黒夜行

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問いこそが答えだ! 正しく問う力が仕事と人生の視界を開く(ハル・グレガーセン)

まず、本書のエピローグに載っている、本書の中で最も好きなエピソードを紹介しよう。これは、「自分がそれまで指針にしてきた問いが間違っていたことに気づいた」という、チャールズ・シュワブのCEOであるウォルト・ベッティンガーのエピソードだ。

大学時代、経営学を専攻していた彼は、猛烈に勉強して常にトップクラスの成績を収め続け、三年生の時には卒業を早めるために取得単位を倍に増やしたがオールAを維持した。しかし最後の最後、オールAが崩れてしまったという。経営学部の別館で週2回、夜の6時から10時まで、10週に渡って行われる経営戦略のコースで、最後のテストで彼はAを逃した。

最後のテストで教授が配ったのは、真っ白な一枚の紙だった。そして、こう告げた。

【「もうみなさんは実際のビジネスの世界で仕事を始められるだけの知識を持っています。ですが、そこで成功するためにはもっと別のことも必要になります」。教授は学生たちに氏名を記入するよう指示してから、最後のテスト問題を発表した。それは次の一問のみだった。「この建物の清掃を担当しているのは誰か。彼女は何という名前か」】

この出来事をきっかけに彼は、その後の人生で最も役に立つことになる教訓を得たという。

【どうすれば優秀な戦略家として頭角を表せるかと問うのではなく、この会社の成功は誰の働きにかかっているか、それらの社員全員に卓越した働きをしてもらうには何が必要か、問うべきだと】

本で読んだだけの僕も、一生忘れないんじゃないかと思うくらい、インパクトのある話だった。


本書は、「問うこと」の大事さを説く本だ。マサチューセッツ工科大(MIT)のリーダーシップセンターの所長であり、これまで様々な企業のCEOなどに話を聞き、様々な企業で講演を重ねているという。その中で、多くの人が「問うこと」の重要性を語っていることに気づき、その事実をもっと広く伝えるために本書を著した。

【本書の核をなしているのは、よりよい問いが生まれるかどうかは―仕事でも私生活でも―環境に左右されるという主張だ】

確かに本書には、子ども時代の親からの教育などで、「問うこと」が習慣になっていたり、「問うこと」に馴染んだ思考法が身についたという人も出てくる。しかし、それ以上に、どういう環境の中に身を置くかによって、「問うこと」に対する人々の行動が変化する、ということを明らかにしていく。そして本書では、個人や組織が、どのように「問うことを活発化させる環境を作り出しているか」という点を、様々な観点から取り上げていく。

本書は、実例の宝庫と言っていい。本書の記述のほぼすべてが、著者自身が自ら話を聞きに行ったCEOたちの言葉や経験で占められている。普段であれば、本文から様々な話を引用して感想を書いていくのだけど、今回それをやってしまうとキリがなくなるので、最小限に抑えたいと思う。

本書を読んで僕は、自分はどうだろうか、と考えた。僕自身は、本書が主張する「問うことが何よりも大事だ」という感覚は、割と最初から持っていたと思う。「唯一の正しさ」を求めることはないし、「自分が間違っているかもしれない」と常に思っているし、「問いを生み出すために安定した場から出ていく」という意識もある。「問うこと」について、本書に登場する人たちほどの有能さを発揮することはまだ出来ていないし、本書にある「問いの資本」も僕にはない。この「問いの資本」というのは、「問う」だけではなく、その問いから生まれた解決策を実現させる力のようなものを指す。僕は、「問うこと」は得意かもしれないが、その先は不得意だ。そういう意味で、本書が示唆するレベルで「問うこと」が出来ているとは言えないが、前提についてはあっさり超えられているだろう、と思う。

一方、僕は、「問いを生む環境を作る」という方は、あくまで個人レベルの話だけど、得意だと思う。詳しくは後で触れるが、本書を読んで僕が思い出したエピソードがある。何の本で読んだのか記憶がないが、「手術ミスが報告される手術チームと、手術ミスが報告されない手術チームのどちらに手術をしてもらいたいか?」という問いから始まるものだった。詳細な情報がないので、これだけでは答えようがないだろうが、素直に考えれば、手術ミスの報告がないチームの方がいいと思うだろう。しかし実際には、手術ミスの報告がないチームの方が問題を抱えていることが多いという。それは、「手術ミスがあっても隠してしまう」からだ。手術ミスが報告されるチームは、ミスを申告することに対する心理的障壁が低いため、コミュニケーションもきちんと行われていて、チーム全体としてのまとまりは非常に良い。一方、手術ミスが報告されないチームでは、仮にミスがあってもそのことを申告できないような雰囲気があるため、ミスは隠蔽されてしまう。だからこそ、手術ミスが報告されるチームの方が、実際のところは安全である可能性が高い、というのだ。

【つい最近も、革新的な企業の労働者の研究が注目を集めた。グーグル社の数百の作業チームを対象に、数年を費やして実施された「アリストテレス計画」だ。この調査では、成績の優秀なチームとそうではないチームとでは何がちがうのかが具体的に探られた。ニューヨーク・タイムズ・マガジン誌の記事によると、その結果は研究者たちを驚かせるものだった。IQの高さも勤勉さも関係なかったからだ。チームの成功といちばん強い相関が見られたのは、先に紹介した心理的安全性だった】

まあそうだろうなぁ、と僕は思う。

何か思いついた時(それは、アイデアでも批判でもなんでもいい)、「これを言ったらバカにされるかな」「こんなことを言ったら無能だと思われるかな」という集団にいたら、それが口に出されることはない。しかし、そういうことを全然理解できないタイプの人というのは散見されるし、しかもそれは、組織の上の方にいる人間であることが多い。絶えず他人や状況をバカにしていたり、常に発言が否定から入るような人は、誰かの発言を制約している。しかし本人はそのことにまったく気付いていない。結果的に、素晴らしいアイデアの種も、改善すべき不備や不満も、表に現れないことになる。

そうでなくても、上の立場にいる人間には「生の情報」は入ってきにくい。

【わたしの研究で最も深刻な隔絶が見られるのは、大企業のCEOや幹部という地位においてだ。その理由は、部下に情報の収集と取捨選択を任せてしまうことにある。それらのリーダーたちがほかの一般の人に比べて、心地よさを求める傾向が強いわけではないはずだが、日々、極度の重圧にさらされる中で、自分は有能だという自信を揺るがされたくないという心理が働く。しかも周りには、上司を不快な情報から守ることを自分たちの仕事と心得ている部下がいる】

だからこそ、「未加工の情報」がどうしたら手に入るのか考えなければならないのだ。

ネット証券大手チャールズ・シュワブのCEOであるウォルト・ベッティンガーはこんな風に言っている。

【重役として成功を収められるかどうかは、意思決定の優劣で決まるのではありません。どんな重役も優れた判断を下せる率はだいたい同じで、60パーセントか、55パーセントぐらいです。ではどこがちがうかといえば、成功する重役は40パーセントないし45パーセントのまちがった判断にすばやく気づいて、それを修正できるのに対し、失敗する重役はしばしば事態をこじらせ、自分がまちがっていても、自分は正しいと部下を説き伏せようとします】

こんな風に、「正しく問うための環境」というのはあっさり崩れてしまう。より一般的には、次のような指摘が分かりやすいだろう。

【(政治家たちが問いを使うのは)相手に立場をわきまえさせるためか、相手の無知を暴いて、面目を失わせるためか、あるいは相手に今していることをやめて、こちらに応じるべきであることを思い出させるためだ。権力に飢えた者は、相手より優位に立つことを求め、真実を求めようとはしない。
このことからは、なぜふつうの人があまり問いを発しようとしないのかが見えてくる。問いが権力の追求者たちによってそのように使われているのを目にしているせいで、問うことが攻撃的な行為だという印象を植えつけられてしまっているからだ】

これも納得感のある話だろうと思う。だから本書では、創造的な企業のトップたちが、「問うことの心理的安全性をいかに生み出すか」という課題に常に取り組んでいることが、様々な実例から明らかにされていく。

例えばピクサーでは、制作中の映画の監督に対して容赦のない意見を浴びせる「ブレイン・トラスト」というミーティングがある。これは監督にとって相当過酷だそうで、「ブレイン・トラスト」が終わったら、その日は監督を家に帰すという。とても仕事にならないからだ。なぜそんなことをするのか?

【制作初期の映画は、みんなゴミだからです。もちろん、そんないい方は身も蓋もないわけですが、あえてそういういい方をするのは、オブラートに包んだいい方をしていては、最初のバージョンがどうよくないかが伝わらないからです。わたしは遠回りにいったり、控えめに行ったりはしません。ピクサーの映画は始めから傑作というわけではありません。それを磨いて傑作に仕上げることがわたしたちの仕事です。つまり”ゴミだったものをゴミではないものに”変えることです】

誰もが口を揃えてキツイという「ブレイン・トラスト」だが、しかしいい映画を作るためには欠かせないと皆がいう。そして、この場において、「作品への批判」が「作品をできるかぎりよいものにしたいという気持ちから発せられたものである」ということが参加者全員で諒解されるように工夫されている。

【わたしが提唱しているのは、自分の考えを覆される情報にもあえて耳を傾けられる場、その結果ひらめいた問い―ひねくれているとか、腹立たしいとか、的外れだとか思われそうな問いでも―を口にしたり、聞いたりできる場としてのセーフ・スペースだ】

僕は、個人レベルでは、こういう心理的安全性やセーフ・スペースを生み出すことが得意だと思う。だから色んな人から、普通他人には話さないだろう話を聞く機会もある。本書には「触媒としての問い」という表現が何度か出てくる。僕は問いそのものではなく、僕自身の存在を触媒にすることで、問いが生まれやすい雰囲気を作れている、と自分では思っている。

また、問う力を高めるために行うべきことも、元からやっていることが多い。知らない人ばかりの場に行くとか、やったことがないことに手を出してみるというような形で「不慣れな環境」に身を置くこともやっているし、「正直な意見を言ってくれる人」を求めていることが伝わるような振る舞いも出来ていると思う。また本書には、組織において「問うこと」が浸透しないのは、理想とする従業員像を「どんな問題が発生しても、手早く処理し、上司や同僚を煩わせない従業員」としていることに問題があると指摘し、その後こう文章が続く。

【しかしタッカーとエドモンドソン(※組織学習の研究者)にいわせると、それでもまだ足りない。同僚のミスをかばって、和を保つ者ではなく、めざとくミスを見つけてはいい立てる「うるさいトラブルメーカー」こそ、理想の従業員だという。この章の話に合わせるなら、それは「確信犯的エラーメーカー」といえる。完璧に業務が遂行されているというイメージを築こうとするより、公然とミスを認める従業員だ。そういう従業員は、ものごとをそっとしておくことのない「破壊的な質問者」でもある。「従来のやり方を受け入れたり、守ろうとしたりする前に、まずはそれでいいのかどうか、たえず問う」者たちだ】

程度はともかくとして、僕はこういう「確信犯的エラーメーカー」のような振る舞いをしている部分があると思う。僕は、頑張れば状況を整えられてしまうかもしれない場合であっても、そんな現場レベルの奮闘で急場の穴塞ぎなんかしてる場合なのか?とか考えて、「やりません!」とか反抗しちゃうタイプの人間で、だから、うまく使えば組織に役立てるはずなんだけど、なかなかそううまくはいかない。

さて、本書の内容に関して、ほぼほぼ何も伝えられていないと感じるほど、この感想では書けてないことの方が多いのだけど、最後にいくつか印象的だった話に触れて終わろうと思う。

【いちばん重要で、なおかつむずかしいのは、正しい答えを見つけることではない。正しい問いを見つけることだ。誤った問いへの正しい答えほど、むだなもの―危険ではないにしても―はない】(ピーター・ドラッカー)

【シーリグはアインシュタインのよく知られた逸話を紹介して、そのときにいわれた言葉を引用している。「もし問題を解決する時間が一時間あり、自分の人生がその問題の解決にかかっているなら、わたしは適切な問いを導き出すことに最初の五五分間を費やすでしょう。適切な問いがわかれば、問題は五分で解けるからです」】

問いの重要性についてはやはり昔から言われていた、という話。

また、『たった一つを変えるだけ―クラスも教師も自立する「質問づくり」』という本の中で、学校では質問づくりのスキルを身に着けさせるべきだという提案がされている、という紹介がある。この部分を読んで僕は、小説家の森博嗣を思い出した。森博嗣はかつて国立大学の助教授であり、その際受け持っていた講義で、試験をする代わりに生徒に質問を提出させていたという。その質問については、「臨機応答・変問自在」という本になって出版もされている。どういう質問をするかで相手を評価する、というのは非常に面白いと、同書を読んで当時感じたけど、やはりそれは学術的に考えても合理的なことだったのだなと改めて感じさせられた。

「正しく答えること」にばかり重点を置いている人は、「正しく問うこと」の大事さに気づけていないかもしれない。本書は、何よりも「問うこと」こそが大事であるという考え方をこれでもかと植えつけ、そのために何をすべきかという行動の指針や実例を大量に示してくれる作品だ。

ハル・グレガーセン「問いこそが答えだ! 正しく問う力が仕事と人生の視界を開く」

人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても(戸田真琴)

【今、5分かけて話したことは、一体何時間かけて考えたことなのか?ってのが話してておもしろい人とそうじゃない人の差だよね。5分考えたことを5分話す人と、100時間考えたことを5分話す人がいるんだもん。おもしろさが違ってあたりまえ。】(ちきりん「多眼思考」)

戸田真琴の文章は面白い。
何故なら彼女は、「100時間考えたことを5分話す側」の人だからだ。


【周りがこう言っているから自分もそうしよう、と多数派の示す流れに乗ってしまえるのならば、生きるということはもう少し楽だったのかもしれない。もちろん、マジョリティにはマジョリティとしての苦労もあると思うけれど、感覚を麻痺させてしまうことさえできれば、孤独感は忘れることができる】

僕が、ある時からずっと文章を書き続けているのは、自分がマジョリティにはなれないことに気がついてしまったからだ。気がついてしまった、というか、諦めた、というべきか。だから、文章を書くことにした。自分の考えていることの何が世間と違うのか。自分が正しいと思うことがどうして誰かとズレるのか。そして何より、「どうして自分は間違っている側だと思うのか」ということを考えたくて、たぶんずっと文章を書いているのだと思う。

【自分を出していくうちに、エッセイや文章の仕事が増えていった。でも「文章を書くのが好き」とはっきり言うには戸惑いがある。文章を書くことは、自分のなかの替えの利かない瞬間を残しておくためのただの手段に過ぎないのであって、それそのものが目的ではない】

「言葉にする」ということでしか見つけられない感情がある。頭の中でぐるぐるしているだけでは取り出せない感覚がある。そういう感覚が、僕を、そして彼女を、文章を書くことに向かわせる。

彼女は、言葉の強さを分かっている。

【言葉は、放たれたらもう言葉でしかない。
言葉は言葉そのもので、それ自体が持っている意味、それ自体が伝えたかったことだけでちゃんと伝わるべきだと私は思う】

その強さを、適切に捉えてほしいと願っている。

【私たちは、人に伝える・共有するというプロセスを重んじるあまり、「ただ感じる」ということの大切さを忘れてしまう。本当は、映画との出会いはいつもあなたと映画のふたりぼっちであるべきで、その中では、あなたが感じたことを言語化することができるかどうかなんて、たいして問題ではない。】

言葉を、祈りのようなものだと感じている。

【悲しみの中で書かれた言葉が、誰かの悲しみに触れる時、私の悲しみは、この世にあってよかったものだったんだと、そう思うことができた】

そして、その言葉で、誰かの支えになりたいと考えている。

【誰かひとりでも、同じ苦しみを背負っているけれど言語化できないせいで逃げ出すことができない状況にある人に、あなただけじゃないということ、そして逃げ出しても構わないのだと言うことをわかってもらえたらそれでよかった】

ここまで「言葉」を信頼している人の存在を知るのは、初めてではないかと思うくらいだ。

本書の文章は、どこを切り取っても印象的なのだけど、中でも印象的だった文章がある。

【世界で一番寂しい人は誰だろう、といつも探している。私は、まだ見ぬその人の味方をするために生まれてきた。なぜかずっと自分はそうするべきなのだと、わかっている】

この文章に「共感した」と書くのは、なんとなく恥ずかしいのだけど、僕にもほとんど同じような感覚があるな、と思う。自分と同じような感覚を持つこんな文章を、今まで目にした記憶がないから、なんだかビックリした。

友達や仲間がたくさんいるんだろうな、と感じる人には、どうにもあまり関心が持てない。たぶんそれは、「その人にとって、僕の存在は不要だ」と感じてしまうからだと思う。彼女と同じく僕も、【孤独であることに困ってもいない】から、自分の孤独を解消するために他人と関わる、という発想が、あんまりない。それよりは、僕が存在することで多少は何かが変わる、という人と関わる方がいいんじゃないか、と思ってしまう。そういう意味で、「寂しい人を探している」という感覚は、まさにその通りなのだ。

彼女は、徹底的に、「誰かのため」の言葉を紡いでいく。

【あなたが静かに、あなただけのために愛することができるものが、ひとつでも増えますように。誰かからの無自覚な意見で、あなた固有のまばゆさが、どうか奪われませんように。私は自分自身だけでなく、あなたの中の豊かさも、同じように肯定したいです】

【あなたが嫌いなあなたの部分を、誰かが親しく思うとき、誰かが愛してくれるとき、Dear,コンプレックス。きみが居てよかった。きみが纏わりついて歩きにくかった道の途中で、途方にくれる私でよかったね。と、思う。】

【フォロワーぜんぜんいなくても、友達ぜんぜんいなくても、町中でだれもあなたのことを知らなくても、「いいね」が一個もつかなくても、そんなことは、どうでもいい。あなた自身の価値は、あなた自身とあなたが大切にしている人たちの中で柔らかく、情けたっぷりに愛情加点たっぷりに下されるべきもので、それ以外は、べつにどうと思わなくてもいい。あなた自身の評価は、人生が終わった後にやっともらうくらいで丁度いい】

【誰かを好きになるということは、孤独を覚悟することだ。そうして、1000人のうちの1人だろうと、1万人のうちの1人だろうと、誰にでも同じファンサービスをしているんじゃないかと、同じ言葉をかけているんじゃないかと不安になろうと、相手と自分の間にだけ通じている交感があるのだと信じ切ることが、愛を達成することだ。
相手は謳ったり踊ったりという自分の仕事をまっとうして、何かを伝えようとしてくれているんだから、それを確かに受け取ることだけに集中することが、相手の望んでいることだと思うし、そこに世間も他人もない。むしろ、私のように超個人主義に生きて、世間も他人も忘れてしまえばいい。世間なんてものは、自分のなかにしかない】

読めばわかる。
彼女は、言葉で誰かを救うことが出来ると、100%の全力で信じている。
僕も、同じような信念を持ってはいる。
でもそれは、僕の100倍は強い。

【ただこの本に一行でもあなたと通じ合える要素が含まれていればと願うひとりの人間でしかありません】

【私は、どうしても私という存在よりも、私のつむいだ言葉のほうが大切なものに思えてならない。きっと言葉そのものだけで放つほうがずっと遠くに行けるから、欲を言えばいつか「AV女優・戸田真琴」の言葉だということを介さないで、誰かのもとへ飛んでいってほしい。今は私がAV女優であることさえも利用価値があるくらいまだまだ私は未熟だから、承知のうえで活動しているけれどいつか誰のものでもない言葉として、私の言葉が誰かのもとに届いたらいい】

かっこいいじゃねぇか。

彼女はもちろん、文章の無力さも知っている。【2時間かけて書いた6000字のブログよりも露出の激しい自撮り写真の方が何倍も「いいね」が付く世界】を生きているのだから当然だ。また、【「私が言っているせいで伝わらなくなってしまう言葉」が、この世にあることがとても悲しい】とも感じている。それは、彼女がAV女優である、ということだけではない。

【女性としてこの世界に生まれてしまうと、どうしても「性対象としての価値」という、他人から付けられる値札に翻弄されてしまう。それに合わせてしまう人も、合わせることができないことを不甲斐なく思う人も、抵抗し続けることに疲れてしまう人も、みんなそれぞれ、ぼろぼろになっている】

【若さはちょっと恥ずかしい魅力だから、私は歳を重ねることが好きだ】

それでも彼女は、闘い続けることを止められない。

【覚悟を決め、守るものもなくなって、人によっては当たり前のように見下されるけれど、それでもすり減らない何かが私を生かしている】

「それでもすり減らない何かが私を生かしている」って、凄く良い言葉だよなぁ。

本書は、戸田真琴の二作目のエッセイだ。デビュー作の「あなたの孤独は美しい」も読んだ。前作は非常に理性的な作品だと思った。彼女自身も、物事を理屈っぽく考えてしまうと書いているし、自分に起こったこと、考えてきたことなどを適切に並べて理屈を通していくような文章だったと思う。

一方本書は、非常に感性的な作品だ。理屈がないわけではない。ただ、理屈以上に、想いが先行する。「届いてほしい」という想いだ。前作ももちろん、誰かに届いてほしいという想いで書かれていたと思う。けど本作の方が、圧倒的にそれが強いと感じた。

彼女は、色んな願いを込めて文章を書く。その中でも、やはり根底に強くあるものは、「みんなと同じである必要はない」という想いだ。

【友達と映画を見た帰り道、相手の顔色を窺いながらこぼす感想も、SNSで検索をかけて「好評」と「不評」のバランスを見て、自分の感じ方が正常かどうかを測ることも、映画に対して失礼だ。大した言葉にならなくなって、それでもいい。無理に言葉にしないで、ずっと黙っていたっていい。みんなが感動した作品にひとつも感動しなくたって、みんながつまらないといっていた作品を大好きになったっていい】

【みんなが当たり前だと言うことがあったなら、一呼吸おいて、心の中で「本当にそうだろうか?」と問いかけてみる。それからもう一度探すのなら、きっとより自分にとって正しさに近い答えが見つかるような気がしたのだ】

彼女は、高校で生徒会に入るが、そこで「お前には自分」というものがない」と責められたのだという。どっちの意見にも良いところと悪いところがあるから決められない、と言い張っていたというが、その感覚の根底にある考え方について、こんな風に書いている。

【思えばいつも、シーソーの浮いている方にわざと乗ってみては、バランスを取ろうとするような人間だった】

僕もそうだなぁ、と思う。「一番寂しい人を探す」というのと近い話だが、いつだって僕は、そして彼女も、人が少ない方に進んでしまう。「バランスを取ろうとする」というのはまさにその通りで、僕が少数派の方に動いてしまうのは、全体のバランスが悪いように見えてしまうからだ。

もちろん、自分に確固たる意見がある時に、それを敢えて曲げるようなことはしない。ただ、自分の中で正しいかどうか判断しがたい複数の意見・価値観がある時には、一番推されていないところに進んでしまう。その方が、どうしても「正しい」ように感じられてしまうのだ。

彼女は、あらゆる言葉を尽くして、「みんなと違ったっていい、っていうかそれが当たり前だ」ということを訴え続ける。その切実さが、なんだか愛しい。

「消費されること」に関する彼女の考え方も、とても興味深い。この考えが最終的に、「AV女優になった理由」の一角を占める、という点も。

【人が、消費されていく。代わりがいくらでもいるとでも言わんばかりに、目まぐるしく「世間」の登場人物は変わっていって、居なくなった人のことを誰も思い出さなくなる。それは、この世界ではあたり前のことのようだった。私にはそれを受け入れることが出来なかった。だって、このやり方で世界が回っていくのなら、「自分が好きな自分でいる」ということが、できなくなる人がたくさんいる。私の本当の望みは、そんな世界を変えることなのかもしれない。なんだかずっと、それを感づいているような人生だった】

【何よりも私は、この「消費」という命題に対して、目をそらすことがどうしてもできないのだ。それは自分自身が一番知っている。この、「消費」のサイクルに、反抗し得る何かを生み出さなければ、私はきっと生きている理由がわからなきうなってしまうのだと思うから。

「いっそ、限界まで値踏みされてみよう。徹底的に”消費”されてみよう」
そう思った。】

【AV女優という仕事は、そういった、「よそからの価値観に翻弄されて自らをぼろぼろにしていく」サイクルをもっとも誰からも見える場所で、くりかえしていく破壊的な仕事でもある。だけれど、人前で裸にならなくたって、つねに誰かから価値を推し量られるようなこの暮らしに疲れ果てている人はいくらでもいるはずで、私はそんなあなたと、一緒に戦いたいし、慰めあいたい、耐え抜きたい、本当は誰にもばれない逃げ道を探したい】

彼女の闘い方は、ちょっと変わっている気もするけど、明確な信念を持って「消費」に立ち向かおうとしているし、その最前線に立とうとしてAV女優になった。もちろん彼女は、自分を良く見せすぎない。

【掃除と洗濯が苦手で、洗い立ての洗濯物を干している時なんか苦痛で顔が歪んでしまう。生活能力が著しく低い。いつまでも上手に大人になることができないから、AV女優という極端な仕事はどこか気が楽なのだった】

【シンプルに社会不適合者】と自らを評する彼女は、自分がなんとか踏ん張って立ち続けられる世界が闘える場所であるために、今日も奮闘する。

【こんなふうに思いや覚悟を伝える場所が、いつまでもあるとも限らない。それでも居場所がなくなる前に、「私」が使い尽くされる前に、一歩でも遠くへ行かなくちゃ、と思うから今も必死で探している】

【1分1秒と移り変わっていく、チョコボールのように後ろから次々と新しい女の子をデビューさせ、常に居場所を揺るがされる世界、性欲ベースの冷静ではない評価が明日の居場所を左右する世界で、痺れるように、「今私は何をするべきなのだろう」と、じぶんに問い続けることができる】

彼女の言葉は、「戸田真琴」という”装飾”を剥ぎ取っても自立するだけの強さがある。そこに、僕は惹かれる。

【私が知っている中で一番奥が深くセクシーなのは私の頭の中だった。それを好きになる人が、ひとりでもいるのなら、それが私の価値なのだ】

彼女の言葉が、誰かに正しく届いてほしいと願う。

戸田真琴「人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても」

シングルファーザーの年下彼氏の子ども2人と格闘しまくって考えた「家族とは何なのか問題」のこと(花田菜々子)

僕がこの本に共感するのは、まあ当然と言えば当然ではあるのだけど、やはり、「分かるなぁ」と思うことばかり書いてある。


昔から、何かある度に、自分の感覚の”ズレ”と直面させられてきた。

【大人になって、社会性を少しは身につけ、生きづらさは薄まった。自分と違う意見を持つ人との出会いはむしろ発見の連続で面白い。でも、自分にとって当たり前の感覚について話すたびに、驚かれたりして、何度も詳しく説明しなきゃならない挙句、でもどうして?どうしてそんなふうに思うの?と少し否定的なニュアンスで聞かれ続けることは時に疲れる。議論も少しなら楽しいけど、受け入れる気がない人に答えるのは疲弊する】

僕もよく、「どうして?」「どうしてそんなふうに思うの?」と聞く。しかしそれは、純粋にその理由に関心があるからだ。自分の頭では導けない結論や、そこに至る理屈を面白いと感じることは多々あるし、そういうことはいつだって知りたいと思う。たぶん、僕の「どうして?」には、否定的なニュアンスはないはずだ。

「どうして?」と否定的に、つまり、「どうして世間一般とは違うそんな考えを持っているの?」というニュアンスで聞く人は、もちろん僕の人生にもいたけど、そういう人に僕はずっと疑問を抱いていた。あなたの意見が多数派だと仮定したとして、多数派であることにどうして安心できるのですか?と。極端な例を出せば、戦争中は、「国のために死ぬ」という考えが多数派だったはずだ。だから、多数派だからと言って正しいわけじゃない。けど、誰もが、自分が多数派であることに安心したがるように思えてしまう。

昔の僕もそうだったから、その気持ちは分かる。自分が、周りの人と違う考えを持っていることに気づいた時、僕はそれを悟られてはいけないと思っていた。自分が少数派側であるとバレてはいけないと思っていた。多数派の方が正しいと思っていたのか、そこまでは覚えていない。でも、多数派ではない自分のことは、「まちがいさがしのまちがいの方」みたいに感じていたんじゃないかと思う。多数派ではない、というだけで、自分のことを認めてあげられないという感覚は、子どもの頃の僕を支配していた感覚だった。

【子どもの頃から、社会や世間から「~でなければならない」「~であるべき」と無意味な習慣や前時代的な考えを押し付けられることが苦手だった。その耐性が著しく低いせいで、普通に学校に行くこともかなりしんどかったし、普通の親が子どもに言うような命令や指示も受け入れることができなくて、ただそこにいるだけで大変だった】

そう、本当に、ただそこにいるだけで大変だった。恵まれた環境にいようが、仲間に囲まれていようが、打ち込める何かがあろうが、この「ただそこにいるだけで大変」という感覚から逃れることは本当に大変だし、時に逃避や死をも誘発する。こういう感覚は、伝わらない人には本当に伝わらないから、ただ怠けている、甘えているように捉えられてしまったりして、益々自分を肯定するのが難しくなっていく。

【若い頃そんなふうに、あなたは変じゃないよ、と助けてくれたのは、人の場合もあったけど本のことも多かった。ぐらぐらの自分を本に支えてもらった経験はあまりにも多すぎて数えきれない】

自分の価値観を、身近にいる人が理解してくれない場合、あるいは、分かり合えないと感じられてしまう場合、心の距離はどんどんと遠くなっていく。だから僕も、本が僕の背骨を作ってくれたみたいな感覚はある。大人になってから読んだ本の中に、「子どもの頃、この本に書いてあるようなことを大人が言ってくれてたら、あんなに悩まなくても良かったのに」と思えることは多々あった。まあ現代なら、ネットの世界で、自分と感覚の近い人を見つけられるかもしれないけども。

周囲と感覚が合わない、という経験を繰り返すことが多かったからだろう。誰かに価値観を押し付けるようなことも、不得手になっていく。

【差別主義者や性加害者になってほしくない。そう思うけど、それは私のいる社会での最重要事項であり、価値観の違う社会は無数にある。もしかしたらミナトはゴリゴリの差別主義者のネトウヨになりたい人生だとしたら、それを制限していい根拠はどこにあるのだ?と思う。教えることはミナトの幸せのためなのだ、と私は100%信じている。しかし、いい大学に入ることこそが幸せなのだ、と100%信じて私に押し付けていた両親と、どこが違うというのだろう。】

極端だ、と感じる人も当然いるだろう。僕も、脳みその1/3ぐらいではそう感じる。この考えは極端だし、たぶん、どこかが間違っている。けど、僕の脳みその2/3は、同感だと思っている。僕の脳みその2/3は、「もしかしたらミナトはゴリゴリの差別主義者のネトウヨになりたい人生だとしたら、それを制限していい根拠はどこにあるのだ?」と思っている。何か違うと思いながら、僕もこういう考えを手放せない。

【親という保護者の立場だとしたら、11歳を大人として扱いすぎなのだろうか。個を尊重するような私の考え方は子育てには向いてないのかもしれない】

誰かと価値観が対立する時、僕はその価値観から遠ざかりたいとは思う。しかし、その価値観の居場所を奪いたいとは思わない。法を犯したり、誰かを不可逆的に傷つけたりするのでなければ、どんな価値観も居場所があるべきだ、と思っている。僕の視界に入ってほしくないというだけで、その価値観が存在することは認めたい。

でも、そんなことを考えていたら、子育ては出来ないかもしれない。

【私は挨拶やお礼は言うことができたほうが「この子たちのために、いい」んじゃないかと考える。「取ってもらったら、その人にお礼を言わなきゃだめだよ」って言うのは簡単なんだけど、そんなの教育すべきかなあって悩んでしまう。言いたくないなら言わなくてもいいんじゃないかなあと思ってしまうのだ】

同感だ。確かに、社会の中で程よくスマートにお行儀よくやっていくために、挨拶やお礼は大事だ。しかし、「社会の中で程よくスマートにお行儀よくやっていく」ことがベストかと聞かれると、悩む。僕自身は、そうではない人生の方に強く憧れてしまう部分もあるし、誰もがお行儀の良い社会なんて気持ち悪い。だから、正確に伝えるなら、「お行儀よくやっていきたいなら挨拶やお礼はした方がいいよ。でも別にそういうわけでもないならしなくてもいいよ」ということになるだろうが、果たしてこれは教育として正しいだろうか?

みたいなことを、きっと、僕も考えてしまう。

【誰かを自分の思い通りにしようとすると支配欲で心が汚れて、神経が摩耗するからなるべくそう思いたくない。誰がどんなふうに生きてもかまわないよ、と思っていれば無責任で気が楽だ】

取り戻せない時間、というのは確かにある。例えば、競技人生がそう長くないスポーツであれば、オリンピックに出るなど高い目標に挑むためには、本人の意志とは無関係に小学校入学前ぐらいからスパルタの練習を重ねる必要があるだろう。ピアノや将棋なども、若い内に出会い、莫大な時間を注がなければ高みにはたどり着けない。そういう世界に飛び込んでいくのであれば、親がある程度以上の強制力を発揮する必要もあるだろう。しかし、挨拶やお礼、あるいは勉強、人付き合いなんかは、知識がなかったり経験が少なかったりすることで、自分や誰かを傷つけることはあるが、やり直せない程ではない。それらに対して、まるで正解が一つしかないかのような押し付けをすることが、果たして本当に「教育」と呼べるのだろうか。

【自分で自分に問いかける。おまえの目的はなんだ?子どもと、「仲良くなる」ことか?子どもに好かれている「素敵な私になる」ことか?子どもたちを自分の思いどおりに動かすことか?
ちがう。純粋に子どもたちにとっての幸せを追求したい。そうじゃなきゃいけない。だからその芯からブレて自己満足が優先されているときの自分は振り返ったときに気持ち悪い。けれど心をクリアにして、子どもの幸せを追求するためにベストな行動とは、と客観的に見つめ直すと、自分がいることなのか、いなくなることなのか、接し方を変えることなのかがわからない】

タイトルには、「家族とは何なのか問題」とあるが、僕は、本書はより狭義に、「子どもとは何なのか問題」が描かれているのだと思う。「家族」については正直、著者なりに答えは出ている。

【何かに執着したくない。執着したら醜くなるから。どこまでも自由でいたい。いつも予想外のことが起きてほしい。旅みたいなのがいい。そう思って生きるようになった】

【「約束」のある関係性にも興味がなかったし、将来の保証のために今を我慢すること、相手を思いやって、たった一人のパートナーとして死ぬまで一緒にいるために、関係を維持・。強化していく努力などを1ミリもしなかった】

【私はずっと昔から「血のつながり」というものにまったく興味がなかった】

著者は既に、「家族という外枠」は不要だ、と気づいている。だから問題は、「『家族という外枠』が存在しない状態における『子ども』との関係性」に絞られるのだ。その関係性が、外から「家族」に見えるのかどうか、そんなことに著者は拘泥していない。

【相変わらず自分の中では「母」になる覚悟もなければ、ならないという決断もない】

あくまでこれは、「家族という外枠」無くして「子ども」と関わることが出来るのか、という、壮大な”実験”なのだ。まったく、まさに「あえて危険なほう、怖いと思うほう」だということだろう。面白いことをしているものだ。

内容に入ろうと思います。
著者は、「職場の常連さん」として知り合った人と飲みに行く中で、彼がシングルファーザーであることを知る。本書の中で<トン>と呼ばれるその人は、<マル 8歳>と<ミナト 11歳>という二人の男の子と三人で暮らしている。話は弾み、ちょくちょく飲みに行くようになり、やがて<トン>から付き合おうと言われる著者だが、恋愛やセックスと一定の距離を置く生き方の方が楽なのではないかと思うようになっていたこともあって、どうしたものかと思った。しかし、「付き合う」というのが、それほど制約の大きなものとして認識されていないことを理解して、<トン>と付き合うことになる。
著者は、「パン屋の本屋」という小さな書店の店長をしていて、その温かで穏やかな空間への居心地の良さを感じていたが、ある日<トン>に強引に連れられて家に泊まった翌朝、二人の子どもと強制的に顔合わせさせられることになる。
ここから著者の”実験”が始まる。
【なんだかよくわからない状況の圧倒的な面白さ】にも突き動かされ、子どもたちと仲良くなりたいと考える著者だったが、子どもと関わる人生を想定していなかった著者には悩みの連続だった。子持ちのシングルファーザーとどう関わっていくべきかという本もあまり見つからず、手探りで一歩ずつ前に進んでいくしかなかった。
あくまでも「<トン>の彼女」という立ち位置であるという認識を手放さないまま、二人の子どもたちとの距離感を探っていく。「母」ではない、しかし「他人」という程でもないという「名前の付けがたい関係性」の中で、【とにかく彼らをおびやかしたくはない】という一点だけを手放さずにそろそろと進む著者の冒険譚。

本書で最も印象的だったのは、「さち子」という、<トン>一家の面々が普段あまり関わることのない「外部の人間」が加わった食事のシーンだ。著者の家で行われた焼き肉パーティーに、<マル>と<ミナト>は、普段<トン>や著者と一緒にいる時には見せない異様なハイテンションで登場し、そのテンションのまま喋り続けた。その光景に対して<トン>は、「なんかあいつら今日はやたらテンションが高いなあ」と首をかしげるのだ。

この光景を著者は、こんな文章で切り取る。

【私たちはまるで絵に描いたような「明るい家族」だった。それは普段の姿ではなかった。何かを少し水増ししていた。
その2人のありあまるパワフルさに唖然としながら目を丸くして、
「すごい仲良し家族って感じですねえ」
と、さち子が<私たちの>狙い通りの感想を述べる。まるで共犯関係の片棒を担いでいるような気分になって2人の横顔を盗み見ると、2人ともなんとなく得意そうにしている。なぜ2人はそう言ってほしかったのだろう?】

この後著者はさらに、著者なりの解釈を書いていくのだが、この場面は本書の、そして著者の著作の象徴的な部分だなぁ、と感じる。

それは、客観的で繊細で敏感である、ということだ。

恐らくこの状況を、<トン>は最後まで正しく理解しなかったのではないかと思う。著者が書いているような解釈に、少なくとも<トン>自身はたどり着けていないだろう。別の場面での描写だが、著者が<トン>についてこんな風に書く場面がある。

【私がいちいち自分の言動や子どもたちの反応を気にして「これでいいのだろうか」と思い悩んでいる現場も、トンには「なんだか仲良くなったようでよかった」レベルの解像度でしか見えていないのだ】

<トン>は恐らく、「なんか分からんけどこいつらいつもよりテンション高いな」というところで思考が止まってしまうのではないかと思う(それについて本書では触れられていないので分からないが)。しかし著者は、「外部の人間がいる場面で二人の子どものテンションが高い」という現象に対して、【記念日になった。ような気がした】と書いている。確かに、著者の推測が確かなら、それは「記念日」と呼んでいい状況だろう。しかし、この状況を「記念日」と呼べるためには、客観的な繊細な敏感な感覚が必要だと思う。

そしてそういう感覚が、全編で貫かれている。その姿勢は、子育てを経験している先輩女子から【もっと力抜いていいんだと思うよ】と言われてしまう程だが、考えすぎてしまうからこそ見えるもの、感じられるものがある。「母」ではないが「他人」でもないという形で子どもと関わる困難さにおいて大きく踏み外さないために、この感覚は強力な武器だと言えるだろう。

とはいえ著者は、実際的には、自身の認識不足や偏見を様々な場面で自覚させられる。子どもたちに何をどう教えるべきか、という部分への葛藤については既に触れたが、偏見についてはこんな場面があった。

【そんなことを気にしているのは私だけなのか。そうなのかもしれない。私にとっては「父+息子」という組み合わせこそが新鮮だけど、彼らはもう何年もこの設定を生きてきていて、CMで親の揃った家庭の図を見ることなんて、日常茶飯事なのかも。勝手に私が期待してしまっていたのだ。「自分たちには母親がいない」と気に病んでいる子どもたちの姿を。嫌になってしまう。こんなに自由でいたいと自分で言いながら、自分こそが偏見に囚われている】

最近見たテレビ番組で、乙武洋匡氏が、「私も障害者ですけど、同じ障害を持っている人でも考え方は違うし、障害が違えばそもそも分からないことだらけです」という発言をしていた。その通りだろう。自分で子どもを育てた経験も、ましてシングルファーザーと関わる経験もなかった中で、様々な思い違いに直面する度に、著者は自分の考えを改める。著者は、本当に大事な部分を手放さないままで、他人に感覚を合わせていくことが上手い。子どもたちと感覚をチューニングする日々の中で、ある種、著者自身も生まれ変わっていくような過程は、面白い。

一方、詳述はしないが、著者が受け入れられなかった意見も本書には登場する。「もう会わないほうがよさそうだ」とまで考えるに至るその相手の価値観は、僕にも受け入れがたく感じられる。どんな価値観も許容されるべきだ、と考えてはいるが、親の価値観の狭さが、子どもにはどうか影響が少なくあってほしい、と願ってしまう。

本書には、<トン>一家との話のみながらず、著者自身の環境の変化も綴られる。「パン屋の本屋」という居心地の良い空間から出て、「あえて危険なほう、怖いと思うほう」への進んでいく、著者の仕事における闘いもまた面白い。「家族」や「仕事」など、字義的には多様な価値観が含まれそうなのに、現実的には狭苦しい意味に落ち着いてしまっている言葉の解釈を押し広げるような奮闘は、生きることに窮屈さを感じるすべての人の心に、少しだけ余裕を作ってくれるのではないかと思う。

【実験しない人生より実験する人生のほうが面白いよ】

いや、ホントに、そうなのだよ。

花田菜々子「シングルファーザーの年下彼氏の子ども2人と格闘しまくって考えた「家族とは何なのか問題」のこと」

ニューヨーク・タイムズを守った男(デヴィッド・E・マクロ―)

最近、非常に印象的だった出来事がある。

店のバイトの子が、「人生で初めて週刊誌(週刊文春)を買った」というので理由を聞いたら、「今若い人の間で、これだけは読んどけっていう情報が回ってるんです」という返答だった。ある遺書が掲載された号だ。その流れで僕は、映画『新聞記者』の話をし、さらにその流れで、ある事件の話をした。レイプされたと訴えたものの、男性が逮捕されなかった、伊藤詩織さんの事件だ。

そのバイトの子は、伊藤詩織さんのことも、伊藤詩織さんの事件のことも知らなかった。個人的には、とても驚いた。

そもそも伊藤詩織さんの事件は、国内だけではなく世界的にも大きく報じられた。本書にも少し話が出てくる「#MeToo運動」の、日本におけるシンボル、と呼ばれている人だ。しかしそういう世間的なインパクトとは別に、若い女性であればどこかしらで耳に入るんじゃないかと思う部分もある。母親から注意されるとか、周りの友達の間で話が出るとか。しかしそういうこともなく、僕が口にするまで、伊藤詩織さんのことは知らなかったという。

これは別に、非難しているわけではない。僕自身も、知らないことはたくさんあるし、自分の情報収集能力が高いとは思わない。そのバイトの子と話していて実感したのは、そういう時代になったんだなぁ、ということだ。

そういう時代、というのは要するに、自分で情報を選ぶ時代、ということだ。

これは、もちろん良いことでもある。これまでは、一般人が知ることが出来る情報は限られていた。しかし現代では、あらゆる情報があり、比較出来る。自分で情報を選び取ることが出来る、というのは、時代の進歩だと言っていいだろう。

しかし同時に、それはマイナスをもたらしてもいる。そのマイナスを僕なりに表現するとこうなる。

「これまでは、正しい情報を欲していた。でも今は、欲しい情報を正しいと思う」

一昔前であれば、「情報」に対する最も求められていた要素は「正しさ」だったと思う。だからこそ、マスコミが権力の監視役であることを市民は求めていたし、市民から求められている実感を持てていたマスコミは実際に監視役であり続けることが出来た。もちろん、いつの時代だって、マスコミの不正やミスはあるだろう。そういう点をあげつらっても仕方ない。とりあえず全体として、マスコミというのは、「正しさの番人」みたいな存在であっただろうし、「正しさ」を求める市民にとっては必要不可欠な存在だったはずだ。

しかし、現代では違う。現代で「情報」に対して最も求めることは「欲しい」という感情である。自分が「欲しい」と思う「情報」に価値がある、と感じる時代になっている。

これはある程度仕方ない部分ではある。これこそまさに、自分で情報を選ぶ時代であることの弊害だと思うのだ。個別にはともかく、社会の構成員である市民全体はこれまで、自分で情報を選ぶという経験をそこまで頻繁にはしてこなかったはずなのだ。今のように、ネットで調べればなんでも分かる時代ではない。もちろん、周囲の人に話を聞くぐらいのことは誰でもやっていただろうけど、不正確な情報を目の前にして、えいやっと決断する、というような機会の方が多かったんじゃないかと思う。情報が少ないということは、選択肢も少ないということだ。だから、選択の余地は、そこまで多くはなかった。

しかし、情報が膨大過ぎるほどに世の中に存在する現代においては、あまりの情報の多さに、選ぶための基準が必要になる。しかし、選ぶ基準に「正しさ」を置くのは大変だ。あらゆる情報に対して、正しいかどうか調べ上げるなんてことをしていたら、なかなか日常生活が回っていかない。だから、人々は徐々に、「その情報を自分が欲しいと思うかどうか」で物事を判断するようになっていっているように思う。

何より、「正しい」情報を手に入れるのは難しいが、「欲しい」情報を手に入れるのは容易だ。良いなと感じる人がいれば、その人の発言や文章はどこかしらで手に入るだろう。ネットで検索したり、ハッシュタグを追ったりしていけば、「欲しい」情報にはたどり着いてしまう。「正しい」情報より、「欲しい」情報が強くなってしまうことは、必然的だと言っていい。

「正しさ」を重視する時代を長く生きてきたマスコミにとって、「欲しい」という感情を重視する社会への急激な変化についていくのは難しい。そして本書は、トランプ大統領の就任によって、アメリカという社会が、そうした急激な変化を顕在化させていく中にあって、マスコミはどうあるべきかを問い続け、動き続けた、<ニューヨーク・タイムズ>のニュース編集室の弁護士を15年に渡って続けた人物による本だ。

著者は、トランプ大統領の就任による変化を甘く見ていたと吐露している。トランプ大統領を脅威と見る人物に、自分はそうは思わない、と返答している。その数カ月後、著者は、【私はそのメールを読み返すたび、身がすくむことになる。人生で、過去にさかのぼっても消えない失敗ほど恥ずかしいものはない】と書いている。

著者はこの時点で、まだ「正しさ」についての闘いだと考えていた。それを著者は、【私がいわゆる「弁護士」の頭で考えていたということだ】と書いている。後で詳しく触れるが、アメリカには「憲法修正第一条」と呼ばれる、マスコミを名誉毀損の訴えから守る法律が存在する。その「憲法修正第一条」が保証する範囲内で行動していれば、相手が大統領だろうがなんだろうが、訴えを退けることが出来る。実際に過去数十年も、この「憲法修正第一条」は、あらゆる名誉毀損の訴えをはねのけてきたのだ。この「憲法修正第一条」については、それが裁定された裁判において、

【自由討論では、誤った発言は避けられない…表現の自由が存続するために活動の場が必要になるというのなら、誤った発言も保護されなければならない】

とはっきり宣言されており、この法体系は【アメリカ人の根本となる信念を反映している】と著者は書いている。【アメリカの法律は変えられる恐れがなかったから】、著者は楽観的に考えていた。

しかし、今では我々も重々承知しているように、トランプ大統領の出現は、法律をどうこうする、というようなレベルの話ではなかったのだ。

【真実が向かう先が、ついに私にも見えたのだ。1964年の出来事や、タイムズ社対サリヴァン事件のことは忘れていい。報道の自由を巡る争いは、アメリカの法律を変えるなどというレベルについての戦いではない。真実の本質そのもの、アメリカ国民の心をつかめる者、声が届いて信じてもらえる者になるかという戦いになるのだ。国としての私たちが、報道の自由は重要だと変わらず信じているのか、そして最後には必然的に、自分たちには報道の自由を守る意志がまだあるのかということについて、国民投票が毎日行われることになる】

これはつまり、相手が「欲しい」と思っている情報を伝えられる者になれるかどうかの戦い、ということだ。トランプ大統領が明確に示しているように、「欲しい」と思える情報なら、それが「嘘」でも構わないと(意識的にせよ無意識的にせよ)考えている人が多数いる、ということだ。

【共和党のトップにまで上りつめた彼の驚異の台頭は、事実が重要であるという考えに対する連日の攻撃が、基礎になっていた。真実を最も大切なものと考え、たったひとつの実話によって、嘘つき政治家の政治生命が絶たれる状況を何度といなく見てきた我々にとっては、信念が揺さぶられるくらい信じられない一年だった。】

こういう時代にあって、「正しさ」を唯一の武器として戦う新聞社は辛い立場にある。なぜなら、

【マスコミを信じられないのなら、マスコミが社会においてどれだけ自由を持っていようが、実際には関係ない。信用されていないマスコミと、自由を奪われたマスコミは、ほとんど同じなのだ】

ということだからだ。この記述は、ある世論調査を受けてのものだ。2017年の世論調査で、「報道機関はトランプ政権に関してフェイクニュースをでっち上げている」と信じていた人は、全回答者の46%にも上ったという。これはなかなか凄まじい数字だろう。国民の約半分が、報道機関が真実ではないことを報じている、と考えているのだ(とはいえ、この調査では「マスコミ」とすべてを一括にしているので、<ニューヨーク・タイムズ>など個別の信頼度がどうかは不明だ)

裁判の結果がすべてではないにせよ、タイムズ社は、<ニューヨーク・タイムズ>の記事を巡る名誉毀損の裁判で、ここ数十年負けていないという。訴えられそうな微妙な記事を載せていないだけかと思うかもしれないが、これも違う。著者が初めてタイムズ社にやってきた時、ビジネス部門の編集長はスタッフとの顔合わせの時に著者に、【ほかの新聞社なら、法務部は記事を骨抜きにするところだが、タイムズ社では状況が異なる】と言ったという。働き始めて、そのことを実感することになる。タイムズ社で彼は、こう感じていた。

【私たちは法務部として、物事を締め出すのではなく、紙面に載せる手伝いをするためにいるのだと、長らく思ってきたのだから。私たちは経営陣に恵まれている。彼らは私たちやジャーナリストを支持し、リスクとは優れたジャーナリズム活動を行う代償だと理解している。自社のジャーナリストが記事によってみずからの限界を押し広げていないのなら、自分たちは新聞社としてしごとをしていないことになるとわかっているからだ。】

だから<ニューヨーク・タイムズ>では、トランプ大統領が公にすると言ってずっと公表していなかった州税申告書を掲載し、CIAと情報開示を巡って争い、「#MeToo運動」のきっかけを作るスキャンダルを報じ、トランプ大統領のツイートを巡って訴訟を起こす。どれも、国や大富豪を敵に回し、何らかの訴訟のリスクを背負い込むかもしれない案件だったが、それでも<ニューヨーク・タイムズ>は、法律を精査し、法律の範囲内で可能なギリギリのライン際を攻めることで、名誉毀損の訴えを退けるということを長年続けてきた。

そして、その戦いの中核にあるのが、先程少し話に出した「憲法修正第一条」なのだ。著者は冒頭で、【私は本書を、アメリカ合衆国憲法修正第一条、つまり報道の自由に関する抽象的な専門書にしたいとは思わない】と書いている。そして、その思い通りの本になっている。中心にあるのは「憲法修正第一条」であるが、実際の事例をふんだんに盛り込みながら、どういうケースにおいて、どのように「憲法修正第一条」が扱われたのかが描かれるのだ。

「憲法修正第一条」については、1964年の「ニューヨーク・タイムズ対サリヴァン事件」の裁判において、アメリカ連邦裁判所がある判例を示したことが転換点となった。それまで、有力者や金権政治家が、マスコミや批評家を罰する目的で名誉毀損裁判を利用していた。名誉毀損裁判を、合法的なゆすり行為と考える者が多かったのだ。そんな状況にあって、L・B・サリヴァンという警察の本部長が原告となった裁判において、画期的な判断が下される。

【この裁判では、これ以降に公人が名誉毀損訴訟で勝利を望む場合、出版社が記事を発表する際に「現実の悪意」―真実という認識がある過失―をもって行動したことを示す必要があるとした。何かを間違っただけでは、報道機関を名誉毀損の厳しい評決にさらすのに十分ではない。サリヴァンのような原告は、相手のジャーナリストがその真実について大いに疑いを抱いていたにもかかわらず記事を発表した、ということを示す必要があるのだ】

この判断によって、

【サリヴァン事件以降、勝利を収めたのは、世の中にいるドナルド・トランプのような連中ではなく、マスコミだった。それも、繰り返し、決定的に、一貫して。マスコミの弁護士やその依頼人であるジャーナリストたちは、この30年間、金持ちや地位の高い連中から報道の自由を守るために引き延ばし作戦を行ったのではなく、勝利を固めてきたのだ】

この「憲法修正第一条」に関して、著者はあらゆる場面でその「強力さ」について書いているので、抜き出してみよう。

【情報が公共の利益であり、ジャーナリストがそれを得るためになんら不正を働いていない場合には、ジャーナリストは罰せられないのである。このことは、記者の情報源がその情報を得るために違法行為を働いたとしても、変わらない】

【侮蔑的な言動や意見、傷ついた感情に基づいて、名誉毀損訴訟を起こすことはできない。原告は、自分の評判を傷つけた事実誤認があることを証明しなければならないのである】

これらはマスコミを守る場合だが、しかし、この「憲法修正第一条」は、マスコミ以外も当然守る。

【誇張、悪口、節度がなく乱暴な言葉、まったくの憶測、侮辱―これらの発言は、心を苦しめ、感情的な苦痛をもたらし、地域社会におけるその人の地位を傷つけるかもしれないが、道理をわきまえた読者がそれらを事実に基づいた発言ととらえなければ、名誉毀損には当たらないのである。発言が名誉毀損となるには、事実に反していなければならないわけで、事実に反した「意見」というものは存在しないのだ】(これは、著者がトランプ大統領のツイートに対して訴訟を起こした際の、トランプの弁護士の言い分である)

【彼(※映画スターと結婚したことがあるとか、名誉勲章をもらったなどと嘘ばかりついていた人物で、起訴され有罪になった)は2012年に連邦裁判所に上訴して、アメリカ人として誰もが持っている不可侵の権利の中には、大きな嘘をつく権利があると信じている者たちの代表となった。連邦裁判所はこれを認めた。彼の嘘は憲法修正第一条で守られているとしたのである】

このように、「憲法修正第一条」というのは、あらゆる人間の表現の自由を守るものだ。

【タイムズ社対サリヴァン事件で、ウィリアム・ブレナン判事が述べたように「公の問題を論じることが、誰にも束縛されずに、活発で、広く開かれたものであるべきだという原理についての、国民の深遠な責任」の一部なのだ。話す側には、挑発的になったら、乱暴になったら、矛盾したり、間違ったりすることが認められているのである。これは素晴らしいことだ。ちょっとおかしいと思うときもあるが、それでも素晴らしい】

しかしここまで見てきたように、この「憲法修正第一条」というのは、結局のところ「正しさ」のためのものだ。「正しさ」を追い求め、正しさで戦っている場合、この「憲法修正第一条」は大いに武器となる。しかし、「正しさ」が重視されなくなると、この「憲法修正第一条」に守られるか否か、というのとはまったく違うレベルで戦いが展開されてしまう。本書は、そのことの困難さについても、様々な実例を挙げて記している。

しかし、やはり「憲法修正第一条」は、アメリカの報道の自由にとって何よりも重要であると考える著者は、最後にこう書く。

【憲法修正第一条は実際には死んでいないものの、アメリカ国民がそれを再び好きにならなければ、長くは生きられない。楽なロマンスでは決してないのだ。不断の努力が必要とされるのである】

しかし、本書についてはまだまだ書き足りない。著者は、紛争地帯で誘拐される記者の救出に未経験ながら関わることになったり、FOIA(情報公開法)という謎めいた厄介な仕組みと対決したりと、描かれていることはまだまだたくさんある。とりあえず最後に、著者がある件でバズった出来事について触れて終わろうと思う。

著者は、大統領選挙期間中に、トランプの弁護士から手紙を受け取った。<ニューヨーク・タイムズ>の、「トランプに不適切に触られた女性の証言」に関する記事への抗議だった。通常弁護士は、手紙に対して手紙を返す。弁護士通知書を書くというのは、弁護士の業務の基本的なものなのだ。しかしその手紙がネット上でバズった。受け取ったトランプ陣営がネットに公開したからだ。理不尽な行為を受け、長年口を封じられた女性側に寄り添ったその手紙に対しては、世界中から数え切れないほどの反応が返ってきたが、最初のメールにはこう書かれていたという。

【妹が言っていました。『弁護士が書いた文章を冷蔵庫に飾りたいと思ったことなんで、今までなかったわ』】

この手紙は大いに話題になったが、著者はこの手紙に関して<ニューヨーク・タイムズ>の記事でこんな当惑を表明した。

【この手紙をトランプ攻撃の一環として受け止めたという人たちに対する、自分自身の当惑を表明した。あの手紙は反トランプというわけではないのである。私の役目は、真実を封じ込めようとする者や、政府を秘密主義で覆い隠そうとする者と戦うことなのだ。人々が私たちを脅そうとしたり、国民に知る権利があることを役人が隠そうとしたりしたときは、それぞれの政治観は私にはどうでもいいのである。(中略)私の仕事は政権によってかわるわけではない。私の仕事は、自分たちの記者が真実を追い求める機会を得て、彼らにできる一番の形で伝えられるようにするため、自分にできることは何でもするということなのである】

本書を読んで改めて、僕は、「正しい情報を欲しいと思う」人間でありたいと強く感じた。

デヴィッド・E・マクロ―「ニューヨーク・タイムズを守った男」

暴虎の牙(柚月裕子)

正義のために悪になれる、というのは、賛否両論あるだろうが、カッコイイな、と思う。

僕は静岡出身だが、静岡には「清水の次郎長」と呼ばれる有名な犯罪者がいる。いつの時代の人なのかはっきりは知らないが、不正やあくどいやり方によって多くの金を持つようになった者だけを狙って金品の強奪を繰り返していたという。僕はなんとなく「清水の次郎長」を、市民にとっての「ヒーロー」のような捉え方をしている。

子供の頃、「正義」というのは、なかなかシンプルで分かりやすいものだった。戦隊モノでも、アニメでも、絶対的な悪と、絶対的な善がはっきりしていて、善が悪を打ち負かすことが「正義」だと思っていた。

しかし、大人になると、シンプルにそう捉えることが難しくなっていく。机上の空論のような「正義」を唱えたところで、なかなか社会に影響を与えることは難しい。あるいは、「正義」であると名乗って活動をしていても、裏で何をしているのか分からない。そういう、非常にファジーな状況に多々遭遇することになる。

そうなって初めて、「正義」というものについて考えるようになる。

今の僕にとっての「正義」の捉え方は、「最終的な被害を受ける側が最小限の被害で済む」というものだ。

例えば、「清水の次郎長」の例で説明しよう。「清水の次郎長」は、あくどいやり方で金儲けをしている人間ばかりを狙っている。この場合、「最終的な被害を受ける側」は誰かというと、あくどいやり方で金儲けをしている人間に搾取されている人、ではないかと思う。「清水の次郎長」から直接的に金を奪われる人間は、そもそも金をたくさん持っているわけだから、「最終的な被害者」とは思いたくない。それより、搾取されている人たちを「最終的な被害者」と捉えたい。そして、「清水の次郎長」は、そうした搾取されている人たちの鬱憤を晴らすために盗みを行っているのだから、搾取されている人間の気持ち的な被害は減じられる、ということになるだろう。

この場合、僕は、犯罪者である「清水の次郎長」を、「正義」と捉えたい。

「正義」というのは、犯罪の有無そのものではない、と思っている。それより、誰にどういう被害をもたらすかが重要だ。その過程でどれだけ犯罪行為があろうとも、守るべき人がきちんと守られているならば、それは「正義」と捉えていいのではないか、と僕は思う。

そういう意味で、大上章吾も、沖虎彦も、僕は嫌いになれない。というか、全体的には好きだ。

まったく立場の異なる二人だが、どちらも、「堅気への被害を最小限にする」という意志は共通している。悪同士で潰し合っている分には、なんの問題もない。もちろん、積極的に悪の道に踏み入れたわけではなく、そうせざるを得なかったという人も多数いるだろう。しかし、やはり、一歩でも悪の道に踏み入れてしまったら、以後、その人の発言を、仲間以外の人が信じる理由はなくなる。そういう意味でやはり、悪の道を進むには、理解できているかどうかに関わらず、覚悟が必要だ。

沖虎彦は、悪の道に進まざるを得なかった人だ。それはもう、切実に、避けようもなく。それは非情な運命であり、軽々しく言ってはいけないが、不幸な境遇だと思う。しかしそういう中で、彼は、ある意味で真っ当な価値観を身に着ける。誰だったら傷つけていいか、骨の髄まで理解しているのだ。

一方、大上章吾は、詳しくは覚えていないが、そういう生き方をするかどうか、選択できる立場にあったのではないか、という気がする。しかし、人生のいくつかの分岐点を経て、彼は、悪の世界に飛び込んでいく決意をする。そうすることで、「正義」が実現できると信じて。

暴力というのは、天災のようなものだ。いつどこでどんな風にもたらされるのか分からない。しかしそういう、普通にはコントロールできないはずのものを、支配下に置こうとした。

そういう意味で、大上章吾という男はやはり別格の凄さを感じさせるし、抑えきれない衝動を抱えつつも、堅気には可能な限り手を出さなかった沖虎彦もまた、筋が通った男だなぁ、と感じさせられた。

内容に入ろうと思います。
本書は、「孤狼の血」シリーズの完結作。大上章吾と日岡秀一が共に登場するという、豪華な内容になっている。
沖虎彦は、五十子会の組員でシャブ中だった男を父に持ち、壮絶な子供時代を過ごした。ギャンブルに金をつぎ込み、母や子に暴力を振るいまくる父親にうんざりした虎彦は、父親を殺し、幼馴染である三島考康と重田元と共に、山中に埋めた。
また彼は、彼を慕って集まってくる者たちを集めて、呉寅会という愚連隊を結成。ヤクザに憧れる者は徹底的に排除し、ヤクザのケツ持ち無しで、一本(独立独歩)で広島で暴れまわった。ヤクザをまったく恐れない連中として、ヤクザの間でも知られる存在となった彼らだったが、地元・呉原でなりふり構わず暴れたせいで身の危険を感じ、広島市まで出てきた。
そこで彼らは、大上章吾(ガミさん)と出会う。広島北署二課暴力団係、いわゆるマル暴である大上は、恐喝まがいの金の回収をしていたところに割り込んできて、勝手に場の仲裁をしやがったのだ。
大上は、五十子会にいた沖勝三を記憶していて、様々な情報から、虎彦が彼の息子だと理解する。広島ヤクザについてはあらゆる情報が入ってくる大上の元にも、沖たちの情報はほとんど入らない。ヤクザを恐れない愚連隊であること、五十子会の組員でありシャブ中だった父親を憎んでいる、という情報から、大上は、沖は使える、と判断した。
大上は、マル暴の刑事であるが、高校の同級生であるという関係で、瀧井組の瀧井銀次と昵懇の仲だった。この瀧井組は、五十子会と対立している。瀧井組は、筋の通ったヤクザであり、同級生のよしみもあって、大上は肩入れしていた。ということはつまり、大上は、警察の立場でありながら、五十子会を徹底的に潰すための動きを常にしていたのだ。
そのために、沖は使える。
そういう思惑から、大上は沖につきまとうようになっていくが…。
というような話です。

メチャクチャ面白かった!500ページ近くある、かなり長い物語だけど、一気読みだったなぁ。シリーズ二作目の『凶犬の眼』は、ヤクザの組織の関係性があまりにも複雑で、人間関係・設定などを理解するのに苦労しましたけど、本作はそんなことはありません。ヤクザ同士の抗争の話は出てくるけど、一作目の『孤狼の血』で描かれていたみたいな対立関係なので非常にシンプル。もちろん、本書に名前が出てくるすべてのヤクザの関係性をちゃんと把握しようと思ったらなかなか難しいかもだけど、ストーリーを追っていくために頭に入れておかないといけない部分はかなり少ないです。

本作では、大上章吾が出てくるんだけど、メインで描かれるのは沖虎彦という男。彼は、父親がシャブ中のヤクザだったこともあってヤクザを憎んでおり、ヤクザ連中から金やシャブを奪うという、無謀にもほどがあるやり方で生き延びようとしている。普通は、愚連隊でも暴走族でも、ケツ持ちとしてどこかヤクザがついている(という時代の話だ)。しかし沖は、幼馴染であり、沖と同じく血の気が多い二人とともに、ヤクザばかりを狙って、ヤクザでもやらないような無茶をし続ける。

【沖はヤクザなど怖くなかった。ヤクザは臆病者だ。自分が弱いから、さらに弱い者を痛めつける。バッジを外せば、ただの腰抜けだ。親父がヤクザだったから、よく知っている】

こういう沖を勝手に慕ってできたのが「呉寅会」であり、ヤクザからも恐れられる存在だ。

しかし、「呉寅会」はヤクザではないから、ヤクザについてだったらなんでも知っている大上章吾の耳にも、情報がほとんど入ってこない。また沖も、ヤクザではないから、広島のヤクザだったら誰でも知っている、マル暴のガミさんについて知らない。この設定が良い。沖も大上も、お互いに相手がどんな人物か分からないまま、相手をどう扱ってくれようかと考えながら近づいていく。その距離感の取り方や心理戦みたいなものは、臨場感溢れる感じで描かれている。

やっぱり、ガミさんが良い。特に、沖の視点から描かれるガミさんのとらえどころの無さは見事で、無駄話や明らかな嘘で相手を不快にする感じは、実際に対面したらイライラするだろうなぁ、と思った。ガミさんも、瀧井組に肩入れしているという意味ではまっとうな刑事ではないのだけど、ただそこにもちゃんと理由がある。職業倫理としては認められないと思うが、読者は、「大上が五十子会を潰そうとするのは仕方ないよなぁ」と感じてしまう部分もあるだろう。もちろん、ガミさんは「善」か「悪」かでは捉えられない存在だ。どうしても、受け入れがたい部分もあるだろう。しかし、そういうアンタッチャブルな存在だからこそ出来ることがある。実際に、ガミさんのやっていることは、悪事そのものだったり、悪事を見逃すことだったりと、刑事としてはアウトな行動だが、しかし、ヤクザが堅気に迷惑を掛けないための最善の方法を常に取ろうとしている。ヤクザがいなければ、あるいは、ヤクザが堅気の迷惑になってしまわなければ、ガミさんは「悪」側に寄る必要がない。そういうことが伝わってくるからこそ、憎めない存在だと感じる。

僕は読んだ本についてすぐ忘れてしまうけど、本書には「孤狼の血」に出てきた人たちがたくさん出てくるし、何より、色々あってここではほぼ触れなかったけど、日岡秀一も出てくる。オールスターという感じだ。暴対法が生まれた現在では、本書に描かれたようなヤクザはもう存在し得ない。別に、ヤクザに存在してほしいわけではないのだけど、自分が絶対に巻き込まれることがない物語の世界で、ヤクザや荒くれ者たちの血しぶきを感じられるというのは、凄く良い。確かに、残虐なシーンも多いし、そういう部分を苦手に感じる人もいるだろうけど、様々な「悪」が、その背景にある理由と共に、そうならざるを得なかったものとして描かれていくという意味で、ストーリー上の不快感というのはほとんどないと思う。

一般的な価値観からすれば「悪」でしかない世界・行為を描きつつ、それが、最も大事なものを守るためのギリギリのラインであり、その境界上で踏みとどまろうと努力する男たちを描き出す。とにかく、グイグイ読ませる力のある、メチャクチャ面白い物語です。

柚月裕子「暴虎の牙」

地磁気逆転と「チバニアン」 地球の磁場は、なぜ逆転するのか(菅沼悠介)

2020年1月17日、「チバニアン」という名前が大きく報道された(この文章を書いているのは2020年3月24日だけど、そんなに最近のことだったか、と感じた)。約77万年前から約13万年前までの期間を指す地質年代の正式な名称と決まったのだ。当然これは「千葉」に由来する名前であり、地質年代に日本由来の名前がつくのは初めてのことだ。というか、恐竜が絶滅して以降の6500万年間の地質年代の名称はすべて、地中海沿岸地域に由来する名前ばかりなのだ。そういう意味で、地中海沿岸地域以外からの初選出という意味でも快挙であった。

さて、この「チバニアン」というのは、ある年代の地層につけられた名称に過ぎない。しかし、その名称の決定の背景には、壮大なドラマがある。著者自身、この「チバニアン」の申請タスクチームに所属しており、重大な貢献をするのだけど、しかし元々は「古地磁気学」が専門の学者だった。

古地磁気学???

僕は理系の人間で、理系方面にかなり関心はあるが、それでも「古地磁気学」という名称は、もしかしたら本書で初めて聞いたかもしれない。さてそんな、決してメジャーとは言えない学問分野が、いかにして「チバニアン」と結びつくのか。

その背景を描き出すのが本書である。その核となるのが、タイトルにもある「地磁気逆転」である。「チバニアン」が、イタリアの候補地を退けて選ばれたのは、「一番最近起こった地磁気逆転の証拠が見つかった」という点が大きい。「地磁気逆転」なくして「チバニアン」はあり得なかったのだ。

「地磁気逆転」というのは、文字通り、地球の「地磁気」が180度「逆転」することだ。今我々は「磁石のN極が北を指す地球」に生きているが、それは「チバニアン後」のことであり、「チバニアン前」は(もしその時代に方位磁石があれば)「磁石のN極が南を指す地球」だったのだ。そしてこの逆転は、過去に何度も起きているということが分かっています。過去250万年間で11回以上起こっているのです。

【現代のスーパーコンピューターを使っても、地球ダイナモの完全な再現は成し遂げられていません。そのため、いまだに地磁気逆転のメカニズムの詳細は謎に包まれています】

とあるように、「地磁気逆転」という現象の存在は確定しましたが、何故、どのように起こるのか、ということはまだ分かっていません。なにせ我々は、未だに「地磁気逆転」という現象を実際に体験したことはないのです。地球上に残されたありとあらゆる痕跡から、「地磁気逆転」という現象が過去に繰り返し起こっているということを明らかにしていったわけです。

本書は、その過程を描き出す一冊だ。本書では、磁石の発見から話は始まるが、その辺りはすっ飛ばそう。「伊能忠敬は何故正確な地図が書けたのか」「日本でもオーロラが見えた」「東京で起こった地震がきっかけで、地球内部の研究が進んだ」「『P’』というタイトルの超有名な論文がある」など面白い話が多々あるのだが、それらは是非本書で読んでほしい。とにかく、先人の努力によって「ダイナモ理論」と呼ばれる、地球内部で起こっている出来事を記述する理論体系が生み出された、ということが重要だ。

しかし、ダイナモ理論だけでは「地磁気逆転」にたどり着けない。ここで「古地磁気」が登場する。「古地磁気」とは、地層や岩盤に刻まれる、過去の地磁気の記録のことだ。

ここで、日本人の松山基範が登場する。松山は、「磁極期(ある程度同じ地磁気極性を持つ期間のこと)」の名前に残っており、この分野の先駆者として知られている。そもそも、一番最近の地磁気逆転は「松山―ブルン境界」と呼ばれているのである。

松山は、様々な溶岩の残留磁化を測定した結果、「過去に何度も地磁気逆転が起こっている」と発表する。溶岩の年代と、残留磁化を並べることで、何度も地磁気の逆転が起こっていることが分かったのだ。しかし当時はあまりに斬新で、評判は良くなかった。しかし、寺田寅彦が興味を持ち、寺田の推薦を受け、松山は論文を投稿する。この論文は、「時代の変遷とともに地磁気の極性が変化したこと」を最初に報告した論文として、世界の科学史上の重要なマイルストーンとなった。しかし、松山の研究に注目が集まるには時間が掛かった。

さて、「松山―ブルン境界」の「ブルン」も人名であり、ブルンこそ「地磁気逆転」の発見者と言える。松山は「地磁気逆転が何度も起こっていた」ことを示したが、ブルンは「地磁気逆転が起こった」ことを松山よりも早く示唆していたのだ。

彼らの功績が認められなかった理由は、推測ではあるが存在する。一つは、「ある種の物質がなぜ残留磁化を持つのか」が分かっていなかったから。しかし、ネールという物理学者が、後にノーベル賞を受賞することになる「フェリ磁性」に関する研究により、この点は払拭される。

もう一つの理由が、「自己反転磁化」である。これも日本人が発見した現象で、「ある種の溶岩が、外部の磁場とは逆向きの熱残留磁気を獲得する現象」だ。松山もブルンも、「現在の地磁気とは反対の残留磁化」を測定したからこそ地磁気逆転を提唱したわけだが、「自己反転磁化」という現象が存在するなら、不思議でもなんでもない。しかしこの「自己反転磁化」は、特殊な成分を持つ溶岩でのみ起きる現象だと明らかになり、この点も問題ではなくなる。

しかしそれでも、「地磁気逆転」という現象は、広く受け入れられることはない、マイナーな仮説に留まっていた。

さてここで唐突だが、「大陸移動説」の話をしよう。ウェゲナーは「かつての大陸が分裂し、移動して現在の配置になった」という大胆な仮説を提唱したが、認められることなくこの世を去る。しかしこの「大陸移動説」が、「海洋底拡大説」として復活することとなる。そのきっかけが古地磁気だった。非常に高い精度の磁力計が開発されたことで、驚くべきことが分かったのだ。

ケンブリッジ大学の研究者が、約7億年前までさかのぼれるスコットランドの砂の地層の残留磁化の測定に挑んだ。すると、岩石の年代が新しい場合、残留磁化が示す「北」は現在の北極近くを指すが、年代が古くなるにつれて現在の北極から遠ざかる、ということが分かった。つまり、「地磁気の北極(地磁気極)」が移動しているようなデータだったのだ。彼らはこれを「極移動曲線」と名付け発表すると、科学の世界を超えて一般にも大反響を巻き起こした。地磁気極が移動してるなんて凄いじゃないか、と。しかし、科学者の捉え方は違った。「地心軸双極子仮説」というものがあり、これを踏まえた場合、移動しているのは地磁気極ではなく大陸の方だ、ということだ。つまり、地磁気を記録した後で、大陸が移動したことで、残留磁化が示す「北」が北極からズレているのだ、と。これにより、「大陸移動説」は復活、また「地磁気逆転」という現象の存在も存在が認められるようになったのだ(ちなみに、この研究に従事した大学院生のアービングは、この研究結果を持って博士号審査に臨んだが、あまりに先駆的すぎて誰も評価できず、彼は博士号を取得できなかった)。

一方、海底でもおかしなことが2つ起こっていた。1つは、平坦だと思われていた海底が、2000mを超える高まりがあることが分かってきた。野球ボールの縫い目のように、中央海嶺と呼ばれる大山脈があることが分かってきたのだ。この中央海嶺を見てみると、中央海嶺が両側に引っ張られることで引き裂かれているような溝がある。まるで海洋底が拡大して形成されているかのようで、その形成のメカニズムが奇妙に感じられた。

また一方で、海底の地磁気を測定すると、僅かなズレ(これを「地磁気異常」と呼ぶ)が規則的な縞模様で記録される、ということが分かった。規則正しく地磁気異常が記録される仕組みを、誰も想像出来なかったのだ。その説明をしたのが、マシューズとバインであり、彼らは「テープレコーダーモデル」と呼ばれるシンプルなアイデアで、「地磁気逆転」「熱残留磁化」「海洋底拡大」をすべて一気に説明してしまうものだった。これによって、ほぼ「地磁気逆転」は認められたという状況でした(ちなみに、モーリーという人物が2人よりも先に同様の論文を「ネイチャー」誌に投稿していたが、拒否されてしまう。今ではこの「テープレコーダーモデル」は、「バイン―マシューズ―モーリー仮説」と呼ばれている)

さてその後、「カリウム―アルゴン法」と呼ばれる、溶岩の年代をかなり正確に調べる手法が開発されたことで「地磁気逆転は存在するか?」という論争に終止符が打たれ、以降は、「過去のどの時期に地磁気逆転が起こったか?」という年代を測定する競争が始まった。

さてこうして「地磁気逆転」という現象が認められ、「古地磁気」の測定により、過去の地球に関する様々な情報が分かるようになった。しかし、古地磁気学には、重要な未解決問題が残されていた。それは、「海底堆積物において、地磁気情報が地層中のどの深さで記録されるか?」ということだ。海底堆積物の表面で記録されるのか、深さ15cmのところで記録されるのか、はたまた深さ1mのところで記録されるのか。海底堆積物の残留磁化を測定しても、この「どの深さで記録されるか?」が分からなければ、正確なことが分かりません。

この未解決問題に終止符を打ったのが本書の著者であり、そしてその研究が「チバニアン」に繋がっていくわけだが、そこに行く前に「宇宙線生成核種」の話をする。

「宇宙線生成核種」というのは、銀河宇宙線が地球の大気とぶつかることで生成される様々な粒子のことだ。「宇宙線生成核種」は、地球に到達する銀河宇宙線量によって変わる。つまりそれは、太陽磁場や地磁気によって変動する。つまり、「宇宙線生成核種」の生成量が分かれば、時代時代における太陽磁場や地磁気の様子が分かる、ということだ。

「宇宙線生成核種」の中でも、本書に関係するのはベリリウム10である。半減期が約140万年であるので、長い期間に関わる測定によく利用される。「宇宙線生成核種」は、南極やグリーンランドの「氷床」から採取し、測定する。

そして、このベリリウム10を使った年代測定が、未解決問題の進展に大いに役立ったのだ。

元々、ミランコビッチ理論と呼ばれるものから海底堆積物の年代測定をしていたが、精度に限界があった。一方著者は、海底堆積物の古地磁気とベリリウム10を測定することで、長い時間スケールにおける太陽活動の復元を研究していた。その分析の最中、「古地磁気記録が示す地磁気逆転時期」と「ベリリウム10が示す地磁気逆転時期」にズレがあることが分かった。つまりこのズレこそが、「堆積残留磁化の獲得深度」であり、詳しく測定することで、著者は獲得深度が15cmと理解したのだ。これでようやく、長年の未解決問題だった「獲得深度」に決着がついた。

さて、ここからようやく「チバニアン」に近づいてくる。この結果を利用して、著者は、「松山―ブルン境界」の正確な年代測定が可能だ、と分かった。それが「海底堆積物に含まれる火山灰の年代測定」を行うことだ。海底堆積物をミランコビッチ理論で測定し、また同じ海底堆積物(の火山灰)の放射年代測定を行い、両者の地質年代の目盛りを合わせることで「松山―ブルン境界」の正確な年代を求めよう、というのだ。「松山―ブルン境界」は、地質年代における重要な「目盛り」としてこれまでも使われてきたので、それを正確にすることは非常に重要なのだ。

さて、そんなわけで著者がやらなければならないことは、「火山灰が含まれる海底堆積物」を見つけることだ。しかし、これが非常に難しかった。通常、海底堆積物には火山灰は含まれないからだ。しかも、その地層は「松山―ブルン境界」が記録されていなければならないのだ。様々な研究者に話を聞く中で、著者は、そんな地層が房総にある、という情報を耳にする。

それが、後に「千葉セクション」と呼ばれるようになり、さらに「チバニアン」と正式に命名された地層だったのだ。ここから、「チバニアン」申請の物語が進んでいく。

著者は元々知らなかったが、GSSPと呼ばれる、地層年代の境界を規定するために世界で1箇所選ばれる場所の選定に「千葉セクション」を推すという動きは、1990年から始まっていた。国際第四紀学連合のリッチモンドが、GSSPの有力候補として千葉セクションを検討するとある大学教授に伝えたことが発端だった。

しかしその後、審査はストップ状態。その大きな理由の一つが、千葉セクションに関する論文が学術雑誌に発表されず、比較検討が出来ない、というものだった。

そこに飛び込んできたのが著者だった。著者は、そんな動きがあるとはつゆ知らず、千葉セクションの地層の分析によって、「松山―ブルン境界」の正確な年代に関する研究発表をしていたのだ。そこで、著者らをタスクチームに組み込み、事態は大きく進展していくことになる。

3つあった候補地の内、GSSPとしての条件を完全に備えていたのは千葉セクションであり、その点に問題はなかったが、しかし、審査の過程では様々なトラブルが発生する。その多くは、「ジオパーク認定推進を謳っていた団体」と表記される、当初は共にGSSP申請を目指していた「団体」とのトラブルだった。「団体」による妨害工作により、ある致命的な問題を抱えたこともあったが、千葉セクションを抱える市原市が、台風による甚大な被害を受けている中、半日のみ市議会を開催し、とある条例を可決する、というサポートにより回避できたという。

そうやって、地質年代として初めて日本に由来する「チバニアン」が誕生したのだ。

地磁気なんか生活に関係ない、と思ってはいけない。地磁気は、地球を守るバリアのようなものだ。宇宙からは、太陽風や銀河宇宙線など様々なものが飛んでくるが、それを地磁気がバリアしてくれる。事実、地球上空を飛ぶ人工衛星は、地磁気が薄いところで頻繁に故障する。また、気候変動とも関係があると考えられている。

実は、過去200年ほどの間に、地磁気の強さは低下し続けている。このままのペースで地磁気が低下し続ければ、1000年~2000年後には地球の地磁気強度はゼロになると考えられている。そうなった時、何が起こるのかはっきりとは分からない。しかし、地球環境に甚大な影響を及ぼすことは間違いなさそうだ。

そういう意味でも、「チバニアン」をきっかけに、地磁気や地磁気逆転に興味を持ってみるのもいいだろう。

菅沼悠介「地磁気逆転と「チバニアン」 地球の磁場は、なぜ逆転するのか」

パルプ・ノンフィクション 出版社つぶれるかもしれない日記(三島邦弘)

読み始めてしばらくの間、「なんだ?この本」とずっと思いながら読んでいた。
なんちゅーまとまりのない本だろうか、と思った。
何が書いてあるかはもちろん分かるけど、それがどうした、という感じだった。
「タイトルだけ頭に降ってきたから、とりあえずまえがきを3つ書いてみた」とか、「忍者が菌を使って忍びの世を生き抜いていた」とか、なんだそれ、という感じだ。
正直、半分ぐらいまでは、これはちょっと無理ある本だろ、と思いながら読んでいた。

しかし、中盤ぐらいから少しずつ、なるほどな、と思い始めてきた。
それは、書かれている内容にまとまりが出てきた、ということではない。
内容は、相変わらず混沌としている。なんのこっちゃ分からない、ということに変わりはない。

ただ、混沌として、なんのこっちゃ分からないのは、当然なのか、と感じたのだ。

僕は理系の人間だったので、歴史には不真面目な生徒だったが、しかし、教科書に「歴史的事実」が書かれている、ということは知っている。そこには、「◯◯のせいで△△が起こり、それを✕✕で抑え込んだが、その時の禍根がその後の▲▲に繋がった」みたいなことがもっともらしく書いてある。

しかしそれは、その歴史的事実よりも大分時間が経って、振り返ってみたからこそそう記述出来るのだ。

例えば、まさに現在信仰の出来事を記述するとしたら、どうなるだろう?韓国でデモがあったり、北朝鮮が飛翔体を飛ばしたり、サウジアラビアのジャーナリストが総領事館で殺害されたりと、後に歴史の教科書に載るかもしれない出来事は様々に起きている。しかし、今それらを、歴史の教科書に載せられるように正しく順序よく記述出来るだろうか?

無理だろう。

本書は、それと同じことをやろうとしているのだ、ということに途中で気がついた。だから、混沌は当然なのだ。著者は、出版業界において、誰も踏み入れたことのない荒野へと突き進もうとしている。まさに、その挑戦の最中なのだ。だから、彼に出来ることは、彼がその時々で感知したものを記録していくことだけだ。それらを、意味のある形に繋げて解釈を施すのは、後にその道を通る誰かの仕事なのだ。

と思いながら読んでいると、巻末に著者自身が同じようなことを書いていた。

【定義とか、したくないんです。
ある言葉を定義する。それを土台に話をすすめる。
これが、正しい論の進め方とされているのは承知だ。だが、これはアスファルトの道だけがただしい、と言っている感じがしてならない】

【そして忘れてはならないのは、走りながらしか考えられないのだ。答えがない時代に生きているのだから。そんな時代に生きて、手探りで、先が見えないまま走り、それでも何かをつかもうとして、つかみ、つかんだと思ったら手からこぼれおち、そうしたことをくりかえしながら言葉ができる。できたと思ったら、また思わぬ方向へ動き出す。
生きた言葉であろうとすれば、定義なんぞできるわけがない】

(まあとはいえ、忍者の話は要らなかったと思うけど…)

本書は、著者の迷走の軌跡である。そして、「迷走したという記録を明確に残しておくため」に本書は出版されているのだろう、と感じる。言わば、行き止まりの場所も著した洞窟の地図のようなものだ。そっちに進むとどう行き止まりなのか、あっちに進むとどう立ち往生するのか、書いてくれている地図だ。

残念ながら、宝の地図ではない。しかし、著者が親交を持つ装丁家の寄藤文平氏の、こんな言葉印象的だ。

【ミシマさんが大きくふりきって走ったとき、大きくは、そっちに何かある。それは間違いないと思います】

著者は、ミシマ社という中小出版社の社長だ。彼には経営に関する確固たる仮説があった。それは、

【おもしろい本を出す。それを届ける。さすれば会社は必然まわっていく。太陽が昇り、太陽が沈む。雨が降り、川が流れる。やがてその流れは海へ。自然の運行と同じこと】

事業計画の立て方も決算書の読み方も分からない「編集バカ」が、それでもこのムチャクチャな仮説だけを手に、長らく「不況」と言われ続ける業界において、10年以上も会社を存続させてきたのだから、そういう意味で、彼の直感力には「何かある」と考えてもいいのかもしれない、と思わされはする。

著者には、狭義のビジョンと、広義のビジョンがある。
狭義のビジョンは分かりやすい。それは、「ミシマ社という出版社を、楽しく面白いことができる環境のまま存続させる」ということだ。
そして広義のビジョンは、「出版を、本を、未来に残すこと」だ。

著者は冒頭から、意味不明な言動を連発するが、しかしその根底には、この2つのビジョンが常に横たわっている。この2つの実現のために何が出来るかを四六時中考え、そのために、酒蔵にも、神社にも、周防大島にも行く。一般的に「出版」と関係するだろう場所以外にも、どんどんと首を突っ込んでいく。そういう過程で、見えてくるものがある。

著者は、様々な右往左往をする中で、2つ重要な見地にたどり着く。1つは、「困難は、歴史をたどり直すことで乗り越えられる可能性がある」ということ。そしてもう1つは、「日本の出版業界には、たどり直せるような歴史が存在しない」ということだ。ある酒蔵で、「ごせんぞ」という言葉をたくさん聞いた著者の、こんな文章は、非常に印象的だ。

【なにか見えない大きな存在に守られている。その感覚がないと、仕事で結果が出たら、すべて俺の手柄。俺の実力になってしまう。
成果主義が蔓延したとき、そっちに思いっきり流されたのは、あるべきものがなかったから。恐れ慄くもの。そうしたものがあるだけで、たやすく「自分さえよければいい」とはならずにすむのではないか。「そっち」へ流される歯止めとなるまいか。
先祖とのつながり、先達からの継承。その流れに今、自分がいる。いま、自分もその流れの一部になろうとしている。
このような感覚が、エゴの暴走を抑制する。
すくなくとも、自分の仕事が神事のひとつである。そう感じることができれば、悪事を働こうという意識が薄れるではないか。日々を謙虚に働こう。自然とそう思えるだろう】

出版となんの関係があるんだ?と思われるだろうが、そもそも本書は、出版とは関係なさそうな記述ばっかりなんだから問題ない。こういう感覚を得た上で著者は、自社の組織変革について、紆余曲折を経た上であるやり方にたどり着く。

ちょっとした贈与経済の循環の仕組みを、会社に持ち込んだのだ。

その仕組みそのものは、説明がちょっと煩雑なのでここでは省略するが、「自分の働きによって誰かの給料が生まれ、誰かの働きによって自分の給料が生まれる」ということを「見える化」した、と表現するのが早いだろうか。

僕は、本書の中で一番面白いと感じたのが、この組織変革の話だ。

本書にはそうは書かれていないが、僕は、この贈与経済を組み込んだ組織変革は、当初から「洋紙」を使っていたために「先祖」を持ち得ない出版業界や、自身が創業者であるために「先達」を持ち得ないミシマ社が、「なにか見えない大きな存在に守られている」という実感を擬似でもいいから持ち、「エゴの暴走を抑制する」ための面白い方向性なのではないかと思う。もちろんこれは、小舟(小規模な会社)だから可能なやり方だろうが、出版業界はそもそも小規模な会社が多い。単なる猿真似では失敗するだろうが、採り入れてみたらうまくいく可能性はあるのではないかと思う。

【組織になったとたん、個人の意見がまるでなかったかのようになり、機能停止に陥ってしまう。
個人の問題意識が、個人に閉じられたまま、現場に反映されない。組織としての動きにまで高まっていかない。そうして、現場が居着き、トップの判断を待つだけの組織に成り果てている。
かくして、未来が漠然と奪われていく。】

本書は、出版業界やミシマ社についての話だが、この文章は、どんな会社であっても心当たりを感じざるを得ないものではないかと思う。著者は、出版と自社の未来のために右往左往する中で、結局、出版や自社だけに限らない普遍的な問題にぶち当たる。

それは、本書の言葉を使って端的に説明すると、「マグマ」だ。熱量、ということだ。

そもそも個人に熱量がないなら、それは話にならない。しかし、個人が熱量を有していても、組織になった途端消し合ってしまうかもしれない。あるいは、あまりにも熱くなりすぎて新人が入り込めないかもしれない。あるいは、熱がバラバラに点々としているだけで大きなマグマになりきれないかもしれない。

だから著者は、個人が持つ熱量を、組織として正しく的確に掬い上げる仕組みこそ、何よりも大事なはずだ、と直感するのだ。本書は、そういう直感に至るまでの著者の迷走が記録されていると思ってもらえればいい。

とはいえ、著者の迷走は、間違いなくこれからも続く。「走りながらしか考えられない」のだから。これからも正解かどうか分からない道に飛び込んでいくことだろう。彼をどう評価するかというのは、別の人間の仕事だ。10年後、20年後、著者の迷走にどんな意味があったのか分かるだろうし、その時には、ミシマ社も出版業界も世の中も大きく変わっているだろう。

未来の変化を認識するためには、「今」と比べなければならない。その、比較対象としての「今」を、壁にぶつかりまくりながら可視化してくれる一冊だ。

三島邦弘「パルプ・ノンフィクション 出版社つぶれるかもしれない日記」

「新聞記者」を観に行ってきました

何で僕はこの映画、公開時に観なかったんだろうなぁ。
こんなに泣ける映画だったとは。
いや、お涙頂戴という物語なわけではないのだけど。


誤解されるだろうし、賛同されないだろうことは承知で書くと、僕は、「国民の半分ぐらいが賛成しているビジョン」のためなら「独裁」でも良いと思っている。

もちろん僕は、明確な意味での「独裁」を経験したことはない。独裁国家の歴史や現状についても詳しいわけではない。だから軽々しくこういうことを言うべきではないだろう。しかし、その辺りのことについては程度問題だと考えている。「どの程度の独裁なのか」ということだ。もちろん、自由がほとんどないような独裁は辛い。実際、独裁というのは常に、そういう究極のところまで行き着いてしまうものなのかもしれない。けど、「ソフトな独裁」みたいなものがもし実現できるなら、それは悪くないと思っている。もちろん、誰かの人生を破滅させたり、不可逆的な傷やダメージを与えたり、人の生死を左右するようなやり方には絶対反対だが、過半数ぐらいの人が望むビジョンの達成を目指しているなら、多少の不正や横暴は仕方ない、と思っている。

ここで僕が言いたいことは、「独裁という状態そのものを否定するつもりは僕にはない」ということだ。過半数程度に支持されるビジョンがあり、その達成のために独裁を敷くしかないというのであれば、まあ仕方ないかと思う部分はある。自由を差し出すことなく、何かを手に入れることは、なかなか難しいと思うからだ。

さて、その前提に立った上で、僕は現状に疑問がある。それは、「そもそも国はビジョンを持っているのか」、そして「ビジョンがあるとしてそれは過半数程度に支持されているものなのか」という点だ。

僕は、この点はクリア出来ていないと感じる。だから、今の日本の方針・進み方には抵抗したいと思う。

今、国が目指しているビジョンはなんだろう?表向き、色々言ってはいるのだと思う。ただ、僕が感じることは一つ。「国民の少数派の利益になることを目指す」ということだ。少数派というのは、政治家と仲の良い人や金持ちなどをイメージしている。少なくとも、多数派の方を向いて何かをしているようには思えない。

僕が「過半数ぐらい」という表現をしたのは、国民全員が賛同できるビジョンは存在し得ないと思うからだ。だから、過半数ぐらいで僕は納得するしかないと思う。僕は、自分が過半数側に含まれていなくても、たぶん納得する。それが間違いなく、過半数ぐらいの人たちに支持されているものであると確信が持てるなら、そのビジョンの達成が僕の利益にならなくても、まあ仕方ないと感じられるだろう。

しかし、国がそもそも、多数派どころか過半数ぐらいの人たちの希望さえ見ていないとすれば、やはりそれには納得が出来ない。

【安定した政権の維持は、この国の安定と平和に繋がる】

【この国の民主主義は形だけでいいんだ】

これらのセリフに対しては、国が過半数ぐらいの人の希望を満たすビジョンを追っているのであれば、僕は頷く用意がある。しかし、そう思えない現状においては、唾棄すべきものだ。

そう思えない現状に対しては、常に唾棄する側でいたいと、この映画を観て改めて感じた。

内容に入ろうと思います。
映画は、現実とリンクするような形で展開する。
東都新聞の社会部の記者である吉岡は、韓国人とのハーフ。ジャーナリストだった父とアメリカで育ったが、父の死後、日本で新聞記者として正義を追っている。「真のジャーナリスト」と呼ばれた父の遺志を継ぐ意味でも。
世の中では、様々な問題が起こる。文科省のトップの不倫疑惑が報じられ、また、女性ジャーナリストをレイプしたとして逮捕されるはずだった総理と親しい記者の逮捕が取りやめとなる。それらの情報操作に、内閣情報調査室(内調)が関わっている。内調は、各省庁の官僚からの寄せ集めで構成されており、多田という難物が束ねている。その内調に配属となった、外務省官僚である杉原は、週刊誌記者のようなスキャンダル探しや、SNSへの情報バラマキなどの仕事をやらされる。外務省時代の仕事とはまったく違い戸惑うが、多田から「これも国を守るための重要な仕事だ」と言われ、もうすぐ子どもが生まれる身でもある杉原は割り切ろうとする。しかし、明らかに虚偽の情報を流すように命じられ、拒絶反応を示すと、「ウソかホントかを決めるのはお前じゃない。国民だ」と、有無を言わさないやり方を強要される。
一方、東都新聞の社会部には、奇妙なFAXが届いた。サングラスを掛けた羊の絵が一枚目に付けられた、「新設大学院大学設置計画書」と名付けられた文書だった。差出人は不明だが、本来であれば文科省の所管のはずの大学新設が、何故か内閣府主導で行われることを示すものだった。内閣府は最近、内調を私物化して情報操作をしていると噂され、その圧力は新聞などメディアにまで及んでいた。とりあえず、この文書が本物なのか、そうだとしたら差出人は誰なのかということも含め、吉岡が取材を担当することになった。
自分の仕事の意義にゆらぎ始めていた杉原は、外務省時代、北京大使館で一緒だった信頼する上司・神埼から連絡をもらう。久々に食事をすることになった。その席で杉原は、「官僚の仕事は誠心誠意国民のために尽くすことだ」と昔神埼に怒られたという思い出話をするが、神埼は「キツイね。過去の自分から叱られるというのは」と様子がおかしい。その数日後、直前に杉原に電話を掛けて「ごめんな」と言った神埼は、ビルの屋上から身を投げてしまう。
大学新設の裏事情を取材する吉岡と、神埼の死を訝しむ杉原。新聞記者と内調という、真逆の立場の二人の人生が交錯し、巨悪が明らかになる…。
というような話です。

凄い映画だったなぁ。
こんなに凄い映画だったとは。

とにかく、映画を観ながら、なんかずっと泣いてた気がする。
たぶん、悔しかったんだろうな、と思う。
「何が」というわけではなく、この映画で切り取られる現実や、この映画に登場する人物に、とにかく悔しさを感じていたように思う。

冒頭でも少し書いたように、僕は、正義や理想の実現のためなら、多少の不正や横暴には目を瞑ってもいいと思っている。そこまで清廉潔白には、政治は動かせないと思うからだ。
でもやっぱり、誰かの人生を破滅させたり、誰かを死に追いやったりしてはいけないと思う。

「正しさ」や「正義」は常に複数存在して、それらは対立する。だから、正しいのに、あるいは正義を目指しているのに、それが叶わない、ということは仕方がないことだと思う。いつだって、複数ある内のたった一つの正しさ・正義しか選ばれないのだから、他が敗北するのは仕方ない。

しかし、正しいのに、あるいは正義を目指しているのに、そのことによって不可逆的なマイナスが与えられるという現実は、納得出来ない。敗北は敗北で受け入れざるを得ないが、しかし、敗北に不可逆的なマイナスが付随する必然性はない。しかし現実には、敗北には取り返しのつかないマイナスが付与されるのだ。

そのことが悔しい。正しさが認められない現実は、諦めて受け入れられるかもしれない。しかし、正しさが受け入れられないだけでなく、不名誉を着せられたり、自殺するほど追い込まれたり、虚偽の情報をばらまかれたりするのは、やっぱりおかしい。

敗北すれば不可逆的なマイナスを課せられる世の中では、誰も立ち上がれなくなる。負けた時の代償が、あまりに大きいからだ。そして、正しさを主張することに躊躇するようになってしまう。そうなれば益々、特権的な地位にいる人間の正しさだけが社会を作り上げていくことになる。

もちろん、特権的な地位にいる人たちが目指していることは、そういうことだ。「安定」というのはつまり、「文句を言えなくする」ということだろう。そしてそれはつまり、「独裁」と大差ない。そういう意味で今日本は、「ソフトな独裁国家」なのだと思う。

この現状を、僕は受け入れたくはない。

映画を観ながら、そういう悔しさみたいなものが身体を支配したように思う。そしてその悔しさが、僕に涙を流させたのだろうと思う。

僕は、映画でも本でも、権力や巨大組織とは反対の立場にいたいと感じる。権力側に取り込まれず、弱い側の立場に立てる人間でありたいと、いつも思う。

でも、この映画を観て、本当にそんな風に振る舞えるだろうか、とも思ってしまった。特に、自分に守るべき存在がある場合、自分の決断によって守るべきものまで危険にさらすことができるだろうか、と考えてしまうだろう。

一方、「行動できなかった」という後悔を抱えながら生きていくのも、辛い。

その葛藤に苦しむだろう。杉原が、まさにその葛藤を体現する存在として描かれる。

この作品は、よくこれを映画にしたな、と感じるほど、リアルに斬り込んでいる。映画で扱われるのは、見れば誰もが、実際のあの事件だと連想出来るものばかりだ。また、手ブレを抑えないカメラワークも、リアル感を演出する。

この映画では、「官邸権力と報道メディア」という、実際の討論番組の映像も組み込まれている。元文科省の官僚である前川喜平や、東京新聞の望月衣塑子などが討論している番組で、発言内容もそのまま使われている。それが、映画の世界の中で違和感なく収まっている。いかにこの映画が、明確に現実を下敷きにしているかということが分かるだろう。

「ソフトな独裁国家」である日本において、こういう内容の映画を撮ることは相当リスキーだろう。非常に回りくどい形で、映画製作に関わった人間が不利益を被るような何かが行われても不思議ではない。日本アカデミー賞を受賞した今となっては、さすがにあからさまな圧力を掛けることは不可能だろうが、それでも、分かりにくい形で何らかの悪影響が出る可能性は今後もありうるだろう。

こういう、リアルタイムの政治的な現実を明白に取り込みながら、その是非を問うような映画が撮られている、という事実が、問題の根の深さ、そして解決の困難さを物語っているように思う。今のままの「ソフトな独裁国家」を継続させてしまえば、遠くない将来、僕らのような一般市民にも目に見える形で不利益が現出してくるだろうと僕は思う。そうならないためには、少なくとも、多くの人がこういう現実を知り、関心を持つしかないだろう。政治の関心が少数派に向いている、という事実を捉え、それに意を唱えなければ、現実が変わる可能性は低いだろう。

こんな国に生きているのだな、という悔しさと絶望を味わうための映画です。

余談だが、つい最近「架空OL日記」を観た。しばらく気づかなかったが、主演の女性が、「架空OL日記」にも出ていた人だった。雰囲気が全然違っていて、驚いた。

「新聞記者」を観に行ってきました

「子どもたちをよろしく」を観に行ってきました

誤解を恐れずに言えば、何も考えていない方が子供を産みやすい。きちんと育てられるか、幸せにできるか。そういう部分について考えすぎない方が、「子供を持つ」という選択に取っては良いだろう。

もちろん、ちゃんと先々のことまで考えた上で子供を持つという選択をする人もたくさんるはずだ、ということは分かった上で、先々のことをあまり考えなくても、まあ大体はやんとかなる。子育てというのは、太古から人間がしてきたことだし、ってかそもそも人間に限らず生物はしていることだからだ。大体、なんとかなる。

しかし、なんとかならないこともある。特に最近は、地域のコミュニティや共同体が機能不全になっていることが多いだろうから、余計なんとかならなさが増えている。

そういう時、大人がダメだったことのツケを払わされるのは、子供だ。

というようなことを、僕はいつも考えてしまう。だから僕は、子供がほしいとは思えない。なんとかなるとは、到底信じられないからだ。

子供の虐待や貧困家庭の話に触れる度、いつも僕は同じことを思う。僕は、何かあったら子供を虐待する側だし、貧困を回避出来ない側の人間だ、と。

というような話を人にする時、反応は二つに分かれる。「そんなの気にしすぎだって。大丈夫だよ。」という反応の人と、「あぁ、分かる。私も無理」という反応の人。

これは僕の完全な偏見だが、結果的に虐待をしている親というのは、前者のタイプの人だと思う。後者のタイプの人は、実際子供も持たないことが多いだろう、という事実を差っ引いても、前者のタイプの人が圧倒的に多いと思っている。

いつだって問題は、「自分は大丈夫」と思っている人の周りで起こる。そのことが認識出来なければ、いつまでも不幸は連鎖するだろうなと思う。

内容に入ろうと思います。
2つの家族を中心に、物語は展開する。
貞夫は、デリヘル「ラブラブ48」で運転手として働いている。妻に逃げられ、ボロアパートで息子・洋一と二人暮らし。貞夫は、パチンコや競艇、馴染みのスナックに金を使うばかりで、デリヘルの社長から借金を重ねている。洋一の給食費やガス代も払えないような有様だ。洋一は、同級生から「ゴミ男」と呼ばれ、イジメられている。しかし、母が残した「いつか迎えにいくから」という手紙を心の支えに、辛い日々を過ごしている。
一方、貞夫の運転で現場に向かう優樹菜は、実の母の再婚相手である義父と、その義父の連れ子である稔の四人で生活している。酒浸りの義父に抱きつかれ行為を迫られ、友人との飲み会では事務の仕事をしていると嘘をつく。稔は、そんな姉の部屋の前でデリヘルの名刺を拾ってしまう。稔は、洋一をイジメている一人で、その仲間との会話から初めて「デリヘル」という存在を知る。洋一の父親の仕事がデリヘル嬢の送迎だという話になるのだ。姉がいかがわしい仕事をしているかもしれない。稔は、モヤモヤした想いを抱えつつ、自分に出来ることはないかと考え始める…。
というような話です。

個人的には、ちょっと期待外れの作品でした。その理由は、「事実の提示」と「切実さの提示」にあります。

僕は、「子供の貧困や虐待が社会問題化している」という事実そのものは、それなりに知られているのではないか、と思っています。もちろん知らない人もたくさんいるし、知っていても行動に繋がらない人もいる(もちろん僕もその一人だ)。だから、「事実を提示すること」はもちろん大事だ。

ただ、ある程度その事実が知られているという状況においては、「切実さの提示」の方が大事だと思う。

そしてこの映画は、「切実さの提示」という点で弱かったと思う。

その理由は明白で、子供たちの演技があまり上手くなかったからです。洋一や稔を含む、中学生役の子たちが、ちょっと下手よりだったという風に、僕には感じられてしまいました。イジメの場面も、洋一がしんどい日常を送ってる場面も、僕にはちょっと「切実さ」に欠けると感じられてしまった。

「事実の提示」が目的の映画なら、そこまで演技力は求められないかもしれません。世の中のほとんどの人がまだ知らない事実を世に問うものであれば、「事実の提示」が優先だと言えます。

しかし、虐待や貧困のような、事実が既にそれなりに知られていることであれば、やはり「切実さ」を伴った上でなければ、なかなか響かないように感じます。そういう意味でこの映画においては、子供たちの演技が肝心要、最も力を注ぐべきポイントだと感じます。

ただそれが、僕の個人的な感覚では、期待以下となってしまった。その点が残念だなと思うし、この作品を良い風に捉えにくい点だなと思います。

これ以降の話は、全体の印象があまり良くなかった、という前提ありきの後付けのような話かもと自分で思う部分もありますが、感じたことを書いてみます。

虐待や貧困の問題が様々な問題を内包しうる、というのは当然なのだけど、この映画にはちょっと色々詰め込みすぎな気がします。いじめ、暴力、貧困、風俗、親の不甲斐なさ、父子家庭、ギャンブル依存、アルコール依存、再婚による血の繋がらない姉弟、などなど。別にそれぞれに必然性がないわけじゃないんだけど、色々盛り込みすぎて、どこに一番焦点が当たっているのか、イマイチ分からないという感じがしました。これらの要素は盛り込んでもいいのだけど、メインがなんなのかをちゃんと明確にしておいた方が良かったような気がします。

「虐待や貧困の現実を伝えたい」という気持ちはもちろん伝わります。ただ、言い方は良くないかもだけど、わざわざこういう映画、つまり、子どもたちの辛い現実が扱われていて、公開館数が決して多くない映画を選んで見に来ている人には、「まあ知ってるよ」という感じに思われてしまう映画かもしれません。そこに「切実さ」が加わっていれば、また受け取り方は変わっていたと思うけど。

今後この映画をどういうところで上映するのか分からないけど、こういう現実をまだあまり知らない、という人に向けて上映できると良いと思います。

「子どもたちをよろしく」を観に行ってきました

「CURED キュアード」を観に行ってきました

僕なら、耐えられない。
自らの意志ではなく人を殺してしまった記憶を抱えて生きていくことは。
しかし、冷静に考えれば、そういう状況は現実にあり得る。
不幸な交通事故、電車への飛び込み自殺、救命救急で治療しきれなかった患者。自らそう望んだわけではないが、自分の目の前で誰かが亡くなることはあるし、それを「自分が殺してしまった」という感覚で捉えてしまう人ももちろんいるだろう。
しかし。
そういうものとも、また違うような気がするのだ。
この物語は。
どうしてこんなに、心がざわざわするんだろう。

やはりそれは、「見えないものへの恐怖」が付随するからだと思う。

「見えないものへの恐怖」に、人類は度々脅かされる。地下鉄サリン事件、福島第一原発事故、コロナウイルス。ブラックマンデーやサブプライムローンなど金融の世界も「見えないものへの恐怖」と呼んでいいかもしれない。

目に見える対象がある場合、人間の恐怖は、見えない場合と比べて少し落ち着くように思う。しかし、「見えない」というだけで、恐怖は倍加する。実際の危険度を冷静に分析してみれば、見えないものよりも見えるものの方が危険だったとしても、やはり見えないものの方が恐怖を駆り立てるだろう。

人類はこれまでも、肌の色や性差など、目に見える特徴で区別・差別を行ってきた。しかしそれらは、目に見えるが故に、知識を塗り替える教育によって改善していくことが出来る。目に見えるものは、目に見えるが故に捉えやすい。それは、差別のしやすさにももちろん繋がるが、差別の改善の可能性にも繋がっていく。

しかし、目に見えないものは、改善の可能性を見出すことが非常に困難だ。

今振り返ってみれば頭が悪いとしか言えないけど、子供の頃、嫌われているクラスメイトに触れた場合、「◯◯菌」と言ってふざけていたのを思い出す。そもそもそんな「◯◯菌」なんてものは存在しないのだけど、存在しないはずのものに名前が付くと、さも存在するかのように感じられてしまう。そして、存在しないからこそ目に見えないのだけど、目に見えないが故に「存在しない」と否定することもできなくなってしまう。それ故、「◯◯菌」といういじめを根絶することは難しい。

障害者に関しても、もちろん「目に見える障害」が楽だなんて言いたいわけではまったくないが、しかし、「目に見えない障害」は、世間から「怠けている」「努力しないだけ」という風に見られてしまう難しさがある、と見聞きする。例えば脳機能の障害を持つ場合、外から見てなかなかそれを理解することは難しい。映画『ジョーカー』で、突発的に笑ってしまう発作を持つ主人公は、「笑ってしまう病気です」というようなことが書かれた紙を常に持っていた。これも、目に見えないが故の難しさだ。

「目に見えない」ということが、分断を生む。まさか「ゾンビ映画」が、これほどの社会性を描く物語として昇華されるとは、驚きだった。

内容に入ろうと思います。
ヨーロッパを中心に、「メイズ・ウイルス」という新種の病原体が蔓延した。感染すると凶暴化し、他者を噛み殺す。さらに噛まれた人間もウイルスに感染してしまうのだ。特にアイルランドでの被害が壊滅的だったが、パンデミックから数年後、画期的な治療法が発見された。これにより、感染者の75%は回復し、経過観察の後<回復者>として社会復帰することとなった。一方、この治療法によっても効果が出ない25%については、軍の隔離施設に収容されたままである。
<回復者>として社会復帰を目指すセナンは、身元引受人であるアビーの元へと向かう。アビーは、セナンの兄・ルークの妻であり、感染のパニックの最中ルークを喪ったアビーは、一人息子であるキリアンと二人で暮らしている。ジャーナリストであるアビーは、<回復者>の社会復帰を良しとしない風潮に日々接しつつも、セナンを温かく迎え入れ、共に暮らす。
しかしセナンは、アビーへの罪悪感を拭えないでいる。
<回復者>は、治療に成功し回復したが、しかし、ウイルスに感染していた時の記憶は残ったままだ。セナンは、ルークを殺したのが自分であるという事実をアビーに告げられず、苦しんでいる。しかし社会復帰を果たすため、彼は医師のライアンズ博士の元で助手として働き始める。彼女は、残った25%の感染者は安楽死させるしかない、という政府の方針に反対すべく、「301」という番号がつけられた患者で治療法の確立に挑んでいる。セナンは、感染者が<回復者>を攻撃してこないことに気づく。
隔離施設で一緒だったコナーは元弁護士で、出所後に掃除夫の仕事をさせられることを不満に感じている。街では<回復者>への反対運動が激化し、<回復者>が襲撃されるまでになっている。コナーを中心とした<回復者>のメンバーは、回復者同盟を立ち上げ、権利の獲得に動こうとするが…。
というような話です。

凄い話だったなぁ。正直、設定だけで勝ちでしょう。よくもまあこんな設定を考えたものです。普通ゾンビ映画と言えばファンタジー的な、現実離れした設定で描かれることがほとんどでしょうが、この映画は、「メイズ・ウイルス」というウイルスの存在以外は非常に現実的で、圧倒的なリアリティーを感じさせられる作りになっています。

<回復者>というのは、本当に絶妙な設定だと感じます。彼らは、「メイズ・ウイルス」から回復したとみなされている。しかし、”本当に”回復したのかどうか、そんな保証は誰にもできない。もちろん、市民はそういう心配をしている。さらにそれとは別に、「そもそもあいつらは人殺しじゃないか」という感情がある。病気だったのかもしれないが、愛する人間の命を奪ったやつだぞ、と。だから<回復者>に対しては、「クズ」「人殺し」「人間じゃない」と散々な言葉が投げつけられる。

そこまで強硬ではない人は、<回復者>を受け入れたいと思う。思うけど、やっぱり恐怖はある。一度感染したら二度と感染しないと言われている。しかし本当だろうか?いつまた発症するか分からない。そういう気持ちは、どうしてもある。

一方、<回復者>の側もしんどい。メチャクチャしんどい。なにせ、自分の意志とは無関係に人を殺してしまったという過去を、明確に記憶しているのだ。それが、見知らぬ誰かだろうが、愛する人であろうが、その罪悪感は凄まじいものだろう。「病気だったから仕方ない」と言い聞かせる以外に、正気を保つ方法はないだろう。現に<回復者>のほとんどは、治癒した後も悪夢を見る。自分が衝動を抑えきれず、目の前にいる人間を噛み殺す場面を、繰り返し繰り返し見るのだ。地獄でしかない。実際、<回復者>の社会復帰の試みは、セナンたちの前にも行われていたという設定で、インタビューの中で「<回復者>だった叔父は去年自殺した」と語る若者が出てくる。分かる気はする。僕も、ちょっと耐えられないような気がする。

しかし<回復者>も、生きなければならない。市民から拒絶に遭いながら、真っ当な仕事にも就けず、役人(軍人?)からも低い扱いを受ける彼らからは、「ここまで憎まれるなんて、ムショの方がマシだ」という嘆きが出てくるほどだ。

この映画で描かれる分断は、様々なところで起こってきたはずだ。魔女狩りやハンセン病など、目に見えないが故に払拭出来ないマイナスなイメージを抱えて社会の中で生きざるを得なかった人々は、古今東西様々に存在しただろう。この物語は、ゾンビ映画という定型を借りつつ、普遍的な分断を描き出しているのだ。

しかし、ここまでで書いたことは、この映画の背景にすぎない。この映画で本当に描かれているものは、<回復者>同士の分断なのだ。この点については詳しく触れないが、「何を」「どのように」守るべきか、という意見の違いから、<回復者>も一枚岩ではない。<回復者>同士の分断の中心にいるのがセナンで、彼には<回復者>として恵まれていることに、身元引受人がいる。しかし、実はセナンがその身元引受人の夫を殺してしまっている。こういう複雑な要素が絡み合う中で、セナンやセナンの周りにいる人たちが何を考え、どう決断するのかに焦点が当てられていく。メチャクチャ考えさせられる映画だった。

この物語では、立場の違いによって考え方や判断が容易に変わりうるということを実感することが出来る。例えば、政府の立場に立てば、残りの感染者たちの安楽死はやむなし、と判断するしかないように思う。<回復者>の立場に立てば、自衛のために組織化するしかないと思ってしまうだろうし、また、回復するかもしれない感染者たちの安楽死には反対の立場になるだろう。一般市民の立場に立てば、安全かもしれないけど100%安心とは言えないと考えて、<回復者>たちを遠ざけてしまうという判断になるかもしれない。対立や分断という状況が目の前にある場合、自分の価値判断の中でどちらかに肩入れするような感覚を持つこともあるだろう。しかしこの物語の場合、それぞれの立場における判断に、やむを得ないと感じられる。実際に世の中に存在する、あるいは起こりうることをモチーフに選ぶと、どうしても基準としての価値判断が人によって生まれうるだろうが、この物語は、ほぼ絶対にありえないだろう設定の上に成り立っているからこそ、どの立場からの判断も許容しなければならないような状況を生み出せている。どんな立場・来歴・価値観の人であっても、それぞれの立場の難しさみたいなものを等しく感じられる、非常に良い物語だと感じた。

最後の展開は、まあそうならざるを得ないか、と思いつつも、そうであってほしくないというような、悲惨な展開になる。誰にとっても正しくはない。しかし、どの立場の人も、その立場なりの正しさを追求した結果生まれた悲劇でもある。それが分かるからこそ、誰のことも悪く言いたくないように思えるし、そうまとめてしまってはいけないが、「仕方なかった」と感じてしまった。

とにかく、恐ろしく秀逸な設定を絶妙に活かして、ゾンビ映画でありながら対立や分断が蔓延する現実を引き写し、さらに、現実的な設定では描き出せない混沌を描像する、見事な作品でした。

「CURED キュアード」を観に行ってきました

「ナイチンゲール」を観に行ってきました

日本人が優れている、などと言いたいわけでは決してないが、白人の歴史を知ると、その残虐さに目を覆いたくなる。
もちろん、すべての白人が悪いわけではないし、残虐さを備えていたのはごく一部だろう。それでも、白人が、支配の優位性を笠に着て好き放題やっている姿には驚かされる。

こう書くと、日本人も同じだろう、という矢はきっとどこからか飛んでくる。戦時中、日本人ももちろん酷いことをしてきただろう。それらは同列に語るべきだが、白人の方は、植民地支配に関する長い長い歴史がある。どんなものでもそうだが、「歴史がある」ということは「伝統」へと昇華される。そして「伝統」という名前がつくと、それは当たり前のことなのだと疑問に思われなくなる。別に批難したいわけではないが、男女平等が叫ばれる中で、歌舞伎や相撲の世界である種の「女人禁制」が未だに許されるように感じられるのは、それが「伝統」だからだろう。

「白人」という形で、すべての白人を一括にする議論は良くないのは分かっているが、やはり、「白人は支配を伝統にしている」と感じてしまう。僕は詳しい知識を持っているわけではないが、現代においても、白人による植民地支配の名残が、様々な場面で遺恨のように残されていることだろうと思う。

僕は日本の歴史にも詳しくないので、未だに「藩同士の遺恨が残っている」という事実を知ると驚いてしまう。間違っているかもしれないが、会津藩と薩長とか、南部藩と伊達藩とか、そういう「藩」という単位の遺恨は未だにある(らしい)。

しかし、こういう物語を見ると、遺恨が残るのは当然だ、と感じさせられる。少なくともこの映画では、一方的な、まったく論拠のない暴虐が展開される。そこに、僅かであっても納得が生まれるはずがない。

憎しみは、連鎖せざるを得ない。勇気を持って断ち切ろうとする人間は素晴らしいと思うが、それを強要することは僕には出来ない。憎い、という感情はやはり、何らかの復讐を以ってしか解消の糸口は見いだせないだろう。憎しみの連鎖は、不幸なことだが、僕には否定はできない。

内容に入ろうと思います。
舞台は、19世紀のオーストラリア、タスマニア地方。イギリスによる支配地域だ。ここは流刑囚が送られる島であり、元々黒人が住んでいた土地を奪って切り開いた。アイルランド人のクレアは、けちな盗みを働きこの地に送られていた。美しい容姿から、この地に赴任する英国軍将校ホーキンスに囲われていた彼女は、刑期を終えた後も釈放されずにいた。クレアはエイデンと結婚し、子供も設けたが、自由の身になるためにホーキンスに仮釈放免状を送ってもらえるように頼んでいたが、その内送るとあしらわれ、いつものようにレイプされる。夫エイデンは、ホーキンスに直談判すると言って交渉に臨むが、逆上したホーキンスはエイデンの目の前でクレアを犯し、さらにエイデンと子供を殺してしまう。復讐に燃えるクレアだったが、ホーキンスたちはローンセストンに駐屯する大佐に昇進を直訴するために、鬱蒼と生い茂る原野の森を突っ切る行軍に出たところだった。彼女は、先住民族アボリジニの黒人ビリーに道案内を頼み、ホーキンスを追うことにする。当初ビリー、は嫌々クレアの案内をしていた。彼の家族は白人に殺されてしまっていたからだ。しかしクレアの目的を知るや、ビリ―とは同志のような関係になっていき…。
というような話です。

非常に重苦しい雰囲気で最後まで進む物語で、圧倒されました。復讐は何も生まない、と頭で分かっていても、クレアとビリーが置かれた状況があまりにも悲惨で、復讐のためにホーキンスらを追う彼女たちに肩入れしたくなってしまう、そんな映画です。

主軸となる物語は実にシンプルで、ホーキンスは昇進のためにローンセストンを目指し、クレアはそんなホーキンスを追う、という感じです。しかし、タスマニアの森は深い。原住民の案内なしには絶対に抜けることが出来ない。ホーキンスはもちろんだが、クレアも黒人を忌避している。しかし、彼らの手を借りる以外に目的を果たす方法はない。黒人の方も、もちろん白人を憎んでいる。しかし、生活のため、そして何より自分の命のために、白人に従うしかない。

こういう、まったく協調関係のないところから物語はスタートする。

ホーキンスらは、白人であるという強権を最大限に発揮し、やりたい放題やっている。容赦なく人も殺す。とにかく、ホーキンスに共感できるポイントは一切ない。登場人物は、様々なレベルで悪感情を持ち、悪事を働くが、しかし、観ている側のすべての怒りがホーキンスに向くので、他の人物への不快感はほとんどない。ホーキンスのような人間がいるような状況下では、どんな振る舞いになってしまっても仕方がない、と感じられるのだ。

クレアとビリーの関係性の変化が、一番の見どころだろう。協調関係のなかったはずの2人が、お互いの存在を認め合うようになる。しかしそれは、お互いが抱える憎しみの深さを理解することによって生まれた感情だ。それは、悲しみで繋がっているようなものだ。お互いを必要としつつも、一緒にいることで悲しみの輪郭が強調されるような関係性に、いたたまれなさも感じる。

復讐劇、という単純な言葉では括れない深い穴を感じさせる作品でした。

「ナイチンゲール」を観に行ってきました

「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」を観に行ってきました

まず書いておかなければいけないことがある。
僕は、「右翼」と「左翼」がよく分からない。
「保守」と「革新」もよく分からない。
なので、以下で色々書くが、間違っているかもしれない。
しかしそれは、「僕の認識が間違っている」というよりも、「僕がそもそも認識していない」という表現の方が正しい。
その辺りをご理解いただけるとありがたいです。

一応、僕の認識を書いておく。
「右翼」というのは、天皇を崇拝(この表現は適切ではない気がするんだけど、なんて言えばいいかわからない)する人たち。他のイメージは、「愛国」とか「街宣車」とかだ。
で、「左翼」は、「右翼じゃない人」ぐらいの認識しかない。「全共闘」とか「安田講堂の占拠」とか「あさま山荘事件」が、なんとなく「左翼」的なものと関係するようなイメージはあるんだけど、どう関係するのかも知らない。
「保守」と「革新」についても、政治的な意味は全然知らなくて、言葉の意味として、「保守」というのはそれまでのものを守りたいということだろうから、天皇制を支持する(だろう)「右翼」側だろうし、であれば「革新」は「左翼」側なんだろう、ぐらいの認識だ。

さて、そんな僕がこの映画を観てどう感じたか。

面白かった。メチャクチャ面白かった。
正直、途中途中で、議論が難しすぎてついていけなかった部分はある。でも、この映画には、平野啓一郎・内田樹・橋爪大三郎、あるいは元全共闘の人たちや、楯の会のメンバーなどが登場し、解説を加えてくれるから、それでなんとなく理解できた部分もある。

さてそれでは、とりあえずまずは、三島由紀夫と東大全共闘の討論が行われるに至った経緯を、映画で語られた知識のみで、僕なりに書いていこうと思う。

1968年は、「政治の季節」と呼ばれた。日本では全共闘運動が盛んに行われ、またプラハの春や五月革命など、世界中で同時多発的に革命が起こった。日本では、反戦・平和を訴える街頭闘争が繰り広げられ、東京は学生と機動隊による戦争状態だったという。日本でも革命が起こるのではないかという期待と不安が蔓延していた。楯の会の一期生だった篠原裕と宮澤章友は共に、インタビューアーからの「共産主義革命が本当に起こるという恐怖心はあったか?」という質問に対してYESと答えていた。物々しい雰囲気だったと言い、楯の会のメンバーは三島由紀夫に連れられて自衛隊で体験入隊を繰り返す。全共闘がゲバ棒を持ち出しても、こちらが日本刀を抜けば終わりでしょう、という意志を感じたという。同じく楯の会の一期生だった原昭弘は、もう時効だろうからと、当時自衛隊の訓練で、実弾射撃を行ったことがある、と明かしていた。

楯の会というのは、1968年10月に三島由紀夫が立ち上げた組織だ。革命の予感を匂わせる日本の状況を危惧した三島が、大学生らを中心に構成した私的民兵組織だ。反革命、反共産主義を掲げ、いざという時に動けるように日頃から訓練を続けていた。

翌1969年の1月18日・19日には、安田講堂事件が起こる。前年に誕生した東大全共闘はが、暴力も辞さない姿勢を強烈に見せた。しかし、催涙弾と放水によって安田講堂は陥落する。

この後、東大全共闘は、次の一手を考えていた。安田講堂事件の火を消してはならない、ゼロにしてはならないと、「東大焚祭委員会」を立ち上げ、そこで三島由紀夫と討論しよう、ということになったのだ。

1969年の春、三島由紀夫に一本の電話が届く。電話をしたのは、東大全共闘のメンバーであり、討論会では司会を努めた木村修。実は昼間に一度電話しているが、奥さんから、昼間は寝ている、夜になったら執筆を始めるから、と言われて、深夜1時頃に再度電話をしたのだ。60年代に入り、三島は政治的な発言を積極的に繰り返すようになっていた。また当時は、川端康成と日本初のノーベル文学賞を争っている時期でもあり、世界的な知名度も高かった。そんな三島の「文化防衛論」を読んでいた木村は、「日本を論じることをやらないか」と三島に申し込んだのだ。

こうして、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で自殺する一年半前の5月13日、三島と、東大全共闘1000人による討論会が開かれることになった。場所は、安田講堂があるキャンパスとは違う、駒場教養学部の大講堂900番教室。学生たちは、討論を告知するポスターにゴリラに模した三島の絵を描き、「近代ゴリラ」と評した。また、「飼育料 100円以上」と記載するなど、場外での挑発をしていた。「舞台上で切腹させてやる」と息巻いているという噂もあったようで、楯の会のメンバーは密かに会場の前席に紛れ込んで見守っていたという。

14:05。後に「伝説の討論」と呼ばれるようになる討論の幕が上がる。討論の模様は、東大全共闘側から唯一呼ばれていたTBS(当時別の取材でTBSとやり取りがあったことからTBSには声を掛けたのだという)が撮影、TBSだけが保管している映像である。

さてこれが、「伝説の討論」に至るまでの過程だ。「右翼」で「保守」の大物である三島由紀夫と、「左翼」で「革新」である東大全共闘1000人。考えただけで一触即発というか、ヤバい雰囲気しか感じない。誰もが、緊迫した雰囲気になるだろうと予想していたという。そりゃあそうだろう。

しかし、実際にはそうはならなかった。個人的な意見では、これは、三島由紀夫の度量によるところが大きいと感じる。

内田樹が、こんなことを言っていた。

【三島は誠実に、1000人を説得しようと思ってるんですよ。それに、相手を困らせてやろうとか、論理矛盾を指摘するなんてことを、一度もやってない】

また、司会を務めていた木村は、冒頭、三島由紀夫のことを「三島”先生”」と呼んでしまい、「”先生”と呼んでしまったのはちょっと問題ではあるんですが」と自己弁護することになるのだけど、これについて現在の木村は、

【語り口が丁寧で、乱暴な言い方なんてまったくしないですよね。それが驚きでした。それで思わず”先生”と言ってしまったんです】

と語っていた。

そう、まずもって三島の語り口が、非常にソフトなのだ。しかもそれは、内心どうだったかは分からないが、「1000人を恐れているから」というわけではなく、僕には、「相手に敬意を払っているから」だと感じた。それは、この映画で使われた映像の中で最も三島と長く討論をしていた芥正彦自身も言っていた。三島と芥は、かなり高度な(というか、僕がまったく理解できなかった)議論を舌鋒鋭く展開し、その議論は平行線のままなのだが、しかし笑顔を絶やさない。芥が、三島のタバコに火をつけてあげる場面は、印象的だった。

また三島は、「近代ゴリラ」などと言った自分に向けられた挑発にも乗らないし、なんならそれを笑いに変えてしまう。さらに、「タバコは工場で作られて自分の手元に届くまでに時間が掛かる」と言った後で、

【こうやってタバコを吸いながら、皆さんの前で努めて余裕を見せているわけですけれども】

なんてことを言って笑わせたりするのだ。三島を討論に呼んだ木村は、この討論にやってくる三島の内心を、「全共闘の人間なんかロクデナシだと思ってただろうし、単身で敵陣に乗り込むような気持ちだっただろう」と推測していた。その推測が正しかったとして、そんな完全アウェーの状況でも、自分を卑下して笑いを取るような余裕がある、ということが、逆に三島由紀夫の大きさを示しているように感じられた。

このような、「乱暴な言葉を使わない」「相手に敬意を払う」という部分もあった上で、さらに僕は、三島が相手の土俵に立って議論をする姿勢に凄さを感じた。

難しすぎて議論の内容は再現も要約も出来ないのだけど、三島と芥が「解放区」について話をしている場面があった。「解放区」というのは、「革命勢力が国家権力の統制を排除して支配する地区」のことで、例えば安田講堂事件の際の安田講堂はまさに「解放区」だった。この議論において三島は、「解放区」の定義を口にした後、「これで合っているか?」と芥に確認をしている。その後も、相手の言葉や価値観を正しく認識した上で、その言葉や価値観を前提として議論を展開する姿勢が見られた。

一方で、芥に限らないが、東大全共闘側の人たちは基本的に、自分の言葉で自分の主張をする、ということに終始していたように感じる。もちろん、映画に使われている映像がすべてではないはずだし、全体を通して見てみなければ確定的なことは言えないが、映画を見た印象としては、三島由紀夫の方が一枚も二枚も上手だったと感じる。単純な年齢差もあるから仕方ないが、三島由紀夫の余裕さはさすがだったと思う。

この「解放区」の話は、その後で「名前」の話に展開する。これも、ちゃんとは理解できなかったが、僕が理解したことを書こう。芥は基本的に、「解放区」はあらゆる関係性(名前で規定される関係性)が剥ぎ取られる場であるべきだ、と考えているようだ。そういう場所が理想であり、革命というのは結局、そういう名前で規定される関係性をひっくり返していくことに意義があるのだ、と。

しかし三島由紀夫は、それに持続性はあるのか?と問う。作家の平野啓一郎によると、この議論は全体の中でも非常に重要だったという。三島は「持続性」にこだわった。それで三島は芥に、「解放区」の定義を聞く中で、「解放区は継続されるべきか?あるいは継続は必須ではないか?」というような問いかけをしている。三島は、持続性こそが大事だと考えていた。そして物事を持続させるためには言葉が必要だと考えていた。言葉(名前)というのは結局、事物に目的を与えるものだ。その名前を剥ぎ取った環境を理想と呼ぶのは自由だけど、でもそれが持続できないならそれに意味はあるのか?と問うわけです。

平野啓一郎がまとめてくれた議論の要点を踏まえつつ、たぶんこういうやり取りをしていたんだろう、という僕なりの解釈を書いてみましたが、間違ってたらすいません。

言葉についてもう少し触れると、三島由紀夫は冒頭10分のスピーチの中で、「言葉の有効性はあるのかもしれないし、ないのかもしれない」と発言している。これを受けて平野啓一郎は、

【三島は、言葉がアクチュアルな機能を果たすのか。反対の立場の人に自分の言葉が通じるのか。三島はその点に関心があり、この討論に臨んだのだろう】

と語っている。

先程触れたことに少し関係するが、東大全共闘の面々(特に芥)の言葉は非常に難解でスッとは理解できない。しかし三島の言葉は、確かに平易な言葉ではないのだけど、分かりやすいと感じる。やはり作家として、大衆に伝わる言葉を熟知している人間の強みなのだろう。途中、観客から、「俺は三島を殴る会があるから来ないかと言われたのに、観念的な議論ばっかりしてるんじゃねぇ!」と野次が飛び、東大生同士での議論となる場面もあった。三島は、笑っていた。

また三島は、東大全共闘の人間に度々共感の意志を示す。一番印象的だったのは、「非合法の暴力を肯定する」という話だ。

【わたくしが行動を起こすとしたら、非合法でやるしかない。一対一の決闘の考えでやるとするなら、それは殺人犯になるということだから、警察に捕まる前に自決でも何でもしようと思っている】

実際に自決する一年半前に、こういう発言をしている。彼はこの、「主義主張のためなら非合法の暴力も厭わない」という点で、東大全共闘の面々と共感する。

また三島は、自身を「反知性主義」と呼び、知性が高い人間が上にいて様々なことを決めたり動かしたりする現実を嫌いだと言う。そして、

【全学連が知識人の鼻を割ったということは認める】

と言っている(僕は「全学連」と「全共闘」の関係が分かりませんけど、ここの発言は「全共闘」って言ってたと思います)

また最後の方では、「君たちの熱量は信じます。他の何を信じなくても、それだけは信じる。そのことだけは分かっていただきたい」とも言う。・

さらに極めつけは、「天皇」に関するこんな発言だ。

【わたくしは、これは大げさに言うのではないが、諸君らが一言「天皇」と言ってくれさえすれば、わたくしは喜んで一緒に立てこもっただろう】

後半は天皇についての話になっていくのだけど、これらの議論を踏まえて内田樹は、

【(三島と東大全共闘の間にあるのが)右翼と左翼の対立が本質なわけじゃないと三島は分かっていた。直感力のある人だから、その本質が反米愛国運動だということに気づいていた。だから三島は、全共闘と共闘できると言っているのだ】

芥も、インタビューアーから、「三島由紀夫と東大全共闘が共通の敵と対峙していたとすればそれは何か?」と問われて、「あやふやな猥雑な日本国」と答えている。

三島は天皇に関してアンビバレントな感情を持っていた、と平野啓一郎は言う。三島は、昭和天皇個人に対しては、批判的な面を持つという(それは「人間宣言」をしたからなんだろうか?) 一方で三島は、昭和天皇とのある個人的なエピソードを様々な場で語っていたという。もちろん東大全共闘との討論の中でも語っていた。それは、学習院高等科を主席で卒業した際に、昭和天皇から銀時計をいただいた時の話だ。3時間、微動だにせず立ち続けた姿に感銘を受けたという話を幾度もしているのだという。三島は、昭和天皇に対する否定的な気持ちを懐きながら、同時に、自身の個人的な経験を否定することは出来ないという感覚を最後まで持ち続けたという。

三島由紀夫は「天皇」という言葉を、かなり自分なりの使い方をしていたようで、それを幾人かが解釈していた。芥は「絶対権力」、宮澤は「日本の文化・伝統の集約的存在」、内田樹は「無意識的エネルギーの源泉」と言った具合だ。三島自身は討論の中で、

【天皇と自己を一体化させることに美を見出すのだ】

と言っている。それに対して芥が、「じゃああなたは、日本人である限界を越えられませんね?」と聞くと、「越えられなくていい。わたくしは日本人の限界を越えたいとは思わない」と返す。

あと、印象的だったのは、三島由紀夫を含む、10代を戦争末期の中で過ごし生き残った、1930年代生まれの人たちの感覚について内田樹が語っていたことだ。当時若者は、戦争で死ぬことを覚悟していた。つまり、国運と個人的な運命が一致していた。しかし終戦により、そこが切り離されてしまった。そうやって生き残った者たちは、国運と個人的な運命が一体になってほしいという欠落感を抱えたまま戦後を生き続けたのではないか、という話だった。そう考えると、なんとなくだけど、三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で自衛隊員に決起を促したような強硬さも、理解できるような気がする。

映画の最後は、「全共闘の人たちは、あの時代をどう総括しているのか?」という話で終わる。印象的だったのは、芥だ。芥は、「敗北したとも言われているが?」と問われて、こう答える。

【私は敗北したとは思っていない。君たちの国では、敗北ということにしたんだろ。君たちの国には、私はいないからね。私の世界では、敗北していない。】

負け惜しみにも聞こえるが、しかし、三島とやり合っている芥、そしてカメラの前で語る現在の芥、どちらも自信に満ちあふれていて淀みがない。それもあってか、負け惜しみ感はないのだ。

難しい部分は多々あったが、とにかく面白かった。僕は三島由紀夫の作品もほとんど読んだことがないし(「金閣寺」を読んで、よくわかんないな、と思った)、「右翼」も「左翼」もよくわからない人間だけど、そんな人間が見てもメチャクチャ面白かった。知のぶつかりあいを、是非体感してほしい。

「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」を観に行ってきました

天才科学者はこう考える 読むだけで頭がよくなる151の視点(ジョン・ブロックマン編)

本書には、著者が151人いる。

ジョン・ブロックマンというのは、著作権エージェントだ。彼は1981年に「リアリティ・クラブ」を創設する。「ポストカード工業化時代のテーマを探ろうとする人々」を、中華料理店や博物館、投資銀行の役員室、誰かのリビングなど様々な場所に集め、知的なやり取りをしていたという。

1997年に「リアリティ・クラブ」はオンライン化し、「エッジ」という名前になった。「エッジ」は、一流の研究者・思想家のみが入会を許され、現代の「知的ホットスポット」となっている。本書の「はじめに」で、デイヴィッド・ブルックス(ニューヨーク・タイムズ紙コラムニスト)は、こんなふうに書いている。

【大学など専門の研究機関の存在はとても重要である。あくまでそれが科学研究の基盤となる。体系的で信頼のおける研究は、専門の機関なしでは成り立たないだろう。しかし、専門分野に特化するあまり、現実の世界との関わりが希薄になってしまう恐れもある。(中略)知の世界を活気づけたいと思えば、誰かが研究者たちを専門分野の囲いのなかから外へ引っ張り出さなくてはいけない。それをしたのがブロックマンだった。彼はそのためにエッジ財団を設立した】

つまり、この「エッジ」でやり取りされていることは、科学・思想の最前線だ、ということだ。

本書は、そんな「エッジ」のメンバーに対して出題されたお題(毎年の記念号で問いを投げかけるのだという)の151名分の回答集である。そのお題とは、

『人々の認知能力を向上させうる科学的な概念は何か?』

である。これに対する回答は様々だ。目次から、各執筆者のタイトルで気になるものをいくつか抜き出してみよう。

【地球に似た惑星は数十万もある―地球外生命体の存在(J・クレイグ・ヴェンター)】
【ブラックホールのなかで情報収集はできない―思考実験(ジノ・セグレマン)】
【iPadを使ってコンテンツを作る人が少ない理由―メディアとテクノロジーに潜むバイアス(ダグラス・ラシュコフ)】
【クモに噛まれて死ぬ人は1億人にひとりもいない―確率計算能力の上げ方(ギャレット・リージ)】
【オックスフォードの学生の90%が間違えた論理クイズ―優れた思考法の共通点(リチャード・ニスベット)】
【イタリアに行くと身振り手振りが大げさになる―脳のなかの無数の「自分」(ダグラス・TR・ケンリック)】
【人間の一生は何秒?―10のべき乗(テレンス・セジュノスキー)】
【なぜ「赤ずきんちゃん」は正確に語り継がれるのか―文化的アトラクター(ダン・スペルベル)】
【人は鉛筆の作り方さえも知らない―集団的知性(マット・リドレー)】
【プロレスの観客はリアリズムを求めていない―ケーファイ(エリック・ワインスタイン)】
【なぜ自爆テロリストは男性ばかりなのか―性選択(デヴィッド・M・バス)】

メンバーには、科学者や大学教授などが多いので、やはり科学・哲学・テクノロジー・思想などの話が多い。しかしメンバーには、記者や建築家、ブロガー、芸術家など様々なタイプの人がいるので、学問的な高度な話ばかりでもない。書かれていることすべてが面白いとは思わないが、知らなかった知識、発想したことのない見方、意外な罠など、知ってよかったと思える話も多かった。各人に分量の制約は設けられなかったようで、長い人もいれば短い人もいる。

さてでは、本書を読んだ上で、僕としても多くの人に知ってほしいと感じたことをまず取り上げよう。それらは、知識や考え方としては本書を読む前から大体知っていたけど、世間的には知られていないし、知らないことがマイナスになるなぁ、と僕自身感じることである。それは、「科学の捉え方」「リスクの評価と確率」「相関関係」の3つだ。

「科学の捉え方」については、多くの人が触れている。いくつか抜き出してみよう。

【科学は絶え間なく続く近似の連続であり、自分はそのなかの一部であると認識しているのである。彼らは皆、自分のしているのは現実の秘密の暴露ではなく、現実のモデルの構築だとわかっており、常に自分のしていることに確信の持てない状況を受け入れている。自分が今、立てている仮説は正しくないかもしれない、データと照らしたら謝っていると証明されるかもしれないと単に疑っているだけではない。絶えず真実に近づく努力をしながらも、絶対的な真実にたどりつくことは永遠にないと理解している】(キャサリン・シュルツ)

【「科学的に証明されている」という言い方をする人は多いが、実はこれは非常に害の大きい言い方である。まず言葉として矛盾している。科学にとって大切なのは、常に懐疑に対して扉を開けておくことだからだ。
科学においては、あらゆることを常に疑う必要がある。特に「当然」だと思うこと自体を疑う必要がある。そうするからこそ、私達は物事をより広く、深く知れる。
だから、優れた科学者は決して何かを「確信」したりはしない。むしろ、確信を持たない人間の出した結論のほうが、確信を持っている人間の結論よりも信頼できる。優れた科学者とは、より良い証拠が見つかった場合、あるいは誰かによって斬新な主張がなされた場合、即、それまでとは違った観点で問題を見直せる人だ。確信を持つことはまったく有用でないばかりか害悪になる。確信は信頼性を下げるだけだ。
確信を持たない市井を理解できる人は少ない。社会が愚かな方向に進んでしまいがちなのはそのせいであることが多い】(カルロ・ロヴェッリ)

【科学者は真実を追究するもの、真実を見つけ出すものと思われていることが多い。これは科学についてのよくある誤解だ。科学者は真実を探しているわけではない。
科学者はモデルを作り、それを検証するだけだ】(ニール・ガーシェンフェルド)

【科学は、誰かの誤りを証明したり、自分の絶対的な正しさを証明したりするものではない】(ニール・ガーシェンフェルド)

【まったく知らなかった事柄や事象を発見するのが科学なので、先行きが不透明なのは当然である。それはまったく弱点ではない。バグがあるのが仕様だ。予想を裏切られることは問題ではなく、科学を改良するチャンスの到来と言える】(ニール・ガーシェンフェルド)

【科学は暫定的なものなので、常に新たな証拠に照らして見直そうとする。権威に反抗的で、誰でも貢献できて、誰もが間違えていい。積極的に問題を試そうとし、不確かな結果しか得られなくても構わない。こうした特色のおかげで、科学的手法は物事について調べる方法として比類なきものとされている】(マーク・ヘンダーソン)

また本書ではある人物が、「自分が何をしているかわかっているのだとしたら、それは研究とは言えない」というアインシュタインの警句を紹介している。

多くの人が「科学」というものを捉え間違っていて、そのせいで科学と上手く接することが出来ていないと思う。「科学」という名のブラックボックスに何かを放り込めば白黒はっきりする、というイメージは間違いだし、科学で「正しい」とされたことが500年後もずっと正しいと信じるのも間違いだ。こういうことが理解できると、科学的な記述の真偽の判断や、科学者の発言を正しく捉える役に立つと思う。

また、この「科学」の捉え方に関しては、「不確実性」に言及する人も何人かいた。「不確実性」と聞くと、なんだか悪いものに聞こえるだろう。「確実ではない」ということだからだ。しかし、ローレンス・クラウスは、

【不確実性は科学にとって「核」と言ってもいいほど大切な要素である】

と書いている。

【使う数値が「正確」と言えるかどうかは、その数値をどう利用したいかによって変わる。たとえば、明日何時何分に日が昇るかを知りたいのであれば、先にあげた地球と太陽の距離の数値は十分に正確と言える。しかし、衛星を太陽より少しだけ上の軌道に送りたいなら、もっと正確な数値が必要だろう。不確実性が重要というのは、こういう理由からだ。何かを発言するとき、あるいは予測するとき、そこに不確実性がどの程度あるのか定量化できない限り、発言や予測の影響力、重要性をほとんど知ることはできない】(ローレンス・クラウス)

また、「不確実性」について科学者が一般の人に正しく伝えられていないせいで、こんなことも起こる。

【豚インフルエンザ、鳥インフルエンザ、遺伝子組換え作物、幹細胞…テーマが何であっても、一般の人たちのする議論は、科学者にとって心地よいものからはほど遠くなってしまう。科学の研究には失敗がつきものであるにもかかわらず、コミュニケーションの失敗のせいで、一般の人たちは科学者の失敗に極端に不寛容になる。たとえば、核移植の技術が「クローン」の技術だと理解されたせいで、研究が何年もの間停滞した】(オーブリー・デグレイ)

本書を読んで、「科学」というものの捉え方を見直してほしいと思う。

「リスクの評価と確率」の話も、非常に重要だ。そもそも、

【人間は元来、確率を理解するのが非常に苦手な生き物なのだと思う】(セス・ロイド)

と、セス・ロイドは書いている。だから、

【最先端の科学研究、テクノロジーにリスクと利益の両方があるとき、一般の人たちは不合理なほどにリスクに注目してしまう。これは、未知のものに対する恐れの感情が大きいためだろう。現状の変化によって利益と危険が生じるならば、変化を起こさないほうを選んで危険を避けようとする。】(オーブリー・デグレイ)

ということになる。しかし、

【この態度は長期的には良くない結果をもたらす。たとえリスクはあっても、変化を受け入れたほうが、長期的には生活の質が向上し、寿命も伸びるだろう】(オーブリー・デグレイ)

ということなのだ。

また、人間は、

【めったに経験しないが、経験すると感情を大きく動かされる出来事は、経験する確率を過大評価してしまう】(セス・ロイド)

という特性がある。福島第一原発事故の放射能、9.11のテロ、そして今世界中で蔓延しているコロナウイルス。もちろん、どれも「死」の危険はある。しかしでは、その可能性がどの程度高いのかということを客観的に判断できているかというと、なかなかそうはいかない。

アメリカでは9.11のテロ後、「テロ対策のため」という理由で様々なものが導入された。たとえば、アメリカの空港に導入された後方散乱X線検査装置などだ。しかしこれは、X線による健康被害があるのでは、という話も出ている。テロ対策のためにこの検査装置を導入することは、果たして合理的だろうか?

【空港での後方散乱X線検査装置の話に戻るが、テロリストによる攻撃で死に基準率は、私たちが日々ためらうことなく行っているさまざまな行動で死亡する確率よりも低い。ある調査によると、その基準率は、空港での検査装置を通ったせいでがんになる確率とほぼ同じだという】(キース・デブリン)

本書には具体的に書かれていないが、「私たちが日々ためらうことなく行っているさまざまな行動」というのは、例えば「歩道を歩く」などだ。交通事故による死亡確率の方が圧倒的に高い。また何かの本で読んだが、アメリカでは、銃で亡くなる子どもよりも、プールで溺れて亡くなる子どもの方が多いという。

もっと身近な話では、「クモに噛まれて死ぬ人は1億人にひとりもいない」がある。

【たとえば、クモを見たとき、私たちはどういう気持ちになるだろうか。恐怖心を抱く人は多いのではないか。恐れの程度は人によって違うが、だいたいの人は怖いと思うに違いない。しかし、考えてみてほしい。クモに噛まれて人が死ぬ確率はどのくらいだろうか。クモに噛まれて死ぬ人は平均して年に4人未満である。つまり1億人にひとりもいないということだ。
これくらい少ないと、怖がる意味はまずなく、怖がることが逆に害になってしまう。ストレスが原因の病気で亡くなる人は、年に何百万人、何千万人といるだろう。クモに噛まれる可能性、噛まれて死ぬ可能性は非常に低いが、クモを恐れたことによって生じたストレスはあなたの死亡確率を確実に上げてしまう】(ギャレット・リージ)

こういうことをきちんと理解し、確率的な捉え方が出来るようになれば、そこまで誤った行動を取ることはなくなるだろう。

【現代社会は安全対策に大枚をはたいているが、その真意は、リスクを減らすためではなく安心を得るためにある】(ロス・アンダーソン)

【「危険」は証明できても「安全」は証明できない】(トム・スタンデージ)

さて最後の「相関関係」だ。英語には、「相関関係は根拠ではない(Correlation Is Not A Cause)」の頭文字を撮ったシナク(CINAC)という言葉があるらしい。この話を核スーザン・ブラックモアは、相関関係と因果関係を混同する実例をいくつか書いている。「仮に、トマトケチャップを食べる量が多い子供の方がテストの成績が悪いという事実が明らかになったとしたらどんな原因が考えられるか」「仮に、占星術師や霊能者によく相談する人のほうが長生きするという事実が発見されたら、どんな原因が考えられるか」などを、講義で話すと、最初は見当違いの意見が噴出するという。ちなみに、前者は「貧しい家庭はジャンクフードを食べる機会が多い」、後者は「占いなどは女性の方が好きだから」となる。

ここで大事なのは、「相関関係」があってもそれが「因果関係」とは限らない、ということだ。「トマトケチャップ」と「テストの成績」に相関関係が発見されても、「テストの成績」の原因が「トマトケチャップ」である、ということが確定するわけではない。ここを混同すると、様々な誤解が生じうる。

頭の良い人でも間違える。正確には覚えていないが、日本のどこかの役所が、「朝食を食べると成績が良くなる」というキャンペーンを行った、という話を以前何かの本で読んだ記憶がある。実際に、「朝食を食べる子供の成績は良い」というデータは存在する。しかし、「朝食を食べるから成績が良い」わけではないのだ。朝食が当たり前に出てくる家庭は、子育てや家庭内の教育もきちんと行われる。一方、家庭環境が悪いとそもそも朝食は出ない。朝食を食べるかどうかではなく、朝食が出てくる家庭環境であるかどうかの違いなのだ。これも、覚えておくべき事柄だろう。

他にも、「収入がある一定以上に増えても、幸福度は同じようには上がらない」「インターネットの構造がひとりでに生まれたように、誰かがデザインしたような複雑な構造も勝手に生まれうる」「名前をつけると分かった気になる」「危機に直面するまで人間は動かない」などなど、知っておくと生き方や物の見方が変わる話は非常に多い。

個人的に興味深かった話は、「予測コーディング」「経路依存性」「ブラック・スワン」「カコノミクス」の4つだ。

「予測コーディング」は、脳が世界を捉える際の方法だ。以前は、外界から入ってくる情報を脳がつなぎ合わせて世界を認識する、と考えられていた。しかし今では、

【自分の周囲の世界を正しく認識するには、この先受け取るであろう感覚情報を的確に予測する必要がある】(アンディ・クラーク)

ということが分かっている。つまり、「これからこういう情報を受け取るだろう」と予測し、その予測と違った情報が入力された場合にエラー信号が出る、という。これによって、感覚器からの情報が正確なだけでは正しい世界認識が出来ない、ということが分かったのだ。予測がどれだけ適切かが重要なのだという。

「経路依存性」は、

【今当たり前、もしくは不可欠に思われているものの多くは、過去のどこかの時点で理にかなった選択として始まり、その後、その正当性が失われたにもかかわらず生き残っている事実を表す言葉】(ジョン・マクウォーター)

である。これではなんのことは理解しにくいだろうが、非常に分かりやすい例がある。キーボードの配列である。あの非論理的としか思えないキーボードn配列は、生み出された当初は合理的な理由があった。しかし機器の改良によって、その配列である必然性は早い段階で失われたという。しかし、一度定着してしまったものを変え、後戻りする余地はもうなかった。だからあの配列が定着しているという。言語の変化などは「経路依存性」でほとんど説明できるらしいが、書き手は、

【私に言わせれば、人生のほとんどは経路依存性で説明できる】(ジョン・マクウォーター)

と書いている。

「ブラック・スワン」というのは、

【普通はまず起こらず、極端に大きな衝撃を与え、沖田あとにしか予測できない事象のこと】(ビノッド・コースラ)

であるが、こういうものの存在をきちんと認識することで、時代遅れの社会通念に多額の資金をつぎ込むリスクを減らせると書き手はいう。「ブラック・スワン」は、いつどんなタイミングで起こるか分からないが、しかし起こることを前提に準備しておかないと、その「ブラック・スワン」によって衰退してしまうテクノロジーに投資することになってしまうかもしれない。

「カコノミクス」は、

【質の低い商品を渡す見返りに、質の低い商品の受け取りを実際に求める】(グロリア・オリッジ)

である。なんでこんな行動が成立するんだ?と、この文章だけ読むと感じるだろう。しかし、具体例を読むと非常に納得する。それはここでは触れないが(あまりにも非合理的な行動なので、納得感を与える形で短く説明するのは難しい)、確かに僕もそういう行動をしている、と感じる。こういう行動原理が存在するのだ、ということをきちんと理解しておくことも大事だろう。

というわけで、本書に書かれている内容のほんの一部にしか触れられなかったが、時代の最先端にいる天才たちが、「人々の認知能力を向上させうる科学的な概念」を151個も提示してくれる作品だ。まさに「読むだけで頭がよくなる」一冊と言えるだろう。

ジョン・ブロックマン編「天才科学者はこう考える 読むだけで頭がよくなる151の視点」

パンと牢獄 チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート(小川真利枝)

【メディアの報道では、「釈放されれば、一件落着」としがちであるが、その後に続く日常がどれだけ苦しいものか、そのことを知ってほしいと強調する。人々は、ある現象に対して瞬間的に熱狂して盛り上がり、そしてすぐに忘れていく。ドゥンドゥップは、自分や名もなき元政治犯たちが忘れ去られていくことに、焦燥を感じているようだった】

以前本で読んで、なるほどと感じたことがある。今自分が感じている不安とどう向き合ったらいいのか、という対処法について書かれている箇所で、「半年前、あなたは何に不安でしたか?」と自分に問うてみることを勧めていた。確かに、ずっと同じことで悩んでいる人もいるだろうし、そういう人のためにはならない対処法だが、案外人間は、その時その時の瞬間的に囚われている。半年前に不安を感じていた対象を今思い出せないとしたら、今まさに感じている不安も、半年後にはきっと忘れているだろう。だから大したことはない、というアドバイスだった。

これは、不安の解消という側面からは良いことだが、ドゥンドゥップのような人間にはマイナスだ。

全体で見れば、世の中は以前と比べて、少しずつ良くなっている。たった50年前との比較であっても、様々な事柄が劇的に良くなっているはずだ。しかしだからと言って、世の中から問題が無くなっているわけではない。世界のあちこちに、問題がある。

チベット人を取り巻く環境もそうだ。1949年に毛沢東率いる中国共産党が中華人民共和国の建国を宣言してから、チベットはずっと厳しい環境に置かれている。

僕は、なんとなく耳にしたことはあるものの、本書を読むまでチベットの苦境についてきちんとは知らなかった。こういう時僕は、恥ずかしいという気持ちになる。こういう問題を知らなくて恥ずかしいと思う。だから、一瞬、強く関心を持とうと思う。ただ、その関心が持続しないことも知っている。僕は、すぐに忘れてしまう。

だから、ドゥンドゥップのような立ち上がって行動した人物ももちろん凄いと思うが、自分が直接関係を持たない事柄について、自分ごとのように関心を持ち、関わり続けられる人も凄いといつも感じる。

本書の著者もそういう人だ。確かに成り行きという要素は大きいが、彼女もまた、学生時代のチベットへのバックパックをきっかけにチベットに関心を持ち、ドゥンドゥップの妻であるラモ・ツォと長い関係性を築き、結果的に、世界中が関心を持っている事柄について、誰も知り得なかった証言を聞くことが出来た。

【歴史的な事柄をインタビューできるという興奮と緊張からカメラを握る手は震え、汗がにじんでいた】

【独白は、いまだ世界中のどのメディアにも語られていないことだった。男は警戒心が強く、取材を受けても詳細をはぐらかしてきたからだ】

声を上げた人間は、いつだって勇敢だ。最も称賛されるべき人物だということに疑いはない。しかし、声を上げた人間に関心を持ち続けることもまた、声を上げた人間と同等に称賛されるべき行為だと感じる。声が上がるだけでは、世界は動かない。その声に反応して、自分ごとであるかのように関わり続ける人間が不可欠だ。

僕は、自分がそういう役割を担えるタイプじゃないだろうと思っている。ただ、こうやって本を読んで、そういう人たちの奮闘を、知らない人に少しでも伝えることは、これからも続けたいと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、「政治犯の妻」であるラモ・ツォを中心に、彼女の夫が一体何をしたのか、チベットを取り巻く状況はどうなっているのか、家族はどのようにして再会を果たしたのか、などについてドキュメンタリー作家が描く一冊です。著者は、ラモ・ツォを主人公にした『ラモツォの亡命ノート』というドキュメンタリー映画を撮影・公開しましたが、本書はその背景を文章で語るもので、著者の初の著作です。

【この空気感をありのまま表現できたらと、映画では、情報を極力省いて編集した。情報量の少なさから、映画を観た人の中には、蜘蛛の巣のような穴あき映画だと思われた人もいるかもしれない。本書はその真逆、情報を丁寧に書き記し、その穴を埋める作業に徹した】

本書を説明するためには、チベットがどういう状況にあり、その中でドゥンドゥップが何をしたのかを書く必要があるが、まずは著者とラモ・ツォの出会いの話から書こう。

著者は学生時代のチベット訪問から関心を持つようになり、【このとき、チベット人を主人公にしたドキュメンタリー撮影してみたいという思いの種が、私の心に蒔かれた】という。その後、テレビの制作会社に就職した著者は、予定調和的な仕事に辟易し、学生時代に抱いたチベット人のドキュメンタリーの撮影をしようと会社を辞めた。日本のテレビ局では、日中関係への配慮から、チベットを扱った作品を制作することは非常に困難なのだ。

また当然、チベットでの撮影も困難だ。学生時代の旅行で、時々中国の公安が抜き打ちで検問に来るし、著者は中国経由で日本に帰る際、バッグの中に『クンドゥン』という映画のDVD(ダライ・ラマ十四世を描いたもの)が入っているのを忘れていて、それが荷物検査で見つかったことで、危うく重罪で逮捕されるところだったという経験があった。

だから撮影は、インドのダラムサラで行うことにした。ここは、ダラムサラ十四世が亡命した地であり、多数のチベット難民が住む地であり、すべてのチベット人にとっての憧れの地であるからだ。

ラモ・ツォとは、そこで出会った。ラモ・ツォもまた、チベット難民だった。ラモ・ツォは、元々は裕福な家庭で育ったが、チベットの激変により一家の財産が奪われたことで学校に通えなくなってしまう。そのため、チベット語の読み書きもできず、英語もヒンディー語も喋れない。そんな彼女が、異国の地で、家族7人を養っていくために出来る仕事は、パン売りだけだった。彼女は、深夜と言っていい時間からパンを作り始め、それを売ることで生計を立てている。

著者がラモ・ツォに惹かれた理由は、ギャップだ。道端では物怖じせずにパンを売る姿が印象的だった。その初めて会った時点では、まだ「政治犯の妻」だということは知らなかった。それを知ったのは、ダラムサラ在住の日本人からある映像を見せてもらったことによる。『Lhamo Tso Behind the Sea(ラモ・ツォ、悲しみの湖をわたって)』というその映像は、チベット難民の女性の自立支援をする団体「チベット女性協会」が作ったもので、夫・ドゥンドゥップが政治犯として逮捕された後、残された家族にインタビューしたものだ。その中でラモ・ツォは悲しみや憤りを語り、著者には「可哀相な政治犯の妻」に見えた。その姿と、パンを売る時の姿が結びつかず、その違和感を確かめたくて、著者はラモ・ツォを追うことに決めた。

そこから10年近くもの間、断続的にラモ・ツォと関わることになり、ラモ・ツォにとっての転機となるタイミングには常に傍で撮影をしている、という状況になったのだ。2017年12月25日に、サンフランシスコ国際空港で10年ぶりに再開した家族の撮影に至るまでに、様々なことがあった。そしてそれから、これまでラモ・ツォを通してしか存在を知らなかったドゥンドゥップに、世界の誰も出来なかったインタビューが出来ることになったのだ。

では、そんなドゥンドゥップは一体何をしたのか。その説明のためには、少しチベットの歴史を辿る必要がある。

中国共産党が中華人民共和国の建国を宣言してすぐ、「チベットを解放する」という名目で中国人民解放軍が東チベットへ侵攻した。当時、ダライ・ラマ十四世は任命されたばかりで、チベットの政治と宗教の最高指導者となるべく教育を受けている途上だった。十四世は国連に窮状を訴えるが手は差し伸べられず、結果的に、市井の人々の願いを受けて十四世はインドへと亡命する。十四世は、インドのダラムサラへとたどり着き、そこで雑貨店を営んでいたN・N・ネルジー(今では「ダラムサラの父」と呼ばれている)の尽力もあり、ダラムサラは政府からチベット亡命政府の拠点に相応しいとお墨付きをもらった。

一方、チベットはどうなっているのか。中国からの弾圧を受け、チベットでは、ダライ・ラマ十四世の写真を持つことさえ禁じられている。『旅の指さし会話帳65 チベット』には、

【ダライラマの写真を渡すのが外国人にとっても違法であることを知った上で、持っている写真をあげるかどうか決めるのは、ご自身の判断でよいと思います】

と書かれている。また、逮捕される前、歴代ダライ・ラマの言葉やチベットの歴史に関する「発禁本」の出版にも関わっていたドゥンドゥップはこう語る。

【発禁本を出版しようと思ったのは、ラサへ戻ってからさまざまな矛盾に気づいたからでした。テレビでは、ダライ・ラマ十四世が悪魔だと放送していました。新聞には、十四世が多くの嘘をついていると書かれていました。亡命社会は貧しく、人々は物乞いのような生活をしているという報道もありました。「十四世は、外の世界で相手にされておらず、影響力もない。中国へ帰りたいと懇願している」と。当時、十四世はノーベル平和賞を受賞してまもないときだったのに…。ですが、チベットで暮らすほとんどの人は、そんな事実を知りませんでした】

そこで彼は、ある映像を撮影することを計画する。『恐怖を乗り越えて』と題され、2008年の北京オリンピック開催直前に公開されたこの映画は、チベット人に「五輪について、どんな思いを抱いているか?」と問うものだった。この映画によって、「国家分裂煽動罪」で逮捕され、6年という刑期を言い渡されることになる。

この映画でインタビューに答えているのは、市井のチベット人だ。そんな彼らにドゥンドゥップは何よりも、「ダライ・ラマ十四世について、どのように考えているか」を問うことを重視した。

【なぜなら、中国は「チベット人がダライ政権に反対している」と喧伝していたからです。実際はどうでしょう。映画でも明らかなとおり、私たちは世代を越えて、十四世を信仰していました。私がインタビューした人は、チベットで暮らす普通の人です。その人たちは、共通した苦しみを抱え、十四世を慕っていました。物理的にどれだけ支配されようが、心は支配されていない。このことを証明したかった。と同時に、実際に撮影をして、私が最も心を打たれたことでもありました】

この点はまさに、チベット人がこの映画のインタビューを受けた理由にも現れている。この映画が公開されることで、逮捕・拷問される可能性がある、と伝えると、彼らは、「この映像をダライ・ラマ猊下が観てくださるなら、死んでも悔いはない」と言って撮影に応じてくれたという。

この『恐怖を乗り越えて』は皮肉にも、ドゥンドゥップが政治犯として逮捕されたことで注目を集め、世界中で公開された。そして、ドゥンドゥップの解放運動や、中国に対する「フリー・チベット」抗議活動の中核となった。ドゥンドゥップは、獄中にいながら、「国際報道自由賞」を授与され、世界に広く名前が知られたが、しかしそうなったことで、釈放された後も自宅軟禁が続くことになる。

【当時、チベット人自身がカメラを回し、本土に暮らすチベット人の切実な訴えを記録するという行為は、下手をすると命を落とすほど危険なことであり、非常に稀なことだった。道端でカメラを構えているだけで逮捕されるような時世だ。さらに、その映像を国外に持ち出し公開するのは、海外へ自由に出ることのできないチベット人にとって至難の技である。しかしドゥンドゥップは、その二つを、中国当局が最も警戒していた北京五輪開催直前にやってのけたのだ】

ドゥンドゥップがいかに凄まじいことを成し遂げたのか、よく理解できる文章だ。

本書の後半では、逮捕され労働改造所(刑務所より厳しいとされる)に収容されたドゥンドゥップの、獄中での、そして釈放されて以降の体験が語られる。著者自身がカメラを回しインタビューしたが、長年、誰のことも信じられず生活を続けてきたドゥンドゥップの猜疑心は非常に強く、3日間に渡ったインタビュー期間中、毎日、「インタビューは受けたくない」から始まったという。確かに、そういう振る舞いになってしまうのも分かるような、壮絶な体験が語られる。とはいえ彼自身、他の政治犯よりマシな扱いだった、という印象も持っている。それは、外で自分の解放運動をしてくれたお陰だろうとも。

ドゥンドゥップは、裁判中も収容されてからも、「分裂を企んだこと以外は認める」という立場を崩さなかった。行為そのものはすべて自分がやったことだと認めたが、動機は分裂を目的としていたわけではない、ということだ。労働改造所では、この部分の改心を図り、様々なことが行われたが、すべて突っぱねたため、例えば1乗しかない部屋に84日間も閉じ込められることになったりした。著者が、どうしてそんな状況に耐えられたのかと聞くと、こう返す。

【私たちは仏教徒だから、どんなときも心は落ち着いているのさ。カルマ(業)を信じているからね。どんなことだって我が身に起こるべくして起こる必然なのだ、と。もともと仏教では、現世は”苦しみの大海”であるという教えがある。だから、刑務所での生活が”苦しみの大海”のなかにあるのだと考え、やりすごしていたのさ】

僕は、宗教というものにポジティブな印象をあまり持てない人間だが、こういう逆境下における強さみたいなものに惹かれる部分もある。

さて、冒頭で引用した「人々はすぐに忘れる」という文章だが、これは、獄中にいた時よりも釈放されてからの生活の方が苦しかった、という話の流れで出てきたものだ。どこに行くにも公安と連絡を取らなければならない。姉と妹は既に公安の洗脳によって、自分を極悪人だと考えていた。日常生活の中で関わる人にも公安から指導が入るので、人がどんどんと離れていく。また、亡命する際には、共に映画の撮影をした仲間へのこんな思いもあった。

【そのなかには、逮捕された人もいれば、逮捕されなかった人もいますが、一様に当局の監視下にあります。私だけが自由を手に入れることが許されるのか、何度も思い悩みました】

勇気を出して声を上げた人間が、真っ当な人間として生きられる世の中であってほしいと思う。

ラモ・ツォは、2008年に夫の逮捕をダラムサラで聞いてからしばらくの間、夫とはまったく連絡が取れなかった。釈放されてからも、自宅軟禁中だったこともあって、当たり障りのない会話しかできなかった。そういう中でラモ・ツォは、めげることなく、「政治犯の妻」として生きる覚悟を決める。

【ラモ・ツォは、”政治犯の妻”として、また”故郷を追われた亡命者”として、声をあげていく覚悟を決めた。夫が自由の身となり、再び抱きしめてくれるその日まで】

【もし、夫が映画をつくってなかったら…なんて考えない。今は今しかないのだから】

そんな彼女は、自身のことを活動家ではなく「生活者」と語っていたという。夫がやったことに賛同しているし、チベット人に対する思いもある。しかし彼女は、まず生活者として家族を守ることを最優先にする、ということだ。またチベット人の間では「焼身抗議」という、自らの体に火をつけて抗議を示すやり方を続いている。これは誰も傷つけないことから、「非暴力の究極の抵抗」と称賛されることがあるが、ラモ・ツォはそれに与せず、命を大切にする方法を模索すべきだと考えている。チベット人を弾圧する中国人に対しても、「中国人にも色んな人がいる」と、一括にして批判することを良しとしない。こういう、抑制の利いた力強さみたいなものを、ラモ・ツォからは常に感じる。

だからこそ、ラモ・ツォがドゥンドゥップと再会するシーンは、一層胸に迫ってくる。

チベット人を取り巻く環境は、最近また厳しくなっている。チベット難民の聖地だったダラムサラだが、インド政府が政治的な立場を変えたことで「チベット人排斥運動」が起こるまでになっている。またこれは日本も同じ立場だが、強国となった中国に忖度して世界中のメディアが十分な報道をしていないという。最近では、同じく中国での、ウイグル自治区での弾圧も問題になっているが、日本ではあまり報道されない。

知らないことには関心が持てないし、仮に持っても、飽きっぽい僕たちはすぐに忘れてしまう。しかし強者は、そういうことをきちんと理解していて、傍若無人に振る舞う。そういう態度は、好きになれない。だからやっぱり、少しずつでも、多くの人が関心を持たなきゃいけないんだなと改めて感じさせられた。

小川真利枝「パンと牢獄 チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート」

「架空OL日記」を観に行ってきました

これなら何時間でも観てられるな。
メチャクチャ面白かった!

これは褒め言葉なんだけど、この映画には「空気感」しかない。
それが凄い。
ストーリーらしいストーリーはない。教訓も主張もない。スペクタクルもどんでん返しも号泣もない。観ている観客は爆笑するけど、でも映画そのものの中に爆笑はない。日常が描かれるけど、「架空」とあるように、厳密にはこの映画は日常ですらない。

そういう意味で、ホントにこの映画には何もない。唯一あるのが「空気感」だけだ。

で、この「空気感」がとにかく凄い。映画は映画で楽しみながら、頭の片隅のどこかでは、この映画マジでどうやって撮影したんだろう?ってずっと思ってた。こんなナチュラルで作為性を感じさせない「空気感」を、どうやったらカメラに収められるんだろう?と。メインで描かれる5人のワチャワチャした感じが映画の中心になるのだけど、演技してる感じがまったくないし(まあそれは役者としては当然だと言われそうだけど、そういうことではないんだよなぁ)、場面によっては、アドリブに爆笑しちゃったテイクをそのまま使ってるんじゃないか?ってのもあった(トイレ内での、◯◯さんの✕✕まではセーフ、って話とか)。この5人が、普段から一緒に働いてて、その合間合間にこういうやり取りを何気なくいつもしてるんだろうなぁーという「空気感」が凄かった。

しかも、「ナチュラルで作為性を感じさせない空気感」とか言ってるのに、全然ナチュラルじゃない要素がある。バカリズムだ。この映画では、バカリズムが主人公役なのだけど、特段女装するわけでもなく(服装は女性のものだけど)、「バカリズムが女性の服を着ている」というそのままの出で立ちで劇中にいる。ナチュラルなわけない。でも、それがナチュラルに見えるんだよなぁ。不思議。まあ、そもそもこの「架空OL日記」ってのは、バカリズムが名前を伏せて、どこかにいるOLのフリをしてネットに書いてた日記が元になってるんだから、あの「空気感」の中にバカリズムが入り込んでいることに違和感を感じる”はずがない”のかもしれないけど、それにしても、不思議な光景だった。

とにかくそんな風にして、この映画には「空気感」しかない。それだけで映画一本成立させてしまうのも凄いし、それがずっと観てられるくらい面白いっていうのも凄い。また、「空気感」で映画を成立させると決めたとして、それが実際にカメラに収められていることが凄い。「空気感」なんて正直、捉えどころがないし、努力して出そうとするとむしろ消えそうなものだし、一人では出せないものだ。しかも、撮影期間がそれなりに限られているだろう中で、数年間同じ職場で働いていてずっとくだらない話をし続けてきた「空気感」を短期間で作り上げて、それをある程度維持しつつ撮影を続けるってのは、メチャクチャ難しかったんじゃないかなぁと思う。

そういう意味で、ちょっと凄まじい映画だった。もちろん、ストーリーや映像表現や役者の熱演で魅せる映画も凄い。けれどこの映画のように、ストーリーも装飾も熱演も全部剥ぎ取って、極力力を抜いているように見せながら、「5人組という一つの個性」を丁寧に慎重にみんなで育てていくような映画って、あんまり観たことがなかったから、非常に新鮮だった。観ている途中に、『セトウツミ』っていう映画を連想したし、今、以前書いた『セトウツミ』の感想を読み返したら、やっぱり「空気感」って単語を使ってたけど、でもやっぱりちょっと違うかな。『セトウツミ』は、主人公が男同士だから、もちろん共感もあるけど、どうしても議論とかツッコミとかそういう方に行きがちな気がする。こちらは女性同士だから、共感がメインだし、「5人組という一つの個性」という大きな塊が見えるような気がした。

書けることはあまりないけど、内容にもざっと触れておこう。
メインとなるのは、「みさと銀行」で働くOL5人。基本的には、主人公の<私>が書いた日記、という体で物語は進んでいく。
一番気が合うのはマキ。路線は同じだけど、乗る駅が違うから、会社のある駅で待ち合わせて一緒に向かう。サエは2人よりも年下で、ちょっと空気が読めない時がある。サカキさんとコミネ様は先輩。サカキさんは、「使ったスポンジの泡をすすがない」などちょっと細かな指摘をするけど、仕事は出来るし慕われている。またコミネ様(何故か「様」がつく)は、ある種のお調子者で、予想を越えた行動をする。盛り上げ役でもある。
この5人が、日々の些細な事柄にあーでもないこーでもないと話をする。「冬の月曜の朝問題」について議論し、「朝礼の立ち位置が違う問題」では【真実よりも矛先】という名言が飛び出す。更衣室の充電問題を解決する電源タップや、「J」と呼ばれている副支店長と行きたくもないラーメン屋に行った際の”復讐”、警察が強盗役をする防犯訓練、バレンタインなどなど、本当に日常の中のどうってことのない瞬間を切り取っては、その絶妙な「空気感」を展開させていく。
というような話です。

ホントにメチャクチャ面白かったんだけど、自分が面白いと思ったこの感じをこれほど言語化できないものかと感じさせられたのは久しぶりです。どうにも上手く、面白さを伝えるやり方が分からないなぁ。ホントにこれは、あの絶妙な「空気感」を醸し出すことに成功した役者の方々の大勝利と言えるでしょう。

ホントは、劇中で出てくる色んなエピソードを書きたいんだけど、難しいのは、それはここで文章で書いても全然面白くないんだよなぁ、ということ。どのエピソードも、言葉で切り取っちゃうと、たぶんそんなに面白くない。あの5人が、あの「空気感」の中で、ワチャワチャとやり取りしているから、どうでもいいことも面白くなるわけで、だからやっぱり、エピソードだけ単体で切り取っても、たぶんダメなんだよなぁ。

一つだけ書いておくと、映画を観始めてすぐに、この映画どうやって終わるんだろうなぁ、というのが気になった。なかなか難しかったと思うけど、終わり方は、ちょっとしっくり来ないなぁ、というのが正直なところ。いや、じゃあどうすべきだったんだ、と言われても困るんだけど、なんかもっとベストなやり方があるんじゃないかなぁ、と思ってしまった。個人的な希望では、この5人の関係には、始まりもなく終わりもなく、なんだかずっと永遠に続いていくんじゃないかと思わせるような終わらせ方でも良かったなぁ、という気がします。それが、この映画が醸し出す「空気感」に合ってる気がしたり。まあどうなんでしょうね。

とにかく、そんなラストのことは大した問題じゃなくて、メチャクチャ面白かった!

「架空OL日記」を観に行ってきました

クスノキの番人(東野圭吾)

僕は、言葉が好きだ。何かを伝える手段として、言葉を、一番信じている。

他の能力がなかった、ということもまああるかもしれない。音楽や絵や演技など、他の伝える手段の才能を感じる機会があったり、それらにのめり込むきっかけがあったとしたら、また違ったかもしれない。けれども僕は、やはり、そういう感覚的な伝達手段よりも、言葉の方が好きだ。

人類は、神話によって大人数を支配するために言葉を生み出した、という話を聞いたことがある。もちろん、何かを記録するためにも言葉は用いられるが、記録のために言葉が生まれたのではなく、生み出された言葉を記録にも使った、という説なのだそうだ。クジラは鳴き声で会話をするだろうし、クジャクは羽の色や大きさで威嚇する。嗅覚でやり取りする生物もいるだろう。しかし、結果的に地球上を支配したのは、言葉を生み出した人類だった。それは、言葉による力が大きかったのではないかと思う。

言葉がなければ、歴史も哲学も数学も生まれない。「知識」というものを言葉によって伝達し続けてきたからこそ、人類は他の生物には不可能な進化を遂げてきたのだろうし、これからも、それが進化と呼べるものかどうかは別として、人類はさらに変化していくことだろう。

僕自身の実感としても、言葉を突き詰めることで物事の解像度が上がる印象が常にある。例えば伝わりやすい例で言えば、虹の色数の話がある。日本では、虹は7色だが、世界各国には、確か4~8ぐらいまで、様々なパターンが存在する。視覚情報としてはまったく同じものを見ているはずなのに、どんな言語体系で育ったかによって、脳内での認識のされ方が異なる。

僕は、フランス語の「パピヨン」の話も好きだ。フランス語では蝶のことを「パピヨン」と呼ぶが、蛾も同じく「パピヨン」だそうだ。日本人からすれば、蝶と蛾はまったく別物だが、同じ言葉で呼んでいるということは、フランス人には蝶と蛾は同じ括りのものとされているということだろう。

こんな風に、言葉の違いによって、世界認識に差が生まれる。言葉にこだわればこだわるほど、世界はより細密に見ることが出来る。それは、伝達に関しても同じだ。こだわればこだわるほど、より細密に相手に伝わる。

しかし、そんな風に、言葉のことが好きだから感じることもある。それは、言葉というのは、どこまで言っても近似値に過ぎないな、ということだ。そしてそのことがもどかしく感じられることも、やはりある。

世の中に存在するモノや概念はすべて、言語によって表現できると言っていいだろう。というか、言語学の世界では、言葉が生まれることで初めてモノや概念は存在するようになる、という。目の前に、何でもいいが動物が一匹だけいれば、ただ「それ(It)」と呼べばいい。しかし、別の動物が現れれば、それらを区別するために名前をつける必要がある。その時に初めて、「犬」や「猫」と言った存在として世の中に誕生する、というのだ。まあそういう細かな話はともかく、世の中のモノや概念はすべて言語化可能だ。

しかしそれらは、正確には表現できない。例えば、自分が飼っている猫がいるとする。それはただの「猫」ではない。「10年飼っている猫」であり「捨てられていたのを拾った猫」であり、「◯月◯日にあんなことをしてくれた猫」である。そういう言葉をいくら積み重ねてみても、まだ足りない何かは残る。

そんなわけで、それがどんなものであれ、言葉によって正確に表現する不可能だ。まあそれは、音楽でも絵でも演劇でも、どんなものでも不可能だろう。結局僕らは常に、近似値でしかやり取りをすることが出来ないのだ。

人類は、不可能を可能にする挑戦を続けることで、ここまで進化し続けてきた。江戸時代の人たちからすれば、僕らが生きている世の中は魔法の国のようなものだろう。そう考えれば、遠い未来、現代を生きる僕らが「魔法の国だ」としか思えない世の中が実現している可能性はありうる。

そうなった時、モノや概念を、僅かな正確性も取りこぼさずに誰かに伝えることが出来るようになっているなら面白い、と思う。そうなった時、人類は歴史上初めて、言葉を手放しうるのではないかと思う。

内容に入ろうと思います。
直井玲斗は、実に奇妙な状況に置かれていた。彼は今、月郷神社の社務所に寝泊まりをしている。境内の掃除をしたり、大きなクスノキにいたずらをされないように見張ったりするのが日課だ。しかし少し前までは、警察の留置場にいた。紆余曲折を経て、住居侵入や窃盗未遂などの容疑で捕まっていたのだ。
しかし、亡き母の母、つまり祖母のはからいもあって、玲斗はそれ以上警察の厄介になることなく釈放された。見知らぬ弁護士が尽力してくれたのだが、それにしても不思議だ。祖母は、そんなスマートな対応が出来る人ではないからだ。弁護士は、依頼人の指示に従っていると言い、その人物に会いに行くようにと命じた。
それが、ヤナッツ・コーポレーションの顧問である柳澤千舟という老女だった。玲斗には覚えはなかったが、彼女の方は幼い頃の玲斗に何度かあったことがあるという。玲斗はそれまで存在すら知らなかったが、彼女は、玲斗の母・美千恵の異母きょうだいだというのだ。
彼女は、詳しい事情はさほど知らせないまま、玲斗に月郷神社の管理を命じた。断るなら、かかった弁護士費用をすべて負担してもらうという、脅しのような状況だった。しかし、待遇は悪くない。風呂はないが社務所で寝泊まり出来るし、とある事情から臨時収入もある。
彼に与えられた最大の役割は、「クスノキの番人」だ。この神社のクスノキの木は、パワースポットとして有名で、昼間に噂を聞きつけただろう一般客がよくやってくる。しかし、千舟が玲斗に頼んだのは、夜の話だ。
夜、このクスノキには、人びとが集まる。教わっていないので玲斗には彼らがなんの目的でやってくるのか不明だが、彼らはとにかく「祈念」をしているという。しかし「祈念」が何なのかは知らされていない。千舟はとにかく、やってくる者に蝋燭を渡し、きちんと「祈念」が行われるよう管理することが求められた。
まったく何をやらされているのか分からないまま管理人を勤める玲斗だが、「祈念」の管理をする中で彼らと関わりが出来てくるようになる。
一人は、頻繁に「祈念」にやってくる佐治寿明の娘である優美。彼女は、父親の浮気を疑って調べている中で、このクスノキにたどり着いたという。もう一人は、和菓子メーカーの『たくみや本舗』を経営する大場家の跡取りの一人である大場壮貴。彼は「祈念」がうまく出来ないことで焦りと苛立ちを感じている。
「祈念」について少しずつ理解を深めていく玲斗は、一方で、千舟に連れられるまま、ホテル事業を手掛けるヤナッツ・コーポレーションと少しずつ関わるようになるが…。
というような話です。

東野圭吾の作品を読む度に、安定して面白い物語を生み出すものだよなぁ、と感心します。とにかく、物語としてとても良くできている。本書も、読み始めは、一体これがどういう展開になるんだろう、と思ってたのだけど、かなりたくさんの人物が出てくる物語でありながら、人物のついても難なく頭に入ってくるし、結構な分量のある物語なのに、スイスイ読ませてしまう。本書に登場するクスノキの力については、それがどんなものであるのかはっきり分からない序盤の時点で、合理的に解釈できるものではなく、超常現象の類だろうと推察できるんだけど、じゃあそれを物語の中心に据えて一体何をどう展開させようとしてるのかは全然想像がつかないんですよね。一応序盤からしばらくの間は、「玲斗がクスノキの謎を追う」「優美が父親の謎を追う」という軸で物語が進んでいくんだけど、途中から、重要なのはそこではない、ということが分かってきます。もっと大きな枠組みの中で全体が構成されているわけです。

途中で、玲斗が気づく形で、クスノキの力の謎は明らかになるわけですが、しかし物語としてはそこから第二幕が始まる、と言った感じです。そしてそこからさらに、佐治家と大場家の物語が重要になってきます。正直初めは、大場壮貴の物語はそこまで主軸として扱われないだろうと思ってたんですけど、そうでもないんですね。「クスノキの力」が何であるのかが明らかになることによって、佐治寿明と大場壮貴の行動にさらなる不可解さが出てくることになる。そして、それらが明らかになっていくことで、本書の背景に、大きな大きな人間の物語が横たわっていることが明らかになる。こういう構成は見事だなと思いました。

クスノキの持つ力から、佐治寿明と大場壮貴の物語を導き出す、という発想が凄くいいなと思いました。ともすれば本書は、「クスノキの力」を核に据えた、ワンアイデアの物語になってしまいがちだと思います。連作短編集のような構成にして、クスノキに「祈念」にやってくる幾人かの人物を描く、というやり方もあったでしょう。でも本書では、「クスノキの力」を中心に据えることで、様々な人間の想いや願いや希望をかなり壮大に描くことが出来ている。特に、認知症になってしまった母に対して、施設内であるイベントを行うという展開になる佐治寿明の物語は、よく考えたもんだよなぁ、と思いました。「クスノキの力」を、最も絶妙な形で描き出すアイデアと、それを最後のシーンにまで結実するための設定が素晴らしいと思いました。

また本書が良いのは、玲斗の成長物語にもなっている、ということです。本書では、「クスノキの秘密を知らされていない」という意味で、玲斗はある意味部外者的な立ち位置からスタートします。というか、千舟と玲斗はほぼ他人みたいなものだし、玲斗とヤナッツ・コーポレーションはもっと関係ないという状態です。玲斗自身も、水商売で働いていたシングルマザーの母親に育てられ、母親の死後、色々職を転々とするも、些細な不幸が積み重なって結局犯罪に手を染めるところまでいってしまう。玲斗自身は、そういう人生で仕方ないと考えているわけですが、真っ当な社会との接点があまりにも少なかったわけです。

しかし、千舟という、現在では顧問に退いているとは言え、大企業のトップとして辣腕を振るっていた女性と日々関わりを持つことで、少しずつ地に足がつきはじめる。その上、千舟にどこまでその意図があったのか判断が難しいところはあるけれど、玲斗は千舟が想像する以上に、人間として成長を遂げる。そしてその過程に納得感がある。登場時、あと少しで刑務所行きだったという人間が、最後なかなかの大舞台で大演説を振るうまでになるのだけど、そこまでの成長過程に違和感がない。確かに、千舟という女性と普段から関わり、また謎の力を持つクスノキの管理という捉えどころのない仕事をする過程で、こういう変化はあってもいいだろうなぁ、と思わせる説得力がある感じがします。

この物語を成立させるためには、若干特殊な設定が必要で、その辺りで多少の都合の良さみたいなものを感じないわけではないけど、それは重箱の隅をつつくようなツッコミでしょう。謎の力を持つクスノキがあった場合に起こるかもしれない可能性を組み合わせて、一つの大きな世界観を生み出している、非常に良く出来た作品だなと感じました。

東野圭吾「クスノキの番人」

#柚莉愛とかくれんぼ(真下みこと)

ルトガー・ブレグマン『隷属なき道』という本の冒頭に、こんな文章がある。

【ここでは、足りないものはただ一つ、朝ベッドから起き出す理由だ】

現代は、過去と比べれば、比べ物にならないほど安全で清潔で豊かになっている。しかしそんな世界に唯一足りないものが「朝ベッドから起き出す理由」だということだ。

分かるような気がする。

既に、物質的には、程度の差こそあれ、多くの平均的な人が満たされている。もちろん、ブランド物のバッグを持ちたいとか、良い車に乗りたいとか、さらに上を目指すことは出来る。でも、あくまで僕の感覚的にだが、そういう物質的な豊かさみたいなものは、あんまりもうみんな望んでいないように思う。服も車もサブスクリプションの時代だし、「所有」よりも「シェア」の方が賢いという価値観がかなり広まっている。スマホさえあれば、仕事も生活も娯楽も全部完結してしまうような人だってたくさんいるだろうし、これからさらに、そういう価値観が広まっていくことだろう。

そういう世の中では、何が「羨望の的」として扱われるか。

それは、「みんなから良いと思われる」ということそのものだ。

もちろんこれは昔からあった。誰かに認めてもらうこと、それ自体を、自分の言動のモチベーションにするというのはあった。ブランド物を持ちたいのは、もちろん品質に惹かれてということもあるだろうが、「ブランド物を持っている私」が認められるからだ。

しかし、以前と大きく変わったことがある。それは、「どれぐらい良いと思われているかが可視化され、数値化され、誰でも見ることが出来る」ということだ。これは、SNSを念頭にした表現だ。SNSという、「自分への評価を可視化・数値化する装置」の登場で、「みんなから良いと思われる」という動機は、それまでとはまったく別次元のものとなった。

それまでは、「良いと思われている私」というのは結果だった。その結果に自分で満足するか、あるいは周囲の人にちょっと自慢するぐらいが関の山だった。しかし今は、「良いと思われている私」を一つの過程として、「『良いと思われている私』が多くの人に知られている私」という結果を得ることが出来る。そして、良いサイクルに乗れば、この入れ子構造は、永遠に重ねることができる。

そしてこれは、現実的には永遠に満たされない欲求だ。もちろん、世界中すべての人にフォローされる、「いいね!」を押される、なんてことになれば、そこが終着かもしれないが、現実的にはそんなことはあり得ない。だから、「良いと思われている私」を望んでスタートラインに立ってしまえば、そこから、永遠に終わることのない、そして永遠に満たされることのない道を歩き続けることになる。

こんな時代に、「みんなから良いと思われることそのもの」が仕事であるような職業は大変だ。もちろん、YouTuberなどは、こういう時代だからこそ生まれた職業であり、以前とのギャップ、みたいなものはないだろう。しかし「アイドル」というのは、こういう時代になる以前からあったものだ。今までを『アイドル』、今を【アイドル】と表記すると、『アイドル』を目指していたのに、【アイドル】が求められている、というギャップに苦しさを感じることもあるだろうと思う。

【どうして私、アイドルなんてやっているんだろう。
ずっときれいでいる。彼氏を作らない。男友達とも会わない。キスシーンのあるドラマは断る。ファンと嬉しそうに握手をする。いつも笑顔でいる。短いスカートを穿く。そのために高いお金をかけて脱毛をする。ブランド品は持たない。安い化粧品を使っているふりをする。誰のため?いつまで?】

誤解を恐れずに言えば、以前の『アイドル』は、容姿や歌・ダンスなどは一旦脇に置いて、「一般的な人とはまったく違うレベルで人に見られる人生を選んだ」という選択そのものが成り立たせていたのではないか、と思う。普通に生きていれば、自分の身の回りの人だけを相手にいていれば良かった。しかしそこに留まらずに、可能な限り多くの人に見られるという選択をすることこそが、『アイドル』の要件だったのかもしれない。

しかし今は、ごく一般的な人でも、世界中の人に見てもらえるツールを持ち、世界中の人に見てもらえるコンテンツの配信が可能だ。そういう時代にあっては、「一般的な人とはまったく違うレベルで人に見られる人生を選ぶ」という行動を取ることがそもそも不可能だ。一般人でさえも、かつての『アイドル』と似たようなレベルで、他人からの注目を集めようとし、実際に集めることが可能だからだ。

そういう時代に求められる【アイドル】は、一体どうあるべきだろうか?可能な限り多くの人に見られるという選択だけでは【アイドル】の要件を満たせないとしたら、他に何が必要だろうか?

本書に、その答えがあるわけではない。しかし、そういう問いを突きつける作品だと感じた。

内容に入ろうと思います。
青山柚莉愛は、アイドルグループ「となりの☆SiSTERs」のセンターだ。「セルコエンターテインメント」という事務所が開催したアイドルオーディションで、選ばれたのは如月由香ちゃんで、「ソロアイドルの最終形態」と呼ばれるぐらいの人気を博している。その後、最終候補者だった10人の中から柚莉愛、南木萌、江藤久美の三人がバックダンサーとして選ばれ、今は事務所に所属しながらメジャーデビューのために奮闘している、地下アイドルのような存在だ。
結成から二年。当初は「いつか武道館で」とか言っていたけど、最近は言わないようにしている。仕事と言えば、Twitterのリプライ、動画配信、握手会、ツーショット会、ハイタッチ会、そしておまけのようなライブぐらい。来年、高校三年になる。グループがこのまま売れなければ、勉強が苦手な柚莉愛の進路は真っ白だ。
マネージャーは東大出身の田島さんで、マーケティングを上手くやって由香ちゃんを売り出した。「となりの☆SiSTERs」のことも色々考えてくれてるだろうけど、でもなかなか上手くいかない。そんな中、田島さんからある提案があった。気分的には、やりたくない。何かマズイことになりそうな予感がある。でも、田島さんに見限られたくない。デビューできない苦しみに比べたらへっちゃらだ。これで憧れの人と肩を並べられるなら。そう思ってやったのに…。
<僕>は、自宅のパソコンからひたすらネットを見ている。「@TOKUMEI」というハンドルネームをずっと使っている。以前「となりの☆SiSTERs」の青山柚莉愛に、「アヒル口は似合わないからやめた方がいい」とコメントしたら、それ以来しなくなったのに味をしめて、以後<僕>は柚莉愛専属のアドバイザーのつもりでいる。運営の無能さに辟易しつつも、そんな運営の目を覚まさせてやろうと考えている<僕>は、ある日柚莉愛の配信を見た。動画配信中に柚莉愛が血を吐いて倒れたのだ。状況が理解できないでいるネット民のために、<僕>はこの件を“炎上させてあげよう”と決意。ツイートし、リプライし、まとめを作り、状況を見守る。世間にほとんど知られていなかった「となりの☆SiSTERs」が、煙しかないようなところから、見事炎上していく様を、<僕>は見届ける…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。現役大学生による作品だそうで、現代感みたいなものは凄く感じました。「アイドル」や「SNS」がモチーフの作品では、その「現代感」は非常によくマッチしてると感じました。むしろ、本書のような「現代感」がないと、本書のようなテーマの作品は成立しないだろうな、と。別のテーマで作品を書く時、著者がどんな書き方をするのかというのは興味深いんだけど、この作品に関していえば、非常にピッタリだったと思います。

僕が「現代感」と感じたのは、「見られ方への意識」と「見せ方への意識」です。まさにこういう部分は、「アイドル」や「SNS」と相性が良いです。現代人は、「自分をどう見せるか」「自分がどう見られているか」ということを、アイドルじゃなくてもみんな考えてる。そして、その辺りの意識を非常に上手く言語化していると僕は感じました。

【昨日、お母さんと同い年の女優がInstagramに自撮りを載せて「おばさんのくせにイタい」と叩かれていた。私も、いつかはそうなる。誰かの目を木にして等身大以上の自分を演出するのは今と変わらないのに、誰かによって冷静に線を引かれて、アウトだと認定される】

【ネットで顔出しする人の気持ち悪さって、朝の情報番組のお天気コーナーで映りこもうと必死な人たちのそれと似ている。】

【こういう企画にしてもCDのタイトルとか歌詞にしても、周りの大人たちが必死に作り上げた完成品を見せられて、私たちは「いいですね、がんばります」と言うだけで、それに何か私たち自身の考えを加えることなんてできない。こんなのやりません、なんて絶対に言えない。なのに決定したのは私たちだということになっていて、雑誌とかライブでは、大人が作り上げたものをあたかも自分たちが作ったかのように話さなくてはいけない】

【インターネットで自分が第三者であることをアピールするには、してみました、という表現が適している。踊ってみたとか歌ってみたとかだって、誰に頼まれたわけでもないのに自分の必死な努力の成果を公開する気恥ずかしさみたいなものをごまかすためにつけた名前なのかもしれない】

こういう表現が作中に様々にあって、著者の眼差しの鋭さがを感じる。もちろん、本書を読んだ人は、「こういうことぐらい自分だって考えてた」と感じるだろう。でも、考えてることと、言語化することは、全然違うことだ。こういう、誰もが「そうだよね」と思うようなことをきちんと言語化出来るのは、かなり能力が高いと僕は感じる。本書にも、マネージャーの田島の言葉として、こんなセリフがある。

【人を引き付ける言葉って、意外と普段何回も見ているものなんだよ。それをあえて曲のタイトルとかに持ってくると、え?ってびっくりするでしょ】

著者も、誰もが感じていながら、明確に言語化しないようなことについて、「ちゃんと気づき」「拾い上げ」「共感をまとわせつつ言語化する」ということをしていて、こういう描写の積み重ねが、本書が共感されやすいだろうという要素になっていると思う。

さらにこういう描写は、先程も書いたけど、見られ方を考える「アイドル」や、見せ方を考える「SNS」などと非常に相性が良くて、テーマと書き方が非常にマッチしていると感じた。

ストーリー自体は、ちょっと触れにくいことが多いのであまり深入りして書かないけど、本書では、主に青山柚莉愛の口を借りて、「アイドルのしんどさ」みたいなものが描かれていく。僕も冒頭の方で、『アイドル』と【アイドル】の違いとして少し触れたけど、本書では、アイドルの大変さについて、かなり具体的に描写をしている。

その中でも大変だと感じるのは、「早い段階で将来を決する必要があること」と「周りの大人を信じる以外にないこと」だ。

アイドルというのは、どうしても年齢的な制約があって、その制約の範囲内で多くのチャンスを掴もうとすれば、かなり早い時点からアイドルを目指すしかない。小学生とか中学生ぐらいで、他の進路を一切断つわけではないけど、その気概でアイドルの道を進まざるを得なくなる。柚莉愛も、アイドルの活動を頑張ることで、当然勉強はおろそかになり、今から大学進学を目指すのはちょっと難しい状況だ。アイドルを続けることが、他のあり得る可能性を少しずつ奪っていく。そういう中で、必ず上手くいくとは言えないアイドルの道を進むしかない、というのは、本当に大変だと思う。

あと彼女たちは、まだ大人になりきれていない年齢であることが多いので、周りの大人の言っていることを信じるしかない。自分がある程度大人になれば、自分の知識や経験から良し悪しが判断できるようなことも、年齢ゆえに知識も経験も少なく、またアイドルという特殊な世界にいるがゆえに普通の常識が通用しない中で、自分の周りにいる大人の言っていることを信じるしかないというのは仕方ないことだろう。

そういう、アイドルのリアルな苦悩もきっちり描き出していて面白い。

「見せ方」と「見られ方」の狭間で煩悶する人たちの奮闘を、ダーク&ポップに描き出す作品です。

真下みこと「#柚莉愛とかくれんぼ」

「ひとくず」を観に行ってきました

つい最近読んだ、内田樹『サル化する世界』の中に、こんな文章があった。

【相互支援の共同体を立ち上げるというのは、基本的には行政の支援を当てにするのではなくて、私人が身銭を切って、自分で手作りする事業だと僕は思っています。「持ち出し」なんです。そうじゃなければできません。「これだけの価値あるものを自分は提供したのだから、それと等価のものを返して欲しい」というような消費者マインドでは無理なんです。贈与なんです。】

【私利の追求を抑制し、私有財産の一部を差し出すことで、はじめてそこに「みんなで使えるもの」が生まれる。私人たちが持ち寄った「持ち出し」の総和から「公共」が立ち上がる。はじめから「公的なもの」が自存するわけではありません。公的なものは私人が作り出すのです】

「虐待」への対処は、行政では不可能だと感じる。

もちろん、行政は、やれる範囲のことを全力でやってほしい。行政のやっていることが無意味だなんて言いたいわけではもちろんない。
しかし、行政が法律の範囲内でやれることは限られている。

だから僕は、この物語の設定には、ある種の希望をもった。
「私人」と呼ぶにはあまりにも身勝手で暴虐な人物ではあるが、しかし、「私人」による「持ち出し」によって、子どもを虐待から救おうとするその設定には、可能性を感じた。

僕は夢想する。カネマサが、マリの”父親”になれる可能性について。

法律は、それを許さない。それを仮に許してしまえば、社会の他の部分に何らかの歪が生まれうるだろうことは分かっている。
それでも。
マリにはカネマサが必要なのではないか。

カネマサは、確かに「善良」な私人ではない。むしろ、善良さからはかけ離れた存在だ。しかし、ある意味では、だからこそマリを救うことが出来た、とも言える。カネマサの存在なしに、マリが救われた可能性はあるだろうか?もちろん、ゼロではない。しかし、救われる可能性と同程度には、「虐待」によって命を落としてしまう可能性だってある。

繰り返すが、カネマサは確かに、法律上許容されない存在ではある。しかし、「カネマサが法律上許容されないこと」と、「カネマサがマリの”父親”として傍にいること」が、なんとか両立されないだろうか、と願ってしまった。

そんなことを願わざるを得ないくらい、「虐待」というのは残酷で、解決が困難だと感じる。普通の、真っ当な、お行儀の良いやり方では立ち向かえない。

誰だって、子どもの命が失われてしまえば、「もっと自分にも何か出来ただろうか」と考えるだろう。しかし、必ずしもその子の命が失われると確定したわけではない時には、やはり積極的に手は出せない。手を出せるのは、ある意味で、法律を超越することを厭わない人間だけだ。

社会はカネマサを許容しない。しかし、マリがカネマサを許容する、いや、求めるのならば、そこに何か可能性を見出したくなってしまう。

内容に入ろうと思います。
空き巣で生計を立て、競艇に金を注ぎ込み、気に食わなければ人に当たり散らす人間のクズである男は、ある日空き巣に入った家で少女を見つける。少女は、マンションの部屋のドアに外側から鍵を掛けられ、電気もつかない、食べるもののない部屋で学校にも行けずに生活していた。そこに飛び込んだ男は、手の甲の火傷痕や、ゴミ屋敷のような部屋を見て、状況を理解する。男も子どもの頃、かなり手ひどい虐待を受けていたからだ。
男は、少女に食べ物を与え、服を買ってあげ、銭湯に連れて行った。少女に虐待するのが、母親の彼氏だと知った男は…。
というような話です。

とにかくこの映画は、ロクデナシばっかり出てきます。主人公の男も、マリ以外の人間には暴言・悪言を吐きまくるし、他の主要な登場人物も、それはそれはクズみたいな人間ばっかりです。映画が始まって最初の1時間ぐらいは、ひたすら怒鳴り合いみたいなやり取りが続きます。主人公の男のマリ以外の人物への態度が、とにかく最低最悪に酷すぎるので、ある意味爽快ではある、という感じすらします。

そういう中で、虐待を受けているマリを中心にして、学校の先生や謎の悪い男たちも巻き込みつつ、また男の過去の回想シーンなんかも挟みながら展開していく物語です。

この映画の何が凄かったって、主役の女の子です。演技が、メチャクチャ上手い。ビビったなぁ。「小南希良梨」という名前だそうです。とにかく、出演する全役者の内で一番上手かった気がします(木下ほうか、田中要次は、さすがに上手いと思いましたけど)。

虐待を受けたことで感情が喪失してしまってる感じとか、一転笑顔を見せる感じとか、あるいは号泣する感じとか。とにかくどのシーンを見ても、「日常的に虐待を受けていて、それを助けてくれたおじさんに懐いているマリ」という女の子が本当に実在するみたいな感じでした。正直、この子の存在でこの映画は成り立ってる、と言っても言い過ぎじゃないぐらい、彼女の存在感が際立っていました。感情を極大に発散させるのはラストの方だけで、基本的にはあまり感情を表に出せない感じの役だったんで、結構難しかったんじゃないかと思うんだけど、表情とか仕草とかが絶妙でした。

あと、カネマサの子ども時代を演じた子役の男の子も、出番はそんなに多くなかったけど、上手かったなぁ。特に、タバコを手の甲に押し付けられるシーン。実際そんなことされた経験なんてもちろんないだろうに、ホントに押し当てられてるみたいな見事な演技をしてて、メチャクチャ上手かった。

とにかくこの2人が抜群に上手くて、びっくりさせられました。

あとちょっと気になったのは、全体的にメチャクチャ粗い感じの、昭和感のある、古っぽい映像にしてたこと。今別に、安いカメラでももうちょっと綺麗に撮れるだろうから、意図的にああいう映像にしたんだろうけど、なんでなんだろう?舞台設定が昭和なのかな、とも思ったんだけど、スマホもインスタも出てくるから、違うなと思ったし。まあ、映像が綺麗すぎないことが、逆に虐待のある世界をリアルに見せるような感じもしたので、違和感があったとかそういうわけではないんだけど。

虐待は、今もどこかで必ず起こっていて、誰かが助けを求めているだろうけど、そう簡単には助けられない。映画の後の監督・出演者によるトークショーで、監督が、「子どもへの虐待を知って、その衝撃で脚本を一晩で書き上げた。虐待に対しては、多くの人が関心を持つことが対策として有効だと聞いたので、この映画がその一助になれば」と話していた。確かに、社会が関心を持てば、状況は変わる。今のままでは本当に、カネマサみたいな、法律を屁とも思わない人間にしか虐待から救い出せないことになってしまう。

そんな世界に生きているってのは、やっぱりちょっと嫌だなと思う。

「ひとくず」を観に行ってきました

「ホテル・ムンバイ」を観に行ってきました

自分がその場にいたら、どう決断するか、それは、その時じゃないと分からない。
ただいつも思う。
「しなかった後悔」を抱えたまま、ずっと生き続けるのは嫌だな、と。

ただ、同時にこうも考えてしまうだろう。
自分たちとはまったく住む世界が違う大金持ちたちを助けるために、命が張れるだろうか、と。

どうせ死ぬなら、誰かのために死にたい、という気持ちはいつもある。
そもそも、「生きること」にものすごく執着があるわけでもない。
死の恐怖に直面したことがないからこんなことが言えるんだろう、ということは分かっているんだけど、それでも、「まあ別にいつ死んでもいいか」と思っている。
だったら、どうせなら、誰かのためになった上で死にたい気がする。

もちろん、そんな機会はそうそうないだろう。
だからきっと、僕は普通かあるいは普通以下の死に方をするだろうし、まあそれはしょうがない。

しかし。
誰かのために死ねるかもしれない、という状況を前にして、それでもなお決断できるかは分からない。
助けるべき相手を、選べるわけでもないし。

大体、死に直面する状況下は、逼迫している。
だから、相手がどんな人物であれ、「相手を助けるかどうか」などと逡巡している時間はないだろう。
しかし、今回は違った。
ホテルのスタッフたち(全員ではないが)には、選択の余地があった。
「逃げても恥ではない」と料理長に言われ、ホテルから脱出したスタッフの選択は正しい。
相手が金持ちだろうがそうじゃなかろうが、自分の命が助かる可能性が高い選択をするのは当然のことだと思う。

僕があの場にいたら、やっぱり考えてしまうだろう。
助けるべき相手が、金持ちの外国人である、という点について。

僕はきちんと理解している。
僕は別に、人道的・道徳的な理由から、誰かのために死にたいなどと言っているのではない。
そうではなくて、自分の納得のためにそうしたいのだ。
自分が、「誰かのために死ぬことができた」と死ぬ一瞬前に思いたいがためにそうしたいのだ。
あくまでも、自分の都合でしかない。

自分の納得のためなのだから、どうせなら、自分の身近な人、大切な人を助けるためであってほしい。
金持ちの外国人は嫌だなぁ、と思ってしまうだろう。
ただ、そもそも、こんな風に考えている人間に助けられても嬉しくない、という部分もあるだろう。
と考えて、僕はホテルから脱出するかもしれない。
自分勝手な人間である。

僕自身がそういう人間だから、彼らホテルスタッフの奮闘は、やはり凄まじいし、やっぱり自分には出来ないかもしれない、と思う。
本当に、映画を見ているだけで、メチャクチャ怖かった。
何度か、座席から飛び上がったぐらいだ。
「フィクションだ」と分かっていても、こんなに怖いのだ。
実際の現場は、どれほどの恐怖だっただろう。

その中で彼らは、殺される可能性が高いと知りながら自らの意志で残り、宿泊客を可能な限り最後まで守り通した。
うん、やっぱり、僕には出来なさそうだ。

内容に入ろうと思います。
2008年11月26日、インド・ムンバイで実際に起こった凄惨なテロ事件をモチーフにしている。
アルジュンは、2人目の子どもを妊娠する妻と3人で生活している。バラックのような貧しい住まいだが、観光地であるムンバイにあるタージマハルホテルで働き、家族を養っている。タージマハルホテルは100年以上の伝統を持つ格式あるホテルであり、政治家やセレブの御用達となっている。
革靴をどこかで無くしてしまったアルジュンは、服装チェックで料理長のオベロイにはじかれそうになったが、身重の妻がいるのでなんとか働かせてほしいと懇願し、予備の靴を借りてフロアに出た。
この日のVIPは、アメリカ人の建築家夫婦と、気難しい実業家。赤ちゃんを連れてやってきたデヴィッドとザーラ夫妻は、ベビーシッターのサリーと共にスイートルームへ。実業家のワシリーはレストランで、この後のパーティーのための美女を電話で予約している。
いつも通りの夜、のはずだった。
犯人グループは、船でムンバイに着き、CST駅やカフェ・リロパル、タージマハルホテルなどに散った。まずCST駅で無差別の銃乱射、それからカフェ・ホテルと襲撃を続ける計画だ。
彼らは、ホテルのロビーでライフルを用意すると、なんの説明も要求もせず、スタッフや宿泊客を撃ち続けた。彼らは、遠くから電話越しに指示を出すリーダーの声を時折聞きながら、客室にまで踏み込んで殺戮を繰り返す。
レストランでディナー中だった面々を、6Fのチェンバーズラウンジまで案内した料理長は、ここで待っていれば救助はすぐに来るとなだめる。しかし地元警察にはテロ集団には対処できず、特殊部隊はムンバイから1300キロも離れたニューデリーにいて、到着まで時間が掛かることを知らなかった。ベビーシッターのサリーと離れ離れだったデヴィッドは、ザーラを部屋に残し、赤ちゃんのいるスイートルームへと戻ろうとする…。
というような話です。

凄かった。とにかく凄かった。さっきも少し触れたけど、臨場感がとにかく凄くて、スクリーンで見ているだけなのに、ムチャクチャ怖かった。ホラー映画なんかより全然怖い。自分がタージマハルホテルにいるかのような臨場感で、もちろん、実際あの現場にいた人たちが感じた恐怖の何千分の一でしかないけど、その凄まじい恐怖を味わった。

あの現場にいて、人間として真っ当に行動しろ、というのがいかに難しいか、見れば分かる。

そういう中で、タージマハルホテルのスタッフたちは、成すべきことを成した。もちろん、そのすべてが上手くいったわけではない。助けられなかった人もいる。状況を悪化させてしまうこともあるし、誰かを犠牲にしてしまうこともある。しかし、それらはすべて、仕方ないことだ。スタッフも宿泊客も、誰も悪くはない。すべて、テロ集団が悪い。

誰もが、頭の片隅ではそう理解しているだろうが、それでも、やはり近くにいる人間に八つ当たりし、疑い、混乱を伝染させた。自分が宿泊客としてあそこにいたとして、どこまで冷静でいられたかは分からない。

主軸として描かれるのは、スタッフのアルジュンと、ザーラたちだ。特に、赤ちゃんと一緒にいるサリーと、赤ちゃんと離れ離れになってしまったデヴィッド夫妻の描写は、迫るものがある。特に僕は、サリーの恐怖は凄まじかっただろうと思う。あの状況で自分の子どもを守るのであっても相当な恐怖だろうに、サリーに課せられたのは、他人の子を死なせてはならないという使命なのだ。このプレッシャーは凄まじかっただろう。もちろん、サリー自身も死にたくないと思って行動しただろうが、いかに赤ちゃんを死なせないか、ということが、この脱出劇の重要な軸となっていく。

僕が一番印象に残っているシーンは、受付係が電話をしているシーンだ。あれは、あまりに残酷だ。あの状況になってしまえば、ああいう選択をするしかなかっただろう。これを勇気と呼びたくはないが、勇気のある決断だったと思う。映画全体は、かなり事実に基づいた描写だと思うが(生存者の証言に基づいているのだろう、と判断可能なシーンが多い)、この受付係の電話のシーンは、実際にあったかどうかは不明だ。映画的な脚色かもしれない。脚色であってほしい。

映画では、実際の報道映像も多数使われていた。映画の臨場感も凄いが、やはり実際の臨場感は凄まじい。しかし、一つ理解できないことがあった。というか、そんなこと、ホントに報道してたのか?ということだ。ニュースの報道で、「チェンバーズラウンジから多数の宿泊客が脱出する」と報じていた。そして、それを聞いたテロ集団が、チェンバーズラウンジに向かうのだ。犠牲の一部は、この報道のせいではないかと思う。ちょっと信じられなかった。

このテロ事件の後、ホテルは21ヶ月後に修復され、再度オープンしたという。当時のスタッフの奮闘に感謝をしている世界中の人たちが再び訪れたという。

タージマハルホテル襲撃による被害者の半数は、残った従業員たちだったという。

「ホテル・ムンバイ」を観に行ってきました

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)