読んで欲しい記事・索引

style="display:block"
data-ad-client="ca-pub-6432176788840966"
data-ad-slot="9019976374"
data-ad-format="auto">
乃木坂46関係の記事をまとめました
TOEICの勉強を一切せずに、7ヶ月で485点から710点に上げた勉強法
一年間の勉強で、宅建・簿記2級を含む8つの資格に合格する勉強法
国語の授業が嫌いで仕方なかった僕が考える、「本の読み方・本屋の使い方」
2014の短歌まとめ
この本は、こんな人に読んで欲しい!!part1
この本は、こんな人に読んで欲しい!!part2
管理人自身が選ぶ良記事リスト
アクセス数ランキングトップ50
索引 まとめました
【今日考えたこと】索引
災害エバノ(災害時に役立ちそうな情報をまとめたサイト)(外部リンク)
「シン・ウルトラマン」を観に行ってきました
さて、なかなか評価の難しい作品だ。
僕の率直な感想は、「面白かったけど、人に勧めるのは躊躇するなぁ」という感じである。
まずは「躊躇する理由」から書いていこう。それはシンプルに、「そこはかとなくダサい」からだ。
映画は全体的に、「ダサさ」に溢れている。先に書いておくと、この「ダサさ」は恐らく、「ウルトラマンが好きな制作陣による『リスペクト』」なのだと思う。私はそもそも「ウルトラマン」という作品にほぼ触れたことがないので、作品としての「ウルトラマンらしさ」や、キャラクターとしての「ウルトラマンらしさ」のことはまったく分からない。ただ、昭和の作品であること、「人形の着ぐるみ」によって撮影されていたこと、CGの技術など当然なかった時代の作品であることなど、「ウルトラマンらしさ」を支える要素は必然的に、現代的な観点からすれば「ダサい」という感覚になってしまう。
現代作品として成立させるための工夫を様々にしつつ(後で触れるつもりだが、「アングルの面白さ」はそんな工夫の1つだろう)、「ウルトラマンらしさ」をギリギリまで詰め込んでいるわけだが、それでもやはり全体として「ダサい」という受け取り方はなかなか避けがたいと思う。
恐らくだが、ウルトラマン世代の人たちであれば、僕が「ダサさ」として受け取った様々な要素を「懐かしい」と肯定的に捉えるのだと思う。ただ、ウルトラマンを直接的に知らない世代には、どうしても「ダサさ」として受け取られてしまうのではないかという気がするのだ。
僕は『シン・ゴジラ』も観ているが、同じく昭和作品である「ゴジラ」を扱いながら、『シン・ゴジラ』では、「非常に現代的でリアリティのある設定」の中に「ゴジラ」が絶妙に溶け込んでいたと僕は感じた。「官僚の仕事の煩雑さや、政治の判断の遅さなど、非常にリアルな設定において政府が怪獣に立ち向かう世界」に「ゴジラ」という非リアルな存在がさほど違和感なく組み込まれていたと思うのだ。
しかし、『シン・ウルトラマン』では、同じように「政府がリアルな設定の中で禍威獣と立ち向かう」という世界を描きながら、その中に「ウルトラマン」の存在は馴染めていない。勝手ながらその理由を考えると、やはりそれは、ウルトラマンが「人型」だという点にあるのではないかと思う。「人型」という制約を絶対的に無視できない以上、造型・動きなどに極度に制約が掛かる。その制約の中で、「ウルトラマンらしさ」も残したいわけだから、余計に条件が厳しくなるだろう。
恐らくだが、『エヴァンゲリオン』のエヴァも、アニメだから成立するのであって、同じく人型であるが故に、実写となったら、やはりそのリアルな世界には馴染めないのではないかと思う。
そんなわけで、「『ウルトラマンらしさ』を残しながら、リアルな世界の中に違和感なく溶け込ませる」というのはどうしても不可能なことであり、否応なしに「ダサさ」として認識されてしまうのではないか、というのが僕の考えだ。
僕は映像作品を観る時に、さほど「映像」を重視しない。はっきり言って、「話が面白ければいい」というタイプなので、映像から「ダサさ」を感じてもさして問題はない。ただ、やはり世間的な意見としては、「映像作品であれば、『映像の良さ』が大事だ」という人は多いと思うし、周りの人からもそういう話を聞くことがある。そして、そう考えた時、果たしてこの作品を勧めるのが正解なんだろうか、と感じてしまったのだ。
だから、人には勧めにくい。
さてでは、面白かった話に移ろう。
僕は、『エヴァンゲリオン』や『TENET』みたいな、ゴリゴリに設定を詰め込みまくった頭使う系の作品が結構好きで、そういう意味でこの『シン・ウルトラマン』も楽しめた。
先程も書いた通り、本家本元のウルトラマンの設定をまったく知らない。なんとなく知っていることを書くと、「3分間しか活動できない」「人間がウルトラマンに変身する」「M78星雲と何か関係がある」ぐらいだろうか。あと、「スペシウム光線」など、聞いたことあるよな的な固有名詞もいくつかある、という感じ。
なので、『シン・ウルトラマン』で描かれる設定が、どこまでオリジナルを踏襲しているのかは不明だ。
とにかく『シン・ウルトラマン』では、「ウルトラマンがなぜ地球にいて、なぜ禍威獣と戦うのか」という背景が、物語の展開と共に少しずつ明らかにされていく。
正直に言うと、「ウルトラマンがなぜ地球にいるのか」という部分はちゃんとは理解できていないのだが、ただ、物語のラストで語られる話から、映画冒頭のあのシーンはそういう意味だったのか、ということがちゃんと繋がって、なるほどという感じだった。
『シン・ゴジラ』では、「ゴジラがやってくる理由は不明だが、とにかく倒さなければならない」という官僚側の物語が主だったが、『シン・ウルトラマン』では、「ウルトラマンは何のために戦っているのか」に焦点が当たっている。なかなかに壮大な設定で、正直「地球にいるちっぽけな人間」程度にはなかなかその「危機感」さえリアルには実感できないレベルの状況なのだが、もしも本当に「宇宙に130億ほどの知的生命の種が存在する」のであれば、こんな展開が起こってもおかしくはないだろう。
『エヴァンゲリオン』や『TENET』ほど設定が複雑なわけではなく、ややこしい用語が大量に出てきて幻惑されるものの、そこまで難しい話ではない。そして、「ウルトラマンは、自身が知っている『遠大な世界』のことよりも、理解しようとして間もない『ちっぽけな世界』を守るために命を懸ける」という構図がシンプルすぎるほどシンプルに提示されるので、全体的に「良かった」という感想になる。
個人的に、「あぁ、なるほど、よく出来てるなぁ」と感じたのが、「肉弾戦を行う必然性」が描かれる場面だ。
ウルトラマンは、スペシウム光線や、光る円盤みたいなやつを投げたりと、飛び道具的な攻撃ももちろんあるが、やはりそれよりは、プロレスのような肉弾戦をやっているイメージが強い。
しかし普通に考えて、飛び道具があるのに肉弾戦をやる必要はない。本家のウルトラマンでは、CGの技術や予算の関係で、飛び道具的な演出よりも、「着ぐるみを着た人間同士が戦う」という方が現実的だったのだろうし、たぶんそういう理由から肉弾戦を行っていたはずだ。だから、「ウルトラマンらしさ」を出そうとして、何の説明もなくただ「肉弾戦」をやっていたら、それはどうしても「違和感」として伝わってしまう。
ただ『シン・ウルトラマン』では、「体内に放射性物質が充満した禍威獣」が登場し、「どんな形であれ、身体が爆発すれば、周囲に放射性物質が拡散し大惨事となる」ことが示唆される。それを理解しているウルトラマンは、スペシウム光線など出さず、相手の攻撃も避けるのではなくすべて受け止め、その上で「肉弾戦」によって倒そうとするのだ。もちろん、このシーンだけで、ウルトラマンの「肉弾戦」すべての「違和感」がなくなるわけでもないのだが、「リスペクトとして描き出したい『ウルトラマンらしさ』」にいかにして理屈をつけるかという努力が恐らくあちこちでなされているのだろうし、こういう形で制作陣の「愛情」みたいなものが垣間見えるのは個人的には好きだ。
あと、やはり特徴的なのは、この映画の「カメラアングル」だろう。元々、「スマホも駆使して撮影した」「役者にもカメラを持ってもらい、その映像を使用した」などの情報は観る前から知っていたのだが、思っていた以上に斬新なアングルが多く、これも個人的には面白かった。
もちろん、「この特徴的なカメラアングルが『シン・ウルトラマン』に不可欠なのか」と聞かれれば、まあ決してそんなことはないだろう。こういうアングルでなくても全然成立するだろうし、そういう意味では「余分」な要素だと言える。しかし先程書いた通り、『シン・ウルトラマン』は「ウルトラマンらしさ」を可能な限り詰め込んでいるが故に「そこはかとないダサさ」が醸し出されてしまっている。だからこそ、この斬新なカメラアングルは、その「ダサさ」をある種中和させるような機能を持っていると僕は感じた。そう考えるなら、この斬新なカメラアングルは「必要だった」と言えるのではないかと思う。
あと、「なぜ人間が巨大化してウルトラマンになるのか」という仕組みそのものは映画では説明されないが(というか、さすがにこれに理屈をつけるのは相当難しいだろう)、「そういう技術が存在する」ということを前提にして、あんなシーンをぶっ込んでくるとはと驚かされた。仕組みそのものは説明できないにしても、「そういう技術がある」という設定を物語の新たな展開として組み込んでしまうことで、理屈が説明されないことに目がいかなくなる。そんな意図があっての物語展開では恐らくないとは思うが、個人的には「上手いなぁ」と思った。
あと、『エヴァンゲリオン』もそうだが、『シン・ウルトラマン』でも「プランクブレーン」みたいな、ありそうで無い絶妙な単語を散りばめてくる辺り、リアルっぽくて面白い。映画に出てくる「余剰次元」という言葉は物理の世界に実際に存在するし、「プランク時間」「プランク長さ」のような表現もある。「ブレーン」というのも、実在こそ証明されていないが、ひも理論からの帰結でその存在が仮定されているものだ。
「余剰次元」というのは、「僕らは空間を3次元だと思っているが、実際には『僕らには感知できない空間次元』がもっとたくさんある」という考えから生まれた発想で、現時点では、確か「重力だけは余剰次元に染み出すことができる」とされていたと思う。そういう設定をそれっぽく絶妙に組み込んでいる感じは、理系の僕には面白く感じられるが、映像的には「なんのこっちゃ」という感じになってしまうのが難しい。っていうか、その「プランクブレーン」が関わるラスト付近のあの場面、あの映像で「正解」なんだろうか。やはり僕はこういう部分に、「そこはかとないダサさ」を感じてしまうのだよなぁ。
そんな感じの映画だった。
「シン・ウルトラマン」を観に行ってきました
僕の率直な感想は、「面白かったけど、人に勧めるのは躊躇するなぁ」という感じである。
まずは「躊躇する理由」から書いていこう。それはシンプルに、「そこはかとなくダサい」からだ。
映画は全体的に、「ダサさ」に溢れている。先に書いておくと、この「ダサさ」は恐らく、「ウルトラマンが好きな制作陣による『リスペクト』」なのだと思う。私はそもそも「ウルトラマン」という作品にほぼ触れたことがないので、作品としての「ウルトラマンらしさ」や、キャラクターとしての「ウルトラマンらしさ」のことはまったく分からない。ただ、昭和の作品であること、「人形の着ぐるみ」によって撮影されていたこと、CGの技術など当然なかった時代の作品であることなど、「ウルトラマンらしさ」を支える要素は必然的に、現代的な観点からすれば「ダサい」という感覚になってしまう。
現代作品として成立させるための工夫を様々にしつつ(後で触れるつもりだが、「アングルの面白さ」はそんな工夫の1つだろう)、「ウルトラマンらしさ」をギリギリまで詰め込んでいるわけだが、それでもやはり全体として「ダサい」という受け取り方はなかなか避けがたいと思う。
恐らくだが、ウルトラマン世代の人たちであれば、僕が「ダサさ」として受け取った様々な要素を「懐かしい」と肯定的に捉えるのだと思う。ただ、ウルトラマンを直接的に知らない世代には、どうしても「ダサさ」として受け取られてしまうのではないかという気がするのだ。
僕は『シン・ゴジラ』も観ているが、同じく昭和作品である「ゴジラ」を扱いながら、『シン・ゴジラ』では、「非常に現代的でリアリティのある設定」の中に「ゴジラ」が絶妙に溶け込んでいたと僕は感じた。「官僚の仕事の煩雑さや、政治の判断の遅さなど、非常にリアルな設定において政府が怪獣に立ち向かう世界」に「ゴジラ」という非リアルな存在がさほど違和感なく組み込まれていたと思うのだ。
しかし、『シン・ウルトラマン』では、同じように「政府がリアルな設定の中で禍威獣と立ち向かう」という世界を描きながら、その中に「ウルトラマン」の存在は馴染めていない。勝手ながらその理由を考えると、やはりそれは、ウルトラマンが「人型」だという点にあるのではないかと思う。「人型」という制約を絶対的に無視できない以上、造型・動きなどに極度に制約が掛かる。その制約の中で、「ウルトラマンらしさ」も残したいわけだから、余計に条件が厳しくなるだろう。
恐らくだが、『エヴァンゲリオン』のエヴァも、アニメだから成立するのであって、同じく人型であるが故に、実写となったら、やはりそのリアルな世界には馴染めないのではないかと思う。
そんなわけで、「『ウルトラマンらしさ』を残しながら、リアルな世界の中に違和感なく溶け込ませる」というのはどうしても不可能なことであり、否応なしに「ダサさ」として認識されてしまうのではないか、というのが僕の考えだ。
僕は映像作品を観る時に、さほど「映像」を重視しない。はっきり言って、「話が面白ければいい」というタイプなので、映像から「ダサさ」を感じてもさして問題はない。ただ、やはり世間的な意見としては、「映像作品であれば、『映像の良さ』が大事だ」という人は多いと思うし、周りの人からもそういう話を聞くことがある。そして、そう考えた時、果たしてこの作品を勧めるのが正解なんだろうか、と感じてしまったのだ。
だから、人には勧めにくい。
さてでは、面白かった話に移ろう。
僕は、『エヴァンゲリオン』や『TENET』みたいな、ゴリゴリに設定を詰め込みまくった頭使う系の作品が結構好きで、そういう意味でこの『シン・ウルトラマン』も楽しめた。
先程も書いた通り、本家本元のウルトラマンの設定をまったく知らない。なんとなく知っていることを書くと、「3分間しか活動できない」「人間がウルトラマンに変身する」「M78星雲と何か関係がある」ぐらいだろうか。あと、「スペシウム光線」など、聞いたことあるよな的な固有名詞もいくつかある、という感じ。
なので、『シン・ウルトラマン』で描かれる設定が、どこまでオリジナルを踏襲しているのかは不明だ。
とにかく『シン・ウルトラマン』では、「ウルトラマンがなぜ地球にいて、なぜ禍威獣と戦うのか」という背景が、物語の展開と共に少しずつ明らかにされていく。
正直に言うと、「ウルトラマンがなぜ地球にいるのか」という部分はちゃんとは理解できていないのだが、ただ、物語のラストで語られる話から、映画冒頭のあのシーンはそういう意味だったのか、ということがちゃんと繋がって、なるほどという感じだった。
『シン・ゴジラ』では、「ゴジラがやってくる理由は不明だが、とにかく倒さなければならない」という官僚側の物語が主だったが、『シン・ウルトラマン』では、「ウルトラマンは何のために戦っているのか」に焦点が当たっている。なかなかに壮大な設定で、正直「地球にいるちっぽけな人間」程度にはなかなかその「危機感」さえリアルには実感できないレベルの状況なのだが、もしも本当に「宇宙に130億ほどの知的生命の種が存在する」のであれば、こんな展開が起こってもおかしくはないだろう。
『エヴァンゲリオン』や『TENET』ほど設定が複雑なわけではなく、ややこしい用語が大量に出てきて幻惑されるものの、そこまで難しい話ではない。そして、「ウルトラマンは、自身が知っている『遠大な世界』のことよりも、理解しようとして間もない『ちっぽけな世界』を守るために命を懸ける」という構図がシンプルすぎるほどシンプルに提示されるので、全体的に「良かった」という感想になる。
個人的に、「あぁ、なるほど、よく出来てるなぁ」と感じたのが、「肉弾戦を行う必然性」が描かれる場面だ。
ウルトラマンは、スペシウム光線や、光る円盤みたいなやつを投げたりと、飛び道具的な攻撃ももちろんあるが、やはりそれよりは、プロレスのような肉弾戦をやっているイメージが強い。
しかし普通に考えて、飛び道具があるのに肉弾戦をやる必要はない。本家のウルトラマンでは、CGの技術や予算の関係で、飛び道具的な演出よりも、「着ぐるみを着た人間同士が戦う」という方が現実的だったのだろうし、たぶんそういう理由から肉弾戦を行っていたはずだ。だから、「ウルトラマンらしさ」を出そうとして、何の説明もなくただ「肉弾戦」をやっていたら、それはどうしても「違和感」として伝わってしまう。
ただ『シン・ウルトラマン』では、「体内に放射性物質が充満した禍威獣」が登場し、「どんな形であれ、身体が爆発すれば、周囲に放射性物質が拡散し大惨事となる」ことが示唆される。それを理解しているウルトラマンは、スペシウム光線など出さず、相手の攻撃も避けるのではなくすべて受け止め、その上で「肉弾戦」によって倒そうとするのだ。もちろん、このシーンだけで、ウルトラマンの「肉弾戦」すべての「違和感」がなくなるわけでもないのだが、「リスペクトとして描き出したい『ウルトラマンらしさ』」にいかにして理屈をつけるかという努力が恐らくあちこちでなされているのだろうし、こういう形で制作陣の「愛情」みたいなものが垣間見えるのは個人的には好きだ。
あと、やはり特徴的なのは、この映画の「カメラアングル」だろう。元々、「スマホも駆使して撮影した」「役者にもカメラを持ってもらい、その映像を使用した」などの情報は観る前から知っていたのだが、思っていた以上に斬新なアングルが多く、これも個人的には面白かった。
もちろん、「この特徴的なカメラアングルが『シン・ウルトラマン』に不可欠なのか」と聞かれれば、まあ決してそんなことはないだろう。こういうアングルでなくても全然成立するだろうし、そういう意味では「余分」な要素だと言える。しかし先程書いた通り、『シン・ウルトラマン』は「ウルトラマンらしさ」を可能な限り詰め込んでいるが故に「そこはかとないダサさ」が醸し出されてしまっている。だからこそ、この斬新なカメラアングルは、その「ダサさ」をある種中和させるような機能を持っていると僕は感じた。そう考えるなら、この斬新なカメラアングルは「必要だった」と言えるのではないかと思う。
あと、「なぜ人間が巨大化してウルトラマンになるのか」という仕組みそのものは映画では説明されないが(というか、さすがにこれに理屈をつけるのは相当難しいだろう)、「そういう技術が存在する」ということを前提にして、あんなシーンをぶっ込んでくるとはと驚かされた。仕組みそのものは説明できないにしても、「そういう技術がある」という設定を物語の新たな展開として組み込んでしまうことで、理屈が説明されないことに目がいかなくなる。そんな意図があっての物語展開では恐らくないとは思うが、個人的には「上手いなぁ」と思った。
あと、『エヴァンゲリオン』もそうだが、『シン・ウルトラマン』でも「プランクブレーン」みたいな、ありそうで無い絶妙な単語を散りばめてくる辺り、リアルっぽくて面白い。映画に出てくる「余剰次元」という言葉は物理の世界に実際に存在するし、「プランク時間」「プランク長さ」のような表現もある。「ブレーン」というのも、実在こそ証明されていないが、ひも理論からの帰結でその存在が仮定されているものだ。
「余剰次元」というのは、「僕らは空間を3次元だと思っているが、実際には『僕らには感知できない空間次元』がもっとたくさんある」という考えから生まれた発想で、現時点では、確か「重力だけは余剰次元に染み出すことができる」とされていたと思う。そういう設定をそれっぽく絶妙に組み込んでいる感じは、理系の僕には面白く感じられるが、映像的には「なんのこっちゃ」という感じになってしまうのが難しい。っていうか、その「プランクブレーン」が関わるラスト付近のあの場面、あの映像で「正解」なんだろうか。やはり僕はこういう部分に、「そこはかとないダサさ」を感じてしまうのだよなぁ。
そんな感じの映画だった。
「シン・ウルトラマン」を観に行ってきました
「死刑にいたる病」を観に行ってきました
映画『死刑に至る病』の感想としては、本来は、「連続殺人鬼・榛村大和のサイコパスっぷりがヤバい」という感じであるべきなんだと思う。判明しているだけで24名もの高校生を残虐に殺害し、まったく反省の様子も見せずに死刑判決が下った異常者に恐怖するのが正解なのだろう。
ただどうしても僕は、そういう感覚にはならない。
それは、「榛村大和に共感できる」みたいな意味ではない。いや、広い意味ではそうなるのかもしれないが、別に僕は「連続殺人鬼としての榛村大和の行為」を正当化するような意見は持っていない。彼の行為は間違いなく「悪」だし、彼が死刑判決を受け、社会から抹殺されることは、当然のことだと思う。
僕が映画を観ながら感じていたことは、コロナ禍になってから改めて強く実感させられたことと重なる。それは、「『生きていくのに必要不可欠なもの』は人によって違う」ということだ。
コロナ禍になってから、「不要不急」という言葉で様々なモノ・コトが切り捨てられていった。「感染症から人類・社会を守る」という目的のために、それは仕方ない判断だと思うし、そのこと自体を否定したいわけではない。
ただ、一般的に「不要不急」とされたモノ・コトが、どこかの誰かにとっては「生きていくのに必要不可欠なもの」かもしれない、という想像力だけは忘れたくない、と感じている。
幸い、コロナ禍において、僕はそのような「生きていくのに必要不可欠なもの」が制約されたことはほとんどない。「人と会うこと」が制約されたことで、「興味深いと感じる人と話す機会」が減ってしまったことは残念だったが、ただ、コロナ前だってそこまで頻繁に人と会っていたわけではないのに、大したダメージではない。
コロナ禍では、「大人数の飲み会」「ライブそのものの開催や、ライブでの声出し」「旅行」など、様々なものが制限された。それらは確かに、「生物の機能を維持する」という意味では「不要」だと言える。しかし人間は、ただ単に身体が正常に動いてさえいれば「生きている」と言えるような生き物ではない。身体が生存のための機能を果たした上で、さらに「生きている実感」を得られるような「何か」がどうしても必要だ。
その「何か」が、「大人数の飲み会」「ライブそのものの開催や、ライブでの声出し」「旅行」であった人たちにとっては、コロナ禍は本当に「心の死」を意味するような時間でしかないだろう。「身体が正常なんだから随分マシだ。贅沢を言うな。コロナ禍では、身体をちゃんと生き延びさせるのも精一杯の人だっているんだ」という反論は当然想定されるし、実際にその通りだとも思う。ただだからといって、「生きている実感を得られるような『何か』」がない現実を嘆いたり、苦しみを表現することが制約されるべきではないと思う。
さて、ここで榛村大和の話に戻す。彼は裁判の中で、「もし逮捕されていないとしたら、今でも(殺人を)続けたいと思いますか?」と聞かれて、こう答えている。
【はい。僕にとっては必要なので】
同一視するなと怒られるかもしれないが、それでも僕は思う。「生きている実感を得られるような『何か』」が「殺人」なのだとすれば、榛村大和のように生きる以外に選択肢はないだろうな、と。
このような意味で僕は、榛村大和に「共感」できる。そして、「生きている実感を得られるような『何か』を求める気持ち」を持つすべての人が共感すべきではないかとも思う。
もちろん、「生きている実感を得られるような『何か』」が「殺人」だからといって、当然「殺人」が許容されるはずもない。「そういう気持ちを持つこと」と「実際に行うこと」はまったく別の話だ。実際の行為に移した点には、一切の「共感」はできないし、断罪は当然だと思う。ただし、「生きている実感を得られるような『何か』を求める気持ち」の部分については、むしろ「共感すべき」なのではないかと感じるのだ。
コロナ前の世界においては、ほとんどの人が「生きている実感を得られるような『何か』」を得ることに困難さを感じなかったはずだ。もちろん、その「生きている実感を得られるような『何か』」が「薬物」や「小児性愛」のような人もいるだろうし、そういう人はコロナ前でも「生きている実感を得られるような『何か』」を得ることに苦労していただろうが、大体の人はそんなことはなかったはずだと思う。
しかしコロナ禍になったことで、多くの人が「生きている実感を得られるような『何か』」を得ることを制約されたはずだ。そしてそれは、ある意味で、「榛村大和が感じていた困難さ」と相似形を成すはずである。
彼はとにかく、「彼なりのやり方で殺人を行うことでしか『生きている実感』を得られない」と感じていたのだろう。それが先天的なものか後天的なものか分からないし、どうでもいいが、その人生はなかなか想像しがたい。しかし、コロナ禍の今であれば、「毎月海外に旅行に行くことが唯一の生きがいだった人」が感じている困難さに近いものがある、と言えるのではないかと思うのだ。
繰り返すが、「そういう気持ちを持つこと」と「実際に行うこと」はまったく違うし、「殺人という行為」に及んだという事実に情状酌量の余地はない。ただ、「榛村大和はサイコパスだ」という捉え方は、僕は正しくないと感じているのである。
僕たちはたまたま、「生きている実感を得られるような『何か』」が「犯罪」ではなかっただけだ。そういう捉え方をしなければ、「榛村大和はサイコパスだから理解できない」と「自分には関係ないBOX」に仕分けして終わらせてしまうだけだ。
それは、想像力に欠けるのではないかと僕は感じる。
内容に入ろうと思います。
「これどうしたらいい?お母さん、決められないから」が口癖の母を持つ雅也は、父親の期待に添えず偏差値の低い大学に通っている。家では母親が「家政婦」のような扱いをされており、母もそんな立場に甘んじてしまっているように見える。強権的な父親の元で、暴力に怯えながら育った雅也も自己肯定感が低く、普段から小声でおどおどしたような振る舞いをしている。
そんなある日、榛村大和から手紙が届いた。一度拘置所まで会いに来てほしい、と。
榛村大和は、分かっているだけでも24件の殺人を犯し、その内の9件で起訴され死刑判決を受けた。真面目な高校生の男女と長い時間を掛けて信頼関係を築いてから、爪を剥ぐなど残虐な拷問を行い、殺した。”処刑部屋”から被害者の1人が逃げ出したことから事件が発覚し、逮捕されるに至った。
雅也は、榛村大和が経営していたパン屋の常連で、父親の暴力に怯える日々の中で唯一安らげる場所だった。そんな雅也のことを覚えていた榛村大和が、手紙を送ったのだ。
面会室で榛村大和が語った話は驚くべきものだった。彼は、起訴された事件の内、9件目の殺人事件だけは自分の犯行ではないと主張したのだ。裁判では榛村大和の犯行と認定されたのだが、その事件の被害者は唯一26歳と他と年齢が合わず、殺害の方法も他とまったく異なっていた。榛村大和は、自分が死刑になるのは当然だが、この1件が自分の犯行だとされている状況は納得がいかないと主張、雅也に調査してもらえないかと依頼してきたのだ。
雅也は、彼の話を信じたわけではないが、単なる興味から調べてみることにするのだが……。
というような話です。
僕は、この映画の原作を読んでいたのですが、基本的な設定以外はまったく何も覚えていませんでした。ストーリーが原作と同じなのかも判断できません。
映画はとにかく、阿部サダヲの存在感が圧倒的でした。完全に阿部サダヲで成立している映画です。ポスターの写真の「目に光がない感じ」が、榛村大和を演じる上で絶妙だと感じますが、全体的にも、「榛村大和という不可解な人物を、まさにそれ以外にはないという完璧さで演じている」と感じさせられるのです。
「こいつは連続殺人鬼だ」と理解した上で観ても、パン屋で働いているシーンの榛村大和は「とても優しい」人物に見えるし、一方で拘置所で雅也と話している場面では、「口にしている言葉は非常にまともなのに、そこはかとなく狂気を滲ませる感じ」が見事です。
拘置所のシーンでは、薄暗くて閉塞感のある環境もその印象を後押ししているとは思いますが、やはり阿部サダヲの演技が、「こいつは何をしでかすか分からない」という雰囲気を強く滲ませるのが凄いと思います。しかもそういう雰囲気を、「雅也を気遣ったり心配するような言動」から感じさせるわけです。かなり難しいはずですが、それをごく自然にやっているような感じがちょっと凄かったなと思いました。
ストーリー的に興味深かったのは、「雅也と榛村大和には思ってもみなかった関係があるかもしれない」と示唆されて以降の雅也の変化です。僕は、雅也に起こったような変化に対して共感できるわけではなく、というかむしろ「そんな変化が起こるんだ」と感じたが、雅也のそのような受け止め方は自分の中にはないものだったので非常に興味深いと感じました。これは、「自己肯定感が低い」という設定があるからこその面白さでもあって、なかなか上手くできているなと。
また、共感できた話で言えば、雅也がかつての榛村大和の家に入ろうとした時の場面です。そこで近隣住民に声を掛けられるのですが、その住民がこんなことを言っていました。
【ただ、もし彼が警察署から抜け出して「匿ってくれ」って言われたら、匿っちゃうかもしれねぇなぁ。俺、嫌いじゃないんだよなぁ、あの人のこと】
そしてこれに、雅也も「分かります」と返すのです。
この近隣住民は、当然「榛村大和が連続殺人鬼である」ことを知っているし、孫たちから「どうして隣に住んでたのに、あいつが殺人鬼だって気づかなかったんだ」と散々責められたと語っています。しかしそれでも、「隣に住んでたって人殺しだなんて気づかねーよ」と言うし、人殺しだと知った上で「匿う」と言っているわけです。
榛村大和の凄さはここにあって、相手が誰であっても「操ってしまう」「好きにさせてしまう」ような力があるわけです。
その理由の一端は、榛村大和の「自身がどう見られているかという感覚」の鋭さにあると感じました。榛村大和は言動の端々から、「相手から自分がどう見られているか」を的確に察知し、それに合わせて自らの「言動」を調整する能力がメチャクチャ高いのだということが伝わってくるのです。
そしてその雰囲気を、阿部サダヲが絶妙に醸し出すんですよね。ホントに上手い。榛村大和(阿部サダヲ)が口にすると、「口にしていることが全部本当であるように聞こえる」みたいな魔力があるのです。それはまさに、「相手との現状の関係性の把握」「その関係性において最も適切な言動のセレクト」が絶妙だからだと感じました。
阿部サダヲ、凄いなぁ。
あとはラストもぞっとさせる感じがあって見事だと思います。これは確か、原作のラストと同じだった気がします。榛村大和の狂気がいかに「伝染」していくのかを想像させる終わらせ方で、塀の内側にいながら、塀の外側にその「ヤバさ」を存分に染み出させる存在感が素晴らしいと思います。
あと、エンドロールに「岩田剛典」「赤ペン瀧川」って表示されて、「どこに出てきた?」と思って調べました。ってかマジで、岩田剛典、全然気づかなかった。映画見終わって、エンドロールに名前が表示されても、「あぁ、あの役が岩田剛典だったんだ」って気づかなかったんだから自分でもビックリでした。赤ペン瀧川も、「あれがそうか!」と調べて分かって、こちらもちょっとビックリですね。
榛村大和ほどではないでしょうが、彼のような「狂気」を内包した人物は世の中にそれなりにいると思います。気をつけようがありませんが、この映画のような可能性が僕らの日常にも存在し得るのだと知っておくことは大事だろうと思います。
「死刑にいたる病」を観に行ってきました
ただどうしても僕は、そういう感覚にはならない。
それは、「榛村大和に共感できる」みたいな意味ではない。いや、広い意味ではそうなるのかもしれないが、別に僕は「連続殺人鬼としての榛村大和の行為」を正当化するような意見は持っていない。彼の行為は間違いなく「悪」だし、彼が死刑判決を受け、社会から抹殺されることは、当然のことだと思う。
僕が映画を観ながら感じていたことは、コロナ禍になってから改めて強く実感させられたことと重なる。それは、「『生きていくのに必要不可欠なもの』は人によって違う」ということだ。
コロナ禍になってから、「不要不急」という言葉で様々なモノ・コトが切り捨てられていった。「感染症から人類・社会を守る」という目的のために、それは仕方ない判断だと思うし、そのこと自体を否定したいわけではない。
ただ、一般的に「不要不急」とされたモノ・コトが、どこかの誰かにとっては「生きていくのに必要不可欠なもの」かもしれない、という想像力だけは忘れたくない、と感じている。
幸い、コロナ禍において、僕はそのような「生きていくのに必要不可欠なもの」が制約されたことはほとんどない。「人と会うこと」が制約されたことで、「興味深いと感じる人と話す機会」が減ってしまったことは残念だったが、ただ、コロナ前だってそこまで頻繁に人と会っていたわけではないのに、大したダメージではない。
コロナ禍では、「大人数の飲み会」「ライブそのものの開催や、ライブでの声出し」「旅行」など、様々なものが制限された。それらは確かに、「生物の機能を維持する」という意味では「不要」だと言える。しかし人間は、ただ単に身体が正常に動いてさえいれば「生きている」と言えるような生き物ではない。身体が生存のための機能を果たした上で、さらに「生きている実感」を得られるような「何か」がどうしても必要だ。
その「何か」が、「大人数の飲み会」「ライブそのものの開催や、ライブでの声出し」「旅行」であった人たちにとっては、コロナ禍は本当に「心の死」を意味するような時間でしかないだろう。「身体が正常なんだから随分マシだ。贅沢を言うな。コロナ禍では、身体をちゃんと生き延びさせるのも精一杯の人だっているんだ」という反論は当然想定されるし、実際にその通りだとも思う。ただだからといって、「生きている実感を得られるような『何か』」がない現実を嘆いたり、苦しみを表現することが制約されるべきではないと思う。
さて、ここで榛村大和の話に戻す。彼は裁判の中で、「もし逮捕されていないとしたら、今でも(殺人を)続けたいと思いますか?」と聞かれて、こう答えている。
【はい。僕にとっては必要なので】
同一視するなと怒られるかもしれないが、それでも僕は思う。「生きている実感を得られるような『何か』」が「殺人」なのだとすれば、榛村大和のように生きる以外に選択肢はないだろうな、と。
このような意味で僕は、榛村大和に「共感」できる。そして、「生きている実感を得られるような『何か』を求める気持ち」を持つすべての人が共感すべきではないかとも思う。
もちろん、「生きている実感を得られるような『何か』」が「殺人」だからといって、当然「殺人」が許容されるはずもない。「そういう気持ちを持つこと」と「実際に行うこと」はまったく別の話だ。実際の行為に移した点には、一切の「共感」はできないし、断罪は当然だと思う。ただし、「生きている実感を得られるような『何か』を求める気持ち」の部分については、むしろ「共感すべき」なのではないかと感じるのだ。
コロナ前の世界においては、ほとんどの人が「生きている実感を得られるような『何か』」を得ることに困難さを感じなかったはずだ。もちろん、その「生きている実感を得られるような『何か』」が「薬物」や「小児性愛」のような人もいるだろうし、そういう人はコロナ前でも「生きている実感を得られるような『何か』」を得ることに苦労していただろうが、大体の人はそんなことはなかったはずだと思う。
しかしコロナ禍になったことで、多くの人が「生きている実感を得られるような『何か』」を得ることを制約されたはずだ。そしてそれは、ある意味で、「榛村大和が感じていた困難さ」と相似形を成すはずである。
彼はとにかく、「彼なりのやり方で殺人を行うことでしか『生きている実感』を得られない」と感じていたのだろう。それが先天的なものか後天的なものか分からないし、どうでもいいが、その人生はなかなか想像しがたい。しかし、コロナ禍の今であれば、「毎月海外に旅行に行くことが唯一の生きがいだった人」が感じている困難さに近いものがある、と言えるのではないかと思うのだ。
繰り返すが、「そういう気持ちを持つこと」と「実際に行うこと」はまったく違うし、「殺人という行為」に及んだという事実に情状酌量の余地はない。ただ、「榛村大和はサイコパスだ」という捉え方は、僕は正しくないと感じているのである。
僕たちはたまたま、「生きている実感を得られるような『何か』」が「犯罪」ではなかっただけだ。そういう捉え方をしなければ、「榛村大和はサイコパスだから理解できない」と「自分には関係ないBOX」に仕分けして終わらせてしまうだけだ。
それは、想像力に欠けるのではないかと僕は感じる。
内容に入ろうと思います。
「これどうしたらいい?お母さん、決められないから」が口癖の母を持つ雅也は、父親の期待に添えず偏差値の低い大学に通っている。家では母親が「家政婦」のような扱いをされており、母もそんな立場に甘んじてしまっているように見える。強権的な父親の元で、暴力に怯えながら育った雅也も自己肯定感が低く、普段から小声でおどおどしたような振る舞いをしている。
そんなある日、榛村大和から手紙が届いた。一度拘置所まで会いに来てほしい、と。
榛村大和は、分かっているだけでも24件の殺人を犯し、その内の9件で起訴され死刑判決を受けた。真面目な高校生の男女と長い時間を掛けて信頼関係を築いてから、爪を剥ぐなど残虐な拷問を行い、殺した。”処刑部屋”から被害者の1人が逃げ出したことから事件が発覚し、逮捕されるに至った。
雅也は、榛村大和が経営していたパン屋の常連で、父親の暴力に怯える日々の中で唯一安らげる場所だった。そんな雅也のことを覚えていた榛村大和が、手紙を送ったのだ。
面会室で榛村大和が語った話は驚くべきものだった。彼は、起訴された事件の内、9件目の殺人事件だけは自分の犯行ではないと主張したのだ。裁判では榛村大和の犯行と認定されたのだが、その事件の被害者は唯一26歳と他と年齢が合わず、殺害の方法も他とまったく異なっていた。榛村大和は、自分が死刑になるのは当然だが、この1件が自分の犯行だとされている状況は納得がいかないと主張、雅也に調査してもらえないかと依頼してきたのだ。
雅也は、彼の話を信じたわけではないが、単なる興味から調べてみることにするのだが……。
というような話です。
僕は、この映画の原作を読んでいたのですが、基本的な設定以外はまったく何も覚えていませんでした。ストーリーが原作と同じなのかも判断できません。
映画はとにかく、阿部サダヲの存在感が圧倒的でした。完全に阿部サダヲで成立している映画です。ポスターの写真の「目に光がない感じ」が、榛村大和を演じる上で絶妙だと感じますが、全体的にも、「榛村大和という不可解な人物を、まさにそれ以外にはないという完璧さで演じている」と感じさせられるのです。
「こいつは連続殺人鬼だ」と理解した上で観ても、パン屋で働いているシーンの榛村大和は「とても優しい」人物に見えるし、一方で拘置所で雅也と話している場面では、「口にしている言葉は非常にまともなのに、そこはかとなく狂気を滲ませる感じ」が見事です。
拘置所のシーンでは、薄暗くて閉塞感のある環境もその印象を後押ししているとは思いますが、やはり阿部サダヲの演技が、「こいつは何をしでかすか分からない」という雰囲気を強く滲ませるのが凄いと思います。しかもそういう雰囲気を、「雅也を気遣ったり心配するような言動」から感じさせるわけです。かなり難しいはずですが、それをごく自然にやっているような感じがちょっと凄かったなと思いました。
ストーリー的に興味深かったのは、「雅也と榛村大和には思ってもみなかった関係があるかもしれない」と示唆されて以降の雅也の変化です。僕は、雅也に起こったような変化に対して共感できるわけではなく、というかむしろ「そんな変化が起こるんだ」と感じたが、雅也のそのような受け止め方は自分の中にはないものだったので非常に興味深いと感じました。これは、「自己肯定感が低い」という設定があるからこその面白さでもあって、なかなか上手くできているなと。
また、共感できた話で言えば、雅也がかつての榛村大和の家に入ろうとした時の場面です。そこで近隣住民に声を掛けられるのですが、その住民がこんなことを言っていました。
【ただ、もし彼が警察署から抜け出して「匿ってくれ」って言われたら、匿っちゃうかもしれねぇなぁ。俺、嫌いじゃないんだよなぁ、あの人のこと】
そしてこれに、雅也も「分かります」と返すのです。
この近隣住民は、当然「榛村大和が連続殺人鬼である」ことを知っているし、孫たちから「どうして隣に住んでたのに、あいつが殺人鬼だって気づかなかったんだ」と散々責められたと語っています。しかしそれでも、「隣に住んでたって人殺しだなんて気づかねーよ」と言うし、人殺しだと知った上で「匿う」と言っているわけです。
榛村大和の凄さはここにあって、相手が誰であっても「操ってしまう」「好きにさせてしまう」ような力があるわけです。
その理由の一端は、榛村大和の「自身がどう見られているかという感覚」の鋭さにあると感じました。榛村大和は言動の端々から、「相手から自分がどう見られているか」を的確に察知し、それに合わせて自らの「言動」を調整する能力がメチャクチャ高いのだということが伝わってくるのです。
そしてその雰囲気を、阿部サダヲが絶妙に醸し出すんですよね。ホントに上手い。榛村大和(阿部サダヲ)が口にすると、「口にしていることが全部本当であるように聞こえる」みたいな魔力があるのです。それはまさに、「相手との現状の関係性の把握」「その関係性において最も適切な言動のセレクト」が絶妙だからだと感じました。
阿部サダヲ、凄いなぁ。
あとはラストもぞっとさせる感じがあって見事だと思います。これは確か、原作のラストと同じだった気がします。榛村大和の狂気がいかに「伝染」していくのかを想像させる終わらせ方で、塀の内側にいながら、塀の外側にその「ヤバさ」を存分に染み出させる存在感が素晴らしいと思います。
あと、エンドロールに「岩田剛典」「赤ペン瀧川」って表示されて、「どこに出てきた?」と思って調べました。ってかマジで、岩田剛典、全然気づかなかった。映画見終わって、エンドロールに名前が表示されても、「あぁ、あの役が岩田剛典だったんだ」って気づかなかったんだから自分でもビックリでした。赤ペン瀧川も、「あれがそうか!」と調べて分かって、こちらもちょっとビックリですね。
榛村大和ほどではないでしょうが、彼のような「狂気」を内包した人物は世の中にそれなりにいると思います。気をつけようがありませんが、この映画のような可能性が僕らの日常にも存在し得るのだと知っておくことは大事だろうと思います。
「死刑にいたる病」を観に行ってきました
「ぼくのエリ 200歳の少女」を観に行ってきました
なんか凄い映画だったな。なんか凄い映画だった。
映画を観ながら、映画の内容にまったくそぐわないことを考えていた。その話を書こう。
僕は、自分が「小児性愛者」じゃなくて良かった、と考えていた。
「自分の切なる欲望に沿うことが、社会では『犯罪』と呼ばれてしまう」という状況はとてもしんどい。別に僕は小児性愛の犯罪者を擁護したいわけではないし、法律があろうがなかろうが、あるいは本人の同意があろうがなかろうが、「小児とセックス的なことをする」のは許されないと考えている。
ただ一旦、そのような「社会との結節点」のことは忘れて、シンプルに「小児性愛者」視点で物事を考えてみよう。
それは、絶望的にしんどいだろう、と思う。
私たちが「異性とセックスをしたい」と考えるのと同じ自然さで、彼らは「小児とセックスをしたい」と感じてしまうのだろう。きっと彼らにしても、それが道徳的・倫理的にダメだということは理解できているはずだ。そうではない人もいるかもしれないが、むしろその方が幸せだと言えるかもしれない。自分の理性は正常に保たれたまま、欲望だけが「小児」を欲してしまう、というのは、想像するだけで恐ろしい。
この映画と「小児性愛者」の話を重ねるのは色んな意味で正しくないと思うが、この映画で描かれるエリも、まさに「自分の切なる欲望に沿うことが、社会では『犯罪』と呼ばれてしまう」存在だと言っていい。
「犯罪」というところまで話を持っていくと、現実世界で対応するものがなかなか見つけにくくなってしまうが、「自分の切なる欲望に沿うと、どんどん孤立してしまう」ぐらいの感覚は誰にでもあるのではないかと思う。以前、アニメやマンガが好きな女性から、「好きな作品について誰かと語り合いたくはない」みたいなことを言っていたことを思い出す。アニメでもマンガでも、「好きなポイント」が重なる可能性はかなり低いし、喋っていると「そこじゃないんだよなぁ」という感覚が強くなってしまう。だから、自分が好きなアニメやマンガの話は、そのアニメやマンガのことを知らない人に熱弁したい、と言っていた。
本当であれば「同じ作品を好きな人同士で話すこと」がベストであるように感じられるが、その欲望を突き詰めようとすると結局孤立してしまう、というわけだ。
僕の場合は、「他人と話すこと」に対して似たようなことを感じる。
僕は「話が合う」と感じるタイプが非常に狭い。世の中の大体の人に対して「話が合う」という感覚を抱けない。僕が、「メチャクチャ話が合う人とだけ話したい」という欲望を突き詰めるとすれば、ほとんど喋る相手がいなくなってしまう(それでも、今はそれなりに「話が合う」と感じる人が周りにいるので、非常に僥倖だと感じているが)。「話が合う」とは感じられない人と喋っていても、なかなか自分のテンションが上がらず、「これなら1人でいる方がマシだな」と感じてしまうことさえある。
「食」「仕事」「婚活」など、対象となるものはまったく異なるかもしれないが、似たような感覚を抱いてしまうことはあるのではないだろうか。
僕らのそれは、幸いなことに「欲望の追及」が「犯罪」には繋がらない。単純に「つまらない」「不満だ」という感覚が募っていくだけで、「社会的に『悪』とみなされる」可能性は低いだろう。
しかしそれは、たまたま運良くそうだっただけだ。
【「君は何者?」
「あなたと同じ」
「ぼくは殺さない」
「でも、殺したいと思ってるでしょ?相手を殺したいと思ってでも生き延びたいと」
「うん」】
社会は、一定のルールの範囲内で運営されるべきだし、そのルールから外れる者は何らかの形で断罪なり更生の道なりを示唆するしかない。しかし、それは「社会との結節点」での帰結であって、「ルールから外れること」そのものが「悪」かどうかは分からない。
それが、「生き延びるための切実な行動」であるなら、なおさらだ。
内容に入ろうと思います。
映画の冒頭は、限りなく関連性が無さそうな断片的な情報が散漫に登場する。
オスカー少年は、学校でいじめられている。いじめっ子から言われた言葉を、夜、ナイフ片手に繰り返すことで、どうにかその鬱屈を紹介しようとしている。そして彼は、殺人事件の新聞記事をスクラップしている。
ある男が、人の意識を失わせるガスをバッグに入れ、人気のない夜道に立っている。通りかかった男性に時間を聞くフリをしながらそのガスを嗅がせ、木に掛けたロープで逆さ吊りにする。そして首元を切り、流れ出る鮮血をバケツに溜めていくのだ。しかしそこにどこかの飼い犬が近づき、見つかる危険を感じた男はその場を立ち去る。
レストランで談笑している、常連客らしい集団。新しく町に引っ越してきたらしい男性が1人で食事をしているのを見かけ、一緒に飲もうと声を掛けるが、すげなく断られる。散会となり、帰路につく面々だが、その内の1人がくらい夜道で「助けて」という少女の声を聞く。男は助けてあげようと少女に近づくが、その直後悲鳴を上げることになる。
オスカーは自宅アパートに併設する中庭で遊んでいる。すると、ジャングルジムに女の子がいる。見たことのない子だ。雪深い真冬なのに薄着で、また、オスカーは彼女に「君臭うよ」と声を掛ける。ルービックキューブを貸してあげて、別れた。どうやら部屋は、オスカーの隣だそうだ。
授業中。オスカーは恐らく図書館から借りてきたのだろう分厚い本から何かを書き写している。モールス信号だ。
というような話です。
エリという名の少女がヴァンパイアであることは、恐らくかなり知られた事実だと思うので、書いてしまっていいだろう。邦題の「200歳の少女」という副題からもそれが連想できるだろう。タイトルの話で言えば、英題が「Let the Right One In」だった。恐らく、フィンランド語のタイトルをそのまま英訳したのではないかと思う。グーグル翻訳に突っ込むと、「正しいものを入れましょう」と翻訳された。映画を観れば、何を指しているのか理解できるだろう。ってか、凄いタイトルだな。
と思ったんだけど、ちょっと違うようだ。僕は「正しいものを入れましょう」を、「人間が食べるものではなく、血を取り込みましょう」という意味で解釈したのだが、原題を正しく捉えると「正しき者を招き入れよ」となるそうだ。こう訳されると、映画のまた別の場面が浮かぶ。「入っていいって言って」とエリが口にする場面の描写が観ている時には理解できなかったが、調べてみると、元々の「吸血鬼」の設定として、「人間に許可されないと家屋に入れない」というのがあるそうだ。知らなかった。
映画全体は当然、オスカーとエリの関係がどう展開していくのかに焦点が当たるし、その物語は非常に興味深い。ただ僕は、エリがある場面で「パパ」と呼んでいた人物との関係がずっと気になっていた。
かなり早い段階から僕は、「この男はエリの幼なじみ、あるいは恋人的存在だろう」と考えていた。そもそも「親子のはずがない」と考えていたのだ。その確信が持てたのは、男が
【今夜はあの少年に会わないでくれ。頼む】
と口にしたシーン。その後の展開を踏まえると、彼は「何らかの予感を抱いており、自分の身の振り方に覚悟をしている」のだと伝わる場面だ。恐らく、「死」が避けられないものだと考えていたのだと思う。
そしてそんな場面で、「少年に会わないでくれ」と口にするのだ。これはシンプルに「嫉妬」だと考えるべきだと思う。そして嫉妬だとするなら、この男と少女は、年齢がまったく合わないが、元々は同い年だったと考えるべきなのだと思う。
しかし、そういうイメージを最初から持ってはいたのだが、「どんな理屈でそれが成立するのか」はちょっと分かっていなかった。しかしこの映画では、親切にそれを示唆する場面を用意してくれる。レストランで談笑していたメンバーの1人である女性の描写がそれだ。
また、エリが「12歳だよ、もうずっと昔から」と言っていたことを考え合わせると、恐らく、
<エリは12歳の頃にヴァンパイアに噛まれ、しかし一命を取り留めた。ただしそのせいでヴァンパイアになり、年を取らない身体になってしまった。そして、ヴァンパイアに噛まれた12歳の頃から親しくしていた男の子と、ずっと一緒に生きている>
という設定なのだろうと思う。この映画は原作となる小説があるらしいが、そちらではこの男の物語もきちんと描かれているのだろうか?オスカーとエリの物語ももちろん面白いのだが、個人的にはこの男とエリの物語がどうだったのか非常に気になってしまった。
と思ったのだが、そういえば副題に「200歳」とあるな。僕の仮説だと、男の年齢が70歳だとしても、エリがヴァンパイアになってから58年しか経っていないことになる。となるとエリは、「定期的に『人生を共に歩む人間』を取り替えている」ということになるのか。その新たな候補がオスカーというわけだ。なるほど。
【ここを去って生き延びるか。
留まって死を迎えるか。】
こう書かれた紙に、「ぼくのエリ」という表記がある。これもきっと、その男が書いたものだろう。
エリが生き延びるということは、その周辺で不審死が多発するということだから、1つところに長く留まることは難しい。流浪の人生を歩むしかないというわけだ。
「愛」という言葉で片付けていいのか分からない関係性ではあるが、弱さと中性的な魅力を兼ね備えた少年と、あらゆる意味で「異端」としか呼びようのない少女の邂逅は、展開の読めなさも含めてザワザワさせる強さがあった。
なんか凄い映画だったな。
「ぼくのエリ 200歳の少女」を観に行ってきました
映画を観ながら、映画の内容にまったくそぐわないことを考えていた。その話を書こう。
僕は、自分が「小児性愛者」じゃなくて良かった、と考えていた。
「自分の切なる欲望に沿うことが、社会では『犯罪』と呼ばれてしまう」という状況はとてもしんどい。別に僕は小児性愛の犯罪者を擁護したいわけではないし、法律があろうがなかろうが、あるいは本人の同意があろうがなかろうが、「小児とセックス的なことをする」のは許されないと考えている。
ただ一旦、そのような「社会との結節点」のことは忘れて、シンプルに「小児性愛者」視点で物事を考えてみよう。
それは、絶望的にしんどいだろう、と思う。
私たちが「異性とセックスをしたい」と考えるのと同じ自然さで、彼らは「小児とセックスをしたい」と感じてしまうのだろう。きっと彼らにしても、それが道徳的・倫理的にダメだということは理解できているはずだ。そうではない人もいるかもしれないが、むしろその方が幸せだと言えるかもしれない。自分の理性は正常に保たれたまま、欲望だけが「小児」を欲してしまう、というのは、想像するだけで恐ろしい。
この映画と「小児性愛者」の話を重ねるのは色んな意味で正しくないと思うが、この映画で描かれるエリも、まさに「自分の切なる欲望に沿うことが、社会では『犯罪』と呼ばれてしまう」存在だと言っていい。
「犯罪」というところまで話を持っていくと、現実世界で対応するものがなかなか見つけにくくなってしまうが、「自分の切なる欲望に沿うと、どんどん孤立してしまう」ぐらいの感覚は誰にでもあるのではないかと思う。以前、アニメやマンガが好きな女性から、「好きな作品について誰かと語り合いたくはない」みたいなことを言っていたことを思い出す。アニメでもマンガでも、「好きなポイント」が重なる可能性はかなり低いし、喋っていると「そこじゃないんだよなぁ」という感覚が強くなってしまう。だから、自分が好きなアニメやマンガの話は、そのアニメやマンガのことを知らない人に熱弁したい、と言っていた。
本当であれば「同じ作品を好きな人同士で話すこと」がベストであるように感じられるが、その欲望を突き詰めようとすると結局孤立してしまう、というわけだ。
僕の場合は、「他人と話すこと」に対して似たようなことを感じる。
僕は「話が合う」と感じるタイプが非常に狭い。世の中の大体の人に対して「話が合う」という感覚を抱けない。僕が、「メチャクチャ話が合う人とだけ話したい」という欲望を突き詰めるとすれば、ほとんど喋る相手がいなくなってしまう(それでも、今はそれなりに「話が合う」と感じる人が周りにいるので、非常に僥倖だと感じているが)。「話が合う」とは感じられない人と喋っていても、なかなか自分のテンションが上がらず、「これなら1人でいる方がマシだな」と感じてしまうことさえある。
「食」「仕事」「婚活」など、対象となるものはまったく異なるかもしれないが、似たような感覚を抱いてしまうことはあるのではないだろうか。
僕らのそれは、幸いなことに「欲望の追及」が「犯罪」には繋がらない。単純に「つまらない」「不満だ」という感覚が募っていくだけで、「社会的に『悪』とみなされる」可能性は低いだろう。
しかしそれは、たまたま運良くそうだっただけだ。
【「君は何者?」
「あなたと同じ」
「ぼくは殺さない」
「でも、殺したいと思ってるでしょ?相手を殺したいと思ってでも生き延びたいと」
「うん」】
社会は、一定のルールの範囲内で運営されるべきだし、そのルールから外れる者は何らかの形で断罪なり更生の道なりを示唆するしかない。しかし、それは「社会との結節点」での帰結であって、「ルールから外れること」そのものが「悪」かどうかは分からない。
それが、「生き延びるための切実な行動」であるなら、なおさらだ。
内容に入ろうと思います。
映画の冒頭は、限りなく関連性が無さそうな断片的な情報が散漫に登場する。
オスカー少年は、学校でいじめられている。いじめっ子から言われた言葉を、夜、ナイフ片手に繰り返すことで、どうにかその鬱屈を紹介しようとしている。そして彼は、殺人事件の新聞記事をスクラップしている。
ある男が、人の意識を失わせるガスをバッグに入れ、人気のない夜道に立っている。通りかかった男性に時間を聞くフリをしながらそのガスを嗅がせ、木に掛けたロープで逆さ吊りにする。そして首元を切り、流れ出る鮮血をバケツに溜めていくのだ。しかしそこにどこかの飼い犬が近づき、見つかる危険を感じた男はその場を立ち去る。
レストランで談笑している、常連客らしい集団。新しく町に引っ越してきたらしい男性が1人で食事をしているのを見かけ、一緒に飲もうと声を掛けるが、すげなく断られる。散会となり、帰路につく面々だが、その内の1人がくらい夜道で「助けて」という少女の声を聞く。男は助けてあげようと少女に近づくが、その直後悲鳴を上げることになる。
オスカーは自宅アパートに併設する中庭で遊んでいる。すると、ジャングルジムに女の子がいる。見たことのない子だ。雪深い真冬なのに薄着で、また、オスカーは彼女に「君臭うよ」と声を掛ける。ルービックキューブを貸してあげて、別れた。どうやら部屋は、オスカーの隣だそうだ。
授業中。オスカーは恐らく図書館から借りてきたのだろう分厚い本から何かを書き写している。モールス信号だ。
というような話です。
エリという名の少女がヴァンパイアであることは、恐らくかなり知られた事実だと思うので、書いてしまっていいだろう。邦題の「200歳の少女」という副題からもそれが連想できるだろう。タイトルの話で言えば、英題が「Let the Right One In」だった。恐らく、フィンランド語のタイトルをそのまま英訳したのではないかと思う。グーグル翻訳に突っ込むと、「正しいものを入れましょう」と翻訳された。映画を観れば、何を指しているのか理解できるだろう。ってか、凄いタイトルだな。
と思ったんだけど、ちょっと違うようだ。僕は「正しいものを入れましょう」を、「人間が食べるものではなく、血を取り込みましょう」という意味で解釈したのだが、原題を正しく捉えると「正しき者を招き入れよ」となるそうだ。こう訳されると、映画のまた別の場面が浮かぶ。「入っていいって言って」とエリが口にする場面の描写が観ている時には理解できなかったが、調べてみると、元々の「吸血鬼」の設定として、「人間に許可されないと家屋に入れない」というのがあるそうだ。知らなかった。
映画全体は当然、オスカーとエリの関係がどう展開していくのかに焦点が当たるし、その物語は非常に興味深い。ただ僕は、エリがある場面で「パパ」と呼んでいた人物との関係がずっと気になっていた。
かなり早い段階から僕は、「この男はエリの幼なじみ、あるいは恋人的存在だろう」と考えていた。そもそも「親子のはずがない」と考えていたのだ。その確信が持てたのは、男が
【今夜はあの少年に会わないでくれ。頼む】
と口にしたシーン。その後の展開を踏まえると、彼は「何らかの予感を抱いており、自分の身の振り方に覚悟をしている」のだと伝わる場面だ。恐らく、「死」が避けられないものだと考えていたのだと思う。
そしてそんな場面で、「少年に会わないでくれ」と口にするのだ。これはシンプルに「嫉妬」だと考えるべきだと思う。そして嫉妬だとするなら、この男と少女は、年齢がまったく合わないが、元々は同い年だったと考えるべきなのだと思う。
しかし、そういうイメージを最初から持ってはいたのだが、「どんな理屈でそれが成立するのか」はちょっと分かっていなかった。しかしこの映画では、親切にそれを示唆する場面を用意してくれる。レストランで談笑していたメンバーの1人である女性の描写がそれだ。
また、エリが「12歳だよ、もうずっと昔から」と言っていたことを考え合わせると、恐らく、
<エリは12歳の頃にヴァンパイアに噛まれ、しかし一命を取り留めた。ただしそのせいでヴァンパイアになり、年を取らない身体になってしまった。そして、ヴァンパイアに噛まれた12歳の頃から親しくしていた男の子と、ずっと一緒に生きている>
という設定なのだろうと思う。この映画は原作となる小説があるらしいが、そちらではこの男の物語もきちんと描かれているのだろうか?オスカーとエリの物語ももちろん面白いのだが、個人的にはこの男とエリの物語がどうだったのか非常に気になってしまった。
と思ったのだが、そういえば副題に「200歳」とあるな。僕の仮説だと、男の年齢が70歳だとしても、エリがヴァンパイアになってから58年しか経っていないことになる。となるとエリは、「定期的に『人生を共に歩む人間』を取り替えている」ということになるのか。その新たな候補がオスカーというわけだ。なるほど。
【ここを去って生き延びるか。
留まって死を迎えるか。】
こう書かれた紙に、「ぼくのエリ」という表記がある。これもきっと、その男が書いたものだろう。
エリが生き延びるということは、その周辺で不審死が多発するということだから、1つところに長く留まることは難しい。流浪の人生を歩むしかないというわけだ。
「愛」という言葉で片付けていいのか分からない関係性ではあるが、弱さと中性的な魅力を兼ね備えた少年と、あらゆる意味で「異端」としか呼びようのない少女の邂逅は、展開の読めなさも含めてザワザワさせる強さがあった。
なんか凄い映画だったな。
「ぼくのエリ 200歳の少女」を観に行ってきました
「マイスモールランド」を観に行ってきました
やっぱりクソみたいな現実だと思う。日本という国の「ろくでもなさ」に驚かされるし、ホントに嫌な気持ちになる。
もちろんだが、難民に限らずどんな問題に対しても、「全員を適切に救う」ことは不可能だ。だから、どうしても「網からこぼれてしまう人」は出てきてしまう。それは仕方ないことだと僕も理解しているつもりだ。
しかし、難民の現実はそんなレベルの話ではない。日本における難民の現実は、「大多数は救われ、一部の人が網からこぼれてしまっている」なんてものではなく、「ほとんど全員が網からこぼれている」という常態なのだ。
だから、このような現状を生み出している日本という国には、ちょっと弁解の余地はないと感じる。
ロシアのウクライナ侵攻で、「ウクライナからの避難民を受け入れる」と打ち出している。しかし重要なのは、国が「避難民」という言葉を使っている点だ。「難民として受け入れる」とは言っていないのである。
UNHCRでは、国外に逃れた人を「難民」(英語では「refugee」)、国内で避難した人を「国内避難民」(英語では「Internally Displaced Persons: IDPs」)と使い分けているそうだ。普通に考えれば、ウクライナから日本にやってきた人は「難民」と呼ばれるべきだが、日本政府は「避難民」という呼称を使っている。間違いなく明確な意図があってのことだろう。そしてそれは、「難民として受け入れるつもりはない」という意思表示なのだと思う。
実際、ウクライナからの「避難民」についても、確かテレビのニュースで見た記憶では「期間限定の在留資格」は与えられるが、「難民認定」がなされるわけではないという話だったように思う。この点は現在進行形であり、状況は変わるかもしれないが、少なくとも現時点で「ウクライナからの『避難民』を『難民』として受け入れるつもりはない」ということだろう。
それぐらい、日本での「難民認定」はハードルが高い。2020年のデータだが、「ドイツ・カナダ・フランス・アメリカ・イギリス・日本」の6カ国について言えば、記載した順に難民認定数が多い。5位のイギリスと比較してもその差は圧倒的で、イギリスでは「認定数9108人、認定率47.6%」に対して、日本は「認定数47人、認定率0.5%」という少なさだ。
(データは以下のサイト参照
https://www.refugee.or.jp/refugee/japan_recog/)
僕は、そのような日本の現実を、『東京クルド』『牛久』という2作の映画を観て理解した。これらの映画を観る前は、「日本の難民認定率が異常に低い」ぐらいの知識しかなく、『東京クルド』で「仮釈放」の説明がなされるまで、それがなんなのかも理解できなかった。
『マイスモールランド』を観た人の中には恐らく、「仮釈放」の意味や「父親が刑務所みたいな場所に収監されている理由」がさっぱり理解できないだろう。興味がある方は『東京クルド』『牛久』の記事に詳しく書いたのでそちらを読んでほしい。
『東京クルド』『牛久』というドキュメンタリー映画を観た僕には、『マイスモールランド』で描かれる世界がすべて「日本の現実」であると理解できている。『マイスモールランド』を観た人の中には、「これは『起こりうる可能性』を描いているだけで、こんな酷いことが実際に起こっているはずがない」と考えるかもしれないが、そんなことはない。「仮釈放中は働いてはいけない」のも、「理由もなく入管に拘束される」のも、すべて今の日本でずっと起こっていることなのである。
『マイスモールランド』のストーリーそのものは事実ではないかもしれないが、この映画で描かれているのは、「日本に住む難民の現実を集積させたもの」だ。だから気分的には「事実と呼んでいいもの」である。エンドロールでは、「この物語は、取材を基に構成されたフィクションです」というような表記があったが、同時に、「顔も名前も出せない、日本の住むすべてのクルド人へ」というような表記もあった。日本でクルド人が難民認定された例はほぼないという。
僕は、『東京クルド』『牛久』を観て、自分がなんて恥ずかしい国に住んでいるのかと絶望的な気分になった。そしてこの2つの映画から、「知識」と「現実」を知ったと思う。
そして『マイスモールランド』からは、「感情」を学んだ。ドキュメンタリー映画では、どうしても「感情」を出しきれない部分もあるだろう。『マイスモールランド』は、フィクションの形を借りて、「日本に生きる難民の『感情』」をリアルに描き出していると思う。
『東京クルド』『牛久』もオススメだが、ドキュメンタリー映画はちょっとハードルが高い、という方は、『マイスモールランド』を是非観て欲しい。「自分たちがこんなクソみたいな国に生きているんだ」と多くの人が正しく実感することが、現状の変更に少しでも役立つかもしれないと思いたいからだ。
彼女たちが、「たまたま網からこぼれてしまった人たち」であるなら、「仕方ない」で割り切る余地もある。しかし今の日本には、そもそも「網」がない。ほぼ誰も、「網」に引っかからないまま、苦しい現実を生きざるを得ないのだ。
そんな社会は、やっぱり「間違っている」と思う。
内容に入ろうと思います。
埼玉県川口市に住むクルド人のサーリャは、大学受験を控える高校3年生。反体制的な運動に参加していたとして祖国での立場が危うくなった父が、子どもたちを連れて日本にやってきたのだ。サーリャは小学生の頃に日本にやってきて、学校に馴染むのも苦労したが、努力して日本語を学び、今では日本語を上手く喋れないクルド人たちの手伝いを引き受けるまでになった。妹と弟は日本語しか喋れず、クルド語で会話するのは父とサーリャだけだ。母親は、祖国で既に亡くなっている。
大学も推薦が狙えるラインにいるし、仲の良い友人もいる。家では食事前にクルド語の祈りを捧げるが、サーリャ自身は「クルド人」としてのアイデンティティなどほとんど持っておらず、日本人のように過ごしている。
進学のためにと、父親に内緒でコンビニでアルバイトをしているサーリャは、そこで聡太と出会う。父親にバレないように自転車で東京のコンビニにバイトに来ているサーリャは、聡太とはバイト先でしか会わない関係だが、人生で初めて自分の生い立ちを話せるほど打ち解けることができ、お互いに惹かれていく。
このまますべてが当たり前のように続いていくと考えていた彼らに、「難民申請の不認定」という決定が通知される。与えられていた在留資格が無効となり、一家は「仮釈放」というかなり自由が制限される状況に置かれてしまう。それを機に、推薦の話も頓挫し、コンビニもクビになってしまう。
追い打ちをかけるように、父親が入管に収容されることが決まり……。
というような話です。
映画を観た誰もが、「えっ?じゃあどうすればいいの?」と感じるだろう。難民申請が不認定となり、在留資格を失った者は、働けないし、許可なく県外に出てもいけない。法律的な立場で言えば「不法滞在」に近い状態ということになる。
しかし、父親はまだしも、サーリャを始めとする子どもたちは、基本的に「生活の基盤が日本にしかない」。サーリャはまだクルド人で会話できるが、妹と弟は日本語しか喋れないのだ。
それでどうすればいいというのだろう?
日本国としては、「日本に勝手にやってきたのはあなた方です。どうするかは自分で決めてください」ということなのだろう。しかしそれは、あまりにも酷い通達ではないだろうか?
『マイスモールランド』でも、フィクションであるにも拘わらず、希望ある未来を描けない。日本の難民に対する対応を誠実に守った場合、日本国内で難民は幸せを描くことはできない。国は明確に、「難民は日本に来るな、日本にいる難民は出て行け」というスタンスなのだと思う。
ホントに、信じがたい。
映画の中で描かれる知識については、大体『東京クルド』『牛久』を観ていたので知っていたが、1つ知らなかった驚きの話があった。これは、作品の後半で登場する話で、しかも父親のある行動に直接的に関係する知識なので、触れるとネタバレになってしまう。だからぼやっと書くが、「家族が離れ離れにならなければ認められない状況」という実例が存在するようで、その異常な決定にはちょっと驚かされた。どういう理屈でそれを「良し」と考えたのかまったく理解できないが、あり得ない話すぎて怒りが湧いた。
映画全体としては、とにかくサーリャが様々な現実にぶち当たる苦悩が描かれる。在留資格がないというだけで、少し前まで当たり前にできていたあらゆることが制約される。そしてそのすべてに対して、サーリャが前に出てその現実を受け止めなければならないのだ。
サーリャの様々なセリフが胸に突き刺さるが、「行きたくなくなった」と「もう頑張ってます」は一番キツかった。特に「行きたくなくなった」の方は、そう言いたくはないがそう言うしかない、という限界点における感情という感じがして辛い。
クルド人役を演じた嵐莉菜は、たまたまテレビで番宣的なコーナーを見ている時に、「クルド語が話せないから苦労した」みたいなことを言っていたと思う。演技初出演で初主演だそうだが、「これまでもずっと我慢してきた。でももう限界」というような「抑えた悲しみ」みたいなものをとても上手く表現していたと思う。ちなみに、サーリャの家族として登場する3人は、嵐莉菜の実際の家族だそうだ。確かテレビで、「家族だから出演が決まったとかじゃなく、ちゃんとオーディションを受けて決まった」と言っていた。その事実を映画を観る前から知っていたから、ラーメンを食べるシーンなんかは「本物の家族感」が滲み出ていてとても良かった。
聡太役の奥平大兼は、どっかで見たことある顔だなぁと思いながら思い出せなかったのだが、『MOTHER マザー』に出てた役者だった。彼もまたとても上手いと思う。特に、「普通の女の子だと思っていたバイト先の子が、難民認定が通らず在留資格を失ってかなりキツイ状況にいると理解した男子高生」という感じをすごく上手く出している。他人との距離感がちゃんと今っぽい感じで、それでいて踏み込むべきところでは踏み込んでいくというそのバランスが、ホントに絶妙だったなぁ。正直、奥平大兼の受けの演技が上手かったお陰で、嵐莉菜も上手く見えたという部分はあるような気がする。
とても良い映画だった。そして『マイスモールランド』をきっかけに、『東京クルド』『牛久』も観られてほしいし、日本の「異常な現実」を知る人が一人でも増えて欲しいと思う。
「マイスモールランド」を観に行ってきました
もちろんだが、難民に限らずどんな問題に対しても、「全員を適切に救う」ことは不可能だ。だから、どうしても「網からこぼれてしまう人」は出てきてしまう。それは仕方ないことだと僕も理解しているつもりだ。
しかし、難民の現実はそんなレベルの話ではない。日本における難民の現実は、「大多数は救われ、一部の人が網からこぼれてしまっている」なんてものではなく、「ほとんど全員が網からこぼれている」という常態なのだ。
だから、このような現状を生み出している日本という国には、ちょっと弁解の余地はないと感じる。
ロシアのウクライナ侵攻で、「ウクライナからの避難民を受け入れる」と打ち出している。しかし重要なのは、国が「避難民」という言葉を使っている点だ。「難民として受け入れる」とは言っていないのである。
UNHCRでは、国外に逃れた人を「難民」(英語では「refugee」)、国内で避難した人を「国内避難民」(英語では「Internally Displaced Persons: IDPs」)と使い分けているそうだ。普通に考えれば、ウクライナから日本にやってきた人は「難民」と呼ばれるべきだが、日本政府は「避難民」という呼称を使っている。間違いなく明確な意図があってのことだろう。そしてそれは、「難民として受け入れるつもりはない」という意思表示なのだと思う。
実際、ウクライナからの「避難民」についても、確かテレビのニュースで見た記憶では「期間限定の在留資格」は与えられるが、「難民認定」がなされるわけではないという話だったように思う。この点は現在進行形であり、状況は変わるかもしれないが、少なくとも現時点で「ウクライナからの『避難民』を『難民』として受け入れるつもりはない」ということだろう。
それぐらい、日本での「難民認定」はハードルが高い。2020年のデータだが、「ドイツ・カナダ・フランス・アメリカ・イギリス・日本」の6カ国について言えば、記載した順に難民認定数が多い。5位のイギリスと比較してもその差は圧倒的で、イギリスでは「認定数9108人、認定率47.6%」に対して、日本は「認定数47人、認定率0.5%」という少なさだ。
(データは以下のサイト参照
https://www.refugee.or.jp/refugee/japan_recog/)
僕は、そのような日本の現実を、『東京クルド』『牛久』という2作の映画を観て理解した。これらの映画を観る前は、「日本の難民認定率が異常に低い」ぐらいの知識しかなく、『東京クルド』で「仮釈放」の説明がなされるまで、それがなんなのかも理解できなかった。
『マイスモールランド』を観た人の中には恐らく、「仮釈放」の意味や「父親が刑務所みたいな場所に収監されている理由」がさっぱり理解できないだろう。興味がある方は『東京クルド』『牛久』の記事に詳しく書いたのでそちらを読んでほしい。
『東京クルド』『牛久』というドキュメンタリー映画を観た僕には、『マイスモールランド』で描かれる世界がすべて「日本の現実」であると理解できている。『マイスモールランド』を観た人の中には、「これは『起こりうる可能性』を描いているだけで、こんな酷いことが実際に起こっているはずがない」と考えるかもしれないが、そんなことはない。「仮釈放中は働いてはいけない」のも、「理由もなく入管に拘束される」のも、すべて今の日本でずっと起こっていることなのである。
『マイスモールランド』のストーリーそのものは事実ではないかもしれないが、この映画で描かれているのは、「日本に住む難民の現実を集積させたもの」だ。だから気分的には「事実と呼んでいいもの」である。エンドロールでは、「この物語は、取材を基に構成されたフィクションです」というような表記があったが、同時に、「顔も名前も出せない、日本の住むすべてのクルド人へ」というような表記もあった。日本でクルド人が難民認定された例はほぼないという。
僕は、『東京クルド』『牛久』を観て、自分がなんて恥ずかしい国に住んでいるのかと絶望的な気分になった。そしてこの2つの映画から、「知識」と「現実」を知ったと思う。
そして『マイスモールランド』からは、「感情」を学んだ。ドキュメンタリー映画では、どうしても「感情」を出しきれない部分もあるだろう。『マイスモールランド』は、フィクションの形を借りて、「日本に生きる難民の『感情』」をリアルに描き出していると思う。
『東京クルド』『牛久』もオススメだが、ドキュメンタリー映画はちょっとハードルが高い、という方は、『マイスモールランド』を是非観て欲しい。「自分たちがこんなクソみたいな国に生きているんだ」と多くの人が正しく実感することが、現状の変更に少しでも役立つかもしれないと思いたいからだ。
彼女たちが、「たまたま網からこぼれてしまった人たち」であるなら、「仕方ない」で割り切る余地もある。しかし今の日本には、そもそも「網」がない。ほぼ誰も、「網」に引っかからないまま、苦しい現実を生きざるを得ないのだ。
そんな社会は、やっぱり「間違っている」と思う。
内容に入ろうと思います。
埼玉県川口市に住むクルド人のサーリャは、大学受験を控える高校3年生。反体制的な運動に参加していたとして祖国での立場が危うくなった父が、子どもたちを連れて日本にやってきたのだ。サーリャは小学生の頃に日本にやってきて、学校に馴染むのも苦労したが、努力して日本語を学び、今では日本語を上手く喋れないクルド人たちの手伝いを引き受けるまでになった。妹と弟は日本語しか喋れず、クルド語で会話するのは父とサーリャだけだ。母親は、祖国で既に亡くなっている。
大学も推薦が狙えるラインにいるし、仲の良い友人もいる。家では食事前にクルド語の祈りを捧げるが、サーリャ自身は「クルド人」としてのアイデンティティなどほとんど持っておらず、日本人のように過ごしている。
進学のためにと、父親に内緒でコンビニでアルバイトをしているサーリャは、そこで聡太と出会う。父親にバレないように自転車で東京のコンビニにバイトに来ているサーリャは、聡太とはバイト先でしか会わない関係だが、人生で初めて自分の生い立ちを話せるほど打ち解けることができ、お互いに惹かれていく。
このまますべてが当たり前のように続いていくと考えていた彼らに、「難民申請の不認定」という決定が通知される。与えられていた在留資格が無効となり、一家は「仮釈放」というかなり自由が制限される状況に置かれてしまう。それを機に、推薦の話も頓挫し、コンビニもクビになってしまう。
追い打ちをかけるように、父親が入管に収容されることが決まり……。
というような話です。
映画を観た誰もが、「えっ?じゃあどうすればいいの?」と感じるだろう。難民申請が不認定となり、在留資格を失った者は、働けないし、許可なく県外に出てもいけない。法律的な立場で言えば「不法滞在」に近い状態ということになる。
しかし、父親はまだしも、サーリャを始めとする子どもたちは、基本的に「生活の基盤が日本にしかない」。サーリャはまだクルド人で会話できるが、妹と弟は日本語しか喋れないのだ。
それでどうすればいいというのだろう?
日本国としては、「日本に勝手にやってきたのはあなた方です。どうするかは自分で決めてください」ということなのだろう。しかしそれは、あまりにも酷い通達ではないだろうか?
『マイスモールランド』でも、フィクションであるにも拘わらず、希望ある未来を描けない。日本の難民に対する対応を誠実に守った場合、日本国内で難民は幸せを描くことはできない。国は明確に、「難民は日本に来るな、日本にいる難民は出て行け」というスタンスなのだと思う。
ホントに、信じがたい。
映画の中で描かれる知識については、大体『東京クルド』『牛久』を観ていたので知っていたが、1つ知らなかった驚きの話があった。これは、作品の後半で登場する話で、しかも父親のある行動に直接的に関係する知識なので、触れるとネタバレになってしまう。だからぼやっと書くが、「家族が離れ離れにならなければ認められない状況」という実例が存在するようで、その異常な決定にはちょっと驚かされた。どういう理屈でそれを「良し」と考えたのかまったく理解できないが、あり得ない話すぎて怒りが湧いた。
映画全体としては、とにかくサーリャが様々な現実にぶち当たる苦悩が描かれる。在留資格がないというだけで、少し前まで当たり前にできていたあらゆることが制約される。そしてそのすべてに対して、サーリャが前に出てその現実を受け止めなければならないのだ。
サーリャの様々なセリフが胸に突き刺さるが、「行きたくなくなった」と「もう頑張ってます」は一番キツかった。特に「行きたくなくなった」の方は、そう言いたくはないがそう言うしかない、という限界点における感情という感じがして辛い。
クルド人役を演じた嵐莉菜は、たまたまテレビで番宣的なコーナーを見ている時に、「クルド語が話せないから苦労した」みたいなことを言っていたと思う。演技初出演で初主演だそうだが、「これまでもずっと我慢してきた。でももう限界」というような「抑えた悲しみ」みたいなものをとても上手く表現していたと思う。ちなみに、サーリャの家族として登場する3人は、嵐莉菜の実際の家族だそうだ。確かテレビで、「家族だから出演が決まったとかじゃなく、ちゃんとオーディションを受けて決まった」と言っていた。その事実を映画を観る前から知っていたから、ラーメンを食べるシーンなんかは「本物の家族感」が滲み出ていてとても良かった。
聡太役の奥平大兼は、どっかで見たことある顔だなぁと思いながら思い出せなかったのだが、『MOTHER マザー』に出てた役者だった。彼もまたとても上手いと思う。特に、「普通の女の子だと思っていたバイト先の子が、難民認定が通らず在留資格を失ってかなりキツイ状況にいると理解した男子高生」という感じをすごく上手く出している。他人との距離感がちゃんと今っぽい感じで、それでいて踏み込むべきところでは踏み込んでいくというそのバランスが、ホントに絶妙だったなぁ。正直、奥平大兼の受けの演技が上手かったお陰で、嵐莉菜も上手く見えたという部分はあるような気がする。
とても良い映画だった。そして『マイスモールランド』をきっかけに、『東京クルド』『牛久』も観られてほしいし、日本の「異常な現実」を知る人が一人でも増えて欲しいと思う。
「マイスモールランド」を観に行ってきました
「マイ・ニューヨーク・ダイアリー」を観に行ってきました
僕は別に、やりたいことがあるわけでも、成し遂げたいことがあるわけでもない。昔からずっと「ダルいな」と思いながら毎日を過ごしているし、正直、「さっさと人生終わってくれてもいいんだけどなー」みたいに思っている。
ただ、なんだかんだ世の中の片隅にへばりつくように生きてはいるし、まあしょうがねぇなんとかやっていくしかないか、みたいに考えている。
そんな僕が、「どのみち生きてるんだしなぁ」という思いと共に捨てきれない感覚がある。それは、「せっかくなら、『誰かのためになる存在』でいたいなぁ」というものだ。
しかし、なかなかそれは難しい。
この映画では、「世界中から届く『サリンジャー宛のファンレター』に、『著者はファンレターを読みません』と定型文で返信する」という仕事を任されることになる女性が主人公として描かれる。この映画は、ジョアンナ・ラコフという作家の実体験を綴ったエッセイを基にした映画で、実際にジョアンナという名前で登場する主人公が行っているこの「サリンジャーのファンレターの返信」という仕事は、実際に行われていたものだ。
ただ、「実際にこういう仕事が存在した」ということ以上に、この「ファンレターへの返信」という仕事は、「世の中に存在する『クソ仕事(ブルシット・ジョブ)』」を暗喩しているようにも感じた。
ジョアンナは、「ファンレターへの返信」についてこんな風に指示される。
◯返信は、あらかじめ用意された返答リストの中から選ぶこと(それ以外の文章を書かないこと)
◯字間や空白なども、指定された通りに狂いなくタイプすること(手紙への返信はタイプライターだった)
◯ファンレターは”念のため”すべて目を通すこと
最後の”念のため”は、ジョン・レノンが殺害された「チャップマン事件」が背景にある。逮捕されたチャップマンは、警察が現場に到着するまでサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいた。彼がファンレターを出していたかどうかは分からないが、この事件を機に、「何があるか分からないから」と、ファンレターには必ず目を通すことになったという。
さて、どうだろうか?なかなかの「クソ仕事」ではないだろうか。ジョアンナには、選択の余地がほぼ存在しない。返信の文章は、単なるファンレターだけではなく、講演やチャリティの依頼の手紙など、ありとあらゆる状況に対応できるように選択肢が用意されている。ジョアンナはファンレターを読み、どの定型文を使うべきかを考え、それをひたすらタイプするだけだ。とにかく、徹底して「それだけをやるように」と厳命される。
もちろん、この仕事は「サリンジャーを守ること」の役には立っている。彼は1963年以降ファンレターへの返信を止め、それからはジョアンナが働くエージェントが代理で返信しているのだが、サリンジャーの担当であるマーガレットは、【ジュリーは称賛を聞きたくない】と言い切っている(ちなみにこの映画では、サリンジャーは「ジュリー」と呼ばれている)。
それがサリンジャーの希望に沿うものであるのなら、ジョアンナの仕事は意味がある。しかし、「サリンジャーにとっては意味がある」という感覚で、ジョアンナは割り切れない。そもそも、非常に面白い設定だが(恐らく実際にそうだったのだろうが)、ジョアンナはサリンジャー作品を1冊も読んだことがない。彼女は、会社にはおくびにも出していないが、仲間内には「作家志望」だと伝えている(出版社や出版エージェンシーで働く人間に、「作家志望」は嫌われるそうだ)。というか彼女がニューヨークの出版エージェンシーで働いているのは、「安アパートで生活し、カフェで執筆する」という憧れの生活をしたかったからだ。
そんな彼女がサリンジャーを読んでいない。そのことは、同じく作家志望である年上の彼氏にも驚かれる。
いずれにせよ、彼女は「サリンジャーのファンとしてその仕事に就いた」わけではないため、「サリンジャーの役に立っている」ことで自分のしごとを納得させることができない。
しかしそれ以上に、ジョアンナは、世界中の人々がサリンジャーに対して向ける熱い熱い想いに打たれてしまう。誰もがこれほどの熱量で手紙を書いているのに、それに「クソ文」で返信するなんて、そんなことが許されて良いはずがない、という思いを捨てきれないのだ。
僕もきっと、同じように考えてしまうだろう。仕事として、上司に言われた通りにしなければならないことは理解しながら、「本当にこんなことが許されるのだろうか?」という気持ちはたぶん捨てきれない。その仕事がどれほどキツくても、どれほど理不尽でも、「正しく誰かのためになっている」という実感を持てるのであれば我慢できるかもしれないが、僕もジョアンナと同じく、そういう実感は持てないだろう。だからと言って、ジョアンナのように、上司から「君は一線を超えた」と言われてしまうような行動はきっと取らないだろうと思うけど。
この物語の面白い点は、そんな「サリンジャー宛のファンレターを読んでクソ文で返信する」という仕事が、結果としてジョアンナの人生を変えたという点だ。
この映画は、「サリンジャーのファンレターを読んでいる場面」の演出がなかなか面白いのだが、そんな場面の1つに、ワシントンから帰るバスで恋人が書いた小説を読んでいる場面がある。彼女は、彼氏が書いた小説に言い知れない不満があるのだが、しかしその場面で「本当に嫌なのは?」と問われた彼女は、
【何も書かない私】
と答える。そう、彼女は「作家志望」であり、せっかく執筆のためにニューヨークに住み始めたのに、全然書いていないのだ。
サリンジャー宛のファンレターが、どのようにしてジョアンナを変えたのか、具体的に語られないのだが、それを示唆するかもしれない場面がある。ジョアンナが子どもの頃から好きだった児童文学作家が久々に新作を執筆し、マーガレットと打ち合わせをするのだが、その作家が怒って打ち合わせを途中で止めて帰ってしまった場面について、マーガレットがジョアンナに意見を求める場面だ。
ジョアンナはここで、
【たぶん、作品から何を感じ取ったのか教えてほしかったんだと思います。
彼女にとってそれはとても大事なことです。
私にとっても。】
と答えている。
そして、サリンジャー宛のファンレターはまさにその集積と言っていいだろうし、それらに触れたことで、「自分もこんな風に、人の感情に触れる存在でありたい」と考えたのだろうと思う。
マーガレットの助手として働くジョアンナは、サリンジャー本人からの電話を取り次ぐ機会もあった。サリンジャーは彼女の名前を「スザンナ」と間違えて覚えたままだが、それでも、「極度の人嫌い」「孤高の天才」という世間のイメージとはまったく違う気さくなやり取りを続ける。そして話の流れで「作家志望」だと伝えたジョアンナに対して、「毎日書きなさい」「電話番で1日を終えるな」と真摯にアドバイスをしてくれる。
そんな大作家本人の言葉もまた、彼女の心に火をつけたことだろう。
内容に入ろうと思います。
ちょっとした旅行のつもりでニューヨークを訪れたジョアンナは、作家になりたいという夢を持っていることもあり、恋人と離れ離れになってもニューヨークに住み着く決意をする。ニューヨークに住んでいる昔からの友人宅に居候させてもらい、書店で知り合った年上の作家志望の男性と付き合い始め、彼に連れられてニューヨークの出版人が集まるカフェの仲間入りをした。しばらくそんな生活を楽しんでいたが、やはり長く腰を落ち着けたいと、人材紹介会社へと出向き、出版エージェンシーの仕事を紹介してもらった。
老舗出版エージェンシーで働くことになった彼女は、アガサ・クリスティーやフィッツジェラルドなど名だたる文豪と関わりのある仕事に胸躍る。しかし与えられたのは、サリンジャーのファンレターに返信するクソ仕事だった。
【作家を夢見た自分を決して偽れない】
彼女はファンレターを読み淡々と返信する生活の中でもそういう思いを捨てきれずにいるが、しかし一方で、
【現実と向き合おう。私は助手だ】
と自分を納得させようともしていた。
そんなある日、会社がどうもざわついている。何があったのかと聞くと、サリンジャーが名も知れぬ小さな出版社から30年ぶりに本を出すという、どちらかと言えば喜ばしいとは言えないニュースにバタバタしていた。通常出版エージェンシーは「作家に対して道を開くこと」が仕事だが、サリンジャーに関してはまったく逆で、「いかにサリンジャーを外部から守るか」が問題となる。そんなサリンジャーが、自分の判断で出版社と話を進めているのだから、ややこしいことこの上ない。
一方、ジョアンナはプライベートでもバタバタしている。やんわりと居候先から追い出されたジョアンナは恋人と同棲を始めるが、細々した部分で違和感が募ってしまう。
「作家志望」と言いながらまったく執筆出来ていない自分に対する苛立ちも募っていくが……。
というような話です。
多少の脚色はあるだろうけど、物語の重要な設定は事実に基づいているんだろうし、「これが実話なのか」と思うとなんだか素敵な世界だと感じる。
ただその素敵さは、「ジョアンナを取り囲む『素敵ではない環境』」があるからこそ浮き上がると言ってもいいだろう。
ジョアンナを取り巻く環境を構成する重要な人物は、彼女の上司であるマーガレットと、彼氏のドンだ。そしてこの2人が、なんとも言えず苛立たしい存在なのである。
マーガレットは全体的に「旧来の人間」として描かれる。舞台は1995年であり、「Windows95」が発売された年だが、マーガレットは「コンピューターは導入しないことに決めている」「コンピューターはかえって仕事を増やす」と頑なだ。また、そういう時代だったのだろうが、オフィスの打ち合わせ中でもスパスパ煙草を吸っている。最初の内はジョアンナを「仕事の駒」ぐらいにしか見ておらず、挨拶をしても無視するような振る舞いをする。
また、決してマーガレットだけではないが、「老舗出版エージェンシー」ゆえの傲慢さみたいなものも随所に現れる。日本には出版エージェンシーみたいなものはあまり根付いていないが、もしあったとすれば、この映画で描かれる「老舗出版エージェンシー」は、「夏目漱石、太宰治、江戸川乱歩などを見出し、出版を後押しした存在」みたいなものだと思う。ある意味で「アメリカ文学」の礎を築いたような存在なのだろうし、傲慢さが染み付いているのも仕方ないかもしれないが、やはりなかなか受け入れがたい。
そんな世界にあってジョアンナは、出版の世界の理屈に染まらない。彼女の行動すべてが正当化されるわけではないが、「老舗出版エージェンシー」の理屈からはみ出すような行動こそが、ジョアンナ自身の良さであるように思うし、そういう行動の積み重ねによって新しい世界への道を切り開いていったようにも思う。
また、彼氏のドンは、「モテるのも分かるけど、嫌われるのも分かる」みたいな存在だ。どことなく「ヤバい」香りも漂わせる「魅力」もありつつ、「些細」という言葉では割り切れない「受け入れがたさ」も見え隠れする。そんな人と関わることで、「自分が本当に求めているもの」が何かに彼女は気づいただろうし、こちらもまた新たな一歩への後押しになったことだろう。
原題は『My Salinger Year』であり、やはり国民的作家であるサリンジャーの名前が入っていて欧米ではこのタイトルが相応しいだろう。そして、邦題を『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』と変えたのも良かったと思う。この映画は「サリンジャー好き」でなくても楽しめるし、「ニューヨーク・ダイアリー」というタイトルも映画全体の雰囲気に合っていると感じる。
なかなか良い映画だったと思う。
「マイ・ニューヨーク・ダイアリー」を観に行ってきました
ただ、なんだかんだ世の中の片隅にへばりつくように生きてはいるし、まあしょうがねぇなんとかやっていくしかないか、みたいに考えている。
そんな僕が、「どのみち生きてるんだしなぁ」という思いと共に捨てきれない感覚がある。それは、「せっかくなら、『誰かのためになる存在』でいたいなぁ」というものだ。
しかし、なかなかそれは難しい。
この映画では、「世界中から届く『サリンジャー宛のファンレター』に、『著者はファンレターを読みません』と定型文で返信する」という仕事を任されることになる女性が主人公として描かれる。この映画は、ジョアンナ・ラコフという作家の実体験を綴ったエッセイを基にした映画で、実際にジョアンナという名前で登場する主人公が行っているこの「サリンジャーのファンレターの返信」という仕事は、実際に行われていたものだ。
ただ、「実際にこういう仕事が存在した」ということ以上に、この「ファンレターへの返信」という仕事は、「世の中に存在する『クソ仕事(ブルシット・ジョブ)』」を暗喩しているようにも感じた。
ジョアンナは、「ファンレターへの返信」についてこんな風に指示される。
◯返信は、あらかじめ用意された返答リストの中から選ぶこと(それ以外の文章を書かないこと)
◯字間や空白なども、指定された通りに狂いなくタイプすること(手紙への返信はタイプライターだった)
◯ファンレターは”念のため”すべて目を通すこと
最後の”念のため”は、ジョン・レノンが殺害された「チャップマン事件」が背景にある。逮捕されたチャップマンは、警察が現場に到着するまでサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいた。彼がファンレターを出していたかどうかは分からないが、この事件を機に、「何があるか分からないから」と、ファンレターには必ず目を通すことになったという。
さて、どうだろうか?なかなかの「クソ仕事」ではないだろうか。ジョアンナには、選択の余地がほぼ存在しない。返信の文章は、単なるファンレターだけではなく、講演やチャリティの依頼の手紙など、ありとあらゆる状況に対応できるように選択肢が用意されている。ジョアンナはファンレターを読み、どの定型文を使うべきかを考え、それをひたすらタイプするだけだ。とにかく、徹底して「それだけをやるように」と厳命される。
もちろん、この仕事は「サリンジャーを守ること」の役には立っている。彼は1963年以降ファンレターへの返信を止め、それからはジョアンナが働くエージェントが代理で返信しているのだが、サリンジャーの担当であるマーガレットは、【ジュリーは称賛を聞きたくない】と言い切っている(ちなみにこの映画では、サリンジャーは「ジュリー」と呼ばれている)。
それがサリンジャーの希望に沿うものであるのなら、ジョアンナの仕事は意味がある。しかし、「サリンジャーにとっては意味がある」という感覚で、ジョアンナは割り切れない。そもそも、非常に面白い設定だが(恐らく実際にそうだったのだろうが)、ジョアンナはサリンジャー作品を1冊も読んだことがない。彼女は、会社にはおくびにも出していないが、仲間内には「作家志望」だと伝えている(出版社や出版エージェンシーで働く人間に、「作家志望」は嫌われるそうだ)。というか彼女がニューヨークの出版エージェンシーで働いているのは、「安アパートで生活し、カフェで執筆する」という憧れの生活をしたかったからだ。
そんな彼女がサリンジャーを読んでいない。そのことは、同じく作家志望である年上の彼氏にも驚かれる。
いずれにせよ、彼女は「サリンジャーのファンとしてその仕事に就いた」わけではないため、「サリンジャーの役に立っている」ことで自分のしごとを納得させることができない。
しかしそれ以上に、ジョアンナは、世界中の人々がサリンジャーに対して向ける熱い熱い想いに打たれてしまう。誰もがこれほどの熱量で手紙を書いているのに、それに「クソ文」で返信するなんて、そんなことが許されて良いはずがない、という思いを捨てきれないのだ。
僕もきっと、同じように考えてしまうだろう。仕事として、上司に言われた通りにしなければならないことは理解しながら、「本当にこんなことが許されるのだろうか?」という気持ちはたぶん捨てきれない。その仕事がどれほどキツくても、どれほど理不尽でも、「正しく誰かのためになっている」という実感を持てるのであれば我慢できるかもしれないが、僕もジョアンナと同じく、そういう実感は持てないだろう。だからと言って、ジョアンナのように、上司から「君は一線を超えた」と言われてしまうような行動はきっと取らないだろうと思うけど。
この物語の面白い点は、そんな「サリンジャー宛のファンレターを読んでクソ文で返信する」という仕事が、結果としてジョアンナの人生を変えたという点だ。
この映画は、「サリンジャーのファンレターを読んでいる場面」の演出がなかなか面白いのだが、そんな場面の1つに、ワシントンから帰るバスで恋人が書いた小説を読んでいる場面がある。彼女は、彼氏が書いた小説に言い知れない不満があるのだが、しかしその場面で「本当に嫌なのは?」と問われた彼女は、
【何も書かない私】
と答える。そう、彼女は「作家志望」であり、せっかく執筆のためにニューヨークに住み始めたのに、全然書いていないのだ。
サリンジャー宛のファンレターが、どのようにしてジョアンナを変えたのか、具体的に語られないのだが、それを示唆するかもしれない場面がある。ジョアンナが子どもの頃から好きだった児童文学作家が久々に新作を執筆し、マーガレットと打ち合わせをするのだが、その作家が怒って打ち合わせを途中で止めて帰ってしまった場面について、マーガレットがジョアンナに意見を求める場面だ。
ジョアンナはここで、
【たぶん、作品から何を感じ取ったのか教えてほしかったんだと思います。
彼女にとってそれはとても大事なことです。
私にとっても。】
と答えている。
そして、サリンジャー宛のファンレターはまさにその集積と言っていいだろうし、それらに触れたことで、「自分もこんな風に、人の感情に触れる存在でありたい」と考えたのだろうと思う。
マーガレットの助手として働くジョアンナは、サリンジャー本人からの電話を取り次ぐ機会もあった。サリンジャーは彼女の名前を「スザンナ」と間違えて覚えたままだが、それでも、「極度の人嫌い」「孤高の天才」という世間のイメージとはまったく違う気さくなやり取りを続ける。そして話の流れで「作家志望」だと伝えたジョアンナに対して、「毎日書きなさい」「電話番で1日を終えるな」と真摯にアドバイスをしてくれる。
そんな大作家本人の言葉もまた、彼女の心に火をつけたことだろう。
内容に入ろうと思います。
ちょっとした旅行のつもりでニューヨークを訪れたジョアンナは、作家になりたいという夢を持っていることもあり、恋人と離れ離れになってもニューヨークに住み着く決意をする。ニューヨークに住んでいる昔からの友人宅に居候させてもらい、書店で知り合った年上の作家志望の男性と付き合い始め、彼に連れられてニューヨークの出版人が集まるカフェの仲間入りをした。しばらくそんな生活を楽しんでいたが、やはり長く腰を落ち着けたいと、人材紹介会社へと出向き、出版エージェンシーの仕事を紹介してもらった。
老舗出版エージェンシーで働くことになった彼女は、アガサ・クリスティーやフィッツジェラルドなど名だたる文豪と関わりのある仕事に胸躍る。しかし与えられたのは、サリンジャーのファンレターに返信するクソ仕事だった。
【作家を夢見た自分を決して偽れない】
彼女はファンレターを読み淡々と返信する生活の中でもそういう思いを捨てきれずにいるが、しかし一方で、
【現実と向き合おう。私は助手だ】
と自分を納得させようともしていた。
そんなある日、会社がどうもざわついている。何があったのかと聞くと、サリンジャーが名も知れぬ小さな出版社から30年ぶりに本を出すという、どちらかと言えば喜ばしいとは言えないニュースにバタバタしていた。通常出版エージェンシーは「作家に対して道を開くこと」が仕事だが、サリンジャーに関してはまったく逆で、「いかにサリンジャーを外部から守るか」が問題となる。そんなサリンジャーが、自分の判断で出版社と話を進めているのだから、ややこしいことこの上ない。
一方、ジョアンナはプライベートでもバタバタしている。やんわりと居候先から追い出されたジョアンナは恋人と同棲を始めるが、細々した部分で違和感が募ってしまう。
「作家志望」と言いながらまったく執筆出来ていない自分に対する苛立ちも募っていくが……。
というような話です。
多少の脚色はあるだろうけど、物語の重要な設定は事実に基づいているんだろうし、「これが実話なのか」と思うとなんだか素敵な世界だと感じる。
ただその素敵さは、「ジョアンナを取り囲む『素敵ではない環境』」があるからこそ浮き上がると言ってもいいだろう。
ジョアンナを取り巻く環境を構成する重要な人物は、彼女の上司であるマーガレットと、彼氏のドンだ。そしてこの2人が、なんとも言えず苛立たしい存在なのである。
マーガレットは全体的に「旧来の人間」として描かれる。舞台は1995年であり、「Windows95」が発売された年だが、マーガレットは「コンピューターは導入しないことに決めている」「コンピューターはかえって仕事を増やす」と頑なだ。また、そういう時代だったのだろうが、オフィスの打ち合わせ中でもスパスパ煙草を吸っている。最初の内はジョアンナを「仕事の駒」ぐらいにしか見ておらず、挨拶をしても無視するような振る舞いをする。
また、決してマーガレットだけではないが、「老舗出版エージェンシー」ゆえの傲慢さみたいなものも随所に現れる。日本には出版エージェンシーみたいなものはあまり根付いていないが、もしあったとすれば、この映画で描かれる「老舗出版エージェンシー」は、「夏目漱石、太宰治、江戸川乱歩などを見出し、出版を後押しした存在」みたいなものだと思う。ある意味で「アメリカ文学」の礎を築いたような存在なのだろうし、傲慢さが染み付いているのも仕方ないかもしれないが、やはりなかなか受け入れがたい。
そんな世界にあってジョアンナは、出版の世界の理屈に染まらない。彼女の行動すべてが正当化されるわけではないが、「老舗出版エージェンシー」の理屈からはみ出すような行動こそが、ジョアンナ自身の良さであるように思うし、そういう行動の積み重ねによって新しい世界への道を切り開いていったようにも思う。
また、彼氏のドンは、「モテるのも分かるけど、嫌われるのも分かる」みたいな存在だ。どことなく「ヤバい」香りも漂わせる「魅力」もありつつ、「些細」という言葉では割り切れない「受け入れがたさ」も見え隠れする。そんな人と関わることで、「自分が本当に求めているもの」が何かに彼女は気づいただろうし、こちらもまた新たな一歩への後押しになったことだろう。
原題は『My Salinger Year』であり、やはり国民的作家であるサリンジャーの名前が入っていて欧米ではこのタイトルが相応しいだろう。そして、邦題を『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』と変えたのも良かったと思う。この映画は「サリンジャー好き」でなくても楽しめるし、「ニューヨーク・ダイアリー」というタイトルも映画全体の雰囲気に合っていると感じる。
なかなか良い映画だったと思う。
「マイ・ニューヨーク・ダイアリー」を観に行ってきました
「ZAPPA」を観に行ってきました
「フランク・ザッパ」という固有名詞は知っていた。たぶん人名なんだろうな、とも。
映画を観る前に、「フランク・ザッパ」がミュージシャンなのだと知った。そんなことさえ知らなかった。
映画を観終えた今、「フランク・ザッパ」はミュージシャンじゃないのだと理解した。
彼は「作曲家」だ。
この映画は、フランク・ザッパの過去のインタビュー映像や周囲の人間の証言などを組み合わせて作られているが、フランク・ザッパが繰り返しこんなようなことを言っていたのが印象的だった。
【自分が作った曲を“聴く”にはバンドを組むしかなかった】
【(「マザーズ」という自身のバンドを解散したことについての証言)私がやりたいのは、発言することと、作った音楽を聴くことだ】
【俺の願いは単純だ。作った曲全てのいい演奏といい録音をする、そしてそれを家で聴く。聴きたい人がいたらすばらしい、簡単に聞こえるがすごく難しい】
【リハ2回でお願いしたいというオーケストラもある。リハ2回なんかじゃ、とても完璧な演奏など望めない。間違った演奏をするくらいなら、しない方がマシだ】
このような発言から、「フランク・ザッパが何を望んでいたのか」が理解できるだろう。彼は、音楽の世界で有名になることやお金を稼ぐこと、あるいは自身が最高の演奏を実現することや、自分の音楽で人を感動させることにさえ興味がなかった。何よりも、「自分の頭の中で鳴っている曲を、完璧な形で実際に聴きたい」という動機のみで邁進し続けたのだ。
そのことは周囲の人間も理解していたようだ。
【冷たい印象に感じられることもあったけど、何よりも「作品を作ることだけ」にすべてを懸けていたんだと思う】
【少なくとも8時間、時に12時間も練習した。クリスマスも感謝祭もお構いなしだ】
【主流の音楽でトップに立ちながら、「こんなのクソだ」って言うんだからね】
【(周囲の人間の)力不足と限界ゆえに、頭の中の再現ができずにいることに悩んでいた】
あるいは、こんな言い方をする者もいた。
【フランクは、ヒットするのを恐れていた。
ヒット曲なんかいくらでも作れたはずだ。でも、自分でダメにしている。僕にはまったく理解できないよ】
【ヒット曲を書くことにまったく興味はなかった】
僕はたぶん、フランク・ザッパの曲を聴いたことがない(あっても、それがフランク・ザッパの曲だとは認識していない)と思う。僕はそもそも音楽についてまったく詳しくないが、それでも、ビートルズやクイーンの曲は、聴けば分かる。おそらく、フランク・ザッパもそれぐらいのレベルの人だと思うのだが、それでも、「フランク・ザッパの曲」だとパッと思い浮かぶ曲はないし、きっと聴いても分からない。それは彼自身が、そういう方向性をまったく狙っていなかったからなのだ。それなのに、コアな層にだけでなく、大衆にも知られる存在になっていることには驚かされる。
そもそも彼は、家が貧乏だったこと、そして家族に音楽好きがいなかったこともあり、15歳くらいまで音楽に触れたことがなかったそうだ。13歳ぐらいまでは化学に興味があり、6歳の時に爆弾の作り方を覚え、父親の仕事の都合で家に置かれていたガスマスクをおもちゃにして遊んでいたらしい。
そんな彼が音楽の道を志したのは、あるレコード店の店主が書いた雑誌の記事だったという。その店主は、「どんなクソみたいなレコードでも売ることができると豪語していた」らしく、そこで紹介されていたのがヴァレーズの『イオニザシオン』だった。さっそくそのレコードを買って聴いてみると、
【瞬時に好きにならないのはどうかしている】
というほど打ちのめされ、作曲を始めたのだそうだ。『イオニザシオン』について映画ではそこまで詳しく触れられていなかったが、ネットで調べてみると、「騒音主義」と呼ばれるジャンルの頂点といえる作品だそうで、ある種「美しさ」の対極を行くような音楽らしい。
そんなきっかけで作曲を始めたので、音楽的な知識を誰かから学ぶことなく独学で作曲を行った。映画の中でフランク・ザッパを「作曲の天才」と評する人物が何人か出てくる。その内の1人は、後にフランク・ザッパが作曲したクラシック曲を演奏した人物だが、彼は「独学だとは驚異的だ」と言っていた。ちなみにフランク・ザッパは、作曲を始めた当初クラシック曲を書いていたそうで、ロックの作曲を始めたのは20代後半からだそうだ。フランク・ザッパが結成したバンド「マザーズ」は、ホーン奏者がいたり、クラシック曲を演奏したりと、当時の常識から大分外れていた(現代の常識とも外れていると思うが)。
もちろん、最初から音楽で食べていけたわけではなく、イラストカードを作る会社でイラストを描くなどしていた。そんな彼の「音楽で食べていくための心得」が非常に面白い。晩年、何かの講演会に登壇しているらしき映像の中で、対談相手から、
【あなたの考えでは、音楽学校の生徒たちは、「死んだ教授」から「死んだ音楽」を「死んだ言語」で学んでいる、ということなんですよね?】
と聞かれ「はい」と答えた上で、さらにこう続けている。
【音楽で食べていこうという人には、不動産免許を取るように勧めています。自分の作曲をしたいなら、他で稼ぐ必要がある】
この考え方もとても面白い。彼は【今やっている音楽では稼げない】と理解している。というか、「稼げない音楽であることに意味がある」みたいなニュアンスではないかと思う。公式HPのトップページには、「売れたものが優れている、という考え方はくだらない」と書かれている(たぶんこの言葉は、映画には出てこなかったと思う)。そして、その信念を逆説的な形で証明するために、「売れないが優れていると評価されるもの」を作ろうとしていたのではないかと思うのだ。だからこそ彼にとって「売れないこと」はとても重要だった。
こういう点も、「フランク・ザッパはミュージシャンではない」という感覚を後押しするだろう。ミュージシャンであれば、望む形は様々だが、やはり「多くの人に聴いてもらいたい」と思うだろうし、その分かりやすい手段が「売れること」だと考えるだろう。しかし作曲家である彼は、「誰かに聴いてもらうこと」よりも「自分が聴いて満足したい」という欲求の方が強い。だからこそ、普通ではない特異な存在としてあり続けたのだろうと思う。
詳しい経緯を理解できたわけではないが、彼は所属していたレコード会社と喧嘩別れするような形で独立し、自身のオリジナルレーベルを立ち上げた。現在でもアーティスト個人によるオリジナルレーベルはそんなに多くない気がするが(SNSやサブスクの登場でまた状況が変わったかもしれないが)、当時としてもかなり画期的だったそうだ。フランク・ザッパは、音楽的にもお金的にも、完全に独立した初めてのアーティストになった。
そして、恐らくそのことが背景にあるのだろう、多くのミュージシャンが沈黙を貫いたある問題に対して、フランク・ザッパは音楽業界でただ一人気炎を上げることとなった。
アメリカで、音楽の歌詞の中に教育に悪いものも多くあるので、映画のように格付け制度を導入すべきだという議論が持ち上がった。国の偉い人の奥さんも運動に参加していたこともあり、大手レコード会社に所属するようなアーティストは個人としての発言が出来なかったのではないか(と勝手に想像する)。しかし、そんなこととは無関係になんでも発言できるフランク・ザッパは、自身の「それは検閲の臭いがする」という違和感をベースに、たった1人闘いを挑んでいく。
フランク・ザッパが言うように、【誰にだって沈黙する権利はある】と分かっているが、それでも、フランク・ザッパ以外の人が誰も立ち上がらなかった、という状況になんとなく残念な気持ちになってしまった。そして、たった1人立ち上がったフランク・ザッパは見事だったと思う。
また、この映画の冒頭シーンは、ビロード革命を経て民主化したチェコスロバキアで3年ぶりにギターを弾いたライブ映像から始まるのだが、後半の方で彼が「チェコスロバキアの通商貿易担当に就任した」という話が出てきて、その幅の広さに驚かされた。なんとチェコスロバキアはアメリカから、「今後もアメリカからの支援を得たければ、フランク・ザッパを排除しろ」と言われたという。フランク・ザッパがどれだけ権威から毛嫌いされていたかが分かるエピソードだろう。
1993年に54歳で亡くなったフランク・ザッパは、生前に62枚のアルバムを発表したが、死後に53枚も発表しているという。彼の自宅には、自身が作曲した曲のあらゆる情報が保管された倉庫があり、恐らくそこからピックアップされたものなのだろう。フランク・ザッパを知る人物は、「彼は常に作曲していた」とその特異さを語っていた。恐らくまだ発表されていない曲が山ほどあるのだろう。
1995年にはロックの殿堂入り、1997年にはグラミー賞特別功労賞・生涯業績賞を受賞している。僕には音楽的なことは分からないが、その生き様・考え方・思想はとても好きだ。もし自分が何者かになれるのであれば、フランク・ザッパのようになりたいものだとも思わされた。誰かがフランク・ザッパについて、
【自分が生きたいように生きられないのであれば、生きていても仕方ないと考える人物だった】
というようなことを言っていたが、僕にもその感覚はある。フランク・ザッパほどその考えを強く貫くことはできないが、可能な限りそんなスタンスを持ち続けていたいものだと思う。
「ZAPPA」を観に行ってきました
映画を観る前に、「フランク・ザッパ」がミュージシャンなのだと知った。そんなことさえ知らなかった。
映画を観終えた今、「フランク・ザッパ」はミュージシャンじゃないのだと理解した。
彼は「作曲家」だ。
この映画は、フランク・ザッパの過去のインタビュー映像や周囲の人間の証言などを組み合わせて作られているが、フランク・ザッパが繰り返しこんなようなことを言っていたのが印象的だった。
【自分が作った曲を“聴く”にはバンドを組むしかなかった】
【(「マザーズ」という自身のバンドを解散したことについての証言)私がやりたいのは、発言することと、作った音楽を聴くことだ】
【俺の願いは単純だ。作った曲全てのいい演奏といい録音をする、そしてそれを家で聴く。聴きたい人がいたらすばらしい、簡単に聞こえるがすごく難しい】
【リハ2回でお願いしたいというオーケストラもある。リハ2回なんかじゃ、とても完璧な演奏など望めない。間違った演奏をするくらいなら、しない方がマシだ】
このような発言から、「フランク・ザッパが何を望んでいたのか」が理解できるだろう。彼は、音楽の世界で有名になることやお金を稼ぐこと、あるいは自身が最高の演奏を実現することや、自分の音楽で人を感動させることにさえ興味がなかった。何よりも、「自分の頭の中で鳴っている曲を、完璧な形で実際に聴きたい」という動機のみで邁進し続けたのだ。
そのことは周囲の人間も理解していたようだ。
【冷たい印象に感じられることもあったけど、何よりも「作品を作ることだけ」にすべてを懸けていたんだと思う】
【少なくとも8時間、時に12時間も練習した。クリスマスも感謝祭もお構いなしだ】
【主流の音楽でトップに立ちながら、「こんなのクソだ」って言うんだからね】
【(周囲の人間の)力不足と限界ゆえに、頭の中の再現ができずにいることに悩んでいた】
あるいは、こんな言い方をする者もいた。
【フランクは、ヒットするのを恐れていた。
ヒット曲なんかいくらでも作れたはずだ。でも、自分でダメにしている。僕にはまったく理解できないよ】
【ヒット曲を書くことにまったく興味はなかった】
僕はたぶん、フランク・ザッパの曲を聴いたことがない(あっても、それがフランク・ザッパの曲だとは認識していない)と思う。僕はそもそも音楽についてまったく詳しくないが、それでも、ビートルズやクイーンの曲は、聴けば分かる。おそらく、フランク・ザッパもそれぐらいのレベルの人だと思うのだが、それでも、「フランク・ザッパの曲」だとパッと思い浮かぶ曲はないし、きっと聴いても分からない。それは彼自身が、そういう方向性をまったく狙っていなかったからなのだ。それなのに、コアな層にだけでなく、大衆にも知られる存在になっていることには驚かされる。
そもそも彼は、家が貧乏だったこと、そして家族に音楽好きがいなかったこともあり、15歳くらいまで音楽に触れたことがなかったそうだ。13歳ぐらいまでは化学に興味があり、6歳の時に爆弾の作り方を覚え、父親の仕事の都合で家に置かれていたガスマスクをおもちゃにして遊んでいたらしい。
そんな彼が音楽の道を志したのは、あるレコード店の店主が書いた雑誌の記事だったという。その店主は、「どんなクソみたいなレコードでも売ることができると豪語していた」らしく、そこで紹介されていたのがヴァレーズの『イオニザシオン』だった。さっそくそのレコードを買って聴いてみると、
【瞬時に好きにならないのはどうかしている】
というほど打ちのめされ、作曲を始めたのだそうだ。『イオニザシオン』について映画ではそこまで詳しく触れられていなかったが、ネットで調べてみると、「騒音主義」と呼ばれるジャンルの頂点といえる作品だそうで、ある種「美しさ」の対極を行くような音楽らしい。
そんなきっかけで作曲を始めたので、音楽的な知識を誰かから学ぶことなく独学で作曲を行った。映画の中でフランク・ザッパを「作曲の天才」と評する人物が何人か出てくる。その内の1人は、後にフランク・ザッパが作曲したクラシック曲を演奏した人物だが、彼は「独学だとは驚異的だ」と言っていた。ちなみにフランク・ザッパは、作曲を始めた当初クラシック曲を書いていたそうで、ロックの作曲を始めたのは20代後半からだそうだ。フランク・ザッパが結成したバンド「マザーズ」は、ホーン奏者がいたり、クラシック曲を演奏したりと、当時の常識から大分外れていた(現代の常識とも外れていると思うが)。
もちろん、最初から音楽で食べていけたわけではなく、イラストカードを作る会社でイラストを描くなどしていた。そんな彼の「音楽で食べていくための心得」が非常に面白い。晩年、何かの講演会に登壇しているらしき映像の中で、対談相手から、
【あなたの考えでは、音楽学校の生徒たちは、「死んだ教授」から「死んだ音楽」を「死んだ言語」で学んでいる、ということなんですよね?】
と聞かれ「はい」と答えた上で、さらにこう続けている。
【音楽で食べていこうという人には、不動産免許を取るように勧めています。自分の作曲をしたいなら、他で稼ぐ必要がある】
この考え方もとても面白い。彼は【今やっている音楽では稼げない】と理解している。というか、「稼げない音楽であることに意味がある」みたいなニュアンスではないかと思う。公式HPのトップページには、「売れたものが優れている、という考え方はくだらない」と書かれている(たぶんこの言葉は、映画には出てこなかったと思う)。そして、その信念を逆説的な形で証明するために、「売れないが優れていると評価されるもの」を作ろうとしていたのではないかと思うのだ。だからこそ彼にとって「売れないこと」はとても重要だった。
こういう点も、「フランク・ザッパはミュージシャンではない」という感覚を後押しするだろう。ミュージシャンであれば、望む形は様々だが、やはり「多くの人に聴いてもらいたい」と思うだろうし、その分かりやすい手段が「売れること」だと考えるだろう。しかし作曲家である彼は、「誰かに聴いてもらうこと」よりも「自分が聴いて満足したい」という欲求の方が強い。だからこそ、普通ではない特異な存在としてあり続けたのだろうと思う。
詳しい経緯を理解できたわけではないが、彼は所属していたレコード会社と喧嘩別れするような形で独立し、自身のオリジナルレーベルを立ち上げた。現在でもアーティスト個人によるオリジナルレーベルはそんなに多くない気がするが(SNSやサブスクの登場でまた状況が変わったかもしれないが)、当時としてもかなり画期的だったそうだ。フランク・ザッパは、音楽的にもお金的にも、完全に独立した初めてのアーティストになった。
そして、恐らくそのことが背景にあるのだろう、多くのミュージシャンが沈黙を貫いたある問題に対して、フランク・ザッパは音楽業界でただ一人気炎を上げることとなった。
アメリカで、音楽の歌詞の中に教育に悪いものも多くあるので、映画のように格付け制度を導入すべきだという議論が持ち上がった。国の偉い人の奥さんも運動に参加していたこともあり、大手レコード会社に所属するようなアーティストは個人としての発言が出来なかったのではないか(と勝手に想像する)。しかし、そんなこととは無関係になんでも発言できるフランク・ザッパは、自身の「それは検閲の臭いがする」という違和感をベースに、たった1人闘いを挑んでいく。
フランク・ザッパが言うように、【誰にだって沈黙する権利はある】と分かっているが、それでも、フランク・ザッパ以外の人が誰も立ち上がらなかった、という状況になんとなく残念な気持ちになってしまった。そして、たった1人立ち上がったフランク・ザッパは見事だったと思う。
また、この映画の冒頭シーンは、ビロード革命を経て民主化したチェコスロバキアで3年ぶりにギターを弾いたライブ映像から始まるのだが、後半の方で彼が「チェコスロバキアの通商貿易担当に就任した」という話が出てきて、その幅の広さに驚かされた。なんとチェコスロバキアはアメリカから、「今後もアメリカからの支援を得たければ、フランク・ザッパを排除しろ」と言われたという。フランク・ザッパがどれだけ権威から毛嫌いされていたかが分かるエピソードだろう。
1993年に54歳で亡くなったフランク・ザッパは、生前に62枚のアルバムを発表したが、死後に53枚も発表しているという。彼の自宅には、自身が作曲した曲のあらゆる情報が保管された倉庫があり、恐らくそこからピックアップされたものなのだろう。フランク・ザッパを知る人物は、「彼は常に作曲していた」とその特異さを語っていた。恐らくまだ発表されていない曲が山ほどあるのだろう。
1995年にはロックの殿堂入り、1997年にはグラミー賞特別功労賞・生涯業績賞を受賞している。僕には音楽的なことは分からないが、その生き様・考え方・思想はとても好きだ。もし自分が何者かになれるのであれば、フランク・ザッパのようになりたいものだとも思わされた。誰かがフランク・ザッパについて、
【自分が生きたいように生きられないのであれば、生きていても仕方ないと考える人物だった】
というようなことを言っていたが、僕にもその感覚はある。フランク・ザッパほどその考えを強く貫くことはできないが、可能な限りそんなスタンスを持ち続けていたいものだと思う。
「ZAPPA」を観に行ってきました
「アネット」を観に行ってきました
うーむ、この映画は良いんだろうか?良いと感じる人がいるなら別にそれはいいんだけど、なんともなんともなんともよく分からなかったなぁ。
そもそも「ミュージカル映画」が不得意で、どうしても「なんでこの人たちは歌うのか?」と思ってしまう。この映画の場合、ほぼすべてのセリフが「歌」で表現されていて、「突然歌う」というか「ずっと歌ってる」という感じなのだけど、やっぱりどうしても「歌う必然性あるん?」と感じてしまった。
まあ、とにかく「ミュージカル映画」が向いてないのだろう。
ストーリーはほぼ存在しないと言っていい。動詞で表現するなら、「恋に落ちる」「結婚する」「子どもが生まれる」「亀裂が入る」と来て、後半はちょっとサスペンス的な要素も入る、という感じ。
ラスト、色々あった後、あの狭い空間での2人のやり取りはなかなか良かった。あの場面だけは、客観的に「かなり現実味に欠ける」と思うので、逆に「歌で表現すること」が自然に感じられた、という側面もある。他の場面では「歌うこと」が不自然に感じられるが、ラストの場面だけは「そもそもの状況」が不自然なので、「歌うこと」がその不自然さをある種紛らわしている感じもする。
元々「観ようかどうしようか」という当落線上の映画で、他に観る映画がなくなったタイミングだったから観たのだけど、やっぱり、観ないという選択もアリだったかなぁ、という気がする。
「アネット」を観に行ってきました
そもそも「ミュージカル映画」が不得意で、どうしても「なんでこの人たちは歌うのか?」と思ってしまう。この映画の場合、ほぼすべてのセリフが「歌」で表現されていて、「突然歌う」というか「ずっと歌ってる」という感じなのだけど、やっぱりどうしても「歌う必然性あるん?」と感じてしまった。
まあ、とにかく「ミュージカル映画」が向いてないのだろう。
ストーリーはほぼ存在しないと言っていい。動詞で表現するなら、「恋に落ちる」「結婚する」「子どもが生まれる」「亀裂が入る」と来て、後半はちょっとサスペンス的な要素も入る、という感じ。
ラスト、色々あった後、あの狭い空間での2人のやり取りはなかなか良かった。あの場面だけは、客観的に「かなり現実味に欠ける」と思うので、逆に「歌で表現すること」が自然に感じられた、という側面もある。他の場面では「歌うこと」が不自然に感じられるが、ラストの場面だけは「そもそもの状況」が不自然なので、「歌うこと」がその不自然さをある種紛らわしている感じもする。
元々「観ようかどうしようか」という当落線上の映画で、他に観る映画がなくなったタイミングだったから観たのだけど、やっぱり、観ないという選択もアリだったかなぁ、という気がする。
「アネット」を観に行ってきました
「アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ 監督〈自己検閲〉版」を観に行ってきました
まったくぶっ飛んだ映画だったなぁ。タイトル通り、「イカれた」映画だった。
冒頭から、観客は大爆笑だった。いきなり、まさに「ポルノビデオ」のような映像から始まるのだが、それが”まともに”映るのは10秒ぐらいだろうか。その後すぐ、「モザイク」がかかる。
「モザイク」とカッコに入れたのは分けがある。一般的にイメージするモザイクでは全然ない。画面全体が色付きの布で覆われたような感じになり、さらにその布に色んな文字が書かれるのだ。
この文字がまあ面白い。
さて、その説明の前に書いておくべき点は、タイトルにある【監督〈自己検閲〉版】についてだ。日本公開版は、「自己検閲している」というのである。つまり、本来は「画面全体を色付きの布で覆うようなモザイク」は存在せず、そのまんま流しているということだ。観客にはほぼ音の情報しかないのだが、恐らく「アダルトビデオ」のような感じの映像が本来なら5~10分程度そのまま続いているのだろう。しかし僕らは「検閲版」しか見れず、「色付きの布モザイク」に覆われているというわけだ。
さて、そんな「色付きの布モザイク」にどんな文字が表示されるのか。最初に、
【皆さん!検閲版だよ!】
【検閲=金】
と表示される。もうこの段階で面白い。
他にも、
【殺人シーンはOKで、フェラはダメだって!】
【キリスト教・イスラム教版】
【米アカデミーで本作に一票を!】
【見られなくて残念だね】
【射精シーン!】
など、やりたい放題という感じだ。一応改めて説明しておくが、冒頭からしばらくの間、「明らかにアダルトビデオっぽい映像が流れているのだろうが、それは色付きの布モザイクで覆われて、セックスの音しか聞こえない中、その布モザイクに色んな文字が表示される」という映像を観ているのである。
これだけで十分狂気的な作品だということが分かるだろう。
さて、ではそもそも、この「ポルノビデオ」の映像は一体何なのか?ここで、主人公のエミの出番となる。名門校で歴史を教えている教師なのだが、そんなエミが夫と痴態を繰り広げているセックスの映像が、なんとネットに流出してしまったのだ!冒頭で流れているのは、「エミと夫がヤりまくってる映像」というわけだ。流出の経緯は正確には不明ながら、「夫がPCを修理に出した」後のことだったので、業者がイタズラに流出させた可能性もある。
エミは、学校に集まった保護者の前で事情を説明しなければならない。
全体の設定は、こんな感じである。
映画全体は、冒頭の「ポルノビデオ」を除いて、3つのパートに分かれている。
最初は、「保護者への説明会へ向かう前、エミがルーマニア・ブカレストの街を彷徨っている」パート。そして最後がその保護者会の場面なのだが、その間を繋ぐものがなかなか捉えがたい。「辞書」という括りで、「様々な単語を挙げ、それをルーマニアでの『現状』に即して説明する」みたいな説明になるだろうか。
例えば、
【図書室:殺人犯を生む場である】
といった具合だ。
正直、この真ん中のパート(パート2)が始まってからしばらくは、なんだかよく分からなかった。しかし、映画全体のテーマとまるで関係なさそうな言葉のセレクトや映像、時にはスマホで撮影しただろうものなど雑多なものが入り混じった映像を観ていると、「コロナ禍も含めた、社会に対する様々な鬱屈」みたいなものを詰め込んでいるのだ、という風に感じさせられた。
この映画は、映画内も「コロナ禍」という設定になっており、最初から最後まで役者がマスクをつけている。公式HPには、
【私は若い頃、『東への道』や『アギーレ/神の怒り』、『地獄の黙示録』などの撮影方法を本で読んでそのクレイジーさにとても憧れていました。今でも憧れはありますが、私は小心者なので撮影の際に誰かの命や健康を危険にさらすことはできません。たとえそれが普通の風邪だったとしても、健康を冒してまで作る価値のある映画はないと思っていますし、私の大したことない映画のためならなおさらです。そんな思いから、キャスティングもリハーサルもすべてZoomで行い、キャストを含め、全てのスタッフにマスクをしてもらうことにしました。第一に、この映画は現代を映し出すものであって欲しかったし、マスクが日常生活の一部となったこの瞬間を切り取り、マスク着用時代の人類学的側面を捉えたかったのです。第二に、関係者の健康を守りたかったからです。】
と書かれており、「安全性」と「時代の描写」という意味で、マスクを着用しての撮影となったそうだ。
また、ルーマニアという国を詳しく知っているわけではないが、映画の中で、「ユダヤ人を擁護するなんて(信じられない)」みたいな発言が当たり前に出てくるので、ソ連や旧東ドイツなど共産主義的な雰囲気の濃い国なんだろうと感じる。そういう国家であればあるほど、コロナ禍でなくとも様々な鬱屈が日常の中に詰め込まれていることだろう。
映画は、「ポルノビデオ」から始まり、女性教師を「ハレンチ」だという理由で吊るし上げる保護者会が描かれるなど、全体敵にシュールでジョーク的な感じなのだが、そういう作品の中に、パート2で描かれるような「まとまりのない雑多な鬱屈」が詰め込まれることで、このパート2こそが最も主張したかったことなのではないかとさえ感じられる気がします。
パート1は、ちょっとウトウトしながら観てしまったので正直ちゃんと覚えているわけではないのだが、個人的に印象が強かったのは、ブカレストの街中を歩くエミの周囲で、何らかの形で「怒り」が噴出しているということ。その「怒り」はエミ自身のものである場合もあるし、たまたまエミの近くで起こっているだけのものもあるが、とにかく「あまりに『怒り』が日常的である」ということがとても印象的だった。
のだが、他の人の感想をチラ見すると、どうやらパート1は、「街中に存在する、見ようによっては『猥雑』に感じられるもの」が映し出されていた、そうだ。ウトウトしていたからなのか、あるいは、男である僕の意識には届かなかったのか、どっちか分からないが、とにかく僕には、パート1は「猥雑」より「怒り」の方が印象的だった。
さて、「物語」として観た場合、やはりパート3の「教師VS保護者」が面白いと思う。
まず、表向きの基本的な構図をおさらいすると、
<名門校で歴史を教える優秀な女性教師が夫とセックスしている映像がネットで流出したことで、「子どもに害があるから辞めるべきだ」と保護者が教師に迫っている>
となる。現実にそんな映像が流出したら、このような保護者会が開かれることだろう。
さて、この構図ではやはり、女性教師の方が圧倒的に不利だと感じるだろう。僕は、この保護者会のやり取りが始まる前から、「この女性教師が学校を辞めなければならない理由なんかないだろう」と思っていたが、同時に、世間がそう考えないだろうとも理解しているつもりだし、保護者が「あんたみたいな教師は辞めろ」と主張する気持ちも分かるつもりだった。
ただ、この保護者会、時間経過と共にどんどんと当初の印象が反転していく。本当であれば「女性教師の落ち度を認めさせ、保護者が圧倒的優位に立って女性教師を辞めさせる」となるはずなのだが、保護者がなかなかに「アホ」すぎて、そうはならない。議論の本筋は「生徒たちも見れてしまうような形で私生活のセックスが流出した教師が学校に相応しいか」のはずなのだが、脱線に次ぐ脱線で全然そういう話にならない。「義務教育でユダヤ人を擁護するなんて許せない」と主張したり、「教育とはそもそも毒のようなものだ」と演説をぶったり、「学校でゲイまで称賛する気なのか?」と疑問を呈するなど、本題とはまったく関係ない話が展開される。ある父親が、「娘の純潔が汚されている」と文句を言うのだが、「女性教師のセックス動画が流出したこと」と「娘の純潔」はどう関係するのかイマイチ理解できない。
とにかく、保護者側からあまりに「知性」が感じられず、一般的なイメージからすれば圧倒的に不利なはずの女性教師が孤軍奮闘できてしまっている。
さらにこの女性教師、メチャクチャ強気で良い。彼女の主張は、僕には割と真っ当に感じられる。「成人していてお互いに合意がある者同士のセックスはわいせつではない」「子どもがアダルトサイトを見ないように教育するのは親の責任では?」など、保護者たちに対して基本的に非を認めない。僕は彼女が主張する通り「自分で動画をネットに上げた」のでないなら、彼女もまた被害者であり、責任を負う必要を感じない。これが夫以外の男性との不倫とかなら話は違うだろうが、「夫とセックスして何が悪い」という彼女の主張は、
確かにその通りだと思う。
ただ、彼女が「生徒とは信頼関係を築けています」と言った後で、
【教師を尊敬することは権利ではなく義務なのです】
と言っていた点はちょっと違和感があった。その考えは、ちょっと傲慢だなー、と。それ以外は基本的に、この女性教師の主張の方が真っ当な感じがした。
とにかくこの保護者会は、「オセロの対局で、初めは明らかに負けているように見えた側が、後半どんどんひっくり返してほとんどを自分の色に変えてしまう」みたいな感じがある。この話し合いでは、「圧倒的に不利なはずのエミが負けていない」という時点で「エミの勝ち」と判断していいと思うが、そういう意味でエミは圧勝だったと言っていいのではないかと思う。
もの凄くふざけたように見える映画で、たぶん実際にふざけているような感覚もあるはずだけど、同時に、こういう作品でなければ届かない問題もあると感じる。社会問題というのは、どれだけ深刻でも、それが社会の隅々にわたって根を張りおろしているものであればあるほど「問題として認識させること」そのものがまず難しい。この作品が全面に押し出す「猥雑」というテーマも、まさにそういう類のものだろう。それを、ふざけ倒したような映像・物語で展開させ、「快・不快の感情」に落とし込んでいくことで、実感させようとしているのではないかと感じた。
まー、とにかく変な映画だ。なかなかこんな映画、探しても見つからないだろう。なんとも評価しづらい映画ではあるが、とにかく「笑わされてしまった」ことは確かだ。
「アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ 監督〈自己検閲〉版」を観に行ってきました
冒頭から、観客は大爆笑だった。いきなり、まさに「ポルノビデオ」のような映像から始まるのだが、それが”まともに”映るのは10秒ぐらいだろうか。その後すぐ、「モザイク」がかかる。
「モザイク」とカッコに入れたのは分けがある。一般的にイメージするモザイクでは全然ない。画面全体が色付きの布で覆われたような感じになり、さらにその布に色んな文字が書かれるのだ。
この文字がまあ面白い。
さて、その説明の前に書いておくべき点は、タイトルにある【監督〈自己検閲〉版】についてだ。日本公開版は、「自己検閲している」というのである。つまり、本来は「画面全体を色付きの布で覆うようなモザイク」は存在せず、そのまんま流しているということだ。観客にはほぼ音の情報しかないのだが、恐らく「アダルトビデオ」のような感じの映像が本来なら5~10分程度そのまま続いているのだろう。しかし僕らは「検閲版」しか見れず、「色付きの布モザイク」に覆われているというわけだ。
さて、そんな「色付きの布モザイク」にどんな文字が表示されるのか。最初に、
【皆さん!検閲版だよ!】
【検閲=金】
と表示される。もうこの段階で面白い。
他にも、
【殺人シーンはOKで、フェラはダメだって!】
【キリスト教・イスラム教版】
【米アカデミーで本作に一票を!】
【見られなくて残念だね】
【射精シーン!】
など、やりたい放題という感じだ。一応改めて説明しておくが、冒頭からしばらくの間、「明らかにアダルトビデオっぽい映像が流れているのだろうが、それは色付きの布モザイクで覆われて、セックスの音しか聞こえない中、その布モザイクに色んな文字が表示される」という映像を観ているのである。
これだけで十分狂気的な作品だということが分かるだろう。
さて、ではそもそも、この「ポルノビデオ」の映像は一体何なのか?ここで、主人公のエミの出番となる。名門校で歴史を教えている教師なのだが、そんなエミが夫と痴態を繰り広げているセックスの映像が、なんとネットに流出してしまったのだ!冒頭で流れているのは、「エミと夫がヤりまくってる映像」というわけだ。流出の経緯は正確には不明ながら、「夫がPCを修理に出した」後のことだったので、業者がイタズラに流出させた可能性もある。
エミは、学校に集まった保護者の前で事情を説明しなければならない。
全体の設定は、こんな感じである。
映画全体は、冒頭の「ポルノビデオ」を除いて、3つのパートに分かれている。
最初は、「保護者への説明会へ向かう前、エミがルーマニア・ブカレストの街を彷徨っている」パート。そして最後がその保護者会の場面なのだが、その間を繋ぐものがなかなか捉えがたい。「辞書」という括りで、「様々な単語を挙げ、それをルーマニアでの『現状』に即して説明する」みたいな説明になるだろうか。
例えば、
【図書室:殺人犯を生む場である】
といった具合だ。
正直、この真ん中のパート(パート2)が始まってからしばらくは、なんだかよく分からなかった。しかし、映画全体のテーマとまるで関係なさそうな言葉のセレクトや映像、時にはスマホで撮影しただろうものなど雑多なものが入り混じった映像を観ていると、「コロナ禍も含めた、社会に対する様々な鬱屈」みたいなものを詰め込んでいるのだ、という風に感じさせられた。
この映画は、映画内も「コロナ禍」という設定になっており、最初から最後まで役者がマスクをつけている。公式HPには、
【私は若い頃、『東への道』や『アギーレ/神の怒り』、『地獄の黙示録』などの撮影方法を本で読んでそのクレイジーさにとても憧れていました。今でも憧れはありますが、私は小心者なので撮影の際に誰かの命や健康を危険にさらすことはできません。たとえそれが普通の風邪だったとしても、健康を冒してまで作る価値のある映画はないと思っていますし、私の大したことない映画のためならなおさらです。そんな思いから、キャスティングもリハーサルもすべてZoomで行い、キャストを含め、全てのスタッフにマスクをしてもらうことにしました。第一に、この映画は現代を映し出すものであって欲しかったし、マスクが日常生活の一部となったこの瞬間を切り取り、マスク着用時代の人類学的側面を捉えたかったのです。第二に、関係者の健康を守りたかったからです。】
と書かれており、「安全性」と「時代の描写」という意味で、マスクを着用しての撮影となったそうだ。
また、ルーマニアという国を詳しく知っているわけではないが、映画の中で、「ユダヤ人を擁護するなんて(信じられない)」みたいな発言が当たり前に出てくるので、ソ連や旧東ドイツなど共産主義的な雰囲気の濃い国なんだろうと感じる。そういう国家であればあるほど、コロナ禍でなくとも様々な鬱屈が日常の中に詰め込まれていることだろう。
映画は、「ポルノビデオ」から始まり、女性教師を「ハレンチ」だという理由で吊るし上げる保護者会が描かれるなど、全体敵にシュールでジョーク的な感じなのだが、そういう作品の中に、パート2で描かれるような「まとまりのない雑多な鬱屈」が詰め込まれることで、このパート2こそが最も主張したかったことなのではないかとさえ感じられる気がします。
パート1は、ちょっとウトウトしながら観てしまったので正直ちゃんと覚えているわけではないのだが、個人的に印象が強かったのは、ブカレストの街中を歩くエミの周囲で、何らかの形で「怒り」が噴出しているということ。その「怒り」はエミ自身のものである場合もあるし、たまたまエミの近くで起こっているだけのものもあるが、とにかく「あまりに『怒り』が日常的である」ということがとても印象的だった。
のだが、他の人の感想をチラ見すると、どうやらパート1は、「街中に存在する、見ようによっては『猥雑』に感じられるもの」が映し出されていた、そうだ。ウトウトしていたからなのか、あるいは、男である僕の意識には届かなかったのか、どっちか分からないが、とにかく僕には、パート1は「猥雑」より「怒り」の方が印象的だった。
さて、「物語」として観た場合、やはりパート3の「教師VS保護者」が面白いと思う。
まず、表向きの基本的な構図をおさらいすると、
<名門校で歴史を教える優秀な女性教師が夫とセックスしている映像がネットで流出したことで、「子どもに害があるから辞めるべきだ」と保護者が教師に迫っている>
となる。現実にそんな映像が流出したら、このような保護者会が開かれることだろう。
さて、この構図ではやはり、女性教師の方が圧倒的に不利だと感じるだろう。僕は、この保護者会のやり取りが始まる前から、「この女性教師が学校を辞めなければならない理由なんかないだろう」と思っていたが、同時に、世間がそう考えないだろうとも理解しているつもりだし、保護者が「あんたみたいな教師は辞めろ」と主張する気持ちも分かるつもりだった。
ただ、この保護者会、時間経過と共にどんどんと当初の印象が反転していく。本当であれば「女性教師の落ち度を認めさせ、保護者が圧倒的優位に立って女性教師を辞めさせる」となるはずなのだが、保護者がなかなかに「アホ」すぎて、そうはならない。議論の本筋は「生徒たちも見れてしまうような形で私生活のセックスが流出した教師が学校に相応しいか」のはずなのだが、脱線に次ぐ脱線で全然そういう話にならない。「義務教育でユダヤ人を擁護するなんて許せない」と主張したり、「教育とはそもそも毒のようなものだ」と演説をぶったり、「学校でゲイまで称賛する気なのか?」と疑問を呈するなど、本題とはまったく関係ない話が展開される。ある父親が、「娘の純潔が汚されている」と文句を言うのだが、「女性教師のセックス動画が流出したこと」と「娘の純潔」はどう関係するのかイマイチ理解できない。
とにかく、保護者側からあまりに「知性」が感じられず、一般的なイメージからすれば圧倒的に不利なはずの女性教師が孤軍奮闘できてしまっている。
さらにこの女性教師、メチャクチャ強気で良い。彼女の主張は、僕には割と真っ当に感じられる。「成人していてお互いに合意がある者同士のセックスはわいせつではない」「子どもがアダルトサイトを見ないように教育するのは親の責任では?」など、保護者たちに対して基本的に非を認めない。僕は彼女が主張する通り「自分で動画をネットに上げた」のでないなら、彼女もまた被害者であり、責任を負う必要を感じない。これが夫以外の男性との不倫とかなら話は違うだろうが、「夫とセックスして何が悪い」という彼女の主張は、
確かにその通りだと思う。
ただ、彼女が「生徒とは信頼関係を築けています」と言った後で、
【教師を尊敬することは権利ではなく義務なのです】
と言っていた点はちょっと違和感があった。その考えは、ちょっと傲慢だなー、と。それ以外は基本的に、この女性教師の主張の方が真っ当な感じがした。
とにかくこの保護者会は、「オセロの対局で、初めは明らかに負けているように見えた側が、後半どんどんひっくり返してほとんどを自分の色に変えてしまう」みたいな感じがある。この話し合いでは、「圧倒的に不利なはずのエミが負けていない」という時点で「エミの勝ち」と判断していいと思うが、そういう意味でエミは圧勝だったと言っていいのではないかと思う。
もの凄くふざけたように見える映画で、たぶん実際にふざけているような感覚もあるはずだけど、同時に、こういう作品でなければ届かない問題もあると感じる。社会問題というのは、どれだけ深刻でも、それが社会の隅々にわたって根を張りおろしているものであればあるほど「問題として認識させること」そのものがまず難しい。この作品が全面に押し出す「猥雑」というテーマも、まさにそういう類のものだろう。それを、ふざけ倒したような映像・物語で展開させ、「快・不快の感情」に落とし込んでいくことで、実感させようとしているのではないかと感じた。
まー、とにかく変な映画だ。なかなかこんな映画、探しても見つからないだろう。なんとも評価しづらい映画ではあるが、とにかく「笑わされてしまった」ことは確かだ。
「アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ 監督〈自己検閲〉版」を観に行ってきました
「主戦場」を観に行ってきました
なるほど、こんな映画があったのか。今回、3年ぶりの上映とのことだ。
この映画は、「『慰安婦問題』とは何なのか?」の一端を理解するために観ておいた方がいい映画だろう。
面白い、面白くないではなかなか括れない映画だが、個人的には、知らなかった事柄を様々に知れ、今まで考えたことのなかったことを考えることができたので、観て良かったと感じる。
さて、この映画を全部観た上で、僕が「慰安婦問題」に対してどう考えたのか、その思考を書いていこう。ちなみにだが、この映画で示された事柄以外には、テレビのニュースなどで流れるごく一般的な報道ぐらいしか知識がない。関連する書籍やドキュメンタリーも観たことがない。あくまで、「この『主戦場』という映画を観た上で、『慰安婦問題』をどう捉えたか」である。
ちなみに、一応書いておくと、この映画を作ったミキ・デザキという人物は、なんとなく「巻き込まれ事故」みたいな理由からこの映画の制作に至ったようだ。映画の冒頭で、彼がどうして「慰安婦問題」に関わることになったのかが触れられていたが、元から関心があったとかではなく、「事故に遭った」みたいな感じで「慰安婦問題」の方が向こうから突っ込んできたので、調べてみることにした、というスタンスのようだった。また、映画の最後で、彼自身「アメリカ人」だと言っていた。つまりこの映画は、「日本でも韓国でもない視点から、そもそも関心を抱いていなかった『慰安婦問題』について取材した作品」であり、そういう意味では、かなり客観的な視点から状況を捉えていると言っていいのではないかと感じる。
さて、まず大前提として、「慰安婦問題」に限らず、ありとあらゆる問題に対して僕が当てはめる原則について書いていこう。
この映画では、「韓国の女性を慰安婦とした行為」について、「良い/悪い」の議論がなされる。しかしそもそもどんな問題であれ、「良い/悪い」を議論するためには、それを判定する「基準」が必要だ。また、状況によって判断は異なるが、基本的には「それが起こった時点での『基準』に照らして『良い/悪い』を判断すべきだ」とも考えている。「2022年現在の基準」ではなく、「その行為が行われた時点での基準」である。これは、一般的にも認めてもらえる主張だろう。
また、これもあくまで原則の話だが、その「良い/悪い」の基準となるものが「法律」なのだとして、「法的責任を追求するには、証拠が必要だ」とも考えている。あくまでも、「法的責任を追求する場合」に「証拠」が必要だ、という主張である。「法的責任」以外にも「倫理的責任」など様々な「責任」が存在し得ると思うし、それらについては「証拠」の有無に限らず、関係者の間のやり取りや合意などによって決定が下されればいいと思うが、「法的責任」についてはやはり「証拠」を基に判断されるべきだろう。
もちろん、「慰安婦問題」を考える場合には若干条件を緩める必要はある。映画の中でも、「戦時中の日本軍の資料の70%が焼却されたと考えられている」みたいな説明があった。戦時中という特殊な環境であり、適切な証拠保全も不可能だ。だから、通常の裁判で求められるような「客観的で厳格な証拠」を求めるのは無理があるだろう。「間接的に、そのようなことがあったことを強く推定させるような証拠」でも「法的責任」が認められて然るべき、と考えるのは妥当だと思う。ただ、証拠の強弱はともかくとして、やはり「証拠」は必要だと思う。
そして、被害者の方には厳しい意見になってしまうが、やはり「証言」だけではなかなか「証拠」と認めるのは厳しい、と僕は考えてしまう。繰り返すが、あくまでこれは「法的責任」を追求する場合の話だ。「法的責任」以外の責任であれば、被害者の「証言」に一定以上の信憑性があると認められれば、やはりそれを踏まえたアクションがあって然るべきだろう。しかしやはり、「法的責任」を認めさせる場合、「過去にこんなことがあった」という「証言」だけで判断するのは厳しい、というのが僕の考えだ。
さてこれが、僕が一般的に何らかの「問題」を考える際の前提だ。この段階で、僕のこの「前提」に納得がいかないという方は、恐らく以下の議論もすべて納得できないと思うので、ここで読むのを止めてもらうのがいいと思う。僕自身は、そこまで奇妙な主張をしていると思っていないが、法律の専門知識がある人からすれば何か不備があるかもしれない。「このような不備がある」という指摘があれば教えてほしい。
さて次に、「慰安婦問題」とはそもそも何を指しているのかを考えていこう。とにかく映画の中では、そもそも「問題がなんなのか」が共有されていないために、まったく議論が噛み合っていないという状況が散見されたように思う。
映画を観ながら僕が理解したポイントは、
① 兵士の性の相手をさせる施設を、日本軍が”公式”に用意したのか?
② ①のようなことがあったとして、そもそもそれは当時の「法律」に照らして合法だったのか?
③ ①のようなことがあったとして、そこに女性を”強制的に”送り込んだのか?
の3つである。
この3点について、「慰安婦問題」を肯定派も否定派も、基本的に同じスタンスを取っていると感じる。「①については、両派ともに認めている」「②については、両派ともさして注目していない」「③については、両派で意見が食い違っている」という風に僕は理解した。
つまり、一般的に議論されてる「慰安婦問題」というのは、③の「女性を”強制的に”送り込んだのか?」だと考えていいのだろうと僕は思う。
では、順番に見ていこう。
①については、基本的に両派とも認めていると思う。否定派は、「慰安婦の人たちは、お金をもらって仕事をしていた売春婦だった」という主張をしており、「そのような場を日本軍が公式に用意していた」という点は別に争っていない。
では②についてはどうだろうか? 正直僕は、②こそ明確に「法的責任」を追求できると感じた。
まず、1921年に国連で「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」、いわゆる「人身売買を禁じる条約」を採択し、日本も批准している。これは、21歳以下の女性・児童を売春などに従事させることを禁じている。
一方、当時新聞に掲載されていた、売春などを斡旋する業者向けの広告が残っているのだが(たぶん韓国国内の新聞に掲載されたのだと思う)、そこには「17歳~23歳を募集している」と書かれていた。この広告だけをもって「21歳以下に売春させていた」と確定できるわけではないが、かなり強い状況証拠と言っていいだろう。
また、元慰安婦と初めて名乗り出たキム・ハクスンは、「一番上が22歳、それから18歳・19歳がいて、17歳の自分が一番年下だった」と証言している。少なくともこの年齢に関する証言は、彼女の実年齢などから間違いないものとして認められているだろうし、「証言」ではあるが信憑性が高いと言っていいはずだ。
となると、「日本軍がつくった慰安所で21歳以下の女性が働かされていた」ことは間違いないだろう。そしてそれは明らかに、先の条約違反である。
もちろん、この点について責任を負うべきは誰なのかはまた別で考える必要はある。まあ恐らく、その新聞広告は日本軍が、あるいは日本軍の意向を強く受けて出されたものだろうし、この点においては日本に責任があるのだろうと思う。
このように、先程書いた僕の「前提」に照らして、②については割とすんなり「法的責任」を問える。日本政府は、「日本はその条約に批准したが、植民地には適用されない」みたいな主張をしているようだが、さすがにそれはなかなか無理があるだろう。
また、同じく当時「ILO条約」と呼ばれる国際条約が存在し、日本も批准していた。これは、国際的な労働条件を定めたものであり、この条約に照らしても日本軍の慰安所は問題があったとされるようだ。またもう1つ、正確な名前は忘れてしまったが、奴隷に関する条約が存在しており、日本は未批准だったが、慣習法として定着はしていたという。国際法の専門家からは、その条約にも抵触するだろうという見解が得られているそうだ。
このように、「日本軍が用意した『慰安所』には、全員ではないだろうが、当時存在していた法律に違反する形で働かされていた人もいた」ということは事実として明白であるように思う。しかし、理由はよく分からなかったが、先程僕が②として挙げたこれらの問題は、いわゆる「慰安婦問題」には含まれていないように感じるし、あまり議論もされていないようだった。この点についても、日本政府は様々な理由をつけて「当時の法律に照らしてもセーフ」と主張しているようだが、僕にはその理屈は無理があると感じた。しかし、「慰安婦問題」を取り上げている人の焦点が、この②に当たることはあまり多くないようだ。どうしてなのかは、よく分からない。
というわけで、ここまでの僕の主張をまとめると、
《少なくとも慰安婦に関する問題については、「② ①のようなことがあったとして、そもそもそれは当時の『法律』に照らして合法だったのか?」という点について、日本には「法的責任」がある》
となる。僕はこの②においては、明らかに「日本に問題がある」と主張できるのではないかと考えている。
さてそれでは問題の③である。映画の中ではとにかく様々な主張・議論が存在するが、そのほとんどがこの③に関するものだったと感じる。あらためておさらいしておくと、
③ ①のようなことがあったとして、そこに女性を”強制的に”送り込んだのか?
(① 兵士の性の相手をさせる施設を、日本軍が”公式”に用意したのか?)
というのが、一般的に「慰安婦問題」と認識されているものだ。
そして、結論から書くと、僕の「前提」に照らして、この③については日本の「法的責任」を追求するのはちょっと難しいのではないか、と思う。
というのも、ここで問題になるのが「強制的」という言葉の「捉え方」だからだ。
安倍晋三は、たぶん総理大臣在任中のことだと思うが、「慰安婦が強制的に連れてこられたという証拠は存在しない」という答弁をしている。しかし、安倍晋三が言う「強制的」というのは、いわゆる「ロープで縛って連れ去る」ようなイメージの行為だ。「抵抗する相手を無理やり縛り付けて連行する」という意味での「強制」は存在しなかった、と安倍晋三は主張している。
まあ、そりゃあそうだろう、と思う。誰もそんな「強制」が行われたなどと思っていないだろう。
しかし難しいのは、では何を以って「強制的」と判断するのか、ということだ。
「慰安婦問題」の否定派は、「慰安婦の人たちは、いわゆる売春婦であり、たくさんお金をもらっていたし、自由もあった」と主張することで「強制的ではなかった」と言いたがっている。「慰安婦問題」が取り沙汰される際、外国では「性奴隷」という強い言葉が使われることが多いそうだが、彼らは「足に鎖をつけて閉じ込めていたわけじゃない」「奴隷が報酬をもらえますか?」みたいな言い方で、「強制的ではなかった」と主張しようとする。
しかしさすがにこの主張は通らないだろう。例えばまさに今、映画業界で監督らによるわいせつ問題が取り沙汰されているが、客観的に見て「強制的」と捉えられるような具体的な言動が存在しなかったとしても、「監督」と「俳優」という力関係がそこにある以上、「強制的ではなかった」という主張に説得力はない。慰安婦の場合も、外から見て「強制的」と判断されるような言動が存在しなかったとしても、力関係的に「強制的」と判断され得る状況にあった可能性は十分にある。
そして、何の証拠もないが、ごく一般的に考えて「力関係を誇示した強制はあった」と考えるのが自然だと僕は思う。それさえも無かった、と主張するのはちょっと非現実的すぎる。
韓国の事例ではないが、アメリカ軍が聞き取り調査をした記録の中に、「日本が女性を『フィリピンに良い働き口がある』と具体的な仕事内容を伝えずに連れて行った」という証言が存在するそうだ。これも形を変えた「強制」だと言っていいだろう。恐らくそのような、「本人の自由意志に基づかないという意味での『強制』」は様々な場面であったのだと思う。
ただ、僕が提示した「前提」を踏まえた場合、それを客観的な証拠を基に証明することはかなり困難だとも感じる。イメージでは「あった」と思うが、何らかの証拠からそれを強く推定させるような状況ではない。日本は明らかに誤ったことをしていると判断され得るが、しかし「法的責任」を問うのは困難だと感じるのだ。
またこの「強制」にはもう1つ、複雑な背景が存在する。それが「韓国の家父長制・男性優位の社会」である。
日本も大差なかったと思うが、第二次世界大戦中の韓国は、家長である父親の権限が強く、また女性は低く見られていた。映画の中ではあまり具体的に触れられなかったが、恐らく「家族によって『慰安所』に”売られた”女性もいたのだろう」と意見も存在するというわけだ。そう主張した大学教授のパク・ユハ氏は、出版した本の記述を問題視されて懲役3年の有罪判決を受けたと紹介されていた。韓国では、「慰安婦は強制連行されたのだ」という主張以外の意見を口にしにくい雰囲気があるそうだが、それにしても逮捕・起訴するとは驚きだ。
さて、家族に“売られた”場合も、当然だが「自由意志に反した『強制』」と言っていいだろう。しかし、この場合、日本に責任があると考えるのは無理があると僕は思う。映画の中で、「韓国の家父長制を利用した日本に問題がある」と主張する人物が出てきたが、言いすぎではないかと僕は感じた。日本政府が韓国の家父長制を利用したのだとして、確かに倫理的・道義的には「良くない」と思う。しかしこのケースまでも「慰安婦の“強制連行”の事例」に含まれるのはちょっと違うのではないかと思うのだ。
また映画の中で、「慰安婦として働かなければ生きていけない人たちもたくさんいた」という主張が出てくる。それは「それも日本に責任がある」という主旨の主張なわけだが、それもどうなのだろうと僕は感じる。もちろん、そのような理由から慰安婦になった女性も、「自由意思に反した『強制』」の枠組みには入ると思う。しかしじゃあ、「慰安婦として働かなければ生きていけない状況」のすべてが日本の責任なのかというと、それはどうだろうか。もちろん、日本が侵略戦争を仕掛けている側なのだから、日本に責任がないとは言わないが、この「慰安婦として働かなければ生きていけない人」が慰安婦として働く状況さえも「強制連行」の事例に含めてしまうのはちょっと問題の本質が違うように感じるのだ。
さて、ちょっと話が色んな方向に進んだのでちょっとまとめよう。
普通に考えて、「慰安婦として働いていた女性には、慰安所にやってくる様々な理由が存在した」と考えるのが妥当だろう。映画で触れられていたことを踏まえると、以下のようなケースが考えられる。
A:日本軍が何らかの形で「自由意志」を奪い連れてきた
B:日本軍が仕事内容を伝えず「騙して」連れてきた
C:家族に慰安所に「売られて」やってきた
D:様々な理由から困窮しており、慰安婦として働くことで生計を立てようとやってきた
他にもあるだろうが、とにかく、様々な事情を持つ人たちが入り混じっていたと考えるのが自然だろう。そして上に挙げたA~Dについて言えば、僕はA・Bは日本の責任だが、C・Dはそうではないはずだ、と考えている。
A・Bの事例も多数あっただろうし、そういう意味で日本に責任が皆無のはずがない。しかしC・Dのケースもあったはずだし、慰安婦全員に対して日本が責任を負うとも考えにくい。そして、A・Bがどの程度で、C・Dがどの程度なのか、今となっては分かるはずもない。だから、この問題を明快に責任問題として追及するのは不可能だ、と僕は思う。
しかし映画の中では、もう本当に意味不明なのだが、あたかも「慰安婦すべてがA・Bのケースだった」と主張しているように聞こえたり、あるいは「慰安婦のすべてがC・Dであり日本に責任はない」という言い方をしたりしている。そんなアホなことがあるはずがない。割合は不明だが、A~Dまですべてのケースが存在したと考えるのが妥当のはずだ。
しかし、そういう議論には一切ならない。とにかく「0」か「100」かでなければ決着がつけられないみたいな感じだ。
だから、映画で展開されるすべての議論が僕には不毛に思われる。そりゃあ、解決するはずがない。
日本人である僕がこういうことを書くと「責任逃れだ」みたいに言われるだろうが、しかし、「慰安婦問題」は今見てきた通り、「まともには解決が不可能」な問題になってしまっていると思う。だから、「慰安婦問題」に対して何か建設的なアクションを起こすとするのであれば、「慰安婦問題のような事柄が未来に起こらないようにする」ことぐらいだろう。もちろん、被害を受けた方に何もしなくていいというわけではないが、「慰安婦問題」がもはや既に「被害者」の存在を完全に置き去りにしたところで展開されているので、僕は「どうしようもない」と感じてしまった。また、それで十分なのかどうかはともかくとして、日本はこれまでにも元慰安婦の方に対して「支援・賠償」(適切な表現が何かは分からないけど)をしている。まったく何もしていないというわけではないので、「問題があまりにもややこしくなっている」ことも併せ、僕はもう、「過去に何が起こったのか」に関する明確な結論は見いだせないだろうと諦める気持ちがより強くなってしまった。
やはりそれよりは、「未来に同じことが起こらないようにどう責任を果たしていくのか」に目を向けなければならないと感じる。ロシアのウクライナ侵攻においても、市民が虐殺されたり、女性がレイプされたりしているというニュースを目にする。現代でもやはり、人間は同じ過ちを冒しているのだ。それをどのようにして回避できるのか、人類は考えなければならないのだと思う。
さて、映画では、「歴史修正主義者」あるいは「否定論者」と呼ばれる人たちが、「慰安婦は強制連行されていない」「南京虐殺は起こらなかった」という主張を「正史」とするために、憲法改正に積極的に動いたり、教科書の記述に介入したりしている現実にも触れられている。「過去に汚点など存在しない素晴らしい日本」を信じたい勢力みたいなのが権力の中枢にたくさんいて、そういう人たちが「戦前の日本」「明治憲法の時代」に時代を”逆行”させようとしている、という危機感が指摘されていた。
ホントに怖い。
っていうか、「歴史修正主義者・否定論者」の主張は結構ヤバかった。中でもイカれてると感じたのは、
【フェミニズムってのは、ブサイクな女が始めたんですよ。で、心の中も汚い】
【(アメリカでキング牧師による人種差別撤廃の運動が始まったのも)日本が戦争に勝ったから起こったんでしょう?】
みたいな発言だ。特に後者の発言は、最初聞き間違いかと思った。映画でも強調するためだろう、同じ発言が続けざまに2度流れた。彼は「日本が戦争に勝った世界」に生きているんだろうか???
とにかく映画に登場する人の中には、「『慰安婦問題』に関する主張がどうとか以前に、人間として発言がヤバすぎる」と感じさせる人がいる。つまり彼らは、「『こういう発言をしたらマズい』と実感できるような環境にいない」ということであり、それは僕ら一般市民が生きている世界と基本的にまったく接続しない世界なのだと思う。
だから、全然聞く気になれない。仮に「慰安婦問題」に関しての彼らの主張が真っ当なのだとしても、「セルフブランディング」に問題がありすぎて、その主張に大いにバイアスが掛かる。そのことが理解できているのかどうなのか、僕にはなんとも分からないが、ホントに「ヤバい世界だなぁ」と感じた。
もし彼らの主張が、「こういうヤバい発言をしまくることで、『まともに議論しよう』という気力を削ぎ落とそうとする作戦」だとしたら、僕はまんまとその術中にハマっているのだろう。もしそうだとするなら、その作戦は実に上手くいっていると評価せざるを得ない。
「主戦場」を観に行ってきました
この映画は、「『慰安婦問題』とは何なのか?」の一端を理解するために観ておいた方がいい映画だろう。
面白い、面白くないではなかなか括れない映画だが、個人的には、知らなかった事柄を様々に知れ、今まで考えたことのなかったことを考えることができたので、観て良かったと感じる。
さて、この映画を全部観た上で、僕が「慰安婦問題」に対してどう考えたのか、その思考を書いていこう。ちなみにだが、この映画で示された事柄以外には、テレビのニュースなどで流れるごく一般的な報道ぐらいしか知識がない。関連する書籍やドキュメンタリーも観たことがない。あくまで、「この『主戦場』という映画を観た上で、『慰安婦問題』をどう捉えたか」である。
ちなみに、一応書いておくと、この映画を作ったミキ・デザキという人物は、なんとなく「巻き込まれ事故」みたいな理由からこの映画の制作に至ったようだ。映画の冒頭で、彼がどうして「慰安婦問題」に関わることになったのかが触れられていたが、元から関心があったとかではなく、「事故に遭った」みたいな感じで「慰安婦問題」の方が向こうから突っ込んできたので、調べてみることにした、というスタンスのようだった。また、映画の最後で、彼自身「アメリカ人」だと言っていた。つまりこの映画は、「日本でも韓国でもない視点から、そもそも関心を抱いていなかった『慰安婦問題』について取材した作品」であり、そういう意味では、かなり客観的な視点から状況を捉えていると言っていいのではないかと感じる。
さて、まず大前提として、「慰安婦問題」に限らず、ありとあらゆる問題に対して僕が当てはめる原則について書いていこう。
この映画では、「韓国の女性を慰安婦とした行為」について、「良い/悪い」の議論がなされる。しかしそもそもどんな問題であれ、「良い/悪い」を議論するためには、それを判定する「基準」が必要だ。また、状況によって判断は異なるが、基本的には「それが起こった時点での『基準』に照らして『良い/悪い』を判断すべきだ」とも考えている。「2022年現在の基準」ではなく、「その行為が行われた時点での基準」である。これは、一般的にも認めてもらえる主張だろう。
また、これもあくまで原則の話だが、その「良い/悪い」の基準となるものが「法律」なのだとして、「法的責任を追求するには、証拠が必要だ」とも考えている。あくまでも、「法的責任を追求する場合」に「証拠」が必要だ、という主張である。「法的責任」以外にも「倫理的責任」など様々な「責任」が存在し得ると思うし、それらについては「証拠」の有無に限らず、関係者の間のやり取りや合意などによって決定が下されればいいと思うが、「法的責任」についてはやはり「証拠」を基に判断されるべきだろう。
もちろん、「慰安婦問題」を考える場合には若干条件を緩める必要はある。映画の中でも、「戦時中の日本軍の資料の70%が焼却されたと考えられている」みたいな説明があった。戦時中という特殊な環境であり、適切な証拠保全も不可能だ。だから、通常の裁判で求められるような「客観的で厳格な証拠」を求めるのは無理があるだろう。「間接的に、そのようなことがあったことを強く推定させるような証拠」でも「法的責任」が認められて然るべき、と考えるのは妥当だと思う。ただ、証拠の強弱はともかくとして、やはり「証拠」は必要だと思う。
そして、被害者の方には厳しい意見になってしまうが、やはり「証言」だけではなかなか「証拠」と認めるのは厳しい、と僕は考えてしまう。繰り返すが、あくまでこれは「法的責任」を追求する場合の話だ。「法的責任」以外の責任であれば、被害者の「証言」に一定以上の信憑性があると認められれば、やはりそれを踏まえたアクションがあって然るべきだろう。しかしやはり、「法的責任」を認めさせる場合、「過去にこんなことがあった」という「証言」だけで判断するのは厳しい、というのが僕の考えだ。
さてこれが、僕が一般的に何らかの「問題」を考える際の前提だ。この段階で、僕のこの「前提」に納得がいかないという方は、恐らく以下の議論もすべて納得できないと思うので、ここで読むのを止めてもらうのがいいと思う。僕自身は、そこまで奇妙な主張をしていると思っていないが、法律の専門知識がある人からすれば何か不備があるかもしれない。「このような不備がある」という指摘があれば教えてほしい。
さて次に、「慰安婦問題」とはそもそも何を指しているのかを考えていこう。とにかく映画の中では、そもそも「問題がなんなのか」が共有されていないために、まったく議論が噛み合っていないという状況が散見されたように思う。
映画を観ながら僕が理解したポイントは、
① 兵士の性の相手をさせる施設を、日本軍が”公式”に用意したのか?
② ①のようなことがあったとして、そもそもそれは当時の「法律」に照らして合法だったのか?
③ ①のようなことがあったとして、そこに女性を”強制的に”送り込んだのか?
の3つである。
この3点について、「慰安婦問題」を肯定派も否定派も、基本的に同じスタンスを取っていると感じる。「①については、両派ともに認めている」「②については、両派ともさして注目していない」「③については、両派で意見が食い違っている」という風に僕は理解した。
つまり、一般的に議論されてる「慰安婦問題」というのは、③の「女性を”強制的に”送り込んだのか?」だと考えていいのだろうと僕は思う。
では、順番に見ていこう。
①については、基本的に両派とも認めていると思う。否定派は、「慰安婦の人たちは、お金をもらって仕事をしていた売春婦だった」という主張をしており、「そのような場を日本軍が公式に用意していた」という点は別に争っていない。
では②についてはどうだろうか? 正直僕は、②こそ明確に「法的責任」を追求できると感じた。
まず、1921年に国連で「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」、いわゆる「人身売買を禁じる条約」を採択し、日本も批准している。これは、21歳以下の女性・児童を売春などに従事させることを禁じている。
一方、当時新聞に掲載されていた、売春などを斡旋する業者向けの広告が残っているのだが(たぶん韓国国内の新聞に掲載されたのだと思う)、そこには「17歳~23歳を募集している」と書かれていた。この広告だけをもって「21歳以下に売春させていた」と確定できるわけではないが、かなり強い状況証拠と言っていいだろう。
また、元慰安婦と初めて名乗り出たキム・ハクスンは、「一番上が22歳、それから18歳・19歳がいて、17歳の自分が一番年下だった」と証言している。少なくともこの年齢に関する証言は、彼女の実年齢などから間違いないものとして認められているだろうし、「証言」ではあるが信憑性が高いと言っていいはずだ。
となると、「日本軍がつくった慰安所で21歳以下の女性が働かされていた」ことは間違いないだろう。そしてそれは明らかに、先の条約違反である。
もちろん、この点について責任を負うべきは誰なのかはまた別で考える必要はある。まあ恐らく、その新聞広告は日本軍が、あるいは日本軍の意向を強く受けて出されたものだろうし、この点においては日本に責任があるのだろうと思う。
このように、先程書いた僕の「前提」に照らして、②については割とすんなり「法的責任」を問える。日本政府は、「日本はその条約に批准したが、植民地には適用されない」みたいな主張をしているようだが、さすがにそれはなかなか無理があるだろう。
また、同じく当時「ILO条約」と呼ばれる国際条約が存在し、日本も批准していた。これは、国際的な労働条件を定めたものであり、この条約に照らしても日本軍の慰安所は問題があったとされるようだ。またもう1つ、正確な名前は忘れてしまったが、奴隷に関する条約が存在しており、日本は未批准だったが、慣習法として定着はしていたという。国際法の専門家からは、その条約にも抵触するだろうという見解が得られているそうだ。
このように、「日本軍が用意した『慰安所』には、全員ではないだろうが、当時存在していた法律に違反する形で働かされていた人もいた」ということは事実として明白であるように思う。しかし、理由はよく分からなかったが、先程僕が②として挙げたこれらの問題は、いわゆる「慰安婦問題」には含まれていないように感じるし、あまり議論もされていないようだった。この点についても、日本政府は様々な理由をつけて「当時の法律に照らしてもセーフ」と主張しているようだが、僕にはその理屈は無理があると感じた。しかし、「慰安婦問題」を取り上げている人の焦点が、この②に当たることはあまり多くないようだ。どうしてなのかは、よく分からない。
というわけで、ここまでの僕の主張をまとめると、
《少なくとも慰安婦に関する問題については、「② ①のようなことがあったとして、そもそもそれは当時の『法律』に照らして合法だったのか?」という点について、日本には「法的責任」がある》
となる。僕はこの②においては、明らかに「日本に問題がある」と主張できるのではないかと考えている。
さてそれでは問題の③である。映画の中ではとにかく様々な主張・議論が存在するが、そのほとんどがこの③に関するものだったと感じる。あらためておさらいしておくと、
③ ①のようなことがあったとして、そこに女性を”強制的に”送り込んだのか?
(① 兵士の性の相手をさせる施設を、日本軍が”公式”に用意したのか?)
というのが、一般的に「慰安婦問題」と認識されているものだ。
そして、結論から書くと、僕の「前提」に照らして、この③については日本の「法的責任」を追求するのはちょっと難しいのではないか、と思う。
というのも、ここで問題になるのが「強制的」という言葉の「捉え方」だからだ。
安倍晋三は、たぶん総理大臣在任中のことだと思うが、「慰安婦が強制的に連れてこられたという証拠は存在しない」という答弁をしている。しかし、安倍晋三が言う「強制的」というのは、いわゆる「ロープで縛って連れ去る」ようなイメージの行為だ。「抵抗する相手を無理やり縛り付けて連行する」という意味での「強制」は存在しなかった、と安倍晋三は主張している。
まあ、そりゃあそうだろう、と思う。誰もそんな「強制」が行われたなどと思っていないだろう。
しかし難しいのは、では何を以って「強制的」と判断するのか、ということだ。
「慰安婦問題」の否定派は、「慰安婦の人たちは、いわゆる売春婦であり、たくさんお金をもらっていたし、自由もあった」と主張することで「強制的ではなかった」と言いたがっている。「慰安婦問題」が取り沙汰される際、外国では「性奴隷」という強い言葉が使われることが多いそうだが、彼らは「足に鎖をつけて閉じ込めていたわけじゃない」「奴隷が報酬をもらえますか?」みたいな言い方で、「強制的ではなかった」と主張しようとする。
しかしさすがにこの主張は通らないだろう。例えばまさに今、映画業界で監督らによるわいせつ問題が取り沙汰されているが、客観的に見て「強制的」と捉えられるような具体的な言動が存在しなかったとしても、「監督」と「俳優」という力関係がそこにある以上、「強制的ではなかった」という主張に説得力はない。慰安婦の場合も、外から見て「強制的」と判断されるような言動が存在しなかったとしても、力関係的に「強制的」と判断され得る状況にあった可能性は十分にある。
そして、何の証拠もないが、ごく一般的に考えて「力関係を誇示した強制はあった」と考えるのが自然だと僕は思う。それさえも無かった、と主張するのはちょっと非現実的すぎる。
韓国の事例ではないが、アメリカ軍が聞き取り調査をした記録の中に、「日本が女性を『フィリピンに良い働き口がある』と具体的な仕事内容を伝えずに連れて行った」という証言が存在するそうだ。これも形を変えた「強制」だと言っていいだろう。恐らくそのような、「本人の自由意志に基づかないという意味での『強制』」は様々な場面であったのだと思う。
ただ、僕が提示した「前提」を踏まえた場合、それを客観的な証拠を基に証明することはかなり困難だとも感じる。イメージでは「あった」と思うが、何らかの証拠からそれを強く推定させるような状況ではない。日本は明らかに誤ったことをしていると判断され得るが、しかし「法的責任」を問うのは困難だと感じるのだ。
またこの「強制」にはもう1つ、複雑な背景が存在する。それが「韓国の家父長制・男性優位の社会」である。
日本も大差なかったと思うが、第二次世界大戦中の韓国は、家長である父親の権限が強く、また女性は低く見られていた。映画の中ではあまり具体的に触れられなかったが、恐らく「家族によって『慰安所』に”売られた”女性もいたのだろう」と意見も存在するというわけだ。そう主張した大学教授のパク・ユハ氏は、出版した本の記述を問題視されて懲役3年の有罪判決を受けたと紹介されていた。韓国では、「慰安婦は強制連行されたのだ」という主張以外の意見を口にしにくい雰囲気があるそうだが、それにしても逮捕・起訴するとは驚きだ。
さて、家族に“売られた”場合も、当然だが「自由意志に反した『強制』」と言っていいだろう。しかし、この場合、日本に責任があると考えるのは無理があると僕は思う。映画の中で、「韓国の家父長制を利用した日本に問題がある」と主張する人物が出てきたが、言いすぎではないかと僕は感じた。日本政府が韓国の家父長制を利用したのだとして、確かに倫理的・道義的には「良くない」と思う。しかしこのケースまでも「慰安婦の“強制連行”の事例」に含まれるのはちょっと違うのではないかと思うのだ。
また映画の中で、「慰安婦として働かなければ生きていけない人たちもたくさんいた」という主張が出てくる。それは「それも日本に責任がある」という主旨の主張なわけだが、それもどうなのだろうと僕は感じる。もちろん、そのような理由から慰安婦になった女性も、「自由意思に反した『強制』」の枠組みには入ると思う。しかしじゃあ、「慰安婦として働かなければ生きていけない状況」のすべてが日本の責任なのかというと、それはどうだろうか。もちろん、日本が侵略戦争を仕掛けている側なのだから、日本に責任がないとは言わないが、この「慰安婦として働かなければ生きていけない人」が慰安婦として働く状況さえも「強制連行」の事例に含めてしまうのはちょっと問題の本質が違うように感じるのだ。
さて、ちょっと話が色んな方向に進んだのでちょっとまとめよう。
普通に考えて、「慰安婦として働いていた女性には、慰安所にやってくる様々な理由が存在した」と考えるのが妥当だろう。映画で触れられていたことを踏まえると、以下のようなケースが考えられる。
A:日本軍が何らかの形で「自由意志」を奪い連れてきた
B:日本軍が仕事内容を伝えず「騙して」連れてきた
C:家族に慰安所に「売られて」やってきた
D:様々な理由から困窮しており、慰安婦として働くことで生計を立てようとやってきた
他にもあるだろうが、とにかく、様々な事情を持つ人たちが入り混じっていたと考えるのが自然だろう。そして上に挙げたA~Dについて言えば、僕はA・Bは日本の責任だが、C・Dはそうではないはずだ、と考えている。
A・Bの事例も多数あっただろうし、そういう意味で日本に責任が皆無のはずがない。しかしC・Dのケースもあったはずだし、慰安婦全員に対して日本が責任を負うとも考えにくい。そして、A・Bがどの程度で、C・Dがどの程度なのか、今となっては分かるはずもない。だから、この問題を明快に責任問題として追及するのは不可能だ、と僕は思う。
しかし映画の中では、もう本当に意味不明なのだが、あたかも「慰安婦すべてがA・Bのケースだった」と主張しているように聞こえたり、あるいは「慰安婦のすべてがC・Dであり日本に責任はない」という言い方をしたりしている。そんなアホなことがあるはずがない。割合は不明だが、A~Dまですべてのケースが存在したと考えるのが妥当のはずだ。
しかし、そういう議論には一切ならない。とにかく「0」か「100」かでなければ決着がつけられないみたいな感じだ。
だから、映画で展開されるすべての議論が僕には不毛に思われる。そりゃあ、解決するはずがない。
日本人である僕がこういうことを書くと「責任逃れだ」みたいに言われるだろうが、しかし、「慰安婦問題」は今見てきた通り、「まともには解決が不可能」な問題になってしまっていると思う。だから、「慰安婦問題」に対して何か建設的なアクションを起こすとするのであれば、「慰安婦問題のような事柄が未来に起こらないようにする」ことぐらいだろう。もちろん、被害を受けた方に何もしなくていいというわけではないが、「慰安婦問題」がもはや既に「被害者」の存在を完全に置き去りにしたところで展開されているので、僕は「どうしようもない」と感じてしまった。また、それで十分なのかどうかはともかくとして、日本はこれまでにも元慰安婦の方に対して「支援・賠償」(適切な表現が何かは分からないけど)をしている。まったく何もしていないというわけではないので、「問題があまりにもややこしくなっている」ことも併せ、僕はもう、「過去に何が起こったのか」に関する明確な結論は見いだせないだろうと諦める気持ちがより強くなってしまった。
やはりそれよりは、「未来に同じことが起こらないようにどう責任を果たしていくのか」に目を向けなければならないと感じる。ロシアのウクライナ侵攻においても、市民が虐殺されたり、女性がレイプされたりしているというニュースを目にする。現代でもやはり、人間は同じ過ちを冒しているのだ。それをどのようにして回避できるのか、人類は考えなければならないのだと思う。
さて、映画では、「歴史修正主義者」あるいは「否定論者」と呼ばれる人たちが、「慰安婦は強制連行されていない」「南京虐殺は起こらなかった」という主張を「正史」とするために、憲法改正に積極的に動いたり、教科書の記述に介入したりしている現実にも触れられている。「過去に汚点など存在しない素晴らしい日本」を信じたい勢力みたいなのが権力の中枢にたくさんいて、そういう人たちが「戦前の日本」「明治憲法の時代」に時代を”逆行”させようとしている、という危機感が指摘されていた。
ホントに怖い。
っていうか、「歴史修正主義者・否定論者」の主張は結構ヤバかった。中でもイカれてると感じたのは、
【フェミニズムってのは、ブサイクな女が始めたんですよ。で、心の中も汚い】
【(アメリカでキング牧師による人種差別撤廃の運動が始まったのも)日本が戦争に勝ったから起こったんでしょう?】
みたいな発言だ。特に後者の発言は、最初聞き間違いかと思った。映画でも強調するためだろう、同じ発言が続けざまに2度流れた。彼は「日本が戦争に勝った世界」に生きているんだろうか???
とにかく映画に登場する人の中には、「『慰安婦問題』に関する主張がどうとか以前に、人間として発言がヤバすぎる」と感じさせる人がいる。つまり彼らは、「『こういう発言をしたらマズい』と実感できるような環境にいない」ということであり、それは僕ら一般市民が生きている世界と基本的にまったく接続しない世界なのだと思う。
だから、全然聞く気になれない。仮に「慰安婦問題」に関しての彼らの主張が真っ当なのだとしても、「セルフブランディング」に問題がありすぎて、その主張に大いにバイアスが掛かる。そのことが理解できているのかどうなのか、僕にはなんとも分からないが、ホントに「ヤバい世界だなぁ」と感じた。
もし彼らの主張が、「こういうヤバい発言をしまくることで、『まともに議論しよう』という気力を削ぎ落とそうとする作戦」だとしたら、僕はまんまとその術中にハマっているのだろう。もしそうだとするなら、その作戦は実に上手くいっていると評価せざるを得ない。
「主戦場」を観に行ってきました
「インフル病みのペトロフ家」を観に行ってきました
いやー、驚愕的に理解不能な映画だったなぁ。だからと言って「つまらなかった」わけでもないのだけど、ただ「面白かった」とはちょっと言い難い。
初めの1時間はウトウトしながら観ちゃったけど、後半1時間半はちゃんと起きて観てた。のに、全然意味が分からない。ストーリーや設定で理解できたことは、「インフルエンザにかかって咳ばっかりしてる主人公は、奥さんと離婚し、子どもと時々会う関係。小説家志望なのか?」「その元奥さんは図書館で働いてて、あとなんだかよく分かんないけどめっちゃ強くて、時々人を刺したりしてる」ってぐらい。あとはもう、なんのこっちゃ???
途中からなんとなく理解したのは、「リアルの世界」に混じって、どうやら主人公のペトロフの「妄想」が混じってるっぽいぞ、ということ。ただ、どれが妄想でどれが現実なのか、区別される箇所もあればそうでない箇所もあり、なにがなんだか。
とにかく、「観客に寄り添う語り部的存在」が映画の中に皆無なので、状況がとっ散らかったまま進んでいく。観客が注目すべきところがどこなのか分からず、「本筋」や「核」が何なのかも掴ませず、ただ「何かが進行している」という情報だけを捉えることができる、という感じだ。
だから、ストーリーを理解することは、途中で諦めた。
一方、映画を観ていると段々、「魔術的な音楽を聴いている」みたいな感覚になってくる。五感を奇妙に刺激するというか、良いとか悪いとかではなくて「囚われてしまう」みたいな音楽がたまにあるけど、そういう感じ。アフリカとかの部族の祭りで、エンドレスで同じリズムの音楽が鳴り響いてトランス状態に陥る、みたいな感覚だろうか。それを、視覚情報でやっている、という感じがする。
とにかく僕の目には、映画の中で展開される状況に「言語化出来る意味」を見いだせず、ただただ「五感のどこかを刺激するもの」としか受け取れない。外国で歌われている音楽を聞いても、歌詞の意味は理解できないが、音楽としては受け取れる、みたいな感じだろうか。ただ、「外国語の曲」の場合は「言語化出来る意味が見いだせなくてもしかない」と思えるが、それが「映画」の場合はそうは思えない。だから「自分の頭の中の認識」と「受け取られる感覚」に大きな齟齬を感じて、気持ち悪さが残る、みたいな状況だった。
しかし、なんとも言えない映画だったなぁ。なんとも言えない。
「インフル病みのペトロフ家」を観に行ってきました
初めの1時間はウトウトしながら観ちゃったけど、後半1時間半はちゃんと起きて観てた。のに、全然意味が分からない。ストーリーや設定で理解できたことは、「インフルエンザにかかって咳ばっかりしてる主人公は、奥さんと離婚し、子どもと時々会う関係。小説家志望なのか?」「その元奥さんは図書館で働いてて、あとなんだかよく分かんないけどめっちゃ強くて、時々人を刺したりしてる」ってぐらい。あとはもう、なんのこっちゃ???
途中からなんとなく理解したのは、「リアルの世界」に混じって、どうやら主人公のペトロフの「妄想」が混じってるっぽいぞ、ということ。ただ、どれが妄想でどれが現実なのか、区別される箇所もあればそうでない箇所もあり、なにがなんだか。
とにかく、「観客に寄り添う語り部的存在」が映画の中に皆無なので、状況がとっ散らかったまま進んでいく。観客が注目すべきところがどこなのか分からず、「本筋」や「核」が何なのかも掴ませず、ただ「何かが進行している」という情報だけを捉えることができる、という感じだ。
だから、ストーリーを理解することは、途中で諦めた。
一方、映画を観ていると段々、「魔術的な音楽を聴いている」みたいな感覚になってくる。五感を奇妙に刺激するというか、良いとか悪いとかではなくて「囚われてしまう」みたいな音楽がたまにあるけど、そういう感じ。アフリカとかの部族の祭りで、エンドレスで同じリズムの音楽が鳴り響いてトランス状態に陥る、みたいな感覚だろうか。それを、視覚情報でやっている、という感じがする。
とにかく僕の目には、映画の中で展開される状況に「言語化出来る意味」を見いだせず、ただただ「五感のどこかを刺激するもの」としか受け取れない。外国で歌われている音楽を聞いても、歌詞の意味は理解できないが、音楽としては受け取れる、みたいな感じだろうか。ただ、「外国語の曲」の場合は「言語化出来る意味が見いだせなくてもしかない」と思えるが、それが「映画」の場合はそうは思えない。だから「自分の頭の中の認識」と「受け取られる感覚」に大きな齟齬を感じて、気持ち悪さが残る、みたいな状況だった。
しかし、なんとも言えない映画だったなぁ。なんとも言えない。
「インフル病みのペトロフ家」を観に行ってきました
「ハッチング―孵化―」を観に行ってきました
超絶狂気的な物語だった。最近、『TITANE/チタン』とか『ポゼッサー』みたいな、「良いとか悪いとかではなく、とにかく凄いとしか言いようがない」って映画に出会うが、この映画もその1つに入った。人に勧めにくいし、「面白い?」って聞かれても素直に「うん」とは言いにくいけど、「凄かった?」と聞かれたら前のめりで「うん!」と答えるし、その凄まじさについてはちょっと語りたくなる。
ネタバレを気にせずに文章を書くつもりなので、内容をあまり知りたくない方は以下の文章を読まないでほしい。
映画を観ている最中は、頭を振り回されっぱなしという感じだったのでそこまで考える余裕はなかったのだが、観終わってあれこれ思い返してみると、この映画は「ジキルとハイド」みたいなものなのだろう、と思った。「みたいなもの」と書いたのには理由がある。「ジキルとハイド」の場合、1つの肉体の中で「善」と「悪」が切り替わるが、『ハッチング―孵化―』では、「善」と「悪」で肉体が分裂するのだ。
その見方を補強するかもしれない存在が、母親だ。まず母親について少し説明しよう。
母親は、自身のYoutubeチャンネル「素敵な毎日」を持っている。「普通のフィンランド人家族の日常を切り取る」というコンセプトで、夫と姉・弟の4人の生活を映し出していく。それはまさに「キラキラ」という形容詞をつけるのが適切であるように思う、「普通」とは言い難い生活だが、しかし母親は、「これが私たちの『普通』なんですよ」と暗に主張することで、特定の誰というわけではない誰かにマウントを取るような人物だ。
もっと端的に、悪意を込めて母親を表現すれば、「自分が理想とする『キラキラ』のために家族を平気で犠牲に出来る人物」となるだろう。
ただ、観客からはこの家族は「母親の犠牲」としか映らないが、家族は基本的に、母親のことが大好きみたいだ。彼ら自身は、まったく「犠牲」だなんて感じていない。少なくとも、この映画のスタート地点までは。そしてたぶんだが、映画の物語が展開してからも、夫と弟は、母親に対する感覚は「あまり」変わっていないと思う。
家族からは「素敵なお母さん」なのだ。
しかしそんな「素敵なお母さん」は、家族の前でも平然と「悪」を露出する。予告編でも流れる場面だが、映画冒頭、Youtubeの撮影中に窓から室内に入ってきたカラスを、姉・ティンヤが生け捕りするのだが、「外に放す?」と聞いたティンヤに、「こっちに」と寄越すよう伝え、そのままカラスの首をへし折る。そして「生ゴミに捨てておいて」と平然と言ってのけるのだ。
Youtubeで娘の素晴らしさを見せつけるために、なかなか上達しない新体操の技を、コーチに止められても練習させる。浮気をしていることを娘にあっさり伝え、さらにどうやら夫にもそのことを伝えている。そんな「素敵なお母さん」を中心に「家族」が成立していることそのものがまず「狂気」なのだが、観客にそこはかとなく伝わるその「狂気」は決して、この映画の核ではない。あくまで、「舞台装置」程度の存在でしかない。
さて、ここで僕が確認したかったことは、この母親は、「異様な形で『善』と『悪』を1つの肉体に内在させている」ということだ。
ただし、この母親の振る舞いは確かに「狂気」そのものなのだが、「『善』と『悪』を1つの肉体に内在させている」という部分だけ切り取れば、僕たちと同じだ。程度が違うだけであり、誰もがこの母親のように、「私/僕」という肉体の中に、「善」と「悪」が入り混じっており、時と場合によってそれらがごちゃっと混ざった形で表に出てくる。
一方、ティンヤにはどうもそれが出来ないようだ。
冒頭で、「ティンヤが静かに鬱屈を溜め込んでいるのだろう」と感じさせられる場面が多数描かれる。母親がカラスの首をへし折って生ゴミとして捨てた時、隣に引っ越してきた家族の犬の噛まれた時、その隣人の娘が同じ体操教室に通っており、自分よりも上手いことが分かった時。恐らくティンヤは、その内側に「なんともしがたい感情」を抱えている。
ただ彼女は、それを表に出すことができない。
その理由はたぶん、母親を見ているからではないかと思う。まさに「反面教師」というわけだ。ティンヤは、(それまで感じていなかったのかどうなのか描写がないので分からないが)少しずつ母親へと違和感を積み重ねていく。「こんな風にはなりたくない」と強く感じているだろう。誰だってそう思う。そう思わない夫と弟がむしろ異常なのだ。
母親を見て「こんな風にはなりたくない」と思っているティンヤは、自分の内側から溢れ出そうになる「悪」を、そのまま自分の内側に閉じ込めておくことしかできない。
そんな時、夜の森で卵を見つけるのだ。その卵を拾い、自分のベッドで温めて育てる。初めはニワトリの卵程度の大きさだったのに、いつの間にかダチョウの卵ぐらいの大きさになっていく。そして、「母親を浮気相手に取られてしまった」という悲しみの涙を吸収した卵は中から割れ、怪物が現れるのである。
ティンヤは怪物に「アッリ」という名前をつける。そして僕の解釈では、このアッリは、ティンヤの「悪」だけを凝縮した存在だ。
観客は最初、「ティンヤが何故、卵から出てきた怪物に優しく接しようとするのか」が全然理解できないはずだ。しかし映画を最後まで観ると、「ティンヤ=アッリ」だということが分かる。ティンヤは直感的に、アッリが自分自身であると分かったからこそ、グロテスクな見た目にも拘わらず、その怪物を育てることにしたのだろう。
そして、「ティンヤ=アッリ」だと分かったことで、彼女がアッリを育てようと決めたもう1つの理由が見えてくる。それは、「ティンヤ自身の内側からは表に出すことができない『悪』を、アッリに代わりに出してもらう」ためなのだと思う。ティンヤはこの怪物との邂逅に至るまで、学校でも母親との関係でも隣人とのやり取りでも様々な鬱屈を抱えてきた。しかしそれぞれの場面で、「嫌だ」「悲しい」「辛い」「辞めたい」みたいなことは言えないし、むしろ母親を喜ばせるようなことばかり口にしてしまう。
そんな自分に嫌気が差していたのだ。
アッリがティンヤ自身の「悪」そのものだと直感していたのだとすれば、その「悪」を育てることで自分の現状を打破できるかもしれない……ティンヤがそう考えたとしても不思議ではない。だから、グロテスクな見た目の怪物をお風呂に入れ、一生懸命吐き(アッリは普通の食べ物は食べず、ティンヤの吐瀉物だけは食べる)、家族に見つからないように必死で隠すのだ。
要するに、新手の多重人格みたいなものだ。多重人格について詳しいわけではないが、よく耳にするのは、「主人格が虐待やいじめなど苦痛を感じている時に、『今は自分が苦しんでいるんじゃない』と思い込むために別人格が生み出される」というものだ。同じような仕組みで、「別人格」ではなく「別肉体」を作り出したのがこの映画だと言っていいだろう。自分自身は良い子でいたい。でも、「良い子でいる」ということがどうしても苦しくなる時がある。そういう時に、「自分とは違うけれども、自分の『悪』だけが凝縮された存在」がいたらとても都合がいい。悪いことは、全部そいつがやってくれる。自分の内側に芽生える「悪」をちゃんと表に出しながら、ティンヤ自身は「良い子」のままでいられるというわけだ。
確かに、そんな仕組みが存在するなら、ちょっと惹かれてしまうだろう。卵を拾った時点でここまで考えていたとは思えないが、恐らく、卵が割れ、中から怪物が出てきて、しかしコミュニケーションが取れそうだと理解できた辺りでは、既にこういうことを考えていたのではないかと思う。そうでなければ、グロテスクな怪物を育てる動機が見つからないからだ。
ティンヤの「悪」の塊であるアッリは、分かりやすく「ティンヤの苛立ち」に反応する。ティンヤとアッリは一心同体なのだから当然だ。しかしティンヤは、アッリの「怒り」が予想以上に強いことに驚く。つまりそれは、ティンヤ自身の「怒り」が凶悪だということを意味する。アッリは、ティンヤが予想もしなかったレベルでその「怒り」を具現化する。
今こうして文章を書きながらようやく理解したが、アッリが最初に危害を加えたのが「犬」だったことはそう繋がるのか。その場面ではまだ、「ティンヤ=アッリ」だとは思っていなかったので、何故「犬」が殺されたのかよく分からなかった(最初は、食料として食べたのだと思ったが、吐瀉物しか食べないのでそうではないし)。やがて、それが「隣家の犬」だと明かされるのだが、つまり、「指を噛まれた復讐」というわけなのだ。「ティンヤが指を噛まれたこと」が「アッリがその犬を殺す」ことに直結しているのである。
その後も、「ティンヤが感じた『怒り』」と「アッリの『復讐』」があまりにも釣り合わないレベルで遂行されていく。ティンヤは、アッリの行動が自身の「怒り」から来るものだと理解しているから、アッリの行動を「あり得ない!」と感じてはいるものの完全に拒絶することはできない。こんなことになるなら、自分の「悪」を自分の内側に留めたままにしておけばよかったと感じただろうが、たぶんどうにもならない。ティンヤとしては「消えて!」と叫ぶぐらいしかできない。
さて、そんな風に考えた時、ラストシーンはどうなるのか。赤ちゃんに斧を振り上げた場面でも示唆されたが、ティンヤとアッリは「強い痛み」で繋がっているようだ。だから、母親がアッリに包丁を突きつけた時、ティンヤも痛みを感じた。母親はきっと理解していなかったが、母親がもしアッリを殺せば、ティンヤも死んでしまうのではないか、と観客は考えると思う。僕はそう考えた。
しかしその後、思いもよらないことに、母親が再び振り下ろしたナイフがティンヤの胸に突き刺さる。ティンヤがアッリを庇ったのだ。なかなか複雑な行動ではあるが、しかし分からないではない。ティンヤはずっと、アッリに「消えろ」と言っていた。これは、「私の前にはどうか現れないでくれ」という意味だ。ある種の一心同体なのだから、繋がりを断つことはできない。またティンヤ自身も、「自分の中の『悪』だけを凝縮した存在」として育ててしまったことへの申し訳なさみたいなものもあるだろう。アッリだけが悪いのでは決してないし、ティンヤの視点からすればアッリの行動はすべて自分のせいなのだし、アッリだけにすべての責任を被せて終わらせられない、という気持ちになったのではないかと思う。
さてその後どうなったのか。恐らく、ティンヤは死んだだろう。しかし、それまで獣のように叫んでいたアッリが、まるでティンヤのような振る舞いで立ち上がるのだ。
そこで映画は終わる。
あくまで僕の予想だが、この場面は恐らく「ティンヤの『善』と『悪』が、アッリの身体で再び1つになった」ことを意味するのだと思う。つまり、母親と同じ、つまり僕たちと同じようになった、というわけだ。狂気づくしの映画だったが、この解釈を採用するのであれば、ティンヤにとってはハッピーエンドだったと言っていいのではないかと思う。
では、誰にとってバッドエンドなのか。それは母親だ。
母親が、ティンヤとアッリ2人の存在に気づいて以降の展開は、非常に示唆的だ。母親は明確にアッリを殺そうとするが(冒頭でカラスの首をへし折ったのと同じような感覚でいるはずだ)、そのスタンスはまさに、「自分の娘は『良い子』であってほしい」という母親自身のエゴそのものだ。
ある場面で母親はティンヤに対して、
【せめてあなたぐらいは私を幸せにしてほしかった】
と言う。そもそもこのセリフから、「母親は普段幸せを感じていないこと」が示唆されるし、それは「Youtubeで見せている姿はすべて虚構である」ことをさらに裏付けるものなのだが、それに加えて、「娘が『完璧な存在』なら、私も幸せでいられるのに」みたいな意味も込められているだろう。
凄まじいセリフだ。
しかし、ティンヤとアッリという2人の存在を知ったことで、「アッリさえ殺してしまえば、娘が『完璧な存在』で居続けられる」と母親は考える。考えたはずだ。だからこそ、意気揚々とアッリを殺そうとする。
母親は、それがどれほど「虚構」だったとしても、「自分が理想とする『幸せ』」の追求を諦めないのだ。
しかし、そんな母親の希望は、母親自身の行動で打ち砕かれてしまう。ティンヤを殺してしまったこと、そしてティンヤの「善」と「悪」がアッリの中で1つに融合されたことは、母親が望む「完璧な娘」が完全に消えてしまったことを意味するはずだ。
これによって、母親が望む「素敵な毎日」は途絶えてしまったと言っていいだろう。
というのが僕の解釈だ。そんなに大きくは外していないと思っているが、どうだろうか。
さて、今ここに書いたようなことは、映画を観ている最中にはなかなか言語化出来ていなかった。とにかく、「ホラー作品としてちゃんと怖い映画」であり、しかもその「怖さ」が、「何がなんだか全然分からない」という「怖さ」なので余計に恐ろしい。「え??マジで何が起こってるわけ???」みたいなパニック状態のまま最後まで突き進んでいく映画で、映画を観終わった時の素直な感想は、「マジなにこれヤバすぎ」というシンプルなものだった。
また、映画の冒頭から、「様々な『狂気』がさも『当たり前』であるかのように進行していく」という展開も結構恐ろしい。現代のフィンランドが舞台のはずなのに、僕たちの常識がことごとく通用しない、まったく足元が定まらないグラグラした舞台で物語が進んでいくので、その不安定さに観客もまた揺れ動かされるというわけだ。
とにかく、観ている間は思考が追いつかず、「え?え??え???」みたいなまま、「全然分からないけど怖い」という感じで進んでいく。しかし、改めて思い返してみて、「なるほど、きっとこういう設定だったのだろうな」と感じられる。僕の解釈が合っているとして、「肉体分裂版ジキルとハイド」という設定は非常に面白いし、「自分の『悪』だけが別の肉体で存在する」というのは、ある意味で理想的と感じてしまう部分もある。ティンヤも、アッリがあそこまで凶悪でなければ、分裂している状態を「喜ばしいもの」として許容できていたのではないかと思う。
公式HPによると、監督は本作が長編デビュー作だそうだし、主人公のティンヤは1200人の中からオーディションで選ばれたそうで、恐らく演技未経験だと思う(HPにはシンクロナイズドスケートの選手だと書いてある)。まったく、凄い人ってのはやっぱりいるもんだ。
「ハッチング―孵化―」を観に行ってきました
ネタバレを気にせずに文章を書くつもりなので、内容をあまり知りたくない方は以下の文章を読まないでほしい。
映画を観ている最中は、頭を振り回されっぱなしという感じだったのでそこまで考える余裕はなかったのだが、観終わってあれこれ思い返してみると、この映画は「ジキルとハイド」みたいなものなのだろう、と思った。「みたいなもの」と書いたのには理由がある。「ジキルとハイド」の場合、1つの肉体の中で「善」と「悪」が切り替わるが、『ハッチング―孵化―』では、「善」と「悪」で肉体が分裂するのだ。
その見方を補強するかもしれない存在が、母親だ。まず母親について少し説明しよう。
母親は、自身のYoutubeチャンネル「素敵な毎日」を持っている。「普通のフィンランド人家族の日常を切り取る」というコンセプトで、夫と姉・弟の4人の生活を映し出していく。それはまさに「キラキラ」という形容詞をつけるのが適切であるように思う、「普通」とは言い難い生活だが、しかし母親は、「これが私たちの『普通』なんですよ」と暗に主張することで、特定の誰というわけではない誰かにマウントを取るような人物だ。
もっと端的に、悪意を込めて母親を表現すれば、「自分が理想とする『キラキラ』のために家族を平気で犠牲に出来る人物」となるだろう。
ただ、観客からはこの家族は「母親の犠牲」としか映らないが、家族は基本的に、母親のことが大好きみたいだ。彼ら自身は、まったく「犠牲」だなんて感じていない。少なくとも、この映画のスタート地点までは。そしてたぶんだが、映画の物語が展開してからも、夫と弟は、母親に対する感覚は「あまり」変わっていないと思う。
家族からは「素敵なお母さん」なのだ。
しかしそんな「素敵なお母さん」は、家族の前でも平然と「悪」を露出する。予告編でも流れる場面だが、映画冒頭、Youtubeの撮影中に窓から室内に入ってきたカラスを、姉・ティンヤが生け捕りするのだが、「外に放す?」と聞いたティンヤに、「こっちに」と寄越すよう伝え、そのままカラスの首をへし折る。そして「生ゴミに捨てておいて」と平然と言ってのけるのだ。
Youtubeで娘の素晴らしさを見せつけるために、なかなか上達しない新体操の技を、コーチに止められても練習させる。浮気をしていることを娘にあっさり伝え、さらにどうやら夫にもそのことを伝えている。そんな「素敵なお母さん」を中心に「家族」が成立していることそのものがまず「狂気」なのだが、観客にそこはかとなく伝わるその「狂気」は決して、この映画の核ではない。あくまで、「舞台装置」程度の存在でしかない。
さて、ここで僕が確認したかったことは、この母親は、「異様な形で『善』と『悪』を1つの肉体に内在させている」ということだ。
ただし、この母親の振る舞いは確かに「狂気」そのものなのだが、「『善』と『悪』を1つの肉体に内在させている」という部分だけ切り取れば、僕たちと同じだ。程度が違うだけであり、誰もがこの母親のように、「私/僕」という肉体の中に、「善」と「悪」が入り混じっており、時と場合によってそれらがごちゃっと混ざった形で表に出てくる。
一方、ティンヤにはどうもそれが出来ないようだ。
冒頭で、「ティンヤが静かに鬱屈を溜め込んでいるのだろう」と感じさせられる場面が多数描かれる。母親がカラスの首をへし折って生ゴミとして捨てた時、隣に引っ越してきた家族の犬の噛まれた時、その隣人の娘が同じ体操教室に通っており、自分よりも上手いことが分かった時。恐らくティンヤは、その内側に「なんともしがたい感情」を抱えている。
ただ彼女は、それを表に出すことができない。
その理由はたぶん、母親を見ているからではないかと思う。まさに「反面教師」というわけだ。ティンヤは、(それまで感じていなかったのかどうなのか描写がないので分からないが)少しずつ母親へと違和感を積み重ねていく。「こんな風にはなりたくない」と強く感じているだろう。誰だってそう思う。そう思わない夫と弟がむしろ異常なのだ。
母親を見て「こんな風にはなりたくない」と思っているティンヤは、自分の内側から溢れ出そうになる「悪」を、そのまま自分の内側に閉じ込めておくことしかできない。
そんな時、夜の森で卵を見つけるのだ。その卵を拾い、自分のベッドで温めて育てる。初めはニワトリの卵程度の大きさだったのに、いつの間にかダチョウの卵ぐらいの大きさになっていく。そして、「母親を浮気相手に取られてしまった」という悲しみの涙を吸収した卵は中から割れ、怪物が現れるのである。
ティンヤは怪物に「アッリ」という名前をつける。そして僕の解釈では、このアッリは、ティンヤの「悪」だけを凝縮した存在だ。
観客は最初、「ティンヤが何故、卵から出てきた怪物に優しく接しようとするのか」が全然理解できないはずだ。しかし映画を最後まで観ると、「ティンヤ=アッリ」だということが分かる。ティンヤは直感的に、アッリが自分自身であると分かったからこそ、グロテスクな見た目にも拘わらず、その怪物を育てることにしたのだろう。
そして、「ティンヤ=アッリ」だと分かったことで、彼女がアッリを育てようと決めたもう1つの理由が見えてくる。それは、「ティンヤ自身の内側からは表に出すことができない『悪』を、アッリに代わりに出してもらう」ためなのだと思う。ティンヤはこの怪物との邂逅に至るまで、学校でも母親との関係でも隣人とのやり取りでも様々な鬱屈を抱えてきた。しかしそれぞれの場面で、「嫌だ」「悲しい」「辛い」「辞めたい」みたいなことは言えないし、むしろ母親を喜ばせるようなことばかり口にしてしまう。
そんな自分に嫌気が差していたのだ。
アッリがティンヤ自身の「悪」そのものだと直感していたのだとすれば、その「悪」を育てることで自分の現状を打破できるかもしれない……ティンヤがそう考えたとしても不思議ではない。だから、グロテスクな見た目の怪物をお風呂に入れ、一生懸命吐き(アッリは普通の食べ物は食べず、ティンヤの吐瀉物だけは食べる)、家族に見つからないように必死で隠すのだ。
要するに、新手の多重人格みたいなものだ。多重人格について詳しいわけではないが、よく耳にするのは、「主人格が虐待やいじめなど苦痛を感じている時に、『今は自分が苦しんでいるんじゃない』と思い込むために別人格が生み出される」というものだ。同じような仕組みで、「別人格」ではなく「別肉体」を作り出したのがこの映画だと言っていいだろう。自分自身は良い子でいたい。でも、「良い子でいる」ということがどうしても苦しくなる時がある。そういう時に、「自分とは違うけれども、自分の『悪』だけが凝縮された存在」がいたらとても都合がいい。悪いことは、全部そいつがやってくれる。自分の内側に芽生える「悪」をちゃんと表に出しながら、ティンヤ自身は「良い子」のままでいられるというわけだ。
確かに、そんな仕組みが存在するなら、ちょっと惹かれてしまうだろう。卵を拾った時点でここまで考えていたとは思えないが、恐らく、卵が割れ、中から怪物が出てきて、しかしコミュニケーションが取れそうだと理解できた辺りでは、既にこういうことを考えていたのではないかと思う。そうでなければ、グロテスクな怪物を育てる動機が見つからないからだ。
ティンヤの「悪」の塊であるアッリは、分かりやすく「ティンヤの苛立ち」に反応する。ティンヤとアッリは一心同体なのだから当然だ。しかしティンヤは、アッリの「怒り」が予想以上に強いことに驚く。つまりそれは、ティンヤ自身の「怒り」が凶悪だということを意味する。アッリは、ティンヤが予想もしなかったレベルでその「怒り」を具現化する。
今こうして文章を書きながらようやく理解したが、アッリが最初に危害を加えたのが「犬」だったことはそう繋がるのか。その場面ではまだ、「ティンヤ=アッリ」だとは思っていなかったので、何故「犬」が殺されたのかよく分からなかった(最初は、食料として食べたのだと思ったが、吐瀉物しか食べないのでそうではないし)。やがて、それが「隣家の犬」だと明かされるのだが、つまり、「指を噛まれた復讐」というわけなのだ。「ティンヤが指を噛まれたこと」が「アッリがその犬を殺す」ことに直結しているのである。
その後も、「ティンヤが感じた『怒り』」と「アッリの『復讐』」があまりにも釣り合わないレベルで遂行されていく。ティンヤは、アッリの行動が自身の「怒り」から来るものだと理解しているから、アッリの行動を「あり得ない!」と感じてはいるものの完全に拒絶することはできない。こんなことになるなら、自分の「悪」を自分の内側に留めたままにしておけばよかったと感じただろうが、たぶんどうにもならない。ティンヤとしては「消えて!」と叫ぶぐらいしかできない。
さて、そんな風に考えた時、ラストシーンはどうなるのか。赤ちゃんに斧を振り上げた場面でも示唆されたが、ティンヤとアッリは「強い痛み」で繋がっているようだ。だから、母親がアッリに包丁を突きつけた時、ティンヤも痛みを感じた。母親はきっと理解していなかったが、母親がもしアッリを殺せば、ティンヤも死んでしまうのではないか、と観客は考えると思う。僕はそう考えた。
しかしその後、思いもよらないことに、母親が再び振り下ろしたナイフがティンヤの胸に突き刺さる。ティンヤがアッリを庇ったのだ。なかなか複雑な行動ではあるが、しかし分からないではない。ティンヤはずっと、アッリに「消えろ」と言っていた。これは、「私の前にはどうか現れないでくれ」という意味だ。ある種の一心同体なのだから、繋がりを断つことはできない。またティンヤ自身も、「自分の中の『悪』だけを凝縮した存在」として育ててしまったことへの申し訳なさみたいなものもあるだろう。アッリだけが悪いのでは決してないし、ティンヤの視点からすればアッリの行動はすべて自分のせいなのだし、アッリだけにすべての責任を被せて終わらせられない、という気持ちになったのではないかと思う。
さてその後どうなったのか。恐らく、ティンヤは死んだだろう。しかし、それまで獣のように叫んでいたアッリが、まるでティンヤのような振る舞いで立ち上がるのだ。
そこで映画は終わる。
あくまで僕の予想だが、この場面は恐らく「ティンヤの『善』と『悪』が、アッリの身体で再び1つになった」ことを意味するのだと思う。つまり、母親と同じ、つまり僕たちと同じようになった、というわけだ。狂気づくしの映画だったが、この解釈を採用するのであれば、ティンヤにとってはハッピーエンドだったと言っていいのではないかと思う。
では、誰にとってバッドエンドなのか。それは母親だ。
母親が、ティンヤとアッリ2人の存在に気づいて以降の展開は、非常に示唆的だ。母親は明確にアッリを殺そうとするが(冒頭でカラスの首をへし折ったのと同じような感覚でいるはずだ)、そのスタンスはまさに、「自分の娘は『良い子』であってほしい」という母親自身のエゴそのものだ。
ある場面で母親はティンヤに対して、
【せめてあなたぐらいは私を幸せにしてほしかった】
と言う。そもそもこのセリフから、「母親は普段幸せを感じていないこと」が示唆されるし、それは「Youtubeで見せている姿はすべて虚構である」ことをさらに裏付けるものなのだが、それに加えて、「娘が『完璧な存在』なら、私も幸せでいられるのに」みたいな意味も込められているだろう。
凄まじいセリフだ。
しかし、ティンヤとアッリという2人の存在を知ったことで、「アッリさえ殺してしまえば、娘が『完璧な存在』で居続けられる」と母親は考える。考えたはずだ。だからこそ、意気揚々とアッリを殺そうとする。
母親は、それがどれほど「虚構」だったとしても、「自分が理想とする『幸せ』」の追求を諦めないのだ。
しかし、そんな母親の希望は、母親自身の行動で打ち砕かれてしまう。ティンヤを殺してしまったこと、そしてティンヤの「善」と「悪」がアッリの中で1つに融合されたことは、母親が望む「完璧な娘」が完全に消えてしまったことを意味するはずだ。
これによって、母親が望む「素敵な毎日」は途絶えてしまったと言っていいだろう。
というのが僕の解釈だ。そんなに大きくは外していないと思っているが、どうだろうか。
さて、今ここに書いたようなことは、映画を観ている最中にはなかなか言語化出来ていなかった。とにかく、「ホラー作品としてちゃんと怖い映画」であり、しかもその「怖さ」が、「何がなんだか全然分からない」という「怖さ」なので余計に恐ろしい。「え??マジで何が起こってるわけ???」みたいなパニック状態のまま最後まで突き進んでいく映画で、映画を観終わった時の素直な感想は、「マジなにこれヤバすぎ」というシンプルなものだった。
また、映画の冒頭から、「様々な『狂気』がさも『当たり前』であるかのように進行していく」という展開も結構恐ろしい。現代のフィンランドが舞台のはずなのに、僕たちの常識がことごとく通用しない、まったく足元が定まらないグラグラした舞台で物語が進んでいくので、その不安定さに観客もまた揺れ動かされるというわけだ。
とにかく、観ている間は思考が追いつかず、「え?え??え???」みたいなまま、「全然分からないけど怖い」という感じで進んでいく。しかし、改めて思い返してみて、「なるほど、きっとこういう設定だったのだろうな」と感じられる。僕の解釈が合っているとして、「肉体分裂版ジキルとハイド」という設定は非常に面白いし、「自分の『悪』だけが別の肉体で存在する」というのは、ある意味で理想的と感じてしまう部分もある。ティンヤも、アッリがあそこまで凶悪でなければ、分裂している状態を「喜ばしいもの」として許容できていたのではないかと思う。
公式HPによると、監督は本作が長編デビュー作だそうだし、主人公のティンヤは1200人の中からオーディションで選ばれたそうで、恐らく演技未経験だと思う(HPにはシンクロナイズドスケートの選手だと書いてある)。まったく、凄い人ってのはやっぱりいるもんだ。
「ハッチング―孵化―」を観に行ってきました
「メイド・イン・バングラデシュ」を観に行ってきました
ある場面で、バングラデシュの縫製工場で働く女性従業員の給料に言及される場面がある。
労働者の権利を守る団体に所属する女性が主人公のシムに、「このTシャツを毎月どれぐらい縫うの?」と聞く。シムは「1650枚」と答える。それに対して団体の女性が、「あなたたちの月収は、そのTシャツ2、3枚分ぐらいよ」と答えるのだ。
ちょっと正確に覚えておらず、「ひと月1650枚」ではなく「1日1650枚」だったかもしれない。あと、「Tシャツ2、3枚分」というのも、そのTシャツの店頭販売価格に換算した値段だと思うのだが、ちゃんとは分からない。しかしいずれにしても、かなりの低賃金で働かされていることが分かるだろう。
しかも、給料の未払いが発生したり、残業代が支払われなかったりと、働く女性たちの状況は厳しい。
バングラデシュといえば、2013年の縫製工場のビル崩落事故が記憶に新しい。1000人以上が死亡する、ファッション産業の汚点とも言うべき事故だった。
(映画の中ではこのようなバングラデシュの現状の説明があるわけではない。この記事では、https://www.fashionsnap.com/article/rana-plaza-collapse-5years/の記述も参考にしながら書いていく)
バングラデシュは、世界のファストファッションブランドの工場がひしめき合っていることで知られており、アパレル産業では世界トップクラスのシェアを誇る。実にバングラデシュの輸出の80%がアパレルだそうだ。「H&M」「ユニクロ」「ZARA」「GAP」など、様々なメーカーがバングラデシュの工場に縫製などを委託している。
そして、そんな縫製工場で働く女性を描くのがこの映画なのだ。僕たちが普段当たり前のように来ている服を作っている女性たちの問題であり、決して他人事ではない。
映画の最後に、「この物語は、ダリヤ・アクター・ドリの実話に基づく」と表記された。映画では「シム」という名前で登場する女性に、モデルがいるというわけだ。そしてシムはこの映画の中で何をしようとしているかといえば、「工場内に労働組合を作ろうとしている」のである。
「ただそれだけの物語だ」と言ってしまえばそれまでだが、「『労働組合を作る』というだけのことがどれほど大変なのか」を実感させる物語でもある。
そもそもシムにしても、「労働組合」などというものが存在することさえ知らなかった。きっかけは、働いていた工場で起こった火災にある。
13、4歳の頃に義母の勧めで40歳の男性と結婚させられそうになったシムは、父親の財布を奪って逃げ、バングラデシュの首都ダッカへとやってきた。靴工場で働いたが薬品の臭いがきつくて辞め、家政婦になったが暴力を受け、それから縫製工場で働くことになった。今働いている工場は3軒目だ。
そしてその工場で火事が起こる。給料を払ってもらおうと工場へ向かうシムだが、入り口に警備員がいて通してくれない。悪態をついて帰ろうとしたところで、労働組合支援の団体で働くナシムに声を掛けられたのだ。そこでシムは初めて「労働組合」の存在を知る。法律を学び、ナシムの支援も得ながら労働組合設立のために動くことに決めた。
何故なら、誰もが劣悪な環境で働いているからだ。縫製工場の労働者の80%は女性である。それについては、「経営者は女性の方が支配しやすく、賃金も払わなくていいと考えているから」と映画の中で説明された。安全管理にも問題があるし、気に食わなければすぐに解雇される。「労働者の権利」などまったく存在しないに等しい環境なのだ。
しかし、労働組合設立のハードルは高い。全従業員の3割の署名が必要なのだが、経営者側は労働組合設立の動きを常に監視していて、表立って署名を集められない。ある時など経営者が、「労働組合のことなんか考えるなよ。労働組合ができた工場はどこも閉鎖してる。ここが閉鎖してもいいのか?」と脅しをかけてくる。
また、夫の存在もややこしい。そもそも、シムの夫は無職で、だからシムが働いて生計を立てなければならない。夫も当初は、自身のそんな立場を理解して、シムに対して強くは出て来ない。それでも、「労働組合なんか止めとけ。警察に捕まるぞ」と忠告されてしまう。さらに、夫は仕事が見つかるや、労働組合の設立に奮闘するシムの気持ちなど無視して、「今は俺が働いてるんだから、お前は仕事を辞めろよ」と言ってくる。なかなかのクズ夫だが、しかしやはり、夫を無視して話を進めるのも難しい。
しかし何よりもシムにとって辛かったのは、自分が労働組合設立のために動くことで、同僚たちに様々な不利益が生じてしまうことだろう。それらの不利益に、シムが直接的に責任があるわけではないが(どう考えても、工場で起こる問題のほぼすべては経営側に問題がある)、しかし間接的にシムが関わっていることは確かだし、同僚も、経営者に怒りをぶつけられない分、シムに苛立ちを向けてしまう。
シムは、もちろん自分のためでもありましたが、間違いなく同僚たちのために立ち上がりました。経営者や夫に理解されなくても、せめて同僚には味方でいてほしかったでしょう。それすらもままならず、決して孤独だったわけではありませんが、思うようには事が進まずに、しんどい思いをすることになってしまいます。
誰もが「間違っている」と感じるでしょう。しかし、その「間違っている」土台の上に、僕たちの「安価で便利な生活」が成り立っているのも事実なわけです。
僕たちはもう、今の「安価で便利な生活」を手放せません。自分たちの日常を”犠牲”にしてまで、遠い国の女性たちを助けようとする行動は、なかなか長続きしないだろうと思います。じゃあどうすればいいのかはちゃんと結論があるわけではありませんが、普段買っている服に限らず、「これは一体どこでどのように作られているのだろうか?」と意識してみることが大事なのではないかと思う。
僕たちは、何か惨事が起こった時にしか「悲劇」に目を向けない。しかし実際には、「悲劇」は日常の中にある。2013年の縫製工場ビル崩壊事故ももちろん「悲劇」だが、それ以上の「悲劇」は実は、そこで普段から働いている女性たちの「いつもの労働」にこそあるというわけだ。
もちろん、世界のすべての「悲劇」を理解し、それに対して行動を起こすのは不可能だ。けれど、せめて「想像する」ぐらいの時間は取ってみてもいいと思う。
僕がよく考えることがある。それは、世の中のありとあらゆる「悲劇」はもう、「それってかっこ悪い」という言葉で解決していくしかないんじゃないか、と。SDGsやESG投資が広まり始めているのも、根底に「環境破壊や社会問題を無視する企業ってかっこ悪い」という感覚があるからだと僕は思っている。
すべての問題を「それってかっこ悪い」で解決するのは不可能だとしても、多くの問題にとって抑止力となると思うし、そういう感覚的な影響力が結局一番効くということもあると思っている。
そして、「かっこ悪い」と感じるためには、まず「知る」ことが重要だ。知らなければ、「かっこ悪い」と感じることもできなくなる。
だから、まず想像してみる、そして気が向いたら知ろうとしてみる。多くの人がそういう行動を取ることで、「それってかっこ悪いんじゃね?」という感覚が積み上がっていくのではないか。
バングラデシュの労働条件の改善には、世界のアパレルブランドが協力して改善に乗り出しているそうだ。しかしどうしたって、「利益」のことを考えれば、仕事の「上流」に位置する存在が「下流」の労働条件を変えるのは難しいだろう。Apple社が、「世界中のサプライヤー企業に、100%自然エネルギーを使用するように通達した」というニュースは話題になったし、これは「上流」企業による「下流」企業の良い方向の改革だと感じるが、すべての企業がApple社のようには振る舞えないだろう。
だから結局、消費者が変わる以外には解決の道はない。
少し話は変わるが、ロシアによるウクライナ侵攻に関係するニュースで、「色んなものの値段が上がって大変だ」というものがある。確かにその通りだと思うが、そもそもここには、「今後、ウクライナへ侵攻したようなロシアと経済活動を続けていくのか?」という視点が抜け落ちていて気持ち悪いと感じてしまう。
もちろん、エネルギー関連など、文明生活の維持にどうしても不可欠で、日本では自給が不可能なものもあるので、ありとあらゆる面でロシアとの経済活動を止めることはできないだろう。しかし、どうしてもそれがなければ生活が成り立たない、というものでなければ、もはや僕たちは「ロシアから何かを輸入することを諦めること」を前提とした未来を想定しなければならないと思う。「物の値段が上がって大変だ」ではなく、「ロシア産のものなんか要らない」ぐらいの気持ちを持つことが、いち消費者としてぐらいしか今回の事態に関われない僕らのような一般市民ができる”闘い方”ではないのか、と思う。
僕たち消費者が、「ウクライナに侵攻したロシア産でも、安い方がいいよね」「バングラデシュの人たちを酷い労働環境で働かせて作ったTシャツでも安い方がいいよね」と思っている限り、おそらく問題は一生解決しない。僕ら消費者は、「そんなもの意地でも買わない」というカードを切るぐらいしか社会に抵抗できないのだから。
もちろん、こんな風に書いていても、僕はユニクロで服を買うし、ロシアから輸入したかもしれない海産物を使った寿司を食べたりもするだろう。ただ、企業なり日本という国家なりが「モノの値段は上がるけど、◯◯で作られた△△は輸入しません」と決めるなら、それは素直に受け入れようと思っている。
僕にできるのはきっとそれぐらいのことだろう。なかなか無力だが、しかし、やはりこの映画のような現実を知ってしまうと、何も知らなかった時のようにモノを購入するのは難しくなる。
改めてそんな風に考えさせてくれた映画だ。
少しだけ映画の話に戻そう。映画としては、役者の演技が優れているわけでもないし、ストーリー上の盛り上がりがあるわけでもなく、平凡と言えば平凡だ。ただ、個人的に興味深いと感じたのは、「ドキュメンタリーっぽい感じの映像がちょいちょい組み込まれること」だ。屋外での場面でよくそう感じた。恐らく、「今から映画の撮影をするんで皆さんちょっとカメラに映らないようにお願いします」みたいなことをやらず、いつもの街中を女優に歩かせて、その様子をカメラで撮っているからそう見えるんだと思う。だから、屋内のシーンはフィクションっぽいけど、屋外のシーンはドキュメンタリーっぽいという、ちぐはぐは映像になっている。
そして個人的には、これってなかなか面白いなと感じた。「剥き出しのリアル」という感じがするのだ。映画でもテレビ番組でも時々、「フェイクドキュメンタリー」みたいな、フィクションなんだけどドキュメンタリーっぽく撮ってる映像があったりするが、ちょっとそれに近い。さらにそれを、バングラデシュという、首都ダッカなのに道端をニワトリが歩いているような発展途上国でやるから、余計に「剥き出し感」が強くなるように感じた。
フィクションの映画としてはちょっと高く評価することは難しいが、「ある種のドキュメンタリー映画」と捉えれば、映し出される事実に圧倒されるだろう。自分たちの日常生活が、どれほど「間違っている」土台の上に成立しているのかを実感できる作品でもある。
「メイド・イン・バングラデシュ」を観に行ってきました
労働者の権利を守る団体に所属する女性が主人公のシムに、「このTシャツを毎月どれぐらい縫うの?」と聞く。シムは「1650枚」と答える。それに対して団体の女性が、「あなたたちの月収は、そのTシャツ2、3枚分ぐらいよ」と答えるのだ。
ちょっと正確に覚えておらず、「ひと月1650枚」ではなく「1日1650枚」だったかもしれない。あと、「Tシャツ2、3枚分」というのも、そのTシャツの店頭販売価格に換算した値段だと思うのだが、ちゃんとは分からない。しかしいずれにしても、かなりの低賃金で働かされていることが分かるだろう。
しかも、給料の未払いが発生したり、残業代が支払われなかったりと、働く女性たちの状況は厳しい。
バングラデシュといえば、2013年の縫製工場のビル崩落事故が記憶に新しい。1000人以上が死亡する、ファッション産業の汚点とも言うべき事故だった。
(映画の中ではこのようなバングラデシュの現状の説明があるわけではない。この記事では、https://www.fashionsnap.com/article/rana-plaza-collapse-5years/の記述も参考にしながら書いていく)
バングラデシュは、世界のファストファッションブランドの工場がひしめき合っていることで知られており、アパレル産業では世界トップクラスのシェアを誇る。実にバングラデシュの輸出の80%がアパレルだそうだ。「H&M」「ユニクロ」「ZARA」「GAP」など、様々なメーカーがバングラデシュの工場に縫製などを委託している。
そして、そんな縫製工場で働く女性を描くのがこの映画なのだ。僕たちが普段当たり前のように来ている服を作っている女性たちの問題であり、決して他人事ではない。
映画の最後に、「この物語は、ダリヤ・アクター・ドリの実話に基づく」と表記された。映画では「シム」という名前で登場する女性に、モデルがいるというわけだ。そしてシムはこの映画の中で何をしようとしているかといえば、「工場内に労働組合を作ろうとしている」のである。
「ただそれだけの物語だ」と言ってしまえばそれまでだが、「『労働組合を作る』というだけのことがどれほど大変なのか」を実感させる物語でもある。
そもそもシムにしても、「労働組合」などというものが存在することさえ知らなかった。きっかけは、働いていた工場で起こった火災にある。
13、4歳の頃に義母の勧めで40歳の男性と結婚させられそうになったシムは、父親の財布を奪って逃げ、バングラデシュの首都ダッカへとやってきた。靴工場で働いたが薬品の臭いがきつくて辞め、家政婦になったが暴力を受け、それから縫製工場で働くことになった。今働いている工場は3軒目だ。
そしてその工場で火事が起こる。給料を払ってもらおうと工場へ向かうシムだが、入り口に警備員がいて通してくれない。悪態をついて帰ろうとしたところで、労働組合支援の団体で働くナシムに声を掛けられたのだ。そこでシムは初めて「労働組合」の存在を知る。法律を学び、ナシムの支援も得ながら労働組合設立のために動くことに決めた。
何故なら、誰もが劣悪な環境で働いているからだ。縫製工場の労働者の80%は女性である。それについては、「経営者は女性の方が支配しやすく、賃金も払わなくていいと考えているから」と映画の中で説明された。安全管理にも問題があるし、気に食わなければすぐに解雇される。「労働者の権利」などまったく存在しないに等しい環境なのだ。
しかし、労働組合設立のハードルは高い。全従業員の3割の署名が必要なのだが、経営者側は労働組合設立の動きを常に監視していて、表立って署名を集められない。ある時など経営者が、「労働組合のことなんか考えるなよ。労働組合ができた工場はどこも閉鎖してる。ここが閉鎖してもいいのか?」と脅しをかけてくる。
また、夫の存在もややこしい。そもそも、シムの夫は無職で、だからシムが働いて生計を立てなければならない。夫も当初は、自身のそんな立場を理解して、シムに対して強くは出て来ない。それでも、「労働組合なんか止めとけ。警察に捕まるぞ」と忠告されてしまう。さらに、夫は仕事が見つかるや、労働組合の設立に奮闘するシムの気持ちなど無視して、「今は俺が働いてるんだから、お前は仕事を辞めろよ」と言ってくる。なかなかのクズ夫だが、しかしやはり、夫を無視して話を進めるのも難しい。
しかし何よりもシムにとって辛かったのは、自分が労働組合設立のために動くことで、同僚たちに様々な不利益が生じてしまうことだろう。それらの不利益に、シムが直接的に責任があるわけではないが(どう考えても、工場で起こる問題のほぼすべては経営側に問題がある)、しかし間接的にシムが関わっていることは確かだし、同僚も、経営者に怒りをぶつけられない分、シムに苛立ちを向けてしまう。
シムは、もちろん自分のためでもありましたが、間違いなく同僚たちのために立ち上がりました。経営者や夫に理解されなくても、せめて同僚には味方でいてほしかったでしょう。それすらもままならず、決して孤独だったわけではありませんが、思うようには事が進まずに、しんどい思いをすることになってしまいます。
誰もが「間違っている」と感じるでしょう。しかし、その「間違っている」土台の上に、僕たちの「安価で便利な生活」が成り立っているのも事実なわけです。
僕たちはもう、今の「安価で便利な生活」を手放せません。自分たちの日常を”犠牲”にしてまで、遠い国の女性たちを助けようとする行動は、なかなか長続きしないだろうと思います。じゃあどうすればいいのかはちゃんと結論があるわけではありませんが、普段買っている服に限らず、「これは一体どこでどのように作られているのだろうか?」と意識してみることが大事なのではないかと思う。
僕たちは、何か惨事が起こった時にしか「悲劇」に目を向けない。しかし実際には、「悲劇」は日常の中にある。2013年の縫製工場ビル崩壊事故ももちろん「悲劇」だが、それ以上の「悲劇」は実は、そこで普段から働いている女性たちの「いつもの労働」にこそあるというわけだ。
もちろん、世界のすべての「悲劇」を理解し、それに対して行動を起こすのは不可能だ。けれど、せめて「想像する」ぐらいの時間は取ってみてもいいと思う。
僕がよく考えることがある。それは、世の中のありとあらゆる「悲劇」はもう、「それってかっこ悪い」という言葉で解決していくしかないんじゃないか、と。SDGsやESG投資が広まり始めているのも、根底に「環境破壊や社会問題を無視する企業ってかっこ悪い」という感覚があるからだと僕は思っている。
すべての問題を「それってかっこ悪い」で解決するのは不可能だとしても、多くの問題にとって抑止力となると思うし、そういう感覚的な影響力が結局一番効くということもあると思っている。
そして、「かっこ悪い」と感じるためには、まず「知る」ことが重要だ。知らなければ、「かっこ悪い」と感じることもできなくなる。
だから、まず想像してみる、そして気が向いたら知ろうとしてみる。多くの人がそういう行動を取ることで、「それってかっこ悪いんじゃね?」という感覚が積み上がっていくのではないか。
バングラデシュの労働条件の改善には、世界のアパレルブランドが協力して改善に乗り出しているそうだ。しかしどうしたって、「利益」のことを考えれば、仕事の「上流」に位置する存在が「下流」の労働条件を変えるのは難しいだろう。Apple社が、「世界中のサプライヤー企業に、100%自然エネルギーを使用するように通達した」というニュースは話題になったし、これは「上流」企業による「下流」企業の良い方向の改革だと感じるが、すべての企業がApple社のようには振る舞えないだろう。
だから結局、消費者が変わる以外には解決の道はない。
少し話は変わるが、ロシアによるウクライナ侵攻に関係するニュースで、「色んなものの値段が上がって大変だ」というものがある。確かにその通りだと思うが、そもそもここには、「今後、ウクライナへ侵攻したようなロシアと経済活動を続けていくのか?」という視点が抜け落ちていて気持ち悪いと感じてしまう。
もちろん、エネルギー関連など、文明生活の維持にどうしても不可欠で、日本では自給が不可能なものもあるので、ありとあらゆる面でロシアとの経済活動を止めることはできないだろう。しかし、どうしてもそれがなければ生活が成り立たない、というものでなければ、もはや僕たちは「ロシアから何かを輸入することを諦めること」を前提とした未来を想定しなければならないと思う。「物の値段が上がって大変だ」ではなく、「ロシア産のものなんか要らない」ぐらいの気持ちを持つことが、いち消費者としてぐらいしか今回の事態に関われない僕らのような一般市民ができる”闘い方”ではないのか、と思う。
僕たち消費者が、「ウクライナに侵攻したロシア産でも、安い方がいいよね」「バングラデシュの人たちを酷い労働環境で働かせて作ったTシャツでも安い方がいいよね」と思っている限り、おそらく問題は一生解決しない。僕ら消費者は、「そんなもの意地でも買わない」というカードを切るぐらいしか社会に抵抗できないのだから。
もちろん、こんな風に書いていても、僕はユニクロで服を買うし、ロシアから輸入したかもしれない海産物を使った寿司を食べたりもするだろう。ただ、企業なり日本という国家なりが「モノの値段は上がるけど、◯◯で作られた△△は輸入しません」と決めるなら、それは素直に受け入れようと思っている。
僕にできるのはきっとそれぐらいのことだろう。なかなか無力だが、しかし、やはりこの映画のような現実を知ってしまうと、何も知らなかった時のようにモノを購入するのは難しくなる。
改めてそんな風に考えさせてくれた映画だ。
少しだけ映画の話に戻そう。映画としては、役者の演技が優れているわけでもないし、ストーリー上の盛り上がりがあるわけでもなく、平凡と言えば平凡だ。ただ、個人的に興味深いと感じたのは、「ドキュメンタリーっぽい感じの映像がちょいちょい組み込まれること」だ。屋外での場面でよくそう感じた。恐らく、「今から映画の撮影をするんで皆さんちょっとカメラに映らないようにお願いします」みたいなことをやらず、いつもの街中を女優に歩かせて、その様子をカメラで撮っているからそう見えるんだと思う。だから、屋内のシーンはフィクションっぽいけど、屋外のシーンはドキュメンタリーっぽいという、ちぐはぐは映像になっている。
そして個人的には、これってなかなか面白いなと感じた。「剥き出しのリアル」という感じがするのだ。映画でもテレビ番組でも時々、「フェイクドキュメンタリー」みたいな、フィクションなんだけどドキュメンタリーっぽく撮ってる映像があったりするが、ちょっとそれに近い。さらにそれを、バングラデシュという、首都ダッカなのに道端をニワトリが歩いているような発展途上国でやるから、余計に「剥き出し感」が強くなるように感じた。
フィクションの映画としてはちょっと高く評価することは難しいが、「ある種のドキュメンタリー映画」と捉えれば、映し出される事実に圧倒されるだろう。自分たちの日常生活が、どれほど「間違っている」土台の上に成立しているのかを実感できる作品でもある。
「メイド・イン・バングラデシュ」を観に行ってきました
「親愛なる同志たちへ」を観に行ってきました
普段の僕ならこの映画について、「過去の知られざる虐殺の実話は、遠い過去の出来事ではなく、現代とも地続きだ」というような感想を書いていたと思う。1962年に起こり、ソ連解体まで30年間も秘されていたというこの虐殺事件は、確かに、ロシアによるウクライナ侵攻やミャンマーでの民衆弾圧を想起させるし、SNSがあるか無いかの違いだけで、今もいつだってこのようなことは起こりうると思う。
ただ映画を観ながら僕がずっと考えていたのは、「この映画で描かれる共産主義体制のソ連の『愚かさ』は、人間が作るどんな組織でも起こりうるし、というか起こっている」という風に感じていた。
主人公のリュドミラ・ショーミナ(リューダ)は市政委員会の生産部門の課長であり、共産党に忠誠を誓う人物だ。そして、彼女を中心に描かれるこの映画で示されるのは、「中央委員会に連なる上意下達の組織の中で、上からの命令を無批判に受け入れ、その堆積によって残虐な行為に行き着いてしまう『愚かさ』」だ。
そしてそれは、この映画で示されるほど酷くないとしても、ありとあらゆる「組織」で現実に存在するし、多くの人がその『愚かさ』に日々直面していると思う。
僕が何らかの「組織」の一員として存在する際よく感じることがある。それは、「あなたはそれを本心から言っているんですか? それとも、立場上それを言わざるを得ないからそう口にしているんですか?」ということだ。
まともな思考力を持っていれば、上からの指示に対して「それはおかしいんじゃないですか?」と止めなければおかしいと感じるような、適切とは思えない指示が下りてくることがある。もちろん、末端にいる者であればあるほど、上の指示に逆らうことは難しくなるし、立場上その指示を下ろさなければならないということも理解している。
「自分でもおかしいと思っているけど、立場上仕方ない」という雰囲気を感じられるなら、まだ人間として関われる。しかし中には、明らかにおかしなその指示を、一切の疑いを感じさせず、「上が言うからには絶対なのだ」という雰囲気で口にする者もいる。あたかも、その指示に本心から共感しているような振る舞いだ。僕はそういう人に関わらざるを得ない時、耐えられないほどの不快感を覚えるし、組織に属する人間としては適切ではない形で反論・反抗したりしてしまう。反論・反抗してしまう自分自身に対して「愚かさ」を感じることも多いが、どうにもならない。
映画の中で、好きな場面がある。プリエフという大佐が大勢の軍人が集まる場でとある命令をされるシーンだ。
映画では、工場労働者がデモを起こし、その鎮圧のために軍が派遣される、という展開になる。しかし、現場にやってきた軍司令官は、「大佐から銃器の持ち出しは禁じられている」と誰かに報告をしていた。その報告を受けたその人物は、「銃を携行するよう命じる」と言う。銃器の持ち出しを禁じたのがプリエフ大佐であり、この点について委員会で問われるのだ。
プリエフ大佐は、
【軍隊の役目は、国を外的から守ることです。市民への発砲は憲法違反です】
と堂々と主張する。しかし、その主張は認められない。プリエフ大佐は改めてその場で、「兵士に銃の携行を指示しろ」と命じられ、自説を撤回することになる。そんなシーンだ。
最終的にプリエフ大佐が銃の携行を命じたことは、仕方ないと思う。ソ連という国家の中で軍人が生きていくためには、さすがにあれ以上に反抗は無理だろう。
というか僕は、あの場面で「憲法違反だ」と口に出来る雰囲気が存在したという事実にちょっと驚かされた。勝手に、「ソ連とはもっと抑圧的な国家体制をしている」と思っていたからだ。もちろんこの映画はフィクションなのだから実際どうだったか分からないし、プリエフ大佐の行動は彼の「勇敢さ」として称賛されるべきなのかもしれないとも思う。ただ、同じ場でリューダも、求められていないのに勝手に発言するなど、「意見を聞く」というスタンスは一応あったのだろうなと感じた。
映画では描かれていないが、恐らくプリエフ大佐はその後兵士たちに、さも本心であるかのように「銃携行」を命じただろう。軍隊では、上官が指揮の迷いを見せるわけにはいかないだろうからだ。しかしそうだとしても、プリエフ大佐は一度「銃器の持ち出しは禁ずる」という命令を出している。「銃携行」を命じられた兵士たちも、プリエフ大佐が仕方なく自分の意見を変えたのだと理解するだろう。そして、プリエフ大佐の振る舞いがもし僕の想像通りだったとしたら、僕はプリエフ大佐と人間的には関われる。
一方、そういう観点からすると、リューダはなかなか難しい。彼女は冒頭からずっと、無批判に共産党を支持する人物として描かれるからだ。そしてそんなリューダが主人公だからこそ、彼女の揺れ動く感情に惹きつけられることになる。
リューダは市政委員会の課長だが、その娘であるスヴェッカは工場で働く労働者だ。まさにデモが起こった工場で働いており、そのことで母親と口論になる。共産党の動きをなんとなく知っているリューダは、デモに加わる娘をたしなめるが、娘は「民主主義なんだから抗議する権利はある」と、翌日もデモに参加する意見を変えない。ここでスヴェッカが「民主主義」だと言った理由はよく分からないが(ソ連は明らかに社会主義国家だから)、リューダとスヴェッカは母娘でありながら主義主張がまったく異なっている。
印象的だったのは、リューダが何度も「スターリン時代」を恋しがる発言をしていたことだ。
【スターリンが恋しい。彼がいなければ革命は無理よ】
とまで口にする彼女は、今(1962年当時)との違いをこんな風に表現している。
【かつての指導者(※スターリン)を今はなぶり者にしている。
あの頃は、誰が味方で誰が敵かはっきりしていた。今じゃ、娘のことだって分からない。
スターリンを失ったからかな】
スターリンは一般的には「独裁者」と知られているだろうし、西側諸国の人間には良いイメージなどないだろう。現代のロシア人がスターリンをどう評価しているのか知らないが、やはり良いとは思っていないように思う。ただリューダは、当時の指導者であるフルシチョフではなく、かつての独裁者を思っているのだ。
スターリンのことを親愛しているからリューダはダメだと思っているのではなく、全体としてリューダは「共産党のやっていることは正しい」と無批判に受け入れており、そのことがやはり許容できない。当時の人としては仕方ない部分は当然あるだろうが、娘のスヴェッカが体制への批判を口にするような人物なのであり、必ずしも「共産党を支持しなければ非国民扱いされる」という雰囲気ではなかったはずだ。工場労働者にしても、軍が道を封鎖していようが、市政委員会の建物を軍が警備していようが、「軍人が市民を撃てるはずがない」と認識しており、兵士に対しても「撃てるもんなら撃ってみろ」と強気に出る。今の中国のように、「政権批判をしたら即逮捕」みたいな時代では恐らくなかったはずだ。
スターリン時代から共産党を支持していたのだとはいえ、フルシチョフになって時代が変わってからも同じように共産党を無批判に支持しているリューダには、ちょっと賛同しにくい。
しかしどの組織にも、リューダのような人間はいる。出世のためなのかなんなのかよく分からないが、上の人間におべっかを使い、上からの指示を無批判に下に流し、「組織全体を本当の意味で良くするための意見や陳情」ではなく、「上の人間に逆らわないこと」を最善とするような人間が。
この『親愛なる同志たちへ』という映画は、かつて存在していたソ連という国家で実際に起こった出来事をベースにした作品だが、この映画で描かれているのは、「人間の組織はあっさりとソ連のような集団に陥ってしまう」ということだと僕は感じた。
この映画を観て、ソ連の組織の愚かさを笑っている人は、気をつけた方がいいかもしれない。そういう人は、自分が同じようなことを今所属している組織の中で行っていても気づいていないかもしれないからだ。「そんなはずない」と感じる人は、自分の周りにプリエフ大佐のような批判的意見をくれる人がいるのか思い巡らせてみよう。
もしいなければ、あなたは、悲惨な虐殺事件を生み出してしまったソ連という愚かな国家体制と同じような組織の在り方に加担してしまっているかもしれない。
内容に入ろうと思います。
ソ連南西部に位置するノボチェルカッスクに住むリューダは共産党に忠誠を誓い、「共産主義以外のなにを信じればいいの?」と口にするほどソ連の体制を信じている。一方、市政委員会のメンバーとしての権力をフルに活用し、スーパーで品物が奪い合いになるような物資不足・物価高騰が続く市内でも必需品・贅沢品を手に入れ、シングルマザーとして父親と娘3人で生活している。
1962年6月1日、いつものように市政委員会に出勤したリューダは、他のメンバーとの会議中謎の音を耳にする。それは、近くの電気機関車工場でストライキが始まったことを示すもので、彼らは対策に追われることになる。中央委員会の書紀がやってきて、「社会主義体制でなぜストが起こるんだ!」と喚き散らすが、工場の労働者は給料が1/3に減ると通告され、それに抗議しているのだ。
モスクワはこの一件を重大視し、軍の派遣を決定する。他の工場とも連携し、5000人規模のデモが計画されていると知り、ノボチェルカッスクに至る道を軍が封鎖することに決まったが、翌6月2日、軍の封鎖をあっさり突破し、大量の市民が市政委員会の建物を取り囲んだ。リューダたちは避難するが、その後銃声が響き、建物周辺に銃撃された市民の死体が多数横たわる惨劇が展開される。
リューダは、娘の姿を探す。病院には入れず、死体安置所に死体はない。娘の行方は分からない。
リューダは、この虐殺を直接目にしたことで、これまで自分が信じてきた共産党への忠誠が揺らぐことになるが……。
というような話です。
正直、映画を観終えて家に返って公式HPを開くまで、この映画のことを「以前公開されていた映画が、ウクライナ侵攻に合わせて再上映されることになって昔の作品」なのだと思っていた。全然違った。新作映画として公開されたものだった。
白黒の映画だったからそう感じた、というわけではない。映画全体から「古さ」を感じたのだ。特に僕は、カット割りが印象的だった。映画というメディアが開発された初期のような、映像表現としてこなれていないような感じのカット割りに感じたのだ。また公式HPには、「ソビエト映画のイメージにできるだけ近づけるために、当時の映画では主流であったモノクロかつ1.33 : 1のアスペクト比で撮影した。」と書かれている。やはり制作側が意識して「昔の映画感」を出そうとしていたということだろう。
この映画の「古さ」は、決して悪いものではない。共産党時代のソ連というのは、とても古臭く冗談みたいな世界だと僕は思っていて、それをカラーの綺麗な映像で映し出すと、嘘くささが増すと思う。どうしても「喜劇的」になってしまう気がするのだ。それを、もの凄く「古さ」を感じさせる映像で構築することで、「喜劇感」が薄まり、臨場感や悲劇的な部分がより強調されたように思う。
言い方が変だし誤解されるかもしれないが、今プーチン大統領が行っているウクライナ侵攻も、スマホやテレビでカラー映像として観ているから「こんなことが起こるなんて冗談みたい」と感じるようなありえなさが映し出されるのではないかと思う。もしウクライナ侵攻に関するニュースを、この映画と同じような「古さ」を感じさせる映像で報じたら、「あり得なさ」みたいなものが薄まる気もする。つまり、「遠い過去に起こった出来事だとするならまああり得る」みたいな捉え方になるように思うのだ。そんな行為を今の時代に行っているからこそ、プーチン大統領の「異様さ」がより際立つという言い方もできるだろう。
この映画では、共産党を無批判に信じているリューダが、「娘が虐殺の犠牲者になったかもしれない」という事実に直面することで、自分が信じてきた世界が侵食されていくその過程が描かれていく。リューダの年齢に関する描写はなかったが、娘の年齢から考えても40代以上であることは間違いないし、50代になっている可能性もある。正直なところ、それぐらいの年齢から「それまで信じてきたもの」を自分の力だけで変えていくのは無理があるだろう。また、僕にはよく分からない感覚だが、ソ連に限らず一昔前の世界では、「国家というイデオロギー」が「個人の存在」を規定するような感覚があっただろうし、「国の発展」こそが「私という個人の幸せ」でもあるという風潮は、日本だったあったと思う。現代の視点からすればリューダという存在はなかなか受け入れがたいが、恐らく、彼女が生きた時代の雰囲気を知っている人には共感できる部分があるのだろうと思う。
スターリンを恋しく思うほど共産主義を、そしてソ連の共産党を強固に信じてきたリューダだったが、ノボチェルカッスクでの虐殺に娘が巻き込まれたかもしれないと分かった時点からその想いが揺らいでいく。それは、党からの高い評価が得られるかもしれないという委員会を抜け出し、トイレで号泣する場面からも伝わってくる。
ただ、娘の死を予感するような状況になってもまだ、信じてきたものを捨てきることができないでいる。彼女の「共産主義以外のなにを信じればいいの?」という言葉は、娘の死体を探そうと奔走している最中に発せられたものだ。
リューダにとってはまさに、「共産主義」や「共産党」が、「リューダという個人」を規定するような根源的な存在だったということだろう。
僕たちは既に、そのような大きなイデオロギー的なものによって個人を規定することが難しい時代を生きている。だから、リューダが経験した「アイデンティティの崩壊」をリアルに想像することは難しい。ただ、規模感は大分違うかもしれないが、例えば「自分が推しているアイドル・芸能人が解散・引退する」みたいな状況は、「推し活」こそが人生だと感じている人にとっては「アイデンティティの崩壊」に近い状況だろうと思う。リューダが置かれた状況と比較することは難しいが、似たような経験をする機会はゼロではないだろう。
あるいは、僕たちはなんとなく「安全な社会」を無意識の内に前提にしている。日本は、自然災害こそ多いが、領土をどことも接していないという地政学的な利点もあり、「なんとなく安全」みたいなイメージを持って生きてきたと思う。しかし今回のウクライナ侵攻によって、ロシアや北朝鮮が本当に日本を攻撃するかもしれない、その場合にアメリカが日本を守ってくれないかもしれない、という可能性を考えた人もいるはずだ。遠い国で起こっている戦争ではあるが、ウクライナ侵攻は僕たちから「なんとなく安全だという感じ」を奪ったと言っていいだろうし、それはある意味でリューダが経験したことにも繋がるのではないかと感じる。
ソ連は、このノボチェルカッスクでの虐殺を隠蔽するためにありとあらゆる手を使う。映画では、看護師が集められ、何かの書類にサインさせられるシーンが映し出される。これはつまり、ノボチェルカッスクの虐殺事件での怪我人の治療にあたって、守秘義務契約に署名した者以外は近づかせないということなのだ。今まさに治療を必要としている怪我人を放置して、まず守秘義務契約にサインさせる異常さに驚かされた。
ロシアがウクライナに侵攻しているまさに今公開されたこの映画は、1962年の出来事が現代に地続きであることを如実に示唆する作品だが、僕としてはやはり、「人間が作った組織はあっさりと『愚か』になってしまう」という点にリアリティを感じた。そういう意味でも他人事ではない作品だと思う。
「親愛なる同志たちへ」を観に行ってきました
ただ映画を観ながら僕がずっと考えていたのは、「この映画で描かれる共産主義体制のソ連の『愚かさ』は、人間が作るどんな組織でも起こりうるし、というか起こっている」という風に感じていた。
主人公のリュドミラ・ショーミナ(リューダ)は市政委員会の生産部門の課長であり、共産党に忠誠を誓う人物だ。そして、彼女を中心に描かれるこの映画で示されるのは、「中央委員会に連なる上意下達の組織の中で、上からの命令を無批判に受け入れ、その堆積によって残虐な行為に行き着いてしまう『愚かさ』」だ。
そしてそれは、この映画で示されるほど酷くないとしても、ありとあらゆる「組織」で現実に存在するし、多くの人がその『愚かさ』に日々直面していると思う。
僕が何らかの「組織」の一員として存在する際よく感じることがある。それは、「あなたはそれを本心から言っているんですか? それとも、立場上それを言わざるを得ないからそう口にしているんですか?」ということだ。
まともな思考力を持っていれば、上からの指示に対して「それはおかしいんじゃないですか?」と止めなければおかしいと感じるような、適切とは思えない指示が下りてくることがある。もちろん、末端にいる者であればあるほど、上の指示に逆らうことは難しくなるし、立場上その指示を下ろさなければならないということも理解している。
「自分でもおかしいと思っているけど、立場上仕方ない」という雰囲気を感じられるなら、まだ人間として関われる。しかし中には、明らかにおかしなその指示を、一切の疑いを感じさせず、「上が言うからには絶対なのだ」という雰囲気で口にする者もいる。あたかも、その指示に本心から共感しているような振る舞いだ。僕はそういう人に関わらざるを得ない時、耐えられないほどの不快感を覚えるし、組織に属する人間としては適切ではない形で反論・反抗したりしてしまう。反論・反抗してしまう自分自身に対して「愚かさ」を感じることも多いが、どうにもならない。
映画の中で、好きな場面がある。プリエフという大佐が大勢の軍人が集まる場でとある命令をされるシーンだ。
映画では、工場労働者がデモを起こし、その鎮圧のために軍が派遣される、という展開になる。しかし、現場にやってきた軍司令官は、「大佐から銃器の持ち出しは禁じられている」と誰かに報告をしていた。その報告を受けたその人物は、「銃を携行するよう命じる」と言う。銃器の持ち出しを禁じたのがプリエフ大佐であり、この点について委員会で問われるのだ。
プリエフ大佐は、
【軍隊の役目は、国を外的から守ることです。市民への発砲は憲法違反です】
と堂々と主張する。しかし、その主張は認められない。プリエフ大佐は改めてその場で、「兵士に銃の携行を指示しろ」と命じられ、自説を撤回することになる。そんなシーンだ。
最終的にプリエフ大佐が銃の携行を命じたことは、仕方ないと思う。ソ連という国家の中で軍人が生きていくためには、さすがにあれ以上に反抗は無理だろう。
というか僕は、あの場面で「憲法違反だ」と口に出来る雰囲気が存在したという事実にちょっと驚かされた。勝手に、「ソ連とはもっと抑圧的な国家体制をしている」と思っていたからだ。もちろんこの映画はフィクションなのだから実際どうだったか分からないし、プリエフ大佐の行動は彼の「勇敢さ」として称賛されるべきなのかもしれないとも思う。ただ、同じ場でリューダも、求められていないのに勝手に発言するなど、「意見を聞く」というスタンスは一応あったのだろうなと感じた。
映画では描かれていないが、恐らくプリエフ大佐はその後兵士たちに、さも本心であるかのように「銃携行」を命じただろう。軍隊では、上官が指揮の迷いを見せるわけにはいかないだろうからだ。しかしそうだとしても、プリエフ大佐は一度「銃器の持ち出しは禁ずる」という命令を出している。「銃携行」を命じられた兵士たちも、プリエフ大佐が仕方なく自分の意見を変えたのだと理解するだろう。そして、プリエフ大佐の振る舞いがもし僕の想像通りだったとしたら、僕はプリエフ大佐と人間的には関われる。
一方、そういう観点からすると、リューダはなかなか難しい。彼女は冒頭からずっと、無批判に共産党を支持する人物として描かれるからだ。そしてそんなリューダが主人公だからこそ、彼女の揺れ動く感情に惹きつけられることになる。
リューダは市政委員会の課長だが、その娘であるスヴェッカは工場で働く労働者だ。まさにデモが起こった工場で働いており、そのことで母親と口論になる。共産党の動きをなんとなく知っているリューダは、デモに加わる娘をたしなめるが、娘は「民主主義なんだから抗議する権利はある」と、翌日もデモに参加する意見を変えない。ここでスヴェッカが「民主主義」だと言った理由はよく分からないが(ソ連は明らかに社会主義国家だから)、リューダとスヴェッカは母娘でありながら主義主張がまったく異なっている。
印象的だったのは、リューダが何度も「スターリン時代」を恋しがる発言をしていたことだ。
【スターリンが恋しい。彼がいなければ革命は無理よ】
とまで口にする彼女は、今(1962年当時)との違いをこんな風に表現している。
【かつての指導者(※スターリン)を今はなぶり者にしている。
あの頃は、誰が味方で誰が敵かはっきりしていた。今じゃ、娘のことだって分からない。
スターリンを失ったからかな】
スターリンは一般的には「独裁者」と知られているだろうし、西側諸国の人間には良いイメージなどないだろう。現代のロシア人がスターリンをどう評価しているのか知らないが、やはり良いとは思っていないように思う。ただリューダは、当時の指導者であるフルシチョフではなく、かつての独裁者を思っているのだ。
スターリンのことを親愛しているからリューダはダメだと思っているのではなく、全体としてリューダは「共産党のやっていることは正しい」と無批判に受け入れており、そのことがやはり許容できない。当時の人としては仕方ない部分は当然あるだろうが、娘のスヴェッカが体制への批判を口にするような人物なのであり、必ずしも「共産党を支持しなければ非国民扱いされる」という雰囲気ではなかったはずだ。工場労働者にしても、軍が道を封鎖していようが、市政委員会の建物を軍が警備していようが、「軍人が市民を撃てるはずがない」と認識しており、兵士に対しても「撃てるもんなら撃ってみろ」と強気に出る。今の中国のように、「政権批判をしたら即逮捕」みたいな時代では恐らくなかったはずだ。
スターリン時代から共産党を支持していたのだとはいえ、フルシチョフになって時代が変わってからも同じように共産党を無批判に支持しているリューダには、ちょっと賛同しにくい。
しかしどの組織にも、リューダのような人間はいる。出世のためなのかなんなのかよく分からないが、上の人間におべっかを使い、上からの指示を無批判に下に流し、「組織全体を本当の意味で良くするための意見や陳情」ではなく、「上の人間に逆らわないこと」を最善とするような人間が。
この『親愛なる同志たちへ』という映画は、かつて存在していたソ連という国家で実際に起こった出来事をベースにした作品だが、この映画で描かれているのは、「人間の組織はあっさりとソ連のような集団に陥ってしまう」ということだと僕は感じた。
この映画を観て、ソ連の組織の愚かさを笑っている人は、気をつけた方がいいかもしれない。そういう人は、自分が同じようなことを今所属している組織の中で行っていても気づいていないかもしれないからだ。「そんなはずない」と感じる人は、自分の周りにプリエフ大佐のような批判的意見をくれる人がいるのか思い巡らせてみよう。
もしいなければ、あなたは、悲惨な虐殺事件を生み出してしまったソ連という愚かな国家体制と同じような組織の在り方に加担してしまっているかもしれない。
内容に入ろうと思います。
ソ連南西部に位置するノボチェルカッスクに住むリューダは共産党に忠誠を誓い、「共産主義以外のなにを信じればいいの?」と口にするほどソ連の体制を信じている。一方、市政委員会のメンバーとしての権力をフルに活用し、スーパーで品物が奪い合いになるような物資不足・物価高騰が続く市内でも必需品・贅沢品を手に入れ、シングルマザーとして父親と娘3人で生活している。
1962年6月1日、いつものように市政委員会に出勤したリューダは、他のメンバーとの会議中謎の音を耳にする。それは、近くの電気機関車工場でストライキが始まったことを示すもので、彼らは対策に追われることになる。中央委員会の書紀がやってきて、「社会主義体制でなぜストが起こるんだ!」と喚き散らすが、工場の労働者は給料が1/3に減ると通告され、それに抗議しているのだ。
モスクワはこの一件を重大視し、軍の派遣を決定する。他の工場とも連携し、5000人規模のデモが計画されていると知り、ノボチェルカッスクに至る道を軍が封鎖することに決まったが、翌6月2日、軍の封鎖をあっさり突破し、大量の市民が市政委員会の建物を取り囲んだ。リューダたちは避難するが、その後銃声が響き、建物周辺に銃撃された市民の死体が多数横たわる惨劇が展開される。
リューダは、娘の姿を探す。病院には入れず、死体安置所に死体はない。娘の行方は分からない。
リューダは、この虐殺を直接目にしたことで、これまで自分が信じてきた共産党への忠誠が揺らぐことになるが……。
というような話です。
正直、映画を観終えて家に返って公式HPを開くまで、この映画のことを「以前公開されていた映画が、ウクライナ侵攻に合わせて再上映されることになって昔の作品」なのだと思っていた。全然違った。新作映画として公開されたものだった。
白黒の映画だったからそう感じた、というわけではない。映画全体から「古さ」を感じたのだ。特に僕は、カット割りが印象的だった。映画というメディアが開発された初期のような、映像表現としてこなれていないような感じのカット割りに感じたのだ。また公式HPには、「ソビエト映画のイメージにできるだけ近づけるために、当時の映画では主流であったモノクロかつ1.33 : 1のアスペクト比で撮影した。」と書かれている。やはり制作側が意識して「昔の映画感」を出そうとしていたということだろう。
この映画の「古さ」は、決して悪いものではない。共産党時代のソ連というのは、とても古臭く冗談みたいな世界だと僕は思っていて、それをカラーの綺麗な映像で映し出すと、嘘くささが増すと思う。どうしても「喜劇的」になってしまう気がするのだ。それを、もの凄く「古さ」を感じさせる映像で構築することで、「喜劇感」が薄まり、臨場感や悲劇的な部分がより強調されたように思う。
言い方が変だし誤解されるかもしれないが、今プーチン大統領が行っているウクライナ侵攻も、スマホやテレビでカラー映像として観ているから「こんなことが起こるなんて冗談みたい」と感じるようなありえなさが映し出されるのではないかと思う。もしウクライナ侵攻に関するニュースを、この映画と同じような「古さ」を感じさせる映像で報じたら、「あり得なさ」みたいなものが薄まる気もする。つまり、「遠い過去に起こった出来事だとするならまああり得る」みたいな捉え方になるように思うのだ。そんな行為を今の時代に行っているからこそ、プーチン大統領の「異様さ」がより際立つという言い方もできるだろう。
この映画では、共産党を無批判に信じているリューダが、「娘が虐殺の犠牲者になったかもしれない」という事実に直面することで、自分が信じてきた世界が侵食されていくその過程が描かれていく。リューダの年齢に関する描写はなかったが、娘の年齢から考えても40代以上であることは間違いないし、50代になっている可能性もある。正直なところ、それぐらいの年齢から「それまで信じてきたもの」を自分の力だけで変えていくのは無理があるだろう。また、僕にはよく分からない感覚だが、ソ連に限らず一昔前の世界では、「国家というイデオロギー」が「個人の存在」を規定するような感覚があっただろうし、「国の発展」こそが「私という個人の幸せ」でもあるという風潮は、日本だったあったと思う。現代の視点からすればリューダという存在はなかなか受け入れがたいが、恐らく、彼女が生きた時代の雰囲気を知っている人には共感できる部分があるのだろうと思う。
スターリンを恋しく思うほど共産主義を、そしてソ連の共産党を強固に信じてきたリューダだったが、ノボチェルカッスクでの虐殺に娘が巻き込まれたかもしれないと分かった時点からその想いが揺らいでいく。それは、党からの高い評価が得られるかもしれないという委員会を抜け出し、トイレで号泣する場面からも伝わってくる。
ただ、娘の死を予感するような状況になってもまだ、信じてきたものを捨てきることができないでいる。彼女の「共産主義以外のなにを信じればいいの?」という言葉は、娘の死体を探そうと奔走している最中に発せられたものだ。
リューダにとってはまさに、「共産主義」や「共産党」が、「リューダという個人」を規定するような根源的な存在だったということだろう。
僕たちは既に、そのような大きなイデオロギー的なものによって個人を規定することが難しい時代を生きている。だから、リューダが経験した「アイデンティティの崩壊」をリアルに想像することは難しい。ただ、規模感は大分違うかもしれないが、例えば「自分が推しているアイドル・芸能人が解散・引退する」みたいな状況は、「推し活」こそが人生だと感じている人にとっては「アイデンティティの崩壊」に近い状況だろうと思う。リューダが置かれた状況と比較することは難しいが、似たような経験をする機会はゼロではないだろう。
あるいは、僕たちはなんとなく「安全な社会」を無意識の内に前提にしている。日本は、自然災害こそ多いが、領土をどことも接していないという地政学的な利点もあり、「なんとなく安全」みたいなイメージを持って生きてきたと思う。しかし今回のウクライナ侵攻によって、ロシアや北朝鮮が本当に日本を攻撃するかもしれない、その場合にアメリカが日本を守ってくれないかもしれない、という可能性を考えた人もいるはずだ。遠い国で起こっている戦争ではあるが、ウクライナ侵攻は僕たちから「なんとなく安全だという感じ」を奪ったと言っていいだろうし、それはある意味でリューダが経験したことにも繋がるのではないかと感じる。
ソ連は、このノボチェルカッスクでの虐殺を隠蔽するためにありとあらゆる手を使う。映画では、看護師が集められ、何かの書類にサインさせられるシーンが映し出される。これはつまり、ノボチェルカッスクの虐殺事件での怪我人の治療にあたって、守秘義務契約に署名した者以外は近づかせないということなのだ。今まさに治療を必要としている怪我人を放置して、まず守秘義務契約にサインさせる異常さに驚かされた。
ロシアがウクライナに侵攻しているまさに今公開されたこの映画は、1962年の出来事が現代に地続きであることを如実に示唆する作品だが、僕としてはやはり、「人間が作った組織はあっさりと『愚か』になってしまう」という点にリアリティを感じた。そういう意味でも他人事ではない作品だと思う。
「親愛なる同志たちへ」を観に行ってきました
「20世紀ノスタルジア」を観に行ってきました
予想していたよりずっと素敵な映画だった。「初国知所之天皇 2022 デジタルリマスター版」があまりに意味不明で、ハードルがメチャクチャ下がってたってのもあるかもしれないけど。
映画を観始めてしばらくは、「とにかく広末涼子が恐ろしく可愛い」っていうだけの映画だと思っていた。とにかく、広末涼子が可愛い。別に僕は特別広末涼子のファンだったということもないのだけど、それでも、この映画に映し出される広末涼子の可愛さにはちょっと圧倒されるなぁ。正直、「広末涼子が可愛い」っていうだけで、この映画は「鑑賞物」として全然成立しちゃうと思う。
まあ、そういう映画だったとしてもきっと満足しただろう。
ただ途中から、この映画の非常に特殊な設定が、「繊細な人間関係を描き出すのにメチャクチャ良いんじゃないか」と感じるようになってきた。主演の広末涼子と圓島努はどちらも「演技が上手い」と言える感じではないが、その演技の拙さを「設定」が見事に補い、「繊細さ」を感じさせる人間模様が描かれている、と僕感じた。
というわけで、内容紹介も含めて、この映画の特殊な設定を説明しよう。
ざっくり内容を説明すると、「2人の高校生が、夏休み中東京都内各所で撮影した映像素材を編集して1本の映画にする」となる。高校2年制の遠山杏と、転校生の片岡徹が、お互いにビデオカメラを持って映画を撮影する。
映画の登場人物も、遠山杏と片岡徹である。しかし、これは正確な表現ではない。ただしくは、「遠山杏に憑依した宇宙人ポウセ」と「片岡徹に憑依した宇宙人チュンセ」の2人が主人公の映画なのだ。ちなみにこの「ポウセ」「チュンセ」という名前は、宮沢賢治の「双子の星」という作品からきているそうだ。
放送部に所属している杏は、橋の上でカメラテストをしている時に、徹に話しかけられる。徹は、「自分は実はチュンセという宇宙人なんだ」と言い始め、さらに「自分は今分裂して新しい宇宙人が生まれようとしている。杏の身体を貸してくれ」と重ねるのだ。杏はちょっと戸惑う素振りを見せつつも、徹の謎の発現をスッと受け入れ、チュンセから分裂したという宇宙人を自分の身体に移す。名前は「ポウセ」だそうだ。ちなみに、宇宙人は単性生殖で、アメーバのように分裂して増えるらしい。
それから2人は、カメラを持って東京中を巡る。それは、杏と徹にとっては「映画撮影」だが、ポウセとチュンセにとっては「地球人の調査」である。
しかし、観客にとってそれは、明らかに「デート」である。2人は、「撮影」「調査」と称して、ひと夏のデートに繰り出しているのだ。
しかししばらくして、そう考えていたのは杏の方だけだったことが分かってくる。はっきりとは分からないものの、徹にとって「宇宙人」は「杏と会う口実」ではなく「もっと切実な何か」のようなのだ。
この映画の冒頭では、既に徹は日本にいない。夏休みが終わるとすぐ、オーストラリアに旅立ってしまったのだ。膨大なテープと共に残された杏は、先生や友人の後押しもあり、テープを編集して一本の映画を作る決意をするが……。
というような話です。
僕がもの凄く良いと感じたのは、「お互いが宇宙人という設定を貫く」という点だ。これが、2人の距離感を縮めもするし遠ざけもする、非常に絶妙な要素になっているのだ。
例えば、どちらも何か発言する際に、それが「杏/徹のもの」なのか「ポウセ/チュンセのもの」なのかを選択できる。杏が徹のことを好きなのは作中から明白で、だから杏は、徹が直接間接に関わる場面で「お前がいなくて寂しい」という発現をする。エアメールで徹にビデオレターを送る際も、オーストラリアへ旅立つことを聞かされた時も、杏は「寂しい」と伝えている。
しかしそれを「杏は寂しい」という言い方にしていない。「ポウセは寂しい」「ポウセは待ってるぞ」という言い方にしているのだ。こうすることで、「真剣さ」みたいなものを隠すことができる。「宇宙人ごっこができないこと」を寂しがっているようにも受け取れるからだ。それでいて、「寂しい」という事実は伝えることができる。「ポウセ」という設定がなかったら、「私(杏)は寂しい」と言うしかなくなるが、杏はきっとそんなこと言えないだろう。だから「ポウセ」という設定は、「杏が寂しさを少しでも伝える」という意味で非常に重要なのだ。
また、映画の中で特に広末涼子が可愛かった場面が、「宇宙人は排気ガスに弱い」という設定を徹が新たに付け加えた場面だ。歩道で道路を走るトラックを撮影している時に、そのまま後ろに倒れ込んだ徹は「排気ガスにやられた~」みたいなことを言って道路に寝そべり、その自分を手持ちカメラで撮っているのだが、そこに「私もやられた~」と言って杏が入り込んでくるのだ。
はっきり言って意味不明な状況ではあるが、しかし、「ポウセという設定があるからこそ杏はそんな行動が取れる」ことは間違いないだろう。それはまさに、2人の距離を詰めることに繋がっている。
この映画では、「それまで関わりの無かった2人が橋の上で邂逅し、すぐに意気投合してデートをする」という展開がいきなり始まるのだが、普通には成立し得ないそんな状況が、一定の許容が可能な範囲内に収まっているのは、まさにこの「宇宙人」の設定のお陰だと思う。また観客としても、「宇宙人」の方に違和感を覚えてしまうため、彼らの急激な「親密さ」みたいなものには目が向かなくなる。
以前、「空からクラゲが降ってくると主張する女の子」が出てくる小説を読んだのだが、少し近いものがあるかもしれない。トリッキーな設定が組み込まれることで、本来なら浮き彫りになるかもしれない違和感が気にならなくなる。それによって、物語がスッと入ってきやすくなるのだと思う。
2人の関係性的にも、我々観客の理解的にも、「宇宙人」という設定は絶妙だったと言って良いだろう。
しかし同時にこの設定は、彼らの距離を遠ざけるものとしても機能してしまう。痛し痒しと言ったところだ。
徹が「宇宙人」という設定の世界に杏を引きずり込んだ動機ははっきりとは分からないが、映画を観て理解できることは、「徹には徹なりの切実さがあってそうしていた」ということだ。杏でなければならなかったのか、カメラを持っていたからなのか、あるいは誰でも良かったのか、それは分からないが、少なくとも徹自身にとっては「宇宙人」はただの設定ではなく、彼がなんとか生きていく上で外せない要素だったのだ。
当然、最初からそんなこと理解できるはずもない杏は、「よく分からないけど何かの遊びなんだろう」という程度の理解で徹に遊びに付き合った。杏が徹の遊びに付き合った理由こそなかなか謎ではあるが、観客の立場からは「なにかピンと来るものがあったのだろう」ぐらいのことしか言えないわけだが、とにかく杏は、仕方ないことではあるが、初めから徹の切実さを捉えられはしなかった。
そして、その微妙な食い違いが、ちょっとずつ2人の関係を蝕んでいったのではないか、と感じる。
また、「撮影した映像を編集して映画にする」という設定も上手いと思う。杏の友人が冒頭で、「編集すると、片岡くんのこと思い出しちゃって大変だね」と杏に言うが、まさに「映像編集」は「過去の追体験」と同じような意味合いを持つ。彼らが制作していた映画は、「ポウセ/チュンセ」という名前で「杏/徹」自身を描く作品なのだから、余計その傾向が強くなる。
そして、その「過去の追体験」によって杏は、目の前からいなくなってしまった「片岡徹/チュンセ」という「人間/宇宙人」を改めて理解しようとするのだ。
こういう構成の部分がとても上手いと感じた。さらにその上で、杏と徹が実際に手持ちカメラで撮っただろう映像がふんだんに使われ、普通の映画ではあり得ないような躍動感やリアルさを感じさせる画になっている。昔『私たちのハァハァ』という映画を観たが、その時の映像を思い出した。こちらも、4人の女子高生が交代で撮影している手持ちカメラの映像が随所に組み込まれるのだ。
映画を観始めた当初は、「片岡徹役の俳優の演技がもうちょっと上手いといいんだけどなぁ」なんて思っていたが、段々と、「上手くないからこそ滲み出る狂気」みたいなものがあるなと感じられるようになって、結果的には良かったと思う。
そんなわけで、一見すると「マイナス」あるいは「プラスにはならない」要素が多いように感じられるが、なんだかいろんなものが絶妙に混ざり合って、結果として素敵な作品に仕上がっている。観て良かったなぁ。
あと、エンドロールを観ていて驚いたのが、「宣伝プロデューサー」として「古内一絵」がクレジットされていたこと。これは、小説家の古内一絵と同一人物なんだろうか?
ちなみに、この映画を僕は下高井戸シネマで観たが、『20世紀ノスタルジア』が上映されるちょっと前、映画館には広末涼子の『MajiでKoiする5秒前』が流れていた。
最後にもう一度。広末涼子がとにかく可愛い。
「20世紀ノスタルジア」を観に行ってきました
映画を観始めてしばらくは、「とにかく広末涼子が恐ろしく可愛い」っていうだけの映画だと思っていた。とにかく、広末涼子が可愛い。別に僕は特別広末涼子のファンだったということもないのだけど、それでも、この映画に映し出される広末涼子の可愛さにはちょっと圧倒されるなぁ。正直、「広末涼子が可愛い」っていうだけで、この映画は「鑑賞物」として全然成立しちゃうと思う。
まあ、そういう映画だったとしてもきっと満足しただろう。
ただ途中から、この映画の非常に特殊な設定が、「繊細な人間関係を描き出すのにメチャクチャ良いんじゃないか」と感じるようになってきた。主演の広末涼子と圓島努はどちらも「演技が上手い」と言える感じではないが、その演技の拙さを「設定」が見事に補い、「繊細さ」を感じさせる人間模様が描かれている、と僕感じた。
というわけで、内容紹介も含めて、この映画の特殊な設定を説明しよう。
ざっくり内容を説明すると、「2人の高校生が、夏休み中東京都内各所で撮影した映像素材を編集して1本の映画にする」となる。高校2年制の遠山杏と、転校生の片岡徹が、お互いにビデオカメラを持って映画を撮影する。
映画の登場人物も、遠山杏と片岡徹である。しかし、これは正確な表現ではない。ただしくは、「遠山杏に憑依した宇宙人ポウセ」と「片岡徹に憑依した宇宙人チュンセ」の2人が主人公の映画なのだ。ちなみにこの「ポウセ」「チュンセ」という名前は、宮沢賢治の「双子の星」という作品からきているそうだ。
放送部に所属している杏は、橋の上でカメラテストをしている時に、徹に話しかけられる。徹は、「自分は実はチュンセという宇宙人なんだ」と言い始め、さらに「自分は今分裂して新しい宇宙人が生まれようとしている。杏の身体を貸してくれ」と重ねるのだ。杏はちょっと戸惑う素振りを見せつつも、徹の謎の発現をスッと受け入れ、チュンセから分裂したという宇宙人を自分の身体に移す。名前は「ポウセ」だそうだ。ちなみに、宇宙人は単性生殖で、アメーバのように分裂して増えるらしい。
それから2人は、カメラを持って東京中を巡る。それは、杏と徹にとっては「映画撮影」だが、ポウセとチュンセにとっては「地球人の調査」である。
しかし、観客にとってそれは、明らかに「デート」である。2人は、「撮影」「調査」と称して、ひと夏のデートに繰り出しているのだ。
しかししばらくして、そう考えていたのは杏の方だけだったことが分かってくる。はっきりとは分からないものの、徹にとって「宇宙人」は「杏と会う口実」ではなく「もっと切実な何か」のようなのだ。
この映画の冒頭では、既に徹は日本にいない。夏休みが終わるとすぐ、オーストラリアに旅立ってしまったのだ。膨大なテープと共に残された杏は、先生や友人の後押しもあり、テープを編集して一本の映画を作る決意をするが……。
というような話です。
僕がもの凄く良いと感じたのは、「お互いが宇宙人という設定を貫く」という点だ。これが、2人の距離感を縮めもするし遠ざけもする、非常に絶妙な要素になっているのだ。
例えば、どちらも何か発言する際に、それが「杏/徹のもの」なのか「ポウセ/チュンセのもの」なのかを選択できる。杏が徹のことを好きなのは作中から明白で、だから杏は、徹が直接間接に関わる場面で「お前がいなくて寂しい」という発現をする。エアメールで徹にビデオレターを送る際も、オーストラリアへ旅立つことを聞かされた時も、杏は「寂しい」と伝えている。
しかしそれを「杏は寂しい」という言い方にしていない。「ポウセは寂しい」「ポウセは待ってるぞ」という言い方にしているのだ。こうすることで、「真剣さ」みたいなものを隠すことができる。「宇宙人ごっこができないこと」を寂しがっているようにも受け取れるからだ。それでいて、「寂しい」という事実は伝えることができる。「ポウセ」という設定がなかったら、「私(杏)は寂しい」と言うしかなくなるが、杏はきっとそんなこと言えないだろう。だから「ポウセ」という設定は、「杏が寂しさを少しでも伝える」という意味で非常に重要なのだ。
また、映画の中で特に広末涼子が可愛かった場面が、「宇宙人は排気ガスに弱い」という設定を徹が新たに付け加えた場面だ。歩道で道路を走るトラックを撮影している時に、そのまま後ろに倒れ込んだ徹は「排気ガスにやられた~」みたいなことを言って道路に寝そべり、その自分を手持ちカメラで撮っているのだが、そこに「私もやられた~」と言って杏が入り込んでくるのだ。
はっきり言って意味不明な状況ではあるが、しかし、「ポウセという設定があるからこそ杏はそんな行動が取れる」ことは間違いないだろう。それはまさに、2人の距離を詰めることに繋がっている。
この映画では、「それまで関わりの無かった2人が橋の上で邂逅し、すぐに意気投合してデートをする」という展開がいきなり始まるのだが、普通には成立し得ないそんな状況が、一定の許容が可能な範囲内に収まっているのは、まさにこの「宇宙人」の設定のお陰だと思う。また観客としても、「宇宙人」の方に違和感を覚えてしまうため、彼らの急激な「親密さ」みたいなものには目が向かなくなる。
以前、「空からクラゲが降ってくると主張する女の子」が出てくる小説を読んだのだが、少し近いものがあるかもしれない。トリッキーな設定が組み込まれることで、本来なら浮き彫りになるかもしれない違和感が気にならなくなる。それによって、物語がスッと入ってきやすくなるのだと思う。
2人の関係性的にも、我々観客の理解的にも、「宇宙人」という設定は絶妙だったと言って良いだろう。
しかし同時にこの設定は、彼らの距離を遠ざけるものとしても機能してしまう。痛し痒しと言ったところだ。
徹が「宇宙人」という設定の世界に杏を引きずり込んだ動機ははっきりとは分からないが、映画を観て理解できることは、「徹には徹なりの切実さがあってそうしていた」ということだ。杏でなければならなかったのか、カメラを持っていたからなのか、あるいは誰でも良かったのか、それは分からないが、少なくとも徹自身にとっては「宇宙人」はただの設定ではなく、彼がなんとか生きていく上で外せない要素だったのだ。
当然、最初からそんなこと理解できるはずもない杏は、「よく分からないけど何かの遊びなんだろう」という程度の理解で徹に遊びに付き合った。杏が徹の遊びに付き合った理由こそなかなか謎ではあるが、観客の立場からは「なにかピンと来るものがあったのだろう」ぐらいのことしか言えないわけだが、とにかく杏は、仕方ないことではあるが、初めから徹の切実さを捉えられはしなかった。
そして、その微妙な食い違いが、ちょっとずつ2人の関係を蝕んでいったのではないか、と感じる。
また、「撮影した映像を編集して映画にする」という設定も上手いと思う。杏の友人が冒頭で、「編集すると、片岡くんのこと思い出しちゃって大変だね」と杏に言うが、まさに「映像編集」は「過去の追体験」と同じような意味合いを持つ。彼らが制作していた映画は、「ポウセ/チュンセ」という名前で「杏/徹」自身を描く作品なのだから、余計その傾向が強くなる。
そして、その「過去の追体験」によって杏は、目の前からいなくなってしまった「片岡徹/チュンセ」という「人間/宇宙人」を改めて理解しようとするのだ。
こういう構成の部分がとても上手いと感じた。さらにその上で、杏と徹が実際に手持ちカメラで撮っただろう映像がふんだんに使われ、普通の映画ではあり得ないような躍動感やリアルさを感じさせる画になっている。昔『私たちのハァハァ』という映画を観たが、その時の映像を思い出した。こちらも、4人の女子高生が交代で撮影している手持ちカメラの映像が随所に組み込まれるのだ。
映画を観始めた当初は、「片岡徹役の俳優の演技がもうちょっと上手いといいんだけどなぁ」なんて思っていたが、段々と、「上手くないからこそ滲み出る狂気」みたいなものがあるなと感じられるようになって、結果的には良かったと思う。
そんなわけで、一見すると「マイナス」あるいは「プラスにはならない」要素が多いように感じられるが、なんだかいろんなものが絶妙に混ざり合って、結果として素敵な作品に仕上がっている。観て良かったなぁ。
あと、エンドロールを観ていて驚いたのが、「宣伝プロデューサー」として「古内一絵」がクレジットされていたこと。これは、小説家の古内一絵と同一人物なんだろうか?
ちなみに、この映画を僕は下高井戸シネマで観たが、『20世紀ノスタルジア』が上映されるちょっと前、映画館には広末涼子の『MajiでKoiする5秒前』が流れていた。
最後にもう一度。広末涼子がとにかく可愛い。
「20世紀ノスタルジア」を観に行ってきました
「キャスティング・ディレクター ハリウッドの顔を変えた女性」を観に行ってきました
これは面白い映画だった。
「キャスティング・ディレクター」という正直初めて聞いたと思う。いや、耳にしたことぐらいはあるかもしれないし、聞けばどんな仕事なのかもざっくりとは想像できるわけだが、しかしこれほど重要な仕事だとは思わなかった。
「キャスティング・ディレクター」とはその名の通り、映画やドラマの配役を考え、役者を手配する仕事だ。そしてこの映画では主に、「キャスティングの仕事を一変させた」と評価されるマリオン・ドハティという女性の仕事が紹介される。
さて、マリオンについて触れる前に、まずは僕が「映画などの配役」についてどんなイメージを持っていたのかを書いておこう。
当然だが、映画が様々な要素で成り立っていることは知っている。音楽・衣装・美術・CGなどなど様々なものが映画には不可欠だ。
ただ、その中でも「配役」というのはとんでもなく重要なものだ、と認識している。どれだけ音楽や衣装があったところで、役者がいなければ成立しないからだ。だから、そんな重要な「配役」という仕事は、基本的に「映画監督」が実質を担っている、と僕は勝手に思っていた。もちろん、すべてを映画監督がやるのは無理だろうが、「配役」における非常に重要な部分は、「映画監督」の仕事だと思っていたのだ。
しかしこの映画を観て、そうではないことを知った。そのことを象徴的に語っていたのが、映画監督のウディ・アレンだ。彼ははっきりと「キャスティングは嫌い」と言っていた。そもそも人見知りだし、スター俳優がオーディションに来ると萎縮するし、同じくらい有能な俳優たちから1人だけを選ぶのも気が引ける、と。全員ではないだろうが、「俳優を選ぶのは得意じゃない」と考えている映画監督は多いそうだ。
だからこそ「キャスティング・ディレクター」が重要なのだ。
映画には、映画監督や俳優などに全然詳しくない僕でも当然名前を知っているような有名な人たちが、口々にマリオンの仕事を称賛していた。
【映画製作のパートナーだと思う】
【手掛けた映画の量と質に圧倒される。どれも、アメリカ文化を語る上で外せない映画ばかりだ】
【マリオン・ドハティはキャスティングを革新した】
【マリオンのキャスティングは芸術だ】
マーティン・スコセッシは映画の冒頭で、
【映画の9割以上はキャスティングで決まる】
と、彼女の仕事を絶賛していた。
しかし、それほど重要性が認識されている存在であるのに、マリオンを初めキャスティング・ディレクターは「過小評価」されてきた。
確か『真夜中のカーボーイ』だったはずだが、マリオンは主演にジョン・ヴォイドを推した。当時はまだ無名で、しかも、かつてマリオンのお陰でテレビの仕事をもらった際に酷い芝居をしてしまっていた。それでもジョンはマリオンに直談判し、マリオンは「過去は過去よ」と言ってジョンを推した。ジョンはこの時のマリオンの決断について、
【マリオンの度胸は凄い】
と言っていた。それほど彼には、実績もなければ、分かりやすく推せる部分もなかったのだ。
実際、オーディションでも、制作側が高評価をつけていた別の俳優が良いとなり、ジョンは選ばれなかった。しかし、主演に決まっていた俳優のスタジオが、2週間後のリハーサルを拒否するという事態になり、オーディションを再考する必要に迫られた。マリオンはもちろんジョンを推す。そんな風にして、『真夜中のカーボーイ』はジョン・ヴォイド主演で決まり、アカデミー賞の作品賞他、様々な賞を受賞する作品になった。
しかし、この映画のキャスティングに、マリオンは単独でクレジットされなかった。他のアシスタントと同列だったのだ。彼女はこの時点で既に、映画業界には欠かせない存在として認識されている人物だったし、彼女自身の認識でも、自分はクレジットされて然るべきだと考えていた。そこで監督にそう申し出るのだが、監督は「それは無理だ」と答えた。そこでマリオンは「だったら私の名前は外してほしい」と伝え、監督は実際に彼女の名前をクレジットから一切排除したそうだ。マリオンはこの時の出来事について、
【私のキャリアにおいて最悪の出来事】
と語っていた。映画には、『真夜中のカーボーイ』の監督も出演しており、
【今考えれば、彼女を単独でクレジットすべきだった。45年間、そのことを後悔している】
と言っていた。
マリオンは、1949年にテレビの世界でキャスティングの仕事を始め、その後映画界でも知られる絶対的な存在だったが、それでも、映画のクレジットに彼女の名前が初めて単独で表記されたのは、『真夜中のカーボーイ』から3年後、『スローターハウス5』でのことだったそうだ。
クレジットの話で言えば、マリオンが初めに関わったテレビの世界でも問題があった。キャスティングの仕事を初めて8年、500話以上のドラマのキャスティングの手掛けても一度もクレジットに名前が乗らなかったが、1960年に始まった伝説の刑事ドラマ『裸の町』で初めてマリオンの名前がクレジットされた。
しかしその2週間後、問題が起こる。全米監督協会からクレームが入ったのだ。『裸の町』でマリオンは「キャスティング・ディレクター(配役監督)」と表記されたが、全米監督協会から「”監督”という表記」はおかしいと指摘されたのだ。
映画には、全米監督協会の会長だろう人も出てきて、自説を述べていた。曰く、映画において「監督」は基本的に1人だ。「撮影監督」という表記もあるが、実質は「撮影技師」であり、本来は「監督」という表記は納得しがたい。「監督」というのは、現場のスタッフを取りまとめる重要な役どころだ。「監督」と表記したいなら、全スタッフをまとめあげるべきだ。そういう主張だった。
そういう問題があったからなのだろう、映画のクレジットでは「Casting by」という表記がなされるようになる。
この全米監督協会は、別の場面でもマリオンの邪魔をしている。アカデミー賞には、編集賞・脚本賞などなど様々な部門が存在するが、「キャスティング賞」は存在しない。テレビのエミー賞にはあるが、アカデミー賞にはないのだ。その理由は、全米監督協会が反対しているからだそうだ。
同じく全米監督協会の会長だろう人が、「配役は最終的に監督が決めている。だからキャスティングに賞を与えるのはおかしい」と主張していたが、映画の中では様々な人物が、「編集・美術・衣装だって、それぞれが案を出し、最終的に監督が決定しているのだから同じだ」と主張していた。僕もそう思う。しかし結局アカデミー賞では、「監督と役割を明確に線引きできない」という理由でキャスティング賞の創設を見送っている。
また、1991年に、マリオンにアカデミー賞の特別賞を与えようという動きが生まれた。様々な監督や俳優が、マリオンの表彰を支持する手紙を書いたが、結局マリオンの受賞は見送られることになった。
マリオンは、自ら事務所を作り、そこで女性だけを雇い、自身のキャスティングの能力を惜しげもなく継承しており、この映画にはその薫陶を受けた女性たちも多数登場する。その1人が、「未だに私たちは秘書と同じように思われている」と語っていた。
ただこの発言は、現在に至る変遷を踏まえたものでもある。「キャスティング・ディレクター」は、マリオンが登場するまでまったく重視されていなかったが、マリオンが革命を起こし、その重要性が認識されるようになった。しかし現在再び、「キャスティング・ディレクター」の仕事が過小評価されているのである。
そこには、「映画が巨大産業になったこと」が関係している。
マリオンのキャスティングが「芸術」と呼ばれているのは、「演技力のある俳優の素質や適正を見抜き、さらに脚本の意図を正確に理解し、ぴったりの俳優を紹介するから」だ。彼女はそもそもどんな映画でも、1つの役に対して2~3人しか紹介しないそうだ。そう語っていたマリオンの弟子の女性の口ぶりからすると、人によっては1つの役に10人以上推薦することもあるそうだ。
さらにマリオン自身が語っていたのが『スティング』のエピソード。この時は、1つの役に対して1人しか紹介しなかったそうだ。ある人物はこの仕事を「驚異的」と評していた。『スティング』の監督は、アカデミー賞の授賞式で、「こんなメンバーが揃ってるんだから傑作になるに決まってる」と口にした際、マリオンの名前も含めた。マリオンはこの時のことについて、「キャスティングに言及してくれて嬉しかった」と語っていた。
しかし、映画が巨大産業になったことで、配役の基準が「創造性」から「利益」に変わってしまう。とにかく、演技ができるかどうかなど関係なく、見栄えの良い者たちばかりが映画に出るようになっていったのだ。脚本の質も下がり、マリオンに求められることも変わっていく。
ある人物が、マリオンから電話を受けた歳のエピソードを語っていた。タイトルは忘れたが、マリオンはある映画の配役をやるように言われ、自身のキャリアを振り返って泣き始めたそうだ。
【名作が並ぶ実績に、こんな作品を加えたくない】
と。
マリオンは結局、業界の変遷の流れの中で求められなくなり、50年以上続けたキャスティングの仕事を突然奪われてしまうのだった。
「配役」という観点から考えた時、現在の映画界は、マリオンが仕事をスタートさせた時と同じような状況にあると言っていいだろう。かつてのハリウッドも、「見た目」だけで配役が決まっていたのだ。
そもそも、創成期のハリウッドでは、スタジオ毎に俳優が契約しており、「配役」は所属俳優のリストから誰かを選ぶだけの仕事だった。「配役」に重要なのは、見た目から判断される「タイプ」であり、医者の役が当たれば医者ばかりやらせる、というような状態だったという。ある人物は当時のハリウッドの役者について、
【映画スターではあったが、役者ではなかった】
とシンプルに表現している。
もしもマリオンが、ハリウッドでキャリアをスタートさせていたら、今のような革新を起こすことはなかっただろう。
マリオンは大学時代に演劇に興味を持ったが、役者になるのは大変だと知り、とりあえずニューヨークで百貨店のディスプレイの仕事に就いた。その2年後の1949年、大学の友人がテレビで配役の仕事をやることになり、彼女はそのアシスタントをすることになったのだ。
創成期のテレビ局の多くはニューヨークにあった。そして当時ドラマと言えば、生放送だった。当時を知る役者は、「毎日が舞台の初日のようなものだった」と語っていた。
働き始めてから4ヶ月後、マリオンはキャスティングを任されるようになり、良い役者を見つけようと劇場へと足を運んだ。当時はオフ・ブロードウェイやオフオフなどが始まった頃で、マリオンはテレビの世界に優れた舞台俳優を次々に送り込んだ。マリオンは、後に名優となる役者の初配役に多数関係している。ジェームス・ディーンをドラマに初めて起用した際、遅刻したせいで監督から「別の役者を寄越せ」と怒鳴られたそうだ。しかしマリオンはジェームスに遅刻しないよう言い聞かせ、監督も説得、ジェームス・ディーンをスターにするきっかけを作った。彼女のキャリアには、こんな話は事欠かない。
1960年に『裸の町』が始まると同時に、『ルート66』もスタートし、彼女はこの2作品の配役をやってのける。映画の中で誰かが、
【この2作品の配役をやっていたというだけでも凄い。役者と出演交渉し、予算内で配役を揃えるだけでも相当なものだ。さらに、その役者たちのレベルが驚異的なのだから、マリオンの仕事は凄まじい】
と言っていた。
その後1950年代に入ると、映画産業が徐々に破綻、スタジオが立ち行かなくなっていき、俳優もスタジオと契約ではなく独立するようになっていく。そのような時代に注目されたのがUAという映画製作会社だ。「予算さえ守れば一切口を出さない」というスタンスであり、だからここに大勢の有能な監督が集まった。
そしてそんな独立系の作品だからこそ「キャスティング・ディレクター」はこれまで以上に重視されるようになる。このタイミングでマリオンは映画の世界へ飛び込み、二度とテレビの世界には戻らなかったそうだ。
マリオンのエピソードで印象的だったのが『リーサル・ウェポン』に関するものだ。この映画に関してスピーチを行った監督は、「マリオンの配役によって人生が変わった」と語っていた。
主演の1人であるメル・ギブソンは、それまで3度映画に出演したことはあるが「鳴かず飛ばず」と言った感じで、全然注目されていなかった。メル・ギブソン本人も出演しており、彼は「俳優は辞めて、有機野菜でも作ろうと思っていた」と語っていた。
しかしマリオンがメル・ギブソンに脚本を渡し、もう一度やってみるかと考えてリックス役を引き受けたそうだ。
しかしより印象的だったのは、リックスとバディを組むマータフの配役だ。マリオンはこの配役に、黒人のダニー・グローヴァーを推した。
これに監督は驚愕したという。何故なら、脚本では「黒人」と指定されていたわけではなかったからだ。その戸惑いをマリオンに伝えると、彼女は「黒人だから何?」と強気に返してきたという。マリオンは、メル・ギブソンとの対比で彼が映えると考え、「黒人」の俳優を推薦したのだ。
この時の出来事について監督は、
【私は偏見から、書かれていないことを見落としていた】
と語り、人生が変わったとマリオンを称賛していた。
誰かが「キャスティング・ディレクター」の仕事についてこんな風に言っていた。
【偉大な監督のほとんどが、キャスティング・ディレクターに感謝していると思う。知らない俳優を連れてきてくれて、時には背中を押してくれるんだから】
映画がどんな風に作られているのか全然知らない僕のような人間には、そもそも「キャスティング・ディレクター」という仕事すら見えていなかったし、当然その重要さなんてまったく理解できていなかった。しかし、この映画を観て、確かに「キャスティング・ディレクター」が存在しなければ素晴らしい映画には成り得ないということが理解できた。
そして、マリオンが築き上げた、芸術とまで評された「キャスティング」が、現在の映画では再び過小評価されてしまっている、という事実も非常に残念ではある。
公式HPによると、そもそもこの映画は2012年にアメリカで公開されたものだそうで、この映画公開後、アメリカのアカデミー賞にもちょっとした変化はあったそうだ。また2019年にイギリスのアカデミー賞がキャスティング部門を新設したことも話題になってるそうだ。
映画ではそのような言及はさほどなかったが、やはりマリオンが女性だったから評価されなかった、という側面もきっとあったのではないかと思う。もし「キャスティング・ディレクター」の先駆者が女性ではなく男性だったら、歴史はもう少し変わっていたかもしれない。そんな風にも思わされてしまった。
僕でも名前を知っているような有名映画の実際の映像が多数組み込まれ、僕でも名前を知っているような有名な俳優のデビュー当時の姿から、マリオンの功績を称える現在の姿まで様々に映し出される作品だ。そういう意味でも貴重な作品と言えるかもしれない。
「キャスティング・ディレクター ハリウッドの顔を変えた女性」を観に行ってきました
「キャスティング・ディレクター」という正直初めて聞いたと思う。いや、耳にしたことぐらいはあるかもしれないし、聞けばどんな仕事なのかもざっくりとは想像できるわけだが、しかしこれほど重要な仕事だとは思わなかった。
「キャスティング・ディレクター」とはその名の通り、映画やドラマの配役を考え、役者を手配する仕事だ。そしてこの映画では主に、「キャスティングの仕事を一変させた」と評価されるマリオン・ドハティという女性の仕事が紹介される。
さて、マリオンについて触れる前に、まずは僕が「映画などの配役」についてどんなイメージを持っていたのかを書いておこう。
当然だが、映画が様々な要素で成り立っていることは知っている。音楽・衣装・美術・CGなどなど様々なものが映画には不可欠だ。
ただ、その中でも「配役」というのはとんでもなく重要なものだ、と認識している。どれだけ音楽や衣装があったところで、役者がいなければ成立しないからだ。だから、そんな重要な「配役」という仕事は、基本的に「映画監督」が実質を担っている、と僕は勝手に思っていた。もちろん、すべてを映画監督がやるのは無理だろうが、「配役」における非常に重要な部分は、「映画監督」の仕事だと思っていたのだ。
しかしこの映画を観て、そうではないことを知った。そのことを象徴的に語っていたのが、映画監督のウディ・アレンだ。彼ははっきりと「キャスティングは嫌い」と言っていた。そもそも人見知りだし、スター俳優がオーディションに来ると萎縮するし、同じくらい有能な俳優たちから1人だけを選ぶのも気が引ける、と。全員ではないだろうが、「俳優を選ぶのは得意じゃない」と考えている映画監督は多いそうだ。
だからこそ「キャスティング・ディレクター」が重要なのだ。
映画には、映画監督や俳優などに全然詳しくない僕でも当然名前を知っているような有名な人たちが、口々にマリオンの仕事を称賛していた。
【映画製作のパートナーだと思う】
【手掛けた映画の量と質に圧倒される。どれも、アメリカ文化を語る上で外せない映画ばかりだ】
【マリオン・ドハティはキャスティングを革新した】
【マリオンのキャスティングは芸術だ】
マーティン・スコセッシは映画の冒頭で、
【映画の9割以上はキャスティングで決まる】
と、彼女の仕事を絶賛していた。
しかし、それほど重要性が認識されている存在であるのに、マリオンを初めキャスティング・ディレクターは「過小評価」されてきた。
確か『真夜中のカーボーイ』だったはずだが、マリオンは主演にジョン・ヴォイドを推した。当時はまだ無名で、しかも、かつてマリオンのお陰でテレビの仕事をもらった際に酷い芝居をしてしまっていた。それでもジョンはマリオンに直談判し、マリオンは「過去は過去よ」と言ってジョンを推した。ジョンはこの時のマリオンの決断について、
【マリオンの度胸は凄い】
と言っていた。それほど彼には、実績もなければ、分かりやすく推せる部分もなかったのだ。
実際、オーディションでも、制作側が高評価をつけていた別の俳優が良いとなり、ジョンは選ばれなかった。しかし、主演に決まっていた俳優のスタジオが、2週間後のリハーサルを拒否するという事態になり、オーディションを再考する必要に迫られた。マリオンはもちろんジョンを推す。そんな風にして、『真夜中のカーボーイ』はジョン・ヴォイド主演で決まり、アカデミー賞の作品賞他、様々な賞を受賞する作品になった。
しかし、この映画のキャスティングに、マリオンは単独でクレジットされなかった。他のアシスタントと同列だったのだ。彼女はこの時点で既に、映画業界には欠かせない存在として認識されている人物だったし、彼女自身の認識でも、自分はクレジットされて然るべきだと考えていた。そこで監督にそう申し出るのだが、監督は「それは無理だ」と答えた。そこでマリオンは「だったら私の名前は外してほしい」と伝え、監督は実際に彼女の名前をクレジットから一切排除したそうだ。マリオンはこの時の出来事について、
【私のキャリアにおいて最悪の出来事】
と語っていた。映画には、『真夜中のカーボーイ』の監督も出演しており、
【今考えれば、彼女を単独でクレジットすべきだった。45年間、そのことを後悔している】
と言っていた。
マリオンは、1949年にテレビの世界でキャスティングの仕事を始め、その後映画界でも知られる絶対的な存在だったが、それでも、映画のクレジットに彼女の名前が初めて単独で表記されたのは、『真夜中のカーボーイ』から3年後、『スローターハウス5』でのことだったそうだ。
クレジットの話で言えば、マリオンが初めに関わったテレビの世界でも問題があった。キャスティングの仕事を初めて8年、500話以上のドラマのキャスティングの手掛けても一度もクレジットに名前が乗らなかったが、1960年に始まった伝説の刑事ドラマ『裸の町』で初めてマリオンの名前がクレジットされた。
しかしその2週間後、問題が起こる。全米監督協会からクレームが入ったのだ。『裸の町』でマリオンは「キャスティング・ディレクター(配役監督)」と表記されたが、全米監督協会から「”監督”という表記」はおかしいと指摘されたのだ。
映画には、全米監督協会の会長だろう人も出てきて、自説を述べていた。曰く、映画において「監督」は基本的に1人だ。「撮影監督」という表記もあるが、実質は「撮影技師」であり、本来は「監督」という表記は納得しがたい。「監督」というのは、現場のスタッフを取りまとめる重要な役どころだ。「監督」と表記したいなら、全スタッフをまとめあげるべきだ。そういう主張だった。
そういう問題があったからなのだろう、映画のクレジットでは「Casting by」という表記がなされるようになる。
この全米監督協会は、別の場面でもマリオンの邪魔をしている。アカデミー賞には、編集賞・脚本賞などなど様々な部門が存在するが、「キャスティング賞」は存在しない。テレビのエミー賞にはあるが、アカデミー賞にはないのだ。その理由は、全米監督協会が反対しているからだそうだ。
同じく全米監督協会の会長だろう人が、「配役は最終的に監督が決めている。だからキャスティングに賞を与えるのはおかしい」と主張していたが、映画の中では様々な人物が、「編集・美術・衣装だって、それぞれが案を出し、最終的に監督が決定しているのだから同じだ」と主張していた。僕もそう思う。しかし結局アカデミー賞では、「監督と役割を明確に線引きできない」という理由でキャスティング賞の創設を見送っている。
また、1991年に、マリオンにアカデミー賞の特別賞を与えようという動きが生まれた。様々な監督や俳優が、マリオンの表彰を支持する手紙を書いたが、結局マリオンの受賞は見送られることになった。
マリオンは、自ら事務所を作り、そこで女性だけを雇い、自身のキャスティングの能力を惜しげもなく継承しており、この映画にはその薫陶を受けた女性たちも多数登場する。その1人が、「未だに私たちは秘書と同じように思われている」と語っていた。
ただこの発言は、現在に至る変遷を踏まえたものでもある。「キャスティング・ディレクター」は、マリオンが登場するまでまったく重視されていなかったが、マリオンが革命を起こし、その重要性が認識されるようになった。しかし現在再び、「キャスティング・ディレクター」の仕事が過小評価されているのである。
そこには、「映画が巨大産業になったこと」が関係している。
マリオンのキャスティングが「芸術」と呼ばれているのは、「演技力のある俳優の素質や適正を見抜き、さらに脚本の意図を正確に理解し、ぴったりの俳優を紹介するから」だ。彼女はそもそもどんな映画でも、1つの役に対して2~3人しか紹介しないそうだ。そう語っていたマリオンの弟子の女性の口ぶりからすると、人によっては1つの役に10人以上推薦することもあるそうだ。
さらにマリオン自身が語っていたのが『スティング』のエピソード。この時は、1つの役に対して1人しか紹介しなかったそうだ。ある人物はこの仕事を「驚異的」と評していた。『スティング』の監督は、アカデミー賞の授賞式で、「こんなメンバーが揃ってるんだから傑作になるに決まってる」と口にした際、マリオンの名前も含めた。マリオンはこの時のことについて、「キャスティングに言及してくれて嬉しかった」と語っていた。
しかし、映画が巨大産業になったことで、配役の基準が「創造性」から「利益」に変わってしまう。とにかく、演技ができるかどうかなど関係なく、見栄えの良い者たちばかりが映画に出るようになっていったのだ。脚本の質も下がり、マリオンに求められることも変わっていく。
ある人物が、マリオンから電話を受けた歳のエピソードを語っていた。タイトルは忘れたが、マリオンはある映画の配役をやるように言われ、自身のキャリアを振り返って泣き始めたそうだ。
【名作が並ぶ実績に、こんな作品を加えたくない】
と。
マリオンは結局、業界の変遷の流れの中で求められなくなり、50年以上続けたキャスティングの仕事を突然奪われてしまうのだった。
「配役」という観点から考えた時、現在の映画界は、マリオンが仕事をスタートさせた時と同じような状況にあると言っていいだろう。かつてのハリウッドも、「見た目」だけで配役が決まっていたのだ。
そもそも、創成期のハリウッドでは、スタジオ毎に俳優が契約しており、「配役」は所属俳優のリストから誰かを選ぶだけの仕事だった。「配役」に重要なのは、見た目から判断される「タイプ」であり、医者の役が当たれば医者ばかりやらせる、というような状態だったという。ある人物は当時のハリウッドの役者について、
【映画スターではあったが、役者ではなかった】
とシンプルに表現している。
もしもマリオンが、ハリウッドでキャリアをスタートさせていたら、今のような革新を起こすことはなかっただろう。
マリオンは大学時代に演劇に興味を持ったが、役者になるのは大変だと知り、とりあえずニューヨークで百貨店のディスプレイの仕事に就いた。その2年後の1949年、大学の友人がテレビで配役の仕事をやることになり、彼女はそのアシスタントをすることになったのだ。
創成期のテレビ局の多くはニューヨークにあった。そして当時ドラマと言えば、生放送だった。当時を知る役者は、「毎日が舞台の初日のようなものだった」と語っていた。
働き始めてから4ヶ月後、マリオンはキャスティングを任されるようになり、良い役者を見つけようと劇場へと足を運んだ。当時はオフ・ブロードウェイやオフオフなどが始まった頃で、マリオンはテレビの世界に優れた舞台俳優を次々に送り込んだ。マリオンは、後に名優となる役者の初配役に多数関係している。ジェームス・ディーンをドラマに初めて起用した際、遅刻したせいで監督から「別の役者を寄越せ」と怒鳴られたそうだ。しかしマリオンはジェームスに遅刻しないよう言い聞かせ、監督も説得、ジェームス・ディーンをスターにするきっかけを作った。彼女のキャリアには、こんな話は事欠かない。
1960年に『裸の町』が始まると同時に、『ルート66』もスタートし、彼女はこの2作品の配役をやってのける。映画の中で誰かが、
【この2作品の配役をやっていたというだけでも凄い。役者と出演交渉し、予算内で配役を揃えるだけでも相当なものだ。さらに、その役者たちのレベルが驚異的なのだから、マリオンの仕事は凄まじい】
と言っていた。
その後1950年代に入ると、映画産業が徐々に破綻、スタジオが立ち行かなくなっていき、俳優もスタジオと契約ではなく独立するようになっていく。そのような時代に注目されたのがUAという映画製作会社だ。「予算さえ守れば一切口を出さない」というスタンスであり、だからここに大勢の有能な監督が集まった。
そしてそんな独立系の作品だからこそ「キャスティング・ディレクター」はこれまで以上に重視されるようになる。このタイミングでマリオンは映画の世界へ飛び込み、二度とテレビの世界には戻らなかったそうだ。
マリオンのエピソードで印象的だったのが『リーサル・ウェポン』に関するものだ。この映画に関してスピーチを行った監督は、「マリオンの配役によって人生が変わった」と語っていた。
主演の1人であるメル・ギブソンは、それまで3度映画に出演したことはあるが「鳴かず飛ばず」と言った感じで、全然注目されていなかった。メル・ギブソン本人も出演しており、彼は「俳優は辞めて、有機野菜でも作ろうと思っていた」と語っていた。
しかしマリオンがメル・ギブソンに脚本を渡し、もう一度やってみるかと考えてリックス役を引き受けたそうだ。
しかしより印象的だったのは、リックスとバディを組むマータフの配役だ。マリオンはこの配役に、黒人のダニー・グローヴァーを推した。
これに監督は驚愕したという。何故なら、脚本では「黒人」と指定されていたわけではなかったからだ。その戸惑いをマリオンに伝えると、彼女は「黒人だから何?」と強気に返してきたという。マリオンは、メル・ギブソンとの対比で彼が映えると考え、「黒人」の俳優を推薦したのだ。
この時の出来事について監督は、
【私は偏見から、書かれていないことを見落としていた】
と語り、人生が変わったとマリオンを称賛していた。
誰かが「キャスティング・ディレクター」の仕事についてこんな風に言っていた。
【偉大な監督のほとんどが、キャスティング・ディレクターに感謝していると思う。知らない俳優を連れてきてくれて、時には背中を押してくれるんだから】
映画がどんな風に作られているのか全然知らない僕のような人間には、そもそも「キャスティング・ディレクター」という仕事すら見えていなかったし、当然その重要さなんてまったく理解できていなかった。しかし、この映画を観て、確かに「キャスティング・ディレクター」が存在しなければ素晴らしい映画には成り得ないということが理解できた。
そして、マリオンが築き上げた、芸術とまで評された「キャスティング」が、現在の映画では再び過小評価されてしまっている、という事実も非常に残念ではある。
公式HPによると、そもそもこの映画は2012年にアメリカで公開されたものだそうで、この映画公開後、アメリカのアカデミー賞にもちょっとした変化はあったそうだ。また2019年にイギリスのアカデミー賞がキャスティング部門を新設したことも話題になってるそうだ。
映画ではそのような言及はさほどなかったが、やはりマリオンが女性だったから評価されなかった、という側面もきっとあったのではないかと思う。もし「キャスティング・ディレクター」の先駆者が女性ではなく男性だったら、歴史はもう少し変わっていたかもしれない。そんな風にも思わされてしまった。
僕でも名前を知っているような有名映画の実際の映像が多数組み込まれ、僕でも名前を知っているような有名な俳優のデビュー当時の姿から、マリオンの功績を称える現在の姿まで様々に映し出される作品だ。そういう意味でも貴重な作品と言えるかもしれない。
「キャスティング・ディレクター ハリウッドの顔を変えた女性」を観に行ってきました
「TITANE/チタン」を観に行ってきました
常軌を逸した意味不明さだったが、とにかく凄かった。
マジで最後の最後まで意味不明だったが、なんだかよく分からないまま見させられてしまった。凄いパワーの映画だと思う。
基本的に、すべての展開が「理屈を超えている」という感じだ。全然、説明がつかない。別に「物語はすべて説明されるべきだ」なんて全然思っていないし、説明されない部分が作品の魅力になることも多々あるだろう。ただ、この作品の場合、「部分」ではなく「全体」において説明が放棄されていると感じる。制作側がどんなつもりでいるか分からないが、少なくとも、「大体の人が理解できるだろう」などという想定で作っていないことは確かだと思う。
普段通り、内容をよく知らずに観に行っているわけだが、「脳にチタンを埋め込んでいる」ぐらいの設定は知っていた。だから、「そのチタンが何か脳に作用し、それによって何かが起こった」という説明になるのだと思ったが、全然そんなことはなかった。
もちろん、作中で起こるあらゆることは、最終的に「脳に埋め込んだチタンのせいだ」ということだと思うが、正直、「脳にチタンを埋め込んだこと」は、映画の冒頭で設定として登場して以来、一度も触れられることがない。「全部、脳に埋め込んだチタンが悪いってことでヨロシク!」みたいなぶん投げっぷりなのだ。
ただ、それが不愉快とか、物足りないとかいう感じにはならない。そもそも、展開と映像の密度が濃すぎて、”それどころじゃない”という印象だ。とにかく、展開が進むに連れ、様々な場面で「え???」となる場面が出てくる。全然意味が分からない。意味はわからないし、説明もほったらかしのままどんどん進んでいくのだが、「そういうものなのだ」と受け入れてしまう。
その最大の要因が「痛み」であるように思う。
テーマ全体とどう絡むのは、イマイチ理解しているわけではないが、この映画ではとにかく随所で「痛み」が強調される。主人公が唐突に誰かを傷つける場面では、「そんなん止めて……」と思うくらいのやり方をする。主人公が様々な意味での”自傷”を行う(しかしこれらはすべて、「死の欲求」とは無関係だ)場面では、「いやいや無理やろ……」と感じるほど躊躇がない。
別に僕自身が痛めつけられているわけでもないのに、時々顔をしかめてしまうぐらい、画面越しに強烈な「痛み」が届く。「痛み」そのものを感じているわけではないのだが、「『痛い』という記憶」が刺激され呼び覚まされているような、そんな感覚にさせられるのだ。
そしてそれによって、観客の神経が麻痺するのではないかと思う。「痛み」に支配されて、正常に物事を考えることができない。明らかに「理屈に合わない、異常な状況が現出している」のに、もはやそんなことはどうでも良くなってしまうのだ。
そして、男の僕にはたぶん正しくは理解できないのだが、この映画で描かれる「痛み」が、まさに「女性そのもの」であることを示しているような感じがする。この作品では、主人公の女性が途中から男に成りすますのだが、そんな設定のこととはまったく関係なく、この「痛み」こそが、この映画を非常に「ジェンダー的」にしている気がする。
勝手な捉え方ではあるが、この映画で執拗に強烈に描かれる「痛み」は、妊娠・出産・生理などの「女性特有の痛み」や、「社会の中で女性が生きることの苦痛」など、様々なものを含んでいるように感じる。これほど暴力的で、ある意味で残虐で、そしてまったく理解不能な、観る者を寄せ付けなさそうな映画であるのに、たぶんこの「『痛み』への共感」みたいなものが観客との橋渡しの役割をしているのではないかと思う。この映画で描かれるありとあらゆる事柄が「私が生きる世界とは遠い異質なもの」であるのに、その中で描かれる「痛み」だけが、スクリーンを突き破って観客に直接突き刺さるような、そんな感じの映画だと感じた。
僕は普段、映画は「物語」「展開」などに関心がある。ビジュアルや役者の演技、音楽などと言ったものにはさほど反応できない。しかしこの映画では、「物語」「展開」は最初の最初から完全に破綻しており、「そもそも存在しない」と言っていいぐらいだ。そして、その代わりというわけではないが、普段まったく自分には届かない「絵力」みたいなものがブワッと圧力のように襲いかかってきて、ずっとその衝撃に圧倒されていた感じだ。
さて、この映画はどうしても主人公のアレクシアに目がいくが、「ヤバさ」でいえばヴァンサンもヤバい。ってかなんだコイツ。アレクシアの狂気は、すべてを「脳内のチタン」のせいにすればいいからまだ理解できるが、ヴァンサンの狂気はなんだかよく分からない。
「10年前に息子が失踪した」という現実を直視できないでいるということはもちろん理解できるが、「だったら仕方ないよね」とはさすがにならない。ヴァンサンが、「狂気の入り口」をくぐった描写が一切ないままどんどんと狂気的になっていく様を見て、なるほど彼は最初から狂気に囚われていたのだと理解できるし、それを補強する元妻との描写も出てくる。
異質な狂気が入り混じり、その瞬間その空間でしか成立し得ない「凪」みたいなものが立ち上がる。常軌を逸した2人が押したり引いたりすることによって、結果として「不安定な不動」みたいな状況が生まれ、不安定さの中で何故かお互いの有り様が定まっていくという異質さにも驚かされる。
公式HPによると、アレクシアを演じたアガト・ルセルはほぼ演技経験がなく、本作が長編映画デビューだそうだ。というかHPに、「キャスティング・ディレクターがインスタグラムで発掘した新人である」と書いてある。そういう背景を含めて、何もかもがぶっ飛んだイカれた作品である。
ほんとに、意味不明だったけどとにかく凄い映画だった。
「TITANE/チタン」を観に行ってきました
マジで最後の最後まで意味不明だったが、なんだかよく分からないまま見させられてしまった。凄いパワーの映画だと思う。
基本的に、すべての展開が「理屈を超えている」という感じだ。全然、説明がつかない。別に「物語はすべて説明されるべきだ」なんて全然思っていないし、説明されない部分が作品の魅力になることも多々あるだろう。ただ、この作品の場合、「部分」ではなく「全体」において説明が放棄されていると感じる。制作側がどんなつもりでいるか分からないが、少なくとも、「大体の人が理解できるだろう」などという想定で作っていないことは確かだと思う。
普段通り、内容をよく知らずに観に行っているわけだが、「脳にチタンを埋め込んでいる」ぐらいの設定は知っていた。だから、「そのチタンが何か脳に作用し、それによって何かが起こった」という説明になるのだと思ったが、全然そんなことはなかった。
もちろん、作中で起こるあらゆることは、最終的に「脳に埋め込んだチタンのせいだ」ということだと思うが、正直、「脳にチタンを埋め込んだこと」は、映画の冒頭で設定として登場して以来、一度も触れられることがない。「全部、脳に埋め込んだチタンが悪いってことでヨロシク!」みたいなぶん投げっぷりなのだ。
ただ、それが不愉快とか、物足りないとかいう感じにはならない。そもそも、展開と映像の密度が濃すぎて、”それどころじゃない”という印象だ。とにかく、展開が進むに連れ、様々な場面で「え???」となる場面が出てくる。全然意味が分からない。意味はわからないし、説明もほったらかしのままどんどん進んでいくのだが、「そういうものなのだ」と受け入れてしまう。
その最大の要因が「痛み」であるように思う。
テーマ全体とどう絡むのは、イマイチ理解しているわけではないが、この映画ではとにかく随所で「痛み」が強調される。主人公が唐突に誰かを傷つける場面では、「そんなん止めて……」と思うくらいのやり方をする。主人公が様々な意味での”自傷”を行う(しかしこれらはすべて、「死の欲求」とは無関係だ)場面では、「いやいや無理やろ……」と感じるほど躊躇がない。
別に僕自身が痛めつけられているわけでもないのに、時々顔をしかめてしまうぐらい、画面越しに強烈な「痛み」が届く。「痛み」そのものを感じているわけではないのだが、「『痛い』という記憶」が刺激され呼び覚まされているような、そんな感覚にさせられるのだ。
そしてそれによって、観客の神経が麻痺するのではないかと思う。「痛み」に支配されて、正常に物事を考えることができない。明らかに「理屈に合わない、異常な状況が現出している」のに、もはやそんなことはどうでも良くなってしまうのだ。
そして、男の僕にはたぶん正しくは理解できないのだが、この映画で描かれる「痛み」が、まさに「女性そのもの」であることを示しているような感じがする。この作品では、主人公の女性が途中から男に成りすますのだが、そんな設定のこととはまったく関係なく、この「痛み」こそが、この映画を非常に「ジェンダー的」にしている気がする。
勝手な捉え方ではあるが、この映画で執拗に強烈に描かれる「痛み」は、妊娠・出産・生理などの「女性特有の痛み」や、「社会の中で女性が生きることの苦痛」など、様々なものを含んでいるように感じる。これほど暴力的で、ある意味で残虐で、そしてまったく理解不能な、観る者を寄せ付けなさそうな映画であるのに、たぶんこの「『痛み』への共感」みたいなものが観客との橋渡しの役割をしているのではないかと思う。この映画で描かれるありとあらゆる事柄が「私が生きる世界とは遠い異質なもの」であるのに、その中で描かれる「痛み」だけが、スクリーンを突き破って観客に直接突き刺さるような、そんな感じの映画だと感じた。
僕は普段、映画は「物語」「展開」などに関心がある。ビジュアルや役者の演技、音楽などと言ったものにはさほど反応できない。しかしこの映画では、「物語」「展開」は最初の最初から完全に破綻しており、「そもそも存在しない」と言っていいぐらいだ。そして、その代わりというわけではないが、普段まったく自分には届かない「絵力」みたいなものがブワッと圧力のように襲いかかってきて、ずっとその衝撃に圧倒されていた感じだ。
さて、この映画はどうしても主人公のアレクシアに目がいくが、「ヤバさ」でいえばヴァンサンもヤバい。ってかなんだコイツ。アレクシアの狂気は、すべてを「脳内のチタン」のせいにすればいいからまだ理解できるが、ヴァンサンの狂気はなんだかよく分からない。
「10年前に息子が失踪した」という現実を直視できないでいるということはもちろん理解できるが、「だったら仕方ないよね」とはさすがにならない。ヴァンサンが、「狂気の入り口」をくぐった描写が一切ないままどんどんと狂気的になっていく様を見て、なるほど彼は最初から狂気に囚われていたのだと理解できるし、それを補強する元妻との描写も出てくる。
異質な狂気が入り混じり、その瞬間その空間でしか成立し得ない「凪」みたいなものが立ち上がる。常軌を逸した2人が押したり引いたりすることによって、結果として「不安定な不動」みたいな状況が生まれ、不安定さの中で何故かお互いの有り様が定まっていくという異質さにも驚かされる。
公式HPによると、アレクシアを演じたアガト・ルセルはほぼ演技経験がなく、本作が長編映画デビューだそうだ。というかHPに、「キャスティング・ディレクターがインスタグラムで発掘した新人である」と書いてある。そういう背景を含めて、何もかもがぶっ飛んだイカれた作品である。
ほんとに、意味不明だったけどとにかく凄い映画だった。
「TITANE/チタン」を観に行ってきました
「永遠が通り過ぎていく」を観に行ってきました
戸田真琴のことを初めて知ったのはたぶん、『あなたの孤独は美しい』という本だったと思う。その著者略歴か何かで、AV女優だっていうことを知った気がする。未だに、戸田真琴のAVは観たことがないと思う。
『あなたの孤独は美しい』感想
『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』感想
『あなたの孤独は美しい』を読んでぶったまげた。そして、久々に見つけたと感じた。「言葉の人」を。
僕は、「『考えること』が趣味」みたいな人が好きだ。というか、そういう人にしか興味が持てない。そして大体そういう人は、自分の思考を言葉で吐き出そうとする。僕もそう。だから、「言葉の人」になる。
なかなか「言葉の人」に出会うことは難しい。僕はこれまで、それこそたくさん本を読んで来たけれど、「言葉の人」だと感じた人は少ない。パッと浮かぶのは、乃木坂46の齋藤飛鳥、SEKAI NO OWARIの藤崎彩織、そしてAV女優の戸田真琴だ。
『あなたの孤独は美しい』『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』という2冊のエッセイを読んで、彼女が生きてきたなかなか壮絶な人生を知識としては知っているし、彼女のその人生がこの映画にも組み込まれている。母親が宗教にハマっていて分かり合えなかったのはそのまま事実だし、映画で流れる、戸田真琴の手紙をもとに大森靖子が書き下ろした曲の内容は、まさに戸田真琴の人生そのものだと思う。
しかし戸田真琴の凄まじさは、「処女のままAV女優になった」というエピソードを含めた、彼女の過去の「リアル」にあるわけではない。本当の凄さは、彼女がいつも「誰かのために言葉を届けようとしていること」にある。
『あなたの孤独は美しい』の中に、こんな文章があった。今でも時々思い出す。
【あなたが、世間からほんのちょっと浮いてしまった時、そんな自分を恥じるよりも早くに、私が大丈夫だと言うために駆けつけます。
あなたが、賑やかな集団に混ざれなくて、そんな自分を情けなく思う時、本心に背いて無理やり混ざりに行こうとするよりも早くに、私がその手を掴んでちゃんとあなたらしくいられる場所まで連れていきます。
現実には身体は一つしかないのでそんなことはできやしませんが、心という自由な空間の中では、あなたのところまでちゃんと走っていけるのです。こうして、本という形にして、いつでもあなたが開くことのできる場所に置いておくことさえできたならば。
そんな願いを込めた本にしたいと思います。
あなたが、あなた自身を恥じないで生きていけるようになるのなら、私はきっとどんな言葉も吐くでしょう。】
こんな言葉、普通の人が言えば「何を戯言なんか言ってるんだ」で終わりだろう。僕もきっとそう受け取る。そんな風に世界に対峙している人間なんか、いないだろうとどうしても考えてしまうからだ。
しかし、戸田真琴の文章を読んでいると、「あ、この人本気なんだ」ということが伝わる。「伝わる」ということが凄いと思う。仮にそれが本心だとしても、本心だとは普通受け取られない言葉を彼女は発している。もちろん、エッセイを読む人の大半は彼女と直接的に関わりを持たない人だろう。しかも彼女には「AV女優」という記号も付随する。そんな戸田真琴の言葉が、「本心なんだ」と、少なくとも僕には受け取れたし、そのことは僕自身にとっても驚きだった。
正直、映画を観ている間は、「よく分からないな」と感じることが多かった。しかし、映画後のトークショーの中で、戸田真琴がどんな風に映画を作ったのか話しており、それを聞いて納得できた部分がある。
ざっくりとだが彼女はこんなようなことを言っていた。
<確かにこの映画は、私の人生の「事実」をベースにしている部分もあるんですけど、でも「事実」に即しているかどうかは別に重要じゃない。「自分がどうして傷つけられたのか」より、「自分が傷つけられた時に何を感じていたのか」の方が大事で、その心象風景を映像にしようと思った。傷ついている時に見えている世界は、「事実」よりももっと鮮明でとんでもないもの。だから、心象風景を描くことで「事実」を照射したいと思って作った。>
経験した「事実」は人それぞれ違うけれど、「傷つけられた時に感じたこと」なら共通しているかもしれない。それを映像化することで、誰かが何かを感じてくれたらいい、と語っていた。
また、こんな風なことも言っていた。
<人それぞれ、「自分にとっての『他者の愛し方』」ってあると思うんです。私の場合は、自分が普段観ている風景が不可思議ででも美しいから、それを見せてあげたいなって。興味がない人にはただ邪魔なだけなんですけど、でも「私が観ている世界を見せること」が、私なりの「他者の愛し方」なんです>
彼女のこの、「どこかの誰かのために、自分をすり減らしてでも何かを届けたい」という意思の強さには、やはりちょっと驚かされる。
さて、トークショーでの「心象風景を映像化した」という説明である程度腑に落ちたものの、映画を観ている最中には「よく分からない」という感覚が強かった。ただ、「映画としてどうか」という点を一旦外した時、やはり「言葉の強度」はとても強いと感じる。
映画では、「詩」そのものが朗読される場面があったり、「詩」を朗読しているかのような会話が展開されたりする。僕は「詩」を解する人間ではなく、「詩」を読んでもよく分からないと感じることの方が多いが、『永遠が通り過ぎていく』の中に出てくる言葉は凄く良い。それが映像や音楽と合っているのか、みたいなことはちょっと上手く判断できないが、映画の中から「言葉」だけを取り出してみたら、それ単体で自立するような強さがあると思う。
【殴ってくれさえすれば、この悲しみに名前がつくのに】
【あなたの頭がずっと私のことを考えてくれないと耐えられないから、その欲望が肥大する前に殺してほしい】
【それでも一緒にいたいと思わせてあげられなかった私たちだね】
登場人物たちが発するどの言葉にも、切実なまでの「切実さ」が内包されていて、その言葉の質感と重みを、映画を観ている間ずっと感じていた。
一番印象的だったのは、トークショーで対談相手の人も言っていたが、「足首」のセリフだ。
【もう二度と誰かの絶望から逃れたりしないように足を切ろうと思ったけれど切りきれなかったしその傷ももう治ってしまった】
物語らしい物語が存在するわけではないこの映画においては、少女によるこの叫びはとても唐突なものに感じられるが、しかし、唐突にそう叫ばなければならないほど彼女はキツい状況にいる。きっと、身体がバラバラになりそうな予感を必死に押し留めているのだと思う。
そう叫ぶ少女は、しばらくの間「とても楽しそうな少女」として映し出される。経緯こそ不明だが、一回り年上の男性とよく分からないまま邂逅し、男のキャンピングカーにそのまま乗り込んで旅をしているようだ。冒頭からしばらくの間、少女は天真爛漫に、自由に、楽しげに振る舞う。観ている側も、そういう少女なのだと思う。
しかしそうではない。その笑顔は表層であり、その奥にある、自分自身では制御できない何かを必死で押し留めるために「防波堤」にすぎないのだ。
それは、僕たちが生きている世界でも同じことが言える。楽しそうに、何の悩みもなさそうな人が、思いがけず何かを抱えている。僕もそういう人に何度も会ったことがある。そしてそういう人たちは、「マジョリティの無意識の暴力」にやられてしまう。
トークショーの中で戸田真琴が、「すべて同じ銀色のトーンで統一したカメラ、スマホ、ライトはすべて『暴力』を示唆している」みたいなことを言っていた。なるほど、と思う。カメラもスマホもライトも、さも当たり前であるかのように無遠慮に向けられることがある。それらを誰かに向けることに一切の躊躇がないと感じる人がいる。そしてそれはまさしく「暴力」と呼んでいいだろう。「マジョリティの無意識の暴力」は、分かりやすく「暴力であるという形」を取らない。当然、マジョリティはそれを「暴力」だなんてまったく思ってもいない。共通の理解に経った上で適切な距離を保つことがとても難しい。
映画のセリフで、非常に共感したセリフがある。
【人間には、生まれとか育ちとかだけではなく、磁場みたいなものを感じ取ってしまう人がいる。それを「感じていないフリ」をすることができなかっただけだ】
この言葉、分からない人にはまったく伝わらないと思うが、僕はメチャクチャ分かると感じてしまった。
子どもの頃には自分の置かれた状況を正しく理解できなかったが、「同じ光景を見ていても、同じ空間にいても、自分以外の人には感じ取れていないものがどうやらあるようだ」ということに、大人になってからなんとなく気づけるようになってきた。別にそれは「スピリチュアル的なパワー」だとか、具体的な音や振動などではない。その場の雰囲気というか、その場にいる人間のやり取りが生み出す揺らぎとか、そういうようなものだ。
喩えるなら、モスキート音のようなものかもしれない。若い時には聞こえるが、年を取ると聞こえなくなるという音のことだ。そういう、「そこにあるのだけど、感受できる人とできない人がいる」みたいなものがあって、自分はそれに気づいてしまう側で、だから色々めんどくさいんだ、ということが、大人になるにつれてなんとなく分かるようになってきた。
まさに「感じていないフリができない」である。
モスキート音が聞こえない人に「今音鳴ってるよね」と言っても伝わらないのと同じで、僕自身が感じているこの「何か」を説明しても、感受できない人にはまったく伝わらない。さすがにもう、理解できない人にそれを理解してもらうことは諦めた。だから、「どうやって『理解できる人』と出会うか」だけが問題だ。
そういう意味で僕は、戸田真琴と知り合って喋りたいなと思う。たぶん、似たようなベクトルの人だと思うから。
ただ、戸田真琴の凄さは、「『感じていない人』のことを諦めていない」という点にあると言っていいだろう。冒頭で書いた通り、彼女は、辛さを抱えているどこかの誰かのために、自分の何かを差し出すようにして寄り添おうとする。彼女は、言葉だけではなく、ありとあらゆる手段を使って、ありとあらゆる人に何かを届かせたいのだと思う。
僕の中にはそういう感覚はない。たぶん戸田真琴自身も、「絶望的な伝わらなさ」を日々感じているはずだと思うが、それでも「世界を諦めていない」というのが凄いなと思う。
映画は、「アリアとマリア」「Blue Through」「M」の3作で構成されている。一番好きなのは「Blue Through」だ。この方向性の長編、あるいは中編をちょっと観てみたい気がする。「M」で、大森靖子が作詞作曲した歌を背景に映像が展開される。途中で、「MVみたいだな」と思ったし、MVだと捉えるととても出来が良いと思う。「アリアとマリア」は、正直ちょっとよく分からなかったが、2人しかいない登場人物の一方が、「母親」や「男性」など異なる役柄にスイッチしていく造りは興味深いと感じた。最初は「母親」として登場するのだが、明らかに母子の年齢が合わず、どういうことなのか分からなかったが、意味が分かるとなかなか面白い試みだと感じられた。
僕は、戸田真琴のエッセイを読んでいたから、作中で語られる様々な断片が「戸田真琴自身のもの」だと分かったが、そのような前情報を知らない場合、かなり散漫な受け取り方にならざるを得ないだろう。映像は美しいと思うし、トークショーの対談相手の1人が「クリエイティブがとても良かった」と言っていたので、そういうビジュアル的なものに関心が持てる人はそういう方面でも楽しめる作品だと思う。
どんな映画もそうだと言えばそうなのだが、『永遠が通り過ぎていく』は「誰が観るか」によって評価が大きく変わる作品だと感じた。
「永遠が通り過ぎていく」を観に行ってきました
『あなたの孤独は美しい』感想
『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』感想
『あなたの孤独は美しい』を読んでぶったまげた。そして、久々に見つけたと感じた。「言葉の人」を。
僕は、「『考えること』が趣味」みたいな人が好きだ。というか、そういう人にしか興味が持てない。そして大体そういう人は、自分の思考を言葉で吐き出そうとする。僕もそう。だから、「言葉の人」になる。
なかなか「言葉の人」に出会うことは難しい。僕はこれまで、それこそたくさん本を読んで来たけれど、「言葉の人」だと感じた人は少ない。パッと浮かぶのは、乃木坂46の齋藤飛鳥、SEKAI NO OWARIの藤崎彩織、そしてAV女優の戸田真琴だ。
『あなたの孤独は美しい』『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』という2冊のエッセイを読んで、彼女が生きてきたなかなか壮絶な人生を知識としては知っているし、彼女のその人生がこの映画にも組み込まれている。母親が宗教にハマっていて分かり合えなかったのはそのまま事実だし、映画で流れる、戸田真琴の手紙をもとに大森靖子が書き下ろした曲の内容は、まさに戸田真琴の人生そのものだと思う。
しかし戸田真琴の凄まじさは、「処女のままAV女優になった」というエピソードを含めた、彼女の過去の「リアル」にあるわけではない。本当の凄さは、彼女がいつも「誰かのために言葉を届けようとしていること」にある。
『あなたの孤独は美しい』の中に、こんな文章があった。今でも時々思い出す。
【あなたが、世間からほんのちょっと浮いてしまった時、そんな自分を恥じるよりも早くに、私が大丈夫だと言うために駆けつけます。
あなたが、賑やかな集団に混ざれなくて、そんな自分を情けなく思う時、本心に背いて無理やり混ざりに行こうとするよりも早くに、私がその手を掴んでちゃんとあなたらしくいられる場所まで連れていきます。
現実には身体は一つしかないのでそんなことはできやしませんが、心という自由な空間の中では、あなたのところまでちゃんと走っていけるのです。こうして、本という形にして、いつでもあなたが開くことのできる場所に置いておくことさえできたならば。
そんな願いを込めた本にしたいと思います。
あなたが、あなた自身を恥じないで生きていけるようになるのなら、私はきっとどんな言葉も吐くでしょう。】
こんな言葉、普通の人が言えば「何を戯言なんか言ってるんだ」で終わりだろう。僕もきっとそう受け取る。そんな風に世界に対峙している人間なんか、いないだろうとどうしても考えてしまうからだ。
しかし、戸田真琴の文章を読んでいると、「あ、この人本気なんだ」ということが伝わる。「伝わる」ということが凄いと思う。仮にそれが本心だとしても、本心だとは普通受け取られない言葉を彼女は発している。もちろん、エッセイを読む人の大半は彼女と直接的に関わりを持たない人だろう。しかも彼女には「AV女優」という記号も付随する。そんな戸田真琴の言葉が、「本心なんだ」と、少なくとも僕には受け取れたし、そのことは僕自身にとっても驚きだった。
正直、映画を観ている間は、「よく分からないな」と感じることが多かった。しかし、映画後のトークショーの中で、戸田真琴がどんな風に映画を作ったのか話しており、それを聞いて納得できた部分がある。
ざっくりとだが彼女はこんなようなことを言っていた。
<確かにこの映画は、私の人生の「事実」をベースにしている部分もあるんですけど、でも「事実」に即しているかどうかは別に重要じゃない。「自分がどうして傷つけられたのか」より、「自分が傷つけられた時に何を感じていたのか」の方が大事で、その心象風景を映像にしようと思った。傷ついている時に見えている世界は、「事実」よりももっと鮮明でとんでもないもの。だから、心象風景を描くことで「事実」を照射したいと思って作った。>
経験した「事実」は人それぞれ違うけれど、「傷つけられた時に感じたこと」なら共通しているかもしれない。それを映像化することで、誰かが何かを感じてくれたらいい、と語っていた。
また、こんな風なことも言っていた。
<人それぞれ、「自分にとっての『他者の愛し方』」ってあると思うんです。私の場合は、自分が普段観ている風景が不可思議ででも美しいから、それを見せてあげたいなって。興味がない人にはただ邪魔なだけなんですけど、でも「私が観ている世界を見せること」が、私なりの「他者の愛し方」なんです>
彼女のこの、「どこかの誰かのために、自分をすり減らしてでも何かを届けたい」という意思の強さには、やはりちょっと驚かされる。
さて、トークショーでの「心象風景を映像化した」という説明である程度腑に落ちたものの、映画を観ている最中には「よく分からない」という感覚が強かった。ただ、「映画としてどうか」という点を一旦外した時、やはり「言葉の強度」はとても強いと感じる。
映画では、「詩」そのものが朗読される場面があったり、「詩」を朗読しているかのような会話が展開されたりする。僕は「詩」を解する人間ではなく、「詩」を読んでもよく分からないと感じることの方が多いが、『永遠が通り過ぎていく』の中に出てくる言葉は凄く良い。それが映像や音楽と合っているのか、みたいなことはちょっと上手く判断できないが、映画の中から「言葉」だけを取り出してみたら、それ単体で自立するような強さがあると思う。
【殴ってくれさえすれば、この悲しみに名前がつくのに】
【あなたの頭がずっと私のことを考えてくれないと耐えられないから、その欲望が肥大する前に殺してほしい】
【それでも一緒にいたいと思わせてあげられなかった私たちだね】
登場人物たちが発するどの言葉にも、切実なまでの「切実さ」が内包されていて、その言葉の質感と重みを、映画を観ている間ずっと感じていた。
一番印象的だったのは、トークショーで対談相手の人も言っていたが、「足首」のセリフだ。
【もう二度と誰かの絶望から逃れたりしないように足を切ろうと思ったけれど切りきれなかったしその傷ももう治ってしまった】
物語らしい物語が存在するわけではないこの映画においては、少女によるこの叫びはとても唐突なものに感じられるが、しかし、唐突にそう叫ばなければならないほど彼女はキツい状況にいる。きっと、身体がバラバラになりそうな予感を必死に押し留めているのだと思う。
そう叫ぶ少女は、しばらくの間「とても楽しそうな少女」として映し出される。経緯こそ不明だが、一回り年上の男性とよく分からないまま邂逅し、男のキャンピングカーにそのまま乗り込んで旅をしているようだ。冒頭からしばらくの間、少女は天真爛漫に、自由に、楽しげに振る舞う。観ている側も、そういう少女なのだと思う。
しかしそうではない。その笑顔は表層であり、その奥にある、自分自身では制御できない何かを必死で押し留めるために「防波堤」にすぎないのだ。
それは、僕たちが生きている世界でも同じことが言える。楽しそうに、何の悩みもなさそうな人が、思いがけず何かを抱えている。僕もそういう人に何度も会ったことがある。そしてそういう人たちは、「マジョリティの無意識の暴力」にやられてしまう。
トークショーの中で戸田真琴が、「すべて同じ銀色のトーンで統一したカメラ、スマホ、ライトはすべて『暴力』を示唆している」みたいなことを言っていた。なるほど、と思う。カメラもスマホもライトも、さも当たり前であるかのように無遠慮に向けられることがある。それらを誰かに向けることに一切の躊躇がないと感じる人がいる。そしてそれはまさしく「暴力」と呼んでいいだろう。「マジョリティの無意識の暴力」は、分かりやすく「暴力であるという形」を取らない。当然、マジョリティはそれを「暴力」だなんてまったく思ってもいない。共通の理解に経った上で適切な距離を保つことがとても難しい。
映画のセリフで、非常に共感したセリフがある。
【人間には、生まれとか育ちとかだけではなく、磁場みたいなものを感じ取ってしまう人がいる。それを「感じていないフリ」をすることができなかっただけだ】
この言葉、分からない人にはまったく伝わらないと思うが、僕はメチャクチャ分かると感じてしまった。
子どもの頃には自分の置かれた状況を正しく理解できなかったが、「同じ光景を見ていても、同じ空間にいても、自分以外の人には感じ取れていないものがどうやらあるようだ」ということに、大人になってからなんとなく気づけるようになってきた。別にそれは「スピリチュアル的なパワー」だとか、具体的な音や振動などではない。その場の雰囲気というか、その場にいる人間のやり取りが生み出す揺らぎとか、そういうようなものだ。
喩えるなら、モスキート音のようなものかもしれない。若い時には聞こえるが、年を取ると聞こえなくなるという音のことだ。そういう、「そこにあるのだけど、感受できる人とできない人がいる」みたいなものがあって、自分はそれに気づいてしまう側で、だから色々めんどくさいんだ、ということが、大人になるにつれてなんとなく分かるようになってきた。
まさに「感じていないフリができない」である。
モスキート音が聞こえない人に「今音鳴ってるよね」と言っても伝わらないのと同じで、僕自身が感じているこの「何か」を説明しても、感受できない人にはまったく伝わらない。さすがにもう、理解できない人にそれを理解してもらうことは諦めた。だから、「どうやって『理解できる人』と出会うか」だけが問題だ。
そういう意味で僕は、戸田真琴と知り合って喋りたいなと思う。たぶん、似たようなベクトルの人だと思うから。
ただ、戸田真琴の凄さは、「『感じていない人』のことを諦めていない」という点にあると言っていいだろう。冒頭で書いた通り、彼女は、辛さを抱えているどこかの誰かのために、自分の何かを差し出すようにして寄り添おうとする。彼女は、言葉だけではなく、ありとあらゆる手段を使って、ありとあらゆる人に何かを届かせたいのだと思う。
僕の中にはそういう感覚はない。たぶん戸田真琴自身も、「絶望的な伝わらなさ」を日々感じているはずだと思うが、それでも「世界を諦めていない」というのが凄いなと思う。
映画は、「アリアとマリア」「Blue Through」「M」の3作で構成されている。一番好きなのは「Blue Through」だ。この方向性の長編、あるいは中編をちょっと観てみたい気がする。「M」で、大森靖子が作詞作曲した歌を背景に映像が展開される。途中で、「MVみたいだな」と思ったし、MVだと捉えるととても出来が良いと思う。「アリアとマリア」は、正直ちょっとよく分からなかったが、2人しかいない登場人物の一方が、「母親」や「男性」など異なる役柄にスイッチしていく造りは興味深いと感じた。最初は「母親」として登場するのだが、明らかに母子の年齢が合わず、どういうことなのか分からなかったが、意味が分かるとなかなか面白い試みだと感じられた。
僕は、戸田真琴のエッセイを読んでいたから、作中で語られる様々な断片が「戸田真琴自身のもの」だと分かったが、そのような前情報を知らない場合、かなり散漫な受け取り方にならざるを得ないだろう。映像は美しいと思うし、トークショーの対談相手の1人が「クリエイティブがとても良かった」と言っていたので、そういうビジュアル的なものに関心が持てる人はそういう方面でも楽しめる作品だと思う。
どんな映画もそうだと言えばそうなのだが、『永遠が通り過ぎていく』は「誰が観るか」によって評価が大きく変わる作品だと感じた。
「永遠が通り過ぎていく」を観に行ってきました
「PASSION(濱口竜介監督)」を観に行ってきました
評価が難しい。
いち映画として観れば、かなり面白い作品だと思う。特に、これが東京藝術大学の卒業制作だというのだから驚かされる。もし、この映画が公開された2008年にこの映画を観たらぶったまげたのではないかと思う。
しかし、この映画を観たのは、2008年の私ではなかった。
私は、
『ドライブ・マイ・カー』
『偶然と想像』
『親密さ』
『ハッピーアワー』
『PASSION』
の順で濱口竜介を観た。しかも、2021年の年末に『ドライブ・マイ・カー』を観てから、今日4/5に『PASSION』を観るまで、たった3ヶ月程度という短期間に集中している。「基本的に、映画は映画館でしか観ない」と決めている僕には、なかなか起こり得ない状況と言える。
しかも、僕は『ドライブ・マイ・カー』も『偶然と想像』も、観る前からその存在や評判をなんとなく知っていたが、それでも「絶対に観ない」と決めていたのだ。色々あって観てみることにしたら、あまりにも凄すぎて、過去作にも手を出すようになった、という流れで濱口竜介作品に触れてきた。
つまり、僕にとって「濱口竜介作品」は『ドライブ・マイ・カー』であり『偶然と想像』であり『親密さ』なのだ(『ハッピーアワー』は個人的にあまりハマれなかった)。
さてそういう、僕が先に観てしまっていた「濱口竜介作品」と比較すると、『PASSION』はちょっと微妙かなぁ、という気がしてしまう。映画としては面白いが、「濱口竜介作品」としては物足りない、ということだ。まあ、僕が勝手にハードルを上げているのであり、作品に罪はないのだが、僕の感触としてはどうしてもそうなってしまう。
でも、そういう色んなことを総合した上で、「観てよかった」と感じる映画であることは確かだ。
個人的に一番印象的だったのは、映画のラスト。ちょっとここから、映画のラストについて詳しく触れてしまうので、内容を知りたくない人はこれ以上読まないでいただけるといいかと思います。
以下、登場人物の漢字表記が全員分分からないので、全員カタカナ表記にする(果歩、智也、貴子の3人はネットで調べて見つけたが、それ以外は分からない)。
ラストシーンに出てくるのは、同棲していて結婚間近のカホとトモヤの2人。まずこの2人の紹介をしよう。
恐らく大学時代からの友人で、10年ぐらい付き合っている。昔からの仲間に結婚報告をし、祝福されるが、仲間内ではトモヤは「女にだらしない」と思われている。また、同じく昔からの仲間であるケンイチロウは、以前からずっとカホのことが好きだとみんなに知られている。カホは、ケンイチロウには全然興味がなく、周囲から「トモヤはカホを大事にしていない」みたいに思われていることをなんとなく察しつつも、それでもトモヤのことが好きで一緒にいたいと思っている。
さて、映画の中ですったもんだ色々あって、トモヤはカホに別れを切り出すことになる。別れを切り出したのはある日の朝なのだが、その前夜、トモヤは「好きになった女性」の部屋にいた。タカコという名のその女性は、自分にはまったく興味がないと分かっているが、それでもトモヤは、もうカホとは一緒にいられないと考えて別れを切り出すのだ。
一方カホは同じ夜、家にやってきたケンイチロウと朝方までずっと散歩に出かけていた。トモヤがタカコの部屋にいることを知ったケンイチロウは、その足でカホの元へ行き、「トモヤは今日は戻ってこない」と伝え、散歩しようと誘い出すのだ。ケンイチロウはカホに好きだと伝え、キスもするが、何度目かのキスをカホは断り、トモヤのいる部屋に戻ってきた。
さて、ラストシーンはそんな状況下で展開される。
トモヤがカホに別れを切り出した後で、カホは「嬉しい」とトモヤに告げる。トモヤはもちろん、観客も「は?」となるが、そこには彼女なりの理屈がある。
カホがトモヤに喋ったその理屈をざっと要約すると以下のようになるだろう。
<私は(ケンイチロウとの散歩から)帰ったら、あなたに「私を好きになって」と言おうと思ってた。自分が、トモヤの人生を食いつぶしてるんじゃないかって不安だった。だって、誰かを好きにならない人生は虚しいでしょ? 私はあなたの人生に責任を持とうって思ったの。けど、もう私は必要なかったんだね。トモヤに好きな人ができて、ここを出られるのが一番良いと思う。それをしたのが私じゃないってのはとても悲しいけれど>
意味が分かるだろうか? これは「共感できるか?」という意味ではなく、「理屈としては理解できるか?」という問いだ。「トモヤの人生が素晴らしいものになるには、『誰かを好きになること』が大事で、だから私を好きになってもらおうと思ってた。でも、好きな人ができたんならそれは良いことだと思う」とカホは言っているのだ。
恐らく、この主張に共感できるという人はそういないだろう。それは、僕が男で女性の気持ちが分からない、みたいなことではなく、たぶんだけど、女性もこのカホの感覚はかなり距離を感じるのではないかと思う。それぐらい、結構ぶっ飛んだことを言ってると思う。「自分のことを好きでいてくれるのか不安」みたいな感覚に共感できる人はいると思うけど、カホの主張の根幹はそこにはない。あくまで「トモヤが誰かのことを本当に好きになる人生こそ望ましい」と言っているので、そこにカホ自身の幸せみたいなものは含まれていないのだ。
そこまで完全に「自分の存在」「自分の幸せ」を無視した主張ができることがそもそも凄い。
ただ、普通に考えれば、こんな主張「本心」とは受け取れないだろう。そんなこと、本気で言う人間なんかいるわけない、と感じるのが普通の感覚だと思う。
ただこの映画の凄いところは、「カホは本心からそんなことを言っているように思える」という点だ。もちろんこれは観る人によって感じ方に差があるだろうが、僕はそう思った。全編を通じてカホという人物の描かれ方を見た時に、「最後にああいうことを言っても不自然ではない人物だ」という気がしてくるのだ。
個人的には、この点に一番驚かされた。脚本や演技など、様々な要素が絡み合ってそのような雰囲気が生み出されているのだろうと思う。
しかし、「ここで終わりだろう」と思った後にもう一展開あったので驚いた。正直、トモヤのあの行動は上手く捉えきれない。僕が、こうだったら納得できるという設定は、「トモヤはこれまでにも、あのラストシーンのようなことをカホに対して何度もしている」ということだ。それなら、トモヤの最後の行動にも理由が付く。しかしそうでないとしたら、あの行動は一体何だったのだろう?
タケシがある場面で、「自分で金を稼いでいない女の子が、あんな良い家に住んだら、そりゃあダメになりますよ」みたいなことを言っていた。この意見の真偽はともかくとして、似たような感覚でこの映画全体を捉えれば、「人間を許容しすぎる女の子が、あんなダメな男と関わってたら、そりゃあダメになりますよ」という感じになるかもしれない。カホにはカホなりの「幸せ」に対する考え方があるのだろうし、それは誰にも否定できないが、ただやはり、「カホが、客観的には評価が低いトモヤを選んでいる」という事実が、結果として5人の男女の運命を揺さぶっているように感じた。
さて、カホに関してはもう1箇所、印象的な場面がある。画的にも映画全体の中で異質な、学校のシーンである。
カホは中学校(だと思う)の数学の教師で、担任も持っている。で、彼女のクラスで自殺者が出てしまった。数学のテストを切り上げたカホは、「あなたたちの時間を少しください」と言って、「暴力」についての話をする。
映画を観ている最中は、この「暴力」の話が、映画全体の中でどんな役割を果たしているのかイマイチ理解できていなかったが、後から振り返ってみて自分なりに解釈できた。それは、「恋愛を暴力で喩えている」ということだ。これはなかなか異質な主張に感じられる。
カホの主張は、非常にシンプルだ。それは、「外(他人)からの暴力を止める手段はないが、内(自分)からの暴力は自分の意思で止めることができる。だから、暴力は受け入れ、赦すしかない」と要約できる。彼女のこの意見には様々な反論が出るが、カホは、「外からの暴力を止めるための行為もまた『暴力』であり、暴力に暴力で対抗する以上この世から『暴力』が消えることはない」「たとえ殺されたとしても、暴力は受け入れなければならない」と、生徒たちの意見にさらに反論する。「たとえ殺されたとしても~」という意見はなかなか過激ではあるが、僕は全体的に、カホの主張には賛同できる。理想主義的かもしれないけど、確かに「暴力を無くしたい」と考えるのであれば、「暴力に対して暴力を返さず、自分が害を被っても受け入れるしかない」という主張には、その通りだなと感じる。
しかし最後にある生徒が、「それ(暴力)しか選択できない状況もあると思う」と言い、それに続けて、「◯◯君(前の席に座る生徒)をさっきトイレで殴りました。◯◯君である必要はなかったけど、僕には、誰かに暴力を振るうという選択しかできませんでした」と主張するのだ。
これに対するカホの反応を一言で表現すれば、「絶句した」となるだろう。彼女はそれまでの威勢の良さを一気に失い、動揺し、教室から出てしまう。
この場面、映画全体の中で非常に浮いていると思うのだが、映画を最後まで観てから改めて振り返ってみると、なんとなく言いたいことが分かるような気がする。つまり、
<恋愛は暴力みたいなものだ>
ということなのだと思う。
「暴力」を「恋愛(恋心)」に置き換えてカホの主張を改めて確認すると、
<外(他人)からの恋心を止める手段はないが、内(自分)からの恋心は自分の意思で止めることができる。だから、恋心は受け入れ、赦すしかない>
となる。
なんとなくこれは、映画全体におけるカホの行動原理に思える。「自分の内側から出てくるトモヤに対する恋心は自分の意思で止めている」「ケンイチロウからの恋心は受け入れ、望んでいるわけではないキスも赦した」というように、「暴力」のところで説明した行動原理と同じようなスタイルで「恋愛」に臨んでいる、という気がする。
しかしそこに、生徒からの「それしか選択できない状況もある」という反論がくる。まさにこれが、トモヤからの「相手は自分に興味はないが、どうしても好きになってしまった」という告白と重なるのではないかと思うのだ。
つまり、カホの主観に立ってみた場合、「『恋愛』という名の暴力」に対峙している、ということになるように思う。これは、他の人にとってはそうではないという意味ではない。トモヤやタケシ、タカコにとっても、恋愛は暴力だと思う。しかし最大の違いは、「恋愛は暴力であるという自覚」を元から持っているかどうかだ。トモヤ、タケシ、タカコは、元々「恋愛は暴力だ」と考えていただろうし、ある種それを前提に会話がなされているように思う。しかしカホは恐らくそうではない。まったくそう思っていなかったというわけでもないだろうか、「恋愛は暴力なのだろうか?」ぐらいの疑問形のまま29歳まで生きてきた、という感じではないかと思う。そして、その暴力性に、初めてきちんとした形で対峙することになった、ということではないだろうか。
僕の解釈が的を射ているとして、そうなるとやはり、カホという人物が色んな意味で映画の中心であり、ある意味で「歪みの発生源」である、ということになるのだと思う。
普通に考えれば、この教室での「暴力」の話は映画全体の中で違和感でしかない要素だが、捉え方次第では非常に興味深いものになる。この多面性みたいなものも、非常に面白かった。
あと、そもそも状況を上手く言葉では説明できないので詳しくは触れないが、「本音ゲーム」のシーンはなかなか凄まじい。何が凄まじいって、タカコが最初に指摘する通り、「ゲームとしてそもそも成立していない」のに、なんだかかんだ無理やり「成立している感」を生み出してしまうその展開の妙みたいな部分だ。ルールから破綻しているのだが、「破綻したままギリギリの細さで成立している」という際どいラインを上手く渡っていく感じが、絶妙な緊迫感を生み出すし、先の読めなさを生み出しものする。この辺りの「脚本・演技・演出の上手さ」みたいなものは、『偶然と想像』でも感じたもので、成立し得ないだろう状況が何故か成立してしまうマジックを改めて見せつけられた気がする。
この映画には、『偶然と想像』にも出てくる河井青葉、占部房子、渋川清彦が登場する。『PASSION』を機に、濱口竜介作品の常連になったそうだ。『偶然と想像』での、渋さを増した3人も非常に良かったが、『PASSION』での若さ溢れる感じもとても良いと思う。
「PASSION(濱口竜介監督)」を観に行ってきました
いち映画として観れば、かなり面白い作品だと思う。特に、これが東京藝術大学の卒業制作だというのだから驚かされる。もし、この映画が公開された2008年にこの映画を観たらぶったまげたのではないかと思う。
しかし、この映画を観たのは、2008年の私ではなかった。
私は、
『ドライブ・マイ・カー』
『偶然と想像』
『親密さ』
『ハッピーアワー』
『PASSION』
の順で濱口竜介を観た。しかも、2021年の年末に『ドライブ・マイ・カー』を観てから、今日4/5に『PASSION』を観るまで、たった3ヶ月程度という短期間に集中している。「基本的に、映画は映画館でしか観ない」と決めている僕には、なかなか起こり得ない状況と言える。
しかも、僕は『ドライブ・マイ・カー』も『偶然と想像』も、観る前からその存在や評判をなんとなく知っていたが、それでも「絶対に観ない」と決めていたのだ。色々あって観てみることにしたら、あまりにも凄すぎて、過去作にも手を出すようになった、という流れで濱口竜介作品に触れてきた。
つまり、僕にとって「濱口竜介作品」は『ドライブ・マイ・カー』であり『偶然と想像』であり『親密さ』なのだ(『ハッピーアワー』は個人的にあまりハマれなかった)。
さてそういう、僕が先に観てしまっていた「濱口竜介作品」と比較すると、『PASSION』はちょっと微妙かなぁ、という気がしてしまう。映画としては面白いが、「濱口竜介作品」としては物足りない、ということだ。まあ、僕が勝手にハードルを上げているのであり、作品に罪はないのだが、僕の感触としてはどうしてもそうなってしまう。
でも、そういう色んなことを総合した上で、「観てよかった」と感じる映画であることは確かだ。
個人的に一番印象的だったのは、映画のラスト。ちょっとここから、映画のラストについて詳しく触れてしまうので、内容を知りたくない人はこれ以上読まないでいただけるといいかと思います。
以下、登場人物の漢字表記が全員分分からないので、全員カタカナ表記にする(果歩、智也、貴子の3人はネットで調べて見つけたが、それ以外は分からない)。
ラストシーンに出てくるのは、同棲していて結婚間近のカホとトモヤの2人。まずこの2人の紹介をしよう。
恐らく大学時代からの友人で、10年ぐらい付き合っている。昔からの仲間に結婚報告をし、祝福されるが、仲間内ではトモヤは「女にだらしない」と思われている。また、同じく昔からの仲間であるケンイチロウは、以前からずっとカホのことが好きだとみんなに知られている。カホは、ケンイチロウには全然興味がなく、周囲から「トモヤはカホを大事にしていない」みたいに思われていることをなんとなく察しつつも、それでもトモヤのことが好きで一緒にいたいと思っている。
さて、映画の中ですったもんだ色々あって、トモヤはカホに別れを切り出すことになる。別れを切り出したのはある日の朝なのだが、その前夜、トモヤは「好きになった女性」の部屋にいた。タカコという名のその女性は、自分にはまったく興味がないと分かっているが、それでもトモヤは、もうカホとは一緒にいられないと考えて別れを切り出すのだ。
一方カホは同じ夜、家にやってきたケンイチロウと朝方までずっと散歩に出かけていた。トモヤがタカコの部屋にいることを知ったケンイチロウは、その足でカホの元へ行き、「トモヤは今日は戻ってこない」と伝え、散歩しようと誘い出すのだ。ケンイチロウはカホに好きだと伝え、キスもするが、何度目かのキスをカホは断り、トモヤのいる部屋に戻ってきた。
さて、ラストシーンはそんな状況下で展開される。
トモヤがカホに別れを切り出した後で、カホは「嬉しい」とトモヤに告げる。トモヤはもちろん、観客も「は?」となるが、そこには彼女なりの理屈がある。
カホがトモヤに喋ったその理屈をざっと要約すると以下のようになるだろう。
<私は(ケンイチロウとの散歩から)帰ったら、あなたに「私を好きになって」と言おうと思ってた。自分が、トモヤの人生を食いつぶしてるんじゃないかって不安だった。だって、誰かを好きにならない人生は虚しいでしょ? 私はあなたの人生に責任を持とうって思ったの。けど、もう私は必要なかったんだね。トモヤに好きな人ができて、ここを出られるのが一番良いと思う。それをしたのが私じゃないってのはとても悲しいけれど>
意味が分かるだろうか? これは「共感できるか?」という意味ではなく、「理屈としては理解できるか?」という問いだ。「トモヤの人生が素晴らしいものになるには、『誰かを好きになること』が大事で、だから私を好きになってもらおうと思ってた。でも、好きな人ができたんならそれは良いことだと思う」とカホは言っているのだ。
恐らく、この主張に共感できるという人はそういないだろう。それは、僕が男で女性の気持ちが分からない、みたいなことではなく、たぶんだけど、女性もこのカホの感覚はかなり距離を感じるのではないかと思う。それぐらい、結構ぶっ飛んだことを言ってると思う。「自分のことを好きでいてくれるのか不安」みたいな感覚に共感できる人はいると思うけど、カホの主張の根幹はそこにはない。あくまで「トモヤが誰かのことを本当に好きになる人生こそ望ましい」と言っているので、そこにカホ自身の幸せみたいなものは含まれていないのだ。
そこまで完全に「自分の存在」「自分の幸せ」を無視した主張ができることがそもそも凄い。
ただ、普通に考えれば、こんな主張「本心」とは受け取れないだろう。そんなこと、本気で言う人間なんかいるわけない、と感じるのが普通の感覚だと思う。
ただこの映画の凄いところは、「カホは本心からそんなことを言っているように思える」という点だ。もちろんこれは観る人によって感じ方に差があるだろうが、僕はそう思った。全編を通じてカホという人物の描かれ方を見た時に、「最後にああいうことを言っても不自然ではない人物だ」という気がしてくるのだ。
個人的には、この点に一番驚かされた。脚本や演技など、様々な要素が絡み合ってそのような雰囲気が生み出されているのだろうと思う。
しかし、「ここで終わりだろう」と思った後にもう一展開あったので驚いた。正直、トモヤのあの行動は上手く捉えきれない。僕が、こうだったら納得できるという設定は、「トモヤはこれまでにも、あのラストシーンのようなことをカホに対して何度もしている」ということだ。それなら、トモヤの最後の行動にも理由が付く。しかしそうでないとしたら、あの行動は一体何だったのだろう?
タケシがある場面で、「自分で金を稼いでいない女の子が、あんな良い家に住んだら、そりゃあダメになりますよ」みたいなことを言っていた。この意見の真偽はともかくとして、似たような感覚でこの映画全体を捉えれば、「人間を許容しすぎる女の子が、あんなダメな男と関わってたら、そりゃあダメになりますよ」という感じになるかもしれない。カホにはカホなりの「幸せ」に対する考え方があるのだろうし、それは誰にも否定できないが、ただやはり、「カホが、客観的には評価が低いトモヤを選んでいる」という事実が、結果として5人の男女の運命を揺さぶっているように感じた。
さて、カホに関してはもう1箇所、印象的な場面がある。画的にも映画全体の中で異質な、学校のシーンである。
カホは中学校(だと思う)の数学の教師で、担任も持っている。で、彼女のクラスで自殺者が出てしまった。数学のテストを切り上げたカホは、「あなたたちの時間を少しください」と言って、「暴力」についての話をする。
映画を観ている最中は、この「暴力」の話が、映画全体の中でどんな役割を果たしているのかイマイチ理解できていなかったが、後から振り返ってみて自分なりに解釈できた。それは、「恋愛を暴力で喩えている」ということだ。これはなかなか異質な主張に感じられる。
カホの主張は、非常にシンプルだ。それは、「外(他人)からの暴力を止める手段はないが、内(自分)からの暴力は自分の意思で止めることができる。だから、暴力は受け入れ、赦すしかない」と要約できる。彼女のこの意見には様々な反論が出るが、カホは、「外からの暴力を止めるための行為もまた『暴力』であり、暴力に暴力で対抗する以上この世から『暴力』が消えることはない」「たとえ殺されたとしても、暴力は受け入れなければならない」と、生徒たちの意見にさらに反論する。「たとえ殺されたとしても~」という意見はなかなか過激ではあるが、僕は全体的に、カホの主張には賛同できる。理想主義的かもしれないけど、確かに「暴力を無くしたい」と考えるのであれば、「暴力に対して暴力を返さず、自分が害を被っても受け入れるしかない」という主張には、その通りだなと感じる。
しかし最後にある生徒が、「それ(暴力)しか選択できない状況もあると思う」と言い、それに続けて、「◯◯君(前の席に座る生徒)をさっきトイレで殴りました。◯◯君である必要はなかったけど、僕には、誰かに暴力を振るうという選択しかできませんでした」と主張するのだ。
これに対するカホの反応を一言で表現すれば、「絶句した」となるだろう。彼女はそれまでの威勢の良さを一気に失い、動揺し、教室から出てしまう。
この場面、映画全体の中で非常に浮いていると思うのだが、映画を最後まで観てから改めて振り返ってみると、なんとなく言いたいことが分かるような気がする。つまり、
<恋愛は暴力みたいなものだ>
ということなのだと思う。
「暴力」を「恋愛(恋心)」に置き換えてカホの主張を改めて確認すると、
<外(他人)からの恋心を止める手段はないが、内(自分)からの恋心は自分の意思で止めることができる。だから、恋心は受け入れ、赦すしかない>
となる。
なんとなくこれは、映画全体におけるカホの行動原理に思える。「自分の内側から出てくるトモヤに対する恋心は自分の意思で止めている」「ケンイチロウからの恋心は受け入れ、望んでいるわけではないキスも赦した」というように、「暴力」のところで説明した行動原理と同じようなスタイルで「恋愛」に臨んでいる、という気がする。
しかしそこに、生徒からの「それしか選択できない状況もある」という反論がくる。まさにこれが、トモヤからの「相手は自分に興味はないが、どうしても好きになってしまった」という告白と重なるのではないかと思うのだ。
つまり、カホの主観に立ってみた場合、「『恋愛』という名の暴力」に対峙している、ということになるように思う。これは、他の人にとってはそうではないという意味ではない。トモヤやタケシ、タカコにとっても、恋愛は暴力だと思う。しかし最大の違いは、「恋愛は暴力であるという自覚」を元から持っているかどうかだ。トモヤ、タケシ、タカコは、元々「恋愛は暴力だ」と考えていただろうし、ある種それを前提に会話がなされているように思う。しかしカホは恐らくそうではない。まったくそう思っていなかったというわけでもないだろうか、「恋愛は暴力なのだろうか?」ぐらいの疑問形のまま29歳まで生きてきた、という感じではないかと思う。そして、その暴力性に、初めてきちんとした形で対峙することになった、ということではないだろうか。
僕の解釈が的を射ているとして、そうなるとやはり、カホという人物が色んな意味で映画の中心であり、ある意味で「歪みの発生源」である、ということになるのだと思う。
普通に考えれば、この教室での「暴力」の話は映画全体の中で違和感でしかない要素だが、捉え方次第では非常に興味深いものになる。この多面性みたいなものも、非常に面白かった。
あと、そもそも状況を上手く言葉では説明できないので詳しくは触れないが、「本音ゲーム」のシーンはなかなか凄まじい。何が凄まじいって、タカコが最初に指摘する通り、「ゲームとしてそもそも成立していない」のに、なんだかかんだ無理やり「成立している感」を生み出してしまうその展開の妙みたいな部分だ。ルールから破綻しているのだが、「破綻したままギリギリの細さで成立している」という際どいラインを上手く渡っていく感じが、絶妙な緊迫感を生み出すし、先の読めなさを生み出しものする。この辺りの「脚本・演技・演出の上手さ」みたいなものは、『偶然と想像』でも感じたもので、成立し得ないだろう状況が何故か成立してしまうマジックを改めて見せつけられた気がする。
この映画には、『偶然と想像』にも出てくる河井青葉、占部房子、渋川清彦が登場する。『PASSION』を機に、濱口竜介作品の常連になったそうだ。『偶然と想像』での、渋さを増した3人も非常に良かったが、『PASSION』での若さ溢れる感じもとても良いと思う。
「PASSION(濱口竜介監督)」を観に行ってきました
「英雄の証明」を観に行ってきました
これは良く出来た映画だなぁ。こんな”些細な”物語を、よくもまあ「現代社会の問題を浮き彫りにする作品」に仕上げたものだと思う。
この映画の核となる部分は非常にシンプルだ。それは、「拾ったものを、落とし主に返したこと」である。もちろん映画では様々なことが描かれるのだが、それら様々なことはすべて、この「拾ったものを、落とし主に返したこと」に付随していく。物語のすべてが、そこに集積していくのだ。
「拾ったものを、落とし主に返した」なんて些細な出来事が、どうやって社会問題を突きつける内容になっていくのか。その物語の展開のさせ方はとにかく見事だと思う。
まずは、彼がいかにして「英雄」として祀り上げられるのか、その過程を見ていこう。今回の感想では内容にかなり触れたいので、まだ映画を観ておらず、詳しい内容を知りたくないという方はここで読むのを止めていただく方がいいと思う。
主人公のラヒム・ソルタニは、刑務所に収容されている。容疑は「詐欺罪」ということになっている。事業を行うために融資を受けたが、その金をビジネスパートナーに持ち逃げされてしまった。当時結婚していた妻の兄であるバーラムが保証人になってくれていたのだが、そのバーラムがラヒムを訴えたことで「詐欺罪」として収容されているのだ。
さて、凄い仕組みだなと思うのだが、イランの刑務所には「休暇」があるらしい。つまり、刑務所に収容されている囚人が、「休暇」の間は塀の外に出られるのだ。ラヒムは2日間の休暇を得て、姉夫婦の元へと向かう。そこには、別れた妻との間にできた息子・シアヴァシュも生活しており、久々に家族水入らずの時間を過ごす……という風にはなかなかならない。
ラヒムはこの休暇を利用して、バーラムに金の一部を返済しようとした。姉マリの夫であるホセインと2人でバーラムの元を訪れるのだが、「全額を一括で返さないのなら受け取らない」と追い返されてしまう。
しかし、ずっと刑務所にいたラヒムは、返済のためのお金をどこから得たのだろうか? 疑問に思った姉がラヒムを問い詰めると、口ごもってしまう。高利貸しからお金を借りているのではないかと姉は疑うが、そうではないと反論するラヒム。しかし、ラヒムが持ち帰ったバッグに17枚もの金貨が入っているのを見られてしまい、その出処を問い詰められるのだ。
ラヒムは悩んだ末、ファルコンデに相談をする。実は出所して一番に会いに行ったのがファルコンデであり、この物語のすべてのきっかけを作った人物でもある。彼女は、家族にも内緒で付き合っている女性で、刑務所から出たら結婚を申し込むつもりでいる。そしてそんな彼女がなんと、バス停で金貨を拾ったのだ。当初2人は、この金貨は自分たちに対する神のご加護だと受け取り、換金して返済に充てようと考えた。しかしラヒムは思い直し、ファルコンデとも相談して、落とし主を探すことに決める。落ちていた場所の近くの銀行に「金貨の落とし物の問い合わせはなかったか?」と聞き、その後、自分が収容されている刑務所の電話番号を記載したチラシを作り、周辺に貼った。とりあえず出来ることはすべてやった。そう考えてラヒムは、休暇を終えて再び刑務所に戻るのである。
しばらくすると刑務所に、チラシを見たという女性から電話が掛かってくる。ラヒムはバッグや中身の特徴を電話の主に確認し、特徴がすべて合っていることを確認、姉のマリに連絡をし、預けていた金貨を電話の女性に返すように頼んだ。
やってきた女性は、じゅうたん織りで稼いだお金を金貨にして持っていたが、家に置いておくと夫に使われてしまうかもしれない、だから銀行で換金しようと思ったのだが、その途中で落としてしまったのだと涙ながらに語る。金貨を落としたことは分かっていたが、「金貨を持っていること」を夫に知られるわけにもいかず、何もできなかったが、チラシを見て連絡した。そんな風に言って、金貨を受け取り、帰っていった。マリは、女性の名前を聞かなかった。この出来事を夫に知られるとマズいということが分かっていたから、詮索するようなことはしなかった。もし何かあれば、マリのスマホに電話をしてきているのだから、それで折り返せばいい。そんな風に考えていた。
さてこれが、物語の冒頭で描かれる「拾ったものを、落とし主に返した」という話だ。全然、なんてことない話である。普通ならきっと、ここで話は終わっただろう。しかし、そうはならなかった。
ラヒムが収容されている刑務所がこの「美談」を知り、大々的に喧伝することに決めたのだ。もちろんそれは、受刑者の素晴らしい行いを世間に知らせたいという気持ちからのものなのだが、もう1つ裏の事情があった。実はこの刑務所では先般、受刑者の自殺騒動があり、その悪い印象を払拭したいと考えていたのだ。
刑務所の面々は、テレビや新聞などからの取材依頼を積極的に受け、ラヒムの行為が世間に知られる手助けをする。ラヒムは、そんな大きな話になるとは思っておらず、些細な嘘を修正しようとした。ラヒムは、「金貨を返したのは自分だが、拾ったのは別の人なのだ」と刑務所の担当者に説明する。ファルコンデでとの交際は家族もまだ知らないものであり、彼女の名前は表に出せない、と。しかし担当者は、「金貨を返したのはお前なんだろ? だったら問題ない」と、ラヒムを取材へと送り出す。
ラヒムは当然、ファルコンデの名前を出すわけにはいかず、だから「自分が金貨を拾った」と説明せざるを得なくなる。テレビでは、「この辺りにあったバッグを拾ったのです」と、ラヒムは当時の状況を”再現する”場面も映る。確かにこれは「嘘」だが、確かに、「金貨を返したこと」そのものは事実であり、拾った経緯はさほど問題ではない。ラヒムもそう判断し、自分が拾ったことにしてテレビに出演する。そもそもラヒムは、自分からテレビに出たいと言ったわけでもない。
さてしかし、ラヒムの行為は「善行」として大きな話題を呼ぶ。なにせ、休暇中の囚人が金貨を拾い、それを自分のものにしなかったどころか、持ち主を探すために休暇を使ったのだ。素晴らしい人物だとラヒムは絶賛され、なんとチャリティ協会から表彰を受ける。そのチャリティ協会の仲介によって、ラヒムの借金返済に充てるための寄付金も集まった。返済の全額には足りないが、彼の行いを知った地方審議会が、彼に職を提供すると申し出もあった。集まった寄付金を頭金として、あとは働いて返せば問題はないのではないか。ラヒムを初め周囲の人間は、バーラムが訴えを取り下げることを期待する。バーラムさえ訴えを取り下げれば、彼はそのまま刑務所を出られるのだ。
しかしバーラムは、「何故『過ちを犯さなかったこと』がこれほど称賛されるんだ?」と疑問を呈す。そして、ラヒムはこれまで嘘ばっかりついてきたペテン師なのだから、信用できないと言って、調停に応じようとしない。周囲がなんとか説得し、とりあえずその調停を飲んだが、バーラムはそもそも、「ラヒムが拾った金貨を返した」という話自体を作り話ではないかと疑っており、分かり合える余地に欠ける。
しかしともかくも、ラヒムは刑務所に戻らずに済むことになった。そのこと自体はとてもめでたい。そして、職の斡旋もある。あとは働いて金を返すだけだ……とはいかない。
ラヒムに仕事を用意してくれた地方審議会の担当部長と面談になるのだが、そこで部長から「金貨を返却したという証拠はありますか?」と質問される。ラヒムは、唐突な問いに驚く。「嘘だと思っているんですか?」と返すと、「私はそうは思わないが、ネットで噂が回っている」と言われるのだ。どうやら、ラヒムの善行について、「刑務所が自殺騒動を隠蔽するために仕組んだ作り話だ」という噂が出回っているそうなのだ。
部長は、金貨を受け取った女性を連れてきて署名してもらえれば問題ありませんと告げるが、事はそう簡単ではない。女性の名前も住所も分からないのだ。マリのスマホに残っている着信履歴の番号に電話してみたが、それは彼女を乗せたタクシー運転手のものだった。色々と手を尽くして、金貨を受け取った女性を探そうとするが、手がかりがまったくない。夫に知られるのを恐れていた女性が、自ら名乗り出る可能性もないだろう。
一体ラヒムは、どうやって「英雄の証明」を行えばいいのだろうか?
映画の内容ほとんどを書いてしまったが、こんな風に書き出したのは、「登場人物には、悪意らしい悪意がまったくない」ということを理解してもらうためだ。もちろん、「ネット上の噂」は悪意に満ちている。しかし、非常に斬新なことに、この映画にはスマホの画面やSNSのやり取りは映し出されない。ネットにどんな書き込みがされているのか、どんな風に炎上しているのかという描写は一切ないと言っていい。「ネット上で何かが起こっている」ということだけ匂わせながら、この映画ではひたすらリアルの世界のみを映し出していくのである。
そして、そのリアルの世界には、基本的に悪意から行動を起こす人間はいない。バーラムはなんとなく悪者に見えてしまいがちだが、彼が主張していることももっともではある。ラヒムに「金貨を返した証拠はありますか?」と聞いた部長も、厳しい対応だとは感じるが、しかし今の時代にはせざるを得ない組織防衛でもあると感じた。
刑務所の面々がラヒムの善行を知らしめようとしたことは軽率ではあったが、やはりそこには悪意はないし、報道を信じて表彰や寄付の仲介を行ったチャリティ協会にももちろん悪意はない。
ラヒムは、テレビの取材やチャリティ協会でのスピーチで、「初めはその金貨を自分のものにしようと心が揺れ、実際にバーラムに返済を申し出もしたが、その後良心が咎めて持ち主を探した」と心境を素直に語っている。彼は「拾った時から持ち主を探そうと考えていた」と、より英雄らしく映るように喋ることもできたが、そうはせず、初めは盗んでしまおうと思っていたと素直に語っている。彼は基本的に、終始状況に真摯に素直に応じようとしている。
基本的には、誰も悪くない。もちろん、結果から見て過去を振り返れば、「あの時ああすべきではなかった」という言動はいくつも挙げられる。しかし、リアルタイムで、その場その場の状況下で下されたそれぞれの決断は「間違っていた」というほどのものではないと思う。
そして、リアルの世界をひたすら映し出すこの世界に、本質的な意味での悪人が1人もいないからこそ、ラヒムが陥ることになる大騒動はすべて、この映画ではほぼ映し出されることのない「ネットの世界」に原因がある、ということになるのだ。
この構成は、見事すぎると言っていいだろう。
逆に言えば、こういうことになる。「ネットの世界」では、日々様々な呟きが生まれ、真偽不明なまま広まっていく。自ら発信しなくても、誰かの発信に乗っかったり、「いいね!」を押して賛同したりすることもあるだろう。そして、「ネットの世界」で行われている、本人としては「些細」だと考えているかもしれないその1つ1つの行為が、リアルの世界の誰かを翻弄しているかもしれないのだ。
まさに現代社会の問題を如実に映し出す作品だと言っていいだろう。
繰り返すが、何より凄まじいのが、社会問題をあぶり出す物語の核となるのが「拾ったものを、落とし主に返したこと」なのだ。そんな些細な、はっきり言ってなんでもないようなことが、これほどの物語の核心部分に存在することが非常に興味深い。
何故ならこのことは、僕たちも日常生活のほんの些細な出来事によってラヒムのような状況に陥ることを明確に示していると感じるからだ。
ラヒムは、自分でも認めていたが、さほど頭が良くはない。「だからここ(刑務所)にいるんだ」と言っていたから、自覚はしているのだろう。そして、さほど頭が良くないからこと、結果として悪手ばかり取ってしまう。「暴力に訴えること」は、あらゆる意味で最悪の選択肢ではあるのだが、それだけではなく、金貨を受け取った女性が見つからないからと言って、婚約者をその女性に仕立てて堂々と嘘をつく場面は、悪手中の悪手だと感じてしまった。
しかし一方で、自分がラヒムの立場にいたとしたら、そういう選択肢が頭に過ってしまうかもしれないとも思う。「英雄の証明」という映画のタイトルは、恐らく、「悪魔の証明」を意識しているだろう。「悪魔の証明」というのは、ざっくり言うと「ないことを証明する」というタイプの証明であり、一般的に「証明することが不可能な事象」を指すことが多い。そして、ラヒムの証明もそれに近いものがある。金貨を受け取った女性を見つければすぐに証明できるのだが、そもそもその女性を見つける手立てがないし、婚約者に協力してもらって嘘をついたことが発覚して以降は、仮に本当に金貨を受け取った女性が見つかったとしても、「その女性が本当に受け取ったのか」と疑われ続けるだろう。
結局どうしたところで、ラヒムは「英雄の証明」を行うことができない。
しかしそのことは同時に、「金貨を返すという行為」が嘘だったのかもしれないという疑惑を残し続けることにもなる。ラヒムは間違いなく金貨を返しており、その点を疑われることは心外でしかない。しかし、決定的な証拠はなく、また、「ラヒムが嘘をついているかもしれない」という噂が広まったことで、「嘘なのではないか」という心証が強まってしまう。
この状況は、確かに耐え難い。そして、そこからどうにか抜け出すために、悪手だと分かっていながら嘘をついてしまうかもしれない、と思ったりもする。
なんとも難しい話だ。
この物語が突きつけるのは、「『正しい/間違いかどうか』は『正しい/間違いと思っている人』がどれぐらいいるかで決まる」ということだろう。もちろんこれは、古代から人類が採用しているシステムでもある。中世の魔女狩りにしても、「『その女は魔女だ』と思う人間」がたくさんいるから処刑されるわけだ。いつの時代も人間は変わらない。
しかし、その古来からの人間の性質に、「インターネット」という要素が加わることでややこしくなる。インターネットでは、「正しい/間違いと思っている人」をいかようにでもかさ増しできてしまうからだ。
もちろんこの映画で描かれるような現実は頭では理解していたし、実際に起こりうることも想像できる。しかしこの映画では、「インターネット」によってほんの些細な出来事であっても大騒動になり得るのだということが、否応なしにはっきりと突きつけられるのだ。
そのリアルさに驚かされたし、物語が持つ力を改めて実感させられた。
「英雄の証明」を観に行ってきました
この映画の核となる部分は非常にシンプルだ。それは、「拾ったものを、落とし主に返したこと」である。もちろん映画では様々なことが描かれるのだが、それら様々なことはすべて、この「拾ったものを、落とし主に返したこと」に付随していく。物語のすべてが、そこに集積していくのだ。
「拾ったものを、落とし主に返した」なんて些細な出来事が、どうやって社会問題を突きつける内容になっていくのか。その物語の展開のさせ方はとにかく見事だと思う。
まずは、彼がいかにして「英雄」として祀り上げられるのか、その過程を見ていこう。今回の感想では内容にかなり触れたいので、まだ映画を観ておらず、詳しい内容を知りたくないという方はここで読むのを止めていただく方がいいと思う。
主人公のラヒム・ソルタニは、刑務所に収容されている。容疑は「詐欺罪」ということになっている。事業を行うために融資を受けたが、その金をビジネスパートナーに持ち逃げされてしまった。当時結婚していた妻の兄であるバーラムが保証人になってくれていたのだが、そのバーラムがラヒムを訴えたことで「詐欺罪」として収容されているのだ。
さて、凄い仕組みだなと思うのだが、イランの刑務所には「休暇」があるらしい。つまり、刑務所に収容されている囚人が、「休暇」の間は塀の外に出られるのだ。ラヒムは2日間の休暇を得て、姉夫婦の元へと向かう。そこには、別れた妻との間にできた息子・シアヴァシュも生活しており、久々に家族水入らずの時間を過ごす……という風にはなかなかならない。
ラヒムはこの休暇を利用して、バーラムに金の一部を返済しようとした。姉マリの夫であるホセインと2人でバーラムの元を訪れるのだが、「全額を一括で返さないのなら受け取らない」と追い返されてしまう。
しかし、ずっと刑務所にいたラヒムは、返済のためのお金をどこから得たのだろうか? 疑問に思った姉がラヒムを問い詰めると、口ごもってしまう。高利貸しからお金を借りているのではないかと姉は疑うが、そうではないと反論するラヒム。しかし、ラヒムが持ち帰ったバッグに17枚もの金貨が入っているのを見られてしまい、その出処を問い詰められるのだ。
ラヒムは悩んだ末、ファルコンデに相談をする。実は出所して一番に会いに行ったのがファルコンデであり、この物語のすべてのきっかけを作った人物でもある。彼女は、家族にも内緒で付き合っている女性で、刑務所から出たら結婚を申し込むつもりでいる。そしてそんな彼女がなんと、バス停で金貨を拾ったのだ。当初2人は、この金貨は自分たちに対する神のご加護だと受け取り、換金して返済に充てようと考えた。しかしラヒムは思い直し、ファルコンデとも相談して、落とし主を探すことに決める。落ちていた場所の近くの銀行に「金貨の落とし物の問い合わせはなかったか?」と聞き、その後、自分が収容されている刑務所の電話番号を記載したチラシを作り、周辺に貼った。とりあえず出来ることはすべてやった。そう考えてラヒムは、休暇を終えて再び刑務所に戻るのである。
しばらくすると刑務所に、チラシを見たという女性から電話が掛かってくる。ラヒムはバッグや中身の特徴を電話の主に確認し、特徴がすべて合っていることを確認、姉のマリに連絡をし、預けていた金貨を電話の女性に返すように頼んだ。
やってきた女性は、じゅうたん織りで稼いだお金を金貨にして持っていたが、家に置いておくと夫に使われてしまうかもしれない、だから銀行で換金しようと思ったのだが、その途中で落としてしまったのだと涙ながらに語る。金貨を落としたことは分かっていたが、「金貨を持っていること」を夫に知られるわけにもいかず、何もできなかったが、チラシを見て連絡した。そんな風に言って、金貨を受け取り、帰っていった。マリは、女性の名前を聞かなかった。この出来事を夫に知られるとマズいということが分かっていたから、詮索するようなことはしなかった。もし何かあれば、マリのスマホに電話をしてきているのだから、それで折り返せばいい。そんな風に考えていた。
さてこれが、物語の冒頭で描かれる「拾ったものを、落とし主に返した」という話だ。全然、なんてことない話である。普通ならきっと、ここで話は終わっただろう。しかし、そうはならなかった。
ラヒムが収容されている刑務所がこの「美談」を知り、大々的に喧伝することに決めたのだ。もちろんそれは、受刑者の素晴らしい行いを世間に知らせたいという気持ちからのものなのだが、もう1つ裏の事情があった。実はこの刑務所では先般、受刑者の自殺騒動があり、その悪い印象を払拭したいと考えていたのだ。
刑務所の面々は、テレビや新聞などからの取材依頼を積極的に受け、ラヒムの行為が世間に知られる手助けをする。ラヒムは、そんな大きな話になるとは思っておらず、些細な嘘を修正しようとした。ラヒムは、「金貨を返したのは自分だが、拾ったのは別の人なのだ」と刑務所の担当者に説明する。ファルコンデでとの交際は家族もまだ知らないものであり、彼女の名前は表に出せない、と。しかし担当者は、「金貨を返したのはお前なんだろ? だったら問題ない」と、ラヒムを取材へと送り出す。
ラヒムは当然、ファルコンデの名前を出すわけにはいかず、だから「自分が金貨を拾った」と説明せざるを得なくなる。テレビでは、「この辺りにあったバッグを拾ったのです」と、ラヒムは当時の状況を”再現する”場面も映る。確かにこれは「嘘」だが、確かに、「金貨を返したこと」そのものは事実であり、拾った経緯はさほど問題ではない。ラヒムもそう判断し、自分が拾ったことにしてテレビに出演する。そもそもラヒムは、自分からテレビに出たいと言ったわけでもない。
さてしかし、ラヒムの行為は「善行」として大きな話題を呼ぶ。なにせ、休暇中の囚人が金貨を拾い、それを自分のものにしなかったどころか、持ち主を探すために休暇を使ったのだ。素晴らしい人物だとラヒムは絶賛され、なんとチャリティ協会から表彰を受ける。そのチャリティ協会の仲介によって、ラヒムの借金返済に充てるための寄付金も集まった。返済の全額には足りないが、彼の行いを知った地方審議会が、彼に職を提供すると申し出もあった。集まった寄付金を頭金として、あとは働いて返せば問題はないのではないか。ラヒムを初め周囲の人間は、バーラムが訴えを取り下げることを期待する。バーラムさえ訴えを取り下げれば、彼はそのまま刑務所を出られるのだ。
しかしバーラムは、「何故『過ちを犯さなかったこと』がこれほど称賛されるんだ?」と疑問を呈す。そして、ラヒムはこれまで嘘ばっかりついてきたペテン師なのだから、信用できないと言って、調停に応じようとしない。周囲がなんとか説得し、とりあえずその調停を飲んだが、バーラムはそもそも、「ラヒムが拾った金貨を返した」という話自体を作り話ではないかと疑っており、分かり合える余地に欠ける。
しかしともかくも、ラヒムは刑務所に戻らずに済むことになった。そのこと自体はとてもめでたい。そして、職の斡旋もある。あとは働いて金を返すだけだ……とはいかない。
ラヒムに仕事を用意してくれた地方審議会の担当部長と面談になるのだが、そこで部長から「金貨を返却したという証拠はありますか?」と質問される。ラヒムは、唐突な問いに驚く。「嘘だと思っているんですか?」と返すと、「私はそうは思わないが、ネットで噂が回っている」と言われるのだ。どうやら、ラヒムの善行について、「刑務所が自殺騒動を隠蔽するために仕組んだ作り話だ」という噂が出回っているそうなのだ。
部長は、金貨を受け取った女性を連れてきて署名してもらえれば問題ありませんと告げるが、事はそう簡単ではない。女性の名前も住所も分からないのだ。マリのスマホに残っている着信履歴の番号に電話してみたが、それは彼女を乗せたタクシー運転手のものだった。色々と手を尽くして、金貨を受け取った女性を探そうとするが、手がかりがまったくない。夫に知られるのを恐れていた女性が、自ら名乗り出る可能性もないだろう。
一体ラヒムは、どうやって「英雄の証明」を行えばいいのだろうか?
映画の内容ほとんどを書いてしまったが、こんな風に書き出したのは、「登場人物には、悪意らしい悪意がまったくない」ということを理解してもらうためだ。もちろん、「ネット上の噂」は悪意に満ちている。しかし、非常に斬新なことに、この映画にはスマホの画面やSNSのやり取りは映し出されない。ネットにどんな書き込みがされているのか、どんな風に炎上しているのかという描写は一切ないと言っていい。「ネット上で何かが起こっている」ということだけ匂わせながら、この映画ではひたすらリアルの世界のみを映し出していくのである。
そして、そのリアルの世界には、基本的に悪意から行動を起こす人間はいない。バーラムはなんとなく悪者に見えてしまいがちだが、彼が主張していることももっともではある。ラヒムに「金貨を返した証拠はありますか?」と聞いた部長も、厳しい対応だとは感じるが、しかし今の時代にはせざるを得ない組織防衛でもあると感じた。
刑務所の面々がラヒムの善行を知らしめようとしたことは軽率ではあったが、やはりそこには悪意はないし、報道を信じて表彰や寄付の仲介を行ったチャリティ協会にももちろん悪意はない。
ラヒムは、テレビの取材やチャリティ協会でのスピーチで、「初めはその金貨を自分のものにしようと心が揺れ、実際にバーラムに返済を申し出もしたが、その後良心が咎めて持ち主を探した」と心境を素直に語っている。彼は「拾った時から持ち主を探そうと考えていた」と、より英雄らしく映るように喋ることもできたが、そうはせず、初めは盗んでしまおうと思っていたと素直に語っている。彼は基本的に、終始状況に真摯に素直に応じようとしている。
基本的には、誰も悪くない。もちろん、結果から見て過去を振り返れば、「あの時ああすべきではなかった」という言動はいくつも挙げられる。しかし、リアルタイムで、その場その場の状況下で下されたそれぞれの決断は「間違っていた」というほどのものではないと思う。
そして、リアルの世界をひたすら映し出すこの世界に、本質的な意味での悪人が1人もいないからこそ、ラヒムが陥ることになる大騒動はすべて、この映画ではほぼ映し出されることのない「ネットの世界」に原因がある、ということになるのだ。
この構成は、見事すぎると言っていいだろう。
逆に言えば、こういうことになる。「ネットの世界」では、日々様々な呟きが生まれ、真偽不明なまま広まっていく。自ら発信しなくても、誰かの発信に乗っかったり、「いいね!」を押して賛同したりすることもあるだろう。そして、「ネットの世界」で行われている、本人としては「些細」だと考えているかもしれないその1つ1つの行為が、リアルの世界の誰かを翻弄しているかもしれないのだ。
まさに現代社会の問題を如実に映し出す作品だと言っていいだろう。
繰り返すが、何より凄まじいのが、社会問題をあぶり出す物語の核となるのが「拾ったものを、落とし主に返したこと」なのだ。そんな些細な、はっきり言ってなんでもないようなことが、これほどの物語の核心部分に存在することが非常に興味深い。
何故ならこのことは、僕たちも日常生活のほんの些細な出来事によってラヒムのような状況に陥ることを明確に示していると感じるからだ。
ラヒムは、自分でも認めていたが、さほど頭が良くはない。「だからここ(刑務所)にいるんだ」と言っていたから、自覚はしているのだろう。そして、さほど頭が良くないからこと、結果として悪手ばかり取ってしまう。「暴力に訴えること」は、あらゆる意味で最悪の選択肢ではあるのだが、それだけではなく、金貨を受け取った女性が見つからないからと言って、婚約者をその女性に仕立てて堂々と嘘をつく場面は、悪手中の悪手だと感じてしまった。
しかし一方で、自分がラヒムの立場にいたとしたら、そういう選択肢が頭に過ってしまうかもしれないとも思う。「英雄の証明」という映画のタイトルは、恐らく、「悪魔の証明」を意識しているだろう。「悪魔の証明」というのは、ざっくり言うと「ないことを証明する」というタイプの証明であり、一般的に「証明することが不可能な事象」を指すことが多い。そして、ラヒムの証明もそれに近いものがある。金貨を受け取った女性を見つければすぐに証明できるのだが、そもそもその女性を見つける手立てがないし、婚約者に協力してもらって嘘をついたことが発覚して以降は、仮に本当に金貨を受け取った女性が見つかったとしても、「その女性が本当に受け取ったのか」と疑われ続けるだろう。
結局どうしたところで、ラヒムは「英雄の証明」を行うことができない。
しかしそのことは同時に、「金貨を返すという行為」が嘘だったのかもしれないという疑惑を残し続けることにもなる。ラヒムは間違いなく金貨を返しており、その点を疑われることは心外でしかない。しかし、決定的な証拠はなく、また、「ラヒムが嘘をついているかもしれない」という噂が広まったことで、「嘘なのではないか」という心証が強まってしまう。
この状況は、確かに耐え難い。そして、そこからどうにか抜け出すために、悪手だと分かっていながら嘘をついてしまうかもしれない、と思ったりもする。
なんとも難しい話だ。
この物語が突きつけるのは、「『正しい/間違いかどうか』は『正しい/間違いと思っている人』がどれぐらいいるかで決まる」ということだろう。もちろんこれは、古代から人類が採用しているシステムでもある。中世の魔女狩りにしても、「『その女は魔女だ』と思う人間」がたくさんいるから処刑されるわけだ。いつの時代も人間は変わらない。
しかし、その古来からの人間の性質に、「インターネット」という要素が加わることでややこしくなる。インターネットでは、「正しい/間違いと思っている人」をいかようにでもかさ増しできてしまうからだ。
もちろんこの映画で描かれるような現実は頭では理解していたし、実際に起こりうることも想像できる。しかしこの映画では、「インターネット」によってほんの些細な出来事であっても大騒動になり得るのだということが、否応なしにはっきりと突きつけられるのだ。
そのリアルさに驚かされたし、物語が持つ力を改めて実感させられた。
「英雄の証明」を観に行ってきました