黒夜行

左脇のプロフィールにある「サイト全体の索引」から読みたい記事を探して下さい。

読んで欲しい記事・索引








style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">



乃木坂46関係の記事をまとめました
TOEICの勉強を一切せずに、7ヶ月で485点から710点に上げた勉強法
一年間の勉強で、宅建・簿記2級を含む8つの資格に合格する勉強法
国語の授業が嫌いで仕方なかった僕が考える、「本の読み方・本屋の使い方」
2014の短歌まとめ
この本は、こんな人に読んで欲しい!!part1
この本は、こんな人に読んで欲しい!!part2
管理人自身が選ぶ良記事リスト
アクセス数ランキングトップ50
索引 まとめました
【今日考えたこと】索引


災害エバノ(災害時に役立ちそうな情報をまとめたサイト)(外部リンク)

芸人と俳人(又吉直樹+堀本裕樹)

【季語?季語って本で調べながらやらなきゃいけないんでしょ?なんかそれ勉強みたいで嫌じゃない?】

本書の解説で、最果タヒはこんなことを書いている。あぁ、分かるなぁ、と思う。誤解のないように、その続きを書くとこうだ。

【なんて思っていた私が、「季語を通じて、知らなかったところまで世界を見通すことが、できるんじゃない?」なんてうっかり思っちゃって、自分でも驚く】

分かるなぁ、と思った。

僕は、今は真剣にやっていないけど、一時期短歌をやっていたことがある。57577のアレだ。短歌は、季語がない。57577のリズムに乗っていれば、基本的に何を書いてもいい。それを「自由」だと僕は感じていたし、制約がないということが、短歌を始めようという時にハードルとして感じられなかったということがとても大きい。逆に俳句は、短歌よりも短いくせに、季語だの切字だの、なんだかルールが多くてめんどくさいなぁ、ちゃんとやらないといけない感じがあって始めにくいなぁ、と思っていた。

まあそういう感覚は確かに今もあるのだけど、本書を読んで、最果タヒと同じように感じた。それは、本書では生徒の立場である又吉直樹も同じだったようだ。

【俳句を作り慣れてへん僕からしたら、季語というものがまさにいい感じの縛りになってます。散歩していて季語を見つけると、季語に「はい、今、何感じた?」「何思った?」と聞かれているような気がするんです。自分の中でそういう問いかけが自然に起こって、それに対して自分が反応するんですね】

俳句をちゃんと作ったことのない僕には、この感覚は実感としてはついてこないが、字面では理解できる。なるほどなぁ、という感じだ。

何故そうなるのか。それには、俳句に関するこんなルールがあるからだ。

【大事なポイントが、季語の本意・本情に含まれていることを、一句の中でくり返して言わないということです】

どういうことか。本書に載っている例で説明しよう。

たとえば、「姫路城落花はらりと散りにけり」という句(悪い例として堀本裕樹が作ったもの)について考えてみる。この句の季語は「落花」だが、この季語には「花が落ちた」という意味が含まれているのだから、「はらりと散りにけり」と書く必要はない。他にも、「鶯に春を思ひて日もすがら」という句の季語は「鶯」だが、鶯という季語は春の象徴であるので、「春を思ひて」と書く必要はない、ということだ。

つまり、季語を一つ選択することで、そこに広い世界が広がることになる。そして、その広がりが生まれることで、世界の見え方が変わってくるのだ。

例えば、「春炬燵」という季語には、「春になったのにまだ炬燵が置かれている」という意味が含まれている。「春炬燵」という季語を選択するだけで、そこに誰もが共感できる、「春になったけど、まだ寒くなるかもしれないし、だったらもうちょっと炬燵は出しっぱなしにしておこうかな」という場が出現するのだ。さらにその場に何を加えるのか、あるいはその場から何を差し引くのかを考えていくことになる。

季語を選ぶことで必然的に世界が切り取られる。それはある意味では制約と言えるかもしれないが、一方で、旅行ガイドさんの「この仏像にはこんな来歴があってこんなエピソードがあってこんなご利益がある」という説明のような、知ることによって新たに広がる世界を体験する手段にもなるのだ。

僕が本書を読んで一番強く感じた「俳句」の強さが、この点だ。僕は、結構いっぱい作ったし、慣れているというのもあって、やはり短歌が好きだけど、この「季語によって世界が強制的に切り取られる」という「俳句」の効用は凄く魅力的だと思うし、ちょっと時間を費やしてチャレンジしてみる価値はあるかもなぁ、と感じられた。又吉も冒頭で、

【子どもの頃から、俳句に対するあこがれはあったものの、どこか恐ろしいという印象があり、なかなか手を出せないでいた。
なにが恐ろしかったかというと、難しくて解らないことが恐ろしかった。】

と書いているが、本書の元となった連載を通じてその恐さを克服したという。僕にもその感覚はあって、それが本書を読んだ最大の利点だと僕は思う。

本書は、又吉の感性を楽しめるという意味でも面白い一冊だ。例えば、「句会」という、作った俳句をお互いに選評し合う会への恐さをこんな風に表現する。

【器の小さい話なんですが、僕、寿司屋で注文できないんですよ。「お任せで」っていつも言います。センスを問われることが恥ずかしくて、選べないんです。】

あるいは、俳句の面白さに気づくきっかけとして「物ボケ」というお笑いのジャンルを引き合いに出して説明する。又吉は昔、物ボケが大の苦手だったが、【物と自分が属する世界を切りとればいいと気づいて以来、大嫌いだった物ボケが大好きになってしまった】と語る。そして、言葉数が制限されていながら、小説よりも大きな想像をさせる俳句のような感覚で物ボケをすればいいのではないかと気づいた、という話をして、俳句の魅力にいかに気づいたかを説明するのだ。

他にも、「フジテレビのことをCXとは言えない」とか、「メールの文面が墓石に彫られる恐怖」や「時間を持て余している時はエレベーターが止まる音が聞こえる」など、過剰な自意識や、感覚の鋭さみたいなものが全面に出ていて、しかもそれが、俳句というものを又吉自身が理解するのに役立っている。そして読者も、又吉が言語化してくれる感覚を通じて、俳句というものを捉えやすくなるのだ。又吉が、俳句初心者が抱くだろう純粋な質問をしてくれるから、俳句というものを凄く理解しやすくなるので、本当に俳句のことをまったく知らない人が読んでも、明日からチャレンジしてみようと思える一冊ではないかと思う。

教師役である堀本裕樹も面白い。元々小説を書きたくて、散文を磨くために俳句を始めたという彼は、【俳句に比べて小説のほうが上だ、たった十七音で何が伝えられるんだと、僕は俳句を小バカにしていたんです】と赤裸々に語っていたりする。また、又吉が俳句を恐れていた要因の一つに、「そんな解釈は間違ってる!」と指摘される恥ずかしさみたいなものを挙げていたけど、堀本裕樹は、又吉の様々な解釈を面白がり、そういう捉え方もありますね、と反応してくれるので、俳句の解釈に不正解なんてない、という感覚も持てるようになるんじゃないかと思う。

俳句って、なかなか始めるきっかけってないと思うけど、僕は現代こそ「俳句力」みたいなものを磨くべきだと思っています。SNS時代になって、誰もが、短い言葉で物事を切り取る力を欲しているのではないかと思います。そういう時、俳句をやってみるというのは凄く良い訓練になるのではないかと思います。言葉に親しんでいるだろう又吉でも恐さを感じるのだから、初心者が俳句に対してハードルを感じるのは当たり前だと言っていいでしょう。本書を読んで、さらっと俳句を始めてみてはいかがでしょうか?

又吉直樹+堀本裕樹「芸人と俳人」

家族終了(酒井順子)

内容に入ろうと思います。
本書は、エッセイストの酒井順子が書く、家族についてのエッセイです。

何故今こういう本を書いたのか、という明確な理由があります。それは、著者にとっての「生育家族」がすべていなくなった、ということです。

「生育家族」というのは読んで字の如く「生まれ育った家族」で、「創設家族」というのが、結婚などによって新しく出来た家族のことを指すそうです。で、著者の「生育家族」は全員亡くなり、また著者自身は結婚しておらず、子供もいないので、家族を継続させるということもやっていない。そういう中で改めて、「家族」というものの移り変わりを、自身の経験や時代背景などをうまく織り交ぜながら描いていきます。

なるほど、と思う指摘もちらほらあるんですけど、個人的には、ちょっとまとまりがない感じがしてしまうなぁ、と思いました。まあ、エッセイなのだから、まとまりがなくても当然なのかもしれませんが、「家族」という核となるキーワードがあるのだから、もう少しまとまりを感じさせてくれる構成でも良かったんじゃないかなぁ、と個人的には思いました。

個人的に、一番面白いと感じた指摘が、嫁と姑が夫(息子)を挟んでどのように張り合っているのか、というこの記述です。

【さらに根源にあるのは、嫁と姑は「同じ男を愛する二人の女」であり、ということでしょう。とても下品な書き方で恐縮ですが、姑は「この男を私は自分の股から出した」という自負を持つ。対して嫁は、「この男を、私は自分の股に迎え入れた」という自信を持つ。股から出した方か入れた方か、男が引き裂かれることになります】

確かに下品な表現かもですけど、この捉え方はなるほどなぁ、と感じました。嫁と姑の折り合いのつかなさを、こんな風に表現してみせるというのは、さすがだなと思います。

あと、個人的に共感できるのは、「法律婚をしないという生き方」についてです。著者自身も、籍を入れていない男性と同居している状態らしく、

【が、事実婚カップルにおいては、夫でもなければ妻でもないので、相手に対する「これをしてくれて当然」と思う気持ちが薄い】

というのは、僕も凄く分かるし(別に事実婚をしているわけではないけど)、僕が「法律婚」にまったく興味が持てないのは、「法律婚」にはこういうめんどくささみたいなのがあるよなぁ、と思ってしまうからです。

また、これは最近20代の女子と話していて同意見だったんだけど、本書にある、

【性的欲求の処理は、互いに家庭の外で行う。しかし生活においては、暮らしの感覚が合う相手と助け合っていく。…ということで、性と生活の分離を、中村(うさぎ)さんはとても早い時期から取り入れていたらしいのです】

というのも、凄く分かるなぁ、という感じでした。僕も出来れば、性と生活を分けたいし、それが出来るなら、事実婚でも法律婚でも別にしてもいいかな、と思ってたりします。

「家族」には「普通」なんてものはないということがよく分かる一冊です。特に、昔は家父長制が当たりまえで、娘を「片付ける」なんて表現が当たり前に使われていましたが、価値観が多様化したことで、国民全員が「それって当たり前だよね」と思う家族に関する共通認識が薄れていっている。じゃあどんな風に「家族観」が拡散していっているのかを、自分や自分の周囲の人間の話を踏まえながら捉えていくのは、読ませる部分もあるかなという感じでした。

酒井順子「家族終了」

戦後最大の偽書事件 「東日流外三郡誌」(斉藤光政)

こんなとんでもない話があるとは、知らなかった!

本書はいわゆる、「歴史を捏造した者」の話である。その辺りの経緯はこの後で書いていくが、まずは本書を今読むべき価値について書いていきたいと思う。

トランプ大統領が登場してから、「フェイクニュース」という言葉をよく耳にするようになった。トランプ大統領の使い方は、自分を批判するメディアを全否定するためであるが、基本的には「正しくない/間違ったニュース」ということだ。

そしてこの「フェイクニュース」は、「フェイクニュース」という言葉が広まる以前から様々な場所で見られた。特にネットが普及して以降は顕著だ。真偽不明な情報が独り歩きし、あたかも事実であるかのように広まっていくということは頻繁に起こっているし、それが実害を引き起こすことも多々ある。

本書に登場する、古代史研究家の齋藤隆一氏のこんな発言もある。

【あまりに多様化した情報社会のなかで、携帯電話をバイブルにした若者たちの心から情報に疑問を持ったり、論理的説明を求めるという意欲が失われつつあるのを感じます。感覚的に面白いものを信じるというのは、若者たちの一種の自己防衛かもしれませんが、そこにあやうさを感じてなりません。外三郡誌がいずれまた、こうした疑うことを知らない若い世代の前に、亡霊となってよみがえることは十分にあり得ることなのです】

若者の分析はともかく、「うたがいことを知らない若い世代」という指摘はその通りだと思うし、意識せずに、あるいは場合によっては善意から間違った情報を拡散する、という行為の積み重ねが、あらゆる虚構を生み出しているのは事実である。

そんな世の中だからこそ、本書を読むことに価値を見いだせるだろうと思う。

本書は、「東北には古代王朝があった」という内容の古文書が大量に発見された、というところから始まる偽書事件を扱っている。それが事実なら教科書の記述を書き換えなければならないほどの学問上の大発見であるが、「和田家文書」と総称される、1000巻以上とも4000巻以上とも言われる古文書(東日流外三郡誌)のすべてが、発見者の和田氏による創作だということが、ほぼ確定している。

そして本書は、「こんなに作り込んだ古文書ならみんな騙されちゃってもしょうがないよね」なんていう内容の本ではない。どのようにして「和田家文書」が偽書だと暴かれたのかという過程を描く本ですらない。本書では、読み始めてすぐに、「東日流外三郡誌は極めて偽書である可能性が高い」と書かれている。しかも、精密な調査によってそれが判明するのではなく、「どう見ても明らかに偽書でしょこれは」というような判断なのだ。

だから本書の主眼は、「最初から明らかに怪しい東日流外三郡誌を、どうしてみんな信じちゃったかねぇ」という背景を暴き出す物語なのだ。そしてこの点こそ、「フェイクニュース」が飛び交う現代人が本書を読むべきだと思う価値なのだ。

【説明を聞いて私は自分の耳を疑った。外三郡誌への疑念は、編集作業時(※「東日流外三郡誌」は、「市浦村史資料編」として、自治体が出版している)からすでにあって、それを承知であえて出版に踏み切ったというのである。すべての事業を税金でまかなっているはずの公共機関が、である。しかも、そのような疑問符つきの文書を「こういうものがありますよと世の中に紹介することを目的」に出版したのだという。】

【(東日流外三郡誌は)文書そのものを直接確認せずに本にする】

【和田家文書には昭和初期どころか、戦後の知識や言葉まで含まれているのである】

【私が“この文書とこの文書の間が抜けている、つながりになるような文書がないか探してくれ”と言うと、和田さんは一週間もすると、ちょうどぴったりの文書をホイホイ出してくるんです】

【(和田氏の地元の人の話)外三郡誌自体も、ちょっと歴史の知識がある人が見れば、おかしいと思うような内容です。あまりにもお粗末すぎるため、だれも取り合わなかったのかもしれません。そうした面倒くさいことにはかかわらないほうがいいというあいまいな態度が、この問題を複雑にし、ここまで大きくしたのかもしれませんね。地元の人間として、本当にお恥ずかしい限りです】

万事がこの調子である。「東日流外三郡誌」というのは、誰が見ても明らかに怪しい、胡散臭い、信憑性のないものだったのだ。ちなみに和田氏は、「和田家文書」の字が和田氏の文章に似ていると指摘されると、「先祖の文章を繰り返し見てるんだから似てきて当たり前」と答えていたという。ンなアホな。

極めつけは、和田氏の家の近くに住んでいた親族のキヨヱ氏の証言だ。

【いいですか、ちゃんと聞いてください。古文書が落ちてきたという昭和22年ごろ、私はこの家に暮らしていたんです。でも、そんな出来事は一切ありませんでした】

少し補足しよう。「東日流外三郡誌」は、ある日天井裏から、煤だらけの長持ちが落ちてきたことで発見された、ということになっていた。しかしそもそも天井裏にものが隠せるような構造ではなかったし、キヨヱはそんな出来事はなかったと断言しているのだ。

本書では、様々な研究者やアマチュアなどが入り乱れながら、「和田家文書」がいかにバカバカしい偽書であるのか、ということを、細かな話も含めて明らかにしていく。本当に、バカバカしい話のオンパレードで、その厚顔無恥っぷりは凄まじいとしか言いようがない。

学問的な論争は、ほぼ決着がついていると言っていいこの偽書事件だが、論争が激しくなったのは、裁判が原因だった。「東日流外三郡誌」になんと、野村という研究者が撮った写真と、新聞に発表した記事が使われている、というのだ。野村の研究は、近畿地方の特殊な石垣についてのもので、その論文は最新の研究結果だった。しかしその研究結果が、「和田家文書」に載っている、というのだ。

この裁判をきっかけに、偽書擁護派と批判派が激しく対立することになる。学者らは、一刀両断で「和田家文書」を偽書と認定したが、擁護派はまあそれを認めない。そのやり取りに巻き込まれる形で、評判を落としたり、決別したり、振り回されたりする人々の様子もつぶさに描き出している。

本書では、擁護派のスタンスに疑問を投げかける文章があって、それが明快で分かりやすかった。UFOを例にしているが、UFOが実在すると主張する人は、世の中すべての目撃情報に対して、それが何であるのかを批判派が説明できなければ勝ち誇る、というやり方をする。しかし、それは本来的に間違っていて、世間に受け入れられない主張をしている側(つまり擁護派)に立証責任がある、つまり、すべての目撃情報に対して「それはUFOである」という証明を擁護派側がしなければならない、と主張する。確かにそれはその通りだと思う。そして「和田家文書」についても、やはり擁護派は、批判派が否定しきれないのであればそれは真実である、というようなロジックを使ってくることもある。他にも様々な「詭弁(としか受け取れない)」を駆使して、彼らは自己の正当性を示そうとする。

もちろん、明らかにおかしいからと言って間違っているわけではないし、明らかにおかしい主張をしてはいけないということでもない。僕は物理などの科学全般が好きだが、科学の世界にも「ンなわけねぇだろ」というような主張がたくさんある。しかしそれらの中にも、後に認められるものも出てくる。しかし一方で、「おかしい」のではなく「間違っている」と指摘されたのであれば、正面からその正しさを示すか、あるいは間違いを認めるしかない。しかし本書で描かれる擁護派は、どうもそれをしようとしないので、いつまでも物事に決着がつかない。

またこの偽書問題については、専門家達のこんなスタンスも関係してくる。とある大学教授の文章の引用である。

【私たち研究者は、人の一生という、限られた時間の中で研究生活を送っている。研究に取り組まなければいけないこと、明らかにしなければいけないことは非常に多い。
そのさい、研究して史料としての利用価値があると判断されるものならば、もちろん、時間を割いて研究し、おおいに学問の進展に寄与させる必要がある。しかしわざわざそれを否定するために研究することは、およそ時間の無駄でしかない。この手のものは黙殺するのが学界の常識であるし、自分たちの研究で一度もそれを史料として利用しないことが、学者としての立場の表明になっているのである】

この文章を読んだ時は、なるほど確かにそうだよなぁ、と思った。科学の世界でも、エセ科学と呼ばれるものは多々存在するが、何かの本で、科学者たちもそういうものに対しては基本的に無視するしかない、関わるのは無駄だ、と書いているのを見かけたことがある。

しかし、そう考えない人もいる。

【そして「一見して偽書として明らかなものは黙殺するのが学会の常識」「わざわざ否定するために研究するのは時間の無駄」と考えた結果、真偽論争を無視するにいたった歴史アカデミズムの無責任さに注目し、こう言い放つのである。

全ての日本史研究者が「時間の無駄」と考えて無関心を決め込めば、陰謀論やトンデモ説は致命傷を負うことなく生き続ける。場合によってはマスコミや有名人に取り上げられ、社会的影響力を持つかもしれない。誰かが猫の首に鈴をつけなければならないのだ。それが、本書を著した理由である(『陰謀の日本中世史』)】

これもまたもっともな意見である。難しいところではあるが、自分が研究者だったら、やはり僕は前者を選んでしまうかもしれない。自分の好奇心や時間を、自分の研究に使いたいのは当然だし、誰かを否定するために使うのは無駄だなぁ、ときっと感じてしまうだろう。僕自身も含めて、こう考えてしまう人間が一定数いる、ということも、このような「明らかに怪しい嘘」が広まってしまう理由の一つでもあるのだろうと思う。

本書では、何故人々は「東日流外三郡誌」に騙されてしまったのか、について、随所に考察がなされている。理由のいくつかは、「和田氏が天才だったから」ということになる。「和田家文書」は「門外不出」とされ、現物を見た人間はほとんど存在しなかった。専門家ですら現物を見ることが出来なかったのだ(なので、偽書であるかどうかは、筆跡や文体などを写真から判断することで行われている)。また和田氏は気分屋だったようで、「和田家文書」に怪しい部分があると思っても、それを言って機嫌を損ねてしまえば、「門外不出」の「和田家文書」を見ることができなくなる、と思って言えなかった、という人もいる。また、本書の著者は新聞記者であるが、その先輩記者は、「東日流外三郡誌」について好意的な記事をかつて書いていた。その先輩記者らに話を聞くと、和田氏はマスコミの操作も上手かったと証言した。ある人は和田氏を、【偽書史に残る天才】と評している。

しかし、「東日流外三郡誌」が人々に受け入れられていった最大の理由は、東北人のメンタリティだろう。

【外三郡誌は、津軽には古代から中央政府に対抗する一大勢力があった、われわれは敗者などではなかったのだ、と説きます。だからこそ、屈折しがちな東北人の心に快く響いたのではないでしょうか。ある意味で、東北人の心の底に潜むコンプレックスを悪用したのです】

僕はかつて一時期東北に住んでいたことがあったが、それを機に読んだ、東北を舞台にした歴史小説を読むと、東北の民が「蝦夷」として蔑視され、不遇の時代を過ごした、とものが多く、そのコンプレックスみたいなものが、やはりまだ連綿と受け継がれているというような印象は確かに受ける機会があった。僕は岩手に住んでいたが、未だに「南部藩」と「伊達藩」の対立構造(それは、ある種のネタなのかもしれないが)があるようだし、僕からすれば、そんな大昔のことが、未だに人間関係において関係してくるのだなぁ、と驚かされた。まあこれは、別に東北に限らず、どこにでもあるような話なのかもしれないが、とにかく、本書によれば、東北人にはコンプレックスがあり、そこを「東日流外三郡誌」はうまく衝いたということなのだ。

そしてこれは、決してコンプレックスだけに限らない。冒頭で、「若者は面白ければいいと思って情報を受け取る」という文を引用したが、「こうであってほしい」という願望のようなものを持っている時、まさにそれにピッタリの情報が目の前に現れたら、信じたくなってしまうのが人間なのだろう。そういう意味では本書で描かれている話は、世の中を度々賑わす詐欺事件とも関係してくるだろう。

本書では、「東日流外三郡誌」に関する興味深い反応も描かれている。擁護派は、「和田家文書」を本物だと信じているわけだが、世の中には、「和田家文書は偽物かもしれないが、その記述をすべて嘘だと断じることは出来ないのではないか」と考える人もいるという。これもまた凄まじい話である。「和田家文書」が偽物だとすれば、書かれていることだって嘘に決まっている、と考えるのは普通だろうが、「和田家文書が偽物でも、内容は本物だと信じたい」という人の存在は、やはり歴史にロマンを感じたいのだなぁ、と思わされた。

本書では、集英社文庫版の追記として、「オウム真理教」と「東日流外三郡誌」の関連についても触れられている。こちらもまた、実に興味深い。

斉藤光政「戦後最大の偽書事件 「東日流外三郡誌」」

キラッキラの君になるために ビリギャル真実の物語(小林さやか)

本書の冒頭は、こんな文章から始まる。

【ビリギャルは、奇跡の話なんかじゃない。
私がもともと頭が良かったから、できたわけでもない。
私のお母さん、ああちゃんが、小さな頃からかけてくれた魔法みたいな言葉と想いが、
私の、「自分で生きていく力」を育ててくれたんだ。
それは、偏差値なんかよりもよっぽど価値があって、
私が見る世界を、広げてくれるものだった。
ママとパパは、先に死んじゃう。
だから、「自分で考えて、自分で決める」ができないと、だめなんだ。
人生は、自分次第で変えられる。
どんだけでも楽しく広げていける。
私はたくさんの人たちから、それを学んだ。
だから今度はそのことを、あなたたちにつなぎたい。

これは、私からすべての後輩たちにつなぐ、バトンだ。
どうかこの本を、自分の人生に重ね合わせて読んでください。】

ここまで読んだ時点で、本書を読むのを止める人も結構いるんじゃないかと思う。
まあ、その気持ちも分かる。
なんというのか、ふわっとしたポジティブさの押し売り、みたいな雰囲気があって、それを受け入れがたいと感じる人は、この段階で本を閉じてしまうだろう。

まあ、それもそれでいい。僕も、本書が凄く良い本だと言いたいわけではない。
ただ、「普段本を読まず、自分が心地よいと感じる情報に包まれて生きている人が、普通に生活していたら出会わない/触れることがない価値観に触れるための一冊」としては、本書は最良だと思う。

何故なら、非常に読みやすいからだ。

本書は、悪い言い方をすれば、凄く粗っぽく作られている。文章は、お世辞にも上手いと言えない。しかし、著者本人が喋り言葉で書いているんだろうな、ということが如実に伝わる作品で、「読む講演会」という感じがする。これは、普段文章を読み慣れないという人にとっては、とても接しやすい本ではないかと思う。

著者は、「ビリギャル」として有名になった、小学4年生レベルの学力から1年半で慶応大学に合格したというので有名だ。その特異な体験(それは、慶応大学に受かっただけではなく、ビリギャルとして有名になっていく過程も含む)をベースにしながら、30年間生きてきた中で気づいたことを様々に書いている。もちろん著者は、これまで色んなことを言われている。例えば、

【さやかちゃんは進学校だったんでしょ、私はやったってどうせ無理だから、やらない】

みたいな反応は結構あったという。他にも、「何か特別だったんでしょ」という見られ方をされることは結構あった。ただ彼女は、そうじゃないんだ、と作中で繰り返し書く。元々の学力とかそういうことではなくて、「自分でやると決め、そこに全力を注ぐ」という経験こそが自分をここまで連れてきてくれたし、そのために大事だったのが「母親」と「坪田先生(ビリギャルの著者)」だったのだ。

彼女の母親はなかなか凄い。母親は、子育てに関してかなり悩み、鬱状態にもなったらしいが、最終的には、

【ワクワクすることを自分の力で、見つけられる人になってほしい】

というスタンスで子どもと接すると決めたという。

母親に関して、一番印象的だったエピソードが、著者が中学生の頃、煙草を持っていたことで無期停学処分となり、母親が学校に呼び出された時の話だ。

【ああちゃんは、学校からの呼び出しは、チャンスだと思っていた(これは何年もあとに聞いた話なんだけど)。「さやかが、仮に何をしても、どんなことがあっても、ああちゃんはさやかの味方でいるよ」ってことを、私に知ってもらう、いいチャンスだと思ってた。私だけじゃない、弟のときも妹のときも、同じだった。学校からの呼び出しはチャンス。だから、このとき電話がかかってきて、ああちゃんは「よし!」って意気込んで、学校に来たんだって(ほんと、すごい人や)。】

僕も、これは凄い話だなぁ、と思った。「学校からの呼び出し」を、「子どもに味方であることを伝えるチャンス」だと捉えられる人は、どれぐらいいるのだろう?著者は、母親と坪田先生の行動を「ピグマリオン効果」と言っている。これは、心の底から信じてくれる人がいれば能力が高まる、というもので、まさに二人は、信じることによって著者の能力を圧倒的に飛躍させたと言っていいだろう。

他にも、自宅で毎日15時間勉強するという異様な努力を続けていた著者が、睡眠不足に陥っているのを見て、学校の先生に、「授業中に寝させてやってください」と談判する話など、ちょっと凄いなぁ、と思った。

著者は本書で、大学に行けとも、勉強しろとも言っていない。そうじゃなくて、自分がワクワク出来るようなものに出会うためにはどんな風にしたらいいのかを考えて行動しろよ、と言っている。で、その手段の一つとして、受験ってのは結構アリだぞ、と言っているのだ。

【ワクワクするものがなにもない人、得意なものがなにもない人は、受験を頑張るのはひとつ、アリだと思う。私は、受験ってメチャクチャ便利なシステムだと思っている。(中略)
でも、私みたいにそういうものがなにもない人は、「いい大学に頑張って入る」という選択肢は、自分の世界を大きく広げてくれる、確実で手っ取り早い方法のひとつだと思う】

【くどいけど、私は、後輩たちに、いい大学に行け、というつもりもないし、勉強しろというつもりもない。でも、自分が大学受験をしてみて、これだけは伝えたい。何のためにいい大学に行くのか、それは、自分にとって、よりいい「環境」を手にするためだと思っている。
「環境」って何か。「そこにいる人」だ。どんな人といっぱい時間を過ごすかを選ぶことが、環境を選ぶ、ということだ。だから、受験は環境選びと言っていい。どんな環境に身を置くかで、人生変わる。だって出会える人の質が変わるから。大学名じゃない。それで人生変わるんだ。人生は環境で変わるんだ】

この意見は、僕も大賛成だ。子どもの頃からやりたいこと、打ち込みたいこと、どうしても止められないことがあるんだったら、それに全力を注げばいい。でも、何もないなら、勉強するのが一番手っ取り早いし、上の大学を目指すことで切り開けるものも出てくるだろうと思う。

本書では、受験後の彼女の人生についても多く描かれている。そして、これまでの30年を振り返って、彼女がしたいと思うことは明確になった。

【(若い人たちに)もっとたくさん面白い大人と出会わせてあげたい。私にできることは、それくらいだ。】

彼女自身、「坪田先生」という【ワクワクさせてくれるオトナ】にたまたま(弟の代わりに塾の面談に行ったのだ)出会ったことで、人生が激変した。彼女は学校の先生たちに向けて(そしてそれは読者にも向けられていると思うが)、【どうかおもしろいオトナでいてほしい】と言う。僕も、そのことはとても意識している。「こんなオトナがいたっていいんだ」と下の世代に思ってもらうことは、とても大事なことだと、僕自身は考えている。そのために僕は、意識して「当たり前」から踏み外すことにしている。

著者は若い人と接する中で、「将来の夢は公務員」と言う人に対して絶望するというような表現をしているが、僕も同じだ。もちろん、著者も書いているが、公務員になってバリバリやりたいことがあるなら別だ。でも、安定しているからという理由で公務員を目指すんだとすれば、本書を読んで、より面白い方向に踏み出す「勇気」みたいなものを手に入れてもいいんじゃないかと思う。

小林さやか「キラッキラの君になるために ビリギャル真実の物語」

黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件の真実(リチャード・ロイド・パリー)

この事件のことは、頭の片隅で記憶している。
ただ、やはり頭の片隅でしかない。正直に言えば、「あぁ、そんな事件もあったな」という感じだ。

本書にも、こんな文章がある。

【人々の頭には、ルーシー事件の印象がまだ強く残っていた。そんな多くの人が、七年の時を隔てて殺されたふたりの女性―洞窟に埋められたイギリス人女性と、ベランダのバスタブに埋められたイギリス人女性―を混同し、あたかもひとつの事件であるかのように思い込んでいた】

「洞窟に埋められたイギリス人女性」というのが本書で扱われるルーシー・ブラックマンであり、「ベランダのバスタブに埋められたイギリス人女性」というのが、2007年に市橋達也に殺されたリンゼイ・アン・ホーカーだ。ルーシー・ブラックマンの事件は、2000年に起こっている。平成の時代も終わろうとしている今からすれば、大分昔の事件だ。

当時のニュースの記憶は、ほとんどない。「ルーシー・ブラックマン」という女性の名前だけが強く印象にあり、正直、逮捕された「織原城二」の名前は、僕の記憶にはなかった。

だから、この事件が【日本の性犯罪史上、類をみない猟奇的で悪質極まりない重大な犯行】(これは第一審の検察側の論告求刑で出た表現だ)と呼ばれていたことも知らなかったし、これほど複雑怪奇な要素を含んだ事件だということも知らなかった。

この事件の異様さの中心にいるのは、もちろん織原城二という男だ。しかし、彼については、うまく捉えきれない。それは、僕が本書を読んで消化しきれない、という意味ではない。著者自身、そういう感覚を抱いているのだ。

【名前、年齢、職業など、基本的な事実はすぐに調べがついた。ところが、情報の流れがそこでぱたりと止まってしまった。数年後、私も何週間かかけて織原の経歴を調査したことがあった。10人ほどの日本人記者―大手新聞社やゴシップ週刊誌のベテラン記者―にも話を聞いてみた。彼らはみな経験豊かな調査報道記者であり、時間や各種情報源、コネを十分に使って、事件発覚後に何ヶ月もかけて織原の出自を追っていた。にもかかわらず、彼らと私の努力を組み合わせてみても、集まったのは断片的な情報だけだった。「多くの刑事事件の場合」と知り合いの雑誌記者が私に教えてくれた。「家族から情報を得られなかったとしても、少なくとも周囲の人間が話をしてくれます。友人とか、隣人とか、仕事の同僚とか。でも織原の事件では、そちらの線もほぼ全滅でした」】

【しかし、驚きの塊である織原について、最も驚くべきはこれだった―(少なくとも表面的には)子供時代、青春期を経て中年になるまで、彼には友達と呼べる人間がひとりもいなかった】

織原の異様さは、裁判が始まってからより強く浮き出てくる。彼は、弁護団の陣頭指揮を自ら取り、【証人への反対尋問では、弁護士は織原の書いた台本を一字一句そのまま読み上げることを求められた】というほど、誰のことも信用しなかった。小説かと思うほど奇抜な「ストーリー」を作り上げては、自分に罪がないことを立証しようとしたり、本書でもかなり大々的に取り上げる「お悔やみ金」問題も引き起こす。簡単に書くと、被害者家族に1億円を提示し、反省の印として提示する、ということがあった。これによって、ルーシー・ブラックマンの両親であるティムとジェーンの仲は決定的に分裂してしまった。他にも、織原の異常さを伺わせるエピソードには事欠かない。

また本書では、ルーシーの父親であるティムを大きく取り上げている。余談だが、これに関して訳者あとがきでこんなことが書かれている。

【ルーシー事件を扱った本はこれまでにも数冊出版されているが、本書が既刊書と大きく異なるのは、事件の客観的な敬意や裁判の詳細な記録を描くのはもちろんのこと、当事者や周囲の「人間の物語」に焦点を当てている点だろう】

まさにその通りで、本書においては、「ルーシー・ブラックマン」「織原城二」について、第三の主人公と言えるのが「ティム・ブラックマン」だ。

「お悔やみ金」を受け取る決断をしたのもティムであり、彼はその後、膨大な批判にさらされることになるが、一方、ルーシー事件をここまで世界的な話題へと押し上げたのもまた、ティムの功績だった。

【信じられないことに、彼はトニー・ブレア(※当時のイギリス首相)を巻き込むことに成功する。その展開に、刑事と日本人記者はびっくり仰天した。失踪した水商売の女性の捜索に一国の首相が介入するなど、日本では考えられないことだった】

その背景には、ティムの戦略があった。もちろん、色んな要素が彼に有利に働いた、ということもある(例えば当時、沖縄でG8が開催される直前であり、各国の首相が沖縄の前に東京に寄ることになっていた)。しかしティムは、【ルーシー失踪を世間の関心を惹く大事件に変え、両国で最高権力を持つ政治家が直面すべき問題にしてみせる】という決意を持って日本にやってきていた。その強い意思が功を奏したのだ。

被害者が「水商売の女性」だった、ということも、問題を複雑にする要因だった。そもそも問題は、「ホステス」という日本独特の仕事がどんなものであるのか、欧米人にはうまく理解できないことだった。この点が、イギリスのタブロイド紙で議論になったこともあるという。女性がお酒を注ぎ、話をするだけで、「性的なサービスをしない」という職業形態が、欧米ではきちんと認識してもらうことが難しかった。著者も、【水商売というこの熟語は実に謎めいたものだ】と書いており、日本における「水商売」という存在の幅広さと不可解さについて書いている。

イギリスのマスコミは取材開始当初、ルーシー失踪のニュースが最終的にどこに繋がるのか、不安を抱いていたという。

【それは、あるひとつの疑問が全員の頭をかすめていたからだった。ホステスとは具体的に何をする仕事なのか?もしホステスが本質的に売春婦と同じ商売だとすれば、このニュースは衝撃的ではあるが、賞味期限の短いものになる―売春の世界に自ら身を投じ、不運ではあるが、ありきたりな結末を迎えた若い女性の物語。家族に対する同情の声は多少なりとも上がるだろうが、たいした反響は産まないだろう。それに、行方不明の売春婦の父親に面会しようとする首相はいない。】

そういう見方をされていたからこそ、ティムの果たした役割はなお大きなものだといえるのだ。

また本書では、ティムが詐欺に遭った話も取り上げられている。手の込んだ詐欺であり、こんなことをする人間が出てくるのか、という驚きがあったのと同時に、その詐欺師に対して、ある種異様な反応(世間一般の感覚ではなかなか理解しがたいだろう反応)をティムが見せたという事実も、非常に興味深かった。

本書でなるほどと思わされた箇所がある。日本はイギリスなどの欧米諸国と比べて、明らかに犯罪件数が少なく、特に暴力犯罪が極めて少ないという事実を取り上げた後で、こう指摘している。

【そんな状況に置かれると、多くの外国人の警戒心が薄れていく。母国では自分を守るために常に軽快の眼を周囲に向けていたはずなのに、その本能がいつの間にか失われてしまう。それこそ、リンゼイ・アン・ホーカーとルーシー・ブラックマンの共通点だった彼女たちは、平凡なイギリス人女性だった。見知らぬイギリス人のマンションの部屋にひとり上がり込んだりはしない。ロンドンのナイトクラブでホステスとして働こうなどとは考えもしない。そんな“まっとうな”女性たちだ。しかし、彼女たちにとって日本は安全な場所に感じられた。いや、実際に安全だった。その魔法にかかったふたりは、ほかの場所では決して取らない行動に出てしまった】

ある意味では著者のこの指摘こそが、著者が本書でもっとも訴えたかったことだろう。というのも、本書の冒頭にこんなことが書かれているからだ。

【そこで私は、死ぬ前の彼女の人生を描くことによって、ルーシー・ブラックマンに、あるいは彼女の記憶に、何か貢献ができないかと望むようになった。本書によって、普通の人間としてのルーシーの地位を回復させ、彼女は彼女なりに複雑で、愛すべき女性だったことを証明したいと思う】

そういう意味で本書は、事件ノンフィクションとしても非常に重厚でスリリングな作品ではあるが、事件以上に人間に焦点が当たっている作品だと言えるだろう。

そしてもう一つ。著者が焦点を当てているもので、気になったものがある。それが「日本」という国だ。

著者は大学卒業以来ほとんどの時期を日本で報道記者として過ごしてきた。だからこそ、日本の風土・文化のみならず、司法制度や警察組織についても相当に詳しい。そして、欧米の常識から見た、日本の司法の“異様さ”について、本書では頻繁に指摘している。

【欧米では当たりまえの基本的人権の多くが、日本では認められていない。あるいは理論上は存在しても、実際の現場では蹂躙または無視されている。弁護士に会う権利は保障されるが、面会の頻度や時間は警察の気分次第。黙秘権の行使は認められているが、黙秘したとしても、被疑者は取調室の席につくことを強制される。そして、被疑者の頭が退屈と疲労で麻痺するまで何時間にもわたって、警察官が入れ替わり立ち替わり尋問を続ける。また、取り調べの録画・録音や記録は義務化されていない。逐語的な記録の代わりに、聴取の最後に供述調書が作成される(刑事の“作文”と揶揄されることも多い)。疲労困憊の被疑者は、内容をしっかり確かめずに署名してしまうことも多い】

【事実の証明だけが必要とされる英米の裁判とは異なり、日本の裁判では“同期”が重要視される。犯行に至るまでの理由や衝動も、裁判で証明される必要があり、判決を左右する重要な要素となる。つまり、日本の裁判官は“誰”“何”“どこ”“いつ”だけではなく、“なぜ”も要求する。そのため、刑事は容疑者の頭の内部にまで入り込まなければならない。それができなければ、刑事の仕事は終わったことにならないのだ。】

【つまり、大学を卒業したばかりの若者(ほとんどが男性)が裁判官となり、定年を迎えるまでほかの職業を経験しないケースさえあるのだ。西洋人の眼から見ると、そんな新人裁判官――柔和な顔つきで、ふっくらとした顔にニキビが残る若者――はあまりに若く、裁判官として適任とは思えなかった】

【(日本の裁判は)堂々たる法の審理というよりも、まるでどこかの学校の退屈な職員会議を見ているようだった】

僕は色んなノンフィクションを読んで、著者が指摘するような部分については理解しているつもりだったが、やはり、欧米人の目からどう見えているのかという視点で捉えることで、一層日本の司法の異様さみたいなものに気付かされたように思う。

著者は、個人を否定したいのではない。

【有働警視を筆頭に、私のインタビューに答えてくれた数少ない警察官は誰もが誠実で、ルーシー事件解決のために昼夜問わず献身的に捜査に邁進した人々だった。不幸にも、彼らが仕える組織は―昔もいまも―傲慢で、独善的で、往々にして無能だった。警察能力に対する批判は、日本社会に隠されたタブーのひとつである。マスコミや政治家はなんとかこの話題を避け、ときに無視しようとさえする】

【日本の警察組織が一向に改善されたいのは――名ばかりの“監督機関”からも、弱腰で政府寄りのマスコミからも――実効力のある監視を受けていないからである。近年の日本では、将来に向けた軍事力拡大の議論に多くの時間が割かれている。しかし、国際的な組織犯罪やテロリストが多発する今日、警察改革のほうが喫緊の急務であることは言うまでもない】

事件は結局、謎を多く残したまま終結してしまった。恐らく、ルーシー事件について真相が明らかになる日が来ることはないだろう。しかしそれでも、本書によって明らかになった様々な事実は衝撃的であり、著者の努力に拍手を送りたくなることだろう。訳者も指摘しているが、被害者が英語圏の人間であるというのは、日本人記者にとってはなかなか不利な条件であり、そういう意味でも著者は、まさに本書を書くのにうってつけだったと言っていいだろう。

20年近く前のこの事件は、人々の記憶から薄れている今、改めて注目されるべきものではないかと感じる。

リチャード・ロイド・パリー「黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件の真実」



脳のパフォーマンスを最大まで引き出す神・時間術(樺沢紫苑)

著者は、なかなか凄い時間の使い方をしています。

【・毎日、午前中は執筆時間で年3冊の本を出版
・メルマガ、Youtube、Facebook、ブログを毎日更新
・月6回の病院診療
・月20冊以上の読書と書評を公開
・月2,3回のセミナー、講演活動(いずれもオリジナルで新規の内容)】

【私は毎日7時間以上は必ず寝ています】

【・週4,5回のジム通い。週2本の映画鑑賞
・月15回以上の夜の会食、パーティー、イベント。話題のレストランやバーめぐり
・年100種類以上のウイスキーのテイスティング
・年30日以上の海外旅行】

だそうです。僕も、割と時間の使い方は上手い方だとは思っているんですけど、ちょっとこれは凄いですね。

これをどのように実現しているのか。その方法論を書いている本です。

本書の基本的な発想は、要するに「いかに生産性を上げるか」ということです。今まで2時間掛けていたこと(余暇ではなく、仕事や作業)を、1時間に出来るようになれば、単純に使える時間は増えます。本書によると、日本は先進国では22年連続で最下位だそうで、労働生産性は著しく低い国なんだそうです。それをなんとかしましょう、ということ。

で、そのためには、「やるべきことをやるべきタイミングでやること」と「脳をいかに活性化させるか」という話になります。

例えば、人間の脳は、起きてから2~3時間は疲れておらず、論理的な作業や勉強をするのに最も適した時間なんだそう。この時間に、メールチェックや雑用なんかをしていたらもったいないし、あるいは、テレビやスマホを見て集中力を失うのもマズイ、というわけです。

また、寝る15分前は記憶のゴールデンタイムで、この時間に覚えたことは最も記憶に定着しやすいんだそうです。

こんな風に、脳の仕組みとして、時間帯や自分の状態などによって、今これをやるのに最適である、というものがあるので、それに合わせて自分の仕事や作業を割り振っていきましょう、という感じです。

そしてもう一つは、「脳をいかに活性化させるか」です。脳のゴールデンタイムは朝起きてからの2~3時間ですが、それ以降であっても、様々な工夫をすることで、脳を再び活性化出来るようになります。その方法として、運動や仮眠などが挙げられています。

またその他にも、細かなテクニックや習慣みたいなものが色々と紹介されているので、参考になるものはあると思います。

個人的な感想では、この著者のやり方を真似するのは、基本的には難しいと思います。特にサラリーマンだと、一日の流れの中で、自分ではなかなか決めようがない予定や順序などがどうしても出てくると思うので、やり切ることはまず不可能でしょう。しかし、「どうしても大量の仕事を短期間で終わらせないといけない」とか、「どうしても最短で何かを勉強しなきゃいけない」など、切羽詰まった状況にいる人には即効性がありそうな感じがするし、本書に書かれていることを少しずつ取り入れていけば、少しずつでも成果を実感できるだろうと思います。

本書に書かれていたことで、当たり前なんだけど凄く大事なことを書いておきます。それは、「生産性を上げたことで浮いた時間を仕事に使わないこと」です。浮いた時間は、自己投資に回しましょう。読書でも勉強でもいいです。とにかく、生産性を上げて、それによって作り出した時間を未来の自分のために(あるいは家族のために)使いましょう。

樺沢紫苑「脳のパフォーマンスを最大まで引き出す神・時間術」

40歳を過ぎて最高の成果を出せる「疲れない体」と「折れない心」のつくり方(葛西紀明)

こういう本を読むような年齢になりました(笑)

個人的な話ですが、つい最近転職をしました。15年ぐらいずっと立ち仕事でしたが、今度はデスクワークです。勝手が違うので、まだ慣れませんが、とはいえやはり、立ち仕事よりは遥かに余裕があっていいなぁ、と思っているところです。

ただ、最近人生で初めて整体に行きましたが、「背骨と骨盤がヤバイからしばらく通うように」と言われました。まあ、それが本当かどうかは分かりませんが、一応自分の中でも、背骨とかヤバそうだなぁ、という自覚があったので、通うことにしました。自覚症状としては、いつも脚とか足の裏とかが痛いなぁ、と思っていましたけど、それらも、姿勢の悪さから来ているようです。

仕事が変わったことで、多少時間に余裕が出来ることにもなったので、これを期に、筋トレとかストレッチとかランニングを始めてみよう、とも思っています。いきなり頑張りすぎると続かないので、少しずつ習慣にするつもりで、ぼちぼち始めてみようかなと思っています。

そんな感じで僕の中では、身体への意識がちゃんと向くようになりました。あくまでも僕は、長生きをしたいというわけではなくて、死ぬ直前まで健康でいたいと思っているだけです。長生きしたい、と言っている人の中でどのくらい、心身に不調を来したままで長生きしたいと思っている人がいるのか分かりませんが、僕は、心身が不調であるなら、その状態で長生きしたいとは思いません。

色々本を読んだり、ネットで調べたりしてみていますが、やはり基本的に書いてあることは似通ってきますね。頻度ややり方など、細部には色々と違いはあるものの、基本的には「ちゃんと運動・ストレッチをしろよ」「ちゃんと寝ろよ」「体幹を鍛えろよ」「食事に気をつけろよ」という感じです。まあ、多くの人がそう書いているという事実が、やはりそれらを続けてみるべきだなぁ、という後押しになっています。

まあそういう意味で言えば、本書には特にこれと言ったことが書いてあるわけではありません。なるほどそうなのか、と感じる箇所ももちろんありますが、基本的には、当たり前のことを当たり前に継続しましょうね、という本です。逆に言えば、これを一冊読めば、大事なことはちゃんと書いてある、と言うことも出来るでしょう。そういう意味では、良い本だと思います。

本書の特徴は、「40歳以上のビジネスパーソン」に向けられているということでしょうか。もちろん著者はアスリートとであり、ビジネスパーソンの日々を知っているわけではないでしょうが、自身の経験の中から、年を取ってもある程度以上のパフォーマンスを発揮するためのあれこれを書いています。アスリートが書いた本というと、ストイックなことをやらなければならない、と思うかもしれませんが、そういう感じでは決してなく、出来るだけミニマムな、日々積み重ねられそうなこと(ものによっては週1回でいいと書いているものもある)が書かれているので、とっつきやすさはあると思います。

本書ではタイトルの通り、「疲れない体をいかに作るか」ということが一つ大きなテーマになっています。アスリートを目指すわけではないなら激しい筋トレは必要ないし、むしろ逆効果ですらある。筋トレについて触れている箇所では、筋トレの後ストレッチをやる時間を取れないのなら、筋トレを止めてストレッチだけにした方がいい、と書かれています。そういう感じで、あまり筋トレやストレッチに手を出したことがない人向けの配慮が結構されているので、続けやすいと思います。

何にせよこういうものについては、どんな本を読むかとか、どんなやり方をするかではなくて、どれだけ継続出来るかということが大事だと思うので、続けられそうなやり方を選ぶのがいいと思います。

葛西紀明「40歳を過ぎて最高の成果を出せる「疲れない体」と「折れない心」のつくり方」

科学的に正しい英語勉強法(DaiGo)

いきなり変なことを書こう。
本書は、「英語を勉強したくない人」こそ読むべき本だと思う。
それには2つの理由がある。

一つは、「英語をうまく喋れなくても外国人と話す方法」について書かれているからだ。

例えば冒頭に、こんな文章がある。

【(海外で英語を使いこなしている非ネイティブたちは)たいてい、平均的な「英語ができない」日本人と同程度、あるいはそれ以下の英語力であるにもかかわらず、ネイティブと堂々と会話しています】

つまり著者は、「日本人が外国人と喋れないのは英語力のせいではない」と冒頭で主張しているのだ。

これはなかなか勇気が湧いてくる指摘ではないだろうか?

それに続いて著者は、日本人が外国人と喋れない、英語力以外の7つの理由を挙げています。それぞれに納得できる理由ですが、僕が一番そうだよなぁ、と感じるのは「アウトプットの訓練をしない日本の教育」という理由です。

【つまり、英語力以前に、ほとんどの日本人は流ちょうに話すこと自体が苦手なのです】

英語でスピーチが出来ない人は、そもそも日本語でもスピーチが出来ない人であることが多いでしょう。日本語で出来ないことが英語で出来るはずがありません。あるいは、日本語の会話で「あれ」とか「こないだのやつ」のような、基本的な知識が共有されていることが前提の会話ばかりしている人も、なかなか英語で話すことが出来ないでしょう。外国人とうまく話せない、という人は、そもそも日本人でも、初対面の人とうまく話せない人であることが多いように思います。

で、英語力が日本人と同等レベルの非ネイティブたちは、これら7つの理由をクリアしているから、英語力がさほど高くなくても会話が出来る、というわけです。

この指摘はつまり、「英語なんか勉強しなくても外国人と喋れるようになる可能性がある」ということだし、つまり英語を勉強したくない人向けだといえるだろうと思います。

さてもう一つの理由は、「英語を習得するための高いハードルを知ることが出来る」ということです。

世の中には、「誰でも簡単に英語が話せるようになる」とか「たった3語で何でも表現できる」みたいな、とにかく「簡単ですよ!」ということを謳う英語学習本が多数存在するが、しかし本書では、英語は基本的に結構時間掛けないと習得できないよ、という残酷な現実が突きつけられる。

【おそらく、日本人が英語を学習する際も、この4160時間というのが必要な期間の目安になりそうです】

【逆に言うと、つらくない、むしろ楽しいくらいの勉強は、効果が低いということでもあります】

【実は、日本の学校での英語教育は、圧倒的に量が足りていません。特に、触れている単語の数が断然少ないのです】

これから英語を学習しようとする人にとっては、これはとてつもなく高いハードルに感じられることでしょう。しかし、この高いハードルを知ることで、「英語を学ぶことを諦めることが出来る」というメリットが本書にはあると思います。

【この点、多くの日本人は、英語を学ばなくてはいけない切羽詰まった理由を持っていません】

そう指摘するように、「なんとなく喋れたらいいな」ぐらいの理由で英語を学ぼうとする人は結構いるのではないかと思います。しかしそういう人が、4160時間というハードルを知れば、軽々しく手を出すのは止めよう、と思うかもしれません。そういう意味で本書は、英語を学ばないと決断するためにもとても役立つ本ではないかと思います。本書には、英語が出来なくても外国人とコミュニケーションが取れるようになる3つの要素も挙げられているので、その辺りから頑張ってみるのも、人によってはいいでしょう。

と、ネガティブに受け取られるかもしれない話を色々書きましたが、一方で本書は、なんとしてでも英語をものにしたい、と決意している人にとっては、とても有益な本だといえるでしょう。タイトルにあるように、科学的な裏付けのある方法を多く紹介していますし、DaiGoの本はどれもそうですが、エビデンスがないものについてはその効果を明言したりはしません。また、DaiGo自身は勉強が好きで、辛い勉強でも頑張れる人ですが、そういう人が世の中に決して多くはないことも理解していて、どうしたら勉強のハードルを下げることが出来るかについてもページを割いています。

本書には、こんな文章もあります。

【しかし、学習を続けることは、学習法が優れていることよりもはるかに大切だということは忘れないでください】

どれほど素晴らしい勉強法でも、続けられないものであればやる意味はありません。それよりは、どんなやり方でもいいから、続けられる方が重要だということです。

さて、本書で提示されている具体的な方法については、あまり細かく触れません。それは是非本書を読んでください。個人的に気になった話は、

「毎日コツコツ勉強するより、短期間で一気にやる方がいい」
「単語帳は、見て抵抗をなくすことが出来れば役割は終わり」
「多読は、テキストの中の98%の単語を知っている場合は有効なやり方」
「忘れる前に復習するのは効果が薄い」

他にも、スマホアプリの使い方や、ネイティブの友人がいればどう協力してもらうかなど、様々な小技が紹介されています。英語を習得するハードルを理解しながら、それでも頑張って勉強したいんだ!という人は、是非参考にしてみてください。

最後に、本書のこんな文章を紹介しましょう。

【より端的に言えば、外国語学習ほど効果的なボケ防止法はありません】

英語学習に限りませんが、学習というものが脳を変化させ、どころか、脳そのものを年齢によらずに成長させられる、ということが分かってきているようです。年齢によって語学の習得に差が出るということもないようで、むしろ、年を取ってから学ぶ方が、より脳に負荷が掛かるので、それだけ脳を成長させられる、とも言えるのだそうです。

外国語学習のやり方を紹介する本はたくさんありますし、色んなことが言われていてよく分からないでしょう。しかし本書には、英語の学習をしないという決断を促す効果もあり、それはこういう類の本としては非常に珍しいのではないかと思います。

DaiGo「科学的に正しい英語勉強法」

NEVER LOST AGAIN グーグルマップ誕生(ビル・キルディ)

【ローンチから最初の28時間でキーホールはアーンアウト条項のマイルストーンである50万ダウンロードを達成した。たった28時間で2年先に設定した目標を突破したのだ】

なんの話か分かるだろうか?グーグルマップだ。グーグルマップは、キーホールという小さな会社が開発を始めた。キーホールは、倒産寸前まで追い込まれながらギリギリでグーグルに買収され、そこから【グーグルマップとサテライト・イマジェリーは、グーグルの短い歴史の中でも最も成功したプロダクトローンチだったと伝えた。それまで最大の成功を収めたGmailのローンチを凌ぐ成功だった】と評されるまでになった地図を完成させる。
しかし、決してそれだけでは終わらない。キーホールを主導したジョン・ハンケは、なんとあの「ポケモンGO」をも生み出したのだ。

【ブライアンが、グーグルトレンドでポケモンGOとグーグルマップ、グーグルアースのローンチ時の注目度合いを比較したグラフを送ってきた。GOはグーグルマップとグーグルアースの3倍だったよ】

本書は、そんな怪物を生み出した者たちの奮闘を描く物語だ。

本書の著者であるビル・キルディは、大学寮でジョン・ハンケと出会った。

【ジョンの野心と行動力は彼の両親、そして町の多くの人の理解を超えているようだった】

とあるように、幼い頃から野心家だったジョンは大学在学中にゲーム会社を設立し、そこからキーホールのスタートアップに携わることになる。当時から革新的な地図の表示技術を開発していたが、しかし当時その技術の使い道を思いつける者はほとんどいなかった。今となっては、ネットで地図をスムーズに扱えることなど当たり前のことだが、彼らがその技術を生み出した時は、それを動かせるほど高スペックなパソコンが市場にあまりなく、また当然スマホも存在しなかった。スムーズに地図を表示出来る技術は、驚きの体験だったが、しかしそれをどのようにお金にすればいいのか分からなかった。
それでも技術開発を続けるが、やがて資金が底を尽き始める。そんな中、彼らは、創業5年目(キーホールと同じ)のグーグルに買収されることになる。
グーグルという特殊な企業の中で、キーホールの面々が作り出す地図事業は、徐々に注目を浴びるようになる。ローンチ前、グーグルが地図事業をどういう方向に持っていきたいのか知るために、著者はグーグルの創業者二人にこんな質問をする。

【私たちにとって成功がどのようなものか考えた時、例えば1年後のキーホールのチームにとっての成功は、1000万人のユーザーを獲得することか、売上を1000万ドル上げるか、どちらが望ましいですか?】

これに対してラリー・ペイジは、

【君たちは、それよりもっと物事を大きく考えた方がいい】

と答えた。

著者はずっと、グーグルが地図事業にここまで投資をすることの経済合理性が理解できないでいた。しかも驚かされることに、彼らはこのとんでもなく労力が注ぎ込まれたグーグルマップを、無料で公開するというのだ。
トップ2人に関心があるのは、素晴らしいものを世の中に提供する、ということだけだ。これに関して本書にはこんな文章がある。

【この道中、ラリーとセルゲイは一貫して従来のビジネス理論には従ってこなかった。ユーザーを喜ばすことと売上の選択肢があれば、彼らは100%、ユーザーを選んだ】

【グーグルにとってお金が最優先ではなかったと言いたいのではない。私が言いたいのは、お金を稼ぐこと自体、グーグルが掲げる優先事項のトップ10にすら入っていなかったということだ。保証してもいい。私が参加したどのミーティングでも、お金の話題がでることはほとんどなかった。誰も投資対効果や投資に対する回収期間について聞かなかった】

グーグルという会社がこういうところだったからこそ、彼らはグーグルマップを生み出すことが出来たのだろう。実際のところ、色々大変なこともあったようだが(大きな組織故の権力争いや国境線を巡る国家間の問題など)、グーグルにしかこれは生み出せなかっただろう。

それを感じる印象的なエピソードがある。グーグルマップは基本的に、地図会社から地図を買ってグーグルマップを作っていた。そうせざるを得なかったとは言え、これは理想的な環境ではなかった。毎年使用料が釣り上がることも問題だったし、それ以上に、地図に何らかの間違いや変更箇所があった際に、それが修正されるまでに6ヶ月も掛かるのは論外だった。

そこでグーグルは、異次元の決断をする。そしてその決断のきっかけになったのが、毎年大金を垂れ流していたストリートビューだった、というのだから非常に面白い。

ジョンがポケモンGOの開発に至る、その最初の最初の話も印象的だ。ある時著者はジョンから呼び出され、

【一発屋で終わりたくないんだ。グーグルマップとグーグルアースを作った人間で終わりたくない】

と言った。著者が、【ド派手な一発だったことには違いないよ】と言っても、ジョンには関係ないようだ。そして著者に、また新しいスタートアップを始めるとしたらついてきてくれるか?と聞いたのだ。

グーグルマップほどのとんでもない成功を成しても、それを「一発屋」と表現してしまう感覚が、やはり異次元だなぁと感じる。

本書には、技術的な記述も多く、そういう部分にあまり関心のない僕としては、読みづらいなと感じる部分もあったのだけど、全体的には、グーグルマップという、今や僕らの生活に当たり前に存在し、なくてはならない存在となったサービスの誕生秘話として、面白く読んだ。

ビル・キルディ「NEVER LOST AGAIN グーグルマップ誕生」

「翔んで埼玉」を観に行ってきました

くだらなくて面白かったなぁ(笑)
観るべきか、って聞かれたら、別にそこまででもないけど、観たら観たでメッチャ面白い作品です!

内容に入ろうと思います。
今では埼玉は、他の県変わらない扱いだが、かつて埼玉は迫害されていた。埼玉から東京に行くには交通手形が必要で、通行手形なしで東京にいると、埼玉センサーで発見されてしまい、捕らえられる。東京の人間は、「埼玉」と口にすることも嫌がるほど埼玉を嫌悪している。
白鵬堂学園は、「都会度」によってランク付けされている。赤坂などに住んでいるとAランクで、都会度が低い町に住んでいるほどに下がっていく。さらに埼玉出身の者はZランクとされ、ボロボロの廃屋のようなところに住まわされている。
そんな白鵬堂学園に、一人の転校生がやってきた。アメリカ帰りの、いかにも都会感を出す男で、麻実麗というその男は一気に学園の注目の的となる。生徒会長であり、都知事の息子である壇ノ浦百美は、麗に勝負を挑むも撃沈し、さらにとあるきっかけで麗に恋心を抱くようになる。
しかしそんなある日、事件が起こる。街中で埼玉センサーが発動し、向かってみると、追われているのはなんと麗の家政婦だった。彼女を助けようとする麗だったが、その中で、実は自身も埼玉出身であることが発覚してしまう。それにより追われる身となってしまった麗だったが、麗に恋している百美も、なんと麗についていき、共に埼玉を目指すことになる。麗は埼玉で態勢を立て直し、通行手形制度廃止に向けた闘いに挑むことになるが…。
というような話です。

最初から超非現実的なぶっ飛んだ世界観が展開されて、とにかくひたすら埼玉ディスりが続いていきます。冒頭で、原作者が出てきて、映画でよくある「登場人物などは無関係」的なアナウンスの中に、「特に地名は関係ありません」と言ってて、いやいやそれはさすがに無理があるっしょ(笑)って感じだったけど、まあそう言い訳(?)したくなるよねっていうぐらいメチャクチャなことを言っています。

ただ、映画全編を観てて思うのは、割と埼玉以外もディスってるってこと(笑)。この映画の宣伝では、「埼玉県の人、すいません!」みたいな打ち出し方が多かった印象があるんだけど、埼玉県以外の人にも謝っておいた方がいいんじゃないかなって思いました。

正直、特筆すべきことはないんだけど、最初から最後まで、何をしてくるのか分からないみたいなぶっ飛び感があって、そういうワクワク感を楽しむというのが正しい観方かなぁ、と感じました。

「翔んで埼玉」を観に行ってきました

「サイバー・ミッション」を観に行ってきました

なかなか面白い映画でした。

内容に入ろうと思います。
リー・ハオミンは、ネットゲームばかりやっているオタク。特に働くでもなくゲームばかりしているが、彼は実は「海賊船長」という名で活躍する凄腕のハッカーだ。かつてハッカーの大会で優勝したこともある。しかし、その能力で何かお金を稼ごうというのでもなく、時々その能力を人助けに役立てながらダラダラと過ごしている。
一方、チャオ・ファイは、「ゼブラ」という名前のハッカーであり、かつてハオミンの僅差で負けたことがある。ファイは、凄腕のハッカーとして犯罪組織から重宝される存在であり、料金は高いが確実に仕事を成し遂げるとして評判だ。
そんなファイが、著名なIT経営者であるモリから、オアシスというOSに侵入するように依頼される。インドネシアの公共交通機関にも採用されるほど普及しているこのOSで、何かやろうとしているのだ。相棒が必要だと感じたファイは、ハオミンに白羽の矢を立てる。ファイの相棒であるスー・イーの誘惑もあって、あっさり協力者に仕立て上げられたハオミンは、渋々ながらファイのミッションを手伝うことになる。
物凄く高いセキュリティを、彼らは知恵とテクニックで蹴破っていき、ついにオアシスをクラッシュさせることに成功するが…。
というような話です。

なかなかスピーディに展開していく、面白い話でした。ハッキング的なことはよくわからないけど、そういうよくわからない人間にも、ビジュアル的に何をしているのか分かるような見せ方をうまくやっていて、良かったです。ただ、展開が早すぎてちょっとついていけない部分もありましたけど。こういう、国際謀略モノ(と言っていいのかな?)は、面白いけど、誰が誰の側で、誰が誰を裏切っていて…みたいなことが結構複雑になりがちなので、難しいなと感じる部分もあります。

特別何か書くようなことはないんですけど、面白く見れるエンタメ映画だと思います。

「サイバー・ミッション」を観に行ってきました

史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち(飲茶)

相変わらず、べらぼうに面白いな!
「史上最強の哲学入門」ももちろん面白かったけど、こっちも最高だった!
相変わらず、読みやすく、それでいて奥深いところまで説明されていて、ホントに、東洋哲学はこの一冊を読めば入門としては十分理解できちゃうという感じがする。

本書は、インド哲学に始まって、中国の哲学、そして最終的には日本の哲学と進んでいくが、それらを詳しく紹介する前にまず、「東洋哲学は西洋哲学とどう違うのか?」という話から始めよう。

【まず最初にはっきりと断っておくが、本書を読んで東洋哲学を理解することは不可能である】

本書は、そんな文章から始まっている。ムムム…という感じだが、その後の説明を読めばなるほどと納得できる。

まず西洋哲学というのは基本的に「無知」を前提とするらしい。自分はまだ何も知らない、というところから始めて、色んな人間が知力を振り絞って、一段ずつ階段を上がるようにして知を積み上げていく。

しかし東洋哲学はまったく違う。東洋哲学の場合はまず、「私は悟った!」と主張する人間が現れるのだ。

【(東洋哲学とは)ある日突然、「真理に到達した」と言い放つ不遜な人間が現れ、その人の言葉や考え方を後世の人たちが学問としてまとめ上げたものであると言える。】

この違いを著者は、テレビドラマに喩えている。

「西洋哲学が難しい」という時、それはテレビドラマの18話だけ見ているようなものなのだ。初回から17話までの話を知らないのだから、理解できなくて当然だ。こういうように西洋哲学の場合は、順を追っていけばちゃんと理解できるものであり、難しく感じられるのは、途中から学ぼうとしているからなのだ。

しかし東洋哲学の場合は違う。東洋哲学の場合、テレビドラマには最終回しか存在しない。最終回が放送されたら、そこでドラマは終了である。その最終回を見ながら色んな人が、「きっとこうだ」「いやこうに違いない」と話している。これが東洋哲学だ、と。だから難しいし、理解できなくて当然なのだ、と。

なるほど、そう説明してもらえると、東洋哲学を学ぶ心構えが出来る気がする。

そしてもう一つ、西洋哲学と東洋哲学の大きな違いが存在する。それは、「知った」とはどういう状態であるか、である。

【西洋であれば、「知識」として得たことは素直に「知った」とみなされる。(中略)
しかし、東洋では、知識を持っていることも明晰に説明できることも、「知っている」ことの条件には含まれない。なぜなら、東洋では「わかった!」「ああ、そうか!」といった体験を伴っていないかぎり、「知った」とは認められないからだ】

要するにこれは「悟った」ということなのだけど、結局のところ、悟りに達しないと理解したことにはならないのだ。いくら言葉の上でそれを理解できたと思っても、捉えられたと思っても、東洋ではそんなことに意味はない。本来的に、真理というのは言語化できないものであり、言語で捉えようとすること自体が間違っているのだ。この辺りの説明を著者は、「白と黒のものしかない部屋でずっと生きてきた人に、「赤」をどうやって説明するか」という問題を取り上げながら、具体的に説明していく。

こういう説明をしてもらえると、禅の公案なんかも理解しやすくなる。公案というのは、要するに「意味不明なナゾナゾ」であり、最も有名な公案はこうである。

【両手で拍手するとパチパチと音がするけど、では片手でやるとどんな音がする?】

師匠から出されたこの問い(ナゾナゾ)を、弟子は数十年掛けて考え続けるわけだけど、本書では、そのことによって何が起こるのかを精妙に解説していく。なるほど、確かにそういう理屈なのであれば、こんなわけの分からない公案なるものの存在意義も理解できるなぁ、と感じた。

とはいえ、そうやって公案の仕組みを「知ってしまうこと」は、ダメなことなのだ。要するに公案は、「何にも知らない状態で、それについて超真剣に考え続けるからこそ、効果が出る可能性があるもの」なのであり、「公案ってこういう仕組みらしいよ」ということを頭で知ってしまえば、その効果は半減どころかほとんどなくなってしまうだろう。本書にも巻末にこう書かれている。

【そう、だから、ネット検索による知識の公開、そして本書のようなお手軽な入門書といったものは、本当は伝統的な東洋哲学を破壊してしまう存在なのだ】

本書を読めば、その意味も実によく理解できるだろう。

また、東洋哲学の特徴としてもう一つ挙げられるのが、「ウソも方便」というものだ。

【東洋哲学はあらゆる「理屈」に先立ち、まず「結果」を優先する】

東洋哲学というのは要するに、「あの体験に至るにはどうすればいいか?」と体系化してきたのだ。そのための手段や方法論こそが東洋哲学であり、だからこそ、体験に至る過程はどうでもいい。あの体験にさえたどり着ければいいのだから、色んな天才が色んなことを考えながら、そこに至る様々な手法を開発してきた、というのが東洋哲学の歴史なのだ。

【このように東洋哲学は「とにかく釈迦と同じ体験をすること」を目的とし、「その体験が起きるなら、理屈や根拠なんかどうだっていい!ウソだろうとなんだろうと使ってやる!」という気概でやってきた。なぜなら、彼らは「不可能を可能にする(伝達できないものを伝達する)」という絶望的な戦いに挑んでいるからだ。そういう「気概」でもなければ、とてもじゃないがやってられない!
そして、事実、東洋哲学者たちは、そのウソ(方便)を何千年もかけて根気強く練り続けてきた】

この「ウソも方便」を説明するのに、法華経に載っているというある例を引き合いに出している。父親が家に帰ると家が燃えていたが、子どもたちは「火事」というものを知らず、家の中で遊んでいる。ここで子どもたちに、「火事というのはこれこれこういうもので危険だからそこからすぐに離れなさい」と言っても、理解できないかもしれないし、興味がないから聞かないかもしれない。でも火の手はもうすぐそこまで迫っている。どうする?そこで父親は、「こっちに凄く楽しいおもちゃがたくさんあるよ!」と呼びかけた。子どもたちはわーっと父親の元へと駆け寄り、命は助かった。

こういうことを、東洋哲学もやっているのだ。あの体験へと誘うために、ウソでもなんでもいいからついて、一人でも多くの人をそこに行き着かせようとする。だから、宗派によって言っていることが違うし、師匠は何も教えないし、わけのわからない状況が度々やってきたりするのだけど、そこにはそういう意味があるんだ、ということのようである。

本書では、釈迦や孔子や最澄なんかがどういう教えを導き出したのか、みたいな話も事細かに説明されるのだけど、まずこういう、「東洋哲学の特殊さ」を非常にわかりやすく説明してもらえたので、それだけでも十分に面白いと感じた。

さて、ではインド哲学からいこう。インド哲学はヤージュニャヴァルキヤから始まった。彼は「梵我一如」として知られる哲学を打ち出した。これは、「私(=アートマン)と世界(=ブラフマン)が同一である」という考えであり、さらにヤージュニャヴァルキヤは「アートマンは捉えられないものだ」と主張する。これだけだとなんのこっちゃ分からないだろうけど、それを本書よりさらに短くわかりやすく説明することは不可能なので、是非本書を読んでもらうとして、本書に登場する映画の喩えだけ書いておこう。

あなたが真っ暗な空間で映画のスクリーンのようなものを見ているとしよう。映画を見ていると、その映画の登場人物になったかのような錯覚に陥ることがある。あなたが、ただの観客であるのだけど、次第に登場人物であるように錯覚され、そうなればなるほど、その映画の内容に自分自身が影響されていく。映画の中で起こったことであるのに、さも自分自身に起こったことであるかのように錯覚し始める。

しかしここで、その空間の電気がつけば、あなたは自分がただ映画を見ていただけだ、ということを改めて理解する。

人間の悩みもこれと同じようなものだ、と説くのだ。つまり、「あぁ不幸だ」「あぁ辛い」と感じるようなことがあっても、それは映画の中の話であって、映画の中で何が起こっても、それを見ている私が傷ついたり壊されてしまうことはない、ということだ。そして、この境地に達することさえできれば、あらゆる不安は消えてなくなる、という考え方だ。

さて、この「アートマン」は、「~に非ず、~ではない」という形でしか捉えられないものであると彼は主張しており、だからこそ、身分制度が存在するのもおかしい。何故なら、「アートマン」は「~ではない」という形でしか捉えられないのだから、「アートマンは特権階級ではない」し、「アートマンは奴隷ではない」からだ。

当時のインドにおいては、この考えは革命的だった。バラモン(特権階級)や奴隷などの身分差がある中で、ヤージュニャヴァルキヤの哲学は、身分制度に抑圧されていたバラモン以外の人々を勇気づけたのだ。

そんな勇気づけられた一人が、釈迦だった。釈迦は、当時のブームであった「老病死の苦しみを克服する境地」を目指すために出家し、苦行に励んだ。

ちなみに、当時のインドでは苦行が流行していたのだけど、それにはこんな理由がある。「悟った人」と「悟っていない人」をどう見分ければいいか、というのはとても難しい問題だ。悟っていようがいまいが、言動に差はない。しかし「悟った人」は、あらゆる苦痛から開放されているはずだ。つまり、ボコボコに殴られたって平然としているはずだ。そうでなければ「悟った」などとは言えないだろう。

という発想から、彼らは、「苦しい状況に耐えられれば耐えられるほど悟っている」という理屈を作り出し、ガマン大会みたいな状況が生まれてしまったのだ。

当然釈迦も、そのガマン大会に参加した。しかし、どれだけ苦行に励もうとも、一向に悟ることが出来ない。そんな時、ようやく釈迦はある考えにたどり着く。苦行こそ、悟りにとって邪魔なのだ、と。そこで彼は苦行を止め、「中道」という考えに行き着くことになる。釈迦が、ガマン大会になっていた当時のインドに、待ったをかけたのだ。

そんな釈迦の主張で重要なことは、「アートマンは存在しない」というものだ。これは当時のインドでは衝撃的なものだった。何故なら、明らかにヤージュニャヴァルキヤの哲学と矛盾するからだ。

釈迦も、ヤージュニャヴァルキヤを否定しようと思ってこんなことを言ったのではない。ヤージュニャヴァルキヤは正しかったが、一つだけ間違いを犯した。それが、「大衆は誤って理解する」ということだ。ヤージュニャヴァルキヤの、「アートマンは、~に非ずとしか表現できない」という哲学を大衆は、「アートマンというのは、~に非ずとしか表現できないようなものだ」と概念化して捉えるようになってしまったのだ。大衆は、「私は~ではない」という理解の仕方がなかなかできず、どうしても「私は~である」という風に捉えてしまう。しかしそう捉えること自体が、ヤージュニャヴァルキヤの哲学から遠のく原因になるのだ。

だから釈迦は、大衆の勘違いを正すために、敢えて「アートマンは存在しない」という強烈な主張をした。そうしないと、大衆が誤解するからである。

さて、釈迦も人間なので死ぬ。食あたりで死んだようだ。トップが死ぬと、組織は大体大変なことになる。仏教もそうだった。そもそも釈迦は、自分の教えを文章に残すことが好きじゃなかったらしいし、それに東洋哲学らしく、「成果」を出すことが一番なのだから、そのために人によって違うことを言っていた。釈迦の死後、弟子たちが釈迦の発言をまとめようとしても、そんなこんなで紛糾、ついに分裂してしまう。そして、大所帯の方が自分たちを「大乗仏教」と名乗り、小所帯の方を「小乗仏教」とバカにしたという。しかし、とにかく数で勝っているし、またよほどの覚悟がなければ実行できない小乗仏教より、大衆向けにアレンジされた大乗仏教の方が大成功するのは当然だった。後は、その大乗仏教を率いる先導がちゃんとしていれば問題ない。そして、運良く天才がいたから問題なかったのだ。

それが龍樹である。彼は「空の哲学」と呼ばれるものを完成させ、その究極が「般若心経」と呼ばれているものである。「色即是空」で有名なアレである。

さて、この「般若心経」は一体どんな主張をしているのか。これも、本書よりも分かりやすい説明をするのは不可能なので是非読んで欲しいが、ざっくり書くと、「すべてものは実体としてそこに存在するのではなく、人間が言語によって区別を与えているだけであり、実体なんか存在しない」ということだ。まあよく分からないだろう。僕もちゃんとは理解できていないが、なんとなく分かった。「空の哲学」では、言葉ではない形で物事を捉える無分別智が推奨される。

しかし、そんな風に認識をしても、どうしても乗りこられない区別があり、それが「私と他者の区別」である。何故なら、どれだけ色んなものを「ない、ない、ない!」と言って否定しても、「そうやって否定している私は存在する」からだ。

そして般若心経では、その最後の区別を、なんと「呪文」で乗り越えろという超展開によって解決しようとする。呪文そのものには意味はないが、しかしそれでもこの呪文には意味があるのだ、という説明が展開されていく。

さて、これで大体インド哲学は終了である。

さて、中国哲学ももちろん面白いのだけど、こういう感じで書いていくと疲れるので、ざざっと行こう。中国哲学では、孔子・莊子・韓非子・荀子・老子など、僕でも名前を知っている色んな人物の哲学が紹介されるが、ここではそれらについていちいち書かない。ここでは、「なぜそういう哲学者が中国で現れるようになったのか」をメインに書こうと思う。

古代の中国に、「堯」「舜」「禹」という英雄がいた。彼らは、生活に必要ではあるが氾濫によって大きな被害を被りもする「大河」に立ち向かった人物である。洪水が起きないように工事をするという、絶望的に大変な事業に手を出した「堯」は、血族ではなく優秀さで後継者を選び、その伝統は「禹」まで続くこととなった。しかし残念ながら「禹」の後は世襲によって後継者が決まるようになり、そうなれば当然の流れだが、アホみたいな王が出てくるようになる。そしてお決まりの革命が起こる。つまり、「世襲→アホが王になる→革命」という流れを繰り返すことになった。

しかしそんなことを繰り返すわけにはいかない。そこで「周」の国の人は、「ちょっとぐらいアホな王様がいても崩れないくらい強固な政治体系」を作ろうとした。それが「封建制度」である。国を分割し、それぞれの土地を有力な貴族に統治させるというものだ。もちろん、そんな仕組みを作ったところで不届き者は出てくる。まあそんなものは中央の武力で蹴散らしてやりたいが、しかし中国は広い。何だかんだ、地方の貴族が武力を結集させれば、中央の武力では太刀打ちできないのは明白だ。

そこで彼らは、実にうまいやり方を考えた。当時中国の人々は、「天」という名前の神様(人間の頭上におわし、世界のすべての現象をつかさどる神秘的な何か)の存在を素朴に信じていたが、周王は自らをその「天」の使いとし、「天」から命を受けて地上を支配している、と宣言したのだ。さらに、周王は地方貴族の「本家」であると主張し、地方貴族の先祖を祭る儀式は周王にしかできないよ、と主張した。これによって、「周王に逆らうことは天に逆らうことであり、また先祖の霊を怒らせることになるぞ」と理解させたのだ。

このやり方は大ヒット!周王は安泰だったが、一つ問題があった。地方の貴族たちは、王としてその地方に君臨するのだから、やっぱりやりたい放題やりたい。でも、周王に逆らうことは出来ない。だったらどうするか。それは「他の国から奪う」である。周王には逆らえないが、他の国にだったら悪さをしても大丈夫。

そんな理由から中国は、春秋戦国時代に突入するのだ。

しかし、困ったことがある。そういう時代であるから、当然どの国も、自分の国を強くして他の国をやっつけようとする。だから、「国を強くする能力のある者」をとにかく見つけ出してくる必要があった。

そしてこの状況が、平民にチャンスを生むことになる。貴族でなくても、学問を身に着けて貴族に雇ってもらえれば、大出世なのだ。そういう状況の中で、孔子などの天才が世に現れることになったのだ。

この中国の哲学者たちの話で面白いなと思ったのが、孔子と老子だ。孔子は、「思いやりの気持ちを大切にして、礼儀正しく生きましょう」ぐらいのことしか言っていないのに、世界4大聖人の一人に数えられていたりする。何故そんなありきたりのことを言っていただけなのに評価されたのか。

それは、彼が空気を読まずに、徹底的にその主張をし続けたからだ。詳しいことは省くが、孔子の主張は、当時の王様たちの流行とはかけ離れていた。孔子は、正しいと思う政治の実現のために、王様たちに嫌われても自らの主張を通そうとし続けたのだ。この時代、王様に気に入られるようなことを言えば取り立てられて出世できたかもしれないのに、孔子はその道を選ばなかった。だから孔子自身は、存命中は不遇な人生だったらしいが、弟子たちが孔子の考えをまとめたことで、孔子の心意気が伝わり、後世に残る大哲学者として知られているのだ。

老子の話も面白い。老子は、インドから中国に伝わってきた仏教を中国に根付かせた人物だが、彼は周国の衰えを悟って国を出ようとしていた。しかし国境で弟子に捕まり、「あなたの教えを書き残してください」と詰め寄ったのだ。老子は自分の哲学を文章にしておらず、この弟子のファインプレーがなければ、老子という天才哲学者の教えは失われていただろう。

そういう意味で、もう一つ印象的なエピソードがあった。あ、ここで一気に日本の哲学に話が移るが、日本の哲学はこの感想ではちょっと省略しよう。重要なのは、聖徳太子が仏教の真髄を理解していたから仏教が日本に根づいたこと、そして徳川幕府の思惑によって国民全員がどこかの寺に帰属されることになったということ、あとは禅ぐらいだ。禅というのは、インド仏教が中国に伝わり、老荘思想と融合して生まれたものであるが、「禅」は世界でも「ZEN」という日本の音で理解されており、中国が発祥であるが、日本で成熟したものだそうだ。

さて、そんな禅の面白い話がある。禅というのは伝統的に、悟ったものが後継者となる。で、禅を生み出した達磨から数えて五代目である弘忍の元に、慧能という天才がやってくる。慧能は、後に弘忍から後継者と認定されるが、寺にやってきた時は極貧の木こりで、読み書きは一切できず、寺にも雑用係として採用された。

弘忍には弟子がおり、ある時弘忍は、自分のたどり着いた境地を詩にしてみろ、悟ったものがいれば後継者とする、と彼らに告げた。弟子たちは頭を振り絞り詩を作る。中でも優秀と言われていた神秀という弟子がきっと選ばれるだろうと誰もが思い、やはりその詩は素晴らしかったが、そこに通りかかった慧能がその詩の内容を教えてもらうと、「この詩を書いている人はまだ悟ってないみたいですね」と言った。爆笑した弟子たちは、じゃあお前が詩を書けという。字を書けない慧能は、口頭で詩作し、それを弟子が書きつけた。そこにちょうど弘忍が通りかかり、慧能の詩を見て、「こんなくだらない詩を書いたやつは誰だ。こんな詩を書いた人間は悟っていない。消せ」と命じた。

さて、その夜のこと。弘忍は慧能の寝室までやってきて、自分が着ている袈裟(これを受け継いだ者が後継者とみなされる)を渡し、「弟子たちの中で悟っているのはお前だけだ。だからお前が後継者だ。だが、そのことを知れば他の弟子たちが怒り狂い、お前は殺されるだろう。だからこの袈裟を来てさっさと逃げろ」と言ったのだ。

翌日、弘忍が袈裟を着ていないことに気づき、弟子たちは弘忍を問い詰めるが弘忍は何も喋らない。しかし、慧能の姿が見えないから、彼が後継者に選ばれたのだと理解した彼らは怒り狂い、慧能を探し出そうとした。しかしその頃慧能は無事に南に逃げており、こうして禅がちゃんと継承されることになった。

というお話である。これもメチャクチャ面白い話だなと思いました。

そんなわけで、本書の面白さの10分の1も表現できていませんが、とにかくハチャメチャに面白い作品でした!知的興奮に満ち溢れた、超絶面白い入門書です。是非読んでみてください!

飲茶「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」

定理が生まれる 天才数学者の思索と生活(セドリック・ヴィラーニ)

なかなか変わった本である。その変わった点について、本書の訳者の一人の文章を抜き出してみよう。

【この本のスタイルは少し特殊である。統計をとったわけではないが、多くの数学者は苦労しているところは見せず、成果だけをさらりとみせることがスマートだと思っているはずだ。本書はそれとは逆に、証明を得るまでの苦労を一般読者向けに記しているのだ。】

僕自身も、あまりこういう類の本は読んだことがない。数学者本人ではない人が、その数学者の人生なんかを描く作品はもちろんあるが、本人が、凄い証明(その凄さは後で説明する)にたどり着くまでの七転八倒を描いている作品というのはなかなかないだろう。

さて、本書の著者であるセドリック・ヴィラーニの略歴をざっと書いてみよう。

【弱冠28歳でリヨン高等師範学校数学教授になり、現在リヨン第1大学数学教授およびポアンカレ研究所所長。数々の数学賞を受賞し、2010年にフィールズ賞を受賞。トレードマークはドレッシーかつカリスマティックな、プルーストを思わせる衣装とクモのブローチ。手塚治虫、宮崎駿がお気に入り。『DEATH NOTE』の悪魔的な面白さに心酔し、クラシックからポップスまで広範な音楽を愛する、フランスを代表する数学の伝道師】

この紹介文だけでも、なんとなく変人っぷりが伝わってくる感じがするから、なんとなくさすがだ。まあ、本書にも色々登場するが、基本的に数学者というのは変人揃いなので、この程度では数学者の中ではさほど変人でもないのだが、一般的に見れば十分変人枠に入るのではないか。

彼は日本のマンガが好きなようで、本書の中にこんな描写がある。

【メトロに乗り込むとすぐさま、私は上着のポケットからマンガを取り出し、短いながらも貴重な時間を過ごす。まわりの世界は消え去り、顔に縫合の痕がある超人的に器用な外科医や、切れ長で大きな瞳の幼い娘たちのために命を捧げる筋金入りのヤクザが登場し、いきなり悲劇の英雄になる残酷な怪物、そして反対に残酷な怪物に変貌を遂げる金髪の巻き毛の少年たちが活躍する世界が現れる、懐疑的であるかと思えば甘く、情熱的かと思えばしらけた世界。偏見もなければ、善か悪かの単純な二元論でもなく、感情がほとばしり、無邪気に楽しむことを恐れない読者の心を打ち、目に涙を浮かべさせる世界だ。
市役所駅に着いた。降りなければならない。メトロに乗っていた間は、まるでインクと紙が小さな流れとなって私の血管を通るかのように、物語が頭の中に入り込んできた。私は体の中からすっかり洗われた気分になる。】

他にも、家族全員でアニメ『ベルサイユのばら』を見たり、娘に『DEATH NOTE』のアニメを見せたりしている。彼は、【マンガと数学が一緒くたになることはない】と書いてはいるが、日本のマンガが彼の気晴らしとなり、そういう意味で研究の助けに少しでもなっているとすれば、なんかいいじゃない、という感じだ。

さてさて、彼がどれぐらい凄いか、という話なのだけど、そのためには、先程の略歴の中にあった「フィールズ賞」について説明しなければならない。この「フィールズ賞」は、数学のノンフィクションを読んでいれば結構出てくる。有名なところで言えば、フェルマーの最終定理を証明したワイルズが受賞できなかったり(ちゃんと理由はある)、あるいはポアンカレ予想を証明したペレルマンが受賞を拒否したりして、世界的に話題になった。

さて「フィールズ賞」とはこういう賞である。

【4年に1度、40歳以下の数学者にのみ与えられる数学界最高の栄誉であり、ノーベル賞に数学部門がないこともあり、数学のノーベル賞とも称される。】

ノーベル賞に数学部門がないのは、ダイナマイトを発明したノーベルが当時付き合っていた彼女を奪ったのが数学者だったから、なんていうホントかウソか分からない話もあったりするんだけど、とにかく、ノーベル賞が毎年発表されるのに対して(1つの部門に最大3人までだったかな)、フィールズ賞は4年に1度、2~4人しか選出されない。さらにこの賞は、40歳以下という制約がついている(この制約のせいで、ワイルズは受賞出来なかった)。若手が取り上げられ、しかも世界的に注目を集めるという意味で、フィールズ賞はどんな数学者も手にしたいと思う聖杯なのだ。

このフィールズ賞について、著者はこう書いている。

【フィールズ賞―受賞する権利のある人々にとってはその言葉を口にするのもおこがましく、フランスではせいぜい頭文字をとって「MF」(訳注:Medaille Fieldsの略)などと呼ぶのがやっとという存在。4年おきに開かれる国際数学者会議で、40歳未満の数学者二人から四人に授与されるという、働き盛りの数学者にとって最高のご褒美である。
もちろん、他にも数学には粋な賞がいくつかある。アーベル賞、ウルフ賞、京都賞にいたっては、おそらくフィールズ賞よりも受賞するのが難しいかもしれない。だが受賞することによる反響とメディアへの露出はフィールズ賞にはおよばない。それにこれらの賞は数学者のキャリアの終盤に与えられる。フィールズ賞のように数学者にとってさらならステップアップのきっかけになるとか、今後の研究人生に対する激励という役目を担っていない。その意味で「MF」はずっと大きな輝きを放っているのである】

さて著者は、そんなフィールズ賞を受賞した。本書は、そのフィールズ賞を受賞するまでの過程を、日記のような形式で綴った作品である。彼がフィールズ賞を受賞した研究タイトルはこうである。

「非線形ランダウ減衰とボルツマン方程式の平衡状態への収束に関する証明」

まあ正直、これについては意味不明である。本書には、彼ら(著者は共同研究者と二人で研究を進めている)のメールのやり取りや、著者のひらめきなんかが書かれているんだけど、ほぼ意味不明である。

ランダウ減衰の話ではないが、本書で描かれる数学がどれほど意味不明かを体感出来る文章を引用してみよう。

【口頭試問から3年後、誠実なロラン・デヴィエットとの共同研究で、私は弾性理論におけるコルンの不等式とボルツマンエントロピーの生成の間のありそうなかった関係性を発見した。
そのまま勢いに乗った私は、準統御性の理論を発展させた。これは、縮退した散逸方偏微分方程式における正則化の問題と平衡状態へ向かう収束性に関する問題との間に新たに見つけた類似性に基づいている。
そして、ダリオ・コルデロ=エラウスキンとブルーノ・ナザレとともに私が明らかにしたのは最適輸送とソボレフ不等式の間に隠された関係である。それは、この不等式を熟知しているつもりでいた数多くの解析学者たちを唖然とさせた。
2004年、カリフォルニア大学バークレー校ミラー研究所の客員教授となった私は、当時、数理科学研究所の客員教授だったアメリカ人ジョン・ロットと出会い、共同研究を行った。私たちは共に、非ユークリッド的で滑らかでない幾何の問題であるいわゆる構成的リッチ曲率の問題に取り組むため、経済性の観点に基づく最適輸送の考え方をどう利用するかを示した。この研究から誕生し、ロット―シュトゥルム―ヴィラーニ理論とも呼ばれている理論は、解析学と幾何学の間にあったいくつかの壁を壊したのである。
2007年、接最小跡の幾何と、最適輸送の生息性に必要な曲率条件の間に何か調和的なつながりが潜んでいると私はにらみ、両者の間に強い関係性があると推測した。ふってわいてきたかのような関係性に見えるかもしれないが、これを私はグレゴワール・ルペールと一緒に証明した。】

僕は一応理系の人間で、大学は中退しているから大学で専門的な数学を学んだことはない。そんなわけで、数学に特別詳しいわけではないが、しかし、ここに書かれていることが「ちょっと数学に詳しい」レベルの人に理解できる話ではない、ということぐらいは理解できる。そもそも、「ランダウ減衰」も「ボルツマン方程式」も物理の領域であって、恐らく「弾性理論」や「最適輸送」も物理の話だろうと思う。フィールズ賞で、同じ方程式(今回の場合ボルツマン方程式)の研究でフィールズ賞が2度与えられたのはこれが初だそうだ。

まあそんなわけで、本書の数学に関する部分は、一般人はほぼ理解不能だろう。理解できる人がいるとすれば、数学科の大学教授ぐらいじゃないだろうか。しかし本書には、著者のこんな文章があったりもする。

【ヴォエヴォドスキーの数学ほど、私が研究している数学からかけ離れているものはない。彼の研究で使われる言葉はただの一語も私にはわからないし、おそらくその逆もしかりだろう】

同じ数学者と言えども、分野が違えば用語もやり方をまったく違う。だから、数学者だからと言って、本書の数学が理解できる、というのもまた違うかもしれない。だから、とにかく本書を読む一般人は、数学部分については理解できなくて当然だ、理解できたら天才だ、というぐらいの気持ちで読むのがいいと思う。

本書は、数学者自らが、暗中模索しながら数学理論の証明に少しずつたどり着く様を描き出す作品だが、本書の中に、数学者がどういう風に研究を進めていくのかを端的に表した箇所があるので引用してみようと思う。

【“数学者とは、真っ暗な部屋の中で何も見えないまま、黒い猫を、しかもそこにはいないかもしれない猫を探し続ける人のようなものだ”…これはダーウィンが言った言葉だが、その通りだと思う。完全な暗闇…洞窟でゴクリとなぞなぞの勝負をするビルボのようだ(訳注:トルーキンの『ホビットの冒険』より)
この暗闇の時期は、数学者が未知の領域に踏み出す最初の一歩を特徴的に表わしており、第1段階としては普通のことである。
その暗闇に、何かが整いつつあると思わせる、かすかな、かすかな光が差し込み始める…。そのかすかな光が差し込んだ後は、絡んだ糸がほぐれていくようにすべてうまくいけば、晴れて到達点にたどり着くのだ。自信と誇りをもって、至るところで発表する。この段階は一気にやってくることがあるが、それはまた別の話だ。私にも心当たりがある。
そしてこうした晴れやかな日と輝かしい光の後には、大きなことを達成した後につきものの気の停滞期がやってくる。自分自身の貢献などちっぽけなものに思えてしまうのだ】

「真っ暗闇の中で、いるかどうかも分からない黒い猫を探す」という表現は、なるほどなぁ、という感じだし、そのダーウィンの言葉を引きつつ、数学者の研究のスタンスを端的に表している著者の書きぶりも、なんかいいなと思いました。

さて、そんなわけで、数学の部分は超難しい(っていうか、難しいのかどうかも理解できないほど意味不明)ですが、エッセイ的な部分はなかなか面白く読ませる作品です。数学者の七転八倒を見ることはなかなかないので、貴重だと思います。

セドリック・ヴィラーニ「定理が生まれる 天才数学者の思索と生活」

「十二人の死にたい子どもたち」を観に行ってきました

面白い映画だった!

いつ死んでもいいや、と割といつも思っている。昔からだ。少なくとも今は、すぐに死にたい理由は特にない。とはいえ、生きていたい理由が何かあるわけでもない。

昔はあったなぁ、死のうと思ってたことが。僕の中では、真剣に考えていた。別に、客観的に見れば、それほど辛いことがあったわけではない。健康だし、いじめられてたわけでもないし、勉強は出来たし、友だちもいたし、別に人生に対して悲観するようなことは、少なくとも客観的に見た場合にはなかったと思う。でも、僕の主観的には、うまくやっていけるとは思えなかった。これからの人生、なんとか生きていけると思えるだけの気力が、僕にはなかったのだ。そして、その時の僕には、それは積極的に死ぬ理由だった。屋上の縁で片足立ちする、みたいなところまでやってみたんだけど、やっぱり自分では死にきれなかったなぁ。

だからこの映画の設定のように、「みんなで死のうとする」っていうのは、分かる気がする。一人で死ぬのは、なかなか難しい。なんというのか、自分の決断一つで止めれてしまうから。自分を強く強く押し出す何かがないと、自分ひとりでは死ねない。そういう意味では、みんなで死のうとするというのは、迷いがあるということなんだと思う。迷いがなければ、つまり、死ぬための理由が明確で強烈であれば、きっと一人で死ねる。けど、そうじゃないから、誰かと一緒に死のうとする。自分の決断では後戻り出来ない環境に自分を追い込みたいからだ。

迷いがあるなら、生きることを考えるべきじゃないのか、なんて意見もあるのかもしれないけど、僕にはそうは思えない。死のうとする者を引き止める言葉として、「死ぬのなんかいつでも出来る」というのがあるけど、あれは嘘だと思う。いつでもは出来ない。一人で死ぬためには、自分を押し出す強力な何かが必要だし、時にそれは瞬間的にしか結実しない。一方、誰かと死ぬためには、それこそ「いつでも」なんて無理だ。だから、死ぬ誘惑に取り憑かれた者が、その時死ぬしかない、と思いつめる気持ちは分かるし、それを止めるのに、「死ぬのなんかいつでも出来る」なんて言葉はなんの意味もなさない。

僕は、自分も死にたいと思っていた側だし、そういう人に結構会っても来た。もちろん、自分が、そして相手がどれだけの強さで死にたいと思っているかなんて、誰にも分からないし、比較出来ない。だから、その「死にたい」という感覚がどの程度のものなのかについてはなんとも言えないけど、程度はともかく、そういう人は結構いる。そしてそういう人は、結構、社会の中でごく当たり前のように生きている。友だちがたくさんいるように見えて、いつも笑っているように見えて、人生楽しそうに見える人だって、内側はしんどくて、毎日死にたいと思っている、なんて人だっていた。

だから僕はいつも思う。僕の隣で笑っている人や、レジでちょっと喋る人や、テレビの向こう側で楽しそうにしている人が、何を抱えているかなんてわからないし、そういう人たちがいつ死んでも、まあおかしくはないだろうな、と。

誰の言葉だったか、ちゃんと覚えていないけど、「死にたいと思ったことがない人とは友だちにはなれない」って、誰か有名人的な人が言っていたのを何かで見聞きした記憶がある。それを見て、分かるなぁ、と思った。僕も、たぶんそうだと思う。死にたいと思うというのは、死ぬことを軽視しているわけでも、想像力がないわけでもない。僕の感覚では、「生きていること」と「死ぬこと」はセットで、生きている以上死ぬことを考えるのは当然だ、ぐらいの感覚がある。だからこそ、生きているのに死ぬことについて考えたことがない人というのが、どこか欠陥のある人間に見えてしまうんじゃないかな。

「どうして死にたいのか」と考えることは、「どうして生きたくないのか」を考えることであり、つまりこれは逆説的に「どうして生きたいのか」を考えることに繋がっているのだ。「どうして死にたいのか」と「どうして生きたいのか」は両面だ。それはきっと、この映画のメッセージでもあるはずだ。

内容に入ろうと思います。
子どもたちが、とある廃病院に続々と集まってくる。そこでは今日、「集い」と呼ばれる集まりが開かれる。集まる子どもたちは皆、死にたいと思っている。そう、集団自殺だ。廃病院の地下に12時までに集まり、そこで全員一致で死ぬことを決定し、自殺することになっている。
「集い」の部屋に入った彼らは、ベッドの上で死んでいる少年を発見する。理由は分からないが、12人の内の誰かが先に死ぬことを決めてしまったみたいだ。まあ特に問題はない。残りの11人で決を取ればいい。そして、11人目が入ってきたところで、ドアを閉めるように言ったその時…。
主催者だというサトシと名乗る男が部屋に入ってきた。11時に鍵を開けてから正午まで、病院内を巡回していたという。彼は、自分も含めて12人が参加者であると語った。
では、1番のベッドで寝ているこの少年は、一体誰なのか?
便宜上「ゼロバン」と呼ばれることになった少年を巡って、議論が紛糾する。自殺するかどうかの決を取る際、一人が反対したのだ。こんな誰かも分からないような死体がある中で、みんな死ねるっていうのかよ、と。
その後、その少年の死が殺人である可能性が示唆されると、別の者も反対に回った。「ゼロバン」が殺人だと警察が見抜いたとしたら、この部屋で死んでいる全員が誰かに殺されたとみなされる可能性もある、という説を提示したことがきっかけで、自殺でなければ困るという者が反対に回ったのだ。
実行は、全会一致が原則。そこでとりあえずサトシは、状況を把握するために、廃病院の中の捜索を提案する…。
というような話です。

面白い映画だったなぁ。お見事でした。ミステリ的な観点からすれば、この映画で描かれていることの色んな部分に謎に関わる伏線が散りばめられているので、あんまり物語について触れられないですが、なるほどなぁ、よく出来てるなぁ、という感じでした。

まずとにかく、設定が超秀逸ですね。死にたいと思って集まった面々の前にあらわれた殺人死体、それ故に彼らは自殺出来ない状況に陥っている、なんていうのは相当イカれた状況だと思いますけど、この設定が、今の時代感覚(若い人が自分の命をそこまで大切にしていないような感じ)とか、「ちゃんと死ぬために謎解きをしている」という違和感なんかが絶妙に現れる感じで、メチャクチャ良かったと思います。

あと、これは受け売りですけど、「十二人の~」というのは会話劇の名作によくあるタイトルです。「十二人の怒れる男」とか「十二人の優しい日本人」とか。どちらも見てませんが、恐らくこの本(原作は小説です)は、それらを意識して「十二人の~」とタイトルを付けたんだろう、みたいなのを何かで目にしました。

この映画も、基本的には「病院内」で「会話ベース」で話が進んでいきます。過去の回想のシーンがあったりもしますけど、基本的には「場面固定の会話劇」というようなスタイルです。それで、これだけ二転三転する物語を展開できるのは見事だなと思いました。

あと、個人的に面白いなと思ったのは、橋本環奈です。橋本環奈は、この映画の中でもアイドルという役で登場するんですが、「私なんて、大勢の大人が時間とお金を掛けて作った商品よ!」みたいなことを言ったりします。たぶんこれは狙ってやってるんだろうけど、「橋本環奈」と「リョウコ(リコ)」の重ね合わせみたいなものが面白いと感じました。

面白い映画でした!

「十二人の死にたい子どもたち」を観に行ってきました

「マスカレード・ホテル」を観に行ってきました

やっぱり東野圭吾は面白い話考えるよなぁ!お見事!って感じのストーリーテリングでした。

舞台は、ホテルコルテシア東京。ここに、刑事が集められた。何故か。理由は、このホテルで殺人事件が起こることが判明したからだ。
実は少し前から、東京で連続殺人と思われる事件が発生していた。被害者同士の繋がりはまったくなかったが、現場に同じような暗号が残されていた。その暗号を解読すると、次の犯行現場はこのホテルコルテシア東京であることが分かったのだ。
刑事は、ホテルに潜入捜査をすることにした。刑事をホテルマンに扮して配置するのだ。刑事である新田は、フロントに配属されることになった。帰国子女であり、唯一、英語が出来るからだ。しかし新田はフロントマンにはまったく向かない男だった。ガサツだし、横柄だし、それに刑事であるが故に当然、疑り深い。新田の教育担当になった山岸は、「人を疑うのが刑事の仕事なら、ホテルマンのしごとはお客様を信じることです」と言い、ホテルマンらしからぬ行動を取る新田と始終ぶつかり合うこととなった。
ホテルには様々な客がやってくる。とんでもないクレームもあるし、謎めいたお客さんもいる。盲目を装って実は目が見えているとしか思えない老女、ストーカーの影におびえる女性、新田だけに無理難題をふっかける中年男性…。新田は、ホテルマンとして様々な問題に対処しながら、同時に、怪しい客をチェックしていく。殺人事件の捜査は遅々として進まないが、新田のかつての相棒だった所轄刑事の能勢の協力を得ながら、不可解な事件の驚くべき謎を解き明かしていく…。
というような話です。

いやー、よく出来てますね。原作は読んでませんけど、これは原作がちゃんと面白いんだろうなぁ、と感じさせる映画でした。

まず、ミステリの核となる謎の部分が面白い。この部分については詳しいことは書けないけど、色んな要素が絡まり合って、なるほどそう展開するのか、なるほどそれが伏線だったか、みたいなことが非常によく出来ていると思います。まあいくつか、それは警察が調べれば早い段階で分かるんじゃないかな???とか、それはさすがに警察が捜査しても難しいんじゃないかな???と感じる部分はあったけど、そんなに気になるような部分ではないと思います。

あと、ホテルを舞台にするという設定と、そのきっかけがうまいと思いました。普通、事件がここで起こるなんてことは先に分かることはないわけですけど、今回は、なかなかうまい設定を使って、それが実現しています(しかもそれは、決して、ホテルを舞台にするためだけの仕掛けではなくて、事件全体にもちゃんと意味を持つものなんだけど)。そして、「ホテルに刑事が潜入する」という設定が、物語全体を面白くしていると感じました。「人を疑う刑事」と「お客様を信じるホテルマン」という、まったく異質な存在が協力しなければならない、という状況の中で、お互いの存在がうまくプラスの相乗効果を生むような場面も結構描かれていて、ホテルを舞台にすることによって面白さが引き出されているなぁ、という感じがしました。

そして、刑事がホテルマンに扮するという、普通あり得ない設定が、ある種の成長物語にもなっている、という部分も面白いと思います。新田(木村拓哉)は、最初はホテルマンとしてまったくやる気を見いだせなかったけど、山岸(長澤まさみ)と一緒に働くことで、少しずつ考え方が変わっていきます。最初は、「客の言っていることに全部応えるのなんか間違ってる」と思っているのだけど、次第にその気持ちが融解していくことになります。お客様にも色んな事情があり、表面からだけでは分からない様々なものがあるのだと呑み込めるようになっていきます。あくまでも新田は、最後まで刑事なわけですけど、ホテルマンとしてどうあるべきか、という視点を自然と持てるようになるという物語の流れが、成長物語としてとても良くできていると感じました。

しかし映画を見ながら、僕にはホテルマンは無理だな、と思いました(笑)。たぶん働いている間、ずーっとイライラしていると思います。今も接客業ではあるんですけど、全然お客さんのために、という感覚を持てないでいるので、ホテルマンの人は凄いな、と思いました。

あと、エンドロールに「明石家さんま(友情出演)」って書いてあったんですけど、まったく分かりませんでした(笑)。ネットで調べると、気づく人は気づくかもしれないけど、みたいなレベルでどっかに映ってるみたいです。これから見る方は気にしてみるのも面白いかもしれません。

「マスカレード・ホテル」を観に行ってきました

ねずみに支配された島(ウィリアム・ソウルゼンバーグ)

全然知らない話ばっかりで驚かされた。

まずは、この文章を読んでみてほしい。

【米国だけでも、五万種もの外来生物が海を越えて、あるいは国境を越えて侵入している。その中には10億匹以上のネズミ、一億匹以上の飼い猫が含まれ、そのネコのせいで、合わせて10億匹もの小型哺乳類やトカゲや鳥が毎年姿を消している。また、米国の森は、400万頭の野生のブタの、庭や飼育場になっている。侵入者がもたらす経済的損失は年間1200億ドルに達する】

本書は、「ネズミやネコが、生態系を破壊し尽くし、生物多様性を失わせる恐るべき存在であり、それらと人間がいかに闘ってきたのかという歴史を描く本」である。

実は現在、地球の歴史上6度目の大量絶滅期にある、とされている。これは別の本で読んで知っていた。もちろんその原因のほとんどは、人間にある。本書は、ネズミやネコについて描く本だが、結局のところそれらネズミやネコを世界中のあらゆるところに持ち込んだのは人間なのだ。人間が自然を破壊し、人間が持ち込んだネズミやネコが自然を破壊する。そんな風にして、現在、地球は6度目となる絶滅期を迎えている。

地球上の陸地において、島が占める面積の割合はたったの5%だそうだが、しかし絶滅の大半は島で起こっている。鳥と爬虫類に限って言えば、絶滅した種の三分の二は、島で暮らしていたものだという。

本書は、そういう絶滅が進行している島で一体何が起こっているのかを、過去の歴史も合わせながら追う。

例えば、ハワイ島の話が出てくる。1971年に、ある女性博物学者がハワイ島を散歩している時に見つけた巨大な鳥の全身骨格がきっかけで、ハワイ島における鳥の痕跡探しが始まった。そしてそれによって、ハワイ島にいた鳥のほとんどが「飛べない鳥」であり、そして人間が世界中に散らばると同時に侵入したネズミによって絶滅したのだろう、と考えられるようになった。

本書にはもう一つ、誰もが知っているある島の話が登場する。モアイ像があるイースター島だ。

この島の文明が何故滅びたのかは長年謎だったが、科学のジャレド・ダイアモンドが「文明崩壊」の中で、人間が木を切り倒し、文明が成り立たなくなったのだ、と指摘し、人間が生態系を破壊しがちだという性向を物語る寓話として語られるようになった。

しかし2007年に別の説が提示される。曰く、イースター島の崩壊は、ネズミが主犯だったに違いない、というものだ。ネズミは、捕食者のいない島で大繁殖し、ひとつがいのネズミが、3年後には1700万匹になり得たという試算をした。

このようにしてネズミは、これまでも様々な島を破壊し尽くしてきたのだ。

近現代におけるネズミによる破壊の象徴として描かれるのが、「カカポ」というニュージーランド固有の鳥だ。オウムの仲間らしいが、飛べない鳥であり、簡単に捕まえられることから、かつては探検家たちが冒険途中の食料としてよく重宝していた。基本的に捕食者の存在しない島でずっと生き残っていた種で、だから警戒心もないし、身を守る術をまったく持っていない。

かなり奇妙な生態を持つカカポの保護に乗り出したのは、一人のホームレスだった。リチャード・ヘンリーという、今では伝説的とまで言われているナチュラリストは、1800年台後半から、カカポの観察と保護に力を入れ始めた。科学者は彼を無教養な田舎者と決めつけ、カカポが絶滅しかかっているという訴えも無視した。しかし、ニュージーランドでは、増えすぎたウサギを駆除するためにフェレットとイタチを放つという「愚策」を取っており、そのフェレットとイタチが、ウサギを捕らえるよりも遥かにカカポを捕らえる方が楽だと気付き、そのせいでカカポは絶滅の危機に瀕していたのだ。結局ヘンリーの訴えは届かず、忘れられていく。

それから半世紀が経った頃、ようやくカカポ保護の機運が高まってきた。その頃にはまだ、後々に登場する「魔法の薬」は存在せず、人間がネズミによる破壊に対抗するには、保護すべき動物をどこか安全な場所に避難させるしかなかった。しかし、あらゆる島がネズミに占拠され、安住の地はほとんどなかった。しかも絶望的なことに、そもそも保護すべきカカポがまったく見つからなくなってしまっていた。もしやもう絶滅してしまっているのか…。本書の中でもこのカカポの保護作戦は、折に触れて登場する話である。

さて、人類は、ネズミとの闘いを諦めるしかないかもしれない、という雰囲気が濃厚になっていった。なにせ、島をネズミの被害から救うためには、一匹残らず駆除する必要があるからだ。しかもネズミは知能が高く、毒の入った餌を食べた仲間が苦しむ様を見て警戒信号を発し、それ以降その餌を食べなくなるのだという。そういう困難さから、ネズミの根絶は不可能なのではないかという悲観的な空気が漂っていた。

しかし、画期的な毒が開発される。これは、ゆっくりと効くため、初めの内はネズミが毒だと警戒せずにガンガン食べる。なんなら仲間に、うまい食べ物があるぞ!と宣伝もする。それから、毒がジワジワと効いてきて全滅させるのだ。この毒は大きな成果を挙げたが、しかし別の問題も引き起こした。他の生物を守るために、害獣というレッテルを貼ってネズミを大量虐殺するのは許されるのか?という議論が巻き起こることになったのだ。

こんな風にして、地球上における生物の闘いの様子が、本書にまとめられている。こんな闘いが繰り広げられているということをまったく知らなかったので、非常に印象的だった。本書で描かれる、「他の動物を救うためにネズミを殺していいのか」という問題については、僕は殺していいだろう、と感じる。例えば本書のこんな描写を読めば、誰でもそう感じるのではないか。

【ネズミは巣にいるウミスズメを見つけると、その後頭部を噛んで穴をあけ、脳みそと眼球だけ食べて、死骸を巣穴に運びこむ。ウミスズメを見つける先からそれを繰り返し、地下の食料庫にその死骸を積みあげていく。腹がすいていなくても、習性ゆえにそうせずにはいられないのだ。一匹のネズミが150羽のウミスズメを集めることもあり、その大半は手つかずのまま腐っていく。大虐殺が進行中だというのに、ウミスズメのほうは戸惑い顔でじっと巣に座っているだけだ。なぜなら彼らは、そのような危険にまつわる記憶を、遠い過去に置き去りにしてきたからだ。ウミスズメがその進化の初期に危険な大陸を捨てて島々に移りすんだのは、主に、このネズミのような四本足の捕食動物から逃れるためだった】

【そこに設置したビデオカメラが捉えた顛末は、にわかには信じられないものだった。暗闇からハツカネズミの一団が現れ、自分たちの300倍も大きなその鳥(※トリスタンアホウドリ)に突進していった。ネズミたちは巣に座っている8キロもあるヒナの尻にかみついて穴をあけ、その穴に入り込んで中から外へと、鳥を生きたまま食いつくしたのだ】

確かに自然の摂理によって、生物は絶滅したりする。人間が介入するのではなく、自然に任せるべきだ、という意見も分からないでもない。しかし、こういう描写を読むと、ネズミの破壊力は圧倒的だ。それこそ、「進撃の巨人」における巨人と人間ぐらいの差があるのではないか。人間が介入せず、自然のままに任せておいたら、生物の多様性はどんどんと失われていくだろう。どの生物を生かすべきか、という選択は人間の恣意的なものであり、その判断が正しいかは分からない。例えば、ネズミの根絶作戦の折に、ハクトウワシがある程度死んだことが確認された。これはアメリカ国内の非難を巻き起こしたが、それは、ハクトウワシが聖なる生き物としてアメリカでは崇められる存在だからだ。現代でも、クジラを捕まえて食べる日本人に対して、欧米から非難が向けられている。動物に対する感じ方は、様々だ。とはいえ、一つだけ断言できることはある。それは、生物の多様性は失われてはいけない、ということだ。どの生き物を保護するかという判断が人間による恣意的な部分があったとしても、その活動によって地球全体の生物多様性が高く維持されるのであれば、それは良いことではないかと僕は思うし、そのためにネズミを駆除する必要があるのなら、それは仕方ないだろうな、と思う。

もちろん、一番悪いのは人間なのだ。そのことを忘れてはいけない。そもそも、人間が生まれなければ、これほど生物が絶滅の危機に瀕することはなかっただろう(人間が海を渡って、ネズミやネコを他の大陸に持ち込まなければ、もっと豊かな動物相が維持されただろう)。とはいえ、僕らは僕らのエゴにより、地球で生きていくしかない。そのために何をするべきなのか―本書は、なかなか難しい問いを投げかける一冊だ。

ウィリアム・ソウルゼンバーグ「ねずみに支配された島」

ぼくは数式で宇宙の美しさを伝えたい(クリスティン・バーネット)

いやー、久々にこんな酷いタイトルの本を読んだ。

いや、誤解しないでほしいのだけど、内容は素晴らしかった!!超絶素晴らしかった!久々にこんなとんでもない本を読んだな、という感じの内容だったのだけど、いかんせんタイトルが酷すぎる。

僕は本書を、物理の本だと思って買った。もちろん、中身をよく見もせずに買っている方が悪いと言われればそれまでだけど、誰だってこのタイトルを見れば、この本は「数学」か「物理」の本だと思うのではないか。しかし実際は本書は「子育て」の本だ。実際原題は、

「The Spark A Mother’s Story of Nurturing, Genius, and Autism」

である。知らない単語もあるが、要は「(才能の)きらめき ○○や天才や☓☓の母親の物語」という感じだろう。原題を見れば、「子育ての本」ということは伝わるだろうが、日本語のタイトルではその要素は一切皆無である。一体誰が誰に何を伝えたいと思ってこんなタイトルにしたのか、1ミクロンも理解できない。大体の人は、タイトルに「数式」や「宇宙」と入っているだけで手を伸ばさないだろう。本書を一番読むべき「母親」という存在に、まず届くことはない。いやホント、久々にこんな酷いタイトルに出会ったな、という感じだ。

本書を物理の本だと思っていた僕には、最初の100ページはかなり退屈だった。本書を子育ての本だと思って読めば、まあ読めるだろう(それでも正直、本書全体の面白さを考えれば、冒頭からもっと面白く出来るような気はするのだけど)。そして途中から、どんどん面白くなっていく。というのも本書は、ちょっとあり得ない、尋常ではない実話だからだ。

【そして息子の要望にしたがって、とある物理学者に連絡をとったのです。その学者はまだやりかけのジェイクの式を快く見てくれ、彼の理論は間違いなく彼独自のものであること、そしてもしこれが完成されれば、ノーベル賞候補にもなり得るだろう、と言ってくれました】

【ジェイクは大学の物理学の研究者として、十二歳で初めて夏休みのアルバイトを経験しました。アルバイトをはじめて三週間目、彼は格子説におけるある未解決問題を解いてしまったのです。この解答はのちに、一流の専門誌に掲載されることになりました】

著者の息子であるジェイクは、他にもとんでもないことがたくさん出来ます。一度聞いた音楽をその場でピアノで弾けたり(一度もピアノを教えたことはない)、地図を見ただけで全米の主要道路のほぼすべてを記憶し、実際に運転する際にナビゲートしてくれたりします。IQはなんと189で、しかも「天井効果」と呼ばれるものによって実際には測定不能だとのこと。彼は9歳にして大学に入学し、相対性理論や量子論を学び、自ら新しい理論を打ち立て、学生たちに数学を教える、というような日々を送っています。

しかし、彼がこうなることを予測出来た人はいませんでした。3歳の頃、ジェイクは専門家からこう診断されます。

【彼が十六歳になったときに自分で靴ひもを結べるようになっていたらラッキーだ】

彼は自閉症(IQが恐ろしく高かったのでアスペルガー症候群とされたようですが)と診断され、他人とコミュニケーションが取れず、集団行動が出来ず、ちょっとした刺激で突然かんしゃくを起こしてしまうような、そういう子供だったのです。ジェイクの自閉症はかなり重度のものだったようで、ジェイクが字を読めるようになると思っていた人もいませんでした。

そんな自閉症の子供が、何故大学に通い、ノーベル賞候補にもなり得る研究が出来ているのか。その秘密を解き明かすのが本書です。そしてその秘密の90%以上を、彼の母親、つまり本書の著者が担っているのです。

僕が退屈だと感じた最初の100ページには、「創意工夫の塊のような人だった祖父との関係」や「夫であるマイケルとの出会い」や「自閉症についてあまりまだ理解されていなかった時代に、いかにジェイクの振る舞いに振り回されたか」などですが、その中に、「専門家と呼ばれる人たちがジェイクをどう判断しているか」もあります。

アメリカには、自閉症患者に対するプログラムが用意されているようで、日々様々な訓練を行うことになっています。5歳までにどういう接し方をしたかで、自閉症児のその後の様子が大きく変わる、という研究結果があるようで、自閉症児の親たちは、専門家が良いと判断しているプログラムを毎日詰め込んで、少しでもたくさんの訓練を受けさせるべく奔走することになります。

その訓練というのが、著者の言い方を借りれば「出来ないことに焦点を当てたもの」ということになります。例えば、「じっと座っているのが出来ない」のであれば、それが出来るように訓練する、ということです。そのようにして、自閉症児たちが少しでも社会に適応できたり、他者とコミュニケーション出来たりするようになるのを目指すわけです。

しかし著者は、息子のジェイクが訓練させられている様子を見て疑問を抱きます。それは、発達障害の子供のためのプリスクールに通わせるようになってからも同じです。いわゆる専門家と呼ばれる人たちがやっていることが、少なくともジェイクのためにはなっていないのではないか、と感じていたのです。

しかし彼女は、なかなか決断出来ません。それはそうです。やはり経験のある専門家なわけだし、それに夫のマイケルも、知識のある専門家に任せるべきだ、という考え方だったからです。しかし、とあるきっかけ(ジェイクには字は覚えられないのだと専門家が決めつけていると判断出来た時)を境に、彼女は考えを変えます。全部自分でやろう、と。彼女は、渋る夫を説き伏せ、何の知識もないまま、重度の自閉症児を普通の小学校に通わせるための訓練を自宅で行うことにしました。

そしてここで彼女がとったアプローチが、「自閉症の天才児」に限らず、世の中のありとあらゆる子供との関わりに役立つのではないか、と感じさせるものなのです。実際著者もあとがきで、

【わたしがこの本を書いたのは、ジェイクのストーリーはすべての子どもに当てはまる話だと考えるからです】

と書いています。

彼女は、専門家らと真逆で、「出来ることに焦点を当てたプログラム」を組むことにしました。彼女はこの決断を、【崖から飛び降りるほどの勇気を必要とします】と表現しています。何故なら、先程も触れたように、自閉症児は5歳までにどれだけ訓練をしたかでその先が変わるので、どの親も苦手を克服する訓練に時間を費やそうとするからです。そんな中で、全然関係のない出来ること・得意なことばかりをやらせるというのは、相当勇気が要ることなわけです。

彼女が凄かったのは、それを他の自閉症児にも行ったことです。最初は、ジェイクの友達がほしいと思って、他の自閉症児をちょっとだけ集めるつもりでした。しかし、その案内を出すや、数百のメールが返ってきてしまいます。自閉症児を抱える親の苦悩や労力は十分理解している彼女は、誰も断らないと決め、それぞれの自閉症児に合ったオリジナルのプログラムを“無償”で行うことにしました(何故無償で提供したのかについては、彼女の生い立ちなどとも関係する話で、ここでは割愛します)。

彼女がどんな風に他の自閉症児と接していたのかは、こんな文章から理解できます。

【ここで何に時間を割いているか知ったら、誰もが驚くにちがいありません!「ある子とは、一緒に美術館に行って、一枚の絵の前で六時間いっしょにいました。ある子にはガレージセールで手に入れた製図台をあげました。ある子といっしょに何百枚ものクッキーを焼いて、アイシング(砂糖衣)でアルファベットを書いて、読み書きをおぼえました。あ、あとラマのことね…」】

ラマというのは、動物のラマで、動物好きな子どものために、農家からラマを借りて自宅のガレージで触れさせたのです。「リトル・ライト」と名付けたこのガレージでのプログラムは評判を呼びます。何故なら、ジェイクのみならず、重度の自閉症児たちが普通の小学校に通えるようになったのですから。著者はこう書いています。

【ジェイクは本格的な天文学を学ぶ機会を与えられている限りは、学校でもきちんとした社会的行動がとれるのだと。保育所の健常児たちや「リトル・ライト」の自閉症児たち、そしてジェイクを見ていてもわかるように、子どもというのは好きなことに打ち込む時間さえ与えられれば、それ以外のスキルも自然と向上していくものだと】

まさにこれこそが本書の主題です(「ぼくは数式で宇宙の美しさを伝えたい」なんてタイトルからでは1ミクロンも想像できない主題です。ホントに編集者は一体何を考えてこんなタイトルをつけたんだか)。これは、どんな子どもに対しても普遍的に当てはまるものではないかと、本書全体を読んで僕は強く感じました。

ジェイクがもし、「出来ないことに焦点を当てるプログラム」をずっと続けていれば、恐らく彼は16歳の時点で靴紐を結べなかったでしょう。しかし母親が、「出来ることに焦点を当てるプログラム」をやり続けたことで、ジェイクは飛躍的に変化します。「やりたいことを十分やらせてもらえれば、教わらなくたって苦手なことが出来るようになる」というのは、専門家からすれば衝撃的な事実でしょうし、また、いわゆる専門家ではたどり着けなかった結論でしょう。実際に子どもを育てるという過程の中で、注意深く観察し、可能性を信じ、尋常ではない努力をしたからこそ、たどり着けた結論です。その奮闘の記録だからこそ、本書は読む者の心を打つのだと思います。

本書は、ジェイク以外の部分でも波乱万丈です。例えば、著者が産んだ二番目の息子も、医者が人生で2例しか見たことがないという珍しい重篤な障害を抱えていました。また、あまりに忙しい生活を送っていた著者は、30歳にして脳卒中になってしまいます。自閉症児たちのためのセンターを作ろうとして、年金を解約し車を売り払いましたが、しかしその後予想もしなかったとんでもない事態に見舞われることになります。そんなこんなで、波乱万丈としか言いようがない壮絶な人生を送った女性の、多くの人に希望を抱かせる物語だと僕は感じました。タイトルに臆せず、是非読んでみてください!

クリスティン・バーネット「ぼくは数式で宇宙の美しさを伝えたい」

努力不要論 脳科学が解く!「がんばってるのに報われない」と思ったら読む本(中野信子)

以前林修が「林修の初耳学」の中で、高学歴ニートと呼ばれる人たちに講義をするというのがあった。その中で、「親以外の誰にも迷惑を掛けずに、働かないで生きていけるのなら、何の問題もない」と言っていた。僕もその意見には賛成だ。遺伝子にも人それぞれ差があるように、氏育ちにも差がある。それをめいっぱ活用して生きていけるなら、ある意味でそれは「才能」だし、努力せずに生きていけるのならそれでいい(他人に迷惑を掛けない限りにおいては)。

また、本書にも似たような話が出てくるが、明石家さんまが「努力という言葉を辞書から消せ」と言った話も記憶にある。これは、乃木坂46の齋藤飛鳥のインタビューをきっかけに知ったエピソードだった記憶がある。これはつまり、努力を努力だと思ってやっている内はダメ、という意味で、そういう意味で、努力なんかしてるようじゃダメだ、という発言だ。

ブロガーのちきりんの本には、「ちょっとやってみて、これは相当努力が必要だな、と思ったら、どれだけおだてられても止める」みたいなことが書いてあった。頑張り続けなければ出来ないことにいくら自分の時間を注いでもあまり効果はない。それよりは、そこまで頑張らずに出来ることで成果を上げられる何かを探した方がいい、という話だ。

本書で主張する「努力不要論」も、今挙げたような方向性と近い話だ。別に、何もしなくていいわけじゃない。でも、「努力」をするなら、それが意味を為すようなやり方をしなければいけないし、意味を為すようなやり方ではないのであれば、その「努力」は無意味でしかない、ということだ。

本書では、「努力は報われる」は半分は本当だ、と書いている。それは、負荷が掛からなければ筋肉が衰えるのと同じで、脳にもある程度の負荷が掛からないとパフォーマンスが下がる、という意味だ。だから、脳のパフォーマンスを下げないために何らかの努力が必要である、という意味で、「努力は報われる」は半分本当だ、と書く。

しかしその一方で、「努力」で乗り越えられないものもある。
例えば、身長が低い人がバスケットボール選手になることは可能だろうが、しかしダンクシュートが出来るようにはなかなかならないだろう。ここで大事なのは、仮に努力によって背の低い人がダンクシュート出来るようになったとして、果たしてそれが本当に正しい「努力」と言えるのか、ということだ。実際には、ダンクシュートをするのであれば背が高い人がやる方が効率がいいし、背が低い人は、背が低いということを活かしたドリブルやパスを習得した方が、チーム全体のプラスになるのではないか。

本書では、そういう問題提起をしているわけです。つまり、「ダンクシュートをするための練習」のような「努力」は不要であり(何故なら効率が悪いから)、そうではなくて、自分がもっと効率よく(なるべく努力せずに)高められる何かを伸ばしていく方がいいのではないか、ということなのだ。

本書にはこんな文章がある。

【その意味では、才能のない人というのはこの世には存在しません。ただ、自分に何ができるのかがわかっているかいないかの差だけがあるのです。】

これは僕も大人になってからそう感じられるようになりました。子供の頃はどうしても、自分に出来ないことばかりに目が向いてしまうでしょう。同年代でまとめられた学校という環境の中で、それぞれの個性が様々に発揮される状況では、自分に何が出来るのかということより、自分に何が出来ないのかという意識が強くなりがちでしょう。

でも徐々に、出来ないことに注力しても仕方ないなぁ、と思うようになりました。

例えば僕は、人の顔と名前をまったく覚えられません。基本的に映像的な記憶がまったくダメで、人の顔などは5秒もあれば忘れます。そんな僕が、多大な労力を掛けて、人の顔と名前を覚える努力をすることに、果たして意味があるのか。それよりは、そんなことはさっさと諦めて、もっと別の自分が得意とする方に時間を割く方がいいんじゃないか、と思えるようになりました。そんなこともあって、人の顔と名前は覚えないことにしました。

【努力というと普通の人は、苦労した分だけ成果が出る、と思い込まされているのではないでしょうか?しかし、「苦労すること=努力」ではないのです】

これは本当にその通りです。昔運動部では、今ではまったく意味がないと認められている「うさぎ跳び」なんかをやらされていたわけですけど、これなんかも、「とりあえず、身体を痛めつけることこそ大事」というムダな「努力」なわけです。青山学院大学の陸上部では、余計な筋肉は付けずにストレッチなどをすることで体作りをしていったという話を何かで見た気がしますけど、そういう風に「努力」というのは、目的があって、その目的のためにどういうアプローチを取るべきかという戦略と一緒でなければ意味がないのです。

本書には、「江戸時代は努力は美徳ではなく、その流れを作ったのは明治政府を生み出した薩長の武士だ」とか「人は努力したり良いことをしたと思うと、その分悪いことをしてもいいという気分になる」など興味深い話が色々載っているんですけど、一番面白いと思ったのが「セロトニントランスポーター」の話です。

「セロトニン」というのは、「幸せホルモン」とも呼ばれていて、これをたくさん使えると「幸せな気分」が持続するわけです。で、脳の中には「セロトニントランスポーター」という、一度放出した「セロトニン」を再度取り込みするポンプのようなものがあって、もちろんこの「セロトニントランスポーター」が多い方が「セロトニン」を再利用出来るわけだから、より「幸せな気分」が持続することになります。

で、なんと日本人は、この「セロトニントランスポーター」が少ない人が圧倒的に多いんだそうです。日本人の7割の人が、「セロトニントランスポーター」が少ないタイプだそうで、欧米だとその割合は2割以下とのこと。また、「セロトニントランスポーター」が多い人は、日本だと2%ぐらいだけど、欧米だと30%ぐらいいるそうです。

だからほとんどの日本人はそもそも脳の機能的に「幸せな気分」をあんまり感じられないわけです。そういう状態で「努力」しすぎてしまうと、「こんなに頑張ってるのに報われない…」という感覚に陥ってしまうそうです。なるほど、そもそも日本人は脳機能的に特殊なんだなぁ、ということに驚かされました。

僕自身は、本書を読まなくてもある程度本書の主張しているような生き方が出来ていると思うんだけど、まだ「努力教」に縛られている人には、その呪縛を解くための一冊になると思います。

中野信子「努力不要論 脳科学が解く!「がんばってるのに報われない」と思ったら読む本」

「へレディタリー/継承」を観に行ってきました

うーむ、なかなか意味不明な映画だったなぁ。
僕にはちょっと、うまく捉えられないなぁ、という感じでした。

難しかったのは、登場人物たちが感じている「恐怖」が何なのかがうまく理解できなかったこと。一番理解できたのは、大学教授である主人公の夫。彼はこの物語の中で恐らく一番真っ当な感じで、彼は純粋に、冷静に、一般的な感覚で「恐怖」を感じている。

ただ、他の人達、特に主人公であるアニーが感じている恐怖は、ちゃんと理解することは難しかった。もちろんその根底に、「遺伝」という要素があることは分かる。割と冒頭の方で出てくるから書いていいと思うけど、アニーの一家は、統合失調症だったり解離性同一性障害だったり夢遊病だったりと、精神的な疾患によって様々な不幸に見舞われてきた。その「遺伝するということ」が恐怖のベースになっているんだろう、という感覚は理解できたと思います。

ただ、それ以上のことがよくわからないし、映画を観ながら、「何か嫌なことが起こりそうだ」という感覚は分かっても、「どういうことが起こりそうか」という想像が基本的に出来なくて、だから驚きが半減しちゃうなぁ、という感じでした。

「へレディタリー/継承」を観に行ってきました

 | ホーム |  »

プロフィール

通りすがり

Author:通りすがり
災害エバノ(災害時に役立ちそうな情報をまとめたサイト)

サイト全体の索引
--------------------------
著者名で記事を分けています

あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や行~わ行

乃木坂46関係の記事をまとめました
(「Nogizaka Journal」様に記事を掲載させていただいています)

本の感想以外の文章の索引(映画の感想もここにあります)

この本は、こんな人に読んで欲しい!!part1
この本は、こんな人に読んで欲しい!!part2

BL作品の感想をまとめました

管理人自身が選ぶ良記事リスト

アクセス数ランキングトップ50

TOEICの勉強を一切せずに、7ヶ月で485点から710点に上げた勉強法

一年間の勉強で、宅建・簿記2級を含む8つの資格に合格する勉強法

国語の授業が嫌いで仕方なかった僕が考える、「本の読み方・本屋の使い方」

2014の短歌まとめ



------------------------

本をたくさん読みます。
映画もたまに見ます。
短歌をやってた時期もあります。
資格を取りまくったこともあります。
英語を勉強してます。













下のバナーをクリックしていただけると、ブログのランキングが上がるっぽいです。気が向いた方、ご協力お願いします。
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

アフィリエイトです

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
本・雑誌
20位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
和書
16位
アクセスランキングを見る>>

アフィリエイトです

最新記事

サイト内検索 作家名・作品名等を入れてみてくださいな

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ

Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

カウンター

2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)