黒夜行

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デーモンロード・ニュービー~VRMMO世界の生産職魔王~(山和平)

内容に入る前に、僕自身のことを。
僕は、ゲームというゲームをほとんどやったことがない。
僕が自分の中で「プレイしたことあるなぁ」と思うゲームは、「マリオカート」「パワフルプロ野球」「ストリートファイターのどれか」「64のマリオ」「ゲームボーイのマリオ」ぐらいではないだろうか?「ポケモン」も「ファイナルファンタジー」も「ドラゴンクエスト」も、やったことがないどころかソフトに触ったこともプレイ画面を見たこともない。「RPGっていうのは、なんで攻略本を見てやるような人間がいるんだろうか?それ、面白いのか?」みたいに思っちゃうような人間で、とかくゲームとは縁がない。

そんなわけで、そもそも本書の副題にある「MMO」ってのがなんなのか分からない。なんとなく僕が捉えたイメージを書いてみよう。「RPG」っていうのが、基本的なストーリーがあるゲームで、「MMO」の方は基本的なストーリーはなく設定だけがあり、禁止されていること以外であればそのゲーム内でどう遊んでもいい、というもの、という感じだ。合ってるだろうか?

そんな僕が、ちょっとした理由があって本書を読んでみたのだけど、結論から言うと、なかなか面白かった。僕のような、筋金入りの「ゲーム初心者(というかゲーム未経験者かな)」が読んでも、分からない部分はそれなりにあったものの、全体的には面白く読めた。僕は、実際のゲームをやることなく、本書を通じていわゆる「ネットのRPGゲーム」の理解をしたつもりでいるんだけど、本書を読む限り、なるほど、きっと面白いのだろう、というイメージが出来た。どんな遊び方をしてもいい、というのは、「RPGを攻略本を読んでプレイすることに違和感を覚える」僕には、面白い発想だなぁ、と思いました。まあ、きっと実際にプレイする機会はないと思いますけどね(どう考えても、楽しむには時間がかかりすぎる、というのが最大の難点)。

本書の場合は「VRMMO」、つまりバーチャルリアリティによって自分がその世界の中にいるような感じでプレイできるゲーム、という設定になっている。恐らく、そこまでのゲームはまだ現実には存在しないだろうが、バーチャルリアリティが少しずつ世の中に出始めている以上、いずれ登場するのでしょう。確かにそれは面白くなりそうだなぁ、と思いました。

内容に入ろうと思います(上述した通り、ゲームについてはまったく分からないので、不正確な表現があっても許してください)。

主人公である高校生の「俺」は、ハードゲーマーの妹・里緒奈と二人で生活している。仕事で両親は離れて暮らしているため、中学生の妹と二人暮らしなのだ。
すべての始まりは、エアコンが壊れたこと。福引券を大量にもらった兄妹は、「鬼ヅモ」を持つ兄にすべてを託した。結果、引き当てたのは「VR型MMORPG対応の個人用マシン」だ。「ダブルワールド・オーバークロス(WWOX)」というゲームで、第一次生産が予約でパンクするほどの人気だという。ベータ版でプレイしていたという妹は、当たったマシンで兄にもゲームをやってもらい、一緒にプレイしたい、と言ってきたのだ。妹の頼みなら断れない。
「WWOX」の一番の特徴は、10人の魔王が一般プレーヤーから選ばれること。抽選なのかランダムなのか運営の意志なのか、はっきりはしないが、とにかく登録した者の中から10名が自動的に魔王としてプレイすることになる。兄妹は、妹の得意なプレイスタイルに合わせて、兄がそれを保管するような形で登録を済ませた。
そしていざ正式オープンの日。驚くべきことに俺は魔王に選ばれたのだった!さすが「鬼ヅモ」。しかもそれだけではない。基本的に性別を変えたプレイは出来ないはずの「WWOX」で、何故か俺は女性の格好をしていた。しかも、衣装の露出が激しすぎる!まったく理解できなかったがとりあえずその混沌とした状況を受け入れた俺は、10人いる他の魔王の一部と知り合いとなった。

鍛冶系魔王 オギレウス(フルフェイスの鎧)
建築系魔王 エマ・グレコ(魔女風のマーメイドラインのドレス)
魔法系魔王 ミュミュ(踊り子のような衣装のツインテール)
戦闘系魔王 シゲン(二足歩行の人型竜)

ちなみに俺は、農業系の魔王で、アキカという名前である。
彼らは、それぞれの特色を活かしながら魔王としてプレイしていく。オギレウスとエマはベータ版からの経験者だが、アキカ・ミュミュ・シゲンは正式オープンからの参加者。それぞれゲームに対するスタンスが違うが、とにかくお互いに足りないものを補いながら、情報を交換し合いながら、プレイを進めていく。
妹は、兄と一緒にプレイ出来なくなったことを嘆くが、しかしその一方で気合も入っている。
皆が近い内に、「魔王討伐イベント」が起こると予想していたのだ…。

というような話です。

繰り返しますが、なかなか面白かったです。ストーリー展開は、たぶん読み始めれば誰でもこうなるんだろうと予測できる感じで、だからこそ物語の(というかゲームの)細部の設定を楽しむ、というのがこの小説の読み方なんだろうと思います。専門用語(と表現するのも違うのかもだけど)を織り交ぜながらの説明は、理解できない部分もありましたけど、ゲームが様々な調整によってバランスが保たれていることや、あまりに自由度が高いためにプレイスタイルが独特になる場合もあること、そしてゲーム内のルールは「運営」という人間が作っている以上シンプルであり、それ故に現実世界以上にルールの裏をかいて暗躍することが出来る、というようなことを理解することが出来ました。

僕が本当に驚いたのは、自由なプレイスタイルの部分です。ゲームをクリアすることだけが目的ではなくて、色んな目的を持ったプレイスタイルを取ることが出来る。こういう自由度が、今現実に存在するゲームでどれぐらい組み込まれているのか分からないのだけど、恐らく組み込まれているのでしょう。そもそも主人公の俺がゲームをやろうと思った理由は、ゲーム内なら大規模農場が作れるから、というものでした。そんな理由が成立するぐらいの自由度は、なかなか魅力的な感じがしました。

兄と妹の関係は、「ザ・ラノベ」という感じではありましたけど、面白く読めました。本書は、岩手県の食べ物が色々出てくるんですけど、あとがきによると「一つだけフィクションのメニューがある」そうです。岩手県の人ならすぐ分かるんでしょうけど、それを探しながら読んでみるのも面白いかもしれません(僕的には、二つぐらい怪しいかなというのがありました)。

ゲームをやったことのない人には理解できない記述もそれなりにはありますけど、全体的に文章が読みやすくて説明が平易なので、ゲーム未経験者でもそこまで辛いということはないと思います。むしろ、ハードゲーマーは本書をどう読むんだろうなぁ。本書の記述の内のどの程度が「ハードゲーマーにとって当たり前のこと」なのかが僕には掴めないから、その辺りの判断は出来ないな、と思いました。なかなか面白く読めました。

山和平「デーモンロード・ニュービー~VRMMO世界の生産職魔王~」

宇宙は「もつれ」でできている 「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか(ルイーザ・ギルター)

超絶面白かった!

まずは、僕なりの言葉で「量子論」について説明をしてみよう。恐らく、間違った解釈・言葉の使い方をしている部分も多々あるだろうけど、あくまでも以下で書くのは「僕が理解している量子論を、僕が使える言葉の上限で可能な限り表現しようとしていること」だと思って欲しい。たぶん不正確な部分が多々あるので、正確な記述を期待しないでください。


量子論のスタートは、ある困った現象から始まった。それは、「古典的な波動理論では説明出来ない結果」だった。古典的な波動理論では、原子などを「粒子」として扱っている。しかし、原子などを「粒子」だと考えた場合にはあり得ない結果が出てしまったのだ。

この現象を説明するために「量子論」は生み出された。そしてその過程で、原子などの物質には「粒子」としての性質だけではなく、「波」としての性質もある、ということが判明した。有名なのは、アインシュタインが「光は光子という粒子でもある」と証明したことだ。アインシュタインはこの成果でノーベル賞を受賞している(有名な「相対性理論」で受賞したわけではない)。

ちなみに、この文章を書いている現時点においても、原子などが「粒子でもあり波でもある」という状態を具体的にイメージ出来る人は世界中に誰もいないので、何を言っているのか理解できなくても全然問題ない。

こんな風に生み出された量子論は、全体的にとてもうまくいった。発見のきっかけになった現象もうまく説明できたし、他にも様々な発見があり、量子論の創始者の一人であるボーアを始め、多くの物理学者が量子論は世界を記述する理論だと実感するようになって行った。

しかし、量子論には大きな大きな問題があった。それを明確に指摘したのが、あのアインシュタインである。しかし、その説明に入る前に、もう少し量子論を深掘りしよう。

量子論は「波動関数」と呼ばれる方程式で記述される。問題は、この波動関数を解いた結果が、現実の何と対応しているのか、イマイチ分からない、ということだ。波動関数を解いて出て来る解は、「粒子がそこにある確率」を示している、と解釈するしかなかったのだが、これは一体何を意味しているのか?

僕たちは、「物がそこにある」ということを理解できる。例えば、机の上に鉛筆が置いてあれば、「机の上に鉛筆がある」と認識できるし、当然、自分が机に背を向けて直接鉛筆を見ていなくても、「机の上に鉛筆がある」と主張できる。しかし、量子論によるとそうではない。量子論においては、「波動関数を解くこと」は「原子を観測すること」と同じようなものである。波動関数は、「原子がその場所で観測される確率」を示しており、つまりそれは、「観測する以前の原子の振る舞いについては何も分からない」と言っているのと同じことだ。

もう少し分かりやすく書こう。先程の鉛筆の例で言えば、量子論が言っていることは、「机を観測した時には、鉛筆がある場所に鉛筆が観測されるが、机を観測していない時には鉛筆が机の上のどこにあるのか(あるいはないのか)は確率的にしか分からない」ということだ。観測した時にあった場所をA点と呼ぶとすれば、机に背を向けた時にも鉛筆がA点にあるかは判然とせず、A点にある確率がどれぐらい、A点以外の場所にある確率がどのぐらい、という情報しか分からない、と言っているのだ。

アインシュタインは、「そんなバカな!」と言った。有名な、「神はサイコロを振らない」という言葉がそれだ。アインシュタインは、波動関数が観測していない状態について記述出来ないことは理解していたが、それは量子論が「不完全だからだ」と考えていた。普通に考えれば、物質は「観測」していようがしていなかろうが「実在」しているはずであり、それについて記述出来ない量子論には何かが足りないのだ、と考えていた(結局のところ、量子論を巡る混乱というのは、「観測」や「実在」をどう定義するか、という問題に行き着くことになる)。

しかし、ボーアはアインシュタインのその指摘をイマイチ理解できないでいた。ボーアというのは、かなり入り組んだ思想を交えながら話をする人だったようで、難解な用語を新しく生み出しながら、量子論の独自の解釈を貫いた。

量子論に対する当時の物理学者たちのスタンスはいくつかあったが、代表的なのが二つだ。一つはアインシュタインの「量子論は不完全であり、物質の実在について振る舞いを記述する何かが欠けているのだ」とする立場。もう一つが、ボーアを中心とする「コペンハーゲン解釈」と呼ばれるもので、「量子論というのは、観測する前の振る舞いについては何も語れないのであって、決して不完全なわけではない」という立場だ。

さて、アインシュタインは、自身が抱いていた量子論に対する違和感を明確にするために、ある思考実験を考えだした。これは後にEPR論文と呼ばれ、アインシュタインが指摘した量子の奇妙な振る舞いのことを、後にシュレディンガーが「もつれ」と呼んだ。そして、この「もつれ」を理解することこそ、量子物理学最大の難問だったのだ。

『もつれについて語ることは、量子物理学そのものについて語ることである。物理学者が初めてもつれの問題に直面したのは20世紀であった。それまで何世紀もの間、物理学は世界を完璧に理解しようとがむしゃらに進んできた。20世紀の初頭、量子論の気味悪さを疑うところからもつれの物語が始まった。その20世紀の夜明けは、我々にニュースをもたらした。物質と光の両方を探索すればするほど、謎が立ち現れたくるのだ、と。』

本書は、この「もつれ」という難問がどんな経緯を経て解き明かされていくのかを描いていく。この「もつれ」に触れる前に、量子論がいかに難しいかということを示す、量子論の創始者の一人であるボーアのこんな言葉を引用しておこう。

『もし量子論について考えているときに目がくらむことがないのなら、本当に理解できてはいないのだ』

さて、それでは「もつれ」について、僕なりに理解できていることについて触れようと思う。少し長いが、アインシュタインらが「EPRパラドックス」として提示した思考実験を、(正確さは欠くが)僕なりに分かりやすく(したつもり)の説明でチャレンジしてみよう。

二つのボールがある、と想像して欲しい。この二つのボールには、ある関係がある。それは、「どちらかが青色なら、もう片方は赤色だ」という関係である。

さて、僕らの一般的な感覚で言えば、ボールの色はあらかじめ決まっている。仮に青色のボールをA、赤色のボールをBと名付けよう。このボールは、僕らが観測していようがいまいが青色・赤色である。こう考えるのが、アインシュタインの立場である。

一方、ボーアのコペンハーゲン解釈では違う。二つのボールは、観測されるまで赤色なのか青色なのか決まっていない。僕らが観測して初めて色が決まる、というのだ。ここで重要なことは、この二つのボールには、「どちらかが青色なら、もう片方は赤色だ」という関係があるのだから、どちらか一方のボールの色を観測すれば、もう一方のボールの色も自動的に決まる、ということである。

さて、このボールを使ってこんな「実験」を考えてみる。二つのボールが空を猛スピードで飛んでいるとする。あまりにも早いので肉眼ではその色が分からない。特殊なカメラで撮影すると色が分かる、としよう。またこの二つのボールは、正反対の方向に飛んでいるので、二つのボールを同時にカメラに収めることは出来ない、ということにしよう。

さてこの状態で、片方のボールをカメラで撮影する。仮に青色だとしよう。そうすると、カメラで撮影していない方のボールの色は自動的に赤色、ということになる。

さて、これでEPRパラドックスについて説明する準備が整った。いや、もう一つ付け加えておかなければならないことがある。それは、アインシュタインが提唱した相対性理論についてだ。相対性理論は様々なことを主張する理論だが、その中でもかなり大事な主張が、「どんなものも、光より早く移動することは出来ない」というものだ。これは、量子論が議論されていた当時も、絶対的な原理原則として捉えられていた。

さて、これで今度こそ準備は万端。EPRパラドックスに進もう。

先程の「実験」は、アインシュタイン的な捉え方をすれば何の問題もない。二つのボールはあらかじめ色が決まっている。だから、観測したボールが青色であれば、もう片方はなんの問題もなく赤色である。

しかし、コペンハーゲン解釈を採用すると、困った問題が起こる。コペンハーゲン解釈では、「観測するまではボールの色は決まっていない」としている。「観測できないが、色は決まっている」のではなく、「観測するまで、赤色でも青色でもない」と主張するのだ。さて、その状態で、カメラで撮影をする。撮影した方のボールが青色だった、ということは、「観測することで青色になった」ということを意味する。そして、撮影した方のボールが青色だと分かったのと同時に、撮影しなかった方のボールが赤色であると決定するのだ。

さて、ここでアインシュタインはこんな疑問を突きつけた。撮影しなかった方のボールは、どうやって相方のボールが青色だと「知った」のか、と。

意味が分かるだろうか?ここで大事なのが、相対性理論の原理原則である「どんなものも、光より早く移動することは出来ない」である。

例えば、この二つのボールが100兆光年離れている、としよう。光の速度で進んでも100兆年も掛かる距離だ。しかし、それだけ離れていても、片方のボールの色が青色だと決まれば、その瞬間に、もう片方のボールの色が赤色だと決まるのだ。光より早く進むものは存在しないのに、この二つのボールは、光の速度を遥かに越えて「通信」しているように見える。ボールは撮影するまで色が決まっていないのだから、片方のボールが青色と決まった、という情報がもう片方のボールに届かない限り(通信しない限り)、もう片方のボールは赤色になれないはずなのだ。そしてそれは、相対性理論の原理原則により不可能だ。しかし、量子論は、その不可能なことをやってのけているように思える。これは矛盾ではないだろうか?

そう言ってアインシュタインは、量子論の不完全さを指摘したのである。

EPRパラドックスで指摘された二つの量子(僕の例では二つのボール)が置かれている状況は、やがて「もつれ」と呼ばれるようになる。そしてまさにこの点こそが、量子論の不可思議さの真骨頂であり、また量子論が実用に活かされるポイントでもあったのだ。

さてここからは、本書で描かれている「もつれ」の物語のざっとした概略に触れていこう。

まず、量子論が生まれた。波動関数が生み出され、「観測するまで原子の振る舞いは記述できない」という奇妙な結果が得られた。アインシュタインはそのことを不服としてEPRパラドックスを突きつけた。これによって、後に「もつれ」と呼ばれることになる現象が捉えられたことになるが、しかしこの「もつれ」がすぐに物理学者たちを熱狂させたわけではない。

「もつれ」が物理学の表舞台に出てくるまでに、数多くの人間が関わったが、その中でも重要だったのがボームとベルの二人である。

ボームは、マンハッタン計画の中心人物だったオッペンハイマーの教え子であり、色々あって監視される立場に置かれてしまった。そんなボームは、EPR論文を読み、そこから刺激を受けてとある論文を書いた。これは、「隠れた変数理論」と呼ばれるものに関わる理論である。「隠れた変数理論」とは、アインシュタイン的な立場、つまり観測するかどうかに関係なく物質は実在する、という立場の一つであり、試みとしては、量子論に観測する以前の実在性を組み込むもの、と言っていいだろう。

ボームの書いた論文は、かつてド・ブロイが書いたものに近いものがあった。大雑把に言えば、「物質に粒子と波の両方の性質があるのではなく、「未だ観測されていない未知の波(ガイド波やパイロット波などと呼ばれた)」に粒子が乗っているのだ」というような解釈をするものだった。ボームはなんとかして、量子論を完璧なものにしたくて「隠れた変数理論」についての論文を書いた。

ちなみに、この「隠れた変数理論」については、フォン・ノイマンが「あり得ないと証明した」ことがあった。当時誰もが、「フォン・ノイマンが間違えるはずがない」と考え、その証明を受け入れていたが、アインシュタインら幾人かの人間が、フォン・ノイマンが置いている前提に誤りがあることを見抜いていた。しかし、何度かそういう発見がありながら、フォン・ノイマンの誤りは表沙汰になることがなかった。

さて、実際のところ「隠れた変数理論」は現在では否定されているが、その当時も「異端な考え」だと思われていたようだ。ボーアのコペンハーゲン解釈に異を唱えることは間違っている、というような風潮があったようだ。だからボームの論文も取り沙汰されることはなかった。

しかし、ボームの論文を読んだ無名の物理学者であったベルは感銘を受けた。彼もまた、「隠れた変数理論」を信じていた一人であり、『ボームは、ベルが夢見ていた理論に到達していた―それは、実験者の行為に関係なく実在する実体に関する理論でありながら、量子力学と同一の結果をもたらすものであった』と捉えたのだ。

そうやってベルは、「趣味として」量子論に関わるようになったが(深入りするとマズイ、と考えていたようだ)、やがてベルは「ベルの不等式」と呼ばれる画期的なアイデアにたどり着く。「ベルの不等式」を簡単に説明するのは難しいけど(そもそも僕がちゃんと理解していない)、大雑把に言えば、「二つの粒子の関係性がある制限以内なら古典的な振る舞いをするが、その制限を超えると量子論が予言する奇妙な振る舞いが現れる」というものだった。別の言い方をすれば、もし二つの粒子の関係性がある制限以内であれば「隠れた変数理論」で説明をつけることが出来るが、制限を超えるなら「隠れた変数理論」は諦めて量子論が予言する奇妙な振る舞いを受け入れなければならない、ということだ。

「ベルの不等式」は、『21世紀初めまでにベルの論文が物理学に激変をもたらしたのは間違いない』とまで言われ、またベルの論文によって正当な評価を与えられたEPR論文は、『同論文は世界を揺るがしたアインシュタインの輝かしいすべての業績のなあでもずば抜けて引用回数の多い論文となり、また20世紀後半の物理学の主要誌「フィジカル・レビュー」で最も多く引用された論文となったのである』。

さて、ここでようやく実験物理学者の出番となった。物理学者は大きく「理論物理学者」と「実験物理学者」に分かれる。理論を考える者と、実験をする者だ。それまで「もつれ」の議論というのは思考実験によって展開されていた。実際に実験を行えるような状況が生まれえなかったのだ。しかし「ベルの不等式」がその状況を変えた。ベルの示した不等式を見た実験物理学者たちは、「これは実験によって証明できる」と考え、それぞれが独自の実験を計画し検証に乗り出した。そしてついに、「ベルの不等式」が破られる(制限を超える)ことが実験によって示され、アインシュタイン的な立場ではなく(つまり「隠れた変数理論」ではなく)、コペンハーゲン解釈が正しかったことが証明されたのだ。

さて、「もつれ」の物語はまだ終わらない。アインシュタインの指摘によって見出され、ベルが証明の可能性を見出し、実験物理学者たちが証明してみせた「もつれ」は、それまではずっと学問上の対象でしかなかった。量子論が「十分な理論」であるのか、あるいは「不十分な理論」であるのかを議論するための要素の一つでしかなかった。しかし「もつれ」は今、実用化への模索が進められている。

それが「量子コンピュータ」である。量子コンピュータの基本的な原理は、まさに「もつれ」を利用したものである。実用に足る量子コンピュータはまだ作成されていないが、原理を実証するような実験室レベルのものは既に生み出されており、量子コンピュータにおけるアルゴリズムも既に作られている。

もし量子コンピュータが実現すれば、僕らの生活に直結することになる。僕らが生きている世界で使われている様々なセキュリティ(何かにログインする時のパスワードみたいなものを想像して欲しい)は、RSA暗号と呼ばれるものである。これは、「因数分解には、コンピュータの力を借りても膨大な時間が掛かる」という特性を利用した暗号であり、普通のコンピュータではまず破られることがない。しかし、もし量子コンピュータが登場すれば、このRSA暗号は一瞬で解読出来てしまう。それぐらい、量子コンピュータは信じがたい計算能力を持っているのだ。

インターネットがこれほどまでに広がった現代、RSA暗号の恩恵を受けていない人の方が少ないと言っていいだろう(銀行口座の暗証番号もたぶんRSA暗号で出来ている)。そのRSAを一瞬で破る量子コンピュータの登場は、社会を激変させるだろう。しかも、今この瞬間にも、量子コンピュータが開発され、誰かがRSA暗号を破っているかもしれない。量子コンピュータは、「暗号を破った」という痕跡を残さずに暗号を解読できるので、仮に解読されていたとしても気づけないのである。

創始者ボーアがその存在を意識できず、気づいたアインシュタインでさえも捉え間違えた「もつれ」が今、物理の理論という枠組みを超えて僕らの実生活を脅かそうとしている。本書はそういう、壮大な物語なのである。

ルイーザ・ギルター「宇宙は「もつれ」でできている 「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか」

「ハイドリヒを撃て! 「ナチの野獣」暗殺作戦」を観に行ってきました



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内容に入ろうと思います。
ナチス・ドイツにおいて、ヒトラー、ヒムラーに次ぐ第三の男と呼ばれたハイドリヒは、「ユダヤ人絶滅製作」を推進し、残虐に市民を殺した。そのハイドリヒは1941年、チェコのプラハにいた。ハイドリヒは、密告に報奨金を出すことによって、チェコにいた反ナチス組織をほぼ壊滅させた。
イギリス政府とチェコ亡命政府の司令を受けたヨゼフとヤンの二人の軍人は、パラシュートでプラハに潜入、僅かに残ったレジスタンスと接触する。彼らの目的は、コードネーム「エンスラポイド(類人猿)作戦」、ハイドリヒの暗殺だ。僅かなメンバーで偵察や計画の立案を行う。愛する祖国と未来のために、彼らは自らの命も捨てる覚悟で無謀な作戦に挑む。彼らを匿う家族、計画に協力する女性たち。作戦の遂行の如何によっては、彼らにも多大な迷惑が掛かる。
そしてついに決行日。1942年5月27日、ついに彼らはハイドリヒの襲撃を実行するが…。
というような話です。

実話を元にした映画で、このハイドリヒ暗殺事件は「最も凄惨な史実の一つ」とも呼ばれているそうです。

この映画に限りませんが、本当に、戦争というのは無駄な対立を生み出すな、と感じました。もちろん、対立を生み出すものは決して戦争だけではないのだけど、人の命まで関わってくるものというのはそう多くはないでしょう。この映画でも対立が描かれ、その対立が人の命を奪う。本当に無益だなと思います。

もうこういう対立の状態にあると、何が正しくて何が間違っているのか分からなくなっていきます。もちろん全体の視点で見れば、ナチス・ドイツが悪い。しかし、その最大の問題はほぼ取り除くことが出来ない。出来ない以上、それを「間違っている」というだけの行為は、日常に何も影響を及ぼさない。だからこそ彼らは、ナチス・ドイツが間違っている、ということは大前提に据えた上で、その中でどんな正しさや間違いを選択出来るのかを模索する。きっと、ナチス・ドイツが間違っている、という大前提の元なので、その中での誰の行動も、決して間違っているとは言えない。しかし、立場や守るべきものの差によって、局所的には「間違っている行動」を取らざるを得なくなってしまう。そのことの無意味さみたいなものを、映画を見ながらずっと感じていました。

史実を扱っている映画に対していつも感じることは、「どこまでの情報を観客が「知っている」前提で描くか」という問題についてです。例えば日本であれば、忠臣蔵の映画を撮るとしたら、忠臣蔵についての説明にはあまり時間を割かないでしょう。日本人の多くは、ベースとなる物語を知っているからです。しかしその映画を外国人が見たら、きっとよく分からない物語になります。同じことがどんな映画にも言えます。僕が歴史に無知なのが本質的には悪いのだけど、この映画の場合も、やはり誰がどういう立場の人間で、歴史の情勢がどういう中にあるのかということが、やはり最初は掴みにくかったなと感じました。

映画として面白いかどうかと聞かれるとちょっと難しい部分はありますけど、やはりこういう映画は、戦争やあるいはナチス・ドイツの悲惨さみたいなものを観る度に感じられるし、自分も含め多くの人が観るべき映画だなと感じる。

「ハイドリヒを撃て! 「ナチの野獣」暗殺作戦」を観に行ってきました

「夜空はいつでも最高密度の青色だ」を観に行ってきました



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街にはいつも答えがない。
答えではないものの周りをグルグルと回る回遊魚たちが、街の命そのものだ。
崩れそうな塔をみんなで無視するようにして、
解体を繰り返すいつかの夢を嬌声に紛れ込ませる。
クーデターが日常で、
瓦礫の山が地面だとしても、
この街ほどは壊れてはいない。
毎日の予感が死骸へと変換していき、
静かに降り積もった死骸に、野良犬から窒息していく。
薄くなっていく空気は月をますます綺麗に見せて、
そうやって人間を騙している。
楽しいと口にしていないと楽しさが反響しない空間が、
空き缶に残ったジュースのように腐敗していく。
意味が近い人間同士がくっつきあって、
あったはずの意味がバラバラになっていく。
そういう夜が、借り物の言葉の群れに埋もれないように、少しずつ濃くなっていく。
朝までに好きになれそうな誰かを探して、
ネームプレートがずり落ちるような関係に安堵して、
Google mapの赤いピンに消しゴムをかける。
あの人の顔から全力が消える瞬間を見て、
僕たちは夜の終わりを知る。
吐瀉物を避けて歩く人の流れは、
100年も続ければ地球の傷となって未来を目撃できる。
レールのないところを走る電車が、
きっと僕たちを目的地へと連れて行ってくれる。
さっき消したばかりの赤いピンのところまで。

美香は看護師として働いている。
人の生を支え、人の死を眺める。
裏手で煙草を吸いながら、プラスとマイナスの世界で美香はいつでもゼロのまま。
慎二は工事現場で働いている。
頭を使わない単純作業。
左目が見えず、世界を半分しか認識できない慎二は、喋り続けることで日常に留まる。
一瞬だけあった接点は、接点とも言えないような小さな点で、
それでも渋谷の街で、彼らは再び出会った。
ガールズバーで働く美香と、仕事仲間とガールズバーの客になった慎二。
何故か彼らは、それからも何度も遭遇する。
ある死をきっかけに寡黙になった慎二。
かつて存在した死の違和感を捨てられない美香。
二人は、遭遇ではない会い方を選択し、恋とも愛とも呼べないような時間を過ごす。
まだ愛していると言われた美香。
かつて愛していたと言われた慎二。
渋谷の街に、「頑張れ」の歌が響く。

詩を原作とした映画。
ところどころに、詩のナレーションが挟み込まれる。
詩を構成するのは言葉。
この映画を構成するのは情景。
物語ではないものに引っ張られていく。
渋谷の街を切り取る。
新宿の街を切り取る。
夜を切り取る。
工事現場を切り取る。
そうやって切り取ったものが組み合わされ、映画の形になっていく。
消えそうな繋がりが消えなかったことの意味よりも、
一緒にいる理由に名前をつけないことの意味の方が濃く映る。
前に進んでいく動力などとうに捨て去った者たちが、
その場に留まるためにも動力が必要だと気付かされる日常が照らされていく。
街があり、人がいて、その気配で空気がどんどんと消費されていく夜の中では、
人の形になれない者は溺れるしかない。
疑問も違和感も苦痛も、全部なかったことにするためにお金が飛び交い、
リセットボタンが無為に押されるだけの毎日を何故生きるのか。
何故生きるのか。
理由などなくてもいいのだと、
思えるのならそれだけで幸せで、
バス停に並ぶ者たちは飛行船を見ない。

「夜空はいつでも最高密度の青色だ」を観に行ってきました

コンビニ人間(村田沙耶香)



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うわぁ、すげぇ分かる、と思った。
古倉さんと僕とでは、まったく振る舞いは違うんだけど、根っこは同じだ。
そして、なるほど、この物語は「あなたにとっての『コンビニ』とは何か?」と問い続ける物語なのだ。

『ただ、完璧なマニュアルがあって、「店員」になることはできても、マニュアルの外ではどうすれば普通の人間になれるのか、やはりさっぱりわからないままなのだった』

古倉さんは、そうやって18年間もコンビニでアルバイトしている。自分が「こうだ」と思った通りの行動をすると、どうしてもズレてしまう。周囲を困惑させる。でも、何が悪いのか分からない。だから古倉さんは、小学生の頃から『皆の真似をするか、誰かの指示に従うか、どちらかにして、自ら動くのは一切やめた』という。

この感覚は、僕にはすごくよく分かる。昔の僕が、こうだった。

子どもの頃の僕は、周囲の人間が「何故そうしているのか?」がよく理解できないことが多かった。何故笑っているのか?何故泣いているのか?何故怒っているのか?…。でも、みんな疑問を感じていないようだった。みんなが笑っている時にみんな笑い、泣いている時に泣き、怒っている時には怒っていた。

昔の僕は、みんなから外れるのが怖かった。だから、周囲を観察して、みんながどういう時にどういう感情を持つのか学んだ。僕には、本当にこういう感覚がある。こういう時に笑えばいいのだなと感じた時に笑うようにしていた(泣くとか怒るとかは、そういう意識でやった記憶があまりないけど)。別に面白いわけではないんだけど、笑うべきタイミングで笑わないのは、どうにも都合が悪い気がした。だから、予想して笑っていた。

けど、あくまでも予想でしかないし、しかもその予想も瞬間の判断でしなければならないから、時々外した。みんなが笑っていない時に僕一人だけ笑っている時があって、そういう時はとても困った。困ったけど、でもそういう気まずさを時々味わうにしても、予想して笑う方が色々と便利だった。

穂村弘「蚊がいる」というエッセイの一文を今でも思い出す。

『文化祭でもキャンプでも大掃除でも会社の仕事でも、いつも同じことが起きる。全ての「場」の根本にある何かが私には掴めないのだ。現実世界に張り巡らされた蜘蛛の巣のようなルールがみえない。何のための穴なのかよくわからないままに、どこまでも掘ってしまう。だが、わかっていないということは熱心さではカバーできないのだ』

穂村弘が言っていることは、すごく分かる。みんな、その「場」のルールを、誰に教わるわけでもなく理解しているように見える。でも、僕にはそれはイマイチよく分からない。だから「場」のルールを外して、トンチンカンな行動を取ってしまったりするのだ。

『私の身体の中に、怒りという感情はほとんどない』

僕は、さすがにここまで極端ではないけど、似たような感覚はある。まあ、僕は、時期ごとに結構違った人間だったので、「怒っているばかりいる時期」というのもあった。だからずっとそうなわけではないのだけど、少なくとも今は、「怒りという感情」が湧くことはあまりない。怒ることが無駄だなと思うから怒らない、という説明をすることがあるのだけど、一般的には「怒り」という感情は自然と湧き上がってくるものだから、僕の言っていることは大抵理解されない。

また、「悲しい」という感情も、人より鈍いと思う。特にそれを実感するのは、人が死んだ時だ。僕は、人が死んで悲しいと思ったことが人生で一度もない。比較的近い関係の人も亡くなっているのに、である。そういう時に、自分のズレみたいなものを強く感じる。

だから、本書の主人公である古倉さんには、もの凄く共感できてしまう。古倉さんは、あり得たもう一人の自分かもしれないなぁ、と感じながら読んでいた。

しかし、古倉さんと僕とでは、振る舞いはまったく違う。

僕は、子どもの頃はみんなに合わせようと自分なりに努力していたのだけど、次第に無理だと感じられるようになってきた。やはり、しんどい。常に、赤外線センサーの張り巡らされた空間を行き来しているみたいな感じだった。赤外線センサー(みんなのルール)に触れるようなことをすると面倒なことになるのだけど、僕にはどうしてもそれが見えない。だから、周りの人の動きを真似しながら、どうにか見えてるフリをして生きていたのだけど、やはりそれはもの凄く神経を使うのだ。

だから僕は、そういう生き方を諦めた。で、変な人だと思われるように努力するようになった。自分自身を、「無害だし悪い人間ではないけど、でも変」という風に見せることで、「こいつなら何をしてても仕方ない」と思われるように振る舞うようにしたのだ。そうやって少しずつ自分の変さを周囲に感じてもらいながら、その状態で受け入れられるように振る舞ってみた。僕には、そういう生き方の方が合っていたようだ。今では、とても楽に生きられている。

古倉さんは、違った。古倉さんの取った戦略は、僕とは真逆だ。古倉さんがしたことは、「やることが完璧に決まっている環境に身を置く」ということだ。マニュアルがあり、どういう人間であるべきかが明確で、その指針に沿った思考以外をする必要がない環境。そういう環境ならば、一度ルールを覚えてしまえば、頻繁に更新する必要がなくなる。そのルールを身体に染み込ませてしまえば、後はちょっと微調整をし続けるだけで受け入れてもらえる。古倉さんは、そういう環境を見つけた。

コンビニだ。

『「いらっしゃいませ!」
私はさっきと同じトーンで声をはりあげて会釈をし、かごを受け取った。
そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、たしかに誕生したのだった。』

『泉さんと菅原さんの表情を見て、ああ、私は今、上手に「人間」ができているんだ、と安堵する。この安堵を、コンビニエンスストアという場所で、何度繰り返しただろうか。』

コンビニは古倉さんを「人間」にしてくれる場所だ。いや、違うか。古倉さんは、それ以上の捉え方をしている。

『私は人間である以上にコンビニ店員なんです』

『早くコンビニに行きたいな、と思った。コンビニでは、働くメンバーの一員であることが何よりも大切にされていて、こんなに複雑ではない。性別も年利も国籍も関係なく、同じ制服を身に付ければ全員が「店員」という均等な存在だ』

古倉さんは、「店員」になることで生き延びることが出来た。あぁ、良かった、と僕は思った。古倉さんにコンビニがあって良かった。

じゃあ、あなたにとっての「コンビニ」とは何か?

本書を読むということは、否が応でもこの問いと向き合わなければならないということでもある。

古倉さんは、何も考えずに、就活も結婚もせず、ただのんべんだらりとコンビニのアルバイトを続けている人、というような見られ方をされてしまうが(その状況は色々と問題を生じさせるので、それなりの言い訳を用意してはいるが)、本当は古倉さんはかなり意識して、自分を生き延びさせるために「コンビニ」という選択をしている。コンビニという環境が、自分にとって最適である、という判断を下しているからこそ、古倉さんはコンビニに居続けているのだ。

恐らく、そんな風に考えて自分のいる場所を選択している人はそう多くはないだろう。今いる場所が、自分にとって最適だ、という検討の末に選択している人はそう多くはないはずだ。であれば、僕らのほとんどが、古倉さんよりもレベルの低い選択をしているということになるだろう。

もちろん、自分で何かを選び取った、という人もいることだろう。そういう人は、じゃあ「何」を選び取ったのかと問わねばならない。

古倉さんは、「コンビニ」を選んだことで、「自分の意志を介入させない環境」を選び取った。あなたが選んだものの本質は、一体なんだろうか?その本質を掴めていなければ、「選んだ」とは言えないだろう。

『朝になれば、また私は店員になり、世界の歯車になれる。そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった』

本書に登場する、古倉さん以外の「正常」な人間が、僕には「異常」に見えて仕方がない。自分に何が必要で、何が不要で、それが得られる環境を自らの意志できちんと選び取った古倉さんの方が、僕にはよほど「正常」な人間に思えてしまう。

内容に入ろうと思います。
子どもの頃から、周囲から「突飛」だと思われる言動をしていた私(古倉恵子)は、大学一年生の時にたまたま見つけたオープニングスタッフ募集の案内を見てコンビニのアルバイトを始めた。これまでの人生では、いつどういう環境でどう振る舞うべきか、誰も指示してくれなかったから、どう行動すべきか全然分からないままだった。しかし、その点コンビニは安心だ。完璧なマニュアルがあり、いつどういう環境でどう振る舞うべきか、すべて決められている。決められていることをきちんとこなすことは得意だ。そうやって私は、コンビニの店員として「生まれた」。
それから18年。就職も結婚もしないまま、私はコンビニの店員を続けた。店長は8代目、当然働き始めた当初のスタッフは誰も残っていない。私は、コンビニにいない時でも今売り場がどういう状態になっているのかを想像し、「いらっしゃいませ!」という自分の寝言で起きることもあった。『全てを、コンビニにとって合理的かどうかで判断していた』私は、コンビニの店員であり続けられることが嬉しかった。
しかし、平穏だったそんな環境が、あることをきっかけに少しずつ軋み始めてしまう。きっかけは、白羽という名のやる気のないアルバイトスタッフが入ってきたことだった…。
というような話です。

いやー、これは面白かったなぁ。芥川賞を受賞してベストセラーになったことで、「まあ読まなくてもいいか」と思っていた本だったんだけど、読んで良かった。これは面白い。

古倉さんについては冒頭でかなり書いたので、ここからは古倉さんの周りにいる「正常」な人間の話をしようと思う。

「正常」な人たちは、古倉さんを「異常」な枠にはめ込みたがる。就職も結婚もしない、ずっとコンビニでアルバイト、恋愛もしたことがない、というのは、「正常」な人には理解不能で、何かおかしいんじゃないか、と思いたくて仕方がないのだ。

しかし、僕には「正常」な彼らの方が「異常」だと思えてしまう。

例えばこんなことを考えてみる。本書で描かれている「正常」な人たちが、戦時中に生きていたらどうだろうか?想像するのは簡単だ。彼らは恐らく、「お国のために節約し、特攻に向かう息子を勇敢だと褒め、大本営発表の日本が優勢という報告を信じながら、竹槍の訓練をする」ような生き方を「正常」だと考えて生きただろう。誤解のないように言っておきたいが、僕はカッコで書いたような生き方を否定したいわけではない。当時の社会通念では、そういう生き方が「正常」だとされていたし、正しかった。

僕がここで言いたいことは、本書で「正常」な人間として描かれる人たちは、結局、その時代その時代の「当たり前」に従っているだけだ、ということだ。同じ人間なのに、自分がどんな環境にいるかによって生き方が変わってしまう。僕にはそのことの方が「異常」に感じられる。

古倉さんはどうだろうか?古倉さんは恐らく、戦時中でも、本書で描かれているのと同じ違和感を抱くことだろう。そして、自分にとってどういう環境が最適であるのかを考え、選び取るだろう。古倉さんの方が、「自分」をベースに生きていると僕には感じられる。「環境」によって生き方が変わるのは、「自分」というものがないのと同じに思えてしまう。

意図してのことだろうが、本書の中では古倉さん以外の「正常」な人間は、皆大差ないのっぺりとした人間として描かれる。古倉さんと白羽以外の人物は、誰と誰が入れ替わっていても分からないような、そういう交換可能な人格として描かれている。古倉さんの妹や、白羽の義姉など、多少印象に残る人物もいるが、しかし発言や行動はやはり交換可能に思える。

彼らが「正常」なのだとしたら、「正常」の基準がおかしいと思う。

もちろん、古倉さんは自分が何故コンビニを選びとったのか、その理由を周囲に説明していないから、古倉さんの行動原理を周囲が理解できていないということは仕方がないことではある。しかし、じゃあ仮に古倉さんが自分の考えを周囲に開陳したとして、「正常」な人たちはその理屈を受け入れるだろうか?まあ無理だろう。余計、古倉さんを「異常」な枠に入れたくなるだけだ。そのことが分かっているからこそ、古倉さんも自分の考えを表に出さない。

古倉さんの造形は、かなり極端ではある。ある種のデフォルメと考えていいだろう。恐らくではあるが、ここまで極端に振り切れている人間は、そこまでは多くはない。

しかし、本書で古倉さんを極端にデフォルメして描くことで、本書は「当たり前って何?」という本質的な問いを投げかける作品になった。

また、舞台が「コンビニ」という、画一的で均質な世界というのも対比が利いていて面白い。コンビニはそういうのっぺりとした環境だと捉えられているが、そんな環境で働き続ける古倉さんこそが、自らの生き方をきちんと捉え、最適な環境としてコンビニを選び取っている。そして、コンビニという画一的な世界の外側にいる、就職や結婚をして「正常」に生きている人たちこそが、自分の人生を選びそこねているように僕には見えてしまう。「コンビニ」を舞台にすることで、本書で抉り出そうとしている事柄が、さらにくっきりとする印象があって、そういう面からも本書は実に面白い作品だと感じた。

白羽についてはほぼ触れていないが、そこは是非読んでみて欲しい。白羽がいかにして古倉さんの日常を激変させていったのかは、なかなか読み応えがある。古倉さんにとっての「日常」は社会にとっての「非日常」であり、白羽はそんな古倉さんに「社会にとっての日常」を与えるかもしれなかったのだが、しかしそれはやはり仮初めでしかなかった、という感じだ。いやはや、面白い。

古倉さんにどの程度共感できるかで、本書の読み味はまったく変わってくるだろう。古倉さんに共感できなければ出来ないほど、本書は恐ろしくつまらなく感じられることだろう。そして、ある意味でそれは、とても幸せなことだ。本書をつまらなく感じられれば感じられるほど、その人は今の社会における「正常」に近い、と判断できる。そういうバロメーターとしても、本書は実に良く機能するのではないかと思う。

あぁ、面白い本だった。そう感じる僕は、「正常」とは程遠いのである。

村田沙耶香「コンビニ人間」

女たちの避難所(垣谷美雨)



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何でも分かってると思っているつもりもないし、僕が男である以上、見えていない部分も多々あるのだということは十分分かった上で言うのだけど、女性というのは本当に生きていくのが大変だろうな、と感じる。やはりどうしても、社会が「男目線」で作られているからだ。

僕はどちらかと言えば男の方が苦手なので、男のダメな部分というのは多少は分かるつもりだ。いちいちここで言語化することはしないが、男の狭量な考え方が、女性を生きづらくしているのは間違いない。

そして問題なのは、男がそのことにまったく気づいていない、どころか、自分は女性のためになるような行動をしている、と思っている節さえある、ということだ。この点が、実に致命的だ、と思う。もちろん、僕自身もそういう振る舞いをしてしまっているかもしれないということは常に意識するようにはしているし、自分だけはその罪から逃れられていると思っているわけでは全然ないのだけど。

僕は、働くという点では、女性の方が有能だと感じる機会が多かった。誰に聞いたのか忘れてしまったが、知り合いが自社の採用面接の際にあった話が印象的だった。その人曰く、純粋に絶対評価で点をつけると、面接を受けに来た女性ばかりが残ってしまうのだ、と。人事から、女性ばかりだと都合が悪いから男も残してくれ、と言われたという話をしていた。

もちろん、有能さというのは数値などで客観的に測れるものではないが、少なくとも、男の方が明白に有能だ、ということを示すデータも存在しないだろう。であれば、管理職が男ばかりという会社が多い現状にはやはり問題があるだろう。

また、色んな夫婦から漏れ聞こえてくる話(当然それらは女性側から聞くのだが)からも、女性の息苦しさを感じることが多々ある。特に、僕よりも上の世代だと、夫の言うことは絶対という、僕からすれば信じがたいような振る舞いをしている男がまだまだたくさんいるらしい。

いや、こう考えることも出来るかもしれない。DVの問題は、昔からあったのだろうが、僕の勝手な印象では、上の世代よりも若い世代に多い気がする。上の世代の場合、「夫の言うことは絶対」というような謎の了解がまだ世間の通念として漂っていて、だから男は暴力を振るわずとも妻を支配することが出来た。しかし、時代の変化によってそういう了解が薄れていく。男は、自分の父親がそうしていたように家庭で強権的に振る舞いたいのだが、時代の風潮がそれを許さない。だから暴力に訴えて妻を支配しようとするのではないか、と。そうであれば、上の世代であろうが若い世代であろうが、問題の本質は変わらず男の振る舞いにある、ということになる。

そしてこの問題は、世代だけではなく、地域によっても差が出る。都会であれば、男尊女卑のような価値観は、表向きは減っているだろう(巧妙に隠れているのだ、と指摘することも出来るのだろうが)。しかし地方だと、女性が窮屈な状況に置かれることが未だに当たり前とされることもある(本書で描かれているのは、まさにこの点だ)。

決して女性に限らないのかもしれないが、若い世代の女性があまり結婚を望んでいなかったり(少なくとも早く結婚することを望んでいなかったり)、あるいは就職してもすぐに辞めてしまったりする背景には、こういう、「男社会」であるが故の窮屈さみたいなものがあるだろうと思う。

先程も書いたが、致命的なのは、男がその状況をまるで理解できていないという点だ。もちろん、男の側にもそれぞれなりの立場があり、その立場に沿った発言をしなければならない、という事情はあるのだろうが、それにしても、女性がどんなことを嫌だと感じているのか、どんな苦しみを持っているのか、それらを何故相談できないのか、というような現状を、全然理解していない。

僕だって、女性から色んな話を聞かなければ分からなかったことは多々ある。外から見て分かることはほとんどなくて、大体、色んな人からちょっとずつ打ち明けられた様々な話を繋ぎ合わせるようにして、女性の置かれた状況をなんとなく理解できるようになっていったのだ。

本書の内容を象徴するような一文を抜き出してみる。

『今まであった問題が明るみに出ただけなのかもしれない』

本書は、3.11の震災を、3人の女性の視点から描き出す作品だ。それは確かに、震災の物語ではある。しかし本書は、より本質的には、僕らが生きている社会に根を下ろす様々な問題をあぶり出す作品なのだ。震災そのものを描くのではない。本書にとって震災は、音を増幅させるアンプみたいな装置なのだ。日常的に女性が置かれている苦しい状況が、震災というアンプを通すことによって増幅され、目に見えやすくなる。それこそが、この作品の持つ大きな意味なのだ。

内容に入ろうと思います。
椿原福子は、職場であるナガヌマ酒店の奥さんに頼まれた買い物中に、スーパーで震災に遭遇した。55歳、体力があるわけではないが、水が侵入した車からなんとか抜け出し、濁流に飲まれながらも、なんとか一命を取り留めた。流されてきた少年をなんとか救い、家族とはぐれたという昌也というその少年とともに、なんとか避難所にたどり着いた。
きっと夫は死んだだろう。そう思うと嬉しくて、そんな風に感じている自分に唖然とした。
漆山遠乃は生後6ヶ月になる息子・智彦と共に、家で震災に遭った。夫の実家であり、義理の両親と共に暮らしている。28歳の遠乃は、家での発言権はほぼなく、舅の指示には逆らえない。余震が来るから逃げた方がいいという遠乃に舅は、この家は安普請ではないから大丈夫だと怒鳴り動こうとしない。なんとか理由をつけて家を出た遠乃は、高台に逃げなんとか助かった。夫は、公務員になるために地銀を辞め勉強中、今は図書館にいるはずだ。あそこなら大丈夫。子どもを抱えて避難所に向かうが、若くて美しい遠乃は、避難所でもの凄く目立ってしまう。
山野渚は、5年前に離婚し故郷に戻ってきた。40歳になったばかりで、小学生の息子がいる。渚は生きるためにスナックを経営し、なんとか生活を成り立たせていた。口さがない声があるのは知っていたが、生きていくのに必死だ。自宅で被災した渚は、津波に飲まれそうになったが、どうにか助かった。息子がいる小学校は、災害時は親が迎えに来るまでは学校で保護してくれる。大丈夫なはずだ。渚も避難所へとたどり着く。
何もかも失ったが、命だけは助かった―。しかし、辛いのはここからだった。

『生き残ったことが、果たして幸せだったんだろうかと渚は思った』

三者三様の悩みを抱えながら、彼女たちは避難所での生活をなんとか堪え、未来の自分を思い描こうとする…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。面白いというか、興味深い、という感じがしました。小説としてどうか、という点よりもまず、こういう現実があったのか、という点に関心が向きました。そして、なるほど、本書は確かに小説であることに意味があるな、と感じました。ノンフィクションとして実際にあった出来事を描くのももちろん大事だが、小説の登場人物の言動を通じて描き出すことで、読み手がより認識しやすい形で事実を提示出来ているように僕には感じられました。

三人の女性は、それぞれの苦しみの中に身を置きます。彼女たちがどんな状況の中に置かれているのか、という点については、あんまり書きすぎると後半の方の展開も透けて見てしまうような気がするので止めておきますが、引用したように、「今まであった問題が明るみに出た」という状況です。今までは、現実を成り立たせるために、彼女たちが色々と我慢したり調整したりして表向き上手いことやってきた。しかし震災によって、成り立たせる対象である「現実」が無くなってしまった。そうすることで、今まで我慢や調整によって明るみに出ることがなかった問題が浮き彫りになっていくわけです。

興味深いのは、男はあれだけの震災があって、「現実」が消失してしまったというのに、まだ震災以前の「現実」のルールの中で生きようとする、ということです。これはある意味で当然かもしれません。男は、それまでの「現実」が、女性の我慢や調整によって成り立っていた、という事実を認識できません。だからこそ、自分の振る舞いが、震災後も通用する、という判断になってしまうのです。

さらに、もっと恐ろしい状況さえ生まれます。それは、「女性に負担が掛かるのは当然」という意識を持った男にしか繰り出せない理屈です。

避難所のリーダーが、こんなことを言う場面があります。

『そらあ家も流され仕事もなくしで男だづも苛々しでっがらね。そういうごどがあっでも仕方ねえだろうね。だがら女性のみなさんも勘弁すてやってね。男っでものはどうしようもねえ動物だがらね』

何のことについて言っているか、理解できるだろうか?これは「緊急避妊用ピル」を配る際の言葉で、つまりこのリーダーは、「男はどうしようもないからレイプされても許してやってくれ」と言っているのだ。

これが、どこかの避難所で実際に口に出された言葉なのかどうか、それは僕には分からないが、言う人間がいてもおかしくない、と感じる。女性を一段も二段も低いものとしてしか見れない男というのはいるのだ。

このリーダーは他にも、「仕切りようのダンボールを使わない」という決断をする。避難所の面々は家族であり、連帯感を強めなければならない、というのがその理由だ。この台詞は、実際に避難所で発せられたという。あとがきによると、著者はその事実を知ったことで、本書を書く構想が生まれたという。

どんな価値観を持っても自由だが、それは「他人に迷惑を掛けない」「他人にその価値観を押し付けない」という前提がある場合だ。自分の理屈でしか物事を見れない人というのは男女ともにいるが、「男社会」の中では男の理屈がはびこり、女性が苦労することになる。そのことを、本書の隅々から感じることが出来るだろう。

また、女性の苦しみは、「対男」だけから生まれるとは限らない。例えば「食事作り」の問題などは、女性同士の間での問題だ。以前から様々な場面で感じることだが、女性というのは、男からは理解されず、さらに女性同士も立場の違いによって共闘することが出来ないという、本当に厳しい状況に置かれている。普段は、女性側の努力によってあまり表立って問題化することのない様々な事柄を、震災というアンプが増幅していく。

また、女性の苦しみという点に限らない描写も様々にある。贅沢を言ってはいけないという雰囲気を感じ取ったり、ボランティアスタッフとの微妙なすれ違いがあったり、義援金を巡る悲喜こもごもがあったりと、震災という様々な側面を捉える作品でもある。

福子のこんな言葉が印象に残った。

『努力すればなんとかなるっていうんなら身を粉にして働く覚悟はあるけんども、考えれば考えるほど、先が見えないってごどがはっきりしてきてしまっで、そうなると死にたぐなる』

この作品では、綺麗事は描かれない。生々しい醜悪さが描かれていく。震災直後は、「絆」「がんばろう」という言葉で様々な場所が埋め尽くされた。しかし、そんな綺麗事の陰には、表に出てこない様々な問題があった。

その問題は、震災が生みだしたものではない。震災前からあったものが浮き彫りになっただけだ。

だからこそこれは、被災地だけの物語ではない。現実を生きる僕らに投げかけられた、大きな大きな問いなのだ。

垣谷美雨「女たちの避難所」

「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」を観に行ってきました



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スティーブ・ジョブズも同じだった。
彼も、何も生み出さなかった。
しかし、帝国を生みだした。

何かを生み出すことと何かを広めることは違う能力なのだと思う。
まさに、映画がそうだろう。
監督とプロデューサーに分かれている。
必ずしもそうではないかもしれないが、生み出す人と広める人は違うことが多い。

具体的には書かないが、僕自身も今似たような環境にいる。
僕が生み出すことが多く、広める人間は別にいる。
だから、広める人間の性質は、結構間近で見ている。

同じだ、と思う。
僕のやっていることを広める人間と、同じだな、と。
スティーブ・ジョブズも、映画や本で読んだ限り同じだった。
広める人間は、皆似ている。

『根気に勝るものはない』

レイ・クロックは、成功した秘訣をそう語る。それは、自己啓発本(というかレコード)の受け売りだったが。確かに、その側面もある。

しかし、広める人間に共通しているのは、強烈な野心だ。
その野心こそが、彼らを動かしていく。

彼らにとって、金は手段であることが多いように思える。もちろん、金が目的であることもあるだろう。しかし、金を得ることは、もっと大事なものを得るための手段でしかないように僕には見える。

その大事なものというのは、名誉だ。自分がやったのだ、という名誉こそを、彼らは求める。
だからこそ、事実や歴史を捻じ曲げようとするし、現実さえも歪曲させようとする。
そこに掛ける労力たるや、ハンパではない。

スティーブ・ジョブズの映画を見た時、スティーブ・ジョブズを「現実歪曲フィールドを持っている」と評していたことが印象的だった。確かにその通り。目の前の現実を、いかに自分の都合の良いように解釈するか。彼らには、その能力がある。

そしてそれは、野心から生み出されるのだ、と僕は思う。

そして、野心とともに、彼らには武器となる言葉がある。彼らは、言葉で夢を生み、夢を見させる。

彼らのどちらが正しいという議論はともかくとして、言葉、という観点から見れば、レイ・クロックと、マック&ディックの兄弟には圧倒的な差がある。マクドナルドのシステムを生みだしたマックとディックは、誠実さと信念を持っていた。彼らは、その誠実さと信念を守るために言葉を使った。しかし、それらを守る言葉は、「No」のニュアンスを持つものが多く、言葉そのものの魅力には欠ける。レイ・クロックは、野心だけがあった。誠実さの欠片もなかったが、しかし魅力的な言葉を発した。その言葉が真実であるかどうかは、彼には問題ではなかった。その言葉が相手にどんな夢を見せ、どんな夢を実現させていくのかだけが重要だった。そうやって、野心と言葉で帝国を生み出していった。

僕は、マックとディックの兄弟の方が好きだ。僕も、結末が分かっていても、この兄弟のように行動したいと思ってしまう。レイ・クロックのやり方は、好きじゃない。しかし、具体的には指摘できないが、マクドナルドが帝国を築いたことで良かったこともあるのではないかと思う。雇用や税収や日々の生活という点で、マクドナルドの存在に恩恵を被っている人もきっとたくさんいるのだろう。そう考えた時、レイ・クロックのやり方を簡単に否定することも難しいな、と感じてしまう。

しかし、この映画を見て感じたことは、レイ・クロックは本当に何も生み出さなかったな、ということだ。マクドナルドの調理の仕組みも、マクドナルドに収益をもたらす仕組みも、全部レイ・クロック以外の人間が考えた。レイ・クロックがしたことと言えば、「マックとディックの店を見つけたこと」と「この店が金を生むと判断したこと」だけだ。確かに、そうしなければ何も始まらなかったのだから、レイ・クロックの着眼点と行動力に褒めるべき点もある。しかし、だからと言って、レイ・クロックが有能だということにはならないだろう。野心と言葉と根気。まさに彼は、これだけで成功したと言っていいのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
一発当ててやろうと様々な仕事に手を出したレイ・クロックが今売っているのは、ミルクシェイクマシーン。しかし、彼の売り文句では誰も買ってはくれない。彼は、しがない営業マンだった。
そんなクロックに、信じがたい話が舞い込む。なんと、ミルクシェイクマシーンを6台も一遍に注文したいという店があると秘書が言っているのだ。信じられなかったクロックは自ら店に電話すると、6台ではなく8台に増やして欲しい、という。電話の向こうでは、客と店員による実に繁盛した店である雰囲気が伝わってきた。遠かったが、クロックはその店まで行ってみることにした。
<マクドナルド>というその店は、クロックには信じがたい店だった。当時あちこちに出向いてはドライブスルーの店で食事を摂っていたクロックは、注文ミスや長時間待たされると言った状況が当たり前だと思っていた。しかし<マクドナルド>は、注文からたった30秒で商品が出て来る。ウエイトレスもいないのに、皿もフォークも出てこないのに、大繁盛している。これだ、と思った。これをフランチャイズ化して儲けよう、と。
しかし、<マクドナルド>の経営者であるマックとディックは、簡単には首を縦に振らない。「平凡な50店よりも、この店を最高の店にすることの方が大事だ」と、フランチャイズ化に渋る。それでもなんとか了承させ、マックとディックが状況をちゃんと監視できるような形で契約書を交わした。
次々に出店するクロックに対し、不安を募らせる兄弟。しかし、クロックがある男と出会ってから、さらにその不安は加速し…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。僕はなんとなく、マクドナルドのシステムを作ったのは別の人間だ、というようなざっくりした知識は持っていましたが、世界的企業・マクドナルドの背景にこんな物語があったということは知りませんでした。

この映画は、基本的にはレイ・クロックという、「マクドナルドの創業者(ファウンダー)」を名乗る人物を主人公にしている物語です。実際にはクロックは何も生み出してはいないのだけど、「創業者」を名乗ってしまいます。そのやり方は強引で酷いものですが、僕自身は「広める人間」のことを本や映画や実在の人物で知っているので、あぁこういう感じだよなぁ、と思ってみていました。そういう意味で、レイ・クロックという人物にはさほど興味は持てませんでした(ただ、レイ・クロックについて映画いていく物語は面白いと思いましたけど)。

個人的に興味があるのは、マックとディックの兄弟です。
まず、彼らが<マクドナルド>を生みだしたその経緯が面白い。最初はドライブスルーの店だったのだけど、客層が悪かったこと、さらにウェイトレスが必要など経費もかさむという点で良くないと判断する。そして、究極の効率化を目指して、「注文から30秒で商品が出て来る」という超スピード調理の仕組みを独自に編み出す。
しかし、面白いのはここから。彼らは自信を持って店を開けますが、開店当初は「ウェイトレスが来ない」「皿もフォークもない」と苦情の嵐。あまりの受け入れられなさに諦めようと思ったそう。しかし、結果的に彼らのやり方は受け入れられた。この過程がまず面白い。

さらに、彼らはレイ・クロックと手を組んだ後も、「安い儲け主義には走らない」と、クロックの提案に対してNoを突きつける。どちらが正しいかはともかく、彼らの主義主張は対立する。

両者にとって「成功」の意味が大きく違った。彼らはともに、「成功」するために知恵を絞り、努力した。しかし、その努力は真っ向から食い違った。結局兄弟は、資本主義社会の中で飲み込まれていく。

マクドナルドは、大成功を収めた。しかし、その背景を知ってしまうと、複雑な気持ちになる。僕自身も、広い意味では資本主義社会の恩恵を受けて生活をしている。多くの人がそうだろう。そういうシステムの中で生きている以上、レイ・クロックのやり方を簡単に非難することは難しい。しかし、マックやディックが味わったような不幸が生み出されるべきではないとも感じるのだ。

結局怪物は、資本主義社会そのものなのだろう、と感じる。

「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」を観に行ってきました

この世でいちばん大事な「カネ」の話(西原理恵子)



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この本を読んで、つくづく思ったことがある。

世の中には、「成功するための本」は山ほどある。「成功」をどんな風に捉えるかで本の中身も変わってくるんだけど、基本的には「こうすればうまく行くよ!」って方法が書かれた本。そういう本は、本屋に行けばたくさん見つけられる。

でも、本当に大事なのは、「しなくていい失敗を避けるための本」なんだろうな、と凄く思った。

僕たちは子どもの頃、学校で色んなことを習う。でも、どうも学校で習うことって、直接的には人生に役立ってくれない。もちろん、まったく役に立たないわけじゃない。僕は数学をちゃんと勉強したお陰で論理的に考える力が身についたと思っているし、歴史や化学や英語なんかも、役立ちレベルはともかくとしても、全然役に立たないわけじゃない。けどやっぱり、生きて行く上でどうしても必要な知識じゃないな、と思う。

本書で書かれてるみたいなことこそ、誰しもが生きて行く中で知っておかなきゃいけないことだろうと思う。しかしなかなか、こういうことを教えてくれる大人はいない。

それはある意味で仕方ないことではあるのだろうと思う。学校の成り立ちや、家庭で教えるべきことの変化などから考えれば仕方ないのだと思う。

昔は、みんなが学校に行けるわけではなかった。一部の、ある種特権的な人たちが通う場所だった。つまり、エリート養成所だ。学校というのは、元々の前身を考えればそういう性質があるわけで、だからこそそこでは、普通に生きて行くための知恵ではなく、高度な学びが展開されるのだ。

また、かつては身分によって就ける職業が違っていたはずだ。だから家庭では、自分たちが属する世界のしきたりさえ教えておけば事足りた。しかし時代は変わり、今は(表向き)身分によっての差別はない。そうすると、かつて家庭で教えていたレベルの教育では足りなくなってくるだろう。自分たちが属する世界だけではなく、どこに行っても恥ずかしくない、通用する知識を教えなければならない。なかなか家庭でそこまでやれないという背景もあるだろう。

学校という場は「生活のための知識を得る場ではない」という性質があり、家庭という場では「教えなければならない生活のための知識が多すぎる」という問題がある。それ故に、僕らが社会に出るまでに本当であれば知っておかなければならない知識を身につける場が実際には存在しない、ということになってしまう。

実際僕たちは、「お金」について学ぶ機会というのが本当に少ない。学校の授業で習った記憶はないし、少なくとも僕は、お金について親から何か言われた記憶はない。家庭によっては、そういうお金の教育をするところもあるだろうが、それは個々の家庭の判断に任されている。

お金だけではない。社会に出る前にどんな準備をしておくべきか、働く上で大事なことは何か、家族を持つ時に何を考えるべきか…こういう、人生を構成するとても大きな事柄について、僕らは基本的なスタンスを学ぶことなく、社会に出ることになってしまう。

もちろん、それらは「生き方」に直結する話だし、であれば、他人の意見が邪魔になる、という可能性だって十分にあるだろう。とはいえ、考え方を押し付けるのではないやり方で、子どもの内からそういう事柄について考えさせるような教育はきっと出来るはずだと思う。

西原理恵子は、恐ろしく貧しかった子ども時代から這い上がり、やがて絵一本で食えるようになって行くが、しかしその後麻雀で5000万円以上のお金を失うという、お金に絞ってみてもなかなかハードな人生を送っている人だ。特殊な生き方から普遍性を持つ考え方が生まれるのかどうかはその時々だろうが、僕は本書を読んで、著者が提示する様々な考え方は、西原理恵子のような特殊な生き方をしていない人にもきっと当てはまるだろう、と感じた。

タイトルには「カネ」とあるが、決してお金だけの話ではない。本書で描かれているのは、「いかにして生きるのか」という、その覚悟や手段なのだ。

内容に入ろうと思います。

『「貧困」っていうのは、治らない病気なんだ、と。』

高知の港町で生まれ育ち、「初めて触ったお金には、魚のウロコや血がついていた」と語る西原理恵子。周囲の皆が貧しくて、貧しいが故に心が荒んだり、悪い道に走っていってしまう人をたくさん見てきた。

『貧しさの中でぼろぼろになっていく女の子たちを見ながら、わたしは、いつか、自分もああなるんじゃなかって、ずっとおびえていたから。そうして貧しさが土砂崩れのように何もかもをのみこんでいくこの町で、とうとう、お父さんが死んだ』

父親は、自殺だった。ギャンブルにハマり、作ってしまった借金を返せなくなっての自殺だった。死の直前まで、父親は母親に「お前が持っている土地を売れ」と言い続けたらしいが、母親は頑として首を縦に振らなかったという。

『貧しさは、人からいろいろなものを奪う。人並みの暮らしとか、子どもにちゃんと教育を受けさせる権利とか、お金が十分にないと諦めなければいけないことが次から次に、山ほど、出て来る。それで大人たちの心の中には、やり場のない怒りみたいなものがどんどん、どんどん溜まっていって、自分でもどうしようもなくなったその怒りの矛先は、どうしても弱いほうに、弱いほうにと向かってしまう』

そういう中で著者は、ちょっと変わった事情から大学を目指すことになった。ならば東京に。母親があちこちからかき集めた全財産140万円の内100万円を著者に渡し、「これで東京に行ってきなさい」と言った。西原理恵子は、腹を括るしかなかった。東京でちゃんと一人で生きていけるようにならなかったら、またこの生活に逆戻りだ…。
好きだったけど、決して上手かったわけではない絵を武器に、最下位の闘い方で突き進んでいった著者の奮闘記だ。

本書の土台となっているのは、やはり「カネ」ではある。貧しい子ども時代、金を稼ぐのに必死になった美大時代、仕事が軌道に乗ってきてからのギャンブルへのハマり方などなど、西原理恵子がお金とどう関わり、どう向き合ってきたのかという体験が、本書のベースとなっている。

しかし、本作全体として見た場合、やはり本書は「生き方」、しかも「働く」ということを背景にした「生き方」を描く内容だと感じる。

『「いいじゃない。お金にならなくても」ってやってるうちは、現実にうまく着地させられない。それこそ、ふわふわした、ただの夢物語で終わっちゃう。
そうじゃなくて「自分はそれでどうやって稼ぐのか?」を本気で考えだしたら、やりたいことが現実に、どんどん、近づいてきた』

著者は美大時代、恐ろしいほどの才能を持ちながら、仕事を選り好みしたり、あるいは仕事をしようとしなかったりする学生をたくさん見てきた。西原理恵子は、客観的に見て絵が下手だった。美大に入るための予備校では、デッサンの成績が最下位だった。しかし、自分が最下位だとわかっていれば、闘い方がある。

『最下位の人間に、勝ち目なんかないって思う?
そんなの最初っから「負け組」だって。
だとしたら、それはトップの人間に勝とうと思っているからだよ。目先の順位に目がくらんで、戦う相手をまちがえちゃあ、いけない。
そもそも、わたしの目標は「トップになること」じゃないし、そんなものハナからなれるわけがない。じゃあ、これだけは譲れない、いちばん大切な目標は何か。
「この東京で、絵を描いて食べていくこと」
だとしたら肝心なのは、トップと自分の順位をくらべて卑屈になることじゃない。最下位なわたしの絵でも、使ってくれるところを探さなくっちゃ。最下位の人間には、最下位の戦い方がある!』

西原理恵子がどうやって絵だけで食べていける漫画家になったのか、それは本書を読んで欲しいが、それを実現するための考え方が少なくとも本書に二つ書かれている。

『「才能」っていうのは、そんなふうに、自分だけじゃわからない、見えてないものだと思う。自分で「こうだ」と思い込んでることって、案外、的外れだったりするからね。
何でも仕事をはじめたら、「どうしてもこれじゃなきゃ」って粘るだけじゃなくて、人が見つけてくれた自分の「良さ」を信じて、その波に乗ってみたらいい』

これはまったく同じことを僕も考えている。「才能」というのは結局誰かに見つけてもらうもんで、自分で思い込んでいる「才能」なんてくそくらえだって。そういう意識を持てれば、自分に求められていることを提供する、という形で、社会の中で自分の立ち位置を作り出していけるかもしれない。

『この仕事で食べていくことができなかったら、またあの場所に逆戻りだと思うから、どんな仕事だって引き受けることができた。しんどいとき、落ち込んだときもそう。引き返せないんだもの。だから目の前のハードルを体当たりでいっこいっこ、乗り越えていくしかない。ここで踏ん張らなかったらまたあの貧しさにのみこまれてしまう。だから、足は止めちゃいけない。前へ、前へ。
わたしの生い立ちは、わたしに、決して振り返らない力をくれたと思う』

だから、良かったとは思わないけど、辛かった子ども時代のことも決して悪かったわけじゃない、と西原理恵子は書いている。

前へ進め、とだけ言われることは、辛いこともある。けど西原理恵子は、『競争社会から落ちこぼれたっていい。日本を出ちゃっても、ぜんぜん、かまわない。いまいるところがあまりにも苦しいのであれば、そこから逃げちゃえ!』とも書いている。この感覚は、まさに僕と同じだ。僕も、どうにもならなくなったら逃げようと思っている。そういう意識を持っているから、前進出来るのだと思う。

こういうことって、子どもの頃に知りたかったなと思う。大人の社会に放り込まれる前に知りたかったな、と。もちろん、こういうことをちゃんと知ってて言語化出来る大人がそもそも少ないんだから、こういうことを子どもが教われないのも当たり前っちゃあ当たり前。だからこそ、こういう本で子どもの内から学べるチャンスがあるっていうのは、とても羨ましいことだと思う。

これから大人になっていく子どもたちにはもちろん読んで欲しい。でもそれだけじゃなく、大人になりきれてないと実感している大人とか、ちゃんと大人であり続けたいと思っている大人とかにも読んで欲しい。

そして本書を読んだ大人は、ちゃんとこういうことを子どもに伝えて欲しいと思う。

西原理恵子「この世でいちばん大事な「カネ」の話」

日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る(青山透子)



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これまで、色んなノンフィクションを読んできた。
その中には、未解決事件のノンフィクションも多くある。歴史に名を残すような有名な事件のノンフィクションが多いが、様々な謎が残され未だ解決の糸口すら見えない事件というのは多く存在する。

しかし、それらは「事件」であると認識されている。

本書を読んで驚いたことは、「事故」だと認識されていることが、実は「事件」だったかもしれない、ということだ。

『この三十二年間、墜落に関する新聞記事等の膨大な資料を、現在から墜落時まで時系列にさかのぼって読み込んでいくと、そこに見えてきたものは、これは未解決事件であるということだ』

もちろん、今パッとは頭に浮かばないが、「事故」だと思われていたものが実は「事件」だった、という本も読んだことがあるだろう。しかし、しかしである。「日航機墜落事故」は、リアルタイムでその事件を知らなくたって、普通に生きていればまず耳に入ってくるだろう、昭和史における重大事故だ(だからこそ、本書の中で、早稲田大学の学生がこの事件を「知らなかった」とレポートに書いている事実を知って驚いた)。

そんな重大事故が、実は「事件」だったかもしれない…。本書は、そう強く訴えかけている。

本書にどんな具体的な事実が書かれているのか、それは後で触れよう。何よりも重大なことは、あれだけの「事故」がもし本当は「事件」だったとしたら、そんな隠蔽を実行に移すためにはとてつもない力が働いていたと想像するのに難くない、という点だ。政府レベルで隠蔽工作が行われているのでなければ、絶対に不可能だ。

僕は、そのことが一番怖い。

「殺人犯はそこにいる」という作品を読んでそのことを強く実感したが、僕たちが生きている社会は、様々な欺瞞の上に成り立っている。公権力が、その権力を利用して、不都合な事柄を隠そうとする、そういう動きが恐らく存在する。日航機墜落事故においてその力が働いたのか、それはもちろん定かではないが、本書を読む限り、その可能性は決して低くはないだろうと思わされる。

ごくごく一般的な人生を歩んでいられるのであれば、この点はさほど大きな問題にはならない。実際のところ。警察や裁判所や軍や永田町などと、どんな形であれ一生関わらずに生きられるのであれば、特に支障はない。しかしそれらと、期せずして対立する形になってしまった場合、社会が持つこの性質は、一気に僕らの人生に襲いかかり、すべてを破壊していくだろう。

問題は、それらと関わるかどうか、僕らの意志ではどうにもコントロール出来ない、ということだ。日航機墜落事故にしたって、乗客たちは自らの意志でこの事故(あるいは事件)に遭ったわけではない。僕らが普通に生きている中で、いつ何時そういう自体に巻き込まれるのか分からない。

だからこそ僕らは、僕らが生きている社会が孕んでいる欺瞞や、隠蔽を生み出す構造などをあらかじめ知っておかなければならないのだ。知っていたとしても、必ずしも対処出来るわけではない。しかし、知らないで遭遇するよりは、ずっとマシだ。

日航機墜落事故を知らなくても、そこまで関心が持てなくても、社会の底が抜けているのだということを確認するためにも、読んだほうがいい一冊だ。

内容に入ろうと思います。
本書は、元日本航空客室乗務員であった著者が、日航機墜落事故に関する資料を読み、様々な人に話を聞き、その中で抱いた疑問や仮説などについて書いている作品です。

本書は僕の中で、全体的には高評価の作品ですが、先に1点、もっとこうだったら良かったのに、という点を挙げておきます。

それは、著者がノンフィクション作家だったらもっと良かっただろうな、ということです。

著者が元日本航空の客室乗務員である、という点は、作品にある種の厚みを加えている点であることは間違いありません。本書の中では、日航機墜落事故で亡くなった客室乗務員と著者との関わりが描かれます。そういう描写が組み込まれることで、亡くなった方々をよりリアルに感じられる、という点は本書の強みだと思います。

しかし一方で、これは厳しい見方かもしれませんが、本職のノンフィクション作家ではないが故に、すべき取材が出来ていなかったり、文章の構成がそこまで上手くなかったりするな、ということも感じました。

本書を書く上で著者は、「これまでの資料を読み込む」かつ「HPを通じての情報提供(提供者から直接話を聞くこともある)」という二つをメインにしています。もちろん、著者自身も取材に出ることはあるのですが、やはりそこは本職のノンフィクション作家と同じようにというわけにはいかないでしょう。取材のノウハウみたいなものはやはりあるはずで、だからこそノンフィクション作家には、新聞記者や雑誌記者だった方がなることが多いんだと思います。恐らく本職のノンフィクション作家であれば、もっと多方面に取材しただろう、と本書を読んで僕は感じました。

また、全体の構成的にも、ちょっとノンフィクションとして弱いかな、という印象を受けました。具体的にどうすればいいのか、という提案は出来ませんが、もう少し構成をすっきりさせることが出来るような気がしました。

この辺りが、僕としてはちょっと不満ではありました。

とはいえ、内容的にはかなり驚かされるものでした。副題にもあるように、本書では「目撃証言」にかなり重点を置いています。著者は資料を読み込むことで、埋もれてしまった様々な「目撃証言」を拾い出していきます。そして、それらの目撃証言から想像しうる仮説を導き出しています。

日航機墜落事故に関してどんな目撃証言が存在したのか。すべてではありませんが、ざっと挙げてみます。

◯ 墜落現場周辺の人が墜落現場を特定し政府関係者や県に連絡していたが、テレビなどではいつまでたっても「墜落現場不明」と報道されていた
◯ 日航機は超低空飛行していた。そしてその腹の部分には、赤色の楕円形の何かが見えた
◯ 墜落現場一帯に、ジェット燃料とは違う種類の臭いが充満していた
◯ 窓から外を写した写真を解析したところ、オレンジ色の物体が飛行機に近づいていることが分かった
◯ 墜落前の日航機を、2機のファントムが追尾していた

これらの目撃証言を、著者は様々な形で入手する。小学校の文集の中から、HPを通じて会いに来てくれた人の証言から、様々な報告書などから…。もちろん人間には見間違いや記憶違いもあるだろうが、それぞれの目撃証言は一人や二人の話ではない。かなり大勢の人間によって目撃されているのだ。集団で幻覚を見たというのでもなければ、見間違いなどということはあり得ないだろう。

また、目撃証言ではないが、日航機墜落事故に関する様々な状況も著者は拾い集めていく。米軍や自衛隊が、出動準備が整っていたにも関わらず待機を命令された、日本航空の社長が首相官邸に行ったら殺されると怯えていた…などである。これらの証言も、何か大きな力の関与を想像させる。

もちろん、著者の仮説には、それを支える積極的な証拠はない。目撃証言や状況証拠から考えて、「これまで原因とされていたものでは説明がつかないこと」が多いことを示し、さらに「自分が集めた証言や状況をうまく説明するためにはこう考えるのが妥当なのではないか」という想像を書いているにすぎない。もちろん、これは著者を責めているというのではない。冒頭でも触れたが、もし日航機墜落事故に政府を含めた巨大な力が働いているとすれば、公にされている事実を覆すような何かを個人がえぐり出していくことはほとんど不可能だろう。しかもこの件には、米軍が絡んでいるのではないかという推測もある。であれば、真相の究明はなおさら困難だろうし、推測の域を出なくても仕方ないと思う。しかし、やはりノンフィクションとして見た場合には、弱さを感じる。

隠蔽を完全に証明できるような物証が出て来ることは、恐らくないだろう。であれば、もし著者の推測通りのことが起こっていた場合には、隠蔽に関わった人物からの告発がなければ真相の解明は不可能だろう。それが実現する可能性があるとすれば、僕らがずっと関心の持ち続けることが一番だろうと思う。そういう意味でも僕らは、この事故のことを忘れてはいけないのだ、と改めて感じさせてくれた一冊だった。

青山透子「日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る」

政治的に正しい警察小説(葉真中顕)



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内容に入る前に一つだけ。
本書は6編の短編が収録された短編集なのだけど、基本的には1作も警察小説はない。だから、タイトルに惑わされないようにして欲しい。

内容に入ろうと思います。

「秘密の海」
出会いはネットのブログだった。彼女は「トラヴィス」と名乗り、男の振りをしていた。世の中のあらゆる事柄を憎み、自殺をほのめかすその内容に思わずコメントした。そこからやり取りが始まり、会うようになった。そして縁がないと思っていた結婚をした。子どもが出来たからだ。
僕は両親に虐待されながら育った。それでも、両親のことが好きだった。けれど両親はある日突然いなくなった。僕は施設で育ち、それからも不遇の人生を歩んできた。そんな僕に子どもが出来た。不安はよぎる。自分はこの子を虐待せずにきちんと育てられるだろうか?
僕は時々思い出す。両親が連れて行ってくれたあの「秘密の海」のことを…。

「神を殺した男」
私は、「将棋年鑑」という書物に、紅藤清司郎の奇跡を振り返る記事を書くことになった。26歳の年齢制限までに奨励会を抜け出してプロになることが出来なかった私は、今はライターとして糊口を凌いでいる。
紅藤清司郎は、将棋界に燦然と輝くスーパースターだ。12歳でプロ棋士となり、17歳で七冠制覇という異形の強さを誇っていた。プロの中で強いと言われる者であっても勝率は6割台、ごく稀に7割に届く者がいる、という中で、紅藤清司郎の通算勝率は9割7分。他の追随を許さないとはまさにこのことだ。
しかしそんな紅藤清司郎は25歳でこの世を去った。なんと、同じくプロ棋士であり、紅藤清司郎に次ぐ実力を持つとまで言われていた黒縞治明によって殺されてしまったのだ。同じ部屋で自殺していた黒縞治明は遺書で、「紅藤がいる限りどのタイトルも獲れない。だから神を殺す」と書いていた。将棋界ではこの話はタブーであり、もちろん将棋年鑑の取材で紅藤の妻・毬子に取材をする際も、事件のことなど聞くつもりはなかった。
しかし、毬子さんから話しだしたのだ。本当に黒縞は、紅藤がいたらタイトルが獲れないなどという理由で殺したのだろうか、と…。

「推定冤罪」
浦川克巳は、無事釈放された。漫画家仲間であり、浦川の才能を高く評価しているナガサワタクトらの声掛けにより支援者の輪が生まれ、ここまでこぎつけたのだ。ナガサワタクトの方が一般に知られた漫画家だが、彼は浦川の方が漫画家としての表現力などは圧倒していると考えている。
浦川の自宅近くで、少女が無残な姿で殺されていたのがことの発端だ。不運というかなんというか、その事件は、浦川が少し前に発表していたマンガと近いものがあったのだ。事件に酷似した絵を、現場の近くにいる漫画家が描いていた―浦川は、ただそれだけの理由で疑われ、拘束された。
物証や目撃証言などは存在せず、弁護士もこの状況で起訴まで持ち込めるはずがない、と楽観視していた。しかし、想定外の事態が起こり…。

「リビング・ウィル」
松山千鶴は母から、祖父が意識不明の重体だと連絡を受け病院に向かう。行動的で、感性も若くて、千鶴は仲良くしていた。しかし、同じように祖父にかわいがってもらっていた従姉妹の早苗はまだ来ていない。早苗は昔とは大きく変わってしまった。
祖父はこのまま植物状態になるかもしれない―そう言われた時、千鶴は祖父がかつて言っていたことを思い出した。自分が植物状態になったら延命はしないで欲しいと言っていた。しかし…

「カレーの女神様」
一人の青年が、たまたまオープンしたばかりのカレーショップ<CURRY SHOP VISHNU>にやってきた。カレーと言えば思い出すのは母親が作ってくれたカレーだ。秘密の隠し味を入れたというとびきりのカレーを食べさせてくれた翌日、母親は姿を消した。それからは、親戚の家で育ててもらった。
カレーショップで恐ろしく美人な店員さんに出してもらったカレーは、驚くことに、母親が最後に作ってくれたのと同じ味がした。まさか…。

「政治的に正しい警察小説」
小説家の浜名湖安芸は、フリーの編集者である郭公鶴子と喫茶店で会った。何度投稿しても落ち、これで最後と決めて最大の力を込めた作品でデビュー。デビュー作が高く評価され、その後作品も順調に出版している浜名湖ではあるが、それまでの作風をなぞっているだけのような気がして、自分なりに行き詰まりを感じている。鶴子から連絡があったのはそんなタイミングのことだった。
鶴子は浜名湖に、警察小説を書いて欲しいという。どんな依頼かと思えば警察小説か、と思った浜名湖だったが、鶴子の依頼は少し違った。それは、「政治的に正しい警察小説」を書いて欲しいというものだったのだ。その時代その時代の「当たり前」が無自覚に差別的な表現となっている事例は多々ある。それらをすべて排除し、どんな方向から見ても先入観も差別的な視点もない「政治的に正しい警察小説」を書いてくれないか、というのだ。
なるほどこれは面白そうだ、と思った浜名湖は早速挑戦する。案外するすると書けてしまったが…。

というような話です。

なかなか面白い作品でした。かなりバラエティに富んだ作品で、一冊で色んなタイプの物語を楽しめます。とはいえ全体的には、ちょっとブラックだったり皮肉っぽかったりするような話が多いと思います。

個人的に好きなのは、「カレーの女神様」と「政治的に正しい警察小説」です。

「カレーの女神様」は、なるほどそう来るか!という感じでした。最後まで読んで、なるほどこれはよく出来てるなぁ、という感じがしました。具体的に書けることは少なくて、こういうボヤッとした感想になってしまうんだけど。味覚に自信のない僕としては、「大分昔に食べたカレーの味を覚えているのか?」みたいな些末な疑問を抱いてしまったんですけど、全体的には好きです。一気に物語のテイストが変わるところとか、素晴らしいなと思いました。

「政治的に正しい警察小説」は、なんというか実にシュールな物語だなと思いました。なんとなく筒井康隆を彷彿とさせる感じです(とはいえ、筒井康隆の作品はそこまで読んだことありませんが 笑)。著者なりの「政治的に正しい(PC)」小説を書くのだけど、ことごとく鶴子氏にダメ出しをされる。そのダメ出しの仕方が、主人公の浜名湖と同じく、なるほど確かに即答では反論出来ないようなものが多いなぁ、という感じがしました。鶴子の指摘は明らかに過剰だし、そんなことを言っていたら小説なんかまるで書けなくなっちゃうんだけど、それならどの程度まではいいんだ?みたいなところを考え始めるとドツボにはまりそうだな、と。

「政治的に正しい(PC)」という概念をこの小説で初めて知ったんだけど、これはなかなか面白いなと思いました。本書では「十五少年漂流記」の例が引き合いに出されているのだけど、なるほど分かりやすい。確かに、100年後200年後の視点から現代を見るのはほぼ不可能に近いんだろうけど、可能な限りそういう視点を排除していくというのは、小説という創作でやるべきかどうかはともかく、生きて行く上で持っていた方がいいだろうなと思いました。

その他の話についてもざっと
「秘密の海」は、巧いなと思いました。「神を殺した男」は、理屈では理解できるけど、推測のみでこれを結論とする終わらせ方はちょっと厳しい気がしました。「推定冤罪」は、現実が歪んでいく感じが面白いですけど、個人的にはあと一歩という感じがしました。「リビング・ウィル」は、なんとなく予想通りだったかなという感じです。

葉真中顕の作品を全部読んでいるわけではないんだけど、基本的には「社会はミステリー」と呼ばれる作品を書いています。そういう意味では、本書のような小説は結構珍しいだろうと思います。葉真中顕の新しい一面が見れる作品ではないかなと思います。

葉真中顕「政治的に正しい警察小説」

レッツ!!古事記(五月女ケイ子)



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内容に入ろうと思います。
本書は、あの「古事記」をちょーユルユルに解釈して、コミックエッセイのような感じで描き出す作品です。

僕は「古事記」については、どんな感じの作品なのかまるで知識がなかったので、そういう僕みたいな人間にはなかなか面白い作品でした。
ヤマタノオロチの話とか、天の石屋戸の話とか、因幡の白兎の話とか、個別には知ってたけど、なるほどそれって「古事記」に載ってる話だったんだ!というぐらいの知識量でした。そんな僕にとは、ほぉなるほどぉ、と思うような話が多くて、結構楽しく読めました。

作品自体は基本的に絵なんですけど、各ページの下の方に、「五月女ケイ子氏」と「オロチ博士」という二人が登場し、作品に対してツッコミを入れていきます。たぶん、絵だけだったら理解できない部分も多かったでしょう。このツッコミが、なかなかいい感じだったと思います。

「天照大御神を天の岩屋戸から出すためにドッキリ作戦を行った」
「因幡の白兎はオオナムジにオーディションを行った」
「歌は呪力を持つ表現とされていたから、ここぞという時に歌う→つまりミュージカルみたいなもの」

みたいな感じで、相当くだけた感じで解説をしてくれます。

「古事記」の話は、ただ普通に読んでいると、「何その超展開」みたいなことがよくあります。でも、その当時の価値観や習俗を説明してもらった上だと理解できる部分も出てきます。まあ超展開であることには変わりないんですけど、置いてけぼり感みたいなのはなくなる、という感じがします。

本書は、「入門書を読むための入門書」という感じがしました。「古事記」についてちょっとでも多少なりとも知識や関心がある人は入門書などから読んで大丈夫だと思います。本書は、そのもっと手前、「コジキって何?美味しいの?」みたいなレベルの人には、かなり面白く読めるんじゃないかな、と思います。たぶん、著者の独自の解釈みたいなのも含まれてる気がするので、どこまで本書の記述を受け取っていいのか微妙なところはありますが、面白く読めると思います。

しかし、「古事記」って、読みにくいから理解しにくいんだと思ってる部分もあったけど、読みやすくなっても理解しにくいんだなぁ、と(笑)。超展開すぎる!

五月女ケイ子「レッツ!!古事記」

「あさひなぐ」を観に行ってきました



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内容に入ろうと思います。
二ツ坂高校に入学した東島旭は、初登校の日にそうとは知らず、なぎなた部のエースで2年の宮路真春と遭遇した。その後の入部説明会でなぎなた部の演技を見たことがきっかけで、中学では美術部だった旭はなぎなた部に入部することになった。一緒に入部したのは、剣道経験者で言葉のキツイ八十村将子と、裕福な家庭のお嬢様である紺野さくらの三人。皆、なぎなた初心者である。
そしてやってくるインターハイ。この大会で、3年生が卒業する。3年生の一人を押しのけるようにしてメンバーに加わった真春だったが、一年のエース・一堂寧々のいる國陵高校に敗れてしまう。落ち込むメンバーを鼓舞するように、旭は、「一堂なんか私が倒してやる」と宣言、一堂に聞かれてしまう。
そこからは、野上えりを部長として、大倉文乃を含めた6人で練習を重ねる。
なぎなたのルールさえ覚えようとしないチャラい顧問が、夏合宿の場所を見つけてきた。バーベキューだのラフティングだのとメンバーを乗せようとする顧問だったが、しかしそれは、鬼のような指導者がいる尼寺での地獄の特訓のスタートだった…。
というような話です。

僕は、「あさひなぐ」の原作を読んだことがなく、かつ乃木坂46ファン、という立ち位置です。そんな僕的には、かなり好きな映画でした。

物語的には、超王道のスポ根という感じです。なぎなたド素人の旭がいて強くなるんだろうと予感させる。同じ部にべらぼうに強い真春がいて、旭を始め多くのメンバーに影響を与えていく。別の高校には、一堂という、いずれ倒さなければならないライバルがいる…。そういう、お約束的な設定が非常に多いので、だからこそ安心して物語から脱線する部分を楽しむことが出来る、と思います。

恐らく原作の雰囲気を踏襲しているんでしょうけど、この映画はギャグとかコメデイっぽい要素もあります。ここでこうなるんだろうなぁ、という展開を、意図的にぶち壊していく。そのための重要なキャラクターが、なぎなた部顧問の小林先生で、彼の登場は物語的には非常に邪魔なんだけど、真面目に進みすぎてしまいがちな物語を意図的に緩める役割としてはなかなか重要だなと思いました。

そういう意味で言えば、旭も場の空気を外していく感じのキャラクターです。中村先生の場合は、最初からチャラいというか、真面目さを打ち出そうともしない人物ですけど、旭の場合は、真面目にやっているんだけどどうも外れてしまう、というところが面白いですね。

全体的には凄く真面目になぎなたをやっているんだけど、小林先生や旭の振る舞いによってゆるっとした感じも出てて、楽しく見れる映画に仕上がっています。

僕は原作は読んでないのだけど、原作を読んだ人の話では、物語はスポ根だけど、内面描写とか感情の切り取り方が凄く上手い、と言っていました。映画ではやはり、どうしてもそこまでの雰囲気を出すのは難しかっただろう、という感じはします。とりあえず僕は、この映画を見て、原作を読んでみたくなりました。映画の中で好きな台詞は結構あるんですけど、大体、鬼のような修行を課した尼寺の坊主・寿慶のものなので、とりあえずここでは書かなくてもいいかな、と。

物語的に触れる部分は、正直これ以上はあまりないかな。それは、悪い、という意味ではなくて、超王道のスポ根、というのでおおよその説明が終わっているだろう、と思うからです。誰でも安心して見れるタイプの映画だと思います。

で、ここからは乃木坂46ファンとしてどう感じたかを書きます。

僕は映画を見ながら、割と早い段階から泣いてたんですよね。ストーリー的には正直、泣くようなところあった?みたいなところから、なんだか泣いてました。映画を見ながら、自分がなんで泣いてるんだろうなぁ、なんて思ってたんですけど、やっぱりそれは、これが乃木坂46の映画だからだろうなぁ、と思いました。

なんとなく、「あぁ、乃木坂46の子たちが頑張ってるなぁ」みたいな、そういう目線で見てたんだろうな、という気がします。恐らく、乃木坂46以外の人たちが主演であれば、泣いてないんじゃないかな、という感じがしました。自分でもなかなか不思議な感覚ですけど。

特に、これは昔から思っていることですけど、やっぱり西野七瀬は感情に訴えてくる表情をするなぁ、と思います。台詞がなくても、感情をそこまで表情に乗せていなくても、西野七瀬をただ見ているだけでなんとなく感情を揺さぶられる。こういう感覚を僕は、乃木坂46のメンバーに限らず、他の誰からも感じたことがありません。西野七瀬は不思議な存在だなぁ、と思います。

特に今回の映画では、「東島旭」と「西野七瀬」というのは、キャラクターとして近いものがあると思うんですね。「あさひなぐ」に関する西野七瀬のインタビューなどを読んでいると、西野七瀬自身もそう感じているところがあったようです(ただ、監督からはよく、「そんなに暗くはない」と言われていたようですけど)。だからこそ余計に、西野七瀬の「儚い」部分が「旭」にも乗り移って、「旭」を見ているとなんだか切ないような気持ちになるんだろうなと思いました。

原作を読んでいないので原作との比較は出来ないけど、西野七瀬・白石麻衣・松村沙友理の三人の配役はピッタリだった感じがします。西野七瀬の儚い感じ、白石麻衣の凛とした感じ、松村沙友理のホワホワとした感じは、それぞれ実に合っていると感じました。インタビューで松村沙友理が、原作を読んだ時、紺野さくらはまさに自分だと思った、というような発言をしていたので、あの感じは原作通りなんだろうな、という感じがします。

あと、これも事前情報として知っていましたけど、なぎなたの試合などはすべて、役者本人が実際にやっているんだそうです。防具をつけているから別の人にやってもらうことも出来るのに、そうしなかったとのこと。どんな風に撮っていたのか分からないけど、ちゃんと経験者による試合運びっぽく映っていたので、かなり頑張ったんだろうな、と思いました。

乃木坂ファンじゃなくても原作ファンじゃなくても十分楽しめる映画だと思います。

「あさひなぐ」を観に行ってきました

図書館の魔女(高田大介)



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本書の感想を書くことは、「日本の感想を書くこと」に近いものがある。

日本について何か感想を書いてくれ、と言われた場合、そこには山ほどの切り口が存在する。観光・歴史・言語・方言・地域性・食…などなど、「日本」というテーマをどう切るかというのはいくらでも設定しうるし、その切り口が曖昧なままでは文章をうまく書くことはままならない。

本書についても、まったく同じだ。著者は、切り口が無限にあるように感じられる「世界」を丸ごと作り上げてしまったのだ。

確かに、SFやファンタジーというジャンルは、僕らが普段生活しているのとは違ったルールで動いている世界を作り上げるところからスタートすることが多い。魔法が使えたり、時間旅行が出来たり。とはいえ、そうやって組み上げた世界には、ちゃんと見ようとしなくても空白地帯がたくさんあるということに気づくはずだ。主人公たちが住んでいる隣の国はどうなっているのか、自分たちが住んでいる国の言語の変遷がどうなっているのか、彼らが住んでいる町がどんな風に成り立っているのか…。SFやファンタジーというジャンルにしても、物語の進行上必要な部分は濃密に設定し、それ以外の部分についてはそこまで明確に決めてしまわずに小説を書いていくのではないかと思う。

本書を読むと、著者は世界の細部の細部まで何もかもすべて組み立ててしまっているのではないか、と感じさせられてしまう。本書に描写されていない部分についても、「これこれの部分はどうなっているんですか?」と著者に問えば、瞬時に答えが返ってくるのではないか、と思わされる。

本書はそれほどまでに、すべてが濃密に描かれる凄まじい作品だ。

僕らが「日本」というもの全体について文章を書くことが困難なように、本書についても、物語全体を要約したものを提示する、などということはほとんど不可能だ。何らかの切り口を設定して、その断面はどんな風になっていますよ、という形でしか本書を紹介することが出来ない。これから本書についてあれこれ書いていくつもりだが、いくつか切り口を提示しながら内容に触れていこうと思う。

まずは、非常に大雑把な設定だけ書いておこう。
舞台となるのは、西大陸と海峡を挟んで向かい合う、東大陸に位置する一ノ谷、そこに高く聳え立つ図書館である。「高い塔」と呼ばれるこの図書館にはかつて、タイキ様と呼ばれる図書館のトップ、通称「図書館の魔法使い」と呼ばれる者がいて、その類まれな手腕によって、争いや小競り合いの絶えなかった周辺諸国の和平を陰から実現に導いた経験から厳然たる支配力を有している。一ノ谷においても、王宮や議会に強い影響力を持ち、武力も政治力も持たないはずの、ただ書物を収集し収蔵しているだけの図書館が、国の中枢として力を持っている。
そして、タイキ様から禅譲され、今では「図書館の魔女」と呼ばれているのが、マツリカだ。彼女の姿を直接目にする者は少ないが、見た者は必ず驚かされることになる。何故ならマツリカは、まだ幼い少女だからだ。しかしそれでいて、いくつもの言語を解し、驚異的な戦略力を持つ、まさに「魔女」という名に相応しい存在だ。
マツリカには、もう一つ、「図書館の魔女」というイメージからは想像もつかないとある特徴がある。それは、「喋ることが出来ない」というものだ。彼女は、手話によって自身の考えを他人に伝えることしか出来ないのだ。
一方。一ノ谷の山奥で人知れず修行をし続けていたキリヒトは、「先生」の指示によって慌ただしく里へと降りることになった。キリヒトは、山奥に篭っていてもその名が聞こえてくる「高い塔」に自分が行くのだと理解した。マツリカ様と出会ったキリヒトは、その博識や高い伝達能力に驚かされた。そして、「文字を知らない」自分が、マツリカ様の元で図書館の業務を行うことが出来るのだろうか、と不安になる。マツリカは、先代のタイキからキリヒトを勧められたが、まさか文字が読めないとは思ってもいなかった。これでは、図書館の業務などとても任せられない。しかし、タイキにはタイキなりの遠望があるのだろう。キリヒトに何が出来るのか分からないが、とりあえず手話通訳としてマツリカの声となるべく鍛え上げることにする。
こうして、やがて周辺諸国にその名を轟かせることになるマツリカとキリヒトは出会ったのだった。
という、冒頭の冒頭の部分だけ説明して、内容の紹介は終わろうと思います。書こうと思えばいくらでも書けるんですけど、いくら書いてもキリがないので、最初の最初だけで終わっておきます。

さて、本書の切り口の一つは、「言語あるいは書物」です。
著者は言語学者であるようで、本書では殊更に「言語」あるいは「書物」についての思索がふんだんに盛り込まれていきます。それらはかなり刺激的で、読んでいてクラクラしてくるような話として展開されていきます。なるほど、物事を突き詰めて考えるというのはこういうことなのかと、そして、物事を突き詰めて考えるとこんな風に本質が浮き彫りになってくるのだ、ということが、主にマツリカの鋭い思考によって描かれていきます。

『書かれた瞬間に、それは言葉だった。読まれようその時に、それは言葉であるだろう。人は文字を通して、言葉を書き、言葉を読む。文字が言葉なのではないんだよ。おなじく声が言葉なのではない、手振りが言葉なのではない。言葉はその奥にある。言葉自体は目には見えない、言葉自体は耳には聞こえない』

『お前質は言葉を手段か何か、道具のようなものと考えていたんだろう。(中略)言葉はなにかを伝えるためにあるんじゃないよ。言葉そのものがその何かなんだ。言葉は意思伝達の手段なんじゃない。言葉こそ意思、言葉こそ「私」…』

図書館についても、マツリカはこんな風に言います。

『未だ知りえぬ世界の全体をなんとか窺おうとする者の前には、自分が自ら手にした心覚えと、人から学んだ世界の見方とがせめぎ合い領分を争ってやまない。そしておのれ自身の認識と余人から預かる知見が、ほかのどこにも増して火花を散らしてせめぎ合うのが、ここ図書館だ。図書館は人の知りうる世界の縮図なんだ。図書館に携わるものの驕りを込めて言わせてもらえば、図書館こそ世界なんだよ』

マツリカの思索がすべて理解できるわけではないし、本書で書かれている言説にはついていけない部分ももちろん多々あるのだけど、脳みそが沸騰しそうな程の濃密な議論や思索は、非常に刺激的でした。

また本書において「言葉」というのは、ただ思索の対象というだけではありません。本書は、剣でもなく魔法でもなく、まさに「言葉」によって世界を切り拓いていくファンタジーなのです。

と言っても、イメージは全然出来ないでしょう。僕も、そのイメージを短い説明で掴んでもらう手段を持っているわけではありません。ただ、例えばこんな一文を引用してみましょうか。

『たった一言の台詞から、一ノ谷の政界に暗躍する陰謀の具体的な部分がほぼ明らかなものとなり始めていた』

その一言というのも書いてしまいましょう。『こんなに嵐がひどくなると知りたらましかば…』です。このたった一言から、マツリカは政界の陰謀を暴くわけです。他にもこういう場面はいくつも出てきます。本書では、武力でも政治力でも人脈力でもなく、「言葉」をどう蓄積し、どう知り、どう捉え、どう使うのかによって目の前の現実を動かしていく、その手腕こそが作品の眼目となっています。普通のミステリのように、読者にすべての情報が提示されているわけではないから、ミステリを読むようにはいきません。読者がマツリカのような推理を展開できる余地はありません。その点を批判する感想をチラッと目にしたことがあるので今それに反論するようなことを書いているわけですが、その点は全然問題ないでしょう。少なくとも本書は、ミステリとして謳われているわけではないのだから。「九マイルは遠すぎる」のような作品とはまた違いますが、とはいえやはり、マツリカの慧眼に驚かされるのではないかと思います。

僕が本書について触れておきたいもう一つの切り口は、「マツリカとキリヒト」です。本書は、色んな切り取り方の出来る作品ですが、ボーイミーツガールとしても非常に面白い作品です。

本書を読み終わった時、マツリカとキリヒトの出会いの場面を思い出して欲しいと思います。そこにどれほどの落差があることか。マツリカとキリヒトは最初、決して良いパートナーではありませんでした。その後、お互いに良いこと、悪いことを繰り返して行きながら、二人の関係性はどんどんと変化していきます。そしてそれは、様々な揺れ動き方を見せながら、分かちがたい、離れがたい関係へと進んでいくわけです。

このマツリカとキリヒトの変化も、読みどころの一つです。
マツリカとキリヒトの物語というだけに区切ってみても、さらに様々な切り取り方が出来るのだけど、作品の中盤に出てきたことがラストに繋がっているな、と感じさせられる箇所があるので、ちょっと引用してみます。

『この子は私と一緒だ。私が望んで図書館の番人の家に生まれてきたのではないように、望んで特殊な教育を受けてきたのではないように、この子だってキリヒトの出る家系とやらに望んで生まれついたわけではないだろう。私が高い塔の魔女であることが私の選んだことではないように、この子がキリヒトであることは彼が選んだことではない』

『図書館においで。お前の意志で。つとめではなく、宿世ではなく、先生の命令によってではなく、お前自身の意志で図書館を選びなさい。私がそのために道をあけてやる。』

マツリカが何故こんなことを考え、あるいはキリヒトに言わなければならなかったのか。それは是非本書を読んで欲しいのだけど、とにかく彼らの関係性は、彼らの間に起こったやまほどの激動によって大きく揺れ動き、形を変え、その過程で二人は一つになった。特殊な生き様を強いられた二人がどう生き、どう選択し、どう行動したのか。その一つひとつを是非追っていって欲しい。

そして本書は、全体的に「駆け引き」の物語である。基本的に政治や軍事を背景にした展開が物語全体を支えている。様々な根深い対立構造を抱える周辺地域をどうとりまとめるのか。その方策や道筋のために、様々な形で間諜を放ち、情報を分析し、戦略を練る。それは、高い塔がこれまでもずっとやり続けてきたことではあったのだけど、そこにキリヒトという不確定要素が入り込むことで、それまで存在しなかった新しい未来を切り拓いていくことが出来るようになった。そしてそれはやがて、誰もが想定もしていなかった形で、周辺諸国の火種を取り除いていくことになる。その手腕は、見事としか言いようがない。

駆け引きという点で、僕が非常に印象的だった場面がある。これも詳しくは書かないのだが、ある重要な部品が壊れたことで一ノ谷側が窮地に追い込まれる場面だ。ここは、素晴らしかった。マツリカのマツリカたる対応には、きっと誰もが痺れることだろう。

さて、あれこれ書いたが、僕がここで書いたことは、本書の魅力の1万分の1にも満たないだろう。僕のこの文章を読んで、もしかしたらちょっと面白そうかもと思ってくれた方、その1万倍面白いので、是非読んで下さい。半年掛かってもいいから読んで欲しい一冊です。

高田大介「図書館の魔女」







「セールスマン」を観に行ってきました



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壊れてしまったものは、元には戻らない。
でも、戻ると信じて、何かしたくなってしまう。
しかし結局その行為が、より崩壊を助長することになってしまう。

『私が傷ついてるのに、あなたは何もしてくれない』

この言葉が、男を間違った方向に進ませてしまう。

女がして欲しかったことは、女なりに何かあっただろう。それが何だったのか、映画を見ているだけでははっきりとは分からない。しかし恐らく、女性であればその輪郭をうまく掴めるだろう。女性の気持ちに敏い男も、分かるかもしれない。僕の想像が当たっているかどうか分からないが、恐らく彼女が望んでいたのは、彼女の感情に寄り添うような行動だったのだろう。女にしても、どうして欲しいのかはきっとはっきりとは分かっていなかった。でも、自分の今の辛い気持ちや状況を理解して欲しかった。男に、自分と同じ場所に立って欲しかった。そこから何が見えるのかを語り合いたかった。完璧には難しいとしても、女が望んでいたことは恐らくそういうことだっただろう。

しかし男は、女のその言葉を違う風に受け取った。そしてそれは、女がまったく望んでいないことだったのだ。

男には、自分のその行動が正当で妥当で、そして彼女のためになるはずだと思っていた。そうでなければ、あんなことはしないだろう。

男は、壊れたものが元に戻るはずだと思っていた。いや、そう信じていた。壊れる前の状態に、きっと戻るはずだ、と。そう信じていたからこそ、男は普通ならやらないような行動を取った。

しかし、恐らく女は、壊れてしまったものが元に戻ることはないと分かっていただろう。もう取り戻せないのだ、ということが。だから女は男に、壊れたままの状態で前に進んで行って欲しいと願っていた。そのための行動を、取って欲しかった。

ここにすれ違いがあった。そのすれ違いが、壊れたものをさらに崩壊させるような状況を生み出してしまった。

きっと誰も悪くないはずなのに、すれ違い、より壊れていってしまった二人を描き出す。

内容に入ろうと思います。
エマッドとラナは、同じ劇団に所属する役者であり、夫婦でもある。現在、「セールスマンの死」の稽古中だ。ある夜、突如住んでいるアパートの壁が崩れ始め、出ていかざるを得なくなってしまう。役者仲間であるババクから紹介してもらった空き家を内見するが、何故か開かない部屋がある。ババクは、前の住人の荷物が残っているのだ、と説明する。とはいえ住む場所はない。二人はその家に引っ越した。部屋にあった荷物は、ババクの判断で廊下に出すことにした。
稽古から先に戻っていたラナは、インターホンが鳴ったのを夫のエマッドだと思い、玄関のドアを開けた。買い物をして返ってきたエマッドが、ラナの姿の見えない部屋で見たのは、血痕の残る浴室の床だった。
ラナは何者かに襲われたらしい。ラナは顔中を血だらけにし、手術を受けた。家に戻ってきたラナは言葉少なで、あの夜の状況についてもあまり話したがらない。一人になりたくないと語るラナと、国語教師としての仕事を放り出すわけにはいかないエマッド。二人の間で、徐々に険悪な雰囲気が作り出されていく。
部屋には、鍵の束が残されていた。犯人が慌てて逃げ帰って車を置いていったのだと推測したエマッドは、近隣に駐車されているトラックを虱潰しに探す。すると…。
というような話です。

ちょっと期待が高かったのか、面白いと感じられる映画ではなかった、というのが正直なところです。恐らく、観る側に意識して行間を読み取るような姿勢が求められる映画なのかな、という感じがしました。

状況や感情を説明するセリフが少ないので、色んなことを観る側が解釈する必要があります。説明しすぎる映画は面白くないと思うので、説明が少ない、という点に不満があるわけではありません。ただ、これはきっと僕が男だからでしょう、女性側の心情がうまく捉えきれなかったなぁ、という感じがしました。

物語は基本的に、夫であるエマッドが動かしていきます。だから、エマッドの方の言動はラナに比べれば多く、さらに僕が男であるという点も加えて、エマッドの心情についてはなんとなく想像が及ぶ気がしました。しかしラナの方は、仕方がないとはいえ行動のほとんどが受け身であり、さらに心が傷ついているために、自分が何を考えているのか、何を感じているのかをうまく表に出せない状態です。それは物語の性質上仕方ないことなのですけど、しかしだからこそ、ラナの気持ちを汲み取ることがちょっと難しかったなと感じました。冒頭で、エマッドとラナの心情をなんとなく想像してそのすれ違いについても触れてみましたけど、あくまでも僕の想像なので、ラナが何を望んでいたのかは「分からない」という感覚の方が強いです。そこが、映画全体を受け取る上でちょっと難しい部分だったな、と感じました。

エマッドが何を考えて行動していたのかというのは、なんとなく捉えられる気はするのだけど、でも共感できるわけではありません。少なくとも僕は、エマッドのやり方でラナの傷ついた心が癒やされるわけがない、と分かっているからです。エマッドももちろん、そのことは分かっていたかもしれません。分かっていてなお、そうするしかなかったのかもしれません。しかし僕には、エマッドがより強く行動するようになったのは、ラナに「何もしてくれない」と言われた後からだったように感じられました。だから、エマッドは、「これはラナのためになる行動だ」と信じていたのではないか、とも一方では感じました。

僕にしても、エマッドの行動が間違いだとは分かるけど、じゃあ正解が何なのかと聞かれたら、分からないと答えるしかないでしょう。ラナにも、きっと分からなかっただろうと思います。そういう意味では、何であれエマッド行動を起こしたのだ、とい点を評価すべきなのかもしれない、という気持ちもあります。

うまく捉えきれない映画でしたが、全体の雰囲気は良かったと思いました。

「セールスマン」を観に行ってきました

「関ヶ原」を観に行ってきました



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僕にはハードルの高い映画だったなぁ。
というのも、歴史の知識がなさすぎたからです。

僕が「関ヶ原の戦い」について知っている知識は、「1600年にあった」ということだけで、映画を観るまで「石田三成と徳川家康の戦いだ」ということも知りませんでした。そんな状態で観てたら、そりゃあ話も分かりませんよね。というわけで、これは僕の問題。基本的にいつ何が起こっているのか、イマイチよく分からないまま観てました。

あと、これは結構厳しかったなぁと思うのは、セリフの大半が聞き取れなかったこと。これは、僕に知識がないせいもあるんだけど、台詞回しがかなり早口だったことや、方言もバンバン使うセリフだったことがプラスの要因としてあるな、と思います。どちらも、当時の雰囲気を出すのには重要だろうし、そのやり方で良かったんだと思うんだけど、個人的には映画を観ながらずっと、字幕が欲しいと思ってました。

あと、合戦シーンは迫力があったなぁとか、撮影しているお寺とかはたぶん重要文化財だったりするだろうから、撮影中ロウソクの炎が倒れたらやばそうだなぁ、みたいなことを考えながら映画を観ておりました。まあそんなことぐらいしか書けないんだよなぁ。

「関ヶ原」を観に行ってきました

「ダンケルク」を観に行ってきました



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この映画を観るには、知識が必要なのだと思う。
しかしそれは、歴史の知識ではない。
クリストファー・ノーランという監督についての知識だ。

この映画は、凄まじい映像の連続だ。
第二次世界大戦中のヨーロッパが舞台であり、陸海空での死と隣り合わせの現実を切り取っていく。

しかし。何の知識もないままこの映画を観た人は、きっとこう感じるだろう。
なるほど、こんな映像、普通には撮れないから、ほとんどCGなんだろうな、と。

そうではない。
むしろこの映画では、ほとんどCGが使われていないという。

英国戦闘機・スピットファイア3機の内、2機は本物を飛ばし、もう1機は5億円を掛けて制作されたレプリカ。
博物館に収蔵されていた「マイレ・ブレゼ」という本物の駆逐艦を借り、撮影を行う。

そんな風にして、可能な限りCGを用いずに撮影された映画なのだ。
そういう事実を知った上で観ると、同じ映像でもまったく違った風に見えることだろう。この迫力ある、まるで本物の戦場としか思えない映像をCGなしで撮影したという驚異が、映画を観る者の感覚に大きなプラスとなっていくと思う。

とはいえ、知らなければ、特に調べることもなく、CGなんだろうと判断されてしまうだろう。そういう意味で僕は、この映画を観るには知識が必要だ、と書いた。

とにかく、映像で訴えかけてくる、力強い映画だ。

内容に入ろうと思います。
1940年。フランスとイギリスの連合軍は、ヒトラー率いるドイツ軍に追い詰められ、ドーバー海峡に面したフランスの港町であるダンケルクに追い詰められた。その数40万人。絶体絶命、侵攻してくるドイツ軍に蹂躙されるのを待つばかりである彼らに対する救出作戦が始まった。
陸では、救助のためにやってきた駆逐艦が、少しずつ兵士たちを乗せていく。しかしその間にもドイツ軍の戦闘機による爆撃が頻発、船は座礁し、桟橋も破壊される。兵士たちは、ことごとく海に投げ出されていく。
海では、民間船の徴用が始まっていた。ダンケルクに取り残された兵士たちを救助するためにイギリス軍が行っているのだが、「この船の船長は私しかいない」と言って自らの判断でダンケルクまで救助に向かう民間船の船長がいた。実際に900隻もの民間船が、自らの意思でダンケルクまで救助に向かったという。
そして空では、スピットファイア3機がこの救出作戦の援護をしていた。次々と仲間が撃ち落とされていく中、最後に残った1機が燃料の限界まで奮闘する。
絶体絶命からの撤退戦、その史実を描き出す作品。

個人的にはちょっとこの映画の評価は難しい。

まず、「ダンケルクの戦い」という、本作で描かれている救出作戦が存在していたことは知らなかったので、そういう意味で新しいことを知ることが出来た、という感覚はある。とはいえ、内容としては「いかに撤退するか」という映画である。その点を悪く言うつもりはないが、少なくとも「史実から新たな真実を引っ張り出す」というような作品ではない。

史実を基にしている、という点を強く意識しているのだと思うのだが、この映画は物語性という点は弱いように感じる。もちろん、物語性が薄いという点が直接欠点になるわけではないが、撤退戦をリアルに描くという意識の強さが、物語的な弱さにはつながっているように思う。

また、物語性という意味で言えば、「レヴェナント」という映画を観た時と同じ感想を抱く部分があった。「レヴェナント」は、アメリカでは良く知られているらしい実話を基にした映画だ。そして僕は、(主な観客である)アメリカ人がよく知っている実話をベースにしているからこそ、物語性を省略して映像美で見せる映画に仕上げたのだろう、と感じた。

「ダンケルク」でも、同じことが言えるのではないかと感じた。この「ダンケルクの戦い」がどれぐらい欧米人の間で知られているのか、僕は知らないが、知られているという前提で物語性を薄めている、という部分もあるのではないかと感じた。

そう考えた時、この映画の凄みはやはり映像の迫力にあると感じる。僕自身は、クリストファー・ノーランがCGを使わない人だ、という事前知識を持っていたので、映画を観ながらその凄さを感じ取ることは出来た。だから僕自身には不満はないが、クリストファー・ノーランという監督のことを良く知らないで観た人には、この映像の強さみたいなものはうまく届きにくいかもしれない。少なくとも、CGを使っていないで撮影しているのだ、と知って観るのとは見方が全然変わるだろう。

事前知識があるか否かで評価が変わりうる、という部分が、僕にはこの映画の一番の欠点に思えてしまった。もちろん、CGを使っていないと分かっていても迫力のある映像なのは間違いないのだが、それがCGで生み出されているのだろう、と感じてしまえば凄みはやはり半減してしまう。

史実を基にしている点、そしてCGを使わずに撮影している点、そして映像の迫力などは素晴らしいと思いました。しかしそれでも、何も知らないで観た場合の評価が辛くなりそうな映画だ、と感じました。

「ダンケルク」を観に行ってきました

崩れる脳を抱きしめて(知念実希人)



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内容に入ろうと思います。
神奈川の葉山にある富裕層向けの超高級病院で研修を行うことになった碓氷蒼馬は、28歳にしてグリオブラストーマという最悪の脳腫瘍を患った女性を担当することになった。名字ではなくユカリと呼んで、と語るその女性は、もはや手術が不可能であり、脳内に爆弾を抱えたままいつ破裂するか分からない状態で病室にいる。
蒼馬は、浮気して出奔した父のせいで極貧の生活を余儀なくされた。まだ借金も多く残っており、それもあって、アメリカで心臓外科医になることを目標にしていた。とにかく、稼げるようにならなければならない。そのために寸暇を惜しまずに勉強していたのだが、あてがわれた部屋の室外機が殊の外うるさく、ひょんなことからユカリさんの病室で勉強をすることになった。
これまでほとんど誰にも話したことのない父の話などをユカリさんに話す内に、二人は次第に打ち解けていく。とある事情により病室から出られないと思っているユカリさんと、父と金という呪縛から逃れられない蒼馬。二人は患者と医師という関係を越えて、お互いの存在に惹かれ合っていく。
二人は心を通わせながら、少しずつお互いを溶かしていく。ユカリさんは外に出られないという思い込みを捨て、蒼馬は父の出奔の原因を探る勇気を得た。
やがて蒼馬の研修期間が終わり、別れの時を迎えるが…。
というような話です。

全体的には、悪くはないなぁ、という感じの作品でした。ただ、どうもイマイチのめり込めない。何でだろうなぁ、と考えている中で、こんなことを考えた。

この物語は、あるべき答えに向かって進んでいるんだろうなぁ、と感じてしまったからではないか、と。
これはちょっと説明が難しい。

別にこれは、ラストどうなるのか早い段階で分かった、という意味ではない。そういう話をするのであれば、確かにところどころ不自然さを感じる部分があり、なんとなくそういう感じなのかな、と思いながら読んではいたのだけど、しかしそれがイマイチな理由ではない。

僕の中で、物語を読んでいる時は比較的、その描写が行われている『今』だけに焦点を当てている。先がどうなるのか、みたいなことはあまり考えずに、今その場面がどうなっているのか、という部分をメインで捉えている。

ただ本書の場合、『今』ではなく、物語が進んでいく『レール』に焦点が当たってしまったような、そんな印象がある。説明しにくいのだけど、例えば「電車」という存在を知らない人が、ふと目覚めたら電車の中にいた、ということを想像してみてほしい。電車に乗っている間は、線路が見えるだろう。先々までは見えないから、その線路の行き着く先までは見通せないのだけど、線路は見える。その時きっと僕らは、電車というものが何か知らなくても、「この乗り物は、この線路の上をずーっと進んでいくんだろうなぁ」と感じるだろう。

僕が本書を読みながら感じていたことも、それに近い。どこに行き着くのか、正確には分からない。けど、今自分が何かのレールの上にいることは分かるし、ここから外れることはないのだろう、という風に感じたのだ。

それは、普段僕が物語を読みながら『今』に焦点を当てている読み方とはちょっと違う。『今』に焦点を当てる読み方は、ふと目覚めたら大草原で車に載っている、というのに近い。大草原だから、道らしい道はない。自分が乗っている車(誰か別の人が運転している)がどこに向かうのか、予測することは困難だろう。必然的に、今自分がどこにいるのか、ということに焦点が当たるだろう。

この感覚の差が、何によって生まれたのか、それは定かではないのだけど、伏線の張り方とかなのかなぁ、という感じはする。もうちょっとうまくやってくれれば、レールの存在を気にせずに読めたかもしれないけど、なかなかそうは行かなかった。繰り返すけど、どこに行き着くのかは分からないけど、この線路の上を進んでいくんだなぁ、という感覚が、ちょっと好きになれなかった、というのが本書の僕の読後感です。

とはいえ、決して悪い作品ではないと思います。死を目前にした人の厭世観や、そういう人とどう向き合っていくのか、という部分は、やはり現役医師ならでは、という感じはするし、ユカリさんと蒼馬がお互いがお互いの存在によって変化していく過程はなかなか良いと思います。また、ミステリでは良く「謎だとは認識していなかった事柄が解決する」みたいなパターンってありますけど、本書もちょっとそういう側面がある気がしました。後半、明らかに解かれるべき謎の他に、なるほどそれも解決するんだ、と感じた箇所がありました。

さらっと読むにはなかなか良い作品かもしれません。

知念実希人「崩れる脳を抱きしめて」

お金がずっと増え続ける投資のメソッド―アイドルの私でも。(高山一実+奥山泰全)



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本を読んだ後の感想としては実に変だけど、僕は「乃木坂46を好きになって良かった」と思った。
何故なら、この本を読めたから。
本書は、乃木坂46の高山一実が共著の一人だ。ただそれだけの理由で、本書を手にとって読んでみた。
でもこれ、マジで凄い本でした。
読みながら、乃木坂46がどうとか関係なく、メチャクチャ良い本に出会ったな、と思いました。
それぐらい凄いです。

どう凄いのか。
本書には、「ほぼ確実に負けない投資法」が書かれているから凄いのです。
…なんて書くと、「胡散臭い」「騙されてるんじゃないか」みたいに思われるだろうな、と思います。
本書で書かれている「ほぼ確実に負けない投資法」には、一つ条件があります。
それは、「根気よく何年も毎日同じことを繰り返すこと」です。
つまり本書では、「根気よく何年も毎日同じことを繰り返しさえすれば、ほぼ確実に負けない投資法」が書かれている、となります。

たぶん人によっては、「根気よく何年も毎日同じことを繰り返すこと」って難しいんだろうと思います。僕は、結構自信ありますけど。とにかく本書に書かれている投資法を実践するには、根気が必要です。最初にある程度まとまった軍資金も必要なんですが、それさえ用意出来るなら、あと必要なものは根気だけです。でも、根気さえあれば、ほぼ負けません。そういう意味で、凄い投資法だなと僕は感じました。

やることは単純です。具体的な手法ではなく、抽象的な表現になるのだけど、本書に書かれていることをそのまま抜き出してみます。

『安くなればなるほど少しずつ買い足していく。
高くなればなるほど少しずつ売っていく。
安いときほどたくさん持っていて、高いときほど少ししか持っていないようにすればいい。』

これだけじゃ何も分かりませんけど、本書で書かれている投資の基本はたったこれだけです。これをベースに、本書では、実際に何をしたら良いのかを具体的に書いています。さらに、なぜこのやり方でお金を増やすことが出来るのかも。

本書を読み終わった今、僕はたぶんまだ完全には理解しきれていません。お金が増えていく仕組みは、なんとなくわかったような気になっているんですけど、他人に説明できるほどは理解できていません。なにせ、お金が増える仕組みを読んでいると、凄く不思議なんです。なんでこれの繰り返しでお金が増えていくのか…。分かるような分からないような、凄く不思議な気分になります。ただ、具体的にしなければならないことがあまりにも単純で分かりやすいので、「とにかくやってみよう」と思えます。その点でも本書は、投資の初心者が読むべき本だなと思います。

この感想では、本書で描かれている投資法を具体的には説明しません。それは、先程書いたように、僕がまだ完全には理解していない、ということもあります。しかしそれ以上に、本書で説明されているよりも簡単に説明することは無理だろうなと思うからです。なので、具体的なやり方を知りたい人は是非本書を読んで下さい。

ここで奥山泰全氏についてちょっと書いておきましょうか。著者は現在、とある投資系の会社の代表取締役社長という立場です。本書の中で高山一実が投資を実際に行うサイトも、奥山氏に会社が作っているものです。個人投資家時代に、8年で資金を400倍にしたことで「伝説の相場師」と呼ばれ、日経平均に投資出来るシステムを最初に作ったのも奥山氏だそう。なかなか凄そうな人ですね。

そんな著者は、高山一実に聞かれて、「何故投資法を色んな人に教えるのか」という質問に答えます。

『僕が投資について教える理由、日本人がもっとお金について勉強するべきだと思う理由はそこにあります。「お金よりも大事なものがある」「お金がすべてではない」と言えるために、もっとお金について学ぶべきだと思うのです。』

僕も、お金の勉強はしたいな、と思いながらなかなかできません。なかなかきっかけがないんですよね。投資のやり方を教わっていないから、投資=ギャンブルにしか思えないし、自分のお金を動かさないで紙の上だけで勉強しても、なかなかお金のことって分からない。けど、本書に書かれているやり方なら、とりあえず始めることが出来る。もちろんやっていく中で、本書に書かれていない問題やトラブルなんかが出てくるでしょう。でも、そこでまた勉強すればいい。とりあえず、一旦始めてみる、という意味で本書はそのハードルをかなり下げてくれる本だなと思います。

Amazonのレビューをちら見してみたら、「税金などの投資に掛かるその他コストに触れられていない」みたいな話があって、確かにそうだな、と。僕はファイナンシャルプランニング技能士の勉強をした時にその辺の話を一通り勉強したんだけど(あんまり覚えていないけど)、確かに投資したら何らかの形で税金が掛かるはずです。そういう点だけ取ってみても、本書は完璧な本ではないでしょう。でも、繰り返しますが、とりあえず始めてみるというスタートのハードルを下げるという意味では凄く良い本だなと思うわけです。

投資はやってみたいし、勉強もしてみたいんだけど、何から始めたらいいか分からない、という人は読んでみてください。ある程度まとまった軍資金が用意できることが前提になっているので、その前提をクリア出来ない人にはなかなか厳しい本ですが(僕もそこは頑張らないと)、そこさえクリア出来れば根気さえあれば誰でも出来る方法です。本書に書かれていない問題に直面したら、その都度勉強していきましょう。そういう感じで、とにかく投資を実際にスタートさせてみる、という意味で非常にオススメできる本です!僕も真剣に、本書に書かれていることをベースに投資をしてみたいなと思います。

高山一実+奥山泰全「お金がずっと増え続ける投資のメソッド―アイドルの私でも。」

賢く生きるより辛抱強いバカになれ(稲盛和夫+山中伸弥)



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本書の中で、一番印象的で共感できて、そして多くの場面で役に立つのではないかという発言がある。

山中伸弥「私自身には独創性はあまりないんですね。何か独創的な実験をしてくださいと言われても、たぶん世界中で10人は考えているようなことしか出てこない。ただ、結果的に独創的だと言われる実験ができたのは、独創的でない実験をして、予想していなかった独創的な結果が出てきたときに、そこでやめてしまわずに、独創的な結果のほうの研究をやりだしてしまう。そうやって研究テーマがころころ変わってしまったのですが」

本書は、「京セラ」「第二電電(現KDDI)」などを創業し、「JAL」の再建にも携わった経営者・稲盛和夫氏と、iPS細胞の発見によりノーベル賞を受賞し、生物学研究の世界的トップランナーとして活躍する研究者・山中伸弥氏の対談だ。

二人の縁は、稲盛氏が創設した「京都賞」を山中氏が受賞したことにある。実際にはその6年前、山中氏が稲盛財団から研究助成金を受けた時に関わりが出来たのだが、実質的には京都賞からだ。京都賞は、「人のため、世のために役立つことをなすことが、人間として最高の行為である」という考えの元、優れた研究者や芸術家を顕彰する賞であり、現在ではノーベル賞の登竜門となる国際賞のひとつとして認知されている。山中氏を初め、京都賞を受賞した後にノーベル賞を受賞した研究者は6名もいるという。

そんな二人が、様々なテーマについて語り合う。本書のタイトル「賢く生きるより辛抱強いバカになれ」は非常に秀逸だと僕は感じる。決してそういう内容の話ばかりしているわけではないのだが、この対談全体を通じて感じることは、まさにこのタイトル通りのことだ。冒頭の引用も、その一つだ。

「独創的ではない実験で独創的な結果を得て研究テーマが変わる」というのは、山中氏がiPS細胞を発見した経緯にある。

山中「私の場合はiPS細胞を発見するまで紆余曲折がありました。というのも、血中コレステロールの研究をしていたら癌派生に関係する遺伝子を見つけてしまい、この癌に関係する遺伝子を研究していたときに発見した新しい遺伝子がじつは万能細胞であるES細胞の重要な遺伝子だったことがわかりました。このような予想外な結果に興味を持ってしまって、そのまま追いかけていったら、最終的にiPS細胞にたどり着いたという流れなんです」

ごく普通の研究者であれば、自分が行った実験が自分の研究テーマに沿わない結果を生んだ時、止めてしまうことも多いそうだ。あくまでも、テーマに固執し、そのテーマに関係する実験を新しく考えてやる。しかし山中氏は、テーマの方を捨てることにした。山中氏は自身のことを「独創性がない」と表現し、それはある側面では正しいのかもしれないが、「独創的な結果を追うためにテーマを捨てる」という選択は、研究者にとってはなかなか独創的な選択だったのだろうと思う。

iPS細胞の発見には、山中氏が共に研究をしていた高橋和利氏が大きな貢献をした。彼の面白いアイデアによって、iPS細胞に必要な4つの遺伝子を絞り込むことが出来たのだけど、山中氏の研究室にやってきた高橋氏は正直、学校の成績が高くない、決して優秀とは言えない生徒だったという。しかも彼は、工学部出身。分子生物学の知識はほとんどない、という状態だった。けど、結果的にはそれが良かった。先入観なく実験結果を見ることが出来たから。

著者は当初この実験を、別のメンバーにやってもらっていたらしい。そのメンバーと高橋氏を比較したこんな発言も、まさに本書のタイトルを象徴するようなエピソードだろうと思う。

『実際、このプロジェクトを奈良先端大のラボで始めたとき、もっと経験のある他のメンバーにやってもらったんです。でも彼はものすごく頭が良かったのですが、手が動かないんです。このプロジェクトはうまいこといくわけないからと、気がつくと違うことをやっている。それで京大に移ることになったときに話し合って、彼は留学することになったので、代わりに高橋君にやってくれるかと。そのとき、私が高橋君にこっそり言ったのは、このプロジェクトはたぶんうまいこといかないと思う。でも人に言うなよと。これで結果が出なかったから、僕はもう研究者ではいられなくなると思うし、君も当然いられなくなる。しかし大丈夫だと。僕には一応医師免許があるから、どこかで小さなクリニックでもやって高橋君を受付として雇うから心配はいらないと。』

この発言に対し高橋氏は、『ほんとうに僕がやってもいいんですか』と喜んだという。頭の良し悪しでは判断できない部分に能力や適正がある、という話だ。

これは、稲盛氏も同じようなことを言っている。自身が創業した京セラも、幹部は『辛抱強いバカばっかりが残ったな』と稲盛氏が評するような、一流大学卒ではない者ばかり。能力だけある人間はさっさと転職していったという。また、JALの再建に際しても、一流大学卒の優秀な幹部たちの意識を変えることが大変だったと語る。『80前のじいさんが何を言ってるんだ』と顔に書いてある面々に対して懇々と自身の哲学を説き続け、改革をしていったという。

稲盛氏は、『人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力』と捉えていると語る。並び順は、重要度であり、つまり「能力」は最も重要度が低い。「熱意」と「能力」は「0点~100点」、そして「考え方」は「-100点~100点」で判断する。そして、仮に「能力」が低くても、「考え方」と「熱意」があれば、「能力」だけ高い人間よりも優れた成果を残すことが出来るのだ、という方程式だ。僕の感覚としてもこれは分かる。地頭の良さが得意な範囲というのは、確かにあるのだけどそう広いわけではない。「能力」以外に何が必要なのかというのは色んな意見があっていいと思うけど、「能力」だけでは決して成果を生み出すことは出来ないだろうな、という感じはする。

稲盛氏の言葉も、非常に力強いし響くものがあるんだけど、冷静に考えると「自分には無理だよなぁ」と思えてしまう。ちょっとハードルが高い。例えば稲盛氏は、『やると決めたら悩まない』と発言する。そしてそこには明確な理由がある。

稲盛『私心は不純物ですから、いくら大義はあっても、そこに私心があればうまくいかない。私心がなく動機が善であれば結果は気にしなくても自ずとついてくる。私はそう信じています』

著者は、大義があればどんな困難にも立ち向かえる、と語る。第二電電(KDDI)の創立も、JALの再建も、周囲が「絶対に無理だ」というほどの高いハードルだった。しかし著者は、そこに大義を見出し、さらに、自分の中に私心がないことを繰り返し確認する。決断する前にそういう過程を経ているからこそ、一度決断して進み始めたら悩まないのだ、という。

凄いなぁ、と思うのだけど、これは真似出来ないなぁ、と思ってしまう。本書の中で稲盛氏は、京セラや第二電電という会社が生まれた過程や、JALの再建のために何をしたのか、という具体的な話をし、さらにそれに邁進出来る自身の哲学みたいなものも語るのだけど、そのどれもがハードルの高さを感じさせてしまうものだった。そういう意味で言えば、山中氏の言葉の方がより親しみを感じることが出来ると思う。

本書では山中氏が、研究の楽しさと厳しさを語る。臨床医から研究者になった山中氏は、マニュアル通りにやらなければならなかった臨床医とは違い、何をやっても良い自由度がある研究者という仕事に楽しみを見出した。しかし、「苦しんでいる人を救いたい」という気持ちから臨床医になった著者としては、研究者として日々自分が少しずつ積み重ねている成果が果たして患者さんを救うことになるのか、と思い悩んだ日々もあったという。そういう経験を踏まえ、山中氏は今、『研究者や職員たちがモチベーションを維持しやすくすること、それが今自分がするべき仕事だと考えています』と語る。かつては自身もトップランナーとして研究していたが、現在は一歩引いた立場で、チームの監督として全体を見回し、自分が走るのではなく他人を走らせる役割を担おうと考えている。

また、日本の研究者の地位の低さや、有期労働契約に縛られ安定的な雇用が望めないなど、環境面での厳しさも語る。日本の研究者のレベルは間違いなく世界トップクラスだが、研究職に魅力を感じて身を投じてくれる若い人がいなくなれば先細りになる。そういう危機感を山中氏だけではなく、多くの研究者が感じているという。

本書は、経営者と研究者という立場の違いはありながらも、どちらも世界のトップランナーとして走り続け偉業を成し遂げてきた者が様々なテーマで語り尽くす。本書から何を感じ取るかは読む人次第だろうが、経営者でも研究者でもない人にも意味のある対談だろうと思う。本書は、究極的には「人としてどう生きるか」を問う内容になっていると思うからだ。

稲盛和夫+山中伸弥「賢く生きるより辛抱強いバカになれ」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)