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ダメ人間・橋本奈々未

2017年2月20日、橋本奈々未は自身の誕生日を目処に、乃木坂46から卒業することを発表した。乃木坂46の初期からずっと第一線で活躍し続けてきた橋本奈々未が果たした役割はとても大きいだろう。さらに橋本奈々未自身も、その聡明さ、あるいは知性によって高く評価されてきた。「アイドルらしくない」と言われる佇まいを見せる橋本奈々未は、その特異な存在感で独自の地位を作り上げたと言っていいのではないかと思う。

しかし彼女は、自分の捉えられ方について困惑する機会が多かったという。

【勉強ができると思われているかもしれないけど、若いときからアイドルを始めた方たちは、仕事でなかなか高校に通えないけど、私は普通に授業に出られていただけ。クールと言われているけど、感情の起伏が激しくて、楽屋ではひとりですごい騒いでいますから。
一番抜け出したいのは「できて当たり前」「しっかり者」というイメージ。本当はダメ人間なんですよ】「アイドルspecial2015」

橋本奈々未を「ダメ人間」だと捉えている人間はいないだろう。あまりにも、橋本奈々未のイメージからかけ離れている。何でもこなし、自分なりの考え方を持ち、常に知性を感じさせる彼女には、あまりにも似つかわしくない。とはいえ、自己認識と見られ方に差があると感じているのなら、その差を埋める努力をしてあげたい、という気持ちもある。

【ただ私は、見た目と中身が、だいぶ違うんですよね。どうしても見た目先行で色々なことが進んじゃうんですけど、あまりイメージと直結させないでほしいなとは思います。クールって言われることが多いけど、中身は全くクールではないんですよ】「アイドルspecial2016」

橋本奈々未は、こんな風にも語っている。

【映画で一緒になったいくちゃん(生田絵梨花)と(秋元)真夏と「アイドルと女優の違い」を話したときに思ったんです。アイドルは自分の色を出して分かってもらうことが仕事。だけど、女優さんは色を付けないのが仕事で、役によって色を付けるから無色でいなきゃいけないんだろうなって。
アイドルの場合はグループの中でキャラができて、それがずっと継続されてしまう。乃木坂46の中にいる橋本奈々未としてはいいけど、それが私の本質だと思われるのはどうなんだろうなって】「アイドルspecial2015」

橋本奈々未は乃木坂46を卒業して、芸能界を離れた普通の社会で生きていく。今彼女は、「乃木坂46の中にいる橋本奈々未」として捉えられている。そして、乃木坂46の卒業と同時に芸能界を去る決断をした橋本奈々未は、「乃木坂46の中にいる橋本奈々未」という捉えられ方から脱する術をほとんど持たないと言っていいだろう。

僕の文章がその役を担えるとは到底思えないが、橋本奈々未を、自身がそう望むように「ダメ人間」というキーワードで切り取ってみたい。今回の記事はそんな動機で書かれている。


【「できて当たり前」みたいに見られても、私は特に何が秀でているわけでもないんですよ。むしろ、できてないことのほうが多いので、「損してるな」と思うときも正直あります。イメージから外れたことをすると「そういうことをするのはおかしい」と言われることもあるんです。何も考えずに書いたブログが深読みされることもあるし、自由が狭まっているのかなと感じることが増えました】「アイドルspecial2015」

繰り返すが、橋本奈々未は自己認識と見られ方の間にギャップを感じていた。僕自身も、冒頭で書いたように、橋本奈々未は何でも出来るし、知性を感じさせる人間だとずっと感じていた。僕は乃木坂46の中では齋藤飛鳥がダントツで好きだが、齋藤飛鳥のインタビュー目当てで買った雑誌の中に他のメンバーの記事があれば読む。その中で、価値観や考え方や言葉のセレクトに最も琴線が触れるのが橋本奈々未だ。だから僕自身も、橋本奈々未を「ダメ人間」だと思ったことなどなかった。

何故そこにギャップが生まれるのか。考えた僕は、こんな結論に達した。
「橋本奈々未は、鎧だと思って身につけたものを武器だと捉えられているのではないか」と。

橋本奈々未は自分自身を、こんな風に捉えている。

【私、もともと自分に自信がないタイプなんですね】「別冊カドカワ 乃木坂46 Vol.1」

【10代の頃は、人と目を合わせられなくてバイトの面接で落ちまくりました。強くなりましたね】「アイドルspecial2017」

【(とあるMVについてのコメントで)私もこのキャラもコミュ障なので通ずるものがありました】「乃木坂46映像の世界」

【私もだよ。めちゃくちゃズボラで気分屋だから、それを理解してもなおグイグイ来てくれる人や、私と同じズボラな人としか仲良くなれない】「乃木坂46×プレイボーイ2016」

乃木坂46にはこういう、自分を低く捉えるメンバーが多いが、橋本奈々未もそうであるようだ。スボラで自信がないコミュ障。そういう自分を指して「ダメ人間」だと評しているのだろう。

そして、そんな「ダメ人間」だからこそ身についただろう力がある。それが「観察力」だ。

「ダメ人間」であっても、何とか生きていかなければいけない。そういう時どうするかは、人それぞれ様々だろう。無理して「デキる人間」という仮面を被る者もいるかもしれないし、引きこもってしまう者もいるかもしれない。橋本奈々未は、「観察する」という方法で「ダメ人間」なりに生きていこうとした、というのが僕の仮説だ。根拠はないのだが、そう考えないと、「橋本奈々未が自身をダメ人間だと感じている」という事実と、「橋本奈々未が他者から圧倒的な知性を感じさせる」という事実が結びつかないと僕は感じる。

まず橋本奈々未は、自分自身を観察した。どんな時に自分はうまくいかないのか、どういう条件で自分は失敗するのか、何が原因で自分の悪い部分が表に出てしまうのか、逆に自分が良く出来るのはどういう時なのか…。きっと彼女は子供の頃から、こんな思考を繰り返していたのではないか。自分が「ダメ人間」であるという自覚があるからこそ、それでもなんとか生きていくために徹底的に自己分析する。自分のことを出来る限り理解することで、自分の弱い部分・ダメな部分を捉え、先回りしてそこを保護する。

そう、橋本奈々未にとって「観察力」は、ある種の鎧として機能していたと思うのだ。自分には良いところなど少ないと感じていた彼女は、高い観察力によって自分の弱さを見極めておく。

そしてその弱さをきちんと「言葉で捉える」ことによって、あらかじめその場所の防御を高めておく。言語化するというのはある意味で「近似する」というのと同じだ。多少のズレがあっても、その弱さをきちんと言葉で捉えることで近似し、分かりやすい形で保持しておく。「体調が悪い」だけでは対処の仕方は無限にあるが、「風邪」「インフルエンザ」「気管支炎」などの病名がつけば対処の仕方がはっきりするように、言語化によってよりシンプルに捉え、対処しやすくし、その場所の防御を高めやすくする。

そんな風にして彼女はなんとか生きてきたのではないか。

しかし、当然と言えば当然ではあるのだが、その高い「観察力」と鋭い「言語化」は、他者に向けられればもの凄く強い武器になる。

乃木坂46に入る以前の橋本奈々未がどんな人間だったのか、僕には知る由もないが、想像力を膨らませれば、乃木坂46に入ってからその武器が顕在化したと考えることも出来る。それまでは、他者に対して観察力が発揮されても、それを披瀝する場がなかった。普段のおしゃべりの中で話すようなことでもないし、コミュ障だと自分で言っている橋本奈々未は、そこまで交友関係が広かったわけでもないのだろう。しかしアイドルになり、しかも乃木坂46のメインとして一線で活躍する中で、橋本奈々未はそれまでの人生で問われることのなかった問いを投げかけられるようになった。それらに対して「観察力」と「言語化」を発揮することで、それらが始めて武器として認識されるようになったのではないか。

橋本奈々未の「メンバー評」は、とても面白い。

【いまの話(※松村沙友理が自身をKYだと語る話)を聞いて思うのは、きっとさゆりんは自分があるからそうなるんだろうなって。自分がおもしろいと思うことだったり、正しいことやまちがってることが自分の中でちゃんと整理がついてるんだよ。その基準で周りで起こることを見て、自分の基準で笑えたり怒れたりするから、結果的に「合わない」と思うことが多いのかもしれない】「BRODY 2016年10月号」

橋本奈々未は、他者の本質を捉え、それを別の人間でも理解できる言葉にまとめ上げる能力が卓越している。それは、「ダメ人間」であるが故に自分自身に向け続けてきた「観察力」が他者に発揮されることによって実現しているのだと思う。

西野七瀬についても、こんなことを書いている。

【西野は「許容範囲が広い」人ですね。人に何かされて「いいよ」っていう意味じゃなくて、例えばですけど、寒くなってきた秋口におじさんが半ソデで交通整理をしているとすると、私だったら「寒そうだな」くらいで終わるんですけど、西野の場合は「あのおじさん可愛い」って感じになるんですよ。「一生懸命、棒を振ってんねんで。可愛いなぁ」みたいな。実際にそういうことがあったわけじゃないんですけど。普通の人だったら、その物ごとに対して特別な感情を抱かなかったり、興味を持たないだろうなっていうことにも、わりと感情を持つというか…。そういう「許容範囲の広さ」が人気なんだと思います】「BUBUKA 2016年4月号」

西野七瀬を「許容範囲が広い人」と捉え、瞬時に例え話も作り出す能力は、やはり図抜けている。

その「観察力」は、何も人にだけ向けられているわけではない。

【でも、何も印象に残らない作品よりは、今でも「あのシーンはなんだったんだ」と議論される作品のほうが、アイドルのMVとしては成功だったんじゃないかと思います】「MdN 2015年4月号」

【私が苦手な部分は誰かの得意ジャンルだったりするので。集団の強みはそこだと思っています】「別冊カドカワ 乃木坂46 Vol.1」

引用したのは乃木坂46に対するものだけだが、橋本奈々未の「観察力」は、事象にも概念にも発揮される。どんな物事に対しても高い観察力を発揮し、それを的確に言語化していく力は、圧倒的な知性を感じさせる。多くの人が持つ橋本奈々未に対するイメージは、こんな風に作り上げられたのだろうと思う。

しかし、だからこそ橋本奈々未はギャップを感じることになる。彼女にとって「観察力」と「言語化」は、「ダメ人間」である自分を生きさせるための手段でしかなかった。しかしそれが結果的に、自分に知性というイメージをもたらすことになった。その違和感を、橋本奈々未は感じるようになっていったのだろう。

【私はもともと普通にパッと発言したことが、深読みされやすい立ち位置にいるらしいので、かなり発言には気をつけてきたんですけど】「乃木坂46×プレイボーイ2016」

【自分が思ってる自分が「自分じゃない」って言われることがあるんですよ。「ななみんってこうだよね」っていうイメージがひとり歩きしちゃうんです。あるひとつのことに周りから見た自分のイメージが付け加えられていって、自分が思った通りにやったことが「それはちょっとらしくない」って言われてしまったり。そうすると「あれ?私って本当はそうだったのかな?」って(笑)。どこからが本当の自分の意志でやっていて、どこまでが周りに求められてやっていることなのか、たまにその境界線がわからなくなることはありますね。その積み重ねによって自分が変わっていってしまうのかもしれないとは感じていて。自分の価値観は大切にしたいけど、それが知らずしらずのうちに外からの力で変わっていくこともあるのかもしれない…うーん、難しいです(笑)】「BRODY 2016年10月号」

こういう怖さは、少しは理解できる。僕も、当然橋本奈々未とは比べ物にはならないが、似たようなことを感じることがある。他者からの見られ方、評価のされ方に怖くなることがある。僕は意識的に、自分の評価を下げるような行動を取ってバランスを取ろうとする。しかし、今や国民的アイドルグループの一員であり、その中でも人気の高い彼女は、外からの自分の評価を自己認識に近づけるような行為を考えなしにすることは許されない。その窮屈さみたいなものも彼女を卒業へと向かわせたのではないか。インタビューの端々からそんなことを感じることがあった。


もう一つ、橋本奈々未を「ダメ人間」として捉える軸がある。それは彼女のこんな発言から読み取ることが出来る。

【これをサービス精神と言っていいかはわからないんですけど、少なくとも私は自分のためにはがんばれないんですよ】「BRODY 2016年10月号」

この発言も、「ダメ人間」というキーワードで捉えることが出来る。僕もそうだが、自己認識が低い場合、そんな自分に対して全力を出すことはとても難しい。「自分のためにはがんばれない」という認識を持っている橋本奈々未が自身のことを「ダメ人間」と捉えているということが如実に現れた発言だと僕は感じる。

【私、自分自身に自信がないので、「私のどこがいいんだろう?」とか「どうして私を応援してくれるんだろう?」って思ってしまうんです。でも、ファンの人やスタッフさんが褒めてくれたり、期待してくれることによって、「この人たちは裏切れないな」っていう思いで、なんとか踏ん張ってここまでやってこれました】「BUBUKA 2016年4月号」

アイドルとして優等生的な発言だと捉える向きもきっとあるのだろうが、本心なのだろうと僕は思う。結果的に彼女は、自分を「押し流してくれる環境」にいられた。乃木坂46のメンバーとして、第一線のアイドルでいるというのは、無数の期待の中にいるということだ。無数の「誰か」のために、という意識は、自身を「ズボラ」とも評する橋本奈々未をきちんと自立させる環境だっただろう。

しかし一方で橋本奈々未は、無数の「誰か」に対してこんな風にも感じていた。

【はい。私は昔から憧れって感情を抱いたことがなくて(笑)。だから羨ましいじゃないけど、自分が必死になれるということは、自分が役に立ってると感じられるということだと思っていて。さっきと同じような話になりますけど、自分がいちばん活き活きして必死になれるときって、自分になにかしてあげてるときじゃなくて、ひとの役に立っていたりひとに求められていることが目に見えてわかるときなんだろうなって思ってます。このお仕事をしていると、どうしてもそれが伝わりづらくて。求めてくれるひとに自分がしたことが与えている影響って、まったく自分があまり知らないところで起こっているわけじゃないですか。だから握手会で「こういうときにこういうことを言ってくれたからがんばれました」みたいに言われるのはすごくうれしいけど、自分の中でまったくリアリティが伴ってこないんですよね】「BRODY 2016年10月号」

無数の「誰か」による期待は、数だけは圧倒的だが、ひとつひとつをはっきり認識することはとても難しい。料理を作って誰かに食べさせる、みたいなことは、自分のした行為とその結果が直結する分かりやすい行動だ。しかしアイドルというのは、大昔と比べれば格段にファンとの距離は近づいたとはいえ、自分のした行為とその結果が強く結びついたと感じる機会が少ない。橋本奈々未はそんな風に捉えている。

【やっぱり私は、働いているべき性格というか「“働くこと”が生きていく上でのモチベーションにつながっていくタイプ」だと思っているんです。だから、お仕事が変わっても、「自分がやるべきことだ。どう貢献できるかな」と考えて、行動していくことが一番嬉しいことになっていくと思います】「乃木坂46×プレイボーイ2016」

僕はどこかで彼女が、「裏方さんのような縁の下の力持ち的な仕事が自分には合っていると思う」というような発言をしているのを目にした記憶もある。そんな彼女の意識は、「サヨナラの意味」のMV撮影の時にも発揮されていたようだ。

【ミュージックビデオの撮影で、初めてセンターの責任を感じました。台風が迫る中、雨に振られてみんながびしょ濡れになり寒い思いをしていたので、「このシーンは雨の中で撮る必要が本当にありますか?」とスタッフさんに聞きました。もしセンターでなければ、寒いけどガマンと思うくらいだったかもしれない。センターとはグループの代表として、周りのメンバーに対してこういう風に感じるんだなと思いました】「日経エンタテインメント!2017年2月号」

また、これは橋本奈々未に限らず乃木坂46のメンバーの多くが口にすることでもあるのだが、MVを始めとした乃木坂46のクリエイション全体に対しても、こんな意識を持っている。

【かわいく明るく撮ることを優先しているアイドルグループは多いと思うんですけど、乃木坂の場合、メンバーは「かわいく撮ってもらいたい」とはもちろん思うんですけど、求められるのはそこじゃなくて作品としての完成度が優先されるというか】「MdN 2015年4月号」

「ロケ弁が食べられると思って」アイドルになった橋本奈々未は、アイドルという「職業」に何か期待を持っていたわけではなかっただろう。そんな環境で「誰かのために」という意識で努力を続けた結果、彼女はトップアイドルになった。「ダメ人間」という意識が、自分で人生を切り開くのではなく、誰かによって求められた道を進むという意識を生んだのだろう。そしてそれを徹底したからこそ、彼女はトップアイドルになれたのではないかと思う。しかし、アイドルとしての階段を駆け上がれば上がるほど、彼女の「役に立っているという実感を得たい」という感覚からかけ離れてしまう。忸怩たる思いがあっただろう。求められる自分と本来の自分の差も激しくなり、自分がどうあるべきか分からなくなっていきもしただろう。

【今は夢も目標もない状態なんですよ。何かしたいことがあるかって聞かれても、何もしたいことがないんです。余計に、今目の前にあることをやるしかなくて。やっていくうちに何か見つかればいいなという感じです。】「アイドルspecial2016」

【色々なことを経験したし、様々な現実を知って、これは自分には難しいなとか、適正がないかなとか判断してきた結果、徐々に選べることが狭まってきた。その中で、自分がこれをやりたいというものに出合えれば、今頑張っている意味はあるのかなって思います。
かつての夢は何一つとしてかなっていない。でも、今もう一度そのときに戻ってやり直したいかというと、そこまでのこだわりもない。だからこの先、新しく何かやりたいということが、きっとまた見つかるはずだと思ってやっています。漠然と何もないところを走るのは、ゴールが見えない中をひたすら走るようなものなので、たまにしんどくなることもあります。それでも家族を支えなきゃいけないという思いがあるので、早く何か見つけたいですね】「アイドルspecial2016」

夢も目標もない、と語る橋本奈々未は、「何でも出来る」「知性的だ」という「乃木坂46の中の橋本奈々未」のイメージに応えるために努力した結果、求められることはなんでもやれてしまう人間になった。「乃木坂工事中」の放送作家の一人が、「橋本奈々未が恥ずかしいことになっているのを見た記憶がない」と語っていたが、本当にその通りだろう。しかし、器用に何でも出来てしまうが故に、「アイドル」という枠組みの中にいる限り夢も目標も見つけられない、と感じるようにもなっていったのだろう。

【めまぐるしい時間のなかで、目の前のことをやりきるのに精いっぱいになり、15年にインタビューでは「夢も目標もない」と言いました。自分自身の新たな夢や目標を持つために卒業する道を選んだのかもしれませんし、前向きに見つけていくつもりです。
漠然と「自分に正直にありたい」と思い続けて生きてきました。それが今の私にとって何よりの目標ですし、ずっと達成していきたい。それを実現するために自分の選択は間違ってなかったと思うし、今後もそれを実現できるよう、日々を過ごしていけたらいいなと思っています】「アイドルspecial2017」

卒業は橋本奈々未にとって、自分を見つめ直す一つの機会なのだろう。「ダメ人間」であるが故に「押し流してくれる環境」に心地よさを感じる彼女だが、しかしその環境に甘んじていては自分自身が失われてしまうとも感じている。「自分に正直にありたい」という目標を達成し、またやりたいことを見つけるためにも必要な手続きだったのだろう。一度離れてみて、結果的に彼女がやりたいことが芸能の仕事だとなれば、橋本奈々未ならいくらでも戻ってこれるだろう(まあ、その可能性は低いと思うが)。

【この5年間で私が乃木坂46でどんな役割を果たせたかは分かりません。メンバーやファンの方が寂しいと感じてくれたり、ぽっかりと穴が開いたと感じる部分があれば、そこが私の果たせたことなのかなと思います】「アイドルspecial2017」

卒業は橋本奈々未をどう変えるか。それを知る術はきっとないのだろうが、乃木坂46を離れてみて彼女が感じることをまた言葉で知りたいなと感じる。

くじ(シャーリイ・ジャクスン)

評価が高い作品だと知って読む場合、自分の感覚が揺らぐことがある。作品の良さをまったく理解できなかった場合、自分の読解力の無さを突きつけられ、どうしていいか分からないような気分になってしまう。

久々に、どこが面白いのか、素晴らしいのか、まるで理解できない作品だった。

22編の短編が収録された短編集なのだけど、読めども読めども面白くない。元々外国人作家の作品を読むのは苦手なのだけど、そういうことを抜きにしても、それぞれの短編の何がいいのか全然理解できない。

本書は、表題作である「くじ」が伝説的な作品である、という紹介のされ方をしているのだけど、その「くじ」も、別に良い作品だとは思えなかった。何故この作品が人々の衝撃を与え、伝説的な作品となっているのか、僕には理解できなかった。

こういう作品を読むと、自分の読解力の無さを感じるのだけど、ホントにこれは僕の読解力の無さが原因なんだろうか…と感じてしまうぐらい、良さがまったく理解できない作品だった。

シャーリイ・ジャクスン「くじ」

崖っぷち町役場(川崎草志)

僕は、田舎で生まれ、いっとき都会で過ごし、また別の田舎に住むことになった。今住んでいるのは、「田舎」というほど田舎ではないが、「大都市」ではない、地方の一都市だ。

本書の面白さは、「地方に生きる」という事象を、「日本全体における戦争の一地点」とみなしたという点だろう。

『「そりゃあやるさ。南予町が生きるか死ぬかのゲームの真っ最中だからね」
「生きるか死ぬ?なんだか大げさな言い方ですね」
「何が大げさなものか。首都も、大都市も、地方都市も、農村も、全部、互いの生存をかけた戦争に突入しているんだ」』

一応誤解がないように先に書いておくが、本書は、タイトルの響きや表紙の雰囲気から想像できるような、地方を舞台にしたライトミステリと言った感じの作品だ。堅苦しいなんてことはまったくないし、難しいことも何もない。ただ本書は、ベースとして、「地方の生き残り」を「戦争」だと捉えるような視点がある、ということだ。

少し長いが、南予町を、そして恐らく全国の過疎が進んだ自治体に共通するだろう問題がぎゅっとまとまった箇所があるので、引用してみたい。

『子どもを産もうとする。しかし、近くに産婦人科の病院はない。子どもが生まれる。子どもはしょっちゅう熱なんか出すが、近くに救急病院はない。さらに、子どもが進学する時にはまた問題が起こる。地元の学校に進学、そして、ここで就職というのなら別だが、大学に行こうとするとそれなりの進学校に入れる必要がある。だが、この町にそんなものはない。それで子供は、この町から出ていく。もし子供が大学に進学したら、その専門知識を生かせるような職場はここにはない。つまり、子供は帰ってこない。沢井さんは、老後は都会に戻るか、田舎で孤独に暮らすかの選択を迫られる。その時期には、再び、医療の問題が出る。衰えた体に病気が出始める。しかし、この町には大きな病院がない。重い病気になれば、八幡浜か宇和島の病院に頼らざるを得ない。さらに重い病気になった人は、松山まで搬送される。都市部に治療に通うとなると、莫大な費用がかかる。その時に収入は年金だけだ』

この発言をしているのは、本書で“名探偵役”を担う、町役場職員の一ツ木だ。彼は南予町とはまるで関係ない余所者でありながら、恩ある人物からの引きでこの町にやってきた。そして、その優秀過ぎる頭脳を生かして、日本中が巻き込まれている生き残り戦争に勝とうと奮闘している男だ。

本書の面白さは、まさにここにある。通常、「探偵役が謎を解く動機」は曖昧にされることが多い。謎を解くことが趣味だから、叔父さんが刑事だからなどなど、色んな設定が存在するものだが、「謎を解く動機」がはっきりしているケースは少ないように思う。

本書は、それが明快だ。一ツ木は、「南予町に人を残し、また人が入ってくるようにするため」に謎を解くのだ。そもそも謎解きなどという面倒なことには関心がない一ツ木は、その目的のために重い腰を上げる。

謎自体は複雑なものではないし、解決策も含めてライトな作品だ。しかし、「何故謎を解くのか」という理由が明快で、しかもその理由が「町を存続させるため」という、今日本中の自治体が直面している現実をベースにしている、というのが、ミステリを非常に現代的な切り口で描いたな、と感じた。

読めば分かるが、本書で登場する謎は、地味だし、解かれてしまえば大したものではないのだが、しかし、「元から住んでいるが故の思いこみ」や「新しく移住した人間だからこその身勝手さ」など、どの地方でも起こっているだろう些細な軋轢をベースにしているというのもとても上手いと思う。そしてだからこそ本書は、「地方に人を呼び、定住させるには何をしなくてはならないのか?」という問いの答えを拾うという読み方も出来ると思う。なかなか良くできたミステリだなと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、愛媛県南予町を舞台にした、7編の短編が収録された連作短編集です。
まずは全体の設定から。
松山の出身だが、祖母が昔から住んでいる南予町へと移り住み、南予町役場で働き始めて2年目を迎えようという沢井結衣は、今日も元気にスクーターで役場まで通勤している。何夜長は、三方を山に囲まれ、一方は海に面し、主な産業は農業・林業・漁業・公務員業という、典型的な過疎の町だ。
結衣は新年度から「推進課」に異動になる。町民から全幅の信頼を集めていた前町長が創設したものだが、突発的な心臓発作により亡くなってしまった。現町長の本倉市は、企業勤めから市長になった人で、町おこし案をひっさげて当選するも、的はずれなアイデアばかりで、役場の人間はうんざりし始めている。
「推進課」が何をする部署か分からないまま向かうと、あと数年で定年を迎える、推進課室長である北耕太郎と、変人と噂が先行する一ツ木幸士の二人が将棋を指していた。一ツ木に至っては、何語なのかも分からない難しい本を読みながら、盤面も見ずに将棋を指していた。
…大丈夫か、推進課…?

「見えない古道」
推進課に、「戦時中に山道を歩いてたどり着いた民家にお世話になったからその場所を探してほしい」というお爺ちゃんがやってきた。探しますよ、と安請け合いをする一ツ木。さらに町長が、「町おこしのために夜に知られていない古道を探せ」と命じてきた。これも安請け合いする一ツ木。しかし一ツ木は、天気予報を見るばかりで、家や古道を探しに行くどころか、推進課から出ようともしない…。

「雨中の自転車乗り」
採算が合わないということで民間バス会社が撤退したために、前市長の時代に町営バスを走らせた南予町。しかし現町長が、誰も乗っていないバスを見かけた、利用状況を調査せよ、と言ってきた。誰も乗っていないバスは、高校からの帰りで使われる路線でよく見られるらしい。高校に通う三人の内一人は、雨の中自転車を飛ばす姿を度々目撃されていて…。

「巫女が、四人」
旧住民と新々住民のトラブルが絶えない。新々住民というのは、現町長が呼び寄せた人たちのことだ。消防団協力費など払わないと言って消防団員と揉め、消防団員の一人が殴られたために訴えると息巻いているらしい。その殴られた消防団員が結衣の幼馴染の菊田君だった。結衣はもう少し待ってほしいと抑える。一方で消防団員は、室町時代から続く秋祭りの神楽で舞う巫女が、練習の時3人のはずなのに4人いた、と言って聞かない。状況が分からないなりにその謎も調べることになったが…。

「至る道」
認知症を患っている吉川のお爺ちゃんがまた行方不明だと放送で流れている。最近多いな。しかしここしばらく南予町には、徘徊している高齢者を見つけるといい事が、家まで連れて行くとさらに幸運が、という噂が流れているからすぐに見つかる。吉川のお爺ちゃんがよくじっと立っている場所は、一ツ木の友人がやっている会社の敷地内にあるのだが、一ツ木の推理で吉川のお爺ちゃんが何故ここにやってくるのかが明らかにされ、ある状況を利用して吉川のお爺ちゃんの徘徊を減らせるアイデアを実行に移す…

「南の雪女」
温暖な南予町に7センチの積雪の予報が。事態を予測し対処しろという町長だが、彼は市長に「自衛隊を要請するかもしれない」と連絡をしていて不興を買う。結衣は何故か雪にざわついた気持ちになる。特に、幼馴染の菊池君の敷地の付近を歩くと感じるのだ。南予町にはかつて、雪の降る日に失踪した女性の話が秘密裏に伝承されていて…。

「空き家の灯り」
植林のイベントを企画した一ツ木だが、このイベントは長く続けられないかも、という。移住促進策だと一ツ木は言うが、実際結衣も、何故植林が移住促進と結びつくのか分かっていない。町議会議員の山崎さんは、そんな植林を含めた移住促進策全般に不満を持っている。余所者が増えること自体を歓迎していないのだ。その狭量な考え方に鼻白む一ツ木。その一方で、空き家に灯りがついているのを不審に思ってその集落まで向かった結衣と一ツ木だったが…。

「夜、歩く者」
前町長が、町外の人に向けた貸し農園を整備したが、現町長がその利用規約を甘々に変えてしまったがためにトラブルが起こっている。敷地内に小屋を建ててはいけない、というルールを取り払ったために、小屋を建てて棲みついている者がいる。一ツ木は、住民票を移しているわけではない人間が住んでいる状況が許せないようだ。一方で、夜一人暮らしの老人が倒れ救急車で搬送されたが、誰が救急車を呼んだのかという謎が残り…。

というような話です。

短編ごとに出来不出来は感じましたが、全体的にはとてもうまくまとまった、よく出来た作品だと思いました。

個人的に好きなのは、「巫女が、四人」「至る道」「空き家の灯り」かな。

「巫女が、四人」は、物語の中心がどこにあるのかが、謎が解かれた後でないと分からない、という物語の構成がとても面白いと思いました。読み進めながら、この話の何が「謎」なのかは全然掴みきれませんでした。殴られた、というのは被害者も加害者も分かっている話だし、「巫女が四人いた」という話にしたって、ただそれだけなら大した話じゃないでしょう。普通なら「見間違い」で終わる話です。しかしやがて「地方に移住することの辛さや悲しみ」みたいなものが明らかになっていくという展開で、うまく出来てるなぁ、と感じました。

「至る道」は、問題の解決の仕方が面白い話でした。推進課は比較的、同時に二つの問題を抱え込むことが多くて、ほとんどの話では、その二つの問題が一つのことを根っこにして同時に解決される、という話なんだけど、この話は、片方の問題を上手く利用してもう一つの問題を解決する、という流れになっています。一方の問題を解決策として使うことで、両方の問題を解決するというなかなかアクロバティックなことをやっている話で
もちろんそうなるように物語の設定を組み立てたんだろうけど、上手いなと思いました。

「空き家の灯り」は、「地方で生きるために大事なこと」の核心の核心みたいなものを感じさせてくれる作品で、その核心を鮮明に描き出すための舞台設定がとても上手い作品だなと感じました。その核心こそまさに、「何故植林イベントをしているのか?」という問いに対する答えなわけなんだけど、結衣を含め多くの人間がその答えをなかなか想像出来ないでしょう。しかしこれこそまさに、「ずっと住んでいるから当たり前すぎて気づかないこと」であり、「移住してきたから気づけるけどその重要さを伝えられないこと」であるという意味で、地方における問題の本質を捉えている話なのかなと感じました。ある意味でこれは、余所者である一ツ木だからこそ捉えることが出来る核心であるとも言えるかもしれなくて、一ツ木が余所者であるという設定も上手く生かされた話なのかなと感じました。

愛媛県でもトップクラスに美人だろうと言われる秘書課の三崎紗奈が一ツ木のことを好きなんだけど、一ツ木があまりにも鈍感で人間に関心がないから全然進展しないとか、「北室長が言うならやりますよ」と従順に従う北室長と一ツ木の関係とか、謎の多い一ツ木の過去みたいな、全編を通じて散りばめられる人間模様もあって面白い。サラッと読める作品ではあるのだけど、考えさせられる作品でもあって、今読んでおいて損はない作品だという感じがします。

川崎草志「崖っぷち町役場」

夫のちんぽが入らない(こだま)

「夫のちんぽが入らない」
斬新すぎるタイトルである。
内容も、まさにタイトル通りだ。恋愛し結婚した男女が、ちんぽを挿入することが出来ない、という謎の状況に陥る。主人公である妻も、夫も、お互い以外が相手であれば普通にセックスは出来る。しかし、何故か夫のちんぽだけが入らない。
そういう、不可思議な小説である。

しかし読み進めていく内に、この「夫のちんぽが入らない」という設定は、実によく出来ている、と感じるようになった。

現実を切り取って何かを伝える時、現実をそのまま引き写しにすると生々しくなることはよくあるだろう。ノンフィクションであれば、ジャンルとしてそうすることが必要とされるが、フィクションであれば、その生々しさは時に、読む上での障害となる。自分や周囲の人間に類する人がいればなおさらだろう。

この「夫のちんぽが入らない」という設定は、その生々しさを絶妙に回避するために優れた手段だと感じるのだ。

世の中には、不妊や、あるいはガンで子宮を切除した方がいる。意志はあるのに、機能的に子どもを妊娠することが難しい人たちだ。「女性は子どもを産んで一人前」みたいな考え方は、一昔前にはあっただろうが、今はもう古いと思っている人は多いはずだ。しかし、そう思っている人が多いはずであるのに、まだ世の中にはそういう雰囲気がしつこく残っている。一人前、とまでは言わなくても、女性だったら子どもを産んで当然、みたいな雰囲気は、未だに様々な場面で見聞きするなと思う。

そして、そういう風潮に苦しめられている女性も、当然たくさんいるのだ。

『女として生まれ、ベルトコンベアに乗せられた私は、最後の最後の検品で「不可」の箱へ弾かれたような思いがした。絶望した。』

『私は失敗作としてこの世に生まれてきたのだと思った。』

本人の意志として、子どもが産みたくて産みたくて仕方ないのに妊娠できない、というのももちろん辛いだろう。しかし、本書で描かれているのはそういう部分ではない。主人公は、特に子どもを欲しいとは思っていない。しかしそれでも主人公は悩む。それは、女性として「不可」「失敗作」の烙印を押されたように感じるからなのだ。子どもを産むか産まないか、妊娠するかしないかによって、女性としてどうなのか、ということが判断されてしまう。

自分の努力で自分の見られ方をコントロール出来るようなことであればいい。自分があまり良い見られ方をしていなくても、自分の努力が足りなかったのだ、と思うことが出来る。しかし、妊娠はそうじゃない。努力云々の話ではないはずだ。自分の力でどうにか出来るようなことではない。

しかし妊娠に対しても、努力というものが問われてしまう。いや、そうではないか。自分に対して押されようとしている「不可」「失敗作」という烙印を心理的に回避するために、努力という言葉を持ち出すしかないのだろう。私は「不可」「失敗作」なんかじゃない。努力していなかったから妊娠出来なかっただけなのだ。努力さえすれば私だって妊娠出来た。だから私は「不可」「失敗作」なんかじゃない…。というように。

『自分が不完全ではないと証明したかったのかもしれない』

夫のちんぽが入らないというファンタジーを導入することで、主人公のような女性の葛藤を直視出来るような形で描き出すことが出来る。不妊や子宮がんを直接描けばどうしても重く生々しくなってしまうところを、どことなく滑稽さを残しながら描き出す本書は、見たくないものにどんどん蓋をする風潮が広がる現代において、苦しんでいる人がたくさんいる現実の見せ方として非常に優れているのではないか、と僕は感じる。

そして本書は、読み方を変えると、妊娠できない女性の問題とはまた違った風に読むことが出来る。

人間はどうしても一人で生きていくことは難しい。必ず誰か、あるいはどこかと繋がりを持ちながら生活をしている。そこには様々な関係性が生まれ、評価が生まれていくことになる。

そして人間が集団の中でどう評価されるのか。本書は、その現実の一つを丁寧に切り取って見せることで、どんな場であれ人が評価される上での理不尽さや不合理さみたいなものを滲ませているのだと思う。

どんな場であっても、本書の主人公が直面するような理不尽な捉えられ方や、本書の主人公が抱くような無用な劣等感は存在するだろう。決して、妊娠に悩む女性だけの問題ではない。そういう場で、どう振る舞い、どう生きるのか。本書は読者に、そういう問いかけもしているのではないかと感じる。

内容に入ろうと思います。

大学進学のためにど田舎の集落から出てきた主人公。夜はヤンキーや熊に支配され、そもそも常に母親の無神経な言動に怯えていた少女は、それらの呪縛から解放されたが、しかし他人と関わることが苦手であることには変わりはないままだった。双葉荘という名の安いアパートに住むことになった主人公は、そこで後に夫となる男と出会う。後の夫は、主人公が絶句して身動きが取れなくなるくらい急速に距離を詰め、しかしそれを不快に感じさせない男だった。兄妹のような関係を続けながら、二人はやがて結婚する。
お互いに一緒にいて居心地がいい相手であり、伴侶として申し分ないのだが、一つだけ彼らの関係に大きく横たわる問題があった。
夫のちんぽが入らない。
夫のちんぽが、何か壁にせき止められているかのようにまったく入っていかない。ローションなどを使い多少入るが、しかし血まみれと激痛という大惨事を引き起こす。
『私たちはこんな犠牲を払い、滑稽な真似までして、繋がらなければいけないのだろうか』
一緒に生きるということと、セックスをするということを切り離して生きざるを得ない夫婦の、葛藤の物語だ。

タイトルだけ見るとキワモノっぽく思えるが、中身は非常に真っ当な物語だ。他はすべてぴったりなのに、セックスだけが出来ない。些細な、と呼ぶことは出来ない事柄だけれども、しかしそれ以外がすべて順調であるのに、セックスが出来ないという一点が様々な状況を壊していく過程が丁寧に描かれていく。

冒頭では、女性としての評価の話に触れたが、決してそれだけではない。たとえば、直接的な関係があるわけではないにせよ、主人公は仕事で躓く。あくまでも勝手な予測でしかないが、もし夫のちんぽが入り、精神的に安定した状態を保つことが出来ていたら、仕事の方での関わり方、行動の仕方も変わったかもしれない。決してそれだけではないとはいえ、仕事でうまくいかなくなった原因の一端はそこにあると言っていいのではないか。

また、夫のちんぽが入らないことで、夫との関係も様々に変化していく。兄妹のようだ、と言われるような、起伏こそないが穏やかで静やかな関係性は、好きになってくれた人を好きになる、という形であまりいい恋愛をしてこなかった主人公にとってはとてもいいものだった。しかし、セックスだけがどうにも出来ない。それ以外の部分にはなんの不満もないが、セックスが出来ないことで、主人公は罪悪感を抱き、また主人公は知らなくていい夫の一面を知ることになってしまう。言いたくても言えないことが積もっていき、少しずつ関係性がおかしくなっていく。

『私たちは性交で繋がったり、子を産み育てたり、世の中の夫婦がふつうにできていることが叶わない。けれど、その産むという道を選択しなかったことによって、産むことに対して長いあいだ向き合わされている。果たしてこれでいいのか、間違っていないだろうかと、行ったり来たりしながら常に考えさせられている』

この一文が、この夫婦のあり方を見事に表現していると言えるだろう。選択しなかったことで向き合わされている。「ふつう」にできれば立ち止まったり悩んだりすることなく通り過ぎていっていくものと、彼らは向き合い続けている。夫婦のその足踏みを描くことで本書は、「ふつう」というのは一体何なのかを問いかけ続けるのである。

『私たちのあいだで「その件」以外のすべてが順調に進んでいた。まるで、ちんぽを人質にして願いを叶えてもらったかのようだ。残酷なことをする神様だと思う』

人は、自分が持っていないことの不幸に目を向けてしまう生き物だ、という話を聞いたことがある。そういう人は多いだろう。私にはあれがないから不幸だ、と。「その件」以外のすべてが順調だとしても、夫のちんぽが入らないことがすべてを凌駕するのか否か。当事者にしか判断は出来ないが、僕は状況が許す限り、持っているものに目を向ける生き方が出来ればと思う。

本書は、文学フリマで販売された同人誌(という表現で合ってるだろうか?)の書籍化らしい。デビュー作なのかどうかは知らないが、無名の新人、という表現をしてしまっていいだろう。しかし、文章がとても巧い。無名の新人とは思えない巧さである。

『私の新生活は、前の持ち主の暮らしをなぞるようにして始まるのだ』
『ただ寝るだけの、おしまいの時間でしかなかった夜がいま意味を持ってきらめいている』
『退職を決めてからは胸の上に積まれた石が一個ずつ取り除かれてゆくように呼吸がしやすくなった』

こういう繊細で物事をすーっと捉えるような表現が随所にあり、才能の高さを感じさせる。分量は多くない小説だが、濃密さを感じさせる佇まいだ。これからも書き続けて欲しいと思える作家である。

こだま「夫のちんぽが入らない」

キッドのもと(浅草キッド)

振りかえってみて、面白かったよなぁ、と思えるような人生を生きたい。
そんな風に、強く思っている。
でもそれは比較的、リアルタイムの目の前の現実はいつも厳しいという意味でもある。

最近ちょっとしたことがあって、自分の人生について聞かれる機会が増えてきた。ありがたいことだ。聞かれるままにペラペラ喋っているのだけど、人生を普通に順調に歩んできた人とはちょっと違うルートを辿ってここまで辿り着いている。どこにいても馴染めない感覚が拭えないまま、表面ばかり取り繕う術は身についた、大学は辞めた。就職活動も転職活動もしたことがない。社会に出て働けると思ってはいなかった。色んなことから逃げまくった。色んな人間に迷惑を掛けまくった。そんな人生だった。

振りかえってみて思うのは、今ではそういう来歴は、ネタとして面白おかしく喋れて得だ、ということだ。僕の辿ってきた人生にはいくつもの汚点が転がっているし、恥ずかしいことや思い出したくないことも色々あった。それでも、それらを通り抜けた今となっては、そういう自分の過去のことを懐かしくも思う。そして、そういう過去がなかったら、今の自分は間違いなく存在しないだろう、という確信がある。

しかし同時に、やっぱり僕は覚えている。苦しかった時の、苦しかった気持ちを。働くことが嫌でバイトを幾度もバックれて、その度に親に尻拭いしてもらったこと。引きこもって日がな一日テレビを見ながらうだうだと将来について悩んでいた時のこと。死のうと思って屋上の縁で片足立ちした時のこと。実家で生きていくことを諦めて、仕事も住む家もないままに東京に逃げた時のこと。その時々の気持ちを正確に思い出せるわけではないのだけど、今でも、あの時は辛かったな、と振り返ることができる、印象深い記憶たちだ。

過去を振りかえってみて思う。どうも僕は、楽しかった記憶はあまり覚えていないのだな、と。辛かったこと、大変だったこと、失敗したこと。そういうことばかり覚えている。そして、大人になることで、そういうしんどい記憶が、振り返った時には懐かしく印象的なものとして思い出されるのだと知った。もちろん、僕が辿ってきた人生が、あまりにも酷すぎるものではなかった、ということも大事だろう。その時その時の自分なりには辛い経験だったが、絶対評価をすればそこまで大したことではない。だからこそ、懐かしく思い出せるのだ。

『今振り返っても、フランス座に行かなきゃよかったとは微塵も思わない。
むしろ、あそこに行ってなかったら、ボクは、とうの昔に芸人を辞めていただろう』

『世の中の大半の人間は、金がたっぷりと張られた黄金の湯船に浸かってのぼせているような状況だった。
そんなお祭りのような空気が日本全土を覆い尽くしていた時に、オレと博士は、自ら望んで草木も生えてない浅草フランス座に行ったんだ』

浅草キッドは、僕なんかと比べるのは申し訳ないくらい凄絶な環境から這い上がってきた人たちだ。

『フランス座で得たものは、サバイバル感、嘘のような本当の“下層”現実、どん底の体験がすべてだった。
おかげで、「人生に期待しないこと」や、「どこへ行ったって、ここよりはマシ」と現実に足ることを知り、どんな境遇にも身を投じる覚悟、芸人の匂いが刷り込まれた』

特に水道橋博士は、『高校一年の時にダブリ、学校に馴染めず、うつらうつらと生きていても死んでいるような、ただただ寝て起きて時が過ぎていくだけの日常は、重く、息苦しい日々だった』と書くように、思春期の頃からどん底だった。そんな人生を支える背骨を、彼らはどう勝ち得て行ったのか。そしてその経験が、その後の人生にどんな影響を与えているのか。

そういったことが、彼らの口から語られるのだ。

本書は、浅草キッドの二人、水道橋博士と玉袋筋太郎が、
【「少年時代」のもと】
【「浅草キッド」のもと】
【「芸」のもと】
【「家族」のもと】
の4つに分けて、彼らの来歴や思考を交代で書き綴っていくエッセイだ。

なかなか面白い。特に、やはり文筆業にも力を入れている水道橋博士のパートは、僕はとても好きだ。

水道橋博士と玉袋筋太郎の文章には、明確な違いがある。水道橋博士は、思考を書く。そして玉袋筋太郎はあったことを書く。この違いだ。世の中の多くの人が「文章を書け」と言われた時、あったこと、つまり玉袋筋太郎のような文章を書く。インタビューなどでも基本的には同じだ。僕は、あまりそういう文章には惹かれない。水道橋博士は、思考を書く。もちろん、思考だけではなく、言動や起こったことも書く。しかし、思考を書ける人間は、言動や起こったことも、思考という側面から捉えて書くことが出来るのだ。その客観性と描写性が抜群だと僕は感じる。

水道橋博士は、内気でシャイで人見知りで、それでも「ビートたけしのオールナイトニッポン」に救われた。勇気を振り絞ってたけし軍団に入った彼は、そこから辛酸を舐め尽くすことになるが、結果的にその経験が「水道橋博士」という芸人を作り上げた。その過程を、冷静に客観的に慎重に描き出す水道橋博士の筆致は好きだ。

冗談みたいな人生を過ごす中で、誰にも奪い取ることが出来ない財産が備わった。その強さが、彼らを芸能界という世界で生かしている。彼らと同じ努力や生き方は出来ないだろうが、未来に繋がる意味のある努力(それがなんであるのかを見つけ出すのが困難ではあるのだが)こそが、人生を切り開く可能性なのだ、ということがよく伝わってくる。

玉袋筋太郎の文章は、とても軽妙だ。深い思索を感じ取れるような文章では決してないが、きちんとした芯を感じさせる。生き方の中に、真っすぐな軸がきちんとあり、そこから外れないでいることに忠実、という印象だ。その軸は、世間の人が持っている軸とは大分かけ離れているかもしれないが、間違っているわけではないし、常識だからと言って丸呑みしないその姿勢には共感する。

水道橋博士の話にも家族の話は出てくるし、家族を想う気持ちは当然あるのだが、どちらかと言えば玉袋筋太郎の方が家族の話が多い。自分が存在している、という事実は、親の存在によって成り立っているのだ、ということをナチュラルに思い口に出せる人だ。その衒いのなさみたいなものがかっこよく映ることもある。

二人が共通して書いている、こんな考え方がある。

『舞台の上だけは、何をやっても先輩から叱られることのない自由の場であり、どんなに非常識なことを口にしようと、客にウケれば「勝」の世界だ』

『日々の生活には自分たちの時間はないけど、舞台の上で漫才をやっている時だけは、誰にも絶対に邪魔されないオレたち二人だけの時間なんだ―ただひとつ、その想いがあっただけで、どんなに辛いことにも乗り切ることができた』

二人は、フランス座の壮絶な修行だけではなく、たけし軍団という超体育会系の集団の中で付き人もやっていた。先輩の命令には逆らえないという環境の中で、それでも寝る間を惜しんで漫才を作り続けた。「舞台の上だけは自由」という環境にいたからこそ、辛い環境でも芸を磨き続けることができたのだろう。

玉袋筋太郎がこんなことを書いている。

『こっちは寒くても、博士が暖かければ、それはそれで良かったなぁって思えるのが、オレの考えるコンビの意気なんだ。普通のコンビだったら、とっくに解散だよ』

コンビ芸人は仲が悪いというまことしやかな噂を耳にすることは多いし、実際にそうだと彼らは本書で書いている。それぞれピンで仕事をしている二人ではあるが、それでも「浅草キッド」というのが彼らの帰る場所なんだ、ということがしんみりと伝わってくる。そんな作品だ。

浅草キッド「キッドのもと」

骨を彩る(彩瀬まる)

どうにも、うまく掴めなかった。
こういう小説を読むと、やっぱり女性のことは全然理解できていないんだな、と感じる。
見ているもの、感じているもの、そういったものがまるで違うのだろう、と思う。

まったく分からないわけではない。けれど、どうも捉えきれない。彼女たちが何を求めているのかを。何を掴もうとしているのかを。何を手放そうとしているのかを。うまく捉えきれない。

女性と比べると、男は「1たす1が2」となるような分かりやすい世界で生きているように感じられる。女性の場合、同じ四則演算の記号を使っているのに、条件次第で違う規則が付け加わるような、ちょっと複雑な四則演算をしているような、そんな気持ちにもなる。

なんとなく、見えないけれど自分の人生を支配する「何か」を「骨」と呼んでいるのではないか。そんな印象だけは受けた。それぞれの短編には、何らかの形で「骨」と関わる記述がある。タイトルの「骨を彩る」というのは、板も壁も紙もないただの空間に色を乗せるような、虚しい響きを感じる。

何らかの形で欠損を抱えた女性たちは、その欠損を埋めようとして、その欠損から目を反らそうとして、その欠損を受け入れようとして、日常の中で些細な抵抗をする。

「指のたより」
妻の朝子は、10年前に大腸がんで死んだ。29歳の若さだった。津村は男手一つで娘の小春を育てている。夢に度々、朝子が出てくる。朝子が夢に出る度に、彼女の指が1本ずつ欠損していることに気づく。

「古生代のバームロール」
高校時代の恩師である柿崎先生が亡くなった。身寄りがないという先生の葬儀を、教え子が集まって執り行うことになった。かつての友人と、久しぶりの会話をする。
光恵が磯貝真紀子と再会したのは偶然だった。特別だと言われて赴いたサロンで、高宮リサという名前で登場したのだ。真紀子だと気づくと追い返された。光恵は真紀子に、柿崎先生が亡くなったこと、葬儀をみんなでやることを伝えた。真紀子は、柿崎先生のファンだった。

「ばらばら」
玲子は仙台に向かっている。夫が、たまには一人で気晴らしに旅行にでもどうだ、と言ったからだ。バスで隣り合った少女と何気ない会話を交わす。特に目的もない旅をしながら、玲子は昔のことを思い出す。苗字が頻繁に変わったこと、いじめられていたこと、新しい父親に対する拭えない違和感を覚えていたこと。
息子がいじめられているようだ。でも、その息子から、何よりもおかあさんが怖い、と言われてしまう。

「ハライソ」
不動産屋で働く浩太郎は、ネットゲームで知り合った女の子とは気兼ねなく話すことが出来る。毎週決まった時間に待ち合わせて、チャットをしながらゲームをする。付き合っている彼女がいる。凄く可愛い。でも、微妙な違和感が日々降り積もっていく。

「やわらかい骨」
小春は、転校生である葵の扱いに悩む。葵はご飯の時、お祈りをする。その瞬間、クラスの中での立ち位置は決まった。葵は小春と同じバスケ部に入る。もの凄く上手い。そんな葵と距離を縮めたくなる小春。しかし、お祈りの頑なさが、小春を躊躇させる…。

というような話です。

ストーリーだけ取り出せば、どうということのない物語だろうが、些細なことを切り取ることでハッとさせる描写を生み出す力は抜群だ、と思う。女性の小説だ、と思う。観察力の鋭い女性が、際立った表現力を持つ時、こういう小説が生まれる。

どの話にも、何らかの形で「不幸」や「悪」の影がちらつくものの、全体的には日常の範囲内にとどまっている物語だ。小さな違和感に焦点を当て、見ないようにすれば見ないで済んでしまうのかもしれない欠損に囚われる者たちの物語だ。深く入り込むことは難しかったものの、彼女たちがささやかに抵抗したりもがいたりする姿を切り取る目線がいいと思った。

著者が本書の中で描く男性には、どうしても違和感を覚えてしまう。男が見ていること、感じていることとは違う目線で描かれているように思えてしまう。女性と同じように男を描いている、という印象を受ける。こういう感覚はきっと、男性作家が描く女性に対して女性が感じることでもあるのだろうなと思う。

個人的にはうまく捉えきれなかった作品なのだけど、女性には受け入れやすい作品なのかもしれないとも思う。

彩瀬まる「骨を彩る」

Happy Box(伊坂幸太郎他)

内容に入ろうと思います。
本書は、著者名に「幸」という漢字が入る作家による、「幸せ」をテーマにしたアンソロジーです。

伊坂幸太郎「Weather」
大友は、学生時代からの友人で同僚でもある清水に振り回されてきた。清水はモテる男で、これまであちこちの女性と関わりを持ってきたが、それがバレないようにうまく辻褄を合わせる役割をずっと負わされてきたのだ。そんな清水が結婚するという。相沢明香里という女性で、なんと彼女は、大友の元カノでもある(清水には内緒だ)。二人は結婚式の準備中だが、清水の様子がおかしいという明香里に頼まれて、大友は清水のスパイをすることになるのだが…。

山本幸久「天使」
福子は77歳。この道66年になる掏摸師だ。日々鍛錬を怠らず、他人様の財布を掏っては生計を立てている。ある日、親子の同業者を見かけた福子は、逆にその男の財布を掏ってやった。浪川隆夫は気づいていないようだったが、息子だろうと思われる男の子が福子のところにやってきた。
師匠である一つ目金治に出会った頃の自分を思い出した。ガキの集団で、技術もないまま掏摸を続けていた頃のことを。情が湧いたのだろうか。男の子の姉の万引きがバレないように助けてやり…。

中山智幸「ふりだしにすすむ」
多喜田りりこはある日、60歳は越えているだろう老人から話しかけられた。僕はきみの生まれ変わりなんだ、と。頭がおかしい老人なんだと思ったが、子どもの頃に読んだ絵本の中のあるフレーズを叫ばれて、なんだか白旗をあげることになった。その老人は、あなたが大庭かおるという女性に会ってくれないと、わしら夫婦が再会出来なくてこまるのだ、という相変わらずよく分からないことを言ってりりこを動かそうとして…。

真梨幸子「ハッピーエンドの掟」
アイコの家に、カラーテレビがやってきた。クラスの子のほとんどがまだ持ってないはずだ。全自動の洗濯機があって、カルピスを濃く作っても怒られない。部屋はオンボロだし、ママとの二人暮らしだけど、アイコは十分満足している。ママはキャバレーで働いてるから夜は一人で留守番だけど、別に嫌ってほどでもない。けど学校の先生は、そんなアイコのことが心配みたいだ。お父さんがいないと不幸だ、っていうのが、よく分からなくって困る。
夏休みの自由研究で出した、人魚姫を下敷きにした絵本が、アイコの予想に反して全然評価されなくて、アイコは「幸せ」がなんなのかわからなくなる…。

小路幸也「幸せな死神」
ある日榎本帆奈は「死神」と知り合いになった。それは偶然が重なることで起こった奇跡なんだという。その「死神」は、こんな風に人間の姿で過ごすのは初めてだ、という。ちょっとずつ話す中で帆奈は、「死神」がどんな存在であるのかを知っていく。「死神」というのは、ただ死を看取る、死んでいることを確認するためだけに存在するのだという。基本的には「死」というものが存在する場所にしかいない。
ある日「死神」が辛そうなのを見かねて話を聞いてみると…。

というような話です。
なかなか面白い作品でした。「幸せ」というテーマの解釈に個性が出るのが面白いですね。

やっぱりというかなんというか、伊坂幸太郎の作品がダントツで面白いなと思います。こうやって他の作家と読み比べるアンソロジーだから余計に感じますけど、伊坂幸太郎が書く文章は、なんでこんなに「ウキウキ感」があるんだろうと思います。別に楽しいことばかり書いているわけではないのに、伊坂幸太郎の文章はなんとなくいつも弾んでいる気がする。そのテンポで、お話をスルッと読ませてしまうんですよね。

ストーリーも、分かる人は先が読めるのかもしれないけど、僕はなかなか良くできた話だなと思いました。この話、着地点だけ見れば全然意外な話ではないんですけど、キャラクターの設定や話の展開のさせ方によって、ありきたりに思えてしまうラストを意外性のある終わらせ方に見せているんです。面白いなと思いました。

真梨幸子の話も、なるほどという感じの切り口でした。真梨幸子と言えば「イヤミス」で、「幸せ」とは対極にありそうな作家ですが、「幸せって何だろう?」という問いかけを、ある女のコの視点から投げかけるというストーリーはなかなか面白いと思いました。「幸せ」というのは人の数だけ存在するのだ、というような当たり前の事実を逆説的に描いているという感じで、「幸せ」というテーマの捉え方がいいなと思いました。話の展開やオチだけを単独で捉えれば「幸せ」とはかけ離れているように思える作品なのに、作品全体としてはテーマに沿っているというような切り取り方が面白い作品でした。

小路幸也の作品も、発想は嫌いじゃないんですけど、もう少し掘り下げられるような気もしてしまいました。なんとなく、ここで描かれている話だけだと、想定内という感じに思えてしまいました。惜しい、という感じでしょうか。

山本幸久の作品は、主人公こそ掏摸師ですが、「幸せ」というテーマに直球で挑んだというような作品だと感じました。特に好きでも嫌いでもないですけど、良い話だなと思います。

中山智幸の作品は、正直ちょっとピンと来ませんでした。短編にしては、設定の部分でちょっと説明的な要素が多かったというのもあるんだけど、なんとなく感覚的にスッと受け入れられないような印象を持ちました。老人がやりたかったことはなんとなく分かるし、それが「幸せ」というテーマに合ってるんだろうということも分かるんだけど、なんでかなぁ、うまく受け取れない作品だなと感じちゃいました。

アンソロジー作品全体の趣向としては、なかなか面白くまとまっている作品だと思いました。

伊坂幸太郎他「Happy Box」

「BRODY 2 齋藤飛鳥のインタビュー」を読んで

「期待する」というのは、「道を決める」ということでもあると思う。そうすることで、自分が決めた道に、自分の力を集結させることが出来る。「こうなりたい」「こうしたい」と期待することで、その方向だけに注力することが可能になる。

ただそれは同時に、「他の道を捨てる」ということでもあると思っている。

『自然と何に対しても、期待をせずに生きていくっていう生き方が自分の中で一番合ってて。だから諦めっていうか、期待を持たないで生きてます』

齋藤飛鳥のこの生き方は、後ろ向きに捉えられることが多いのではないかと思う。こんな考えを持つ彼女に対して、「もっと自信を持って!」とか「強く願えばもっと先まで行けるのに!」と言った感情を持つ人も、いるのかもしれない。

しかし、僕はその捉え方は違うのではないかと思っている。齋藤飛鳥は「期待」を捨てることで、「期待」を持つ以上の強さを手に入れているのではないかと思うのだ。

「アイドルSpecial2017」の中で齋藤飛鳥はこんな風に語っている。

『私はファンの皆さんが抱いている私のイメージをまるまる全部は認めてはいないんですけど、自分らしさは自分が決めるものだとも思っていないんです。だから、齋藤飛鳥として求められるものにきちんと応えていきたいと思っています』

「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」の中でもこう語る。

『だからといって、そういう武器がほしいかと言われると…必要な時もあるんですけど、でもそういうのって周りから付けていただくものだと思うので。自分からこれをやろう、あれをやろうみたいなことは考えてないです』

これが齋藤飛鳥の強さなのだと僕は思う。

齋藤飛鳥は、期待しないことで、道を決めることをしない。自分が進むべき方向はこうだ、自分がやるべきことはこうだ、という考えを持たない。何かを期待すれば、自ずとそういう考えが出てきてしまう。そして、自分が決めたことと周りの評価が合わなかったり、自分が決めた道でうまくいかなかったりすると、どうしていいか分からなくなって悩んでしまう。齋藤飛鳥は、期待を持たないが故に、進むべき方向性について悩む必要から解放される。そこに彼女の強さがある。

道を決めない齋藤飛鳥は、何にでもなることが出来る。武術における「構え」は、どの方向に対しても、どんな動きにでも対応できる立ち方をするのが理想だ、というような話を聞いたことがあるが、齋藤飛鳥の在り方はそれに近いのではないか。どんな状況がやってきても、それに対応するのだというしなやかさ。マイナス思考であるが故に、何に対しても「怖さ」を感じてしまうだろうが、それでも最終的には、そのしなやかさが「怖さ」に打ち勝つ。どんな方向にも、足を踏み出すことが出来る。「齋藤飛鳥」として求められることを全うできる。
彼女の期待しない生き方は、そんな強さの源泉なのだろうと思う。

『私がすごい弱っちい人間なので、期待を裏切られてショックをウケるのが怖いんです』

『(齋藤さんは「乃木坂46である自分を受け入れられない」という話をされていましたけど、なんで受け入れられないんですかね…)
受け入れられないというか、「認めてやんねーぞ」みたいな感じです。乃木坂46って名前を、今いろんな方に知っていただいて、私はその名前を使って生きてるくらいの気持ちなので。自分に対して価値があるとは全く思ってないんです』

こんな風に自分を卑下するのは、もちろん本心だろう。しかし心のどこかで、自分が持つ強さの源泉を理解しているのではないかと思う。何に対しても期待しないからこそ湧き上がる強さ、というものを認識しているからこそ、期待しない自分を貫くスタンスを崩さずにいられる、という可能性もあるのではないか。

『(それは本心ですか?それとも調子に乗って自分を見失わないためにあえて思っているんですか?)
本心ではありますけど、天狗にはなりたくないっていうのは、ずっと思ってることなので、それもあるかもしれないですね』

齋藤飛鳥も、最初から期待しない人間でいられたわけではない。

『デビューから3年くらい「THEアイドル」みたいな風になろうと思って、そこでいろんな痛い目を見たし、恥ずかしい思いをしたっていうのもあるし。自分はその役割じゃないかなっていうのも気づきました』

齋藤飛鳥がよく言うことだが、当初は「THEアイドル」を目指していた。それは彼女にとっての「理想のアイドル」でもある。その理想に近づけるようにという期待を持って、乃木坂46加入当初は努力していたという。しかし、それは齋藤飛鳥には合わなかった。「理想のアイドル」を目指す自分の在り方にもがいていただろう。

そのもがきの中から抜け出せた、というのが齋藤飛鳥の凄いところだろう。恐らく、痛い目、恥ずかしい経験の度に立ち止まって、自分の言動の何がこの状況を招いたのかを思考し続けたのではないかと思う。そうやって少しずつ言動を変化させていきながら、その結果をフィードバックしていく。そんな風にして作り上げられた「齋藤飛鳥」という特異なアイドル像は、ある意味で唯一無二というか、誰にも真似出来ない存在感を生み出しているのだと思う。

『今も全然、自分のことをアイドルだと思っていないので』

『世の中が優しいからちょっと受け入れてもらってるだけです』

度々書くが、僕は乃木坂46で初めてアイドルというものを好きになったので、アイドル全体のことは分からない。ただ齋藤飛鳥を見ていると、彼女が新しいアイドル像を切り拓いているのだ、と思いたくなる。「THEアイドル」とは対極にいるように感じられる「齋藤飛鳥」が、日増しに世間での人気を高めていることがその証左だろう。彼女はセンターに選ばれた理由を、『「本当は嫌だけど、仕方ないからこいつにするか!」っていう、妥協に妥協を重ねた結果だと思っています(笑)』と言っているが、もちろんそんなわけはない。彼女の、自分のスタイルに固執せず、それでいて独自の価値観は手放さず、同時に求められれば何にでもなることが出来る強さとしなやかさに、今の時代の人々は憧れ、追いかけたくなるのではないかと思う。

期待せず、道を決めない齋藤飛鳥の指針となっているのが、「乃木坂46」というグループの存在だ。「乃木坂46」という指針があるからこそ、「齋藤飛鳥」という存在が成り立つとも言える。齋藤飛鳥は、『乃木坂46に今いられているのもいろんなもののおかげでいられてるだけで、「自分の力じゃねーぞ」って思っちゃいます』と語っているが、僕の感覚で言えば、彼女は「乃木坂46に所属している」というよりは、「乃木坂46と同期している」のだと思う。「乃木坂46」という指針を手放した(乃木坂46を卒業した)齋藤飛鳥は、「齋藤飛鳥」とはまるで違う人間になるのではないか。そんな風に感じさせもするのだ。

『(乃木坂46を辞めて社会に出るとなってもすんなり出れる自信があるのは何故か、と問われて)
乃木坂46で人間を作って頂いたからです。前までの私は、たぶんそのまま生きていたら、はぐれ者になってしまう人間だったと思います。でも、そんな自分をこのグループで厚生してもらいました。それがなかったらこうはなっていない』

僕は齋藤飛鳥の、「社会にすんなり出れる」という自信を疑いたい。乃木坂46を離れるということは、「乃木坂46」という指針を失うということだ。もちろん100%失うことはないだろうが、今の「齋藤飛鳥」は、その指針と一体となっていると僕は感じる。乃木坂46を離れた場合、新たな指針を見つけ、それに馴染んでいくまでに、やはりまたそれなりの葛藤があるのではないかと思う。

とはいえ、アイドルや芸能界を辞めても生きていけるか、という問いであれば、齋藤飛鳥なら大丈夫だろう。

『礼儀とかはちゃんとしたいなって思ってます。チヤホヤされがちじゃないですか、アイドル。もう5年間もチヤホヤされ続けてきて、でもそのチヤホヤを真に受けず、それを疑って生きてこれたってことは、逆に社会に出ても普通に生きていけるんじゃないかなって思うんです』

インタビューアーは前回、齋藤飛鳥が放った『虹は過大評価されすぎだと思う』という発言が印象的だったと、インタビューの冒頭で話している。それに対して齋藤飛鳥はこう語る。

『単純に、「あ~、虹だ。きれいだな」と思ったことはありますし、一つの自然現象として不思議だなって気持ちはあるんだけど、虹がかかったからってみんながこぞって写真を撮り出すのが…。ちょっと評価されすぎじゃないかなって。それに雨がかわいそう』

齋藤飛鳥は、チヤホヤされる「虹」ではなく、「虹」を生み出す「雨」に視線を向けることが出来る人だ。それは人に対しても同じことが言える。チヤホヤされる「齋藤飛鳥」や「乃木坂46」ではなく、それらを支える者たちに目を向ける。

『私、スタッフさんがめちゃくちゃ好きなので、スタッフさんの影響は大きく受けていると思います。環境が一番ですね』

このインタビュー中、彼女はこの発言に最大の自信を覗かせる。自分自身ではないものに自分の存在の核を託せる強さが、この発言に表れていると言えるだろう。

『いやいや、やっぱりそんなきれいな言葉は私にはもったいないですよ(笑)』

「虹」である自覚から距離を置こうとする齋藤飛鳥だからこそ「虹」にも「雨」にもなることが出来るのだ。

「BRODY 2 齋藤飛鳥のインタビュー」を読んで

自分の考えを「5分でまとめ」「3分で伝える」技術(和田秀樹)

内容に入ろうと思います。
本書は、まあタイトル通り本であると、とりあえず言うことは出来ます。

本書では「まとめる力」という言葉が多用されます。長い文章や誰かとの会話、本や資料の内容などを要約して言葉にする、というような力のことを指しています。

日本人は、この「まとめる力」が身についていない人が多い、と著者は言います。その理由を、国語教育に求めます。

『ただ、日本の国語教育においては読解力というと、登場人物の心情を理解する「心情読解」のことと考えられていたので、それを身につけるのはとてもむずかしかったし、結果としてきちんと「まとめる力」のトレーニングを受けてこなかったことになります』

この指摘は、なるほどという感じがしました。僕も確かに、子供の頃は、あまりちゃんと文章が書けなかった記憶があります。このブログは2003年に始まりましたが、2003年頃の記事を読むと、今とは全然違って驚きます。今とは比べ物にならないくらい文章を書く力がなかったし、それはつまり「まとめる力」がなかったということだと思います。

欧米での国語教育についても触れています。

『一方、外国では、長い文章や論文を読んで「内容をまとめなさい」という教育になります。「まとめる力」をしっかり身につけさせようとします。そうしなければ「読解力」が育たないと考えられているからです』

まあ、どちらが良い悪いというのは難しい部分もあるでしょう。僕はそもそも日本の国語教育は嫌いですが、それは「主人公の心情」に正解があるように教えられるからです。試験をしなければいけないので仕方ないのですが、僕には納得が出来ません。ただ、「主人公の心情」を問うことそのものは悪くないと思っています。そういう問いかけをし、その問いかけに答える経験によって、豊かな情緒みたいなものが育まれる、ということだってあるでしょう。だから、一概に日本のやり方を否定するつもりはありません。

とはいえ、その一方で、「まとめる力」は絶対的に必要です。外国にように国語の授業で訓練できるなら別ですが、そうではないのだからなんとか身につける方法を考えなければいけません。その指針になる、と言ってもいい作品だとは思います。

ただ…僕が本書を読んで思うことは、「この作品はもっとまとめられなかったのか」ということです。全体を読んで、本書の内容なら1/3ぐらいに圧縮出来そうだな、と僕は感じました。

タイトルに「技術」と入っているのだから、「どうすれば「まとめる力」が身につくのか」ということが書かれていることを期待したいところですけど、実際の中身は少し違います。本書は、「あなたが別に原因があると捉えている問題は、実は「まとめる力」不足が原因なんですよ」という事例をたくさん載せている本、という感じです。口下手、話が面白くない、長い文章が書けない、的確な指示が出せない…。それ、全部「まとめる力」不足なんですよ!ということが書かれている本です。

「技術」ということで言えば、「メモを取る」「結論から話す」「話し方の型を持つ」「本はこう読む」みたいなことが、それぞれのページにそこそこ散りばめられている、という感じでしょうか。正直、本書を読むだけでは、「まとめる力」を身につけるためのトレーニングをスタートさせるのは難しそうな気がしてしまいました。

とはいえ、本書にも利点はあります。それは、「問題を問題と捉えることが出来る」という点です。

誰の言葉だったか忘れましたが、「問題は、それが問題であると認識した時点で7割解決している」というようなことを言った人がいたはずです。なるほど、確かにその通りだな、と思います。問題を抱えている人でも、自分ではそれを問題だと認識出来ていない人がいます。あるいは、問題だとは思っているのだけどその原因をまるで捉え間違っているという場合もあるでしょう。

そういう人が本書を読むと、著者が挙げた様々な事例に対して、「なるほど、これに当てはまっている自分は「まとめる力」不足なのだな」と認識出来るのではないか、という感じがします。これは、苦手克服の大きな一步と言えるでしょう。そういう意味で本書は役に立つと言えるかもしれません。

本書では色々書いていますが、僕は、「まとめる力」を身につけたければまとめてみるしかない、と思っています。僕はこのブログにひたすら文章を書き続けたことで、今ではすいすい文章が書けるようになりました。情報を取り込んで自分の頭の中でまとめて、それを文字にしてアウトプットするというのは結構出来る方だと思います。僕も、最初は文章なんて全然書けませんでした。それでも、無理矢理でもいいから書き続ければその内身につくと思います。

あるいは、自分で文章を書くのが苦手なら、誰かの文章を写してみるというのもいいんだろうと思います。「天声人語」を書き写す、みたいな話ってよくありますけど、あんなイメージです。前に何かで読みましたけど、「天声人語」をまず写して、それからその内容を半分の文字数で要約してみる、あるいは2倍の文字数に増やしてみる、という訓練をしたらいい、と書いている人がいました。「天声人語」に限らず、新聞記事(ネットでも拾えるでしょうし)で同じことをやってみればいい訓練になるのではないかと思います。

もっと日常的に出来るかもしれないことだと、メールやLINEで絵文字やスタンプを使わないことにしてみる、というのは面白いと思います。絵文字やスタンプに載せた気持ちや感情を、言葉だけで表現するとしたらどうするか。有名ブロガーであるちきりんは、「(笑)という表現さえ自分は使わない。(笑)で表現していることこそ、文字にしなければ表現力は鍛えられない」というような趣旨のことを書いていたように思います。

問題を認識する、という意味では役立つ本ではないかと思います。

和田秀樹「自分の考えを「5分でまとめ」「3分で伝える」技術」

「BRODY 2 松井玲奈のインタビュー」を読んで

齋藤飛鳥が載っている雑誌は基本的に買う、というスタンスで雑誌を買っているが、雑誌ごとに、写真がメインか文章がメイン可かというのは分かれる。「BRODY」は、写真も多いが、他の雑誌と比べてインタビューが圧倒的に長いので、僕はかなり好きな雑誌だ。どうしても、写真よりも中身に関心が行く人間なので。

普段は、齋藤飛鳥が載っている雑誌を買って、同じ雑誌に乃木坂46のメンバーのインタビューが載っていれば読むぐらい。他の記事は見ないことが多い。でも今回はなんとなく、松井玲奈のインタビューを読んでみた。

メチャクチャ面白かった。松井玲奈についてはこれまでまるで知らなかったけど、この子はとてもいいですね。

『生きていくのに向いてないなって思います』

先日飲み会の場で、「“死ぬ”とか“死にたい”とか思った経験がない人とは分かり合えない」と発言した人がいて、なるほどと共感した。松井玲奈は『破滅願望はないです』と書くが、生きづらさを感じているという意味で、同じ匂いを感じる人だと思った。

『はい。結局、芸能の仕事をやりたいと思ったのも、ふつうに働けない…って言っちゃうと頑張ってOLやってる方とかサラリーマンやってる全国の人にとても申し訳ない気持ちになるんですけど、同じ時間に会社に行って机の前に座って同じ時間に帰るみたいな、学校でそれができなかったから、私ダメだ、働けないと思って。毎日同じことができないから、芸能の仕事だったら、ふつうの人生では経験し得ない刺激的なことが待ってるって子供の頃に理解しちゃって。50歳までそういう刺激的なことをやってれば、90年生きたぐらい刺激的な人生だと思うんです』

すげぇ分かる、と思った。僕も、絶対に社会に出れないと学生時代に思っていたし、まともに働けないという感覚は今も持っている。勉強は好きだったから学校はちゃんと行けてたけど、アルバイトはどれも長続きしなかったし、就活が嫌で大学を辞めたし、就職活動も転職活動もしたことがないし、未だに「きちんとした企業」では働けないだろうと思っている。

インタビューアーである吉田豪は、『(アイドルは)ネガティブがマイナスにならない職業なんだろうなと思うんですよ。どう思います?』と松井玲奈に問いかけているが、それは齋藤飛鳥を見ているから僕も強く共感できる。松井玲奈も齋藤飛鳥も、もしアイドルじゃなかったらどうだったんだろう、と思わせるだけの不器用さを感じる。

『地元は好きですけど、ずっと地元にいたら部屋から出なかったと思うので。四角い部屋の四角いパソコンのなかだけが私の世界みたいな人に90パーぐらいなってたと思うと、ホントによかったなって。パソコンだけじゃない世界にいまいるからよかったなって思います』

乃木坂46を好きになる前、僕の人生には「アイドル」というものが入り込んでいなかったので、「アイドル」という存在に対して漠然と「華やかなもの」ぐらいのイメージしか持っていなかったのだけど、齋藤飛鳥や今回の松井玲奈のインタビューを読んで、「アイドル」というのは普通の社会に馴染めない人の受け皿としても機能しているのだなぁ、と確認させられた。

『ずっと初期装備でレベルを上げてるみたいな気持ちでやってます』
『(部杭を探しながら闘い続けて、自分の武器はなんだっていう結論に至ったんですか?)
ダンスも歌もできないから顔で踊る』

客観的に見て松井玲奈に武器がないのかどうかはともかく、松井玲奈自身は自分には武器がないと思っていたのだという。『周りの子のいほうがかわいいし、華やかさだったり、歌がうまい、ダンスができるとか、みんなが思ってるそれぞれの武器』がないと思っていた松井玲奈だが、それでも「アイドル」というステージで闘うことが出来た。

僕は松井玲奈が動いているところをほとんど見たことがないので、松井玲奈のアイドル時代のことも今の活動もほとんど知らない。けれど、AKB48グループの中でかなり人気メンバーだったことは知っている。僕が乃木坂46を好きになり始めた頃には既に終わっていたが、彼女は生駒里奈と交換する形で乃木坂46に在籍していたこともあった。そういう結果だけ見れば、松井玲奈には武器があったのだろう、という判断をしたくなるだろう。しかしこのインタビューを読むと、彼女は徒手空拳で「アイドル」として存在し続けたのだという。

それが出来たのは、彼女が持っている「考える力」と「努力し続ける力」だろうと思う。

『結局、アイドルだけじゃないけど、そのグループのなかにいてどう抜け出すかっていうのをひとりひとりが考えてないし、ダラダラ惰性でベトーッとした感じで終わっちゃうんだなってういうのは思いますね。みんなが一致団結して同じ方向を向いてれば飛び抜けてくる人たちもいるし、そうじゃなくてなんとなくグループっていう輪のなかにいることで満足しちゃってると、そこから小さな世界のなかで終わってしまうなってういうのは思います』

吉田豪は、『こんなにインタビューしやすい人も珍しいですよ』と発言している。実際に、インタビューという形で誌面になる時には、様々な形で手が入るだろうから実際のインタビュー現場の雰囲気まで推し量ることは難しいが、インタビューアーである吉田豪の実感のこもったこの言葉は、松井玲奈の思考力の高さを表しているのだと思う。インタビュー全体からも、やはりそれは感じ取ることが出来る。自分を含めた物事を常に俯瞰で捉えていて、全体の中の自分とか、「私松井玲奈」の意識の中の「アイドル松井玲奈」とか、そういう認識の仕方が抜群に上手い。その上で、そうやって認識した事柄を的確に瞬時に言葉に変換できる能力がある。これは、常に観察し、常に言語化していなければなかなか身につくものではない。

『アイドルだけじゃなく、自分たちがおもしろいと思うことは間違ってないって意識でまっすぐにやる人たちは抜けて出てくるんだなっていうのは思います。イロモノって言われたとしても、それでも自分たちが正しいと思って、「私のスタイルはこれ」ってやってれば、それは個性になって浮いて出てくるし、それが逆にカッコいい、みたいな』

齋藤飛鳥もそうだが、僕は松井玲奈のように、目の前の現実や状況を自分なりのやり方で切り取れる人が好きだ。捉え、思考し、発する。そのサイクルを息を吸うように出来る人は素敵だなと思う。

『昔から「ああダメだった」ってどん底まで落ち込んで、でもできなかったぶん、まだまだ伸びしろがあるんだって思えてたので、じゃあその伸びしろに向かってこの地べたからもう一回上がってやろう、見てろよみたいな気持ちはあって(笑)。いまでもあります』

松井玲奈のもう1つの強さである「努力し続ける力」は、「思考力」の高さとの組み合わせでより強力なる。ただがむしゃらに頑張るだけで、「アイドル」としてうまくいくはずもない。努力すべき方向を見定める「思考力」があって初めて、「努力し続ける力」が活かされる。

『でも、課題がちゃんと目に見えてることは安心感でもあるので。それをクリアすればもう1個上にいけるから。なんにもなく漠然と大きな課題を目の前に出されるよりは、自分は小さい目標をちょっとずつハードルを越えてって、結果的に大きな壁を乗り越えられるほうがうれしいタイプなので、目標が先にありすぎると気持ちが続かないなっていう』

こういう発言を読むと、本当に「努力の人」なのだなと感じる。どれだけ戦闘力の高い武器を持っていても努力出来なければ芸能の世界では残っていけないのだろうし、武器がないと思っている人でも努力によって上に行くことが出来る。何が評価されるのかまったく分からない世界にあって、それでも課題を見つけ、その課題をひとつひとつ潰し続けることが出来るというのは、ある意味で大きな武器と言ってもいいのだろうと思う。

『ボロボロになっていく自分が好きなんで、「あ、いますり減ってる。もっとすり減ろう」みたいな』

まあ、こういうメンタルも、プラスに働いたんだろうけども。

松井玲奈のインタビュー中で最も共感したのが次の発言だ。

『50年生きればもう十分じゃないですか?違います?したいことがなくて』

しかし、松井玲奈がこう発言するのは意外だった。

僕は、趣味らしい趣味も、ハマっていると言えるものも本当にない。齋藤飛鳥は好きだけど、何らかの形で僕の人生から齋藤飛鳥が取り上げられても、なんとなく諦められてしまう気がする。そういう態度について「そこまで好きじゃないってことじゃない?」と言われることはよくあるんだけど、自分の中ではそうではないと思っている。好きなんだけど、どうしても入り込めない自分がいるのだ。

松井玲奈も、こんな発言をしている。

『主観的になれてる方のほうが熱中してる感じがあっていいなと思えたりして。なんでも一步引いて見ちゃうんで、輪の中にうまく入れなかったりとかは昔からずっとそうだったんで、ある意味、別の自意識というか。自分というものを持って自分に夢中になれてる人はすごいうらやましいなって思ってましたね。自分に夢中になれなかったんで』

凄く分かる。僕もまったく同じことを普段から考えている。僕も、自分にもそうだけど、何事にも夢中になれない。なりふり構わず好きになるとか、そのことを考えると苦しくなってくる、みたいなことが人生でほとんどなかった。好きだけどハマりきれないし、一步引いて見てるから、いつだってそれが無くなった場合のことも想定してしまう。だから僕は、割といつ死んでもいいかなと思っているし、松井玲奈とまったく同じで、僕も50年ぐらい生きれば十分かなと思っている。

しかし、松井玲奈はそういうタイプではないと思っていた。

松井玲奈についてはよく知らなかったが、アイドルやマンガや鉄道など趣味が多彩だということは知っていた。だから僕は勝手に、死にたくない人だろうな、というイメージを持っていたのだと思う。やりたいことがありすぎて、可能な限り生きていたいと思う人なんじゃないか、と。でもそうではないようだ。

『(これをやれなかったら死ねないみたいなことってあります?)
それはあります。やりたい舞台の戯曲が何本かありますし、この方と仕事したいなとかもありますし、そういう欲はあるんですけど。それが必ずしも…なんか危ない人みたいですけど生きていたいっていう気持ちとつながらないから(笑)。』

面白い感覚だなぁ。吉田豪はその感覚を、『やる気にはなるけど未練にはならない』と一言で表現しているが、とても面白いと思う。

松井玲奈のこの発言から感じることは、彼女は「自分がどうだったら幸せなのか」をきちんと把握できている人なのだろう、ということだ。僕も長生きをしたくない人間だが、その理由は、身体や頭にガタ来て、今まで出来たはずのことが出来なくなってまで生きていても幸せは感じられない、と思っているからだ。松井玲奈も、そうは言っていないが、大筋では同じだろう。やりたいと思えることがやれれば幸せだ、でも50歳を越えてそれが出来るイメージが出来ないから、別に生きていなくてもいい。そういう考え方に近いのではないかなと思う。

生きづらさを覗かせる松井玲奈だが、「自分がどうだったら幸せなのか」をきちんと把握できているという事実は、生きていく上での指針となる。努力する方向性が見えやすいからだ。そして松井玲奈は、努力が出来る人だ。だから、その時その時では様々に辛い現実に直面するだろうが、松井玲奈はきちんと生きていける人だと思うし、自分なりの幸せをきちんと追求できる人だと思う。

『お芝居をしてたいっていうよりは生き残りたい!』

齋藤飛鳥にしても松井玲奈にしても、僕の中の「アイドル」という概念を覆してくれるので、とても面白いと思う。

「BRODY 2 松井玲奈のインタビュー」を読んで

「OVERTURE No.009 齋藤飛鳥のインタビュー」を読んで

齋藤飛鳥は、「自分」という存在を手放しているように感じられる。

世の中の多くの人は、「自分」という存在に縛られているのではないかと感じることが多い。自分は長男だから、B型だから、専業主婦だから、もう年だから、外国には行ったことがないから…。そういう色んな「自分」に囚われたまま、不自由さを感じているように思う。やりたいことがあってもセーブしたり、やりたくないことがあっても断れなかったり。

人によっては、自分でそういう「自分」に囚われたがっていると感じる人もいる。占い本や宗教などに走ってしまう人の中には、自分を囚えてくれる大きな存在を求めて、その不自由さの中で生きていたいと思う人もいるのではないかと思っている。

齋藤飛鳥からは、そういう印象をまったく受けない。

齋藤飛鳥は、「自分」がどうであるか、という要素に影響を受けていないように思う。

『(コンプレックスは)ほぼ全部です。顔が小さいと言われても、嫌だと思わないけど、得なこともないので。だいたい、よく見たら小さくないですから』

齋藤飛鳥は、小顔であるという、女性にとっては武器になるだろう要素を手放す。小顔であるということが、齋藤飛鳥という人間には影響を与えない。与えていないぞ、という風に捉えている。小顔については、自分が努力して得たわけではない、というような感覚も、それを自分のものであると捉えられない理由なのかもしれないと僕は勝手に考えている。

「努力」については、こんな発言がある。

『明石家さんまさんの「努力は逃げ言葉」も「そうだよな」と思って書き留めました。私も自分からは努力という言葉は使っていないはずです。もし、「努力していますか?」と聞かれたら、「してないです」と答えます』

齋藤飛鳥は、努力している自分も手放す。努力しているから結果は伴わなくてもいい、と思ってしまわないようにという戒めの発言なのだけど、こうも潔く努力している自分を手放すことが出来るものかと思う。

ライバルについて聞かれて齋藤飛鳥はこう答える。

『ないですね。3年前くらいまでは、メンバーに対していい意味でライバル心があったんです。負けちゃいけないなって。プライドが高かったんですよ。今はいい意味で力が抜けたし、自分のことがやっと理解できるようになったんです』

齋藤飛鳥は、対抗心さえ手放す。もちろん、ライバル心がなくなった理由には、センターを経験したという事実も影響しているだろうと思う。苦労を重ねた末にセンターという形で評価されたという経験が、彼女から力を抜くいいきっかけになったのではないか。とはいえ、だからといって対抗心を簡単に手放すことが出来るわけでもないはずだ。一度センターになったと言っても、戦いは常にあるのだから。これも、齋藤飛鳥の「自分」を手放す在り方故だろう。

「戦い」についてはこんなことを言っている。

『(飛鳥さんが今、戦ってることはありますか?)
いや、ないです。基本的には勝負を仕掛けないタイプなので。納得できなくてもいいというか、そもそも納得しようと思ってないんです』

齋藤飛鳥は、納得する自分さえ手放す。この発言の論理は少し飛躍していると感じるが、おそらくそれは編集の問題だろう。勝手な想像だと、この質問の前に「納得できないことはありますか?」というような趣旨の質問があったのではないかと思う。その流れで、「その納得できないことに戦ってますか?」と聞かれたのではないかと思う。
「自分」というものをはっきり持ってしまうと、その「自分」が納得できるかどうかは比較的大きな問題になる。しかし齋藤飛鳥は、「自分」を手放しているので、納得するかどうかということが大した問題ではなくなる。『流れに身を任せています』とも発言している。「自分」がどうしたいかが人生や生活を動かす大きな原動力にはならないのだ。

こういう生き方は、非常に柔軟で楽だ。僕自身がそういう人間だからよく分かる。僕も、「自分」というものがほとんどない。これがしたい、あれが食べたい、あそこに行きたい…というようなことを思うことがほとんどない。基本的に僕の日常は、ルーティーンと他者からの誘いで成り立っている。日常はルーティーンを出来るだけ守ってこなしていき、後は他者から誘われたものは基本的に受けるというスタンスで生きている。僕自身は、こういう生き方がとても楽だ。

この生き方を楽だと感じられるのは、正しさの判断をしなくていい、というところにある。だから、マイナス思考の人間にはよく合っていると感じる。

「自分」というものを持っている場合、その「自分」の言動が正しいのかどうかを自分自身で判断しなければならない。何かやりたいことがある場合、それをやっていいと判断するのは基本的には自分だ。色んな要素を考え合わせて、その判断を下さなければいけない。

しかし、マイナス思考の人間には、これがなかなか難しい。

『洋服を買う時、今年の頭くらいまではお母さんと伊藤万理華の指示に従っていました。買い物中にいちいち写真を撮って、2人に送って確認をとっていたんです。万理華にはコートとか大きい買い物の時だけなんですけど』

自分で服を買うというのは、その服が自分に合うかどうか自分で判断しなくちゃいけない、ということだ。当たり前じゃないか、と思われるかもしれないけど、マイナス思考で自信がない人間にはこれが難しい。僕自身は、着るものなんかなんだっていいと思っているから、服を買うということには悩まないけど、齋藤飛鳥はそうはいかないのだろう。自分の内側から出てくる正しさを信じられないが故に、他者の正しさに乗っかるしかないのだ。

服を買う、という程度のことであれば人生にさほど大きな影響はないが、「自分がこうしたい」という思いを持つということは、その時その時で正しさの判断が求められるが故に、マイナス思考の人間には辛いことなのだ。

だから「自分」を手放してしまう。「自分」を手放して、その時々で相手の、あるいはその場の正しさに身を任せる方が、こういうタイプは安心できるのだ。

『(友達について聞かれて)いないことはわかりきってるじゃないですか、聞かないでくださいよ(笑)。メンバー以外では2人くらい…といっても、「友達は多くなくてもいい」というのは深い仲の友達がいる場合じゃないですか。私の2人は深くなくて、一緒にご飯を食べたことがあるくらいで互いの秘密を知ってるわけでもない。ひとりが好きだから寂しいと思わないけど、希に寂しいと思ったら女性マネージャーさんに連絡します(笑)』

「自分」を持ってしまう場合、一番大変なのが人間関係だろう。他者と関わる時は、様々な場面で正しさの判断を突きつけられるからだ。齋藤飛鳥は、友達を持たないことで、その判断から逃れている。「ひとりが好き」というのは本心だろうが、それは「他者といる時に正しさの判断を迫られるのが辛いから、それよりはひとりの方が好き」という意味だろう、と僕は考えている。

『中学デビューしたかったんですけど、まわりにビビってできなくて。でも、ついていくためにイケイケ風な女子を演じていました。途中から女の子特有の面倒くささを感じるようになりました。いまでは無理して自分を作っていたことを後悔しています。イケイケ風な女子も乃木坂初期のいちごみるくキャラも本当の自分じゃなかったんです』

イケイケ風な女子もいちごみるくキャラも、本来の自分ではないだろうが、「自分はこうだ」という決めつけであることは間違いない。そういう決めつけを持ってしまったが故に失敗した経験を何度も経てきたことで、齋藤飛鳥は今のようなスタンスを獲得していったのかもしれない。

「自分」を捨てた齋藤飛鳥は、同時に、自分が何らかの枠にはめられないように、という意識も常に持っている。

『(18歳という年齢についてはどう考えていますか?)
いろいろ得がある年齢だなって。大人ではないので大人がやらなきゃいけないことは免除されるし、子どもじゃないから子どもっぽいことをしなくてもいい。17、18歳は一番難しい年齢と言われているじゃないですか。だから、それを理由にできるのが得だなって思います(笑)』

齋藤飛鳥は、「18歳という枠」をひらりとかわす。世間の「18歳」に対するイメージを逆手にとって、自分の輪郭をぼやかそうとする。ある枠組みで捉えられてしまうと、その枠の内側が正しいと思わされてしまい、その内側でしか動けなくなる。それは、「自分」を持っているのと大差なくなる。齋藤飛鳥はインタビューというものを、もしかしたらファンや読者が自分を見る際の枠組みを取り払うための手段と捉えているのかもしれない。「齋藤飛鳥はこうだから」という枠組みを壊すために言葉を紡いでいるのかもしれない。

『うーん、でも私はどんな意見も受け入れるというか、あえて自分のことを調べたりはしないけど、批判的な意見にも「参考になります」と思えるタイプなんです』

「自分」を手放すと、批判は届かなくなる。それは同時に、称賛も届かなくなることを意味するが。批判も称賛も、届くべき先の「自分」というものがないから客観的に捉えることができるのだろう。マイナス思考で自信がなくてもなんとかアイドルとしてやっていけるのは、この客観性のお陰もあるだろう。

齋藤飛鳥は「自分」を手放しているが、思考や価値観まで手放しているわけではない。齋藤飛鳥が「自分」を手放すのは、他者となんらかの関わりがある事柄について正しさの判断をする自信がないからだ。自分にしか関係のないことであれば、齋藤飛鳥は自分なりの考えや価値観を持てる。そこがまた、齋藤飛鳥という人間を面白くしている要因なのだと思う。

「OVERTURE No.009 齋藤飛鳥のインタビュー」を読んで

あなたを変える52の心理ルール

内容に入ろうと思います。
本書は、メンタリストのDaiGoが、日常生活の中で出来るちょっとした「実践」について書いたものです。日常の中の様々な場面で、人に好かれたり、伝えたい感情がきちんと伝えられたり、何かをした際の成果をより大きくしたりというテクニックについて書かれている作品です。

本書の特徴を、DaiGoはまえがきでこんな風に書いています。

『そこで本書では、「分かりやすさ」ではなく、「実践しやすさ」にフォーカスしました。
分かりやすいだけの本では、ただ知識を得るだけで満足し、実践につながりません。
むしろ分かりやすいがゆえに、実践しないで満足してしまう危険があります。
そこで本書では、実践しやすくするために52のすべての項目を、「AすればBになる」の形式でまとめました。さっと一読していただければ、もう本文を読み返さずとも、目次を見るだけで実践できます』

これは非常に面白いと思いました。確かに、一読した今なら、目次を読み返すだけで実践できる感じはします。

DaiGoはこんな風にも書いています。

『ぜひ、目次を切り取るか、コピーして持ち歩いてください、携帯やスマートフォンで目次を撮影して、待ち受けなどにしておいてもいいでしょう。』

52の項目の中にも度々書かれていましたが、人間の脳は、何度も触れたものを大事と判断する傾向があるということです。「単純接触効果」という名前がついているようです。本書には、「願いごとを紙に書いて持ち歩くと、本当に願いが叶う」という項目もあります。こちらは、「無意識」を働かせる方法として紹介されています。

個別の項目を実践する前に、まずは目次を毎日短い時間でもいいから眺めるというのを続ければ、脳が「これはやらなければならないことだ」と判断して、実践しやすくなるでしょう。まずはそこから初めて見るのはいいと思います。

ただ、本書に書いてあることをただ実践してもダメでしょう。
DaiGo自身も、こんな風に書いています。

『このように、私はよく自分で実験をしています。心理学で学んだことが本当に成り立つのかどうか、自分の目で確かめたいという気持ちがあるからです。裏返して言うと、私は心理学で言われていることが100%成り立つとは思っていません』

ここに書かれていることは、あくまでも「基本」です。実践をしていく中で、そのままやってもうまくいかないケースも当然出てくるでしょう。ある実践に対して、すべての人間が同じ反応をするわけがないのですから。だから、返って来た反応を見ながらフィードバックしていく必要があるだろうと思います。その意識はとても大事だろうなと思います。これは、本書に限らず、世のハウツー本に広く言えることでしょう。

僕は、本書で扱われていることは、実践していることもあれば、なんとなく実践してることもあるし、まったく実践していないこともあります。僕は普段から、自分なりの考えを持って他人と接していますが、自分のこれまでの経験や、相手の反応などによって、誰にどういう風に接するかは結構変えています。それでいて、全体としては一貫性のある感じに見られるように、自分の中で意識しているつもりです。それも、僕なりのフィードバックの結果です。

ハウツー本に手を出して失敗する人は、このフィードバックが出来ないのでしょう。フィードバックに必要なのは、相手の反応を観察して、仮説を立て、その仮説が正しいことを証明できるような振る舞いをしてみることです。僕は、そんな一連の流れを意識しているわけではありませんが、昔からずっとそういう意識で人と関わってきたので、もう自然と身についているんだろうと思います。お陰で僕は、どんな場にでも潜り込める、適応力の高い人間になることが出来ました。

本書は、実践しやすさに重点を置いているという点で、他のハウツー本とはちょっと違ったタイプだと思います。そしてその上で、常にフィードバックを欠かさずに、自分の実践を適宜修正していく、という意識でやってもらえたらいいのかなと思います。

DaiGo「あなたを変える52の心理ルール」

死刑のための殺人 土浦連続通り魔事件・死刑囚の記録(読売新聞水戸支局取材班)

まず、少し長いが、僕がここで書きたいことと関係あるので、引用から始めようと思う。

『私には彼が感じただろう、つまらなさが実感として分かる。それは、私と同世代か下の世代が感じる、独特の閉塞感だ。成熟しきった日本で、多くのことはやり尽くされている。それでも、先進国の地位を維持し続けるには成長しなければならない。他国や他人に取り残されないように、どんどん価値を上げ、多くのことを同時にこなし、競争を勝ち抜かなければならない。現状維持は後退を意味する社会だ。「もう、成長はこの辺でいいだろう」という考え方は許されない。でも、そんな社会に適応できる若者ばかりではないし、皆、成長は頭打ちだと、うすうす感じている。
成長しない日本を生きる。そんな閉塞感の中で、彼は現実に希望が見いだせず、早々に降りる道を選んだのだろう。もちろん、自殺願望を募らせ、最終的に殺人という手段を選んだのは許されないことだ。弁護するつもりは全くない。
でも、彼が感じたつまらなさに共感できる人は、世の中にたくさんいると思う。彼のつまらなさの根源は、日本の社会を覆う閉塞感にある。何不自由のない生活を送っていても、心は満たされない。希望が見いだせない社会だ。
「何を甘いことを言っている」。そう批判する人も多いかもしれない。でも、私は希望が見いだせない若者たちを単純に批判できない。何不自由のない生活は幸せとイコールではない。なぜ、豊かな国であるはずの日本で、毎年3万人前後の人が自ら命を絶つのか。そして、なぜ若年世代の自殺率が上昇傾向にあるのか。私は、その現実は希望を見いだしにくい日本の社会のあり方と無縁ではないと思う。飽和状態にある、と分かっていながら成長を求められるのは、若者にとってつらいことだ。たまたま職を得た人も、一度脱落したら敗者復活はできない、という恐怖と戦いながら毎日生活している。そんな社会で希望を持てるのはよほど才能があるか、運のいい人たちだけだろう』

僕も、共感できてしまう側の人間だ。

この「土浦連続通り魔事件」の犯人である金川真大に対する僕の感覚をまず書こう。

彼が考えていること、感じていることは、かなり分かってしまう。僕は、大きな括りで言えば金川真大と同じ種類の人間だろう。本書の中にも、取材班の一人の実感として、こんな記述がある。

『「もしどこかでつまずいていれば、自分も同じようになっていたかもしれない」。そんな思いさえ抱くようになった。それは私だけの特別な感情ではなく、同僚記者も同じだった』

僕もそう思う。僕も、どこかで踏み外していたら、金川真大のようになっていた。そういう入り口(人を殺そうとする入り口ではなく、周囲と相容れない思想を持つようになる入り口)に、僕は何度か足を踏み入れたと思う。僕が引きずり込まれなかったのは、ただ運が良かっただけだ。僕と金川真大は、ある意味で等価交換可能な存在だ。金川真大は人を殺し、僕は殺していない。それだけの差しかないように、僕には感じられる。

ただ先に書いておく。金川真大が「確実に死ぬために死刑を選択した」という行動は、頭が悪いと思う。「他人に迷惑を掛けて死のうとするな」とか「痛みを伴わない自殺の方法は探せばあるだろう」とか、色んな突っ込み方があるが、僕は単に頭が悪いなと感じる。
まず死刑というのは、死ぬ時期が完全に他者に委ねられている。「死ぬ」と決めて死ぬことの最大の自由は、自分が死ぬ時期を決められることにあるのではないか、と僕は感じる。自殺の最大の自由は、いつ死ぬかを自分で選択できることにある。死刑による死は、この自由を完全に手放してしまっている。事実、金川真大は逮捕されてから死刑が執行されるまで3年ほど掛かっている(これでも十分早い方だが)。僕には、その3年間はアホくさくてやってられないだろうと思う。

また金川真大は、「確実に死ぬために死刑を選択した」と発言している。しかし、死刑が宣告されれば確実に死ねるが、死刑が宣告されるかは確実ではない。彼は、2人を殺し、7人に重傷を負わせた。普通に考えれば死刑だ。しかし裁判では、「死刑を望む者に死刑判決を下していいのか」という議論が起こる。当然だ。結果的に金川真大は死刑を宣告されたが、死刑を宣告されない可能性だって僅かながらあっただろう。だから、金川真大が考えるような確実さは死刑には存在しない。

金川真大の頭が悪いと考える理由は、この辺りにある。彼は、死刑のことを碌に調べもしないで、死刑というイメージだけに寄りかかって犯行を起こした。ちょっと知識があれば、「確実に死ぬために死刑を選択した」という判断のおかしさに気づけただろう。

色んな理由を含めた上で、僕は、金川真大の「確実に死ぬために死刑を選択した」という判断は頭がおかしいと思う。僕の内側からそういう考えが外に出ていくことはまずないだろう。しかし、それ以外の部分では、金川真大の考え方は理解できてしまう部分が結構ある。

僕は、このブログで何度も書いてきたが、人が死んで哀しいと感じたことが一度もない。祖父は二人共死に、大学時代の先輩も二人死んだ。葬式に出る度に、別に哀しいと思っていない自分に気づく。

また、社会に出ることが出来ないと悲観して、就活から逃げるために大学を辞めた。未だに後悔したことがないばかりか、あの時辞めておいて本当に良かった、とさえ思っている。

『青年は20歳の頃から、自分の人生に見切りをつけていた。進学も、就職もしたくなかったから、しなかった。でも、自室にいても、何の濰坊もなく、つまらない日々が過ぎていった。テレビゲームで毎日を埋めていたが、もう限界だった。「死のう」。自殺を考えた、でもよく考えると、自殺はうまくいかないかもしれない。確実に死ねる方法は何だろう?思いついたのが死刑だった。
綿密に計画を立て、2人を殺し、7人を負傷させて死刑判決を受け、ここまで来た。なぜこんなに時間のかかる方法を選んだんだろう。何度も後悔した。確実に安楽死の制度があるなら、迷わずそれを選んだだろう』

僕は、就活が嫌で大学を辞め、大学時代のアルバイトはすべて3ヶ月でバックれた。誰とも会わずに引きこもっていた時期もある。今僕は悪くない環境にいるが、一年前今いる場所に来るまでは、僕の人生はかなり詰んでいたことだろう。そこから抜け出せたのは、本当に、運が良かったにすぎない。

そういう意味で本書が描いているのは、「特異な人間が起こした例外的な事件」ではないのだと僕は感じる。本書は、「第二の金川真大がどんな家庭からでも生まれうる」という現実を活写している。確かに本書を読めば、一見、金川真大の両親に問題があると思うだろう。そして、こんな両親だから金川真大みたいなモンスターが生まれたのだ。ウチは大丈夫と思いたいことだろう。

しかし、本書をきちんと読めば、両親も両親なりの考え方によって、子供を愛していたのだろうということが分かる。結果として金川家は、ちょっと歪で狂った家庭環境だ。しかしそれは、決して悪意からではなく、両親なりの子供を思う気持ちの積み重ねによって生み出されてしまった。両親との関わり方を読むと、僕がしてきた振る舞いと重なる部分もある。やはり僕は、金川真大と等価交換可能な存在なのだろうなと改めて思う。

本書は、あまりにも異質で特異で信じがたい事件が描かれる作品だ。しかし、だからと言って目を背けていいわけではない。自分とは関係ない事件だと見ないふりをしていいわけではない。多くの若年世代が、金川真大のような閉塞感を抱えて生きている。僕もそうだし、本書を執筆した記者自身もそうだ。その閉塞感とどう付き合っていくのか。誰もが様々な経験をしながら、それらと折り合いをつけていく。しかし中には、金川真大のような折り合いの付け方を選択してしまう者も出てくるだろう。それが自分の子供ではないとは、誰にも断言できないはずだ。

そういう意識で、本書を読んで欲しいと僕は思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、「確実に死ぬために死刑になる」ことだけを目指して通り魔事件を引き起こした金川真大という男に迫ろうとする作品だ。
2008年3月19日。金川真大は茨城県土浦市で男性を一人刺殺する。その四日後の3月23日、荒川沖駅で金川真大は無差別にその場にいる人間を殺傷し、逮捕された。
逮捕された金川真大は、独自の「思想」を繰り返す。「人を殺すことは悪ではない」「世の中の人間は常識に毒されている」「人を殺すのは蚊を殺すようなもの」「死刑になるために殺人を犯した」「いくら人を殺しても死刑にならなければ、殺人は犯さなかった」などなど…。
これまで、「死刑になっても構わない」という動機を持つ無差別殺人は存在した。しかし、「死刑になるために人を殺した」というのは前代未聞だった。金川真大は一貫して、人を殺したかったわけでもないし、社会に恨みがあったわけでもないと語る。ただ、出来るだけ多く人を殺さないと死刑にならないから殺人を犯したのだ、と語る。

『「申し訳ないことをした」
言葉でなくてもいい。そんな気持ちが彼の心に生まれることを本気で願い、行動を起こした。それはもう、取材を超えていた』

『私にできるのは、金川に贖罪の心を芽生えさせることではないか。そんな思いが日増しに強くなっていった』

記者は、被害者から白い目で見られることを覚悟しながら、憑かれたように金川真大との面会を続ける。金川真大は強固な思想を語る。それは一般の常識からすれば異常とも言うべきものだ。その思想を、少しでも揺るがせることが出来ないか。たとえ死刑になるとしても、真っ当な心を取り戻してから刑を受けさせることは出来ないか。

『死刑囚のまま、友人を得て、恋をして…。死にたくない。そう一瞬でも思ってから執行されて欲しかった』

金川真大の死刑が執行された後、同僚記者が感じたこの思いこそが、記者たちを取材へと駆り立てた原動力だった。
金川真大は何故犯行に及んだのか。それを支える思想はどんなものか。何故その思想が生み出されたのか。金川真大を改心させることは出来ないのか…。葛藤を抱えながら続けた取材の記録です。

正直に言って僕は、金川真大に対してそこまで関心を持てない。冒頭で書いたように、僕は金川真大が抱えていただろう感覚が、少しは理解できる。そしてその上で、「何故死ぬために死刑という手段を選んだのか」という問いには、「金川真大の頭が悪かったからだ」という結論が僕の中では出ている。「死ぬために死刑という手段を選ぶ」という、僕からすれば不合理な判断ではなく、抱え続けてきた葛藤や閉塞感から生み出されるもっと合理的な判断によって何か行動を起こしていたとしたら、金川真大にもう少し興味を持てたかもしれない。ただ、頭の悪い人間には、さほど興味が持てない。

本書を読んで僕が気になったのは、金川真大と関わる、あるいは関わらざるを得なかった人々の話だ。記者を始め、遺族・弁護士・裁判官・家族・精神科医など、金川真大と何らかの形で関わる者たちの困惑や葛藤の記録として、僕は本書を読んだ。

本書を執筆した記者の物語として、本書は興味深い。記者自身が、「それはもう、取材を超えていた」と書いているように、彼がしていることは「世間に対して報じる者」としての立場を超越している。同じ人間として、金川真大という存在を許容できないが故に、どうにか自分が理解できる存在にまで金川真大という男を引き下げようと奮闘する。また、死刑制度の根幹を成す「死を恐れる」という感覚を無くしてしまっている(ように見える)金川真大に対し、死刑という刑罰が何らかの意味を持つように、死を恐れたり死ぬことを後悔したりする感覚を植え付けようと努力する。それは、記者自身の内側から「これをせねば」と湧き上がってきた想いだ。自分の行動の意味を振りかえったり、遺族の方の思いを逆なでしているだろうと思ったりと、取材とは言い難い行動を続ける自分自身に対して、それでもこれはやらなければならないんだ、という意志を持って金川真大と関わり続ける記者の奮闘の記録として、本書は興味深い。

そして、金川真大と関わる者の話としては、金川真大の家族の話が一番強烈だ。

たとえば、金川真大には他に3人の兄弟がいるが、彼らの金川真大や家族に対する発言を読むと、ゾワゾワとさせられる。

上の妹「母親のことが嫌い。一生、自分の声を聞かせたくないから、筆談で会話している」
下の妹「家族にも、合う、合わないがある。きょうだいとは、縁を切りたい」
弟「家族の誰かが死んでも、さみしいとはおもわない。今、付き合っている彼女が死んだら、さみしいかもしれない」

金川家に捜査に入った捜査員は、「家族同士で携帯電話の番号も知らない。他人がたまたま同居しているようだ」という、強烈な違和感を抱いたという。

一方で、そんな兄弟を、両親はどう思っていたのか。

母「きょうだい仲は、悪くないと思っていた。子ども同士、仲良くさせるのに、苦労することはなかった。子どもは母である自分のことを分かってくれているし、自分も子どものことを分かっている、と思っていた。」
父「(事件までに、家族が抱えていた一番大きな問題は何だと考えていましたか?と問われ)
特に深刻な問題があるとは思っていませんでした」

子と親で、ここまで認識に差が出るものなのか、と感じた。

僕自身も、今はともかく、親との関係では色々あった。子どもの頃は両親が、特に母親が嫌いだった。しかし僕はそのことを、一切表に出さなかった。僕が初めてそれを両親に伝えたのは、大学進学のために実家を出て二年後、大学三年になる春のことだったと思う。小学校の高学年ぐらいからもう親が嫌いだった記憶があるから、10年近くもそのことを親は知らなかった。

親からしてみれば、青天の霹靂だっただろう。僕は優等生で通っていたから、まさかそんな風に感じているとは想像もしなかっただろうと思う。そういう意味では金川真大の両親の反応は驚くことではないかもしれない、とも思う。僕が両親にそのことを告げる前に、両親が何かインタビューに答える機会があったとしたら、「長男には特に問題はない」ときっと答えていたことだろう。

とはいえ、金川家の場合、はっきりと目に見える兆候が出ていた。上の妹は、母親と筆談でしか話さない。上の妹と下の妹は、ある時から一切会話をしなくなった。その他、両親や兄弟のことを語る子どもたちの話は、はっきりとした殺伐とした関係性が表れている。

ここに怖さがある、と僕は感じた。

子どもからすれば明らかなサインであっても、親にそれは伝わっていない、ということがあるのだと、本書は明確に示している。本書を読むと、父親はちょっと他者への共感力が低い人間に思えるので、一旦除外しよう。しかし、そこまで記述は多くはないが、母親の描写を読めば、母親は子どものことを考え、大事に育てていこうと考えている善良な人間だと思える。その母親は、家族内の「明らかな問題」を、自分なりに納得できる理由をつけて問題視していなかった。家族の問題を認識できていれば金川真大が殺人という手段を取らなかったかと聞かれればそれは分からないが、可能性はあっただろう。

僕らは、金川真大を生み出した家族、という目で金川家を見るので、そういう先入観によって彼らが極悪非道に思えてしまう部分もあるだろう。しかし、事件の前に金川家について知ることが出来れば、印象は違ったかもしれない。金川家は、結果的にモンスターを生み出してしまっただけで、どこにでもある家庭なのかもしれない、と。

そんなことはない、と思いたいだろう。ウチは筆談なんかで会話はしない、と。しかし、母親の認識を思い出して欲しい。多分に願望もあっただろうが、母親は家族の問題を認識していなかった。これを母親だけの問題だと捉えるのは、問題を矮小化しすぎていると言えるだろう。正しくは、明らかなサインがあっても親には問題の兆候が分からないことがある。金川家の事例は、そんな風に捉えるべきなのではないかと僕は思うのだ。社会が夢や希望を内包することが出来なくなってしまった時代に、子どもをどう育てていくのか。本書だけからその答えが得られるわけでは決してないが、そのことに問題意識を向け、考えるきっかけにはなるのではないかと思う。

司法や医学が金川真大をどう捉えるのかも非常に興味深かった。弁護士も検察官も精神科医も、金川真大という存在を持て余す。司法や医学で扱うためには、金川真大を何かしらの枠組みに入れなくてはならない。しかし、金川真大を入れられるような枠組みがどこにもないのだ。最終的に金川真大に対しては、死刑を与えるべきか、という議論になる。弁護士の一人は、「死刑を求めて殺人を犯した者に死刑を宣告するのは、金欲しさに犯罪を犯した者に金を渡すようなものかもしれない」という発言をしている。確かに一理ある。しかし同時に、たとえ本人が死刑を望んでいるのだとしても、遺族感情としてはやはり極刑を望んでしまう。法の整合性の観点から言っても、死刑以外の選択肢はない。

しかし…。

『本当に彼の思い通り、死刑にしていいのか。何とか生きる苦しみを味わわせることはできないのか。そんな思いが次第に強くなっていった』

罪を犯した人間は裁きを受けるべきだ。そんな当たり前の、人間として生きていく限り大前提となるような根幹を成す考え方を揺るがせた金川真大。金川真大は、死刑判決を受けてから3年後に死刑が執行されたという。通常死刑の執行には6年ほど掛かるという。死刑を望んでいた者を、通常よりも早い期間で死刑執行する。それにどんな意味があったのか分からないが、死刑制度の意味そのものを問いかける男だったことは間違いないだろう。

何が正しくて何が間違っているのか、どんどん分かりにくい世の中になっている。彼がその一生を通じて投げかけた様々な問いに向き合うことは、この複雑な社会を生きざるを得ない僕たちに課せられたある種の義務であるのかもしれない。

読売新聞水戸支局取材班「死刑のための殺人 土浦連続通り魔事件・死刑囚の記録」

雪の鉄樹(遠田潤子)

人生には正解しかない、と僕は思っている。
何故なら、どんな人であれ、選択肢の中から一つしか選ぶことが出来ないからだ。

選ばなかった無数の選択肢、それらをもし選んでいたらどうなっていたのかは、永遠に分からない。どれだけ考えても、どれだけ悩んでも、選ばなかった人生がどうなるか分かるはずもない。「もしあの時ああしていたら…」という想像は、少なくとも現実にはまったく影響を及ぼさない。現実に影響を与えるのは、自分が選び取った選択肢だけだ。

そんな風に考えているからだろうか。僕は過去の決断や判断を後悔したことがない。「あの時ああしていれば…」と過去を振り返ることがほとんどない。別に、成功ばかりの人生というわけではない。思い出したくなくて忘れたものも含めれば、失敗ばかりの人生だった。もう少しうまく立ち回ればする必要のなかった苦労や失敗もたくさんあるかもしれない。

でも、結局僕は今の人生を自分の決断や判断の積み重ねによって選び取った。それしか正解は存在し得ないのだから、過去を悔やんでもしかたない。

ただ一方で、僕はこうも考える。結局僕は、目の前に存在しうる選択肢の中から巧みに、後々後悔しそうな選択肢を排除しているのではないか、と。その行為自体は、別に僕は問題だとは思わない。ただ僕は、「後悔しない人間」なわけではなくて、「後悔しなくてもいいような選択をしてきただけの人間」なのかもしれない、ということだ。

結局、色んな苦労や失敗をしてきたけど、僕の苦労や失敗は、僕がその気になれば取り返せるようなものばかりだ。親との関係で色々あったけど、別に今からでも修復させられるだろう。大学も辞めたけど、入り直すことは可能だ。引きこもって一度人間関係がリセットされかけた時もなんとか関係を戻せたし、後から挽回できないような取り返しの付かない行動はしていない。

取り返しの付かない行動を取った場合、僕がそれでもなお後悔しないかどうかは、僕には分からない。

例えば、自分が他人を死なせたとする。絶対に取り返しの付かない行動だ。その場合、僕は過去の自分の行動を悔やむだろうか。それとも、結局過去は変えられないのだから後悔しても仕方ないと考えるだろうか。

分からない。

一つだけ言えることは、僕はきっと逃げるだろう、ということだ。取り返しの付かない行動を取った時、僕は徹底的に逃げるだろう。物理的に逃亡する、というような意味ではなくて、現実から逃避するだろうと思う。そういう想像なら、容易にすることが出来る。これまで僕は、嫌になったら逃げて逃げて逃げまくってきた。そうやって、なんとか今ここにいる。謝罪や償いみたいなものから、目を背け続けるだろう。そうしなければ、自分を保つことが出来ないから。

そういう自分のことを理解しているから、僕は自分が取り返しの付かない行動をしないようにとなるべく思っている。しかし、僕自身がそういう行動を取らなくても、誰かのそういう行為の結果が自分に降り掛かってくる、ということもあるだろう。
なるべく、そんな状況に陥らないように生きていたい。わざわざ自分の最低さを再確認するような状況には、なるべく遭遇したくない。

内容に入ろうと思います。
祖父の代から続く「曽我庭園」で庭師として働く雅雪。子どもの頃から親方である祖父の仕事の手伝いをしており、父親よりも筋がいいと早くから認められていた。雅雪自身も庭師の仕事が好きで、庭仕事の古典作品を読みふけったり、高校を卒業したら京都に修行に行くと決めていたり、庭師として生きる決意をもう大分以前から固めていた。
そんな雅雪は、32歳の今、未だに祖父を親方とする「曽我庭園」で働きながら、13年間に渡って両親のいない少年・遼平の面倒を見てきた。遼平の祖母である島本文枝に奴隷のような扱いをされながら、雅雪はそれを黙って受け入れ、子一人祖母一人の生活を外から支えている。
20歳のあの日から13年間。雅雪はある日をずっと待ちわびていた。その日のためにこの
13年間苦しい状況を我慢してきたと言っていい。しかしそれは同時に、遼平のことを裏切ることになる日でもある。雅雪はいつ遼平に話すべきか様子を窺うが、なかなか決心はつかない。
遼平との関係も、以前のままというわけにはいかなくなった。何故雅雪が遼平の面倒を見ているのか、何故遼平の祖母は雅雪に対して屈辱的な扱いをしているのか、その理由を知ってしまった遼平は、自分が雅雪に対してどういう振る舞いをするべきなのか分からなくなって混乱する。
壊れた家族に生まれた不幸、そして壊れたものを再生させる手段を知らない者の不幸。そして何よりも、壊れていることに気づかない不幸。不幸の連鎖の中でもがく雅雪は、その連鎖を断ち切ることが出来るだろうか…。

というような話です。
凄い作品だったなぁ。最初から最後まで緊迫感があって、重苦しさがあって、それでも読まされてしまう。結構分量もあるので、いつもより読むのに時間が掛かる想定でいたのに、想定より早く読み終わってしまった。この物語がどう展開し、どう決着するのかを知りたい、という気持ちに強く駆られたのだろうと思う。

この作品の特異さは、雅雪という人物が生み出している。雅雪が、恐ろしく善人である、という点が、この作品を異様なものにしているのだ。

通常、僕は善人には興味がない。面白くないからだ。しかし、雅雪は、普通の善人とは少し違う。
彼の場合、13年前のあの出来事がなければ、彼の「善的な部分」は表に出なかったのではないかと思う。元々の彼は、善人とは程遠い人物だった。そして、13年前のあの出来事以降も、雅雪自身は自分のことを善人だとは思っていない。しかし傍から見れば、彼は異様なまでに善人なのだ。

彼の場合、「徹底的に善人でなければならない」という異様な執念みたいなものを貫き通しているという印象がある。彼の善的な部分は、そうしようと踏ん張っているからこそ生まれ、継続されているものなのだ。そういう意味で、彼は本来的な善人ではない。そもそも曽我家の家庭環境からまともな善人が育つことを期待する方が間違っている。

雅雪はある軛によって、善人であることを自らに義務付けている。遼平の祖母は、それに付け込んでいるし、遼平はそのことに気づかずに雅雪を本物の善人だと思っている。そして彼らを取り巻く周囲の人間は、また違った形で雅雪のことを捉えている。

雅雪が何に囚われているのかは、作中でも中盤以降に登場するので、ここでは明かさない。しかし、本来的に彼は、一般的に「償い」と呼ばれる行為をする必然性のない人物だ。そこにこの物語の核がある。雅雪が「償い」をすればするほど、彼を中心とした現実の磁場が歪み、その磁場の範囲内にいる人間を狂わせていくことになる。

この物語は、雅雪自身がその歪みに気づくまでの、長い長い13年間の終わりの物語だと言っていいだろう。

『これが償いの結果だ。つまらない浅知恵で、かえってみなに迷惑を掛けた。俺のやってきたことは償いでもなんでもなく、ただ遼平を苦しめるためだけのものだったのか』

雅雪の行動を評価することは、とても難しい。彼は、自分の行動が、純粋に相手のためになると思って「償い」を続けている。そこに偽りはない。しかし彼もまた、不幸な生い立ちを背負った人間だ。不幸すぎる、と言ってもいいくらいだ。だからこそ彼は、一般的な人間が一般的に何を望むのか、何を望まないのかを捉え誤る。自分の言動が他人にどういう風に見られるのかを捉え誤る。そこにすれ違いが生まれ、それらがさらに何らかの出来事によって増幅して、取り返しのつかない状況が引き起こされることになる。

そしてさらに、雅雪の行動には加わる要素がある。これは具体的には書けないが、『原田は勘違いしている。俺は好きなように生きてきた』という部分を引用しておこう。この言葉の真意は、本書のラスト付近で理解できる。彼の行動は、「償い」の気持ちから生まれたものだ。それは嘘偽りない。しかしそれは同時に、「好きなように生きる」という選択によるものでもあった。彼が遼平の面倒を見ることは、彼の「好きなように生きる」という生き方に合致するものでもあった。しかし、それはとても哀しい理由だ。雅雪の家庭環境が違ったものであったら、そういう感想は出てこなかっただろう。結局のところ雅雪は、家族の不幸の連鎖の被害者であり続けているということなのだ。

『雅雪。私には情というものが理解できない。だから、おまえの話を聞いても気の毒だと思うことすらできない』

これは雅雪の祖父の言葉だ。僕はたぶん、この祖父の側の人間だろうなという自覚がある。子どもの頃から、「家族」という括りや単位に疑問しか感じなかった。きちんと言語化出来ていたわけではないけど、何故年齢も生い立ちも趣味趣向もバラバラな人間が「血が繋がっている」というだけの理由で一緒にいなければならないのか分からなかったし、今もよく分からない。僕は、この祖父ほど酷くはないだろうが、同じベクトルの感覚を持っているだろうなと思う。

じゃあ何故そんな人間が子を持つに至ったのか、と疑問を抱くかもしれないが、その辺りも実にうまく説明されている。曽我家の面々はむかしから「たらしの家系」と呼ばれていて、祖父と父は常に女をとっかえひっかえしているのだ。そんな家庭環境に雅雪はずっと嫌悪感を抱き続けてきた。この家族は完全に壊れているが、あまりにも壊れすぎているために雅雪は、そこで育ってきた自分が壊れていることにずっと気づかないでいたのだ。

『別に舞子が嫌いだったわけじゃない。関心がなかっただけだ』

こちらも、壊れた家族の話だ。この一家の話は物語の中盤以降でメインで登場するので、詳しく書くことは避けよう。いずれにしても、この作品には、完全に崩壊した家庭が2つ登場する。遼平の家族も含めれば3つか。家族の不幸の連鎖が途切れることなく続いてしまい、さらにその不幸が他の不幸と混じり合っていくことで、考えうる限り最悪の状況が引き起こされ、関わった者たちをさらに不幸にしていく。その過程を描き出す描写と展開力が実に見事だなと感じる。

本書はまた、才能の物語でもある。

『努力にはなんの意味もない』

庭師の親方である祖父の言葉だ。あまりにも容赦がないが、分からないわけでもない。凄い人間は最初から凄いんであって、努力でどうなるもんでもない。まあ、そりゃあそうですね。才能のあるなしは、ほとんど生まれた時に決まっているのだろう。

本人の努力ではどうにもならないのが才能というものだ。本書では、才能がないという事実を思い知らされ、それに絶望した者が2人登場する。雅雪を取り巻く状況は、その2人が生み出したと言ってもいい。

才能などなくても、別に生きていける。世の中に大多数は凡人なのだ。自分が凡人であることを受け入れて生きていければ、こんなことにはならなかった。
しかし、どうしてもそうは思えない人間もいる。

『あれはきつかったな。あいつらはただ生えてるだけなのに…。あんなにも人を感動させるんだ』

自分には特別な才能があるはずだ、人を感動させるだけの力があるはずだ。そう信じ続け、圧倒的な努力を重ねた男は、現実を思い知らされる。それまで、人生のすべてをそれに捧げてきた。しかしその努力には、一片の意味もなかった。

『そこまで言うのなら、こっちもはっきり言わせてもらうね。私は最初から無理やと思ってた。あなたにはそこまでの才能はない。才能のある子は全然違うの。』

子供の時に教えてくれた先生からそんな風に言われた男。何かに真剣に打ち込んだ経験のない僕にはその挫折は理解できないし、理解できたとしても彼がした行動を許容できるわけでもない。でも、こうも考えてしまう。もし彼が、ほんの少しだけ違う人生を歩んでいたら、彼も彼の周りの人間もまったく違った生き方をしていただろうな、と。冒頭で、「人生には正解しかない」と書いたけど、選んだ選択肢以外の人生が容易に想像できる場合(そしてそちらの方がトータルでは幸せだっただろうと思える場合)、やりきれなさを感じる。

この作品には、本当に悪い人間はごく僅かしか登場しない。雅雪が何らかの形で関わる面々のほとんどは、基本的には善良な人間だろう。しかし、ほんのささいなきっかけやちょっとしたすれ違いが、彼らをただの善人のままではいさせなかった。そして、雅雪のズレ方があまりにも歪であった。そして不幸なことに、雅雪のズレ方は、曽我家の中では問題にならないほど「普通」だった。彼は自分が歪んでいるという事実に気づかないまま、その歪さによって周囲を振り回していく。

『あんたが人殺しやったらよかったのに』

この作品は、雅雪という異様な人間をリアリティを持って存在させたことによって成立している。普通雅雪のような行動を取る人間は、「もしかしたらこういう人いるかも」と思わせられるようなリアリティを持てないだろう。しかし著者は、雅雪という人物を、いてもおかしくない存在としてリアルに描き出した。彼はこれからも歪なまま生きていくだろう。しかしそうだとしても、「再生」と呼びたくなるような希望の持てるラストで、雅雪の今後を想像したくなる終わり方だった。

遠田潤子「雪の鉄樹」

日本人のための怒りかた講座(パオロ・マッツァリーノ)

僕はあまり人に怒らない。イライラすることはあっても、怒るという行為をすることはない。
何故なら、人間に興味がないからだ。

『ささいなことでは怒らない人が、必ずしも人間的にすぐれているとはかぎらないのです。怒らない人は他人や世の中のことに無関心な、心の冷たい人なのかもしれません。怒らないからやさしい人だと考えるのもまちがいです。やさしい人だからこそ、不正や不条理に対して人一倍腹を立てるんです』

この部分を読んで、そうだなぁ、と思った。前から思っていたけど、改めてそう思った。僕はあまり他人に関心が持てない。だから、イライラすることがあっても、どうでもいいやと思ってしまうことが多い。わざわざ自分の労力を割いてまで、相手の行動を変えようとするほどその人に関心が持てない。

もう一つ、怒らない理由がある。それは、相手の価値観を受け入れるスタンスでずっと生きてきてしまっているからだ。

僕は基本的に、自分とは違う価値観であっても、「まあそういう人もいるわなー」と受け入れてしまうことが多い。これは、生きやすくするために後天的に身に着けた技術だと自分では思っている。自分の中に絶対的な価値基準をなるべく持たないようにする。そうすることで、他人の価値観を受け入れやすくする。そうやって摩擦が起こらないように生きてきた。

けど、自分の中に絶対的な価値基準を持たないが故に、何か状況が目の前にあった時に、それに対して自分なりの価値判断をすることが難しい。別に、空気を読んで周囲の人間に合わせようという意識を持っているわけではない。単純に、基準がないから判断できないのだ。例えば、「高血圧」という判断をするには、「血圧がいくつ以上が高血圧だ」という基準がなければ判断できないだろう。そういう判断基準が一切ない中で、「高血圧」という判断を下すことは出来ない。それと同じように、自分の中に価値基準がないせいで、物ごとの良し悪しを自分の中の基準に沿って判断する、ということがそもそも出来ないのだ。

僕はこういう自分の生き方は気に入っているし、特に不満はない。僕の中にも、価値基準云々ではなく、そもそも生理的に無理、というような事柄や状況もあるので一概には言えないが、ムカついたり怒りを感じたりするようなことはあまり多くはないと思う。

だから、怒りを我慢しているという感覚もさほどない。

『私が他人に注意する際に目的とするのは、不快な行為を相手にやめてもらうこと。それだけです。それ以外はなにも求めないし、求めてはいけないのです』

『正義のためではないというなら、じゃあ、私はなんのために他人やよその子に注意したり叱ったりするのでしょう?
答は簡単です。自分が気にくわないから。自分が不快に感じたから』

『正しさの基準はつねに“自分”しかないんです。自分がどう思うか。自分が不快かどうか。それだけが基準です。自分が不快に感じたら自分の責任で、迷惑行為をしている人にやめるよう申し入れる。自分が不快でなければ放っておけばいい』

今引用した3箇所だけ読むと、なんて自分勝手で傲慢な人なんだろう、と思う人もいるかもしれません。ただ、本書全体を読めば、著者の真意はきちんと理解できるでしょう。

僕は、本書全体を読んだ上で、著者のこれらの感覚にすごく共感できます。そしてだからこそ、僕は別に怒らなくてもいいな、と思ったのです。何故なら、僕は自分が不快だと思う状況があまりないからです。普通の人が不快に感じることでも、僕は割と平気だったりすることが多いです。まあ、普通の人がまったく平気なのに僕はどうにも我慢できない、なんていうことももちろん色々ありますけどね。まあでも、自分の中に「不快だ」という気持ちがないなら無理に怒る必要はない、という著者の主張は明快だし受け入れやすいなと思います(とはいえ、迷惑行為を行っている人物に注意することが仕事である場合にはまた話は別なのだけど)。

本書は「怒り方」の本です。「日本人のための」とついていて、読むと確かに日本人のための本だなぁ、と思います(ちなみに書いておくと、著者はたぶん日本人です)。

おそらくそんな誤解はされないだろうけど、一応先に書いておきます。著者は別に、「怒れ!もっと怒れ!」とみんなを煽っているわけではありません。そうではなくて、「怒り」を我慢しても誰も評価してくれないし、現実は何も変わっていかないんだから、それだったら適切な形で「怒り」を相手に伝えましょう、ということを言っているわけです。

「怒ること」に対する著者の考え方が凝縮されているだろう箇所を抜き出してみます。

『本書で私はしつこく繰り返しますが、他人に怒ったり注意したりする行為は、コミュニケーションなのです』

『怒る、叱る、注意する、と考えるからハードルが高くなるんです。相手に逆襲されたらケンカになる、と身構えるから、なかなかいえないんです。
自分がこうしてほしい、と考えてることを相手にやってもらえないかと交渉する、と考えたほうが気は楽です。交渉なのだから、相手が反論してくることも当然ありえるし、決裂する可能性もあります。怒ったのに受け入れられないと、ケンカに負けたようで屈辱ですが、交渉したけど決裂した、と考えれば、精神的ダメージは軽いはずです』

本書で著者が主張したいことを極限まで凝縮すれば、この二箇所の引用で説明できるのではないかと思います。怒ることは「コミュニケーション」であり「交渉」である。まずこんな風に発想を転換してみましょう、ということです。そしてこの発想の転換をスムーズに出来るように、著者は自らの経験や資料からのデータなどを駆使します。そしてその上で、じゃあその「コミュニケーション」や「交渉」をどうやったら上手く出来るのかという具体的な方法についても書いている、という作品です。

具体的な方法についても、凝縮して表現されている箇所があります。

『私の経験では、よその子に注意するときのコツ参加上“すぐに”“具体的に”“マジメな顔で”を守れば、「バカモン!」「コラ!」と声を荒らげずとも、こちらの注意を受け入れてくれる確率はかなり上がります』

本書では、「すぐに」「具体的に」「マジメな顔で」について、それぞれさらに深く掘り下げていく形になります。

この内、「すぐに」について少し書いてみましょう。なんとなく分かってはいたことだけど、改めて「なるほどな」と感じさせられました。

著者は、『私はむしろ、ささいやことで怒るようにしなさい、とみなさんに勧めたいのです』と書きます。これが「すぐに」の意味です。
何故か?
著者はその後で、その真意をこう書いています。『激怒するのを防ぐために、ささいな段階で注意してしまう』

僕は、深い人間関係が不得意なのだけど、その理由の一つがこの話と少し近いなと感じます。僕は、関係性が深くなり始めると、相手の行動に対して、「今は全然不愉快ではないけど、これを未来永劫ずっとされたら嫌だな」と感じることがあります。で、僕はこれを割とスルーしてしまうんです。何しろ、今は全然不愉快ではないわけです。とりあえず、様子を見よう、と思ってしまう。でも、やっぱり予想通り、相手のその行動が段々嫌になって来る。でも、最初の段階で嫌だと言わなかった手前、今更言いにくい…。
みたいな感じになって、その人との関係性がめんどくさくなってしまう、というパターンを結構繰り返してきました。

本当は、「今は全然不愉快ではないけど」という段階で、それを止めてくれるように言うのがベストなんでしょう。なかなか難しいですけど、本書を読んで改めてそのことを再認識しました。僕の場合、「主張しないことで怒りを溜め込んでいる」というわけではないのだけど(最初は決して不愉快ではないから)、本書を読んでとにかく、「怒りを溜め込むことはよくないぞ」と自分にも他人にも言いたいなと感じました。

本書はまた、「昔は良かった」的な言説のウソを暴き出す、という側面も持っています。道徳的な面で、明治・昭和の人々は現代人より素晴らしかった、という言説はウソだと著者は切り捨てます。著者は、昔の雑誌などをひっくり返すようにして読み漁って、当時の社会風俗全般について調べます。現代で起こっている様々なマナー違反は、明治時代にも昭和時代にもあった。マナー違反が今になって増えたわけでも、昔の人の方がデリカシーがあったわけでもない。そういうことを、きちんと雑誌などの資料を根拠に主張しているのもとても面白い。

全編を通じて、著者の発言の仕方にはとても誠実さを感じる。リテラシーのない人は、読者を小馬鹿にするような書き方にイラッとくる人もいるのかもしれないけど、著者は根拠のない主張はしないという意味でとても誠実だ。著者の根拠というのは、自分の経験と、雑誌などの資料だ。自分の経験に基づいて発言する場合は、「あくまで私の場合はこうだ」という主張をする。自分の価値観を空いてにむやみに押し付けることもしないし、相手をむやみに貶すわけでもない。著者の目的は、「間違った認識を持った人間の考えを正す」というもので、それが徹頭徹尾貫かれているところがとても良い。僕らは様々な発言を、特に根拠を持たないままする。人から聞いた噂話とか、ネットの書き込みとか、そういうエビデンスのない情報を悪意なく広めてしまう。僕らのそういう軽々しい行為によって、イメージや雰囲気みたいなものは醸成されていく。それらに根拠がないこと、そして何らかの根拠に立脚すれば真実はこちらであることを提示する著者のやり方は、僕は好きだなと思う。

本書からは、怒り方の具体的な手法やスタンスを学べるだけではなく、何らかの情報や価値観に接した時、その真偽をどう判断し、どう担保するのかという在り方まで学ぶことが出来るように思う。後者のような生き方は、ネット社会であればあるほど必要とされるのだろうと僕は思う。

パオロ・マッツァリーノ「日本人のための怒りかた講座」

「blt graph. Vol.14 齋藤飛鳥のインタビューを読んで」

齋藤飛鳥は、何人かで喋ると、普通の女の子という感じがする。
雑誌でのインタビューの話だ。
何人かで話す場合、そこまで多く喋りはしないし、喋っても突っ込んだ意見を発することは少ないように思う。

やはり齋藤飛鳥には、一人で語らせるのがいい。
本書の中のインタビューは1ページしかないが、それでも、僕が齋藤飛鳥に惹かれる理由が詰まったやり取りだった。

『(もっと人を信じてもいいかな、と思いましたか?)
「うーん、人を信じるということには直接的にはつながっていないけど…なんていうか、「人間っていいな」って思うことは増えました」』

齋藤飛鳥は頻繁に、「他人を信じていない」という発言をしている。もう少し正確に書くと、「他人から優しくされることを疑ってしまう」のだという。
しかしこのインタビューを読んで、齋藤飛鳥が一番信じていないのは自分自身なんだろう、と感じた。

『もうちょっと自分の気持ちとか欲を抑えながら生きていたいです』
『今まで抑えながら生きてきたので、それを外したときに自分がどうなるのかわからないですけど、たぶん自分が嫌いなタイプの人間になりそう(笑)』

この感覚には、凄く共感できる。

僕の、凄く些細な話を書こう。
僕は小説をそれなりに読む人間だが、既に5巻以上の長いシリーズになっている作品にはなるべく手を出さないようにしている。
何故か。それは、ハマってしまったら困るからだ。
もしもその作品が面白くて面白くてたまらなければ、出ているシリーズ作品すべて読みたくなってしまうだろう。でも、それをするための時間的・金銭的余裕に恵まれているわけではない。だから、手を出してハマってしまったら困るのだ。だから手を出さない。

僕はあまりやりたいことを持っていない。食べたいもの、行きたい場所、欲しいモノ。そういうものがほとんどない。日常生きている限りにおいて、僕が自分の生き方を「気持ちや欲を抑えている」と思うことは少ないけど、傍から見ればそう見えるだろう。そんな生き方をしている根本的な部分には、ハマってしまったら困る、という感覚がある。

先程のシリーズ物の小説を読む、という話は、「欲望をオープンにしたら嫌な人間になる」というものではないのでエピソードとして伝わりにくいかもしれない。もっと分かりやすい例を出せば薬物だろうか。僕は、大麻などの薬物に手をだすつもりはない。ハマってしまったら困るからだ。そしてハマってしまった場合、確実に「自分が嫌いなタイプの人間」になる。

薬物に対してであれば、この感覚が理解できるという人はいるのではないか。そして齋藤飛鳥も僕も、そういう感覚を、他のことにも当てはめて生きている。

何故か。それは、自分自身を信じていないからだ。

薬物に手を出す人間は、「一回ぐらいなら大丈夫」「依存症なんかになりっこない」と考えるのではないだろうか。それはつまり、自分を信じているということだろう。だから薬物に手を出せる。僕は、自分を信じていないから、薬物には手を出さない。

『前までは、べつに自分の存在がグループにとってそこまで大きいものではないので、自分のことを「乃木坂46として認めてない」っていう見方だったんです。「私はまだ認めてないからな」って』

自分を信じていない齋藤飛鳥は、だからこそ「乃木坂46の齋藤飛鳥」という存在をも信じない。乃木坂46という名前は、今の自分にその資格がないのにたまたまくっついてしまっているだけ。

『乃木坂46に入ってから2,3年くらいは「自分が乃木坂46にいる」という感覚があまりなかったんです。当時は中学生だったこともあり、物ごとを真剣に考えていなくて。活動に対して意欲がないとかそういうわけではなく、自分なりに一生懸命取り組んでいたつもりだったけど、いま振りかえってみると、自分のすべてが薄っぺらだったかなと感じるんです』

他のメンバーのインタビューなどを読むと、他のメンバーは乃木坂46に選ばれて喜びや不安を感じたというようなことを言っているように思う。それはつまり、乃木坂46として他社から認められたこと、乃木坂46という名前が自分自身につくこと、そういうことを純粋に喜び、また認められたが故の怖さみたいなものも感じたということだろう。認められたという事実を、喜びや不安という形で一旦受け止め、その上で、どう頑張ったらいいか分からない、どうすれば選抜として認められるか分からない、というような挫折や悩みに至るのだろう。

恐らく齋藤飛鳥は違ったのだろう。齋藤飛鳥にとっては、他人から認められることが何よりも大事なことなのではない。そもそも齋藤飛鳥は他人のことを信じていないのだ。他人からの評価に寄りかかるはずもない。齋藤飛鳥にとっては、自分が認められるかどうかが何よりも大事だった。自分が自分自身のことを、乃木坂46のメンバーであると認めることが出来るかどうか。齋藤飛鳥の関心は常にその一点にあったのだろう。

齋藤飛鳥も、その時々で挫折を感じていたはずだ。齋藤飛鳥がよく発言する印象的なエピソードに、カーテンを閉めるというものがある。「走れ!Bicycle」の演出でカーテンを閉めるというのがあった。選抜組は着飾った衣装でステージ上にいる。そして選抜ではない自分はジャージを着てそのカーテンを閉める役をやらされた。凄く悔しかった、というようなものだ。
これも見方によっては、自分が周りから認められていない、認められ方が分からない、という葛藤に映るだろう。しかし恐らく、齋藤飛鳥の感覚は違ったのだろう。齋藤飛鳥は、ジャージでカーテンを閉めているような自分を、乃木坂46の一員としては認められないぞ、という、あくまでも自分の判断にあったのだろうと思う。

自分が自分自身を認められるかどうかが常に最重要課題である齋藤飛鳥。しかし彼女は同時に、誰よりも自分自身のことを信じていない。もちろん、自分の判断も信じていないだろう。だからこそ齋藤飛鳥は、いつまで経っても自分自身を認めることが出来ない。齋藤飛鳥はずっと、そういうスパイラルの中にい続けているのだろうと感じる。

「EX大衆 2017年1月号」の中で、卒業する橋本奈々未について伊藤純奈・齋藤飛鳥・川後陽菜の三人が話すページがある。その中で齋藤飛鳥は、橋本奈々未からずっと言われ続けている言葉があると語る。

『飛鳥にはもっと気楽に生きる方法を覚えてほしい』

そりゃあ橋本奈々未も言いたくなるだろう。最も信じていない自分自身が自分のことを認めてあげられなければダメ、というハードルは、アイドルであるかどうかに関係なく、人間として生きていくのにしんどいだろうと思う。

『それがやっとここ2年くらいで人間味が出てきたのかな?と思っていたんですけど、それも気のせいで。今年になってやっと人間らしくなったかな…と感じたんです』

自分自身のことを最も信じていない齋藤飛鳥に人間味がなかったというのは、ある意味で当然かもしれない。何故ならそれは、自分の内側に存在するものすべてを信じていない、ということなのだから。このインタビューの中では、こうも発言している。

『いえ、感情を出す、出さないというよりは、それまでは感情というものがあまりなかったんだと思います』

これは、僕の解釈では、「感情がなかった」というよりも、「自分の内側から出てくる感情を信じていなかった」ということだろうと思う。

「POP OF THE WORLD」という齋藤飛鳥がMCの一人を務めるラジオを聴いていて思うことだけど、齋藤飛鳥は自分の感情で一旦立ち止まっているように思う。自分は今楽しいのか、辛いのか、嬉しいのか、哀しいのか…。ラジオの中でそこまで大きく感情が揺さぶられることもないだろうが、時々そういう場面に出くわすと、齋藤飛鳥は立ち止まって、自分が今どう感じているのかをきちんと捉えようとしているように思う。

そういう振る舞いは、僕も分かるような気がする。

僕は年齢を重ねていく過程で、自分が今どんな反応をすればいいのかというチューニングがかなり合ってきたと感じられるようになった。だから今は、その場その場の状況で「適切な」反応を瞬時に出せていると思う。でも、外側にどう見せるかはともかく、僕自身の内側では、いつも考えている。今自分は楽しいのか、辛いのか、嬉しいのか、哀しいのか…。常にではないが、自分の内側にある感情は、きちんと一旦立ち止まって頭できちんと捉えようとしないと分からないことが多い。

他人を見ていて、「嬉しい時にはすぐに嬉しいって分かるんだな」「怒りをすぐに怒りだと認識出来るんだな」と思うことがある。多くの人は、そこにタイムラグがないように見える。僕は、これって嬉しいんだよな、これって怒ってるんだよな、と確かめないと、自分の感情が分からない時がある。そういう他人との比較をすることで、「自分には感情がないんだな」と感じることは結構頻繁にある。僕自身も、内側に感情がないわけではないのだろうが、それを認める方法を知らないために、感情がないと感じてしまうのだろう。そして、齋藤飛鳥も似たような感じではないかと思うのだ。

齋藤飛鳥は、今年やっと人間らしくなった、と書いている。まさにこれはセンターを経験したことによるものが大きいだろう。

『だから、今年に入ってから「感情を素直に出せるようになった」というわけではないんです。意識的に人間味を出そうと思っていたわけではないので、出てしまったのは自分としては本意ではありませんでした』

センターを経験することで、それまで自分の内側から生まれたことのなかった様々な「何か」が溢れるようにして噴出したことだろう。齋藤飛鳥は、それらに対処しなければならなかった。普段であれば、その「何か」が外側に溢れ出る前に、思考で止めることが出来る。自分が今何を感じたのか、という思考を挟むことで、感情に引きずられることなく生きていられた。

しかし、センターを経験したことによって溢れ出た「何か」は、そんな普段の対処では追いつかないほど膨大だったのだろう。結果的にそれは、齋藤飛鳥から人間味が滲み出るという流れに繋がっていった。

『どんなに身近な人や親しい関係でも、べつに見せなくてもいい部分はあるじゃないですか。だから、感情をそのまま出す必要はないのかなと思います。「もっと本音を見せてほしい」と言われていたし、もちろんそういう気持ちも理解していたけど、でもやる必要性をあまり感じていなくて。単純に頑固っていうだけなのかもしれないけど』

齋藤飛鳥はこれからも、自分の内側から湧き上がる「何か」に立ち止まりながら、それらを思考で押さえようとするだろう。しかし、センターを経験したことで、感情が外側に流れ出す「通路」みたいなものが出来てしまった。齋藤飛鳥はそれを『人間味を出す方法を身につけた』と、あくまでも自分でコントロール出来るものだと捉えたいようだ。しかしどうだろう。齋藤飛鳥は、センターを経験したという以上の大きな変化をしばらく受けることはないかもしれない。しかしそれでも、一度出来てしまった「通路」をすり抜けていく感情はあるのではないか。別に齋藤飛鳥の人間味が表に出なくても僕は齋藤飛鳥のことが好きだろうが、「人間・齋藤飛鳥」が表に出てくることがあるならば、それを楽しみに待ってしまう自分もいる。

最後に、齋藤飛鳥のことの言葉を引用して終わろう。

『誤解されるのが嫌だったので「この人誤解しているな」と思ったら弁解していたけど、それでさらにややこしくなってしまうことも多くて。だから、今も誤解されるのはもちろん嫌だけど、別に誤解している人だって四六時中私のことを考えているわけではないので、まぁ別にいいかなと思えるようになりました』

齋藤飛鳥が僕のブログを見ているなんてまったく想像もしていないけど、齋藤飛鳥について書いた一連の記事を読んで齋藤飛鳥がどんな風に感じるのかは、死ぬまでに聞く機会があったらいいなと思う。

「blt graph. Vol.14 齋藤飛鳥のインタビューを読んで」

「海賊とよばれた男」を観に行ってきました

生きることは、闘うことだ。
誰もが、それぞれの戦場で闘っている。
それを僕らは、生きる、と呼んでいる。

『店主の戦争が、ようやっと終わったんかもしれんなぁ』

けれど、「なんのために闘うのか」が、どんどん見えにくくなっているように思う。
そういう時代に、僕らは生きているのだと思う。

誰もがこう言うだろう。
生きるために闘っているのだ、と。
しかし、じゃあ何故生きるのか?と問われて答えられる人間は多くはないだろう。
僕も答えられない。
この問いに答えられないからこそ、多くの人が迷っているのだろう。

戦争は、明らかに悪だ。
肯定するつもりなど、さらさらない。
しかし、戦時下では、闘う理由ははっきりしている。
国のためだ。
自分が闘うことがどう国のためになるのか、明確に説明しろと言われたら困るだろうが、
誰もが国のためと思ってそれぞれの戦場で闘っていた。
国のために個人が闘うことが、良いことなのかどうか、その是非はここでは問わない。
とにかく、このために自分は闘っているのだ、という大きな存在を見つけ出せる環境は、ただその点だけを抜き出してみれば、現代よりも恵まれていると言えるかもしれない。

『忘れたのか。俺たちの店主は、企業家の皮を被った海賊やぞ』

国岡鐡造という男は、その「大きな存在」としてあり続けた。
一企業家でありながら、多くの人間にとっての「闘う理由」として存在し続けた。

『俺わぁ、店主の言ったことはやりとげたいんだよ』

国岡商店の面々は、誰もがこういう想いを抱いていた。店主がやれと言うなら、店主が行けと言うなら、店主が続けろというなら…。どれだけ困難な状況でも、不可能と思える現場でも、理不尽に怒り震える時でも、彼らは「店主のため」という想いだけで、それらを乗り越えることが出来たのだ。

これだけの男が、今世界に何人いるだろうか?

『それでもダメやったら、みんなで乞食をしよう』

国岡は、店員たちのことを「家族」と呼んだ。終戦によって60歳の国岡はすべてを失った。生き残った大勢の店員たち、そしてこれから復員してくる1000人単位の店員たち。彼らを養えるだけの蓄えも仕事も何もなかった。しかし国岡は、ただの一人も店員の首を切らないと決めた。それは、国岡を取り巻く幹部たちには、到底不可能に思える決断だった。しかし国岡は、その無茶を貫き通す。

日本の石油すべてを統制する石統に嫌われた国岡商店は、戦後石油を扱う商売をしばらくすることが出来なかった。ようやく許可を得ても、外油メジャーたちが国岡商店を潰そうとあらゆる手を使ってくる。国岡商店は、ずっとずっと苦しい闘いを強いられてきた。

しかし、それを乗り越えることが出来たのも、あの時首を切らなかった店員たちの獅子奮迅の努力のお陰だ。

『士魂商才。サムライの心で商売をする。それがどうなるのか見てみたかった。それだけだ』

意味のない慣習や圧力にさらされながらも、ルールを破るような商売の仕方は決してしなかった国岡商店。その心意気が、多くの人間を巻き込み、国岡の元へと集まっていく。

それが、国岡鐡造という男が持つ力であり、魅力である。

多くの人間にとっての「闘う理由」であった国岡鐡造。では、彼は何のために闘っていたのか。

国のためだ。もっと言えば、国の未来のためだ。

『このままだと、日本に石油が入ってこんのだ』

GHQは、石油の輸入を解禁して欲しいという石統の要望を蹴った。理由は、全国の海軍施設にあるタンクの底を浚えばまだ石油はあるじゃないか、という嫌がらせのようなものだった。タンクの底の石油は、戦時中、どうしても石油を必要としていた海軍でさえ浚うのを諦めたほどのいわくつきのものだ。そのあまりの過酷な仕事を引き受けるものなど誰もいない。
しかし石統のトップは、これまた嫌がらせのようにその仕事を国岡商店に回す。タンクの底の石油ならいくらでも売っていいぞ、と。現場の人間たちは、その作業のあまりの過酷さに音を上げた。撤退を進言した現場責任者に、国岡は続けてくれと言ったのだ。

国岡は知っていた。石統が嫌がらせでこの仕事を国岡商店に回しているということを。それを飲み込んで、国岡はこの仕事を引き受けた。何故か。

そうしなければ、日本の石油が入ってこないからだ。日本の復興にとって欠かせない石油が、ただの一滴も入ってこないからだ。

『石油は国の血液やろが!そのすべてを外油メジャーに押さえられるのは、絶対に避けねばならん!』

国内の石油会社が次々と外油メジャーと提携(という形を取った買収)をされている中、唯一の民族系石油会社として国岡商店は孤軍奮闘していた。しかし、元石統のトップは分かっていた。メジャーと闘っても勝てるわけがない、と。外油メジャーは、石統を解散させるほどの強大な力を持っている。国岡商店などひとたまりもない、と。

しかし、そう言われた国岡は、それでも買収など受け入れないと強硬姿勢を崩さない。何故か。この買収を受け入れてしまえば、日本が扱うすべての石油が外油メジャーに乗っ取られてしまうからだ。それでは、経済的に独立しているとは言えない。

『これが一流と言われる奴らのやり方ですか?恥ずかしくないんですか?』

国岡商店は外油メジャーとは長く闘いを続けてきている。満州でもそうだ。彼らは満鉄に対して、マイナス20度でも凍結しない油を開発して売り込んだ。しかし満鉄は、国岡商店との取引を蹴る。その裏で、外油メジャーが動いていたのだ。

士魂商才。まっとうな商売をし続ける決意をしていた国岡には、彼らのやり方がどうしても許せなかっただろう。国岡にとっては、彼らに乗っ取られる形で国岡商店を経営するつもりなど、まるでなかった。

国岡は、常に未来の日本を見据えていた。未来の日本が、未来の日本人が、誇りを持って生きていけるよう、国岡は信念を持って闘い続けた。その闘いを間近で見ているからこそ、国岡商店の面々は、店主に人生のすべてを捧げることが出来たのだろう。

国岡が夢を託した未来に、今僕らは生きている。僕は、この映画の原作小説を読んだ時にこう感じた。今でも覚えている。

僕たちは、国岡が望んだ未来をきちんと生きているだろうか。

国岡が、今の日本を見てどう思うのか。
最後の最後まで心休まる時のないままに突っ走り続け、未来へとそのすべてを託した国岡は、僕らを見て、微笑んでくれるだろうか。


1945年8月。物語は終戦直後から始まる。
60歳だった国岡は、大打撃を受けた国岡商店をどうするか、決断に迫られていた。一人の首も切らない、と国岡は決めていた。しかし、石油はないし、あっても扱えないし、仕事もない。国岡は、やれることはなんでもやった。GHQから頼まれたラヂオの修理も請け負った。とにかく、必死だった。
思えばこれまでも、ずっと必死だった。1912年、国岡鐡造27歳の頃。個人的な繋がりで石油の納入業者が決まっていて新規参入が困難と言われた中、国岡は後に“海賊”と呼ばれることになるあるやり方で、油を売りまくった。国岡らの真っ当な商売は、様々な場面で軋轢や対立を引き起こしたが、国岡は一步も引かず、国岡が正しいと思えるやり方を貫き通した。
国岡のそんなやり方に惹かれて人も増え、また苦しい状況もなんとか乗り切ってきた。
しかし、さすがに八方塞がりだ、という状況がやってくる。
日承丸という2万トン級のタンカーを製造した国岡商店は、これで世界中どこの石油会社とも取引が出来るようになったが、そんな国岡商店を牽制するように、外油メジャーの息が掛かった製油所から次々に取引停止の連絡が届く。ついに国岡商店は、石油の仕入先をすべて失った。
残る手は一つしかない。外油メジャーの支配下にはない製油所と取引することだ…。
というような話です。

原作は言わずもがなの傑作ですが、映画も実に良かったです。よくあれだけの分量の原作を映画一本分の長さにまとめたな、と感心しました。

映画は、原作の中から特に印象的なエピソードを抜き出して、それらを実にうまく繋ぎで作った、という印象です。原作では国岡商店についてもっと様々なエピソードが登場するが、それらを刈り込んで刈り込んで映画は作られている。出来るだけエピソードを盛り込むことよりも、一つのエピソードを丁寧に描き出していく、という作り方をしたのだろう。そしてそれはとても成功しているように感じられた。

物語の展開も時系列順ではなく(原作も確かに、冒頭こそ終戦直後からのスタートだったが、それ以降は時系列順で展開していたような記憶がある)、現代と過去を行ったり来たりさせる構成で、その構成が良く出来ていたなと感じる。現代における苦しい状況の際に、それと関わり合う過去の回想を挟み込むことで、短い時間の中で国岡商店や国岡鐡造の来歴がよく伝わるような構成になっていたと思う。

石統や外油メジャーと対する時の国岡鐡造と、店員と対する時の国岡鐡造の落差が大きく出るような演技や演出で、国岡鐡造という人物の輪郭がとても見えやすかったのも良かったなと思う。その差をはっきりと見せることで、国岡鐡造という人物が一体何を大事にしているのかということがとてもよく分かる。

印象的だったのは、国岡鐡造が常に現場に足を運んでいる、という点だ。国岡は、タンクの底を浚う現場にも自ら足を運び、還暦を超えているというのに自ら作業をしようとした。国岡には、店員たちに辛い思いをさせているという忸怩たる思いが常にある。現場まで足を運んで彼らを激励しなければ気が済まないのだ。

国岡は店員たちを前にして何度か話をする場面があるが、そこでも、店員たちの心を惹きつけ、この人のためにまた頑張ろう、と思えるような言葉を紡いでいく。それが多くの店員にとって本心だと感じられるからこそ、彼らもまた頑張れるのだろう。

映画を見た人は是非、原作も読んで欲しいなと思う。映画にするに当たって相当エピソードが削られているから、原作を読んで国岡という男の凄さを知ってほしいなと思う。

あと凄いなと思ったのはCGだ。確か、「三丁目の夕日」と同じところが「海賊とよばれた男」も作っているはずだ。「三丁目の夕日」もCGが絶賛されたはずだが(僕は見ていない)、こちらでも圧巻だった。正直、どの場エンがCGで出来ているのか全然分からなかったくらいだ。冒頭の戦闘機による先頭のシーンなんかは、明らかにCGなんだろうけど、それでも迫力満点でCGとは全然思えなかった。その後も、CGでしかこの映像は作れないだろうけど、CGだとしても凄いと感じるような場面が多々あって、驚かされた。

何故闘うのか、そして何故生きるのか。そういう真っ当さに裏打ちされた国岡鐡造という男の生涯を描き出す作品だ。実際にこんな人間がかつていたということ、そして彼が未来の日本に何かを託したこと、そして託されたのはまさに僕らであること。そういうことを実感してほしいなと思う

「海賊とよばれた男」を観に行ってきました

ジェリーフィッシュは凍らない(市川憂人)

いやはや、べらぼうに面白い作品でした。
これが新人のデビュー作とは。
おみそれしましたと言いたくなる一冊だ。

舞台は、近過去。とはいえ、僕らが辿ってきた過去ではない。並行世界とでも呼ぼうか。
一番の違いは、新型気嚢式浮遊艇<ジェリーフィッシュ>が発明された、という点だ。これは、飛行艇の水素を入れてた部分を真空にすることで大幅に小型化に成功した、「航空機の歴史を変えた」とまで評される大発明だった。1937年に大型旅客船の爆発事故のせいで、気嚢を用いた飛行船の社会的信用が失墜したが、その35年後の1972年に「真空気嚢」という新技術がフィリップ・ファイファー教授らによって開発され、現在では民間向けの小型気嚢式浮遊艇<ジェリーフィッシュ>が富裕層を中心に販売されている。
1983年2月。航空業界最大手であるUFA社の気嚢式飛行艇部門技術開発部所属の面々は、新型<ジェリーフィッシュ>の航行試験の真っ只中にいた。ある時から酒浸りになったフィリップ教授を始めとした6名が、様々な役割を交代でこなしながら、4日間の航行試験をスタートさせていた。
一方、A州F署刑事課の九条漣は、上司であるマリア・ソールズベリーを毎朝の如くに叩き起こしながら、彼女と共に現場へと急行した。それはH山系の中腹で、「ジェリーフィッシュが燃えている」という通報が入ったのだという。恐ろしいほど雪深いその山の麓には、燃え尽きて残骸となったジェリーフィッシュと6体の遺体があった。何故か軍がジェリーフィッシュの残骸を持ち去ってしまう。最初からきな臭い案件だ。当初はただの墜落事故だと思われていたが(とはいえ、そうだとすればジェリーフィッシュの最初の墜落事故のケースだ)、6体の遺体の中に、明らかな他殺体があるということで、警察が捜査することになった。
しかし、捜査する過程で様々な情報が明らかになるも、真相に近づいている感じはまるでない。調べれば調べるほど不可解な事件なのだ。死亡した6人の内の誰かが犯人であると考えても矛盾が出て、6人以外の外部犯が存在したとしても矛盾が出る。後者であるとすれば、熟練したクライマーでも現場から山を下りるまでに一週間から十日は掛かる、それもよほど運が良ければ、という状況であり、マリアたちは様々な仮説を検討するも、ことごとく跳ね返されてしまう。
捜査の過程で、レベッカという女性が事件に関係しているらしい、ということは分かってきた。レベッカは、<ジェリーフィッシュ>発明に大きな疑義を投げかける、技術開発部の面々にとっては爆弾のような存在であり…。
というような話です。

凄い作品だったなぁ。
繰り返すけど、新人のデビュー作とは思えない、見事な作品でした。
正直読むまでは、まったく期待してませんでした。「ジェリーフィッシュは凍らない」というタイトルから、なんとなく青春小説っぽい雰囲気を感じていたし、どこかに「新人のデビュー作だしなぁ」という感覚もありました。しかし一読して、それらの先入観をすべて吹き飛ばすほどのとんでもない作品だということが分かりました。

まず、物語全体の構図が見事だ。時代背景、人間関係、<ジェリーフィッシュ>開発の経緯、警察側の推理とそれらの瓦解、次々に溢れかえる謎、それらを見事に説明し切る華麗な結末。それぞれが見事に絡み合って一つの作品を成していて、全体の調和が素晴らしいと思う。

特に、<ジェリーフィッシュ>という小道具を作品の中で非常に有効に使っているのが良い。正直に言えば、この作品は、<ジェリーフィッシュ>などという架空の乗り物を設定しなければ成立しないというものではないと思う。しかし、<ジェリーフィッシュ>という架空の乗り物を設定したことで、作品の根幹を成すトリックの設定やストーリー上の細かな制約の解消などが非常に成立させやすくなっていると思う。同時に、<ジェリーフィッシュ>という発明品そのものに対する描写も抜からない。素人が読めば、非常にそれっぽく感じられるほど、<ジェリーフィッシュ>という乗り物がリアルに感じられるようにうまく設定されている。<ジェリーフィッシュ>の存在はこの作品の根幹では決してないが、しかしこの<ジェリーフィッシュ>を登場させたことで、作品世界が並行世界であるということがはっきりし、さらに様々な場面で物語を巧みに成立させる小道具としても自立しているわけで、凄いものを考えついたものだなぁ、と思います。

そしてトリック。僕は、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」は読んでいないのだけど、本書は「二十一世紀の『そして誰もいなくなった』」という風に喧伝されている。読んでいない僕でも、そのあまりに有名な状況設定ぐらいは知っているけど(トリックは知らない)、まさに本書も、閉鎖状況で一人ずつ死者が出ていって…という展開が描かれていく。読んでいると、どう考えてもあり得ない状況が出現しているんですよね、この現場には。合理的に考えうる様々な仮説をひねり出してきても、全然状況を説明できない。これ、どんな風に決着をつけるんだろうなぁ、と思ってたんだけど、ズバッとやってくれました。合理的な解決など不可能と思える状況を決着させるアイデアはなかなかのものだなと感じました。

そして僕が凄いと思ったのが、捜査する漣とマリアの描写だ。
正直、乗員6名が死亡という状況で、<ジェリーフィッシュ>内で何が起こったのかを調べるのは無理だろう、と思ってました。事故・事件当時のことを証言できる人物が誰もいない中で、遺留品や死亡した面々に関する調査を執拗に繰り返すことによって彼らは真相へと辿り着く。この過程がきちんと無理なく描かれているのは素晴らしいと思いました。

構成も実に見事。本書は、技術開発部による航行試験のパートと、漣とマリアによる捜査の過程が交互に描かれ、合間合間に誰かの回想が挟み込まれる、という構成になっている。こういう構成の場合、あっちにいったりこっちにいったりで読みにくかったり、交互に描写するという制約を守るために不要と思える描写が増えたりするものだけど、本書は違う。技術開発部のパートのラストの展開が捜査のパートと繋がり、また捜査のパートのラストの展開が技術開発部のパートへと繋がるというように、それぞれが有機的に繋がっている。両パートが絶妙に絡まり合うことで、謎が積み上がり、驚愕が引き出される。とても上手いなと思う。

トリックだけ、キャラクターだけ、舞台設定だけ。そういう「だけ」に頼ってしまう作品が、特に新人作家の作品によく見られる印象を持っているが、この作品は、小説に必要とされる様々な細部に気を配りつつ、大胆な仕掛けと緊迫感を演出する構成を駆使して、一つの作品世界を作り上げている。非常にレベルの高い作品だと思うし、作者の次回作にも多大なる期待をしてしまう。

市川憂人「ジェリーフィッシュは凍らない」

青が破れる(町家良平)

自分の外側にあるものに、自分の内側にあるものが乱されることがあまり好きではない。良いことも、悪いことも。
悪いことはともかくとして、良いことであっても、それは長く続かないという意味で好きではない。安定しない。いずれ落ちていく。上昇する時は楽しいが、下降する時は辛い。だったら、上がらなくてもいいのではないか。

乃木坂46の齋藤飛鳥は、雑誌のインタビューなどでこんなことをよく言う。

「良いことが起こったら、その後必ず悪いことが起こるじゃないですか。だから、気分が悪くなるような小説を先に読んでバランスを取るんです」

わかるなー、と思う。上向いた軌道は、自然な状態のままでも下降へと向かう。しかし、自然に任せたままだと、どこまで下降するかコントロール出来ない。なら、自分で下降させる、というのはどうか。うまくすれば、安定する平常的な場所までソフトランディング出来る、かもしれない。

「ボクサーのひと」とも呼ばれる主人公にも、少し近いものを感じた。

『他人に関心があるひとのかなしみを、他人に関心がないひとのかなしみを、秋吉さんはどっちもわからない』

彼は友人にそう言われる。

平常であろうとすればするほど、他人に関心を持ちすぎることも、他人に関心を持たなさすぎることも無意識の内に避けるようになっていく。どちらも、自分の内側を乱す要因になるからだ。だから彼は、ダンボール紙の断面みたいな起伏の狭いギザギザ程度の揺れに収まるような、凪いだ感情だけを内包させながら、そこからはみ出す部分はスパッと切り取るようにして毎日を生きている。

『なるほど、すきな女の子の前でこんなにキラキラしつづけなきゃならないなんて。すこしハルオに同情した』

彼は、自分のことを好きではないと彼自身気づいている彼女と、突然池に飛び込むような不可解さを持つ友人と、健康という希望と呪縛から同時に解放された友人の彼女となんとなく関わっていく。彼に主体性はない。他者との関わりにおいては、主体性を端から放棄しているように見える。そうすることで、自分自身が侵食されないというまじないをかけているのかもしれない。

そういう感覚は、僕の中にもある。僕も、他者との関わりにおいて主体性を捨てることで、自分の中の何かを守っている、という自覚がある。

『おれは、一瞬で少年に戻って、傷つけたことを傷ついたことにすり替える速度だけすばやい子どものようになって、たちすくんでいた』

彼の、主体性を捨てることで、自分の中の何かを守る術みたいなものはなかなか卓越している。友人の彼女に言われるがまま添い寝をし、相手が自分のことを好きではないと実感しながら彼女から連絡があるとすぐに出向いてしまう。死を間近に控えた人間を前にしてもさほど動揺しないのは、彼が傷つかないための方法をよく理解しているからだろう、と感じる。

『だれしも嘘はいやがるのに、ほんとうのことを伝えないことはやさしいことだとおもっている』

これはきっと、自分のことも含めてそう言っているのだろうと思う。

他者との関わりとのバランスを取るかのように、彼はボクシングにはストイックだ。いや、ボクシングに、というわけではないかもしれない。ボクシングはあくまでも、ただの手段だ。彼は、自分の努力によって、自分の内側を高めることにストイックだ、と言えるかもしれない。

『だけどほんとうにこわいのは、そんなことを思考してしまうおれ自身だ。きっとおれはいざというとき、おれに還ってしまう。相手のパンチを避けて自分の拳をうちつける一瞬に、ボクシングと一体になって、おれという人格を捨ててボクサーに成りきれなければ、きっと勝てない。おれはおれを捨てないと。
思考は敵だ。』

ここには、はっきりとした主体性がある。他者との真っ当な対話は拒絶する一方で、自らの内側との対話には真剣に取り組んでいく。こう書くと歪に思えるが、現代人の多くはこういう状態に陥っているかもしれない。他者との対話は、「共感」という通貨を抜き取るためだけの手段であって、あとはひたすら内向きに対話を続ける現代人と。

『こんな瞬間の連続で生きているとしたら、おれはおれが心配になった』

「主体性のなさ」と「自由」は等号で結ぶことが出来るのか。彼の生き方から僕は、そんな問いを拾い出した。

内容に入ろうと思います。
本書は、1編の中編と、2編の短編が収録された作品です。

「青が破れる」
ボクサーも目指す秋吉は、友人のハルオに連れられて、ハルオの彼女であるとう子の見舞いに行く。ナンビョーだという。健康であることを諦めたとう子の投げやりな感じを、秋吉はそのまま受け入れる。
付き合っている夏澄さんは、秋吉のことが好きではない。そのことが、秋吉には分かる。けれど秋吉は、呼ばれれば夏澄さんのところへすっ飛んでいってしまう。バランスの悪い関係。
ジムでは梅生とスパーをする。正直、梅生とのスパーは好きではないが、梅生は秋吉とのスパーを好んでいるようだ。梅生が絡んでくるのに任せて、秋吉は梅生とボクシングの練習をする。
それぞれが、少しずつ折り重なるようにして関わっていき、そして唐突に3人が死ぬ。

「脱皮ボーイ」
ホームから転落し、間一髪のところで電車に轢かれずに済んだ男。彼をたぶん突き飛ばしてしまったと言って見舞いにやってきた女。二人は付き合うことになる。男としては、全体的にはラッキーな出来事だった。女は、男と初めてセックスをした日、彼が脱皮することを知った。

「読書」
電車内の男と女は、膝がぶつかった。女は男の方を見なかったが、男は彼女がかつて手ひどく振った女だということに気づいた。女は読書をしていた。正確に言えば、女の上半身は読書に耽っていた。膝から下は、男の存在を感知していた。男は、悩んでいた。このままここに座っていたら、女に気づかれるのではないか…。

というような話です。

いわゆる「文学作品」というのをあまり読まないので、この作品が文学としてどうか、ということはイマイチよく分からない。物語が面白いかどうかと聞かれれば、決して面白いわけではないと思うけど、ただ文章は好きだなと思う。物事をどう捉え、それをどんな言葉で切り取るのか、という感覚がとてもいいなと感じる。

たとえば、こんな描写。

『おれはハルオの、滑稽でなければひとといっしょにいられないとでもおもっているような性癖が、とてもいやだった』

『声を失い、とう子さんもじっと黙ったので、場はしずまった。ふしぎなことだが、季節の変わり目をおれは感じとった。ドアをあけた瞬間、「もう秋なんだな」とおもった。風の温度より、明確な感触の差が、空気ちゅうに満ち満ちていた。人間は、季節のち外を気温なんかでは認識してないんだ、とおれはとつぜんにおもった。』

『ばかじゃないから、わかるけどさ、あたらしいままはままと違うんでしょ?でも、やさしいのよ。ほんとに違うのは、わからないのよ』

こんな感じの描写が、作中に結構あって、僕はそういう切り取り方や表現の仕方が結構好きだなと思う。秋吉がボクシングに向かっている時の思考も、なかなか面白い。物語自体は短いけど、重厚で濃密な感じがするのは、この文章のテイストのお陰だろうと感じる。

物語的には3編とも、僕はなかなかうまく読み取れなかった。まあこれは、国語が大嫌いだった理系人間だからだろうと思う。「青が破れる」の登場人物たちは全般的に変わってて好きなんだけど、彼らが秋吉を真ん中に置きながら関わりあった末に何がどう変化して何がどう変わらなかったのか、というようなことはうまく掴めなかった。そういうことがうまく掴めると、もう少し面白く読めるんだろうなと思う。

「青が破れる」の中で気になったことがある。おそらくこれは作者の意図ではないと思うのだけど、漢字をひらがなに開いたために、多義的な解釈が出来る文章が複数あるな、と感じた。

『だって、ハルくんはかえるでしょ?許せないの。死ぬこととか、病気に選ばれたこととかは、わりに許せるけど、許せるっていうか、許せる許せないのレベルじゃないし、「はぁー、まじか」って感じだけど、ハルくんがきたらかえっちゃうってことだけは、どうしても許せない』

僕は最初、「ハルくんはかえるでしょ?」の「かえる」が漢字に変換できなかった。「変える」なのか「買える」なのか「帰る」なのか。実際は「帰る」である。

『雨の日でも構わずロードワークにはいくが、きょうはきが進まなかった』

ここは、「今日は気が進まなかった」だとすぐ分かったが、最初読んだ時は「今日覇気が進まなかった」って読んでしまって、「???」ってなった。

『目の前にはなすべき他者があらわれると、まったくおれがおれでないくらい、考えることがかわってしまう』

ここも最初、「目の前には成すべき他者が」と読んでしまった。「目の前に話すべき他者」だとすぐにわかったのだけど。

『おれはみ放さない。梅生の感情を、当面、み放さない』

これは最初、意味が取れなかった。「見放さない」だと分かるのにちょっと時間が掛かった。

恐らく、漢字をひらがなに開くことで、一つの文に複数の意味を重ねる、というような意図はないと思う。純粋に、漢字を開く方が読みやすいと判断したのだろうと思う。とはいえ、こんな風にして違和感を覚えて立ち止まる、ということを何度か繰り返すというのは、僕みたいになんとなくすーっと文章を読んでしまう人間にはちょっと面白いかも、とは思った。もちろん、読みにくいな、とも思ったのだけど。

「脱皮ボーイ」では、『その男の子が微かに動くまで、わたしは人殺しだった』という一文が一番好きだ。僕がもし小説を書くとしたら、この文章を冒頭に持ってきちゃうだろうなぁ、なんて思った。まあ、この一文から始めると、物語が文学寄りに進まないような雰囲気を醸し出すのかもしれないけど。

全体的には、物語にではなく文章に惹かれた、というような感じでした。

町家良平「青が破れる」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)