黒夜行

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ブラックホールをのぞいてみたら(大須賀健)

2015年9月に、初めて「重力波」が検出されて、大いに話題になりました。
さらに2019年4月には、初めてブラックホールそのものの撮影に成功したと発表されて、大いに話題になりました(本書でもEHT計画として紹介されていて、2017年発行の本書には、EHT計画によってブラックホールを観測したかもしれない、と書かれています。それから2年くらい検証して、確実に観測したと確定されたんでしょう)

ブラックホールというのは、物理学の世界でもなかなか特異な存在です。ブラックホールが存在しうるということを、計算によって初めてしめしたのはシュヴァルツシルトという人で、この人は、アインシュタインが生み出した一般製相対性理論の方程式を、ある特殊な条件で解くことでブラックホールを予言しました。しかしアインシュタインは、一般製相対性理論に興味を持ってくれる人がいたことに喜びはしたものの、ブラックホールの存在には否定的だったと言います。そんなものが実際に存在するとは到底思えなかったわけです。

それは他の物理学者にしても同じです。【想像を絶するほど奇怪な天体の存在を、最初はほとんどすべての研究者が信じなかったのです】と本書でも書かれています。ブラックホールがどんなものなのか知っている人は、まあ信じないでしょう、と思うことでしょう。だって、「ンなアホな!」っていう存在ですからね。

またブラックホールというのは、【数少ない理論主導の天体】です。天文学の歴史というのは基本的に、「星とか天体現象を見つける」→「それについての研究が進む」という感じですが、ブラックホールはまったく違います。そもそも、「原理的に観測できない(※冒頭で「撮影した」と書いたのも嘘ではありません)」わけだから、「ブラックホールを見つける」→「研究する」という順番にはなりようがないわけです。だからブラックホールの研究というのは、「ブラックホールという理論上の天体がきっと存在するはずだ」→「存在するとしたらどういう性質を持つんだろう」というように研究が進んでいったわけです。これも非常に特殊な存在と言えるでしょう。

さて、先ほどの「原理的に観測できない」のに「撮影できた」という話について少し書いておきましょう。そしてその説明の中で、ブラックホールとは何なのかについても軽く触れましょう。

ブラックホールというのは、「どんな光も脱出できない天体」です。地球上からロケットを飛ばすには、ある一定以上の速度を出さなければなりません。そうしなければ、地球の重力を脱することが出来ないからです。そしてこれは、光も同じ。光も、重力の影響を受けます(これを、「時空が曲がっているから重力が生まれ、それによって光も影響を受ける」という形でアインシュタインが発見したわけですが、まあそれは置いておきましょう)。つまり光も、「重力の方が強すぎて脱出できない」という状況になりうるわけです。

で、アインシュタインの一般製相対性理論では、「光の速度は一定(約30万キロメートル)」です。つまり、「時速30万キロメートル」の光が脱出できなくなるぐらい重力が大きい天体があり得るわけです。それがブラックホールです。光が脱出できないわけですから、ブラックホールはどんな手段を使っても見ることが出来ません。本書では、

【ブラックホールの「黒」は私たちが思っている「黒」とは格が違う、「真の黒」なのです】

と書かれています。どういうことか。例えば「黒いズボン」を履いている人がいても、その人をサーモグラフィーで撮れば、熱を持っている部分は赤く映ります。「黒いズボン」というのは、可視光線の波長で見れば「黒」ですが、赤外線の波長で見れば「黒」ではない、ということです。で、ブラックホールというのは、どんな波長で見ても「黒」という、最強の黒なわけです。だから、どんな波長でブラックホールを捉えようとしても、絶対に無理です。

じゃあ撮影なんか出来ないじゃないか、と思われるでしょう。しかしこれがそうでもないわけです。

ポイントは、「ガス円盤」です。

本書には、こんな文章があります。

【「ブラックホールは暗黒か?」
この答えはもちろんYESなのですが、実はNOでもあります。なぜなら、宇宙でもっとも明るい天体のひとつがブラックホールだからです】

どういう意味か分かるでしょうか?正直僕も、本書を読むまでこの話は知りませんでした。

ブラックホールそのものは真っ黒で見えません。しかしブラックホールというのは、異常に重力が大きいので、その近くにあるものを吸い寄せます。しかし、吸い寄せられたものは、すぐにブラックホールに吸い込まれるわけではありません(これも知りませんでした)。ブラックホールというのは、「事象の地平面」と呼ばれる境界と「特異点」と呼ばれる中心に分かれますが、ブラックホールの本質的な部分は「特異点」です。で、これはとにかく小さい(宇宙規模で見ると小さい)。「特異点」に真っすぐ向かってくる物体はそのまま吸い込まれますが、「特異点」はメッチャ小さいので、なかなかそういうことにはならない。だから、ブラックホールの重力に引き寄せられたものは、とりあえずくるくるとブラックホールの周りを回ることになります。このブラックホールの周りを回っているものを「ガス円盤」と呼んでいます。

で、ブラックホール(に限らず天体)は、近づけば近づくほど重力が大きくなります。そうすると、「ブラックホールに近いものの回転スピードは速い」「ブラックホールから遠いものの回転スピードは遅い」ということになります。そうなると、ガス円盤は、場所によって回転スピードが違うことになり、そうすると、「回転スピードが速い場所」と「回転スピードが遅い場所」とで摩擦が発生することになります。その摩擦によって、「ガス円盤」自体が輝くのです。

だから、ブラックホール自体は暗黒でまったく見えませんが、それを取り巻くガス円盤はメッチャ明るい、ということになります。

これで、「ブラックホールは観測できないのに、ブラックホールの撮影が出来た」ということの説明が出来るようになります。ブラックホールとガス円盤の関係を理解できれば、「ドーナツ」のような形を想像出来るでしょう。ドーナツの部分がガス円盤です。で、ドーナツの穴の部分がブラックホール。そう、「ブラックホールを撮影した」というのは、イメージで言えば、「ドーナツの穴を撮影した」というような感じです。ブラックホールの周りでメッチャ輝いているガス円盤に取り囲まれている、真っ黒なブラックホールを撮影した、ということですね。

まあそんなわけで、ようやくブラックホールの存在が100%確証されたわけですけど、ブラックホールというのはなかなか苦難の道筋を辿っているわけです。最初は、既に話に出したシュヴァルツシルトの計算結果でしたが、彼はすぐに亡くなってしまったそうです。それから、チャンドラセカールという天才が現れます。彼は「白色矮星」という、「星が死んだらこうなる」と思われていた天体の質量に限界があることを導き出しました。多くの人が、「星は死んだら白色矮星になる」と思っている時代に、「ある一定以上の質量の天体は、白色矮星になることが出来ない」という事実を計算で導き出しました。これによって、「あれ?白色矮星になれないなら、星が死んだらブラックホールになるんじゃね???」という考えがまた生まれるわけです(インド出身彼はこの考えを、イギリスに向かう船の中で完成させたようですが、イギリスでエディントンという当代随一の天文学者にボロクソに言われて、不毛な議論に巻き込まれてしまいます。可愛そう。ただ最終的には、ノーベル賞を受賞しました。良かった)。

しかし今度は「中性子星」というものが登場します。「中性子星」というのは、「白色矮星」になれなかった天体がなる星と考えられました。つまり、「星が死ぬ→質量的にOKなら白色矮星になる」→「ダメなら中性子星になる」という流れです。チャンドラセカールは、「白色矮星になれる質量には限界がある」と言いましたが、「白色矮星」になりきれなかった天体が「中性子星」になるなら、ブラックホールにならずに済むかも、と思われました。

しかしやはり、オッペンハイマーという物理学者(彼は原爆開発者として有名です)が、「中性子星の質量にも上限がある」ということを導き出します。やっぱり大きな星はブラックホールになりそうです。

ただそれでも、頑強にブラックホールを信じない人もいました。その一人がホイーラー。しかし彼は、星の終焉について研究を進めた結果、「大きな星が潰れたらブラックホールなるやん」ということを自ら証明してしまうことになりました(ちなみにこのホイーラーさんが、「ブラックホール」という名前の名付け親だそうです)。

こんな風にして少しずつ、ブラックホールというのは研究されていったわけです。

ブラックホールには、「恒星質量ブラックホール」と「大質量ブラックホール」があります(他にもあるかもですけど、今見つかっているのはほぼこの2つのどちらかです)。「恒星質量ブラックホール」というのはその名の通り、太陽などの「恒星」と呼ばれている星が潰れて出来るもので、質量的には「大質量ブラックホール」よりも小さいです。「大質量ブラックホール」は、太陽の100万倍から10億倍、あるいはそれ以上の質量を持つブラックホールで、とにかく質量が大きいです。でこの大質量ブラックホールは、銀河の中心に必ず一つ存在する、と考えられています。

で、この「大質量ブラックホール」が結構謎だったようです。エディントン(チャンドラセカールにボロクソ言った人)が考えた、「恒星の明るさには上限がある」という理論をブラックホールにも適用することで、「単位時間当たりに吸い込まれるガス(ガス円盤)の量に上限がある」ということが示唆されます(詳しい理屈は省略します)。これはつまり、「ブラックホールは、いくらでも大量に食べられるけど、早食いは出来ない」ということです。で、「大質量ブラックホール」は、130億年前(つまり、宇宙誕生から8億年)にも作られているわけですが、「早食い出来ないブラックホールが、8億年で太陽の10億倍の質量を獲得できるか」というのが、大きな問題だったわけです。

しかしそれは、著者の研究グループがシミュレーションによって解決したそうです。実際には、「エディントン限界」はブラックホールには厳密には適応されず、だからブラックホールは「早食い」出来る、ということが分かったようです。しかし著者らは、「大量のガスが遠方領域から供給される」という前提でシミュレーションをしたので、「銀河のあちこちにあるガスが、銀河の中心にある大質量ブラックホールのところまでどうやって運ばれたのか」という問題は未だに残っているそうです。

それに関連しますが、「大質量ブラックホール」にはもう一つ問題があるとのこと。それは、「銀河の質量」と「大質量ブラックホールの質量」が比例関係にある、ということ。銀河が小さいと、その中心にある大質量ブラックホールも小さく、銀河が大きいと、その中心にある大質量ブラックホールも大きいのだそうです。

何故これが問題なのか。それは、「ブラックホールの重力は、あまり遠くには影響を及ぼさない」からです。例えば、僕らがいる銀河系内でも、ブラックホールはいくつも発見されていますが、その重力の影響は地球にまで届きません。同じように、銀河の中心にある「大質量ブラックホール」の重力は、その周辺には多大な影響を及ぼしますが、ちょっと離れれば影響がなくなります。だから、「中心付近にしか影響を及ぼさないはずの大質量ブラックホールの質量が、何故銀河全体の質量と比例するのか」というのは大きな問題なわけです。

さて、色々書きすぎたので、あと2つだけ書いて終わりにします。

一つ目は、「重力赤方偏移」について。これそのものの説明はしませんが、これがあるせいで、「ブラックホールに吸い込まれる人の姿」は撮影できないんだそうです。

詳しい説明は省きますが、ブラックホールに吸い込まれる人をちょっと遠くから観測すると、理屈の上では、「吸い込まれている人は、途中で止まったように見える」ことになります。ブラックホールから光は出てこれないのですから、「ブラックホールに吸い込まれた人の姿」もまた、ブラックホールの重力から逃れられません。つまり、実際にブラックホールに人が吸い込まれているのに、その情報は観察者まで届かないので、その直前の、「ブラックホールに吸い込まれそう!」という映像だけがずっと見えている、ということになるわけです。

ここまでは知ってたんですけど、実はこれは理屈の上での話で、実際には「重力赤方偏移」という現象によって、ブラックホール近傍の光というのは波長が無限大になってしまうので、そもそも観測出来ない、ということでした。残念。

もう一つ。これは、2015年に観測された重力波がどれぐらい小さいか、という話です。

【どれぐらいわずかなのかというと、検出可能性が高いとされる遠方銀河のブラックホールや星の爆発による重力波の場合で、地球と太陽の距離の変化はわずか水素原子1個分です。水素原子は水の中に大量に含まれていますが、その大きさは1センチメートルの1万分の1のさらに1万分の1。1.5億キロメートルもある太陽と地球の距離が、1センチメートルの1万分の1のさらに1万分の1だけ伸び縮みするというわけです】

そんな極小のものを検出してしまう人間の執念も凄いものだなと思いました。

まだまだ書きたいことは色々ありますが、この辺りでやめておきます。本書は、非理系の人でもかなり楽しく読める一冊になっていると思います。あまり臆せず、よく分からないところはちゃんと理解しようとせずに飛ばしちゃおうぐらいの気持ちで読むと、楽しく読める一冊だと思います。

大須賀健「ブラックホールをのぞいてみたら」

レトリック感覚(佐藤信夫)

内容に入ろうと思います。
本書は、いわゆる「比喩」と呼ばれる文章表現についての本です。

正直、ちょっと僕にとっては、思っていた感じの本ではありませんでした。

まず、ちょっと読みにくかったなぁ、と。これは、僕の能力の問題も半分以上あります。元々、古典作品を読むのが得意ではない人間です。本書も、別に古典作品というわけではありませんが、ある種「古典」と言われるレベルの作品で、だからこそ、個人的にはちょっと苦手意識がありました。

あと、こちらの方が大きな理由ですが、本書が、「比喩を分析する本」だったということが、ちょっと個人的には求めてた感じの本ではないなぁ、と思ってしまいました。

実用的な本が良書だ、と言うつもりはもちろんまったくありませんが、本書は、「世の中にはこれこれこういう比喩が存在する」という風なことが書かれている本であり、「比喩をどんな風に使うべきか」という本ではありませんでした。もちろん、分析も大事です。ただ、今の僕の興味にはちょっと合わなかったなぁ、というのが正直なところでした。

本書では「直喩」「暗喩」「換喩」「提喩」という4つを中心に、「誇張法」「列叙法」「緩叙法」などについて扱われています。この内、「直喩」と「暗喩」は分かりやすいですが、「換喩」と「提喩」はなかなか難しくて、読んでいてもイメージするのが結構難しかったです。研究者の中でも、「換喩・提喩は暗喩に含まれる」という人もいれば、「提喩は換喩の一部」という人もいて、いろいろだそうです。読んでて、「暗喩」と「換喩」の違い、また「換喩」と「提喩」の違いをするっと理解するのはなかなか難しくて、読みながら正直、「区別する必要あるんかなぁ」と思ったりしました。

個人的に面白いと思ったのは、「直喩」の話です。比喩の中では一番分かりやすいものでしょうが、本書にはこんな文章があります。

【とすれば、この直喩は、「…のやうに」という結合表現によって、非常識な類似性を読者にキョ末井していることになる。それを受け入れるかどうかは読者の自由であるから、矯正というのも妙な話だが、とにかく、ここでは、直喩にとって類似性が設定されているのだ。<直喩>や、次章の主題である<暗喩>は、<ふたつのものごとの類似性にもとづく>表現であるというのが、古典レトリックの定説であった。しかも、現代的なレトリック理論でも、この考えかたはつねに認められている。けれども、ここで私はそれを逆転させ、類似性にもとづいて直喩が成立するのではなく、逆に、<直喩によって類似性が成立する>のだと、言いかえてみたい。「美しい蛭のやうな唇」という直喩によってヒルとくちびるとは互いに似ているのだという見かたが、著者から読者へ要求されるのである】

なるほど、この捉え方は面白い、と思いました。直喩の場合、「◯◯のような」という表現になるので、その2つの間にこれまで関連性を認めたことがなくても、その直喩によって関連性を感じることが出来ます。これは、「暗喩」などではなかなか成立しません。「暗喩」の場合は、ある2つの物事の間に、ある程度の関連性があることが、読者に了解されていないと伝わらない表現だからです。なるほど、比喩表現としては「暗喩」の方が高尚だとなんとなく思っていましたが、2つの間に異質の関連性を提示する、という意味では、「直喩」の方が面白さがあるのかもしれない、と思ったりしました。

凄く読みにくいわけでは決してありませんが、僕はちょっと苦手意識を持ってしまう感じの文章でした。「比喩表現を分析する」というテーマも、知的好奇心という意味では良いですが、それらを使えるようになる、という視点で捉えるとなかなか難しいかな、という気がします。どういうスタンスで読むかによって捉え方が変わるかなという感じがしました。

佐藤信夫「レトリック感覚」

表現者集団・欅坂46、そして平手友梨奈の存在感


僕は、「人」的な意味で言えば乃木坂46が圧倒的に好きだ。しかし、「表現者」としては欅坂46に圧倒的に惹かれてしまう。そこで今回は、「表現者集団・欅坂46」という切り口で文章を書いていきたいと思う。

●●●●●何故「欅坂46」の記事を書こうと思ったのか?●●●●●

書こうと思ったきっかけは2つある。

1つ目は、「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」の平手友梨奈へのインタビューだった。インタビューアーは冒頭で、こんな文章を載せている。

【JAPANではこれまでたくさんのアーティストに登場してもらい、2万字インタビューアーとして半生を語ってもらってきたが、それが「17年」という短さであったことはない。
アイドルグループの、ただひとりに何度もインタビューをさせてもらってきた前例もないし、もちろん表紙に登場してもらった例も過去にはない。
未来のことはわからないが、きっとこれから先にも、そうはないだろう。
JAPANの表紙が何かの基準であると言いたいわけではないが、平手友梨奈という人の無二の存在感と革命的な実績を示すひとつの証明にはなっているのではないか。】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

<I am eccentric 変わり者でいい
理解されない方が よっぽど楽だと思ったんだ
他人の目 気にしない 愛なんて縁を切る
はみ出してしまおう 自由なんてそんなもの>(エキセントリック)

僕は「ロッキンオンジャパン」の2万字インタビューをあまり読んだことがないので、どんな人が取り上げられてきたのか、具体的に知っているわけではない。しかし、冒頭にここまで書くからには、2万字インタビューで「平手友梨奈」を取り上げることがどれほど異例であるかということが伝わってくる。そして実際にインタビューを読んで、改めて、平手友梨奈という人物への驚きや敬意と言ったものを感じさせられた。この凄さを伝えたい、という衝動が、この記事を書かせた動機の1つだ。

2つ目は、『黒い羊』という曲の存在だ。これまでも欅坂46の楽曲には心を奪われてきたが、『黒い羊』ほど突き刺さった曲はない。僕自身が今、個人的に変化の最中にいることもあって、『黒い羊』の歌詞やMVに“支えられている”と言っても言い過ぎではないぐらいだ。そういう意味で、僕の中で今、人生で一番の「欅坂46ブーム」を迎えていると言っていい。そのことも、この記事を書かせた動機の1つである。

それでは、アイドルとしてあまりに異質な「表現者集団」という特異な個性をいかに獲得していったのか。その軌跡を、欅坂46のメンバーや、彼女たちを取り巻く様々な人たちの話を参照しながら見ていくことにしよう。

●●●●●「欅坂46がどう表現するか」を試す作り手●●●●●

まず、欅坂46のメンバー以外の人たちが、欅坂46をどう見ているのかに触れていこう。

欅坂46はこれまでも、圧倒的なクオリティのMVで、ファンのみならず、様々な人たちを熱狂させてきたが、最新作である『黒い羊』のMVもまた、圧倒的な評価を持って迎え入れられている。『二人セゾン』から連続でシングル表題作のMVを手がけてきた新宮良平氏は、『黒い羊』の撮影についてこう語っている。

【最初に言いましたけど、演技は全部アドリブですよ。これは彼女たちが他のアイドルとは違うラインにいて、表現力とかパッションとかが凄いからできることなんです。特にみんな感情表現が本当に凄くなってる。彼女たちが結構ディープに役へ入りきっちゃってるから、僕は何を言ってるか知らないですもん。例えば、齋藤(冬優花)さんは座ってるだけだったんですけど、徐々に気持ちが入ってきて「私、缶を投げたい」と言い出して本番ではセリフをアドリブで叫んでいます。携帯電話を眺めながら歩いてくる小池(美波)さんだって、僕は表情の具体的な指示は一切していません。自分がその人物になりきって、それぞれの絶望を表現してくれている。一瞬しか映らないメンバーでも楽曲を届けるために本気で表現者としてやっている姿がすごかった。そういうムード感は欅坂46だからこそ出せることであって、みんなも理解しているんですよ。全てのメンバーが楽曲を伝えるために本気でした。】「BRODY 2019年4月号」

僕は映像表現を批評することに長けているわけではないが、『黒い羊』のMVは、様々な絶望の中を“僕(=平手友梨奈)”が駆け抜けながら「全部僕のせいだ」と叫び、しかし「ハグ」によって「善悪」「対立」「衝突」「不満」と言ったものを、感情のことはひとまず置いて身体的に乗り越えようとする姿を描いているように僕には思える。MV中に描かれる「絶望」は、確かに混沌としているが、しかしある程度の一体感がそこになければ、映像表現として一つにまとまることはないはずだ。しかし監督は、彼女たちにアドリブで演技させているという。

【新宮 平手さんが叫んだのは完全にアドリブです。そもそも、僕は舞台装置と設定を投げているだけで、出演者の演技はほとんどアドリブです。どうやって動くのかの動線や演出内容は秒単位で決まっていますが、表情とか仕草などは演出していないというか、主演者が自分の設定から自分で考えて沸き立ってくるものを大事にしています。
―それで、よくあんな緊張感が出ましたね。
ワンカットで進んでいくから、実際に現場を歩いていく平手さんがMVの世界観に没入していけるように計算して舞台装置を仕掛けているんです。それによってどんどん気持ちが出来てくる。その結果、あの叫んでいるシーンが生まれたということですね】「BRODY 2019年4月号」

映像制作の現場に詳しいわけではないから分からないが、やはりアドリブに任せるというのは勇気がいることだと僕は思う。やはりそこは、「表現者」としての彼女たちの能力を非常に高く買っているということだろう。もちろん、表題作のMVを撮り続ける中で、そのことは徐々に理解されていったはずだ。

【新宮 欅坂46の作品を撮る場合は、まず何よりも撮影に関わるカメラマンも照明部も、全スタッフが平手(友梨奈)さんやメンバーのことが好きなんですよ。だから、カメラマンが撮りたくて撮ったカットが多いし。】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

「彼女たちが何をどう表現するのか見たい」という関心が作り手側にあるということだろうし、そう思わせるだけの表現を欅坂46のメンバーが積み重ねてきた、ということでもある。『サイレントマジョリティー』から『アンビバレント』までジャケット撮影に関わった米澤潤氏と神藤剛氏はこんな風に語っている。

【米澤 あらかじめ何となくの設計図というのはあるんです。(中略)ただ、おっしゃったように不確定要素というのもすごくある。でも、結局、そこにメンバーが入るとバチーンと決まったりするんですよね。いつの間にかメンバーの逞しさに助けられることも増えてきました
(中略)
神藤 現場に彼女たちが入ってから思い付くこともあるし。ある意味、そこで瞬間芸みたいなことが起こっている気がして、今回のType-A(※『アンビバレント』)にしてもこのカットを撮る予定はまったくなかったんです。いつ頃からか、特に平手ちゃんとの撮影は、ライブ感みたいなものを僕のなかで大事にしていて。現場で「こう動いてみようか」という話をしているときに、彼女は自分のアドリブも入ってくるし。良い意味で想定外のことが起こるし、それがビジュアルの強度にも繋がっているのはあるなと。だから、今回のType-Aにも、それがより強く表れているかもしれないですね】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

ここでも、クリエイターたちの、「欅坂46のメンバーとの化学反応がどうなるのか見てみたい」という関心が伺える。アイドルに限らず、アーティスト全般に対して言えることかもしれないが、作り手側に委ねてみたいと思わせるというのは、そこまで多いケースではないというのが、門外漢の僕の印象だ。製作期間の制約やコンセプトなどによって、作り手側の自由が狭められることはよくあることだろうと思うし、そういう環境下においては、委ねるという決断はなかなかリスキーになってしまうと思うからだ。

欅坂46は、そういう意味でも恵まれていると言える。

【米澤 ですが、そこは今野(義雄~欅坂46運営委員会 委員長)さんを始めとするマネジメントの皆さん含め、ジャケットの重要性というのをすごく大事にしているので、例えば「アンビバレント」に関しては検証する時間も含めて4日間かけて撮っているんです。】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

【新宮 それこそレーベルも『顔が一瞬だけしか見えなくても構わない』と言いますからね(笑)】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

作り手側の「制約」になるような条件をなるべく排除する、という運営側のスタンスがあるからこそ、「メンバーに委ねる」という決断もしやすくなるという側面はあるはずだ。乃木坂46も、個人PVの撮影において、クリエイターたちに自由に撮ってくれと言って制約を課さなかったという話を昔読んだが、乃木坂46の系譜の中で生まれた欅坂46というグループだからこその自由度とも言えるのだろう。

●●●●●アイドルとしては異質のライブの世界観●●●●●

また欅坂46は、アイドルらしからぬライブの世界観も大いに人々を刺激していく。

「BUBKA 2019年7月号」での「欅坂46 3rd YEAR ANNIVERSARY LIVE 日本武道館公演レポート」において、記者はこんな感想を書いている。

【「遂にここまで来たか欅坂46…」というのが率直な感想だ。MCは必要最低限、ユニット曲は一切なし、代表曲とも言える『サイレントマジョリティー』『不協和音』は披露されず、最新のリリース曲である『黒い羊』は最終日のみの特別仕様。さらにはアンコールにも応えなかったのだから驚いた。ものの見事に自分たちの世界観を構築し守り抜いた、欅坂46の3周年ライブを振り返る。】「BUBKA 2019年7月号」(欅坂46 3rd YEAR ANNIVERSARY LIVE 日本武道館公演レポート)

<不協和音で既成概念を壊せ
みんな揃って同じ意見だけではおかしいだろう
意志を貫けここで主張を曲げたら生きてる価値ない
欺きたいなら僕を抹殺してからいけ>(不協和音)

僕は欅坂46のライブを見たことがないので、自身の実感として何か書けるわけではないが、欅坂46のライブに関する様々な記述を読んでいると、その異質さがよく伝わってくる。そもそも僕は、アイドルのライブというものに行ったことがないので、欅坂46のライブを見たとしても、それがアイドルのライブとして何が異質であるのか実感できないと思うが、ライブを見た人の「凄いものを見た」という熱量をいつも文章から感じる。

【欅は媚びない。だから、欅でいられる。見せたいものを優先する。そんなメッセージを投げかけているようだった】「BUBKA 2019年7月号」(欅坂46 3rd YEAR ANNIVERSARY LIVE 日本武道館公演レポート)

【しかし、欅はあくまで自分たちのカラーを踏襲した。見せたいのはパッケージされた世界であり、“そこにしかないもの”だ。だから価値がある。大切なのは、時間の長短ではないのだ。】「BUBKA 2019年7月号」(欅坂46 3rd YEAR ANNIVERSARY LIVE 日本武道館公演レポート)

<好きだというなら否定しない
嫌いと言われたって構わない
誰かの感情気にしてもしょうがない
他人に何を思われても
何を言われても聞く耳持たない
干渉なんかされたくない
興味がない>(アンビバレント)

「媚びない」「カラーの踏襲」というスタンスもまた、「表現者」としての矜持とでも呼べるものだろう。そういう意味で欅坂46のライブというのは、「アイドル以前に表現者である」という主張の最前線に位置づけられるものだと思う。ライブの世界観について、平手友梨奈がどういう意識を持っているのかについては後ほど触れるつもりだが、一つだけ印象的だったことを書いておこう。2018年の「共和国」において、ダブルアンコールで『アンビバレント』を初披露した際、「8月15日!7枚目シングル発売決定!!新曲のタイトルは『アンビバレント』」というような情報を一切言わずにいきなり歌いだしたことについて、ラジオ『スクール・オブ・ロック』で平手友梨奈の相手を務めるとーやま校長(遠山大輔氏)が「最高」と評価したことに対する平手の返答だ。

【最初は「次は新曲です、聴いてください」みたいに自分たちで言う、ってなったんですよ。でも、なんかカッコワルイなって。結局、自分たちの口からは言わないし、映像の告知も後で出すことにしたんです。】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

ここでもやはり、「アイドルとしてどうか」ではなく「表現者としてどうか」という判断が優先されている。もちろんそれは、運営からも承認されているはずだ。メンバーと作り手、そして運営が皆、「表現者」という意識で「欅坂46」を捉えているからこそ実現できるのだろう。

●●●●●振付師・TAKAHIRO氏が見る欅坂46●●●●●

秋元康に、「僕の歌詞は、TAKAHIROの振り付けによって完成すると言っても過言ではない」(『ゼロは最強』の帯コメント)と言わしめる、振付師のTAKAHIRO氏は、技術的な面からも「表現者集団・欅坂46」を評価する。

【完成した振り付けは、当時の彼女たちには難易度の高いものでした。『サイレントマジョリティー』で平手さんが真ん中を歩く動きがありますが、当初はこれが出来なかった時のために別の簡易な振り付けも準備していました。けど、平手さんは私が考える以上の存在感で表現をしてくださいました】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

【―技術的なことでいうと、今でもかなり難しいことを課してきているんでしょうか。
難しいです。『アンビバレント』のときも、まず僕のスタッフがテストで踊るんですけど、その中にいたBTS(防弾少年団)のバックダンサーを経験している人が「何これ、ムズっ!」と言っていました。なので、実際になかなかの難易度になっていると思います】「BRODY 2019年4月号」

<思い込んでいるだけ Oh!Oh!
やる前からあきらめるなよ
おまえはもっとおまえらしく 生きろ!>(ガラスを割れ!)

「表現したい」という意欲があっても、技術が伴わなければその意志は半分も実現できないだろう。欅坂46のメンバーは、ダンス経験者ばかりではない。むしろ、ダンス経験者は少ないはずだ。後でも触れるが、平手友梨奈はバレエをやっていたが、「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」の中で、バレエに限らずピアノやバスケについて、【やらされてて】【やめたくてやめたくて。練習も全然していかなかったし。】と発言している。そういう意味で、欅坂46に加入以前に技術的に高いレベルを持っていた、というわけではなさそうだ。それでもメンバーたちは、努力を積み上げ、表現のために必要不可欠な技術を身に着けていったのだ。

欅坂46がデビューする前のダンスレッスンについて、こんな文章がある。

【レッスンでは毎回さまざまなジャンルのダンスを学んだ。ヒップホップダンスやジャズダンスなど、どれも難易度の高いものばかり。アイドルらしいカワイイダンスを練習することはほぼなかった。「私たちは一体どこを目指しているんだろう…」。そう不安に思っていたメンバーもいたという。ハードなレッスンに逃げ出したくなるときもあったが、それでも彼女たちは毎日汗を流しながら必死にしがみついていった。その地道な練習が、やがて大きな花を咲かせると信じて。】「BRODY 2016年12月号」

<キレイな川に魚はいないと
したり顔して誰かは言うけど
そんな汚い川なら
僕は絶対泳ぎたくはない>(エキセントリック)

運営側は当初から、「ダンス」を主軸に考えていたことが分かる文章だが、メンバーとしては自分たちの先行きがどうなるのかまるで見えなかったことだろう。しかしここでダンスの基礎を目一杯叩き込まれたからこそ、今の「表現者」としての立ち位置を確固たるものに出来たと言える。

TAKAHIRO氏は、欅坂46のメンバーと初めて会った時のことについて、こう話している。

【このプロジェクトが始まる際、スタッフの方たちに『この子たちは自分たちの意思で道を切り拓いていくグループになると思う』と言われていたので、控えめなご本人を見て事前に抱いていたイメージとのギャップを感じました。】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

<君は君らしくやりたいことをやるだけさ
One of themに成り下がるな
ここにいる人の数だけ道はある
自分の夢の方に歩けばいい
見栄やプライドの鎖に繋がれたような
つまらない大人は置いて行け>(サイレントマジョリティー)

そんな彼女たちが、「伝わるダンス」を出来ることについて、彼は【やはり圧倒的な歌詞特化グループだからじゃないでしょうか。】「BRODY 2019年4月号」と指摘する。僕自身も欅坂46の楽曲の歌詞に惹かれているから、この指摘はその通りだと感じる。そしてその認識は、メンバーとも共通している。

●●●●●「歌詞」を「伝える」ための欅坂46●●●●●

【月日とともに垢抜けていくのも大事だと思うんですけど、いただいた曲と歌詞の世界観をいつまでも大切にし続けられるグループでありたいなって。一般的に『欅坂って笑わないんだよね?』とよく言われる通り、そういうイメージがあると思うんですけど、それは楽曲を大事にしてきたから、3年経ってもそういうふうに見てもらえているんだなって、私はプラスに捉えています。】「BRODY 2019年7月号」(石森虹花)

【みんなで歌詞の解釈を一行ずつ考えていったり、そういうことの積み重ねがパフォーマンスに出ているんだと思います。】「BRODY 2019年4月号」(菅井友香)

他のアイドルがどういう意識で楽曲に向き合っているのか、具体的には知らない。しかし、ごく一般的なイメージとして、やはりアイドルというのは「(視覚的に)どう見られるか」を重視してしまうはずだ、と僕は感じる。しかし欅坂46の場合は、「歌詞の世界観を表現する」ことが第一に来る。そのためなら、視覚的な見られ方は捨ててもいい。実際に欅坂46のMVでは、女性アイドルとは思えないような振り付けが普通に登場する。『エキセントリック』も非常に好きな曲だが、このMVの中の振りなど、「女性アイドル感」を一切感じさせないものになっていると僕は感じる。それが歌詞の世界観を伝えるためであれば、彼女たちは何を切り捨ててでもそれを優先出来る。それは、元乃木坂46の橋本奈々未のこんな発言にも表れているし、「坂道グループ」というアイドルの特色と言えるかもしれない。

【かわいく明るく撮ることを優先しているアイドルグループは多いと思うんですけど、乃木坂の場合、メンバーは「かわいく撮ってもらいたい」とはもちろん思うんですけど、求められるのはそこじゃなくて作品としての完成度が優先されるというか】「MdN 2015年4月号」

「伝える」ということについて、欅坂46のメンバーは恐ろしいほどにストイックだ。例えば守屋茜は、音楽番組でのカメリハなどの場面におけるこんなエピソードを語っている。

【欅のダンスってすごく体力を使うけど、だからといって手を抜けるものでもなくて、いつもそこの計算が難しいんです(笑)。だからよく「軽くでいいですよー」と言われたりするんですけど、その“軽く”っていうのができないんですよね。欅のダンスを軽くすると確認にならないですし。】「BRODY 2019年4月号」(守屋茜)

練習で全力を出さなければ本番で100%が出せない、という話はよく聞くが、これはそれとはまた違う話だろう。彼女たちは、普段の練習で全力を出しているはずだ。カメリハなどは立ち位置を確認するなど目的であって、「練習」とはちょっと性質が違うはずだ。しかしそういう状況でも、彼女たちは全力でやってしまう。それはつまり、「全力である」ということが彼女たちの「表現」に大前提として組み込まれているということだ。「表現」の確認のために「全力である」ことを捨てられないという意識が、恐らくメンバー全員に浸透しているのだろうし、その共通意識が、彼女たちを「表現者」として高みへと連れて行く一因になっているはずだ。

また、「表現」のために全力を注ぎ込むことについて、佐藤詩織は「NHK紅白歌合戦だからと言って特別気合いを入れたわけでもなく、どこでも気を抜かずに表現したいと思える特別感を感じている」と語った後でこう続けている。

【―その向き合い方って、どうやって培われたものなんでしょうね?
やっぱり最初から全員選抜っていうのも大きいのかな。卒業した子はいるけど、曲を作り上げていく過程でみんなずっと一緒だったので、すべての感情を全員が味わっているわけじゃないですか。すべての過程や気持ちを共有しながらここまで来たので、同じような気持ちになるのかなと思います】「BRODY 2019年4月号」(佐藤詩織)

欅坂46にも2期生が加入し、既に状況は大きく変わっているだろうが、「全員選抜」という、48グループ・坂道グループでは異例のスタンスが、メンバーに与える影響はもちろん大きいだろう。「選ばれるか否か」という、アイドルとしてはある種避けがたい状況が存在しないというのは、「アイドル」というものの見せ方としては恐らく不利にもなるはずだ。「選ばれるか否か」ということに、物語が生まれる余地があったり、ファンの応援の仕方に変化が出たりもする。それを捨てることで彼女たちは「表現」に全力投球できる、という意識がある。

また、同じ選抜であっても、ポジションの問題がある。しかしこれについても守屋茜がこんな発言をしている。

【―それから、欅坂46はほかの大人数アイドルグループと違って、ポジションに対する概念も異なるなと。(中略)
それこそTAKAHIRO先生がそこまでしっかり考えて作ってくださっているので。どこにいてもそれぞれに役割があるし、曲によってフォーメーションがすごく移動することもあるので、そういう意味で言うと最初からどこにいても関係ないし、どこに行ってもやることは変わらないと思います。】「BRODY 2019年4月号」(守屋茜)

やはり、「全員で表現するのだ」という、メンバーや欅坂46を取り巻く面々の強い意識が、欅坂46という「表現者集団」を生み出し、成立させ続けていると言えるだろう。

●●●●●「世界に没入する」平手友梨奈の存在感●●●●●

しかしやはりその中でも、不動のセンターである平手友梨奈の存在は欠かすことはできない。

平手友梨奈は既に、「欅坂46の平手友梨奈」以外の評価もされている。2017年12月6日放送に『FNS歌謡祭』で平井堅の『ノンフィクション』に合わせて平手友梨奈が行ったパフォーマンスの振り付けを担当した振付ユニット・CRE8BOY(山川雄紀と秋元類)は、パフォーマーとしての平手友梨奈をこう評価している。


【秋本 今の時点で彼女は完成形だと思います。足りないところはないんじゃないかな。将来はダンサーとして世界に出ていくことも出来るでしょう。言葉が通じなくても心に直接訴え掛ける表現が出来る人ですから。将来が楽しみである反面、このままでいてほしいという気持ちも正直あります
山川 平手さんのパフォーマーは、今この瞬間でないと観られない輝きがあるんです。今後は、共に踊る人と響き合うようなタイプのパフォーマンスにも挑戦してほしい、でもそれをすると「今の平手友梨奈」はいなくなってしまうかもしれない。だから余計なアドバイスはしたくないです(笑)】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

個人としてこれほど高い評価を得ている平手友梨奈という存在抜きには、欅坂46を語ることは出来ないだろう。

平手友梨奈の凄さについては、多くの人が語っているが、その凄さの核にあるのが、「世界に入り込む」ということだ。

【TAKAHIRO 特に、歌詞については最も大切にしていて、平手さんは深く考えています。そして毎回、パフォーマンスをする中で『今回は“僕”(私)の気持ちに出会うことが出来た』とか『今日は、曲の途中で少し“僕”(私)が遠ざかってしまったから、次は…』など自問自答を繰り返します。平手さんがパフォーマンスの良し悪しを判断する際は、『私がうまく出来た』や『私がカワイく映った』ではなくて、『この歌詞の中で生きている人物にちゃんと出会えて、どれだけその人物になれたか』ということが主体になっていると思います。
(中略)作り込まれたライブや作品を作り物ではないドキュメンタリーの世界に変えてしまう力が、平手友梨奈という表現者の大きい魅力のひとつだと思っています】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

<自らの真実を捨て白い羊のふりをする者よ
黒い羊を見つけ 指を差して笑うのか?
それなら僕はいつだって
それでも僕はいつだって
ここで悪目立ちしてよう>(黒い羊)

平手友梨奈に関する記述を読むと、多くの人がこういう表現で彼女の凄さを語る。僕らは、表現の受け手であり、完成されたものしか見ることが出来ない。もちろん、それら完成されたものからでも、平手友梨奈という人間が、どれだけその世界に没入しているのかということを、感覚的に理解することは出来る。しかし、作り手側は、彼女が世界に没入しているまさにその様を間近で見ている。そして、そういう作り手たちが、平手友梨奈という人間の、世界に入り込んでいく深さみたいなものに打たれていく。TAKAHIRO氏は、

【自分とグループの置かれている“今”が歌になって反映されていく。欅坂46は“今”だからこそ強く伝えられる歌を届け続けていると思います。そういう意味では、デビュー曲が『不協和音』でも、最新作が『サイレントマジョリティー』でもここまでは表現できなかったかもしれません】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

とまで語っている。

映画「響」の監督・月川翔、助監督・後藤幸太郎、企画・小野田壮吉の三人も、世界観に没入する平手友梨奈を絶賛している。

【小野田 でも、あそこまで完璧に響でいられたのは、やっぱり原作を読み込んで、響の気持ちを完全に理解していたからじゃないですか
月川 だからセリフが飛ぶこともなかったし、芝居もね。モニターを覗きながら、平手友梨奈でこの映画を撮れていることが幸せだと実感する場面がいくつもあったよ
後藤 おれがすごく覚えているのは、仲違いしていた凛夏(アヤカ・ウィルソン)が謝ってくる場面。響はただ『お帰り』と返すだけなんだけど、その表情で全てが一掃されたことが伝わってきた。その表情には、その場にいたスタッフ全員が『すげぇな…』と圧倒されてましたよね
月川 あの表情を撮れたら、もうこの映画は勝ちだな、とすら思ったね】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

『響』は平手友梨奈にとって初主演映画であり、役者としての素質は未知数だった。後藤氏は『響』の撮影において、【正直、最初は平手さんに懐疑的なスタッフもいたんだよ。それこそ目も合わせてくれないし(笑)、本当にこの子で大丈夫なのかって。】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」と、平手友梨奈の役者としての力量を疑問視するような雰囲気があったと話している。まあそれはそうだろう。確かに欅坂46という話題になっているグループのセンターだが、まだ15,6歳そこそこに女の子であり、演技の経験だってない。『響』については、原作者が「映画化するなら平手友梨奈しかない」と言ったというエピソードがあるが、そんな風にして決まった配役に疑問を抱く人がいても不思議ではないだろう。しかし後藤氏はその後、

【後藤 でも撮影が進むに連れて、誰もが平手さんに惹かれていくのが目に見えてわかった。クランクアップの日は割と最小限のスタッフで撮れるシーンだったから、普通なら持ち場をバラして帰ってもいいんだけど、全スタッフが平手さんのアップを待ってたよね】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

と語っている。現場の雰囲気がいかに一変したのかが、非常によく理解できるエピソードだ。

<君は君らしく生きて行く自由があるんだ
大人たちに支配されるな
初めから そうあきらめてしまったら
僕らは何のために生まれたのか?
夢を見ることは時には孤独にもなるよ
誰もいない道を進むんだ
この世界は群れていても始まらない
Yesでいいのか?
サイレントマジョリティー>(サイレントマジョリティー)

『響』についてもう少し触れていこう。平手友梨奈は、スタッフから称賛されるほど、主人公である「鮎喰響」になりきっていたわけだが、そんな彼女は現場に台本を持っていかなかったという。

【後藤 そもそも現場に台本を持ってきてなかったよね。若手の子には『現場には台本を持ってくるな』っておれから言うことが多いんだけど、平手さんには最初から不要だったね
小野 やっぱり、前日とかに相当台本の練習をしてきてたの?
平手 練習というか、一応撮影するところは読んでいきましたけど…
月川 台本というか、平手さんは原作の読み込みも深かったと思う。クランクイン前のディスカッションでも、『原作でこんな場面がありましたよね』ってスッと出てきて、それが台本に反映されたこともあったし
(中略)
月川 ここまで原作を読み込んでくる役者さんって、滅多にいないんだよね。どちらかというと台本のほうを読み込んでくる人のほうが多いから】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

平手友梨奈は本当に鮎喰響が好きだったのだろう。だからこそ、自然と鮎喰響として生きることが出来た。平手友梨奈が鮎喰響をどれほど好きだったかという、特異なエピソードがあるので紹介しておこう。

【とーやま 『響』の撮影が全部終わった時は、平手友梨奈の中にはどんな感情があった?
平手 「ずっと響でいたい」。名前も、改名したかったです。鮎喰響になりたかった。
とーやま マジか!
平手 秋元さんに言いましたもん、「改名したい」って。そしたら「いいよ」って言ってました(笑)
とーやま いいんかい!!「欅坂46の鮎喰響です」って言われても、こっちは戸惑いしかないからね。
平手 えー。ちょっと面白いじゃないですか。
とーやま マンガを書いてる柳本(光晴)先生が困ると思うよ(笑)
平手 確かに、柳本先生は困るかもしれない(笑)。
とーやま でも、それぐらい本気で思ってるってことだもんね。
平手 うん、思ってました。今もちょっと思ってるけど。たぶん、その気持ちは消えないと思う】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

<敬遠されたって 好きなように生きてくよ
カメレオンみたいに同じ色に染まれない>(エキセントリック)

その世界に没入できるかどうかということが、平手友梨奈という表現者にとっては最も重要なポイントだ。だからこそ、『黒い羊』のMV監督である新宮氏もこう言っている。

【新宮 平手さんとも、作品を重ねるごとに会話する量が増えています。それは彼女が歌詞を本当の意味で理解しないと、パフォーマーとして打ち込めないというのがあると思うから。だから、彼女が納得するまで何時間も話すようになりました】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

●●●●●平手友梨奈への絶大な信頼感●●●●●

パフォーマーとしての平手友梨奈に対する、作り手側の信頼感は非常に大きい。例えば『黒い羊』のラスト、他のメンバーと向い合せになって平手友梨奈がたった一人で踊るシーンがある。このシーンについて新宮氏は「賭けだった」と発言している。

【新宮 僕はTAKAHIROさんと「ここは1つの賭けになるね」と言ってたんですよ。「ここで平手さんが踊れなかったら、このMVはダメだ」って。現にあそこが一番時間かかっているし、本人のマインド的にもみんなの前で自分をさらけ出す作業って、ある意味で羞恥プレイでもある。でも、そこを“僕”というものになりきってパフォーマンスし切った彼女は並大抵じゃない。だって自分にも重ねるところがあるわけですし、普通は踊れないですよ。ここを踊りきったことで、彼女は何かを1つ超えた部分があると思うんです。】「BRODY 2019年4月号」

MVにおける最も重要なシーンを、平手友梨奈に賭ける。新宮氏もTAKAHIRO氏も、平手友梨奈にはそう期待するだけの価値があると感じているということだ。

そもそもMVにおいて平手友梨奈は、ほとんど指示を受けていないらしい。

【とーやま (『アンビバレント』のMVについて)どういうディレクションを受けてるの?
平手 最近、放っておかれてるんですよ、私。
とーやま 放っておかれるって、どういうこと(笑)
平手 私ってだいたい、ダンスだったり、動きがみんなと違うんですよ。もちろん、「このタイミングでパンチ」っていうアクションの指示はもらいますけど、基本は自由なんですよね。
とーやま 自分でその時に思った動きをするってこと?
平手 はい。イントロのひとりで歩いてるところとか、若干の振りはあったけど、監督からは「感じたままやって」って。】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

<リードで繋がれなくても
どこへも走り出そうとしない
日和見主義のその群れに
紛れていいのか?>(ガラスを割れ!)

前述したが、やはりパフォーマーとしての平手友梨奈が、どんなものを出してくるのか見たい、という気持ちが強いということだ。作り手側にそういう気持ちがあるからだろう。『エキセントリック』のMV監督を務めた池田一真氏も、MVのラストを平手友梨奈に委ねた。しかも、「絶望か希望かを選ぶ」という、MV全体の核に関わる判断を彼女に任せるのだ。

【『海の向こうに街があって、それを見たときに絶望を感じるのか、希望を感じるのか、選んでください』という話を僕から平手さんにしたんですね。彼女が自分で解釈したものをそのまま撮りたいから。そしたらこの時、平手さんは希望を選んだんですよ。海があるから先に進めないっていう絶望ではなく、海の向こうにある知らない世界を発見したことへの希望を。】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

しかも、何故「希望」を選んだのかについて、平手友梨奈とのこんなやり取りを語っている。

【MVで海の向こうに見えている街は幕張だったんですけど、撮影当時は僕が適当に『横浜のほう』って言ったんです。そしたら『不協和音』のロケ地が山下埠頭だったみたいで、平手さんが『「不協和音」に繋がるから、ポジティブな気持ちで観たい』って言ったのが印象的でした】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

TAKAHIRO氏は平手友梨奈について、【私が感じている平手さんの魅力は、とてもとても欅坂46のことを考えているということです。】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」と語っているが、まさに、常に欅坂46のことを考えているからこそ、こういう発想が生まれるのだろう。また『黒い羊』においては、監督に提案さえしている。

【―すごく印象に残ったのが、幼少期の“僕”が家族に誕生日を祝ってもらうシーンです。あれは何なんだろうと。
新宮 元々このシーンはなかったんです。そしたら平手さんが「幸せを感じるものが少しあった方がいい」と。その話を聞いて「すごい子だな」と思いましたね。1階から2階の廊下までが、「全部僕のせいだ」って2サビまで“僕”に言わせるための舞台装置なんですが、確かに“僕”の存在を肯定する要素が必要でした。】「BRODY 2019年4月号」

<君はYesと言うのか
軍門に下るのか
理不尽な事とわかっているだろう
君はYesと言うのか
プライドさえも捨てるか
反論することに何を怯えるんだ>(不協和音)

これも、世界観に没入する平手友梨奈だからこそのものだろう。表現するということを常に最優先にしているからこそ、「これがなければ伝わらない」というものが見えてくる。後で触れるが、この発想は、「彼女自身がこういう表現をしたい」という意志の表れではなく、「こういう世界観を打ち出すのであればこう表現すべき」という提案であり、平手友梨奈の凄さの一旦は、「表現の核に自分自身がいないこと」でもある。

また、振付ユニット・CRE8BOYの山川氏は、平手友梨奈のことを「いちアイドル」として見ていないということが伝わるこんな発言をしている。

【山川 普段アイドルの振り付けは本人の技量を鑑みながら、どこまで出来るかを考慮に入れなければならない。でも「平手さんなら大抵のことは出来るだろう」と判断したので、そうした面で動きを制限する必要はありませんでした。】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

これら、作り手側の絶大なる信頼感の最大値を成すものとして、『響』の監督のこのエピソードに勝るものはないだろう。

【小野田 クランクアップまで本当に順調でしたよね。だけど、CGはけっこう時間がかかりましたね
月川 それは、少しでも妥協したものは絶対に平手さんに観せられないと思ったから。平手さんにはそういうことも全部見透かされそうな気がして。だから、自信がないときは会いたくないんだよね(笑)
平手 確かに、人が自信がないときって何となくわかります
後藤 こえーなあ(苦笑)。大人の世界では納得出来なくても、イエスと言わなきゃいけないときもある。でも、そこでちゃんとノーと言って闘えるかどうかなんだよね、モノづくりって
月川 それはこの作品が描いていることでもあり、平手さんの振る舞いが周りの大人に影響を与えたところでもある。本当にこの映画は完全に自分にとっての転機になってしまって、モノづくりをしているといつも頭の片隅にチラつくんですよ。もしこれを平手さんが観たら、何て言うだろうって
平手 私が思うのは、大人の世界にはいろいろあるとは思うんですけど、負けてほしくないんです。監督さんだけじゃなく、その映画に関わったスタッフさん一人ひとりが伸び伸びと映画を作れることが一番いいんだろうなって。まるで学生が映画をつくるときのように…。監督の次回作も、絶対に観ます。後藤さんも小野田さんも関わる作品は教えてくださいね。ちゃんと感想をお伝えしたいから
月川 怖いけど(笑)、でももしダメだと思ったときは正直に言ってよね
平手 はい、ちゃんと言います(笑)】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

<白い羊なんて僕は絶対なりたくないんだ
そうなった瞬間に僕は僕じゃなくなってしまうよ
まわりと違うそのことで誰かに迷惑かけたか?
髪の毛を染めろと言う大人は何が気に入らない?
反逆の象徴になるとでも思っているのか?
自分の色とは違うそれだけで厄介者か?>(黒い羊)

僕は正直このインタビューを読んだ時、大袈裟ではなく心が震えた。平手友梨奈というのは、確かに主演として重要な立ち位置を占める存在ではあるが、とはいえ一人の10代の少女でしかない、とも言える。そんな存在に対して、「少しでも妥協したものは絶対に平手さんに観せられないと思ったから」と言える大人も凄いと思うし、言わせる平手友梨奈も凄いと思う。「もしこれを平手さんが観たら、何て言うだろうって」頭にチラつくほどの存在感を、たった一作の映画で示してみせた平手友梨奈に、作り手が圧倒的な信頼感を寄せるのは、当然と言えるだろう。

●●●●●平手友梨奈の努力と葛藤●●●●●

そしてその信頼感は、「表現そのもの」以外の部分の積み重ねによっても生み出されているものだ。

【秋元 平手さんはとにかく練習熱心でした。反応がすごく素直で、こちらが言ったことをすぐに吸収してくれる。特に意見を言うわけではないけれど、一つひとつ納得しながら進めていくタイプなのだと思います。
山川 振り付けの解釈はすごく尋ねられた印象があります。歌の解釈と振り付けのリンクをとても重視しているようでした。練習中はとにかく振りを覚える作業に徹して、身体の使い方も真面目。動きに変な癖もないので、振付師が共に仕事をするには理想的なパフォーマーだといえます。】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

【後藤 だってセリフが飛んだことなんて、一度もなかったじゃない。
月川 なかったね。セリフが止まるのは何かに納得がいかないとか、意味が通らないときだけ。で、その場でセリフを足したり、変更したりしても、メモとか一切取らずに、納得したら『わかりました』と芝居に戻っていく
後藤 今だから言うけど、当初はこのセリフ量に耐えられるのかがすごく不安で。それは平手さんだからじゃなくて、普通に考えて10代の女の子がはじめての映画で、しかもこんなに多くのキツいシーンに向き合ったら、絶対に音を上げるだろうと思ってたの】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

平手友梨奈は何故か(「何故か」と表現したくなる理由は後で説明する)、「基礎力」とでも呼ぶべきものが高い。バレエを多少かじってたとはいえ本格的にやっていたわけでもないはずだし、パフォーマンス的なダンスは恐らく欅坂46に入るまで未経験だっただろう。しかしそれでも、プロに「理想的なパフォーマー」と言わしめるほどの「基礎力」を持っている。演技にしても同じで、初主演映画で膨大なセリフがある中で、セリフを飛ばすことが「一度も」ないという、ちょっと考えられないような振る舞いを見せる。守屋茜もこんな風に平手友梨奈の「基礎力」の高さを表現している。

【特に『不協和音』のMV撮影がすごく記憶に残っていて。同じシーンを何テイクも撮るじゃないですか。ほかのみんなはカメラが回るギリギリまで振り確認をしているんですけど、平手だけはすでに曲の世界観に集中しているのか、もう“入って”いるんですよ。それを見たときに「ああ、こういうことなのか」と思ったことがありました】「BRODY 2019年4月号」(守屋茜)

他のメンバーがギリギリまで振り入れをしている時に、彼女だけはその次元を超えてしまっている。ずっとセンターを務めてきた彼女は、恐らく他のメンバーよりも覚えることが多いはずだ。それにも関わらず、その段階はあっさり突破してしまう。何故か持っている、この「基礎力」の高さは、平手友梨奈にとっての大きな強みと言える。

しかし、「表現」を突き詰めるように突っ走ってきた平手友梨奈もやはり、葛藤を抱えているように見えるようだ。欅坂46の表題作のMVを多く撮る中で、平手友梨奈の成長を見てきた新宮氏は、

【平手さんを例にとると、彼女はどんどんストイックになっていて、昔ほどスッと入れなくなってきているように僕には見えます。彼女の中にもいろんな葛藤があると思うし、大きな期待を背負いながら、自分に求められているものをワッと出すのはすごい難しいことだと思います。】「BRODY 2019年4月号」

【彼女はこの2年ちょっとで急成長したことで、昔の荒削りさとか失ったものもあると思います。そういう意味では“丸く”なった部分もあるんですけど、僕もTAKAHIROさんもそれがイヤなんですよね。だから、「思い出せ!」ってテンションで叫ぶんだと思います(笑) そうやって、今の本人で撮れるものを出来るだけ引き出してあげたいなと。ハマった時はすごいことを僕たちこれまでの現場で何度も見て知っているし、ファンのみなさんもそういう姿を観たいわけですからね】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

と語っている。「周囲からの期待」というものが、どれほど彼女の「表現」に影響を与えているのか窺い知ることは困難だが、「表現者」としての平手友梨奈が壁にぶつかっていると新宮氏は感じているようだ。というかまあ、それは、我々が平手友梨奈という存在に対して過剰に期待しすぎているだけとも言える。何にせよまだ彼女は、20歳にもなっていない少女なのだ。平手友梨奈に大きなものを背負わせながら、それでもそれを乗り越えてほしいという過大な期待こそが、彼女がぶつかっている「壁」の正体と言えるかもしれない。

<今あるしあわせにどうしてしがみつくんだ?
閉じ込められた見えない檻から抜け出せよ>(ガラスを割れ!)

●●●●●メンバーが見る「平手友梨奈」●●●●●

そんな平手友梨奈を、メンバーはどう見ているのか。

【―2人も自分さえよければいいという考え方じゃないですよね
でも、その空気を作ったのは平手だと思うんです。先頭を切ってる子がそういう気持ちだから、他の子も「私もメンバーの役に立ちたい」と思える。最初の頃は他のメンバーに「負けたくない」という気持ちが強い子もいたと思うけど、平手の行動を見てると、誰も「自分さえよければ」とはならないはず】「Top Yell 2018年1月号」(原田葵)

【てちの存在って、すごく大きいと思います。私たちがパフォーマンスについて深く考えるようになったのも、てちが先陣を切って歌詞と向き合って、その先を行く表現をしていたから。一緒にいるのといないのでは、なにかが大きく違う気がする。】「BRODY 2019年4月号」(菅井友香)

メンバーはこのように平手友梨奈を評価しているが、実は平手自身は、「欅坂46の中の平手友梨奈」というあり方に葛藤を抱えている時期もあった。

【私に直接言う子はいないけど、メンバーによっては「(MVに)私、映ってないから…」と漏らしている子もいるみたいで、そういうのを聞くと、それはまあそうだよなぁ、と思うし。だから、悩みとかも、人には言わないようにしてるんです】「AKB新聞 2016年12月号」

まあそれはそうだろう。最年少メンバーとして欅坂46に加入し、デビュー作からずっとセンターを務めてきた彼女は、当然、自分の立ち位置に悩み続けてきたはずだ。孤独も感じるだろうし、「自分ばかりが注目されてしまっている」という状況への複雑な感情も抱いていたという。しかし、欅坂46として活動をしていく中で、少しずつ変化してきた。

【この前ずっと聞けなかった『私のこと、どう思ってる?』ってことを、守屋と志田と鈴本の3人に聞けたんです。そうしたら『てちは本当に頑張ってくれてるから』って言ってくれて、うるってきちゃいました。】「BRODY 2016年12月号」

【ああ、1コ言えるのは、メンバーという存在が大きいかもしれない。メンバーを見られるようになったというか、しゃべれるようになったというか、受け入れてもらえるようになったというか。うまく説明できないけど、メンバーが話しかけてくれるようになったので、ツアーを通じて。メンバーに心を開けるようになったのかなあ…。今までは私はちゃんと見てなかったんだなっていう】「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」

<誰かと一緒にいたって
ストレスだけ溜まってく
だけど一人じゃずっといられない>(アンビバレント)

平手友梨奈がどんな葛藤を抱きながら生きてきたのかはまた後で追っていくことになるが、彼女は、

【なんか、自分が生きてきたと思えない。思いたくない。だかもう、それこそ、欅坂に入ってからスタートした、みたいな感覚が大きいかな】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

と発言しており、欅坂46の活動を通じて様々な感情に出会い、それが「表現」に活かされているということだろう。それもまた「表現者」としては、非常に特異な立ち位置ではないかと思うのだ。

●●●●●「楽曲が合ってくる」という感覚●●●●●

そんな彼女は、欅坂46の楽曲に対して、「楽曲が合ってくる」という表現をしている。

【ちょうどそう思っていた時にいただいた曲がまさにそういうことを歌った曲だったり、だからこそ表現しやすかったり。『成りきる』とか、最近だと『憑依型』って言われるけど、成りきってるわけじゃなくて楽曲が合ってきちゃってるので、そのままの自分っていう感じでもあります。】「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」

【周りのみんなからの視線をすごく感じる時もあったし、いつも何かを言われているような気もしたし、誰ともしゃべりたくなかったし。そんな時期に“不協和音”っていう曲が来たので『え?』とは思わなかったですよね。普通に『うんうんうん』『これ、私の気持ちじゃん』みたいな感じになって歌いました
―時には曲の世界に自分を近づけていく作業が必要だと思うんだけど、“不協和音”に関しては「今の私のままだ」という感じだったんですか?
“サイマジョ(サイレントマジョリティ)”から、自分が思ってることがそのまま曲になってたので、あまり自分から成りきろうみたいな感じではなかったです。】「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」

まさにこれこそが、「欅坂46」というグループの一番の核なのだと僕には感じられる。作詞の秋元康が、平手友梨奈に当て書きをしたのか、あるいはたまたまだったのか、それは僕には分からないが、秋元康の歌詞が平手友梨奈の感覚と一致した。そこから欅坂46は始まったのだと思う。TAKAHIRO氏の「デビュー曲が『不協和音』でも、最新作が『サイレントマジョリティー』でもここまでは表現できなかったかもしれません」という発言は前述の通りだが、平手友梨奈の感覚からもそのことが窺い知れるだろう。平手友梨奈という、何故か「基礎力」がメチャクチャ高いパフォーマーがいて、そのパフォーマーの感覚にピタリと寄り添う歌詞が存在したことで、平手友梨奈の中で「表現したい」という欲求が生まれた。その燃料がなければ、きっと欅坂46はここまでの成功を収めることは出来なかっただろう。

●●●●●「没入できない」という葛藤●●●●●

とはいえ、だからと言って曲の世界観に簡単に入り込めるのかと言えば、そうでもないようだ。平手友梨奈は、「“今”の自分に合っている」と言っている。『サイレントマジョリティー』の時の自分と『不協和音』の時の自分は違うのだから、「その時」はすっと曲の世界観に入ることが出来ても、日によっては入れないということになる。

【逆に言えば“不協和音”は気持ちが入ったり、その世界に行かないとできないです。だから、できる時とできない時がだいたいわかるので、(ライブで)『今日はできないな』と思ったらできないし、やれるとしても自信はないですし、もうあの時とはモードが変わってるので、その点については大変だったりはしますね
―“不協和音”という曲は本当にすごい曲だと思うんだけども。というのも、ただ歌詞を追って歌うだけでは成立しない曲ですよね。自分の何かを削らないと成立させられないという。
どうだろう、今の自分ではわからないです。その人にならないと何考えてるのかわからない
―曲のなかの「その人にならないと」という感じなんだ、“不協和音”を歌う時は。
はい。『あの子』っていう表現のほうが合ってるのかもしれない。『あの子、すごいなあ』とか思います。だからライヴが大変です
―ロック・イン・ジャパンの時も最後まで“不協和音”をやるかやらないか悩んでくれてたもんね。
自分のなかで勝負に行かなきゃいけない場っていうことはわかってたし、だからできるだけ今までのツアーのなかでやってこなかったんです。スタッフさんも理解してくださったので。で、ここでやってしまったら、できたらすごくいい気分になるけど、できなかったら心が折れるから、そうなった時にどうなるかが自分でもわからないから、ほんとにギリギリまでスタッフさんと相談しました】「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」

<僕はYesと言わない
首を縦に振らない
周りの誰もが頷いたとしても
僕はYesと言わない
絶対沈黙しない
最後の最後まで抵抗し続ける>(不協和音)

初めてこのインタビューを読んだ時に、平手友梨奈は凄いなと感じたものだ。なにせこのインタビューによれば、「ツアーで『不協和音』をやらない」のは、平手友梨奈の感覚次第、ということあからだ。平手友梨奈が「出来ない」と言えば出来ない。そうスタッフが納得している、ということだ。平手友梨奈に対するそういう理解が根底にあるのだろうとはいえ、これは非常に勇気の要る発言だ。一歩間違えれば、ワガママに受け取られかねない。「『不協和音』はやりたくないんです」というワガママに。もちろん、平手友梨奈にとってはそうではない。「あの子になれるかどうか」という瀬戸際で、常に彼女は葛藤している。しかし普通なら、そういう葛藤を抱えながらも、「自分の感覚一つで、『不協和音』をライブでやるかどうか決まっていいはずがない」と考えてしまわないだろうか?僕なら、無理かなと思う。「出来ません」と伝える勇気を持つことが、非常に難しいだろうと思う。しかし平手友梨奈は、あくまでもベストな表現が出来るかどうかにこだわる。それが、「楽器の不調」など外形的に理解しやすいことではなく、「あの子になれるかどうか」という非常に感覚的な事柄であっても、平手友梨奈は、中途半端な表現をするくらいなら表現しない方を選ぶという勇気がある。その凄さを、僕は感じたのだ。

とはいえ、そういう葛藤に苦しみつつも、やはり平手友梨奈には「メッセージ性」が必要だ。次の発言は、『風に吹かれても』についてのものだが、

【でもやっぱり、すごい強いメッセージ性がないと落ち着かない自分もいます。“不協和音”はカメラに向かって『嫌だ』とか『もっと反抗していいんだよ』っていうメッセージを伝えてたけど、『今は何を伝えたらいいんだろうなあ』ってちょっと思いますね】「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」

というのは、「自分自身が追い詰められるほど辛くても、訴え掛ける強烈なメッセージ性が自分には必要だ」という認識を改めて確認したということだろうし、やはり平手友梨奈の核には「表現欲」がしっかりと根を張っているのだということを実感させてくれる。

●●●●●「表現欲」に気付いてしまった平手友梨奈●●●●●

【―表現欲はやっぱり失えない?
うん…欅坂は、ずっと、世の中に何かを届けていくグループだと思ってるから、それがなくなったら、終わりかなあって思う
―表現したいっていう気持ちがなくなったら?
うんうん
―もう、平手はいる意味がなくなっちゃうんだよね、そうしたらきっと。
うん】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

【― 一番最初にインタビューさせてもらった時に、「とにかく表現するのが楽しいんだ」って言っていたよね
うんうん
―あの時に、僕は思ったわけですよ、「欅坂はこの人にとって呼吸装置なんだなあ」って。で、きっと本人もそう思ってたと思うんだよね、あの時。
たぶん、思ってた。早く表現したいって思ってた】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

インタビューアーの「呼吸装置」という表現は実に的確だと感じる。後で見るように、平手友梨奈の生い立ちなどを知ると、「彼女は欅坂46に入っていなかったら、一体どんな風に生きていたんだろう?」と心配させるほどだ。何故こんな生き方をしてきて、「欅坂46の平手友梨奈」という「強烈な表現者」が生まれ得たのか、疑問に感じてしまう。彼女自身も、「欅坂46で初めて感情というものに出会った」という驚くべき発言をしているし、それを「表現のレパートリーが増えるという意味ではいい」という、なんともドライな捉え方をしている。

【―きっと、平手という人が人生で初めて自分を形作っているもの(※表現欲)に気づいた瞬間だと思うんだよね。たったひとつだけど、自分自身の中には「これがある!」っていうものに初めて気付いた。
それはそうだと思います
―それは自分にとって嬉しいことだったのか、「厄介なものに出会ってしまった」だったのか、驚きだったのか。どういう感覚だったのかが知りたい。
え、全部なんじゃないかな。たぶん。嬉しいこともあったんだろうし、つらいこともあったから。それは今も変わらずあるし…うん。初めて感情っていうものに出会ったかもしれないです、欅坂に入ってから
―自分自身の中に湧き上がってくる感情に、ってこと?
うん。人と触れて感じる感情も、すべてを含めて、ここで出会ったんじゃないかなとは思います
―驚いた? 自分の中にある怒りとか。
ああ、なんて言うんだろ、知らないことが多すぎて。今でもびっくりします。話がわかる人、波長が合う人と出会えば嬉しいし、話してて面白いなあって思うし、身近で悲しいことがあれば、悲しいっていう感情を覚えたし、とか。いろんな感情に出会ってるなと思います
―それは、平手にとっていいこと?
表現するにあたっては、いいことだと思います。うん、レパートリーが増えるのかなとは思う】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

●●●●●「無」だからこそ表現できる●●●●●

この発言から見えてくるものがある。何故平手友梨奈がこれほどまでの「表現」が出来るのか、という疑問に対する一つの答えがだ。キーワードは「無」だ。平手友梨奈には何も無いからこそ、あれだけの表現が出来る。それを指摘するのは、とーやま校長だ。

【とーやま 友梨奈ちゃんとは1年以上、ラジオとかでも話させてもらったりしているけど、自分というものがあるようでない人だなって思っているわけ。アンケートで、「自分を漢字一文字で表すと何ですか」って訊かれて、「無」って答えたことがあるでしょ。
平手 はい。「無」ですね。
とーやま 『響』の友梨奈ちゃんを観ていて思ったのは、自分は無で、「響がどう思っているか?」を伝えるのが自分っていう感覚なのかなって。
平手 うーん。でも、『響』は自分が表現したいって思ったから。
とーやま きっかけは、そうよ。そうなんだけど、楽曲のときだってそうじゃん。自分を表現しているんじゃなくて、楽曲の主人公を表現してる。そのときは平手友梨奈っていう存在はいなくなってる、無なんだなって思うわけ。
平手 あっ、それは考えたことあります。あるある。
とーやま 実現するときに、自分がよく見えたいからとか、目立ちたいからっていう気持ちはまったくないでしょ。なんなら目立ちたくないでしょ?
平手 はい。】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

【とーやま どこまでも主語が自分じゃないのが、ホントにすごいなとおれは思ってますよ。
平手 主語が自分じゃない?
とーやま 「私が」こうしたいからこうする、とかじゃないんだよ。届けたいと思う誰かがちゃんといて、そのために行動している。
平手 あぁ、確かに誰かがいるかも。
(中略)
とーやま 普通は、最終的に矢印が自分に向いているんだよ。でも、友梨奈ちゃんは矢印が最初から最後まで外に向いている。届けたい対象がいるからこそ、人の心を打つことが出来るんだなと思うよ。】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

この指摘は、平手友梨奈という人物を捉える上で非常に本質的なものだと感じる。平手友梨奈が「表現」していることは、「平手友梨奈が伝えたいこと」ではない。「歌詞中の“僕(私)”が伝えたいと思っていること」であり、また「届けたい相手が伝えてほしがっていること」だ。そこに、平手友梨奈自身はいない。そしてこのことは、「表現者」としては非常に異質だと思うのだ。何故なら、何らかの形で「表現者」として存在するためには、一般的には、何かを表現し続けることによって誰かに認められる必要があるはずだし、そしてそのための「表現」は、一般的には、その人自身の個性を伴ったものでなければなかなか認められにくいはずだからだ。しかし「平手友梨奈」という「表現者」は、そういう一般的な登場の仕方をしていない。彼女は、「自分自身を表現することによって見出された人」ではなく、「見出されたことで表現という手段を手に入れた人」なのだ。そして、「表現すべきもの」は誰かが与えてくれた環境だったからこそ、「平手友梨奈自身」を表現する必要性がなかった。平手友梨奈というのは、そういう特異なプロセスによって生み出された「表現者」なのだ。とーやま氏が、「矢印が最初から最後まで外に向いている」と指摘しているのはまさにその通りだと思うし、そして、そのような形で「表現者」として存在できるという奇跡的な環境が、「平手友梨奈」を生み出したと言える。

●●●●●「表現しきれた」に到達できない●●●●●

だからこそ彼女は、恐らく、一生自分の「表現」に納得することは出来ないだろう。「自分自身」を表現しているのであれば、「表現しきれた」という感覚に到達出来る可能性はある。しかし、彼女は常に「誰かのための表現」をしている。しかもその「誰か」は、歌詞中の“僕(私)”という「実在しない人物」であり、また、同じような葛藤を抱えながら生きている同世代の若者という「不幸にも平手友梨奈が日常でなかなか関わることが出来ない人たち」である。平手友梨奈は、そういう「誰か」の「代弁者」という意識を常に持っているはずだ。だからたぶん、「表現しきれた」と言いにくい。「代弁者」である自分には、そういう自己評価をすることは許されない、と感じているのではないだろうか。

【自分のパフォーマンスに満足したことがなくて、毎回やるたびに落ち込むんです。「今日は満足できた!」と思ったことが一度もなくて】「BRODY 2016年10月号」

【や~、すみません(笑)。ほんとすみませんって感じです。やっぱり、自信を持って「かっこいいライブがやれました!」って顔はできなかったです。でも、いつもそんな感じなので…】「OVERTURE 2017年3月号」

また、「欅坂46のセンター」に対しても、彼女が考えるのは、「自分がその立場にいることが、曲にとって正解か否か」ということだけだ。

【―すごく複雑だなと思うんだけど。デビューが決まって、平手はセンターのポジションに立つわけだよね。
はい
―でも、「センターだよ、すごいね!」って言われても、「あ、そうなんですか?」っていう、その気持ちのままここまで来てるわけじゃない。
うん。それは変わってないと思う
―でも、絶対にやりたくないんです、ってことでもないんだよね。
うん、曲を届けるためであれば、って思う。でもそれ以外であれば、やる意味はないなって思います
―「曲を届けるため以外のことだったらやりません」って?
うん。センターに対して、抵抗感はまだ全然あって。できるだけ立ちたくないしって思うけど、うーん、さっきも言ったように曲を届けるため、表現するためであるならば、じゃあやってみます、っていう感じです。本当に自分にやれるかわからないけど、やれるだけやってみますって感じです。でも、大体『ごめんなさい』ってなっちゃう、毎回。ちゃんと届けられなくてすいません、って毎回なっちゃう
―その「すいません」は、何に対して?
自分が真ん中に立って表現してしまっていることに対して。『ああ、もっと他の人だったら良かったかなあ』とかっていうのはまだ、全然思うし、その気持はなかなか消えない
―平手はシングルで8作品、真ん中に立ってきて。
はい。8作か、もう
―でもその感覚は変わらないんだ?
うん! まったく
―楽にならないね。
ならない。なる日が来てほしいけど】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

8作センターを経験しても、彼女はまだ、「欅坂46のセンターとしての平手友梨奈」に納得がいっていない。もちろん、「納得いっている」と発言するはずがない、という見方は当然であるが、しかしそういうレベルの話ではないだろう。彼女が見ているのは「理想的な表現」というその一点だけであり、そのために相応しいかどうかという判断基準しかない。「他の人だったら良かったかなあ」という思いはありつつも、とりあえず「自分がやるしかない」という責任感のようなものが、彼女を突き動かしている。何度も言うが、平手友梨奈には「表現欲」はあっても、その中身は「自分自身が表現したいと思っていること」ではない。常に彼女は「代弁者」なのだ。「自分自身が表現したいと思っていること」であるならば、うまく表現できなくてもある程度「仕方ない」と思えるだろう(もちろん、アイドルグループとしてはそう捉えられないだろうが、平手友梨奈個人はそう思ってもいい)。しかし彼女は常に「代弁者」であるが故に、「うまく表現できなくても仕方ない」とは思えない。「代弁者」としての立場を求められるのであればやるしかない、という責任感が、彼女を突き動かしている。

●●●●●平手友梨奈の「責任感」●●●●●

その責任感は、「欅坂46」というグループ全体に対しても発揮される。「欅坂46 3rd YEAR ANNIVERSARY LIVE」は、武道館公演よりも前に大阪公演が先に行われたが、大阪公演で平手友梨奈は、珍しくライブ全体のディレクションに関わらなかったという。そして、大阪公演を振り返ってみて、彼女はこう語っている。

【そうですね…任せてしまった分、言い方悪いですけど、これこそが欅坂なんだって思われたくなくて。だから、イヤでした…うん
(中略)
うん…でも、できるだけ責任を負わなきゃっていうのはわかりました。
―やっぱり、「自分自身で責任を負わないと、わたしのなかではこれで良かったんだと思えないんだな」ということ?
うん。まずはその段階にいきたいなって思います。もう1回チャレンジできるっていうありがたさに感謝しないといけないなって思う】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

<全員が納得するそんな答えなんかあるものか!
反対が僕だけならいっそ無視すればいいんだ
みんなから説得される方が居心地悪くなる
目配せしてる仲間には僕は厄介者でしかない>(黒い羊)

この発言も凄いなと思う。はっきりとそうは言っていないが、彼女にとって大阪公演は「失敗だった」と言っているのと同じことだと思う。そして平手友梨奈自身も、「責任」という言葉を使っている。自分が責任を負わなければいけないのだ、と。しかも彼女の凄さは、「自分で責任を負って自分が良かったと思えること」を一つの段階と捉えている、ということだ。もちろん、そうだろう。彼女としては、「届けたい誰か」というのが常にいるのだし、「代弁者」としての責務があるわけだから、最終的な目標がそこに定まる、というのは当然だ。しかし、僕が凄いなと思うのは、まず「自分が良かったと思えること」を前段階として捉えた、という点にある。それはつまり、「最終的な目標」には現時点ではまったく到達できる気がしていない、ということだろう。まずその前段階にたどり着かなければ、その先には行けない。そういう判断をするということそのものが、彼女のストイックさを如実に表しているだろう。

また、彼女のストイックさはこんな発言からも理解できる。インタビューアーが、子どもの頃の嬉しかったことを聞いた時の返答だ。

【うーん………まあ、たくさんあるはあるけど。でも、話したら、今いる自分の欅坂っていうグループに対して、余計なことを足してしまう気がする。あたしがなんかいろいろ喋ってしまうことで、お客さんがそれに囚われすぎてしまったらヤだなって思うから。余計なことは言わないほうが欅のためなんじゃないかなあ、とかいつも思う。でも話したら話したで、いいこともあるのかなあとも思って。それは自分の中でも、まだ答えは出てなくて。】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

<今だから言えることは語るな
墓の中まで持って行け
言葉にすれば安い願望と
オーバーに盛った真実
過去など自己嫌悪しかない
語るなら 予言を…>(語るなら未来を)

ここでも彼女は、「平手友梨奈」という個人を消している。自分自身が表に出ることよりも、グループの表現がより伝わる方を選ぶ。自分の話をすることよりも、グループの表現に雑味が加わらない方を選ぶ。彼女自身も、「表現」にとって何が正解なのかは、未だに迷っている。しかしそれでも、とりあえず前に進んでいくしかない、という意志は強く持っている。

【―平手自身、「ほんとはこう思ってるのに、どうしてそう思われちゃうんだろう」とかそういう葛藤はあるの?
それは…ありますね。でも、しょうがないかなって思っちゃう。うん…うん、それはめっちゃあるけど
―あるよね。
ある! めっちゃある(笑)
―だと思う。平手は「そうじゃないんですよ、こうですよ」とは言わないけれども、でも、「あたしはこういうものが好きだし、こういうことがやりたい」っていうことは喋るじゃない?
うん。でも正解はあんまり伝えたくなくて。絞られちゃうなあと思って。決めつけたくない
―それはすごく感じるよ。平手のパフォーマンスを観てても。
ああ、ほんとですか?
― 一回、どこかで書いたことがあるけど、今日の“サイマジョ”は今日の“サイマジョ”であって、明日の“サイマジョ”は明日の“サイマジョ”であって、要するに同じことを再現しているわけじゃない、っていう。
うんうんうん。そうなんですよね
―それは、平手の中ですごく、自信を持って言えることなんだよね
うん。そうですね。でもどうなんだろう、どう捉えられてるのかもわからないし、もう信じるしかない。『これでわかってくれる。きっと!』みたいな感じでやるしか、もう方法がない】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

<意外にああ見えてこうだとか
やっぱりそうなんだなんてね
本人も知らない僕が出来上がって
違う自分 存在するよ>(エキセントリック)

●●●●●自分の人生をスタートさせてくれた「恩返し」●●●●●

平手友梨奈は、どうして大きな責任を自ら負うようにして「表現」に突き進もうと思えるのか。もちろんそこには、「表現欲」という、自分の内側に唯一ある大きなものに気付いてしまった、という理由もあるのだが、恐らくそれ以上に、「恩返し」という感覚が強くあるようだ。

【―この前のインタビューでは、「恩返しをしなきゃいけないから」って言ってたよね。その感覚は今もまだある?
ああ、それはずっとあります
―もしかしたら、欅坂に入った最初からずっとあるのかな?
ああ、それはそうかもしれない。それこそずっと支えてくれたスタッフさんとか、メンバーとかに、恩返しをしたいっていうのはずっと思ってます
―大袈裟に言うと、欅坂っていう居場所、自分を変えてくれた場所に対する恩返しをしたいというか、さっき平手本人が言ってくれたけども、欅坂が始まって、ようやく自分の人生が始まったという感覚はあるんだよね。
うんうん】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

似たような話を、乃木坂46の齋藤飛鳥もしていたことを思い出す。

【乃木坂46で人間を作って頂いたからです。前までの私は、たぶんそのまま生きていたら、はぐれ者になってしまう人間だったと思います。でも、そんな自分をこのグループで更生してもらいました。】「BRODY 2017年2月号」

それまで人生には何もなかったが、欅坂46に入ったことで人生をスタートさせてくれた。そのことに対する「恩返し」の気持ちが、彼女の中にずっとあるのだという。とはいえ、

【―じゃあ逆に、「平手さん、そこまで欅坂のことを愛してるんですね」って言われたら、平手はなんて答える?
『そうかな?』って答えちゃう(笑)】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

とも発言していて、これは一種の照れ隠しかもしれないが、しかし恐らく、「依存しているわけではない」という主張なのだと思う。寄りかかっているわけではない、という意思表明なのだろう。どうしてそう感じるのかと言えば、やはり平手友梨奈は、「欅坂46」という存在を、常に全肯定しているわけではないからだ。

【―そこで平手は自分の人生に対してまた違う責任の背負い方をすることをしたんじゃないの?
うーん…
―自分がやりたいと思ってることがあって、それを信じているんだとしたら、それを言う人生を生きていかないと、これから先、ただやりすごすにはこの日々は重すぎる、というかね。
えー、どうだろう…そこまで細かくはわかんない………でも、一個はライブが大きかったです。おととし?一番最初のアニバーサリーライブ。
―代々木の。
うん、うん。が、もうほんとに、イヤでイヤで。そこからかなあ
―要するに、自分がやりきるためには、自分でそのための意見を出さなきゃいけないんだっていう?
そこまで深くは考えてなくて。どうやったら欅坂をもっと良く見せられるかっていう方向に考えてました。こうしたらもっと良くなるなとか、欅坂はもっと新しい一面を見せられるっていうことばかりを考えてました
(中略)
―それで「じゃあどんどん言おう!」とはならなかったの?
ああ…でも、思ってたかな。言うことで欅坂がよくなってくれたらいいなと思いました。でもあんまり自分の意見として、『絶対こうしたいです!』っていうのではなくて、自分の意見を話して、逆に『みなさん、どう思います?』っていうところから大抵始まるので。そういうのはすごくおもしろいなって思いました、もの作りは】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

<人生の大半は思う様にはいかない
納得できないことばかりだし諦めろと諭されてたけど
それならやっぱ納得なんかしないまま
その度に何度も唾を吐いて
噛みついちゃいけませんか?>(黒い羊)

つまり彼女にとって「欅坂46」というのは、「良くあり続けてほしい存在」ということだ。自分がそこにいてもいなくてもいい。そこから求められても求められなくてもいい。とにかく、私が思うような形で「良くあり続けてほしい」と平手友梨奈は思っている。しかし、自分がその中に今はたまたまいて、さらに「良くあり続ける」ための提案が浮かぶのだから、じゃあ自分に出来ることは頑張ってみます。そういうことだろう。確かにこういう感覚だとすれば、「愛」とはちょっとズレそうではある。いや、端から見れば「愛」そのものだが、そうではない、と否定したい気持ちも分からないでもない。

そしてもう一つ、平手友梨奈を突き動かすものがある。

【―そんな1年間、何が平手さんを走らせていたんですか?
大っ嫌いなものと戦おうとしたからかな。
―負けられなかった、ということ?諦められなかった、ということ?
仕返ししてやりたかった(笑)】「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」

<不協和音を僕は恐れたりしない
嫌われたって僕には僕の正義があるんだ
殴ればいいさ一度妥協したら死んだも同然
支配したいなら僕を殺してから行けよ>(不協和音)

まあ、これはとても平手友梨奈らしい(笑)。他にも、こんな発言があって、彼女らしいなと思った。

【(欅共和国2018について)私的に今回の裏テーマは、「関係者席を濡らしたい」だったんです。
(中略)
私が打ち合わせの時に「関係者席をまず濡らしたい」って言ったら、最初は絶対嫌だってなったんですよ。でも、後からスタッフさんが秋元さんに確認してみたら、秋元さんは普通に「いいじゃん」って。「楽しみ。僕も濡れたいし」ってなってから、みんなでやる方向に進んでいったんです。だから、秋元さんも喜んでくださったと思います(笑)。】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

<偉い奴らに怯(ひる)むなよ!
闘うなら孤独になれ
群れてるだけじゃ始まらないよ>(ガラスを割れ!)

●●●●●「表現者・平手友梨奈」はいかにして生まれたのか?●●●●●

さてここまでで、「表現者」としての平手友梨奈について深く掘り下げてきた。では、そんな「表現者・平手友梨奈」はどのように生まれたのか、に踏み込んでいこう。

しかし、結論から言えば、はっきり言ってその理由は謎としか言いようがない。欅坂46以前の平手友梨奈と、欅坂46以降の平手友梨奈は、まったく繋がらない。彼女が、「欅坂に入ってから(人生が)スタートした、みたいな感覚が大きい」と発言しているのも頷けるほどだ。

まず、彼女のこんな認識を紹介しておこう。

【(子どもの頃は)ほんとに、普通の子でしたよ。今も別にわたしは普通って思ってるけど
―その「普通」っていうのは、どういう意味において普通なの?
ごはん食べるし、寝るし、人と喋るし、っていう(笑)。ごく普通な】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

まあ、まったく「普通」ではないがな。

<君は何を放棄したんだ そして何を諦めたんだ
でもそんなに不幸に見えないのはなぜ>(避雷針)

●●●●●「打ち込めるもの」が何もない●●●●●

子供時代を語るインタビューを読んで一番驚かされたことは、「努力が嫌いだった」ということだ。

【―それは自分がやりたかったんじゃなかったの?
じゃないですね。やらされてて、って感じです。
―何歳からやってたの?
5歳、6歳? からやってました
―やめたいなあって思ってたの?
うん。ピアノも、バスケも
―でも、やってると上達していくよね。それは楽しいものじゃなかったの?
上達していくこと? ああ、そんなに…感じないかな
―ピアノで、昨日弾けなかったものが今日弾けるようになるじゃない
でもそれも、あたしはほんとにひどくて。やめたくてやめたくて。練習も全然していかなかったし。だから先生に怒られてばっかりだった
―褒められたりする時もあると思うんだよね、「よくできたね」って。そういう時、どう思ってたの?
何も思ってなかった(笑)
―「あ、そうですか」って?
うん】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

欅坂46の平手友梨奈は、「圧倒的に努力をする人」に見える。もちろん、僕ら受け手に、努力している姿が直接的に見えているわけではない。とはいえ、主演映画や欅坂46のパフォーマンスなどを見ることで、平手友梨奈に限らず、欅坂46のメンバー陰でどれほどの努力をしているのかというのは理解できる。また、本記事で前述した通り、彼女の周りにいる人が彼女の努力を認めている。しかしそんな彼女は、子供の頃は努力出来なかったというのだ。

【―学校好きだった?
いや
―どうして?
勉強。勉強、ヤだった。ついていけなかった
―それはもう、最初からついていけないと思ったの?
いや。小4くらいからついていけなかったかな
―そういう時、小4の平手はどうするの?
え、たぶんもう諦めてたんじゃないかな(笑)。普通に授業受けてても、『ふーん』って感じだった。追いつこうとも思わなかった気がする(笑)。一応頑張ったは頑張ったけどできなかった、っていう感じです。
―努力する子だったんだね
努力――しないと、めっちゃ怒られるから、頑張ってしてました。でも、したけど無理だよっていうのはちゃんと伝えなきゃと思って。その姿は一応、見せてはいました。
―「やるべきことはやったけども、それでもダメなんだからダメなんですよ」っていう、そういう認識を持ってたの?
ああ…そうかもしれない
―なんか、冷めてるところあるよね。
あたしが?そうですか?
―そのぐらいの歳の子だと、やらないにしても、もっと幼稚な、「やりたくないからやんない!」みたいな。あるいは、「褒めてほしいから一生懸命頑張んなきゃ!」とかね。どっちにしても、わかりやすい熱がある感じがするんだけど、平手はだいぶフラットだよね。
確かに。そうですね。】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

<噛みつきたい気持ちを殺して
聞き分けいいふりをするなよ
上目遣いで媚びるために
生まれて来たのか?>(ガラスを割れ!)

小4にして、「頑張ったけど無理でしたという姿を見せる」という意識を持っている。頑張っているように見せる必要があると思いつつ、頑張ることは出来ない。それは、今の平手友梨奈とはなかなか繋がらない姿だ。

●●●●●人生に対する「意志」がない●●●●●

また彼女は、やりたいことや将来の夢など、「意志」と呼べるものをほとんど持てずにいたという。

【―その頃は、将来何になろうと思ってたの?
ない。今もないけど。ない。ほんとうにない。
(中略)
―何を道しるべに生きてたの?
わかんない(笑)。なんだろう? 特にないかな。でもなんか常に干渉されないようにはしてたかもしれない、学校で。先生に当てられるのとかもほんとにイヤだったから、できるだけ目立たない方向にいた】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

【―何か熱中してたことはあるの?
ない…………ないです
―自分から、「これやりたい!」って思ってたことって何かあるの?
ないですね
―ないんだね(笑)。
ない!(笑)。ない。習い事も、自分からやりたいんじゃなかったから。ああ、今思うと不思議。ない!
―それはなんでなんだろうね?
なんでかな……わかんない】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

<ねえ何をしたいの どこに行きたいの
私だから何もしたくない>(アンビバレント)

本記事でも、「自分自身で表現したいと思うことはない」という話を書いてきたから、今の平手友梨奈と印象はそこまでズレないかもしれないが、しかし、「表現欲」という捨てきれない強い感情を認め、「表現すること」については自分を追い詰めてでも徹底して突き進んでいくという今の平手友梨奈からはやはりあまりに遠い。

では彼女は、自分の人生が今後どうなると考えていたかと言うと、そこも実にぼんやりしている。

【―そのまま小学校が終わって、中学校に行くことになると思うんだけど、その時に、何かを変えたいとか何かが変わると思ったことはあったの?
ない。
―それもないんだ。
『ああ、中学生になるんだ』って感じ
―義務教育、早く終わんないかなって感じだったの?
うん。でも、早く終わっても、高校とか、大学が続くしなあ、っていうのは思ってた。ずーっとイヤだった】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

<どうして学校へ行かなきゃいけないんだ
真実を教えないならネットで知るからいい>(月曜の朝、スカートを切られた)

【―将来どうなると思ってたの?
なんにも考えてないと思う。ただ時間が過ぎいくんだろうな、みたいな
―楽しみはなかったの? その時。
え、なんにも楽しみなかったと思いますよ。今でも見つかってないし、それは。なんですかね…】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

<反抗したいほど
熱いものもなく
受け入れてしまうほど
従順でもなく
あと何年だろう
ここから出るには…>(月曜の朝、スカートを切られた)

これも、若い世代の感覚としては普通に理解できるが、しかし、欅坂46の平手友梨奈を知っている身としては、この無気力さみたいなものはやはり繋がらないなと感じられてしまう。

というか、正直平手友梨奈を誤解していた部分もある。

楽曲が自分に合ってきてしまう、という彼女の感覚を知った時から、僕は平手友梨奈に対して、「大人への怒り」みたいなものが強くある人なんだと思っていた。欅坂46の歌詞には、そういうものが多い印象がある。その「怒り」を表に出すかどうかはともかく、内側には「怒り」が渦巻いている。僕は平手友梨奈を、そういう人物だと捉えていた。実際に、そういう発言もインタビューの中でよく見かけた。

●●●●●「怒り」よりも「諦め」を内包していた●●●●●

しかし子ども時代の平手友梨奈は、どちらかと言えば「諦め」を内包していたようだ。

【―でも、周りには「将来はあれになりたいから今これやりたい」っていう人もいっぱいいたと思うんだよね。
うん。でも、そういうの聞くと、『絶対、大人になったら考え方変わる』って冷めた思いになっちゃって(笑)。だってほんとに、なった人見たことないから。ずーっと子どもの頃から。まあ、いるとは思うんですけど、あんまり見ないから。つまんない子どもですね
―子どもながらに感じてたんだ。「そう言ってても絶対なれないよ」みたいな。
うん(笑)
(中略)
―要するに希望は持っちゃダメだよと。持つだけ苦しいよと。たとえば、「人は話せばわかってくれるよ」とかさ。
ああ、それは思ってなかった。なんでそうなったんだろうって不思議
―冷めているし、世の中をフラットに見ている? それは、「たまたまそういう人でした」っていうには、あまりにも強い性格だと思うけどね。
そうなのかなあ…】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

<努力は報われますよ 人間は平等ですよ
幸せじゃない大人に説得力あるものか>(月曜の朝、スカートを切られた)

この感覚も、個人的には理解できるし、理解できると感じる人は多いだろう。しかしやはり、MVで「僕は嫌だ」と叫んでいる、欅坂46の平手友梨奈とは重ならない。

もちろん彼女も、自分の考え方を変えようと思ったことはあるようだ。

【でも、どう思考を変えてもそれはもう絶対、自分の前に立ちはだかるから、もう無理なんだろうなって思う
―何度か変えてみようとしたことはあるの?
あります、あります。それこそ欅の楽曲でいうと“風に吹かれても”の主人公みたいだったら、絶対生きやすいだろうなあって思う。けど、やっぱり自分の思考に戻ってしまうから
―そういう時、どう思うの? 「ああ、やっぱりこの自分に向き合うことになっちゃうんだなあ」って?
うん
―欅に入ってからももちろんそうだと思うけど、それ以前もそうだったの?
以前はそんなこと、思いもしなかったし、客観視することもできなかったから。ひたすらずっと悩んでたんだと思います、いろんなことに
―「なんか変だな、周りの子たちは毎日楽しいことが細かくあるんだな、もっとすんなり一日が流れていくんだな」みたいなさ
でも、それはほんと、欅に入ってから、そうなんだって学びました。関わることが多いじゃないですか、いろんな人と。それを見て、『ああ、こういう人みたいに生きたら楽なんだろうなあ』とか思うけど、結局は無理だし
―そこはもう諦めてるの?
うん】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

<死んでしまいたいほど
愚かにもなれず
生き永らえたいほど
楽しみでもない
もう持て余してる
残りの人生
目立たないように
息を止めろ!>(月曜の朝、スカートを切られた)

もちろん、平手友梨奈がこういう感情を内側に持っているということが、欅坂46の楽曲に深みを与えるのだろうし、彼女自身も歌詞の世界観をより切実なものとして届けられるのだろう。そして、そんな風に自分の気持ちが存分に乗っているからこそ、欅坂46の楽曲は多くの人の心を打つのだろうし、「表現」として高く評価されるのだろうと思う。

しかしやはり、平手友梨奈が子どもの頃に抱いていたこれらの感覚は、今の平手友梨奈と直結するとは思えないのだ。打ち込めるものがなく、やりたいこともなく、努力も出来ず、人生に対して諦めていたという子ども時代の平手友梨奈が、欅坂46の平手友梨奈になるまでに何があったのか。恐らく彼女自身、まだその理由を明確に捉えられていないのだろうし、だからこそ言語化も出来ないでいるのだろう。それで、「なんか、自分が生きてきたと思えない。思いたくない。だかもう、それこそ、欅坂に入ってからスタートした、みたいな感覚が大きいかな」というような発言に繋がるのだろうと思う。

●●●●●平手友梨奈の「孤独」●●●●●

子ども時代の平手友梨奈の感覚で、今でも連続していると感じられる唯一のものが、「孤独」ではないかと思う。しかし実は、彼女は「孤独」だったが「寂しくはない」と答えている。

【―「わたしって孤独だな」っていう感じじゃなかったの?
でも、どこかで孤独さは、絶対感じてましたね、うん。ただそれが何かって言われたら、答えられないけど。
―寂しいじゃん、単純に。寂しくならないんだ?
うん。寂しくならない。なんでだろう…でも、昔は思ったかもしれないですね、ちょっとは…】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

<世間の声に耳を塞いで
生きたいように生きるしかない
だから僕は一人で
心閉ざして交わらないんだ>(エキセントリック)

一人でいるという意味で「孤独」ではあったが、しかしそれそのものを指して「寂しい」と言うわけではない、という感覚を、既に小学生の頃に持っていたという。凄いな。大体の人は、「孤独」=「寂しい」で悩むものじゃないか、子どもの頃って。僕は大人になって、その図式から逃れられたけど、子どもの頃は無理だったなぁ。

平手友梨奈にとって「孤独」=「寂しい」とならなかった理由は、ある種の「防御」であるようだ。

【―その当時、みんなは気づかずにいるし考えずにやれてることを、自分はどうも、気付いちゃうし考えちゃうんだなあ、みたいな感覚はあったの?
うん。人の感情をたぶん、読み取りやすいのか、読み取っちゃうのか、わかんないですけど、そういうのもあって。人間観察が好きってわけでもないけど、見られてる側だったらイヤだから。だけど、『ああ、この人、今きっとこう思ってるんだろうなあ』みたいなことはずーっと考えてたと思います
―小学校4年生でそこまで感じるセンサーがあると、ちょっときつくないか?学校行くの。
まあたぶん、人間関係は大変だったと思います】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

<放課後の教室は苦手だ
その場にいるだけで分かり合えてるようで
話し合いにならないし
白けてしまった僕は無口になる
言いたいこと言い合って解決しよう
なんて楽天的すぎるよ>(黒い羊)

つまり平手友梨奈、他人に近づけば近づくほど、他人の感情が理解できてしまうから、近づきたくなかった、というのが正解なのだと思う。これなら、「孤独」=「寂しい」にならなかった理由が納得出来るだろう。彼女は、自分を守るために、意識的に「孤独」を選んだ、ということだ。ずっとそのまま生きてきて、その状態のまま欅坂46に加入したから、加入後、彼女は初めて【ああ、自分って…大変なのかもなあ】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」と思ったようだ。

だから平手友梨奈は、「友達」という感覚も、未だにちゃんと理解できないようだ。

【―周りとはうまくやれる子だった?
いや、どうだろう…そんなに、友達多いほうじゃないから。みんなの感覚がわかんないです。どれくらいをもってうまくやれたって言えるのか。何人友達がいたら、とか、どこからどこまでが友達って言えるのかもわからないし。今でもまだ、『友達って何?』くらいなところにいるから
―でも、友達って、気づけば友達になってたりするものじゃない?
ああ…何をもって友達って言えるんだろうなあっていうのは、すごく、ずーっと不思議に思ってます。今で言う、LINEを交換したら友達とか、電話をしたら友達とか、いろいろあるじゃないですか。だからそこは…どうなんだろうって思います
―小学校の時にもうなんとなく違和感があったんだね。そこまでの言葉にはなってなかったと思うけど。
うん、なってない。でも、そういうことは思ってたと思います。
―「みんな友達って言うけど、何をもって友達なのかな」って思ってたんだ?
うんうんうん】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

<1人が楽なのは話さなくていいから
分かってもらおうなんて無力もういらないし
何も関わらず 存在知られたくない
投げ出したくなる>(避雷針)

子ども時代の平手友梨奈の話は、一つひとつを見れば、「あぁ分かる」と感じられるものであるし、特殊かと言われると決してそうではないだろう。平手友梨奈のこうした感覚が楽曲と組み合わさることで、欅坂46という表現の核が生まれているのだろうし、そういう意味では、子ども時代の平手友梨奈があってこその今、という捉え方は十分に出来る。しかしやはり、僕の感覚では、これほど無気力な子どもが、欅坂46の平手友梨奈になったことが不思議で仕方がない。

●●●●●欅坂46のオーディションを受けた理由●●●●●

さてそこから平手友梨奈は、欅坂46のオーディションを受けることになる。

初期の頃、平手友梨奈はオーディションを受けた理由を、ポジティブなものとして語っていた。

【欅坂46のオーディションを受けたのは、自分を変えたかったからです。人見知りで、自分から行動することができませんでした。だから「自分は将来何がやりたいんだろう?」とか「何をしているときが一番イキイキしているんだろう?」と思って、いろんな自分を見つけたくてオーディションを受けました】「BRODY 2016年10月号」

【とにかく”新しい世界に行ってみたい”という気持ちが一番強かったです。もしオーディションに合格できなかったら、海外留学も考えていました。自分の性格があまり好きではなかったんです。内気で、人見知りで、目立つことも苦手。授業中は先生に当てられないように身を潜めていました。そういう自分の性格を変えたかったのもあります。どこか別の場所へ行けば、人として変わることができるんじゃないか…そう思っていました】「BRODY 2016年12月号」

<どうでもいいけど どうでもよくないし どうにでもなればいい
毒にも薬にもならない毎日を チクタクとただ繰り返す無駄が僕たちの特権だけ主張して
もったいない生産性がないただ大人から見れば腹立たしい>(避雷針)

こういう発言からは、「自分を変えよう」という前向きな姿勢を感じ取ることが出来るだろう。しかし実際には、ニュアンスが少し違うようだ。最近のインタビューではこう答えている。

【―で、中学生になり、欅坂のオーディションに応募するわけじゃない。
はい
―「自分を変えたかったから」というコメントも残ってはいるんだれども。その時の気持ちを今、あらためて話してもらうと、どうなる?
自分を変えたかったというのは嘘ではないけど、そんなに、なんか、『だから受けました!』って感じじゃなくて。うん、本当は留学しようとしてたから。で、ほんとはもう、そっちの話が進み始めてたから。そんな中、受かっちゃたって感じです
―自分で受けようと思ったんだ?
いや、お兄ちゃんです、全部
―でも、よし頑張ってみよう、っていう感じでもなかったの?
ない(笑)そうでなきゃいけないとは思うんですけど】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

こちらの発言からは、消極的な印象しか受けない。以前の発言では、さも自分でオーディションに応募したような感じだったが、実際にはすべて兄がしたことだったようだ。恐らく、ほぼ本人の意志ではなかったのだろう。しかも、「受かっちゃった」と発言し、さらに「頑張ろう!」という感じでもなかった、とも言っている。まあ確かに、欅坂46の1期生なわけだから、どんなグループになるかも分からないし、今のような評価を受けるかどうかも分からない。そういう中で、無気力極まりない子ども時代の平手友梨奈が「頑張ろう!」という意志を持つとは考えにくいが、ともかく彼女の自覚では、ほとんど成り行きのような形でデビューした、ということのようだ。

しかし、平手友梨奈のオーディションでの様子を、今泉佑唯はこんな風に言っている。

【質疑応答のときも、しっかりとした意思の強い感じでした。『私はちやほやされたくてアイドルになりたいと思ったわけじゃありません』と言っていて、すごい!と思って震えちゃいました。だから、オーディションのあとの記者会見のときから『この子は絶対にセンターになる存在なんだろうな』と思っていました。オーラっていうか空気が違っていたんです。】「BRODY 2016年12月号」

<誰かと違うことに
何をためらうのだろう>(サイレントマジョリティー)

これもまた、平手友梨奈自身の捉え方とズレる印象だ。何か、強い意志を持ってオーディションに臨んだことを窺わせるような描写である。また、欅坂46運営委員会委員長の今野義雄氏のこんな発言もある。

【今野 抜きん出て違う雰囲気をまとまっている子が表れたな、という印象でした。14歳にしてこの子がまとっているものは一体何だろう…。言葉で説明するのは難しいですが、年齢を超越した存在感があったのは間違いないです】「BRODY 2016年12月号」

兄が応募した、自分としてはやる気が特にあったわけではないオーディション、という平手友梨奈自身の捉え方を信じるとすれば、彼女は、特別なやる気を内に秘めていなくても、「特別なオーラ」が出てしまう人間だった、ということだろうか。

いずれにしても平手友梨奈は、このオーディションを受けたことで人生が激変した…。

●●●●●平手友梨奈が捉える、加入後の「変化」●●●●●

と言っていいはずなのだが、彼女自身の認識としては、それは違うという。

【―どこかからがらっと変わった感じじゃないんだね、平手の人生というのは。
ああ、それはないですね
―周りの人はみんな言うよね。「やっぱり欅坂に入ってデビューして、がらっと変わったでしょう、人生が」って。
え、そうなの?
―どう考えたって変わったよね(笑)
ふーん
―でも本人は違うんだよね?
うん。あたしは、特に、思わないな。たぶん、身に起きてることを理解していないんです。だからだと思います。それこそ“サイレントマジョリティー”がすごくヒットしたって言われてもわからない、大きさが。どこどこでライブやりますって決まっても、あたしは大きさとか関係ないなあって思っちゃうし…みなさんに映ってるすごいことっていうのが、自分の中ではそういう認識じゃないです】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

【―これで何かが始まり、何かが変わるにとって、みたいな期待っていうのは―。
ない
―じゃあそこから始まる日々はその時の平手にとってどういうものだった?
そうですね、もう…いろんなことが起きすぎて、わかんない、って感じでしたね。なんかおっきい目標っていうのもほんとになくて。ただ、一日をどう生きるかみたいな感じでした。
― 一日が終わって家に帰るとほっとするっていう。
とりあえず終わった、っていう感覚。今でもそれは変わらない。明日のことは考えてない。とりあえず今日のこと、です】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

まあこれらの感覚については、「欅坂46の平手友梨奈」として生きたことがない僕にはなんとも言えない話ではあるが、しかし「ホントかよ」と言いたくなってしまう気持ちもある。「あまりに激動すぎて毎日をこなすのでやっと」というのは、まあ分かる。しかし、「欅坂46の平手友梨奈」としての評価は何らかの形で耳に入るだろうし、欅坂46自体の変化も何らかの形で感じてはいるはずだ。そういう中にあって、「浮足立たないように気を引き締めている」と言うのであればまだ理解しやすいが、「自分の人生が変化したとは思わない」とハッキリ断言する感覚は、僕にはちょっと遠すぎてうまく掴めない。

もちろん、まったく何もないと思っているわけではない。

【―欅坂に入った平手として生きていくのって、そんなに変わらないの?
いや、たぶん変わっているとは思うんですけど。明確にはまだわからない
―繰り返しになっちゃうけど、欅坂に出会ったことによって変わったものっていうものは、なんだったの?
うーん…前を見るようになった、あんまり、もう、過去を振り返らないようになったかな。歌詞にもそういう歌詞があるから、そこから受け取った言葉でもあるかなあ、それは
―教えられた?
うん、そんな感じです。あたし、ほんと、先生運がなかったから、いい先生にたくさん出会ったんだなと思ってます。秋元さんとか、TAKAHIRO先生とか、新宮(良平)監督とか、うん。学校の授業では習えないことをきっといっぱい学んでるんだろうなとすごく思います。だからそこはちょっと、みんなの10代と違うところかな。でも逆に、みんなが学んできたものを学べないから、そこの苦しみを共有できないのはすごく申し訳ないなって思いつつ、できるだけ、寄り添って共有したいっていう気持ちが大きいです】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

<誰のせいでもないだろう
振り返る余裕ない
腹立たしさとか
悔しさは
思い上がりだよ>(語るなら未来を)

ここでも平手友梨奈は、自分を中心に据えない。自分が主人公ではない。欅坂46に入って、確かに何か変わったのかもしれない。しかしそれは、自分が凄いわけではない。周りにいた人が凄かったお陰だ。そういう感覚もあるからだろう、前述した通り、やはり彼女は自分を褒めてあげることができないらしい。

【―自分自身を責めることはあると思うんだけども、「今日はよくやったよ」とか、そういうのはないの?
ない。一回もない。そう思いたいけど、思えない。よく、『自分を褒めてあげて』っていう言葉を聞くけど、できない…
―しちゃいけないと思ってるの?
ああ、どこかで、しちゃいけないと思ってるかもしれないです
―それはストイックだから、っていうことでもない気がするんだよね、平手の場合は、褒められない? 自分を。
うん、褒められない
―褒め方がわからないし、自分で自分を褒める自分というのは何かが狂っている、っていう感覚なんじゃないの?
(笑)うん。それに近い】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

【―達成感みたいなものもなかったの?
ない…………うん
―でも、周りの人たちには、「すごいね、おめでとう!」って言われるよね。その時平手はどういう気持ちだったの?
え?  絶対思ってないだろうなって。それは、今でも変わらず、思う。なんか素直に喜べはしないかな。そんな日が来たらいいけど。満足いってないし、納得もしてないし
―それは向上心という意味なの?
わかんない。でも今のあれはダメだなっていうのはすごく思う。毎回思う
―それは、目指してるものとその時々の自分を重ねた時に、「ああ、全然ダメだな」って思うということなの?
うーん…なんて言うんだろう…もう1回、同じことが出来るとは限らないし。そうだなあ…難しい】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」

<もう 失った人生なんて語るな
ほんの一部でしかないんだ
手に入れたのは脆い現実と
飾られた嘘のレッテル
欠片を拾い集めるな
語るなら 未来を…>(語るなら未来を)

そんな平手友梨奈の発言を聞いて、インタビューアーは、【そりゃ孤独だよなと思う(笑)。「そりゃ孤独に生きるしかないよ」って。】「ロッキンオンジャパン 2019年6月号」と言っているが、本当にそうだなと思う。誰かから褒められても嘘だなと思い、自分で自分を褒めるのは狂っていると思う。どうなったら「友達」なのかと悩み、過去を振り返らなくなったとはいえ、目の前のことを必死で乗り越えていくのに精一杯で遠くを見る余裕もない。そりゃあ、孤独だよなぁ、と思う。

しかし、『響』という映画に出たことによって、少し感覚が変わった部分もあると言う。

【月川 響に関しては全然苦しんでなかったというか、むしろクランクイン前よりも楽しそうだったよね
平手 そうですね。現場に入ってからは心の持ちようが全然変わって、生きやすかったです
月川 初めて会った時は、本当に繊細で壊れそうな人だなと思ったもん
平手 そうだったかもしれないです。監督とお会いした頃は、ちょうどいろいろ考え込んでいた時期でした
月川 響でいることが救いだったのだとしたら、またそんな役と出会ってもらえたのだとしたら、映画を作っている人間としてはうれしいね
平手 北川景子さんにも言われました。何かにつまずいたりしたら、映画の世界に帰っておいでって。先のことはまだわからないですけど、響でいることが心地良かったのは本当ですし、今でも響でいたいと思うし…。響とこの映画のチームに出会ってなかったら、今の私はいなかったと思います】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

<あっちを立てる気もないし
こっちを立てる気だってまるでない
人間関係面倒で及び腰
話を聞けば巻き込まれる
いいことなんてあるわけないじゃない
これでも誰かいなけりゃダメなんだ>(アンビバレント)

この発言を聞いて、まったく関係ないながら、僕も「良かった」と感じた。

●●●●●「平手友梨奈」だけでは成立しない●●●●●

さて、「表現者」として圧倒的な存在感を放つ平手友梨奈ではあるが、当然のことながら、平手友梨奈だけでは何も成立しない。

【(TAKAHIRO氏は、平手友梨奈が存在する上で、他のメンバーが絶対に必要不可欠だと考えている。)
平手さんが欅坂46のなかで魅力的に映るのは、メンバーのみんなが一緒に走っているからだと思います。振り付けを考えるときも、欅坂46のメンバーだから信じてつくる動きが多くあります。(中略)また、平手さんはどこのアイドルグループのセンターよりも、センターポジションにいる時間が少ないのも特徴的です。(中略)欅坂46におけるセンターという考え方は、一番前の真ん中にいるという形式を指すのではなく、作品全体を見たときにこの人が物語の中心にいるのだと感じることを大切にしています】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

欅坂46は平手友梨奈を輝かせるための器であるのと同時に、平手友梨奈という表現者を成立させるための大前提でもある。平手友梨奈がいくら優れたパフォーマーであっても、彼女一人で生み出せるものは多くない。それに、何度も書いていることだが、平手友梨奈は自分自身を表現したいわけではない。だからこそ、「誰かのために」が常に必要だ。それは、「歌詞の中の“僕(私)”」であり、「欅坂46の楽曲のメッセージを必要としている誰か」であるのだが、しかし、彼女が力を発揮出来る最大の理由は、「メンバーのために」という感覚があるからだろう。

【センターばかりが注目されるのが怖いときもあって。私よりもいい表情だったり、すごいパフォーマンスをしているメンバーもいるので、全員を見てほしいっていう思いがあります】「BRODY 2016年10月号」

彼女はこういう発言を随所でしている。彼女自身は、目立ちたいわけではない。「伝えるべきもの」のために、必要があると思うからこそ前にいるだけであって、自分だけが注目される状況にずっと違和感を表明し続けてきた。自分が凄いわけじゃない、みんなで凄いものを生み出しているんだ、という感覚が、ずっと彼女の中にある。

それが端的に表現された、こんな発言もある。

【『欅』っていう漢字は全部で21画なんですよ。21人は誰一人、欠けちゃいけない存在なんです
(その運命のいたずらとしか思えない偶然を、平手はうれしそうに語った。これだけはどうしても伝えたい、自分にとっては何よりも大切なことなんだという表情で―。)】「BRODY 2016年12月号」

<すべて失っても手に入れたいものがある
がむしゃらになってどこまでも追い求めるだろう>(ガラスを割れ!)

そんな平手友梨奈に対し、TAKAHIRO氏はこんな発言をする。

【これからも、自分がやりたい、やるべきと思うことを深めて、そして広げていってくれたらうれしいです。平手さんは優しくて、いつも誰かのことを考えていますから。時には自分が本当の主人公になっていいと思います】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」(振付師・TAKAHIROのインタビュー)

この発言は、非常に示唆的だと感じる。僕からすれば、どう見ても平手友梨奈は「主人公」だと思う。主人公感満載だと言っていいだろう。しかし、平手友梨奈の近くにいる人物には、そうは見えていない。「時には自分が本当の主人公になっていいと思います」という発言は、今は主人公には見えない、ということだろう。そしてTAKAHIRO氏のこの発言は、「平手友梨奈が、自分が主人公になると決意した時の表現を見たい」という期待の表れでもあるはずだ。そうか、平手友梨奈には、まだそんな莫大な可能性が秘められているのか。彼女にとっては、これからもしんどい日々が続くということだろうが、外野からすれば楽しみでしかない。

●●●●●誕生直前の「欅坂46」のエピソード●●●●●

さて最後に、欅坂46誕生直前の印象的なエピソードを2つ紹介してこの記事を終わりにしよう。

まずは、「欅坂46」という名前についてだ。「坂道シリーズ」の最初である乃木坂46の「乃木坂」は、実際に地名として存在する。しかし実は「欅坂」は存在しない坂なのだ。東京にあるのは、平仮名の「けやき坂」だ。そもそも「欅坂46」は、募集段階では「鳥居坂46」だった。では、何故「欅坂」という名前になったのか?
そこにはこんなエピソードがある。

【今野 じつは、諸事情があって鳥居坂が使えないということになり、そこで、新たにいろいろな候補を並べいくなかで、六本木にある『けやき坂』が挙がったんです
(ここでちょっとした手違いが起きる。いや、それは運命のいたずらだったのかもしれない。運営スタッフは、事前に候補地がどんな運性を持っているのかを調べることになったのだが、「けやき坂」ではなく、漢字の「欅坂」で調べていたのだ。)
今野 さまざまな占いをやった結果、漢字の「欅」はすべてが最強の運勢を持っていることがわかりました。ですが、秋元先生は『けやき坂は実在するけど、漢字の欅坂は実在しない』というところですごく悩まれていました。ただ、やはり強運を持っているということに先生もピンきていて、『実在しない坂であるけど、そこまでの運を持っているなら欅坂という名前に賭けてみよう』とおっしゃったんです。だから『欅坂』というグループ名は、偶然の引き寄せだった。そして、のちに、けやき坂46(ひらがなけやき)というチームができるのは、そのときのいろんなやり取りが下地になっているんです】「BRODY 2016年12月号」

最初から平仮名の「けやき坂」で調べていたら、長濱ねるの「ひらがなけやき」もなかったかもしれないし、その後の「日向坂46」もなかったかもしれない。また、平手友梨奈の「『欅』っていう漢字は全部で21画なんですよ。21人は誰一人、欠けちゃいけない存在なんです」という発言もなかっただろう。「運勢」などというものを信じるわけではないが、「欅」という最強の運勢を持つ名前を使ったからこそ、ここまでの飛躍を遂げることが出来たのかもしれない。非常に印象的なエピソードだと思う。

もう一つは、『サイレントマジョリティー』のMV撮影のエピソードだ。

【(楽曲、衣装、振付けが完成し、いよいよデビューは曲のMV撮影準備に入った。ロケ地の候補として挙がったのは「渋谷」。だが、昨今は街の規制も厳しくなり、なかなか撮影許可が下りないエリアも多い。今野氏と池田(一真)氏は「よくぞここで撮れた」という場所で撮影ができれば、それで勝ちが決まるんじゃないか、という話をしたという。
そんな状況のなか、池田氏が撮影場所に選んだのは、旧東急東横線渋谷駅のホームと線路跡地だった。2018年に向けて高層複合施設が建設される予定で、日々工事が行われている再開発エリアだ。)
今野 じつは東急電鉄さんには安全面などを理由に一度断られているんです。それでも、我々としてはどうしてもここで撮影したく、ダメ元でもう一度、撮影スタッフがお願いに行ったら、そのときの担当者の方が、たまたま『欅って、書けない?』を見てくれていたらしく、その後、2日間だけ工事がストップする日があって、『そこのワンタイミングだったら撮影できます』というご提案をいただいたのですが、それが我々が撮影するならここしかないって日とピンポイントで重なったんです。すべての照準がそこに合った。それであのMVが撮れたんです。
(さまざまな奇跡が重なり生まれたこのMVについて、今野氏は「神の見えざる手に導かれて完成した」と表現した。これもまた漢字の“欅”が持っている最強の運勢によるものなのだろうか…)】「BRODY 2016年12月号」

「神の見えざる手に導かれて完成した」という表現も凄いが、しかしそういう表現が出来るということは、「欅坂46」が大いなる成功を収めたということでもある。成功していなければ、いくら素晴らしいMVが撮れたとしても、こういう表現にはならないだろう。そしてその成功は、「表現者集団」であるメンバーたちの努力によるものだ。

欅坂46のチーフマネージャーである茂木徹氏はこう語っている。

【(決して平坦な道ではなかったが、予想以上にトントン拍子で売れてしまったこと、グループとして大きな挫折を経験せずにここまできたことが逆に「彼女たちのコンプレックスになっているのでは」と茂木氏は指摘する。)
茂木 実際に『まだ実力がないのに大きなステージに出てしまうことが申し訳ない』というようなことをメンバーもよく言います。でも、自分たちで勝ち取ったわけじゃなくて、与えられた舞台かもしれないけど、それをちゃんと乗り越えてきたことに対しての自信は持っていいと思うんです。これだけデビュー前にお膳立てされていたとは言え、どこかでしくじっていたらおそらくこうはならなかった。それはやはり常に勝たなきゃいけない状況、ちょっとでもしくじれば叩かれる空気のなかで、メンバーが死にものぐるいで頑張った結果なんですよ。すべてにおいて勝てたかどうかはわかりませんが、負けないでここまできちんと繋いで来られた。だから今があるんだと思います】「BRODY 2016年12月号」

<邪魔するもの ぶち壊せ!
夢見るなら愚かになれ
傷つかなくちゃ本物じゃないよ>(ガラスを割れ!)

欅坂46は2期生の加入もあり、今まさに大きな変化を迎えている。とーやま校長が、

【とーやま 正直言うとね、ファンからしたら、漢字に新しいメンバーが入るのって、いまだに受け入れがたいわけよ。(中略)でも、欅に関してはまったく想像が出来なくて、ちょっとイヤだなって思ってる。新しく入ってくる方には申し訳ないけど。メンバーもまだ整理しきれてない人はいるんじゃないですかね】「別冊カドカワ 総力特集欅坂46 20180918」

<ああ 調和だけじゃ危険だ
ああ まさか自由はいけないことか?
人はそれぞれバラバラだ
何か乱すここでひとつもっと新しい世界>(不協和音)

と発言しているように、欅坂46にとって新たなメンバーが加入することは、他のアイドルグループ以上に大きな変化をもたらすことになる。この変化は、「表現者集団」としての欅坂46のあり方に、少なくない影響を及ぼすことだろう。しかし、変化を恐れていては前には進めない。平手友梨奈を始め、欅坂46のメンバーが、この変化をどう捉え、どう対処していくのか。そして、どのような形で新しい「表現」を見出すのか。これからも彼女たちに注目していきたい。

コンテナ物語 世界を変えたのは「箱」の発明だった(マルク・レビンソン)

内容に入ろうと思います。
本書は、まさにタイトルの通りで、「コンテナがいかに生まれ、いかに広まったのか」について書かれた本です。

【1956年4月26日、ニュージャージー州ニューアーク港。クレーンが奇妙な荷物を老朽タンカー、アイデアルX号に積み込んだ。58個のアルミ製の「箱」である。五日後、アイデアルX号がヒューストンに入港すると、そこには58台のトレーラートラックが待ち構えていた。「箱」を載せて目的地へ向かう。これは、革命の始まりだった】

本書の冒頭の文章だ。そう、まさにコンテナは「革命」をもたらしたのだ。その「革命」は、現代を生きる僕らにとっては当たり前のものだ。

【頭の先からつま先までアメリカそのもののような女の子、バービーちゃん。だがこの人形は、アメリカ製ではない。玩具大手のマテルは企画を立てた段階からすでに、生産は日本の工場で行うことにしていた。1959年のことである。やがてそこに台湾の工場が加わって、着せ替え用の服を縫製するようになった。90年代も半ばになると、人形は一段と「多国籍」になる。中国の工場が日本やヨーロッパの機械、アメリカから送られてきた型を使って人形のボディを生産するようになった。ナイロンの髪の毛は日本製、ボディに使う樹脂は台湾製、染料はアメリカ製、木綿の服は中国製…という具合である。バービーちゃんは、自分専用のサプライチェーンをグローバルに展開しているのだ】

僕らにとってはもう当たり前のようになっているこの現実は、コンテナの発明なしには考えられなかった。

【コンテナが出現する前の世界では、モノを輸送するのはじつにカネのかかることだったのである。輸送費があまりに高くつくせいで、地球の裏側に送ることはもちろん、アメリカの東海岸から中西部に送るだけでも経費倒れになりかねなかった】

しかしそんな革命をもたらしたコンテナだが、生み出されてからすぐに社会を激変させたわけではない。その歩みは、非常に遅々としたものだった。

【本書では、1870年代に発明された電球が広く普及するまで数十年を要したように、コンテナの普及にも時間がかかった経緯を紹介する。コンテナの導入で埠頭での荷役コストが大幅に削減されたにもかかわらず、輸送コスト全体の大幅削減にはすぐにはつながらなかった。】

【効率改善のおかげで船会社の利益は急上昇するが、この頃はまだコンテナは太平洋沿岸ではほんのよちよち歩きを始めたところだった。太平洋岸全港の貨物取扱量の中でコンテナが占める比率は、60年に1.5%、63年でも5%足らずである】

【こうした環境で成功を手にしてきた経営者たち、潮の香りを愛し船を「彼女」と呼ぶ男たちにとって、マルコム・マクリーンが発明したロマンのないただの「箱」には何の魅力もなかった。空想癖のある連中がコンテナの重要性を触れ回っているようだが、なに放っておけばよい。コンテナの比率が10%を上回ることなどあるはずがない―海運業界の大物たちは、まじめにそう考えていた】

【マクリーンが引き起こす変化のインパクトには、コンテナの普及を後押しした国際コンテナ協会の専門家でさえ驚いたものである。彼らの一人はのちに、「あのときはアメリカで革命が起ころうとしていることをわかっていなかった」と告白している】

【とはいえ、この変化はただちに起きたのではない。コンテナ船が国際航路で定期運航されるようになってから10年が過ぎた1975年の時点でさえ、国際貿易開発会議(UNCTAD)が「長期的にみると定期運航コストは削減され、少数の船会社に利益をもたらした」と報告している程度である。】

なぜコンテナはすぐには広まらなかったのか。そこには様々な要因があるのだが、まずは誰がコンテナを生み出したのか、ということに触れよう。

それは、トレーラー一台から巨大な海運会社を作り上げたマルコム・バーセル・マクリーンだ。彼は、海運業のことなどまったく知らない時に、コンテナに繋がる発想を着想した。トレーラーで混雑した沿岸道路を走るなら、トレーラーごと船に載せてしまえばいいじゃないか、と考えたのだ。これが、マクリーンの躍進のきっかけだった。ここから、めんどうだから車輪も取ってしまえ、というところから「コンテナ」という形に行きつくのだ。

さて一応、本書のこんな文章を引用しておこう。

【厳密な意味では、海上コンテナを発明したのはマルコム・マクリーンではない。貨物を収める金属製の箱なら、いろいろなサイズ、いろいろな形のものが何十年も前からあった。それにさまざまな研究からも、アイデアルX号の前にすでに貨物輸送の実例があったことが確かめられている。(中略)こうした例を挙げて、マクリーンの業績をさほど評価しない研究者もいる】

しかし著者は、マクリーンこそがコンテナ発明の立役者であるとする。その理由はこうだ。

【マルコム・マクリーンがすぐれて先験的だったのは、海運業とは船を運航する産業ではなく貨物を運ぶ産業だと見抜いたことである。今日では当たり前のことだが、1950年代にはじつに大胆な見方だった。(中略)輸送コストの圧縮に必要なのは単に金属製の箱ではなく、貨物を扱う新しいシステムなのだということを、マクリーンは理解していた】

なるほど、この違いは非常に大きいだろう。本書を読めば理解できるが、「コンテナ」という「箱」だけがあっても、コストが下がるわけではない。長い長い時間を掛けて、「コンテナ」を中心としたシステムが精緻に組み上がることで、輸送コストは劇的に減少したのだ。本書には、コンテナの普及の一助としてベトナム戦争が取り上げられるが、「ロジスティックス」という、元々戦争における兵站を意味していた単語が、そのまま輸送システムを指す言葉として使われるようになったほどだ。

【「コンテナは単に輸送手段の一種と考えるべきではない」とベッソンは1970年に議会で力説している。「コンテナリゼーションはシステムである。コンテナの前面活用を念頭において設計されたロジスティックス・システムで使われてはじめて、コンテナの効果は最大化される」。】

さてでは、コンテナの普及の障害となったものは何か。大きく分けると、「人」「港」「規格」「コスト」に分けることが出来る。

その中でも、やはりかなり大きな問題だったのが「人」だ。そしてこの部分を知ることは、僕らの未来にも大きな関わりを持つ。今後、AIが社会構造を激変させていくだろう。そうなった時、コンテナの時と同じ状況に直面するだろう。結論から先に書いておくと、こういうことだ。

【それでも機械化に対する港湾労働者組合の執拗な抵抗は、一つの原則を確立したように思われる。それは、仕事を奪うようなイノベーションを産業界が導入する場合には、労働者を人間的に扱うという原則である】

コンテナは、港湾労働者(沖仲士と呼ばれる)の仕事を奪った。沖仲士は、【苛酷な労働条件。不安定な収入。血縁関係でつながった排他的な共同社会。そこには固有の習慣や独特の考え方も根づいていた】と書かれているような仕事であり、キツイが金になるし働き方も自由、という雰囲気だった。そして当然、沖仲士たちは、自分たちの仕事が奪われることに大きな抵抗をした。

そのことがコンテナの普及に歯止めをかけることになってしまう。これは非常に大きな問題で、恐らく今後も様々な場面でこの問題が出てくるだろうから、教訓にするべき部分だなと感じた。

「港」の問題というのは、要するに、「コンテナ輸送に対応した港に変わらなければならない」という問題だった。コンテナというのは、メチャクチャでかい船で一度に大量に送るからこそコスト削減が見込める。そのためには、メチャクチャでかい船が立ち寄れ、さらに巨大なクレーンのある港でなければならない。当然、巨大なクレーンなどどこにもなかったし、地理的にでかい船が立ち寄れない港もあった。どの港も、設備投資に相当のお金を掛けて港自体を改修しなければならず、その判断によって大きく差が出た。コンテナに未来を感じていち早く港の大規模改修に乗り出したところもあれば、軽視して改修に本腰をいれられなかったところ、また地理的条件や他の条件によって、改修しても使われない港があったりと、悲喜こもごも様々だった。とにかく、港自体が変わらなければならない、という大きな問題もあった。

「規格」というのは、非常に厄介な問題だ。コンテナというのは、一度にどれだけ運べるかが勝負になるから、当然、海運業界、あるいは鉄道業界やトラック業界などで大きさや金具などが統一されている方が便利だ。しかし、「統一の規格を決めよう」という前に、様々な大きさ・金具のコンテナが使われはじめていた。各社とも、それぞれの規格に合わせて、船を改造したり、システムを組んでいる。既に自社が採用している規格でないものに決まれば、すべてを変えなければならない。この争いが、非常に厄介だった。しかも、規格が決まった後も、実はその規格に不具合があることが分かったりなどすったもんだの騒動を繰り返すことで、ようやく規格問題に決着がつく形となる。

「コスト」というのは、大型船の建造コストの話だ。コンテナというのは、一度に大量に運べば運ぶほどコストが下がるのだから、当然、船が大きければ大きいほどいいということになる。そしてそんな巨大船の建造コストは、莫大なものとなった。

【第二世代のコンテナ船建造費は、大手でもたじろぐほど巨額だった。あるコンサルタントが後に計算したところによると、1967~72年に全世界で投じられたコンテナリゼーション関連の支出総額は100億ドル近いという。現在のドルにすれば400億ドル前後になる。ヨーロッパの船会社が、一社ではとても投資の負担に耐えられなかった。なにしろ66年の時点では、イギリスの船会社37社の税引後利益を合計しても、600万ポンド(1億7000万ドル相当)に届かなかったのだ】

マクリーンがコンテナ輸送を始めた頃は、政府から格安で提供されるオンボロ船を改造してコンテナ船に仕立てあげていたから、そこまでコストはかからなかったが、だんだんそうも行かなくなってきた。このコストを掛けるという判断をしなければならないし、その判断はなかなかしんどかっただろう。これも、コンテナの普及の障害となった。

しかし、それらの障害を乗り越え、コンテナは世界を激変させることとなった。最も大きな変化は、「立地の経済」を覆したことだろう。

【長年にわたりニューヨークしは、全国展開する企業や海外進出を果たす企業に輸送コストが安いというメリットを提供してきた。市内に工場を持てば港はすぐそこだから、たしかに輸送費はかからない。だがコンテナは、「立地の経済」を覆した。狭いブルックリンやマンハッタンに何階建てもの工場を建てるにはおよばない。ニュージャージーかペンシルベニアに安上がりな平屋の工場を建てればよういのだ。あちらは税金も電気代も安い。そして製品をコンテナ詰めしてポートエリザベスに送れば、その方がずっと安く済む】

【港は背後に控える内陸部と経済的に密接に結びついており、内陸部は港の「属国」だという地理学者もいたほどである。
だがコンテナ時代には、属国は存在しない。もはや港は通過地点にすぎず、貨物を堰き止める障害物はなく、大量のコンテナはほとんどとどまることなく通りすぎて行く】

またコンテナは、「何を運ぶか」も劇的に変えた。

【だが20世紀末に起きたグローバリゼーションは、だいぶ性質がちがう。国際貿易の主役は、もはや原料でもなければ完成品でもなかった。1998年のカリフォルニアに運ばれてきたコンテナの中身をもし見ることができたら、完成品が三分の一しか入っていないのに驚かされるだろう。残りはグローバル・サプライチェーンに乗って運ばれる、いわゆる「中間財」である】

またコンテナは、トヨタの「ジャストインタイム」という仕組みを生み出すきっかけにもなった。

【ジャストインタイムのすばらしさは、当初は日本国内でしか知られていなかった。だが1984年、トヨタがカリフォルニア州でゼネラルモーターズと合弁の現地生産を始めたとき、アメリカで俄然注目されるようになる。その年のうちにジャストインタイムに関する論文が34本も業界誌に掲載され、86年になるとその数は81本に達し、世界中の企業がトヨタのめざましい成功を見習うようになった。87年には、フォーチュン500にランクされる米企業の五分の二がジャストインタイムを採り入れている】

本書を読むまで、「コンテナ」というものに注目する機会はなかったが、このように歴史を概観すると、その威力がよく伝わってくる。非常に刺激的な一冊だった。

マルク・レビンソン「コンテナ物語 世界を変えたのは「箱」の発明だった」

本の読み方(平野啓一郎)

内容に入ろうと思います。
本書は、小説家であり、【実は私も、長年、「速読」に憧れていた一人だった】と語っている平野啓一郎が、本の読み方を伝授する、という内容の一冊です。

「小説家による本の読み方」というと、国語の読解のような堅苦しいものをイメージするかもしれません。まあ実際本書には、夏目漱石の「こころ」とか三島由紀夫の「金閣寺」などを「読解する」というページもあるので、そういう側面がないわけではありませんが、しかしそれは、本書で提唱する「スロー・リーディング」を実践すると、自分の場合はこうなるよ、という実例の提示に過ぎません。「読解」が「スロー・リーディング」の本質、というわけではないので、心配しないでください。

本書では、「速読」と対比させる形で「スロー・リーディング」の話を展開していきます。正直これは、ちょっと著者の主張が誤って伝わりやすい構図だな、という印象を受けました。何故なら、本書で直接的には書かれていませんが、あたかも読書には「速読」と「スロー・リーディング」しかないような印象を与えかねないからです。というかもう少し正確に言うと、「スロー・リーディング」をしていない人はみな「速読」をしている、というような印象を与えかねないな、と感じました。

もちろん著者としてはそんなつもりはないだろうし、話を分かりやすくするために、敢えて対抗軸を「速読」に絞ったのだと思います。ただ、元々理系で国語の授業が大嫌いだった僕からすると、「ゆっくり読んだからって分かるもんでもないんだよなぁ」という気持ちはあったりするわけです。

【決して、私に特別な能力ではない。ただ、本書で書いたようなことを気をつけながら、ゆっくり読めば、誰でも自ずとそうなるのである】

本書にはこう書いてあるんですけど、僕はちょっと「むむむ…」と思ってしまいました。僕は「読む」ということに若干コンプレックス的なものがあって、「本をちゃんと読める人と比べてどうして自分はあまりうまく読み込めないんだろう」と思うことは結構あります。特にそれは小説に対して感じることが多くて、例えば多くの人が絶賛するような本を面白いと感じられない場合、もちろんそこには価値観の差もあるわけですけど、「深く読めてないってことなんだろうか」と思ったりもします。僕の中では、ちゃんと本を読み始めたのは大学時代からで、子どもの頃は、読んではいたけど自分の中で「本を読んでました」ってのにカウント出来るレベルではないんで、そういうのもあって、「読解力コンプレックス」みたいなものは未だにあります。

そんな僕からすると、「速読みたいにパッパパッパ読んでるわけではないんだけど、でもわかんないんだよなぁ」という感じはあるわけです。確かに、「精読」してるかと言われれば、してません。でも「速読」ってわけでもない。本書では、そういう中間的な本の読み方をしている人(割とそういう人多いんじゃないかと思うんだけど)のことがスポっと抜けてしまっているような印象を抱いてしまって、恐らくそれは著者の意図通りではないだろうから、ちょっともったいない気はしました。

とはいえ、著者の主張は多々理解できます。

【本を読むためには、料理を作ったり、車を運転したりするのと同じで、それなりに技術が必要であり、ちょっとした工夫しだいで、読書は何倍も楽しくなる】

【スロー・リーディングは、本を読む習慣のある誰にとっても重要であるだけでなく、本質的には本を読まない人にとっても重要である。なぜならそれは、言葉を深く理解する技術だからである】

【本を読む喜びの一つは、他者と出会うことである。自分と異なる意見に耳を傾け、自分の考えをより柔軟にする。そのためには、一方で自由な「誤読」を楽しみつつ、他方で「作者の意図」を考えるという作業を、同時に行わなければならない。】

【スロー・リーディングの有効な技術の一つとして、人に話すことを想定して読むというのがある。読後に誰かに説明することを前提に本を読んでいくと、分からない部分は読み返すようになり、理解する能力も自然に高まっていく】

【序章でも引用した作家の大江健三郎さんは、『私という小説家の作り方』の中で、こんなことを書いている。

「読書には時期がある。本とジャストミートするためには、時を待たねばならないことがしばしばある。しかしそれ以前の、若い時の記憶に引っかかりめいたものをきざむだけの、三振あるいはファウルを打つような読み方にもムダということはないものなのだ」

本を繰り返し読むことの意義は、ほぼこれに集約される】

こういうような話は、非常に理解できる。僕も長いこと「読書」ということを続けてきたし、読み終わったら毎回こんな風に感想を書くことを自分の中のルールにしている。「読む」という作業ももちろんだけど、この「書く」という作業は、僕にとって非常に重要だった。【読後に誰かに説明することを前提に本を読んでいく】というのは、本当に僕がこの15年間ぐらいずっとやり続けてきたことで、「読み終わった後で文章が書けないような読み方はしない」というのが、僕の中の読み方の大きな基準になっている。こういうルールを課すことで、「読む」段階でかなり意識できるようになったし、読みながらずっと、「これをどう伝えようか」ということを考えているので、理解度も高い。小説はなかなか覚えていられないのだけど(それはつまり、ちゃんと理解できてないってことなんだと思うんだけど)、数学や物理の本なんかだと、もちろん元々知識があるってこともあるんだけど、一回読めば大体人に説明できるぐらいまで理解できるようになった。また、その時々の自分の文章が15年分残っているので、読み返す時間はそこまでないけど、振り返ろうと思えば当時の自分を振り返ることが出来る。そういう意味でも、「読んだ本について文章を書く」というのをやり続けてきてよかったな、と思う。

本書の表現で面白かったのが、これだ。

【当時の日本人は、材料の制約もさることながら、見様見真似で、「カステラ」を作ってみたわけだが、これは一種の「誤読力」であり、その結果が、「ビスコチョ」や「パン・デ・ロー」と同じではないからといってカステラを否定する人は誰もいない】

著者は小説家として、どう読むかは読者次第だ、と考えている。もちろん、著者なりの意図や解釈はある。しかし、それ通りである必要はない。昔の日本人が、外国の焼き菓子を見て、それになんとか近づけようとして「カステラ」が生まれたように、読む人ひとりひとりがそれぞれの解釈をすればいい。「カステラ」を偽物だという人がいないのと同じで、本の解釈に偽物も本物もない。国語の授業で、さも読解には正解があるかのような思い込みを植え付けられているので、「正しく読まなければならない」と思ってしまいがちだが、そんなことはない。それより遥かに大事なことは、「その本を読んで何を感じ、何を考えたのか」だ。これ以上に重要なものはない。

さらに著者はこう書く。

【だから、読み終わって感じたことに対しては、「今の自分にとっては、こう感じられた、でも、数年経ったら、また変わるのかな」というくらいの「かりそめ感」をいつも持っていたい】

これも、非常に分かる。僕は同じ本を読み返すことはあまりないが、たまにそういう機会があると、感じ方の違いに驚くことはある。昔面白いと思った本がまったく面白く感じられなかったりするし、その逆もまた然りである。だから、つまらないなと思った本でも、そこで評価を確定させない方がいい。その本を読み返すことは、ないかもしれない。ただ、「今の自分には合わないだけだったのかな」と捉えることはいつだって可能だ。僕は、つまらないなと思う本に出会った時は、なるべくそういう風に思うようにしている(まあ、明らかに「稚拙!」としか思えない本もありますけどね 笑)

国語に関しては、こんな記述もある。

【そこで、あるときから私は、本文と設問とを一続きに文章として読むことにした。本文として小林秀雄の文章があり、それを読解することが、設問を通じて求められているというのではなく、問題制作者が、小林秀雄を引用しながら彼の主張をしている、と発想を転換したのである。これに気がついてから、私の国語のテストの成績は、瞬く間に上昇した。】

大人になってから、こういうような考え方を知るようになったんだけど、学生時代に知りたかったなぁ。ずっとホントに、「何でそれが『主人公の気持ち』だなんて言えるんだ!」ってイライラしてたからなぁ。国語ほど理解できない授業はなかったし、未だに殺意しかない(笑)

【環境面から言えば、私たちが日常的に処理している情報量はますます増え、そのアクセシビリティも格段に上がっている。それはそれで、好むと好まざるとに拘らず、私たちがつきあっていかねばならない現実だが、だからこそ、他方では意識的にゆっくりと本を読み、思索する時間を待つ必要が、かつてないほどに高まっている。さもなくば、私たちは日々の情報の渦中で翻弄され、その全うな取捨選択や真偽の判断さえ不可能となり、また“SNS疲れ”とよく言われるように、くたびれ果ててしまうからである。
「フェイクニュース」という言葉が、このところ世界中で飛び交っているが、本書が刊行された頃に比べて、ネットのデタラメな情報に、社会が翻弄される懸念は一層強まっている。】

そんな時代だからこそ、やはり本を読むということが大事になってくると思う。もちろん、本が万能だなんて思っているわけではない。それでも、じっくりと本を読む、という時間を確保することが、未来の自分のためになるはずだと思う。「速読」が明日の自分のための読書だとしたら、そういう読書ではなくて、5年後10年後の自分のためになる読書をしよう。その指南をしてくれる一冊です。

平野啓一郎「本の読み方」

ビッグ・クエスチョン <人類の難問>に答えよう(ステーヴン・ホーキング)

本書は、ごく最近亡くなり(2018年)、亡くなる直前まで、存命の科学者の中では最も有名だと言っていいだろうホーキング博士の最後の著作です。ホーキングという名前にピンとこなくても、「車椅子の物理学者」と言われれば分かる、という人もいるでしょう。ALS(筋萎縮性側索硬化症)を患い、若くして余命を宣告されながらも、奇跡的に70年以上も生き続け、科学の最前線にい続けた巨人が、これからの人類の生活や知的好奇心という意味で非常に重要な、そしてある意味では「無邪気」な10の問いについて、彼なりの答えを綴った本です。

まず、その10の質問について書いてみましょう。

1 神は存在するのか?
2 宇宙はどのように始まったのか?
3 宇宙には人間のほかにも知的生命が存在するのか?
4 未来を予言することはできるのか?
5 ブラックホールの内部には何があるのか?
6 タイムトラベルは可能なのか?
7 人間は地球で生きていくべきなのか?
8 宇宙に植民地を建設するべきなのか?
9 人工知能は人間より賢くなるのか?
10 より良い未来のために何ができるのか?

どれも、なかなか一筋縄ではいかないというか、現在の科学ではスパッと答えを出せない問いばかりです。また、「神は存在するのか?」と言った、科学の領分ではないと感じられる問いもあるだろうし、「より良い未来のために何ができるのか?」と言った、問いかけていることそのものがふわっとしているものもある。それぞれに対して、著者の答え方のグラデーションがあって面白い。

ただ一つ言えることは、著者は基本的には「楽天的」だということだ。自分でも、そう書いている。9の人工知能の問題については、他の事柄よりもやや慎重であるが、しかしそれでも、「人工知能が害をもたらす可能性は十分にあるが、しかし人間はそれをきちんとコントロール出来るようになるはず」と考えている。著者は偉いのは、ただそう考えているだけではなく、実際に行動をしているということだ。イーロン・マスクらと共に、AIが社会に及ぼす影響について本格的な研究を求める公開書簡に署名したし、AIのリスクを軽減する組織の査問委員会のメンバーにもなっている。

また行動という意味で言えば、8の植民地の章でも面白い話がある。一般性相対性理論により、光よりも速く移動することはできないので、非常に遠い惑星を探す旅は非常に困難なものになる。そんな恒星間旅行は、現時点では現実的ではないと考えられているが、しかし著者は2016年に、投資家と組んで、恒成間を実現させるための長期的な研究開発プログラム「ブレイクスルー・スターショット」を発足させた。これは、ナノクラフトという非常に軽い物質(とりあえず人間が乗れるサイズではない)をレーザービームに乗せて、光速の1/5の速さで進むことを目指すものだ。工学的な難問は多々あるのだが、しかしそれらが工学的な問題である以上、いずれは解決出来るだろうと著者は考えている。

本書の中だと、1・2・4・5・6辺りは、かなり専門的な話になる。1は宇宙論だし、2・6は相対性理論の話、4は量子論の話、そして5はど真ん中で著者の専門分野なので、他の章と比べても圧倒的に詳しく、最新の状況が書かれている。他の章で書かれている理論的な話については、概ね知っていることが多かったが、5の「ブラックホールの内部には何があるのか?」については、知らないことがほとんどだった。ここでは、ブラックホールというものがどのように研究され、新たな発見が生み出されたかがまず描かれる。

【ブラックホールは存在するという証拠が観測からはまだひとつも得られていなかったときに、私たちはブラックホール理論における主要な問題のほとんどを解決した】

このように著者が書いているように、著者自身もブラックホールについてかなり多くの貢献をした。

しかしブラックホールは、やがて重大な問題を突きつけることになった。それは、「ブラックホールで情報は失われるのか、あるいは原理的には情報を回復できるのか」という、情報パラドックスとして知られているものだ。これは現在に至るまで未解決であるようだが、「スーパートランスレーション(超並進対称性)」がこの解決をもたらすのではないか、という期待を著者はしているという。このブラックホールの話はなかなか難しくて、サクッとは理解できなかったが、著者の力の入り具合を感じることはできた。

「宇宙」というものをテーマにすると、やはり様々な不可思議さが現れる。「宇宙は何もないところから始まった」「負のエネルギーとでもいうべきものが、空間そのものに貯蔵されている」「宇宙にある物質やエネルギーをすべて足し合わせると『無』」「ビッグバン以前には時間というものが存在しない」など、科学的な知見によって得られた事実を並べ、それらを踏まえた上で、「宇宙の誕生に神は必要ない」と著者は言う。宗教的な議論は別に残っていてもいいが、科学的には、神の存在は否定されたと言っていいのだろう。

3・7・8・9・10については、理論の話というよりも、「科学者として様々な知見を持った著者が、楽天的に考える未来像」というような話が展開されていく。これまで科学が成してきたこと、人類の進化の速度、社会情勢や自然環境の変化など、様々な情報を組み合わせながら、科学的にはスパッと答えが出せないような問題に対して、著者なりの考え方を提示していく。

その中でも著者の関心は、「これから人類はどう生きるべきか、そこに科学がどう関わるか」ということだ。

【だが、いまの若い人たちには、どんな未来が待っているのだろうか?確信を持って言えることは、これまでのどの世代にもまして、いまの若い人たちの未来は、科学とテクノロジーに依存するだろうということだ。科学は、かつてない形で日々の暮らしの一部になるだろうから、いまの若い人たちは、これまでのどの世代よりも科学を知らなければならない】

これはもちろん、「科学が世の中を豊かにする」という方向も含まれるが、逆もある。遺伝子の工学的な操作や、核兵器による人類の絶滅、自然環境の破壊など、「科学」というものが人類や社会に害を成す可能性についても考えられている。そういう中で生きる僕らは、「科学」というものをよりよく理解し、「科学には何が出来て何が出来ないのか」「科学がすべきことは何ですべきでないことは何か」ということについて議論されなければならない。そういう意味でも、より多くの人が科学を知るべきだ、と著者は言う。しかしその一方で、基礎科学に対する予算が減らされたり、科学者の地位が低下したりしている現状があり、著者はそのことを憂えている。そういう意味で本書も、「科学というのはこんなに魅力のあるものなのだ」ということを伝えるための手段の一つだろうし、ホーキングが(恐らく意識的に)楽天的であろうとしているのは、そういうスタンスを自らの振る舞いから伝えるためだろう、とも思う。そういう意味でも、彼が人類に成した貢献というのは、非常に大きなものだと言えるだろう。

【人とコミュニケーションをとることは、父にとっては絶えざる努力を要することだった―それでも、身体の動きが失われるにつれて装置を適応させながら、父はコミュニケーションをとろうとしつづけた。平板な電子音声で語られたときに、もっとも効果が上がるよう、言葉を選びぬいた。父が使うと電子音声は不思議なほど表情豊かになった】

巻末で著者の娘はこう書いている。やはりこれも、「伝えたい」という気持ちの表れだっただろう。また、著者自身は自身の声についてこんな風に書いている。

【いまでは私自身、この装置の作り出す音声が―アメリカなまりであるにもかかわらず―自分の声だと感じている】

生体的な声を失いながらも音声によるコミュニケーションを取り続けた著者の実感がこもった言葉だ。

最後に。6のタイムトラベルの話の最後に書かれていたパーティーの話が面白かった。

著者はある時、「本物のタイムトラベラーだけがやってくるパーティー」を企画した。どうしたらそんなことが可能なのか。それは、「パーティーが終わってから招待状を出す」というやり方だ。まずパーティーを開く。そしてそれが終わってから招待状を出す。招待状を受け取った人が本物のタイムトラベラーであれば、過去に戻ってパーティーに参加できるはずだ、というものだ。実際には誰も来なかったようだが、しかしだからと言ってタイムトラベルが出来ないということにはならない。例えば、タイムトラベルには莫大なエネルギーが掛かるので、パーティー程度の予定のためには使えない、ということかもしれない。いずれにしても、面白いことを考えるよなぁ、と思った。

科学的に難しい話も少しは出てくるけど、基本的には科学の素養が高いことを前提に書かれているわけではない本なので、安心して読める本だと思います。

スティーヴン・ホーキング「ビッグ・クエスチョン <人類の難問>に答えよう」

数学の想像力 正しさの深層に何があるのか(加藤文元)

メチャクチャ面白いんだけど、どんな内容なのか紹介するのが非常に難しい本です。
でも頑張ってみましょう。

本書では、「数学における『正しさ』とは何か?」ということが主要な手間として挙げられる。しかし、多くの人には、この問いの意味がよく分からないだろう。多くの人は「数学」というものを、「よく分からないもの」と思っているだろうし、数学が好きな人でも、「数学は正しいんでしょ?」と思っているはずだ。

本書の中で著者はこんな風に書いている。

『「数学をカチコチの論理という臆見から解放する」こと。一般の人々が数学に対しているような「頭の硬い人々が理屈をこね回してでっちあげる机上の空論」という印象をぬぐい去ること。これらもまた、この本の基層に流れる主要テーマの一つである』

さてでは、「数学における『正しさ』とは何か?」という問いそのものについてまずは考えていこう。

そこで重要になってくるのが、「証明」というものだ。数学が嫌いな人にとっては、「証明」という響きは非常に嫌なものだと思うが、現代数学はとにかく、「証明」というものを重視する。というか、「正しいと証明されていないこと」にはほとんどの場合価値がない(証明が与えられていない「予想」と言われるものであっても価値を持つ場合もあるので、必ず価値がないとは言わないが)。しかしこの「証明」というのは、数学の歴史という観点からすると非常に「特殊」なものなのだ。

『実際、我々が後に第8章で行うように、時代性・地域性という観点から「証明」という行いを見たとき、数や図形を論じる際に<正しさ>を確信させる方法として演繹的証明を採用するという流儀は、むしろ極めて特異なものに見える。それは古代ギリシャで生まれたものであるが、むしろ古代ギリシャでしか生まれなかったということの方が重大だ』

「数学」という学問は、様々なところで生まれ、割と独自の発展を遂げてきた。相互に影響し合っている部分もあるだろうが、しかし「中国」「インド」「アラビア」「ギリシャ」「エジプト」「日本」と、数学という学問は様々な地域で生まれ、それぞれなりの発展を遂げた。「0」を発見したのがインド数学だったように、「位取り記数法」を発見したのがアラビア世界だったように、「証明」という手法を発見したのがギリシャなのだ。「証明」という論証スタイルは、何故かギリシャでしか生まれなかった。他の地域の数学は、証明よりも計算に重きを置いていた。例えば和算においては、江戸時代には既に円周率を18桁まで計算できていた。いや、それより以前にオランダ人が、35桁目まで計算している。しかし、そのオランダ人は、その生涯のほとんどを円周率計算に注ぎ込み、力技で計算したのに対して、和算の方では、まったく異なる手法で計算されていた。そしてその手法は、証明を伴ったものではないが、「観察する」ことによって規則性を見抜き、その規則性を利用して計算を行う、というようなものである。

こんな風にして、ギリシャ以外の地域では「証明」は重視されなかった。ではなぜギリシャでは「証明」を重視したのか。

そこには「宗教」が関係してくる、のであるが、その前に、まず古代ギリシャにおいて、数学の正しさがどのように認められていたのかを見ていこう。

それは、要するに「見る」ことによって行われていた。例えば、同じ大きさの三角形が2つ目の前にあれば、それらは「見る」ことによって同じだと判定できる(もちろん実際には、辺の長さや角度などが共通しているのかを確かめるのだけど、それらも結局「見る」という行為である)。古代ギリシャ人は、「見れば分かるでしょ」という、まあ自然と言えば自然な態度で、数学というものと関わっていた。

しかしその状況は徐々に変わっていく。その背景に「宗教」がある。

「ピタゴラスの定理」でお馴染みのピタゴラスが作ったと言われている組織は、今で言う宗教団体のようなものだったらしい。「数」というものに神秘を感じ、「万物は数である」という思想を持っていた彼らは、「数」というものに対する、他の地域の人々が抱いていなかったある幻想を持っていた。

それが、「数というのは有理数しかない」というものだ。有理数というのは、要するに「分数で表すことが出来る数」のことだ。世の中には、「有理数」しか存在しない。それが「万物は数である」というピタゴラス教団の真理だった。

しかしそのピタゴラス教団が、「有理数」ではない数を発見してしまった。長さが1の正方形の対角線の長さは√2だが、この「√2」という数字は「有理数」ではなく「無理数」、つまり「分数で表すことが出来ない数」である。そのことを彼らは証明してしまったのだ。

この「無理数の発見」は、「通約不可能性の発見」と呼ばれているが、この「通約不可能性の発見」は当時の人々にとって衝撃的な事実だった。そしてこのことが、彼らが「見る」という形ではなく、「論証」という形の「証明」に行きつくきっかけとなる。

それまで彼らは、「数直線の上には有理数しかない」と考えていた。確かに、「有理数」というのも山のように存在する。「0」と「1」の間に限って考えてみても、例えば、「1」という数字を「2」「3」「4」…と様々な数で割って行けば、それはすべて「有理数」となる。それだけでも無限にある。さらに、分母と分子の数字をあれこれ変えていけば、さらにたくさんの「有理数」を作ることが出来る。だから、当時の人々が、「数直線はすべて有理数で埋まっている」と考えても不思議ではない。

重要なポイントは、「数直線はすべて有理数で埋まっている」ということを「見る」ことによって確認することは出来ない、ということだ。そして、「見る」ことでは確認できない物事に対して、「無理数」という、彼らにとっては予想だにしてなかった存在が表れうる、ということを知ってしまったのだ。

『無理数という、彼らのそもそもの数認識では到達不可能な数の世界が現実に広がっている以上、数のとりあつかいには極めて慎重にならざるを得なかった。いい加減なことをやっていると間違いをしでかすことになりかねない。このような心理的警戒感かが、恐らく紀元前五世紀頃からのギリシャ数学には蔓延し始めていたのではないだろうか。そしてそのために、彼らは「見る」ことによる直感的な議論で物事を考えるよりも、ピタゴラス学派がやったように「見る」ことをできるだけ排除して演繹的に、そして儀式的に議論を勧めるほうが<正しさ>を留保するためのより確実な方法と感じたのだ、と推察されるのである』

そしてこのような発想から、ピタゴラス教団のみならず、当時のギリシャ世界全体で、「目に見えるものはまやかしである」という考えが浸透し、数学の「証明」は「天上世界とアクセスするための儀式」と捉えられるようになったのだ。

このようにしてギリシャ数学は、「計算」ではなく「証明」に向かうことになる。

その後ギリシャ数学は、「背理法」という、現代数学においても非常に重要な証明法を生み出すことになる。「背理法」というのは、証明したい命題(「A」とする)がある場合、まず「Aではない」と仮定する。そしてその仮定の元で議論を積み上げることで、どこかで矛盾を導き出す。そして、「『Aではない』と仮定して矛盾が出てきたんだから、じゃあ『A』ですよね」と結論付ける、というものだ。

背理法という証明法は、非常に有効で、僕も学生時代よくテストなどで使ったが、一方で、よくもまあこんな証明法を思いついたものだよな、というものでもある。僕は数学が好きで、学生時代に背理法の存在を知った時も、「そういうものなんだな」と特段疑問に感じなかったが、やはりこの証明方法を奇異に感じる人もいることだろう。

では、そんな背理法はどのように生まれたのか。それが、「通約不可能性の発見」と並んで、ギリシャ人たちを怯えさせたもう一つの存在の影響が大きいと著者は言う。それが「無限」である。

ゼノンのパラドックスという有名な話がある。一番有名なのは、カメとアルキメデスの競争の話だろうが、他にも「飛んでいる矢は止まっている」という「矢の逆理」と呼ばれるものがある。飛んでいる矢は、瞬間瞬間で切り取れば静止している。どの時間で切り取ってみても矢は静止しているのだから、つまり飛んでいる矢は静止しているということになる。

この「矢の逆理」の話は、「空間・時間は無限に分割できる」ということを前提にしているから奇妙なことになってしまう。では、「空間・時間は無限に分割できない(それ以上分割できない<単位>から成り立っている)」ということを前提にしたらどうか。ゼノンはこれを「競技場の逆理」というパラドックスとして提示している。これは説明が難しいので具体的な話は省略するが、この「競技場の逆理」はやはりパラドキシカルな状況になる。つまり、「空間・時間は無限に分割できない」ということを前提にしてもやはりおかしなことになるのだ。

ここでまとめよう。「矢の逆理」は「空間・時間は無限に分割できる」を前提にすることでおかしくなる。一方、「競技場の逆理」は、「空間・時間は無限に分割できない」を前提にすることでおかしくなる。「矢の逆理」も「競技場の逆理」も共に「運動」に関する話だから、結局これは、「空間・時間は無限に分割できるとしても、分割できないとしても、運動は不可能である」という結論に至ってしまうということになる。しかし僕らは現実に「運動」というものが当たり前のようにあることを知っているから、この結論は明らかにおかしい。

では何故おかしいのか。それをギリシャ人は、「無限」なんてものを考えるからおかしいんだ、と捉えた。このような理由から彼らは、「無限」を回避したい、という感覚を持つようになったのだ。

例えば、円の面積の公式は、アルキメデスが導き出したのだが、円の面積を求めるにあたって、普通に考えれば「無限に分割したものを足し合わせる」という計算が必要とされる。しかし彼らはどうしても「無限」なんてものを考えたくなかった。だからどうにか「無限に分割する」なんていう発想を回避して円の面積の公式を導き出したかった。そのために考え出されたのが「取り尽くし法」というもので、それ自体はここでは説明できないけど、アルキメデスは非常に巧みな方法で円の面積の公式を導き出している。

その本質的に重要な部分は、「与えられたどんな量よりも小さくできる」という考え方である。「無限に分割する」というのは、「どんどん小さくなり、『極限』においては0になる」と表現できるが、しかしこの「極限」というのは「無限」という考え方を含んでいるので困る。そこでアルキメデスは、「与えられたどんな数よりも小さくできる」と表現した。

例えば目の前に1kgの砂糖があるとする。そしてこの砂糖を半分ずつ取り除いていくことを考える。最初は500g、次は250g…と言った具合である。この時、例えば「0.001g」という数(=与えられた数)が設定された場合、「半分ずつ取り除く」という作業を「ある程度の回数」繰り返せば、いつかは「0.001g」を下回ることが出来る。この「与えられた数」がどれほど小さな数であっても、状況は同じだ。もの凄く多くの回数を繰り返さなければいけないかもしれないが、しかしいつかは(有限の回数内で)、その「与えられた数」を下回ることができる。

このような表現によって、アルキメデスは「無限回の分割」を回避し、「有限回の手続き」だけを使って円の面積の公式を導き出すことが出来た。そしてその際に使われた「取り尽くし法」で重要な要素として使われているのが「背理法」なのだ。

つまりギリシャの人々は、「無限」というものをどうにか回避するために「背理法」を生み出した、と言えるのだ。

ここまでが、何故「証明」というものがギリシャだけで生まれたのか、そしてそれが重視されていったのか、という説明である。

ここからさらに、数学における<正しさ>の話になる。

17世紀に「微分積分学」というものが生み出された。これは要するに、「無限に分割したものを足し合わせる」というような「計算」である。古代ギリシャの人々が頑張って回避しようとした「計算」を、「きちんとした結果を導き出すもの」として整備したのだ。これは、かつては「証明」という方法に則らなければ<正しさ>を留保できないと思われていた問題に、「計算」によってアプローチ出来るようになったという革命的なことだった。

しかし「微分積分学」は当時、オカルト的な扱いをされることもあった。「無限に分割したものを足し合わせる」というのは、「信仰」の問題として受け入れ難かったのだ。計算結果がいかに正しいものであろうとも、「微分積分学」が乗っている論理的な基盤が脆弱であったために、創始されてすぐに受け入れられたというわけではない。

じゃあその基盤を整備しようじゃないか、ということで、「微分積分学」は、「limAn=1(n→∞)」という式に対して、

『いかなる正数εに対しても、十分大きく番号Nをとれば、それより大きなすべての番号nについてAnと1との差はεよりも小さい』

という基盤を与えられた。「イプシロン―デルタ法」と呼ばれるこの基盤によって、「微分積分学」は<正しい>という基盤を与えられた、と数学者は考えている。

しかしこれは、実のところ、アルキメデスが言っている、「与えられたどんな数よりも小さくできる」というのと同じ話なのだ。アルキメデスが「無限」を回避するために生み出した発想と、「微分積分学」の基盤は同じものなのだ。同じものであるのに、どうして現代では「微分積分学は<正しい>」とされているのか。

そこには、「科学的精神」というものが関わってくる。

「科学」も西洋が生み出したものだが、この「科学」という学問が、「モデルによる正しさ」という考え方を生んだ。例えば物理学の世界では、「大きな物質については一般性相対性理論が成り立つ」「小さな物質については量子論が成り立つ」というモデルが作られている。例えば、小さな物質に一般性相対性理論を適用したらうまくいかないし、逆も又然りである。つまり「科学」というのは、「あるモデルを作り、そのモデルの範囲内で正しいかどうかを判定する」というやり方をしている。

そしてこの発想が、「数学」に対しても持ち込まれた。つまり、数学もあるモデルを考え、その範囲内で正しいかどうかを判断する、ということだ。

アルキメデスらの時代の<正しさ>というのは、要するに「絶対的な正しさ」であった。絶対的な正しさを目指す場合、「無限」というのは非常に厄介な存在だった。しかし現代数学は、絶対的な正しさを目指すのではなく、「決まった範囲の中での正しさ」を目指す。「イプシロン―デルタ法」という枠組みの中では、「微分積分学」は正しい、という認定をするということだ。

このように、「数学」という学問においては、実は<正しさ>というのは限定的なものなのだ、ということが明らかになるのだ。

さて、大体これが、僕が理解した本書の大まかな流れだ。もちろん本書には様々な枝葉があり、その枝葉の部分も非常に面白い。「数学」というものがどのように生み出され、どのような経緯を経て現在に行き着いたのかを知ることで、「数学的に正しい」という意味が変化していることが分かるし、現代における「数学」というものが「モデルによる正しさ」を目指す以上、そこには「そのモデルを信じるかどうか」という、非常に人間的な視点も入り込んでくる、ということも面白いと思う。数学の奥深さを実感させてくれる一冊だ。

加藤文元「数学の想像力 正しさの深層に何があるのか」

話すチカラをつくる本(山田ズーニー)

内容に入ろうと思います。
本書は、タイトルの通り、「話すチカラをつくる本」です。120ページほどの作品で、重要な部分だけをぎゅっと圧縮して書いている、という感じのする本です。

本書はまず、1ページ目からなかなか面白いです。そこにはこんなことが書かれています。

【いきなりですが「宇宙人発見」のニュースです。
さて、あなたはこのニュースを、「何」で見たら信じますか?】

その後、5つの選択肢が提示されるわけです。これは要するに、「何を言うかよりも、誰が言うかの方が大事だ」ということを伝えるためのものです。本書ではこれが第一の要件となっています。

本書ではこのような要件が7つ書かれているわけですが、それぞれについても非常に短く、核となる部分をズバッと書いているなぁ、という印象の本です。それらについて個別に触れると、本書の内容すべてに触れてしまう感じなので止めておきますが、これらを意識すると、「伝え方」というのは変わるんじゃないかなと思います。

本書では、それら7つの要件について触れた後で、具体的な状況―「お詫びや説得」「励ましや誤解を解く」「メッセージを伝える」―についてのやり方に触れていきます。

その中で、僕的に印象的だったのが、「お詫びや説得」で出てくる「考えないこと」についてです。

【「考える」ことについて、私には忘れられない言葉があります。それは、いまの若い人が、「考えることを放棄して、その結果、苦しんでいる」という言葉です。受験生を指導していた友人に言われたのですが、学習にしても、進路にしても、「苦しんでいることを自覚していれば、まだいい」と。「なんとなくで生きている子たちこそ、いま受けている傷は深いのではないか」と。】

【自分は何を感じ、何を言いたいのか?そもそも自分が何をしたのかさえ、自分の言葉で語ることができない。自分の想いで人と関わるためには、自分の内面を引き出したり、整理したりする作業が必要です。それが「考える」という作業です】

これは、ホントにそうだよなぁ、と感じます。例えば、今や「ゲーム」もスポーツとして認知されるようになりましたが、「ゲーム」をただ暇つぶしでやっている人と、どうやったら相手に打ち勝つかを日々考えたりトレーニングしたりする人では、やっていることは同じ「ゲーム」でも、まったく別の世界にいるでしょう。それとほとんど同じような意味で、「生きる」ということについても、なんとなく生きている人と、考えて生きている人では、全然違ったものになります。「考えない」というのは、もちろん一つの選択肢だけど、「考えないこと」が自分を自由にする(「考えること」が面倒だから、それから解放される、という意味の自由)と捉えているのであれば、それは間違いだろうな、と思います。そうではなくて、「考える力」を手に入れることで自由になる、という発想をする方がいいでしょう。

本書では、「話す/伝える」ためには「考える」ことも必要だし、じゃあそのためにどうしたらいいか、ということにも触れられます。これについてもシンプルに説明されているので、分かりやすいんじゃないかと思います。

世の中には、「読むだけで◯◯できる!~」みたいな本があったりしますけど、それが何らかの「行動」(「話す」や「考える」など)である以上、実際にやってみる、というプロセスなしに上達するわけがありません。そういう意味で本書も、読むだけではどうにもなりません。ただ、本書の利点は、非常に短い、ということです。一般的な本は、「具体的な方法」などについてもかなり踏み込んで書いているので、どうしても分量が増えますが、本書では、「具体的な方法」がないわけではないけど、それよりも原則を抽出してシンプルに提示することを目的としているので、それらを踏まえて、自分ならそれをどう行動に落とし込んでいくのかやってみるということが大事です。

是非そういう意識で読んでみてください。

山田ズーニー「話すチカラをつくる本」

時空を超えて面白い!戦国武将の超絶カッコいい話(房野史典)

内容に入ろうと思います。
本書は、「ブロードキャスト!!」というお笑い芸人(知りませんでした)のツッコミの方が書いている本です。とにかく歴史が大好きみたいで、歴史好きのお笑い芸人で「六文ジャー」っていうユニットも作るし、トークライブとか歴史ガイドツアーなんかもしてるんだそうですよ。

そんな著者が、「歴史が超苦手な人に向けて書いた歴史の本」が本書です。

どれぐらい歴史が苦手な人を想定しているか。

例えば本書には、こんな文章があります。

【“武田信玄”っていう有名な大名がいるんですが、名前は聞いたことあるんじゃないでしょうか。】

僕は元々理系で、歴史とか大嫌いな人間ですが、しかしそれでも、さすがに「武田信玄」の名前ぐらいは知ってます(何した人なのか、ちゃんとは知らないけど)。本書で著者は、これぐらいの知識レベルを想定して色んな武将を紹介していきます。

その目的な、「人間的な凄さを伝える」こと。

【すべてブチ込んでみました。
「戦国武将」と呼ばれる人達の、“カッコよすぎるエピソード”を。
読めば“心が動く話”を、すべてこの一冊に詰め込んでみました】

年号とか小難しい名前とかはどうでもいいから、彼らの人間としての凄さを実感してよ!と著者は言います。

【でもね、冷静になって考えてみてください。教科書によって植え付けられた苦手意識と、それにより「歴史は面白くないもの」とコーティングしてしまった先入観を一度取っ払って冷静に。
戦国武将も僕らと同じ人間です。
同じ人間が、命をかけて、あれだけ激しい時代を駆け抜けていった…。
そこには、ドラマしかありません】

僕自身も、試験のために覚える歴史はまったく好きになれませんでしたが、こういう凄い人達のエピソードは大好きです。本書を読み終わった今でさえ、それぞれの武将たちの関係性とか、武将たちの正式な名前とか、ちゃんと覚えてませんが、「すげぇ奴らがいるもんだなぁ」という感覚は強く残りました。そういう意味では、こういう本はなかなか良いんじゃないかなぁ、と思います。

それに、描写もなかなか面白いです。例えば、北条早雲という人を紹介する文章を引用してみましょう。

【…ちょっとおカタく書きましたが、これ現代でいうと、
「どこぞのフリーターが、“社長のオフィシャルな愛人”になった妹を頼って、静岡に言ったのね。で、その会社の跡継ぎ問題を解決したら、幹部クラスの社員になっちゃったわけ…それが、北条早雲だよ」
て感じです】
(まあこの文章については後で、「これ、ほぼウソです」と全否定するんですけど 笑)

【秀吉はつまり、柳沢慎吾さんと叶姉妹と松岡修造さんと徳光和夫さんと足したような人間ということ(いや、違うか)。魅力的に決まってます(いや、変か)。】

どうでしょうか?こんな風に書いてもらえると、メッチャ読みやすいですよね。もちろん、歴史が好きな人的には嫌かもしれませんけど、「歴史」という、興味がない人を振り向かせるにはなかなか難しいジャンルにおいては、初心者向けにこういう提示の仕方をするのは、僕はアリだろうなと思っています。

また著者は、「世間でこう言われてるけど、実はこう」とか、「真偽の怪しいエピソードも織り交ぜてるよ」など、「おもしろさ」と「正確さ」を出来る範囲で融合させようと頑張っているので、そういう意味でもかなり誠実に書いてるんじゃないかなと思います。

恐らく歴史好きの人には常識的なエピソードなんだろうけど、「官兵衛の息子、実は生きてた!」とか「光秀は秀吉以上に最速の出世をした」とか、「伊達政宗、実は眼帯してない」など、「へぇ、そうなんだ!」という話が色々出てきて面白いなと思いました。

個人的に気になった人物としては、「榊原康政」と「鳥居強右衛門」です。

「榊原康政」は、「徳川四天王」の一人で、恐らく一番知名度が低いんじゃないか、と本書では書かれています。実際僕も、本書で初めてその名前を知ったと思います。この榊原康政、実はなかなか凄い男だったようで、同じく徳川四天王である本多忠勝と井伊直政は、「関ヶ原の戦いで一番手柄を立てた人物」として榊原康政を挙げているそうです。自分よりも上の立場の人間にも臆せず意見を言える人物だったようで、そういうのはなかなかいいじゃない、と思ったりします。

鳥居強右衛門は、足軽という一番身分の低い立場だったにも関わらず、歴史にその名が刻まれています。教科書で名前を見たことがある「長篠の戦い」っていうなかなか有名な戦いの時に、ありえないミッションインポッシブルを成し遂げて、しかも最後の最後まで「誰かのために生きる」ということを貫いたその姿は、なかなかカッコいいじゃないの、と思ったりします。

歴史好きの人は読まない方がいいと思いますが、「中学の教科書レベルの歴史もさっぱり分かりません!」という人は、読んでみたら歴史に興味を持てるようになるかもです。僕もなぁ、同じ人物の名前がコロコロ変わったりしなければ、もうちょい歴史に興味持てるかもなぁ、と思ったりしました(昔の人、名前変わりすぎじゃないですか?)

房野史典「時空を超えて面白い!戦国武将の超絶カッコいい話」

数学する精神 正しさの創造、美しさの発見(加藤文元)

なかなか難しい内容で、僕にはついていけない部分もありましたけど、なんとかどんな内容なのか書いてみたいと思います。

まず本書が何をテーマにしているのか、ということから。

【この「人間と数学との関わり」というのが、この本を通して流れる最も重要なテーマである。そしてその際重要なキーワードが数学の「正しさ」と「美しさ」である】

そして「美しさ」ということについては、こんな文章がある。長いが引用してみよう。

【いくら自然の深奥の世界が深いと言っても、人間は自然そのものから音楽を聴き取るのではない。どんなに風景が美しいと言っても、人間は風景そのものの中に絵画を観るのではない。そこには必ず人間の思いが反映され、人間らしい活動の手が入る。そしてそこに人間の手が加わるからこそ、芸術の世界は豊穣であると思うのである。
自然科学も同様である。自然の深奥に隠された基本法則や仕組みを解明せんというこの学問においても、その深奥の調和を写生して切り取ってくることは多くの場合不可能である。だからそこには人間の判断や仮説、もしくはモデルの提唱といった、人間が作り人間が意味付けをする作業が必ずはいる。自然は美しい。そこには人間を超えた神的とも言える調和がある。しかしその調和を説明するのは人間である】

つまり、そこに風景があるだけでは芸術にならないのと同じように、そこに「数」や「図形」があるだけでは数学にならない。それらに関わり、何かを加える人間の存在がいるからこそ、数学というのは成り立っている。では、人間は一体どのように数学と関わっているのか。それを紐解いていく本である。

まず、数学における「証明」について考えてみよう。

【そこでも証明の最終的な「決済」は何かと言えば、「見る」ことにほかならなかった。】

これは古代の数学の話だ。例えば、「2つの三角形が合同である」とか「7は素数である」というのは、最終的には「見る」ことで理解できる。「証明」というのは、最初はそういうものだったのだ。これは、自然科学も同じだ。自然科学では基本的に、仮説が生まれ、その仮説が実験などの「見る」という行為によって正しい/正しくないが判断されていく。数学も、最初はそうだった。

しかし次第に、それでは証明不可能なものに出くわすことになる。

たとえば本書には、「1=0.999999999………」という式が登場する。この式は、ちょっと気持ち悪い/おかしいと感じる人もいるだろう。確かに、0.999999999………という「数」は、1に限りなく近いだろうけど、でもそれが1とイコールだ、というのは、納得できない人も多いだろうと思う。

数学の世界では、これは「正しい」ということになっている。しかしこの「正しさ」というのは、「あるモデルの中で正しい」という意味である。

「実数」というのは、整数・自然数・有理数・無理数などを含めた「複素数を除く数全体」のことを指すが、この「実数」というものがどういうものであるのかということを定めた「実数論」というものがある。これは要するに、「実数とはこういう数ですよ」という定義集だと思ってもらえればいいはずだ。そしてこの「実数論」というモデルの中では、「1=0.999999999………」という式は正しいですよ、という意味なのである。

それがどうした、という風に思うだろうが、この点が非常に重要なのだ。つまり、正しい/正しくないというのは、「ある枠内」という範囲が定まっている、ということだ。

また別の例をだそう。数学の世界には、「数学的帰納法」という、数学の授業で習う超有名な証明の方法がある。「1番目のドミノは倒れる。で、『n番目のドミノが倒れるなら必ずn+1番目のドミノも倒れる』ということを示せれば、すべてのドミノが倒れることになる」というアレである。確かに、まあ言っていることは分からないでもないけど、これもまた「見る」ことによる証明ではない。nがいくつであっても成り立つということが証明できるのだが、どんなに大きいnでもそれが成り立つのか誰も「見る」ことによって確かめていない。それでも「正しい」と言い切っていいんだろうか?という不思議さのある証明法である。

もちろん数学では、この「数学的帰納法」を正しい証明法としている。しかし、この証明法の捉え方は複数あるのだ。

ペアノという数学者は、「自然数論」を作り上げた。要するに、「1,2,3,…」という自然数を「元から存在するもの」と捉えるのではなく、「人間が作り出したもの」と捉え、その生成規則を定めたのだ。その生成規則(「公理」と呼ばれる)は9つあるのだが、その内の一つが「数学的帰納法」なのである。

数学の世界で「公理」というのは、「証明することなく正しいと定めるもの」ということだ。つまりペアノは、「数学的帰納法は無条件に正しいルールだ」と定めて「自然数論」というモデルを作り上げたのだ。当然この「自然数論」の枠組みの中では、「数学的帰納法が正しい証明方法かどうか」(矛盾しないかどうか)という確認は不可能だ(それが絶対的に正しい、ということを大前提にして枠組みを作っているから)。

しかし実は、「ZFC-集合論」という、別の枠組みがあるのだが、その枠組みの中では「数学的帰納法」が正しいと証明できる。つまり、どういう枠組みを選ぶかによって、「正しさ」が証明できるかどうかが変わるのだ。

そしてこのことをより包括的に証明した人物がいる。ゲーデルである。ゲーデルは「ある公理系の正しさを証明すること(矛盾しないと確かめること)を、その公理系の枠内で行うことは不可能」という証明をしたのだ。よく分からないだろうが(僕も、ちゃんと分かっているのかと言われると怪しい)、こんな例で説明してみようと思う。

例えば、「日本語はすべての物事を表すことが出来ているか」について考えてみよう。日本語を使えば、世の中のすべてのことを表現できるのかどうか、ということだ。これは、日本語だけで考えている分には分からない。何故なら、日本語話者が表現するのに必要な言語が日本語になっているわけだから、日本語話者からすれば「すべての物事を表すことが出来ていると思うけど分からない」というしかない。

しかしそこに、英語話者が登場する。そして、英語との比較において、「表現できていないもの」が浮かび上がる。

例えば、「社会」という言葉は明治時代に生まれたという。外国から「society」という言葉が入ってきた時に、これを翻訳するために生まれたのだ。つまりこれは、日本には「社会」に該当する概念そのものがなかった、ということだろう。日本人にとって、「社会」に該当する概念が存在しなかったのだから、それを表す日本語が存在しなくても問題はなかったし、だから「すべての物事を表すことが出来ている」と思えたのだが、英語話者という、別の言語体系の人が登場することで、初めて「社会」という概念を知ったのだ。

「その枠組みの中では正しいかどうか判断できない」というのは、たぶん全然正確な比喩ではないが、イメージとしてはこういう感じだと思う。数学にも様々な枠組みが存在する。あるAという枠組みの正しさを、別のBという枠組みを使って証明することは出来るかもしれないが、枠組みAの正しさを、枠組みAの言葉を使っては証明できない、ということなんだ。

このことをゲーデルが証明したのである。

さて、これがどのように「美しさ」と関係してくるのか。

数学において、「定理」というのは、「証明される正しさ」を持っている。「定理」というのは、「証明される」から「正しい」のだ。しかし一方で、数学には「真理」とでも呼ぶべきものがある。これは、証明されていないが、しかし、それが「正しい」ということを、多くの数学者が感じるものである。

例えば、リーマンという数学者が発見した「リーマン面」という捉え方は、数学の世界に革命をもたらしたという。しかし、リーマン自身でさえも、その「正しさ」は証明できなかったという(後にワイエルシュトラスという人が厳密に証明した)。しかし、「正しい」と証明される以前から、数学者たちはその「正しさ」を疑っていなかった。何故なら「美しい」ものだったからだ。

本書に載っている例ではないが、同じ話を「志村=谷山予想」に対しても聞いたことがある。「志村=谷山予想」は、現在では正しいと証明されたが(それは、あの有名な「フェルマーの最終定理」の証明に絡んでくる話だ)、しかし証明される以前から、誰もがその「正しさ」を疑っていなかったという。それも、やはり「美しい」ものだったからだ。

さて、多くの人は、「真理」が「美しい」ものであるならば、いずれ証明され「定理」になるはずだ、と思うだろう。証明されないのは単純に難しいからであり、誰もが「美しい」と感じるものなのであれば、それが「正しい」と証明されるに違いない、と思うはずだ。しかしそうではない。ゲーデルの主張は、「ある枠内では、正しいとも正しくないとも言えない命題が存在する」ということであり、だから、人間がその「美しさ」から「真理」と感じるものであっても、その「正しさ」が証明できないものも存在する、ということである。そしてその証明のためには、別の適切な枠組みを見つけてこなければならない、という話である。

まあ、だからなんなんだ、と言われると僕も困るが(この辺りが、僕がちゃんと理解できていない部分である)、本書ではこういうことを軸にして話が展開されていくのだ。

さて、ペアノの公理の流れで、もう一つ興味深い話を書こう。これも「数学に人間がどう関わるか」の実例であるが、「人間が数を作る」という話である。

そもそも、先ほど挙げた「実数論」も、ある意味で「人間が数を作る」という実例である。それまでの「数」というのは、ざくっと言ってしまえば「世の中に存在するもの」だった。要するに、「長さ5/6の線」とか「面積3の三角形」などである。しかし、「3.8958475…」のような無理数はどうか。これは「存在する数」と言えるだろうか。「…」の部分は無限に続くので、「これ」と指定できるような「存在する数」とは思えない。この無理数というものを考えるにあたって、人間は、現実との対応というものを一旦脇において、「数」というものを概念的に捉えるようになっていったのだ。

そしてそう考えることで、新しい「数」を生み出すことが出来るようにもなる。

例えば、本書で初めて知った「10進距離で定義される数」というものが出てくる。例えばそれは、

「-1=………999999999」

というような形を取る。「-1」と「………999999999」が一致するというのもまったく意味が分からないだろうが、これは「差が10で割り切れるほど近い数字である」と定義された数なのだ(まあそれでも意味が分からないだろうけど、これ以上は説明しない)

そしてこの考え方を拡張した「p進数」というものが存在し、

【ヘンゼルによって導入された、このp進数という「数」の体系は、その後の数論の中で極めて重要な位置を占め、本質的で「自然」なものとなった。現在ではこの分野(のみならず、その周辺分野でも)で研究する数学者にとっては、実数と同じくらい「実在感」のある数として認識されている】

らしい。

僕らにとっての「実在感」は、「現実と対応するか」ということだろう。そういう意味で、「3」とか「5/6」というような「数」は分かりやすい。「3.8958475…」というような無理数は、現実と対応しないのだが、「3.8958475」という小数に「…」が付いただけという見た目をしているし、そこまで大きな抵抗はないんじゃないかと思う。こういう判断が、僕らが「数」に対して抱く「実在感」だろう。

しかしそういう実在感を、数学者たちは「p進数」に対して抱くという。要するにそれは、「-1=………999999999」のように、一般人にはまったく「実在感」を感じさせないものだが、数学者には、それが実際に存在する数に感じられるのだという。

まあ、つまり何が言いたいのかというと、「数学というのは、人間が介入することによって生み出されるのだよ」ということだ。そりゃそうでしょうよ、と思う人もいるかもしれないが、数学の歴史を紐解くことで、かつては「自然との対応」で考えられていた数学が、「自然と切り離された概念」として分離されていく過程が理解できる。また、「p進数」のような、僕らには「実在感」を感じられない数の存在を知ることで、初めて「無理数」や「虚数」を発見した人や、それをなかなか受け入れられなかった人々の気持ちも理解できるようになるだろう。

どのように人間が介入してきたのか、という歴史と、「数学の美しさ」という不可解な感覚を出来る限り感じ取る、という意味で、非常に面白い本だと思います。

加藤文元「数学する精神 正しさの創造、美しさの発見」

アイドル、やめました。AKB48のセカンドキャリア(大木亜希子)

【私はずっと、アイドル時代の経験をどのようにして成仏させたらよいのかわからなかった。“元アイドル”という大きな十字架を背負うことが、誇りであると同時に大きなコンプレックスだった。】

著者が冒頭でそう書いている。そう、著者自身が、まさに「AKB48のセカンドキャリア」を経験した人なのだ。
著者は、10代から女優として活動し、その後SDN48の2期生オーディションに合格、2012年に“一斉卒業”という形になるまでアイドルを続けた。

アイドル時代から彼女は、卒業後のことが不安だったという。

【しかし、グループが躍進する一方で、私は「卒業後どのようなキャリアを歩めばいいのか」という不安に常にかられていた。
それには理由があって、まず、ライバルが多すぎる。SDN48は当時、1期生と2期生合わせて37名の女性が在籍していた。この中で、自分が抜きん出た存在になるのは難しいだろうなと予感した。
また、アイドルという職業は、ビジュアルや体型、ステージ上のセンス、華やかさ、どれか1つでも秀でていたら必ず売れる―といった確証など“ない”ことにも気がついていた。正直に言えば、「私のほうが可愛い」と思うようなメンバーに人気を追い越される瞬間も多々あった。】

アイドルとして人気が出れば、その後芸能人として残ることが出来る可能性が高まる。しかし、そうなるのはとても難しい。であれば、卒業した後、何かアイドルや芸能人とは違った道に進まなければならない。

これはアイドルというもののある種の宿命である。

【しかし以前として私は過去の栄光にすがりつき、昼は地下アイドル、そして、夜は「仕事に繋がるかもしれない」という思いから、業界の食事会に顔を出す生活を続けていた。
「君は、どんな仕事をしているの?」
当時、食事の席で初めて会う人からこんな質問をされた時は、
「元48グループのアイドルです」と答えてしまう自分がいた。
それはすでに“過去の職業”であるというのに、今の自分に自信がないからこそ、そう言っていたのである。
元アイドルという呪縛を、自分自身で勝手にかけていたのだ。
誰も悪くないのに、なぜか毎日が非常にしんどかった】

これは、状況としては非常に“怖い”なと思うけど、しかしアイドル(やモデルなどの類の仕事)を経験すれば、こうなってしまうのも仕方ないのだろうな、という感覚もある。

僕は、乃木坂46が好きで、僕なりに追っている。初期から好きだったわけではないから、最初期にはいたけど既に卒業しているメンバー、というのもいる。また、僕が乃木坂46を好きになってから卒業したメンバーもいる。その後の動向については、時々ニュースで見かけることはある。「元乃木坂46のメンバーが~」というような記事だ。それで、なるほど今こういうことをしているのか、と知ることもある。しかし大抵は、何をしているのかよく知らない。乃木坂46という超人気グループの、しかも割と人気絶頂期に辞めていったメンバーであっても、芸能界から去る以上、何らかの仕事をしなければならないだろう。確かにそういう場合、どういう考えで、どんな選択をするのか、というのは興味深いなと思って本書を読んでみた。

ちなみに著者自身は、こういう経験があるという。

【その時期(※アイドル卒業後)、顔を隠すようにして清掃員の単発アルバイトにも勤しんだ。単純に、芸能活動だけでは生活費が足りなかったからである。
奇しくも熱心なSDN48ファンの方と、清掃先のオフィスなどですれ違うこともあったが、清掃員の格好をする私に、向こうはまったく気がついていない。こちらは握手会で何度も会っているため、彼の顔がハッキリとわかるというのに】

なかなかすごい世界だなと思う。こういう経験をしている著者だからこそ、他の元AKB48メンバーからも話を引き出せる、という部分もあるだろう。

本書では、8人の元アイドルが描かれる。AKB・SKE・NMB・SDN・HKT・AKBカフェっ娘と、様々なグループにいた面々に取材をしている。構成としては、生い立ちやアイドルになるきっかけ、アイドル時代の大変だったこと、辞めるに至る決断とその後の進路という、まあオーソドックスなものだ。それぞれの人生に、決して分かりやすい波乱万丈さがあるわけではない。アイドルを目指すという生き方に付きものの大変さや、アイドルを目指しているわけではなかったけどひょんなことからという展開も、まああるよねという感じだった。

何が言いたいかというと、取り上げられている個々人のエピソードの面白さで読む本ではない、ということだ。

僕は、本書で取り上げられている人のことは誰も知らなかったが、それでも本書はなかなか面白く読めた。それはやはり、「同じく元48グループのアイドルだった著者が取材をしている」というそのリアリティ込みで読んでいる部分があるからかなぁ、と思う。8人それぞれがどの程度、「同じ境遇の人だから喋りやすい」と思って取材を受けたのかは分からないけど、恐らくそういう部分は少なからずあるだろうと思う。普通の人が普通に取材に行ってどこまで聞き出せるものなのか分からないし、そもそも本書の8人は著者でなければ取材を受けなかったかもしれない。著者が「元アイドル」だということがどれほどプラスになっていたか分からないけど、少なくとも僕は、「元アイドルが元アイドルに色んな質問をしてこういうことを聞き出しているのだ」という裏側を含めて、本書は面白いと感じた。

とはいえ恐らく、著者が「元アイドル」であることは、マイナスもあるだろう。自分が同じ経験をしているからこそ、「ここまで踏み込んだらマズイ」と思って聞けない部分もあるんじゃないかと思う。本書では、「アイドルから今の仕事になったことに意味はあるか?」というような質問をぶつけているが、それに対する返答を「元アイドル」の人間にする、ということの難しさみたいなものもあるんじゃないかなと思う。そういう部分も含めて、きっとマイナスもある。そして、著者が「元アイドル」であることが取材においてはマイナスにもなりうる、ということも含めて、本書の面白さと捉えてもいいのかな、と思っている。

8人それぞれの個別の話には触れないが、「アイドルという経験」をそれぞれがどう捉えているのかという感覚はなかなか面白いと思う。アイドルの経験の中でやりたいことが見つかった人もいれば、アイドルで身体もメンタルも鍛えられたお陰で今辛い状況でも乗り越えられるという人もいる。元々やりたいことがありながらひょんなことからアイドルになり、しかしやはり元の夢を追うことを決断した、という者もいる。それぞれが、それぞれの形で「アイドル時代の経験」を昇華している。

また、こんなことを言う人もいる。

【思わず私は、仕事への情熱を語る早紀さんに向かって、「アイドルの経験が生きているんですね!」と言ってしまった。その不屈の精神は、アイドル時代に培ったものだと思ったからだ。
だが、彼女はこの質問に微笑みながらも違和感を示した。
「もちろん経験は活かされているとは思いますが、大切なのは、『今』ですから。アイドル時代と無理にリンクさせるのも違うのかなって、最近思い始めました」】(元NMB48 河野早紀)

また、こういう人もいる。

【取材の最後、私は彼女にこんな質問を投げかけてみた。
「バーテンダーになってよかったと思いますか?」
すると、彼女はしばらく考えてからこう言った。
「なんとも言えないです(笑)。やっぱり今はバーテンダーになってよかったなって思いますけど、AKBに入りたかったなって気持ちもあるし、もしも入れていたら全然違った人生を歩んでいたと思うので。今の人生を最高だと思っていますが、もしかしたらほかの道もあったかもなっていうのは、ずっと心のどこかにはありますね」】(元AKBカフェっ娘 小栗絵里加)

本書を読みながら、僕は、「夢を追う」ということについて考えていた。夢は、大きなものであれば叶わないことの方が多いし、「夢が叶った」という状態にも大きな程度差がある。「アイドルになる」という夢は、それぞれのグループに入ることで達成されてはいるが、そこからさらに人気を獲得して生き残らなければならないし、それをやり続けられなければ「アイドルになる」という夢は実現しきれていないことになる。そういう、「実現しきれていない」というものまで含めれば、「夢はなかなか叶わない」ということになるだろう。

しかし本書を読んで感じることは、「夢を追う」という行為そのものが何らかの意味を持つ、ということだ。少なくとも、本書で取り上げられている8人についてはそうだ。もちろん、「元アイドル」で、卒業後のキャリアをうまく築けなかった人もいるだろうし、そういう人は本書のような本でも取り上げられることはないし、仮に声が掛かっても本人は取材に応じないだろう。そういう人の声がなかなか表に出にくい、という意味で、【「夢を追う」という行為そのものが何らかの意味を持つ】という主張にも弱さはある。とはいえ、「どうせ叶わないんだから夢なんか追ってもしょうがない」ではなく、「叶わないかもしれないけど、『夢を追う』という行為そのものが何か意味をもたらす」と思えれば、少しは夢を追う力になるだろう。そしてそれは、「どうせ叶わないんだから夢なんか追ってもしょうがない」と考える人にも、何かグサリと突き刺すものがあるだろう。

文章は、そこまでうまくないなぁ、と感じてしまう部分もあったが、著者も対象者も「元アイドル」である、という本書のスタイル全体も含めて、本書はなかなか面白く読ませる本じゃないかなと思う。

大木亜希子「アイドル、やめました。AKB48のセカンドキャリア」

世界屠畜紀行(内澤旬子)

日本人からすると、欧米人による「クジラを食べるな」という主張には、「???」と感じてしまうだろう。確かにクジラは魚類ではなく哺乳類だし、知能も魚たちより高いのかもしれない。しかし、だからと言って、どうして「魚」は良くて「クジラ」はダメなんだ?別に、現代ではクジラをそこまで食べているわけではないから、「欧米人がワーワー言ってるけど、まあ別にいいか」程度で流すことが出来る話ではあるのだけど、しかしそれにしても不思議な話だ。

しかし、日本でも、不思議だなぁ、と感じる騒動があった。地名は忘れたけど、東京の高級住宅地に「児童相談所を作るな」という反対騒動が持ち上がった。あの時も、意味不明だなと思った。当時の報道のされ方を見ると、「児童相談所の建設に反対している上流階級の人たち」への不快感を示す人の方が多かったような印象はある。自分の感覚を過信するわけではないが、恐らくあの騒動に対しては「何言ってるんだ…」と感じた日本人の方が多かったんじゃないかなと思う。

この2つのケースを取り上げて、僕が主張したかったことは、「生理的な不快に理屈をつけることの愚かさ」である。

僕は、「生理的に受け付けない」という感覚は、どうにもしようがない、と考えている。それは、本人にしか感じられない感覚だし、他人と比較しようがないからだ。例えば、世の名的には「カワイイ」の代表格と言ってもいい猫だって、毛嫌いしている人はいるはずだ。そういう人に、「どうしてこんなにカワイイのに」と言ったところで意味がない。その人的には、どうしたって感覚的に「ムリ」なのだから。それがどれほど「正しい(この場合は、多数決的な意味で、と思ってください)」としても、「生理的に受け付けない」という主張は、どんな場合にも受け入れられる必要がある、と思う。

しかしだ。本来であれば「生理的に受け付けない」とだけ言えば済むはずのことに理屈をつけようとするから、様々な場面でややこしくなっていく、と僕は考えている。

何故理屈をつけたくなるのか。その理由は明白だ。それは、「賛同者を増やして、反対側の勢力を大きくするため」である。

「生理的に受け付けないんです!!!」といくら声高に主張したところで、他人は動かない。「あっそ」で終わりである。心優しい人なら話を聞いてくれるだろうけど、大きな勢力にはならない。であれば、物事を動かすことができなくなる。だから理屈をつけるのだ。自分の生理的な嫌悪感はともかくとして、「これこれはこういう理由で間違っている」と理由付けをする。そこに理屈をつければ、少なくとも生理的な嫌悪よりは話を聞いてもらえると、個人の話ではなく社会の問題だということに出来る。だから理屈をつけるのだ。

もちろん今ここで書いた話は、微妙な問題も孕んではいる。例えば「ブラック企業」について考えてみる。長時間労働やパワハラなどが常態化している職場があるとして、しかし「長時間働きたい」という人だって中にはいるはずだし、パワハラだって「厳しさの優しさを感じられる」という人だっているだろう。もちろん、「長時間働きたくない」人もいるし、「厳しさの中に優しさなんか感じられるか」という人もいる。後者のような人からすれば、ブラック企業は「生理的に受け付けない環境」と言える。職場の多数の人が同じような感覚を持っていれば、多数決的な意味でそれは正しい感覚になるし、そうであれば総意として労働環境の改善を目指すべきだと思う。しかし、「働く」とか「上司との関係」において、それぞれの人はまだらの感情を持っているだろうし、そうであればあるほど「正しさ」というのは明確な基準を持たなくなる。いくら自分が、自分のいる会社を「ブラック企業」だと感じていても、そう感じていない人がいれば、やはりそれは「生理的に受け付けない」という主張しか出来ないことになってしまう。

上記で僕が書いた「生理的な不快に理屈をつけることの愚かさ」という問題は、「是正されるべきことであっても、関わる人の多数が同じような感覚でない限り、生理的な不快が改善されない」ということになるし、そういう状況に苦しんでいる人だっているだろう。だから、「生理的な不快に理屈をつけることの愚かさ」みたいなものを、常に絶対的な正義として振り下ろそうと思っているわけではない。しかし感覚的に、クジラとか児童相談所の問題に対しては、多くの人が「生理的な不快に理屈をつけることの愚かさ」を感じてくれるのではないかと思う。

そして、僕にとってそういうものの一つが「屠畜(屠殺)」である。これは、本書の中で著者が繰り返し書く感覚が非常に近いので引用しよう。

【「ねえ、ベさん、私が本当に一番知りたいのは、食べるために動物を殺す行為じたいを、どうしてみんなが嫌なことだと『感じている』のか、なんです」】

【最近、東京の屠畜場を取材させてもらうようになって、ますます感じるようになってきた疑問がある。動物を食べるために殺すことは残酷なことなんだろうか?なぜ多くの人がそれに対して「怖い」といった感覚を抱くんだろう?】

【―革の仕事は楽しいけれど、肉体的には辛い。8時間びっしりやれば、おそらく翌日は起きられない。だから自分が勤める自信はない。でも、この仕事を私は好きだ。この仕事を特別に嫌う人たちがいるのは、どうかんがえてもおかしい、わからない】

もう少し簡潔にまとめた文章は、解説の佐野眞一氏が書いている。

【この本の底流に流れている問題意識は、みんな肉を食べているのに、なぜ動物を屠畜する人を差別し、忌避するのだろうかという、誰でも抱くごくあたりまえの疑問である】

もしかしたらこの問題について理解できない人もいるだろうから、ざっと書いておくと(僕も詳しいわけではないけど)、日本では、屠畜とか皮をなめしたりする仕事は、かつては部落出身の人がやらされる仕事だったという。僕は静岡出身だけど、少なくとも僕は子どもの頃などに、周りの「部落」の話は聞いたことがない。「部落」というものをちゃんと理解したのは、大人になって本を読むようになってからだったと思う。大阪都知事だった橋下徹が部落出身だった云々、というニュースを目にしたような記憶もあるんだけど、定かではない。でも、少なくとも「部落」というものについて、テレビのニュースで取り上げられる機会はほとんどないような気がする。本を読んでなんとなく理解してはいるものに、「部落問題」というものについて正直全然詳しくないし、何が問題なのかよく分からない。よくわからないが、未だに「部落」出身だと分かると、結婚などで障害が出る場合があるという。「部落」だと何がマズイんだ?と思ってしまうが、とにかく現に差別はまだ存在しているという。

本書の中にも、木下川という皮革業者が集まる地域が取り上げられるが、ここは「部落」差別の残る場所らしい。そこで皮革業に携わっている人が、こんなことを言っている。

【「ぼくらの時代は、部落の出だとわかると勤め先で嫌がらせを受けて、親の会社に戻って来ることがよくありました。弟も京都に勤めていましたが、帰って来ました。なにも言わなかったかもしれないけど、辛い思いをしているんです。一時期は、臭気を含めた環境を良くすれば、差別もなくなるかと思ったけど…。」
きれいになっても差別はなくならない、と市田さんは苦笑いとともに締めくくった】

とにかくこういう風に、屠畜と部落というのは結びついているらしい。そういう嫌悪感、みたいなものもやはり根強く残っているようだ。

しかし著者は、むしろそうではない感覚の方にこそ注目している。

【この仕事を怖がる人は、私が思ったよりも確実に多かった。私と同じように部落差別について何も聞かされずに育ち、いまだに知る機会も興味も持たずとも、動物をつぶす、殺す現場に対して忌避感を強く持つ人は多い。自分の感覚がずれていて、動物を殺すことをとにかくかわいそうと思う方が、今の社会では「自然」なのだろうか】

著者は、何故こういう感覚が日本にはびこっているのかを知りたくて、世界の、そして日本の屠畜の現場に入り浸るのだ。その記録が、本書である。

先ほど書いたように、僕自身は「生理的に受け付けない」という感覚は、仕方ないものだと思っている。しかし本書では、品川駅近くにある芝浦屠場について、

【今、芝浦屠場のある品川駅港南口は、再開発で、ぴかぴかの高層ビルが立ち並ぶ地域に変身した。高層マンションの住人から、移転要求が出はじめているという。嫌がらせの匿名の手紙のような、「部落だから、穢れているから」という論法ではない。移転要求の根本にあるのは、「肉を作っているのはわかるけど、すぐ隣で動物が殺されているのは嫌」という意識だ】

という話が載っていて、僕はこういう感覚には違和感を抱いてしまう。

僕たちは、大体の人が肉を食べている。だから屠場で肉を捌いてくれている人は「ありがたい存在」のはずだ。彼らがいなければ、肉を食べられないのだから。一方でそういう仕事に対して「生理的に受け付けない」という感覚を抱いてしまうのは仕方ないと思う。そういう場合、僕自身の感覚では、「大事なことだと分かっているのに、生理的に受け付けないと思ってしまうこと」に対して、申し訳無さを感じると思う。

例えとして適切ではないだろうが、こんな場面を考えてみる。奥さんが子供のオムツを替えた後で料理をする時、夫が「オムツ替えた手で料理なんかするなよ」と言ったら、奥さんとしては、「はぁ?だったらお前がオムツを替えるか料理を作れや!」という感じだろう。「オムツを替えた手で料理をする」ということに対して、仮に「生理的に受け付けない」という感覚を抱いたとしても、それは「そう感じてしまう自分を申し訳なく思う」べきなんじゃないかと僕は思うのだ。

屠畜にしても同じではないか。完全に肉を食べず、動物を殺すことで生み出される製品一切を使用していない、という人がそういう主張をするのであればもちろん筋は通るだろうが、そんな人が今の世の中にどれぐらいいるというのか。そうでないなら、「生理的に受け付けないと感じてしまう自分を申し訳なく思う」というのが筋だと思うのだ。

しかしそうはならず、「肉を作っているのはわかるけど、すぐ隣で動物が殺されているのは嫌」と言えてしまうということは、屠畜というものを何段も低く見ている、ということだろう。自分だって肉を食べているにも関わらず、である。その感覚は、僕には理解できない。

【案内をしてくださった沖縄県北部食肉協業組合専務理事の上原政英さんは、私の差し出した雑誌『部落解放』のタイトルを見て、「肉ってのは最高の食べ物なんだよ。それを作っている人を差別するなんて、沖縄県では笑いもんだよ。よくも平気で肉を食べられるね。そんなのは時代遅れだよ。ヤマトは後進国だね」としきりに憤っていた】

僕もそう思う。僕自身は、屠畜の現場を見たことがないし、見たらどう感じるか分からない。もしかしたら「生理的に受け付けない」と感じてしまうかもしれない。でも、だからと言って、屠畜そのものを悪く捉えることはないだろう。家の隣でやっててくれてもOKだと思う。そりゃあ、その仕事をやれと強要されたらそれはしんどいと思うけど、そうじゃないなら、やってくれてサンキュー、ってなもんである。

著者は、そういう感覚を抱きながら、世界中様々な国の屠畜の現場を見に行く。著者はそもそも、屠畜というものに興味があり(それはそれで珍しいし、世界中あらゆる屠場で珍しがられた)、自らの関心に沿ってこの取材を続けている。そういう中で著者は、あからさまな差別を見たり、あるいは目には見えないけど微妙な線引がされているのを見たり、あるいはむしろ屠畜に携わる人が敬意を払われている状況を目にすることになる。また、著者が取材をしていた当時は、BSE問題が取り沙汰された後で、世界中で屠畜をクリーンに行うように設備や法律が改正されているところだった。そしてその余波を受ける形で、個人が屠畜することが禁じられる流れが見えてきたりもした。そうなることで、個人の技能も失われるし、さらに、「命をいただいている」ということを子供が実感できる場がなくなってしまう。モンゴルの遊牧民でさえ、貨幣文化が流れ込むことでそういう風潮から逃れることができなくなり、世界各国で屠畜というものが結果的に人目に触れない形になってしまっている現状も明らかにしていく。

著者はあとがきでこう書いている。

【本書をお読みいただければわかるように、私はただひたすら無手勝流に、不躾に、おもしろい、おもしろい、おもしろいじゃん、この仕事!!なんで嫌われてるの??と、時には顰蹙を書いながら国内外を見て回り、文化人類学の亜流的立場(のつもり)でこの本を書きはじめた。そして、現場を回るうちにだんだんと、屠畜という営みが、畜産はもちろんのこと、公衆衛生、獣医学、動物福祉、都市学などとも密接にかかわるものだということに気付かされていく。気付きはじめたところで、本書の紙数は尽きるのである。
皮肉なことに、本を出したあとで、本を書いていたときよりもたくさんの出会いが続いていくことで、「もういいや」のはずだった、私の屠畜への見識と興味は、当人比ながらどんどん広がり、それなりの奥行きも出てきてしまった。孤立感も当然ながら薄まった】

著者の「おもしろいじゃん!!」という感覚は、読んでいればブワーッと伝わってくる。本当に、興味・関心と愛を持って屠畜の現場を見ているのだなと思う。なにせ、芝浦屠場には、半年以上通ってスケッチをしたというから尋常ではない。やはり、「好き」がベースになっているノンフィクションは面白いよなぁ、ということを再確認させられた作品でもありました。

内澤旬子「世界屠畜紀行」

新装版 ココ・シャネルという生き方(山口路子)

【「多くのアメリカ人にとってフランスとはあたしのことだった」】

凄いことを言うもんだなぁ、と思う。でも、確かにそれぐらいのことを言い放ってもいいのかもしれない。なかなか、凄い生き方をした女性だ。毀誉褒貶は様々だったようだし、僕も近くにいたらうんざりしてしまうのかもしれないけど、基本的には、凄く好きなタイプの人だ。

【「女に対して、あたしは友情のひとかけらも持っていない。ミシアだけが例外だった。なぜなら女たちは面白くないからだ」】

女性に向けたファッションを生み出しているデザイナーなのに、凄いことを言う。しかし、まあそうだろう。シャネルから見れば、全女性が退屈に思えるだろう。

例えばシャネルは、「イミテーション・ジュエリー」というものを生み出した。要するに、偽物の宝石である。何故こんなものを生み出したのか、その理由はこうだ。

【これは宝石好きの女たちに対する挑戦状でもあった。なぜならシャネルは彼女たちのことを苦々しく思っていたのだ。夫の富のもとでしか存在しようとしない女たちをシャネルは嫌った。
「首のまわりに小切手をつけているようなものだ」
「もし宝石が何かの記号であるなら、それは卑しさの、不正の、または老いの記号でしかない」
夜会で、他人の宝石が気になってしかたのない女たち、宝石によって自分の価値が左右されるかのように考えている愚かな女たちを、シャネルは軽蔑した。
「価値ある宝石をつけたからといって、それで女が豊かになるわけではない」】

素晴らしい理由ではないか。こんな風にシャネルは、その時々の上流階級の人間を軽蔑しながら、デザイナーとして成功した。シャネルが生み出した「イミテーション・ジュエリー」に上流階級の女性は夢中になり、こぞって偽物をつけはじめた。
そして、そんな中、シャネルは本物だけをつけて微笑むのだ。その理由も素晴らしい。

【「宝石はそれをつける人にふさわしく役立つ。あたしは宝石をいっぱいつけるけど、それは、あたしがつけると全部偽物に見えるからだ」】

「偽物に見えるから本物の宝石をつける」という歪んだ発想は最高だなぁ。こういう人は大好きなんである。

他にも、「コピー」に対する考え方も凄く好きだ。シャネルは著作権(デザインの場合は、意匠権というらしい)にまったく興味がなかったという。その理由は明快で、自信に溢れる者の考えだ。

【「時代の空気をいち早くつかまえるのがデザイナーの役目だとしたら、他の人たちが同じことをしたって不思議ではない」】

【「魅力ある束の間の創作ではあるけれども、永遠の芸術作品ではない。モードは死ななければいけない。それもできるだけ早く。そうでなければビジネスにならない」
もともとモードはうつろいやすいものであり、うつろわなければ、モード産業は成り立たない。
「本質的にうつろいやすく、死に絶えやすいものを、どうやって守ろうというのか」
これがシャネルの言い分だった】

【「コピーあれることは賞賛と愛をうけとること」
つまり、「成功の証明」そのものだった。このコピーに対する考え方は、次の信条にもつながる。
「よくできた服は誰にでも似合う服である」
誰にでも似合う服なのだからコピーされるのだ。ということは自分が作り出した服は「よくできた服」なのだ。喜んで当然だ】

当時のデザイナーは、意匠権を守ろうと動いていたらしいが、シャネルはその動きに同調しようとしなかった。そのことで嫌われたりもしたらしいが、そんなことお構いなしである。特にシャネルの発言で素晴らしいのは、「時代の空気をいち早くつかまえるのがデザイナーの役割」という捉え方だ。時代というのは、常にうつろうものだ。だから、それに合わせて作ったデザインを後生大事に取っておいたって仕方ない。これは、「私はいつだって、その時代の空気を掴んでみせる」という意思の表れであり、ここからも、ものすごい自信を感じるなぁ、と思うのだ。

他にも、芽が出る前の天才の見抜いていち早く投資したり(しかも、そういう才能にお金をつぎ込んでいることを黙っているように強要したという)、所有することにお金を使わなかったり、上流階級からお呼びがかかる(当時は、商人が上流階級のパーティーに呼ばれるなんてありえなかった)ようになったにも関わらず、招待を受けてもなるべく顔を出さなかったりと、その生き方はなかなかクールである。まあ、かなり暴君だったようで、一緒に働いていた人は大変だったろうと思うけど、女性が社会に出ることが今よりも遥かに困難だった時代に、孤児院出身の彼女が、時代の象徴として君臨するストーリーは見事だと思うし、どれだけ評判が悪くても、彼女が成した功績は否定できない。なにせ、以下のものはすべてシャネルが生み出した、というのだから。

黒いワンピース、セーラーカラー、プリーツスカート、ツィード、ジャージー、パンタロン、イミテーション・ジュエリー、ショルダーバッグ、リップスティック…。

女性のファッションには詳しくないが、そんな僕でも、ショルダーバッグやリップスティックぐらいは分かるし、他のものだってなんとなく聞いたことぐらいはある。そういう、ファッションの「当たり前」を築き上げた功績は見事だと思うし、時代を読む力が圧倒的だったのだろうなと思う。

さて本書には、「なぜ、彼女はウエディングドレスを拒んだのか?」という、副題(?)がついている。これに対する明確な答えが載っているわけではないが、本書では、生涯独身を貫いたシャネルの恋愛遍歴も結構描かれる。そういう記述にはほぼ興味はないのだが、しかし、結婚を意識した相手が不慮の死を遂げる、ということが何度かあったと書かれている。運命、みたいな言葉は使いたくないが、しかしシャネルが結婚という選択をしなかったことは、何らかの運命だったのではないか、と思わせるような雰囲気もある。もし、結婚していたら、今とはまた違った評価になっていたことだろう。少なくとも、本書に描かれているいくつかに重要なエピソードは存在しなかったに違いない。

女性が社会の中で生きていくということは、現代においても様々な困難を伴うだろうけど、今以上に困難だったはずの時代に、これだけのことを成し得た女性というのは、やはり凄いなと感じさせられた。

山口路子「新装版 ココ・シャネルという生き方」

物語 数学の歴史 正しさへの挑戦(加藤文元)

内容に入ろうと思います。
本書は、古代から現代に至るまでの数学の歴史を、著者なりの切り取り方で描き出す作品です。冒頭の著者の文章を引用してみましょう。

【数学の歴史の大きな流れを、文化史・文明史駅な視点から、できるだけ整合性のあるまとまりとして一望したい、というのが本書において筆者が目指したことである。そのため、数学の専門的な内容はできるだけ噛み砕いてわかりやすくする一方で、主に数学の発展史における思想面での変遷に重点を置き、さらには人物史的側面も可能な限り手際よくまとめるよう心がけた】

そんな著者は、本書の裏(?)テーマに据えているのが、「『計算する』ことと『見る』こと」だ。

【そもそも人間が「数学する」ことにおいて、最も重要な行為は「計算する」ことと「見る」ことである】

本書には様々なことが書かれていて、どれも非常に面白いのだが、著者の主張に沿って、この感想では、この点に着目して書いてみようと思う。

計算と見るの話で最初に印象的だったのが、古代の数学の話だ。古代バビロニア人は、何かを書くのに粘土板を使っていて、これは図形は描きにくいが計算手順などを書くには最適だった。一方、古代エジプト人は、何かを書くのにパピルスを使っていて、これは図形を描くのに最適だった。

【古代エジプト人の数学が「見る」ことを出発点としていたのに対して、古代バビロニアの人々にとっては「計算する」ことが、彼らの数学の始まりだったのである】

どんなメディアに記述するかによって、数学の性質が変わる、という話は面白いと思ったし、それが「計算する」と「見る」という数学の性質を際立たせているというのはなるほどと感じさせられた。

さて、そこから一気に話は飛ぶが、本書では「非ユークリッド幾何学」についてかなりページが割かれる。この話は、数学史の中で非常に有名な話なので、僕もエピソードとしては繰り返し読んだことがある。しかし、「計算する」「見る」という話が絡んでくると、見え方が変わって面白かった。

「非ユークリッド幾何学」の話をする前にまず、こんな文章を引用しよう。

【数学における理解とは、健康的な心による受け入れという、優れて感覚的な側面を持つからである。そこでは知性的な精神活動であるという側面と、完成による受け入れという側面が、調和を保ちながら一つの理解形態をなす。】

意味が分かるだろうか?要するに数学というのは、「これって正しいよね!」という人間の感覚的な判断が非常に重要だ、ということである。

ンなアホな、と思うだろう。数学には「美しい」という形容詞が使われることもあるし、そういう感覚は多少ながら僕の中にもあるので、僕は分からなくはないが、数学というものが論理一辺倒の学問だと考えている人からすれば、感覚的に正しいと思うかどうかなんて理解できないだろう。

さてそこで、「非ユークリッド幾何学」の話をする前に「ユークリッド幾何学」のことを書こう。この感想の中では、「非ユークリッド幾何学がいかに発見されたかエピソード」については触れないので、知らない人は自分で調べてほしいが、それまで当たり前だと思っていた幾何学(これが後に「ユークリッド幾何学」と呼ばれるようになる)の他に、様々な幾何学が成立しうるのだ、ということが発見されて、当時の数学界は激震に見舞われたのだ。

さてそんな「ユークリッド幾何学」について、こんなことが書かれている。

【では、なぜユークリッド幾何学を正しいと思うのだろうか】

「ユークリッド幾何学」が何か分からない人には意味不明な問いだろうが、要するに「点と点を結ぶと直線になる」とか「2本の平行な直線は交わらない」とか「◯◯という条件を持つ2つの三角形は合同だ」のような、学校に図形の授業で習ったようなこと全般だと思ってもらえればいい。

これらを、どうして僕らは「正しい」と思うのか?その答えは「見える」からだ。

【こと数学的な観点から考えると、ユークリッド平面という目に見えやすい「モデル」を持っている、ということの意義が大きい。つまり古代ギリシャの昔から、それは人間の「見る」対象として扱われてきたし、それが人間の感性的経験と、うまく整合してきたということである】

例えば三角形であれば、同じ三角形を切って重ねれば合同であるということを「見る」ことが出来る。平行な直線にしても、無限の先でどうなっているかはわからないにせよ、に直線の間の距離を測ったりすることで平行だと「見る」ことが出来る。このことが、正しさの判断に大きな影響を与えている、というのだ。

だからこそ、「非ユークリッド幾何学」はなかなか発見されなかった。「非ユークリッド幾何学」は、「ユークリッド幾何学」のある「問題」(「問題」というのは言い過ぎかもしれない。「違和感」程度だろうか)が認識されてから1000年近く発見されないままだったのだ。そしてある時代、ある天才が、「その違和感は、『非ユークリッド幾何学』というものを考えれば解消だ!」ということを言って、ようやく「非ユークリッド幾何学」が発見されたのだ。見えないものはなかなか捉えられない、という好例だろう。

では、「非ユークリッド幾何学を発見した」というのは、何を指しているのか?「非ユークリッド幾何学」というのはよく、ロバチェフスキーとボヤイによって発見された、と言われるが、しかし彼らはその存在や整合性を「論証」したわけではない。「こういう世界もあり得るよ」と言っただけなのだ。

そしてその流れで、「ユークリッド幾何学」の正しさも、決して論証されたわけではない、と続き、こう著者は書く。

【ユークリッドは、ユークリッド幾何学の体系を構築し、それが豊かな幾何学的内容を持つものであることを明らかにしたが、そのような体系自体が無矛盾であるとか、実在するとかいうことを論証したわけではない。というより、そのようなことは不可能である。だから我々がユークリッド幾何学という体系が実在すると感じるのは、そのような論証的な問題ではなく、感性的なものである。ミロのヴィーナスという彫刻の存在感や、エッシャーの『滝』の世界の存在感と、本来同等の精神的効果であると言ってよい】

同じようなことは、「微分積分の発見」についても言える。

【微分積分学という学問が、パラドクシカルな要素にまみれているとはいえ、一つの内的な整合性を持ったまとまった体系であることを強く信じることができたこと、そしてそれを人々に印象づけることに、それなりに成功したということではないだろうかと思う。つまり論理などのミクロ的側面ではなく、マクロ的大局的な認識能力に訴えることで、その理論の存在感が信じられるようになったからだと思われるのだ】

「見る」ということから少し離れてしまったが、このように数学というのは、ある種の「美しさ」を感じ取ることによって、その正しさを「感じ取る」学問でもあるのだ。

また数学には、「連続」と「不連続」を接続する、という問題もある。

【自然数や整数のような「不連続的な」数の概念と、線分や面積のような「連続的な」量の概念との葛藤―その非常にはっきりとした現出の一つを、例えばゼノンのパラドックスの中に見出すことができる―であり、現代にも通じる西洋数学の中心テーマの一つである】

数学というのは常にこの「連続」と「不連続」をどう扱うかという問題がつきまとっていた。そしてこの問題は、「見る」ことと「計算する」ことの問題でもある。

【もともと「見る」ことで直観的に捉えられていた連続量を、「計算する」という算術の土台の上に再構築しようという心みは、ピタゴラスの昔からの因縁の問題であった。】

例えば「実数」というのは「目で見てわかる連続性」を感じるものだ。自然数であれば、「1」と「2」の間に切れ目があり、連続していないが、実数の場合はどこでどう分割しようが切れ目を見出すことは出来ない。連続しているのだ。このような「目で見てわかる連続性」を、「計算する」という俎上に載せることの困難さが、数学という学問分野にはずっとつきまとっていたという。

そしてそれを解消したのが「集合論」という新しい数学分野なのだが、それはある意味で、「計算する」から「見る」への大きな転換の流れでもある。

元々その流れを生み出したのは、リーマンだ。西洋数学の歴史は、「見る」ことから始まったが、しかし次第にそれらを「計算する」ことに置き換えることで様々な発見を生み出してきた。しかし、次第に「計算する」ことが複雑になりすぎ、限界に近づきつつあった。そうしたなかでリーマンは、「リーマン面」という考え方を提示し、「計算する」ことから「見る」ことへの回帰を促した。ちゃんと理解できている自信はないが、リーマンの主張は、「計算がくっそ難しい代数函数」を、「リーマン面という『見る』ことが出来る対象」に置き換えることで捉えやすくした、ということらしい。

そしてこういう流れの中で、「まず概念ありきで数学を考える」という発想が生まれる。どういうことか。それまで数学というのは基本的に、まず「なんらかの形で『見える』もの(想像の中でも良い)」を想定し、それを「計算する」ことに落とし込んだりすることで抽象化し、本質的な概念を捉える、という流れだった。しかし次第に、まず仮定的に「ある概念」を捉える。そして、そういうものがあるとして、それらを建築資材としてどういう体系を作り出せるか、つまり「見える」ものを生み出せるか、という方向にシフトしていった。そして、その建築資材として使われるのが「集合」というものだ。概念をなんらかの形でまとめた「集合」を最初に捉えることで、それがどういう数学体系を生み出すのか、を考えることが数学の主流になっていく。

ここに、著者の大きな主張がある。これまでは「見る」ことから数学が始まり、「計算」を経て概念を捉えるだったのが、今では、まず概念を捉え、「計算」を経ることで「見る」対象を捉える、という形になっている。数学というのは、様々な分野があちらこちらで生まれ、途中でそれらが合流したり、あるいは分岐したりしながら、縦横無尽な発展を続ける学問だが、「見る」「計算する」という捉え方によって、数学の歴史の大きな転換点を示すことが出来る、という視点は非常に面白いと思った。

なかなか難しい記述もあって、ここで書いたことでさえ、僕の理解が正しいのか自信がない部分はあるのだが、面白い作品でした。数学の歴史を【できるだけ整合性のあるまとまりとして一望したい】という著者の目論見は、達成されているのではないかと思う。

加藤文元「物語 数学の歴史 正しさへの挑戦」

科学するブッダ 犀の角たち(佐々木閑)

いやはや、面白い本だった!しかし、普通にしてたらまず手に取らない本だから、もったいないなぁ、という気はする。本書の内容に関心を持つ人は、多くはないだろうけど一定数いると思う。ただ、なかなか本書を外側から見ただけでは、自分が関心を持てる本だ、と理解することは難しいだろう。

本書は、「科学するブッダ」となっているが、「ブッダは科学者だった!」と主張したいトンデモ本ではない。科学の本であり、仏教の本であるのだが、いかに両者に共通項を見出すのか、という本である。

しかし本書の中で著者は、「科学と仏教に共通項を見出すこと」に非常に慎重な立場を取る。

【(似たような多くの主張は)自分が比較したい点だけをひっぱり出してきて並べて見せて、「ほら、科学と仏教にはこんな共通点があるんです。だから科学の本当の意味を知るためには、仏教の神秘や直感を理解する必要があるんです」といった愚論を開陳するはめになるのである。肝心肝要な部分に神秘性を持ってきて、それで科学の意味づけをしようという安易な論法である】

【確かに科学と仏教のひとつひとつの要素を見ていけば、似ている点は見つかる。しかし実際には、その何百倍も何千倍も、似ていない点があるのだから、個々の類似点をもって、両者の相対的類似性を主張することなどできない】

【どんなことでもよいから好きな思想やアイデアをひとつ挙げてみてほしい。それと似たものは必ず仏教の中に見つかる。原子論でも相対性理論でも、心理分析でも量子論でもカオスでもなんでもいい。それらと似たものは必ず仏教の中にもある。しかしそれはあくまで「似たもの」にすぎない。意識的に似たものを探そうと思って探せば見つかるということである。同じ人間が考えることだから、洋の東西を問わず、似たような考えが生まれてくるのは当たり前のことだ。だから、それが見つかるからといって仏教が特別にすぐれているという証拠になるわけではない】

著者はこのように、安易に仏教と科学の共通項を探り出すようなことはしない。本書はまずその点が非常に信頼できる、と感じた。

では、著者は一体どの点に共通項を見出しているのか。

それは「神の視点の排除」である。

ここで言う「神」というのは、「GOD」の意味であることもあるのだが、基本的には違う。本書から抜き出してみよう。

【我々の脳が「世界はこうあるべし。こうあった時、それは最も美しく心地よい」と感じるような視点、それを神の視点と呼んでいる】

そしてその視点が、「科学の人間化」によって破壊されていく、という主張を本書はしているのだ。

「GOD」の意味であることもあるというのは、「世界はこうあるべし」というのが「神が世界を作った」と考えられていた時代が長くあった、ということに起因している。ニュートンなど、歴史に名を残す大科学者であっても、当時の宗教観に即して「神(GOD)」の存在を信じていた。そういう場合「神の視点の排除」というのは文字通りの意味である。しかし、「世界はこうあるべし」という考え方が、「神(GOD)」に由来するものである必要はない。何らかの理論を提唱した者が、無意識の内に前提としてしまうこと、それを本書では「神」と呼んでいる。

例えば本書には、「ピタゴラスの定理」で有名なピタゴラスが出てくる。ピタゴラスというのは、いわゆる宗教団体の教祖のような人だ。じゃあ何を信奉していたかというと「自然数」である。つまり、宇宙の基本原理は「1,2,3…」という自然数である、ということを根本の教義とした宗教である。

彼らは、「人格を持った神」みたいなものを信奉していたわけではないが、「世界はこうあるべし」という考え方を持っていたのであり、それを本書では「神の視点」と呼んでいる。ちなみにピタゴラス教団は、「無理数」という、自然数とは根本的に違う数を発見してしまい、その発見を外部にもらすことを禁じた。しかし、うっかりもらしてしまった信者を集団リンチで殺してしまった、というのだから、恐ろしいものである。

さてここで整理しよう。本書は科学と仏教についての本であり、その共通項を探ろうとしている。しかし、仏教というのは相当に多様な考えを内包するものであり、似たような考え方はいくらでも見つけられる。しかし、そんなことをしても意味がない。じゃあ著者はどこに共通項を見出しているのか。それが「神の視点の排除」だ。ここでいう「神」というのは「GOD」という意味ではなく、「世界はこうあるべし」という視点そのものだ。

とりあえず、本書の要約はこれで大体済んだと言っていい。しかし多くの人が「神の視点の排除」の意味が分からないだろう。科学、そして仏教から「神の視点」がどの用に排除されているのか、ってかそもそも「神の視点」ってなんだよ、と感じるだろう。この感想の中で、それらについて詳細に書くことはしないが、大雑把な流れだけ書いてみようと思う。

まずは科学側の話。ここでは、物理学・生物学・数学の三つが挙げられている。ここでは、最も説明しやすいので、物理学の話だけに焦点を絞ろう。

天体の運動法則「ケプラーの法則」を導き出したケプラーや、革新的な重力理論を打ち立てたニュートンなどは、実は「神」を信じていた。自分たちは、「神」がどのように世界を動かしているのかを理解しようとしているのだ、という考えを持っていた。

【科学というのは、世界のありさまを、あるがままの姿で記述することを目的として生まれたものではない。特にキリスト教世界の中で誕生した近代科学が目指したものは、この世界の裏に潜む、人智を超えた神の御業を解明し、理解することにあった。法則性の改名がそのまま神の存在証明になり得たのである】

「科学」という言葉からは、多くの人は「神」を連想しないだろうが、科学は基本的には「神」の御業を捉えるために生み出されたものだったのだ。

しかしこの状況をアインシュタインがまず変える。ここで、アインシュタインがどう状況を変えたのかを理解するために、ニュートンがどんな主張をしたのかを理解しよう。

ニュートンは、「絶対時間・絶対空間」という概念を導入した。これはつまり、「誰にとっても時間・空間は一つしかない」というものだ。この主張は、割と納得しやすいだろう。人によって時間の流れが違うとか、空間の振る舞いが異なる、というのでは困るからだ。そしてこの視点は、ある意味では「神の視点で世界を見ている」と言える。ニュートンは、それを目指していたのだから当然だ。

しかしアインシュタインは、まったく違う主張をした。それは、「人によって時間の流れ方も、空間の振る舞いも異なる」というものだ。これは僕らの直感に反する主張だが、しかし様々な実験により、ニュートンの主張よりもアインシュタインの主張の方が正しいことが分かっている。

なぜそうなるのかと言えば、「光が有限の速度を持っている」からということになる、具体的なことは書かないが、つまりアインシュタインは、「人間の目で見た世界の物理法則」について記述した、ということになるのだ。「光」というものについて詳細に考えた時、ニュートンの「絶対時間・絶対空間」という考え方は成り立たず、アインシュタインが言うように、「人間一人一人が違う時間・空間を感じて生きている」ということになる。これはつまり、アインシュタインが物理法則から「神」を追い出した、ということになるだろう。

しかし話はこれで終わりではない。アインシュタインは「神の視点から見た物理法則」を否定し、「人間の目で見た世界の物理法則」を打ち立てた。ここで大事なことは、アインシュタインは「人間が観察する」ということを大前提にしている、ということだ。まあ、当たり前と言えば当たり前だ。「人間が観察する」ということを疑う必要などないだろうし、それを疑ってしまったら、なんのこっちゃわからなくなってしまうだろう。

しかし、アインシュタイン自身もその創出に一役買った量子論は、まさにその「人間が観察する」ということに疑問を突きつける。量子論はなんと、「人間が観測していない時、世の中で何が起こっているのか記述することは出来ない」と主張する。これについても詳しいことはここでは触れないが、世界で最も不可思議な実験の一つだろう「二重スリット実験」の結果を踏まえれば、「観測するという行為」についてのあやふやさを実感することが出来るだろう。

つまり物理学では、「超越した力を持つ神が世界を動かしている」というニュートンの世界観をアインシュタインが打ち砕き、また「観測しようがしまいが現象は存在している」というアインシュタインの世界観を量子論が打ち砕く、という流れである。この流れこそが「科学の人間化」であり、「神の視点の排除」なのだ。

また、このように物理学を捉えると、物理学がこんなどう進歩するのかという方向性も予見できる。量子論にまだ「神の視点」が残っているとすれば、「人間が唯一の観測主体である」という視点である。つまり、人間以外が世界を認識する場合どうあるべきなのか、についての物理理論はまだ生まれうるのではないか、と著者は書く。なるほど、確かにそういう方向性はあり得るか、と思う。

生物学・数学についてはここでは省略するが、それらについても、パラダイムシフト(本書ではこれを、「頭の中の直覚と、現実から得られる情報とのせめぎ合いにおいて、直覚が負けて情報が勝つ現象」と定義する)を起こしたものが、いかにして「神の視点の排除」を行ってきたのかが記述される。

さて、一方の仏教についてである。仏教の「神の視点」について触れる前に、一点非常に重要な点に触れなければならない。

それは、本書で扱われている「仏教」というのは、僕らが知っている「仏教」ではない、ということだ。

日本人が一般的に知っている「仏教」というのは、色んな宗派はあるが、それらはすべて「大乗仏教」としてまとめられる。しかし本書で科学との類似性が語られるのは「大乗仏教」ではなく、釈尊が古代インドにおいて最初に創始した仏教である。本書では、何故「大乗仏教」という多様な仏教が生まれたのかについての考察もあり、非常に面白いが、まずは科学との類似点について、その成立過程を踏まえながら書いていこう。

ざっくり言うと仏教というのは、古代インドのヴァルナ制度に対抗する形で生まれた。ヴァルナ制度というのは、バラモンを最高の地位とするものであり、さらにバラモンというのは生まれによって決定されるものだった。どれだけ富や権力を持とうが、バラモンの家系に生まれなければ最上位の階級にいられない、という事実が、バラモンの一つ下のクシャトリアという階級の人たちの不満を募らせ、ついに、「自分の努力によって幸福を獲得するために修行をする」という考えが生まれた。そして、この流れの中で修行をした釈尊が悟り、仏教が生まれたのだ。

このような成立過程があるからこそ、仏教の重要な要素として「超越者の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明する」というものがある。仏教の世界(釈尊が興した仏教の世界)には、世界を操ったり動かしたり出来る「超越者(神)」は存在しない。釈尊(ブッダ)は、「世の中はこういう原理で動いている(ただし仏教は、外界世界ではなく精神世界についての考え方だ)という法則を理解した人」であり、「超越者」ではない。世の中の法則を理解したからと言って、世の中を操れるわけでもない。そういう世界の中で、自らの努力によって切り拓いていこうとするのが仏教であるのだ。

そして「超越者(神)」の存在を最初から仮定しない仏教というのは、人間化によって「堕落(人間の直覚が裏切られること)」していく科学と非常に親和性が高いのだ。本書には、

【仏教と科学の違いは、仏教とキリスト教の違いよりも小さい】

とも書かれている。

【科学は、キリスト教社会の中で神と共に生まれ、育ってきたが、次第にその影響を脱して人間化してきた。神の視点を放棄しつつ、人間独自の視点に基づく法則世界を構築しつつあるということである。したがって、それは仏教的な世界観の方へと次第に近づいてきているということになる】

これが本書のメインの主張である。科学の変遷の歴史は、科学の仏教への漸近の歴史でもある、ということだ。

本書の指摘は、非常に面白いと感じた。もちろん、科学と仏教の共通項も面白いのだけど、それ以上に、科学を「神の視点の排除」と捉えることで、今後の科学の進展の方向性を予測出来るかもしれない、という点が非常に面白いと思った。

【方向性が見えない場合と見える場合とで、その価値はまったく違う。方向性を示すことなくただ「変わる」と主張するだけなら、それは単なる状況説明である。過去の経過を後追いして説明しているにすぎない。それに対して、科学の変化の方向性を示すことができれば、それを延長して将来の変化が予想できる。そして現在の科学が今後どのような方向へ進むのかを、どんなにおおかまでもよいから、予想することができるなら、科学者は最初からその方向に向かって視点を設定することができる。つまり次のパラダイムシフトを起こすことのできる可能性が飛躍的に高まるということである】

本書は、外側から見ているだけだと何の本なのかよく分からないが、「科学の方向を予想する」という一つの視点として非常に面白いと思うし、そしてその方向が自然と仏教に接続していくのだ、という捉え方も非常に面白いと思う。

佐々木閑「科学するブッダ 犀の角たち」

一億総ツッコミ時代(マキタスポーツ)

昔何かで、あるチェスのプロの人の話を読んだことがあります。その人は、日本の将棋で言う羽生善治ぐらい強い人、というようなイメージをしてもらえたらいいんですけど、誰かと対局する時は、絶対にハンデなしではやらなかったそうです。例えば僕が、羽生善治と対局するとして、そりゃああまりにも実力差があるのでハンデをつけてもらうでしょうが、しかし僕が「ハンデなしでやらせてもらえませんか?」と言えば、羽生さんがNoと言うことはないんじゃないかと思います。ハンデというのは、普通に考えれば、実力差がある場合の弱い側の人のために設けられるものなはずで、その弱い側の人間が「ハンデなんか要らない」というのであれば、別にOKされるでしょう。でもそのチェスプロは、そういう状況でさえ、ハンデなしという条件では対局をしなかったそうです。

何故か。

そのチェスプロは、万が一にも負けてしまった場合、言い訳をする余地がほしかったからだ、と書いてありました。つまり、仮にもし負けたとしても、「ハンデがある状態で対局をしたんだから、実力で負けたわけではない」と言い張れる。つまりこの場合ハンデは、弱い側の人のためのものではなく、強い側の人のためのものだというわけです。

本書を読んで、このチェスのエピソードを思い浮かべました。

【先に攻撃することによって自分に降りかからないように防御しているという心持ちが、端から見ていて気持ちが悪いのです】

【今の日本は、みんながみんな自意識過剰です。
自分のポジショニングを確認していないと不安でしょうがないという人が多いのです。そのうえで「自分はツッコミの立場に立っている」と確認していたい。自分の振る舞いや、周りからどう見られているかを常に気にしている。常に自分自身の振る舞いを厳重に監視しているわけです】

【自分はツッコまれないように、つまりボケをやらないように気をつけながら、ツッコミを入れるわけです。ツッコミだけを入れていれば、安全な場所から他人を攻撃できます。そのことで自分の価値を高めようと考えている。】

本書では、随所にこのような指摘が並びます。先のチェスのエピソードでは、「相手にハンデを与えること」が自分を優位に置く手段だったわけですが、現代では「ツッコむ」ということが、自分を優位に置く手段になっています。そしてツッコミが勢力を拡大してしまった現代を、著者は「一億総ツッコミ時代」と名付けているのです。

まずこの問題意識が、非常に分かるなぁ、という感じがします。僕は、そういう世の中の風潮からどうやったら抜け出せるかを自分なりにかなり考えて行動してきたので、本書に書かれていることには非常に共感が持てます。ツッコミというのは結局、「軸を提示することで考え方を矮小化すること」と言えるでしょう。著者は「額縁を当てる」という表現をしています。要するに、何らかのパッケージに収めることで、目の前の状況を笑いに変えるわけです。

分かりやすいのが「噛む」でしょう。「今噛んだでしょ」とツッコむことは、「噛むことは悪いことだ」という額縁の中に、その人の言動を押し込めることです。それは確かに、笑いを生むかもしれませんが、しかしそういう振る舞いが当たり前になってくると、息苦しくなってきます。

【もちろん私はこうした状況は息苦しいと感じています。みんなが横一線に並んで、はみ出したらすぐに叩かれる。そんな状況は気持ち悪いし、第一「つまらない」】

【ちょっとした失敗は見過ごそう、もう一度やり直そう。そんな空気感はそこにはありません。これはたいへん息苦しい。そんな息苦しさが、バラエティ番組の枠を超え、今や日本の社会全体に蔓延してしまっています】

【笑いに変えるための手法であった「ツッコミ」は人を簡単に非難するツールとなりました。多くの人は他人にツッコまれることを恐れて、なるべく下手な動きをしないようになり、同調する側にまわるようになったのです。
もともと人と違うことをするのが苦手な日本人がますます萎縮するようになったのは、この「ツッコミ」という攻撃によるものと言えるでしょう。】

そうだよなぁ、と思います。こういう振る舞いは、世の中の色んなところで目に付きます。本書で「不謹慎ゾンビ」と名付けられている、「何かあった時に、不謹慎なんじゃないか?と先回りして非難する人」の存在などが挙げられていますが、まさにそういうような振る舞いです。当事者が「不謹慎だ!」と主張するのは理解できますが、まったく当事者でもないような人が「それは不謹慎だ!」と声高に主張するような場面を見ると、何を言っているんだろう…と思ったりします。もちろん、身近で、あるいは社会全体で起こった出来事に対して自分なりの考えを持つことは大事です。ただそれが、「好き/嫌い」ではなく「良い/悪い」で語られてしまう違和感を僕も抱いています。

【多くの人は、何かを「好き」あるいは「嫌い」と表明しているようで、あまりしていません。「嫌い」とは言わずに「ダメ」と言う。「良い/悪い」や「アリ/ナシ」もそう。最近では「これはひどい」なんていう便利な言い方もあります】

【私も「好き/嫌い」をはっきり言ったほうがいいんじゃない? と周りの人には言います。「良い/悪い」のようなメタ的な視点はもう効力がないと思うからです。そういう客観的な見方があってもいいのですが、遠くには響かない。それは誰が発言してもいい内容だからです。一方で「神」的視点で物事を見るという傲慢な感覚だけは当事者に残ります。
好き嫌いを表明しましょう。その代わり、なぜ自分がそれを「好き」なのかをよく考えてみることです。逆に「嫌い」なものは、なぜ自分が「嫌い」なのか立ち止まって考えてみるのです。それがポスト現代的な思考の表明の仕方(マナー)だと思うのです。超越的な「アリ/ナシ」はもう古い。】

僕もなるべく意識的に「好き/嫌い」で物事を捉えるようにしています。もちろん、「良い/悪い」で捉えることもあります。それは、僕が「本を売る」という仕事をしているからでもあります。自分にとって「好き/嫌い」な本でも、別の誰かにとっては「悪い/良い」かもしれない。だから、本を読む時は、「好き/嫌い」と「良い/悪い」の両方の視点を持つようにしています。ただ、本以外のものであれば、「売る」という行為が発生しないので、「好き/嫌い」で捉えます。最近僕は、意識的に美術館に行くようにしています。でもやっぱり、基本的な美術の教養がない僕には、何が良いんだかよく分からないものが多いんですね。だからそういうものは「嫌い(というか「好きじゃない」)」という感覚で捉えておく。一方で、そういう中に時々、「なんでか分かんないけど、これメッチャ好き!」というものがあったりします。もちろん、どうして好きなのか、考えるんですけど、よく分かりません。よく分からないながらも、「これメッチャ好きだな」という感覚で物事を捉えておくことにしています。

みんなが「良い/悪い」と言っているものを「なるほど、これが良い/悪いんだなぁ」と思ったり、あるいは、その世界の常識に照らし合わせて「これはこれこれこういう理由で良い/悪いんだ」と言っているようなものをそのまま受け取るのは、面白くないなと思います。それより、世間の人がどう判断しようが、「これメッチャ好きだな!」という感覚の方が大事なはずです。でも今の時代は、何かを「好き/嫌い」と発言すると、「そんなのを好きとか言ってるなんて、なんにも知らないんだな」とか、「それを嫌いとか言ってるやつはセンスがない」とか言ってツッコまれてしまいます。僕からすれば、そんなツッコミはどうでもよくて、「自分が好きだって思ったんだから別にいいじゃん」と感じますけど、世の中の多くの人はツッコまれたくない、傷つきたくないと考えていて、それ故に、「自分はツッコミ側にいるんで」という立場を表明しつつ、ツッコまれるかもしれない言動はしない、という振る舞いをすることになります。

そのなんとつまらないことか。

例えば飲み会とかで、「その場にいないのに話題になる人」というのが必ずいるんじゃないかと思います。話をしてると、何故かその人の話が出てくる。そういう人ってやっぱり、魅力的だったりしますよね。で、大体の場合そういう人は、ツッコミ側ではないんじゃないかと思います。誰かのことについてツッコんでばかりの人が、その人がいない場で話題になることはほとんどないんじゃないかと思います(あるとしたらそれは悪口・陰口の類でしょう)。そうではなくて、その場にいないのに話題の中心になってしまう人というのは、どこかに「ツッコまれやすさ」みたいなものがあるのだろうし、そのことによって話題の中心になったりします。

本書ではそれを「ツッコまれしろがある」と表現します。「伸びしろ」などと同じ「しろ」です。

【今、求められているのはツッコまれる人、「ツッコまれ“しろ”」がある人だと思います。ツッコまれる遊びの部分を備えている人、ということです】

僕自身の話で言えば、僕はなるべく「知らない人でいる」ということを心がけています。なるべく、世間の話題を知らないようにしているのです。テレビのニュースとか、あるいはちょろっとヤフーニュースを見たりするぐらいのことはしますが、それ以上に積極的にネットなどで情報収集はしない。なるべく「みんなが知っていることは知らないようにする」というスタンスでいるようにしています。

こういうスタンスでいると、「そんなことも知らないのかよ」という「ツッコまれしろ」が生まれます。で、この何がいいのかと言えば、こういう「ツッコまれしろ」を持つことで、その場の会話が駆動するのです。僕がある集団の中で「知らない人」でいることで、みんながその話題について教えてくれる。それが、場の会話の繋ぎになったりするわけです。

こういう意識を持つようになったのは、ツイッターをよく使っていた頃、ツイッターで仲良くなった人と飲みに行く機会が増えたことによってです。ツイッターで知り合った人というのは、普段からお互いのツイートを見ている関係なので、お互いの近況なり、何かに対する考え方なりはなんとなく知っている。だからこそ会話が深まる、ということもあるだろうけど、僕はそういう場で「うわっ、喋ることないな」と思ってしまったのです。何かについて喋ろうとしても、「あれ?この話ってもうツイッターで書いたっけ?」と思っちゃったり、誰かが話している時に「あぁそれツイートしてたねぇ」みたいな反応が出てくると、「そう言われちゃうとそれ以上話しにくくなるだろうなぁ」と思ったりしていました。

そういう中で、「こいつは何も知らないよな」という人間が一人でもいると、そいつに話をする、という体で会話が回っていく、というようなことに気付いて、僕は意識的にそういうポジションにハマるようにしました。これは、本書で言うところの「ボケ志向」と言っていいでしょう。こんな経験をすることで僕は、「ツッコまれしろ」をちゃんと持ち、それがあることをちゃんと伝わるように振る舞うことが、僕自身の利益にも、全体の利益にもなるなぁ、と学べるようになりました。僕自身の利益というのは、自分で情報を取りに行かなくても誰かが教えてくれるようになるとか、こいつがいれば話が回りやすくなるかもなと思ってもらえることで声が掛かりやすくなるとか、そういうことです。

本書の主張通り、世の中にツッコミの人が激増しているのであれば、ボケ志向の振る舞いをすることには一定以上の需要があると言えるでしょう。また、ツッコまれないように防御しているのではなくて、ツッコまれてもいいから自分の思う通りに振る舞っている人間というのは、魅力的に映るものです。

【「夢中」という状態は、非常に強いものだと改めて感じています。何かを夢中で好きになっている人は、すごくロマンチックです】

また、自分のダメさを理解し、それを隠さずに表に出せる人も魅力的でしょう。本書では出川哲朗が例に挙げられていますけど、あそこまでの存在になるのは難しいとしても、ダメな部分を出しても受け入れられるのだ、ということが理解できる実例ではあるでしょう。

他にも本書には色々書かれていて、なかなか面白いのですけど、本書を読んで、なるほどその発想はなかったな、と感じたのが「ベタなことをちゃんとやろうじゃないか」という主張です。

【情報化社会の中で、いつしか刺激のないようなものとして処理されてきたのが「ベタ」です。しかし、それは一般的に流通している「言葉のイメージ」としてたんに形骸化しているだけなのです。
これらを自分に関係のないものとして遠ざけるのではなく、身近なものとして引き寄せて感じてみる。実際に富士山を見れば心を奪われてしまうように、もう一度「ベタ」の意味を問い直してみることも必要なのです。そんなに簡単なことではないかもしれませんが、私はそうした「ベタ」を受け入れていくことをオススメします】

「それってベタだな」というのも、ある種類型化されたツッコミで、そういうツッコミが類型化すればするほど、「ベタ」なことをやりにくくなる、やればツッコまれる、というような風潮はあるでしょう。ただいくら「ベタ」だと思われていることであっても、それが初めてやることであればなんでも新鮮に感じるものだし、「ベタ」と言われるぐらいみんなが当たり前にやっていることには、魅力や有用性がある、とも確かに言えます。僕は「ベタ」を回避してしまう(そこまでいかなくても、優先順位を下げてしまう)傾向があるので、ちょっとその意識は薄れさせようと思いました。

【「あいつ、サムいな」
「そこはツッコまないと」
「あ、今、スベりました?」
「ハードル上げないでくださいよ」】

こんなことを日常的に言ってしまう人、あるいは、自分では言わないまでもこういう表現に違和感を感じずにいる人は、読んでみた方がいいかもしれません。今感じている生きづらさは、あなたの「ツッコミ志向」がもたらしているものかもしれません。

マキタスポーツ「一億総ツッコミ時代」

ぼくたちに、もうモノは必要ない(佐々木典士)

本書で書かれていることが、僕にあまり響かなかったのには理由がある。
それは、本書に書かれていることが、元から僕が考えていることと同じだからだ。

僕は決して、ミニマリストではない。
確かに、他の人よりも無駄なものは買わないだろうけど、別に部屋にモノが少ないわけでもないし、捨てられないなぁと思うものもある。
ただ、本書で書かれている思考の方向性は、だいぶ近いものがあるなぁ、と感じる。

本書には、こんな文章がある。

【最初からモノに執着がない人や、モノのカオスの中から宝物を見つけられる天才はいる。だけど、ぼくが考えたいのは、「普通」の人が、もっと「普通」の幸せを感じられるような在り方だ】

なるほど、そうなのかなぁ、という気はする。まあ確かに、モノがほしいという人は多い気がするし、年配の人だと余計に、捨てられないという感覚を持っている人が多いのかなぁ、とは思う。

とにかく、本書を紹介する上で、僕が最も伝えたいことは、以下の点だ。

【モノを少なくすることは「目的」ではない。ミニマリズムはそれぞれが違う大事なものを見つけるための「手段」】

本書の著者はこれを、「捨てること自体が目的になっちゃダメだよ、何かちゃんとした目的を持って捨てようね」という意味で書いているのだけど、僕はこの文章をさらに強めに解釈したい。つまり、「捨てることで本書に書いてあるような変化が起こるけど、捨てなくても起こせるよ」ということだ。

僕が本書をあまりすんなり受け入れられなかったのは、「本書のような変化」は、本当に「捨てる」という行為を伴わなければ実現されないのか、という部分に疑問があるからだ。確かに、「モノを持つ」ということの呪縛はかなり大きなものだろう。だから、その呪縛から逃れるためには、逆に振るためのショック療法的なことをしなければならないかもしれない。ただそもそもが、「モノを捨てる」という行動も、なかなか実行に抵抗のあることだろう。だから、「モノを持つ」ことの呪縛を振り払うために「モノを捨てる」という行動をする、という提案は、結局同程度の困難さを乗り越える必要があるんじゃないかなぁ、と思ってしまったからだ。

そして、「モノを捨てる」という大きな決断ができる人であれば、「モノを捨てる」という行為を伴わなくても、「本書のような変化」は起こせるんじゃないかなぁ、と思ってしまった。

もちろん、本書の記述に共感する人が多いのであれば、僕としてはなんの問題もない。僕が抱いている感覚は、単なるおせっかいというか、「勝手に自分以外の人のことを心配している」ということなので、その心配が的外れなのであればそれはそれで全然いい。

本書ではまず、「モノを持つ」ことによってどういうマイナスが引き起こされているのかが書かれている。要するにそれは「無駄なエネルギーを使うよ」ということだ。それはその通りだと思う。モノがあることが当たり前すぎて実感するのはなかなか難しいだろうけど、モノがたくさんあることで、時間やパワーを無駄に浪費させられる。

じゃあ何故モノを持ってしまうのかと言えば、それは「モノによって自分の価値を伝えられる」と思っているからだ。内面の良さを伝えることは難しいが、それをモノに託せば目に見えるようになる。群れで生きる人間には「孤独アプリ」がプリインストールされており、だからこそ自分の価値を伝えたい、という欲求が当然のようにある。だからモノが増えてしまうのだ、という。

また一方で、人間は「差」を捉える生き物である。良い感情も悪い感情も、物事の変化を捉えることで感じられる。人間は「差」を感じられないとすぐに慣れてしまう生き物なので、どれほど良いモノを手に入れても、それにすぐ慣れて、より良いモノが欲しくなってしまう。人間は未来を、現在をベースにしてしか考えられない。今テンションが上がれば、1年後もその感情が続くと考えてしまうが、実際はそうならない。そういう人間の機能的にも、人間はモノを持ちすぎてしまうのだ。

そういう話をした上で、じゃあどうやったら捨てられるのかという55のアドバイスについて触れている。著者は、もともとメチャクチャモノを持っていた人で、だから、今現在モノを持ちすぎている人向けに書いてあるので、「さすがにそれは書かかなくても別にいいんじゃない?」的な、そりゃあそうでしょう、みたいなことも書いてあるのだけど、なるほどと思うものも結構あった。「捨てて後悔するモノはない」「まず収納を捨てろ」「もらったモノは捨てられないかもだけど、自分が誰かにあげたモノって覚えてる?」など、確かに言われてみるとなるほどなぁ、と思うようなアドバイスがあって、結構実践的に使えるかなとも思う。

【ミニマリズムのひとつの帰結は、「あなたに足りないモノなんかない!」ということだ。】

この感覚は、なるほどと思う。美輪明宏の言葉に、「足りないものを数えるのではなく、持っているものを数えなさい」的なものがあるが、確かに強制的にそういう状況に身を置くというのはいいと思う。

あと、面白いなと思ったのが、著者のこの感覚だ。近藤麻理恵の掃除術である「ときめかないものを捨てる」という話に絡めて、

【十字架は捨てたときも心がときめくモノだった。だけど本当に手放してよかった。これ以降、旅行に行ったとき、お土産探しに時間を取られることはなくなった。ついつい欲しくなるお土産も、スナフキンを見習って「見るだけ」にする。するとより旅自体に集中できるようになった】

と書いている。なるほど、理屈として凄く分かるし、こういう「変化」をちゃんと捉えることが出来ているというのは、やはり大事だなぁ、と思う。やはり大事なのは、「モノを捨てる」ことは「手段」だと認識することであり、捨てることでどんな変化がもたらされたのかを、言語化できるレベルで捉えることだな、と思う。

そういう意識で捨てるのであれば、捨てることは非常に有効かもしれないと思う。

佐々木典士「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」

ホンダジェット 開発リーダーが語る30年の全軌跡(前間孝則)

【航空先進国の欧米の研究者、技術者といえども、この三賞を合わせて同時に受賞した人物はいない。ホンダジェットの設計責任者であり開発リーダーでもある藤野が、これらの栄誉ある賞をすべて受賞したことは、間違いなく世界が彼の功績を認知して高く評価したことを意味している】

今ではホンダジェットは、これほど高い評価を得ている。バイクからスタートし、自動車メーカーとして世界にその名を知られるホンダは、まったく畑違いの航空機業界に新規参入を果たし、GE(ゼネラルエレクトリック)と提携することでアメリカでの厳しい認可の取り付けや、整備・アフターサービスの充実などを行い、販売初日に100機売れるという前代未聞の光景を生み出した。藤野が生み出した「主翼の上にエンジンを置く」というスタイルは、後に【航空機の歴史における革新的な案】と絶大な評価をされたが、しかしその設計は非常にシビアであり、

【実際のホンダジェットの機体でいえば、主翼上のエンジンの位置が、それこそわずか数十センチさらには数センチ異なるだけで、干渉抵抗がまったく違ってきます。本当に細かいところまで最適な位置を探さないと抵抗が下がらない】

というような代物だったのだ。また、試作機を完成させた時点で、藤野は提出できる論文を完成させていたが、NASAの友人にこんな風に言われて思いとどまったのだ。

【出すのはやめたほうがいい。NASAですら、いろいろな研究をしてきて、こういうこと(エンジンを主翼に対して最適な位置に配置することで、高速時の造波抵抗を減少させるという理論)をまだわかっていないのだから、発表した後に、『こんなのダメだ』と酷評されたら、お前の航空機設計者としての生命は終わりだぞ。もちろん、ホンダジェットの未来も無くなる可能性がある】

1986年、入社3年目の藤野が突然「航空機をやれ」と言われて、社内でも極秘裏に開発がスタートした小型ジェットは、2003年に初飛行を成功させた。開発時は、【そもそもチームの誰ひとりとして実際に航空機を設計したこともつくったこともない】という状態だったが、そこから「技術のホンダ」の名に恥じぬよう、全力で開発が続けられたのだった。ちなみに、

【世界を見渡してみても、機体とジェットエンジンの両方をすべて丸ごと自前で開発・生産している主要なメーカーは見当たらない】

という状況だそうで、そんな中、新規参入でありながら、機体もジェットエンジンも自前で開発したホンダの凄さが実感できるだろう。

しかし、試作機を完成させるまでももの凄く大変だったが、実はそこからの方が大変だったのだ。最初僕は、初飛行を成功させた後の藤野の言葉が理解できなかった。

【やっと初飛行に成功したとの安堵感と動じに、これでもってホンダにおける小型機の開発プロジェクトが終わりになるのでは、との思いが頭をもたげてきて、先行きに対する不安を覚えました】

どういうことか理解できるだろうか?そこには、航空機業界の特殊な事情が絡んでくる。

航空機というのは、売っておしまいではない。整備したりアフターサービスをしなければならない。また、試作機を作るだけならいいが、量産するとなれば工場も作らなければならない。また小型ジェットの売れ行きというのは景気変動に左右されやすいし、そもそも車と比べたら圧倒的に出荷台数が少ないので、景気のちょっとした変化で売上に大きな影響が出る。

【たとえ実験機(試作機)づくりに巨額の資金がかかったとしても、そこで止めれば、それまでの出費で終わらせることができる。ところが事業化して量産・販売するとなると、そうはいかない】

そう、試作機を作ることと、事業化することには、雲泥の差があるのだ。

【会社の首脳陣すら決めかねていたが、むしろ、開発プロジェクトの中止に大きく傾いていた】

本書には、こういう表現が何度も登場する。まあ、無理もない。例えば本書の最初の方に、こんな文章がある。

【やはり1970年台、世界三大ジェットエンジンメーカーの一つ、英ロールス・ロイス社も、大型エンジンの開発が低迷して事実上倒産し、国有化されて再建を図った。
世界的な名門の巨大企業が、一つの航空機やジェットエンジンの開発あるいはビジネスに失敗したことで倒産してしまう。なにしろ、数年前に市場投入された新型機のボーイング787は開発費だけで1兆8000億円にも達しているのである。量産を前提とする工業製品において、このようにリスクが高くて巨額の開発費を要するものはほかには見当たらない。】

しかも飛行機は、他のどんな乗り物以上に、シビアに命を預かるものだ。

【アメリカで売り出したはいいが、もし事故などを起こして人名が失われたりすると、圧倒的な売上を占めるオートバイや自動車の信用を傷つけ、販売にダメージを与えて大きなマイナスになるのではないか。やはり試作機の段階に止めるべきではないか】

こういう反応は、社員の生活を預かる経営者としては当然のものだろう。初飛行のさい、スポークスマンはマスコミ各社に、

【これは実験機であり、ビジネスプランは持っていない。あくまで技術を確認するための初飛行であり、今後も飛行試験を続けていきます】

とあえて釘をさすように言ったという。

この辺りの経営判断で、藤野は相当揺れた。

【先が見えないまま、新たなコンセプトに基づく具体的なプランをまとめ上げるまでの一年半ほどは、今までの大変さとは違う、これまでで最も辛い時期でした。サポートも得られず、いっそのこと、会社を辞めてしまおうかと迷ったこともあります。いろんなことを考え悩みました】

初飛行を完成させると、プロジェクトは縮小され、藤野は実験データを粛々と取り続けるような日々を過ごしていた。事業化の話は進展せず、プロジェクトのメンバーの多くも異動になった。他から引き抜きの話もあり、揺れたという。しかし、チャンスを見つけてはアピールを続け、ついに社長のOKを取り、事業化へと舵を切ることになったのだ。

さてそれでは、何故このような、どう考えても無謀とも思えるチャレンジが行えたのか。この無謀さについては、

【『このようなやり方が許容される会社など、世界を見渡しても、ホンダをおいてほかにはないだろう』とGEからも散々いわれました】

と藤野自身が語っていることからも理解できるだろう。

まずは、ホンダには、本田宗一郎のスピリットが今も息づいているということが大きい。

【1962年6月、本田宗一郎は航空機の開発・生産に乗り出そうとしていることを全従業員に伝えた。
「いよいよ私どもの会社でも軽飛行機を開発しようと思っていますが、この飛行機はだれにも乗れる優しい操縦で、値段が安い飛行機でございます」(「社内報」)】

本田宗一郎はずっと、航空機をやりたいという想いを持っていたのだ。

【ホンダジェットがここまでやってこられて、事業化することができたのは、創業者である本田宗一郎さんの夢が、会社の底流となっていたからでしょう】

しかしそれはなかなか難しいことだった。ホンダのオートバイや自動車が全盛期を迎えたこともあり、航空機の開発に手が回らなかったということもあるが、当時の日本の状況も関係している。

【1973年に起こった石油危機によって、原材料、機材が高騰し、加えて、航空機の高度化、巨大化によってその開発費は一挙に膨らんだ。YS-11などの数十倍にもなる1000億円規模となっていて、政府の乏しい予算や、民間大手の航空機メーカーが拠出できる資金を合計したとしても、とても賄える額ではなくなっていた。たとえ、資金が確保できたとしても、航空機メーカーは、巨大なリスクを冒してまで開発に取り組もうとする起業家精神を持ち合わせてはいなかった。また、通産省も大蔵省(現・財務省)もメーカーとともに、失敗した“YS-11”のトラウマを引きずっていて、足並みも揃わなかったのである】

藤野が就職を考えていた頃はまさにそういう状況であり、彼は、

【たとえ日本の大手航空機メーカーに入ったとしても、米軍機のライセンス生産とか、ボーイングとの共同開発に甘んじるような仕事ばかりでは魅力が感じられない。ダイナミックな仕事はできないのではないか。そう考えて迷わず自動車会社に入ったのです】

と語っている。

しかしやはり、本田宗一郎のスピリットは息づいていた。藤野が首脳陣に、販売用の小型ジェットを作るべきとプレゼンした際、こんな想いを抱いていた。

【歴代トップの誰もが『ホンダはパーソナルモビリティーのカンパニーである』と口にされてきました。だから、『本田自動車』とはいわないで、『本田技研工業』といってきたのだと思います。われわれ社員もまた、ホンダは自動車会社というよりは広くパーソナルモビリティーを追求する会社だと思っています】

また、「技術のホンダ」と言われるこの会社には、【研究開発に対して金をちびったらいかん】というスタンスもあって、研究開発には力を入れていたのだ。

さらに、社長のスタンスも大きい。基本的に技術者出身の社長が多く、

【六代目社長に就任した福井威夫は、引き継いだホンダジェットの開発をさらに推し進めるのだが、やがて、事業化するか否かの重い決断を迫られることになる。彼もまた、無類のレース好きであった。このような資質の持ち主が歴代の社長を務めなければ、大きなリスクを伴うホンダジェットの開発から事業化に至るまでの迷いと逡巡の20年間は、耐えられなかったであろう】

と著者は指摘している。

そういう環境要因ももちろん相当大きいのだけど、やはり、藤野というリーダーの資質が何よりも大きな要素だ。

【あえて未知なる技術を幾つも盛り込んだホンダジェットの狙いや意味、技術的な価値、小型ビジネスジェット機業界における位置付けなどを、直属の上司だけでなく、同僚にもなかなか理解してもらえない日々が続きました。ですから、経営会議の後の一年半から二年にわたり、チームの中では議論百出で大揉めでした】

藤野のコンセプトはなかなかすんなり受け入れられず、相当苦労したという。しかし藤野は、

【他のメーカーがつくったものと同じようなものを、これから新規参入しようとするホンダがつくって、何か意味があるのか?】

と問うて、自分たちが進むべき道を明確に示した。

その一方で、無茶を通すためのバックボーンはちゃんと持っていた。藤野がまだリーダーとなる前、別の人物がリーダーだったが、彼はかなり無茶を言う人物だった。無茶を言われること自体はいいのだが、その指示が「理論的に不可能だ」ということも多かった。藤野はもともと大学で航空機について学んでいたが、さらにそこから猛勉強して理論を習得し、リーダーに対して「それは理論的に不可能です」と反論し、そういう反発の末にリーダーを任されるようになったという経緯もある。

また、

【「人の役に立ち、使ってもらうものを開発する」というかねてからの希望に手応えを感じられないからだ。「航空機をやるというのなら、絶対に売るところまでもっていくべきだし、やり抜くべきだ」というのが、このときに抱いた彼の決意だった】

というように、藤野は最初から、事業化を目指して開発していた。だからこそ、技術的にチャレンジすべき部分もあるが、事業化のために技術を優先しないという選択もする。こういうバランスは見事だ。

技術的なチャレンジ、という意味では、やはり主翼の上にエンジンを載せるという部分が凄い。

【ピッチングモーメントは空気中の剥離が影響するのですが、翼あるいは飛行機を設計する人の考え方は、空気流の剥離をできるだけ起こさせないというのが基本でした。しかし、深く考えてみると、剥離を起こさせないということが、果たして第一条件なのかどうか。もちろん剥離は最小限であるのが望ましいですが、剥離が起こっても実際の機体にペナルティーがほとんどなければ、逆に剥離をうまく使ってピッチングモーメントを軽減できるのではないかという点に着目したのです】

【今度は空力干渉を最小限にするというより、むしろ、この空力干渉を使って抵抗をさらにマイナスに(低減)できることがわかってきました】

技術的な詳細はともかく、これらの発言は共に、既存の航空機の常識に歯向かうものだ。藤野は何故そのような発想に至ることが出来たのか。

そこにはもちろん、藤野自身のずば抜けた才能とセンスもあるのだが、航空機業界に関するこんな状況も関係している。

【実はこれらの機体の基本設計思想は、60,70年代の延長線上にあって、基本的な形や全体のコンフィギュレーション(構成)も、十年、いや五十年一日のごとく相変わらず、胴体の脇にエンジンが付いている形態です。決して性能が抜群にいいとか、革新的な技術を使っているというわけでもないのです】

【自分が一番難しいと思ったのは、確かに、これらの専門的な勉強に10年、20年かかり、それだけでも大変なことではあるのだが、その専門分野を長く勉強していると、いつのまにか勉強すること自体が仕事になってしまう。新しい発想というよりも、今までに読んで学んだ論文や理論に従って、この設計はおかしいとか、学んだ知識を他の人に教えることが仕事になってしまうというか。たとえば、評論家のように、これはすでにNASAで試験がなされていて、こういう結果が出ているからダメだとかなって、飛行機とはこういうものだ、という固定観念にとらわれてしまう。それは怖いことです】

飛行機というのは、とにかくまず「飛ぶ」ことが大前提であり、さらに「安全に飛ぶ」ことが前提だ。このためには、とにかく様々な制約などがあり、例えば【機体の形状の99%はすべて機能で決まってしまう】というぐらい厳しい。しかし一方で、そういう制約があることを学んでしまうことで、新しい発想にたどり着けなくなる。だからこそ、飛行機の設計は、古い思想がずっと残ったままになってしまう、ということなのだ。

だから、ホンダのように、未経験の新規参入企業が、【技術で勝負する】という正面突破の正攻法で闘える余地があるのだ。

他にも、リーダーとしての藤野の凄さは様々に描かれているので、是非読んでみてほし。

本書を読んで強く感じたことは、「圧倒的な技術」そのものが一つの「物語」であり、それが人の心を強く打つということだ。様々な要因が絶妙に絡み合って、奇跡のように生み出されたホンダジェットの開発物語は、「何かを生み出す」という点において最も重要なことを教えてくれるものだし、また、純粋にロマンや夢と言ったものを実感させてくれるものでもある。モノづくりでまだまだこんな革新的なことができるのかと思わされる一冊だった。

前間孝則「ホンダジェット 開発リーダーが語る30年の全軌跡」

もう二度と食べることのない果実の味を(雛倉さりえ)

それが物語である時、SEXに必然性があるべきだ、と感じてしまうのは、一体なぜだろう?別に現実では、常に必然性のあるSEXをしているわけでもないのに。常に、なぜしているのかを説明できるわけもないのに。

僕自身もやはり、物語に対してはそう感じてしまう。SEXには必然性があってほしいなぁ、と。もしかしたら、くだらない行為だと思っている(あるいは思いたい)という気持ちの裏返しだろうか。くだらない行為なんだから、物語の中に入れるんだったら、それなりの理由をまとえよ、と。

初め、彼らのSEXには、うまく必然性を感じることが出来なかった。いや、しばらく経っても、僕にはそれがうまく掴めないでいた。だから正直、なんだろうなこれは、と思いながら読んでいる部分があった。このSEXは、一体なんなんだ、と。

中盤ぐらいで、その背景が明かされ始める。ただ、それまでに積もっていた「このSEXは、一体なんなんだ?」という違和感の方が、結局最後まで勝ってしまった感じがする。その理由は後で書くが、たぶん本書は、もう少し長い物語であるべきだったんじゃないかな、と僕は思う。もちろん著者の持ち味が、目の前の情景を美しく切り取ったものを丁寧に積み重ねていくことだというのは分かっているし、そのやり方は恐らく、長い物語には向かないだろう。それでも、「中学生のSEX」というものが、ど真ん中にボーンを置かれているこの物語は、やはりもう少し長い物語として提示されるべきだったんじゃないかなぁ、という気がしてしまう。

内容に入ろうと思います。
中学三年生の山下冴は、必死に受験勉強をしていた。幼馴染の真帆は、クラスの上流の人たちと楽しそうにしていて、勉強を頑張ってる風ではないし、なんとなく周りにも、そんなに勉強ばっかりしちゃって、みたいな雰囲気があるのも分かっている。でも冴は、

【わたしが積みあげてきた膨大な時間は、努力は、彼女たちにとっては何の意味もない、ただのあわれみの対象かもしれない。けれど、それがなんだ、と思う。わたしは正しい。まちがっているのは、あの人たちの方だ。
だって、そうじゃないなら、わたしは何のためにここまで頑張ってきたのだろう。】

と思って努力を続けている。夏休み直前、気を抜いている時間はない。
同じクラスに、土屋くんという、同じくいつも勉強ばかりしている男の子がいる。あまり他の人と関わっているのを見たことがない。いじめられているというほどではないが、基本的にはいない存在として扱われている。しかし冴は土屋くんに対して、【目の前のことひとつひとつにきちんと向き合うその姿勢は、わたしの信じる正しさと、合致している】と思っている。とはいえ、だからと言って関わったことなどほとんどないのだけど。
そんな土屋くんと、ある日、事故のようにキスをしてしまう。そんな自分の行動に驚き、戸惑いながら、冴は、その衝動の中にまた身を置きたいと考える。同じ感覚でいた土屋くんとの逢瀬が始まる。恋人ではない、友達ですらないクラスメートとキスをする。内側に留めておけない熱を交換する。
その切なる衝動が、冴の内側から、これまで積み上げてきた様々なものを奪い取っていく…。
というような話です。

やはり上手いなぁ、と思う。ひとつひとつの描写が丁寧で、物事の捉え方が新鮮だと思う。なんでもないような光景でも、彼女が描くと、映画のワンシーンのように映る。そういう文章の力を持っている人だなと思う。

ただどうしても、冒頭で書いたような違和感が僕の中にはあって、作品全体としては良い風に捉えることが難しかった。

僕の感覚では、「なぜSEXに至ったのか?」という説得力が弱い感じがしてしまった。その理由は、「冴が努力によって何を積み上げてきたのか」と「なぜそんな風に積み上げようと思ってきたのか」についての描写が弱いからかなぁ、と思った。もちろん、こういう部分は奥行きで、想像させるものだ、という意見もあるだろう。あくまでも、私見だ。

お笑いについて、僕は詳しくないけど、「前フリ」「ボケ」「ツッコミ」という流れがあるだろうと思う。で、色んな形があるだろうけど、瞬時には理解できない「ボケ」を、絶妙なタイミングの「ツッコミ」で理解できる、というタイプのお笑いもあると思う。

で、本書では、「前フリ」と「ツッコミ」が弱い気がするのだ。本書では、SEXの部分が「ボケ」だ。

「前フリ」では、「冴がいかに積み上げてきたのか」がもっと詳しく説明される方がいいんじゃないかと思う。冴が努力して努力して努力して色んなものを積み上げてきた、そのことを、真帆や他の人たち(本書には登場しないような人も含めて)と対比しながら、もっと強く打ち出した方がいいような気がする。

そうあればあるほど、「そんなに頑張ってきたのに、うそ、そこでSEXして全部台無しにしちゃうわけ?」という感覚が強くなるはずだ。

本書では、言葉ではそれが結構書かれてはいる。

【ときどき、不安におしつぶされそうになる。人生でたった一度きりの、中学生活。わたしが勉強をしているあいだ、みんなは彼氏を作ったり、友だちとお喋りしたりして、楽しい時間をすごしている。ほかの全てを切り捨てて頑張っているのに、もし不合格になったら、今までの努力が、ついやした時間が、ぜんぶ無駄になってしまうんじゃないか。】

【そうだ。一瞬で溶け消える、脆い甘さなんて、必要ない。
上へ。上へ。努力した時間は足元に積みかさなって、わたしの体を御しあげてくれるはずだ。高校。大学。就職。すこしずつでも昇りつづけてゆけば、いつか遠い光にもとどくだろう】

言葉ではこういう感覚をかなり表現してはいる。でもやはり、言葉だけではなかなか冴の実感はなかなか届かない。それを届かせるだけの「前フリ」が、もっと必要だった気がする。

で、「SEX」という「オチ」に対して、読者はきっと、「なんでそんなことしちゃうんだ?」と感じるのではないかと思う。だからこそここで、「そうか、そういう理由でSEXに踏み込んでしまったのか」と納得させる「ツッコミ」がほしい。もちろん、本書ではそれは描かれている。しかしやはりそれも、足りないなぁ、という感じがしてしまう。

具体的には書かないが、冴が抱えるコンプレックスの中心にあるものとの関わりについては、やはりもっと深く描いておいてほしかった気がする。それもやはり、「SEX」という「オチ」をうまく着地させるには、ちょっと足りないんじゃないかと僕は感じてしまった。そして、その落差をあまり感じられないからこそ、【…いい気味だ】という、ゾクッとさせるような感覚がうまく響かなかったのだと思う。僕は、ある意味でこの場面が、本書のクライマックスだと言っても良いような気がする。ここが、彼女の感覚の頂点だと思うからだ。しかし、その頂が、あまり高い場所にあるように感じられない。もっと高さを感じてもいいはずなのに、ちょっと歩いてたどり着けてしまったような感覚になってしまう。それが、凄くもったいないような気がした。

【…いつも、逃げだしたいって思ってる】

本書を貫くこの感覚には、凄く共感する。僕自身も、いつも逃げたいと思っていたし、誰にも気づかれない家出を3回ぐらいしたこともある。今なら、よほどの覚悟がないと無理だと分かるし、当時そのハードルの高さを正確に見極めることが出来ていなかったけど、結局怖気づいてしまった自分を否定的に見ることはない。とはいえ、自分であるということから逃れたい感覚はいつもあったし、何か逃れる手段はないかと模索するのは、若かった自分の日常だったような気がする。だから、本書に通底するそういう感覚は、凄くいいなと思う。

雛倉さりえ「もう二度と食べることのない果実の味を」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)