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神さまたちの遊ぶ庭(宮下奈都)

僕は世間の人が、窮屈な生き方をしているなぁ、と感じることがある。
そしてまったく同じ目線は、過去の自分にも向けることが出来る。
昔の自分は、窮屈な生き方をしていたなぁ、と。

昔の僕は、自分がどうだったら幸せだと思えるのか、イマイチ理解していなかった。だから、そこらにある、目につきやすい、大多数がそうであると認めるような「分かりやすい幸せ」を無意識の内に幸せなのだと思い込んでいたのだと思う。

生きていると段々、そういう「分かりやすい幸せ」は僕には無理だ、ということに気づくようになっていく。幸せ、というものがどういうものであるのか、そもそも知らないから、『「分かりやすい幸せ」は僕には無理だ』ということに気づくのにもとても時間が掛かったように思うが、ようやくそこから僕は自分の内側に、「自分はどうだったら幸せだと感じられるのか」という問いを持つようになった。

そうやって、色んなことに手を出したり出さなかったり、敢えて脱線してみたり流れに乗ってみたり、色々試した挙句、ようやく今は自分の中で、自分が幸せだと思える「こういう感じ」をそれとなく掴むことが出来たように思う。

そうしてそういう視点で世の中を見てみると、かつての僕が囚われていたような「分かりやすい幸せ」に苦しんでいる人が多いように思えてくる。人それぞれ、どんな状態を幸せだと感じるかはバラバラだ。でも、それに気づかず、平均値としての幸せみたいなものをみんなが目指そうとして、でも結局目指せなくて、自分は不幸だと感じている人が多いように思えてくる。

なんでこんなことを書いたのか。
それは、僕にとって宮下奈都という人は、そういう葛藤がない、あるいは遠い昔に抜け出た人だ、と感じるからだ。

『しあわせって、たぶんいくつも形があるんだろう。大きかったり、丸かったり、ぴかぴか光っていたり。いびつだったり、変わった色をしていたりするかもしれない。そういうのをそのまんまで楽しめるといいとつくづく思った』

幸せ、というものに対して基準を持たない生き方。宮下奈都はそういう生き方を意識的に選び取っているように思える。もちろん、自身の中で絶対に譲れない、前提となるような基準はあるだろう。宮下奈都にとって恐らくそれは「家族」に関わる何かだ。「家族と過ごす時間」なのか「家族と関わる場」なのか「家族であるということそのもの」なのか、そういうことは何でもいいのだが、とにかく家族との関係性みたいなものは譲れない基準として持っているだろうと思う。

しかしそこに、個別的な、あるいは具体的な基準は存在しないように思える。宮下奈都は、目の前の現実を常に受け入れながら、それらの現実が「正しい」と思えるものになるよう、自身の行動や思考や価値観を変えている、という印象を受ける。立川談志は、「現実は正解なんだ」と言ったらしいが、宮下奈都も同じ風に捉えているのではないか。目の前の現実に介入し改変するのではなく、目の前の現実を正解だと受け入れるために必要なことは何かを常に考え行動しているように思える。

その視点が、宮下奈都のエッセイを面白くする。僕にはそう感じられる。

宮下奈都のエッセイには三人の兄弟が頻繁に登場するが、彼らの言動は実に面白い。しかしそれは、単なる生まれつきの個性、というだけではないはずだ。宮下奈都は母親として、三兄弟の言動に介入したり改変させたりといったことをしなかったはずだ。もちろん程度はあるだろうが、どうしたらマズイのか、ということが自然と共有される中で、残りの範囲内で自由に行動してよい、という自由を与えられた三兄弟だからこそ、傍目に面白く映る言動を日常的にしでかすのではないか。僕にはそう思える。

親の背中を見て子は育つ、というが、宮下奈都のこの有り様こそ「教育」と呼ぶべきものかもしれないと思う。勉強や技術や知識は教えることが出来る。しかし、生き方を教えることは、とても難しい。三兄弟は、宮下奈都の(もちろん、父親も、だろうが)の言動から、「自由に生きる、とはどういうことか」を学んでいるように思う。自由とは、与えられるものではない。見つけるものでもない。作り出すものだ。三兄弟は、自由を作り出す力を、生活の中で身につけている。それは、学校でも社会でも学ぶことがなかなか難しい力だ。

僕も、こんな風に親の背中を見て育ったら、もっと違う人間になれたんじゃないかなぁ、とそんな風に思ってしまった。

内容に入ろうと思います。
本書は、宮下家の五人が一年間限定で、北海道のトムラウシの集落に生活の拠点を移した、その記録である。

『なにしろ山の中である。いちばん近いスーパーまで、山道を下って三十七キロだという。ありえない。誰が晩のおかずの買い物をするのかしら。
小中学校は併置校で、現在の生徒は小中あわせて十人。小学生が九人、中学生はたったひとりだ。数少ない僻地五級の学校だそうで、校区はおよそ八〇〇〇〇㎢。山村留学制度があって、外からの児童生徒を受け入れているという。携帯は三社とも圏外。テレビは難視聴地域(特別豪雪地帯で、雪が降ると映らない)。』

なかなかの環境である。
何故そんな場所に引っ越すことになったのか。それは、夫が希望したからだ。元々は帯広に住む予定だった。でも、大自然の中で暮らしたくなったのだという。宮下奈都は、ありえないと思った。魅力的な場所だとは分かるが、住む場所ではない、と。しかし、夫は諦めない。無口な夫が二年分ぐらい喋って、トムラウシへの移住を希望する。
決め手は子どもだった。三兄弟があっさりと「行きたい」と表明したのだ。
決まってしまった。本当に住むのか。本当にこととは思えない。が、移り住むのだ。
カムイミンタラ(神さまの遊ぶ庭)と呼ばれるくらい素晴らしい景色に恵まれた土地での濃密な一年間を、宮下奈都が実に面白く、そして時にしっとりと描き出す。
というような話です。

物凄く面白かった。ただの読み物としても、三兄弟の言動を始め、『曲者ぞろい』と評された学校の先生や、様々な理由でこの地に引っ越してきたご近所さんたちとの関わりなどに爆笑させられるのだが、冒頭でも書いたように、それらの関わりの中から、宮下奈都という人の生き方、そしてそれが子どもにどのような影響を与えているのかが垣間見ることが出来て、そういう点でも非常に面白かった。

普通こういうエッセイでは、慣れない土地に引っ越したことであたふたする日常や、日々襲いかかるトラブルなんかが描かれるはずだが、このエッセイではそうはならない。生活環境が唐突に一変したにも関わらず、宮下家の面々は特に動じることもなく(動じた部分はただ描かれていないだけかもしれないが)すんなりと適応している。宮下家は、福井にいる頃とさほど変わらないまま、トムラウシでも宮下家として存在したのではないか。そんな風に思わせるエッセイである。

環境の変化にすぐさま馴染み、のびのびと変わった言動をする子どもたち(と夫)と違って、宮下奈都は些細な場面で、この地に引っ越してきた自分自身や、この家族を受け入れてくれた地域のことに思いを馳せる。

『むすめに直接話しかけてこない子は、生まれたときからここで暮らしている牧場の子だった。友達になってもどうせ帰っちゃうんでしょう。そう思わないわけがないと思った。両手を広げて「友達になろう!」なんて、言えないに決まっている。申し訳ないことをしているのではないか、という気持ちが、私の中にはっきりと芽生えた瞬間だった。私たち家族は、勝手にやってきて、いつか勝手に去っていく。ずっとここにいる人たちの好意で受け入れてもらっているだけなのだ』

こんな風にしんみりする場面は、このエッセイには少ない。しかし少ないからこそ、時々あるこういう場面にはっとさせられる。宮下奈都は、とても気持ちが優しい人だ。人の気持ちに敏感で、余計な(と思えるような)ことにまで気を回してしまう。それは良い風に働くこともあれば、悪い風に働くこともある。

それは子どもにもきちんと受け継がれている。

『もう言わないで。帰るって考えないで暮らしたい。学校にも言わないで。帰るって思われたくない』

住んでみて、離れがたくなってしまったこの地から、無理矢理にでも引っ越すことを決めた宮下家。それにたいしてむすめが言った言葉だ。宮下奈都も、引っ越す旨学校に伝えた後で、『ただ、帰る子としてではなく、ここの子として、できるだけ長く暮らしたいと願う気持ちは伝わったと思う』と書いている。人の気持ちを思いやり、その中で自分の気持ちに素直になれるのは、時に生きづらさに繋がることもあるだろうが、得難い美徳だろうと思う。

具体的なエピソードを挙げて、三兄弟の面白話を紹介するつもりはないが、三者三様、それぞれのキャラクターが見事に描かれている。三兄弟のことを勝手に想像してみると、一番気が合いそうなのは長男だ。長男の、物事を捉える感覚がとてもいい。一番似ているのは次男な気がする。僕も、コツコツ真面目にやっていくタイプだ。そして、むすめのような奔放さは自分にも欲しかったな、と思う。なかなか奔放になれないので、むすめはとても羨ましいタイプだ。

一つだけ、長男のエピソードを挙げよう。長男は、特に勉強をするわけでもないのに超優秀らしいが(僕の高校時代にも一人そういう奴がいた。超羨ましい!)、そんな長男が数学のテストの臨み方について語っている場面がある。

『「でも安心して。いざとなったら汚い手口を使ってでも解くよ」
き、汚いって何。どういう手口。
「ここではこういう解き方をさせたいんだなって、問題見ればわかるじゃない。でもそういう空気を読みたくないんだ。完全に理解して美しく解きたい。公式もできるだけ使いたくない。だけど受験のときは、汚くても点数を取りに行くからだいじょうぶ」』

天才かよ!「こういう解き方をさせたいんだなって、問題見ればわかるじゃない」って、わかんねーよ!くそー、これが凡人と天才の差か、と改めて思い知らされたのであった。

大げさに聞こえるかもしれないが、決して大げさではなく、「生きていくとはどういうことか」を考えさせる作品だ。身構えて読む必要はない。中身は、面白おかしいエッセイだ。しかしそんな面白いエッセイを読み切って、ふと思うだろう。自分の人生は、これでいいのか、と。別に、トムラウシに住まなくたっていい。大きな変化を望まなくたっていい。それでも、この作品は、あなたの生き方のどこか一部を、丸ごと入れ替えるようにして変えてしまうのではないかと思う。

宮下奈都「神さまたちの遊ぶ庭」

罪の声(塩田武士)

「事実」には、圧倒的な力がある。
僕はそれを、「殺人犯はそこにいる」というノンフィクションを読んで、改めて実感した。

「殺人犯はそこにいる」では、北関東で起こったある事件が取り上げられている。似たような複数の事件を、連続殺人なのではないか?と著者は考えるが、そこには大きなハードルが横たわっていた。
事件の一つが、犯人逮捕という形で「解決」されていたのだ。
しかし、連続殺人事件であるという直感に導かれ、著者はその「解決された事件」の冤罪を証明し、さらに連続殺人事件の犯人まで特定した。
しかし警察は、その犯人を逮捕することが出来ない。そこには、司法が抱える特大の闇が隠されているからだ。
それらをすべて、地道な取材から解き明かした、著者の執念の一冊なのだ。

「殺人犯はそこにいる」が持つ「事実」の圧倒的な力には、震えが来るほどだ。僕らがどんな現実に足をつけて日々を過ごしているのか、僕らが視界に入れないまま過ごせてしまう様々な闇がどうなっているのか。普通に生きているだけでは知ることが出来ない「僕らの日常を成り立たせている要素」を垣間見せてくれる作品で、「事実」というものの積み重ねがどれほど力を持つのかということをまざまざと見せつけられた思いだった。

しかしその一方でまた、本書から僕は「物語」の力を思い知らされた。

「事実」は、「事実であるという事実」によって、圧倒的な力を持つ。「事実」とは、現実という平面に刻まれた傷そのものであり、一つの大きな傷を眼前に提示されることで、他にもそんな傷が山ほど存在するに違いない、という思いを抱かせることにもなる。

しかし「事実」には出来ないこともある。
それが、「余白を埋める」ということだ。

ニュースなどを見ていて、もどかしい思いをすることもある。例えば何か事件なりトラブルなりが起こるとする。それらは、何らかの形で外側から切り取られた様々な「事実」をベースに報道される。しかし、現代の報道は、それでは終わらない。様々な識者の見解、関係者の周囲にいる人間の生い立ち、僅かな情報から組み立てられた憶測など、「事実とは言えないもの」や「事実だが本筋とは関係ないもの」なども報道に組み込まれていく。

それは、「余白」を埋めたい、埋めて欲しい、という欲求から来るものなのだろう、ということは理解できる。

とはいえ、その試みは大抵成功しない。いや、視聴率や雑誌の購買率という意味では「成功」と判断されることもあるだろう。しかし、ある事件なりトラブルなりを「見る」上で、それら「事実」以外のものというのは、ほとんど役に立たない。状況をかき回したり、無意味に人を傷つけたりしながら、時にそれら「事実」以外のものは、「事実」さえも捻じ曲げるように働くようになるからだ。あらゆる人間が一個のメディアとして世の中に関われるSNSというツールが発達したこと、また、インパクトのあるものしか訴求力を持てなくなってしまったことなどにより、報道がどんどん「事実」以外のものを取り込まざるを得なくなっている現実はもう変えようがない。世の中の大きな動きは、まだどうしたってメディアを通じて手に入れるしかない中、メディアが内包するその矛盾を認識した上で、僕らはメディアと接するしかないのである。

そういう時代の中でこの作品は、「事実」と「明確に組み上げられた物語」を実にうまくつなぎ合わせることで、現代の報道がなかなか実現できないものを提示することに成功した、実に稀有な物語であると僕は感じた。

昭和史を揺るがせた「グリコ・森永事件」。本書は、この事件を細部まで徹底的にベースとして描きながらも、そこに著者自身の「物語」を組み込んでいくことで、謎だらけのこの黒い昭和史の「余白」を見事に埋めている。

読みながら時々、ノンフィクションを読んでいるような気分になった。いや、その表現は適切ではないだろう。ノンフィクションは「事実」によって構成されている以上、「余白」を細部まで埋めることはほとんど不可能に近い。この物語は、「事実」をベースにしながら、それら「事実」にピッタリと当てはまる「物語の断片」をいくつもいくつも根気よく見つけては貼り合わせるという作業を通じて「余白」を埋めていく。それはノンフィクションとはまったく異なるものだ。そういう意味で本書の読書体験は、ノンフィクションを読むのともまた違う、ちょっと異質なものだったように感じられる。

本書は、「未解決事件の加害者家族」に焦点が当てられる。帯には『家族に時効はない』『未解決事件の闇には、犯人も、その家族も存在する』と書かれている。

犯人が特定された事件における加害者家族については、僕らは知る機会がある。報道などにモザイク処理されて引っ張り出されることもあるし、ノンフィクションなどでは、加害者家族に会おうとして会えなかった、というような描写が出てくることもある。いずれにせよ、直接それを知る機会がなかったとしても、自宅や職場にマスコミが殺到し、近所からの目を避け、厳しい現実の中を生きていかなければならないのだろう、という想像をすることは出来るし、その想像は大きく外れてはいないだろうという感覚を持つことも出来る。

では、未解決事件の加害者家族はどうだろうか?
当然だが、僕らは彼らについて知ることはほとんど出来ない。未解決である以上、犯人は特定されていないのだし、であれば家族についても分かるはずがない。

『本作品はフィクションですが、モデルにした「グリコ・森永事件」の発生日時・場所・犯人グループの脅迫・挑戦状の内容、その後の事件報道について、極力史実通りに再現しました。この戦後最大の未解決事件は「子どもを巻き込んだ事件なんだ」という強い想いから、本当にこのような人生があったかもしれない、と思える物語を書きたかったからです』

著者は巻末に、そう記している。僕は知らなかったが、「グリコ・森永事件」では、犯人グループが録音した子どもの声で脅迫などを行っていたらしい。では、その子どもは今どうなっているのか?本書をどこから着想したのか僕は知らないが、著者の中には常にこの問いが横たわっていたことだろう。

この物語が「事実」そのものではない以上、当然、現実の「グリコ・森永事件」で使われた声の子どもが本書で描かれている通りに生きているはずがない。しかしこの物語は、圧倒的なリアリティを以ってその子どもの架空の人生を切り取って見せることで、その子どもの実際の人生に思いを馳せさせる、そんな強い力を持っている。これを「事実」でやってしまうのは、描かれる側にも描く側にもあまりにも重すぎる。そしてそれ故に、読む側も穏やかにそれを読むことが難しくなる。フィクションだと分かっているからこそ僕らは、架空の人生を経由して、実際の人生を想像してみようと思えるのだ。

「事実」にしか出来ないことがある。そして「物語」にしか出来ないこともある。昭和史を揺るがせた圧倒的な「事実」と、事実と事実の間を隙間なく埋める恐ろしく微調整された「物語」を見事に融合させたこの物語は、両者が持つ力を相殺させることなく互いに倍化させた、強い力を持つ作品だと僕は感じた。

内容に入ろうと思います。

京都市北部の住宅街に「テーラー曽根」という店を構えている曽根俊也は、ある日、母から頼まれたモノを探している途中で、見覚えのないものを発見する。透明なプラスチックケースに入ったカセットテープと黒革のノートだ。
カセットテープには、幼い頃の俊也自身の声が録音されていた。そして黒革のノートには、解読出来ない英文の合間に、【ギンガ】【萬堂】の文字が。
まさか。
検索サイトで「ギン萬事件」と入力しまとめサイトに行き着いた俊也は、そこで信じられない事実を知ることになる。
このテープは、戦後最大の未解決事件と言われる、複数の製菓・食品メーカーを恐喝した大事件である「ギン萬事件」で、電話越しの脅迫で使われたものだ、と。
スーツの仕立て一筋だったはずの父と「ギン萬事件」はどうしても結びつかない。しかし、それなら誰か親族が関わっているとでも言うのか…。俊也は、父の幼馴染であり、これだけの大きな事柄を唯一話すことが出来る堀田に相談をし、可能な範囲で「ギン萬事件」と曽根家との関わりを調べることにする。
一方で、大日新聞の文化部の記者である阿久津英士は、上司の指示で社会部の鳥居を訪ねることになった。社内でサツ回りと言えば真っ先に思い浮かぶ人物であり、やり手だが強引な男だ。文化部のようなのんびりした雰囲気で仕事を続けたいと思っている阿久津にとっては、会いたくない人物だ。
その鳥居から阿久津は、メチャクチャな指令を下される。大日新聞は年末に昭和・平成の未解決事件の特集を組むことが決まっており、大阪本社はギン萬事件をやるという。そして「英検準1級だから」という雑な理由でロンドンへの派遣を命じられた。なんでも、世界的ビールメーカー「ハイネケン」の社長が誘拐された事件の際、この事件について聞き込みをしていた「ロンドン在住の東洋人の男」がいたという情報があるのだという。ギンガ社長の誘拐は、ハイネケン事件の四ヶ月後。手口など模倣している点が多いことなどから、その東洋人がギン萬事件に何らかの形で関わっているのではないか、と鳥居は言うのだ。そこで、ハイネケン事件を担当したロンドンのリスクマネジメント会社の元交渉人に当たり、それからその東洋人を探せ、というのだ。
無茶だ。一介の文化部記者に出来る話ではない。しかし鳥居に、そんな話が通用するはずがない。阿久津は、まともなネタをとってこれる見込みもないままロンドンでの取材を開始する。
それから、専従としてギン萬事件に関わることになる阿久津。様々な資料を読み込み、鳥居の嫌味をなんとかかわしながら、出来る範囲で取材を続けていく。あらゆる方向から取材を続けた阿久津は、ついに突破口となる大ネタを手にするが…。
というような話です。

とんでもなく面白い作品だった。冒頭の文章でも書いたけど、読みながら「この作品は事実なのではないか」と思っている自分に気づく瞬間が何度かあった。物語の展開にハラハラするのではなく、事実を読み進めていくかのような妙な高揚がもたらされる作品で、そう思わせるだけの力を持つ強い作品だと感じた。

この作品は、家族の物語として描かれている。まずその土台がとても良い。曽根俊也は、曽根家の名誉のために事件を調べ始める。そして阿久津は、取材を進めていく中で、加害者の家族、特に脅迫にその声が使われたと思われる三人の子どもに視線が向けられていく。

俊也にとっては、寝耳に水の話だ。記憶にないとはいえ、自分の声があの戦後最大の未解決事件で使われている。このことが世間に知られたら、自分が父から受け継いだこの勝手の良い店は、娘の詩織は、自分の人生はどうなってしまうのだろうか。そんな葛藤と同時に俊也は、親族の誰かがあの事件に関わっているのならそれを知りたい、という気持ちを抑えることが出来なくなっている。それはただの好奇心ではなく、加害者家族としての責務と俊也は捉えている。自分に責任があるかどうかはともかくとして、親族の誰かがあれだけのことをしでかしてしまったのだとすれば、自分にもなにがしかの責任はついて回るだろう。俊也はそう考えている。その責務が、彼を突き動かしている。知られたくはないが、知りたい。知ろうとすれば知られるかもしれない、という恐怖に常に苛まれながらも、俊也は責務を胸に前へと進んでいく。

自分が俊也だったら、と考えずにはいられない。僕は一体何を考えるだろうか。とてもではないが、責務、などということは考えられないだろう。知らんぷりするか、逃げるか。物語を進めるには俊也が動かざるを得ないという都合ももちろんあるだろうが、そういう「動かされている」というような感覚はまるで感じられない。俊也が悩みながらもなんとか踏ん張って、未来を見据えながら目の前でどんどんと膨張していくどす黒い現実に対峙しようとするあり方はとても潔く、誠実であると感じた。

一方で阿久津は、取材を進めることで、それまで意識したことのなかった加害者家族の存在を認識するようになる。脅迫のために子どもの声を使うという卑劣なやり方を取った犯人たち。その子どもたちは、自分の声が事件に使われたことを知っているのか?知っているのだとすれば今何をどう思って生きているのか?そもそも彼らはまだ生きているのか?まったく乗り気でない取材に組み込まれた阿久津だったが、次第に、彼ら加害者家族のために前へと進んでいこうと決意するようになる。

彼らは、通常の加害者家族とは違う。解決済みの事件であれば、心無い批判が殺到するのと同時に、差し伸べられる手もあるだろう。しかし、未解決であるが故に、その存在すら誰にも知られない状態になっている。事件とは無関係に穏やかに生きている可能性ももちろんあるが、取材の過程でその可能性は低いと思わざるを得なくなっていく。ならば彼らはどんな風に生きているのか。

戦後最大の未解決事件をただ題材に使った、という甘い作品ではない。現実の事件という事実に、まったくの虚構を丁寧に組み合わせることで、そこに家族の物語を現出させる。日常を舞台にしては描くことが出来ない家族の形、人生を描くために、戦後最大の未解決事件という舞台を選んだ。そういう必然性のある物語であると感じた。「

物語がどう展開するのかは是非読んで欲しいが、非常に秀逸だと感じるのは阿久津の取材の描写だ。
「グリコ・森永事件」をベースにした「ギン萬事件」は、未解決事件である。警察が最大量の人員を投入し、あらゆる角度から捜査をしてなお未解決である事件なのである。それを、一介の新聞記者がひっくり返すというのはよほどのリアリティを以って描かなければ難しい。ありがちな描写であれば、「それぐらい警察の捜査で判明するのではないか」と思われてリアリティを生み出すことが難しい。

しかし本書は、ごく僅かな情報や時の流れによる変化、些細な矛盾から導き出される仮説など、確かにこれなら警察力をもってしてもたどり着けなかったかもしれない、と思わせるだけの状況を見事に描き出していく。幸運ももちろんあるのだが、そればかり続くのも興がそがれる。その辺りのバランスを絶妙に取りながら、少しずつ全体像が明らかになっていく展開は非常に面白いし、現実と間違えそうになるくらいのリアリティがある。

また、実際の事件の展開や痕跡などはそのままに、それらにきちんとした説明を与える犯人像の造形も素晴らしい。ギン萬事件(というかグリコ・森永事件)には様々に不可解な点が残されている。著者は、犯人グループの造形を絶妙に行うことで、それらの疑問点に無理のない説明を与えることに成功しているように感じる。動機の浅はかさ、犯人グループの面々の性格や行動原理、計画された行動と不測の事態に対処するための行動。結果として生み出された不可解な点が、それら犯人グループの様々な設定によって綺麗に説明がついてしまうのもまた、本書のリアリティを担保しているといえる。

著者が創作した虚構が、実際の事件の中に絶妙に組み込まれて一層のリアリティを生み、そのリアリティに支えられた世界観の中で「家族」というものを描き出していく見事な作品だ。凄い読書体験だった。

塩田武士「罪の声」

とりつくしま(東直子)

内容に入ろうと思います。
本書は、9編プラス1編の短編が収録された、連作短編集です。
まずは全体の設定から。
死んだ人間で、現世に未練を残しているものは、あの世的なところにいる「とりつくしま係」によって、あるチャンスをもらうことが出来る。それは、この世にあるなにかのモノにとりつくことが出来る、というものだ。生物にはとりつけないし、モノにとりついた後も会話が出来るわけではない。あくまでもとりつくだけ。それでも、自分の死を受け入れることが難しい人たちは、現世への想いを胸に、とりつくモノを指定し、それにとりついていく。

「ロージン」
ピッチャーをやっている息子が使っているロージンにとりついた母親。すぐに消えてしまう、その一瞬の間に、息子の成長を見る。

「トリケラトプス」
夫が気に入っていた、トリケラトプスが印刷されたマグカップにとりついた妻。新しい女の存在が、彼女をやきもきさせる。

「青いの」
公園の「青いの」(ジャングルジム)にとりついた男の子。ママが来てくれるのを楽しみに待っている。

「白檀」
憧れていた書道の先生の扇子にとりついた女性。先生とその妻のやり取りに涙する。

「名前」
図書館のカウンターにいる女性の名札にとりついた男性。ちょっと憧れていた女性の優しい振る舞いに癒やされる。

「ささやき」
母親の補聴器に取り付いた女性。耳が遠くなったことをまるで認めようとせず、周囲と折り合いをつけようとしない母親にイライラする。

「日記」
妻の日記にとりついた男。やがて知るある真実と、そして結末。

「マッサージ」
奮発して買ったマッサージ機にとりついた男。二人の子供も妻も、どうも、自分の不在を悲しがっている風でもない。

「くちびる」
好きだった先輩の彼女のリップクリームにとりついた女の子。そこで、先輩の優しさに触れる。

「レンズ」
孫に買ってあげたカメラにとりついたお婆さん。しかしそのカメラは、中古屋に売られてしまっていた。そのカメラを買ったお爺さんとのやり取り。

(番外編)「びわの樹の下の娘」
病でなくなった娘が、髪の毛を裏庭のびわの木の下に埋めて欲しい、と頼む。

というような話です。
一番ぐっと来た話は、「くちびる」でした。とりつくモノのセレクトが絶妙だな、と感じました。好きだった先輩の持ち物ではなく、その彼女のリップクリームという選択は、うまく説明できないけど凄くいいなと思いました。

他の話は大体、妻の日記とか、夫のマグカップとか、想いの残る相手の持ち物にとりつくわけです。まあそれが自然でしょう。どんなものにとりついても、誰ともコミュニケーションはとれないわけですから、何にとりついたのかという選択を誰かに知られることはないわけです。だからこそ、強い想いを向ける相手に近いモノをセレクトするのが自然でしょう。

でも、なんでか、好きな先輩の彼女のリップクリームというのは、とても有り得そうな、絶妙なセレクトに感じられるんですよね。思春期特有の、なんだかこんがらがっちゃって、自分でもなんでそんな考えを持ったのか分からない、みたいな雰囲気も感じられるし、まさにそれしかないような、ぴったりハマる選択にも思える。凄くいいなと思いました。

また冒頭の「ロージン」もいいセレクトだな、と。この作品の中では、とりついた後のことは説明されません。そのままずっとそのモノにとりついたままなのか、あるいは自分の意志で抜けることが出来るのか。しかし、もし自分の意志で抜けられないのだとしたら、ある一定の時間が経過したら消えてしまうものにとりつくというのは、選択として正しいと思いました。ずっととりついてたら、しんどいと思うんですよね。

ロージンは、使えば使うほど粉が飛んで減っていくので、最終的にはなくなっていく。しかしロージンにとりつけば、確実に息子が野球をやっている場面に一緒にいられる。最後の最後に確実に息子の勇姿を目に焼き付けることが出来る。ロージンという選択も、とても良かったなと思いました。

作品全体にはさほど惹かれなかったのだけど、「くちびる」と「ロージン」は良かったなと思います。

東直子「とりつくしま」

「グランド・イリュージョン 見破られたトリック」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
天才犯罪集団・ホースメンは、正義の犯罪者でもある。マジックの技術を駆使して世間を翻弄させながら、ベガスでパリ銀行の金を盗んだり、保険王の金をかすめとって一般人に金をばらまいたりしてきた。
しばらく地下に潜って活動を制限してきたホースメンの面々だったが、彼らの上位組織であり、実在を疑う者もいる“アイ”という秘密組織からの指令で、ルーラという女を新たに迎え、アトラス(リーダー)、メリット(メンタリスト)、ジャック(カードマジシャン)、そしてFBI捜査官でもあり、“アイ”と直接やり取りが出来るローズの5名で、新たなミッションに挑むことになる。
今回の標的は、巨大IT企業・オクタ社の陰謀を白日の下に晒すこと。
オクタ社のCEOであるオーウェン・ケースは、新型のケータイの発表会を控えていた。しかしオーウェンは、新たなICチップの開発により、世界中のコンピュータに侵入し、どんなことだって出来る力を手に入れていた。この新型のケータイによって、世界中の人々の個人情報を収集しようとしているのだ。
オクタ社の発表会の会場に潜入したホースメンの面々は、発表会の会場をジャックし、CEOの悪巧みを暴露する…つもりだった。しかし、予期せぬ出来事が起こり、彼らは逃走。あらかじめ用意していた脱出経路から逃げ出す…はずだった。
罠にハメられたことを知った彼らは、異国の地で、そのICチップを開発した天才エンジニア・ウォルターと出会う。ウォルターは、オーウェンに手柄を独り占めされたことに怒り、ホースメンの面々にそのICチップを盗み出すように命令するのだが…。
というような話です。

エンタメ映画としてはメチャクチャ面白かったです。とにかくスピード感があって、予想外の展開があって、何がなんだか分からない内にラストまで辿り着くのに爽快感がある。こういう表現は陳腐だけど、本当にジェットコースターみたいな勢いで進んでいく物語だなと思いました。

ホースメンの面々はこの映画の中で、いくつかのかなり困難なミッションを手がけます。冒頭の、発表会をジャックするのもなかなかスマートでスリリングでしたけど、その後手がけるミッションはよりハイレベルです。ICチップを盗みだす場面での緻密さや細かなテクニック、そしてラストで打ち上げるトリックの壮大さ。とにかく、すげぇな、としか思えないです。

映画を観ながらずっと思ってたことは、ここで描かれている様々なトリックは、本当に、超一流のマジシャンなら実現可能なのか、ということです。特に僕が、いやこれは無理なんじゃないかと思うのが、ICチップを盗む場面です。何をやっているのかは、もちろん全部映っているから分かる。でもこれ、練習なしの一発本番で出来る可能性ってあるんだろうか?すげぇ練習を重ねれば、超一流のマジシャンなら出来ちゃう気もするけど、一発勝負、しかも状況に応じて何をするかその場で決断しなきゃいけない、というような状況で、あんな無茶苦茶なことやれちゃうんだろうか、と。まあ、映画だから、その辺りのリアリティにこだわることはないんだろうけど、本当に出来ちゃうんだとしたら、やっぱマジシャンってのはすげぇなと思うわけです。

ICチップは、金属ゲートの向こうにあり、ICチップは金属製。だから、どうやってICチップをゲートから通すのか、全然僕には思いつきませんでした。なるほど、最後あのICチップを通すためにああしたんだとしたら、さすがだなぁ、と。実際、あれぐらいのことは考えるんでしょう。すげぇなって思いました。

この映画には、オクタ社の陰謀から始まる様々なミッションに加えてもう一つ物語の軸があります。それが、FBIのローズと、ローズが罠にハメ現在は収監されている伝説のマジシャン・ブラッドリーの物語です。

そこには、30年前に起きたある出来事が関係している。ブラッドリーが司会を務める番組で、ローズの父であり、こちらも天才マジシャンと呼ばれていたシュライフが、金庫に閉じ込められ川に落とされた状態から脱出する、というマジックを披露する予定だった。しかし結果は失敗、シュライフは命を落とした。ローズは父の死をブラッドリーのせいだと決めつけ、ホースメンの濡れ衣を着せて逮捕させ復讐を果たしたのだ。

しかし、オクタ社の発表会乗っ取りから始まったこの一連の騒動の背後には、ブラッドリーも絡んでいる。長いときを経た確執が、二人だけでなく、世界中を巻き込んだ騒動の背景として重要な役割を果たすことになる。トリックやテクニック的な部分でももちろん楽しませてくれるけど、ストーリーもきちんとあって惹きこまれる。

さらに、カンフーアクション的な部分もあって、それはそれで見ごたえがある。色んな要素をうまく詰め込んで、エンタメとして非常にワクワクする映画になっていると思います。

「グランド・イリュージョン 見破られたトリック」を観に行ってきました

首挽村の殺人(大村友貴美)

内容に入ろうと思います。
岩手県にある鷲尻村は、長い冬を迎えようとしていた。大量に雪が降り、生活に様々な支障を来たす、というだけではない。鷲尻村は、医師がいない、という意味でも冬のように厳しい時期を迎えようとしていた。
鷲尻村には少し前まで、杉聡一郎という医師がいた。僻地医療に自ら飛び込んできた男で、鷲尻村に定住しながら、村人の誰とも仲良くなり、村の誰からも慕われた素晴らしい人物だった。
しかし杉は、ある日命を落とした。川の上流で倒れているのが発見され、熊に襲われて崖から落ちたのではないか、ということになった。しかし、事故であるという説明を疑う者もいる。杉先生の死は様々な謎や憶測を呼んだが、しかし何よりも、鷲尻村に医師がいなくなる、ということが喫緊の大問題だった。何かあっても、雪の時期であれば大きな病院まで2時間半も掛かる。救急車を待っている間に死亡することもあった。村長は、国境なき医師団にまで出向いて医師の派遣を要請したが、まったくダメだった。
そんな鷲尻村に、4ヶ月という期限付きでやってきたのが、杉の同僚だった滝本志門だ。滝本は杉ほど胸襟を開くタイプではなかったが、村に医師がやってくる、というだけで村人たちの喜びはひとしおだった。滝本は、杉のために改築した一軒家に住むことを拒否し、桜田という、マタギのシカリ(頭目)の家に下宿することになった。とはいえ滝本は、殊更村人と仲良くしようとするわけでもなかった。
滝本の赴任と時を同じくして、鷲尻村では殺人事件が相次ぐことになった。
霊安寺の住職である保呂岩謙称や村議会議長である沢下実などの死体が相次いで発見される。しかも、死体はどれも、異様な状態で発見されるのだ。さらに、「赤熊」と呼ばれる、200キロとも300キロとも推測される超巨大熊が鷲尻村を襲い始め、村は連続殺人事件と熊の襲撃にさらされることになる。
かつて鷲尻村は、「首挽村」として忌み嫌われた。戦前までは、この村から嫁を取るな、と言われたほどだ。岩手県と秋田県の境に位置し、四国と同じくらいの広さと言われる岩手県の中で最も小さな自治体。稲作は不向きで、昔は狩りで自活するしかなかった土地柄故に、飢饉による飢餓に見舞われることが度々あり、村は「おつかいさま」や「子捨て橋」など様々なやり方によって村人を口減らししてきた歴史がある。そんな後ろ暗い歴史を持つ村で起こった連続殺人事件と熊による襲撃。その背景にあるものとは…。
というような話です。

物語の中で掛け合わされていく要素が面白い作品だと思います。
本書の中で主に扱われていくのは、「現代の過疎地の問題」と「古い因習」です。前者でいえば、少子高齢化・医師の偏在・ゴミの不法投棄などなどであり、後者は、後ろ暗い村の歴史を色濃く反映した行事や言い伝えなどです。これら、様々な情報によって過剰に装飾された村で殺人事件が起こる、という舞台設定がなかなかうまくハマっている。

「現代の過疎地の問題」だけであれば、それを扱った作品というのは結構あるでしょうし、もちろん「古い因習」をメインに扱った作品もあるでしょう。でも、それら大きく分けて二つの要素を、「連続殺人事件」という枠組みの中に組み込んでいくことで、物語を動かしていくという点がなかなか面白い。過剰に装飾された村(もちろんこういう村は、現実的にも実在するのだろうけど)の中で、さらに過剰に装飾された死体が発見される。それでいて物語がマンガ的になるわけでもなく、重厚な雰囲気を醸し出している。ありそうでない、なかなか面白い組合せなのかもしれない、と思います。

またそこにさらに「余所者」と「熊」という要素まで組み込んでいく。杉や滝本といった余所者が物語の中心にいるし、さらに熊が混沌とした状況をさらに引っ掻き回す。過剰にさらに過剰を組み上げていく物語であって、その分分量もなかなかのものだが、物語の中で常に何かが起こっているので、飽きさせないで物語を読ませる力はある。

まあ手放しで良いと言える作品でもない。まず、先程から挙げている「過剰」がマイナスにもなる。様々な要素が過剰につぎ込まれているが故に、どうしても説明が多くなる。それらの説明を常に頭の中に取り込んで、鷲尻村という全体を把握し、かつ物語を追うというのは結構大変ではある。

また、ミステリでありながら、最後の最後になるまで「謎の中心」がどこにあるのかがイマイチよく分からない。もちろん冒頭辺りから、この辺のことがこの連続殺人事件の肝になるのだろう、と感じられる部分もあるのだけど、何せ色んな情報が組み込まれ、さらに人がバンバン死んでいき、同一犯による連続殺人事件なのかどうかさえよく分からない、という状況が続いていくので、どの辺りに注目して物語を追ったらいいのかイマイチよく分からない。登その状態で500ページの物語を読むのは、やはりなかなかに根気がいる、という感じがしました。

現代を舞台にして、横溝正史の世界を蘇らせた、という評価をされる作家らしいが、僕は横溝正史の作品を読んだことがないので比較が出来ない。横溝正史の世界観が好きな人にはとても良い作品かもしれない。

個人的には、「おつかいさま」や「子捨て橋」などの、忌まわしい歴史を背景に持つ伝統行事の話や伝承などが非常に面白いと思った。実際に存在する話なのか、あるいは著者の創作なのかは不明だけど、非常にありえそうな、リアルな話だと感じた。自分の知らない時代にこんなことが実際にあったのか、という驚きがありました。作中に、『生きるために金が必要、食べるためには金がいるという、この村の露骨なまでの現実を、滝本は見せつけられた気がした』という一文がある。過去の凄惨な歴史を知りながら、そして衰退していくばかりの村の現状も知りながら、それでも自分の生まれた土地を離れようとしない人々のあり方は僕にはイマイチ理解できないものなのだけど、禁忌を共有し、良いことも悪いこともすべて共同で請け負うことが当たり前である土地柄の生きる人々の生活も、興味深いと思いながら読んでいました。

大村友貴美「首挽村の殺人」

代理処罰(嶋中潤)

内容に入ろうと思います。
岡田亨は、家族と離れ一人で暮らしている。
食品の輸出入を手掛ける会社で働く岡田は、転勤先だったブラジルのリオデジャネイロで知り合った日系人のエレナと結婚し、二人の子供、悠子と聡をもうけたが、1年前エレナは突然家を出て、ブラジルへと帰国してしまった。
エレナは日本で交通事故を起こしたのだという。
当時60歳だった朝長葉月さんを社用車で轢き、そのまま逃げてしまった。すぐに救急車を呼べば助かると思われていた状況であり、見捨てて逃げてしまったエレナの罪は重い。
ブラジルには、自国民の他国への引き渡しを憲法で禁じており、それは他国で罪を犯したとされる者でも同じだ。その際に「代理処罰」という、ブラジル国内の法律に基づき裁判を行うという制度が適応されることがある。
岡田は、母親の実家に子供二人を預け、現在は一人で暮らしている。エレナとは1年経った今も連絡が取れないままであり、家族はバラバラのままだ。エレナの出奔の直後、拡張型心筋症という重い心臓の病気のためにアメリカでの移植手術が必要だった。そんな聡さえ置いてエレナはいなくなってしまったのだ。
岡田は週末には実家に帰るが、思い描いていた家族の形とはほど遠い。エレナは罪を犯したかもしれないが、日本に戻って逮捕されるにせよ、帰国しさえすればまた一緒に暮らせる可能性はある。何よりも、きちんと謝罪し、罪を償って欲しい。ブラジルに逃げてしまったままのエレナの気持ちは、岡田は未だに掴みきれないでいる。
そんなある日。岡田の元に驚くべき連絡が入る。
「娘は預かった」
16歳の娘の悠子が誘拐されてしまった。身代金を持ってくるように言われたが、なんと、娘の母親、つまりエレナに持ってこさせろと犯人は指示を出してきた…。
というような話です。

よく出来た、うまくまとまった作品だなと思います。

「代理処罰」というタイトルと設定を、実にうまく使っている、と感じました。ブラジルが犯罪者を引き渡さない、という話は知っていたけど、「代理処罰」を含めた詳細までは知りませんでした。事故を起こしてブラジルに逃げてしまった母親に娘の身代金を持ってこさせる、という発想はなかなか見事だと感じました。さらに、そこからスタートさせた物語を実にうまく着地させています。

物語は当初、直線的に進んでいるように思われます。娘が誘拐された、ブラジルに逃げた母親に身代金を持ってこさせるという指示、主人公がブラジルまで行って母親を探す、という感じです。まあ確かにそういう流れになるだろうな、と思うような展開ではありました。

ただその後、予想しなかったような展開になります。岡田や同行の刑事などにも理解できないようなことが次々と起こっていく。そしてラストに全体の構図が明かされると、物語の当初の印象が様々な部分で大きく変わっていきます。ある一つの誘拐事件が、物事の見え方を大きく一変させる、そんな展開が見事だなと感じました。

しかし、この作品の中で岡田がつきつけられる状況は、その場に置かれたら誰もが悩み込んでしまうようなものでしょう。娘は助けたい。しかしそのためには、日本に帰ってきたら逮捕されてしまう公算の高いエレナを帰国させるしかない。大切な家族を守るために、同じく大切な家族を犠牲にしなければならない。そういう決断を迫られた場合、人はどう行動するのか、決断をするのか。聡の心臓の手術もあり、岡田の人生にのしかかって来るものがあまりにも辛すぎるのだけど、それでも「家族」という形に拘りたいと願う岡田の気持ちは痛いほどです。

正直、そういう岡田の気持ちに、違和感を覚えることもあります。岡田は度々、「エレナが日本に戻ってくれば、また家族で一緒に暮らせるのにどうしてエレナは戻ろうとしないんだ」という風に考えます。でも、エレナは帰国すればほぼ間違いなく逮捕されるのだし、殺す意志はなかったかもしれないけど結果的に人を殺しているのだからすぐには刑務所から出てこれないでしょう。エレナが逃げた現時点でも「人を殺したのに逃げて」という非難があるのに、エレナが帰国して裁判になればまた取り上げられて、今まで以上にそういう風に見られるでしょう。岡田がエレナのことを想う気持ちはもちろん分かるし、どんなことをした相手であろうと「家族であるならば会いたい」という気持ちは分からないではないのだけど、「エレナが戻ってくれば家族がまた一緒になれ、そうなればまた幸せになれるのに」と無邪気に思える思考をしている部分は、ちょっと僕には受け入れがたかったです。いや、それはちょっと違うんじゃないかな、と。全編を通じてどうしてもその部分だけはずっと違和感を覚えてしまいました。

あと、新人のデビュー作としては結構レベルの高い作品だと思うからこそ感じるのだけど、一箇所それはちょっと都合良すぎる偶然だな、と感じる部分がありました。どうにもしようはなかったのかもしれないけど、ちょっとそれは物語としては厳しいな、と。偶然に思えたけど実は必然だった、というような説明が後々出てくるならいいんだけど、そういうわけではない。その偶然がなければ事件の全体像ははっきりしなかった可能性があるわけで、ちょっとなぁと思いました。もう少しうまくやってほしかった。

とはいえ、新人のデビュー作としてはなかなかの水準の作品だと思いました。ブラジルの事情を組み込んで展開される誘拐事件や物語全体の構図は非常によく構成されていると思うし、内面や感情の描写はともかく、人間の動きや行動については違和感を抱くような部分は特段ありませんでした。作家デビュー前に相当投稿を繰り返し、比較的高く評価されたようだけど、作家としてさらに何作か書き続けていけばもっと洗練されていくのかもしれません。

嶋中潤「代理処罰」

星読島に星は流れた(久住四季)

内容に入ろうと思います。
アメリカ合衆国、マサチューセッツ州にあるレイラタウン。東海岸の大都市であるボストンから西に40マイルほど離れた小さな町。ここに、訪問医を生業としている加藤盤は生活している。5年前に妻と娘を失った。その傷も癒えつつある盤だが、何事にもどうにも力が入らないような感覚はずっと消えないままだ。
ある日、そんな盤の元に一通のメッセージが届く。
『セントグレース島へのご招待について』
一瞬理解できなかった盤だが、すぐになんのことか分かった。<スターゲイザーズ・フォーラム>という、星や宇宙が好きな人間が集まるサイトがあり、その主宰者であり天文学者でもあるサラ・ディライト・ローウェルからの招待状なのである。
セントグレース島は、「星読島」とも呼ばれている。天体観測所を有する島なのだが、なんとその島には数年に一度隕石が落ちてくるという噂がある。毎年隕石落下の時期になると参加者を募り、隕石が落下するのを待つ集いが開かれる。そして見事隕石が落ちてきた時には、その隕石を参加者の誰かに無償で提供する、というのだ。
そんな島への正体を、盤は引き当てたのだ。
盤自身は、さほど星が好きというわけではない。しかし、亡くなった妻と娘が天文ファンだったこと、もうすぐ来るという流星群を見ようと約束し、その約束を果たす前に二人が命を落としてしまったことなどから、応募してみることになったのだ。
セントグレース島には、様々な人間が集まった。
NASAの職員であるエリス・バーナード。
大学生だという美宙・シュライナー。
メテオライトハンター(隕石の回収業)であるコール・マッカーシー。
アクティブなニートであるデイヴィッド・グロウ。
などなど、様々な立場の人間がこの島に集まってくる。隕石そのものが目的だったり、数年に一度隕石が落ちてくるという謎を解明すべくやってくる者もいる。
そして彼らはその島で、隕石と死体を見つけることになる…。
というような話です。

なかなかよく出来た物語だなと感じました。

まず、この物語の根幹を成す「隕石」の存在を、物語の中で実に有効に使っているという点がいい。
この部分は、作品の核に触れる箇所なのであまり詳しくは書けないけど、最終的に謎を解く限りになるのも隕石だし、「数年に一度隕石が落ちてくる島」という設定をとてもうまく使って物語を収束に向かわせるんだな、と感じました。

この物語の中で隕石というのは、小道具的な扱いではなく、非常に重要な要素です。本格ミステリ的な作品が数多ある中で、僕は舞台設定とトリックがうまく結びついている作品は結構好きです。この作品は、この島でしか成立しない、みたいなトリックを使っているわけではないのだけど、不可思議な性質を持つ島の存在が物語全体に対して大きな役割を果たしているという点が僕は好きです。

また、「ベタベタな本格ミステリではない」という点もいいなと思います。
本格ミステリには、「探偵」というキャラクターが出てくるものと、仕方なく「探偵役」になってしまう登場人物が存在するものとあります。本書は後者です。「探偵」というキャラクターは存在せず、主人公が期せずして「探偵役」になってしまう物語です。

そしてその「探偵役」である主人公も、殊更に「探偵役」であろうとはしません。ごく一般の人が唐突に「探偵役」という役割に邁進し始めるような物語にリアリティを感じることは難しいのだけど、本書はそうではなく、あくまでも主人公は参加者の一人に過ぎなくて、話の流れの中でちょっとしたことにたまたま気づいてしまったから、結果として「探偵役」を務めることになった、という印象です。本格ミステリ的なテイストのある作品で、「探偵役」の存在が不自然ではない作品というのはそんなに多くないように思うので、その点もいいなと思いました。

キャラクターもなかなか魅力的です。
セントグレース島に天体観測所を持つサラ博士は、こんな孤島に住んでいるぐらいだから変わっているとして(天体観測所は父の代から存在するものだけど)、アクティブなニートやスミソニアン博物館の職員など、同じ場に集うことがなさそうな面々が、隕石という共通の目的を持って集まっている。隕石と死体の発見は物語のちょうど真ん中ぐらいで、それまでは特に出来事らしい出来事は起こらない。それでも、集まった面々の会話や行動がなかなか興味深いので、何も起こらないのに読まされてしまう。キャラクターだけの問題ではないのだろうけど、キャラクターをベースにした話の転がし方が上手いんだろうなぁ、と感じました。ライトノベル出身という意味でキャラクターを書くことには長けているのかもしれないが、ライトノベル的なキャラクター造形というわけでは全然ないので、人間の造形という意味で力がある作家なのかもしれない、と思いました。

物語全体の関心は、「何故被害者は殺されたのか」という動機に集まってくる。殺害方法やだれが殺したのかみたいな部分には大きな作り込みはないのだけど、何故殺したのか、という部分を説得力のあるものにするために物語の細部が構築されていく。数年に一度隕石が落ちる島、という謎めいた設定と、そこに集う人々の動機がうまく絡まりあって、不可思議な殺人事件の背景が見通せるようになっていく過程はなかなか面白い。

本書は、優等生的な作品だと思う。キャラクター、殺人の動機、舞台設定など、どれかがずば抜けて面白い、みたいなことはなくて、作品を構成するあらゆる要素が平均点以上でとても良くまとまっている。ここが痺れる!みたいな部分がない代わりに、誰が読んでも一定以上の読後感を得られる、そんな作品ではないかなと思います。普段本格ミステリというジャンルを読まない人にも受け入れられる作品です。

久住四季「星読島に星は流れた」

遺跡発掘師は笑わない 悪路王の右手(桑原水菜)

内容に入ろうと思います。
亀石発掘派遣事務所は、「遺跡の発掘調査に関わる人材を現場に派遣すること」を業務としている。発掘調査だけではなく、遺跡修復から遺物復元、文化財保護や遺跡ガイドの人選など幅広い業務を請け負っている。
そこに、「宝物発掘師」の異名を持つエース発掘員・西原無量がいる。
彼は今、岩手県陸前高田市にいる。東日本大震災から二年。陸前高田市を含む沿岸部の被災地では、復興道路の建設や住宅のための用地買収が進んでおり、それら開発に伴って緊急の遺跡発掘調査(復興発掘)が同時多発的に行われている。あまりにも人手が足りず、調査員は全国の自治体から派遣されている。
「遺跡発掘なんて、復興の邪魔をしているだけなのではないか」
ここ陸前高田にやってきてからそんな思いに囚われながらも、それでも圧倒的な量の仕事を日々こなす中で、無量は「宝物発掘師」の異名を体現するようなものを掘り当ててしまう。
鬼の手だ。
人間の右手のようだが、親指と中指と小指しかない。周囲を掘っても、腕の骨はおろか、それ以外の部位の骨も出てこない。無量にもこれがなんだかさっぱり分からない。
一方、岩手県の平泉町に来ているのは、無量の同僚である相良忍。中尊寺の近くにある発掘現場、無量光院跡で相良は、出土品の盗難があったことを知る。
その後も頻発する出土品の盗難。発掘現場の地主が抱えているらしき秘密。無量らに襲いかかる暴力…。彼らが掘り返そうとしている秘密は、一体なんなのか…。
というような話です。

設定は非常に面白いなと思いました。色々あってシリーズの4巻(本書がシリーズの4巻です)から読み始めたんですけど、キャラクターとか設定はなかなか面白いと思いました。それまでのシリーズがどんな場所が舞台だったのか知らないけど、本書は、東日本大震災をきっかけにして復興発掘が行われている陸前高田が舞台です。開発にともなって発掘が行われるということも特に知らなかったし、そういう舞台設定の元でミステリを展開させていくというアイデアはなかなか秀逸だなと感じました。

ただ本書は僕にはうまく読めませんでした。というのも、歴史の話がちょっと無理だったからです。

元々歴史が物凄く苦手で、基本的な固有名詞も全然頭に入ってないんだけど、この作品では、歴史的な事実みたいなものが結構ベースになっていて、僕の知識量では情報を整理出来ませんでした。それが分からないと、「◯◯っていう出土品がどれだけ凄いのか」とか「××っていう出土品がどれだけ意外な存在なのか」みたいなことが一切分からないので、読んでいてまったく面白くないんです。作品のせいではなくて、僕の歴史に対する無知さからくるものなので、申し訳ないなと思いつつ。

もう少し歴史の知識があれば面白く読めたような気がします。歴史の話がサブ的な感じで描かれる作品ならまだ大丈夫なんだけど、歴史の話がベースになっちゃうと、ホントに読めなくなるなぁ。

桑原水菜「遺跡発掘師は笑わない 悪路王の右手」

「シチズンフォー スノーデンの暴露」を観に行ってきました

映画を観ながらずっと、もし自分がスノーデンと同じ立場だったら、同じことが出来ただろうか、と考えてしまった。

『成るようになるさ。リスクもよく知っていたし。
逮捕されるならされます。
公表すべき情報を公表できたのです。
僕に何があっても、報道を続けてください』

彼は、自分がどうなろうとも、自分以外の多くの人びとの公益のために動いた。

『情報源である僕を守る必要はありません』

自分にどんな未来が待っているのか、最悪の想定をしながら、それでも彼は行動をした。

『出来れば、僕の存在を発表して欲しい』
『僕は、コソコソしたくないのです。する必要がない。
堂々と出る方が強力だと思う』
『名乗り出るので痕跡は消しませんでした』

匿名での告発ではなく、顔をさらし、あらゆる不利益を被ることを覚悟で、アメリカの機密を暴露した。

『これまでのような家族の絆は、保ち続けられないでしょう』
『ツラい状況ですよね。恋人の僕に、もう帰れないかも、と言われたんですから』

迷惑を掛けないために、自身の計画は誰にも伝えずに行動に移した。

『マスコミは人格に焦点を当てすぎます。論点をズラされるのが嫌なのです。
話の中心は僕じゃない。
このことを公にするためなら、何でもします』

内部告発者として表に出る覚悟をしながら、それが報道の質を曲げてしまう可能性についても考慮に入れている。

『僕は何を公表すべきか否かを決めたくはない。だから記者の方に見て欲しかった。
僕には確固たる意見がある。でも、僕の意見は外して、公益を優先したい』

客観性を保つために、彼は、自分でネット上に情報をリークするやり方もあったはずだが、マスコミを通じてリークする。

『何だか不思議な気分ですよ。
1時間後に何が起こるか分からない。
恐怖と同時に解放感がある。
とにかく行動するのみです。』

映像に映るスノーデンは、常に冷静であるように見える。

僕がスノーデンと同じ立場だったとして、きっと同じことは出来なかっただろう。
せめて出来ることは、組織的な犯罪に関わってしまっている自分をその組織から引き剥がすことぐらいだろう。

スノーデンが暴露した内容がすべて真実かどうか、それは僕には調べようがない。ただ、細部はともかく、「アメリカが世界規模であらゆる通信を傍受している」という大枠についてはまず間違いないだろう。それらを、可能な限りの物的証拠と共に暴露し、世界中の目を開かせたスノーデンの行動は、称賛に値する。

『これはSFではない。現実です』

そう。これは現実だ。

2013年6月3日月曜日。本映画の監督であるローラ・ポイトラスと、英ガーディアン紙の記者であるグレン・グリーンウォルドの二人は、香港である人物と会うことになった。
その人物は、NSA(アメリカ国家安全保障局)の内部告発のためにローラに以前から接触を図っていた。ローラ・ポイトラスはアメリカの監視対象者となっており、その境遇からその人物から情報提供相手に選ばれた。
彼は、エドワード・スノーデンと名乗った。ブーズ・アレン社からNSAに出向しており、システム管理者を任されていた。彼は最高機密にまでアクセスが可能で、NSAがどんな手段で何をしているのかを知り抜いていた。
スノーデンの暴露は驚くべきものだった。NSAは、アメリカ国民だけではなく世界中のあらゆる人を対象に膨大なデータを収集している。すべてのデータ通信、無線通信、センサーがついていればアナログ通信まで傍受可能な監視プログラムを持っており、世界中の政府や企業がそれに関わっている。アメリカ政府は、グーグル・アップル・マイクロソフト・スカイプなどのインターネット関連企業9社のサーバーに直接侵入している。AT&Tは1日に3億2000万件もの通信データを提供している。NSAは1秒間に125ギガバイトというとんでもない量の情報を収集している。かつてNSA長官であるアレグザンダーは、NSAが通信を傍受していることを否定していたが、スノーデンはそれが事実であることを明らかにした。
きっかけは、9.11のテロだった。9.11のテロ後に制定された「愛国法」の名の下に、政府はテロや犯罪に関わるとは思えない人々の情報まで勝手に収集するようになっていく。
『史上最大の米国民への人権侵害』
グレンが第一報を報じて以来マスコミで報道が加熱した。その中で、スノーデンが暴露した事実を、あるマスコミがそう評した。
自由とは何か?それはどこにあるのか?国家と国民の関係はどうあるべきか?
僕らが知らないところで、僕らの自由は奪われている。ふと気づいた時には、すっかり自由が奪われていた、なんていうことだってあるかもしれない。
僕らは、そんな世界の中で生きているのだ。

非常に興味深い内容だった。

映画としてどうなのか、と聞かれれば、答えるのは難しい。何よりも、面白いとか面白くないとかで評価するような映画ではないだろう。

描かれる内容は、とにかく衝撃的だ。
この映画で描かれていることの大枠、つまり「アメリカが世界中の通信を傍受している」ということ自体は知っていた。だから、そのことに対する驚きはない。しかし、各国政府や超有名企業などがその企みに関係しているという事実には驚かされたし、具体的にどのようにそれがなされているのかという詳細も興味深い。

しかしそういう、暴露された内容についても興味深いのであるが、この映画の中で最も興味深いのはスノーデンという人物についてだろう。暴露された内容については、2013年にガーディアン紙が報じて以来様々に取り上げられてきただろうが、スノーデン本人についてここまで迫ったものは皆無だろう。なにせ、この映画の監督が、内部告発者としてのスノーデンに会った最初の人物なのだから。

スノーデンは、ずっと冷静だ。自分がしようとしていることの重大さを理解し、それがどういう結果を引き起こすのかも理解し、逮捕される可能性さえ考慮した上で、それでも行動に移した。アメリカという超大国を相手に無謀な闘いを挑んだ。
そして映画を観る限り、その動機は、「多くの人々にとって有益であるはずの情報を公開することそのもの」にあるように思える。スノーデンなりに、何らかの秘められた動機が隠されていたのかもしれないが、映画を観る限りそういうことは感じられなかった。

その高潔さみたいなものが、僕には凄いと思える。先程も書いたが、自分だったら、不正を行っている組織から離れる、ぐらいのことしか出来ないだろう。あらゆる不利益を被ってまで内部告発をしようとするスノーデンの意志と行動力、そしてそれを支える冷静さ。映画全編から、僕はそうしたものを感じて、その凄さに圧倒される思いだった。

スノーデンは、UNHCRの香港事務局を通じて亡命申請をし、アメリカ政府にパスポートを無効にされたためにモスクワの空港に40日間足止めされた後、政治亡命者として1年間ロシアへの滞在が許可されたという。監督のローラとはその後もやり取りを続けていたようだし、映画の最後には再度ローラと会って話をしていたが、今どこでどんな暮らしをしているのだろうか。結局、スノーデンの告発は、世界を一変させるほどではなかったのだろう。国民は忘れ、政府は傍受を続ける。そんな風に世界は動いていく。勇気ある行動をしたスノーデンがそれなりの生活環境の中にいられることを願っている。

『これは僕1人の問題じゃない。全国民の問題です』

これは日本国民も例外ではない。グーグル・スカイプ・フェイスブック・ツイッターなどを一切使っていないという人は、今の世の中ほとんどいないだろう。グーグルで検索した言葉や、フェイスブックに書いたこと、スカイプで話したことなどは、すべてアメリカに情報収集されていると考えていいだろう。日本政府も、NSAの情報収集に協力していないなどとは言い切れないだろう。

僕らは、そんな世界に生きている。
ある程度は諦めるしかないのだろうが、便利さと引き換えに自分が何を失っているのかを意識して生活する必要があるのかもしれない。

「シチズンフォー スノーデンの暴露」を観に行ってきました

「エクスマキナ」を観に行ってきました

世界一の検索エンジンを「ブルーブック」を開発したブルーブック社。「ブルーブック」は全世界の94%の人に使われている。その創業者であるネイサンの別荘に行く権利を抽選で引き当てたのがケイレブ・スミス、同社の有能なプログラマーだ。
ケイレブは、ヘリでその別荘に向かう。「2時間以上も前からもう別荘の敷地の上空にいるよ」とヘリのパイロットに言われるほど広大な土地に、その別荘は存在する。
ケイレブは、「ここでサインしないと一生後悔する」と言われて守秘義務の書類にサインをし、ネイサンがこの別荘でこもって行っているプロジェクトの一端に関わることになった。
チューリング・テストである。
コンピューターの原型を作ったアラン・チューリングが考案したテストで、人工知能のレベルを測るテストだ。アラン・チューリングが考案したチューリング・テストは、衝立の向こうに人間か人工知能かを配し、会話の相手が衝立の向こうの人工知能を人間だと感じれば人工知能には知性がある、と判断するものだ。
ネイサンはケイレブに、「エヴァ」と名付けた、ネイサンが生み出した人工知能に対してチューリング・テストを行うように指示する。エヴァは、機械であることがひと目で分かる容姿をしており、本来のチューリング・テストとは趣旨が異なるが、「機械の姿をしていても人間だと思うかどうかを知りたい」とネイサンに言われてケイレブは納得する。
期間は一週間。エヴァは基本的に隔離された空間にいて、ケイレブはエヴァと、ガラスの壁を挟んで会話をする。
「ネイサンを信用しないで」
ケイレブはある日エヴァからそう忠告を受ける。ネイサンは一体、何をしようとしているのか…。
というような話です。

個人的な感想では、思ったよりもスケールの小さな物語だったな、ということです。
これは僕の先入観というか期待の方向が間違っていたというだけのことだと思うんだけど、予告や物語の導入部から、「なんか凄いことが起こりそうな予感」みたいなものを抱かせる映画なんです。実際に、窓のない部屋、言葉の通じない使用人のような女、エヴァの仕様について深く語ろうとしないネイサン、エヴァの意味深な言葉などなど、「何か起こりそうな予感」はずっと付きまとうんです。

ただ、その期待に、どうも物語が追いつかなかったな、という印象でした。確かに、ラストの展開は色んな意味で予想外ではありましたが、とはいえ、人工知能やAIというテーマ、人里離れた別荘という舞台、主な登場人物が3人しかいないという状況など、これだけの要素が揃ったらもっと壮大なことが起こるんじゃないかなと思ってしまったので、ちょっと肩透かしを喰らったかな、という印象でした。

正直、ネイサンほどの知性と財力とプログラミングの才能があれば、もっと大規模で確実にチューリング・テストを行う方法を思いつけるんじゃないかと思うんです。実験を秘密裏に行いたいとか、エヴァを外に出すわけにはいかないとか、色んな難しい条件はあるだろうけど、どうしてもネイサンがやろうとしたことが、ショボいように思えてしまいました。

人工知能やAIというものを中心に据えた哲学的な思考や議論という意味でも、ちょっと中途半端かなと感じてしまいました。確かに、エヴァがどんな風に造られたのかというざっくりした話は出てくるし、ケイレブとネイサンの会話の中には、人工知能がどう進化するのか、人工知能に性別は必要かどうか、人工知能がいずれ人間をどのように扱うのか、などの話が出てくるんですけど、それも掘り下げ方が弱いという印象でした。

ストーリーで圧倒するか、あるいは哲学的な思考を深めるか、どちらかに振り切っていたらもっと面白かったかもしれない、という気もしたんですけど、個人的にはちょっとどちらも弱かったかなと思ってしまいました。

個人的にはどちらかというと、この映画が終わってからの物語の方が気になります。ネイサンとケイレブとエヴァがそれぞれどうなったのか、特にエヴァがどうなったのか、物語としては気になるなぁ、と思います。

「エクスマキナ」を観に行ってきました

Qrosの女(誉田哲也)

未だに、芸能人が不倫をした時に世間に対して謝る意味が僕には分からない。

もちろん、芸能人自身だって意味不明だと思っているだろう。しかし彼ら彼女らは、そうせざるを得ない。何故なら、「世間」がそう望んでいるからだ。そう望んでいる「世間」があるのだと、「マスコミ」が声を荒げるからだ。

もちろん、「世間」が何を望んでいるのか、だって分かっているつもりだ。「世間」は別に、謝罪そのものを望んでいるわけではない。そうではなくて、自分より遥か彼方の存在だった人間が、自分がいる場所よりも遥か下まで堕ちている、と確認したいだけなのだ。芸能人という地位から堕ち、一般人の自分よりもさらに低い場所に落ち込んだ、その事実にほくそ笑みたいだけなのだ。

本当に僕には、そういう欲求がまるでない。

ワイドショーや週刊誌やネットの掲示板を見て、まさにそれが今どんな話題よりも重大であるかのように語る人というのはごく一部かもしれない。しかし、そこまでいかなくても多くの人が、自分には被害が及ばない炎上をチラ見しては、ちょっとした野次馬気分を楽しむ、くらいのことはするだろう。芸能人のスキャンダルは、誰かと話す時の手堅い話題だからチェックはしている、という人もいるかもしれない。

そういう人が一定以上存在するからこそ、芸能ニュースというのは成立している。

『芸能スキャンダルそのものに報道する価値を見出せずにいる』

大多数の人が欲しいと思っているものを提供する、というのは確かに商売の基本だとは思うが、なら、覚醒剤を売るために人々をヤク漬けにするというのはどうだろう?確かにヤク漬けにされた人は、覚醒剤を「欲しい」と思うだろう。しかしそれは、「欲しいと思わされている」とも言える。物質的にも精神的にも豊になりすぎた現代、存在しうる物欲のほとんどが「欲しいと思わされている」と言えなくはないかもしれないが、しかしその中でも芸能スキャンダルというのは、「欲しいと思わされている」最たるものではないかと思う。

最近ビールのCMで、誰だか分からないが恐らくミュージシャンだろうと思われる人が妻夫木聡にこんな風なことを言っている。

「今の時代、難しいものはつまらないって切り捨てられてしまうような気がして」

その結果として、誰にでも理解できる、難しく考えなくても楽しめる、まさに芸能スキャンダルのような娯楽が、娯楽のトップを占めるようになってしまったのだろうと思う。

そういう世の中は面白くないなぁ、と僕はどうしても感じる。

僕は、今の自分には出来ない、分からない、届かないものだからこそ、手を伸ばしてみる価値がある、と考えるタイプの人間だ。芸能記事など、ヤフーニュースの見出しを見ただけで、大体どんなことが書かれているか分かる。ほとんど記事全文を読む必要なんてないぐらいだ。しかし、そういうものが持てはやされる。今の自分に理解できる、手が届くものにしかアプローチしない。だからこそ、作り手側も、そういう人たちに合わせて、分かりやすく、お手軽で、難しくないものを作るしかない。

つまんねーなー、そんな世の中。

僕はどうしても、そう感じてしまう。

発端は、「Qros」という、日本を代表するファストファッションブランドのCMだった。
「Qrosの女」
CM放送後から、そう呼ばれ注目を集め続ける一人の女性がいた。素性は一切不明、どこの誰なのかさっぱり分からないのに、今をときめくイケメン俳優である藤井涼介に抱きしめられているその女性は魅惑的な美しさを秘めている。これほどの美しさを持ちながら、どこかからデビューするような話もない。じゃああの女は一体誰なんだ?
「Qrosの女」は、ネット上で静かに広がりを見せている話題だった。
矢口慶太は毎週水曜発売の「週刊キンダイ」の契約記者。少し前まで政治班所属だった矢口は、異動で芸能班にやってくる。
「芸能スキャンダルそのものに報道する価値を見出せずにいる」
政治家の不正や公務員の悪事は徹底的に暴くべきだと思う矢口だったが、芸能人のスキャンダルには報じるべき価値があるとはどうしても思えない。しかし、仕事である以上やるしかない。とはいえ、毎週5本のネタを会議に載せるのはキツイ…。
栗山孝治は、矢口と同じ「週刊キンダイ」の記者だ。栗山はかつて「週刊文秋」に所属していたが、そこでとんでもない失態を犯してしまう。完全に事実無根の記事によって、一人の芸能人を抹殺してしまった。その時の記憶が、栗山を今も苛み続けている。そして、あんな記事だけは二度と書くまいと固く誓っている。
栗山は「Qrosの女」を追っていた。やがて彼は、「Qrosの女」の正体を突き止める。しかし妙な展開が栗山を待ち受けていた。そして「Qrosの女」を取り巻く厄介事を払拭する手助けをすることになる…。
園田芳美は、ブラックジャーナリズムの世界で有名だ。大ぼら吹きだが、十回に一回は真実を語り、百回に一回は大スクープを提供すると言われる伝説のフリー記者。どこかの雑誌に所属するのではなく、あらゆる方法で集めたネタを、記者にも売るし事務所にも売る。売れる先があればどこにでも売る。園田はそんな男である。
園田が「Qrosの女」と関わることになったきっかけは、一本の奇妙な電話だった。それは、園田にすればボロ儲けの仕事の依頼であり、しかしある意味では、その電話がすべての始まりだったと言っていい…。
というような話です。

さすが誉田哲也。どエンタメを書かせたら抜群に面白い作家だなぁと改めて思いました。一気に読ませるだけの筆力があるし、先がどうなっていくのかという展開の面白さは健在です。扱っている題材は芸能スキャンダルと、現代の世相に寄り添いすぎているものでありながら、浮ついたちゃらちゃらした内容ではなく、どエンタメの中に、報道とは何か、個人のプライバシーとは何かなど、日常の中で立ち止まって考えてみてもいい問いがうまく組み込まれています。

本書では、「Qrosの女」と呼ばれることになる女性が、個人のプライバシーを曝される、という展開になるのだけど、僕らは現実の世界でこういう状況を何度も目にしている。

これを書いている時点で最も記憶に新しいのは、東京オリンピックのエンブレム問題だろうか。僕自身は、あの問題は、あそこまで大きな騒動になるほどのものではないと感じたが、主にネット上の人たちがその情報収集能力を駆使して様々な疑惑を見つけ出しては拡散させていった。

『規制なきネット情報の渦に呑み込まれた個人は、はっきりいって無力だ。それと比べたらマスコミは紳士的だなどというつもりもないが、少なくとも週刊誌記者は自らの顔を晒して取材をしているし、編集部はクレームを受け付ける。』

小保方晴子、佐村河内守、あるいはベッキーや清原和博。芸能人かどうかに関わらず、様々な人間がネットの暴力にさらされてきた。ネットの暴力にさらされた人たちが、「悪くなかった」などと言うつもりはない。しかしだからといって、ネットの暴力に晒されても当然だと言えるほど悪かったのかと言えば、それもどうなのかなと僕は思う。

詳しい顛末は知らないが、かつてスマイリーキクチという芸人(なのかな?)が、見に覚えがまったくないままネット上の情報だけで勝手に凶悪殺人犯だとされ、謂れなき誹謗中傷を受けたという有名な出来事がある。こう言ってはなんだが、スマイリーキクチというのは、そこまで有名な芸人ではないと思う。そういう人が、突如こういう事態に巻き込まれた。これは、何らかのきっかけさえあれば、僕らにだって降りかかるかもしれないことだと思うのだ。

現に、芸能人ではない一般の人だって、ネット上の暴力によって様々な被害を受けていることだろう。ネットの掲示板とかほぼ見たことがないから、そういう現状については詳しくないけど、恐らくそういう事態が常時進行しているはずだ。

それは、怖くないか?と僕は思うのだ。

その想像力を持つことが出来るなら、ネット上や週刊誌、ワイドショーなどで晒し者にされてる人たちの怖さも想像出来ると思うのだけど、そういう抑止力は働かないみたいだ。僕には、イマイチ理解できない。

この物語は、週刊誌の記者であり、自身もかつて失態を犯している人物が、僕が感じているようなこういう疑問に、週刊誌という舞台を逆手にとることで解答を与える物語だ、と言うことは出来る。ラスト付近で、「真実とは何か?」みたいな議論が少しだけ展開されるのだけど、人を不幸にする真実もあれば、人を幸せにする嘘もある、ということでしかないのだ、と思わされる。真実とは何か?真実を報じることだけがマスコミの倫理なのか?そういう問いを突きつけ、現代の情報というものの在り方に一石を投じる結果になっている。

しかしまあ、そんな難しいことを考えなくても、純粋に物語が面白いし、謎が謎を呼ぶ展開は非常によく出来ている。どうしても僕は、物語の背景にある「報道とは?」「真実とは?」みたいな部分に目がいってしまうのだけど、そういう部分を見ないで純粋にエンタメとして楽しめる作品だ。そして本書を読めば誰もが、自分が普段「真実」だと思って接している情報が、どのように自分のところまでやってくるのか、そういう部分にも思考を向けることになるかもしれないとも思う。

誉田哲也「Qrosの女」

「シン・ゴジラ」を観に行ってきました

メチャクチャ面白い映画だった。

僕はたぶん、「ゴジラ」というものを映像で観たことがないと思う。映画の予告編や、クイズ番組などで取り上げられる際に動いてる姿を見ることはあっただろうが、映画本編を観たことはたぶんない。特撮モノと呼ばれるジャンルにも特に造詣は深くなくて、というか全然知らない。

そんな僕でも、この「シン・ゴジラ」は物凄く面白かった。
たぶんそれは、この映画が、「ゴジラ」の存在以外を、徹底的にリアルに描いたからではないかと思う。


東京湾のアクアトンネルの浸水が官邸に報告される。原因は不明だが、恐らく海底火山の噴火か新たな熱噴射口の発生だろうと思われた。内閣官房副長官である矢口は、既存の原因では説明できないこの現象を、「謎の巨大生物の可能性がある」と何度か進言するが、東京都民の避難という現実的な対策を考えなければならない政府は、彼の主張を一顧だにせず退けた。
しかしやがてそれは姿を現す。
巨大な尻尾が現れ、矢口の主張する「謎の巨大生物の可能性」が現実のものとなった。しかし、あまりにも情報が少ない。これまでの生物学の常識では、「これだけ巨大な海棲生物が上陸したら、自重による潰れて死んでしまうから、上陸はありえない」はずであり、総理もそう記者会見を開くが、しかしその直後、謎の巨大生物はあっさりと首都・東京への上陸を果たし、街をなぎ倒しながら各地で大混乱を引き起こしていく。
政府は為す術もなかった。
政府は、戦後初となる「武力行使命令」を発動。国会での承認を事後に回し、自衛隊の防衛出動により事態の収束を図るが、まともな作戦を展開できないまま撤退。その後謎の巨大生物は海へと帰り、混乱は一時収まった。2時間で、東京の街は壊滅的な被害を受けた。さらに、あの謎の生物がいつまた姿を現すか分からない。政府が対策を迫られている状況は変わらない。
政府は、特別法の立法や関係各所との調整など、巨大生物との対応に必要な各種手続きを進める一方で、矢口を中心とした特別チームも編成された。各部署のはみ出し者や異端の専門家らで構成されたこのチームは、縦割りの指揮系統を一切排除し、立場などを一切無視してあらゆる可能性を検討するように要請される。しかし、映像から分かることはごく僅かで、対策チームは困難な任務を強いられることになる。
やがてアメリカから、巨大生物の出現を予測していた生物学者がいたという情報がもたらされる。ゴロウ・マキ。彼は遺書とも思える文章を遺して姿を消していたが、彼の研究成果を援用する形で彼らは、「凍結プラン」という作戦を考えだす。
そして、ゴロウ・マキのネーミングに倣い、あの巨大生物は「GODZILLA」、日本名では「ゴジラ」と命名されることになる…。
というような話です。

ゴジラという、現実にはありえない生命体を登場させるという意味では、物語は完全にSFの領分なのだけど、しかしゴジラの存在以外は圧倒的なリアリティに溢れている。
この映画は、官僚側から描かれているという点で、その圧倒的なリアリティを描き出している。

映画は基本的に、「政府はゴジラにどのように対処するか」を徹底的にリアルに描き出していく物語だ。もちろん僕には、政治の力学や霞が関での物事の進み方などは知らないわけだけど、「もしゴジラが現れたら、政府はこんなやり取りの末にこんな対応をするんだろうな」ということが想像できるような展開です。

形式的な会議を積み重ねないと記者会見さえ開けない状況、責任の押し付け合いや縄張り争いなどによってなかなか進まない新法の制定、自衛隊の防衛出動に関する規定の解釈の議論、総理大臣から自衛隊の末端にまで指示が届くまでの指揮系統の遠さなど、政府の動きは何かと鈍重になる。まさに「お役所仕事」と評したくなるような動きの遅さを見せることがあり、登場人物の一人も『こんなことやってる場合じゃないだろ』と呟く場面がある。

しかしその一方で、この鈍重さが必要とされることもあるのだろう、とも感じた。映画の中で描かれる鈍重さは、まさに日本が民主主義であるということを示している。確かに、様々な命令や情報の伝達が一気に進む方が物事は動きやすいのだろうけど、しかしそれはただの独裁国家だろう。国民の権利を尊重しつつ、国という大きなものを動かしていくには、その図体のでかさに見合った鈍重さは受け入れるしかないのだろうと思う。

またこの映画では、官僚と呼ばれる人たちの圧倒的な仕事量も描かれていくのだけど、彼らが最高の処理能力を発揮できるためにも、時間は掛かっても明確なルールを最初にバーンと打ち出す方がいいのだろうとも感じた。官僚が各々の判断で勝手に動くのではなく、明確なルールや基準の元で動く方が、恐らくパフォーマンスが良い。立法や法律の解釈など、本当に「そんなことやってる場合じゃないだろ」というような動きも、それらのお陰で後々官僚が動きやすくなる、ということであれば良い結果を生むのだろうと思う。もちろん無駄も多いのだろうが、官僚の処理能力を最大限に引き出さなければ、ゴジラという困難なミッションには立ち向かえないのだとすれば、各種手続きはあった方がいいのだろうと感じた。

フィクションなので、実際の官僚たちの動きなどは知らないわけだけど、恐らく現実にも、彼ら官僚はこんな感じで動いているのだろう。矢口はある場面で、『この国はまだまだやれる』と言っていたが、確かにこの底力には力強いものを感じたし、危機が起こった際、不手際ばかりが強調されがちな国の対応にあって、こういう人たちの圧倒的な働きが陰にあるのだろうと強く実感させられた。同じように自衛隊の動きも見事で、ある場面で『礼は要りません。仕事ですから』と言い切るその自信や意識はさすがだと感じさせる。

そして、それら官僚と対称的な形でゴジラに対処していくのが、矢口率いる特別対策チームだ。先程も触れたがこのチームは、はみ出し者や厄介者ばかりで構成されていて、彼らがゴジラに対処するための現実的なプランをひねり出すことになる。

ごく僅かなヒントから、あらゆる可能性を検討しながらゴジラの性質を解き明かそうとする彼らの奮闘は、官僚の闘いとはまた違った意味で重要だし面白い。自衛隊の力を総動員した作戦がすべて失敗に終わり、彼らは、ほぼ唯一とも思える対処法へと向けて奮闘していく。

さらに大きな状況の変化が日本を覆い、彼らはタイムリミットに追いまくられながらも、日本の未来のために僅かな可能性に賭ける。持てる力のすべてを振り絞りながら目の前の状況に対処し、笑っちゃうほど壮大で無茶苦茶な作戦の遂行のために、あらゆる可能性を検討していく。官僚の、大きな流れの中でそれらを現実に落とし込んでいく処理能力と、対策チームの糸を針に通すような無謀な作戦の準備が同時並行で描かれていき、お互いがそれぞれ日本の未来を考えながら、目の前にある今出来ることに奮闘していく姿が非常に印象的な物語だ。

他のゴジラ映画や特撮モノを観たことがない僕としては比較することは難しいのだけど、ここまで徹底的にリアルにこだわった作品も珍しいのではないかと思う。「もしゴジラが現れたら」というifを、日本政府の動きや国際情勢までも加味しながら、あらゆる細部をリアルに見せていくのがこの映画の凄さだなと思いました。

そういう物語の中に組み込まれた「ゴジラ」という存在は、本当に徹底的に「謎めいた不気味なもの」という風に描かれていきます。その正体がほとんど不明である状況から、なんとか対策を捻り出し作成を遂行するラストに至るまで、「ゴジラ」という存在は謎のままです。もちろん、どんな風に生まれたのか、何故そんな仕組みを持っているのかなど、断片的な情報には触れられるのだけど、「何故ゴジラが東京にやってきたのか」など、その存在理由に関わる部分はほとんど描かれません。映画の尺の問題ももちろんあるだろうけど、それ以上に、「ゴジラ」というものをある種の自然災害、つまり地震や台風などのものと同列に扱っているのだろうと感じました。同じ生命であり、何らかの意志を持つ存在としてではなく、「ゴジラ」という名の自然災害であるように。それは、ほとんど対処法など存在しないような無敵の存在への畏怖かもしれないし、単なる思考停止であるのかもしれないけど、そういう描かれ方をしていることが、「ゴジラ」という謎めいた巨大生物の存在を受け入れざるを得ない人類の心境を表しているようでもあり、興味深いと感じました。

役者の早口や、圧倒的なテンポなどに引きずられて、大げさではなく一瞬足りとも気が抜けないような映画で、エンドロールを観ながらあくびをして、そういえば映画観る前ちょっと眠かったな、と思い出したぐらいです。眠気も忘れるぐらい惹き込まれていました。ゴジラや特撮に関心のない人にもオススメできる作品です。

「シン・ゴジラ」を観に行ってきました

「二重生活」を観に行ってきました

大学院で修士論文に着手しようとする白石珠。彼女の指導教授である、哲学科の篠原弘は、珠に「哲学的尾行」をすることを提案する。恨みがあるわけではない、関心を持っているわけでもない相手をただ尾行する「理由なき尾行」。一人の対象者の生活や行動を記録することで、一人の人間の存在をあぶり出し、それによって「人間とは何か」を考える。そんなテーマでどうだろうか、と珠は提案される。
少し考えさせてください、と珠は返した。
珠はゲームデザイナーである鈴木卓也と同棲している。二人が住むアパートの隣に豪邸があり、そこに暮らす親子三人の様子を時々ベランダから見ていた。
その豪邸のご主人が、珠が立ち寄った本屋で開かれていたサイン会の手伝いをしていた。咄嗟に跡をつける珠。美しい妻と可愛い娘がいて豪邸に住む男は、美しい女と不倫をしていた。ビルの狭間でキスをし、抱き合っていた。
それから珠は、「理由なき尾行」にのめり込んでいくようになる。
石坂、というその隣人の男を、出勤から帰宅まで毎日観察した。生活のちょっとした覗き見のつもりが、状況はどんどんと変わっていき、珠の予想もしていなかった展開が繰り広げられる。
「対象に接触してはいけませんよ」
教授のその忠告を、破ることになってしまう…。
というような話です。

全体的に、ちょっと消化不良というか、色んなテーマがしっくりまとまっていなかったなぁ、という感じがしました。
テーマ的には面白いなと思いました。哲学や尾行、そして代行業など、「存在とは何か」「人生を生きるとは何か」みたいな問いを様々な方向から考えられるような要素が結構あるのに、それらがうまく混じりあっていない感じがします。

まあそもそも、「存在とは何か」「人生を生きるとは何か」みたいなことを哲学的に問いかける、というのが、エンタメの映画ではやりにくいだろうなと思います。その点もそもそも難しかったのかもしれません。「尾行をする」というのも、結局ただの「覗き見」と大差ない感じがしてしまいました。なんとなくこの物語は、ただの「覗き見」になってしまってはダメな気がして、「尾行をする」というものをもっとうまく見せれたらよかったのかもしれないなと思いました。

いや、「尾行」と「覗き見」の違い、ということではないのかもしれません。なんとなく期待していたのは、「尾行」をすることで、珠自身がどう変化していくのかがもっと見えるような気がしていた、ということなのだろうと思います。「覗き見」は、ただ覗くだけで、覗く側の変化は期待されない。この映画は、もっと何か「他人の生活を尾行する側」の大きな変化が見れるような気がしていたんだと思います。

確かに珠は変化したのだろうけど、その変化は観客にはあまり大きなものには見えなかったと思います。確かに尾行によって、珠の生活にも変化がもたらされるわけだけど、もっと何かあったら良かった、と思ってしまいました。

『この世界に満たされた人間なんていないんだよ』

この結論自体はそうだろうなと思うし、こういう結論を導くために尾行があったのだとしたらそれはそれで面白いと思ったかもしれないけど、この映画で描かれる尾行は、それともうまく接続していない感じがして、「尾行をする」という行為が作品全体の中で果たす役割みたいなものがどうも小さいような、そんな気がしてしまいました。

映画を見ていて印象的だったのは、珠(門脇麦)の地味さです。尾行をする、という意味では目立たずに地味な方がいいわけで、そういう意味で門脇麦が作中で醸し出す地味さは、作品にとてもうまくマッチしていたと感じました。

「理由なき尾行」という発想は実に面白かったし(ただこれは、ソフィ・カルの「本当の話」に収録された話にインスパイアされたそうです)、全体がうまくハマればもっと面白くなった気もするんだけど、僕としては今ひとつという感じです。

「二重生活」を観に行ってきました

「BRODY 2016年10月号」を読んで

言葉や価値観に惹かれる傾向にある僕は、雑誌を買う時に、グラビアがたくさん載っているかどうかではなく、インタビュー記事がたくさん載っているかで判断することが多い。

「BRODY」の月刊誌としての創刊号は、そういう意味で、とても良い雑誌だった。乃木坂46関連のインタビューが、非常に充実していた。

乃木坂46のインタビューで、圧倒的な存在感を放つのは橋本奈々未だ。橋本奈々未のインタビューをすべて追っているわけではもちろんないのだが、どれを読んでも、問われたことに対する理解度、自分自身に対する客観視、価値観を言葉にする言語力など、アイドルだから、ということではなく、一人の人間としてそれらの能力に優れていると感じさせる。

橋本奈々未は、常に「冷徹な観察者」という感じがする。「冷徹な」という形容が正しいかはともかく、いつどんな場にいても「観察者」として存在している、というのは多くの人が抱く感覚ではないかと思う。そして、観察対象との距離感みたいなものが、どことなく「冷徹さ」を感じさせる。

『私の場合、笑うツボが小さいころから周りとあまり合わなかったりして』

この感覚は僕にもあって、こういう感覚は人を「観察者」にさせるのだと感じる。周りとの価値観にズレを感じなければ、周りを殊更に観察する必要はない。しかし、周りとの価値観にズレを感じれば、周囲と溶け込むためには観察することが必須となる。何故今笑っているのか、何故今泣いているのか、他人はどういう時にどういう行動をするのか、自分の行動はどう見られているのか…。観察し、言葉や感覚として捉え、カムフラージュとしてそれらを表面にまとっていく。学校という狭い世界の中で生き抜くためには必須の能力だろうし、橋本奈々未はその力が異様に発達しているのだろうと思う。

そんな橋本奈々未がインタビューの中で語っているのは、「自分の境界」についてだ。

『自分が思ってる自分が「自分じゃない」って言われることがあるんですよ。「ななみんってこうだよね」っていうイメージがひとり歩きしちゃうんです(中略)どこからが本当の自分の意志でやっていて、どこまでが周りに求められてやっていることなのか、たまにその境界線がわからなくなることはありますね。その積み重ねによって自分が変わっていってしまうのかもしれないとは感じていて。』

アイドルに限らず、他者に見られることを仕事にしている人のメンタリティがどうなっているのか、その一般的なところは僕にはまるで分からないが、橋本奈々未は、アイドルという仕事を通じて、「本来の自分」が変化していくのではないか、という危惧を抱いている。

『うん、思ってないことは言えないんだよね』

そう語る橋本奈々未は、恐らく、「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」を出来る限り近づけようとしているのだろう。近づけよう、というか、遠ざからないように、という感覚だろうか。例えば秋元真夏は、「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」を意識的に離し、まったく違うものとして扱っているだろう。そういう生き方が出来る人もいる。しかし橋本奈々未は、自分の感覚としてそれはやれない。「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」は、限りなく肉薄している。

だからこそ、その変化にも敏感なのだろう。

橋本奈々未はおそらく意識的に、「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」を定期的に比較しているのだろう。そしてそこがあまりズレないことが、橋本奈々未がアイドルとしてやっていく上での一つのルールみたいなものとして機能しているのだろう。しかし、「アイドルとして見せる自分」は、様々な要因によって変化していく。基本的に、「アイドルとして見せる自分」というのは受け取り手のものだからだ。「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」を定期的に比べている橋本奈々未は、「アイドルとして見せる自分」に「本来の自分」が引きずられるような感覚を持っている。

『うーん…これはひとによると思うし誤解されてしまうかもしれないんですけど、このお仕事をしていると失うものも多いと思ってるんですよ。それはあくまで私の性格上のことなんですけどね。だからなるべく変わらないほうがいいとは思うし、昔はこんなこともできていたのにって感じることも多いから、それは忘れないようにしておきたくて』

「アイドル」としては異質の存在感を放つ橋本奈々未は、アイドルという仕事が自分から何を奪っていくのかということについても冷静に観察する。それは、プライバシーや自由といった、他者に見られる仕事につきものの、誰でも思いつきそうなものではなく、もっと感覚的なものだ。

『ひとに対する気遣いとか優しさ…わかっているのに優しくできないとか、そこに寄り添ってあげられない自分の気持ちの弱さとか。意地悪な気持ちが生まれやすい環境ではあると思うから、そこに自分が侵食されたくないと思ってるのかもしれない』

こういう感覚を未だに維持できている、ということが、橋本奈々未の凄さの一端だろうと思う。乃木坂46が結成されてから5年。5年も一つの環境にいれば、その環境における「普通」に価値観が馴染んでしまうのが当然だろう。その中で橋本奈々未は、自分がかつて持っていたもの、今まさに失われつつあるものなどに対して自覚的だ。アイドルという仕事に就いた以上宿命であると諦めている部分もありながら、それでも「本来の自分」を手放さないようにしようという芯を持ち続けている。

『地元については、将来戻ったときに順応できれば自分はひととしてまちがってないんだっていうか(笑)
うん、そう思えるようにしていたいんですよね。ひとつの指標じゃないですけど』

橋本奈々未は、アイドルとして生きている中で、ある種の限界のようなものを捉えたのだろう。「アイドルとして見せる自分」を持つ以上、そして持たざるを得ない以上、それは「本来の自分」からは離れていくのだし、その乖離を完全に自覚し切るのは無理なのだ、と。だからこそ橋本奈々未は、指標を外に用意した。これもまた、非常に冷静だ。「本来の自分」の変化を感じ取るために、「地元(の友達)」との関係性を注視する。そんな風に橋本奈々未は、自らの思考力・言語力に加え、客観的な指標をきっちりと手放さないでいることで「本来の自分」を保ち、「自分の境界」を認識し続けているのだろうと思う。

橋本奈々未の客観的な者の見方は以前から凄いと感じていたが、改めてその凄さを実感したインタビューだった。

さて、そんな橋本奈々未は、客観視の能力が高いが故に、こういう性質を身にまとうことになる。

『これをサービス精神と言っていいかはわからないんですけど、少なくとも私は自分のためにはがんばれないんですよ』

この感覚は、客観視によってもたらされていると僕は感じる。
客観視というのは、自分が自分を見るのではなく、他者として自分を見ることだ。つまり橋本奈々未は、常に「誰かから見た自分」を意識していることになる。

僕も基本的に似たタイプだから同じような発想になるのだけど(僕も、自分のために頑張るのはなかなか難しい)、常に「誰かから見た自分」を意識しているが故に、その「他者視線」を満足させるように行動してしまう。

『だから羨ましいじゃないけど、自分が必死になれるということは、自分が役に立ってると感じられるということだと思っていて。さっきと同じような話になりますけど、自分がいちばん活き活きして必死になれるときって、自分になにかしてあげてるときじゃなくて、ひとの役に立っていたりひとに求められていることが目に見えてわかるときなんだろうなって思います。このお仕事をしていると、どうしてもそれが伝わりづらくて。求めてくれている人に自分がしたことが与えている影響って、まったく自分があまり知らないところで起こっているわけじゃないですか。だから握手会で「こういうときにこういうことを言ってくれたからがんばれました」みたいに言われるのはすごくうれしいけど、自分の中でまったくリアリティが伴ってこないんですよね』

自分を常に外側から見ているから、「何かしたい」「こうなりたい」みたいな、「自分」という立脚点を必要とする望みは生まれにくくなるし、次第に、「他人がして欲しいと望んでいること」を提供できることの“楽さ”(“楽しさ”ではなく)を感じるようになっていくだろう。その感覚はとてもよく分かる。

「本来の自分」を否が応でも変質させる「アイドルとして見せる自分」を持たざるを得ないアイドルという仕事に危惧を抱きつつ、同時に、求められることを返すことによって「本来の自分の境界」をはっきりさせていく橋本奈々未。「ロケ弁が食べられるから」という衝撃的な理由でオーディションにやってきた橋本奈々未は、最初から、そして今なお、「アイドル」という枠組みから外れ続けていると言えるだろう。アイドルという仕事が、自分を失わせ、同時に自分をはっきりとさせる。その奇妙なバランスと危うさが、橋本奈々未という稀有なアイドルを作り上げているのだろうと、改めて認識させられた。

橋本奈々未は、他者への洞察力も実に高い。

周りの人と合わない、と語るあるメンバーに対して橋本奈々未は、『自分があるからそうなるんだろう』と分析する。

松村沙友理である。

『自分がおもしろいと思うことだったり、正しいことやまちがってることが自分の中でちゃんと整理がついてるんだよ。その基準で周りで起こることを見て、自分の基準で笑えたり怒れたりするから、結果的に「合わない」と思うことが多いのかもしれない。』

橋本奈々未は松村沙友理をそう捉える。

松村沙友理のインタビューはあまり読んだことがないが、見た感じの「明るい」「自分の見せ方が上手い」「面白い」というイメージは、どうも、本来の自分とはかけ離れているという感覚があるようだ。「別冊カドカワ 乃木坂46 Vol.2」で初めて松村沙友理のインタビューを読んで、自分自身をどう捉えているのかを知った。

テレビなどでの松村沙友理しか知らない人(僕もそうだ)にとっては意外ではないだろうか。橋本奈々未も松村沙友理に対して、『さゆりんは、最初の印象では私とは真逆の人間だと思った』と言っている。確かに、橋本奈々未と松村沙友理は、真逆の人間に思える。

橋本奈々未は松村沙友理のことを、『なんとなくその場の空気や流れを見て、なんとなく察知する力がある』と評するが、松村沙友理の感覚では、自身はKYなのだと言う。

『すべての考え方が周りとズレすぎていて。昔に流行った言葉で言うとKY…自分凄いKYだなって思います。だから「空気読めるね」って言ってもらえることが多いんですけど、自分的にはぜんぜんそうは思えなくて、もうちがう世界の住人みたいな感じがしてしまって。周りのひとたちと合わなさすぎて悩んでるんですよ』

また、テレビを通じて見る松村沙友理のイメージは「明るい」「テンションが高い」というような感じだろうと思うが、松村沙友理自身は『性格がすごく地味だから』と言っている。

やはり、「アイドルとして見せる自分」と「本来の自分」との感覚はズレるものらしい。橋本奈々未が語っていたように、イメージ先行で「らしくない」と思われたりするようなことと同じだろう。松村沙友理自身は空気を読んでいる意識はないが、周りからはそう見られる。松村沙友理のことを僕は秋元真夏と同じタイプだとちょっと前まで思っていて、ある程度の戦略込みで自分の見せ方を選びとっていると思っていたので、「空気が読めない」という感覚を持っているというのはとても意外だった。

「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」の話で言えば、松村沙友理もまたその両者は肉薄しているようだ。でも、インタビューを読む限り、橋本奈々未とは少しイメージが違う。橋本奈々未の場合は前述したように「遠ざからないように意識して近づけておく」という感覚を持っている。しかし松村沙友理の場合は、「(遠ざけたいかどうかはともかく)自然に近づいてしまう」という感じだ。

『私はむしろ(仕事とプライベートの)線引きが下手だと思うんですよね。「これはお仕事だから」みたいに思えなくて。』

非常に面白いなと思ったのが、「◯◯ちゃんと遊びました!」みたいなことをブログに書けない、という話だ。

『自分でダメだなって思うのが、ブログに「◯◯ちゃんと遊びました!」とか「◯◯に行きました」みたいなことをぜんぜん書けないんですよ。なんか、ブログに書くために遊んでるんじゃないかって思えてきちゃって。』

この感覚は凄くよく分かる。松村沙友理は真面目なんだろうな、とこの部分を読んで強く感じた。「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」をうまく分けられないばかりか、分けることに対して罪悪感みたいなものを抱いてしまっているのだろう。嘘をついているような感覚になるのだろうと思う。考えすぎる人間はこうなってしまうが、僕はそういう部分に人間的な魅力を感じる。

テレビで見ているだけだと、松村沙友理が深い考えを持って動いているということはなかなか知り得ないので、今回のインタビューは、「別冊カドカワ」でのインタビューと併せて、印象的なものだった。

『私がいろんな物事を考えるときに優先していることは、どちらかというとファン向きじゃないんですよ。すべて一般の方にどういうふうに届くかを考えていて。乃木坂46のことをよく知らない方がフラットな気持ちで見た時にどう受け止めてもらえるかをすごく考えちゃうんです』

そう語る松村沙友理の言葉は、同じ雑誌に掲載されている白石麻衣のインタビュー中のこんな言葉にも通じる。

『実は握手会でファンの方と接することで、私を知ってから乃木坂に興味を持ったと直接言われることも多くて。(中略)
でもみんな、そこからどんどん推し変してしまうんですよ(笑)。(中略)最終的には乃木坂を応援してくれてることには変わりないので、結果的には全然いいやみたいな。』

松村沙友理も白石麻衣も、自分のファンは元より、今はまだ乃木坂46のファンではない人に視線が向いている。もちろん、松村沙友理は意識的に、白石麻衣は結果的にそうなった、という違いはあるかもしれない。また、安定的に人気のあるメンバーだからこそそういう方向に目を向ける余裕がある、という側面だって当然ある。とはいえ、生駒里奈もそうだろうが、「グループとして輝くために私がいる」という意識を、実践する中で表に出せるメンバーが多いことが、乃木坂46というグループの強みなのだろうと感じる。目立つ場所にいるメンバーがそういう意識でいればいるほど、その意識はグループ全体に広がっていくだろう。また、48グループのような総選挙がない、ということも、良い方向に働いている、ということなのかもしれない。「競争」が組み込まれた場合、グループのためにという意識は通常よりは薄れてしまうだろうから。

白石麻衣のインタビューで印象的だったのは、「プロ意識」についての話だ。

『よく周りの方からプロ意識が強いと言われますけど、私はそこまで…みんなが思ってる程じゃないと思いますよ(笑)。これが普通だと思ってるだけで。』

白石麻衣のインタビューもさほど読んだことがないので、自分の中でまだ白石麻衣はうまく掘り下げられていない。白石麻衣は確かに、「乃木坂工事中」などでも常に、求められる役割を完璧に全うしているように見えるし、他の場面でも周りからそう見られるほど「プロ意識」が高く見えるのだろう。しかし白石麻衣はそれを「普通だと思ってる」と語る。僕の白石麻衣のイメージは、中学の頃に引きこもって学校に行かなくなった、というぐらいのものだ。そこからどのようにして、周囲から賞賛されるほど「プロ意識」が高く見られるような意識を身につけていったのか。乃木坂46の中で常に最前線に立ち続けなければならなかった、という環境がそうさせたのかもしれないが、今後その辺りの意識を掘り下げたいものである。

同じく「グループとして輝くために私がいる」という意識の強い生駒里奈は、欅坂46のセンターである平手友梨奈を心配する。

『あと、みんな平手ちゃんのことを「天才」っていうのは良くない!確かにあの子は天才かもしれないよ。でも、それは言っちゃダメ。平手ちゃんだって絶対に気にするだろうし、もしも手のひらを返すようなことが起きた時に傷つくのは彼女なんだから。だからあんまり言いすぎないで欲しいです。』

生駒里奈の発言を追っていると、最近は、「他のメンバーを輝かせたい」ということを良く言っているように思う。例えば「EX大衆2016年9月号」ではこんな風に言っている。

『(だからフォローする側に回りたいんですね、という確認に対して)ウチはそういうところに落ち着いたのかなって。下手くそかもしれないけど、若いメンバーをフォローしていきたいと思ってます。私もそれが心地いいし、いまはいいバランスがとれいているんです。』

ちなみに松村沙友理も「別冊カドカワ 乃木坂46 Vol.2」の中で、『どうしてもこの子(2期生)たちを知ってもらいたいと思っちゃう。うちにはもっとすごい子たちがいるんだぞって』と似たような発言をしている。

生駒里奈の平手友梨奈に対する気遣いは、「何も知らないままのセンター経験者同士である」という部分ももちろんあるだろうが、生駒里奈の、他のメンバーを輝かせたりサポートしたりしたい、という現れなのだろうと感じる。先程触れた、白石麻衣や松村沙友理の「今まだ乃木坂46のファンではない人に向いている」という感覚とはまた違うが、生駒里奈は生駒里奈で、彼女にしか出来ないやり方でグループ全体のことを見ている。「アイドル」という、自分自身が光らなければ生き残れない環境で、他人を輝かせるためにも奮闘する生駒里奈のあり方は、やはり乃木坂46を語る上で外せないだろう。

さてこの記事は、橋本奈々未と松村沙友理の自己認識についての話から始まった。最後に、白石麻衣、生駒里奈、そして衛藤美彩の自己認識について触れてこの記事を閉じようと思う。

まずは白石麻衣。

『私、本質的にネガティブ思考なんですよ(笑)
(でも普段の白石さんを見ていると、そういうネガティブな部分はあまり表には出てませんよね)
お仕事のときはそうですね。でもひとりになったときとか家に帰ったときとか、落ち込むときはとことん落ち込むんです』

ドキュメンタリー映画「悲しみの忘れ方」を見ているので、白石麻衣のネガティブについては知らないわけではないのだが、やはり画面越しに見ていると、そういう雰囲気はまったく伝わらないので、こういう発言は意外に感じてしまう。

生駒里奈。

『(生駒さんのいちばんの武器ってなんだと思いますか?)
普通。周りにはカワイイ子が多いし、歌上手い子が多いし、演技が出来る、才能があるっていう子が多い中で私がいるから、ある意味目立つなって。普通だから。普通な意見をパーンって言えるし、ビッグな人を引き立たせることもできる。普通なことが逆に珍しいことことなのかなって思います。』

同じく「悲しみの忘れ方」の中で、『私はここまで運だけで来てしまいました』と言って泣いていた少女は、「普通」である自分自身に強みを見出した。強くなったものだ。

最後に衛藤美彩。

『強いとかしっかりしているようなイメージを持っている方は多いですね。自分はそう思ったことがないから、そのギャップに悩んできました』

衛藤美彩について僕は特別イメージを持っていないが、「なんでもそつなくこなせそうな感じ」は確かにある。

今回記事の中で色んなことについて触れたが、しかしこの「BRODY 2016年10月号」のインタビューはどれも、「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」のあり方について触れられていて、インタビュー自体も今まで読んできたものと比べて濃くて、非常に充実していたと感じた。こういう雑誌が増えてくれると嬉しい。


「BRODY 2016年10月号」を読んで

世界にひとつだけの本(北阪昌人)

内容に入ろうと思います。
本書は、「月原加奈子 38歳 旅行会社勤務」という女性を主人公として、7ページ程度に短い物語を積み重ねる形で描かれる、連作短編集ともショートショート集とも言えるような作品です。

元々はラジオドラマ用の作品として書かれたようです。毎週1話更新、4年以上の放送で、話は200話を超えたそうです。本書ではその中から25話がセレクトされています。

彼女の日常はささやかなものです。彼氏との関わり、旅行代理店のカウンターにやってくるお客さんとの関わり、学生時代の思い出、バスに乗った時に起こった出来事、ネイルサロンに行った時の話…。加奈子のなんということのない日常が描かれていく。

本書を読んで感じたことは、やはり本書はラジオドラマ用の物語なのだろう、ということだ。

僕はあまりラジオを聞かないし、ラジオドラマというものも聞いたことがない。しかし、想像するのに難しくはないが、音で聞く物語はさほど難しくは出来ない。登場人物の数も、ストーリーの展開も、ある程度分かりやすいものでなければ、耳だけで聞いて理解することは難しい。

そしてそれは、文字で読んで理解する場合に、多少の物足りなさをもたらすのではないか、と感じる。

いや、物足りなさ、という言葉で表現するのは間違いかもしれない。

『北阪さんが書く本の特徴はあえて多くを書き過ぎないところ』

ラジオドラマのプロデューサーがあとがきでそう書いている。

ラジオドラマの場合、輪郭だけ提示し、残りの部分は聞いている人間に想像で埋めてもらう方が物語を届けやすいだろう。具体的な描写をすればするほど、描かれている情景を伝えられている通りに想像しようとして物語を追えなくなってしまうのだろうと思う。

しかし、文字による物語の場合、輪郭だけ提示するやり方は、ちょっと足りない。特に、文字で物語を読むのに慣れている人であればなおさらだろう。文字による物語でも想像力の余地は残されるべきだろうが、ラジオドラマの場合とは程度に差が出るだろう。

ラジオを聞いている人が本書を読む場合、ラジオで聞いた時にイメージした物語や情景が再度浮かぶということもあるだろう。だから、ラジオドラマを聞いている人が本書を読むか、ラジオドラマを聞いていない人が本書を読むかで、また感じ方は変わるのではないかと思う。

そういう意味で純粋に物語として評価するのはなかなか難しいという感じのする物語だ。僕は、小説として読む場合、ちょっと物足りないな、と感じた。

北阪昌人「世界にひとつだけの本」

「野火」を観に行ってきました

「戦争」の「悲惨さ」は、まだそれなりに知る機会はある。
原爆投下の被害と酷さ、特攻隊として命を落とした人たちの物語、捕虜となって重労働をさせられた者の体験、そういったものは、ドラマや報道、ドキュメンタリーなどで繰り返し語られる。「戦争」というものはこれほどまでに「悲惨」なのだ。だから戦争はしてはいけない。そういう主張は、様々な場面で見かける。

それ自体はとても大切なことだ。それを否定するつもりはまったくない。

しかし、「悲惨さ」以上に、「戦争」をしてはいけない、と思わせるものがあるとしたら、どうだろうか?

「虚しさ」である。

「戦争」はとても「虚しい」。これは、物語でもドキュメンタリーでも、さほど描かれることはない。いや、描かれることはあるのだろうが、「虚しい」は常に「悲惨」とセットに描かれる、と言う方が正確だろうか。

「虚しい」と「悲惨」は、同列で描かれた場合、どうしても「悲惨」に目が行く。僕らはそういう風に教育されている。だから、「虚しい」が描かれていても、「悲惨」ばかりが記憶に残る。そして、「悲惨」だから「戦争」はしてはならない、と繰り返されることになる。

僕は、「戦争」の「虚しさ」のみによって描かれた映画を見た。

肺病を患い、所属していた部隊から追い出され病院に行くも、さらに重症患者の手当え手一杯の病院からも追い出され、部隊と野戦病院を行ったり来たりする不毛な時間を過ごす兵士。

僅かな食料であるイモを盗んで逃げようとして、ボコボコに殴られる兵士。

生き抜くために、現地の住民を脅して食事やマッチを手に入れようとする兵士。

動けなくなり、自ら所持していた手榴弾で自殺する兵士。

生き残るために“猿”を撃って食べる兵士。

木陰で意味不明な言葉を発する兵士。

幽鬼のようにただ彷徨い歩くだけの存在になっている兵士。

そこには、圧倒的な「虚しさ」が、圧倒的な「無意味さ」がある。
何故ならそこに「敵」はいないからだ。

「敵」がいれば戦争に意味がもたらされるか、と聞かれれば、そうではないと答える。
しかし、「敵」がいない戦場は、圧倒的な「無意味さ」しか存在しない、とは断言できる。

この映画では、「敵」はほとんど描かれることはない。
「敵であろう存在」から撃たれることはある。しかしその場合でも、「敵」そのものの存在は映画には映らない。「敵であろう存在」が登場するシーンも、ごく僅かだ。

彼らは飢えと、病気と、人間への不信感と、生き残りたいという欲求と、そうしたものと戦い続けている。

これは何だ?
これこそがきっと、「戦争」の本質なのだろう。

原爆や特攻隊や捕虜などももちろん辛い。そこに人間の命と人生が関わっている以上、戦争に関わるどんな事柄も辛いのは当然だ。しかし、原爆や特攻隊や捕虜などの物語は、「悲惨さ」を伝えることが出来る。そして「悲惨さ」というのは、時を超えて受け継がれていく可能性がとても高いものだ。だから良い、などという結論を導くつもりは決してないのだが、原爆や特攻隊や捕虜などの存在は、起こってしまったどうしようもない過去からなんらかの有意義な意味を取り出せる、そんな対象であるように思えるのだ。

しかし、「虚しさ」「無意味さ」は違う。それらは時を超えて受け継がれる可能性は低い。「悲惨さ」も「虚しさ」も共に人の心を打つが、人は「悲惨さ」に涙し、「虚しさ」からは目を背ける生き物だ。「虚しさ」は、人の心を打ちながらも、長く伝えられる可能性は低い。

当事者の意識も違うだろう。

「悲惨さ」の場合、それを体験した者やその遺族は、その体験を他者に伝えることに前向きであることが多いイメージがある。しかし「虚しさ」の場合、そうはならず、体験した者やその遺族は、口をつぐみたくなってしまうことだろう。

「戦争」の本質が「虚しさ」なのだとして、しかしそれらは後世にさほど伝えられることもなく消えていく運命にある。戦後70年以上を経て、それらの「虚しさ」をまさに体験し、語れる者もごく僅かになってきてしまったことだろう。「戦争」というものがいかに「虚しい」ものであるのかということは、時と共に忘れられていってしまう運命にあるのだ。

だからこそ、この映画には大きな価値がある。これほどまでに「虚しさ」を伝える物語は、そうそう存在しないように思う。

この映画の内容を言葉で説明することはほとんど無意味であるように思う。
何故なら、ありきたりの表現で申し訳ないが、この映画は「体験するもの」だからだ。

フィリピンの自然の美しさ。
そのジャングルの中でせせこましく生きる人間。
静寂と銃声と爆発音の激しいコントラスト。
極限状態にある人間の、絶望さえ通り越した表情。
人間があっさり死んでいく異様な空間。
“人間”として生きていくことの難しさに溢れた戦場という環境。

そういう、文字ではなかなか伝わらない、体験してもらうしかない様々な事柄によって、この映画は成立している。

『俺がお前を殺して食うか?
お前が俺を殺して食うか?
どっちだ?』

こんなやり取りが成立する空間がスクリーンの中で存在していること、そしてその空間は、かつて実際にこの地球上に存在していたこと。そういうことに思いを馳せると、不思議な気分になる。二人がやり合っている理由にも、やり合っているという状態にも、なんの意味もない。しかし人間は、「戦争」に放り込まれると、最終的にこうなってしまう。

こうなってしまうのだ。

自分は大丈夫、という感覚は捨てた方がいいだろう。誰でも、彼らと同じ環境に放り込まれれば、同じようになる。それが人間だ。

戦場に行かない人間が戦争を始める。そして、戦場に行く人間があらゆる「虚しさ」を引き連れる。生き残った者は、その「虚しさ」を引き連れたまま、永遠に悪夢にさいなまれながら生きていくしかない。

『俺が死んだら、ここ、食べてもいいよ』

「戦争」になったら、僕は逃げようと思っている。逃げられないかもしれない。投獄されたり、下手したら殺されたりするかもしれない。しかし、この映画のようになる可能性が僅かでもあるなら、僕は殺されるのだとしてもその可能性から遠ざかっていたい。

「虚しさ」は長いこと受け継がれることはない。しかし「虚しさ」こそが、人を「戦争」から遠ざけると思う。この圧倒的な「虚しさ」を知った者で、それでも戦場に行ってもいい、と思える者は誰一人いないだろう。

日本が「戦争」に突き進んでいくような雰囲気を、特に最近の政治から感じる。油断しているときっと、僕らは「戦争」に巻き込まれてしまうと思う。自身は絶対に戦場に行かない人たちが決めたルールによって、僕ら一般人が、この映画で描かれたような惨状に放り込まれてしまうことになるだろう。

それだけは絶対に御免だ。

僕は、「戦争」になったら、真っ先に逃げる。「戦争をすると決断したトップが運営している国」など、捨ててしまいたいと思う。それまでも、「戦争」になったら逃げたいと思っていたが、その気持ちをこの映画はとてつもないレベルにまで増幅してくれた。

全国民が見るべき映画だ。

「野火」を観に行ってきました

「15thシングルキャンペーン・新センター齋藤飛鳥の1人でヒット祈願inミャンマー」を見て

24時間テレビを横目で見ながら感じることがある。
それは、みんな泣いていて不自然だな、ということだ。

僕にはそこに、「泣かなければならない圧力」みたいなものを感じ取ってしまう。
その圧力は、現実に存在するものかもしれないし、出演者個々の妄想の集合体みたいなものなのかもしれないが、いずれにしてもそういう圧力に「屈して」泣いているように見えてしまう。

これは語弊があるだろうからきちんと説明するが、
本当に悲しいと思って泣いている人ももちろんいることだろう。
それを疑っているわけではない。
ただ、実際に悲しいと感じて、あるいは感動して泣いているのだとしても、前述したような圧力がある場(あるように見える場)で泣くということは、そういう圧力に「屈して」泣いているように受け取られても仕方がない、と僕は思う。

別に24時間テレビに限る話ではない。オリンピックやワールドカップなどでみんなが日本を応援してる感じとか、バラエティ番組で、ここで笑ってというように笑い声が挿入されている感じなど、昔から「そう感じなければいけない圧力」「感じたことを表に出さなければいけない圧力」みたいなものに強烈に違和感を覚えてきたし、そういう場所からは出来る限り逃げるようにしてきた。

さて、齋藤飛鳥の話である。

先日「乃木坂工事中」で、15thシングルキャンペーンである、齋藤飛鳥のミャンマー一人旅を見た。以前齋藤飛鳥の料理に強烈なナレーションを入れたディレクターが担当だとかで、齋藤飛鳥の自由奔放な感じとか、他人とは感じ方の違う部分なんかがうまくフィーチャーされていて、齋藤飛鳥のファンとしてはとても面白い回だった。

その中で、僕がとても気になって、とても共感できた部分がある。

『撮れ高は(スタッフが)満足して帰ることはないと思います。
お寺とか好きなので凄くテンション上がってたんですけど、それであれなので(テンション上がってるように見えませんでしたよね?という確認の発言)。』

『今結構テンション上がってるし、感動してる(と割と低いテンションで話す)』

『嬉しさ伝わってますか?』

この旅中、齋藤飛鳥は何度かこういう類の発言を繰り返していた。
そしてこういう部分を、僕はとてもいいなぁ、と感じてしまう。

悲しかったら涙を流すとか、嬉しかったらはしゃぐとか、怖かったら叫ぶみたいな「反応」って、どうしても「他者」の目を意識したものになる。もちろんこれも先ほどの24時間テレビの話と同じだが、例えば「他者」が誰もいなくても嬉しかったらはしゃぐ、という人はいるだろう。しかし同時に、そういう振る舞いが「他者」を意識したものであるように受け取られることは仕方ない、と僕は思っている。

アイドルというのは、そういう「反応」をどれだけ自然に見せられるか、ということも人気を左右する一つの指標となるだろう。何らかの感情の動きに対して、それを外側に分かりやすく「反応」として提示することで興味を持ってもらったり好きになってもらったりする。それを意識的にやろうが無意識的にやろうがどちらでも構わないが、いかに自然にそう振る舞えるかで、人気や評価が変わってくる存在であるように僕は感じている。

齋藤飛鳥は、恐らくではあるが、そういう存在としてのアイドルを「THEアイドル」と呼んでいる。

齋藤飛鳥はインタビューなどで頻繁に、「昔はTHEアイドルを目指してたけど、そうじゃなくても受け入れられることが分かってからはそれを目指さなくなった」というような発言をしている。そこで言う「THEアイドル」は、恐らく僕が前述したようなものではないかと思うのだ。

齋藤飛鳥は、その「THEアイドル」を目標にすることを止めた。「THEアイドル」を目指していた頃の齋藤飛鳥のことは知らないが、僕は今の齋藤飛鳥の振る舞いが好きだ。

ミャンマー一人旅をしている齋藤飛鳥は、確かに笑顔ではあるが、物凄く楽しそうに見えるわけではない。馬がただぐるぐる回っている土産物を見て瞬間的にテンションが上がったりするような場面はあるが、全般的に同じようなトーンで過ごしているように見える。

しかし齋藤飛鳥自身の感覚としては、凄く感動している時とそうでない時がきちんとあったのだという。
そして、凄く感動している時に、それを「反応」としてわざわざ提示しない齋藤飛鳥に、僕はとても好感を抱く。

齋藤飛鳥がどういう感覚でそういう振る舞いをしているのかは分からないし、別に意識的にやっているわけではない、ということだってあるだろう。ただ、どういう感覚でそうしているかに関わらず、感情を「反応」として提示しないという選択はなかなか勇気がいるものだと僕は感じるし、それを結果的に選びとっている齋藤飛鳥は凄いと感じてしまう。

感情に合わせた「反応」を普通に見せる方が、一般人としても楽だし、当然アイドルとしても楽なはずだ。「反応」を見せないことで、周りを不安にさせたり、余計な誤解を生んだりすることもあるだろう。特別良いことはないはずなのだ。

だからこそ、そういう行動を取る齋藤飛鳥に僕は、強い意志を感じてしまう。それが本来の自分であるのかどうかはともかく(僕は、そういうあり方が本来の齋藤飛鳥に近いのだろうと思ってはいるが)、「反応」を見せないという自分を提示する、という選択に、自分自身を貫く意志や、何か大きなものに抵抗する意志など、敢えて苦しい道を選んでいるような強い何かを感じてしまう。その分生きづらくなるはずだが、たとえそうだとしても自分の感覚に正直でいようとする振る舞いに、好感を抱く。

齋藤飛鳥自身は恐らくそこまで意識的にはやっていないだろう。僕も、「反応」を見せることが苦手なタイプだから、齋藤飛鳥の振る舞いはそもそも共感できる。別に自分がどう思ったかが大事なわけで、それを周りにいる「他者」(面識があろうがなかろうが)に見せる必要はない。きっとそれぐらいの感覚だろうと思う。自分のあり方に素直なだけだ。
しかし一方で、「反応」を見せないことで、周りの人を不安にさせたり、要らぬ誤解を与えたりする経験も数多くしてきたはずだ。アイドルであれば、なおさらそれが不利に働く場面もあるだろう。そういう不利益があることが分かっていて、なおそういうあり方を貫く齋藤飛鳥の姿に僕は惹かれる。

しかも、「反応」を見せない振る舞いが基本だからこそ、「反応」を見せた時の真実味みたいなものが増す、ということもあるはずだ。
メンバーのインタビューを読むと、齋藤飛鳥はよく泣くのだという。僕には齋藤飛鳥がよく泣くというイメージは特にないのだが、しかし本当に齋藤飛鳥がよく泣くのだとすれば、その涙はより本物に近いように映ると僕には思える。

何故なら、普段「反応」を示さない齋藤飛鳥が、「泣く」という「反応」を露わにしているからだ。

僕はライブや握手会に行ったことがないので、そういう場で齋藤飛鳥が涙を見せているのかどうかは知らない。ファンにも見せるのか、あるいはメンバーの前でだけなのか、それは僕には判断できないが、いずれにしても、齋藤飛鳥の涙を見た者は、それが普段見られない齋藤飛鳥の「反応」であるという意味で、よりその「反応」を強くリアルに感じ取るのではないかと僕は思うのだ。

もちろん、その辺りのことを齋藤飛鳥が計算でやっている、なんてことを主張したいわけではない。計算だろうが計算じゃなかろうが僕にはどっちでも構わない。いずれにしても、見せる必要がないと齋藤飛鳥が感じる「反応」は敢えては見せない、というミャンマー一人旅の企画で見せたそのスタンスは、齋藤飛鳥に対する僕の関心をより強くした。


ミャンマー一人旅の企画はそれ以外にも、齋藤飛鳥の魅力に溢れた企画だった。

例えばその独特な言語感覚。ある料理を食べた時、齋藤飛鳥はこんなコメントをしていた。

『台湾についた瞬間、その国の匂いってあるじゃないですか?その味です』

味についてはまったく何も伝わらないのだが、その独特の言語センスがとても素敵だ。ミャンマーでご飯を食べていて台湾が出てくるのも謎だし、匂いが味です、という日本語はメチャクチャなのだけど、でもそういうことを言っても齋藤飛鳥はバカっぽく映らない。安部公房や遠藤周作などの作品を読んでいるというイメージがそうさせるのか、常に一本芯が通っているかのような雰囲気がそう見せるのか分からないが、齋藤飛鳥の発言は、内容的にそれがどれだけ意味不明なものであっても、的を外した感じにならない、という点は、齋藤飛鳥の強みであるように思う。

「張り切りチャイティーヨー」という謎のフレーズも印象的だった。この発言の意図を説明する齋藤飛鳥の言葉は正直意味不明で、ディレクターも「齋藤飛鳥は疲労にやられてしまっていたようだ」というようなナレーションを入れていた。しかしこちらも先程と同じで、意味不明なのだけど面白いし、外した感じがない。齋藤飛鳥はまだ、「乃木坂工事中」の中でもそこまで喋る方ではないが、深い思索を感じさせる橋本奈々未や、異次元の発想を繰り出す堀未央奈などとはまた違った形の言語感覚を見せてくれるはずだと期待している。

母親から、ミャンマーのご飯は味が濃いから日本から何か食べ物を持っていけ、と言われて齋藤飛鳥が持ってきたのが「おかゆ お茶漬け リゾット」という「三大べちゃべちゃしたご飯(僕が勝手に名づけました)」なのはもう鉄板のネタだし、雨季のため状況次第ではロケを中止しなくてはならなかったかもしれない中、齋藤飛鳥が外にいる時間だけ雨が一切降らなかったという奇跡を呼び寄せたのも、持ってるなという感じがする。齋藤飛鳥らしさを存分に引き出す面白いナレーションも健在で、見た目のテンションに変化がない齋藤飛鳥の姿をとぼけた感じに見せるのに大いに貢献していると感じた。

今回初めてセンターに選ばれ、そのことによって今までやる機会のなかった仕事や状況に直面する機会も触れるだろう。齋藤飛鳥は、まだまだ秘めたものを持っていると僕は勝手に感じている。齋藤飛鳥自身は、「何かを知らないことは恥ずかしいこと」「努力している姿を見せたくない」とインタビューなどで語っているが、そういう部分も垣間見せていくようになると、より齋藤飛鳥の魅力的な部分が表に出るのではないか、と感じさせる今回の企画だった。

「15thシングルキャンペーン・新センター齋藤飛鳥の1人でヒット祈願inミャンマー」を見て

「南京事件」を調査せよ(清水潔)

僕は「歴史の授業」が嫌いだったのだけど、そのことを人に説明する時によく、「南京事件」を引き合いに出すことが多かった。
たかだか100年も経っていない「南京事件」が、起こったのか起こっていないのかの論争が存在しているくらい歴史というのはファジーなものだから好きになれない、というように。

「南京事件」を引き合いに出すことが正しいかどうかはともかくとして、この感覚は常に僕の中にある。
例えば、僕は学校で「鎌倉幕府の成立は1192年」と習ったが、確かこれはもう否定されているはずだ(今何年と教わっているのかは知らない)。教わったことがどんどん変わっていく。しかしそれは、理系の知識も同じだ。新しい発見があれば、どんどん教科書の記述は変わっていく。
それは、まあ仕方ないことだと思う。

僕がどうにも受け入れられないのは、例えば歴史的事件の背景にある動機や理由などについてだ。
確か織田信長だか豊臣秀吉だかが朝鮮出兵をしたような記憶がある。それに対して、こういう動機で彼は朝鮮出兵を決めたのだ、というようなことをきっと学校で教わるのだろう。
しかし、そんなもの正しいかどうかなんてどうやって判断するんだ、と僕は思ってしまう。
何かの本に記述はあるのかもしれない。でも、その記述が正しいかどうかの保証はどうなされるのだろう?客観的事実に関する描写なら、複数の記述を突き合わせればその真偽は判断できる可能性が高い。しかし、内面の事柄に関しては、ほとんど検証など出来ないのではないか、と僕は感じてしまう。

僕にとっての「歴史」というものの認識の根幹には、そういう考え方がある。基本的に、「これが正しい」とされていることの正しさは怪しいな、と思っている。
そして、そういうことを一言で表すために僕は、「南京事件」を引き合いに出すことが多かったのである。

『「南京事件」取材の最大の障害は年月の経過だった。
終戦は70年目を迎えることになるが、「南京事件」は更に遡る77年前だ』

77年前の出来事。ギリギリ関係者が存命であるかもしれないというタイミング。そんなタイミングで著者は、「南京事件」の調査報道に携わることになった。

本書のベースとなっているのは、NNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」という番組である。著者である清水潔氏が手がけた番組だ。この番組は、「平和・協同ジャーナリスト基金賞『奨励賞』」「ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞」「メディア・アンビシャス賞」「放送人の会・準グランプリ」など様々な賞を受賞したドキュメンタリーであり、『大手メディアのほとんどがなぜかこの事件から目を逸らす』と言われている「南京事件」を真正面から扱ったものとして大いに話題になったようだ。

『番組はSNSなど、ネット上でも相当な話題となっていた。
書き込みにはこんなものもあった。
<南京事件って本当にあったんだ。中国の捏造ではなかったのか!>
そう信じていた人が多いことを改めて確認した。』

著者自身についても先に書いておこう。
著者は、「桶川ストーカー殺人事件」で、警察よりも先に犯人に辿り着くという執念の取材により、調査報道の新境地を拓く。「足利事件」の冤罪を証明し、それを足がかりとし「北関東連続幼女誘拐事件」の存在を明らかにした「殺人犯はそこにいる」も、調査報道のバイブルと評される。常に事実を追い求め、細かく細かく「正しいこと」を積み上げることによって誰にも到達出来ない地平に達する著者の取材のあり方には、恐らく誰もが驚愕させられることだろう。

『「事実」に一歩でも近づくことが最大の目標だ』

『資料取材の基本は「原典に当たれ」だ』

今回の南京事件の取材においても、過去の調査報道のスタイルを踏襲し、細かく事実を積み上げていくことで、否応なしに南京事件の発生の有無に決着が着くような形で取材を進めていく。「一次資料に当たること」「たった一つの一次資料を信用せず、複数の方向からその真偽を確認すること」「解釈や説明ではなく、事実を積み上げること」など、取材のイロハではあるのかもしれないが、そのイロハに忠実に徹底的に従うことで、未だに議論の尽きない南京事件というものを炙りだしていこうとする。

今回の取材のキーマンとなったのは、小野賢二という人物だ。小野氏の存在がなければ、著者の取材は、著者がこれまでやってきたスタイルではとても実現できなかっただろう。

小野氏は化学メーカーを勤めあげ、定年後ある活動を始めた。それは、地元福島県から徴兵された元兵士を探しだして、南京での出来事を聞き取り続けているのだ。

そんな小野氏は、貴重な資料を手にしていた。それが、元兵士から手に入れた日記と、取材の様子を記録した映像やテープだ。
著者の取材は、小野氏と出会ったことでようやくスタートラインに着くことが出来た。

『捕虜の虐殺。これが事実ならば「加害者の告白」ではないか。
殺人事件でいうなら自供調書ということになる。
しかもだ。これが大事なのだが掲載されていた日記は一人のものではなく、合計19名分もあった。そしてその多くが何らかの形で捕虜の虐殺に触れていたのだ。』

著者は、日記の原典や取材テープに当たり、そこで描写されていることが事実であるのか否か徹底的に調べることにした。南京事件についての記述だけにとどまらない。いつどこに上陸したのか、なんという船で向かったのか、日記に書かれているような場所が本当に中国に存在するのか…などなど、日記の記述全体から、現在でも検証可能な情報を抜き出しては、その真偽を確定していく。日記や取材テープにはすでに、元兵士による虐殺の証言が存在している。だから日記や取材テープの信ぴょう性を高めることで、南京事件の存在を証明できると考えたのだ。

そうやって、僅かな記述も無視せずに、複数の情報を突き合わせることが可能なものを徹底的に洗い出すことによって著者は、南京事件と呼ばれるものがどういうものであり、そこで一体何が起こったのかを、大部分を何らかの裏付けによって支えられながら描写することが可能になった。死亡者数などははっきりとしないものの、南京における日本兵によるかなり大規模な虐殺は存在した、と著者は結論付ける。

しかし、本書においてこの結論は、著者の目的の半分である。

『そしてまた、放送後には私の中に別の疑問が残ったのである。
なぜ、この事件は強く否定され続け、闇へと封じ込まれようとするのか。真相を求める人々が多いにもかかわらず、大手メディアのほとんどがなぜこの事件から目を逸らすのか。そして現代に生きる人たちは、本当に戦争と無関係なのか、そもそも私自身はどうなのか…。そんなことについて書き残したくなったのだ。
これが本書を世に放つ理由だ。よってテレビで放送した「南京事件」の枠組みとは大きく異なっている』

著者の関心は、南京事件を取り巻く様々な言説や動きにも向けられていく。

著者は、南京事件の取材の過程で、南京事件以外の虐殺についても調べている。南京以外の外国の地で日本軍が行ったもの、日本国内で行われたもの、逆に日本人が虐殺に遭ったもの…。調べれば調べるほど戦争には虐殺がつきものなのだということが分かってくる。

しかしその中においても、南京事件というのは特異な存在感を持つ。

『しかし別れ際に小野さんはこんな言葉を口にしたのである。
「取材協力はしますけど、本当に放送なんてできるんですかね。これまでもNHKなどは、東京や福島の放送局から何度も来ましたけど、みな一度きりでしたよ。これを報じようとして新聞社で飛ばされた記者も知っています。難しいですよ南京事件は…」』

『テレビ番組で「南京事件」を報じることについて意見を聞く。またご本人の取材や出演は可能かと打診した。すると実にあっさりとこう言われてしまった。
「お止めになった方がよろしいと思いますよ。何しろ“両方”から矢が飛んできますからね。出演もご遠慮させて頂きたいですね」』

南京事件だけがなぜこうも特殊な論争が存在するのか。著者はそこに結論を見出すことはないが、南京事件という歴史的事件の特異さから、中国という国への違和感、戦争における被害者と加害者の立場など様々な方向に思考を広げていく。

そしてその一つに、現在の政治の動きがある。

『不思議なのはなぜ、わざわざ「なかった」と言い出すのかである。
産経新聞の連載もそうだ。
本来、報道とは何らかの事象が「起きた」ことを伝えるのが基本である。
事件や事故が起きる。状況を伝える、そのために目撃者が登場する…。
ところが連載記事では「見なかった」という人を取材し、「なかった」という結論に転化していた。実に不思議な報道である。』

南京事件は一つの要素に過ぎないだろうが、著者は、安保法案の成立や、政府によるマスコミへの介入などの「きな臭い動き」を作中に絡めながら、過去の歴史が、現在の政治の動きに影響を与えているのではないか、という空気を切り取っていく。報道ステーションのコメンテーターだった古賀茂明氏の降板、国際的な「報道の自由度ランキング」の低下などに触れながら、日本における「言論の自由」が揺らぎ始めている様を描写し、そこに安保法案の成立を推し進め、日本が再び戦争に突入する状況を生み出しつつある現政権の動きを見る。戦争に突入することでまた南京事件のような虐殺が起こりうるであろうこと、そして起こってしまった南京事件という出来事を否定したり矮小化したりすることで政治的な立場を有利にしようとすること。それらは、南京事件という一つの出来事とだけ直結する問題ではないが、南京事件を含む歴史という大きな枠組みが、現代を生きる僕らの生活に実は直結しているのだ、という現実を改めて認識させる。

『極論を言ってしまえば、虐殺があろうとなかろうと私には無関係である』

取材を開始する前、著者はこんな風に思っていたという。興味は事実か否かだけにあり、虐殺があったにせよなかったにせよ、それが事実であれば自分にとってはそれでいい、というのが著者のスタンスだ。

しかし、南京事件を含む周辺の様々な取材を通じて、著者の考えは変わっていく。

『虐殺があろうとなかろうと私には無関係…。
取材を始めた頃の私はそう思っていた。
だが…、なんということだ。
122年を遡った先で私の到来を待っていた「事実」は、愚かな思考を完膚なきまでに叩き潰してくれたのだ―。
「おまえは本当に戦争と無縁だったと言い切れるのか?」
大陸の寒風が、私の頬をピタピタと打つ。
けれど、それでも私はそれをなかったことにしてしまおうとは思わない。
「事実」に一歩でも近づくことこそが、私の仕事だからだ。
歴史にはおぞましいものもある。だからといって事実を修正できるはずなどないのだ。』

日本の政治が、戦争に向き始めている。そういう雰囲気はそこここで感じ取れる。実際に日本が戦争に突入するかどうか、それは誰にも分からない。しかし、南京事件を深く掘り下げていくことで著者は、戦争というものが何を生み出しうるのか、戦争というものが人間をどう変えうるのかを描写していく。戦争を経験した世代が年々減り続けている今、日本人にとって戦争はリアルなものではなくなってしまった。戦争のリアルを体験した人の言葉を、僕らはもっと知るべきなのではないかと感じた。

『黒い革張りの日記を遺した上等兵は、戦後にこんな一文も記している。
<日本も自衛隊を作り、年々国費を増やして増強を図っておりますが、いつかは再び戦争を予想していることと思う。もっとも自衛力を少しも持たずにいることは安心出来ないが、戦争までやるようなことは絶対に無いようにして貰いたい。どれほどの国民が犠牲になって我が故郷の土を踏むことが出来ず、親子に会うこともなく異国の丘に消えて行った何十万の戦友を思えば、自然と涙が流れて来るのであります>』

戦争を経験した上等兵とは違った形で、著者も、今を生きる我々に問いかける。「日本国民」という大きな集団に対してではなく、「わたし」「あなた」という個に対して。

『兵を戦地に送り込むのは国家であろう。しかし戦い、傷つき、家族を失い、苦しむのは、結局は個々の人間だ。国家がその苦しみを救えるはずもない。ならば宿命を背負うか、謝罪するか、最後に決めざるを得ないのは、私達個々ではないか。
それぞれが歴史に学び、事実を知り、憂い、死者に黙祷せずしてどうするのか。
そうして二度と国を破滅の危機に追い込まぬことこそが、本当の意味の愛国心ではないのか。それこそが「国を守る」ということではないのか』

『知ろうとしないことは罪である』という声に突き動かされて様々な取材に携わってきた著者。もちろん、どんなこともすべて何もかも知る、なんていうことは出来ない。世の中、知らないことだらけだ。しかし著者が言いたいことは、「常に知ろうとする意識を持て」ということだろう。今の知識量で満足するな。今の関心の範囲で満足するな。そういうことだ。

「知る」にも様々なレベルがあるだろうが、本書を読んだだけで知った気になる、というのもまた怖いことだろうと感じる。もちろん、一般人のレベルで出来ることは限られている。しかし、常に「知る」ための「行動」を伴うこと。そういう意識は持っておきたいと強く思わされた。


『「なかった」と言うのは、本当は、あったことを知っているから言っているのだと思います。知っていて、それでも「なかったことにしたい人」が言っているんじゃないかと思います』

ある海軍兵士の言葉だ。すべてに当てはまるわけではないだろうが、本書を読むと、なるほどと思わされる一言である。

清水潔「「南京事件」を調査せよ」

一投に賭ける 溝口和洋、最後の無頼派アスリート(上原善広)

本気で何かに向き合う、ということを、人生の中で経験することはほとんどない。
受験勉強を死ぬほど頑張った人、甲子園を目指して猛練習をした人、会社のセールスでとんでもない数字を叩きだした人など、世の中には凄い人間がたくさんいるだろう。結果は伴わないにせよ、自分の精一杯を突き詰めた、と感じた経験がある人もいるのかもしれない。

しかし本書を読むと、そんな感覚は吹き飛ぶだろう。
「本気」というのはこういうことなのか、と打ちのめされるような思いだ。

『懸垂のMAXとは「できる限り回数をやる」ことになる。例えば懸垂を十五回できるのなら、それをできなくなるまで何セットでもやり続ける。間に休憩を入れても良いが、五分以上、休むことはあまりない。初めは反動なしでの懸垂だ。
この懸垂ができなくなった初めて、反動を使っても良い。それでもできなくなったら、足を地面に着けて斜め懸垂をやる。
ここまでくると指先に力が入らなくなり、鉄棒を握ることすらできなくなっている。ベンチをやっている時から、シャフトを強く握っているからだ。
しかしここで止めては、100%とはいえない。
そこで今度は、紐で手を鉄棒に括りつけて、さらに懸垂をおこなう。さすがに学生ったいは本当に泣いていたが、ここまでやらないと、外国人のパワーと対等には闘えないのだから、無理は承知の上だ。』

一事が万事、こんな感じである。通常は日本のトップ選手の5倍のウェイトを行い、大会後や調整時期などには「軽め」ということで日本のトップ選手の3倍ぐらいのウェイトをやっていた。一日二十四時間練習していた、というのが大げさではないくらいの練習量である。

その圧倒的な練習量にも驚かされる。彼の本気を感じる部分ではある。
しかし、ただ量が凄いだけではない。彼は、質においても究極を目指した。

『精神と身体は不可分であり、そのため両方の素質が必要となる。
精神面の才能とは、やる気があるとか、そんな基本的な話ではない。スポーツ選手にも、考える感性やセンスといったものが必要になる。それは簡単にいえば、「自分で考える力」があるかどうか、その考える方向は合っているのか、ということだ。』

彼の「自分で考える力」は、圧倒的だ。

『私に信条というものがあるとしたら、「世の中の常識を徹底的に疑え」に尽きるだろう』

『世の常識というのは、ただの非常識だと思った方が良い』

著者のこの価値観は、本書を読めば分かるが、実に説得力がある。何故なら、誰もがやらなかった技術を編み出し、そしてそれがその後その競技の世界において広まっているからだ。

『とにかく、考えられることは何でも試して、自分のものにしてくのだ。さすがに日本人はもとより、外国人でもここまで考えて徹底している者はいなかったが、後々、私の真似をすることで彼らの記録も伸びていくことになる』

どんなものがあるのか、いくつか挙げてみる。

『現在、やり投げ選手の多くは、この左右の長さが違うスパイクを履いているが、これは私が世界で初めて使ってから広まった。海外でこの左右非対称のミズノ製スパイクは「ミゾグチ」と呼ばれている』

『早く走ろうと思うのなら、上半身は猫背のように前かがみ気味になって、腿を体の前の方で回す感じにするといい。こうすれば、誰でも早く走れる。
私は何でも女装練習していて、この猫背の姿勢で腿を前で回転させれば、早く走れることを知った。というより、速く走ろうとすれば、それしか方法がないのだ。
これは1990年代に入るまで、世界の舞台でもほとんど見られなかった。短距離界でもまだ気づいていなかった記述だ。現在では多くの選手がスタートしてから前半は前かがみになって走っているが、私はこれに1989年の段階ですでに気づいていた。なぜ短距離選手がこの動きをしないのか、不思議でならなかった』

『このクロスのフォームは、助走のときの猫背より驚かれた。
なにしろクロスのときに跳ばない選手は、今まで世界で誰もいなかったからだ。ガニ股だったのも、面白かったのだろう。「まるでロボットだ」とも言われた。まあ、言いたい奴には言わせておけばいい』

彼は、常識を疑い、自ら仮説を立て、自ら実験することで、正しい答えを導き出していった。それはまさに、「自ら考える力」なしには不可能だっただろう。

また、彼の練習はウェイト中心だったようだが、ウェイトというものそのものに対しても、こんな考え方を持っていた。

『私にとってウェイトは、繊細にして最大の注意を払うべきトレーニングだ。ここでウェイトの話をすることは、私自身を説明することに他ならない。
ウェイトこそ、私の哲学の実践だといっても過言ではない。
ウェイトをすると「身体が硬くなる」、または「重くなる」という人がいる。
しかし、私から言わせると、それはウェイトを「単に筋肉を付ける」という目的でやっているからだ。短距離なら「速く走るたんのウェイト」をしなくてはならない。これをしていないから、体が重く感じるのだ。

では、その種目に合ったウェイトとは一体、どういうことなのか。
一言で言えば、ウェイトは筋肉を付けると同時に、神経回路の開発トレーニングでなければならない。筋肉を動かすのは、筋肉ではない。脳からつながっている神経が動かすのだ。
この神経がつながっていないとせっかく付けた筋肉が使えない。結果、体が重く感じてしまう。物理的にも重くなっているのだからそう感じて当然だ。』

彼はこのとんでもない「本気」を貫くことで、世界記録まであと一歩という驚異的な記録を叩きだした。
いや、実際にはその記録は、世界記録と呼ばれるべきものだったのだ。

『冷静に考えると、いくら安物のメジャーを引っ張ったとして、それで8cmも縮むわけがない。おそらく芝生にいた計測員が、再計測のとき、故意に着地点をわずか手前にずらしたのだ』

生まれ持っての身体能力に頼らず、たゆまぬ努力と自ら見出した理論によって強靭な肉体を作り上げる。さらに、常識を疑い、自ら考え続けることによって、誰も見出したことがない新たな技術を次々と開発する。その連続によって彼は、体格では圧倒的に欧米人に劣りながらも、世界と匹敵するほどの結果を残すに至ったのだ。

これこそ、まさに「本気」である。

彼の本気は、相次ぐ故障や怪我によって、もはや自己ベストを出すことは不可能だと分かった後も続く。

『致命的な故障で体が動かなくなって初めて、私は一般の選手のことがわかるようになっていた。
一般選手に教えていても、全くできないことがある。それがなぜかわからなかったのだが、「ああ、こういうことなのか」と納得できたのだ。
では、これまでの自分は才能だけでやってきたのか、それとも努力でやってきたのだろうか。
相変わらず1日10時間以上のトレーニングを続けながら、私はその点を確認、実験することにした。
90mを目指したために、ここまで破壊され動かなくなった体が、一般選手と同じ状態にあたる。この体で、果たして努力だけで80mが投げられるものかどうか。
そのためにもう一度、初めからトレーニングを見直すことにした。私は、自分が何を積み上げてきたのかを明らかにしたかったのだ。』

『最近の競技スポーツはみな、三歳頃からの英才教育で伸びると思われている。しかしこの試合で私は、ある程度の身体的・精神的素質があれば、誰でも努力次第で80mは投げられるという結論に至ることができた』

ここまでの努力が出来る人間を、人は「天才」と呼ぶのだろう。
そういう意味で彼は、圧倒的な「天才」である。


溝口和洋は、伝説の多いスポーツ選手だ。

『中学時代は特活の将棋部。高校のインターハイにはアフロパーマで出場。いつもタバコをふかし、酒も毎晩ボトル一本は軽い。朝方まで女を抱いた後、日本選手権に出て優勝。幻の世界新を投げたことがある。陸上投擲界で初めて、全国テレビCMに出演。根っからのマスコミ嫌いで、気に入らない新聞記者をグラウンドで見つけると追い回して袋叩きにしたことがある…。
それらの噂の真偽は、取材当時はわからなかったが、溝口和洋が日本陸上界で誰もが認めるスターだったのは間違いない』

本書は、そんな溝口和洋の評伝である。マスコミ嫌いであり、『知り合いの記者からは「絶対にインタビューなんかできませんよ」と忠告されていた』著者は、しかしその後18年にわたり溝口和洋から話を聞き、そして溝口和洋のアスリートとしての生涯を一冊にまとめあげた。

一人称ノンフィクションという、異例の形態によって。

本書は、上原善広が書いたノンフィクションでありながら、溝口和洋の一人称視点で進んでいく。「自伝風」とでも言うのだろうか。僕はそれなりにノンフィクションを読んできているが、このような一人称ノンフィクションというのはなかなかない(もちろん、「自伝」として出版されていても、実は別にちゃんと作家がいる、という場合もあるだろう。そういう作品も「一人称ノンフィクション」と呼ぶべきなのかもしれないが)。読んでいると、溝口和洋という人物のパーソナリティなどまるで知らないのに、溝口和洋本人が本当に語っているかのように感じる。読んでいると、ふとした瞬間に、そうだそうだこの本の著者は溝口和洋ではなかった、と思う。上原善広という作家が、まさに溝口和洋というアスリートに乗り移ったかのような作品は、臨場感に溢れていて、「自伝」ともまた違った読み味を感じさせる。

本書の中には、「アスリートとして自らの能力を高めるために真摯に練習に向き合う内向きの溝口和洋」と、「常識や組織を毛嫌いし無頼を通し続けた外向きの溝口和洋」の二人の溝口和洋がいる。前者については冒頭で書いた。ここからは後者について書いてみよう。

彼は、日本人選手同士仲良くやっていこうというような風潮、特に何もしてくれないのに賞金だけ奪っていくJAAF、トレーニングの苦労も知らないで好き勝手書いては、他人の話でメシを食うマスコミなど、自分を取り巻く様々なものを嫌悪していた。その気持ちは、分かるような気がする。

何故なら、彼のベースを作っていたものは、彼自身による「考える力」なのであり、根性や気合と言ったような曖昧なものではなかったからだ。

『私は学生のとき以来、やり投げをやめるまでは恋愛も結婚もしないと決めていたので、特定の女がいても、決して感情移入しないように気をつけていた。』

『タバコを吸うと持久力が落ちるというが、タバコは体を酸欠状態にするので、体にはトレーニングしているような負荷がかかるから事実は逆だ。タバコを吸うと階段が苦しくなるというのは、単にトレーニングしていない体を酸欠状態にしているからだ。』

彼の中には常に、どんな些細なことであっても、それがやり投げにとってどう役立つか、という思考があった。『私はやり投げを始めたときから、正確には大学生になってやり投げのために生きることを決意したときから、日常生活も含め、全てをやり投げに結び付けてきた。箸の上げ下ろしから歩き方まで、極端にいえばセックスをしている最中でも、この動きをやり投げに応用できないかと考え続けてきた』とも書いている。

そんな著者からすれば、周りが言っていることは、「考える力のない無能ども」による戯れ言でしかなかっただろう。そこに、彼にとって価値ある何かをもたらすようなものは何もない。誰ら彼は、他人の言うことを聞かず、スポーツマンらしくない振る舞いをしただけだ。そこに、やり投げを改良するための何かがあると思えば、彼はそれを取り入れたはずだ。彼以上にやり投げについて考えていた者がいなかった以上、彼が自分の判断で様々なことを決め行動するのは当然だと僕には感じられる。彼は傍若無人に映ったかもしれないが、溝口和洋というアスリートは、やり投げに不利になることは一切せず、やり投げに有利になることは何でもやる男なのだから、彼の努力が結果に結びついている以上、彼の記録だけではなく、彼の生き様ごと丸々受け入れなければ嘘ではないか、という気分になった。

『しかしいま、私の手元には、やり投げに関するものが何もない。
トロフィーも表彰状も、何もない』

『何年の何月何日、どの試合の、何投目が何m何cmで何位だったのか、今でも瞬時にそれを思いだすことができる。
それ以上の勲章があるだろうか。』

圧倒的な努力をし続けることが出来る溝口和洋は、今トルコキキョウという栽培の難しい花を育てる農家である。独自のやり方で、トルコキキョウを安定的に市場に出荷できる仕組みを作り上げた。

『農業には農業の難しさがあるが、しかしやり投げに比べたら楽なものだ。私は幼い頃から農業を手伝ってきたので勘もいい。やり投げで87mを投げることに比べたら楽なものだ。』

圧倒的な努力をし続けることが出来る人はいるかもしれない。しかし、どんな努力をすればいいかまで自ら考え、自ら軌道修正を加えながら正しい道を突き進み続けられる人はそうそういないだろう。どんな世界であっても、世界トップレベルにいられる人にはどこかしら常人を超えた部分があるのだろうが、溝口和洋というアスリートのそれは規格外であり、こんな男がいたのかと驚かされた。

上原善広「一投に賭ける 溝口和洋、最後の無頼派アスリート」

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2013年ベスト

2013年の個人的ベストです。

小説

1位 宮部みゆき「ソロモンの偽証
2位 雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ
3位 山下卓「ノーサイドじゃ終わらない
4位 野崎まど「know
5位 笹本稜平「遺産
6位 島田荘司「写楽 閉じた国の幻
7位 須賀しのぶ「北の舞姫 永遠の曠野 <芙蓉千里>シリーズ」
8位 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日
9位 松家仁之「火山のふもとで
10位 辻村深月「島はぼくらと
11位 彩瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない
12位 浅田次郎「一路
13位 森博嗣「喜嶋先生の静かな世界
14位 朝井リョウ「世界地図の下書き
15位 花村萬月「ウエストサイドソウル 西方之魂
16位 藤谷治「世界でいちばん美しい
17位 神林長平「言壺
18位 中脇初枝「わたしを見つけて
19位 奥泉光「黄色い水着の謎
20位 福澤徹三「東京難民


新書

1位 森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想
2位 青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 3位 梅原大吾「勝ち続ける意志力
4位 平田オリザ「わかりあえないことから
5位 山田真哉+花輪陽子「手取り10万円台の俺でも安心するマネー話4つください
6位 小阪裕司「「心の時代」にモノを売る方法
7位 渡邉十絲子「今を生きるための現代詩
8位 更科功「化石の分子生物学
9位 坂口恭平「モバイルハウス 三万円で家をつくる
10位 山崎亮「コミュニティデザインの時代


小説・新書以外

1位 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
2位 沢木耕太郎「キャパの十字架
3位 高野秀行「謎の独立国家ソマリランド
4位 綾瀬まる「暗い夜、星を数えて 3.11被災鉄道からの脱出
5位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠 3巻 4巻 5巻
6位 二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密
7位 芦田宏直「努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論
8位 チャールズ・C・マン「1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見
9位 マーカス・ラトレル「アフガン、たった一人の生還
10位 エイドリアン・べジャン+J・ペタ―・ゼイン「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則
11位 内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち
12位 NHKクローズアップ現代取材班「助けてと言えない 孤立する三十代
13位 梅田望夫「羽生善治と現代 だれにも見えない未来をつくる
14位 湯谷昇羊「「いらっしゃいませ」と言えない国 中国で最も成功した外資・イトーヨーカ堂
15位 国分拓「ヤノマミ
16位 百田尚樹「「黄金のバンタム」を破った男
17位 山田ズーニー「半年で職場の星になる!働くためのコミュニケーション力
18位 大崎善生「赦す人」 19位 橋爪大三郎+大澤真幸「ふしぎなキリスト教
20位 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年


コミック

1位 古谷実「ヒミズ
2位 浅野いにお「世界の終わりと夜明け前
3位 浅野いにお「うみべの女の子
4位 久保ミツロウ「モテキ
5位 ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール

番外

感想は書いてないのですけど、実はこれがコミックのダントツ1位

水城せとな「チーズは窮鼠の夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」

2012年ベスト

2012年の個人的ベストです
小説

1位 横山秀夫「64
2位 百田尚樹「海賊とよばれた男
3位 朝井リョウ「少女は卒業しない
4位 千早茜「森の家
5位 窪美澄「晴天の迷いクジラ
6位 朝井リョウ「もういちど生まれる
7位 小田雅久仁「本にだって雄と雌があります
8位 池井戸潤「下町ロケット
9位 山本弘「詩羽のいる街
10位 須賀しのぶ「芙蓉千里
11位 中脇初枝「きみはいい子
12位 久坂部羊「神の手
13位 金原ひとみ「マザーズ
14位 森博嗣「実験的経験 EXPERIMENTAL EXPERIENCE
15位 宮下奈都「終わらない歌
16位 朝井リョウ「何者
17位 有川浩「空飛ぶ広報室
18位 池井戸潤「ルーズベルト・ゲーム
19位 原田マハ「楽園のカンヴァス
20位 相沢沙呼「ココロ・ファインダ

新書

1位 倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ
2位 木暮太一「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?
3位 瀧本哲史「武器としての交渉思考
4位 坂口恭平「独立国家のつくりかた
5位 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義
6位 新雅史「商店街はなぜ滅びるのか
7位 瀬名秀明「科学の栞 世界とつながる本棚
8位 イケダハヤト「年収150万円で僕らは自由に生きていく
9位 速水健朗「ラーメンと愛国
10位 倉山満「検証 財務省の近現代史

小説以外

1位 朝日新聞特別報道部「プロメテウスの罠」「プロメテウスの罠2
2位 森達也「A」「A3
3位 デヴィッド・フィッシャー「スエズ運河を消せ
4位 國分功一郎「暇と退屈の倫理学
5位 クリストファー・チャブリス+ダニエル・シモンズ「錯覚の科学
6位 卯月妙子「人間仮免中
7位 ジュディ・ダットン「理系の子
8位 笹原瑠似子「おもかげ復元師
9位 古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち
10位 ヨリス・ライエンダイク「こうして世界は誤解する
11位 石井光太「遺体
12位 佐野眞一「あんぽん 孫正義伝
13位 結城浩「数学ガール ガロア理論
14位 雨宮まみ「女子をこじらせて
15位 ミチオ・カク「2100年の科学ライフ
16位 鹿島圭介「警察庁長官を撃った男
17位 白戸圭一「ルポ 資源大陸アフリカ
18位 高瀬毅「ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」
19位 二村ヒトシ「すべてはモテるためである
20位 平川克美「株式会社という病

2011年ベスト

2011年の個人的ベストです
小説
1位 千早茜「からまる
2位 朝井リョウ「星やどりの声
3位 高野和明「ジェノサイド
4位 三浦しをん「舟を編む
5位 百田尚樹「錨を上げよ
6位 今村夏子「こちらあみ子
7位 辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ
8位 笹本稜平「天空への回廊
9位 地下沢中也「預言者ピッピ1巻預言者ピッピ2巻」(コミック)
10位 原田マハ「キネマの神様
11位 有川浩「県庁おもてなし課
12位 西加奈子「円卓
13位 宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ
14位 辻村深月「水底フェスタ
15位 山田深夜「ロンツーは終わらない
16位 小川洋子「人質の朗読会
17位 長澤樹「消失グラデーション
18位 飛鳥井千砂「アシンメトリー
19位 松崎有理「あがり
20位 大沼紀子「てのひらの父

新書
1位 「「科学的思考」のレッスン
2位 「武器としての決断思考
3位 「街場のメディア論
4位 「デフレの正体
5位 「明日のコミュニケーション
6位 「もうダマされないための「科学」講義
7位 「自分探しと楽しさについて
8位 「ゲーテの警告
9位 「メディア・バイアス
10位 「量子力学の哲学

小説以外
1位 「死のテレビ実験
2位 「ピンポンさん
3位 「数学ガール 乱択アルゴリズム
4位 「消された一家
5位 「マネーボール
6位 「バタス 刑務所の掟
7位 「ぐろぐろ
8位 「自閉症裁判
9位 「孤独と不安のレッスン
10位 「月3万円ビジネス
番外 「困ってるひと」(諸事情あって実は感想を書いてないのでランキングからは外したけど、素晴らしい作品)