考えれば、「書く」よりも「話す」方が高度なことをしている。だって、瞬時に自分の言いたいことをまとめて口から出さなければならないからだ。世間的には、文章を書くのが苦手という人が多いし、その気持ちも分からないではないが、どう考えても、行為単体で見れば、「書く」より「話す」方が難しい。それでも多くの人が「話す」方が楽だと感じるのは、それはただ慣れの問題であって、昔からずっとやってきている行為だということに過ぎない。

「書く」ことも「話す」ことも、自分の内側から何かを出すという意味では同列の行為であり、しかし、「書く」時はじっくり時間を掛けられるのに対して、「話す」は瞬間的な行為なのだから、著者が「話す」ことに苦手意識を感じるのは当然だろうと思う。まして、「言語化する=問題をある程度乗り越えている」という認識を持っているとするならば、容易に言葉を口から出すわけにはいかないだろう。こういう部分できちんと立ち止まることが出来る、という意味でも、著者は普段から様々なことを考えているし、当たり前を当たり前と思わず止まることが出来る強さがあるのだなと思う。

好みについても、感覚的に凄く分かる部分がある。

【終わりが見えているものや日数が限られたものが好きだ】

僕は、何か「面白い」「楽しい」と思うようなことをやっていたとしても、「これがずっと続くとしたら嫌だなぁ…」と考え始めてしまう。一番顕著なのが恋愛で、その時は楽しいのだけど、「これがずっと続くとしたらしんどいなぁ…」という感覚になってしまう。だから、最初から終わることが確定していることの方がいい。期間限定である、と感じることで、「たとえ飽きても終わりが決まってるんだし安心」と思えるし、「終わりまでの間に自分のパワーをどう配分するか」という感覚も掴みやすい。

また、こんなことも書いている。

【そもそも人間関係に限らず、時間とともに減衰するものが全て嫌だという気持ちもある。例えば、いつの間にか服が擦り切れてヨレヨレになってるとか、靴の底が剥がれて履けなくなってるとか、昔からそういうのにすごく納得がいかない。全ての持ち物は半永久的に使えてほしい。なんだか毎週毎週何かを買い換えなきゃとか補充しなきゃと思ってる気がするんだけど、そんなどうでもいいことに思考のリソースを取られたくない】

「面白い」とか「つまらない」など、評価が定まるものについては期間限定であってほしいけど、別にそういうわけでもない、自分としてはどうでもいいと思っていることは半永久的であってほしい。こういう感じも凄く分かるなぁ、と思う。本書には、髪の毛とか爪も伸びたら切らなきゃいけないしめんどくさい、と書かれているけど、本当にそうだ。自分にとってどうでもいいと思っていることだからこそ、不変であってほしい。「そんなどうでもいいことに思考のリソースを取られたくない」というのは、まさに僕の感覚としてもピッタリである。

他にも、分かるなぁ、という話はいろいろある。

【何が苦手かというと、アンコールに何をやるかは最初から用意されているにもかかわらず、「本当はここで演奏は終わりなのだけど、観客の皆さんが盛り上がってくれたからリクエストに応えて特別に何かおまけをやりますね」という形式を取っているところだ。あらかじめ結果が決まっているのに形式的なやりとりをしなきゃいけないということに何か恥ずかしさと無駄さを感じてしまう】

【それは多分、列車に乗っているときに限らず、自分は本当にここにいていのだろうか、ということに根本的な不安を持っているからなのだと思う。(中略)
電車だとお金を払って切符を買うだけでそこにいてもいいと認められる。楽なものだ。人生でもときどき車掌さんがやってきて、ちゃんとやってますね、生きていて良し、って言ってくれたらいいのに】

【十代や二十代の頃などは、自分がどういう人間なのか、自分に何ができるかが全くわからなくて、ひたすらもがいてわけがわからないままに全く向いていないことに手を出して失敗したり恥をかいたりということが多かった。あの頃は大変だったなと思う。二度と戻りたくない】

【老後を考えて毎月少しずつ積み立てていこうとか、そうすると税金が控除されて得だとか、そんな暮らしをずっと続けてたら六十代や七十代になったとき困るよとか。
みんなそれは本気で言っているのか。本気で二十年後や三十年後のことを実感を持って考えられるのか。何かに騙されてないか。でも、多分みんなできるのだろう。だから世の中にはこんなにも多種多様な金融商品が存在するのだ】

なるほどなるほど、そうだよね、と思いながら読んでしまった。メッチャわかるぅ。

あと、個人的に凄い文章(というか考察?)だと思ったのが、カレーの話だ。何故カレーだったら食べられるのか、という話を、定食や牛丼やチャーハンなどと比較して1ページ半ぐらい使って語っている部分があるんだけど、これは凄いな。言われてみれば、なるほどそれは俺にもある感覚だ!ってなるし、でも正直そこまで考えたことなかったし、気づきという意味では本書で一番気づきのある箇所でした(笑)

あとがきで著者は、

【この本は僕が自分のだめな部分を認めて受け入れるための「がんばらない練習」を集めたものだ。これを読んだ人がそれぞれ抱えている自分の「できなさ」とうまくやっていく参考になればよいなと思いながら書きました】

と書いている。そういう本です。

pha「がんばらない練習」

弁護士が勝つために考えていること(木山泰嗣)

内容に入ろうと思います。
本書は、税務訴訟を主に担当する弁護士である著者が、一般の人も関わる可能性がある「民事訴訟」についてわかり易く説明する一冊です。

「民事訴訟」というのは、なかなか話が多岐に渡るようで、それを新書にまとめるのはなかなか難しかったようですが、学術的な部分はあまり重視せず、「民事訴訟に巻き込まれた一般人」にとって有益であるような情報を中心に書いてくれているように感じたので、とても良くまとまっていると思いました。

また本書のあとがきにはこんな風に書かれています。

【とはいえ、民事訴訟入門というテーマでは、一般の読者を中心とする新書では、なかなか手にとってもらえないだろう、ということで、裏のテーマとして「弁護士の思考法」にスポットをあてたいというお考えを聞きました。】

【本書がどれだけお役に立てたかはわかりませんが、単なる民事訴訟入門としての側面だけでなく、論理的な思考法としての側面をできるかぎり入れながら書きました】

著者は本文中で、こんな風に書いています。

【ときどき、この法的三段論法がもっと一般にも応用されればいいのに、と思うこともあります】

これは、裁判官がどのような思考で判決を導き出すのかという中で、「法的三段論法」というやり方について触れた箇所ですが、このように本書には、「思考法を伝える」という目的もあるわけです。

裁判というのは、自分が起こすにしても起こされるにしても、正直一生に一度あるかないか、ぐらいでしょう。しかし、本書にも書かれていましたけど、そうなってしまってから知識を蓄えるのではだいぶ遅いんです。ある程度「裁判」や「民事訴訟」というものについて理解しておくことで、もしもの時のために備えておく、ということはとても大事だろうと思います。

さてそんなわけでここでは、本書の中から「これは絶対知っといた方がいいよなぁ」というようなことについて書いてみたいと思います。個人的に、「ほぉ、そうなんだ!」と思ったことについて書いていこうと思います。

【民事訴訟で勝つか負けるか。それは弁護士の腕によります。(中略)
その最大の理由は、
民事訴訟が「ゲーム」だからです。
一方、刑事訴訟はゲームではありません。刑事訴訟はすなわち、真実発見を目的とする訴訟だからです。】

これは強く認識しておいた方がいいことでしょう。民事訴訟が「ゲーム」であるということについては、本書を読んでいけば理解出来ますが、「ゲーム」であり、刑事訴訟のような真実発見のための闘いではない、ということを理解しておかなければ色々間違えてしまうでしょう。

【あまりの本人訴訟(※弁護士をつけない訴訟)の多さに驚いたことをよく覚えています。
最新の統計データによれば、2012年の民事訴訟で原告と被告の双方に代理人―すなわち弁護士がついた事件は、38%に過ぎません。双方ともに代理人なしの事件は、なんと19%もあるのです(最高裁判所事務総局『裁判所データブック2013』37頁)】

本書を読めば、「民事訴訟になったら、弁護士に頼もう」と思うでしょう。それぐらい、勝つための戦略(心理戦や、裁判所選びなど多岐に渡る)が様々にあるからです。

だから、こんな文章も納得です。

【またサービス業は目にみえない商品を売るものですが、依頼者の方が思っている以上に資料の読み込みや検討、書面の作成に時間を要します。少しでも値切りたい、という気持ちは理解できますが、そういった意図がみえてしまったとき、それで弁護士が本当に気持ちよくその仕事をしてくれるのか、ということについては考えられたほうがよいと思います。できる弁護士はとにかく仕事量が多く、仕事を選ばなければ、全体をまわすことができない環境に間違いなくあるからです】

もちろん世の中には、悪徳弁護士的な人もいるでしょうが、ある程度信頼できる弁護士や弁護士事務所であれば、値切ったりせずに、相手の提示した金額で検討する、というのがいいんだろうと思います。本書を読んでたら、めっちゃ大変だな弁護士さん、って思いますもんね。

また、「和解」は実は悪い選択肢ではない、という話も非常に興味深いと感じました。

【しかし、和解は判決ではないため、当事者の合意で内容を決めることになります。和解は判例と違って内容を柔軟に決められます。多少譲歩することによって、依頼者が納得できる結果を残すことができる可能性もあります。
法律を杓子定規にあてはめると妥当な結論が導けない場合に、当事者の合意である和解を活用することで、まずまずの成果を得ることができるのは、和解の大きなメリットのひとつです。】

【また、判決になれば全額勝てることは明らかなときでも、和解をしたほうがいい場合もあります。判決で勝っても、相手に支払能力がないために、強制執行をしても回収ができないと想定されるケースがあるからです。
和解であれば、支払いの条件まで定めることができます。相手の支払い能力に応じて、分割払いにすることもできるのです。
判決の場合、回収まで考えた、こうしたきめ細かな対応はしてもらえません。判決は、勝つか負けるか、オール・オア・ナッシングの世界だからです】

【ほかにも、謝罪条項を入れる和解もあります。謝罪は、判決を得ることで実現できることではないため、謝罪が当事者にとって重要なニーズである場合には、和解にメリットが発生します。】

この点は、本書を読んで一番良かったと感じる話でした。なんとなく「和解」って、「勝訴に持っていけないから妥協した」という悪い印象がありましたけど、なるほど、見方にとっては「和解」っていうのも検討に値する選択肢なんだなぁ、と感じました。これはホント知っておいてよかったなと思います。

また、一般人が知っておいた方がいいことかどうかは判断できませんが、この点も非常に興味深いと感じました。

【そこで裁判官は何を軸に価値判断をするか。それはさきほども書いた「常識」です。
驚かれるかもしれませんが、裁判官に聞くとみなさん声をそろえて「最後は常識です」といいます。「結論は常識で出します。理由はあとから考えます」と】

これはなかなか驚きではないでしょうか?もちろんここでいう「常識」というのは、「『国民の常識』だと裁判官が思っている常識」のことであって、世間とズレる可能性は常にあるわけですが、それにしても「常識」から結論を出すとは。法律はどこへ行った?と思いませんか?

もちろん、法律から離れて結論を出すわけではありません。先程紹介した「法的三段論法」を使って、判決を書くことには変わりありません。しかし、裁判官というのは特殊な能力の持ち主なわけです。

【机上の空論と思われるかもしれませんが、同じ訴訟記録を前提にしたとしても、極端な話、「無罪で書け」といわれれば、裁判官は無罪になる判決理由を書けます。逆に「有罪で書け」といわれれば、裁判官は有罪になる判決理由を書けます。
どちらの結論で書いても、それなりの理屈はつけられる。ある意味、裁判官はそういう特殊技能の持ち主なのです】

「法律がこうであり、こういう事実認定がなされたから、判決はこう」という流れではないわけです。実際は、「常識から考えて判決はこう、どうしてそういう結論に至るのかは、法律と事実認定からこうやって導き出す」という流れなんだそうです。これもまた、「裁判」というもののイメージを変える話ではないでしょうか?

こんな感じで、本書には、「民事訴訟」について様々な知識が書かれています。実際に、人生において裁判に巻き込まれることはないかもしれませんが、それでも、知っておいた方がいいんじゃないかと思える話です。

しかし最後に、「ここまで民事訴訟について色々書いてきたけど、でも避けられるなら民事訴訟は避けた方がいい」と書かれています。民事訴訟は最終手段であって、そこに至るまでに解決の手段は様々にあると。仮に勝っても、民事訴訟になることで様々なリスクやデメリットがあるわけで、そうならないに越したことはない、と著者は力説します。

その最も説得力のある話が、著者の祖母が民事調停に巻き込まれ、著者が代理人を務めたエピソードにあります。著者は、仕事で民事訴訟に関わっているわけですが、いざ民事調停(ここで決着がつかないと民事訴訟になる)で揉めて、このままだと民事訴訟になってしまう、と思った著者は、調停の段階で金銭を支払って出ていってもらう決断をしたと言います。

【なにがいいたいのか。それは、弁護士のわたしですら、身内のことになれば、訴訟はできるかぎり回避しようとする、ということです】

それぐらい、民事訴訟は避けた方がベターだ、という話でした。説得力がありますね。

些細なこと(自分ではそう思っていること)でも訴えられる可能性がある世の中において、どうしたら民事訴訟は避けられるか、そして、もし巻き込まれてしまった場合にどうしたらいいかを、本書から学んでみてください。

木山泰嗣「弁護士が勝つために考えていること」

14歳からの資本主義 君たちが大人になるころの未来を変えるために(丸山俊一)

内容に入ろうと思います。
が、ちょっと僕には難しかったなぁ。
「14歳からの」とついてますけど、易しい本ではないなぁ、という感じです。
もちろん、かなり噛み砕いて書いてくれていると思いますし、なるほどと思う部分もありましたけど、全体的には「上手く捉えられなかったなぁ」という感じが強いですね。

本書はとにかく、「資本主義って何?」と「今、資本主義ってどうなってるの?」という、超基本的なことについて書いていきます。確かに、読んでいれば、その箇所に書かれていることは分かるんだけど、どうも全体の中の繋がりみたいなものをうまく捉えるのが難しかったなぁ、と。

本書は、著者自身の意見がふんだんに盛り込まれた本、というわけではありません。本書は、「欲望の資本主義」というNHKの番組の制作統括の方が著者で、番組に出演してもらった経済学者や哲学者、あるいは過去の経済学者の著書などから様々な引用をし、また、資本主義というものの一般的な理解のために様々な例を挙げながら進めていく作品です。

で、とにかく本書では、「資本主義は“健全”に運営されているならいい仕組みのはず」「でも今ちょっと調子悪いみたい」「今は、どうして資本主義がとりあえず回っているのか誰にも説明できない」「資本主義って、そもそも本質的に壊れるように出来てるんじゃない?」みたいな感じの話が展開されていきます。

とはいえ、「現状」を捉えることがそもそも難しいんだから、どうにもしようがないですよね。今、資本主義がどういう状態であるのか、みたいなことについても、色んな人の意見が分かれているし、であれば当然、これからどうなるかという意見も分かれます。そういう色んな考えが紹介されるんですけど、正直、著名な経済学者に分からないんだから、誰にもわかんねえよなぁ、という感じがしました。

個人的に本書で面白いなと思ったのが、チェコのエコノミストであるセドラチェクです。この人は、社会主義と資本主義を両方経験している人です。子供の頃、チェコは社会主義であり、今は資本主義だそう。そういう経験があるからでしょうか、経済というものを見る視点みたいなものが面白いなぁ、と感じました。

あと、シュンペーターという経済学者が主張している、「資本主義はそもそも壊れる運命にあるんじゃね?」という話もなかなかおもしろいと思いました。どういうことか。資本主義というのは、作っては壊して、常に新しいものを生み出し続ける必要があります。しかし、その繰り返しに疲れる(飽きる)と、安定したいなぁ、という気持ちになるだろう。そういう中で、競争で勝者となったものは、自分が得た地位を維持するためにルールを変えようと望むようになり、そういう動きが、社会階級を硬直化させ、資本主義を崩壊に追いやるのではないか。そんな風に主張しているそうです。これも、なるほどなぁ、と感じました。

正直、良い感じに読めたわけではないんですけど、もうちょっと経済について理解できるようになりたいなぁ、という感じはしました。

丸山俊一「14歳からの資本主義 君たちが大人になるころの未来を変えるために」

我らが少女A(高村薫)

内容に入ろうと思います。
池袋で、一人の女性が死ぬ。上田朱美という名のその女性は、同居していた男に殺された。男には、特別な理由があったわけではない。男には、殺したという実感すらあまりない。男はすぐに捕まり、自供し、事件はそのまま終結するかに思われた。
しかし、そうはならなかった。
上田朱美を殺した男が、気になる証言をしたのだ。朱美は男に、使い古しの絵の具のチューブを見せて、何年か前に武蔵野の野川公園で殺された人が持っていたもので、落ちていたから拾った、などと言ったことがある、というのだ。
この証言に、刑事たちは驚く。12年ほど前、栂野節子という元美術教師が殺された事件は、未だに未解決だったからだ。すぐさまその情報は警察の間で広がり、それは、現場の一線を退き、警察大学校で講師を務めている、野川事件の当時の捜査トップである合田雄一郎の元にも届く。
あの時捜査線上に、上田朱美の名前は出てこなかった。一体、自分たちは何を見落としたというのか?
上田朱美の母親である上田亜沙子。上田朱美の同級生で、今は西武鉄道で働いている小野雄大。被害者の娘である栂野雪子と、孫娘である真弓。事件当時、真弓をストーキングしていたとして重要参考人に挙げられた、ADHDの症状を持つ浅井忍と、息子が重要参考人になったために警察を辞めた浅井隆夫。未解決のまま時が止まっている事件の針が僅かに動き始めたことで、彼らの現在の日常も少しずつ影響を受ける。それらはごく些細な影響ではあるが、しかし、それらがじわじわと積み重なっていくことで、他の誰かに直接的にあるいは間接的に影響を与えていく。
栂野節子は、上田朱美に殺されたのか?あの当時、一体どこで何が起こっていたのか?明かされなかった真実は、誰のどんな行動に影響を与えたのか?
さざなみのように広がっていく、過去の事件の余波。その静かな動きを、丁寧に拾い集めていく…。
というような話です。

凄い小説だなぁ、と思ったのだけど、途中で飽きてしまった…というのが正直な感想です。

本当に、凄い小説だと思う。物語は、本当に遅々として進まない。上田朱美が、ほとんど意思もないようなボンクラに殺された、というのは、本書のメインの物語ではない。その殺人犯の些細な供述から、12年前の未解決事件が描かれていく。そして、本当に、物事が全然動いていかないのだ。はっきり言って、進展はほとんどない。関係者の些細な日常生活が描かれ、それらが時折、他の誰かに影響を与える。例えばある場面で、人物Xが「人物Yはどうして俺の職場を探し当てたんだ?」と疑問に思うのだが、しかしそれは、人物Yが能動的に人物Xの職場を探り当てたというのではなく、いくつかの偶然が重なることでたまたまそういう状況になったのだ。そしてそういう偶然を、本書では非常に緻密に描き出していく。それぞれの登場人物が、そうだよねそういう行動しそうだよね、という振る舞いをしているだけなのに、それが結果的に他の誰かに影響を与えることになっている。そういう緻密な展開がずーっと続いていくので、そういう部分は本当に凄いと思う。

しかし、ちょっと途中で飽きてしまった。

今から僕は、本書のネタバレをしようと思う。僕は、これは読む前に知っておくべきだ、と思うからこそ書くのだけど、知りたくない、という人は、この後の文章を読まないでほしい。













本書では、基本的に、野川事件は解決しない。最後の最後まで、野川事件の真相は明らかにならないのだ。

やはり僕は本書を、最終的には事件は解決するんだろう、という想定で読んでいる。僕は、合田シリーズをすべて読んでいるわけではないし、最後に読んだのも相当昔なのでちゃんとは覚えていないけど、基本的には、なん赤の形で事件は解決しているんじゃないかと思う。しかし本書では、事件を解決するという部分に主眼はない。12年ぶりに動き始めた野川事件をきっかけに、その周辺にいた人間たちの生活や人生にどんな影響があるのか―それが本書の主眼だ。

そのことがわかった上で読めば、僕ももうちょっと違った読み方が出来たかもしれない。でもやはり、「最終的には何らかの形で解決するんだろう」と思って読んでいるから、「これ、どうやって事件は解決するんだ?」と期待しながら読んでいるし、その期待が果たされなかったので、ちょっとなぁ、という気分になってしまった。

さらに、関係者たちの周囲で起こる変化があまりにも些細であるために、それはリアルさという意味では非常に強い要素ではあるのだけど、物語を読ませるという意味では、ちょっと辛く感じる人もいるだろうと思う。もちろん、合田シリーズにスリリングとかスペクタクルみたいなものを求めている読者はたぶんいないんだろうし、警察小説でありながら、登場人物の人生を濃密に描ききるという部分に魅力を感じている人が多いだろうからそんなにミスマッチではないんだと思うんだけど、とはいえ僕はちょっと、途中で「もういいかなぁ…」という気分になってしまいました。

それまでの高村薫の小説と比べれば、分量としては非常に短いと言える作品だと思うのだけど、これまでの作品を読みながら感じていたリーダビリティみたいなものを、今回僕はちょっと感じられなくて、それは僕自身の変化によるものなのかもしれないけど、ちょっとどうなのかなぁ、という気がしてしまいました。

人物の描き方とか、圧倒的なリアルさみたいなものはやっぱりさすがで、よくもまあこれほど多様な人間を一人ひとり濃密に描けるものだなぁ、と感心させられるし、改めて、凄い作家だなという風には思わされました。

高村薫「我らが少女A」


経営者の孤独。(土門蘭)

本書の感想をどう書くかなぁ、と思ったんだけど、やっぱり、本書を読んで僕が「会いたい!」と思った4人の話を中心に書こう。

まずは、本書の概要から。本書は、10人の経営者へのインタビューをまとめた作品だ。ただインタビューするだけではなく、「孤独」というテーマを置き、そこに著者自身が介入するような感じでやり取りが進んでいく。本書の著者は、ただの聞き手ではなく、ある意味では相談者であり、評論家であり、観客でもある。「著者・土門蘭」という人間性を鏡にしながら、10人の経営者に「孤独」について聞く、という趣旨のインタビューだ。

登場する10人を挙げておこう。

鴎来堂・柳下恭平
クラシコム・青木耕平
互助交通・中澤睦雄
わざわざ・平田はる香
クラシコム・佐藤友子
L&Gグローバルビジネス・龍崎翔子
ウツワ・ハヤカワ五味
SCRAP・加藤隆生
矢代仁・矢代一
CAMPFIRE・家入一真

ここで僕が紹介したいのは、

わざわざ・平田はる香
ウツワ・ハヤカワ五味
SCRAP・加藤隆生
CAMPFIRE・家入一真

この4人には会いたいなと思う。

一番会いたいのは、ハヤカワ五味だ。どうしてかというと、メッチャ頭が良さそうだから。文字になっていると、やり取りのテンポまでは分からないけど、著者やその他インタビューアーによると、とにかく用意していた答えであるかのようにスパッと答えが返ってくるのだという。そういう頭の良い人には憧れるし、話してみたいなぁ、と思う。

【(自ら「キュ~トでクレバ~な経営者」と名乗っていることについて)それって、日本では相反するものだとされているなと思っていて。「賢さ・知性」と「かわいさ」っていうのが切られているんですよね。「知的じゃない、バカっぽいほうがかわいい」とか、その最たるものじゃないですか。だからその相反するものが同時に存在している感じ…「知性」があることによって、より「かわいさ」に深みが出て人としての魅力が増す、みたいなところが私が目指したいところだなって思っているんです】

彼女はとにかく、自分の立ち位置に非常に敏感だ。それは確かに他の経営者もそうなんだけど、彼女はとにかく、自分と周囲、経営者である自分と従業員、一般がイメージする「ハヤカワ五味」とハヤカワ五味自身、日本と外国、そういうものの間の隔たりみたいなものを的確に捉えて言語化していく。

【外向きに自分を良くしていって人に好かれるのか、内向きに自分を高めていって人を惹きつけるのか。日本では前者のやり方だけ語られがちだけど、海外では後者のやり方もよく語られていて、その価値観を輸入できたらいいなと思っています】

【やっぱり端的にしんどいなって思うのは、搾取したくて経営者やってるわけじゃないのに、そう思われてしまうことですかね。勝手に「搾取する側」として仕立て上げられるのが辛い。(中略)だけど私、正直なところ、会社やらないほうが稼ぎ良いんですよ。インフルエンサーとしてひとりで仕事したほうが、明らかに収入が高いんです。それでも会社としてやっているのは、「社会に対して何かを還元したい」「関わる社員やお客様に何か還元していきたい」っていうのがあるからなので。そこを無視して、「搾取している」という目で見られると辛いですね。社内的にも社外的にも】

18歳、大学生の時に起業した彼女は、「若い女性が起業した」という部分で様々な見られ方をしたのだろう。自身の立ち位置を相当以上に客観視していて、それをきちんと言語化しているところに非常に好感が持てる。

また、物事の捉え方も鋭い。

【期待って、2種類ありますよね。ひとつが「この人ならいいようにしてくれるだろう」っていう広く淡い期待。そしてもうひとつの期待が、「この人だったらこうしてくれるだろう」っていう具体性を伴った期待。多分、多くの人が感じている期待の定義って、後者のほうだと思うんです。(中略)私は人に対して、前者の期待だけするようにしています。(中略)そうすると、裏切られたとか落ち込んだとかいうことを、感じないんですよね】

【私にとっての「信頼」は、「その人のスキルを評価して預けること」のような気がします。一方で「信用」は、もっと「心を許してすきを見せること」というか。自分側がより開示することに近いのかな。だから、「信頼」のほうがビジネスライクで、「信用」のほうがプライベートですよね】

いいなぁ。ホントにこの人には会ってみたいなと思うけど、相手にメリットがないからダメだな。


次に会いたいのは、加藤隆生。僕はSCRAPのリアル脱出ゲームがハチャメチャに好きなので、そういう意味でも会いたいし、昔からこの人の考え方は結構好きだったんで、そういう意味でも会いたい。

【だから、「よその会社ではおそらくやっていけないだろうな」って人も働けるような会社にしたいという理想はある。何て言うか、そのために会社の佇まいみたいなものを僕が一個一個緩めていく感じかな】

【「優秀である」という言葉の意味が変わってほしいと思ってるんだよね。世の中で言われる「優秀」じゃない人も働けて、成果を出せて、世の中から評価される、みたいな。自分はそういう場所であるための防波堤になっている感じかな】

仮に僕が経営者になるとしたら、まったく同じことを理想に据えるな、と思う。加藤さんもそうだったらしいけど、僕も社会にはまったく適応出来なかった人間なので、そういう人間がちゃんと働ける環境だといいなと思う。もちろんそれはなかなか難しいし、組織が大きくなればなるほど難しくもなるんだろうけど、でも理想としては持ち続けたいな、と(僕は経営者じゃないけど)。

【俺が「おもしろなあ」って思うのは、特別何かすごい人っていうわけじゃなくて、じっとしている佇まいが感じいいなとか、コンビニで買ってくるお菓子が毎回ちょっとおもしろいなとか、その程度のことなの。その程度のことで、全然期待して待っていられるというか。まあなんか、うちの会社がそういう場所でありたいなっていう気持ちを、強く持っているんだと思う】

本書ではインタビューアーである著者が結構表に出てくるんだけど、著者は若い頃、まだリアル脱出ゲームを生み出す前のSCRAPに出入りしていたそうだ。その時の加藤さんの印象をこんな風に語っている。

【正直に言うと、わたしは大学生の頃、そんな加藤さんがこわかった。「この人、本当にアイデアしか見てないんだな」と思っていた。そのアイデアの出処はどこでもいいし、誰でもいい。ただ、心を打つアイデアさえ生まれたらそれでいい。】

そう、この表現からも分かるように、加藤さんは基本的にクリエイターだ。

【でもその不安は、「自分がものを作る人間として日々腐っているんじゃないか」っていう不安かな。いいのかな、この刀を研いでなくて?って。それこそ「今年で終わるかもしれない」って思ってた数年前までは、何かものを作る時間っていうのが一日に14時間くらい確実にあったんだよね。しかも、年に360日くらい働いててさ、それが楽しくてしかたなかったの。というか、それくらいしないと追いつかなかったし、眠くなってならなかった。必死で仕事してて、頭動いてない時間なんてなかった。でも、今はそうじゃない。そんな今の自分の状態に対して、「これはクリエイターとして適しているのか?」という不安感はある。だけど、経営者としての不安はさほどないんだよね】

著者は若い頃加藤さんが、「できるだけおもしろいことをして、自分が自殺してしまわないようにしている」と言っていたことを回想している。この感覚は、僕も分かる。僕も、自分をいかに飽きさせないか、という闘いをしているのだ。僕はそこまで何かを生み出したり出来ない人間だけど、分かるなぁ、と思うし、加藤さんとは話してみたいなと思う。


次は、平田はる香。この人は、長野県の山奥でパン屋をやっていて、そこにも人がたくさん来るし、オンラインでも日用品を売ってて、かなり支持されているのだという。しかし個人的に、彼女の仕事的な部分にはさほど興味はない。僕が興味があるのは、平田はる香という女性の「非人間性」だ。

【専任になろうと思ってます(笑)。(中略)山にこもってひとりで暮らしたいです。もう、誰とも会いたくないんですよ(※彼女には夫も子供もいるが、実際に一人で住む計画を進めている。別に離婚するわけではない。)】

【(母親としての自分は)ゼロですね。この間、娘に「出張ばっかりで時々しか会えなくてごめんね」って言ったら、「え?自分のこと、お母さんだと思ってるの?」って言われました。「うちはお父さんがお母さんで、お母さんがお父さんでしょう」って。】

【ただ、私は結構関係を割り切っているので、わざわざのためにならないとわかったら、長い期間付き合っていた相手であったとしても、二度と付き合わないって一瞬で切り替えられるんですよ。わざわざのためにならない付き合いはしないって、決めているから。(中略)ただそれは、その人のことを嫌いになったとかいうのではないんです。取引をすべきでないと判断しただけ。だから、私の中では人間関係が悪くなったわけではないんですよね。先方はそうも思えないと思いますが】

この人は面白いなぁ、って思いますね。これぐらい振り切っている人もなかなか珍しい。特に、結婚した時から夫にずっと「晩年は家を出てひとり暮らししたい」って言い続けている、って話は、ホント異常だなって思います(笑)。でも、そういうヤバイ人、好きなんだよなぁ。会ってみないと分からないけど、割と僕は、この人と波長が合うんじゃないかな、とか勝手に思っています。


最後は、家入一真。この人のことは、昔Twitterをちゃんとやっていた頃によく名前は見かけてて、確か一度、東日本大震災の後、この人が主催した福島県へのバスツアーにも参加したことがあったはず。高校を中退して引きこもっていながら、21歳で最初の起業、29歳でJASDAQ上場、それからも複数の会社を立ち上げるという起業家でありながら、基本的にはやはり、引きこもり的というか、社会への馴染めなさみたいなものを未だに抱え続けている人だ。

【でも、誰かに対して「この人孤独だな」って思うときは、ネガティブな意味での「孤独」を感じているのかも。それは起業家に対してよく感じるんですけど、どこまで行っても埋まらない承認欲求みたいなものがあるんですよね。それと折り合いがついていない起業家ってたくさんいて、生きづらそうなんですよ。
一方で起業家の魅力って、その穴を何が何でも埋めてやろうと飢えてる感じであったり、人としてどこか欠けてるところだったりもする。それがカリスマ性を生むこともあるんだけど、それによって自分も周りも傷つけまくっている人ってたくさんいるんですよね】

今も人付き合いとかが苦手で、登壇したら死んじゃうと思ってイベントをドタキャンしたり(笑)、大阪の中学校で講演をした時に「学校なんか来なくていい」って言って校長先生にメッチャ怒られたとか、そんな話が色々あるんだけど、でもそんな風に、大人が率先して「ダメでいいんだ」っていう部分を見せていくのって、僕は大事だなぁ、と思ってるんですよね。ともすれば子供って、大人の「良い」部分しか見られないじゃないですか。もちろん、虐待みたいな明らかに「悪い」部分を見せられてる子供もいると思うんだけど、大体の場合「良い」面しか見せられない。でもそれってしんどいよなぁ、と、自分の子供の頃のことを考えてみて思います。それより、「あぁ、こんなにダメでもなんとかなるんだ」っていう大人の姿を見ることが出来る方が、僕は生きる力になると思うんですよね。そういう意味で、家入一真という大人はなかなか魅力的だなと思うし、そういう人が「経営者」という立場にいてくれることの良さというのは凄くあるんだろうなと思いました。

本書のテーマである「孤独」についてはほとんど触れずじまいになってしまったけど、彼らは「経営」という特殊な仕事をすることで、「孤独」というものについて深く考えざるを得ない人たちで、それについてきっちり言語化しているから、その発言は、経営者ではない一般の人にも届くんじゃないかな、と僕は思っています。

土門蘭「経営者の孤独。」

レンタルなんもしない人「<レンタルなんもしない人>というサービスをはじめます。 スペックゼロでお金と仕事と人間関係をめぐって考えたこと」(レンタルなんもしない人)

メチャクチャ面白かった!

正直に言えば、ちょっとナメて本書を読み始めた。「レンタルなんもしない人」という存在は知っていたし(とはいえ、本書ではない、著者のデビュー作である『レンタルなんもしない人のなんもしなかった話』という本のタイトルで初めて知った)、面白い活動だなと思ってはいたが、しかし、その活動を通じて、割と深いところまで考えを掘り下げているんだということを本書で知って(もちろん、後付の理由だと本人も書いている箇所は多々あるが、大体の説明は後付だ)、非常に興味深いと思った。

まず書いておくと、本書は「あれ?俺が書いたんだっけ?」と思うような本だった。僕は別に「レンタルなんもしない人」というサービスをしているわけではない。ただ、僕がこれまでやろうとしてきたこと、やってきたこと、自分の見せ方、スタンス、行動基準なんかは、すべてこの「レンタルなんもしない人」という考え方にピタッとはまるなぁ、と感じた。本書には、「レンタルなんもしない人」の活動の「模倣者」に対して、

【(模倣者に対して)新鮮味を感じていたが、一方で違和感も抱いていた。それをあえて言語化するなら「なんか、いいことしようとしてない?」みたいな感情だ。別の言い方をすれば、若干の偽善的な感じ、どこか押し付けがましいのだ】

と書かれているので、こういうことを書くのは勇気がいるが、僕はマジで、「レンタルなんもしない人」というサービスを提供できる人間だと思う。それぐらい、著者の活動スタンスが理解できるし、自分も同じような理屈で似たような行動をしているな、と感じる箇所がメチャクチャあった。

まさにそれは、本書の副題にある通り、「お金」と「仕事」と「人間関係」の話であり、この「レンタルなんもしない人」という活動が様々な価値観を明らかにしていくことになる。

【「レンタルなんもしない人」を通して、僕はお金について、実にいろいろな価値観に触れた】

【再三にわたり断っている通り、僕はボランティア精神というものを持ち合わせてはいない。けれど、この「レンタルなんもしない人」のサービスを通して、世の中には僕の想像をはるかに超えた、いろんな困り方のバリエーションがあるのだということがわかった】

【にもかかわらず、この依頼者からはそこそこ長く付き合った友達と同等の存在とみなされたことが新鮮だった。僕が思っている以上に依頼者(もちろん人によるだろうけれども)は「レンタルなんもしない人」のことを気の置けない間柄だと感じているのだなと】

それではそれぞれの話を書いてみよう。

まず「お金」の話がやはり一番興味深かった。

【先ほど、「レンタル料をもらおうと考えたこともあった」といったけれど、考えようとしてすぐにやめたので、実際はほぼ俎上にも載らなかった。たとえば「1時間あたり1000円」とか、具体的な数字を検討するところまでいかずに、ほとんど一瞬でやめた。
もともと僕は「時給」という概念があまり好きになれないというか、自分の時間とお金を交換してもらっているような感覚が率直にイヤだった。まるで自分が奴隷になった気がしてしまうのだ】

これは凄く分かる。僕も、時間をお金に換算する発想は、あまり好きではない。それって面白いのかなぁ、と思ってしまう。前提として僕は、そこまでお金に執着がないと思う。もちろん、不自由のある生活をわざわざしたいわけではないから、不自由のない生活が出来る程度のお金はほしい。たまにちょっと贅沢できたり、ちょっとしたことならお金のことなんて考えずに誰かを助けたり出来る程度にはお金はあってほしい。でも、それ以上のお金は、別にほしいと思わない。あって困ることはないかもしれないが(いや、困ることもきっとあるが)、わざわざ必要ではない程のお金を稼ぐために自分の時間やリソースを注ぐ気力がない。恐らく著者も同じ感覚だろう。

また、こうも書いている。

【なにか行動を起こすときも、ふつうなら「お金」のことに思い至りやすい。しかし、だから新しいものがなかなか生まれないのでは、と思う。最上段にそれを掲げてしまうと、すごくつまらないことしかできないし、ストレスなく生きていくために求めていたはずが、かえってストレスを抱える要因になるという本末転倒を起こしかねない。だからお金はいったん脇に置く。すると、いまの活動に限っていえば、新しい面白さにつながっている。それはやがて、お金を生み得るものになるのではとも思う。依頼者から料金をもらってしまうとその流れは小さく簡潔してしまう、と本書の冒頭でいったのも、ここに関わっている。お金というわかりやすい価値尺度をいったん手放すことで、お金を介在させた既存のサービスにはない多種多様な価値観にもとづいた多種多様な関係性が生まれるのではないか】

お金が介在するとつまらなくなる、というのは本当にその通りだと思う。この辺りのことは、後々「仕事」の方でも触れるが、「お金」というものが間に挟まってしまうことで、「責任」とか「無理難題」とか「効率」とか、そういう面白くないワードが増える可能性が高まる。僕も、お金をもらわないで色んなことを引き受けることはあって、それは確かにその場では金銭は発生していないのだけど、いずれ金銭や金銭以外のものを生むかもしれないとは思っている。

【僕が会社勤めしていたことは、「やりたいことではないけれど、お金のために働こう」と思ってみたこともあったが、それを継続するのは難しかった。そしてそのあと、一時的に仮想通貨を手にした。すぐに飽きて手放してしまったけれど、それまでは「お金=労働の対価」という価値観しかなかったところに、それ以外でもお金が発生するところがいっぱいあるんだ、ということを知った。その変遷があり、いまの「なんもしない人」に辿り着いている。お金がないとできないこともあるけれど、お金をあきらめたことでお金以外のものが手に入るようになったし、お金とは、結局のところ便利で使いやすツールにすぎないということもわかった】

なんでも「お金」に変換することは、確かに分かりやすいけど、でも全然面白くない。少なくとも僕はそう思ってしまう。僕は先述した通り、お金ではないものを得ている、という感覚があるけれども、そういう感覚を持てないでいると、すべて「お金」に集約する発想になってしまうだろう。それは面白くないなぁ、と。

著者は、今の自身の活動を他人に説明する時、こう言う場合もあるという。

【(著者ツイート)人類の営みをすべて「飯の種」と捉えなければ気が済まない思考回路っぽい人には「自分はライター業をやっていて、今は取材に集中している段階と言える。交通費や諸経費の負担なしにいろんな経験ができるんだから、取材のやり方としてうまいでしょ」みたいに説明してます】

もちろんこれは本心ではないわけだが、確かにそういう捉え方も出来るし、そういう意味で「お金」を介在させないのは成功だなぁ、と思うのだ。

では「仕事」の話に移ろう。

やはり「仕事」の話で言えば、先程引用した【世の中には僕の想像をはるかに超えた、いろんな困り方のバリエーションがある】という気づきが最も興味深いものだと思う。著者が受けた依頼は本当に面白いものばかりで、一例を挙げると、「マラソンのゴール地点に誰か立っていてくれると完走できそうな気がするからゴールにいてほしい」「自分が証人として出廷する裁判を傍聴してほしい」「女子大生になりきって一日楽しんでほしい(女子大生が、もう一人の自分がほしいからという理由で依頼した)」「朝6時に「体操着」とDMを送ってほしい」「通りがかりの人のフリをして愛犬をメチャクチャ可愛がってほしい」「結婚式に招待されているが行きたくないので、その日は「レンタルなんもしない人」さんと予定があるということにして、でも当日ドタキャンしてほしい」などなどだ。なんのこっちゃ?という依頼もあるが、話を聞いてみれば、なるほどそういう事情かぁ、納得、というものもかなり多い。世の中にはこういう、「別に一人で頑張ろうと思えば頑張れるけど、誰かいてくれたら心強いんだけど、でも別に人に頼むほどでもない」という「困りごと」が結構あって、でもそれはなかなか顕在化されなかった。そりゃあそうだ。誰もそういう「困りごと」があることを口に出さないのだから。でも、「レンタルなんもしない人」が登場したことで、そういう「困りごと」が表に出る余地が生まれた。そして、「レンタルなんもしない人」が「なんもしない」という活動をすることで、世の中には多種多様な「困りごと」で溢れている、という現実に、「レンタルなんもしない人」だけでなく、多くの人が気づくこととなったのだ。

この点は、本当に興味深いと思う。「レンタルなんもしない人」という“社会実験(?)”の、一番大きな成果ではないかと思う。後の「人間関係」の方でも触れるが、これらの「困りごと」は、なかなか身近な人には頼みにくい性質のものだ。関係が近すぎて相手に負担になるから、あるいは相手に弱みを握られかねないから、という理由で言えない、ということが結構あるからだ。その、今まで顕在化されることのなかった実にニッチな課題を、「レンタルなんもしない人」は掘り起こしたのだ。これは非常に有益だったと言っていいだろう。正直、この「レンタルなんもしない人」の活動周辺には、新たなビジネスのネタがゴロゴロ転がっているような感じがする。

【実際にスタートしてみると、僕に対する支払いが生じないぶん、あるいはタダで僕の時間を拘束しているという気遣いからか、知恵を絞ってレンタルされがいのある、ユニークな依頼をしてくる人も少なくなかった】

あと、著者のスタンスとして非常に面白かったのが、「レンタルなんもしない人」は「ボランティア」ではなく「仕事」だと明言している点だ。

【(著者ツイート)人のために善意でやってるわけではないので、ボランティア活動ではありません。お金を多めに渡されたらためらいなくもらったりしてますし、誰かお金持ちが大きな額を無条件に出資してくれないかなとかも思います】

【ここは誤解してほしくないのだけれど、僕は無料だからといって、ボランティアでやっているつもりは一切ない。事実、誤解を避けるために過去に右(※この感想では上)のようなツイートをしたことがある。
別に好きでボランティア活動をしている人を貶めたり、否定したりする気はまったくない。だけど僕は、「ボランティア」という言葉からは、かなり純度の高い善意を期待されているという圧力みたいなものをすごく感じてしまう。だから仮にボランティアを謳っていたら、依頼の内容や顛末を報告するツイートもなるべく品行方正な感じで、いちいち美談にしなければならないような義務感を覚えていたんじゃないだろうか。
それらの期待を弾くために、「レンタルなんもしない人」をボランティアだと勘違いしていそうなツイートを見かけたら、積極的に否定して回っている。
むしろ、僕は自分が前任に見られることは極力避けたいと思っている。なぜなら自分はまったくもって善人ではないし、善人であることを期待されたくないから。だからお涙ちょうだい系だったり心温まる系だったりするツイート(結果的にそういう感じになった依頼の報告)が増えてしまうと「ヤバイ。これ善人っぽい」と思って、あえてネガティブだったり露悪的だったりするツイートをしてバランスをとったりしている】

こういう感覚は僕とぴったり合う。僕が書いた文章だと言ってもまったく違和感がないくらい、僕も同じことを考えている。また著者は、露悪的な部分を出すことによって、【「レンタルなんもしない人」をレンタルする顧客層を、自分の想定する顧客層に近づけたいといういともある】と書いている。こういうやり方も、まったく同じだ。僕は別に「レンタルなんもしない人」の活動をしているわけではないが、自分の見せ方を調整することで、自分の周りに集まる人間のバランスを整えたいと思っている。それが実際に出来ているかどうかはともかく、感覚としてメチャクチャ分かる。

また、「お金」の話とも絡むが、こういう感覚もあるようだ。

【お金が介在すると、やりとりは単純にわかりやすくなるけれど、「なんもしない」ことそのものの実際の価値が見えにくくなるようにも思う。お金のほうに引っ張られて、軸足がずれていくような。だったらそういうスイッチはあらかじめ存在させない、つまり無料にするのが妥当なのだろうという結論にいたった。無料のサービスなら僕も開き直って「なんもしない」でいられるだろうし、依頼者側も「どうせタダだし」と、このサービスに多くを求めることはないんじゃないか。たとえ1000円でも報酬があったら、「自分はお客さんだ」という意識が生まれやすくなるだろう】

この辺りのことは完全に後付の説明だろうが、しかし確実に的を射ていると思う。確かに、その通りだろう。「なんもしない」ということの価値が発揮されるのは、やはり無料だからだ。お金が発生すると、「お金払ってんのになんもしないのかよ」という気持ちが生まれ得るし、やる側も「お金もらってるのにこんななんもしなくていいんだろうか」と思ってしまう。双方が、あるいは片方でもそう感じてしまえば、「なんもしない」ということの価値は急落するだろう。この辺りのことについても、後付だろうがなんだろうが、きちんと深掘りしているところが良いと思う。

さて、「人間関係」についてである。これについては、僕が昔から考えていることと本当にぴったりくる文章があるので、それをまず引用してみよう。

【世の中的には、名前が付いたほうが安心できる場合がほとんどではないかと思う。「友達」にせよ「恋人」にせよ「夫婦」にせよそうだろう。しかし一方で、関係が固定されてしまうと、それに伴う息苦しさも生じてくるんじゃないか。「友達だから、相談されたらなにかアドバイスしなきゃ」とか。つまりその関係に名前が付いてしまうと、付いた名前に見合うなにかをしなければならなくなるし、付いた名前に見合う期待を背負わされてしまう。だから、もしAさん(※ある依頼の依頼者)と僕が「友達」だった場合、今後一切連絡を取らなくなったりしたらそれなりの気まずさは残るかもしれない。でも、別に「友達」じゃないからそんなことは気にしなくていいはずだ】

関係に名前が付くとか付かないとかいう話は、僕も昔からずっと考えていて、ほぼ同じ結論に至っている。名前の付く関係の居心地の良さみたいなものはあるんだろうけど、僕は逆で、名前が付くことによる「その名前の関係性であることの責任感」みたいなものが凄く嫌で、疲れてしまう。本書では、ある本に書かれていたこととして「贈与論」の話が出てくる。要するに人間は、「もらったもの以上のものを返す」ということを繰り返すことで関係性が継続するのだ、ということだ。それに対して著者は、【僕個人としては特定のコミュニティのなかで「多めにもらってるな」という感覚を抱き続けることは、めちゃくちゃ大きなストレスになる】と書いていて、メッチャ分かる、と思う。僕も、もらっている状態は、あまり得意ではない。まあ僕は、著者とはちょっと違う方向に自分をデザインして、「こいつは返さないんだな」というキャラクターを認知させようとしてきた。それは、ある程度はうまく行っていると思う。世の中には、あげることが好きな人はいるし(本書にも、「お金を使って人に何かすることが趣味」という人が登場する)、だったらもらうのが得意な人がいてもいいか、と思ったりするし、僕自身そういう人間だと思わせれば、もらいすぎていても返さなくても大丈夫かな、と思える。自己ブランディングの方向性は違うが、発想は基本的に同じだ。

また、この話も興味深いと思った。

【(著者のツイート)こないだ依頼者が「友達ならこうやってとりとめもなく話したり沈黙が続いたりしても大丈夫な間柄になるまでには何年もの時間とその分のお金がかかる。でもなんもしない人を呼べばその時間をすっ飛ばせる」「今かなり贅沢な気分」と言ってて、このサービスには何らかのコストカット効果もあることを知った】

【にもかかわらず、この依頼者からはそこそこ長く付き合った友達と同等の存在とみなされたことが新鮮だった。僕が思っている以上に依頼者(もちろん人によるだろうけれども)は「レンタルなんもしない人」のことを気の置けない間柄だと感じているのだなと】

「レンタルなんもしない人」は、「基本的な受け答えしかしない」というスタンスを常に守っている。相談をしてもアドバイスをくれるわけでもない。移動中に楽しい話をして盛り上げるでもない。とにかく、聞かれたらちょっと答える、ぐらいのことしかしない。しかし、「そういうことしかしない、とあらかじめ分かっている」ということが、依頼者にとっては気楽なんだろう、という分析なのだ。確かに、友達でそういう関係になるにはある程度時間はかかる。しかし、「レンタルなんもしない人」の場合、短時間の関わりだし(時間制限は特にないので依頼者次第だけど)、一度しか関わらないことの方が多いけど、そのほんの僅かな接触の時間を「時間を積み重ねた友人と同等の関係として接することが出来る」というのは、確かに価値を感じられる部分かもなぁ、と思う。

僕はこの、「長年の友人」のような感じで接することが出来るようなやり方を、自分の中でも意識している。初対面であっても(というか、むしろ初対面であるからこそ)、「テンションをあげないで話す」「敢えて喋らない時間を作る」「でも喋る意思は伝わるように接する」みたいなことをやって、「初対面感」をなるべく消すようにしている。僕の場合はそれを意識してやってて、「レンタルなんもしない人」の場合は「なんもしない」という行動スタンスの結果そうなっていったという順序の違いはあるんだけど、でもやっぱりこういう部分も、メッチャ分かるなぁ、という感じがする。

こんな感じで「レンタルなんもしない人」という“社会実験(?)”は、「お金」「仕事」「人間関係」という意味で非常に面白い反応・結果を引き出せていると思うし、正直、あぁ俺がこれをやりたかったなぁ、という気持ちが凄く強い。本書を読む限り、僕が「レンタルなんもしない人」として振る舞うのに足りない部分は1つだけ、「妻と子供がいない」という部分だけだ。

【これといって、人に話せる特技も能力もない僕が「レンタルなんもしない人」というサービスに向いているのは、これはいわば外的な要因になるのだが、妻と子供がいることも非常に大きい。要するに、依頼者側としては「家庭を持っている人間なんだからおかしなことはしないはずだ」「きっとヤバイ人ではないのだろう」といった安心感が得られるようだ。実際にそうってくれる依頼者もいたし、僕自身も折に触れて「35歳、妻子持ち」という情報をツイートすることにしている】

この部分はまあどうにもならんのだが、他はいけるだろう。その話はすぐ後で書こう。しかし、本書を読んでいて一番の疑問は、奥さんだ。「レンタルなんもしない人」の活動は、国分寺駅からの交通費と飲食代(何かを飲み食いする機会がある場合のみ)以外、基本的にお金が発生しない(たまに発生することもある)。つまり、ここから収入は得られない。なのに、妻と子供がいるのだ。お金は稼がないわ、家にいないから子育てもしないわで、普通なら許されないだろう。著者は一時トレーダー的なことをしていたようで、おそらくその時に貯めたのであろうお金で今は生活しているのだという。まあ、その貯金がどれぐらいあるのか知らないけど、にしたって、よく奥さんがOKするよなぁ、という疑問はある。そこは、最大の謎だ。

さて、僕がなぜ「レンタルなんもしない人」という活動に向いていると思うのか、つまり、「レンタルなんもしない人」と僕にどういう共通項があるのか、という部分について触れてみよう。

「レンタルなんもしない人」に必要な性質という意味では、この辺りのことがある。

【「そういう重い話を聞くと、それに引きずられて精神的につらくならないですか?」
と、よく聞かれる。正直、僕としてはそういう感覚はまったくない。むしろ、あまりに頻繁に同じ質問をされるので「え、みんな重い話に引きずられて精神的につらくなってるの?」と逆に聞きたくなるくらいだ。
これをいうとちょっと人間性を疑われるかもしれないけれど、僕が依頼者の話を聞いているときはだいたい「これはツイッターに書いたら面白いな」とか「よっしゃ、いいネタがはいった」とかそういうことを考えている。たぶん、自分は普通の人よりドライな正確をしているというか、他人の感情にあまり左右されないのだ。だから相手にシンクロすることもないし、この活動に向いているんだろうなと思う】

これはメッチャ分かる。僕もそうだ。僕も、「おぉ、そんな話を俺に相談するんだなぁ」というような話を聞く機会があるのだけど、でもそういう話を聞いても、僕自身が辛くなることは特にない。むしろ、面白いと思ってしまう。「レンタルなんもしない人」の使い方として、「誰にも話せない悩みを聞いてほしい」というタイプのものがあるけど、これは、シンクロしちゃう人には厳しいだろうなぁ。そういう意味では、僕は非常に向いている。

【それに比べて僕は「趣味はなんですか?」と聞かれると答えに窮してしまうくらい、特定のなにかに対するこだわりがない。だけどその代わり、わりとなんでも面白がれる】

これもメッチャ分かる。僕は基本的に、「声が掛かったら先約がない限り断らない」というのを普段から実践している。その時点で自分に興味のないことでも(というか、世の中の大半のことに興味がない)、とりあえずやってみる。で、大体のことを面白がれる。もちろん、僕に声を掛けてくれた人並みに面白がれるのかと言われるとそこまでは難しいけど、僕自身の主観として「なかなか面白かったじゃん」と思える。というか、「せっかく来たんだし、面白い部分を探そう」という気分になる。で、探してみると、面白い部分って割と見つかるのだ。

また、この話に繋がる、こんなスタンスも非常に面白い。

【いったい世の中でどれくらいの人が、自分らしさから延長線を引き、その先にやりたい仕事を思い描き、社会に貢献できているのだろう。なにもなければ、そこから自分の夢ややりたいことをひねり出しても、ロクなことにならないんじゃないか。それに対して「できない」「やりたくない」という拒否反応はほとんど直感に近い。言い換えるなら生理的な反応であって、それに従ったほうがある意味で正直な生き方につながると思う】

【漫画『ONE PIECE』の主人公、モンキー・D・ルフィのセリフで「なにが嫌いかよりなにが好きかで自分を語れよ!!!」というのがある。
これは一般的には名言とされているけれど、僕はこのセリフがめちゃくちゃ嫌いだ。それこそ生理的にこういうことをいう人はダメだ。「なにが嫌いか」で自分を語ったっていいじゃないか。むしろ「なにが好きか」で自分語りをする人の話はどこか漠然としていてつまらないことが多いし、「好き」をアピールすることで自分を飾っているようにも見えてしまう。それよりも「なにが嫌いか」をはっきりいえる人のほうが、話が具体的で面白いし、たぶんその人は正直だ。あるいは誠実といってもいいんじゃないのか】

これも分かるんだよなぁ。基本的には何でも手を出そうと思ってるんだけど、「どうしてもやりたくないこと」ってのはあって、それは絶対にやらない。それこそ、意地でもやらない。とりあえずやってみて判断する、みたいな躊躇もしない。そういう部分は僕の中にもあるんだよなぁ。

【ツイッターであらかじめ依頼を受けてからとはいえ、見ず知らずの人に会いにいき、その人とある程度長い時間を共有しなければならないことに対して、僕自身は抵抗がなかったのか?
結論からいえば、なかった。(中略)
こういったその場限りのコミュニティにおける、各人の過去も未来も意に介さなくてよい、フラットで一時的な人間関係は、とても心地よく思えた】

これも同じ。僕も、むしろ初対面っていうか、初めて会う知らない人ばかりの場所の方が、割と気楽に入っていける。「この人とは長く関わりそうだなぁ」という感じの人とは、最初からどういう段階を踏んで関わっていくのが良いのか考えてしまうけど、初対面の人の場合はそういうのがない。後日会う可能性がゼロではないけど、でも今日でバイバイ、という感じの人と接するのは昔から得意だったし、今でも好きだ。そういう意味でもメッチャ向いてるなと。

また、「飽きっぽい自分を長生きさせる」という意味で、僕自身にとっても「レンタルなんもしない人」の活動はメッチャ向いてると思う。

【考えてみれば、ライターのしごとにしても趣味のブログにしても、やることがマンネリ化あるいはルーティン化してしまうことが問題だったのだが、それを回避するためにその都度新しい刺激なり変化なりを能動的に求めていくことが困難だった、というか自分には無理だったのだ。だから他人の力を借りて、受動的に刺激なり変化なりを楽しんでいられるいまの状況は、非常に楽だ。】

さっきから「メッチャ分かる」としか言ってないけど、これもメッチャ分かる。まったく同じだ。僕も凄く飽きっぽいし、すぐめんどくさくなっちゃうんだけど、受動的に変化がもたらされるならメッチャ楽だ。そういう意味で、「レンタルなんもしない人」という活動は、僕を生かしてくれるものでもあるなぁ、と思う。

他にも書きたいことは色々あるんだけど、久々に感想が1万字を超えてしまっているので、この辺りで終わりにしたい。最後に一つだけ。著者が「レンタルなんもしない人」という活動を始めた背景の話だ。冒頭で、心屋仁之助の「存在給」の話や、「プロ奢ラレヤー」という人の存在の話などが出てくるか、さらにその奥の奥の話は非常に興味深い。こういう、心の部分に強い、逃れられない引力のようなものがあるから、お金の発生しない「レンタルなんもしない人」というサービスを始められたのかな、という気もする。

【僕には兄と姉がいる。正確には半分はいた、といえばいいのかもしれない。一番年長である僕の兄は、大学受験がうまくいかなかったことがきっかけで体調を崩してうつになり、以来、一度も社会で働くことなくいま40歳を迎えている。姉はというと、彼女は就職活動にずいぶん苦労したのだけれど望むような結果が得られず、それが心の大きな負担となって、自ら命を絶った】

【いずれにしてもそれらに直面したとき、僕は学生だったけれど、自分の身内である兄や姉の価値というものが、世間的になんらかの目的によって歪められたり、損なわれていると感じた。】

【姉の社会人としてのスペックは、彼女が受けた会社にとって求めるものではなかったけれど、僕自身にとっては姉はただ存在しているだけで価値があった】

久しぶりに、毛穴全開で読んだ、みたいな感じのする本でした。価値観が揺さぶられるなぁ。「レンタルなんもしない人」のことはきっと、折に触れて意識に上るだろうし、恐らくこれからの僕の人生に何らかの形で影響を及ぼしていくような気がする。

レンタルなんもしない人「<レンタルなんもしない人>というサービスをはじめます。 スペックゼロでお金と仕事と人間関係をめぐって考えたこと」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)